家族会議 横光利一  日木橋の|小網町《こあみちよう》から|蠣殻町《かぎがらちよう》いったいにかけた夏の夜の運河の景色は美しい。とりわけ雨上りの 夜、青い|洋燈《ランプ》を|灯《とも》した|夜釣《よづり》の舟が出て行くころ、三菱倉庫のそびえるあたりの静かた波はベニス に似ている。この傍の水に面した二階家が|重住高之《しげずみたかゆぎ》の住家であるが、ここの家は旧家であるから 法事が近づくとつねの家よりも何とたく|気忙《きぜわ》しい。こうして重住家の法事もやがて始まろうとし ている。  高之は父の法事に大阪から上京して来る泰子を待っているというものの、思えば苦しいことも 数々あった。高之はまだ独身だが、もう結婚しなければ周囲のものが承知をしない。けれども、 あまり候補者の沢山ありすぎるということは、つまりは結婚難とも同様である。彼は閉った店の 日本間でひとり|銚子《ちようし》を傾けながらも、亡き父の最後を思えば、結婚のことなどときには頭から消 え失せた。石を積んだ荷舟が今にも沈みそうな不安な様子で河口の方へ下って行った。上げ潮の 揺らめく運河の音を聞きつつ、柱の時計を|眺《なが》めてみるともう夜の九時である。さきほど共同で店 をやっている尾上の娘の春子から電話のあった約束の時間も迫っているので、そろそろ着物を着 替えねばならぬと思っているところへ、また電話のベルが鳴った。電話口まで出ていくと、やは り春子からである。 「もう出かけようかと思ってたとこなんだよ」と高之は云った。 「そう、それはよかったわ。あのね、あたし、歌舞伎座の二階にいるんだけど、|梶原《かじわら》さんのお嬢 さんも来てらっしゃるの。先日お話した方よ」  先日春子から話された嫁の候補は三人もあったのだが、梶原清子というのはその中の一人で、 矢張り高之と同業の株式仲買店の娘であるばかりではたく、東京製紙の同じ大株主であったか ら、名は前からよく聞かされて知っていた。しかし、高之は見合をするのは好きではなかった。 話が|調《ととの》わないなら相手を傷つけるか、自分が向うに傷つけられるかどちらかたのだ。しかも、不 意打の見合は|馴《な》れているとはいえ、云うに云われぬ無気味なものであった。 「もう見合はやめだよ。よいように君から断っといて|貰《もら》いたいね」 「駄目、駄目、出てらっしゃいよ。すぐよ。じゃ、さようなら」  こちらの返事を待たず春子は電話を切った。もう|仁礼《にれ》泰子が大阪を立ったころだと見当をつけ て、急に高之を呼び出した春子-ーこの春子の計画は高之にもよく領会出来るのであった。つま り、春子の暗躍を当然のこととしなければならぬ弱味を、彼も十分に持っているのである。  彼は春子が思っているほどに泰子に心をひかれているのではたいのだが、総木家の一人息子と して、いずれは泰子と結婚する羽目になるのであろうと、春子を初め|親戚《しんせき》達の想像している誤解 の渦の中に高之はいるのだった。 「さて、困ったな」  と、彼は一度は銚子を持ってみたものの、春子の親切な誘いを思うと出て行かないわけにもい かなかった。 「まア、なるようにたるさ」  と、こう|呟《つぶや》きながら高之は気安に着物を着替えにかかった。|蚊飛白《かがすり》の|結城《ゆうぎ》に、黒献上の角帯を 締めた彼の姿は、大学を優秀な成績で出たインテリとは見えぬ。見ようによっては|西班牙《スペイン》人かと 思われるようた、きりりと顔の締った浅黒い美男であった。昭和七八年代からこちら、この種の 青年がわが国には|汎濫《はんらん》して来たが、彼もそのうちの聡明た懐疑家を特長とするかに見える一人で ある。  歌舞伎座ではもう|道成寺《どうじようじ》の幕が開いていた。正面に|和風《わふう》、その右には杣伊三郎、どっと拍手の 上る中から、早くも得意の替手が聞えて来た。高之は二階の横から春子の場所を探してみた。丁 度正面右よりの前方に、思いがけたく近く春子の姿が見えた。白地にお|納戸《なんど》の竹の一本|縞《じま》の着物 が、ぱっと一眼でそれと見分けのつくその横にあれが梶原清子であろう。藤色の|御所解《びこしよどき》模様の菊 畑が、|淡地《うすじ》の着物に浮き出ている。勝気そうなぱっちりした眼もとである。  あの顔はどこかで見たぞと高之は思った。三味の合の手がつるつる|辷《すべ》るように流れるままに、 「|菖蒲杜若《あやめかきつぱた》は|何《いづ》れ姉やら妹やら、わきて言はれぬ花の色。西も東もみんた見に来た花の顔」  和風の唄に合せ、うっとりとなる|縮緬《ちりめん》の|手拭《てぬぐい》で顔を隠し、|羞《はずか》しそうに立った菊五郎-|柳葉眉 毛《りゆうようびもう》の|撫《な》でたいようなあでやかさに、思わず高之は泰子の|鵬《ろうた》けた|瓜実《うりざね》顔を思い浮べた。不思議なも ので人はうっとりとすると、つい一番心をひかれているものの顔を思い出す。しかし、彼はもう 恋愛だけは苦手だった。早く身を堅めてこんな商売はやめなくちゃ。  と、こうまたいつものように思うのだが、それなら、さて仲買店をやめて何をするのかとたる と、彼にも一向に分らたかった。  幕が降りて汗ばんだ観衆がむっと廊下へ|浴《あふ》れて来た。高之はソファにもたれているとき、早く も春子は彼を見つけてよって来た。 「いつ、今? 道成寺御覧になって2」 「ああ、見ました」と高之は云って清子を見た。 「そう。あのう、この方、梶原清子さん。こちら、璽住さん」  高之は立ち上って清子と|挨拶《あいさつ》をした。清子は、これが簡単な見合と前から教えられてあったと 見えて、あまり物数は云わたかったが、話し出せば|臆《おく》する色たく話し出す強さがりんとどこか眼 もとの奥深く鳴っていた。 「お茶いかが2」  と、春子はもう返事も待たず廊下を喫茶室の方へ歩き出した。この女性はいつでも相手の返事 を待たぬ特長があるので、便利なことはこの上ない。一度嫁入して|良人《おつと》に死に別れて以来もう結 婚はこりこりだと、|栄耀《えいよう》栄華に余生を楽しんでいる近代婦人の一人であった。従って、賢いこと も眼から鼻へ抜けている。喫茶室のテーブルヘ向い合うと春子は、含み笑いをしながら扇子で高 之の|肱《ひじ》を突ついた。 コ高之さん、大阪の仁礼さん、いついらっしゃるの。明日?」 「さア」 「サアか。面白くないのね」  高之は春子にまくし立てられるとうるさくたるのが分っているので、黙ってレモンを吸ってい ると、また春子は、 「でも、もういい加減になさいよ。大阪の方たんかと結婚しちゃ、もうお|終《しま》いよ」と、いつもの しつこい調子で云い始めた。 「分った分った」と、高之は苦笑をもらして清子を見つつ、義理だけに、攻め立てられて出て来 た弱さをまたも後悔するのであった。  清子は大阪の仁礼泰子と高之の事情をもう春子から聞かされてあったのに相違ない。かすかに 微笑を浮べたがらちらりと高之を見返した。すると、今まで何の感動も受けなかった高之は、清 子の微笑に静かな|怨恨《うらみ》のような、うす寒い美しさを感じて、「おやッ」と思った。 高之はときど き清子の顔を眺めてみた。ところが、見ているうちに、どことたく清子の顔はだんだん美しさを 増していった。ー高之はいつもちらりと女性を見れば、もうそれで間違いなく女性の真価を突 きとめる自信があった。しかし、この清子に限っては、見る|度《たび》に絶えず微妙な変化をしていくの である。こんな婦人は必ず運命が激しく変るにちがいない。細く縮めれば糸のように細くたり、 拡がれば|爛《らんらん》々と光る大きな眼、通った鼻の翼が強い気象を浮べてよく動く。 「清子さん、何か|仰言《おつしや》らないの。この方ね、高之さんを前からよく知ってらっしゃるのよ」  と春子は意昧ありげに笑いたがら高之に云った。 「僕もどこかでお見かけしたようなので、さっきから考えていたんですがね」  軽く清子は会釈をしながら、 「ここでしょう、きっと。あたくしここでときどきー止 「そうでしたか。それはどうも」と高之は|一寸《ちよつと》頭を下げた。 「これからお|交際《つぎあい》して上げて下さらない。この方、それはそれは、あなたのファンなの」  春子の|剽軽《ひようきん》な云い方に思わず高之も笑いながら、 「どうも、それは、不安ですね」  と早速春子に応酬した。同時にまた春子と清子の笑う中で、 「でも、高之さん、今度の御法事は大丈夫でしょうね」と、春子はやや|真面目《まじめ》な顔で|訊《たず》ねた、 「何が2」 「何がでもないじゃありませんか。あなたとこのお家は法事が多いので、あたしいやなの。そら お祖父さんの法事だの、お祖母さんの法事だの。それが済んだと思えば、今度はお姉さんの法事 だのって、しょっちゅう法事だらけよ。その度に大阪からてくてく、仁礼さんがいらっしゃるも んだから、こちらの親戚のものは、やきもきしなきゃならないんですからね。あたしたち、大い に不安よ」 「しかし、法事は法事さ」と高之は云って|顎《あづこ》を撫でた。 「それはまアいいわ。だけど、法事にかこつけて、生きてるものの法事までして行こうてんです からね。見事なもんだわ」  高之は春子の言を|反《そ》らして時計を仰いだ。 「まア、お聴きなさいよ。あたしあたたのお姉さんなんだから」 「もう、いい、行こう」と高之は計算を|砥咐《いいつ》けた。 「駄目よ。明日にでも来られたら、もういくら云ったって遅いんですからね。今夜のうちだわ。 そりゃ、関西のお嬢さんはしつこいのよ」  と、春子はいまいましそうに清子の方を見返った。 「法箏でいらっしゃるのは、あたしたち我慢が出来るけれど、菊五郎の|鏡獅子《かがみじし》がかかったから、 出て来たの、やれ、|羽左衛門《うざえもん》の|清心《せいしん》を見に来たのって、|隼《はやぶさ》みたいに、ちょくちょくかすめにいら っしゃるんでしょ。あたし、今度はもう黙っていないの。あたし、お寺で逢ったらいってやるの よ。いいでしょう高之さん」  と、春子は高之の|袖《そで》を引っぱったが、しかし、もう彼は立ち上って出て行った。春子と清子は 高之の後から喫茶室を出て行ったが、後の出し物に興味を感じなかったので、人のいたい廊下の 長椅子に休んでいた。 「あれで今夜は成功だわ。あたしが冷かしたら、高之さん、逃げていったでしょう」  扇子を仗いたがら|暢気《のんき》にうきうきとそういう春子に、清子は、 「でも羞しいものね。あたし、わくわくして、ちっとも高之さんを見なかったわ」と云う。 「あれでわくわくしてたの。あたしまた、あんまりあなたが落ちつき払っているんで、たいした もんだと感心してたの」 「いやだわ。でも、どっかあの方、優しい方だと思うけど|恐《こわ》いわね。どうしてかしら」 「大丈夫よ。ときどき清子さんの方を見ては、眼のやり場に困って、|上唇《うわくちびる》を撫でててよ。あんな 風なときには、あの人少々|応《こた》えたときなの。あたし、高之さんの癖、よく知ってるんだけど、そ うなのよ」  面白そうに笑う春子につい清子も安心したらしく扇子を開いたが、すぐ止めると、またぼんや り不安そうな顔に変っていった。 「でも、大阪の仁礼さんを、そんなに重住さんお好きなの?」 「そうね」と春子は一寸考えたらしかったが、「でも、それはね、あたし、人の云うほどじゃない と思うのよ。そりゃ高之さん、泰子さんを好きなことは好きだと思うけど、泰子さんのお家と高 之さんのお家とは、どうしたって駄目なところがあるの。なかなかここは複雑していて、説明す るのにややこしいんだけれど、つまり、こうなのよ」  と、春子は頭を整えるようにしばらく黙っていてから云った。 「泰子さんのお母さんと高之さんのお母さんとは、昔から裏干家のお茶のお友だちで、東京と大 阪と離れていながら、ああして親戚も及ばぬお|交際《つきあい》だけれど、実は、どちらものお父さん同士は それほどじゃなかったのよ。それと云うのは、高之さんのお父さんは本当は大名出の江戸ッ子で しょう。ところが、仁礼さんは大阪|船場《せんぱ》の商人で、これがまた同じ商売なものだから、何かにつ けて駄口だったの。そうしたところが、あるとき高之さんのお父さんが大阪へ行って、それはひ どい|思惑《おもわく》買いをなすったことがあったのよ。手いっぱいのお金で買占めをなすってね。たいへん だったの。するとどうしたものか、泰子さんのお父さんが高之さんのお父さんの買われたその株 の現物をいっばい持って来て、急にそれを無茶苦茶に売り出したのよ。それだもんだから、高之 さんのお父さんの株は、見る見るうちに半値に下ってしまってね、見ていた人の話だと、|恐《まそモ》しい ほどだったっていう事よ。それでとうとう高之さんのお父さんが東京へ帰るとすぐに、心配のあ まり病気になられて、どっと寝ついたまま死なれたの。心臓病だっていうお話だけれど、まアあ れは、泰子さんのお父さんの|仕業《しわざ》も同じよ。だから大阪の仁礼さんたち、今度だけは暢気に来ら れたもんじゃないんだけれど、そこはどういうんでしょうね。あれが関西というものかしれない わ」 「でも、不思議ね。それでどうして今でも仲が良いのかしら」と清子は幾らか|愁炯《しゆうび》を開いたらし かった。 「それは高之さんのお母さんがお|豪《えら》いからよ。泰予さんのお母さん早く|亡《な》くなってもういらっし ゃらないし、お店の資金関係が仁礼さんところを度外視するわけにはいかないのよ。けれども、 あたしの父が昔から高之さんの家の番頭でしょう。だから、高之さんのお父さんが亡くなられて からは、あそこのお家の一切を切り盛りして、大阪の仁礼さんに対抗して来たもんだから、今で も父とあたしとだけは、誰よりお腹の中じゃ仁礼さんには我慢が出来ないの。ね、分るでしょう。 あたしの気持2」と春子は扇子の|要《かなめ》で胸を抑えた。 「そりゃ分るわ。じゃ、随分深刻なのね。大阪と東京との戦争じゃないの」  と、清子は自身もいつの間にか、東京方に編成せられている一員だと感じたらしくまた扇子を ばたぱた急がしそうに動かして、容易ならぬ覚悟にひき|緊《しま》って来るのだった。 「そうなの。あたし、それで高之さんに、どうかして東京の人と結婚させたくて云うんだけど、 あの方賢いから、なかなか性根を見せないのよ」  春子は清子に云うべきことと云っては不可ないこととに迷う風に、あちらこちらを見廻しなが ら、 「でもね、仁礼さんのお父さんも、年が年なのかしら、この前一寸妙な事があったのよ。父との 関係を直したいんでしょうかしら、ある人を通じて、あたしを奥さんに|貰《もら》いたいって云って来た の。これ少し妙でしょう」 「へええ」と、清子も理解し難いらしく春子の顔を驚いて眺めていた。 「それで、あなた、何と仰言って?」 「そりゃ、|定《き ま》ってるじゃないの」  と、春子は扇子でぴしゃりと清子の|膝《ひざ》を打った。 「でも、そうじゃないのかもしれないわ。仁礼さんの父さん、あなたのお家とそんなにして仲を 直しておけば、泰子さんと高之さんとも、都合よくゆくと思ったのかもしれないわ」  春子はあきれたと云う風に清子の顔を見ながら、 「あなたも随分気を廻したものね、ありがとう」とひやかしてお辞儀した。 「あら、そんなんじゃないわ。それとは違うわ」 「でも、そんな想像の出来るのは、よほど高之さんに好意を持ってなくちゃ、出来ないことよ。 あたし、云っといてあげる」  清子は顔を真赤にしながら、 「だって、そりゃ、そうよ。そうでなくちゃ、仁礼さん、どうしてあなたに求婚すると思って? 出来ないことだわ」 「それは失礼よ。あたしだって、これでまだまだ今世紀なんですからね」と春子はぷんと|膨《ふく》れ返 った。 「それは別よ。あたしは、もっと他のことを云うんだわ」 「男にそんな別が、ありますか」  いささか開き直った|恰好《かつこう》で春子は物々しく剽軽な顔になった。 「でも、春子さんはお人がいいのね。あたしだったら仁礼さんの奥さんになって、泰子さんをぎ ゅうぎゅう云わせて上げるんだけど」     ふ  ぷッと噴き出すように清子は身を曲げると、その途端に、急に笑い事ではなくなったらしく、 見る見る真面日な顔に変っていった。 「あなたはそんなことの出来る方よ。あたしも一寸考えたけれど、それだけは、あたしはとても 駄目だわ」  春子は今は笑いとまって穏かな顔になったものの、しかし、そのとき、何心なくふと眺めた清 子の|眉宇《びう》の間から、ただならぬ緊張の色を読みとると、瞬間、春子はぎょッとなった。  もし高之と泰子が緕婚したなら、清子の事なら、自分に代って仁礼夫人にならぬとも限らない。 -こう思うと、今さらながら高之を愛している清子の心のふかさに、春子は驚き返るのであっ た。 「さア、中へ這入りましょう」  と、春子は云って立ち上った。清子も後からつづいた。何となくうす冷たい前後の二人であっ たが、舞台ではおかしい|所作事《しよさごと》の最中で、見物は暑さも忘れあはあは他愛なく笑いつづけている ところだった。  朝日のさし込んだ急行が沼津を過ぎると人々は寝台から降りて来た。二等室で泰子の眼を|醒《さま》し たのも丁度そのころであった。泰子はひやりとする麻に|壷流《つぼなが》しを描いた|千草染《ちぐさぞめ》の着物を着て、こ れも同じく|縒麻《よりあさ》の白地に、源氏車の|刺繍《ししゆう》をおいた帯を締め、化粧をすましてから友だちの|忍《しのぶ》を起 した。忍は眠そうにじっとしていてから急に勢い良く起き上ったが、洋装のこととて仕度も早 く、歯を|磨《みが》いてしまうともう何もすることがなくなった。 二時間短縮されても、あんまり|早《は》よう東京へ着きすぎたら、|却《かえつ》て困るわ。もう一べん寝ようか しら」  こう忍のいうのにただ泰子は微笑しただけだった。 「高之さん寝坊やで、ぶつぶつ云ってやはるわ、きっと」 「迎えに来やはらへんと、ええのんやけどな」 「眠たければ眠ったらどう?」と泰子はしとやかな声だった。 「それより、今日、宿屋へ着いてからどうするの。まさか朝から歌舞伎座でもないし」  いつもの法事だと、この階級の人々は寺で|誦経《ずぎよう》をすましてから、親戚知己一同料理屋へ集りそ れで終る。滞在しているものは一、二カ月何もせずに遊んで廻る習慣である。  しかし、重住家と何の関係もない忍を自分の友達だからと云って、泰子が法事につれて来るこ とは、奇怪なことであったが理由はある。忍と泰子とは、丁度、高之の母と泰子の母が裏千家の 親しいお茶の友であったと同じく、高之を加えて三人は裏千家の仲間であった。この裏千家のお 茶友達というのは、常人には理解しかねるほど親しいもので、月に一度は京都の裏千家へ集った り、定宿の吉住で泊ったり、不断でも東京と大阪との直通電話で落ち合う先や、時刻を打ち合せ たりするほどである。|殊《こと》に、高之の母は裏千家から名前を貰ったほど東京では|素人《しろうと》としては一番 の婦人であった。  けれども、この婦人たちの慰みは何といっても一番に金がかかる。その上、いわゆる和敬清寂 をモットーとしているだけに品位が何よりなので、一度友達とたると姉妹以上の仲となる。その 代りになかなかこの仲間には|這入《はい》れない。それ|故《ゆえ》、泰子や忍が重住家の法事に集ることは、春子 や尾上やその他の親戚たちの集って来るのとは、また|自《おのずか》ら別の心の美しさからであった。しか し、婦人たちはそうであったが、重住家と仁礼家との男たちの商売の世界はこれがまた東京と大 阪との戦争である。  仁礼は大阪北浜の仲買店で、重住は東京|兜町《かぶとちよう》の仲買店であるが、仁礼が東京へ出て来て、万 と集る株の売買をする時には、すべて、重住の店に万事を依頼するので、したがって、大阪の仁 礼からは重住の方へ、いつも数百万円に達する株券や公債や現金が廻されている。恐らく、少い ときでも百万円を下るまい。それであるから、実を云えばこの重住家へ預けてある金が、現在の 重住の店の中心資本になっていると云っても良かった。しかし、これが高歩なので高之も尾上も 実は苦心以上の腹立たしさもあるのである。  列車が東京駅へ着くと泰子たちは降りた。出迎えの群衆の中から高之と彼の母の信江の顔がす ぐ見つかった。 「よくいらっしゃいました。お疲れでしょう」 「よう眠れましたの。でも、あんまり早よう着きすぎて、御迷惑ですわね」  泰子と信江の挨拶の横で忍と高之も挨拶した。忍は自由で快活で物にこだわりのない伸びやか な性質なためか、高之は泰子より却て人前では忍との方が仲が良かった。高之と泰子は黙ってお 辞儀をし合っただけで、それぞれ高之と忍、信江と泰子という組み合せで、出口の階段を降りて 行った。自動車に乗るとき、高之は自分が助手台に乗って三人の婦人を座席に乗せた。 「高之さん、こちらへお乗りになったらどう。あたしこのごろ、運転が上手になったのでそこの 方が安全ですの」と忍はいった。 「本当に忍さん、上手になりましたわ。この前京都まで乗せていってもらいましたの」  信江にそういう泰子の後からまた忍はいった。 「ああ、そうそう、小母さんに教えてあげたいことがありますの。円山下で、そのとき|炉縁《ろぶち》の良 いのを見付けましたのよ。あたしと泰子さん。これ栗でもないし|棒《けやき》でもないし、何んやろういう てましたら、藤やいやはりますの。そんな炉縁ありますやろか」 「そりゃありますよ。塗縁ですか」と信江は訊ねた。 「いえ、木地縁でしたわ」  東京へ出て来ると忍はいつの間にか東京弁になる癖があったが、ガードの下をくぐって日本橋 の方へ突き抜けていくころには、そろそろ忍の大阪弁も東京語に近づき始めた。  泰子たちは前から電話で打ち合せた通り、今度は重住家で泊らぬ事にしたので、すぐ|築地《つきじ》の宿 屋の松川へ行った。ここは泰子の父の定宿なので親戚も同様の宿屋だった。高之と信江は二人を 休息させるためにひと先ず日木橋の家へ引き返した。北向きの二階の十畳で、二人きりになると 泰子は疲れた身体をぐったり|脇息《ぎようそく》によせかけた。 「京極さん、今度もお父さんと一緒に来やはるの?」と忍はにやにや笑って泰子を見た。 「知らん」  と、泰子は|凋《しお》れたまま答えた。京極というのは名を練太郎といい、泰子の父の仁礼文七から京 都の大学まで出してもらったほど|寵愛《ちようあい》せられている秘書であるが、仁礼の商売の画策をほとんど 一人で引き受けているほど、|駿足《しゆんそく》敏腕な青年である。仁礼が泰子の婿を京極にしたいと思ってい る事は前から泰子には分っていた。忍は泰子の身に起る事なら何事も打ちあけられているので、 この度の上京も泰子が京極から|逃《のが》れるために、高之との縁談を何とか調えるようにしたいと|焦《あせ》っ ている泰子の心中も、手にとるように感じるのであった。 「法事がすんだら軽井沢へ行ってしまお。そしたら、京極さんから逃げられるわ。高之さんが来 やはれへなんだら、あたし、つれて|来《こ》」 こう忍が云うのに、 しかし、 泰子は黙って|俯向《うつむ》いているきりだった。  重住家の法事は午後三時から芝の今池院で始った。泰子はその朝京極を連れて着いた父と一緒 に宿を出た。泰子の父仁礼文七は小柄だが、あたりの空気をしんと沈める|恰幅《かつぶく》のある、|苦《にが》み走っ た顔の人物であった。大阪の北浜では文七は|剛毅《ごうき》果断、機を見るに敏速で、的確確実た上に|然《しか》も |端倪《たんげい》すべからざる画策ある商人として、何人からも恐れられているだけあってゆっくり周囲を見 廻す|風貌《ふうぼう》もどこかに冷酷次威厳がある。  文七、泰子、忍と自動車の中に並んだその外へ、京極練太郎は宿の女中たちに混って立ってい た。 「行ってらっしゃいませ」  宿の総礼に送られて白動車は出て行った。一人残された練太郎は奥へ引き返すと、すぐ白分の 部屋ヘ一近入った。 「さて、これで五時間は、ゆっくり出来ると」  彼は柔かな微笑を浮べて骨の上に長く寝た。練太郎は|近江《おうみ》の|片田舎《かたいなか》の百姓の次男だが、幼いと きから頭脳が|明哲《めいせぎ》で、中学を一番で出ると同郷である大阪の仁礼を頼って|丁稚《でつち》になった。しかし、 仁礼に見込まれ大学を出たころには、すでに丁稚の経験と知識人として十分な教養のために、一 種複雑なニヒリストとも云うべき青年になっていた。けれども、仁礼は教養が足りないだけに商 人としての練太郎を見ているだけで、彼の内心深く|巣喰《すく》っている近代青年の深刻な知識的な苦し みについては、少しも理解することが出来なかった。 「いや、あ|奴《いつ》は|豪《えら》い。わしの後をつぐ奴はあ奴よりない」  と、仁礼は少し|上機嫌《じようぎげん》になると泰子に話した。泰子は父の云うことを間違いだとは思わなかっ たが、父が京極を信頼しているほど彼を信頼することは出来なかった。 「あの人は|慇勲鄭重《いんぎんていちよう》やけど、どこや笑ろてやはるところがあるわ」と、こう泰子は忍にもらした 事がある。 「どうしてかしら」と忍はそのとき訊ねると、 「あの京極さんは、きっとお腹の中と表面とは違うのやわ。悪い人や思えへんけど、何んやしら 冷たいわ」 「それでも、このごろ大学を出た人は、みんなあんたやないの」 「それでも、あたし気味悪い」  京極に対する泰子と忍の批評も|先《ま》ずこんな風なものであった。しかし、仁礼ならずとも、泰子 の婿とするなら京極を選ぶのは、常人の見るところ当然たところは十分にあった。  練太郎はしばらく寝転んでいたが、不意にぬっと起き上ると泰子の部屋へ這入っていった。彼 は泰子たちの|賛沢《ぜいたく》なカバンや着替えた着物の乱れたのを眺め廻していたが、だんだん馬鹿にした ような微笑をたたえて来たと思うと、突然泰子の着物の|襟《えり》を|掴《つか》んでぶらぶら振った。丁度、女の 首を掴んでいまいましそうに舌打ちするような恰好に振ったが、すぐまたぽとりと畳の上へ投げ 出した。彼は泰子が東京へ出て来るのは、高之がいるからだとは百も承知しているのである。  芝のお寺は大樹が|鬱蒼《うつそう》と|繁《しげ》っていた。集って来た客は多数ではなかったが、それでも二十人ば かりであった。この法事の招待状を出したり席順を|定《ぎ》めたりした世話役は、いつもの習慣通り春       そう寰                  嶺      寰ま 子と父の尾上惣八とである。定刻に近くなって控所に並んだ人々は、総て男は黒の紋付に袴、婦 人達は華やかな|裾模様《すそもよう》である。 「どうも、御|無沙汰《ぶさた》ばかりいたしまして」 「いや、私こそ」 「もう亡くなってから、十七年にもなりますかね」  などと、このような挨拶を初めとして静かな会話のやりとりされているそこへ、仁礼文七と泰 子、忍が這入って来た。しんと一座の静まり返った中で高之は文七の前へ出て行った。 「御遠路わざわざお|出《い》で下さいまして、|定《まこと》に有難うございます」 「いや。この度は御招待に預りまして、恐れ入ります」  高之は文七に逢うととりつく島がないので、いつもの黙り膀になる。苦手であった。それを知 っている尾上は、高之の横からすぐ文七に挨拶した。 「大阪へお何いしましたときは、御馳走下さいまして、有難うございました。またこの度は、皆 様でお参り下さいまして、一同喜んでおります。どうぞ、御ゆっくりと」 「いろいろと御丁寧に」  会話は|甚《はなは》だ簡単であったが、この尾上惣八と仁礼文七との挨拶は、瞬問、人々に|固唾《かたず》を飲ませ た。殊に、|隅《すみ》の方で仁礼を眺めていた春子は、一層緊張せずにはおれなかった。彼女は京極を通 して仁礼との再婚の希望を聞かされてからまだ日は浅かった。そればかりではない。法事の主は 仁礼に傷つけられて死んだのと同様な仏である。  いや、それよりも、この会合の空気は仁礼一同が来てからは、関東と関西との陰に押し合う勢 力の、|火華《ひぱな》を隠した名状し難い一幅の絵であった。 「それでは、どうぞ皆様、お参り下さい」  と、尾上は云った。控えの一同は仏前の方へ進んで横に並んだ。紫や|緋《ひ》の衣をつけた六七人の 僧が内陣餝一旭入って来た。誦経が始ると高之は父の顔を思い浮べた。法事は仏の供養であること は彼とて知っていたが、立ち昇る香煙と共に経の進むにつれて、苦しい思いは仁礼の胸もと眼が けて飛び込んでいくのであった。 「お父さんお亡くなりになってからは、仁礼さんも、いろいろと家の事を、よくして下すってね」  と、こう高之の母は彼に教えたことがあったが、しかし、それは要するに子供|騙《だま》しだ。ー父 に不意打を喰わして|儲《もう》けた金で、また俺は救われたのか。 「俺は悲しいハムレットだ」  不意にむらむらッと怒りの突き上げて来るのを、これでは何の供養か分らぬではないかと、よ うやく腹に力を入れ替え、高之は泰子の顔を思い浮べてみるのであった。しかし、泰子は何も知 らぬだろう。知っていれば女のことである。あんなに嬉しそうに大阪から出て来る|筈《はず》がない。  怒りと悲しみと疑いに、われを忘れて|静《しずま》っているうちに、事なく法事もすんだ。門を出て行く 人々は招待のまま、寺の近くの紅葉館へいった。  大きな玄関から畳廊下を通り、休憩室の日本間で、準備の出来るまで皆は休んだ。その間高之 は気分を変えようとそっと一風呂浴びに浴場へいった。顔見知りの女中が二人、高之の通った廊 下の隅で、「|羽左衛門《たちばなや》ね」と|囁《ささや》きながら|肱《ひじ》で互に突つき合った。泰子と忍とは文七の傍で雑談を していた。春子は女の|溜《たまり》から泰子を見ていたが、化粧の変ったためか前より一層泰子は美しかっ た。 「あたしなら、仁礼さんの奥さんになって、ぎゅうぎゅう泰子さんを、云わせてやるんだけれど」  歌舞伎座で冗談に云った清子の言葉をふと春子は思い出した。春子はこのとき突然おかしくな ったが、自分に求婚した仁礼のとり澄した顔を眺めながら、 「なかなか隅に置けないわ」  と、そっと感心するのだった。去年の|東《あずま》跚りに、五千円で新橋の芸者を舞台に立たせたという 仁礼の|噂《うわさ》も、あの顔なら|嘘《うそ》ではなかろうと思ったのである。しかし、このとき、仁礼の傍から泰 子が春子の方へ廻って来た。 「いろいろ、この度はお泄話になりまして」  と、泰子は云った。あまり不意だったので、 「いえ、あたくしこそ。ーたいへんお暑くなりましたのね。大阪もやはり、お暑いでしょうね一 と春子も造り笑顔で泰子に向った。 「ええ、大阪はもっと暑いんですの。まだこちらは風がありますから、楽ですわ」 「でも、よく東京へ見えますのね」  幾分皮肉なつもりで春子は云ったのだが、泰子は感じないらしかった。 「大阪ばかりにおりますと、何んですか、頭が古うなるような気がしますの」 「そんなことありませんわ。あちらは、お魚がお美味しいですから、あたしなんか、大阪へ行く の、これで楽しみなんですのよ。もうすぐあちらへ、お帰りでいらっしゃいますか」 「どうしょうか思うてますの。軽井沢へ廻ろうかって、忍さん、云やはりますんですけど」 「あたしたちも、もうすぐ行こうと思ってますのよ。いらっしゃいよ」 「ええ、大阪附近ですと、どこも暑うて、行くとこありませんの」 「そりゃね、涼しいのは、何と云ったって軽井沢ですわ。ただね、食べ物がね」 「でも、夏はお美味しいものより、やっばり涼しい方がよろしいですわ」 「去年あたし、鎌倉でしたの。でも、あそこは騒々しくってね。も少し何とかならないもんか と、思うんだけれど」  春子はそんなに年も違わないのに、いつの間にか泰子が娘のように見えて来て、つい言葉も上 わ手になろうとするのだった。そうして、ふと仁礼の方を見ると、ときどき彼の眼と合って、さ っと二人は眼を|反《そ》らした。 「それでは、どうぞお席へ」  女中|頭《がしら》の|報《しら》せで一同は控室から五十畳の部屋ヘ移った。古木の間から|石燈籠《いしどうろう》の見える広い庭園 を背にして、一同は自分の席の名を探しながらそれぞれ座についた。|鍵形《かぎがた》に並んだ一番末座に高 之と信江、次に春子と尾上。それから順次、一番上座の床前には、親戚一統の年長者。ーー次は、 仁礼と泰子、忍であった。  真夏の夜のおもむろに迫る中で、|会席膳《かいせきぜん》が急がしく運ばれた。やがて、膳が停り、今や|銚子《ちようし》が 動こうとしたとき、高之はその銚子をとめて、一人下座から前へ|辷《すべ》り出た。 「ちょっと御挨拶申し上げます。この度は御遠方のところ、わざわざお出かけ下さいまして故人 も定めし喜んでいる事と思います。それでは何もございませんが、御ゆっくりと召し上って下さ い」  |檳榔子《ぴんろうじ》染の紋付に、物いう度にぎゅうぎゅうと鳴る、|本仙台平《ほんせんだいひら》の袴をはき、低く両手をついて いう高之の姿を、泰子は初めてしげしげと見るのであった。 「先代に似てるなア」というものがあった。 「いや、あの顔は、お祖父さん似だ」というものもあった。  銚子が動き出して|款談《かんだん》の|湧《わ》くころには、外は全く夜になった。もう一座は法事とも思えぬくつ ろぎで、|賑《にぎ》やかに次ったころ、突然|襖《ふすま》が左右に開いた。それと同時に人のいない前面の腰障子の 腰板だけがさッと開いた。首から上を板に隠した唄い手が居並んで清元の『長生』を唄い出した。 踊は次の部屋でーすべて紅葉館独特の芸者を兼ねたあでやかな女中である。  高之は料理を食べながらふと泰子の方を見た。藤色の着物のせいか灯影を受けて、踊を見てい る泰子の姿は、|妖艶《ようえん》な|局《つぼね》のように美しく一座の中で光って見えた。かの女は高之の視線に気づく とすぐにっこり笑った。しかし、高之は何心なくむっつりしたまま横を向いた。すると、酒に|赫《あか》 らんだ人々の間で、急に泰子の顔は青ざめていった。  これは|不可《いか》ん。と高之は思ったけれども、もうそのときは遅かった。泰子はそのまま俯向いて しまったきり、踊も見なければ食事もしようとしなかった。高之はもう一度眼で泰子の気分を引 き立ててやることも出来なかった。いつもは優しくしておいて、今日に限ってつれなくふるまう 自分の気持は、これは仁礼文七に刃向う自分の怒りが、自然に出たのであろうと高之はあきらめ た。  いや、しかし、それでも良い。今はむしろその方が良いかもしれぬ。  今まで泰子へまだ一度も自分の苫しみも恋情も、打ち開けた事のない彼であった。  もし仁礼文七に|復讐《ふくしゆう》することも出来ない間に、泰子に愛情を示したなら、もうお|終《しま》いではない か、と、こう高之は考えた。踊はつづいたが、高之も泰子も反り合っていく苦しさでだんだん沈 み込むばかりであった。  紅葉館を出て来る自動車の中の、泰子と文七は奇妙な親子であった。文七は高之のために傷を 受けた娘の心を知らなかった。泰子は、春子のために痛手を負った父の心には気付かなかった。 ただ忍だけが、二人の|凋《しお》れた心と何の|拘《かかわ》りもなく、法事に来ていた人々の批評をあれこれとして いた。宿へ戻ったときはもう九時を過ぎていた。 「ああ、疲れた」  といって帯を解き、|浴衣《ゆかた》に着替える泰子の傍から、忍は忍で、 「これから散歩に行きましょう」という。 コ兀気ね、あなたは」  と、泰子はただ驚いて忍の|颯爽《さつそう》とした胴を見詰めるだけだった。 「でも、まだ一時間は歩けるわ」 「明日、もう帰ろうかしら」  と、ぐったりと凋れる泰子を、 「どうして?」と忍はあぎれた風に見降した。 「もう束京は、いやになった」 「あら。じゃ、軽井沢へも行けへんの?」 「そうね。行っても良いけど。それより、お風呂へ這入って、もう寝ましょう」  泰子はもう一刻も早く床餝旭入って、電気を消してしまいたかった。二人が湯から上って来た とき文七は天外へ出て行った。忍は隣案の襖を開けてみると、僭ざ耳立てていたらしい練太郎 が|周章《あわ》てて後を振り返った。 「あら、あなたお一人さん」 「ええ、さア、どうぞ」  京極は立って|座蒲団《ざぶとん》を裏返した。 「一人じゃ、退屈ね」  と、忍はいいつつ、つかつかと部屋の中へ這入ると、外廊下の|籘《とう》椅子に腰を降した。 「今日の法事は盛大やったそケですな」 「ええ、紅葉館でしたの。京極さん、いつお帰りやすの2」 「さア、明日帰れば帰れるんですが、うちの大将、少し休暇をやろうか仰言るもんだから、どう しょうか思うてるんです」と練太郎はとぼけた顔で云った。 「あたしたち、軽井沢へ行こうかいうてますの2」 「そりゃ、|宜《よ》ろしいな。僕も行きたいが、一ぺん田舎へ帰ってみようか思うてますのや。田舎は 不景気やで、帰っても面臼うないが」 「京極さんは、たいへん親孝行やそうですね。ほんま?」  京極はにやにや笑いながら、 「親孝行でもたいけれど、それより、すること今ごろあれしまへんが。ははははは」と笑って忍 をじろじろ見上げていた。 「まア、感心ね。あたしなんか、いっぺん、孝行してみたい思うてますのやけど、なかなかさし てくれはらしまへんわ」 「結構なことですな。僕もそんな身分に、早よなりたいと思うてますのやが、一向、ばッとしま せんと」 「忍さん」と隣室から泰子が呼んだ。 「何アに2 こちらへいらっしゃいよ」と忍はかまわず動かなかった。  すると、泰子の声はしなくなった。 「春子さん、どうしてやはりました?」  と、練太郎は忍に訊ねた。 「あの方、いやはりましたわ、京極さん春子さんを御存知なの?」 「知ってますよ。このごろ、良う|肥《こ》えやはりましたな。高之さんにも、ここしばらくお目にかか らんが、あのお方もお達者でしたか。僕はあの方好きでしてな」とはや練太郎はかしこく先廻り をする気配だった。 「忍さん」  と、また隣室から泰子の声がした。 「何よ。お出でなはれ。涼しいわ。ここ」  しばらくして、縁側伝いに泰子が練太郎の部屋へ現れた。部屋に=一旭入って来た泰子を見ると、 練太郎は、 「あ、そうや。|嬢《とう》さんに、お|土産《みやげ》あげるの忘れてた」  といって、立って床の問から|蛇《じや》の目を一木持って来た。泰子には蛇の目傘を集める道楽がある ので、それを知っている練太郎は散歩のついでに、如才なく一木買って来たのである。 「|嬢《とう》さん、どうです。これは宜ろしますやろ。竹屋ですよ」 「いくら竹屋かて、床の問の壁に立てかけた傘なら、あたし|嫌《ぎら》いやわ」  泰子はそういっても、練太郎から受けとった蛇の目の頭を微笑しながら眺めていた。 「壁に立てると、あきまへんのか」 「そりゃ、壁は油を吸いとりますやないの。あ、こりゃ、渋蛇の目やあれへんわ」 「そうかて、これは二つ切りの上等でっせ」 「二つ切りでも、渋蛇の目やないと油が上手に上ってへんもん」 「えげつないこといわんと、とっといとくなはれ」 「駄目よ、京極さん。泰子さんに取り入るんなら、蛇の目じゃもう古いわ」  と、忍はにこにこして云った。 「そんなら、どうしたらよろしいねん2」  と、練太郎も練太郎で、真面目に澄したものであった。 「教えてあげましょうか。え?」  と、忍は|団扇《うちわ》をぱたばたやりながら眼を大きくあげると、 「あたしに京極さん、株を教えて下さいよ。そしたら、代りに教えたげるわ」     たやす              と5        ぎ、げん 「株なら容易いもんやけど、嬢さんの御機嫌とるのだけは、なかなか難しいのでな。上手に御機 嫌とらんと、うちの大将に叱られますよって、これ、どむならん」 「そんなら、あたしの御機嫌をとってからやないと、そら、|駄目《あか》んわ」 「|阿呆《あほ》なこと云わんと、もう寝まひょう。あら、いつの間にやら、潮が上って来たわ」  と、泰子は|欄干《らんかん》から川端の波の上を見降ろした。そのとき卓上電話がかかって来た。練太郎は 受話器を耳にあてた。 「はア、はア、左様です。ーあ、そうでっか、梶原さんですか。はア、承知しました。ーで は、さっそく。ーああ、そうでっか、それはどうも。有難う。いや、失礼しました」  電話を切ると練太郎は勢いよく立ち上って服を着替えにかかった。 「えらい、良い報せや。こりゃ、忙しなって、休暇も|貰《もろ》うてられへん困ったことや」 「これからお出かけ?」  と、忍は訊ねた。 「これからって、これからが僕らの忙しいときでんがな。あんたら、ぐうぐう眠てなさるとき、 僕ら|斥候《せつこう》戦はじめるんですからな。なかなかこれでも、早耳だっせ」  と、練太郎はおどけて自分の耳を引っ張った。忍と泰子は自分たちの部屋へ戻った。泰子は敷 かれた床の上へ半身を寝せ、お茶を飲んでいる忍の方を向きながら、 「あら、傘忘れたわ。あんた、取って|来《き》とう」  と、小声で頼んだ。 「あんた行きなさいよ。折角くれはったのに、ひどいわ」 「傘でっか。傘なら心配せいでも、まだここにありまっせ」  と、隣室から練太郎の皮肉な声がした。泰子と忍は顔を見合して「クッ」と笑うばかりであっ た。 「さぎほどは、お電話いただきまして」 と、鄭重な挨拶をして練太郎がヨ|一《は》旭|入《い》って来た。 ここは赤坂の旗亭である。電話で練太郎を呼び 出したのは梶原清子の家の若い番頭、半造。ー1すぐ酒になった。半造は気候の挨拶から、景気 一般の模様の移り変りの受け答の後、人を遠ざけて仕事にかかるのであった。 「ときに、お話のありました東紙の件ですが、あれをも少し折合願いたいと思いましてね」  梶原清子の家は東京製紙の大株主だったので、練太郎はこの株の名義をひそかに書き替え仁礼 のものにする命を受けているのである。仁礼文七の腹の中では、人に話せぬことながら実は前か ら次のような計画が熟していた。ー  仁礼は大阪製紙の株の過半数を他人名義で持っているが、この大紙は資産状態も良し、製品も 儺れているけれども、敵の東京製紙の方が古くて販売網が確実であったから、絶えず邪魔され大 紙の方の販路は拡まり難かった。良い製品を造りながら、東紙に押されているのは怪しからぬ、 とこういうのが仁礼の怒りである。それたら一つ、東紙の株の過半数を買ってしまい、いわゆる 過半数重役という強力で、東京製紙の方も乗っ取ってしまおうというのである。それから後で大 阪と東京との合併をやる。すれば大阪の良い品物で、東京の販路全部に売りつけられる。 「本当を云うたら、今、これだけの独占事業はどこにもあれへん。合併したら、わしが出てその ときは、かめへん、社長になってやったる」  と、前に仁礼文七は練太郎に云ったことがある。しかし、何と云ってもこの仕事は、他人に知 られては|下手《まず》いので、そこが何より練太郎には難事であった。練太郎の顔に現れた難色を見てと ると、文七は、 「そりゃ、これはなかなか面倒やが、わしならやってみせるな。一つお前一人でやってみい。も しやれたら、その代りに何んでもお前の欲しいもの、|褒美《ほうび》にやるわ」  こう文七から押しかむされて云われると、もう練太郎は後へは引けなかった。|殊《こと》に、何んでも 欲しいものやるとは、お前を泰子の婿にしてやると云われたのと同じであった。それ以来、練太 郎は東京へ出て来る度に、東京製紙の大株主の秘書から秘書へと、金を切って|揉《も》みほぐしにかか っているのである。東紙の大株主は八九人いるので、自分の掌中に先ず五人落せば成功だった。 しかし、それが人知れぬ商人の苫心の腕というものだ。  梶原清子の家と高之の家とは、この大株主の中の二つであった。清子の家の秘書は、今しも練 太郎の落しかけている三人目であるが、しかし、困難なことは株主から買い占める株の価を、安 く買わねばならぬことだった。 「買えいうたかて絶対、株の値、上げたらあかんぞ、|買《こ》うてしもてからでも、かめへん。とこと んまで、値を落せ。そこで合併や」  と、こうも文七が注意したほどだ。練太郎は今も梶原家の秘書の話を聞きながら、この梶原の 持株を買い占めて、それからどっと値を落したら、何も知らぬ大株主の高之は、さぞ|狼狽《ろうぱい》するこ とであろうと、ひそかにほくそ笑む心もないではなかった。 「しかし、それはまア、私の方もお話にも乗せてもらいますが、値はもうこのまんまに願いまし てどうでしょうな。お手数料にあなたにこれと、いかがでしょう」  練太郎は半造に四本の指を出してみせた。 「しかし、それはね、とにかく、私も商売ですから」  答え渋る半造にすかさず再び練太郎は、 「ではもう一本。どうでしょう。これならお考えに入れられませんか」  練太郎は半造の眼の中を|覗《のぞ》き込んだ。早くも半造の負け色が、にっと眼の縁に現れ出した。練 太郎は梶原の番頭半造が、東京製紙の株の値を今以上に上げて来るようなら、もう彼の持株を買 わずに、むしろ自分のすでに買い占めてあるその株の一部分を市場で売り出してやろうという|肚《はら》 があった。何ぜかというと、もしそうすれば、この株の値段は必ず下落していくからだ。下落す れば梶原の番頭自身が弱るのである。  しかし、今のように半造の顔色が柔和になるのを見てとると練太郎もいささか意外であった。 「東京の奴、案外下らんのう」  とこう思いながら、表襾彼は鄭重にまた続けて切り立てた。 「どうでしょう。もしこれであなたのお顔が立ちましたら、支払いは小切手でも株券でも、お望 みに応じますが」 「それでは、ひとつ株券の方で願いましょうか」  と、半造は迷う色なく直ぐ答えた。 「承知いたしました。株は何にしたらよろしますやろ。御希望のがありましたら、どうぞ」 「そうですね。大紙のでいただけませんか。これは少し、私も前から欲しいと思っていたもんで すから」 「そうですか。しかし、大紙は安いですさかい、何か他のはどうでっしゃろ。これはもう上る見 込みはあれしまへんぜ」  練太郎はこう云ったものの、一瞬の間どきりとして寒さを感じた。この半造は、やすやす自分 に釣り込まれたように見せかけて、もうこちらの計凾を見抜いているのかもしれないと練太郎に は思われたからだった。 「かまいませんよ。大紙は重役が而白いですからね」  と、半造は平然として云った。大阪製紙の重役の中には、仁礼文七の子分が二人も這入ってい るのだが、銀行家上りで腕がたく、今までとても東京製紙との合併を仁礼から|度《たびたび》々すすめられた にも拘らず、その製紙に株値を云い張られいつも計凾は失敗したのである。それ|故《ゆえ》今、練太郎は 大阪製紙の株を欲しいと半造の云い出したに対して、これ以上不服そうた顔を示そうものたら、 練太郎の計画は水の|泡《あわ》だった。 「よろします。それじゃ、大紙の三十二円、どうでっしゃろ。そしたら、早速とりよせますよっ て、この二十五日にここでお会いしまひょ。いかがです」 「ではひとつ、それで願いましょうか」  と半造は辷り込んで来る練太郎に今はたじたじと退くばかりであった。 「そうですか。では、お手を拝借しまひょか」  辷るような練太郎の早さで二人は無造作に三つ手を打った。こんな場合に誓約証書を取り交す のは先ず普通だが、練太郎はそれをあまりやらぬのが、彼の鋭さの一つである。  再び酒が出て女将が現れると、半造は冗談半分に練太郎に云った。 「ときに、話は違いますが、私とこのお嬢さんは、仁礼さんのお嬢さんのことを、あなたから聴 いてくれと云うんですがね。まア、これは|藪《やぷ》から棒で失礼ですが、重住さんの御法事で何んでも 今来てられるそうで」  練太郎は話が突然なので、煙草を咥わえたまま眼を細めて半造を見た。 「来てられますが、そりゃまた、どうしてです2」 「よくは私も知らたいんですが、尾上さんの娘さんの、春子さんという人がいるでしょう」 「はア、はア」 「あの方が、うちのお嬢さんとお友達でしてね。多分その方から、何か聞いたんだろうと思うん ですよ。私があなたのことを、話のついでに|一寸《ちよつと》口に出しましたら、急に顔色を変えて、根掘り 葉掘り|訊《き》くので、どうしてですと云うと、一寸知りたいことがあるのだから、あなたにお逢いし たら、仁礼さんのお嬢さんのことも、お伺いしてくれって頼まれましてね」  練太郎は半造に銚子をさしながら、 「梶原さんのお嬢さん、なんて方だすっこと訊ねた。 「うちのお嬢さんは、清子っていうんですよ。あなたんとこのお嬢さんは、泰子さんって|仰言《おつしや》る んでしょう」 「そうだす。清子さん、はてな?」                   さかずき   血  と練太郎は不思議そうに小首をかしげて盃をまた舐めた。 「それじゃ、今度店へいらしたとき、一寸お嬢さんに逢ってあげて下さいよ。何んでも、京極さ んにお眼にかかりたいような口振りでしたから、きっと喜びますよ」 「どうもよう呑み込めまへんな。私に用のあるお嬢さんなんて東京にはあれへん筈やな」  しかし、このとき半造は練太郎の不審を急に切り返すような調子で面を上げた。 「それはそうと、どうです、京極さん、もうこうなれば、私もあなたのお人柄を見込んで、打ち 開けますが、東紙の方は御心配なく私にお任せ下すって、ひとつこれから、私の方の店とも取引 お願い出来ませんか。重住さんの方は仁礼さん専属ということにして下すって、あたた御自身で おやりになるときには、私を御利用願えませんでしょうか。私もゆくゆくは梶原の店から独立し て、やってみたいと思っていますのですが、あなたのお力を得られれば、鬼に金棒ですからね」  何となく奇妙な男だと半造を思っていたときとて、練太郎は、なるほどそんな計画が半造にあ ってのことかと、やや安心するのだった。 「そりゃ、私も仕事をやりますときは、是非あなたにお頼みしたいと思うてましたのや。頼みま すよ。しかし、梶原のお嬢さん、なぜまた私に逢いたい云やはりますのや、一向見当つかしまへ んが、そりゃどないしたもんだすやろ?」 「それは別に何んでもないですよ。僕の思うのには、重住の若|且那《だんな》を仁礼さんのお嬢さんとつま り、競争してるんですよ。それで京極さんに泰子さんのことを、いろいろお聞きしたいと云うん でしょ。何でも泰子さんというお方は、たいへん|縞麗《きれい》なお方だそうで」 「そりゃ、たかなか大物でっせ」練太郎はにやにやっと、笑うと一寸首を延して半造に、 「お宅のお嬢さんは、どないなお方です〜」 「これは、なかなかたいへんです。さア何と云ったらいいですか」 「そんたら、良い勝負ですか」 「いやいや、とにかく、この人、滅法ない勝気なんですよ」 「ははア、それじゃ、私んとこも滅多に負けはらしまへんわ」と云うと同時に二人は声を合して 笑った。 「そうですか。どうも探偵みたいで失礼ですが、泰子さんと重住さん、結婚なさる可能性という か、そんなものどうです、先ず近ごろのところでですよ?」 「そうでんな」と練太郎は|擽《くすぐ》ったそうに苦笑しながら煙草に火をつけると、 「まア、こりゃ、今のところ、ちゃぶついてますさかい、どうとも云えまへんが、まだ底値は見 えまへんな」と自然と株の用語になり変っていった。 「それじゃ、他に材料でも出て来てるんですか」 「材料はまアあるでもなし、ないでもなしというとこですよ」 「京極さん、あなたが材料だという話も聞きましたが、どうです、それは嘘ですか」 「ははははは」  と、練太郎は突然笑い出した。 「いや、正直なところ云いますと、うちの清子さん、なかなか重住さんには熱心ですので、今夜 は東紙のことより、こっちの方が目的で出て来たんですよ。私は京極さんがうまくやって下さら んと、実は困るんで」 「はははは、それは御苦労さんだんな。しかし、どうもね。いや、まア、それはこの次にしても ろてとにかく、東紙の方、どうぞ宜しく頼みまっせ」  と、練太郎は云ってその場を笑いで誤魔化した。  泰子と忍は予定のままに仁礼や京極と分れ、軽井沢の|万平《まんぺい》ホテルヘ出かけて来た。二人は去年 もここへ来たけれども、そのときはすぐ信州の野沢へ廻った。一年の違いで万平の客たちの言葉 はめっきり大阪弁が増えていた。朝は忍が馬に乗る間泰子は|木蔭《こかげ》で雑誌を読んだ。午後からは二 人はテニスをしたりプールヘ行ったりした。しかし、二人の心待ちにしていた高之は、一向に軽 井沢へは現れなかった。忍はぼんやりと物思いに|耽《ふけ》るときどきの泰子をよくからかった。 「あたし、もうそんなこと、知らんわ」  と、その度に云う泰子も今は何も云わなくなった。ある夜忍は高之に電話をかけて、早く軽井 沢へ来るようにと誘ってみた。高之の返事は、今仕事が込んでいるから手のすき次第行くとの事 だった。 「高之さん、もうじき来やはるわ。今お仕事が込んでるよって手があいたら行く云やはった。も うちょっと、ここにいまひょ」 「来やはらへんかて、かめしまへん」  泰子のうち沈んで云うのに、 「そんな短気は損気やわ。あたし、こんなにやぎもきしたげてるのに」  と、忍は云って、 「馬に乗りまひょ。何もかも忘れてそりゃええ気分やわ。あなた、自転車でも|稽古《けいこ》したさいよ。 こんたときやたいと、何も出来えへんわ。人はなんでも辛抱場が大切や云うよって」 「あたし、早よ大阪へ帰って、文楽みたいわ」 「文楽たんか退屈なもん見るさかい、余計じめじめするのんや。あんなもん、どこがええのかし ら。辛抱するのには、そりゃ良いのかもしれんけど。あたしら、何も辛抱するようなことあれへ んし、気楽なもんや。どれ、町へでも行きまひょ」  忍は花模様のドレスに着替えてから泰子を夜の町へ誘った。ひやりと肌に|浸《し》み入る森の強い|匂《におい》 の中を、泰子と忍は今は何事も忘れて町の方へ歩いていった。葉の間を辷り落ちる重い夜露がと きどき二人の顔を打つ中で、 「ここ歩くの、何とも云えん良い気持やわ」  と、忍は云った。真暗た中を外人の男女の一組がより添って低く噺きながら町の方から帰って 来た。ホテルを出るときから静かに光っていた|稲妻《いなずま》が行く手の森の樹間をぱっと明るく照すの も、高原に|馴《な》れている二人には何の気懸りにもならなかった。 「あら」  と、しばらくたってから、突然泰子は云って立ち停った。 「どうしたの?」  忍は泰子の顔を見た。前方の森の中で|焚火《たきび》をしている二人の女の方を、泰子は見たまま黙って いた。 「あすこにいる女の人ね、ほら、今木をくべたでしょ。あれ春子さんやわ」 「そう」                    し仲が  焚火の傍では何か軽く笑いたがら立ったり樽んだりしていたが、春子の傍の一人の婦人はたし かに梶原清子にちがいなかった。露芝らしい優雅な模様の|浴衣《ゆかた》を着て、すらりと立った清子の姿 は、稲妻の光る度に一層はっきりと美しさを増して明滅しつづけた。 「誰れ、あれ?」と忍は訊ねた。 「知らん」  突然、忍は、町へ出る道から|外《そ》れた。そうして、ひとり焚火の方ヘ歩いていった。 「忍さん、そ女い行ったら、見られるやないの」  泰子がはらはらしてひきとめようとするのに、忍はきかなかった。 「あそこへ行って遊んできまひょ。お出でなはれ」 「そうかて、今夜はいややわ」 「ええやないの。面白そうやわ」  忍は泰子を捨ててずんずん焚火の方へ進んで行くので、泰子もそのまま立ち停っているわけに もいかなかった。 「忍さん。こっちへお出でなはれ」                                  は1  黙って遠ざかる忍の向うでは、焚火がばちッぱちッと音を立てて勢いよく爆けた。 「今晩は」と忍はぬっと火の傍ヘ現れた。 「あら。まア」 振り向いた春子は思わず立ち上った。忍はにこにこしながら、 「あちらから見えましたの」 「お一人ですの?」 「いいえ。泰子さんもいやはりますの。泰子さん」  と、忍は暗い森の中を振り返って呼んだ。間もなく、泰子も何となく気遅れのしたような様子 で現れた。 「今晩は」 「いつこちらへ、いらっしゃいまして?」と春子は泰子に訊ねた。 「二十五日に参りましたの」 「じゃ、あたしたち一日前ですわ。どちらにいらっしゃいますの」 「万平にいますんですの」 「そう。あのこの方あたしのお友達の、梶原清子さんって方ですの」  春子は忍と泰子を等分に見ながら紹介した。三人が|挨拶《あいさつ》をすますと、忍はもうすぐ傍にあった 枯枝を焚火の中へ投げ込んで、 「あちらから見てると、ここそりゃ綺麗でしたわ。あたしたち、町へ行くとこでしたのよ。