|海野十三《うんのじゆうざ》 ヒルミ夫人の冷蔵鞄  ある|靄《もや》のふかい朝  僕はカメラを頸にかけて、幅のひろい高橋のたもとに立っていた。  朝霧のなかに、見上げるような高橋が、女の胸のようなゆるやかな曲線を描いて、眼界を区切 っていた。組たてられた鉄橋のビームは、じっとりと水滴に濡れていた。橋を越えた彼方には、 同じ形をした倉庫の灰色の壁が無言のまま向きあっていたが、途中から霧のなかに融けこんで、 いつものようにその遠い端までは見えない。  気象台の予報はうまくあたった。暁方にはかなり濃い靄がたちこめましょう  と、アナウン サーはいったが、そのとおりだ。  朝靄のなかから靴音がして、霜ふりとカーキー色の職工服が三々伍々現れては、また霧のなか に消えてゆく。僕はそういう構図で写真を撮りたいばかりに、こんなに早く橋のたもとに立って いるのである。  レンズ・カバーをさって、焦点ガラスの上に落ちる映像にしきりにレバーを動かせていると、 誰か僕のうしろにソッと忍びよった者のあるのを意識した。だがー  焦点ガラスの上には、橋の向うから突然現れた一台の自動車がうつった。ゆるゆるとこっちへ 走ってくる。それが実に奇妙な形だった。低いボデーの上に黒い西洋棺桶のようなものが載って いる。そして運転しているのは女だった。気品のある鼻すじの高い|悧巧《りこう》そうな顔1だがヒステ リー的に痩せぎすの女。とにかくその思いがけないスナップ材料に、僕はおもいきり喰い下がっ て、ついにパシャンとシャッターを切った。  眼をあげて、そこを通りゆく奇妙な荷物を積んだ自動車をもう一度仔細に観察した。エンジン |床《ベツド》の低いオトプン自動車を操縦するのは、眉目の整ったわりに若く見える三十前の女だった。 蝋細工のように透きとおった白い顔、そして幾何学的な高い鼻ばしら、漆黒の断髪、喪服のよう に真黒なドレス。ひと目でインテリとわかる婦人だった。  奇妙な棺桶のような荷物をよく見れば、金色の厳重な錠前が処々に下りている上、耳が生えて いるように、丈夫な黒革製の|手携《てさげ》ハンドルが一つならず二つもついていた。  棺桶ではない。どうやら風変りな大鞄であるらしい。  婦人は蝋人形のように眉一つ動かさず、徐々に車を走らせて前を通り過ぎた。僕はカメラを頸 につるしたまま、次第に遠ざかりゆくその奇異な車をあかず見送った。 「お気に召しましたか。ねえ旦那」 「ああ、気に入ったね」 「-1あれですよ、『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』というのは  」 「え、ヒルミ夫人の冷蔵鞄?」  僕はハッとわれにかえった。いつの間にか入ってきた見知らぬ話相手の声にー。 「おお君は一体誰だい」  僕はうしろにふりかえって、そこに立っているルンベン風の若い男を見つめた。 「私かネ、私はこの街にくっついている|煤《すす》みたいな男でさあ」といって彼は歯のない|齦《はぐき》を見せて 笑った、「しかしヒルミ夫人の冷蔵鞄のことについては、この街中で誰よりもよく知っているこ の私でさあ。香りの高いコーヒー一杯と、スイス製のチーズをつけたトーストと引換えに、私は あのヒルミ夫人の冷蔵鞄のなかに何が入っているかを話してあげてもいいんですがネL  そういって、若いルンペンはブルブル|慄《ふる》える指を紫色の下唇にもっていった。  ある高層建築の静かな食堂のうちで、コーヒーとチー"ス・トーストとを懐しがる若きルンペン の話 「さっき御覧になったヒルミ夫人  あれは医学博士の称号をもっている婦人ですよ。専門は整 形外科です。しかしそればかりではなく、あらゆる医学に通暁しています。世にも稀なる大天才 ですね。  田内整形外科術-というのはヒルミ夫人の誇るへきアルバイトです。こ存知ではないですか。 近世の整形外科学は、ヒルミ夫人の手によってすっかり書きかえられてしまったんですよ。どん なに書きかえられたか、それもご存知ないのですか。これからお話してゆくうちに、ひとりでに 分ってきましょうが、なにしろここ五ヶ年のヒルミ夫人の努力で、普通にゆけば五十年は十分か かるという進歩をやり上げてしまったのですからネ。まあ政治的文句はそれくらいにして、事実 談にうつりましょう。ちょっと事実とは信じられないほどの奇怪なる事件なんですよ」  と、若きルンペンはポツリポツリと語りだした。  斯界の最高権威となったヒルミ夫人は、一昨年ついに結婚生活に入った。  その三国一の花婿さまは、夫人より五つ下の二十五になる若い男だった。