横光利一 微笑 次の日曜には甲斐へ行こう。新緑はそれは美しい。そんな会話が擦れ違う声の中からふと聞え た。そうだ、もう新緑になっていると梶は思った。季節を忘れるなどということは、ここしばら くの彼には無いことだった。昨夜もラジオを聞いていると、街の探訪放送で、脳病院から精神病 患者との一問一答が聞えて来た。そして、終りに精神科の医者の記者に云うには、 「まア、こんな患者は、今は珍らしいことではありません。人間が十人集れば、一人ぐらいは、 狂人が混じっていると思っても、良ろしいでしょう」 「そうすると、今の日本には、少しおかしいのが、五百万人ぐらいはいると思っても、さしつか えありませんね、あはははははは」 笑う声が薄気味わるく夜の燈火の底でゆらめいていた。五百万人の狂人の群れが、あるいは今 一斉にこうして笑っているのかしれない。尋常ではない声だった。 「あははははは……」 長く尾をひくこの笑い声を、梶は自分もしばらく胸中にえがいてみていた。すると、しだいに あはははがげらげらに変って来て、人間の声ではもうなかった。何ものか人間の中に混じってい る声だった。 自分を狂人と思うことは、なかなか人にはこれは難しいことである。そうではないと思うより は、難しいことであると梶は思った。それにしても、いまも梶には分らぬことが一つあった。人 間は誰でも少しは狂人を自分の中に持っているものだという名言は、忘れられないことの一つだ が、中でもこれは、かき消えていく多くの記憶の中で、ますます鮮明に膨れあがって来る、一種 異様な記憶であった。 それも新緑の噴き出て来た晩春のある日のことだ。 「色紙を一枚あなたに書いてほしいという青年がいるんですが、よろしければ、一つー」 知人の高田が梶の所へ来て、よく云われるそんな注文を梶に出した。別に稀な出来事ではな かったが、このときに限って、いつもと違う特別な興味を覚えて梶は筆を執った。それというの も、まだ知らぬその青年について、高田の説明が意外な興味を呼び起させるものだったからであ る。青年は栖方といって俳号を用いている。栖方は俳人の高田の弟子で、まだ二+一歳になる帝 大の学生であった。専攻は数学で、異常な数学の天才だという説明もあり、現在は横須賀の海軍 へ研究生として引き抜かれて勤めているという。 「もう周囲が海軍の軍人と憲兵ばかりで、息が出来ないらしいのですよ。だもんだから、こっそ り脱け出して遊びに来るにも、俳号で来るので、本名は誰にもいえないのです。まア、斎藤と いっておきますが、これも仮名ですから、そのおつもりで」 高田はそう梶に云ってから、この栖方は、特.殊な武器の発明を三種類も完成させ、いま最後の 一つの作品の仕上げにかかっている、とも云ったりした。このような話の真実性は、感覚の特殊 に鋭敏な高田としても確証の仕様もない、ただ噂の程度を正直に梶に伝えているだけであること は分っていた。しかし、戦局は全面的に日本の敗色に傾いている空襲直前の、新緑のころであ る。噂にしても誰も、明るい、噂に餓えかつえているときだった。細やかな人情家の高田のひき 緊った喜びは、勿論梶をも揺り動かした。 「どんな武器ですかね」 「さア、それは大変なものらしいのですが、二一一百したらお宅へ本人が伺うといってましたか ら、そのときでも訊いて下さい」 「何んだろう。噂の原子爆弾というやつかな」 「そうでもないらしいのです。何んでも、凄い光線らしい話でしたよ。よく私も知りません が、1」 傾いて来ている大斜面を、再びぐっと刎ね起き返すある一つの見えない力、というものが、も しあるなら欲しかった。しかし、そういう物の一つも見えない水平線の彼方に、ぽっと射し露れ て来た一条の光線に似たうす光が、あるいはそれかとも梶は思った。それは夢のような幻影とし ても、苦しむ幻影より喜びたい幻影の方が強力に梶を支配していた。祖国ギリシャの敗戦のと き、シラクサの城壁に迫るローマの大艦隊を、錨で釣り上げ投げつける起重機や、敵船体を焼き つける火鏡の発明に夢中になったアルキメデスの姿を、梶はその青年栖方の姿に似せて空想し た。 「それはまた、物凄い青年が出て来たものだなア」と梶は云って感嘆した。 「それも、可愛いところのある人ですよ。発明は夜中にするらしくて、大きな音を立てるものだ から、どこの下宿屋からも抽り出されましてね。今度の下宿には娘がいるから、今度だけは良さ そうだ、なんて云ってました。学位論文も通ったらしいんです」 「じゃ、二十一歳の博士か。そんな若い博士は初めてでしょう」 「そんなことも云ってました。通った論文も、アインスタインの相対性原理の間違いを指摘した ものだと云ってましたがね」 異才の弟子の能力に高田も謙遜した表情で、誇張を避けようと努めている苦心を梶は感じ、先 ずそこに信用が置かれた気持良い一日となって来た。 「ときどきそんな話もなくては困るね。もう悪いことばかりだからなア。たった一日でも良いか ら、頭の晴れた日が欲しいものだ」 梶の幻影は疑いなくそのような気持から忍び込み、拡り始めたようだった。とにかく、祖国を 敗亡から救うかもしれない一人の巨人が、いま、梶の身辺にうろうろし始めたということは、彼 生涯の大事件だと思えば思えた。それも、今の高田の話そのものだけを事実としてみれば、希望 と幻影は同じものだった。 「しかし、そんな圭星が今ごろ僕の色紙を欲しがるなんて、おかしいね。そんなものじゃないだ ろう」 と梶は云った。そして、そう思いもした。 「けれども、何といっても、まだ小供ですよ。あなたの色紙を貰ってくれというのは、何んでも 数学をやる友人の中に、あなたの家の標札を盗んで持ってるものがいるので、よし、おれは色紙 を貰って見せると、ついそう云ってしまったらしいのです」 梶は十年も前、自宅の標札をかけてもかけても脱されたころの日のことを思い出した。長くて 標札は三日と保たなかった。その日のうちに取られたのも二一二あった。郵便配達からは小言の食 いづめにあった。それからは固く釘で打ちつけたが、それでも門標はすぐ剥がれた。この小事件 は当時、梶一家の神経を悩ましていた。それだけ、今ごろ標札のかわりに色紙を欲しがる青年の 戯れに実感がこもり、梶には、他人事ではない直接的な繋がりを身に感じた。当時の悩みの種が 意外なところへ落ちていて、いつの間にかそこで葉を伸ばしていたのである。彼は一日も早く栖 方に会ってみたくなった。おそるべき青年たちの一塊をさし覗いて、彼らの悩み、ーそれもみ な数学者のさなぎが羽根を伸ばすに必要な、何か食い散らす葉の一枚となっていた自分の標札を 思うと、さなぎの顔の悩みを見たかった。そして、梶自身の愁いの色をそれと比べて見ること は、失われた門標の、彼を映し返してみせてくれる偶然の意義でもあった。 ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴音を響かせて来た。石に鳴る靴音の響き加 減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談を いうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが、こ れはまことに恐るべき石畳の神秘な能力だと思うようになって来たのも最近のことである。