|宜《よろ》し いわねここのお家」  忍の東京弁が妙にあどけなく響いたので、春子は一寸|軽蔑《けいぺつ》した微笑を浮べながら、 「お父さんもうお帰りになりまして?」 と、泰子に訊ねた。友だちの事ながら、泰子は忍をすかした春子の仕草に、ふと不愉快なもの を感じたが、 「どうですか。あたしたち、|早《はよ》うこっちへ来ましたんで、分りませんの」  焚火の光で明るくなったり暗くなったりする泰子の顔を、じっと見詰めていた清子は、このと き急に齢むと泰子の方に背を向けた。 「あたしたちの自動車、今日町で犬を|轢《ひ》きましたのよ。そしたらまア桃色の血が出ましたの。あ たし、血は真赤たものや思うてましたら、桃色のもあるんですのね」  何と挨拶のしようもない忍の突拍子もたいこの話に、一同ぼんやりして黙っていた。 「その犬、死にまして?」  と、しばらくして春子は訊ねた。 「それが分りませんの。あたし、これから死んだかどうか、訊いて来よう思うてますの。血の中 へ|顎《あご》をべったりへたばらして、ぴくぴくしてるんですのよ。おお、いや」  ひとり肩を|辣《すく》めながら忍はまた枯枝を火にくべた。泰子はいつもの忍の無軌道ぶりを知ってい るので、ただ苦笑いしていただけだったが、清子は明らかに不愉快さを顔に現した。 「ここはいけませんから、中へお這入りになって下さらない2」と春子は泰子に云った。 「どうぞ、もうおかまいなく、ここで結構ですわ。一寸まだ買物もありますの、この次ゆっくり お邪魔させて|貰《もら》いますわ」 「そうですか。でも、ここじゃね」 「じゃ、忍さん、失礼しまひょか」 「もう少し遊ばして貰いましょうよ。ホテルじゃ焚火なんか自きへんわ。宜しいでしょ。もう少 し?」と忍は春子を見返った。 「どうぞ、御ゆっくり、火ならいくらだってお焚きしますわ」  泰子は帰ることも出来ず、さも困ったという風に忍を眺めていた。遠くの森の方から英語の歌 が聞えて来た。一同気づまりな時間を救われたように、声の方を向いて黙っていると、 「|下手糞《へたくそ》ね」  と、忍は清子を見て笑った。 「ホテルは外人で、いっばいでしょうつ、・」と清子は忍に訊ねた。 「ええ、いっぱい。でも、汚い外人ばかりですの」 「高之さん、まだいらっしゃらない風でして?」  と、春子はまともに朝顔の都雅な泰子の浴衣を眺めながら、何事もないらしくにこやかに訊ね た。しかし、泰子は、一突き胸を|衝《つ》かれたようにどきりとなった。 「さア、どうしてやはりますのやろ」 「いらっしゃるんですのよ。もうすぐ」  と、忍は横から云った。一瞬、清子はちらりと泰子の顔を見上げたが、胸はかすかに波を打っ た。 「あたし、来るとき、 一寸逢ったんですのよ。でも、今年は行かないって云ってらしたんだけ ど、あなたにお返事ありまして?」と春子は|訪《いぶか》しげに忍を見た。 「あたし、電話をかけましたの。でも早く来ないとホテルのお部屋、もう満員ですから、どこへ も行けなくなるんじゃないかしら」  高之が来れば、どこへ来るかということは云わず語らず、誰しも一番の問題だったので、この とき一同はしんとなった。しかし忍や泰子には、清子が高之と見合いまでしてある仲とは少しも 知らなかった。四人のうちでどちらの胸の中まで知り抜いているのは、ただ春子だけだった。春 子は恰幅の良い胸を下に樽めると忍に、 「でも、ホテルが満員だったら、あたしんところへでも、いらっしたっていいんですから。おつ いでのとき、そう仰言っといて下さらない」 「ええ、でも宜しいんですの。あたしたちのお部屋、二人でも広すぎるんですもの」  広すぎても洋間ならベッドは二つ以上ない筈だのに、それをそう云う忍の言葉は、明らかに春 子に反抗を示していると見ても良かった。 「東京のものは、どうしても狭いお部屋いやがりますから、お部屋がなかったら、高之さん、い らっしゃらないかもしれませんよ」  東京ものは大阪ものとは違うんだ、と云わぬばかりの春子の云い様に、忍もむっと応えたらし かった。 「でも京都の吉住では、いつでもお部屋が足らんと、高之さん、あたしらと一緒ですのよ」  それとなく、裏干家の習慣を忍から持ち出されては、春子もぐっとつまるのであった。 「でも、涼みに来るんですから、やはり、広くたくちゃね」  と、春子は泰子を見て笑いにまぎらせながら、 「高之さん、ここへもちょくちょく、いらしたんですのよ。八畳がも一つ、まだ空いてるんです の。もっとも、ここは、高之さんのお家みたいなもんだけど」  高之の番頭である自分の家なら暗に高之のものだと云う、この春子の捨身の云い方は、|真向《まつこう》か ら忍を切りつけたようなものだった。しかし、忍は突然にやりと笑った。 「あたし、高之さんがいらしたら、|神津《こうず》牧場へつれてってもろう思うてますの、いらっしゃらな い」  春子との云い合いなど、けろりと忘れたように忍は春子に云った。しかし、春子は、不意に犲 を引いた忍の態度に心の納まらぬものがあった。自分から高之の家の番頭だと、自分の家の地位 を明したことが、忍に馬鹿にされたのに相違ない。 「行きますわ。あの牧場は、日本でも大きいんですってね。でも、高之さんいらしたって、ゴル フに夢中だから、どうだか分んないわ」  いまいましいと思ったが、春子も年を考えると落着いて和解をせずにはおれなかった。しかし 泰子は、もう高之の話だけは早くやめて欲しいと思った。けれども高之のことを、まだ話し出す 春子を見ると、何か春子に底意があるのではないかと、疑わしく思われてならぬのだった。 「忍さん、もう行きましょうか。遅うなりまっせ」 「じゃ、さよなら《さちさち》|」  と、忍は朗らかなさっぱりした声で云った。 「どうぞ、あたくしの方へも、お出かけなすって」  と、春子は二人に会釈をした。間もなく、泰子と忍の姿が森の中へ消えていった。清子は燃え |拡《ひろが》った枯枝をよせ集めながら、 「忍さんって方、面白い方だわね。あたし好ぎだわ、あの人」 「催いきだわ、離そうに。何ものこのこ、ここまで来やはらへんかて、ええわ」  と、春子は大阪弁を|真似《まね》て云った。 「聞えるわよ、大きな声して」 「聞えたて、かめへん。あて、もう一ぺん、|喧嘩《けんか》してやるのん」春子は森の中をきっと見拊える ように振り向いた。 「向うからだと、よく見えてよ」 「でも、高之さんのこと云い出したら、さすがに泰子さんは照れてたわね」 「あたしだって照れてよ。あんなとき、高之さんのことあなた云わなくたって、いいじゃありま せんか。あたし、はらはらしたわ」 「でも、高之さん、ほんとに来るのかしら。来ちゃ、ややこしくなるわね」 「電話をかけたって云ってらしたじゃないの?」 「来るかもしれないわ」  と、春子は一寸首をかしげてしばらく焚火を見詰めつつ黙っていたが、 「もう火を消して|眠《やす》みましょうか」  と、心配そうに云う清子の気持を察したらしく、井戸端へ行くと、バケツに水を汲んで戻って 来た。二人は燃えている焚火の上ヘ小手で水を|掬《すく》っては消していった。じゅんじゅんと鳴りつつ 焚火は次第に小さくなった。森の中がすっかり暗くなると二人は家の中ヘ這入って顔を洗い鏡に 向った。窓から流れて来る風のままに清子はぼんやりと物思わしげに考えていたが、 「泰子さんは、あたしのこと、ちっとも御存知ないんでしょ?」と春子に訊ねた。 「そりゃ知らないわ。でも、高之さん、万平なんかへやったりしちゃ、面白くないわね。何とか しなくちゃ」 「だって、いらっしたけりゃ、仕方がないじゃないの」 「あたしはきっと万平へ行かないと思うわ」 「どうして」 「来るんだったらあなたを見に来るんだと思うわ」 「いやだわ」  と、清子は髪をばさりと解いて、なまめかしく横眼で春子の方を見たが、そのままどちらもだ んだんと黙っていった。  練太郎は市場も閑散になり半造との用件も片付いたので、ある日ぶらりと何の前ぶれもなく軽 井沢へ現れた。文七から休暇が出たのである。来るときに彼は軽井沢の泰子の所へ行くようと文 七にすすめられたのであるが、しかし、こんな風な文七の思いやりは、実は練太郎にとっては有 難迷惑でないこともなかった。たぜかというと、軽井沢の泰子のところへ今ごろ行けば、泰子か ら|嫌《きら》われるのは分っているのだった。 「俺は大将の命令だから、泰子さんを、義理にも好きなような顔せんならん。どうも、へんなも のやな」  とこう思う。しかし、そうかと云って、もし泰子に練太郎に好意を持った様子があるなら|勿論《もちろん》 彼も文句なく喜んだにちがいない。 「まア、嫌われるのは当り前や。俺は、|丁稚《でつち》上りや、しかし、ええさ」  悲痛な苦笑いが胸の底でうずうずとした。けれども、いつもの通り、嫌うなら嫌うてくれ。わ しも、一つ阿呆になってみてやりまひょ。ーと、こう思う覚悟が自然に根を張って来ると、も う彼には恐るるものは何もない。練太郎が万平ホテルヘ着いたとき丁度一部屋空いていた。泰子 へ挨拶しに行こうと思って、名を云うと、正午からどこかへ出かけたとの事だった。  練太郎は一風呂浴びて森の中を歩いてみた。樹木の種類が実に多い。|老《ふ》けた|鶯《うぐいす》が深い木蔭で鳴 きつづけている。その下を婦人たちが自転車で|馳《か》け廻っている。ピアノの練習曲の響いて来る中 を、騎馬の青年が通っていく。 「こりゃ、わしらの、来る所やないなア」  と練太郎は思った。しかし、ふと彼は半造に逢ったとき、軽井沢にはお嬢さんの清子が行って いるから、一度逢ってみてくれと頼まれたのを思い出した。彼は立札の番号を|眺《 が》めながら、気ま ぐれにぶらぶら探してみた。すると|胡桃《くるみ》や|椎《かや》の森の中に、尾上と表札のかかった家が、一軒ぽつ りと建っていた。練太郎はここだなと思ったが、中へ這入る気はしなかった。そのまま表を通り すぎて、裏の森の中をがさがさ|羊歯《しだ》の葉を鳴らしながら歩いていると、洗濯をしている婦人とば ったり眼が合った。 「あら」  とその婦人は云って腰を上げた。婦人は春子だった。 「あなたですか」練太郎は立ち停ったが傍へよって行こうとはしなかった。春子は両手の水を切 り落したがら、 「どうぞ、こちらへ」と家の中ヘ這入ろうとするのを、 「いえ、今日は、ここで失礼させてもらいますよ。一寸、ぶらぶらしてたとこでして」  と押しとめた。 「いつ、いらっしゃいましたの」 「今です。着いたばかりですが、あんまり暇なもんで、もう退屈してしもて、私ら、こんな所駄 目ですよ」 「でも、一寸、担一一氾入りになったらいかが。どこにいらっしゃいますの」 「万平です」 「万平にお部屋、まだありまして」と春子は意外な顔で|訊《たず》ねた。 「丁度空いたのが、一つ残ってまして良かったですよ」 「そうでしたの。それは、それはーでも、まア一寸お上りになって下さいよ」  と、春子は何かちらりと皮肉た微笑を浮べつつ家の中へ這入っていった。 「清子さん」  春子の呼ぶ前に、もう清子はさきから縁側に立って、何者であろうかと練太郎の方を眺めてい た。 「清子さん、この方、大阪の京極さんよ。いつかお話した方」  春子に云われて清子は、「まア」と急に|襟《えり》を疸し、縁側に|膝《ひざ》をついた。 「この方、梶原清子さんですの」 「ああ、そうですか。こんな風しまして」  練太郎は|慇勲《いんぎん》に挨拶したが、もう半造と逢って清子のことを知っている風など、春子に知られ ては|下手《まず》いと思った。ところが練太郎がそう思うと同時に清子は、 「いつか、半造がお世話になりましたそうで、半造から、よくお|噂《うわさ》承わっておりますわ」  と云って挨拶した。練太郎はひやりとした。 「半造さん、御存知ですの?」  と、春子は不審そうに練太郎の方を見て訊ねた。 「いえ、一寸、|場《ば》でときどきお目にかかりますのですよ」 練太郎のさあらぬ|体《てい》の答えに春子も「ああ、そう」と云ったまま、すぐ|急須《きゆうす》に茶を入れ、 「京極さんは、万平にいらっしゃるんですってよ。お部屋が一つよりなかったんですって」  と、清子の方に眼を上げた。 「泰子さんたち、どうしてらっしゃいまして?」  と、清子は春子の眼の|報《しら》せなど気付かぬ風に、優しく練太郎に座蒲団を出した。 「まだ逢いませんのや。どこやらへ出やはったらしゅうて、どの部屋かも知りまへんのです」  ふと心持かすかに笑う清子と春子の様子に、練太郎も気がついた。 「何んでんね?」 「いえ、何んでもありませんわ」 「泰子さんらの後追っかけるの、これでなかなか気骨折れまっせ。仕事の方だけなら、まだ|宜《よろ》し ますが、|嬢《とう》さんの番まで仰せつかると、何の休みか分れしめんさかいな」  いささか弁解めいた練太郎の云いようも、一層春子たちには面白いらしかった。練太郎は笑う 二人の婦人から、眼を|反《そ》らして森の中を見廻したがら、 「ここは閑静なええ所ですな。鶯も鳴いてる」 「京極さんは月に幾度ほど、東京へいらっしゃいまして?」と清子は訊ねた。 「さア、一、二度は来ますが、ひどいときには、五度は来ますな。それにここは私、初めてです よ。大阪の人、だいぶ来てますな」                     人 「|熱海《あたみ》もそうでしてよ。もう別荘もたいてい大阪の人の別荘にたって来てるのね。御時世だわ」 と春子は感慨深げに云った。 「東京の人、怒ってやはりまっか」 「別に怒るようなこと、東京の人しないけど、関西の人にはかなわたいと見えるのね。赤倉だっ て冬になると、大阪の人だらけたんですもの。銀座のカフェーだって、大きなものはたいてい、 大阪の人の経営ですってね」 「ところが、近ごろ0大阪はまたこれで大分|違《ちご》うて来てるんですよ。地方の人が大阪へ割り込ん で来て、古い大阪人の店を|喰《く》い込んで、引き|摺《ず》り倒すようになって来てますさかい、どこがどう って一概には云えませんですな」  こういう話になると、白然、大阪の資本に運転させられている春子の家や清子の家の現状を、 暗に説明する結果にたり、三人の問は|白《しら》けずにはいなかった。  練太郎はホテルヘ帰ったがまだ夕食には間があった。彼はロビーの外人の群の中で、ひとり椅 子に腋を降ろして英字新聞を読んでいた。足もとの砂の上を四五歳の外人の子供が二人、乗れぬ 白転市を引き捫り廻して遊んでいた。どこからか思い出したように風鈴の鳴るままに夕暮が迫っ て来た。  夕食前になると、ラケットを小脇にかかえた若い婦人たちが、森の中から軽快な自転車で続々 と帰って来た。食器の音がパントリイの方で急に|喧《やかま》しくなって来た。 「あら京極さんやわ」  という忍の声が、突然聞えたのもそのころである。見ると芝生の中の小道から、手を上げて笑 っている忍につづいて泰子がいた。練太郎は新聞を降ろして二人を見ながら笑った。しかし泰子 は笑いかかった顔を、すぐ|俯向《うっむ》けて急に心配そうな表情で忍のあとから近よって来た。 「いつ、お出でやしたの2」と忍は練太郎の傍まで来て訊ねた。 「さっき来たとこですが、あんたらの番せい云われましたので、窮屈やろけど辛抱しなはれ」 「番は恐れ入りますわ。あなたの番したげたいくらいやのに」 「そうかて、仕様がない」 「お部屋、あったの?」 「一つ、残ってましてん」 「いややなア」と、忍は露骨に|眉《まゆ》を|蟄《ひそ》めて云った。 「どうしてでんね?」 「どうしてでもあれへん。分ってますやないの。あんたはん、すぐどこぞ、お部屋の空いてるホ テル探しとう。ほんまに運が悪いわ。出るとき空いてるとこ、なかったのになア」  と、苦々しげに忍の云うのに、また練太郎は、 「何ぞ具合の悪いこと、ありまんのか」と訊ねた。 「も一人、東京から来やはるのんお部屋なかったら、あたしら困るわ」 「そんなら|狼狽《うろた》えること、あれへん。僕部屋代りに取っといてあげたようなもんや」  忍は声を上げて笑い出した。 「大きにありがと。お礼しますさかいそうしとう。ね、泰子さん。その方がいいわね。うまいこ と考えてくれはったわ」  笑いつつ忍と泰子は着物を着替えに自分の部屋の方へ行ったが、練太郎はそのままそこを動か なかった。彼は自分の部屋へ高之を呼びよせる相談が、二人の間に出来ていたのに初めて気付い て、「何んや、そんなことか」と思ったが、別に不服な気持も毎度のことで起らなかった。それよ り高之が来るなら面白い。ひとつ高之に逢って泰子をどうしてくれるつもりがあるのか彼の|肚《はら》の 中を、とっくり訊ねようと決心した。 「わしを嫌いなら嫌いで、わしもかめへん。やるわ。一生大将の娘背負わんならんのは、かなわ んのでのう」とこう思う。  練太郎はボーイを呼んだ。彼はボーイに今の部屋はそのまま借りておくが、他に部屋がないな らどこかのホテルに電話をかけて、空いた部屋を探してくれるようにと命じた。ボーイはすぐ戻 ってくると、今のところどこも約束だが、そのうちに空くのがあるから空いたらすぐ報せるとの 返事であった。しばらくして、忍と泰子とがまた練太郎の傍へ来た。 「あなた、大阪へいつ、お帰り?」  と、忍は訊ねた。もう帰れ云うのか、と練太郎はむっとなった。 「なるだけ早よ帰りまっさ。浅間へ登ったら、こんなとこ、用あれへん」  彼はにやにやっと笑って泰子を見上げると食堂へ這入っていった。  高之が軽井沢へ着いたときはもう夜の八時であった。高原は一面の霧で停車場前に集っている 人々の顔は、どれも雨に打たれたように|濡《ぬ》れていた。やがて、高之の自動車は春子の家の方へ進 んでいった。彼は忍や泰子から電話で絶えず万平へ来るようにと誘われたのである。それにも|拘《かかわ》 らず、春子や居…子のいる方へ自動車を進めている高之の気持は、このとき、なかなか複雑なもの があった。彼は清子と見合いをした以上、出来ることなら今しばらく彼女と交際をして、清子と 結婚したい希望も動かぬではたかった。けれども、そうかと云って泰子の方はまたこれは別であ る。高之は、心中では泰子を愛しているのだった。しかし、泰子と結婚すれば、春子一家と共同 の仕事が運転し|難《にく》くなる恐れがある。それのみではない。何から何まで絶えず自分たち一家を、 |剛復《ごうふく》に押しつけて来た泰子の父文七を|跳《は》ね返す機会が、もはや永久になくたるのだ。これは男と しては耐えられるものではない。それ故、高之は自分の迷う心が一時も早く、清子に引きつけら れてしまいたいと、法事の日からあけくれ願うようにもなっているのだった。ーいったいに、 結婚前や恋愛になろうとする一歩前ほど、人の気持の分り|難《がた》なく複雑になる時期はない。恋愛を してから二人で結婚するのと、結婚をしてから妻と次第に恋愛に這入っていくのと、どちらを取 ろうかと迷っているのが、つまりは高之の今の状態だった。 「あの清子となら、一度でも多く逢えばそれだけ恋愛になっていくに|定《ぎま》っている。あれはなかな か良い婦人だ」  と、こう思う。 「けれども、泰子とは、もうほとんど、恋愛とも同様だ」 と、またこうも思う。高之も結婚前であるだけに、結婚をしたくないとどこかで一点拒否する 気持のある婦人とは、恋愛をすすめたくはないのだった。  立ち込めた霧は窓の傍までひたひたと迫って来た。ときどき、車はその霧の中で飛び上った。 揺れる度に寒いほどの落葉樹の林を抜け、白い花の満ち|溢《あふ》れた野原を横切り森ヘ…一一氾入った。しか し、ふと泰子の怒り悲しむ表情が浮んで来ると、突風のようにぐらぐらっと急に泰子に逢いたく なる。 「いやいや」  今ごろからこんなことでは、いつまた泰子に舞い戻るか分ったものじゃないと、高之も不安に なった。自分の命じた車であるにも拘らず、今は車の|命《めい》のままに引き摺られて行くように、高之 は清予のいる家の玄関へ立った。 「今晩は」  と、高之は云った。出て来た女中が高之を見てすぐ引っ込むと後から春子が出て来た。 「ひどい霧だね」 「今、いらしたの?」と春子は|疑《うたぐ》るような眼つきで、笑顔もせずじっと高之を見詰めていた。 「ムマだよ。なぜだ」 「じゃ、万平へは、まだなのっと  と、春子はにやりと皮肉に笑って訊ねた。高之は黙って答えなかった。そのとき、表で方向を 換えようとして、急に鳴り出した自動車の爆音を聞くと、それと同時に不意にまた古回之の気持も 揺れ動いた。 「これから、どっかのホテルヘ行くよ」 「あら、だってお部屋ないわ」 「いいよ。探すよ。一寸|挨拶《あいさつ》だけだ。明日来る」  高之は帰ろうとする自動車をまた呼びとめた。春子は彼の後から、 二寸、高之さん。そんなに奇妙なこと、するもんじゃないわ。まア、酋}一旭入りなさいよ」 「部屋をとってからゆっくり来るよ。ニューグランドにする」  高之は自動車のノブに手をかけた。 「じゃ、もしお部屋なかったら、すぐ引き返してらっしゃいな。清子さん、一寸」  と、春子は奥の方に向って大きな声で呼ぶと、立ち波模様の浴衣に|籠目《かごめ》の帯の、すっぎりした 清手の姿がすぐ玄関ヘ現れた。しかし、二人の間は四間とヘだたないのに、もう|荘《ぼうぼう》々とした霧で どちらの姿も見えなかった。 「清子さん、ここにいらっしゃるのよ。御挨拶しなさいよ」  と、春子は自動車の方に向って云った。すると、霧の中から高之が近よって来て、また玄関へ 現れた。 「しばらく」  会釈をした高之はゆったりとしていたが、どこか表情は固く、霧の冷たさのためでもあろうか、 60」 青ざめ"嚇ぜけが光っていた。清子は黙って淡やかにお辞儀をしただけだったが、霧も貫くばか り|爛《らんらん》々とした眼は、大きく開いたまま高之を見詰めていた。 「部屋をとりたいと思いますので、とったらお遊びにお出で下さい。今夜は疲れていますからこ こで失礼します」 何の残り惜しげもなくまた高之は引ぎ返そうとした。 「ちょっと、たったそれだけなの,」 と、春子は高之に言った。しかしそのときには、もう高之の姿は霧の中へかすんでいた。 彼は、がたがた揺れる道を五六分も自動車を走らせて、二駭グランドのロッジに着いた。ロ ッジには部星か一つ空いていた。彼は風呂隻.旭入ると二ツ筋の浴衣に肴替え、寝台の上ヘ長くな った。時計を見るとまだ九時には間があった。汽車で疲れているとは云え、寝るには早し、町へ は霧で寒・すぎる。万平にいる泰子や忍に電話をかけねばならぬ礼儀もあるが、今ごろ二人に来ら れては休養も出来難かった。電話は明日にしよう。とそう思って立って窓を開けてみると、窓か らは霧が煙のように渦巻いて流れ込んだ。 「ほう」  と、彼は面を反らして、ゆるく肩を|叩《たた》きながら立っていた。そのとき、部屋のドアをノックす る音が帷く聞えた。 「どうぞ」  ドアが開くと、思いがけなくそこに京極練太郎が笑いながら立っていた。 「やア」と高之は云って椅子の方へ歩いた。 「そこんとこで、今さき、あなたらしい人を見かけましたので、そうやないか思うて聴きました ら、やっばり、そうやそうで」 「あなたは、いつこちらへ」 「二日前に来ました。私やひどい目に乗りましたよ。万平へ部屋とったら、|嬢《とう》さんたちにほり出 されましてな。あんたが来られるさかい、部屋を貨せって、無茶云やはるので、とうとうここへ 来ましたのや。重住さん、万平へ行きなはらんのでっか」 「ここの方が気楽ですよ。あそこはどうも、うるさくって」     ゼいたく 「そら、賛沢ですがな」 「さア、どうぞ」  と高之は云って椅子をすすめた。練太郎と高之は向き合って椅子に腰を降ろした。 「万平も込んでますか」 「はア、いっばいです。私も長いこと、いられやしませんのやが、これで|偶《たま》には、休みませんとな」  とこう練太郎の顔は、いかにも一見気長で、楽しそうであった。高之は練太郎を見ると、いつ も胸中に一点の警戒心を抱くのが癖であった。しかし、それは商売の上である。今こんなに高原 のホテルでさし向いになってみると、心はのどかになって来て、自然に二人は若者同士のうち解 けた気楽さを感じて来た。 「そのうち、大阪へ行こうと思っているんですよ。この前、|船場《せんぽ》の友人に逢ったら、船場も変っ たと云っていましたが、あそこも知らぬ間に妙な具合になって来たもんですね」  と高之は云って煙草を練太郎にさし出した。 「はア、有難う。船場もあれでなかなか、油断ならしませんな。丁稚がそれ、会社員制度になっ て来たでっしゃろ。あれで、丁稚も大将も、思案|投首《なげくぴ》というとこで、途方にくれてまんね。会社 員制度やと、行く末|暖簾《のれん》分けて、別家にせいでも宜しますやろ、そやけど丁稚やと、暖簾分けて やらんと阿呆らしゅうて、辛抱しやしませんが。ところが、そんなら、暖籐分けて、さて、別家 さしてやって、|上手《うまび》く行くか云うたら、今はもうむかしやないで、上手く行けたためしがない。 そやもんで、主人も困れば丁稚も困るという寸法になって、どうもならしまへんでっしゃろ。そ ら、苦労でっせ。主人も、一生沢山の丁稚背負い込まねばならぬし、そうか云うて、その丁椎、 果して、店の役にむかしのように立つかどうか、これ、分れしめへんさかい、厄介者ですが」 「そんなら一思いに、会社員制度にしてしまったらどうです」 「ところが、それが、丁稚制度の主人の苦労を、丁稚本人まだ何にも知らんもんやさかい、どし どし習慣になって、続いてまんね。みな謔も暖簾分けてもらう事ばっかり楽しみに、生きてます のやろ。それを一朝一夕に、社員制度にしたら、何も楽しみもう有れしめへんが。これ、どない になるもんや、相当大きな社会問題でっせ。誰もまだ気がつきやしませんが。気のついたときは、 そら、東京みたいに、やっさもっさや」 「思想になって来ますからね」  と、高之も、これは興昧深い問題だという風に考え込んだ。 「私ら、もとは丁稚でっしゃろ。それで、人一倍これは考えまっせ。私は株の事でも、そう思い ますがこのごろ私は、|金儲《かねもう》けしたろいう気は、そない有りませんな。どこまで金という奴、動く もんか、動かしてみてやれ、云う肚の方が強うなって、|溜《た》めよいう気起りませんよ。そら、欲し いのは欲しいですが、うちの大将みたいなこと、出来まへんな。あんな大型は、あれはもう、出 ませんよ。おしまいや」 「あなたが大阪にいらして、一番困ることは、どんなことです?」 「そうでんな」  と、練太郎はにやりと笑って考える風だったが、そのときドアがまた鳴った。ボーイが這入っ て来ると、「女の方が、おいでになりました」と|報《しら》せた。高之は立って部屋を出ようとすると、 ボーイは、 「京極さんにです」と云い直した。          かぶか 「僕に2」練太郎は誼しそうに振り向いて、「間違いやないか」 「池島忍さんと云う方です」 「あ、そうか」と練太郎は云って部屋を出ていった。  さてと、高之も|一寸《ちよつと》困った。忍が練太郎のところへ来たのなら、自分のここにいるのがすぐ泰 子に知れてしまうに定っている。すると、もうはや足音が近づいてひどい剣幕で忍は高之の部屋 へ這入って来た。 「高之さん、いけずやわ。なぜ報して下さらなかったの。あたし京極さんがあなたのお部屋占領 しやはったので、追い出して、ここへ移ってもろたのに」 「そりゃ、無茶だね」と高之は云った。 「そやで、京極さんにお|詫《わ》びに来たのやわ。早よう万平へ行ってあげて、泰子さん、病気しやは りますわ」 「今日なんか行けば、僕だって病気するよ」  くッと忍は肩を縮めたが、すぐ窓の傍へ歩いていって、 「こんなひどい霧に、窓あけとく人、ありますか」  閉め寄せようとする窓の下から一層激しく霧がもうもうと舞い込んだ。忍は窓を閉めると卓上 電話をとって泰子にかけた。 「泰子さん。あたし、今どこにいると思って。あのね、すぐここへ来とう。何んでもないけれ ど、急用が出来たの。違う違う。来たら分る。すぐよ」  忍が電話を切ると、高之は顔を靉めたがら云った。 「そう云うことをするのは、精神違犯だぜ」 「|洒落《しやれ》はなしよ。ね、高之さん、あなたどうして泰子さんを嫌いなの。あの方、それ、あの練太 郎さんね。あの人と結婚せんならん羽目になるよって、早よう高之さんと結婚したいとやきもき してやはりますのよ。あたし、間に立って、気がもめてしょうがないの。ね、今のうち何とか、 定めるだけ定めて上げとう。あたし、きっと春子さんが間に立って、邪魔してはるのや思うけ ど、これ間違い2」  忍のにっこり笑う視線に、高之は依然としてとぽけていた。 「そんなこと、ない」  忍は、突然強く高之を|睨《にら》んだ。 「あたし、春子さんと何も関係ないよって、喧嘩しまっせ。かめしめへんか」 「しかし、京極さん、そりゃ気の毒だね」と高之は云って一瞬真面目に考え込んだ。 「あんたはん、まだそう云うこと云やはりますの。嘘つきやわ」 「しかし、そうだよ」 「そんなら、泰子さん、どうしやはりますの。このまま、すごすご大阪へ帰せやしませんわ。あ たし、引き受けたも同様やで、あたしの顔、立ててちょうだい」 「そう云うことは、そう、|急《せ》くもんじゃたいさ。眼が廻るよ」 「そんなら、あたし一人で、定めてしまお」  高之はにやにやしながら窓を開けかけた。 「いややわ。その窓、今閉めたばかりやないの。うろうろせずに、こっち向いてちょうだい」 「困るね、君には」  と、高之は苦笑をもらした。そのときボーイが這入って来た。 「女の方がお二人お見えになりましたが」  二人なら、春子と清子だと高之は思った。 「どなた?」と忍はボーイに訊ねた。 「さア、何とも仰言いませんでしたが」  忍はボーイを突き|除《の》けるようにして、黙って一人ひどい勢いで部屋の外へ出て行った。が急に 振り返ると、高之に云った。 「高之さん、あなた、裏から逃げて、泰子さんを待っててちょうだい。きっとでっせ」  忍は玄関の方へ出て行くと、そこに春子と清子が話しながら立っていた。 「あら、いらっしゃい。先日は」  と、忍はにこにこしながら二人に云った。春子の顔は瞬問ちらりと曇ったが、 「今晩は。高之さん、いらしって」と落ちつき払って訊ねた。 「あたし、高之さんの来てらっしゃるの知らんと、京極さんの所へ、今遊びに来たばかりですの よ。そしたら、高之さん来やはった云やはりますので、お部屋へ行ってみたら、いやはらしまへ んの。あら、|蛾《が》や」  ぴしゃりと、忍は春子の胸にとまっている大きな蛾を叩き|飛《とぱ》した。びっくりして、ぎょっと後 へ下った春子に、 「京極さんいやはりますで、そこのお部屋へ、行きましょ。どうぞ」  と、忍は先きに立った。しかし、春子と清子は忍の後につづこうとしなかった。 「それじゃ、そのへん、散歩に行って来ますわ。また後ほど」と春子は云った。 「でも、今夜は霧がひどいですから、お部屋でお待ちになって?」 「いいんですのよ」  二人は外ヘ出ていった。今外を二人に歩かれては高之と出逢わす恐れがあった。忍はすぐ高之 の部屋へ引き返した。けれども、もうそのときには高之の姿は見えなかった。 「|失敗《しも》た」と忍は思うと、すぐ今度は裏口ヘ飛び出して高之の出たらしい後を追ってみた。しか し、道は真暗な上にいっばいの霧で、眼の前の立木の幹だけ人のように|縢《おぼ》ろに立っているだけだ った。声を上げて名を呼ぼうにも春子や清子に聞かれる恐れがあった。しばらく、忍はうろうろ しながら、万平の方へ行く道をとっとと急いだ。と、突然、忍は引き返した。もうここまで追っ て見えないなら、高之と泰子は道で出逢ってどこかで話しているに相違ないと思ったのである。 忍はロッジヘ戻ると練太郎の部屋へ這入っていった。練太郎は一人退屈そうに煙草を吹かしてい た。彼は呼吸を弾ませて霧で顔をべっとり濡らしている忍を見ると、 「何を|周章《あわ》ててなはるのや」と云った。 「あ、そうや、京極さん。あなたにお頼みあるのやわ。いつもいつも、|済《す》んまへんけど、泰子さ ん、ここへ来やはりますの。そうかて京極さん、怒らんといとう。あたし、恨まれたてもかめへ んけど、泰子さんと高之さんと、どうかして結婚させてあげたいのやで、辛抱してちょうだい」 「そら、賛成やな」  と練太郎はにやにやと|嘲笑《ちようしよう》したような無気味な笑いを浮べた。 「本当、それ?」 「そんなら、あんた、嘘や思うてなはるのか」 「嘘や思えへんけど、念を押さんと、後で困るもん。辛抱しとう」 「そんなら、僕、どっちのホテルヘ行ったら、ええのんや。行け云うとこまで、行きまっせ」 「あなたここにいてくれはったら良いわ。そりゃ、京極さんと泰子さん、結婚しやはって、仕合 せになるもんなら、あたしだって嬉しいけど」 「なるだけ、応援さして貰いまっさ。その方が|恰好《かつこう》がええ」  練太郎は急に黙ってじろじろ忍の顔を見ていたが、|鬱勃《うつぼつ》としていた反抗心もまた急にあきらめ に変ったらしく、顔を隠すように新聞を音たてて拡げた。  高之は忍の後から玄関まで清子たちを迎えに出ようと思ったけれども、もし今、春子や清子に 会っていたなら、間もなく来る泰子と一緒になって、捻じれた気苦労は大へんだと思った。これ は逃げるに越したことはない。とにかく、疲れたと思いながら、高之は部屋を出ると、玄関から 反対の裏ロヘ廻り、そこから樹の間を抜け、プールの横を万平の方へ歩いていった。彼は泰子と も別に今夜会おうとも思わなかった。ただ泰子の通るところを、ひと目見たかっただけである。 森を横切り三四町も歩くと、|離山《はなれやま》の方から流れて来た濃霧が一層|淋《さび》しくなって来た。日ごろも|芒《すすき》 の多いそのあたりは、霧か芒か、ほの白い一面の花の中から、うう、ううと霧が|唸《うな》りを上げて|捲《ま》 き襲った。すると、そのとき、ヘッドライトがかすみながら進んで来た。それはたしかに泰子の 自動車だった。  彼はそのまま立ち停ったものの、車を|除《よ》ける幅がない。徐々に近づく光を見詰めていると、や がて前まで自動車が進んで来た。高之は自動車を除けようとして芒の中へ片足を踏み入れた。そ の拍子に消えたライトがばッとまた点いた。泰子は高之の方をちらりと向いた。けれども、車は そのまま高之の前を通りすぎた。  高之はしばらくぼんやりと立っていたが、ひどく胸の|動悸《どうき》の高まっているのを感じた。彼はも う前方へ歩く気はしなかった。そのまま車の後から戻ろうとすると、過ぎ去ったと思った車がぴ たりと停った。やはり見附かったな、と、こう高之は思ったが、今さら逃げる事が出来なかった。 そのうちに、足音だけが彼の方へ近づいて来た。すると、朧ろに人影が見えて来て泰子が前に立 っていた。 「君ですか」  と、高之は云った。泰子は黙ってちょっと車の方を振り返った。雨合羽がかすかに音を立てた。 「さっき着いたばかりでね。お報せしようと思ったんだが、疲れているので、明日にしようと思 ったら、忍さんがやって来たんですよ」 「しばらく」  と、泰子は初めて笑って会釈をした。 「やア」 「お待ちしてましたわ」  見上げる泰子の眼を見ると、高之は逃げまわる心も鳴りを|鎮《しず》めて、霧の中に吸い入れられるか と思われた。 「東京では失礼しましたね。何んだとかかんだとかで、忙しくって、暇もないのでついそのまま にして、失礼」 「どうして、こんな所へ来やはりましたの^〜」 「ここを君が通ると思ったもんだから、出て来てみたんだけれども、この霧じゃ分らない」  泰子は何か急に思い迷うらしく、芒の茎を|擦《こす》って一群の霧の急がしそうに疾走しつづける足も とに眼を落し、 コ高之さん、長いことは、ここにいられませんの?」 「いられないな。とにかく、あなたらより、先きに大阪へ行かなくちゃ、問に合わぬ仕事がある んでね。お父さん、ゆうべ大阪へ帰られましたよ」 「そう」  高之は胸へ片手を入れながら、停っている自動車の方へ歩いた。もう逢うまい、逢うまいと思 いつつも、さてこうして泰子と会っていると、高之は次第に文七への反感も、いつともなく無く なって来るのだった。 「今ホテルヘ行けば、春子さんも行ってますよ」  行けば逢うぞと云うつもりのところを、行けば会えると云うように高之は云うのだった。 「そう」 「何んなら、そのへんでお茶でも飲みましょうか」 「ええ」 と、泰子は云ったが、そのままそこに立ち停った。高之は振り向くと、何か決死の表情が泰子 の顔に流れたのをちらりと見た。迷いは高之も同様のこととて、ひやりと寒く感じるのを、これ では駄目だと心を追い追い、一人ぶらぶら歩いていった。唸りをとめた霧はまた風のように鳴っ て来た。泰子は俯向きながらついて来た。 「高之さん、いつ大阪へお行きですの」 「帰ればすぐです」 「じゃ、あたしも帰ろうかしら」と泰子は口ごもった。 「まだあなたは、良いでしょう」 「そうかて、ここにいても、何もすることありませんわ」 「いつだって、ないでしょう」 「そんなに見えまして、これでも、家へ帰ればすること沢山ありますわ」 「それじゃ、向うでまた、お邪魔しましょう」 「どうぞ、秋になると、文楽が寺子屋の通しをやりますんですの」 「そうですか。それは面白いでしょう」  とこう高之は|相槌《あいづち》打ったが、彼には文楽など実はどうでも良かった。それより、何としてもこ の恋愛に打ちひしがれる自分の心を、救い出さねばならぬと雲を|掴《つか》む思いで灯のある方を見るの だった。霧の中から|賑《にぎ》やかな灯のほのかにぼけて浮き出すあたりまで来ると、傍を通りぬけた婦 人が立ち停った。 「高之さんだわ。きっとそうよ。高之さん」こういうのはたしかに春子の声だった。その横には っきりとは見えぬが、清子もたしかに立っていた。 「おい」と高之は|咄嗟《とつさ》のこととて答えてしまった。 「どこへいらしたの。そりゃ探したわ」  こう云う春子も、高之の傍にいる泰子にはや気がついたらしかった。春子は高之の傍へよって 来た。高之も泰子の傍を放れて春子の方へ歩いて来た。二人の位置は丁度黙って立って届る泰子 と清子との中間になった。 「あれ誰、泰子さん?」と春子は声を落して訊ねた。 「うむ」  と高之は|曖昧《あいまい》な返事をした。すると、春子はひそかに泰子と高之とを逢わせるため、自分たち を誤魔化した忍の策略に、初めて気附いたらしかった。 「馬鹿にしてるわ。忍さん、ホテルで一人、うろうろしてらしってよ」           簑  と、春子は皮肉に唇を傑わせた。 「どっかここらで、お茶を飲もうか」 「ホテルヘ行きましょう。清子さん、いらっしゃいよ」  清子は春子の傍へよって来た。高之と清子は黙って会釈をしてから、三人は泰子の立っている 方へ歩いて行った。 「今晩は」と春子は大ぎな声で云うと、「先日は」と泰子も、小さな声で挨拶した。  清子と泰子は、無意味ににっこり笑って、どちらからともなく会釈しただけだった。高之と春 子を中に|挾《はさ》んで、四人はホテルの方へ歩いた。一見何事もなさそうだったが、奇妙な息苦しさが 四人の胸の中を貫ぬいて流れていた。しかし春子と清子のホテルヘ訪ねて来た事を知りつつ裏か ら逃げた高之は、これも逃げた罰だとあきらめる、|辛《つら》そうな顔だった。 「あなたたち、どこまでいらっしたの、こんな夜ふけに?」と春子はまた高之を刺し始めた。 「いや、すぐそこで、逢ったのさ」 「あたしたちホテルヘ行ったの、御存知だったんでしょう」 「知らんよ。それはどうも、失礼したな」 「忍さん、|藪蛇《やぶへび》だったわけね。あはははは」と、春子は突然大きな声で笑った。 「忍さん、何か云ったのか」 「それは達者よ。あの方には、あたしもかかったわ。あたしが這入って行ったら、いきなりばっ とあたしの胸をひっ|叩《ぱた》くんでしょう。何んだと思ったら、蛾が胸にくっついてたのよ。あたし、 あれには|面喰《めんく》らったわ」  高之に聞かすより、むしろ泰子に聞かす春子にちがいなかったが、それでも高之は不快であっ た。ホテルヘ戻るともう火を消している部屋もあった。ロビーでは外人たちの中に混って忍と練 太郎が話していた。 「いましたよ」  と春子は忍に、霧の中で撃ちとめて来た獲物を、どたりと投げ出すように云った。 「あら、お|揃《そろ》いね」  次々に霧の中から現れて来る一同の顔を見ながら、忍はにこにこ笑っていた。 「もう、帰りましょうか」  泰子は忍に云った。 「|嬢《とう》さん、もう忍さんをつれて帰ってくれたはらんか。うるそうて、休んでられへん。こっちは、 休暇もろて来てまんのやでた」と練太郎は泰子に云った。 「それじゃ、自動車呼びまひょ」  忍がボーイを呼ぶと、清子も春子にもう帰ろうとすすめた。 「高之さん、いずれ朝は遅いんですもの。まだいいわ」 「それじゃ、あたしらも、もっといましょ」と忍も云って練太郎の方を見た。「いいでしょう。京 極さん」 「眠いのう」  と京極は無遠慮ににたにた笑ったきりだった。帰りかけようとした忍が、再び腰を落ちつける と、今まで|臟《だま》された|忿濾《ふんまん》を胸に潜めていた春子の顔色はさっと変った。高之は早くも春子の眼の 色を見てとると、今春子と忍を|饒舌《しやべ》らせては事だと思った。 「春子さん、京極さんはまだ清子さんを御存知ないんでしょう」  清子と練太郎と逢ってもまだ誰も何の紹介もしないのに気がついて、ふと高之はたずねてみた。 「知ってらっしゃるのよ、もう」と春子は、そんなことなど、どうでも良いと云う風に投げやり に答えた。 「ふうむ」  と高之は誇しげに云った。しかし、表面静かに「ふうむ」ですましたものの、このとき、何と なく疑問がむくむく頭を|擾《もた》げて来た。 「どうして?」 と、さらにまた高之は春子を見た。けれども、もうこのときには、春子の怒りは高之にも突き かかって来ていた。 「いいじゃありませんか。そんなこと」 「春子さん、もう帰りましょう」 と、清子ははらはらしながら云った。しかし、一座の中で、誰よりひそかに狼狽したのは京極 練太郎であった。彼は夜半赤坂で半造と会ったことを気づかれては、この休養も無駄だっ仁 「来た日に、そこらうろうろしてましたら、ひょっこり春子さんとこの裏へ、出たんですよ。そ れで遊ばしてもらいましてん」と練太郎は高之に弁解した。 「あら、早いのね。もう清子さんと逢いやはりましたの^!」  と忍は突然おかしそうに笑った。さも意味深そうにそんなに忍から笑われては、清子とて納っ ているわけにはいかなかった。 「あたしんとこの半造、何んですか、度々京極さんの御厄介になったらしいんですのよ」  と清子は高之を見て云った。 「あ、そうですか」と高之は初めて真相が知れたと云う風に練太郎を見た。 「いえ、別に私は半造さんをよう知ってるわけやありませんが、|場《ば》でよう逢いますのや」  そんな弁解などなぜするのだと高之は思った。さきから、何となく|腑《ふ》に落ちぬ練太郎の|悠《ゆうゆう》々た る誤魔化しの態度が、このときますます高之には疑問になるのであった。  ー-これはやってる。ただ事じゃないぞ。  とこう高之は思うと、もう周囲に渦巻いている恋情も、嫁の候補も吹き飛んで、生馬の眼を抜 く仁礼一党の商策のからくりへと、頭は鋭く廻り始めていった。しかし、彼はあくまで素知らぬ 顔をしたままロビーヘ捲き襲って来る霧の早さを|眺《なが》めながら、 「ここはこのごろ毎晩こうですか。忍さん、その服じゃ寒いでしょう」 「でも、あなたの方が寒そうね」 「あ、そうか、まだ|浴衣《ゆかた》だったんだな」と高之は自分の両腕を見せた。 「はッはッはッは、わしも浴衣や」と練太郎は突拍子もなく大きな声で笑った。 「清子さんの着物、それ高い着物ですわね。模様が肩の所へ出てないわ。別染でしょう」  と忍はさすがに女らしく、清子の着物の露芝をじっと見た。 「ほんとに、優しい柄ね」  と泰子も云った。ロビーにいた外人たちは一人へり二人へって、問もなく、がらんとたったこ ろ自動車が這入って来た。 「それでは、皆さん、さようなら」と泰子は云った。 「その自動車、待たしときなはれ」  と忍はまだ踏みとまりたいらしかった。しかし、泰子は黙って先に自動車に乗った。 仕方もなく、笑いながら泰子の後からついて降りた。 忍も今は  昨夜の霧は夜中に雨になったと見える。高之が朝起きると雨上りの湿った地面に、朝日が美し く|斑点《はんてん》を浮べていた。あたりの|爽《すがすが》々しい空気はひやりと冷たく、露を含んだ木の葉の光はすでに 初秋の柔かさをたたえていた。前のプールではもう外人が水を切っていた。そうかと思うと、馬 に乗った婦人が木の間に隠見しながら、|蹄《ひづめ》の音を立てていた。しかし、高之は昨夜の清子の話を 聞いて以来、もうのんびりとしていることが出来難かった。昨夜泰子や忍が帰った後で、練太郎 が部屋へ這入ると、高之は清子にそっと聞いてみたのだった。 「京極君が半造さんに逢ったと、さきほどあなたが云われましたが、あれはどんな事だか御存知 ありませんか」  すると清子は、まだ高之に疑われている|口惜《くや》しさに、どぎまぎしながら、 「よくは知らないんですけれど、東京製紙の株を半造がたのまれたんだとか、云ってましたわ」 「なるほどね。そうですか」  と、高之は云ったものの、思わず彼も清子から顔をそ向けずにはいられなかった。  いよいよそれでは、そうだ。大阪製紙の大株主である仁礼文七が、東京製紙の株をそのまま捨 てておく|筈《はず》がないと、かねがね疑っていた事である。あれを合併されたら、|忽《たちま》ち自分の家は破産 だ。由刃を脇から|覗《のぞ》いたように高之はどきりとした。それにしても、あの|淑《しと》やかな泰子の裏から、 このような|毒牙《どくが》が迫っていたとは、何と因果なことだろう。ーそれも泰子の家ばかりではない。 清子の家にしても東紙を練太郎に売るなんて、どっちもどっちだった。  高之は森から森へとさ迷いながら、昨夜以来の策戦をまた練りつづけていくのだった。何とい っても杣象的な問題は彼には今は何の役にも立たなかった。具体的な事実が数字となって彼を足 もとから覆滅させて来つつあるのだ。  彼はその日すぐ東京へ帰ろうと思った。けれども、それでは練太郎にこちらの不審を気附かせ る恐れがあった。  いや、あの男のことだ。もう|昨夕《ゆうべ》で知っただろう。それなら必ず今日ここを立つに相違ない。ー  こう思うと、もう高之は一刻の猶予も出来難かった。すぐ彼はホテルヘ引き返した。彼は春子 の父の尾上惣八に電話をかけて、東京製紙の今日の値を聞かねばならぬ。もし値が下っているよ うなら、敵の練太郎の策略は着々功を奏していると見るべきだった。 「東京銀座××番」  電話を通じて尾上の出るまで高之は待っていた。待つ間彼は練太郎が|鍵穴《かぎあな》からでも電話を聴き そうに思われてならなかった。何ぜかというと、このとき高之も練太郎の東京へかける電話を聴 きたくてならなかったからである。しばらくして、ボーイが朝の新聞を持って這入って来た。す ると、その後から練太郎が現れた。早くも察して彼も半造に電話をすまして来たのに相違ない。 ー高之は笑顔を造って|刺客《しかく》に椅子を出した。 「昨夕は雨が降ったと見えますな」  と練太郎はおっとりと煙草を吹かしつつ窓の傍へよって来た。これでは一足先きにやられた な、と高之は思いながら、 「もう、こりゃ、秋ですね」  とこちらも落ちつき払って云ったものの、今ごろ練太郎が来るようでは、自分の散歩の昭守に、 幾回も来てみたものに相違ない、と思われた。  じゃ、よし、このひと膀負は練太郎の面前で、電話をかけてやろうと高之も度胸がだんだん坐 って来るのだった。 「京極さんは、当分いられるんですか」 「ええ、ゆっくりしたい思うてますのや」  何をッと高之は思ったが、 「このごろはゴルフの方、いかがです?」  と彼もさるものらしく練太郎に笑顔で訊ねた。 「あ、そうや、今度大阪へ来なさったら、一つ神戸の広野へお伴しょうと思うてましてん。あそ このリンクは素晴らしいもんでっせ。見やはりましたか」 「いや、まだ行かないんですよ。なかなか良いそうですね」 「そりゃ、あれは日本一でっせ。どうです。広野の練習に、後で一つ願えませんか」 「やりましょう」  こう二人の云っているところへ、丁度電話がかかって来た。高之は受話機の前へ行きつつ、 「一寸、失礼します」  と云って練太郎を振り返った。「どうぞ、じゃ、後で行きましょう」と練太郎も云って部屋を出 ていった。高之への電話は、やはり、先きに通しておいた春子の父の尾上からだった。 「僕、高之です。あのね、昨夕一寸話した東紙のことですが、あれどんた模様です〜」 「下って来てますね」 「やっばり、そうか。どこが売ってるか分りませんか」 「それがね、全く、どことも云えないマバラ売りなんですよ。どうも少し売りながら、売りもの がつづくので、目立たないが、いやな気持なんですよ」 「それじゃ、}寸、停らないですね」 「ええ、そのくせ、じりじり底値までは、 一度は落していくらしい相場のようです」 「ふむ。じゃもう、そうと分れば、昨夕の話のように、東紙を出来るだけ買い集めてくれません か」 「買うんですね」と不審らしい尾上の声だった。 「そう、それから、どうしても、大紙、大阪製紙の方も、買うのは今にたって来ましたが、金、 どれくらい出来ます?」 「金庫はあのままですけれど」 「じゃ、すっかり、昨夕話したままに、僕やりますから、大阪へ行ぎます。池島さんに、いよい よ口を切らなくちゃ、これじゃ、とても駄目ですよ」 「そうですね」 「こう火がついちゃ、ー工業も洋産も、ここで処分して、すぐ銀行へ渡してくれませんか。そ れから大阪へ行きますから」 「じゃ、そうしときましょう。しかし、池島さん、大丈夫ですか」 「まア、どうにかしてくれると思いますよ。僕その場で、腹から小切手を出すつもりですから」  いつもなら笑うところを、もうこのときは、高之も笑うことは出来なかった。 「お帰りいつです2」と尾上が訊ねた。 「あ、そうだ。今夜にしましょう」 「今夜ですね」 「今夜ーところが、京極君が向うの部屋にいるんでね。|狼狽《うろた》えるわけには、いかんのですよ」 「ははははは」 「冗談じゃない。財産は、今日で半分にされちまった。じゃ、失礼」  もうこうなれば、汽車の時間までは狼狽えるより、落ちつくに限ると高之は思った。彼はゴル フの支度にかかると、意地になって一つ練太郎の首を|捻《ね》じってやろうと考えた。  それにしても、大阪へ行って、池島から大阪製紙の株を買うという計画は、困難なところもな                              と堵ま いではなかった。なぜかというと、この池島という忍の父は、大紙の外様の大株主ではあったが、 娘が仁礼文七の娘の泰子と友達である。しかし、忍の父の池島は、高之には常から並々ならぬ厚 意をもっていてくれる洋反物問屋だった。事情を|委《くわ》しく話せば、何事も|訊《き》かず話さず、 紙の株を売ってくれるであろうと、高之は厚意に甘えて考えざるを得なかった。 黙って大  ゴルフ・リンクはホテルのすぐ傍だった。支度が出来ると、高之と練太郎はリンクヘ行った。 山の方へ上り加減になった芝生の中から、もう振り上げるクラブが光って見えた。 「ここのでハーフだけ廻りましょう」  と高之は云った。 「そら、宜しいですな。とてもあたたのような古参には、かなわんが」 「しかし、あなたは現役ですからね」  と、こう高之は云ったが、いう後から言葉が意味を深めて皮肉に響き返って来るのだった。ク ラブ・ハゥスでは、高之と顔見知りのマネージャーが来て|挨拶《あいさつ》をした。高之は近ごろこそあまり やらないが、一時はシングル・ゴルファーとして鳴らしたこともあるので|駲染《なじみ》が多い。彼はマネ ージャーにクラブを都合させてから練太郎に選ばせた。 「こら上等や、パイプ印ばっかりやな」  と練太郎は云ってドライヴァをとり上げると、横の練習場で五つ六つ練習ボールを飛ばしてみ た。ボールが幾つかプール気味に二百三四十ヤードも飛んだであろうか。 「ウェイトがあるから、よく飛びますね」  と見ていた高之は云った。 「いや、やっばり|一寸《ちよつと》やめてると、あきまへんわ」 「じゃ、出ましょうか」  二人はスタートした。練太郎はハンディ十八。二人は打ったが後から打った練太郎の方がボ1 ルの傍へよってみるとフェアーウェイの端へよってはいるものの、高之より三十ヤードも越して いた。ふふん、と高之は思いながら、 「あたたにオーヴァすることは、一生難しいですね」と、幾らか意味を込めすぎた云い廻し方だ った。 「しかし、ここは小さいですからね。広野はそりゃ、違いまっせ」 と、練太郎はいささか得意気に笑った。しかし、打つほどに、初めのコースでは二人は追いつ 追われつ攻め合っていたものの、さすがに高之のアプローチは次第に見事に|極《きま》って来た。 「うまいな」  の連発で練太郎のずんぐりした背中は、草いきれの中をあっちヘ廻り、こっちヘ走りで汗がに じんで来た。高之は腹に抑えた怒りが、一打ち毎にだんだん強まって、球が練太郎に見え株に兄 えた。開かれるばかりの練太郎は、「どうも、いかん、どうもいかん」を繰返していたが、それも そのうち云わなくなった。高之は怒りのままに打ちまくった。無心の境で打つよりも我利我利で 打つ方が、|却《かえ》ってわれわれは無心の境地に近づくものだと高之は思った。七番まで来ると二人は すでに五つの開きがあった。 「ドライヴァは、きっと僕の方が|乗越《オヨヴア》するんだがなア」  と練太郎は口惜しそうに云った。彼はここ二三年のゴルファ1なので、やはり高之の敵ではな かった。二人がハーフをすましたとき、練太郎はもうびっしょり汗をかいていた。 「たんし、よけい僕は歩かんならんさかいなア。今度大阪へ帰ったら、うんとやったろ、思うて まんね」  それではまだ何か|虐《いじ》めるつもりか。よしッ、と高之は思ったが、 「あなたには、今に僕も、とても|敵《かな》わなくたりますよ」  と|謙遜《けんそん》に云った。けれども、事実、この練太郎のウェイト力が、本式にかかって来た次ら、下 り坂の自分である、とても彼には敵うまいと、汗を|拭《ふ》きつついまいましく思うのであった。  高之は軽井沢から帰った夜、その足ですぐ大阪へ立った。羽一朝大阪へ着くと金森に宿をとり忍 の父の池島信助に電話で面会を申し込み、午後、高之は彼と会う約束をした。  池高の家は中船場にある。先代は普請道楽として有名な人で、|洋傘《ようがさ》と|羅紗《らしや》で一代に千万に近い 財を造った。しかし、信助は家庭の守護だけに再念している温厚篤実な人である。  池島家は洋反問屋とはいえ、見かけはただ尋常の家と椚違なかった。人の出入も他の店とは少 く、|丁稚《でつち》も三人か四人で、一人は品物の影に隠れて昼寝をしていた。すべてこの家は他家の商売 が会社組織となって新しい形をとりつつ進展する間にあって、もの静かに過去の伝統を守り、狂 わしい過渡期の変転を切り抜けようとしているかのようであった。 「さきほどは失礼しました」  と高之は信助に挨拶した。玄関店の問である。 「さア、どうぞ。よくお出でなさいました。ここはうるさいさかい、あちらへどうぞ」  普通の客は店の問の次の応接室がせいぜいだのに、高之は中庭を遁り、どうしたものか中玄関 から奥の仏壇のある座敷へ通された。かすかに|檜《ひのき》の|匂《におい》の|籠《こも》っている床の問は、下は二間の赤松の 通し、床柾は|柾目《まさめ》の細い檜の角材で、床と|擦《す》れ擦れに下を切り放した兄事たものだ。 「忍さんとは、軽井沢で一緒でしたが、突然急用が出来ましたのでお顧いに上りましたわけで -実は早速でございますが、甚だこれは、お願いし難いことで、私はほとほと弱りまして、ど うしてもこれは、池島さんに一度、御相談申し上げてからにしたいと、こう思いましたものです から」  高之も堅くなった。表通りの|頻繁《ひんぱん》な物音もひっそりとしてここまでは通らない。 「それはそれは。それで御用は?」  |盲目縞《めくらじま》の|単衣《ひとえ》に広幅の角借をしめた信幼ぽ|柔《やわら》いだ眼を上げた。 「どうも御厚意に廿えるようですが、実は、私んところは、束紙を少々持っておりまして、これ をやられますと、今のところお|恥《はずか》しい話ですが、店は立ち行かなくなる始末でして。ところが、 どうも、この両三日、これが妙な下りを見せて来たものですから、不思議に思っておりましたん です。