http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/ で、校正しながら公開中 『明治世相百話』山本笑月 目次 文化  腕白には煙管が飛ぶ  日本最初の勧工場  乗り物の閉口時代  オツな商売貸本屋  初めての洋風温室  明治時代の街の灯  その頃の中学校  蓄音機の初渡来奇談  東京初期の競馬熱  写真屋の引っ張り  バーの元祖函館屋  高等貸馬車の繁昌  借馬屋直伝の馬術  自転車の初期時代  悠長な交通機関  絵葉書流行の始め  赤毛布の正体  葉巻形気球の初飛揚  諸商売の定式看板  魯文時代の引札類  大切な商店の暖簾  わが朝煙草の変遷史  天保銭  漢方時代のお医者様  木造鉄皮の米艦隊  信伝豪奢の四層楼  明治の大火事  新聞小説の第一声 演芸界  川上音二郎の宣伝姿  劇評の元祖『評判記』  芸を崩す名人越路  バカにした連中総感服  東京生れの人形芝居  夏気分の新内流し  閑人の昼寝の場所  珍妙な当り芸列伝  鼻ぺこの八重垣姫  横綱は河竹黙阿弥  落語家の棹名尽し  大通、百物語の会  団菊以外の名優連  明治劇界の飛将軍  中流向きの名劇場  大向うの客を翻弄  浪花節出世の始まり  極端なる写実劇  「陽曽我借座明物」  難曲の名人綾瀬太夫  根津の風流劇場  デン界の名物競べ  能楽趣味の権化  黒川能の東京進出  女芝居は明治の産物  硯海太夫と鶴彦翁  女芝居と娘義太夫   粂八の旗揚げ   団洲張りの勧進帳   達者揃いの大一座   女天下の三崎座   棹尾の全盛   晩年の粂八   初期の女義太夫   肩衣が後日の問題   花形連の評判   小住等の正義派   小清と呂昇   定席と堂摺達  名人印象記   唐桟ずくめの九郎翁   茅ケ崎別荘の団十郎   最後に聴いた円朝会 風俗  開化頭の変遷史  絵双紙屋の繁昌記  明治時代玩具屋風景  わんぱく遊び列伝  物売り姿のいろいろ  矢場と銘酒屋風景  屋根船盛衰記  永代下流の白魚船  古風なりし渡場風景  履物趣味の変遷史  縁日に見た下町情調  お笑い草の花見風俗  往年の水菓子屋風景  年の市繁昌くらべ  春の昔の正月気分  大江戸豪華の名残り 趣味・娯楽  絵双六の話   双六の起り   珍しい双六   役者すごろく   道中すごろく   川柳俳句双六   年玉の広告双六   変った双六  風雅界の新年摺物  昔なつかし物見遊山  豪華なりし盆栽趣味  茶道の長老結束の賜  狸を飼った話  催眠術公開の皮切り  六区の池に演芸船  曲独楽の竹沢藤治  憲法発布祝祭の大象  南洋最初のお客様  チャリネ曲馬の渡来  民間最初の水族館  ジオラマとパノラマ  大評判の風船乗り  初見参の拳闘と西洋相撲  映画の初興行と活弁  公園名物撃剣試合  グロ見世物ぞろい  菊人形は明治の産物  猛犬相撲の珍興行  浅草蔵前の女人形  煙草が化して桜並木 名所・名物  五大橋時代の旧観  心細い紅葉の名所  小赤壁の風致没落  東京に残る名園由緒  悩まされた悪道路  秋葉の原昔話  海岸と山手名所  木場に残った江戸風景  交通地獄の元祖  場末の夏は虫の声々  昔の近郊滝めぐり  浅草田甫の酉の町  六地蔵の移転当時  たんぽ時代の公園裏  東都名代の橋づくし  名代の団子しらべ  焼芋屋の全盛時代  名物再興の骨折損  江戸前名残りの蒲焼  狸じると珍物茶屋  甘党随喜の名代汁粉  紅葉と目こすりなます  味覚本位の食道楽  おでんの逆輸入 書画・骨董  明治文士の筆蹟   名筆の諸大家   飄逸の妙筆   穏健の筆致  水浴させた文具の画  昔懐かし、名作の袋物  浮び上った古書相場  好い加減な書画の鑑定  五厘から一万円に  涙の出るような話  掘り出した堅牢地神  洋画に驚歎した始め  明治の錦絵界を展望  海舟先生大作の盗難  煙と消えた一代の作  三寸の中に大彫刻あり  隈侯壇上の忘れ物 文人・墨客  朱鞘の楓湖画伯と女湯の広湖   持って生れた古武士気質の楓湖   問題になった湯上り美人双幅  書道盛んなりし頃  春木町時代の川上肩山  明治狂歌の盛衰記  仮名垣門下の人々  名人肌とはこれか  無造作にして大傑作  十人十色茶人気質  生人形の安本亀八翁  広業画伯思い出草  動物画の名人列伝  日本画壇の斎藤別当  男勝りの女流画家  「東京にて有人様」  千歳村の蘆花先生  日本一の愛猫家物語  田口米作と永田錦心  風雅界の名物寒山  その昔奥山名物五人男    腕白には煙管が飛ぶ       寺子屋遺風の小学校時代  明治二年に政府の出した『府県施政順序』のうちに「小学校を設くる事」とあって、翌三年、 東京府は初めて都下に小学校を六つ建てた。といっても校舎はすべて寺院で、芝増上寺地中の洞 雲院、牛込の万昌院、本郷の本妙寺、浅草の西福寺、深川の長慶寺の六ヵ所。一方、在来の手習 師匠約四百軒が五年の新学制に則《のつと》って新たに小学校の仲間入り、そのうち数十軒は公立小学校に 昇格し、他は私立小学校と称し、これが相当幅を利かせた。そのうち追い追い公立も殖え、粗末 ながら洋風の校舎になって各区に一、二校ずつそろったが、私立の方も依然繁昌。  土地の古株だけに私立の方には父祖三代の生徒竜あり、諸事寺子屋の遺風を守って、老先生が 教場の正面に頑張る。十五年出板の『高名校主自筆百人一首』というのを見ると、当時女の校長 の小学校が数軒あった。神田の芳林、池《いけ》ノ端《はた》の青海、仲御徒町《なかおかちまち》の本島(これが筆者の母校、若先 生は初期の師範学校卒業生で、今は退隠されてなお健在。)、霊岸島の馬場、深川の文池堂、同公 園の大谷、馬喰町の初音、湯島の近藤、赤坂の氷川などは大きい方、中には塾生の十五、六人い るのもあった。真黒なお草紙をぶら下げ、風呂敷包をはす掛けに背負って、わいわいと出て来る 生徒、たまにはアブ蜂とんぼの子も交って菅原の寺子屋そっくり。  これらの校舎は教場も琉球畳の大広間、溜塗の机や硯箱《すずりばこ》は毎朝塾生が総掛りで並べる、先生は 一家総出で奥さんも共稼ぎ、教授は厳格で、うっかり怠けると煙管《きせる》の雁首でぼかり、悪戯《いたずら》がばれ ると尻をまくって竹杖で二十三十の叩き放し、今時には見られぬ場面、その代り師弟の情愛はも そっと深かった。  公立でも満六歳から入学、数え年七っのわんぱくが小僧や女中におぶさって暴れながら通学、 小使部屋はこれらの付添人で一ばい、時間のしらせは廊下につるしたバン木を叩く、お寺時代の 名残りらしい、唱歌はなし体操はなし、遊歩の時間はブランコと鞠《まり》投げが専門、あとは先生が一 緒になって目隠しや鬼ごっこ、以上十五、六年頃の学校風景。    日本最初の勧工場       丸の内竜ノ口に府立で出現  勧工場《かんこうば》は、寄合世帯ながら今のデパート式に、家庭用品ひととおり揃えて、明治十一年丸の内 竜ノ口(永楽町二丁目)に出来た府立の第一勧工場がそもそもの元祖、当時一流の商店が気をそ ろえての出品、粗末ながら洋風の建物でおやおや迷子になりそうだといったくらいの広さ、近所 はまだ旧屋敷取払いのままの草ッ原、不便の場所へわざわざ人力車で見物かたがた出かける人も 多く、開業以来なかなかの繁昌。  入口で下足を預り、竹の皮草履にはき替えて、長い廊下をぞろぞろ、左右の商店はそれぞれ 店名や商品の額を掲げ、売子は若い衆と小僧さんで、職業婦人は無論発生しない時代、商品は総 て正札ということこの時が始め、中央の休憩所には寿司《すし》、しる粉《こ》などの店があって、赤い毛布の |床几《しようぎ》など総て公園の茶店式、それでも当時唯一の大百貨店として総てが目新しく、大人も子供も 大喜び。  この勧工場は後に民業となって明治二十年に芝公園へ移転、しばらく独占の形であったが、そ のうち市内各所に小勧工場が出現、銀座一丁目の丸十、人形町大観音前、神田小川町等はその主 なるもので、二十五、六年頃にはいず治も相当繁昌、紡いて上野広小路に杉山勧工場が出来て、 これは階段なしに三階まで上って行くのが新式、店数も多くて賑《にぎ》やか、以上は時代の要求ともい うべく、ことに正札つきの駆引なし、品物はそろっている、新世帯向きの買物などは至極便利と なって、一時は全く勧工場時代。  然るに追い追い素人《しろうと》向きの安物仕入れが多く、果てはなんだ勧工場ものかと、安く扱われる始 末となって折角の全盛もいつか下火、大抵没落した明治の末年、新橋際に博信館の開業、上野の 杉山を買収して第二博信館と称し、大いに掉尾《とうび》の繁昌を示したが、時勢は進む、デパートの出現 やら安物仕入れのたたりやらで、もう大正の初め頃には、勧工場という名目をどなたも全く御失 念。    乗り物の閉口時代       お急ぎの方は歩いて下さい  自動車洪水の今日、ちょっと想像の出来ぬ明治初年の乗り物話、人力車もガラガラの金輪で、 背中一面ぼたんに唐獅子などの絵を描いたのも一、二度は乗った。普通は粗末な黒塗りで一人乗 りと合箱、芸者と合乗りなどの図々しいのもあって、当時「合乗り幌かけ、テケレッツノパァ」 と唄ったくらい。  追い追い改良、つやのよい黒塗り金紋、ひき子も黒の法被《はつぴ》に大黒帽などと進歩したが、辻待ち などには随分小汚ない古車も多く、心棒にわらじが一足ぶら下って鉄の輪を二つ、これが走りだ すとジリンジリン鳴る。色のさめた赤毛布《あかげつと》の膝かけ、古半天を裏返しに着て素足にわらじばき、 かじ棒を無性にあげてヨタヨタ、全くみじめだ。しかし宿車が出来て、これは高台という腰かけ の高い車、悪くすると飛びだしそうな工合、ひき子も元気の若者ぞろい、ネジ鉢巻きで全速力、 ことに綱っぴきは威勢よく、提灯を振り回してアラアラッと勇ましい掛け声、吉原通いの馬道《うまみち》な どは毎晩物凄いくらい、十五、六年頃を盛りに二十五、六年まで、その後ゴム輪になったが最初 は丸ゴム、次に今日の空気入りタイヤ。  乗合馬車、俗に円太郎は一層難物、浅草千里軒の営業、雷門前に屯《たむ》ろして、いまのトラックへ 幌をかけたような体裁、一頭立てや二頭立てで痩せ馬をビシビシ、浅草新橋間をやみ雲に走らす。 客は八人か十二人乗り、道路は悪し、馬は跳ねる、のべつ鉢合せで胆を冷やした,これも鉄道馬 車の開通後は、新橋から品川、万代橋(旧めがね)から板橋行と場末へ退却、二十七、八年頃ま でブウブウ。  明治十五年に鉄道馬車が新橋から日本橋まで開通、二頭立てで深紅の車体に赤ビロードの腰掛 いとも華やかで、わざわざ用もないに乗って見たくらい、追い追い延長すると共に、これが曲り 角でちょいちょい脱線、お急ぎの方はお歩き下さいと来る。馬の小便で線路はぐちゃつく、臭気 はひどい、沿道は大閉口。    オツな商売貸本屋       草双紙から活版本の誕生時代  双子の着物に盲縞の前かけ、己が背よりも高く細長い風呂敷包みを背負い込んで古風な貸本屋が、我々の家へも回って来たのは明治十五、六年まで。悠々と茶の間へ坐りこんで面白おかしくお家騒動や仇討物の荒筋を説明、お約束の封切と称する新刊物を始め、相手のお好みを狙って草双紙や読み本を、二、三種ずつ置いて行く。これが舟板べいの妾宅や花柳界、大店の奥向など当時の有閑マダムを上得意にしてちょっとオツな商売。  稗史小説も追い追い明治物が新刊され、幼稚な石版画のボール表紙も目新しく、安物の兎屋本を始め、大川屋、辻岡、文永閣、共隆社、鶴声堂あたりの出版元から発兌《はつた》の新板小説がようやく流行、洋紙本の荷も重く、同時に草双紙や読み本のお好みも減って、背取りの貸本屋はボツボツ引退、代って居付きの貸本店が殖え、三十年前後まで市中諸所に貸本の看板、まだ大衆娯楽の少なかった時代、退屈凌ぎはこれに限ると一時は貸本大当り。  明治になって合巻風の草双紙を初めて活版本にしたのは高畠藍泉の『巷説児手柏』、十二年に 京橋弥左衛門町の文永閣から出版、以来続々活版本の新刊、貸本屋向きは通俗の講談速記や探偵実話などで、五寸釘寅吉やピストル強盗の類に人気集中、薄汚れた厚紙の上表紙をつけたこれらの貸本は引っ張りだこで借りて行く。  当時上野以外に図書館もない、随って学術参考書専門の貸本店も、神田本郷には数軒あった。学生相手に教科書や参考書、あらかじめ若干の保証金をいれておいて、返せば借覧料を差し引いてくれる便利な簡易図書館、名は忘れたが小川町五十稲荷の後ろにあった貸本屋は、この種の大店ですこぶる繁昌、二十二、三年頃には我々も足繁く通ったものだ。    初めての洋風温室       滅法高かった草花の種子  朝顔や秋草に交って西洋草花がぽつぽつ売りだされたのは明治二十年頃、それから四、五年の後までは、温室など、小石川の植物園にあったほか、民間には入谷《いりや》の花戸《うえきや》入十だけで、これは本式に汽缶を据え付けて各種の洋花を仕立てた。主人みずから温室内に寝泊りして温度の調節を計るなど、最初の試みだけに大骨折り。  細い幹で五間ぐらいの長さある電信木や、額になった大コウモリ蘭などを始め、ベコニヤ、シネラリヤ、ホクシヤの如き今日平凡の洋花、当時は色とりどりの美しさに驚異の目を見張って大いに珍しがったものだ。そこで私も感歎のあまり小さい温室を設ける気になって、約十坪の地を三尺掘り下げ、石造にして、硝子《ガラス》張りの屋根等お約束通りに出来、一隅に小型の汽缶を据え付け、鉄管を通じてまずよしと安心。  然るに試験して見ると、汽缶は十二分に沸き立ちながら、鉄管へは熱湯少しも通ぜず、夜通し焚いても依然温度上らず、こんな筈ではなかったがと、汽缶職工を責めて幾度改良しても、最初の設計を誤ったため結局大失敗、そのうち春も三月となってもう温室も間に合わず、それでも牡丹、藤、海棠など収容し、炭団《たどん》の火で温度を保ち、四月はじめにぽつぽつ咲いたのがせめてもの腹癒せ。  当時は入十でも草花の種子を外国からわざわざ取り寄せたというくらいで、凡てが滅法界のお値段、少々分けてもらうつもりで聞いてみると、同家の主人|勿体《もつたい》らしく、指の先をちょいと嘗めて、それへ付いたべコニヤの種子ほんの少々、「君、これだけで二円ばかりだがよいかね」という、驚いて願い下げ、鉢仕立ての洋花二、三種譲り受けて引き下がったが、総てこの調子でうっかり手が出せなかった。    明治時代の街の灯       ランプや瓦斯の光った頃  丸髷美人の前に朱塗りの行灯、こうした浮世絵風俗がぽつぽつ開化の石油ランプに入れ代ったのは明治の十年前後、一般の普及は二十年代》その頃でも凝《こ》った料理屋などは菊座の燭台、ろうそくの火で飯を食い、手堅い商店では鉄網のかかった大行灯で客扱い、時代後れがかえって奥床《おくゆか》しい気もしたものだ。  最初のランプは舶来品の金属製、十一、二年頃大阪のガラス会社で初めて和製のガラスランプ、石油壷の底に英字でオーサカとあっても、これは舶来ですとすましたもの、ホヤはネジ止めと差込みの二種、小型の二分しんから三分、五分、八分まで、丸しんはずっと高級で燭台形などお座敷用、大抵は鉄の輪へ載せる釣ランプ、四方ガラスの箱ランプ、あるいは台付の置ランプ等で、書生さんの引越しには荷物車の後から、台ランプを後生大事に御本人が持って行くことにきまっている。  そこで街の灯だが、これは明治八年初めて京橋から万世橋、常盤橋から浅草橋の大通りへ点灯、鋳鉄の柱に角形の瓦斯《ガス》灯がぱっと明るく、行人の眼を驚かし、つづいて銀座や上野方面にも延長されたが、夕方になると点火夫が竹竿の先に口火のついたのを肩にして、忙しげに駆け歩き、一つ一つ点火して回るのだから骨が折れる。その後、花ガスと称して装飾兼用の広告灯が新富座や銀座あたりへ現われ、街の灯は一段華やか。  軒灯もそばや式の行灯時代が去って、十五、六年頃から角形の軒ランプ、二十年頃、柳原に点灯会社ができて市中各戸の点灯を一手に請負い、場末までも行きわたって大路小路は軒並みの角形ランプ、おかげで横町の溝へも落ちず、夜のちまたも往来安全、これもまた会社の人夫が脚榻《きやたつ》を担いで一軒一軒点火して回ったが、二十八、九年頃には電灯の世界となって、ガスやランプの街の灯は早くも退却。    その頃の中学校       無邪気な学生気質  大学が東京に一つという明治の初期には中学の数も尠《すく》なかった。三田の慶応幼稚舎、小石川の 同人社、淡路町の共立学校、駿河台《するがだい》の大成学舎などが、主なるもの、本郷元町の進文学舎などは今その名を知る人もない。ともかくも広い東京に、大小二十校内外で済んでいたのが二十年頃まで。  当時の中学では制服や制帽は有名無実で、大抵はカスリや田舎縞《いなかじま》の着物に小倉の袴、帽子も思い思い、朴歯《ほおほ》の下駄や竹の皮の安草履を突っ掛け、汚れた風呂敷へ教科書や弁当箱を包んで、首っ玉へ巻き付け、乗物がないから一里二里の遠方からも毎日てくで往復、雨天など誰も彼も背中までバネを上げて教場の机も腰掛けも泥だらけ、足に修業が積んでいるので別段苦にもせず平気で通学、たまたま人力車で登校する坊ちゃんがあると、ヤーイ意気地なしとわいわい囃《はや》す。  漢学と違って英語の字書には困った。有名な薩摩辞書など高価でとても買えぬ。仕方なしに開拓使板という横本和紙刷の辞書、厚さ大福帳の如きものが当時二円五十銭、わざわざ日本橋の須原屋へ行って買ってきたが、後には友達どもが鼻紙に使ってしまった。教科書は最初がウィルソンの第一読本、「猿が手を持つ、蟻がスネを持つ」という文句で有名、間もなくナショナル読本が来て舶来だから美しいのに目を丸くした。  体操とくると振るっている。もちろん初期のことで服装もそのまま両袖を結んだり、襷《たすき》をかけたり、中には両肌脱《もろはだぬ》ぎのシャツ一枚、不体裁お構いなし、柔軟体操からダンベル(亜鈴)、球竿、クラブ(徳利形の木製具)など相当重い奴を大汗になって振り回す、嫌々ながら物事すべて新規だから苦情もいえず、いったところで幹事や先生の一喝に縮みあがる。先生も権威はあったが、生徒も概して元気の割に無邪気のお揃い。    蓄音機の初渡来奇談       テーブルの下をのぞきたがる  家庭趣味からバーやカフエーへ進出して、物凄く普及した蓄音機の日本へ初めて渡ったのは、今より約四十年前、明治二十五年頃のことで、場所は浅草公園、震災で焼けた奥山閣の広間。  もちろん円盤式にあらず、径二寸長さ五寸ばかりの蝋管の音譜を機械の円筒へはめ、ダイヤの針ですりつつ、回転するに随って発声するのを聴診器のようなゴム管を耳にはさんで聴くのである。後年、縁日などに出ていたあれである。それは粗末な和製の機械だった。  ところが音譜はみな西洋の唄と音楽ばかりでヤンヤとこない。そこで日本向きの声色《こわいろ》や音曲を吹き込むことになったが、なにしろ無経験の素人技師ばかり、まず猿若町にいた裏木戸の達という声色屋を呼んで皮切りをやらせる。今の電話の通話口ぐらいの小さい吹込機へ向って団菊の声色、達さんすっかり上《あが》ってしまい、文句をつかえる、咳《せき》払いをする、額を抑えてヘドモドする間に蝋管はドシドシ回転してむだになる。膏汗《あぶらあせ》を流してどうもこれはと逃げかかるのを、無理に頼んでようやく鞘当と弁天小僧が済む。  次の音曲は元山谷で鳴らした老練のおばさん、大すましで弾《ひ》く唄う、占めたっと、発声機をかけてみれば、いやはやなにも聞えぬ。それではと丸髷《まるまげ》の上から大風呂敷をスッポリ冠《かふ》せてやらせると今度は成功、春雨と紀伊の国がやっと聞えた。  最後に広目屋《ひろめや》の楽隊を三畳の座敷へ押し籠め、小窓からブリキ製の大ラッパで吹き込ませたが、これは上首尾、越後獅子と三番叟《さんばそう》がいとも賑やかに再生する。しかしこうした珍劇は御存じなく、ゴム管を耳にした聴客は生れて初めての科学の精妙に驚異の眼を見張って、わざわざテーブルの下をのぞき込む人が多かった。    東京初期の競馬熱       九段から上野、池上時代  近年またまた盛んな競馬、その初期時代は真の競走一方で面白かった。横浜根岸は無論|魁《さきが》け、これは別として東京では九段の招魂社が皮切り、明治の初年から二十年頃が最後、現に二十四年大村卿銅像のできる前まで、その周囲に馬場の埒《らち》が残っていた。  今の大鳥居から大村卿銅像を中心に、社前の道路あたりまで周囲一帯に楕円形の馬場、競馬は大祭ごとに三日間ぐらい挙行、もちろん観覧は随意で、物珍しさに立木まで鈴|生《な》りの見物、陸軍の催しだけに出場は軍馬ばかり、騎手も兵士で大抵軍服のまま、いわば練兵場の延長みたいな工合、遮二無二ひっぱたいて荒っぽく走るのは壮快無比、但しカーブが急でざらに落馬、時々大|怪我《けが》もあって見物ハラハラ。  十七年に共同競馬会社が起って、上野不忍池畔に春秋二季の催し、江戸名所不忍池の風致も馬場の木柵《もくさく》に囲まれ、大分問題になったが、同十一月に挙行、今の勧業協会の位置に、御殿造りの宏壮な馬見所、階上は貴賓室、発会式には行幸もあって未曽有の賑わい、初めて本格の競馬にお目にかかったが、何回目かの競馬に発起者の一人、東京馬車鉄の社長谷元道之氏も自ら出場、運わるく途中で落馬、左足に負傷したなどの珍事もあった。  収支償わずとあって二十三、四年頃、上野は中止、以来競馬の沙汰もなかったが、三十九年の秋、馬匹改良会の後援で加納子爵が会長となり池上の大競馬場落成、初めて馬券の売出しが呼び物、賭博気分で恐ろしい人出、大森の駅を出ると無数の群衆と数百台の人力車で身動ぎもならぬ混雑、私も五、六人の車夫に車へ担き上げられて池上まで否応なし、競馬場では馬券の外にガラの売場、十二、三の窓口に血眼の連中が押し寄せて勝敗ごとに凄い場面、これが第二期の競馬狂時代。    写真屋の引っ張り       奥山見物の田舎者相手  写真界の幼稚時代、どういう関係か、江崎、北庭を初め写真屋が、今の三区五区、観音裏から花屋敷横丁に軒を並べて二十余軒、もっともその間に茶店に楊弓店も交っていたが、まず大体は写真屋街、右二軒の先駆者をはじめ、岸尾、渡辺松林堂、谷、松崎など一流二流、それ以下が例の引っ張りを置いて客を呼ぶ。  煉瓦造りの江崎は別として他はペンキ塗りの洋風|擬《まが》い、三尺の入口に更紗《さらさ》の暖簾《のれん》、左右は箱形の硝子張りへ見本の写真、はいるとすぐ人力車の蹴込《けこ》みのようなリノリウムの敷いてある撮影場、古風な椅子の背後に、床屋の首当てのような横木がついて客の首をそれへ当てて安定させる。江崎がひとり率先して速取り機械を用いたものの、他はすべて旧式一方、小児など撮す時は一層時間がかかって大騒ぎ、ふり鼓をガラガラやって見せるやら、ラッパを吹いて賺《すか》すやら、客も技師も大骨折り。  この種の門並写真屋は、表に人が立つと引っ張りの男がたちまち暖簾の陰から現われて「一枚お土産《みやげ》にいかがさま、硝子|撮《うつ》し十五銭からお安く致しておきます。如何《いかが》さま如何さま」とうるさく引っ張る。田舎者などは袂《たもと》を押えられてまごまごする、当時は硝子撮しという簡便の写真、小型の桐箱へ入れて即席に仕上げて渡す。しかし十五銭に釣られてはいると、大抵は三枚一組五十銭以上の普通写真に振り替えられて客は不承不承。  さすがに商売、田舎者よりは東京の客にそれぞれお馴染もできて、二十五、六年頃には市中の写真師も殖えたが、観音様参詣のついでに子供でも撮そうと家族連れの上種もついて、これらの写真業も公園名物の一つに数えられ、それ相当の繁昌は見せたものの、追い追い優秀の企業も多くなり、同時に公園遊楽の人種も変って、時勢の淘汰は免れがたく、江崎ほか数軒の大店を残して他はちりぢり。    バーの元祖函館屋       並びにカフエー喫茶店のこと  カフエーやバーの進出は凄いものだが、その元祖ともいうべきは明治の初年開業した銀座の函館屋、これが店頭で洋酒を飲ませるスタンドの始め、銀座といっても尾張町の西側、三間間口の店に細長いスタンド、左右の棚には奥までいっぱいの洋酒の瓶、それも舶来の上等ばかり、まず高級のバーであった。  主人は私の見た三十年頃にはすでに六十前後、でっぷり肥った立派な老人、いつもチョッキ一枚で店頭に働く頑健ぶり、客はことごとく当時のインテリで、多くはヒゲのある洋服連中、抱え車を表に止めてドアもない明け放しの店内のイスに腰をすえる。主人はこれらの客を相手に一々みずから愉快げに接待していた光景は、全く西洋小説の口絵などに見る酒場そのまま、女給が呼び物の今のバーとは大違い。  そのころ浅草|花川戸《はなかわど》の神谷バーはまだ居酒屋式、ガラス戸のはまった粗末な構え、店前にはいつも多数の人力車が地方の停車場以上に集まって大した繁昌、函館屋とは全く客種の違った平民バー、それが当ってかブドウ酒の製造に着手して素晴らしい発展。  降って三十年頃新橋際にビヤーホールの出現、開業当日は馬越恭平翁自身出馬して来賓に愛嬌を振りまいた。つづいて四十年ごろ日吉町にカフエー・フランタン、これがカフエーと名乗った始め、洋名の元祖、プランタンは洋画家松山省三氏の経営だけに新式の設備、文士や画家はもちろん、新橋あたりの綺麗どこが大分出入りした。  まもなく南鍋町にカフエー・パウリスタ、一杯五銭のブラジル・コーヒーに軽便料理で大受け、同じころ銀座に台湾喫茶店、これは美人の給仕女でウーロン茶に浮かされたが、多分「女給」の さきがけ、次に尾張町のカフエー・ライオン、大がかりで美人もうようよ、現代式の女給はこの方が元祖らしい。以来急激にカフエーの増加はどなたも御承知。    高等貸馬車の繁昌       岩谷天狗の奇抜な赤馬車  平民に縁はないが、明治の顕官貴紳は黒塗り金紋の箱馬車、山高帽子の馭者《ぎよしや》に黒鴨仕立ての馬丁、毛並を揃えた二頭立ての駿足を駆って、威風四辺を払う勢い、これが丸の内界隈や銀座通りを疾駆する光景、見た目は確かに自動車以上だが、幌《ほろ》馬車となるとそうは行かない。  外人客や新橋停車場への送り迎え、そのほか臨時用として貸馬車も相当繁昌、築地の川西商会が元祖で、後には築地馬車商会となったが、最初はとかく口の悪い東京ッ子、あれは貸馬車だぜとお里をあばくので、乗る人もなんとなく肩身が狭い。随って需要も少なかったが、追い追い便利を知ってくる。中にも上流向きの葬儀などには今日の自動車の格で箱馬車の連続、一方外人の観光客も殖え、三十年頃には帝国ホテルや築地のメトロなど専属の貸馬車を置いた。  その頃の話、天狗《てんぐ》煙草で通った銀座の岩谷松平君、例の宣伝半分、なんでも赤づくし、店舗も赤ペンキで塗りまくり、洋服も赤|羅紗《ラシヤ》のフロック、帽子だけは黒のシルクハットで、一頭立ての赤塗り馬車、いつも葉巻をくわえ込み、意気揚々と自身手綱を取ってどこへでも乗り回す。岩谷の赤馬車といえば奇抜だけに悪くもいわれたが、馬車全盛の副産物として一時は有名過ぎるほどの評判もの。  さて貸馬車繁昌の時代も三十六、七年頃が頂上で、その後は自動車に押されてポツポツ減少、四十年前後にはホテル専属のほか、数ヵ所の貸馬車業も閑散の体、しまいには全く姿を隠して、これらの古馬車は大抵地方の交通用に身売り、当時伊豆の修善寺温泉行きに、大仁《おおひと》から高等馬車が出るとのこと、さっそく私も修善寺まで一台注文すると、新橋あたりでさんざん稼いだ大古物、生れて初めて乗る馬車がこのはげちょろに全くうんざり。    借馬屋直伝の馬術       自慢の馬は揃っていわく付き  野球もテニスもまだ芽生えなかった我々の青年時代は、借馬《しやくば》、自転車但し木製、ボートの川遊びなどが新しいスポーツ、中にも平民が馬へ乗れるとあって借馬は一時相当の流行、だだっ広い馬場を構えた借馬屋が、これもずいぶんと細長い射場を備えた大弓場と並んで、市中人家|稠密《ちゆうみつ》の場所を悠々と占領。  借馬だけに我々も尻馬に乗って出かけたのが神田|御成道《おなりみち》、同秋葉原、浅草の猿若町等々。秋葉の原は主人が騎兵上りで、ひととおり乗り方を教えてくれたが、誰も彼も新兵扱い、みずから馬の口を取って馬場を一周すると、この調子でと早くも突き放す。客は青くなって鞍壷《くらつぼ》へしがみつく。  馬の方は心得たもので、こやつは素人だなとのそりのそり、二、三遍馬場を回ると、さっさと自分の厩舎の方へ勝手に引揚げ。  こうした借馬屋直伝の馬術も、少し慣れると早や一ぱしの乗馬家気取り、新調の乗馬ズボンに竹のむち、遠乗りでもしそうな姿、御成道の借馬屋などこういう連中が押しかけて、一時間二十銭の奮発で街頭へ進出。危ないもので今日の市中ではできぬ芸だ。つぎは猿若町、亭主自慢の馬が三頭、但し一頭は前脚を突く癖があり、一頭は塀や石垣へぴったり寄ってくっついたら引っ張っても動かぬ。他は時々傍目もふらずに突っ走る朝鮮の競馬上り。  ある時右の一頭を借り受け、スピードで団子坂へ菊人形の見物にただ一騎、先方へ乗りつけたが、近所に馬を預ける場所がなかったので、人力車預り所とある家に頼み、丸太の杭を打ってそれへ繋《つな》いだはよいが、たちまち杭を引き抜いて暴れだし、とうとうお断りを食って肝腎の菊も見ずにそのまま引き返し、馬車屋の阿爺《おやじ》「どうです菊人形の出来は?」に大汗の後で冷汗。借馬の客には大抵この種の御愛嬌が多かった。    自転車の初期時代       丸ノ内の草原でお稽古  新式の白転車がポツポツ市中に見えたのは明治三十一、二年頃、最初の輸入品だけに価格も高く、英国製スイフトが二百円以上、米国製デートン号百五十円内外、名の知れぬ安物でも七、八十円、随って乗り手もハイカラの中年紳士が多く、実用半分のお慰み半分で、我々テク党を羨《うらや》ましがらせたものだ。  そこで私も職業上の訪問に利用してみたい念願、幸い数寄屋橋内へ唐沢という知人が自転車屋を開業、さっそく一台借り込んで、今の府農工銀行裏にあたる、川岸へ通ずる道路で内々のお稽古。  当時丸の内はまだ大部分空地で草|茫々《ぼうぼう》、真っ昼間でもろくに人通りはなし、ことに横道は一層の閑寂、たった一人誰に気兼ねもなく、落ちては乗り、乗っては落ち、こいつ案外楽じゃないと汗だくの練習振り。  ところが有楽町交番の若い巡査、これが自転車乗りを目の敵《かたき》、早速やって来て、人ッ子一人いない場所でも「道路であるから稽古相成らん」と厳命、しかし草ッ原は凸凹《でこほこ》で稽古ができぬ、勝手ながら巡査君が立ち去るとまた逆戻り、それと知ってまたまた襲って来る。急いで草ッ原へ逃げ込む、果ては双方意地ずくでいがみ合いつつ、どうやらよたよた乗れることになり、桜田門まで遠征《△△》、それが途中三度も下りて休憩という始末、いやはや初期のサイクリストあんまり自慢にならぬ。  その後、友人某も同所で稽古中、件《くだん》の巡査に襲われ、驚いて農工銀行の作業場へ逃げ込む途端、慌てて板塀の破れ穴へ顔を突っ込み、二、三ヵ所のみみず腫れ、這々《ほうほう》の体《てい》で銀座裏の自宅へ戻り、顔の手入れの最中、表へ来客、なんの気なしに自分で出て見ると、なんとこれが件の巡査。自転車屋で調べた結果、かんかんになって追撃、顔のみみず腫れが免れぬ証拠で「やあ、貴様だな」と改めて訪問、ちょっと来いというのを平あやまり、再びあすこへは参らぬとの誓文でようやく、けり。    悠長な交通機関       荷足の早船から巡航船  猪牙《ちよき》で行くのは深川通い、八丁堀の仲ノ橋から乗合の荷足《にたり》舟、「早船・洲畸ゆき」と書いた川岸の小旗が目印、十二、三人の客を待つ間に「出ますよ出ますよ」とベルを鳴らす。素見《ひやかし》らしい若いのが一人二人、ぽつねんと胴の間に退屈らしく待っている呑気な姿も、江戸時代の名残りめいてちょっとオツだ。  まもなくこの荷足の競争者として現われたのが、巡航船、明治三十二、三年頃から新橋洲崎間を往復、例の石油発動機の小型船で、胴の間に薄べり、汚れた更紗の座蒲団を敷いて乗客は大あぐら、あるいは寝ながら講談本、艫の方で発動機の音ポコンポコン、これが三浦三崎の鰹船でなくて、かりにも東京の真中、新橋から出て銀座裏の三十間堀を通航する新式の交通機関なのだから笑わせる。  発着所は新橋を起点に、紀ノ国橋、永代、深川八幡前、洲崎という順序、当時の三十間堀川は水も汚なし底は浅し、満潮時には差支えないが、引潮と来ると舟が川底へ吸いついて、いくらポンポコ焦っても動かばこそ、そうなると舵手兼船長おおいに勇気を起して、ズボンを脱ぎ、川中へ飛び込んで、うんうん呻《うな》って舟を押す、客も船中で一緒に呻るが、船脚すこぶる遅々として根っから効なし。  そこで引潮の際は、逆に新橋からお浜沖へ出て永代へ直航、紀ノ国橋のお客は全部無駄足となる。こちらは好い心持にお浜沖へ出ると西風で波が高い。船は木の葉の如くも大袈裟《おおげさ》だが、波に揉まれて客はごろごろ。深川の川筋へ乗り込んでほっと一息、そのうえ川岸の気分ものんびりと明治の仮宅通いだなぞと大喜び。これも数年後には永代から深川方面へ電車が延びて、こんな珍風景もたちまちおさらば。    絵葉書流行の始め       意匠を凝らし合った年賀状  誰しも一時は凝《こ》った絵葉書の蒐集《しゆうしゆう》。初めはもちろん外国もの、明治三十三年に私製絵葉書が許されてポツポツ発行、東京名所や俳優名妓等の写真版、石版色刷の粗末な花鳥画など。三十五年に万国郵便聯盟二十五年の記念絵葉書が逓信省発行となって、これが記念物の最初だが、簡単な石版色刷で五枚一組の御多分に漏れぬ代物。  これが先駆となって、記念葉書は神社仏閣の祭祀法要にまで及ぼし、日露戦争の祝勝記念に至っていよいよ本格の大全盛、俄かに熱狂的流行となって市中に絵葉書屋の激増、いつも黒山の人だかり、戦勝記念の発行ごとに郵便局へ押し寄せる群衆は凄いほどで、中にも陸軍凱旋式記念の一枚は大した人気、各郵便局前は長蛇の列を作ったが、ついに神田万世橋郵便局では人死《ひとじに》があったという騒ぎ。  同時に外国製のもの、趣味的のもの、一時に流行、当時同好者が集まって歌舞伎座の茶屋やまとに絵葉書交換会の催し、さっそく出席のつもりで案内状を見ると、なんとその一項に「出席者は一万枚以上所有者に限る」とあって我々文句なしにギャフン、いかにファンでも一万枚はと驚いたが世間は広い、そうとう出席者があったという話で、もう一遍驚かざるを得なかった。  新年絵葉書もまず三十六年以来で、その先駆者はやはり画家の方面、渡辺香涯、鏑木《かぶらき》清方、鳥居清忠、久保田米斎、同金僊、つづいて寺崎広業、山岡米華、中村不折、荒木|十畝《じつぽ》、池上秀畝、小室翠雲、荒井寛方の諸画伯いずれも早い方、以来文士、美術家または俳優そのほか芸界の人々まで、それぞれの意匠に特色を現わした賀状の全盛、江戸の刷物から脱化した新趣味として、我党有難く頂戴したものだが、近年は時代の影響で大正以来追い追い下火。    赤毛布の正体       東京名所に付物の珍姿  辻車の腰掛、茶店の床几、芝居の桟敷、そのほかお花見や遊山《ゆさん》の席など明治初年の赤毛布《あかげつと》の流行は大したもの、毛布といえば赤いものと心得るぐらい。この時代に地方人の東京見物、たいてい赤毛布を被っていたので、とうとう田舎者の代名詞となったが、今では初めての洋行だなどと感違いするぐらいに時代は隔たった。  それもその筈、三、四十年前の流行だけに、赤毛布の言葉は残っても実際を見知らぬ人が多いわけ。当時の錦絵や石版画に、上野・浅草乃至泉岳寺の図など必ず赤毛布の三、五人を配して情景を示したもので、事実いたるところにのんびりした赤毛布姿が目についた。多くは近県や東北の人々で、最初は東京仕入れの自慢半分、寒さ凌ぎも兼帯で、合羽《かつぱ》代りに用いたのが村の評判になって、たちまち多くの模倣者を出したらしい。  後には茶色や鼠の毛布も現われたが、最初はたいてい赤毛布で、これを二つに折って細紐を通し、マント式にすっぽり被る。我々には頼まれても出来ない芸だ。それで股引|尻《しり》ッ端折《ぱしより》に日和《ひより》下駄、古帽子や手拭の頬冠《ほほかむ》り、太巻毛繻子の洋傘を杖にして、農閑の三、四月から続々上京、五人六人連れ立って都大路を練り歩く。こうした風景も一種の時代色で、当時は眼にも慣れたせいか格別笑いもしなかった。  もっともそのころ東京でも全身を包むような大きな肩掛けが、婦人の間に流行し、奥さん階級や御新造連が毛布ほどの奴を三角に折って着用、その恰好は赤毛布式と大差はないが、品物は遙かに上等で、初めは高価なものであったが、追い追い安物もできて、一般的に流行。随ってボロ隠しなど、悪口も出る。上の方から段々|廃《すた》れて、果てはこれも赤毛布の御親類となり、田舎のお婆さんまで着て来るようになって、東京はショールの時代と入れ替った。    葉巻形気球の初飛揚       搭乗中止で命拾いした曹長  ひやりとした話。飛行機時代から見れば問題でないが、時は日露役前の明治三十六年、アドバルーン宜しくの円形繋留気球が一進歩して、葉巻型の気球が初めて陸軍の御採用。その初飛揚が牛込の築城本部で実行、係員のほか出入禁止で前夜からガスの注入。  薄寒い十月はじめ、夜の十時からとの特別の案内。行って見ると灯火管制ではないが広場に暗闇で提灯がちらちら、その中で主任の徳永大尉と助手の大谷曹長が兵士を指揮して、ガスの機関にせっせと鉄くずを入れている。気球はへたへたと地上に寝そべって空腹を訴える。一時間、二時間、ガスははかばかしく発生しないので、時は経っても気球はぺしゃんこ、翌朝の飛揚おぼつかないので、係員は大いに気をもむ、暗闇にぼんやり見ている我輩も全くしんがつかれた。  羽二重《はぶたえ》の三重張り、長さ約五|間《けん》の大気球で瓦斯《ガス》料三千円を要すと、なにしろ今晩はむずかしいとあって、ねむい眼をこすりながら一旦引き取り、翌日あらためて行って見ると、だいぶ膨脹を来たしているのでやれやれと安心、全くガスの充ちたのが午後の一時、なるほど葉巻形の厖大な図体が少しく地上を離れてふわりふわり、太い鋼索で砲車に繋留したまま、数十本の麻なわに二、三十人の兵士が取りついて真中に乗用の吊籠がぶらぶら、いよいよ飛揚の段取りで大谷曹長が件の籠へ乗り支度。  元気な曹長の頑張るのを徳永大尉が、まあよせと遮る。曹長いささか不平の体《てい》でしぶしぶ中止、午後三時を合図に気球はするすると秋の麗《うら》らかな空へ舞い上り、だいぶ風が出て斜めに流されたが、二百尺以上の鋼索がすっかり出切ると、猛烈な飛揚力に堪えず、索は根元からぷつりとばかり切断され、気球は高く北へ北へ、一同あっと色を変える。この時だ、私は本当にひやりとして大谷曹長の顔を見た。呑気な気球は翌朝、板橋の田圃《たんぼ》の中へ無事着陸。    諸商売の定式看板       古風な店構えにピッタリと  紺の暖簾《のれん》に金看板、老舗《しにせ》を誇る店構えも明治時代には相当残っていたが、そのほか商売によって一定の看板、数代連綿とそれを掲げて一目瞭然、しかも古風で面白いものであったが、時代には敵し難く、ペンキ塗りの新看板が十五、六年頃から盛んに用いられて、新店の殖えると共に老舗の貫録も追い追い目立たず。  八百八町ザラにあった商売の定式看板では、砂糖屋が砂糖袋の形、足袋《たび》屋が足袋だか手甲《てつこう》だかの裁型《たちがた》、それに屋号を大文字、掛物と称する砂糖製の菓子店は大きな金米糖《こんぺいとう》の形、いずれも屋根付きで店頭高く掲げられ、糸屋は生麻の長いバレン、桐油屋は合羽を畳んだような形の細長い看板、両替屋は分銅形へ両替の二字、箔屋は黒塗りへ金ぱく型を二枚並べ、真中へ「金銀箔」、これらは今でも後生大事に伝えている。  薬屋は自店特製の薬名を現わした金看板、呉服屋、大書店、葉茶屋、筆墨問屋などは一枚板の彫看板、菓子屋、小間物屋なども古い看板が白慢の一つで、これが土蔵造りや格子戸の店構えにピッタリ、新しい看板の文字は明治の書家では可亭、春洞、半嶺、晩稼、一六、鳴鶴等一流の諸先生が達筆を揮《ふる》ったものだが、一時は守田宝丹のひねくれた書法が奇抜というので、提灯屋の書いた看板まで宝丹流。  洋品店を唐物屋《とうぶつや》といった時代、ペンキ塗りの看板は十二、三年頃のそれらの店から始まったらしい。メリヤスの手袋を大きく書いたのが特に目立って追い追いに流行、一時は随分けばけばしい俗趣味を発揮したものだ。就中《なかんずく》、銀座の岩谷天狗が総赤塗りの店頭へ間口いっぱいに「勿驚税金たった五万円」と脅かしたのは看板ともいえぬがペンキ全盛の一現象、但し技術も進んでペンキ塗りの看板もモノにはなったが、一方古来の定店の看板がほとんど影を潜めたのはいささか惜しい。    魯文時代の引札類       新世相を語る風俗資料  滑稽洒脱の引札は平賀源内に始まり、京伝三馬に至ってますますメイ文を振った。その遺風で、明治時代も名家の執筆を乞うた引札が、割烹店や諸商店の手拭に添えて配られた。