朝鮮青年会問題 吉野作造  朝鮮統治策の覚醒を促す 一  新年の諸新聞において原総理大臣が斎藤朝鮮総督とともにともかくも堂々と意見を発表したと いうことは、わりあいに世間に反響はなかったとはいえ、近ごろ珍しい現象といわねばならぬ。 原宰相の意見についても述べてみたいような点が若干ないではないが、今はしばらくこれを措《お》く。 ここには斎藤総督の宣言に関連して、少しく朝鮮統治上の問題について一言してみようと思う。  斎藤総督の宣言そのものに対しては、実はだいたいにおいて異論をさしはさむべぎものを認め ない。ただもののいい方がいかにも大名が家来にでも訓示するかのような、または長官が属官に 訓示するかのような、傲然たる態度を取って居るのが、いささか温厚にして平民的なる斎藤総督 その人にふさわしくないような気がする。斎藤総督その人の人格の現われとしては、もっと謙抑《けんよく》 な、もっとあたたかみのあるものであワてよかりそうに思う。ことに末段に至り、いやしくも当 局の方針に反するものについては仮借するところなく処分するぞなどというあたりは、むろん当 局のことには相違ないが、なんとなくミリタリスチックのにおいが強い。もっともこれはおそら く斎藤総督が自分で書いたのではなかろう。しかし斎藤総督の率いて行った部下の中には、朝鮮 統治について前の時代とは違った新しい思想をもって居る老も少なくないと聞いておったのに、 あんな角張《かどぱ》った文章を作るようでは、ちょっと心もとないようにも思わるる。  斎藤総督の宣言そのものについていうべきことはほかにない。ただ斎藤総督の下における朝鮮 統治の当局者は、事実はたして総督の示すような立派た精神で朝鮮民族に接して居るかどうかが 予輩のつねに懸念するところである。寺内・長谷川時代における朝鮮統治の失態は、今日もはや 何人《なんぴと》も疑わざるところであり、最近の朝鮮における各般の不安動揺、主としてここにその原因を 有することもまた言を待たない一しかしてこれによってわが日本はどれだけ損害をこうむって居 るかわからない。ゆえにわれわれは先般総督の更任とともに、新たに多大の期待を朝鮮統治の前 途にかけたのであった。いなひとりわれわれ日本国民ばかりではない、実に世界全般の耳目がこ ぞって新総督の施政いかんに注がれたのであった。それほどまでにわれわれは新当局者の手腕を たのんで居るのであるが、彼らははたしてこの期待にそむかず朝鮮の統治に立派に成功するだけ の十分なる能力をもって居るだろうか。これが実にわれわれのはなはだ懸念に堪えないところで ある。  朝鮮統治の成功・不成功を単に外面的施設のいかんによって決するの時期はもはや過ぎた。総 督は宣言において誇って居らるる。いわく、合併以前においては、枇政《ひせい》百出、土民|塗炭《とたん》に苦しむ のみであったが、新たに日本の統治を受くるに至って、殖産興業も開発せられ、交通機関も整備 し、その他いろいろの物質的開発の結果、彼らの幸福は昔日に百倍したと。なるほどこれはその とおりであろうが、しかしそういう外面的のいろいろの施設を整備したということだけで、朝鮮 統治の能事おわれりと思うならば、これ大たる誤りである。どんなに外面的施設を整えても、朝 鮮人の「心」を得たければ何にもならない。これが実に去年三月の大騒動以来の教訓によって、 われわれ日本国民の深刻に経験したはずのものではないか。ゆえに今後朝鮮統治に本当に成功せ んとならば、まず第一は朝鮮人の「心」を得ることにつとめなければならたい。しかしてわれわ れが斎藤総督ならびにその部下の当局者に望むところまた期待するところも、実にもっぱらこの 点にある。単に殖産興業がどうの、交通機関がどうのという方面だけの整頓ならば、何もわれわ れはそれほど多大の希望をとくに彼らにかくる必要をみない。そこでわれわれの問題とするのは、 現在の当局者ははたして朝鮮統治上の肝要なこのこつをのみこんで居るかどうか、すなわち彼ら 朝鮮人の「心」を得るに成功するの能力を有するやいなやの点にある。  こういう問題になると、もとより外面的に現われない問題であるから、一に具体的に例証を挙 げて論ずることはできない。けれどもわれわれは最近起こった在京の朝鮮人青年会問題に対する いわゆる当局者の態度なるものについて、はからずもこれらの問題に関する当局者の見識を論じ 得る一具体的事実に遭遇した。もっともこれはある一部の噂《うわさ》に過ぎない。噂を取ってただちにこ れを議論の問題とするのは、いささか軽率の嫌いなきにあらざるも、ただこれは相当に信用する に足る方面より得た噂であるのと、また、ちょうど朝鮮統治を論ずるに都合のいい問題であるの で、しばらくこれを主題にかりて論評を試みてみょうと思うのである。  青年会問題というのはこうである。、東京神田に朝鮮人のキリスト教青年会の会館と寄宿舎とが ある。これが在留朝鮮人青年学生数百名の唯一の集会所であり、またしたがって各種の陰謀の策 源地になる。ここを中心として在京の青年学生は、上海《シヤンハイ》のいわゆる独立政府なるものと連絡もあ るようである。ゆえにこれを撲滅してしまいたいというような希望を当局者はもっていたという のである。もっともこれを撲滅するということが、いろいろの関係上、できないというなら、な んとかしてこれを日本人の管理におくわけには行くまいか。