それはある絹織物の 出る北方の町に知られた金持の三男だといいふらされていた。誰もそれを信じている。ところが それは真赤な偽りなのだ。それを証拠だてるのにはなはだ都合のよい話がある。ほんの短いエピ ソードなのだが。  それは一昨年の冬二月のことだった。  ある下町で、物凄い斬込み騒ぎがあった。  双方ともに死傷十数名という激しいものだったが、その外に、運わるく側杖をくって斬り倒さ れた「モニカの千太郎」という街の不良少年があった。白塗りの救急車で、押しかけて|搬《はこ》びこん だのが外ならぬヒルミ夫人の外科病院だった。  モニカの千太郎は顔面に三ヶ所と|肋《あぱら》を五寸ほど斬り下げられ、生命危篤であった。普通の病院 だったらとても助からないところだが、ヒルミ夫人は感ずるところあって、特別研究室に入れ、 日夜自分がついて治療にあたった、その甲斐あって、病人はたいへん元気づき、面会に来た警察 官を|愕《おどろ》かせなどしたものだが、そのうち繍帯がとれそうになったとき、千太郎は病院から脱走し てしまった。  ヒルミ夫人の届出でに、警察では樗いて駈けつけたが、厳重だといっても病院のことだから、 抜けだす道はいくらもある。まあ仕方がないということになった。  そのうちに、また元の古巣へたちまわるにちがいないから、そのときに逮捕できるだろうと、 警察では案外落ちついていた。  ところがその後千太郎は、すこしも元の古巣へ姿をあらわさなかった。警察でも不審をもち、 東京の地から草鮭をはいて地方へ出たのかと思って、それぞれに問いあわせてみたが、千太郎は どこにも草鮭をぬいでいなかった。そんなわけで、モニカの千太郎は愛用のハーモニカ一挺とと もに失路人の仲間に入ってしまった。  ヒルミ夫人が結婚生活に入ったのが、それから二ヶ月経った後のことだった。  万吉郎という五つも|年齢《とし》下の男を婿に迎えたわけだが、ヒルミ夫人の見そめただけあって、人 形のように顔形のととのった美男子だった。  いずくんぞ知らんというやつで、この万吉郎なるお婿さまこそ実はモニカの千太郎であったの である。  そういうといかにもこじつけ話のように聞えるであろう。いくら千太郎がお婿さまに化けても、 顔馴染の警官や、元の仲間の者にあえば、ひとめでモニカの千太郎がうまく化けこんでいやがる と気がつくと思うだろうが、なかなかそうはゆかない。今では顔を見ただけでは全く千太郎と見 わけのつかない万吉郎だった。つまり万吉郎なるお婿さまは、モニ力の千太郎とは全く別な顔を もっていたのである。千太郎もいい男であったが、万吉郎の顔は、さらにいい男っぷりであり、 しかも顔形は全く別の種類に分類されてしかるべきものだった。  それにもかかわらず、万吉郎は千太郎の化けた人間に相違なかったのである。  では、どういうところから、そういう不可思議な顔形の違いが起ったのであろうか。その答は 実に簡単である。ヒルミ夫人の特別研究室のうちで、千太郎の顔は新しく万吉郎の顔に修整され てしまったのである。それこそはヒルミ夫人の画期的なアルバイト、田内整形外科術の偉力によ るものだった。 「ワタクシハカツテ世間二於テ人間ノ美ト醜トニョル差別待遇ノハナハダシイノニ大ナル軽蔑ヲ 抱イテイタ」とヒルミ夫人はその論文に記している。「美人卜不美人トノ相違ノ真髄ハ何処ニア リヤト考エルノニ、要スルニソレハ主トシテ眉目ノ立体幾何学的問題二在ル。眉目ノ寸法、配列 等ガ当ヲ得レバ美人トナリ、マタ当ヲ得ザレバ醜人トナル。シカモ美醜間二於ケル眉目ノ寸法配 列等ノ差タルヤキワメテ僅少ニスギナイ。美人ノ眼ガワズカ一度傾ケバタチマチ醜人ト化シ、醜 人ノ唇ワズカ一センチ短カケレバ美人卜化スト云ッタ|塩梅《あんぱい》デアル。サヨウナ一度ト力一センチト 力僅少ノ幾何学的問題二一生ヲ棒ニフル者ガ少クナイノハ実二|嘘《わら》ウベキコトデアル。ワガ整形手 術ニオイテハ、ソレラノ僅少ナル寸法ヲ短縮スル等ノ技術ハキワメテ容易デアル。オヨソ人体各 部ノ整形手術中、人間ノ顔ホド簡単二整形形状変更等ヲナシ得ル部位ハ他ニナイ。コトニ其ノ整 形ノ効果ノ大ナルコト、他ノ部位ノ比デハナイ。モシ本書二説述シタワガ田内整形手術ガ全世界 二普及セラレタル暁ニハ、世界中二タダ一人ノ醜イ人間モ存在シナクナルデアロウ云々L  実に大胆なるヒルミ夫人の所説だった。というよりは、なんという強い自信であろうといった 方がいいかもしれない。  医学博士ヒルミ夫人のいうところに随えば、人間の恰好を変えることなんか訳はないというの だった。ことに、大した面積でもない凸凹した人間の顔などは、粘土細工同様に自由にこね直す ことができると断言しているのであった。