いずれも木版彩色いりの凝ったもので、宣伝効果もあったが、今見ても相当趣味のあるのが沢山、活版刷にしてもその印刷の稚拙で原始的な味わいが捨て難い。  本文の執筆は仮名垣魯文《かながきろぶん》が第一、ついで山々亭有人の条野さん、三世種彦の高畠藍泉、河竹其水の黙阿弥など、就中魯文の引札は数知れず、野崎左文翁の蒐集だけでも千枚以上、恐らく五、六千枚は書いたらしい、が達筆任せで随分の書きなぐり、京伝三馬の妙文とは大分違う。其水のは少しく入念、番付のカタリ風だが独得の味がある。有人、種彦はまずサラサラと嫌味がない。三遊亭円朝の自作自筆も数種あるが、高座でなれた口上そのまま。  伊東橋塘、河竹新七、幸堂得知の諸老も相当書いているが平々凡々。添画の方は、芳幾、輝松、玄魚、月耕など初期に属する。中期に及んで永井素岳が独り天下、引札以外新曲の摺物《すりもの》まで自作自画の達者振り、鶯亭金升君も若手の花形で例の自筆を揮った。福地桜痴翁の晩年は種々の引札に名筆を見せていたが、文章は案外真面目でユーモアに乏しい。それでもさすがに立派な刷り物が多く、大家だけに堂々と別格の位があった。  これらの引札類は今も好事家《こうずか》の筐底《きようてい》に蔵されているが、当時も、藍泉、得知、篁村及び左文の諸老などは珍品を集めていた。それも今は多く散佚《さんいつ》して、明治のものさえ払底の姿、もちろん京伝時代の如き、戯文としての妙味はなくとも、明治初期以来の新世相を語る風俗資料として、これら片々たる小印刷物もまんざらバカにならぬ代物。    大切な商店の暖簾       代々の屋号と店印し  商家で大切な暖簾《のれん》、今でも見られぬわけではないが、大抵は洋風の店構えに、硝子《ガラス》のドアーへ金文字の屋号店名と入れ代って、暖簾の影は大分薄い。明治時代には煉瓦の銀座でも暖簾の店が多く、日本橋通りや大伝馬町、堀留あたりの大店始め、市中の商店は紺の暖簾に老舗《しにせ》を誇った。  紺木綿に白抜きの屋号、中央にはヤマ一とかカネ三とかの店|印《じる》し、朝晩小僧さんが六尺柄の暖簾掛けでかけはずし、これも一つの商店気分で、町内一列、同時にやはり紺木綿へ屋号染抜きの日除けを店先へ張る。総じて暖簾の文字は古風の名筆を貴んだが、中には菓子屋、筆墨店など、白の帆木綿へ当時書道の大家に、何々堂などと墨書の名筆を揮《ふる》わす。専売以前の煙草屋は赤味がかった茶色木綿で、これだけは一見その商売が明瞭、だが今日はもうない。  長暖簾は割烹店、すし屋、そば屋その他の飲食店、あるいは男女雇人口入れの慶庵ぐらい、もっとも真田の縁を取った慶庵の暖簾などはあまりくぐり栄えのせぬ野暮な代物、転じて暖簾の屋号を見ると、大抵は先祖出身の国々、江戸名物の伊勢屋稲荷に犬の屎、その伊勢屋を筆頭に、近江屋、駿河屋、三河屋、相模屋、越前屋などはどこの町内にも見受けたくらい、東海道、東山道は大概揃っていたが、今はそれらも本名の何々商店と改まって、暖簾の数も減ったわけ。  暖簾が古いといえば老舗の自慢だが、実際の暖簾は一年ごとに染め替えて、正月には皆新しく紺の香を漂わす。ザラにある屋号でもこの暖簾を分けるのは商店の大切な問題、白雲《しらくも》頭の小僧から十年の年季を勤め上げて礼奉公が二年、立派な白鼠といわれ多年チュウ勤の功によって分けて貰えば、一軒の出店の主人、暖簾のお蔭で本店同様のお引立てを蒙ったものだが、今時のお客には恐らく暖簾に腕押し。    わが朝煙草の変遷史       大活劇村井のヴァジン事件 「タバコ屋でござい」と、荷箱を背負って売りに来たのは明治の初年、出入りの得意先へ上り込んで、主人や細君を相手に世間話をしながら悠々と商売。綺麗に帯封をして小判形にきっちり巻いた刻み煙草、小は半斤、大は一斤、国分《こくぶ》でも秦野《はたの》でも小口を少しずつ引きだして、これはいかがさまでと遠慮なく喫《の》ませる。  水戸の雲井は上物、これは厚紙で長方形に包み、十五匁二十匁の二種、まず他所《よそ》行き煙草、平素は前記の玉煙草一斤三、四十銭の品を小だしに煙草入れに詰め、鼈甲羅宇《べつこうらお》の長煙管でスパスパ、五匁玉は後年に現われたが便利と安値でたちまち流行、山三の五匁などは一袋一銭、百個売って五銭儲けなど二十二、三年頃の煙草屋の話、もうその頃は巻煙草の種類もいろいろ、若手の愛煙家はその方へ走った。  十七、八年頃からぽつぽつ舶来の両切が輸入、二十年頃に来たオールド、ピンヘッド、パイレートなど十本入り一函二銭五厘、後には三銭、紳士向きのカメオが六銭、もったいないほど安かったが、当時はカメオなど滅多に喫めなかった。三銭どこではその後スワン、ヴァニテーフェヤーなど種々現われたが、オールドやピンヘッドに喫煙界を先占されていずれも売れず、次は村井のヒーローが売りだされてようやく和製時代。  ヒーロー始め細巻サンライスなど二十四、五年頃は村井全盛、同時に口付煙草も岩谷の青天狗、金天狗、千葉の菊世界、紙巻の雲井、いずれも二十本五銭の競争、こうした巻煙草全盛の余波、二十九年に村井が売り出した両切ヴァジンの宣伝福引、何事か癪にさわって室町の同店へ群衆殺到、ぶち壊しの大活劇で店はメチャメチャ、景品の自転車は日本橋の川中へ投げ込むという騒ぎ。  ヒーローの本元も江戸ッ子の英雄には兜《かぶと》を脱いだ。    天保銭       掛取りは天秤棒でかつぎ回った  天保銭《てんぽうせん》といえば今でも少々頭の足りない人間を連想する。当百とあって通用八十文、縦一寸六分幅一寸の小判形、大きくて重くて携帯にはすこぶる難物、だが物価の安い明治初期にはこれでも相当魅力があって、文久や波銭(二厘)とは段違い、天保一枚手に入れば腕白連、鬼の首でも取ったよう。  二十五枚ひとさしが二貫、即ち二十銭、晦日《みそか》の掛取りに二、三本受け取ると、風呂敷に包んで天秤棒の先につけて担ぐ。財布に入れて懐中などは思いも寄らず、三両五両となると叺《かます》に入れて三泣き車に載せて行く。親父の留守にドラ息子が持ち出そうとしても精一杯で一円余り、この点は安全第一、とはいうものの、当時天保三枚あれば、平民どもは奥山あたり一日ブラブラして昼飯を食って悠々と遊べたものだ。  街の子たちは天保銭を貰うと威勢が違う。橋の袂や横町にあった番太郎、火の番かたわら駄菓子など売る家へ夢中で駆け付けて、さあなにから食おうと菓子箱を睨《ね》め回す。菓子はミジン棒に豆捻じおいち、ねじ金、兎の糞、カヤの痰切れ、鉄砲玉、なんでも買えるぞと日頃の鬱憤を晴らすつもり、乃至は軒先の縁台に据えた火鉢でお手ずからのボッタラ焼き、友達にも買ってやって夕方までは天保一枚で大御機嫌。  蕎麦はモリ、カケ八厘が相場、湯銭も大人八厘、八百屋乾物屋にもひとやま一袋八厘の札が見え、縁日の玩具屋前通りは八厘、そのほか夏の氷水、ところ天、冬の甘酒、飴湯まで、たいていは天保本位、銅貨の一銭より大きいだけに、欲のない連中はこの方へ手を出したが、とうとう明治の十九年限りで通用禁止、その後は全く古銭扱いだが、今見るとよくもこんな無器用な恰好の銭を調法がって持ち歩いたものだとつくづく感心。    漢方時代のお医者様       手品のような薬の調合振り  松本順、池田謙斎などの諸先生の出るまで、お医者はすべて漢方の世界、手前どもへ見えたのは小川先生といって、当時若手の代言人で令名ありし小川三千三氏のお父さん、お約束の黄八丈に黒のお羽織、供の男に薬箱、診療が済むと件《くだん》の薬箱を取り寄せて手ずから調合。  それがまた鮮やかなもの、悠々と萌黄|真田《さなだ》の胴締を解き、黒繻子《くろじゆす》の風呂敷を開いて桐まさの薬箱、四段|抽斗《ひきだし》、一番下から銀のさじに銀の文鎮、四角に切った紙を箱の上に八、九枚、上の抽斗に行儀よくしまった袋入りの草根木皮を三、四種、順々に取りだし、銀のさじで少しずつ盛ってゆく手際は、まったく見事で我々子供ながら面白く、いつも傍へ畏まって見物した。医者は医者でも薬箱持たぬという先生とは違う。  いま一人は小川先生とは肌の違った村岡先生(村岡応東画伯の先考)、大の菊五郎びいきですこぶる通人、身装《みなり》もぞろりとした小紋|縮緬《ちりめん》、古渡り更紗の下着というこしらえ、旧幕御殿医の一人とあって大した権式、「おれの薬をせんじるなら銀の湯沸かしに限るよ」と厳命、それで書画骨董に目のないほどの数奇者、「うん、この軸はいいなあ文晁かい、安くねえな」と気にいったら床の間を離れない、もちろん病人などは後まわし。  そのうち追い追い洋式に押されて、明治十四、五年頃から漢方の先生はぽつぽつ引っ込む。浅草|馬道《うまみち》の井城抱斎先生は早くも洋式に転向してなかなかの流行、それでも昔忘れぬ薬箱の御持参、旧式の桐箱ではない、黒皮張りのケースでふたをあけると原料の小瓶がずらり、別に蒸溜水の大瓶が一本、西洋手品の恰好でお目通りの調合はこれまた鮮やか。水薬はもちろん、丸薬でも散薬でも即座にこしらえて置いて行く、早くて便利で病家は大助かり。    木造鉄皮の米艦隊       それでも度胆をぬかれて見物  四十五年前、明治二十年の軍艦見物、しかも外国軍艦を見学した話ですが、海軍国の日本もその頃は至って貧弱、唯一の鋼鉄艦「扶桑」がようやく出来たばかり、それも僅かに三千トン、その時横浜へ入港した米国東洋艦隊というのが御同様の小艦で、旗艦は二千七百トンのオマハ、僚艦は二千五百トンのトレントン号、いずれも木骨鉄皮。  その司令官の少将夫妻に、某青年が渡米中お世話になったので、来朝を幸い父が右夫人を招待し、少将に太刀一|口《ふり》を贈った、そのまた返礼として軍艦へ招かれたのである。父に伴われて初めて横浜へ行き、大きな船を見て驚きながら波止場へ着くと、副官がボートで出迎え、夫人も一緒で軍艦へ向う。沖には白色の立派な軍艦が悠然と浮ぶ、これが扶桑であった。  オマハへ着く。甲板には大砲四門、外に速射砲が二門、一分間に何十発と聞いてまず度胆を抜かれる。大砲の弾は径六、七寸の丸形で、甲板の昇降口の周囲にずらりと並ぶ。中甲板へ降りて明るい談話室へ通る、天井にはカナリヤの鳥籠が一つ。ところで意外に思ったのは、室内の羽目や士官室のとびらなどへ、ことごとく日本の婦人風俗が描いてあった。日傘の娘や、花見の美人などいろいろ。聞けば司令官の少将が大の日本好きで、特にこんど描かしたということ。  艦は小さいがよく整って水兵もみな綺麗。機関室まで巡覧して元の談話室へ戻ると相当疲れた。数名の士官と卓を囲んで鄭重な接待、贈り物の太刀の話から白分たちの指揮刀を抜いて見せる。極めて薄い刀身へ絵模様が現わしてある。切先を曲げると鍔《つば》元までくる。そのうち一本はピンと折れたので気の毒に思った。二時間ばかりで艦を辞し、グランドホテルに少将を訪う。五十年配の威厳のある提督、ニコニコと頭を撫でられて縮こまる。それより特別の晩餐、出る品ことごとくこっちのお口に合わないのと、食べ方がわからないので、ただ驚いて眺めるばかり。小さいコップへ五色に注ぎ分けた洋酒の美しさ、総てが夢心地にぐったりして帰った。    信伝《しなでん》豪奢の四層楼       唐木造りの芸術的建築  本所四ツ目の「シナ伝」で通った材木商、信濃屋こと丸山伝右衛門、明治の初年御用商人で仕上げた百万長者、その娘さんが黒田清隆伯の夫人、時めく勢いにまかせて邸内へ設けた四階の楼閣、唐木細工の贅《ぜい》を尽し、庭園の結構目を驚かす。  あまりの豪奢《ごうしや》に黒田伯これを聞いて、以《もつ》てのほかとつむじを曲げ、且つは一切御用も止まり、伝さんそれ以来左り前となってついに借金王と呼ばれるほどの境遇、随ってさしも善美を極めた楼閣も引取人がなく、そのまま草ぼうぼうの中に立腐れの形、栄華の夢はさておき、その結構を知る者はもったいなさに涙をこぼすが、どうにもならぬ。  建坪はさまで広くないが総て唐木造り、一階大広間の九尺床は目の覚めるような紅|花櫚《かりん》の一枚板、左右一丈二尺余の大柱は世にも珍しい鉄刀木の尺角、上から下まで精密な山水の総彫、多分は堀田瑞松あたりの仕事であろう。この柱一本で立派な邸宅が建つという代物。左右のわき床は紫檀黒檀の棚板、三方の大障子は花櫚《かりん》の亀甲組白絹張りで、開閉にも重いくらいの頑丈造り、一間幅の回り縁は欅《けやき》の厚板、天井は三尺角樟の格天井、いや全くお話ですぞ。  玄関から二階三階は、くどいからやめるが、全く金にあかした芸術的建築、ようやく話がついて私の父が引取り、二十二、三年頃これを浅草公園花やしきの構内へ移し、煉瓦の地下室を加えて五階建てに改築、奥山閣と命名して一般の観覧に供したが、果して評判よく、十二階より一足先に、金色の鳳凰《ほうおう》が光ったわけだが、今はそれも震災で第二の夢。    明治の大火事       震災以前のレコード  明暦以来、火事は江戸の花と言われたが、明治になっても相当火事早く、ことに神田ッ子などは年中新しい家に住まったくらい。風の強い晩には火事装束を枕元に揃えて寝る。スワというと女子供や老人は遠い親類へ逃げる、火は瞬く間に迫って来て、またかと言うほどちょいちょい焼けたなど、今日では嘘のようだ。  有名なのは十二年の暮、日本橋箔屋町から出て佃島《つくだじま》まで焼いた大火。全焼八千余戸、次は十四年一月二十五日、神田松枝町俗にお玉ケ池の大火、これが一万五千余戸で大正震災以前のレコード。私の家は代々神田三河町で火事とは親類、あまりのことに明治五年深川木場へ転宅、随って右のお玉ケ池の一件も、遠い遠いで屋根へ上った若い者も、遂に西北の風に顫《ふる》えながら元の寝床へ逆戻り。  ちょうどそれが夜中の二時、朝になって驚いた。火は既に東神田全部と日本橋区の半分を境に大川方面へ迫って来た。  風はますます烈しく、黒煙は天を蔽うて凄い。それでも川向うの火事と安心していると午前十時頃、火は烈風に煽られて大川を越して東両国の中村楼へ飛ぶ。正午頃には深川の大伽藍霊巌寺へ飛んだ。さあ大変と早鐘やスリバンの響きに狼狽の体、竜吐水《りゆうどすい》を持ち出すやら、四斗樽へ水を運ぶやら。  霊巌寺の火はとうとう上木場へ飛んで、いよいよ目と鼻の間へやって来た。薪のような大きな火の子が空を舞う、子供たちは怖がってベソを掻く始末。せっかく深川へ来てまた焼けるのかと覚悟はしたが、幸い通り越して洲畸河岸へ飛び、弁天の社を残してここでも数十戸を焼き、夕刻鎮火。  まる一日の火事騒ぎ、火アシの早いのと飛火の多いので大火になったが、神田の火事に深川で焼けそこなうなど全く飛んだことだ。    新聞小説の第一声       多芸多能だった前田香雪翁  柳里恭は人に師たるの芸が十六あったというが、故前田香雪(健次郎)翁も多芸多能で、和歌、国学は家の業、書画鑑定は当時第一人者であった。茶道は石州流の皆伝、書道は一流の仮名の書手、そのほか武術にも長じ、剣道槍術馬術は師範格であったから、以上人に師たる芸、少なくとも八つ九つあったわけだ。  軟文学にも通じ、新聞小説の元祖は実にこの香雪翁であった。明治八年『東京絵入』に裁判種の殺人事件を続き物として綴ったのがそもそも始めで、その後みずから『絵入朝野』を起し、長篇小説『新形蒔絵護謨櫛』を載せた。  当時の流行品を取り入れた題名、これも好評を博し、春木座で上演した。新聞物上演の嚆矢《こうし》であろう。  背は高くないが痺せぎすの色の白い、極めて上品の老人、武術で鍛えた身体はどことなく締って凜《りん》とした構え、歯切れのよい話振りで講演など人皆我を忘れて傾聴した。古書画の鑑定については、その著『後素談叢』を見ても蘊蓄《うんちく》の深さが窺われる。古社寺取調委員として全国を回った記録が、一々優雅な題名を付して数十冊に及んでいる。見事な手蹟で明細に書いてある。これらはみな未出版だが、斯界に取っては貴重な文献である。  翁の歿したのは大正五年十二月、その一ヵ月ほど前、ある席で懐中から小冊子を取り出し「これは君にあげるつもりでようやく探しだした」とわざわざ恵まれたのは『宮詣り東のつと』という潮来の細見で狂歌人の絵本、しかも交久二年後の種彦求之と書入れがある。蔵書には富んでいられたが、この種のものまでと意外に思った。それも今は形見である。翁の美術界に尽した功績は申すまでもないが、一面こうした優しい親切の気性も忘れ難い。 演芸界    川上音二郎の宣伝姿       芝居の運動場へ小動物園  オッペケ節《ぶし》で売り出した新派の頭領川上音二郎、駒形の浅草座で「意外又意外」など前受専門の狂言大当り、つづいて日清戦争、得たり賢しとさっそく戦争劇に取りかかり、自分は新聞記者の役、興行前にまず宣伝とあって、新調の背広に鳥打帽子、両肩から望遠鏡と水筒を綾にかけ、脚半《きやはん》わらじという物々しい扮装で浅草公園あたりをブラつく、やあ川上だ、と野次《やじ》がぞろぞろ。  当時のハイカラ芸者、例の貞奴が一緒で拙宅へも突然のお入り、「どうです、新聞記者と見えますかね」といった調子。当分は戦争劇で当てるつもり、と抜け目のない作戦。その時宅に飼ってあった信州産の小猿を見て、「おお、いい猿ですな、顔つきが素敵だ」と大気に入り。あまり褒めるので「そんなに気に入ったら進上しようか」「いや、それは有難い」というわけで、とうとう約束。  翌日箱に入れて芳町の川上宅へ持って行くと、同人大喜び、「私は動物が大好きで、狸も一匹おります」という。見ると中庭に可愛らしい狸がつないである。若い朝鮮人のチャムナン(丁無南)というのが世話をしていた。さっそくチャム君を呼び出して件の猿を引き渡したが、此奴すこぶる気が荒いのでチャム君たちまち引っかかれた。  その明治二十九年の六月、三崎町の川上座が落成して開場間際、今度は「どこかに熊の子はありますまいか」と大真面目、これには弱った。  ところが、どこからか熊の子を手に入れ、例の小猿や狸と共に持ち込み、川上座の運動場へ小動物園を設けたので、子供連れの観客は大喜び、幕間にはこの方が大入り大繁昌、川上はさすがに奇抜な思い付きをする男であった。  この川上が戦争劇に当って二十七年七月、遂に檜舞台の歌舞伎座へ乗り込んで「威海衛陥落」その他の狂言で大当り。このとき用事あって同人を楽屋に訪れると、大した室に納まっている。これは団十郎の特別に建てた室で、床の間付きの八畳に次の間六畳という洒落《しやれ》た建築。  川上さも得意気に「どうです、この室は。今まで他人に使わせなかったのを、今度私が懇願したらよろしいと言われて借り受けました」と大自慢。しかし団十郎が次興行に「新派にさんざん荒らされたから、あのままでは出られません」と、大変ツムジを曲げたそうだから、川上の自慢もどうやら当てにならない。    劇評の元祖『評判記』       芝居茶屋とその頃の見連  芝居小屋が劇場と改まり、茶屋がなくなり、出方が引込み、女の子がエプロンで御案内、万事簡便はありがたいが、明治の芝居風景もまた格別。  芝居茶屋もブル階級には見得と便利と半分半分、身のまわりを一切預けて幕開きまでは座敷で一服、へい、明きます、と出方のお迎え、食事の世話からお手水の催促までうるさいほど行き届く。新富座には猿屋、梅りん、紀ノ清、武田屋、越前屋、菊岡、そのほか軒を並べた二階造り、狂言にちなむ暖簾の模様、ことに助六の時など両側へ桜を植えて青竹の手摺、花暖簾に青すだれ、ぼんぼりを点《つ》けて総て吉原仲ノ町の体、こんな大かかりは稀だか、ともかくも景気を添えた、  何々御連中様、と筆太に書いた紙札が茶屋の軒先に門並はられて、これも景気の一つ。魚がし、米屋町を筆頭に、よし町、新橋の花柳界、見巧者の六二連、水魚連、そのほか三升連、見連、松駒連といったような大連から町内の臨時連まで数知れず、多くは平土間に陣取ってカベス(菓子、弁当、鮨)のお当てがい、役者の手拭や花かんざしをもらって嬉しそう。よき時分に男衆や世話人が花道へ並んで、「へい、何々御連中さまお手を拝借」と号令、一同神妙に総じめのシャンシャンシャン、こんな空気も木挽町の初期時代で終り。  六二連といえば見巧者の随一、幹事の高須高燕、富田砂燕、梅素玄魚の三名が黒表紙の『評判記』を出したのは明治十一年から二十年まで。これが劇評の始まりで、役者の位付も載せ、旧式ながら権威のあったもの。この連中も平土間で総見、いつも小一近くにいる高須翁の白髪頭が目に立った。玄魚は是真風の絵をかき、初めて引幕に上品な花鳥の図画を現わした率先者、つづいて永井素岳氏も得意の彩筆を揮った。    芸を崩す名人越路       古老政太夫が「諭告」のこと  東京の義太夫界は近年あまり振わぬが、明治三十年前後、即ち綾瀬太夫在世の頃までは、綾瀬はじめ播磨、津賀、生駒、つづいて女義の小清、素行、小土佐、綾之助など輩出し、そこへ大阪から越路(摂津大掾)、大隅、組太夫、長広、呂昇などの名流がおりおり上京、義太夫界は全盛であった。  その頃すでに隠退していたが、筑後掾正流の家元で、斯界の古老かつ義太夫の総取締であった竹本政太夫は、越路一派が例の美音を振りまわし、見台をたたいて伸び上るような身振りに、前受け一方の語り口。東京の連中も追い追いかぶれて来たので大いに憤慨し、取締の格をもってその不心得を戒めた警告文を発した。それは二十年頃のことである。  引札ぐらいの大きさ、四号活字で十五行ばかりの文章、まず厳めしく「諭告」と題し、義太夫の本分を述べて後、「追日悪弊盛に増長し、今に至っては見台上にて手踊同様に扇をもって面白く拍子を合せ種々形を崩して古き名人達の心も知らず長々敷勝手気儘に上手振を専一とし、軽業仕方噺に類せし醜態大阪表より発起し、女もこれに類し女子に有間敷上下を着し見苦しき事も不弁」うんぬんとずいぶん手厳しい。  この政太夫の三味線を勤めた野沢語助翁は、晩年西紺屋町に住み、玄人けいこのみであったが、翁の談に「政太夫は特に行儀の正しかった人で、見台に向ったら首から下は動かさず、語り口も古格を守っていましたが、常に流行の風を歎き、節を崩すものは越路、三味線を崩す者は団平といい、あれはその人に限る芸風で、他人の真似るべきことでない、と戒めていたものです」と、当時綾瀬はこの政太夫に私淑して行儀も正しく、語り口も枯淡の裏に何ともいえぬ独得の妙味があった。 バカにした連中総感服    古今の絶技山本東翁のこと  古今の絶技といわれた能狂言の山本東(先代東次郎)は大蔵流の家元で、全く飛び抜けた名人。眼の細い、鼻の大きい、赭《あか》ら顔の小肥りの老人で、半白の髪を蜻蛉《とんぼ》のような細いちょんまげに結って、これは終生そのまま切らず、風采といい芸風といい、上品で朗らかで、真に生れながらの狂言師向き。  翁の晩年六十余歳の明治三十三年、芝の紅葉館でわが党の宴会、多数の参会者は能狂言などに趣味はないが、幹事の計らいでこの日の余興に東翁の狂言、一同なあんだとばかり、見ぬ前から馬鹿にして、碁を囲むやら、時局を論ずるやら、その内に膳が出て酒が始まる。もはや余興も手後れの形、幹事の面々気をもむばかり。  やがて狂言「萩大名」でシテの大名が東翁、例のふっくらとした調子で透る声、一言二言の詞があると一同オヤという顔付、萩見物の褒め言葉や当座の和歌を太郎冠者に教えられて、一向のみ込めぬ可笑し味など、追い追い佳境に進むと共に、いつか宴席の高話もぴったり止み、杯の手を休め、果ては一人立ち二人立ち、自席を立って皆余興席の前へ集まり、誰彼なしに総感服、ほんとうに技芸の力の素晴らしさを知った。  当時和泉流の家元山脇元清氏も東翁と違った味の渋い芸、容貌も畑に似合わぬ厳めしさ、上唇にきずがあって一層凄い。しかも舞台に上ると自然愛嬌が出て柔和に見え、人違いのする多年修養の功、晩年は病弱のため不遇に終ったが、斯界第一の故実家で門人にも、野間、小早川その他の錚々《そうそう》たる連中があった。    東京生れの人形芝居       西川伊三郎と吉田国五郎  人形浄瑠璃は本場だけに大阪の文楽が一手占め、東京方は昔から振わなかった。しかし明治十五、六年頃には、初代西川伊三郎一座が人形町の定席に居付きの興行。  一方、吉田国五郎が各所の寄席を打ち回って、いずれも相当の人気を集めていた。この国五郎は一種の名人で腕もあったが、|けれん《、、、》も相当用いたもので、早替りや太夫のふところ抜けなど見物をあっといわせた。  東京生粋の人形浄瑠璃で文楽の向うを張ろうという計画、三十年頃神田の新声館に旗揚げした人形芝居がそれであった。太夫は綾瀬、播磨、岡、相生、柳適、祖太夫、花太夫、人形は吉田国五郎に二代目伊三郎の合併一座でまず総動員、狂言は「忠臣蔵」「吃又」「日向島」その他で大切りが「羽根のかむろ」。  この時の綾瀬の「日向島」に国五郎の景清は、まことに見もの聴きものであった。大切りの国五郎の「羽根のかむろ」は、左が重三郎で小さい人形を巧みに使い、羽根をつく間の所作など細かく行き届いて活けるが如く、こればかりは文楽でも見られぬと大評判、そのくせ大入りとも行かず確か二回限りで中止、人形は東京の水に合わぬと決った。  然るに三十五年八月文楽の名人桐竹紋十郎が上京して、明治座の興行は連日売切の盛況、この時も「日向島」に「野崎」、呼び物は先代萩の「御殿」と、初めての常磐津の「廓文章」吉田屋、これが当時の名人林中、文字兵衛、義太夫は全部東京で「御殿」は売りだしの伊達(今の土佐太夫)、美音で鳴らした時代とてもっとも好評、しかし稽古には紋十郎から|だめ《、、》の出通しで随分苦しんだとのこと、それに反して林中との申合せには双方ぴったり息が合って、一言も文句なしに楽屋でも不思議がったくらい。  二の替りも八重垣姫や「朝顔日記」で紋十郎得意の出し物、林中は「乗合船」でこれまた十八番、後にも先にも常磐津での人形はこの時ばかり、それでぴったり息の合うところは名人同士、全くよいものを見ておいたと今でも思いだされる。    夏気分の新内流し       艶物を恥かしがった加賀太夫  夏の夜の巷《ちまた》にひびく新内の流し、今でも下町ではときどき聞くが、明治時代には夕方|蝙蝠《こうもり》が出る時に、きっとやって来る。それが心なき身には、天ぷら食いたいとか、チンコロ踏んだとか聞えるにせよ、当時の江戸ッ子には堪らなく情緒的で、その美しい遠音にうっとりと聞きほれたものだ。  路地の溝板の上で聴かせる新内は、真実たいして感心せぬが、寄席で有名の富士松紫朝、明治初年に鳴らした人で大柄の盲人、坊主頭に地味な被布、声も太く、三味線も太い、随って|いき《、、》な新内というよりも少々義太夫がかった渋い語り口、曲弾きなども上手でまず名人格であった。  その後は女で鶴賀若辰、これも盲人だが全く新内らしい|いき《、、》な咽喉《のど》、お座敷的ではあるがしんみり聴かせた。  続いて二代目紫朝、これはなぜか柳家を名乗ったが先代風の語り口、御多分にもれぬ盲人だがなかなかの美声、一時は柳派の呼び物であった。  以上と前後して明治の中頃、おそまきながら売りだしたのが先代加賀太夫、同じ富士松でも紫朝畑とは違って、艶物が得意で一方「膝栗毛」のようなチャリも利く、新内の特色をふんだんに振りまわして、若い定連をぞくぞくさせた。「明烏」や「蘭蝶」は、もちろん聞き物だが、その弟の宮古太夫とかけ合いの「膝栗毛」がまた絶妙、第一この兄弟の風采が弥次さん喜多さんそっくり、晩年にはむしろこの種のチャリを得意にしていた。明治の末年ある宴会の席上、例の「明烏」を所望したら、加賀先生頭をかいて「実はもうこの年でああいう艶物は恥かしくって語れませんや、どうか赤坂か市子で御勘弁を」という。名人のくせにと争うたが、当人はこれが本音ですと、とうとう市子の口寄せ。    閑人の昼寝の場所       名人ぞろい・明治の講談界  講談落語と一口にいうが客種が違う。講談には毎晩通うような定連が多く、あらかじめこれら定連の席には別仕立ての座蒲団がずらり、昼席となるとまた閑人の昼寝の場所で煙草盆を枕にごろごろ、しかし釈師も明治中頃は名人株がそろっていて、定席の繁昌はどこも劣らず。  当時の巨頭桃川如燕、つるつる頭で赤ら顔の和尚《おしよう》然たる老人、軽からず重からず、程よく上品な口調、「曽我物語」が得意で御前講演の栄を得た。世話講談では邑井一、低声であったが味のある老練の話振り、「大岡政談」は聞き物であった。軍談では伊藤燕尾、請負師みたいな風采で、凄い目にぎろりとにらみまわすところ、賤ケ嶽の豪傑然たり。先代放牛舎桃林は禿げ上った頭と薄い眉毛、色の白い老人で「義士伝」など呼び物、端物読みの一立斎文慶はこれも大柄の五分がり頭、柄になく艶っぽい話で受けたもの、神田松鯉(前伯出)は色の黒い厳格な顔付、その割に砕けた口調で、時々笑わせる。  一方の大看板は松林伯円、木挽町六丁目にいた頃、神道の権大講義とあって、なかなかの気位、ところが義賊物で売り込んだおかげに泥坊伯円などといわれ、晩年は大いに綽名《あたな》の解消に努めた。この人は釈台を用いず、高座前の客席ヘテーブルをすえて椅子、一席終るとそのままそこで腰から煙草入れを抜き、一服つけてスパスパ、傍の客など話しかけるのを軽くあしらって、中入が済むとまた煙草入れを腰へ戻し、さて後席に移るという工合、なんとなく親しみがあった。「天保六佳撰」(河内山)や「安政三組盃」が得意で、河内山は団十郎にその意気を伝えたと大自慢。  芸よりも鼻息の強かったのは五明楼玉輔、客が皮肉な評言を飛ばすと「なにっ、もう一度いって見ろ、お前にはおれの話は解らねえ」とむきになってタンカ、昼席で寝転ぶ客が多いと釈台をポンポンたたき、「寝ながら講談を聞くとは以ての外、どなたも起きさっせえ」。客は驚いて皆むくむく。    珍妙な当り芸列伝       ヘラヘラ坊や名代の円太郎  素話で持ち切れず、苦しまぎれの珍芸で、明治中期の落語界に当りを取った顔触れを一々ここに首実検。  お早いところで十三、四年頃、初代談志の郭巨のかま掘り、羽織を後ろ前に着て手ぬぐいを頭へくるくる、即席唐人のこしらえで高座をのそのそ、なにかいってはテケレッツのパアをつける、座蒲団を二つ折り、子供のつもりで丁寧に抱え、これが郭巨の細君で泣きながらテケレッツのパア、大抵は腹をかかえた。  同じ頃ヘラヘラ坊万橘、赤い手拭いで頬かぶり、両《もろ》はだ脱いで赤いじゅばん、拡げた扇子を振りまわし「太鼓が鳴ったら賑やかだ、ほんとにそうなら済まないね、ヘラヘラへ」と無茶踊り、馬鹿な受けようで人気沸騰。  後年、二代目談志が郭巨、花山文の二代目万橘がこのヘラヘラを復活したが、共に初代の半分も受けず、おつぎは例の円太郎で三遊派の人気者。  でっぷり肥った大男、色の白い眼の細い童顔の愛嬌男、話はたいてい権助の出る落語でごまかし、懐中より真鍮のラッパ、お婆さんあぶないとプウプゥ、手綱取る手つきでキュッキュッといいながらまたプウプウ。これが評判になって結局、円太郎馬車と今に通用。つづいて円遊のステテコ、「ひょうたんばかりが浮き物か、わたしもこの頃浮いて来た、サッサ浮いた浮いた、ステテコステテコ」尻ッぱしょりの半股引、変妙な手つきで向う脛をたたいたその半股引が、今はステテコで通っている、ともかく一時は大人気。  二十四、五年ごろ大阪から来た徳永里朝の「縁かいな」、これは本芸だがたちまち流行、花柳界はもちろん満都の人気集中、盲目の水々しい大坊主、紫の被布など着て少々いや味だが芸は立派なもの、人気中に退いて新橋で琴三味線小唄の師匠、時代ばなれの「徳永検校」と記した軒ランプ、このほか二流どこで朝枝の鮹《たこ》踊り、年枝の即席茶番など柳派の珍物もあったが、さまではとお預かり。    鼻ぺこの八重垣姫       釈師落語家合同の珍劇  珍妙で喜ぼれた落語家芝居も、ようやく鼻についた明治二十五年の八月、春木座に催した釈師、落語家合同の大一座は最も珍。  釈界の大立者松林伯円とその一党に、例の英人ブラックや三遊派の花遊その他、狂言は「雪中梅」「本朝二十四孝」「鈴ケ森の長兵衛」だが、役々いずれも変り種でそれが大真面目に、これ見てくれ。 「雪中梅」はお手の物で本職以上だが、問題は中幕の「十種香」、当時売り込んだ伯知の濡衣、自慢の長髯を羽二重で包んだ二重|頤《あご》の愛らしさ。これに対して伯円師の八重垣姫、画像に向った後ろ姿は水の垂れそうな美しさ、但し首筋の太さは牛のよう、チョボにつれて向き直った顔は塗りも塗ったり造作も判らぬくらい、その上名代の鼻ッピー、それで台詞《せりふ》は持前の塩辛声、申し分なき珍妙さに満場どよめいて笑いの渦巻。  つぎの「鈴ケ森」も相当なもの、伯知の権八が例の二重頤の好若衆で、足弱の花遊を頭の雲助連と鮮やかに大立回り、とど追い散らしてほっと息、そこへ駕籠《かご》の垂れをはねて現われたブラックの幡随院長兵衛、眼色の変った大親分、ぬうと立って握手でもしそうな手付、台詞にかかると高座でお馴染の舌ったるい外人口調に、一句一句大受けでワアワア、十分にブラック式を発揮したが、その実、当人平素は立派な東京弁。  当時私は生人形の名人初代安本亀八翁と共に、この珍劇を見物して二人相談の上、奥庭の八重垣と鈴ケ森の場面とを、その年の菊人形に造り、浅草花屋敷の秋の景物にしたが、その時亀八が細工中の似顔を、当の伯円が見て「僕の鼻だってこれでは低過ぎる」と抗議、亀八翁承知せず、いや実物通りだとわざわざ物差を持ち出し、嫌がる伯円の鼻の先へ当てて丁寧に高さを計り、「それこの通りたった二分しかない」。    横綱は河竹黙阿弥       三題ばなしや軽口流行の頃  安永天明時代の軽口話、文化文政の三題ばなしや口上茶番、その余波を受けて明治の初年には折々この会が催され、芳幾、採菊、黙阿弥、円朝、菫坡の諸老が肝いりで、会員もおいおい殖え、番付や評判記も出て相当発展。中にも黙阿弥翁はいつも高点で、番付にも横綱の地位は動かなかった。  当年の産物として三題ばなしの「魚屋茶碗」、十題ばなしの「霜夜鐘」は翁の名狂言として今も舞台に上る傑作。  次に行司格の西田菫坡老は雑俳の名人、ことに記憶がよく「八犬伝」の名文句は大抵そらんじていて、その抜読みの専売、一字一句も間違わなかったという。口上茶番や遊食会など江戸ッ子の残党が大いに智恵を絞ったもので、古版《こはん》の小話本《こばなしぼん》や柳だるの世に出たのも、これらの手合がまずさきがけ。  降って二十二、三年頃にはだいぶ若手の後継者が現われて、関根黙庵、片山友彦、堀野文禄など挙《こぞ》って落語趣味の唱導、中にも文禄は円朝や尾崎紅葉を顧問格にして小話の雑誌『一分線香』を発刊、半紙半截の小形で昔の軽口話や新作の落語を載せたが、自分は京の藁兵衛《わらべえ》と名乗って選者に納まる。  これが一部三銭五厘と半ばのついた定価も珍だが、おりおり載せた紅葉新作の小話はなおさら珍物。  藁兵衛君その後いよいよ本気になって、文禄堂という書店を開業、やはり安永天明の小話を集めた『滑稽類纂』を出版、軽口本紹介の先駆となった。  同時に昔噺《むかしばなし》の絵葉書を発行、当時まだ絵ハガキの少い時代で極彩色の恐ろしく贅沢なもの、これもハガキ趣味のさきがけ。当人は一向冗談口も利かぬ生真面目の若旦那、これが滑稽趣味の先達藁兵衛とはワラわせる。    落語家の綽名尽し       和やかだった寄席気分  綽名《あだな》はほんらい失礼な代物だが、落語家などにはこれも一つの人気の現われ、誰がつけるともなしに呼び馴れて、高座へ上るといきなりに飛ばされる。当人面くらった風で内心得意、初めて耳にした客も本人と見比べて、ウフフと感服、この手の人気者が明治の落語界には相当多かった。  秀逸は先代左楽の「オットセイ」、丸顔で眼が小さく、禿げた頭の恰好がそっくり。次は先代雷門助六の「シャモ」、鼻から口|許《もと》のとんがった工合、目つきも鋭い。綽名を呼ぼれると手拭で額の汗をふく、円遊の大きな鼻を撫でるのと同格で客は「もう一遍」などと騒ぐ。肥った三升家小勝が腹の大きいので「狸」、三遊亭市馬が顔をメチャメチャにして音曲を唄うので「ガンモドキ」などは気の毒。  名人円朝も芝居噺を売物の若手時代には「太神楽」の綽名を取ったが、素噺に移ると共に、身装《みなり》も渋くなって綽名は解消。  その高弟の円喬が医者の代脈然たる風采から「代診」と呼ばれたのも久しいもの、柳派の朝枝が赤手拭で頬冠り、得意の鮹《たこ》踊りを見せたので「タコ」、もっとも目つき口つき鮹入道にそのまま。同じ派の今朝が「河童《かつぱ》」、これまた陸へ上ったカッパに瓜二つ、少々凄いのが三遊亭遊輔の「強盗」、物騒きわまる綽名には本人も苦笑い。  円遊門下の人気男小円遊の「若旦那」、才賀《さいか》の伜《せがれ》伝枝の「アンパン」などはよくある手で、いわれる当人も平気な顔。  ところで女の芸人には一向綽名を奉らず、ただひとり、橘之助們下の花橘《かきつ》、十七、八の小娘で下ぶくれの顔立ちから口元のむっとした工合で「ウサギ」、客にいわれると踊りながら一層口元を膨らます。とにかく定連の嬉しがった綽名尽し、たわいもないが当時の寄席気分をちょっとお笑い草。    大通、百物語の会       凄味が出ないで、もがいた円遊  百物語の催しは度胸試しとあって、昔はずいぶん行われたが今は絶えた。これはそんな殺風景でなく当時の大通連の百物語。明治二十五年十一月、浅草公園奥出閣の広間で条野採菊翁の主催、夕刻から集まった連中は三遊亭円朝、五代目菊五郎を始め、南新二、金谷竺仙、三遊亭円遊、西田菫坡その他で約十人.、  床の間には円朝の持参した芳年筆の女幽霊の一幅、古|釣瓶《つるべ》へ薄《すすき》と野菊の投げいれ、わき床にはあしと柳の盆栽、別室にはお約束の灯心十余筋をいれた灯明皿を置いて型通りの道具立て、万端整ったところで場所柄だけに、古寺めいた凄味は少しもない。 『粋興奇人伝』や、『三題ばなし』『楽屋評判記』などに名前の載っている連中、催主を始め老巧の人々、精々凄味を付けた怪談ぶりに一同怖毛をふるったかどうか、あいにくこちらは茶菓やなにかの世話で一向聞くを得なかったが、なんといっても玄人の円朝と、怪談は家の芸たる菊五郎の両人に落を取られ、他は笑声のもれるくらいで大した凄味はなかったらしい。  中途で茶の間へ逃げ込んで来た円遊、例の大きな鼻の頭の汗をふきながら、「驚いた驚いた、こんな苦しいことはねえ、こっちが凄味をつけてやっていても、肝腎のところでどっと来るのだからやり切れねえ、もう怪談は懲り懲りだ」と空也餅《くうやもち》をやけに頬張る。いかさまステテコを売り物にお笑い専門の人気男、怪談ときては「成田小僧」や「千物箱」のようなわけには行くまいと大笑い。    団菊以外の名優連       いまも目に残るその至芸  明治の名優といえば団菊左に止めを刺すようだが、もちろん外にも名優がそろっていた。彦三郎を筆頭に、田之助、友右衛門、これは見ないが十一、二年以後は仲蔵、芝翫、半四郎、宗十郎(中村)、高助、我童、九蔵(後の団蔵)など一粒選りの大立物、全く旧劇は全盛、お蔭で今の芝居がいつまでも小さく見える。  彦旦那で通った坂東彦三郎、いおり看板に「兼」という字を書いたのは、明治になってこの優一人、何役でも立派にこなす名人でもあり、押しだしも無類。二世秀鶴の中村仲蔵すでに老年であったが、蝙蝠安は今にこの優の型、霜夜鐘の宗庵など悪の利くのは無論だが、最初の出の善人らしさ、この善悪の変りは独得。その著『一話一言』や『手前みそ』は、芝居道に取って好個の文献である。  美貌で鳴らした岩井半四郎、少々おでこの形だが、目もと口もと滴るばかりの愛嬌に艶色無類、晩年菊五郎のおその六三の狂言におその、水の垂れるような美しさ初々しさ、これが六十余歳の老優とは受け取れず、大口の寮の三千歳など見物わいわいという騒ぎ。  人気第一は中村芝翫、張りのある容貌、蝋引きのような眼、すばらしい顔立ち、従って「対面」の工藤や「助六」の意休、「八陣」の加藤など錦絵も及ばぬ立派さ、踊が名人で「道成寺」が当時随一、供奴や山神など気が乗るとハッハッというかけ声、ただ台詞《せりふ》の呑み込みが悪く、年中|黒衣《くろんぼ》がついていた。  大阪から来て、江戸ッ子をあっといわした中村宗十郎、曽我の汪言に団十郎と装束争い、水見舞の空っすねで古風を押し通したが、カタミ送りの十郎は無類の出来で団十郎の五郎もたじたじであった。最後に市川九蔵即ち六代目団蔵、団菊とは違った味の名人格、苦味走った容貌と、|さび《、、》のある渋い音声、佐倉宗吾と仁木弾正は極め付、そのほか「馬たらい」の光秀、「千本」の権太、知盛などことごとく満都の好劇家を呻《うな》らしたものだ。    明治劇界の飛将軍       田村成義翁の団菊比較論  代言人から転向して、劇界の飛将軍といわれた田村成義君、あれですこぶる敬神家、まだ銀座三丁目にいた明治二十七、八年時代、自宅の一室に大がかりの神棚を設け、八百万の神々を祭って毎朝必ず神前に畏まり、大声に祝詞《のりと》を上ぐること約三十分、それが済まぬ内は一切の面会謝絶。  顔付はむずかしかったが、如才ない応対振り、元が元だけにすこぶる弁者で、ことに劇談はお手のもの、よく聞かされた団菊比較論「団十郎は自然に形が出来ています、見得をするにも他のように身体をきめてかからない、無造作ににらむその形がすでに立派なもの、菊五郎はこれと反対にまず身体をきめてからぎっくり見得をする、これも好い形だが自然には遠い、万事お芝居の格です、団菊の芸はすべてがこの調子」と、まずこんな工合に、菊五郎の顧問が団十郎を褒め上げる。  