上海 横光利一      一  満潮になると河は膨《ふく》れて逆流した。測候所のシグナル が平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関《かいかん》の尖 塔《せんとう》が夜霧の中で煙り始めた。突堤《とつこい》に積み上げられた樽《たる》の 上で、苦力《クーり…》たちが湿って来た。鈍重な波のまにまに、破 れた黒い帆が傾いてぎしぎし動きだした。白皙明敏《はくせきめいびん》な中 古代の勇士のような顔をしている参木は、街を廻ってバ ンドまで帰って来た。波打ぎわのベンチにはロシヤ人の 疲れた春婦《しゅんぷ》たちが並んでいた。彼女らの黙々とした瞳の 前で、潮に逆らった舳舷《サンパン》の青いランプがはてしなく廻っ ている。 「あんた、急ぐの」  春婦の一人が首を参木のほうへ振り向けて英語で訊《たず》ね た。彼は女の二重になった顎《あご》の皺《しわ》に白い斑点《はんてん》のあるのを 見た。 「空《あ》いているのよ、ここは」  参木は女と並んで坐ったまま黙っていた。灯を消して 蝟集《いしゆう》しているモーターボートの首を連ねて、鎖《くさり》で縛られ た桟橋《さんばし》の黒い足が並んでいた。 「煙草《たばこ》」と女は言った。  参木は煙草を出した。 「毎晩ここかい」 「ええ」 「もうお金もないと見えるな」 「お金もないし、お国もないわ」 「それや、困ッたの」  霧が帆桁《ほげた》にからまりながら湯気のように流れて来た。 女は煙草に火を点《つ》けた。石垣に縛られた船が波に揺れる たびごとに、舷名《げんめい》のローマ字を瓦斯燈《ガスとう》の光りに代る代る 浮き上らせた。樽の上で賭博《とばく》をしている支那人の首の中 から、鈍い銅貨の音が聞えて来た。 「あんた、行かない」 「今夜はだめだよ」 「つまんないわ」  女は足を組み合わした。遠くの橋の上を馬車が一台通 って行った。参木は時計を出して見た。甲谷の来るのは もうすぐだった。彼は甲谷に宮子という踊子を一人紹介 されるはずになっていた。甲谷はシンガポールの材木の 中から、この濁った底知れぬ虚無の街の上海《シャンハイ》に妻を娶《めと》り に来たのである。濡れた菩提樹《ぼだいじゆ》の隙間から、縞《しま》を作った 瓦斯《ガス》燈の光りが、春婦たちの皺《しわ》のよった靴先へ流れてい た。すると、その縞の中で、ひと流れの霧が急がしそう に朦朧《もうろう》と動き始めた。 「帰ろうか」と一人の女がいった。  春婦たちは立ち上ると鉄柵《てつさく》に添ってぞろぞろ歩いた。 一番後になった若い女が、青ざめた眼でちらりと参木の ほうを振り返った。すると、参木は煙草《たばこ》を銜《くわ》えたまま、 突然夢のような悲しさに襲われた。競子が彼に別れを告 げたとき、彼女のように彼を見降ろして行ってしまった からである。  春婦たちは船を繋《つな》いだ黒い縄《なわ》を跨《また》ぎながら、樽の間へ 消えてしまった。後には踏み潰《つぶ》されたバナナの皮が、濡 れた羽毛といっしょに残っていた。突堤の先端に立って いる警邏《けいら》の塔の入口から、長靴を履《は》いた二本の足が突き 出ていた。参木は一人になるとベンチに凭《もた》れながら古里《ふるさと》 の母のことを考えた。その苦労を続けてなおますます 優《やさ》しい手紙を書いて来る母のことを。——彼はもう十年 日本へ帰ったことがない。その間、彼は銀行の格子《こうし》の中 で、専務の食った預金の穴をペン先で縫《ぬ》わされていただ けだった。彼は、忍耐とは、この生活の上で他人の不正 を正しく見せ続ける努力にすぎぬということを知り始 めた。そうして、彼はそれがばかげたことだと思う以上 に、いつの間にかだんだんと死の魅力に牽《ひ》かれていっ た。彼は一日に一度、冗談《じようだん》にせよ、必ず死の方法を考え た。それがもはや彼の生活の唯一《ゆいいつ》の整理法であるかのよ うに。彼は甲谷を掴《つか》まえて酒を飲むといつも言うのだ。  ——お前は百万円掴んだとき、成功したと思うだろ う。ところが俺《おれ》は、首を縄で縛って、踏台を足で蹴《け》りつ けたとき、やったぞと思うんだ。——  彼は絶えずその真似《まね》だけはやって来た。しかし、彼の 母が頭の中に浮び上るとまたその次の日も朝からズボン に足を突き込んで歩いていた。  ——俺の生きているのは、孝行なのだ。俺の身体は親 の身体だ、親の。俺は何んにも知るものか。——  参木に許されていることは、事実、ただときどき古め かしい幼児のことを追想して涙を流すことだけだった。 彼は泣くときに思うのである。  ——えーい、ひとつ、ここらあたりで泣いてやれ。 それから、彼はポケットへ両手を突き込んで各国人の 自棄糞《やけくそ》なばか騒ぎを、祭りを見るように見に行くのだ。  しかし、甲谷がシンガポールから来てからは、参木は 久しぶりに元気になった。甲谷と彼とは小学校時代から の友だちだった。参木は甲谷の妹の競子を深く愛してい た。しかし、甲谷がそれを知ったのは、競子が人妻にな って後だった。甲谷は言った。 「ばかだね、君は、なぜ俺に一言それを言わなかったの だ。言ったら、俺は」  言ったら甲谷は困るにちがいないと、参木は思って黙 っていた。そして、今までひとりひそかに困っていたの ほ参木である。だが、彼は今はいっさいのことをあきら めてしまっている。——生活の騒ぎのことも、彼女のこ とも、日本のことも。ただときどき彼は海外から眺めて いると、日本の着々として進歩する波動を身に感じて喜 ぶことがあるだけだった。しかし、彼は最近、甲谷から 競子の良人《おつと》が肺病で死にかかっているという消息を聞か されてからは、身体から釘《くぎ》が一本抜けたような自由さが 感じられて来たのである。     二 崩《くず》れかけた煉瓦《れんが》の街。その狭い通りには、黒い着物を 袖長《そでなが》に着た支那人の群れが、海底の昆布《こんぶ》のようにぞろり 満ちて淀《よど》んでいた。乞食《こじき》等は小石を敷きつめた道の上に 蹲《うずくま》っていた。彼らの頭の上の店頭には、魚の気胞《きほう》や、 血の滴った鯉《こい》の胴切りが下っている。そのまた横の果物 屋《くだものや》には、マンゴやバナナが盛り上ったまま、舗道《ほどう》の上ま で溢《あふ》れていた。果物屋の横には豚屋がある。皮を剥《はが》れた 無数の豚は、爪を垂れ下げたまま、肉色の洞穴《ほらあな》を造って うす暗く窪《くぼ》んでいる。そのぎっしり詰った豚の壁の奥底 からは、一点の白い時計の台盤だけが、眼のように光っ ていた。  この豚屋と果物屋との間から、トルコ風呂《ぶろ》の看板のか かった家の入口までは、歪《ゆが》んだ煉瓦の柱に支えられた深 い露路が続いている。参木と逢うべきはずの甲谷はトル コ風呂の湯気の中で、蓄音器《ちくおんき》を聴きながら、お柳《りゆう》に彼の 背中をマッサーヂさせていた。お柳は富豪の支那人の妾《めかび》 になりながら、この浴場の店主を兼ねた。もちろん、お 柳は浴室へ出入すべき身ではない。だが、彼女の好みに あった客を選ぶためには、番号のついたそのいくつもの 浴室を遊ばせておくことは不経済には相違ない。  お柳は客の浴室へ来るときは前からいつも、身体いっ ぱいに豊富な石鹸《せツけん》の泡《あわ》を塗っていた。マッサーヂがすむ と、主人は客の身体に石鹸を塗り始めた。——間もなく ご人の首が、まじめな白い泡《あわ》の中から浮き上るとお柳は 言った。 「今夜はどちら」  甲谷は参木と逢わねばならぬことを考えた。 「参木が突堤《とつてい》で待ってるのだが、もう幾時です」 「そうね、でも、抛《ほ》っといたって、あの方こちらへいら っしゃるに違いないわ。それよりあなた、いつごろシン ガポールへお帰りになるの」 「それは分らないんですよ。僕は材木会社の外交部にい るもんですから、こちらのフィリッピン材を蹴落《けおと》してか らでなくちゃ、と思っているんです」 「じゃ、もう奥さまはお探しになりましたの」 「いや、それは、まアそう急いだことじゃなし、——何 も女房のことなんか、今ごろ言わなくたって、良いでし ょう」  お柳の泡がいきなり甲谷の額に叩きつけられた。スイ ッチがひねられた。壁から吹き込む蒸気《じようき》といっしょに蓄 音器がベリーマインを歌いだした。それに合せて、甲谷 は小きざみなステップを踏み始めた。すると、ゆっくり 絞《しぼ》り出された石鹸の泡は、その中に包んだ肉体を清めな がら、ぽたぽた白い花のように滴《したた》った。やがて、蒸気が 浴室に溢れだすと、一面長方形の真白な靄《もや》の中に、主人 も客も茫々《ぼうほう》として見えなくなった。蒸気の中からお柳の 声が聞えて来た。 「あなたに馬券分けようか」 「もうプレミヤムがついてるんですか」 「それや、つくさ。でも、負けてもいいわよ」 「ああ、苦しい、ちょっとそこの蒸気、とめてくれない かな」 「だって、もういい加減に覚悟を定《き》めるもんよ。ここじ ゃ誰だって、一度は死ぬほど苦しくなるんだから」  そのまま、二人の声は切れてしまうと、蒸気もぶつり ととまってしまった。      三  参木は疲れながらトルコ風呂《ぶろ》まで帰って来た。しか し、そのときはもう甲谷は参木に逢いに突堤へ行った後 だった。参木は応接間のソファーに沈み込んだまま黙っ ていた。浴場の奥から湯女《ゆな》たちの笑う声といっしょに、 ボルトギーズの猥雑《わいざつ》の歌が聞えて来た。ときどき蒸気を 抜く音が壁を震動《しんどう》させると、テーブルの上の真赤なチュ ーリップが首を垂れたまま慄《ふる》えていた。一人の湯女が彼 の傍へ近寄って来た。彼女は参木の横へ腰を降すと横目 で彼の高く締った鼻を眺めていた。 「眠いのかい」と参木は訊《たず》ねた。  女は両手で顔を隠して俯向《うつむ》いた。 「風呂は空いてるのかね」  女が黙って頷《うなず》くと参木は言った。 「じゃ、ひとつ頼もう」  参木は前からこの無口な女が好きであった。彼女の名 はお杉《すぎ》という。お杉は参木が来ると、女たちの肩越しに いっも参木の顔をうっとり眺めているのが常であった。 間もなく湯女たちが狭い廊下いっぱいに水々しい空気を たてて乱れて来た。 「まア、参木さん、しばらくね」  参木はステッキの握りの上に顎《あご》を乗せたままじろりと 女たちを見廻した。 「あなたの顔は、いつ見てもつまんなそうね」と、一人 が言った。 「それや、借金があるからさ」 「だって借金なんか、誰でもあるわ」 「それじゃ、風呂へでも入れてもらおう」  女たちほぱっと崩れて笑いだした。そこへお杉が浴室 の準備を整えて戻って来た。参木は浴室へはいると、寝 椅子の上へ仰向けに長くなった。皮膚《ひふ》が湯気に浸って膨《ふく》 れて来た。彼はだんだんに眠くなると、ふとこのまま蒸 気を出し放して眠ってみようと考えた。彼はスイッチを ひねるとタオルを喰《くわ》えて眼を瞑《と》じた。身体が刻々に熱く なった。もしこのまま死ねたらとそう思うと、競子の顔 が浮んで来た。債鬼《さいき》のあわてた顔がちらついた。惨忍《ざんにん》な 専務の顔が。——専務の食った預金の穴を知っているの は彼だけだった。間もなく銀行は停止を食うにちがいな い。格子の中から見た無数の顔が、暴風のように渦巻《うずま》く だろう。だが、だめだ。何もかも、人間の皺を製造する ためにできてるのだ。——ドアーが開いた。誰れでもい い。参木は眼を瞑《つぶ》ったまま動かなかった。空気が幅広い 圧力で動揺した.すると彼はいきなり、タオルで眼かく しをされていた。お柳だ。お柳なら、皺を延ばすのが商 売だ。i 「お杉さん」と参木は故意にお杉の名前を言ってみた。  誰も彼には答えなかった。参木はやがてお柳が自分に 擦《す》り寄るであろう誘いをお杉が自分にするものとして思 いたかった。いや、それよりお柳に、自分がお杉と遊ぶ 楽しみを知らせたかった。彼はまだ一度もお柳の誘いを 赦《ゆる》したことがない。それゆえお柳を怒らすことが、彼に は彼女の慾情をますます華《はな》やかに感じることができそう に思われたのだ。彼は眼かくしをされたまま、にやにや しながら、両手を拡げて身の廻りを探ってみた。 「おい、お杉さん、逃げようたって逃さぬぞ。俺の手は 蜘蛛《くも》みたいな手だから、用心してくれ」  すると、彼の予想とは反対に、急にドアーが開いて誰 か出て行く気配がした。この空虚な間に何事が起るのだ ろう。参木はしばらくじっとしたまま、空気に触れる皮 膚に意識を集めていた。と、突然、ドアーの外で、荒々 しい音がした。瞬間、彼の上へ突き飛ばされた女があっ た。すると、女は彼の足元で泣き始めた。お杉だ。—— 参木は起った事件のいっさいを了解《りようかい》した。彼はお柳に対 して激しい怒りを感じて来た。だが、今怒りだしては、 お杉が首になるのは分っていた。参木は自分でタオルを 解くと、泣いているお杉の乱れた髪を眺めていた。彼は お杉に黙って浴室から出ると服を着た。それから、彼は 別室へはいってお柳を呼んだ。お柳は笑いながらはいっ て来ると、白々しいとぼけた顔で彼に言った。 「まア、ずいぶん今夜は遅かったわね」 「遅いは遅いが、しかし、さっきはどうしたんだ」 「何が?」 「いや、あのお杉さ」と参木ほ言った。 「あの子はだめよ。意久地《いくじ》がなくって」 「それで、僕にひっつけようて言うんかい」 「まア、そうしていただけれや、けっこうだわ」  参木は自分の戯《たわむ》れが間もなく女一人の生活を奪うのだ と気がっいた。彼がお杉を救うためには、お柳に頭を下 げねばならぬのだ。だが、彼がお柳に頭を下げたら、な お彼女はお杉を抛《ほう》り出すに定っているのだ。それなら、 自分はどうすれば良いのだろう。参木は寝台の上からお 柳の片手を持っと抱き寄せるようにして言った。 「おい、お柳さん、俺がこんなことを言うのは初めてだ が、実は俺は、この間から死ぬことばかり考えていてね」 「どうしてそんなに死にたいの」とお柳はひやかすよう に言った。 「どうしてって、まだ分らぬ柄《がら》でもないだろう」 「だって、あたしゃ、死ぬ人のことなんか分んないさ」 「これほど情けを籠《こ》めていて、それにまだそう言われる ようじゃ、もう俺も死ぬこともできぬじゃないか。いい 加減に何とか、しかるべく言いなさい」  お柳は参本の肩を叩《たた》くと言った。 「ふん、黙って聞いてたら、女殺しのようなことを言い だすわね。これじゃ、あたしだって死にたくなるわよ」  お柳は立ち上ると部屋の中から出ようとした。参木は またお柳の手を持った。 「おい、何んとかしてくれ。このまま行かれちゃ、俺は 今夜は危いんだ」 「いいよ、あんたなんか死んだって、くたばったって」 「俺が死んだら、だいいちお前さん総困るじゃないか」 「さアさア、ばかなことを言わないで、放してよ。今夜 はあたしだって、死にたいのよ」  お柳は参木の手を振り切って出ていった。彼はこのば かげた形の狂いを感じると、お柳に対する怒がますます 輪をかけて嵩《こう》じて来た。彼は寝台のトへ倒れたまま、心 をなだめるように、毛布《もうふ》の柔かな毛左みをそろりそうり と撫でてみた。すると、またドアーが開いた。と、また お杉が突き飛ばされて転んで来た。お杉は倒れたまま顔 も上げずに泣き始めた。参木は彼女の傍へ近よること ができなかった。彼はただ寝台の上から、お杉の倒れた 背中のひくひく微動するのを眺めていた。彼は生毛《うぶげ》の生 えているお杉の首もとから、黒い金魚のようななまめか しさを感じて来た。彼はちかちかとお杉の首を見ようと して降りていった。しかし、ふと彼は、お柳がどこから か覗《のぞ》いているのを嗅《か》ぎつけると、また目をひっ込めた。 「おい、お杉さん。こっちへ来なさい」  彼はお杉の傍へ近よると彼女を抱きかかえて寝台の上 へ連れて来た。お杉はすくみながら寝台の上へ乗せられ ても、まだ背中を参木に向けたまま泣き続けた。 「おい、おい、泣くな」と参木は言うと、ひとり仰向《あおむ》き に寝ころんで、また楽しむようにお杉の顔を眺め始め た。  お杉はちょっと参木の片手が肩へ触れると、 「いやだ いやだ」と言うように身体を振った。が、彼女は寝台か ら降りようともせずに、袂《たもと》を顔にあてて泣き続けた。参 木はお杉の片腕を撫でながら、 「さア、俺の話を聞くんだぜ。良いか、昔、昔、ある所 に、王さまとお姫さまとがありました」  すると、お杉は急に激しく泣きだした。参木は起き上 ると眉《まゆ》を顰《ひそ》めたまま、寝台から足をぶらぶらさせて黙っ ていた。彼は天井《てんじよう》に停っている煽風機《せんぶうき》の羽根を眺めなが ら、どうして好きな女には、指一本触れることができな いのかと考えた。——これには何か、原理がある。—— しばらく彼は小首をかしげながら、しゃくり上げるお杉 の泣き声を聞いていたが、 「さて、俺の帽子はどこいった?」と見廻すと、そのま ま部屋の外へ出ていった。    四  甲谷は突堤へ行ったが参木の姿は見えなかった。ただ 掃除夫《そうじふ》のうす汚れた赤い法被《はつび》が、霧の中でごそごそと動 いているだけだった。しかし、なおよく見ると、菩提樹《ぼだいじゆ》 の下の真暗なベンチの上で、印度《インド》人の髯《ひげ》がいくつも鳥の 巣のようにかたまって竦《すく》んでいた。彼は芝生《しばふ》の先端を歩 いてみた。二つの河の流れの打ち合う波のうえで、大理 石を積んだ小舟がゆるゆると波にもまれて廻っていた。 甲谷はチューリップが円陣をつくって咲いている芝生の 中まで歩いて来た。すると、突然、彼は自分の美しい容 貌の変化を思い出した。彼はすぐ引き返すと、車を呼び 寄せて宮子のいる踊場のほうへ走らせた。  ——もし宮子が結婚しないと言えば、いや、阿に、そ のときはそのときさ。——  踊場の周囲には建物がもたれ合って建っていた。蔦《つた》が その建物の割れ目から這いながら、窓の上まで蔽《おお》ってい た。踊場では、ダンスガールのきりきり廻った袖の中か ら、アジヤ主義者の建築師、山口が甲谷を見付けて笑いだ した。山口は甲谷がシンガポールへ行く前の遊び仲間の 一人であった。甲谷は山口と向い合って坐ると言った。 「実に久しぶりだね。このごろは君どうだ。いつ見ても 楽しそうな顔をしているのは、君の顔だよ」 「それが、見たとおりの醜態《しゆうたい》だがね。ああ、そうだ。参 木にこの間逢ったら、君は嫁探しに来たって言ったが、 ほんとうかい」山口は溢《あふ》れるような微笑を湛《たた》えて甲谷を 見上げた。 「うむ、嫁もついでに探していこうと思っちゃいるんだ が、いいのがあるかね。あったら一つ頼みたいね。もっ とも、君のセコンドハンドじゃごめんだぜ」甲谷はにや にや笑いながらホールの中を見廻した。 「いや、ところが、それになかなか話せる奴がいるんだ よ。オルガというロシア人だが、どうだひとつ。参木の 奴にどうかと思ったのだが、あいつはああいうドンキホ ーテでおもしろくなし、どうだ君は。——意志はない か」と山口はまじめな顔で相談した。 「じゃ君にはもう意志はなくなっているんだな、そのオ ルガというのには?」 「いや、それやある、しかし、ああいう女は他人のもの にしとくほうが、どうもおもしろ味が多そうなんだよ」  甲谷は山口の言葉を聞き流しながら、はいって来ると きから探しつづけている宮子の姿をまた捜した。だが、 宮子の姿はいつまでたっても見えなかった。 「しかし、僕の細君にして、それからまだ君が面目をほ どこそうと言うんじゃ、それや、あんまりおもしろすぎ るじゃないか」 「いいじゃないか、綱君なんかにしなけれや。倦《あ》きれば またそのときはそのときさ。まア、今はトゥエンティ見 当の月給でけっこうだよ」  山ロは肱《ひじ》をつきながら、甲谷のうスうろしつづける視 線のほうを自分も追った。外人たちがぽつりぽつりとホ ールの中へはいって来た。 「ときに話は違うが、古屋の奴はどうしている」と甲谷 ほ訊ねた。 「ああ、古屋か、あの男は芸者の細君を月賦《げつぶ》で買っては 変えてるよ」 「まだここらにいるのかね」 「うむ、いる。前の細君だってまだ全額払込にはなって いないんだのに、また次のが、これが月賦だ」 「御橋はどうした」 「御橋も達者《たつしや》だ。しかし、先生、どうもあんまり妾《めかけ》を大 切にするのでつき合いがたいよ。あいつも参木のような ばか者だね」  しかし、甲谷は山口の話を聞こうともせず、うつろな 眼で宮子はどうした、宮子はどうした、と絶えず思いな がらまた訊ねつづけていくのであった。 「うむ、木村はどうした」 「木村には先日一度逢ったかな。奴《やつこ》さん、相変らず競馬 狂でね、いつだかロシア人の妾《めかの》を六人大競馬に連れてっ て、負けだしたのさ。ところが、あの男は振《ふる》ってる。負 けたらその場で妾を一人ずつ売り飛ばすじゃないか。そ れですっかり負けちゃってね、その日に六人とも売っち やって、まだおまけに上着からチョッキまで質《しち》に叩き込 んで、さアてとか何んとか言って澄しているんだが、先 生が妾を持つのは、、まアあれは貯金をしているようなも のなんだよ。俺もお陰でだいぶん迷惑をさせられたが、 オルガという女も、つまり、木村から処分されて来たも んさ」  しかし、甲谷は別段おもしろくもなさそうに、 「君は このごろどうしているんだ」としばらくたってまた訊ね た。 「俺か、俺はこのごろは建築屋はそっちのけで、死人拾 いという奴をやっている。こいつは骨の折れる商売だ が、なかなか文化に有益な商売でね。一度俺といっしょ について来ないか。おもしろいところを見せてやるよ」 「それや、どういうことをするんだね。つまり死人の売 買か」と甲谷は訊ねた。 「いや、そんな野蛮なもんじゃないよ。支那人から死体 を買い取って掃除をしてやるんだが、一人の死人で、生 きてるロシア人の女を七人持てる、七人。それもロシア の貴族だぞ」  どうだと言うように山口の唇は歪《ゆか》んでいた。この豪傑《こうけつ》 ならそれは平気なことにちがいない、と甲谷は思って踊 りを見た。これはまた、うどんを捏《こ》ねているような踊の 隙から、楽手たちの自棄糞《やけくそ》なトランペットが振り廻され て光っていた。すると突然、山口は踊りの中の一人の典 雅《てんが》な支那婦人を見付けて囁《ささや》いた。 「あッ、あれは芳秋蘭《ほうしゆうらん》だ」 「芳秋蘭って、それや何んだ」と甲谷は初めて大きな眼 を光らせると山口のほうへ首をよせた。 「あの女は共産党では、たいへんだ。君の兄貴の高重君 はあの女を知ってるよ」  甲谷が振り返って芳秋蘭を見ようとすると、そこへ、 細っそりと肉の緊《しま》った、智的な眼の二重に光る宮子が、 二階から降りて来て甲谷の傍の椅子へ来た。 「今晩は、お静かだわね」 「うむ、いま細君の話をしてるところだよ」と甲谷は言 って手を出した。 「まア、そう、じゃ、あたしあちらへ逃げてましょう」  宮子は身を翻《ひるがえ》すように、ひらりと盆栽《ぼんさい》の棕櫚《しゆう》を廻っ ていくと、甲谷はまた山口のほうへ向き返った。 「それで、さっきの死人の話だが、何んだか少し込み入 った話じゃないか」 「死人か。まアまア、それより一踊りして来なさい。死 人のことは後でもいいさ」 「それじゃ、ちょっと失敬」  甲谷は宮子に追いついて二人で組むと、踊の群れの申 へ流れていった。宮子は甲谷の肩に口をあてて噺《ささや》いた。 「今夜の足は重いわね。あたしはその人の重さで、何を 考えてるのかっていうことが、まアだいたい分るのよ」 「じゃ、僕は?」と甲谷は訊ねた。 「あなたは、奥さまが見つかりそうよ」 「さよう」  実は、甲谷は一人の死人と七入の妾《めかけ》について考えたの だ。——何と奇怪な生活法ではないか。廃物利用の極意《ごくい》 である。甲谷はその話を聞くまでは、激しく宮子と結婚 したい希望をもっていた。だが、七人の女と一人の死人 の価値とを聞いてからは、妻帯者の不幸ばかりが浮んで 来てならぬのであった。踊がすむと甲谷は山口の傍へ戻 って来た。 「君、さっきの死人の話をもう少し聞かしてくれよ」 「まア、そう急がなくったって、死人はいつでもじっと しているよ」 「ところが、貧乏だって、じっとしているさ」と甲谷は 言ってまた宮子のほうをちらりと見た。 「だって、君は貧乏しているようには見えんじゃない か」 「いや、茅、れや、僕も僕だが、それより参木の奴のこと なんだよ。あいつをもう少し何とかしてやらないと、死 んでしまよ,・」 「死ぬって、参木の奴が?」と山口は顎《あご》を突き出した。 「うむ、あいつは近ごろ、死ぬことばかり考えておるの だ」 「じゃ、俺に金儲けをさせてくれるようなもんじゃない か」  甲谷は足をぱっと両方へ拡げると、身を揺り動かして 大きな声で笑いだした。 「そうだ、あの男は、今に君に金儲けくらいはさすだろ う」 7てれや、お竜しろい。よし、そんならひとつ、参木を 俺の会社の社長にしてやろう」  甲谷は山口の豪傑笑いの中から、参木に対するいくら かの友情を嗅《か》ぎつけると喜び勇んで乗り出した。 「君の会社は何と言うんだ」 「いや、名前はまだだが、ひとつ、君から参木の奴に話 してみてくれ。あいつが死人になりたいなんて、それ や、もって来いの商売だよ」 「それ函丶その死人をどうする会社だ」 「つまり、人間の骨をそのままの形で保存しとこうって 言うんだ。これを輸出すると一人前が二百円になって来 る」  甲谷は二百円もする会社の材木の太さを考えながら、 「しかし、そんなに人間の骨が売れるのか」と小声で訊 ねた。 「君、医者に売るんだよ。医者ならそこは彼らの手先で どこへでも自由が効《き》くのさ。もともと僕だって、学術用 に英国人の医者から頼まれたのが初まりなんだ」  甲谷は参木が人間製造会社の支配人に納玄っていると ころを想像した。すると、やがて、彼らしい幸福が、骸 骨《がいこつ》の踊りの中から舞い上って来るのではないかと思われ た。 「それで踊りを見ていて、よく骸骨に見えないもんだ ね」と甲谷は眉を吊り上げて笑った。 「それがこのごろ困るんだ。俺の家の地下室は骸骨でい っぽいさ。生きてる人間を見ていても一番先に肋骨《うつこつ》が見 えてくる。とにかく君、人間という奴は誰でも障子《しよううじ》みた いに骨があるんだと思うと、おかしくなるもんだよ」  笑いながらアブサンを飲む大きな山口の唇が開きかか ると、再びダンスが始まりだした。甲谷は立ち上って彼 に言った。 「君、ひとつ踊って来るからね、そこから骸骨の踊りで も見ていてくれ」  甲谷はまた宮子と組んで、モールの下で揺れ始めた男 女の背中の中へ流れ込んだ。甲谷は宮子の冷たい耳元で 瞬《ささや》いた。 「君、今夜はよろしく頼んでおきます」 「何に?」 「いや、何んでもないさ。いたって当り前のことだよ」 「いやよ。風儀《ふうぎ》が悪いじゃないの」 「だって、結婚しなけれやなお風儀が悪くなるさ」 「もう、お饒舌《しやべ》りしちゃ、塵埃《ほこリ》を吸うわよ」  しかし、甲谷は山口の眼がうす笑いを浮べて光ってい るのを見るたびに、いずれどちらも骸骨だと気がつくよ うに、激しく宮子の背中を人の背中で廻し始めるのであ った。そのとき、宮子は山口がしたように、急に甲谷の 耳もとで小声で言った。 「あなた、ちょっと、あそこに芳秋蘭が来ているわ」  甲谷は山口に言われたまま忘れていた女のことを思い 出して振り返った。だが芳秋蘭の姿はもう廻る人の輪の 中に流れ込んで見えなかった。 「君、その芳秋蘭という女のほうへ、僕をひっぱってい ってみてくれないか。さっきも山口がその女のことを言 ってたが、何だ」  宮子は甲谷を引いて逆に流れの申を廻っていった。甲 谷はあれかこれかと宮子の視線のままに首を廻わしてい るうちに、不意に背後の肩の中から、一対の支那の男女 の顔が現れた。甲谷は吹かれたように眼を据《す》えると宮子 に言った。 「あれか」 「そう」  甲谷は宮子を今度は逆に引きながら、芳秋蘭の後から 廻っていった。すると、くるくる廻るたびごとに、芳秋 蘭の顔も舞いながら、男の肩のかなたから甲谷のほうを 覗《のぞ》いていた。甲谷はその美しい眼前の女性を、自分の兄 の高重も知っているのだと思うと、かすかに微笑を送ら ずにはいられなかった。しかし、秋蘭の眼は澄み渡った まま、甲谷の笑顔の前を平然と廻り続けて踊りが終《や》ん だ。——歌余舞《かよま》い倦《う》みし時《とき》、嫣然巧笑《えんぜんこうしよう》。去《さ》るに臨《のぞ》んで秋 波一転《しゆうはいつてん》-。甲谷は徐校濤《じよこうとう》の美人譜中の一句を思い浮べ ながら、宮子にティケットを手渡した。 「あの婦人は実に綺麗《きれい》だ。珍らしい」 「そうね。珍らしいわ」  宮子のむッと膨《ふく》れかかった口元を楽しげに眺めなが ら、甲谷は山口の傍へ戻って来るとまた言った。 「君、あの芳秋蘭という婦人は珍らしい。どうして君は あの女を知っているんだ?」 「僕は君、これでも君の知らぬ間にアジヤ主義者のオー ソリチーになっているのだぜ。この上海《シヤもハイ》で有名な支那人 なら、たいていは知ってるさ」由口は満面脂肪《ヰんめんしぼう》に漲《みなぎ》った 顔を笑わせて秋蘭のほうを見た。 「じゃ、僕は以後心を入れかえて君を尊敬するから、ひ とつあの婦人を紹介してくれ」 「いや、それはだめだ」と山口は言って手を上げた。 「どうしてだ」 「だって、君を紹介するのは、日本の耽をさらすような もんじゃないか」 「しかし、君がもう代表して恥をさらしてくれているな ら、何も僕が晒《さら》したってかまわぬだろう」  山口は虚《きよ》を突かれたように大げさに眼を見張った。 「ところが、それが、僕のはお柳の主人の銭石山《せんせきさん》に紹介 されたんだからね。銭石山より、まだ僕のほうがましだ ろう」 「じゃ、今夜は思いとまるとしようかね」  甲谷と山口が、片隅の芳秋蘭のテーブルのほうへ視線 を奪われて黙り始めると、それに代って、宮子を張り合 う外人たちが、夜ごとの騒ぎを始めて、伏活に動きだし た。山口は甲谷の腕を引くと、宮子のほうを向きながら 言った。 「おい甲谷、君はあの宮子が好きなんじゃないか」 「そう、まア、見たとおりのところだね」 「ところがあれは、腕が凄《すご》いからやめなさい。あそこに いる外人は、見てるとみなあの女の言いなりだよ」 「じゃ、君も一度は叩かれたことがあるんだな」 「いや、あの女は、日本人なんか相手にしたら、お目に かからんよ。あれはスパイかもしれないぜ」 「よろしい」と中谷は言うと、昂然《こうぜん》と胸を反《そ》らした。  二人は煙草《たばこ》をとり上げて吸いながら、しばらく外人た ちの宮子をからかう会話に耳を傾けて黙っていた。 「あれは君、アメリカ人かい」と、しばらくして甲谷は 訊ねた。 「うむ、あれはパーマーシップビルヂングの社員が二人 と、マーカンティル・マリン・コンパニーが一人だ。と ころが、今日はこれならまだ静かなほうで、ときどき宮 子を中心に、ここで欧洲大戦が始まることもあったりし てね。それが楽しみで、実はここへ来るんだが、あの女 の本心だけは流石《さすが》の俺にも分らんね」  山口はゆっくり首をめぐらせて、外人たちから芳秋蘭 のいるテーブルのほうへ向き返った。すると、 「おッ」 と彼は言って背を起すと、うろたえたように周囲をくる くる見廻しながら甲谷に言った。 「どこへ行った。芳秋蘭?」  甲谷はそれには返事も返さず黙って立ち上ると、山口 を捨てていきなり表へ飛び出した。芳秋蘭の黄色な帽子 の宝石が、街燈にきらめきながら車の上を揺れていっ た。甲谷は黄包車《ワンバウツ》を呼びとめると、すぐ帽子も冠らず彼 女の後から追っていった。彼は車の上で上半身を前に延 ばし、もっと走れ、もっと走れ、と言いながら、頭の中 では芳秋蘭を追いもせず、しきりにだんだん遠ざかって いく宮子の幻影を追っているのであった。  ——あの女は、あれは素敵《すてき》だ。あれが俺の嫁になれ ば、もう世の中はしめたものだ。  ブリッヂ形の秋蘭の鼻は、ときどき左右の店頭に向き ながら、街路樹の葉蔭の間を貫《つらぬ》いて辷《すべ》った。唾《つば》を吐いて いる乞食《こじき》や、舗道の上で銅貨を叩いている車夫や口の周 闘を光らせながら料亭から出て来た客や、煙管《きせる》を喰《くわ》えて 入の顔を見ている売卜《ばいぼく》者やらが、通りすぎる秋蘭の顔を 振り返って眺めていた。甲谷は彼らがそんなに振り返り 始めると、ふと忘れかけている秋蘭の美しさを、再び思 い浮べて彼らのように新鮮になった。ひき緊った口も と、大きな黒い眼。鷺水式の前髪。胡蝶形《こちようがた》の首飾。淡灰 色の土着とスカート。——しかし、宮子は? 彼女の周 囲では外人たちが競《きそ》って宮子の嗜好《しこう》を研究し、伸縮自在《しんしゆくじざい》 な彼女の視線の流れを追い求め、彼女と踊る敵の度数を 暗黙の中に数え合い、そうして、ますます宮子を高く彼 らの肩の上へ祭り上げる方法ばかりをとっている。しか し、あの女をシンガポールへ連れていったら、美人の少 いシンガポールの日本人たちは、ひっくり返って騒ぐだ ろう。  甲谷はふと気がつくと、秋蘭の車が、突然横から現わ れた水道自動車に喰い留められて停止した。すると、甲 谷の車はその隙に割り込んで、秋蘭を追い抜くと同時 に、自動車の側面に沿って辷《すべ》りだした。甲谷の追って来 た努力は、まったくそこで停止させられねばならぬの だ。彼は振り返って秋蘭を見た。彼女は背広の青年を後 に従えて、足を組み直しながら甲谷を見た。甲谷は彼女 の顔から、一瞬、舞踏場の記憶を呼び起したかのごとき 微動を感じた。しかし、甲谷の車夫は、並んだ自動車が 急激に速度を出し始めると同時に、彼もまたいっそう速 力を出して走りだした。秋蘭との距離がだんだん拡がっ ていった。甲谷は再び振り返って秋蘭を見た。だが、そ のときには、もう秋蘭の姿は見えなくて、アカシヤの花 蔭に傾いた青い壁が、瓦斯《ガス》燈の光りを受けながら蒼《あお》ざめ て連っているのが眼についただけだった。」  山口はもう甲谷の帰りが待ちくたびれて、ホールから 外へ出た。金色の寝台の金具、家鴨《あひる》のぶつぶつした肌、 切られた真赤な水|慈姑《くわい》、青々と連った砂糖黍《さとうきび》の光沢、女 の沓《くつ》や両替屋の鉄窓。玉菜《たまな》、マンコ、蝋燭《ううそく》、乞食《こじき》、1i それらのひっ詰った街角で、彼はさてこれからどこへ行 ったものやらと考えた。すると、トルコ風呂《ぶろ》で背中をマ ッサーデしてくれるたびに、いつも羞《はずか》しそうに頬を赭《あか》ら めているお杉の顔が浮んで来た。数々《かずかず》の羞を知らぬ放埓《ほうりつ》 な女を見て来続けている山口には、お杉の滑《なめ》らかに光っ た淡黒い皮膚《ひふ》や、瞼毛《まつげ》の影にうるみを湛《さた》えた黒い眼や、 かっちり緊った足や腕などは、忘れられた岩陰で、虫気 もなくひとり成長していた若芽のように感じられた。 ——しかし、待てよ、あの女を嗅《か》ぎつけてるのは、まさ か俺だけじゃないだろう。1  山口は早くお杉を見に行こうと急に思い立つと、立ち 停って顔を上げた。すると、たちまち、もう先きから、 街の隅々《すみずみ》から彼の挙動《きよどう》を窺《うかが》っていた車夫の群が、殺到《さつとう》し て来た。山口はうす笑いを洩《もら》しながら車夫の顔をずらり と見廻して、その一つに飛び乗った。  山口はトルコ風呂へ着くと誰も人のいない応接室へは いり込んだ。じんじんと蒸気を出す壁の振動が、かすか に身体に響いて来た。彼はソファーへもたれて煙草《たばこ》を吸 った。  しかし、前方の壁に嵌《はま》った鏡を見つけると彼は立ち上 って口髭《くちひげ》をひねくってみた。すると頭の上の時計の音か ら、ふと家に一人残しておいたオルガの姿が浮んで来 た。オルガは昨夜、急に癲癇《てんかん》の発作《ほっさ》を起して彼の手首に 爪を立てたのだ。山口は手首の爪痕《つめあと》をカフスの中から出 したり、引っ込めたりしてみているうちに、腹部を出し て悶転《もんてん》しているオルガの反《そ》り返った咽喉《のど》が、お杉の咽喉 に変って来た.。 「おい。山口君」  突然、開いたドアーの間から、甲谷の兄の長い高重の 顔が現れた。山口は振り返って煙草を上げた。 「しばらくだね.さっきまで君の弟とサラセンで踊って たんだが、あんまりあれは、上海《シャンハイ》へ置いとくといけない ぜ」 「じゃ、今夜弟はここへ来るんだな。僕はあいつをこな いだから探してたんだが」 「いや、それは分らんぞ。君の弟は俺をほったらかし て、芳秋蘭の後からつけてったままなんだよ。どうも手 も早けりゃ足も早いよ」 「じゃ、秋蘭は踊場にいたのかい」と高重は眼を見張っ た。 「うむ、いた。実は俺も後からつけてみようと思ってた んだが、おさきに君の弟にやられたよ」  高重と山口はソファーへ並んだ。高重は突き出た淡い 口髭の周囲をとがらせながら、黒い顔の中で、いっそう 誘《いぶか》しそうに眉《まゆ》を顰《ひそ》めて言った。 「秋蘭が今ごろサラセンで踊ってるなんて、それはお かしいそ。誰かいたか、傍にロシア人でもいなかった か」 「いたね。一入若い男がついてたよ」  高重は東洋紡績の工人係《こうじんがか》りで、芳秋蘭は彼の下に潜ん でいる職女であった。その職女が日本人経営の踊場へ来 ることに関して、高重の理解し兼ねていることは、早や 山口にも分るのであった。 「しかし、いずれ秋蘭だってスパイだろう。どこへだっ て現れるさ」と山口は言った。 「ところが、僕の工場には今しきりにロシアの手がはい って来てるのでね。こいつにはたまらんのだ。いつ爆発 するか分らんので、実はひやひやしているのだよ。手先 の秋蘭は、どうも戦闘力が激しくってね」 「ロシアか、あれは不思議な奴だのう。わしにはあいつ は分らんよ」  山口はまた立ち上ると、鏡を覗き込みながら、一 「どうです。高重さん、いっぱい今夜は?」 「よろしいですとも」 「それじゃ、一つ」  山口は好人物の坊主《ぼうず》のような円顔を急にてかてか勢い 込ませると廊下へ出た。彼はそこで、お杉をひと目と、 急がしそうに湯女部屋を覗いてみた。そこにもお杉がい ないと、今度は階段を二階のほうへ三四段上ってみて、 人気のなさそうな気配を感じると、また浴場の中を覗き 廻った。 「だめ、だめ、今日は思惑《おもわく》計画、いっさい手違いという ところだ」 「何をごそごそそこで狙《ねら》っているのだ」と高重は言っ た。  山口は高重には答えずに、表へ出ようとすると、湯女 の静江がはいって来た。彼女は価口を見ると、いきなり ぴったりと彼の胸にくっつくように立ちはだかって、早 口で言った。 「あのね、今さきお杉さんが首になったのよ。お神《かみ》さん が嫉《や》きもち焼いて、ほりだしてしまったの。あの子|可哀 想《かわいそう》に、しくしく泣いて出ていったわ」 「どこへいった?」山口は思わず外へ乗り出した。 「どこへって、それがあの人、行くとこなんかあれば誰 も心配しやしないけど、そんなとこなんかないんですも の」  山口は後から来る高重にかまわず、急いで三四歩通り のほうへ歩いていった。しかし、もちろん、今ごろから お杉の行先なんか深したって分ろうけずもないのに気が つくと、またくるりと廻って静江の傍へ引き返した。 「お杉の行く先が知れたら、すぐ知らせてくれないか。 分ったかい」  彼は暗闇のほうへ向き返って、五ドル紙幣を静江に握 らせて、また高重の後を追って来た。 「どうも今夜は、金の要《い》ることばかりだよ」 「何んだ。お杉って?」 「いや、これがなかなか可憐《かれん》な代物《しろもの》さ、甲谷が秋蘭を追 っかけていきよったから、そんならこっちを一つと思っ たら、風呂屋のお神が首を切って抛《ほう》り出したとこだとい うのさ。ひでえ野郎《やろう》だ」  高重は由口がお杉の家出であわてだしたのを見ると、 お杉とはどんな女だったのかと考えた.前に高重は妹の 競子が娘のころ、彼女を山口にならやっても良いと思っ たこともあったのだ。そのころは、山口も競子が好き で、彼女を包むたくさんの男たち同様に、競子の後を暇 さえあれば追いかけたのである。山口は大通へ出ると、 霧の深まって来始めた左右の街を見廻しながら言った。 「これからサラセンへいっても良いが、まさか甲谷は、 今ごろまで俺を待ってる気遣《きつか》いもなかろうね」 「芳秋蘭を追{ノかけていったのなら、ひょっとしたら、 奴、今ごろはやられているかもしれないぜ。あの女はい つでもピストルを持ってるからな」 「しかし、女に親切にして、撃《う》たれたという話はまだ聞 かんよ。それより君はどうなんだ。あの秋蘭はすばらし い美人だが、毎日あの女を使っているくせに、まさか金 仏《かなぶつ》でもないだろう」 「ところが、あの女はだいじょうぶだ。僕はあの女の正 体を、まだ知らないことにしてあるんだ」 「それや、知ったら逃げられる恐れがあるからな」 「冗談言っちゃ困るよ。僕はこれでも、今は日本を背負 って立っているようなもんだからね。僕があの女に少し でも引かれちゃ、たちまち工場は丸潰《まるつぶ》れだ。君のアジヤ 主義もけっこうだが、もう少しは、われわれ国粋《こくすい》主義者 の苦心も、考えてくれたって良いだろう」 「国粋主義か、よく分った。それじゃ、いっぱい飲んで からひとつム、夜は議論をしよう。おい」  と、山口はステッキを上げて黄包車《ワンバウツ》を呼びとめた。    五  お杉はその夜、参木が去るとお柳に呼ばれて首を切ら れた。これは参木が早くも寝台の上で予想したほども、 確かな心理の現れを形の上で示しただけであった。お杉 はしばらく事件の性質が、むろん何んのことだか分らな かった。彼女はトルコ風呂の入口から出て来ると、明日 からもう再びここへ来ることができぬのだと知り始め た。彼女は露地を出ると、舗道に閉め出された黄包車《ワンバウツ》の 車輪の傍を通り、また露路の中へはいっていった。露路 の中には、霧にからまった円《まる》い柱が廻廊《かいろう》のように並んで いた。暗い中から、耳輪の脱《はず》れかかった老婆が咳《せ》きをし ながら歩いて来た。お杉は柱の数を算《かぞ》えるように、泣い ては停り、泣いては停った。彼女は露路を抜けると裏街 を流れている泥溝《どぶ》に添ってまた歩いた。泥溝の水面には 真黒な泡がぶくりぶくりと上っていた。その泥溝を包ん だ漆喰《しつくい》の剥《は》げかかった横腹で、青みどうが静に水面の油 を舐《な》めていた。  お杉は参木の下宿の下まで来ると、火の消えた二階の 窓を仰《あお》いでみた。彼女はここまで、もう一度参木の顔を ただ漫然《まんぜん》と眺めに来たのである。それから1彼女はそ れからのことは、ただ泣く以外には知らなかった。お杉 ほ漆喰の欄干《らんかん》にもたれたまま片手で額《ひたい》を圧えていた。彼 女の傍には、豚の骨や吐き出された砂糖黍《さとらきび》の噛み粕《かす》の 中から瓦斯《ガス》燈が傾いて立っていた。彼女はたぶんその瓦 斯燈の光りが消えて、参木の部屋の窓が開くまで動かぬ だろう。彼女の見ている泥溝の上では、その間にも、泡 の吹き出す黒い芥がじょじょに寄り合いながら一つの島 を築いていた。その島の真中には、雛《ひな》の黄色い死骸《しがい》が猫 の膨《ふく》れた死骸といっしょに首を寄せ、腹を見せた便器や 靴や菜っ葉が、じっとり積ったまま動かなかった。  夜が更《ふ》けていった。屋根と屋根とを奥深く割っている 泥溝の上から、霧がいっそう激しく流れて来た。お杉は 欄干にもたれたまま、うとうとい眠りをし始めた。する と、急に彼女は靴音を聞いて眼を醒《さま》した。見ていると、 霧に曇った人影が一人だんだん自分のほうへ近づいて来 た。お杉はその人影と眼を合した。 「お杉さんか」と男は言った。  男は芳秋蘭を追ったあと、酔いながら踊場から踊場と 追って、参木の所へ帰って来た甲谷であった。 「どうした。今ごろ、さア、上れ」  甲谷はお杉の手を持つと引っ張りながら階段を上って いった。お杉は二階へ通されたが、参木の姿は見えなか った。甲谷は部屋の中で裸体になると、トルコ風呂《ぶろ》に飛 び込むように寝台に身を投げた。 「さア、お杉さん、参木はまだだぞ。僕は寝るよ。疲れ た。君はそこらで寝ていてくれ」  言ったかと思うと、甲谷はもう眼を瞑《と》じて眠りだし た。お杉はどうしたものやら分らぬので、寝台の下で甲 谷の脱ぎ捨てた服を黙って畳《たた》んでいた。彼女が少し身を 動かすと、男の匂いが部屋の中で波を立てた。お杉は部 屋を片附けると、参木の愛用しているコルネットの銀の 金具を恐そうに撫《な》でてみた。それから、本箱の中の分ら ぬ洋書の背中を眺めてみて、眠むそうな自分の顔がぼん やり硝子《ガラス》に映っているのを見つけると、思わず顔をひっ こめてまた覗いた。彼女はしばらくはごとりと物音がし ても「もしゃ参木が」というように身を起した。が、参 木は二時が打っても帰らなかった。そのうち、彼女はい つの間にか、積まれた楽譜《がくふ》に身をよせたまま、波や魚 や、群れよる子供の夢を見ながら眠っていった。1:  ふとお杉は夜中におぼろげに眼が醒《さ》めた。すると、部 屋の中は真暗になっていた。と、その暗の中で、彼女は 自分の身体を抱きすくめて来る腕を感じた。お杉は苦し さに抵抗した。しかし、彼女の頭は、まだ子供の押し寄 せて来る夢を見ながら、ますます身体に力を込めて逃げ ようとすろのだった。 「あの、——だめよ、だめよ」  彼女は何者にともなく、しきりに激しく声を立てよう とした。しかし、声は咽喉《のど》につかえて出なかった。お杉 は汗をびっしょりかきながら、立ち上ろうとして膝《ひざ》を立 てた。そのとき、耳の傍で、男の声がしたと思うと、お 杉ははッとして身体をとめた。彼女は甲谷の身体を感じ たのだ。と、間もなく、お杉はぐるぐると舞い始めた闇 の中で、頭といっしょにがっくり崩《くず》れおちる楽譜の音を 聞きつけた。  翌朝お杉が眼を醒ますと、参木が甲谷と一つの寝台の 上で眠っていた。お杉は昨夜の出来事を思い出した。す ると、今まで自分を奪ったものは甲谷だとばかり思って いたのに、急に、それは参木ではないかと思いだした。し かし、それをどうして二人に訊《き》き正すことができるだろ う。彼女は昨夜は、まったく自分の眠さと真暗な闇の中 で起ったことだけを、朧《おぼ》ろげに覚えているだけだった。 お杉はしばらく、朝日の縞《しま》の中に浮いている二人の寝顔 を見較べながら、首を傾けて立っていた。物売りの声 が、露路の隅々《すみずみ》にまではいって来ると、花売りの声も混《まじ》 って来た。 「メークイホー、デーデホー、パーレーホッホ、パーレ ーホ」  お杉は参木の服を壁にかけると湯を沸《わか》した。彼女は二 人のうちの誰か起きたら、自分を今日からここへ置くよ うに頼んでみようと考えた。だが、さてその二人の中 の、誰に頼めばよいのか彼女には分らなかった。お杉は 湯の沸く間、窓にもたれて下の小路を眺めていた。昨夜 眺めた泥溝の上には、石炭を積んだ荷舟が、黒い帆を上 げたまま停っていた。その舟の動かぬ舵《かじ》や、道から露出 した鉄管には、藁屑《わらくず》や沓下《くつした》や、果実の皮がひっかかって 溜《とゞま》っていた。ぶくぶく出る無数の泡は、泥のように塊《かたま》り ながら、その半面を朝日に光らせて狭い裏街の中をゆう ゆうと流れていった。お杉はそれらの泡を見ていると、 欄干《らんかん》に投げかけている自分の身体が、人の売物になって ぶらりと下っているように思われた。もしここから出て 行けば、彼女はどこへ行って良いのが当《あて》がなかった。間 もなく、あちこちの窓から泥溝へ向って塵埃《じんあい》が投げ込ま れた。鶏の群は塵埃の舞い立つたびごとに、黄色い羽根 を拡げてぱたぱたと裏塀の上を飛び廻った。湯が沸きだ したころになると、泥溝を挾《はさ》んだ家々に、支那服の洗濯 物がかかり始めた。物売りの籠《かご》に盛られたマンゴや白蘭 花が、その洗濯物の下を見え隠れしながら曲っていった。  やがて、甲谷が起きてきた。彼はお杉に逢うとタオル を肩に投げかけて言った。 「どうだ、眠られたか」  次に参木が起きてくると、眠そうにお杉に笑いながら 言った。 「どうした、昨夜は?」  しかし、お杉は誰にも黙って笑っていた。