すると、運よく細工はどうも、大紙の方だと気のつくことが出来まして、今のうちに、大 紙を手に入れぬと、とんでもない目にあうと、こう思ったものですから、早速お願いに上りまし た次第なんですが、どうか一つ、大紙をお譲り願えたいものでしょうか。甚だ突然で、恐縮です が」  とこう云って高之はお辞儀をした。|煙管《ぎせる》に煙草を詰めたまま、吸いもせず、黙って|頷《うなず》きながら 聞いていた信助は、 「そんなことでしたか。|宜《よ》ろします」  と一言いったまま、他の何事も訊こうとし女かった。彼は煙管に火をつけて一服吸うと、ぽん と叩き、東京の話を二言三言してから、すぐ中玄関から下駄を|版《は》いた。そうして、|御膨《みかげ》の石骨の 上を裏へ抜けると奥庭へいった。庭の|隅《すみ》には|稲荷《いなりほ》〇一|岡《こら》と並んで、|小舎《こや》ほどもある|雨曝《あまざら》しの大きな |漆喰《しつくい》の金庫があった。信助は金庫の中から、大阪製紙の部厚い株券を取り出しそれをかかえて戻 って来ると高之の前に出した。高之は予想のごとく、信助から何事も訊かれず簡単にすらりと大 紙を譲り渡されると、ただ頭が下るばかりであった。  池島の持っている大紙が|脱《はず》れれば、高之には今一カ所廻る家の準備があった。しかし、それも も早や必要はなかった。この次は仁礼文七に逢って、一寸した思惑質をすれば大阪へ来た彼の役 日はすむのだった。  池島信勘に小切手を渡し、やがて始る山中や|春海《はるみ》の売立の話をしていてから、高之は池島家を 辞した。彼は忍の父の素庖な篤実さを思うと、これが泰子の父の文七であってくれたらどんなに 泰子を愛することが出来るであろうと残念に思われた。高之は忍を特に愛しているというほどで はなかった。けれども、信助からよせられた厚意を思えば、忍への日ごろの友情が一層なごやか に、親しみ深く、忘れ|難《がた》なくなるのであった。実際、今日大紙の株を譲って貰えなければ、自分 の家はすっかり破産していたかも分らない、とこう思えば思うほど、高之にとっては忍の父は生 涯の恩人とも等しかった。  彼は|暫《しまら》く胸中で停り難なく動いた感謝の思いもそっと畳み、タクシ1を拾って|淀屋橋《よどやばし》南詰の仁 礼商店へ行った。仁礼商店は|格子《こうし》造りの尋常の冢で、中を土間にし机と椅子とを置いた昔ながら の家である。電話も二本よりなく、丁稚が四人と番頭が四人と、それに大番頭二人といった程度 のものだった。ここへ仁礼文七が北区網島の家から電車に乗って通うのである。|勿論《もちろん》、北浜の株 式街からはすぐだったが、直接には仁礼ば絶対に株式街へ出入したかった。  この他に仁礼文七の店は北浜二丁目に株式専門のが一つと、南久太郎町に三|品《ぴん》の綿糸専門の店 が一つあった。けれども、それらは支配人に任せきりで、文七自身は行かないので、二つの店か らは用があれば淀屋橋のこの仁礼商店へ、毎日支配人がやって来る。それもただぼんやりと仁礼 の御機嫌伺いに来るだけだと、文七の機嫌は悪かった。 「御機嫌なんか、どうだって、かめへん。それより、店の監督の方が大切や」                           筧ぱ,          ごば  こう云うのが文七の癖である。それだから支配人たちも、「前場」の引けた後や、「後場」の引 けた後に、なるべく用は電話ですます。すると、文七は、 「ああ、結構です」  というだけだ。ああ結構ですとこう答が出ると、支配人たちはもう仁礼商店まで来なくともそ れで良かった。しかし、これは日常であったが、さて、いよいよ相場が切迫して来ると文七自ら 支配人のいる店へ出かけ、その家の二階で集る情報をただ黙々と聞いているだげで取引所の建物 の中ヘだけは顔は絶対に出さなかった。  高之は大阪で思惑買をするときには、いつもは北浜二丁目仁礼の株店の方へ行くのだった。け れども、このときは文七は高之に勝手な振まいを|赦《ゆる》さなかった。東京の高之の店の資本は文七が 出しているのと同じなので、高之に損をさせたくない心配も手伝い、必勝歴然たる場合でない限 り高之には赦さぬのである。これは高之にとっては面白からざることだった。それのみではな い。文七の店を通して高之のやるときは、証拠金(資金)を文七が出す。しかも、その金は勿論 高之の|儲《もう》け高から差引く上に、なお資金利息として十銭の日歩をとった。これでは高之とて我慢 のならぬのは道理である。高之の文七への反感の原因も実はここにあった。  仁礼文七が東京で高之の店から相場をやるときは、日歩を出さず、高之が大阪でやるときは、 資金の口歩十銭をとるということは、高之たらずとも春子の父の尾上まで鬱憤の種だった。だい たい商人が日歩五銭をとられれば商売は成り立つものではない。どこの銀行にしても日歩三銭の ところは良い方であるが、それが十銭もとられてはも早苦痛以上の|惨酷《ざんこく》さで、これでは高之が大 阪で儲けても、文七にその場で差引かれれば少々のことでは手取りとして残る純利益は何もな い。それであるから、高之も大阪へ来る度にどっか店を変えて、こっそり一人でやりたい慾望が だんだん募って来るのだった。しかし、仁礼はこれさえ絶対に赦さない。 「なんて、|因業《いんごう》な男だろう」  と、こう高之の思うのはいつもの事だが、仁礼文七にとっては、東京の重住一家のごときは眼 中にはなかった。 「東京もんは金のたい癖に、見栄ばかり張りたがって、つまらん」  と、文七の態度は定っていた。これが番頭|丁稚《でつち》にまで反映して高之を見る同じ態度となるので、 自然に高之は仁礼商店へ出かけるのが不快だった。  高之が淀屋橋の仁礼商店へ行ったとき、文七は|骨董《こつとう》屋の春海の番頭と話をしていた。白っぽい お召の大名縞の着物に、|薄鼠《うすねず》の献上を締めている。 「法事のせつは、わざわざお出かけ下さいまして」と高之は挨拶した。 「いえ、私の方こそ、大勢で御馳走になりまして」  挨拶がすむと、もうどちらも話すことが一つもたかった。全く文七は近づき難い。笑顔一つさ え容易に人には見せぬ。用ある以外は言葉も云わず、むっつりしたままだ。そのくせ、高之は大 阪へ来れば|先《ま》ず顔だけ出さねばならぬ有様だった。初めは、株の話も持ちかけてみたが文七は相 手にしなかった。 「お前ら、株やるのが、土台間違ってる」  と云わぬばかりだ。それ以来高之は株のことだけはロヘ出さぬのが例だった。  事実、株にかけては、文七は神様と云われていた。尋常の|玄人《くろうと》が売りで儲ける|習《ならい》のところを、 文七は|素人《しろうと》のように買いで儲ける。買い一方で|一途《いちず》にのしあげて来たのであるから、人には文七 の手腕の底が知れぬのである。勿論、株は買うばかりでは儲からぬのは定っているが、買いは買 っても常人なら値がだんだん上って来ると、恐しくなって途中で必ず一度は売って儲けるのに、 文七のはそれをやらぬ。買った株の値が頂上まで上っていくのをじっと持ちつづけ、もうこれ以 上の頂上が出ないと|睨《にら》むと、どっと売る。底値で買って頂上で売るという相場の理想は、文七以 外には誰もやるものがないのだった。それも初め買った株を、そのままに抛って置き、上る後か ら後から買い足していくので、|終《しま》いには文七が株の値を一人で上げて行くような結果になる。と ころが、そうなると買い手は文七の後から附いて来るからここで頂上と見込むと、電光石火、一 令のもとに売れ、と命ずる。 「あなたは、株はやめなさい」  と、あるとき高之は文七から突然云われた事があった。それも二度とは云われ次かっただけ に、高之の身にはいつも|応《こた》えて響いていた。文七を見る度に、 「株などやめよう」  と高之は思いもするが、 一方、 「何を」  と負けぬ気がなかなか|刃向《はむか》って、じりじりとさせられる。先日から高之の悩まされている束京 製紙の一件も、仁礼が重住家を|潰《つぶ》そうなどと小さな計画からやったのではたいと、百も分ってい るのだが、|泡《あわ》を喰わされては高之とて憎からぬ筈がなかった。  文七いかに英雄といえども、人間にちがいない。それも泰子の父親である。今日は一つ、この 文七と思う存分話してみよう。気遅れするのが、こちらの負けだ。ー-  こう高之は思うと腰を据えて動かなかった。春海の番頭が帰ってから高之は文七に云った。 「今度の美術|倶楽部《クラプ》には、何か面白いものが出そうですか」  骨董の話をするときは文七は機嫌が良かった。 「そうでんな。|蕪村《ぷそん》と|木米《もくべい》が出るらしいですよ。藤田のが散ったのや」 「藤田のなら、値は張りましょう」 「さア、蕪村は十八万や云うけれども、木米の方が今度は張るかもしれませんね。これ目録です」  と文七は云って春海の番頭が持って来たらしい写真入の豪華た総目録を、高之の方へ出した。 その中には、蕪村、木米を初め、竹田、雪村というところが呼物だった。陶器には、鉢とも皿と も見分け難い三組になった|万暦赤絵《まんれきあかえ》があった。 「この万暦は何ですか」 「それが商売人も分らんらしいんです。|印度《インド》人の|使《つ》こたライスカレーの|器物《いれもの》やないか云うのや が、|化体《けたい》な物やな」  高之は黙って見ていてからふと眼を上げた。すると、渋い文七の眼もとから意外に優しい|皺《しわ》の 現れているのをちらりと見た。 「この男に、こんな優しさがあったのか」と高之はしばらく文七の顔に|惚《ほ》れ|惚《ぼ》れと眺め入った。 「僕はこのごろ、株屋をやめようかと思ってるんですが、どうでしょうかね」  心にもないことではなかったので、久し振りの文七の柔らいだ微笑につり込まれ、つい高之は 株の事を口にした。文七は黙ってじろりと高之を見ると、かすかに|嘲笑《ちようしよう》を浮ベながら、 「株は、いけません」  と一言いっただけだった。六十年の生涯を、株で叩き上げた英雄の云うこととて、言葉の根深 さが高之に分ろう筈もなかったが、高之に株をやめさせたい文七の親切さは十分彼にも受けとれ た。高之は黙って文七の次の言葉を待っていると、 「束京の株は、ことに危い」  と文七はまた云った。同じ株でありたがら大阪の株が危くなく、東京が危いとは意味はたかな か通じ難かった。 「それはどうしてです」 「あれは、間違いや」  何ぜ問違いか一層高之には難解だった。何か文七の睨みの中には、確実なものがありそうに思 われるだけで、含みは一層広かった。 「どんな間違いです」と高之は問い質そうと思った。けれども、それまで文七から云われて気附 かぬようでは、東京者の恥さらしだと思い急に質問を切り上げた。また訊ねても、それ以上文七 は云わないにちがいたかった。 「やるなら、債券屋をやりなさい。あれは良い」  と文七は静かに云った。実は、文七は綿糸の相場と株式相場の方と二つをやっていながらもま た一方債券の質屋も兼ねてやっていた。債券の質屋というのは、資本の少ない町の債券屋が|抽籤《ちゆうせん》 月の債券を店へ置くために、仕入金の調達の必要に迫られ、抽籔月の遠い債券を抵当にして絶え ず文七から金を借りる。それ故文七の家の倉庫には、七万枚、十万枚と債券を|緒縄《おなわ》でくくって古 新聞のように抛り込んである。文七の高之にすすめるのはこの債券の質屋の事だった。これは国 家が特権を与えている銀行の債券を相手にするのだから最も安全な商売である。しかし、これに はさすがの高之もちょっと二の口が出なかった。  練太郎が大阪へ帰った次の日、忍と泰子は東京廻りで大阪へ帰って来た。大阪へ帰ってもまだ 暑さはつづいた。泰子は北区の網島の家で、家事の手伝いや秋の準備に|気忙《きぜわ》しかったが心はとみ に|凋《しお》れがちだった。 「もうお嫁入りは、あたし、止そうかしら」  軽井沢での高之との短い会合や、突然帰った彼のよそよそしさなど思い浮べると、誰から教え られるともなく、清子と高之との接近を次第に泰子も感じてこう思うのであった。 「それでも、練太郎さんとは、あたし、いやだ」  今より練太郎の態度が|露《あら》わになるようなら、きっぱりと彼を断るだけの決心はあったが、それ とて今は眼に見えた何もない。 「高之さんは、きっと清子さんと、結婚したい思うてやはるのに、ちがいないわ」 繰り返し繰り返しそう思ううちに、悲しみにひたされた午前が早や正午になって来た。泰子の 好む六畳の松ばかりの座敷である。四尺幅の二間通しの赤松の床板に、障子から天井板まで赤松 づくしで、中に竹一本あるきりのなげしも無い部屋だった。天井の赤松も三尺幅の一間半のが四 諧94 枚という、見事なものだった。  だいたいこの仁礼文七の屋敷は、文七の主家の「|百鴻《ひやつこう》」というひと昔大阪で鳴らした家の下屋 敷であったのを、没落したその家の恩義に感じ文七が元値以上で買いとって、主家の子孫を安全 ならしめた由緒ある家だった。「百鴻」の主人というのは、これがまた天下の普請道楽として聞え ていた。むかし伏見から下って来た三十石船が大阪天満まで、荷物や人を運んで下るそのころの 漉傭に沿った網島であるから、文七のこの家の普請の見事さも今は大阪にも多くはあるまい。庭 も山城一休寺の庭の造手で、酒和田という維新の志士の作だった。 「この庭で一番ええのは、石と苔や」  とこう文七が自慢したことも泰子は覚えていた。石は現れている二倍の根深さに埋っていて、 |叡山苔《えいざんごけ》が一面ゆるやかな波を打っている庭に、|百日紅《さるすぺり》がただ一本あるきりである。  泰子は午後の暑さがつづくと、庭の横の渡榔下を通り土蔵の中の倉座敷に這入った。ここには 畳が敷いてあって鏡台から押入までついている。彼女の大切な着替や|指環《ゆびわ》、頭のものなどみたこ の倉座敷の中にあるのだが、六昼ほどの板敷は|掛行燈《かけあんどん》の光でほんのりと底光を放っている。家中 ではここが一番に涼しいので、油照りのじりじりした暑中は、多く泰子はここにいた。  忍は来ると倉座敷の中の泰子をひやかして、 「こんな鼠みたいな真似いつまでも、ようしてたはるな」  と云うのが例だった。 「それでも、さア火事や云うたら、ここなら焼けへんわ」 「焼けたら焼けたで、却てええやないの。あたしら、滅多にこんたとこへ、這入れへん」  と、こんた云い合いも、ここでは度々繰り返されたこともある。午後になると泰子の所へ忍か ら電話があった。 「あのね、一寸、あたし、|腑《ふ》に落ちんことがあるのん。高之さんが、来てはるらしいのやけど、 泰子さん知ってる」 「知らん」 「じゃ、あたし、これから行きまっさかい、待ってとう」  電話が切れて三十分もしたとぎもう忍は泰子の所へやって来た。丁度、京都から来た「えり万」 が、呉服物を応接室の次の間で開いているところだったので、しぼらく、忍も泰子と一緒に反物 をひっくり返して眺めていた。えり万に頼んであった京都のすあまを|菓《ちちさ》子器に入れ、二人は泰子 の部屋へ来ると、 「高之さんから、あなたところへ、何もお便りないのん?」と忍は訊ねた。 「ええ、ないわ」 「おかしいな。四日前に|自家《うち》へ来やはったって、お父さん云うてたわ。何んの用事でお|出《い》でやし たのか訊いても、ただ挨拶に来やはった云やはるだけで、分らへんのん」  泰子は庭の百日紅を眺めていたが、身は落ち込むような|淋《さび》しさに満された。 「忙し忙し云ってらしたで、何ぞお仕事せわしいのかもしれんけど、自家へ来るなら、|一寸《ちよつと》ここ へも来れんことないでっしゃろ」 「でも、あたしんとこへは、あの人、来にくいかもしれんわ」と泰子は云った。 「どうして?」 「どうしてでも」  高之が父の文七に用事があるときは淀屋橋の店へ行く、それも高之と父とは直接会っても話す ことが何もなく、用は練太郎か番頭で足りるのを泰子も知っていた。けれどもそれにしたって、 いつも行かたい忍の家へ、用もないのに高之が行ったことは、何か口には出せぬ理由もあるので あろうと案じられた。 「それじゃ、あたし、高之さんのいやはりそうな宿へ電話をかけて、聞いてみますわ」 「もう、やめとう」  と泰子の云うのに、忍は自分で電話室へ立っていった。しばらくして忍は勢い良く駈け込んで 来ると、 「来てはる、来てはる、金森や」 「そう」  瞬間、泰子は嬉しげに顔を染めたが、またすぐ眼を伏せて凋れ込んだ。 「夕暮やないと、帰らはらへん云うてやけど、宿さえつきとめたらもう勝や」 「なぜ、そない、ばたばたしやはるのん。どうでも、ええやないの」 「そうかて、ほっとけんわ。泰子さん行くのんいやなら、あたし一人で行って来たげるよって家 にいなはれ」 「それは有難いけど、高之さん、そんたこと嫌いな人やで、もうほっといとう」 「でも、東京ならほっといても良いけれど、大阪へ来やはってるの分ってるのに、ほっとけんわ」  忍のむきになるのが、今は泰子もうるさそうであった。しかし、忍は縁側へ立つと、いら立た しそうにまた中へ這入って来て、 「泰子さんも高之さんも、人に気をもますのが楽しみみたいやわ。あたしがほっといたら、いつ までたってもらちあかへんし、うるそう云うと叱られるし、いややなア。あたし、泰子さんみた いにじくじくしたこと、面倒|臭《くそ》うてしてられしめへん。さっさと云うだけ云うてしもたら、ええ やないのん」 「そんなら、何んて云うの?」 「そんなこと、分ってますやないか。それが分らへんなら、練太郎さんと緕婚してしもたらええ わ。ね、早よ、行こ行二行こ行こ」  と、忍は|字朋《じくずし》模様の泰子の肩を激しい勢で揺り動かした。泰子は高之のつれない仕打に悲しみ も増したが、彼を慕う気持は、忍に揺られるごとに一層募って来るのだった。 「高之さん、|逢《お》うてもすぐ|脱《はず》してしまいはるわ」 「そんなことない、行こ、行こ」と忍はなおも、泰子を抱くようにして立ち上らせた。泰子は恥 しそうに髪に手を上げ、顔を|赧《あか》らめ、 「じゃ、行きまひょかしら」 「そんなら、あたしが先に行って、様子を見てから電話をかけますよって、それまで待ってとう。 ね、それが良いわ」  こう云うなりもう忍は一足さきに家を出ていった。泰子と約束をしてから一時間もしたとき に、忍は金森へ高之を訪ねていった。しかし、そのときには高之は、今夜東京へ帰るのだと云っ て、紺の背広を着たまま急がしそうだった。 「あら、そない早よう、帰りはりますの。軽井沢のときかて、来たかと思たら、黙ってぶらり帰 りはりましたやないの。何んでそないにぴょこぴょこしなさるの。泰子さん後から来やはります のよ」  クレープヤーンのブラウスでどたりと忍は|座蒲団《ざぶとん》の上へ横坐りに坐った。柱にもたれたまま、 庭の太い荒槙の幹を包んだ|藁《わら》を眺めていた高之の顔は、|眉宇《びう》に細い|皺《しわ》が現れて緊張した。 「もう一日いなさいよ」 「駄目だ。一週間ほどしたら、また来なくちゃならん。そのときは、多少ゆっくり出来ると思う んだが、今夜は延ばせないね」 「急がしいのね。あ、そうそう。高之さん、あたしん所へ、来てくれはりましたんですってね。 何の御用だったのっ■・」         巾す 「君のお父さんに扶けておもらいしたのさ。しかし、これは他言は絶対無用ですよ。恩に着せて もらいますからね」と高之は云って時計を出した。 「あら、嬉しい。そんたら、あたしの云う事も聞いて貰えますやろ」 「それじゃ、恩にならんじゃないか」 「そうかて、こんなときやないと、高之さん|虐《いじ》められやへんわ。泰子さんに電話かけまっせ。宜 ろしますやろ2」 「どれ、汽車に間に合わぬぞ」と高之は云って立ち上った。 「今ごろ汽車に乗ったら、夜中に東京へ着きますわ」 「京都へ一寸よらなくちゃ、いけないんだ」  忍はもう高之の云うことなど聞いていなかった。勝手に電話をかけて泰子を呼び出そうとする と、高之は忍の肩を後ろへ引いた。 「君、駄目だよ。今度はこっそり来たんだから」 「それでこっそり呼ぶのやわ」 「いけたい」  電話の口を片手で抑える高之の手を持って、薄眼で忍は|睨《にら》みながら、 「どうしていけないの」 「そんな理由はいずれ云うべきときが来れば、あなたにだけ、何もかも云います」 「でも、泰子さんと約束したんですもの。一寸会って上げとう」 「あなたの親切は|胆《ぎも》に銘じているけれども、今度はいけない。何も問わずに帰してくれ給え。頼 むよ」  忍はだんだん泣き出しそうな顔になった。 「あたし、困ったわ」 「今会ったら二十万円ほど、損をするんだ」と突然高之はにやりと笑って云った。 「たったそれっばち、そんなら呼ぶわ」  すかさず忍は電話をまたかけた。高之は彼女の声を聞きながらも、どうしてこんなにやっきと 忍がなるのか理解し難くたるのだった。 「とうとう、来るのか」と高之は云って歎息した。 「何ぜ悪いの、高之さん、ほんとに煮え切らん人やわ」 「いやいや、君には分らん」  高之はまた時計を出してみた。まだ五時過であったが、泰子の来るまで二十分としてさて会っ て、泰子に何を自分が云い出すものやらとだんだん不安な心が騒いで来た。 「練太郎君とその後逢った?」と高之は忍に訊ねた。 「いえ、あれからまだですの。あの人、何んやしら分らへん人やわ。あたしこないだ、高之さん と泰子さん結婚させてあげたいのや云うたら、そら賛成やな、云やはりますの」 「賢いね、あの人は」  ふとこう高之が云ったと同時に急に胸が|轟《とどろ》き始めた。東京製紙の買い集めも練太郎の発起か仁 礼の思案か、どちらであろうと同じものの、先日逢った仁礼文七の言葉から、まったく突然今ご ろ高之に第二の疑間が起って来たのである。第一、東京の株は危いからあれはやめろと云った文 七の胸中には、ただたらぬ計画が潜んでいるにちがいない。これは、東京製紙の合併騒ぎどころ じゃないかも知れぬ。あの文七と練太郎だ。文七が自分に株をやめろと云った忠告も、泡を喰わ せたくない忠言かもしれぬのだ。  こう高之は思うと、今しばらく帰りを見合せて、文七の計画を見破ってやろうかと、だんだん 気持が変って来るのだった。それには練太郎としつこく逢うことだ。あの男なら年もまだ若い。 云っては次らぬ事もどこからちらりと、尾を出さぬとも限らない。しかし、もう東京の尾上から 電話が来るころだった。来れば是が非でも今夜は帰らねばならぬ。 「仁礼さんというお方が見えやはりました」  と、女中が知らせに来た。まもなく、ちく仙染の|竜田《たつた》がすみの着物に、絞りの金糸の紅葉帯を 締めた泰子が、|淑《しと》やかにすらりとした姿でヨ.旭入って来た。 「やア。これから、帰ろうと思っていたところたんですよ。一寸こっそり、商売に来たのでね」 にこやかに笑ったつもりであったが、高之の顔は唇が動いたきりだった。コ週間したら、また来 たくちゃいけないんですよ。お父さんには先日お逢いしましたが」  高之が一人で云っているとき、忍の姿はもう部屋の中から消えていた。高之はまだ障子の傍に しょんぽり立っている泰子に、 「さア、どうぞ」  と云って椅子をすすめた。泰子は椅子に腰を下したが、まだ=言も云わなかった。顔は心もち 青ざめて、落ちついているものの、高之からすかしつづけられた怒りが、ようやく高まって来た らしかった。二人はしばらく黙っていた。そこへ女中が這入って来た。 「今のお方、さぎお帰りになる云やはりました」 「帰った2」 高之は再び一寸時計を出しかけたが、それも見ずにまたしまった。 「今日はお会いしとうありませんでしたの」 と、泰子は云った。高之は無理もないという風にかすかに|頷《うなず》いた。 「いろいろ、忍さんから聞きましたが、実は僕は、今の商売がだんだんいやになって来ましてね」  本当の心もつい現しかねて、高之はまた自然に話を横へ|外《そら》そうとするのだった。ふっくらとし た|襟《えり》もとから泰子は顔を上げた。 「どうして、御商売お嫌いになりはりましたの?」 「君のお父さんに、僕の商売よせと云われましたよ」  高之は笑いながらそう云ったが、|勿論《もちろん》、真意はそこにはなかった。 「お父さん、そんなこと云やはりまして?」 「僕から、やめたいと云ったからですがね。同情して下すったんでしょう」 「お父さんは、若いこのごろの人の考えること、ちっとも分らはらしませんのよ」 「しかし、それはとにかく、株商売をやっていると、だんだん精神上のことを考えなくなるし、 何しろ投機だから、実質を離れて生活がどうも浮わつき勝で、僕のような弱気たものは反省心が 起って来るんですね。これがあなたのお父さんのように、一番堅いやり方で株以外の実質的な仕 事もやっていると、株もいいと思うんだが、何んだか根のない生活へ深入りばかししていって。 とにかく、こんなに仕事に後悔するようじゃいけませんからね」  泰子には高之の云うことが、呑み込めたのかどうか、ただ悲しげに黙っているきりだった。高 之はこうして泰子と二人きりでいると、急いで東京へ帰る心はだんだん無くなっていくのだっ た。今自分の方からただ一言、「あなたと結婚したい」と云えば、それで何事も良い筈だのに、 それにも拘らずどうしてそれが云えぬのであろう。 「泰子さんは、今度は僕と会いたくなかったと|仰言《おつしや》いましたが、やはり僕もあなたと同じでした よ」  泰子は突き動かされたように高之を見た。何を誤解されたのかと驚く風であったが、高之もす ぐそれと悟ってまた云った。 「忍さんが間で不自然に立廻ってくれると、もちろん有難いとは思うが、|強《し》いられるようでいや なんでしょう」 「あたし、どうして忍さん、あんなことをしなさるのか分りませんの。やめといとう云うんです けど。知らぬ間に何んやかやしてしもて、御迷惑でしたでしょう」 「そりゃ、迷惑ですよ。こちらがあなたにお会いしたいと思うときは、十分お会いするような気      い                                       いそが  ほゆ 持の準備が要りますからね。ただぽんやり無理に逢わされたって、今みたいに急しい他の仕事の ことを考えてちゃ、あなたに第一お気の毒ですよ」  それほど仕事に気をとられて、自分の事を考えてくれる暇はないのかと、泰子も思ったにちが いない。ーしかし、 一言いっては、ああ思われたかこう思われはしなかったかと気を使うの は、このときもう高之はうるさくなった。二人は長らく黙っていた。すると、だんだん青ざめて いった泰子は、突然、 「では、今日はこれで帰らして貰いますわ。御機嫌よろしゅう」  と云ってお辞儀をした。あまり不意だったので高之は黙って泰子を見上げていた。泰子はその まま部屋の外へ出ていった。もう二度と逢わぬ覚悟であろうとは、泰子の決然とした顔色で高之 にもすぐ分った。  やはり誤解をされたのだと高之は思った。しかし、今さら何を云っても仕方がない。高之はも う引きとめようともしなかった。二人の縁は切れる所へ来て切れたばかりだとあきらめるのみだ った。それは淋しく苦しく、地の底へ沈みゆく思いと同じだったが、いずれ一度は来なければた             か                   したた          たたず らぬものだと思うと、味わい噛みしめるように、胸中の苦々しい滴りを手で受けとめて佇んだ。  忍の厚意と親切さがかえって反対に泰子と高之との友情を断ち切る結果になったのを考える と、高之も今さら淋しさと後悔とを感じるのであった。しかし、こんたに泰子との交渉が簡単に 片付いたことは、仕事の上で一層高之の活動を敏活にしていった。彼は東京へ帰ると池島から買 った大阪製紙の株を銀行へ入れ、すぐさまその金で、練太郎の下げている東京製紙の株をひそか に他店で買いつづけた。 「そんなに買って、大丈夫ですか」  と春子の父の尾上は心配した。けれども、もう高之は滅亡を覚悟の上であるかのように|断乎《だんこ》と 言義 して、「買え、買え」で押し通した。そのため、一時はじりじり下っていった東紙の株がまた上 り始めた。高之は、どこか東京の一角に潜んでいるにちがいない練太郎の|狼狽《うろた》えている顔を思う と、準備金の調達にもさらに元気が加わって来るのだった。  束紙を底値まで下げて、そこで、大阪製紙との合併を持ち出す、練太郎の肚のたかが読めてい るだけに、高之の買いの一手の戦法も、先ず当分は安全であった。ただ心配は練太郎の資ってい る東紙の株の数よりも、一枚でも多く買わねば敵を|撹乱《かくらん》することが不可能なことである。 「もうだいぶ上って来ましたが、どうです。ここらで売りましょう」  とある日、尾上は高之にすすめた。高之も今売れば利益はたしかにあると思った。 「これ以上、ちゃぶつかして、不自然な動きを見せたら、東紙の一般株主は不安がって、一時に 売り出すかも分りませんからね」  と尾上はまた云った。一時に皆が売り出したら株値は下り、高之が困るばかりではたい、練太 郎が喜ぶのだ。しかし、喜ぶ練太郎が下った株を買い集めるたら、それならそうで、こちらも争 って買い集める、この血の出るような必死の勝負が今の高之には面白かった。 「もっと買おう」と高之は云った。 「しかし、そりゃ、無茶ですよ」 「かまうものか。大丈夫だ」 「いや、まア、辛抱するときは、辛抱しなけりゃ、何事も大きなこと出来ませんよ。ここらで、 切り放してやりましょう」と尾上もなかなか|頑張《がんば》った。 「しかし、今度こそ、あ|奴《いつ》をやっつけなくちゃ、やっつけるときがない」 「それはそうですが、あちらはこちらより、沢山買い集めてあるにちがいないのですから、買い 集めの競争じゃ、やられるに|定《ぎま》ってますよ」 「大阪の方さえ買ってあれば、こちらは元値で売ったって損はないでしょう。も少し買って練太 郎の計画を狂わしてやらなきア、腹の虫が納らたいですよ。財蓬を|擦《す》ったってかまやしない。今 狂わせば、合併のときの東紙の評価額が高くなるから、株主だって喜びますよ。もうこうなれば、 損得なんか云っていられないから、一つ、正義でやろうじゃたいですか」  泰子との交渉が断ち切れたと思うと、もう高之も|自棄《やけ》に近かった。 「いやいや、やはり、今売るに越したことはありません」  と、尾上も長年重住家を|輔佐《ほさ》して来た番頭であるだけに、高之の主張には飽くまで」反対するの だった。  何しろこちらの手尢が分っている。高之は涙を飲んで尾上に従い、 一斉に売り出すことにし た。このため、大阪で高之が忍に冗談を云ったごとく、彼は一挙に十四万円ほど手に入れた。け れどもこの高之の味を残した行動は、練太郎の仕事を泱定的に咸功させたようなものだった。  ある品、梶原清子から奄話で高之に、話したい事があるから是非お逢いしたいと云って来た。 その日、高之は再び大阪ヘ折返して行かねばならぬ日であったが、午後、資生堂で逢う約束をし た。時問に高之がそこへ行くと、もう清子は、一人でボックスに待っていた。幅四つの|矢絣《やがすり》に、 |鯉《こい》の|刺繍《ししゆう》帯をしめている清子は、軽井沢で見たときよりも気候のせいか|痩《や》せていた。 「お痩せになりましたね」  と、高之は挨拶もせぬうちに向い合うとすぐ云った。 「ええ」  と、清子は眼に一寸指頭をあてて笑ってから、 「あのう、お呼び立てしまして、まことに申訳ございません」 「いや、僕こそ、こんたところで失礼しました。御飯でもと思いましたが、今夜一寸大阪へ行か ねばなりませんので、また帰ってからゆっくり春子さんとも御一緒にしたいと、あの人、腹を立 てるかもしれませんからね」  何気なく高之は云ったのに、清子の顔色は少し変った。 「大阪へいらっしゃいますの。あたしも近々行きたいと思ってましたの」  調子を合せたと思えぬ清子の云い方に、高之は、それでは少し早く切り上げて帰らねばと思い ながら、 「大阪へは、よくいらっしゃるんですか」と訊ねた。 「ええ、よく行きましてよ。何んてことねいんですけれど」  泰子との間の|停頓《ていとん》が、清子との問の接近になり|易《やす》いと思っていた高之も、さて清子と逢ってみ ると、何となく間延びのした淋しさを早くも深く感じるのであった。一時は、あれほど清子に心 を奪われてしまいたいと|焦《あせ》ったこともあったのに、泰子との結びが断たれたと思うと、実はこん たにうち沈んでいる自分であったのかと、高之も今さら|歎《なげ》かわしく思われた。 「長く大阪にいらっしゃいますの……」と清子は訊ねた。 「いや、二三日です」 「そう、それじゃ、あたしたち行きましても、お邪魔にはなりませんわね」  ぽッと顔を赧らめた清子も、云うべきことではなかったと、|董《はずか》しさと後悔にたちまち沈んで卓 布の上に眼を落した。  しかし、突然、このとき清子は眼を上げて高之を見ると、どうしたものか今まで縮まっていた 細い眼が、急に大きくばっと開いて強く輝きを放って来た。 「あなたこないだ大阪へ行ったばかりじゃ、ありませんか」  と、その眼は問い詰めているようだ。高之は視線を|脱《はず》しはしたものの、生理的にねばりつくか のような清子の激しい眼の美しさに、不思議と彼の胸もとどろいて来るのだった。 「先日急用で一寸大阪ヘ行って来たのですが、あなたのお蔭で利益がありましたよ」  と高之は清子に云った。 「何んですの?」 「軽井沢で練太郎君があなたん所の東紙を買ったお話伺ったでしょう。あれが効いたんです。ど っかそのうち、御馳走させてもらいますよ」  清子はやや|狼狽《ろうばい》した眼でまたじっと高之を見詰めていた。 「あたし、あの事で実は今日伺ったんですけど、うちの半造に、どうして東紙を京極さんに売っ たのか訊ねてみましたのよ。そしたら、半造はそうする方が店のために、いいんだと云って、ど うしても本当のことを云わないですの。それであたし、こりゃ訊ね方がいけなかったんだと思っ て、あなたにもう一度御相談しようと思っていたら、大阪へいらしったって云うんでしょう。だ もんだからつい今日になってしまいましたの。御免なさい」 「あれはもう、片がついたんです。しかし、あのときは僕も少々狼狽えましたね。練太郎君の後 には何しろ、仁礼がいるでしょう。ああいう傑物がいちゃ、何を|謀《たくら》んでいるか、一寸見当がつき ませんからね。それにあの練太郎君というのは、若くってもなかなか油断の出来ぬ才物ですよ。 顔と|肚《はら》とがあの男ほど違ってる男はありませんから、そりゃ、半造さん、してやられたんですよ」 「あたしたちには、何が何だか分りませんわ。これで大切なことでも、ちょくちょく聞いてるん でしょうけれどもね」  と、清子は云って残念そうに微笑した。海や山から帰って来た人々であろう、日に焦げた顔の 男女がこの日は|殊《こと》に多かった。清子は化粧室に這入って出て来ると、 「何んでしたの、練太郎さんのやってらしたことって? まだあたしにはよく分りませんわ」 「あんな事はみな臆測ですから、事実が|明瞭《めいりよう》にならなくちゃ云えないのですよ。僕たちは普通人 と違った勘で動いてるだけですから」と高之も誤魔化した。 「でも、よほど重要なことだったんでしょうね」と清子はさも心配そうに首をかしげて彼の顔を 見た。 「そりゃ僕の家にとっては、死ぬか生きるかだったんです」 「まア」 「今夜大阪へ行くのも、も一つあるんですよ。これと定った用じゃなくて、云わばまア勘を確め に行くようたものです」 「じゃ、あたしなんか、行ってもお|訪《たず》ねしちゃいけませんわね」 「いや、どうぞ。それに大阪の美術倶楽部で丁度|売立《うワたて》がありますから、それも一寸見たいのです。 今度はずっと前より|暢気《のんき》ですよ」 「それじゃ、あちらでまたお眼にかかれるかもしれませんわ。すぐお帰りになりまして? あた し、行くのでしたら、明日立ちたいと思いますの」 「二三日はいるつもりです」  と高之は云った。しかし、これでは清子も本当に行く気らしいと思うと、向うへ行ってまた訪 ねて来るにちがいない忍と清子が会えば、うるさい|噂《うわさ》も立つであろうと、高之もしばらく黙って 考えた。清子は大阪で高之と会うのを、今から思い浮べているのであろう。さも楽しそうに微笑 したがら、 「お宿はどちらでして?」と訊ねた。 「いつもは金森ですが、今度は清水橋の|松平《まつへい》にしようかと、思ってるんです」  清子は聞いているのかいないのか分りかねるように返事もせず、ただぽんやりと高之の眼の中 を見詰めているきりだった。その眼は情感に満ち足りたような、かすかなすが眼にさえ見える美 しさが|籠《こも》っていた。 言義  高之が大阪へ折返して行った目的には、|先《ま》ず練太郎に会って大紙と東紙の合併の様子を探るこ とと、第二の仁礼の画策を嗅ぎつけたいことと、取引店を仁礼商店以外に新しく見つけたい望み とがあった。彼が仁礼商店へ行ったときには、練太郎はもう東京から帰って来ていた。 「軽井沢では、とうとうゴルフやられましたな。どうです、こちらで一つ、雪辱戦をやりまひょ か」  と練太郎は云って高之に椅子を出した。高之は元気に満ちた練太郎の顔を見ると、それではい トムいよ彼も目的を達して、東紙の株の過半数を手に入れたにちがいないと直感した。取引所の多 くの手をへて束紙の売買が行われたが、それも結局は練太郎と高之との貰い合いの戦争だったの だ。  二人は知らぬ顔でどちらも株の話はおくびにも出さず、ゴルフの話や食ベ物の話をした。する と、練太郎は外の喫茶店へ行こうと云って、高之を外へつれ出した。人のいない喫茶店の|隅《すみ》で、 二人が|対《むか》い合うと練太郎はにやにやしながら、 「重住さん、忍さんと逢いやはりましたか」  と訊ねた。いや、まだですと答えると、 「あの人、あなたとうちの泰子さんと、結婚するよう僕に骨折れ、やかましゅう云やはってね。 そら、しますが、だまっていたって、都合ようなっていきますやろって、まア笑ろたようなこと でしたが、それはそうと、忍さんっていう人はおかしな人ですな。あれは、あなたのことで、あ あ、やきもきしやはるところを見ると、あなたによっぽど好かれたいのでっせ。そやたけりゃ、 あんなこと何んぽ何んでも、出来やへんことや思うてますのやが。どうです、一つ優しい言葉で も、 一っぺんぐらい、かけてやってくれませんか。そうやないとうるそうてね」  それでは泰子のことは思いあきらめて、忍と結婚せよと云う意味かと高之は|顎《あご》を支えながら笑 った。 「忍さんはあなたにまで、そんなこと云ったんですか。困るね」 「しかし、あれは悪気やのうて、云やばるのやで、こっちもついその気になりますよ」 「僕にもそんな風なこと云いましたがね。しかし、僕そんなことは、考えても見たこともたいで すよ。どうです、京極さんが結婚たされば、丁度いいと思うんだが」 「忍さんとでっか2」 「いやいや」 「ははははは、そりゃ、勘違いでっしゃろ。僕が泰子さんと結婚したら、そら二タ目と見られた もんやありませんよ」 「しかし、京極さんと泰子さんは丁度似合いですよ。僕は泰子さんとは小さいときからの知り合 ですが、あの人は立派な人ですから」 「実はですな」  と、練太郎は|一寸《ちよつと》黙って眼を往来に向けていたが、 「僕、この間から、うちの大将に泰子さんと結婚せい云われてますので、困っていますのやが、 あなたと泰子さんのことが、ありますやろ。それで僕は、これは僕の柄には合わぬと思うて、一 つあなたに御枷談してみよ思うてましたのですよ。どうです。何とかなさって、泰子さんと結婚 してくれはりませんか。そうでたいと、僕としましては、いやや云うわけにもいきませんし、そ うかて、あなたの方の事も考えてみんちゅうと、これ、|甚《はなは》だ失礼でッさかい。間へ|挾《はさ》まって、き ゅうきゅう云うてまんね」  練太郎は顔こそ苦しげであったが、胸中何ごとかひそかな確信があるもののごとく、落ちつき 払っていた。 「しかし、そんな結婚の問題は、僕に相談なさらなくって、御自分でどしどし思うようになされ ばいいでしょう。僕にしたって、ただ忍さんから泰子さんと結婚しろって、すすめられただけな んですからね。あなたにも似合わないじゃありませんか」  と高之は不愉快そうに云った。練太郎は高之の顔を見詰めていたが、急に早口で、 「それ、そこが|難《むずか》しいんですよ。僕は株の話なら、そら、黙ってやるとこまでは、やります。こ れは商売ですから、いちいち自分の思惑を、他人に云えやしませんが、結婚の話ですと、一生の 問題でっしゃろ。僕を腹黒や思うてもろたら、そら、かないませんよ。僕も出来ることなら、重 住さんの|良《え》えようにしたいもんや思うて云うてますのやさかい、誤解せんといとくなさい」 「いや、誤解はしません」  高之は、東紙で苦しめられた咋日までの事実を云う意味でも、きっばり強く云った。するとさ すがは明敏な練太郎のこととてすぐ感じた。彼は|毅然《きぜん》とした顔になると、 「今やから白状しますが、そりゃ、僕は東紙を買いましたが、あれを根に持ってもろたら、困り 言義 ますよ。あれは、やれ云われましたので、仕様がないから、やったんですよ。何もあなたをどう こうしよう云うつもりは、あらしませんのです。そりゃ、|勿論《もちろん》、商売ですし、殊にあんまりあな たが、女に好かれなさるで、一つ、びっくりさしてやれいう腹は、ありましたさ。けれども、そ んたことはゴルフみたいなもので、そのときはそのときでっしゃろ、あなたも僕も男ですから、 商売上のことでは生涯敵として、あなたを尊敬して、負かしたろ思うてますのやが、あなたもそ んなら僕を負かしてくれはったら、ええのですが」  正直な事を聞かされても、云うべき事ではないことを聞かされると、高之は一届気持が悪くな って来た。 「それじゃ、一つ、僕もあなたを負かしましょうかね」  と高之は云って苦笑した。 「あなたはまだ怒ってなさるんですね。われわれはどっちも、新人でっしゃろ、新人は新人らし ゅう、これから明朗にやりましょう。僕は婦人の問題と株の問題とを、同様に取り扱いたくない のですから、その点よく|御諒解《ごりようかい》願いますよ」 「それは分っていますが、僕はお蔭で財産を危く、|擦《す》ってしまうところでしたよ。あのときあな たにやられていたら、婦人の問題だってもう起って来ませんからね」  高之は微笑して云ったが、含んだ針は柎当に鋭かった。 「ははははは。いや、それはあなたが、あんまり婦人にもてる税金や。ときには、あんな税金納 めてもらわんと、僕ら割りに合いませんが。あなたは実際幸福な人ですよ。忍さんも泰子さんも 清子さんも、あなたの|周《まわ》りを眼の色変えて、ぐるぐるしてますのやさかい、そら、これで僕も、 けたい|糞悪《くそわる》うなりますよ。|因業《いんごう》やあんまり、ははははは」 「人徳ですかね」  と高之は|昂然《こうぜん》として笑った。 「何に糞」と練太郎は思ったらしく、一瞬ぴくりとしたが、すぐまた大きな声で笑い返した。  その日は何の得るところもなく高之は練太郎と別れて宿の松平へ帰って来た。すると、小さな 女中が出て来て、 「池島忍さんというお方と、仁礼泰子さんというお方とから、二つお電話がありまして、お二人 ともお帰りになりましたら、すぐお電話いただくよう、いやはりました」  と伝えた。これは何ごとか問題が起っているなと高之は直覚した。彼は和服に若替えてから、 どちらへ先に電話をかけたら良かろうかと考え込んだ。彼は練太郎に云われたようには別に自分 を幸裲な男だとは思わたかった。嫁の候補は泰子と清子と忍を除いてまだ|他《ほか》に四人ほどあった。 けれども、今の高之のように迷わされぐずぐずしているうちには、誰一人とも成功し難くなるの は分っていた。高之は自分の友人の中に二十数人の婦人と見合をして、迷い抜いた揚句の果苦し まぎれにとうとう最初の一番平凡た女と結婚した事実のあるのを思い出した。いくら好かれたっ て迷っちゃ幸福じゃない。  こう思いつつ、彼は泰子に電話をかけようとした。けれども、明日にでも清子がやってくるの だ。清子のやって来るのは良いが、仁礼文七の第二の計凾を読みとらぬ限り、自分の家はいつ潰 れるか計り難い不安があった。しかし、先ず泰子に逢おう。逢えば何か分るかもしれない。と思 いながら高之は泰子に電話をかけた。 「僕、高之ですが」 「ああ、あたしね、是非お話したいこと、起りましたの。今日、束京へお電話したら、もうお立 ちになった後でしたの」 「それはどうも」 「あのね、これから、すぐそちらへお伺いしても、|宜《よ》ろし」 「どうぞ」 「それではすぐ行きますから」  泰子の声はいつもと違って、切々として細かった。高之はただならぬ気配を感じると、上る椚 場を見詰めるように胸も早まって来るのだった。落ちつくために部屋へ風を入れようと窓を開け た。いつの問にか雨が降っていて、下の河水が|擁《なび》く柳の葉の下で乱れていた。間もなく、女中に 案内されて廊下を近づいて来る足音が聞えて来た。 「ここです」  女中の声の後から、|水際《みずぎわ》立った高島田の泰子が一人青ざめて|這入《はい》って来た。切り水模様の|縮緬《ちリめん》 の|単衣《ひとえ》に、|眼竜《がんりゆう》の帯を締めた泰子であった。彼女は黙礼すると机の前にぺたりと坐った。高之は 見ると同時に、練太郎との結婚の話は|調《ととの》ったのだと思った。 「先日は何のことだか分らずに、失礼しました」と高之は云った。 「あのう、今朝あたし、忍さんから聞いたんですけど、すみません」  云ったかと思うと泰子は|袂《たもと》で顔を|蔽《おお》って机の角へ泣き|崩《くず》れた。高之は|唖然《あぜん》としたまま黙ってい た。 「お怒りになったでしょう」  練太郎の謀んだ東紙の件のことだろう。それは忍の父から、忍に聞え、それが泰子に知れたの にちがいたい。 「いや、あれは商売上のことですから、また別ですよ」 「でも、そんなこと、同じですわ。あたし、ちっとも知りませんで、ほんとに、どうしたら宀刪ろ しいんでしょう」  |慄《ふる》えつづける泰子の肩を見てはもう高之も迷いも見栄もなくたるのを感じた。彼は泰子の傍へ よっていった。 「もう、何も云わないことにしましょう」  切り水模様の縮緬の中へ、消え入る|襟足《えりあし》のなまめいた泰子の島…の揺れるのを、高之はほのぽ のと射す光を見る思いで|眺《 が》めていた。昨日までの|淋《さび》しさはいつか無くなり、ふくれ上って来る胸 の豊かなとどろぎをじっと抑え、一|撫《な》で泰子の背を撫でた。恐るべき触感だ。無言のうちに二人 の冴は近よったが、高之は腕を|挟《こまぬ》き、雨に煙る窓外へ|荘然《ぼうぜん》と眼を投げた。 ロ我 「あたし、お|詫《わ》びの仕様もありませんわ」  泰子は顔を上げた。 「また忍さん、何か云ったんですね」と高之は訊ねた。 「ええ、でも、忍さん教えてくれはりましたので、宜ろしかったわ。ほんとに、うちのお父さん、 いやなことしやはりまして、困ってしまいますの」 「今日、練太郎君に逢いましたが、あなたは結婚たハさるんだそうで」  泰子の頻色はさっと変ると、 「いいえ、それはお話ありましたが、あたし、いやですの」 「しかし、それじゃ、お父さんお困りでしょう」  文七のことを云われては泰子も一寸黙った。 「でも、そんなこと、宜ろしますわ。練太郎さんも、知ってくれはりますと思いますの」 「それはそうかもしれないけれども、お父さん、お|赦《ゆる》しにはならぬでしょう」 「それは何とも分れしませんが、そしたら、あたし、決心がありますわ」  高之は思案にくれる風に苦しげに黙った。 「もう練太郎さんのこと、考えないでちょうだい。あたし、これ以上苦しむのは、いやですわ」  泰子がその気ならもう後へは引けぬと高之は思った。もう後へは引けぬ。ー1  この行く先二人の仲には、山川ならず嵐も雨も来るであろう。けれども、迷いの|鎮《しず》んだ今は、 高之の覚悟も|鞭《むち》で追われるように、一刻ごとに強まるばかりだった。 …諧\三 「あなたがその気でいて下さるなら、僕も決心しましょう。過去のことは、みた煙にして下さい」  泰予は顔を赧らめて軽く頷いた。しかし、|艶麗《えんれい》な装いの楽しく晴れた|躪《ろう》たけた品位に、高之は それ以上は身を泰子に近づけ難く、眺めるばかりであった。 「長いお|交際《つきあい》でしたから、僕にも悪いところが多いでしょうが、大眼に見て下さい。どうも僕 は、考える癖がだんだん年とともに、出て来るようになって、困っているんですよ。この間も忍 さんにやっつけられました」  泰子は黙って笑っていた。 「そのうち、僕もこんな商売はやめますから。この商売をやっている間は、幸福というものは分 りませんからね。同じ一生たら貧乏しても、幸福な方が気楽でいいですよ」  |極《きま》りきったことたがら、それが泰子には早やすでに幸福が来ているように、うっとりとなるの だった。すると、突然、高之の顔は堅くひぎ|緊《しま》った。 「それはそうと、僕には、今一寸疑問があるんですが、あなたのお父さんは、僕たちの間を邪魔 することにしてらっしゃるに、ちがいないと思うんです。それがはっきりしないと、僕はあなた のお父さんに、あなたを下さいとは、どうしても云い出せないですから、しばらくそれが分るま で、待って下さい」  泰子の顔はまたたちまち曇って来た。一大事の前だ。云うべきことは恐れてはならぬと高之は 思いながら、 「あたたには、心配はいらないと思うけれども、お父さんにはね。ーこの人、どうも奥が深く て、良く僕には分らない人ですよ。特に僕に反感を持ってらっしゃる方だとは、思えないですが」  高之のそう云う廻した云い方は、泰子の不安を増すばかりであった。 「正疸に云ってしまいますが、あなたのお父さんのやられることは、僕の都合の悪いことばかり を、やってらっしゃるんですよ。あなたにはお分りにたらぬと思うんですが、現に東京製紙の株 のことだって、練太郎君にやらされたことは、危く僕の家がひっくり返るところだったんです。 あのときは、運良く軽井沢で忍さんが春子さんと、|喧嘩《けんか》してくれたもんだから秘密が尾を出し て、それで助かったんですからね」 「あら、じゃ、あのときでしたの」  と泰子はびっくりして云った。 「しかし、まだこれきりじや、ないと思うんです。きっと何かありますよ。それが何んだかまだ 僕には見当がつかないんだが、考えればこれだって、高枕で寝てられるようなことじゃなさそう なんです」 「それじゃ、あたしも気をつけておきますわ。ぼんやりしてたもんですから、ちっとも知りませ なんだの」 「たるだけ気をつけといて下さい。それでないと、さてあなたと結婚しても家に何もなくなって ちゃ、あなたに逃げて帰られますからね」  泰子はにっこり笑った。 「けれども、これは笑い事じゃたいですよ。あなたのお父さんは僕の家なんか、どうこうしよう 詈\三 日找 〈、ム と思ってやりなさるのだとは思えないけれども、 |懐刀《ふところがたな》は練太郎潸でしょう。僕とあなたが結婚 でもすれば、あの人はそのまま納ってる|筈《はず》がない。そりゃ、練太郎君一人との|太刀《たち》打なら、僕だ って|恐《こわ》くはないが、後ろにはあたたのお父さんがいらっしゃるんだから、これは一寸、|凄《すりこ》いです からね」  高之の言葉にしたがって晴れたり曇ったりしていく泰子も、 「良いことばかりって、ないものね」と今はただ吐息をつくだけだった。  たおその上、父代りの尾上は泰于との結婚を赦すまい。けれども、高之はそのことだけはまだ 泰子にうちあけるわけにはいかなかった。しかも明日は清子が来る。これはどうしたものだろ    0 久ノ・:・・ 「あなたの島田は、よく似合いますね。初めて見た」  と高之は湿る空気を柔げて云った。 「これ、お父さんが結え云やはって、ききなされしませんの。あたし、こんたの、嫌いやけど」  顔を赧らめ、身を|捻《ね》じて、髪に手を上げる泰子の|杣口《そでぐち》からこぽれる薄紅色の、|匂《にお》い立つかと思 われる幽艶な姿に、高之は|眼《ま》のあたり一面ぼうとかすむ思いがするのだった。窓の外ではなお雨 は降りやまず、河岸の柳に煙る|蕭条《しょうじょう》とした暮色に黒い上蔵の壁の|斑点《はんてん》も|縢《おぼ》ろに沈んでいった。 「あら、もう灯がつきましたわ」  と泰子は云った。高之は立ち上って縁に出た。かすかに|衣捫《きぬず》れの音がして、後ろに立った泰子 の襟もとから漂う匂いが、雨気に籠って放れ難い。屋根をかけた舟が雨中を静々と|樟《さお》さしつつ登 って来た。 芒…嵜 膏我  清子は高之と、日違いで大阪の叔母の家へ蔚いた。まだ朝が早かったので高之へすぐ報せるの もひかえ、頃あいを見て十時ごろ電話をかけた。しかし、そのときにはもう高之は宿を出た後だ った。午後にたって清子は美術|倶楽部《クラブ》へ出かけてみた。東京で高之と逢ったとき、その売立を見 たいと云ったのを思い出し、電話で問い合わせると丁度その日は初日だということだった。それ では高之はそこへ廻るにちがいないと思って清子も行くことにしたのである。  |御覚筋《みどうすじ》の美術倶楽部は清子は初めてだった。玄関を)、|一《は》氾|入《い》り会場へ行くと、広間の座敷には|骨董《こつとう》 屋の番頭たちが庭を背にして沢山集っていた。みな誰も話をせず、来る客の顔を眺めながら、し んと静まっている中を、清子は書や絵を順次に見ていった。  人はいるがあまり静かなので、清子も一人せかせかと高之を探すわけにもいかぬ。よく名も聞 かぬものの品は見流していくうちに、小幅の竹田が|山陽《さんよう》の書と並べてかかっていた。次には|木米《もくべい》 の山水が床の間に下っていた。 「ああ、これだわ。呼び物は」  と清子は思った。この木米というのは、本職が陶器師だのにどうしてこんな立派た絵がかけた のかと、清子も不思議だった。すると、そのとき、今まで動かなかった札元の番頭たちが、さッ とゆらめいた。中から四五人、つと立って入口の方へよったので、清子もふと、見ると、六十過 ぎの|恰幅《かつぶく》の立派な一見ただ者ではない人物が這入って来た。番頭たちはその男の前へ集ると、頭          虫亳              離りん を下げて何やら小声で挨拶した。清子はその人物の年には似合わぬ凛々とした威厳に、どこか襟 を正す気持に動かされ、しばらく絵を見る素振りをしながらも、ときどきちらりとそちらを見 た。すると、 「あッ」  と、清子は胸の中で|呟《つぶや》いた。その男の後から|喰《く》っつくようにして練太郎が歩いて来たからだっ た。 「それじゃ、あれは、仁礼さんだわ」と思ったが、清子は今さら逃げるわけにも行かなかった。 動けば練太郎に見つかるにちがいない。しかし、そのとぎは広間ただ一点の婦人のこととて、早 や練太郎に清子は見つかっていた。 「|梶原《かじわら》さんじゃありませんか」  と、練太郎は木米の山水の前で云った。 「あら」 「軽井沢ではどうも、ーーいつこちらへ?」 「今朝一寸、叔母のところへ参りましたの」 「そうですか」  と練太郎の云っているとき、もう仁礼文七は清子の方を柔いだ|眼《ま》なざしで眺めていた韓 「あのう、この方、|兜町《かぶとちよう》の梶原さんのお嬢さんです。これ私の主人です」 冢族会}{ 練太郎は文七と清子にそれぞれ二人を紹介した。 「ああ、そうでしたか」 と文七は渋い撃た霍、彼に似合わぬ打濤けた笑攀見せて攘した。今まで濤漬、 文七竇い瞥悪い瞥両面兪かされていた。それ雙七蓬うまで椅とたく不快憲ろし い爺惷像していたが、さ毳ってみると、良い竃方爰七簑物を現している吉に鶯れ た鎬見株屋とは見えぬ。実行力馮|藩《あふ》れた竪固矣巨の風格を備えている。 「たかなかこの木米は、立派ですな。左の山が良い」 と文七は率に云った。木米衝しては、|藪《らつかん》佚ろい諧佚犲難いの辮簷と|諧匁《ちこ》 識よりなかったので、三芒と清盂返事をし萇けだが、峰巒の鰺仙妙理、逸宕とした山水の 新意は清子にも良く分った。 「このごろは、高いのよう賞わん」              は爰 と・文七繍杰に呟いて、第二の部曇移って行った。後から春奪串の鑑がぞろぞろ ひっついて歩いた。清子は遅れて行って妄七のとり套が多いので、天彼から放れて呂で あった。影、ち蛛ぎの絵の前孚っと通り越嗤雪村の糞文七癖ると、すぐ第一三の構 へ移った誦こ沽題の蘇赤絵と、柳を画いた蕪村の二双麗寔爵髪った。