劇道以外にも抜け目がない。三十年頃の菊見時、「実は内職に一つやってみます」というのが大名行列の陶器人形、一寸ばかりの豆人形で先供の鎗《やり》持から殿様のおかご、引馬から後詰の家来、合羽籠まですべて大大名の行列一切、背景も遠見の城櫓、大手御門の構え、とても精巧の出来、団子坂の左側で上り詰めた場所植木屋の庭を借り込んで華々しく陳列したが、全く案外の大当りで名物の菊人形に劣らぬ繁昌、この時ばかりはあのむずかしい相好を崩して「どうです、ざっとこんなもんです」と、にたりにたり。  その後、築地川岸へ金水館という旅館を開いたがこれも一時は相応の繁昌、商才にも富み、一方には『歌舞伎年代記』の続々篇を、丹念に編述して立派に世の中へだしたほど文才にも長け、桜痴居士と共に明治劇界の名物であった。    中流向きの名劇場       俳優は不平組の粒ぞろい  蠣殻町《かきがらちよう》の中島座、へえそんな芝居がありましたかとばかり、全く過去に葬られたが、同町二丁目の狭い横町、鼠木戸に紋櫓《もんやぐら》、むろん古風の劇場だが小さいながら茶屋が七、八軒、いわゆる中芝居として下町の見巧者に喜ばれ、俳優も粒ぞろいで場所柄だけに景気もよかったが、明治二十年暮の火事に焼けてそれっきり、今時たいていの人が知らぬも道理。  後年大歌舞伎に名を成した連中が、まだ若盛りで生きのいいところを見せていた。座頭は先代左団次の兄中村寿三郎、次は吉右衛門の父で当時の人気役者中村時蔵(後歌六)、「勧進帳」で宗家を破門された松尾猿之助(即ち市川段四郎)、後の仁左衛門老の片岡我当、売出しの尾上幸蔵、敵役の片岡蝶十郎(後市蔵)、同中村鷺助(後伝五郎)、立女形《たておやま》が嵐みんし、娘形が寿三郎のせがれ鶴松(後米蔵)で、幹部はたいてい落武者や不平組。  以上の顔触れで寿三郎は少々調子は甘かったが、由良之助でも松王でも貫目十分。時蔵は「安達三」の袖萩、「嫗山姥」の八重桐または「弥作の鎌腹」など変り物が得意。猿之助は「勧進帳」の度胸もあるだけ、時代、世話なんでも利く。我当はその頃から同座の客座にすわって大威張り。幸蔵は師匠張りの|いなせ《、、、》な役。蝶十郎も後年の片市で歌舞伎座に老後の花。鷺助は敵役の憎みが利いて、舞台で客に撲られたくらい。女形のみんしは愁い顔だが上品で、雪の常磐や政岡など目に残っていた。今でもこんな座組の芝居が見たい。  焼失後は出方もちりぢり、寿三郎は左団次の久松座へ、猿之助は吾妻座へ、時蔵は春木座へ、幸蔵は師の菊五郎一座へ、我当、蝶十郎は大阪へ、これらが後にそろって東都劇界の大立者。その舞台を見るたびに、私は彼らの若かりし中島座時代を思いだし、人知らぬ感慨に耽ったものだ。    大向うの客を翻弄       腕利きぞろい、小劇場の名優  面白かったのは明治時代の小劇場、いわゆる「どん帳」で通っていたが、これは引幕、花道、回舞台禁止で幕はことごとく緞帳《どんちよう》、しかも相当腕っこきがそろって見巧者を喜ばせた。吾妻座は別格で九蔵(後の団蔵)、訥子、真砂座に中村福円、坂東太郎。常盤座は坂東|雛輔《ひなすけ》、市川|鼻升《びしよう》、同 紅車。深川座に尾上菊十郎、坂東|舞鶴《ぶかく》、柳盛座に中村梅雀、坂東又三郎など人気満点の名優格。  彦三郎写しといわれた雛輔は芸風から容貌まで坂彦そのまま、押出しの立派さは緞帳に惜しいくらい、松王や梅の由兵衛、野晒悟助、「三人吉三」の文里などは全く彦三のおもかげを伝えたものだ。雛輔を襲ったがさすがに嵐を遠慮して坂東で納まっていた。福円は大阪育ちで紙治や梅忠に鴈治郎の向うを張った、は大げさだが、当然たいした評判。菊十郎は五代目門下、後に歌仙と改名して師の一座へ戻ったが実事の上手。  柳盛座の木戸が二銭、随って二銭団洲といわれた又三郎(後に和好)、横顔などは団十郎そっくり、科白《せりふ》万端透き写しで喜ばせたもの。珍なのは市川鼻升の「勧進帳」、常盤座の舞台開きに堂々と演じたが、幕外の六法は例の緞帳、花道はほんの斜めに六、七尺、よんどころなく後ずさりに舞台上手まで逆戻り、いざ六法で金剛杖を取り直すと、緞帳の綱に引っかかって新規やり直し、馴れぬ舞台の飛六法は弁慶一期の大難儀。  一座の紅車は名代の臆面なし、菅丞相で片方のひげを落し、平気で見得を切る度胸。鷲の金太という粋な鳶《とび》の役で「世はさまざま、芝居にしても桟敷で御覧になる方もあれば、熊の格子へつかまって立見をする客もあり」とやったから堪らない、立見を始め大向は総立ち、馬鹿っ、生意気と騒ぎだして殺気立つ、紅車じろじろ「しかしいずれも御ひいき様に変りはねえ」と大きくいって丁寧にお辞儀、大向う却ってたじたじ。    浪花節出世の始まり       黒田清隆伯と浪花亭駒吉  浪花節も昔はデロレン扱い、せいぜい場末の寄席で、御入来を振りまわしていたが、出方も相当なもんで、中には手ぬぐいの浴衣《ゆかた》で高座へ上るのもあったくらい、それが世に出たのは浪花亭駒吉以来で、この人だけは一足飛びに権門のお座敷へ招かれ、晩年には寄席へなど顔をださなかった。  当時の大官連は宴席の余興に長唄や清元を聴かせても、いっこう妙味不通、よんどころなくなにか田舎武士に解りのよいものをと首を捻った末、浪花節に目を付けたのが黒田清隆伯、あるとき駒吉を呼んだが来客に大受けとなって、以来浪花節に限るとの仰せ、これが羽織袴に出世したそもそものはじめ。以来ぽつぽつ紳士連にも招かれたが、晩年の駒吉は白髯を蓄えてすこぶる上品な老人に見受けられた。しかし明治の中頃まではやはり一般には下司なものと見縊《みくび》られてピーピー。  そのうち追い追い若手の巧者も現われ、節や文句も改良されたが、本当に芸界の真中へ乗りだしたのは、例の桃中軒雲右衛門が日露戦争後の四十年に本郷の本郷座へ来てからのこと。義士伝を売り物に、節も調子も遙かに上品、しかも長髪を振り乱しての熱弁にたちまち人気を集めて、いままで見向きもせぬ紳士連が我も我もと押しかける騒ぎ、もっとも当時はすでに、虎丸、三叟、愛造、円車、重松などの面々が東京の真中、神田や銀座の寄席へ乗りだして向上の矢先、翌年は奈良丸も来て浪界いよいよ全盛。  雲の長髪は有名であったが、その後なにに感じてか五分がり頭になって雲入道と改名、見た目も貧弱で引き立たぬと思ったら、また一年ほどすると総々《ふさふさ》とした長髪に返った。そのとき本人いわく「脳が悪くて髪を切りましたが、私は元来腹が薄く、声を張るのに左手で横腹を押さえ、首を振る、それには坊主頭は恰好がつかぬ。長髪がばらばらと乱れると物々しくもあり、腹を押さえても目に立たず、一挙両得でまた伸ばしました」と、いわれを聞けば難有《ありがた》い。    極端なる写実劇       故伊井蓉峰の旗挙げ芝居  書生芝居といった新派の草創時代。川上が中村座へ乗り込んで間のない明治二十四年十一月、こちらは浅草の吾妻座へ旗挙げした伊井蓉峰の済美会、よし町芸妓米八の千歳米坡と共に初めての男女合同劇、万事は依田学海翁の指導とあって、狂言も一番目に同翁の作「政党美談淑女操」。これがそもそも大変な代物。笛太鼓の|しゃぎり《、、、、》はもちろん、合方の唄三味線など鳴物は一切禁止、俳優の台詞や仕草も劇的誇張はすべて避ける。いわば極端な写実劇で、平生のとおりの音声帯をそのままという実地芝居。こいつは凄い、おつだろうと早速のぞいて見て驚いた。ジリジリとベルが鳴って幕が開く。出る役も出る役も、ほとんど地声で気取りっけなしの受け渡し、声も通らねば筋も通らず、観客いずれも催眠術にかかってただうとうと、幕が閉まると大|欠伸《あくび》をして下足札を拍子木代りにチョンチョンチョン。  およそ気のない芝居で、二番目は普通の鳴物入り。米坡の狂女が呼び物であったが三日目ぐらいから客はがた落ち、土間も桟敷もちらりほらり、一座焼芋を食って籠城したのはこの時だ。その辛抱の甲斐あって追い追い売り出し、二の替りはまず中位の景気、中幕の福島中佐単騎旅行の看板は、一座の水野孤芳(後の好美)が画家出身だけに彩筆を揮った油絵で、これは確かに見ものであった。  その後、伊井、水野は浅草座の川上一派へ加わり、日清事件の戦争劇で新派は日の出、ついに歌舞伎座へまで乗り出したが、この時なぜか仲間割れ。伊井、水野は脱退し、佐藤歳三と三人で伊佐水演劇と名乗り市村座へ陣取って以来、新派は群雄割拠の姿。当時御大の川上に仲間割れの仔細を聞くと、「なあに伊井は喜楽の尻押しで役不足が多く、水野は無性におしろいを塗りたがる、つまり一座の水に合いませんからね」だと。    「陽曽我借座明物《ようきそがかりざのあきもの》」       団十郎好み、二葉町の大師匠  明治の落語界は三遊派と柳派に別れて負けず劣らず、その柳派の総帥であった談洲楼こと柳亭燕枝、一方の円朝と並んでの大看板。やはり芝居話から売りだして江戸前の人情話、高座は少し堅い方で、晩年にはちらほら立つ客もあったが、「島鵆沖白浪」などはこの人の専売。  劇界にも立ちいって幕内の通り者、特に団十郎のお気にいりで市川団柳楼と名乗り、桂文治の聞語楼、田辺南龍の岩井のん四郎そのほか柳三遊合同の大一座で、明治十四年の暮、本郷の春木座に餅搗《もちつき》芝居の興行、これがそもそも鹿芝居の元祖、ところがこの座頭だいの駄じゃれ屋で、この時の狂言一番目の「夜討曽我狩場曙」を|もじ《、、》って大名題「陽曽我借座明物」。  二葉町の大師匠といわれて本所|割下水《わりげすい》、南二葉町に瀟洒《しょうしゃ》な住居といいたいが少々風変り、屋根付きの門が赤い柱で、どこの稲荷さまの持物だか狐格子の扉、玄関を上ると板敷の室で大きな円座が三、四枚、たいていの客はいざまずこれへと、藁の円座で差向い、奥の座敷は八畳で、欄間にはこれもお寺の払い下げらしい雲形彫刻付きの古板が四隅に嵌入「どうです、おつでげしょう」。それで本所名物の蚊軍が攻め寄せると、鉄枠のかがり火を庭先に立ててパッと凄い、すべて団十郎好み。  いつも薩摩大がすりの被布、四角ばった顔に力《りき》んだ口もと、なんといっても輪郭は大きい。座談は名人でしゃれが好き、目を三角にして興に乗じ述べ立てる珍談に高座以上の面白さ、「あっしゃつくづく芸人は嫌になった。きょうも薬研堀《やげんぼり》で車夫が旦那いかがですとうるさく付いて来るから、いらないよというと、顔を見て、ふん燕枝かとさっさと行ってしまやがった」と憤慨。ある時しゃれの会というので我々四、五人、二葉町へ出かけた。芝居にちなむ題で銘々頭をひねったが一つも物にならず、燕枝あきれて「しゃれと喧嘩は、考えちゃあ出来ませんね」。    難曲の名人綾瀬太夫       素読みのような酒屋の|さわり《、、、》  東都の義太夫に重きをなした初代綾瀬太夫、大阪で鶴沢友次郎や長門太夫に仕込まれ、上京後やかましい政太夫に私淑したので、少しもけれん当込みのない真面目の芸風。義太夫を浮かれ節と間違えた連中の気には入らずとも、真の義太夫好きは襟を正して聴いたものだ。  相撲好きで明治初年の花形力士相生と義兄弟、そこで相生太夫と名乗り、後相生が大関となって綾瀬川、自分も綾瀬と改名、昔の儒者然たる容貌で愛嬌はないが、上品な老人。語り物も渋いもの、皮肉なもの、「腰越の五斗」「宗玄の庵室」「日向島」「薄雪三人笑」など、選りによっての難曲ぞろい、越路でも大隅でもこの点は一目置いたろう。そのくせ「御殿」も「酒屋」も語る。これがまたさわりを売り物の太夫とは全然違った味を聞かせたので、わいわい連は変な顔。 「宗玄の庵室」は得意の一つ、恋と怨みに悶ゆる宗玄の言葉など天下一品、陰惨の気に充ちて、二、三日は綾瀬の宗玄調子が耳についたくらい、一言一句に襟元がぞッとするほど凄味があった。「薄雪三人笑」も難物の笑いの件が特に聴き物で真に迫り、当然芝居で見た諸名優の演技よりもこの人の方が遙かに感興が深かった。あたかも円朝の素話が芝居以上に面白かったのと同じ程度。 「日向島」は特にこの人の呼び物、しかし大物だけに寄席ではあまりださなかった。当時吉田国五郎の人形と双璧、名人団平以来まずこの人のもの。以上の語り物は綾瀬なき後再び聴くを得ないのは惜しいものだ。一方「酒屋」などを聴いても後半の|さわり《、、、》、待ってましたというところをさらさらと平々淡々、見台一つたたかずただの本を読むように語って行く。それでも聴衆は煙に巻かれてジーッと耳をすましたから妙だ。    根津の風流劇場       芸妓連の総見にびっくり  根津遊廓が洲崎へ移ったのは明治二十一年。貸座敷が取り払われて急にがらんとした根津の街、絃歌の賑わいも夢となって火の消えたような有様。今と違って交通不便の場所柄、容易には復興せず、空しく一、二年を過ぎた二十三、四年頃、土地繁昌の一助にもと、引け跡の空地へできたのが小劇場の藍染座。  場所は旧大八幡楼(後に料理店神泉亭)の横を東へ曲って、一丁ばかり町並のそろわぬ原中の一軒建て、向う側にこれもただ一軒の座付茶屋、左右は草ぼうぼう、座の裏手は一面の麦畑に菜の花がところどころ。これでも開場当時は多少の客足も引いたが、足場は悪し、人気役者はいず、とかく不入りで興行も休みがち、毎夜頼まれて泊りに行った植木屋の話、「そろそろ寝ていて虫の声が聞かれます、誠に風流な芝居小屋ですよ」。  立ち腐れにもならず、この間三、四年相立ち申し候。当時川上一座と別れて一本立ちの伊井蓉峰、流れ流れてこの藍染座に一時籠城。狂言は十八番の呼び物「大発明」の通し、更生の意気で一座大車輪の上、例の黒幕喜楽の女将が必死の運動、さすがに芳町新橋はじめ花柳界の連中が毎日華々しく車を列ねて乗り込む騒ぎ、茶屋も出方も大まごまご、久し振りの賑わいと今までにない綺麗ぞろいの総見に、土地ッ子も驚きの眼を見張った.、  東西の桟敷は右の連中、土間も高もがらり変った上等の客種は、この小屋初めての珍風景、麦畑も菜の花もけし飛んで案外の上景気、にも拘らず下町育ちの伊井は島流しにでも遭ったような浮かぬ顔。「なにしろ下町の小屋は八方塞がり、よんどころなく当座へ来ましたが、場所は遠し、道は悪し、お客様へ気の毒です。いや全く風流過ぎますよ」と一遍で参ったらしい。    デン界の名物競べ       播磨の毛剃と新呂の吃又  義太夫華やかなりし明治の中頃、綾瀬についで大看板の播磨太夫、赭ら顔の堂々たる体格、本場仕込みの芸ではないが生来の美音で声量たっぷり、わざと禁物の天ぷらを存分に食って高座へ上ったという。「十種香」や「御殿」で鳴らした外に、十八番は「毛剃」の柳町か元船、確かに明治デン界の名物。  団十郎と違った味で「毛剃」の九州弁はこの人独得の至芸、訛り工合から音声の扱い、太い調子、全く堂に入って聴衆を魅了した。それだけに自信も強い。あるとき烏森の寄席玉の井でこの「毛剃」を語ったが、なにが気に入らぬか客の内からしきりに弥次る。堪りかねた播磨、見台を押し退けてその客を睨みながら「木戸銭を返すから出てくれ」と大喝し、また悠々と語り出したには、さすがの弥次も度胆を抜かれた。  この人亡き後、この浄瑠璃は再び聴くを得ない。  次に中堅どこで、腕利きの新呂太夫、後に祖太夫、前受けはしなかったが熱演で聴かせた。唯一の呼び物は「反魂香」の吃又《どもまた》、又平の吃りに特別念入りの引き|ども《、、》で一言一句五体をふるわして絞り出す必死の苦しみ、満面の汗は滝の如く拳を握り膝を叩き、果ては見台を押倒さんばかりの大車輪、息を引いて目を白黒する工合、餅が咽喉《のど》へつかえた形はあったが全く真剣で、この一段は当時の珍品。  本芸よりも交際上手で相当顔を売った花太夫、ふと茶番気を出して大胆にも声色入りの珍義太夫、新声館の人形に忠臣蔵五段目の口、千崎を団十郎、勘平を菊五郎の声色で語ったには驚いた。さすがに鎗が出て声色は封じられたが、寄席やお座敷ではおりおり用いた。愛嬌のつもりが全くのぶち壊し、その後三十間堀へ富貴亭という料理屋を開いて相当繁昌、おかげでこの難物も引退となってデン通連やれ嬉しや。    能楽趣味の権化       謡曲文学の大和田建樹氏  鉄道唱歌で有名な国文の大家大和田建樹氏、謡曲文学も第一人者で、能と謡にかけては実際素人離れ、観世先々代清孝の門下、小鼓は大倉六蔵、太鼓は石井一斎など当時の名人に仕込まれ、明治二十年頃には早くも舞台に立った素人能の先輩、能評も猿丸太夫の名を以て聞え、まず能楽趣味の権化みたい。  体重二十二、三貫、堂々たる体格の持主で、丸々と肥った恰好は五月人形の金太郎そのまま、能見物の折など窮屈そうに思われたが、御主人泰然として膝も崩さず、謡曲で鍛えた行儀のよさ、痩せ男の我々がたちまちしびれを切らして大苦しみ、そのうち、こちらも先生の趣味にかぶれて謡の一つも呻ってみたくなり、同志三、四人申し合わせて、先生に謡曲の教授を乞うた。  好きな道とて学校動めの忙しい中に一週二回、わざわざ知人宅まで出張。もちろん月謝など差し上げない。夕飯代りに鰻|どん《、、》一つとお銚子一本、ペロリと平げてすぐにお稽古。謡は有名の美声で、体格相当に幅もあり量もあり、初心の我々蚊の鳴くような声と対照すこぶる妙。先生それにはお構いなく、さっさと謡って今日はここまでだ、と打ち切る。呑み込めぬ箇所をお尋ねすると「質問はこの次この次」と、まるで学校の生徒扱い。  この能楽の権化に対して、たまには芝居も御覧なさい、とあるとき歌舞伎座へ誘った。気の向かぬ顔でともかくも同行、狂言は忘れたが先生桟敷の前側へ端然と構えたものの、いつしかうとうとと居睡り、お銚子の加減かと思うとむしろ退屈の加減らしい、あまり居睡りが続くので聞いてみると、先生「イヤ面白いのでしょうが、私にはうるさい感じで時々目をつぶっているのだ」、たぶん先生の眼はお能専門に出来ていたらしい。    黒川能の東京進出       噂に高い山形県の名物  話は遠いが山形県鶴岡町の在方、黒川村は一村|挙《こぞ》って能楽に堪能、古来、黒川能と称して由緒ある名物、シテ方から囃《はやし》方まで代々定まった家の芸で、装束でも面でも大したものだと、さる能通の噂に、内々あこがれていたその黒川能が、明治四十二、三年ごろ能楽会に招かれて上京、九段で初めてお目にかかってまたびっくり。  一行の旅宿は神田の錦輝館、さっそく出かけて見ると太夫いずれも筋骨|逞《たくま》しき農村むきだしの連中、元締は七十余りのちょん髷《まげ》の老人、名主の家柄とあって大した権力、装束調べの最中で、これが秀吉公から拝領の品と、紺地錦、雪形金糸縫いの狩衣や、白大口を出して見せる。大分やつれている。面なども紐付を持たずに無造作な扱い、鼻の先など剥げだらけ。昔は謡や能の修業にわざわざ京都へ行ったが、近年は村の先達が教えます。それで観世流だとあるから、すべてがおやおや。  いよいよ九段能楽堂の初日、舞台を見ると、シテ柱の前と笛座の横に黒塗りの燭台を置いて、五百目ばかりの大ぎな絵蝋燭《えろうそく》が二本、お開帳のように飾ってある。囃子方が橋掛りの真ン中を通って来る。鼓太鼓を片手でぬっと前へ突き出した恰好にまた驚く。翁、千歳があって、三番叟《さんばそう》が大変、舞台から飛び出しそうな勢いで、掛声もろとも凄まじく跳ね回る、全く見ものだ。後で聞くと、この三番叟のお礼は村から米二俵がお定まりとある。  次は高砂、シテは村内一流の名家、だが芸の方は一流どころか素人式、謡も型も観世らしいところは見えず、ただ、だらだらと運ぶ。シテ、ツレ共装束はよほど大切の品と見え、汗が垂れると演技中をも構わず、例の元締の髷の老人、大きなタオルを持ち出し、悠々と前へ回って装束を拭うなど東京では見られぬ図。これを土産に後は御免を蒙って引き下ったが、全く噂以上の珍品。    女芝居は明治の産物       劇通を驚かした女団洲のこと  女優でない女役者、これは明治の産物で、お狂言師から出た岩井粂八、依田学海翁が天下絶妙と激称した名人、つづいて三崎座の一派など、一時は相当人気を集めて劇界を賑わした。ことに粂八は割引なしに芸もよし面もよし、女形は本役だが、立役、老役、若衆、半道なんでもこいの確かな腕前、九代目写しの「勧進帳」まで劇通を驚かした女団洲。  佐竹の浄瑠璃座から中芝居の本所寿座へ乗り出し、鶴枝、米花などという腕利きの一座を率いて多年の活躍。「道成寺」など所作事は天下一品、音声は少々上調子で感心せぬが、技芸抜群とあって団十郎の門下に列し市川九女八と改名、一時は大した勢い、女芝居も馬鹿にはできぬと見巧者も舌を巻いた。その後一座の米花はじめ腕利きに離れて、さすがの粂八も一人芝居の淋しさ、力枝《りきえ》、錦糸、新升などの若手でなおかつ相応に働いた。  女芝居専門の神田の三崎座が二十五、六年頃にできて、粂八は門下の笑燕(後に鯉昇)、桂二、桂升、多見吉等と共に出勤、山の手、下町の中流階級を呼んで大入り続き、後には赤坂の演伎座、中洲の真砂座などを打って回り、無人ながら粂八めあての好劇家に慕われていた。事実、当時の粂八ファンは男女ともに夢中の渇仰。だが晩年振わず、守住月華と生花の師匠みたいな名に改め、新派や文士劇にくさっていたのは勿体なし。  粂八去った後の三崎座は、笑燕、錦糸が大看板、新升、力枝、紀久八その他の若手で奮闘、あるとき錦糸の亭主が挨拶に来ているとも知らず、皮肉屋の伊東橋塘「女役者は縁日の金魚さ、集まったところは綺麗だが、一|疋《びき》ずつ選りだすと、鼻が曲っていたり、目玉が飛び出していたり、取るとこはないよ」に亭主苦い顔、しかし荒っぽい男役に扮して勇敢に活躍した女役者は、この一座を最後として、今はその面影も夢まぼろし。     (後節「明治女芝居と娘義太夫」参照)    硯海太夫と鶴彦翁       義太夫と一中節の掛合  政客中の粋人大岡硯海(育造)先生、若いころ演説の練習に熱中、その声ならしに習ったという義太夫が、後には得意の隠し芸、手ほどきの師匠は判らぬが、明治二十五、六年頃には三味線の古老野沢語助翁について、演説以上に熱心のお稽古。  語助は明治初年の義太夫界の大御所竹本政太夫の三味線で鳴らした人、当時京橋西紺屋町に住んで玄人《くろうと》専門の稽古、色の白い上品な白髪の老師匠、稽古は相当やかましく、お弟子は大抵へとへとになって引き下る。もちろん素人《しろうと》は断わったが、大岡先生は特別です、と折々の出稽古。銀座にあった講談席銀座亭の定連で、講釈を聴くのが唯一の楽しみ、その語助が硯海太夫の義太夫はそうとう推称していた。  一方、大倉鶴彦男の一中節は当時有名の持芸、だが我々の耳には縁が遠い。然るに三十三年の春、どうした風の吹回しか、大岡さんの主催で鶴彦翁の一中を聴かせるとの御案内、場所は芝の紅葉館、聴き手はほんの内輪で、我々の先輩五、六人、ほかに同館の女中が総出でずらり、大広間の正面へ緋の毛氈《もうせん》に左右へ燭台。まず皮切りが大岡さんの義太夫、これこそ本当に待ってました、と一同|固唾《かたず》を呑む。  語り物はお得意の「陣屋」かと思うと、女義でお馴染の加賀見山の「長局」、女中連への御馳走らしかったが、さすがに叩き込んだ名調子、語助の|いと《、、》と相まってしんみり聴かせ、女連は総泣き。つぎに一中と掛合で雪の常磐「関所の段」、大倉さんの常磐に三味線は有名のおひろ(都一広)、宗清は硯海太夫に語助、これで初めて多年の渇望を満たしたわけだが、大倉さんが両手を膝に首を振り振り、あの童顔を一層たわいなく嬉しそうに崩す工合、お年に似合わぬ艶々しい声柄。巧拙のわからぬ我々まで感涙という奴がほろほろ。    女芝居と娘義太夫       明治時代の特産物  明治の芸界をめぐる女性群と申せば、女役者と娘義太夫とのこの二つをまず時代の特産物として挙げることになり、今日では過去の芸術となって僅かにその名残りを芸界の一隅に止むるのみですが、明治中期における彼らの華やかな人気と、男子も及ぼぬ努力とは、全く特筆に値する。その技芸から見ても、多寡《たか》が女と侮ると大違い、実際割引なしに感心させられる技芸の持主も多かった。そこでこれらのお話となると、なにぶん纏まった記録はなし、僅か三、四十年の昔が夢のように薄ぼんやり、思い出すのがひと苦労である。ことに男子禁制の女護の島、風の便りに似たような追憶談に過ぎませんが、まず女役者について申し上げる。      粂八の旗揚げ  女が女に扮するのが今の女優、然るに、女だてら勇敢にもあらゆる男役に扮して舞台に活躍した女役者の存在は、全く明治時代に限られた劇界の珍品でしょう。徳川の末期に一たび禁制となり、その後は踊りの師匠とかお狂言師とかに転向していたが、明治の初年、岩井|粂八《くめはら》という名優が現われて女役者の復活、即ち女芝居の再興を見るに至った。のみならず明治の女芝居は全く粂八の一代記みたいなもので終始したわけです。  同優は旧幕の末、踊の師匠坂東美津代の門に入り桂八と名乗ったが、容姿《きりよう》はよし、踊にかけては天才で、十五、六歳の折すでにお狂言師の頭となり、諸侯の奥向へ出入りしておった。後に岩井半四郎の弟子となって岩井粂八と名乗り、初めて女役者の一座を組織し、両国の小屋掛芝居へ打って出たのが明治六年、それから追い追い市内の小劇場へ乗り出し、四谷の桐座、森元の開盛座、佐竹の浄瑠璃座などを回っていたが、十五、六年頃本所緑町へ寿座ができて、前に挙げた小芝居とは格の違った立派な劇場、そこへ明治十七年の七月、粂八は、鶴枝、米花、寿羨八等の一門を率いて乗り込んだ。まずこれが本当の旗揚げ、私もこの時初めて粂八の舞台を見て、これが女かと驚いた。      団洲張りの勧進帳  粂八の団十郎写しはすでにこの時から始まっていた。狂言は一番目「苅萱」、中幕が「勧進帳」で、二番目は「お玉ケ池の由来」とかいう世話物、これは一向頭に残っていないが苅萱も弁慶ももちろん団十郎で、顔の拵えから受け唇の工合、前のめり《、、、》の恰好から足取り、よくも似せたものだ、と大抵は煙に捲かれた形。しかし本来が確かな伎倆が底に光っていての業ですから、見巧者《みごうしや》という人々からも賞讃され、一座の鶴枝、米花等もみな相当の達者揃い、その時の富樫は鶴枝で、これがまた左団次張り、この勧進帳で粂八は大いに売り出したものです。  その後同座にしばらく居付いて、評判はますます高まってきた。最初は女芝居などと相手にしなかった劇評家さえ追い追い進んで観覧するという有様、依田学海、福地桜痴、幸堂得知の諸先生は特に肩を入れて粂八党の旗頭となり、なかんずく学海翁は得意の詩を作って、絶世の技天下比なしとまで持ち上げ、しまいに団十郎に説きて斡旋の結果、二十二年粂八は団十郎の門人となり、市川|升之丞《ますのじよう》と改名し、ひきつづき寿座を根城としてその他の小劇場をも回っていたが、追い追いその特長を発揮して、「道成寺」「山姥」などの所作事に好劇家を呻らせた。ことに「道成寺」は天下一品とあってすばらしい評判。      達者揃いの大一座  然るに団門では小劇場の出勤を認めないし、例の「勧進帳」を無断で演じた廉《かど》をもって事面倒になり、ぜひなく退いて元の岩井粂八に返り、その頃できた吾妻座や三崎座へ出勤していたが、二十七年再び許されて団門に復し、市川九女八と改めました。話が少し前へ戻って明治二十三年、粂八は寿座の興行を続けていたが、名古屋から同地で評判の女役者篠塚力枝、西川京之助、坂東力代等の一座が上京したので、粂八は自分の直弟子桂二、粂寿、粂七その他を引き連れ、力枝と共に吾妻座へ出勤し、寿座は従来の鶴枝、米花、寿美八、錦糸などの顔で引き続き興行し、女芝居はふた手に別れて、双方劣らず人気があった。この力枝はなかなかしっかりした芸風で、「寺子屋」の松王などすこぶる好評、顔立ちといい音声といい全く男で、ある人はこれを変成《へんじよう》女子だといったくらい。粂八の相手としては、この人などまず申し分のないところでしょう。京之助や力枝は綺麗首で女役ばかり、この連中は三、四回の興行で名古屋へ引き揚げ、粂八はまた元の寿座へ逆戻り。  ここでちょっと粂八以外の立者を並べてみると、旗揚げ以来のワキ役たる坂東鶴枝は、花はないが実のある芸風、粂八の団十郎に対して左団次を張っていたがあまり人気はなかった。岩井米花は顔立ちもよく、これも左団次を時々用いたが、地芸もあるのでなかなかの評判もの。寿美八も立役として好い腕を持っていた。松本錦糸はその頃の新進でじみな芸風、三好屋(団蔵)写し。まずこんな工合で、団十郎あり、左団次あり、団蔵あり、下回りも達者揃いの大一座で、女の新富座といわれたのもこの時代である。      女天下の三崎座  寿座はその後男優と入れ替り、九蔵、団升、鬼丸などという顔触れ。粂八はまた吾妻座その他を回ることになったのが二十四、五年頃の話。このとき芳町の芸者米八が千歳米坡《ちとせべいは》と名乗って伊井蓉峰と共に吾妻座で新派の旗揚げ、新しい女優の魁《さきかけ》ともいうべきもの。ところが大きに不評判で客はガラガラ。この米坡が右の粂八の吾妻座興行にも加わって、粂八の盛遠の相手に袈裟御前などはずいぶん思い切った芝居を見せたものですが評判は悪くなかった。これも一時のお慰み。  そのうち二十六年に神田の三崎座ができて女芝居専門の興行、粂八は寿座以来の一座を総動員で出勤し、再び花を咲かせることになったが、やがて鶴枝も米花も去って、錦糸、笑燕、桂升、桂二、多見吉などいう面々、さなきだに粂八ひとり図抜けていたのが、追い追い多年の道連れに別れて一座はがた落ち、さすがの粂八もよい芝居は打てなかったが、それでも一般の人気は落ちず、いつも大入りを続けていた。その頃の場代は、桟敷一間一円八十銭、平土間が一円二、三十銭、木戸はタッタ五銭か六銭、それで寿座時代には客種はよかったが、下町方面に限られていたのが、三崎座は場所がよい、神田の真中で山の手の客も呼べる。その上ほんとうの座付となって馴染の見連も殖え、しばらくは女天下すこぶる泰平であった。      掉尾の全盛  然るに、とかく|いざこざ《、、、、》の多い芝居道、女世帯はまた男と違って嫉妬や僻《ひが》みの角突合いで小うるさい楽屋内、さすがの粂八もとうとう我慢ができず、また一門を伴って同座を去り、あとは笑燕と錦糸がどっちも座頭のように頑張って、桂二、千升、力代などのほかに綺麗首の沢村紀久八が加わり、相変らずの繁昌。  この笑燕はもともと岡本宮染といって、踊を売り物に寄席へ出て、妹の宮子とともに一時若い客に騒がれた女、これがまた団十郎式の顔立ちでいやに達者、後に市川権十郎の門に入り市川鯉昇と改名した。そのとき川崎屋が桟敷へ見物に来て、「どうも弟子の舞台を知らんでは済みませんから、ちょっと見に来ました」と膝も崩さず控えていたが、先生も辛い。錦糸は市川団升の門下で久しく粂八に揉まれただけに芸は確か、時代、世話共に行けるが、この人の縮屋新助は特に傑作で当時の劇評家も総感服、滅相な出来なりとか、芝居事とは思われずとか、大層に褒めちぎったものだ。丸顔で鼻ッピイでいっこう踏めないが、熊谷でも光秀でも立派にこなすこの座の大黒柱。  つぎに紀久八だが、これはそっぽ(容貌)で客を魅する方、粂八以来の器量よし。雪責の浦里や居守酒の夕秀など大向はわいわい、この座組で六、七年の間は女芝居掉尾の全盛を続けた。      晩年の粂八  一方粂八は、三崎座と別れてから赤坂の演伎座や中洲の真砂座を回っていたが、追い追い取る年ではあり、座組も淋しく、往年の人気も下火となり、ことに時代の波は民衆娯楽の方面にも容赦なく押し寄せて、新派の勃興や活動写真に蹴られ、さしもの粂八も往生して一座を解散、その名も守住月華と改めて、川上の新派へ加わったり、文士劇へ出たり、淋しい晩年を送っていた。同時に三崎座も四十年頃から下り坂となって、いつしか田舎回りの新派劇などと入れ替り、ついに劇界の一名物たる女歌舞伎も明治の末年で華やかな幕を閉じた。  しかし幕末から明治一代、女芝居の歴史そのものであった市川粂八の名は永遠に消えない。しかも技芸抜群、「道成寺」「山姥」を始め、八重垣姫、政岡、八重桐、朝顔なぞは男女ひっくるめての極め付き、「勧進帳」の弁慶で堂々と脅やかすかと思うと、「油屋」の善六で腹を抱えさせる。そのうえ弁天小僧で菊五郎、大川友右衛門で左団次、いわば団菊左を一身で使い分けるなど、全く古今にただ一人。これをふんだんに観ておいた私などは、いい時に生れたものだ。ところが本人に逢ってみると小柄な品のよい中婆さん。もっとも二十七、八年の頃だが、鼠小紋の紋付に白襟、黒繻子の丸帯かなにかで言葉付きもやさしく、これが弁慶や文覚で呻《うな》らす人かと、つくづく技芸の力に驚かされた。  その辺で、つぎは女義太夫。      初期の女義太夫  タレ義太とか娘義太夫とかいえば安く聞えるが、正式にいえば女義太夫、これがまた明治の中頃には今から想像も及ばぬ全盛。若手の仇っぽいのが花簪《はなかんざし》に肩衣姿、客席を横目でにっこり、これを当て込みに義太夫そっちのけで押し掛ける連中が毎夜の大入り。しかしこれにも女役者同様、男まさりの上手も現われて、真の聴客《ききて》を喜ばせたことは申すまでもない。元来、女義太夫は文化文政頃にも相当人気のあったものだが、一時衰えて明治の初年、本場仕込みの竹本東玉や、名古屋の竹本京枝が上京して復興した、即ち女義界の二元老である。その後いまも壮健である竹本綾之助が肩揚げの天才少女、かわいらしい男髷で打って出たのがそもそも人気の起った始め。その功績は女義中でまず第一といってもよいくらい。年こそ違うが、前の二元老と共に初期の三幅対となっている。  ところで、明治十五、六年から二十三、四年頃の女義界は、東玉、京枝を大将として、三福(後の素行)、清花、小政、小住、小伝、花友などに綾之助、これが第一期。つづいて、小土佐、小清《こせい》、錦、越子《えつこ》、住之助、鶴蝶、熊梅などに三福、綾之助を持ち越して、これが第二期の花形。その後は大小の真打ぞろぞろ輩出。誰がなにやら、ただもう賑やかに人気の渦を巻いていた。      肩衣が後日の問題  その初期時代、東玉、京枝はすでに若手に語らせて、自分たちはイト専門、東玉は小作りのお婆さん、京枝は少々むずかしい顔つき。この人たちが語っていた時代までは肩衣というものを着けなかったが、どうも見た目が淋しいというので、男太夫のように肩衣を用い出したのは、そもそもこの京枝が始まり、ともいうし、三福、清花の両人が皮切りともいう、ともかくそれは明治十三年頃で、爾来、黒繻子や紫の華美な肩衣を着けて、一段と風情を添えることになった。  ところが、このことは義太夫界の問題となって男の方から槍が出た。それは二十二、三年頃のことで、当時の古老竹本政太夫は東都総取締の資格で「諭告」というものを発表し、一般の義太夫が古格を失い大阪の人気者流の風を学び、見台に向って伸び上ったり踊ったり、声を弄《もてあそ》び節を崩してまで人気に投ずるは以ての外ときめつけた上、ちかごろ女義太夫のくせに肩衣を着して高座に上るは女にあるまじき醜態と、手厳しく戒めたが一方も商売、はい左様ですかとは決していわず、せっかくの「諭告」も水の泡で、そのまま着通し今もって脱がない。      花形連の評判  そこで当時の花形の評判だが、もちろん贔屓《ひいき》贔屓で寸法が違うから、うっかりした口は利けないが、二元老は別としてざっといえば、小政は東玉の秘蔵弟子でしんみりとした語り口、「吉田屋」が最も聴き物で女義中の一等品、調子は低い方。三福は声よりも節で渋い芸風、「寺子屋」や「野崎」で鳴らした。綾之助丈はどなたも御承知、無類の美音で幅もあり、万人向きのお誂え、およそ女義の売物なら「御殿」「酒屋」「十種香」「太十」などことごとくこの人の薬籠中のもので、そのほか綾瀬仕込みの渋いところも相当に聴かせたのは、なんといっても人気の王座を占めただけの価値はあった。小住は声もあり、節も大阪の本場仕込みで確かなもの、なかなかの人気で後年牛込神楽坂の寄席笑楽亭を買い取り、|わら店亭《、、たなてい》と改めて斯界に幅を利かせた。小土佐は名古屋出の美人で二十年上京、翌年神田の小川亭で初看板を上げ、たちまち人気の中心となった。住之助は小住の門下で住八といった若手の随一。越子は小肥りの丸顔で、一時は綾之助の向うを張ったが及ばなかった。錦はお相撲といわれたほど肥大の体格、確かに貫目はあったが、声も太いばかりで艶がない。熊梅もこれに似た肥っちょで愛嬌のある女、当時人気力士の横綱小錦八十吉と浮名を立てて、岡焼連を騒がせたものだ。  以上の面々は三絃の方も達者で、たいていは弾き語り。      小住等の正義派  綾之助についでの人気者であった竹本小土佐は、前にもいう如く名古屋の生れ、同市の女義杣吉、照吉などについて七、八歳の頃から義太夫の稽古、十一歳で照吉の一座に加わり、早くも高座に上って好評を博し、土佐太夫に知られてその門下となり、小土佐と名乗った。その後、大阪神戸等を回り、二十年二月土佐太夫と共に上京し、麹町の万長で初お目見得、師匠の前を語ってすこぶる好評、翌年たちまち真打となって小川亭の初看板、以来めきめき売り出したが、美人の上に愛嬌があり、高座で簾《みす》が上るとまず客席を見渡してにっと笑顔、大抵それで悩殺される。  当時小住はひと足先に大看板、門下の住八を住之助と改め、十三歳で真打に押し立て、師弟もろとも人気を呼んで一方のぱりぱり、そのころ女義太夫はすべて睦派と称する寄席の一派に属し、「五厘」という世話人があって、席の割振りをやっていた。随ってこの「五厘」はなかなか勢力があって、付け届けでも悪かったり機嫌を損じたりすると、人気があっても芸がよくても好い席へ回さない、というようなわけで出方は泣かされた。  利かぬ気の小住はこの「五厘」の不公平を憤慨して、ついに二十五、六年頃、小土佐をはじめ、清玉、鹿の子、鶴蝶等と共に断然反旗を翻し、正義派というのを起して睦派に対抗した。女義始まって以来の問題で、かなり斯界を騒がせたが。なにしろ一流の寄席は睦派に占められていたので、正義派は二流三流の席へしか出られぬことになったが、もちろん覚悟の上と頑張って贔屓連の同情を力に、この対抗は相当長く続いた。      小清と呂昇  その後の大看板といえばまず竹本|小清《こせい》、艶や愛嬌で人気を集める連中と違い、女義といっても男まさりの芸一方、鶴沢清六の娘で父の仕込みに十分鍛え上げた腕前は、当時デン通を驚かした。容貌も男のよう、薄いモがあって色の浅黒いきりっとした顔立ち、平生の話し声までが蔭で聞いていると太い声で、まるで男。語り口には幅もあり貫目もあって、これまた女とは思われず、聴衆も真の義太夫好きの人たち。満場水を打ったように静粛に聞き入って、他の女義席とは全然異なった空気である。この人も弾き語り、得意は「陣量」「岡崎」「寺子屋」など、ことに「鰻谷」はこの人の極め付で呼び物の一つ、前後を通じて女義界の名人であろう。  降って三十五、六年以後の花形というと、組太夫の弟子の組春、朝太夫門下の朝重、そのほか愛之助、新吉、 一二三、八重子、京子、京駒、昇之助、昇菊などの面々で、これが明治の末年まで続いたが、追い追い下火となり、往年の人気は今やこうした夢物語。その間には大阪の長広や東猿が来たり、近くはおなじみの呂昇一座が時々上京して有楽座へ掛る。呂昇は例の美音と、素直で判りのよい語り口が東京ッ子にも大受けでいつも満員の盛況。その呂昇もすでに過去の人となって、東西共に女義界は大切《おおぎり》の簾が下りた。      定席と堂摺連  最後に当時の女義太夫の定席を挙げると、第一が茅場町の宮松、ここで看板を上げれば一流の真打という相場がきまる。つづいて神田の小川亭、鍋町の鶴仙、花川戸の東橋亭、両国の新柳亭、芝の琴平亭など一流の席で賑わったものだ。瀬戸物町の伊勢本、本郷の若竹なども一流組だが、時々色物と交代する。下谷の吹ぬき、牛込のわら店、和泉橋の和泉亭、麻布の福槌などは黒っぽい客が多かった。そのほか場末まで加えると二十何軒は女義太夫で占めていた。これが大抵は毎夜の客止め、お気の毒さま明晩お早く、と木戸で断られて、遅出の客はすごすご、山の手は書生さんの縄張りで例の堂摺連《どうするれん》という名物の発生したのが二十三、四年頃のこと、これがまた大いに景気を煽った。  いちはやく高座前へ陣取って目あての女義を待ち構え、急所急所でどうするの連発、そのうえ人間の手の掌とは思われぬカンカン響く手拍子でサワリも何もめちゃめちゃ、簾が下りるとドヤドヤ退席してその女義の腕車《くるま》の後押し、掛持の席へ付いて回って忠義を尽すが一向有難がられぬ代物、なにしろ客席の賑いは大したもので、満員を通り越し、歩《あゆみ》板の上から階子段の下まで押し合いへし合い、命からがら聴いて帰るような始末。ほかに娯楽趣味の乏しかった頃とはいえ、随分女義党は多かった。随ってその頃の新聞に出た「今晩の語物」は女義党の虎の巻、毎朝待ち兼ねて目を皿のようにしたものです。 (昭和八年五月)    名人印象記       明治芸界の追憶  明治芸界の三名人について、それぞれ直接の印象と、二、三、見聞の芸談とを記すことにする。  