『三十三年の夢』解題 吉野作造      一  このたび明治文化研究会から宮崎|滔天《とうてん》著『三十三年の夢』が復刻される。初版の刊行が明治三 十五年(一九〇二)、当時非常の評判で版を重ぬること十たびにも及んだが、その後久しく絶版の ままで昨今ようやく人に忘れられんとしたのを、こんど私どもの仲間で再刊することにしたので ある。私が主としてその校訂の任に当たった関係上ここに少しく本書再刻の理由を述べてみる、       二  本書は著者の自叙伝である。数奇風流の運命に身をまかせた人だけに、著者三十年の行事そ のものがすでに非常におもしろい。それにその文章がまたすてきだ。単純な読みものとしても 人を して巻をおくあたわざらしむるだけの魅力あることは私にも保証ができる。これ創刊の当時大 いに洛陽の紙価をたかからしめたゆえんであろう。しかし私どもが二十数年後の今日これをふ たたび世上に活かすのは、単に読んでおもしろいからのみではない。そのうえに本書は明治文 化研究上の参考文献として実に大なる価値を有すると信ずるからである。      三  著者は明治初年(明治三年日一八七〇)に生まれた。したがって彼は自由民権の叫びを聞き つつ西洋文化心酔の雰囲気中にその青年時代を過ごした人である。思うにこの当時の有為なる 青年に とって、その行く途はだいたい二つあった。一は官界に譲足を伸ばさんとするもので、他は志を 民間に布かんとするものである。しかしてこの後者にもまたおのずから二つの型があった。藩 閥専制に対する憤慨に動いていわゆる政治的革新運動に没頭するものが普通の型で、まれにま た志を当世にのぶるをあきらめ、友を隣邦に求ぬてまず広く東洋全体の空気をー新し、ょって もっておもむろに祖国の改進を庶幾せんと欲する者もあった。この方は数は少ないが、あるい は早く朝鮮に結びあるいは遠くシナに身を投じて、後年におけるわが国の大陸経営を陰に陽に たすけて居る。わが宮崎泗天は実にかくしてシナとわが国とを結びつけた典型的志士の一人で ある。そこで、彼の自叙伝はわが国の近代史と密接の関係をもつことになるのである。  しったい明治の初年に生まれた連中はいがなる教養を受けたものか。これを彼の自叙伝はつま びらかに語って居る。当時の有為なる青年は時勢をいかにみておったか。しかしてその見識の由 来する源はどこか。これを彼の自叙伝は明白に語って居る。ただちに志を内地に布くを避け友を 隣邦にたずねて東洋の大局に着眼せし者あるの事実はまたいかにこれを説明すべきか。これにも 彼の自叙伝は明快なる解釈を与えている。当時の青年を動かした思想の何であるか。時勢はこれ と如何の交渉をもっておったか。これらの歴史研究上肝要なる諸問題も彼がみずからの過去を語 ることのうちに事細かに説明されて居る。しかもそれが彼の行動の赤裸々の告白とともに、荒削 りの巧妙な名文をもって書かれてあるのだからたまらない。読んでゆくうちに研究という厳粛な 態度をいつとはなしに忘れしむるほどにおもしろく書きこなされてある。しかも虎飾のないあり のままの記録であるところに大なる歴史的価値あることをみのがすことはできない。      四  こうした歴史的価値のうちでも私のことに高調したいのは、シナと日本との交渉に関する部分 についてのそれである。近代におけるシナと日本との内面的関係は、逸仙孫文の日本亡命からは じまる。かく断ずるゆえんいかんの説明は理屈になるから今はやめておく。とにかく孫文が大養 毅氏らのやっがいになり、それから多くの心友を日本人中に見出だしたことは、実に他日シナの 運命を一変し、しかしてまた東洋の局面を一変した端緒になる。そして日本人中もっとも早く孫 文と相見、またもっとも厚く彼の信頼を得たものは、実にわが宮崎泗天である。これだけをいっ ても彼の自叙伝がそのまま目安交渉史の第一章をなすものなるめ意味は明白であろう。しかのみ ならず『三十三年の夢`は著者と孫安との関係の叙述に多くのページを捧げて居る。