何か そこには電磁作用が行われるものらしい石の鳴り方は、その日は、一種異様な響きを梶に伝え た。ひどく格調のある正確なひびきであった。それは二人づれの音響であったが、四つの脚音の 響き具合はぴたりと合い、乱れた不安や懐疑の重さ、孤独な低迷のさまなどいつも聞きつける脚 音とは違っている。全身に溢れた力が濃りつつ、頂点で廻転している透明なひびきであった。 梶は立った。が、またすぐ坐り直し、玄関の戸を開け加減の音を聞いていた。この戸の音と脚 音と一致していないときは、梶は自分から出て行かない習慣があったからである。間もなく戸が 開けられた。 「御免下さい」 初めから声まで今日の客は、すべて一貫したリズムがあった。梶が出て行ってみると、そこに 高田が立っていて、そしてその後に帝大の学帽を冠った青年が、これも高田と似た微笑を二つ重 ねて立っていた。 「どうぞ」 とうとう門標が戻って来た。どこを今までうろつき廻って来たものやら、と、梶は応接室であ る懐しい明るさに満たされた気持で、青年と対いあった。高田は梶に栖方の名を云って初対面の 紹介をした。 学帽を脱いだ栖方はまだ少年の面影をもっていた。街々の一隅を馳け廻っている、いくら悪戯 をしても叱れない墨を顔につけた腕白な少年がいるものだが、栖方はそんな少年の姿をしてい る。郊外電車の改札口で、乗客をほったらかし、鋏をかちかち鳴らしながら同僚を追っ馳け廻し ている切符きり、と云った主星-であった。 「お話をきくと毎日が大変らしいようですね」 先ずそんなことから梶は云った。栖方は黙ったまま笑った。ぱッと音立てて朝開く花の割れ咲 くような笑顔だった。赤児が初めて笑い出す|暦《えくぽ》のような、消えやすい笑いだ。この少年が博士に なったとは、どう思ってみても梶には頷けないことだったが、笑顔に顕れてかき消える瞬間の美 しさは、その他の疑いなどどうでも良くなる、真似手のない無邪気な笑顔だった、梶は学問上の 彼の苦しみや発明の辛苦の工程など、栖方から訊き出す気持はなくなった。また、そんなことは 訊ねても梶には分りそうにも思えなかった。 「お郷里はどちらです」 「A県です」 ぱッと笑う。 「僕の家内もそちらには近い方ですよ」 「どちらです」と栖方は訊ねた。 丁市だと梶が答えると、それではY温泉の松屋を知っているかとまた栖方は訊ねた。知ってい るばかりではない、その宿屋は梶たち一家が行く度によく泊った宿であった。それを云うと、栖 方は、 「あれは小父の家です」 と云って、またぱッと笑った。茶を煎れて来た梶の妻は、栖方の小父の松屋の話が出てからは 忽ち二人は特別に親しくなった。その地方の細かい双方の話題が暫く高田と梶とを捨てて賑やか になっていくうちに、とうとう栖方は自分のことを、田舎言葉まる出しで、 「おれのう」と梶の妻に云い出したりした。 「もうすぐ空襲が始るそうですが、恐いですわね」と梶の妻が云うと、コ機も入れない」と栖 方は云ってまたぱッと笑った。このような談笑の話と、先日高田が来たときの話とを綜合してみ た彼の経歴は、二十一歳の青年にしては複雑であった。中学は首席で柔道は初段、数学の検定を 四年のときにとった彼は、すぐまた一高の理科に入学した。二年のとき数学上の意見の違いで教 師と争い退校させられてから、徴用でラバァウルの方へやられた。そして、ふたたび帰って帝大 に入学したが、この入学には彼の才能を惜しんだある有力者の力が働いていたようだった。この 間、栖方の家庭上にはこの若者を悩ましている一つの悲劇があった。それは、母の実家が代々の 勤皇家であるところへ、父が左翼で獄に入ったため、籍もろとも実家の方が栖方母子二人を奪い 返してしまったことである。父母の別れていることは絶ちがたい栖方のひそかな悩みであった。 しかし、梶はこの栖方の家庭上の悩みには話題を触れさせたくはなかった。勤皇と左翼の争い は、触れれば、忽ち物狂わしい渦巻に巻き襲われるからである。それは数学の排中律に似た解決 困難な問題だった。栖方は、その中心の渦中に身をひそめて呼吸をして来たのであってみれば、 父と母との争いのどちらに想いをめぐらせるべきか、という相反する父母二つの思想体系にもみ ぬかれた、彼の若々しい精神の苦しみは、想像にかたくない。同一の問題に真理が二つあり、一 方を真理とすれば他の方が怪しく崩れ、二つを同時に真理とすれば、同時に二つが嘘となる。そ して、この二つの中間の真理というものはあり得ないという数学上の排中律の苦しみは、栖方に とっては、父と母と子との間の問題に変っていた。 しかし、勤皇と左翼のことは別にしても、人の頭をつらぬく排中律の含んだこの確率だけは、 ただ単に栖方一人にとっての問題でもない。実は、地上で争うものの、誰の頭上にも降りかかっ て来ている精神に関した問題であった。これから頭を反らし、そ知らぬ表情をとることは、要す るに、それはすべてが偽せものたるべき素質をもつことを証明しているがごときものだった。実 に静々とした美しさで、そして、いつの間にかすべてをずり落して去っていく、恐るべき魔のよ うな難題中のこの難題を、梶とて今、この若い栖方の頭に詰めより打ち降ろすことは忍びなかっ た。いや、梶自身としてみても自分の頭を打ち割ることだ。いや、世界もまたしかし、現に 世界はあるのだ。そして、争っているのだった。真理はどこかになければならぬ筈にもかかわら ず、争いだけが真理の相貌を呈しているという解きがたい謎の中で、訓練をもった暴力が、ただ その訓練のために輝きを放って白熱している。 「いったい、それは、眼にするすべてが幽霊だということか。手に触れる感覚までも、これ は幽霊ではないとどうしてそれを証明することが出来るのだ」 ときには、斬り落された首が、ただそのまま引っ付いているだけで、知らずに動いている人間 のような、こんな怪しげな幻影も、梶には活んで来ることがあったりした。われ有るに非ざれ ど、この痛みどこより来るか。古人の悩んだこんな悩ましさも、十数年来まだ梶から取り去られ ていなかった。そして、これは戦争が敗北に終ろうと、勝利になろうと、同様に続いて変らぬ排 中律の生みつづけていく難問たることに変りはない。 「あなたの光線は、威力はどれほどのものですか」 梶が栖方に訊ねてみようかと思ったのも、何かこのとき、ふと気がかりなことがあって、思い とまった。 「ドイッの使い始めたV一号というのも、初めは少年が発明したとかいうことですね。何んでも 僕の聞いたところでは、世界の数学界の実力は、年齢が二十歳から二十三四歳までの青年が握っ ていて、それも、半年ごとに中心の実力が次ぎのものに変っていく、という話を、ある数学者か ら聞いたことがありますが、日本の数学も、実際はそんなところにありますかね。どうです」 君自身がいまそれか、と暗に訊ねたつもりの梶の質問に、栖方は、ぱッと開く微笑で黙って答 えただけだった。梶はまたすぐ、新武器のことについて訊きたい誘惑を感じたが、国家の秘密に 栖方を誘いこみ、口を割らせて彼を危険にさらすことは、飽くまで避けて通らねばならぬ、狭い 間道をくぐる思いで、梶は質問の口を探しつづけた。 