さいわい朝鮮においては、「組合教 会」が総督府と提携して朝鮮人の教化に努めて居るから、その組合派に属する日本人牧師にでも 朝鮮青年会を管理せしむるわけには行くまいか。少なくともこの青年会に付属する寄宿舎だけは 廃したいっしかしてここに居る学生は、別に総督府保護の下に一つの新たなる寄宿舎を建て、そ とに収容して監督したいというようなことを考えたのである。これが去年(大正八年)の暮ごろ もっばらわれわれの間に伝わった噂であるが、もしこれが本当であったとするならば、はなはだ 愚策であり、また朝鮮統治上の蒙昧《もうまい》を証拠だてるところの有力なる材料でなければならない。  もっとも去年の暮、こんな噂があったのは一時のことで、今日までのところその一端すら実現 していないから、一部の人がそんなことをちょっと考えたというぐらいにとどまって、いわゆる 当局者が熱心にこれを計画したというほどのことてはないらしい。はたしてしからば今ごろこれ を問題とするのは少しく適当を欠いて居るかもしれない。のみならず、一青年会の興廃はそれ自- 身きわめて小なる問題であるから、とれを取って朝鮮統治の方針がどうのこうのというのは、ま た少しく不穏当のようにも思われる。しかしながら予輩がこの問題をここに持ち出すのは、あえ て当局者を攻撃する意味でもなければ、またこんな噂を本当だと信じて議論するのでもない。た だこういったような思想が今日なお、表面には現われたいが、やはり朝鮮統治の任に当たる人々 の胸の中に存在して居るという事実は疑いないから、それでこれをかりて一つ議論してみようと 思うままである。本当にわれわれの理想とするような朝鮮統治の成功をみるには、「右のような思 想は根本から、これを正しておくの必要がある。ひとり当局者ばかりではない。民間の識者の間 にもあんな考えは今日なお相当に深い。どうしても朝鮮の統治に根本的に成功するには、ひとり 官吏社会の考えばかりでなく、国民全体の朝鮮人に対する考えが覚醒するを必要とするから、す なわちこれを一の機会として、われわれ内地人が対朝鮮人の態度を正すのはすこぶる必要のこと であると考える。たまたま斎藤総督の宣言などを見てこのことに思いついたので、すなわちこの 一篇を寄せて教えをおおかたに請う次第である。      二  まず問題をごく小さいところから始めて、だんだんと歩を進めて行こう。  朝鮮人青年会は、噂のとおり、今日まで多年の間陰謀の策源地と当局から認められていた。さ れば何か集会があるとそのたびごとに、警察の露骨なる監督を受くるはもちろん、平素において も、つねに密偵がその付近をうろついて居る。祈薦会《きとうかい》などを静かにやって居る場合にすら、探偵 がそこに臨場して高声で話し合い、その静譲《せいひつ》を破るというような無礼は、予輩もしばしば聞いた。 そこで青年会がはたしてキリスト教的修養の場所という正当の目的をこえて、各種の不都合なる 陰謀の策源地に利用されて居るというは、いったい事実なりやいなやという問題が起こる。これ に対して予輩は、この観察がある意味においては正しく、またある意味においては正しくないと 、答える。  ある意味において正しいというのは、青年会がしばしば独立運動などの策源地となったという 事実は疑いないからである。けれども、,キリスト教青年会ということと陰謀の策源地であるとい うこととの間には、必然の関係があるのではない。キリスト教青年会なるがゆえに必然に陰謀の 策源地となったというのでたくして、朝鮮人の青年学生にとっては、ここのほかに集会の場所が なく、青年会はすなわち彼らが公然集まり得る唯一の場所であるから、そこでおのずから陰謀の 策源地と,なったまでのことである。すなわち青年会は偶然に陰謀の策源地となったのであって、 もしこの二者の間に必然の関係ありとみる者あらば、その観察は正しくない。すなわち予輩があ る意味において正しくないといったゆえんである。であるから、もし青年会を撲滅したらどうな るかというに、彼らは必ずや他に秘密の集会所を作るだろう。彼らがいろいろの陰謀をめぐらし、 そのために集会の場所を必要とするということは、青年会とはなんら関係がたい。この要求がた またま青年会によって満たされるのであるけれども、もし青年会がなかったたら、他に秘密の場 所ができて、かえってそこからさらにいっそう危険なる計画がたくらまるるであろう。そこで予 輩はむしろつねにこう考えて居る。もし朝鮮人の間に初めから青年会のようなものがなかったな らば、彼らはたえずいろいろのところに秘密に会合して、警察の方ではまことに取締りに困るだ ろう。その結果むしろ青年会のようなものをつくってやった方がよくはないかというような考え が起こるに相違ない、と。であるから青年会という建物の存在することは、むしろ一つの安全弁 であって、これを撲滅するとかまたはこれを閉鎖するというのは、もってのほかの短見といわな ければならない。  青年会が事実しばしば陰謀の策源地となるからといってこれを撲滅するのは、安全弁を取り去 ってついに悪性の爆発を促すに過ぎないことは前述のとおりである。