ヒルミ夫人の門に教を乞う外科医がこのごろ非常な数 にのぼっているのも、このような夫人の樗くべき手術効果がそれからそれへと云いつたえられた がためであろう。  ヒルミ夫人が、なぜモニ力の千太郎の何処に|惹《ひ》きつけられて花婿に択んだのか、それはまた別 の興味ある間題だが、とにかく結果として、千太郎は万吉郎と名乗って、年上のヒルミ夫人のお |伽《とぎ》をするようになったのである。  当事者を除いては、誰もこの大秘密を知る者はない。もちろん警察でも、まさか千太郎が顔を すっかり変えて、ヒルミ夫人の花婿に納っているとは気がつかなかった。そこでこの奇妙な新婦 新郎は、誰も知らない秘密にさらに快い興奮を加えつつ、|翠帳紅閨《すいちようこうけい》に枕を並べて比翼連理の語 らいに夜の短かさを嘆ずることとはなった。  ヒルミ夫人の生活様式は、同棲生活を機会として、全く一変してしまった。彼女は|篤《あつ》き学究で あったがゆえに、新しい生活様式についても超人的な探求と実行とをもって臨み、毎夜のごとく 魂を忘れたる人のように底しれぬ深き陶酔境に|彷径《ほうこう》しつづけるのであった。 「1いくら何でも、これでは|生命《いのち》がつつかないよ」  と、いまは心臆した古き新郎が、ひそかに|忌揮《きたん》なき言葉をはいた。  不良少年として、なにごとにもあれ知らぬこととてはなく、常人としては耐えがたい訓練を経 てきた千太郎1てはない万吉郎であったけれと、その広汎なる知識をもってしてもついに想像                とりこ                             すべ できなかったほどの超人的女性の俘囚となってしまって、今は黄色い悲鳴をあげるしか術のない いとも惨めな有様とはなった。 「あなた。きょうはまるで元気がないのネ。どうかしたの」  と、薄ものを身にまとったヒルミ夫人は鏡の前で髪を|杭《くしけず》りながら、若い夫に訊いた。 「どうしたって、お前  」  と、万吉郎は天井に煙草の煙をふきあげながら、かすれた声で応えた。 「まあ、ー」  夫人は鏡面ごしに、このところひどく黄いろく|萎《しな》びた夫の顔を眺めた。だんだんとこみあげて くる心配が、ヒルミ夫人を百パアセントの人妻から次第々々に抜けださせていった。そして間も なく彼女は百パアセントのヒルミ博士となりきった。 「ハハア、分りました」と、ヒルミ夫人は胸を張り、鼻をツンと上にのばしていった。それはヒ ルミ夫人が診察をするとき必ず出す癖であった。「男性て、ほんとにか細くできている者ネ。で もあたしがそれに気がついたからには、もう大丈夫よ。すっかり安心していていいわ。当分毎日 いい注射をしてあげましょうL  ヒルミ夫人が確信をもっていったとおり、萎びたる万吉郎は注射のおかげでメキメキと元気を |恢復《かいふく》していった。そして三旬を越えないうちに、婿入りの前よりも、ずっとずっと強き精力の持 主とはなっていた。 「治療にかけちゃ、うちのかかあは、なかなか大したもんだ」と、万吉郎は鼻の下を人さし指で グイとこすった。「いやそれよりもかかあの口ぶりを真似ていうと、現代の医学は実に跳躍的進 歩をとげた  というべきであろうかナ、うふん。とにかくこうなると、俺は現代の医学という ものにもっと深い関心を持たなくちゃならんて」  そんなことがあってから後、万吉郎はヒルミ夫人に対し積極的にいろいろの治療をねだったの である。  ヒルミ夫人にとっては、万吉郎は世界の至宝であったから、少々無理なことでも喜んで聞き入 れた。しかし新しい治療をするについては、面倒でも、しっかりした臨床実験の上に立つことが 必要であった。そのためにヒルミ夫人は朝早くから夜遅くまで、手術着に身をかため、熱心に入 院患者を切ったり縫ったりした。  ヒルミ夫人の評判は、いよいよ高くなった。博士は結婚せられてたいへん仕事に熱心を加えた という賞讃の声が方々から聞えた。全くヒルミ夫人は、その昔、田内新整形外科術をマスターす るために見せた|熾烈《しれつ》なる研究態度のそれ以上熾烈な研究欲に燃え、病院のなかに電気メスの把手 を執りつづけたのである。しかしヒルミ夫人の研究熱は、その昔の純粋なのに比べて、これはた だ若き夫万吉郎に|媚《ヤも》びんがための努力であったとは、純潔女史のために惜しんでもあまりある次 第だが、なにがこうもヒルミ夫人を可憐にさせたかを考えるとき、夫人の夫万吉郎に対する火山 のように灼熱する恋慕の心を|不愍《ふびん》に思わずにはいられない。  |不愍《ふびん》がられる値打はあったであろうヒルミ夫人の立場であったけれど、その狂愛の対象たる万 吉郎にとって、それは必ずしも極楽に座している想いではありかねた。  早くいえば、不良少年あがりの万吉郎にとっては、ヒルミ夫人一人を守っていることに|倦《あ》き倦 きしてきたのであった。  もちろんヒルミ夫人は、その卓越した治療手腕をもって万吉郎の体力を、かのスーパー|弩級《どきゆう》戦 艦の出現にたとえてもいいほどの奇蹟的成績をもってすっかり改造してしまったのであった。だ から万吉郎は、いまや文字どおり鬼に金棒の強味を加えたわけであった。ヒルミ夫人は自らも過 不足なきまでに満足感に達し、万吉郎はいよいよ強豪ぶりを発揮していった。しかも万吉郎の心 の隅には、黄いろく萎びた新婚早々のころ、一度ヒルミ夫人に対して抱いた恐怖観念がいつまで も汚点のようにしみこんでいて、それが時にふれ、気がかりな脅威をよび起こし、その脅威は今 やすこしずつヒルミ夫人に対する嫌悪の情に変ってゆくのを、どうすることもできなかった。  万吉郎は、なんとかしてヒルミ夫人の身体から抜けだしたいと思った。といって完全に抜けだ してしまったのでは、こんどは生活の上に大きな脅威をうける。もう彼は、地道にコツコッ働い て、月給五十円也というような小額のサラリーマン生活をする気はなかった。ヒルミ夫人のもと にいて、懐手をしながら三度々々の食事にも事かかず、シーズンごとに新しい背広を作りかえ、 そしてちょっと街へ出ても半夜に百円ちかい小遣銭をまきちらすような今の生活を捨てる気は全 然なかった。経済状態はそのようにして置いて、ただ身体だけをヒルミ夫人のもとから解放した いと思っていたのである。  そんな贅沢な願望が、うまく達せられるものであろうか?  だが万吉郎も、ただの|燕《つぱめ》ではなかった,もとを洗えば、不良仲間での智恵袋であり、参謀頭で もあった。|奈翁《ナポレオン》の云い草ではないが、彼の|胡《ねら》ったもので、ついぞ彼の手に入らなかったものなん か一つもなかったぐらいだから、あるいは頭脳の絶対的よさくらべをして見ると、万吉郎の頭脳 はヒルミ夫人のそれに比して、すこし|上手《うわて》であったかもしれない。  万吉郎は、この|六《むずか》ヶ|敷《し》い問題の解答をひねりだすために、気をかえて、昔彼が好んで|俳徊《はいかい》して いた大川端ヘブラリと出かけた。  どす黒い河の水が、バチャンバチャンと石垣を洗っていた。発動機船が、泥をつんだ大きな|曳 船《ひきぶね》を三つもあとにくっつけて、ゴトゴトと紫の煙を吐きながら川下へ下っていった。|鵬《かもめ》が五六羽、 風にふきながされるようにして細長い|噛《くちぱし》をカッカツと叩いていた。河口の方からは、時折なま ぐさい潮の匂いが漂ってくる。  万吉郎は宿題をゆるゆると考えるために、|人気《ひとけ》のない川ぞいの砂利置場に腰を下ろした。  なにかこう素晴らしい思いつきというものはないか?  口実をつくって、旅に出ようかとも考えた。だが永くてもせいぜい二一二ヶ月のことであった。 一生の永きに比べると、そんな短い期間の解放がなにになろう。  発狂したことにして、病院に入ったことにしてはどうであろう。しかし病院をしらべられると すぐお尻がわれる。  ではヒルミ夫人を巧みに殺害してはどうであろうか。いや人殺しなんて、およそ万吉郎の趣味 にあわないことだった。怪しまれでもして、本当に刑務所に送られてしまえば、そんな大きな犠 牲はない。         それでは誰かすこぶるの好男子をさがしだして、不倫を強いるようで悪いが、ヒルミ夫人が恋 慕するようにはからってはどうであろうか。やっぱりそれも|拙《まず》い。ヒルミ夫人はそんな多情な女 ではないっただ一人の万吉郎を狂愛しているのであって、そうは簡単に男を変えるような夫人で はない。ではこれも駄目。  万吉郎は無意識に砂利場の|礫《こいし》を拾っては河の面に投げ、また拾っては投げしていた。  すると突然意外な事件が降って湧いた。万吉郎の前に、河のなかへ落ちこんだ高い石垣がある。 その石垣の向うから、不意に人問の首がヌッと現れたのである, 「ーよせやい亡なんだって俺に石を投げるんだ、いい気持に、昼寝をしていたのに」  万吉郎は|啄《あ》ッと叫んだコ  石垣の下からヌソと現れたその顔ーそれはひと目でそれと分るルンヘン若衆の顔だった、石 垣の下には、人一人がゴロリと横になれるところの狭いスペースがあるのであろう。  石垣をのぼってきたルンベンに、煙草を与えなどして、万吉郎は彼を自分の横に座らせた。 