「俳句は古くからですか」 これなら無事だ、と思われる安全な道が、突然二人の前に開けて来た。 「いえ、最近です」 「好きなんですね」 「おれのう、頭の休まる法はないものかと、いつも考えていたときですが、高田さんの俳句をあ る雑誌で見つけて、さっそく入門したのです。もう僕を助けてくれているのは、俳句だけです。 他のことは、何をしても苦しめるばかりですね。もう、ほッとして」 青葉に射し込もっている光を見ながら、安らかに笑っている栖方の前で、梶は、もうこの青年 に重要なことは何一つ訊けないのだと思った。有象無象の大群衆を生かすか殺すか彼一人の頭に かかっている。これは眼前の事実であろうか、夢であろうか。とにかく、事はあまりに重大すぎ て想像に伴なう実感が梶には起らなかった。 「しかし、君がそうして自由に外出できるところを見ると、まだ看視はそれほど厳しくないので すね」と梶は訊ねた。 「厳しいですよ。俳句のことで出るというときだけ、許可してくれるのです。下宿屋全部の部屋 が憲兵ばかりで、ぐるりと僕一人の部屋を取り包んでいるものですから、勝手なことのできるの は、俳句だけです。もうたまらない。今日も憲兵がついて来たのですが、句会があるからと云っ て、品川で撒いちゃいました」 帰ってから憲兵への口実となる色紙の必要なことも、それで分った。梶は、自分の色紙が栖方 の危険を救うだけ、自分へ疑惑のかかるのも感じたが、門標につながる縁もあって彼は栖方に色 紙を書いた。 「科学上のことはよく僕には分らなくて、残念だが、今は秘密の奪い合いだから、君も相当に危 いですね、気をつけなくちゃ」 「そうです。一度横須賀へ来てみて下さい。僕らの工場をお見せしますから」 「いや、そんな所を見せて貰っても、僕には分らないし、知らない方がいいですよ。あなたにこ れでお訊ねしたいことが沢山あるが、もう全部やめです。それより、アインスタインの間違いっ て、それは何んですか」 「あれは仮設が間違っているのですよ。仮設から仮設へ渡っているのがアインスタインの原理で すから、最初の仮設を叩いてみたら、他がみな弛んでしまって」 空中楼閣を描く夢はアインスタインとて持ったであろうが、いまそれが、この栖方の検閲に あって礎石を覆えされているとは、これもあまりに大事件である。梶にはも早や話が続かなかっ た。栖方を狂人と見るには、まだ栖方の応答のどこ一つにも狂いはなかった。 「君の数学は独創ばかりのような感じがするが、君は零の観念をどんなふうに思うんです、君の 数学では。僕は零が肝心だと思うんだが、どうですか」 「そこですよ」栖方はひどく乗り出すふうに早口になって笑った。 「おれのは、みんなそこからです。誰一人分ってくれない。この間も、それで喧嘩をしたのです が、日本の軍艦も船も、みな間違っているのです。船体の計算に誤算があるので、おれはそれを 直してみたのですが、おれの云うようにすれば、六ノット速力が迅くなる、そういくら云って も、誰も聞いてはくれないのですよ。あの船体の曲り具合のところです。そこの零の置きどころ が間違っているのです」 誰も判定のつきかねる所で、栖方はただ一人孤独な闘いをつづけているようだった。殊に、零 点の置きどころを改革するというような、いわば、既成の仮設や単一性を抹殺していく無謀さに は、今さら誰も応じるわけにはいくまいと思われる。しかし、すでに、それだけでも栖方の発想 には天才の資格があった。二十一歳の青年で、零の置きどころに意識をさし入れたということ は、あらゆる既成の観念に疑問を抱いた証拠であった。おそらく、彼を認めるものはいなかろう と梶は思った。 「通ることがありますか、あなたの主張は」と梶は訊ねた。 「なかなか通りませんね。それでも、船のことはとうとう勝って通りました。学者はみんな僕を やっつけるんだけれども、おれは、証明してみせて云うんですから、仕様がないでしょう。これ からの船は速度が迅くなりますよ」 どうでも良いことばかり雲集している世の中で、これだけはと思う一点を、射し動かして進行 している鋭い頭脳の前で、大人たちの営々とした間抜けた無駄骨折りが、山のように梶には見え た。 「いっぺん工場を見に来て下さい。御案内しますから。面白いですよ。俳句の先生が来たんだか らといえば、許可してくれます」栖方は、梶が武器に関する質問をしないのが不服らしく、梶の 黙っている表情に注意して云った。 「いや、それだけは見たくないなア」と梶は答えを渋った。 栖方は一層不満らしく黙っていた。前後を通じて栖方が梶に不満な表情を示したのは、このと きだけだった。 「そんなところを見せてもらっても、僕には何の益にもならんからね。見たって分らないんだも の」 これは少し残酷だと梶は思いもした。しかし、梶には、物の根祇を動かしつづけている栖方の 世界に対する、云いがたい苦痛を感じたからである。この梶の一瞬の感情には、宣懇哀楽のすべ てが籠っていたようだった。便々として為すところなき梶自身の無力さに対する嫌悪や、栖方の 世界に刃向う敵意や、栖方の仕事を目撃する淋しさや、1いや、見ないに越したことはない、 と梶は思った。そして、栖方の云うままには動けぬ自分の嫉妬が淋しかった。何となく、梶は栖 方の努力のすべてを否定している自分の態度が淋しかった。 「君、排中律をどう思いますかね、僕の仕事で、いまこれが一番問題なんだが」 梶は、問うまいと思っていたことも、ついこんなに、話題を外らせたくなって彼を見た。する と、栖方は、 「あッ」と小声の叫びあげて、前方の棚の上に廻転している扇風機を指差した。 「零点五だッ」 閃めくような栖方の答えは、勿論、このとき梶には分らなかった。しかし、梶は、訊き返すこ とはしなかった。その瞬間の栖方の動作は、たしかに驚きを感じたらしかったが、そっとそのま ま梶は栖方をそこに沈めて置きたかった。 「あの扇風機の中心は零でしょう。中の羽根は廻っていて見えませんが、ちょっと眼を脱して見 た瞬間だけ、ちらりと見えますね、あの零から、見えるところまでの距離の率ですよ」 間髪を入れぬ栖方の説明は、梶の質問の壷には落ち込んでは来なかったが、いきなり、廻転し ている眼前の扇風機をひっ掴んで、投げつけたような、この栖方の早業には、梶も身を翻えす術 かなかった。 「その手で君は発明をするんだな」 「おれのう、街を歩いf、いると、石に蹟いてぶっ倒れたんです。そしたら、横を通っていた電車 の下っ腹から、火の噴いてるのが見えたんですよ。それから、家へ帰って、ラジオを点けようと 思って、スイッチをひねったところが、ぼッと鳴って、そのまま何んの音も聞えないんです。そ れで、電車の火と、ラジオのぼッといっただけの音とを結びつけてみて、考え出したのですよ。 それが僕の光線です」 この発想も非凡だった。しかし、梶はそこで、急いで栖方の口を絞めさせたかった。それ以上 の発言は栖方の生命にかかわることである。青年は危険の限界を知らぬものだ。栖方も梶の知ら ぬところで、その限界を踏みぬいている様子があったが、注意するには早や遅すぎる疑いも梶に は起った。 「倒れたのが発想か。倒れなかったら、何にもないわけだな」 これもすべてが零からだと梶は思って云った。