文七は鉢と 孟とも見分け難い、万暦赤絵の傍まで来るとしばらく眺めていてから、 「これ、届けていただきましょう」  と・春海冪頭三言いった。普通の客なら、「|他所《よえ》さんの方、聞いていただい|茉《さ》《ち》|ら」と 埆戈 二竈 一応は他客の値を|訊《き》くところだのに、文七はそれを云わぬ。いきなりそれを届けてくれと云える のは、ここの美術倶楽部の客の中でも文七だけだった。欲しいと思うと他の客の値より、どこま でも自分の値を張り上げていく彼の相場の|遣口《やりくち》だった。この万暦赤絵もすでに一万三千円の値は 出ているのだが、まだそれも張り越していくつもりであるらしい。清子はさっきから、文七の買 うところを放れて眺めていたが、あの買い方なら、ど一れほど高価な美術品を買い集めてあるもの か彼女には想像がつかなかった。  文七は赤絵を命ずるとすぐ会場から帰っていった。帰るとき練太郎は清子を見つけて、 「どうぞ、お暇でしたらお遊びにお出かけなさって。ここにおりますから」  と名刺を渡し丁寧に挨拶をして彼も文七の後を追っていった。一人になっても清子はまだ場内 をうろうろしつづけた。文七や練太郎が帰ってくれたのでこれで高之と逢ってもゆっくり刪来る と、気持こそ楽になったがなかなか高之の姿は見え・なかった。清子は美術倶楽部を出てから、心 斎橋へ一度出て呉服屋を見て廻り、それから高之のいる|松平《まつへい》まで歩いてみた。するともう高之は 帰っていた。 「やア。お電話どうも」  と高之は云って玄関へ現れた。清子は部屋へ通されると、一度縁へ出て下の川水を見聯した。 「あの、今さき、美術倶楽部へ行ってみましたのよ。高之さん、いらっしゃると、云ってらした もんだから」 「ああ、そうでしたね。僕も行こうと思ったんだが、今日は初日でしょう。初日なら必ず仁礼の |親父《おやじ》が行きますから、逢っちゃうるさいのでよしたんです」 「そう。道理で仁礼さんにお逢いしましてよ」 「逢いましたか」 「ええ。いい方じゃありませんか。あたし、春子さんに聞かされてたもんだから、どんな方だと 思ったけど、あの人なら立派な方だわ」 「そりゃ、あれは大した人物ですよ。あんたのは滅多にいませんよ」  思いがけなく高之から、泰子の父を褒める言葉を耳にすると、早や清子も胸が渋って来るのだ った。 「でも、あの仁礼さんは、やはり大阪人のタイプですわね」 「そうです。あの人何か買いましたか」 「万暦赤絵をお買いになりましたわ」 「ははア。あれは一万五千はしますね。奇妙なものでしょう」 「ええ、御覧になりましたの?」 「写真を見ました。あの仁礼さんは、国宝指定のものを九つばかり持ってますよ。価格ではどれ ほどになるか知れないでしょう」 「じゃ、美術晶には明るい方なんですのね」  と清子はもう高之の頭を泰子の父から|他《ほか》へ|外《そ》らせたいらしく、声を落してそう云ったが、しか し、高之は清子のいら立たしさには気附かぬ風に、なお仁礼文七のことを云いつづけていくのだ った。 「あの人は、僕は英雄だと思うんだが、これをしようと思うと、どんなことでも、実行してしま う人ですよ。あれは大阪人の代表的女英雄ですね。美術品の|落札《らくさつ》でも、落さないことがないんで すからね。それが一事が万事で、何んでもそうなんですよ。僕はあの人と競争してやりたいんだ けれども、つい、その下の練太郎君との競争になってしまって、はははは」  どろいうものか、一人明るくなっている高之を見ると、清子もこれは自分が逢いに来たからだ とは思えなかった。もし自分の来たことのために喜んでいるものなら、仁礼のことを口を極めて 褒める筈はない。それでは、もしや泰子とーーああ、そうだ。それにちがいがない。清子は沸き 立ち上って来る胸を、じっと沈めて高之を見た。けれども、まだ高之は文七のことを云いつづけ た。 「しかし、何ですよ。僕なんかあの仁礼さんを見ていても、よく思うんだが、あの人がもし知識 階級の人だったら、どうするだろうと思うことですね。知識階級かどうかと人を定める限界は、 その人が、どんた商売をしている人でも頭のどこかで、世界とか、人類とかいうものを頭に入れ ているか、いないかというところにあると思うんです。ところが、あの仁礼さんは、そんなこと を少しでも考える奴は、阿呆のすることだと、定めているんですね。世の中は、金の動くことよ り何もないと思ってるもんだから、このごろの東京の知識階級の者がみな阿呆に見えるんです よ。全く仁礼さんから見れば、われわれは阿呆にちがいないんだから、|此奴《こいつ》、どうしようもない んですよ。やられるばかしです」 「それで、美術品を集めてらっしゃるんですのね」と清子は一寸皮肉になった。 「そうなんです。だからあの人は、美術品でも一流以外は買わない。一流品と二流品じゃ、物の 値打は毛ほどですが、値段には雲泥の差が出て来てるんです。一流品だと、持っていても第二番 目の買手が、いつでもちゃんと定っていて、手を受けて待ってるんですからね。二流品だと、さ て売るとなると、買値よりずっと落して売らなけりゃ、買手がない。一流と二流は奇怪なひらき があるもんですよ。ところが仁礼さんは、これは一流品だと見抜く眼は、全く図抜けてるんです よ。骨董屋もあの人には参るそうです」 「ひどく感心なすったもんですね」  と、もう清子はむしゃくしゃして来て横を見た。  女中に頼んだシトロンが来ると、高之は清子にシトロンをついだ。 「春子さんに聞いたことなんですけど、仁礼さん、春子さんに緕婚を申し込みなすったことが、 あるんですってね」と清子は云った。 「そんなこと、あったかもしれませんよ。けれども春子さんには、仁礼さんの良いところが分ら ないからな。どうも、東京の人には、仁礼という人は嫌われますよ。金のことより考えないとい う」 「でも、あたしは仁礼さん好きでしてよ。あんな年寄の人なんかあたし好きだなんて、思ったこ とないんだけれど、ぐにゃぐにゃした若い人より、ずっと好きですわ」  あまり高之が仁礼を褒めるので、それなら自分も負けずに褒めようと、腹立ちまぎれに清子は 云ってシトロンを飲んだ。 「そりゃ、なかなか、あたたは眼が高い」  二人は黙ってしまった。清子はもう高之が東京からはるばる彼を追って来た自分に、一言好意 ある言葉をかけてくれそうたものだのにと思うのに、聞きたくもない骨董の話だとか大阪人の良 さを聞かされては、これでは彼との結婚もも早や駄目だと、がっかり力が脱けていくのだった。 「あたし、お邪魔して、いけなかったんじゃありませんの」  高之も詰めよられては、あやふやな返答もしていられなかった。 「それは僕は有難いと思いますが、実は僕はいよいよ、結婚をしなければたりませんので、それ であなたとお会いすることも、|躊路《ちゆうちよ》する場合じゃないかと、さきから考えていたのです」  見る間に清子の顔色は|蒼然《そうぜん》となった。彼女は黙って高之を見詰めていてから、唇の片端を|慄《ふる》わ せつつ、かすかに笑うとつと立ち上った。けれども、どうしたものか、縁へ出ると川の水面を見 降していてから、また引き返して来てばたりと高之の前へ坐った。 「甚だすまないことと思います」と高之は云った。  と、がちゃりッと音がした。途端に、コップを握り|潰《つぷ》した清子の手から血が吹き流れて来た。 「あッ」と高之は云って、|手巾《ハンカチ》で清子の手を|拭《ふ》こうとした。しかし、清子は手巾を投げ捨てて物 も云わず部屋の外へ出ようとした。 「お待ちなさい、女中を呼びますから」  高之は清子の手を持ったが、清子はそれも振り払った。その拍子に|襖《ふすま》へ突き当ってすぐ廊下へ 出ると、真直ぐ玄関の方へ出ていった。|周章《あわ》てて|駈《か》けて来た女中が|膝《ひざ》をついたが、清子の血の流 れている手を見ると、 「あら」と云った。「一寸お待ちなさって」  しかし、清子はそれにも黙って表へ出ていった。|暫《しばら》くして、玄関に人影が見えなくなったと き、突然、清子はまた引きかえして来た。彼女はつかつかと高之の部屋へ這入っていくと、いき なりぽんやりしている高之に血のついている手を突き出して、 「これ、拭いて頂戴」と云った。  気が違ったのではないか、と高之が思ったほど、清子は青ざめきった顔をしていた。彼はこの 婦人を一人東京まで無事に帰せるであろうかと、怪しみたがら呼び|鈴《りん》を押した。 「大丈夫ですか。あなたは怒ったり、悲しんだり、しちゃいけませんよ。何も僕が結婚をするか らと云って、どうというほどのことはないでしょう。手にガラスが刺さっていませんか」高之は 清子の|掌《てのひら》を見ようとした。 「あたし仁礼さんのところへ、つれてってちょうだい」と清子は手をぶるぶる標わせたがら云っ た。 「仁礼さんって、泰子さんのところへですか。泰子さんなら、もうすぐここへ来ますが、用なら 云っときますよ」 「お父さんですわ」 「文七さんに? 何の用です?」  清子は黙ってきらきら光る眼で高之を見詰めていた。 「仁礼さんに逢うのは簡単ですが、僕はあなたをそんなに怒らす理由はありませんよ。春子さん がどんなことをあなたに云ったのかしれないけれども、あなたの腹の立つことは何もないと思い ますね」 「仁礼さんを呼んで下さいよ。早く」 「あなたが勝手に呼べばいいでしょう」  こう云ってるところへ女中が嶌一旭入って来た。 「|金盥《かなだらい》に水を持って来てくれないか。すぐだよ」  と高之は云った。清子は電話の傍へよって行くと、美術倶楽部で練太郎に貰った名刺を出して 電話をかけた。 「あの、あたくし、梶原ですの。さきほどお逢いしましたーええ。あの、一寸お逢いしたいこ とがありますのよ。お眼にかかれないでしょうか。ーええ、では、どうぞ、そうしてくださら ない。さようなら」  女中が水を満した金鯉と|縅帯《ほうたい》を持って来た。高之は清子の傍へよって行き、 「さア、手をお洗いになったら。どう仕様もない運命というものが、人間にはありますからね。 さア手をお出しなさい」  高之は清子の手を水に浸して刺さっているガラスを取ってやった。すると、急に清子は|片膝《かたひざ》立 てたまま泣き出した。 「もう宜ろしいわ」  ひっ込めようとする清子の手さきを高之はしっかり握り、これが最後のお礼になるだろうと思 いつつ指を一本ずつ、丁寧に洗った。 「あたくし、長い間、いつもあなたのことばかり考えて暮していましたのに、それに、こんなに なってしまって」  切れ切れにそう云ったかと思うと、清子はまた不意に泣きやんだ。 「放して下さいよ。あたし、これから、練太郎さんに逢うんですから」 「まア宜ろしいですよ。そのうち、泰子さんが来ますから、ゆっくり遊んでいらしって、それか らお帰りにたっちゃ」 「このうえ、まだ泰子さんに、逢えと仰言いますの?」清子は強く|唇《くちぴる》をひき締めた。 「しかし、そういうものですよ。僕はあなたを嫌いで、こんなことになったんじゃないですか ら。どうも、やむを得ない」 「じゃ、お会いしますわ」と清子は何か覚悟があるらしくはっきりした声で云った。  高之は清子と泰子を逢わせるのは、事が一層面倒になると思ったが、しかし、一時の面倒は後 のためどちらにも良い結果をもたらすにちがいないと、考えたのである。彼は清子の手に繃帯を してから、泰子に電話をかけてみた。ところが泰子は三十分も前にもう家を出たということだっ た。すると、丁度そこへ泰子は、前から来ていてどこかの部屋に隠れていたらしい様子で、静か にそっと樽一旭入って来た。 「今日は」  そう泰子が云っても清子は黙っていた。 「今、電話したばかりですよ」  と高之は云った。けれども、それも泰子は知っていると見えて、 「そう」と云ったきりだった。 「清子さん、お帰りになみと仰言るんですが、もうすぐあなたが見えるからと云って、僕がおひ きとめしたんです。今朝いらしたんですよ」 「じゃ、お疲れですわね」 「いいえ」  と清子は頭を振った。|痙鑾《けいれん》したように座は森閑となった。 「あたし、東京をたつ前、高之さんと、お約束しましたのよ。それで、こちらへ来てみたんです けど、高之さんは、泰子さんと御結婚なさるところを、あたしに見せてあげようって仰言るんで すの。随分御親切な方だと思いますわ」清子は青ざめたままヒステリカルな高い声で笑った。 「いつお帰りになりますの2」泰子はいつもの彼女とは違って、落ちつき払ったしっかりした声 で|訊《たず》ねた。 「あたし、高之さんと、御一緒にしたいと思いますのよ」 「それがいいですよ。僕一緒に帰りましょう。帰る時にはお電話下さい」  と高之は云った。 「本当にそうなされば、宜ろしいですわ。お帰りなさる前に、一度あたしの|処《ところ》へもお寄りになっ て下さい。汚いところですけれど」泰子は何の誤解もない声で云ったのだが、高之はちらりと泰 子の瀕を見た。  清子は立ち上るとどういうものか一瞬焦点の合わぬ眼を大きく開いたまま、痴呆のように泰子 の帯のあたりを見ていてから、黙って部屋の外へ出ていった。 「あ次たは大丈夫なんですか」と高之は後から訊ねた。  高之と泰子は清子を送って出たが、清子はもう後も振り向かずに外へ出ると、家を取り壊した |路《みち》を心斎橋の方へ歩いた。トラックや白動車が後から後から一清子を追いぬいた。すると問もなく 杪利やセメントの積み上った狭い道の上で、|擦《す》れ違うトラックと白動車の群が、停ったまま動か なくなった。|塵挨《じんあい》が|濠《もうもう》々と車の間から舞い上った。清子は車の間に|挾《はさ》まったままぼんやりとして その中から出ようとしなかった。  そのうちに、また車は動き出した。清子もようやく歩き出したが、彼女はどこへ行くあてもな かった。真直ぐに心斎橋へ出てある喫茶店餝、旭入ると、そこから練太郎に電話をかけた。彼女は よろめきかかるような調子でぐったりしたがら云った。 「あたし、清子ですの。さっき六時って云いましたわね。でももっとお早くお会いしたくって。 ええ、そう。心斎橋の『蝶屋』という喫茶店にいますの。でもね、あたし、頭が何んだかへんな んですの。眼まいがするのよ。早く来て下さらない。ええ、じゃ、また」  電話をすますと清子は化粧室へ這入っていった。しかし、彼女はここでも化粧もせずただぽん やりと鏡を眺めたまま立っているだけだった。 「いつこんなところへ、来たんだろ」  ふとそう思うと、また彼女は喫茶室へ戻って来た。果物の匂いのする|緯麗《ぎれい》な部屋の隅で、商人 らしい二人の客が風呂敷の中から瀬戸物の見本を出して取引をやっていた。スタンドの|蛇口《じやぐち》から 出るソーダの音が遠方の物音のようにときどぎ聞えた。清子は頭をかかえたり、身を起したりし ていたが、|脳裡《のうり》へ刻み込まれた泰子の姿が胸中をひっ|掻《か》き廻してやむ暇はなかった。間もなく、 「遅くなりました」と練太郎は云って這入って来た。「どうしたんです。電話ががちゃがちゃ鳴 って、よう分らんのでね」 「あたし、ひどい目に逢いましたのよ。後で|委《くわ》しくお話しますけど、美術倶楽部であなたとお別 れしてから、すぐ松平へ行きましたの。そしたら、高之さんが仁礼さんのお父さんのことばかり 褒めるんでしょう。あたし、おかしいなと思って、訊いてみたら、やっばりそうなの」 「ははア」練太郎は|一寸《ちよつと》黙ったが、急に大きな声で、「おい、紅茶くれんか」とボーイに云った。 「つまり、おかしいって、泰子さんとでっか〜」 「結婚なさるんですって、あのお二人」 「誰がそんなこと、|定《ぎ》めたんです2」 「謔って、御当人でしょう」と清子は|膨《ふく》れ返って云った。 「しかし、そりゃ、|化体《けたい》な話やな。昨日、僕、重住さんに|逢《お》うて、あんた泰子さんと結婚しなさ るかって訊いたら、君せい、云うたのやが、どないしたんかね」 言義  清子は練太郎の暢気さに、いら立たしそうに身を|捻《ね》じつつ、 「どうして、あなた、そんなこと云ってられるんでしょう。京極さんは、我慢が出来まして?」 「そりゃ我慢も我慢やが、僕はもう、我慢ばかりやからな」と至極のんびりした声だった。 「だって、あなたさえ、しっかりしていて下すったら、こんなにならなかったところですのよ」 「そら間違いや。何んぽ僕がしっかりしてたって、|嬢《とう》さんが、向う向いてたら、これ、どないも ならしませんが」 「でも、|口惜《くや》しいってことがあるでしょう。あたし、このまま帰れませんわ」  紅茶が出た。しかし、二人はもう傍のボーイたちの視線は眼中になかった。 「梶原さん、手どうしなさったんです?」  と練太郎は清子の手にした繃帯を見て訊ねた。清子は返事もせず裏庭の|椋櫚竹《しゆろちく》の葉にさしかか っている日光を見ながら、眉をときどき痛そうに|蟹《ひそ》めていたが、 「あたし、高之さんの前で、さっきあなたにお電話しましたのよ。あたし、あなたに御相談した いことが、ありますの」 「それじゃ、御飯を食べに行きまひょか」  |勿論《もちろん》だというふうに清子は黙って立ち上った。二人は表へ出ると傍の街角から自動車を拾っ た。軽井沢で一二度逢っただけだのに、二人に共通した一大事は、もう苦しみを分け合った十年 の知己のように、互に心をもたれかけさせているのだった。 「魚利へ行ってくれ」と練太郎は云った。 妛豈 面我 「泰子さん、今、高之さんのところにいるんですのよ」 「じゃ、あなた、逢ったんですか」 「ええ、会ったどころじゃないわ。無理に会わされちゃったんですもの」  練太郎はむっつり黙ってしまった。『魚利』の女中は若い男女の二人と見て、練太郎と清子を= 階の四畳の部屋へ案内した。床には|玉堂《ぎよくどう》の軸がかかっていて、早や黄菊も床の間に生けてある。 絞りタオルの来るまで二人は黙って向い合っていたが、 「どうです。元気を出しなさったら。何もくよくよすること、ありませんよ」と練太郎はいって 笑った。 「でも、あなただって、そうよ。元気がおありにならないわ」 「いや、僕は策戦をやってるんですよ。そりゃ、僕だって大将から許しの出た|嬢《とう》さんを、今さら 横から無茶なことされたら、顔|潰《つぷ》れたのと同じですが。そんな他愛のない、阿呆なことありまっ か。僕、やったろ思うてまんね。むらむらしてますね」  絞りタオルで顔を|自棄《やけ》に拭きつづける練太郎の、ぎろぎろ光った眼を見ると、悲痛なその場の 状態とは反対に、急に清子はおかしくなった。 「でも、もう遅いと思うわ」 「そんなことない。まだこれからや。何も一緒になりたいなら、そら、僕かて同情するが、そん なら、なぜ僕のすすめたとき、定めんのや。僕はこれでも、遠慮しといてあげたのでっせ。無茶 や」  しかし、清子は練太郎の興奮には乗らずに静かにいった。 「あたしね、もう一度泰子さんのお父さんに逢わせていただけないかしら2」 「なにしたさんのや?」と、練太郎もいささかびっくりした顔で訊ねた。 「あたし、あの方、今日お逢いして、いい感じの方のように思ったんですのよ」  しばらく、二人は顔を見合せて黙っていた。 「それで、どや云やはりますのや?」 「あなた、いつか仁礼さんに、春子さんのお話なすったことが、あったでしょう」 「ああ、あれでっか」  と練太郎もようやく理解が出来たらしかった。 「そらね。あれは、うちの大将が春子さんのことを、あの若さで一人にしとくの、惜しいと云わ れたので、それで一寸、僕勝手に一人あたって見ただけですよ。あの人は一ぺん結婚しやはった のやで、かめへんやろ|思《おも》たんやが、あなたはまだこれからですが。そんた無茶な考え起すもんや、 ありませんよ」 「無茶かしら。あたし、決心したんだけど」 「そら、無茶や。短気起さんと、もうひと月、じっと待ちなさい。そしたら僕、どんな人でも、 お世話したげます。世の中は広いさかい。あんた重住さんみたいな、煮えきらん男の一人や二 人、何んでんね」 「でも、あたし、仁礼さんは好きですのよ」  と、清子はじっと練太郎の顔を見た。 「そら、あなたの勝手やが、何もわざわざ、そこまで考える手、ありませんやないか。あなたは 今んとこ、気がへんになってなさるで、僕のいう通りにお帰りなさいよ。後は僕に任しときなば れ」  こう云っているところへ、|鶉《うずら》を真二つに割った料理が来た。二人は文七の話だけはもうそれぎ りしなかった。  その夜、清子は眠れなかった。電気をつけたり消したりしてみても、頭に忍びこむ高之の幻彩 が飛び乱れてやまなかった。練太郎に忠告せられたように、高之の煮え切らなさを、いく度踏み にじり追い払ったか知れなかった。けれども、あんなに楽しく、意気揚々と大阪まで来た自分で あった。あのときの女の幸福は、またと再び得られるものではたかった。 「ああ、苦しい一ほんとうにあたし、苦しいわ」 と、いかにも苦しげに清子は床の上に起き返り、胸に手を入れ、|悄然《しようぜん》として夜の更けるのを閃 き入っているうちに、つと彼女は立ち上ったけれども、|何《な》ぜまた立ち上ったのか忘れてしまった。 どこからか鳴く細々とした虫の|音《ね》に、|夜来《やらい》の雨の音も|籠《こも》って来て、胸中、陣々と寒風が吹き過ぎる。 「たまらないわ」  と、彼女は|独《ひと》り呟きながら眉を落し、またどっと床の上に身を投げた。 「叨日、あたし、もう一度高之さんに逢うわ。どうしても、このままじゃ、いられないわ」  そうだ、明日は高之が美術倶楽部へ行くと云っていた。あそこへ行こう。-清子は今は是が 非でも、高之を泰子から切り放してしまわねばと、早や突き落された自分も忘れ、念々不断の|妄 想《もうそう》に時を移していくのだった《し》|。  翌日、午後から、清子は|唐織《からおり》の帯に、紋絞りの着物を着て、また一人美術倶楽部まで出かけて いった。会場は昨日より人が少なかった。|塊《かたま》っていた人々の中から、 「あの木米、もう十四万円になってるそうや」  という声が聞えた。すると他の一人が、 「いや、九万やということでっせ。|蕪村《ぷそん》が二十万円で、赤絵が一万四千円やそうな」  という。人だかりは矢張り木米が第一で、赤絵が第二である。清子は会場をあちこちとぶらつ いているうちに、木米の絵の前へ三度も来た。その|度《たぴ》に体骨|峻美《しゆんぴ》な木米の筆力が、少しずつ分っ て来たが、高之の姿は一向に見えなかった。すると、そのうちに、 「今日は」  と、突然忍の声がした。見ると、珍しく和服の忍の後ろに高之と泰子が立っていた。  瞬問、ああまた苦しみに来たと清子は思って後悔したが、燃え上って来た怒りに、火を抱く胸 の沈めようもなく、くるりと向き返ったものの、たちまち眼はくらみ、身がだんだん傾いて、今 にも倒れるかと思われるのを踏み|堪《こら》えた。 「これから、あたしの家へいらっしゃいません」と忍はにこにこして優しく云った。 「ええ」  と、清子は云ったものの、何となくその|憐《あわ》れな声にわれながら驚いた。 「ね、いらっしゃいよ。高之さんたちも、いらっしゃるんですから、御一緒の方が宜ろしますわ」  誰が行くものかと思ったが、しかし、このとき不意に清子は鳴り響くような強さが胸の中を駆 けめぐった。もうこうなれば一緒に行って、高之に身を捻じつけ、死ぬばかりだと、今は清子も 見栄恥も忘れはて、ひた走りに|辷《すべ》る底まで辷り下ろうと思うのであった。 「じゃ、お邪魔させていただきますわ」  何心なくつい清子の心に同情して、一緒に来いとすすめた忍であろうけれども、さて清子にそ れでは行くと云われると、一瞬、泰子と高之の顔は少し変った。 「行きますか」  と高之は云った。全く思いがけない事にちがいない。けれども忍は、 「それじゃ、行きましょう」  と|臆《おく》することなく、さっさと先に立って玄関の方へ出て行った。高之も泰子も迷惑ながら忍が いれば面倒な事はてきぱき処置してくれるであろうと、今は|安堵《あんど》をしたものらしい。  忍は自動車に乗るとき、第一番に清子を乗せ、次に自分が乗って、泰子と清子の間に席を占めた。 高之は最後に補助席へ横にされたが、車の中では、明るい忍の声だけ絶えず聞えているばかりだ った。阪神道路を三十分も過ぎると、|蘆屋《あしや》の忍の別宅に着いた。|母屋《おもや》から一町ほど芝生の庭をへ だてて、忍の洋室が立っている。部屋の周囲には手入れの行き届いた森があった。忍はピアノや プロペラや、ゴルフ道具などの置いてある広い部屋へ、三人を通してから婆やに紅茶を頼んだ。 「これから六甲へ行きましょう。あたし、運転しますわ」  と忍は清子に云った。テーブルの上には、パリ版のボーグやフェミナや、ハァバスバザーなど の雑誌類が取り散らかっていて、およそ忍の趣味は泰子とは反対にハオカラなものだった。 「一寸待ってて頂戴」  と、忍は云って次の部屋へ這入ると着物を脱ぎ、スポーティなスーツに着替えた。  応接室では三人にたると、泰子だけ部屋を出て森の中へ這入っていった。すると、高之は何か 話さねばならぬことがあるらしく、自分も泰子の後から降りていった。  いずれこんな目にあうとは清子も予期していたが、|眼《ま》のあたり楽しげに語りながら、|森《えし》を|逍《ようよう》遙 していく二人の様を見せられては、歯がかちかちと慄えて来た。 「何の因果であろう。こんなつらさは」  と、こう思っても、思い切れぬ胸の痛みは絞めつけられるようだった。 「ああ、また今夜も眠れやしないわ」  と、清子は思った。森をぬけ広い芝生の中へ這入って行った泰子と高之とは、何を話している のであろう。これ見よといわぬばかりで、あまりに人も無げにより添って歩いていく。 「あら、お一人」  忍は出て来ると窓から芝生の方を見て笑った。 「あたし、どうしてお邪魔したんでしょう。全く馬鹿だと思いましたわ」  と、清子はもう前後のことも忘れて云った。 「六甲へ登りましょう。そうしたら、お気持よくたらはりますわ。お登りになって?」 「いいえ、でも、あたし、今夜、東京へ帰ろうかしらとも、さきから考えていますのよ」 「宜ろしいでしょう。今夜、あたしん所でお泊りになってらっしゃいよ。六甲の上に新しい別荘 建てましたの。見て頂戴」  泰子と高之との成功を見ては、今さら忍も淋しく女ったのであろう。清子をもてなす忍の態度 も、軽井沢のときとはおよそ違って誠意のあるのが清子にも感じられた。忍はガレジヘ這入る と、真白なボクソールのニウ・力1を表へ出した。 「清子さん」  と忍は大きな声で呼んだ。清子は部屋を出てガレジの前へ行って見ると、軽快た姿で忍は運転 台に乗っていた。 「お乗りにたって」 「縛麗なお車ですこと」  と清子は云って忍の横の助手台へ乗ろうとした。けれども、後ろの本席を|空《あ》ければ、泰子と高 之が乗るにちがいない。すると|俄《にわか》にまた腹立たしくなって来た。清子はもう遠慮をするのが不快 だった。 「あたし、後へ乗せていただきましてよ」 「どうぞ」  と忍は云ったが、どこまで忍は聡明なのか一行の具合の悪さを見抜いても、顔には少しも現し ていなかった。間もなく高之と泰子が戻って来た。泰子は後ろに清子がいるので、忍の横の助手 台へ黙って乗った。高之は仕方なさそうに清子の横へ腰を降ろした。ボクソールは静まった一行 の一種異様な沈黙のまま、坂に向って進行を始めた。清子と高之は、それぞれ|反《そ》っ|方《ぽ》を向いてい たが、 「清子さんは、六甲は初めてですか」と高之は訊ねた。 「ええ」 「高之さん、あたしの建てた六甲のお部屋、まだでしたわね」と忍は云った。 「そんなもの、いつ建てたんです2」 「云わなかったかしら。フランスに今日の建築って雑誌あるでしょう。あの中にあったお部屋を そのまま造らせてみたんですの。寸分違ったらいやだって、駄々こねたのよ」 「|賛沢三昧《ぜいたくざんまい》だな」と高之は云って苦笑した。 「そんな賛沢かしら。でも、あたしはまだ良い方よ。こないだ、あたしのお友達で自動車を欲し いってお母さんにねだったら、断られたので、腹を立てて、三台も買った人がいるわ」 「そりゃ暴力団だろ」  と高之は云った。忍は高い声で一人笑った。海を背にして忍の車は坂を登ったり下ったりしな がら、急速た勢いで$字形に山腹をまがっていった。清子は疾風のようにかすめる風を受けたが ら、ふと、こうして今何の益もない自分の忍耐を考えると、身が不意に谷間へ落ち込んでいくよ うな淋しさを感じた。 「何をしてるのだ。何を?」  全く馬鹿馬庇しいことながら、それでも気は無性に強く、なお泰子の上へ上へと清子は駆け上 ろうとするのだった。 「いい所ですわね」と、清子は急に高之の方ヘ向き返った。 「いいでしょう」と高之も今は微笑さえ浮べていた。 「東京の近くにも、こんな所があれば宜ろしいわね」と清子も負けぬ気で浮き浮きと云ってみた が、今ひと思いに車が谷底へ落ちたなら、自分は|躍《おど》り上って喜ぶだろうと思った。 「六甲の自宅で休んで、有馬の泰子さんの家へ行っても宜ろしいけど、どうしましょ。|生漱《なませ》の曲 りをドライブして、それから宝塚へ出てみましょうか」と忍は誰にともなく訊ねた。 「忍さんの家へ行きたいな」と高之は答えた。  清子は、泰子の別仆がこの山の向うに在ったのかと知ると、それではいよいよ地獄の中へ突き 進んで来たのだと、今さら|袴然《がくぜん》とするのだった。六甲の頂上はゴルフリンクの傍に、芝生に取り 囲まれて、丁度豆腐を切ったような真白い洋飴が一つ見えた。忍はそれを指差して、 「あれよ」と高之に云った。 「可愛らしい家だな。誰かいるのかね?」 「婆やさんが一人いるの。でも、|美味《おいし》いもの何もあれしませんわ。宜ろしいでしょう」  そう云ううちに、もう忍は車を家の前まで辷らせていた。四人は車を降りた。中は部屋がただ 一つだが、カーテンでし切ると幾つの部屋でも|忽《たちま》ち出来る仕掛になっていて、外観とよく調和の とれた白いセットや寝台が置いてあった。 「なかなかこれは、よく出来てる。精巧で簡素だな。朝起きたらここは良いでしょう」  と高之は云いながら、部屋の中をあちこち見て廻って芝生の上へ降りていった。清子は一人皆 から離れて窓から外を眺めていた。|淡路《あわじ》や神戸の港が一望の中に見降ろせた。|麓《ふもと》の海岸の家のガ ラスが一二枚強く輝いて眼を射るのが交っていた。清子はしばらく窓に身をよせかけ疲れを休め ていたが、やがて、有馬の泰子の別荘へ行かねばならぬのだと思うと、いっそここから練太郎に 電話をかけて、彼も来るように云おうかと考えた。 「はい。どうぞ」忍は云ってお茶を持って来た。 「ありがとう」  清子は後ろを向くと、いつの間にか泰子の姿も見えなかった。清子はさして気にもかけず忍と 向き合ってお茶を飲んでいた。しかし、いつまでたっても高之も泰子も戻って来なかった。 「ここで今夜、お泊りになってちょうだい。朝は自慢ですの。後で神戸へ行っても宜ろしけどあ なた、お疲れでしょう?」 「いいえ。でも、叔母が心配するでしょうから、もうすぐ失礼させていただきますわ」 「電話ありましてよ」  忍に云われて清子は電話で叔母に|報《し》らせてから、泰子たちの行った方向を探してみた。 「遅いのね」  と忍も高之と泰子の行動には不平らしく、二人をさがしに芝生の方へ降りていった。しかし、 帰って来たのはやはり忍だけだった。 「どこへ行ったんでしょう」  忍は戻って来ても落ちつかぬ風に、すぐまた反対の芝生の方に探しにいった。  清子は忍が二人を見つけて来たのに知らぬ素振をつづけているとは思えたかった。強い光線の さしている山上をあちらへ走り、こちらへ走りしている忍の姿を、遠くから見ていると、ひどく 心配そうに顔を|輩《しか》めているのまでが、清子にもぼんやりと分るのであった。 「分らしまへんの」と忍はがっかりしたように戻って来た。  それでは今ごろは有馬の方へ高之と泰子は自動車を走らせているに相違ないと、清子は思った。 「あたしが来たの、やはり、いけなかったんですのね。でも、そんなこと、辛抱して下すっても、 いいと思いますわ」  そう云う清子に忍は返事をせず、すぐ電話を有馬の泰子のところへかけてみた。しかし、もう 三四十分もたっているのに有馬にも二人はいなかった。  練太郎はもう店から帰ろうと思っているとき急に清子から電話があった。六時にどこかで是非 会いたいが都合の良い場所はないかという。それでは先日逢った『蝶屋』で待っていて欲しいと 約束した。六時にたって、練太郎が『蝶屋』へ行くと清子はもう先に来て待っていた。 「お待たせしました。これから、すぐ御飯で宜ろしいでしょう」 `護  と練太郎はいつもの調子でバンドを|摺《ず》り上げながら清子を誘った。二人は店を出て近くの木三 宅の方へ歩いた。通りの上には日光をさける天幕がかかっているので、清子の顔にやさしい柔ぎ が加わった。 「あたし今日ね、美術|倶楽部《クラブ》ヘ行きましたのよ。そしたところが、忍さんと泰子さんと高之さん とに逢いましたの。あたし、帰ろうかと思ったんだけれど、忍さんが、これからあたしの家へ行 こうって云うんでしょう。あたし、むかむかしてたところだものだから、それじゃ、どこまでも ひっついていって見ようと、つい、そう思って行きましたの」 「皆と一緒にでっか」と練太郎はびっくりしたように訊ねた。 「ええ。そしたら、藍屋なんでしょう。ところが、六甲の上にも一つ忍さんの新築の別荘がある んですのよ。御存知?」 「ああ、それか。聞きましたよ」 「そこへこれから行こうって、また云うんですの」 「そこへも行ったのですか?」 「ええ。だって、もう什様がないんだもの」 「阿呆やな、あなたは」と練太郎は笑い出した。 「そしたところが六甲の上で、高之さんと泰子さんが、急に見えなくなっちゃったの。もう帰る だろうと思っていたところが、いくら待っても帰らないんでしょう。あたし、きっと泰子さんの 有馬の別荘へ、二人で行ったんだと思うけど、あなた、どうお思いになって?」 「それじゃ、そのままあなた、帰って来やはりましたのか」 「ええ、そうたの」 「しかし、たぜまた、そん女阿呆たこと、したんです。そりゃ、あきれて物が云えへん」 「でも、あたし、腹が立ったんですもの。口惜しいったらなかったわ。京極さんは何んで・もない んですか?」 「しょうむない」練太郎は明らかに腹立たしげであった。 「しょうむないも、ないじゃありませんか。少しは、礼儀もあろうっていうもんだわ」 「あなたは、まだ重住さんのこと思うてたさるのでっか。もう|良《え》え加減にしたさいよ。僕まで巻 添え|貰《も》ろて、腹立てるの、かなわんからな」練太郎は苦々しく云った。 「あたし、高之さんを思ってる思っていないは、また別のことだわ。ただあたしは、口惜しいん ですもの。もうただそれだけよ。だって、そうじゃありませんか」 「そんなこと、云うてられる間は、まだ良えのでっせ。これがもうじきしたら、あたたは、そん た|暢気《のんき》たこと、云うてられやしませんよ」 「どうして?」と清子は|怪誇《けげん》な顔で練太郎の方を見た。 「どうって、そりゃ、秘密で云えしませんけれど、束京の兜町は余震がいってますのや」 「何んですの、余震って?」 「まあ、そのときが来れば分りますよ。それより、あなた、早く東京へ帰りなはれ。その方が良 え、今夜どうです」 「そりゃ、帰るのはいつだって帰れるけれど、何のことよ?」  練太郎はいささか後悔したらしく、緊張した顔つきで黙って本三宅の門を|潜《くぐ》っていった。  練太郎と清子とは八昼の離のような部昼へ通された。|鍵形《かぎがた》になった縁の向うに|椋棡《しゆろ》が生えてい て、男がホ{スで水を|撒《ま》いていた。 「さっき仰言った余震って、いったい、何のことですの、あたしには分んないわ」清子はまだ不 審そうに練太郎の顔を見つづけた。 「そりゃ、話は別のことやで、この次、また東京でお話しますよ。今云うたら僕の首飛んでしま うさかい、それだけは云えしませんが、まア、そのときになれば、こうしてあなたも、僕を信籟 してくれはりましたのやで、良いようにします。心配せんといなさいよ。それよりお腹が|抛《す》工いた な」と練太郎は急に|剽軽《ひようきん》た顔になるのだった。 「そんな誤魔化しは、云わないで下さいよ」 「誤魔化しじゃあらしませんが。高之さんのこと考えるのも、良いけれども、今にそんなこと考 えていられへんときが、来ると云うてますのや」 「何かしら?」  とまだ清子はぼんやりとして、蒸しタオルが出ても手に触れようとしなかった。 「このごろは、|田舎《いなか》はたいへんでんた。僕は田舎者やで、田舎の事になると考えさせられますよ。 あなたらまるでそんなこと、知らはらしまへんでっしゃろ。田舎はね、一戸平均千円から千三百 円の借金で、どこも首が廻らんのでっせ。それと云うのは、米の値の上ったとき安い土地を今に 自.\三 卩我 上るやろ思うて、買い込んだのです。勧業銀行で借金して、土地を|買《こ》うたのは良いが、土地が上 るどころか、米が安うなる上に買うた土地が、ガタ落ちに落ちてしもたところへもって来て、借 金の利子を払わんならん、買うた土地売ろうにも、買い手があらへん。そうなると、勧銀の利子 に払う金を高利貸からまた借るでっしゃろ。そうすると、今度はその高利貸に借りた金の利子だ け払うのに、田畑で何作って売っても、足らんのでっせ。そこへ、肥料代がこ|奴《いつ》がまた、仰山なも のやが、そんなもん、どっからも出やへん。自然に大根売る代りに娘を売る。あれ肥料代や」  何の為に、突拍子もなくそんなことを練太郎が云い出したのか、清子は理解出来たかった。 「それで、|賛沢《ぜいたく》はよせって、仰言るんですのね」 「はははは、そう思うて貰ろたら、結構やけども、第一、肥料代が出なんだら、良い野菜も米も、 出来しませんからね。そしたら、金も余計出来へんという具合で、百姓さん立っていけん。そう なったら、田舎だけの窮々やのうて都会の破滅ですが。晶物造っても売れやせんし、上ったり下 ったりの羌で|儲《もう》ける株屋のわれわれにしたって、いつまでも政府が許してくれやしませんよ。げ んに大蔵大臣の高橋さんその意見ですが」 「だけど、そんなこと、今は田舎より外国の方が、相場を動かすんですもの、仕方がたいわ」 「お百姓さんの数は、日本の半分以上でっせ。これが皆困ってるなら、都会の商人、困らん|筈《はず》が ないでっしゃろ」 「さき仰言った余震って、そんなことでしたの?」と清子はつまら次そうにタオルを拡げて手を 拭いた。 「いや、マア、早よ東京へ帰りなさいよ。大阪へ高之さんを追っかけて来なさったのも、僕に意 見されに来たんや思うたら、腹も立たんときが、もうじき来ますさかい、安心してなされ。あた た、今度は良いことしたさったですよ。これも運なら、あれも運じゃ」 「お坊さんみたいね」と清子も云ってつい二人は笑い出した。  練太郎は清子を送り届けて一人川口の自分の家へ帰ろうとした。本三宅でいろいろ清子の怒り をなだめたものの、考えれば、彼とて高之と泰子には腹の立つことばかりだった。自分の主人の |嬢《とう》さんなればこそ泰子を愛する感情を押し隠し、慎しみひかえて来たけれども、幼いとぎからひ そかに泰子を愛していたことに於ては練太郎は高之以上であった。それが、今事もあろうに二人 で有馬にいるとは、顔を踏みつけるも|甚《は はだ》しい。 「よし、行ったろ」  と練太郎は思った。一度びそう思うと、突然眼の前が暗くなって耳がじんじん虫のように鳴り 始めた。彼はすぐ網島の仁礼の本宅へ電話をかけて、泰子が帰っているかどうかを聞ぎ合せた。 すると、まだ彼女は帰っていなかった。練太郎はもう矢も|楯《たて》も|堪《たま》らなくなって来た。スピードの 出そうな自動車を選ぶと有馬の方へ走らせたが、走らせたがらも途中で帰って来る泰子の自動車 と擦れ違うかもしれないから、来る自動車の一つ一つに気をつけた。 「スピード出してくれ。金は倍払う」  と練太郎は運転手に云った。恐ろしい速力で車は飛び始めてから四十分もしたとぎ、もう六甲 の中腹にかかっていた。彼の感情は針立ちあがり、生れて初めての怒りの爆発に寒気がぞくぞく と襲って来た。彼は背後に|煌《ぎら》めく火の海の美しさを振り返る暇もなく、もう有馬の手前の道まで 来かかった。しかし、このとき、彼の胸騒ぎがだんだん激しくなって来た。もしかしたら、高之 と泰子とは逃げたのではないかと思ったからである。泰子と高之の結婚は仁礼文七が許す筈がな い。それが二人にはっきり分っているなら今は逃げ出すのに一番の時期なのだ。 「そうだ。こりゃ、もう、東京へ逃げたわい」  と練太郎は思った。殺気だった彼の気持とはおよそ違った湯煙りの明るいのどかた有馬の町へ 即箏ると、川に沿って西の町はずれへ出た。ここには大きな別荘が幾つも並んで建っている。南 を受けた小山をとり囲み、菊畑の周囲に竹垣のしてある家の前まで来ると練太郎は車をとめた。 「御免」  と彼は云って玄関に立ったが、出て来たのは老婆だった。 「今夜こちらへ、|嬢《とう》さん見えてられませんか」 「へえ。見えてられまへんが、どこのお方でっしゃろ」 「一度来たことがあるのやが、もし|嬢《とう》さん、いやはるようなら、京極が来たいうてくれませんか」 「どなたも、来てはらしまへんですが」とこういう老婆の鈍感な顔の|鐵《しわ》が、疑っているときとて、 練太郎には|嘘《うそ》そのものの皮のように見えて来た。 「ほんとか」 「ヘエ、ほんまです」  押し合ってもつまらぬのでそのまま引き返し、練太郎は庭の植込の中へ廻ってみると、松葉を |焚《た》く|匂《にお》いが戸の|隙間《すきま》から流れて来て物音とて何もない。これでは誰もいないのだと思うと、彼は 忍に電話をかけようと思ってまた玄関へ這入っていった。 「御免。一寸電話を貸してくれませんか、御免」  誰も返事がないので、勝手に彼は電話室ヘ上ろうとして|襖《ふすま》を開けた。途端に、 「あッ」と彼は云った。襖の向うに泰子が一人ぴたりと胸を襖につけて立っていた。 「|嬢《とう》さんでっか。僕あなたを探しに出て来たんですよ。高之さんいやはりましたら、一寸用がお るで会わしてくれませんか」  物々しい呼吸で詰めよるように云う練太郎に泰子は静かに云った。 「高之さんいやはりますけど、何ぞ用女らあたしに云ってちょうだい」 「|嬢《とう》さんに云うたかて、お分りにならんことです」 「あなたは高之さんの御迷惑になるようなことばかり、しなさったそうですけど、何でそんな、 いやたことばかりしなさるの?」 「|嬢《とう》さんまでそんたこと云いたさるの」  と、練太郎は突っ放すように強く云った。 「高之さん、長い問のお友達ですもの。意地悪してもろたら、あたし困るわ」 「商売に意地悪ありまっか。僕は命令受けたので、やっただけですよ」 コ高之さんのお|家《うち》のこと、どうこうせいなんて、お父さん云やはりましたの?」 「そら、疵接云やはらしませんが、そうなって来たのですが。株に人の良えことしてたら株出来 まっか」 「そんな株なら、せん方が良いでっしゃろ。お父さんが意地悪せい云やはりましたのたら、あた しにも泱心がありますわ」  泰子はきっぱりと云い返して二階ヘそのまま上っていった。 「|嬢《とう》さん」  練太郎は|梯子《はしご》へ片足かけて泰子の|裾《すそ》を引っ|梱《っか》んだ。 「何んですの?」  振り向く泰子を練太郎は仰向きながら、 「高之さんに、降りて|貰《もろ》うてくれませんか」 「あたた、上っとう」 「御免」  と練太郎は云うなり上へ昇ろうとしたとき、高之はとんとんと静かに二階から降りて来た。 「どうも失礼しました」と高之は云った。 「亟住さん、一寸お話ありますよって、外へ出て下さい」  練太郎は高之を|後目《しりめ》にかけて庭へ降りると松の樹の繁った外庭へ出ていった。高之も庭下駄を 突っかけて練太郎の後からついて出た。練太郎は松葉で辷る真暗な|築山《つきやま》を降りてから、菊畑の白 白と連っている傍まで来ると、高之の方を振り返った。 「重住さん。あんた、泰子さんをどないしてくれますのや。僕昨日あんたに、泰子さんを貰うて 言義 くれと云いましたとぎ、お前緕婚せい云うたくせに、今日の|真似《まね》、そら何んでんのや。あんま り、踏付けにするな。僕かて、我慢に我慢を重ねて来たのや。これ以上我慢するのは男の恥や で、覚悟してくれ」  云ったかと思うと、非常な力で練太郎は高之の横面を叩きつけた。高之は一足よろめいたが、 踏みとまるとにやりと笑った。練太郎は頭を角のように前に傾けると高之の腹を|狙《ねら》って飛びかか った。元来練太郎は農家の出であるから力は強い。高之は見たところ|優男《やさおとこ》であるけれども、高等 学校のとき柔道は選手で度々の試合の経験があった。しかし、|力技《ちからわざ》は以来十余年もしたことがた いから長い格闘は呼吸が続かぬ。けれどももし右手が敵の帯にかかれば、彼に勝つ者はなかった ほど俊敏な|業《わざ》をやるのである。高之はにやにや笑いながら後へ後へと押されていった。すると、 高之の片膝が練太郎の押して来る腹に横にかかった。その瞬間、もう練太郎は|跳《は》ね飛ばされて|木 賊《とくさ》の群がっている中へ仰向けに倒れていた。が、すぐ彼はまた起き上って来ると、何やら|喰《うな》りな がら松葉を投げつけ猛烈な勢で高之の首に飛びついた。高之はまたにやりと笑った。すると、高 之が下に倒れたと見るまに、練太郎の身体は高之の片足を半径として、|巴《ともえ》形に高く小山の斜面へ 飛ばされた。松葉の上をずるずる転がり落ちた練太郎は、高之の足もとで停ると、早く突っ立っ ている高之の胴へ武者振りついた。高之は後ろへ|反《そ》り返って椣に練太郎を払おうとしたけれど も、後の木賊の一|畿《むら》に足をとられてどっと仰向けに倒れてしまった。勢い込んだ練太郎は高之の 上から|拳《こぷし》で|殴《なぐ》りつづけた。  高之は黙ってしばらく練太郎のするままにさせていたが、そのうちに練太郎の爪が首に刺さり  一}、 口批 込んで来た。がさがさ擦り鳴る木賊のゆらめきの中で、二人は起きかかるとまた倒れた。カラは ひきち切れワイシャツはめくれ上った。そうなると全くこの二人の争いは子供のようになった が、とにかく、二人の格闘は何者が間誓ー一氾入ろうとも、格闘したとなると休止出来難い状態とな って来たことは確であった。二人の|怨恨《えんこん》はただ単に泰子と株をめぐっての闘争ばかりではない。 関東と関西の気質の相違もあった。それに、格闘しているうちに互に怨恨そのものについてはど ちらも忘れてしまい、不思議に日常時の青年を支配する東大と京大との、意識の下で燃え合う闘 争になって来たことも兄|逃《のが》せない。なおその上、絶えず|丁稚《でつち》上りの|茂祝《べつし》を受けて来た練太郎の上 屑の階級に対する反抗も、うんうん|艸《うめ》いている声の中には明らかに混っていた。  このようた複雑に混乱した心理においては、一度び理智の統制が断ち切られるや、青年という ものは死ぬまでも格闘を続けるのである。しかも、練太郎は高之の落ちつき払ってにやにや笑う |傲慢《ごうまん》な顔を見ると、生きて帰ろうと思う心はいつの岡にか無くなってしまっているのだった。練 太郎は高之の上へ馬乗りに|跨《また》がると手を延ばして石を探った。その|隙《すき》に練太郎はまた横に倒され た。彼はべとつく身体を蹴りつけてネクタイを引っ張った。高之は練太郎の腰に両足をかけ、突 き放すと、むっくり起き上って一人家の方へ引き返した。 「逃げるのか」  と練太郎は叫んで再び後ろから飛びついた。高之はくるりと向き返った。その拍子に胸と胸と がぶち合った。 「もうよせよ」  と高之は云った。その顔をまた練太郎は物も云わずに殴りつけた。高之は真っ青になるとじっ と練太郎を|睨《にら》んでいた。吽 「君は、言葉じゃ通じないのか」と高之は云った。 「阿呆なこと云うな」練太郎はまた殴った。 「よし」  というと、高之はふらふらしながらも練太郎に近づいた。しかし、もう彼は息切れが甚だしい。 練太郎の狙っていたのはそこなのだ。今高之に逃げられては、全く練太郎も何のための争いか分 らなかった。彼は高之が手を出す前にもう二つの|拳《こぶし》を突き出しながら進んでいった。高之は横に 足を払った。練太郎はよろめいたが、菊畑の中へ足を踏み込むと再び身構えて高之の出す手を待 っていた。  しかし、高之はもう争いをやめようとふと思った。何とも知れぬ馬鹿らしさが急に頭を|控《もた》げて 来たのである。けれども、こうなればどちらも鰺憤の無くなるまで思う存分|捻《ね》じ合わねば、後に 根が残るばかりだった。もう二度とこんなことを繰り返す気もしない。それなら、いっそさっぱ りするまで負けるか勝つかだ。  高之は足がふらふらしたが、練太郎のねばつく帯革に手をかけた。そうして、得意の腰をさっ と入れた。しかし、練太郎の帯革が|弛《ゆる》んで腹まで出ているので、練太郎が転がっても両手がしっ かり高之の|襟《えり》を握っていて放さなかった。それと同時にもう高之は引き|摺《ず》られて練太郎もろ共、 菊畑の中へ倒れ込んだ。ごろごろ転がる二つの身体は首を絞め合いつつ、よく匂う一面のほの白 い波を立てて枝をへし折っていった。  このとき、家の中から初めて泰子が出て来た。彼女は練太郎が高之を連れ出したのは、こんな 組打ちのためとは思っていたかった。話を二人がつければまた戻って来るのであろうと思ってい たのである。しかし、いつまでたっても戻らないので玄関に立っていると、遠い庭の中からどた ばたする音が聞えて来た。音のする方へ近よってみたが、暗くて誰が誰だか分らなかった。しか し、急いで傍へ行ったときには練太郎と高之は二つに折り重なって倒れたままどちらも動かたか った。 「そんなこと、おやめになって」  ようやく一言泰子は云ったけれども、二人は何も云わないばかりではない。微動さえしなかっ た。身体の|恰好《かつこう》で上になっているのがどうやら練太郎らしいと思ったが、どうして二人は動かな いのかさっぱり泰子には分らなかった。 「どうなさったの。早よ家の中へ這入ってちょうだい」  云いつつ泰子は上の方の身体を|揺《ゆす》ってみた。しかし、上の練太郎は頭を高之の胸へぴったりつ けたまま、いつまでたってもじっとしているだけだった。 「何してなさるの」  森閑とした庭の中で泰子の声だけが妙に大きく響き返った。 「お婆さん、早よ明りを持って来て、お婆さん」  泰子は三四歩引き返していって婆やを呼び、すぐまた二人の傍へ戻って来た。   漉 茴ま蕘  すると、むっくり下の高之が起き上って倒れて動かぬ練太郎をぼんやり眺めていた。 「どうなさったの」  と泰子はぶるぶる|慄《ふる》えながら|訊《たず》ねてみた。高之は黙って延びた練.太郎を後ろから抱きかかえる と、脇の下から両手を|肋骨《ろつこつ》の下部へ廻し、片|膝《ひざ》を立てて|脊骨《せぼね》の下へあてがった。そうして、両手 で|肋《あばら》を引き上げるのと一緒に膝の|頭《かしら》で、どんと一突き練太郎の脊骨を突いた。すると、今まで口 から|泡《あわ》を垂らしたままぐったりしていた練太郎は頭を立てて、きょろきょろあたりを見廻した。 と、不意に泰子に飛びかかって来た。  あまり不意だったので泰子は逃げるわけにもいかず、菊畑の上へ押し倒されたが、起き上ろう にも死物狂いに胴にしがみついて来る練太郎である。頭と云わず|頬《ほお》と云わず滅多打ちにひっ|叩《ぱた》く 練太郎を、後から高之が足を持って引き摺った。練太郎はずるずる延びたが、飛びかかっている 椚手が泰子だとはまだ気が附かぬらしかった。彼は片手に菊の花をひっ|掴《つか》み、片手で泰子の帯を 握ったままなお延び上ろうとして膝を立てた。 「やめとう。やめとう」  と泰子は女らしく乱れる|裾《すそ》を抑えて云ったけれども、練太郎はまだ足首を持って放さたかっ た。そこへ、婆やが|提燈《ちようちん》を下げて松の樹の向うから近よって来た。明りがゆらめきつつ射して来 ると、初めて三人は|傍然《がくぜん》として互の顔を見合わした。  服は裂け、ネクタイは飛び、血の流れている|懐慘《せいさん》な男たちの姿を見たとき、泰子は、 「あッ」  と云って顔を|蔽《おお》ったまま倒れてしまった。 「まア、まア。他愛もない」と老婆は云って動かぬ三人の上ヘ提燈をさし出そうとすると突然、 練太郎はその提燈の尻を突き上げて|灯《ひ》を消した。 「あらまア、真暗ですやないか。早よ家へ這入って、顔洗いなされ。何んでんのや」  練太郎も高之も眼が|醒《さ》めたように物も云わず、冷い菊の中に坐ったままやはり動こうとしなか った。  高之は疲労が激しくて呼吸さえきれぎれであった。今練太郎に飛びかかられれば死んでも彼は 抵抗出来なかったにちがいない。そのままぐったりしながら仰向けに寝ると低い声で、 「京極さん、もう帰りなさいよ。君が帰らなけりゃ、僕が帰ろう」と云った。  練太郎は黙って高之の方を見降ろしていたが、一寸高之の靴さきを握って引いてみて、にやに やしながら、 「あんた、僕を殺しなさったやろ」と訊ねた。 「うむ」 「なぜほっといて、くれはらんのです?」 「君は無茶だよ」 「そうかて、あのとき、あれよりすること、あらへん」  また始めるのかと思い泰子はびくびく聞いていたが、意外に|暢気《のんき》なことを云い合っている二人 を見ると、泰子は起き上って家の方へ薬をとりに戻っていった。 「|嬢《とう》さん」と練太郎は呼びとめた。「僕、高之さんと間違えて、えらいことしましたな、御免しと くなはれ」  泰子は黙ってまた向うへ歩きつづけた。 「どれ、高之さん帰ろ」と練太郎は云って起き上った。 「動けんよ」 「意気地ないな。僕はまだやれまっせ」  と云いつつ練太郎は高之の腕を持って引き起した。間もたく、二人はひょろひょろしながら泰 子の後から歩いていったが、突然高之はがくりと膝を折って松の根もとへ倒れてしまった。練太 郎はすぐ高之の傍へよって来た。 「どうしたんです」 「もう駄目だ」  と高之は低い声で|呟《つぶや》いた。練太郎は菊の匂いの|沁《し》みついた身体で高之の上へ押しかむさり彼の 首を絞めかけながらきらきら光る眼を近づけた。高之はふと眼を開いて真近に迫っている練太郎 の眼の中を見ると、 「まだやるのか」と思わず云った。 「ははははは、やる元気あれば結構ですわ。じゃ、お先に帰りまっせ」  と練太郎は云うと首のまわりを|撫《な》でつつ、入口に待たせてあった自動車の方へ歩いていった。  高之はもう仰向きになったまま起きなかった。今までしていた争いは、あれはいったい何事だ ったのだと思いながら眼を開くと、墨が松の枝の間からちかちかと光って上ったり下ったりしつ づけた。十分前には自分は練太郎を一度あの世へ渡したのにと思うと、起き上って帰っていった とはいうものの、まだあたりの菊畑のほの白い中に練太郎の死だけがこびりついて漂っているよ うに感じられた。しかし、あの男とはどうしても一度はあのような眼にあうかあわされるかどち らかであったのに、とうとうそれも今夜ですんだのである。高之はあたりが掃き清められた思い で胸も軽くなり、森々と静まった耳もとの草の中で鳴く虫の|音《ね》を聞きつつ、泰子の近よって来る まで起きなかった。  夜の八時九時という時は仁礼文七の一番退屈な時間であった。彼は自分の届間でひとり身を横 にして、一冊四十冂もする|骨董《こっとう》の総目録を|眺《なが》めていた。床には|貫名《ぬきな》の書がかかっていて、その前 に赤絵とも|呉須《ヰごす》とも分りかねる大きな鉢が一つ置いてある。部屋の壁は|褐色《かつしよく》の|聚洛《じゆらく》だが、なげし がなく、柱は太目の|檜《ひのぎ》で、天井は中目の|揃《そろ》った|春日杉《かすがすぎ》であった。|箒《ほうき》の柄で下からとんと突き上げ れば、音もなくすっと上り、ぼとりと巫く下りそうな天井板だ。女中が鳥の子の襖を開けて手を ついた。 「京極さんがお出でになりはりました」  文七は黙って|餬《うなず》いた。女中が|座蒲団《ざぶとん》を出して下ると、しばらくして練太郎がヨ一旭入って来た。 「遅う上りまして」と練太郎は座蒲団を脱してお辞儀をした。 