ゆえに青年会が陰謀の策源 地となるということが苦になるなら、これを撲滅するよりも、まず彼らが諸種の集会を必要とす るゆえんの原因をよく考えてやる必要があろう。まさか絶対に彼らを集会させぬというわけには 行くまい。絶対に彼らの集会を禁ずるは、どの点からみてもはなはだしい不正であると同時に、 また事実こういうことはできるものでもない。公然集会するの機会を彼らから奪えば、秘密の集 会となって、かえっていっそう危険なるバチルスのこの間に養成せられるおそれのあることは火 をみるよりも明白ではないか。この点についてわれわれは朝鮮統治の局に当たるものに慎重なる 省量を求むるとともに、なおまた直接この建物の取締りの任に当たるところの警視庁ならびに警 察署の官吏諸君にも大なる反省を促したい。 三  青年会が陰謀の策源地となるのは、ほかに適当な建物がないために彼らがこれを利用するまで のことであって、青年会そのものの本来の活動となんら直接必然の関係があるのでないから、青 年会の指導者を換えると.いうことはまた何の役にも立たないのである。噂の伝うるところによれ .ば、いまさら青年会を撲滅するということも不穏当であるから、せめて青年会の指導者を換える わけには行くまいかと考えたというが、かくのごときはいたずらに平地に波瀾を生じて、むしろ 悲しむべき結果を生ずるに過ぎないだろう。  今日朝鮮人青年会の幹事として指導の任に当たって居る白南薫君は、予輩の親友であって、実 に立派な温厚の紳士である。これをしも不都合の人物と認むるならば、まじめの朝鮮人の間には 一人も適任者を見出だすことはできないということになみう。青年会か朝鮮人青年学生の欝勃《うつぽつ》た る元気に対する安全弁であるといったと同じ意味において、白君のごとき温厚なる紳士が幹事の 地位に居るということはYまた青年学生の元気を過度に奔放ならしめざるゆえんの息抜きであるー ともいえる。白君を青年会指導者の地位より失うは、ただに朝鮮人青年会にとっての損失である. ばかりでなく、われわれ内地人の立場からみても、非常の損失といわなければならない。もし人 は白君その人を不適当としても、朝鮮人青年会のこ亡は、すべからく朝鮮人に自治せしむべきで あって、内地人がーしかも当局者などがーこれに干渉するというは、はなはだしき時勢おく れといわなければならない。ことに白君の後任として、朝鮮語を解し朝鮮の事情に通ずる日本人 を入れようなどという考えは、愚もまたはなはだしいといわねばならぬ。なんとなれば、日本人 を入れたからといって、当局の希望するような結果は断じて得られないからである。朝鮮人青年 学生の多数が独立の見識なき愚昧の輩であって、一から十まで指導者のいうことに盲目的に従う ものであるならば、指導者次第で彼らをいかようにも動かすことができょう。一般の民衆を愚民 扱いにして、自分の思うとおりにどうにでも動くものとみるのは、とかく官僚政治家の通弊であ るが、今日の人間はそう軽々しく人の思うとおりに動くものではない。いわんや朝鮮の青年学生 は、ことに日本そのものに対して、一種特別の感情に燃えて居るにおいてをや。ゆえに日本人な どがこの間に入って行っては、どんな立派な人が行こうが、ただちに排斥せられてしまうに決ま づて居る。もしまたその月本人がたとえば官憲の威力を借りて逆襲の態度に出でんか、青年学生 はその日本人をおきざりにして青年会を去ってしまうに相違ない。その結果はせっかく青年会と いう傘の中に集まっておったものを、取締りの手の及ばない所々力々に散乱せしむるようなもの であって、危険このうえもないといわなければならない。  ことに組合教会の人をして指導の任に当たらしむるというのは、もってのほかの愚策である。 予輩はみずから組合教会に属して居るものであるが、それでも朝鮮における組合教会の伝道は、 精神的に全然失敗であるということを断言してはばからないものであゐ。かくいえば、多数の教 友はあるいは不快に感ぜられるかもしれない。けれども、予輩は日本のためにまた朝鮮のために、 組合教会は新規まきなおしをやらなければ、と5てい真のキリスト教的精神を朝鮮入に伝うるこ とは断じて4きないと確信して疑わないものである。それほど組合教会は今日朝鮮人の間に信頼 を失って居る。その信頼を失って居るものを、ただキリスト教徒という名前だけで指導者の地位 に強《し》いようというのは、決して彼らの心を得るゆえんではない。  要するに、どのみち日本人が彼らの中に入って行ったのではだめだ。もし日本人として誠実に 彼らを援助し、または親切に彼らを指導してやろうというならば、遠くから彼らに誠意を示すの ほかに道はない。冷静に彼らの希望をきき、彼らの民族的要求に相当の敬礼を払い、彼らの拠っ てもって立つところの「正義」を後援するというだけの実意を披澄《ひれき》するでなければ、われわれは とうてい精神的に彼らに接近することができないのである。 四  寄宿舎を廃す石というような噂も、もしこんなことを一人でも考えて居るものがあるとすれば、 これまたはなはだしい愚策といわざるを得ない。今日内地の学生にとっても、一般に適当な寄宿 舎のないので大いに困って居るが、ことに朝鮮人・台湾人もしくはシナ人などになると、もっと もこの点に困って居る。