彼は栖方が気の毒でたまらなかった。 その日から梶は栖方の光線が気にかかった。それにしても、彼の云ったことが事実だとすれ ば、栖方の生命は風前の燈火だと梶は思った。いったい、どこか一つとして危険でないところが あるだろうか、梶はそんなに反対の安全率の面から探してみた。絶えず隙間を狙う兇器の群れ や、嫉視中傷の起す焔は何を謀むか知れたものでもない。この危険から身を防ぐためには、! 梶はその方法をも考えてみたが、すべての人間を善人と解さぬ限り、何もなかった。 しかし、このような暗港とした空気に拘らず、栖方の笑顔を思い出すと、光がぽッと射し展い ているようで明るかった。彼の表情のどこ一点にも愁いの影はなかった。何ものか見えないもの に守護されている貴さが溢れていた。 ある日、また栖方は高田と一緒に梶の家へ訪ねて来た。この日は白い海軍中尉の服装で、短剣 をつけている彼の姿は、前より幾らか大人に見えたが、それでも中尉の肩章はまだ栖方に似合っ てはいなかった。 「君はいままで、危いことが度々あったでしょう。例えば、今思ってもぞっとするというような ことで、運よく生命が助かったというようなことですがね」と、梶は、あの思惑から話半ばに栖 方に訊ねてみた。 「それはもう、随分ありました。最初に海軍の研究所へ連れられて来たその日にも、ありました」 栖方はそう答えてその日のことを手短に話した。研究所へ着くなり栖方は、新しい戦闘機の試 験飛行に乗せられ、急直下するその途中で、機の性能計算を命ぜられたことがあった。すると、 急にそのとき腹痛か起り、どうしても今日だけは赦して貰いたいと栖方は歎願した。軍では時日 を変更することは出来ない。そこで、その日は栖方を除いたものだけで試験飛行を実行した。見 ていると、大空から急降下爆撃で垂直に下って来た新飛行機は、栖方の眼前で、空中分解をし、 ずぼりと海中へ突き込んだそのまま、尽く死んでしまった。 また別の話で、ラバァウルヘ行く飛行中、操縦席からサンドウィッチを差し出してくれたとき のこと、栖方は身を斜めに傾けて手を延ばしたその瞬間、敵弾が飛んで来た。そして、彼に的ら ず、後ろのものが胸を撃ち貫かれて即死した。 また別の第三の偶然事、これは一番栖方らしく梶には興味があったが、1少年の日のこと、 まだ栖方は小学校の生徒で、朝学校へ行く途中、その日は母が栖方と一緒であった。雪のふかく 降りつもっている路を歩いているとき、一羽の小鳥が飛んで来て、彼の周囲を舞い歩いた。少年 の栖方にはそれが面白かった。両手で小鳥を掴もうとして追っかける度に、小鳥は身を翻して、 いつまでも飛び廻った。 「おれのう、もう掴まるか、もう掴まるかと思って、両手で鳥を抑えると、ひょいひょいと、う まい具合に鳥は逃げるんです。それで、とうとう学校が遅れて、着いてみたら、大雪を冠ったお れの教室は、雪崩でぺちゃんこに潰れて、中の生徒はみんな死んでいました。もう少し僕が早 かったら、僕も一緒でした」 栖方は後で母にその小鳥の話をすると、そんな鳥なんかどこにもいなかったと母は云ったそう である。梶は訊いていて、この栖方の最後の話はたとい作り話としても、すっきり抜けあがった 佳作だと思った。 「鳥飛んで鳥に似たり、という詩が道元にあるが、君の話も道元に似てますね」 梶は安心した気持でそんな冗談を云ったりした。西日の射しこみ始めた窓の外で、一枚の木製 の素簾が垂れていた。栖方はそれを見ながら、 「先日お宅から帰ってから、どうしても眠れないのですよ。あの素簾が眼について」と云って、 なお彼は窓の外を見つづけた。「僕はあの素簾の横板が幾つあったか忘れたので、それを思い出 そうとしても、幾ら考えても分らないのですよ。もう気が狂いそうになりましたが、とうとう 分った。やっぱり合ってた。二十二枚だ」栖方は嬉しそうに笑顔だった。 「そんなことに気がつき出しちゃ、それや、たまらないなア」一人いるときの栖方の苦痛は、も う自分には分らぬものだと梶は思って云った。 「夢の中で数学の問題を解くというようなことは、よくあるんでしょうね。先日もクロネッカア という数学者が夢の中で考えついたという、青春の論理とかいう定理の話を聞いたが、ー」 「もうしょっちゅうです。この間も朝起きてみたら、机の上にむつかしい計算がいっぱい書いて あるので、下宿の婆さんにこれだれが書いたんだと訊いたら、あなたが夕べ書いてたじゃありま せんかというんです。僕はちっとも知らないんですがね」 「じゃ、気狂い扱いにされるでしょう」 「どうも、そう思ってるらしいですよ」栖方はまた眼を上げて、ぱッと笑った。 それでは今日は栖方の休日にしようと云うことになって、それから梶たち三人は句を作った。 青葉の色のにじむ方に顔を向けた栖方は、「わが影を逐いゆく鳥や山ななめ」という幾何学的な 無季の句をすぐ作った。そして、葉山の山の斜面に鳥の迫っていった四月の嘱目だと説明した。 高田の鋭く光る眼差が、この日も弟子を前へ押し出す謙抑な態度で、句会の場数を踏んだ彼の心 遣いもよくうかがわれた。 「三たび茶を戴く菊の薫りかな」 高田の作ったこの句も、客人の古風に昂まる感情を締め抑えた清秀な気分があった。梶は佳い 日の午後だと喜んだ。出て来た梶の妻も食べ物の無くなった日の詫びを云ってから、生瓜をもみ 出した。栖方は、梶の妻と地方の言葉で話すのが、何より慰まるふうらしかった。そして、さっ そく色紙へ、 「方言のなまりなつかし生瓜もみ」という句を書きつけたりした。 栖方たちが帰っていってから十数日たったある日、また高田ひとりが梶のところへ来た。この 日の高田は凋れていた。そして、梶に、昨日憲兵が来ていうには、栖方は発狂しているから彼の 云いふらして歩くこと一切を信用しないでくれと、そんな注意を与えて帰ったということだっ た。 「それで、栖方の歩いたところへは、皆にそう云うよう、という話でしたから、お宅へもちょっ とそのことをお伝えしたいと思いましてね」 一撃を喰った感じで梶は高田と一緒にしばらく沈んだ。みな栖方の云ったことは嘘だったのだ ろうか。それとも、lI彼は狂人にして置かねばならぬ憲兵たちの作略の苦心は、栖方のためか もしれないとも思った。 「君、あの青年を僕らも狂人としておこうじゃないですか。その方が本人のためにはいい」と梶 は云った。 「そうですね」高田は垂れ下っていくような元気の失せた声を出した。 「そうしとこう。その方がいいよ」 高田は栖方を紹介した責任を感じて詫びる風に、梶について上っては来なかった。梶も、とも すると沈もうとする自分が怪しまれて来るのだった。 「だって君、あの青年は狂人に見えるよ。またそうかも知れないが、とにかく、もし狂人に見え なかったなら、栖方君は危いよ。あるいはそう見えるように、僕ならするかもしれないね。君 だってそうでしょう」 「そうですね。でも、何んだか、みなあれは、科学者の夢なんじゃないかと思いますよ」高田は あくまで喜ぶ様子もな<、その日は一日重く黙り通した。 高田が帰ってからも、梶は、今まで事実無根のことを信じていたのは、高田を信用していた結 果多大だと思ったが、それにしても、梶、高田、憲兵たち、それぞれ三様の姿態で栖方を見てい るのは、三つの零の置きどころを違えている観察のようだった。 