ゆえにシナ 革命初期の歴史を語るものとしてもヽ本書はかた実に貴重なる一資料たるべきものである・      五  『三十三年の夢』が文芸上の作品としてどれだけの価値あるかは私にはわからない。ただかつて 人づてに内田魯庵翁が大いに本書を推奨されたという話を聞いて居る。私としては徹頭徹尾学術 的立場から批判するにとどめるほかはないが、前述のごとく、彼の行動の正直なる記録というだ けでも大なる価値があるのだが、そのほかに私の敬服に堪えないのは、彼の態度のあらゆる方面 にわたって純真を極むゐことである。彼はいくたの失敗をくりかえしまたいくたの道徳的罪悪を さえ犯して居る。モれにもかかわらず、われわれはこれに無限の同情を寄せ、時にかえって多大 の感激を覚えさせられまた数々の教訓をさえ与えられる。なかんずくシナの革命に対する終始一 貫の純情の同情に至っては、その心境の公明正大なる、その犠牲的精神の熱烈なる、ともに吾人 をしてついに崇敬の情に堪えざらしむる。私はここに隠すところなく告白する。私は本書によっ てただにシナ革命初期の史実を識ったばかりでなく、また実にシナ革命の真精神を味わうを得た ことを。人あり、もし私にその愛読書十種を挙げよと問うものあらば、私は必ずそのーとして本 書を数えることを忘れぬであろう。  本書の右のごとき性質が、おのずから多数の愛読者をシナ人のうちにも見出だしたことは怪し むに足らぬ。私がはじめて本書の名を知ったのも、実はツナの友人から教わったのである。お恥 ずかしい話だが、本書創刊の当時法科大学の一学生であった私は、とんとこんな方面には意を留 めなかった。卒業後しばらくシナに遊んだけれども、日本人の多い天津に足をとめたためか、シ ナの革命なんということにはまったく興味をもたなかった。それで大正五年の暮、第三革命の起 こったときまで、シナのこ,とはあまり研究したこともなく、したがって本書の存在さえ知らず に過ごしたのであった。私のシナ研究は、実は第三革命の前後から始まる。細かいことは略する が、この革命勃発して数週ののち、当時ひそかに南支の運動に同情を寄せておった頭山満翁・寺 尾亨先生の一派はぃ今次革命の精神の広くわが国朝野に知られざるを慌し。これを明らかにする ため、の用として簡単なるシナ革命史の編纂を思い立たれ、そのことを実は私に託されたのであ った。そのころすでに少しく眼をツナのことに向けていた私は喜んでこれを引き受けた。そして最近の 材料の供給者として寺尾先生は私に戴天仇君・殷汝耕君らを紹介して来たのであるが、シナ革命 初期の歴史を知るにもっともいい参考書として『三十三年の夢』の名を聞かされたのは、実にこ の両君からであった。ちなみにいう。『三十三年の夢』は、刊行後まもなく章士剣君にょって漢 訳され、ツナでは非常に広く読まれたものなそうである。  これぱ後日聞いた話であるが、黄興が明治三十七年の革命陰謀に失敗し、上海の隠れ家を出で て日本に亡命するや、当時まだ無名の一青年であった彼は、東京に来てこれという寄るべもなく ほとんど衣食にも窮したのであったが、ふとかつて『三十三年の夢』を読んだ記憶をよびおこし、 著老酒天の必ずよろこんで自分を迎えくれるべきを信じて突然身を投じたという。この話を、私 は最初、故酒天君に聞き、のちにまた直接黄興氏に確かめた。これによっても本書がシナの人の 間に広く読まれて甚深の感化を与えて居ることが推察されよう。      七  『三十三年の夢』はシナでは今日でも盛んに読まれて居る。こんど校訂復刻本を出すにつき、 古い漢訳本を探したが見当たらない。シナにはあるかもしれぬと、上海の友人内山書店主完造君 に頼んでやったら、古いのはないが新しい訳本ならあるとて、最近の訳本を送って来た。これは 章士剣君の訳とは違う。そのことは序文にも明らかだが、とにかくシナではいまなお広く読まれ て居ることは明白だ。内山君の書信のうちにもへうちのボーイが非常におもしろいとていま現に読 んでいると書いてあった。