このファイルは未校正です。 青空文庫で別ファイルが公開されています。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1242.html |爬虫館《はちゆうかん》事件               海野十三          1  前夜の調べ物の疲れで、もう少し寝ていたいところを起された私立探偵局の帆村荘六だ った。 「お越し下すったのは、どんな方かね」 「ご婦人です」助手の須永が朗らかさを強いて隠すような調子で答えた。「年齢《とし》の頃は二 十歳ぐらいの方です」 「十分間お待ちねがうように申し上げてくれ」 「はッ。かしこまりました」   須永は四角ばって、帆村の寝室を出ていった。   隣りの浴室の扉をあけ、クルクルと身体《からだ》につけたものを一枚残らず脱ぎすてると、冷水 を張った浴槽ヘドブソと飛び込み、しぶきをあげて水中を潜りぬけたり、手足をウソと伸 ばしたり、なんのことはないオットセイのような真似をすること三分、ブルブルと飛び上 つて強い餓をすっか鋳り落すのに四分、一分で口と顔を洗い、あとの二分で身体魚い  失礼ならざる程度の洋服を着てきて、応接室の内扉をノックした。   応接室には、なるほど若い婦人が控えていた。   「お待《ル》たせしました。さあどうぞ」と椅子《いす》を進めてから、「早速ご用件を承りましょう」   「はア有難う存じます」婦人は帆村の切り出し方の余りに早いのにちょっと狼狽《ろうばい》の色を見 17 せたが、思《 》いきったというふうで、黒眼がちの大きい瞳《ひとみ》を帆村の方に向け直した。その瞳   の底には言いしれぬ憂いの色が沈んでいるようであった。「ではお話を申しあげますが、  実は父が、突然行方不明になってしまったのでございますー。昨日の夕刊にも出たので  ございますが、わたくしの父というのは、動物園の園長をしております河内武太夫でござ   います」   「あア、あなたが河内園長さんのお嬢さんのトシ子さんでいらっしゃいますか」帆村は夕  刊で憂いに沈む園長の家族として令嬢トシ子(二〇)の写真を見た記憶があった。その記  事は社会面に三段抜きで「河内園長の奇怪の失踪《しつそう》、動物園内に遺留された帽子と上衣《うわぎ》」と   いったような標題がついていたように思う。   「はア、トシ子でございます」と美しい眼をしばたたき、「ご存知でもございましょうが、  私どもの家は動物園のすぐ隣りの杜《もり》の中にございまして、その失蹉しました十月三十日の  朝八時半に父はいつもの上うに出て行ったのです。午前中は父の姿を見たという園の方も  多いのでございますが、午後からは見たという方がほとんどありません。お午餐《ひき》のお弁当  を、わたくしが持って行きましたが、それはとうとう父の口に入らなかったのでした。正  午にも事務所へ帰ってこないことを皆様不思議に思っていらっしゃいましたが、父は大分  変り者の方でございまして、気が変ると一人でブラリと園を出まして、広小路《ひろこうじ》の方まで行   って寿司屋《すしや》だのおでん屋などに飛び込み、一時半も二時もになってヒョックリ帰園いたし  ますこともございますので、その日も多分いつもの伝だろうと、皆さん考えておいでにな ったのです。しかし閉園時間の午後五時になっても帰って参りません。たまにはずっと街 へ出掛けて夜分まで帰らないこともありますが、その日は事務室に帽子もあり上衣も残っ ていますので、いつもとは少し違うというので、西郷さんーこの方は副園長をしていら っしゃる若い理学士ですーその西郷さんがお帰りにうちへお寄り下すって「園長の例の  病気が始まったようですよ」と注意をしていって下さいました。ところがその夜は、とう とう帰って参りません。夜遅くたることはありましても、たとい一時になっても二時にな っても帰ってくる父です。それが帰って来ないのですからどうしたことだろうと母も私ど もも非常に心配しています。園内も調べていただきましたが判《わか》りません。警察の方へも捜 索方をお願いいたしましたが、「別に死ぬ動機もないようだから今夜あたり帰って来られ ますよ」と云って下さいました。しかし私どもは、なんだかそのままでは、じっと待って   いられないほど不安なのでございます。万一父が危害を加えられてもいるようですと、一  刻も早く見付けて助け出したいのでございます。それで母と相談をして、お力を拝借に上 ったわけなのでございます。どう思《おぼ》し召《め》しましょうか、父の生死のほどは」 トシ子嬢は語り終ると、ほんのり紅潮した顔をあげて、帆村の判定を待った。 「さあー」と帆村は癖で右手で長くもない顎《あご》の先をつまんだ。「どうもそれだけでは、  河内園長の生死について判断はいたしかねますが、お望みとあらばもう少し貴女様《あなたさま》からも   伺い、その上で他の方面も調べてみたいと思います」   「お引き受け下すって、どうも有難う存じます」トシ子嬢はホッと溜息《ためいき》をついた。