一切が空虚だった。そう思うと、俄に、そのように見えて来る空しかった一ヵ月の緊張の溶け 崩れた気怠るさで、いつか彼は空を見上げていた。 残念でもあり、ほっとした安心もあり、辻り落ちていく暗さもあった。明日からまたこうして 頼りもない日を迎えねばならぬーしかし、ふと、どうしてこんなとき人は空を見上げるものだ ろうか、と梶は思った。それは生理的に実に自然に空を見上げているのだった。円い、何もない、 ふかぶかとした空を。1 高田の来た日から二日目に、栖方から梶へ手紙が来た。それには、ただ今天皇陛下から拝謁の 御沙汰があって参内して来ましたばかりです。涙が流れて私は何も申し上げられませんでした が、私に代って東大総長がみなお答えして下さいました。近日中御報告に是非御伺いしたいと 思っております。とそれだけ書いてあった。栖方のことは当分忘れていたいと思っていた折、梶 は多少この栖方の手紙に後ろへ戻る煩わしさを感じ、忙しそうな彼の字体を眺めていた。すると、 その翌日栖方は一人で梶の所へ来た。 「参内したんですか」 「ええ、何もお答えできないんですよ。言葉が出て来ないのです。一度僕の傍まで来られて、そ れから自分のお席へ戻られましたが、足数だけ算えていますと、十一歩でした。五メータです。 そうすると、みすが下りまして、その対うから御質問になるのです」 ぱッといつもの美しい微笑が開いた。この栖方の無邪気な微笑にあうと、梶は他の一切のこと などどうでも良くなるのだった。栖方の行為や仕事や、また、彼が狂人であろうと偽せものであ ろうと、そんなことより、栖方の頬に活ぶ次の微笑を梶は待ちのぞむ気持で話をすすめた。何よ りその微笑だけを見たかった。 「陛下は君の名を何とお呼びになるの」 「中尉は、と仰言いましたよ。それからおって沙汰する、と最後に仰言いました。おれのう、も う頭がぼッとして来て、気狂いになるんじゃないかと思いましたよ。どうも、あれからちょっと おかしいですよ」 栖方は眼をぱちぱちさせ、云うことを聞かなくなった自分の頭を撫でながら、不思議そうに 云った。 「それはお芽出たいことだったな、用心をしないと、気狂いになるかもしれないね」 梶はそういう自分が栖方を狂人と思って話しているのかどうか、それがどうにも分らなかっ た。すべて真実だと思えば真実であった。嘘だと思えばまた尽く嘘に見えた。そして、この怪し むべきことが何の怪しむべきことでもない、さっぱりしたこの場のただ一つの真実だった。排中 律のまっただ中に活んだ、ただ一つの直感の真実は、こうしていま梶に見事な実例を示してくれ ていて、「さア、どうだ、どうだ。返答しろ」と梶に迫って来るようなものだった。それにも拘 らず、まだ梶は黙っているのである。「見たままのことさ、おれは微笑を信じるだけだ」と、こ う梶は不精に答えてみたものの、何ものにか、巧みに転がされころころ翻弄されているのも同様 だった。 「今日お伺いしたのは、一度御馳走したいのですよ。一緒にこれから行ってくれませんか。自動 車を渋谷の駅に待たせてあるのです」 と、栖方は云った。 「今ごろ御馳走を食べさすようなところ、あるんですか」 「水交社です」 「なるほど、君は海軍だったんですね」と、梶は、今日は学生服ではない栖方の開襟服の肩章を 見て笑った。 「今日はおれ、大尉の肩章をつけてるけれど、本当はもう少佐なんですよ。あんまり若く見える ので、下げてるんです」 少年に見える栖方のまだ肩章の星数を喜ぶ様子が、不自然ではなかった。それにしても、この 少年が危急を救う唯一の人物だとは、1しかし、それにしても、この栖方がi幾度も感じた 疑問がまた一寸梶に起ったが、何一つ梶は栖方の云う事件の事実を見たわけではない。また調べ る方法とてもない夢だ。彼のいう水交社への出入も栖方一人の夢かどうか、ふと梶はこのとき身 を起す気持になった。 「君という人は不思議な人だな。初めに君の来たときには、何んだか足音か普通の客とどこか 違っていたように思ったんだがー」と梶は眩くように云った。 「あ、あのときは、おれ、駅からお宅の玄関まで足数を計って来たのですよ。六百五十二歩」栖 方はすぐ答えた。 なるほど、彼の正確な足音の謎はそれで分った。と梶は思った。梶は栖方の故郷をA県のみを 知っていて、その県のどこかは知らなかったが、初め来たとき梶は栖方に、君の生家の近くに平 田篤胤の生家がありそうな気がするが、と一言訊くと、このときも「百メータ」と明瞭にすぐ答 えた。また、海軍との関係の成立した日の腹痛の翌日、新飛行機の性能実験をやらされたとき、 栖方は、垂直に落下して来る機体の中で、そのときでなければ出来ない計算を四度び繰り返した 話もした。そして、尾翼に欠点のあることを発見して、 「よくなりますよ、あの飛行機は」と云ったりしたが、氾濫しつつ彼の頭に襲いかかって来る数 式の運動に停止を与えることができないなら、栖方の頭も狂わざるを得ないであろうと梶は思っ た。 正確だから狂うのだ、という逆説は、彼にはたしかに通用する近代の見事な美しさをも語って いる。 「君はきょうは、水交社から来たんですか。憲兵はついて来ていないの」と梶は栖方に家を出る 前訊ねてみた。 「きょうは父島から帰ったばかりですよ。その足で来たのです」 栖方の発音では父島が千島と聞えるので、千島へどうしてと梶か訊ね返すと、チチジマと栖方 は云い直した。 「実験をすませて来たのですよ。成功しました。一番早く死ぬのは猫ですね。あれはもう、一寸 光線をあてるところりと逝く。その次が犬です。猿はどういうものか少し時間をとりますね」 と栖方は低く笑いながら、額に日灼けの条の入った頭を掻いた。狂人の寝言のように無造作に そう云うのも、よく聞きわけて見ると、恐るべき光線の秘密を眩いているのだった。 「僕は動物の心臓というものに興味が出て来ましたよ。どうも、いろいろ心臓に種類があるよう な気がして来て、これを皆験べたら面白いだろうなアと思いました」 栖方の武器は、事実それなら進行しているのだろうか、と梶は思った。しかし、何ぜだか梶は、 ここまで彼と親しくなって来ていても、それが事実かどうかを栖方に訊き返す気はしなかった。 あまりに面倒で、起っている事件は異様すぎて、却って梶に迫力を与えない。のみならず、どこ かで栖方をまだ狂人と思っているところがあって、何を云っても彼を許しておけるのだった。 「父島まではどれほどかかるのです」 「二時間です。あそこの電力は弱いから、実験は思うようにはできないんですよ。それでも、一 万フィートぐらいまでなら、効力がありますね。初めは海中では駄目だろうと思っていたんです が、海水は塩だから、空気中より海中の方が、効力のあることが分りましたよ」 「へえ。一万フィートなら相当なものだな」 自信に満ちた栖方の笑顔は、日常眼にする群衆の憂轡な顔とはおよそかけ放れて晴れていた。 「潜水艦にもかけてみましたが、これは、うっかりして、後尾へ当っちゃったものだから、浮き あがる筈のやつが、いつまでも浮かないんですよ。気の毒なことをした」 ちょっと栖方は悲しげな表情になったが、それも忽ち晴れあがった。 「日本の潜水艦?」と梶は驚いて訊ねた。 「そうです。