朱色の祭壇 山下利三郎 --------------------- 発端  時は遡る。  |巴爾幹《バルカン》半島の一角に点じられた戦火が、僚々全欧州に燃えひろがり、幾年の久しきに渉って |霧《おびただ》しき精霊と富を犠牲とし、到るところ悲劇惨劇が展開された。|而《しか》して遂に戦いの渦は東洋 にまで波及し、西半球をも捲きこんでしまった。  |併《しか》し、その惨鼻極まる戦禍をここに描こうとするのではない。ただ欧州大戦に参加したわが 国が、聯合軍側を援助するため、駆逐艦は海波遠く出動し、幾多の船舶は|傭約《チヤ タ 》され、霧深き 地中海や巨鯨潮をふく大西洋に、就航していた時代にこの物語の、発端を生じたまでである。  欧州の天地修羅と化して|弦《ユしアし》に一年、一千九百十五年×月×日のことであった、波高き北海の 星月夜。  軍需品を満載したわが万宝丸は、舷燈を滅し舷窓を蔽うて航行していた。  船長は自室に退いて、同郷の一|等運《チ 》転|士《フ》と絶えて久しい郷里の追憶を語り、船橋には当直が 行くての|暗《やみ》を|膿《みつ》めながら、哨戒の任に就いていた。波濤千里………遥けき故郷の思い出こそ誰 の胸にも懐しい。  船長室の卓上を飾った|額枠《フレ ム》の、若い優しい彼の妻が五才ばかりの女児を、膝に抱上げている 写真を顧みて、船長は……妻が……子供が……と、愛情のこもった言葉で話す。聞き手の一|等 運《チ 》転|士《フ》はその度に淋しく微笑みながら、悩ましい視線をチラと走せる。  下番の士官も以下の船員も各自の船室で、煙草を吹かしたり、談笑に余念のなかった午後九 時過ぎ。  突然……実際それは何の予感すら伴わない唐突だった。轟然たる大爆音とともに、船体がぶ るぶるっと震動した。と思うと。今まで規則正しく響いていた機関の音がピタリと止まり、1 瞬間の無気味な静寂を破って、各室からおこるワッという叫喚と、続いて、甲板に降注ぐ滝の ような水柱のザザザザッという音が、船長を椅子から弾き上げた、彼は|闊《たつ》をつき開けて上甲板 ヘ駈上る。若い一|等運《チオ》転|士《フ》も声を励まして、戸惑いする船員たちを叱吃しつつ、同じく船長の 跡をおうた。  船は徐々に左舷へ傾いてゆく。 「船長、|撃《や》られましたッ」登りくる船長の姿を見た船橋からは悲痛な声がした、「左舷、水線 下に喰らったのです、|潜《サ》航|艇《ブ》の畜生ッ」  これを聞くと船長は、背後から追附いてきた一等運転士に命令した。 「全力をつくして排水をやってくれ給え、そして救難信号を早く…-…・」  損傷の程度軽かれと念じた効もなく、惣員必死の排水も奔流のような浸水に対しては徒労に 過ぎない、応急修理を加うべくその被害が余りに大きかった。 「駄目かッ………|短艇《ボ ト》卸し方用意」  年歯|已《すで》に不惑に達し物に動じない船長も、この咄嵯に処して是れ以外の名案は浮かばなかっ た。  太い眉を|屹《きつ》と寄せて|欄干《てすり》を握りしめ、傾斜しゆくわが船の悲運を、沈痛な顔色に打守ってい た。  とがん、ころころころ    再び起る大爆音に船はまた劇しく揺れた。 「やッ………またかッ」|践《よろよろ》々として|漸《や》っと踏応えた船長は|斯《こ》う叫んで振顧ると、物凄い水柱の 立ったのは右舷後部である。  左舷に傾いていた船はこれがために、漸次右舷を下に水へ浸り始めた。 「短艇卸せ、総員避難………よく落ちついて、|潜《サ》航|艇《ブ》の野郎から|喧《わら》われないようにしろ、日本 人らしく引上げてくれ」  各自規律正しく短艇に乗移ってしまう。 コ|等運《チ 》転|士《フ》、早く避難しないと危険だ、何をしている」  船長は船橋からすかし見て、唯一人甲板から去りもやらぬ人影へ大声に畷鳴った。 「船長こそ早く降りていらっしゃい」  一等運転士も大声に喚きかえす。  船は刻一刻水中へ下降してゆくようである。 「僕にはまだ仕事が残っている、心配せずに早く乗らないか…・…-一|等運《チ 》転|士《フ》、頼むぞ。|故郷《くに》 の奴等によろしく云ってくれ」  死生命あり………一等運転士は意を決して短艇に飛びこんだ。 「では船長、御機嫌よう」 「左様なら………早く行けッ」  短艇は本船を離れた。  暗の中を遠ざかりゆく|擁《かい》の音が聞こえずなるまで耳を澄ましていた船長は、石化したように 身動きもせず目を閉じた瞼の裏に描いたのは妻と子の|悌《おもかげ》である。  一旦真直ぐに立直った船体が、可なりの速さで沈下してゆき、姻と沫と水蒸気とを名残りに、 万宝丸は|幾尋《いくひろ》とも知れぬ北海の波間に呑まれた。  S・0・S:::N56・24……E6・47・・-:の無電信号に接した英国駆逐艦が、一時間 後に現場へ到着した頃は、すでに|橋《マスト》の尖端をさえ波上に認めることができなかった。 1  激しい生存競争の圏外へ立ったように、平和で閑寂な塩屋の浜には、森の梢に明けて野末に 暮れる、昔ながらの月日が永く続いていた。併し時の流れはこの僻村をも|見遁《みのが》しはしなかっ た。  野人を窒息させるような世智辛い風が、用捨なく吹きこんでくる。  生存|敗窟《はいざん》者はここにも居た。狂った彼は何を考えていることだろう、陰気な監禁室の中に立 って、方一尺ばかりな窓の鉄格子に捉まりながら、戸外を眺めていた。  砂丘の上を鳶がゆるく舞っている。  この小さな窓こそ、彼に与えられた唯一の慰安であった。潮の香を含んだ大気はそこから、 陽光と一緒に流れこんで鉄格子だけは邪魔になるが、前の草原や砂丘の後方の波打際から、海 も空も纏りよく眼界に入って、雄渾な構想に描かれた一幅の画である。  彼、重吉はそこから渚を歩む漁夫や、沖を走る白帆、日に幾度となく変る海や砂の色を眺め て、長い無柳を慰さめていたが、何うかしたはずみに感情の抑制を失い、兇暴な血が憤りにた ぎり立ったときは、満身の力で鉄格子を揺すり、破目板を蹴って喚き散らすのが常であった。  彼は先刻からある一点を凝視していた。  砂の上に曳上げられて甲羅を干している漁船の蔭に烈しく争っている二つの人影を蹟めてい るのだった。  一人はもう老人で対手は若い男である。|敦《いず》れも火のように相手を罵倒し合っている、遂々自 制を失ったらしい若者が、傍にあった網干竿をとって、打懸ろうとしたとき、老人もすばやく 脚下の砂を握っていた。  術も策もあらばこそ。竿が空に躍り、砂は飛散る。重吉は子供のように手を拍ち、ぴょんぴ ょん跳上って悦んだ、併しその争闘も長くは続かなかった。  その近くに網を繕っていた漁夫たちが、殺気立った両人の中を押隔てて双方を別々にどこか へ伴れていった。重吉は折角面白く見物していた活劇を、中止されて頻りに不平らしく舌打ち をしていたが、どうした事か急にその瞼しい顔色を和げ、その瞳を晴々しく輝かせた。  釘だ、どこか板の緩みから引抜いて、窓枠の隅に匿しておいた一本の釘が目についたのであ る。指先につまんで打返し打返し眺めた矢先、コトリと鳴った台所の物音に、悸然として釘を 懐中へ隠した。|若《も》しもそのとき凄い彼の瞳を見た人があれば、恐らく身標いを禁じ得なかった であろう。  やがて、夕方が近づいてきた。雑草の間から|緒《あか》い地肌を曝け出している砂丘へ、|金色《こんじき》の|箭《や》を |射《い》かけていた夕陽の光が薄れて、のたりのたりと寄せる入江の波に映っていた、美しい|茜色《あかね》が |槌《あ》せてしまうと、夕霧がしっぼり漁村をつつみ子供を呼ぶ女房たちの甲高い声も、背戸のうち に消えて、微酔機嫌の濁みた笑い声が漏れてくる頃は、もう完全に夜が地上を征服している。  昼間の争いにも重吉の釘にも、関聯を持たない夜は、平和に静に更けていった。併し、秋の 夜は大空まで淋しい。天の河の流れが東西に変り、北天を賑わしていた北斗星が地平線下にか くれ、光薄い群星の中にアンドロメダが淑かに瞬いている。  その暗い空の涯に星と|擬《まご》う一つの光。この村外れ安土ヶ丘に建つ山荘の灯が、時としては明 るく冴え、或いは弱々しく隠現し、また全く見えない夜もあった。同じ丘に祀る鎮守の社は、 欝蒼と茂った森に囲まれ、常夜燈が社頭を朧ろに照らすばかり、昼さえ幽寂の境である。  新鮮な乙女の肌を思わせる若葉の香が、沖から流れよる潮の香と絡み合う季節から、去年の 古い落葉を踏んで忍びゆく、若人や乙女たちの手を曳合った姿を、|斎《いつ》きまつる|産土《うぶすな》の神のみが |知召《しろしめ》していた。  麓の|華表《とりい》の外は土橋をこえて千本松原、その並木道の中途から堤をおりて、浜の方へ少しゆ くと籔蔭に、安場|権三《ごんぞう》の家がある。近郷きっての網主|鬼権《おにごん》の住居としては不似合なほど、粗末 で小さな建物であるが、家の周囲に続らした土塀の堅固さに、主の要心深さが窺知られた。  今夕は奥座敷に客があるらしく、パチリ………と、盤面に碁石をおろす音が漏れてきた。薄 暗い台所では耳の遠い権三の妻が、祖襖を繕いながら、いつの間にか仮睡の快さを負っていた が、|良人《おつと》の大きな声にハッと腰を浮かせた。 「お|関《せき》………繁田さんのお帰りだ」  玄関まで送られた繁田村長は庭へ降りると権三を振顧って。 「今夜は散々の|態《てい》ですな、近いうちに|吊《とむら》い合戦に来ますぞ」 「返り討なら何時でも………その、|機会《おり》があれば結構じゃが」勝続けて機嫌の好い権三は、白 髪頭を反らせて傲慢に笑った。  神経質で犬嫌いらしい村長は、庭の片隅に賜る|斑犬《ぶち》を気味悪るそうに避けながら帰ってゆく。 お関が|四辺《あたり》を取片附けはじめると、抵当流れらしい柱時計が睡そうな音で九点をうった。 「おい、勝の野郎はまだ持ってこないか、ちえっ、極道め……ではお前、いつものように廻っ てくれ」  声高に吠いつけた権三は、根付け代りに受取判を括りつけた空財布と、手繰札の束を一緒に 妻の前へ投げ出した。  お関がそれを手にして庭へ降りるのを見て、今まで寝そべっていた斑犬がむっくり起上 り1斯うして護衛するのが俺の役目なのだIlというように、取立てにゆくお関の|背後《ろしろ》から |雇《つ》いていった。  この取立てというのは不快な仕事であった。まとま.った金額は権三が直接行くが、少額の崩 済金や利息を集めるのは、大抵三日目くらいにお関が出かける習慣だった。  愚痴や泣言を並べる|債務者《かりて》に同情すれば、良人から烈しい|叱言《こごと》を喰うし、良人の満足を得よ うとすれば勢い、手酷しい催促をしなければならない-…--本質的に気の弱いお関は、時々自 分の生存意義を疑うことすらあった。近郷きっての網主の妻として、永年連添う自分に、僅の |金子《きんす》さえ自由に使うことを許さない|吝薔《りんしよく》な良人。またその冷酷な仕打を憤って家出をした連 れ子のことで、朝夕悩みながら権三に曳摺られて生きてゆく、自分の運命が彼女には悲しかっ た。  権三の方ではまた自分の殖財計画を妨げるものは、相手が誰であろうと用捨しなかった。今 夜も妻を取立てに廻らせたのち、奥座敷でニヤニヤ狡そうに笑いながら、帳箪笥の錠を外して 一束の書類を取出し、膝の前へ列べて誇り顔に眺めたが、直ぐ以前の抽出へ蔵いこんだ。  少時たつと、ガチャリ! 流し元の皿鉢類を鼠が取落したらしい物音に、 『|叱《し》っ、畜生……叱っ叱っ』と、鼠の無作法を呪いながら一足庭へふみ下ろした瞬間。  耳の下を|強《したた》か郷られたように感じたまま、|眩《くらくら》々と躯の中心を失いそこへ|筋斗《もんどり》うって転んだ。  ううん……と、権三の断末魔の坤き、それも一声で止み、あとの一瞬を気味悪いしじまが支 配した。  間もなく|表口《おもて》の暗からばたばたと駈出した|建音《あしおと》がしたと同時に裏塀を乗越えて、ひらりと地 上に飛降りた人影が、疾風の勢いでその跡を追う。  この二つの影が小路を|幕道《まつしぐら》に駈け出したとき、更にまた路傍の物蔭から躍出た一つの影が 同じようにその跡を追うていった。  細長い帯のような道を、弾丸の如く馳せゆく三人。  併し最後の人影は超人的な速度で、ぐんぐん第二の人影との距離を縮めてゆく。二間--…- 一間-……・。真に奮迅の勢いで追迫り、|猿胃《えんぴ》を伸ばして掴んだ肩口を横へ引く。ひかれてタタ タタッとたたらをふんで流れるを、|敏捷《すぱや》く背後から腰へ組みついた。 「うぬッ」武者ぶりつきながら喚く。 「誰だ、放せっ」第二の影は苛立って、振解こうと|腕《もが》いたが、確と絡みついた両腕は、容易に 放れそうもない。  |先登《せんとう》の人影とは五間、七間と隔たりが出来てしまう。  精一杯抱締めた力を逆に腰をひねられ、思わず双腕を放してよろよろと践けたが、再び猛然 と飛びかかる出先を、電光のように突きだした拳に、|願《あご》を下から激しく突上げられ、「うんッ」 と坤いたきり第三の人影は脆くも其処へ転んで、少時は起上ることが出来ないらしかった。  敵の願へ一撃を与えた第二の人影は、それを見定める余裕もなく、また跡を逐うて矢のよう に駈けていった。  それから|凡《およ》そどれくらい時間が経過したか。追いつ追われつ並木路を走っていった人影はど うなったか。その人々は誰か………。  一切の謎は闇の|帳《とぱり》にへだてられ、解き得べくもなかった。  併し、お関が近村一帯を取立てを終って、この並木路を帰ってきたとき、路傍に賜まる男を 怪しと見た|斑犬《ぷち》が、喧しく吠えたてた。樗いて立上った彼は、足もとに迫ってくる犬を、幾度 も追散らそうとしてはむなしく虚空を蹴る。犬は巧みに|蝶《かわ》して吠えつく。  お関は烈しく飼犬を叱りつけた。声限り喚かれて斑犬が怯るむ隙に、その男は今まで小楯に とった松の幹へ、身軽に飛びついてスルスルと華じ登った。 「まあ|貴郎《あなた》、聞別けのない犬でございますが、どうぞ御勘弁を……コレ|斑犬《ぷち》、まだか、叱っ、 畜生っ」  お関は誰だか解らない相手に詫びて、飼犬を叱り伴れてゆく。  高い枝に脚をかけた|件《くだん》の男は、遠ざかりゆくお関の背向姿とまだ振顧って未練らし,(、、吠え る犬とを、枝越しの暗に|嫌《すか》したが、何を思ったか突然けらけら笑い出した。 「へっへへっへ、信公、巧くやりやがった……」  淋しい並木路の夜更け、蔽被さった葉隠れから、物の怪のような笑い声をたてる男の正体を 知ったならば、お関は必然怖気をふるって逃げ出したであろう。それは監禁を破って逃出した 針川重吉であった。  