「何な 17 りとお尋《 》ねくださいまし」   「動物園では大いに騒いで探したようですか」   「それはもう丁寧に探して下すったそうでございます。今朝、園にゆきまして、副園長の  西郷さんにお目に懸りましたときのお話でも、念のためというので行方不明になった三十   日の閉門後、手分けして園内を一通り調べて下すったそうです。今朝も、また更に繰り返   して探して下さるそうです」   「なるほど」帆村はうなずいた、「西郷さんは驚いていましたか」   「はア、今朝なんかは、非常に心配していて下さいました」   「西郷さんのお家とご家庭はP」   「浅草の今戸です。まだお独身《ひとり》で、下宿していらっしゃいます。しかし西郷さんは、立派   な方でございますよ。仮りにも疑うようなことを云っていただきますと、あたくしお恨み  申し上げますわ」   「いえ、そんなことを唯今《ただいま》考えているわけではありません」   帆村は今時珍しい日本趣味の女性に敬意と当惑とを捧《ささ》げた。   「それから、園長はときどき夜中の一時や二時にお帰宅のことがあるそうですが、それま   でどこで過していらっしゃるのですか」   「さアそれは私もよく存じませんが、母の話によりますと、古いお友達を訪ねて一緒にお 酒を呑《の》んで廻るのだそうです。それが父の唯一《ゆいいつ》の道楽でもあり楽しみなんですが、それと  いうのもそのお友達は、日露戦役に生き残った戦友で、逢《あ》えばその当時のことが思い出さ  れて、ちょっとやそっとでは別れられなくなるんだということです」   「すると園長は日露戦役に出征されたのですね」 さか 《まモア》|し   「は、沙河の大会戦で身に数弾をうけ、それから内地へ送還されましたが、それまでは烈  しく闘いましたそうです」   「将校でしたか」   「いえ、軍曹でございました」応《こた》えながらも、こんなことが父の失跣《しつそう》に何の関係があるの   かと、トシ子は探偵の頭脳にやや失望を感じないわけにゆかなかった。    しかし最後へ来て、この些細《ささい》らしくみえるのが、事件解決の一つの鍵《かぎ》となろうとは二人  もこの時は夢想だもしなかった。   「園長はそんなとき、帽子も上衣も着ないでお自宅《トワち》にも云わず、ブラリと出掛けるのです か」 「そんなことはまずございません。自宅に云わなくとも、帽子や上衣は、暖いときならば とにかく・もう士月の声を聞き、どっちかといえば、オーヴァーが欲しい時節です。帽 子や洋服は着てゆくだろうと思いますの」  「その上衣はどこにありましょうか。ちょっと拝見したいのですが…・-」  「上衣はうちにございますから、どうかいらしって下さい」   「ではこれからすぐに伺いましょう。みちみち古い戦友のことも、もっと話していただこ うと思います」   「ああ、半崎甲平さんのことですか?」トシ子嬢は、父の戦友の名前を初めて口にしたの  だった。         2   園長邸を訪ねた帆村は心痛している夫人を慰め、遺留の上衣を丹念に調べてから何か手  帳に書き留めると、外に園長の写真を一葉借り、園長の指紋を一通り探し出した上で地続  きの動物園の裏門を潜ったのだった。   西郷という副園長は、すぐ帆村に会ってくれた。あの西郷隆盛の銅像ほど肥えている人   ではなかったが、随分と身体の大きい人だった。   「園長さんが失踪されたそうで御心配でしょう」   と帆村は挨拶《あいさつ》をした。二体いつ頃お気がつかれたのです」   「全く困ったことになりましたよ」巨漢の理学士は顔を曇らせて云った。「いつ気がつい  たということはありませんが、不審をいだいたのは、あの日の正午過ぎでしょう。園長が   一向に帰ってこられませんのでね」   「園長は午前中なにをしていられたのですか」   「ハ時半に出勤せられると、すぐに園内を一巡せられますが、まず一時間かかります。そ れから十一時前ぐらいまでは事務を執って、それから再び園内を廻られますが、そのとき   は何処《どこ》ということたしに、朝のうちに気がつかれた橿《おり》へ行って、動物の面倒をごらんにな   ります。失踪されたあの日も、このプログラムに別に大した変化はなかったようです」   「その日は、動物の面倒を見られるか、それについてお話はありませんでしたか」   「ありませんでしたね」   「園長を最後に見たという人は、誰でした」   「さあ、それは先刻警察の方が来られて調べてゆかれたので、私も聞いでいましたが、一   人は爬虫館《はちゆうかん》の研究員の鴨田|兎三夫《とみお》という理学士医学士、もう一人は小禽暖室《しようきんだんしつ》の畜養主任の   椋島《むくしま》二郎という者、この二人です。