いやだったなア、あのときは。もう実験はこりこりだと思いましたね。あれだから いやになる」 異様な事件が不思議と真実の相をおびて梶に迫って来始めた。では、みな事実か。この青年の 口走っていることは、1 「しかし、そんな武器を悪人に持たした日には、事だなア」と梶は思わず眩いた。 「そうですよ。監理が大変です」 「人類が滅んじまうよ」 もう冗談事ではなかった。梶は自分が驚いているのかどうか、も早やそれも分らなかった。し かし、どうしてこんな場合に、不意に悪人のことを自分は考えたのだろうか。ひやりと一抹の不 安を覚えるのはどうしたことだろうか。先日までは、まだ栖方の新武器が夢だと思っていた先日 まで、栖方の生命の安危が心配だったのに、それが事実に近づいて来てみると、彼のことなども 早やどうでも良くなって、悪魔の所在を嗅ぎつけようとしている自分だということはー悪魔、 たしかにいるのだこ奴は、と梶は思った。 「その君の武器は、善人に手渡さなきア、国は滅ぶね。もし悪人に渡した日には、そりゃ、敗け だ」と、何ぜともなく梶は眩いて立ち上った。神います、と彼は文句なくそう思ったのである。 栖方と梶とは外へ出た。西日の射す退けどきの渋谷のプラットは、車内から流れ出る客と乗り 込む客とで渦巻いていた。その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしない一人の背高い、 蒼ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にとまった。憂愁を湛えた清らかな眼差は、細く輝きを帯 びて空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさけて外方を向いたまま動かなかった。 「あそこに帝大の生徒がいるでしょう」と栖方は梶に云った。 「ふむ。いる」 「あれは僕の同僚ですよ。やはり海軍詰めですがね」 群衆の流れのままに二人は、海軍と理科との二つの襟章をつけたその青年の方へ近づいた。 「あッ、黙っているな。敵樵心を感じたかな」と栖方は云うと、横を向いた青年の背後を、これ もそのまま梶と一緒に過ぎていった。 「もう僕は、憎まれる憎まれる。誰も分ってくれやしない」と栖方はまた眩いたが、歩調は一層 活澄に憂々と響いた。並んだ梶は栖方の歩調が染ってリズミカルになりながら、割れているのは 群衆だけではないと思った。日本で最も優秀な実験室の中核が割れているのだ。 栖方が待たせてあると云った自動車は、渋谷の広場にはいなかった。そこで二人は都電で六本 木まで行くことにしたが、栖方は、自動車の番号を梶に告げ、街中で見かけたときはその番号を 呼び停めていつでも乗ってくれと云ったりした。電車の中でも栖方は、二十一歳の自分が三十過 ぎの下僚を呼びつけにする苦痛を語ってから、こうも云った。 「僕がいま一番尊敬しているのは、僕の使っている三十五の伊豆という下級職工ですよ。これを 叱るのは、僕には一番辛いことですが、陰では、どうか何を云っても赦して貰いたい、工場の中 だから、君を呼び捨てにしないと他のものが、云うことを聞いてはくれない、国のためだと思っ て、当分は赦してほしいと頼んであるんです。これは豪い男ですよ。人格も立派です。そこへい くと、僕なんか、伊豆を呼び捨てにできたもんじゃありませんがね」 この栖方のどこが狂人なのだろうか、と梶はまた思った。二十一歳で博士になり、少佐の資格 で、年上の沢山な下僚を呼び捨てに手足のごとく使い、日本人として最高の栄誉を受けようとし ている青年の挙動は、栖方を見脱して他に例のあったためしはない。それなら、これからゆく先 の長い年月、栖方は今あるよりもただ下るばかりである。何という不幸なことだろう、梶はこの 美しい笑顔をする青年が気の毒でならなかった。 六本木で二人は降りた。橡の木の並んだ狸穴の通りを歩いたときは、夕暮のせまった街に人影 はなかった。そこを坂下からこちらへ十人ばかりの陸軍の兵隊が、重い鉄材を積んだ車を曳いて 登って来ると、栖方の大尉の襟章を見て、隊長の下士が敬礼ッと号令した。ぴたッと停った一隊 に答礼する栖方の挙手は、隙なくしっかり板についたものだった。軍隊内の栖方の姿を梶は初め て見たと思った。 「もう君には、学生臭はなくなりましたね」と梶は云った。 水交社が見えて来た。この海軍将校の集会所へ一一一一旭入るのは、梶には初めてであった。どこの煙 筒からも煙の出ないころだったが、ここの高い煙筒だけ一本濠々と煙を噴き上げていた。携帯品 預所の台の上へ短剣を脱して出した栖方は、剣の柄のところに菊の紋の彫られていることを梶に 云って、 「これ僕んじゃないのですが、恩賜の軍刀ですよ。他人のを借りて来たんです。もうじき、僕も 貰うもんですから」 子供らしく云いながら、栖方はある室の入口へ案内した。そこには佐官以上の室の標札が懸っ ていた。油の磨きで黒々とした光沢のある革張りのソファや椅子の中で、大尉の栖方は若々しい というより、少年に見える不似合な童顔をにこにこさせ、梶に慰めを与えようとして骨折ってい るらしかった。食事のときも、集っている将校たちのどの顔も沈欝な表情だったが、栖方だけ一 人活き活きとした笑顔で、肱を高くビールの罎を梶のコップに傾けた。フライやサラダの皿が出 たとき、 「そんな君の尉官の襟章で、ここにいてもいいのですか」と梶は訊ねてみた。 「みなここの人は僕のことを知ってますよ」 栖方は悪びれずに答えた。そのとき、また一人の佐官が梶の傍へ来て坐った。そして、栖方に 挨拶して黙々とフォークを持ったが、この佐官もひどくこの夕は沈んでいた。もう海軍力はどこ の海面のも全滅している噂の拡がっているときだった。レイテ戦は総敗北、海軍の大本山、戦艦 大和も撃沈された風説が流れていた。 珍らしいパン附の食事を終ってから、梶と栖方は、中庭の広い芝生へ降りて東郷神社と小額の ある祠の前の芝生へ横になった。中庭から見た水交社は七階の完備したホテルに見えた。二人の 横たわっている前方の夕空にソビエットの大使館が高さを水交社と競っていた。東郷小祠の北星以 の方へ、折れ曲っている広い特別室に灯が入った。栖方は黄楊の葉の隙から見える後のその室を 指して、 「あれは少将以上の食堂ですが、何か会議があるらしいですよ」と説明した。大きな建物全体の 中でその一室だけ煙々と明るかった。爽やかな白いテーブルクロスの間を白い夏服の将官たちが 入口から流れ込んで来た。梶は、敗戦の将たちの燈火を受けた胸の流れが、漣のような忙しい白 さで着席していく姿と、自分の横の芝生にいま寝そべって、半身を捻じ曲げたまま燈の中をさし 覗いている栖方を見比べ、大慶の崩れんとするとき、人皆この一木に頼るばかりであろうかと、 あたりの風景を疑った。一人の明哲判断のない狂いというものの持つ恐怖は、もはや日常茶飯時 の平静ささえ伴なっている静かな夕暮だった。 「ここへ来る人間は、みなあの部屋へ這入りたいのだろうが、今夜のあの灯の下には哀愁があ るね。前にはソビエットが見ているし」 「僕は、本当は小説を書いてみたいんですよ。