ジャーナリズムの話  実は、私はあなた方よりも生まれてから餅を二倍ほど食ったというわけで、ここに引っ張り 出されたものでありますが、ちょうど、私の改造杜の記者が二、三日前に早稲田の阿部賢一さ んにお会いしたとき、「山本君も若い人びとと接触したらいいだろう」と言われたそうです。 私はその意味におきまして、あなた方と接触するということは、一つの大きな、岳びであります。  私は『改造』誌上や、いくたの出版物を通じては、あなた方と接触しているだろうと思うの でありますが、親しくこういうように眼の前に皆さんとお逢いしておりますと、また新しい時 代の気分というものが、人を通じて感じることができるので、私としていわゆる一と進出した ものであるというような考えも湧いて来るのであります。  本日の講演の題と致しまして、日本のジャーナリズムの特殊性について話してくれというご 注文であったのであります。  すなわち、日本の今まで進んで来つつあったところのデモクラシーの思想とか、あるいは社 会主義思想とかに対して、近時いろいろな形をもって、これに対立するものが現われてきた、 それはファッショの思想がメキメキ拾頭して来たという、こういう時代において、日本の新聞、 雑誌、つまりジャlナリズムがいかに対応しているかということを話すつもりでありましたが、 本日ここに伺って見ますると、主催者の方ではまた考え直されたと見えまして、私が『改造』 を始めた当時の社会情勢から、私が遭遇したところの種々な事件、たとえばバートランド・ラ ッセルを通じて、もしくはサンガl、アインシュタインを通じ、そういうような私が遭遇した 事件を中心として何か述べてくれというようなお話であるのであります。  私はどちらを述べてよいのか、迷っているのであります。しかしながら、ジャーナリズムの 原理とか、あるいは機能とかいうようなことについて、皆さんにお話するより、雑誌『改造』 を通じ、もしくは我が杜の出版物を通じての私の体験をお話すればよろしいのだろうと信ずる 次第であります。  でありますからして、極わめてまとまりのない、体系を持たない話でありますけれども、し かし学者でもない私が、学者ぶった話をするよりむしろそうした方がふさわしいという自分の 気持もありますので、話はとびとびに出て来るだろうと思うのであります。 したがって当時のデモクラットが、非常に活動した時代、もしくは社会主義、マルクス主義 の思想が一代を風靡した時の出版情勢および社会情勢も出て来るだろうと思うのであります。 また、私が私的に交友を持ちまする人びと、もしくはいわゆるファッシ.の巨頭と目される人 びととの雑談を通じて、その時代、その人を語ることもあり得ると思うのであります。で前置 きはこれくらいにいたします。  われわれが、 一つの仕事を遂げようと思うときは、その仕事に全心全力を打ち込まなければ ならないということは、当然であります。  私が、東郷大将から聞いたことでありますが、東郷さんとルーズヴェルトと逢われたとき、 大小の戦争について責任論をたされたことがある。そのとき東郷さんは小さい戦でも責任と配 慮は同じことだと言われた。  われわれが、一つの仕事をするには、大きた仕事でありましても、小さた仕事でありまして も、何だ、これはつまらない、小さな仕事ではないか、といって力を抜いたら、その仕事はう まく出来ない、と、こう思うのであります。  また、私が、いつか桂公に従って軽井沢に遊んだことがあります。その時に、あの有名なお 鯉さんも一緒でありましたが、ちょうど、晩餐を雨宮敬次郎氏の家でとられつつ、山本大将と 児玉大将の比較話が出たのであります。桂さんが言わるるには、児玉は天才である、山本は天 才の点においては児玉に及ばない、しかしたがら山本権兵衛は一つの軍艦を造ると仮定すると、 それには一つ一つの要所に釘を打たなくてはやまたいのである、国の政治を執ってもその通り であるから非常に安心が出来る。ところが、児王になると天才振りを発揮して一足飛びに仕事 を進めるから、船が洋中に出てから覆没するの危倶がある。そうして後藤新平も児玉にいささ か似ておった、ということを話されたことがあるのであります。まことにその通りであると私 は思う。  