ところが両人が園長を見掛けたという時刻が、ほとん   ど同じことで、いずれも十一時二十分頃だというのです。どっちも、園長は入って来られ   て二、三分、注意を与えて行かれたそうですが、そのまま出てゆかれたそうです」   「その爬虫館と小禽暖室との距離はP」   「あとで御案内いたしますが、二十|間《けん》ほど距《へだた》った隣り同士です。もっともその間に挟まっ 件てずっと奥に引っ込んだところに、調餌室《ちようじしつ》という建物がありますが、これは動物に与える  食物を調理したり蔵《しま》って置いたりするところなんです。ちょっと図面を描いてみますと、 こんな工合《ぐあい》です」  そういって西郷理学士は、鉛筆をとりあげると、爬虫館附近の見取図を描いてみせた。   「この二十問の空地には何もありませんか」 ---------------------[End of Page 37]---------------------   「いえ、桐《きり》の木が十二本ほど植わっています」 17 「その調《 》理室へ園長は顔を出されなかったんでしょうか」   「今朝の調べのときには、園長は入って来られなかったと云っていました」   「それは誰方《どなた》が云ったんですか」   「畜養員の北外星吉という主任です」   「園長がいよいよ行方不明と判った前後のことを話していただけませんか」   「よろしゅうございます。閉園近い時刻になっても園長は帰って来られません。見ると帽  子と上衣はそのままで、お自宅《うち》から届いたお弁当もそっくりそのままです。黙って帰るわ  けにも行きませんので、畜養員と園丁とを総動員し園内の隅から隅まで探させました。私   は園丁の比留間《ひるま》というのを連れて、猛獣を精《くわ》しく調べて廻りましたが異状なしです」   「素人《しろうと》考えですがね、例えば河馬《かば》のいる水槽の底深く死体が隠れていないかお検《しら》べになり  ましたか」   「なるほどご尤《もつと》もです」と西郷副園長はうなずいた。「そういう個所は、多少の準備をし  なければ検べられませんのですぐには参りませんでしたが、今日の午後には一つ一つやっ   ているのです」   「そりゃ好都合です」と帆村探偵が叫んだ。「すぐに、私を参加させていただきたいので  すが」   西郷理学士は承諾して、卓上電話機を方々へかけていたが、やっとのことで、捜索隊が  これから爬虫館の方へ移ろうというところだと解《わか》ったので、その方へ帆村を案内してくれ  ることになった。白い砂利《じやり》の上に歩を運んでゆくと、どこからともなく風に落葉が送られ、  カサコソと音をたてて転がっていった。もう十一月になったのだ。杜蔭《もりかげ》に一本鮮かな紅葉  が、水のように静かな空気の中に、なにかしら唆かすような熱情を溶かしこんでいるよう  だった。帆村は、ちょっと辛《つら》い質問を決心した。   「園長のお嬢さんは、まだお独身《ひとり》なんですかねエ」   「えP」西郷氏は我が耳を疑うもののように聞きかえした。   「お嬢さんはまだ独身です。探偵さんは、いろんなことが気に懸るらしいですね」   「私も若い人間として気になりますのでね」   「こりゃ驚いた」西郷理学士は大きな身体をくねらせておかしがった。「僕の前でそんな   ことを云ったって構いませんが、鴨田君の前で云おうものなら、蠕《うわばみ》をけしかけられます  ぜ」   「鴨田さんていうと、爬虫館の方ですね」 「そうです」と返事をしたが、西郷氏はすこし冗談を云いすぎたことを後悔した。「あり や学校時代の同級生なので、有名な真面目《まじめ》な男だから、からかっちゃ駄目ですよ」   帆村は何も応えなかったが、先に園長令嬢のトシ子と語ったときのことと、いま西郷副  園長が冗談に紛らせて云ったこととを併《あわ》せて頭脳の中で整理していた。この上は、鴨田と いう爬虫館の研究員に会うことが楽しみとなった。   「鴨田さんは、主任ではないのですか」  「主《ぶ》任は病気で永いこと休んでいるのです。鴨田君はもともと研究の方ばかりだったのが、  気の毒にもそんなことで主任の仕事も見ていますよ」   「研究といいますとー」   「爬虫類の大家です。医学士と理学士との肩書をもっていますが、理学の方は近々学位論  文を出すことになっているので、間もなく博士でしょう」   「変った人ですね」   「いえ豪《えら》い人ですよ。スマトラに三年も居て癖《うわぱみ》と交際《つきあ》いをしていたんです。資産もあるの  で、あの爬虫館を建てたとき半分は自分の金を出したんです。今も表に出ているニシキヘ  ビは二頭ですが、あの裏手には大きな奴《やつ》が六、七頭も飼ってあるのです」   「ほほう」と帆村は目を丸くした。「その非公開の蛇も検べたんですか」   「そりゃ勿論《もちろん》ですよ。