権三は耳下の頸動脈を斬られ、文字どおり血の海に浸って絶息して居った。  深更ながら町から駈けつけた警察官の聴取りや取調べの物々しい|容子《ようす》を聞き伝えた村人たち が集まって、遠くから私語きながら眺めていた。駐在所の秋山巡査が提灯を手に入口を見張っ ている。  現場には何一つの遺留品もなく、奥の間なども整然と取片附け、宵に使った碁盤も室の隅に あり、掻乱した跡は少しも見えない。  刑事たちは兇行の動機をそれらしい原因に結びつけようとして、あれかこれかと迷ってい た。 「被害者は平素から|霧多《あまた》の人に恨まれている鬼権だ、貸借関係者の中に犯人が居る、と見るのは 至当であるが………昼間喧嘩をしたという男も嫌疑理由を充分にもっている…---また、考え 方によってはお関の連れ子も、被害者と仲が悪かったそうだから、疑えないことも無い…・…-」  それからそれへ、疑惑の糸が蜘蛛の巣のように拡ってゆく。  町の警察から出張してきた刑事の中に、年を老った男が一人混っていた。|嬰鍵《かくしやく》とした体力 こそ残っているが、頬に深く刻まれた搬には、否み難い世の疲れが見える。勤続何年の美名は 署内で時代遅れの代名詞であった。彼は時の歩みの速さに喘いでいた。  新手な犯罪は次々に生れる、帰納的推理だとか、科学的捜査だとか………そんなものは最初 彼が極度に軽蔑した代物で、当然その長所をも無視していた、彼の|侍《たの》むものは鋭敏なる第六感 と経験であった。|斯《か》く科学に対する敬意を忘れた驕慢なる彼が、難解の事件をぴしぴし|許《あぱ》いて ゆく、同僚の手際を見て最初の軽蔑が懐疑と変り、自分の誤謬に心づいた時は、已にみなから 取残されて高の知れた端た賭博や|狐鼠泥《こそどろ》を追かけ廻わす自分がいかにも惨めに見えて悲しかっ た。  併し、老人の胸にも華やかな追憶がある、燃えのこる功名心は機会を待っている。 「この事件こそ、俺の最後を飾るために与えられたものだ」と悲壮な決心で、広瀬老刑事の態 度が緊張するのを、他の同僚たちはまるで無関心でいた。  裏庭は綿密に調べた。縁側の雨戸も裏木戸も、内部から厳重に閉してある。併し土塀の瓦に 乗越えた跡があった。それから家の横を流れる小溝の、じめじめした土の上に残った、|跣足《はだし》の 跡を同僚が|兎《と》や|角《かく》と論じ合っているのを聴きながら広瀬は沈黙していた。  さすがに長い夜も漸く東の空が、うっすら白みかけた頃慌しく駈けつけた男が、喘ぎ喘ぎ秋 山巡査の傍へ近よった。 「旦那、大変です、重吉が………」 「何ッ、重吉がどうしたッP」秋山巡査も容易ならぬ予感に顔色を変えた。 「宵に見廻ったとき、確に居た筈ですが、今見ると、羽目板が外れて、重吉は居りませんの で………」おろおろ声だった。  秋山巡査の報告を聞いた警察の一行は、互いに顔を見合せた。そのとき傍から進み出たのは 繁田村長である。 「重吉が脱橿したのですって! 何ということだ、あんな殺人狂を手放しておけば、この後何 人犠牲者を出すか知れない」  村長は蒼白い顔を憤りに紅潮させた。 「如何です、最初から自宅監禁に反対した私の言葉が、斯ういう結果となって実現したではあ りませんか、この全責任は署長さんが負って然るべきだ」  敦園きかかるのを、出張の司法主任が手をあげて制した。 「|現在《しま》ここでそう御立腹になっては困ります、お話はよく解っていますが、兎に角斯うして居 られませんから、急いで手配をしましょう」  町の警察へ急使を走らせる一方、村の消防員を招集させた。|眩《ぶつぶつ》々不平を云っていた村長も詮 方なく青年団員を集める命令を下した。このとき丁市から裁判所の一行が村へ着いて、検視が 進められる一方招集された惣員を二つに割いて、一隊は重吉の捜索に出発し、残る一隊は警官 に指揮されて証拠の聚集にかかる。  こんな血腫い事件のあった塩屋の浜も、森の梢から輝かしい|朝敏《あさひ》が平和に地上をてらし初め た。爽かな早霧をみだして大勢の人が、小川の流れを梱し、草むらに別入り、証拠品の発見に 努力していた。併し目指す品は容易に目にかからない、偶々あれば誰かが置忘れたらしい草苅 鎌の半ば腐蝕したものや、欠土瓶、茶碗の破片など。捜索線は並木路から砂丘、ずっと波打際 まで拡大されてゆく。  彼等の面に失望と倦怠の色が浮上ったころ。村外れの瑞宝寺墓地へ詣りにきた隣村の女が、 墓碑の間に血塗れの出刃庖刀が、棄ててあるのを発見した。  刑事たちが勇み立って墓地へ駈付けてみると訴えに違わず、そこに刃先は血に汚れ、握柄に 烙印で(三沢)と記号を入れた兇器があった。  三沢………それは権三と激論の末、争闘まで演じた若者信吉が雇われている養鶏場の名では ないか。  信吉はすぐ町の警察へ同道を命ぜられた。  彼は秋山巡査ともう一人他の刑事が訪れて来たとき、見る見るその顔色を蒼白にした。そし て|愈《いよいよ》々警察の訊問室に引入れられるまで、異様な昂奮にその眼をぎらぎら輝かせていたが、若 い藤尾刑事の訊問に対して、悪びれた態もなく答えた。 「安場の斑犬が私の家の鶏を咬殺したのは、二度や三度じゃ無いんです、その度に、私は犬を 繋いでおいてくれと頼みに行きましたが、いつも権三さんは--…-手前の方で垣を丈夫にしろ  ……などと、|悟《てん》で取合ってくれませんでした。昨日もまた一羽を咬殺して、もう一羽に怪我 をさせたので私はあの人と浜で会ったのを幸い、始めは町檸に犬の処置をつけてくれと頼みま した。すると………どうせ絞殺す鶏じゃないか・-……って、乱暴な挨拶です、私も耐えかねた 腹立まぎれ………つい、あんな喧嘩になりました、それもあの人があんなに私のことを悪くさ え云わなければ、私も夢中になりはしなかったのですが………」 「どんな事を云ったのだね」 「………牛と兄弟分だなんて」信吉はそのとき権三の口から吐出された、もっと酷い差別的な 言葉を思い出して唇をかんだ。 「その腹癒せに昨夜忍んでいって、権三を|殺《や》ったのか」藤尾刑事は指で斬る真似をして見せ る。 「いいえ」信吉はおののきながら烈しく首を振った「そんな、そんな大それた事をした覚えは ありません、お人違いです」 「お人違い! おい、白っぱくれるな、これにおぼえがあるだろう」取出したのは血に染んだ 出刃庖刀である。 「あっ!」信吉は己れの目を疑うように、その証拠品を眺めた。「どうして是が」 「落ちていたのさ………いや、お前が捨てたのを拾って来たのだ、瑞宝寺の墓地でね」  刑事は冷たく笑いながら信吉の顔から視線を放さなかった。 「証拠はこれ一つで充分なのだ、つまり権三を殺した兇器がお前のもので、そのお前は権三と 昨日喧嘩をした、それだけで好いじゃないか、お前はただ殺した順序を云わなければならない のだ」 「何と|仰有《おつしや》っても、私にそんな覚えはありません、断然知らないのです」 「お前は知らなくっても庖刀が物を云う」 「それが|奇異《ふしぎ》です………その庖刀は昨日|午後《ひるから》井戸端で研いでいたのですが………それがどうし て墓地などに落ちていたのか、全く不思議でなりません。それに私は昨夜、瑞宝寺墓地などへ 行ったおぼえは無いんです」 「瑞宝寺墓地へ行かなかったという証拠が無ければ信じられないじゃないか」刑事の口吻は瞼 しくなってきた。「では訊くが、昨夜の九時から十時までの間、お前は何処でなにをしていた か、匿さずに云って見るが好い、一体、どこに居たのだ」 「      」  信吉は悸然としてそのまま口を絨んだ。  それから藤尾刑事がいくら訊ねても、信吉は昨夜の一時間を、何処で費したかを明かに答え ることができなかった。  刑事が|苛《いら》って烈しく詰問するにしたがって、信吉の沈黙は頑なになってゆく。併し胸中の苦 悶に唇を傑わせているのを見て刑事は何か大きな秘密が伏在しているものと鑑定した。 3 権三の葬儀は瑞宝寺で淋しく執行われ、恨みに|畔《ちぬ》られた兇器を発見した墓地に、木の香新し い墓標が建ったことも会葬者たちに因縁の奇異さを感じさせた。 事件があってから越えてもう二日目。 強慾という名で知られた男だけに、その死去を小気味よく想う人々の中に、|却《かえ》って塩屋村の 名物を失ったと哀惜の念を感じた人たちもあったC  これに次いで一般の心を強く刺したのは、重吉の脱濫事件である。消防組や青年団の人数が 手を別けて、|彼方《かなた》の森|此方《こなた》の山、凡そ人間の隠れ得そうな場所を残らず、厳重に捜していった が、その姿をさえ発見することができない。  薄暮迫る頃、思い思いに疲れた脚を引摺りながら、帰ってくる捜索隊を見て、村民の不安は ますます募る一方であった。 「重吉はまだ見つからぬらしい、早く捉まってくれなきゃ夜も|禄《ろくろく》々寝ることができんから|哺《のう》」 小溝の流れで脚を洗っている男が、高調子に云った。 「物騒なこった、村長さまの|梱皿《おこ》るのは|当然《あたりまえ》だ、あの気狂いが遁出したのは、何といっても警 察の落度だよ」浮桶の|簸《たが》をしめていたのが、手を休めて眩く。 「大勢が斯うして捜しても、一向発見らないのは、案外遠方へつっ走ったからじゃなかろう か」 「なんの、昨夜も瑞宝寺の嘉助どんが、門さ閉めるべいと|庫裡《くり》を出たとき、本堂の中から…- 信公、|俺《おら》あ見つけたぞ……って声がしたので、|吃《 》驚した嘉助さんは、|突如《いきなり》和尚の居間へ駈けこ んだげな。  漸く和尚と二人づれで見にゆくと、本堂には誰も居ない。そのかわり今度は鐘撞堂に、人の 姿が見えないのに、|撞木《しゆもく》がひとりでに動き出して、鐘がゴオンと鳴ったそうだ」 「えっ、厭だぜ、脅かすものじゃない」 「いや実際だて、嘉助どんは嘘をつく男じゃ|無《ね》え、ところが撞木の上あたりから、けらけら笑 う声が重吉さ、二人とも魂消て檀家惣代の次郎吉どんを、呼びにいった不在中に、庫裡の飯櫃 を盗まれたげな」  その傍で黙々と聴いていた頬冠りの男は、突然大きな|唾《くしやみ》】つ、寒そうに身標いをしたが、 煙管の火が|疾《とちつ》に消えているのも忘れていた。 「重吉はよく信公のことを云うが、ありゃ|何故《なぜ 》かな」 「信公が鬼権を|殺《や》るとき、|必《き》っと何処からか見ていたのじゃろう」 「いや、殺したのは重吉かも知れねえ、以前から権三を恨んでいた筈だ、家邸はそっくり権三 にとられ、そのために|阿母《おつかあ》まで死なせたのだから、いつか恨みを晴らそうという気は、有った に相違ない。気狂いになってから安公を|殺《ころ》したが、|機会《おり》さえありゃ権三だって|殺《や》るつもりだっ たのよ」 「それでも、信公が平常使っていた刃物で、殺されたのが論より証拠だ、権三から悪態を吐か れて、|嚇《か》っとなったものにちげえ無え、傍で聞いていた俺さえはらはらしたけんの、猫のよう な温順しい男が腹を立てると、却って思切ったことをやるものよ」 「短気なことを……何年位いの懲役かなあ」 「そりゃお前、死刑に決っとる」 「そうとも限らない、終身懲役かも知れん、巧くゆきゃまだ軽くなる………」 「|叱《し》っ叱っ」頬冠りの男は慌しく二人を制した。三人の前を二十ばかりの娘が、顔を肯だれた まま通つてゆく。 「……三沢の茂子だ」簸を打ちこむ手を止めて|明《ささや》いた。  茂子は通りすがりに三人の話を聴取ったらしく、その蒼醒めた顔に瞬間血の気が上った。併 しそのまま振顧りもしないで、並木路を曲って土橋の方へ歩んでゆく。  はや夕日は沈んで、暮鴉さえ|塒《ねぐら》にかえった|逢魔《おうまが》ヶ|刻《とき》。若い女の身ひとりで今頃、どこへ行く のだろう……と三人の男は不審の眼を見合せた。  自分の足もとを蹟めながら、歩いていることも意識しないほど、茂子の心は乱れていた… 死刑! 何という忌わしい言葉だ。だが嫌っても避けても、あの人は殺人の嫌疑を受けている、 なぜ世間の人は信吉の潔白を信じられないのだろう。父も母も吾作爺いも、信吉の|平素《ふだん》を知っ ていながら、幾らかまだ疑っている、あの人にそんな馬鹿げた罪を、犯す理由も必要もないの に。権三の殺されたのは自業自得だわ、何故あの人が疑いを受けなきゃならないの。  町の警察だって、なぜ真実のことを調べないのか知ら。  信吉の心遣いも時と場合によるわ、恐ろしい罪を被せられようとする間際に、何故恩だの義 理だのに|拘泥《こだわ》っているのだろう、真実のことを云ってしまえば好いのに。  ああ駄目だ! 殺人罪、死刑。  あの人は自分の感情を惨らしく|虐《しいた》げて、運命に屈従するつもりなのだ………。  彼女は流れの岸辺に立停って、浅い川底を見おろすと、いつだったか、この上流から|両人《ふたり》が 木の葉や草を浮かべ、恋の行末をうらなった記憶が、生々と甦ってきた。  柳の枯葉が彼女の肩を掠めて、くるくると舞いおちた。緩やかな馬蹄の音が近づいてくる。  彼女の仔む姿を見た馬上の人は、その前まで来て馬の歩みをぴたりと停めた。彼女が一足退 って振仰ぐと、馬上の人はおよそ六十近い年輩で、頬の半は毒に蔽われている。大きい墨色の 眼鏡越しに、鋭い視線を感じて茂子は、何故ともなく顔を伏せてしまった。 「貴女は確か三沢の娘さんじゃね」  彼女は数年前から、鎮守八幡社の神官として山荘に住むこの人に一種親み難い威圧を感じて、 |嘗《かつ》てまだ口を利いたことがなかった。それがいま先方から言葉をかけられ、|躊躇《ためら》いながら淋し く頷いてみせた。  もう四辺には夕闇がこめて、草の葉や木立をしっぽり包んでいる、並木路にも畔の小径にも、 人影らしいものは見えない。 「突然で甚だ失礼じゃが、俺はきょう旅行から帰って、安場権三さんが災難に遭ったことを聞 きました」彼は馬上から上半身を屈めた。「それに就て、お宅の誰かに疑いが懸かったそうじ ゃが、真実ですか」 「はい、そのとおりでございます」彼女は|能《でき》るだけ感情を制えて応えた。 「では、|依然《やはり》噂どおり……|嚥《さぞ》御心配なことじゃろう、警察へ伴れてゆかれたのは、お宅の誰じ ゃな」 「はい……雇人でございます」茂子は|報《あか》らめた顔に口ごもりながら答えた。 「甚だ立入ったことまでお訊ねするが、果してその雇人が加害者かどうか、貴女は御存じじや ろうな」  疑わしそうな眼眸で神官を見上げていた茂子は、烈しく首を振った。 