二人の背中 が洗面所のほうへ消えていくと、彼女は、そのどちらに 自分が奪われているのかますます分らなくなって来るの であった。    六  参木はお杉を残したまま甲谷といっし.伍に家を出た。 通りは朝の出勤時間で黄包車《ワンパウツ》の群れが、路《みち》いっぱいに河 のように流れていた。二人はその黄包車の上に浮きなが ら人々といっしょに流れていった。ご人はお杉に関して は、どちらも分り合っているように黙っていた。その 実、参木は甲谷がお杉を連れて来たのにちがいないと思 っていた。そうして甲谷は、参木がお杉を呼び出したの にちがいないと。  建物と建物の間から、またひと流れの黄包車が流れて 来た。その流れが辻《っじ》ごとに合すると、さらに緊密《きんみつ》して行 く車に車夫たちの姿は見えなくなり、人々は波の上に半 身を浮べた無言の群集となって、同じ速度で辷っていっ た。参木にはその群集の下に、さらに車を動かす一団の 群集が潜《ひそ》んでいるようには見えなかった。彼は煉瓦《れんが》の建 物の岩壁に沿って、澎湃《ほうはい》として浮き流れるその各国人の 華《はな》やかな波を眺めながら、誰か知人の顔が浮いていない かと探してみた。すると、後に浮いていたはずの甲谷 が、彼と並んで流れて来た。 「、おい、お杉はいったい、どうしたんだ」と参木は初め て甲谷に訊いた。 「じゃ、君も知らないのか」 「じゃ、君が連れて帰ったんじ必、ないんだな」 「ばかを、菖いなさい。俺《おれ》が帰ったらお杉が戸口に立っ、て たんじゃないか」 「ははア、じゃ、首を切られて行くとこがなかハ.たん だ」  参木は咋夜のお柳の見幕《けんまく》を思い出すと、お杉の災《わざわ》いが いよいよ自分に原因していることを感じて暗くなった。 しかし、それにしても、お杉が自分の家から出て行こう としないところが不思議であった。何か甲谷がお杉に釘《!、壱㌧》 を打つようなことをしたのではないか。この甲谷が昨夜 お杉と一窒にいたとすれば、そうだ、甲谷のことならー ——o 彼は甲谷の顔を眺めてみた。その美しい才気走った眼 の周囲から、参木はふと甲谷の妹の競子の容貌《ようほう》を感じだ した。すると、彼はお杉を傷つけたものが自分でなくし て、自分の愛人の兄だということに、不満足な安らかさ を覚えて来た。ことに、もうすぐ競子の良人《おつと》が死ぬとす れば——。 「いったい、咋夜はどうしたんだ」と甲谷は訊いた。 「昨夜か、昨夜は酔っぱらって露地の中で寝てたんだ。 君は?」 「僕か、——僕は山口とサラセンで逢って、それから、 芳秋蘭という女の後を追っかけた」  市場から帰って来た一団の黄包車《ワンパウツ》が、花や野菜を満載《まんさい》 して流れて来た。参木と甲谷の周囲には、いつの間に か、薔薇《ばら》や白菜《はくさい》が匂いを立てて揺れていた。それらの花 や野菜は、建物の影を切り抜けるたびごとに、朝日を受 けてさらさらと爽《さわ》やかに光っていった。参木は思った。 この葬式のような花の流れは、これは競子の良人の死ん だ知らせでほなかろうかと。すると、彼は、自分の不幸 ほ他人の幸福を恨《うら》むがゆえだと気がついた。もし自分が 競子の良人のように幸福であったなら、誰か自分のよう な不幸なものから、同様に自分の死ぬことを願われてい たに相違ない。彼は、自分の周囲の人の流れを見廻1.・ た。その滔々《とうとう》として流れる壮快な生活の河を。どこに悲 しみがあるのか。どこに幸福があるのか。墓場へ行って も、ただ悲しそうな言葉が蕭洒《しようしや》として並んでいるだけで はないか。だが、次の瞬間、これは朝日に面丁《めんてい》を叩かれ でいる自分の感傷にちがいないと思うと、思わずにやり とせずにはおれなくなった。    七  参木が銀行の階段を登って行くと、甲谷はそのまま村 松汽船会社へ車を走らせた。汽船会社は甲谷の会社の支 配会社で、壮大な大建物の連った商業中心地帯の真中に あった。甲谷は車の上で、昨夜参木と食い違って追い合 ったその結果が、お杉にあられもない行為をしてしまっ たことについて考えた。  ——いや、しかしだ。まアまア、五円も包んでやれ ば、それでお了《しま》いさ。良心か、何にそんなことが必要な ら、上海《シャンハイ》で身体をぶらぶらさせている不経済な奴がある ものか。——  これで甲谷の感想は了《しま》いであった。その癖、彼は、参 木からお杉を奪ってしまったということによって、自分 の妹の愛人に迫っていた危難を、妹のために救ってやっ たという良心の誇りを感じて勇しくなっていた。  商業中心地帯へはいると、並列した銀行めがけて、為 替《かわせ》仲買人の馬車の密集団が疾走《しつそう》していた。馬車・は無数の 礫《つぶて》を投げつけるような蹄《ひずめ》の音を、かつかっと巻き上げつ つ、層々《そうそう》と連なりながら、大路小路を駆けて来た。この 馬車を動かす蒙古《もうこ》馬の速力は、刻々ニューヨークとロン ドンの為替相場を動かしているのである。馬車はときど き車輪を浮き上らせると、軽快なヨットのように飛び上 った。その上に乗っている仲買人たちは、ほとんど欧米 人《おうべいじん》が占めていた。彼らは微笑と敏捷《びんしよう》との武器をもって、 銀行から銀行を駆け廻るのだ。彼らの株の売買の差額 は、時々刻々《じじこぐこく》、東洋と西洋の活動力の源泉となって伸縮《しんしゆく》 する。——甲谷は前から、この港のほとんど誰もの理想 のように、この為替《かわせ》仲買人になるのが理想であった。  甲谷は村松汽船会社へ行く前にその附近にある金塊《きんかい》市 場へ立ち寄って覗いてみた。市場はおりしも立ち合いの 最中で、ごうごうと渦巻く人波が、ホールの中でもみ合 っていた。立ち連った電話の壁のために、うす暗くなっ た場内の人波は、油汗《あぶらあせ》ににじみながら、売りと買いとの 二つの中心へ胸を押しつけ合って流れていた。その二つ の中心は、絶えず傾いて叫びながら、反《そ》り返り、流動し つつ、円を描いては壁に突きあたり、再び押し戻して は、壁にはじかれて、ぐるぐると前後左右へ流れ続け た。しかし、周囲の壁や、連った椅子の上に盛り上って いる観衆は、黙々として視線を眼下の渦《うず》の中心に投げて いた。 「もう一年だ——もう一年たてば、俺は美事《みごと》にここで、 巨万の富を掴《つか》んでみせるそしと甲谷は思った。  彼は椅子《いす》の上からホールを見降しながら、これが一分 ごとに、ロンドンとニューヨークの金塊相場に響きを与 えつつあるものとは、どうしても思えなかった。彼は椅 子から降りて一つの電話室を覗いてみた。送話器を頭か ら脱《はず》した青年が、ぐったりと腹部をへこませて、背部の 電話のパイブのより塊《かたま》った壁にもたんながら煙草《たばこ》を吸っ て休んでいた。  村松汽船会社へ甲谷が着いたときは、十時であった。 彼は広壮な事務部屋の中央を貫いて、腰から下が廊下に なっている通路を通りながら、万遍《まんべん》なく左右の知った社 員たちに会釈《えしやく》を振り撒《ま》き、最後の部屋の木材課へはいっ ていった。すると、シンガポールの本社から来ているべ き旅費の代りに、彼|宛《あて》に特電がはいっていた。 「市場ますます険悪。——倉庫材木充満す。腐敗《ふはい》の恐れ あれば、満身貴下の活動を切望す。——」  見ると同時に、甲谷からは嫁探しの希望が消えてしま った。これでは旅費の請求さえ不可能にちがいない。間 もなく早速帰れと命令が下るのは分っている。——甲谷 はイギリス政府の護謨《ゴム》制限|撤廃《てつばい》の声名が、今ごろ自分の 嫁探しにこんなに早く、影響を及ぼそうとは考えなかっ た。もちろん、彼には、アメリカへ返すイギリスの戦債 が、前からシンガポールの錫《すず》と護謨《ゴム》との上で呼吸してい たのは分っていた。だが、そのため、シンガポールの市 場が恐慌し、材木が停止し、嫁探しまで延引しなければ ならぬ結果になろうとは——。 「よしそれなら」と甲谷は思った。彼は階段を降りて来 た。乞食《こじき》の子供が彼の後から横になって追っ駈《か》けて来 た。彼の頭には宮子もなかった。芳秋蘭もお杉もなかっ た。むろん、乞食の子供にいたっては。ただ、彼にはフ イリッピン材の逞《たくま》しい切れ目が間断なく浮んでいた。彼 はその敵材を圧迫する戦法を考えた。——何故にシンガ ポールの材木は負けだしたか。  ——切れ目がいかぬ、切れ目が。1  事実、シンガポールのスマトラ材は、フィリッピン 材に比べて、截断量《せつだんりよう》が五寸ほど長かった。この五寸とい う空間の占有量《せんゆうりよう》は、それが支那入に対する歓心とはなら ず、運送船の吃水線《きつすいせん》を深めることに役立っただけだっ た。のみならず、陸上の倉庫へ突き衝《あた》り、運搬の時間を 食らい、腐敗する上においては最も都合よき実物となっ て横たわりだしたのだ。この虚に乗じて、フィリッピン は心理学より物理学を中心にして進んで来た。甲谷の戦 法は、ここで変更せられねばならなかった。彼はまず、 材木会社を駈け廻り、その主流が支那人であるかなきか を確め、それに応じてその場で適宜《てきぎ》の作戦を立てねばな らぬのだ。彼はカラーを常に真白にし、服の折目を端正 にして徴笑を含み、本社の恐慌《きようこう》を歪《ゆが》まぬネクタイで縮め 縛って下へ隠し、さて、すぐには切り込まず、ゆうゆう と相手のご機嫌だけを伺って引き上げねばならぬ、と考 えた。すると、彼の後から、まだ乞食の子供がしつこく 追っ駆けて来ているのに気がついた。  彼は戦闘心を養うために、河を登るフィリッピン材の 勢力を眺めに突堤に添って歩いてみた。河の両側には空 虚の小舟が、竿《さお》を戦のように縦横に立て連ねていた。そ のどの船にも、襤褸《ぼろ》が旗のように下っていた。褐色の破 れた帆をあげた伝馬船が、港のほうから、次ぎ次ぎに登 って来た。棉花《めんか》を積んだ船、落花生《らつかせい》を満載した荷船、コ ークス、米、石炭、粘土、藤、鉄材、それらの間に交っ て、フィリッピン材の紅と白とのラウァンが、鴨緑江材《おうりよくこう》 のケードルや、暹羅《シヤム》材の紫檀《したん》と競いながら、従容《しようよう》として 昇って来た。しかし、甲谷の得意なシンガポールの材木 は、花梨《かりん》木もタムブリアンも、ミラボーも、何に一つと して見ることができなかった。 「これではだめだ、これでは」  ふと見ると、上流から下って来た大きな筏《いかだ》が、その上 に土を載せ、野菜《やさい》の畑を仕立てて流れていた。その周囲 の水の上で、舶敵《サンパン》が虫のように舞い歩いた。真青なバナ ナを盛り上げた船が襤縷《ぼろ》と竿《さお》の中から、緑青《ろくしよう》のようにに じみ出て来ると、橋の穹窿《きゆうりゆう》の中へはいっていった。  すると突然、その橋の上で、一発の銃が鳴った。と、 さらに続いて連続した。橋の向うの赤色ロシアの領事館 の窓ガラスが、輝きながら穴を開けた。見る間に、白衛 兵の一隊が、橋の上から湧き上って抜刀した。彼らは賊 声《かんせい》を上げつつ、領事館めがけて殺到《さつとう》した。窓から逆さまに 人が落ちた。と、釈殻《からたち》の垣の中へ突き刺って、ぶらぶら すると、 一転したと思うやいなや、河の中へ転がった。  館内ではしばらく銃声が続いていたが、間もなく、赤 色の国旗が降ろされて白旗が高く昇りだした。見ていた 群集の中から、欧米《おうべい》人の白い拍手が、波のように上っ た。続いて対岸から、建物の窓々から、船の中から、起 りだした。甲谷は昨夜見た芳秋蘭の澄み渡った眼を思い 描きながらも、「万歳、万歳、万歳」と叫んで、彼らに 和七て手を打った。やがて、抜刀の一隊は自動車に飛び 乗ると、群集の中を逃げていった。しかし、この出来事 を見ていた支那の群集だけが、いつものことが、いつも 起ったように起っただけだというように、騒がなかっ た。甲谷が穴の開いた領事館の前まで行ったときには、 印度《インド》人の巡査に担《かつ》がれた負傷者の傍を、ロシアの春婦た ちがイギリスの水兵といっしょに、煙草《たばこ》を吹かして通っ ていった。      八  参木の常緑銀行では、その円の閉鎖《へいさ》時間が真近くなる と不穏《ふおん》な予言が蔓延《まんえん》した。それは、ある盗賊団《とうそくだル》の一団が 常緑銀行の自動車のマークを知っていて、取引銀行への 現金輸送の自動.車を襲うであろうという隠謀《いんぼう》が、一人の 行員の口から洩《も》れ始めたことから発生した。  参木はこの噂《うわさ》を耳にすると愉快になった。やがて現金 輸送に従う者はなくなるだろう。すれば、専務が困るに ちがいないと。そうして、それは、事実になった。現金 輸送のときになると、突然輸送係りの者が辞職した。  銀行の内部はにわかに専務を中心にして緊張《きんちよう》し始め た。専務は一同を特別室に集めると、賞金二十円を賭け て輸送係りを募集《ぼしゆう》した。だが、もちろん、生命より金銭 を尊重する者は誰もなかった。なぜなら、この支那の海 港は、生命を奪うことを茶碗《ちやわん》を破ることと等《ひと》しく思って いる団体が、その無数の露路の奥底に、無数に潜《ひそ》んでい ると幻想し得られるがゆえである。専務はさらに五十円 の賞与《しようよ》を賭けた。だが、依然として行く者は誰もなかっ た。五十円が百円に昇りだした。百円が百二十円に競《せ》り 上った。が、かように上りだすと、まだどこまで上るか 予想を許さぬ興味のために、誰も口を開かなかった。す ると、参木は初めて口を開いて専務に言った。 「もうこうなれば、いくら賞与をかけても行くものはな いと思いますから、こういう場合は、日ごろの専務のご 手腕に従って、専務自身が行かれるべきだと思います」 「なぜだ」と専務は質問した。 「それは専務が一番好くご承知のはずだと僕は思いま す。銀行にとって、現金輸送が不可能になったというこ とは、最も専務がその責任を負って活動しなければなら ぬ時機だと思います」 「君の意志はよく分った」と専務は言うと片眼を大きく 開きながら、指先きを椅子の上で敏捷《びんしよう》に動かした。 「それで君は、僕がいなくなったら、この銀行がどうな るかということも、もちろん知っているのだろうね」と 専務は訊《たず》ねた。 「それや、知らないこともありません。しかし、あなた がいなくなるとおっしゃるのは、あなたが危害を加えら れた場合のことをおっしゃるのだろうと思いますが、あ なたが危害を受けられて悪いときなら、少なくとも他の 者だって危害を受けて悪い場合にちがいありません。今 の際は銀行の危急《ききゆう》のときです。危急のときに専務が責任 を他に転嫁《てんか》させるということは、専務の資格がどこにあ るか分らないと思います。ことにこの銀行でいつも一番 利益を得られるものは、専務です。その専務が——」 「よし、もう分った」  専務は行員の沈黙のうちで、傲然《こうぜん》として窓の外の風景 を睨《にら》んでいた。参木はこの悪辣《あくらつ》な専務が、自分を解雇《かいこ》す ることができないのだと思うと、日ごろの欝憤《うつぶん》を晴らし たように愉快になった。 「じゃ、参木君はもう帰ってくれたまえ」と専務は言っ た。  参木は黙って入口のほうへ歩いた。が、入口のハンド ルを握ると振り返った。 「僕は明日から来なくともいいんでしょうか」 「それは、君の意志の自由にやりたまえ」 「僕の意志だと、また出て来るかもしれませんが」 「じゃ、なるべく遠慮《えんりよ》するようにしてくれたまえ」 「承知しました」  参木は銀行を出ると、やったなと思った。が、もし復 讎《ふくしゆう》のために専務の預金の食い込みを吹聴《ふいちよう》するとすると、 取付けを食うのは分っていた。だが、取付を食って困る のは、銀行よりも預金者だった。しかし、いずれにして も、専務が自分の食い込みを、無価値な担保《たんぽ》を有価値に 見せかけて償《っぐな》っている以上、その欠損《けっそん》は早晩表面に現れ るに違いなかった。しかし、その現れるまでの期間内 に、まだどれだけの人々が預金をするか。この預金の量 が、専務の食い込みを償うものとしたならば、預金者は 救われるのだ。参木は河の岸で良心で復讎《ふくしゆう》しようとして 藻掻《もが》いている自分自身を発見した。これは明らかに、彼 の敗北を物語っているのと同様だった。明日から、いよ いよ饑餓《きが》が迫って来るだろう。    九  お杉は街から街を歩いて参木の家のほうへ帰って来 た。どこか自分を使うところがないかと、貼《は》り紙《がみ》の出て いる壁を捜《さが》しながら。ふと彼女は露路の入口で売卜者《ばいぼくしや》を 見つけると、その前で立ち停った。昨夜自分を奪ったも のは、甲谷であろうか参木であろうかと、また彼女は迷 い始めた。お杉の前で観《み》てもらっていた支那人の娘は壁 にもたれて泣いていた。売ト者の横には、足のとれかか ったテーブルの屋台の上に、豚の油が淡黄く半透明に盛 り上って縮れていた。その縮れた豚の油は露路から流れ て来る塵埃《じんあい》を吸いながら、遠くから伝わる荷車の響きや 人の足音に絶えずぶるぶると慄《ぶる》えていた。小さな子供が その背の高さをちょうどテーブルの面まで延ばしなが ら、じっと慄えるうす黄色い油に鼻のさきをひっつけて いつまでも眺めていた。その子の頭の上からは、剥《は》げか かった金看板がぞろりと下り、弾丸に削《けず》られた煉瓦《れんが》の柱 はボスターの剥げ痕《あと》で、張子《はりこ》のように歪《ゆが》んでいた。その 横は錠前屋だ。店いっぱいに拡った錆《さ》びついた錠が、蔓《つる》 のように天井まで這い上り、隣家の鳥屋に下った家鴨《あひる》の 首といっしレ出になって露路の入口を包んでいる。間もな く、豚や鳥の油でぎらぎらしているその露路の入口か ら、阿片《あへん》に青ざめた女たちが眼を鈍らせて蹌踉《そうろう》と現れ た。彼女たちは売ト者を見ると、お杉の肩の上から重な って下のブリキの板を覗き込んだ。  ふとお杉は肩を叩かれて振り返った。すると、参木が 彼女の後に立って笑っていた。お杉はちょっとお辞儀《じぎ》を したが耳を中心に彼女の顔がだんだん赭《あか》くなった。 「ご飯を食べに行こう」と参木は言って歩きだした。  お杉は参木の後から従って歩いた。もういつの間にか 夜になっている街角では、湯を売る店頭の黒い壷《つぼ》から、 ほのぼのとした湯気が鮮かに流れていた。そのとき、参 木は後から肩を叩かれたので振り向くと、ロシア人の男 の乞食《こじき》が彼に手を出して言った。 「君一文くれたまえ。どうも革命にやられてね、行く所 もなければ食う所もなし、困っているんだ。これじゃ、 ム「にのたれ死にだ。君、一文恵んでくれたまえ」 「馬車にしようか」と参木はお杉に言った。  お杉は小さな声で頷《うなず》いた。馬車屋の前では、主婦が馬 の口の傍で粥《かゆ》の立食いをやっていた。二人は古いロココ 風の馬車に乗ると、ぼってりと重く湿《しめ》りだした夜の街の 中を揺られていった。  参木はお杉に自分も首になったことを話そうかと思っ た。しかし、それではお杉を抛《ほう》り出すのと同じであっ た。お杉の失職の原因が彼にあるだけ、このことについ ては彼は黙っていなければならなかった。参木は愉快そ うに見せかけながらお杉に言った。 「僕はあんたから何も聞かないが、たぶん首でも切られ たんだろうね」 「ええ。あなたがお帰りになってから、すぐ後で」 「そう。じゃ、心配することはない.。僕の所には、あん たがいたいだけいるがいい」  お杉は黙って答えなかった。参木は彼女が何を言いた そうにもじもじしているのか分らなかった。だが、彼に は、彼女が何を言いだそうと、今は何の感動も受けない であろうと思った。露路の裏のほうでしきりに爆竹《ばくちく》が鳴 った。アメリカの水兵たちがステッキを振り上げて車夫 を叩きながら、黄包車《ワンバウツ》に速力を与えていた。馬車が道の 四角へ来ると、しばらくそこで停っていた。一方の道か らは塵埃《じんあい》といっしょに豚の匂いが流れて来た。その反対 のほうからは、春婦たちがきらきらと胴を輝かせながら 揺れ出て来た。またその一方の道からは、黄包車《ワンパウソ》の素足 の群れが乱れて来た。角の交通整理のスポットが展開す ると、車輪や人波が真蒼《まつさお》な一直線の流れとなって、どよ めきだした。参木の馬車は動きだした。と、スボットは たちまち変って赤くなった。参木の行く手の磨《みが》かれた道 路は、春婦の群れも車も家も、真赤な照明を浴びた血の ような河となって浮き上った。  二人は馬車から降りるとまた人込の中を歩いた。立っ たまま動かない人込みは、ただ唾《つば》を吐きながら饒舌《しやべ》って いた。二人は旗亭《きてい》の陶器の階段を昇って一室に納った。 テーブルの上には、煙草《たばこ》の大きな葉が壷にささったま ま、青々と垂れていた。 「どうだ、お杉さん。あんたは日本に帰りたいと思わん か」 「ええ」 「もっとも今から帰ったって、しようがないね」  参木は料理の来るまで、欄干《らんカん》にもたれて南瓜《かほちゃ》の種を噛 んでいた。彼は明日から、どうして生活をするのかまだ 見当さえつかないのだ。だが、そうかと言って日本に帰 ればなおさらだった。どこの国でも同じように、この支 那の植民地へ集っている者は、本国へ帰れば、まったく 生活の方法がなくなってしまっていた。それゆえここで は、本国から生活を奪われた各国人の集団が、寄り合い つつ、まったくここに落ち込んだが最後、性格を失った 奇怪な人物の群れとなって、世界で類例のない独立国を 造っていた。しかも、それぞれの人種は死に接した孤独 に浸《ぴた》りながら、余りある土貨を吸い合う本国の吸盤《きゆうばん》とな って生活しなければならぬのである。このためここで は、一人の肉体はいかに無為無職《むいむしよく》のものといえども、た だ漫然《まんぜん》といることでさえ、その肉体が空間を占めている 以上、ロシア人を除いては愛国心の現れとなって活動し ているのと同様であった。——参木はそれを思うと笑う のだ。事実、彼は、日本におれば、日本の食物をそれだ け減らすにちがいなかった。だが、彼が上海《シャンハイ》にいる以 上、彼の肉体の占めている空間は、絶えず日本の領土と なって流れているのであった。  ——俺《おれ》の身体は領土なんだ。この俺の身体もお杉の身 体も。——  その二人が首を切られて、さて明日からどうしたら良 いのかと考えているのである。参木は自分たちの周囲に 流れて来ている旧ロシアの貴族のことを考えた。彼らの 女は、各囚人の男性の股《また》から股をくぐって生活してい る。そうして男は、各国人の最下層の乞食《こじき》となって。— —参木は思った。  ——それは彼らが悪いのだ。彼らは、自分の同胞を、 股の下で生活させ、乞食をさせ続けて来たからだ。  人は、自分の股の下で生活し、自分の同胞の中で乞食 をするよりも、他国人の股の下で生活し、他国人の間で 乞食をするほうが楽ではないか。——それならと参木は 考えた。  ——あのロシア人たちに、われわれは同情する必要は 少しもない。  このような非情な、明確な論理の最後で、ふと参木 ほ、お杉と自分が誰を困らせたことがあるだろうと考え た。すると、彼は、欝勃《うつぼつ》として揺れだして来ている支那 の思想のように、急に専務が憎むべき存在となって映り だした。だが、彼は自分の上役を憎むことが、ここでは 彼自身の母国を憎んでいるのと同様な結果になるという ことについては忘れていた。しかも、母国を認めずして 上海《シャンハイ》でなし得る日本人の行動は、乞食《こじき》と売春婦《ばいしゆんふ》以外には ないのであった。      十  参木に老酒《ラオチュウ》の廻りだしたころになると、料理は半ば以 上を過ぎていた。テーブルの上には、黄魚のぶよぶよし た唇や、耳のような木耳《きくらげ》が箸《はし》もつけられずに残ってい た。臓腑《ぞうふ》を抜いた家鴨《あひる》、豚の腎臓《じんぞう》、蜂蜜の中に浸った鼡《ねずみ》 の子、林檎《りんご》の揚げ物に竜顔《リゆうがん》の吸物、青蟹《あおがに》や帆立貝《ほたてがい》i1参 木は翡翠《ひすい》のような家鴨の卵に象牙《ぞうげ》の箸を突き刺して、小 声で日本の歌を歌ってみた。 「どうだ、お杉さん、歌えよ、恥しいのかい。何に、帰 りたい、ばかを言え」  参木はお杉を引き寄せると片肱《かたひじ》を彼女の膝《ひざ》へつこうと した。すると、肱が脱れて、がくりとお杉の膝の上へ顎《あご》 を落した。お杉ほ赤くなりながら、落ちかかろうとして いる参木の顔をぶるぶる慄える両膝で支えていた。湯気 を立てて、とろりとしている鱶《ふか》の鰭《ひれ》が、無表情なボーイ の捧げている皿の上で跳ね上ったまま、薄暗い糞壷《モード》を廻 って運ばれて来た。参木は立ち上ると、欄干を掴んで下 の通りを見降した。人込の中で黄包車《ワンパウツ》に乗った妓が、刺 繍《ししゆう》した小さな沓《くつ》を青いランプの上に組み合せて揺れて来 た。招牌《しようはい》や幟《のぼり》を切り抜けて、彼女の首環の宝石が、ど こまでも魚のように光っていった。参木は旗亭《きてい》を出ると お杉と二人でしばらく歩いた。露路の口を通りかかるた びごとに、彼は春婦に肩を叩かれた。 「あなた、いらっしゃいよ」 「いや、俺のはこっちだ」と参木は後にいるお杉を指差 した。  彼はふと、お杉も了《しま》いに、このように露路の入口へ立 つのではないかと思った。そして、自分は乞食になっ て、路の真中に坐っている。——しかし、彼は別に何の 悲しみも感じなかった。参木はお杉の手を曳《ひ》いて歩い た。足が乱れてときどきお杉の肩にもたれかかった。 「おい、お杉さん、俺は明日から乞食になるかもしれな いぜ。俺が乞食になったら、お杉さんはどうしてくれ る」  お杉は大きな眼で参木の支えになりながら笑ってい た。銃を逆に担《かつ》いだ印度《インド》人の巡査がお杉の顔を眺めてい た。車座に蹲《しやが》んだ裸体の車夫の群れが、天然痘《てんねんとう》の痕《あと》のあ るうっとりとした顔を並べて、銅貨の面を見詰めてい た。水の滴《したた》りそうな水|慈姑《くわい》が、真赤なまま、道路で油煙 を立てているランプのホヤを取り巻いて積っていた。一 人の支那人がふらりと参木のほうへ近寄って来ると、写 真を出した。 「どうです、十枚三円」  写真は二人の胸の間に隠されたまま、怪しい姿を跳ね 始めた。お杉は参木の肩越しに写真を見た。すると、彼 女は急に顔をそ向けて歩きだした。しばらくすると、参 木は黙って彼女の後からついて来た。彼は年来の潔白 が、一時に泥のように崩れだすのを感じた。 「お杉さん」と参木は言った。  お杉は赤くなったまま振り返った。が、またすぐ彼女 は歩きだした。参木は前を行く彼女の身体に手が延びそ うな危険を感じた。今夜は危い、今夜は、と彼は思っ た。 「お杉さん、今夜はちょっと用事があるから、あんた一 人、さきへ帰っていてくれないか」  そういうと、彼は逆にくるりと廻って、悲しげに歩い ていった。  そのとき、ふと彼は通りすがりの、女が女に見えぬ茶 館へ上っていった。  広い堂内は交換局のように騒いでいた。その蒸《む》しつく 空気の中で、笑婦《しようふ》の群れが、赤く割られた石榴《ざくろ》の実のよ うに詰っていた。彼はテーブルの間を黙々として歩いて みた。押し襲《よ》せて来た女が、彼の肩からぶら下った。彼 は群らがる女の胴と耳輪を、ぶら下った女の肩で押し割 りながら進んでいった。彼の首の上で、腕時計が絡《から》み合 った。擦《す》り合う胴と胴との間で、南瓜《かぼちゃ》の皿が動いてい た。  参木はこの無数の女に洗われるたびごとに、だんだん 慾情が消えていった。彼は椅子へ腰を下ろすと煙草《たばこ》を吸 った。テーブルの上に盛り上った女の群れが、しなしな 揺れる天蓋《てん蛋》のように、彼の顔を覗き込んだ。彼は銀貨を 掌の上に乗せてみた。と、女の群れが、逆さまになっ て、彼の掌の上へ落ち込んで来た。彼は重なり合った女 の下で、漬物のように扁平《へんぺい》になりながらげらげら笑いだ した。銀貨を探す女の手が、彼の胸の上で叩き合った。 耳輪と耳輪がねじれ合った。彼は膝で女の胴を蹴《け》りなが ら、宙に浮んできらきらしている沓《くつ》の間から首を出し た。彼がようやく起き上ると、女たちは一つの穴へ首を 突っ込むように、ばたばたしながら、椅子の足をひっ掻 いていた。彼は銅貨を集った女たちの首の間へ流し込ん だ。蜂のような腰の波が、いっそうはげしく揺れだし た。彼は彼に絡《から》まった女たちを見捨てて、出口のほうへ 行こうとした。すると、また一団の新しい春婦の群れ が、柱やテーブルの間から襲って来た。彼は首を真直ぐ に堅めながら、その尖角《とが》った肩先で女たちを跳ねのけ跳 ねのけ進んでいった。彼の首は前後から女の腕に絡《から》まれ ながらも、波を押しきる海獣《かいじゆう》のように強くなった。彼は 女を引き摺《ず》る圧感《あつかん》で汗をかいた。彼は肩を泳ぐように乗 り出しつつ、女の隙間をめがけて食い込んだ。だが、女 の群れは、彼の身体から振り放されるたびごとに、新手 を加えてたかって来た。彼は肱《ひじ》で縦横無尽《じゆうおうむじん》に突きまくっ た。すると、突かれた女は踉《レ幽》うけながら、また他の男の 首に抱きついて運ばれていった。  参木は茶館を出ると水を探した。もう身体がぐったり と疲れていた。彼は再び自分を待ち受けているお杉の身 体を思い出した。 「危い、危い」と彼はうめくように呟《つぶや》いた。  彼は競子の良人が死んでしまって、競子の顔を見るま では、お杉の身体に触れてはならぬと思っていた。もし 彼がお杉に触れたら、彼はお杉を妻にしてしまうに定《きま》っ ていると思うのだ。だが、それまで、いかなる整理法で 身を清めて行くべきか。彼は何より古めかしい道徳を愛 して来た。この支那で、性に対して古い道徳を愛するこ とは、太陽のように薪鮮な思想だと彼には思うことがで きるのだ。——  すると、参木は不意に肩を叩かれた。振り向くと、さ っきの支那人がまた写真を持って彼の後に立っていた。 「どうです、十枚二円」  参木はこの風のような支那人に恐怖を感じて睨《にら》んでい た。が、また彼はそのまま、黙って歩きだした。いま一 度写真を見たらもうだめだ。——彼はショウィンドウの 飾りつけを首を突き込むように見て歩いた。真赤な蝋燭 の群れが天井から逆さに生えた歯のように下っていた。 鏡に取り包まれた桃色の寝台。牢獄のような質屋の門。 饂飩屋《ろうそくうどんや》の饂飩の中に、牛の足が蹄《ひずめ》を上向けて刺さってい た。すると、また、彼は肩を叩かれた。 「どうです、十枚一円」  瞬間、参木は閃《ひら》めいた一つの思想に捉《とら》われて興奮し た。  ——i人間は、真に人間に対して客観的になるために は、世人の繁殖運《はんしよく》動を眼前に見詰めなければ、だめであ る,1と。彼はしばらくして、追い込まれるように露 路の中へはいっていった。露路の奥には、阿片《あへん》に慄《ふる》えた 女の群れがべったり壁にひっついて並んでいた。      十一  プラターンの花からは、花が吹雪《ふぶき》のようにこぼれてい た。宮子は甲谷に腕を持たれて歩いて来た。栗に似たひ しゃげた安南《アンナン》兵が剣銃を連らねて並んでいた。その円い ヘルメットの背後では、フランスの無線電信局が、火花 を散らして青々と明滅した。宮子はミシェルの高雅《こうがし》な秋 波《ゆうは》を回想しながら甲谷に言った。 「あたし、ここの電信局の技師さんと十三日間踊ったこ とがあったのよ。フランス人でミシェルっていうの。あ たし、ミシェルは好きだったわ。どうしてるかしら、あ の人」  踊り場からようやく初めてニマイルも踊子を連れて来 て、与えた花束の大きさを較べられては、甲谷とて発奮 せずにはおられないのだ。 「今夜だけは静に取扱ってもらいたいもんだね。何しろ このごろは急がしくって、日記をつけている暇もろくろ くないんだから」 「あたしだってこのとおり急がしいわよ。あなたはあた しを見ると、好きだ好きだとおっしゃるし、イタリァ人 はイタリァ人で、あたしを放してくれないし、まア、何 んでもいいわ。その日その日はなるだけ愉快に暮すのが 一番だわ」 「じゃ、今のところはイタリア人と競争かい」と甲谷は 言ったQ 「だって、あたしはこれでも、容子さんと競争なのよ。 あのイタリァ人はあたしと容子さんとをいらいらばかり させてるの。だから、あたし、今度はアメリカ人とばっ かり踊ってやるの」 「道理で旗色《はをいろ》はどうも悪いよ」  宮子は毛皮の中で首を縮めて笑いだした。 「そうよ、だって、外国人はお客さんたわ。あなたなん か、少しはあたしたちと共謀《きようぼう》して、外函人からお金をと らなきあだめじゃないの。こんなあたしや秋蘭さんなん か、いくら追い廻したって、始まりゃしないわ」  哲学は到る所から生えていく。甲谷は日本人の色素の ために、ここでも悲しまねばならぬのであった。彼は今 まで、過去に堆積《たいせき》された女から賞讃《しょうさん》され続けて来た理由 はこうである。  ——まア、あなたは外国人のようだわね。——  だが、宮子の前で外人らしさを外人と競争すること は、甲谷にとっては不利であった。彼はもう十日間も宮 子の踊場へ通って来た。だが、宮子の跟は、 「まア、日本人は、後にしてよ」といつも言う。  この支那の海港の踊子の虚栄心は、いくたりの外人が 切符《きつぶ》を自分にばかり集めるかを計算し合うことである。 そうして、宮子はこの計算では、常にナンバー・ワンの 折紙《おりがみ》をつけられているのであった。  甲谷は十日間の三分の一を、その自由なフランス語と ドイッ語とで外人と張り合った。後の一、一分の一の力を、 金と饒舌《じようぜつ》に注《そそ》ぎ込んだ。しかし、この宮子の高ぶった誇 りの穴へ落ち込んだ日本人-——甲谷が、宮子の誇りをな くするためには、彼はあまりに誇りすぎていたのであ る。甲谷はだんだん滅《ほろ》んでいく自信のために、今はます ます宮子に手を延ばさずにはおれなかった。  微風に吹きつけられたプラターンの花の群れは、菩提《ぼがいじゆ》 の幹へ突きあたって廻っていた。その白い花々は三方 から吹き寄せられると、芝生《しばふ》にひっかかりながら、小径《こみち》 の砂の上を華奢《きやしや》な小猫のように転げていった。 「まアいやね、この先は真暗だわ」と宮子は彼に寄りそ って言ったQ 「だいじょうぶだよ、行こう」  甲谷は公園の芝生を突き切ると光りの届かぬ繁みのほ うへ廻っていった。宮子はその繁みの向うに何があるの かまで知っていた。彼女はミシェルとそこで、池の傍 で、過ぎた日曜のある日の晩、どうして二人が一時間の 時間を忘れたかを覚えている。まア、何と男は同じ所を 好むのであろう。彼女はそこで、甲谷が何をするかをま で知っているのだった。——甲谷は宮子の回想を案内す るかのように、水草の沈んだ池の傍まで歩いて来た。 「もうこのさきはだめだわ。ここらあたりで帰りましょ うよ」と宮子は言った。  宮子はひとりで甲谷から放れると、ちらりと]叢の芽 を出した灌木《かんぼく》を眺めながら、門のほうへ歩いていった。  甲谷は宮子の後姿を見詰めていた。彼は彼女の足を牽《ひ》 きつけている者が、宮子を繞《めぐ》っている逞《たくま》しい外人の足の 群れだと睨《にら》んでいる。だが、どうして日本人は、このよ うにも軽蔑《けいべつ》されねばならぬのであろう。-ー甲谷は公園 の門の前まで、自分の短い足を歎《なげ》きつつ歩いて来た。し かし、彼はその門から前へ、公園の中へ、どうして支那 人だけがはいることを赦《ゆる》されてはいないのか考えるのは うるさいのだ。  枝を截《き》り払われた菩提樹《ぼだいじゆ》の若葉の下で、宮子は瓦斯燈《ガスとう》 の光りに濡《ぬ》れながら甲谷の近づくのを待っていた。 「瓦斯燈のある所なら、あたし、誰とでも仲良くできる のよ」  勝ち誇った華奢《きやしや》な宮子の微笑が、長く続いた青葉のト ンネルの下を潜《くぐ》っていく。坦々|砥《と》のように光った道。薔 薇《こら》の垣根。腹を映して辷《すべ》る自動車。イルミネーションの 牙城《がじよう》へと迫るアルハベット。甲谷はここまで来ると、再 び彼がそのようにも負かされ続けた外国人たちの礼譲《れいじよう》 を、支那人ではないということを示さんがためばかりに さえも、重じなければならぬのだった。彼は宮子の手を とると言ったQ 「これからカルトンまで歩いていこう」 「あたし、パレス・ホテルへ行きたいの」  今は甲谷は、池の傍でズボンの折目を乱さなかったと いう巧《たく》みさを誇るかのように快活になって来た。 「こうして手を組みだすと、まるで生活が明るくなる ね。これやまったく不思議だよ」 「そりゃ、あたしたちは踊子だからよ」 「しかし、君らはダンスをするのが目的なのか、それと も君らはまアー」 「もうたくさん。あたしたちが結婚すれば、堕落《だらく》するの と同じなのよ。だから、もう結婚のお話だけはまっぴら よ。それよりあなたなんか、秋蘭さんでも見てらっしゃ ればそれでいいじゃないの」 「いや、僕らは君を追っかけては振り廻され、追っかけ ては振り廻されているのは、これやいったい、どうした もんだろうって考えてるのさ」  宮子は突然、甲谷に見られていない片頬に、鱗《うろこ》のよう な鮮明な嘲笑《ちようしよう》を揺るがせた。 「そりゃ、なかなかむつかしいわ。あなたは社交ダンス の踊り方をご存知ないのよ。いつでもあたしたち、女は 男のするままの姿勢になって踊るべしって言われてるん でしょう。だから、あたしのような踊子たちは、踊らな いときだけでも自由に踊らなくちゃたまんないわよ」  甲谷は矢継早やに刺されながらも、なお鈍感らしい重 みを鄭重《ていちよう》に続ける必要を感じるのであった。なぜなら、 彼は、宮予に愛されることよりも、今はこの珍らしい光 芒《こうぼう》を持った女性の急所が、どこにあるのか見届けたかっ たからである。彼は一昨々夜、闇《やみ》の中で黙々と彼に身を 委《ゆだ》ねたお杉のことを思い出した。あのお杉とこの宮子、 そうして、あのお柳《め「少う》とあの支那婦人の芳秋蘭、——何と 女の変化の種類も色とりどりなものではないか。甲谷は まだ参木に紹介しないこの宮子を、ぜひとも参木に—— あの不可解なドン・キホーテに紹介してみたくてならぬ のであった。  甲谷と官子は、河岸のパレス・ホテルへ着くと、ロビ ーの椅子《いす》に向い合った。大伽藍《だいがらん》のように壮麗《そうれい》な側壁、天 空を模した高い天井、輝き渡った床と円柱、アフガンの 厚ぼったい緋《ひ》の絨氈《じゆうたん》。——誰も人影の見えない円柱と円 柱との隙間のかなたで、押し黙った外人が二人、端整な 姿勢でダイスをしていた。筒から投げられる骰子《さい》ころの 音が、森閑《しんかん》とした大理石の間に木魂《こだを》を響かせつつころこ ろと聞えて来ると、宮子はコンパクトを取り出して言っ た。 「あなた、ここへもうじき、ドイツ人が逢いに来るの よ。そしたら、あなたはひとりで帰ってね」 「何んだそれは、君の例の恋人か?」 「そう、まア、恋人ね。ごめんなさい。ちょっと今夜は いたずらがしたくって、あなたを煽《おだ》ててみたかったの。 もうじき来てよ」  甲谷はひと息呼吸を吸い込んだ。すると、宮子は笑い ながらまた言った。 「だって、あたしは休日でしょう。休みの日には、せい ぜいたくさん、お客さんを喜ばせておかないと、休日に はならないわよ。つまり、今円があたしの本当の働き日 なの。世間の人とは反対よ」 「ドイッ人って、あのいつものフィルゼルとかいう甲虫《かぶとむし》 か」と甲谷は言った。 「ええ、そう、だけどあれでもアルゲマイネ・ゲゼルシ ヤフトの錚々《そうそう》たる社員だわ。あの人とゼネラル・エレク トリックのクリーバーって社員とは、それやいつも熱心 よ。あたし、今夜はフィルゼルと逢ったら、すぐクリー バーとも逢わなくちゃならないの」 「じゃ、もちろん、まだ帰りは分らんね」 「それはだめよ。まだまだそれからが大変なんだから。 パーマスシップのルースともちょっと逢わなきアならな いし、マリンのバースウヰックとも逢わなきあならない し。ほんとに、あたし、今夜はやれやれというとこな の」  甲谷は時計を見上げると立ち上った。 「それじゃ、僕はこれから、サラセンへいって、のんき にひと晩踊ってやろう。さようなら」 「さようなら。後であたしも、誰かをつれていっしょに いくわ」      十ニ  苦力《ク リ 》たちは寝静まった街の舗道で眠っていた。塊《かたま》った 彼らの肩の隙間では、襤縷《ぼろ》だけが風に靡《なび》いた植物のよう に動いていた。扉を立てた剥《は》げ落ちた朱色の門の下で、 眼の悪い犬が眠った乞食《こじき》の袋を圧えていた。ときどき欝 然《うつぜん》と押し重なった建物の中から、鋭く警官の銃身だけが 浮きながら光って来た。参木はロシア人の娘を連れて山 口の家まで帰らねばならなかった。彼は三日前にお杉を 街でまいてから、今まで山口の家に泊っていたのであ る。彼はその間、山口の幾人かの女の中のこのオルガの 淋《さび》しさを慰める命令を受けたのだ。 「この女は淋しがりやで、正直で、音楽が帝政時代みた いに好きなんだ。君が遊んでいるならしばらくよろしく 頼んだよ。いや、何に、その間は君に自由の権利を与え るよ」  参木は明らかに山口から嘲弄《ちょうろう》されたのを知っていた。 だが、彼は山口からアジヤ主義の講義で虐《いじ》められるより はこのオルガと音楽の話をしているほうが愉快であっ た。 「よし、それならしばらく借りよう。その間に、君は僕 の仕事を見つけておいてくれたまえ」  参木は三日間、ほとんどロシアの知事の生活と、チェ ホフとチャイコフスキーとボルシェビーキと日本と、カ スピ海の腸詰《ちようづめ》の話とで暮して来た。しかし、ふと彼は家 に残して来たお杉の処置を考えると、その場所とは不似 合な憂欝《ゆううつ》に落ち込んだ。  オルガは今も参木の顔が黙々として暗くなると、せき 立てるように足を早めて英語で言った。 「だめ、だめ、あなたはどんな嬉しそうな時でも、悲し そうだわ」 「いや、あなたは、日本人の表情をまだよく知っちゃい ないんです」 「嘘《うそ》よ、あたしはちゃんと知ってるの。山口はあなたの ことを言っていたわ」 「山口なんか、何にも知りゃしませんよ」 「嘘だわ。あたし、山口から言いつかっているの。あな たは死にたい死にたいと言ってる人なんだそうですか ら、なるたけ楽しそうにするようにって」 「ばかな、僕はね、オルガさん、あなたは淋しがりやだ から、よろしく頼むって山口から言われてるんですよ」 「まア、そう。山口も上手《うま》いのね。でも、あたしなん か、そりゃ初めは淋しかったわ。だけど、もうこうなれ ばね」 「それや、そうですよ」  眠った街の底でオルガの顔の繊細《珍んさい》な波だけが、波紋の ように鮮やかに動いていた。アカシヤの葉に包まれた瓦 斯燈《ガスとう》には宮守《やもり》が両手を拡げて止っていた。火の消えたア ーチの門。油に濡れた油屋の鉄格子。トンネルのような 露路の中には、家ごとの取手の環が静かに一列に並んで いた。オルガは溜息《ためいき》をつくと舗道の石線を見詰めながら 寄って来た。 「ね、参木さん、隠しちゃいやよ、あの山口ね、あの山 口には五人の女があるんでしょう」  おそらく五人どころではないだろう。だが、参木はオ ルガを慰めなければならぬ命令を山口から受けているの だ。 「僕は山口のことについては、実は何も知らないし、山 口だって僕のことは、何も知りゃしないのです。しか し、それや何かの間違いじゃありませんか」 「あなたは、あたしの言うことがお分りにならないんだ わ。山口が女を幾人持とうと、あたしには何んでもない の。ただね、あたし、あなたがもう少しあたしの傍にい てくだされば、と思うのよ」  参木はもう三日間、ブロークンな英語の整理に疲れて いた。それに、このオルガの溜息に滴《したた》らす会話は初めて だった。 「オルガさんは、いつかバザロフのお話をなすったです ね。あのツルゲネーフのバザロフの」 「ええ、ええ、あの唯物主義者《ゆいぶつしゆぎしや》はボルシェビーキの前身 ですわ」 「ところが、あれが僕の現在なのですよ」 「まア、あなたは、それじゃ、あたしたちがどんなに困 らされたかということも、ご存知ないのね」 「いや、それは知っていますとも。しかし、バザロフは ポルシェビーキじゃありませんよ。あれは唯物主義者で もない虚無主義者でもない、物理主義者なんです。これ はロシア人にはよく分らないと思うんですが、一番よく 知っているのは支那人です。支那人は唯物主義者の一歩 進んだ物理主義者の集団です」 「あたしには、あなたのおっしゃることが、分らない」 とオルガは言った。  -つまり、愛の言葉を聞きかけたら、わけの分らぬ ことを言うが良いという主義なんだ、と参木は思うと淋 しくなった。オルガはいっそうしおれて歩きだした。街 角の瓦斯燈《ガスとう》の下では、青ざめた款瓦石《しきいし》の水溜りに、鉄の梯 子《はしご》が映っていた。複合した暗い建物の下で、一軒の豆腐 屋《とうふや》が戸を開けて起きていた。その屋根の下では、重々し く動く石臼《いしうす》の間から、この夜中に真白な粘液だけがひと りじくじくと鮮やかに流れていた。 「あーあ、あたし、モスコウへ帰りたい」とオルガは言 った。    十三  参木は山口の家へ着くと、自分の部屋に当てられた一 室へはいった。彼はひとりになって寝台の上へ仰向《あおむ》きに 倒れると、急に東京の競子のことを思い出した。もし死 にかかっている競子の良人が死んでいるころだとすれ ば、電報は彼女の兄の甲谷の所へ来ているにちがいなか った。が、その甲谷とはもう三日も逢わぬのだ。しか し、甲谷に逢うために家へ帰れば、家にはお杉が待ち伏 せているに決っていた。  ——この心の中に去来《きよらい》する幻影は、これはいったい何 んだろう。お杉、競子、お柳、オルガ。iただ競子を ひそかに秘めた愛人であったと思っていたばかりのため に、絶えず押し寄せて来る女の群れを跳《は》ねのけて進んで いるドン・キホーテ。1しかも、競子の良人が死んだ としても、彼は競子と結婚できるかどうかさえ分らない のだった。いや、それより、彼は今は自分の職業さえ失 っているのである。  そのとき、今別れたはずのオルガが突然はいって来て 彼に言った。 「まア、山口はいないのよ。あなた、捜《さが》してちょうだ い、あたし、これからひとり帰らなきゃならないんだ わ。あああ、いやだ、あたし、モスコウへ帰りたい」  オルガはいきなり参木の寝ている寝台の上へ倒れる と、泣き始めた。参木は、これが喜ぶべき結果になるか 悲しむべき結果になるかを考えながら、オルガの背中を 撫《な》でてみた。すると、オルガは首を振り立てて怒ったよ うに彼に言った。 「あなた、そこを降りてちょうだい、あたし、Aユ佼はひ とりで寝るんです」  参木は黙って寝台から降りると靴を履《は》いた。 「じゃ、お休みなさい。さようなら」  彼が会釈《えしやく》をして部屋から出ようとすると、オルガは不 意に彼の胸に飛びついて来た。 「いや、いや、出ちゃー」 「だって、ここにこうして一晩立っているのは、困りま すよ」 「ボルシェビーキ、悪魔、あなたたちはあたしをこんな にしたんです」  参木は弓なりに反《そ》りながら、オルガの膨《ふく》れた乳房を支 えて言ったQ 「僕はボルシェビーキじゃありませんよ」 「そうよ。あなたはボルシェビ!キです。そうでなくち ゃ、あなたのように冷淡な人なんか、いやしません」 「だいたい、僕がここにこうして寝ているとき、僕を叩 き起して、代りに自分がベッドを奪《と》ろうというのは、ポ ルシェビーキだってしませんよ」  オルガは唇を噛《かし》み絞めると、黙って泣きながら、参木 の腕をぐいぐい引いた。参木はオルガの力に抵抗しなが らも、足が辷《すべ》って寝台のほうへ引き摺《ず》られた。彼は片手 を寝台につきながら、海《えび》老のように曲った。 「オルガさん、そんなことをしちゃ、この服が破れるじ ゃないですか」 「悪魔」 「僕は失職してるんです。