研究用のものだからお客さんにこそ見せませんが、検べることは一  般と同じに検べますよ。別に園長さんを呑《の》んでいるような贅沢《ぜいたく》なのはいませんでした」   帆村は副園長の保証の言葉を、そう簡単に受け入れることはできなかった。園長を最後  に見掛けたというところが、この爬虫館と小禽暖室の辺であってみれば、入念に検べてみ  なければならないと思った。   「さあ、ここが爬虫館です」   副園長の声に、はッと目をあげると、そこにはいかにも暖室らしい感じのする肉色の丈 夫な建物が、魅惑的な秘密を包んで二人の前に突っ立っていた。          3    扉を押して入ると、ムッとむせかえるような生臭い暖気が、真正面から帆村の鼻を押さ   えた。    小劇場の舞台ほどもある広い櫨《おり》の中には、頑丈な金網を距《へだ》てて、とぐろをまいた二頭の   ニシキヘビが離れ離れの隅を陣取ってぬくぬくと眠っていた。その褐色に黒い斑紋《はんもん》のある   胴中は、太いところで深い山中の松の木ほどもあり、こまかい鱗《うろ し》は、粘液で気味のわるい   光沢を放っていた。頭は存外に小柄で、眼を探すのに骨が折れた。やっとのことで彫りこ   んだような黄色い半開きの眼玉を見つけたときには、余りいい気持はしなかった。帆村た   ちの入って来たのが判《わか》ったものか、フフッ、フフッと、風に吹きつけられたように身体の   一部を波うたせていたのだった。    こんなのが裏手にはまだ六、七頭もいるんだと思うと、生来蛇嫌いな帆村はもうすっか  り憂欝《ゆううつ》になってしまった。 うわぱみひとの  そのとき奥の潜り戸をあけて、副園長の西郷が、やや小柄の、癖に一呑みにやられてし  まいそうな青白い若紳士を引っ張ってきた。  「ご紹介します。こちらがこの爬虫館の鴨田研究員です」    二人は言葉もなく頭を下げた。   「園長の最後にこの室《へや》へ来られたときのことをお伺いしたいのですが」  「今《 》朝も大分警視庁の人に苛《いじ》められましたから、もう平気で喋《しやべ》れますよ」と鴨田研究員は  前提して「私は時計を見ない癖たのでしてネ、正午のサ千レソからして、あれは多分十一  時二十分頃だったろうと思うのですが、力ーキ色の実験衣を着た園長が入って来られまし   て、そうです、二、三分間だと思いますが、この店に出ている一頭のニシキヘビの元気が  ないことから、食餌《しよくじ》の注意などを云って下すってそのまま出てゆかれたんです」   「それはこの室だけへ入って来られたのですか、それとも」   「今の話は奥でしました。私は別にお送りしませんでしたが、園長は確かこの潜り戸をぬ  けてこの室へ入られたようです」   「表へ出られた物音でも聞かれましたか」   「いえ、別に気に留めていなかったものですから」   「なにか様子に変ったことでもありましたでしょうか」   「ありません」   「園長が表へ出られたと思う時刻から正午までに、戸外に何か異様な叫び声でもしません   でしたか」   「そうですね。裏の調餌室ヘトラックが到着して、何だかガタガタと、動物の餌を運びこ   んでいたようですがね、そのくらいです」   「ほほう」帆村は眼を見張った。「それは何時頃です」   「さあ、園長が出てゆかれて十五分かそこらですかね」   「すると十一時三十五分前後ですね。動物の食うものというと、随分かさ張ったものでし   ょうね」   「そりゃア相当なもんですなア」と副園長が横合から云った。   「馬鈴薯《ぱれいしよ》、甘藷《かんしよ》、胡羅萄《にんじん》、雪野菜、麩《ふすま》、藁《わら》、生草、それから食パソだとか、牛乳、兎、鶏、  馬肉や魚類など、トラックに満載されてきますよ」   「なるほど」帆村はまた鴨田の方へ向き直った。「ばかげたことをお尋ねいたしますが、   この蟻は人間を呑みますか」   「呑まないとは保証できませんが、あまり人間は襲わない習性です。先刻もそんなことを  訊《き》かれましたが、園長を呑んでいないことは確かですよ。人間を呑むには時間もかかれば  呑んでも腹が膨れているのですぐ判ります」   帆村は黙ってうなずいた。    しかし人間の身体を九つくらいにバラバラに切断して、この蜂に一塊ずつ食べさせれば、  比較的容易に片づくわけだし、腹も著しく膨むこともなかろうと考えたので、質問してみ ようと思ったが これは重大な結果になりそうだから、もっと先で訊くことにした。そし てそれとなく蜂全部の腹の膨れ工合を検べてやろうと思った。 -  それで裏手の鴨田理学士の研究室を見せて欲しいと云うと、すぐ許されて、一同は潜り  戸を入っていった。    そこはいと奇妙な広い部屋だった。