「いいえ、|冤罪《むじつ》でございます」  凛とした言葉を馬上の人は鵬鵡返しに 「|冤罪《むじつ》! ふむ、それなら|何故《なぜ》早くそのことを証拠立てて嫌疑を晴らしてあげなさらんのか、 一刻伸びればそれだけ当人を苦めるわけじゃが……」  茂子の唇は何か云いたそうに藻えたが、前歯でそれをキッと噛んでしまった。 「御両親はそれに関り合わないのですか」 「随分心配して居ますが、父や母の力では助けることが出来ません」 「|冤罪《むじつ》と解っていながら……何という惨酷なことじゃ。併しそれも|然《しか》なるべき運命なら詮方は ない。斯んなことを云うと、貴女は気にやむかも知れんが、その覚悟が前以て出来ている方が 好いのだから、お報らせしてあげよう。貴女一家の災難はこれだけに留らず、引続きいろいろ な形で現われるかも知れませんぞ。併し、力を落すことはない、挫けてはなりません、神明の 加護にお縫りなさい。逆運は人間に与えられる試練じゃ、心を正しくして切抜けることが大切 じゃ。若し耐え難い場合には、あの山荘へお越しなさい」神官は安土ヶ丘の中腹を指した。 「微力ながらお力になりましょう、好いかな、申上げることはこれだけです。御心痛のところ を、飛んだ失礼をしました。貴女も暗くならんうちにお帰りなさい、近頃物騒なそうじゃから な」  云遺して山荘の主は、蹄の音軽く去ってゆく。黄昏のうす暗に隔てられて、漸次に遠く消え る後姿を、瞬きもせず見送った茂子は、謎のような今の言葉を胸の中に繰返してみた。  不思議な人の不思議な言葉。 併し、いくら考えてみても謎は解けない。  彼女はあたりを見廻した。  淋しい秋の黄昏だ……留置場の信吉は、唯さえ物悲しい|入相《いりあい》時を、どんな哀愁を抱いている ことかP 鐘が鳴る………。 瑞宝寺の鐘の音が、波状のリズムで流れてくる。諸行無常のひびき。 夢ごこちに聞いていた茂子は、吾に返って思わず身傑いをした。 4 「藤尾君、せっかくの君の苦心が酬いられなかったことは、|小官《わし》も遺憾に思うけれども、まだ 落胆するには早いようだ。こんな|蹉践《さてつ》くらいで悲観するのは、君のようでもないね」  署長から|態《ねんご》ろに宥められても、藤尾刑事のむっつりした不機嫌な顔は|和《やわ》らがなかった。兇器 を唯一の証拠に、確信をもって取調べを開始したが、信吉が頑固に沈黙を続けている間に、意 外な方面から彼の確信を突崩す、反証が現れてきたのである。 「君は執るべき方法を執ったのみ。決して誤っていたのじゃない、容疑者が当夜の所在を自供 しなかったのが悪いのだ、失望しなくっても好いさ。今からでもおそくはない。要点はあの兇 器が、何者の手に渡って使用されたかに在る。それが君の手で解決されるのを期待しているん だ、決して遅くはない。  あの日の午後三沢養鶏場の、道路に面した井戸端で、信吉があの刃物を研いでいた。そのと き安場権三の飼犬が鶏を咬傷したので、犬を逐うていった信吉が浜辺で、権三と口論したのじ ゃ。その混乱のために刃物のことなど|悉皆《すつかり》忘れていた……と、斯う自供している。これを事実 と仮定して、そこから兇器の推移した径路が君に解ってきそうなものじゃ。一つ大いに手腕を 発揮して貰いたいね」 「では、信吉は放免なさるのですね」 「当然そうしなければならない、茂子という三沢の娘の証言と、信吉の答弁とが一致して、 |現《ア》場|不在《リバ》証|明《イ》ができているから、疑いの余地はない」署長は詮方無さそうに云った。  容易く藤尾刑事の手に飛込んだ獲物は、まだ実際のものではなかった。  三沢茂子と名乗る娘が署長に面会を求め、悪びれもせずに犯行のあった当夜、九時から十時 までの間、信吉は茂子と一緒に塩屋村の|外劃《がいかく》を流れる小川に添うて、遡り鎮守の|杜《もり》の奥に、そ の時間中話をしていた。その会話の模様は………と|恥《はず》かしさも外見も忍んで申立てた。  改めて信吉を訊問すると、彼も観念したのか、一切を隠さずに答弁したが、|両《ふた》つの申立ては ぴったり符合していた。  そのとき草叢の中から飛出した重吉が、|突如《いきなり》茂子に抱附いたのを、信吉が打倒すと重吉は、 けらけら笑いながら逃去ったとの陳述も一致していた。信吉があくまで当夜の行動を秘したの は、自分のために主家の名を世間の噂にさせたくないと慮ってのことであった。 「どれ、新規蒔直しだ」  署の門を出た藤尾刑事は、自ら嘲るような苦笑をしながら、塩屋村へ通ずる街道を歩いてい った。 「|態《ざま》ア無えや、これでは広瀬老人のことが喧えるかい、鈍痴め。だが忌々しいのはあの若造だ、 それなら|然《そ》うと早く云や好いのに、己れの色事を匿すために、飛んだ無駄骨を折らせやがった。 今度こそ大丈夫だぞ、養鶏場の道具を自由に持出せるのは、三沢の主と信吉の他には|彼奴《きやつ》しか ない筈だ、あの吾作爺い。  頑固で塩りっぼくて腕力家だ。鬼権と平常から仲が悪かったのだから-…-・.」  吾作はちょうど仕事が終って、泥足を洗っているところだった。 「吾作、お前に訊ねたいことがあるから、警察まで一緒に来てくれ」  横柄な刑事を怪訴らしく見上げたが、吾作は不審そうに眉を寄せた。 「警察へP どんな要事かね」 「それは|此所《いしこ》では云えない」 「……好うがす、参りましょう」吾作はキッパリ云った。「では、着換えをする間待っておく んなさい」 「うん、成るだけ早くしてくれ」藤尾刑事は冷かに云って表口に立塞がっていた。 「お前さん、どうかしたのかい」吾作の妻女は心配そうに低声で咀いた。けれども吾作は首を 振るばかりである。 「大丈夫かね、何だか心配で………」  吾作は不機嫌な顔で妻女を叱りつけた。 「|莫迦《ばか》な、俺が何を悪い事してるかい、心配せずに善公が帰ったら、飯を喰ってしまえ--- 旦那、お待遠さまで」  刑事は吾作をつれて、白く乾いた道を町の方へ歩いてゆく、その後姿が曲り角へ隠れるまで、 妻女は不安そうに見送っていた。  警察へ着いた吾作は、早速取調べを受けたが、なぜ彼が疑いを受けたかについて…-  吾作は嘗て同村の針川家から、若干の金子を借受けたことがある。その針川家が倒産した後、 権三の手にその債権が移り利子は一躍何倍かに引上げられたので、吾作は権三と債権を中心に、 いつも|唾《いが》みあっていた、頑固な両人が相異った立場から争いをつづけ、現に権三の殺害された 宵吾作は権三方を訪れて激しく争論したことを、権三の妻を通じて藤尾は知っていた。  その事実を詰問されて吾作は、貸借関係も宵の激論も、柔順に認めたが、兇行の疑いについ ては極力|抗《あらが》った。  訊問が果てしもなく繰返され、短気な彼はすっかり業を|煮《にや》して、 「何と云われても、そんな莫迦げた事は、やった覚えはありません、まだ判りませんかい。成 程骨を|舐《しやぷ》っても飽足らねえくらい、俺は彼奴を憎んでいましたよ、あんな強慾な奴はまたと二 人なかった、俺の血も|膏《あぶら》も絞りとってしまったのじゃからな。あの晩誰かがやっつけなければ、 遅かれ早かれ俺が殺したかも知れねえ。だけど、あの晩のことばかりは、些っとも知らねえで さ、その時間には一家中がよく睡とりましたよ」  併しながら、これは彼のために賢明なる弁解ではなかった。  吾作と権三とが争っているとき、囲碁を中止して座敷から】伍】什を聞いていた、塩屋村々 長繁田玄三郎と、養鶏場の主人三沢為造とが証人として喚問された。繁田村長が当時聴いた、 粗暴な吾作の言葉をそのまま正直に述べたので、吾作の立場は益々危うくなった。  取調べの模様がどう進んだか、間もなく村長は帰っていったが、三沢為造は夜が更けても帰 宅を許されない。  家では妻のお雪と茂子が、交る交る時計を仰いでは、戸外の遣音を若しやそれかと耳を澄ま した。日のある間に家を出たのが、夜半を過ぎても帰らないので、信吉も不安に耐えかねて、 自転車で町の警察へ馳けつけた。  併し当直の巡査は冷淡に「三沢為造は取調べの都合で、今夜は帰れないだろうから、待って いても駄目だ。理由・…-…それは云うことは出来ない」と、突放して取合わない。  信吉はまったく途方に暮れた。母娘の心痛を予想すると行きがけの期待も失せて、|踏子《ペダル》をふ む脚も力なく、塩屋村へ帰っていった。  憂えの中に一夜は明けた。  お雪は張りつめた気持のために、徹夜睡らずに端座して良人の帰宅を、今か今かと待ちわび ていた。それを見て娘の茂子が、病弱な母の体を案じたのは一ととおりではなかった。 「父はまだ帰れないのか」  曇り空ではあるが、もう日脚の高い時刻である。「なぜ斯う暇どるのであろう、こんな状態 が続けば、母は|必然《きつと》病気になってしまう。  若しや父の身に何か、不吉な事件でも生じて来たのではなかろうか……」茂子は神官の言葉 を想出して、不安に胸を波立たせた。  信吉は居ない。  町へ父の状況を確かめるため、先刻出かけたきりで、まだ帰ってこないのだ。  少時睡るようにと勧めたが、母は頑なに首を振るばかりで、肯垂れたまま痛々しくじっと憂 いを耐らえている。  表口を出たり入ったり、茂子は苛々して信吉の帰りを待った。早く父の安否が知りたい-- 餌に飽きて羽虫を落している鶏の、平和な心持が羨ましいくらいである。  沖へ船を出すらしい漁夫たちが…二人、通りすがりに捜るような目つきで、茂子の姿を振顧 っていった。  おう、待ちかねた信吉の自転車が見えた……。 「どうP 阿父さんは」  信吉が力ない顔を横にふっただけで、もう彼女の胸は塞がる。 「駄目でした。調べはいつまで懸るか解らないんです。どんなに頼んでも面会は許してくれま せん。|落胆《がつかり》しましてね……|内儀《おかみ》さんは、どうしているんです」 「|依然《やはり》起きて座っているのよ、そんなことを報せたらきっと……」 「こんなことを聞かせては駄目です、なるべく心配なさらないように、貴女から|巧《もつま》く云って下 さい。これは私だけの考えですが、旦那は私の受けたのと、同じ疑いをかけられていらっしゃ るのかも知れません」 「まあ、何うしよう」彼女は見る見る顔色を変えた。 「駄目ですよ、貴女が今そんなに心配していると、内儀さんは何もかも悟ってしまいます。サ ァ元気を出して下さい。なあに疑いなんか直ぐ晴れますよ」  そう力づけ励ます信吉の言葉も、確信の欠けた空虚なものであった,   …貴女一家の災難は、これだけに留らず、引続いていろいろな形で現れるかも知れない-… と、謎のように云った神官の言葉は、遂々事実となってしまった。目に見えない呪いに包まれ ているのだと思うと、我家ながら這入ってゆくのが、怖ろしいようにさえ感じられる。  切に勧めるわが娘の言葉に否みもならず、お雪は少時睡りをとることにして横になったが、 間もなく軽い寝息をたて始めたので、茂子も信吉も吻とした。  運命の苦味を盛られ、平衡を失った人間の心は、何か神秘な力によって救われようとする。  逆運を人間に与えられる試練とすれば、それに耐えるべき茂子の力は、重なる災厄のために すでに消耗しつくしていた。  母の熟睡を見すまして家を出た茂子が、空模様を気づかいながら並木路を真直ぐ、土橋を渡 って爪先上りに、|華表《とりし》を潜った頃には、空は益々瞼悪になって風さえ吹添えてきた。  老杉|轟《ちくちく》々と生茂った中に、幾年の風雨に晒されて、木肌さえ黒<神寂びた八幡宮の社殿。  茂子は深い幾尋の井戸から清水を汲上げて、手を潔め口を漱ぎ、産土の神の大前に額いて、 一心に黙薦をささげた。樹々の枝を騒つかせている風音も、ぼつりと大粒な雨が梢の隙から落 ちて、大地をたたいたのも知らずに。  見る見る敷石も社殿の|彊《いらか》も雨に濡れてゆく。  賜んでいる茂子の姿を、朽ちかけた拝殿の床下から覗いていた男が、前後を見廻して募のよ うに、ごそごそ這出したのを、素より彼女が気づく筈がなかった。  漸く礼拝を終ってから、烈しい雨に当惑らしく仰いだが小止みになるまで待つより他はない。 信吉が迎えに来てくれると好いのだが……と、何心なく拝殿の方へ視線を転じた途端。  ざんざと降る雨を頭から浴びて、こちらへ近寄ってくる男を認め、彼女はハッと息を詰めた。  伸びるに任せた髪と髪、垢づいた蒼い顔に、目ばかり異様に輝かせ、|寸断《ずたず》々々の|着《た》物。跣足 のままのそのそ歩み寄ってくる。  茂子の総身の毛が疎立った。 捜索隊が夜を日についで捜したが、|行衛《ゆくえ》の知れなかった殺人狂針川重吉の姿。  彼は雨の中に立停り、唇を歪めて淫らに笑った。 「へへへへへ、これ娘っ子」 声をかけられるや否、茂子は弾かれたように駈け出した。 |何方《どちら》へ逃げようという考えもない。 何か声を立てたが、何を云ったのか自分にも判らない。  重吉も何か畷号しながらその跡を追う。 逃げる鼠を追う猫……いや、彼は放たれた猛獣だ、野獣だった。  長い年月接触を断たれていた異性の姿を、無人境とも云うべき森の中に発見して、彼の虐げ ていた本能が、制禦を失った奔馬のように、|恣《ほししまま》に暴れ始めたのである。  くるくるくる。樹々の問を潜って茂子は逃げまわる。  その跡をどこまでも執拗に、重吉は逐うてゆく。  救いをよぼうにも声が出ない。  声を立てるだけの余裕もなく走る。  恐ろしさに吾を忘れて、さながら魔法使いに追われる|株儒《こぴと》のごとく……  |兀出《つきだ》した木の根も石も、降りそそぐ雨も見えない。 .遮二無二猛りたった重吉は、森の真中で女の長い袖を掴んでしまった。筋骨立った兇暴な双 腕が、忽ち軟かな彼女の体を力任せに抱いた。  重吉の顔を引掻き髪を|拐《むし》り、茂子は初めて声限り救いを呼んだ。  その唇を重吉は手垢だらけな掌でぴったり蔽い、必死と腕く彼女をぐいぐい押して、 杉の幹へ圧しつけていった。 「ふっふふふふ、娘っ子、ふっふふふふ」  重吉は喘ぎながら、獲物を捉えた歓喜に目を細めた。  雨は依然として烈しく降っている。 太い老 6  苦悩に耐えうる人間の力には、およそ限度がある。  娘の茂子が昨日神詣でに出たまま、夜に入っても帰らず、信吉が八方に駈廻って捜した効も なく行衛は判明しない。どこの知るべを訊ねても、彼女の立寄った跡もなければ、その姿を見 たという人さえ無い。娘をたずねる|由緒《よすが》が全く絶えたと知った母のお雪は、今まで一家を襲い つづけた災厄にも、ジッと耐えていた心の緊張が破れて、枕に埋めた顔もあげずに、わが良人、 わが子の身を気遣って|報縛《てんてん》泣悲しんだ。  