心あるものはこれに非常の同情を寄せて、なんとかして寄宿舎でもつく ってやろうと心配して居る際だのに、いまある寄宿舎を廃すというのは、ただにいちじるしく彼 らの感情を害するにとどまるまい。もっとも別に半ば官営の寄宿舎をつくって、これに収容して やろうというのかもしれないが、それはつまりかたちに得て、精神に失うのほか、何の役にも立 たないのである。台湾人の方はこれでやって居る。けれども台湾の方のやり方も、あれで十分成 功であると考えているならば大いに誤りである。どうせわれわれが金を使って彼らの便利を図っ てやろうというのなら、もう少し上手なやり方がありそうなものだ。今日までのやり方は、金ば かりたくさん使って少しも彼らの信服を得ない、きわめて下手なやり方だ。しかしてその信服を 得ないのは当然の理であるのに、ややもするとこれだけ世話しても恩に感じないけしからぬ奴だ などとののしる。ののしらるるものが悪いのでなくして、ののしるものが無識なのだ。予輩は友 人と謀ウて、最近ある外国の学生のために寄宿舎をつくってやったが、金を集め寄宿舎をつくっ て、それを全然無条件でその外国留学生の団体に贈呈した。監督どころか、なんらの条件も設け ない。そうするとかえって向うが寄宿舎の経営その他についていろいろと相談に来る。もとより こういううるわしい結果を予期して無条件贈呈という方法を採ったのではないが、俗諺《ぞくけん》にもある とおり、損して徳取れということは、策略としても上乗のものである。初めから監督するの取り 締まるの世話してやるのというのでは、とうてい目的を達するものではない。       五  上述のごとく在留の朝鮮人青年学生が、たえず会合して陰謀にふけるということは、一青年会 の小問題ではなくへもっと重大なる問題を含むものである。われわれはまずこのことに気づかな ければならない。そこで単に青年がかくのごとき企てをなすに至るゆえんの根本を深く反省する ことが必要なのである。  人によっては、朝鮮人青年学生が全部かかる不穏の挙動に出ずるのではなく、ごく少数の者が だれかの煽動によってやるのだなどと楽観するものもある。しかしながら予輩のみるところにょ れば、直接積極的にこれにかかわる者はあるいはそれほど多数でないかもしれないが、受動的に これに関係するものもしくは少なくともこれに同情・共鳴するものをかぞえるならば、ほとんど 全部がみなその仲間であるといってよかろう刀一人も残らず十人が十人まで同じようなことを考 えて居るというのが、そもそもどういうわけか。これを問題とすべきであると思うのである。た だ少数の人が煽動に乗って騒ぎまわるというだけの問題なら、われわれは何もこれをやかましく いう必要はない。二、三の警察官諸公に任せておいて十分安心のできる問題である。けれども事 実はまづたくこれに反し、十人が十人まで動揺して居るとい.うのだから、そこになんらか根本的 に考うべき問題があるのではないかと考えるのである。  このことを考うるにあたって予輩のつねにはなはだ遺憾とすることは、世人の多くがこれをと かく法律的にのみみることである。法律的にみるというのはどういうことかといえば、すなわち 彼らをもって朝憲を紊乱《ぴんらん》し国法を蹂躙《じゆうりん》する不逞《ふてい》の逆徒とみることである。なるほど朝鮮人は法律 上日本の臣民である。日本臣民にしてしかも日本の支配を脱しようというのだから、彼らの行動 の法律的評価はいうまでもなく一種の反逆罪である。反逆罪は刑法上の罪の中でももっとも重き 'もの。そこでこれらの運動に関係する朝鮮人を、世人はややもすれば不遅の暴漢とののしる。せ んだって上海の独立政府から呂運亨《りようんこう》という人が来た。あのとき、逆賊を帝都の真中に呼び寄せて これを優遇したのはけしからぬどいって、大いに政府に向かって食ってかかった者があった。法 律的にのみみれば、なるほどそれに相違ない。しかしながら、かくのごとくみてしかしてこれに 法律の要求する取扱いをそのまま加えるということが、いったい朝鮮問題を根本的に解決するゆ えんであるかどうか。ここがわれわれのまじめにまた冷静に考うべき問題である。  朝鮮人は法律上日本臣民であるに相違はない。けれども事実において朝鮮人は大和民族ではな い。大和民族のつくるところたるこの大日本帝国においては、朝鮮人が継子《ままこ》のような地位にある ことは、事実のうえにどうしても隠すことができない。朝鮮人が町本という国に対してわれわれ 内地人と同じような忠実の心をもってもらいたいということは、われわれの熱心に希望するとこ ろではあるけれども、急にこれをもてと強《し》いるわけに行かないはもちろん、持たたいからとてこ れを不都合呼ばわりするのははなはだ酷である。少なくともかくのごとき魂をもたなければなら ぬものとして彼らを取り扱うというがごときは断じて穏当でない。内地人が反逆をたくらむとい うのたら、それこそ真に許すべからざる不逞の暴漢に柑違ないが、純粋の大和民族でない朝鮮人 が、しかもあのような状態で併合され、またあのような状態で統治された朝鮮人が、日本国に対 して内地人と同じような考えをもち得ないのは、われわれとしては遺憾のことではあるが、自然 の成行きとしてはまたやむをえないと思わるる。そこで朝鮮人の立場からいえば、日本の国法に 反抗するということは、純粋の道徳的立場からみてあながち不邊の暴行ということはできない。 