縦長の三十坪ほどもあろうという、ぶちぬきの一室  だったが、縦《 》に二等分し、一方には白ペソキを盛んに使った卓子《テ ブル》や書棚や書類|函《ばこ》や、それ   から手術台のようなもの、硝子《ガラス》戸の入った薬晶棚、標本棚、外科器械棚などが如何《いか》にも贅  沢に並び、その他人間が入れそうなタソクのような訳のわからぬ装置が二つも三つも置か  れてあった。窓は上の方に小さく天井には水銀燈をつかった照明燈が、気味の悪い青白光  を投げかけていた。床の一ヵ所を開けて地下に潜んでいる園丁の一団があったが、それは  話のあった捜索隊に違いなかった。室の一隅には警視庁の制服警官が二人ほどキラキラす   る眼を光らせていた。   他の縦半分には頑丈な濫《おり》があって、その中に見るも恐ろしい大ニシキヘビが七頭、死ん  だようになって勝手な場所を占領していた。帆村は橿に掴《つか》まると、端の蠕から一頭一頭、  腹の大きさを見ていった。しかしどうやらどの蛇も思いあたるような大きた腹をしたのは   いなかった。しかしバラバラの死体を呑んだとして、犯行が三十日の正午近くと仮定し今  日は二日の午後であるから三日過ぎとすると、この間に蟻の腹は目立たぬほどに小さくな   ったのではあるまいか。   「鴨田さん」帆村は背後を振り返った。「ニシキヘビには山羊《やぎ》を食べさせるそうですが、  何日くらいで消化しますか」   「そうですね」鴨田は揉《も》み手をしながら実直そうな顔を出した。「六貫くらいはある山羊  を呑んだとしまして、まず三日でしょうか」    それならば十二、三貫ある園長を八つか九つの切れにして、九頭の蟻に与えるなら、い   ままでまる三日は過ぎたから、もう程よくとけたころに違いない。しかし一体誰が殺した   か、誰が死体をバラバラにし、誰が蟻に与えたか。それは一向にハッキリ判っていなかっ   たが、この生白い鴨田研究員の関係していることは否めなかった。   「ああ、西郷君」そう云ったのは鴨田理学士だった。コ昨日《おととい》この爬虫館の前で拾得した   ので僕が事務所へ届けておいた万年筆ね、あれは先刻警官の方が調べられて、園長さんの   ものだと判ったそうですよ」   「ああ、そう」西郷副園長は簡単に応えたがその後でチラリと帆村の方に素早い視線を送   った。    帆村は知らぬふうをして、この会話の底に流れる秘密について考えた。館の前で園長の  持ち物を拾ったということは、場合によっては決して鴨田氏の利益ではなかった。万年筆   はよく落すものではあるが、そんなに工合よく館の入口に落すものではない。またあの物   静かた園長が落すというのもおかしかった。鴨田が後に怪しまれることを勘定に入れて落 して行ったか、さもなくて鴨田が自ら落ちていたと偽り届けたものか、どっちかである。 始めのようだと鴨田を陥れようとしているのは誰かという問題となり、後のようだと鴨田 は自ら嫌疑をうけようとするもので、そこには容易ならぬ犯罪性を発見することになって、 帆村は鴨田の性格を知るために、室内を隅から隅まで見廻して、何か怪しい物はないかと   探し求めた。   「鴨田さんの鞄《かばん》ですか、これは」と、帆村は棚の上に載っている黒皮の書類鞄を指した。 「そうです、私のです」   「随分大きいですね」   「私達は動物のスケッチを入れるので、こんな特製のものでないと間に合わないのです」   「こっちの方に、同じような形をした大きなタソクみたいなものが三つも横になっていま  すが、これは何ですか」   「それは私の学位論文に使った装置たんです。いまは使っていませんので、空も同様で  す」   「前は何が入っていたのですか」   「いろいろな目的に使いますが、ヘビが風邪《かぜ》をひいたときには、この中に入れて蒸気で蒸   してやったりします」   「それにしては、何だか液体でも入っていそうなタソクですね」   「ときには湯を入れたりすることもあります」   「だが癖の呼吸ぬけもないし、それに厳重な錠がかかっていますね」   「これはとにかく論文通過まで、内部を見せたくたい装置なんです」   「論文の標題はP」   「ニシキヘビの内分泌腺についてーというのです」    そこヘドヤドヤと、警官と園丁との一団が入って来て鴨田研究員を取り巻いた。   「もうこの建物は天井から床下まで調べましたが異状がありませんでした。ただ残ってい   るのは、あの三つのタソクですが、お言葉を信用してそのままにしておきます」   帆村はそれを聞くと飛び出してきた。   「待って下さい。あのタソクは、ぜひ調べて下さい」   「でも開けられないのですよ」帆村の見識《みし》り越しの警官が云った。   「そんなことはない。ね、鴨田さん、開けた方が貴方《あなた》のためにもいいですよ。あのタソク  だけで清浄潔白になるのじゃありませんか」   「いやそう簡単に開けられません」鴨田は強く反対した。