私は、日本の現在というものが、時代のただ一つの流れによって、マルクス主義が盛んな場 合はマルクス主義、もしくは反動思想が盛んた場合はすぐそれに移る、というようた状態では、 非常に日本の前途というものの見通しがつきかねて痛心にたえぬことがあります。  日本の将来がどこへ行かなければならぬかという目標を、一番はじめに想定したければなら ないと思うのであります。  私がジャーナリズムについて一つの計画を建てるときも、今月号はこうい弓企てをやるが、 これはどういう結果を杜会的に来たすか、ということを第一に考えてみるのであります。であ りますからして、その計画に向かってわれわれは一つ一つ釘を打って行かなくちゃたらないの であります。ところが雑誌というものは、今月の現象は必ず今月の中に取り扱わたければなら ない、すなわち一カ月遅れれば商売にならんのでありますから、その編集の締切後から翌月の 月初めの現象は材料として古くなる恐れがあるから、翌月の雑誌にも取り扱いにくいことがあ ります。それでいろいろの批判が、とびとびになります。しかし真のジャIナリストは感じが 古くなっても一カ月後れで取り扱います。これをぬかせば結局打つ釘を打たずに進むことにな ります。すなわち政治家には一つの識見が必要であるように、ジャーナリストもまた、第一に、 この後れてかまわぬ、悠々たる見識が必要であるのです。そしてそれが最も天才的でなければ たらぬのです。  しかしながら、その天才のする仕事というものは、桂公が批評されたように、つまり釘を打 たないで洋中に出る讐えの如きものであります、ジャーナリストは頻りに駆け足を好みます、 民衆もそうであります。しかしある一面に鈍重な厚味のある国民性を思わなくてはなりません から、むしろ非天才的であることも必要です。  ただ現在のジャーナリズムが、果たして正道を歩いているか、もしくは正道を歩ける状態に たっているかということにつきましては、私は残念ながら現在は歩かれない状態にあるという ことを申し上げる遺憾を持っているのであります。  今、現在の改造社を中心にして例をとりますたらば、斎藤内閣が成立致しまして、斎藤内閣 は、いわゆる非常時内閣と謂われております。それがどういう意味で非常時であったのか、思 想的か、外国からくる厄難の予測からか、もしくはただ単に、テロ行動に対する意味からであ ったか、あるいは財政的であるか、そこははっきり致しませんけれども、思想的に、斎藤内閣 がジャーナリストに臨んでいる態度は非常に峻厳で、むしろ言論の自由などいうことは薬にし たくもないのです。斎藤さんは皆さんがご承知の通り、ほとんど籍が弛んで、のんびりした顔 を持っている。しかしながら、言論界に対する斎藤さんの態度はその顔を眺めるようにのどか ではないのであります。  今日は、政治批判の会ではないのですけれども、その外貌だけでも描かなければ話を進める ことが出来たいから、そのいわゆる皮膚の方だけを撫でさしていただきたいと思うのでありま す。この斎藤さんは、朝鮮の統治に対しまして極わめて温厚でありました。そうしてあの人は 外国語が非常に達者である。でありますから、朝鮮総督のときでもほとんど通訳なしで外国の 記者とも会われておった。そうして外国の新しい本も読まれる。今回、来朝しましたところの バーナード・ショウとも通訳なしで会われております。斎藤さんは外部に対する色彩は極わめ て滑らかであります。ほとんど緊張というような色合いは一つもなく、非常時というような顔 つきはちっともない。であるからして、そういうような態度をジャiナリズムに対して斎藤さ んがとっているかといへば、必ずしもそうは思われない。斎藤さんは朝鮮総督をしていられる 時分、あの人の治績として挙げ得ることはほとんど少ない、と私は思うのであります。で、そ ういうような意味で斎藤さんは温厚な人であるけれども、しかしながら、国家の非常時に出て 一つの経済政策を遂行しようとか、あるいは思想問題を解決しようとかいう考えや、努力は恐 らく無いであろうと思います。すなわちあの人が経験されたところの今までの二、三十年の政 治的生涯でこれを証明しております。 「無為にして日を過ごす」これであります。  ところが、斎藤さんが内閣を組織されましてから、われわれの出版物は、頻々として発売禁 止の厄に遭っております。たとえば、以前の内閣では許されておったものでも、今日それを覆 刻すれば、どしどし発禁を食う。それは時代が変わったから仕方がない、そういう観方ならば、 あるいはそれでいいかも知れません。