明治の芸界には幾多の名人上手がそろっていて、能界には宝生九郎、梅若実、桜間伴馬、梨園には団十郎、菊五郎、左団次、団蔵、そのほかの各方面とも、それぞれ名人級の人々に乏しくなかった。その中で折紙付きの名人といわれたのは、宝生九郎、九代目団十郎及び三遊亭円朝の三人であった。私は偶然それらの人々に接する機会を得て、当時会見した印象が残っている。それによって多少ともその人のおもかげを伝えたいと思うのである。      唐桟ずくめの九郎翁  格式といい技能といい当時芸界最高の地位にあった宝生流宗家九郎翁は、全く名人の風格を備 えた人であった。それだけ芸道にかけては厳格な態度を守っていて、翁の演能に対しては何人も えりを正して見物した。  翁は晩年深川平野町へ新築移転したが、その前ひさしく木場の吉永町に住んでいた。材木堀に 沿うたあまり広くもない家であったが、立派な煉瓦の蔵がついていた。家重代の品物が納まって いたのであろう。私は芸談を聴く目的で翁を訪うた。そのころ私は同じ木場におったので、早朝 訪問すると、すでに翁の朗々たる謡声が門外にまで響いていた。内弟子のけいこである。玄関の 三畳に待っていると、やがて謡がやんで提煙草盆と長煙管を手にした翁が現われる。なにぶん狭 いので失礼ですが、とそのままそこへ坐る。  背の高い痩形の老人、藍縞《あいじま》の唐桟《とうざん》の上着に同じ羽織、黒の前掛をした姿は舞台で見る黒紋と違 って、私はちょっと意外に思った。が、翁は平素こういう身装《みなり》が好きらしい。やはり江戸ッ子の 一人である。しかも、きちんと端座して、長い話の間少しも膝を崩さないところに翁の本色が現 われていた。その芸談はじゅんじゅんとして尽きない。いずれも斯道の訓言であったが、私は今 ここに芸談を紹介する余裕がない。 「謡曲がいかに流行しても、それで能楽の隆盛ということは申されません。謡を習って、能を御 覧になるのは、ただ謡の参考というに止まって真に能を味わう人は誠に少ない。能の位とか心持 H6 とか型とかいうものを一々見分けるにはやはり観方の御修業が要るのですが、お謡のけいこぐら いでは、まずそこまで観て下さるわけには参りません」といった調子で、少しも歯に衣着せず素 人をこき下す。  翁はずっと以前から素人のけいこを断って、主筋たる徳川家と、かつて世話を受けた安田家一 門のほかは一切けいこに応じないくらいである。そんな暇があれば玄人の教育にもっと努力せね ばならぬ、という主張にもよるのであった。随って玄人の門弟たちにはずいぶん厳しく指導して 少しも仮借しない。 「慢《たか》ぶっている訳ではありませんが、私はいい加減なことの出来ない性分で、たとえお素人のけ いこでも間違いを本当に正すとすると容易なことでない、といってそれだけの厳《やか》ましいおけいこ はお素人の方で好みませんから」と本当のことをいう。当時宝生流は、古参の松本金太郎氏はい たが、若手の野口政吉、金太郎氏の息|長《ながし》両氏がすでに名声さくさく、しかも九郎翁はなお流儀 の不安を語るので、私が「先生は名人として左右に立派な両門弟を控えておられるから御安心で はありませんか」というと、翁は苦い顔をして「今日ではややもすると何々の名人などと申され ますが、能ばかりはなかなか名人などある訳でない、昔の上手にも及ばぬでしょう。あの二人な ども修業はこれからですよ」と甚だ不機嫌。  翁の談は主として、能の真味、足の運び、地謡の苦心、謡の要素等にわたって有益な教訓であ ったが、謡の修業時代には毎朝舞台から橋がかりへ回って百ぺんずっ足の運びをけいこした。毎 日となると百ぺんはずいぶん難儀でしたとの述懐。  またいわく、「能はなるたけ動かずにその心持を十分現わすという行き方ですから、その精神 を味わわねばなりません。下手が動いたとて決して面白いものではない。早い話が団蔵の芝居な どは、動かないでいて云うにいわれぬ妙味がありますからね。団十郎もその通り。私は菊五郎と は至って懇意にしておりますが、技芸上の苦心は同じことです」と、さすがに腹芸の家元だけあ って一脈相通ずる。  翁の謡は実に朗々として、音声の立派さと息の強いしっかりしたところは、あのやせた人に不 似合いである。もちろん名人のことであるから当然の話だが、翁に聞いてみると、「私はやせて 腹が薄いですから、謡はかなり骨が折れます。ですから舞台に立つ時には、いつも小さい蒲団の ようなものを腹へ当てて帯を締めます」と。名人にもそれだけの用意のあったことはちょっと素 人の知らぬ話、その素人を相手にして二時間近くの芸談を聴かせてもらって同家を辞した。内弟 子のけいこを中止して快く迎えられた翁の親切を私は深く感じた。  七十七歳の時、日本橋クラブに翁の喜寿祝賀会が盛大に催された。松本、野口両氏の番ばやし があって、矢の倉福井楼での宴会。二百七十名の来会者が大広間に居並んだその正面に、黒紋付 の羽織袴に端然と構えた翁の姿、さながら能面の如く気品ある容貌、今なお眼前に彷彿《ほうふつ》する。      茅ケ崎別荘の団十郎  仁木が得意の市川円蔵、ひさびさにてその仁木を演ず。相手の男之助が団十郎であった。床下、 花道のスッポンからせり上って小柄《こづか》を投げる、男之助みごとに受ける、団蔵その息の巧さに心か ら感服して、「やっぱり成田屋は役者が違う」と。世話狂言の名人菊五郎いわく、「成田屋の世話 物の調子がほんとうの世話調子というのでしょう。あの真似は出来ません」と。名人、名人を知 る。団十郎の真価はこれらの寸話にも現われている。  むしろ小柄の方で舞台は大きい。いかな大柄の俳優も、団十郎の前へ出ては小さく見える。技 芸の力と貫禄の重みである。音声は独特の名調子、晩年少しも衰えない。調子を張って騒がしか らず、低めても隅まで透った。全く修練の力である。そのほか技芸上の話は世間様が御承知。  私がこの名人を茅ケ崎の別荘へ訪問したのは明治三十五年(四年?)の夏、停車場から畑道を 腕車《くるま》に揺られて約三十町。この方は裏門である。表口は海岸から十四、五町もあるとのこと、小 高い|おか《、、》の上で、建物は母家と離れの|かやぶき《、、、、》が二棟、すべて成田屋好みの大道具。団十郎の居 室はその離れの方にあって、その時は二人娘の実子、扶伎子と、有名な女番頭の猿蔵婆さん、ほ かに弟子の升蔵などを連れて来ていた。  回り縁の八畳の座敷へ通る。庭先には高さ二尺もある真鍮の金網をかけ、秋草を植え込んだ立 派な虫籠が五つも並べてあった。ほどなく主人公の団十郎はじみな縞縮《しまちぢみ》の単衣《ひとえ》に鼠ちりめんの 兵児帯《へこおび》という扮装で現われる。舞台とはかけ離れて白髪まじりの少し残った禿頭、眼は評判だけに いささか大きい、受唇で頬のこけたところ、品格はあるが日本一の名優かとはお釈迦様でも気が つくまい。  私が釣のお話を伺いに出ましたというと、当時同優は持病の喘息の烈しい時で、挨拶よりも咳《せ》 きいる方が先で、気の毒なほど苦しそうであった。それでもちょっと微笑して「イヤ遠方までわ ざわざ恐れいったことで、しかしお話するほどのこともありませんが、まあ御|緩《ゆつく》り……」という 中にもひどく咳きいる。猿蔵のお婆さんが気をもんで介抱する。 「この通り持病でお話も致しかねるくらい、染五郎(今の幸四郎)がおればいろいろ知っていま すが、生憎来ておりません。しかし升蔵が来ておりますから、あれに何でもお尋ね下さい」と升 蔵を呼び、「私はちょっとこれで失礼します、またお帰りに」と挨拶して次の六畳へ立って行く。 咳が烈しく聞える。  升蔵は当時名題下の利け者、踊にかけては立者も及ばぬ腕前であった。私は同人の案内でまず 母家の拝見。二十畳ほどの広間は目の荒い別あつらえの畳、ちょうな目の厚板の縁側、なるほど 団十郎好みだ。築山の松の根元には村中総出で運んだ巨大な捨石、縁先には鹿の姿を彫った高さ 四、五尺の御影の手水鉢など、見るものごとに驚かされた。広い台所の天井には、例の鰹竿が十 二、三本架けてあった。裏手の網倉には投網が三張も納まっている。西側の庭には温室もあり、 その前の植木棚には盆栽が五、六十鉢、中に三百円も投じた「えびの巣」という名石や、二百円 もする赤松の盆栽が、潮風に乾《ひ》からびてる。  表門には請願巡査が二家族、二棟に住み、裏門にも植木屋と漁師の二家族が門番かたがた控え ていた。これだけでも総勢十五人。  東京では釣師仲間から白鷺と異名を取った白ずくめの身支度、茅ケ崎でもやはり白キャラコの 上着を被って、持舟で件《くだん》の漁師が伴をする。帰りには疲れて海岸から漁師に負さって引き揚げる。 白地へ鰹の血が胸から腰の辺に点々と物凄い。知らぬ人は海で怪我をして歩けぬから負われて行 くのだ、と大騒ぎをしたこともある。ともかくも釣は彼の特別の趣味であった。  格別面白いお話もなかったでしょう、という団十郎の挨拶を受けて別荘を辞したのは夕刻であ った。私は、はからずもこの古今の名人に逢って、深い印象を残し得たのを生涯の悦びとする。  終りにこれもあまり人に知られていない話。明治二十五年頃のこと、団十郎は歌舞伎十八番を 自分の似顔の人形として家に遺《のこ》すつもりで、その製作を当時活人形の名人であった初代安本亀八 に頼んだ。いずれも木彫の精巧な作品、私はその二、三を亀八老の宅で見たが、高さ七、八寸の 人形で、実に立派な芸術品であった。「暫」は桜の木地彫、「助六」は胴が|つげ《、、》、頭は象牙で扮装 どおりの彩色、「矢ノ根」は同じく|つげ《、、》着色、「不動」は|びゃくだん《、、、、、、》の木地、ところがその額の白 毫《びやくごう》が問題なのである。  それにはダイヤモンドを用いてとの註文で亀八は銀座の服部へ行ってみると、適当の大きさの 品はあったが価格が大枚六百円、驚いてそのまま引き返し、団十郎に報告した。当人いっこう平 気で無造作に、よかろうそれにしておけと値段のことなど眼中にないので亀八老二度びっくり、 さすがは日本一、えらいものだとつくづく感心した。これは亀八老が私への直話で、団十郎の大 腹中を知るべきである。しかしこの亀八の傑作も例の震災でどうなったか、その後の消息を知ら ない。      最後に聴いた円朝会  空前絶後といわれた話術の名人三遊亭円朝の高座は、話中の人物がことごとくその舌端に活躍して、一々その人を見るが如く息をつけぬ面白さ、私どもは団菊の芝居以上に、彼の人情|ばなし《、、、》に魅せられた。団菊がいかに名人でも、一人では芝居は出来ない。円朝はいかなる端役でも自分で演ずる、全部がその至芸の現われである。扇子一本の素|ばなし《、、、》とは思われない妙味がそこにある。  由緒ある武士の果てから好んで落語家になった橘家円太郎の長男、七歳の時小円太と名乗って江戸橋の寄席を初高座、小児の落語家で評判を取った天才肌である。十七歳で円朝と改名し、二十一で早くも真打、以来明治の中期まで五十年の高座生活、その間おなじみの「牡丹灯籠」を始め、「粟田口」「累《かさね》ケ淵」「榛名の梅ケ香」「池ケ鏡」「名人長次」「塩原多助」と数々の新作を発表して満都の好評を博したのは、全く他の企て及ばざるところ。話術の妙、独創の才、古人の糟粕を嘗めないで苦心惨澹、ついに一代の名人となった。  円朝在世の頃といっても晩年時代、門下には老巧の四代目円生、二代目円橘、売りだしの円喬、円右、円遊あり、一方の柳《やなぎ》派には大将の談洲楼燕枝、副将の柳枝、柳橋、小さん(禽語楼)、音曲の古今亭今輔、一時円朝の塁をますといわれた桂文楽など、巨匠輩出して落語界の全盛期、いずくの席も大入り大繁昌で、正月などは楽屋まで取り払うくらいの景気であった。  三遊亭円朝の一枚看板が木戸口から消えて定連を失望させたのは明治二十五、六年の頃で、五十四、五歳を限りに高座を退がった円朝。その後は恩顧の貴顕紳士に招かれ、いわゆるお座敷のみへ出ていたが、多年苦労した報いでとかく病気がちとなり、本人も気を腐らせて、門人むらく橘之助夫婦の勧むるまま日蓮宗に凝り固まって朝夕お題目ばかり、他の門弟やひいきの人々が心配していろいろ諫めたが、一向ききいれなかった。  前にも云ったとおり円朝のはなしには出る人物がことごとく活きていて、少しの無理がなく、自然で現実で文字どおり真に迫る。それもそのはず、塩原多助の上州言葉などはわざわざ沼田在へ行って、事跡と共に上州なまりを十分に研究した。そのほか知人のうちからモデルを探しだして言語動作を話中の人物に応用するなど、全く苦心の結果だ。  若い頃には鳴物いりの芝居ばなしが売りもので、当人は黒羽二重の小袖に緋縮緬《ひぢりめん》の襦袢、大たぶさに薄化粧という風俗、丸一の親方そっくりなので、「太神楽」と声がかり、随分|あく《、、》が強かったらしい。晩年の円朝にはそんな気障《きざ》は微塵もなく、半白の頭髪を品よく分けて、色の浅黒い粋《いき》な老人であった。  高座を退いて二年余り、なんとかしていま一度円朝を聴きたいと、明治二十八年の秋ごろ、条野採菊、大沢緑蔭、大根河岸の三周など昵懇《じつこん》の人々が発起で円朝を説きつけ、浜町の日本橋クラブに円朝会というのを催した。客は華族さんや上流家庭の人々約百名、ゆったりした上品な会でみな大喜び。  出演者は前席として門下の真打円遊、円右、円喬のほか講談の伯知が加わり、その後では円朝が二席という寸法。そこでまず初席に伯知の日清戦争ほやほやの「川崎軍曹」、次は円遊が上る、このとき師匠円朝は客席へ来て幹事連の側に坐った。円遊も師匠を前にして晴れの高座と一所懸命、幇間が五重の塔の擬宝珠を嘗める「六升」(緑青)という得意の持話に満座腹を抱える。円朝もにこにこ顔に聴いていたが、終って幹事の一人が「巧いものですね」というと、円朝にやりとして、「私は弟子とはいえあの男の話はほとんど聞いたことがありません、まあ器用と申すのでしょう」、私はそばで同感同感といいたかった。  最後に上った円朝はさすがに光っていた。まず天明振りの小話二つ、「これは今まで誰も申し上げないお話で」と冒頭して「一人酒盛」、わざわざ酒の相手を呼び込んでおいて、ひとりでしゃべってひとりで飲む。相手は無言でだんだん腹を立てる、一方は好い心持に酔う、とうとう相手は怒ってプイと飛び出して行くまで、始終これは無言のまま顔つきや態度で見せるのが|やま《、、》、円朝の顔色が青くなって真実怒っているように見えた。次は「雷の卵」という軽妙の小話に話術の骨法を聞かせる。仲入りがあって終席は十八番の「牡丹灯籠」の一節、満場酔えるが如く聴きいった。  惜しいかなごれを最後として、再びこの絶世の名人円朝の至芸に接する機会はなくなってしまった。                                    (昭和八年一月) 風  俗    開化頭の変遷史       ちょんまげで押し通した名士連  男女頭髪の変遷を顧みても、そこに時代の世相が窺われる。明治四年に断髪勝手のお布令が出て、ざんぎり頭を奨励されたが、先祖代々のちょんまげは後生大事、したがって三馬の浮世床そのままの床屋の構えが下町に残って相当繁昌、大店向きは出入りの髪結が道具箱をさげて来て、店先で番頭、若い衆の髷を結う。  すべてが旧式生活の時代、十四、五年頃まではちょん髷もずいぶん多く、アブ、ハチ、トンボの小僧さんもたくさん見うけた。一方には気の早い連中もあって私の父などもその一人、明治五年に断髪し、ざんぎり頭で当時売り出したこうもり傘をさし、手にみじん灯(ランプの前身)を下げて帰って来る途中、人が珍しがってついて来るには弱った、と一っ話。その後、帽子や洋服とともに散髪も追い追い優勢、泣きの涙で大切のちょんまげと別れるなど、これらはあやしい開化党。  その頃の理髪店がふるってる。正面に大鏡一、二枚。ガラスが悪いので客の顔がデコボコ。もちろん小道具は旧式で小汚い。それで料金は三銭から五銭。中には二銭で玉子洗いなど看板を出した。  玉子のシリをポンとたたいて小さく穴を開けて、そこから出て来る中味をちょっと手の平に受けて、客の頭にナスリ付ける。一っ玉子を五人にも六人にも使う。それでもお客は大喜び。  一つべっついと呼ぶ、ざんぎりの真ん中を二寸幅ほど細長く剃りあげた奇抜な頭、職人や若い衆連に多かった。散髪を綺麗に後頭部まで分けたスタイル、ずいぶん気障《きざ》な好みで遊人や安芸人、これらは一時の流行で十四、五年頃まで、当時は小児でも真ん中から分けたもので、五分がり頭は願人《がんにん》坊主といわれるので、いやだいやだと頑張った。そのほか中老は撫付《なでつ》けといって今のオールバック。  以上の混乱時代も過ぎて二十年頃にはたいてい統一、ちょんまげは力士以外に寂々寥々、その中で生涯ちょんまげで通した名士、俳優では坂東彦三郎、剣客榊原健吉、能狂言の山本東、名行司の木村庄之助、鉱山王の古河市兵衛翁、もっともふるったのは初期の代議士であり府会議長にもなった芳野世経氏、立派な髷に羽織袴はよいが、時には堂々とフロヅクコート、長髪議員の高梨哲四郎氏と並んで、議会名物の好一対。    絵双紙屋の繁昌記       今あってもうれしかろうもの  惜しいのは絵双紙屋、江戸以来の東みやげ、極彩色の武者画や似顔絵、乃至は双六《すごろく》、千代紙、切組画などを店頭に掲げ、草双紙、読本類を並べて、表には地本絵双紙類と書いた行灯型の看板を置き、江戸気分を漂わした店構えが明治時代には市中到るところに見られたが、絵葉書の流行に追われて、明治の中頃からポツポツ退転。  両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、もっぱら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。一鶯斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇《たいそ》芳年、一流の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といった顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並べた風景は、なんといっても東京自慢の一名物。  国周、芳年の没後そろそろ下火、今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて一向さわがれず、僅かに日清戦争の際物《きわもの》で気を吐いたが、その後は月耕、年方等一門が踏み止まって相当多数の作品をだした。それも上品過ぎて却って一般には向かずじまい。日露戦争時代には俗悪な石版画が幅を利かせて、錦絵は全く型なし。  これよりさき、明治二十一、二年頃、石版|摺《ずり》の裸体画が一時絵双紙屋の店頭に跋扈《ばつこ》し、もちろん非美術的の代物で後には禁止されたが、この時すでに錦絵ももう末だなと感じた。ことに彫工も摺師も老練の名工が追い追い減少、そのうえ物価騰貴で三枚続き普通十銭、上物十五、六銭で売ったのが倍以上でも引き合わず、随って仕事もいい加減になり、絵具も安物、せいぜい子供のおもちゃ絵程度、その中で夏向きの組立灯籠画などはしゃれたものの一つ、これなどは今あっても面白かろう。    明治時代玩具屋風景       ブリキ製品さえ見られない頃  ブリキ細工もろくろく見られぬ明治中期の玩具類、多くは江戸風俗の名残りを止めた、罪のない品物ばかり。おしゃぶりをしゃぶって宮参りの犬張子、お祝物の鯛車で育て上ったわんぱくどもが、おいみんな遊ぼうよ、とひっくり返すおもちゃ箱の中は、芳藤のおもちゃ絵そのまま。起上り小法師の達磨《だるま》、みみずく、竹製の紙鉄砲、吹矢の道具、張子の神楽の面に笛太鼓。  威勢のいいところで、まとい、鳶口《とびぐち》、木製の竜吐水《りゆうどすい》、強がりは清正のかぶと、銀紙の名刀、神楽の面は木彫の上物もあって、外道《げどう》ひょっとこ、天狗、狐乃至は素盞嗚尊《すさのおのみこと》などすばらしい出来、雨降りの室内遊戯にはずいぶん調法した。月にすすきの花山車なども大小いろいろ。おもちゃ屋の店も全く変ってしまったが、今となってそれら幼稚の玩具を見ると、何がなしに微笑《ほほえ》まるるも妙。  なかんずく欲しがったのは厚い|かね《、、》胴の独楽《こま》、もちろんあぶない代物だから、ねだっても買ってはくれず、薄い奴では幅が利かず、子供心にやきもきした。その代りに、鉄の輪回しや剣玉は流行と同時にさっそくお仲間いり、剣の方へ玉を載せるのはちょっと手練を要するので、通学の途中にも歩きながら一心不乱、だが、これらの流行も束の間、そのうち石蹴りやまり投げに移って、追い追い新式の遊戯に逐われ、以上の玩具もすべてブリキやゴム、セルロイドの製品といれ代った。  二十年頃ゴムの弾力で飛ぶ紙製の蝶々ができて、上野山下あたりの往来で売ったが、よく飛ぶので全く飛ぶように売れた。続いて紙風船、これも当時の名物であった。縁日のおもちゃ屋では「器械の亀の子」、これは小さい硝子《ガラス》箱の中へ紙製の亀の子、箱を動かすと亀の首や手足がブルブル動く粗末なものだが大流行、親も子もこんな程度でにこにこしたのは全くのんびり。    わんぱく遊び列伝       ひやひやさせた子供の芸当  明治初年の子供遊びは江戸伝来の遺風が多く、遊戯とはいえ、およそ家庭教育とはかけ離れた 悪いたずら、親が見たら取っ捕まえてお灸《きゆう》という筋もの。その筆頭は橋の欄干渡り、丁稚《でつち》小僧が 先立ちであぶない芸当、全くひやひやさせる。  肩ぐるまでそば屋の行灯消しはなかなかの努力、田舎馬の後方から尻尾抜き、これはトンボを ゆわえる貴重な材料、滅法高い竹馬で他人の家の塀のぞぎ、いとも罪なのは按摩の頭へ笈冠《ざるかぶ》せ、 竹竿でたたき落す夕方の蝙蝠《こうもり》取り、いずれ悪太郎の本性、気の毒も可哀想もあったものでなし。 倦きれば町内の番太郎へ集まって、ぼったら焼きや駄菓子の箱にかじりついて、天保銭や五厘玉 の散財、大きな声で「おくれっ」と飛び込む威勢のよさ。  竹のたが回しは、後に鉄の輪に進歩して大流行、どこの往来でもわが物顔に押し回ってチャリ ンチャリン、泥めんこや鉛のめんこも今では珍物扱い。当時はたいてい二、三十個は手につかん で往来端にしゃがんだものだ。一尺ばかりの木の枝の先をとがらし、|ねっき《、、、》と称えて互いに地面 にぶつけ、突きさして、相手の|ねっき《、、、》を倒せば取る、少々蛮的で相手に怪我《けが》をさせることもある 危険性、結局親父に取りあげられて風呂のたきつけにされたもの。  危険性といえば、かね胴のあて独楽《ごま》、これなどもよく怪我をした。独楽の胴へ分厚の鉄輪をは めた奴、力まかせに相手の独楽へぶつけ、一方がけし飛んで、自分のは勢いよく回っているとい う興味満点。しかしこれらの危険遊戯も明治の中頃から追い追い新式の遊びといれ代って、ぽつ ぽつ消滅、おかげで親たちもお灸の世話がなくなった。    物売り姿のいろいろ       明治初年の街頭珍風景  下町の子供を喜ばしたあめ屋しん粉《こ》屋さえ、今はほとんど見かけない。まして疾くのむかし影 をひそめた明治初年の物売り姿、多少お話になりそうなのを二、三。  まず十二、三年頃に現われた豊年踊、売り物はうまくもない普通の|おこし《、、、》、ところが風俗と珍 妙な唄が利いて大評判。おこしを半台にいれ、茜木綿の切をかけて頭に載せ、近在の|せなあ《、、、》然た る若いのが派手な衣装にしなを作り「豊年じゃ豊年じゃ」と踊る。唄は簡単で「いっちくたっち くたアえもさん」という文句が耳に残る。ずいぶん嫌味な代物、これが後に|よかよかあめ《、、、、、、》屋と入 れ替ったが、これは一層きざなもの。  続いてそのころ大阪から来た千金丹、真夏の街頭をわが物顔に闊歩して、声高々と薬の宣伝。 千金丹と書いた白|金巾《かなきん》の洋傘と角形の手提カバン、身装は書生の白シャツ白股引、縮の単衣の尻 っぱしょりで二人連れ、往来の右と左を流しながら、「本家は大坂安土町」「信《のぶ》山家伝の千金丹」 「そのまた薬の効能は」「たんせき溜飲食あたり」と面白くもない文句のかけあい、それが妙にぴ たりときて我々もよく真似たくらい、一時は大流行。そのうち類似の競争者が現われ、二十年頃 いつか退散。  入梅頃には近在の女が売りにくる「新わらや新わら」の呼び声、柄になく美しい。炎天に響く 「氷やい氷」、蜜柑箱に仕入れた少々の氷を後生大事、「ところ天やてんや」と真鍮のお椀へ突い てくれる心天《ところてん》売り、これも声だけは冷やっこい。ブリキの缶をたたき、とてもかんしゃく持ちら しい親爺、「雨が降ってもカアリカリ」と駆け足で呶鳴る、堅いが自慢のかみなり焼。「隠元煮立 て」「金ちゃんあまアい」「あまアい甘酒」、以上我々わんぱく連の書入れ。  大嫌いは「いたずら者はいないかね」と汚ないのぼりを立てて来た岩見銀山鼠取り、「小児五 かん驚風の妙薬」と乾した孫太郎虫の伯父さん、「柳の虫や赤がえる」と小箱を提げた|まむし《、、、》売 りなど、およそ感じのよくないグロの一党。    矢場と銘酒屋風景       美妙斎と噂の女  江戸以来の矢場、明治時代にも馬喰町の郡代、芝の神明前、浅草の奥山等に名残りを止めて楊 弓店営業と鹿爪《しかつめ》らしい看板、化生の女が下町の若衆相手に艶めかしい空気を漂わせたものだ。な かにも奥山は、公園第二区となった観音裏に門並の楊弓店、のんきな連中が入り浸ってドンカチ リと的の音、これも時代の一風景。  明けっ放しの店を覗くと、赤|毛氈《もうせん》の上に黒塗り扇形の矢函へ玩具のような弓と矢が七、八本ず つ、三組ほど、その奥三間ばかりの突当りに長方形の大きな太鼓、その表面へ大小三、四個の的 が吊してある、客は毛氈の上へ猫背に坐って的を狙う。大抵は外れて太鼓ヘドン、一隅に長火鉢 を据えて例の白首が二、三人、長煙管を手にして表を眺め、「ちょいと眼鏡の旦那」「シャッポの 兄さん」など、大ぴらに呼び込む。  湯帰りの出来心、飛んだ的をねらう那須の与市も相当あって二十四、五年頃まで繁昌、白首即 ち矢取女のサービスが過ぎたためか追い追い禁制。代って現われたのが銘酒屋、初めは同じ場所 に限られたがだんだん蔓《はび》こって十二階下や六区に進出、家号を書いた腰高障子に紋散らしの御神 灯、店には|ちゃち《、、、》な卓子と二、三の椅子、壁際の棚に申し訳ばかりの洋酒の壜、安ブドウ酒やリ キュールぐらいで白首相手の無駄話。  青い灯赤い灯の今のバーの前身ともいうべきもの、矢場の弓矢と同じく酒は付けたり、敵本主 義のデカタン遊び、風俗係が目を光らしても同業は殖える一方。そのころ公園二区で評判の△の 家へ花形文士の美妙斎主人がせっせと通うという噂、まんざらうそとも思えなかったが、その噂 の女性は同家の主婦で三十前後の若づくり、薄いモのある細面で、美人でもなんでもないが、紫 の大|てがら《、、、》、黒襟のかかった八反かなにかの半纏を引掛けた銘酒屋タイプ、今の文士が血道をあ げるバーの女給とは風俗もだいぶ違う。    屋根船盛衰記       イキな家業の船宿の女将  夏は涼み、冬は雪見と江戸時代の名残りを止めて、大川筋に上下した屋根船の姿も今日ではほ とんど見られぬ。現に貸舟屋はあっても遊船宿はなく、モーターボートの走る大川にいまさら大 時代の屋根船でもあるまいが、明治の中頃までは、屋根船や猪牙《ちよき》の艪《ろ》の音を夕闇に響かせて帰り を急ぐ柳橋、舟遊びの通客も多かった。  家号を書いた行灯に腰高障子、店は折曲りの土間になって大きな欅《けやき》の角火鉢、支度待つ間の一 服というのが普通の構え、たまには小座敷があってちょっと一杯、それが嵩《こう》じて座敷も立派に、 広間もあるという待合式の家もでき、屋根船の四、五艘は河岸に舫《もや》って上流紳士の出入りも繁く、 ほろ酔い機嫌で芸者幇間に取り巻かれ、「御機嫌よう」と送り出す女将《おかみ》の声を後に、乗り込む屋 根船、二人船頭で景気よく浮かれだし、向島の水神あたりへ遠出の遊び。  三十間堀に大村屋、兵庫屋、新橋に山崎屋、柳橋に日野屋、伊豆屋、そのほか築地、鉄砲洲、 山谷堀などに聞えた遊船宿。総じて船宿の女将と云えば粋な年増の標本、料理屋待合と違った味 で、客あしらいから芸者の扱い、船頭衆の繰回しまでおかみ一手の采配、世辞もよく才気もあり、 愛嬌家業の天才肌、薄べり抱えて桟橋に立った姿は、豊国英泉の錦絵そのまま。  だが追い追いスピード時代となって、世辞や愛嬌では持ち切れず、大正以来、川岸に屋根船の 姿も消え、遊船宿も看板を掛け替えてただの料理屋式、いわゆる更生の意気で転向したのもあり、 気のないのはとっくに廃業、さしも両国名物の川開きにも荷足《にたり》や伝馬、ダルマ船まで幅を利かせ、 上流客は銀行会社の招待連と束になって料理屋のお二階、門前は自動車の押合いに暑苦しい時代 風景、花火も気なしにただポンポン。    永代下流の白魚船       大川筋に悠長な鰻掻き  深川の永代橋が洋風の木橋となったのは明治の八年。幅四間長さ百四間、東西の大柱は八角形 の石造、欄干は薄藍色のペンキ塗り、木鉄|混淆《こんこう》の新式橋梁として当時は五大橋の筆頭、文化の昔、 八幡の祭礼に墜落した以来の貧弱な木橋と違って、開化の東京に自慢の一つ。  その新式の永代橋から眺めた風景は、江戸時代をまだそのまま、川口には大型の和船が帆柱の 林立、中にまじって旧式の帆前船が目新しく、その間を縫う小揚げの伝馬や荷足船、川上から流 す大|筏《いかだ》など、一方越中島口には外輪車の蒸汽船が江戸川通い、なまぬるい汽笛を後に悠々と出て 行く姿、遠く佃《つくだ》沖の真帆片帆、房州から来る押送りの魚船など、江戸の繁昌を持ち越した形、そ こへ一段の風情を添えたのは白魚船の四つ手網。  大川の白魚など今では夢、その頃といっても明治二十年前後までは永代付近から佃沖にかけて たくさんの白魚船、思い思いに陣取って、船より大きな四つ手網、時々引き揚げる網の姿も面白 く、夜に入れば悉《ことこと》く篝《かがり》をたいて闍にひらめく無数の火影は、さながら不知火《しらぬい》と疑うばかり、全 く浮世絵式の情調、それも追い追い白魚が上らなくなって、せっかくの風致も川口から退散。  白魚船ほどではないがこれも名物の鰻かき、手拭のトンガラ冠り、肩当てのある筒袖に三尺帯、 「四谷怪談」の直助権兵衛という扮装で小船を操り、先の曲った所に針のある鉄鉤、一丈ばかり の竿の先へつけたのを船べりにあて、川底をグイとかく。根よく何遍もくり返すうち、太い奴が 引っかかる。  こうした悠長な仕事が商売になったのも今は昔、大川の水が油臭くなって白魚はもちろん、江 戸前の鯉も鰻も、明治の末にはとっくにおさらば。    古風なりし渡し場風景       大川筋にややこしい渡し船  古風な渡船も今はたいてい新式の橋梁に変ったが、一種風流の交通機関、明治の末年までは相 当お役に立ったものだ。大川筋では誰も知る竹屋の渡し、三囲《みめぐり》前から堤下の桟橋、馴れた足取り で船へ乗る蛇の目傘の女客、春雨時分の渡し船は、都鳥の姿とともに一段の風趣を添えた。  上流には橋場の渡し、白鬚《しらひげ》の渡し、下っては山の宿、駒形の渡し、瓦町から両国百本杭への富 士見の渡し、それに並んで須賀町のお蔵の渡し、大橋下流に中洲や清住の渡し、まだある、浜町 の安宅の渡しなど、全くややこしい渡船時代。  これらの渡し賃が明治の中頃で大人八厘、小児五厘、人力車は一台一銭五厘、荷車八厘が通り 相場、もっとも支流筋の小さい渡し、深川油堀の和倉の渡しなどは、五厘均一で不動さんの賽日 などは船頭も大汗の繁昌。  川岸に粗末な番小屋、前の台板には二厘、文久などのバラ銭を竹にさして立て並べ、番人のお っさん、啣《くわ》え煙管《ぎせる》で頑張り、岸から二、三段の桟橋、舫《もや》った船には客が二、三人、船頭は棹《さお》を突 っ張って「さあ出ますよウ」と呶鳴《どな》る。なかなか出さない、やや満員となってようやく纜《ともづな》を解 くが、交通不便の時代で客も急がずに待つ。二、三度、棹を突いて艪に代る。大川など中流へ出 ると遠く両岸を眺めながら客も一服、全くノンビリと好い気持。  さりながら雨降り風間は少々閉口、南や西が吹くと大川も波立って船は横揺れ、|しぶき《、、、》を浴び て時々はひやり、向う岸へ着いて「当るよウ」と船頭の一声。まず助かったとほっと息、こんな 渡し場風景も、時代の波は乗っ切れず三十年代を限りとして追い追い昔の語り草、その中で築地 から月島への勝鬨《かちどき》の渡し、市の小蒸汽に曳かれて威勢よく往ったり来たりは、渡し船最後の繁昌 を見せていた。    履物趣味の変遷史       先代土方伯等の別製駒下駄  履物一っの好みにも、その人の趣味が偲ばれた明治の中頃、主として駒下駄は畳付きの|のめり《、、、》、 今時こんな恰好の下駄はあまり見かけぬが、当時は一般に両|ぐり《、、》などはいかつい好みで喜ばれず、 総じて上品で地味に見えてその実上等品といったところが履き手の自慢。  桐糸柾《きりいとまさ》の|のめり《、、、》、本南部の表付、鼻緒は白または鼠の|なめし《、、、》、茶の鹿革あるいは繻珍《しゆちん》の腹革な どといったのが旦那連の好み、それでも当時四、五円の下駄といえばびづくり、抱え車の紳十で なければはかない。もっとも木地からいえば、一寸に柾何本という本場桐の上物など一足十円十 五円の品もあったが、たいていは店の看板。お上品向きは背の高い表付、後部の刳《く》ってない|あと《、、》 丸もあったが華族さんか医者先生、先代土方伯など小柄な人はいつも高さ五、六十の別製の駒下 駄で埋め合せ。  雪駄《せつた》も広く用いられた。上物は表二枚|乃至《ないし》三枚重ね、安物は一枚表、日が当るとそっくり返っ て焼きざましの鯣《するめ》みたい。底金のチャラチャラは嫌味だが、パッチに尻っぱしょり、信心詣りの 雪駄の音など悪くなかった。ゲイデイと流して歩く雪駄直しの編笠姿も、明治時代にはよく見う けた。小僧さんの盆暮のお仕着せ新しい板目の駒下駄、小倉の鼻緒で嬉しそうにテクテク。だが 平素は麻裏草履や真田《さなだ》の鼻緒の幅の狭い板草履(俗に草履下駄という)がおきまり。書生さんは 山桐の薩摩下駄か朴歯《ほおば》の高下駄をガラガラ。  婦人物はやはり桐柾のめりの薄形。本天か繻珍の鼻緒で堅気は地味、黒塗りなどは柾を誤魔化 すといって安物扱い、お嬢さんは朱塗りの|ぽっくり《、、、、》で振袖によく調和した。男女とも凝《こ》った連中 は名代の下駄屋へわざわざ註文。茅町の香取屋、馬道の大三津、照降町の宮田、新橋の阿波屋、 会津屋など。そのうち追い追い書生式の両|ぐり《、、》やフエルト草履の流行。一方、洋装時代となって 履物趣味は全然変った。    縁日に見た下町情調       今は見られぬ珍物いろいろ  夜の行楽として大路小路にカンテラの光り華やかなりし縁日風景、市内三十余ヵ所、神仏取り 交ぜて毎日の縁日案内が小新聞に載ったくらい。その縁日の商人も明治時代はたいてい子供相手 にたわいのない代物、時世につれて今はほとんど見られなくなったものが相当多い。  新粉《しんこ》を小さく切って扇形に串へさし、焼いて蜜をつけたアヤメ団子、大きな傘を立てて朱塗り の箱を並べた|ぶどうもち《、、、、、》の店、前通り二銭八厘「なんでも買いな、チョイチョイ買いな」と節《ふし》を つけて呼ぶ玩具屋の声、涼しげに水を打った|ほおずき《、、、、》屋、針金を曲げながら知恵の輪、水銀を綿 へ含ませた銀流し、インチキものは吹矢の当てもの、ドッコイドッコイ、あぶりだし、いずれも、 ろくなものは当りっこなし、以上は縁日の定店であったが今は稀だ。  夏場はことに賑やかで団扇《うちわ》片手に浴衣《ゆかた》がけ一家そろってぞろぞろ、花火屋、虫屋、金魚屋の前 は人の山、今戸焼の鉢へ稗《ひえ》をまいて案山子《かかし》や白鷺をあしらった稗|蒔《ま》き、風鈴のついた釣りしのぶ など下町のおかみさん唯一のお買物、江戸情調の名残りは明治の末年まで続いて、そろそろ新時 代の絵ハガキ屋、いかがわしい特許品、バナナのたたき売り、メリヤスの投売りなどの跋扈《ばつこ》時代 となり、市区改正や交通整理で縁日も追い追いに邪魔もの扱い。  別格の呼び物は植木屋の一群、盆栽は巣鴨染井、朝顔は入谷、菊は大菊ぼかりで本所請地が本 場、盆栽の上物は薬研堀の不動、銀座の地蔵、神楽坂の毘沙門、花物は仲田の五十稲荷、下谷の 麻利支天、歳暮の梅は西河岸の地蔵、各所の年の市などがそれぞれの売り頭、途方もない掛値が 通り物で気永に押問答。そんな悠長な時代も去って今は正札付きが多く、売手も客も世話なし。    お笑い草の花見風俗       今は見られぬ百鬼夜行の市内  花の都を賑わした花見風俗も、その取締りとせち辛い御時節とで全く形なし。明治の中頃まで は踊の師匠や町内の若衆、八笑人そのままの剽軽《ひようきん》な連中が、目|鬘《かずら》やボテ鬘で思い思いの道化姿、 花の場所はもちろん、市中到るところ百鬼夜行の図はいまどき見られぬ珍風景。  一番の人出は向島、枕橋を渡ると花の世界で目鬘売りや花|かんざし《、、、、》の立売りが並ぶ間を、三囲《みめぐり》 から白鬚《しらひげ》、遠くは木母寺《もくぼじ》まで肩摩轂撃《けんまこくげき》、土手際には|よしず《、、、》張りの茶店、|くわい、、、》の串《ざしや、|きぬ かつぎを売《、、、、、》り物に赤前垂が客を呼ぶ。その雑沓《ざつとう》を押し分けて仮装の住吉踊や赤垣源蔵、おかる勘 平、あるいは鳥追い、巡礼姿、大津絵の按摩さんまで続々繰り込む。大川には屋形や伝馬の花見 船が三味線太鼓で押し寄せる、花を見るのか騒ぎを見るのか、とにかく出たわ出たわ。  人出は劣らぬが上野公園は広いだけに少し落ちつく。今よりも空地が多く、場所は取り放題、 赤毛氈や茣蓙《ござ》を敷いて重箱を開くもあれば、菰樽《こもだる》をかつぎ込んで騒ぐもあり、摺鉢山から竹の台、 動物園前などいっぱい、ここへも仮装の連中や踊子が繰り込んで唄う、舞う、花時の逸楽気分を 満喫した。飛鳥山《あすかやま》もそのとおり、ここは今でも治外法権だが、以前のような悪く凝った花見風俗 はあまり見かけぬ。  三十年頃に仮装姿の市中|徘徊《はいかい》は禁止、とも知らずに呑気な連中、意気揚々と押し出すと途中で コラコラ、吾妻橋の交番へ鞘当の不破と名古屋が仲よく引っ張られて寛潤羽織をはがれたり、上 野の広小路で伴れにはぐれた定九郎がただ一人、ベロベロに酔ったまま警官と押し問答、とど二 つ玉ならぬ強薬の大目玉にグアとなって山内へ逆戻り、こんな喜劇が随所に見られたのも今は昔 のお笑い草。    往年の水菓子屋風景       店頭で食う真桑瓜のうまさ  今日の優秀な菓物《くだもの》と比較にならぬのは明治の水菓子。この点菓物には限らぬがすべて旧式の代 物ばかり、三十年代にはたいてい影を潜めたが、当時は別に苦情もいわず結構都人士のお口にか なって舌鼓を鳴らしたもので、甘酢っばい言い草《ぐさ》だがその頃の味を思うと、フルーツ全盛の現代 は、真に恵まれたるかな。  明治時代は水菓子と称してお上品に取り扱われ、客商売はもちろん家庭でも梨や蜜柑やその時 時の菓物を、たいていは輪切りにして体裁専一に錦手の鉢に盛りあげ、あるいは桃のたて切りを どんぶりの水に浮かして涼味第一といった工合、なかんずく芝居茶屋の水菓子とくると、中味|尠《ずく》 なの鉢を麗々と朱塗りの台に載せ、幕間に「へい御退屈さま」と桟敷へ持ち込む。まんざら悪く ない気持だが、品物はまずくて高いのが通り相場、次は市中の水菓子屋風景。  店内の王はやはり西瓜、皮の黒いまん丸の純日本種、切って赤くなけりゃ銭はもらわないとい う代物、つづいて真桑瓜、金真桑、銀真桑、たてに細く皮を剥いたのが西瓜の切売りと並んで人 気もの、客は立ち止まって店先で食う、とてもうまい。枇杷《びわ》は小粒で軸付きのまま十粒ぐらいに 葉を三、四枚添えて束ね、黒ボクの岩組へもったいらしく飾り、二房並べの葡萄《ぶどう》と共に高級品扱 い、梨と柿とは一般向きで夏から秋へ第一の売物、ことに当時の樽柿の味は素敵に上等、これだ けは今も懐かしい。  桃は堅くて酸っぱいが、ちょっと紅をさした色気が愛らしく、蜜柑は種の多い紀州もの、それ でも季節には店頭を賑わし、烏帽子籠や、筒形の細い籠へ詰めたお遣い物が相当|捌《さば》ける。体裁ば かりで皮が厚く水気のない九年母《くねんぼ》、これは芝居の水菓子に幅を利かしたが誰しも閉口、その外、 すもも、あんず、はたんきょうなど士君子は顧みない。網入りの金柑、口の曲るほど酸っぱいの を子供は喜んでチュウチュウ吸った。    年の市繁昌くらべ       死人まで出たその頃の人出  入らっしゃい入らっしゃいと景気のいい呼び声、迎春の支度は年の市に限ったもの。年中行事 の打止めとしてその魁《さきがけ》は深川の八幡、お飾り物は早過ぎるが、この市で羽子板はじめ市の売物 の相場がきまる。