途方に暮れたのは信吉である1主人の為造は警察に留置されたまま、いつ帰ってくること か判然しないー茂子の方は昨夜已に最善の方法を尽して、これ以上施すべき術もない。どう したのだろう、生か死かP 若しや打続く災難のために心弱く無分別なことでも………そう考 える信吉は矢も楯も耐らなかった。斯様なとき相談相手になってくれる吾作まで、警察に引張 られているとは、何という運の悪いことだろう。  加えて内儀さんのお雪が、昨夜から、悲嘆の余り熱を出して、徹夜看護をしなければならな いという|状態《ありさま》。  |上枢《あがりがまち》に腰を下して|撲腕《うでぐみ》したまま信吉は、お雪の臥褥へ目をやって、切なそうに溜息した。 「この家は一体どうなってゆくのだろう、そして俺と彼女はどうなるのだ。何もかもこれで、 お終いになるじゃないか    」  家の隅々、梁の上にも床の上にも、それから煤けた竈の中まで、妖気が旋曲のようにくるく ると渦を巻いて、疫神や悪運の神たちが、乱舞しながら呪いの歌を唄っていそうな気がした。  安場権三が殺された夜以来、目まぐるしいまでに無気味な不快な出来事が、続々と起って くる。第一に気狂い重吉の脱橿、次が信吉自身の引致、為造吾作の喚問留置、茂子の行衛不 明………村では洗濯や飯櫃を盗まれたり、夜陰通行の漁夫が全身真黒な異形の人影に襲われた り、瑞宝寺墓地から奇怪な笑い声が聞こえるかと思うと、村役場に放火しかけたものがある。  悪魔の呪咀は三沢一家に留らず、塩屋全村を包んでいる、村民は誰一人として安らかに睡る ものは居なかった。夜は早くから戸を閉し、余程の用件でもない以上、男でも滅多に外出しな い。  警察無能の声が高まって来るのは当然である、繁田村長は村の有力者たちを訪れて、自警団 組織を計画しているとの噂である。祭礼が目前に迫っている現在、そうでもして村の安寧を保 たねば、駐在所ばかりを信頼していられなかった。漁夫を襲撃した怪人も、村役場放火犯人も 巧みに警戒の網を潜って行われたもので、駐在所詰巡査も、応援の警官もこの不敵な犯人から 愚弄されているかの観があった。  三沢一家と塩屋村全体を悩ます、悪魔の跳梁を心に思い浮べて、おののいた信吉が、閉じた 眼をあげたとき、ちらりと庭に人影がさした。 「娘さんが居なくなったそうだが」  信吉が居座いを正した前に立ったままでそう云った老人を信吉はどこか見覚えがあるような 気がした。 「まだ何とも|端緒《てがかり》がつかないかね」  優しい口調で訊ねているが、その眼の鋭さを見て、信吉は昨夜遅く町の警察へ、保護を願い 出に行って帰りがけ、門のところで出会った人だと心附いた。 「はい、まだ皆目心当りがございません」  そう答えた信吉は|褥《ざぶとん》を取出して勧めたが、老人は頷いただけで腰をおろそうともせず、  ようす  あらまし  ゆうべ                                         そぶり 「状況の概略は昨夜聞いたが、ハ幡宮へ参詣に出ていった他に、これという異った態度は見え なかったのだね」 「はい、父親の災難を案じてお詣りにいっただけで、他には何もなかったようでした」  老人は信吉の顔を熟視したまま、|少時《しぱらく》何か考えをまとめているようすであったが、 「あの茂子という娘の阿母さんは居るか」 「それが貴方」信吉は声を落して奥の間を顧みた「あまり心配事が続いたものですから、昨夜 から熱が出まして、只今漸く睡んでいる所でございます」 「ふむ、病気か、………」心を動かしたらしい老人は躊躇いながら「ひどく悪いようでは詮方 がないが、|僅《ほん》の少し娘さんのことで、訊ねてみたい事があるから、君から都合をきいてくれな いかね………なあに、別段起きて貰わなくても、俺の方から寝ている所へ出向いて行っても好 い。俺は警察の広瀬という者だ」  広瀬老刑事………彼は鬼権事件以来何をしていたか。  藤尾刑事が信吉を拉致し、為造を拘束し吾作をも留置し、大車輪となって取調べを続けてい る間、何等それに係り合うようすもなく、署の方へも余り姿を見せなかったが、昨夜|瓢然《ひよつこり》姿 を現して、当直巡査から茂子の失踪を聞き、今朝斯うして三沢の家を訪れて来た。そもその胸 中に如何なる成算を抱いているのか、大事件たる鬼権殺害犯人を見向きもせず、警察事故とし ては比較的平凡で、働きばえのしない小さな家出事件に、手をつけようとしているらしい。  お雪は広瀬刑事を別室に迎えた。 「これは好うこそ………こんな取乱した姿で御免下さいまし」  |面實《おもやつ》れした頬に淋しい笑、それさえよそに見る目に痛々しかった。 「いや、何もお構いなさらんように--…-いろいろ御心配なことですな、お察しします」広瀬 の声は心からの同情に優しく響いた。 「は………どうも何でございますか、余り引続いてのことなので、どうして好いのか、気が|荘 然《ぽんやり》してしまいまして」  つつましやかに応える語尾はさすがに傑えている。 「御無理はありません」そこで、広瀬はちょっと言葉を改めた「ところで、お訊ね申したいの は    |娘御《むすめご》の茂子さんに、何か家出の原因になるような心当りは無かったのですか」 「家出! まあ茂子が家出ですって。そんなことをするような|娘《ヤし》じゃございません」  お雪は烈しく首を振った。 「家出でないとすれば………何うしたのでしょう、何か復類した事情があるようですな」 「いいえ存じません、判然した事情がなければこそ、斯うして心配して居ます」  肯垂れたお雪の|頸《うなじ》のあたりを、広瀬は鋭く見おろしたまま、 「近頃縁談でも有りはしなかったですか」 「ええっ………」愕いたように彼女は顔をあげた。 「はい、実はそんな話も有るにはありました。が」 「勿論娘さんはその縁談を嫌ったでしょうな、嫌う理由が充分にあるんですから」 「何と仰有います………成程茂子はこの縁談は厭だと、|決然妾《きつぱりわたし》に申しましたが、それがどう したのでございます」 「世間によくある例ですよ、嫌いな縁談を押つけられて家出をする………いや殊によると、家 出をしたと見せて、どこかに姿を匿しているかも知れません。これは娘さんと|交情《なか》の好かった 人間には行衛が判っていますね」広瀬はニヤニヤ笑った。            あれ 「いいえ、そんな筈はございません、どんなに良人が喧しく縁談を勧めましたにせよ、彼女に は家出なんかする必要はありません」  真摯に抗うお雪の顔を見て、広瀬は軽く笑った。 「………貴方は何も御存じないのだ、茂子さんにどんな相談相手があったかを知らないから、 そんな事を云っていらっしゃる」 「いいえ存じています、貴方は茂子と信吉の間を仰有るのでございましょう」  顔を報らめながらキッパリ云放ったお雪の言葉に、広瀬は少なからず驚いた。 「やッ………|両人《ふたり》の|交情《なか》を御承知だったのか。貴女は知っていながら黙っていたのですか」  彼女は答えずにただ頷いただけであった。 「では両人の交情を知っていたのは貴女だけではありますまい」 「良人もやはり薄々知っていたかも知れません・----けれども良人は、外から養仔篭漣、以よう と望んでいたのです、併し茂子が承諾しないものを無理に押つけるほど、良人は没分暁漢じゃ ありませんから、家出などするには及ばないことを茂子もよく知っていた筈でございます」  広瀬は益々|纏《もつ》れてくる事件の経緯に、|稽《やや》異様な興味を感じた、そのまま少時面を伏せて黙考 ののち、お雪に向って茂子の居間を一覧したいと申出た。  お雪に導かれて茂子の部屋を調べた広瀬は、間もなく三沢家を辞し去ったが、女らしく整然 と取片附けられた居間からそして調度手廻りの品から彼はどんな端緒を握り得たのか? 7  千筋の着物を裾高く端折り、その下から|莫大小《メリヤス》の半股引を覗かせ、前深に冠った鳥打帽の庇 の奥に蚤取眼………全然地方の刑事臭いむき出しな風態の広瀬が、どこをどう歩き廻ったか、 藤倉草履も紺足袋も埃で真白に汚れ、塩屋村駐在所へ立寄った頃は、暮れやすい秋の日が落ち て、赤い軒燈に灯が入っていた。  硝子障子に手をかける前、腰にぶら下げたタオルで脚の埃をはたき落していると、駐在所に は誰かの高い笑い声が聞こえてきた。ξ一旭入って見ると繁田村長を相手に、秋山巡査が気拙そう な顔で頻りに何か弁解しているところであった。 「如何です、警察の状況は………今も秋山さんを責めているんですが、警察も今度は少々手緩 いですよ、確実な容疑者を押えていながら、自供をとることが出来ず、重吉の方だってまだ責 任を果すことができないんじゃありませんか」  皮肉たっぷりな繁田村長の言葉を、広瀬が苦笑で受流すと尚も押被せるように、 「御覧なさい、村民たちの不安を………日が暮れてから戸外を歩くものは一人もありません、 |白昼《ひるま》でも迂滑に一人歩きをすることは危険だと云う人もありますよ。もう明後日が祭礼だとい うのに、一体塩屋村はどうなるんです、農家の方では収穫も始めなければならないが、安心し て家を空に出来ますか、これじゃ村の安寧なぞ少しも保てていない、まるで無警察じゃありま せんか」 「警察だって無為に傍観しているんじゃありません」広瀬は|椰癒《からか》うような目附きで笑いかけた。 「村の安寧維持を想えばこそ斯うして私どもも、脚を摺古木にして駈廻っています」' 「無為に傍観されて|耐《たま》るものですか」村長の顔には明かな冷笑が上った。 「安寧維持を想っても安寧維持が出来ない警察力を、信頼しているわけにゆきませんからね、 吾々の方でも自警の方法を執ることにしましたよ」 「ははあ、青年団の不寝番ですか」 「そうです、自警団を組織しました」村長の顔は誇らしげに輝いた。「今夜から活躍させます、 御覧なさい、今に巡廻して来ますが、駐在所の巡廻時間と連絡をとって、少くも夜半十二時ま で塩屋村の安全は確保されます」 「それは結構なことです」こんどは広瀬も真摯な顔でうなずいた。「勿論警察でも充分な努力 は払っていますが、村の方でそうした自警手段を講じて下されば、村民たちも喜ぶでしょうし、 警察の方も安んじて犯人逮捕に精進できます…---ところで繁田さん、少々お訊ねしたいこと がありますが」秋山巡査の妻女が汲んで出した番茶に喉を湿した広瀬は茶碗を下において語り 続けた。 「実は貴方の御不在中役場へ行って、戸籍簿を閲覧しましたが、三沢為造の娘はありゃ実子で は無いのですか、何だかあの家庭は少々複雑していそうに思われますね」  この質問にあった村長の顔に、一瞬不快な暗影がさしたようであった。 「あの茂子という娘は、やはり戸籍面どおり|継子《けいし》です…-…・こんな話をするのは私にとって不 愉快ですが、あの娘は私の姪にあたります。と云うのは母のお雪という女が以前、亡くなった 私の兄の妻だったのです」  村長は浮かぬ顔つきで、ぽつりと言葉を切ってしまった。 「その辺の事情をもう少し話して頂けませんかね、あの|母娘《おやこ》の入籍は私が丁警察からこの町 へ、赴任してくる以前に行われているので、今まで|些《ちつ》ともそうした消息を知らなかったので すが三……」 「どういう理由でそんなことをお調べになるんです」村長は面倒臭そうに眉を寄せた。 「茂子という娘の失踪について、それを突止めたいのです」 「余り話したくも無い事情なのですよ………兄が亡くなってから以後、あのお雪という女の素 行がますます面白くないで、親族会議の結果、別居させてしまったのです、すると以前から関 係のあった三沢と同棲してしまったものですから、本人の望みに任せて離籍の手続を執りまし た。お話しすれば一家一門の恥ですから、なるだけこの事は秘密にしていましたが、村でも老 人たちはよくその辺のことを、記憶している筈です。その後あの不仕鱈な女とも義絶同様にな って、殆ど口を利いたこともありません」 「へえ見かけに依らないものですね………いかにも貞淑らしい女だが」  広瀬の不審顔を一瞥して、村長はふふんと小鼻の脇へ雛を寄せた。 「現在のように年齢を老っては、貞淑に構えなければ詮方がないではありませんか、あれで若 いときは|鳥渡《ちよつと》輪廓が好かった女だけに、絶えず問題になったものです、血統は争えませんね、 あの茂子という娘だって………」  村長が何か続けて話しかけたとき、戸外に起った慌しい遣音に、三人が想わず振りかえると、 力一杯硝子戸を引あけて飛びこんできた男がある。 「旦那………居ます………居ました」いかにも根限り駈附けたものらしく、苦しそうに息を切 って、云うことも|仕途路《しどろ》であった。 「力造ッ何が居るんだ?」秋山巡査は叱るように声忙しく訊ねた。 「重………重吉が、孫兵衛ンとこの稲掛けの蔭から飛出して来ました」力造は顔を|整《しか》めながら 戸外を指している。 「重吉に|相違《ちがい》ないのか」秋山巡査はもう立上っていた。 「相違ありませんとも、|突然《いきなり》私の前へ飛出したので、私が誰だっと声をかけますと、くるりと 振向いたのが彼奴です、暗くっても私は|瞭然《はつきり》見ました」 「|諾《よし》ッ、お前も一緒に来い、繁田さん自警団の方を頼みます」  |然《そ》う云棄てたまま秋山巡査は、侃剣の鞘を握って駐在所を飛出した。広瀬と力造もその|背後《うしろ》 から後れじと追うてゆく。  繁田村長は慌しく自警団の事務所へ駈けていった。  それから三十分の後。  駐在所の内部は失望の眩きと自棄的な笑い声に充たされていた。彼等が所謂孫兵衛の稲掛け 附近へ馳せつけたとき、重吉はおろか猫の子一匹居なかった。併し報らせに来た力造は明瞭に 目撃したのだからまだ遠くへ逃げる暇はない。どこかこの近傍に潜んでいるに相違ないと主張 したので、来援した自警団の一隊と協力して、附近一帯を綿密に捜したが、結局徒労に終った のである。 「莫迦々々しい、お前が怖い怖いと思っているから、何でもない者が重吉に見えたのだろう」 「おおかた|案山子《かかし》でも見たのだろう」  異口同音に冷笑や椰捻を浴せられて、力造は躍起になって弁解したが、誰も取合うものがな く、眩言たらたら同勢はそれぞれ引上げて|終《しま》った。  すこし心持がおちついてから、村長が祭礼の準備とその警備に関して、秋山巡査と意見を交 しているのを、広瀬は煙草を唖えたまま聞いていた。その背後をとおり抜けて、バケツを提げ た秋山巡査の妻女が、水を汲みに出て行ったと思う間もなく、戸外であれっ……-・と云う甲走 った悲鳴と、バケツを取落したような物音が聞こえた。  三人は悸然とした。妻女の声である。