服が破れたら、明日から、1 ー」  言いつつ参木はおかしくなって、げらげらと笑いだし た。オルガはうむうむ唸《う・な》りながら、参木の首を片腕で締 めつけつつ、彼を引き倒そうとして赤くなった。参木は 首がだんだんと痛くなった。彼はオルガの咽喉《のど》を押しつ けた。 「オルガさん、放しなさい。殴《なぐ》りますよ」  しかし、オルガはなおも歯を食い縛ったまま彼の首を 締めつけた。彼は呼吸が苦しくなると、咳《せき》が出た。 「オルガ、オルガ、ー」  参木はオルガを担《かつ》いでべッドの上へ投げつけた。オル ガの足は空を廻ッて一転すると、慄《ふる》えた寝台の上で弾動《だんどう》 した。が、すぐ彼女は起き土ると、枕を参木に投げつけ た。 「ばか、ばか」  彼女は真青になったまま、再び猛然と彼の頭の上へ飛 びかかった。彼は風の中でオルガの身体を受けとめる と、背後へよろめいて、壁の鏡面へ手をついた。オルガ は彼の肩ロへ食いつくと、首を振った。参木は押しつけ る筋肉のうねりと、鏡面にしぼり出されて長くなった。 やがて、彼と彼女との肉体は、狂気と生との一線の上で、 うなりながら混雑した。と、二人は、今は誰が誰だか分 らぬ棒のように放心したままばったりと横に倒れた。    十四 参木はしばらくオルガのなすがままにまかせていた。 オルガは彼の額の前で撥剌《はつらつ》と伸縮《しんしゆく》しながら囁《ささや》いた。 「まア、あなたは可愛《かわい》らしい。参木、お休みなさいな。 ここは、ほら、こんな床の上じゃないの。風邪《かぜ》をひいて よ、さアさア」  オルガは参木の頭を持ち上げようとした。が、彼女は またそのまま坐り込むと言った。 「参木、あなたはあたしを忘れちゃいやよ。あなたはあ たしを、日本へ連れてってくださるでしょう。あたし、 日本が見たいの。ね、参木、何とかおっしゃいよ」  オルガの唇が参木の顔の全面を、刷毛《はけ》のように這い廻 った。すると、彼女は立ち上ってベッドの皺《しわ》をぽんぽん と叩いた。 「まあ参木は強いわね。あたしをここへ投げつけたの よ。あたしあのとき、眼が廻ってくるくるしたわよ。だ けど、あたし、もういいの」  オルガはベッドの中へ飛び込むと、ひとり毛布《もうふ》を冠っ たまま膝《ひざ》でダンスをし始めた。しかし、参木は横たわっ たまま起きて来なかった。オルガは毛布の中から頭を上 げると覗いてみた。 「参木、どうしたの」  参木はようやく起き上ると、オルガから顔をそ向けて 部屋を出ようとした。 「参木、どこ行くの」  彼は黙ってどしんと肩でドアーを開けかけた。すると、 オルガは毛布を引き摺《ず》ったまま彼の傍へ駈けて来た。 「いやだわ。参木、出るならあたしも連れてって」  参木はオルガの顔を、まるで投げ出された足でも見る ように眺めていた。が、彼はまたそのまま出ようとし た。 「いやよ、いやよ。あたし、ひとりなら死んでしまう」 「うるさい」  参木はオルガを突き飛ばした。オルガはぶるぶる慄《ふる》え ると、わッと声を上げて泣きだした。参木は素早くドア ーを開けて部屋の外へ飛び出した。オルガは屏風《びようぶ》のよう に傾いて彼の後から駈《か》けて来た。彼女は階段の降り口の 上で参木の片腕をつかまえた。 「参木、あなたはあたしから逃げるんだわ。いやだ、い やだ」  ばたばた足を踏みながら、彼女は彼の手を濡れた顔へ 押しつけた。参木はしばらく黙って立っていた。が、彼 の は握られた手を振り切ると、また階段を降り始めた。オ ルガは彼のシャツをひっ掴《つか》んだ。彼女の身体は撓《たわ》みなが ら逆さまになった。参木は欄干《てすり》を掴んだまままた降り た。 「参木、待って、待って」  引き摺《ず》られるオルガの反り返った足先は、階段を一つ ずつ叩いていった。シャツを剥《は》がれた参木の腹の汗の中 で、臍《へそ》が苦しげに動揺した。すると、参木は一気に階段 を駈け下った。彼は惰力《だりよく》で前面の壁へ突きあたった。オ ルガは階段の下で廻転すると、参木の足元へぶっ倒れ た。参木はオルガを起そうとして身を跼《かが》めた。が、ふと 急に、彼は空を見上げたときのような淋しさを感じて来 た。彼は呻《うめ》いているオルガを跨《また》いで突き立ったまま、何 の表情も動かさずに彼女の頭髪を眺めていた。      十五  夜のその通りの先端には河があった。波立たぬ水は朦 朧《もうろう》として霞《かす》んでいた。支那船《ジヤンク》の真黒な帆が、建物の壁の 間を、忍び寄る賊《ぞく》のようにじっくりと流れていった。お 杉はときどき耳もとで蝙蝠《こうもり》の羽音を感じた。仰げば高層 な建物の冷たさが襲って来た。1彼女は三日間参木の 帰るのを待っていた。が、帰らないのは参木だけではな かった。甲谷も一夜も帰らなかった。ただその間、彼女 魏 は湯を沸《わ》かしては水にし、部屋を掃除し続けては泥溝を 眺めて、ようやく二人から嫌われたのだと気付いたとき には、腹立たしさよりも、ぼんやりした。お杉は再びも う参木には逢うまいと決心して、この河の岸まで来たの である。  泥の中から起重…機の群れが、錆《さ》びついた歯をむき出し たまま休んでいた。積み上げられた木材。泥の中へ崩《くず》れ 込んだ石垣。揚げ荷からこぼれた菜《な》っ葉《ば》の山。舷側《げんそく》の爆《はじ》 けた腐った小舟には、白い菌が皮膚のように生えてい た。その竜骨《りゆうこつ》に溜った動かぬ泡の中から、赤子の死体が 片足を上げて浮いていた。そうして、月はまるで塵埃《じんあい》の 中で育った月のように、生色をなくしながらいたる所に 転げていた。  ポルトガルの水兵が歪《ゆが》んだ帽子の下で、古里《ふるさと》の歌を唄 って通って行く。お杉は月を見ると、月のようになっ た。泥溝を見ると、泥溝のようになったー。彼女は、 今も朝からの続きを、まだ茫然《ぼうぜん》と過ごしているのだ。 が、ふと、お杉は友人の辰江のことを思い出した。  ——あの辰江のように、部屋を持って、客さえ取れ ぱ。1  そうだ。辰江のように客さえ取れば、と彼女は思う と、急に橋の上で、生き生きと空腹を感じて来た。彼女 は朝から食べた食物を数えてみた。  ——家鴨《あひる》の足と、蓮《はす》の実と、豚の油と、 筍《たけのこ》と。——  だが、お杉の頭には、辰江の絹の靴下が、珍稀《ちんき》な歓楽 を詰めた袋のようにちらちらした。唇の紅の色が、特別 な男の舌のように、秘密を持って膨《ふく》れて見えた。と、彼 女は、またいつものように、自分を奪ったものは参木で あろうか、甲谷であろうかと迷いだした。彼女は、あの 夜の出来事がi自分を奪ったあの男は、二人の中のど ちらであろうかと思い煩《わずら》う念力のために、きりきり廻っ た無謀《むぽう》な風のように中心をなくしだした。そうしてお杉 は、今はいっさいのことが分らぬままに、女の中の最後 の生活へと早道をとり始めたのだ。  胡弓《こきゆう》の音が遠く泥の中から聞えて来た。お杉は橋を渡 ると、見覚えた春婦のように通る男の顔を眺めてみた。 彼女の前の店屋では、べたべた濡《ぬ》れた臓物の中で、口を 開いた支那人が眠っていた。起重機の切れた鎖《くさり》の下で、 花を刺した前髪の少女が、ランプのホヤを売っていた。 河岸に積み上った車の腐った輪の中から、弁髪《べんばつ》の苦力《ク リ 》が 現われると、お杉の傍へ寄って来て笑いだした。お杉は 背を縮めて歩いていった。すると、男は彼女の後からつ いて来た。お杉は慄えながら後ろを振り返って男に言っ た。 「ちがう、ちがう」  彼女はあわてて露路の中へ駈《か》け込むと、せかせかと、 いくつもの角を曲っていった。その露路の奥では、鋭く 割れたガラスの穴の中で、裸体の背中が膨《ふく》れていた。お 杉は立ち停ると、どちらへ出るのか迷いだした。彼女の 頭の上には、鰓《えら》のように下った洗濯物が、まだべとべと 壁を濡らして並んでいた。柱にもたれた女が、突角《とが》った 肩をびくつかせて咳《せ》きをしていた。その後の床の上で は、眼病の裸体の男女が、一本の赤い蝋燭《ろうそく》を取り巻いた まま蹲《しやが》んでいた。ふとお杉は上を向くと、四方から迫っ ている壁の窓々から、黙々とした顔が、一つずつ覗きだ した。お杉は慄えた棒のように、敷石に躓《つまず》きながら、壁 の中から壁の申へさ迷い込んだ。灯がだんだんとなくな りだした。と、闇の中で、今まで積った塵埃《じんあい》だと思って いた襦縷《ぼろ》の山が、急に壁の隅々から、無数にもぞもぞと 動きだした。お杉は壁にぴったりひっつくと、足が動か なかった。と、たちまち、その黒い襤褸の群れは、狭い 壁と壁との間いっぱいに詰まりながら、鈍重な波のよう に襲って来た。お杉は一瞬、眼前に並んで点々としてい る人間の鼻の穴を見た。と、彼女はその場へ昏倒《こんとう》する と、塊《かたま》った襤縷の背中の波の申に吸い込まれて見え友く なった。      十六  塵埃《ゆしんあい》を浴びて露店の群れは賑《にぎわ》っていた。笊《ざる》に盛り上っ た茹卵《ゆでたまご》。屋台に崩れている鳥の首、腐った豆腐《とうふ》や唐辛子《とうがらし》 の間の猿廻し。豚の油は絶えず人の足者に慄《ふる》えていた。 口を開けた古靴の群れの中に転げたマンゴ、光った石 炭、潰《っぶ》れた卵、膨《ふく》れた魚の気胞の中を、纒足《てんそく》の婦入がう ろうろと廻っていた。  この雑然とした街角の奥に婆羅門《ばらもん》の寺院が彎《そび》えてい る。しかし、釈尊降誕祭のこの日の道路は、支那兵の剣 銃に遮断《しやだん》されて印度《インド》人は通れなかった.それが明らかに 英.国官憲の差金《さしがね》であろうことを洞察《どうざつ》している印度人たち は、街の一角を埋めたまま、輝やく剣銃を越して寺院の 尖塔《せんとう》を睨《にら》んで立っていた。  間もなくこの露骨《ろこつ》に印度人の集会を嫌う英国風の街の 中を、草色の英国の駐屯兵《ちゆうとんへい》が部隊にロシアの白衛兵を加 えながら、楽隊を先駆にして進んで来た。その後から、 真赤な装甲自動車が機関銃の銃口を触角のように廻しな がら、黒々と押し黙った印度人の団塊の前を通っていっ た。  山口は印度の志士のアムリから電話を受けて、参木と いっしょに来たのである。だが、来てみれば機関銃の暗 い筒口の前で、印度人たちは眼を光らせたまま沈黙して いるだけだった。しかし、それにしても、アジヤ主義者 の山口は、英国の官憲と同様に印度人を遮断《しやだん》している支 那の軍隊に腹立たしさを感じて来た。が、ふと、彼はア ムリが彼を呼び出した原因を、同時に感じて笑いだし た。  ——この腹立たしさを俺《おれ》に呼び起すためだとすると、. なるほど、アムリの奴め——  しかし、瞬間、彼は支那の軍隊の遮断している道路 が、その街角から彼らの方向へ向っては、支那の管轄《かんかつ》区 域だということに気がついた。  ——これじゃ、アムリの奴、日本人に考えろと言やが ったんだ。ばかにするな。ばかに。1  しかし、次の瞬間、彼は支那兵と対峙《たいじ》している印度人 の集団を、英国の官憲として使われている印度人の警官 が圧迫しているのを発見した。  こうなると、山口はアムリの意志がどこにあったのか 分らなくなって来た。iこのばかな印度人の醜態《しゆうたい》を見 るが良いと言ったのか、支那の国内で暴れている英国兵 を、支持している支那の兵士のその顔を見よと言ったの 丶 O  しかし山口はアムリと同様、このアジヤを聯結《れんけつ》させて 白禍《はくか》に備える活動分子の一人として、眼前の支那と印度 の無力な友の顔を見ていると、笑うことはできなかっ た。彼は街路で、この民族の衝突し合っている事件とは 無関心に、笊《ざる》に盛り上っている茹卵《ゆでたまご》を見つけると、支那 人の顔を思い出した。足元の屋台の上に、斬《き》られた鳥の 首ばかりが黒々と積って眼を閉じているのを見ると、印 度人を思い出した。彼は彼の横に、アムリがいるかのよ うに呟《つぶや》いた。 「数の多いということは、ただ弾丸除《たまよ》けになるだけだ」 「そうだ」と参木は、不意に、自分に言われたように返 事をした。  事実、山口はアムリに逢うと、アムリの誇る「印度人 の数の多数』を、いつもこの言葉で粉砕《ふんさい》するのが癖であ った。すると、アムリは山口の誇る日本の軍国主義を皮 肉《ひにく》った。  ——しかし日本の軍国主義こそ、東洋の白禍を救い上 げている唯一《ゆいいつ》の武器ではないか。その他に何がある。支 那を見よ、印度を見よ、シャムを見よ、ペルシャを見 よ。日本の軍国主義を認めるということは、これは東洋 の公理である。——  山口は舗道の上を歩きながら、ひとり過ぎた日のアジ ヤ主義者の会合を思い出して興奮した。その日は支那の 李英朴が日支協約の「二十一力条」を楯《たて》にとって悪罵《あくば》し た。山口はそれに答えてただちに言った。 「支那も印度も日本の軍国主義を認めてこそ、アジヤの 聯結が可能になる。しかもわずかに日本の南満|租借権《そしゃくけん》が 九十九年に延長されたということを不平として、われわ れは東洋を滅ぼさねばならぬのか。われわれの東洋は、 日本が南満を九十九年間租借したという事実のために、 九十九年間の生命を保証されたということに気付かねば ならぬのだ」  すると、アムリは皮肉に言った。 「日本が南満を九十九年間租借したということによっ て、われわれの同志、山口と李英朴がかくのごとく相い 争うという事実は、日本が少くとも、九十九年間東洋の 同志をかく論議せしめるであろうということを、予想せ しめて充分である。しかし、印度はこの日支の係争《けいそう》いか んにかかわらず独立する。もしその独立の日が来たなら ば、印度は支那から、いかなる海外の勢力をも駆逐《くちく》せず にはおかぬであろう。印度のために、東洋の平和のため に」  だが、印度の独立の日までに、支那を滅ぼすものは何 んであろうかと山口は考えた。  ——それは明らかに日本の軍国主義でもない。英国の 資本主義でもない。それはロシアのマルキシズムか支那 自身の軍国か、いやむしろ印度の阿片《あへん》かペルシャの阿片 か、そのどちらかにちがいないのだ。  この東洋を憂《うれ》いつつ緊張している山「口の傍では、参 木は前からどう言えば昨夜のオルガとの交渉を、彼に理 解さすことができるだろうかと考えていたのである。彼 は午後の二時から甲谷と逢わねばならぬ約束を、電話で したのだ。甲谷と逢えば、競子のこととお杉のこととを 聞かねばならぬ。だが、それより前に、いったいオルガ をどう処置したら良いであろう。——l-  彼は自分がどれほどオルガに抵抗したかを考えた。彼 はオルガがどれほど自分に肉迫《にくはく》したかを考えた。しか し、その結果が、このようにオルガの処置について苦し まねばならぬとは。—— 「君、もう今日から、僕は君の所へは帰らないよ」と参 木は言った。 「なぜだ、オルガが恐くなったのか」  不意に急所へ殺到《さつとう》して来た山口の質問を、参木は受け とめることができなかった。 「うむ、あれは恐い」 「ところが、僕はあれから君を逃がさないようにって言 いつかってあるんだぜ。逃げちゃ困るよ、逃げちゃ」 「いや、もうごめんこうむるよ」 「困ったね、そりゃ印度《インド》のことよりこっちのほうが難《むず》か しくなるんじゃないか」  参木は突然げらげら笑いだした山口の顔を見ている と、彼は腹の中に隠れていた伏線《ふくせん》を感じて恐くなった。 「今日はこれから僕を逃がしてくれ。二時に甲谷と逢わ ねばならんのだ」 「君はばかだよ.あのおもしろい女から逃げ出すなん て、何んてあほうだ」  参木は山口の嘲笑《らようしよう》を背中に受けながら、パーテル・ カフェーのほうへ急いでいった。ただ競子の良人が死ん だかどうかを知りたいためにである。    十七  甲谷はその日の中に三つの材木会社と契約を結んで来 た。彼は軽快な祝報をまずシンガポールの本社へ打った。 「余《よ》の活躍かくのごとし。フィリッピン材をして蒼白《そうはく》な らしめること、期《ゆこ》して待て」  彼は参木から支配会社へかかっていた電話を思い出す と、速力の早そうな黄包車《ワンパウツ》を選んでパーテルへ走らせ た。彼は車の上で快活であった。この順調さで押してい くと、この地の支店長になれることはたちまちだった。 すれば最も安全な方法で金塊相場《きんかいそうば》に手を出そう。次には 綿糸《めんし》へ、次には外国|為替《かわせ》の仲買へ、次にはボンベイサッ タの棉花《めんか》市場へ、次にはリバプールの大市場へ、そうし て最後にー彼はとにかく何よりも、今は宮子を外国人 たちに奪われているということが、欝憤《うつぶん》の種であった。 彼の空想の中で暴れる勇ましい野心は、宮子を奪ってい る外人たちの生活力の中心を、突撃してかかることに集 中された。  彼は、外人たちの経済力の源泉《げんせん》となりつつある支那の 土貨に対して、彼らの向ける鋭い垂直トラスト尖鋒《せんぼう》を、 あくまで攪乱《かくらん》しなければやまぬと考えた。  ——それには、まず、フィリッピン材の馬を射よ、馬 を。——  この燃え上って来た彼の妄想《もうそう》の横では、桟橋《さんぱし》が黒い歯 のように並んでいた。のろく揚げ荷の移動しているかな たでは、金具を光らせたモーターボートが縦横《じゆうおう》に馳けて いた。波と湯気とを嫌らって逃げる舳舩《サンパン》。繁殖したマス ト。城壁のように続いた船舶《せんばく》。河水の色の変り目の上で 舞うぼろ帆。甲谷の車の速力へ、今はいっさいの風物が 生彩《せいさい》を放って迫って来た。  フィリッピン材何物ぞ。鴨緑江材《おうりよくこう》何物ぞ。浦塩《うらじお》であろ うと吉林であろうと、何するものぞ。1  こう思ってパーテルへはいると、休んだ煽風器《せんぶうき》の羽根 の下で、これはまたあまりに長閑《のどか》に、参木はミルクに溶 ける砂糖の音を聞いていた。甲谷は入口から手を上げて 進んでいった。 「どうも一度も家へ帰らないから、少々きまりが悪くな ってね」 「それや、僕もだ。まだあれから一度も家へは帰らない よ」 「それじゃ、君もか」  二人は同時に、残されたお杉のことを考えた。が、甲 谷は浮き上って来る喜びに落ちつくことができなかっ た。 「おい君、今日はこれで三つの会社を落して来たんだ。 まア、ざっとこれで三万円」 「もう喜ばすような話はやめてくれ。僕は鑑と別れた日 から首になった」 「首か」 「うむ、少々、痛いところを突《つ》いてみた」 「だから、君はばかだと言うんだ。ばかなi」  重い時計の振り子の下で、帝政ロシアの幹部派たちが いつもの憂欝な顔を並べて密談に耽《ふけ》っていた。巻かれた ナプキンの静かな群れ。暖炉《だんろ》の沈んだ大理石。厚いテー ブルの彫刻に散らかった干菓子の粉。秘密な波を垂れ下 げたヵーテンの暗緑色。1ふと甲谷はこの重厚なロシ アの帝政派の巣窟《そうくつ》、パーテルは、今は目分の快活さに不 似合なことに気がついた。眼につくいっさいのものが、 過ぎたロココの優雅さのように低声で、放埓《ほうらつ》に巻き上っ た絨氈《じゆうたん》の端にまで、不幸な気品がこぼれている。 「おい君、ここは出たっていいんだろう」 「うむ、しかし、僕は今日はここは落ちついて好きなん だ。首を切られたときはこういう所が一番だよ」 「まるでここは君みたいな所だね。首を切られたものの 寄り合いでさ」 「そう急にばか扱いにするなよ。僕はこれでも貴様の 懐《ふところ》を狙《ねら》っているんだぞ」 「いや、これはこれは。これじゃ、どっちが帝政派か分 らんが。ひとつ、あそこのロシア人に聞いてやろう」  ひどく愉快そうに笑っている甲谷の大口を見ている と、参木はもうこの日の甲谷を信用することができなく なった。甲谷は言った。 「さて、ひとつ、と言うところだが、どうだい、今日は 僕の言うままになってくれるのか」 「君のお附きは愉快じゃないね。君の金を皆渡せよ」 「ところが、そこに僕の頼みがあるのさ。この眼の色を 見てくれたって分るだろう」 「そんなら、こっちの眼の色だって分るだろう。首を切 られてお附きになるなら、首なんか切られなくたってづ んだんだ」 「頑固《がんこ》な奴だね。支那の美徳は金に服従するところにあ るんじゃないか。まだ君は精魂が抜けぬからばかなん だ。さて、ばかな奴はばかにして、と、ボーイ」  ボーイが来ると、甲谷は立ち上ってまた言った。 「ね、参木、今口はひとつ、二人でばかの限りを尽そう じゃないか。まだまだ人生には、おもしろいことがいく らだってあるんだぜ。それに、何んだい君は、顔を顰《しか》め て、首を切られて、今ごろからドン・キホーテの真似《まね》を してさ。あほうだよ」 「いや、僕は今日は、君の兄貴の家へ行くんだよ。僕は いくら君からばかにされたって、君の兄貴に仕事を探し てもらわなくち釦、ならんのだからね」  参木は外へ出ると、甲谷にはかまわず、彼の兄の高重 の家のほうへ歩きだした。甲谷は彼の後から言い続けた、 「おい、そっちへ行かずにこっちへ来いよ。今夜はそっ と芳秋蘭を見せてやろう。芳秋蘭をー」      十八 「競子もどうやら、いよいよ亭主《ていしゆ》が危くなって来たらし い。亭主が死ねば帰ると言って来ているが、あいつも日 本よりは支那のほうが好きだと見えるよ。しかし、この 俺だってこのごろは危いからね。今のところ、競子の亭 主が先きか、俺が先きかと言うところさ。おっと、細君 が聞いてやしないかい。こいつに聞かれちゃ、こりゃ一 番危いそ」と高重は甲谷と参木を見て言った。 「どうしてだ」甲谷は意外な顔つきで兄を見た。 「いや、職工の中へ、ロシアの手がはいりだしたんだ。 俺は職工係りだから、一番危い所にいるわけだ。いつ何 時《なんどき》…機械の間から、ぽんとやられるかもしれないさ。もう そろそろ、冗談事じゃないんだよ」高重は唇の片端を舐《な》 めながら弟の甲谷の服装をじろじろ眺めた。 「じゃ、もう争議が始ったのか」 「いや、争議の前だ。だから今がなかなか危いのさ。あ の浜中総工会が曲者《くせもの》だよ」 「それや危いね、他人事《ひとごと》ながら」 「他人事ながら?」と高重は言って弟のほうに眼を据《す》え た。 「うん、俺は今日は、三万円の契約をすまして来たん だ。この調子だと、ここ半年の間に支店長は受け合いだ ぞ」 「それや、他人事ながら羨《うらやま》しいが、兄貴は職工係りで 苦い汁ばかりを吸ってるし、弟は美味《うま》い汁ばかり吸って るなんて、どっかの教科書にあったじゃないか。もし俺 が支那人だったら、やるね、この職工係りに突きかかっ て、それから、お前のような奴を吹き飛ばして」高重は 声高く笑った。 「あ、そうそう、二三日前に芳秋蘭という女をサラセン で見かけたが、何んでも山口は兄貴がその女を知ってる といってたよ、知ってるのかい。芳秋蘭? まったくす ばらしい美人だが」と甲谷は言った。 「うむ、それは知ってる。俺の下で使っているそりゃ女 工だ」 「女工だって?」  と甲谷は驚いたように訊《き》き返した。 「まさか女工じゃないだろう。それや、何かの間違いだ よ」 「ところが、芳秋蘭は変名でこっそり俺の下で働いてい るんだ。来ればいつだって見せてやろう。俺は言いだす とうるさいから、黙って知らない顔をしてやっているん だが、あれは共産党でもなかなか勢力のある女だ、あれ は恐いよ。争議が起ればだい=蕾に、あの女が俺を殺す かもしれたもんじゃないから、俺も左かなか骨が折れる さ」と高重は言って顎《あご》を撫《な》でた。 「殺されちゃ、そりゃ兄弟争議にもならないね」  甲谷の混ぜかえすのに、高重は落ちつき払って微笑し た。 「まったくだ。職工の顔は立ててやらねばならぬし、重 役の顔も立てねばならぬし、それに日本人の顔も立てて いなけれやならず、おまけに兄貴と」ての顔も立てねば ならぬとしたら、どうもこれじゃ、ぽんとやられるほう が良いかもしれぬ。どうです。参木先生」 「いや、僕もそう思ってるところです」と参木は言っ た。 「そうそう、参木は首を切られてね、僕の財布《さいふ》を狙って るところなんだ」と甲谷は言った。 「首か」 「だから、さっきから、首を切られる奴は、昔からばか な奴だと言ってたところさ」 「首じゃ、それや、参木君ならずともやられたくなるは ずだよ」 「どうです、そのやられるような職はないもんでしょう か。どこだっていいんですよ。さっきから、それをお願 いしたくって来たんですが」参木は頼みがたいことも容 易に掴《つか》んだ機会を喜ぶように、顔を赧《あか》らめて高重を見 た。 「それやある。いくらだってあるにはあるが、今も言っ たとおり、その、危い所だぜ。そこでも良いのならい つでも来たまえ。一ぺんは国家のために死ぬのも死|甲斐《し刀γ》 もあろうさ」 「もうこうなっちゃ、なるたけやられる所のほうがいい んですよ。さばさばしますからな」  まったく話題に落ちがついたと言うように、声を合せ て三人は笑いだした。  声が沈まると、参木は部屋の中を見廻した。1この 部屋の中で、競子は育った。この部屋の中で、彼女を愛 した。そうして、自分はこの部屋の中で、幾たび彼女の 結婚のために死を決したことだろう。それに、今はこの 部屋の中で、競子の兄から自分が生き続けるための生活 を与えられようとしているのだ。何のために? ただ彼 女の良人《おつと》の死ぬことを待つために。1  参木はこの地上でこれほども自分に悲劇を与えた一点 が、ただ索寞《さくばく》としたこの八畳の平凡な風景だと思うと、 にわかに平凡ということが、何よりも奇怪な風貌《ふうぼう》を持っ た形のように思われだした。しかも、まだこの上に、も し競子が帰って来たとしたら、再びこの部屋はその奇怪 な活動を黙々と続けだすのだ。  参木は窓から下を眺めてみた。駐屯《ちゆうとん》している英国兵の 天幕が、群がった海月《くらけ》のように、紐《ひも》を垂らして並んでい た。組み合された銃器。積った石炭。質素な寝台。天幕 の波打つ峯と峯との間から突如として飛び上るフットボ ール。——参木はふとこの駐屯兵の生活が、本国へ帰れ ば失われてしまっていることを慨嘆《がいたん》したタイムスの記事 を思い出した。そうして、この地の日本人は? 彼らは 医者と料理店とを除いては、ほとんどことごとく借財の ために首を締められて動きのとれぬ群れだった。参木は 言ったQ 「もうこの支那で、何か希望らしい希望か理想らしい理 想を持つとしたら、それは何も持たないということが、 一番いいんじゃないかとこのごろは思うんですが、あな たなんか、どういうご意見なんですか」 「それやそうだ。ここじゃ理想とか希望とか、そんなも のは持ちようがまったくない。第一ここじゃ、そんなも のは通用しない。通用するのは金と死ぬことだけだ。そ れもその金が贋金《にせがね》かどうかと、いちいち人の面前で検《しら》べ てからでなけれや、通用しないよ」 「ところが、参木はその贋金をも試《しら》べないんだからね、 まったくこいつ、使い道のない奴だよ」と甲谷は言った。 「いや、それや参木君も僕と同様で、その贋金を使うの が好きなんだ。だいたい支那で金を溜《た》める奴というもの は、どっか片輪《かたわ》でなきあ溜らんね。そこは支那人の賢い ところで、この地でとった金は、残らずこの地へ落して 行くような仕掛けがしてある。まだわれわれを、人間だ と思っていてくれるところが、支那人の優しいところ さ」 「じゃ、支那人は人間じゃない神さまか」と甲谷は言っ てぎょうさんに笑いだした。  すると、高重は急にまじめな顔に立ち返って甲谷を見 た。 「うむ、もうあれは人間じゃない人間の先生だ。支那人 ほど嘘《うそ》つきの名人も世界のどこにだってなかろうが、し かし、嘘は支那人にとっちゃ、嘘じゃないんだ。あれは 支那人の正義だよ。この正義の観念の転倒《てんとう》の仕方を知ら なきあ、支那も分らなきあ、もちろん人間の行く末だっ て分りゃしないよ。お前なんか、まだまだ子供さ」  参木は高重の長い顔から溢《あふ》れて来る思いがけない逆説 に、久しく欠乏していた哲学の朗らかさを感じて来た。 参木は言った。 「それであなたなんか、職工係りをやってらしって、た とえば職工たちの持ち出して来る要求を、これは正しい と思うような場合、困るようなことけありませんか」 「いや、それやある。しかし、そこは僕らの階級の習慣 から、臼然に巧い笑顔が出て来るんだ。僕はにやにやっ としてやるんだが、このにやにやが、支那人を征服する 第一の武…而なんだよ。これは虚無《きよむ》にまで通じていて、何 んのことだか分らんからね。うっかりしている隙に、後 ろから金を握らしてまたにやにやだ。それで落ちる。外 交官なんて皆だめさ。ところが、こんどの奴だけは、い くらにゃにやしたって落ちないんだ。こうなると、こっ ちが正義に打たれて、もう一度にやにやとはできないか らね。どうも日本人という奴は、正義に脆《もろ》くて軽佻《けいちょう》だ よ。君、支那人のように嘘《うそ》つくことが正義になれば、も うこいつほいつまでたったって、滅びやしないよ。あらゆ るものを正義の廻転椅子に乗せて廻すことができるん だ。いったい、世界にこんな怪奇な国ってどこにある」  古回重は年長者の自由性のために、二人の前でだんだん 興奮し始めた。参木は高重の話そのものよりも、今は自 分の年齢の若さが、これほども年長者を興奮させ得る材 料になりつつあるという現象に、もの珍らしい物理を感 じて来た。    十九  海港からは銅貨が地方へ流出した。海港の銀貨が下り だした。ブローカーの馬車の群団は日英の銀行間を馳け 廻った。金の相場が銅と銀との上で飛び上った。と、参 木のペンはポンドの換算に疲れ始めた。1彼は高重の 紹介でこの東洋綿糸会社の取引部に坐ることができたの だ。彼の横ではボルトギーズのタイピストが、マンチェ スター市場からの報告文を打っている。掲示板《けいじばん》では、強 風のために米棉《べいめん》相場が上りだした。リヴァプールの棉花《めんる》 市場が、ボンベイサッタ市場に支えられた。そうして、 ヵッチャーカンデーとテジーマンデーの小市場がサッタ 市場を支えている。——参木の取引部では、この印度の 二個の棉花小市場の強弱を見詰めることは最大の任務で あった。どこから棉《わた》の花を買うべきか。この原料の問題 の解決は、その会社の最も生産量に影響を及ぼすのだ。 そうして、誰もその存在を認めぬヵッチャーカンデーと テジーマンデーの小市場は、突如《とつじよ》として、ひそかな旋風《せんぶう》 のように市場の棉花相場を狂わすことがたびたびあっ た。  参木は、前からこの印度棉が支那の棉花を圧倒しつつ ある現象を知っていた。だが、印度棉の勢力の抬頭《たいとう》は、 東洋における英国の抬頭と同様だった。やがて、東洋の 通貨の支配力は、完全に英国銀行の手に落ちるであろ う。そうして、支那は、支那の中において富む者が何者 であろうとも、彼らの貯蓄《ちよちく》が守護されることによって、 その貯蓄を守護するものを守護しなければならぬのだ。 そうして、彼らから絶えずもっとも強力に守護されつつ あるものは、同様に英国の銀行だった。  参木はこの棉の花の中から咲きだした巨大な英国の勢 力を考えるたびごとに、母国の現状を心配した。彼の眼 に映る母国は——母国は絶えず人口が激増した。生産力 は、その原料の生産地が、各国同様、もはやほとんど支 那以外にはないのであった。そうして、経済力は? そ の貧しい経済力は、支那へ流れ込んだまま、行衛《ゆくえ》不明に なっていた。思想は? 小舟の申で沸騰《ふつとう》しながら、その 小舟を顛覆《てんぶく》させよ、と叫んでいる。  原料のない国が、いかに顛覆しようとも同じことだ、 と参木は思った。だが、いずれことごとくの国はしだい に形を変えるであろう。だが、英国の顧覆しない限り、 顯覆したことごとくの国は不幸である。まず何事も、印 度が独立したその後だ。正義は印度より来るであろう。 それまで、母国はあらゆる艱難《かんなん》を切り抜けて動揺を防が ねばならぬ、と参木は思った。  参木はそれまで、机の上で元貨を英貨のポンドに換算 し続けなければならぬのだ。  彼は正午になると煙草《たはこ》を吸いに広場へ出た。女工たち は工場の門から溢れて来た。彼女たちは円光のように身 体の周囲に綿の粉を漂《ただよ》わせながら、屋台の前に重なり合 って饂飩《うどん》を食べた。たちまち、細《こまか》な綿の粉は動揺する小 女たちの一群の上で、蚊柱のように舞い上った。肺尖《はいせん》力 タルの咳が、湯気《ゆげ》を立てた饂飩の鉢にかんかんと響いて いた。急がしそうに彼女らは足踏みをしたり、舞い歩い たりしながら饂飩を吹いた。耳環の群れが、揺れつつ積 った塵埃《じんあい》の中で伸縮《しんしゆく》した。  遠く続いた石炭の土手《どて》の中から、発電所のガラスが光 っていた。その奥で廻転している機械の中では、支那人 の団結の思想が、今や反抗を呼びながら、濛々《もうもう》と高重た ちに迫っているのだ。そこでは高重たちは、その精悍《せいかん》な 職工団の一団の前で、一枚の皮膚をもって、なおにやに やと笑い続けて防がねばならぬのであろう。  参木は河のほうを見た。河には、各国の軍艦が本国の 意志を持って、砲列を敷きながら、城砦《じようさい》のように連って 停っていた。  参木は思った。自分は何をなすべきか、と。やがて、 競子は一疋《いつびき》の鱒《ます》のように、産卵のためにこの河を登って 来るにちがいない。だが、それがいったい何んであろ う。自分は日本を愛せねばならぬ。だが、それはいった い、どうすれば良いのであろう。しかし、ーまず、何 者よりも東洋の支配者を! と参木は忠った。  彼はだんだん、日光の中で、競子の良人《.ψつと》の死ぬことを 望んでいた自分自身がばかばかしくなって来た。      二十  ホールの桜が最後のジャズで慄《ふる》えだした。振り廻され るトロンボーンとコルネット。楽器の申のマニラ人の黒 い皮膚からむき出る歯。ホールを包んだグラスの中の酒 の波。盆栽《ぼんさい》の森に降る塵埃《じんあい》。投げられるテープの暴風を 身に巻いて踊る踊り子。腰と腰とが突き衝《あた》るたびごと に、甲谷ほ酔いが廻って言い始めた。 「いや、これは失礼、いや、これは失礼」  階段の暗い口から、一団のアメリカの水兵が現れる と、踊りながら踊りの中へ流れ込んだ。海の匂いを波立 たせた踊場は、いっそう激しく揺れだした。叫びだした ピッコロに合せて踏み鳴る足音。歓喜の歌。きりきり廻 るスカートの鋭い端に斬られた疲れ腰。足と足と、肩と 腰との旋律《せんけう》の上で、三色のスポットが明滅した。輝やく 首環、仰向く唇、足の中へ辷《すぺ》る足。  宮子はテープの波を首と胴とで押し分けながら、ひと り部屋の隅で動かぬ参木の顔へ眼を流した。ドイツ人を 抱くアメリカ人、ロシア人を抱くスペイン人、混血児と 突き衝るボルトギーズ。椅子の足を蹴飛ばしているノル エー人。接吻の雨を降らして騒ぐイギリス人。シャムと フランスとイタリアとブルガリアとの酔っぱらい。そう して、ただ参木だけは、椅子の頭に肱《ひじ》をついたまま、こ のテープの網に伏せられた各国人の肉感を、蟇《がま》のように 見詰めていた。  踊りがすむと人々はもたれ合って場外へ雪崩《なだ》れ出た。 廻転ドアは踊子の消えるたびごとに廻っていった。火は 一つ一つ消え始めた。逆さまに片附けられる椅子の足 が、テーブルの上で、にわかに生き生きと並び始めた。 そうして、金庫の鍵が静に廻り終ると、いつの間にか影 をひそめた楽器の後で、羽根を閉ざしたピアノが一台、 黒々と沈んでいた。甲谷はようやくひとつ取り残された 燈火の下で、尻もちをついたまま自分の影に言ってい た。 「いや、これは失礼、いや、これはこれは」  参木はこの急激に静《しずま》ったホールの疲労に鋭い快感を感 じて来た。彼は身動きも現さず、甲谷の鈍い酔体を眺め たまま、時計の音を聞いていた。天井の隅で塵埃《じんあい》と煙の 一群が、軽々と戯《たわむ》れては消えていった。甲谷は散らかっ たテープの塊《かたまり》を抱きながら、首を振り振り、呟くよう に唄いだした。  歌にまでまだ飲みたいと、日ごろ自慢のスパニッシュ ・ソングを歌う甲谷を見ていると、参木は立ち上らずに はいられなかった。彼は甲谷を肩にかかえると、森閑《しんかん》と したホールの白いテープの波の中を、よろけながら歩き だした。と、ふとどこかのヵーテンが揺らめくと、鏡の 中から青い微光が漣《さざなみ》のように流れて来た。 「まア、甲谷さん、だめだわね。秋蘭さんが来たんじゃ ないの。しっかりなさいよ」  帰り支度《じたく》になった宮子がドアーから二人の傍へよって 来た。彼女はぶらぶらしている甲谷の片腕を支えながら 参木に言った。 「これからあなた、どこまでお帰りになるつもり」 「さア、まだどこにしようかと思ってるところなんで す」と参木は言った。 「じゃ、あたしん所へいらっしゃいな。もうすぐ夜が明 けるから、しばらくの辛抱《しんぼう》よ」 「いいんですか、二人つれでいったって?」 「あたしはいいの。だけど、あなた、それじゃあんまり 重いわね」 「こいつはいつでもこうですよ」  宮子は頭を垂れた甲谷の首の上から、片眉《かたまゆ》を吊り上げ た。 「介抱《かいほう》させられる番ばかりは、いやだわね」  階段を降りると三人は外へ出た。甃石《しきいし》の上で銅貨を投 げ合っていた車夫たちが参木の前へ馳けて来た。三つの 黄包車《ワンパウツ》が走りだした。    二十一 「何んだかあなた、遠慮深そうな恰好《かつこう》でいらっしゃるの ね、ここはいいのよ。もっとのびのびとしてちょうだ い。あたし、あなたのご不幸はもう何もかも知ってます のよ」  甲谷を寝かせた隣室で、宮子は長椅子に疲れた身体を 延ばしながら参木に言った。  参木は樺色《かぽいろ》のスタンドの影を鼻の先に受けながら、何 を彼女がほのめかすのか、煙草《たばこ》の煙の中で眼を細めて聞 いていた。 「ね、あなたはあたしがあなたのことを、何も知らない とでも思ってらっしたんでし.ごつ。あたし、あなたがど んな方だかそれや長い間見たかったのよ。でも今夜初め てお逢いして、たぶんこんな方だろうと思っていたあた しの想像が、あたったの」  参木はこの女の頭の中で、前から幾分間か生活してい たらしい自分の姿を考えた。それはおそらく、どこかの 多くの男たちの姿の中から、つぎはぎに引き摺《ず》り出され た襤縷《ほろ》のようなものだったにちがいない。—— 「じゃ、甲谷は僕の悪口をよほど言ったと見えますね」 「ええ、ええ、それや、毎日あなたのことを伺ったわ。 それであたし、実は少々あなたのことを軽蔑《けいべつ》してたの よ。だって、あなたは、あたしのような女を軽蔑ばかり してらっしゃる方でしょう」 「いや、そう人は思うだけですよ」と参木は疲れたよう に低く言ハノた。 「そんなことは、何んの言いわけにもならないわ。あた しは男の方を一目見れば、その方がどんなことを考えた かってすぐ分るの。これだけはいつもあたしの自漫だか ら、もうだめよ。あなたがどれほどあの方を愛してらっ しゃるかってことだって、ちゃんとあたしには分ってい るんだから」 r「何をあなたは言いだすんです」と参木は言って宮子を 見た。 「いえね、これは別のことなの。どうしてあたしこんな ことを言ったんでしょう。さア、召上れ、これはサルナ パリラっておかしなものよ。踊った後はこれでなくちゃ さっぱりだめだわ」 「甲谷はそんなことまで言ったんですか」 「甲谷さんが何をおっしゃろうといいじゃないの。あな たはあなたで、ここにこうしていてくだされば、あたし それで嬉しいのよ。あたし今夜は眠らないわよ」 「あなたはよっぽど疲れていらっしゃるんでしょう。も う眠《やす》んでください」 「あたし、もういつもならぐたぐたなの。だけど、こう していると、今夜はあなたといくらでもお話ができそう なの。あたし今夜は饒舌《しやべ》ってよ、あなた眠くなったら、 甲谷さんの所で寝てちょうだい。あたしここでこうして 寝てしまうかもしれないから」 「じゃ、僕はここにこうしてたってちっとも疲れてやし ませんからもうどうぞ」と参木は言った。 「いいのよ。あたし、あなたを眠らせるくらいなら、こ の長椅子だってわ貸しするわ。まアそんなに汚なそうに ひとさまの部屋をじろじろ見なくったって、踊子の生活 なんて、分ってるじゃありませんか。いずれお察しのと おり、ろくなことなんかしてないわよ」  刺戟《しげき》の強い白蘭花《バロレヨホ 》が宮子の指先きで廻されると、曙色《あけぼのいろ》 の花弁が酒の中に散らかった。彼女は紫檀《したん》の円卓の上か ら花瓶を取ると、花の名前を読み上げながら朝ごとの花 売の真似《まね》をし始めた。 「ちーつーほう、でーでーほう、めいくいほう、ぱーれ いほッほ、めーりいほーまア、今夜は暑いわね。あた し、こういう夜は、きっと白菓《バツコ》の夢を見るに定っている の」  彼女は花弁で埋ったコップを参木に上げて飲みほす と、身体を反《そ》らして後の煙草《たばこ》を捜した。めくれ上ったロ ーブの下で動く膝。空間を造ってうねうねうねる疲れた 胴。怠惰《たいだ》な片手に引摺られて張った乳。——参木はいつ の間にかむしり取られた白蘭花《バーレーホー》の萼《がく》・だけを、酒の中で廻 しているのだった。 「あ、そうそう、あたしあなたにお見せしたいものがあっ たんだわ。あたしには今五人の恋人が揃っているのよ。 ヲランス人と、ドイッ人と、イギリス人と、支那人と、 アメリヵ人なの。まだその他にもないことはないんだけ ど、今は倹約して腕を持たせてやるだけにしてあるの」  彼女は吸いかけた煙草を膝で挾《はさ》むと、抽斗《ひきだし》の中からア ルバムを取り出した。 「ね、このフランス人はミシェルって言うのよ。それか らこれは、アメリカ人なの。その他のも見てちょうだい な。どれもこれも立派な男で蓮《はす》の実みたいに甘いのが特 長よ。まアその日本の女を好きなことって、お話になら ないわ。あれはきっと奥さんに虐《いじ》められて来たからね。 だからあたし、できるだけそういう人には猫を冠って大 切にしてやってますの」  参木は宮子の恋人の顔を見ることよりも、今は彼女に 近づく好奇のために、だんだん椅子を動かした。彼女は 足を縮めると参木に言った。 「さア、もっとこちらへ来てちょうだい。そこじゃ、あ たしの恋人の顔が真黒に見えるじゃないの」 「いや、あんまりはっきり見えだしちゃ困るでしょう」 「いいわよ、たまにはそういう立派な顔も見とくもんだ わ。さア、こちらへいらっしゃいって、あなたには、叱 らなきあだめなのね」  参木は甲谷がこの手で首を絞められているのかと思う と、しばらく黙って宮子の顔を眺めていた。 「あたし、あなたが、何を恐がってびくびくしてらっし ゃるのか、分っているのよ。だけど、安心してちょうだ い、あたしの恋人は、ちゃんとここに五人も並んでいる んですからね。あなたのように他人に恋人を盗られて青 ざめている人なんか、あたしは椙手にしない性分なの」  参木は上眼で宮子の顔を見た。どこか身体の中の片端 で猛然と飛び上る感情を制しながら、彼はにやにやと笑 った。宮子は参木のほうへ向ったテーブルの一角へ足を 上げるとまた言った。 「ね、あたしにはあなたの恋人がご‡.人とどんなことを してらっしゃるか、それやよく分ってるのよ。だから、 あたしはあなたがお気の毒なの。あたしの恋人なんか、 競争であたしの身の廻りのことをしてくれるわ。この下 の毛氈《もうせん》だって、これはミシェルがコオラッサンだって持 って来てくれたものなんだし、このクションの天鵞絨《びろうど》だ って、イギリス人がスキュタリだからどうだとか、ビザ ンチンがどうだとか言って、かつぎ込んで来てくれたも のばかりなのよ。もちろん、そればかりじゃないわ。昨 日も昨日で、ゴルフであたしの取り合いを始めたの。こ んなことは、あなたもちょっと見ておきなさいよ」 「それはとにかく、その足だけは上げないようにできま せんか」と参木は言った。 「あら、まア、あたし、いつの間に足なんか上げたんで しょう。踊子は足が大切なもんだけど、こんなに大切な もんじゃないわ。ごめんなさい。あたし疲れると、何を しだすかしれないのよ。これであたし、やっぱり踊子な んかになったんだわ」 「あなたは恋人が来たときでも、そんなことをするんで すか」 「まア、そろそろ、ばかにし始めたのね。あたしの恋人 なんか、あたしにこんなことをさせたりするもんです か」  参木は宮子が両手を拡げたように思われた。彼はオル ガの跳《は》ね上った足と宮子の足とを較べながら、宮子の傍 へどっかと坐ってまたアルバムを取った。すると宮子 は参木の手からアルバムを取り上げた。参木は彼女の唇 の端に流れた嘲弄《ちようろう》を感じると、突然、圧しきれぬ若々し さが芽を吹いた。彼は苦渋《くじゆう》な表情のままじっと煙草を吸 っていたが、いきなり宮子の首を締めつけた。宮子のマ ルセル式の頭髪が長椅子の背中を転々と転がった。宮子 は胴に笑いを波立たせながら参木の顔を叩いて言った。 「まア、あなたでも、そんなことを知ってらっしゃった のね。あたし、油断をしちゃって、失敗《しま》ったわ」  白蘭花《パ レ ホ 》の花弁が宮子の口に含まれると、次ぎ次ぎに参 木の顔へ吹きつけられた。クションが長椅子《ジユバン》の逆毛を光 らせつつ辷《すべ》りだした。と、やがて、声をひそめて浮きヒ った彼女の典雅《てんが》な支那|沓《ぐっ》が、指先に銀色の栗鼡《りす》の刺繍《ししゆう》を 曲げながら慄《ふる》えて来た。ふと、参木は思わぬ危険|区劃《くかく》に 侵入している自分に気がついた。彼は飛び上ると鏡を見 たIl何と下品な顔ではないか。彼女は自分の中からこ の汚さを嗅《か》ぎつけたにちがいない、と思うと彼は、再び 突っ立ったまま宮子の顔を睨《にら》んでいた。宮子は片脇にク ションを抱き込むと、突然大きな声で笑いだした。 「まア、あなたは、心配ばかりしてらっしゃるのね。あ なたのなさるようなことなんか、なんでもないわよ。あ たしがあなたなんかに悲しまされると思ってらしちゃ間 違いだわ。さアここへいらっしゃいよ。そんな恐ろしい 顔はなるだけ鏡の中でしてちょうだい」  参木は手丸《てだま》にとられてやり場のなくなった自分の顔を 感じると、この思いがけない悲惨《ひさん》な醜《みにく》さが、どこから襲 って来たのであろうかと考えた。彼は再び静に宮子の傍 へ坐ると言った。 「もう、そろそろ夜が明けだして来ましたね」 「あなたは私をご覧になったときから、ぎくしゃくし て、あたしに負けまいとばかり思ってらっしたのね。だ けど、いくらそんなこと言ってごまかしたって、もうだ めよ。あなたとあたしはこれから喧嘩《けんか》ばかりしてなきあ ならないわよ」  踏みとまろうとする参木の心は、またもずるずる辷《すべ》っ ていった。彼は肉体よりも先立つ自分の心の危険さを考 えた。彼はまた立ち上ると宮子に言った。 「じゃ、もう僕はこれで失礼しましょう。さようなら」  宮子は不意を打たれて黙っていた。参木はそのまま部 屋の外へ出ようとした。 「夜が明けるのにこれからあたしひとりでなんかいられ ないわ。あなたは礼儀《れいぎ》っていうものをご存知ないの」  参木は振り返ると、絨氈《じゆうたん》の上に転げていたアルバムを 足で踏みつけた。 「じゃ、今夜はもうこれだけで、赦《ゆる》してくれたまえ。い ずれまた、そのうちに」  彼は明け初《そ》めた緑色の戸外へ、何事でも困るとその場 を捨てる彼の持病を出して、さっさとひとりで出ていっ た。      二十二  霖雨《りんう》の底で夜のレールが朧《おぼ》ろげに曲っていた。壊《こわ》れか かった幌《ほろ》馬車が影のように、煉瓦《れんが》の谷間の中を潜《くぐ》ってい った。混血児の春婦《しゅんぷ》がひとり、弓門の壁に身をよせて雨 カ《ガス》さ の街角を見詰めていた。彼女の前の瓦斯|燈《とバノ》の傘の上に は、アカシヤの花が積ったまま、じくじくと腐《!\タ讐》ってい た。狭い建物の間から、霧を吹いたヘッドライトが現れ ると、口を開けた酔漢《すいかん》を乗せたまま通り過ぎた。  