「早速ですが、重住さんがこのごろ大阪へ、ちょくちょく良うやって来やはりますのやが、僕、           か                              と3 あれは、例のあの計画を嗅ぎつけに、来てはるらしゅう見受けますので、嬢さんに逢わはるのは 宜ろしいけど、どうしたことから嗅ぎつけられんとも限りませんから、しばらく何とか、なりま せんでっしゃろか、どうにも、仕事がやり憎うて、困りますから」 「また来てるのか」と文七は身を起して訊ねた。 「ええ、そうです。有馬の家で僕逢いましたが、あんな所へまで出て来られるようじゃ、具合悪 うてどもなりませんわ。東紙のときも妙なことから知られてしもて、へこたれました」 「ふむ」  文七は少し眼を光らせたが、また総目録をめくっていた。いつか前に二百万円の損をしたとき 練太郎が|狼狽《うろた》えてかけつけると、文七は顔色一つ変えず、静かに碁を打ちつづけてやめなかった こともある。それを見ているだけに、今、「ふむ」ですまされてもこちらの言葉の裏に潜んだ苦痛 まで、早や通じているのを練太郎は感じるのであった。 「それから、話は違いますが、東紙ですな。あれの合同も、評価茱準の方を早よ|定《き》めんと、ごた つくと思いますから、明日でも、下準備に|一寸《ちよつと》東京へ行って来よか、思うてますのやが、かまい ませんか」  文七は|煙管《きせる》に煙草をつめて黙っていた。こんなときには文七の顔からはなるだけ気兼ねなく、 周囲の者に|饒舌《しやべ》らせる柔和な微笑が浮んで来る。練太郎はまた云った。 「どうしても東紙は|稼《かせ》ぎ高を利廻りにした資本額で、値を定めてかかって来るでしょうから、わ たしは、現在市場の株値で押そうと思もてます。何んちゅうても過半数はこっちでっさかい、こ っちへついて来るより仕方ないんですけれど」 「まア行ってみてくれ」  と文七は静かに云った。もう彼には東紙と大紙との合同など、練太郎の腕試し位により思って いたい様子である。いかにもそれは練太郎にとっては腹立たしいほどの落ちつきであったが、何 といっても黙々とした過去の力で押されては、彼とてまだまだ青二才というより仕方もたい。 「それでは失礼させて貰います。お休みなさって」  用だけ話すと切り上げ時に注意を要する文七の習いたので、すぐ練太郎は帰っていった。する と、仁礼はすぐ女中を呼んだ。 「泰子を呼んでくれ」  女中が下って間もなく泰子が一人ヨ、旭入って来ると、 「御用ですの?」と云って膝をついた。  文七は泰子の顔を正面からじっと見詰めた。別に威儀を正してはいなかったが、両手が自然に 膝の上にかかって端坐しているので、練太郎と対坐したときとは違い顔も父親らしく底光りを放 っていた。 「あなたは重住と、よう逢うそうやが、仕事の都合があるので、以後、逢わぬようにして貰いた い、それ、お伝えしときます」  ただ二言であったが、|釘《くぎ》はぴしりと強かった。泰子は、 「はい」 と云ったまま|俯向《うつむ》いてしまった。文七はもう泰子の方を向かず、黙って煙管に火をつけた。泰 子は父の前から立ち上ると自分の部屋へ戻って来た。あの調子では父は必ず高之さんの家を|潰《っぶ》し てしまう算段にちがいない。ー泰子は|紫檀《したん》の机の上へ|袂《たもと》で顔を蔽って泣き|崩《くず》れた。昨日までの 楽しさも長い辛抱の末にようやく来たものを、それも四日とたたぬうちに今は突き崩されてしま ったのである。 「いやいや、逢うわ」  と、胸の中では反抗もしてみたが、仕箏の都合と云うからは、絶対服従が鉄則同様の大阪商人 の習慣だった。明日二時に泰子はまた高之と逢う約束である。その夜の九時には高之は東京ヘ帰 る筈である。叨日逢わねば高之は何と思うであろう。しかも、|虎視眈《こしたんたん》々たる清子はまだ大阪にい る筈だった。泰子は身がどことも知れずかぎ消える思いがすると、電話を高之にかけようかと思 った。それともこれから脱け出そうか。ー泰子は頭を上げてぽんやりしていたが、電話室の方 へ歩いていった。すると、電話室の前まで来たとぎ、坐っていた女中が顔を上げて気の毒そうに、 「あの、|嬢《とう》さんのお電話の御用、わたしに今夜からするよう、御主人のお云いつけですが、何ぞ 御用ありましたら、どうぞ」と云って|遮《さえぎ》った。  早くも女中にまで父の手が廻っているのだった。 「それじゃ、|久太郎町《きゆうたろうまち》の忍さん、呼んでちょうだい」  と、泰子は何の気がかりもなさそうに云った。 「はい。何と申し上げたら、宜ろしいんでっしゃろ?」 「そうね。明日の朝、なるだけ早よう、来てくれるよう云ってちょうだい」 「はい」  女中は電話室へ這入った。出て来ると忍の返事は委細承知したということだった。泰子はまた 自分の部屋へ戻ったが、敷かれた床にも這入る気がしなかった。|総《すべ》ては練太郎の告げ口からであ る。何を云ったかは分らぬが、高之を愛しこそすれまだ彼女は何のやましいこともしてなかっ た。有馬へ高之と二人で逃げたのも、清子の常軌を逸した態度がうるさかったからだけだった。  しばらくして、泰子は床に這入った。高之とのゆく末について、ああもしたい、こうもしたい と願って来たここ四五日の楽しい夢想も、このまま儚なく消え失せるのかと思うと、ただ転々泰 子の枕は|濡《ぬ》れていくばかりである。  一時が打った。寝静まった家の中は森閑としていた。すると、みしりみしりと忍ぶ足音が縁の 方から伝わって来た。「あれはお父さんだ」と泰子は思った。ああ、あれが高之さんであったな ら、ーと思う後から|頬《ほお》は熱して胸苦しく覚悟の吐息も今は容易に出なかった。  ひと夜は苦しくて眠られず夜の明けそめるころ泰子は雨戸をそっと開けてみた。白みかかった   す蚋       ふよう       さわや      茂り 庭の隅にほのかに咲いた芙蓉の花の、苦もない爽かな白さに泰子は襟をかき合せた。思い乱れた 一夜の|煩悩《ぼんのう》の|閑《ひま》に外ではこんなに清らかなものがあったのか。  しばらくすると、裏の|稲荷《いなり》の前で伏し拝む女中の姿が眼についた。その横の蔵と蔵の間にはよ うやく、人ひとり通れるほどの非常路が曲り曲って奥深く通っている。も早、高之と呼吸の通じ 合うのは深夜のその一条の道だけだった。  家人が皆起き、朝食をすましてから泰子は少しうとうとした。丁度そのとき表へ忍が訪ねて来 た。玄関番の|老爺《ろうや》が忍の来意を尋ねていると、突然応接室から花十が出て来て、 「どうぞ」  と云った。花十は仁礼家へ出入の表具師であるが、昨夜から文七の命を受けて、家事一切の切 盛を任されたのである。大阪の豪商では貴族の家の執事や家令の役目をする者は、多くは出入の 表且ハ屋や呉服屋である。|殊《こと》に表具屋は年中朝から晩まで入り浸りで、表具の事より家事の手伝い の方が多いから寝泊りの者もいる。花十は|剽軽《ひようきん》で|滑稽《こつけい》だが、文七の命とたると水火も辞せぬ忠勤 振りを見せるので、何か一家に事あれば第一番に活躍するのが常だった。次には呉服屋の丸山で ある。花十と丸由とは仁礼家の重要な家臣だが、どちらかと云うと丸由の方は根が呉服屋である から泰子|贔屓《びいき》であった。昨夜文七から二人が呼びつけられて、泰子の厳重な監視を命ぜられてか ら丸由は少し弱った。そこを早くも見てとった花十は、丸由の看視もこれで二重にせねばならぬ と弱っているのだった。 「泰子さんいやはりますの?」  と忍は|訪《いぶか》しそうに花十に訊ねた。それも|尤《もつとも》である。いつもは応接室などヘ通されたこともない 忍であったが、こんな所で待たされる無礼さに忍もいささか腹立たしく花十を睨んでいた。 「ええ、いやはりますが、一寸お待ちなすって」 「じゃ、早よ通しとう」 「御用はどんなことでございますか」 「御用って、あたし、御用があるからって呼ばれたのやわ、何んですの2 失礼でしょう」 「それでは、一寸ここで、お待ちなさって」  一変した家中の事を忍はも早や感じたらしかった。泰子の部屋の方へ行く花十の後から、忍も そっと足を忍ばせてついていった。花十が泰子の部屋を静かに開けて手をついたその途端に、頭 の上を|跨《また》がんばかりに忍はばっと飛び越した。 「泰子さん、たいへんね」  花十はびっくりしてぼんやり忍を仰いでいたが、事あれば追い立てようと敷届の傍から放れた かった。 「あんた、あっちへ行っとう」ぴしゃりと忍の障子を閉める拍子に、危く頭を閉められかけた花 十は、早速、障子に手をかけて、 「おお|恐《こ》わ恐わ、そう手荒なこと、せんでも宜ろしますやろ」 「あんたが手荒いのやわ。さア、行っとう云うてますのやないの」  うるさげにそういう忍をしり眼にかけ、花十は座敷の中に這入って来た。 「|嬢《とう》さんの御用は、一切わてお引き受けさしてもろてまんね。そう、無茶なことをしてもろたら 困りまん。さア、早よ応接室へ出とくれやす」  忍の手を持ち座敷の外へぐんぐん引っ張って行く花十を、あらあらしく|肱《ひじ》で一突き忍は突き飛 ばした。 「やかましわ。あんたら|傍《そば》へよらないでよ」 「わて、あんたに、攸われてるのやあらしまへん。そない威張らんといて貰らお。|阿呆《あほ》らしい」  二人の立ちはだかって睨み合っている間へ、泰子は這入って静かになだめながら、 「花十さん、一寸、あっちへ行ってちょうだい。すぐ御用すむのやで」 「そんなことしてたら、わて叱られまんが。何んぼ|嬢《とう》さんの云やはることでも、今はあきまへ ん。早よ、帰になはれ」と花十はまた忍の手を引っ張った。 「うるさいな、泰子さん、こんた人かまわんと、早よう外へ出てしまいまひょ」  忍は泰子の手を持つと、花十を屑で押しまくって出て行こうとした。 「そら、あかん。あんた一人で結構や」 「そんなら、あんたも|従《つ》いて来とう」  忍がぐんぐん押しつつ|擦《す》りぬけようとするのを、花十はまた前へ廻って押し返す、|俄《にわか》芝居の花 道じみたどたばた騒ぎの所へ丸由が馳けつけて、 「何してんのや」と頭を低めて|窺《のぞ》き込んだ。 「あんた手伝うてくれんか、この|嬢《とう》さん、荒っぼうてどむならん」 「まア、わて任して、あんたあっちへ行ってくれんか」 「そんなこと、してられるもんか。|抛《ほ》っといたら、こんな|嬢《とう》さん、何するかしれへんが」  と、今は花十も腕まで|捲《ま》くった剣幕だった。 喰戊 「まアまア、ええ」 「いや、あかん、侵入罪や。わての頭の上、跨いで無茶しよる。面白ないが」  ぷんぷんしている花十をすかしながら丸由は、 「さア、|嬢《とう》さん、どうぞお部屋へ。さア、さア」と一枚上ワ手を見せつつ、 「うるさいな」忍は顔を蟄めながら泰子の部屋ヘ這入っていった。「いつの間に、こたい|面倒臭《めんどくそ》う なったの。もうあたし、これから来られやへんわ」 「咋夜からやわ。どうしたら良いかしら思うてるの。電話もかけられやへんのん。困ったわ」  ほっと伏し眼に沈む泰子をしばらく忍は見詰めていてから、 「そんなら、逃げてしまいなさいよ」といきたり云った。 「あんた、何云うてんね」とまた花十は忍の前ヘ飛び出て来た。 「まアええから、あんた向うへ、行ってくれって」  丸由のとめるのに、花十は忍を引き摺り出そうとして丸由を突き飛ばした。邪魔する全く|頑固《がんこ》 た花十に忍もいらだたしくなったと見え、泰子の耳もとへ口をよせると、 「今夜九時に表へ出とう」  と小声で耳打ちして、さっさとひとり玄関の方へ歩いていった。 二寸忍さん、待ってとう」  泰子は忍の後を追おうとした。けれども、二人の間には女中から下男から、玄関番まで総刪で 立って見ているので、今はもう何事も云うことが出来たかった。  夜になって高之の東京へ帰る時間が迫って来た。泰子は父の居間の外から中の様子を|窺《ラかが》ったが 何の物音もしなかった。それでは留守だと思うと、今から家を脱け出して一走りに高之の宿の前 まででも行きたかった。けれども外へ出るとすれば花十がついて来る。今朝の忍の事件で花十は 弟子を二人も連れ込んで来ているので、高之の宿の前まで行くことは不可能だった。  もうこうなれば、そっと手紙を丸由に頼んで高之に渡して貰うより他はなかった。しかし丸由 は花十に圧迫せられているばかりか無理をすると家から抛り出される恐れがあった。それ故危急 の場合の他は泰子は丸由に用を頼めない。  それなら後はも早出入の自動車屋だけだったが、しかし、この自動車屋の難波タクシーはクラ イスラーを四台も持っている立派なものにも|拘《かかわ》らず、資本は全部仁礼が出していた。総じて大阪 の豪商は、千万の財を持っているものでも白家用は持たず、かかりの自動東屋に資本を与えるの が習慣であるが仁礼もそれだった。従って、難波タクシーも運転手から助手に至るまで、花十と ひとしく泰子の監視役に廻されているのは分りきったことである。今は泰子も|十承二十重《とえはたえ》にとり 包まれた城中の人質同様自山はなかった。  忍に耳打された九時近くになると、「法善寺へお参りして来」と、ふと泰子は考えた。このまま 家にいては気も狂いそうだった。誰がついて来るか分らないが、外へ出れば表には高之か忍かど ちらか待っているにちがいなかった。泰子は高之に渡す手紙を書くと、 「法善寺へお参りしたいで、車云っとう」  と女中に命じた。女中から花十へ、花十から難波タクシーに電話がかかって、間もなく自動車 が表へ来た。泰子はぽかし木目の着物に、絞りの昼夜帯をしめて玄関へ出ていった。居並んだ家 人が敵ばかりだと思うと、泰子は表へ出たときくるりと振り返って花十に、 「あんた、わたしと一緒に行っとう」  とわざと|厳《ぎぴ》しく云った。 「へえ、わてが」  と花十は剽軽にびっくりしてから、すぐ自動車の前へ走り、へえ、どうぞと腰を折り、泰子を 乗せて自分も後から乗り込んだ。  泰子はもしや高之がと思ってあたりを見廻したが、誰もあたりにはいなかった。しかし、どこ かに高之か忍が隠れていて自分の行く先を見ているにちがいない。-  自動車が|千日前《せんにちまえ》の方へ進んだとき、泰子は後ろを振り向いてみた。するといつの間にか、間近 く忍と高之の乗った自動車が追って来ていた。泰子は西口から自動車を降りると法善寺の方へ人 混みの中を歩いていった。助手と花十のついて来る後から忍と高之は、見え隠れしたがら追って 来た。  |道頓堀《とうとんぼり》の|煌《こうこう》々とした火の海の底に、ほんのり|薄靄《うすもや》を|棚引《たなび》かした法善寺の境内が沈んでいた。ど ことなくここのお寺は色っぽい。泰子は一束の線香を貰うと、|獵燭《ろうそく》から火をとって、あまり|参詣《さんけい》 人のない境内の|祠《ほこら》を一巡していった。  月に一度はお参りする習いであるから、|廻《めぐ》り|繞《めぐ》った|御影石《みかげいし》の石畳の上を歩く泰子の手順は心得 棯戎 たものだった。ことにもう高之は来るだろうと泰子は思うと、地を踏む足も浮き浮きとするのだ った。  立ち流れる線香の煙りに顔を打たせ、祠から祠へと祈りながら泰子は太い線香を三本ずつ立て ていった。その後から花十と助手とが少し放れて行くのだが、これも泰子のように線香を持って 渡って来た。すると今まで見えなかった高之は、不意につかつかと泰子の傍へよって来た。二人 は顔を見合わせた。泰子はかすかに|微笑《まほえ》んだが、どちらも黙ってただ線香を立てるばかりだった。 ぶるぶると|傑《ふる》えてなかなか線香の立たぬ泰子の手もとを花十は見ていたが、しかし、まさか泰子 の相手が傍にいるとは思わぬらしく、問もなく|稲子《いなご》のように太い鈴の|紐《ひも》を抱きかかえて振ってい た。  本堂の裏の狭い堂へ参ると、花十と助手の拝んでいるすきに、泰子は高之に手紙を渡した。  高之は素早く手紙を受けとった拍子にまた自分も手渡した。 「わてら、法善寺を通っても、拝んだことないけど、拝むとやっばり気持がええな」  と花十は助手に云った。高之は一行の先になって不動の前へ行くと、妙に額の大きい不動の石 像へ水をかけた。 「あ、そやそや、|嬢《とう》さん、水をかけんと、ここの不動さん怒らはりまっせ」と花十は泰子に云っ た。  もう気づかれたかと、泰子はどきりとしたけれども、ふし拝んでいる間に、胸も静まり、度胸 もだんだん定って来るのだった。打水に光った石の上を脱け、境内から外へ出ると、高之は|雑沓《ざつとう》 の間をずっと遅れて後から来た。休んで顔を合すところを胸にえがいて泰子はみょうとぜんざい へ這入った。このぜんざい屋は二百年前から続いていて、|紙屋治兵衛《かみやじへえ》もお染や久松も、来たこと があるといわれているほど有名なものだが、中が狄くて小さく、どこかに|掛行燈《かけあんどん》でもありそうで 店には|格子《こうし》の帳場も昔のままだった。泰子が縁に腰かけると花十と、助手も、 「御免やす」  と云って傍へ腰を降ろした。しばらくして、ぬっとまた高之が這入って来た。そうして三人の 前の椅子へ腰かけて、 「ぜんざい、おくれ」  と大阪弁で|註文《ちゆうもん》した。すると、花十の眼は急に高之に向って光り出した。高之はさも初めての ように、じろじろ泰子の顔や着物を|眺《なが》め廻してから、|顎《あご》をなでつつ花十の顔も眺め廻した。 「このごろは東京の人も、なかなか大阪弁がうまなったな」  と花十は高之を見詰めてにやにやしながら助手に云った。助手はまだ高之に気附かぬらしかっ たが、高之が向うを向いているとき、花十に|肱《ひじ》でどしんと横腹を突かれた。一度突つかれてもま だ知らぬ顔で、助手はぜんざいを待っていたが二度目にようやく気附いたと見えて、 「何んや」  と助手は文字通りの|万歳《まんざい》である。客がたてこんで来るとぜんざい屋の狭い庭はいっばいになっ た。泰子は時計を見た。もう九時をずっと過ぎている。それでも高之は落ちついて|箸《はし》を持ってい た。多分汽車は後へ廻したものであろうか。 「さア、もう出まひょ」  と花十は泰子をせき立てた。今高之と別れれば、この次はいつ逢えるか分らなかった。 「待っとう。お茶ほしいわ」と泰子は云った。 「そうかて、もう遅いでっせ」 「かめしません」  と泰子はきっばり極めつけた。前にいるのが高之だと知られたからは、花十など何を云おうと |恐《こわ》くなかった。眼と眼で高之と話すのもまどろしく、ひた向きにじっと高之を見詰める泰子の眼 は、涙でだんだんうるんで来た。これから人混みの中で花十を|撒《ま》いてしまって、高之と逃げてし まおうかとふと泰子は考えた。いずれ、逃げる以外には高之と結婚する方法はないのである。そ れなら時期は今なのだ。明日、明後日と待てば、警戒は一層募るばかりだった。そのうえ花十の 監視は巧妙になる一方である。逃げるとすれば、そうだ。  家から持ち出す欲しいものは何もない。泰子はうつ向いて茶の来たのも忘れ、さてどうしたも のかと考えているうちに高之は立って外へ出ていった。泰子も茶を飲み終ると、 「お拗定、これでしといて頂戴」  と、花十に五円札を一枚渡した。 「はい、はい」  花十は一足さきに外へ出ようとする泰子を顎でさし、片手でどしんと助手を押した。  泰子は高之の|行方《ゆくえ》を探そうとして外へ出た。すると、戸口に立って待っていた高之がいきなり 壽義 泰子の|袖《そで》をぐっと引きよせた。丁度店の戸口は曲り角なので、細い路地がそこで三方に別れてい て隠れるには何より都合の良いところだった。泰子は引かれるままにくるりと身を廻すと、出た 戸口とは反対の戸口の角へ廻っていた。一二間高之は駈けるように早く歩いて人混みの中へ姿を 消した。つづいて泰子も後を追ったが、もう見つけられようとどうしようとかまわなかった。後 も振り向かずせかせかと歩いてから、千日前の大通りへ出ようとしたとき、急に泰子は花十に後 から肩をひっ掴まれた。 「|嬢《とう》さん。あきまへんって。まアわたしに免じて、今夜のところはお帰りなさって。そのうちに、 御主人の御|機嫌《きげん》がなおりましたら、わたしが御得心のいきますように、お骨折りいたしますさか い。さア、どうぞ、このままわたしと御一緒に、お帰り願います」  ぺこぺこ頭を下げる花十を泰子は|怨《うら》めしげに黙って見ていた。 「御主人には、今夜のことは、何も申し上げませんさかい、どうぞ、御安心願います。今そんな ことしやはりましては、わたしは何とも申し訳あれしまへん。明日からお払い箱になりますが。 わたしにでも、女房子供がありますのやで、そんな無茶せんと、今夜のところは助けると思うて、 どうぞこのままお帰りなさって」  後へ廻って手を合す花十の周囲ヘ人だかりがし始めると、泰子は争うことも出来ず黙って自動 車の待っている方へ歩いていった。 高之はもう一日大阪に泊ろうと思った。けれども、 仕事が|問《つか》えて来ている上に東京の尾上から 一日二度ずつの電話である。泰子に手紙を首尾よく渡せたからは、|先《ま》ず当分逢わぬ方が泰子のた めにも良かろうと思い、その夜高之は東京へ引き上げた。彼は寝台へ横になると泰子の手紙を読 んだ。   ーーとり急ぎしたためます。咋夜、お父さまに仕事の都合があるから、あなたさまとお会い  申すことならぬと叱られました。外出の不自由は|勿論《もちろん》のこと、電話さえ女中に奪われてしまい  ました。お手紙さえ上げることも、忍さんと逢うことも、今日からは出来ません。まして束京  へお邪魔にあがる楽しみは今は夢でございます。私はどうしたら良いのでございましょう。こ  の上、三日とお逢いすることが出来ませんなら、私は|痩《や》せ細ってしまうことでございましょ う。でも、私、決心しております。いずれそのうちかならず自由にお眼にかかれる日の来ます  ことをおちかい申し上げます。しばらくお待ち下さいませ。もしお手紙下さいますなら、左の 住所の呉服屋さんの、丸由へくださいませ。この人だけが、今は出入の人々のうち、味方にな  って下さる人だと思います。そのうち丸山さんも家から出されるかと思われますが、では急ぎ  ますからこれで失礼申し上げます。                                    泰  予     高之さま  こう書いて後に丸由の住所が書いてあった。 遠からず二人がこんな眼にあうとは、高之も覚悟の上だった。しかし時機を見て仁礼文七に会 い、泰子を貰いたいと申し出る決心があったから、泰子の処置はそれからでも遅くはないと彼は 思った。  翌朝、高之は眼を|醒《ふロま》して寝台を降り、洗面所ヘ行った。すると、隣りの寝台車で煙草を吹かし                             おきつ ながら、新聞を読んでいる練太郎の姿が眼についた。丁度興津あたりで朝日に輝いた海が練太郎 の後に見えていた。泰子と自分を引き裂いたのもこの練太郎の|仕業《しわざ》だとは、高之も気附いてい た。有馬での争い以来、何となく彼に勝った自分だと思うと、練太郎に見つけられても、堂々と 面前へ乗り出していけそうな強味を感じて来るのだった。  高之は洗面をすまして、コンパートメントヘ引き返した。上衣を着て掃除のすんだ自分の席へ 腰を降ろし、窓から外をながめていると、食堂へ行く人々が前を通っていった。すると、 「あッ、あんたですか」 と、練太郎は高之の前で云った。見つけても見ぬ振りするだろうと高之は思っていたのにそれ を向うから呼びかけた練太郎を不蚩議な男もあるものだと思った。 「やア」高之は一寸微笑した。 「ひょっとすると、あんた、この汽車やないかと、乗るとき思ったのですが、よう逢いますな。 はははは」 「また行くんですか」 「ええ。どうも、こないだは飛んだ失礼をやりましたな。あれから肩が痛うて困りまっせ。はは はは」  先口の格闘をまるでゴルフの膀負のように思っている練太郎だ。こりゃ、いよいよ何かまたや るからだと高之は思った。 「どうです。食堂へ行きませんか」  と、練太郎は無雑作に彼を誘った。今こんなことを練太郎から云われたのは、実にこれは平和 な挑戦も同様だった。 「行きましょう」  食堂へ行くと、練太郎と高之とはテープルを挾んで向い合った。周囲はあまり立て込んでいな かった。二人の中央の|花瓶《かぴん》には朝日を受けた真紅の|薔薇《ばら》がびりびり慄えているので、どちらも顔 だけ花の中に隠れて見えなかった。 「清于さん、|昨夕《ゆうべ》帰りはりましたよ」と練太郎は笑いながら薔藪の横から顔を出した。 「そうですか」  と、高之は云いつつも、しかし、どうしてこの男は、口には云い|難《にく》いことまでずばずば云うの であろうと、今さらながら練太郎の|胆《きも》の太さに感嘆した。 「あなたは、一緒じゃたかったんですか」 「ええ、僕、どうしても昨日は手が|空《あ》かんもんでね。この月はこれで、東京行三度日でっせ」 「忙しいんですね」高之は皮肉な微笑をもらして云った。 「忙しいですよ。しかし、うちの大将には、今度は本当に感心しましたな。僕、今度も例の東紙 のことで行くんですが、東紙は御存知のように、工場も機械もすっかり抵当に這入ってますやろ。 あの会社は得意も良いし、商売も|宜《よ》ろしいし、儲けも多いのに、新設備で赤字を出して、工業|倶《ク》 |楽部《ラプ》の銀行家へ頼み込んでいたときでっさかい、|狙《ねら》うのは今やと、うちの大将|睨《にら》みはったのです。 そんなことなかなか睨めるもんやあれしまへんが。これ一刻でも遅れれば、東紙の|空《から》手形が本物 になってしもて、大紙の販路どんどん食われること、定ってますよ。それで、今やれ云われて、 僕、闇撃ち喰わしてみたのですが、考えれば東紙も残念やろ思いますな。あれ重役がへまをやっ たのやあれへん。うちの大将の方が早かったんでっせ。はははは」  それが弁解かと思うと、突然高之は不快さがむらむらっと起って来た。けれども、練太郎の話 は、あるいは、もう次の秘密の仕事にとりかかっているために、こちらの眼を過ぎ去った東紙の 仕事にひきつけておく|心算《つもり》にちがいないと急に気がついた。 「しかし、京極さんの方も、あれはいけないですよ。東紙には技師長に立派な人物がいて、前途 眼の正しい重役が技師長の言を入れて、工場の大改造をやったから赤字になったのでしょう。っ まり、優等生がもう一層勉強しようと骨折って本を買い込んだのを、お前は金もないくせに上の 学校へ行くのはけしからんと、殴りつけたようなものですからね」 「それはそうかもしれんけれども、しかし、その例は悪い例ですよ。会社は学生やあらへんでっ しゃろ。会社は金儲け専門やから、東紙みたいに、抵当もないのに工業倶楽部あたりでまごまご して、僕なんかに闇撃ち喰わされては、会社の恥や。威張ったことやあれしまへんが。そら、隙 を見つけたうちの大将の方が偉いんですよ」 「しかし、あなたのような闇撃ちばかり狙うようになったら、一般株主というものは、不安でた まらなくたりますからね」 と高之はまただんだん腹立たしくなって来る胸苦しさを|二圧《おさ》えて云った。 「しかし、株というものの欠点も長所も、そこでっしゃろ。資本を持たずに株買うのは悪いけれ ども、資本があって株買うのに何が悪いのです。僕、銀行の代理をして金を貸してやったような もんですが」  高之はもう我慢がならず両腕がふるえて来た。その途端に帑蔽の横から二人の眼がかち合った。 「はははは。いや、今ロは、まア、やめときまひょ」と練太郎は柔かに得意の無意味た高笑いで |反《そ》り返った。  註文の料理が来た。高之と練太郎はハムサラダを食べながらしばらく黙っていた。 じかし、重住さん、僕は政府の炭業統制に済成するわけやないが、今度の束紙を大紙に合併さ せることは、悪いことや思いませんよ。双方の会社"か、よくなるばかしですからね。良くたれば、 これ新秩序を造ることでっしゃないか。われわれはもう、どっちも古い時代の人問やありません よ。ですから、まアまア物ごとは実行が|肝腎《かんじん》や思うて、失敗は失敗、成功は成功として、ひとつ 科学的にやりましょう」練太郎はナイフをかちゃかちゃ鳴らして云った。 「日本は会社の数は世界で一番多いから、整理するのは良いことと思うけれども、とにかく介同 は会社の解散ですからね。罪のたい社貝や株主が路顧に迷うようになるのは、あなたの責任です よ」 「そう、そう、それは僕も考えてます。ですから、社員を首にせいでも良いように、僕も出来る 限り努めるつもりです。しかし、科学は科学ですから、人情ばかり云うててもそんなもん突き崩 して行きよりますよ。僕がやらなんだら、誰かやりよる」  いつの問にかこの株屋の番頭は、|忽然《こつぜん》として大会社の恵務になっているのだった。それも高之 が尾上の云うままに東紙の株を売ったからだ。それを思うと高之は、自身がまだ一介の株屋であ ることが急に淋しく考えられた。 「あなたは、この次は、何をやられるのです?」と高之は|斬《しば》日くしてから|訊《ら》ねてみた。  練太郎はハムを食いやめてにやりと笑った。 「僕は東紙の過半数を買い込みましたから、合同させれば良いのですよ。それも何もせいでも|良《え》 えのですが、 一寸きりをつけんと、いけませんのでね」 「それじゃ、この次あなたと逢うときは、もうあなたは株屋じゃないわけですね、専務ですか」 「ははははは」  練太郎はまた後へ反って、「これ、仕様がありませんが。誰やらこないにしよったのや。はッ はッは」と得意そうに笑いつつ、 「そのうち重住さんにも、僕の会社の株を持って貰いに上りますから、頼みますよ」  と、口を拭き拭きあくまで強気で押し切ってくるのだった。  互に手にナイフを持っていて、二言云い違えれば斬りつけ合う危い紙一重の怒りの状態にあり ながら、さも親しげに笑い合っている二人の様が、いかにも奇妙なことだった。  殊に自分の家産を倒すのもきっとこの男にちがいないと思っている高之である。それに二人は 薔薇の花を挾んで食事をしているのであったが、一度練太郎の呼吸の|音《ね》をこの腕で締めそれを助 けたのはこの俺だとこう高之は思うと、何をしようと練太郎のすることが自分の掌中にあるよう に初めて軽々と見えて来るのであった。  東京へ着くと、高之は練太郎と別れて帰って来た。小網町の店にはまだ尾上が来ていなかっ た。大阪にいるとき、電話で尾上から聞いた金沢のある資厘家の客の大きな註文は、その後どう たったか高之は早く知りたかったので、店へ着くと同時に、高之は尾上へ電話をかけさせなが ら、一方、朝の取引所の|寄附《よりつき》の気配をもう番頭から|訊《ぎ》くのであった。  両方の模様はどちらも好調である。気にかかるのはただ大阪の泰子のことだが、それも昼間は |溜《たま》った仕事にまぎれて忘れていた。夜になると、高之は伝票を持って店の隣にある自分の家へ帰 って来た。彼は机の上へ伝票を積み、さてこれから眼を通し、どこかへゆっくり晩飯に行こう諧 思っていると、突然、春子が血相変えて二階の居間へやって来た。 「高之さん、あなたという人は、それでも男なの? あたし、大阪での事、みな聞いたわ」  ばったり坐ると同時に春子は激しく高之を睨めつけた。 「あたし、あれほどあたたに、泰子さんと結婚するのは、あなたの恥だと、云ったじゃないの、 考えてごらんたさいよ」 「今日は疲れてるんだから、明日にしてほしいね」  と、高之はうす笑いをもらして云った。 「あたたの疲れたのは、あなたの勝手だわ。ちょくちょく大阪へ行くと思ったら、あんな|真似《まね》し て」  肩で呼吸をする春子を見ながら、高之は黙って顎を撫でていた。 「だって、そうよ。あたしが仁礼さんから結婚の話のあったとき、お断りしたのば誰のためだと 思って。みなあなたのお家のためですわ。あたしが仁礼さんの奥さんにでもなってごらんなさい よ。あなたの敵の家へ、お嫁入りするようなもんだわ。それにあなたは、その家のお嬢さんと結 婚するなんて、人を出しぬくのも良い加減にしてちょうだい。面白くもない」 「仕様がないさ」  と、高之はぼそりとした弱った声で云った。春子は忽ち|赧《あか》くなって|膝《ひざ》をのり出した。 「どうして仕方がないの? そんなこと一つ考えられないあなたなの? 女のあたしでさえ食い とめたところじゃありませんか。あたし、あなたのお父さんが仁礼さんのために、お亡くなりに たったんだと思えばこそ、こうして云うんだわ。あなた、よく、のうのうと帰れたものね」  春子はだんだん今度は青くなって来た。高之はじっと俯向いて黙っていたが、 「そう、まア、怒るなよ」と小さな声で云った。 「あたし、ぶち破ってしまうから、覚悟してちょうだい。いくらあなたと喧嘩したっていいんで すからね」 「そりゃ、君の攻撃もよく分るよ。しかし、泰子さんは仁礼さんの娘さんなればこそ、一層僕も 結婚する気になったんだよ。こういうと分らなくなるが、本人の泰子さんは何も知らんのだから ね。初めは考えると腹も立ったが、何んだかこのごろは可哀想な気がするんだ。これが仁礼さん でなけりゃ、そう可哀想でも何んでもないのだ」  春子は|唖然《あぜん》としてしばらくは黙っていたが、ワてのうちに耐えきれなさそうにいらいらしていて からふと立ち上った。 「あたし、帰るわ」 「まア、も少し待ってくれ給え。御飯を食べに行こう」 「あなたのような、何とも分らない人、相手にしたって始らないわ」春子は部屋の外へ出て行き かけた。しかし、いかにも口惜しそうにまたくるりと向き返ると、 「あたし、仁礼さんと結婿しても、あなたかまわなくって?」 「なぜだ?」と高之はぽんやりした声で仰いだ。 「あなたは、いつそんな、へんた顔して、誤魔化すこと覚えて来たの? どうしてそんた暢気な こと、云ってられるの?」  柞子はますますいらだたしく高之の傍へ戻って来ると、またどしんと前へ从剪て詰めよった。 「あなたは、口惜しいってこと、知らないんですか。あなたのお父さんのこと、考えたいんです か。どんなにお父さん、口惜しい思いをなすって、お死にになったか、知れないじゃありません か。それでもあなたは、そんなつまらないことを云って、喜んでいらっしゃれるんですか2」  高之は、骨みかけて来る春子の怒りの声を聞きながら、大阪で今ごろはこうして泰子も|虐《いじ》めら れているのであろうとふと思った。春子は血走るようた眼で高之を睨んでいたが、 「あたしと父が、いくらあ次たのお家のためを思ったって、今までのことは、みんな、何の役に も立たなくなったんじゃありませんか。それたら、父もあたしもあたたのお家から、お別れして しまわなきアたらないわ。一生お骨折りしたことが、あなたのお家のためにならなくなって、|却《かえつ》 て|仇《あだ》になるんですからね。少しはあたしたちのことも、考えて下すってもいいと|思《さ》うわ。そんな 無駄骨って、ないじゃありませんか」  高之はやはり黙って聞いていた。 「あなた、聞いて下さるの」  と春子は高之の手を持って引っ張った。 「聞いてます」 「それなら、何とか、はきはきしてちょうだい」  いちいち道理と思うものの、云いたいことはみな|波欄《はらん》の種ばかりであった。 「もしあたたがこのままたら、あたしにだってその覚悟があるわ。あたしもあなたのようにした いこと勝手にしちまうわ。父はあたたに遠慮してるから、何も云やしないと思うけど、あたしは 黙ってたんかいられないんですからね」  女の云うことなどと初めは高之も一思っていた。けれども、言葉鋭く熱を含んで詰めよられれ ば、高之もそのままではいられなかった。 「とにかく、も少し待ってて貰いたい。今何を云われても、困るばかりなんだよ。考えたうえの 事なんだから」  春子は一寸詰ったが、怒りは一層加わったらしかった。 「そんたこと、あたしに|仰言《おつしや》れるときかしら。あれほど口を酸っばくして、あたしたち御注意し てたことばかしじゃありませんか」 「   」 「それに、あなた、随分清子さんにも失礼なことなすったのね。あたし、ほんとにあきれてしま ったわ。何も清子さんのいる前で、泰子さんと一緒に|行方《ゆくえ》をくらまさなくたって、することあろ うじゃないの。訊けばいちいち無茶ばかりなんですからね」  高之は伏し目になって障子によりかかったまま、さも退届そうに足の親指の爪を|弄《いじ》っていた。 「ああ、腹が立つ」  と春子はどんと膝で骨を打った。高之はまたにやにやうす笑いを浮べながら、 「だから、まア、今夜は考えさせてくれないか。とにかく、帰ったばかりなんだから」 「帰ったばかりだから、云うんだわ。 一日も二日も待てるものなら、誰がこんなこと云うもので すか。少しは性根を入れてちょうだい」 「君の云ってくれることは、有難いと思っているよ。けれども後悔した後で、この事件は起って 来たんだから、何とも僕も|挨拶《あいさつ》の仕様がないのだ。勘弁してくれよ」 「嘘、仰言い。あなたはあたしの云うのを、うるさそうにしてらっしゃるだけじゃないの。あな たは御自分さえ良ければ、後はどうなったって、いいと思ってらっしゃる方よ。エゴイストよ。 そんな方に今さら何を云おうと、駄目よ。あたし、自分のするだけのことは、してみせますから ね。折角、泰子さんを大切にしてちょうだい」  春子は蹴るように座を立つと帰っていった。高之は春子の方を向こうともせず、まだ足の爪を 弄りながらしょんぽりして動かなかった。  春子は高之の家から帰りに融椰姚剛の清子の家へよってみた。清子の家も高之の家同様コンクリ ート建の店の横に路地があって、住いはそこの奥にある。春子は二階の清子の部屋ヘ通された。 彼女はまだ高之と逢ったときの興奮が静まらず、清子と顔を見合わせても、怒ったように笑顔さ え見せなかった。 「とうとう喧嘩しちゃったわ」                 だ えんけい               ちよつと    のぞ  春子は部屋の隅にある横に拡がった橢円形の大きな鏡の前で、一寸顔を覗き髪を直すと、初め てほっと吐息をついて柔いで云った。 「喧嘩って、いやなものね。でも、云うだけ云って、すっとしたわ」 「怒って、高之さんっ-・」と清子は五色座蒲団の一つを春子に出した。 「それが、怒ればいいと思ったんだけど、怒らないのよ。だから、よけいにあたし腹が立って、 怒鳴りまくってしまったの。駄目だわ、あの人」 「そうよ」清子は大阪での侮辱を思い出したのであろう。唇をひきつぽめてじっと自分の膝を眺 めていた。 「高之さんが、泰子さんと結婚するようなら、あたしの家と高之さんの家との関係は、もう駄目 でしょう。だから、あたし、そんなら仁礼さんと緕婚したっていいという気になって来たのよ。 だってあんまりじゃないの。馬鹿にしてるわ」  清子は春子の顔を見詰めていた。自分も高之に侮辱を受けたときは、ふと春子同様の気持にな ったのを思ったのだった。 「あなたは仁礼さんを、いやな人だと云ってらしたけど、あたしはあの方、感じのいい方だと思 ったわ」 「そりゃ、憎ければこそだわ。こうなればあたしでも貰ってやろうって、云ってくれた人なんで すもの。好きにならないとも限らないわ」 「春子さんが仁礼さんの奥さんになれば、泰子さんにだって腹も立たなくなってよ。だけどあた しは、まだまだ泰子さんには、腹が立つわ」  春子は清子の顔を見た。いつかのように清子も腹立ちまぎれに仁礼と結婚しようと、大阪で思 って来たのかもしれないと、ふと疑わしくなって来たのだった。それなら、敵は清子なのであろ うか。この清子なら必ず文七が飛びつくにちがいない。  ひやりとうす冷たくなる胸を春子は隠して煙草を出した。何となく二人の間を|馳《か》けめぐり始め たいまわしい空想に、茶が出ても二人は妙に白けて黙っていた。 「あたしね、大阪へあなたに黙って行ったのは、悪いと思ったのよ。でもね、今はあたし、良い ことをしたと、思うようになってるの」  と清子はしばらくして云った。 「何か、良いことがあって?」  と春子は|嘲《あざけ》るようた微笑をもらして訊ねた。 「それがね、意外たことなの。あたし、だんだん高之さんが|嫌《きら》いになって来たのよ。もう前ほど じゃなくなっちまったの。ほんとに帰ってから、やれやれと思ったわ。でも、まだ泰子さんだけ は憎らしいのよ。おかしなものね」  清子は笑いながら茶を飲んだ。春子は、今は自分の胸に刻まれた疑いも本当のことだと思っ た。彼女は吹く煙草の煙も急がしそうに、|自棄《やけ》にばッばッと吐き捨てたがら、妙に顔が清子から そ向いて行った。 「あたし、帰るわ」  と春子は不興気に煙草を火鉢に突き刺した。 「あなた、何をそんなに怒っているの?」と清子は立ちかけた春子に訊ねた。 「今夜は腹の立つことばかりだわ。どうして世の中は、こんなにくさくさするんでしょ」 「まア、お坐りなさいよ」  清子にただめられると春子は一層腹が立って来てまた坐った。 「でも、あなたは随分失礼よ。あたしが高之さんをお世話したげるために、一生懸命になったの に、それにあたしに黙って大阪まで追っかけて、おまけに仁礼さんとまで逢って来たんじゃない の。あたしを出しぬくのも、ほどがあってよ」  火鉢の縁をぽんぽん叩きながら云ううちに、春子は言葉が熱して涙まで流れて来た。 「いやね、あたし、仁礼さんに逢ったのは、美術倶楽部で逢っただけよ」 「何んだか分るもんか。あなたなら、誰にだって逢うわ」 「まア、そんなことで怒ってるのね。あなたという方は、恐しい方だわ」 「そうでしょうとも。あなたの考えてることなんか、何んだってあたしには分るんですもの。誤 魔化そうたって、そりゃ、駄目よ」 「だって、偶然に逢ったのなら、仕様がないじゃないの」 「偶然だかどうだか、どうしてあたしに分って?」 「そんなら、怒ること、ないじゃありませんか」  春子は清子をきっと見詰めた。 「そんなら、あなたは仁礼さんと、逢いたいとも何とも思わなかったの?」 「ええ、勿論よ」と清子は云ったが、声が低かった。 「それ、御覧なさいよ。あなた逢いたかったんじゃないの。あなたのすることなら、あたしには ちゃんと分るわ。あたし歌舞伎座で高之さんをあなたに紹介したときに、あなたがどんなこと考 えたか、知ってるのよ」 「それは誤解よ。あたしは、そんなことちっとも知らないわ。知らないことまで捻じつけたって」 「あなたが知らなくたって、あたしが知ってたらどうします。さア、白状してちょうだい。白状 を」  清子は眼がきらきら光って来た。 「それが、どうしたって仰言るの」 「ふん、良い加減にしてちょうだい。あたしは、あなたに厚意を持ったお蔭で、自分の縁談まで、 壊されたかないんですからね」  冗談か真事か分りかねる友人同士の争いも、|競《せ》り合ううちにだんだん言葉が露骨になると、思 わぬ心が刃を立てて恐るべき事態をひき起す。清子はふと後へ身を引く思いで、 「面白くもない。よしてちょうだい。あなたは、今夜はどうかしてるのよ」  と云いつつ傍にあった煙草を一本抜きとった。 「ひとの物、吸わないでよ」  春子はいきなり清子の手から煙草をひったくった。 「あら、すみません。あたしの煙草かと思ったのよ」 「何んでも、そうよ、煙草だけじゃないわ」  清子はもうおかしさに耐えられず笑い出した。すると、春子は笑い崩れる清子の頬へ煙草の箱 を叩きつけた。むっとして清子は春子を睨んだが、すぐまたげらげら笑いつづけた。 「どうせ、間が抜けて見えるでしょう。おかしいでしょう。さよなら」  春子は出て行っても清子だけはひとり笑いがとまらなかった。  練太郎が東京へ着くとすぐ清子に電話があった。次の日、練太郎から少し暇が出たから是非会 いたいとまた清子に云って来た。清子は打ち合せた正午に帝国ホテルのグリルヘ出て行った。喫 煙室のソファーに、一人待っていた練太郎は、 「やア、どうも、お呼び立てしまして、すみません」  と、にこにこしたがら、大阪のときよりも一層|慇葱鄭重《いんぎんていちよう》に挨拶した。二人はすぐ食堂へ這入っ た。 「どうです。まだその後、むしゃくしゃしてられますか」と練太郎は露骨なひやかしを云ったが、 清子はむしろ上機嫌だった。「そうそう、来るとき汽車の中で、重住さんに逢いましてね。また |危《あぷの》う喧嘩するとこでしたよ」 「高之さんのことは、もう云わないでちょうだい。あたし、あなたにお逢い出来て、折角気持よ くたってるときですもの」 「そら、あんまり無慈悲ですな。もう少うし待ってあげなさらんと、気の毒や」 「そうかもしれないわ」と清子も笑いながら、「でも、あたし、大阪ヘ行ったこと、いいことをし たと思いましてよ。もし行かなかったら、こうしてお近づきになれなかったかもしれないんです もの。あたし、近ごろ一番気持のいい日は、今日でしてよ。お天気もほんとにいい日ね。後でど っか散歩に行きましょうよ。ね」  練太郎を見る清子の眼は、愛情に|溢《あふ》れたときに思わず縮む、あのいつもの美しく光った眼であ った。  練太郎も今までこのようにうるみのある眼光に接したことは、忙しい半生に一度もなかった。 「散歩しましょ。僕は|日比谷《ひびゃ》へまだ這入ったことあらしまへんのですよ。ここの前でしょう」 「ええ、そう。じゃ、後で日比谷へ行きましょうよ。今、どんなお花、咲いてるかしら」  料理が来た。二人はフォークを動かしながら、心はとけ合い、口に入れている食物も|味《あじわ》う|閑《ひま》さ え忘れがちだった。 「今、こんなお話するのは、何んですが、僕今度来ましたのは、あなたにも是非聞いていただき たい仕事で来たんですよ。どうでしょう。今度少し大仕事をやるので、どっかこっそりと新しい 店を探せ云われてるんです。それでですね。僕は清子さんとこのお店を思い出しまして、是非お 取引き願いたい思うてるんですが、お宅のお父さんに、一つあなたから御杣談願えんもんですや ろか」 「それはどうも、お父さん、きっと喜びますわ。そうしてやって下さいよ」とまた淌子の大きな 眼は細まった。 「そうですか、問違いあらしませんか、そりゃ、御損は絶対にかけませんが、何しろ大仕事なも んでっさかい、絶対秘密でいま準備にかかってるとこで、誰にもまだ|鱗舌《しやべ》らんといるのですか ら、それ一つ頼みます」 「ええ」と清子は云って、練太郎の顔を不思議そうに眺めていた。 「大阪でこないだあなたに、一寸お話したことですが、つまり、兜町の余震のことです。あれを いよいよやり始めるんで、忙しいんですよ」 「何んでしたの、あれって?」 「それ一口には云えんことです。いずれゆっくりお話しますが、つまり、あなたのお店のお客に して貰えれば、良いのですよし 「簡単なことですのね」  と清子も安心した様子だった。食事を終ってから、清子は練太郎を帝国ホテルの真向いにある 日比谷公園の中へ案内した。 「まア、|紡麗《きれい》だわ。あたしもここしばらく振りなんですのよ」  と、清子は這入るなり感嘆の声を放った。晴れ渡った空の下に真紅なサルビヤの花が燃え|拡《ひろが》っ ているその向うに、白いマーガレットの一団が波を打っていた。黄色いカンナにつづいた|秋海 棠《しゆうかいどう》。鋭く真白に突っ立っているユッカラン。と見るうちに、練太郎は黄色い穂のような花の前に 立って訊ねた。 「あれは何んです。見たことがないたア」 「あれは、ソリダコよ。赤いのがサルビヤ。これがマーガレット。あなた、お花の名前なんかち っとも御存じないでしょう」と、清子は美しい眼を上げた。 「そりゃ、知りませんね。ゆっくり花なんか見たのは、今が初めてですよ」 「じゃ、教えて上げてよ。あの芝生の中にあるのは、|糸芒《いとすすぎ》っていうんですの」 「芒ぐらいは知ってますよ。|田舎《いなか》の僕の家なんか、芒だらけや」 「じゃ、あれは御存じでして?」と清子はユッカランを指差した。 「あれか、あれはな。南洋の木や」と練太郎は珍らしく子供のような笑顔をした。 「木じゃないわ。草よ。ユッカラン」 「それじゃ、あれは何んです」と練太郎は逆に花壇の後の大きな|栃《とち》の木を指差した。 「あれは、花じゃないじゃありませんか」 「そやから訊いてますのやが。木は知らんのでっしゃろ。木なら僕の方が良う知ってますぜ。あ れは栃や。その後のが松の木でっせ」 「馬鹿にしないでちょうだい」  清子は一寸練太郎を打つ真似をした。何んでもない二人の会話も日光を浴びた花の中でやりと りされているうちに、楽しみは暖くふくれ上ってくるのであった。二人はさも楽しげに芝生の間 を歩いていった。清子は日のよく射したベンチを選んで腰を降ろした。練太郎はその横へ並んで のびのびと|反《そ》ると、電車通りの向うを見上げた。 「僕は今日はあそこに見える建物の中で、一つ大きな仕事をすまして来たんでっせ。東紙と大紙 の合併で、|昨夕《ゆうべ》からきりきり舞いをやりましたが、どうやら東紙もこっちを向いて来ましてね。 僕もいつの問にやら、専務にされてしもた」 「じゃ御成功でしたのね」清子の喜びはいよいよ美しく開いて来た。 「まア、そんな形ですが、その次の仕事の方が面白いですよ。何んや知らんが、これ、あなたに 云わんと疑うようで気持が悪いし、今云うと、うちの大将に叱られるし、困ったもんや。ははは は」と練太郎は大きな声で笑った。 「そんな御心配いらないわ。あたし、あたたの仰言ること、何んでも守りましてよ。でも、まア、 お困りにたることなら、云わないで下さいよ。その方がお気持もお楽でしょう」 「まア、これだけは、もうしばらく勘忍して下さい。そのうちにあなたのお店と、お取引させて 貰うようにたったら、うちの大将が出て来て、あなたのお父さんにお逢いしましょうから」 「じゃ、お父さんの方はお引受けしましたわ」  と湾子は云って練太郎に冴を近づけた。一望の花の前でいかにもこの二人は|恍惚《ニうこつ》として楽しそ うだった。 主\之 11找 /ゝ ヱズ  清子が練太郎に頼まれた取引の話を父にした結果は、勿論|上手《うま》くととのった。仁礼と梶原との 二家の関係は、このときから新しく生れて来たのである。ところで、仁礼文七の第二の大きた計 画というのは、これは実に|物凄《ものすご》いものだった。東紙と大紙の合同という練太郎の仕串もかなり人 を驚かすものだが、文七のは、それがまた一屑文七らしい大仕箏だった。それは東京の兜町の取 引所を全部|枳橄《こんてい》からひっくり返そうというのである。 つまり、兜町を潰そうという|肚《はら》だ。しか し、何といってもこのような大仕事は準備がいろいろ必要だが、文七は数年かかってひそかに前 から荒々とその準備をしていたのである。  清子の家との関係をつけたのもただその口火を切る準備であって、その前の大ぎた準備ははや すでに出来上っていたのだが、高之が文七の=言から何かやるぞと嗅ぎつけたのも、さすがに烱 |眼《がん》た高之で鋭い人物というべきであろう。  文七がこのような企てを持ったことには、確に理由もある。実はこうであった。大阪の北浜は 欧洲大戦後に生じた財刪介の恐慌のさい株の大暴落にあって、仲買店が軒を並べて潰れたことがあ る。潰れたからは、取引や客に対して負債があったからにちがいたい。つまり、負債のあるのに 整理もせず、そのまま文面を繕って取引を保っていたのであった。ところが、大阪取引所株がい ったん大暴落を始めたとき、北浜の内容がさらけ出されて隠し切れぬ大恥を世問にかいてしまっ た。しかし、この大恥のために、初めて大阪北浜の取引所は堅実にたって来たのである。  取引所というものは仲買店あっての取引所であるからは、その仲買店の多くが負債を隠してい ては安全強固な取引所とは云いかねる。云いかえるなら、多くの泄問の顧客を|欺《あざむ》いていることに たるのである。すでに、大阪の北浜が一度この顧客を欺いていた結果恥をさらけ出し、罪を世間 に発表しているのに、東京の兜町は一度もそれをやろうとしない。なぜそれをやらぬのか。いつ まで愚図愚図と世間|態《てい》を気づかって、見栄を張るのか。兜町には負債が少しもないというのか。 それなら、よしと、こう文七は肚を定めたのであった。東京兜町の仲賢店は戦後の不景気の後へ、 大震災にあったところへ東北地方の凶作から註文が減る一方である。それにも|拘《かかわ》らず東京取引所 株すなわち新東は二百円にのぼっているのだ。これはどこから見ても大嗽だ。とこう文七は思っ たのである。  元来文七という人物は筋の通らぬ事が何より|嫌《ぎら》いな男であったから、東京兜町の仲買店が少し の金が出来ると、たちまち政党と交際する悪癖のあるのが不快だった。それも交際する金が無く たると、大阪の方へ紹介して来て政党に良い顔を立てたがるのが、また文七の腹立たしく思う一 つであったが、とにかく、文七には東京の取引所全部が、はるかに前から傾きかかった敵城に見 えていたのだった。しかも、この敵城を|覆《くつが》えせば|儲《もラ》かることもまた確実なのだ。要するに文七の 肚は、どうしても一度東京の兜町を|篩《ふるい》にかけて不良仲買店を全部駆逐し、信用して取引のなし得 る仲買店ばかりにしたい。そのためには起る悲劇は|厭《いと》うてはならぬと云うにある。その手段とし ては、新東の株を底値まで叩き落し、兜町を火の消えたようにしようと云うのであった。後は政 府の力を|俟《ま》つだけだ。つまり、仁礼文七の行為は過去の日本が造った|完壁《かんぺき》の道理をいささかも疑 わず、一個人でこれを堂々と大上段から押し切って進む立派さを、生活に現したかったのである。  仁礼乂七は練太郎からの|報《しら》せを受けた次の日の夜、いよいよ東京へ乗り込んで来た。東京へ着 いた日の正午前に、文七は練太郎をつれて清子の家へ自分で出かけて行った。梶原の番頭半造は、 練太郎との打合もあったこととて、自動車の停る所で二人の来るのを待っていた。とにかく、仁 礼が梶原の店と取引をつけたという事は、梶原家にとっては福の神が舞い込んだのと同様である。  文七が着くと主人以下番頭小僧に至るまで庭に降りて文七を迎えた。数ある兜町の仲買店の中 から、|蒜《とどろ》く仁礼に選ばれた名誉もあり、かつこのような相談はどこか料理屋で行われるのが常だ のに、それをわざわざ店へ直接出て来る文七の行為は、文七ならでは出来ぬことだった。梶原家 では下へも置かぬ|持成《もてな》しなのは尤もである。 「かねがね御高名は受け賜わっておりました。この|度《たび》は御用命に預りまして、まことに恐縮いた しております」  奥の十畳の部屋で清子の父の梶原定之助は文七に初対面の|挨拶《あいさつ》をした。 「いや、私方こそ練太郎がいつも御厄介になりまして、有難うございます」  大阪から帰った清子に|万暦赤絵《まんれぎあかえ》を買った文七の話を聞かされてあったものか、床の皿立には|呉《ご》 言義 |0《 》 |須《す》の皿が立てかけてあった。文七は|一寸《ちよつと》皿を見ると、柔かな声で、 「なかなか、結構なお皿で、呉須でございますか」と|訊《たず》ねた。 「ええ、妙な安物でお|羞《はずか》しいものです。このごろはよくお取りなさいますそうで」  と、定之助は文七の|骨董《こっとう》美術品|蒐集《しゆうしゆう》の|噂《うわさ》を訊ね返した。  間もなく、清子が大|業平《なりひら》の羽織に|菊菱《きくびし》模様の着物で静かにお茶を持っ玉一、旭入って来た。 「先日は失礼申し上げました」 「いや、私こそ」  文七は清子をちらりと見た。清子は茶を下に置くとそのまま出ていったが、それと前後してい つの間にか、後方に並んでいた練太郎と半造も姿を消して見えなかった。 「早速でございますが、この度、一寸都合がございまして、こちらで少し、やっていただきたい と考えますので、-勿論、重住の方と私方とは、どうこういう事はなく、重住の私方との関係 は元のままのものですが、これは別口の考えでおりますので、一つお骨折願いたいと思うのでご ざいます」  と、文七は|疸蔵《ちよくせつ》な切り出し方だが、蔭を巧みにぽかした言葉であった。 「いや、実は、半造から|思召《おぼしめ》しのほどを承りまして、全く、こんな結構なことはないと、思って おるのでございます、何分、みんなのろいものばかりでございますから、とても思召しにかない ませんが、そこは|何卒《なにとぞ》よろしく、一つお引き廻しを願いとうございます」 「いや、どうも、実は、すぐな話でございますが、お預り願うものも、用意いたしてまいりまし 二詮 凵工毫 たので」  と文七は|懐《ふところ》から包を出した。何と云っても千軍|万馬《ぱんぱ》の戦場の常であるから、文七も|委《くわ》しいこと は何も云わず、新東をその日の成行で先物を売ってくれと、ただこの度は穏やかな註文を出した にすぎなかった。