三人が均しく戸外へ飛出して見ると、脚下にバケツを 投出したまま、恐怖に打たれた妻女が、彼方の暗の中を指している。 「あそこへ遁げてゆきます。この横手で|窃聴《たレりどヱさ》していた男が……-妾と出会頭になると|突然《いきなり》駈け 出したのです」  広瀬も秋山も指された方へ、此度こそ………と、一種の憤りをさえ感じつつ馳せていった。 「奥様、重吉のようでしたか」  後に残った村長は、まだ全く恐怖の消えきらない彼女に声をかけた。 「重吉………だか、誰だか解りませんわ、何でもすっぼり覆面していたようですから、顔なん か|全然《まるつきり》見えませんでした」  傑然とした村長は、内心名状し難い不安に襲われて、急に前後を見廻した。      8  一再の失敗に落胆して誰も砥々口を利く元気もない。やがて|暇《いとま》を告げた広瀬が、終日の疲れ と失望とに情々帰ってゆく後姿を見送った秋山巡査の眼も淋しかった。  最後の煙草をふかして、吸殻を火鉢に突刺した繁田村長は朝日の空袋をくるくると掌に丸め こみながら、ついと立上った。 「どれ、お暇しましょう、何だか私も莫迦に疲れたようだ」 「まあ好い、御|寛《ゆつく》りなさい」秋山巡査は気のない声でとめた。 「いや、これで仲々忙しいんですよ、今夜は氏子総代が私の家へ、祭の打合せに来る筈になっ ているから………失敬します」  駐在所を出ると、夜警の打鳴らす|撃析《ひようしゾご》が、遠くから聞こえてくる。彼の片頬に満足らしい 笑が上った。 「まあ是なら村の連中も安心だろう………安心して外出はできるし、祭礼だって例年どおり執 行されるのだから::…:」  事実村の人々は自警団組織について、繁田村長の発議を即座に賛成し、その出現を歓迎した のである。  撃析の音は遠く去り、また近づいてくる………畔添いに見えた提灯が、駄菓子屋の娼の家を 曲って隠れた。 「警察力を頼むことの出来ない現在、村民の信頼は自警団の活躍にかかっている、その自警団 は俺の指一本で、人形の如く柔順に行動するのだ、たとえこの俺に反抗する馬鹿があっても、 俺を襲撃しようと試る悪漢があっても、俺が号令すれば団員は立所に馳集って、護衛するだろ う………兎に角俺はこの村の主権者だ、俺は村長なのだ、重大なる責任を負荷されると共に、 それだけの権利を与えられているのだ………」  彼は自身の使用できる権能に無上の誇りを感じつつ歩いていた。 「これで金さえ有れば………村会は思いのままに切廻して、剛情で皮肉な議員なぞ術もなく懐 柔してしまうんだが……」  思いがけぬとき、予期しない災厄に遭う事を奇禍と呼ぶならば、この世の中は常に奇禍で充 満している。銀座街頭に落ちているバナナの皮に踏辻って、折角愛されている情人からその醜 態に愛想をつかされたとすれば、バナナの皮こそ憎んでも余りある奇禍の塊りである。また試 験場に向う途中、暗諦中の文句を路傍の石塊にバスが乗上げた|衝動《ショツク》で忘れたとき折悪しくその 問題が提出されたとすれば、路傍の石塊こそ呪いきれぬ奇禍と云わねばならぬ。更に又、|眼瞼《まぷた》 を|傷《きずつ》ける蚊帳の釣手、インキ壼を覆した蝿叩き、等々………数えきたれば事々物々奇禍の種な らぬはない。  繁田村長が駐在所で些と感じた憂欝は、いつの間にか跡もなく消えて、自宅に待構えている であろう氏子総代の、誰彼の顔などを想像しながら、|欣《いそいそ》々と籔蔭へさしかかったときである。  彼はハッと踏止まって、思わず一歩後ろへ退った。  彼の真前へ威圧するように立塞がった人影がある。その間隔は四尺と放れていない。  それが不意のことであっただけに、繁田村長は度を失って片脇へ避けようとすると、立塞っ た人影もその方へ寄って、くる。  左へ蝶そうとすれば左へ、さながら影法師のように。  内心悸然としながら、彼は怒りの声を振絞った。 「誰だっ、失敬な真似をするなッ」  けれども怪しい|漢《おとこ》は、それに応えようともしない。 「誰だッ貴様は………俺は…-…・繁田村長だぞ」弱味を見せじと威丈高に叫んだが、相手はじ りじり身近くへ寄ってくる。村長は圧され気味にまた一歩退った。 「俺は村長だと云うのに判らんか………」  詞の終らないうちに、低いがっしりした声が、怪しい男の唇から漏れた。 「知っている、待っていたのだ」  その底力ある声を聞くや否、村長は吾にもあらず身傑いした。|咄嵯《とつさ》に身を翻して|遁《に》げようと する隙も与えず、怪人はその利腕をムズと捉えてしまった。 「こらッ、何をするか、自警団を呼んで引縛らせるぞ、馬鹿放さんか」  |有《あら》ゆる罵倒を吐散して身を腕くを、その男は冷笑いながら残る隻手に村長の襟を掴んで、 徐々に締めつけてゆく。  目のあたりその男の顔を見た村長は、身内の血が恐怖のために凍るかと思われた。  すっぼり覆面している。  |先刻《さつき》駐在所の外で|窃聴《たちぎき》をしていた奴だ。  村長は出るだけの声を張りあげた。 「おうい………来てくれエ………助け」  まだ畷鳴ろうとする村長を、苦もなく捻じ伏せた怪人は、上からのしかかりながら叱った。 「騒ぐな………もう袋の中の鼠だ………苦しいか、ははは」  何という不敵さ。村長の叫びは誰かの耳に入って、駈けてくる翼音が聞こえているにも拘ら ず、悠々と笑っている。 「自警団が何の役に立つんだ………そんなものを百人集めたところで、たった一人の-.---」 「強盗ッ、|強請《ゆすり》だ………|詐欺《かたり》だッ」  膝の下に組敷かれながら、村長は必死の声で抗った「誰か来てくれッー…….」  その声に応ずるが如く、ばたばた駈け寄る翼音は近くなった。見れば携えている提灯に照ら された顔は、日に焦けた老人である。 「どうしたのだ………誰だッ」 「助けてくれエ………」村長は絶え入りそうな声で救いを求めた。  ことの是非善悪は知らず、見れば組伏せたは覆面の怪漢、老人は提灯を地上に投出すように おいて、その腕を掴んだ。 「何をするんだ、貴様は………放さねえか」  つき|退《の》けようと力いっぱい、怪しい男を押してきたが、巌のようなその躯幹は|僅《ほん》のすこし揺 いだだけで、消えもせず瞬いている提灯をたよりに、覆面の怪漢は老人の顔を、捜るように眺 めた。 「うぬ、退かねえな、畜生め」  老人は業を煮して件の男の、肩口へ武者ぶりついた。  途端、するりとその腕を抜けてパッと起上る、老人は脆くも膝をついてしまう。  顔を整め膝頭を撫でながら老人が身を起したとき、覆面の男はと見れば、もう六七間も彼方 の闇を、還音も立てずに逃げてゆく。 「何うしたんだね、怪我はなかったかい」  漸く起上って、身体を撫回している村長の方へ、老人が言葉をかけた。 「ありがとう………酷い目に遭わせやがった」 「あれは一体何だね、追剥でもあるまいし………」  老人は提灯を拾いあげて、村長を顧みながら訊く。 「…:--多分、気狂いだろうよ」 「気狂いP すると-…・…重吉だったのか………やっ、お前は繁田さんだね」  |灯光《あかり》をさしつけた老人は愕いたように叫んだが、語尾に匿しきれぬ憎悪の響きがあった。 「おッ、お前は吾作か、いつ帰って来たんだ」  いかにもその老人は吾作であった、鉄窓裡に繋がれている筈の吾作が、|図《はか》らずも自分の危難 を救ってくれた--…・・村長は事の意外さに、からだの痛みも忘れたように荘然とした。 「今夜帰ったよ、身に覚えの無えものは直ぐ疑いが晴れるさ………天道さまは見通しだもの」  云い棄てたまま不興気な顔つきで、呆れている村長を見かえりもせず、さっさと足早に去っ ていった。 9  鎮守の宮には|蒙字《てんじ》で記した白地の幟が空高く風にはためき、|注連《しめ》の新しい御幣は舞人の裳の ように翻る。森に餌した|太鼓《たいこ》の音が、黄金色に稔った稲穂の波を越え、ゆるく或いは早く、時 には乱拍子に流れてくると、晴着に新しい履物、日頃の悪たれも今日だけは神妙に|兵児帯《へこおび》き りりしゃんと結んでお宮目がけて家を飛出す。併しさすがに例年と異って、子供を独り歩きさ せる親達は勘なかった。  村をお得意の小間物屋が子供のお河童を撫でて、まずメリンス|友仙《ゆうぜん》の柄を褒めておいてから、 都会では十年も以前に廃れた、セルロイドの花|管《かんざし》を売りつけようとする。  むこうの家では村廻りの唐物屋が、車の上へ|襯衣《シヤツ》を拡げては亭主と押問答最中。酒屋の自転 車がその前を駈けぬけ(祭礼気分は澄んだ秋の空に濠る)…・-…一且は沙汰止みかと思われた のが、村長の尽力で平年どおり行われることになったのだ。軒毎につるした提灯に麗かな日が 輝き、陽気な笑い声もあちこちの家から漏れてくる。  松並木なわて道、土橋から|華表《とりい》のうちへかけて両側には露天や立売り、天幕がけのたかまち 小屋が奇妙な画看板に、振仰ぐ人々の目をまるくさせている。紅白ねじ飴屋、家庭重宝、欠つ ぎ薬、疾咳もちには生姜糖、法外に安い|滅金《めつき》の指輪、|護護《ゴム》風船屋の笛の音が大人の耳にもなつ かしく響いてくる。 「とりわけて御婦人の産前産後、子宮血の道には胎を温め………」  分別臭い口上に効能を並べる|膿肋膀《おつとせい》売り、泥画の具で描いた怪奇な絵看板の下、覗穴に集う 大小の人々を見おろして、日に焦けた夫婦が唾を飛ばして、|交《こもごも》々鞭で板敷を叩きながら節おか しく喚き立てるは、貫一お宮の覗きからくり。おでん燗酒、しんこ細工。騒がしい鉦太鼓で人 の足を浮かせ、代は見てのお帰りぎわ、看板に偽りなし学術参考の山男………。  鎮守ハ幡宮の宵祭り、神殿の扉の前には大小紅白の鏡餅、鮮魚、饅米が供えられ、拝殿は拭 清め慢幕を張廻らし、参詣人に混って紋附袴の氏子有志や青年団消防組などが鹿爪らしく境内 を監視する。夜に入れば慣例どおりな|渡御《とぎよ》が行われる筈で、神輿庫の扉も一年振りに開かれ、 飾金具が燦然と光っている。  やがてはその日も暮れた。  軒毎の提灯や露店のカンテラが点火されると境内の|筆火《かがりぴ》もえんえんと燃え初めた。 「エエ……稚さい坊ちゃん嬢ちゃん方でも、|雑作《わけ》なくできる理学応用の魔術手帳………」  前を取ひまく二一二人の子供を相手に低い声で売口上を喋りながら参詣人の方へ虚路虚路視線 を送っているのは華表の際に小さな風呂敷包みをおいて、二寸角位いな小さい手帳の片隅をも ってバラバラ頁をくれば白い無地の紙。 「ここの所をポンと叩くと、それこのとおり」バラバラと広げる頁にさまざまな花もよう…-・ 何回となくこれをくり返している。  その|見實《みすぼら》しい姿、型の崩れた鳥打帽に汚れた素袷一枚、逞ましい腕で他に世渡りもあろうに、 子供相手のしがない商売、前に立つ客の姿はなくても別段退屈も感じないのか、隣りの電気菓 子屋に話しかけようともせず、往き来の参詣人をじろじろ眺めている。  参詣人の中には誰もこの素晴しい商人に、注意を惹かれるものも居ないようであるが、別段 それを苦にするようでもなく、手だけは根気よく玩具をバラバラやっている。  定紋入りの提灯を片手に、村長が羽織袴の扮装で氏子総代と|私語《ささや》きながら、華表を潜って社 殿の方へ上っていった。  それを見送った玩具売りが視線を転じて土橋の彼方を眺めたとき、急にその頬を硬ばらせ、 眉庇の蔭から瞬もせずその人物をみつめた。  並木路の方から両側の露店を見向きもせず、ゆき交う人々の間を潜ってくる淋しい顔の老女。 ときどき背後を振りかえっては立停り、土橋を渡ろうともしないで、鎮守の宮と反対の方向へ、 人目を避けるように歩き出した。  すると、その跡を追うて淋しい山裾の方へ、|雇《つ》いてゆく男がある、中折帽の鍔をぐっと引下 げているので、人相年配はよく見定めがつかないが、どうやらまだ若い男らしい。|狐鼠《こそこ》々々《そ》|と 人ごみから放れると立木の蔭づたいに、前の老女に追いついたようすを、今まで目も放さず見 守っていた玩具売りは慌しく脚もとの包みを提げ、一つ五銭也の正札を包みの中へ押込み、隣 へ挨拶もせずに両人の後から土橋を越えて暗い山裾の方へ消えてしまった。  老女も若い男も、ぴったり寄り添ったまま少時無言で歩いていたが、漸く老女の方が口を切 った。 「誰も知った人に会わなかったかい」 「大丈夫だよ、阿母ア、見つかりやしなかったさ」若い男は老女の耳元へ顔を寄せて、梢大き な声で答えた。 「人の口は|蒼蝿《うるさ》いからね、権三さんが亡くなったら、早速お前を呼寄せたと云われたくないや ね、お前もいま暫くがまんおし、そのうちに好い|機会《おり》がくるから………それにしても|彼品《あれ》がど こにあるんだか、妾は不思議でならないよ」 「阿母アの思違いじゃないのかい、確かに有ると思ったのは他のものを見違えたのじゃないか ね、よく考えて見た上でなけりゃ、迂滑なことは喋れないよ、反対にこちらが罪になるから な」 「妾もそう思うから、お前のほかには誰にも内緒にしてるよ。けれども妾はたしかに帳箪笥 に蔵ってあるのを、何かのおりに見た|記憶《おぼえ》がある。どうもあれがどうなったか解りさえすれ ば………」 「|継父《おやじ》を殺した奴も解るわけだね、常に憎まれているから、俺は何か怨恨で殺されたとばかり 思っていたが、これは殊によると証文の………」 「これっ」老女は若者を叱るように制した。 「往来傍でそんなことを云って、若し誰かに聞かれたらどうするのだえ、気をおつけよ…・ 会社へ帰ってもお前、滅多な口を利くんじゃないよ」 「判ったよ、………だが阿母ア、これから停車場まで送ってくれたのじゃ帰りが大変だ。もう 此所で好いから帰っておくれ」  親子らしい二人はそこに立停って、まだ低声に少時何やら話しているようであった。  跡をつけて草叢に身を賜め、親子の会話に注意を払っていた玩具売りは、そろそろと頭を|擾《もた》 げた。  神殿の方からは太鼓の音がひびいて来た。お神楽が始まるらしい。 10 ハ文字に開かれた神殿の扉。  冠装束に威容を正した神官の手によって、御神体はすでに神輿に移された。拝殿に居並ぶ|直 垂《ひたたれ》姿の伶人たちが奏する、|笙筆簗《しようひちりき》の優雅な楽のうちに、白い口覆いに半面を包んだ神官は|恭《うやうや》 しく、蜀江錦に包まれた神宝の太刀一口を両手に捧げ、静に|而《しか》も厳かな足どりで氏子総代たち が、額いている方へあゆみ寄った。  神前の燈明はわざと滅して筆火も光うすく、神殿のうちは氏子の捧げる提灯のほのかなあか り一つ、森厳の気はおのずから人々の頭上に加わる、境内はしいんと静まりかえり、咳一つす るものは居ない。  