参木は春婦の前を横切ると露路の中へはいっていっ た。その露路の奥の煤《すす》けた酒場では、彼の好む臓物《ぞうもっ》が、 鍋《なべ》の中で泡を上げながら煮えていた。客のない酒場の主 婦は豆ランプの傍で、瑚酸《ほうさん》に浸したカーゼで眼を洗い ながら雨の音を聞いていた。参木は高重の来るまでここ で、老酒《ラオチユウ》を命じて飲み始めた。二人はこれから工場の夜 業を見に廻らねばならぬのだ。  臓物のぐつぐつ煮えた鍋の奥では、瘤《しぶ》まで剃《そ》った支那 人の坊主頭が、瀬戸物《せともの》のようなうす鈍い光りを放ったま ま動かなかった。主婦の眼にあてたガーゼから流れる水 音が、酒といっしょに参一木の背骨を慄わせた。彼の前で は、煉瓦《れんが》の柱にもたれた支那人が、眼を瞑《つぶ》ったまま煙管《きせる》 を啜《すす》っていた。煙管の針の先きで、飴《あめ》のような阿片《あへん》の丸《たま》 が慄えながらじいじいと音を立てた。豚の足はところど ころに乱毛をつけたまま乾いた蹄《ひずめ》を鍋の中から出してい たQ 「おい」と不意に高重は言って参木の後へ現れた。  参木は振り返った。高重は呼吸を切迫させて立て続け に言った。 「君、僕の後から従《つ》けて来ている奴があるからね、よろ しく頼むよ、どうも、明日が危い。明日、奴らは始める らしいそ。今夜はこれから警官の所へ廻って、ご機嫌を とっとかなくちゃならんのだ。いやはやどうも、眼が廻 るよ」  いよいよ罷業《ひぎよう》が始まるのだ。 「じゃ、これからすぐあなたはいらっしゃるんですか」 「うむ、行こう」と高重は言いながら参木の盃《さかずき》をとっ て傾けた。 「しかし、いよいよ始まったとしたところで、始まった ら始まったでどうにかなるさ。そこは支那|魂《だましい》という奴 で、ね、君、不・思議なもので、僕はこれでも、会社がひ っくり返ろうとしているのに、昨夜現像した水牛の,写真 のほうが気になるんだ」 「それほどの程度で済ませるなら、ここで酒でも飲んで るほうがいいでしょう」 「いや、まアそう言ってしまっちゃお了《しま》いさ。僕の会社 に罷業《ひぎよう》が起れば、後の会社は将棋倒《しようぎだお》しだ。僕のこの腕一 本は、今のところ、支那と日本の実権を握っているのと 同じだからね。僕を煽《るた》てて酒を飲ましちゃ、国賊だよ」 「じゃ、もう一杯」  二人は首を寄せて飲み始めた。高重は片腕を捲《ま》くし上 げると、盃《さかずき》を舐《な》めながら、ぶるぶる慄えて落ちそうな阿 片《あへん》の丸を睨《にら》んでいた。  虫の食った肝臓《かんぞう》が皿の上に盛り上って並べられた。阿 片の匂いが酒の中へ混って来た。うす鈍い光りを放って 寝ていた坊主頭が、煉瓦の柱の角から脱れると、瘤にひ っかかって眼を醒《さま》した。豆ランプが煤《すす》けたホヤの中で鳴 り始めた。 「あ、そうだ、君に言うのを忘れていた」と高重は言う と、突然|眉《まゆ》を顰《ひそ》めて黙ってしまった。  参木はしばらく高重の盃に当てた唇を眺めていた。 「競子の婿《むご》が死んだんだ」  参木は急に廻転を停めた心を感じた。と、輝きだした 巨大な勢力が、彼の胸の中を馳け廻った。彼は喜びの感 動とは反対に、頭を垂れた。だが、次の瞬間、彼はじり じり沈んで行く板のような自分を感じた。  !俺《おれ》が競子の良人《おつと》に変るとしても、金がない。地位 がない。能力がない。ただあるものは、何の形もない愛 だけだ。1  ふと、彼は高重の沈黙の原因を、自分に向けた高重の 憐愍《れんびん》だと解釈《かいしやく》した。  すると、にわかに、怒りが腹の中で突っ立ち上った。 彼は競子をi高重の妹を、押し除《の》ける作用で充血し た。すると、今まで彼女のために跳《は》ね続けて来た女の動 作が、浮き上って来て、乱れ始めた。お柳、オルガ、お 杉、宮子、と泡立ちながらー。 「さて、いよいよこれから夜業の番か、おい君、今夜は 危いから、僕から放れてひとり行っちゃ、お了《しま》いだよ」  高重はポケットのピストルに触りながら立ち上った。 参木も彼の後から出ていった。彼は嫁いだ競子をひそか に愛していた空虚な時間に、今こそ決然と別れを告げね ばならぬと決心した。  ll-まア、いくらでも、おめでたくめそめそしたけり ゃ、するがいいよ。i  雨の中を一組の日本の巡邏《じゆんら》兵が、喇叭《らつば》を小脇にかかえ て通っていった。高重は参木のほうへ傾くと小声で言っ た。 「君、今度の罷業《ひぎよう》は大きくなるよ」 「大きけりゃ、大きいだけ、おもしろいじゃないですか」 「それも、そうだ」  ニ人は黄包車《ワンパウツ》に乗ると飛ばしていった。      二十三  円筒から墜落《ついらく》する滝の棉。廻るローラー。奔流《ほんりゆう》する棉 の流れの中で工人たちの夜業は始まっていた。岩窟《がんくつ》のよ うな機械の櫓《やぐら》が、風を跳ね上げながら振動した。舞い上 る棉の粉が、羽搏《けうた》れた羽毛のように飛び廻った。噴霧器《ふんむき》 から噴き出す霧の中でベルトの線が霞《かす》みだした。噛《か》み合 う歯車の面前を、隊伍《たいこ》を組んだ糸の大群が疾走《しつそう》した。  参木は高重につれられて梳棉部《 カ ド》から練条部《おジロ イング》へ廻って来 た。繁った鉄管の密林には霧が伎々にからまりながら流 れていた。雑然と積み重ったローラの山がその体積のま まに廻転した。  参木は突撃して来る音響に耳を塞《ふさ》いた。すると、捻《ね》じ れた寒い気流が無数の層を造って鉄の中から迫って来 た。高重は棉の粉を顔面に降らせながら、傍の女工を指 差して言った。 「どうだ、これで一日、四十五銭だ」  棉を冠《かぶ》って群れ動く工女の肩が、魚のようにベルトの 瀑布の中で交錯した。揺れる耳環が機械の隙間を貫《つらぬ》いて 光って来た。 「君、あそこの隅にスラッピングがあるだろう。その横 で、ほら、こちらを向いた」と高重は塔、口うと、急に黙っ て横を見た。  絡《からま》ったパイプの蔓《つる》の間から、凄艶《せいえん》な工女がひとり参木 のほうを睨《にら》んでいた。参木は彼女の眼から狙《ねら》われたピス トルの鋭さを感じると高重に耳打ちした。 「あの女は、何者です」 「あれは、君、こないだ言ってた共産党の芳秋蘭さ。あ の女が右手を上げれば、この工場の…機械はいっぺんに停 るんだ。ところが近ごろ、あの秋蘭はお柳の亭主一派と 握手しだして来てね。なかなかしたたかものでたいへん だ」 「それが分っている癖に、なぜそのままにしとくんで す」 「ところが、それを知ってるのは、僕だけなんだよ。実 は、僕はあの女と競争するのが、少々楽しみなんだ。い ずれあの女もやられるに定《きま》っているから、見ておきたま え」  参木はしばらく芳秋蘭の美しさと闘いながら彼女のゆ うゆうたる動作を見詰めていた。汗と棉とが彼の首筋か ら流れて来た。廻るシャフトの下から、油のにじんだ手 袋が延び出て来ると、参木の靴の間でばたばたした。高 重は参木の肩を叩いて支那語で言った。 「君、これでこの工場の賃銀は、外国会社のどこよりも 高いんだ。それにもかかわらず、また一割増の要求さ。 僕の困るのも分るだろう」  実は周囲の工女に聞かすがために、参木に言った高重 の苦しさを、参本は感じて頷《うなず》いた。すると、高重は再び 日本語で彼に向って力をつけた。 「君、この工場を廻るには、鋭さと明快さとは禁物《きんもつ》だ よ。ただ朦朧《もうろう》とした豪快《こうかい》なニヒリズムだけが機関車なん だ。いいか、ぐっと押すんだ。考えちゃだめだぞ」  二人は練条部《ドロ イング》から打棉部《 スヵヂヤ 》のほうへ廻って来た。廊下に 積み上った棉の間には、印度《イント》人の警官がターバンを並べ て一隠れていた。 「参木君、この打棉部《スカチヤ 》には危険人物が多いから、ピスト ルに手をかけていてくれたまえ」  円弧《えんこ》を連《つら》ねたハンドルの群れの中で、男工たちの動か ぬ顔が流れていた。怒濤《どとう》のような棉の高まりが機械を噛《か》 んで慄《ふる》えていた。参木はその逆巻《さかま》く棉にとり巻かれる と、いつものように思うのだ。……生産のための工業 か、消費のための工業かと。そうして、参木の思想はそ の二つの廻転する動力の間で、へたばった蛾《が》のようにの た打つのであった。彼は支那の工人には同情を持ってい た。だが、支那に埋蔵《まいぞう》された原料は同情のゆえをもって 埋蔵を赦《ゆる》すなら、どこに生産の進歩があるか、どこに消 費の可能があるか。資本は進歩のために、あらゆる手段 を用いて、埋蔵された原料を発掘するのだ。工人たちの 労働がもしその資本の増大を憎んで首を縛りたいなら、 反抗せよ、反抗を。  参木はピストルの把手《とつて》を握って工人たちを見廻した。 しかし、ふと、また彼は考えた。  ——もし母国が、この支那の工人を使わなけれは、1 1彼に代って使うものは、英国と米国にちがいない。も し英国と米国が支那の工人を使うなら、日本はやがて彼 らのために使用されねばならぬであろう。それなら、東 洋はもう終《しま 》いだ。  参木は取引部へ到着した今日のランカシァーからの電 文を思い出した。ランカシアーでは、英国棉の振興策《しんこうさく》を 講じるため、工業家の大会が開催された。その結果、マ ンチェスターの工業家の集団は、ランカシアーと共同し て、印度への外国棉布の輸入に対し関税の引き上げを政 府へ向って要求した。  参木はこの英国におけるマーカンチリズムの活動が、 何を意味するかを知っている。それは、明らかに日本紡 績への圧迫にちがいない。彼らは支那への日本資本の発 展が、着々として印度における英国品iランカシアー の製品のその随一の市場を襲っていることに、恐慌《きようこう》を来 している。しかし、支那では、日本の紡績内にこの支那 工人たちのマルキシズムの波が立ち上っているのであ る。母国の資本は今は挾《はさ》み撃《う》ちに逢いだしたのだ。参木 には、ひとり喜ぶ米国人の顔が浮んで来た。そうして、 より以上にますます喜ぶロシアの顔が。iレセ・フェ ールの顛落《てんらく》とマルキシズムの抬頭《たいとう》。その二つの風の中 で、飛び上っている日本の凧《たこ》i参木は今はただピスト ルを握ったまま、ぶらりぶらりとするより仕方がないの だ。思考のままなら、彼の狙って撃ち得るものは、頭の 上の空だけだ。しかし、危険は、この工場内にいる限 り、刻々彼自身に迫っている。何《なに》ゆえにこの無益な冒険《ぼうけん》 をしなければならぬのか。——ただ自分の愛人の兄を守 るためのみに。——彼は高重の肩を見るたびに、彼から 圧迫される不快さに揺すられて歩を進めた。  そのとき、河に向った南の廊下が、真赤になった。高 重は振り返った。そのとたん、窓硝子《すどガラス》が連続して穴を開 けた。 「暴徒だ」と高重は叫ぶと、梳棉《カ ド》部のほうへ疾走《しつそう》した。  参木は高重の後から馳けだした。梳橸部では工女の悲 鳴の中で、電球が破裂した。棍棒《こんぼう》形のラップボートが飛《ネ》 び廻った。狂乱する工女の群は、…機械に挾《はさ》まれたまま渦《うず》 を巻いた。警笛《けいてき》が悲鳴を裂いて鳴り続けた。  参木は揺れる工女の中で暴れている壮漢《そうかん》を見た。彼は 白い三角旗を振りながら機械の中ヘトップローラを投げ 込んだ。印度人の警官は、背後からその壮漢に飛びつく と、ターバンを摺《ず》らして横に倒れた。雪崩《なだ》れだした工女 の群は、出口を目がけて押しよせた。二方の狭い出口で は、犇《ひし》めき合った工女たちがひっ掻《か》き合った。電球は破 裂しながら、一つ一つと消えていった。廊下で燃え上っ た落棉の明りが破れた窓から電燈に代って射し込んで来 た。ローラの櫓《やぐら》は、格闘する人の群に包まれたまま、輝 きながら明滅した。参木は廊下の窓から高重の姿を見廻 した。巨大な影の交錯《こうさく》する縞《しま》の中で、人々の口が爆《はじ》けて いた。棉の塊《かたま》りは動乱する頭の上を躍《おど》り廻った。礫《つぶて》が長 測《メむトル》器にあたって、ガラスを吐いた。カーデングマシンの 針布が破れると、振り廻される袋の中から、針が降ワ た。工女たちの悲鳴は、墜落《ついらく》するように高まった。逃げ 迷う頭と頭が、針の中で衝突した。噴霧器《ふんむき》から流れる霧 は、どよめく人の流れのままにぼうぼうと流れていた。  廊下へ逃げ出した工女らは、前面に燃え上った落棉の 焔《ほのお》を見ると、逆に、参木のほうに雪崩《なだ》れて来た。押し出 す群れと、引き返す群れとが打ち合った。と、その混乱 する工女の渦の中から、彼は、閃《ひら》めいた芳秋蘭の顔を見 た。もしこの暴徒が工人たちのなかから発したものな ら、どうしてそれほど彼女は困憊《ごんばい》するだろう。参木は思 った。……これは不意の、外からの暴徒の闖入《ちんにゆう》にちがい ない、と。  参木は近づいて来た芳秋蘭を見詰めながら、廊下の壁 に沿って立っていた。すると、工女の群は参木を取り包 んだまま、新しく一方の入口から雪崩《なだ》れて来た一団と衝 突した。参木は打ち合う工女の髪の匂いの中で、揉《も》まれ だした。彼は揺れながら芳秋蘭の行衛《拶くえ》を見た。彼女は悲 鳴のために吊り上った周囲の顔の中で、浮き上り、沈み ながら叫んでいた。彼は彼を取り巻く渦の中心を彼女の ほうへ近づけようと焦《あせ》り始めた。火は落棉から廊下の屋 根に燃え拡った。吐け口を失った工女の群は非常口の 鉄の扉へ突きあたった。が、扉は一団の塊りを跳《は》ね返す と、さらに焔《ほのお》の屋根のほうへ揺れ返した。参木はもはや 自分自身の危険を感じた。彼はこの渦の中から逃れて場 内の暴徒の中へ飛び込もうとした。しかし、彼の両手は 押し詰めた肩の隙からも抜けなかった。背後から呻《うめ》き声 の上るたびごとに、彼の頭はひっ掻《か》かれた。汗を含んだ 薄い着物が、べとべとしたまま吸いつき合った。彼は再 び芳秋蘭を捜《さが》してみた。振り廻される劉髪《りゆうはつ》の波の上で刺 さった花が狂うように逆巻いていた。焔を受けて煌《きら》めく 耳環の群団が、腹を返して沸き上る魚のように沸騰《ふつとう》し た。と、再び揺り返しが、彼の周囲へ襲って来た。彼は 突然、急激な振幅《しんぷく》を身に感じた。面前の渦の一角が陥没《かんほっ》 した。人波がその凹《へこ》んだ空間へ、将棋倒《しようぎだお》しに倒れ込ん だ。薪しい渦巻の暴風が暴れ始めた。飛び上った身体 が、背中へ辷《すべ》り込んだ。起き上った背中の上へ、背中が 落ちた。すると、参木の前の陥没帯の波の端から芳秋蘭 の顔が浮き上った。参木は弛《ゆる》んだ背中の間をにじりなが ら、彼女のほうへ延び出した。彼は彼女の肩へ顎《あご》をつけ た。しかし、彼の無理な動揺は、彼の身体を舟のように 傾かせた。彼は背後からの圧力を受け留めることができ なかった。彼は斜《なな》めに肩と肩との間へ辷り込んだ。続い て芳秋蘭の身体が崩《くず》れて来た。彼は彼女を抱いて起き上 ろうとした。すると、上から人が倒れて来た。彼は頭を 蹴りつけられた。身体が振動する人の隙間《すきま》を狙《ねら》って沈ん でいった。彼は秋蘭を抱きすくめた。腕が足にひっかか った。沓《くつ》が脇の下へ刺さり込んだ。しかし、参木には、 もはや背中の上の動乱は過去であった。二人は海底に沈 んだ貝のように、人の底から浮き上る時間を待たねばな らなかった。彼は苦痛に抵抗しながら身を竦《すく》めた。秋蘭 の頭は彼の腹の底で藻掻《もが》きだした。彼の意識は停止した 音響の世界の中で、針のように秋蘭に向って進行した。  非常口が開けられると、渦巻いた工女は広場のほうへ 殺到《さつとう》した。倒れた頭が一つずつ起き上った。参木は起き 上ろうとして膝《ひざ》を立てた。秋蘭は彼の上衣に掴《つか》まったま ま叫んだ。 「足が、足が」  彼は秋蘭を抱きかかえると広場のほうへ馳けていっ た。      二十四  参木は秋蘭の隣室で眼を醒《さま》した。彼は煙草《たばこ》を吸いなが ら窓から下を見降した。朝日を受けた街角では、小鳥を 入れた象牙《ぞうげ》の鳥籠《とりかご》が両側の屋根の上まで積っていた。そ の鳥籠の街は深く鳥のトンネルを造って曲っていた。街 角から右へ売卜者《ばいぼくしや》の街が並んでいた。春服を着た支那人 の群れは、道いっぱいに流れながら、花を持って象牙の 鳥籠の中を潜《くぐ》っていった。彼らのその笛の音を聞くよう な長閑《のどか》な流れに従い、街は廻りながら池の中へ中心を集 めていた。  参木は昨夜以来の彼自身の成行《なりゆき》を忘れてしまった。彼 は雨の中を秋蘭の言うままにただ馳けたのであった。彼 は医院へ馳け込んだ。彼は秋蘭の足がただところどころ 擦《す》りむけて筋が捻《ねじ》れただけにもかかわらず、彼女を乗せ て自動車を走らせた。彼は言った。 「どうぞ、お宅まで、ご遠慮なく」  彼は彼女を鄭重《ていちトハう》にすることが、頭の中から競子を吐き 出す何より.の機会だと観測した。思慮はいっさい過去の すべてを悲劇に導いて来ただけではないか。彼は彼自身 を煽動《せんどう》しながら、秋蘭の部屋まではいっていった。しか し、彼の喜びはまたその壁の中でも進行した。  秋蘭は彼に隣室の客間を指して巧みな英語で言った、 「どうぞ、あちらが空《す》いていますから」  彼が彼女を礼節よりも愛した原因はその秋蘭の眼であ った。秋蘭は彼に言い続けた。 「どうぞ、あちらへ、ここはあまりお見せしたくはござ いませんの」 「じゃ、もうこのままこれで失礼しましょう」と参木も 英語で言った。 「いえ、あたくし、もうしばらくいらっしていただきた いんでございます。それに、ここは支那街でございます わ。今ごろからお帰りになりましては、またあたくしが お送りしなきあならないんですもの」  彼は彼自身の欲するものを退けて来たのは、過去であ った。帆《ほ》は上げられて辷《すべ》っている。彼は自身の胸に勇敢《ゆうかん》 な響《ひひ》きを感じながら、隣室に下った幕を上げた。そこ で、彼はいつになれば秋蘭がまったく敵対心もなくして しまうのであろうかを待ちながらも、いつの間にか眠っ てしまった。  しかし、今は、朝だ。i  池の中で旗亭《きこい》の風雅《ふうが》な姿は積み重なった洋傘《ようがさ》のように 歪《ゆが》んでいた。その一段ごとに、鏡を嵌《は》めた陶器の階段は、 水の土を光って来た。入で埋った華奢《きやしや》な橋の欄干《らんかん》は、ぎ っしりと鯉《こい》で詰つた水面で曲っていた。人の流れは祭り のように駘蕩《たいとう》として、金色の招牌《しょうはい》の下から流れて来た。  参木はその人の流の上に棚曳《たなひ》いたうす霧の晴れていく のを見ていると、秋蘭と別れる時の近づいたのを感じ た、彼は秋蘭の部屋の緞帳《どんちよう》を揺すった。秋蘭は古風な水 色の皮襖《ピ  オ》を着て、紫檀の椅子に凭《よ》りながら手紙の封を切 っていた。彼女は朝の挨拶を済すとその痛みの柔ぎを告 げて礼を述べた。 「もし昨夜あなたが、あたしの傍にいてくださらなけれ ば、ー」  と、秋蘭は言った。そうして、彼女は参木に異国の友 を一人持ち得た喜びを述べると、食事を取りに附近の旗 亭へ案内したいと言いだした。 「しかし、あなたのそのお傷じゃ、ーl」と参木は言っ た。 「いえ、あたしたちはもう日本の方に、そんなに弱いと ころばかりお見せしたくはございませんの」  秋蘭は参木を促《うなが》すと先に立った。二人は街へ降りた。 石畳の狭い道路は迷宮《めいきゆう》のように廻っていた。頭の上から 乖れ下った招牌《しようはい》や幟《のぼり》が、日光を遮《さえぎ》り、その下の家々の店 頭には、反《そ》りを打った象牙が林のように並んでいた。参 木はこの異国人の混らぬ街を歩くのが好きであった。象 牙の白い磨《と》ぎ汁《じる》が石畳の間を流れていた。その石畳の街 角を折れると、招牌の下に翡翠《ひすい》の満ちた街並が潜《ひそ》んでい た。眼病の男は皿に盛り上った翡翠の中に埋もれたま ま、朝からぼんやりと眼をしぼめて、明りのほうを向い ていた。  参木は象牙の挽粉《ひきこ》で手を洗う工人の指先を眺めなが ら、彼女に言った。 「あなたはこれからどっかへお急ぎになるところじゃあ りませんか」  秋蘭は彼の言葉が、何を意味するかを見詰めるよう に、彼を見た。 「いえ、あたくし、今日はこの足でございましょう?」 「しかし、ここまでいらっしゃれるなら、もうどこへだ ってだいじょうぶだと思いますが。どうぞ僕のためにご 無理をなさいませんように」  参木は秋蘭が何者であるかを気付かぬらしく装《よそお》いなが ら、のどかに風鈴《ふうりん》の鳴る店頭へ眼を移した。秋蘭はしば らく彼の横顔を眺めていたが、間もなく、急所を見抜か れた女のように優《やさ》しげに顔を赭《あか》らめて参木に言った。 「あなたはもうあたくしがどんな女だか、すっかりご存 知でいらっしゃいますのね」 「知っています」と彼は答えた。  しかし、秋蘭はただ落ちついて笑っているだけだっ たQ参木は言った。 「僕は昨夜の騒動は、あれは外からの暴徒だと思うんで すが、もしあなたがあの出来事を予患してらしたのな ら、あんな騒ぎにはならなかったと思うんです。何かあ れは、あなたがたの防害を謀《たくら》んだものの仕事のように思 うんです㌧ 「ええ、そうでございますとも。あれはまったく不意の 出来事でしたの。あたくしたちは、お国の方の工場にあ んなことの起るのを願うこともございましたけれども、 それはあたくしたちの手で起さなけれ、は、お国の方にご 迷惑《ゐいわく》をおかけするような結果になるだけだと思います の」  参木は笑いながら秋蘭に言った。 「では、どうぞ」  秋蘭は朗かな崎並を見せて動揺した。しかし、参木は 不意に憂欝《ゆうろう》になって来た。1何を自分は狙《ねら》っていたの かと考えたのだ。自分が彼女を追い馳けた苦心のすべて は火事場の泥棒《どうぽう》と同様ではなかったか。自分が彼女を送 ったのは、自分の卑屈《ひくつ》を示しただけではなかったか。i ーしかし、彼はすでになされた反省の決算を思い出し た。今は、彼はただこの支那街の風景の中を、支那婦人 とともに漫歩《まんだ》する楽しさに放心すればそれで・艮いのだ。 それ以外は、いや、考えちゃ、もうだめだ。  翡翠《ひすい》に飾られた店頭の留木《とまりぎ》には、首を寄せ集めた小鳥 のように銀色の支那|沓《ぐつ》がとまっていた。象牙の櫛《くし》が煙管《きせる》 や阿片壷《あへんつほ》といっしょに、軒を並べて溢れていた。壁に詰 った印肉《いんにく》の山の下で、墨《すみ》が石垣のように並んでいた。仏 像を刻む店々の中から楠《くすのき》の割れる音が響いて来た。人 波の肩の間で、首環売りがざくざくと玉を叩.いた。参木 は秋蘭のほうを見た。すると、彼女の水色の皮襖《ヒ オ》は、羽 根を拡げたように連った店頭の支那|扇《おうぎ》の中で、しなしな と揺れていた。  二人は旗亭《きてい》の辷《すべ》る陶器の階段に足をかけた。参木は秋 蘭の腕を支えた。彼女は彼にょうめきかかると笑って言 った。 「まア、あたくし、まだあなたにご迷惑をおかけしなけ ればなりませんのね」 「-どうぞ」 「あたくし、こんな身体で、よく労働が勤まるとお笑い になるでしょう」 「いや、たいへん感服させられております」 「でも、あたくしたちは、ほんとうはまだまだだめなん でございますの。あたくしなんか、こんなに威張《いぱ》ったり しておりましても、もうすぐこうして美しい着物やなん か、着てみたくてなりませんのよ」  参木は階段の中途で、この支那婦人の繊細な苦悶《くもん》に触 れるのが喜ばしく感じられた。階段の立面に嵌《はま》った鏡の 上では、一段ごとに浮き上る秋蘭の笑顔が、フィルムの ように彼を見詰めて変っていった。すると、ふと参木 は、高重の言った言葉を思い出した。—— 「この女も、いずれ誰かにやられるから、見ておきたま え」  ばったりフィルムが切れて、凄艶《せいえん》な秋蘭の笑顔がなく なると、白蘭の繁った階上から緑色の陶器の欄干《らんかん》が現れ た。 }、僕があなたとお近づきになったことで、もしあなたに ご迷惑をおかけするような結果にでもなりますなら、ど うぞ、ご遠慮なくおっしやってください」 「いえ、あなたこそご遠慮なく。あたくしにはあなたが 他国の方とは思えませんの。むろんあたくしたちは、あ なたがたの工場と争わなけれぱなりませんわ。でも、そ んなことは、何と言ったらいいんでしょう。あなたと争 いごとのようになるものとは思えないんでございます の」  参木は黒檀《こくたん》の椅子に腰を降ろすと、いつの間にか豊か な愛情の中で漂《ただよ》いだした日本人に気がついた。彼は再び 憂欝《ゆううつ》に落ち込んだ。彼が競子を蹴ったのは、彼が競子の ために乱されたからではなかったか。彼が秋蘭に溺《おぼ》れた のは、競子を蹴って逃げ出すためではなかったか。しか し、今また彼は、駈《か》け込んだ秋蘭のために乱されて来た のであった。彼は、今は自身がどこをうろついているの か分らなくなって来た。——…彼は引き下ったように身構 えると、突然秋蘭にごつごつした英語で言い始めた。 「僕はあなたが、僕を日本人じゃないと思ってくださる お心持ちにはお礼を申しますが、しかし、僕は日本人だ ということを、別に悲しむべきことだとは少しも思っち ゃおりませんですよ。ただ僕はマルキストのように、自 分を世界の一員だと思うようなことができないだけの日 本人です。誰でもマルキストは、西洋と東洋との文化の 速度を、同じだと思ってるように見受けるんですけれど も、僕はその誤りからは、ただ秀《すぐ》れた犠牲者《ぎせいしや》を出すだけ が唯一の生産のように思われるんです。どうでしょう」  すると、秋蘭は彼と太刀《たち》を合すように、急に笑顔を消 して彼に向った。 「それはあたくしたちにも、今のところいろいろな誤謬《こびゆう》 のあることは、認めなければなりませんわ。でも、その 国にはその国の原料と文化とに従ったマルキシズムの運 用法があると思います。たとえば、あたくしたちが中国 人の経営する工場へ闘争力を注ぐよめ.も、まず外人の工 場へというように、自然に強力な方白、に動いて参ります のは、これは仕方がないんじぬ、ないでしょうか」 「けれども、それはあなたがたが、申国に新しい資本主 義をますます強く、お建てになるのと同様じゃないでし ょうか。僕は外国会社の生産能力を序迫すれば、それだ け中国の資本主義が発展するにちがいないと思うんです が」 「でも、そういうことは、今はあたくしたちはでき得る 限り黙認しなければならないと思いますの。あたくした ちにとって、中国の資本主義より、外国の資本主義を恐 れなければならないことのほうが、たしかに当然なこと じゃございませんでしょうかしら」  参木はもはや秋蘭との愛の最後を感じると、ますます 頭を振って斬《費、》り込んでいきたくなった,. 「もちろん、僕はあなたがたが、われわれの工場をお選 びになったということには、不幸を感じております。僕 は日本を愛しています。しかし、それがすぐに中国との 闘争になることだとは、僕はあなたがたのようには思え ないですね」 「それはあなたが東洋主義者でいらっしゃるからだと思 いますわ。もうあたくしたちは、東洋主義がどんなにお 国のブルジョアジーに尽力《じんりよく》したかということを、清算し なければならないときです。あたくしたちは、どなたで も、貧しい人々の外は、もうちっとも信頼することがで きなくなっておるんでございますの」 「あなたが僕をあなたのお思いになるような東洋主義者 になすったのは残念ですが、僕は日本を愛したいと思う のは、あなたが中国をお愛しになるのと何の変りもない のです。僕は自分の母国を愛する感情が、それがすぐに あなたのおっしゃるブルジョアジーを愛するのと同じ結 果になるという状態には、いくぶん迷惑《めいわく》を感じているも のなんですけれども、しかし、だからと言って母国を愛 せずに、中国を愛しなければならぬという理由も、今の ところ、どこにもないと思うんです」 「でもそれは、あたくしには、あなたがただお国の味方《みかた》 をなすっていらっしゃるだけだと思われますの。もしあ なたがほんとうにお国をお愛しなすっていらっしゃいま すなら、中国のプロレタリアもお愛しになるに違いない と思います。あたくしたちがお国に反抗するのは、お国 のプロレタリアにではありませんわ。だから、あたくし あなたに、こんなことをお話ししたりすることはー」 「しかし、僕は中国の人々が日本のブルジョアジーを攻 撃するのは、結果において日本のプロレタリアを虐《いじ》めて いるのと同様だと思うんですよ」  秋蘭は咳《せ》き上げて来た理論に詰ったように眼を光らせ た。 「どうしてでございましょう。あたくしたちはお国のプ ロレタリアのためには、中国を解放しなくちゃならない と思っているんでございますけど」 「しかし、それは日本にプロレタリアの時代が来なけれ ば、  」 「そうです、あたくしたちはお国にプロレタリアの時代 の来るために、お国のブルジョアジーに反抗しているん でございますわ」 「しかし、それには中国にも同時にプロレタリアの時代 が来なければ、  」 「それはもちろん、あたくしたちはそのために、絶えず 活動しているんじゃございませんか。その第一に、今.も あたくしたちはあなた方の工場に、不平を起そうと企《たくら》ん でいるんでございますわ。たぶんもう今ごろは何んとか されているころかと思われますが、どうぞしばらく、ご 辛抱をお願いします」  秋蘭はまだこのときも参木への感謝を失わずに頭を下 げた。しかし、参木には新しい疑問が雲のように起って 来た。彼は言った。 「僕はさきにも申し上げたとおり、あなた方がわれわれ の工場の機械をおとめになるということには、今何と申 上げていいか分らないんです。けれども、中国がいま外 国資本を排斥《はいせき》することから生じる得は、中国の文化がそ れだけ各国から遅れていくということだけにあるんじゃ ないかと思うんです。これはもちろん重々失礼な言い草 だと思いますが、しかし、優《すぐ》れたコンミニストとしての あなたのこの客観的な確実な問題に対してのご感想は、 最も資本の輸入の必要に迫られている中国であるだけ に、いちおう承《うけたま》わっておきたいと思うんです」  秋蘭は頭脳《ずのう》の廻転力を示す機会を持ち得たことを誇る かのように、軽やかに支那扇を拡げてにっこりと笑っ た。 「ええ、それは、あたくしたちの絶えず考えねばならぬ 中国問題の一つでございますの。でも、それと同時にそ んな問題は、列国ブルジョアジーの掃溜《はきだめ》である共同|租界《そかい》 の人々からは、考えていただかないほうがけっこうな問 題でもございますわ。これはもちろん失礼な言い方です けれども、あたくしたち中国人にとって、殺到《さつとう》して来る 各国の武力から逃れるための方法としてでも、あたくし たち以外の考えがあるとお思いになりまして」  しかし、彼の頭の中では彼女の言う「掃溜《はきだめ》に関する疑 問」は、依然として首を振った。——よ問題はそれではな いのだ。掃溜の倫理《りんり》が問題なのだ。——と。  事実、各国が腐りだし、蘇生《そせい》するかの問題の鍵《かぎ》は、こ の植民地の集合である共同|租界《そかい》の、また誰も知らぬ掃溜 の底に落ちているにちがいないのだ。ここには、もはや 理論を絶した、手をつけることの不可能な、混濁《こんだく》したも のが横っているのである。参木は運び出されたスープの 湯気の上へ延びながら、笑って言った. 「どうも、僕は昔から相手の人を敬愛すると不思議に頭 が廻転しなくなる癖があるんです。どうぞ、お怒りにな らないように」  すると、秋蘭の皮襖《ビしオ》の襟《えり》からは、初めて、典型的な支 那婦人の都雅《とか》な美しさが匂いのように流れて来るのであ った。 「あたくし、今日はあなたとこんな瞼《けわ》しいお話をしたい とは思いませんの。もっと、あなたのお喜びになるよう た、ご歓待《かんたい》をしなければと思うんですけど、…i」 「いや、亀う僕はあなたから、東洋主義者にしていただ いたことだけでけっこうです」 「あら」と秋蘭は美しい眼を上げて扇《おうき》をとめた。 「しかし、もともと僕はあなたをお助けしようなどと殊 勝《しゆしよう》な心掛けでご介抱《かいほう》したのではありません。もしそうな ら、あのときあなた以外のたくさんな人にも、僕は同様 に心を働かせていたはずだったと思います。それに、特 にあなたを見詰めて動きだしたという僕の行動は、マル キシズムなんかとはおよそ反対の行動でしたのです。し かし、とにかくもうこれだけの僕の気持ちをお話しすれ ば、もう一度お眼にかかりたいとは思わないでしょうか ら、では、今日はこれで、さようなら」  参木は辷《すべ》る陶器の階段を降りていった。すると、秋蘭 の扇はぱったり黒檀《こくたん》の円卓の面へ投げ出された。      二十五  河へ向って貧民窟《ひんみんくつ》の出口が崩れていた。その出口の周 囲には、堆積《たいせき》された汚物《おぶつ》が波のように続いていた。参木 の家へ出かけたお杉は彼の帰りを見計《みはか》らって歩いて来 た。影の消えた夕闇《蒔7,やみ》の中で、お杉の化粧《けしよう》は青ざめてい た。霧が泥の上を流れて来た。真黒な長い棺《かん》が汚物の窪《くぼ》 みの間を縫って動いていった。河岸の地べたに敷かれた 古靴の店の傍で、売られる赤児が暗い靴の底を覗いてい た。  揚荷《あげに》を渡す苦力《ク ハソロケ》たちの油ぎった塊《かたま》りの中から、お杉は 参木の姿を見つけ出した。  彼女はくるりと向き返えると、逆に狼狽《5ろたえ》て歩きだし た。が、何も狼狽えることはない。彼女は彼の家を出て から十日の間に、早くも男の秘密を読み破る鑑識《かんしき》を拾っ て来たはずだ。それに、——彼女は夕闇の申で呼吸がに わかに激しくなった。この次逢えば、冷い参木の胸を叩 き得る手段を感じて、昂然《こうぜん》として来たはずだのに——お 杉の背中は乳房《ちぶさ》の後ろで張り始めた。彼女は数々の男の 群れを今は忘れて逆上した。舞い疲れた猿廻しの猿は泥 溝の上のバナナの皮を眺めていた。虫歯抜きの老婆は貧 民窟から虫歯を抜いて出て来ると、舟端に腰を降ろして 銅貨の面を舐《な》め始めた。  参木は河岸に添ってお杉の後まで近づいた。しかし、 彼は前へ行くお杉には気付かなかった。二人は平行し た。お杉は意志とは反対の霧の降りた河を見た。河には いっぱいに満ちた舟の中で、整えられた排泄物《はいせつぶつ》が露出し たまま静に水平を保っていた。参木はお杉の前になった。 彼女は彼の後から彼の家まで歩こうと思った。すると、 十日間の過去が、参木の知らない彼女の淫《みだ》らな過去が、 お杉の優しさをうち叩いた。  お杉は彼との肉体の間隔に、威厳《いげん》を感じた。化粧《けしよう》した 顔が、重くぐったりと下って来た。希望が歩く時間に擦《す》 リへらされた。愛情はまだ参木の後姿に絡《からま》ったまま、沈 みだした。すると、お杉は通りかかった黄包車《ワンパウツ》を呼びと めて、参木の面前を馳け抜いた。  参木は車体の上で黙礼《もくれい》しながら揺れて行くお杉を見 た。瞬間、彼は新鮮な空気の断面を感じて直立《ちょくりつ》した。彼 は黄包車を呼んだ。彼は彼女の後を馳けさせた。しか し、彼は逃げるお杉を追わねばならぬ原因がどこにある のか分らなかった。ただ夕暮れの疲労《ひろう》の上に、不意に輝 いた郷愁《きようしゆう》に打たれた自分を感じると、彼は再び凋《しお》れて来 た。泥溝の岸辺で、黒い朽《く》ちかけた杭《くい》が、ぼんやりと黒 い泡の中から立っていた。古い街角で壁が二人の車を遮《さえ》 ぎった。二人の車は右と左に分れていった。  お杉は雑閙《ざつとう》した街の中で車を降りた。彼女は露路の入 口へ立つと、通りかかった支那人の肩を叩いて言った。 「あなた、いらっしゃいな、ね、ね」  湯を売る店頭の壷《つぼ》の口から、湯気が馬車屋の馬の鬣《たてがみ》 へまつわりついて流れていた。吊り下った薪《まき》のような堅 い乾物の谷底で、滴《したた》りを垂らした水々しい白魚の一群 が、盛り上って光っていた。    二十六  参木は割れた鏡の前で食事を取った。壁には人声の長 らく響かぬ電話がかかり郵ぎ忘れたカレンギが遠旨 数を曝《ざら》していた。参木は花瓶《かびん》にへし折れたまま枯れてい る菖蒲《しょうぶ》の花の下で、芳秋蘭の記憶を烹れようとして努力 した。彼はだらりと椅子の両側へ腕を垂れ、眼を瞑《つぶ》り、 ただ階段の口から揺れて来る食物の匂いに騒ぐ生活を感 じていた。希望はー彼が芳秋蘭を見て以来、再び、彼 のいっさいの希望は消えてしまった。彼は水を見詰める ように、彼の周囲の静けさの中から自分の死顔を探《さぐ》りだ した。  日本人の給仕女が退屈まぎれに、しなしなと貴婦人の |真似《まね》をしながら、昇って来た。窓から見える舗道の上 で、豚の骨を舐《な》めた少女の口の周囲にh 目蝿が一面|髭《ひげ》のよ うにたかったまま動かなかった。トラノクに乗った一団 の英国軍楽隊が、屋根の高さのままで疾走《しっそう》した。黄包車《ワンバウノ》 の素足の群れが、タールを焼きつける火に照らされなが ら、煙の中を破って来た。ふと参木は、薄暗い面前の円 卓の隅で、瓶の中の水面を狙ってひそかにさきから馳け 昇っているサイダーの泡に気がついた。  ——これは、と彼は思った。それと同時に、彼は再び 芳秋蘭といっしょに揺れ上って来た彼の会社の罷業《ひぎよう》の状 態を思い出した。それは単なる罷業ではなかった。それ は芳秋蘭の言葉のように、ますますたしかに前進するに ちがいない。それは民族と民族との戦いにまで馳け上る 危機を孕《はら》んで廻転する。1彼は瓶を掴《つか》んで振ってみ た。泡は、泡とは、圧迫する水の圧力を突き破って昇騰《しようとう》 する気力である。参木は芳秋蘭らの率《ひき》いる支那工入の団 結力が、彼の会社の末端から発生し、高重の占める組長 会議を突破し、主任会議を突き抜け、部長会議を粉砕し て重役会議にまで馳け上った縦断面を、頭に描いた。工 人たちの要求は、その重役会議で否決された。外部の総 工会が活動した。その指令のままに動く工人たちの操業 は、停止された。そうして、いよいよ大罷業が始ったの だ。この海港にある邦人紡績会社のほとんど全部の工場 は、今は飛び火のために苦しみだした。やがて、日貨の 排斥《そうぎようはいせき》が行われるであろう。英米会社は自国の販売市場の 拡張のため、その網目のように張られた無数の教会と合 体して、支那人の団結力を煽動《せんどう》するにちがいない。  ——しかし、ロシアは、と彼は考えた。  ロシアは英米の後から、彼らの獲得したその販売市場 に火を放っていくにちがいない。参木はやがてこの海港 の租界《そかい》を中心に、巻き起こされるであろう未曽有《みぞう》の大混 乱を想像した。もし芳秋蘭が殺されるなら、そのとき だ。×英米三国の資本の糸で躍《おど》る支那|軍閥《ぐんばつ》の手のため に、彼女は生命を落すであろう。——  しかし参木にはこの尨大《ぼうだい》な東亜《とうあ》の渦巻が、尨大な姿に は見えなかった。それは彼には、頭の中に畳《ユだもた》み込まれた 地図に等しい。彼は指に挾《はさ》んだ葉巻の葉っぱが、指の間 で枯れた環をこそりと弛《ゆる》めているのを眺めながら、現実 とは自分にとってこの枯れた葉巻の葉っぱであろうか、 頭の中の地図であろうか、と考えだした。    二十七  甲谷が来ると参木は昨夜から襲われ続けた芳秋蘭の幻 想から、ようやく逃れたように自由になった。参木は言 った。 「君の顔は明るい、まるで、獣だ」  甲谷はステッキを振り上げた。しかし、たちまち彼は 笑いだすと参木を打った。 「これでも、獣か。獣か。1ところが、僕は昨夜から まだ人間にはなれないんだぜ。あらゆる悪事をやっての けようと企《たく》らんでいるのだが、悪事をやるには、何より まず立派な人間にならんとだめだ」  甲谷は溜息《ためいき》をつきながら、参木の身体に凭《よ》りかかっ た。 「どうした、参木、俺の敵はばかに萎《しお》れているじゃない か」 「萎《しお》れた、参木もだめだよ。マルキシズムの虫がつい た」  甲谷は参木から飛びのくと、大げさに眉を立てた。 「虫か」 「虫だよ」 「君も憐《あわ》れな奴だね、君は人間の不幸ばかりを狙《ねら》って生 きてるんだ。人間が不幸になって、どうしようてんだ」 「君に不幸が分ればマルキシズムなんて存在しないよ」 「ばかを言え。人間の幸福というものは、不幸な奴がい るからこそ、幸福なんだ。われわれは不幸な奴まで幸福 にしてやる資格なんて、どこにあるんだ。人間は人を苦 しめておれば、それで良うし。俺《おれ》が俺のことを考えず に、誰が俺のことを考えてくれるのだ。行こう。今夜は 神さまのいるところへ行くんだぞ。しっかり頼むよ」  二人は階段を降りた。狭い壁と壁との間の敷石に血痕《けつこん》 が落ちていた。と、人気のない庭の出口の土間の上に、 支那人が殺されたまま倒れていた。二人は立ち停った。 転げた西班牙《スペイン》ナイフの青い彫刻の周囲で血がまだ静かな 流動を続けていた。甲谷は死体を跨《また》いで外へ出ると、参 木に言った。 「どうも、飛んだ邪魔物《じやまもの》だね。問題はどこだったのか な」  参木は今は甲谷の虚栄心《きよえいしん》の強さに快感を感じて来た。 「君はその手でマルキシズムをやっつσようと言うんだ な」 「そうだ。あんな死人を問題にしていちゃ、マルキシズ ムに食われるだけさ。われわれは資本の利潤《りじゆん》が購買力《こうばいりよく》を 減少させるなんて考える単純な頭の者とは、少々入種が 違うんだ。マルクス主義者は、いつでも機械が機械を造 っていくという弁証法《べんしようほう》だけは忘れているんだ。そんな原 始的な機械じゃ、せっかくですが、資本主義は滅びませ んわ。ところで、おい、あの人殺しの犯人は、俺たちだ と思われやしないかい。逃げよう」  甲谷は黄包車《ロロンパウツ》を呼びとめると、参木を残してひとり勝 手に馳けだした。 「君、トルコ風呂《ぶろ》だよ。失敬」  参木はひとりになると、死入を跨《また》いた股《また》の下から、不 意に人影が立ち上って来そうな幻覚に襲われた。彼は砂 糖黍《さとうきび》が藪《やぶ》のように積み上った街角から露路へ折れた。ロ シア人の裸身踊りの見世物《みせもの》が暗い建物の隙間で揺れてい た。彼は死人の血色の記憶から逃れるために、切符を買 うと部屋の隅へ踞《うずくま》った。皴吻眼前で落ち込肺駿細ロシ ァの貴族の裸形の団塊が、豪華な幕のように伸縮した。 三方に嵌《はま》った鏡面のかなたでほ、無数の皮膚《ひふ》の工場が、 茫々《ぼうぼう》として展《ひら》けていた。踊子の口に銜《くわ》えたゲラニヤの花 が、皮膚の中から咲きだしながら、踊る襞《ひだ》の間を真紅に なって流れていった。  ——参木は今は薄暗いこの街底の一隅で没落の新しい 展開面を見たのである。彼らはもはや、色情を感じない。 彼らは、やがて後から陸続《りくそく》として墜落《ついらく》して来るであろう 人間の、新鮮な生活の訓練のために、意気揚々《いきようよう》として踊 っていた。皮慮、の建築、ニヒリズムの舞踏、われらの先 達《っていた。皮慮、の建築、ニヒリズムの舞踏、われらの先《ぞん》だつ》、おお、今こそ彼らは真に明るく生き生きと輝き渡っ ているではないか。万歳《ばんざい》——参木は思わず乾杯《かんぱい》しようと してグラスを持った。と、皮膚の工場は急激に屈伸《くつしん》する と、突然、アーチのトンネルに変化した。油を塗った丸 坊主の支那人が、舌《した》を出しながら、そのトンネルの中を 駱駝《らくだ》のように這い始めた。油のために輝いた青い頭の皮 膚の上に、無花果《いちじく》の満ちた花園が傾きながら映っていっ た。世界は今や何事も、下から上を仰がねばフィルムの 美観が失われだしたのだ。!——再び、トンネルが崩れだ すと、参木は後を振り返った。すると、塊《かたま》った観客の一 群の顔の上に、べったり吸いついた吸盤《きゆうばん》のような動物 を、彼は見た。彼は、その巨大な動物を浮き上らせた衣 服の波の中から逆に野蛮な文明の建築を感して来た。    二十八  トルコ風呂の蒸気の中で、甲谷の身体は膨《ふく》れ始めた。 客のマッサージをすませたお柳の身体から、石鹸の泡が 滴《したた》ると、虎斑《とらふ》に染った蜘蛛《くも》の刺青《いれずみ》が、じくじく色を淡赤 く変えつつ浮き出て来た。甲谷は片手で蜘蛛の足に磨《みが》き を入れながら彼女に言った。 「奥さん、あなたはお杉をどうして首にしたんです」 「ああ、あの娘《こ》、あの娘《こ》はだめなの。あなたはまだあの 娘《こ》の出ている所もご存知ないの。四川路《しせんろ》の十三番八暑、の 皆川よ」 「出てるとおっしゃると、つまり、出るべき所へですか」 「ええ、そうよ」とお柳は冷淡に澄して言った。 「じゐ、、あなたにも、責任があるわけですね」 フてりゃ、一人前にしてやったんだから、お礼ぐらいは されてもいいわ」  この毒婦、と甲谷は思うと、にわかに泡の中で、お柳 の刺青が毒々しい生彩《せいさい》を放って来た。と、ふと、彼は彼 女と、どちらが誰の洗濯機であろうかと考えた。 「奥さん、あなたは僕の身体を洗うんですか、あなたの 蜘蛛を洗うんですか」と彼は言った。  甲谷は頬《ほお》を平手でいきなり叩かれた。彼は飛び退《の》くと お柳を蹴《け》った。蒸気が音を立てて吹き出す中で、二人の いつもの争いが始りだした。すると、甲谷は急にサラセ ンで見た芳秋蘭…の顔が浮んで来た。 「マダム、マダムの所へは芳秋蘭という支那の婦人は来 ませんか。先日僕は山口から聞いたんだが」 「芳秋蘭? ああ、あの女はあたしの主人に逢いに来る の。主人はあの女のいうことなら、いくらだって聞いて やるのよ」 「それなら、マダムの敵か」 「敵は敵かもしらないけど、あれはお金のほうの敵だか ら」 「それならいっそう大敵だね。ところが、僕はあの婦人 にだけはこの間|見惚《みと》れたね。マダムの主人に頼んでひと つ、紹介してもらいたいと思っているんだが、だめかな それは」 「それやだめだわ。あの人だけは秘密でそっとくるんだ から」 「それなら秘密でそっとという手もあるからな。どう も、あの婦入にだけはもう一度ぜひ逢いたい」  お柳は黙ってぴしりと甲谷をつねると言った。 「じゃ、今度来たとき、二階へそっと来てらっしゃい よ。あたし電話をかけてあげるから」 「奥さま、旦那《だんな》さまでございます」  ドアーの外で、湯女のあわてる声がした。お柳はシャ ワーを捻《ひね》ると、甲谷の頭の上から雨が降った。 「奥さま、旦那さまがー」 「分ってるわよ」 「いいんですか」と甲谷はシャワーの申から顔だけ出し てお柳を見た。 「えええ、あの人はこういうところが見たくってそれで あたしにこんなことをさせてるのよ。ここは万事があた しに持って来いという所。あなたのことだって、ちゃん とあたしは主人に話してあるの。ああ.そうそう、あの ね、主人が一度あなたに逢いたいって、言ってたわ。ね、 今夜これから逢ってやってくださらない。シンガポール の話が聞きたいって言ってるの」  お柳が出て行ってしばらくすると、甲谷は間もなく主 人の部屋の楼上《ロさシヤン》へ呼び出された。彼は階段を昇っていっ た。彼を包む廊下の壁には、乾隆《けんりゆう》の献寿《けんごゆ》模様が象眼《ぞうがん》の中 から浮き出ていた。甲谷は豪商のお柳の主人の銭石山《サんせきさん》 に、材木を売りつける方法を考えながら、女申の指差し た奥を見た。 「月明の良夜、慇懃《いんぎん》に接す」  ふと房前の柱にかかった対子《トイズ》を読むと、甲谷はお柳の 背中の蜘蛛《くも》の色を思い出した。部屋へはいると、お柳は 正面の八|仙卓《ぜんたく》の彫刻の上に肱《ひじ》をついて、西瓜《すいか》の種を割り ながら、傴瘻《せむし》の男と顔を合せて笑っていた。壁側に沿っ て並んだ重厚な紫檀《したん 》の十景椅子の上では、重そうな大輪 の牡丹《ぼたん》の花が、匂いを失ったままいくつもぐったりと崩 れていた。 