ショウを送りて 山本実彦  埠頭の岸壁は煙々として真昼のような耀きを見せていた。  エンプレス・オヴ・ブリテンの雄姿は、もう五十分の間に横浜の岸壁を離れてしまうのであ る。  私たちは今しがた、ブリテン号のサロンにて別離の辞を彼にのベて来たところであった。彼 は「永久に日本を忘れまい」といい、軽い握手をすませて遁がるるがごとくエレベーターに去 ってしまった。  しかしながら、私どもはブリテン号周遊客のために岸壁に急設された草花の市、いろいろの 特産の市をひやかそうと思っていると、彼の真白に長い髭が小暗い草花市のところからヒョコ リ発見せられたのである。  伏目がちな彼の足どりは、皮肉に燃えたふだんのそれらしさがまるっきり見当たらない。  私は、彼の視線に入ることが、彼の静かな境地をかき乱すであろうことを厭うて小走りに暗 いかげにと身をかわした。  だが、私は彼が我が田園の幽趣に、花咲く日本にひたることの出来なかったことを一ばん残 念に思っておっただけに、せめてその草花や、暮れ行く浜の自然に瞑想する時間の一分間でも 多くあることを祈らないわけに行かなかった。  彼は七日の夕ぐれに我が友Mに向って、「どうも日本では行くところ、行くところ大ヘんな 歓迎だが、しかしそれは新興国の常で、米国でも日本でも、国としての受難の経験がないだけ に、何でも浅く薄く物事をうけ入れるのではあるまいか。こうした民族はすぐに物を忘れてし まうのだ。われわれ如き虐げられた人種は、とてもさように簡単に受入れは出来ない」と語っ たそうだ。なるほど彼は自然に恵まれないダブリンの生まれだ。そして圧迫の鞭に虐げられ通 しのアイルランド人であることを思わないわけには行かなかった。彼の罵倒も、調刺も、呪い の皮肉も、弱国にはぐくまれた父祖からの復讐的血液の凝結せるものにほかならないであろう ことを思った私は、また彼が、インタiナショナリズムの腹の底をなしたものに「国」という ものが横たわっていることは、スターリンの今の思想にまで辿りついてた径路と酷似している ことを考えないわけには行かなかった。  ブリテン号の解撹を前にして、周遊客は左往、右往に入り乱れて、あわただしい光景が人び とをして緊張せしめておったが、彼は燈光を忌み避けつつ、あちらこちらと歩き廻り黙想を深 めて行くのであった。  私はいま彼が何を考えつつあるのであろう、と、彼のすぐれた頭の解剖を試みたい気持がい っばいになった。彼は中国にはいってからも、日本に着いてからも案外に日本に悪罵を浴びせ なかった。たいていの人びとは日本人に好感を持っているのだろうというた。またはいくらか 遠慮しているのではなかろうかと推測するものもあった。  私は三月三日の正午すぎ京都ホテルで初めて彼に逢った。私は友人兼弘を介して彼とエンゲ ルスとの交渉について最も興味多き話を聞いた。彼はさる日、ハイド・。ハークでメーデーの示 威大会があったときエンゲルスと相見たのであったそうだ。そのときの情景を彼は手を挙げた りなにかして、いとも得意に語り出すのであった。私はその当時の歴史的光景を眼前に描きな がら、七十五翁の眼の光りを見つめたのであった。  私の社で『マルクス・エンゲルス全集』を大集成しているから、というわけではなしに、私 は全く新しい文献を得るであろうことを、心からたのしんだ。そして、彼にこの事に関した文 献について発表したことがあるであろうかを反珊してみた。  彼は即座に「否」と答えたのであった。  そうしたことが動機で、彼は本誌『改造』に「エンゲルス・ショウ並びにレーニン」の原稿 を書くことになったのであった。  それから陸相や首相との会見のことや、観能にたいする意饗をただしたところ、彼はいずれ も希望するところであると明言したのであった。  そうした京都での会見のことどもを回想して、彼の去ることが惜しまれるのであった。  それから荒木陸相と会見のときも、私は陪席を許されたので、彼の社会観、政治観を一時間 半に亙って聞くことを得たのであった。しかしながらその内容は別にたれかが詳しく記すると ころがあったので、ここには重複を慮って省くことにした。  彼にはとても面白い癖が一つある。談が佳境に入ると、彼は親指と中指とを自分の頭上にま で持って行って、指鳴りの音楽(ω8b)をして見せる。荒木さんとの対話のとき、突然それが 高らかに鳴った。私はびっくりさせられたのであったが、この人にしてこうした癖があるのか と、私はこみ上げてくる笑いをかみころしていたのであった。  その言葉にも、戯曲にも、ズバ抜けた譜誰と調刺とがいっぱいであることは公知のことだが、 身振りにでもそうした特色があるということは、私の一つの発見といってもよろしいだろうと 思った。聞けばレーニンもこの癖があったそうだが、さるにしてもショウらしい癖ではある。 彼はいずれの問題についても該博なる知識を持ち合わせている。社会科学、哲学、政治、外 交、行くとして可ならざるはなく、輪郭の大きいことは、文芸家にはちょっと比較すベき人が なく、そしてあの年齢をして研究心の旺盛であることは誇るべきものであろう。今度我が国で 四、五日間ほとんど彼と一しょにいたが、そのたびごとにそうした感じが湧いて来るのであっ た。  彼はブリテン号にありて食堂にも出でずして、畢世の大作を書きつつありということだが、 齢八十に近くして腰はまがらず、林檎のようなつやつやした色をして芸術のために身の老を感 ぜざるの概があるのは、何といっても気持のよいことである。  彼は、今ごろちょうど、ホノルル横浜間の最中を航海しつつあるのだろう。そしてあの埠頭 で見たような傭向きながらの足どりで、上甲板で深い瞑想に耽っていることだろう。  ねがわくば彼によき航海であってくれればよいが。                                (昭和八年四月『改造』)