父を失う話
渡辺　温
　こないだの朝、私が眼をさますと、枕もとの鏡つきの洗面台で、父は久しい間に蓄えた髭を剃
り落としていた。そよ風が窓から|窓帷《カ　テン》をゆっくり流れ込んで、そして新鮮な朝日のかげは青々と
鏡の中の父の顔に|漲《みなぎ》っていた。
　おもてで小鳥が鳴いていた。
「お父さん、いいお天気だね」
　と私は父へ呼びかけた。
「上天気だ!　早くお起き。今日はお父さんが港へ船を見物に連れて行ってやる」
　と父は髭の最後の部分を丁寧に剃り落としながらいうのだった。
「ほんと？　素敵だな!……」
　私は嬉しくてたまらなくなった。それから何気なくきいてみた。
「お父さん、なんだって髭を剃っちまったんだねP」
「髭がないとお父さんみたいじゃないだろう。どうだP……」
　と父はくるっと振り向いて私を見たが、その次に細い舌をぺろりと出して眉根を寄せてみせた。
「どうしたのさ!?」
「こうなれば、ちょっとお父さんみたいじゃなくなるだろう。……今日お前を連れて遊びに行っ
たところで、お前を捨ててしまうつもりなんだよ。うまく考えたもんだろう……」
　父はそう言って笑った。
「嘘だい!」
　と私は寝床の上へ身を起こしながらびっくりして叫んだ。
　さて、父にせかれて仕立下ろしのフランネルの衣物に着換えた私は、これも今日はじめて見る
香い高い新しい麦わら帽子をかぶって、赤色のネクタイを結んだ父と連れだって家を出た。
　はつ夏の早い朝の空は藍と薔薇色とのだんだらに染まって、その下の町並の家々は、大方未だ
ひっそりとして眠っていた。
　停車場へ行く人気のない大通りを父はステッキを振りまわしながら歩いた。
「誰にも出会わなくて幸いだ」
　と父は独り言をいった。
「なぜP」
　と私はきいた。
　父は返事をしなかった。
　だが、その代わりに父はまた独り言をいった。
「ほんとにいやな息子だ。十ちがいの親子だなんて!　ああ俺も|倦《あ》き|倦《あ》きしたよ」
「なぜ」」
　私は父の顔をのぞき込んできいた。
　父は、しかし、私の声が聞こえなかったものか、黙ってにこやかに笑っていた。
　私は悲しくなって、父の腕に私の腕をからませた。ところが父はそれを|邪樫《じやけん》に振り払った。そ
して声だけはことの外にやさしくこう諌めた。
「およしよ。君と僕とが兄弟だと思われても、また、困るからね。およしよ」
　私は赤色がかったネクタイを結んで、髭がなくてにわかにのっぺりとしてしまった父の顔に、
|性《しよう》の悪い支那人のような表情をみとめた。
　汽車に乗ってからは、父は窓の外を走っている町端れの景色の方へ向いて、『ヤングマンスファ
ンシー』の口笛なんかを吹き鳴らしていた。そして私に対しては一層冷淡な態度をとった。
「ね、港へ船見に行くのP……」
　と私は不安な気持できいた。
「うん。船に乗るかもしれない……」
　父はそう返事しながら、胸のかくしから|疎《あら》い紫の格子のある派手なハンカチと一緒に大きな|竃
甲縁《べつこうぷち》の眼鏡をとり出すと、それをそのハンカチでちょっと拭いて悪くもない眼へ掛けた。コティ
の香水の匂いがハンカチからむせ返るほどふりまかれた。
「港の眺めほどロマンチックなものはないと思うよ」
　と父はいった。
「お父さん。どうして、そんな眼鏡かけんのP」
　私は父の不似合な顔の様子を気にかけて、そうたずねた。
　すると父はひどく怒った。
「お父さんだってP　馬鹿だな、君は!　……僕がどうして君のお父さんなものか!　もしも、
も一度そんな下らない間違いをすると、なぐるぞ!」
「………」
　私はそこで、不意に、本当にこの支那人のような顔をした男は、父ではないような気がしだし
た。
　私は眼をさました時に、大きな見まちがいをしてしまったのかもしれないと思い返してみた。
私は父と子との関係について1父なぞという存在が私にとって果たしてとれ程密接な関係に置
かれているものかーしかも、私の父は、私とはたった十年しかちがいはないのだがーそれら
がみんな今さら大きな誤りだったように思われて……私はだんだん、|強《したた》か酔っぱらってしまった.