内地人の反逆なら、同一の罪を法律的にも道徳的にもこれを排斥するに矛盾を感じないけれども、 朝鮮人のこととなると、法律的には排斥すべきことであって、しかも道徳的には大いにこれを諒《りよう》 とすべき理由があるのである。したがってこれに不逞凶暴というような道徳上の汚名を冠するの は、われわれとしても良心が許さない。こういうところから、相手が朝鮮人である以上、単純に 法律的見地よりのみ批判するのは、決して彼らを正当に取り扱うゆえんではないと思う。  いったい内地人間の問題としても、法律一点ばりで物事をさばくというのは考えものである。 いったい法律などというものは元来すこぶる器械的のものである。外形の表識によって器械的に 物を定めるというところから、往々実際に合わない結果を生ずることがある、かつまた時勢がだ んだんに変わって来ると、前の時代には杜会の状態によく適合しておった法律も、新しい時代に は適合しなくなるということもある。!そこで法律はしばしば改正することを必要とし、また改正 をみる前においても、比較的余裕のある解釈をすることが必要であるとせられて居る。法律の解 釈があまりに末節に拘泥《こうでい》したり、ないし時勢の必要に応ずる適当の改革を怠ると、杜会のための 法律がかえって杜会の進歩を妨げるというような結果をすらみる。これを要するに、法律という ものは器械的にきめられるものであり、その改正をみるまでは、時勢の進歩がどうなろうが、い っこう頓着なく一本調子で進むものであるから、今日のようなとくに変遷のはげしい時代におい ては、法律の規定と時代の道徳的意識と合わないようなことも往々にして起こる。したがってま た道徳上の一般観念において善良なる臣民とみられて居る者が、往々、法律の名において忌まわ しき刑罰を受けるというような場合もある。これも一度や二度ならいいが、たび重なって来ると、 だんだん良心の方が法律の制裁に反感をもつというようなことになる。すなわち制度と良心との 反目を生じ、ためにいろいろ国内に面倒のことも起こる。その点をうまく裁いて行くのがすなわ ち政治家の手腕であろう。この種類の手腕を、われわれは実に朝鮮の統治-日本の政界にとっ てまったく新しい経験たるーにとくにこれを期待せんとするものである。  朝鮮人のいわゆる陰謀は、外面のかたちはなるほど反逆罪に相違ない。内地人なら一歩も仮借 することのできない大罪である。しかしながら朝鮮人のこととしてみれば、ここに多少諒とすべ き点がないでもなく、かりに日本の政治に対するいくたの誤解が原因であるにして、、彼らの要 求するところの中には、なお若干の道理があることをすら認めないわけには行かない。いわんや 最近十年間の日本の統治にいくたの失政あるにおいてをや。彼らの中には、ただ盲目的に日本に 反対するというものもあろう。この種の輩に対してはもとよりわれわれも大いに争わねばならぬ が、もし彼らが個人ならびに民族の自由のためとか、制度上たらびに杜会上における正義の確立 のためとかいったような信念に立って、日本の統治を批判し、さらにその根本要求を貫徹するが ためにいろいろの主張をなすということであれば、たとえかたちが法の秩序に対する反抗であっ ても、全然これを斥《しりぞ》けるというわけには行かない。単に日本に反対するからといって、それだけ で彼らを不邊呼ばわりするのは、極端にして偏狭なる国家主義者のことである。むしろ国家をし て正義の確立に協力せしめようとするのがわれわれの立場ではないか。しからば彼らの拠っても って立つところの根本原理は、すなわちまたわれわれの拠ってもって立つところの同一の根本原 理であることを認めて、これに相当の敬意を表するの必要がある。ただ日本に反対するのゆえを もって彼らを罵倒し日本臣民としての法律上の義務違犯ということだけで彼らを責めるのでは、 真に心から彼らを日本の統治に服せしむることはできない。もしわれわれが彼らの要求に対して あくまで大いに争わんとするならば、その戦いの武器は必ずや彼らのまた信奉するところの原理 そのものでなければならぬ。この原理に立って一方においてはわれわれ自身も深く反省して、朝 鮮統治に根本的大改革を加えるとともに、さらに他方において東洋の大局を達観し、彼らと協力 して最高の正義の実現のために努力するの態度に出でなくては、朝鮮統治の前途に永久に光明は 来ない。  しかるにわれわれ内地人が、朝鮮人の反抗に対して執るところの武器な、一から十まで国家主 義である。しかも低級なる国家主義である。彼らは国家の上に国家を指導すべき一段と高い原理 に拠って立たんとして居るのに、われはそれよりもはるか低いところからとやかくいうのだから、 彼らはわれわれの逆襲に接しても心中びくともしない。最近上海から来た呂運亨君は、滞京中い くたの政治家と会見したようであるが、彼が一種の道徳的根拠に立ってその主張を述べて居るの に対して、内地の政治家はきわめて旧式の武器をもってこれに応接したらしい。そこでせっかく の会見もほとんどなんらの解決も発展もみずして物別れになったようである。いずれにしでも、 われわれは彼らの主張と運動と、なかんずくそのもっとも純真なる主張と運動とに対しては、漫 然不邊呼ばわりをせず、道徳上多少尊敬すべきものあるを認めて、まず相当の敬意をこれに払う という雅量をもちたいと思う。