そうして、包の中から一枚の多額な小切手を取り出すと梶原に渡した。梶原は 白分で|硯《すずり》を取って来て文七からの預証を認めると、 「どうも、有難うございました」と、丁寧にお辞儀をした。 「それでは、今後ともどうぞ宜しく」  仁礼と梶原とのその日の会見は、|先《ま》ずそれで無箏にすんだのだ。いよいよ叨日から地下深く掘 り下げた爆薬に火は|点《つ》けられるのである。  仁礼文七が東京へ来ると同時に、大阪の丸山から泰子代理の電話が束京の高之にかかって来 た。電話の模様は父の文七が東京へ行っているが、行けばしばらく大阪へは帰らぬらしいから、 多忙でなければ父の衂田守の間にまた大阪へ来て貰いたいと云うのだった。その夜、高之は大阪へ 立った。彼は泰子に逢いたいのは山々であったが、一つは春子との争い以来、春予や尾上と別れ て別に店を持ちたい考えになって来たのである。けれども、何分高之は亜住家の戸主とはいえ、 自分に属した自由財産というものは|殆《ほとん》ど無いと云っても良いほどだった。それ|故《ゆえ》、大阪で手帳り で一つ自分の金を握りたいのが何より目下の望みである。殊に、泰子と結婚するとすればそれよ り|他《ほか》に方法はなかった。しかし、こんた考えの|湧《わ》いて来たのも、大阪には、高之に金を心好く貸 してくれる忍の父の信助がいるからだった。この人以外には〃.んたに大きた金を貸してくれる人 は誰もなかった。  大阪へ肴くと、高之はすぐ忍の父の所へ挨拶に出かけたが、そのときには特別何の話もせず、 宿の松平へ帰って来た。高之は宿から丸山に電話をかけ、泰子に白分が大阪に来ていることを伝 えて貰いたいと頼んだ。半時聞もすると丸由から電話があった。 「私、丸由でございますが、あのう、仁礼さんの|嬢《とう》さんに、さきほどお伝えしましたら、今夜の 十二時三十分に、裏の非常口の入口ヘ来ていただきたいと、そう云うてはりましたが」 「それはどうも有難う。行きます」 「それでですね、なるだけ御用心して下さらんと、家の中の弥、冖戒が御主人がいられませんから、 いつもより|厳《きび》しゅうやっておりますさかいに、それ、お心どめ願います」 「承知しました」  電話が切れたときまだ正午過ぎであったが、高之はすぐ泰子の家の裏通りにある非常口の戸の 前へ行ってみた。そこは泰子の家の四つある蔵と蔵との間の細い入口で、中から木錠が降りてい た。丁度、その前が下屋敷で店ではないから、日が暮れさえすればあたりが森閑としそうた場所 だった。高之は人さえ見ていなければ、この入口なら甘の今でも乗り越せそうに思ったが、今は 様子を娥えば良いだけなのですぐまたそこから千日前へ引き返すと、久し振りに活動を見て夜の 来るのを待った。十二時近くもなって来たとき運よく月が|冴《さ》えて来た。  彼は遅い夜食をすましてから泰子の家の裏町へ行ってそこを一度行き過ぎ、また舞い戻って来 た。何となく一生に一度の大冒険をするようで、心はきらきらと光るように澄み渡るのを感じ、 もし見つけられれば格闘でも何んでも出来そうに身内がぞくぞくと奮い立って来る勇気を覚え た。腕時計を月光にあてて|透《すか》して見ると、丁度十二時三十分少し前である。高之は蔵の壁の前を 歩きながら人の途絶えをうかがっているうちに、電話で教えられた時間が少しすぎて来たが、ま だ戸の開く気配はしなかった。しかし、戸が間もなく開くことだけは確実であったから、もう今 は何事も打ち忘れ心はりんりんと鳴りやまず、天にも昇る思いで非常口の一点を見詰めていた。  すると、ことりとくるるの上る音がして静かに戸が、そろりそろりと開けられた。中から現れ たのは、月のせいか溶けるように|凄艶《せいえん》な泰子の青ざめた顔だった。高之は泰子の傍へよって行っ た。 「ありがとう」  |囁《ささや》く泰子にかまわず黙って高之は非常口の中へ辷り込んだ。中は真暗だった。ひやりとする湿 った空気の中に泰子の残り香がうっすらと漂っているきりで、何も見えたい。 「下、危いですよ」  泰子は高之の手を引きながら壁を伝って手さぐりで奥の方三一氾入っていった。幅一間ほどの広 さだが、でこぽこした板石の長い道である。上の方の蔵の白壁には月の光が|斬《き》り込むようた|鮮《あざや》か さに射しているので、仰ぐとまるで二人は谷底にいるようだった。泰子は立ち停ると高之の耳の 傍へ口を近づけ、聞きとれぬほど低い声で、 「中へ這入るの、おいやでしょう」と訊ねた。 「あなたさえかまわなければどこへだって行きますよ」 「   」  泰子はしばらく黙って考えている風だったが、また静かに冷たい手で高之の手を引いた。 「そんなに警戒厳しいんですか?」 「ええ。ひどいの」 「僕の宿へ行ったっていいけれども、あなた、困るでしょう」  泰子の返事はなかった。 「じゃ、外へ出ますか」と高之はまた訊ねた。 「でも、丸由さんにすみませんから。あの方、外へだけは、行かないでくれ云やはりましたの。 勘忍してちょうだい」 「それじゃ、ここにいましょう」  二人はそのまま添って立っていた。泰子は高之の胸へ額をつけているうちにだんだん涙で顔が 濡れて来た。 「今度、あなたのお父さんがお帰りになったら、僕は何もかも云ってお願いするつもりです。そ れまでもうしばらく待って下さい」  ぴたりと一本の棒のように立ったままどちらも長い間言葉がなかった。|淀川《よどがわ》を通う小蒸汽の、 ぼ、ぽ、ぼ、ぽと音立てるのが夢のように遠くから聞えて来るだけだった。  その音を聞くともなく耳にしていると、云い知れぬ悲しみが湧いて来て、恐らく泰子の父に頼 んでも二人の結婚は許される筈もあるまいと、ふと高之はそう思うと、胸の上で熱を含んで黙っ ている泰子の肩や背中が、もう二度と手に触れることもない貴重な宝のように感じられるのであ った。 「あたしのお部屋へ行きましょうか」  としばらくしてから泰子は云った。しかし、警戒ずくめの部屋の中よりもこの暗い壁の谷問の 方が高之には良かった。 「ここでいいですよ。また明日来てもいいんでしょう」 「どうぞ。お待ちしてますわ」  物云うのも惜しまれるように二人はまた黙った。二人のここにいるのを丸山が知っているな ら、非常路の入口と出口には必ず丸山の監視の者が見張りをしていてくれるにちがいない。 「今度はしばらくこちらにいようかと思ってるんですよ。どのみち今のままじゃ、東京の店は僕 の膀手になりませんからね。実印だってまだ僕の白山にはならないんですよ」  周囲の壁の冷たさが身に|滲《し》んで来ると、互に二人はかばい合いつつ立っていたが、ときどきふ らふらとして倒れそうになった。月の光を仰いだとて壁の底では近づけた互の顔も、うすぽんや りと児えるだけだった。やがて、監祝の交代の時間が来たのだろう。中の入日の方から下駄の音 が近づいて来た。 「来たわ」 と云って泰子は思わず|溜息《ためいき》をついた。しばらくすると丸由らしい人影が手探りで二人の方へよ って来た。後のためを思うなら冷,別れる方が良いと思い、引き裂かれるような思いで、 「じゃ、明日また」 と云って高之は泰子から放れた。  あれほど緊張し切迫した気持で泰子と会っていたものの、さて一人となると高之はまた泰子の 父の文七の|遣《や》り口が気になって来るのだった。文七のことを思えば心頭に濁りの生じて来ること は、今に始ったことではなかったが、泰子と文七のかけへだたった心の問に落ち込んでいる高之 である以上、心も自然と二つに分れせつない泄界が一層彼に襲って来た。その夜、彼は眠れなか ったので、翌日高之は朝寝をした。十時過ぎに彼はいつもの旅行の習慣で東京の尾上に、市場の 模様を電話で訊ねた。ところが、昨日も少し下った新東(東京取引所株)が、意想外の下りを見せ て二円五十銭も落ちていた。するとそれから一時間もたたぬのに、また尾上から電話があって、 「あれから、また四円落ちましたよ」と云って来た。 「四円ですか?」と高之は云ったまま次の言葉が出なかった。 「どうもこれは、売物がまとまって来たらしいですよ。市場がだいぶ、ざわついてます」 「じゃ、夕方の五時半、もう一度電話下さい。お頼みします」  何とも判断のつきかねる値下りである。しかし、考えたとて分らないので高之は電話が切れて から五時まで街を廻ったり、泰子の家の前を通ったりして、五時過に宿へ帰って来た。そして、 再び尾上を電話で呼び出した。 「どうですか。その後の模様は?」と訊ねると、 「下りました。五円余り下げました。どうも、よく分らないですね。どういうものか、梶原の売 り手には、驚いてしまいましたよ」と尾上のうろたえ方も高之同様にひどかった。 「やっばり、売手は梶原ですか」 「そうです。うちの新東どうしましょう。お考えありませんか」 「あれは、もうしばらく、あのままにしといて下さい」 「承知しました。お電話はいつも今のところで、宜しいですか」 「ええ、ここに必ず電話の時間にはおりますから、お頼みします」 「お帰りはいつごろになりましょう?」 「そうですね。もうすぐ帰りますが明日まで待って下さい。明日の模様にしたいと思いますから」 「じゃ、また明朝お報せします」  電話を切ると同時に高之は、その場に立ちはだかったまましばらくは動かなかった。  しかし、売手が清子の家からだとすると、これは練太郎が梶原へ結びついたのにちがいないと ふと思った。それなら仁礼文七が自分の店を見限ってやり出したのだ。そうだ。たしかにそれに 間違いなしだ。ー  けれども、かつて今まで、買い一手で押し進んで来た仁礼であった。それが、生涯一度の売り で出て来た、この押し出し方は何か必死の策戦があっての事だ。-  そうだ、こりゃ、驚天動地のことをやり出すにちがいない。こう思うと、高之は仁礼が株をや めよと云ったことを思い出した。東京の株は間違いだと教えたことも思い浮べた。仁礼として は、あのときはそれ以上ロヘは示せぬ寛大さであったのかもしれぬ。  しかし、いずれにせよ、このままでは必ず高之の家は潰れるのもまた確かな事だった。  彼は仰向きに寝転んで策戦を考えた。恐らくこのとき仁礼の計画に気附いたものは、東京でも 高之一人であっただろう。彼は仁礼の売りにつき従って家の財産全部を上げ、自分も売りに出る 方法以外には、も早、防戦の方法ばないと考えた。  このようになれば、彼の頭は|颱風《たいふう》の雲のように刻々変化してやまなかった。彼はむっくり起き 上ったりまた坐ったりしてみたが、結局は手を|拱《こま》ねたまま泰子の身の上に思い及ぶにすぎなくな ると、財産を仁礼にとられてしまう代りに、自分は泰子を仁礼から取り上げようとしだいに青年 らしい決心が定って来た。  夜になって彼は網島の泰子の家の方へ叩き出されるように自動車を飛ばしていった。網島いっ たいは淀川から吹き上って来た霧に立ちこめられて、うすぽんやりと曇っていた。高之は附近の 料理屋で食事をとったが何を食べても|上《う》わの空で、ただ|箸《はし》を動かしているというだけだった。昨 夜の時間が来たとき高之は泰子の家の裏へ廻った。月は押し潰されたように霧の中ににじんで見 えた。高之は裏木戸を開けてみた。すると、どういうものか閉っている筈の木戸がするすると開 いた。多分丸由が泰子の命令で開けておいたのであろうと思いながら高之は中へ這入って木戸を 閉め、三四歩奥へ歩いたとき、不思議に泰子の残り香が湿った空気の中に漂っているのを嗅ぎつ けた。それではもう泰子は一度も二度も、さきからこの中を見に来たのにちがいない。  高之は奥へ奥へと歩いていくうちにふと立ち停った。もしかしたら木戸の開いていたのは花十 の策略で、自分を取っ|掴《つか》まえ恥かしめようという箪段かもしれないと思ったのである。仁礼の留 守であるからは、|無聊《ぶりよう》に苦しみ何を|謀《たくら》んでいるか分ったものではない家中だった。  こりゃ、袋の中に来たのかもしれぬ。  こう思っているとき、真暗な向うから近よって来る足音が聞えて来た。高之は幣にぴたりと背 をつけて立っていた。すると、近よって来た人影が高之の傍まで来て、 「あなたは、重住さんですか」と小声で訊ねた。 「あなたはどなたです?」と高之は訊ね返した。 「わたしは、丸山です」 「あ、咋日はどうも有難うございました。いずれそのうち御礼させてもらいま・す。今は何分この ありさまですから」と高之は云って鄭重に挨拶した。 「いえいえ、あのう、今夜は、花トの奴が気がつきまして、厳重に見張りをしておりますので、 どうにも只合が悪いのですが、今夜はお帰り願えませんでしょうか。お気の毒ですが」 「そうですか。何とかなりませんか。是非一寸泰子さんに用があるんですがね」 「それは一寸御無理かと思いますが、でも、|危《あおの》うてもお宜ろしかったら、どうぞ」 「僕はどうされたってかまいませんから、会わせて下さい。ほんの暫くで結構です」 「それでは、一寸お待ちたさって」  丸山が引き返していってから十分もしたとき静かにまた足音が近よって来た。高之は揺れる空 気の匂いで、それが泰子だとすぐ分った。彼は急いで泰子の方へ進んでいった。胸と胸とがほと んど突きあたりかけようとしたとき、 「あの、花十が兄つけましたから、きっと裏へも廻ってますわ。早くこちらへ這入ってちょうだ い」  と、泰子は高之の手を引いて足早やに奥へ奥へと歩いた。 「そんなに中へ這入って、いいんですか、僕は|恐《こわ》くはないですから、ここらにいる方が亠使利でし ょ、り」 「でも、あたしのお部屋へ来てちょうだい。そしたら、何もしないでしょう。ここだと、どんな ことするかしれしませんわ」  高之はもう覚悟を|定《き》めた。兇つかれば児つかったまでだと、泰子に手をひかれたままぐんぐん 中へ這入っていった。蔵の問を抜けたところの二百坪ばかりの庭には、川霧がほの白く流れてい た。二人は庭を突き切って茶室の方へ行こうとすると、突然荒々しい人声が聞えて来た。それは 丸山と花+の争いらしく庭内の|仕切塀《しきりべい》の向うで、南天の枝だけがばさばさ揺れて鴨っていた。多 分丸由は出ようとする花+を|舳嘩《けんか》で食いとめているその隙に、泰子と高之を自山にしようとして いるのに相違あるまい。高之は泰子の後から茶室へ上り、廊下を渡って泰子の部屈の中へ這入っ ていった。 2!2  泰子は次の部屋の寝室へ高之を通した。まさか寝室へ高之を入れようとは誰も気附くまいと思 ったのであろう。 「この奥の廊下を右へ突きあたったところに、湯殿がありますで、もし誰か来たら、そこへお逃 げになって、その裏から中庭伝いに、表の非常口ヘ出てちょうだい。そうしたら、一番安全です わ」泰子は傘の模様のある自分の夜具を片方ヘ押しよせた。「こんなところで失礼ですがしばら く御辛抱してちょうだい」  二人は夜具の横へ坐ったまま庭の方から|罵《ののし》る人声に耳を傾けて黙っていた。 「丸由さんと花十さんと、ああしてよう喧嘩しやはりますの」と泰子は|愁《うれ》いげな中に笑顔を見せ た。 「あなたはちっとも外へ出ないんですか」 「ええ、もういやになりましたわ。もうしばらくこんなことが続くようでしたら、お父さんに頓 んで、|熱海《あたみ》へ行かしてもらおうか思うてますの」 「お父さんお許しになりますか」 「それは分らしませんけれど、無理に頼んでみますわ。そやないと、あたし、病気してしまいま すもの」  ひそひそ二人の話しているとき急に足音が庭の方から駈けて来た。高之は逃げようともせずじ っと|火箸《ひばし》を|掴《つか》んだまま聞き耳を立てていたが、泰子は立ってすぐ電気を消した。するとそのとき 隣室の障子ががらりと開く音がして一瞬森閑となったが、すぐ隣室を開けた男はまた障子を閉め 書\鬩 口藏 て外へ出て行った。足音が遠のいていっても泰子は電気を点けようとしなかった。遠くの方で、 「|嬢《とう》さん、いやはらへん」という花十の弟子の声がしたかと思うと、足音が再びばたばたと乱れ て四方へ拡がって行くのが手にとるように聞えた。 「それじゃ、今夜はこれで帰ります」 と、高之は云った。泰子は明りを点けようとして立ち上った。延び上る羽織の裾が高之の|頬《ほお》を |擦《す》ると、高之は手探りながら泰子の肩に片手をかけ、耳へ口をよせた。 「明日、東京へ帰らねばならんと思いますが、委細は手紙で丸山さんに渡しときます」 「もうお帰り?」  泰子は電気のスイッチを握っていたが火を点けようとしなかった。高之は廊下へ出ようとして 襖に手をかけたとき、今まで外でしていた人声が|俄《にわか》にぴたりと停って、無気味に家の中がしんと 静まった。高之は開けかけた襖もまた閉めて立っていた。 「ここにいてちょうだい。あたし見て来ますから」と泰子は云って高之の代りに自分が廊下ヘ出 て行こうとした。彼は泰子の肩を掴んで後へ引き戻した。 二寸」  泰子は高之と擦れ擦れに向い合って立った。 「もうお逢い出来るのはいつのことか分りませんから、お話だけしとぎますが、あなたのお父さ んいよいよ新東を売り出していられるんですよ。今日も大ぶ下りましたが、まだ下げなさるに|定《きま》 っていると思うんです。これがも少し下ると、僕の家は破産してしまって東京にはいられたくた る恐れがあるんです。それでそのときにたったら、僕があたたのお父さんに、あなたを下さいと はどうしても云い出せなくたりますから、それを一言お話しとぎたいと思って上ったんです」  びりびり細かく傑えていた泰子は高之の手を持った。 「一寸、お父さん、どんなことをしてられるか、ちっとも知りませんけど、本当ですの2」 「木当です。新聞を御跣にたれば分りますが、明日は一屑ひどいでしょう。やられるのは伐とこ だけじゃないけれども、そんなことは同じですからね」 「それ、どうすれば、あなたとこいいんですの^〜」泰子は高之の胸に手をかけて揺るように訊ね た。 「方法はありませんね」と」尚之は"巾やかに云った。 「そんなこと|仰一《おつし》一.、|口《や》らずに、どんたことでもしますから、教えてちょうだい」 「それは駄口だと思います」 「でも、あたし、お金を持っていけば、いいんでしょう?し 「そんなことは、出来ることじゃありません。しかし、仁礼さんおやりになりたいなら、仕方が ありませんから、もう白山にやってもらうだけですよ。その代りに攸はこんたことをしてるんで すからね、これもやむを得たいでしょう」  こう云いながら泰子の指を握っている高之の手に力が強く加わった。 「あたし、お金ですむことでしたら、どんなことでもしますから、無茶なこと女さらないで一  云ううちに泰子の声は懐え、浹が|滴《したた》り落ちて来た。 冒\跫 1舳 「とにかく、今夜は帰ります。御機嫌よう」高之は襖を開けた。 「待ってちょうだい。あたしも行きますわ」 と泰子は云うと、寝室の隣の白分の部黛ヘ這入っていって|箪笥《たんす》の|杣斗《ひきだし》から通帳を取り刪した。 それから鏡台の指環を捜そうとしてかたかた圸斗を鳴らしていると美丶今まで静かだった人声が 廊下の方からまた聞えて来た。  高之はもう逃げることは絶対に出来ないと思った。この上は泰子を|楯《たて》にとって近よる者を|蹴《け》り                                               0 つけてやるまでだと肚を定め、泰子の傍へよって行くと、泰子はびっくりしたように立ち.上った 「来たらしいわ。早く、こちらへ来てちょうだい」  泰子は高之を引きながら静かた茶木の方へ無理欠理につれていった。高之は泰子の後から茶室 の椣へ出ると、木のない石の出ている庭ヘ降りた。すると、不意に霧の中から、 「いたいた」  と呼ぶ声がして風のように一人の男が高之の傍へ駈けて来た。しかし、高之は逃げもせず近よ る男をじっと見詰めて立っていた。すると、馳けて来た男は高之の二三歩前で立ち停って突然ぴ ょこりとお辞儀をした。高之も会釈をして黙って泰子の方へ歩き出した。その途端に男は後から 高之に飛びかかろうとした。 「安どん」  泰子は問へ立ちふさがって強く男を|睨《にら》んだ。 「へい」 と安どんと云われた男は頭を下げた その間に高之は泰子をそこに一人残して非常口の闇の中 に消えていつた。  翌日、眼が醒めるとしばらく高之は昨夜の出来事を思い出して幸福であった。しかし、やがて 何事かを始めるにちがいない泰子の父の仕業を思うと、男としての張り合いが飛びかかるように 胸中むらむらと起って来るのだった。殊に一族郎党を小にしても統率している現在の高之であ る。自分の不見識は多数の店員と|広汎《こうはん》な顧客の生活とを滅ぼしてしまうのだ。それは自分の恋愛 には代え難い一大事だった。  九時すぎに東京の尾上から、高之のところへ昨日頼んでおいた市場の模様の電話が来た。 「今さき寄りつきましたが、ひどい勢いです。どうなることやら、さっぱり分りませんが、下る ばかりです」と、もう尾上の声は初めから上わ|吊《づ》って早口だった。 「売り手はどこです」 「やはり梶原です」 「梶原ばかりですか」 「そこはよく分りませんが、どうも今のところ、そうらしいです。もう台割れです。今ごろは、 もう二円も下ってるころでしょう。どうなるんでしょう」  おろおろしたように聞える尾上の声を沈めるように高之は、 「市場はどうですか」と一段声を低めて呼吸をとめた。 「場はわいわい騒いでます」 「僕はすぐ帰りますが、|前場《ぜんば》の引けと、|後場《ごば》の引けに電話下さい、いつもの時間には、きっとこ の番号にいますから」 「承知しました。あッ、とそれから、今電話来ましたが、やっぱりまた二円下げました」 「下げましたか」高之はますます不安になるばかりだった。 「うちのはどうしましょう」 「うちのは考え直しましたから、あれだけ|当限《とうぎり》を成行で売って下さい」 「承知しました」  電話が切れると高之は、昨夜泰子の家で安閑と一人幸福に浸ったことが今さらに一刻の時機を 失したようにひやりとした。  恐らく今日の新東の下りで、東京の仲買店は三軒潰れているにちがいない。それもまた明日明 後日と続くに相違ないのだ。  高之は|狼狽《ろうぱい》して正午前に北浜の取引所へ行ってみた。すると、仁礼が東京の新東を落す前に、 駈け引きに北浜の株も仁礼の兄弟店で多少|崩《くず》している形跡を発見した。矢張り仁礼の意志は自分 の想像通りであったと高之は思った。しかも、一層的確なその証拠をまた拾った。それは仁礼が 東京の短期の株も、梶原に売らして落しつつあることだった。  たしかに、文七の計凾は、もう読めた、間違いはない。  こう思うと今は一刻も高之は猶予がならたかった。彼はすぐ忍の父の信助に逢って東京の自分 の家も屋敷も、その他の財産一切を抵当にして追証のための金を借りねば、も早いまの始末のつ けようが考えられなかった。けれども、またしても忍の父の厄介にたれば、  ますます忍に顧 が上らなくなるばかりではすまぬのである。  忍に会おうか泰子に会おうかと、高之はしばらく途方にくれていたが、もう自動市は網局の泰 子の家の前まで行っていた。 「えーい、また来た」と彼は思わず舌打をすると、その勢いですぐ巾を久太郎町の忍の家の方へ 走らせたが、途中で市を降りて電話で忍を呼び出した。是非お逢いして話があるから今日これか ら松平まで来て貰えないであろうかと、高之は遍話をかけてみたのである。忍の返箏はすぐこれ から行くということだった。  高書、4が松平へ帰ると、忍は五分とたたぬうちにやって来た。 「どうなの。|周章《あわ》てて?」と忍は近入って来るたり云った。 「それが、困ったのさ。問題が起ったんだ。たいへんたことになって来た」 「あたし泰子さんに逢おう思うても、よせつけてくれはらへんのん。夜中に電話かけたら良いや ろ思うて、かけてみても、電話の前で男の人が沒てはると見えて、いつでも男の人だわ」  忍はくるくるした眼を細め、高之の苦しみなど全く意にないごとく苦笑した。高之は机のし、で |獺《あご》を|肱《ひじ》で支えながら、これはまた忍のこととは全く反対に、家中の苦しみを云おうか云うまいか と、まだ迷いつづけていくのであった。 「今夜僕はどうしても帰らなくちゃたらんのだけれども、実は、今度来たのは、あたたのお父さ んに、もう一度お金を借りようかと思って来たんですよ」高之は忍の顔を見上げた。 「借りて上げましょうか」と忍はまるで十銭の金の話のように無造作に指でくるくる火箸を廻し たがら云った。 「ところが、それはまことに有難いんですが、一つ困ったことがあるんですよ。実はこうなんだ。 いま仁礼さんが東京へ行ってるんですがね、この人は兜町の株をどんどん売って、下げてるんで す。このために兜町の仲貰店で、潰れる家が沢山出るにちがいないんだが、俣の家もどうやらや られそうなんで、これを保たすためには、あなたには分らないだろうが、仁礼さんについて売る より方法はたいのです。けれども、今のところはまアいいとして、これがも少し下がれば、損し たお客から金がとれなくなる。そうすると血が足りなくなるから家のつぶれるのを、指を咥えて 見てなくちゃたらん。それで、僕の家屋敷と財産全部を抵当に入れて、輸血するために誰かから お金を借りなきゃ、やっていけそうもたいので、一つ一番貸して下さりそうなあな一たのお父さん にと、こうまア思って昨夕から思案に余ってるんですよ」 「輸血なのね。じゃ、あたし云っといてあげるわ。きっと貸して下さるでしょう」と忍はまだ金 と水とを同様に思っている風であった。 「しかし、この間も助けてもらったんだから」 「宜ろしいわ、そんなこと。お父さんいやや云やはりましたら、あたしの貸して上げてよ。あた しの分の借家から上って来るの、毎月二千五百円位銀行へいってるんだけど、それどうかしら?」 言義  高之は突然笑い出した。 「あなたのお金は借りませんよ」 「どうして?」 「腐っても|鯛《たい》だ。君のだったらとってやる」と高之は云って笑いつづけた。 「だけど、こないだ、三千円つこたら叱られたわ。子供のくせに三千円も使う奴あるか云われて、 この月はとり上げられたの。このごろはひどい倹約よ」  忍の|賛沢《ぜいたく》は高之も知っていたが、月に二千五百円も自分の分にしているとは、まだ彼も気づか ないことだった。彼が忍を根から好きになることを警戒しているのも、一つは彼女の賛沢なため である。 「とにかく、僕は今夜帰って、あなたからお父さんの御承諾もらえたら、すぐ家屋敷の登記をす ましてまたやって来ますから、僕がこんな風なこと云っていたということを、 |一寸《ちよつと》もらしてみて くれませんか」 「だけど、泰子さんに知れちゃ、具合が悪いわね」 「それなんだ」と高之も思わずふっと|溜息《ためいき》をもらして考え込んだ。 「じゃ、あたしから、泰子さんに頼んで上げましょうか」  高之は黙って忍の顔を見た。文七から財産を潰されているその隙に、その娘から救助を受ける 男の立場の苦痛である。それも忍でさえ無理ないことと承認している場合であったが、しかし、 やはり高之はそれだけは出来がたく黙っていた。              ' 言義 「でも、その方が、後のためになるでしょう?」  知っていて云うのか知らずに云うのか忍はまた云った。 「そりゃ、勿論、泰子さんに借りられればこれに越したことはないけれども、親父の仁礼さんに 僕がやっつけられているとき、その娘の泰子さんから金を借りるという道楽は、出来ますかね」 「だって、それだから、借るんじゃないの」と忍の考えはこれはまた簡単で要を得ていた。  しかし、何と云ったところで、今金の必要に迫られているのは一家を救う目的であることは|勿 論《もちろん》だが、真実高之の望みは、泰子と結婚した場合に起る生活の基礎を造るがためである。それを 泰子から取るという努力は、何の自分の努力になるのであろう。 「金というものは、自分にとって最後の人から借りるもんじゃないですよ」  高之の云ったことが分ったのか分らぬのか、忍は、ふふと笑っただけだった。 「なぜ笑うんです2」 「でも、そんなこと、余計なことやわ。苦労性ね、高之さんは」と忍は云って急に後に|反《そ》り返り、 あたりを見廻しながら笑いつづけた。 「苫労も仕ようじゃないか。泰子さんの親父に家を潰されようってんだからね。それも、仁礼さ んが東京で株をやるなら、僕の店からやるべきでしょう。それを清子さんの店からやったのさ。 これは京極君の|仕業《しわざ》だ」  意外なことを聞きつけたと云わぬばかりに、忍は端坐すると真直ぐに高之を見た。 「そりゃ、人道に反するわね。泰子さんのお父さんが帰ったら、云ったげるわ。無茶やないの」 「それも、二度目だよ。東紙のときもあれも無茶だが、その前にまだあるんだ。君も泰子さんも 知らないだろうが、僕の親父が死んだのは、仁礼さんに株でやられて死んだのだよ。みんなこの 手なんだ」 「あら」と云ったままさすがに忍の顔は|真面目《まじめ》になった。元来から忍は正義心が人より強いとこ ろがあったから、閃き捨てならぬことには色を変えた。 7てれで。どうして、秦子さんと、お|亠父際《つぎあ》いなさったの。あなたも、どうかしてるわ」 「ところが、それは僕が大きくなるまで、知らなかったのさ。尾上が何もかもやってたんだか ら、資本の関係で、反抗も出来なかったと見えるんだよ」 「だって、いくら資本の関係かて、それはへんなことやわ」 「しかし、株というものは、そこがまた、高尚なところでもあるんだ。普通一般の道徳じゃ分ら ないところがあるんだ」 「だって、同じ人間じゃないの。いけないことは、いけないじゃありませんか」  高之はしばらく黙っていてから云った。 「杣場というも.のは万ロ注祝の真中でやるんですよ。そんなときになれば、仁礼さんという人は、 一個人の家のことなんか考えちゃいられない人なんだよ。あの人は物質の|権化《ごんげ》みたいな人で、|難《むず》 かしく云えば、まア物質の動く法則のまま従う事を、天職だと考えてる人なんだ。それが、あの 人の道徳なんだよ。個人の没落などに匁を奪われてちゃ、機械みたいな相場という文化の|粋《すい》の頂 上のような所では、 一純の不道徳にもなってしまうのだ」 忍は何の事だか分らぬように、愛らしい口をぼんやり開けて黙っていた。高之は文七の悪口を 云いたくとも|識《し》らぬ間に賞めたたえてしまう自分を不思議と思い、これを必死に憎もうとも浮き 上ってしまう自分を今さら歎かわしく思うのであった。このようになれば、も早、自分は分らな いと、彼は投げ出すように且の上へ長くなった。 一找 高之が東京へ帰ったときは、兜町の取引所は|受渡《うけわたし》で休みだった。そのときには、高之の知って いる二三軒の仲賞店が早くも潰れていた。一日|隔《お》いて市場が開くと、また新東は下り始めた。し かし、今までの新東の下げは仁礼としては、まだ本膀負に這入った活動ではなかった。恐らく、 よいろを|兄《ちちち》る、という株の手の序幕戦程度のものだったにちがいない。 二日三冂とたつと、売りに代って、束京の資い方の活動が俄に目立って激堋して来た。下り出 した新東が再びじりじりと頭を上げて来始めた。 「新東、上って来ましたね。どうしましょう」と尾上はある朝高之に相談した。 「いや、また必ず下ります」と高之は云って取り合おうとしなかった。 「しかし、いくら仁礼さんでも、そんなに金の出口はないでしょうから、もう停めますよ」 「いや、やります。こんたことで、納る人じゃありません」 「けれども、これ以上下げるのは、千万円は入りますからね」と尾上は仁礼の懐の勘定をし始め た。 翩ハ信所の財産記録は、千万円以上は書きませんからね。僕は仁礼さんは、少くとも六千万は持 り乙 貭我 っていると思う。土地だって東京と大阪に分けて持っているし、準公債の堅い株をいくら持って るか知れないですよ。一流会社の株主名簿を見たって、どれも大株主になってるですよ。それに 債券の質屋でしょう。こういう分産主義の男の懐は、いくらあるか全く分りませんからね」 「それにしたって、一個人で千万円の金が、今ごろ浮いて来る筈はないでしょう」 「皆誰もそう思うから、東京のものは買いに廻って来たんですよ。僕はそうは思いませんね。あ の仁礼が千万の流動資金の造れたい筈がないですよ。あの人は利廻りにほれて株を持つ糧類の人 じゃないから、銀行はどうでも動く。目的なくして今の売り手をやるものですか」 「そんなら、私とこ、どうしたら良いんですか」と尾上も、今は高之に喰ってかかるような調子 だった。  けれども、喰ってかかりたいのはむしろ高之だった。勿論、高之と泰子との恋愛から練太郎が 清子の店へ乗り換えたことは、高之の責任だと暗に尾上の云い張りたいのは、高之にも分った。 しかし高之にすれば、去年から尾上の主張に従って新東を買い継いで来た無理が、今になって突 然|癌《がん》になって来たのを、彼は尾上に|糾弾《きゆうだん》したい気持だった。その上、店の|殆《ほとん》ど全部がこれも尾上 同様に買いの人だ。これがために、仁礼文七のこの度の売りの乱手が続くと、客からも追証拠金 が|貰《もら》えなくなる。そればかりか、自分の店の手張りの追証も取引所へ出せなくなるのだ。それな ら、もう店は潰れるより仕様がなかった。 「僕は大阪へもう一度行って、池島さんに金を借りて来ようかと思ってるんですよ。下準備は帰 るときにして来たんですが、そしたら店も屋敷も全部抵当にする考えです」  尾上の顔色はさっと変った。 「ほんとに仁礼さん、やりますかね?」 「やると思う」 「そんなら、池島さんから借りたって、追っつくでしょうか」 「それは分らないけれども、しかし、もうこうなれば、そうするより什様がないですよ。策が尽 きた」                               しよ晝耋             ー〜 廴  ・ )二ーノ廴亘ノ・テこ頁う豆二誦らこ、齋蓑ヒる一、凧  高之はこの家も人手に渡るの力と店うと 麦.六りをタ塾ーカ←ナ彦司ノ、八沐乏・6プ 一蒡ノ、ノフ 、 持である。  その夜、高之に大阪の忍から電話があった。          あかし 「あたし忍です。すぐお返事しようと思ったのですけど、お父さん、明石の方へ行ってたもので すから、失礼しました」と忍の声はいつものように晴れわたったものだった。 「いやいや、僕の方こそ、あなたにお頼みなんかさせまして、失礼しました」 「あのね、お父さんが、お返事は私からするから、あなたにすぐ大阪へ来ていただきたいとそん なに云いなさい、云ってるのよ。だから、無事安全よ」 「そうですか、それはそれは」と高之は云ったまま頭を思わず機械的に下げた。 「とても同情していたわ」 「いや、まことに有難いと思います。厚く御礼申し上げます」 「すぐいらっしゃいよし 「こっちの登記をすましたら、すぐお伺いします」 「それから、あたしの分も少しはありますから、もし御入用だったら、御遠慮なく云ってちょう だい」 「いや、あなたの方のは、僕、抵当に入れるものがもうないですから、お父さんの方へ廻させて 貰います」 「だって、最後のものからお金借りるもんじゃないって、あなた、こないだ仰言ったでしょ。あ たしは、最後のものじゃないから、宜ろしやないの」と忍は皮肉に出てやり込めた。 「いや、違う。あなたも最後の一人ですから」  電話口でげらげら笑う忍の声が聞えてから、「じゃ、さようなら。お待ちしてますわ」と彼女の 言葉で電話が切れた。  その翌日、高之は店と住居と借家と別荘の登記を四カ所ですまして、四通の権利書をとって来 た。どの権利書ももう池島信助の名前に変っていた。高之が登記をすまして帰ってからの|兜町《かぶとちよう》の 前場は、いよいよ東京方が昨日までの仁礼の売り手に対抗して、寄り|塊《かたま》って買い廻った。そのた め仁礼の売り崩した新東は意外な速度で|恢復《かいふく》して来た。その日暮しの売り手も|周章《あわ》てた|利喰《りぐい》のた めに、みな買い手に加わったらしかった。  尾上は市場からの電話のある|度《たび》に、「どうです。持ち直して来ましたよ。まだ売るんですか」と 元気な声で高之に|訊《たず》ねた。 「いやいや、金は何んとかしますから、やはり売りましょう。買っちゃ駄目だ」 「しかし、東京方はだいぶ結束して来ましたから、いくら仁礼さんだって、これより落せないと 思いますが」 「いや、僕は売ってる株数を、少しでもまとめたいのです。値の少々より、もうこうなれば数で すよ。今でなきゃ、もう僕らの手はきっと合わなくなりますよ」  尾上は不服そうだったが黙ってしまった。高之は後場の|寄附《よりつき》に直接市場へ出かけて見た。市場 の群衆はここ四五日の激しい上り下りで、全く誰も見当がつかぬらしく、青黒く脂肪のにじんだ 顔を殺気立たせてうろうろしていた。株の気配も落ちそうで落ちもせず、そうかと云って、買い 手の東京方もすこぶる|不活漆《ふかつぱつ》で、も一つ上ろうともしなかった。いわゆる持合の状態に這入って 来たのである。  登記をすました日の夜、高之はまた急いで大阪へ立った。彼は四枚の権利書と|骨董《こつとう》を多少持っ て池島信助に逢いに行くのだが、これで|漸《ようや》く危機を切りぬげることが出来るのかと思うと、飛び 立つ喜ばしさと一緒に忍の愛情の深さもひとしお強く感じるのであった。  その夜汽車ではあまりよくも眠られず、翌朝高之は大阪へ着いた。忍には立つ前電話で報せて あったから、池島家へは朝早く行っても驚かすことはあるまいと思っていると、ブラットフォー ムには意外にも忍が一人出迎えに来ていた。 「これはどうも」  と、高之は恐縮した。忍は高之のかかえている骨董物を奪って持った。 「それは大切にしてくれ給え。あなたのお父さんにお渡しする抵当だから、紛失しちゃあなたの 責任だよ」 「これがそうなの。いやな物朝から持ったわ。受け取りに来たようなものね」忍は|眉《まゆ》を|箪《ひそ》めて笑 った。  自動車に乗ると高之は一度宿屋ヘ行って、朝の兜町の様子を閃かねばならぬから忍も一緒に宿 まで来て貰いたいと頼んだ。松平で一風呂浴びて蒼物に蔚替えてから、高之は東京の尾上を呼び 出した。時間を待つ問、忍は高之に株の模様を|訊《き》きたがった。高之は忍と別れてからの撕束の上 り下りを|委《くわ》しく説明した。忍の質問は初めはとんちんかんなことが多かったが、それでも呶の良 い忍のこととてすぐ株の本質と運動の具合を、一通り飲み込んだらしかった。 「じゃ、あたしもお金を出すから、あなたに売って貰お。|儲《 もう》けるのよ。当限を成行で頼みます」 「まア、やめなさい」と高之は云ったが、仁礼にいつも云われた言葉が自然に出たのに、つい笑 わざるを得なかった。 「あたし、お嫁入のお支度を自分で儲けて、お父さんあッと云わせてやるの。ね、初め二千円で しといてちょうだい。今日小切手お渡しするわ」  高之が取り合わずにいるとき尾上から電話が来た。 「今着いたばかりですが、寄りつき、どうですか」と高之は訊ねた。 「まだはっきりしませんが、貰い手はやはり優勢です」 「まだ売り手の大手筋が、みなに知れてる様子は見えませんか」 「それが買い手は東京で、売り手が大阪だという|漠然《ぱくぜん》とした|噂《うわさ》は、立っているようですが、それ も皆には今のところ、分らないらしいようです。これ、もうじき、はっきり分ると、またどっと 変るかもしれませんよ」 「じゃ、今日の後場ですね」 「そうです。今のところは漠然としたがらも、東京には工面のいい買い手もたいから、買い切れ たい相場だし、そうかと云って大阪方も、売りがどこまでやれるか疑間だしというところらしい ですよ。何となく気味悪い気配がありますね。どうしましょう」 「まア、売って下さい。僕はやはり値をとるより、売りに数を増しとく方が得だと思いますから」 「承知しました」  電話が切れたとき聞いていた忍はすぐまた訊ねた。 「あの売りの大手筋が知れてないって、何? 泰子さんのお父さんのこと?」 「そうだ。まだ誰も仁礼さんが売り崩してること、知らないのさ。仁礼さんについて君が売れば、 二千円ならばすぐ二万円にはなると思うね」 「じゃ、売ろ」と忍は手を打って面白がった。別に面倒なことでもなく、それだけの儲けは確実 であったから高之も|強《し》いて不賛成だとは云いかねた。  宿で忍と谷.食をすましてから久太郎町の忍の父の信助の所へ行ったのは、それから二時問もし てからであった。  いつもの仏壇のある間へ高之が通されると、信助は篤実な顔をにこにこさせながら現れた。こ   、`一 目-伐 の部屋の|檜《ひのき》の匂いを|嗅《か》ぐ度に、気持の晴ればれとなるのを感じながら、高之は一別以来の挨拶を すました。 「この度はまた大変なことに、お逢いになりましたそうで、娘とお噂しておりましたのですが、わ たしは一寸明石の方へ行っとりましたものですから、お返事遅らせまして相すみませんでした」 「いや、私こそお嬢さんにお頼みなんかいたしまして、まことに恐縮いたしております。どうも この問、御厄介おかけしたばかりなところへ、またこのようなお話、|臆面《おくめん》なく持ち込みまして、 |甚《はなは》だ心苦しいことと存じましたが、何分御承知の通り、|詮方《せんかた》もございませんので、重ね重ね御迷 惑おかけ申します」 「いえいえ、何も出来ませんが、どうぞ御遠慮なく」  |鞄《かばん》の中から権利書を取り出す高之の姿を、信助は気の毒そうた顔をして|眺《なが》めていた。  大阪人の中には義理人情を垂んじ、信義に|篤《あつ》く、質素倹約で、家業に勤勉な気風がまだ多分に 残っているが、信助のごときはその中の一人であろう。信助は高之の出した喬記の権利書を一枚 ずつ手にとって眺めていたが、赤坂の別荘のを見ると優しく笑って高之を見上げた。 「この家を先代さんがお建てになったとき、あたしも御招待されて、よせてもらいましたが、お 茶室はまだそのままでございますか。たいへん良う出来ていましたが」 「ええ、あれもそのままです」と高之は答えた。  名家の没落の悲しみは名家が一番良く感じるごとく、重住家のこの没落には信助も心から同情 したものらしかった。 「先代さんとは、このお部屋で良う一緒に遊ばしてもらいました」  と信助は云って次の権利書に眼を通した。高之は危くほろりとしかかった。けれども、他人の 手に家屋敷が渡るほどなら、まだしも忍の父に渡る方がどれだけ先祖への申し訳が立つか分らな いと、悲しむ心を慰めるのであった。高之は小切手を信助から受取ると昼食をすすめられたが、 帰る飛行機の時間もあるので直ぐといとまを告げた。  飛行場へは忍がまた一人高之を送って来た。空はよく晴れて追風であったが、高之はさすがに 家を手放した後のこととて元気はなかった。  飛行場のホームヘ着くと、忍は高之に包を渡した。 「これ、お願いするものよ。あたしの分東京でしといてちょうだい。損をしたってちっともかま わたいお金だから、御心配いらんのよ」  高之は包を受取ろうともせずしばらく黙って忍の顔を眺めていた。 「じゃ、このさいですから、お預りしときましょう。必ずこれだけは、うまくします」 「債券が一万一千円と、お金が二千円ばかりだけど、それで足りるかしら」 「大丈夫です」と高之は云った。 「じゃ、お願いするわ。あたしね、今日東京へ一緒に行きたいんだけど、お忙しいと思って遠慮 したの」 「忙しいのは忙しいけれども、明日でも来て下さい。そのかわり、ほったらかしときますから」  間もたく外では出発の飛行機のプロペラが日光に輝きつつ廻り始めた。二人は機の傍ヘ近よっ りム た。 「あたたにはこん度は、何とも感謝の仕様がありません。どうも有難う」  高之は優しみに満ちた眼をして忍に握手をしたがら機の踏み台に足をかけた。飛行機は舞い上 った。  東京の兜町では高之が帰ってから二三日、東京方の買い手と仁礼文七の売り手が、まだ静かた |保合《もちあい》をつづけていた。すると、四日日の朝になって、突然、急激な売り手が勢力を増して来た。 一週間ほどかかって東京方が仁礼の落した値の三分の一までかつぎ上げ七来たものを、その十倍 の速力で見る見るうちに引き摺り落した。それも、八円、七円、六円と、大舳でばたばた飛んで 落もていくのだ。取引所の周囲は狼狽して真っ青になった男の群が細い横町を駈け廻った。市場 は騒然として正午が近づいても容易に|鎮《しず》まりそうにも児えず、飛び出る者、駈け込む者が突き当 っても、どちらも知らずにそのまま横ざまにまた駈けた。それが五円、四冂、三円と、まだひき 続いて底無しのように落ちていくと、高台の木入れが値の|定《ぎ》めようがたく、場立ちの群衆と一緒 にうろうろして互に顔を見合して、いるというありさまだった。  ところが、前場はまだそれでも刃向う買手があったが、後場になると一層市場は|暴《あ》れて来た。 三円、二円、一円とまた落ちた。そう女ると、東京方は死物狂いで買い廻って来始めたので、再 び一円、二円、と上り出した。すると、その三倍の早さでまたどかどかっと崩れ落ちた。  市場は脂肪の蒸しつくようたねばった臭気が異様に立ち|籠《こも》って、襯覧席の人の顔は勿論のこ と、場内の売り買いの者まで物をいうものがなくなった。森閑とたったかと思うとうわッとい う。また黙々となると割れるように|爆《はじ 》け出す。  市場の外で|八卦見《はつけみ》に見てもらっている者たちも、声が場内から上って来る度にきょとんとして いたが、八卦見も買っていると見えて、|終《しま》いにはお客を|抛《ほ》ったらかしたまま自分がうろうろし出 すという有様だった。|八百屋《やおや》が|籠《かご》に大根を盛って通ると、トンビをかかえて店まで飛んで行く真 っ青な、男に、大根の籠をひっくり返されていた。号外屋の鈴の音が街をひっ掻き廻して駈けて歩 く。小路という小路、空地という空地は群衆でいっぱいになり、押しのけ掻きのけ、半狂人の群 とたって刻々波打ち上っていった。こうして全く兜町一帯は|鼎《かみえ》の沸くが如きものとたった。どの 店も地方客からのひっきりたしの電話電報できりきり廻っていた。  この街の騒然たる状態は夜になってもまだ続いた。いつもは夜になると火の消えた暗い兜町一 帯も、この夜は火事場のように赤々としていて、明日の金策に駈け廻る群衆で誰も彼もが徹夜で あった。どの飲食店も満員になるばかりではない。店から喰み出た人の群が出たり入ったりして いる中で、噂が噂を生みながらだんだん奇怪た混乱をして行くのだった。 「売ってるのは、大阪の仁礼だぞ」というかと思うと、「今夜は、丸一と、鍵万が潰れた」とか、 いやどこそこだとか、四五軒の危い仲買店の名前が流れ渡る。中には、梶原|怪《け》しからん、大阪の を売りやがる、というのもあれば、「今日、売ってくれと頼んだのに、なぜ売らなかったんだ」  と|呶鳴《どれ》っているものもあった。この混乱した真最中の夜、忍は一人東京へ出て来たのである。  忍が高之の家へ着いたときは、高之は二階にひとり人を遠ざげていたときだった。誰が来ても 逢おうともせず、鬱々と火鉢にもたれて彼は考に|耽《ふけ》っていたのである。何しろ、今日一日で十六 円も新東が下ったのだ。高之の財産はすでにあるか無しかであった。こんなことは兜町始まって 以来一度もたい事だったから、いくら仁礼が必ずやるとは睨んでいても、ここまで|物凄《ものすご》くやると は亠高之も考えてはいなかった。 「池島さんのお嬢さんが、いらっしゃいました」と女中は云った。  これは困ったときに来てくれたと彼は思いたがら、すぐ下へ降りて忍を迎えたが、元気のない 微笑をもらして、 「やア。先日は、いろいろ有難う。一人?」と訊ねた。 「ええ。一人よ。何んだか、たいへんらしいのね」 「どうも君は、いけないとき、来たもんですよ」と高之は云って忍を二階ヘ案内した。 「どうして?」忍は坐ろうともせず突っ立ったまま高之を見詰めていた。 「今日は兜町は地獄だ。僕のところは今日で、六分財産が飛んでしまった」黙って坐る忍を見た がら高之はふふと笑って顎を|撫《な》でた。 「本当なの?」 「うむ、君のお父さんにお借りしたのも、も少し残ってるきりだよ。明日はどうなるか、分らた いがね」 「でも、それみな泰子さんのお父さんが、たすったの」 日堆 籟言噎 「まア、そうと見ているんだが、もうこれで、こないだから仲買店七八軒潰れましたよ。その店 でやって潰れた客を数えれば、どれほど悲劇が起ってるか分らないね」 「ひどい方ね」と忍は|恐《こ》わそうに小声で云って初めて|座蒲団《ざぶとん》の上に坐った。 「しかし、あなたに預ったお金は成功ですよ。僕の家からだと危いから、人を廻してあれだけは 清子さんの家からやらしてみたのさ。仁礼さんのやる通りにやってみてくれと頼んどいたもんだ から、あたたの四万円ほどにたってますよ」 「そんなら、高之さん、どうしてその通りにしなかったの?」忍は不思議そうな顔だった。 「僕のは、その通りにしたって追っつかないんだ。前から東京の者のしていたように、買い足し てあったんでね」  尾上の方針によって年来からわずかな利益のために、客の数や、市場に於ける取引株数を殖や すばかりの算段で店をつづけて来た|祟《たた》りと、悪い客の悪成績を結局高之一人が引き受けて、それ を償う結果になって来たこの今日の状態は、いくら忍に説明しても分らないことだった。 「とにかく、今日はあなたの数十倍のお金を持ってかかったんだが、やはり駄目なんだ」と高之 は昼間の結果をまた思い出すのであった。 「それじゃ、あたしの皆あげるわ。それもやってちょうだい」  投げ出すように云う忍の好意に高之は物が云えなくなり、ただ頭を横に振った。 「ね、そうしてよ。あたし、ちっとも、かまわないんだから」 「有難う。あなたのお父さんにお借りしたのがまだ残っていますから、明日は必ずそれで防ぎま す」  高之は自分の事のように|凋《しお》れていく忍の眉の曇りをふと見ると、瞬問かき|抱《いだ》いて礼を述べたく なったが、底冷えしつつ墜落していく家産の速度は、今は身も心も重々しく沈めるばかりであっ た。  その日の兜町の騒ぎは夜から朝までつづいた。朝日がぽっと運河を染め、取引所の建物が朝霧 の中から現れて来ると、疲れた徹夜の群衆はまた生き生きとして来た。この朝は高之は忍と一緒 に取引所へ出かけてみた。昨日の騒ぎで定刻が近づくに従い群衆は戦々|就《きようきよ》々として|眼《う》の色が|斬《き》 りつけるように鋭く光っていた。取引所の中は早くから|立錐《りつすい》の余地なく詰っていたが、忍は観賛 席の一番前をとることが出来た。  一般の観衆は、今日は東京方の買手がどのような買い方で、大阪の仁礼に雪辱するかという興 味がいっばいであった。定刻になった。けれども、高台には取引所の役員が一向現れて来たかっ た。昨品の荒で痛手を受けた東京方の、追証の払えるのを待っているのに違いなかった。  忍は場内の中央にある各仲買店の|場電《ぱでん》のガラス箱を眺めていた。その中へは高之も行っている のだった。  高之は場電の傍に立って今か今かと始まるのを待っていたが、そのうちにふと場立の中からこ ちらを振り返った練太郎と視線があった。 「やア」というように練太郎は笑うと高之の方ヘ歩いて来た。 「どうです。えらいこと、やりますな」  こう何心なく云う練太郎に高之は黙っていた。恐らく練太郎とて仁礼がこれほど激しくやると は思わなかったにちがいない。 「君は、知らないんですか」と高之は訊ねた。 「何がです?」と練太郎はとぽけた顔で訊ねた。 「売り手は梶原ですよ」  火をつけたのはお前じゃないかと、高之はきッと練太郎を見詰めたが、練太郎はあくまで空と ぽけた顔をしてにこにこ笑っているきりだった。 ザ「しかし・僕もこんなになるとは思いませんでしたよ。こりゃち、ポ無茶ですね」と練太郎はさす がに眉を耀めて高之の顔を見た。 「いや、どうせやるなら、これ位が良いでしょう」 「はははは、まア、そう云わんでも宜ろしいでしょう。今日は良い相場になりますよ」 「仁礼さんは宿屋ですか」と高之は訊ねた。 「いや、宿屋には僕一人きりです。遊びに来て下さい。二一二日前に一寸帰ったんですが、どうも この月は、疲れましたよ」  そう云っているとき練太郎は観覧席にいる忍を見つけた。 「あッ、あれ、忍さんですか」 「そうです」 「いつ来たんです」 「昨夕です」  練太郎が忍の傍へ行こうとしたとき、俄に場内の群衆がはたと水を打ったように静かになっ た。高台に取引役員が現れたのだ。  いよいよ始り出すとなると、他の株など誰もやる者はなかった。高台の木入の|撃板《げきたく》が、下の各 仲買店から集って来ている場内の顔を一通り見降ろして、手を振り始めた。すると、森閑とした 場内は忽ちうわッと|喰《うな》りを上げた。見る見るうちに新東は昨日よりも一層激しい速度で下り出し たのである。株の下る度に、うわッ、うわッと上る群衆の声も、まただんだん小さくなっていっ た。  しかし、東京方の買い手が少し立ち疸ったと思うと、忽ちばたばたとまた下った。 「九冂、八円、七円、六円」  まるで底無しのように|崩《くず》れてゆく。場で手を振って売っている者まで、売り崩しながらも何を しているのか分らないらしかった。彼らもそれぞれ内緒でひそかに買ってあったので、もうこの ようになれば、誰も彼も他人の株のことなどどうでも良いのだった。  店からひっきり無しに来る電話のままに、手を振っているものの、今夜は夜逃げをしようか明 日にしようかと、びくびくしながら、「売ろう、売ろう」と呼び立てていた。 「五円、四円、三円、二円」  なお下りつづけていく場内は、再びしんと静まって|咳《せき》一つするものがなくなった。しかしこの 欝懺な光景はこのときはもう仁礼文七一人の力の勢ではなくなって来ていた。そら、仁礼がやっ ているぞと風聞が立つと同時に、大阪の北浜から|陸続《りくぞく》と兜町へ有象無象の連中が乗り込んで来た のである。彼らは誰も彼もが今だとばかりに、仁礼と一緒に売り出したのであった。あたかも油 をかけて火をポけたうえに、風を呼び起したごときもので、兜町は今や炎々と燃え|拡《ひろが》って来ため である。観覧席から何か|呻《うめ》くような一種底重い動揺が起ると、全場再びうわッと騒ぎ立った。数 知れぬ破滅の声だった。  こ丶し)耋幸よく)丶し旁ミ〜、、一)こ)レ薑口重ノこ・5まいりごらつこ。反引沂則も廿易つ  オ7オ0醤わにオ07才芽、カオく 芸ナ}ソ、5爽1},し2をズ;、、6 ナ 玉'、「丿化 .ー」.` 混乱を何とかして救おうとするらしかったが、もう下るばかりで今は始末のつけようがなくたっ た。すると、間もなく、取引所の委員たちの非常召集が行われた。  高之はもう疲労でがっかりとしていた。昨日で仁礼文七の力にびっくりしていたのに、今日の 市場を|眼《ま》のあたり見ては何とも云いようもなかった。|勿論《もちろん》、高之も万策尽きて全然破滅してしま った。父と子と二代つづいてまたしても文七にやられたのである。彼は奢貝が召集されている休 止の間、忍の傍へ行ってみた。 「どうしたの?」 |き《もら》  高之は忍に訊かれても休めの姿勢で両手を腰にあてたまま、ただうす笑いを洩しているきりだ った。血の|知《ナ》を失って騒然としている群衆を見ても、彼にはちらちらした壁のように見えるだけ だった。 「あ、そうだ、あなたのはね」  と、高之は一寸黙って考えてから、 「六万、六千、二百円ばかりになりましたよ」と云ってハンカチをポケットから抜き出し額を|拭《ふ》 いた。 「あなたのは?」と忍は訊ねた。 「僕は、ゼロ」 「何もなくなったの2」忍はびっくりしたらしく、しばらくしてから、「どうして、そんなになっ たんでしょう」と呟くように云った。 「しかし、僕はまだいい方ですよ。他の者はどれほど借金を残したか分らないが、僕は借金だけ はせずともすんだ。これもあなたのお蔭です」  もうびくつく要はなくなったと高之は思うと、ハンカチをばさりと振り落して、 「あなたのお父さんには拝借金は返せないけれども、あの抵当を皆流させて|貰《もら》うことにして後は また裸一貫でやります」と静かに云った。 「あたしの今日の、皆、使ってちょうだい」 「いや、有難う。しかし、それはまた別ですから」  うす笑いに似た微笑をもらしながら彼がこう云っているとき、取引所の理事長が高台へ現れた。 「本日の立会は、一時中止します」と理事長は宣言した。 数千人の群衆は取引所の中から|溢《あふ》れ出て来た。