もっとも昨今はただおもしろい読みものとして賞玩されるにとどまり、 著者宮崎の名もょうやく記憶から消え去らんとしているかに思わるる。が、しかし『三十三年の 夢』という書名だけは、孫文の名が不朽であるかぎり、シナではいやでも応でも不朽の生命をも つ運命におかれてあることは疑いない。 『三十三年の夢』は刊本では版を重ぬること十回なるにかかわらず、流布本はきわめて少ない。 昨今のように、明治中期の刊行物が潮のごとく市場に出る時勢とがっても、本書だけはめったに 顔を見せない。大正六年、はじめて私が本書の名を知って有斐閣の山野君を煩わしたとき烏、やっ と一冊見つけるにずいふん長い時を費やしたものだ。その後一年あまりののち、神田辺の古本屋 でもう一冊見つかった。昨今私は見つかり次第何冊でも買っておくことにして居るが、それでも その後今日まで手に人っだのはたった二冊に過ぎぬ。私の友人でどこかで本書を買ったという人 はまだ二人しかない。ことほどさように本書の流布は非常に乏しいのである。これ私をして故 泗天の令嗣竜介君に諮り、明治文化研究会同人諸君の諒解を得て、復刻公刊を決行せしめた一つ のおもなる理由である。      八  本書をひもどく人のために、簡単にその結構の大略を語っておこう。  本書は二十八章から成って居るが、こころみにこれを大別すると次の四篇になる。一 修養時 代「半生夢覚めて落花を懐ふ」の序曲から「思想の変遷と初恋」に至る七章ニ シャム活動時代 「大方針定まる」ょり「嗚呼二兄は死せり」に至る七章 三 南支・南洋活動時代「新生面開け来る」より「形勢急転」に至る七章 四 志州事件活躍時代「大挙南征」ょり「唱はん哉落花の歌」の大詰に至る七章      九  一 修養時代  これはかりに私のつけた名である。以下みな同じと御承知ありかい。さてこの修養時代の中に 入れた七章において、われわれは著者の思想・行動の由来を詳知することができる。早く世を去 った父君は蕊落にして情誼に厚い人であったらしい。母君はまた女ながら子女の教育には非常に 苦心された方のようだ。‘長兄ハ郎はつとに自由民権を唱え西南戦争に西郷方に与して死んだと いうから、著者が早くから明治政府に対して反逆の児であったのもさごそと肯れる。学歴は中学 から熊本の大江義塾に転じ、しばらく徳富蘇峰先生のやっかいになったが、やがて帝都に来たっ て某私塾に入ったという。この間耶蘇教に入り、小暗弘道先生から洗社を受ける。けだしつねに内 心求むるところありてやまざるのいたすところであろう。これ著者のおよそ十五、六歳のことで ある。しかし彼らの耶蘇教は永く続かなかった。あるものを求めて耶蘇教に人った彼は、教会に おいてその求むるところを適確につかみ得なかったがらである。ことに彼が信仰に動揺を感じ始 めた青年時代において、イサク・アブラハムなる西洋の一虚無主義者に遇ったという話は、別の 意味においてもはなはだおもしろいと思う。この西洋の変人について、著者はみずからその別の 著『狂人譚』を紹介して居るが、これまたすてきにおもしろい本だ。これも折があったら復刻し ておきたいと考えておる。  しかし後年の彼の思想・行動に多大の影響を与えたものとしては、何とレっても彼のいわゆる 一兄と二兄とを挙げなければならない。まず彼の社会観はこれを一兄民蔵に得たらしい。一兄は 今日の言葉でいえばいい意味のアナアキストでないかと想像される。著者が耶蘇教を捨てたのも 一つには一兄の感化であるが、耶蘇教をすててしかも博愛の大義をすてなかったのもこれまた一 兄の感化にほかならない。一兄の思想の何たるやは本書の二十七ページに簡明に説いてあるが、 この人にはまた別に『皿{人類の大権』〔明治三十九年刊〕という独立の著書があることをもこ こに付記しておく。次に彼が活動の舞台をツナに択んだことが全然いわゆる二兄弥蔵の懲悪によ ることもまた明白である。ツナに関する二兄の思想は本書二十三ページおよび三十九ページにお いてもっともよくこれを知ることができる。