「旦那、なんか腹のふくれるものは持ってないかい」  チョコレートではどうであろう。  棒チョコレートを|噛《かじ》る若いルンペンと、ボソボソと取りとめない話をしているうちに、思いが けなく万吉郎は一つの素敵なアイデアを思いついた。 「うん、これはいい。どうしてそんなことに気がつかなかったろう。ああなんと跳躍的進歩をと げた大医学よ。l」  万吉郎は悦びのあまりルンペンの手をとってひき起し砂利場の上で共に抱きあって狂喜乱舞し たとは、|莫迦莫迦《ぱカばか》しいほどの悦び方だ。 「さあ君、僕と一緒にくるんだ。君のために素晴らしい儲け話を教えてやる。それに女も有るん だ。水のたれるような|美味《おいし》そうな、そして素敵に匂いの高い女なんだL  ルンペンは大口をあいて呆気にとられていた。  万吉郎のビッグ・アイデアとはどんなことであったろう?  さすがに利発なヒルミ夫人だったc  彼女は早くも、若い夫万吉郎の仇し心に気がついた。  と云って、万吉郎もすでに知りつくしているように、ヒルミ夫人はいかに若い夫が仇しごとを しようとも、彼を離別するなどとは思いもよらぬことだった。いかなる手段に訴えても、恋しい 夫万吉郎を自分の傍にひきとめて置かねばならないと思った。もし万吉郎が、自分のそばを一日 でも離れていったときには、自分はきっと気が違ってしまうであろう。  そんな風に、可憐なるヒルミ夫人は若き夫万吉郎のことを思いつめていたのである。  臨床実験のことも、病院の経営のことも、いまや彼女の脳裡から次第々々に離れていった。万 吉郎を家から抜けださせないこと、そして他の女に奪われないこと、その二つのことがらを常々 心にかけて苦労のたけをつくしていた。  だから、たまたま万吉郎が外出するときなど、他人には到底みせられないような大騒ぎが起っ た。ここには明細にかきかねるが、とにかくヒルミ夫人は万吉郎の身体に|蛭《ひる》のように吸いついて、 容易に離れようともしなかったのである。万吉郎はちょっと髪床にゆくのだというのに、このば . かばかしい騒ぎであった。  そんな気違い沙汰が、万吉郎の心をヒルミ夫人からずんずん放していった。それはそうなるの が当然すぎるほど当然のことだったけれどまたたしかに人間の情けの世界の悲劇でもあった。 「あなた、よくまああたしのところへ帰ってきて下すって」  夫が帰ってくると、ヒルミ夫人はひと目も|揮《はぱか》らず、|潜《さめざめ》々と涙をながして、|逞《たくま》しき夫の胸にすが りつくのであった。  そうしたヒルミ夫人の貞節が、万吉郎に響いたのであろうかヒルミ夫人の観察によればこの頃 夫の万吉郎は、すっかり人が違ったようにすべての行為に関し純真さと熱情とをとりかえしてい た。ときにいつもの口調で怒鳴りつけられることもあったが後で室に下ったときには、夫の機嫌 はおかしいほど好転するのであった。ヒルミ夫人の考えではやがて昔のような生活の満足感がと りもどされるにちがいないと期待を持つようになった。  ある日のこと、ヒルミ夫人はただひとりで研究室にいた。彼女はその日、なんとはなく疲れを 覚えるので、長椅子の上に豊満なる肢体をのせて、ジッと目をとじていた。前にはよくこうして 睡眠をとったものである。夫人は久しぶりにしばらくここで睡ってみたいと思った。  ところがいざ目を閉じてみると、どうしたものか、逆に頭が|冴《さえざえ》々としてきて、睡るどころでは なかった。 「ー神経衰弱かもしれない」  ヒルミ夫人は微かに頭痛のする額をソッとおさえた。  睡れなくなった夫人は、それでもジッと横になっていた。眼だけパッチリ明いて、動かぬ自分 の姿態をながめていると、まるでそこに他人の屍体が転がっているように思えてくる。  ヒルミ夫人は、なんだかますます妙な気持になって来た。脳髄だけが、頭蓋骨のなかからポイ ととびだしてきそうな気がした。その脳髄にはいろいろの事象が、まるで急廻転する万華鏡のよ うに現れては消え、消えてはまた変って現れるのであった。その目まぐるしいフラッシュ集のな かにヒルミ夫人はふと恐ろしき一つの幻影を見た。それは愛する夫万吉郎そっくりの男が二人、 手をつなぎ合って立っている場面だった。 「ああア、もしや本当にそうなのではなかろうか。いやそんなことがあってたまるものではな い。——」  ヒルミ夫人は、その恐ろしき幻影を瞬時も早くかき消そうと|焦《あ》せったが、しかもその幻影はは なはだ意地わるく、だんだんと濃く浮びあがってくるのであった。そのはてには、二人の万吉郎 は夫人の方を指してカラカラと笑いころげるのであった。  なんという恐ろしい幻影だろう。  