それはほとんど破産した人の群ばかりだった。 物を云うものがなかった。みな眼を落ち|窪《くぼ》ませ、マッチを|擦《す》ったようなきな臭い匂をさせつつ、 土色の顔を|俯向《うつむ》けてぞろぞろ出て来た。それらの群衆は建物の外へ出ても、どこへも帰ろうとせ ず、道路の上に立ったままただうろうろしているだけだ。それは何となく|風《しらみ》の大群のような感じ だった。運河の橋の下を通る荷舟の船頭は|艫《ろ》を|漕《こ》ぎながら、|悄然《しようぜん》としている群衆の方を仰いで、 「ざま見ろ」と云わぬばかりにペッと|唾《つぱ》を吐きかけた。 「今日は九軒ばかり、仲買店が|潰《つぶ》れた」というものがあった。「立会停止をした理事長も、今日は 百万円の損だ」という者もあった。  しかし、この騒ぎはただ兜町だけではなかった。日本橋から京橋、丸之内にかけた商業中心地 帯いったいは、どこもかしこも市場の混乱の話で持ち切りであった。その日の後場はどうなるか 誰も注視していたが、痛手が深すぎてとうとう後場は立たなかった。  このような騒動を引き起した仁礼文七は、このときどこにいたかというと、梶原の家の奥深く に、二三日前から立て籠ったまま一歩も外へ出なかった。しかし、文七は梶原の奥座敷にこの混 乱の最中にいても、株のことについては誰にも一口も云ったり訊ねたりしなかった。いつも好き な碁を打ったり、床の間の|呉須《ごす》の皿をかかえては、|緑青《ろくしよう》色の細かい草木の模様を眺めたり、春風 |駘蕩《たいとう》としていて起居動作が日常と少しも変っていなかった。たまたま梶原が|赧《あか》くなって吉報をも たらして、「お目出度うございます」などというと、照れ臭そうににこにこ笑って黙っているきり だった。  梶原定之助はこの仁礼文七の態度を見ると、全く取り扱いに困りぬいた。彼は長い生涯に文七 レモ ほど度胸の|据《すわ》った人物には接したことがなかったのである。梶原はこの文七のためここしばらく の間に、百五十万円は儲けたであろう。しかし、彼は初めから文七に計画を打ちあけられたので はなかったから、だんだん物凄く売り立てる文七にびっくりしてしまい、中途でこれは兜町を潰 す|肚《はら》だと分ったとぎには、自分の儲けにも|拘《かかわ》らず腹立たしくなったほどだった。けれども、今さ ら店を変えてくれとも云い出せず、そのまま定之助は売り継いだが、一時はどこまでやるのかと、 そっと、文七の顔をこわごわ眺めたほどだった。勿論、この間清子は絶えず文七の身の廻りの阯 話をしつづけたことは、云うまでもない。文七はときどき清子が傍に来ると、にこにこしながら、 「その肴物は良うお似合いになりますな」と一寸お愛想を云ったり、「このごろは、何をお習いに なってますか」と優しく訊ねたりした。  清子は父から仁礼文七の底知れぬ胆力と財力と智謀とを聴かされてからは、何と女く彼に近よ り難く感じて来た。しかし、ときどき文七からお愛想を云われると、男というものは女性にだけ は誰でも同じものなのかも知れないと思った。ある時仁礼に、 「美術品は、随分お好きでいらっしゃいますのね」と訊ねてみた。 「好きですね。若いときに、どうかして盲円の軸を賞いたいと思いまして、初めて思いがかのう たときは、嬉しかったですよ」と文七は笑って答えた。 「うちのお父さんなんか、ただ人の真似をして買ってるだけですの。買うときでも砥は手が合わ ぬからいやだの、|蕪村《ぶそん》は歩損になるからいけないのって、そりゃ、おかしいんですのよ。仁礼さ んたんか、そんなこと、気になさらないでしょう?」 「人のいやがるものは、わたしも買いませんが、蕪村はだるまを一つ持ってます。だるまは足を 出さんと云うんですがね」と文七は云ったので清子も思わず笑った。  この二人の話している間にも、店の方ヘは、ひっきりなく電話がかかっていて、店員は問叭を廻 してばたばたしていた。しかし、文七は必膀を確信しているのか株のことは一、言も云わなかっ た。だいたい、大阪人の中には一にも金二にも金と、何か口にすると金のこと以外に念呶にない かの如く見えるものが多い。けれども、これは大阪人にとっては一種の見栄なのである。私は金 など儲けるのは好かぬと見栄を切るよりも、わしは金が第一だと正面切って出ている方が、|却《かえつ》て 偽悪的な美しさとなって始末がし良い。それであるから白然に守銭奴らしい精神を公然と表肴板 にして押し出す方が、もうそれ以上の汚ない性根を見せる用もなく便利で早道である。つまり、 人に瓜佚ても|周章《あわて》て隠すものが何もないから、行動がてきばきと簡単にすむ。この簡単に生泝を 押し渡って行く秘術を伝統として、大阪人はどこの国のものより心得ているのであった。殊に仁 礼文七の如きは物質の極これ精神と化しているところがあったから、負けても膀っても狼狽しな い。淌子が仁礼に心を打たれた第一のところは、膀って少しの喜びも見せぬ文七の態度だった。 このような男の態度にあうと、生活法として伝統の浅い関束の智的な女性は、年齢の相違がなく なり、ただわけもなく頭の諧らなくたる純粋なところがあるものだ。こんな風に清子の頭に妙に 文七のことがのぽって来る日のことだった。  丁度、重仆家と尾上の没落した日の午後の四時ごろ、突然春子が髪を乱して清子の所へやって 来た。消子は春子だと閃くとさて困ったと思ったが、部屋ヘ通さぬわけにもいかなかった。  春子は異様に凄く光った眼つきで黙ってすっと這入って来ると、いきなり、 「腹が立つ!」  と一言叫んだ。それと同時に清子の胸へしがみ附き発作のようにぶるぶる|暫《しばら》く身を傑わせてい てから、ばったり停ると、突然春子は清子をその場へ突き飛ばした。 「あッ」  と云って骨の上へぶっ倒れた清子の上へまた春子は武者振りついた。見る見る清子の髪はひっ 掻かれた。清子は黙って俯伏せになったまま倒れていたが、犬のように春子は清子の|襟《えり》もとに|噛《か》 みつくと真青な顔をして黙って首を振った。  清子はいずれ春子からこんなことを一度はされるであろうと思っていた。けれども、こんなに 激しく怒るものとは思わなかったから、手のほどこし様もなく春子のするままにさせていると、 ぽきりと折れたように急に春子は螢の上へ泣き伏してしまった。  清子は近くの部屋に文七がいるから、今相手になっては混乱させるばかりだと思ってそっと立 った。すると、また春子も立ち上った。 「一寸、ここに待っていてよ。今、お茶持って来るから」  こう云って清子は部屋の外へ出ようとした。しかし、春子は物も云わずにまた清子の襟を掴ん で慄え出した。何か言葉を云おうとするのだがなかなか口がきけないらしく、ひき吊った眼で清 子の胸のあたりを見詰めたまま、ぎりぎり歯を鳴らして清子の襟を引きち切った。  そうなると、もう清子も言葉が云えなくなった。壁へ捻じつけられつつじっと小さくなってい たが、突然春子は、「|家《うち》がつぶれたわ」というと、消えてなくたってしまうような悲痛な声で、「ひ いッ」と一声長く泣いて、またその場へ泣き崩れた。清子はぽんやり立ったまま見降していた が、それでは春子の家も高之の家も潰れたのだと初めて知ると、一瞬胸に大穴の開いたような寒 さを感じ、ひきち切れた襟もそのままかいこんで着物を正した。 「じゃ、あたし、これから重住さんのところへ行くわ」  清子はそう云ってから春子をその場へ残し、羽織だけを着替えてすぐ外へ出ていった。  高之の家は近かったが、清子は自動車を拾うと小網町まで駈けつけて高之の家の前で車を降り た。  しかし、さて中へ這入ろうとしたとき、練太郎を自分の家へ結びつけた結果のこの大騒動を考 えて、足はたじたじと立ち|疎《すく》んで動かなかった。  高之は夕食も食べずにふらりと外へ出ると、とぽとぽ目あてもたく通を歩いた。とにかく金が 何もなくたったのだ。一物も持たず両手のぶらりと下っている手持|無汰汰《ぶさた》も、今宵生れて初めて 感じる薄寒さであった。まことに持たぬ悲しさ|淋《さぴ》しさというものはこのようなものかとふと思う と、街に並んだ建物さえ俄に寄せつけぬ|厳《きび》しい山岳のように見えて来るのであった。昨日まで は、金はいつでも銀行から出て来る品物のように見えていたのに、|俄然《がぜん》としてそれは生活を支え る|芯《しん》のように見える。しかし、おれの精神はどうしたのだろう。物がなくなったからこのおれま でたくなったのであろうか。それなら、いつもおれの精神とは物そのものであったのか。ーーけ れども、彼は店の店員四+五人のことを考えた。この者たちの給料と一時の生活費をどうしたも のかとさらに高之は考えつづけて歩いた。  仁礼の奴、この苫しみを知らんのか。知ってのことか。何かぎりぎりと胸に詰る重苦しい悲壮 な|怨《うら》みが、足もとから|生《は》え上って来るように抑しつけて来ると、それをも知らぬ泰子だと思って も、仁礼の娘だと思うことで自然と泰子まで不快た塊に見えて来るのだった。しかも、まだ泰子 の愛情を彼は擁うわけにはいかぬのだ。  店品只たちの生沽の失われていく悲慘さを踏みにじりつつも、泰子の心を掴んでいると思う一点 の救いにすがろうとする白分の心のしまりなさー高之は恥じよ恥じよと心に|鞭《むち》打ちつつも明日 からどうして生活をするのかそれもまだ知らぬ自分を思うと、、再び足もとぽとぼとた叭るのだっ た。徠一貰でやりますと忍に云った決意も、さてどうしてやれば良いのであろうか。  いつの問にか、高之は清子の店の近くを歩いていた。ここに文七がいるということを聞いてい た高之は、白分の姿を見られぬように気をつけて長らく梶原の店の灯を見詰めていた。店は自分 の店とは違って今はあかあかと輝きわたっているように思われる。それもすべては文七がいるか らだ。広大な光原体をもって何物も焼き滅ぼさねば置かぬ彼の力と戦うことは高之にはそれは所 詮不可能なことであった。  しかし、それがどうしたというのだ、とまた彼は思った。彼には同じ人力でありながら不可能 という刻印を|捺《お》されることは、身の慊えて来ることほどいやなのだ。しかもまだ不可能なその自 分の力に蚰力を与えるために、六万六千円金を貸そうと云ってくれる忍がいるのだった。今、ど こに赤の他人に六万円の金を貨そうと云ってくれるものがあるだろう。  高之は自分をいま一度救い上げてくれるものは、この広い世界に忍の他にはないと思った。ま だ一脈の火がさきから心中にきらきら光っているように思われていたのも、それもつまりは忍の 心の光のためではないか。しかし、不思議と云えば不思議である。泰子の家からは三度も危害を |蒙《こうむ》ったのに、忍の家からは三度も救われたのである。それにも拘らず、まだ自分は忍より泰子に 心が動こうとするのであろうか。すると、そのとき、梶原の店から文七と打合をすませたらしい 練太郎が出て来た。高之はまたしても忘れていた闘志がむっと込み上って来た。なぜだか高之は 練太郎を見るといつも心は現実的にたり闘争心がもり上って来るのである。彼は足ばやに歩く練 太郎の後をどこまでも追っていった。  歩くにしたがい|兜町《かぶとちよう》は高之と等しく敗北した青ざめ切った群衆でいっぱいであった。練太郎は 人|溜《だま》りの間を縫いながら、取引所の横の狄い小路へ曲った。高之もその通に曲っていくと、練太 郎は天菊と|暖簾《のれん》のかかっている|天薮糶《てんぷら》屋に|這入《はい》っていった。 「そうだ、まだ俺も夕飯食べてないのだ」と高之は気がついた。  天菊の主人は大阪人であるが元来が東京|熾屓《ぴいぎ》であるためか、来る客は東京人が多かった。しか し、大阪人も兜町で相場をやるときは、本物の菊正が飲めるのでこの店へ来る癖がある。練太郎 のヨ。旭入ったときは、店の中は東京人と大阪人とが半々ほどで|賑《にぎ》わっていたが、どこの店でも同じ ように、どの客もその日の激しい新東の下落の話で持切であった。酒が廻るに従って大阪人と東 京人との云い争いも、ここではどこの店よりも熱していた。  練太郎に少し遅れて高之の這入ったときは、丁度、東京の客が仁礼文七のやり方を罵りつづけ ているときだった。  いくら仁礼が金儲をしたいからと云って、二百円の株を二日で百六十円に落すという残忍なこ とが、よくやれたものだと云うのだった。 「兜町始って、こんなことが、あったかと云うのだ」|癇高《かんだか》い声でこう云う東京の客に対して大阪 の客は、にやにやして聞いていた。 「ね、そうじゃないか。僕は今日は、やられたから云うんじゃないが、東京は震災を食ってるん だ。大阪とは違うんだ。そこを考えてやってくれ」  しかし、このとき練太郎はよほど空腹だったと見えて、高之の這入って来たことを知らなかっ た。 「お|銚子《ちようし》」高之は練太郎から一つヘだてて椅子にかけ主人に云うと、そのとき初めて練太郎は高 之に気がついた。 「やア、あなたでしたか。また逢いましたな」 「今晩は」と高之は云った。                                   し誦ぺ・  彼の横の東京の客は相当に廻っていると見えて、傍の者など気にかけずにまた饒舌りつづけた, 「東京の仲買店はね、震災でどこもやられてるんだよ。お客に返さにゃならぬ金がある。そこへ 取引所へも借金返さにゃならぬ。そのまた月々の利息だけ払うのだって、たいした苦労だろ。元 金どころか、利息だけこさえるのにうろうろしてるところへもって来て、この騒ぎだ。たまった もんじゃないよ」  高之は傍でがんがん饒舌る客の言葉に頭が痛んで来た。彼は練太郎と競争のように出た銚子を 傾けていくのだが、揚げる天ぷらの油の匂いに疲労した神経が逆立ち上るのと一緒に、練太郎に 対する怒りが鷹えても圧えてもむくむく胸を解いて来た。しかし、練太郎はどういうものかいつ もと違いひどく今夜は考え込んで黙っていた。  それは一見憂轡に見えるほど、|揚《あが》って来る|海老《えび》や|烏賊《いか》もただ無意識に口へ入れているだけにす ぎぬような風であった。すると、そのうちに間に挾まった客が帰っていって、高之と隣合になっ たとき、 「どうです。召し上りませんか」と練太郎は云って高之に銚子を上げた。  高之は練太郎の酒を受けたがらも、手がびりびり慄え酒が指を伝って流れこぼれた。 「どうも、私は今夜は考えさせられましたが、近年今夜ほど困ったこと僕ありませんよ。重住さ ん、あなた僕に怒ってなさるやろけれど、これ、ほんとに僕のせいやありませんよ。僕かて学校 で経済学習うたものですからな」  高之は黙って一寸|頷《うなず》きながら銚子を練太郎にさし返した。 「重住さん、あなたどう思いなさるですか知りませんが、今度のこの事件は、こりゃ、容易なら ぬことでっせ。僕はこれには少々あきれて物が云えんのですが、一寸これ無茶や思うてますの や。どうですか」 「僕の家は、やられてしまいましたよ」と高之はしばらくして云った。練太郎は眼を張って黙っ て高之の顔を見ていてから、 「やられた」と訊き返した。  高之は答えずに酒杯の中をじっと見ていてから、「海老」と、揚げ場に註文した。 「それじゃ、叨日はもう出来んのですか」 「駄目です」  練太郎はぽんやりした顔でしばらく|泡《あわ》立つ天欸縱を眺めていたが、急にあたりを見廻して周童 て出すと、 「軍住さん、一寸話がありますで、外へ出てくれませんか。失礼ですが」と高之の腕を引いた。 「も、う良いですよ。ここにいましょう」 「いやいや」練太郎は二人分の舳定に十円札を一枚羅き、高之の肩を掴んで無理に立たすと、 「さア、刪ましょうーと云って出ていった。  二人は人込みの中を通へ出て、橋の上の人の見えないところヘ来たとき、 「屯、住さん、僕とあなたは、不思議な縁で、|喧嘩《けんか》ばかりするような羽月になりましたが、これは もう気にかけずに、今日の酒で納めてしもて、どうですか、僕の云うことも聞いて下さって、も う一度おやりになりませんか。失礼ですが、資金は僕が今夜中に、必ず何とかして来ますさか い、もう一ぺん、どうです」と練太郎は|窺《のぞ》き込むように力を込めて云った。  高之は俯向いたまま黙っていた。 「ね、そりゃ重住さんは、僕からこんなことを云われなすっては、腹も立ちましょうが、何も僕は あ女たをそうまでするつもりは、ちっともなかったんですさかい、怒らないでやって下さいよ」 「   」高之はなおも黙って歩いていった。 「僕はうちの大将のやり方には、全くあきれてしもて、物もいえん有様ですが、これ、しかし、 何というても、|理窟《りくつ》はありますから、やめよと云うわけにもいきませんし、こうなれば|騎虎《ぎこ》の勢 いで、|従《つ》いて行くより仕様がない。一つ起き直って下さいよ」 「ル、れは非常に有難いですが、あなたと僕とは、やはり立場が立場ですよ。あたたにそんなこと していただいても、僕は感謝する気になれたいんですから」 「そんなもの、せんでも良いでっしゃろ。何も僕は僕の金を投げ出すのやあらへん。僕は金なら 今のところ、一本位ならどうでも出来ますで、これほど都合の良いこと、あらしまへんが」 「いや、やはり、あなたのお心だけ、お受けしときましょう」 「そんた無茶な話ありますか」  高之は突然笑い出した。 「全く、僕も無茶だと思いますが、とにかく、今は何んだかよく分らないんですよ。じゃ今夜は これで失礼しますよ」  高之が歩きかけると練太郎はまた高之の手を持った。 二寸、重住さん、今やたいと問にあいませんぜ」 「承知してます。有難う」  高之は橋を渡っていった。練太郎は遠ざかって行く高之を見ていたが、また走っていって高之 に追いついた。 「重住さん、しつこいようですが、僕はね、泰子さんをあなたから|貰《もら》いとうて、こんなことを云 うのやあらしませんから、そう思うて下さいよ。あなたはまだ僕を誤解してなさるんですよ」 「それは、十分よく僕には分っています。ですが、何というか、今あなたから御助力を得るとい うことは、どうも僕としては、出来憎いのです」と高之ははっきりと断った。 「そんなら、あなたは資金の出るとこ、失礼ですが、お考えあるんですか」 「いや、ありません」 「そんなら、そんな強情|仰言《おつしや》らずに、僕の云うままになされば|宜《よ》ろしやないか」  高之は物も云わず、いきなり練太郎の顔をひっ|叩《ばた》いた。瞬間、練太郎は青くなった。 「なぜ|殴《なぐ》るのや」 「馬鹿にするな」と高之は云った。 「いつ馬鹿にした」 「金、金って、何んだ。僕は金なんかくれと云ったか」 「そんな手ありますか、金で困っていなさるときに、金の話するのは当り前やが、何が悪い」 「いらんと云えばいらんのだよ。金で君にやられたんじゃないか」 「やられたとかやったとか、そんた|暢気《のんき》なことなら僕は云わんよ。兜町がひっくり返ってるの に、あんたとこがひっくり返らん|筈《はず》があるか。うちの大将は日ごろからあんたの家に、何という て忠告したか知ってなさるのか。悪い客を整理して良い客の手数料だけで、店を固めるようにせ いって、どんなに注意したか知れしませんぜ。それにあんたも尾上さんも、手張をやって|買《こ》うて なさったのや。そんなら潰れるの当り前や。仁礼さんが潰さなんだら、誰かに潰されてるが」  亠高之は黙っていた。 「偉そうたこと云わんと、僕に金借れば宜ろしやろ。僕かてインテリや。あんたの死にかかって るの見てられますか。うちの大将|臟《だま》したかて、僕、かめへん。あんた良うなってくれる方が、僕 には面白いんだ」 「いや、それで分りました。どうも有難う」と突然、高之はお辞儀をした。 「株の金やで、一本や二本借りたて貸したて、同じですが、気の弱いこと云わんと、もう一ぺん やりなさいよ。いずれそんな金なんか、金やない。僕に借りたと思わんといて下さいよ」 「しかし、お金だけはもう結構ですから、このままにしといてくれ給え。じゃ、いろいろとどう も」  高之は一人帰っていった。練太郎はぼんやり立っていたが、しつこくまた高之に追いついた。 「重住さん。明日もうちの大将まだ売りますさかい、あなたもついて売りなさい。宜ろしか。僕 に金借りるのいやなら、誰かに借りて売りなさいよ。宜ろしか」  高之はただ|頷《うなず》いたがもう興味のなさそうた顔だった。 「あなたという人も、分らん人やな。これほど云うてるのに何んですのや」  高之は黙って微笑を含みながら立ち停っていた。けれども、このとき今まで分ったつもりの練 太郎の気持が、また急に分らなくなって来た。練太郎とて云い出したからは後へは引けぬ性質か も知れぬ。しかし、ーーそうだ。また俺は負けたのだ。負けたら負けたで負けたものの誇りもあ るのだ。  高之は不愉快そうに、「さようなら」と云うと歩いていった。 螂我  昨夜以来何をしたのか分らず高之はうつうつとしたまま眼を|醒《さま》すと、その朝早く店へ出た。地 方からの|註文《ちゆうもん》や応答に、店の小僧も番頭も常より忙しく立ち働いているものの、すでに朮、住家の 財産が無一物になって破炸している状態には、誰もうすうす気附いているらしい。何となく気力 がなく、中には二三人の欠拗者さえあった。|殊《こと》に咋夜の兜町に二人も白殺した噂が伝わっている ときであった。高之はこの日も取引所へ|場立《ばたち》の者を出さねばならなかった。追証も払う力もない のに場立を出しても仕方がなかったが、取引听の受渡しの日までは、店貝への見栄もあった。  すると、朝早く、練太郎が自動車で|馳《か》けつけて来た。 「やア、昨夜は失礼しました」練太郎は朝の寒気に顔を赧らめて高之に云った。「|一寸《もよつと》、お話があ るんですが、かまいませんか」 「どうぞ」  高之は人のいない応接室に練太郎を案内した。 「早くからどうも、ーあのう、尾上さんはまだでしょ久ノな」 品我 「まだです」と高之は答えた。 「咋夜、あれからうちの大将に会いまして、お店のことを話してみたんですよ。そしたところが、 尾上さんのいる以上、亟住さんの店は駄口だと、こう云うんですよ。僕としましては金を動かす からは大将のものを動かすのですから、気のきかん打ちあけ話ですけれども、どうでしょう。こ こへ持って来ましたのですが、尾上さんとは別に、もう一度これで、あなたおやりになるおつも り、ありませんでっしゃろか」  高之の|頬《ほお》はさっと高潮した。飛びつく思いで手の延びかかるのを、ようやく高之は振り切った。 「それは昨夜も云いましたように、御親切は童々有難いと思いますが、母親だけ生活出来るもの には、幸いまだ手をつけてありませんから、僕一人の方はもうこのままにしといて下さい」 「お宅のお店を失礼して、梶原さんにお願いしましたのは尾上さんを懸念しましたからで、あの 際は僕の方は仕箏の関係上、それをお話するわけにはいきませんでしたから、ついこんな不始末 になりましたけれども、どうぞ、お腹立ちにならずに、やって下さいよ」  のめるようにじっと見詰める練太郎から、高之は視線を反らした。この調子で苦しめる方も、 うまうま練太郎は苦しめたのだと思うと、迷いは|濠《もうもう》々と舞い上り、胸苦しさに部屋一面ぽうと|霞《かす》 み渡って来るのだった。高之は黙って立ち上ると外へ出た。 「重住さん」  練太郎は店へ出ようとする高之の腕を掴んで小切手を|掴《にぎ》らせた。 「失礼ですが、これ、どうぞ、もう時問もあらしませんから、お受けとり下さい」 言義 「駄目だッ」  と、高之は叫んだ。練太郎は高之の投げつけた小切手を拾うと、ぽんやりして立っていた。そ  すぎ                          ち鯵 の隙に高之はもう店へ出て自宅の方へ消えていった。咄嗟に練太郎は店の小僧の一人を見つけて 呼んだ。そうして、高之の家に大阪から来ている池島忍がいるから、是非逢いたいと伝えてくれ と頼んだ。しばらくして、忍が応接室へ現れた。 「池島さん、えらい目にあいましたよ。あなたに頼みがあるんですが」 「たに〜」忍は練太郎と向って椅子に腰を降ろした。 「忍さん知りなさらんかもしれんが、重住さんの店危いいうこと聞いたで、僕、今、小切手をも って馳けつけて来たのに、受け取ってくれなさらんし、僕弱ってね、そうか云うて、ぐずぐずし てる間に、もう朝の寄りつき始まりますやろ。ほったらかしとくわけにいきませんが」  すると、忍は突然くっくっ笑って、 「泰子さんにあなた、お眼玉もらうわよ。面白いわね」  と云って練太郎の肩を突つき廻した。 「何おかしいんです。それどころや、あらしまへんが」 「駄目よ。高之さん、そんなもの受けとりますか。|阿呆《あほ》やな、あんたはんも」 「僕もね、そりゃ、良いことしたと思わんが、仕様がない。それにこんなになるとは、夢にも思 わなんだもんやで、やきもきしてますのやが、重住さん、とってくれはらせんのや。こうなりゃ、 こっちも|自棄《やけ》やで、受けとるとこまで行こか思うてますのや、どうです。忍さんから何とか云う 諧義 て、も一ぺんやってもろて、くれませんか」 「そんならその小切手あたしに貸してちょうだい。明日電話でお父さんに云って、きっとお返し するから、あたしが、それでするのよ」  練太郎は初めは忍の云う事が分らないらしく黙って彼女の顔を眺めていた。 「あたしね、この間お|小遣《こづかい》だけ高之さんにやって貰ろたの。高之さんのお店からやと損するか ら、内証で清子さんのお店でしといてあげよと云われたのが、昨日でもう七万円にもなってるの よ。それで、あたたのそのお金あたしに今日貸していただいて、昨日のうえへあなたに、今日の その分、売り足してもろたら、もっと沢山になるでしょう」 「そりゃたる」と練太郎は勢いづいて云った。 「それで高之さんには黙って、あたしの分として増しといてちょうだいよ。そしたら後であたし から、どうでもしますから」 「たるほどね。すぐ三倍にはなりますよ」 「じゃ、五万円だけ貸してちょうだい。きっとお払いするわ。さア、指きりしましょ」 「承知しました。じゃ、僕に任しといてくれますか。うまい具合にしときますよ」  練太郎は小指を出して忍の小指にひっかけると、忍も指をきりつつ、 「あなたも、|嘘《うそ》云っちゃ駄目よ。あなたも紳士でしょう。きっとよ」と念を押した。 「引き受けました。五万円ですね、たしかに」  忍との話が|定《き》まると、練太郎はすぐ高之の店から出ていった。  九時前になると忍は忍で高之を誘って取引所へ出かけていった。しかし、高之には練太郎との 約束のことなど少しも彼女は話さたかった。市場は定刻になっても昨日のようになかなか開かな かった。忍は観覧席の前に頭張って場内の様子を眺めていた。  昨日、一昨日とつづいた無茶苦茶な下りの今日である。来ているものは、まだいくらか呼吸の つづいているものたちばかりであろう。皆誰も、咋日の立会中止で新東の下りも底値と思ってい るらしく、どんな東京の買い手が新しく現れるものかと、ひそかに待ち構えている様子であっ た。たしかに、昨日の最後9底値で買っておけば、必ず一株につき十円二十円の利益はある。そ れに底値であるからは、復活の上りも早いのだ。すると、場内はどうしたものか、急にざわざわ と一角から騒ぎ始めた。 「開けろ、開けろ」  と、叫ぶ者があった。少かった群衆も、刻々増加して来た。しかし、市場は立会時間が過ぎて も一向に始まりそうにもなかった。不穏な空気が群衆の顔に現れて、原因不明のさざめきがだん だん高くなっていった。どこそこの店の証拠金が這入らぬからだというものがあった。証拠金が 這入らないと取引所の負担になるから、取引所は怪我人の出ぬように間を持たしているのであろ う。  忍は観覧席から高之と練太郎の姿をときどき探してみた。傷つき疲れた群衆の顔の中にはもう 市場がどんなになろうとかまうものかと云った風な、|弛《ゆる》んだ横暴な表情が流れていた。高之は場 立の傍に梶原の店の番頭を見つけたので、忍の株の様子を訊ねてみた。 |貰《ゴを》醇 「あ、それから、うっかりしてましたが、今朝ね、池島さんのを、もう五万円してくれと他から 云って来ましたが、足しといても良うござんすか」と番頭は訊ね返した。 「そうでしたか」  高之はそれでは練太郎の今朝のを借りたのだと思ったが、今はそれを圧える事は出来なかっ た。やがて立会が始った。高台にずらりと役員が現れると、下の場立の顔を見廻した。|撃秣《げきたく》の手 が百五十九円から振り始まった。 「買おう、買おう」という声が下から続出した。すると、「売ろう、売ろう」とつづいて呼ぶ。  九円が十円に上った。観覧席からどっと|歓《よろこ》びの声が上った。十円が十一円、二円、とだんだん 上っていった。うわッと場内が動揺して、手を上げ、横に揺れると、傍の見知らぬ者に抱きつい て喜ぶ者さえあった。  二円、三円と、買い手の優勢になるのを、売り手の方は追っ駈け追っ駈け、三円、二円、一円 とまた落した。  忍は高台の呼び声と、札とをじっと見ているうちに、周囲の襯覧席がしんと静まって動く者が なくなって来た。すると、俄然、暴風のような勢いで売り手が続出し始めた。見る間に九円、八 円、七円、六円と落ちていった。しかも、それがようやく七円に上ると、再びどっと崩れ落ちる のである。  五円、四円、三円、二円。  つづいて上ろうとするのを、また引き|摺《ず》り落して停めどもない。整然たる法規と誤魔化しのき かぬ数字の世界の取引所でも、この|未曾有《みぞう》の混乱に逢えば、所詮人間が丸出しになって来て、う わッと騒ぐ群衆の間からは、どす黒い粘液が滲み流れているように見えた。狂人のようになって いる場立の者は、手を振り、足をあげ、横ざまになって、 「売ろう、売ろう」  と叫んだ。それもまだ続いてどんどん下っていくと、もう青ざめ切った顔も熱を含んで|真《ま》っ|赧《か》 になり、|終《しま》いには売ろう、売ろうではなく、 「成行、売ろう」  とまで叫ぶようになった。このような売り声の出たのは、兜町開始以来未だ一度もないことだ った。も早や|総《すべ》てが全く無茶苦茶であった。取引所からは理事長が出て来ると、勿論、立会中止 の宣言をした。市場の荒れは咋日一昨日の比ではなかった。  練太郎はどこにいたのか忍のところへ駈けて来ると、 「あなたの、三十万円にたりましたよ」と興奮して云った。  忍の初めの儲け高六万円と、後で借りた五万円と合計十一万円の資金が、またたく間に三十万 円になったと聞かされても、忍はそれに伴う実感が少しも起らないらしかった。  忍と練太郎の立っている間にも、絶望した群衆が黙々として、二人の方ヘ押し流れて来た。み たそれぞれ妻や子に別れ、家屋敷を質におき、最後の一|鄰《てぎ》を|賭《と》して出て来ている者ばかりであ る。これに地方客も数えれば、全国でどれほど多数の破滅者を出したか計り難い。このとき狂奔 し尽した人々の凋れ果てた団流を、黙々と見降ろしている取引所の|天蓋《てんがいヰ》や石の円柱が、ただ単な る石やガラスであったのが物淋しい。 「三十万円になったの?」と忍は練太郎にまた訊ねた。 「そうです、これはたしかですよ。さア、出ましょう」 「一寸待ってて、高之さんがいらっしゃるのよ」  人が次第に少くなってから高之は忍の傍へ歩いて来た。 「重住さん、あたた今朝どうしてあんな、短気起しなさったんです。あれでやっときなされば、 だいぶとれましたよ」  こう云う練太郎に高之は黙って答えなかった。三人は外へ出た。 「しかし、これまア、うちの大将、見事にやりましたが、後、どうなることやら、えらい事にた ってしもた。兜町、これで永久に駄日ですぜ。息の根すっかりとめられてしもた」      ひと諷と  練太郎も他人事ながらさすがに力がなく、振り返って取引所を仰いだほどだった。 「どうして、駄目なの2」  と忍は訊ねた。しかし、練太郎も高之も今は何とも答えなかった。練太郎が忍たちと別れて清 子の店へ行こうとしたとき、忍は彼を呼びとめた。 「あのね、今日出て来るとき、お父さんに電話しといたの。明日必ずお金お払いするから、あな たの方お頼みしてよ」 「たしかに」  練太郎は頷いて二人と別れていった。忍と高之は橋を渡って家の方ヘ歩いたが、高之は今日の 仁礼文七の売り方には、怨みよりも何よりも、物凄さのあまりに、全く一種の感動さえしてしま った。  震災で兜町は一時痛烈な打撃を蒙ったのは事実である。しかし、あれは天災である。今日のは 仁礼文七一個人の力で、震災以上の打撃を与えたのである。それも昨日一昨日で崩した倍の下落 を、今日一口で成したのだった。二百円の新東を百三十円にまで下げてしまったという一大事 は、前にもなければ恐らく今後とてもないであろう。言語に絶したということはこの事であろう と高之は思った。  こんなにたれば、高之も練太郎に腔立てた自分に後悔をするのだった。全くそれは、馬鹿馬鹿 しい児戯に等しいことであった。  高之は何となく、今は心が|爽《さわや》かに晴れ渡るのを感じた。泰子のこともふと頭の中に浮んだが、 今は婦人のことや金銭のことなどは、彼にとってはどうでも良かった。極度のニヒリズムの底か ら真実天に向う一本の心の芽が、このとき初めて彼の中に出て来たのである。 「遊びに行こう。家へ帰っても、つまらないよ」と高之は忍に云った。 「どうしたの?」忍は高之の快活な顔を|訪《いぶか》しそうに見上げた。 「今日は良いことをした。家は潰れたが、まア、そんたことはどうだっていい」  高之は馳けて来た自動車に手を上げた。忍はこの突然に逆転して来た高之の気持は勿論分らな かったが、嬉しそうに、 「心配たさらなくたっていいわ。今日は遊びましょうよ」と云って車に乗った。  翠日の兜町は売り手ばかりで買い手が出て来なかった。人もほとんど市場には見えず、門衛さ えいなかった。従って市場はこの日は初めから休みとたった。  いったい、|場立《ばたち》の売り手がどこまででも売ろうと、無茶を云うようになったのであるから株の 値段の定めようがない。取引所では困りぬいた揚句に新東の標準値段を|拵《こし》らえ、それに従って各 仲刪貝店が、この値段でとけ合って貰いたいと客に頼み込むという始末であった。こんなことは前 例にたい事である。一つ前例にないことが起ると、後は幾つでも起って来る。しかし、この取引 所株の們下りは単なる一時的の們下りではたく、練太郎ならずとも、誰にも|恢復《かいふく》の見込みはある まいと思わせたことだけは確であった。  その次の日も市場は休みであった。三日目からようやく兜町は開いたが、|僅《わずか》に四十銭の間を下 ったり上ったりしているきりで、買う者も売るものも、ほとんど無い微々たる有様に変ってしま った。この問に仁礼文七はいつの間にかさっと大阪へ引き上げていた。  受け渡しの日には、兜町の仲資店は二十四軒も将棋倒しに潰れていた。練太郎は仁礼に変っ て、一千万円余りの大きな一枚の小切手を受けとった。とにかく、兜町の打撃は予想以上であっ たから、ただ単に仲買店が潰れたということだけでは、話はすまなかった。どうしても整理会社 か組合を造って、日銭を納め、後始末を数年がかりでせねばたらぬという、監督官庁や一般の意 見が起って来た。  この日重住家では、高之は店の店員たちを呼び集めて、明日から休業することを云い渡した。 彼は店員たちにそれぞれ月給の十カ月分だけを分配し、店がどうなろうとも彼らのその後の生活 費を、ニカ年間支払う証文を渡して店を閉じることにした。それは出来ることかどうかは別とし て、それだけはいかなることがあろうともしなければならぬと高之は決心した。勿論、尾上には 彼の責任もあったから、彼にだけはこの際遠慮をして貰うことにした。  その夜、店員たちはそれぞれ店の残務整理にとりかかっているとき、高之のところへ練太郎が |訪《たず》ねて来た。高之はすぐ応接室へ練太郎を通して云った。 「先日は失礼しました。今夜は取り込んでいるものですから、御辛抱して下さい」  |髭《ひげ》が延びているものの案外元気な高之に引きかえて、練太郎は気の毒そうに首を縮めてあたり を見廻した。 「どうも、今日は兜町歩き難うて弱りましたよ。二十四軒ですからな。僕がみな潰したみたいな 気がして、びくびくしてますね、悲慘なものですなア」  腕を|拱《こまね》き、うな垂れた練太郎は、このとき急に思い出したという風に、 「あ、そうそう、|肝腎《かんじん》のこと忘れてしもた。早速ですが、忍さんから電話がありましてね。あな たにこれ、お渡ししてくれと云うことでしたから、持って上りました」  練太郎はポケットから小切手を取り出して高之の前に置いた。 「これは失礼ですが、京極さんから忍さんにお渡しして下さい」と高之は云った。 「いや、僕はただ頼まれたばかりですから、お使いしただけです。一寸お受取りいただけません か。必ずお渡ししてくれ云われたものですから」 言義 「しかし、こんなものは、本人の手へ一度は渡さなければいけませんよ。忍さんを呼びますから 一寸待って下さい」  高之は小僧に忍を呼びに走らせた。使いの小僧が戻って来て忍は今大阪の彼女の父と長い電話 の最中であるから、すめばすぐ来るということだった。その間練太郎は、兜町の整理問題の噂を 中心にして一人饒舌った。  話の間にも練太郎は最後まで自分から金を借り受けようともせず、むしろこちらの好意を拒み 通した高之の態度に内心ひそかに驚いているらしい風が見えた。しかし、過ぎ去ったこととは云 え、高之はあの場合練太郎がもし自分なら、金を借りただろうかどうかと考えた。今から思え ば、明らかに練太郎は好意で金を貸そうとしたのは分ってはいるものの、敵の好意を退けたこと は、人間の善意を悪用した行為ではなかったかとふと高之は反省した。殊に次の部屋で店員たち の悄然と片付けものをしている姿が眼につく|度《たび》に、もしあの際練太郎の云うままに金を借りてお いたならと後悔さえするのであった。自分一人の意地のために多くのものの生活を失う結果とな った今としては、城落ちて立退く首将の残月を振り仰ぐ気持である。しかし、何と云っても、こ の二人の近代人は文七という旧時代の思想の型に吹き飛ばされたのだ。  二人の話している所へ忍が這入って来た。漁夫の利を皮肉として投げる対象を見付けた明るさ で、 「今ね、お父さんに電話してたの。ここのお|家《うち》、あたしのものになったのよ」と忍は練太郎に云 った。 「それより、これですがね」と練太郎はテーブルの上の小切手を忍に出した。 「あら、忘れてたわ」  忍は嬉しそうに封を切ると、 「三十一万二千八百円」と読み上げた。「たいしたお金ね。どうもありがとう」. 「そのうちから、二千円ほど頼んだ人にあげて下さい」と練太郎は云った。 「あなたにも上げてよ」 「それはいずれ、仰山貰いますよ。じゃ今夜はこれで、失礼します」  ずけずけ云い出せばきりのない忍を知っているので、練太郎も早、逃げ腰で立ち上った。忍と 高之は彼を送って刪てから、二階の高之の部屋ヘ上っていった。 「高之さん、あたしにこの家の権利、譲らない」と忍はにこにこして云った。 「譲ろう。高いよ」と高之は笑って答えた。 「だって、あなた潰れたんだから、高くしちゃ値にならないわ」 「しかし、店をつづけていく気なら、取引所へ十五万円は納めなくちゃならんじゃないか」 「それは払うわ。それよりこの家の大家、あたしになったんだから、家賃を|定《き》めましょうよ。あ たた、いくらなら借りるの?」 「そうだね。二百円か」 「だって、ここは、日本橋の小網町でしょう。そんなら二百円は安いわ」忍は出窓に腰を降ろし 欄干に|凭《もた》れて云った。 「じゃ、いくらだ。家賃は大家が定めるべきだろう」 「まア、三百円ね」と忍は大きく出て高之を見た。 「じゃ、手を打とう」 「その代りに、あなたは明日からあたしの番頭さんよ。月給はいくらにしようかしら」 「五百円に負けとこう」 「そんな高い番頭さん、ありますか」 「それじゃ、四百円」  と、だんだん値が下っていく度に忍と高之は、げらげら|睦《むつま》じそうに笑い崩れていくのだった。 しかし、高之は笑いながらも、今まで人を使っていて人に使われた苦しさを知らぬ自分だと思う と、一つこの際を限りとして人に使われ、真の生活の苦しさを知らねばならぬと決心した。する と、もう忍との|談《はなし》は笑い事ではなくなって、彼女の金で再び仲買店をつづけてみようと|真面目《まじめ》に 考えが深く固っていくのだった。勿論そうなれば店の権利は忍の名義になり、高之は前の重住家 に於ける尾上惣八のような番頭の地位になるのである。しかし、それも今はむしろ自然であった。  全くこれは忍と高之の冗談から駒の出た形だったが、考えて見れば、忍にとっては泰子への義 理もあり、泰子をさし置いて多額の金銭を高之に貸したくとも、貸すわけにはいかなかったし、 かつ又高之にしても、忍の父に多くの迷惑をかけている上に、若い婦人の忍から何の抵当もなく 多額の金銭を借りる無法もするわけにいかたいのであった。  云わば、どちらもの云うに云われぬ微妙な、奥ゆかしい礼儀が自然と忍を上に祭る結果にたり 始めて来たのである。  高之と忍が大真面目でその実行にとりかかった翌々日、忍は長い滞在であったのでひと|先《ま》ず大 阪へ帰ることになった。店員たちの間に再び活気の|漂《みなぎ》り上ってきた夜、高之は駅まで忍を送って いった。自動車の中で、 「いつこちらへお帰りです」  と高之は番頭のような言葉が自然に出た。忍はにこりと笑って、 「すぐ帰ります」と|鷹揚《おうよう》に答えた。 「店は人数を少くして、成績を上げときますから、御ゆっくりいってらっしゃい」 「成績が悪ければ、月給を減らしましてよ」と忍は優しく戒めた。 「承知しました」  高之はこのさやかな|滑稽《こつけい》な会話から何とも云えず心が清くなり、冗談かまことか判断しかねる 現在の自分の位置に、不思議と新鮮な幸福を感じ、喜びを覚えるのであった。 「それから、一つお頼みがあるんですがね」と高之は云って一寸黙った。 「なに?」  と忍は|訊《き》き返した。しかし、もうこのとき、忍は高之の頼みが分っている風だった。  高之もこの際泰于のことを口にすることについては、家を出るときから心にかかっていたこと だったので、さきから云おうか云うまいかと迷っていたのであったが、今初めて口を切ったので ある。  高之と忍は一緒の家にいたがらも、今まで泰子のことについてはどちらからも一言も云い出す のをひかえて来た。  高之がいつまでもそのまま黙っていると、急に忍の頬から涙が流れ落ちた. 「云ってちょうだい、何ですの?」  と、忍は訊ねたが声は少し傑えていた。 「大阪へお帰りになれば、泰子さんにお逢いになると思いますが、僕のことはもう何も云わない ようにして下さい。それだけ、お頼みします」 「あたし、そんなこと、出来ないわ」と忍は力のない声で云った。 「しかし、僕の決心は定ってるんですから、それだけは考えといて下さい」  忍は黙っていた。 「僕はあの人とは、やはりどこまでも他人でいるように、出来てるんですから。これは仕方がな いことだと思いますから」 ー我慢に我慢を重ねているらしく、忍の身体が一層ひどく慄えて来た。自動車は|坦《たんたん》々とした道の 上を走っていた。すると、突然、忍は耐えかねたように顔を|蔽《おお》って泣き出した。 「あたし、帰って|良《よ》うしますで、そんなこと、仰言らないで」  切れ切れに云う忍の声に高之も涙が|溢《あふ》れて来た。やはり、このまま永久に泰子のことは口にす べきではなかったと、高之は後悔した。  ホームヘ着くと、高之は忍の席を探した。忍は自動車の中からもうずっと沈んで黙りつづけて ●ム いた。ベルが鳴って汽車が動き出しても、やはり忍は高之に一言も云わなかった。 「じゃ、いってらっしゃい」と高之はお辞儀をした。 「さよなら」  忍は小さな声で云うと笑顔も見せず、厳しい眼でちらりと高之を眺めたきりだった。  仁礼文七は年来の目的を達して大阪網島の本邸へ帰った夜、初めて泰子を自分の部屋へ呼びよ せた。泰子は約一カ月の間|籠居《ろうきよ》させられたために血色は衰え、眼は窪んで、見るからに内心の|苦 悶《くもん》のさまがありありと感じられた。  泰子は高之と別れてから、ときどき家から逃げ出そうかと思い立った。けれども、今逃げて高 之の所へ行けば、向うに父がいるばかりではたい。父と高之の必死の仕事を狂わしてしまうのだ った。それを思えば、せめて父が帰ってからにしたって遅くはないと、日夜じりじりと父の帰り を待っていたのだった。そこへ、初めて父からの呼び出しである。父はと見るといつもの父と少 しの変りもなく、高之の事など忘れたようなくつろいだ様子で、 「家には変りはありませなんだか」と優しく|訊《たず》ねた。 「ええ。別に何んにも」  とこう泰子は云ったが、高之の忍び込んだ夜のことがいきなり頭に浮んで来た。 「お仕事の方はどうでしたの?」 「あなた、|痩《や》せたね」と文七は泰子の顔をじっと見詰めた。 「そうですかしら。自分では分らしませんけれど」 「仕事はまア、どうにか片づいたが、あかんな、そう痩せちゃ」  慈愛の言葉の裏にずきりと鋭く刺して来る文七の言葉だった。泰子は父の気持が計りかねた が、何とも云えずただ淋しく笑っているだけだった。 「それから、あなたに|度《たびたび》々云うことやけれども、練太郎は今度だいぶ骨折ってくれたで、もう良 い加減に何とか定めねば可哀そうやで、練太郎が帰って来たら、あなたから、何とか云いなさい」 「はい」  泰子はいよいよ最後のときが来たと思ったが、云うべきことは、いつものように一つだった。 「わたしは無理に練太郎と式を上げよとは云わんが、あれは腕のある男やで、あなたも考え直し たらどうや」 「ええ」  泰予の難色を見てとった文七は、急に泰子から眼をそ向けて煙草を詰めた。 「じゃ、もう宜ろし」  泰子は父の前から自分の部屋へ戻って来た。廊下の冷たい板の上を踏みたがらも、「無理にと は云わんが」と父の云った言葉が救助の舟のように泰子の心を喜ばした。けれども父からそんな 自由なことを云われたからは、もう練太郎の帰るまで静かに、待っていなければならなかった。 勿論それまでは家の中の警戒も、すべては今日のままにちがいない。  しかし、泰子は一時も早く高之の家がどんなになったか知りたかった。丸由は高之の来た夜以 来家から退けられているので、高之のことは勿論、忍のことまで泰子には不明であった。けれど も、高之のことである。彼の語ったように、たとい家は潰れようとも、心の変ることはないであ ろう。もし無一物になったとて、自分は|手鍋《てなべ》を下げてもかまわないと、泰子は心に誓うのだった。  明日から東京へ電話のかかる日まで、幾日たてば良いのであろうか。ー泰子は高之との結婚 の日の近づくのを待ち望む思いで、心はだんだん晴れわたって来るのだった。  ある日、泰子の部屋へ練太郎がひょっこり這入って来た。文七に命じられたものと見えて、別 に悪びれた様子もない。 「今日は、しばらくですね」  と練太郎は云って泰子から眼を|反《そ》らし、赤松の床板を眺めた。 「あら」  と泰子も云ったが、突然のこととて少し顔が赧らんだ。      簑                           尋。.筧 「御主人が嬢さんのところへ、行ってくれ云われましたので、早速御機嫌伺いに上ったのです」  それでは、今日こそいよいよ練太郎に、結婚の意志のないことをはっきりと云わねばならぬの だと泰子は思った。 「お仕事、茄|芽出度《めでた》かったそうですね」 「ええ、なかたか理想的にいったのですが、あんまりいきすぎまして、弱りましたよ」  どう云う意昧かと泰子は一寸考えた。 「向うで忍さんと良う逢いましたが、あの人、随分儲けましたよ」 「忍さん?」泰子はほッと笑うと炭つぐ手をやめて練太郎を見た。 「三十万円ほどになりましたよ。まだ|報《し》らせありませんか?」 「ええ、何んにもー-高之さんはどうでしたの?」と泰子は|訊《き》き|難《にく》いのも思わず口を|辷《すぺ》らせて訊 ねた。 「それが弱ったんですよ」と練太郎は云って頭を掻いた。 「どうして2」 「忍さんに向うでも、帰ったら|嬢《とう》さんにお眼玉貰うからって、叱られましたよ。今日はもう覚悟 してやって来たんです」  泰子の顔色は変って来た。練太郎は、も早や泰子との縁談はあきらめてしまっているらしく、 弱った顔にも落ちついた豊かな笑いが浮んでいた。 「高之さんの家は潰れてしもたんですよ。丁度良い具合に忍さんが代りに儲けなさったさかい、 今ごろはまた何とか、元のようになってるでしょうが、一時は僕も、嬢さんに叱られへんか思う てやきもきしましてね」  皮肉か同情かいつものように練太郎の云うことは、泰子には無気味だった。しかし、何といっ ても高之の家が潰れたとなっては、もう練太郎の話など耳には入らず、彼の前も忘れてそわそわ と浮き乱れて来るのだった。 「嬢さん、これからすぐ、東京へ行かれたらどうです。もし高之さん、まだまごまごしてるよう なら、あなたから何とかして上げなさいよ」  泰子は、自分の云うべきことを練太郎に先手先手と出られては、却って怒ることも出来ず、無 性に腹が立つばかりだった。表面良いことばかりをして来たような顔をして、その手でこの男は 何もかも誤魔化して来たのに相違ない。 「あたし、お父さんから先夜、あなたと結婚したさい云われましたの。でも、もうこんなことい くらお父さんの仰言ることでも、時が来なければおかしいでしょう。ですから、あなたもあたし の|我佻《わがまま》、|赦《ゆる》しといて下さらない。あたし、御迷惑にならなければ、もっと考えさせていただきた い思いますの」  腹立ちまぎれに、泰子はもう今は何事もきっぱりまだまだ云えそうに思われた。 「それは|嬢《とう》さんの御自山ですよ。僕にしましても、その方が有難いというと、いけませんが、長 い間お阯話になったのですから、何とか|嬢《とう》さんのおためと、このごろは考えも変って来てるんで すから。どうぞ。もうその点は私にも安心させて下さるように、良うお考え願います」  と練太郎も難しい白分の立場を柔かに切りぬけた。 「では、すみませんが、そうしておいてちょうだい」  悲しむかと思われた練太郎の顔の却って晴やかになるのを見ながら、泰子は心が落ちつき女中 にお茶を早くと云附けた。練太郎はそれもおし止めて間もなく忙しそうに座を立った。 練太郎の帰った次の日、忍は淀屋橋の仁礼の店へ突然ボグソールを運転して来た。  丁度文七は店の間に坐っていた。忍はつかつかと悟一旭入って来ると、靴を抛り投げるように脱ぎ 捨てて、 「小父さん、あたし、どうして、泰子さんに電話をかけたらあかんの。何んべんかけても|一寸《ちよつと》も 通じやせんのよ。ここへ泰子さん呼んでちょうだい」    あ》さつ  何の挨拶もなく、いきなり叩きつけるように云う忍を、文七は面白そうににこにこ笑って眺め ていた。友人の池島の娘であれば、文七とて何を云われても、怒るわけにはいかぬのだった。 「そんなに、通じませんか。そりゃ、|化休《けたい》やな」  文七は無造作にすぐ電話を取り上げた。二しして、泰子にすぐここへ出て来るように命じて、竜 話を置くと、 「お父さん、お丈夫ですか。しばらくお逢いせんが」と訊ねた。 「小父さん、東京の高之さんのお家、潰してしもたのね。ひどいわ。どうしてあんなつまらたい ことたすったの。困るわね」 「はッはッはッは。潰れましたか」  と、文七は底太い声でおかしそうに笑った。 「笑いどころや、あれしませんわ。どうかしとう。あのまま高之さんの家捨てといたら、あの人、 死んでしまうわ」  後にいる番頭たちははらはらして見ていたが、文七は平然として、 「おい、お茶あげなさい」と振り返った。 「ね、小父さん、ほんとに、高之さん可哀そうよ。あたし、あのとき東京の高之さんのお家にい たのよ。潰れた日もいたの。あたし、お|小遣《こづかい》が一寸あったので、そのお金で梶原さんのお店か ら、小父さんの売る通りに売ってもろて、儲けたのよ」  何を云い出すか知れぬと不安そうに忍を見ていた番頭たちも、思わず文七と一緒に笑い出した。 「それが、初め六万円に殖えたとき、また貸してやろという人が出来たから、五万円足してもろ たら、三十一万円にもなってしまったの」  あッと云うように番頭たちは眼を見張った。ところが、文七は笑うには笑っていても、飛んだ ところで自分もいたずらをしたものだと苦笑しているのだった。 「そんなに儲けて、どうしなさるのや。お父さん、困りますよ」 「だって、小父さんが儲けたのに、あたしが儲けて悪いことないでしょう。あたし、そのお金で すぐ高之さんのお店の権利、|買《こ》うてしもたの。あたし、これでも、もう小父さんと同じ商売の伽 主人よ。威張らないでちょうだい。敵よ、小父さん」  鼻へ握り|拳《こぶし》を当てて|天狗《てんぐ》の真似をすると、忍はまた云った。 「ね、小父さん、東京のあたしとこと、これからお取引してちょうだいよ。尾上さんはもう抛り 出したし、不良番頭も整理したから、店は確実よ、御心配いらないわ」  初めは冗談だと思っていた一同も、何となく筋の通った忍の話に全く驚いてしまったらしい。 しかし、文七だけは馬鹿馬鹿しそうにもう忍を相手にしなかった。  間もなく、泰子は花十に監視されながら店へ来た。 「泰子さん」  と忍は飛び立ってすぐ靴を突っかけると、小娘のように泰子に抱きついた。泰子は父の前なの で、抱きつく忍の手を、強く持ったまま、 「あなた、どうしてたの」と訊ねた。 「どうもないわ。いま小父さんに|怒《おこ》ってたとこなの。あなた、痩せたわね」と、忍は眉を落して 急に泰子の顔をじっと見詰めた。涙が泰子の眼から|溢《あふ》れて来た。忍は何を思ったものか、突然、 泰子から放れて文七の傍へ行くと、 「小父さん、これから泰子さんと、あたしの家へ行っても|宜《よ》ろしでしょう。こんなお店で、ゆっ くり、話出来しませんわ」 「どうぞ」と文七は意外に優しい返事であった。 「ああ、嬉し」くるりと向き返って忍は泰子の手を持ち、「さア、行きましょう。あたし、自動車 持って来たの。じゃ、小父さん、さようたら」  忍の後から泰子が出ようとしたとき、後から来ていた花十もついて出ようとした。文七は花十 を呼びとめ、 「あなたは、もう帰ってもよろしいから」と眼で云った。  花十はびっくりしたような顔で、「一人でですか」と訊き返したが、文七はもう何も答えたかっ た。忍と泰子は運転台に並んで乗ると、ぼかんと立っている花十を一人残してすベり出した。 「花十さん、さようなら」  忍は片手を上げて花十に云うと前方を見つづけて、「あたし、東京へ行ってたの、知ってる?」 と泰子に訊ねた。 「ええ、聞いたわ」と泰子は一寸声を落した。 「あなたのお父さんの、お仕事の最中よ」 「高之さんのお家、潰れたって、ほんと2」 「嚥よ」と忍は簡単に云って、「しばらくね、あなたとこうして乗るの。あたし、楽しみはもうこ れよりないのやわ」 「でも、練太郎さん、そう云うてやしたわ」 「あの人、知るもんか」  泰子は不思議そうに黙っていたが、白々しくそらす忍にもうたまりかねた。 「あなた嘘云うてんでしょ。ほんとの事、教えてよ。あたし、心配で心配で」突然泰子は忍の片 腕を掴んだまま泣き出した。 「そんなら電話で訊いたら、ええわ。危いなア。衝突するで泣かんといて」  云いながら忍もほろりと涙を落した。 「あたし、このまま逃げて行こうか、思うてるのやけれど、もしお父さんが高之さんのお家を潰 しやしたのなら、行っても高之さん、きっともう心が変ってると思うのよ。ね、どうしたら、良 いかしら?」 「よしてよ。そんなこと、後にして」 言義 0乙  と、忍は|邪慳《じやけん》に云った。二人は黙ってしばらく辷っていったが、そのうちに、泰子より忍の方 が泣き始めた。すると、泰子はがたがた慄えて来た。 「やっぱり、そうでしょ?」 「違うって、そんなじゃないわ。他の事よ」  泰子はぐったり|襟《えり》へ|顎《あご》を落し、|片袖《かたそで》を口もとへあてがいながら黙ってしまった。忍はもうぐん ぐん無茶苦茶にスピードを増していくばかりだった。|蘆屋《あしや》の忍の別荘へ着いたとき、 「おお、危な」  と、忍は初めて笑って自動車から降りた。泰子も後からしょんぼりと車を降りた。 「つまらないわ。泣いてばかりいて、早よ、来なさいよう」  忍は泰子を後から押しつつ部屋の中へ駈け昇った。