氏子総代の前に控えていた村長が、稽首膝行してゆくと神官の歩みがぴたりと停る、人々の 目はこの錦の袋にあつまった。  この中に包まれた由緒ふかい太刀を、ある者は行安といい異説には|小鍛冶《こかじ》の作とも云い、誰 も真実を知るものはないが貴重な神刀として平素は神庫に収められている。  村長は神官からこの太刀を授けられるべく、ぴたりと座って双手を高く頭上まであげた。  神官は太刀を捧げもったまま厳粛な刹那が………一秒、二秒と過ぎた。  氏子たちは|審《いぷか》しそうに神官を見上げた。  太刀は依然として神官が捧げたままだ。  村長も不思議そうに、|窃《そつ》と神官の顔を仰ぎ見た。白布の覆いの上に輝く二つの瞳を、微かな 灯光に眺めた彼は、何に怯えたかハッと躯を固くして、思わず躯をぐっとうしろにひいた。  四つの瞳が烈しく縫れあう。  拝殿の慢幕の蔭から息一杯に|吹奏《かな》でる笙の音が秋の大気に沁みこむように、森の暗へ消えゆ く。  楽はすでに終りに近づいた。崩れおちた筆火のほだに、炎はパッと明るく四辺を照らす。村 長はまた両手を高く差上げたが、その掌はわなわなと櫟えていた。神官は漸く捧げた太刀をじ りじり下げてきた。  五寸、三寸、太刀が村長の手に移ろうとした。その瞬1どちらの|粗忽《そこつ》かP  神宝の太刀は手を放れて足下の板敷へ、からりと取落された。  村長の狼狽! 氏子たちの驚樗!  神官は静に一歩退って、この粗忽きわまる村長の動作を|詰《なじ》るように、目を|瞑《いか》らしている。慌 しく拾い上げた太刀を両腕に抱えて、額に油汗をにじませ、顔色蒼ざめた村長を先登に氏子の 人々が神殿の前から退下すると、神官は静に扉を閉した。  村長は一語も発しない。  氏子総代たちも誰一人口を利くものが居なかった。  境内には既に渡御の列が出来ていた。白布の口覆いを取除いた神官が、中啓を手に木沓を |憂《かつかつ》々と鳴らして、自分の乗馬に近づくと奏楽は|蟷《はた》と止んで、先登にある太鼓は勢いよく鞭を入 れた。  祭列は静々と阪をおりて華表にさしかかる。  真榊一対の次は猿田彦太神。矛幾口楯幾面、その両側には荷い松明弓箭組。つづいて伶人の 群れ………氏子に|囲続《いによう》されて宝刀を捧げた村長………目もあやな稚児の一隊。横に護衛として 秋山巡査。  神官は手綱を捌いて緩かに馬を歩ませた。|雇従《こしよう》する白丁が高張提灯を荷ったとき、ふと傍の 太い杉の樹の彼方に、一人の男が忍びやかにこちらの動静を窺っている影が、地上に映ってい るのが神官の瞳にふれた。 「そそっかしい男じゃ」  半面を埋めた虎毒の中から誰にともなく眩いた。  祭列は参詣者の|堵列《とれつ》する中を、ゆるやかに進んでゆく。そして全く境内を出てしまった頃、 杉の幹から姿を現した男は小走りにその跡を追い、雑踏に紛れて祭列の後方から、どこまでも 尾行していった。  大|字《あざ》小|字《あざ》を練り歩くうちに、祭列の歩調は稽早くなってゆく。軒毎の提灯には蟷燭がまたた き、中には家伝来の毛艶を敷いて、神酒を供えた家も見える。そして家族たちは|敦《いず》れも軒下に 居ならび産土神の宵渡御を敬度な目で迎え、かしわ手音高く御神刀を礼拝する。祭列のうしろ から漸次に太鼓の音が喧騒を増し、その上にわっという城声が加わってきた。  祭列のとおった地区々々の櫓太鼓が、順序にしたがって祭列の跡から雇従してくる-…・-垣 丈な丸太棒を井の字に組みその中央に四本の柱をたてて四方を金糸で龍、虎、鷲、鳳鳳とりど りに刺繍した帷を垂れた中に七五三と調子を合せて太鼓をうち鳴らす、|昇《かつ》ぐものは全村の逞し い若者、力足を踏み胸髪も露わに、道路一杯左右に揺れてくる、伊賀袴の宰領が采配さっと振 れば、我勝に隆々たる双腕に力をこめて、櫓を高く差上げてわっと城声をあげる、男性的な弾 力と圧倒的な気力、そして酒気と喧騒をあたり一面播散しながら過ぎてゆくと又一台、二台、 又々々。  今夜祭列に|供奉《ぐぶ》して鎮守の社内に泊り、明日神輿に従って地区へ帰る、お迎え太鼓の櫓の数 は十に近くなる。  その騒音や、両側の拍手と私語の中を、喧騒の脅威から遁れようと跳上る馬を乗鎮めるとき の外、神官は作りつけた人形のように、半眼を膵いたまま黙々と身動きもしない、そして僅に 瞳をあげて前方を徒歩でゆく村長の捧持する御神刀を打守るのみであった。  村長の歩みは渋り勝ちで、1兎もすれば前をゆく伶人の群れと離れ、そこに広い間隔がで きそうになるのを、附添う氏子有志が審んで、その横顔を見ると、村長は蒼ざめた顔に眼をき っと据え、何かを凝視しているかと思うと、深く肯垂れて、時々何か口の中で眩く……-氏子 有志は気を揉んだ。場合が大切な神幸中である、村長の屈託顔が氏子たちの目に止っては、折 角華やかに挙行された祭礼が、却って氏子の不安となって有らぬ噂の種にならぬとも限らない。 「繁田さん、もっと早く歩きましょうや」  声をかけられて樗然と吾に返った村長、ばらばらと駈け出して前列に追いついた。  ちょうど三沢家の前だった。申訳だけに祭り提灯は軒さきに釣るしてあるが、その灯の下に 立って御渡を迎える人影もなく、閉した戸の奥から漏れるしめやかな火かげ。  稚児たちも御神刀に遅れないように足を早めて、この家の前をばたばたと駈けぬけた。福草 履から立ち昇る砂埃が白く舞上がる。  祭列の人々も警護のものも、三沢の家に一瞥を投げて過ぎた。 「何という陰気さだ、まるで住む人もない家のようじゃないか、この宵祭の晩に………併しそ れは無理もない」  誰でもそう考えたように、その家は咳一つ聞こえず静まり返っていた。主は鉄窓の下に娘は 生死知れず、主の妻は病臥して、残るは看護に疲れ、憂いになやむ信吉ひとりである、何の祭 列どころか………。  神官の乗る馬の足掻きが急に緩かになった。いままで仮面のように無表情だった神官は急に 眉を|蟹《ひそ》め眼をみひらき前方の稚児たちとの隔りも心づかぬかのように、上体を屈めてじっと家 内の状況を窺いながら徐ろに過ぎてゆく。  えっさ、えっさ………迎え太鼓がすぐうしろに迫ってきた。打ち鳴らす太鼓の音が田の面に 立つ案山子も浮かれ出しそうに思われるまで、陽気に響いてくる。  根気よくここまで、混雑に紛れ喧騒の中に混り尾行を続けてきた男は、先刻から神官の態度 に注目しつづけてきたが、このとき逆路の片脇に、混雑を避けながら、腰の手拭を外して額の 汗を拭っていた。 「|愈《いよいよ》そうだ………今に見ろ」  誰もその低い眩きに心づくものはいない。  そしてこの老人が広瀬刑事であることも、誰ひとり心注かなかったかも知れない。  祭礼は恒例にしたがって毎年の如く、村役場の前で一旦休憩した。  そこから神官はあらためて|徒歩《かち》だちとなって、御神刀を捧じ村長の家へそれを納める。この 奇妙な風習について古老たちは………往昔、この鎮守社が火を発したとき、繁田家の祖先が身 を挺して御神体を火中より取出し、仮の神殿が出来上るまで、自宅に安置しまいらせたところ から、以後の祭典には毎年必ず御神体の代りに、御宝物の太刀が宵祭の一夜に限り、繁田家に |持《こし》らえた祭壇へ奉安せられるのだ………と云伝えている。  高張提灯盛砂に浄められた表玄関から奥座敷上段の間に持らえた祭壇の前へ、神官は恭しく 御神刀を捧じて進んだ。この祭壇こそ繁田家の誇りで、代々繁田家当主に限り祭壇の扉を開く ことを許され、扉の封を解く術を知っている。いつの代に何びとの数奇からなったものか、そ の扉に取つけられた組木細工の封は、一見装飾的で而も巧緻を極めた符合装置だった。  傍から進み出た村長は膝立ちのまま、|竪《たて》の栓を抜き横の栓を捻じ、一本々々はずしてゆく。 神官は好奇の眼を輝し息を呑んで村長の指先を瞬める。氏子総代たちは次の間に整然と控えて いる。  かちり………微かな音を立てて扉は颯と開かれた。村長が一礼して引退るを待って、神官は 厳かに壇前に進み寄った。真新しい御幣、真榊。数挺の燭台に煙々と照らされている。  正面の奥には古びた正ハ幡宮の板符。  その前に太刀の柄を下にして奉安しおわると、朗々たる祝詞の声。百目蟷燭の灯炎はまたた き、氏子の人々もその荘厳さに知らず識らず頭を垂れる。そして神官の礼拝が終ったあと、氏 子が立って用意の饅米をそれぞれ供え、各自に玄関まで村長に見送られて、役場前に待つ祭列 の中へ帰っていった。  再び太鼓の音がとどろき渡り、騒然たる城声がわっと撒がる。祭列は一路松並木の道を土橋 の方へ引上げてゆく。  しだいに遠ざかりゆく太鼓とどよめきに耳を傾けたまま、袴をとろうともせず腕撲いて、思 案に肯垂れていた村長は、敷居際へ下男が手を支えたのも知らなかった。 「もし………旦那」 「:……う・」 「何だか解らないですが、旦那にお目に懸りたいといって、広瀬ちゅう人が来てます」 「広瀬! 今日は御見かけのとおり宵祭りで、とりこんでいますからと断れ」 「それが………是非話したい事があるから、僅の些との間で好いって、台所の方で待っていま す」 「台所P………そうか。詮方ないな、ではほんの少しの間だけと念を押しておけ。だが警察の 人だから粗末にするな………おい、それから家内の者に御神刀が祀られたから、お詣りしろと 云っておけ」  下男が立去ってから、村長はたち上って衣紋を正しながらふと荒菰を敷きつめた祭壇の方へ 向くと、御神刀の前に何やら白いものが目にふれた。つかつかと近づいて手にとれば、宛名も 差出人も記してない真白な封書………彼は樗然と四辺を見まわしたが、その顔は見る見る疑惑 と不安に蒼ざめていった。  蟷燭の灯にかざしてみたり、打返し打返し眺めては、幾度か封を切ろうとして躊躇った。  彼は|供御《くご》の僕米に貼られた名札を一巡見わたして、先刻この祭壇に近づいた人々の顔を想浮 べて見た………だが、どれもこれも好人物の、|土偶《でく》にひとしい氏子総代たち………こんなこと を演りそうな人物は一人も居ない。 「彼奴だ………あの晩籔際で見た眼………先刻御神殿で見たあの眼………ちち畜生ッ」  彼は眩きながら標く手に封を切って、短い文面を黙読したが、少時はそれを鷲掴みにした まま、荘然と灯光を噴めていた。 「よし、誰が、うぬ---…敗けるもんか、|強請《ゆすり》め、ぺてん師め………」  くるくると丸めた紙を挟に、さり気なく台所へ出てゆくと下男から勧められた茶を畷りなが ら、広瀬老刑事が待っていた。 「やあ、台所などへ来ずに何故、表口から這入って下さらないのです」 「やあ風態がこのとおりですから、人目につかないようにね。御取込みとは知っていましたが、 至急お訊ねしたいことが有るので、御迷惑でしょうが………」 「いや、公用なら場合を云っていられません。併し広瀬さん、そこじゃ話もできない、兎に角 私の居間まで来て下さらんか。何は無くても神酒や赤飯くらいあるからな、はははは」  隔ての無さそうな村長の態度に広瀬は欣然と立上って、 「いや、御馳走は用件が片附くまでお預けだ……・-が、御好意に甘えて上らせて貰おう」  整然と取片づけた村長の居間に導かれた広瀬は、茶菓を搬んだ下男が去るのを待って、膝乗 り出した。 「変なことをお訊ねするやうですが-…--何という名ですかね、あのハ幡神社の宮司は」 「|槙原能清《まきはらよしきよ》………どうしました」村長は自己の感情の抑制に努めながら訊きかえした。 「うん、槙原能清! いつ頃からあそこへ来たのでしたか、詳しく話して下さい」 「つまり今度の祭典があの人には二回目です、一昨年の冬指令で、転任になって来ましたが、 ハ幡宮の外に郷社を三つばかり管理して居るんです。以前は何だか本島辺の社に居たそうです が、何という神社だったかつい聞き漏らしました」 「あの山続きにある住居・……-よく安土山荘とか云っていますが、あれは誰の所有ですか」 「槙原宮司の物です、あれは以前町の志摩屋が別荘に建てたのですが、志摩屋の破産から転々 していたのを、あの宮司がこちらへ来てから買取ったので、槙原能清名義に登記ができていま す。本来あそこの神官たるものは町の大将軍神社の、社務所に寝泊りするのが慣例になってい ましたが、今時そんなことを喧しく云う人も居ないため、自然あんなことになっているので す」 「あの山荘には槙原宮司の他に、誰々居ますか」  村長は相手の胸中を読むようにその顔を熟視しながら、 「たしか、飯炊きの娼さんと二人限りのように思いますが………何か、 も………P」  広瀬はあらぬ空間に視線を走らせながら眩くように コの空間は同時に二箇のものによって占有されないのが真理ですな… な…  繁田さん明日です、明日中に事件の正体をお目にかけましょう」 あの人に不審な点で :はアて、 愈やるか 12  白昼なれば|粗朶《そだ》籠を背負った|杣《そま》が、漸く一人通れるだけの細道、片方は雑木生茂って麓まで 急な斜面、反対側に見上げるように建つは安土山荘といわれる、槙原能清の住居の裏手である。 勾配の上に建てられた家で、表側より廻れば普通の二階建ではあるが、裏側にはその下の空間 を利用して物置に宛て、不用の家具や薪炭類を雑然と納めた余地を、|厩《うまや》に用いてあるかして、 時々羽目板を蹴る蹄の音が、夜陰の静けさを破って聞こえる。  麓の村でも夜の更けた故か、宵の騒ぎもひっそりとなって献燈の灯も消え、沖には漁り火さ え見えぬ。  この山荘の奥座敷-恰度納屋の真上に  は、まだ燈火が輝いて二つの人影を壁にうつし ていた、湿やかに語るは家の主、その声は低くしかも今宵は何となく哀愁を帯びている。 「・一:…-俺は絶えずあんたの一家に、能う限り注意を払っていた。あの事件のときもそうじゃ った、引続いて襲う一家の災厄を救い得るものが、俺の他に無かったから。ところが、老檜な 悪魔は俺が手を下すまえに先手をうって、あんたの一家を不幸に導いていった。その悪魔の企 みを知っているのも俺ひとりじゃ。  それを取挫いで、あんたの家を救いたくも、残念ながら俺にはその証拠が無かったので、其 奴の為すがままにさせておく他に、手の附けようがない。  斯うして俺は時機を待った。証拠を探したのじゃ。その間にいろいろな事件がおこった…-- 村役場に放火があり、あんたの家から二人……・-いや、吾作を加えて三人まで嫌疑者として警 察へ曳かれていった。それが全部悪魔の所業じゃよ………あんたの家の刃物が兇器に用いられ たのと、生前安場権三と交情が悪かったのを利用されたのじゃ。