いわば景気の瀬踏みとして際物の初商い、人出はさほどでもないが、木場や佐 賀町を控えて相当の賑わい、年の暮の気分はこの市が序開き。  なんといってもお次の浅草が人気第一、ここは東京中の客が集まる。今のようにデパートの割 込みはなし、羽子板は毎年浅草でと、堅気のお嬢さんや花柳界のキレイどこが押し寄せて、仁王 門前の羽子板店は大繁昌。門を入って左へ観音さまの堂脇から淡島の付近一帯、宮師、注連《しめ》飾り、 桶類、金物類そのほかの店が隙間なく、高張や長堤灯の数を列《つら》ねて、耳も聾《ろう》するばかりの呼び声、 ことに明治の中頃の景気は格別、江戸時代に輪をかけてすばらしい人出、山と買い込んだ品物を 両手に高くさし上げてやっと通るほどの大骨折り。  つづいて神田明神、負けぬ気の神田ッ子が出たわ出たわ、三十年頃には人死にもあったくらい、 境内の雑沓《ざつとう》と、入口の石の坂道の押合いとが正面衝突でこの椿事《ちんじ》、羽子板はじめ商人や興行物は たいてい旅籠町大時計前の広場へ陣取って、明神様とは少々他人行儀の形であったが、人出は浅 草に次ぐ有様。それも追い追い土地の発展で広場はなくなる、境内は変る、昔のおもかげはもう 見られぬ。  めっかち生薑《しようが》と千木箱《ちぎばこ》で名代の芝|神明《しんめい》、山の手唯一の湯島天神など、ちょっと息つぎの形。最 後は薬研堀《やげんぼり》の不動、植木市というほど盆栽の陳列、初春の床飾り、松竹梅に福寿草、当時は篠《しの》づ くりの梅が流行で飛ぶように売れた。これらの年の市が暮の半月を賑わして、除夜の鐘にのんび りと福茶を祝うと、誰彼なしに正月気分。    春の昔の正月気分       浮身をやつした凧あそび  初春の賑わい、正月気分に変りはないが明治時代は遙かにのんびり、土蔵造りの大商店は赤毛 氈に家重代の金|屏風《びょうぶ》、門松のうつりもよく、市中大通りはもちろん場末の町々まで門並み新しい 紺の暖簾《のれん》。その中を行く礼者の姿も丈の短い紋付羽織、マチの低い平ばかま、白扇を携えて恭《うやうや》 しく、後ろから双子の仕着せに千草の股引、年玉物の箱を首にかけた小僧さんがチョコチョコ。  自転車もなく、たまに年始客の人力車が通るくらい、どこの往来も娘や若衆の追羽子《おいばね》、子供の 凧《たこ》揚げで一杯、これらは江戸時代そのままの風景。丸一や藤一の太神楽が、おなじみの店先でま くら太鼓の音|賑《にぎ》やかにまりの一曲、そのほか三河万歳や町内の獅子、編笠姿の鳥追女など、正月 らしい交響楽に太平気分を味わった。その後追い追い山高帽子や洋服の礼者も殖え、足取りも大 分せわしく、二十五、六年代には電信電話の線もゆきわたり、交通も繁しくなって、追羽子や凧 揚げは横町か空地に限られ、娘子供は大不服。  腕白連は誰しも浮身をやつした凧遊び、市中にも凧屋はたくさん、章魚《たこ》が鉢巻をした姿の看板 が目についた。一枚、二枚の小凧から二枚半以上は巻骨障子骨の上等品、奴凧《やつこだこ》、トンビ凧、蝙蝠《こうもり》 凧、剣凧の類、字凧は竜、鷲、魚、蘭の字など、絵凧は達磨、二見ヶ浦、日の出に鶴、乃至は人 物の一人立、二人立、牛若、金太郎、頼光、凄いのは猪ノ熊や大入道、熊坂長範、いずれも蝋引 きの眼玉が光る。あるいは童子格了、三筋に蝙蝠などが通り物。  ウナリは鯨か籐で、大凧のウナリは左右へ突き出たカンザシ、長糸目で木舞縄の尾を十分につ けた威勢のよさ、あれは誰々の凧だと評判、大小いりまじりに揚った中を、ポリ竜という二枚張 りの字凧、ガン木を二、三挺もつけて喧嘩仕かけに相手の凧を切って飛ばす暴れもの、私も随分 やったものだ。    大江戸豪華の名残り       鍾馗の山車が現わした奇異  大江戸の豪華を誇った祭礼の山車《だし》も、明治の中期を最後として全く見られなくなった。麹町山 王、深川八幡、神田明神、いわゆる江戸の三祭りにはことに名代の鉾山車《ほこだし》もそろって、景気のい いことおびただしい。  山車に囃子《はやし》の音、花笠の警固や芸者の手古舞、何十本もそろって練り込む有様は全く壮観。ま ず六月の山王祭、評判の|さる鶏《、、、》の山車は、一番が大伝馬町のかんこ鶏、二番が南伝馬町の猿、こ れは冠装束の人物が猿の面をつけ、金の幣束を肩にした人形、由緒のある名作。そのほか本町の 弁財天、駿河町の春日竜神、通四丁目の神功皇后など、皆「法橋何某」と銘打った結構な山車が 数十本。  八月の深川祭は山車も一番少なかったが、霊岸島の茶筌《ちやせん》の山車がふるっていた。茶柄杓のぶっ 違いの中央に、一丈ばかりの銀色の大茶筌、紅白の吹流しで風流なところが妙。つぎに九月の神 田祭、これは山王に劣らぬ大祭で、山車や踊屋台がたくさん出た。名物は九番連雀町の熊坂の山 車、松の大木に物見の長範、目玉がグルグル動くので女子供は恐ろしがる。多町の鍾馗《しようき》は山車中 の王、一丈余の大人形で、錦の幕を垂れ、中央の大太鼓を唐子《からと》風の男二人が左右から打つ。警固 には更紗の唐人服にチャルメラ、四、五十人の唐人行列、然るにこの山車をだすと必ず暴風雨が あるというので滅多に出さなかった。  それを明治十七年九月の大祭に久々でひきだすこととなり、多町の角に素敵な山車小屋ができ て大変な見物、ところがいよいよ十五日の当日という前夜から空模様かわり、夜半から朝へかけ て希有《けう》の大暴風雨、深川本所は大出水でつぶれ家は到る所、まことに物凄い大荒れで祭礼はさん ざんの始末。それ以来この鍾馗は出たことがないが、伝説があるだけに全く不思議な回り合せ。 趣味・娯楽    絵双六の話      双六の起り  絵双六《えすごろく》の古いものは、シナのある種の絵画に粉本があって、「選仏図」から浄土双六、「陞官図」 から官位双六が出来たものと想像されている。  浄土双六というのは、南閻浮洲《なんえんぶしゆう》が振出しで、悪い目が出ると地獄へ堕ち、良い目が出ると仏に 上るという仕組で、一説には天台の名目双六を絵に直したものともいわれ、後には仏法双六と名 を改めたが、鎌倉時代には、仏法の名目を暗記するの具に使われたものだといわれている。  旗位双六は前のよりは後に出来たもので、板《はん》行で占いのは正徳・享保ごろのを最古とする。布 衣から太政大臣までの役々の人物を二百七図あらわし、黒刷に丹《あか》・緑・黄の手彩色のものであり、 文化ごろには、この双六の極彩色版の改版で「官位昇進双六」と題されて、役名は幕府のもので あり、明治初年には新政府の「官等双六」が出ている。  なおごく初期の双六の賽《さい》は、 一から六までの数字でなくて、貪・瞋・痴・戒・定・恵の六字の が名目双六用に、南・無・分・身・諸・仏のが浄土双六用に、祚・品・位・階・等・級のが官位 双六用にと、それぞれ専用の賽が使用されており、寛文・貞享のころまで、この古式の賽が使わ れていたものである。      珍しい双六  文政八年の書き物に、ある人のコレクションに古板双六が二十八種のっていて、そのうちの二 つ、鶴屋版の「甘露壷双六」と、鱗形屋版の「かわるが早いおででこ双六」が私の手もとにある。 これは「大阪くたり手つま人形」と肩書があって、傀儡師の手品の絵が十一あって、上りの図は 後に書き替えたものである。  その他「松の内のんこれ双六」という流行歌を入れた双六などがある。      役者すごろく  役者双六は延宝頃から行われ、珍品は明和・安永から寛政ごろのものに多い。また天明ごろの ものに「顔見世ふり分双六」というのがあって名優十八名を描き、その末に無名の人物があって 「やうちん」と記してあるが、これは永沈《ようちん》地獄のことで、ここへ行くと、最後まで動くことが出 来ぬ。これは浄土双六にあるもので、その影響が、この双六にもある訳で、同じころの力士双六 にも、「えうちん」がある。  「役者賑双六」は、前の役者双六と大体同一であるが「やうちん」はすでに描いてない。画は 丹絵で勝川春章の筆である。その後、文化・文政度にも役者双六は全盛をきわめ、明治になって もたくさん出版された。      道中すごろく  道中双六は貞享ごろに作り出したものだろうと柳亭種彦がいっているが、宝永ごろのものを私 は見た覚えがある。  近藤清春(?)の正徳ごろのがまず古い方で、時代が降って、お馴染の北斎には「新板往来双 六」という優れたものがあり、広重には「東海道富十見双六」「諸国名勝双六」「東海道木曽振分 道中双六」等がある。  地方板としては「米沢道中双六」という米沢から江戸までの道中双六で、宝暦前後のものがあ る。また名古屋板、仙台板があるそうだ。      川柳俳句双六  狂歌、川柳、俳句などを加えた双六も種々あるが、最も古いのは明和二年版の英一蝶の俳句入 り「梅尽《うめづくし》吉例双六」で、文晁一門合作の俳句入り「江の島文庫」なんて上品なものもある。  「狂歌江戸花見双六」「寿出世双六」(狂歌)「孝不孝振分双六」(川柳)「名所遊帰宅双六」(狂歌) 去来庵選の俳句入り「江戸名所巽双六」という北斎の画品の高い挿画の逸品がある。      年玉の広告双六  お正月に景品として広告に用いた老舗《しにせ》の双六がまたたくさんある。「売物には仕らず」とか、 「禁売買」とか断ってあって、文化・文政ごろから明治に及んでいる。  神田三河町の小間物屋泉屋の「御化粧双六」、三馬の『江戸の水』の広告「賑式亭繁栄双六」、 下谷車坂の桜香本舗の「宝の山松繁栄双六」、浅草の紅勘の浅草名物を集めた「年玉双六」、赤坂 表伝馬町の陶器商西村の「諸国陶器山冬双六」、日本橋伊勢屋(佃煮)の「御年玉細見双六」、日 本橋通の羊羹屋船橋屋織江の「名所羊羹双六」、などがあり、明治になってからの面白いのは、 銀座上方屋の「かるた出世双六」で、当時禁制であった花札を、その筋へ願って売り出すまでの 苦心を画にした奇抜なものである。      変った双六  双六の画工はたいてい浮世絵師であるが、四条派の祖といわれる松村呉春筆の「京都名所双 六」という肉筆のものがあって、私はその写真を持っているが、お上品なものである。  また具足のつけ方を五十余図に説明した文化ごろの「具足着用順次双六」なんてものがあり、 「鎗銃点放《けんつきづつうちかた》号令双六」「調練双六」なんて幕末の勇ましい双六もある。  豆双六というのは懐中用で、二、三寸に三、四寸という大きさで、これにもいろいろとある。  明治十九年版の「新双六淑女鑑」というのは、小林清親の筆で、署名はしてないが坪内逍遙博 士の案で、私がその出版人である。  弘化二年版の「新製がん双六」というのは、オランダ双六といわれていて、雁を描き、四隅に 紅毛の男女が描いてあるが、海外のものの翻案であろうと思われる。  以上、ごく簡単に双六の概念を話したが、双六は微々たる遊戯の具に過ぎないが、時代を反映 して風俗、流行、文芸、娯楽その他の研究資料となり、浮世絵の傍系として、美術品としての価 値を具えており、双六そのものの実質についても十分検討されていいと思っている。                                    (昭和八年一月)    風雅界の新年摺物       宗匠や画伯が得意の試筆  新年の摺物《すりもの》、例えば俳諧師の三節、謡曲家の勅題小謡、画家の試筆、和歌狂歌の祝詠摺物など、 近年はほとんど葉書の賀状に奪われたが、明治時代はもっぱら特別の摺物として知己へ配ったも のだ。木版奉書摺の雅なもので新年気分を漂わせ、後には貼交ぜの材料にも使われて風流趣味の 名残りをとどめる。  明治の中頃まで、俳句の宗匠では向島の老鼠堂永機を始め、深川の不白軒梅年、春秋庵幹雄、 湯島天神下の夜雪庵金羅、下谷の稲の舎悟友、根岸の雪中庵雀志など一流の連中、随ってその門 下の人々など、年々自筆の三節摺物を配った。和歌では高崎正風、佐佐木弘綱、今の信綱大人な ど色紙風の摺物を見受けた。謡曲界では観世宝生を始め、それぞれめでたい文句の小謡を新作し て節付けしたのを門中へ頒《わか》つ。  画家方面では柴田是真の一門や浮世絵派の人々が、こうした趣味に富んで佳作が多い。中にも 尾形月耕翁は干支と勅題とを描いた短冊二枚、あるいは色紙形の一枚摺など念入りの木版極彩色、 さすが版画家としての特色を示して面白い。その後、絵葉書の流行に伴って、大小の画家たいて いは木版石版いろいろ自画の年賀状に凝ったものだ。それさえ近年はずっと減じて普通の恭賀新 年になってしまった。  摺物以外だが、これも新年の配り物、陶器の巨匠先代宮川香山翁は年々の干支の盃を作って十 二ヵ年押通し、この一揃いは今では珍品、猪口《ちよこ》とはいえ翁独得の妙味を示した作品だけに芸術味 の高いもの。  彫刻の元老高村光雲翁も、同じく十二支の浮彫丸額を年々製作、これを石膏に移して知人へ頒 ったが、複製ながら老巧の技を窺うに足る立派な作品。ともかくも毎年よく続けたもので、名人 肌の道楽気がなくては出来ぬ芸だ。    昔なつかし物見遊山       朝顔、菊人形、料理店など  花時以外の物見遊山《ものみゆさん》、春は亀戸の梅、天神の藤、四つ目の牡丹《ぼたん》、夏は入谷《いりや》の朝顔、堀切の菖蒲、 不忍《しのばず》の蓮、大久保の躑躅《つつじ》、秋は団子坂《だんござか》の菊、滝野川の紅葉、百花園の秋草、冬は梢野に雪見、そ の中で入谷と団子坂は特別の人出であった。  入谷の朝顔は居着きの花戸丸新、入十、入竹、横山を始め臨時出店とも十軒ばかり、ほの暗い 午前二、三時頃からぞろぞろと押しかけ、五、六時頃には押し返されぬ混雑。紅紫とりどりの花 の色は全く目の覚める美しさ、ほかに一斗入りの大瓢箪や朝顔人形の見世物もできて大繁昌。そ のうち追い追い近所が開けて、肝腎の朝顔を仕立てる入谷田圃《いりやたんぼ》の溝土も取れなくなり、ついに明 治の末年を最後にぽつぽつ廃業、丸新も今の池ノ端へ移った。  団子坂はさらに輪をかけての賑わい、坂の両側に植梅、種半、植浅、薫風園その他で十二、三 軒、中にも常小屋の種半、植梅などもっとも大がかりで、一方が文覚荒行、大輪白菊で七、八間 の大滝を見せれば、一方は「先代萩」床下のせりだし、人形細工人は安本亀八、山本福松で大道 具大仕かけの競争、全く東都の名物であったが、これも入谷と前後して寂滅。  これに伴って飲食店では、亀戸の魚長、柳島の橋本、向島の植半、王子の海老屋、扇屋、お手 軽では根岸の笹の雪、団子坂のやぶそぼ等いずれも繁昌、今もたいてい残ってはいるが、昔とは 客が違う。  但し団子坂のやぶそばは菊人形と共に廃業、これが本当のソバ杖、とは知らず座敷もよし庭も よしと、わざわざ某文士と共に向う見ずに飛び込むと、玄関へ書生さんが現われて突っけんどん に「どなたですか」。    豪華なりし盆栽趣味       最後に昂まった珍草熱  盆栽趣味も近来ますます勃興の機運、その好尚も時によって変って行く。明治の初年は例の万 年青《おもと》の流行、根岸の肴舎から出た「根岸松」が一茎万金を呼び、少し変った新種は兎相場、誰も 彼も商売そっちのけで血眼、オモトの鉢をいれ提籃を大切そうにさげて往来する好者の姿を、ず いぶん市中に見かけたものだ。  つづいて松葉蘭、今は誰も顧みぬが当時逸品は百金二百金、これは程なく下火で次は桜草、十 五、六年から二十年頃が盛り、染井の常春園、入谷の横山など珍種を誇った。その頃から蘭の流 行で相当長く続いた。これも名品沢山の中に、二十五、六年ごろ、小石川の愛玩家桑原氏の培養 した「桑原晃」が飛び離れた人気、一シノ(葉三枚)二、三千円の取引き、そのほか百金台はざ らであったが、三十年頃から下り坂。  松、真柏、欅など真の盆栽も三十年代は全盛期で、聚楽会はじめ名品の陳列会が上野公園の美 術協会その他で開催、素人の盆栽家もその頃もっとも活躍、花物では二十年頃から山茶花《さざんか》、三十 年頃には久留米|躑躅《つつじ》、花を見る柘榴《ざくろ》、ことにさき分けの錦袍榴《きんぽうりゆう》は珍品とあって特別扱い、本願寺 の大谷光瑩伯は当時霞ヶ関の邸内でこのキンポウリュウの名品数十鉢を陳列して同好者を驚かし たが、さすがにこの方面でも豪華第一。  珍草即ち高山植物は三十年頃から採集者も殖え、当時上野公園の韻松亭に初めて山草会、百二、 三十種の出品で以来俄かに山草熱勃興。  旅行好きの饗庭篁村《あえばこうそん》翁も旅先から持ち帰った凡草を、いろいろ並べての御自慢、誰も一向珍し がらぬので躍起となり、「珍草通」の一文を草し、「こんど一本選りの珍草をうんととって来て、 諸君に珍草のヒタシ物てえのを振舞おう」。    茶道の長老結束の賜       創立二十五年の茶道協会  都下の茶道界はやはり不況のたたりを免れず、いわゆる実業界の紳士茶人も各流宗匠の社中も 共に遠慮の気味で、特記すべき茶会の催しも少ないこの頃、去年(昭和八年)十二月下旬、赤坂寒 翠園で開かれた茶道協会の秋季大会は珍しい盛況、創立二十五年の祝賀を兼ねて終日、純日本趣 味を満喫せしめた。  この茶道協会というのは都下の主なる師範家即ち一流宗匠の集まりで、斯界唯一の茶道の団体 であるが、連綿ここに二十五年、今日では創立当初の幹部はことごとく他界して、そのころ若手 であった式守蝸牛氏ほか数氏が後継者として努力しつつ結束を続けて来たので、すでに創立当時 のことなど世間からは忘れられている有様だ。  協会の成立したのは明治四十二年十一月十日で、当時茶道の勃興に伴い種々の弊害も生じたの を、各流の主なる師範家が憂慮して、十月六日に星ヶ岡茶寮へ集まったのが同茶寮の松田宗貞翁 (表千家)を始め、同流大久保北隠、久保田臥竜庵、今井宗幸、竹内寒翆、裏流の三原宗浤、石 川栞斎、宗偏流の中村宗知、石州怡渓派の山本麻渓、不白流の関不羨等の諸老に、表千家の宮北 宗春氏が斡旋役で、今後流派の対立を捨て、斯道のため結束して隆盛を計るという意見の一致か ら、従来ほとんど夢想だもされなかった諸流の提携が即座にまとまって、翌月十日に発会式とい うスピードの成立。  以来、春秋二季に星ヶ岡または寒翠園で大会が開かれ、各流の耆宿《きしゆく》が六、七ヵ所の茶席を担当 してそれぞれ特色を示し、茶道の真趣味を発揮して斯界に貢献するところが多かった。今日なお 盛況を続けているのも、以上諸老が互いに自我を捨てて道のために提携した遺徳にもよるであろ う。    狸を飼った話       上野で消えた北海道の狸  変な顔の人を見ると北海道の狸《たぬき》みたいだと言う。その北海道産の狸を飼ったことがある。茶色 の毛並でなるほどへんな顔だ。  明治二十二、三年頃の話、一、二年飼ったがいかにも臭気甚だしいので持て余し、いっそ捨て てしまえと、駒込から来た植木屋の親方に頼んだ。その頃の駒込から染井辺は、森や田圃で実際、 狐狸の棲処《すみか》、お仲間も少なくなかった。  可哀想だが手足をくくって、握り飯と一緒に炭俵に入れ、職人と相棒で担ぎ、夕方浅草から持 ち出した。  翌朝、その親方が来るや否や「ゆうべは驚きました」と言う。どうしたと聞くと、「あれから 上野の山内へかかると急に俵が軽くなったので開けて見ると、狸公いつの間にか縄抜けして姿は ない、急に恐ろしくなって二人とも夢中で逃げ帰りました」とまだ青い顔、さてこそ見事に化か されたと大笑い。  その後また本所の玉村さんというお医者から性懲りもなく狸を貰った。これは小柄の狸で毛並 も美しくいかにも可愛らしい上に、いろいろの芸があってお回りもすればチンチンお預け、人の 膝へ乗って睡るほどの愛嬌者、まことによく仕込んであるが家庭の都合で手放すというわけ、あ りがたく頂いたが、ここに一つ珍妙な条件があった。  この小狸、どうしたわけか雨傘が大嫌い、蛇の目でも番傘でも決して見せぬように、というの がその条件である。万事承知と連れ帰って可愛がっていたが、そのうちに右の条件を聞き知った 若い者たち、面白半分私の留守に番傘を見せた。狸は驚いて狂気の如く騒ぎ狂う。それが度重な ってとうとう気が荒くなり、芸は忘れる、膝へは乗らず、惜しいかな、ただの狸に化けてしまっ た。    催眠術公開の皮切り       落語家ブラックの苦心物語  眼色毛色の変った落語家英人ブラヅク、本業の傍ら当時まだ行われなかった催眠術に興味を持 ち、二人の少年を相手に熱心に研究を始めた明治二十八年頃のこと、もちろん内々で原書と首っ 引き、仲間の者も知らなかった。  ある時、突然ちょっと話があるというので、当時根岸|御行《こぎよう》の松のわきにいた同人宅へ出かける と、右の催眠術の一件、いよいよ成功したから唯今実験して見せるという。半信半疑で控えてい ると、先生一人の少年を呼びだしてさっそく施術にかかる。目を見合わせてにらむこと少時、相 手はそろそろ舟を漕ぐ、「これは第一の期間で居眠り程度、二期三期から真の深い眠りに陥るの が第四期で、その時はいびきをかきます」と説明しつつ、とうとういびき、この場合をメスメリ ズムというなど大自慢。  こうなると問答が出来る。「今、君のお父さん(大工)はどうしている」「仕事に行ってます」 「お母アさんは」「井戸端で洗濯しています」、最後に、「お客さまは」「右手を膝へ載せていま す」全くその通り、奇妙奇妙というわけで、それからくすぐって見たり、つねって見たが到底駄 目。  その翌年、神田の錦輝館でこの催眠術を初めて公開した。技術一層熟達して前後から施術がで きる。種々の問答や硬直術をも行い、大成功であった。 「しかしずいぶん苦心しました。最初眠った時には、私があまり熱中しているのを気の毒がって 空眠りしたのではないかと、この子の足の裏へ大きな灸《きゆう》をすえてみたが、それは本当だったので 可哀想でした」とはブラックの述懐。    六区の池に演芸船       人気直しの納涼会  玉乗りや活人形の全盛時代、たいていは昼興行、随ってさしも浅草公園の盛り場も夜に入ると 火の消えたよう。ともすると六区の池に投身があったり、子供が落ちたり、甚だ不縁起とあって、 明治二十四、五年頃、池中へ大伝馬を泛《うか》べ、衆僧を招いて盛んにお施餓鬼《せがき》を行ったくらいだ。  施餓鬼は結構だが、それだけでは人気もいかがかと、その後陽気な趣向を思いついたのが納涼 演芸会、顔役屋根屋弥吉などの肝煎りでひと夏にぎやかに興行、池の周囲に三ヵ所の葭簀《よしず》張りの 桟敷を設け、大小の提灯はなやかに景気をつけ、池中へは小伝馬三艘、これへ影芝居、うつし絵、 落語手品等の演芸者が乗り込み、かわるがわる桟敷の前へ来て演ずる趣向。なにがさて公園始ま って以来の珍風景に相当の人気、夜の七時頃に開演の太鼓を打ち込むと、池のほとりに待ち構え た納涼人種がぞろぞろ押し寄せて桟敷は満員。  景気がよいので付近には夜商人が店を列《つら》ね、池中にも田舟が二艘、舳へ氷水、御菓子などと書 いた赤行灯を灯してうろうろ船の姿も風情を添えた。そこで肝腎の演芸はというと、その頃のこ ととて前記の旧式揃い、まず影芝居は鳴物入りで役者の声色《こわいろ》、ちょっと纏まった掛合いセリフの 一場など、二、三人の声色使いが、幕を張った蔭で演ずる。出入りの鳴物から合方の三味線、本 芝居そのままの気分を漂わす、今のラジオの脚本朗読会。  うつし絵はずっと子供衆向きで、船いっぱいに白布、粗末な木箱に仕組んだ硝子絵を写して手 先の熟練、もちろん電気はなし灯心の明りで写し、最初が福助の口上から三番叟、器用に動く。 あるいは牡丹の花の開く工合、本所七不思議の化物、大切りには「鏡山」のお初岩藤、「累《かさね》」の 土橋の殺しなど怪談めいた狂言で、セリフや鳴物入りの大車輪、いわばトーキーの魁《さきが》け。たしか 池田都楽の一座であったが、幼稚なところに江戸式の味もあって、もう一遍見たい気もする。    曲独楽の竹沢藤治       芝居がかりで得意の早業  曲独楽《きよくごま》で鳴らした竹沢藤治、芝居がかりの大仕掛けで大した人気。初代は両国の定小屋で錦絵 にまで出た大当り、その親譲りの二代目藤治が明治初年に浅草奥山を始め、猿若町の芝居小屋な どで華々しく與行、本芸の独楽のほか、早変り、宙乗り、水芸等のケレンで大受け、十五、六年 頃を全盛に満都の絶讃。  当時は四十五、六の男盛り、若太夫の頃から美少年で知られた男前、太い髷に結ってきりっと した顔立ち、華やかな裃姿《かみしも》で押出しの立派さ、ちょっと先代片岡我童の面影。舞台はすべて芝 居がかりで粗末ながら大道具は金襖や夜桜などの書割、幕が明くと口上につれて太夫お目通り、 お定まりの衣紋流し、扇子止め、羽子板の曲、大小の独楽の扱いは多年の手練、一尺八寸の大独 楽を手先で回し、中から十数個の独楽を取り出し、舞台に置くとそのまま回る手先の早業、これ らは前芸。  一尺の提灯独楽、心棒を引き上げると二尺余りの長提灯になったり、正面に四方開きの花万灯、 独楽が欄干づたいにその中へごとりと消える。万灯はパッと開いて真白な鶏に変ったり、まずこ の種の華やかな芸当、その間にちょいちょい得意の早変り、水芸には女の弟子が二人左右に並ん で、独楽を使いながら扇子の先や独楽の心棒から盛んに噴水、私は見ないが水中飛込みの早変り も藤治の十八番。  大切りには宙乗り所作事、奴凧《やつこたこ》や雷公が呼び物、もちろん本衣裳で振りも確か、奴凧の狂いな どはらはらさせた。それが花道上から舞台上の幕霞へ消えたと思うとたちまち変る裃姿、大独楽 を手にして舞台に立つその速さ、さすがに早変りの名人といわれただけに超高速度、当時の見物 は全く堪能した。    憲法発布祝祭の大象       凄い見世物「猛獣曲芸会」  全市沸き返ったような憲法発布祝賀祭(明治二十二年二月)の当日、歓呼に賑わう町々を、泰然 と練りまわった小山のような巨象一頭、華やかな掛衣に飾られ、背には印度《インド》式の輿《こし》に唐人服の男 が三人、警護の一隊も更紗《さらさ》の唐人服で三、四十人、チャルメラを吹き立てて浅草から上野公園へ のそりのぞり。  この大象は当時浅草仁王門前、弁天山の空地で興行中の呼び物、太夫元は大阪の吉田卯之助氏、 それを馬道七力町で借り受けて華々しく押し出し、東京っ子をアッといわせた珍趣向、全く当日 の圧巻であった。ことに七、八年も飼い馴らした太夫さん、群衆を見ると大きな声で御挨拶、心 得たものだ。然るに惜しいかな、その後二年ばかり、東海道を巡業中、渡船が沈んで溺死を遂げ た。  続いて二十六年四月、浅草観音の開帳に際し、私の父が買い取ったのは牝の小象、と言っても 体重四、五百貫、身長八尺以上、吉田氏の大象を使った熟練の若者を頼んで芸を仕込み、相当呼 び物になったが開帳後、やはり吉田氏の仕込んだ虎と豹を加えて名も恐ろしい「猛獣曲芸会」、 六区の青木の小屋(今の大勝館の場所)で興行。当時洋画家から新俳優になった水野好美が油画 の看板は写生的の凄いもの。  象の曲芸は碁盤乗りや乱杭渡りが主芸、虎は屈強の若者と真剣の相撲、檻の中ではあるが猛然 と立ち上って人間と組打ちは、観客も驚いたが実は八百長、それでも最初は数ヵ所|咬《か》みつかれた。 豹は火の輪を抜ける物凄い芸当、これも油断のならぬ奴で、ある日使い手の頭へ咬みつきニヵ所 歯を立てて血がほとばしったが、気丈な男ですぐに繃帯したままその日は押し通した。ともかく 当時の興行としては破天荒、和製のハーゲンベックがすでに四十年前にお目通り。    南洋最初のお客様       猛獣の曲芸にびっくり  今は日本の委任統治で朗らかだが、昔は食人種などと脅かされた南洋諸島の一つ、トラック島 から明治二十五年の夏、王弟サンミとその従弟の両人、南洋貿易の小美田氏に伴われて遙々来朝、 東京見物のそのついでに拙宅へも御入来、恐る恐る款待したが、南洋からのお客様はけだしこれ が初もの。  サンミ王弟は年の頃二十六、七、磨きのかかった赤銅色、体格もがっちり、態度も鷹揚、ギロ リと光る眼つきは凄いが王弟だけにどこが備わる威厳。従弟の方も二十四、五、小柄でハイカラ、 頭髪も七三に分けて気の利いた好青年、両人とも肩から胸へ斜めにかけた革帯へ、丸形の飾りが 五っ六つ、これは部族同士の闘争に、敵を屠《ほふ》った数だけの勲章と、いわれを聞いて少々びっくり、 但し御両人そんな気振りもなく、ただニコニコと愛想よし。  縞ネルのシャツに、同じく腰巻、外出には例の白布を頭にくるくる、はだしは遠慮で短靴、と いった風俗で浅草公園をひと巡り、物見高い群集に案内役の我々大閉口。ようやく切り抜けて六 区に出で、当時興行中の猛獣曲芸を見物、初めて見る象や虎にびっくり、虎と人間の凄い組打ち、 火のついた輪をくぐる豹の勢い、さしも勲章だくさんの猛者も、双方から私にしがみつくなど顔 に似合わず可愛らしい。  初日前の常磐座、空っぽの舞台を見せてこれが劇場とおぼつかなくも説明。申しそびれたが、 実は意外にも両人英語が巧みで、とうてい我々などの相手でない。米国にでも留学したかと疑う ほどのハイカラ、あやしい通弁も半ば察しての応答、随って晩餐も和洋折衷で大気に入り。  どうやら一日の案内を済ませたが、このとき珍客の置いて行ったお土産が、なんと大きな椰子 の実五つ。    チャリネ曲馬の渡来       菊五郎が当込みの珍浄瑠璃  外人サーカスでまず眼を驚かしたのが、伊太利《イタリー》チャリネの曲馬団。明治十九年の夏、神田秋葉 の原で最初の興行。一行は、英、米、仏、伊各国の芸人五十余名、象、虎、獅子、大蛇を始め十 余頭の馬匹、猿犬の類ひととおり揃った動物園そっくり、自己所有の汽船へ飛び込んで世界中お し回るという大がかり。  数千人を容るる大テントの中央、円形の演芸場、それを取り巻いて雛段《ひなだん》の観客席、夜は石油の 大カンテラを無数に点じて昼を欺《あざむ》く。黒ん坊の楽師十余名の奏楽で実演。フロック姿のチャリネ 氏は体格偉大の男、堂々たる挨拶振り、演芸は少年二名の目まぐるしい器械体操式|軽業《かるわざ》に始まり、 妙齢美人馬上の妙技、小形の馬車へ犬を乗せて大猿の馭者、一本足の大男が美人の肩に乗って危 ない逆立ちなど大愛嬌。  呼び物は象の曲芸、ビヤ樽に乗って音楽に合せ前脚の鈴を鳴らし、ぐるぐる回って後脚でチン チンなどひやひやさせる。つづいて虎三頭の火焔抜け、毛並の揃った馬四頭がチャリネの揮《ふる》う鞭《むち》 によって緩急の足取り、左右交互に入り乱れての駆足、最後に後足を揃えて立ち上り、全く調教 の妙を示した。そのほか人気者の道化師ゴットフリーが滑稽の間に、種々独得の妙技はなかなか の腕前、見物腹を抱えながら真に感服。  つぎに築地の海軍原で興行、このとき暴風雨のためテント大破で大痛手、最後は浅草公園六区 でこれも大入り、満都の評判につれ、錦絵や曲馬双六など数種売り出す。そのほか例の際物好き の五代目菊五郎、さっそく十一月の千歳座で大切りの浄瑠璃に仕込み、みずからチャリネ、一本 足、象使い、虎使いの四役に扮して珍妙な所作事、いかに名人でもいささか恐れをなしたが、こ の時の名題がいっそう珍妙、曰く、「鳴響茶利音曲馬」。    民間最初の水族館       浅草瓢箪池掘下げの珍獲物  浅草公園六区の瓢箪池《ひようたんいけ》を、現在のように改修のため、明治二十年ごろ池底を掘り下げて行くと、 意外にも赤ニシや法螺《ほら》の貝が大小数十個現われた。大きいのは二尺ぐらいの色美しいがっちりし た赤ニシ、一尺以上の法螺の貝など山伏のほかに見た人もあるまいと思わるる珍品。  その貝類から思いついて、二、三の人々が計画したのは民間で初めての水族館、場所は今の三 友館のある一角で、鉤《かぎ》形に百余坪の平家建て、入口の作り庭に件の貝類をことごとく飾りつけ、 館内はすべて岩組の海底のさま、当時|漆喰《しつくい》細工の名人と知られた伊豆の長八が鏝《こて》先の腕を揮《ふる》って、 さながら真物の岩窟、その両側へ所々ガラス張りの魚槽を設け、品川沖から船で海水を運んで放 養したのは、鯛、黒鯛を始め、河豚《ふぐ》、コチ、アナゴ、マンボウなど海魚の数々。  水族館の名も耳新しく、開館早々たいした景気、まだその頃は上野の動物園にも金魚や緋鯉の 「魚のぞき」が、やっと出来たくらい、海の魚は初めてのお目見得。カレイの砂もぐりや、海蛇 の凄い恰好など、見物は大喜び。然るに追い追い暑気に向って肝腎の魚類は続々たおれる。補充 はつかず鯉や鯰《なまず》で埋め合わせる。いっこう珍しくないので客は減る、一年足らずでとうとう閉館 の悲運に接したわけだが、ともかくも水族館の実質を世に紹介し得たのは、例の赤ニシや法螺の 貝のお蔭。  その後二十四、五年ごろ同公園第四区へ立派な煉瓦造りの常設小屋ができて、陶器の五百羅漢 を陳列、細工はよいが観音さまと違って信心の参詣、いや見物人は少なく、一、二年後に入れ替 ったのが第二水族館、余興まで加え鳴物入りで騒いだが、やはり肝腎の魚類に見放されて、後に は余興専門の興行、それが進んで当今全盛のレビュー発祥の舞台となって、五百羅漢の霊場まっ たく型なし。    ジオラマとパノラマ       間がぬけた桜田門外血染の雪  洋画もまだ油絵とばかり一向理解されなかった頃、即ち憲法発布の翌年明治二十四年のこと、 突如として現われたのがジオラマとパノラマ、聞く人ことごとく一体それはなんですえと目をパ チクリ。  つまりは油絵の大きいので、ジオラマは浅草公園の花やしき、幅二|間《けん》ぐらい、縦七、八尺のも の、画面は宮中の憲法発布式、聖駕御巡幸、ほかに桜田事件の水戸浪士愛宕山の会合、桜田門外 血染の雪の都合四面、愛宕の会合は人物風景真に迫って好評、いずれも山本芳翠画伯の作だが、 桜田門外は斬合いの姿勢なんとなく間が抜けて必死の勢いが見えぬと不評。  この失礼な批評を画伯に告げると「日本画なら、あの斬り込む手や、踏ん張った足など多少長 く描いて勢いをつけるが、洋画では正確な寸法で行くから烈しい勢いが現わし難い、しかしいか に必死でも手足の寸法が延びるわけはないよ」と、いわれを聞けば御もっとも。  翌二十五年から工事にかかったパノラマは公園六区の空地、画家は五世田芳柳氏で、米国の南 北戦争、円形の大建物で内部は高さ七、八間、周囲約六十間へ一杯の大画面、絵具の樽を車で持 ち回るという騒ぎ。  やがて開場となると観客殺到、これが入口から三、四十間は暗闇の長廊下でまごまごしながら 階段を上り、中央の観覧台へ出るとパッと明るく、物凄い戦場が眼前に展開する。観客眼を見張 って「ウーンこれがパノラマか」と初めて合点、上野公園にも彰義隊激戦のパノラマが出来たが 二の矢は利かず、さびしく終った。    大評判の風船乗り       初めて見た空中の離れ業  風船といった軽気球、民間ではまだ珍しかった明治二十三年の十一月、英人スペンサー来朝、 最初は横浜、次は上野公園で初飛揚、花火から出た風船と違い実際当人が搭乗、何百尺の高空か ら落下傘で降りて見せる本当の離れ業、物見高い東京ッ子はこの噂で持切り、魂は早くも天外に 飛ぶこと風船以上。  上野公園の会場は博物館構内の広場、紅白の幕を張って市中音楽隊の奏楽、風船は瓦斯《ガス》を含ん で中央に繋留され、すべて、その頃としては文化的新風景。普通二十銭の入場者はもちろん、場 外の人出も多く公園一帯大賑わい、いよいよ搭乗の時刻は迫る。当のスペンサー氏は年の頃四十 前後の壮漢、普通の背広姿で、無造作に気球の下の横木へ腰かけたまま風船はみるみる昇騰、見 物|固唾《かたず》をのんで見上ぐる五、六百尺の高空、ぽんと離れて間もなくパッと開いた落下傘で悠々降 下。  無事に付近へ降りたと見えて、迎えの綱曳き車で会場へ帰着、大喝采で首尾よく終了。その後、 二重橋外で天覧に供したが、その鮮やかな妙技に満都の評判は大したもの。  翌年一月の歌舞伎座では先代菊五郎がこの風船乗りの浄瑠璃、万事スペンサー写しでこれまた 大受け。そのほか風船の花簪《はなかんざし》、風船あられ、ゴム風船や紙製のパラシュートなど、一時は風船 ずくめ。  二年ほど過ぎて第二の風船乗りボールドウィンが来た。これも上野と中洲で二回の興行、気球 には松薪の煙を満たし、黒煙を吐いて、見た目は悪いが純然たる軽業式で、昇りながら両足で逆 さにぶら下り、または横木へ立ち上って梯子《はしご》乗りの如き離れ業を見せた。  ほかに前芸として、五、六十尺の櫓《やぐら》からもんどり打って飛び降り、網の上にすっくと立つなど 全く見ものであった。近頃の飛降り自殺はこう鮮やかに行かない。    初見参の拳闘と西洋相撲       花相撲へ加わった米人の大関  拳闘が初めて日本へ来たのは明治二十年の春、レスラー即ち西洋相撲も一緒で米国力士の一行 十余名、同地で相当叩き上げた日本人の力士浜田常吉が肝煎りで、力士の大関はウエブスターと いう図抜けた大男、まず常陸山に輪をかけた立派さ。木挽町三丁目の空地(今の歌舞伎座付近) で天幕張りの興行、物珍しさに前景気は素敵。  拳闘がスパーラー、相撲がレスラー、土俵はむろん床張りで十畳ばかりの広さ、私は拳闘の方 はよく覚えぬが、なにしろ日本での初物、ことに名も知れぬ外人同士の試合、まず判らずじまい。 相撲も結局同じことだが、これは両力士が同体に倒れながら上になり下になり、床へ肩を押し付 けるのが最後の勝負とあって、双方肩を気にしながら上を下へと揉み合う有様はむしろ柔道式、 華々しい日本の相撲を見馴れた目には、ただもぐもぐと埒《らち》の明かぬこと夥《おびただ》しい。  やっと相手を取っちめて肩が床につくと審判が呼子の笛、「かたがつく」とはこのことかと見 物一同ほっと息。次もまた同じくもぐもぐ、見る方も肩が張って寝ころびたくなる。第一、声援 したくも名は知らず、そのうえ一勝負に二、三十分もかかるので好い加減くさくさ、気の短い東 京ッ子には不評判で、私の見た日も桟敷はガラガラ、幾日も打たずに引き揚げた。後にも先にも 西洋相撲はこの一回きりだが、拳闘は近来大流行、全く時代が違う。  ウエブスター一人は後へ残って、その偉大な体格を呼び物に日本力士と合併、当時秋葉の原で 興行の小錦剣山等の花相撲へ出場、力量は凄いが手業が鈍いので、幕内の中堅あたりにはよくな められた。そこで愛嬌に三段目以下が五人掛りなどで遠巻きにわいわい。当人はフウフウいって 追いまわす、手もなく布袋の唐子遊びに見物大喜び。    映画の初興行と活弁       ヴァイタスコープ時代から  今全盛の活動写真、初めはヴァイタスコープとかいって明治二十六、七年頃。しかしそれは函 の中にガラス写真の人物が動くのを上からのぞくだけ。私の所へも持ち込まれたが、僅か二人ず つのぞくので興行価値に乏しいため、相談に乗らなかった。  その後、三十年二月頃と思う、歌舞伎座で活動写真の興行、これは映画式で私も招かれ、初め て活動にお目にかかった。  主催者は新橋際の吉沢商会河浦謙一氏、映画はすべて実写ばかり、まず「桑港《サンフランシスコ》金門の風景」、 波を蹴って入港する大小の汽船、海岸数ヵ所の絶景、船客の上陸、つぎは「市中火災の実景」、 消防隊の出動から高層建物の延焼、蒸気ポンプの活動、救命梯子の応用、避難者の雑沓《ざつとう》、すこぶ る凄惨の場面を見せ、つぎに「米国独立祭の賑わい」で楽隊を先頭に種々の行列、式場の広場、 市中の盛況など、実地に臨むが如く、観衆全く我を忘れた。  無論まだ活弁はいない。ちょうど米国帰りの十文字大元氏(代議士十文字信介氏令弟)が無理 から頼まれての説明役、実地には通じており、弁はよし上々の出来で大喝采。これが恐らく東京 における活動写真の初興行で、珍しいのが手伝って連日満員、その後は神田の錦輝館を振りだし に、追い追い新手の活動館も現われたが、もっとも当事者の悩んだのは適当の説明者のなかった ことだ。  大元氏はもちろん一度限り、その後これに代る説明者が急には見当らず、困った末に吉沢商会 にいた江田不識という書生肌の若い人を無理往生に専門の説明者。弁舌明快にして風采もよく、 飛んだ掘りだしもの、この人の成功に追い追い弟子もでき、後に知名の弁士になったのもある。 いわば江田氏は活弁の祖。    公園名物撃剣試合       折々見えた剣豪榊原健吉翁  浅草公園六区の前世時代、今の電気館のあたり、小屋がけながら常設の撃剣道場。実は観世物 式の興行、角の櫓《やぐら》に紅白の吹流し、太鼓、法螺《ほら》の貝でブウブウドンドン、いつも景気よくはやし 立てたのは当時公園の一名物、剣術は飛入り勝手で、珍試合の続出に哄笑爆笑の連続、いやもう 賑やかな道場。  この道場の主人公は榊原健吉門下と称する野見某、愛嬌のある禿頭の老人、これが行司役で飛 入りの扱いは馴れたもの。嫁か娘か二十三、四の美人がいて、薙刀《なぎなた》と鎖鎌を使う。飛入りは非番 巡査や近所の若者、または他の道場の生兵法《なまびようほう》連中、三番抜きに手拭一本の褒美を無二の光栄とし て汗だくの奮闘。少々|手強《てこわ》しと見れば、例の美人がたすき鉢巻かいがいしくお相手に現われる、 満場緊張。  薙刀でも鎖鎌でもお望み次第、どっちにしても多寡《たか》が女と侮ると大違い。