「さア、どうぞ、あなたはシンガポールのお方だそう で。わたしはこのとおりお国の方が何より好きなもんで すから、この年になっても損ばかりしております」  銭石山の偃僂《せむし》の背中が、牡丹の花に挾《はさ》まって揺れなが ら笑った。甲谷は言った。 「どうも奥さまは僕をばかになさる癖がおありですの で、つい敷居が高くなってしまいますよ」  すると、いきなり、お柳は彼に西瓜の種を投げつけ て、主人の顔を覗き込んだ。 「あなた、聞いて、この人は、こういう人なんだから ね、用心なさるといいわよ。あたしなんか、いつでもこ の手でやられちゃうのよ」 「いや、なかなか若いときはおもしろい。シンガポール はお暑いことでございましょうな。あちらのお国の方の ご繁昌《はんじよう》なことは、かねがねから承《うけたま》わっておりますが、 このごろは?」 「いや、もう何と言っても欧人の資本には敵《かな》いません。 それに、あちらは中国商人の張りつめた土地ですから、 わずかな資本では割り込む隙がございません」と甲谷は 言った。 「いやなかなかこのごろはお国の方のご活動は生きてお ります。あなたのほうはゴム園で?」 「いえ、僕のほうは材木です。しかし、ゴム園にしまし ても、たとえば欧人園は資本を社債か株式か、とにかく 低利で運用しておりますが、日本のほうは原価も高く、 それに流通資金まで高利です。ことに配当保留《はいとうほりゆう》の運用法 にいたっては、まったく欧人園とは比較にはなりません よ。あれでは今に、開墾《かいこん》費用の充当さえおかしくなって しまいやしないかと思われますね」 「ふむ、ふむ、しかしお国も中国の日貨排斥《にっかはいせき》でお困りの ようですから、南洋へでも喰い込まねば、猫の眼みたい に内閣が変るだけでございますな。ああ、そうそう、今 日はまた日本紡が四つほど罷業《ひぎよう》で沈没《ちんぼつ》しましたな」  銭石山の視線が日本の急所を見透したかのように尊大《そんだい》 になって笑い始めると、甲谷は急に、今まで彼に売りつ けようとしていた材木の話のことよりも、支那人の弱味 について考えだした。 「もっとも、このごろの日本も日本でございますが、し かし、馬来《マレど》や暹羅《シヤム》のほうでは中国人もこのごろではなか なか困難になって来ております。中国の共産党員がシン ガポールの中国人の中へ潜入《せんにゆう》して来まして、ロシアの排 英《はいえい》運動に加入しているものですから、英国もだんだん中 国人保護の方法を変化させて来ております」 「それはだんだん変ることでございましょうな。しか し、中国人の保護法が変ったところで、あそこは中国人 を度外視《どがいし》しては政策の行われぬところだから、英国もど うしようもございませんわ。わたしの知り合いにも一人 あそこにいるものもおりますが、シンガポールの英人の 豪さには、なかなか感心しておりました。あそこの英国 人がどこの国の英人よりも成功しているのは、中国民族 の言葉や習慣や能力を、英国青年に充分に研究させて、 それからその青年を使用したからだそうですが、なかな かそれは他国人のできぬことです」 「あれは英人の豪さですね。僕もその点では英国に感心 させられておりますが、しかし英国と中国とが馬来《マレヒ》半島 で仲良く合体していますことは、東洋の平和や秩序を、 ヨーロッパのために捧《雪」柔」》げてやっているようなもので、ヨ ーロッパにとっては、これほど喜ばしいことはないと思 います。ところが、近ごろ、排英運動が、中国人の間に 盛んになって来たのは、これは排英運動ではなくって、 実は排支運動をしているのと同様だったということにつ いては、中国人の誰もが気がつかなかったことなんです が、銭さんこれをどんなふうにお考廴になりますか。馬 来《マレ 》や暹羅《シヤム》や、印度支那では、昔からム、にいたるまで、中 国人が経済的実権を握っているところですから、共産党 の運動が中国人を通じて馬来や暹羅やビルマへ浸入して 来っつあるということは、取りもなカさずその+民に対 して、その土地の経済的実権を握っている中国人に反抗 せよといっているのと、どこも違い肝 しないんです」 「そうそう、それはわたくしたちも考えぬではありませ ん」と銭石山は言うとにわかに虚《きよ》を聖、かれたかのように 狼狽《うろた》えながら、唇にひっかかった茶九すをベッと吐き出 した。 「しかしですな。わたくしたち中国人は、まず何 より中国の産業を、中国人の手で盛んにしなければなり ませんわ、そうでなければお国でも中国でも、銀行は英 国の支配からいつまでたっても脱《ぬ》けあ、れませんからな。 ところぶ、そうするためには、どうしたって今のとこ ろ、もう少しはロシア人の手を借り左ければ、印度から こちらの東洋の海岸は、ヨーロッパの海岸になってしま うに定《きま》っていますよ」  甲谷ほ自分のいうべきことを、早や銭に代って言われ たのに気がつくと、一足乗り出すように机の角を撫《な》でて 言った。 哂、い釦丶それはおっしゃるとおりですが、馬来《マレ 》にいる中 国人が、本国の反帝国主義運動に大賛成を現して、資金 を盛んに共産運動へ注ぎ込んでいますのは、結果として は、逆に中国人が足もとの土民に、排支運動の資金を注 ぎ込んでいるのと同様だと思うと、まことに私たちは馬 来の中国人の度胸《ドきよう》に感心させられるんです。馬来やシャ ムやビルマでは共産運動が盛んになるに従って、その運 動そのものは彼らにとっては国粋《ごくすい》運動なんですから、こ れは衰弱《すいじやく》していくためしはありません。けれどもそれと は反対に、この運動が盛んになるに従って、中国人は馬 来や印度支那では生活が衰弱していくより仕方がないの で亠79から、これをふせぐためには、どうしたって英国や フランス政府と結束していくよりしようがありません。 ところで、中国人と英国とが馬来で結束していくという ことは、ヨーロッパ人をして、ますます中国本国や、即 度凶丶彼らの主権を振わすに都合よくなっていくばかり でありますから、馬来の中国人の性格というものは、こ れは東洋の安全弁です」  銭石山ほようやく、支那人たちの政略がひそかに攻撃 されつつあるのを感じて来たらしく、急がしそうにまた 茶を飲みながら言った。 「しかし、中国入が馬来や印度支那やフィリッピンで経 済的実権を握っているということは、何もそれは不都合 極《きわま》ることじわ、ありませんからな。これは歴史的なことで して、フィリッピンも馬来もビルマも、もとはといえば 中国への貢国です。そのつまり属国《そつこく》で中国人が生活的に 向上したって、ヨーロッパ人のようには無理をしている んじゃありませんよ」  甲谷はようやく銭石山が支那人の誇りを感じる定石《じようせ鳶》へ 「落ち込んだのを知ると、よしッと思って、静にメスを取 り上げた。  「いや、それは無理どころじゃありませんよ。中国人が いなければ南洋群島一帯はもちろん、フィリリ・ピンにし たってアメリカにしたって、シベリァにしたって、アブ リカにしたって濠洲《こうしゆう》にしたって、文化の進歩がよほど今 より遅れていたに定《きま》っています。それらの土地の鉄道|敷 設《ふせつ》や採拡《さいこう》や農業に、中国人が他の人種に先だって、どれ ほど活動したかというようなことは、今は誰も忘れてし まって恩恵《おんけい》を感じなくなっておりますプ、世の中の識者 は、世界はたしかに中国人を中心にして廻転していると いうことぐらいは知っていますよ。しかし、それだから こそ、また世界は共同に中国人を敵に廻して争っていか なければならぬのだと思いますね。何しろ、中国人は世 界で一番人数が多いのですから。人数が多いということ は、食物と衣服がそれだけ地上で一番たくさんそのもの のために費《ついや》されるということです。食物と衣服を一番費 消する人種というものは、どうしたって世界の中心にな らねばならぬのは必定《ひつじよう》です。したがって、銀行を支配し ているイギリスやアメリカが、世界の者からいくらか公 敵のように思われているのと同様に、頭数を支配してい る中国も各国の公敵だと思われたって、それは昂然《こうぜん》とし て受け入れねばならぬ中国人の債務です」  銭石山は甲谷の雄弁《ゆうべん》が、中国に対する新しい解釈《かいしやコく》に向 って鋭くなると、背中の瘤《こぶ》に押されるかのように身を乗 り出して、甲谷の顔に見入っていた。  甲谷は銭石山の視線が、自身の話にようやく流れ込ん で来たのを感じると、ますます乗り気になって、八仙卓 の彫刻の唐獅子《からじし》の頭髪に、指頭の脂肪を擦り込みなが ら、ふと傍のお柳の顔を見た。すると、お柳は、西瓜《すいか》 の種子の皮を床の上へ吐き出しながら、 「何をばかなこ とを饒舌《しやべ》っているの」と言うように、厚い鼻翼《びよく》をぴこび こ慄《ふろ》わせて嘲弄《ちようろう》した。甲谷は、はッと冷たくなると、お 柳を蹴飛《けとば》すように、逆にお柳に向って言った。 「僕は奥さん、あなたのご主人に材木を買っていただき たくってやって来たのですが、もうそんなどころじゃあ りませんよ。あなたのご主人ほど僕の研究の趣意《しゆい》をよく 汲《く》んでくだすった中国の人はまだありませんね。実際、 馬来《マレー》にいる中国人と英人と日本人との.二つの混合は、こ れから起って来るこの上海《シャンハイ》の騒動と一番関係が深いです からな。僕たちはもうこれからは、今までみたいに安閑《あんかん》 としていられないに定っていますが、銭さんは一番それ をよくご存知です」 「だって、あたしにはそんなこと、どうだってかまやし ないわ。だって、そんなことなんか考えたって、どうし ようもないんですもの」  甲谷はお柳から鈍重《どんじゆう》に蹴返えされると、ふとまた浴場 の場合と同様に、芳秋蘭の姿が浮んで米た。彼は銭石山 に視線を移すとまた言った。 「銭さん。僕は先日、芳秋蘭という婦人を舞踏場でちら りと見ましたが、あの婦人は僕の友人のアジヤ主義者の 話によりますと、共産党の女闘士だそうじゃありません か」 「そうそう、そういう女もおりました.わたしも一二度 ちょっと逢ったことがありましたが。ずいぶんあれは変 ってる女ですな」 「僕はあの婦人をもう一度見たいと思っていますが、シ ソガポールの林推遷《りんすいせん》にしましても、黄仲涵《おほちゆうかん》にしまして も、きっとこのごろの騒ぎには資金をあの婦人連中に送 っているにちがいないと思いますね。何にしろ、南洋中 国人から毎年本国への送金は、一億万元を欠かさないと いうのですから、そのうちの十分の一は、少くとも共産 党の運動資金に使われていると、英国銀行が睨《にら》むのだっ て当り前です。銭さんなども、やはり芳秋蘭一派には、 いくらかはご賛成のほうじわ、ないんですか」 「いや、わたくしはもうどちらへも賛成しないことにし とるので。ただわたくしはもう親日が何よりだと主張し ているものだから、このごろはうかうかしてると危うご ざいましてな。しかし、シンガポールのほうも、送金機 関を外人に握らしていたりー.)ては、馬来の中国人も本国 政府を励ましてやりたくなるのは、これやもっともなこ とですよ」  意外なときに意外なところで逃げ口を見つけだした銭 石山の巧妙さには、このとき甲谷もぼんやりせずにはお れぬのであった。しかし、甲谷はすぐまた言った。 「そうです。しかし、中国政府の実力を奪回《だつかい》しようとし て、近ごろのように白人に反.抗する中国人の反帝国主義 運動が盛んになればなるほど、一方また中国人に経済的 実権を握られている植民地《しょくみんち》でも、土民が下から中国人に 反抗しつつ頭を上げているのですから、結局は同じこと になるのでしきつ。ただ一番問題なのは、各国にもっと も費富な生活の原料を与えねばならぬ南洋やその他の熱 帯国では、白人が生活するに適当でなくて、中国人が適 しているという生理的条件です。これは白人種の一番恐 るべき条件ですが、しかし、それもこのごろでは、文化 的な設備いかんによって身体には何らの危険もないとい うことが証明せられて来っつあるそうですから、これも 問題となるのはここしばらくのことでしょう。そうしま すと、後には混血の問題だけが残って来ます。しかしこ の難問だけは、いかにヨーロッパ人といえども、どうす ることもできないでしょう」  甲谷はいつの間にか自身が中国人と同じ黄色人である という意識のために、共同の標的をヨーロッパ人に廻し て快活になろうとしている自分を感じた。するとお柳は 唇のまわりを唾《つば》でぎらぎら光らして、ますます強く西瓜《すいか》 の種子を噛《か》み砕《くだ》きながら、 「まア、いつまできざったらしいことを言うんだろう」 と言うように、にがにがしく横を向いた。  甲谷は明らかにお柳のばかにしだした態度を見ると、 いっそう彼女を腹立たせてやることが愉快になった。彼 はまずゆうゆうと構え直すと、「この毒婦《どくふ》め。もっと聞 け」というように、にっこり微笑を浮べて銭石山《せんせきさん》に言っ た。 「南洋やその他の一般の土地では、白色人と黒色人との 混血が、白色人にはならずに黒色人を生んで、黄色人と 黒色人との混血が、黒色人にはならずに黄色人になると いうので、黒色の土人は白人よりも黄人を好んで結婚す るふうがだんだん増えて来ましたが、この現象はつまり これからますます増加していく人種は白色人でもなく黒 色人でもなく、われわれ黄色人だということを証明して いるわけで、したがって、世界の実行力の中心点は黄色 人種にあるということになるのですが、こういう現象が 今日のようにこうまではっきりとして来ますと、白人と 黄人との対立が観念の上で、いっそう濃厚《のうこう》になって来ま すから、世界の次の大戦争はもう経済戦争ではなくなり ます。人種戦争です。そうしますと、支那と口本が、今 日のようにがみがみやっていたりしましては、ますます 良い汁ばかりを吸っていくのは白人で、印度《インド》はその間に 挾《はさ》まって、いつまでたっても起き上れないにちがいあり ません。その何より印度を苦しめている安全弁は、事実 上、シンガポールを中心として生活している馬来《マレー》半島の 中国入です」  銭石山はお柳が二人の話にだんだん興味をなくし始め たのを感じたのであろう。甲谷の話を振払うように、左 右を見たり、空虚《から》のお茶をすすったりしながら早口に言 った。 「あなたのお説はなかなか進歩した←考えだとわたくし は思いますが、しかし中国はやはり+ハ国でありまして、 日清戦争のあったということなどは知らないもののほう が多いのですから、こういう大国というものは、中心が どこにあるか分りませんが、周囲の国を鎮静《ちんせい》させるだけ でもまア立派なものでございましセ"5。それにはまア、 当分はあちらやこちらにお愛想を言ったり、気持ちを柔 らげるために笑ってみたりしていなければ、こせこせし て血眼《ちまなこ》になっている世界というものけ、もの静に廻って いくものでは.ございませんわ。つまめ、中国人の一番好 きなことはまアまア、どなたもお静になすっては、とい うような妥協が何より好きなのです九ら、事は何事でも いつでも穏便《おんびん》に納まってしまいます。妥協が好きだとい うことは、歴史が古うて文明が非常に進歩してしまった 国でなければ、尊敬せられませんが、中国人は妥協の美 徳を一番どこの国の人間よりも心得ておりますからな。 この点だけは、中国人はおおいに威張《いば》れるわけで.ござい ますよ」  甲谷竜銭石山のこの虚無《きよむ》にも等しい寛仁大度《かんにんたいげど》な狡猾《こうかつ》さ には、竜う今は手の出しようもないのであった。彼はに やにや無意味に笑いながら、 「いや、冫、れは優《すぐ》れたお話だと思います。茅、ういわれれ ば、申国で一番深い思想の老子《ろうし》も、あれはつまり自然に 対する妥協の哲理を説いたものだと思いますが、あらゆ る美徳の源《みなもと》は妥協に始まって妥協に終るなどという秀 抜《しゆうばつ》な考え方などは、法則ばかりにかじりついているヨー ロッパ入には、とても分りっこないと思いますね。こと に何でも白色文明ばかり憧れているこのごろの日本入や 中国入には、なかなか難解な思想だと思いますよ」  すると、甲谷がそこまで話したとき、突然銭石山は八 仙卓の片端を握ったままぶるぶると慄《ふる》えだした。お柳は 主人の後から立ち上ると、傴瘻《せむし》を抱いて寝台の上へ連れ ていった。 「ち、{っとしばらく、ごめんなされ。時間がやって来ま してな」  主人ぱ甲谷に会釈《ダしやく》しながら横になると、お柳の与えた 煙管《きせる》を喰えて眼を細めた。彼の唇が魚のように動きだす と、阿片がじーじー鳴り始めた。お柳は甲谷のほうを振 り返って言った。 「あなたはいかボ」 「いや、僕はだめです。どうぞ奥さんはご遠慮なく」  お柳は主入の傍で煙管《きせる》の口から焼き始めた。甲谷は ふと彼ら二人は自分の視線を楽しむために、この楼上《ろうじよう》く、 呼び出したにちがいないと判断した。すると、にわかに 腹が立ち始めた。——;彼は今までまじめに饒舌《しやぺ》っていた 自分の顔に、急に哀れを感じずにはいられなかった。間 もなく、二人は甲谷の前で、恍惚《こうこつ》とした虫のように眼を 細めた。お柳の豊かな髪が青貝《あおがい》をちり嵌《ば》めた螺鈿《らでん》の阿片 盆へ、崩れ返った。僵瘻《せむし》の鼻が並んだ琥珀《こはく》や漢玉《かんぎよく》の隙間 で、ゆるやかに呼吸をしながら拡がった。 「月明の良夜、慇懃《いんぎん》に接す」  甲谷の頭の中で、対子《トイズ》の詩文が生き生きとして来るに したがって、二人の身体はだんだん礼節を失った。やが て、甲谷は、お柳との無銭の逸楽《いつらく》に耽《ふけ》った代償《だいしよう》を完全に 支払わされている自身に気附かねばならなかった。      二十九  お杉は朝起きると、二階の欄干《らんかん》に肱《ひじ》をついて、下の裏 通りののどかな賑《にぎ》わいをぼんやりと眺めていた。堀割の 橋の上では、花のついた菜《な》っ葉《ぱ》をさげた支那娘が、これ もお杉のように、じっと橋の欄干から水の上を眺めてい た。その娘の裾《すそ》の傍でいつもの靴直しが、もう地べた に坐ったまま、靴の裏に歯をあてて食いつくように釘《くき》を ぎゅうぎゅう抜いていた。その前を、背中いっぱいに胡 弓《こぎゆう》を背負って売り歩く男や、朝帰りの水兵や、車に揺ら れて行く妊婦《にんぶ》や、よちよち赤子のように歩く纒足《てんそく》の婦人 などが往ったり来たりした。しかし、橋の下の水面で ほ、橋の上を通る入々が逆さまに映って動いていくだけ で、凹《へこ》んだ鑵《かん》や、虫けらや、ぶくぶく浮き上る真黒なあ ぶくや、果実《かじつ》の皮などに取り巻かれたまま、蘇州《そしゆう》からで も昨夜下って来たのであろう、割木を積んだ小舟が一 艘《そう》、べったり泥水の上にへばりついて停っているだけで あった。  お杉はその小舟の中で老婆がひとり縫物《ぬいもの》をしているの を見ると、急に日本にいた自分の母親のことを思い出し た。お杉の母親は、まだお杉が幼い日のころ、彼女ひと りを残しておいて首を縊《くく》って死んだのだ。お杉はそれか らの自分が、どうしてこの上海まで流れて来たか、今は 彼女の記憶も朧《おぼろ》げであった。だが、親戚《しんせき》の者のいったと ころを考え合せると、父は陸軍大佐で、演習中に突然|亡 くなり、母一入の手でお杉が養われていたところ、ある 日、恩給局からお杉の母へ下っていた今までの恩給は、 不正当であったから、その日まで下った全部の恩給額を 返却《へんきやく》すべしという命令を受けとったのだ。もちろん、お 杉の母にとってその長い年月の間|貰《もら》っていた恩給を返す ことは、不可能なばかりではなかった。これからだっ て、恩給なくして生活することはできないのは分ってい た。そのため、彼女の母は悲しみのあまり、自分の手で 生命を絶ってしまったのにちがいなかった。 「何も知らないものにお金をくれて、それをまた返せな んて、ああ。口惜しい」  お杉は母の不幸の日のことが、つい前日のことのよう に思われると、のどかな朝の空気が、一瞬の間、ぴたり と音響をとめて冷たく身に迫った。  お杉ほ自然に涙の流れて来るのを惑じると、自分がこ んなになったのも、誰のためだと問いつめぬばかりに、 さもふてぶてしそうに懐手《ふところで》をしたまま、じっと小舟の中 の老婆の姿を眺め続けた。  しかし、間もなく、老婆の背後の草の生えた煉瓦塀の 上から、泥溝《どぶ》の中へ塵埃《じんあい》がぱッと投げ込まれると、もう お杉の頭からは、たちまち母親の姿ほ消えてしまって夜 ごとに変る客たちの顔が、次から次へと浮かんで来た。 すると、お杉は、泥溝の水面で静かにきりきりといつま でも廻っている一本の藁屑《わらくず》を眺めながら、誰か親切な客 でも選んで、一度日本へ帰ってみようかとふと思った。 もう彼女には日本の様子が、今はほとんど何も分らなか った。記憶に浮かんで来るものは、長々と立派な線を引 いた城の石垣や、松の枝に鳴っていろ風や、時雨《しぐれ》の寒そ うに降る村々の屋根の厚みや、山茶花《さざんか》の下で、咽喉《のど》を心 細げに鳴らしている鶏や、それから、人の顔のように、 いつもぽっりと町角に立っていた黒いポストやが、ちら ちらとそれもどこで見たとも分らぬ風景ばかりが浮かん で来るのだった。  しかし、今自分のこうして眺めている支那の街の風景 は、日本とは違って、何とのんびりしたものであろう。 朝から人は働きもせず、自分と同様、欄干《らんかん》からぼんやり 泥溝の水の上を見ているのだ。水の上では、朝日がちら ちら水影を橋の脚にもつらせていた。縮れた竿《さお》の影や、 崩れかけた煉瓦《れんが》のさかさまに映っている泡の中で、芥《ちめ》や 藁屑《わらくず》が船の櫂《かい》にひっかかったまま、じっと腐るようにと まっていた。誰が捨てたとも分らぬ菖蒲《しようぶ》の花が、黄色い 雛鳥《ひなどり》の死骸《しがい》や、布切れなどの中から、まだ生き生きと紫 の花弁を開いていた。  お杉はそうしてしばらく、あれやこれやと物思いにふ けっているうちに、今日は少し早い目から、客を捜《さが》しに 街へ出ようと思った。それに、一度何より日本の鰤《ぶり》が食 べてみたい。  ——そうだ、今日はこれから市場昏《マ ケツト》行こう。1  そう思うと、急にお杉は元気が出た。彼女は顔を洗っ てから化粧《けしよう》をし、どこかの良家の女中のようなふうをし て、籠《かご》を下げて買物に市場へいった。  市場はもう午前十時に近づいていたが、数町四方に払 がっている三階建の大コンクリートの中は、まだまだひ っくり返るような賑《にぎわ》いであった。花を売る一角は満開の 花で溢《あふ》れた庭園のようであった。魚を売る一角は、水を かい出した池の底のようなものであった。お杉は鱈《たら》や鰌《ます》 の乾物《ひもの》で詰った壁の中を通りぬけ、卵ばかり積み上った 山の間を通り、ひきち切って来たばかりの野菜が、まだ 匂いを立てて連っている下をくぐりぬけると、思わずは ッとしてそこに立ち停った。  彼女は前方に群がっているスッポンの大槽《おおあけ》の傍で、 甲谷とお柳の姿を見たのである。お杉は二人から見つけ られない前に、こそこそと人の背後へ隠れた。それから のお杉はもう買物どころではなくなった。お杉は下って いる蓮根《れんこん》や、砂糖黍《さとうきび》の間をすり抜けて、甲谷とお柳の眼 から逃げながらも、しかし、どうして自分はこんなに二 人から逃げねばならぬのかと考えた。悪いのは向う二人 ではないか。自分は今こそ街の慰《なぐさ》み物《もの》になっている女 だとはいえ、こんなにしたのは、そんなら誰だ。誰だ。  お杉は雑踏《ざつとう》した人の中で、口惜しさがぎりぎり湧き上 って来ると、思いきって二人の前へ、こちらからぬっと 逆に現われてやろうかと思った。そうしたなら、どんな に向うの二人は狼狽《うろた》えることだろう。その二入の顔を見 てやりたい。いっそ、それならそうしよう。1  お杉はまた勇気を出して、人波のなかを二人のほうへ 進んでいった。しかし、お杉の来ているのを知らない二 人も、お杉につれて、章魚《たこ》や、緋鯉《ひごい》や、鮟鱇《あんこう》や、鰡《ぼら》の満 ちている槽《おけ》を覗き覗き、だんだん花屋のほうへ廻ってい った。お杉は二人を見失うまいと骨折って、人々の肩に 突きあたったり、躓《つまず》いたりしながら、ようやく甲谷の後 まで追って来た。  しかし、さて二入と顔を合せてどうするつもりであろ うとお杉は思った。何も今さらいうこともなければ、腹 立たしさをぶちまけて二人を思う存分|殴《なぐ》りつけてやるわ けにもいかぬのであった。ことに、二人が自分を見て、 ひやりとでもしてくれたら、まだいくぶん腹立たしさも 納《おさ》まるにちがいない。しかし、もしかしたら、二人がか りで、今度は逆にひやかして来ないとも限らぬと思う と、何よりお杉は、そのときの二人のにやにやしながら 自分の胴を見る顔が、気味悪くなって来た。  それでも、お杉はしばらく、二人の後をつけ狙《ねら》うよう に歩きながら、甲谷の肩の肉つきや、ズボンの延びを眺 めていた。  すると、ふと、彼女は参木の家で、夜中、不意に貞操《ていそう》 を奪われたあの夜の夢を思い出した。あのときは、頭を 上げて迫って来る自い波や、子供の群れや、魚の群が、 入れ変り立ち変り彼女を追って来て眼を醒《さま》した。だが、 あの夜の男は、あれは参木であろうみ、甲谷だろうか。 もしあの男が甲谷なら、1…ああ、あの肩だ、あの胴 だ。それに今はお柳といっしょに並びながら、自分の前 でこうして肩を押しつけ合っているではないか。  お杉は袖口《そでぐち》で口を圧《おさ》えて、じっと甲谷を睨《にら》みながら、 しばらく二人の後を追っていった。しかし、いつまで自 分はこうして二入の後を追っていくつもりであろう。い つまで追ったって同じではないか。いすれ追うなら甲谷 のように.——そうだ。甲谷もあれからお柳にうまく食 い入って、自分が客から金を取るように、定めてお柳か ら巧みに金を捲き上げているのであろう。それなら、自 分も甲谷のように、今から客でも狙う・はうが、どんなに 稼《みせ》ぎになるだろう。  お杉はやがてそうしてだんだんと里心《さレ、こ,二う》が起って来 ると、また二人から放れて市場の外へ出ていった。彼女 ほ黄包車《ワンパウツ》に乗って大通りまで来ると、車を降りてなるた け外入の通りそうなペーヴメントの上を、ゆるりゆるり と腰を動かしながら、ときどき、視線を擦違《すれちが》う男の面に 投げかけ投げかけ、橋の袂《たもと》の公園のほうへ歩いていった。  しかし、行きすぎるもののうちで、昼間からお杉に視 線をくれるようなものは誰もなかった。ときたまあれ ば、肉屋の大きな爼《まないた》の向うの、庖丁《ほうちよう》を手にした番頭の 光った眼か、足を道の上へ投げ出したまま、恐そうに阿 片をひねっている小僧か、お辞儀ばかりしている乞食《こじき》ぐ らいの眼であった。  お杉は橋の袂まで来た。そこの公園の中では、いつも のように各国人の売春婦《ばいしゆんふ》たちが、甲羅《こうら》を乾《ほ》しに巣の中か ら出て来ていて、じっと静かにものもいわず、塊《かたま》ったまま |陽《ひ》を浴びて沈んでいた。お杉もその塊りの中へ交ると、ベ ンチに腰かけて、霧雨のように絶えず降って来るブラタ ーンの花を肩の上にとまらせつつ、ちょろちょろ昇って は裂けて散る噴水の丸《たま》を、みなといっし.伽にぼんやりと 眺めていた。すると、女たちの黙った顔の前で、微風が 方向を変えるたびに、噴水から虹がひとり立ち昇っては 消え、立ち昇っては消えて、勝手に華《はな》やかな騒ぎをいつ までも繰り返していくのだった。    三十  宮子の踊る踊場では、宮子を囲む外人たちが邦人紡績 会社の罷業《ひぎよう》について語っていた。宮子はひと踊りして来 ると、早や酔いの廻り始めた彼らのテーブルに寄りなが ら、独逸《ドイツ》人のフ.・ルゼルという男の話に耳を傾けた。彼 ほ不手際《ふてぎわ》な英語でつかえながら言った。 「今度の罷業はたしかに工場のほうがいけませんよ。彼 らほ支那工人を軽蔑《けいぺつ》するからです。いったい軽蔑されて 腹の立たんのは、昔から軽蔑するほうだけなんですから ね。第一日本人にとっても、外人を尊敬しないような人 物を海外に送り出して、それでわれわれの販売力を独占《どくせん》 しようとすることからして、損失《そんしつ》の第一歩だ。これでは 日本本国からの輸出品と、こちらの日本会社の製品とが 衝突するだけじゃすみゃしません。支那の工業界を刺戟《しげき》 して、日本製品を追放する能力だけ培養《ばいよう》していくにちが いないんですからね。お蔭で幸福を感じるのは僕たちで すが、いやわれわれはミス・宮子のために、諸君ととも に悲しみます」 「どうして、あなたたちが幸福ですの」と宮子は顎《あご》をあ げて言った。 噛,君は僕の独逸《ドイツ》人だということをまだ知らんのかな。僕 らは戦前まで東洋に大きな販売市場を持っていたもので すそ。ところが、そいつをふんだくったのは各国だ。わ れわれは各国の貨物が支那から排斥《はいせき》せられるということ に有頂天《うちようてん》になるのは、これや当り前さ」 「だって、それは日本だけが悪いんじゃないわ。お国だ って悪いのよ」 「そう、それは独逸《ズイツ》だって充分に後悔しなきゃいけませ んよ。僕はアメリカだが独逸の超人的な勢力は、もうわ れわれの会社まで圧迫しつつあるんですからな」と三人 へだてた遠くから、美男のアメリカ人のクリーバーが顔… を上げた。  フィルゼルの眼鏡《めがね》は、急にクリーバーのほうへ向って 光りだした。 「失礼ですが、あなたたちはどちらの会社にご関係でい られます」とフィルゼルは訊《たず》ねた。 「僕はゼネラル・エレクトリック・コンパニーのハロル ド・クリーバーという社員ですが、あなたのほうは?」 「いや、これはこれは。僕はアルゲマイネ・エレクトリ チテート・ゲゼルシャフトの支店詰のヘルマン・フィル 調、ルというものです。どうもこれは、はなはだ心外な所 で乗り合せたものですな。宮子嬢、これはわれわれの強 敵のアルゲマイネだ。何あんだ、さようか。……」  フィルゼルは手を出しながら立ち上ったが、ひょうひ ょうするとまた坐った。すると、クリーバーが向うから 立って来て、ご人は握手をした。フィルゼルはボー.4に 言った。 「おい、シ瀞、ンパン。シャンパン」 「何んだかややこしくなったわね、あなた方お二人が敵 同士の会社なら、あたしこれからどららへ味方したらい いのかしら」と宮子は言った。 「それやもちろん、あなたは、ヂー・イーさ」  クリーバーの言葉を圧えるように、フィルゼルほ反対 した。 「いや、それや、ぜひとも僕のほうでなくちゃいけない よ。僕たち独逸《ドイツ》人にあなたが反対すわば、第一、賠償金《ぱいしようきん》 が返りませんぜ。もちろん、アメリゐへだって返しゃし ませんよ。今のところ、われわれだけは何をしたってよ ろしい。大戦に負けた慈善が、こういうところで実るの でさ」  すると、クリーバーは飲みかけたんクテルを下に胃い て、フィルゼルにもたれかかりながら、 「僕はあな.たのおっしゃるように、充分|独逸《ドイツ》へは同情を 感じますさ。しかしだね、だからと言って、あなたの会 社のアー・エー・ゲーには同情しやしませんよ。あなた の会社のこのごろのシンヂケートの発展は、むしろ憎む べき存在だよ」 「いや、それはなかなかもって恐縮《きようつゆく》ですな。だけど も、実ほそれやわれわれのほうの苦情ですぜ。あなたの ほうのヂー・イーこそ何んだ。マルコニー無電を買収し てロッキー・ポイントを占領しただけで納まらずに、フ エデラル無電会社を支配して、支那全土への放送権まで 握ろうとしてるじゃないですか、え?」  すると、クーバーは苦笑しながらウイスキイをぐつ といっぱい飲み込んだ。 「いや、なかなか、あなたのほうの精細《せいさい》なご調査には満 足を感じますよ。が、しかしだ。それは何かの間違いだ といっそうけっこうだと思いますね。良うしいか、われ われのフェデラル無電は、今は日本の三井に支那放快権 を奪われているのですぜ。もっとも、こう申し上げるの は、何もあなたがアー・エー・ゲー・シンヂケートの強 力なことを羨望《せんほう》するわけじゃないですが、とにかく、近 来のアー・エー・ゲーの進出振りのお盛んなことは、敵 ながら天晴《あつば》れだと思いますよ。リンケ・ホフマン工場と は株式を交換し、ラウンハンマー会社との合同出資はも ちろん、ライン・メタル工場を併合した上、アー・エ ー・ゲー・リンケ・ホフマン・コンチェルンを造ったの は、流石《さすが》独逸《ドイツ》人だと感動させられているんですがね、し かし、われわれはお互に、もうどちらも第二の世界大戦 だけは、倹約しようじゃありませんか、倹約を。倹約は これや何といっても、君、美徳だからね。しかと分った か」  宮子はもたれかかって来る二人の大きな脇の下から擦 り抜けると、立ち上って髪を掻き上げた。 「もうたくさん。シャンパンが来ましてよ。この上あた したち、ドイツとアメリカのシンヂケートで攻められち ゃ、踊ることもできやしないわ」 「そう、そう、われわれは、闘《たたか》いよりも踊るべしだよ」  クリーバーは抜かれたシャンパンを高く上げると管.口っ た。 「われらの敵、アルゲマイネ・エレクトリチテート・ゲ ゼルシャフトの隆盛《リゆうせい》のために」  フィルゼルはふらふらして立ち上った。 「われわれの尊敬の的、ゼネラル・エレクトリック・コ ムパニー万歳《ばんざい》」  しかし、ふとその拍子に、彼は頭の上の電球を仰ぐ と、しばらくぼんやりしていてから、突然眼をむいて大 きな声で叫びだした。 「これは、俺の会社の電球だ。万歳、万歳、ばんざあい」  クリーバーは彼と同様に天井を仰いでみた。が、たち まち、上げているフィルゼルの手を引き降ろした。 「へへえ、これはすまぬが、ヂー・イーだよ。おれんと ころの会社の電球だ。ゼネラル・エレクトリック・コン パニー、万歳、万歳、万歳」 「いや、これはアー・エー・ゲーだ。見ろ、エミール・ ラテナウの白熱球だ、万歳」 「いや違うよ、これやあー」 「まア、ばかばかしい。これは、円本のマツダ・ランプ よ」と宮子は言った。  二人は上げかけた両手をそのままに、ぽかんとして天 井を見つめたまま黙ってしまった。すると、クリーバー は急に子供のように叫びだした。 「そうだ。こりゃ三井のマツダだ。われわれゼネラル・ エレクトリック・コムパニー、マツダ・ランプ、万歳」  彼は宮子の胴を浚《さら》うようにひっかかえると、おりから 廻りだした踊りの環の中へ「失敬、失敬」と片手を軽く 上げながら流れていった。傾くフィルゼルの手からシャ ンパンが滴《したた》った。彼は遠ざかっていく宮子のほうへ延び だしながら、ぶつぶつ言った。 「ふむ、日本の代理店ならアー・エー・ゲーだってあら ア。大倉コンパニーを知らねえか。大倉コンパニーは、 ロンドンで、ロンドンでちゃんと調印したんだぞ」  しかし、そのとき宮子の視線はさきから棕櫚《しゆう》の陰で沈 んでいた参木の顔を見つけると、にわかにクリーバーの 肩の上で動揺した。  踊りがすむと、宮子は参木の傍へ近よって来て腰を降 ろした。 「あなた、どうしてこんな所へいら」らたの。お帰りな さいな。ここはあなたなんかのいらっしゃる所じゃなく ってよ」 「そこを、どきなさい」と参木は言った。 「だって、ここをどいたら、あたしの恋人の顔が見られ るわよ」 「僕はさきからあの女を見てたんだが、あの人ほ何んて いう」 「誰れ、ああ、容子さん。刺されてよ。危いからこっち を向いてらっしゃいな。あの人はあたしのように、開け てやしないわよ」 「もう黙って向うへいってくれよ。今夜は考えごとをし てるんだから」  宮子は椅子から足をぶらぶらさせながら煙草《たばこ》をとっ た。 「だって、あたしだって、ここにいたいんだわ。もうし ばらくここにこうしていさせてちょうたい」 「もうすぐここへ甲谷がやって来るんたが、そしたらま たここへおいでなさい。あの男と君が結婚するまでは、 君とは、話したくないよ」  宮子は火のついた煙草の先で、花瓶の花を焼きなが ら、徴笑した。 「まあ、ご苦労なことね。あたしはあなたと結婚するま では、甲谷さんとは話さないことにしているんだから、 どうぞ、甲谷さんには、あなたからよろしくおっしぬ、つ といて」 }、僕は冗談《じょうだん》を聞きに来たんじゃないですよ。僕は今夜 は、もういい加減に一つ良いことをしとこうと思って来 たんだから、僕の言うことも聞いといてくれたまえ。そ のほうが君だって、いいに定《きま》ってるじめ、ないか」 「あたしは甲谷さんとは、死んだっていやなんですから ね、あなたにくれぐれもお願いするわよ。あたし、あの 方と結婚して、シンガポールなんかへいったって、色が 真黒になるだけだわ」 「それじゃ、甲谷と君とはもうだめなんです.か」参木の 眼からもう笑いが消えてうす冷い光りが流れた。 「ええ、もうそれは初めっからだわ。あたし、甲谷さん の好きなところ一は、、こ自分の英語の間違いもご存知にな らないところだけよ。あれならきっと奥さんにおなりに なる方だって、お幸にちがいないわ」  参木は宮子の皮肉が不快になると横を見た。並んだ踊 子たちの膝《ひざ》の上を、一握りのチョコレートが華やかな騒 ぎを立てて辷《すべ》っていった。 「あなた、今夜はあたしと踊ってちょうだい。あたし、 つくづくこのごろ、生きてるのがいやになったの、あた し、どうして踊子なんかになったのでしょう。あたし、 死ぬ前にあなたと一度、日本の花嫁さんの姿をして結婚 がしてみたいわ。それも一度よ。ね、そうしてよ」 「君ももうすることがなくなったと見えるね。僕を掴《つか》ま えてそんなことを言うようじゃ、それや危いそ」 「そう、危いのよ。あたしは自分と同じような顔を見つ けると、恐ろしくて寒けがするの。あなたももうお気を つけてらっしゃらないと、危くてよ。顔に出てるわ」  参木は急所を刺されたようにますます不快になると眉 を顰《ひそ》めた。 「もう、向うへいってくれよ。同じ人間が二人もいち や、辷《すべ》るだけだよ」 「だって、もうこうなれば同じことだわ。あなた、おか しくなったらあたしに言ってね、あたし、いつでもあな たのお相手してよ。嘘《うそ》じゃないわ。あたしひとりなら、 まだまだぶらぶらしてるに定っているわ。だけど、も う、ぶらぶらしたって、ソセーヂみたいで、ただ長くな っているだけよ。つまんないったらありゃしない……」  参木は滲《し》み込んで来る危険な境界線を見るように、宮 子の眼を眺めてみた。すると、ふと、彼は競子の顔を思 い出した。だが、もう彼女は体の崩《くず》れた未亡人だ。彼は 秋蘭の顔を思い出した。だが、彼女を菟ることは死ぬこ とと同様だ。いやそれより俺《おれ》には何の希望の芽がある か。—— 「あたし、何んだか、だんだん氷と氷の間へ辷《すぺ》り込んで いくような気がするのよ。これはきっと、あんまり人の 身体の間へ挾《はさ》まってばかりいるからね。恋愛なんて玄る で泥みたいに見えるのよ」  参木は舐《な》められるように溶けていく自分のうす寒い骨 を感じた。彼は言った。 「君、もう踊って来なさい。僕はここで君の踊るのを見 てるよ」 「あなた一度、あたしと踊らない」 「だめだ、踊りは」と参木はぶっきら棒に言った。 「だって、ただぶらぶら足踏みさえしておればいいんじ やないの。こんな所で上手《じようず》に踊ったりするのは、きっと どっかばかな人よ」 「とにかく、何んだっていいよ。ここにいたってつまら ないじゃないか。あっちのほうが君の嵌《はま》り場《ば》だよ」  宮子は参木の指差した外人たちの塊《かたま》りを振り向くと、 笑いながら彼の指さきに手を乗せた。 「何アんだ。さきからぶんぶんしてたの、それか、あた し、そういうのは好きじゃないね。じゃ、さようなら、 あちらへ行くわ。ああ、そうそう、あそこに塊ってる外 入たちね。あれはあなたが、こないだ、蹈んだアルバムの 中にいた人たちよ。覚えといて。一番右のがマイスター 染料会社のブレーマン、それから、ほら、こちらを向い たでしょう、あれはパーマース・シップのルースさん、 その次のはマーカンティル・マリンのバースウヰック、 その前のはi何んだか忘れた。その向うのがなかなか 資格のある人よ」 「それより、もうすぐ甲谷が来るよ」 「だって、あたし、ほんとに甲谷さんとは、初めから何 んでもないのよ。それだけは覚えといて、ね、ねしと冨 子は言うと、英語のバスの渦巻いた会語の中へ、しなし な背中に笑いを波立てながら歩いていンた。    三十一  高重の工場でほ、暴徒の襲った夜以来、ほとんど操業《ぞpつぎ、い出尸)》 は停ってしまった。しかし、反共産派の工人たちは機械 を守護《しゆご》して動かなかった。彼らは共産派の指令が来ると |袋叩《ふくろだた》きにして河へ投げた。工場の内外では、共産派の宣 伝《ぜんでん》ビラと反共派の宣伝ビラとが、風の中で闘っていた。  高重は暴徒の夜から参木の顔を見なかった。もし参木 が無事なら顔だけは見せるにちがいないと思っていた。 だが、それも見せぬ。——  高重は工場の中を廻ってみた。還転を休止した機械は 昨夜一夜の南風のために錆《さ》びついていた。工人たちは黙 黙とした機械の間で、やがて襲って来るであろう暴徒の 噂のために蒼《あお》ざめていた。彼らは列を作った機械の間(、 虱《しらみ》のように挾《はさ》まったまま錆。ひを落した。…機械を磨《みが》く金剛 砂《こんサこうしや》が湿気《しつけ》のために、ぼろぼろと紙から落ちた。すると、 工人たちは口々にその日本製のやくざなベーパーを罵《ののし》り ながら、静った.〈、ルトの掛けかえを練習した。綿は彼ら の周囲で、今は始末《しまつ》のつかぬ吐瀉物《としやぶつ》のように湿《しめ》りなが ら、いたる所冖に塊っていた。  高重は屋上から工場の周囲を見廻した。駆逐艦《くちくかん》から閃《ひら》 めく探海燈《たんかいとう》が層雲《そううん》を浮き出しながら廻っていた。黒く続 いた炭層の切れ目には、重なった起重機の群れが刺さっ ていた。密輸入船の破れた帆が、真黒な翼のように傾い て登っていった。そのとき、炭層の表面で、襤襖《ぼろ》の群れ が這いながら、滲み出るように黒々と拡がりだした。探 海燈がそれらの背中の上を疾走《しつそう》すると、襤褸の波は扁平 に、べたりと炭層へへばりついた。  来たぞ、と高重は思った。彼は背を低めて階下へ降り ようとした。すると、倉庫の間から、声を潜《ひそ》めて馳けて いる黒い一団が、発電所のガラスの中へ辷《すべ》っていった。 それは逞《たくま》しい兇器《きょうき》のように急所を狙《ねら》って進行している恐 るべき一団にちがいないのだ。高重はそれらの一団の背 後に、芳秋蘭の潜んでいることを頭に描いた。彼はそれ らの計画の裏へ廻って出没したい慾望を感じて来た。彼 らは何を欲しているのか。ただ今は、工場を占領したい だけなのだ。-  高重は電鈴のボタンを押した。すると、見渡す全工場 は真黒になった。喚声《かんせい》が内外ニヵ所の門の傍から湧き 起った。石炭が工場を狙って飛び始めた。探海燈の光鋩《こうほう》 が廻って来ると、塀を攀《よ》じ登っている群衆の背中が、蟻《あり》 のように浮き上った。  高重は彼らを工場内に引入れることのむしろ得策《とくケ く》であ ることを考えた。はいれば袋の鼡《ねずみ》と同様である。外から 逆に彼らを閉塞《へいそく》すればそれで良いのだ。もし彼らが機械 を破壊するなら、損失はやがて彼らの上にも廻るだろ う。t彼は階段を降りていった。すると、早や場内へ 雪崩《なだ》れて来た一団の先頭は、機械を守る一団と衝突を始 めていた。彼らは叫びながら、胸を垣のように連ねて機 械の間を押して来た。場内の工人たちは押し出された。 印度《インド》人の警官隊は、銃の台尻を振り上げて押し返した。 格闘の群れが連った機械を浸食《しんしよく》しながら、奥へ奥へと進 んでいった。すると、予備室の錠前《じようまえ》が引きち切られた。 場内の一団はその中へ殺到《さつとう》すると、棍俸《こんぼう》形のピッキング ステッキを奪い取った。彼らは再びその中から溢《あふ》れだす と、手に手に、その鉄の棍棒を振り上げて新しく襲って 来た。  彼らは精紡機《せいぼうき》の上から、格闘する人の頭の上へ飛び降 りた。木管《もくかん》が、投げつけられる人の中を、飛び廻った。 ハンク・メーターのガラスの破片が、飛散しながら裸体 の肉塊へ突き刺さった。打ち合うラップボートの音響と 叫喚《きようかん》に攻め寄せられて、しだいに反共産派の工人たちは 崩れて来た。  高重は電話室へ馳《か》け込むと、工部局の警察隊へ今一隊 の増員を要求した。彼は引き返すと、急に消えていた工 場内の電燈が明るくなった。瞬間、はたと混乱した群集 は停止した。と、再び、怒濤《どとう》のような喚声《かんせい》が、湧き上っ た。高重はまだ侵入されぬローラ櫓《やぐら》を楯《たて》にとって、頭の 上で唸《うな》る礫《つぶてし》を防ぎながら、警官隊の来たことを報らすた めに叫んだ。  しかし、それと同時に、周囲の窓ガラスが爆音を立て て崩壌《ほうかい》した。すると、その黒々とした巨大な穴の中か ら、一団の新しい群衆が泡のように噴き上った。彼らは 見る間に機械の上へ飛び上ると、礫や石炭を機械の間へ 投げ込んだ。それに続いて、彼らの後から陸続《りくそく》として飛 び上る群衆は、間もなく機械の上で盛り上った。彼らは 破壊する目的物がなくなると、社員目がけて雪崩《なだ》れて来 た。  反共派の工人たちは、この団々と膨脹《ぼンちょう》して来る群衆の 勢力に巻き込まれた。彼らは群衆と一つになると、新し く群衆の勢力に変りながら、逆に社員を襲いだした。社 員は今ほいかなる抵抗もむだであった。彼らは印度人の 警官隊と一団になりながら、群衆に迫いつめられて庭へ 出た。すると、行手の西方の門から、また一団の工人の 群れが襲って来た。彼らの押し詰った団塊の肩は、見る 間に塀を突き崩した。と、その倒れた塀の背後から、兇 器を振り上げた新しい群衆が、忽然《こづぜん》として現れた。彼ら の怒った口は鬨《レしよご》の声を張り上げながら、社員に向って肉 迫した。腹.背に敵を受けた社員たちはもはや動くことが できなかった。今は最後だ、と思った高重は、仲間とと もに拳銃を群衆に差し向けた、彼の引金にかかった理性 の際限《さいげん》が、群衆といっし.議に、バネのように伸縮《しんしゆく》した。 と、その先端へ、乱れた蓬髪《涯うにつ》の海が、速力を加えて殺到《さつとう》 した。同時に、印度人の警官隊から銃が鳴った。続いて 高重たちの一団から、  群集の先端の一角から、叫び が上った。すると、その一部は翼を折られたようにへた ばった。彼らは引き返そうとした。すると後方の押し出 す群れと衝突した。彼らは.円弧《えんこ》を描いた二つの黒い潮流 となって、高重の眼前で乱動した。方向を失った背中の 波と顔の波とが、廻り始めた。逃げる頭が塊《かたま》った胴の中 へ、潜《くぐ》り込んだ。倒れた塀に躓《つまず》いて人が倒れると、その 上に盛り上って倒れた人垣が、しばらく流動する群衆の 中晒丶黒々と停って動かなかった。  反共産派の工人たちは、この敗北しかけた共産系の団 流を見てとると、再び爪牙《そうが》を現わして彼らの背後から飛 びかかった。転《ころ》がる人の上を越す足と、起き上る頭と が、同時に再び絡《からま》って倒れると這い廻った。踏まれた蓬 髪《ほうはつ》に傾いた頭が、疾風《しつぶう》のように駈ける足先に蹴りつけら れた。ラップボートが、投槍のように飛び廻った。石炭 が逃げる群集の背後から投げつけられた。拡大して散る 群集の影が倉庫の角度に従って変りながら、急速に庭の 中から消えていった。  工部局の機関銃隊が工場の門前に到着した時は、早や 彼らの姿は一人として見えなかった。