そのうえではじめてわれわれは彼らと対等の地位に立ち、対等の 武器をもって、東洋の大局のために問題の根本的解決を相談することができるのである。  そういうと、論者あるいは「日本の国家に反対し独立を企てるような逆賊を尊敬するというの はけしからぬ、いやしくも日本に反対するものは一から十までこれを抑えつけなければならない、 なまなか優遇などをするから、かえって彼らはつけ上がるのだ」と非難するものもあるだろう。 これにも一応の理由はある。犬や猫やをかわいがってやるどつけ上がると同じように、蒙昧《もうまい》の人 間はとかく恩に馴《な》れてわれわれをないがしろにするというようなこともまったくないではない。 朝鮮の大部分は、今日なおいまだそんなふうの蒙昧状態にあるということも疑いないが、しかし ながら、われわれはこれら蒙昧の階級のみに着眼してはいけない。いな、その中のもっとも優れ たる階級に着眼しなければならない。何故ならば、彼らの同族の間に、ある高度の開発を遂げた 階級のあるということは、蒙昧なる階級もやがてはそこまでは行くということを意味するからで ある。人間は動物のようにいつまでも蒙昧の杜会にとどまって居るものと考えてはいけない。彼 らはたえず発達するところの霊妙なる活物である。一寸の虫にも五分の魂ということは、まさに 植民統治の局に当たる者の服膺《ふくよう》すべき金言でなければならない。,  かつまた、たとえ国法を躁踊し、正面からわれわれに反対するものでも、これをむげに敵視す るは古来の武士道の精神でもない。敵味方と分かれても、彼我の交争を超越する最高の原理を共 同にするところから、たがいに尊敬し合うというのは、昔からの日本民族の誇りとした精神では ないか。去年の十二月帝劇において「安宅《あたか》の関」という芝居があった。義経・弁慶は頼朝にとっ ては不倶戴天の敵である。富樫《とがし》左衛門は時の政府の命令を受けて国賊を逮捕するの任務を負うて 関を守って居る。そこへ義経・弁慶の一行が飛びこんで来た。富樫は行政上の職責として、この 国賊をぜひとも逮捕すべき責任のあるのに、臣として義経に対する弁慶の忠誠に感激して、つい にこれを免《ゆる》してやった。そのうえ諸国の関所に対するパヅスをさえ贈った。今日の乾燥なる法律 論からいえば、とんでもない不都合な役人といわねばならぬが、富樫左衛門彼自身は、その間に なんらの煩悶をも感じたい。見物人もまたむしろ富樫に同情して居る。何故かというに、すなわ ち彼は敵味方の区別を超越した最高の道徳すなわち君臣の義というものを弁慶に認めて、これに 無限の感懐と尊敬を感じたからではないか。今日の言葉で申すならば、国家を超越するところの 最高の正義は、国法以上に尊敬すべきものであるという考えを現わしたものにほかならない。で, あるから、富樫左衛門は弁慶の縄を解いたのち、「かかる剛勇無双の忠臣に非道の縄をかけたる 罪、弓矢八幡|赦《ゆる》させたまえ」と述懐して居る。すなわちこの最高の道徳に対しては、彼は行政上 の職務を完《まつと》うするがために縄をかけたことをさえ、一種の罪悪と観ずるに至った。もしこういう 思想が日本古来の精神であったとするならば、たとえばせんだって日本に来た呂運亨君のごとぎ、 かたちのうえにおいては逆賊に相違ないが、彼の抱懐して居るところの正義の観念に対しては、 われわれはこれに無限の尊敬を払い、彼を優遇してやったということに、日本国民としてなんら 反感をもつべきはずはないと思う。  要するに、朝鮮人を適当に取り扱い、朝鮮問題を適当に解決するがためには、今日少なくとも 富樫左衛門以上の雅量を国民全体がもつことを必要とする。少なくとも当局はじめ天下の識者が これだけの雅量をもつでなければ、どうしてもここに満足の解決をみることができないと思う。 七  といって、余輩は彼ら朝鮮人青年学生の主張を全然是認せんとするものではない。ただ彼らを 道徳上の破廉恥漢やなぞといっしょに不邊呼ばわりすることは、やめてしかるべきだと思うので ある。いな、さらに進んで彼らの拠ってもって立つところの立場には、相当の尊敬を表すべきで あると考えるのである。日本人という立場に立ってみればこそ、彼らを不都合とも思え、いった, ん地を換えてわれわれが彼らと同じような境遇に立ったと仮定したならどうであろうか。  彼我対抗の関係において、われわれは彼らを不都合というが、彼らはまた彼ら自身の行動を初 めから正しいと信じて居るのみならず、'朝鮮人中日本の官民と特別に接近して居るものーすな わちわれわれが信頼するに足ると認めて居る連中があると彼らは非常にこれを軽蔑する。はなは だしきはこれを売国奴扱いにすらする。かくのごとく相反した感情を我と彼とがいだくというこ とは当分のところはやむをえたいのであって、この感情の存在するかぎり彼らの動揺は容易に鎮 静に帰する見込みはない。しからば他に適当の場所がないかぎり、青年会がつねに不穏な企ての 策源地に利用さるるという事実も当分の間はやまぬだろう。  