「あれを開けると、爬虫館の室  温や湿度が急降して、爬虫に大危害を加えることになるので、ちょっとでも駄目です」   「私は大したことはあるまいと思うのですが、やってみてはp」と帆村はなおも主張した。   「いやそうはいきません。私は園長から相当の責任を持って爬虫類を預っているのですか   ら、拒絶する権利があります。尤《もつと》も他を求めて、どうにも解決の鍵《かぎ》が見つからぬときは開   けもしましょうが、それにはちょっと準備がいります。この爬虫たちを、元いた暖室の方 へ移すのですが、それにはあの室を充分なところまで温め、湿度を整えてやらねばならん のです」  「弱ったな」帆村は苦い顔をした。コ体何時間あったら、別室の準備ができるのです」  「まア五時間か六時間でしょうね」                                            だんこ   「そりゃ大変だ。じゃ私もしばらく考えてみましょう」と帆村は断乎として云った。「そ   の間に別の部屋を検べて来ましょう。西郷さん、調餌室というのを案内して下さい」          4   帆村は爬虫館の外へ出ると、チェリーに火を点《つ》けて、うまそうに吸った。   彼の観察したところでは、もし鴨田に嫌疑をかけるならば、鴨田は何かの原因で、河内  園長を爬虫館に引き摺《ず》りこみ、これを殺害して裸体に剥《は》ぐと、手術台の上でバラバラに裁《せつ》  断《だん》し、彼が飼育している癖《うわぱみ》に一部分食わしてしまったのであろう。まさかバラバラにした   とは気が付かなかったので、捜索隊も蠕の腹を見るには見たが、人間を頭から呑んでいる   ほどの膨れた腹をした蟻がいなかったので、それで安心していたものと思う。あの特殊装   置というものの中には、きっと血染になった園長の服とか靴とかが隠匿《いんとく》されているのでは   なかろうか。万年筆は、園長を館の入口で絞めあげるときに落ちたもので、それを後に何   かの事情があって遺失品として届けたものだろう。    しかし今横に並んで歩いている西郷副園長が、この万年筆について不審た行動をやって   いるのにも気がつかないわけではない。第一に三十日の遺失品として届けられたものなら、   すぐにも疑って調べなければならないのが、今まで黙っていたし、一と目みれば園長のも   のだくらいは判りそうなものをなぜ口を閉じていたのか、嫌な目付で帆村を覗《のぞ》いたところ   と云い、ひょっとしたら西郷がすべてを画策し、嫌疑が鴨田にかかるように、わざと爬虫  館の前に落しておいたのではあるまいか。園長殺害の方法も死体も判らぬが、原因は勤務  上の怨恨《えんこん》または、失恋でもあろう。そう思って西郷の横顔を見ると、どこやら悪人らしい  ところもないではなかった。しかし嫌疑薄弱な西郷まで疑うのは、探偵上の恐ろしい無間  地獄へ落ちこんだように思われた。園長令嬢トシ子の言葉としても、副園長を疑うことは  申し訳なかった。でも疑えば、トシ子は鴨田のことを爪《つめ》の尖《さき》ほども言わず、かえって西郷   のことを弁明した。これは西郷の愛に酬《むく》うことができなかったので自ら弁解をつとめて償   いをし、一方鴨田との愛の問題はもう解決を見ているので一言も云わなかったと考えては  どうか。いよいよ縫《もつ》れ糸のように乱れてくる帆村の足許《あしもと》に、事件解決の鍵かと思われる物  が転がっていた。それは一個の釦《ボタン》だった。   「おお、これは園長の洋服についていた釦に違いない。どうしてこんなところに在るのだ   ろう」    帆村はかねて園長の遺していった上衣《うわぎ》の釦の特徴を手帳に書き留めておいたことが役立   って大変好運だと思った。それにしても釦を拾った場所というのが、調餌室のすぐ前の桐   の木との間に挟まった路面だったので、これでは調餌室の人達について一応嫌疑をかけて みないわけにはゆかない。いや、ひょっとすると爬虫館の前に落ちていたという園長の万  年筆もこの釦とほとんど同時に落ちたものと認定すると、これは園長の身体を搬《はこ》んで行っ た径路を自ら語っていることになりはしないであろうか。恐らく万年筆が最初に落ちて、 次に上衣の釦と思うものが落ちたと考えていいであろう。園長の身体は爬虫館の前から調 餌室へ搬ばれたと考えていいであろう。   だが、どうして人目につかず搬《はきし》んで行けたかということが次の疑問だった。それが出来 18 たとすると、特《 》殊の状況が必要だったことになる。白昼下では、その時幸いにも観覧人も  少なく畜養員や園丁も現場にい合わせなかったというとき、また夜間なればこれは極めて  容易に行われる。しかし万年筆は園長失踪の日に発見されたのだから、搬ばれたのは夜間   になる以前だといわなければならない。しかも十一時二十分頃まで園長を見掛けたという  人があるのだから、正午になれば園長は食事のために事務所へ帰って行ったはずで、それ  がなかったとするとどうしても失踪は十一時二十分から正午の間と断定するのが常識のよ  うに思う。