しかしながら、われわれは必ずしもそう見ることは出来 ない。つまり現在までは本の発売禁止にあったものは、出版社と内務省と協定して大抵返して くれとるのであります。つまり財産権に向かっても、内務省は出版者を苦しめているのであり ます。これが斎藤内閣になってからの、特異あるところの現象であるのであります。斎藤さん は必ずしもそうしたことを一々知られないかも知れませんが、斎藤内閣のもとでそれをやるの であるから責任は負わなくてはなるまい。私は議員として、出版法案のことにも関与したこと があったが、原則として発売禁止した場合は、その悪い個所を切り取って出版者に返付すると いうことにたっておった。つまり国家は出版者の財産権にまで立ち入るべきものでないという ことであったのだ。ただ、私どもとしては内務省は独自の見解でやるとしても、出版者に対し て、まるで仇敵のように視てもらいたくはない。こういう点に日本のジャーナリストが一致し て起ってくればいいがと平生思っている。  私は過ぐる日、満鮮に遊びました。朝鮮に第一の足場を置いて、いろいろ朝鮮の思想問題に 対して研究して見た。私は、日本側の人よりも、なるべく朝鮮人の思想は朝鮮人側から聞いた 方がより正確だと思ったから、出来るだけ朝鮮の人びとから話を聞くことに努めたのでありま す。それから満州におきましては、この話を聞くのになかなか骨が折れるのであります。支那 人からーわれわれは、いわゆる満州人を支那人、支那人、と一口に今でもい弓癖があります。 その満州人から、話を聞くことは非常に好ましい。満州の人びとは恐らく現在の日本の人びと が行っても、本当のことは申しますまい。でありますから満州に行きまして、親しく満州の人 びとの遭遇しつつある状態、もしくは、朝鮮の人びとがいかに苛められているかという事態を 知るということは、なかなか容易なことではないのであります。  それからまた、現在の段階における満州国のンヤiナリスム1皆さんはこの経緯をよくご 存じないでしょうが、今では、ほとんど官憲でもって大体の通信網は統一されております。ち ょうど五カ月前までは新聞の特派員が、めいめい政治問題についても、あるいは軍部の問題に ついても、自分の感じのままの電報を打つことが出来た。けれども、今日においては、時局重 大という名の下に、各人の自由な報道が出来ないのであります。現在ほとんど新聞の通信材料 というものは、そのように統一されました。すなわち関東軍司令部とか、あるいは満州国政府 においてソビエットの如く、統一されました。この統一された一つの機関から、すべての材料 を新聞社に交付するのであります。であるから、ジャ1ナリストの立場からいえば、ああもし たい、こうもしたいと思うことが山ほどありましょう。そして自由の才腕を振うことがジャI ナリズムの本道であり、正道であるのです。しかしこれ以上、満州国のジャーナリズムの内容 に亙ることは差し控えたいと思います。  満州国政府の成立というものは、あるいは皆さんご承知でないかも知れませんけれども、表 面に現われたものと、裏面の実際とはずいぶん変わっているだろうと思うのであります。すな わち満州国成立に非常に大きな役割りを遂げただろうと思われるような人びとにおいて、果た してその人びとがどういう仕事をしたか。責任の重荷にある人が、案外、何も知らなかったと いう不思議があるかも知れない。満州国政府は、初めは、やはり二つの政党の対立を基本とし て立憲制に則ろうとしたのであった。しかしこれには有力な反対もあった。そして政党の存在 を許すか、否かが大問題になったのであります。これは昨年三月頃でした。すなわち笠木良明 君あたりを中心にした一つの党派と、現在奉天の総務庁長であるところの、金井君一派を中心 とするところの一派、この二つが政党的に進みたい、というような考えであったのであります。 そ、して、笠井君一派は資政局に立て籠もっている。その人を中心にして自治指導員を、自分ら の輩下として、そうしてその指導員によって満州国家の発展を企図されたのです。ところが、 政党的存在というものは、皆さんご承知の通り、現在執政(本演説をやったときは執政であった) たる薄儀氏がこれを否定する側に立ちました。また、あの人の今までの径路や、環境からでも よくわかります。そうして、総理である鄭孝胃でも政党政治を否定する人であります。