すなわちシナを興して白人の抑圧に対抗せしめ、力 を我に養ってのち進んで大義を世界に布こうというのである。著者ははじめハワイに行って米国 遊学の資を作ろうとしたが、二兄にさえぎられて思いとどまり、ついに終生の方針をシナのため に尽くすことに決意したのだという。      ‐  さてこれらの話はもちろん著者その人の俤を伝うるものとしてきわめておもしろい。しかしわ れわれはまたそのほか当年の時勢を明らかにわれわれにみせでくれるものとしていっそうの興味 を覚えるのである。そは何かというに、あのころの青年で政府に志を得ないものまた志をここに 伸ばすを欲しないものは、自由民権運動に身を投ずるを普通とし、まれに周囲の生活救済のため に起たんと志したものだが、その好個の代表は実に著者のいわゆる一兄である。そこでわれわ れぱ一兄の思想を研究することによりてよくこの種一派の由来・志向等を明らかにすることがて ざるのである。これと同時にそのころの世間には、一つには幕府以来の排外思想の余習として、 また一つには軍国的帝国主義の西洋における台頭の自然的影響として、いわゆる弱肉強食の国際 観がなかなか盛んであった。したがって白人に対する黄色人種連盟策というがごときは、容易に 青年の血を沸騰せしむるに足るものがあった。いわゆる二兄のシナ論が実にここに胚胎せしもの なることも大いに注目するの圃値ぱある。しかして著者酒天その人の思想・行動はこの二様の時 代思想を一身に融合し、かつみずから進んでこれを実行に移さんと試みたものである。ここに彼 みずからがまた実にわれわれの史的研究の好対象たるの面目かびするのである。       一〇  ニ シャム活動時代  著者が二兄とともに志をシナに立てたことはその自序にも明らかである。本書に記するところ にょれば、一兄をもこの計画に引っ張りこもうと、彼は二兄と相携えて郷里に帰った。二か、不 幸にして一兄の賛同を得なかった。一兄は単刀直入、理想を日本で行なうべしというのである。 それでも著者は一兄の物質的援助を得たので、ともがくもシナに渡ろうとて長崎まで行った。そこ で虎の子の旅費を友達に徽め取られる。いくだの悲喜劇を演じたのち、上海まで往ってはみたが、 約束の送金がないのですぐ帰った〔これ著者二十二歳のときのこと〕。その優しばらく郷里に咀をと めたが、腕が鳴ってじっとしておれぬ。三年ばかり整伏したのち、今度は金玉均に頼って活動の  新場面を開こうと東京に出て来る。芝浦海上月夜の会談はなかなかおもしろく書かれてある。し かるに金玉均がまもなく上海の客舎に殺され、著者の計画もおのずから水泡に帰したことは、く わしくいうの必要もなかろう。そうこうしているうちに朝鮮に東学党の騒動が起こり、風雲すこふ る急を告ぐるに際会する。すなわち今度こそシナにゆかではと東京に出て来る。その途中、神戸 で岩本千綱という人に遇う。これが著者のシャム行方の端緒となるのである。   岩本というはシャム移民会社に関係のある人だ。病気で行けぬから、君一つ代わって行って くれぬかと頼まれる。著者の志はもとよりここにあるのではない。けれどもシャムにはツナ人も 非常に多い、将来のため阿かの便宜もあろうと、ついに行ってみる気になる。これと同時に、二 元はすでにツナ商館に入り、シナ服を着け、絶対に日本人との往来を避け、ツナ入になりすまして 一意専心シナの研究に従っている。志はともにシナにあるのだけれども、一人は横浜、一人はシャ ムと、おのおの途を分かって進むことになった。   シャムにおいて日本人と相応し移民の輸入に尽力したのは、時の農商務大臣スリサ″ク侯だと いう。白人の侵略に対抗するためには同病相あわれんでわれわれ大いに結束する必要があるという のが、このころの東洋人に通有の思想だ。著者またスリサ″ク侯にわけもなく共鳴したところに、 当年の気分を味わうことができると思う。しかし肝腎の事業の方はさっぱりうまくゆかぬ。  そこでいったん帰国して別に画策するところがあった。