コースは調餌室から爬虫館ではなくて、反対に爬虫館から調餌室へと考えられ   る。そこで帆村は、爬虫館の鴨田研究員が十一時三十五分前後に、調餌室の前ヘトラック  が到着して動物の餌《えさ》を搬びこんでいるらしい騒ぎを聴いたということを思い出した。する  と犯行は、この前か後か。1帆村は調餌室の内部にも多分の疑問符号が秘められている   ことも考えないわけにはゆかなかった。   西郷理学士と一緒に調餌室に入ってみると、帆村は思わず「啄《あ》ッ」と叫びたいくらいだ   った。塀の外で調餌室を想像しているのと、こうやって大きな姐上《そじよう》に、血のタラタラ滲《にじ》み  でそうな馬肉の塊を見るのとでは、まるっきり調餌室というものの実感が違った。壁には、  象を料理するのじゃないかと思うほどの大鉱《おおまさかり》や大鋸《おおのこぎり》、さては小さい青龍刀ほどもある肉  切り庖丁《ぽうちよう》などが、燦欄《さんらん》たる光輝を放って掛っていた。倉庫には縦《たて》半分に立ち割った馬の裸  身や、ダラリと長い耳を下げた兎の籠《かご》などが目についた。    この物凄《ものすご》い光景を見た瞬間、帆村の頭脳の中に電光のように閃《ひらめ》いた幻影があった。それ   は、園長の死体が調餌室に搬ばれたと見る間に、料理人が壁から大きな肉切り庖丁を下ろ   して、サッと死体を戴断する。そして骸《おどろ》くべき熟練をもって、胸の肉、腎部《でんぶ》の肉、脚の肉、   腕の肉と裁《と》り分け、運搬車に載せると、ライオソだの虎だのの橿の前へ直行して、園長の   肉を投げ込んでやる。……いや、恐ろしいことである。   「これが調餌室の主任、北外星吉氏です」西郷副園長が、ゴム毬《まり》のように肥えた男を紹介   した。   「やあ、帆村さんですか」北外畜養員はニコヤカに笑った。   「貴方《あなた》のお名前はかねてよく知っていましたよ。今度の事件はまるで、貴方に挑戦してい   るようなもので、実にうってつけの大事件ですなア」    帆村はこの機嫌のいい、しかし何だかひやかされているような気がしないでもない北外   の挨拶《あいさつ》に対して、頓《とみ》に云うべき言葉もなかった。しかしこのまんまるく太った子供の相撲《すもう》   取りのような男の顔を見ていると、彼が悪事を企図《たくら》むような種類の人間だとは思えなくな った。帆村は勢い率直な質問をこの男に向ってする勇気を得たのだった。  「北外さん、私は園長の身体が、この調餌室か、それとも隣りの爬虫館かで、料理されち まったように思うのですがね」  「はアはア」北外は小さい口を勢一杯に開けて、わざとらしく骸いた。「いやそれは大発   見ですな」   「貴方は園長が失踪された朝の、十一時二十分頃から正午まで何処《どこ》におられましたか」  「僕が有力なる容疑者というお見立ですな」北外はニヤリと笑った。「さてお尋ねの時間   においては、この室内に僕一人が残っていたーとこう申し上げると、貴方は喜ばれるの   でしょうが、実はその時間フルに、一族郎党ここに控えていたんです。それというのが、  十一時四十分頃に、けだものの弁当の材料が届くことになっていまして、室からズラかる   ことが出来ないのです」   「それではその時間前後は、何をしておいででしたP」   「まず時間前は、当日も六人の畜養員が、庖丁を研いだり、籠を明けたり、これでなかな   か忙しく立ち働きました。そのうちにいつもの時間になると、トラックに満載された材料  がドッと搬ばれて来ます。するともう戦場のような騒ぎで、この寒さにシャッ一枚でもっ   て全身水を浴びたように、汗をかきます。それが済むと早速調理です。煮るものは大して  ありませんが、それぞれのけだものに頃合いの大きさに切ったり分けて容物に入れたりす   るのが大変です。肉類の方は、生きている兎だの鶏だのには、冥途《めいど》ゆきの赤札をぶら下げ   るだけですが、その外のは必ず頭のある魚を揃《そろ》えたり馬肉の目方をはかって適当の大きさ   に戴断し、なかには必ず骨つきでないといけないものもあって、それを持《さししら》えるやら、なか   なか忙しくて、おひるの弁当が、キチソと正午にいただけることはほとんど稀《まれ》で、いつも   一時|近《 》くですね。その忙しさの間に、園長を掴《つか》まえてきて、これも料理しスペシャルの御《ご》   馳走《ちそう》として象や河馬《かぱ》などにやらなきゃならんそうで、いやはや大変な騒ぎですよ」    帆村は、うっかり園丁に象や河馬に人間を喰わせる話をしたのが、こんなところヘヒョ   ックリ出て来ようとは思いがけなかったので、横を向いて苦笑いをした。ともかく、調餌  室の連中はあの時間、犯行を遂げるなどとは非常に困難であることが判った。    