薙刀なら向うずね、 鎖鎌なら竹刀《しない》をからめ寄せて鎌で首、たいていはいい加減にあしらって片づける鮮やかさ、全く 心得たものだ。  中には女と組打ちも妙だろうと竹刀を捨てて組んで行く不了簡、ひどく押えられてお面を取ら れ、バアという顔つきで「参った」。負けたてれ隠しに見物と一緒になって大笑い、武術もこう なると全くお慰み。  この小屋へ榊原健吉翁もおりおり姿を見せた。彰義隊にも加わって有名な幕末の剣豪、当時下 谷車坂の通りに道場があって、盛んに門弟を養っていた。これが骨格たくましき偉男子と思いの ほか、小柄で赭《あか》ら顔のただの爺さん。まだチョンまげも切らず細いのを大切につるつるの頭へ載 せて、大きな紋の黒の羽織に茶縞の袴、さすがに鍛えた身体は年を取ってもしゃんと来い、いか にも強健らしい正面の椅子に泰然と構えた姿、あれが榊原先生だと一同敬意を表してじろじろ。    グロ見世物ぞろい       不気味な蜘蛛男やら大女やら  両国時代のグロ見世物に、鶏娘、鬼娘|乃至《ないし》は放庇男など一代の評判、明治になってはさすがに この種の新珍も現われなかったが、時にはより以上の奇物もないではなかった。十一、二年頃か ら二十年頃まで、浅草の奥山はじめ市内各所のお開帳などに必ず出現して大当りを取った蜘蛛男《くもおとこ》 がそれである。  年齢はそのころ六十前後、禿頭に小さなチョンまげ、派手なメリンスの衣裳、顔は大人なみの 爺さんだが、身の丈はせいぜい二尺五十、細い両手は指までが寄せたようにくっついて、足も三、 四歳の赤ん坊ぐらい、容貌にも動作にも、なんとなく愛嬌があってすこぶる元気、しゃがれ声で 歌も唄えば踊りも踊る。あまり気味のよい恰好でもなし、気の毒な身の上と思えば喜んで見る代 物ではないが、当時はなかなかの評判男。  つぎは十七、八年頃の奥山時代、観音堂裏の見世物街に、臍《へそ》で煙草をのむ女、芳紀まさに二十 二、三、白粉《おしろい》べったりのおいらん姿、太夫お目通り相済むと、床几に腰をかけ胸をひろげて雪の 肌おしげもなく、れいれいと臍を現わしたもの、付添の口上が朱羅宇の長煙管に煙草を詰め、火 をつけて差し出すと当人その吸口をお臍の穴にあて、スーッと一服、たしかに穴から煙が出る。 つづいてガラスのペコンペコンという奴を鳴らして最後に玩具のラッパをブウブウ、こうなると 臍も無駄でない。  二十二、三年頃の公園六区に希代の大女が現われた。看板には本人の立姿と土俵入りの図、木 戸口に爼板《まないた》大の駒下駄と畳一畳ぐらいの大かごを飾り、まずその図体の大きさを想わせる。釣り 込まれて飛び込むと本人は身長六尺二、三寸、年齢二十七、八歳、目も鼻も腫《は》れぼったいほど肥 りに太った大女、芸といっては土俵入りに手振りあやしき相撲甚句ぐらいで、総身に知恵の回ら ぬらしいももっとも千万。    菊人形は明治の産物       団子坂の全盛時代を回顧す  文化文政ごろ巣鴨に起った菊細工、明治の初年、駒込|団子坂《たんござか》に移って初めて大かかりの菊人形、 その年々の歌舞伎狂言を生写し俳優の似顔からセリ出し、回り舞台の大仕かけに人気を呼んで、 二十年頃の団子坂は狭い坂道を押すな押すな、十数軒の常設小屋が隙間なく立ち並んで、秋の人 気を集めたもの。  細工はりゅうりゅう、これが植木屋の手に成るかと思うほど器用な仕あげ、もっとも首や手足 は人形師のもの、まず胴体を竹で組み、人形師から回った図案によって恰好をつけ、根付の小菊 の根元を胴へ一々差し込み、色とりどりの花の小枝を一本乃至一花ごとに竹の胴へ結びつける。 人形一個に三、四日もかかる面倒な仕事、そのうえ一日置きに仁木弾正でも政岡でも首手足を取 りはずして、菊の根元へ水を飲ませる。  人形は当時有名の安本亀八を始め、山本福松、竹田縫之助の細工、出来栄えはむろん亀八が一 等、いずれも木彫で本鬘、亀八はみずから俳優の宅へ通い、木型を造って似顔を取る。それを写 して桐の木に彫り上げ、十数遍の胡粉仕上げで、最後の肉色が特殊の技術、出来上ると花川戸の 本職に回して一々本当のかつらを着せる。首だけを見ると、団菊でも半四郎でも生けるが如く、 少々不気味。  人形のほかに昔ながらの花壇、上花の中菊で名種を選み、一種七、八株を寄せて竹を立て麻糸 で綾につなぎ、花の位置をきめながら一本ずつ立てて行くその仕事は、また人形以上の手際を要 する。これへ市松の障子を覆せ、青竹の手摺をめぐらし、銀砂を敷いた様子は、全く菊花の豪華 版、鬼一法眼ではないが菊は花壇に限るもの、人形と来ては実のところ明治の産物ながら全く俗 趣味。    猛犬相撲の珍與行       かみ合いぬきで大不評  地方で盛んに行われた闘犬、ことに土佐は本場で自慢の名物、それを東京へ持ちだしたのは明 治二十二、三年頃、本郷座の春木座時代、珍しい犬の相撲とあって前景気は大したもの。立派な 番付もできて横綱から三役以下、いずれも高知の素封家連が秘蔵の名犬数十頭、堂々と乗り込ん だもの。  相撲といっても無論かみ合いだ。見なれぬ我々は少々不気味で、恐る恐る行って見ると初日満 員の盛況。然るにその筋でも、本当の噛合いは観覧物として相成らぬと俄かに厳命。これには興 行主も面食らって、せん方なしに力士へは一々革製の猿ぐつわをはめることになり、やっと許可 になって初日をだしたという訳、真の闘犬好きは大失望だが、我々は内心助かったと思いつつ入 場すると、楽屋から聞ゆる猛犬の声、いり乱れて物凄く、今にも飛びだし来るかとびくびく。  拍子木の音、まず幕内の土俵いり、両花道から二、三人がかりで引いて出る土佐生粋の猛犬ど も、首には美しい小型の化粧まわし、鏡岩とか明石潟とかそれぞれ立派な関取名前、口には例の 猿ぐつわ、それでも相手を見てお互いに吠え立つる勢い勇ましく、それが済んでいよいよ取組み。 本式の呼出しがあって、舞台の左右から白斑赤ブチの力士のそのそ登場。  双方綱をはずして行司がうしうしケシかける。両力士たちまち飛びかかってかまんとしても、 猿ぐつわ互いに焦《じ》れ込んで揉み合うばかり。やっと捻じ倒して勝負はあったが一向栄えず、次も 次もこんな工合で闘犬の味はさらになし。我々にしても根っから張合いのないくらい、従って評 判たちまち不の字となって見物がた落ち、せっかくの珍興行もさんざんの終り。    浅草蔵前の女人形       十二階出現までの大見世物  奇抜な見世物も多いがこれらは特別、明治十二、三年ごろ浅草|厩橋《うまやばし》の近所、蔵前へできたハダ 力女の大人形、高さ三丈余り、人家の屋根越しに乳から上がヌッと出て肌色の漆食《しつくい》塗り、あまり いい恰好ではなかったが思い切った珍趣向と、呆れながらもぞろぞろ見物、エロの利き目は今も 昔も。  木戸を入ると腰巻然たる赤い幕を潜って膝の辺から体内へ、ゲラゲラ笑いながら上って行く。 腹のあたりに十ヵ月の胎児の模型、もっともらしく説明が一とくさり、御順に上って頭のてっぺ ん、三っばかり窓があって四方を見晴らす。高場所のない下町の人間は珍しがって硼いたものだ が、一年ばかりで止めたらしい。これが高い所へ登らせる見世物の始めで、おつぎは明治十七年、 下谷の佐竹ノ原にできた大仏さま。  大仏は高さ四丈八尺、これも土台は竹組みで漆食塗り、前のハダカ女と違って顔も恰好も立派 なもの、そのはずである。当時、興行者が高村光雲先生に原型を頼んで念入りの細工、大きさと いい姿といい、全く奈良からお引越しの体、見物は膝から上って手のひらへ出られる。見あげる と蟻のようにぞろぞろ、頭の窓からは上野や浅草が手に取るばかり、体内には古物の展覧と闍魔《えんま》 さまの像、四、五月頃の開場で相応の人出であったが、その年九月の大荒れで無慚や大破。  三度目が明治二十一年、浅草公園の六区に出現の富士、木骨石灰塗りで高さ十八間、さすがに 高いがその無恰好は女人形以上、なんだ|さざえ《、、、》の化物かとけなしながらなかなかの登山客、これ も二年と経たぬうち禿山となって取り崩し。  最後が例の凌雲閣即ち十二階、二十五年落成、株屋の福原某が発起で英人の設計、高さ三十六、 七間で富士山の倍、但し六区のである。ところが昇降機はあっても使われず、階段づたいに初手 から失敗、そのうえ二十七年の地震に罅《ひび》が入って鉄のタガ、煙突式の図抜けたノッポに持て余し の形であったが、大正の震災にポキン、これにて高い所へ引張り上げる興行物はひとまず打止め。    煙草が化して桜並木       名流喫煙家の癖さまざま  趣味的に煙草を愛したのはやはり煙管《きせる》や煙草入れに凝った時代のこと、紙巻煙草の全盛から、 追い追い実質的、習慣的の嗜好品と成り下って、ただフカフカやるだけの、専売局御用の愛煙家 ばかり、その中でお話になりそうなのを二つ三つ。  洋家具製造の先覚者故小林義雄氏は、常に上等の葉巻を手から離さぬ。一日に何本いりますと 聞くと、たいてい七、八本、多い時は十本との話、一ヵ月百円内外となってまず当時の大関であ った。そのころ例の岩谷松平氏も年中葉巻をくわえていたが、これは火のついたのを見たことが ない。看板か体裁か、とにかく経済的の愛煙家、もっとも煙草は商売であった。  故大隈侯は金口であったが、首相時代官邸へ訪問したその面談中、手にした金口のエジプト煙 草を一口も吸わずに例の雄弁、そのうち煙草は灰となって火は指先に迫る、こちらは気をもんで 注意すると、ああ左様かと捨てる。傍の山崎秘書官がまた新しく一本つけて渡す。それもまた談 論のうちに灰となる。たちまち二、三本は無駄にした、大変な愛煙家もあったもの。  骨董商の好古堂先代中村作次郎氏は大の喫煙家であったが、健康上、断然禁煙し、以来十年間、 煙草代として積んだのが八百余円、その金で不忍池の周囲へ四百本の桜を植えた。今も繁ってい る、奇特というべし。  故田山花袋氏は敷島を半分吸うと火鉢へ突き差す。たちまち吸殻の林立、もったいないが末の 方は不味《まず》くて吸えぬといわれた。これに輪をかけたのは加賀の友人で、敷島を一本ずっ指で押し て見て巻き方がわるいと元の袋へ逆戻し、ちょうどよいのをよりだして吸う。一袋に半分もない、 かくして巻き方の気に入らぬ奴が幾袋もたまると、友達に「どうだ半分値に買わぬか」と、それ でも喜んで買う人があったから世の中は広い。    五大橋時代の旧観       文化に追われた橋詰風景  五大橋といった大川筋の橋々、現在とは位置も変れば町筋も違う。随って昔のおもかげは明治 半ばにおおよそ退転、まず旧|永代《えいたい》は無論木橋でやや上流の箱崎町寄り、橋の上から下流を見ると、 まだ月島の埋立地はなく佃島《つくたしま》だけで、今よりもよく海が見えた。下流の真ん中に、商船学校の練 習船大成丸の白色三本マストの颯爽《さつそう》たる姿。今に残る日本銀行最初の赤煉瓦が左の橋詰、右方は 江戸川通いの汽船発着所、橋を渡れぽ深川佐賀町の正米市場、 一方は相川町から熊井町の漁師町、 バカの剥身《むきみ》がこの辺の名物。         *  両国橋も以前は吉川町通り、橋手前の広場に葭簀《よしず》張りの茶店や麦湯の行灯、橋向うは細い横町 を抜けて突当りが回光院《えこういん》の表門・橋詰の左の角にデロレン祭文《ざいもん》の常小屋、正面の高座に法螺の貝 と錫杖《しゃくじょう》で二人の太夫・客は勝手に入って腰掛で聴く。ときどき銭を集めに来ると客は逃げ腰。 つづいて牛肉の港屋、洋風三階建てはいいが、店頭には猿や狼がブラ下っていわゆるモモンジイ の昔を偲ぶ。この河岸通りの端が有名な貸席井生村、中村の両楼、大きな建物は岸に臨んで紅灯 の影|賑《にぎ》やかに、夜の大川に風情を添えた。  新大橋は浜町側の突当りが万千楼という三階の料理屋、当時の主人は大関綾瀬川という名力士、 橋の袂《たもと》は例の八ツ橋団子、深川へ渡ると狭い道が右と左、右は六間堀から高橋通り、左は八名川《やながわ》 町、その角に消防最初の古風な火の見|櫓《やぐら》が眼についた。  厩橋《うまやばし》は今の梅若の前通り、橋の上からお能の囃子が手に取るように聞え、一方駒形寄りの河岸 には魚十という相当繁昌の料理屋、橋向うは淋しい商店がぱらり。         *  吾妻橋《あづまばし》は鉄橋の魁《さきが》け、左の橋詰に伊豆熊という安価の鰻屋、総二階に客がいっぱい。花川戸の 角に六地蔵、付近は鼻緒問屋が軒並び、右側は釣竿屋と酒屋の倉島、本所側は佐竹侯の旧邸(後 に札幌ビール)から枕橋、中ノ郷には瓦屋の煙、花時以外は淋しかったが、橋から眺めた向島の 土手は今より風流、蘆の葉隠れに渡し船の桟橋、絵に浮く都鳥のような姿も似合わしかった。    心細い紅葉の名所       風流の名残り大岡氏の別荘  秋の紅葉も東都は古来貧弱、川柳で知られた下谷の正灯寺は江戸の昔とっくに形なし、端唄で 聞えた海晏寺《かいあんじ》、王子滝野川、角筈十二社、少し離れて真間の弘法寺など明治時代に持ち越したが、 いずれも評判ほどの眺めもなく、今日にては全く噂にも上らぬ有様、交通の便は日光、塩原など の本場へぞろぞろ。  海晏寺は後園の上、落ち着いた景趣はあるが狭い場所へ床几を並べて茶亭が一軒、老木数株の 紅葉を眺めて、はい左様ならというくらい。王子は不動院の境内を抜けて弁天池のほとり、音無 川の清流をはさんで、ちょっと山間らしい場所、流れに臨んで掛茶屋もあり、橋を渡れば料理屋 もあった。まず近郊の紅葉としてはいささか名所らしく見られたものの、交通不便の当時は市内 からちょっと億劫《おつくう》で足が向かぬ。  よくよく閑な風流家が枯野をかけて紅葉狩、ススキの種で造ったミミズクのお土産、竹の先へ ついたのを肩にしてぶらぶらの近郊巡り、まあそんな時代もあったと思し召せ。話は個人に移る が、明治二十六、七年ごろ・駒込|千駄木《せんだぎ》にあった大岡育造氏の別荘、広くはないが庭一面に大 盃《おおさかずき》という楓樹の林、霜に染むる紅葉の色は格別の美しさ、毎年知人を招いて観楓のむしろを開 いた。三十年頃には春畝公はじめ名士の来観、公も興に乗じ酔余健筆を揮って大喜び、風流韻事 もこの時代がお名残り。  赤坂新坂の寒翠園、明治中期の築造だが、三千余坪の庭園に大小無数の山もみじ。茶屋も六、 七席、秋は毎年茶道協会の観楓茶宴で有名、園主竹内氏は数年前歿したが楓樹の蒐集には相当苦 心、当時川端玉章翁も歎賞して、みずから写した実景図、彩色木版の一枚ずりが、今も好事家の 手に残っているはず。    小赤壁の風致没落       清親画伯のお茶の水夜話  根岸の里に鶯の初音、向島の田圃《たんぼ》に初蛙の俳味、そんな風流がいまどき通用せぬこと申すまで もないが、明治の中期以後、これらの風致区がどしどし滅却、文化の余勢とはいえいささか惜し い。  なかんずく市内屈指の勝景といわれたお茶の水、これはほとんど最後であったが甲武鉄道が飯 田町へ乗り込んで間もなく、破壊の手がお茶の水へ延びたのは二十八、九年頃。  両岸の絶壁は鬱蒼《うつそう》たる老樹の緑、神田川の間を貫いて、市中とは思われぬ幽邃《ゆうすい》気分、詩人はこ ぞって「小赤壁」と呼んだくらい。春は若葉、夏は緑蔭、月にも雪にも申し分なき絶好の眺め、 水流も今よりはずっと清く、ゴミ船などは通らなかったので、折々交人らしい舟遊びの客もあっ た。  そのうち工事が始まって惜し気もなく樹木の伐採、絶壁の切崩し、ああ時世なるかなと思った が、一、二年後にはお茶の水駅を終点に汽車の開通、小赤壁もこれで形なし。  ついでに画伯小林清親に聞いたお茶の水夜話、「全くさびしい所でね、僕の青年時代、御一新少 し前の話だが、夜は辻斬りが出るという噂《うわさ》、そのころ僕は下町に用があって遅くなり、夜に入っ て帰宅の途中がお茶の水、宵ながら人足絶えて真の闍、びくびくものでようやく中ほどを過ぎた 元町辺、ふと見ると向うに人影、闇に透かすと屈強の侍姿に、ハッと思ったのは例の噂、血気の 僕もいささかぞっとする。しかしこっちも武上の卵、小《ちい》さ刀に手をかけてこわごわながら近づく と、先も刀を押えて用心腰、いよいよ双方すれ違う途端、急に恐ろしくなって僕はパッと逃げ出 す。同時に相手も一目散、これで物別れは飛んだ辻斬りさ」と、話は少々漫画式だが、明治にな っても久しい間、この辺一帯、闇の夜道は無気味であった。    東京に残る名園由緒       とても盛大なる、石崎家別邸  名園として現存せる庭園の中に小石川の後楽園がある。旧水戸の邸跡で、今は陸軍省の保管で ある。頼房公時代三代将軍みずから図したるに、光圀《みつくに》公なおその好みにより朱舜水等の意見をも 加えて造らしめたので、舜水の命名による。  向柳原のもと松浦家の蓬莱園は文化文政時代に出来たもの、昔の沼地を利用して中央に大池を 開き周囲に勝景を造り、下照岡、初音の林、由縁ヶ磯などことごとく優雅な名称を付し、一々応 接にいとまがない。趣味尽きざる名園であるが、近年はその一部を小学校に寄付し、また近隣に 安建物が櫛比して湯屋や工場の煙突がそびゆるなど、幽趣は甚だしく損じられた。  札幌ビールの構内になった旧佐竹侯の浩養園も有名である。文政年間の築造で十一代将軍の好 み、水野出羽守に賜わったのが後嘉永の初め佐竹家に移った。奇石珍木をわざわざ三河その他か ら取り寄せ数奇を極めた構造で、夜光の桜、千代の井、白糸の滝など名物があり、池も相当大き く、幽邃の別天地を現わしていた。  最も雄大なものに本郷駒込岩崎家別邸の庭園がある。今は多少分割したが総坪十二万坪、旧柳 沢家の庭(六義園と称し約五万坪)を基としてさらに拡大されたもの。当時五代将軍綱吉の臨ん だ建物林泉も残っていて、例の浅妻舟の舟遊びの跡という大池を中心に、千川上水を引き、山あ り森あり規模の大なるは、かつて日露役の凱旋に際し東郷元帥以下毎日数千の将士を招き、園遊 会を催した時にも、賑わったのは園内のほんの一部に止まり、他はほとんど人影も見ぬくらいの 静寂さであったのでもおよそ知られることである。  大隈会館の庭園、清住公園になった岩崎家深川の別邸、赤坂竹内家の寒翠園など有名である。 なかんずく岩崎家の庭園は、故川田小一郎氏の監督で船便を利し、各地より取り寄せた大石奇岩 もおびただしく、大規模の設計である。寒翠園は茶席が六室もあって、楓樹と躑躅《つつじ》とに富む。    悩まされた悪道路       銀座で田植えのポンチ画  復興後の市中の道路は、全く旧観を改めて、東京名物の悪道路を一掃したが、明治の末年まで はまだまだ往来安全とは行かなかった。二十七、八年ごろの銀座の大通りが馬糞と塵埃のカクテ ル、雨でも降ると文字どおり泥濘《でいねい》膝を没する有様、銀ブラどころの騒ぎでなかった。もっとも歩 道はでこぼこの煉瓦ではあったが、車道の横断などは鰌掬《どじようすく》いの足取りでやっとの思い。  当時の漫画家田口米作氏が銀座の真ん中で田植えのポンチを描いて某紙に掲載したくらい、場 末の町々は推して知るべしである。当時試みに尾張町二丁目の横町へ、アスファルトを使用した。 これが道路改良のそもそもであった。その後ぽつぽつ銀座の横町の歩道へ用いられたが、表面が 滑らか過ぎて雨や雪の日にはすべって歩けず、かえって泥道が安全だとは、負け惜しみのようだ が実際だ。  そのうえ山ノ手方面には急勾配の坂が多く、九段をはじめ湯島の切通し、神田の明神坂、小石 川の富坂などみな急坂で、道幅も今の半分以下、坂下にはルンペンの立ちん坊がいて、一銭ずつ で荷車や人力の後押し、見るも気の毒なほど骨が折れた。私は本郷妻恋坂の中途に二年ほど住ん だが、これも名代の急坂で、毎日荷車や人力車の一台二台顛覆し、時には大怪我するので、坂を 下る車を見るとはらはらした。  二十六、七年ごろ小石川林町から銀座へ通ったが、もちろん乗物はなし、しかも急勾配の坂が 六ヵ所、指《さす》ケ谷《や》はじめ柳町、本郷丸山、西片町、森川町、最後に明神坂を下って万世橋からやっ と鉄道馬車。降っても照っても以上の坂道を上ったり下ったり、それが今日では平地同様。交通 の便は雲泥の差、ラッシュ・アワーの混雑など、その頃の悪道路を思えばずんと我慢もしやすい。    秋葉の原昔話       チャリネ最初の興行  神田佐久間町の秋葉の原といえば、神田ッ子には思い出の多い遊び場所、元は火除地で火防の 秋葉神社が祀ってあった。方《ほう》二、三町の空地で、最初の貸自転車屋があり、借馬屋があり、花相 撲や軽業《かるわざ》もときどき興行、チャリネの曲馬も第一回はここで大当り、平素もなかなかの賑わいで、 明治二十一年鉄道構内になるまでは全くの平民的遊園地。  自転車は木製鉄輪で朱塗りの粗末な代物、三輪車、二輪車、そのほか達磨《だるま》と称する、一輪はず っと大きく後輪は小さいこれも二輪車、よく乗れたものだと我々はただ感心して見物、いつも三 輪車で我慢した。借賃は十分間二銭だが、たいていは二、三十分乗ってしまう。達磨の連中はそ れで市中へ押し出し立派に乗り回していたが、いま見たらあまり立派でもあるまいが明治十五、 六年の話。  借馬屋は原の西南隅で、軍馬の払い下げみたいのが四、五頭、馬場を四回まわってひと鞍が四 銭、主人は騎兵曹長の上りで初心者には丁寧に乗り方を指導。お蔭で私も初めて馬の味を知った が、最初は馬が心得て、三回もまわるとずるい奴はさっさと小屋へはいりかけ、一回誤魔化そう とする。大体、借馬は乗手より馬の方が利巧のようだ。あるとき外出の客があったが馬ばかり帰 って来た。さすがに主人も心配していると、後から乗手が泥だらけになって戻る、なんてえのが ちょいちょいあった。  チャリネの来たのは明治十九年の夏、人テント張りで篝火《かがりび》のような照明が昼を欺く。なにしろ 大がかりで動物園そのままの象、虎、ライオン始め見事な馬が十何頭、すばらしい曲馬や曲芸に 東京ッ子の眼を驚かして大した景気。十月ごろ築地の海軍原へ移って第二回、ここでは暴風雨に あってテント破損の大痛事。最後は浅草公園の六区でまた盛況、こんな工合で秋葉の原は最後の 賑わいを見せたが、二十一年貨物駅の敷地となって今はアキハバラ。    海岸と山手名所       洲崎から道灌山風景  江戸名所の名残りを一つ二つ。洲崎に遊廓のなかった頃は、同所弁天境内より東は一面に蘆荻 の生い茂った海岸。越中島も蘆でいっぱい、春の潮干も土手から下りて干潟がつづき、見事な 、蛤《はまぐり》の本場で、土手内はすべて海苔《のり》干場、これも洲崎海苔といって大判の上物、品は下ったが干 場は三十年頃まで残っていた。  洲崎の土手といえば下町の人の春夏行楽の一名勝。土手に接して小高い丘に弁天の社、境内は 広くもないが古木の松が海岸らしく立ち並び、社前に割烹店、表門を出て土手へ上ると晴々した 海の眺め、鏡ヶ浦は一望の下、房総の山々も藍色に霞み、大森羽田は右方に近い、葭簀《よしず》張りの掛 茶屋が二、三軒、花暖簾に甘酒の屋台、いずれも長い筒の遠眼鏡を備えて、眼鏡を御覧なさい、 お休みなすっていらっしゃい、と赤前垂の姐《ねえ》さんが客を呼ぶ。  転じて山の手方面では谷中《やなか》の諏訪《すわ》の台、諏訪明神社前の崖上、ここにも掛茶屋があって、入谷、 日暮里《につぽり》の田圃《たんぼ》越しに遠く隅田川、紫がかった筑波の姿まで眼界|広濶《こうかつ》、一碗の渋茶も嬉しい味、足 ついでに道灌山、明治の初年に法螺貝が昇天したという崖崩れの跡も、その頃すでに雑木の林、 山の中央にただ一本孤立したのが「争いの杉」という問題の名木、あとは一面の麦畑で盛んに囀《さえず》 る雲雀の声、この辺は風流向きの名勝。  日暮里側へ山を下りると、音無川に沿うて根岸から王子への一筋道、これが本当の田舎道で、 右方は際限のない田圃の遠見。道の片側に、 一、二軒ずつの茅葺《かやぶ》き屋根、中には噴出しの井戸も あって御休処の小旗、埃まみれの汗を拭って井水に浸したトコロテンの一|啜《すす》り、なんともいえぬ 味があった。  川では子供らがめいめい畑から持って来た白瓜をかじりながら泳いでいる。今日のあの辺では 夢にも見られぬ田舎風景。    木場に残った江戸風景       今はそれも夢の跡  深川|木場《きば》は今でも材木の本場、鉄筋コンクリートにけおされて昔のような景気はないが、板割 を扱うハガラ屋、カク材を主とする角問屋とあってこの角屋に出入りする川並《かわなみ》という人夫、竹の 長カギ一本で大きな材木の上げ下ろし、ヤレエンヤラヤーと声を揃えて堀の中で働く姿は最後に 残った江戸風皇尽。  材木堀や川筋に到着した大角小角を、サンドリに積んだり、筏《いかだ》に組んだり、長鉤一本で自由 自在、客があれば番頭と一緒に堀へ行って、目当ての材木を引き出し、たった一本の上へ乗って 足でその角材をぐるぐる回して見せる。これが角乗りといって川並得意の芸、浮いている代物 だから下手《へた》をすると仰向けに自分がざんぶと水の中、そこでこの角乗りは平素練習を怠らなかっ た。  長鉤で調子を取って、ぐるぐると水車のように角を回す手際、いや、足際は全く鮮やか、鉤な しに腰で加減して回すのは先生株。ところで毎年大川出水の場合などはこれらの川並人足が、両 国、大橋はじめ橋々を固めて警戒するため水防組ができて、夏の初め新大橋の下流で出初の式を 行った。百余名の腕利きの川並が水防組の揃いの袢纏《はんてん》で、川中に繋いだ幾組かの筏の上へ陣取る、 式が済むと一斉に件《くだん》の筏の縄を切る、角材はバラバラと崩れる。その一本一本へ巧みに乗ってい て、そのまま角乗りに掛る。  消防の梯子乗りの格でいろいろの放れ業を見せる。足駄ばきで巧みに回すのもあれば、角の端 から端へ逆立ちで行くもあり、角の上へ三宝を置きその上で見事な逆立ちなど晴々しい水上の芸 当、それで袢纏を濡らさずに帰るのが自慢、木場年中行事の一つとして明治の中頃まで続いた。    交通地獄の元祖       筋違時代の閑寂気分  変れば変るもの、目まぐるしい帝都の発展に、先祖代々の東京ッ子も昔の赤毛布《あかけつと》よろしく、見 当のつかぬ市中の変化、明治の初年から二十年代の頃を思うと、さらに輪をかけた変化の跡が偲 ばれる。その夢物語の一場面、神田の真ん中、須田町界隈の珍風景をざっと再現。  市電の旧交叉点以北、筋違《すじかい》の見附《みつけ》跡、俗に|めがね《、、、》橋といった旧万世橋、それが東京一の大通り に架った石橋で、その手前二、三丁の間が全くの空地、緑したたる柳の立木が不規則に並んで、 その間を鉄道馬車ががたごとと通う。東は柳原の土手につづいて当時はほとんど片側町、橋向う には板橋通いのガタ馬車が客呼びのラッパの音、ほんとうに神田の真ん中とは思われぬ閑寂気 分。  夏場はここが車力や小僧さんの昼寝の場所、柳の下蔭には飴湯や枇杷葉湯、甘酒屋などが荷を 下ろして一ばい一銭の立売り、汗を拭き拭き飲んでいる人力車夫や行商人など、そのほかの通行 人にも唯一の休息地帯。その頃オムニバスという赤塗りの乗合馬車もここから両国方面へ往復。 すべてのんびりしたこの筋違の広場にも、やがて甲武鉄道の延長から赤煉瓦の駅舎出現、名代の |めがね《、、、》橋とり毀《とわ》しなど三十年頃からそろそろごたつく。  最後が電車の交叉点となり、郵便局や軍神の銅像など、凄まじい形勢一変。以来、銀座や日本 橋を出し抜いて雑沓の焦点、親知らずといえば須田町と合点さるる危険区域、交通地獄の元祖と なって大正の初め、青筋の腕章がそもそもこの須田町を皮切りにゴーストップの大骨折、噂に聞 いた欧米都市の交通巡査が日本に初めて出現の発祥地とは、筋違時代の昼寝の夢にも見なかった 大変化。    場末の夏は虫の声々       風流思いのままだった時代  市内でバッタを追い回した時分、少し場末では秋の虫聴きなどいう風流も白由で、山の手には 蛍や虫の名所も多かった。その郊外も今は新市域となって文化式の建物だくさん、虫といっては せいぜいコオロギにハタオリぐらい、縁日で売るクツワ虫や草ひばりなど、文字通り草を分けて 尋ねても影さえ見えぬは開けたもの。  お茶の水や江戸川端の蛍は知らぬが、駒込、田端、西ヶ原辺には夜ごとほたるの光り、それが 王子となると、本場で虫も一倍大きな奴がふわりふわり。明治二十年頃までは田端から道灌山へ かけては虫の種類も多く、がちゃがちゃのクツワ虫始めカンタン、草ひはり、バッタ、コオロギ、 キリギリス、但し鈴虫、松虫の類は専門家が作るので除外例だが、そのほかの虫にはたいてい聞 き倦きたものだ。  今の省線駒込駅の付近がまだ茅《かや》ぶき屋根の多かった頃、拙宅の垣の外は、やぶ畳に草原の未開 地。夏から秋の夕ベはさまざまの虫が競争で鳴き立てる。ことにクツワ虫のあの一匹でも喧《やか》まし いがちゃがちゃ声が無数に集まる騒々しさ、客があっても話が出来ぬくらい、よんどころなく提 灯を手にして虫退治、みるみる十匹以上毎夜のようにつかまえて、わざわざ遠くへ捨ててくる。 市内で買えばその頃でも一匹五銭、もったいないが、とてもうるさい。  坂を降ると西ヶ原つづきで一面の田、そこには蛍の群れが到る所にちらちら、真に見物であっ た。その後、根岸の御隠殿下へ移ったが、ここでも虫の音に聞きほれた。ジャズのようなクツワ 虫は幸いに少なく、品のよいカンタン、草ひばり、または鉦《かね》たたきなどいう類で縁日でも高級品 に属する方、カンタンなどは一匹二十銭以上、それがフンダンに鳴く、笊《ざる》を草の葉に押しあて、 上からたたくと、二十銭どこがたちまち何匹も手に入った。    昔の近郊滝めぐり       お客様を見てから水加減  夏らしく、といってもあまり涼しくない滝の話。我々の書生時代、涼を趁《お》うといっても、海は まだ羽田、大森でさえ開けない、上野や道灌山の森蔭へ行って寝ころぶくらい、さなくぼ近郊の 滝めぐり、目黒の不動、角筈の十二社、王子名主の滝、少し離れて等々力《とどろき》の不動、高尾の琵琶《びわ》の 滝、その頃は中央線も私設で八王子止り。  名所図会や江戸風景の絵本であこがれの滝の名所も、その実たいていはちゃちなもの、しかも 当時は交通不便で、途中の難儀はまた格別、まず目黒へ行って見ると、おやおや、これかという 情けなさ、いっそ等々力までと大奮発で、碑文谷《ひもんや》の畑道をてくてく、あまり道中の長いのに辟易《へきえき》 して途中から引き返したその暑さ、汗の方が滝となり、これがオドロキの滝でございと苦しい思 い出。  十二社は今より多少|幽邃《ゆうすい》であったが、滝は幅一尺あまりの樋から七、八尺の高さに落ちる、手 もなく溝のはけ日、到底この滝を浴びる勇気なし。つぎに高尾とくると事面倒、八王子からガタ 馬車、ゴロタ石の甲州街道を約一時間、横ッ腹の痛くなるころ辛うじて浅川村御着、あとは登り 一里の山道をてくって、左へ急峻な崖道を下ると琵琶の滝、山中の大道具も物凄く、一丈ばかり の滝の水はすこぶる清冽《せいれつ》、いざかかろうというところへ滝番に伴《つ》れられた一人の狂女、大暴れで 滝つぼへ抱き込まれるその顔色の凄いこと、正気の我々ぞっとして逃げだす始末、全く笑われぬ 喜劇。  最後に先輩のお供で王子名主の滝、いずれ大暑の折柄、満身のほこりを浴びてたどり着く。滝 はと見ると案外細っこい、こんなはずはないがとまた失敗。そのうち掛茶屋の婆アさんが飛び出 し、いらっしゃいと言いつつ、上を向いて「お爺さんお客さまだよ」と呶鳴ると、不思議やどー ッとばかり滝は急に勢いを増して太くなり、しかも冷気肌に徹し、滝党初めて満足、但しお客を 見て水の加減をするなどはおよそ滝中の珍。    浅草田甫の酉の町       吉原を目当てにした参詣の大群  年中行事の酉《とり》の市《まち》、この市は深川にも四谷乃至巣鴨にもあるが、どうしても浅草に落を取られ る。よし原という景物があり、廃娼問題も起らぬ明治中期の全盛時代、鷲神《おおとり》社には相済まぬが、 酉の町を付けたりにして大ビラに吉原見物、水道尻の非常門が開いて老若男女、足は自然に廓内 へ向う。  イの一番に飛び込む信心の輩は、前夜から大鳥神社の門前に頑張る、今の野球ファン以上。こ れに反して吉原信仰の面々は当日の夜、宵のうちから十時十一時頃が大変、各楼の格子先は雪崩《なだ》 れを打って、熱狂の喚声不夜城を揺がす。こんな騒ぎを景物にして浅草の酉の町は年々歳々たい した人出、公園裏から田甫《たんぼ》を越して吉原の灯りが見えた時代で、今日とは人種が違うような|のん《、、》 気さがしのばれる。  その頃、公園を抜けてすぐ千束《せんそく》町を左に折れ、一、二丁行くと田甫道、狭い通路をもまれて行 く。両側は隙間なく葭簀《よしず》張りの売店、声を限りに呼び立てる喧ましさ、その中でスリだ、喧嘩だ、 と群衆は逃げ惑う。悪くすると押されてあぜ道を踏みはずし、泥田に足を突っ込むなど全く災難。 今日のあの辺では夢にも見られぬ風景だが、古風な酉の町などにはむしろこんな殺風景もかえっ て相応。  よしず張りの売店はむろん熊手屋が幅を利かせて、革羽織を伴れた大家の旦那連を始め、花柳 界、飲食店の連中、大物の取引きがあると景気よく手を打ってこれ見よがし、そのほかかんざし 屋、唐のいも、あまり結構な売物はないが酉の町の付物として大繁昌。これらの参詣帰りで浅草 広小路あたりの飲食店はたいてい満員、預かりの熊手を店頭にかけ列ねて、ここでも酉の町気分 をたっぷり味わわせる。    六地蔵の移転当時       浅草公園内の古碑しらべ  浅草観音堂の側にある六地蔵の石灯籠、今は大切に鉄の囲いに納まっているが、花川戸にあっ た頃はたいてい気がつかずに素通り。久安年間、鎌田兵衛政清の寄進、約八百年前の大古物で、 今ならば史跡保存、滅多に動かされぬ所を、明治二十五年市区改正のために現時の場所へ移され た。  吾妻橋の手前、広小路から花川戸へ曲る角で鼻緒屋の横に小さく屋根囲い、さお石の半ぼから 下、三、四尺は土中に埋まったまま、それでも花と線香が供えてあった。これを移すについて、 当時公園の仕事を請負っていたので出入りの植木師荒井市五郎に任せた。そこで職人を率いて出 かけたが、なにぶん古物で石ももろく、うっかり手がつけられぬ。壊しては大変と大心配の末や っと掘り起し、運搬のため笠石をはずすと火袋《ひぶくろ》(胴石)の中に木彫の地蔵尊、たぶん六体らしい が、ぼろぼろで拝見不可能、そのままそーッとお練りで運んだ。  現場に移って金網を覆うてあったが、縁結びとか何とか紙片を結びつける、それが流行《はや》って正 面はいっぱいの紙切れ、今は鉄の囲いになって絵馬がたくさん、花や線香はますます多い。傍の 石碑に長岡護美子の撰文で詳しく来歴、これは当時万梅(旧料理店)の主人が建てた、六地蔵さ ま出世の由来。  も一つは瓜生《うりゆう》岩子銅像の側にある宗因、芭蕉、其角の句碑、文化六年観音堂の北方、人丸堂の 前へ俳人菜英の建てたもの。明治二十七年、其角堂永機の肝いりで、公園有志がここへ移し台石 を新たにした。  このほか園内には西仏の板碑を始め、並木五瓶の句碑、京伝の机塚、竹本津賀太夫(文化の名 手)の還暦賀碑、浅草庵市人の狂歌碑、笠翁斎の花塚(千蔭の書)などあるが、今時これらを見 て回る篤志家もあるまい。    たんぼ時代の公園裏       渋沢邸から逃げた鹿のこと  浅草の北部、公園裏から吉原方面は今こそすぼらしい繁華、それが明治二十年頃までは一面の 田圃で、全く「桑田碧海」の感。  一歩公園を出れば蛙鳴くたんぼ道で、酉の市には大鳥神社まで群衆のつづくのが見渡され、あ ぜ道伝いに吉原の非常口、いわゆる吉原田圃、入谷《いりや》田圃、浅草田圃と皆親類、所々に案山子《かかし》が立 って風流千万。  千束通りは見すぼらしい家続き。目についたのは猿之助の宅と牛肉店平野、小松橋の湯豆腐ぐ らい、今の宮戸座(旧吾妻座)の横に大きな用水堀があって、水上自転車の興行などが出来た。 その先の突当りが六郷邸の長家門ナマコ壁にいわく窓、左へ曲るとまたたんぼ道、沢村源之助老 の宅もこの辺。  少し先のたんぼ中にぽつりと一軒の小料理屋、細い丸太の門柱に「狸じる」の看板がちょっと ふるっていた。  新畑町の有名な幸竜寺も、たんぼの幸竜寺でとおっていた。一丁ほど行くとたんぼ道で入谷ま で一筋、小流れに沿うてぶらぶら歩き、この流れの底土が朝顔の培養にもっとも適して入谷の生 命であった。  さらに日本堤に至ると、それから北は地方今戸、地方田中から三河島、日暮里、尾久と、際限 のないたんぼ続き。二十四、五年頃までそのままで、ある時王子の渋沢家の鹿が逃げて、たんぼ 道を一目散、とうとう日本堤から今戸へ出て大川の岸でようやく捕えた。鹿め、いかに広々と自 由自在に跳《と》びまわったか知るべしである。  公園の六区はもっとも早く埋め立てて、その頃はすでに池のほとりには小料理店や煙草屋など 相当建て列なったが、南の方はほとんど空地で草ッ原、夜などは真っ暗でさびしかったが、二十 年頃にはだいぶ見世物小屋もでき、その草分けともいうべき野見の撃剣道場が紅白の吹流しを目 印しに、やぐらの上でブーブードンドン、一時はこれが耳についた。    東都名代の橋づくし       鉄橋の元祖は本材木町弾正橋  復興以後の立派な橋々と違って、明治時代は旧式の木橋、大川筋の五大橋もその通りで、永代 と両国は欄千がペンキ塗りでやや洋風、二十年頃からぽつぽつ鉄橋になるまでは交通第一の日本 橋さえ、名所図会そのまま。もっとも石橋は旧|万世橋《よろずよばし》始め江戸橋、海運橋、鍛冶橋そのほか数カ 所あった。  厩橋《うまやばし》は元は私設で、幅二間ばかりの貧弱な木橋、本所側の橋詰に番小屋があって橋銭を取った が、徒歩者は二厘、人力車は五厘ずつ、長い竹竿の先へ目ざるをつけて、ぬッと差しだす、客は 車の上からそれへ入れる、といった工合。八丁堀の桜橋、水谷町の豊倉橋は石造で、これも橋銭 が文久一つ、それがため後者は文久橋と呼ばれていたが、先年川筋の改正で撤去されて、橋銭は これが最後。  旧万世橋は俗に目がね橋といって東京名物の石橋、場所は今の万世橋と昌平橋の中間、講武所 へ向った所で旧|筋違見附《すじかいみつけ》の廃石利用、明治六年に出来たがすこぶる堅固で、後年とり壊しに骨が 折れたという話。  鉄橋は京橋本材木町の弾正橋《たんじようばし》がたぶん最初で、明治十一年、っついて霊岸島の高橋が十五年、 これは当時相当に大したもの。ところが二十年に吾妻橋が落成してまず東京一、随って開通式が また空前の大賑わい、花川戸から山車《だし》が出て付近一帯が祭り騒ぎ、渡り初めは酒屋の倉島の三夫 婦、それが済んで一時に群衆の殺到、大混乱となって多数の怪我人、あとには橋のたもとへ下駄 の山を積んだ。  その後、永代橋、厩橋と順々に鉄橋の仲間いりも、これほどの騒ぎはなかった。    名代の団子しらべ       店頭で曲つきした粟もち屋  駄菓子やカリン糖が復活して、上流子女の口に上るなど少々時代の逆行。そこで明治の甘党も 心強くなり、当年の大衆向きの甘口二、三品つまんでみる。いわゆる名物にうまい物なしとある が、当時は名代の菓子類もいろいろあり、団子《だんご》の如きさえその名のとおった店が相当繁昌して、 名物にもうまいものありの評判。  新大橋最初の木橋時代、西の橋詰、浜町河岸《はまちようがし》にあった八ツ橋団子は有名なもので、店の構えも 大きく、粗末ながら広い座敷もあって子供連れなど大喜び。大川を眺めながら団子を食う、餅も よし餡《あん》もよし、ことにツケ焼団子が自慢で、下戸《げこ》ばかりか上戸《しようご》も手を出した。つづいて向島の言 問団子、蔵前の桃太郎団子、谷中の笠森団子などもあり、根岸の芋坂下にも名代の団子屋、ちょ っと風変りの店で酒も飲ませる。味はどちらも上等だが、団子の大皿と酒樽の同居に、知らぬ客 はへんな顔。  つぎは蒸し羊羹専門の豊倉屋。浅草蔵前に暖簾も占く、店の柱に朱塗りの剥げた名筆の看板、 黒塗りの箱を重ねて古風な構え、羊羹は並と上製、風味はもちろんムッチリとした舌ざわり、下 戸ならでは知らぬ味、多年これ一品で売り込んだ名物だけの値があった。  まだほかにも何屋の何と名物格の呼び物も、一々挙げれば際限はないが、それも今では大半消 滅。  ついでに本郷二丁目の粟餅屋。間口の広い立派な店、一方に餡やキナコ、ごまなどの大きな木 鉢が五つばかり、奥の土間には腰かけの縁台がズラリと並んで客はいっぱい。その店先で屈強の 男が三、四人、向う鉢巻たすきがけで粟もちの曲つき曲取り、つかんだ餅が指のまたから出る奴 を、威勢よくちぎって遙か向うの木鉢の中へ巧みに投げ込む早業と、かけ声おもしろく餅を手玉 に取っての曲つき、私もしばしぼ立ち止まって見とれたものだ。    焼芋屋の全盛時代       蒔絵のお重で御進物などに  寒くなると偲ばれる焼芋屋時代。ポッポと煙の立つ釜の前に、焼き上りを待つ小僧さんや女中 たち、楽しそうな風景が明治の末年まで市中到る所、大きく「○焼き」と書いた看板、中には 「十三里」とか「八里半」、町内に一軒はきっとあったほどの繁昌。