やがてふたたび征途に上ったが、二度目 のシヤムで彼はさんざんの目にあった。事業の失敗はいうまでもなく、虎疫(コレラ)の流行に 友人を失い、自分もこれに伝染して万死のうちかろうじて一生を得た。ほうぼうの体でまた目本に 帰って来る。  さきにシャムから一時帰朝した際にもいろいろの出来事がある。なかに特筆すべきは、横浜に隠 れている二兄より、シナ革命党の一人に遇った旨の報道に接したことである。二度目に帰ったとき は、二兄はすでに病に倒れてこの世の人でなかった。したがってこのシナ人についてもくわしく聞 知するの機会はなかったが、のちにこれが孫派の一領袖陳白なることがわかる。著者またやがて陳 白と相知り、これによって孫文と相許すに至ったのは、不思議の因縁というべきである。  三 南皮・南洋活動時代  さんざん失敗のあげく彼が帰国入京したのは、実はシャムの事業の再興をはかるがためであった。 東京に来てはがらず可児長鋏に勧められて犬養木堂を訪う。これが彼をしてシャムをあきらめてただ ちにツナの活動にいらしめた端緒になる。  犬養翁に識られた結果、彼は外務省の命をうけシナ秘密結社の実状視察に派遣さるることになった らしい。このときの政府は憲政党内閣で、外務大臣は総理大隈重信の兼任であったことを知っておく 必要がある。とにかく彼は可児長鋏・平山周の両名と相携えて南清地方に遊ぶことにな った。出発まぎわに彼は病を得て二友に遅れた。病も癒えいよいよ出発のできるときになって、 彼は小林樟雄を訪うた。座にたまたま亡長兄の親友曽役使虎あり、この人の紹介により、横浜に 赴いてかの陳白と相知ることを得たのである。これが二元の交わったツナ人であることもすぐにわか った。陳を通じてまた孫文のことも閣いた。これらの事柄にょって彼は大いに知見を豊富にし、喜び 勇んで香港に向かったのである。そしてかの地において多数の革命党員と交を締したことはいうまで もない‘。  著者が親しく孫逸仙に遇ったのは、香港からいったん帰ってからである。孫に遇って彼は大いに意 気投合するものあるを感じ、誓って彼の事業を助くべきを約した。そのうちに日本に政変あり、内閣 が変わって山県首相の下に外務の椅子には青木周蔵が拠ることになった。かくて著者と外務省との関 係も自然切れたが、ただ大養翁はどこからか金を持って来ては引き続き孫と著者との一味を助けたら しい。そのおかけで著者はその後もしばしば東京と香港との間を往来する。香港では一度フィリピン の志士にも遇って居る。これも見透かしてはならぬ出来事の一つだ。しかしてこれみな明治三十一年 夏秋のことに属する。  ・  戊戌の政変〔三十一年九月〕で、康有為は英国に保護されてひとまず香港に逃げ、梁啓超は難を日 本公使館に避け、それから日本にやって来る。それと一日おくれて康もまた日本にやって来る。梁を 伴ったのは平山周であり、康を伴ったのが著者であることも不思議の因縁である。著者と康有為との 交渉に関する叙述もなかなかおもしろい。  すでにしてフィリピソ独立戦争〔三十二年二月〕の報道が来る。孫の一派もおのずから働かざるを 得ない。まず一味の人々を派してアギナルドを助け、余勢をもってツナに攻めいろうというのである。 そのうちにフィリピンの密使が来て軍器購入を孫文に頼む。孫文はこれを著者らにはかる。すなわち 犬養翁の周旋によってこれをその政友中村某(中村弥六)に託することになる。政 府の密偵の監視きびしきなかを、かろうじて必要の品々を購い整え、布引光一故に人と物とを満 載して南方に送ったが、不幸にしてこれが上海神で沈没した。著者は南清動揺の飛報に接し、その内 情を調査すべく孫文の秘命をうけて広東に航行する船中においてこれを聞いた。  著者の南清滞在中に班老会・三合会・興中会のいわゆる三派連合が成った。これがそもそも志州事 件の起こる端緒となるのである。そのほか志州事件の発生には、次の事柄がこれを助けていることを 注意せねばならぬ。