そして 現在は満州国政府の基礎というものはどういうものであるか。笠井君一派は資政局を中心とす るもの、府県の参事官みたいなものを中心として、全五省の行政をやって行こうとする。とこ ろが、満州国の最中枢であるところの薄儀氏と、鄭孝骨とが嫌いで、昨年六月に資政局を中心 とする大きな変革があって、この制度は根本的に崩壊してしまったのであります。現存する協 和会は、その変形的なものであるが、その幹部には満州国の土着派が主要なる分子となってい ない。皆、いわゆる昔の清国皇室派が中心になっているのである。で、ありますから、一方に おいては満州国は、いわゆる土着派は二、三ヵ月前に死にましたところの干沖漢を中心として、 勢力を張ろうとしておったが、彼の残去によって、画餅に帰した。今ではこの協会にも土着の 人びとの勢力は微弱である。そうした問題に如何なる態度をジャーナリストはとらなくてはな らぬか。そういうような解剖というものを現在あまり深くすることは好ましくない。したがっ て、満州国成立の側面的工作におげる板垣少将や、石原大佐の事蹟なども語れば、ずいぶん興 味は多かろうが、ここにお話することを揮るのであります。否、それよりもっと奥にかくれた る大物の話もありましょう。それは表面の立役者本庄中将などのことを語るより、ずっと面白 かろうとは思うのであるが。とにかく、満州立国の表面の歴史はあまりに面白いものはないが、 裏面的工作は複雑で、とても面白いことが多いのである。そういうような関係から、満州にお けるジャーナリズムはいかに処して行かねばならぬか、ということを考えなければならないだ ろうと私は思います。また、満州国成立のとき、いわゆる日本の指導的階級がいかなる関係を 持っていたか、現在満州国政府を構成しているところのいわゆる薄儀氏を中心とする人びとが いかなる考えを持っていたか、もしくは現在の満州国政府において、一番やり手であるところ の域式毅が、どういうような思想を持っていて満州国政府の成立に参加したか、ということも 考え合わせてみなければならない。その戚式毅という人は、ご承知の通り奉天軍閥では第一の 切れ者であって、この人が果たして日本の政府、日本の軍部に対して衷心から好意を持って満 州国成立に参加したかということについては、ここに陳ベることを差し控える。  また、昨年六月であったか、藩陽県警務局長一派の陰謀計画がいかなる性質のものであった かをも、素っ破ぬきたくない。  しかし、只今では滅も、煕治も、張景恵も、張海鵬も小磯将軍と協力して建国の基礎工事に 努力しつつあることだけは言い得るのであります。私はこれ以上に各要人を中心として一々挙 証的に申し述べてみたいのでありますが、あまり満州国の内部のことに立ち入ることはどうか と思い、ひとまずこの辺で打ち切りたいと思うのです。  こうした政治情勢下にあるジャーナリズムがいかなるものであるか、ということについて解 剖し、論及することはあまり面白くない。ゆえに私は現下に茄けるジャーナリズムの通信網の ことについて一言したい。現在世界に茄ける通信網というのは、大抵資本主義の走狗となって いる。こころみに日本の新聞に現われる通信のみを取りあげてみても、その通信の内容が、あ る階級に偏した外国電報のみが登載されることに直ぐにお気づきになるだろうと思います。現 在の通信網から観まして、現在のジャーナリズムは片輪のジャ!ナリズムであるのであります。 しからば満州国のジャーナリズムは果たしてどうか。我が国のそれはど弓か? かくの如き情 勢に対して、われわれは眼をつぶっていなければならない状態にあるということを深く考えて いただきたいのです。  現在、世界の通信網で一つの異なっているものに、すなわちロシア政府の御用通信があるの であります。けれどもいわゆる政府の御用をつとめるだけであって、真にプロレタリアの動き、 そうして、そういう階級のための通信、もしくは、露国の内部を解剖するというようなことに 向かっては、非常に臆病であると私は思うのであります。この通信網から観てみましても、よ ほどジャーナリズムというものを研究してみなければならない。  日本の新聞を御覧になってもおわかりになるだろうと思いますが、ロイテル電報にしても、 連合のそれにしましても、ほとんどある片方の階級の利益、関心を中心とした電報をもって作 られるのであります。  