川越本場の味は格別、その頃 の書生さんは、芋を羊羹、はじけ豆を金平糖《こんぺいとう》と称えて、本物よりは遙かに珍重。  十七、八年ごろ焼芋屋の番付を見たが、三ツかまど以上を載せたもので幕内は四ツかまど、こ れらの大きな焼芋屋は大店向きの注文だけでも大したもの。当時一トかまの相場が丸焼、切やき とも二十五銭から三十銭見当、たいていの家庭では二銭三銭、もっとも中には皮をむいてゴマシ オを振った上品な切焼もあって、大ドコの奥向きからわざわざ遠方へ小間使が出張、まき絵の重 箱など持って来る。あるいはアミダの籖《くじ》にあたって、おひげの紳上がきまり悪げに風呂敷を突き だすなどの愛嬌もあった。  右の番付で大関の、本石町の芋新などは、かまどを五つも並べて間に合わぬ位の注文、十蔵造 りの堂々たる構えで芋洗いが二、三人、ひっきりなしに洗っていた。七、八寸のいもを竪《たて》に切っ て丁寧に皮をむき、一本並べにゴマをふって焼いたきびきびした代物。ここも例の蒔絵《まきえ》の重箱へ きちんと詰め、ノシをいれてお遣い物といった客が多かった。いずれ大家の女隠居などが、ふた を開けてにこにこ顔で賞翫《しようがん》したらしい。  下谷|御徒町《おかちまち》にこれも名代の大芋屋、主人は通称芋繁で通った奥村繁次郎氏、いつの間にか古書 に趣味をもって有名の古書通、なかんずく食物の研究に熱心で『食類辞典』の著もあり、いもの 恩人崑陽先生の建碑にも尽力したが、後年湯島切通し下に転じ、相変らずかまどの前で古書の耽 読、全く珍しい篤志家で、ただの芋屋と思うと罰があたる。    名物再興の骨折損       店開きたけしたなめし田楽 「お茶きこし召せ、梅干も候ぞ」と百花園の鞠塢《きくう》が風流も昔のこと、目黒のたけのこめし、堀の 内のノッペイ、大森の海苔茶づけなど、なんとなく野趣に富んだ風流向き。これらは江戸から持 ち越して明治時代には相当客足をひいたものだが、案外はやく消えたのが浅草名物の「なめしで んがく」。  江戸名所図会「浅草奥山」の図には観音堂の西側、たんぼに沿うて一列の葭簀張り「なめし茶 屋」と注があって繁昌の様子。その後、雷門前の広小路へ移って、寿美屋、万年屋、山代屋など 数軒、これも菜めし田楽で売り込んだとある。ところが大火があったり時勢が変ったりして維新 前後にたいてい廃業、寿美屋だけがただの料理屋となって残っていたが、明治の初年にこれも退 転、随って綺麗さっぱり世間から忘れられた。  明治二十六年観音さまのお開帳を幸い、昔をしのぶ名物再興と、この菜めし田楽を私の父が物 好きに開店。場所は花やしきの一隅で、小座敷を添えた葭簣張り、赤|毛氈《もうせん》の縁台、花暖簾に掛行 灯、すべて時代離れのした風景。一人前が吸物付きで十銭そこそこ、情けないことには当時すで にこの名物を御存じのない御仁が多く、「まあ安いからナメシに食って見よう」といった調子で 骨折損、せっかくの再興もお開帳かぎり。  目黒のたけのこめしも、その竹の子が土地の名産なればこそ、不動尊の繁昌と共に栄えて来た が、追い追いに藪は開けて貸地となり、竹の子はまず輸入品で間に合わす始末。  名物の影が薄くなりかけたので、初めてその由来だけも残るようと某料亭の依頼、右田寅彦氏 が軽妙の一文をものし、五尺ばかりの自然石に刻して一基の碑石を建てたのが、今も同家の庭に 遺っているはず。    江戸前名残りの蒲焼      どろ臭いのに馴れた東京人  惜しいのは江戸前の鰻《うなぎ》の味、今は養魚場育ちや遠国仕入れ、種も違えば味も変る。東京に限るといわれた自慢の蒲焼も、その江戸前の香味は失せて、とろ臭いのに慣れてみれば、本格の老舗《しにせ》も、そこらの新店も、かみ分けるほどの好者は寥々、随って場違いの代物でも苦情なしに召上がるので繁昌はなにより。  東京居回りの川筋に鰻が絶えて近県の輸入ものが千住へどしどし、それでも明冶の中頃までは大川に生簀《いけす》があって、沼育ちのあくも抜け、江戸前でとおっていたが、三十年頃から水質の変化に大川の生簑も引き揚げ、以後は水道利用の水舟囲い、そのうえ遠国の場違いが幅を利かせて現代式ウナ丼の流行。そこで江戸前時代の鰻屋といえば、たいていは紺の暖廉に「蒲焼」の行灯、竹格子の板場の前を通って奥の小座敷、団扇《うちわ》の音と共に早くもぷんと鼻をうつ好い匂い。  蒲焼のほかに他のすっぽん煮ぐらいでなにも出来ない。客は鰻の焼けるまで香の物で一杯、気長に待つ。随って鰻屋の香の物は格別念入り、酒ももちろん生一本、つぎはタレだ。代々の秘法 で一子相伝、飯米から茶漬の茶まで気をつけるのが本格。鰻は小串、中串、中アラ、好みによって注文する。蒸しへかけずとも皮まで溶けるよう、あぶらが乗ってぼっとりと口当りよく香味たっぷり、思わず額をたたいて素敵素敵。  古画の鑑識で知られた竹葉の先代はさすかに鰻の鑑識も高く、常に江戸前の絶滅を歎じ、「我我五、六軒で東両国の青柳(割烹店)の前の大川へ生簀を置いた頃までは魚の味もよかったが、川の水が悪くなってとうとう引き揚げ、ただいまは宅の前で水道で囲ってますが、今日ではほかに致し方がありません」と当時の直話。もっとも客の方にも江戸前の好者が滅って、今なおうなぎ屋繁昌はよくしたもの。    狸じると珍物茶屋      いずれ劣らぬ変人揃い  八笑人の一党そのまま、洒落か本気か判らぬような商売に、浮世を茶にした連中が、明治の初期には相当現われた。そのころ浅草の奥山付近は変り者の粒揃い、いろいろ奇行を残したものだが、中にも後れ馳せながら振るった看板、田甫《たんぼ》の狸汁と公園の珍物茶屋。  十八、九年頃の話。まだ千束《せんぞく》村の田甫時代、公園裏の田甫中へ全くの一軒家、こけら葺きの粗末な構え、くねった丸太の門柱へ宗匠流の達筆で「たぬき汁」の一枚看板、玄関前に陶製の大きな狸が徳利を提げた立姿で客待ち顔、庭には活きた仲間が一匹遊んでいたようだが、肝腎の狸汁は、つい恐れをなして食わなかった。評判ではまず眉唾もので、あまり化かされに行くお客もなかったか、二年ぐらいで代が変り、せっかくの名物いっこう知られず。  この狸汁の主人公は国芳門下の画工一侠斎芳延、本名は松本弥三郎。茶気満々の商売に似ず、師匠の向うを張って二の腕まで立派な刺青《いれずみ》のあった江戸ッ子肌、力はないが平素侠客をもって任じ、往々失敗。生来、狸を愛して自然と狸の画に妙を得たくらい、狂歌にも手を出して狂名が遊狸庵つづみ、そのほか水中の虫を集めてアメンボやコガネ虫と仲よく遊んだという変り者、二十三年に名古屋で歿した。  つぎは公園花やしき横町にあった珍物茶屋、門口に薄よごれた白布へ「珍物茶屋、釈迦六」と害いた小旗、奥の小座敷に赤毛脱、えたいの知れぬ下手物《げてもの》を並べ、なにがしかのお茶代にありつく趣向、大石良雄討入りの呼子、大高源吾の鎗印、乃至は何代目高尾の櫛笄《くしこうがい》、紀文の紙入れなど途方もない珍物。主人もいささかその仲間でいが栗頭の痩男、実は魯文門下の木崎某、号を弥陀垣阿文、釈迦六がその通称とは釈迦も阿弥陀も御存じあるまい。   甘党随喜の名代汁粉     砂糖の味を食べ分けた下戸  甘党の随喜した汁粉の味、明治時代には名代の汁粉屋も多く、それぞれ自家特製の持味に御膳、田舎《いなか》、小倉、塩|餡《あん》乃至は白餡飽の上品まで口当りのよさ、ことに蓋を取った時のその匂い、ほんのりと特有の香味、煮抜きの抜くの練れた工合、全く甘党を誘惑する。今時こんな汁粉がありますかい。  名代の随一は新橋の十二ケ月、硝子戸を開けてすぐ二階へ上る、みんな食えば景品を出すなどと噂はあったが、三月四月となると紅抜くや白抜くか出て大抵は箸を投げる。当時の主人に開くと、「全部召上った方は開業以来一人か二人、別に景品など差し上げませんよ」。店は目立たぬが京橋金沢(寄席)裏の亀村、知る人ぞ知る特殊のうまさ。日本橋木原店の梅園は手綺麗な上品汁粉、通客よりも粋な姐さんたちを喜ばした。下谷黒門町にあった常磐、ここは椀も大きく風味も無類で、真の汁粉通も満足した。池《いけ》の端《はた》の水月、当時は不忍池を見渡す座敷の構え、庭先の縁台で食わしたのも面白かった。浅草公園の松村、主人が風流家で万事大凝り、瀟洒な座敷に汁粉も上品。弁天山で有名の北村、家族連れの上客が多く、後に公園五区へ移って料理も始めたが却って失敗。そのほか鱗殼町の初音、瀬戸物町の梅村など聞えた店だが、こうした名代の汁粉の味も、明治の末年には追い追いコーヒー紅茶の匂いに消されて、わが党はいささか淋しい。 「汁粉もなかなか通なお方があって迂澗《うかつ》に商売は出来ません。この間もちょっと常用の砂糖が切れたので似寄りの品を数種取り寄せ、一々熱湯を注ぎ、その匂いをかぎ分けて、まずこれならと思う砂糖を使ってみましたところ、あるお客様が一ロ召上って見て、おや砂糖が違ったねとおっしゃったには驚きました。私どもが味わっても判らぬくらいですのに、お客様はちゃんと食べ分けますからね」とは、さる老舗の主人が述懐。    紅葉と目こすりなます      普茶料理に見せた健啖  紅葉山人の逸話は、その一党の小波、水蔭の諸兄の健筆で、細大すでに世に知らるるにもかかわらず、そのお余りを少々。明治三十二年の四、五月頃、白金塊聖寺に普茶料理の会があって紅 葉氏も出席、例の話上手に一座の中心となって大いに気勢を挙げた。  禅宗の料理ですべて精進、材料はお定まりの湯婆《ゆば》と豆腐と生麩《なまぶ》、あとは野菜、ところが魚鳥も及ばぬ美味珍味、山人ことごとく悦に入り、持前の健啖振りに、いくらでも持ってこいという勢い、そこへ現われたのがなんと大々的の口取、ことに紅白二色のまんじゅうは生麩の皮に白味噌の餡がたっぷり、これには一同眼をパチクリ、恐れをなして控えていると「ナンダこのくらい」と山人悠々箸を取り、見事にその一個を平らげたがさすかに胸を撫でて、「君これはーつに眼るよ」。  右のまんじゅうが動機で、いかもの食いの話、まむしやいもりの付焼などが飛びだした後で紅葉氏「誰か信州の目こすりなますを知っているかい。それはね、入梅頃の雨垂落にたくさん出てくる小さい蛙、あれをつかまえて、小桶に入れ酢をかけて蓋をする、しばらくして蓋を取ると、威勢の好い奴が飛びだしてしきりに両手で目をこする、それをそのまま摘んで食うから目こすりなますだ」と、これには一同つままれたような顔つきでこの日は解散。  趣味の方面では、あるとき紙入れから大切そうに取りだした六、七本の長い西洋楊枝、珍だろうとばかり、そこへ並べて、これはパリの料理屋の楊枝、これはドイツのカフェー、これはロンドンのバーのだと一々説明、なるほど幅の広い楊枝の胴中に店名の印刷があって、紛れもない本物、すこぶる御自慢であったが、これも文豪の一面と思えば忘れ得ぬ懐かしさ。    味覚本位の食道楽      幸堂得知翁の板前泣かせ  味覚本位で食ってまわった明治の食通にいわせると、今の食堂料理は七里ケッパイ、遠い近いにかかわらず、わざわざ当て込んで行くような、うまいもの屋はまずないと言ってよいくらい。その代り安くてたっぷり、腹っぷさげはどこでも間に合う便利の世の中、和洋中入交りのごった返し、舌一枚では味わいかねるも無理でない。  少し気の利いた割烹店へ飛び込むと、女中が煙草盆と一緒に「板」を持ってくる、赤い塗板などへその日その日の魚の名ばかり列べてある、客は一見「今日は|しけ《、、》だな、仕方がねえ、コチを洗いに、鯛はお定まりの|うしお《、、、》と|あら《、、》煮だよ」などと、あつらえる、ちょっと面倒だ。二流どこは大抵お見つくろいといって三品、わん、やき、さしみ、お中酒といって五品、前者は五十銭見当、後者は七十銭ぐらい、これが今の御定食の格、女中の祝儀は二十銭で門まで見送り。  家族伴れの即席料理といった家は、やはり塗板が出て一品書きの値段付き、その時代の相場が椀盛り四銭、さしみ、うま煮以下たいてい五銭、口取が七銭、それで結構お料理であった。その 頃繁昌第一の京橋の松田、銀座一丁目の角店で五色のガラス障子に、大きな華々しい灯龍が二階のひさしにずらり、中庭の泉水には噴水があって赤青の風船玉がふわりふわり、不浄には薄荷のにおいがぷんぷんして、とにかく女子供は大喜び、食べ物よりは華麗な店構えで評判。  客を見て板前が腕を揮う、料理もうまく食えたわけだがこれがまた調子もの。二十四、五年ごろ上野御橋際へみずから豆腐料理「忍川」を開いた明治の食通幸堂得知翁いわく、「僕などは|つゆ《、、》物はあま目、煮ものはからい方が好み、一つ口でこの通りだから、よく『煮物はいいが、|わん《、、》はから過ぎるぜ』などといったもので、全く料理はむずかしいよ」。なるほどこれらは板前泣かせ。    おでんの逆輸入      忘れられた味噌おでんの風味  わんぱく時代の昔恋しいおでんの話。東京の煮込みが大阪で関東だき、それが逆輸入で銀座裏に関東煮とか大阪式おでんなどと看板を上げた度胸のよさ、おでん元来|田楽《でんがく》の略、随って味噌おでんが本当だが、いつの間にが煮込みに押されて明治末以来、坊間には姿を見せぬ。  三十年前後まで赤行灯の荷を担いで、「おでんやおでん」と下町を流して歩いたのはたいてい 味噌のおでん、串にさした三角の蒟蒻《こんにゃく》里芋の三つ差し、湯煮にしたのを|さい《、、》箸で挟み出し、小さな瓶に仕込んだ味噌を刷毛《はけ》でたっぷり塗ってくれる。一本が五厘、往来で立喰い、淡白で風流な味、大人も子供も舌を鳴らした。もっとも一方に煮込みのおでんも無論あったが、二十年頃までは縁日に出るくらい、特に「煮込みおでん」と書いた行灯、屋台の真中に銅の大鍋が目立った。  煮込みの方は大人向きに材料もいろいろ、といっても当時は蒟蒻、八つ頭、筋、|ちく輪《、、、》の類、名の如くぐつぐつ煮込んだところに味がある。材料が締って汁が十分に浸み込む、それへちょっと花鰹をかけて渡す。これもその後、担ぎ売りも出て、追い追い煮込みの発展、明治の来には新橋柳橋など花柳界の新道に進出、小綺麗な家台の定見世、燗酒も上酒を用意して粋客を迎え、あるいはわざわざ丼を持たして買いにやる御神灯の家々を御得意に毎夜の繁昌。  震災後は食味一変、味よりも腹ごたえのある安直ばやり、おでん茶飯となって一時は幅を利かせたが、その後、関西料理の進入と共に関東だきと称して上品らしく逆輸入、銀座裏にまで乗り出した度胸に釣られ、客も立喰いどころか椅子テーフルに納まって、甘ったるい蒟蒻や八つ頭に舌鼓。惜しいかな本元の味噌おでんの風流味は全く忘れられ、近頃あるお茶の会の接待にこれが出されると、来客いずれも、ほう、これはこれはと珍物扱いで大喜び。 書画・骨董 明治文士の筆蹟  今の文壇から見れば、文士の筆蹟などは問題にならないが、明治時代には文士の中にも能書家が多かった。本職の文章以外、書道にも趣味をもった人もあり、あるいは文名の揚るとともにその筆蹟も珍重さるるようになって、自然書道に気を入れた人もあり、一流大家の中には単に文名によってその書がもてはやされたのみでなく、いずれも相当の妙味を示して、立派に名筆で通っている人々が多い。私は今、それらの諸先輩の内で私の多少とも接触したことのある方々の筆蹟について、座談的に述べてみます。      名筆の諸大家  文士と申しても明治中期からの、主に軟文学に属する人々ですが、まず政治方面から戯曲家に転じた晩年の福地|桜痴《おうち》居士を筆頭に、能書家と見られる方々を挙げると、故人では尾崎紅葉、依田学海、坪内逍遥、宮崎三昧、須藤南翠、夏目漱石、田山花袋の諸氏、現存の老大家として幸田露伴の諸先生でありましょう。  桜痴居士はあまりに有名ですが、明治十四年に吉原大門の鉄柱に現わした聯句の大字をもって知られ、歌舞伎座の新築当時には舞台上の大額や表看板の大名題の文字も居士の直筆であって、当時評判のものでした。肉太の幅の広い、どっしりした字体で、小説の原稿などもその字体をただ縮小しただけです。ちょっと見ると遅筆のように思われますが、すこぶる速筆であったのです。それは頭の問題でありましょうが、新聞社におって論説など書かれるのに時間が迫ってから悠々と筆を執り、一枚書くとすぐ給仕に渡して工場へ回し、たちまち十数枚の原稿を書いてしまって、それで文章の接続もよく字体も崩れていなかったくらいです。  当時机を並べていた条野採菊翁が後年私に語られたが、福地は常に速筆が自慢で、ある時「尾崎(紅葉)は文章を書くに遅くて巧い、君(採菊翁)は速くて拙い、独り僕は速くて巧いよ」と冗談をいわれたそうである。居士の筆蹟にも模倣者があって、歌舞伎座の看板の字は居士亡き後もしばらく居士の書風であった。門下の榎本破笠氏も、原稿は居士の筆蹟によく似ておった。  紅葉山人は学生時代から、書には相当趣味をもっていた。最初は多少|蜀山人《しょくさんじん》に私淑したかの書体であった。我楽多《がらくた》文庫や新著百種の表紙の文字がそれである。しかし後には追い追い老熟した筆致を示し、山人独特の文字となった。もっとも蜀山人にも文宝亭や酒月米人の如き模倣者があるように、山人の門下にもその書風を模した人は多かったが、どうしても本家は本家である。小説の原稿は例の達筆で罫線一杯に書いてあった。俳句などには最も適した字体ですから、句作と 共にその妙味は古名家を凌ぐに足ると思うくらいです。門人の小説に筆を加える時など一々丁寧に貼紙して、その上へみずから書き加えるくらい。挿画の下図なども毎回自画であって、これまた丹念なものでした。  同じ硯友社の副将川上眉山氏も、山人の筆意に似て一層優し味のある字体、非常に細い筆で書かれるので原稿は綺麗なものでした。私はある時ちょっとした額を書いて貰おうと思って、本郷春木町におった眉山氏を訪ねましたが、氏は机上の筆筒から十本ばかりの細筆を掴み出して「君こういう筆だから何本寄せたってそんな字は書けないよ」と一笑されたことがあります。  依田学海翁は漢文の大家でしたが、劇界に関係があって趣味の広い方でした。筆蹟は漢詩などで見たのですが、もちろん真面目な堅い書風です。宮崎三昧道人も小説の原稿よりはむしろ詩句に適した書風で、私も自作の詩を書いた短冊を頂いたことがあります。  漱石先生もまたあまりに有名であり、書画には大いに趣味をもたれ、かつ眼識の高い方で、古今の能書に対しても容易に感服されなかったくらいです。大字細筆共に妙味があって、晩年は良寛風の柔らか味を加えたようですが、いったいに書家風の型にはまった書体を好まず、禅僧などの自由な磊落《らいらく》な文字を慕って一種脱俗したところがあります。原稿はたいてい万年筆を用いておられましたが、書翰は葉書のほかことごとく筆書され、文面といい筆蹟といい、実に独得の妙趣があって珍重すべきものであります。その遺墨は私が夏目家からの依嘱によって滝文学博士に願 い、国幸社の手で複製して「漱石遺墨」となっていますが、ほかに般若心経一巻も先生の記念として同家から頒たれました。  それについて憶い起すのは、漱石先生が天下一品とまで賞揚された池辺三山居士の書です。居士は北島雪山を慕って書道に熱心であったが、これまた般若心経一巻を書き遺されたので、歿後複製して生前の知己へ頒たれた。漱石先生のと相まって実に文壇能書の双璧《そうへき》であると共に、両先生の書道の奇縁というべきである。因みに『二葉亭全集』の表紙の背文字は三山居士の直筆であります。  須藤南翠氏は別に書をもって聞えた人ではないが、その筆蹟は実に見事であって、その原稿の美しいこと古今無類である。一宇一句の書直しや消しもなく、版で摺ったように書いてある。その代り校正も喧《やか》ましかったので有名だ。  田山花袋氏は晩年大いに書道に心を寄せられ、書幅もだいぶ書かれた。ある時お訪ねしたら、座敷の壁間に自筆の書幅が十数枚かけてあった。行書と草書ですこぶる豪放の書体、だいぶ御熱心ですなというと、いやまだ稽古中でと謙遜しておられたが、私もぜひ一筆お願いしたいと言ったら、その内なにか書きましょうと笑っておられた。間もなくわざわざ拙宅まで持参して下さったのは和歌の半切、書も歌も男性的のしっかりしたもので、今なお大切に秘蔵しています。氏は原稿をすべて鉛筆で書かれるので、その理由をお尋ねしたら「筆で書くと私の字は読みにくいそ うです。しかしペンは一切使わぬことにしていますから鉛筆で書くよりほかはなしのです」と、つまり達筆のためです。  坪内先生の筆蹟も御承知の方が多いでしょう。やや瘠肉の清楚な書体で、しかも溌剌《はつらつ》たる勢いがあり、書翰などは行間に構わず|ちらし《、、、》書きのように達筆に書かれます。原稿とても同様の筆勢ですが、少しく丁寧に書かれた字体はやや肉太で温容を加え、一種の威厳があります。最近では『饗庭篁村集』の背文字と扉が先生の直筆であります。  幸田露伴氏の原稿は拝見しませぬが、書翰を見ると小字ながら謹厳の書風が窺われ、紅葉山人と覇を争ったような文学上の立場が自然その書風に現われて、一は洒落、一は謹厳と、それぞれ特長の見えるのも面白い。      飄逸の妙筆  さらに気を変えて飄逸の方面が物色すると、まず饗庭《あえば》篁村翁を挙げたい。翁の性格の如くその筆蹟もすこぶる飄逸で、無邪気な、恬淡な翁独得の妙味があります。随ってその染筆を乞う人も多かったが決して応じなかった。たまにいかなる場合に書かれたか、短冊や色紙がないでもない。現に遺墨として歿後同家から頒たれた色紙の「躍布袋」と題する一文がある。少し改まった書き方ではあるが、やはり飄逸味たっぷりの妙筆です。原稿は常に日本紙畳刷のものに筆で小さく書 かれるので、ちょっと読みにくいものであった。書翰に至っては天下一品、文といい筆蹟といい、京伝や三馬、一九などのものより一層妙味があって珍品です。  翁の親友であった幸堂得知老も、人物は飄逸であったが、筆蹟は古風の几帳面なもので、江戸時代の奉納額などに見るような字体です。しかし俳句の短冊などはさすかに特色のある飄逸味が現われています。  私の師事した条野採菊先生は決して名筆ではなかったが、多年小説や雑俳などで鍛えた飄逸の点が筆端にも現われて、一種特別の字体でした。常にシナ筆の尖端でチョイチョイと紙を突くようにして書きます。|ほんと《、、、》の尖端的です。随って細い小さい字で、原稿などはすこぶる読みにくかった。先生の原稿は特にこれを組む職工がきまっていたくらいです。しかし書翰や短冊などを書かれるとそれほどでもありません。誠に可愛らしい綺麗な字体でした。      穏健の筆致  原稿から見て整然とした穏健の筆致を示される人々は、上記の南翠氏をはじめとして、漱石先生、通俗小説の武田仰天子、外国文学の内田魯庵氏などであるが、後の二氏は万年筆のみ使用された。仰天子は尖端に針金の出ている旧式万年筆(その頃には新式)を得意になって使っておられたが、元来能筆の人たからその字体も面白く見られた。魯庵氏はこれに反して最新式の万年筆 だが、字体は極めて柔らかで、外国文字の筆法が幾分か加わっているようにさえ見えた。  これらの故人を除いては、より以上整然と丁寧に書かれる島崎藤村氏の如きは稀である。最も穏健な書風でゆったりと明確に書かれるが、書き入れて訂正の場合は、西洋風に長く線を引き出して周囲の余白へ書くのである。書翰の文字も原稿と同じく大抵はペン字である。次に特筆すべきは、狂歌の第一人者野崎左文翁の筆蹟であり、翁は左筆であるが、実に天賦の筆蹟ともいうべきもので、筆法にも字体にも目立つほどの異風はなく、いかなる細字でも明晰にすらすらと書き流し、しかも楷行草自由自在、原稿の如きはもったいないほど綺麗である。私は翁が手写された狂歌今昔物語を頂いたが、原書の版本よりも美しい字で書かれている。尚左堂俊満以来の名左筆で絵も達者に自画賛など折々拝見するが、まず明治文壇唯一の珍品、七十余歳のその筆蹟はまだ若々しい元気があります。  穏健という点から最後に右田寅彦氏を挙げる。朝日新聞時代に毎日書く原稿が一字一句も訂正しないで例の名文をあっさり書き流すほどの才筆、書風は至って穏健で、なんらの奇もないようだが、なんとなく飄逸の点があって、角のとれた通人風の書体、狂歌などには最も適したもので、本人も狂歌の短冊は随分友人の乞いに任せて書き与えたが、無論狂歌の方でも大将の資格があった。  以上のほか、明治時代を少壮で活躍した硯友派の山岸荷葉氏は雲潭門下で雲石と号し、七、八 歳の頃すでに神童といわれたくらい、今では書家として通っている。目本派の俳人河東碧梧桐氏も一流奇矯の書体で、これまた書名を馳せ、明冶の大家一六居士の息たる巌谷小波山人は父翁の衣鉢は襲《つ》がぬが、俳人らしい飄逸の書風である。また他にも、長田秋濤、江見水蔭氏等、それぞれ個性を発揮した妙筆はあるが、際限のない素人観に過ぎぬのでこのくらいに止めます。                                     (昭和七年七月)   水浴させた文晁の画    絵具の使い方を知らぬ画家  日本画の彩色法も、今はだいぶ手法も違って来たが、古来本格的に濃彩を施すのは相当修練を要したもので、土佐派でも狩野派でも胡粉《ごふん》のとき方からしてけいこさせる。絵具も優良の精品を選んで大切に使用した。随って古名画の着色は、時代を経てもなんら甚だしい変化はない。古色は帯びても剥落変色などの憂いがない。  熱るに今の展覧会の出品画中には、開会中はやくも胡粉や絵具の剥落したものさえ見うける。本格の使用法を研究せぬ結果だ。土佐派の故在原古玩翁など常にこのことを歎じていたが、翁の 許へは絵具の研究に他派の画伯も通って来たくらいで、土佐派は特に彩色が濃厚であるだけに、その研究も行き届いていた。  青緑山水の得意な文晁なども着色は確かなものであった。故田口米作画伯が文晁の寿老人の画幅を愛蔵していたが、あるとき幼い令息が、件の画幅へ赤インキを垂らした。画伯は直ちに物干しへ持ちだし、画面へざあざあ水をかけた。門人が驚いて先生大丈夫ですかというと、画伯は「文晁の彩色だからこのくらいのことは平気だ」としきりに如露《じょろ》で水をかける。なるほどインキはほとんど消えたが、胡粉を塗った鶴の姿も寿老人の彩色もなんら異状がなかった。さすかに文晁だが、これを確信して大切の画幅を水攻めにした米作画伯の度胸もよい。  絵具も今と昔とは原料や製法の異なるものが多く、従って古製の絵具は貴まれた。故右田年英画伯の厳父は狩野の塾頭であった人で、古い絵具を大切に保存していた。年英氏が少し分けて下さいというと「これはお前たちの使う絵具じゃないよ」とはねつける。当時、すでに著名の年英画伯にさえ容易に使わせぬくらいであった。    昔懐かし、名作の袋物      今も目に残る御用品の煙草入れ  江戸趣味の名残りとして明治の中頃までは袋物に凝る入が多かった。当時、花柳界で平岡大尽とうたわれた平岡煕氏の如きは、逸品を集めること数百点の多きに及んだ。  主として紙入れや煙草入れについて見ても、その意匠や材料は多種多様であるが、大よそのところ、まず紙入れには、金唐革、天平革、印伝、黒サントメ、しょうぶ革、古金欄、ビロード、唐さらさ、間東しま《、、》あるいは能装束切など、金具は後藤の目貫や、宗珉、近くは夏雄、民国、勝広の彫刻、煙草入れも同様の品に緒〆は古渡さんご、ヒスイ、めのうの玉物または金銀の細工物、トンボ、七宝の類、筒は象牙、唐木等に鉄哉、谷斉の彫、橋市の鞘塗、一楽、長門の編物などで、それらの取合せがまた面白い。  自慢の煙草入れを腰から抜いて、すぽんと気持のよい音を立てて筒から取り出す煙管がまたそれ相応の代物、金銀張分け、金や朧銀の毛彫もの、赤銅の金象眼または四ところ金など、村田、住吉屋の特製を誇り、羅宇は象牙、鉄刀木、斑竹などを用い、国分や雲井の上等の刻みを詰めて 悠々とヤニ下った様子は、いかにも大家の主人公らしく、マドロスパイプの横|啣《くわ》えとは、奥床しさ全く比較にならないが、今は時代後れだ。  明治四十年頃の美術協会展覧会の出品に、いとも結構な腰提煙草入れがあった。カマスは茶皮の印伝、筒は鉄哉の象牙彫、金具は香川勝広作赤銅の狸に純金の薄、緒〆は白金の平丸形で表が満月、裏が朧月、塚田秀鏡の作で、すべて飄逸にしてしかも高雅の逸品、はたして宮内省の御用品となった。  その後、これほどの名作もなければ、時代はこうした趣味をも容赦なく一掃した。   浮び上った古書相場     だが展覧会は凡書ぞろい  洋書はこのところドル関係で、にわかの騰貴に学界の恐慌を来たしているが、和本の古書類も昨今少し芽を吹いて、安値のドン底からやや浮き上り、どこの古書展覧会も多少景気づいて来た。  しかし総出品の十分の一売れればよい方だ、などという景気では心細い。それも珍本払底でた いていは月並の凡書ぞろい、いつでも手に入る品が多いからである。真の珍本は展覧会などへ持ちださず、それからそれへと見当をつけて金持の死蔵家へ納まるわけだ。  古書界で幅を利かすのは美術書類で、『国華』の大揃が千四百円、『東洋美術大観』や『真美大観』が五百円から八、九百円、そのほか絵巻の複製品など五十円百円の物はザラにあるが、これらはその質において価格相当ながらたいていは看板に終るらしい。  師宣や鳥居派初期の古板絵入本など、たまたま出れば一枚看板で大したもの、すべて軟派物は草子類、洒落本、狂歌書、演劇書類など品払底のためたいていは珍本扱い、ことに歌麿、広重、北斎あたりの彩色入りは百円二百円と驚かされる。  これに反して、漢籍類はシナ古版本を除けば、ほとんど紙代にも及ばぬ価格のものが多い。これらは場中の場塞げであろう。  一方また明治初年の小説や論文集など絶版物と称して、原価の十倍二十倍で売れるのも近頃の珍風景である。   好い加減な書画の鑑定    自分の偽筆に感心した海舟翁  書画の鑑定ほど難かしいものはない。一流を見究めるのさえ容易でないから、書画共に何でも判るという人はまず無いわけだ。もっとも真赤な偽物なら誰でも判るが、少しく時代のかかった精巧な偽物になるとたちまち判断に迷う。  かつて徽宗皇帝の千字文の巻物が某大家から売り物に出て、林道春の立派な鑑定書がついている。念のため故人の前田香雪翁に見てもらうと、翁は巻頭二、三行開いて見て、ああ、これはいけないと後を見ず、大金の品物もこれで取引不能に終った。その時翁の言に「徽宗皇帝など真蹟はただの一つもありません、多分これはよかろうと思うのは小幅の山水が某家にあるだけですよ」と。  七万円で売りたいという某子爵家の蔵品、華山の四季の花の屏風や、二千円の抵当に取った大雅堂の屏風がいずれも真赤な偽作で鑑定案を驚かした悲喜劇もあり、この種の偽物の小幅に至ってはその余りに多きに呆れざるを得ない。  勝海舟翁の生前、ある人が訪問すると自筆の書幅が床の間にかけてある。先生御自筆は変ですな、というと翁は「いや、あれは私よりも上手に出来ているよ」と、こういう偽物に出逢っては御本人ならでは眼が届かぬ。  牧渓の竹林小禽図が二幅あり、古色といい墨色といい自賛の筆蹟まで寸分違わぬ。これらはどちらが偽物か、それとも両方が真物か、今もってわからぬという話、双方とも己の方がという気組で大切に所蔵しているから、まず喧嘩にもならない。  真蹟を多く見てその筆意通法が全く脳裏に浸み込んで初めて断定し得る、この境地に到るは至難の業、たいていは好い加減なものだ。   五厘から一万円に    写楽の役者絵暴騰順序  東洲斎写楽の役者絵は、今日こそ芸術的に取り扱われ、かつ品少なのために大した価格に上っているが、元来特殊の画風で豊国や国貞と異なり、役者にも世間にもこびぬところは変っているが、それだけに不人気で、浮世絵沈滞時代には誰も手を出さなかった。  古書通の幸堂得知翁の談に、明治の初年出入りの書籍屋が持って来た錦絵の中に写楽が十枚ばかりあった。一枚ただの一銭だったが、私は写楽は嫌いだから五厘ならついでに買っておこうといって、とうとう五厘で置いて行きましたと、全くうそのような話。  このことを後年内田魯庵氏に話すと、私も先年(二十五年頃)写楽を一枚一円ずつで五、六枚買いましたが、友人が売ってくれというので二円ずつで譲ってしまったら、間もなくだんだん高くなったので惜しいことをしたと思います、との述懐。それでも五厘から思えばだいぶ出世した。  以上二つの話をさらに、芝の村幸で通った古書店の主人村田幸古老に語ると、私も写楽では失敗した。三十五、六年頃のことですが、出物で二十余枚、一枚三十円で買ったその翌日、仲買の外人が来て五十円すつに買うという、こんなうまい話はないとすぐに売りましたが、今では一枚三百円以上ですから結局大損をしたわけですと、これは明治四十年頃の話。  その後は鰻上りに上る一方、それがまた大正七、八年の成金相場で一躍数千円乃至一万円という騒ぎ、昭和の今日では少し下火になったが、ともかくも五厘からここまで漕ぎつけた写楽先生一代の出世物語。   涙の出るような話    利休の茶しゃくが僅か十銭  時代の趨勢ほど恐ろしいものはない。明治の初年(十年頃まで)は全く古美術品の無価値時代で、就中《なかんずく》、茶道具などはただ同然。維新後間もなくの話だが、条野採菊(当時山々亭有人)、谷村要助(茶道家、後の南新二)両人が上野山下の道具屋へ寄っていると、表を画師の芳幾と一中節の宇治紫文とが通ったので「今ごろ画工や一中節などどうして食っているだろう」と両人で噂したが、後に芳幾に逢うと「あの時、紫文と二人で、今ごろ戯作者や茶坊主はどうして食っているだろう」と話し合ったと。同じことをいうので大笑いした。その時、道具屋で見た利休共筒の茶しゃくがただの十銭、宗偏手造りの茶碗が二十銭などと、全く驚いたと採菊翁の談。  無価値からついで破壊時代が来た。明治七、八年頃、本所五ツ目五百羅漢の蠑螺堂を壊して葬祭場を設けるというので、当時珍建築といわれた蠑螺堂はコワシ屋へ払いさげ、堂内の百観音は小梅の古金屋が買い、俵に三、四体ずつ詰めて持ち去ったが、この観音百体は江戸の名工が腕を競って彫刻したもので、中に発願の松雲禅師自作の一体もあり、それをことごとく焼いて灰の中 から金箔の金を取るという無茶な話。このことを、当時駒形の仏師東雲方にいたお弟子で後の高村光雲翁が聞いて師の東雲に告げ、直ちに駆けつけて今や焼かれんとする中から五体を選び、一体一分二朱ずつで買い取り、その中の松沢禅師の作を師に乞うて譲り受け、大切に秘蔵していた。  その後も破壊行為は続いた。故武井守正男がある年、麻布の古道具屋で立派な金蒔絵の手函を小刀で削っていだのを見て、驚いて尋ねると金を取るという、あまりにもったいなしと、そのとき有り合わせた蒔絵の器物全部を安値に買い取り、これが動機とたって後には屈指の蒔絵収集家となった。そのほか、金屏風の金箔を剥がしたり器物の金具をつぶしたり、涙の出るような話をずいふん聞いた。   掘り出した堅牢地神    香雪翁が考証した珍石像  奥山時代から浅草観音境内にあった植木屋六三郎、略して植六と呼ばれた花園、それが花屋敷となったりの明治十七年頃。当時は今の半分、直ちに園内拡張に取りかかったが、裏手は足も踏み込めぬ竹藪に榎の大木、溝を隔てて一面の田圃、その竹藪を開拓するうち、はからずも地中よ り掘り出した一体の石像。  石像は高さ一尺四、五寸、熊の仔のような肥った動物の背へ、これも丸顔の太った人物が、両手に同じ形の鉾の如きものを捧げ、窮屈そうにまたがったその上へ、全体に厚く物を被せたような形、たくましい顔をしているが、裸出した手足は女か子供のように優しく丸い、掘出しはしたが、さァ判らねェと全く無駄評定、だがなにかの神体には違いないと判らぬままに一決して、中央の丘上に安置、二年ほどはそのままの雨ざらし。  その後、明治二十年頃、博識家の前田香雪翁が考証の結果、これこそ堅牢地神と称する地中の守護神と鑑定、当時翁が主宰の新聞『絵入朝野』で木口版の画像まで載せて紹介した。こうなると俄かに有難味も加わって、園内の一隅に小丘を築き、一間四面の祠を設けて、恐れみ畏み謹んで祭り込んだ。  按ずるに堅牢地神は仏法二十諸天の一つ、大地をささげて堅牢ならしむる女神とあり、この石像、いつ頃の作かは知らぬが全く珍物、しかし容貌は女神に不似合いの粂の平内式で、近松の心中物や西鶴本に堅牢地神を誓に立てなどとあるような艶っぽい問題は、ワシャ知らぬといった顔つき。  社殿落成とともに三日間の祭典、三社権現の神官を招じて厳粛な遷座式、地神もいささかくすぐったそうな昨日に変る鄭重な取扱い、鎌倉白旗神社の楽人がわざわざ上京して特別の神楽奉納 など大賑わいに、参詣者いずれも初耳の堅牢地神、一体どうした神様かと首をひねりながら拍手をバチバチ。   洋画に驚歎した始め    弾琴美人や騎竜観音  いろいろの意味で第三回の内国博覧会(明治二十三年)は話題を提供した。その頃まで、洋画はただ西洋の真似だとばかり世間が趣味をもたなかった。然るに同博覧会に、初めて日本の題材を取り扱った大作数点が出品され、これは素敵だ、ほんものを見るようだ。油画はなるほど大したものだと俄かに感心、もっとも半分は俗受け。  その随一は亀井至一氏の「弾琴美人」、幅七、八尺の大横額、等身大の文金髷の令嬢が、黒の裾模様の晴装で琴のまえに端坐、バックは牡丹の画の金屏風で、全く純日本式の構図、しかも令嬢は絶世の美人で浮き出たよう。観衆は全く魅せられて、いつもその画の前に黒山の人だかり。あまりの評判に早くも石版画の複製が数種現われて、市中の絵草紙紙に掲げられ、これらの店頭もまた相当に通行の人足を止めた。  つぎは原田直次郎氏の「騎竜観音」、縦ハ尺、幅五尺ぐらいの大作、紫雲を分けて全身を現わした老竜の背に、神々《こうごう》しく立てる白衣の観世音、右手に楊柳の技を携えて水をそそぐ。慈容少しく粋《いき》なところがあって気品は足らぬが、ともかく雄大の構図、大抵あっと驚かされて、生きた観音様に出逢った心地。これも前の弾琴美人に劣らぬ評判、まずこれらが一般の目に触れて洋画の趣味も追い追い広く行き渡った。  以上のほか、同博覧会で見た作品のうち、これが洋画かと驚いたのは、作者は忘れたが、「鷺ノ池平九郎大蛇を裂くの図」という相当の大作、容貌魁偉の荒武者が大蛇の口へ両手をかけて今や引き裂かんとする凄まじの光景、これが凧の絵ならすぐ売れるがと思ったくらいで、さすがに不評、まあこんなのもあった、と当時の印象をただそのまま。   明治の錦絵界を展望    不遇に終った名匠小林清親  江戸名物の随一、東錦絵は明治となっても相当に出てはいるが、今日の浮世絵界ではまだ時代が近いだけに幅が利かぬ。その全盛期は明治十五、六年から三十四、五年頃まで、それ以後は写 真や絵葉書に押されて漸次消滅。  維新前後から明治の初年は芳幾の独り舞台、つづいて第一人者の芳年が出る、似顔専門の国周、風俗画の月耕、少し後れて芳年一門の年英、年方、別派の永濯、永興、永洗、下っては周延、国政以下輩出した。  さらに風景画と諷刺画の大家小林清親がある。事実、清親の作品が明治版画中の特級品として歌麿、広重の塁を摩するまでに騒がれているのは、写生から来た新味と、時勢に応じた洋画式描写が、従来の版画にない特長を示したからである。  然るにこの大家が晩年の不遇は実に気の毒であった。向島に往んで、僅かに新聞社の注文で時事漫画を描くくらいのこと、それでも写生は熱心で、吾妻橋へ往復の一銭蒸気の中から大川の流れを写した水の写生帳が二冊あって、実に奇抜な波紋をいろいろ描いてあった。  そのほか当時のさびしい生活を紛らすためか、源氏五十四帖の図を一々紙本双幅としてすでに大半描きあげていたのを見ると、立派な土佐風の着色画であったので、翁が最初土佐を学んだことをその時初めて知ったのである。  翁没後、大正七、八年の好況時代にその作品がますます歓迎されて、向島堤上雪景大判二枚続きが二千円、猫が提灯の中の鼠をねらっている横一枚画が今日八百円と聞しては、翁生前の不遇かいよいよもって涙である。    海舟先生大作の盗難       伯一代の大字の傑作  海舟伯の書も多いがこれは特別、しかも伯一代の大字を、ごりごりした白|縮緬《ちりめん》の生地へ筆力剛 健、竜蛇の勢いをもって揮毫された大傑作。当時観る人を驚かしたのは事実、然るに惜しいかな この無二の大作を、その後まんまと梁上《りようじよう》の君子《くんし》にしてやられた話。  浅草奥山の植六を私の父が引き受けて花屋敷と改称、花卉《かき》盆栽のほかに虎熊などの動物を加え て開業ちょうど一周年。その祝祭を催したおり、明治十八年四月、直接海舟伯にお願いして揮毫 して戴いたのが右の大字、白縮緬大巾二幅、長さ二間余の大額面。伯もこれには少々驚かれたが 例の健筆、墨痕すこぶる鮮やかに揮毫されたのは「花鳥得時」の四大字、一字約三尺大でお得意 の草書、堂々と海舟居十の落款入り。  右の大額面を、園の入ロへ磨丸太の足場を組んで掲げたところ、果して雅俗の衆目を惹いて、 さすがは海舟先生と、おかげで祝祭も大当り、もちろん家宝としてその後大切に秘蔵した。