愛する夫が、一人ならず二人もあっていいだろうか。あの水々しい頭髪、秀でた額、|凛《りり》々しい 眉、涼しそうなる眼、形のいい鼻、濡れたような赤い唇、豊かな頬、魅力のある耳殻1そうい うものをそっくりそのまま備えた別の男があっていいものだろうか。  夫人は急にブルブルと寒む気を感じた。  だが夫人の明徹な脳髄は、一方において恐れ|戦《おのの》き、そしてまた一方においてその意味なき幻影 を意味づけようとして鋭き分析の爪をたてた。 「1そうだった。そういう一つの特殊な場合があり得る。しかもそう考えることは、今日では もう常識範囲ではないか」  夫人はそこで長大息した。  恐ろしいことだ。恐ろしいアイデアだ。恐ろしい|係蹄《わな》だ、、 夫人をして、恐ろしい係蹄だと叫ばしめたものは何だったか。1それは愛する夫万吉郎が果 して真の万吉郎であろうかという恐ろしい疑惑であった。  およそこの世に、顔も姿も、何から何までそっくり同じ人間が二人とあろう筈がないーと、 確かにその昔には云えた、しかし今日において、それと同じことが確かに云えるだろうか、同じ ことが信ぜられるだろうか。いやいや、今日においてはーすくなくともヒルミ夫人の田内新整 形外科術が大なる成功をおさめてから以後においては、そういうことは全く信じられなくなった のだ。  丁|度死面《デスマスク》をとるときのように、一つの原型がありさえすれば、それと全く同じ顔はいくつでも 簡単にできるようになっているのだ。もちろんそれは、ヒルミ夫人の開いた新外科術の働きなく しては云いえないことだった。  ヒルミ夫人の新外科術が信頼すべきものであることはヒルミ夫人自身が一番よく知っていた。 しかもこの場合、夫人自身が創生したその信頼すべき手術学のために、夫人が生命をかけてある 愛の偶像を、自らの手によって破壊しさらねばならぬとは、なんたる皮肉な出来事であろうか。  わが掌中にしっかり握っていると信じていたわが夫は、はたして真の万吉郎であろうか。はた して万吉郎か、それとも万吉郎を|模倣《もほう》した偽者か。  夫人は自らの作りあげた入神の技が、かくも自らを苦しめるものとは今の今まで考えなかった。 もしこんなことがあると知っていたら、もっと不完全な程度にとどめるのがよかった。神の作り たまえる人間と、寸分たがわぬ模写人間を作ろうとしたことが、既に神に対する取りかえしのつ かない|冒漬《ぽうとく》だったかも知れない。  ヒルミ夫人の瞼に、二十数年この方跡枯れていた涙が、|間歓泉《かんけつせん》のようにどッと湧いてきた。夫 人は長椅子の上にガバと伏し、両肩をうちふるわせ、幼童のように声をたてて、激しく|鳴咽《おえつ》しは じめた。  そのことあって以来、ヒルミ夫人の頬がにわかに|痩《こ》け、瞼の下に|鋤《くろず》んだ隈が浮びでたのも、ま ことに無理ならぬことであった。   ふる しろ  ひとりで部屋のうちに籠っていれば、疳にうち顫う皓い歯列は、いつしか唇を噛み破って真赤 の な血に染み、軟かな頭髪は指先で激しくかきむしられて|蓬《よもぎ》のように乱れ、そのすさまじい形相は 私 に 地獄に陥ちた幽鬼のよ紡呪見えた。 U  それにもかかわらず怜倒なるヒルミ夫人は、夫万吉郎を傍に迎えるというときは、まるで別人   のようにキチンと身づくろいをし、玉のような温顔をもって迎えるのであった。|秋毫《しゆうごう》も夫万吉.  郎に、狂人のようにかき乱れたる自分の心の中を気どられるような愚はしなかった。   しかもその際ヒルミ夫人は、その温容なマスクの下から、夫万吉郎の容姿や挙動について、|鵜《う》   の毛をついたほどの微小なことにも鋭い観察を怠らなかった。もしも万一、その夫が真の万吉郎 でない証拠を発見したときは、彼女は直ちに躍りかかって、その偽の万吉郎の脳天を一撃のもと に打ち砕く決心だった。  しかし夫は、なかなか尻尾を出さなかった。尻尾を出さないということは、夫とかしずくその 男が、依然として真の万吉郎であるという証明にもなったが、同時にまたヒルミ夫人は自らの神 経を刺戟して、その男が巧みにも真の万吉郎そっくりに化け終せているのではないかと、もう一  歩鋭い観察に全身の精根を使いはたさなければ気がすまなかった、げに|無間《むげん》地獄とは、このよう な夫人の心境のことをさして云うのであるかもしれない。  |煩悶《はんもん》は日毎夜毎につづいていった。疑惑はまた疑惑を生み混乱の波紋は日を追うて大きく拡が っていった。  そしてとうとう最後には、もう紙一重でヒルミ夫人の脳が狂うか否かというところまで押しつ められた。  