日本にはマルクス思想に了解ある人は沢山いるだろうと思いますけれども、しかしながら、 プロレタリアに即した新聞というものは、ほとんど日本においては存在しておらないと言って もよろしいと思います。この点においても重要たる考察を遂げる必要があるのであります。  もしも我が新聞社及びその幹部がいつも、資本家と労働者の両面に関心を同等に持つならば、 自由主義というものJも現在の如く弱いものでもあるまいし、また、社会の一隅に小さくなって おる必要もないのでありましょうが、いかんせん、現時の情勢におきましては、たとい、我が 国の情勢がファッショ的動きを鋭く見せるにしても、新聞紙の方は、どれほどまで真剣になっ て抗争し得るか、その力のほどもわからないのであります。  私は今日政治批判をするのではありませんから、そうしてここは大学の講堂でありますがゆ えに、これ以上政治上のことについてはお話し致しません。しかしながら、日本に加いても、 せめて自由主義者の書くものくらいは、やかましくいわないだけの雅量が、政府にも、今日の 老人連にもあって欲しいと思うのであります。そういうように、どうして思想が後退して来る かと申しますれば、それは、皆、日本のすべての事に当っている人びとが信念をもって動いて いない、文化という大動脈を中心に考えていない、いわゆる倒巧に、自分が食ってさえ行けれ ばよろしいというように動いているということが、その結果を招来するのだと私は思います。 でありますから、私は別に社会主義者、もしくはコムミュニストの態度を云々するわけではあ りませんが、しかしながら、われわれは、日本人として、日本民族として、大いに伸びなけれ ばならないのだから、そういう思想に対しては攻究するくらい許してもいいだろうと思うので あります。現在私は当局者の進歩主義の思想家に対する取締りの態度を別に責めようとするの ではありません。ありませんけれども、現在リベラリストはほとんど口を絨していなければな らない状態です。私の社では過去においてあらゆる困難を冒して『マルクス・エンゲルス全集』 をも完成して来た。 『マルクス・エンゲルス全集』は皆さんご承知の通り世界において、ただ 日本国だけにあるのみであって、ロシアにおいても、ドイッにおいても未だ完成していないの であります。こういうようた全集の発刊を許したところの日本当局は、現在においては、その 時の寛宏さをも持っていてはくれません。  私は、今日世間の評判によりますと、カフェーに行く人、あるいはスポーツをやる人は安心 である、それには娘をやれるけれども、新思想研究の徒にはやれないというようなことを往々 にして耳にする。耳にするだけではたい、ほとんどそういうことが、その通りの相場であるの であります。私はスポーツそのものを何等指弾するものではない。しかしたがら、身体におい て強健たものであるならば、田{想においてむ強健でたければならないと思うのであります。そ うでなげれば、強い民族、もしくは、我が国が歴史的た事業を遂げることがたかたか至難であ ろうと信ずる一人であります。  それからまた話はかわりますが、このほどバーナード・ショウ氏が日本に見えました。あの 人は調刺家、皮肉屋として肚界的に高名であるから、一般の人びとは薄ッペらた人のように思 うが、彼は決してそんな人ではありません。品格もあり、重味も備わっていて、やはり世界的 に名を成しただけの悠容たるところがあります。ところで、日本に来て、ジャ1ナリズムのす べてが「あなたは日本をいかに思いますか」、「日本のどこが嫌いで、どこが好きですか」と いうようなくだらない質問戦ばかりであって、芸術の真諦に触れるものが少たかった。  また、ショウが荒木陸相と会見したときも、私は許されて、一緒に逢ったのであったが、そ のとき世間に発表されたような問答録ではたく、たかなか文明の深いところに突込んだもので あった。その内容については、新聞、雑誌に発表されたもの以外の公表を禁ぜられているの、で、 ここに詳しくお話することが出来ないのであるけれども、機械の前における大和魂の地位の間 答の如き、流石と思わせたのであった。彼の来朝につき、大抵の批評家はバlナiド・ショウ は恥さらしに日本に来たと軽く一蹴して言っております。ところが実際あの人の真剣な、含蓄 の多い、そして芸術的な討議に参加してみて、ジャlナリストにも、こうした場面を見てもら えばよかったと思った。