とこ ろが越えて二十年の夏、まだ宵の口の八時頃、ちょっとの油断に家内中母家に集まって夕食の折 を窺い、離れの座敷へ賊が入ったと女中の知らせ、それとばかり駆け付けたが早くもどうん、あ とには箪笥二|棹《さお》がキレイに空。  一人の仕業ではあるまいとなおも調べてみれば、ないそないそ、床脇の押入れにしまってあっ た例の海舟先生、これには一同じだんだを踏んだが後の祭り、察するに、彼らはかかる名家の真 筆とも知らず、風呂敷がわりに臟品を包んで持って行ったに相違なし、筆者の伯には申しわけな いが、そのとき限りお家の重宝行方不明、間もなく賊の片割れが捕まったが果して三人組で、品 物はもちろん戻らず、恐らく墨を抜いて生地でこかしたのではあるまいかと、もったいなくて不 覚の涙。    煙と消えた一代の作       彫刻の名人石川光明翁の災厄  明治彫刻界の泰斗石川光明翁、.牙彫にかけては当時随一、木彫も立派な腕前、特に薄肉を得意として数々の大作を遺した。帝室技芸員美校教授という肩書はあったが少しも名人振らず、若い人にも平等の丁寧な応対、全く温厚の人格者として高村光雲先生と斯界の双璧、もっとも御両人 江戸ッ子同士であったから兄弟の如き間柄。  痩せた頬、くぼんだ眼、半白の山羊《やぎ》ひげをなびかせた老後の風采は少々仙骨を帯びた工合、といっていわゆる名人肌の奇行などは微塵も聞かず、平素もきちんとした羽織袴で技術に専心。趣味は陶器の蒐集で、相当名品もそろっていた。外出はたいてい腕車で、途中偶然出逢うと用事の有無にかかわらず、必ず車から降りて鄭重な挨拶、これは翁の特色としてその謙遜振りに毎度恐縮。  晩年一世一代のつもりで加茂の葵祭《あおいまつ》りの行列を象牙彫刻として製作に取りかかり、得意の腕を揮《ふる》って約五十体の人物、行列一式の調度、これこそ老後の思い出とばかり、二、三年の日子を費やしてほとんど完成。翁もほっとして喜んだも夢、なんと不幸にもその直後に谷中天王寺の自宅物置から出火、母家全焼と同時にあわれ不朽の名作も世に出でずして焼失の憂き目。  焼け跡に立った光明翁、「原因は放火ですが火の回りが早く、とうとう着の身着のまま、陶器も全部駄目です。ただ某家から修繕に来ていた古作の琴二面、昨日出来上って返したため焼けなかったのが不幸中の幸いでした」と、例の葵祭りのことは一言も語らず、ただその心中を察して覚えず暗涙。このことあって間もなく大正二年の七月逝去した。翁もこの時の不慮の災厄には確かに寿命を縮められたに違いない。    三寸の中に大彫刻あり       象牙彫の名人山田鬼斎の遺作  上野公園の博物館に大塔宮御木像をはじめ数点の傑作を遺した彫刻家山田鬼斎氏はまれに見る天才肌、しかも刻苦精励ついに東京美校の教授に挙げられ、一層その手腕を発揮すべきところを、惜しや明治三十四年二月わずかに三十八歳で没した。  郷里は越前の国で父(仏師)に彫刻を学び、十九歳のとき上京したが翌年故あって拙宅に寄寓した、白面の好青年、一室に籠ってこつこつやっていたが、いつの間にか精巧驚くべき象牙彫の置物を仕上げた。高さ三寸ぐらいの紫圧製の獅子頭の口を開けると、その中に象牙の丸彫で頼光大江山討入りの光景、峨々たる山中の険路を頼光以下四天王が進み行き、渓流に衣を濯ぐ女に途を尋ねるところ、人物は五分に足らぬほど、しかも山伏姿の主従、容貌風采まことに巧緻を極めたもの。  山つづきの裏手は酒呑童子《しゆてんどうじ》の山寨《さんさい》、岩窟中に一党十余名、官女風の女が舞っていて酒宴の体、表門には鬼の番人数名控えいる細密の彫刻、全く無類の作で、これは今美術学校に蔵されているはず。今一つはやや小型で高士山中閑居の構図、これまた三分ぐらいの人物数名を配した同巧の 作であった。  これら微細の傑作をだした一方に、それとは反対の素敵な大人形五個を作った。義経、弁慶、常盤、静御前ほか一体で、高さおのおの一丈四、五尺、首だけが四尺以上、ことごとく木彫の着色、衣裳は織物で生人形式ではあるが遙かに芸術的のもの、これはある人の手で浅草公園で一般に観覧せしめた。以上は鬼斎氏の余技として今は知る人も稀である。    隈侯壇上の忘れ物       「ちょっとだよ」が正味一時間の雄弁  故大隈重信侯の雄弁は天下一品、明治四十三年、上野の精養軒に三都美術家懇親会があって大隈侯の臨席、私は幹事の一人として、別室に案内したが、一同の希望により侯になにか一言お話をと乞うた。「きょうはそんな約束ではない」と苦い顔、そこを押してお願いすると、ついに渋々「ではちょっとだよ」とやがて会場へ臨む。  会場には土方伯はじめ美術関係のお歴々二百名、久松家従に扶《たす》けられて壇上に立った大隈老侯、「美術のことは門外漢だが」と断わって一言挨拶のはずがまずギリシャ文明から説き出だす、おやおやと思っていると、西欧の古代文化、インドの仏教美術と進み、ひいてシナにいり日本に及ぶ変遷の跡、仏像書画工芸にわたって正味たっぷり一冊の美術東漸史、これが約一時間、少しのよどみなくとうとうと述べさって専門のお歴々一同あっとばかり、いまさら老侯の博聞強記に驚く一同を後に「まだほかに約束があるから」と、そのまま退席し、次に起った当時の衆議院議長大岡育造氏。「私は多少考えてきたが今の大隈侯のお話で、もう何もいうことがなくなった」と簡単に挨拶。その時ふと卓上を見て「おお、この手袋は?」と差し出された、見ると正しく大隈 さんの手袋、これはと思ったがすでに遅い。翌日、お礼ながら他の幹事が早稲田へ持参。さすがの隈侯、思わぬ長広舌にいささかお疲れの気味でこの忘れ物。  もう一つ驚かされた土方伯の頑健振り、宴終ってイザお帰りに「自動車は」というと伯すまして、「いや、車は返したよ、いつも帰りは歩くのだ」と、迎えに来た若い書生さんがお供で、五寸高の駒下駄に太いステッキ、上野から小石川林町の自邸まで夜の九時過ぎに平気でてくてく。これが八十近い老人、昔の人は違うと一同またびっくり。 文人・墨客    朱鞘の楓湖画伯と女湯の広湖      持って生れた古武士気質の楓湖  門下から高橋広湖、今村紫紅、速水御舟、村岡応東その他の俊才をだした松本楓湖画伯は、容 斎派の巨匠で一風変った几帳面の性格、落款までが漢隷のきちんとした書風、老来古武士のおも かげがあると思ったら、根が水戸の太田で勤王家の本場から、朱鞘《しゆざや》の大小で飛びだした人。  大衆小説の舞台ではないが世は幕末、風雲騒がしかりし頃、江戸へ乗り込んだ血気の楓湖先生、 大たぶさに五つ紋黒羽二重の着付、全くその朱鞘の大小を腰に、袴の裾をけって往来したという から断然凄い,ところが舞台は明治と変って先生の画名ようやく揚り、もう朱鞘の大小てもある まいと、時勢につれての円満振り、そこにいくぶん武士|気質《かたぎ》が残って、文展の審査などにも必ず 五つ紋の羽織袴に威儀を正して列席したものだ。  晩年の楓湖翁は視力が衰えて細筆は困難となったが、しかもなお画作に忙がしく、茅町の塾を 訪れると、先生|痩顔《そうがん》に黒眼鏡、だいぶ悪いなと思ってさぞお困りでしょうというと「なあに、平 素はこんな眼鏡をかけています、板下物はちょっと厄介ですが、そのほかはなんでもまだ描けま すよ」とすこぶる元気、さすがに朱鞘の大小の意気が残っていて、まだまだ若い者に負けるもの かという気組み。 問題になった湯上り美人双幅  松本楓湖門下の高橋広湖、本姓は浦田氏、金瓶大黒の名妓今紫の養子となって高橋を名乗り、 肥後の故郷を出で、上京して苦学の末、技大いに進み、たちまち少壮画家中屈指の人となった。 不幸壮齢で逝いたが、当時巽画会の重鎮であり、文展の花形でもあった。  上野の五号館時代に盛んな展覧会を開いた巽画会は、その始め深川に住んだ当時の青年画家大 野静方、村岡応東、今村興宗(紫紅の兄)、遠上素香等、六、七人が研究のため設けたので巽の 名をつけ、八幡境内の永代寺に小規模の展覧会を催したのが明治三十三年の春。その後さらに拡 大し、しまいには上野公園へ乗り出し、楓湖先生門下を中心に多数の会員を加えて、相当の勢力 を張った。  その巽画会の二、三回目であった。広湖はなにか新研究をと苦心の末、湯上り美人の大作を思 い立ち、それには実際の肌色を研究する必要があるから、どこかの湯屋へ相談して覗《のぞ》かしてもら おうという考え、もっとも無断でのぞけば水をぶっかけられて突き出される。  二、三、心当りの湯屋に聞いてみたが、飛んでもないこと、お客に知れたら商売は上ったりだ と皆お断り、これには大いに弱ってあきらめようとしたところ、本所のある湯屋の主人が聞いて 義侠的に引き受け、上り湯の次の間、障子に細い硝子の入っているのを幸い、そこからのぞけば まず判るまいとのことに、広湖先生大喜び、二日ばかり通って三日目の晩、真剣にのぞいている ところを、六、七歳の女の子が目ざとく見つけ、「あれ誰かのぞいている」と連れの母親へ大き な声、広湖氏青くなって夢中で飛び出したが、おかげで画は出来ましたと、これは同画伯の直 話。  同画は入浴前後の裸体画双幅、大いに新味を示したが相当問題になった。    書道盛んなりし頃       看板三字に半紙を六十帖  書道華やかなりし頃、三洲、一六、梧竹、鳴鶴など鳴らしたものだ。二峰、五峰の父子、半嶺、石■、春洞の諸老、そのほか詩人学者の面々、それぞれ盛名を馳せて、両国の井生村、中村楼などに書画会が絶えず、交墨場裏大繁昌、その頃を思うと今は誠にさびしい。  明治二十三年、第三回博覧会に各館入口の額を当時の大家に書いてもらった。相当大きな木地の横額、晴れの場所と諸先生固くなって健筆を揮った中に、水産館は高林二峰居士、独り無造作に見える行書の達筆、しかも中央の産の字は左右二字に比して遙かに小さく、釣合いの取れぬ奇抜な書き方、これはなんだと|けなす《、、、》人、いや妙々と妙がる人、さまざまの取沙汰に結局、評判第一の高名手柄。  西川春洞先生に看板を頼んで、三字ばかりだが容易に出来ない。半歳ほどかかってしかも揮毫料は予想以上、こんなはずはなかったが、と恐る恐る伺いを立てると、先生別段いやな顔もせず、傍にうずだかく積んだ五、六十帖の半紙を客の前に押しだし、「これだけ稽古したよ」と、見ればことごとく右三字の下書きをした反古であった。客、一も二もなくダーとなる。「なるほど、なるほど」。  六朝の家元前田黙鳳先生、前身は書店鳳文館の主人、商売振わず帳場にくすぶって退屈凌ぎに研究した秦魏六朝、その後、本場のシナに遊んで本格の大家となったが、当時六朝で売り込んだおかげに、初心の人から手本を乞われ、正楷に書いて送ると「先生とは書体が違う、これは代筆でしょう」と無遠慮にいうてくる。先生苦笑「自分で贋物を書く奴があるか」。    春木町時代の川上眉山       やっと誘い出した芝居見物  硯友社時代、紅葉山人についで文名を馳せた川上眉山氏、小石川へ移る以前、本郷春木町に両親と一緒にいた。春木座の横町で店には紙筆文房具を商っていた角家の二階、さっぱりした六畳の座敷が書斎、氏は全く水道の水で磨き上げた眉目清秀の美青年で、文士というよりはむしろ若旦那然とした風采。  浅草の拙宅へもたびたび遊びに来られた。酒は強い方で夜更かしは平気、ある時十二時を過ぎたので腕車をというのを肯《き》かず、歩いて帰ったが、その次に来た時「あの晩は上野公園をぶらついて二時過ぎに帰った」との話。その頃の上野は電灯もなし、真ッ暗の山内をよくも一人でぶらついたものだと少々気味が悪くなる。しかし飲めばすこぶる元気にはしゃいだ。  手蹟も本人同様すこぶる綺麗で、大きく書いても面白かろうと、あるとき白紙を持って頼みに行くと、氏は筆筒から五、六本の細筆を抜き出し「僕はこういう筆で書いているんだ、十本寄せたってそんな大きな字は書けないよ」と笑って相手にしないのでそのまま引き下がったことは前にも書いたが、その代り芝居見物にはとうとう引っ張り出した。明治二十五年七月、歌舞伎座の夏芝居で狂言は五代目菊五郎の「牡丹灯籠」の書卸し。  そのころ眉山氏なんとなく沈んでいたので、ぜひ芝居でもと誘ったが「僕近頃は芝居を見ないことにしている、どうもあと三日ぐらいはセリフや鳴物が耳に残って頭が変になる」と容易に応じなかったが、狂言を聞いてようやく納得し、腕車を列ねて木挽町へ出かけ、茶屋の菊岡から送られて土間の真中に陣取り、両人あまりの面白さに、切の「枕慈童」まで夢中で見物、その後、頭の一件を聞いてみると、なんともないというのでまず安心した。    明治狂歌の盛衰記       昔髪しのぶ天明調の復活  蜀山以来平民の気を吐いた狂歌も、今は一部の人々によって辛くも命脈を保つ有様。最近やや復興の兆もあるが、明治の中頃は元老の諸大人始め若手も加わって、相応に狂歌界も賑わった。その思い出を少々。  明治の世も治まって八、九年頃から、狂歌もぽつぽつ復活、代々の判者四世絵馬屋、二世琴通舎、面堂、春の屋始め梅屋、文の屋、弥生庵、岩上亭、桃の屋などを先達に月次会の催し、連中も本町側、小槌側、浅草側、あるいは八雲連、寿連、糸巻連そのほかいろいろ。十六、七年頃には、発会とか判者披露とか折々の大会に出詠の狂歌山をなし、いよいよ本格の繁昌。なかんずく天明ぶりの本町側が盛んで、十七年に『狂歌共楽集』を始め絵入りの『月並集』を出版、少し気のある連中はこうなると己れも一つと頭を捻《ひね》る。  二十年代には花鳥風月のほか、時事問題も詠み込まれ、大いに狂歌の特長を発揮した。その後、興雅会とか鶯蛙会とか各派聯合の会も起り、神田の今金、鍛冶橋の油屋などに時々集合、二十八年に出た『鶯蛙狂歌集』はその産物で、明治狂歌の代表的出版。そのうち元老連は追い追い浮世の花を見捨て斯界ようやく寂寞、三十年から三十五、六年を全盛期として以後は天明ぶりの妙味も世に合わず、執心《しゆうしん》の輩も減る一方。  初名|和歌《わか》の門《と》鶴彦、後改めて和歌の屋となった先代大倉男は人も知る狂歌の先達、江戸時代から斯道で苦労した本町側の大先輩、その後援もあって大正五年に出来たのが面白会、風雅な維誌『みなおもしろ』を発行して同十四年まで、十年近く続いたのは狂歌界空前のお手柄、お蔭で盛り返した狂歌の一党、ちかごろ鶯蛙会の再興、第二の元老蟹の屋、秋の屋、花の屋の諸老が踏み止まって昔をしのぶ風流陣。    仮名垣門下の人々       変った風格の人物揃い  新文学の興らぬ明治の初年、仮名垣魯文《かながきうぶん》といえば今いう文壇(?)の大御所。その盛名を慕って少しく文筆を弄《もてあそ》ぶ輩は我も我もと門下に集まり、△垣△文の戯号を授かって大得意。二十年前後にはその数三十二、三名、「いろは連」と称して師匠張りの筆陣を張った。  この連中、実はそれぞれ本職があって当時知名の顔触れ、その筆頭は例の先代談洲楼燕枝の|あら《、、》垣痴文で、駄酒落まじりのメイ文家。小手垣味文が漆喰《しつくい》細工の村越滄洲、鏝《こて》先で朝野名士の似顔額面数十枚を作って展覧会を催したり、東両国中村楼大広間の大天井を杉|板紛《まが》いに塗り上げて評判の細工人。連中の最古参は神田の畳屋富蔵という魯文の旧知、これが藁垣苧文といったが、又の名全亭おろかという投書家。  玩具博士で知られた清水晴風が清垣平文、三世広重が歌垣和文、狂言作者の竹柴飄蔵が柴垣其文、又の名四方梅彦、同じく竹柴金作が梅垣佳文など錚々たる面々、都々一畑の霧垣夢文は活版所の主人、後に『金物新報』主幹と馬鹿に堅い方へ転向、滝沢という酒問屋の息子が綾垣羅交、有名な蔵書家で考証学者というこの畑では少々毛色の変った人物、新聞記者から壮士俳優となり、また落語家に化けた川上鼠文が嫁垣鼠文で、大した人気も出ずに人情噺などやっていた。  奇人の部では、いつぞや書いた珍物茶屋の釈迦六こと木崎六之助が弥陀垣阿文、狸汁の画工松本芳延も何垣とか名乗った一人。  これら三十余名のうち、最後まで残った古老は、蟹垣といった野崎左文翁と、神垣の内田茂文君(現存)のただ二人、然るに師の魯文大人、なにに感ずったか明治二十三年三月両国中村楼に盛大な名納会を催して引退、いろは四十七人の予定数に達せぬうち、折角のいろは連も中途半端で自然に解消。    名人肌とはこれか       欲のなかったその頃の画家  狩野芳崖先生が明治の初年に描いた「犬追物」の図、横物の小幅ながら極彩色の入念の作、今は遺作中の珍品だが、当時依頼主が謝礼として差しだしたのは金七円、先生見るより「これでは多過ぎます」と手を引っ込ましたという、うそのようだが事実である。  以後十余年、画界も少し浮び上った頃、知名の某実業家が橋本雅邦翁へ紙本六曲屏風一双の揮毫を乞うた。画料百円、その後十年を経ても出来ない。翁の名声はそのうちだんだん高まり、今さらあの画料ではとある人を介して追加を申し込むと同時に催促した。翁は却って気の毒がり、さっそく墨画の山水を立派に描き上げて届けたので、今度は依頼者が気の毒がり、改めて礼金の追加を差しだしても翁は頑として受けなかった。  降って明治の中頃、岩崎家から雅邦、幽谷、和亭、玉章など一流大家へ屏風一双ずつの依頼、その画料はずっと騰って二千円、玉章先生少しく持て余してある人を訪い「どんなに絵具を使っても描きようがない」と零《こぼ》す、「いや、それはあなたの手腕に対する相当の報酬です」といわれ、ようやく安心して描き上げたのが絢爛《けんらん》無比の満山紅葉の図、以上の諸大家さすがに名人肌であった。  新画の勃興と共に青年画家の一躍大家となった人の多かった明治の末年、池ノ端茅町にいた花鳥画の大家村瀬玉田翁、感慨無量の体で、「画家は四十歳を越さなければ一家を成さぬものでした。私は三十五、六で先年上京した時はすでに銅賞や銀牌の五つ六つは持っていたが、生計すこぶる困難、月十五円の家賃がなかなか払えませんでした。世は進みましたね」。    無造作にして大傑作       名人気質・竹内教授と舞楽面  図抜けた大家となると、時代に捉われず超然として自己の趣味に没頭する、これがいわゆる名人肌。日蓮の大作を始め幾多の名品を遺した木彫の大家、故竹内久一氏もその一人であった。帝室技芸員美術学校教授という肩書を取り外せば、見栄も体裁も超越した江戸ッ子|むきだし《、、、、》の好老爺。  至って小男で無精髭をモジャモジャ、風采といい、身装《みなり》といい、さほどの先生とは思われず、知らぬ人は名を聞いて喫驚《びつくり》。江戸趣味はなんでも大通で玩具博士の清水晴風などのお仲間、酒も飲めば唄もうたう、いつも元気で威勢がいい,しかも本業にかかるとわき目もふらず、熱心に働いてさっさと仕上げる、鮮やかなもの。  かつて美術家の集まりの国華倶楽部で聖徳太子を奉祭することとなり、太子御豫は高村光雲先生が引き受けて立派に出来、さて開眼式に舞楽奉納の手順となったが、面も装束も借用すべき途がない。あっても大切の秘宝とあって門外不出、一同当惑のところへ久一先生が来て「よし僕が引き受けた、必ず間に合わせる」と例の江戸ッ子。  果して式の当日までに約一ヵ月半、見事に彫り上げたのは蘭陵王の面、そら出来たよと立派な桐の大箱から取り出されたは、真に精巧驚くべきもの、彫りといい塗りといい急作とは思われぬ本格の手法、まさに後代に伝うべき傑作で、さすがは竹内先生と一同驚喜。  これにて式は滞りなく美術学校講堂で行われたが、この大作を無造作に引き受けて速やかに仕上げた伎倆は全く驚歎に値する。この面はそのとき新調の装束とともに、今は美校の所蔵品となっている。    十人十色茶人気質       明治時代大宗匠連の面影  いささか気をかえて茶人気質、明治の大宗匠を並べてみる。  筆頭は星ケ岡茶寮の松田宗貞宗匠、十六の歳に京都表千家家元の代稽古を勤め、茶の中に育った人、茶道全般の達人で、少しもお天狗のない謙遜家。あるとき各流の宗匠ことごとく環視の中で献茶の手前、長盆の乱れ飾という台子の奥儀をすらすらと顔筋一っ動かさず、並みいる宗匠これにはアッと舌を巻いた。  仙台坂の山本麻渓宗匠、石州怡渓派の耆宿《きしゆく》で随一の学者だけに教授も厳格、随ってお弟子が少なかった。『茶道宝鑑』や『茶家年中行事』など有益な著述もある。晩年は中野武営氏に招かれて湘南へ隠退。  根岸の胡蝶庵《こちようあん》大久保北隠翁は、千家木部派の古老で本来茶道の家、物優しい親切な老人で、古代裂の鑑定は当時斯界の第一人者。  品川の三原宗浤先生、前身は海軍少佐で退役後茶人に早替り、千家裏流で軍人らしくない穏やかな宗匠、棚物に趣味をもって古い棚を三十個ほど集めていた。向島芭蕉堂の宗匠中村星知翁、真の寂《さ》び茶人で宗偏流、投入れは特にお得意の腕前。木挽町にいた今井宗元老、割烹家出身で江戸ッ子だけに寂びより派手好み、芝居がかりの茶会を催したり、古稀の祝いに市村座の桟敷を買い切って知人百余名を招待したり、万事がこの寸法。  芝公園の関不羨翁、不白派の先達で茶道にかけては一歩も譲らず、大抵の宗匠は眼の下、寄合の席など下手なことをいうと真向からがみがみ、それだけにいうことは確かなもの、だが我々素人には大の苦手で、なにかお話をと引き出しにかかっても「少しは茶がわかるかね、わからなければ話しても無駄だ」とまず一本、迂濶には寄り付けなかった。    生人形の安本亀八翁       一世一代で当てた「西南戦争」  生人形の細工人で松本喜三郎以後の名人といわれた安本亀八(初代)は、熊本出身の仏師、木彫で叩き上げた腕前は、余技同然の生人形にも現われてたちまち妙技を認められ、生人形といえば亀八ときまったくらい、よく売り込んだもの、ことに似顔風俗は真に迫って全く明治の一名物。  翁は稀に見る瓢逸の名人肌、布袋《ほてい》和尚そのままの風采でいつもニコニコ、当時浅草馬道、俗に富士横町の中ほど、格子造りの平家住まい、奥の細工場に鼈甲縁《べつこうぶち》の眼鏡をかけて大|胡坐《あぐら》、四辺は人形の首や手足が転がってさながらの化物屋敷、息子の亀次郎(後二代目)と和市(今の三代亀八)を相手に、翁はもっぱら主要人形の木地彫、俳優の似顔などは団十郎菊五郎の自宅へ通って直接に型をとり、それを雛形にして本彫にかかる、全くの生写し。  木地彫が済むとホイロに掛けて胡粉仕上げ、最後の肉色が肝腎、これがすこぶる調子もので人物により濃淡さまざま、翁自身も持て余すことがある。ところが多年傍で手伝ってきた翁の老妻が自然に妙を得て肉色は一手引受け、さすがの翁も一目置いて「こればかりは婆あさんに限る、私がちょっとでも墨や絵具を加えるともういけない、全く不思議だよ」とお婆あさん推称の打明け話。  数多の興行中明治二十五、六年頃、浅草六区で一世一代の「西南戦争」は大道具大仕掛け、招ぎの場面は山上の西郷隆盛、遙かに熊本城を望んで悠然と葉巻を燻《くゆ》らし、口より煙を吐いて見せる。あるいは白刃の勇士が苦痛を忍ぶ顔面の表情、眉を寄せ口を開く物凄さ、そのほか目新しい細工沢山、もっとも煙草はゴム管を用いて蔭で人間が吸い、顔面の活動は鞣皮を張りバネ仕掛けで皺の寄る工夫、すべて独得の細工が大評判で、三、四ヵ月打ち通した。    広業画伯思い出草       酔って残した名作いろいろ 「大仏開眼」の大作を出し、「月光灯影」「渓四題」「白馬八景」そのほか幾多の名作を遺した明治画壇の重鎮寺崎広業画伯は、酒豪だけに極めて磊落《らいらく》な性行の人であったが、一面、常に画道を精進し、よく新意を捉えて時代の先駆をなした。それにはずいぶん人知れぬ苦心もあったのである。  大正三年の文展出品「高山清秋」も苦心の一つで、当時信州上林からわざわざ報じて来た書信の一節「上信間の山めぐり白根山付近の実景を高山清秋と題し、六曲裏金屏風へ極彩色にて揮毫致居候、小生としてのみならず邦画として未だ古今描かざる場合を捕へ苦心致し居候」と、すべてこの意気で努力したればこそ。  しかし随分多作もした人で、これはいつごろの作と一々は覚えておられまいに、あるとき箱書きを頼みに来たのは紙本墨画の一幅、菅公幼時の図であり、画伯つくづく眺めて「君、驚いたね、これは僕の十九の時の画だよ」と、酒は飲んでも頭はよかった。  名力士の常陸山谷右衛門とはすこぶる意気投合して、折々出かけては痛飲徹宵に及んだ。酔余達筆を揮って同人新宅の襖などへ盛んに描いたものだ。ついでに襖の話では横須賀の某氏邸の大作、三間四枚一組、表は墨画の海辺老松、裏は波に千鳥、二間四枚一組は彩色の菊花に細流、ほかに小襖二枚、金地に極彩色の秋草、いずれも卓絶の技巧に明治の宗達応挙とまで称えられた。後に売り物に出たのを画伯みずから引き受けて処分したから、どこへか納まっているであろう。  磊落《らいらく》の方面では、ある宴席で、見も知らぬ人が「先生ひとつ」と新しい画帖を突きつけた。少しは酔っていたが、いきなり筆を取って隣席の客の似顔を書きなぐり、横へ乱筆で「△△△△の顔」と、ちょっと出来ない芸だ。    動物画の名人列伝       烏の糞と同居した暁斎  古来動物の画では、古永徳、応挙、岸駒等の虎、祖仙の猿など有名で、明治になっては雅邦、翠石の虎、東皐、春草の猫、金鳳の狸、栖鳳の猿など聞えている。永徳や応挙の虎は丸々と肥っている、岸駒はやや写生的だが画として気品が足らぬ。  巴里で金牌を得るまでは一向知られなかった大橋翠石氏、猛虎一声たちまち大家になって帰朝したので、さっそく麹町六番町の仮寓へ訪ねると六曲一双の屏風へ五頭の虎を描いていた。姿勢の変化や、毛書きの妙、全く独特の虎であった。画伯の座辺は虎の皮や大小の虎の彫塑、骨格の模型などでいっぱい、やはり専門だけあると思った。  これも実見だが、あるとき上野の動物園で若い画家が虎を写生している所へ来合わせた立派なシナ人、「アナタその虎、飼った虎、容貌も温和、肉もやせており、野生の虎は十分餌を取り、もっと肥えていて顔も獰猛です、絵に書くソレ知る、必要です」。応挙の病猪の話も思い出された。  猩々暁斎の烏の画は、特に傑作が多いと思っていたら、故条野採菊翁の談に「自分が一時住んだ根岸の家の二階の壁や床の間にまで白い汚ない斑点があったので家主に聞くと、この家は暁斎先生のいた家で、二階には烏を放し飼いにして写生していたそうですからその糞の痕ですよ、といわれ、なるほど先生のしそうなことだと思った」と、名作のある所以《ゆえん》。    日本画壇の斎藤別当       尾形月耕翁白髪染めの証人  風俗画で一流を成した尾形月耕画伯、諸事|恬淡《てんたん》の江戸ッ子気性ながら、その作品に対しては老いてますます熱を加えた。日英博覧会へ出品のため、深川の三十三間堂を描いてみたいと、江戸名所図会や浮世絵などを参照したのでは満足せず、誰か実在当時を知っている人はないかとの相談。  深川数矢町で明治五年に取り払われた三十三間堂を、実地に見ている人はすでに少なかった。私はようやく深川の不動の境内、大師堂堂守の老人が知っていると聞き込んで画伯に伝えた。さっそく出かけて逢ってみたが、これも記憶不十分で失望。今度は慶応の弓術師範が当時通し矢を射たとの話に、またまたその先生を再三訪問。辛うじて大体の建築もわかり、前後半年がかりで構図に取りかかり、見事に描きあげた横物の大幅、日英博へ出品して名誉の褒状を得たが、風俗画もこうなると足が半分。  まだ五十四、五歳の頃だいぶ白髪親爺になった。あるとき所用の途中、茅場町の鳥屋で昼食、ふと向うを見るとこれもひとりで食事中の老人、おやおや自分もああなってはと他人の老人振りに悲観、ところがよく見ると仕切の衝立《ついたて》が姿見になっていて、右の老人と見たのは、ほかならぬ画伯自身偶然の対面、これはこれはといよいよ悲観、そこで帰途わざわざ拙宅に立ち寄り、一つこの白髪を染めて若返り、ますます画道に尽したいが、ほかの意味で染めたと思われては困るから保証人になってくれとの話、大笑いで即決、当時画壇の斎藤別当と唄われた。  芸事はなんでも好き、「踊百番」なども描いたくらい、能画も暁斎以来この人の得意の題目、門下から坂巻耕漁の如き能画専門の人も出たが、大正のはじめ、月耕翁ひさしぶりに能楽十二、三番を桐板の額面へ極彩色に描き、湯島の天神く、奉納、さすがに見事の出来栄え、幸いに震災を免れて今なお同社に保存のはず。    男優りの女流画家       晴湖女史から蕉園女史まで  閨秀画家も明治時代には大物がそろっていた。その筆頭は明治初期の書画界に、男子以上の幅を利かせた奥原晴湖、気性も頑強なら画風も頑強、丈人画としても磊落《らいらく》極まる筆法で、書蹟も剛放、それで身装も白縮緬の兵児帯《へこおび》姿で男子そこのけ、当時一流のばりばりであったが、晩年丈人画の衰運とともに熊谷に引退、不遇で終った。  一方の巨頭は跡見花蹊、教育家として有名だが書画ともに高逸、もちろん画道専門でないから書画会などにはあまり打って出なかった。つぎは南画の大家野口少蘋、人も知る穏健着実の画風、老いてますます盛名を成し、女ながらも帝室技芸員、歴《れつき》とした夫君もあって麹町内幸町に瀟洒《しようしや》の構え、御本人は細面の上品な風采、謹厳一方であるが晴湖と反対の優しく女らしい先生、但し揮毫の依頼はいかなる向きでも一人一品と厳然たる規定、とも知らず、金さえだせばと唐紙だ絖《ぬめ》だと欲張った連中、規定の摺物を突きつけられて玄関でダア。  三巨頭を初期以来の大物として、中期以後に生れたのは花蹊女史の一門で跡見玉枝、晴湖先生の養女で晴翠女史、少蘋先生の愛嬢で少葱女史、一時小室翠雲氏を婿君に迎えたが故あって取止め。広業門下の河崎蘭香、寛畝門下の荒木月畝、京都の上村松園、大阪の島成園、中にも松園女史の美人画は丈展時代の呼び物。  年方画伯門下の花形榊原蕉園、同門の秀才池田輝方と恋のローマンス、輝方は木挽町の建具屋棟梁の息子さん、一方は堂々たる元日鉄の重役、話がもつれて師門を飛びだした輝方、地方を回って放浪の旅、師を始め同門諸子も心配して大骨折の結果、ようやく納まって池田夫人となった蕉園女史、恋は遂げたが不幸にも数年ならずして大正六年歿、明治最後の花は散った。    「東京にて有人様」       採菊翁へ宛てた珍郵便  幕末以来魯丈とともに中本作家と知られた山々亭有人の条野採菊翁、明治初期の小説家であり、『やまと新聞』社長であって、かつ劇通の大先達、そうとう羽振りを利かしたものだ。それが今では鏑木清方画伯の厳父と一々断らねば通ぜぬほど時代は遷《うつ》る。  背のあまり高くない丸顔の肥った老人、洗煉された江戸式の大通五世川柳の門下で柳風はお手のもの、三題噺流行のころ粋狂連の頭取で、当時の評判記にも大上上吉の位付、常に魯文、黙阿弥、芳幾等と一つ穴で、彼の黙阿弥の傑作「魚屋の茶碗」に織り込まれた身投げの件は、文久三年正月、粋狂連の頭目高野氏に伴われ、魯丈、芳幾とともに両国の青柳から船での帰るさ、両国の橋下で出逢った実話を、翁が黙阿弥に語ったのだとは有名の話。  川柳に「低くいひ高く笑ふは面白き」とある、翁の話振りがその通り、低声で何か言っては、あっはっは、と大きく笑う。小説など口の中でぶつぶつ言いながら丈句を練る。丈章は至って速いが字は筆の先で小さく書く、ちょっと読みにくかった。五代目菊五郎が贔屓《ひいき》で大の仲よし、そのほか劇壇や芸界で翁の息のかかった連中は尠なくない。円朝や九女八などは就中その筆頭で、常に翁を相談相手。  明治の初年駅逓局ができて、初めての郵便制度に珍談のいろいろ、中にある時、「東京にて有人様」という宛名の郵便が翁の許へ届いた。翁は内心わが高名を誇っていたが、後で聞くと局員が持て余した末のお笑い草に、件の一通を長官の前島密氏に見せた。もとより昵懇《じつこん》の長官、これは我輩の知人条野だ、と翁の住所氏名を告げたので無事配達された次第、と判ってみれば別段高名の故でもなんでもないので大笑いさ、と有人様の直話。    千歳村の蘆花先生       洋行前の初見参  丈壇の聖者といわれた蘆花《うか》徳富健次郎氏、市外|千歳《ちとせ》村の邸に閉じ籠って、いっさい客を絶ち俗界と絶縁、京王電車の下高井戸で下車、畑道を約五丁ばかり、生垣を繞《めぐ》らした一軒の平家建て、それが先生のお宅で、ぐるぐる回っても門がない。裏木戸の柱に木札が下って「御用の方は女中へお申し聞け下さい」。  面会不能で通った先生が、なんたる幸いそ、逢おうという御通知、さっそく参上して裏木戸を無事に通過、庭先から奥の八畳の客室へ罷《まか》り通った。なんら気取った装飾もなく、床には名を忘れたが勤王家らしい人の書幅、紫壇《したん》の机を中央に主客相対す、先生は古風なネルのシャツに荒い縞物の綿入れ、薩摩絣《さつまがすり》の羽織という木綿ずくめに当方の|べんべら《ヘヘヘへ》、いささか面目ない。 艶のよい丸顔で、小肥りのがっちりした体格、一言一句真心の籠ったような話振り、にこにこと優しい目でじっと見られる。私は思わず敬虔《けいけん》の念に打たれてなんとなく胸がいっぱい、この時の印象は深く頭に残っている。用談後は一層うちとけて近々洋行の準備やら聖地巡遊についての話があってお暇、庭先まで送って出られ、一本の若松を指さして、「ちょっと見て下さい、この松はここへ来た当時ほんの小松を自分で植えたのがこんなに大きくなりました」と、多少感慨の体。 『不如帰』でも知らるるとおり、先生の著作を一冊出せば本屋は身上が建て直る。その上に店の格が上るので、なんとかしてと望んでも、それはまず不可能で、その許しを得たのは二、三に過ぎぬ。例の『みみずのたわごと』を出版した書肆の主人が二年余り日参してようやく願いが叶《かな》いましたとは、まんざら嘘でもないようだ。原稿を持って回るソコラの先生とは大違い。    日本一の愛猫家物語       子猫の嫁入り先が四十六軒?  明治の文士で廓《くるわ》通の片山友彦君、五丁庵通里と称して通人肌の好人物であったが、見かけによらぬ奇行家、かつて東海道の名物の袋や商標を集めて貼込帳を作った。五十三次たいていそろったが、保土ヶ谷だけが、名物もなにもないのでわざわざ用もないに保土ヶ谷へ出かけ、一晩泊って宿屋の受取を持ち帰り「これでようやく大そろいだ」と涼しい顔。  一家そろって大の猫好き、おばあさん猫を始め、娘猫、孫猫と母子三代がみな丈夫でお産をする。子猫はたいてい所望者がついて片づくが、それでも自宅には常に十何匹が鼻づらをそろえて玄関の次の間にずらり。見知らぬ客がうっかり入ると、大小一度に背中を丸くしてフーッと来る。さながら怪猫屋敷、有馬様でもこれほどではあるまいと気の弱い客はぞっとする。  さすがの猫好きも少々気の毒になって、今度は二階に追い上げる。子猫でも好い気になって、天井の鼠公以上に荒れまわり、襖を破るやら掛物を引き裂くやら大変な騒ぎ、それでも主人公平気で玉よ駒よと、本当の猫撫で声、さすがは日本一の愛猫家と友人どももあきれ返った。見よ、茶の間の障子の腰板から五寸ばかり上の方が一直線に泥の痕、聞けば親猫が外からお帰りの節、開けてくれとたたくのだとは、いよいよもって無気味の至り。  十数年のながの年月、同家で生れた子猫の数はおびただしく、随って嫁入り先も少なからず、おせっかいの友人が、嫁入り先を調べたら驚くなかれ四十六軒。一つそのもらい主を集めて大懇親会を開いたらどうだというと、一人が「惜しいことをした、そんなにあったら三味線屋へ売っても大したもの」に主人公苦い顔。    田口米作と永田錦心       不思議な縁で生れた大家  清親についで漫画の先駆者「四睡の巻」「長短の巻」など奇想天外の傑作を遺した田口米作画伯は、もっぱら古画によって学んだ人で、その画風は真に瓢逸の点で天下一品、しかし漫画以外は気に向かぬと描かないので、その作品は至って少ない。  明治三十五年の一月十日、師の清親方へ年始に行って、午後三時ごろ帰宅すると突然脳貧血を起し心臓病を併発して、七日間ぶっ通しに昏睡したまま、ついに永眠。  芝桜川町の家へ通夜に駆けつけた清親翁、落胆しつつ語る、「もう二十五、六年前だ、私が愛宕山へ写生に毎日出かけたが、いつも傍へ立って熱心に見ている子供があった。いかにも熱心なので絵を教えてあげようかというと、ぜひ願いますというので一緒に家へ行って両親に話し、こっちからとうとう弟子にしたのがこの米作君で、その時の様子が今でも思いだされる」と感慨無量。  和漢の古画及び浮世絵にも精通し、ことに色彩の研究にはもっとも熱心で、その遺著『色彩新論』は当時前人未発の卓見として金子子や末松男から大いに推賞された。一時は茶道にも凝って、ちょっと画筆を持っても妙な手付きをするので、なんの真似ですというと「これは茶杓の扱い」、要するに趣味の広い人であった。  桜川町の塾へは七、八名の門人が通って来たが、内弟子の永田武洲という少年が玄関にいた。当時十八、九歳、快活で無邪気で画もなかなか巧者であった。  あるとき師の米作氏いわく「永田は画よりも琵琶が上手で全く天才ですよ、確かに物になります、その内一つやらせてお聞かせ申そう」と、これが後に薩摩琵琶で一流をだした永田錦心とは当時夢にも思わなかった。    風雅界の名物寒山       楽書だらけの四枚の障子  下谷忍川のほとり、上野町にいた山田寒山翁、つとにシナへ渡って当時無住の「月落烏啼」の蘇州寒山寺の住職となり、帰来寒山和尚で通した奇人。書画|篆刻《てんこく》そのほか楽焼陶器に妙を得て風流に浮身をやつす。そのくせ、才気もあっていろいろ新案のある中に、例の寒山寺箱と称する唐本型の巻紙封筒入れなど、ひとかどの商品価値。  向島|三囲《みめぐり》の土手下に楽焼の窯《かまど》を開いたのが明治三十年頃、丈人墨客の出入り絶えず、丈士では紅葉、思案、麦人なども遊びに来て、縁側の障子四枚はそれらの連中の楽書きでいっぱい、これが風流と和尚大喜び、俳句あり都々逸あり、中に紅葉の俳句は自慢の一つ、座敷の棚には小蘋、米華、探令、米作諸画伯のかき散らした花瓶や茶碗、道楽気分の盗れたもので面白いが、和尚なかなか手離さない。  呉冒碩についたという篆刻は立派な腕前、伊藤公に招かれ大磯の滄浪閣へ出かけて公の水晶印五|顆《か》を彫った。その印譜をわざわぎ持って来てくれたが、素人目にも荘重典雅、銅印石印も巧いが陶印はことに得意であった。画は墨竹に妙を得てすこぶる達筆、寒山寺釣鐘勧進のため墨竹十万講を催したが、一々絹を取り代えつつ描いていては間に合わぬ。描いた絹は自動的にソバからまくれて行くような工夫はあるまいかと本気に考えたほど全く早業。  十万講は一万講にもならなかったが、どう工面してか釣鐘は鋳金家小林誠義氏に嘱して見事に出来、賑やかに突き初《ぞ》めを行って和尚大得意、晩年もすこぶる元気で、茶の絹紬《けんちゆう》の被布に椀形帽子、半白の頤《あご》ひげをなびかせて飄然と来たり、なにかしら新案を持ち込んで、宜しく頼むというかと思えばサッサと帰る。仙人の如く俗物の如く当時雅界の名物男。    その昔奥山名物五人男       変人、奇人、通人ぞろい  浅草公園の奥山時代、五人男といわれた変人が五名、観音堂の西、今の四区五区に集まって当時は有名であったが、今となるとだいぶ忘れられた。  本名は知らぬが墨画の竹に妙を得て墨竹仙人でとおった老翁、当時(明治十五、六年頃)百四歳という途方もない高齢にもかかわらず、すこぶる頑健、見上げるばかりの大男でツルツルの薬缶頭、朴歯の高下駄、杖も突かずに往来し、今日は四谷まで行って来たとすましたもの、もちろんテクだから驚く。家は平家建ての格子造り、入口に自画の墨竹の額がかけてあって目印になった。  つぎは有名の淡島椿岳、本姓は小林、淡島さまの堂守であったが、画は椿年に学び、後には大津絵風の飄逸な筆致で、花卉《かき》も面白いが、鬼の念仏や閻魔《えんま》さまが得意、お堂のわきへ台をすえ、寒冷紗や漉《すき》返しの紙に描いた自画の上へ、小石を置いて飛ばぬように並べて売っていた。その画が今日では椿岳党がたくさん出来て大したもの、その子息の寒月氏は西鶴丈学の鼓吹者となった。  伊井蓉峰の父北庭菟玖波も五人男の花形で、写真の率先者、ヘベライともいった。今の花屋敷の東隣り、家の周囲には西洋の草花を植えて珍しがられた。生人形の亀八翁が大の懇意で、ある時ひとつ撮ってくれというと、写真は商売だからと剣もホロロの挨拶、それではよろしいとそのまま出て一丁ばかり行くと後からオーイオーイと呼び止め、今のは表向きだよとわざわざ連れ帰って撮影した。あれはよっぽど変りものでしたと亀八がよく話した。  その隣りの下岡蓮杖、これも九十二歳の長寿を保ったが、写真、洋画等文化の先駆者で、当時桐の大箱へ眼鏡(レンズ)をはめ込み西洋風景のクローム画を入れて「万国のぞき眼鏡」と称し、家の前へ七、八個並べて観せていた。江戸ヅ子で、足袋屋の小僧だったが、その頃は足袋を足に合わせて誂《あつら》えるものが多く、小僧の蓮城は顧客の足を計るのを憤慨して十三歳の時出奔、狩野菫川の門人になったという、子供の頃からの変り物。  最後はシナ人で羅雪谷という画家、指頭画をよくし、小指の爪を長くして墨を含ませ山水花鳥を画くが、まず俗画であった。愛らしい小犬がいて主人が月琴を弾くと必ず前へ坐って唄うつもりでうなっていた。犬までが変りもの、以上五人男の時代は奥山も藪沢山の幽境で、今の公園とは全然空気が違う。