そこで、青年会が各種の運動の策源地となるのは、たまたまこれが唯一の集会所であるがため であって、青年会の奉ずるところのキリスト教が、必然に排日運動と関係があるのではな㌧ゆ えにある一部の人の考うるがごとく、キリスト教徒がとくに排日を煽動するというふうにみるの は誤りである、少なくとも女字どおりに受け容れらるべき観察ではない。 もっとも排日運動などに狂奔するものがキリスト教徒の中にとくに多いということは、あるい は事実であろう。しかしながら、それは耶蘇《やそ》教が本来排日的要素を多分に含んで居るからという のではなくして、耶蘇教がもっとも開発せる人間をたくさん出して居るからであろう。けだし朝 鮮人も近来耶蘇教によっていろいろの点において大いに覚醒せられて居る。その覚醒せられた頭 でもって杜会の現状をみると、ここにいくたの不平と不満とを感ぜざるを得ない。かくして一方 にまた領土の支配者たる日本の政府に不平の鋒先《ほこさき》を向けるというのも、怪しむに足らないのであ る。これはひとり朝鮮に限ったことではない。日本内地においても、官僚.軍閥の失政に対して\ 猛烈に反対の声をあげるものは、案外に耶蘇教徒中に多いではないか。むろん耶蘇教徒のみとは 限らない。いやしくも開発した人間で、だれ一人、今日、官僚・軍閥の施政を謳歌《おうか》するものはあ るまい。朝鮮人という立場から日本の統治をみるときには、むろんその間にいくたの誤解はあろ う。けれども、従来の朝鮮の統治に対しては、日本内地の識者すら大なる不平をいだいて居る。 いわんや開発せる朝鮮人彼自身においてをや。頑冥者《がんめいしや》流は、自己の失態を棚に上げて、あるいは 自己の失態をしいて蔽《おお》わんがために、しきりに排日的運動の原因をほかに向けんとして居る。そ こでややもすれば耶蘇教徒が排日を煽動するのだなどといい、はなはだしきは宣教師やら米国ま でを引合いに出す。数多き宣教師の中には多少排日運動に関係のある者がないともいえまい。け れども朝鮮人の日本に反対するゆえんの根本は、朝鮮人自身の心の底に伏在して居るので、他の 煽動によってはじめて起こるものとみてはいけない。これをこれ考えずして、ただいたずらに教 会とか宣教師とかもっばらほかのものに責任をなすりつけようとするのは、一にはいたずらによ けいの敵を作るの愚をあえてすることなるのみならず、またこれによって国民をしてみずから反 省するの必要を忘れしむるの恐れがある。  宣教師と独立運動との関係については、わが国官民の冊に重大の誤解があるようだ。総督府の 見解もこれについてははっきり定まっていないらしい。かつて宣教師は独立運動にまったく関係 がないというようなことを発表したことがあるのに、最近、赤池警務局長はこれとはうらはらに 大いに関係があるということを明言して居られる。けれども、赤池警務局長の発表したものを、 われわれが先入の偏見なく、冷静に読んでみると、むしろ警務局長のいうところにはなはだしい 無理解があるを発見せざるを得ない。予輩はあれを見た当時、当局者がごれほど宣教師に対して また耶蘇教に対して無理解であるかということに、実は驚いた。一言弁明するところあらんと欲 したけれども、時を得ずしてやんだのであった。予輩はこの問題に関してはほかにも論ずべき多 少の材料をもって居るけれども、単に赤池局長の提供した材料だけを見ても、われわれはいまだ 宣教師と独立運動との必然的関係を断定することはできないと思う。むろん宣教師の中にも不都 合のものは若干おろう。初めは誤解から起こったにしろ、今はほとんど感情的に日本のすること は一から十まで嫌いだというようなものも若干はあるらしい。しかしてかくのごとき強い反感を いだかしむるにおいて、日本の官民も与《あずか》って力あることはもちろんであるが、これらの点はいま あえて深く論じないとして、ただその大多数の宣教師が、一から十まで日本そのものに反感をも って居るというならば、これ大いに誤りである。にもかかわらず、日本の官憲が宣教師の態度を 誤解するゆえんいかんといえば、これは日本側の方に重大なる誤解があるためだと思う。そは何 かというに、宣教師について「いやしくも日本の領土内にある以上は、善いことであれ悪いこと であれ、日本政府のなすところはことごとくこれを弁解してやるべきはずのむの、少なくとも朝 鮮人の前にてこれに非難の声を加えてはいけたいもの」という考えである。日本の政府は宣教師 に対してかか石ことを要求するのははたして正当であろうか。われわれ国民ですら、政府のなす ところをその所信に従って非議するに何の妨げもないではないか。善いことは善いといい、悪い ことは悪いというに差支えたいではたいか。しかして政府の失態に対して反抗の声をあげるもの あるときに、もしそのいうところに道理あらば、朝鮮人だろうが、日本人だろうが、われわれは これに同情を寄するを惜しまない。いわんや宣教師たどのごとき、ともかくも国家以上の「正 義」をもって拠るところとして居る連中においてをや。その拠りどころからみて、日本政府のな すところにいくたの誤りがあり、これに対抗する朝鮮人の主張に、大いに同情すべきものありと 思うなら、彼らが朝鮮人に味方をしたとて、決して宣教師たるの本分にそむくものということは できない。要はただ真に同情すべきものを誤らないかいかんにある。いずれにしても些細《ささい》の事実 を取って宣教師が煽動したとか、独立運動に関係があるなどというては、一般の世間はあまりに 日本人の狭量なるを笑うであろう。  