しかも権三を殺した犯人は誰 かということは、広い此世の中に誰一人知るまいと思っている犯人の量見なら、これだけ長い 間どうして警察の目を隔着できよう。勿論自分の犯行を知っている人物を、敵に廻していろい ろ策略を用いるような犯人じゃから、検挙も手間どった。が。  それも愈よ明日じゃ。明日は事件の正体が明かになるのじゃ。  まだ、その以外にあんたの事件が、解けぬ謎として世間から|怪訴《ふしぎ》がられている。  想出してさえ傑然とするのは、あの雨の日社の森での出来ごとじゃった。  俺の帰りがもう一足おそかったら………あんたは現在のように斯うして、安穏では居られな かったじゃろう、何しろ対手は気の狂った男、それが昂りきって恰ら暴の牛の勢いで、遮る俺 につっ懸ってきよった。  漸くに手酷く打据えてあの気狂いめを逐払ったあと、見ればあんたは気を失ったまま死人同 様、撲ちどころでも悪かったか、尋常の介抱では正気に戻らぬ………悪意は全く無かった、 ここをよく解ってほしいのじゃ………母御の御心配を考えれば、あんたが正気に恢って元気な 姿になるまで帰されぬ。幸い、山荘への道は近い、此家へ担ぎこんで娼やと力を協せて介抱し ましたじゃ。  そして、容態の恢復を待つうちに、あんたを三沢の家へ帰しとうなくなってしまった…- 二十年の明暮れを夢にまで見た悌の主を、目のあたり、手の届くところに見て、どうして俺の 切ない心が抑えきれよう。でき得ることなら俺はあんたを伴去って、ずっと放れた世間で平和 に余生を慰められたかったのじゃ………併し俺は再びその愚を求めますまい、あんたの云うと おり三沢の娘じゃ、大恩ある父じゃ、棄てては済まない、その心懸けをあんたに教えて真直な 女に育ててくれただけでも、俺は三沢に感謝しなけりゃならん。  俺は………最初裏切者として三沢を呪った、不貞の女としてあんたの母を憎んだ。どんな手 段を執っても、復讐せずにおくまいと心に誓った………けれども、それは全然俺の誤解という ことがわかってきた。  あんた達の母娘が利慾に眩んだ悪魔から迫害され、居るべき安住の家を放逐されたとき、救 ってくれたのが三沢じゃ。それから以後に生じたことは……・-誰がとがめよう。  人間じゃもの………まして、二人は正道を履んで結婚したのじや。  俺は復讐の矛先を転じた。最愛の妻と子を放逐し、財産を奪って我物顔に|践雇《ぱつこ》している、悪 魔のような男に制裁を加えようと、常にその身辺に目をつけていた。  勿論その男は俺が何者であるかを知らなかった、恐らくこの界隈でも誰一人俺の前身に心附 いたものは無かったじゃろう。  奇蹟的に生きて故国の土を踏んだ俺は、まず或る港で故郷の状況を知った。が、そのときは もう何もかも解決のついたあとだった。俺はその後離れ小島の燈台守をしている友人を頼って、 そこで徐ろに復讐を画策していた。  人間は奇妙な因縁の糸で繋がれているものじゃ、その海をわたってある村落に住む孤独な神 官と、いつしか陀懇となって恰ど兄弟のように親み合ったのが、不図した病で一夜の間に亡く なった。  一時は途方に暮れたが、急に想いついたのが、俺の無籍者になっていることじゃ。  そこで神官の屍骸はその翌日|窃《ひそか》に土葬し、世間態は急に旅行したように見せかけ、幾日が 経ってから俺も其地を立退いて、公然と名乗った姓名が、槙原能清なのじゃ。  勿論顔つきから態度まで充分似せて、万一の場合に備えたが機会を見て主務省や県の方へ運 動した結果、この塩屋へ転勤の辞令を受取り、計画の第一歩に踏出したのじゃ。が、今となっ てはそれもこれも徒労じゃったよ。  今夜を最後としてこの塩屋の地を放れましょう………あんたとも永遠のお別れじゃ。機嫌よ く暮して下さい、三沢の外に父は無いのじゃと思ってね、紀念としてこの山荘を遺しておきま す、あんた達に明日から訪れる幸福の|魁《さきがけ》として進上するのじゃ。  娼やにも既に暇をやって、明日はもう山荘を去らせます、明日迎えのものが来たら、一緒に お帰りなさい、幸福があんたを待受けている筈じゃ。  その悦びをせめてもの心やりとして、俺は………お別れしてゆきます-・-・…」  暗然として語を切った主、そのあとを引つぐように優しい女の|戯歓《むせぴなき》が続いた。  納屋の板戸に身を寄せて、耳を|歌《そばだ》てていた人影が、上をふり仰いで満面に凄い笑を浮かべて、 尚一歩近づこうとしたとき、厩に繋がれた愛馬玉霰がぶるぶるっと鼻嵐。  人影は思わず飛退った。 13 273朱色の祭壇  安場権三が惨殺されたと刻を前後して、殺人狂針川重吉が監禁を破って逃走し、引続いて放 火だの盗難だの無気味なことが続出し、重吉の行衛とともに犯人の正体も、三沢茂子の生死も 不明で、僅に自警団の活躍によって村の祭礼が|辛《や》っと執行されるような状態の中にあって、最 初からこの事件に関係している藤尾、広瀬の両刑事は|抑《そもそ》も何をしていたか。  表面は協同的態度を執っているものの、内実は各見解や方針の相違もあれば、|逸《はや》る功名心の ために独自の途に向って相互に連絡のない状態で進んでいた。  最初手に入れた証拠晶の兇器が、三沢家の所有品であるところから、藤尾刑事は権三と争論 した信吉を第一に容疑者として取調べた。  併し信吉が極力犯行を否認したのみならず、有利な現場不在証明さえ提出したために、こん どは殺害の宵に債務のことで激論した吾作を拘引し、引続いて証人として喚問をした三沢をも 疑わしと認めて留置し、峻厳な訊問を行ったが、両人とも頑強に抗弁し、藤尾もその真偽を知 るに苦しんだ。  三沢の嫌疑理由は、権三が平素から為造に敵意をもち世間へ悪しざまに触れ廻ったことに為 造は遺恨を抱いて、両家は互いに烈しく反目しあっていた、と繁田村長が証言したためである。 併し三沢にしてみればそんな旧怨を根にもって、権三を殺害しなければならぬ必要はどこにも 無いと云い張った。そして指紋についての鑑定書には、兇器に残っていた指紋は甚だ不鮮明な 上に、血液で捺された陰影で、三沢の指紋に比して紛わしく吾作の分とは全然相違している旨 を報じてきた。重ね重ねの失敗に藤尾刑事の落胆は一とおりでなかった。  吾作を放免したに拘らず何故三沢だけを留置しておいたかというに、殺害当夜における三沢 の行動に、可なり曖昧の点が多いためであった。  為造は当日差出人不明の手紙を受とった……貴家に対する重大なる要件について、今夜九時 を期して秘密に会談したいから、誰にも告げずに地蔵堂の横まで来て頂きたい、委細は拝眉の 上で-….と云ったような意味なので、不審ながらその夜指定の場所へ、指定の時刻に行って待 っていた。併し定刻を+分過ぎ、二+分過ぎても、誰の姿も見えないので、|倦《さて》はだれかの悪戯 だったかと、携えていた書面をその場で寸断し、二三間帰りかけては見たが、或いは差出人が 退引ならぬ差支えのため、出遅れているのかも知れぬと、また立戻って辛抱強くあと十分余り をぽつねんと立尽していた。が、結局は待呆けで淋しい地蔵堂の前は誰一人とおらなかった。  愈々担がれたに相違ないと判って、担がれた自らを嘲りながら家へ帰り、鶏舎を見廻ってか ら寝に就いた。  これが当夜の行動の全部であると申立てたが、肝腎なその手紙は破棄しているし、誰もその 真実性を裏書きしてくれる人物はないので、藤尾刑事の疑念をはらすことが出来ず引続き何回 も訊問を繰返されるばかりであった。  世間のある一部では殺人狂重吉が、旧怨に酬ゆるため脱橿直後、安場家を襲ったものだ、と の風評が立っていた。が、藤尾刑事はこの説に耳を籍さなかったようで、彼は折返して三沢為 造の陰画指紋の比較再鑑定を乞うたが、その回答期間中に祭礼が挙行されたので、露天商人に 変装して参詣人の頻繁に通行する場所に網を張った。  お関後家と|伜《せがれ》の途中での立話から、図らずもある暗示を得て、彼女を訊問した結果、今まで 遺恨に因る犯行の見込みを放拠し、捜査方針の変更を署長に上申した。 「併し確実な証拠をあげないことには巧く云い抜けられたらそれまでじゃからね。この上人権 問題でも起されては、警察の体面にも関するよ」  署長には何となく遅疑の色が見える。藤尾刑事の焦慮もその点で、有力な容疑者が眼前にい ながら、一指を触れることすらできない。この上は慎重に証拠を探出すか、自分の地位官職を 賭けても、迅速にその容疑者を押えてしまうか、この両途しか無い。老朽と蔑んでいる広瀬に、 この功名を奪われたら、自分の面目を何とする。  日頃から賎しめている手段ではあるが、この際敢然後者を執るより他はない。 「明日だーそうだ、明日こそ」と心に叫んだ彼は夜が明けると直ぐ、村役場に姿を現わして 村長繁田の立会を求め、|堆《うずたか》く搬ばれた会計簿や、塩屋村信用組合の帳簿を入念に、検べはじ めた。祭礼当日であることも、奉幣使御参向のこともそれから朝霧を破って響く太鼓の音も、 一切忘れてしまったように。  一方広瀬老刑事は………。  彼も事件の夜安場家の横手の湿土に、印された跣足の跡を見てそれを重吉のものと推定した。 犯行時間には村の漁夫も跣足のままで俳徊する筈がない。お関の飼犬に吠えつかれた男が、樹 に登って難を避けた事実から、重吉の過去の殺人方法などを総合し、兇器の遺棄してあった距 離なども考慮し必然重吉の行為に相違ないと見込みをつけ、自分ひとり捜索隊から放れて、野 山のきらいなく|只専《ひたすら》重吉の行衛を逐うていった。併し針川重吉が非常に身が軽くて木登りの巧 みなことを考慮していなかったのは誤りであった。  寺院の本堂に忍込んで須弥壇の本尊と同居するくらいは未だしも、鐘楼の欄間や神社の床下 は|屈寛《くつきよう》の隠れ場所で、彼が高い樹上の枝に跨って過去の操帆作業の夢を繰返しているとき、 その真下を捜索隊が知らずに通ったことすらあった。  そのうちに、三沢茂子の保護願いが出され、彼女の居間を調査してみたが、家出の原因らし いものは何一つ見当らず。目あてもつかぬままに、漫然とハ幡神社の境内を通り抜けて森の奥 へ進んでいったとき、ふと脚もとにおちている小さな品を拾いあげてみるとそれは遺失して間 のない髪針でまだ油染みていた。考えようでは平凡な遺失物で、どこの道傍にもよく見かける ものであるが、ハ幡宮へ参詣に出かけたまま、行衛の知れなくなった茂子と、この髪針とを結 びつけてその謎を考えながら歩くうち、いつしか安土山荘の下へ出てしまった。  彼はそこに立停ってあたりを見廻し、ちょうど窓の真下あたりの雑木の枝に、何か白いもの が引懸っているのに心づいた。拾上げてみると、それは薄い桜紙の丸めたもので、恐らく挟の 隅から外へ投棄てたものが、木の枝にとまったものらしかった    。茂子の針箱の抽出に もこれと同じ紙の束があったことを彼は思出して、何かしらそこに一脈の通ずるもののあるよ うに感じて表側へ廻ってみると門扉は固く閉され、標札には槙原とばかり、隙間から覗けば邸 内は森閑と静まり返って咳きの声一つ聞こえてこない。  |解《デ》しがたい不審をそのまま胸にいだいて、村役場へ廻って三沢家の戸籍を調べてから塩屋駐 在所で秋山巡査や村長と話しているうち、重吉出現の騒ぎや、窃聴をしていた怪しい人物を空 しく取逃した事件などがあった。  その一夜、何を感じたか広瀬は翌朝早く丁市の県庁を訪れ社寺課で槙原能清の調査を開始し た。  併し調査の結果何等槙原に不審の点のないことが判ったが猶それでも槙原の前任地の所轄署 へ照会を発しておいた。  ちょうどその回答を受取ったのが宵祭の当日で、広瀬は深く期するところがあったものか、 渡御以前から境内に忍んで、神殿に太刀授受の光景をも残らず見てとったのである。  斯うして藤尾広瀬の二人は出発点こそ異にしているが、おのおの一歩ずつ事件の真相に近づ いていった。 14  信吉は何という理由もなしに家を出て、何処へとも当途もなく、朝霧の中をふらふらさまよ いながら、その足は知らず知らず鎮守の社をぬけて安土ヶ丘の中腹を歩んでいたが、境内には 取残されたように櫓太鼓が並び、まだその辺には参詣人も露店も出ていなかった。丘の突端に 仔んで傭轍せば、オパールのような霧に包まれて模糊とした中に、薄したように三沢の家も吾 作の家も、村役場の彊も、それから恨ふかい安場の住居も見える。  だが、彼はそんなものが見たさに、丘を登ってきたわけでもない、ただ斯うして歩いている うちに、どこから茂子が1信ちゃんじゃないのーと、声をかけてくれそうなもの。と、そ んな侍みにならない頼りない心持であった。 「………おう、あの浜が見える、あそこをふたり一緒によく歩いたものだ。--…-いつだった か、重吉から(信公巧くやってやがる)と畷鳴られて、俺たちはおどろいて逃出したこともあ ったっけ。然うだ、鬼権と喧嘩をしたのも彼処だ、あれがそもそもの蹟きだった………ああ、 茂ちゃんは一体どうしているのだ、もしあの屋根の下に、茂ちゃんが無事で居てくれるのだっ たら、俺は去年のように今日の祭に出て、力一杯、太鼓を昇いで思う存分はしゃいで見るの にー止そう、こんな事を考えるのは詰らない、どうせこれから以後はどんなふうに悪くなっ てゆくか、知れたものじゃない」  遣瀬なさそうな溜息を絞出して、荘然と顔を上げた。そのときはもう已に森の梢越しに、|農《あさ》 の太陽が、下界を覗きこむように頭を撞げて現われた。 「いつまで斯うして居たってどうなるものか。帰ろう。粥を煮てあげなきゃならない、そうだ、 鶏どもも餌を待っているだろう」  細道の上に散敷く落葉を踏んで、帰り途についたが、ふとむこうを見た彼は思わず立停って 拳を握りしめた。  道の行くてに梯子をたてて山荘の窓目がけてのそのそ上ってゆく男がある。  窓の内部を窺う身振りが、どうも尋常事ではないらしい。周囲を見廻していた件の男は残る 二三段を身軽くよじて、障子をあけて片足を踏入れたとき室内から甲高い、恐怖の絶叫が、幽 寂な四方の空気を|壁《つんざ》いて聞こえた。  女の声。あっ、しかもその声だ!  信吉は何を顧慮する暇もなく、夢中に駈け出した。続いて信吉の耳に入ったは、戸障子を突 破る物音、入乱れた楚音である。  彼が嘗て経験したことのないくらいの機敏さで梯子を上ったが、かなたの廊下や縁側を駈け まわる物音に、何の躊躇もなく窓を飛越えて踏みこみ、漸くそこに人の姿を見出した信吉の心 臓の血は凍ってしまうばかりであった。  夢ではないか。逃げようと隙を窺っている茂子!  それに向ってじりじり詰め寄るは、探索中の殺人狂の重吉。  