帝大新聞に一つ出したことがあるんですが、相対 性原理を叩いてみた小説で、傘屋の娘というんです」 どういう栖方の空想からか、突然、栖方は手枕をして梶の方を向き返って云った。 「ふむ」梶はまことに意外であった。 「長篇なんですよ。数学の教授たちは面白い面白いと云ってくれましたが、僕はこれから、数学 を小説のようにして書いてみたいんです。あなたの書かれた旅愁というの、四度読みましたが、 あそこに出て来る数学のことは面白かったなア」 考えれば、寝ても立ってもおられぬときだのに、大度を支える一木が小説のことをいうのであ る。遠しい将官たちの往き来とソビエットに挾まれた夕闇の底に横たわりながら、ここにも不可 解な新時代はもう来ているのかしれぬと梶は思った。 「それより、君の光線の色はどんな色です」と梶は話を逸らせて訊ねた。 「僕の光線は昼間は見えないけども、夜だと周囲がぼッと青くて、中が黄色い普通の光です。空 に上ったら見ていて下さい」 「あそこでやってる全佼の会議も、君の光の会議かもしれないな。どうもそれより仕様がない」 暗くなってから二人は帰り仕度をした。携帯品預所で栖方は、受け取った短剣を腰に吊りつつ 梶に、「僕は功一級を貰うかもしれませんよ」と云って、元気よく上着を捲くし上げた。 外へ出て真ッ暗な六本木の方へ、二人は黙って歩きつづけた。緊迫した石垣の冷たさが籠み冴 えて透った。暗い狸穴の街路は静な登り坂になっていて、ひびき返る靴音だけ聞きつつ梶は、先 日から驚かされた頂点は今夜だったと思った。そして、栖方の云うことを嘘として退けてしまう には、あまりに無力な自分を感じてさみしかった。いや、それより、自分の中から剥げ落ちよう としている栖方の幻影を、むしろ支えようとしているいまの自分の好意の原因は、みな一重に栖 方の微笑に牽引されていたからだと思った。彼はそれが口惜しく、ひと思いに彼を狂人として払 い落してしまいたかった。梶は冷然としていく自分に妙に不安な戦標を覚え、黒々とした樹立の 沈黙に身をよせかけていくように歩いた。 「僕はね、先生」とまた暫くして、栖方は梶に擦りよって来て云った。「いま僕は一つ、悩んで いることがあるんですよ」 「何んです」 「僕は今まで一度も、死ぬということを恐いと思ったことはなかったんですが、どういうものだ か、先日から死ぬことが恐くなって来たんです」 栖方の本心が眼覚めて来ている。梶はそう思って、「ふむ」と云った。 「何ぜでしょうかね。僕はもうちょっと生きていたいのですよ。僕はこのごろ、それで眠れない のです」 深部の人間が揺れ動いて来ている声である。気附いたなと梶は思った。そして、耳をよせて次 の栖方の言葉を待つのだった。また二人は黙って暫く歩いた。 「僕はもう、誰かにすがりつきたくって、仕様がない。誰もないのです」 今まで無邪気に天空で戯れていた少年が人のいない周囲を見廻し、ふと下を覗いたときの、泣 き出しそうな孤独な恐怖が洩れていた。 「そうだろうな」 答えようのない自分がうすら悲しく、梶は、街路樹の幹の皮の厚さを見過してただ歩くばかり だった。彼は早く燈火の見える辻へ出たかった。丁度、そうして夕暮れ鉄材を積んだ一隊の兵士 と出会った場所まで来たとき、澄刺としていた昼間の栖方を思い出し、やっと梶は云った。 「しかし、君、そういうところから人間の生活は始まるのだから。あなたもそろそろ始まって来 たのですよ。何んでもないのだ、それは」 「そうでしょうか」 「誰にもすがれないところへ君は出たのさ。零を見たんですよ。この通りは狸穴といって、狸ば かり棲んでいたらしいんだが、それがいつの間にか、人間も棲むようになって、この通りですか らね。僕らの一生もいろんなところを通らねばならんですよ。これだけはどう仕様もない。ま ア、いつも人は、始まり始まりといって、太鼓でも叩いて行くのだな。死ぬときだって、僕らは そう為ようじゃないですか」 「そうだな」 漸やく泣き停ったような栖方の正しい靴音が、また梶に聞えて来た。六本木の停留所の灯が二 人の前へさして来て、その下に塊っている二一二の人影の中へ二人は立つと、電車が間もなく坂を 昇って来た。 秋風がたって九月ちかくなったころ、高田が梶の所へ来た。栖方の学位論文通過の祝賀会を明 日催したいから、梶に是非出席してほしい、場所は横須賀で少し遠方だが、栖方から是非とも梶 だけは連れて来て貰いたいと依頼されたということで、会を句会にしたいという。句会の祝賀会 なら出席することにして、梶は高田の誘いに出て来る明日を待った。 「どういう人が今日は出るのです」 と、梶は次の日、横須賀行の列車の中で高田に訊ねた。大尉級の海軍将校数名と俳句に興味を 持つ人たちばかりで、山の上にある飛行機製作技師の自宅で催すのだと、高田の答えであった。 「この技師は俳句も上手いが、優秀な豪い技師ですよ。僕と俳句友達ですから、遠慮の要らない 間柄なんです」と高田は附加して云った。 「しかし、憲兵に来られちゃね」 「さア、しかし、そこは句会ですから、何とかうまくやるでしょう」 途中の間も、梶と高田は栖方が狂人か否かの疑問については、どちらからも触れなかった。そ れにしても、栖方を狂人だと判定して梶に云った高田が、その栖方の祝賀会に、梶を軍港まで引 き摺り出そうとするのである。技師の宅は駅からも遠かった。海の見える山の登りも急な傾き で、高い石段の幾曲りに梶は呼吸がきれぎれであった。葛の花のなだれ下った斜面から水が洩れ ていて、低まっていく日の満ちた谷間の底を、日ぐらしの声がつらぬき透っていた。 頂上まで来たとき、青い榿の実に埋った家の門を一一一一氾入った。そこが技師の自宅で句会はもう 始っていた。床前に坐らせられた正客の栖方の頭の上に、学位論文通過祝賀俳句会と書かれて、 その日の兼題も並び、二十人ばかりの一座は声もなく句作の最中であった。梶と高田は曲縁の一 端のところですぐ兼題の葛の花の作句に取りかかった。梶は膝の上に手帖を開いたまま、中の座 敷の方に背を向け、柱にもたれていた。枝をしなわせた榿の実の触れあう青さが、梶の疲労を吸 いとるようであった。まだ明るく海の反射をあげている夕空に、日ぐらしの声が絶えず響き透っ ていた。 「これは僕の兄でして。今日、出て来てくれたのです」 栖方は後方から小声で梶に紹介した。東北なまりで、礼をのべる小柄な栖方の兄の頭の上の竹 筒から、葛の花が垂れていた。句会に興味のなさそうなその兄は、間もなく、汽車の時間が切れ るからと挨拶をして、誰より先に出ていった。 「|燈《ンマつ》青き丘の別れや葛の花」 梶はすぐ初めの一句を手帖に書きつけた。蝉の声はまだ降るようであった、ふと梶は、すべて を疑うなら、この栖方の学位論文通過もまた疑うべきことのように思われた。それら栖方のして いることごとが、単に栖方個人の夢遊中の幻影としてのみの事実で、真実でないかもしれない。 いわば、その零のごとき空虚な事実を信じて誰も集り祝っているこの山上の小会は、いまこうし て花のような美しさとなり咲いているのかもしれない。そう思っても、梶は不満でもなければ、 むなしい感じも起らなかった。 「日ぐらしや主客に見えし葛の花」と、また梶は一句書きつけた紙片を盆に投げた。 日が落ちて部屋の灯が庭に射すころ、会の一人が隣席のものと囁き交しながら、庭のま垣の外 を見詰めていた。