夫人は、灯もない夕暮の自室に、|木乃伊《みいら》のように痩せ細った|躰《からだゴ》を石油箱の上に腰うちかけて、 いつまでもジッと考えこんでいた。もうここで敗北して発狂するか、それとも思いがけないアイ デアを得て辛くも常人地帯に踏みとどまるか。 「あ、I」  夫人は暗闇のなかに、一声うめいた。  天来のアイデアが、キラリと夫人の脳裏に|閃《ひらめ》いたのであった。 「あ、救われるかもしれない」  リトマス試験紙が、青から赤に変るように、夫人の蒼白い頬に、にわかに赤い血がかッとのぼ ってきた。 「1素晴らしい着想だわ」  夫人は床をコンと蹴ると、|発条《ぱね》仕掛の人形のように、石油箱から飛びあがった。そして傍に脱 ぎすててあった手術着をとりあげると、-重い扉を押して、広い廊下を夫万吉郎の部屋の方ヘスタ スタと歩いていった。  いつも空腹なヒルミ夫人の冷蔵鞄が、腹一杯にふくれたのは、それから二時間とたたない後の ことだった。  その冷蔵鞄というのは、いつもヒルミ夫人の特別研究室に置いてあったものだった。それは最 新式の携帯用冷蔵庫であった。夫人は時折、この鞄のなかに、動物試験につかった犬や兎の解剖 屍体を入れて、外を下げてあるいたものである。  しかし今日という今日は、犬や兎の屍体はすっかり取り出されて、汚物入れのなかに移されて しまった。ひとまず鞄のなかは、綺麗に洗い清められ、そしてそのあとにバラバラの人間の手や 足や胴や、そして首までもが、鞄のなかにギュウギュウ詰めこまれた。その寸断された人体こそ は誰あろう、他ならぬヒルミ夫人の生命をかけた愛すべき夫、万吉郎の身体であったのである。  ヒルミ夫人は、夫万吉郎の身体を、生きながら寸断して、この冷蔵鞄のなかに入れてしまった のである。  では、ヒルミ夫人は、愛する夫を遂に殺害してしまったのであろうか。  いや、そう考えてしまうのはまだ早くはないか。  とにかくこうして、ヒルミ夫人は愛する夫の身体を冷蔵鞄のなかに片づけてしまったのである。 それからというものはヒルミ夫人は、その冷蔵鞄を必ず身辺に置いて暮すようになった。ちょっ と部屋を出て廊下を歩くようなときでも、また用があって街へ出てゆくようなときでも、その冷 蔵鞄はいつもヒルミ夫人のお伴をしていた。  これで夫人は、愛する夫を完全に自分のものにすることができたと思っていた。もう夫は、街 へ散歩にゆくこともなくもちろん他の女に盗まれる心配もなくなったわけである。  夫人は歓喜のあまり、その日の感想を、日記帳のなかに書き綴った。それは夫人が生れてはじ めてものした日記であった。その感想文は次のようなまことに短いものであったけれどー。 「×年×月×日.雨。  気圧七五〇ミリ。室温一九度七。湿度八五。  遂に|妾《わたし》は、決意のほどを実行にうつした。  この世にただひとり熱愛する夫を、特別研究室に連れこんで電気メスでもって、すっかり解体 してしまった。夫は最後まで、今自分が解体されるなどとは思っていなかったようだ。  妾の激しく知りたいと思っていたことは、夫として傍に起き伏している一個の男性が、果たし て真の万吉郎その人であるかどうかを確めたかったのである。だから妾は、夫の躰をすっかりバ ラバラに解剖してしまったのだ。  剖検したところによると、それは全く、真の夫万吉郎の勢に相違なかった。いや、万吉郎の躰 に相違ないと思うという方がよいかもしれない。いやいやそんな|曖昧《あいまい》な云い方はない。それは万 吉郎その人以外の何者でもあり得ないのだ。  なぜなれば、その男性の身体は常日頃、妾がかねて確めて置いた夫の特徴をことごとく備えて いたからである。たとえば内臓にしても、左肺門に|病竃《びようそう》のあることや、胃が五センチも下に垂 れ下っていることなどを確めた。(夫の外にも同じ顔の同じ年頃の男で、左肺門に病竃があり、 胃が五センチも下垂している人があったとしたら、どうであろう? いやそんな人間があろう筈 がない。偶然ならばあり得ないこともないが、偶然とは結局あり得ないことなのである、妾はそ んな偶然なんて化物に脅かされるほど非科学者ではない!)  妾は思わず、子供のように万歳を叫んだ。愛する夫は、今や完全に妾のものである。今日とい う今日までの、あの地獄絵巻にあるような苦悩は、嵐の去ったあとの日本晴れのように、跡かた なく吹きとんでしまったのだ。なぜもっと早く、そのビッグ・アイデアに気がつかなかったのだ ろう。  始めの考えでは、妾は剖検を終えたあとで、夫の躰を再び組み直して甦らせるつもりだった。 