正に危機    、声をかける暇もない。  狼のように牙をいからした重吉が、一と飛びに茂子へ襲いかかった刹那、信吉の五体は鞠の 如く弾んで重吉に打突かった。  重吉は俵を投出したように、唐紙と一緒に倒れたが、むっくり身を起し改めて信吉の方へ襲 撃の姿をとった。 「あっ、危いっ………」  茂子が叫んだ。懐ろに手を差入れた重吉は、どこで掠ってきたか煙りと右手に小刀を光らせ て、徐々腰を上げかかる。茂子を庇いながら信吉は、思わず一足退った………茂子に怪我をさ せまいとすれば、必ず自分が斬られる。  危急の一秒-  小刀を払冠った重吉が躍りかかって、信吉の肩先へ烈しく小刀を突刺す、瞬間!  三つの絶叫が縫れあったと思うと、重吉は腸みがちにうしろへ践けて踏停り、下腹を押えた まま顔を戚足めた。咄嵯に相手を蹴上げた信吉は、その怯む隙を利用して、逆に此方から襲っ た………と、見る見る烈しい畷号と震動を立てて、二人の体は一塊となり、襖を破り障子を砕 きひっ組んだ肉塊は、凄じく転る、畳の上や襖には執らが傷ついたかたらたらと血の痕が滴っ ている。 「早く、今の間に………茂ちゃん逃げるんだ、早くッ」叫ぶうちに、どたりと横倒しにされて、 重吉がその上にのし懸り掴まれた右手を振解こうと苛つ。  信吉は相手の利腕を双つの手に掴んで捻じようと死力を尽し、重吉は左手に敵の頭髪をつか んで躯を腕く。  茂子は徒らに声を立てて足摺りするばかり。どうしても此場から遁げ出す気になれない。  重吉は烈しく信吉の頭を揺った。歯を喰いしばった信吉の目が眩んで、必死と掴んだ重吉の 腕がその掌から放れ、顔の真上に鋭い刃先が|窮《かざ》された。危い刹那。  どどどっという板敷の轟きについで重吉の上体が急に後へのけ反った。 「やっ、重吉だッ」「放しちゃいけないぞ」「縄をかけろッ」  口々に罵る声を聞きながら信吉は跳起きた。重吉を取押えて|舞《ひし》めき合っているのは、町から 来た刑事たちで、瞬くうちに重吉は小包のようにひっ結らげられてしまった。 「おう、君だったのか、危なかったねえ」  近づいた老刑事は信吉にそう云ってから、恐怖に蒼ざめている茂子へ視線を移した。 「あなたは………三沢の娘さんじゃないのかね……そうか、やはり然うだったか。一体これは 何うしたわけだね」  信吉が概略の事情を話すのを、頷きながら聞いている老刑事は、急に不安らしく 「うん解った………ところで此家の主人はどうしたのか、槙原という男は何処に居るのかね、 君」  何も知らない信吉は促すように茂子の顔を見た。 「槙原さまは、今日必ず警察の人がお前を迎えにくるから、これをお渡しするように仰有いま して………」  茂子が襟の間から取出したのは一通の手紙 「ふむ、そして槙原はどうしたのだ」 「何でもあなた達のいらっしゃる時分には、追つかれないところへ行っているから、早くその 手紙を読んで貰った方が好いと………」 「逃げたな-…・…、すぐ追かけよう」  騒ぐ同僚を静に制して、老刑事は手渡された手紙の封を破り、忙しくその文面に視線を走ら せた。      15  諸君の貴重な時間を多く奪わないため、努めて要領のみここに書きのこしてゆく。  自分は止み難い目的のもとに、ある男を、平素厳重に監視していた、何を匿そう、その男こ そ繁田玄三郎である。余が生命にも換え難い最愛の妻子を迫害し、家産を奪い、妻子をして今 日他人を、良人とよび、父とかしずくに至らしめた、呪っても飽き足らぬ悪魔だ。近頃事業熱 から放慢無計算な投資を試みた彼が、事業左祖の損害を償わんがために、地位職権を濫用して、 塩屋村信用組合の資金を流用し、尚お村収入役たる安場権三から多額の融通をうけていたが、 遂に返済不能に陥り破綻の迫っているのを余は権三が強請処分に附する以前に、茂子の主張す べき正当の権利あることを教うべく、窃に×月×日夜地蔵堂横にて会見したい旨を、三沢為吉 に通じておいた。  当夜自分は会見のため出向いたが、途中安場の表を通りかかると戸を開けて帰り行くのが、 監視中の繁田であったから急に予定をかえて尾行して見ると、彼は三沢の家に近い籔蔭に賜ん で何かを取出し、又以前の道を引返し、安場の戸外に仔んで窺っているうちに安場の妻女が他 出したので、彼はひそやかに再び権三の家へ這入っていった。  余り挙動の不審さに余が裏の土塀を乗越え、雨戸の節穴より覗いているとも知らず、繁田は 言葉巧みに証書の提示を求めてのち、権三がその証書を蔵いこむ場所を見究め、彼は返済を誓 って暇を告げ、帰ると見せかけて表戸の蔭に潜み、機会を規っていたのである。  彼は何かを投げつけたに相違ない、台所の物音に立って行った権三は、まんまと罠に罹って 繁田の毒刃に難されたのだ。繁田は悠々と権三の手拭をもって抽出の環を摘み、証書を取出し たあとを以前の如く装い、そのまま表口から立出る気配に、自分は直に取押えてその大罪を責 め、自決を迫るべく彼を追うたが、遺憾なことには何者か、暗中から飛出して妨害し、為に玄 三郎を暗の中に見失ってしまった。  余からこのことを密告しなかったことにつき、諸君は非難するであろうが、彼の罪を明かに する証拠が何処にあったか、まして自分にとって彼が殺人強盗の罪名によって逮捕されること を揮る理由のあったことを諒とせられたい。  塩屋近郷に連日不祥事が頻発し諸君を悩ませたが、村役場の放火は公金費消の犯跡を浬滅せ んために企まれた玄三郎の所為である。黒衣に全身を包んだ人物の出没したのは、玄三郎を押 えんがために俳徊する自分の姿であった。それ以外に善良なる村民を襲ったものがあるとか、 それは自分の関知するところではない。恐らく精神病者針川の所為ではなかったろうか。自分 は再三にわたって繁田の不正を責め、自決を促す警告状を発したが、反省どころか、彼は不敵 にも自分へ挑戦してきた。自警団組織がそれである。  玄三郎が己れの破倫を匿して雪や茂子を中傷していることを、駐在所で窃聴した自分は、そ の夜彼を強襲した効もなく、吾作のため妨げられた。打倒して目的を遂行するは容易であった が、吾作には恩こそあれ怨みはない、自分の妻子を陰陽に庇護してくれた吾作に対し、礼儀と してその場は自分の方から避けた,  父の冤を神に|憩《うつた》えんとして八幡の森で、危難に遭った茂子を救った自分は、至純至孝の吾子 のために人倫の大義を訓えられ、宿年の希望を拠ち、遂に唯一の証拠たる書類の隠匿場所を発 見した。  無頼なる玄三郎は昨秋の祭典に際し、ハ幡宮の神宝たる太刀さえ、窃に中身を摺換えて売却 した事実を、神官たる立場より看破し、昨夜渡御に先ち神殿において、暗にこれを調して彼に ! 最後の警告を与えたのである。神宝を彼の家の祭壇に祀るとき、自分の感慨は無量であった、 追憶なつかしい家。庭の一つの石、一本の柱にも忘れ難い思い出をもっている、幼いとき戯れ につけた柱の|理《きず》さえそのままに残っている、それもこれも今宵限り。正統なる自分の開くべき 祭壇の扉を、大悪玄三郎が神をも恐れず開いていた。  朱色に塗られた扉、自分はそのとき真赤な血を聯想し、彼の身もいつかは真紅に畔らるべき ことを想像した。併し|然《さ》あらぬ態に|予《かね》て用意した………明日は汝の破滅が来る………と書いた 一封を残したまま帰ったのである。  昨夜渡御の際終始自分の行動を監視し、尾行までされたことは疾に気づいていた、それ故今 朝電話をもって、茂子が山荘に幽閉されていると、自ら密告して御足労を願った次第である。  時刻延びては諸君の苦心は水泡に帰するかも知れぬ、速かに公金費消の名によって玄三郎を 逮捕せられたが好い、彼を権三殺害犯人と断ずべき証拠は、彼の家にある祭壇の奥ハ幡神札符 の間に匿されてある。自分は斯く祖先の名を辱めぬため|屡《しばしば》々自決を勧めたのであるが、今とな ってはもう及ばない、見殺しにするのも止むを得ぬ仕儀である。  槙原能清についての詮義は無用だ、諸君と同じ地球上には生存しているが、手の届かないと こに余生を送るのだ。骨肉相培ぎ、最愛の妻子すら自分のものではない。これが現世の姿か。  以前自分の配下だった針川重吉は精神病者のこと寛大なる御処分を望む。  前途を急ぐから書残すこともこれまでにしておこう。   ×月×日                       槙原能清 16  人数を別けて重吉を本署へ護送させた広瀬が、残る同僚と一緒に村役場へ駈けつけたとき、 堆積した書類の中に、|紙魚《しみ》の如くうずくまっている藤尾を発見して、その意外さに各自は顔を 見合せた。 「おう、諸君お揃いで、どうかしたのですか」藤尾は顔だけねじむけて人々を見廻した。 「いや、実は会計簿や信用組合の帳簿を調べる必要があって来たのだが、やはり君も?」  急きこんで訊ねる広瀬を見上げて、藤尾は得意らしい皮肉たっぷりな口調で 「お先きへ失敬しています、何しろこのとおりの書類ですから大変手間とってね、誰か一人手 伝ってくれると助かるんですが」 「それで………まだ何も発見しないのかね」 「どうして、容易じゃない、仲々巧く辻棲を合せているですよ、二一二点不審な個所がありまし たが、村長は要領よく説明していました」 「村長! その村長はどうした、何処に居るね君」広瀬は不安らしく四辺を見廻した。 「先刻何だか使いの者から手紙を受取ってから、急用を済ませたらすぐ来るからって一時間ば かり以前に、帰っていったようだったが」 「しまったッ………帰したのか」  拳を握って坤く広瀬を藤尾は不審そうに見上げたが、すぐ得意そうに眼を輝かして 「いや、ずらかるのを心配しているようだが、その点はちゃんとあの家を見張らせてあるから 大丈夫ですよ、今更逃がすものですか、はっはっはっ」  広瀬は先刻の手紙の中の警告状という文字を思い出して樗然とした。 「藤尾君、村長が逃げることを心配しているのじゃない、使いが持って来たその手紙が悪いの だ、殊によると村長は………」 「えっ………村長はっ-・」 「斯うしては居られない、君たち、行こう」慌しく云棄てて急ぎ足に役場の玄関を降りようとし たとき、砂埃を蹴立てて門を駈けこんで来た男がある。村長宅を見張っていた若い同僚だった。 「おっ、何うした君は」 「やあ………遂々やりやがった、村長が!」 「えっ、|逃走《ずら》かったのか」  その男は首を振って自分の胸を指した人差指を曲げて見せ 「ずどんと………一発|緯切《ことき》れだ」 17 「誤解・・ :そうだ、 大きな誤解だ。  同じ温度さえその人の感覚の相違で暑さ、寒さの程度に差がある。一つの真理を正しく見る ことのできないのは、人間が誤った計算を加えるからだ。間違っていないのは真理で、人生の ことは全部嘘なのだ。  誤解されたとて何を怨もう。  警察の連中は自分たちの間違った信念から、俺を疑った。ただそれだけの事だ、あの連中の 眼に真理が歪んで見えたばかりだ。  どんな人間にも真理は歪んで見える。    …重罪たる殺人犯の嫌疑を受けるというのも、畢寛はあなたの………と帰りがけに署長 が云ったが、署長の真理が歪んでいたのが、俺の故だという逆理だった。  罪悪ー 悪   善   善悪。  この標準は一体誰が作ったものだP これも歪んでいる。絶えずぐらついている。  倫理道徳が一日ごとに動揺し変化しているではないか、法律だってそうだ。  殺人は重罪だ、人間の生命を|害《そこな》うことは極悪だ、だから権三を殺した男は、当然それだけの 制裁を加えられるだろう。だが、集団が集団を殺裁する、国家同志の戦いに勝った一方を、ど うして罰することが出来る。  標準の相違だ、殺人行為にさえ人間の標準を用いている。その相違が死刑執行令状と、恩給 年金証書なんだ。  嘘だらけな善悪の標準…-…・どこに真実があるのか。 俺がいままで善と信じて行っていたことさえ、間違っていはしなかったか。 繁華な都会を|駿《はし》る電車、毎日隣村をとおっている汽車……-あれを人生の縮図だと誰かが云 った。千差万別の人を乗せ、喜怒哀楽を積んで涯しもなく駿っている。俺は………俺はその中 でも、横暴な我儘な他人に押除けられ、突飛ばされながら謙譲な態度を忘れず、重荷を負った まま縮こまっていた。  動揺、衝撃、疲労を泳えながら。  だが、これも結果は善でも悪でもない所謂雑毒の善であったか。………ああ、何も考えない でおこう。考えたところで俺等の凡智に判りはしない。ただ偉大な力に信順して生きてゆこう よ。  青天白日………こんな朝のことを云うのか、空は清々しく晴れている、好い気持だ。雪や茂 子が待っているだろう、少しでも早く帰って喜ばせよう、おう、太陽が上ってきた、眩しい朝 日だ」  額に掌をあてて懐しい森の梢を眺めた為造は、やがて両手を振りつつ力強く大地を踏みしめ、 並木路を塩屋の方へ帰ってゆく。村の太鼓が彼の歩みに合せるように、秋の空を震わしてひび いてくる。 「三沢さん、いまお帰りかね」  余りの唐突にぎょっとして立停った為造が、振向いて見ると路傍の物蔭に、馬上ゆたかに跨 って逞しい躯に旅装した人物が、莞爾と手綱を控えていた。八幡宮神官と見てとり為造は慰勲 に小腰を屈めた。 「………はい、漸く疑いが晴れまして、はっはははは」 「結構じゃった、どうも飛んだ御災難ですのう。お宅では皆さんがお待ちかねじゃろう、早く 帰ってお上げなさい………止むを得ない用事で俺はちょっと旅をしますが、三沢さん。あなた 達の御幸運を祈りますぞ」  為造が何か云おうとした間に、相手は蹄も軽く馬を進ませて二三間彼方から馬上のまま振顧 った。 「左様なら………早くお行きなさい」  声ばかりあとに残って、馬は立髪をふるい、蹄をあげ土煙りの中に距たりゆくよと見る間に、 その姿を見失なってしまった。  今別れ際に聞いた声。あの声………、  初めて聞いたように思えない…---何故だろう。何だか遠い以前に同じことを、聞いたこと があるようだ………あの声! あの言葉P………いつ……・・どこで・……三〜  腕供いたまま為造は荘然とそこに立ちつくしていた。輝かしい陽光を背に浴びたままで。 読者へお詫び 最初本篇は六回の予定で書きはじめましたが、九月号が発禁のため五回に縮めねばならなく なり、自然筋を急いだ結果梗概的なものになって、鈍重な筆が尚更渋りました。 面白くなかったことをお許し下さい。健康でも恢復しましたら、もう少し良いものをお目に かけることにします。             作者                             (一九二九年七〜十二月号)