ただ探海燈の光鋩《こうぼう》 が空で廻るたびごとに、血潮が土の上から、薄黒く痣《あざ》の ように浮き上って来るだけだった。    三十二 顔をぽつてり執ならせながら山口はトルコ風呂から外 へ出た。彼はこれからお杉の所へいって、夜の十二時ま でを過して来ようと考えたのだ。しかし、彼は歩いてい るうちに、長く東京にいたアジヤ主義者の同志、印度《インド》人 のアムリのいる宝石商の前へ来てしまった。彼はアムリ がいるかどうかと覗いてみた。すると、アムリは客を送 り出して商品台へ戻ったところ嶋丶背中を表へ見せたま ま支那人の小僧に何事か大声で怒鳴《どな》っていた。怒鳴《どな》るた びに、アムリの黒い首の皮膚《ひふ》が、真白な堅いカラーに食 い込まれて弛《ゆる》みながら揺れ動いた。  山口はここでアムリと話したら、今夜は、お杉に逢う ことのできなくなるのを感じた。しかし、そのときは、 早わ丶彼はアムリに声をかけてすでに近よってしまって いる後であった。 「おう」アムリは堂々とした身体を振り向けると、宝石 台の厚ガラスに片手をついて、山口と握手をしつつ明瞭 な日本語で言った。 「しばらく」 「しばらく」 「ときに、どうも飛んだことになったじゃないか」と山 口は言って手を放した。 「さよう、なかなか込み入って来ましたね。今度は支那 もよほど拡げる見込みらしい」 「あなたは李英朴《りえいだく》に逢いましたか」 「いや、まだだ。李君に逢おうと思っても行衛《ゆくえ》が不明で ね」アムリは山口に椅子をすすめて対座すると、白い歯 並の中から、金歯を一枚強くきらきらと光らせながら言 った。「今度の事件はなかなか厄介《やつかい》で困ったね。東洋紡 の日本社員は、最初発砲して支那人を殺したのは印度人 だと頑強《がんきよう》にいってるが、ああいうことを頑強に言われて は、われわれもいつまでも黙っちゃいられなくなるから ね」 「しかし、あれはまア、発砲したのが日本人であろうと 印度入であろうと、押しよせて来たのは支那人なんだか ら、誰だって発砲しようじゃないかね。文句はなかろ う」 「それはそうだが、そうだとしたって、罪を印度人に負 わせる必要はどこにもないさ」 「しかし、あれほ君、検視《けんし》してみたら弾丸が印度人のと 日本人のとがはいっていたというので、何んでも今日あ たりからいままでの排日が、排英に変っていくそうだ。 それなら、君だって賛成だろう」  アムリは入口の闇に漂っている淡靄《うすもや》の中で、次から次 へと光って来る黄包車《ワンパウツ》の車輪を眺めながら、笑って言っ た。 「われわれは支那人の排英にはもう替、成しませんね。支 那人にできるのは、排支だけだ」 「廃止か」山口はアムリの大きな掌で圧えられているガ ラス台の下の宝石類を覗き込んだ。 「君、これは皆、印 度.から来たんかね」 「いや、達う。泥棒からだ」 「それじゃ、ひとつ貰ったって、かまわんね」 「良うしい。どうぞ」とアムリは言って宝石台の戸を謂 けた。山口は中につまっている印度製の輝いた麦藁細工《むぎわらざいく》 の黒象をかきのけると、お杉にひとつと思って、アメシ ストの指環を抜きとった。 「君、これは贋物《にせもの》じゃなかろうね」 「いや、それは分らぬ」とアムリは言つた。 「それじゃ貰ったって、ありがたかないじゃないか」 「だから、金五ドルさ」アムリは掌を山口のほうへ差し 出した。 「贋物のくせに、君はまだ金をとろうというのかね」 「それが商売というものだよ。おい、君、五ドル」  山口は五ドルを出すと、指環を自分の指に嵌《に》めながら 言った。 「今夜からは、わしだけは排印だ」 「僕をこんなにしたのは、これは英国さ」 「英国と言えば君、このごろの英国はまたなかなかやり よるじゃない為.君の国の国民会議派も危いね」 「危い」とアムリは平然として言った。 「君はどうだ。会議派がもし分裂すればどちらになるん だ。まさか君の御大《ホんたい》のジャイランダスまで共産党にくら がえするんじゃなかろうね。だいじょうぶかい」 「それは分らん。このごろみたいにヤワハラル・ネール が鞍《くら》がえするとなると、ジャイランダスだって、そのま まにはいられまい」とアムリは言った。 「しかし、今ごろから鞍がえするなんて、ヤワハラルも あんまり山を張りすぎるじぬ、ないか」  アムリは黙って戸口のほうを眺めたまま答えなかっ た。山口は印度から詳細《しようさい》な通知が、もうこのアムリに来 ているにちがいないと思って袖《そで》を引いた。 「ヤワハラルの鞍がえは、英国の寿命《じゆみよう》を五十年延ばして やったのと同然だよ。君はどう思う」 「僕もそう思う」とアムリは答えた。 「それなら、君の敵はまた一つ増えたわけじゃないか」 「増えた」 「今ごろ、同志が苦しんで英国と闘《たたか》っているときに、青 年の力を借りなければならぬからといって、わざわざ書 らを背後から襲うというのは、分裂している印度をいっ そう分裂させるようなものだ。君らは印度を改革しよう とするんじゃなくって、今日からは守備につかねばなら んのだ。目的が変って来ている。今度は君らは改革・され る番じゃないか」  しかし、アムリは前方の靄《もや》の中を眺め続けたまま、急 激に起って来たこの祖国の新しい混乱に疲れたかのよう に、いつまでも黙っていた。 「君、その後の通知はまだ印度から来ないのかね」 「来ない」とアムリは答えた。 「それじゃよほど今ごろは混乱してるんだな」 「しかし、共産党が印度にも起りだしたところで、われ われはその共産党と闘う必要はない。共同の目的はどち らにしたって英国だ」  山口はアムリから自国の困憊《こんぱい》を押し隠そうとしている 薄弱《はくじやく》な見栄《みえ》を感じると、ふと、同時に彼も振り向くよう に、日本に波打ち上っている思想の火の手を感じないで はいられなかった。 「君、印度に共産党が起れば、今まで独立運動に資金を 出していた資本家が、英国と結びついてしまうじゃない か。そうしたら、会議派の条件は永久に葬られるよりし ようがあるまい?」 「それはそうかもしれないが、しかし、支那でも資本家 は共産党と結託《けつたく》して排外運動を起しているんだから、印 度もそこは、ジャイランダスとヤワハラルにまかしてお くより仕方があるまい」  アムリは時計を仰ぐと、 「おい、店をしまえ」と大声で小僧に言った。 「しかし、それにしたって、印度からこちらの海岸線 が、そうむやみに共産化してどうなるんだ。われわれの 大アジヤ主義もヨーロッパと戦うことじゃなくって、こ れじゃ共産軍と戦うことだ」 「ロシアだ。曲者《くせもの》は」とアムリは言うと、窓のカーテン を引き降ろした。続いて小僧は表の大戸を音高く引き降 ろした。 「この分だと君らのミリタリズムは、当然ロシアと衝突 せずにはおられまい」とアムリは言った。 「ミリタリズムがロシアと衝突すれば、君、印度はどう する? これは一番問題だぞ」と山口は刺し返した。 「そうすれば印度は当然分裂さ。ヤワハラルのこのごろ の勢力は、青年の間ではガンヂー以上だから大変だよ」 「そうすると君の大将のジャイランダスはどうなるん だ」 「ジャイランダスはあくまで英国と闘うさ。問題はまだ まだ山のようにある。国防軍の統帥権《とうすいけん》と、経済上の支配 権、印度公債の利権|賦与《ふよ》と塩専売法の否定運動、それに 何より政治犯人の控訴権《こうそけん》の獲得《かくとく》だ。君、全印国民会議執 行委員三百六十名の申、七十六パーセントの二百七十人 は現在獄中にいるんだからね。いずれにしたって、これ はこのままじゃいられぬさ。牢獄《ろうごく》は正峩の士でいっぱい だ。もう五年、五年間待ってくれ、やってみせる」  アムリは内ポケットから謄写版《とうしやばん》でナった用紙を出し た。 「これは先日ラホールの同志から来た印度総督攻撃の名 文だが、なかなか近ごろにない名文だ。ll塩税に関し て我々のなしたところの、げに穏健着実《おんけんちゃどじっ》なる提案に対 し、総督の採《と》りたる態度は、怪《あや》しむべき政府の真情を暴 露《ばくろ》する。目もくらむばかりのシムラの高原に閑居《かんきよ》する全 印度の統治者が、平原に住む餓《う》えたる数百万の苦悩を理 解し得ざるは、我々にとってはあたか測、日を仰ぐがごと く明瞭である。しかも彼らは、数百万民衆の不断の労苫 の庇護《ひご》によって、シムラの閑居が可能ではないか」 「君、そりゃ、共産党の文句じゃないか。ラホールもも う危いのかい?」と山口は言った。  アムリは用紙から眼を上げると、山口の顔を見て言っ た。 「君には何んでも共産党に見えるんだね。そんなに共産 党が恐くち功、、大アジヤ主義もお終《しま》いだよ」 「まア、何んでも良いから今夜は出よう」 「出よう」  山口は先に表へ出ると、アムリも後から帽子を取って ついて出ていった。    三十三  海港からは、拡大する罷業《ひぎよう》につれて急激に綿製品が減 少した。対日|為替《かわせ》が上りだした。銀貨の価値が落っこち ると、金塊相場が続騰《ぞくとう》した。欧米人の為替《かわせ》ブローカーの 馬車の群団は、いっそうその速力に鞭《むち》をあてて銀行間を 馳け廻った。しかし、金塊の奔騰《ほんとう》するに従って、海港に は銀貨が充満し始めた。すると市場における綿布の購買《こうばい.》 カが上《りよく》りだした。外品の払底《ふつてい》が続きだした。紐育《ニユ ヨ ク》とリバ プールと大阪の綿製品が昂騰《こうとのつ》.した。  参木はこの取引部の掲示板《けいじばん》に表れた日本内地の好景気 の現象に興味を感じた。邦人会社が苦しめられると、逆 に大阪が儲けだしたのだ。それなら、支那では——支那 における参木の邦人紡績会社では、久しく倉庫に溜《たま》った 残留品までが飛び始めた。  もちろん、この無気味な好況《こうきよう》に斉《ひと》しく恐怖を感じたも のは、取引部だけではなかった。交易所では、にわかに 買気が停ると、売手がそれに代って続出した。すると、 …俄然《がぜん》として綿布がいっせいに暴落し始めた。印度人の買 占団が横行《おうこう》した。しかし、海港からなおますます減少す る綿製品の補充は、不可能であった。そうして、罷業紡 績会社の損失は、罷業時日とともに、ようやく増進し始 めた。しかも、操業停止の期間内における賃金支払いの 承諾《しようだく》を、工人たちに与えない限り、なお依然として罷業 ほ続けられるにちがいないのだ。——  この罷業影響としての綿製品の欠乏から、最も巨利を 占めたのは、印度人の買占団と、支那人紡績の一団であ った。支那人紡績は、前から久しく邦人会社に圧迫せら れていたのである。彼らは邦人紡績に罷業が勃発《ほつばつ》すると 同時に、休業していた会社さえ、全力を挙げて機械の運 転を開始し始めた。罷業職工内の熟練工《じゆくれんこう》が続々彼らのエ 場へ奪《と》られだした。国貨の提唱が始った。日貨の排斥《はいせき》が 行われた。そうして、支那人紡績会の集団は、今こそ支 那に、初めて資本主義の勃興《ぼつこう》を企画《きかく》しなければならぬ機 会に遭遇《そうぐう》したのだ。彼ら集団は自国の国産を奨励《しようれい》する手 段として、彼らの資本の発展が、外資と平行し得るま で、ロシアをその胸中に養わねばならぬ運命に立ちいた った。なぜなら、支那資本はもはやロシアを食用となさ ざる限り、彼らを圧迫する外国資本の専制から餅出する ことは、不可能なことにちがいないのだ。支那では、こ うして共産主義の背後から、この時を機会として資本主 義が駈け昇らなければならなかった。  この支那資本家の一団である総商会の一員に、お柳の 主人の銭石山《せんせきさん》が混っていた。彼は日本人紡績会社に罷業 が起ると、彼らの一団とともに策動《さくどう》し始めた。彼らは支 那人紡績に資金を増した。排日宣伝業者に費用を与え た。同時に罷業策源部である総工会に秋波《しゆうは》を用いること さえ拒まなかった。そうして、この支那|未曽《みぞう》有の大罷業 が、どこからともなく押し寄せた風土病のように、その 奇怪な翼《つばさ》を刻々に拡げだしたのだ。今や海港には失業者 が満ち始めた。無頼《ぶらい》の徒《やから》が共産党の仮面を冠って潜入し た。秘密結社が活動した。街路の壁や、辻々の電柱や、 露路の奥にまで日本人に反抗すべしという宣単《せんたん》が貼《は》られ 始めた。総工会のP本部からは、彼らに応ぜしめる電報 が、各国在留支那人に向けて飛び始めた。  この騒ぎの中で、高重ら一部の邦人と、工部局属の印 度入警官の発砲した弾丸は、数人の支那工人の負傷者を 出したのだ。その中の一人が死ぬと、海港の急進派はい っそう激しく暴れだした。彼らは工部局の死体検視所か ら死体を受けとると、四ヵ所の弾痕《だんごん》がことごとく日本人 の発砲した弾痕だと主張し始めた。総工会幹部と罷業工 入三百人から成る一団が、棺《ひっぎ》を担《かつ》いで、殺人|糾明《きゆうめピ》のため 工場へ押しかけた。しかし、彼らはその門前で警官隊か ら追われると、ようやく棺は罷業本部の総工会に納めら れた。  高重は自身たちの作った一つの死汰が、しだいに海港 の中心となって動きだしたのを感じた。支那工人の団結 心は、一個の死体のために、ますます鞏固《きトホうこ》に塊まりだし たのだ。彼はその巧みな彼らの流動浄見ていると、それ がことごとく芳秋蘭一人の動きであるかのように見えて ならぬのであった。間もなく彼女は数.千人の工人を引き つれて八方に活動するにちがいない。——  しかし、見よ、と彼は思った。  ——今に、彼女が活動すればするぼど、彼女に引き摺 り廻される工人の群れは餓死《がし》していくにちがいないの だ。——  総工会に置かれた死亡工人の葬儀け、附近の広場で盛 大に行われた。参木の取引部く、は、刻々視察隊から電話 が来た。      三十四  襲撃された邦入の噂《うわさ》が日々市中を流れて来た。邦人の …貨物が掠奪《りゃくだつ》されると、焼き捨てられ方。支那商人が先を 争って安全な共同租界《きよよノどうそかい》へ逃げ込んだ。租界の旅館が満員 を続けて溢《あふ》れて来ると、それに従って租界の地価と家賃 が暴騰《ぼうとう》した。親日派の支那人は檻《おり》に入れられ、獣のよう に市中を引き摺り廻された。何者とも知れぬ生首がとこ ろどころの電柱にひっかけられると、鼻から先に腐って いった。  参木は視察を命ぜられると、ときどき支那人に扮装《ふんそう》し て市中を廻った。彼は芳秋蘭を見たい慾望を圧えること に、だんだん困難を感じて来た。彼は危険区劃に近づく ことによって、急激な疲労を感じると、初めて鼻薬を盛 られた鼻のように生き生きと刺戟を感じるのであった。.  その日は、参木はいつものようにパーテルで甲谷と逢 わねばならなかった。彼の歩く道の上では、夏に近づく 茨、気がどんよりと詰っていた。乞食《こじさ》の襤褸《ぼろ》の群れを、房 のように附着させた建物の間から、駆逐艦《くちくカん》の鉄の胴体が 延び出ていた。無軌道電車が黄包車《ワンパウツ》の群れを追い廻しな がら、街角に盛上った果物《くだもの》の中へ首を突っ込むと、動か なかった。参木は街を曲った。すると、その真直ぐに延 びた街区の底喚丶|喚《わめ》く群集が詰りながら旗を立てて流れ ていた。それは明らかに日本の工場を襲って追い散らさ れて来た群衆の一団であった。彼らの長く延びた先頭 は、警察の石の関門に噛《か》まれていた。  群衆のその長い列は、検束者を奪うためにしだいに噛 まれた頭の方向へ縮《ちぢま》りながら押し寄せた。石の関門は竈《かまど》 の口のように、群衆をずるずると飲み込んだ。と、急 に、群衆は吐き出されると、逆に参木のほうへ雪崩《なだ》れて 来た。関門からは、並んだホースの口から、水がいっせ いに吹き出したのだ。水に足を掬《すく》われた旗持ちが、石の 階段から転がり落ちた。ホースの筒口が、街路の人波を 掃き洗いながら進んで来た。停車した辻の電車や建物の 中から、街路へ人が溢れだした。警官隊に追われた群衆 は、それらの新たな群衆に止められると、さらに一段と 膨脹《ぼうちよう》した。一人の工人が窓へ飛び上って叫びだした。  彼は激昂《げきこう》しながら同胞の殺されたことや、圧迫するも のが英国官憲に変って来たことを叫んでいるうちに、突 然|脳貧血《のうひんけつ》を起して石の上へ卒倒《そつとう》した。群衆はどよめき立 った。宣単《せんたん》が人々の肩の隙間を、激しい言葉のままで飛 び歩いた。幟《のぼり》が群衆の上で振り廻された。続いて一人の 工人が建物の窓へ飛び上ると、また同じように英国の官 憲を罵《ののし》り叫んだ。すると、近づいた官憲が、彼の足を持 って引き摺り降ろした。群衆の先端で濡れていた幟の群 れが、官憲の身体に巻きついた。  その勢いに乗じて再び動き始めた群衆は、口々に叫び ながら工部局へ向って殺到《さつとう》した。ホースの筒口から射ら れる水が、群衆をひき裂くと、八方に吹き倒した。人の 波の中から街路の切石《きりいし》が一直線に現れた。礫《つぶて》の渦巻が巡 邏宮《じゆんらかん》の頭の上で唸り飛んだ。高く並んだ建物の窓々か ら、河のようなガラスの層が青く輝きながら、墜落《ついらく》し た。  もはや群衆は中央部の煽動《せんどう》に完全に乗り上げた。そう して口々に外人を倒せと叫びながら、再び警察へ向って 肉迫した。爆《はし》ける水の中で、群衆の先端と巡邏とが転が った。しかし、大厦《たいか》の崩れるように四方から押し寄せた 数万の群衆は、たちまち格闘する人の群れを押し流し た。街区の空間は今や巨大な熱情のために、膨《ふく》れ上っ た。その澎湃《ほうはい》とした群衆の膨脹力《ぼうちよう》はうす黒い街路のガラ スを押し潰《つぶ》しながら、関門へと駈け上ろうとした。と、 いっせいに関門の銃口が、火蓋《ひぶた》を切った。群衆の上を、 電流のような数条の戦慄《せんりつ》が駈け廻った。瞬間、声を潜《ひそ》め た群衆の頭は、突如《とつじよ》として悲鳴を上げると、両側の壁へ 向って捻《ね》じ込んだ。再び壁から跳ね返された。彼らは弾 動《向って捻《ね》じ込んだ。再び壁から跳ね返された。彼らは弾《だん》メ}う》する激流のように、巻き返しながら、関門めがけて襲 いかかった。このとき参木は商店の凹《へこ》んだ入口に押しつ められたまま、水平に高く開いた頭の上の廻転窓より見 えなかった。その窓のガラスには、動乱する群衆がすべ て逆様《さかさま》に映っていた。それは空を失った海底のようであ った。無数の頭が肩の下になり、肩が足の下にあった。 彼らは今にも墜落《ついらく》しそうな奇怪な懸垂形《けんすいけい》の天蓋《てんがい》を描きな がら、流れては引き返し、引き返しては廻る海草《かいそう》のよう に揺れていた。参木はそれらの廻り友がら垂れ下った群 衆の中から、芳秋蘭の顔を捜《さが》し続けていたのである。す ると、彼は銃声を聞きつけた。彼は震動《1し累とら!》を感じた.彼は 跳《沸φ》ね起る・.ムうに、地上の群衆の中へ延び上ろうとした。 が、ふと彼は、その外界の混乱に浮き上った自身の重心 を軽蔑《けいべつ》す.る気になった。いつもむらむらと起る外界との 闘争慾《とうそうよく》が、突然持病のように起りだしたのだ。彼け逆 に、落ちつきを奪い返す努力に緊張すると、弾丸の飛ぶ 速力を見ようとした。彼の前を人波の川が疾走《しつそう》した。川 と川との間で、飛沫《ひまつ》のように跳ね上った群衆が、衝突し た。旗が人波の上へ、倒れかかった。その旗の布切れが 流れる群衆の足にひっかかったまま、.建物の中へ吸い込 まれようとした。そのとき、彼は秋蘭の姿をちらりと見 た。彼女は旗の傍で、工部.局属の支那の邏卒《らそつ》に腕を持 たれて引かれていった。しかし、たちまち流れる群,衆 ほ、参木の視線を妨害《ぼうがい》した。彼はその波の中を突き抜け ると、建物の傍へ駈け寄った。秋蘭は巡邏《じゆんら》の腕に身を まかせたまま、彼の眼前で静に周囲(り動乱を眺めてい た。すると、彼女は彼を見た。彼女は笑った。彼は胸が こそりと落ち込むようににわかに冷たい死を感じた。彼 は一刀の刃のように躍《おど》り上ると、その邏卒《らそつ》の腕の間へ身 をぶち当てた。彼は倒れた。秋蘭の駈けだす足が——彼 は襲いかかっ渉肉塊を蹴《け》りつけると跳ね起きた。彼は銃 の台尻に突き衝《あた》った。が、彼は新しく流れて来た群衆の 中へ飛び込むと、再びその人波といっしょに流れていっ た。——  それはほとんど鮮かな一閃《いつせん》の断片にすぎなかった。小 銃の反響する街区では、群衆の巨大な渦巻きが、分裂し ながら、建物と建物の間を、交錯する梭《ひ》のように駈けて いた。  参木は自身が何をしたかを忘れていた。駈け廻る群衆 を眺めながら、彼は秋蘭の笑顔の釘《くざ》に打ちつけられてい るのである。彼は激昂《げきこう》しているように、茫然《ぼうぜん》としている 自分を感じた。同時に彼は自身の無感動な胸の中の洞穴 を意識した。——遠くの窓からガラスがちらちら滝の・ょ うに落ちていた。彼は足元で弾丸を拾う乞食《こじき》の頭を跨《また》い だ。すると、彼は初めて、現実が視野の中で、強烈な活 動を続けているのを感じだした。しかし、依然《いぜん》として襲 う淵《ふち》のような空虚さが、ますます明瞭に彼の心を沈めて いった。彼はもはや、なすべき自身の何事もないのを感 じた。彼はいっさいがばかげた踊りのように見え始めて 柬るのであった。すると、幾度となく襲っては退いた死 への魅力が、煌《を、ら》めくように彼の胸へ満ちて来た。彼はう ろうろ周囲を見廻していると、死人の靴を奪っていた乞 食が、ホースの水に眼を打たれて飛び上った。参木は銅 貨を掴《つか》んで遠くの死骸《しがい》の上へ投げつけた。乞食は敏捷《ひんしう》な 鼬《いたち》のように、ぴょんぴょん死骸や負傷者を飛び越えなが ら、散らばった銅貨の上を這《は》い廻った。参木は死と戯れ ている二人の距離を眼で計《けか》った。彼は外界に抵抗してい る自身の力に朗らかな勝利を感じた。同時に、彼は死が 錐《きり》のような鋭さをもって迫《せ》めよるのを皮膚に感じると、 再び銅貨を掴んでめちゃくちゃに投げ続けた。乞食は彼 との距離を半径にして死体の中を廻りだした。彼は拡が る彼の意志の円周を、動乱する街路の底から感じた。す ると、初めて未経験なすさまじい快感にしびれて来た。 彼は今は自身の最後の瞬間へと辷《すべ》り込みつつある速力を 感じた。彼は眩惑《げんわく》する円光の中で、しだいにきりきり舞 い上る透明な戦慄《せんりつ》に打たれながら、にやにや笑いだし た。すると、不意に彼の身体は、後ろの群衆の中へ引き 摺られた。彼は振り返った。 「ああしと彼は叫んだ。  彼は秋蘭の腕に引き摺られていたのである。 「さア、早くお逃げになって」  参木は秋蘭の後に従って駈けだした。彼女は建物の中 へ彼を導くと、エレベーターで五階まで駈け昇った。二 人はボーイに示された一室へはいった。秋蘭は彼をかか えると、いきなり激しい呼吸を迫らせてぴったりと接吻 した。 「ありがとうございましたわ。あたくし、あれから、も う一度あなたにお眼にかかれるにちがいないと思ってお りましたの。でも、こんなに早く、お眼にかかろうとは 思いませんでした」  参木は次から次へと爆発する眼まぐるしい感情の音響 を、ただ恍惚《こうこつ》として聞いていたにすぎなかった。秋蘭は 忙しそうに窓を開けると下の街路を見降ろした。 「まア、あんなに官憲が。——ご覧《らん》なさいまし、あたく し、あそこであなたにお助けしていただいたんでござい ますわ。あなたを狙《ねら》っていたものが発砲したのも、あそ こですの」  参木は秋蘭と並んで下を見た。壁を伝って昇って来る 硝煙《しようえん》の匂いの下で、群衆はもはや最後の一団を街の一角 へ吸い込ませていた。真赤な装甲車《そうこうしゃ》の背中が、血痕《けつこん》やガ ラスの破片を踏みにじりながら、穴を開けて静まってし まった街区の底をごそごそと怠《だ》るそうに辷っていった。  参木は彼の闘争していたものが、ただその真下で冷然 としている街区にすぎなかったことに気がついた。彼は 自身の痛ましい愚《おろ》かさに打たれると、悪感《わかん》を感じて身が 腰《もる》えた。  参木は弾力の消え尽した眼で、秋蘭の顔を見た。それ は曙《あけ、、像の》のようであった。彼は彼女が彼に与えた接吻のしめ やかさを思い出した。しかし、それは何かの間違いのよ うに空虚な感覚を投げ捨てて飛び去ると、彼は言った。 「もう、どうぞ、僕にはかまわないで、あなたのお急ぎ になる所へいらっしてください」 「ええ、ありがとうございます。あたくし、今は忙がし くってなりませんの。でも、もう、あたくしたちの集る 所は、今目は定っておりますわ。それより、あなたは今 日はどうしてこんな所へお見えになったんでございます の」と秋蘭は言って参木の肩へ胸をつけた。 「いや、ただ僕は、今日はぶらりと粛。てみただけです。 しかし、あなたのお顔の見える所は、もうたいてい僕に は想像ができるんです」 「まア、そんなことをなさいましてほ、お危うございま してよ。これからは、なるだけどうぞ、お家にいらして くださいまし。今はあたくしたちの伸間の者は、あなた 方には何をするかしれませんわ。でも、今日の工部局 の発砲は、日本の方にとっては、幸幅だったと思います の。明日からは、きっと中国人の反抗心が英国人に向っ ていくにちがいありませんわ。それにもうすぐ、工部局 は納税特別会議を召集《しようしゆう》するでございましょう。工部局提 案の関税引上げの一項は、中国商人の死活問題と同様で す。あたくしたちは極力《きよくりよく》これを妨害して流会させなけ ればなりませんの」 「では、もう、口本工場のほうの問題は、このままにな るんですか」と参木は訊《たず》ねた。 「ええ、もうあたくしたちにとっては、罷業《ひぎよう》より英国の ほうが問題です。今日の工部局の発砲を黙認していて は、中国の国辱《厂「ノ、じr出!、》だと思いますの。武器を持たない群衆に 発砲したということは、発砲理由がどんなに完全に作ら れましても英国人の敗北に定っています。ご覧なさいま し、まア、あんなに血が流されたんでございますもの。 今日はこの下φ丶幾人中国人が殺害されたかしれません わ」  秋蘭は窓そのものに憎しみを投げつけるように、窓を 突くと部屋を歩いた。参木は秋蘭の切れ上った眦《まなじり》から、 遠く隔絶した激清を感じると、同時にますます冷たさの 極北へ移動していく自身を感じた。すると、一瞬の間、 急に秋蘭の興奮した顔が、屈折する爽《さわ》やかなスポーツマ ンの皮膚のように、美しく見え始めた。彼は今は秋蘭の 猛々《たけだけ》しい激情に感染《かんせん》することを願った。彼は窓の下を覗 いてみた。1なるほど、血は流れたままに溜ってい た。しかし、誰が彼らを殺したのであろうか。彼は支那 人を狙った支那警官の銃口を思い出した。それは、たし かに工部局の命令したものに違いなかった。だが、それ ゆえに支那を侮辱《ぶじよく》した怪漢が、支那人でないと、どうし て言うことができるであろう。参木は言った。 「僕は、今日の中国の人々にはご同情申し上げるより仕 方がありませんが、しかし、それにしたって、工部局官 憲の狡《ずる》さには、!」  彼はそう言ったまま黙った。彼は支那人をして支那人 を銃殺せしめた工部局の意志の深さを嗅《か》ぎつけたのだ。 「そうです、工部局の老獪《ろうかい》さは、今に始ったことじゃご ざいませんわ。数え立てれば、近代の東洋史はあの国の 罪悪《ぎいあく》の満載《まんさい》で、動きがとれなくなってしまいます。幾千 万という印度人に飢餓《きが》を与えて殺したのも、あたくした ち中国に阿片《あへん》を流し込んで不具《ふぐ》にしたのも、あの国の経 済政策がしたのです。ペルシャも印度もアフガニスタン も馬来《マレほ》も、中国を毒殺するために使用されているのと同 様です。あたくしたち中国人は今日こそ本当に反抗しな ければなりませんわ」  憤激《ふんげき》の頂点で、独楽《こま》のように廻っている秋蘭を見てい ると、参木は自分の面上を撫《な》で上げられる逆風を感じて 横を見た。しかし、今は、彼は彼女を落ちつかすために も、何事かを饒舌《しやべ》らずにはいられなかった。彼は落ちつ き払って言った。 「僕は先日、中国新聞のある記者から聞いたのですが、 ここの英国陸戦隊を弱めるために、最近ロシアから一番 有毒な婦人が数百人輸送されたということですよ。この 話の真偽《しんぎ》はともかく、このロシアの老獪《ろうかい》さはなかなか注 意すべきことだと思いますね」参木はこう言いつつも、 何を言おうと思っているのか少しも自分に分らなかっ た。しかし、彼はまた言った。 「僕は今日のあなたのご 立腹を妨害するために言うんじゃありませんが、僕はた だどんなに老獪なことも、その老獪さを無用にするよう な鍛錬といいますか。——いや、こんなことは、もうよ しましょう。僕の言うことは、何もありませんよ、あな たはもう僕を饒舌らさずに帰ってくださるといいんです がね。これ以上僕が饒舌れば、何を言いだすかしれない 不安を感じるのです。どうぞ、もしあなたが僕に何か好 意を持っていてくださるなら、帰ってください。そうで なければ、必ずあなたは無事でこのままいられるはずが ありませんよ。どうぞ」  唖然《あぜん》としている秋蘭の顔の中で、流れる秋波《しゆうは》が微妙な 細かさで分濃匙た。彼女の均晒《きんこう》聴失った唇の片端は、過 去の愛慾の片鱗を浮べながら痙攣した、秋蘭は彼に近づ いた。すると、また彼女はその睫《まつげ》に苦悶《くもん》を伏せて接吻し た。彼は秋蘭の唇から彼女の愛情よりも、軽蔑を感じ た。 「さア、もう、僕をそんなにせずに帰ってください。あ なたはお国をお愛しにならなければいけません」と参木 ほ冷く言った。 「あなたはニヒリストでいらっしゃいますのね。あたく したちが、もしあなたのお考えになっているようなこと に頭を使い始めましたら、もう何事もできませんわ。あ たくし、これから、まだまだいろいろな仕事をしなけれ ばなりませんのに」  秋蘭は何かこのとき悲しげな表情で参木の胸に手をか けた。 「いや、誤解なさらんように。僕はあなたを引き摺《ず》り降 ろそうと企《》らんでいるんじゃありませんよ。ただどうし たことか、こういう所であなたとごいっしょになってし まったというだけです。これはあなたにとってはご不幸 かもしれませんが、僕には、何よりこれで、もう、辛福な んです。ただ僕には、もう希望がないだけです。どう ぞ」  参木はドアー・を開けた。 「では今日はあたくし、このまま帰らせていただきます わ。でも、もう、これであたくしあなたにお逢いできな いと思いますの」秋蘭はしばらく、出て行くことに躊躇《ナつゆダつまノよ》 しながら参木を仰いで言った。 「さようなら」 「あたくし、失礼でございますが、お別れする前に、一 度お名前をお聞きしたいんでございますけど。まだあな たはあたくしに、お名前もおっしゃってくだすったこと がございませんのよ」 「いや、これは」  と参木は言うと曇《くも》った顔をして黙っていた。 「僕ははなはだ失礼なことをしていましたが、しかし、 それは、もうこのままにさせといてください。名前なん かは、僕があなたのお名前さえ知っていればけっこうで す。どうぞ、もうそのまま、  」 「でも、それではあたくし、帰れませんわ。明日になれ ば、きっとまた市街戦が始まります。そのときになれ ば、あたくしたちはどんな眼に合わさせるかしれません し、あたくし、亡《ム3》くなる前には、あなたのお名前も思い 出してお礼をしたいと思いますの」  参木は突然襲{ノて来た悲しみを受けとめかねた。が、 彼はぺ)しわ、りと跳ね返す扇子《ゼ人せ」》のように立ち直ると、黙っ て秋蘭の肩をドアーの外へ押し出した。 「では、さようなら」 「では、あたくし、特別会議の日の夜、もう一度ここへ 参りますわ。さようなら」 そば瑯屋の中で、参木はいつ秋蘭の足音が遠のくかと耳を 聳てている自身に気がつくと、ああ、また自分はここ で、今まで何をしてたのだろうと、ただぐったりと力が ぬけていくのを感じるだけであった。    三十五  市街戦のあったその日から流言が海港の中に渦巻い た。殺戮《さつりく》される外人の家の柱に白墨《はくぼく》のマ!クが附いた。 工部局では発砲のために大挙《たいきよ》して襲うであろう群衆を予 想して、各国義勇団に出動準備を命令した。市街の要路《ようろ》 は警官隊に固められた。抜剣したまま駈け違う騎馬隊の 間を、装甲車《そうこうしや》が辷《すべ》っていった。義勇隊を乗せた自動車、 それを運転する外国婦人、機関銃隊の間を飛ぶ伝令。: ー市街はまったく総動員の状態に変化し始めた。警官は ピストルのサックを脱して騒ぐ群衆の中へ潜入した。す ると、核をくり抜くように中からロシアの共産党員が引 き出された。辻々の街路に立って排外演説をする者が続 出した。群衆は警官隊の抜剣の間からはみ出してその周 囲を取り包んだ。警官は鞭《むち》を振り上げて群衆を追い散ら そうとした。しかし、群衆はただげらげら笑ってますま す増加して来るばかりであった。  参木はほとんど昨夜から眠ることができなかった。彼 は支那服を着たまま露路や通りを歩いていた。彼はもう 市街に何が起っているのかを考えなかった。ただ彼はと きどきぼんやりしたフィルムに焦点を与えるように、自 分の心の位置を測定した。すると、にわかに彼の周囲が 音響を立て始め、投石のために窓の壊《こわ》れた電車が血をつ けたまま街の中から辷《すべ》って来た。それはふと彼に街のど こかの一角で、市街戦の行われたことを響かせながら行 き過ぎる。彼は再び彼自身が日本人であることを意識し た。しかし、もう彼は幾度自身が日本人であることを知 らされたか。彼は母国を肉体として現していることのた めに受ける危険が、このようにも手近に迫っているこの 現象に、突然|牙《きば》を生やした獣の群れを人の中から感じだ した。彼は自分の身体が、母の体内から流れ出る光景と 同時に、彼の今歩きつつある光景を考えた。そのごつの 光景の間を流れた彼の時間は、それは日本の時間にちが いないのだ。そしておそらくこれからも。しかし、彼は 自身の心が肉体から放れて自由に彼に母国を忘れしめよ うとする企《くわだ》てを、どうすることができるであろう。だ が、彼の身体は外界が彼を日本人だと強《し》いることに反対 することはできない。心が闘《たたか》うのではなく、皮膚《ひふ》が外界 と闘わねばならぬのだ。すると、心が膨膚に従って闘い だす。武器が街のいたる所で光っている中を、参木は再 び歩きながら、武器のためにますます白身を興奮させて いる群衆の顔を感じた。それらの群衆は銃剣や機関銃の 金属の流れの中で、個性を失い、その牛ったことのため にますます膨脹《ぼうちょう》しながら猛々《たけだけ》しくなるのであった。この 民族の運動の中で、しかし、参木は本能のままに自殺を 決行しようとしている自分に気がついみ。彼は自分をし て自殺せしめる母国の動力を感じると同時に、自分が自 殺をするのか、自分が誰かに自殺をせー。められるのかを 考えた。しかし、何ゆえにこのように白分の生活の行く さきざきが暗いのであろう。自分は自分の考えること が、自分が自身で考えているのではなく、自分が母国の ために考えさせられている自身を感ずる。もはや俺は自 身で考えたい。それは何も考えないことだ。俺が俺を殺 すこと。いや、すべては何んでもない。俺は孤独に腹の 底から腐り込まれているだけなのだ。  この彼のうす冷い孤独な感情の前でけ、銃器が火薬を つめて街の中に潜《ひそ》んでいた。群衆は排外の唾《つば》を飛ばして 工部局のほうへ流れていった。道路の両側に蜂《はち》の巣《す》のよ うに並んでいた消防隊のホースの口から、水が群衆目が けて噴《ふ》き出した。その急流のような水の放射が、群衆の 開いた口の中へ突き刺さると、ばたばたと倒れる人の中 から、礫《つぶて》が降った。辻々の街路で、警官に守られていた 群衆は騒ぎを聞くと、いっせいにその中心へ向って流れ ていった。  参木はこれらの膨脹する群衆から脱れながら、再び昨 日のように秋蘭《しゆうらん》の姿を探している自分を感じた。彼は彼 の前で水に割ら4・佃ては盛り返す群衆の罅《ひひ》を見詰め、倒れ る旗の傾斜を見、技げられる礫の間で輝く耳環に延び上 った。すると、ふと浮き上る彼の心は、昨日秋蘭を見る 前と同様の浮沈《ふちん》を.統けだすのを彼は感じると、やがてホ ースの水の中から飛び出るであろう弾丸をも予想した。 もしいま一度弾丸が発射されたら、この海港の内外の混 乱は何人といえども予想することができないのだ。しか オ《かいカく》く し、そのとき、群衆の外廓は後方で膨れる力に押されな がら、ホースの陣列《じんれフ》を踏み潰《つぶ》した。発砲が命令された。 銃砲の音響が連続した。参木は崩れだす群衆の圧力を骨 格に受けると、今まで前進していた通路の人波に巻き込 まれたまま逆流し始めた。その流れは電車を喰い留め、 両側の外人店舗に投石し、物品を掠奪《りやくだつ》しながら暴徒とな って四方の街路へ拡っていった。参木の前の群衆は急に 停止すると、一人の支那人を取り囲んで殴りだした。彼 らは彼を「犬」だと叫んだ。彼らの叫んでいる間に、も う「犬」は二つに引き裂かれて、手は一方の街へ流れる 群衆の先端で高々と振り廻され、足はその反対の街路へ 向って群衆の角のように動いていった。そのがくがく揺 れて通る足の上方の二階では、抱き合った日本の踊り子 たちの踊る姿が窓の中で廻っていた。すると、その窓を 狙って、礫《つぶて》の雨が舞い込んだ。騎馬隊の警官が群衆に向 って駈けて来た。その後から新製の装甲車が試射慾に触 角《しよつかく》を慄《ふるわ》せながら辷《すべ》って来た。道路に満ちた群衆は露路 の中へ流れ込むと、圧迫された水のように再びはるか向 うの露路口に現れ、また街路に満ちながら、警富隊の背 後から嘲笑《ちょうしよう》を浴びせかけた。  これらの群衆はしばらくは警官隊の騎馬の鼻さきを愚 弄《ぐろう》しながら、だんだん総商会のホールのほうへ近づいて いった。そこでは、前から集合していた商会総聯合会 と、学生団体との聯合会議が開催されていたのである。 附近の道路には数万の男女の学生が会議の結果を待って 群《むらが》っていた。議題は学生団の提出した外人に対する罷市 敢行《ひしかんこう》の決議にちがいないのだ。もしこの会議が通過すれ ば、全市街のあらゆる機関は停止するのだ。そうして、 おそらくそれは間もないことであろう。  参木にはこれら共産党と資本家団体との一致の会合 が、二日の後に開催される外人団の納税特別会議に対す る威嚇《いかく》であることは分っていた。しかし、それにして も、もしその日の納税特別会議が——外人の手で支那商 人の首をいっそう確実に締めつける関税引上げの議案を 通過させれば、ー参木には、その後の市街の混乱は全 世界の表面に向って氾濫《はんらん》しだすにちがいないと思われ た。すると、新たに流れて来た群衆は再び発砲された憤 激《ふんげき》の波を伝えながら、会場の周囲の群衆へ向って流れ込 んだ。群衆の輪は一つの波と打ち合うごとに、動揺しな がら会場の中へ波立った。おそらくその波の打ち寄せる 団々とした刺戟《しげき》のたびに、提出された議題はその輪の中 心で、急速な進行を示しているにちがいないのであっ た。  参木は前からこの群衆の渦の中心に秋蘭の潜《ひそ》んでいる のを感じていた。しかし、彼はそのどこに彼女がいるか を見るために、動揺する渦の色彩を眺めていたのであ る。彼の皮膚は押し詰った群衆の間を流れて均衡《きんこう》をとる 体温の層を感じだした。すると、彼は彼ひとりが異国人 だと思う胸騒ぎに締めつけられた。彼は彼と秋蘭との間 に群がる群衆の幅《はば》から無数の牙《うヨヒば》を感じると、しだいにそ の団塊の中に流れた共通の体温ふら、ひとりだんだんは じき出されていく自分を見た。    三十六  参木がようやく群衆の中から放れて家へ帰ると、甲谷 は先に帰って待っていた。 「おい君、もう僕はここにいたってだめだ。四五日すれ ば材木が着くんだが、着いたら宮子を連れてシンガ.ホー ルへ逃げだそうと思っている」と甲谷は.疲れた眼を上げ て言った。 「それで宮子は承知したのか」と参木は訊《たず》ねた。 「い必丶承知はまだだ。材木の金がとれるか宮子が落ち るか、とにかくどっちか一つがだめなら、俺は自殺だ」 「それやどっちもだめだ。明日から銀行は危くなるのは 定っているんだ」 「そんなら、自殺もできんじゃないか」  笑う後から滲《(ドし》み出る甲谷の困惑《こんわく》した顔色を、参木は黙 って眺めていた。おそらく甲谷には参木の流れる冷たい 心理の中へ足を踏み込むことはできなかったにちがいな い。しかし、それとは反対に、参木は甲谷の健康な慾望 の波動から、瞬間、久しく忘れていたもの珍らしい過去 の暖い日を幻影のよ.うに感じて来た。すると、競子の顔 が部屋の隅々から現われだした。 「とにかく、われわれはこうしてはいられない。何かし なけれや」と甲谷はうろうろしたように言った。 「何をするんだ」と参木は言った。 「それが分れば困りあしないよ」 「君は宮.士を落せばいいんじ滋、ないか」 「しかし、君はどうするんだ」 「俺か」  参木はもう一度秋蘭に逢いたいだけだ。しかもその可 能は明後日に開かれる特別会議の夜だけに、かすかに盗 見《ぬすみみ》するほどであった、しかし、参本はこの混乱の中で、 最後の望みがどちらも女を見たいと思う鋭い事実だと気 がつくと、突然、おかしそうに突き上げられて笑った。 「君、あの宮子を君は突き飛ばすことはできないのか」 「できない。あの女は僕を突き飛ばしているだけさ。あ の女には僕はシンガポールの材木をすっかり食われてし まわなきあ、だめらしいよ」と甲谷は言った。 「君が出て来たときには、フィリッピン材を蹴飛《けと》ばさな きあ帰らないと言ってたが、皮肉《ひにく》にも程度があるぞ。も う僕は君にあの女をすすめるのはやめたよ。あの子は君 の裏と表をすっかりひっくり返してしまっているじゃな いか」 「しかし、ひっくり返っているのは何も俺だけじゃなか ろうじゃないか。この街まで今は逆さまになっているん だ。これじゃ、俺ひとりでどう立ち上ろうと知れてる さ。とにかく、何んだってかまうもんか、もういっぺ ん、俺はひっくり返ってくるまでだ」  甲谷は重そうに立ち上ると、ポケットから競子の手紙 を出して出ていった。その手紙の中には、帰ろうとして いる競子を邪魔《じやま》しているものは、この海港の混乱だと書 いてあった。  ——帰れなくしたのは誰だ、と参木は思った。する と、彼の日々見せつけられた暴徒の拡った黒い翼《つぱさ》の記憶 の底から、芳秋蘭の顔がさまざまな変化を見せて現われ て来るのであった。    三十七  宮子は甲谷に誘われるままに車に乗った。彼女は彼女 を取り巻く外人たちが、今は義勇兵となって街々で活動 している姿を見たかったのだ。しかし、甲谷はもう宮子 に叩《たた》かれ続けた自尊心の低さのために、今はますます叩 かれる準備ばかりをしていなければならなかった。二人 は車を降りた。河岸の夜の公園の中では、いつものよう に春婦《しゆんぷ》らがベンチに並んでうな垂《だ》れていた。毒のめぐっ た白けた女たちの皮膚の間から、噴水が舌のようにちょ うちょろと上っていた。甲谷は雨の上った菩提樹《ぼだいじゆ》の葉影 を洩《も》れる瓦斯燈《ガスとう》の光りに、宮子の表情を確めながら結婚 の話をすすめていった。 「もう僕は何もかも言ってしまって言うことはないんだ が、同じ言うなら、もう一度言ったって悪くはなかろ う」 「いやだね、あんたは。そういつもいつも、あたしばっ かり攻《せ》めなくたって、良かりそうなもんじゃないの」 「それで実は、もう僕も何から何までさらけ出して話す んだが、ひとつ頼むよ」  宮子は甲谷の肩にもたれかかるとうるさまぎれに、も う毒々しく笑いだした。 「あたし、あなたは嫌いじゃないのよ。だけど、そうあ なたのように、いつもいつも同じことを言われちゃ、あ たしだっておかしくなるわ」  甲谷がベンチに腰を降ろすと宮子もかけた。甲谷は靴 さきに浮ぶ支那船《ジヤンク》の燈火を蹴りながら、饒舌《しやべ》った言葉の 間をすり抜けようとして藻掻《もが》いた。すると、対岸に繁っ たマストの林の中から、急に揺れ上った暴徒の一団が、 工場の中へ流れ込んだ。発電所のガラスが穴を開けた。 銃口が窓の中で火花を噴いた。黒々とした暴徒の影が隣 りの黶軋工場のほうへ流れていった。海上からは対岸の マストを狙《ねら》って、モーターボートの青いランプの群れが 締《しま》るように馳け始めた。甲谷はこの遠景の騒ぎの中か ら、宮子の放心している心をひき抜くように彼女を揺す った。 「あちらはあちら、こちらはこちらだ。ね、君、君とこ うして坐って話していても、仕方がないから、もういい 加減に僕を落ちつけてくれたっていいだろう。とにか く、これからすぐ、僕のところへ行こう」 「まア、あんなに煙が出たわ。ご覧なさいよ。あれは英 米煙草だわ。もうこの街もお了《しま》いだわ」 「街なんかどうなろうといいじゃないガ。いずれこの街 は初めから罅《ひび》の入ってる街なんだ。君は僕といっしょに シンガポールへ逃げてくれたまえ」 「だって、あたしにゃこの街ほど大切な所はないんです もの。あたしここから出ていったら、鱗《うろこ》の乾いたお魚み たいよ。もうどうすることもできなくなれば、あたし死 ぬだけ。あたし死ぬ覚悟はいつだってしてるんだけど、 でも、あたしこの街はやっぱり好きだわ」  甲谷は乗り出す調子が脱れて来ると、駈け込むように ベンチの背中を掴《つか》んであわてだした。 「もうそんなことは考えないでくれないか。ただ結婚し てくれれば万事こちらで良くしていく。それなら良かろ う。それなら、僕は、t」 「だって、あたし、だいいち結婚なんかしてみたいと思 ったことなんてないんですもの。あたしもし結婚したけ れば、あなたが初めおっしゃってくだすったとき、さっ さとお返事していてよ。いくらあたしだって、そうはあ なたのように気取ってばかりはいられないわ」  甲谷は頭を掻《か》くように笑いながら、ちょっと後を振り 返ったがまた急いだ。 「それや、 いくら悪口言われたっていいから、とにか く、これじゃ、いくら君を廻ってぐるぐるしたって、こ れはただぐるぐるしていると言うだけで、何んでもない んだからね」 「あたしはだめなの。あたし、自分が一人の男の傍に くっついて生活しているところなんか、想像ができない わ。あたし男の方を見ていると誰だって同じ男のように 見えるのよ。これで結婚なんかしていたら、あなたから 逃げ出されるにきまっているわ。それよりあたしはあた しの流儀《りゆうぎ》で、困っているたくさんの男の方にちやほやし ているの。あたしに瞞《だま》されたと思うものは、それやばか なの。だって、今ごろ瞞されたと思って口惜しがってる 男なんか、日本にだっていやしないわ。あなたにしたっ て、あたしがどんな女だっていうことぐらい、一と目見 ればお分りになりそうなもんじゃないの。それにあたし にお嫁入の話なんかおっしゃって、あたしが冗談《じようだん》にし てしまうことだって、これでたいていのことじゃないこ とよ」  波がよせると、それが冷たい幕のように甲谷の身体に 沁《し》み透《とお》った。彼は彼女から腕を放した。切られた鎖《くさり》のよ うに沈む彼の心の断面《だんめん》で、まだ見たこともない女の無数 の影が入り交《まビ)》った。が、その影の中で、宮子の顔だけは ますます明瞭に浮き上って来るのだった。 「だめだ」と甲谷は言うと、不意に彼女を抱きよせよう とした。が、後ろのベンチで、春婦《しゅんぷ》の群れが茸《きのこ》のように 塊《かたま》ったままじっと二人を眺めていた。彼は溜息《ためいき》を洩《も》らす と、再び宮子から放れて背を延ばした。すると、逆に宮 子の身体が甲谷のほうへ倒れて来た。彼は宮子を抱きよ せながら、この急激な彼女の変化に打たれてぼんやりし た。 「あなた、あたしにしばらくこうしていさせてちょうだ い。