妾の手術の|技禰《ぎりよう》によればそんなことは訳のないことなのであるから。iだが妾は急に心がわり がしてしまった。  恋しい夫のバラバラの肢体は、そのまま冷蔵鞄のなかに詰めこんでしまった。夫の手足を組立 てて甦らせることは暫く見合わすことに決めた。何故?  妾はゆくりもなく、愕くべき第二のビッグ・アイデアを思いついたからだ。恐らく妾は今後二 十年を経るまでは、夫万吉郎のバラバラ肢体を組立てはしないだろう。二十年経つまでは、夫の 肢体を冷蔵庫のなかに入れたまま保存するつもりだ。なぜだろう?  今から二十年経てば、妾はもう五十歳の老婆になる。整形外科術の偉力でもって、見かけは花 嫁のように水々しくとも気力の衰えは隠すことができないであろう。そしてもし夫万吉郎を今日 甦らせて置けば、二十年後には四十五歳の老爺と化すであろうから、同じように精力の甚だしい 衰弱を来すことは必然である。おお四十五歳の老爺になった夫! それを想像すると、妾はすっ かり憂欝になってしまう。  夫はなるべく若々しいのがいい。ことに妾自身の気力が衰える頃になって、隆々たる夫を持っ ていることが、どんなにか健康のためにいい薬になるかしれないのだ。妾はそこに気がついた。  愛する夫万吉郎は、今から二十年間、この冷蔵鞄のなかに凍らせて置こう。  妾が五十歳になったときに、丁度その半分の年齢にあたる二十五歳の万吉郎を再生させるのだ。  そしてなおそれまでに、妾は十分に研究をつんで、男の心をしっかり捕えて放さないと云う医 学的手段を考究して置くつもりだ。なにごとも二十年あれば、たっぷりであろう。  おおわが愛する夫よ。では安らかに、これから二十年を冷蔵鞄のなかに睡れ!L 「これで私の話はおしまいなんです。 どうです、お気に召しましたか、さっき靄のなかの街頭に 御覧になった『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』の解説は L そういって若きルンベンは、広い額にたれさがる長髪をかきあげ、冷えたコーヒーをうまそう にゴクリゴクリと飲み干した。 僕はそれには応えないで、黙って黄いろい壁をみつめていた。 「  お気に召さないんですか。これほとの面白い話をl」  若いルンペンは、バター・ナイフを強く握って、猫のように身構えた。  僕はわざと軽く鼻の先で笑った。 「面白くないこともないが、もっと話してくれりゃ素敵に面白いだろうに」 「だって話はこれだけですよ。これが私の知っている全部です」 「嘘をつきたまえ。まだ重大な話が残っている」 「なんですって」 「僕から質問をしようかネ。それはネ、この話の語り手はなぜこうも詳しく秘事を知っているの だろうかということだ。彼はまるでプライベイトの室に、ヒルミ夫人と二人でいたような話しぶ りだからネ。一体君は誰なんだ。それを名乗って貰いたいんだよ」 「     」  こんどは若きルンペンの方が、唖者のように黙ってしまった。 「ねえ、こういう話はどうたろう 1万吉郎はヒルミ夫人から|脱《のが》れたいばっかりに、千太郎時 代の昔にかえって猿智恵をひねりだしたんだ。大川ぞいの石垣の下からはいあがってきたルンペ ン小僧をうまく引張込んで、これをある新外科病院に入れ、自分とそっくりの顔形に修整してし まった。つまり万吉郎が二人できあがったわけだ。そうして置いて万吉郎は、偽の万吉郎をヒル ミ夫人につけて置いて、自分は好きなところで勝手な遊びに耽っていた。そのうちに夫人は、そ れとは知らず偽の万吉郎の方を解剖してしまう。いま冷蔵鞄に入っているのは、つまり偽の万吉 郎なんだ。気の毒なのはヒルミ夫人だ。肺門の病竈と胃下垂をとらえて、科学者は偶然を消去す るなどと叫んでいるが、真の万吉郎の方は『科学は常に偶然に一歩を譲る』といって嘲笑したい ところなのだろう。そして本物の万吉郎はすっかり悟りきってルンペンの群に入り、昔ばなしを 種にコーヒーをねだっているIlというのはどうだネ」  そこまでいうと、若きルンペンは何思ったものか突然腰をあげ、僕が待てといったのに、聞え ぬふりして素早く外へ出ていった。 ひとりぽっちになった僕は、話相手をうしなって、所在なさに窓から首を出して、はるかの下 界を眺めやった。その内にビルディングの入口から今の若いルンペンが飛び出してくるだろうか ら、もう一度彼を見てやろうと思って待っていたが不思議なことにいつまで経っても彼のルンペ ンの姿は現れなかった。  ただ僕は、地上はるかの十字路を、どこへ行くのか、例の黒い棺をつんだヒルミ夫人の冷蔵鞄 が今しも徐々に通りすぎてゆくのを認めたのであった。