二度目に軍器を購いに来た非島(フ″リピソ)の志士が、独立運動も失敗し、か つ日本政府の監視きびしきにあきらめ、再挙を断念してさてさしあたり不用となった軍器・弾丸をば 全部孫文に提供したことが一つ。また一つは著者の帰国後一友人の紹介で遇った実業家中野徳次郎が、 孫派に対し巨額の財政的援助をなせしことこれ。      一ニ 四 恵州事件活躍時代  志州事件は拳匪事件の動乱に乗じて企てられたものではない。この事件は彼らが大挙南征に決し、 その旅程に登ってから聞いたのだ。前段述ぶるがごとき事情で、孫の一味は南方で事を挙ぐべき計画 を立て、三十三年(一九〇〇)六月、大挙して南方に向かったのである。向かうところはいろいろに 分かれたが、著者ら一行のめざすところはシソガポールであった。ここの華僑から金を集めること、 これはあとから孫文が来てやる。著者はまず日本を去ってここに悠遊しておった康有為を勤かし、こ の一派と孫文とを連絡提携せしめんと謀った。  これよりさき同地には、孫派の一味、康有為暗殺のため日本より末るとの秘報が伝わっていた。む ろん横浜にある康の末派の打電したものである。そのためにせっかく上陸した著者T打は、康に面会 のできなかったばかりでなく、ついに警官の捕うるところとなりて牢屋にまでぶちこまれる。この間 の出来事についても詳細なおもしろい記事がある。  放免されてすぐ帰国の途につく。遅れて来た孫文その他の一味みな幸レにして同船である。香港に 立ち寄ったが、政庁は早くも彼らの革命陰謀を耳にはさんで上陸を許さない。その間、内々で総督か ら、李鴻章にすすめて両広の独立を宣言させるから孫に民政長官になってくれぬかとの 交渉があったという。ちょっと注意すべき事件である。とにかくいったん帰国ということになったが、 いわゆる志州事件の一般方略は、このとき実に香港沖の船中で定められたのである。 (一) 志州付近の三州田山塞にたてこもり、機をみて義兵を挙ぐること。挙兵のことは鄭弼臣を 総大将とし、近藤五郎・楊飛鴻を参謀とする。 (二) 事成らば福本日南を民政総裁にあげ、その下に部局を分かって施政を掌らしめる。孫文  の大統領たるはいうまでもない。 (三) 孫文は日本において軍器・弾薬その他必要な物資の調達輸送の任に当たる。  かくて孫文は日本に帰った。人あり台湾総督に紹介しようという。彼すなわちこの方面からも有力 なる援助を得べきを期待して台湾に行った。しかしこの期待は実現されなかった。時の台湾総督は児 玉源太郎で、民政長官は今の後藤子爵(後藤新平)であった。  すでにして三州田挙兵の報到る。これ実は、東京の電命を待つにいとまなくしてやむなく兵を斬か したものである。幸いにして連戦連勝であったことは本書の記述に明らかである。しかし日本内地の 画策はことごとく画餅に帰した。第一、金が思うように集まらぬ。第二、台湾方面の期待はまったく 空に帰した。第三、唯一の頼みであったフィリピソ寄贈の弾薬〔二十五万発、代価六万五千円と称す〕 は、受託者の詐欺にかかり、土塊同様のものということがわかった。そこで百計つき、孫は血涙をの んでやむなく南清戦場の同志に随意解散を電命した。この事件に関する著者の「孫文に与うる書」は けだし本書中の圧巻である。      一三  かくて彼は、なすことことごとくいすかの嘴と食い違い、不平を酒に紛らして江湖に流浪する ことー、二年、,ついに意を決して桃中軒雲右衛門の弟子となる。この際における彼の悶々の情 は自序の中にも明らかであるが、ただ漫然高座に扇子をたたいて口を糊せるにあらざることは、彼 の好んで唱える自作「落花の歌」にょっても明らかである。しかし歌詞そのものは掲げていない。 著者の旧稿を探りて、 この歌のことは本文にも出てレる。いま次にその全文を載せる。 