日本民族は、もうすこし批判的に生長しなければならないなあと、私 は考えたのであります。この点について、現在の新聞、雑誌の首脳部に罪悪はあると思います。 ショウは芸術家である。こういうときは本当に芸術を解する人を動員しなければならない。も しその芸術のわかる人が英語がわからたければ、通訳をつけてやってもいいのでありします。荒 木さんと彼が逢ったとき、K君という荒木さんの通訳がついたのであったが、ショウの言うこ とは大抵わかるとして、却って荒木さんの大乗とか、小乗とかの言葉をいかに通訳すベきかに 困ったのであった。これは余談であるがー1。  私は、ジャーナリズムに第一義的活躍を期待するには、やはり編集局幹部なる人の綜合的の 知識lIすなわち、政治とか、経済、文学とかの近代的動向がはっきりわからなくてはいかぬ と思う。ただ抜けがけの薄ッペらな功名をすれば、それでよろしいという考えから、いつもな がらのジャーナリズムを発揮するのではいけないと思うのです。  これはジャーナリストの本道的・技巧的の問題にはいって参りますけれども、この技巧あっ て、そして根本的の知識思想の動きがわかってこそ真のジャーナリズムの本道を行くことが出 来るのである。こうした根本礎石があってこそ初めてジャーナリズムが、民族文化進展の一要 素たり得るのである。  私はこの基本的の問題についても、技術の点についても、あるいは通信網のことにつきまし ても、それを階級的立場から観察もしたいのでありますが、実は本日は私はもう二回他に演説 をしたければならないという状態におりまするのでこの辺で打ち切りたいと思います。もしこ れがわずか四十人か、五十人の出版研究会の方々でありますならば、細微な技巧の問題までφ っくり申し上げ得たろうと思いますが、本日のように六百も七百もの多人数を対象としては、 それは出来がたいのであります。ただ一言これに加えますならば、現時の如く政治のことにつ いて、もしくは軍事のことについて、思うことを心の底に蔵していたくてはたらぬ情勢が数年 も継続したならば、これに対するジャIナリズムの行き方を究めることが極わめて大きな問題 であるのであります。これは国家的から見ても、民族的から見てヘー-。  皆さんご承知のように、日本の予算は大部分はほとんど軍事費である。その軍事貰の攻究と いうことが、日本民族、日本国民にとって今日非常に必要であるのであります、、そうして昨今 の時局は、この軍事費というものをどしどし増して行く一方である。でありますから、ジャI ナリストは軍事費の討究についても、本格的に、科学的に究明せたくてはならぬのです。政治 家も、ジャーナリストも特にこの点に留意することが緊急です。  本日ここに罷り出ました時分、ラッセル、アインシュタインが来た時の社会情勢、改造社が 出来た当時の情勢を話しせよということでありましたけれども、これはほとんど、もう時問が ありませんからして省くことを宥していただきたいと思うのであります。  もっともラッセルが来た時、いかに、ジャlナリストが無理解なことをしたか、別項を見て いただけばおわかりになると思いますが(「ラッセルの来朝」参照)、しかし、ラッセルは官憲か らも、新聞記者からも恥辱に近いところの待遇を受けた。ショウも日本で別れるときに、どこ に行っても写真機が沢山出る日本ではあるが、日本人は忘れっぽいのだろう、私が日本の港か ら出発してしまったら翌日から、私の名前を誰も言ってくれないであろう、こう言って去った のであります。われわれは民族として考えなくてはたらぬことではありますまいか。  私はいろいろなジャーナリズムの枝葉に亙るようなところの現象から見ましても、日本国民 はもっともっと批判力を養成しなければならない、そうしてまた、ある一方の思想というもの に余りに圧迫的になると、すべての反動というものが却って大きい禍を持っで.来るだろうとい うことを私は信じているものであります。この点につきまして、我が『改造』は、つまり、極 左翼的の論文でありましても、もしくは右翼と目される人の書いたものでありましても、いや しくも一国の文化の跡に一つの残すべきものがありと信じました場合には、いずれにも片よら ずして登載して来ました。そして綜合雑誌としての使命を果たして行くには、こうした態度で なければやって行けないだろうと思っている次第です。  