時のように、信じ得べき存在はただ自分一個だけになって途方に暮れた。
「君、そんな青い顔しちゃいやだよ。……泣きっ面なんかしてると汽車の中へ置いてきぼりにし
ちゃうから!」
　父はまたずけずけとそう言ったが、それでもすぐ機嫌をとるようにつけ加えた。
「嘘だよ。そんな悪いことをするもんか。それどころか、僕は君に送って来てもらって本当に喜
んでいるんだよ」
　父はそして声をたてて笑った。
　私は、今日こんなふうにうっかりと出かけて来たことを悔みながら窓外の|爽《さわ》やかな田園の風光
が、齢しい涙の中に消えてゆくのを見守っているより仕方もなかった。
　港の停車場に着くと、父は車夫を呼んでチッキで大きな赤革のスーツケースを二つも受け取ら
せた。そのスーツケースの一つとともに車に乗って波止場へ向かう道々、私はいつのまに父がこ
んな大きな荷物を持ち出したものかと思い迷った。そしてそれについていた名札をあらためてみ
たが、　一字も書き込まれてはいなかった。
　すぐ前を走っている車の上から父は新しい夏帽子の縁に手をかけて時々うしろを振り返ってみ
ては、どういうつもりか、|竃甲《べつこう》縁の眼鏡で私へ笑いかけた。そのたびに赤色のネクタイがひらひ
らと|翻《ひるがえ》った。……そのたびに、ああ、なんという厭な狡猾な親しみのない顔なのだろう!　と私
は胸一ぱいに不愉快になりながら、そっぽ向かなければならなかった。
〈サクソニヤ号。午前七時出帆1〉と波止場の門の掲示板に書いてあった。父はそのサクソニ
ア号へ二つのスーツケースと一緒に入って行った。
　私は波止場に立って真っ黒な船腹のさびついた鉄板を見ていた。やがて、船の奥の方から銅羅
が響いて、ついで太い煙突が汽笛を鳴らした。
　父は甲板から、にこやかに挨拶をした。
「どうも、ありがとう。お丈夫で!」
「1お丈夫でー」
　と私は甲板を仰ぎながらそう叫んだ。
　船は波止場をはなれた。父は新しい麦わら帽子を高く振った。私は自分の汚れた黒いソフトを
一生懸命に振った。
　私は波止場の石垣に腰かけたまま、風に吹かれてほとんど半日も我を忘れていた。
　とうとう金|釦《ポタン》をつけた空色の制服を着ている税関の役人が私の肩を叩いた。
「どうしたんですP　まさか、身投げをするつもりじゃないでしょうね」
　私は急に悲しくなってむせび泣いた。
「おやおや、困りますね。一体どうしたっていうのでしょう。泣いてちゃわかりません。わけを
お話しなさい」
「お父さんが、いなく、なった、のです!……」
　と私はようやく答えた。そして、それから、父のためにどんなふうにしてあざむかれてしまっ
たかを語った。
「お父さんはどんな様子の人ですP」
　と役人はきいた。
「よく思い出せないのです。そう、ちょうどあなたみたいな人です。髭がなくなってつるつるし
た顔をしていました。そして、しかもやっぱりそんな大きな眼鏡をかけていました。ああ、ほん
とにあなたとそっくりです!」
　と私は叫んだ。
　税関の役人はドギマギとしてその髭のない貧しげな顔を両手で抑えた。
　父。髭なし。麦わら帽子。竃甲縁眼鏡(時として使用す）。赤地ネクタイ。その他、|瀟洒《しようしや》たる青
年紳士1、
　親切な税関の役人は右のような人相書を作って、サクソニヤ号の次の寄港地へ宛てて照会した。
しかし、もとよりそんな人相書は、たとえばその中の赤地のネクタイ一本がもつ手がかりよりも、
決して重要な特徴を示していなかったことは事実である。
　私はそして、とうとうその朝、そんなふうにして父から見捨てられてしまった。これから私は
全くたった一人ぼっちで、この堪え難い人生を渡って行かなければならないのだ-・。
　それにしても、自分の父の顔くらいは、よしやその髭がなくなったとしても、決して見忘れな
い程度に、よく見覚えて置くべきことである。