一将功成り万骨枯る 国は強きに誇れども 下万民は膏の汗に血の涙 芋さえ飽かぬ餓鬼道 を たどりたどりて地獄坂 世は文回しや開化じやと 汽車や汽船や電車馬車 廻る軌に上 下は無いが 乗るに乗られぬ因縁の からみからみて火の車 推して弱肉強食の 剣の山の 修羅場裡’血汐をあびて戦ふは文明開化の恩沢に 漏れて浮世に迷兄の 死して余栄もあら ばこそ 下士卒以下と一束 生きて帰れば鉄に泣く 妻子や地頭にせめ立てられて 浮む瀬 も無き細民の その窮境を苦に病みて 天下の乞食に綿を依せ 車夫や馬丁を馬車に乗せ 水飲み百姓を玉の輿 四海兄弟無我自出 万国平和の自由郷砕きし甲斐もなく 計画破れて 一場の 夢の名残の浪花ぶし相の 鐘に且つ散る桜花 此世に作り建てなんと 心を 刀は棄てて張扇叩けば響く入         一四  本書は著者の桃中軒入門をもって局を結んで居る。その後寄席芸人としての著者数年の行動にも、 自作の記録がいろしろ残って居る。今でも読んで非常の興味を覚える。黄興が著者の快に飛びこんで 来だのは、著者が四谷の某席亭で張扇をただき、一夜わずかに四十幾銭を得るにとどまり窮乏の極に 達してしたときだとは、かつて著者から親しく聞いたこともある。しかもシナに 対する宿昔の志望は、境遇の変にかかわらず依然としてたえず胸中に燃えて居る。さればこそ彼は孫 と黄との提携にも尽力し、明治三十八年、中華革命同盟会の成立にも骨折ったのだ。畢竟彼は終始一 貫シナ革命党の恩人であった。死にいたるまで隣邦青年の愛慕するところたりしも怪しむに足らぬ。 かくして彼はシナの革命運動とは切っても切れぬ関係にある。これらのことどもの大略は、おそらく 宮崎厄介君の小伝にも明らかであろう。なおこれぱ近代日本とシナとの内面的関係の攻究上に大関係 もあることだから、そのうち遺稿の全部を整理して出版しておきたいとも考えて居る。一部の読みも のとしてもおもしろいことは、本書を読まれる方の容易に首肯さるることであろう。  終りにT苫しておきたいのは、著者はただにツナ革命運動の助長者であったばかりでなく、その真 の助長者であったとじうことである。真の助長者という意味は、不純の動機に動かされず、終始一貫、 心からの忠実なる味方であったということである。シナ革命運動の友人をもってみずから任ずる者の 中には、実は種々の人がおったのだ。そのこれに加わる動機は決して単一でない。もっともはじめの うちはこうした細かいことは外部には現われなかった。第一革命後になってはじめてこれがそろそろ 問題に上って来る。そのゆえはこうだ。シナの青年も日本に亡命でもして居る間は、玉石開架いやし くもわれを助けるという者の援助はことごとく甘んじて受けていたのだが、いったん革命に成功して それぞれ要路に立つことになると、彼らはもはや公人としての立場にある。私情においてはすべての 人に恩義を感ずるも、公人としてはその間の区別を立てて、 真にシナの革命に理解あるの同情者でなければ、友としてその忠言をきくわけに行かぬことになる。 そこで不純な動機をいだいていたものは、自然遠ざけられざるを得ない。しかしてみすから反省する ことを知らざる者は、漫然としてシナ人の忘恩をののしるに至る。くわしいことは略す るが、さきのシナ革命の友人は、第三革命の起こったころはついに截然として二つに分かれてし ネった。しかしてわが泗天宮崎は、実に最後までシナ革命の熱心なる真の助長者であった。私が故人 と親しく相見相語るの機会を得たのも、実はこの関係に基づくのである。       一五  最後に特志の研究家のため、次の二、三点を注意しておく。  (一) 『三十三年の夢』は初刊当時章士剣君これを漢訳し、最近また別・の漢訳本が出た。章士 剣君は今日相当に名を知られた政治家である。その漢訳本はいましきりに探して居るがまだ手に人ら ぬ。最近の訳本は、『三十三年落花夢』と題し、去年(大正十四年n一九二五)四月の新刊である。 上海の出版だが、訳者は本名を出していない。四六型の一四〇ページ足らすだから、かなり省略して あるものらしい。  (二) 本書三十四ページの龍頭に見える『狂人譚』は、四六判一五〇余ページの小冊子で、「緒 言」のほか「ナポ鉄」「釈迦安と道理満」の二篇から成って居る。読んでおもしろいばかりでなく、 〈考えさせられることのすこぶる多い本だ。