あたし一日にいっぺん、誰かにこうしていないと、 だめなの。あたし、あなたのお心はもう分ったわ。だけ ど、だめよあたしは。あなたは早くお綺麗《きれい》な方を貰《もら》って シンガポールへお帰りなさいな。あたしは誰にでもこん なことをする性質なんだから。あたしあなたには、お気 の毒だと思うけど、これもしようがないわ」  イミタチオンの宮子の靴先が軽く甲谷の靴を蹴《け》るたび に、甲谷の腕は弛《ゆる》んで来た。彼は彼女がただ自分を慰め る新らしい方法を用いだしただけだと気がついたのだ。 「君の優しさは前から僕は知っていたんだが、しかしこ の上僕を迷わすことはごめんしてくれ。ただもう僕は君 が好きで仕方がないんだ」と甲谷は言ってまた強く宮子 を抱きすくめた。 「あなたはあなたに似合わず、今夜はつまんないことば かりおっしゃるのね。あの橋の上をご覧なさいよ。義勇 兵が駈けててよ。それにあなたは、まア、なんて子供っ ぽいことばかりおっしゃるんでしょう。もっとこんなと きには、何んとかしてよ。何んとか」  甲谷は宮子を芝生《しばふ》の上へ突き飛ばすと、立ち上った。 しかし、彼は彼女が彼にそのようにも怒らせようと企《たくら》ん だ彼女の壷《つぼ》へ落ち込んだ自分を感じると、再び宮子の前 へ坐って言った。 「君、もう虐《いじ》めるのは、やめてくれ。僕は君には一生頭 が上らないのだ。ただ僕の悪いのは、君を好きになった ということだけじゃないか。それに君はなぜそんなにふ ざけてばかりいたいのだ」  宮子は髪を振りながら芝生《しばふ》の上から起き上った。 「さア、もう、帰りましょうね。あたし、あなたがあた しを愛していてくださるんだと思うと、もういつでも我 ままになっちゃうのよ。ね、だから、紘う何もあたしに はおっしゃらないで、ー」  しかし、甲谷は完全に振り落された單.がここに転げて いるのだと気がつくと、もう動くこともできなくなっ た。宮子は公園の入口のほうへひとりときどき振り向き ながら歩いていった。芝生の上に倒れている甲谷の頭の 上の遠景では、火のついた煙草工場がしきりに発砲を続 けていた。    三十八  海港の支那人の活躍は変って来た。支那商業団体の各 路商会聯合会、納税華人会、総商会のすべては、一致団 結して罷市《ひし》賛成に署名を終えたのだ。学生団は戸ごとの 商店を廻り歩いて営業停止を勧告した。罷市の宣伝が到《いた》 る所の壁の上で新しい壁となった。電車が停り、電話が 停った。各学校は開期不明の休校を宣言した。市街の店 舗はいっせいに大戸を降ろし、市場《ツ ケツト》は閉鎖《へいさ》された。  その日の夕刻、騒擾《そうしよう》の分水嶺となるべき工部局の特別 納税会議が市政会館で開かれた、.戒厳令《かいげんれい》を施《し》かれた会館 の附近では、銃剣をつけた警官隊と義勇隊とが数間の間 を隔《お》いて廻っていた。会議の時刻が近づくと、昼間市中 に波立った不吉な流言の予告のために、会館の周囲は息 をひそめて静まりだした。徘徊《はいかい》する義勇兵の眼の色が輝 きだした。潜《ひそ》んだ爆弾を索《さぐ》り続ける警官が、建物と建物 との間を出入した。水道栓《すいどうせん》に縛りつけられたホースの陣 列の間を、静に装甲車が通っていった。やがて、外人の 議員たちは武装したまま、陸続《りくそく》と議場へ向って集って来 た。  ちょうど参木の来たのはそのときであった。会館附近 の交通|遮断線《しやだんせん》の外では、街々の露路から流れて来た群衆 は街路の広場に溜り込んだまま、何事か待ち受けるかの ように互に人々の顔を見合っていた。参木はそれらの人 溜りの中を擦《す》り抜けながらその中に潜んでいるにちがい ない秋蘭の顔を捜《ン.、か》していった。もし彼女が彼との約束に 似た暗黙の言葉を忘れないなら、彼が彼女をこの附近で 捜し続けていることも忘れないはずであった。しかし、 彼は歩いているうちにだんだん周囲の群衆と同様に、不 意に何事か湧き起って来るであろうと予感を感じて来 た。すると、群衆はじりじり遮断線からはみ出して会館 へ向っていった。騎馬の警官がその乱れる群衆の外廓《がいかく》に 従って、馬を躍《おど》らせた。スコットランドの隊員を積み上 げた自動車が抜剣を逆立てたまま、飛ぶように疾走《しつそう》し た。すると、急に、群衆の一角が静まった。つづいて、 今まで騒いでいた群衆は奇怪な風を吸い込んだように次 から次へと黙っていった。すると、まったく音響のはた と停った底気味悪い瞬間、その一帯の沈黙の底からどこ とも知れず流れる支那人の靴音だけが、かすかに参木の 耳へ聞えて来た。しかし、間もなく、それはなんの意味 も示さぬただ沈黙そのものにすぎないことを知り始める と、再び群衆は騒ぎ立った。その騒ぎの中から揺れて来 る言葉の波は漸次《ぜんじ》に会議の流会を報《し》らせて来た。それな ら、これで支那商人団の希望は達したわけだと参木は思 った。間もなくその流会の原因は定員不足を理由として いることまで、寄り集った人波の呟《つぶや》きからだんだんと判 って来た。参木は、極力会《きよくりよく》議を流会させることを宣言し ていた芳秋蘭の笑顔を感じた。今は彼女はこの附近のど こかの建物の中で、次の劃策《かくさく》に没頭《ぼつとう》しているにちがいな い。しかし、もしそれにしても、なおこのうえ海港の罷 市《ひし》が持続するなら、このときを頂点として困憊《こんぱい》するもの ほ支那商人に変っていくのだ。1もし支那商人の一団 が困憊するなら、なお罷市の持続を必要とする秋蘭一派 の行動とは、当然衝突しだすのは定っていた。  参木は思った。これは何か必ず今夜、謀《たくら》みが起るにち がいない。——その謀みはなお商業団体と群衆とを結束 させんがための謀みであることは、分っているのだ。し かし、その手はーその手も今はただ外人をして発砲さ せるようにし向ければそれで良いのだ。t  しかし、参木には自分の頭脳の廻転が、自分にとって むだな部分の廻転ばかりを続けていることに気がつい た。彼はただ今は死ねば良いのだ。死にさえすれば。そ れにもかかわらず秋蘭を見たいと思う願いがじりじり後 をつけて来るのを感じると、彼はますます自身の中で跳 染《ちようりよう》する男の影と蹴り合いを続けるのであった。ふとその とき、彼は梅雨空《つゆそら》に溶け込む夜の濃密な街角から、閃《ひら》め く耳環の色を感じた。彼はその一点を見詰めたまま、洞 穴を造った人溜《ひとだまり》の間を魚のように歩きだした。しかし、 彼はその街角へ行きつくまでに急に停った。もしその耳 環が秋蘭であったなら、と思う彼の心が、突然、彼女と 逢った後のことを考えだしたのだ。まったく彼は彼女と 逢ったとしても、なすべきことは何もないのだ。それ なら、1いや、それより、彼女がこの街の混乱の最中 に、どうして自分を捜しに来るであろうか。彼は壁に背 中をひっつけると、彼女が自分を捜しに来るであろうと 想像したがる自身の心を締めつけた。しかし、もし彼女 が自分の言葉を忘れないなら、t締めつける後から湧 き上って来る手に負えない愛情に、もはや彼はにやにや 笑いだした。  そのとき、前方の込み合った街路を一隊の米国騎馬隊 が彼のほうへ駈《か》けて来た。それと同時に、両側の屋内か ら不意に銃声が連続した。騎馬隊の先頭の馬が突っ立っ た。と、なお鳴り続けている音響の中で、馬は弛《ゆる》やかに 地に倒れた。投げ出された騎手の上を飛び越して、一頭 の馬は駈けだした。後に続いた数頭の馬はぐるぐる廻り ながら、首を寄せた。一頭の馬は露路の中へ躍《おど》り込ん だ。乱れだした馬の首の上で銃身が輝ヤくと、屋内を向 けて発砲し始めた。馬は再び群衆の中を廻り始めた。群          あふ                  かんせい 衆は四方の露路から溢れて来ると、躍る馬の周囲で喚声 を上げ始めた。群った礫《つぶて》が馬を目がけて降り注《そそ》いだ。馬 は倒れた馬の上を飛び越えると、押し出る群衆を蹴りつ けて駆《か》けていった。  参木の周囲では、群衆は彼ひとりを中に挾《はさ》んだまま、 馬の進退《しんたい》に従って溶液《ようえき》のように膨脹《ぼうちよう》し、収縮《しゆうしゆく》した。その たびに、彼はそれらの流動する群衆の羽根に突き飛ばさ れ、巻き込まれながら、だんだん露路口の壁のほうへ叩 き出されていった。  騎馬隊が逃げていくと、群衆は路の上いっぱいに詰ま りながら、狼狽《うろた》えた騎馬隊の真似《まね》をしてはしゃいだ。銃 砲の煙りが発砲された屋内から洩《も》れ始めた。そのとき、 工部局のほうから近づいて来た機関銃隊が、突然、復讎《ふくしゆう》 のために群衆の中へ発砲した。群衆は跳ね上った。声を 失った頭の群れが、暴風のように揺れだした。沈没《ちんぼつ》する 身体を中心に、真っ二つに裂け上った人波の中で、弾丸 が風を立てた。露路口は這《は》い込む人の身体で膨《ふく》れ上(ノ た。閉された戸は穴を開けて眼のように光りだした。そ の下で、逃げ後《おく》れた群衆は壁にひっついたまま唸《うな》り始め た。  参木は押しつけられた胸の連結《れんけつ》の中から、ひとり反対 に道路の上を見廻した。彼はそこに倒れた動かぬ人の群 れの中から、秋蘭の身体を探そうとして延び上った。馬 の倒れた大きな首の傍で、人の身体が転がりながら藻掻《もが》 いていた。  発砲のあった家を中心にして、霞《かすみ》のような煙が静々と 死体の上を這いながら、来検《らいけん》の通るたびに揺らめきなが ら廻っていた。しかし、参木には、もはや日々見せられ た倒れる死骸《しがい》の音響や混乱のために、眼前のこれらの動 的な風景は、ただ日常普通の出来事のようにしか見えな かった。だが、彼は彼の心が外界の混乱に無感動になる に従い、かえっていっそう、その混乱した外界の上を自 由に這《は》い廻る愛情の鮮《あざや》かな拡がりを、明瞭に感じて来る のであった。  街路の上から群衆の姿が少くなると、騎馬隊へ向けて 発砲した家の周囲が、工部局巡捕によって包囲《かこ》まれた。 機関銃が据えられた。すると、その一軒の家屋を消毒す るかのように、真暗な屋内めがけて弾丸がぶち込まれ た。墜落《ついらく》する物音、唸《うな》り声、石に衝《あた》って跳ね返る弾丸の 律動といっしょに、戸が白い粉を噴きながら、見る間に 穴を開けていった。機関銃の音響が停止すると、戸が蹴 りつけられて脱《はず》された。ピストルを上げた巡捕の一隊 が、欄干《らんかん》からぶら下ったまままだ揺れ続けている看板の 文字の下を、潜り込んだ。すると、間もなく、三人のロ シア人を中に混えた支那青年の一団が、ピストルの先に 護られて引き出された。  参木はもし秋蘭がその中にと思いながら、露路の片隅 からそれらの引き出された青年たちを見詰めていた。i !やがて、検束《けんそく》された一団は自動車に乗せられると、…機 関銃に送られて工部局のほうへ駈けていった。銃器が去 ったと知ると、また群衆は露路の中から滲み出て来た。 彼らは燈の消えた道路の上から死体を露路の中へ引き摺《ず》 り込んだ。板のように張りきった死体の頭は、引き摺ら れるたびごとに、筆のように頭髪に含んだ血でアスファ ルトに黒いラインを引き始めた。ちょうどそのとき、一 台の外人の自動車が辷って来ると、死体の上へ乗り上げ た。箱の中で、恐怖のために茉莉《まつり》の花束に隠れて接吻し ていた男女の顔が乱れ立った。すると、礫《つぶて》が頭へ投げつ けられた。自動車は並んだ死体を轢《ひ》き飛ばすと、ぐった り垂れた顔を揺りながら疾走した。  参木は群衆の中から擦り抜けると、この前秋蘭と逢っ た建物の前まで来かかった。しかし、もう彼は秋蘭を探 す眼に全身の疲れを感じた。疲れだすと、今まで何もな いものをあると思って探し廻った幻影が乱れ始め、ごそ ごそ建物の間を歩いている自分の身体が急に心の重みと なって返って来た。だが、彼はそこで、しばらくの間う ろうろしながら、もし秋蘭が来ているならここだけは必 ず通ったであろうと思われそうな門の下を、往ったり来 たりして歩いていた。彼は高い建物の上方を仰いだり、 門の壁にぺったりと背中をつけて居眠るように立ってみ たりしていると、ふと、向うから若い三人の支那人の来 るのを見た。すると、その中の短く鼻下に髭《ひげ》を生やした 一人の男が、擦《す》れ違う瞬間、素早く参木の右手へ手を擦 りつけた。参木は彼の冷たい手の中から、一片の堅い紙 片を感じた。彼ははッとすると同時に、それが男装して いる秋蘭だったことに気がついた。しかし、もうそのと きには、秋蘭は他の二人の男といっしょに、肩を並べて 行きすぎてしまっている後だった。参木は紙片を握った まま、しばらく秋蘭の後から追っていった。しかし、彼 がそのまま秋蘭の後から追っていくことは、彼女をいっ そう危機へ落し込むことと同様だと思った。彼女は優し げにすらりとした肩をして、一度ちらりと彼のほうを振 り返った。参木はその柔いだ眼の光りから、後を追うこ とを拒絶している別れの歎《なげ》きを感じた。彼は立ち停る と、秋蘭を追うことよりも彼女の手紙を読む楽しみに胸 が激しく騒ぎ立った。  参木は秋蘭の姿が完全に人ごみの中へまぎれ込んだの を見ると、急いで真直ぐに引き返した。彼は自分の希望 を、底深く差し入れた手の一端に握ったかのように明る くなった。、彼は今さきまで欝々《うつうつ》として通った道を、いつ 通り抜けたとも感じずに歩き続けると、安全な河岸の橋 を見た。彼はそこで、紙片を開けて覗《ので》いてみた。紙片に はよほど急いだらしく英語が鉛筆で次のように書かれて あった。  「もう今夜、あたくしたちは危険かと思われます。い  ろいろありがとうございました。どうぞ、それではお  身体お大切にしなさいませ。もしまだこの上永らえる  ようなことでもございましたら、北四川路のジャウデ  ン・マデソン会社の小使、陳《ちん》に王《おう》の御名でお訊《たず》ねくだ  さいませ。では、さようなら」  参木は公園の中のカンナの花の咲き誇っている中を突 き抜けた。すると、芝生《しばふ》があった。紙屑《かみくず》が風に吹かれて かさかさと音を立てながら、足もとへ逆辷りに辷って来 た。彼は露を吹いて湿《しめ》っている鉄の欄干《らんかん》を握って足もと の波を見降ろした。  iああ、もう、俺もだめだ。1  そう思えば思うほど、参木は波の上に面を伏せたま ま、だんだん深く空虚になりまさっていく自分をはっき りと感じていった。      三十九  その夜、参木は遅く宮子の部屋《へや》の戸を叩いた。ピジャ マ姿の宮子は上|長衣《ルダンコオト》をひっかけたまま出て来ると、黙っ て参木を長椅子に坐らせた。参木は片手で失敬の真似《まね》を しながらいきなり横に倒れると、眼を瞑《つぶ》った。宮子はウ イスキイを彼に飲ませた。彼女は彼の傍に坐ると、彼 の蒼《あお》ざめた顔を見詰めたままいつまでも黙っていた。隣 家の廊下を通る燭台の火が、窓のガラスに柘榴《ざくろ》の葉影を 辷らせつつ消えていった。参木は眼を開けると彼女に言 った。 「君、今夜だけは、赦《ゆる》してくれたまえ」 「だって、寝台はあちらにあるわ。あちらへいって」  口へあてがう宮子のコップの底を見詰めながら、彼は 片手で宮子の手を強く握った。 「あなたは今夜へんよ。あたし、さきから天地がひっく り返ったような気がしていて、そんなことをされたっ て、何のことだかわかんないわ」と宮子はうつろな眼で 参木を眺めながら言った。  しかし、宮子は急に撥刺《はつらつ》とし始めると、鏡に向って顔 を叩いた。ひっかけた上長衣《ルダンコオト》が宮子の肩からずり落ち た。 「あたし、あなたがいらっしゃる前まであなたの夢を見 ていたの。そしたらあなたがいらっしゃるんでしょう。 あたしそれまで、あなたと何をしてたとお思いになっ て」  鏡の前から戻って来ると、宮子は参.木の頭を膝《ひざ》の上へ 乗せながら顔を近々と擦《す》り寄せた。 「あなた、もう元気をお出しになってよ。あたし、あな たの疲れてらっしゃるお顔を見るのはいやなのよ」  参木は起き上った。彼は宮子の手を掴《つか》むと言った。 「とにかく、つまらん」 「何が」 「もういっぺん黙って寝させておいてくれないか」  参木はまた倒れると眼を瞑《つぶ》った。宮子は彼の身体を激 しく揺り動した。 「だめじゃないの、あたしを叩《たた》き起して自分が眠るなん て、まだあたしはあなたの奥さんじゃないことよ」  すると、参木は傍にあったウイスキイをまた】杯傾け た。 「そう、そう。けっこうだわ。あたし、あなたのわがま まなんか初めっから認めてやしないのよ。だから、あた しはあなたなんかに同情したことなんか一度もないの。 人の顔を見ると顰《しか》めつ面《つら》ばかりし続けて、つまんないこ とばかり考えて、もうそんなことはお止《よ》しなさいよ。あ たしあなたなんか好きになっちゃお了《しま》いだわ」  突かれだすと参木には酔いがだんだん廻って来た。彼 は言った。 「どうも失礼。これでどうやら君に叱られているのも分 って来たよ」 「当りまえよ。あなたなんかに憂欝《ゆううつ》な恰好《かつこう》なんか見せて いただかなくたって、街にいくらだってごろごろしてい るわ。あたしなんか見てちょうだい。ばかなことは一人 前にばかだけど、おもしろそうなことだけは、これで何 んだって知ってるのよ」  宮子は不機嫌そうに外方を向くと煙草《たばこ》をとった。参木 は予想とは反対に、急に怒りだした宮子の様子に気がつ くと、またぐったりと横に倒れた。宮了は床に落ちてい る上長衣《ルダンコォト》を足で跳ね上げた。彼女は立ち上ると寝室のほ うへ歩いていった。 「君、もうしばらく僕の傍にいてくれないか。そうする と僕もだんだん生気になるよ」と参木は倒れたままにや にやした。 「いやよ、あたしあなたのお相手なんかまっぴらだわ」 「ときどきはこういう男も君の傍にいたって悪くはなか ろう。人には怒るものじゃない。朝早くから夜中まで僕 は今日は幾回死にそこなったかしれないんだ。たまには 疲れて来たんだから、君、疲れたときには、人は一番親 しい所へ転がり込むもんだ。そう怒ら引にもうしばらく ここにいさせてくれたって、良かろうじゃないか」  宮子はドアーの前に立ったまま参木のほうへ向き直っ た.U 「あなたは今夜はどうかしててよ。まさか幽霊《ゆうれい》じゃない んでしょうね」 「いや、それは分らん。しかし、実はらよっと白状した いことがあって来たんだが、もう言うのはいやになっ た。これ以上ばかになるのは、神さまに対してあいすま んよ」 「そうよ、あなたは、すまないのは神さまにだけじゃな いことよ。あたしにだってすまないわ。競子さんのこと を考えていらっしゃるのもけっこうだけど、それじゃ競 子さん、もったいないわ」 「競子は競子、これはこれさ、僕はふわふわした男だか ら、ふわふわしてしまわなきあおさまらないんだ。それ で今夜はのるかそるか、ひとつむちゃをやろうと思って やったんだが、とうとうそれも失敗だ。どうもおれは饒 舌《しヤべ》りだすと、これや饒舌るな」 「饒舌りなさいよ、饒舌りなさいよ。あなたのして来た こと、おっしゃってよ」  宮子は参木の傍へぴったりくっつくと、彼の頭をか かえてまた揺った。参木は揺られる頭の中で今日一日の して来たことを考えた。すると、ますます自分の心が身 体の上へ乗りかかって来る重々しさを感じるのであっ た。彼は行きつまった心を抛《ほう》り出すように饒舌りだし た。 「僕はこの間から支那の婦人に感心して、一カ月の間自 尊心と喧嘩《けんか》し続けて、とうとうやられてしまったのが、 今夜なんだ。それから僕は死のうと思った。しかし今死 ぬなら支那人に殺されるほうが良い。日本人が一人でも 殺されたら、日本の外交だけでも強くなる、とそうま ア、西郷さんみたいなことを僕は考えた。僕は愛国主義 者だから、同じ死ぬなら国のために死のうと思ったんだ が、ところが、なかなか支那人は殺してくれぬ。殺され ないなら、死んだって国のためにはならないし、同じ死 ぬなら殺されよう、と思っているうちに、いつまでたっ たってこの醜態《しゆうたい》だから、死ぬことができやしない」 「まアまア、けっこうなご身分ね。あたし嫌いよ、そん な話は」と宮子は言って膝を動かした。 「それから、ここだ。僕がなぜ殺されないかと考えた。 すると僕はこんな支那服を着流してうろつき廻っていた からなんだ。しかし、それならなぜ支那服なんか着て歩 くと君は思うかもしれないが、この支那服を着てないと 相手の女と逢ったって、役には立たぬ。そこが僕の新し い苦悶《くもん》なんだ。どうだ、こりゃ新しかろう」 「あんまりばかにしないでちょうだい、あたし聞いてる のよ。あたし、さきまであなたの夢まで見てたんだわ、 ああ、口惜《くや》しい」  宮子は手を延ばすとまたウイスキイを荒々《あらあら》しく傾け た。 「、しかし、こうして考えてみると、まア、ばかな話は話 さ。ところが、そいつをまじめに考えていたんだから、 ちょっとはどうかしてるんだ。頭というものは、ばかに なりだすと、つまり、ばかなほうへばかりだんだん頭が 良くなりだす。たとえば君にしたところで、甲谷と結婚 しないことなんて、ばかなほうへ頭がふくれだしたから さ。良いか、分ったね」 「そうよ。あたし、あなたなんかに眼が眩《くら》んで、とうと うお嫁さんになりそこねたわ。これもあなたよ。甲谷さ んにおっしゃっといて。だけど、甲谷さんも甲谷さんだ わ。あたしにあなたを紹介するなんて、あたしよりまだ ばかね。あたしあなたと結婚するまでは甲谷さんとは結 婚してやらないわよ。これがあなたへの復讐《ふくしゆう》よ。あなた は甲谷さんへ気兼《きが》ねして、あたしから逃げることばかり 計画してらっしゃるんでしょう。え? そうでしょう。 それならそれで、支那の女のことなんか、話さなくたっ て、もっといくらだって、話すことがありそうなもんだ わ、でももういいのよ。あたしももうじき愛国主義者に なるんだから」  宮子は立ち上るとひき抜いた白蘭花《パ レ ホ 》で円卓の上を叩き だした。参木は、ここにもひとり地獄のつれがいたのか と気がつくと、心が楽しげに酒の上で浮き上った。 「おい君、ここへ来てくれ、愛国主義者は一番|豪《えら》いの だ。僕は君には同情するぞ。おそらく僕は君を一番理解 しているにちがいなかろう。理解がなければ愛なんても のはあるものか。だから君、来たまえ、僕は君が好きな んだよ」  宮子は近寄る参木を突き飛ばした。参木は後の壁へよ ろけかかると、また宮子の肩へ手をかけた。 「よしてちょうだい。あたしは支那人しゃなくってよ」 「支那人であろうが鱈《たら》であろうが、かまうものか。愛国 主義者を出したからには、誰であろうと恩人さ。われわ れ下級社員に愛国主義以外の何がある】  参木は宮子のピジャマの足を掬《すく》うように抱き上げる と、絨氈《じゆうたん》の真中できりきり速度を加えて廻りだした。 と、足が曲った。二人は倒れた。宮子は参木の胸から投 げ出されると、そのまま動かずに倒れていた。参木は仰 向きになったまま、まだ廻り続ける周囲の花壁の中か ら、突然|絞《しぼ》り出された母の顔を楽しげに眺めながら、い つまでにやにや笑い崩れてとまらなかった。      四十  海港の罷市《勝し》は特別会議が流会したのにもかかわらず、 ますます深刻に進んでいった。支那銀行は翌日からこと ごとく休業した。銭荘《せんそう》発行の小切手が不通になった。金 塊市場が閉鎖《へいさ》された。為替《かわせ》市場の混乱から外国銀行は無 力になった。そうして、このまったく破攘され尽した海 港の金融機能の内部では、ただわずかに対外為替の音だ けが、外国銀行の奥底で、鼓動《こどう》のようにかすかに響いて いるに過ぎなくなった。  しかし、倒れたものはそれだけでなかった。海港のほ とんど全部の工場は閉鎖された。群《むら》がる埠頭《ふとう》の苦力《クたリ 》が罷 業《ひぎよう》し始めた。ホテルのボーイが逃げ始めた。警察内の支 那人巡捕が脱出した。車夫が、運転手が、郵便配達が、 船内の乗組員が、その他あらゆる外人に雇われているも のがいなくなった。——  船は積み込んだ貨物をそのままに港の中でぼんやりと 浮き始めた。新聞の発行が不能になった。ホテルでは音 楽団が客に料理を運びだした。パン製造人がいなくな」、 た。肉も野菜もなくなりだした。そうして、外人たちは だんだん支那人の新しい強さに打たれながら、海港の申 で籠城《ろうじよう》し始めた。  参木は人通りのほとんどなくなった街の中を歩くのが 好きになった。雑鬧《ざつとう》していた市街が急に森のように変化 したことは、彼には市街がいっそう新しく雑鬧し始めた かのように感じるのであった。義勇隊は出没《しゆつぼつ》する暴徒の 爆弾を乗せたトラックを追っ駈け廻した。ときどき夜陰 に乗じて、白い手袋を揃えた支那人の自転車隊が秘密な 策動《やいんさくどう》を示しながら、建物と建物との間をひそかな風のよ うにのっていった。外国婦人は疲れた義勇団の背後で彼 らに食物を運搬《うんばん》した。閉め切られた街並の戸の隙間から は、外を窺《うかが》う眼だけがぎろぎろ光っていた。  しかし、参木は頻々《ひんびん》として暴徒に襲われ続ける日本街 の噂《うわさ》を聞き始めると、だんだん足がそのほうへ動いてい った。日本街では婦人や子供を避難所《ひなんじよ》へ送った後で町会 組織の警備隊が勇ましく街を守って徹宵《てつしよう》を続け始めた。 すると、彼の身体の中で、秋蘭を愛した記憶の断片が、 にわかに彼自身の中心を改め始めた。彼は煙に襲われる ように、道から外《はず》れてひとり隠れた。しかし、また彼は 日本街の食糧の断絶《だんぜつ》を聞いては出かけた。邦人暗殺の流 言を聞いては出かけた。暴徒の流れ込んだ形跡《けいせき》を感ずる とまた出かけた。そうして彼はいつの間にか、日本人の 外廓《がいかく》に従ってぐるぐる廻り続けている斥候《せつこう》のような自体 を感じた。そのたびに、危害を受けた邦入の増加してい く話の波が、締めつけられるように襲って来た。  ある日、参木と甲谷はいつもの店へ食事をしに出て行 くともう食料がなくなったといって拒絶された。米をひ そかに運んでいた支那人が発見されて殺されたと言う。 それに卵もなければ肉もなかった。もちろん、野菜類に いたっては欠乏しなければ不思議であった。.  甲谷は外へ出ると参木に言った。 「これじゃ、飢え死するより仕方がないね。銀行はあっ ても石ばっかりだし、波止場《はとば》に材木は着いても揚げてく れるものはなし、宮子にはやられるし、米も食えぬとな れば、君、こういう残酷《ざんこく》な手は、神さまが知っていたの かね神さまが」  しかし、参木には昨夜からの空腹が、彼の頭にまで攻 め昇るのを感じた。すると、彼は彼をして空腹ならしめ ているものが、ただわずかに自身の身体であることに気 がついた。もし今彼の身体が支那人なら、彼は手を動か せば食えるのだ。それに1彼は領土が、鉄より堅牢《けんろう》 に、最後の瞬間まで自身の肉体の中を貫いているのを感 じないわけにはいかなかった。 「君、君の休業中の手当が出るのかね。俺の金はもうな いよ。しばらく君の手当をあてにするから、そのつもり でいてくれたまえ」と甲谷は言った。 「そうだ、すっかり手当のことは忘れていた。いずれな んとかなるだろう。手当が出なけれや、今度はわれわれ が罷業《ひぎよう》をするさ」 「それやそうだな。しかし、そんならその罷業はどうい うのだ。罷業をしたってお先に支那人にされちゃ、罷業 にもならんじゃないか」 「そしたら支那人と共同だ」と参木は言って笑った。 「それじゃ、俺たちをいっそう食えなくするのも、つま り君たちだとなるのか」 「もう食う話だけは、やめてくれ。僕は腹が空《す》いてたま らんのだ」と参木は言った。 「しかし、休業中の手当を日本人だけ出しといて、支那 入には出さぬとなると、これやますますもって大罷業だ ね。この調子だと、俺もいつまでたったって食えないか もしれないそ」  二人は両側の家々の戸の上に、 「外人を暗殺せよ」と 書かれた紙片の貼《は》られたのを読みながら、歩いていっ た。 「とにかく、殺されるためにゃ、食べなくちゃ」と参木 は言った。 「いや、この上殺されちゃ、お了《しま》いだよ」と甲谷は言っ た。  二人は笑った。参木は笑いながらふと甲谷と宮子を妨 害している自分という存在について考えた。すると、こ こでも彼は不必要に自分の身体に突きあたらねばならな かった。 「君は宮子が本当に好きなのかい」と参木は言って甲谷 を見た。 「好きだ」 「どれほど好きだ」 「どういうもんだか俺はあいつが俺を蹴れば蹴るほど好 きになるのだ。まるで俺は蹴られるのが好きなのと同じ ことだ」と甲谷は言った。 「それで君は結婚して、もし不幸なことでも起ればどう するつもりだ」 「ところが、俺の不幸は今なんだからね。今より不幸の ことってあってたまるか」  参木は競子をひそかに愛していた昔の自分を考えた。 そのとき、甲谷は競子の兄の権利として、絶えず参木の 首を掴《つか》んでいた。が、今は、彼は甲谷の首を逆に掴みだ したのだ。 「君、君はお杉をどう思う」と参木は言った。 「あれか、あれは俺にとっちゃ捨石だよ」 「あれは君にとっちゃ捨石かもしれないが、僕にとっち ゃ細君の候補者だったんだからね。お杉を攻撃したのは 君だろう」  瞬間、甲谷の顔は赧《あか》くなった。が、彼は赧さのままで なお反《そ》りだすと、 「ふん、俺の捨石になる奴なら、誰の捨石にだってなろ うじゃないか」と言ってのけた。  参木は自分の捨石になりだす宮子のことを考えなが ら、その捨石の、また捨石になりだした甲谷の顔を新し く眺めてみた。 「とにかく、僕にはお杉より適当な女は見当らぬのだ。 君の捨石を拾ったって、君に不服はなかろうね」と参木 は言った。 「君、もう冗談《じようだん》だけはよしてくれよ。俺は飯さえ食えな いときだ。これからひとつ馳け廻って、君、飯一食を捜《さが》 すんだぜ」  参木は黙った。すると、しばらく忘れていた空腹が再 び頭を抬《もた》げて来た。彼は乞食《こじき》の…胃袋を感じた。頭が胃袋 に従って活動を始めだすと、彼はまたも自然に秋蘭を思 い出すのであった。-ところが、これがいちばん秋蘭 のしたかったことなのだ。とふと彼は考えた。i彼は 彼女の牙《きば》の鋭さを見詰めるように、自分の腹に刺し込ん で来る空腹の度合を計りながら、食物の豊富な街のほう へ歩いていった。  しかし、参木と甲谷の廻った所はどこも白米と野菜に 困っていた。明日になれば長崎から食料が着くと言う。 二人は明日まで空腹を満《みた》すためには、暴徒の出没《しゆつぼつ》する危 険区域を通過しなければならなかった。だが、今はその 行く先にも食物があるかないかさえ分らないのだ。参木 は甲谷とトルコ風呂《ぶろ》で落ち逢う約束をすると、甲谷を安 全な街角から後へ帰して、ひとり食物を捜しに出かけて いった。    四十一  甲谷は参木と分れるといっそう空腹に堪《た》えかねた。そ れにないものはパンだけではなく煙草《たばこ》もないのだ。街路 は夕暮だのに歩いているのは彼ひとりであった。どこも かしこも閉めてしまっている戸の隙から、何物が狙《ねら》って いるともしれたものではなかった。それにしても、兄の 高重もひどいことをしたものだ。高重と印度人の弾丸 が、彼をこんなに混乱させてしまう原因になろうとは、   甲谷は自分の船の材木が港に浮いたまま誰も揚手《あげて》の ないのを思うと、いまさら兄め、兄め、と思うのであっ た。  街に革命が起っているのも知らぬらしい一台の黄包車《ワンパウツ》 が、甲谷の傍へ近づいて来ると、乗れとすすめた。今 ごろ日本人を乗せて見つかれば殺されるに決っているの に、乗れとは幸いなので、彼は乗った。が、さてどちら へ車を向けて走らせて良いものか分らなかった。彼は乗 ったままの方向へ車を走らせていてから、ふと車夫の背 中を見た。すると、車夫にとっては、自分が死神と同様 なのに、それを乗せて引っぱって走っている車夫の姿が おもしろくなって来た。ひとつ彼が見つかって殺される まで、死神みたいに彼の後からどこまでも追っかけてや ろうーそう思うと、甲谷も先日からの打撃の連続のた めに、思う存分いたずらがしたくなった。彼は、「走れ、 走れ」とステッキを振り上げては車の梶《かニ》を叩いてみた。 車夫の背中はいっそう低くなると、スピードを増し始め た。  しかし、いったいどこまで自分は走ろうとするのだろ う。彼は地図を考えた。一番近いのは山口の家である。 -山口の家には不用な女がごろごろしている話をきか された。それがこの革命で死人といっしょに、どんなこ とをしているやら。おまけにその女のひとりを譲ろうと 言ったのも山口なのだ。そうだ、山口の家へいってやろ う。甲谷には眼の前の人けのない夕暮が、奇怪な光りを あげたように楽しくなった。彼は山口が洩《ものり》した第二の商 売を思い出した。それは支那人から買い集めて造った人 骨を、医学用として輸出するのである。 「さよう、まず一つの死体の価格で、諺シア人七人の妾《めかけ》 が持てる。七人」  そう傲然《こうぜん》と言ったのも山口だ。今は彼もこの革命でさ だめし死人が増して喜んでいることだろう。しかし、そ れにしても、眼前で自分を引っばっている車夫までが、 いまに見つかって.死体となって山口に買われたなら、1 !さよう、それは俺が売ったと同様だ。金をよこせ、と 俺は傲然と言ってやろう。  もっと走れ、走れ。i  車夫はあばたの皮膚へ汗のたまった顔を辻ごとに振り 向けて、甲谷を仰ぐと、またステッキの先の方向へ、静 まり返った街路をすたすたと素足の音を立てながら走っ ていった。  甲谷は山口が家にいなければ、お柳の家へいこうと思 った。お柳の家なら、彼女の主人は総商会の幹事をして いる支那人だ。ことに共産党のあの芳秋蘭は、お柳の主 人の銭石山《せんせきさん》と、気脈《さみゃく》を通じているにちがいない。お柳の 話では、いつかも芳秋蘭が二階の奥の密室へ来たことが あると言う。俺はあの芳秋蘭を殺したなら、!そう だ。俺の材木をすっかり腐らせた奴め。俺はあいつを殺 したなら、そうだ俺があいつを殺したって、ただそれは 一人の人間を殺したのというのと同じではないか。  彼は自分の考えていることが、車の上の気まぐれな幻 想なのか、それともまじめなのかどうなのかを考えた。 まったく、今はもう彼は、空腹と絶望のために、考える ことそのことが夢のようで、考えが実行していることと どこで擦《す》れちがっているのか分らないのであった。  彼は周囲の色が、しだいに灰白色に変化して来るのを 見ていると、もうあたりがいつの間にか、租界《そかい》外の危険 区域であるのを感じた。しかし、もう彼の空腹は、迫る 危険の度合いを正当に判断することさえうるさくなっ て、ずるずると車といっしょに辷《すべ》っていった。彼は宮子 が今ごろどうしているであろうかを考えた。あるいはも う先夜自分を跳ねつけた行為を後悔して、今は自分の助 けにいくのを待っているかもしれない。それとも、もう 彼女を愛していたスコットランドの士官にでも救われて いるのであろうか。それともあの甲虫《かぶとむし》のフィルゼルに、 !いや、畜生《ちくしょう》、死ね、死ね。-i  遠くで、遅い柳絮《りゆうじよ》が一面に吹き荒れた雪のように茫々《ぼうぼう》 として舞い上った。彼はこっそりと盗んでおいた宮子の 手巾《ハンカチ》をポケットから取出すと鼻にあてた。道路の青葉が 宮子の胸の匂いで締められながら沈んでいった.。彼は彼 女の胴の笑いを腕に感じた。彼は彼女のために使用した 船の材木量を計算した。だが、何もかも、もうだめだ。  そのとき、突然彼を乗せた車が、煉瓦《れんが》の弓門を潜《くぐ》ろう とすると、行手に見える長方形の空間が輝いた。それは 六七十人の暴徒に襲われている製氷会社の氷であった。 氷はトラックの上から、ひっかかった人といっしょに辷 り落ちた。アスファルトの上で爆《はじ》ける氷、その氷の間に 挾《はさ》まって格闘している日本人と支那の群衆ー甲谷は開 いた口へ、物が詰ったように背後へ反《そ》り返った。が、車 夫はその意志とは反対に、前へ前へと出ようとした。彼 は車の上から飛び降りた。彼の咄嗟《とつさ》の動きに靡《たいび》きだし た群衆のいくらかは、彼の後から駈《か》けて来た。彼は露路 へ飛び込むと壁から壁を伝いながら河岸へ出た。そこ で、彼はひとりになると、もはや動くことが群衆に見つ かるのと同様なのに気がついた。もし動いて逃げるとす れば、河へ飛び込むか再び路へ出て向う側の露路へ逃げ 込むかのどちらかだった。彼は這いながら弓門の見える 建物の裾《すそ》に蹲《うずくま》って街路のほうを見た。すると、そこで は、吹雪のように激しく襲って来た柳の花の渦の中で、 まだ格闘が続いていた。トラックの上で、破れた襯衣《シヤツ》が 花といっしょに廻っていた。長い鉄棒の先が氷に衝《あた》るた びに、襤僂《ぼろ》の間からきらりきらりと氷の面が光った。弓 門の傍には、先きまで甲谷の乗っていた車が、浅黄の 車輪を空にあげて倒れていた。その下から二本の足の出 ているのは、たしかに先きまで生きていた車夫の足にち がいない。傾いた氷の大盤面の上には、血がずるずる辷 りながら流れていた。血にまみれた苦力《ク》がその氷塊の一 つをかかえて走りだした。  甲谷はもうすぐに山口の家があるのウ思うと、今から 後へひき返すことは、これまで来たこ〉よりいっそう危 険なことだと思った。彼は群衆が氷塊の傍から次の地 点まで暴力を移動していくまで、しばらくそこに隠《かぐ》れて いなければならなかった。  ちょうど、幾条かの夕栄《ゆうば》えが複合した建物の頂Eから 流れていた。アスファルトの上に散乱している氷塊が、 拾われてほ技げつけられ、拾われては歿げつけられるた びに、その断面がぱっと爆《はじ》けて、輝きながら分裂してい るときである。肩から背中へ裂傷《れつしよう》を負ハた日本人が、真 赤な旗を巻きつけたように、血をシャリにつけたままト ラックを捨てて逃げていった。群衆は触.冖の後から追っか けた。  甲谷は群衆が彼の前を通り抜けて空虎になると、初め て街路に出て、群衆とは、反対に山口の家のほうへ馳け始 めた。しかし、そのとき、初めに甲谷を追って露路へは いった群衆のいくらかが、逃げる甲・谷を見付けて彼の後 から馳けて来た。甲谷はもう疾風《し.つぶよ"》のようであった。走る速 力に舞い上る柳の花の中をつきぬけた。背後から.氷の破 片と罵声《ばせい》がだんだん速度を早めて追って来た。彼ほ追フ つかれない前に露路へまた逃げ込もうと思った。しか し、ふと右手の街角にアメリカの駐屯兵《ちゆうこんへい》の屯所《とんしよ》が見え た。彼はいきなりその並んだ軍服の列の中へ飛び込ん だ。 「諸君、頼む、危.険だ。あれが。  」  しかし、駐屯兵は微笑を浮べたまま、追手の群衆を迎 えるかのように動こうともしなかった。動.かぬ兵士の中 にいつまで停っていても、危険は刻々に迫るばかりであ った。彼は一人の兵士の胴を一度くるりを廻ると、木柵 の中を脱け出るようにそのまま裏へ飛び抜けてまた馳け た。橋があった。甲谷は橋の上、で振り返ると、駐屯兵た ちが追っかけて来る群衆を遮断《もヤだん》してくれているものかど うかを見た。しかし、もう群衆は笑いながら立っている 駐屯兵たちの前を通り過ぎて、彼の手近に迫っていた。 甲谷はもう息が切れそうになった。自分の足の関節《かんせつ》の動 いているのが分らなかった。ときどき身体が宙を泳いで 前にのめりそうになるのを、ようやく両手で支えてまた 馳けた。橋を渡り抜け.ると、次の街角から草色をした英 国の駐屯兵の新しい…服が見えた。英国兵は馳けて来た甲 谷を見つけると、.たちまち、街路に横隊に並んで銃を向 けた。が、それは甲谷を追って来る支那の群衆を狙った のであった。甲谷は双《もろ》.手《て》を上げると、テープを切るラン ナーのように感謝の情を動かさぬ唇に込めて、駐屯兵の 銃の間を馳け抜けた。  甲谷は山口の家の戸口へ着いたときには、もう、ぼん やりとして立ったまま急に言葉を言うことができなかっ た。 「どうした」  そう山口が出て来て言っても、甲谷はまだしばらくの 間黙っていた。山口は甲谷の背中を強く叩いて階段を連 れて上ってから水を飲ました。 「寝るか」 「寝る」  と甲谷は一言いうと同時に、傍にあったベッドに横 に倒れた。 「パンをくれ。パンを。いや、水だ、水だ」と甲谷はい った。      四十二  陽《ひ》がもうまったく暮れてから、ようやく食事にありつ くと甲谷は再び元気になった。彼は今朝から起った始終《しじゆう》 の話を山口にした。 屡は君のこの家にはいって来るなり・いきなり戮異が 起ってね。僕は君のように愛国主義者になったんだが、 もう僕は君より立派なものさ。覚悟をしてくれ」  建築師の山口はポケットからナイフを出すと、黙って 甲谷に血判状《けっばんじよう》をつくれと迫った。甲谷はナイフの溝《みぞ》にた まっている黒い手垢《てあか》をみると山口の日ごろ触っている死 体の皮膚が、さだめしそこに溜《たま》り込んでいるのであろう と思って顎《あご》をひいた。 「あ、そうだ。君から僕は金を貰わなくちゃならないの だが」と甲谷は言った。 「今日僕の乗って来た車夫は、門の下でたしかに殺され ていたんだが、どうだ、それは僕が殺したのと同様なん だよ。僕にその労金《ろうきん》をくれられないものかね。僕はもう 金がなくなって困ってるんでね、冗談《じようだん》じゃない、君」 「だめだよ、そんなものは」と山口は言って相手にしな かった。 「だって、僕がその車にさえ乗らなきあ、あいつは死人 なんかにならなくたって良かったんだからね。それにわ ざわざ君んとこの傍まで迫い込んで来たのは、誰だと 思う」  山口は手を振って甲谷の攻め立てて来る機略《きりやく》をまた圧 えた。 「そんなことを言いだしたら、今から君の骨賃《ほねちん》だって、 もう払っとかなくちゃならんじゃないか」 「しかし、他のときじゃないよ。僕の材木はもう船から 上る見込みがないんだからね。金はもう僕にはこれきり だ」  甲谷はズボンのポケットを揺って銅貨.の音を立てなが ら、 「君、くれなきゃ、その代り、僕が死入になるまで君の 所に厄介《やロつかい》になるまでさ。いいか」 『いや、それも困るぞ」と山口は言ってナイフを机の上 に抛《ほう》り投げた。 {、それじゃ、僕を困らないようにしてくれたって、良か ろうじゃないか。僕は今日は自分の生命を犠牲《ぎせい》にして、 あの車夫を追っつめて来たんだぜ」  山口は立ち上ると机の引出から蟻燭《ろうそく》浄取り出した。 門、おい君、地下室へいこう。俺の製作.麿を見せてやろ う」  甲谷は先に立った山口の後から土間キ降りると、真暗 な黴臭《かひくさ》い四角な口から梯子《はしご》を伝って地下室へ降りた。そ こで、山口は急に振り返って甲谷を見ると、探偵物の絵 のように蝋燭の光りの底で眼を据えた。 「もうここまではいればお了《しま》いだぞ」 「何んだ。生命まで取ろうと言うのか」と甲谷は言って 立ち停った、 「もちろん生かしておいちゃ、明日かあ俺《おれ》のパンまでな くなるさ」  二人はまた奥の扉を押して進んだ。すると、急に甲谷 の足は立ち竦《すく》んだ。壁にぶらりと下ったいくつもの白い 骨の下で、一人の支那人が刷毛《はけ》でアルコールの中のち切 れた足を洗っていた。甲谷は骨の整理をするからにはい ずれこれほどのことはするであろうと思っていた。しか し、よく見ると、骨を入れた槽《おけ》の縁が円く盛り上ってぎ らぎらと青白く光りながら滑《なめ》らかに動いていた。それは 重なり合って這い出ようとする虫の厚みであった。彼は 足元から這い上の、て来る虫のぞろぞろした冷たい肌を感 じると、もうそこに立っていることができなくなった。 「出よう。これだけはもう僕もごめんこうむるよ」  そのとき、彼はふと壁を見ると、そこにかかっていた 白い肋骨《うつこつ》の間を、注ったり来たりしている鼡《ねずみ》があった。 それは間もなく二|疋《ひき》になり、三疋になった。が、それは 三疋どころではなかった。しばらく見ている中に、一方 の隅から渡って来た鼡の群れが真黒になりながら肋骨の 下や口の中から、出たりはいったりして壁を伝って下へ 難りた。 「君、あれは飼凶ノてあるのかね」と甲谷は訊《たず》ねた。 「そうだ。あれは飼っとくと手数がはぶける。鼡という ものは昔から、地上を清めるために生息しているものな んだ」  蟻燭の光りの中で、大きな影を造って笑っている山口 の顔が、このとき甲谷には恐るべき蛮族《ばんぞく》のように見えて 来た。 「頭の上に革命があると言うのに、ここで君は始終《しじゆう》そん なことを考えているんだね」と甲谷は言った。 「何アに、革命と言ったって、支那の革命じゃないか。 弱る奴は自人だけさ。いい加減に一度ヨーロッパの奴を 捻《ね》じ上げとかないと、いつまでたったってばかにしやが る。今日こそアジヤ万歳だ」  山口は鼡の傍へよっていって手を出した。すると、 たちまち鼡の群が音も立てずに地を這って甲谷のほうへ 流れて来た。  しかし、甲谷はもう充分であった。臭気と不潔さとで 嘔吐《おうと》をもよおしそうになった彼は、胸を圧えながら梯子《はしご》 を登って土間へ出た。      四十三  甲谷は山口からチュウトン系のがっしりと腰の張った 若いオルガを紹介されたのは、それから間もなくであっ た。オルガは黙って初めは笑顔も見せなかった。しか し、甲谷が参木の友人だと教えられると同時に、彼女は 輝くような笑みを見せた。 「あなたは参木のお友だちでいらっしゃいますの。参木 はどうしていますかしら? あたしあの方とは、ここで 一週間もいっしょに遊んでおりましたわ」とオルガは早 口な英語で言って甲谷のほうへ手を出した。 「そうだ、あいつはここに一週間もいたくせに、とうと うオルガに負けて逃げちゃった」と山口は剃刀《かみそり》に溜《たま》った 石鹸《せつげん》の泡を拭《ふ》きながら、鏡に向って言った。 「ここにあいつ、いたのかい、それは知らなかったね。 そうかい」甲谷はうす笑いを浮べながらオルガの顔を見 なおした。 「どうです、オルガさん、こんどの支那の革 命と、あなたのお国の革命とは違いますか?」  すると、急に山口は鏡の中から甲谷を見て、 「おいおい、革命の話だけはよしたらどうだ。オルガを 泣かしてしまうだけだ。こいつは革命の話となると、狂 入みたいになるからね」と遮《さえき》った。 「しかし、それや何より聞きたいさ。こんな事は、どう なるやらさっぱり僕には分らんからね。経験のある人に 聞いとかないと、材木の処分に困るんだよ」 フてんなこと聞きたけれや、後でゆっくり聞けばいい さ。掩はこれから、ひと仕事しないと寝られないんだ」  甲谷はふとそのとき、いつかサラセンで逢った山口の 話を思い出した。それでは山口は話のとおり、オルガを 自分に譲ろうと言うのであろうか。しかし、何事も計画 はただちに実行に移していく山口のことであった。 「じゃ、君はこれからどっかへ行くのか」と甲谷は訊《たず》ね た。  山口は剃刀《かみそり》を下へ降ろすともう一度銑を覗《のぞ》きながら、 「君をここへ一人ほった.らかしておいたって、むろんよ かろうね」と顎《あご》を撫《な》でつつ訊ね返した。 「良いとは、何が良いのだ?」と甲谷は訝《いぶか》しそうに山口 を見上げて言った。 「たくさん俺の家には鼡《ねずみ》がいるからさ。分らん奴だね」 「しかし、それは分らんよ。鼡に俺が曳《ひ》かれて悪けれ ば、何も君は出ていかなきあいいじゃないか」 「ところが、そこを出ようと言うのだから、察してもら おう。早く出ていかないと、君の乗って来た車・夫け拾わ れてしまうかもしれないからな。それにまだ俺は、お杉 の所へもいかなくちゃならんのだ」  甲谷は山口の口からお杉と聞くと、言葉を次《つ》こうとし ていた呼吸も思わずはたと止ってしまった。  甲谷は 再びお杉の顔を思い描いた。すると、参木も山口もお杉 にした自分の行為を知っていて、ともに胸の底では、ひ そかに自分に突っかかっているのではないかと思った。 