私は、皆さんが永い間『改造』を読んで下さいますならば、いろいろそうした点にご感想が あるだろうと思います。  私は日本はいつまでも大きな民族として、そして批判力ある国民として、恐らくわれわれの 時代、もしくは、われわれの子供の時代に歴史的の事を遂げしめるために、当局が思想的の了 解を深くしてくれることを念ずるものです。  どうも話がまとまりなくして、申し上げようと思ったことで申し上げられないこともありま したけれども、しかしながら、私の最後の希望は、やはりこのジャiナリズムはあくまでも綜 合的に、そして文化の本源を掴むことを、いつでも考えていてもらいたい、いろいろな圧迫が あっても、われわれはこれを踏み越えて行かなければならない、ということであります。  で、一つの仕事をなすに、今までは体裁よく、倒巧にやって世渡りが出来た。けれどもこれ か非常時に面すると、Iわれわれは現在をまだ非常時であると思いませんがー用政的に、 民族的に、近く一年、二年の間に降りかかって来る大きた問題、それは対外的にも、対内的に も、それに対するに決して倒巧などというものでは、貫ぬいて行くことが出来ないと思う。一 つの生命を賭けなければならない。われわれの生命を賭けるときこそ、我が国の本半の非常時 であると思うのであります。  したがって私は結論として、ジャーナリズムにも、いいかげんな態度をもってでは、なかな か民衆を動かして行くことは出来ない、つまり本を買って、現在その本に向かって一つの感激 をもって読むというようた空気というようなものが、大正八年、もしくは十一年頃と比ベます ると、まるでたくなったのであります。そういうようなところが非常にいちじるしくわれわれ ジャーナリストから観て変わって参りました。しかしながら、三年、四年後に当面するであろ う問題は対内的の思想問題というような一つの問題ばかりでたく、五つも、六つも一度にドッ と押し寄せて来て、日本民族を非常にひっばたくであろうと、私は思うのであります。その際 にわれわれジャーナリストがいかなる精神のもとに、いかたる意識のもとに、動かなければな らないか、これが今日どうかと思われるようなジャiナリストでは、それを切り抜けて行くこ とが出来たい。その人たちは伝統的に、惰性的に、おひげのちりを払わなければならない、と いうような刑巧者であるゆえに、そうした時代には何も役に立たない。  これからあなた方が裸一貫で飛び出せる頃には、今までの人が秀才であっでぽじめて各会祉 に採用される、もしくは右翼であるがゆえに採用されるというような情勢が、なくなってしま いはしたいか。私は秀才が用いられる時代は、日本が平和な夢の時代であるからよろしいと思 う。しかし、全同胞、全階級が結束して起たなければならない秋になって、一つの孤立する階 級ばかりでは如何ともすることは出来ない。そうしてそういうように訓練されたジャーナリス トが果たして大きな役割を遂げなくてはならぬときに、それが出来るかどうか。  私は、今後皆さんが何の仕事に対しても真剣であることが基本でなければたらないけれども、 恐らく生命を賭けてそうして仕事に当たらなければならない時代が、必ずや差し迫って来るの ではないかということを考えたのであります。そうして実際において、ジャーナリストの任務 はただ勇気だけではいけないのであります。すなわち民族として最も勝れた歴史を作らなけれ ばならない進んだ思想と訓練とが必要である。  でありますからして、今後のジャーナリストというものは中途半端な人ではいけない。であ るからして私は、はえないけれどもが、ジャlナリストとはいちいち要心釘を自分でもって打 って行く、要心の深い個性をやしなわなければ、民族的にも大きくなって行くことはできまい と思う。  であるからして、あなた方は、すぐる日までは学校を出られれば一躍指導者の位置が獲得で きたのであった。しかしながら、今後は学問があるがために直ちに指導者の役割を与えられる というような、そういう都合のいい時代ではない。度胸一つと、自分の頭の程度、それに帰す るものだろうと思うのであります。  ジャーナリズムの討究からそれまして、随分永くなりましたから、これでご容赦願いたいと 思います。             (昭和八年五月九日午後早稲田大学大隈講堂における講演に加筆せしもの)