垣裾へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者が憲兵を中へ招じ 入れたものか、どうしたものかと栖方に相談した。 「いや、入れちゃいかん。癖になる」 床前に端坐した栖方は、いつもの彼には見られぬ上官らしい威厳で首を横に振った。断乎とし た彼の即決で、句会はそのまま続行された。高田の披講で一座の作句が読みあげられていくに随 い、梶と高田の二作がしばらく高点を競りあいつつ、しだいにまた高田が乗り越えて会は終っ た。丘を下っていくものが半数で、栖方と親しい後の半数の残った者の夕食となったが、忍び足 の憲兵はまだ垣の外を廻っていた。酒が出て座がくつろぎかかったころ、栖方は梶に、 「この人はいつかお話した伊豆さんです。僕の一番お世話になっている人です」と紹介した。 労働服の無口で堅固な伊豆に梶は礼をのべる気持になった。栖方は酒を注ぐ手伝いの知人の娘 に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を報 らめ、立居に落ち着きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望の ある貴品を湛えていて、ひとり和やかに沈む癖があった。 東京からの客は少量の酒でも廻りが早かった。額の染った高田は仰向きに倒れて空を仰いだと きだった。灯をつけた低空飛行の水上機が一機、丘すれすれに爆音をたてて舞って来た。 「おい、栖方の光線、あいつなら落せるかい」と高田は手枕のまま栖方の方を見て云った。一瞬 どよめいていた座はしんと静まった。と、高田ははッと我に返って起きあがった。そして、厳し く自分を叱責する眼付きで端坐し、間髪を入れぬ迅さで再び静まりを逆転させた。見ていて梶 は、鮮かな高田の手腕に必死の作業があったと思った。襯杢枚の栖方はたちまち躍るように愉 しげだった。 その夜は梶と高田と栖方の三人が技師の家の二階で泊った。高田が梶の右手に寝て、栖方が左 手で、すぐ眠りに落ちた二人の間に挾まれた梶は、寝就きが悪く遅くまで醒めていた。上半身を 裸体にした栖方は蒲団を掛けていなかった。上蒲団の一枚を四つに折って顔の上に乗せたまま、 両手で抱きかかえているので、彼の寝姿は座蒲団を四五枚顔の上に積み重ねているように見えて 滑稽だった。どういう夢を見ているものだろうかと、夜中ときどき梶は栖方を覗きこんだ。ゆる い呼吸の起伏をつづけている膀の周囲のうすい脂肪に、鈍く電燈の光が射していた。蒲団で栖方 の顔が隠れているので、首なしのように見える若い胴の上からその膀が、 「僕、死ぬのが何んだか恐くなりました」 眠りについた。 と梶に眩くふうだった。 梶は栖方の膀も見たと思って 梶と栖方はその後一度も会っていない。その秋から激しくなった空襲の折も、梶は東京から一 歩も出ず空を見ていたが、栖方の光線はついに現れた様子がなかった。梶は高田とよく会うたび に栖方のことを訊ねても、家が焼け棲家のなくなった高田は、栖方についてはもう興味の失せた 答えをするだけで、何も知らなかった。ただ一度、栖方と別れて一ヵ月もしたとき、句会の日の 技師から高田にあてて、栖方は襟章の星を一つ附加していた理由を罪として、軍の刑務所へ入れ られてしまったという報告のあったことと、空襲中、技師は結婚し、その翌日急病で死亡したと いう二つの話を、梶は高田から聞いただけである。栖方と同じ所に勤務していた技師に死なれて は、高田もそこから栖方のことを聞く以外に方法のなかったそれまでの道は断ちきれたわけで あった。随って梶もまたなかった。 戦争は終った。栖方は死んでいるにちがいないと梶は思った。どんな死に方か、とにかく彼は もうこの世にはいないと思われた。ある日、梶は東北の疎開先にいる妻と山中の村で新聞を読ん でいるとき、技術院総裁談として、わが国にも新武器として殺人光線が完成されようとしていた こと、その威力は三千メートルにまで達することが出来たが、発明者の一青年は敗戦の報を聞く と同時に、口惜しさのあまり発狂死亡したという短文が掲載されていた。疑いもなく栖方のこと だと梶は思った。 「栖方死んだぞ」 梶はそう一言妻に云って新聞を手渡した。一面に詰った黒い活字の中から、青い焔の光線が一 条ぷっと噴きあがり、ばらばらッと砕け散って無くなるのを見るような迅さで、梶の感情も華び らいたかと思うと間もなく静かになっていった。みな零になったと梶は思った。 「あら、これは栖方さんだわ。とうとう亡くなったのね。一機も入れないって、あたしに云って らしたのに。ほんとに、敗けたと聞いて、くらくらッとしたんだわ。どうでしょう」 妻のそういう傍で、梶は、栖方の発狂はもうすでにあのときから始っていたのだと思われた。 彼の云ったりしたりしたことは、あることは事実、あることは夢だったのだと思った。そして、 梶は自分も少しは彼に伝染して、発狂のきざしがあったのかもしれないと疑われた。梶は玉手箱 の蓋を取った浦島のように、呆ッと立つ白煙を見る思いで暫く空を見あげていた。技師も死に、 栖方も死んだいま見る空に彼ら二人と別れた横須賀の最後の日が映じて来る。技師の家で一泊し た翌朝、梶は栖方と技師と高田と四人で丘を降りていったとき、海面に碇泊していた潜水艦に直 撃を与える練習機を見降ろしながら、技師が、 「僕のは幾ら作っても作っても、落される方だが、栖方のは落す方だからな、僕らは敵いません よ」 情然として眩く紺背広の技師の一歩前で、これはまた濃刺とした栖方の坂路を降りていく鰐足 が、ゆるんだ小田原提灯の巻ゲートル姿で涯んで来る。それから一二笠艦を見物して、横須賀の駅 で別れるとき、 「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから、お元気で」 はっきりした眼付きで、栖方はそう云いながら、梶に強く敬礼した。どういう意味か、梶は別 れて歩くうち、ふと栖方のある覚悟が背に沁み伝わりさみしさを感じて来たが、1 疎開先から東京へ戻って来て梶は急に病気になった。ときどき彼を見舞いに来る高田と会った とき、梶は栖方のことを云い出してみたりしたが、高田は死児の齢を算えるつまらなさで、ただ 曖昧な笑いをもらすのみだった。 「けれども、君、あの栖方の微笑だけは、美しかったよ。あれにあうと、誰でも僕らはやられる よ。あれだけはー」 微笑というものは人の心を殺す光線だと}う意味も、梶は含めて云ってみたのだった。それに しても、何よりも美しかった栖方のあの初春のような微笑を思い出すと、見上げている空から落 ちて来るものを待つ心が自ら定って来るのが、梶には不思議なことだった。それはいまの世の人 たれもが待ち望む一つの明哲判断に似た希望であった。それにも拘らず、冷笑するがごとく世界 はますます二つに分れて押しあう排中律のさ中にあって漂いゆくばかりである。梶は、廻転して いる扇風機の羽根を指差しぱッと明るく笑った栖方が、今もまだ人々に云いつづけているように 思われる。 「ほら、羽根から視線を脱した瞬間、廻っていることか分るでしょう。僕もいま飛び出したばか りですよ。ほら」 (「人間」昭和23年1月号)