しかし、彼はたちまち昂然《こうぜん》となると、 「お杉か。あれは北四川路八号の皆川だ」彼はとぼけた 笑いを浮き上らせながら白々しく言った。 「じゃ、君も行ったことがあるのかい」  一瞬の間、山頁-は眉《まゆ》を強めて甲谷を見返した。 「いや、僕はお柳に訊《キ 》いたのだが。お杉・をあんなにした のは、あれはお柳の仕業《しわざ》でね。気の毒は気の毒だが、気 の毒なものは、まだそこにも一人いらっしゃるじゃない か」 「俺か?」と山」よ.、、うと、拳《こぶし》を固めて甲谷を殴《なぐ》りつけ る真似《まね》をした。 「ばかを言え。気の毒なのはこのオルガさんだよ。この 夜更《よふ》けにひとりほったらかされて行かれちゃ、たまるま いよ」  山口は笑いながら帽子をゆったり冠《かぶ》った。 「今夜は少々危いが、俺がやられたら後を頼むよ。昨夜 は何んでも、芳秋蘭がスパイの嫌疑で仲間から銃殺され たとか、されかけたとか言うんだが、いつか君は、あの 女の後を追っかけたことがあったっけ」 「殺《や》られたか、芳秋蘭?」と甲谷は思わず(、.口った。 「いや、そり宀、真個《モ〆uレ「》かどうだか、むろん分らんが、何ん でも日本の男に内通してたというので疑われたらしいん だ。そのうち一つ、俺はあの女の骨も貰《もら》って来ようと思 っているのさ」  力口は、ポケットから手帖と手紙を出すと、甲谷に見 せた。 「君、俺がもし死んだら、君はこの二人の男に逢ってく れ。一人は李英朴といって支那人で、一人はパンヂット ・アムリっていう印度《インド》人だ。この印度人は宝石商こそし ているが、実は印度の国民会議派の一人でね。ジャイラ ンダス・ダウラットムの高足だ。この男は君と逢って るうちに、君のするべきことをだんだん君に教えていく よ」 「じゃ、君も今夜はいよいよ死入になるんだな」  山口はしばらく甲谷を見ていてから急に高く笑いだし た。 「そうだ。死人になったら、俺の家の鼡にやってくれ。 さだめし鼡どもも本望だろう」 「そりゃ、本望だろう。鼡にだって、このごろは洒落《しやれ》た のはいるからね」  山口は、ともかくもこの場の悲痛な話を冗談にしてし まう甲谷の友.情を感じたのであろう。オルガの肩を叩い て英語でいった。 「おい、お前の好きな参木に逢わしてくれるのも、この 男よりないんだからね。甲谷には親切にしないといけな いぜ」  彼は甲谷を振り返った。 「じゃ、失敬《しつけい》、頼むよ。この李の手紙を読んどいてくれ ないか。なかなかの名文だよ」  甲谷はゆうゆうと笑いながら出ていく山口の後を見て いると、それはたしかに死体を拾いにいくのではなく、 この騒動の裏で動くアジヤ主義者としての、彼の危険な 仕事が何事かあるにちがいないとふと思った。彼は渡さ れた李英朴の手紙を見ると、それは三日前にどこからか 使いの者に持たして来たものであった。   「山口君、本日の市街の惨案《さんあん》は、そもそもこは誰人   の発案にかかるものであろうか。世界は常に公論あ   る人類の、永久的生存権を有するに非《あら》ざれば、必ず   蜘灘の時口あるであろう。およそ今回の事件は∩   中、英、国際の紛争《ふんそう》に非ずして、実は黄,日消長の関《カん》   鍵《けん》であり、これを換言《がんげん》すれば、すなわち、亜洲黄色   人種が、白種に滅亡せらるるの先導、に非ずして他に   はない。試みに思いたまえ。現荊響界に存留する大   民族は、すなわち黄白の二種にして、彼の黒種紅種   は早くもすでに白種に征服せられ、米のインデァ   ン、南洋の碼来《マレ 》、アフリヵのニグロのごとき数十年   ならずしてこの種の人種は絶滅し終るであろう。け だし、彼白人は滅種計画を励行し、彼らの大帝国主 義の志は、全世界を統御《とうきよ》して後巳《のちや》まんとす。その心 の邪にして、その計《けか》りの険なることかくのごとし。 我黄種は危機に瀕《ひん》す。五大洲の彼に圧せらるろ形勢 はすでにその四所に蔓延《まんえん》し、一塊の乾浄土《かんじようど》を剰《あま》す は、ただわずかにわが黄人の故郷、亜洲あるのみ。 しかるに君、一たび試みに亜洲の地図を検したま え。南部の南洋群島、フィリッピン、西部の印《イン》,度《ト》、 大陸に接する安南《アンナン》、緬甸《ビルマ》、香港《ボンコン》、演門《マワオ》もまたすでに 彼白人の勢力にして、なお、未《いま》だ自人の雄心死《ゆうしんし》せざ るなり。日と中とは同種同文、唇歯相依《しんしあいよ》る。たとえ ば中国一たび亡びんか、日本も必ず幸いなし。何《なん》ぞ それ能《よ》く国家の旗を高く樹《た》てるを任《まか》せんや。嗚呼《ああ》 君、われら、今彼らの滅種政策の下に嫉転呼号《しつてんこごニ》する もの。しかるにわが日中両国を返顧するも、なお未《いま》 だ、昏々《こんこん》蒙々《もうもう》、一に大祥の将に臨み亡種の惨《さん》を知ら ざるがごとし。願くば君吾が説に賛成するあらば、 ともに起ちてこれを図り、あわせてわが民族の救援 につき討論せんことを請う。                 李英朴    山口卓根先生  オルガは甲谷の傍へ寄って来ると、支那婦人の用い る金環の錫《うでわ》を手首に嵌《は》めて涼しげに鳴らした。 「ね、甲谷さん、あなた、参木のことをご存知だった ら、教えてちょ、うだい。あたし参木に逢いたいの」とオ ルガは言って寝台の上に腰を降ろした。 「参木とはさっきまでいっしょにいたんだが。しかし先 生、僕の食い物を捜《さか》しに別れてからどこへいったか、僕 にも.分らんね。たぶん、あいつも途中でやられてしまっ たかもしれないぜこと甲谷は言ってオルガの顔の変化を 見詰めていた。 「じゃ、もう参木は死んだかしら」オルガは首を上げて 窓の外を見ながら動かなかった。 「それや、分らんよ。僕だってここへ来るには死にかか ったんだからね。とにかく外は革命なんだから、何事が 起るかさっぱり見当がつかないんだ。あなたたちの革命 のときも、こうでしたか。まア、それから僕に聞かして くれたまえ」 「あたしたちロシアのときは、何が街で起っているのか 誰も知らなかったわ。ただときどき鉄砲の音がして、街 を通っている人があっちへ塊《かたま》ったり、こっちへ塊ったり して、それも誰も何んにも知らないで、ただわいわい言 ってるだけだったの。そのうちにあたしの父が、こりゃ 革命だって言うの。だけど革命だって言ったって、革命 って何んのことだか誰も知りゃしないでしょう。だから やっぱり、革命だって聞かされたって、ぼんやりし て、今に鎮《しず》まるだろうと思って見ているだけなの。それ や、今とはまるでそんなところは違っているわ。革命っ てどんなことだかだいたいでも分っていれば、あたし、 革命なんか起るもんじゃないと思うの。……だけど、参 木、ほんとうに死んだのかしら」とオルガは言ってじっ と床に眼を落した。 「それから、どうしたんです、それから」と甲谷はもの 珍らしそうに訊《き》き始めた。 「それから、あたしの父が母とあたしとをつれて、とに かく逃げなけれやこれや危いって言うんでしょう。だか ら、あたしたち、まだ誰も革命だとは気付かないうち に、もうモスコーを逃げて来ましたの。だけどお金はあ たしたち貴族は貴族だけど、いま急にっていったって、 ないものはないんですからね。だからもう赤裸《あかはだか》同然よ。 ただもう逃げればっていうんで逃げたもんだから、旅費 はすぐなくなっちゃうし、しようがないから、なくなっ たところで降りて、それからすぐ薪聞社へ駈《か》けつけた の。新聞社へ駈けつけたのも父の考えで、あたし、父も なかなかそこは考えたものだと今になって思うのよ。 ね、新聞社だって田舎《いなか》だから、モスコーの出来事なんか まだ何も知りゃしないんだし、モスコーの騒動を今見て 来たというように話せば、特種《とくだね》料が貰《もら》えるでしょう。そ こを父が狙《ねら》ったの。うまいでしょう。それでようやく特 種料を握ってその旅費のなくなる所まで逃げて来て、そ こでまた前のようにモスコーの話と前のところの話をす るの。そうすると、またそこでも特種料が貰えるの。ち ょうどあたしたち、そんなことを幾度も幾度も繰り返し ながら、革命の波の拡がるのと競争して逃げだしていた ようなものなのね。そうして、とうとう革命があたした ちに追いついたとき、あたしの父は捕まえられて殺され かかったの。まア、そのときったら、あたし、今でもは っきり覚えてるわ」  オルガはちょうどそのときもそうしたのであろう、胸 に両手を縮めて空を見ながら、ぶるぶる慄《ふる》える恰好《かつこう》をつ けたまましばらく黙って縮んでいた。しかし、どうした ものか、オルガはそのまま話しだそうとしていて話さな いのであった。 「何んだ。それから、どうしたんだね」とまた甲谷はせ き立てた。 「あたし、この話をするときは癲癇《てんかん》が起るのよ。あな た、あたしの身体が後ろへ反《ぞ》らないように抱いててよ」  オルガは甲谷の膝《ひざ》の上へ横に坐って身を擦《ナ》りつけた。 「あなた、もしあたしが慄えだしたら、あたしの身体を しっかり抱いてちょうだい。そうしたむ、あたしもうそ れでだいじょうぶなんだから」  甲谷はオルガを抱きよせた。  オルガは手品を使う前の小手調《こてしらヘ》のように、しばらくの 間淡紅色に輝いたパルパラチャンの指架を眺めたり、耳 環を爪さきではじいてみたりしていてから、深い呼吸を 面に幾回竜繰り返して黙っていた。甲谷は思わずも彼女 の身体を反らさないようにとしっかりと抱きかかえた。 「君、だいじょうぶかい。今から嚇《おど》かしちゃこのまま逃 げるぞ。僕は癲癇《てんかん》なんてどうしたらいいんか知らないか らね、僕にとっちゃ革命みたいだ」 「だいじょうぶよ、しっかりさえ抱いててくだされば、 そうそう、そうしてあたしが慄《ふる》えだしたら、だんだん強 く抱いてってよ。あたしのお父さんも、いつでもそうし てあたしを抱いててくだすったわ」 「君のお父さん、まだいるの?」と甲谷は訊いた。 「お父さんはハルビンで亡《な》くなったわ。だけど、もう革 命のときトムスクでお父さん殺されかかったも2、鯉だか ら、よく業アあれまで生きられたもんだと思ってるの」 「じゃ、君たちトムスクまでも逃げたんかね」 「ええ、そうなの。あそこはあたしにとっちゃ忘れられ ないところだわ」 「だって、電話や電信があるのに、よくそこまで新聞の 特種が続いていったね」 「そこがあたしたちにも分んなかったの。何んでも革命 が起るといっしょに、電話局と竃信局とは政府軍と革命 軍との争奪《そうだつ》の中心点になったらしいのよ。だもんだか ら、あそこの機械はすぐ壊《こわ》されてしまったらしいのね。 もし電話やなんか役に立ったりしちゃ、そりゃあたしな んか、トムスクまでは逃げられなかったにちがいない わ」  オルガはそういう言葉のひまひまにときどき寒気《さむけ》を感 じるように胴慄《どうぶる》いをつづけた。甲谷はオルガの顔色を眺 め眺め言った. 「そりゃ今夜だって、ここの租界《そかい》の駐屯兵《ちゆうとんへい》は一番雹話局 と電信局とを守っているからね。何んでもそれに水道が 危いと言うことだ。電気もまだこうして点《つ》いてるが、こ れだっていつ消えっちまうか知れたもんじゃないさ。君 たち、じゃ、汽車はあったんだね、そのときは?」 「ええ、汽車はあったわ。だけど、それもトムスクまで ょ。あたしたちトムスクまで逃げて来たら、そこの広場 ではもう革侖があたしたちより先になっていて、街の人 人の集っている中で、怪《あや》しいものを一人ずつ高い台の上 へ乗せて、委員長というのが傍から、この男は過去に おいて反革命的行為をしたことがあるかどうかって、い ちいち人々に質問してるの。そうすると集っている街の 人々は、下のほうからそれは誰々《だれだれ》何々《なになに》という男で、宗教 心が強くって慈善家で、悪いことは何一つしたことがな いというように、証明してるの。皆の証明がすむとその 男はすぐ無罪放免《むざいほうめん》ということになるんだけど、あたしの 父のように誰も何も知らないとこじゃ、まったくもう怪 しいと睨《にら》まれちゃそれじまいよ。すぐ傍でぼんぼん銃 殺されちゃうの。だもんだから、お父さんがあたしたち から放れてひとりパンを買ってるとき、もうちゃんとつ かまの、て、いつの間にか高い台の上へ立たされているん でしょう。あたしそのときはもう、お父さんの生命はな いものと思ったわ。それであたし、ただもう空を向いて 十字《じゆうじ》ばかりきってたの。そうすると、誰だか人の中から 女の声がし始めて、あたしの父のことをしきりに弁明し ていてくれるのよ。あたし、誰かしらと思って見ると、 それはお母さんじゃありませんか。お母さんはもうひと り下から喚《れめ》き立てて、父のことを、その男はオムスクの 冷凍物輸出《れいとうぶつゆしゆつ》支局の局員で、英国のユニオン獣肉会社のト ラストが北露漁場の漁業権を買収《ばいしゆう》しようとしたとき、反 対した男で、北露漁業権をロシアのために保存するのに つとめたとか、北洋|蟹工船《かにこうせん》の建設草案を民衆のためにし たんだとか、それから何んだとかかだとか、なるべく難《むずか》 しそうなことを必死になって饒舌《しやべ》っているんでしょう。 それでも委員長はお母さんの言うことには何の感動もせ ずに聞いてるだけなの。そうするとお母さんはもう真赤 になって、手を振ったり足をばたばたさせたりしなが ら、やっきになって来て、しまいにどうしてあんなこ とを考え出したものやら、アルゼベイジャンの漁場へ雹 報で聞き合せたら分る。そこでその男は自分の兄とい っしょに、漁業会社の力を弱めるために、アルゼベイジ ャン漁民.組合を起すのにつとめたんだと言いだしたの。 そうしたら、今まで黙っていた委員長は、よろしい、と 一言いったのよ。お父さんはもうそしたらすぐ台の上か ら降ろされたわ。それから、お母さんが、うっかりして 降りて来るお父さんの傍へ駈け寄ろうとして、すぐま たそっぽを向いて知らぬ顔をしているの。あ.たし、もう それからやたらにありがたくなって、十字ばかり切りな がらぶるぶる慄《ふる》えていたの。そうしたら、今度はあたし が、——」とオルガは言ったまま黙ってしまうと、甲谷 の膝の上でにわかにぶるぶる慄えだした。  甲谷はオルガの身体を反らさぬようにしっかりと抱き すくめて言ハノた。 「だいじょうぶか、君、おい」  オルガは生唾《なまつば》をぐっと飲み込むように首を延ばした。 「ええ、だいじょうぶ。あたし、何んだかちょっと慄え ただけなの.だって、あのときのことを思うと、それや もうあたし、恐くなるの。あたしそのときも、そこでそ のまま癲癇《てんかん》を起しちゃって、気がついたときは、お父さ んがあたしをこうして抱きすくめていてくださったわ。 あたしたちそれから、まアそれはそれは、鉄道線路を伝 うようにしてハルビンまで落ち延びて来たんだけど、圦、 うまったくハルビンまで来たものの、どうして良いか分 らないもんだから、支那人に持って来た宝石を売ったり 何んかして,やっと生活はしていたんだけど、いよいよ そこにもいられなくなるし、それにまたハルビンは、や っぱりソヴニートの手がはいっていて不愉快でしようが ないもんだから、いつの間にやらこんなところまで来て しまった。、だけど、ここではここで、またこれからど うして生活していっていいのか皆目《かいもく》見当《けんとニ》,がつかないんで しょう。もうそうなれば、だいいちその日その日のパン が手にはいらないもんだから、こんな困ったことってな かったわ。今までこれがお母さんでこれがお父さんだと 思っていたのに、浅ましいわね、もうお父さんよりお母 さんより、何より自分よ。自分さえパンが食べられれば 後はもうどうなったって、いいと思うものよ。あたしこ れでもなかなか親孝行なほうだったんだけど、ここへ来 ちゃ、もう獣《けだもの》よ一、それであたし悲しいには悲しかった けど、売られちやって来てみたら、それが木村っていう 日本人の競馬狂人なの。この入は、まアあたしを人間だ と思ったことは一度もなくってよ。言葉が一つも通じな いもんだから、逢凶.たらいきなりあたしの腰を抱いてぴ しゃぴしゃ叩くの。あたしそれが初めは日本人の礼儀な んだと思っていたわ。そしたらあたしをしばらくしてか ら競馬場へ連れてって、自分が負けたらすぐその場であ たしを売っちゃ一丿たの。それがつまり今の山口なんだけ ど、でも、木村ほどひどい男ってあたし初めてだったわ。 山口に後で聞いたんだけど、木村はいつもそうなんだっ て。お妾《めかけ》さんをたくさんいつも貯金みたいに貯めとい て、競馬のときになると売り飛ばすんだって」 「そうだよ、あの男は狂人だ」と甲谷は言うと、乾いた 唇へ冷たく触れるオルガの水滴形の耳輪の先を舌の先で 押し出した。 「あたし、それからここでいろんな日本の人に逢った わ。だけど、参木みたいな人は一人もみないわ。あんな 頭の高い人なんて、ロシア人にだってなかったし、支那 人にだってひとりも逢わなかったわ。あの人、でも、殺 されたのかしら」  オルガは窓から見える傾いた橋の足や、停って動かぬ 泥舟《どうぶね》を眺めながら言った。 「ね、甲谷さん、あなたどう思って」とオルガは急に振 り返ると、甲谷の首に腕を巻きつけた。「もうあなたは、 ロシアに昔のような帝政が返らないとお思いになって。 どう?」 「それや、もうだめだ。どっちみち返ったところで、ま たすぐひっくり返されるに定っているさ」  オルガは寒気《さむけ》を感じたように身を慄わすと言った。 「そうかしら、もうロシアは、あたしたちいつまで待っ ても前のようにはならないかしら」 「だめだね。だいいちここがもうこんな騒ぎになるよう じゃ、すぐまたどっかの国も騒ぎだすよ」 「あたしたち、でも、まだまだみんなで、昔のようにな るのを待ってるのよ。いつまで待ってもこんなじゃ、あ たし、死ぬほうがいい」  またオルガの身体がぶるぶる前のように慄えるのを感 じると、 「君、おい、だいじょうぶかい。おかしいぜ、おい、君。 ——」と甲谷はオルガを揺りながら顔を覗き込んだ。  オルガはハンカチを出して口に銜《くわ》えた。 「あたし、お父さんに逢いたいわ。お父さんはハルビン で宝石を安く買って、それからこんなハンカチに包んで ね、ロシアを通り越して、ドイツへいって、そこで宝石 を売ってまた帰って来たのよ。そうすると、それはたい へん儲《もう》かったの。だけど一度モスコウへ用事がなくとも 降りなきあ、疑われるもんだから、その降りるのが恐い んだって。あたしのお父さん、あたしにアメリカへ連れ てってやろうっていってたんだけど、1ーあたし、お父 さんにもう一度逢ってみたい。ああ逢いたい」  オルガはいきなりまたハンカチを銜《くわ》えて甲谷の肩に噛 みつくようにつかまった.。甲谷はオルガの顔を見た。す ると、もうさッと彼女の顔色は変っていた。 「君、どうした、しっかり頼むよ。おい、おい」と甲谷 は言った。  オルガは頬をぺったりと甲谷の首にくっつけたまま黙 って静に、びりびり揺れ続けた。すろと、指さきの固く 中に曲ったオルガの手が青くなった。頭がだんだんに反 り始めた。眼はじっと前方の一点に焦点を失ったまま開 いていた。歯がぎりぎり鳴りだすと、強く甲谷の首がオ ルガの片腕に締めつけられた。と、「あッ」とオルガは 叫んだと思うと、いっそう激しく甲谷の膝の上で慄えだ した。  甲谷はオルガを寝台の上へ寝させるとそのまま手を放 さずに抱きすくめた。汗が二人の身体がら流れて来た。 甲谷の首を締めつけつつ慄えているオルガの顔が真青に なって来た。すると、耳から唇へかけてぴこびこ蓮攣《けいれん》し ながら、間もなく赧《あか》く変って来た。甲谷は弓のように反 り始めたオルガを抱きすくめたまま、両手と足と身体で 間断《かんだん》なく摩擦《まさつ》し始めた。しかし、突き上げて来る祕力と 捻《れじ》れる身体の律動に、甲谷はいつとはなしに、格闘する そのものが彼女の病体ではなくて、自分自身だと思い始 めた。  間もなく、甲谷の摩擦《まさフ》は効果があったのであろう。乃 ルガは大きな呼吸を一度落すと、そのままぴったりと身 体の痙攣《けいれん》をとめてしまった。すると、彼女の顔色は前の ように安らかに返って来て、だんだん正しい呼吸を恢復《かいふく》 させながら眠り始めた。甲谷はオルガを放して窓を開け ると風を入れた。黒々とした無数の泡粒《あわつふ》を密集させた河 の水面は、灯の気を失ったまま屋根の旧門に潜んでいた。 その傍を、スコットランドの警備隊を乗せた自動車が ただ一台|疾走《しノそう》していってしまうと、後ほまたオルガの呼 吸だけが聞えて来た。  ——さて、これでよし、と。——  甲谷は汗にしめって横たわっているオルガを花嫁姿に 見たてながら、上着を脱いで釘《くざ》にかけた。それから、石 鹸壷の中でじゃぶじゃぶ石鹸の泡を立てて顔に塗ると、 山口の置いていった剃刀《かみそり》の刃を横に拡げてひと刷《は》き頬に あててみた。   四十四  外は真暗であった。ところどころに塊《かたま》った車夫たちは 人通りのまったくなくなった道路の上に足を投げ出して 虱《しらみ》を取っていた。道路に従って、冬枯《ふゆがれ》の蔓《つる》のように絡《から》ま り合った鉄条網《てつじようもう》の針の中を、義勇隊の自動車が抜剣の花 を咲かせて辷っていった。すると、どこかに切り落され ていた頭髪が、市体の巻き上る風のまにまにふわりふわ りと道路の上を漂った。その道路では一人の子供が、ア スファルトの上で微塵《みじん》に潰《つぶ》れている白い落花生《らつかぜい》の粉を、 這いつくばって舐《な》めていた。  参木は泥溝に沿って歩いていった。彼はふとお杉のい る街のほうを眺めてみた。もう彼は長い間お杉のことを 忘れていたのに気がついたのだ。自分のために首を切ら れたお杉、自分を愛して自分に愛せられることを忘れた お杉、お杉はいったい、今自分がお杉のことをこうして 考えている間、何を今ごろはしているのだろう。  しかし、彼の断滅《だんめつ》する感傷《かんしよう》が、しだいに泥溝の岸辺に 従って凋《しぽ》んで来ると、たちまち、朝からまだひとむしり のパンも食べていない空腹が、お杉に代って襲って来 た。彼は身体がことごとく重量を失ってしまって、透明 になるのを感じた。骨のなくなった身体の中で前と後の 風景がごちゃごちゃに入り交った。彼は橋の上に立ち停 るとぼんやり泥溝の水面を見降ろした。その下のどろど ろした水面では、海から押し上げて来る緩漫な潮のため に、並んだ小舟の舟端が擦《》れ合ってはぎしぎし鳴りつつ 揺れていた。その並んだ小舟の中には、もう誰も手をつ けようともしない都会の排泄物《はいぜつぶつ》が、いっぱいに詰りなが ら、星のうす青い光りの底で、波々と拡っては河といっ しょに曲っていた。参木はここを通るたびごとに、いつ もこの河下の水面に突き刺さって、泥を銜《くわ》えたまま錆《さ》び ついていた起重機の群れを思い浮べた。その起重機の下 では、夜になると、平和な日には劉髪《りゆラはつ》の少女が茉莉《まつり》の花 を頭にさして、ランプのホヤを売っていた。密輪入の伝 馬船《てんません》が真黒な帆を上げながら、並んだ倉庫の間から脱け 出て来ると、魔のようにあたりいっぱいを暗くしてじり じり静に上っていった。  参木はそれらの帆の密集した河口で、いつか傷ついた 秋蘭を抱きかかえて、雨の中を病院まで走った夜のこと を思い出した。あの秋蘭は今は何をしているだろう。  そのとき、参木は河岸の街角から現れて来た二一二人の 人影が、ちらちらもつれながら彼のほうへ近づくのを感 じた。すると、それらの人の塊りは、急に声をひそめて 彼の背後で動きとまった。彼は険悪な空気の舞い上るの を沈めるように、後ろを振り向こうとしたがる自身を撫《な》 でながら、そのまま水面を眺めていた。しかし、いつま でたっても停った入の気配《けはい》は動こうとしなかった。彼は ひょいと軽く後を振り返った。すると、星明りであばた をぼかした数人の男の顔が、でこぼこしたまま、彼を取 り巻いて立っていた。彼はまた欄干《らんかん》に肱《ひし》をつくと、それ らの男たちの群れに背を向けた。すると、二本の腕が静 にそっと、まるで参木の力を験《ため》すがように、後から彼の 脇腹へ廻って来た。彼の身体は欄干《らんかん》の上へ浮き上った。 彼は湿った欄干の冷たさをひやりと腰に感じながら、た だ何もせず、じっと男の肩へ手をかけて周囲の顔を眺め ていた。と、突然、停っていた人の塊りが、彼に向って 殺到《さつとう》した。瞬間、彼は空が二つに裂け上るのを感じた。 同時に、彼は逆さまに堅い風の断面の中へ落ち込んだ。  ふと、参木は停止した自分の身体が、木の一端をしっ かり掴《つか》んでいるのに気がついた。  しかし、ここはー ー彼は足を延ばしてみると、それはさきまで見降ろして いた船の中であった。彼は周囲を見廻すと、排泄物《はいせつぶン》の描 いた柔軟なうす黄色い平面が首まで自分の身体を浸して いた。彼は起き上ろうとした。しかし、さて起きて何を するのかと彼は考えた。生きて来た過去の重い空気の帯 が、黒い斑点《はんてん》をぼつぼつ浮き上がらせて通りすぎた。彼 はそのまま排泄物の上へ仰向きに倒れて眼を閉じると、 頭が再び自由に動きだすのを感じ始めた。彼は自分の頭 がどこまで動くのか、その動く後から追《お》っ駈《カ》けた。する と、彼は自分の身体が、まるで自分の比重を計るかのよ うにすっぽりと排泄物の中に倒れているのに気がつい て、にやりにやりと笑いだした,、——  しかし、自分はいつまでこうしているのであろう。— —服の綿布がだんだん湿りを含んで緊《しま》って来た。参木は 舟の中から橋の上を仰いでみた。すると、まだ支那人た ちは橋の欄干からうす黒い顔を並べて彼のほうを眺めて いた。彼ほまたじっとしたまま、彼らが橋の上から去る のを待っていなければならなかった。——ああ、しか し、船いっぱいに詰ったこの肥料の匂い——これは日本 の故郷の匂いだ。故郷では母親は今ごろは、緑青《ろくしよう》の吹い た眼鏡《めがね》に糸を巻きつけて足袋《たび》の底でも健ってるだろう。 おそらく彼女は俺《おれ》が、今ここのこの舟の中へ落っこちて いることなんか、夢にも知るまい。——いや、それより 秋蘭だ。ああ、あの秋蘭め、俺をここからひき摺《ず》り上げ てくれ。俺はお前にもう一眼逢わねばならぬ。俺はお前 の言ったマヂソン会社へこれから行こう。しかし、俺は 秋蘭に逢ってさて何をしようというのであろう、とまた 彼は考えた。だが、彼は逢うたびに彼女にがみがみ言っ た償《つぐな》いを一度この世でしたくてならぬのだ。  しかし、ふとそのとき、参木は仰向きながら、秋蘭の 唇が熱を含んだ夢のように、ねばねばしたまま押し冠《かぶ》さ って来たのを感じた。すると、今まで忘れていた星が、 真上の空で急に一段強く光りだした。彼は橋の上を見 た。橋には竜う支那人の姿は見えなくて、ぼろぼろと歪《ゆか》 んだ漆喰《しつくい》の欄干だけが、星の中に浮き上っていた。彼は 船から這い上ると、泥の中に崩れ込んでいる粗《あら》い石垣を 伝って道へ出た。彼はそこで、上衣とズボンを脱ぎ捨て て襯衣《シヤツ》一枚になると、一番手近なお杉の家のほうへ歩い ていった。しかし、彼は今朝甲谷と別れるとき、お杉の 家の所在を聞いたのは聞いたのだが、今ごろお杉がまだ たしかにそこにいるかどうかは明瞭《めいりよう》に分らなかった。も しお杉がそこにいなければ、もう一度橋を渡って、何一 つ食い物のない自分の家まで帰らなければならぬのだっ た。それなら、もう行く先きにお杉がいようといまい と、彼にはただ行くより他に道はなかった。  彼は歩きながら、もう危険|区劃《くかく》を遠く過ぎて来ている のを感じると、しばらく忘れていた疲労と空腹とにます ます激しく襲われだした。彼はお杉のいる街の道路がだ んだん家並みの壁にせばめられていくに従って、いつか 前に、たびたびここを通ったときに見た油のみなぎった 豚《ぶた》や、家鴨《あひる》の肌が、ぎらぎらと眼に浮んで来つづけた。 そのときここの道路では、いくつも連なった露路の中に 霧のようにいっぱいに籠《こも》って動かぬ塵埃《じんあい》の中で、ごほん ごほんと肺病患者が咳《せき》をしていた。ワンタン売りの煤け たランプが、揺れながら壁の中を曲っていった。空は高 くいくつも折れ曲っていく梯子《はしご》の骨や、深夜ひそかにそ っと客のような顔をしながら自分の車に乗って楽しんで いた車夫や、でこぼこした石ころ道の、石の隙間に落ち 込んでいた白魚や、錆《さび》ついた錠前《じようまえ》ばかりぎっしり積み上 った古金具店の横などでは、見るたびに剥げ落ちていく 青い壁の裾《すそ》にうずくまって、いつも眼病人や阿片《あへん》患者が 並んだままへたばっていたものだ。  参木はようやく甲谷に教えられたお杉の家を見つける と戸を叩いた。しかし、中からはいつまでたっても、戸 を開けようとする物音さえしなかった。彼は大きな声で 呼んでは支那人に聞かれる心配があったので、間断《かんだん》なく 取手の鐶《わ》をこつこつと戸へあてた。すると、しばらくし てから、火を消した家の中の覗き口がかすかに開いた。 「僕は参木というものですが、この家にお杉さんという 人がいませんか」と参木は言った。  たちまち、戸がぱったりと落ちると、潜《くぐ》り戸が開い て、申から匂いを立てた女が突然参木の手をとった。参 木も黙って曳《ひ》かれるままに戸をくぐると、顔も分らぬ女 の後から、狭い梯子を手探《てさぐ》りで昇っていった。彼はとき どき軽く女の足で胸を蹴られたり、額を腰へ突きあてた りしながら、ようやく二階の畳の上へ出た。そこで、参 木はこれはお杉にちがいないと思うと、初めて言った。 「あなたはお杉さんか」 「ええ」  低く女が答えると、参木は感動のまま、ねっとりと汗 を含んで立っているお杉の肩や頬を撫《な》でてみた。 「しばらくだね。僕はいま河へほうり込まれて這い上っ て来たばかりなんだが、何んでもいいから着物を一枚貸 してほしいね」  すると、お杉はすぐ火も点《つ》けずに戸棚の中をがたがた と掻き廻していてから、また手探りのまま黙って浴衣《ゆかた》を 一枚手渡した。 「君、火を点けてくれないか。こう暗くちゃどうしよう もないじゃないか」  しかし、お杉は「ええ」と小声で返事をしたまま、や はりいつまでたっても電気を点けようともせず、彼から 離れて立っていた。参木はお杉が火を点けようとしない のは、顔.を見られる羞《はずか》しさのためであろうと思ったの で、着物を着かえてしまうと、その場へぐったり倒れた まま黙っていた。  しかし、あまりいつまで待ってもお杉が火を点け・よう としないのを考えると・欝の中には、貪分に見られ ては困るものがたくさんあるのにちがいないと彼は思っ た。とにかく、あまりに自分のはいって来たのは突然な のだ。ことに、お杉は自分の所にいたときとは違って春 婦である。いや、それとも、もしかしたらこの部屋の,甲 には、自分以外の客が他に寝ているかもしれたものでは ないのである。  参木はもう火のことでお杉を羞しがらせることは慎《つつ》し みながら、たぶんそのあたりにいるであろうと思われる 彼女のほうに向って言った。 「君、何か食べるものはないだろうかね。僕は朝から何 も食べていないんだが」 「あら」とお杉は低く言うと、そのまま何も言おうとも しなければ動こうともしなかった。 「じゃ、ないんだな、あんたのとこも」 「ええ、さきまであったんだけど、もうすっかりなくな ってしまったの」  参木は今はまったく力の脱《ぬ》けるのを感じた。これから 朝まで何も食べずにすごさねばならぬと思うと、もう早 や頭の中では、今朝から見て来た空虚な空ばかりがぐる ぐると舞い始めた。しかし、そのまま黙っていては、久 しぶりにお杉.と逢った喜びも、彼女に伝えることさえで きなくなるのだった。 「君とはほんとにしばらくだね。お杉さんのここにいる のは、実は今日初めて甲谷に聞いたんだが、僕んとこと は近いじゃないか。どうしていままで報《しら》せなかったん だ」  すると、返事に代ってお杉の畷《すす》り上げる声がすぐ手近 の畳の上から聞えて来た。参木は彼女がお柳の所を首に なったいつかの夜、自分の前でそのように泣いたお杉の 声を思い出した。——あのときは、あれはたしかに自分 が悪かった。もしあのとき自分があのまま、お柳のする ままにしておいたら、お杉はお柳の嫉妬《しつと》には逢わずに首 にならなくともすんだのだ。ことに今のような春婦にま でにはならなくとも。iiー 「あんたが出ていったあの夜は、僕はとにかく急がしく って家にいられなかったんだが、しかし、お杉さんが僕 の所にあのままいてくれたって、ちっともさしつかえは なかったんだ。僕もあのとき、あんたにはそう言って出 たはずじゃなかったかね」  参木はふと、お杉がどうしてあのまま自分の所から出 ていく気になんかなったのだろうかと.いまだに分らぬ 節《ふし》の多かったその日のお杉の家出について考えた。たと えその夜、甲谷がお杉を追い立てるようなことをしたと は言え、それならそれで、お杉も売女にならずともすま すことはできたのではないか。しかし、そう思っても、 お杉を売女にした責任は参木からは逃れなかった。—— 参木は久しく忘れていた鞭《むち》を、今ごろこの暗中で厳しく こんなに受けだしたのを感じると、それなら、いっその こと、このまま火を点けずにおいてくれるのは、むしろ こっちのためだと思うのだった。 「あれから一度、お杉さんと街であったことがあった ね。あのときは僕は君の後からしばらく車で追わしたん だが、あんたはそれを知ってるだろうね」 「ええ」 「そんならあのときもうあんたはここにいたんだな」 「ええ」  しかし、参木は、そのとき激しく秋蘭のことで我を忘 れ続けていた自分を思い出した。もしあの日秋蘭とさえ 逢って来ていなければ、そのままお杉の後をどこまでも と自分は追い続けていたにちがいなかった。だが、何も かももうだめだ。自分は今でもあの秋蘭めを愛してい る。自分はあいつの主義にかぶれているんじゃない。俺 はあいつの眼が好きなんだ。あの眼は、いまに主義なん てものは捨てる眼だ。あの眼光は男をばかにし続けて来 た眼光だ。お杉の傍にいるこの喜びの最中に、まだ秋 蘭のことを、いつとはなしにいきまき込んで頭の中へ忍 び込ませている自分に気がつくと、彼は闇の中で、のび のびと果しもなく移動していく自山な思いの限界の、ど こに制限を加えるべきかに迷いだした。たしかに、自分 は今は秋蘭のことよりお杉のことを考えねばならないと きだ。お杉は自分のためにお柳から食を奪われ、甲谷の 毒《どくが》.牙にかかり、そうしてこのじめじめした露路の中へ落 ち込んだのではないか。しかし、さてお杉のことを今考 えて、彼女を自分はどうしようというのであろう。1 彼はお杉を妻にしている自分を考えた。それは己惚《うぬぼれ》でな くとも必ずお杉を喜ばすことだけはたしかなことだ。彼 はお杉が首になったその夜のお杉の、あの初心な美しさ に心を乱された不安さを思い浮べた。それがその夜自分 に変って、甲谷がお杉に爪をかけたと分ると同時に、た ちまち自分はお杉を妻にせずしてすんだ自分の失われな かった自由さを喜んだのだ。それに、ム、自分が甲谷に変 って、わざわざ自分のその失われなかった自由をお杉に 奪われようと望むとは。——彼は自分のその感傷が空腹 と疲労とに眼のくらんでいる結果・だとは思ったが、しか したしかに、、泥を潜《くぐ》って来たお杉の身体を想像すること によって、参木は前よりいっそうなまあかしく、お杉を 感じ始めて来るのだった。彼はいまこそ甲谷がお杉に手 を延ばしたと同様に、自分もお杉に手を延ばすご・.」ので きるときであった。しかもそれは、彼ぶ一時ひそかに望 んで達することのできなかった快楽ではないか。俺はお 杉の客のようになろう。——しかし、彼の心がばったり そのまま行き詰って、お杉の膝を急に探ろうとしかける と、また彼はお杉に触るといつも必ず起って来る良心 に、ぴったり延び出る胸をとめられた。たしかにお杉を 見て今急に客のようになることは、それはお杉をもはや 泥だと思うことによって責任を廻避《かいひ》したがるおのれの心 の、まるで滴《したた》るような下劣な願いにちがいない。 「お杉さん、僕は今夜は疲れているので、もうこのまま休 ませてもらったってかまわないかね」と参木は言った。 「ええ、どうぞ。ここに床があるから、ここで休んで よ。夜が明けたらあたし食べ物を貰ってきとくわ」 「ありがとう」 「電気も今夜は切られてしまっているので、真暗だけ ど、我慢《がまん》をしてね」 「うむ」  というと参木は手探りでお杉の声のほうへ近よってい った。手の先が冷い畳の上からお杉の熱く盛り上った膝 に触った。お杉は参木の身体を床の上へ導くと、彼に蒲 団《ふとん》をかけながら言った。 「今ごろ街なんか歩いて、危いわね。どこにもお怪我《けが》は なかったの」 「うむ、まア怪我はなかったが、君はどうだった?」 「あたしは家からなんか出ないわ。毎日いっぺん日本人 から焚《た》き出しを貰って来るだけ。いつやまるのかしら、 こんな騒動?」 「さア、いつになるかね。しかし、明日は日本の陸戦隊《りくせんたい》 が上陸してくるから、もうこの騒動は続かないだろう」 「ほんとに早くおさまるといいわ。あたし毎日、もう生 きている気がしないのよ」  参木は自分の身体からお杉の手の遠のいていくのを感 じると、お杉はどこで寝るのであろうと思って言った。、 「お杉さんは寝るところはあるのかね」 「ええ、いいのよ。あたしは」 「寝るところがないなら、ここへお出でよ。僕はかまわ ないんだから」 「いいえ、そうしていて。あたし眠くなれば眠るからい いわ」 「そうか」  参木はお杉が習い覚えた春婦《しゆんぷ》の習慣を、自分に押し隠《かく》 そうと努めているのを見ると、それに対して、客のよう になり下ろうとした自分の心のいまわしさにだんだんと 胸が冷めて来るのであった。しかし、あんなにも自分を 愛してくれたお杉、その結果がこんなにも深く泥の中へ 落ち込んでしまったお杉、そのお杉に暗がりの中で今逢 って、ひと思いに強く抱きかかえてやることもできぬと いうことは、何という良心のいたずらであろう。前には お杉を、もしや春婦に落すようなことがあってはならぬ と思って抱くこともひかえていたのに、それに今度は、 お杉が春婦になってしまっていることのために、抱きか かえてやることもできぬとは。1ー 「お杉さん、マッチはないか。一遍お杉さんの顔が見た いものだね。良かろう」 「いや」とお杉は言った。 「しかし、長い間別れていたんじゃないか。こんなに顔 も見ずに暗がりの中で饒舌《しやべ》っていたんじゃ、まるで幽霊《ゆうれい》 と話しているみたいで気味が悪いよ」 「だって、あたし、こんなになってしまっているとこ、 あなたに今ごろ見られるのいやだわ」  参木は暗中からきびしく胸の締って来るのを感じた。 「いいじゃないか、あんたと別れた夜は、あれは僕も銀 行を首になるし、君もお柳のとこを切られた日だった が、男はともかく女は首になっちゃ、どうしようもない からね」  二人はしばらく黙ってしまった。 「あなたお柳さんにお逢いになって」とお杉は訊《たず》ねた。 「いや、逢わない。あの夜あんたのことで喧嘩《けんか》してから 一度もだ」 「そう。あの夜はお神《かみ》さん、それやあたしにひどいこと を言ったのよ」 「どんなことだ?」 「いやだわ、あんなこと」  嫉妬《しつと》にのぼせたお柳のことなら、さだめて口にも言え ないことを言ったのにちがいあるまい。あのときは、風 呂場《ふろば》ヘマッサーヂに来たお柳をつかまえて、戯《たわむ》れにお杉 を愛していることを、自分はほのめかしてやったのだっ た。すると、お柳はお杉を引き摺《ず》り出して来て自分の足 もとへぶつけたのだ。それから、自分はお杉に代ってお 柳に詫《わ》びた。すると、ますますお柳は怒ってお杉の首を 切ったのだ。ああ、しかしすべてがみんな戯れからだと 参木は思った。それに自分はお杉のことを忘れてしま って、いつの間にかことごとく秋蘭に心を奪われてしま っていたのである。しかし、今は彼は、だんだんお杉が 身内の中で前のように暖まって来るのを感じると、心も 自然に軽く踊って来るのだった。 「お杉さん、もう僕は眠ってしまうよ。今日は疲れても うものも言えないからね。その代り、明口からこのまま |居候《いそうろう》をさせてもらうかもしれないが、いいかねあんた は?」 「ええ、お好きなまでここにいてよ。その代り、汚いこ とは汚いわ。明日になって明るくなればみんな分ること だけど」 「汚いのは僕はちっともかまわないんだが、もうここか ら動くのは、だんだんいやになって来た。迷惑《めいわく》なら迷惑 だと今の中に言ってくれたまえ」 「いいえ、あたしはちっともかまわないわ。だけど、こ こは参木さんなんか、いらっしゃるところじゃないの よ」  参木は自分のお杉に言ったことが、すぐそのまま明日 から事実になるものとは思わなかった。だが、事実にな ればなったで、もうそれもかまわないと思うと、彼は言 った。 「しかし、一人いるより、今ごろこんな露路みたいな中 じゃ、二人でいるほうが気丈夫《きじようぶ》だろう。それとも、お杉 さんが僕の家へ来ているか、どっちにしたってかまわな いぜ」  すると彼女は黙ったまま、またしくしく暗がりの中で 泣き始めた。参木はお杉がお柳の家で初めてそのように 泣いたときも、いま自分が言ったと同様な言葉を言って お杉を慰めたのを思い出した。しかも、自分の言葉を信 じていくたびに、お杉はだんだん不幸に落ち込んでいっ たのだ。  しかし、彼がお杉を救う手段としては、あのときも、 その言葉以外にはないのであった。生活のできなくなっ た女を生活のできるまで家においてやることが悪いのな ら、それなら自分は何をなすべきであったのか。ただ一 つ自分の悪かったのは、お杉を抱きかかえてやらなかっ たことだけだ。だが、それはたしかに、悪事のうちでも 一番悪事にちがいなかった。  それにしても、まアお杉を抱くようになるまでには、 自分はどれだけたくさんなことを考えたであろう。しか も、それら数々の考えは、ことごとく、どうすればお杉 を、まだこれ以上|虐《いじ》め続けていかれるであろうかと考え ていたのと、どこ一つ違ったところはないのであった。 「お杉さん、こちらへ来なさい。あんたはもう何も考え ちゃだめだ。考えずにここへ来なさい」  参木はお杉のほうへ手を延ばした。すると、お杉の身 体は、ぽってりと重々しく彼の両手の上へ倒れて来た。 しかし、それと同時に、水色の皮襖《ビ オ》を着た秋蘭が、早く も参木の腕の中でもう水々しくいっぱいに膨《ふく》れて来た。  お杉は喜びに満ち溢れた身体を、そっと延ばしてみた り縮めてみたりしながら、もう思い残すことも苦しみ も、これですっかりしまいになったと思った。明日まで は、もう眠るまい。眠るといつかの夜のように、Iiあ あ、そうだ、あの夜はうっかり眠ってしまったために、 闇の中で自分を奪《うば》つてしまったものが、参木か甲谷か、 とうとうそれも分らずじまいに今日まで来たのだ。しか も、その夜はそれは最初の夜であった。あれから今日ま で、あの夜の男はあれは参木か甲谷か、甲谷か参木か と、どれほど毎日毎夜考え続けて来たことだろう。しか し、今夜は1今夜もあの夜のように部屋《へや》の中は真暗 で、参木の顔さえまだ見ないことまでも同様だが、しか し、今夜の参木だけは、これはたしかに本当の参木にち がいない。でも、あの夜の参木が、もしあれが本当の参 木なら、今夜のこの参木とは何と違っているのであろ う。  お杉は眠っている参木の身体のここかしこを、まるで 処女のように恐々《おそるおそる》指頭で圧えていきながら、ああ、明日 になって早く参木の顔をひと限でも見たいものだと思っ た。すると、お柳の浴場の片隅から、いつも自分がうっ とりと見ていた日の、参木のいろいろな顔や肩が浮んで 来た。しかし、間もなくそれらの参木の白々とした冷た い顔も、たちまち夜ごと夜ごとに自分の部屋へ金を落し ていく客たちの、長い舌や、油でべったりひっついた髪 や、堅い爪や、胸に咬《か》みつく歯や、ざらざらした鮫肌《さめはだ》 や、阿片《あへん》の匂いのした寒い鼻息などの波の中でちらちら と浮き始めると、彼女は寝返り打って、ふっと思わず歎 息《たんそく》した。しかし、もし明日になって参木が部屋の中でも 見廻したら、何と彼は思うであろう。南の窓の下の机の 上には、蘇州《そしゆう》の商人の置いていった抗州人形《こうしゆうにんぎよう》や、水銀剤 や、枯れ凋《しぼ》んだサフランや、西蔵《チベツト》産の蛇酒《へびざけ》の空瓶《あきびん》が並ん でいるし、壁には優男《やさおとこ》の役者の黄金台の画が貼《は》ってある し、いや、それより、何より参木の着ているこの蒲団《ふとん》 は、もう男たちの首垢《くびあか》で今はぎらぎら光っているのだっ た。しかも、敷布《しきふ》はもう洗濯もせず長い間そのままだ。  お杉は蒲団の中からそっと脱け出すと、手探《てさぐ》りながら 坑州人形と蛇酒と水銀剤とを押入の中へ押し込んだ。そ れから、抽出《ひきたし》から香水を取り出して蒲団の襟首《えりくび》へ振《ふ》り撒《ま》 くと、また静に参木の胸へ額をつけて円《まる》くなった。しか し、もうこんなにしていられることは、おそらく今夜ひ と夜が最後になるにちがいない。すると、お杉は、この 恐ろしい街の騒動が一日も長く続いてくれるようにと念 じないではいられなかった。明日になって、日本の陸戦 隊が上陸して来れば、いつもの暴徒のように街はまた平 穏無事《へいおんぶじ》になることだろう。そうすれば参木もここから出 ていって、もう再びとはこんな所へ来ないであろう。… ーお杉は参木の匂いを嗅《か》ぎ溜《た》めておくように大きく息を 吸い込むと、ふと、お柳の家を首になった夜の出来事を 思い出した。そのときは、お柳はなぜとも分らずいきな り自分の襟首《えりごび》を引き摺《ず》っていって、湯気を立てて横わっ ている参木の胴の上へ投げつけたのだ。自分はそのまま 浴場に倒れて泣き続けていると、またお柳は自分を引き 摺りながら、出ていった参木の後から追っかけて、もう 一度彼の上へ突き飛ばした。しかし、その参木が、あ あ、今は自分のここにいるのだ、ここに。——あのとき から今までに、自分は幾度この参木のことを思い続けた ことだろう。ああ、だけど、今参木はここにいるのだ。 !自分はあの夜、参木の家へ泣きながらとぼとぼいっ て、誰もいない火の消えた二階をいつまでぼんやりと眺 めていたことであろう。それにようやく参木が帰って来 たと思ったら、それは参木ではなくって甲谷であった。  お杉は参木があの夜限り帰らずに、自分を残して家を 出ていってしまった日の、ひとりぼんやりと泥溝の水面 ばかり眺め暮していた侘《わび》しさを思い出した。そのとき は、あの霧の下の泥溝の水面には、模様のように絶えず 油が浮んでいて、落ちかかった漆喰《しつくい》の横腹に生えてい た青みどろが、静に水面の油を舐《な》めていた。その傍で は、黄色な雛《ひな》の死骸《しがい》が、菜《な》っ葉《ば》や、靴下や、マンゴの皮 や、藁屑《わらくず》といっしょに首を寄せながら、底からぶくぶく 噴き上って来る真黒な泡を集めては、一つの小さな島を 泥溝の中央に築いていた。——お杉はその島を眺めなが ら、二日も三日もただじっと参木の帰って来るのを待っ ていたのだ。——しかし、明日から、もし陸戦隊が上陸 して来て街が鎮《しず》まれば、またあの日のように、自分はこ こでぼんやりとし続けていなければならぬのだろう。そ のときには、ああ、またあのざらざらした鮫肌《さめはだ》や、くさ い大蒜《にんにく》の匂いのした舌や、べったり髪にくっついた油 や、長い爪や、咬《か》みつく尖《とが》った乱杭歯《らんぐいば》やが——と思う と、もう彼女はあきらめきった病人のように、のびのび となってしまって天井に拡っている暗の中をいつまでも 眺めていた。             (決定版「上海」昭和十年三月)