別の機会にその紹介をものしたいと考えて居る。 聞くところにょると、著者は浪花節だけでは飯が食えず、秋山定輔の勧むるままに『二六新聞』に続 き物を書いてみた。初めて出しだのがすなわちこの『狂人譚』で、これが評判のょかったところから、 また何か書けと頼まれて、『三十三年の夢』を草したのだという。しかしこれを単行本として出しだ のは、『三十三年の夢』が早く、『狂人譚』は一月ばかり遅れて居る。  (三) 本書一一ハページにある "Sun Yat Sen, Kidnapped in London"は、’日本にはあまり 知られていないべ西洋では削なり有名な書物である。 一つにはこれにょって孫逸朧ぼョーロッパ人 の間に非常に有名になった。この中に書いてある革命の精神が大いに西洋の識者の同情をひいたので ある。じかしこれょりももっとこの本が此の注目をひいだのは、この事件にょって国際公法上に一新 例が開かれだからである。孫文はロンドンでーツナ人に誘惑されツナ公使館に幽閉された。まもなく 本国に送られて殺さるべかりしところを、恩師カソトリコの尽力にょって助かった。このとき外務大 臣のソルスベリー侯は、公使館外における誘惑がすでにツナ官憲の警察行為の始まりだと主張し、英 国主権の侵害を名として孫の引渡しを迫ったのである。,いわゆる継 統航海主義の陸上における準用とみるべきものであろう。先年、私は在英福島繁太郎君の厚意に より一本を求め得た。四六形一三〇ページあまりの小冊子で、英国外務大臣の公文書もはいって居る。 なおこれには「倫敦披難記」〔民国元年上海刊〕と題する漢訳本もあることを注意しておく。  (四) カソト=s— CJames CantliOというのは、孫文が少年時代に学んだ香港医学校の先生である。 日本人以外において孫のもっとも親しき外国の友人といえば、彼をもって随一とする。ロ ソドイに帰ってから彼はrnend of China bocietyを作り、多くの友人を糾合していろレろの意味におけ る後援を孫に寄せていた。彼がSheridan Tonesとともに作った"Sun Yat Sen andthe Awakening of China" も孫を知るためにはぜひ読まねばならぬ本だ。公刊の年代は書いてなしが、たぶん第一革命後孫が大総統 に挙げられたころに書いたものだろうと思ぅ。  (五) 本書一六九ベーンにある天佑侠のことは、本問題に関係がないからとくにいぅの必要はないが、 これにはその仲間の一人鈴木天眼の書いた『天佑浹』なる刊本があることを一言しておく。清藤幸七郎編 となって居るが、清藤はすなわち本書の呑宇だ。しかし実際の筆者は天眼子だ と聞いて居る。これまた読んで非常におもしろい。ただしこの天佑侠の活動は、志を隣邦にのぶるという 点は同一だが、根本の動機は著者たちのとはまるで違う。著者のは誠心誠意シナのために尽くそうとした のだが、天佑侠の方は徹頭徹尾日本のために朝鮮をはかろうというのである。ことに日本人の武勇を輝か そうとて無用の暴挙をほしいままにしたのは、痛快はまことに痛快だが、著者の立場とはまったく違う。 この天佑侠の人たちも、多くはじめは著者とシナのことをともにしたのである(したがってまたシナ前提 者のうちにはそのはじめ種々の人がぱいっていたことがわかるだろう)が、のちにはだんだんと離れたよ うだ。しかしてこの間に立って著者が終始一貫純正なる動機をもって真にシナの太たるを期したのは、い まさらながら敬服の至りに堪えな シナ革命の歴史については、私が文学博士加藤繁君とともに作った『支那革命史』(大正十一年n一九二二) を参照せられたい。自画自讃の嫌いはあるが、多少の自信がなレでもない。ただしこれは第一革命をもって 終わっておる。その以後のことに関しては、私にも数部の著作あり他にも相当の本があるが、いまいちいち ここには述べぬ。                      (『三十三年の夢』所収 明治文化研究会大正十五年)