部屋餝一旭入ると忍はすぐ東京の高之に電話 を通じた。電話の来る間、忍は快活に見て来た|兜町《かぶとちよう》の様子を泰子に話した。けれども泰子は反対 にだんだん沈むばかりだった。 「いややわ。どうしてそんなに陰気にたるの。久し振りに|逢《お》うたのに」と忍は|痾癩《かんしやく》を起して云っ た。 「忍さん、あなた、ほんとのこと云うてちょうだい。何か隠してるにきまってるわ。あたし、胸 がどきどきして困るの」泰子は憂いの|籠《こも》った眼を上げた。 「そんなこと、ないって」 「でも、高之さんが、あたしを|嫌《きろ》うてたさるの分ってるのに、電話に出ても仕方がないでしょう〜」 「あの人、あなたを嫌うてはる筈、たいやないの」  泰子は黙ってまた考えた。さきから、忍の様子は気にかかることばかりである。それに東京へ どうして一人で忍が行ったのだろうか。  もし忍が高之を愛しているのだったらーこれは考えても泰子は恐しさに胸が|崩《くず》れそうになる のだった。けれども、忍よりも高之がもし忍を愛していたらー疑いは次から次へと黒雲を巻き 上げて襲って来ると、泰子はもうたまに自由にたった今日の日が、恐るべき厄日のように思われ た。 「じゃ、あたし、云うわ。あのねほんとは、高之さんとこ、潰れたの。でも、あたしが泰子さん に代って、店の権利を買っといたから、また高之さんつづけてるの。その代り、高之さんは、あ たしの番頭よ。ふふふ」  と忍は肩をすぼめて笑った。でも、なぜそんたら泣いたのかと、泰子は忍から眼を放した。 「あなたは、まだ嘘を云ってなさるわ」  力なくうな垂れて泰子がそう云ったとき、電話が急にかかって来た。忍は飛び立つように電話 口ヘ駈けつけた。 「はいはい。あたし、忍よ。あのね、泰子さんをあたし、さっきお|家《うち》から連れ出して、ここへ来 たのよ。そしたらね、泰子さん、高之さんに嫌われたにちがいない云うて、泣いてばかりいやは りますの。あたし、困ってしもて、そやない云うても、きかはらしませんの。何とかあなたか ら、慰めて上げてちょうだい。あたしの命令よ」  忍はくるりと泰子の方を向き返ると、「早く、さア」と、受話器を泰子にさし出した。泰子は思 わず受話器の|傍《そば》へ駈けよった。 「あたし、泰子ですの。あのね」 「   」 「あたし、泰子ですのよ」だんだん泰子の眉は曇って来ると、泣き出しそうな声でまた云った。 「あたし、今日やっと、家を出てここまで来ましたのよ」 「   」  すると、わッと泰子は泣き出した。けれども、まだ泰子は受話器を放さなかった。忍は泰子を 押しのけて替って立った。 「高之さん、あたし、忍よ。どうしたの。電話聞えないの。あのね、今泰子さん、出たすったの よ。ええ、そう。今夜、泰子さんと一緒に、東京へ行くかもしれないわ。あなた、一寸待ってて ちょうだい」  忍はそこまで云って急に泰子の耳へまた受話器をあて換えた。 「高之さんですの、あたし、泰子ですの。……あのね、あたし」泰子はまた泣き出した。 「どうしたの。泣いたりしちゃ、電話聞えやせんわ」と忍は云って泰子に代ると受話器を耳にあ てた。 「高之さん。あたし、忍よ、あのね。泰子さん、今夜これから束京へ行きたいって、云やはりま すの」しかし、忍も不思議そうに、しばらく黙ったままだった。「どうしたのやろ、ちっとも聞え やせんわ。亠局之さん、{高之さん」 「   」 「高之さん、いらっしゃるの」  しばらく、がちゃがちゃ電話が鳴っていたが、「何んだか、ちっとも、分りませんね」という高 之らしい声が|漸《ようや》く忍の耳僅一一氾入った。 「いやフね、それじゃ、さっきから云ったこと、ちっとも通じてないの」 「いや、よく分ってます」 「あのね、今夜、これから泰子さんが、東京へ行きたいって、云やはりますの」 「それはあなたが、進めたんでしょう。僕は誰が来て下すっても、かまいませんが、しかし、僕 の店はもうあなたのお店ですから、それを泰子さんに云って下さい」  忍は、ぎくりとしたらしかった。 「あたし、そんなこと、もう云ったわ」 「泰子さんが、それを承知してらっしゃるのだったら、それから後の事は、万事、忍さんにお任 せします」 「あたしに? だって、それだけは無理だわ」 「僕はね、今はそういうことは、考えていられないときですから、その事だけは、あなたもよく 考えといて下さい」 「それは分るわ。でも、泰子さんは、あなたに一度、お|詫《わ》びしたいって云うのよ。ねえ、泰子さ ん」と忍は電話の外にいる泰子の方を振り返った。 「じゃ、もう今日はこれで良いでしょう。店の方は別に変りがありませんから、成るだけお早く 来て下さい。さようなら」 「あら、一寸、高之さん」  と忍は大きな声で呼んだ。しかし、もうそのときは電話が切れた後だった。 「泰子さん、聞いたでしょう。高之さんはあなたがお詫びに行くの、待ってやはるのよ。だっ て、そりゃ、そうだわ。あなた、そのくらいの事せんと、|罰《ばち》があたるわ。今日これから行きなさ いよ。小父さんの方のことは、あたし良うするで、心配せんでも良いわ」  何の事だかさきからの事は泰子には何も分らなかった。けれども、たといどんたことがあろう とも、これほどまで忍が云ってくれるのに、忍の心をあれこれと疑った自分が今は泰子も|差《はずか》しノ\ なるのだった。 「じゃあたし、行こうかしら」と泰子は顔を|赧《あか》らめて忍を見た。 「行こうかしら、じゃないわ。是非行きなさいよ」 「でも……」と泰子はまだ|躊路《ちゆうちよ》した。 「あたし、行っても良いの?」 「どうして?」 「どうしてでも」  二人は眼と眼を合せたその瞬間、忍はふっと悲しげな笑顔を見せて、 「いややわ。そんなこと」 「いえ、そうじゃないの」 「高之さんは、泰子さんのことを忘れはったこと、ありますか。あんなこと云うてみてやはるだ けよ。あたしには良う分ってるの。泰子さん行きさえすれば、何もかも良うたるに|定《ぎま》ってるわ」  泰子は黙って忍の顔を気の毒そうに見るだけだった。 「あなた、もうお支度出来てるの?」 「ええ。もう出て来るときから」  と泰子は低く|頷《うなず》いたが、水中深く身を投げ込むように眼を伏せ沈み、顔もだんだん青ざめてい った。  泰子が忍の別荘を出て家へも帰らず、東京行の|燕《つばめ》に乗ったのは午後の二時ごろだった。  雨はそのころから降り出した。網島の仁礼の本宅では花十が帰ってから、泰子の警戒の解けた ことを皆に知らせてからはそれぞれ、胸|撫《な》で降ろした気楽な気分が家の中に眼立って来た。花十 の弟子たちも、久し振りに我が家へ帰る喜びで、冗談を云い合ったり女中たちにからかわれたり していた。 「これでやっと、務めも無事にすましたが、後は|嬢《とう》さんに、具合が悪いな」と、弟子が云う。 「いや、わてが|謝罪《あやま》ってやるさかいに、心配いらん」こういう花十に、お雪という女中が、 言義 「そうかて、うちら、具合が悪いわ。あの東京の人と|嬢《とう》さんの仲引き裂いたんやもの。怨まれん 筈ないわ」 「これから長いことやでなア」と、おむらが心配そうに受けとった。 「まア、仕様がないさ、そのうち練太郎さんと御祝儀でもすめば、わてらの忠義も分ってくれは るよ。あの賢い|嬢《とう》さんや、心配するな」  すんだ事は仕方がない。一同|愁眉《しゆうび》を開くと花十のおごりで、菓子が振るまわれた。夜になって 雨は一層物凄く降って来た。 一人帰り二人帰りした後で、「それでは、わても一寸帰らしてもら いまっさ」と、花十も女中たちに挨拶して帰っていった。  泰子の帰りの遅いのも、主人の文七の知っていることとて誰も心配するものはなかった。  そのうちに八時が過ぎ九時がすぎた。雨はますます強く降って来た。女中たちは片づけをすま してから、火鉢の傍に|塊《かたま》っていたがさすがに泰子のことが気にかかって来たらしい。誰からとも なく、「|嬢《とう》さん、大丈夫やろか」というものが出て来た。 「そうかて御主人さんが、行く先知ってやはれば、|宜《よ》ろしやろ」  こそこそ話しているとき、突然、表へ一台の自動車が停った。中からいつもより装いをこらし た春子が一人降りて来ると、玄関へ立った。 「あのう、東京から参りましたのですが、御主人いらっしゃいましたら、一寸尾上ところの春子 が来たとそのよう仰言って下さいませんかしら」  全く春子は物静かな|慇勲《いんぎん》さで取次に出たおむらに云った。おむらはすぐ奥へ引っ込むとまた出 て来た。 「では、どうぞ。お上りなさいまして」 「それでは失礼いたします」  花桐模様の羽織に花袋の帯をしめた春子は、女中たちの前も|叮嚀《ていねい》に礼をして文七の部屋へ消え ていった。  後に残った女中たちは|見馴《みな》れぬ若い婦人の|夜更《よふ》けの訪問に、互ににやにや眼と眼で笑って黙っ ていた。一度茶を持っていったおむらも、戻ってからは客が客であったから、奥の部屋へは近づ かなかった。しばらくは家の中がしんとして、ただ降りしきる雨の音ばかり聞えていた。する と、三十分もしてから、春子はまた戻って来た。彼女は静かに女中たちに礼をすると、待たして あった白動車に乗って帰っていった。おむらは後片づけに文七の部屋へすぐ行った。と、坐って 開けた|襖《ふすま》を持ったまま、「あッ、あッ」と低く二声ばかり|吃《ども》ってからがたがた慄えて、そのまま外 へ|這《は》い出した。しばらくして、 「来てくれッ」  と、初めておむらは叫んだが、それもあまり大きな声ではなかった。しかし、二度目に叫んだ 声は家中響きわたるほど大きかった。  おむらの声に家中から駈け集って来る足音がばたばたした。第一番に来たのはお雪だったが、 廊下の曲り角でおむらはお雪に|衝《つ》きあたると、 「あッ」と叫んでお雪の首にしがみついた。 「どうしたの?」とお雪が|訊《き》いてもおむらはただ奥の間を指差すだけだった。  お雪も恐くなって何事か分らぬまま動こうとせず一緒に慷えていると、そこへ門番の弥兵爺 が、ごほんごほんと|咳《せ》き込みながらやって来た。いきなりおむらはまた弥兵に飛びついて、 「|旦那《だんな》様が、早よいって」と彼を奥の方ヘ押し出した。  弥兵に続いて下男の高助が|駈《か》けて来た。それから手伝い、|飯炊《めした》き、女中たど、より塊って奥の 間へ駈けていく後から、一人おむらは電話室へ飛び込んだ。彼女は弥兵を突いてからはどうした ものか急に元気を取り戻したので、|敏捷《びんしよう》に医者と警察と、練太郎と、花十とに電話をかけた。  奥の間では誰もみなぽんやりしている中で、弥兵一人が文七の倒れている頭の傍へぴたりと坐 ったまま、いつもと変らぬ顔でごほんごほん咳いていた。 「電話かけてくれたか」と下男が突然訊ねた。 「ああ、そうや」というように皆の者はそれぞれ台所の方ヘまた出ていった。しかし、弥兵だけ は坐りつづけたまま、両手を合せて、「なむあみだぶ、なむあみだぶ」と、いつまでも繰り返し|呟《つぶや》 きながら咳いていた。  間もなく医者が来ると、つづいて雨に|濡《ぬ》れた数名の警官と刑事が来た。  文七は|咽喉《のど》を短刀で突かれた上に|扶《え》ぐられたらしく、一面に噴き流れている血の中に、|佑伏《うっぶ》せ に部厚な立派な顔を浸してただ単に倒れているだけだった。けれども、|勿論《もちろん》彼の呼吸はすでに切 れていた。おむらとお雪とは警官に呼ばれて文七の死の前後を|委《くわ》しく質問されている。そこへ、 花十につづいて練太郎が駈けつけた。 「ああ、|歯痒《はがゆ》いのう。わてがいたら」  とこう花十は云って文七の部屋へ飛び込もうとする途端に、警官にさえぎられた。練太郎は文 七の姿をちらりと襖の間から見ただけだったが、彼は涙を流しながらも、どこかほッとした顔を して、すぐ表の問に引き返すと、 「|嬢《とう》さん、どこや〜」  とお雪に訊ねた。勿論お雪は知らなかった。すると、横から花十が、 「|嬢《とう》さん、まだか?」と、文七の死体を見たときより一層びっくりして訊ねた。  彼はすぐ電話で忍を呼び出して、主人が急死したから至急泰子に帰って|貰《もら》いたいと頼んだ。 「小父さん、死んだの?」  忍が訊ね返したときは、もう花十の電話は切れていた。  練太郎は花十から泰子のことを聞くと、忍に電話をかけ疸そうと思って電話室へ這入った。す ると、逆に警察から電話がかかって来て、出張している警官に電話口まで出て貰いたいと云うこ とだった。それは思いがけなく春子が自首して出たことを|報《し》らせる電話だったので、間もなく警 官は部屋の中の写真を撮って、それぞれ雨の中をまた帰っていった。  文七の身体が一同に渡されてからは、家の中はほとんど物いうものはいなかった。ときどき、 そらお湯とか、そこ拭けとか云う声のほかは、恐怖で皆の顔は青ざめきっていた。|衣物《ぎもの》を替えら れ奥の間に寝せられた文七の顔にかかった白布の前には、取り|敢《あ》えず|獵燭《ろうそく》が立てられた。練太郎 は一同に主人の死を極秘にするよう云いわたしてから、|重《おも》だった仁礼家の関係者に電話で彼の死 を報らせた。しかし、文七の最後の夜に限って泰子の不在であったのは、事の手落とは云え、虫 の報らせというものかと、今さら深夜の寒さが歴然と身に迫るのが感じられ、この夜ばかりは練 太郎も何をして良いのか手のほどこす|術《すべ》もないかのようであった。彼は人が奥の間に集っている とき、そっと脱け出してひとり台所へ出て来た。内庭の井戸の傍に|椋欄竹《しゆろちく》があり、その上に沢山 番傘を|吊《つ》り下げた棚があった。彼はその下まで来て、ふと|鼇《かまど》の向うに重い垂れ戸の閉っているの を見ると、|近江《おうみ》の|田舎《いなか》から初めて出て来た少年の日の自分を思い出した。そのとき、文七は彼を 見て、 「おい、炭をここへつぎなさい」と云って、自分の火鉢を指差した。  練太郎が|炭籠《すみかご》を持って来て、おそるおそる少くなった火の上へ炭をついでいる間、文七は眼を 放さずじっと彼の手つきを眺めていてから、「良ろしい」と云ったことがある。練太郎はそれを 思い出すと、そのとき以来文七から、|叱《しか》られ、さとされ、教えられ、そうして愛されて来た長い 月日が、一|聯《れん》の光となって押しよせて来るのを感じた。彼は涙を流しつつ声を放って泣きたくな ったが、唇を噛み、腕を噛みして声を圧え、裏の土蔵の傍へ出ていった。  彼は蔵と蔵との間を往ったり来たりしながら、文七の死後の財産の整理や、後に残った泰子の 身の上の心配を骨身を惜しまずする時が、いよいよ自分に来たと思った。  |三和土《たたき》から|跳《は》ね返る雨が|膝《ひざ》を濡らした。練太郎は今は文七の意志のままに泰子と結婚する気持 たど少しも起らなかった。この上は早く泰子の意に添い、高之との|談《はなし》をまとめることに努力する のが、主人への義務のように思われた。実に練太郎は文七の死に会って、誠実に平凡に、初めて この家へ来たときと同様な|丁稚《でつち》の謙譲無類な心が|湧《わ》き返って来たのである。  泰子が東京へ着いたのはもう夜の十時近かった。彼女は駅から自動車ですぐ高之の家へ向っ た。汽車の中にいる間は汽車より早く飛び立つ事も出来ず、身を機械に任せていたけれども、自 動車に替ってからは、胸が早まり、身はきりきり舞い昇るように思われた。  泰子が小網町の高之の家へ着くとすぐ高之は玄関へ現れた。 「お久し振りですね。どうぞ」  こう高之は云ったが、|唇《くちびる》のあたりに、前とは打って変った|嘉落《らいらく》なぼやけた微笑がにじむように 浮んでいた。  泰子は一寸お辞儀をしたまま高之の後から二階に昇ると、きちんと骨の上へ膝をついた。 「お話聞きましたが、すみません」  泰子の手の上へただ涙ばかりが|滴《したた》り落ちた。高之はやはり穏やかな笑いを浮べて黙っていてか ら、 「座蒲団、お敷きになったら」と優しく云った。 「あたし、お詫びに上りましたの、|却《かえ》って、お苦しめするようなことにたるかと思いましたが気 にかかってなりませなんだので、上りましたの」 「お父さんは、知ってらっしゃるんですか」 「いいえ。でも、お父さん、あんまり何度も、いやなことしやはりますので、何というてお詫び したら良いのか分りませんの。なん度も同じことばかり云うようですが、どうぞ勘忍してちょう だい」  泰子はちらりと高之の顔を見た。その瞬間、どうしたものか高之の微笑が父そっくりに見え、 どうしてこんなに似て来たのであろうかと、なおもしげしげと見ているうちに、胸は高まり、苦 しさにまた泰子は眼を伏せた。 「遠い所をわざわざ来て下すったのに、こんなことを云うのは、失礼ですけれども、僕は正直に お話しますと、実は、あたたとお約束したことは、とうてい実行出来そうもないと、思ったので す。それというのは、あなたのお父さんという人は、まことに偉い人だと思ったからです。けれ ども、これは一寸、説明し難いんですが」  高之は火鉢の縁を撫でつつうす笑いを|洩《も》らしていたが、また云った。 「つまり、何と云ったらいいか、これは仁礼さんのような人に、幾度も幾度もやっつけられた者 でなくちゃ、分らないことなんですがね。一口で云うと、まア、びっくりしてしまって、馬鹿み たいになったとも云いますか。つまり、僕は全く頭が妙な風になったんですよ。今のところ、僕 には結婚だとか希望だとか金銭だとか、幸福だとか、そんなことを考えるのは、遠い昔のことの ように思えるんです。いわば、一種の気違いみたいなものですよ」  泰子は青ざめたまましんと静まって聞いていたが、身体を支えていた腕が不意に関節からぎく りと曲った。 つ一 9一 轟我 「しかし、これは恐らく僕だけじゃなかろうと思いますね。練太郎君だって、あなたのお父さん にはびっくりしてましたから、やられたものは、なお更でしょう。誰も彼も、何が何だかさっば り分らなくなったんですよ」  いつの間にかあまりにかけ隔っている高之の気持に、泰子は今は言葉もなく、寒けを感じるよ うにときどき身を縮めるばかりだった。  高之は急に立ち上って下へ降りると、間もなく、自分でお茶を持って来た。 「さア、ど、うがて」  泰子は高之に自ら茶を運ばれたことは初めてだったので、一寸身をかがめたきり、思いまどう 苦しげな様子でじっと骨に眼を落したままだった。 「泰子さん」と高之はしばらくして優しい愛情に満ちた顔をして云った。 「僕はあなたが困ってらっしゃるのが、よく分るんですよ。けれども、僕の気持も少しは考えて みて下さい。僕はね、あなたのお父さんから、何もかもひっくり返されてしまった今こそ、本当 にあなたを下さいと、|臆面《おくめん》なく云い出せるときなんです。今まではお金がないとかひどい事をさ れたとか、店に資金を出して貰っているとか、そんなやくざな考えのために邪魔されて、面と向 ってはなかなか云い出すことが出来なかったんですが、今は、滅ぼされたんだから、もう平気な んですよ。お父さんの前へ出て、あなたは僕を滅ぽしたんだから、代りにお嬢さんを下さいと、 云うぐらいは何んでもないんです。けれどもそれさえ、あなたのお父さんは、僕に云う気を起さ せなくしてしまわれたんです。何となく、僕はげらげら笑っているような気持ですよ。ですか ら、まア、しばらくこうしていさせて下さいませんか」  こう云うと、急に高之は今までの微笑をかき消し、強い光を放った眼で泰子を見詰めた。  その時、大阪の忍から電話だと下から報らせがあった。高之は電話室まで降りていった。 「僕、高之です。先日はどうも」とこう彼が云いかけると、いきなり、 「泰子さん、いる?」と忍は訊ねた。 「います。今着いたばかりです」 「たいへんたの。泰子さんのお父さん、死んだの。△、よ。電話かかって来たばかりだからよく分 らないけれど」 「本当ですか」と高之は訊ね返した。 「本当、泰子さんにそう云って、すぐ帰ってもろてちょうだい」 コ寸、待って下さい。泰子さんを呼びますから」  高之はすぐ二階へ上って行こうとしたが、今泰子に父の死を報らせるのは何とも云えず残酷た 気がした。彼は階段の中途で立ち停ると、自分のなすべぎことが今は立ち停っている以外に何も ないように思われた。足の下を水がさらさら流れるような冷たい眼まいを感じたまま高之は間も なく二階へ上った。 「一寸」  彼は泰子の腕を持った。泰子は|淋《さび》しそうたおどおどした眼をして高之を見上げた。彼は泰子を 抱くようにして|梯子《はしご》の方へつれて来ると、また立ち停って強く泰子の背中を抱きかかえた。 「あたたは僕を抱いてて下さい。宜ろしいか。もっと強く」  泰子は羞しそうに|顔《ほお》を赧らめながら、頬を高之の胸へつけて小さくなった。高之は立ったまま じっとしていてから、 「あなたのお父さん、亡くなられました」と低い静かな声で云った。  泰子はぽんやり口を開けて高之を見上げた。と、|忽《たちま》ち真っ青になって重くぐったり高之の腕に 崩れかかった。 「大丈夫です。今夜これから行きましょう。まだ時問は間に会いますから」  と云うと高之は泰子を放してまた下の電話室へ降りていった。  そして、忍にこれからすぐ行くという返事をし、女中に喪服の用意と自動車を命じてまた二階 へと上って来た。そのとき泰子は梯子の上のところにぺたりと坐ったまま、泣きもせず下の暗い 穴の底を|覗《のぞ》いていたが、高之が上へ昇りきってもまだそのまま動こうとしなかった。高之は泰子 を後から抱き起して火鉢の傍へつれて来た。 「もう、仕方がありませんから、身体を無理しないようにして下さい。練太郎君が何もかもちゃ んとしてくれてるでしょうから、心配は入りませんよ」  高之にこう云われたとき初めて泰子は畳の上に泣き崩れた。高之は黙って片手を胴にあてつ つ、文七の死は自然な死ではあるまいと想像した。もし殺害されたとしたら、下手人は必ず東京の 者に相違なかろう。-しかし、|曾《かつ》ては、自分も文七の生命を奪おうと思ったことがあったでは ないかと思うと、自分に代って彼を殺したものの心が、引き抜いた|刃《やいば》を見返るように鋭く胸に響い て来るのだった。しかも、その自分が文七の娘と結婚して行末を楽しく暮すことが出来ようか。 「車が参りました」と女中が云った。 「では、行きましょう」  と高之は云って時計を見た。本来ならば、泰子を一日さきに大阪へ帰すべきだと思ったが、何 の罪もないこの泰子にそれほどまでも冷くすることは、今は高之には出来難かった。  汽嵐の中では、泰子と高之はあまりどちらも言葉を云わなかった。高之は寝台の空きが一つあ るのを探すと、睡眠薬と|葡萄酒《ぶどうしゆ》とを泰子に飲ませてそこに眠らせた。夜中、ときどき高之は、そ っと寝台のカーテンを開けて泰子の様子を伺った。その度に泰子は少し身を動かしたが、高之の 方を向こうとしなかった。彼は自分が文七の死を知って以来、不思議と胸底に落ちつきを感じて いるのに思いあたると、彼の死を悲しみ苦しむ泰子とこの自分の相違に、かくまでへだたりを与 えたこの世の|業《ごう》の世界が汚く|厭《いと》わしく思われ、廻る革の速度さえ滅びゆく世の速度の汚さのよう に感じられた。  翌朝大阪駅へ着いたとき、高之は泰子の身の廻りのものを持って、プラットフォームヘ降り た。すると汽車も知らしてなかったのに、忍が一人出迎えに来ていた。 「泰子さん」  不意に呼ばれた泰子は忍を見るとかすかに微笑したきりで、黙って涙をはらはら流した。 「たいへんね」  と忍も一言いったまま、初めから高之の方へは向こうともせず、泰子の腕をとって改札口を出 ていった。高之はその忍の友情がたとえがたたく美しく思われた。彼はある感動をもって自動車 を呼ぶと、泰子と忍を乗せてから、 「僕は|松平《まつへい》にいますから、御用があればいつでも呼んで下さい。じゃ、お力落しのないように。 忍さん宜しく頼みます」と云った。自動車が動き出そうとしたとき、 |二寸《ちよつと》、一寸」  と忍は云って、|周章《あわ》ててドアを開けた。自動車から飛び降りて来た忍は高之を自動車の後へつ れていった。 「あたた、犯人知ってる」 「いや、まだだ。|捕《つかま》ったの?」 「眷子さんよ」  高之は|呆然《ぼうぜん》として言葉が出なかった。周囲の音響は一斉に停り、混雑する駅前の群衆が、一瞬 光を放った生き物に見えて来た。 「もう自首したの。じゃ、すぐ後から行くわ」  と言うたり忍はまた自動車に乗ると、お辞儀も忘れて車を走らせた。高之はしばらくその場に 立ったまま動かなかったが、駅の売店で新聞を買ってから、すぐ自動車で松平の方へいった。自 動車の中で、高之は新聞を拡げてみた。社会面のトップに、大きく文七の殺害事件が出ていて、 春子については、神経衰弱の緕果精神に異状を|来《ぎた》したもので、金庫を文七が開けようと後姿を見 せたとき、すかさず短刀で彼の咽喉を後から突き、|殖《たお》したものだと書いてあった。読みゆくうち に、高之はぴしぴしと強く|面体《めんてい》を叩かれる思いがした。  家が|潰《つぷ》れてからは春子の|暴《あば》れ方は一通りではなかったことを高之は思い出したが、まさか春子 が文七を殺そうとは、彼は今まで夢にも考えなかったことである。  しかし、どうしてこのように一難去るとまた一難と、次から次へと順序を狂わさずに苦しみは 来るものかと、高之は今は悲痛な顔にもあきらめきった微笑がかすかに漂い、そこ光をして来た 眼が朝日にまばゆそうに眉をしかめ、車のままに揺れていった。松平へ着くと高之はすぐ璽.一察に 冠話をかけて、春子に面会させて貰いたいと申込んだが、今は両親以外は面会させぬという返事 だった.  正午近くになって忍が高之の所へまた|訪《たず》ねて来た。 「まるで、勢みたいね」と忍は云ってぽんやり坐ると、「泰子さんのお家、ひっくり返ってるわ。 でも、泰子さんが東京へ逃げたの知ってる人は、あなたとあたしとだけよ。後の人はみなお父さ んがやらはったのや思うてるの。あたし、これで泰子さんを逃がしたの、誰にも弁解せんでもす んでしもたわ」  思いがけぬところに|剽軽《ひようきん》た|倖《しあわ》せの一つ|転《ころが》っていたのを見るようで、高之も思わず苫笑したがら、 「どうしてあなたは泰子さんをよこしたんです」と不平そうに訊ねた。 「そんたら、あ女た、また何か泰子さんに|仰言《おつしや》ったのね?」 「云いました」 「それじゃ、また駄目だわ」  忍は俯向いてほっと|溜息《ためいぎ》をつくのだった。 「あれは、あたたがすすめたんでしょう」  高之は忍を強く見つめて訊ねたが、忍は何も答えなかった。しかし、もう来るべき大風は|尽《ことごと》く 来てしまったのである。持っていた二人の知識も尽く使い果した後であった。もう二人は疲労と 虚無との中から自然に生れて来る何事かの感情を待つばかりであった。  仁礼文七の葬儀は泰子の意思であまり盤大に行われなかったが、それでも、大阪の有名な実業 家の多くの者が参列した。その間に東京からは店の関係者として高之と梶原と清子の姿が混って いた。仁礼家では、葬儀万端を練太郎が切り廻した。その間、泰子はほとんど眠らなかったが、 別に何をするというでもなく、人から何か聞かれれば、ただ受け答えをするというだけだった。 忍は始終、暇あれば泰子の傍につききりであった。彼女は泰子の身体が心配と見えて、何かとい うと、泰子にただ寝ていよとぼかりすすめた。  家の中には、花十の姿は泰子が帰ってからは見えなかった。それに代って、退けられていた丸 由が、練太郎と一緒に眼の廻るように立ち働いているのが眼についた。清子と高之とは、初めて お寺で逢った。けれどもどちらも、「いつ、いらっしゃいましたか」と云っただけで、春子の事も 文七の事も口にはしたかった。  いったいに、この文七の葬儀は会葬者全部がびっくりしているので、挨拶のしようもなく後は どうたるものかとそれのみ人々の興味をひくだけで、|倉卒《そうそつ》の間にそわそわとすんでしまった。葬 儀のすんだ夜、高之はすぐ東京へ帰ろうと思って忍に電話をかけた。すると、忍は泰子に一度逢 ってから帰って貰いたいと云ってきかなかった。 「しかし、僕は今逢うべきときではないと思いますから、その事あなたから伝えといて下さい」  こう高之が云っても忍は、 「それでは、あたたの顔が立たないわ」と云うのだった。 「僕は顔を立てに、来たんじゃないですよ。今いれば、むしろ顔が潰れるだけでしょう」  と、また高之は答えたが、忍は、それでは自分の顔を立ててくれとまた迫った。 「僕は泰子さんが、わざわざ東京まで来てくれたんですから、送る義務だけはあったんですが、 僕はもう無事に義務だけは果したんですから、これで仁礼さんにもすまぬとは思いませんよ」 「だけど、それじゃ、あんまりだわ。ね、じゃ、もう二十分待ってちょうだい。泰子さんにそち らへ伺うように云いますから」 「どうしてそう、あなたは、僕に泰子さんを会わせたいのです。無理たときは無理なときですよ」 「無理じゃないわ。あの人、弱り切っているの、眼に見えてるんですもの。それにあなたはあん まり男らしくないわ。そんなあなたと思わなかったわ。勝手になさいよ」  高之はどきりと胸を突かれた思いであった。けれども、今泰子と会えば、|惨憺《さんたん》たる思いをして 抜け出た苦心も、何もたらぬのだった。高之が黙っていると、また忍から電話がかかって来た。 「高之さん、高之さん、今|怒《おこ》ったの、あれは嘘よ。だから、怒らないでね。ね、泰子さんと一寸 で良いから、逢ってあげてちょうだい、あたし、一生のお願いだから、もしあなたが、このまま 帰ったら、泰子さん、どうすると思って。あなた、もう一度すぐ大阪へ、引き返さなくちゃたら ないの定ってるじゃないの。ね、ね、後生だから」  向うで|啜《すす》り上げるらしい忍の声が、ぴんぴんと耳を打った。身を切るような忍の友情の美しさ に、高之もその上|頑固《がんこ》になりつづけることは、出来なかった。彼はしばらく黙っていてから云った。 「じゃ、僕はこれから、泰子さんのところへ行って来ますが、あなたは以後僕に、泰子さんのこ とについては、一切云わないということを、誓っておいて下さい」 「じゃ、行って下さるのね?」と忍は大きな声で訊ね返した。 二寸行きます。けれども、僕にはあなたの束京の店があるんですから、その仕事に今は、専念 したいんです。分りませんか、僕のこの気持は?」 「そんたこと、どうでも宜ろしわ。それより、泰子さんの方のこと、うまくして上げてよ」 「しかしね。僕は何も、|強《し》いて頑固になってるんじゃ、決してたいんです。考えてみてくれ給 え。僕の家の者と同様な春子さんが、あんなことをやった上に、泰子さんには、今お父さんの、 |莫大《ぱくだい》なお金が這入って来るんですよ。こんなときに、僕がこれ以上大阪にうろうろしていられる と、あなたは思いますか」 「だけど、それはまた別よ。あなたはお金のことを、お考えにたるからだわ。そんなことたんか、 今ごろ考える必要はないと思うわ」 「まア、こんなところで、お金の議論はしたくないけれども、僕には今、お金がちっともないか ら、うっかりして、お金につられて泰子さんに優しくしたりしちゃ、事ですからね。後が一生台 無しだ」 「こんなときに、偉い人はあなたのようなこと、考えるものかしら。さっさと行ってあげて下さ いよ。早くよ、さよなら」  ぴしゃりと高之は叩かれたようた感じだった。あまりの賢材、その忍のやり手には、彼も腹立 たしいほどだった。  彼は荷物をまとめるとすぐ網島の方へ自動車を走らせた。けれども、泰子からまだ何事も頼ま れもしないのに、のこのこ押しかけて行くことは、何とも心の重みを感じて彼は困った。  網島へ着いたとき、忍からすでに報らせがあったと見えて、泰子が玄関まで出迎えた。 「いろいろお泄話さまにたりました。今夜、一寸御柎談に上ろうかと、思うておりましたの。で も、ほんとに、良うお越し下さいましたわ」  泰子は衰えた顔に笑みを浮べたがら、自分の部屋へ高之を案内した。高之は文七の骨を納めた 仏間を訊ねて、そちらへ先きに行った。まだ花束の新しく匂っている部屋には香の煙りが立ち籠 もり、白布の棚の上に|厳《いか》めしい|骨壷《こつつぼ》が置かれてあった。高之は壷の前で香を|焚《た》くと、自分に多く の教訓を与えてくれ、そうして自分を|揉《も》みに揉みぬいて改造してくれた偉大な敵に、今は感謝を しつつ頭をうやうやしく下げた。彼は|怨《うら》みも憤りも淋しさも、今は何事も感じなかった。  泰子の部屋へ退いてから、高之は泰子に正しく礼をして云った。 「それでは、今夜の夜行で帰ろうと思いますから、お身体お大事に」 「あら、もうお帰りになりますの」 と、泰子は淋しそうに一寸高之を見上げたが、すぐ眼を落すともうひぎ留めようとはしなかっ た。高之は立ち上ろうとした。すると、泰子は眼を上げた。 「あのう、一寸お訊きしたいことがありますの。家のことですけど、後をどうしたら宜ろしか教 えておいていただけません?」 「お家の事は万事この際、練太郎君にお任せになるのが、何よりだと思います。もしあの方が僕 に気兼ねでもされるような事がありましたら、僕がそのように云ったと、一言伝えて下されば、 必ずあの人はうまくして下さると思います。では、また、御機嫌良う」  高之は立っていった。  練太郎は文七の葬式で清子と会うと、当分大阪で遊んで行かれるようにとすすめた。そのため もあろうか、父の定之助が葬いの終った夜行で東京へ立ったのに、清子だけがまだ叔熾の家に残 っていた。練太郎は文七|残後《ぼつご》常より一層多忙であった。けれども、定之助の帰るときには、彼は 駅まで送っていったり、夜更けて我が家へ戻るときには、忘れず清子に一寸電話で挨拶したりし た。東京へ清子の帰る夜練太郎は、清子を食事に誘った。二人は前に度々会った魚利へ行って|鶉《うずら》 の料理を註文した。 「まだ、当分東京へはいらっしゃれないんでしょう」  と清子は彼女独特の美しく光った眼を細めて練太郎を見た。 「まだ行けませんね。ですが、そのうち何とかして行きたい思うてます。僕は大将の店の後を継 がしてもろて、一人でやってみようと思うてますから、そのときはまたあなたのお父さんに、お 頼みに上りますで、あなたからも宜ろしくお願いしといて下さい」 「ええ、有難う。ぜひ、そうたすって下さいましよ」と清子も嬉しさを包み隠さずに云った。 「亡くなった僕の大将のやり方は、そりゃ|豪《えら》かったと思いますが、やっばり時代のせいでどこか 古風な方でしたから、僕は今度は新しいやり方で、店をやって行こうと思うてますよ。僕もいよ いよこれから、本当に独立独歩をしていくときが来たのですから、決心をしております」 「でも、あたし、あなたとこんなにしていただいて、お邪魔にはならないのかしら、あたしこの ごろ、ときどき、それが気にかかりますのよ」  と清子は|謎《なぞ》めいたことを云ってかすかに笑った。練太郎は自分の吹かす煙草の煙に、煙むそう に眼を|歪《ゆが 》めながら清子を見た。 「どうしてですか?」 「だって、そうでしょう」  清子は意味ありげに練太郎を見返したが、はっきりしたことは云わなかった。 「僕とこの|嬢《とやつ》さんに、困ると云われるんですか2」 「まア、そうね」 と《よ》|う 「それは宜ろしいんですよ。僕はついこの前、大将から嬢さんと結婚せい云われたのですが、そ んた事出来るもんでもなし、そうかと云うて、僕、いやですと云えるもんでもなし、往生してた ところが、幸いまア|嬢《とう》さんが、うまい具合にそこをちゃんとしてくれはったもんですから、万事 解泱はついてるんですよ」 「そう。それは嬉しいわ」と清子は明るい笑顔を見せて云った。 「そんな御心配はもうないのですが、それより、高之さんと|嬢《とう》さん、どうするかと思うてその方 が気になってね。おかしたもんですよ。大将が亡くなったら、後のこと、僕がするよりするもん あらしませんでっしゃろ。それでどういうものか、|嬢《とう》さんのことの方が、心配になって来まして ね」練太郎は|気不味《ぎまず》そうに|赧《あか》らめた|頬《ほお》を撫でた。 「それは、そうでしょうね」と清子も一寸黙って考えた。 「長いこと大将に世話になったのに、嬢さんの方の片もつかんのに、自分の事ばかり一生懸命に もなれませんので、困ってますよ、あなたは高之さんと|嬢《とう》さん、どうすると思いたさるですか」 「そりゃ、大丈夫じゃないかしら」 「大丈夫と仰言ると?」と練太郎は眉を上げた。 「うまくいくと思うわ。でも、へんなものね。あたしとあなたの事まだ今でも、あの方たちのた めに邪魔されてるんだわ」楽しそうだった清子もまた|凋《しお》れて黙るのであった。  練太郎は自分との結婚を明らかに望んでいる清子の心を、今さら有難く身に|滲《し》んで感じた。け れども、泰子の身の振り方の定らぬまでは、自分の望みも清子に打ち明けるわけにはいかぬ現状 を思うと、清子の歎きも|尤《もつと》もだとひどく練太郎は力を落すのであった。 「僕はあなたには、何とも相すまぬと思います」とこう練太郎は云って神妙た様子でお辞儀をし た。  清子は黙って俯向いていたが、練太郎にはそれが一層胸を突く苫しみとなって来た。 「あたしね、そりゃ、あなたが仁礼さんのお家のことをお思いになって、あたしを苦しめていら っしゃるのは、別に何とも思いませんわ。そりゃ御立派なことだと思いますわ。ただね、あたし としちゃ、泰子さんも高之さんも、云わばあたしたちを苦しめた方たちでしょう。その人が折角 あたしたちが、こんなに仕合せになったときにも、まだあたしたちの間を、こうして引き裂いて いるんだと思うと、腹が立つんですの」 「それは重々そうです。何とも申しわけありません」 「本当よ、あたし、京極さんを|虐《いじ》めるんじゃありませんわ。だけど、春子さんが犯人だと分れば、 高之さんは泰子さんと結婚なさらないかとも思うの。そしたら、泰子さんはいつまでも、一人で いらっしゃるにちがいないでしょう。もしそうなら、あたし、あなたと永久にこうして、大阪と 東京とに別れて暮しつづけていなきゃ、ならないのかしら」 「いや、そんなことは、絶対にありません」と練太郎は力を入れて嬉しそうに云った。 「だけど、|理窟《りくつ》はそうだわ」 「まア、そういう理窟になりますがね、大丈夫です。僕は|良《よ》うします。もう少し待って下さい。 僕も|嬢《とう》さんとはこんた不体裁なことになりましたが、何とか|嬢《とう》さんのこと良うしてあげんと、何 のために大将に今までお世話になったのか、分らしませんからな。まアまア、この|度《たび》は勘忍して 下さい。以後こう云うことは、もうこれであらしませんさかいに」 「じゃ、お任せしますわ」と清子は小声で云うと真二つに割れた鶉に|箸《はし》をつけながら、「あたし たち、随分虐められたから、もう本当に楽しいときが来てもいいと思うのよ。ね、あたし、お待 ちしてますから、お手紙度々下さらない」  上眼でじっと見る清子に練太郎は、腹の底から揺り上って来る満面の笑みを湛えた。 「そりゃ、僕の手紙でかまいませなんだら、幾らでも上げますで、あなたも下さいよ」 「そりゃ、あたしは暇ですから、あなたにお手紙書くこと仕事にしましてよ。あたし、帰ればす ぐお父さんに云おうと思いますの。あなた、後悔なさらなくって〜」  練太郎は丁度鶉の足を嗽み切ろうとしているときだったので、 「それは、たいへん」と云うと後は|周章《あわ》てて足をくわえたままお辞儀をした。 「本当にあたし、仕合せだと思いますわ。あたしたちどちらも、一度失望したものばかりなんで すから、もう二度とあんな苦しいことはないんですもの。もうこれからは喜びばかりだわね」  と清子は同意を求めるように練太郎を見上げた。|勿論《もちろん》、練太郎も清子の云うことには異議のあ ろう筈はなかった。 「でも、あたし、お気の毒なのは春子さんだと思いますわ。あたし、まアお蔭でこうしてこんな 嬉しいことはありませんけれど、あの方、お家は潰れるし、御主人とはお別れになるし、それに あんなことになったりして」と清子の眉はまた曇った。練太郎も春子のことを云われては話す気 力も失せるらしく黙っていたが、 「しかし、あの人は狂人になったのやで、 と云って俯向いた。 これは良ろしいよ。 一番気の毒な人はうちの大将や」  練太郎は毎日一度泰子の所へ来て、いろいろ用を片づけていった。文七の七日がすぎると、彼 はいよいよ店の引き継ぎの承諾を得ようと思って泰子に逢った。泰子は文七の部屋へ練太郎を通 した。広い庭にただ一本あるきりの|百日紅《さるすべり》も、日光を受けてはいるものの、家中の静けさに一し お冬の淋しさが感じられた。 「いろいろお骨折下さって、おくたびれでしょう」と、泰子は力のない声で云った。 「いえいえ、|嬢《とう》さんこそ、お|舟体《からだ》お大事にして下さいませんと、みたも困りますから、どうぞお 力落しにたりませんように」  どことなく二人はあらたまった感じで、初対面のような堅さがあった。 「あのう、早速ですが、今日は、お願いに上りましたので、ー実は、こんたことを私から申し 上げては、おかしなことですが、私の資葭が御主人のお蔭で、四十万円あまりございますもので すから、この度私に店の方をやらしていただけないかと、こう思いまして、上ったわけです。こ のままですと、何しろ皆も失業いたしますさかいに、それも一つは、何とかしてやりたいと思い ますし、私もそうしますと、お蔭さまで細々ながらやって行けそうた気もするものですから、ど うぞ一つ、お願い出来ませんでしょうか」  練太郎は膝に両手を乗せてかしこまって云った。泰子は畳に眼を落したまま優しく|頗笑《ほほえ》んだ。 「本当に、そうしていただければどんなにあたしも、気が楽になるか分れしませんわ。あたしか らお願いしたいと思うてましたし、それに高之さんも、練太郎さんに、お父さんの印鑑も、何も かもお渡ししなさいと云うてはりましたの。どうぞ、入用のものがありましたら、何んでも云う てちょうだい。あたし、すぐお出ししますわ」  練太郎はただ黙って頭を下げると少し前に身をかがめた。 「そこまで云うていただきましては却って私の方が、|冥加《みようが》がついて、困ってしまいますが、何ん でございます、甚だ勝手でございますけれども、お家へ二十万円お払いいたしまして、お店を私 に譲って下さいませんでしょうか。そうしていただきますと、当分お名前だけ許していただい て、それから改めます上にも、行く行く非常に好都合だと思いますものですから」 「そう云うお話になりますと、あたしには良う分りませんけど、あたたのお気持の良いようにな さって下されば、一番良いと思いますわ」 「有難うございます。それでは、是非そうしていただくことにお願いいたします。ーそれから、 |嬢《とう》さんの御財産の方ですが、これも御主人のお名前を、全部|嬢《とう》さんのお名前に書き換えませんと、 また後がいろいろ|五月蝿《うるさ》いことにならんとも限りませんから、この際全部お直しになっておしま いになりましては、どうでございましょう?」  練太郎は泰子の顔を見た。 「ええ」と泰子は低い声で云ったまま、しばらく黙っていたが、「では、それもどうぞ」  と云い足すと急に涙が流れ落ちた。泰子は|手巾《ハンカテ》で眼を|拭《ふ》きたがら立ち上って、古ぽけた|茶箪笥《ちやだんす》 の、三つ引出の中にある金庫の鍵を取り出した。文七の印鑑は金庫の中にあるのである。泰子は 印鑑をその中から出すと、 「どうぞ」  と云って練太郎の前に置いた。練太郎は周章てて印鑑を押し返しながら、 「いや、それだけは、いけません。きまりと云うものが、ありますから」とようやく泰子の手に またそれを納めさせた。  泰子が練太郎に渡した委任状に父の印を|捺《お》してから十日もたった、ある日、練太郎は包みを下 げてやって来た。彼は文七の部屋で泰子と会うと包を解いて、中から高さ一尺ほどもある書類の 束を、二つ半ほど取り出して云った。 「どうぞお検べ下さい。これで全部、御主人の御財産を、|嬢《とう》さんのお名前に書き替えたものばか りです。全部で四千二百万円ほどです」  練太郎は笑みを浮べているものの、どこかに恐れをひそめたような、一種あじきない顔をして 書類の束を眺めて云った。 「それは、どうも」  と泰子は云ったが、すぐその書類に手を出そうとしなかった。彼女はお茶を自分で入れて練太 郎にすすめてから、書類を一つずっ手にとった。  大判の|罫紙《けいし》に見馴れぬ印紙をやたらに張った不動産の権利書が幾|綴《つづ》りもあったが、それらのど つ0 れも、皆名義は泰子の名前になっていた。他の二つの束には、手の切れそうた有価証券や、|手垢《てあか》 でくたくたになった証券の上へ帯紙のしてあるものや、その他、それに附属する書類などだった が、四千二百万円という莫大た富は、形式にすればただそれだけのものにすぎたかった。  だいたい、財産というものは、二百万円から三百万円と|噂《うわさ》されている家は、平均すると噂、より も実財の方が多いものだが、それとは反対に、一けた違って三干万、四干万という富豪になると、樽 よりも案外少いのが通例とされている。練太郎もかくべつ驚く様子もない泰子の顔色を見ると、 「これだけの御財産ですと、整理をするとぎ、まとまっておりますから、意外の企纐が引かれる のです」  と、こう説明せざるを得なかった。泰子はただ頷いていただけだったが、実は練太郎の心配と は反対に、考えても見なかった父の財産があまり巨大な額だったので、ひそかにびっくりしてい るのだった。彼女は、これが全部今日から自分の物かと思うと、練太郎が帰ってからも、その日 一冂気分が浮き立ってならなかった。けれども夜になると、骨間とは逆に淋しさが一層強く身に 滲み流れて来た。 「こんなにお金があって、どうしたら良いのだろう」  こう思うと自分を苦しめていたものも、所詮は、自分の知らなかったこの莫大な財産だったよ うにも考えられた。自分が今よりもっと貧しい家の娘であったなら、高之とて無造作に今の自分 と結婚してくれたにちがいない。あの高之が素直に自分と結婚することを拒むのも、一つは父の この財産に養われることを|嫌《ぎら》っているからに相違ない。それなら、このようた財産の、どこが自 分の慰めになるのであろう。ー  泰子は、こうして今や富貴の悲しみに、ようやく押しひしがれて来たのである。彼女は次の日 から、早や自分の財産のことなど忘れてしまって、ただ高之から来る手紙を待った。けれども、 高之は帰った日から手紙ばかりでなく、電話一つさえかけて来なかった。泰子は、淋しさをまぎ らすために、ときどき好きな文楽へ行ったり、能を見に行ったりしてみたが、それにも何の楽し み・も感じなかった。  いつか前には胸とどろかせ、蔵と蔵との間で高之を待ったのを思い出し、そっと夜更けに裏へ 出てみても、そこにはただ冬の月影ばかり、しろじろと壁に|冴《さ》えわたっているぎりだった。  来る日も来る日もしめやかな日がつづくと、泰子はもう広い家中に身の置き場所もないほど淋 しさが募って来た。  ある日、そういうところへ呉服屋が京都から来て、頼んであった反物を持って来た。黒に金糸  叢畚                      籌じゆ荘 の華影の羽織や、総絞りの花車の着物などずらりと並べた中から、泰子は長襦袢にする反物をと り上げた。|布目染《ぬのめぞめ》の|木葉押《このはおし》になった|縮緬《ちりめん》を片手に、じっと眺めているうちに、ふとまた泰子の心 は崩れて来るのだった。 「何を自分は見ていたのだろう」  淋しさはしなやかな縮緬の重みから指を伝って湧き上るように刻々募り、呉服物たど今は見て いる気がしなかった。  今から東京へ行って|来《こ》う。こう思うと、耐えに耐えていた最後の綱も断ち切れた。誰から何と 思われようとかまわない。家に一人いたとて、親もなければ姉妹もないのであった。泰子は時計 を見ると、まだ朝の十一時すぎだった。|燕《つばめ》で行けば夜には高之に逢えるのだ。  昼食もそこそこに泰子が東京行の汽車に乗ったのは、前に高之の所へ逃げた時刻と同じだっ た。泰子はもう行く先の高之の気持など、考えようとはしたかった。  京都、|米原《まいぱら》、名古屋はいつの間にか過ぎた。浜松あたりまで来て食堂車へ茶を飲みに立とうと したとき、泰子は急に寒けを覚えた。スチームが暖かすぎるほど通っているのに膝からぞくぞく と冷え上って来て、ときどきぞっと|胴慄《どうぶる》いがした。泰子は熱いオレンジエードで身体を暖め、我 慢をしたがら東京まで来たときには、寒けは一層加わった。  ここからすぐに病院へ行こうか高之の家へ行こうかと、泰子はフォームの階段を降りつつ迷っ たが、自動車に乗ると、早や泰子は寒けなど忘れてしまった。小網町の高之の家へ着いたのは十 時前だった。泰子は高之の出て来る間、寒さのために庭でがたがた慄えていた。歯が無闇とかち かち鳴り続けた。しばらくして、階段を降りて来る高之の足音がしたときには、泰子は激しい眼 まいを感じて立っているのがようやくだった。 「またお邪魔に上りましたの」と泰子は高之に云った。 「どうぞ」  高之につづいて二階ヘ上って行く泰子は、もう身体が溶け崩れるかと思われるほど苦しくなっ た。高之は泰子と向い合った。 「先日は、御遠方お越し下さいまして」  と泰子は手をついて云った。身体の寒けが心の|戦慄《せんりつ》と一つになって、歯を食いしばればしばる ほど、何か物凄い機械のようにかちかちと鳴りやまなかった。高之も初めはただの寒さであろう と思って火鉢を泰子の方へ押し出したが、それでも泰子の体の慄えは一層|烈《はげ》しくなった。 「どうしたんです」と高之はびっくりして訊ねた。「熱があるようですの」と泰子はそう云ったま ま後はもう言葉が出たかった。顔色は青ざめ、|唇《くちぴる》が紫色に変って来ると、身体を支えている手と 一緒にその場へがくりと倒れてしまった。  高之は女中を呼んですぐ床を敷かせ、自分は電話で医者を呼んだ。  泰子は羽織だけ脱ぎ落し、一寸お辞儀をしてから、そのまま床の上に横になった。高之が二階 へ上って来て、泰子の額に触ったときには、額は燃えるように熱かった。医者の来る間高之は泰 子の枕もとで水で冷したタオルを取り換えたり、脈を計ったりした。検温器で熱をみると、もう 四十度を越していた。  医者が来たときには、泰子の慄えはとまっていたが、熱は頂上までのぽって顔は赧くなってい た。医者は肺炎のおそれがあるから注意をするようにと云って、注射を二本して帰るとすぐ頼ん だ看護婦がやって来た。  泰子は床へついてから、「すみません、すみません」と繰り返していっていたが、そのうちに ずっと眠りつづけた。その間高之はほとんど泰子に附ききりであった。彼はときどきうわ言を云 う泰子の声の中に自分の名を聞いた。泰子の|痩《や》せ衰えた姿が玄関へ現れたとき、高之はすでに泰 子の覚悟のほどを感じたが、今は彼も泰子の不思議な無我夢中の力に、抵抗することは出来なか った。  思えぼいろいろの道を通って来たものだと高之は思った。彼は、実際、あらゆる自分の知識を 利用し富からも愛情からも義理人情からも、逃げ廻って来たのだった。いったい、何のために逃 げていたのであろうと、高之は泰子の寝顔を見ながら考えた。つまり、俺は、仁礼文七という英 雄の古さと闘わねば、|肚《はら》の虫が納まらなかっただけたのだ。と、こう高之は思った。  全く無我夢中の反抗を簡潔に考えれぼ、理由はそれだけだった。泰子も白分も犠牲にせずには いられなかった彼の意気も、とうとう泰子に倒れ込まれると同時に、彼からは消え失せてしまっ たのである。  彼は看護婦に用が出来れば起すから、それまで隣室で寝ているようにすすめ、自分は火鉢に炭 をついで夜明けまで起きていた。東の空が白みかかってやがて朝日が昇って来たころ、泰子は眼 を|醒《さま》した。彼女はぽんやり眼を開けて枕もとにいる高之に気がつくと、|一寸《ちよつと》、羞しそうに夜具の 中に顔を匿した。 「お加減どうですか」  と高之は云って泰子の頬に手をあててみた。熱ばよほど夜よりは引いていた。 「ありがとう」泰子は初めて|蒲団《ふとん》の|襟《えり》から顔を出して笑った。 「熱はだいぶ引きましたから、御安心なさい」 「本当に御心配かけましたわ。あれからまだお|眠《やす》みになりませなんだの?」  高之は黙って泰子の汗ばんだ襟をかき拡げると、静脈の浮き上って見える費かな乳房のふくら みの横へ検温器を羌し入れた。  泰子は一層羞しそうに高之の顔を眺めていてから急に両手で顔を|蔽《おお》ってまた隠れた。  あるロ、忍はテニスに行こうとして、ラケットを小脇に森を抜けていくと、郵便配達が東京か らの泰子の手紙を持って来た。忍は封を切った。   ーしばらく御|無沙汰《ぶさた》しております。あれから東京へ參り、高之さんのお二階で、病気のた  め寝ついてしまいました。多分疲れが急に出たからだろうと刪心います。もう床についてから、  一週問にもなりますが、ようやく、起きることだけゆるされました。すぐお報らせしようと思  いましたが、御心配になってはと、案ぜられましたので、お便りわざといたしませんでした。  それから、申し遅れましたが、私も今度、高之さんと結婚いたすことにたりました。これも皆  あなたさまのお骨折と、有難く厚く感謝いたしております。それにしましても私が長女で一人  ですし、高之さんが同じように長男の一人ですので、またこのことも私の悩みの種に変って參  りました。でも、これは|賛沢《ぜいたく》な苦しみと、今はあきらめておりますから、御安心下さい。それ  から、あなたさまの、東京のお店の方の事は、高之さんがいつまでも番頭と匸て、使っていた  だきたいと申していますから、|何卒《なにとぞ》、お見捨てなく使って上げて下さいませ。これは私からお  願い申し上げます。私もあなたさまを主人といたします高之さんのお心、お察ししますと、涙  のこぼれるほど嬉しく有難く感じます。では、一日もお早くお出で下さいますよう、願い上げ  ます。さようなら。                                    泰  子     忍さま  忍は手紙を読み終るとうな垂れたままぶらぶら二三歩あるいた。すると突然、声を上げて泣き 出した。けれども、急にまた泣きやむと、部屋へもどって東京の高之の家へ電話を通じた。電話 の来る問、忍はテーブルにもたれかかって笑ったり泣いたりした。  一枚の半巾がすぐ涙でびっしょりに濡れると、それを床に投げ捨てて寝室へ這入っていった。 忍はそこの寝台の上へ倒れると、転々と転がってそこでもむせんでいたかと思うと、また跳ね起 きて鼻歌を唄った。  やがて、電話の通じたベルの音に、忍は飛び起きて電話の傍へ駈けていった。 「あたし、大阪の忍ですの。泰子さん、いらっしゃいまして、一寸、すみませんが」  しばらく間をおいてから、泰子が出て来た。 「あなた、泰子さん。あたし、忍よ。あのね、今、お手紙着いたところよ。ありがとう。良かっ たわね。あたし、これから行くわ。病気もうすっかり、宜ろしの、そう、それは、良かったわ。 あたしね、東京へ行こか、思うてたのやけれど、あなた、あたしに黙って、行きなしたでしょ。 それで、あたしも、つい遠慮してたの。高之さん、いらっしゃるの。…… 「あなた、高之さん、あのね、あたし、これからお邪魔しょうか思うてますの。良いかしら。そ う、それは大きに。それから、一寸、あなた、結婚なさるんですってね。お芽出度う。でも、随 分、あなたも失礼よ。あたしに承諾なしに、そんなこと、勝手に定めたりして。番頭さん、もう 直き免職ですから、覚悟しててちょうだい。さよなら」  ぎゃっ、きゃっと笑いながら、忍は電話を切るとまたすぐ寝室へ飛び込んだ。彼女は耐え難い 苦痛をこらえているらしく、もう声を上げず寝台の上を転げ廻っていたが、そのうちに俯伏せに たったまま少しも動かなくなった。それは長い間俯伏せになったままだった。しかし、再び顔を 上げたときには、片頬に枕の|皺《しわ》のあとをつけている忍は、よく寝た後のようにのろりと寝台を降 りて、また次の日の朝のように婆やに紅茶を頼んだ。そのとぎは、忍はまったく、痴呆のように 新鮮た顔で庭に植った冬の|薔薇《ぱら》の花を眺めていた。