これを要するに、当局者をはじめ、われわれ日本人は、朝鮮問題についてはあまりに神経を過 敏ならしめて居る。少しでもわれわれに都合の悪い出来事が起こると、すぐにかっとして怒る。 これではとうてい問題を根本的に解決するの能力ありと自負することはできない。われわれはも っと寛大の精神をもたたければならない。彼らの立場には十分の了解を与えて、彼らと少なくと も共通の立場に立って、いわば敵の執るところの武器をもって敵を納得せしむるだけの用意がな ければならない。それにはわれわれ自身がまずもって正しい立場に立って居ることを必要とする はいうまでもない。 八  朝鮮人の排日運動は、日本人からみれば、まことに不都合の計画であり、日本の国法からみて も、ゆるすべからざる曲事であるには相違ないが、朝鮮人の立場としては、決してこれを道徳上 排斥すべき罪悪とはいわれない。朝鮮問題を根本的に解決するがために、われわれ日本人は、ま ず第一に間違いなくこの立場に立つことが必要であると思う。現に排日運動とか独立運動などを やって居る連中の首動者は、日本に反対するということのほかにおいては、いずれもみな道徳上 一点の非難すべき点なき立派な紳士であると聞いて居る。せんだって日本に来た呂運亨氏のごと, きも、どこへ出しても引けを取らない立派な教養のある紳士である。また在留朝鮮人青年学生で も、警視庁などの眼から見て危険視して居るものほど、みな学識・品格において優良なる青年で ある。その優良なる青年がかくのごとき運動をなすというのだから、われわれ日本人としては大 いに反省するの必要があるというのである。詐欺をしたとか、泥棒をしたとか少なくとも平素無 節制なる粗暴の青年が野次馬的にやる仕事なら、われわれはもとよりこれを歯牙《しが》にかくるに足ら ぬ。優良なる青年がこぞってこれをなすというのであれば、少なくともわれわれはここに大いに 反省するの必要をみるのである。要するに、今日、朝鮮人青年学生の動揺は優良なる分子が中堅 となって居るのだから、とうていこれを抑えきれるものではない。またあくまでこれを圧迫する の態度に出でては、けっきょく朝鮮人は永久に日本を離れるばかりである。彼らの運動は、決し て他よりの煽動の結果ではなく、全然月発的のものである。盲滅法に日本に反対するのではなく して、日本の失政に反対し、一個の正義の理想に動いて居るのだから、そこでおのずから外部の 同情をもひき得れば、また同胞民衆の後援をも得ることとなるのである。彼らは今日すでに朝鮮 民族の中堅をもって任じて居るのみならず、近き将来においては十分にこれを率いるだけの地歩 を占むるであろう。しかもまた世界の同情をも得つつある。してみれば、日本がけっきょく朝鮮 と本当の精神的提携をなそうというならば、これらの中堅分子を手に入れなくてはだめだ。ゆえ に予輩はいう。朝鮮問題を根本的に解決するがためには、外面上いちばん猛烈なる排日的分子と まず提携するを心がくべきであると。  従来の当局の方針をみるに、また退いて民間の議論をみるに、日本に反対するような不都合な 奴はあくまでこれを排《も》斥せよ、あくまでその撲滅を図れといういわば圧迫一点ばりであった。し かして朝鮮人のいかなる部分を手に入れんと努めたかといえば、過去の情勢によってわずかに社, 会的生命をつなぎつつあるところの、しかして前途にはなんら光明の将来を有しないところの、 いわゆる衰亡階級のみであった。なるほど、経歴だとか年功だとか財産・門地だとかいう外形的 条件を並べたならば、彼らは今日朝鮮人中の有力者であろう。けれども明日の朝鮮は決して彼ら の掌中にはない。にもかかわらず、当局者などはこれをさえ手に入れておけば、またこれに十分 力を貸してさえおけば、青年学生のごときはわけもなく抑え得べしと考えたのであった。これほ ど誤った考えはまたとあろうか。従来は全然この方針であったからとうてい治まらなかった。ま たこの方針で今日も進まんとするから、昨今の動揺もとうてい治めきれないのである。  最近十年間の治鮮の失態は、まったくこの誤りに基づいて居る。新総督の下においては、この 点を全然改めてかかるのであろうと思っておったが、まだ十分でないようにみえる。最近の世界 の事情に通ずる水野政務総|監《ハユ 》も居ることであるから、いずれ早晩朝鮮統治の局面も、新たなる面 目を開くこととは思うけれども、聞くところにょれば、今日なお一般官界の思想は頑冥にして、 首脳者の新しい考えも十分に徹底しないようだとのことである。いずれにしても今日は、もはや 国民はこの点に大いに醒《さ》めなければならない。このうえぐずぐずしておっては、やがて取り返し のつかぬことになるだろう。同じようなことはシナ問題についてもいえるが、朝鮮問題について すらなおこんなにまごまごして居るのだから、シナの問題をかたづけ得ないのも無理がない。し かしこのままにしてやむべきでたい。どうすればよいかは、おのずから前言に表われていると考 える。たまたま青年会問題に関する流言を耳にし、これを機会として平素の所懐を述べた次第で ある。                              (『新人』大正九年二月号・三月号)