してみると、園長の万年筆や釦は一体何を語っているのだろうか。理窟《りくつ》からゆけば、ど   うしても調餌室の連中が疑われてくるのであるが、北外の話では疑うのが無理である。す   ると、残るのは何者かが調餌室の人たちに嫌疑を向けるために、万年筆を落し、釦を調餌   室の前に捨てたとしかかんがえられない。何者がやったことかは知らぬが、そうだとする   と、犯人は実に容易ならぬ周到な計画を持っていたものと思われる。    そこで帆村は大事にしていた切り札を、ポイと投げ出す気になった。   「北外さん。隣りの爬虫館の癖《うわばみ》どものことですがね。皆で九頭ほどいますが、あれに人間   の身体を九個のバラバラの肉塊にし、蟻どもに振る舞ってやったら、さぞよろこんで呑む   ことでしょうな」帆村は北外の答えを汗ばむような緊張の裡《うち》に待った。   「うわッはッはッ」北外は無遠慮に笑い出した。「いや、ごめんなさい。帆村さん、あの 蟻という動物はですな、生きているものなら躍りかかって、たとい自分の口が裂けようと 呑みこみますが死んでいるものはどんなうまそうなものでも見向きもしないという美食家 です。ここで主に生きた鶏や山羊を喰わせています。貴方は多分園長の死体のことを云っ ていられるのでしょうが、"バラバラでは蟻の先生、相手にしませんでしょうよ」  帆村は折角登りつめた断崖《だんがし》から、突っ離されたように思った。穴があれば入りたいとは、   この場のことだろう。彼は北外畜養員に挨拶《あいさつ》をして、遁《に》げるように室を出た。  彼は人に姿を見られるのも厭《いと》うように、スタスタと足早に立ち去った。園内の反対の側 に遺されたる藤堂家の墓所があった。そこは欝蒼《うつそう》たる森林に囲まれ、厚い苔《こけ》のむした真に  静かた場所だった。彼はそこまで行くと、園内の賑《にぎ》やかさを背後にして、塗りつぶしたよ うな常緑樹の繁《しげ》みに対して腰を下ろした。   帆村は一本の煙草をつまむと、火を点《つ》けて嘆息した。   コ体何が残っているだろう」   最初から一つ一つ思いかえしてゆく裡《うち》に、特に気のついたことが二つあった。一つは園  長がいつも呑み仲間としてブラリと訪ねて行った古き戦友半崎甲平に会うことだった。そ  うすれば、まだ知られていない園長の半面生活が暴露するかもしれない。もう一つはどう   しても事件に関係があるらしい爬虫館を徹底的に捜索しなおすことだった。ことに開ける  と爬虫たちの生命を脅かすことになるという話のあった鴨田研究員苦心の三本のタソクみ   たいなものも、この際どうしても開けてみなければ済まされなかったcあのタンクは、故  意か偶然か、人間一人を隠すには充分な大きさをしているのだった。   そんな結論を生んでゆく裡に、帆村の全身にはだんだんに反抗的な元気が湧《わ》き上ってき   たのだった。   「須永を呼ぽう」   彼は公衆電話に入って帆村探偵局の須永助手を呼び出すとすぐに動物園へ来るように命  じた。          5   爬虫館の鴨田研究室の中ヘッカッカと入って行った帆村探偵は、そこに鴨田氏が背後《うしろ》向  きになり、ビーカーに入った茶褐色の液体をバチャバチャ掻《カ》き廻しているのを発見した。  外には誰もいなかった。   帆村の楚足《あしおと》に気がついたらしく、鴨田は静かにビーカーを振る手をちょっと停《と》めたが、  別に背後を振り返りもせず、横に身体を動かすと、硬質陶器でこしらえた立派な流し場ヘ   サッと液体をこぽした。すると真っ白な煙がもうもうと立ち昇った。どうやら強酸性の劇  薬らしい。なにをやっているのだろう。   「鴨田さん、またお邪魔に伺いました」帆村はぶっきら棒に云った。   「やあー」と鴨田は愛想よく首だけ帆村の方へ向いて、「まだお話があるのですか」と   ニヤニヤ笑いながら、水道の水でビーカーの底を洗った。  「先刻《さつき》の御返事をしに参りました」 「先刻の返事とは?」 「そうです」と帆村は三つの大きな細長いタソフを指して云った。「このタソクをすぐに 開いていただきたいのです」 「そりゃ君」と鴨田はキッとした顔になって応えた。「さっきも云ったとおり、これをす  ぐ開けたんでは、動物が皆|整死《へいし》してしまいます」  「しかし人《い》間の生命には代えることは出来ません」   「なに人間の生命P はッはッ、君はこのタソクの中に、三日前に行方不明になった園長  が隠されているのだと思っているのですね」   「そうです。園長はそのタソクの中に入っているのです!」   帆村はグソと癩《しやく》にさわったあげく(それは彼の悪い癖だった)大変なことを口走ってし  まった。それは前から多少疑いを掛けていたものの、まだ断定すべきほどの充分な条件が  集まっていなかったのだ。怒鳴ったあとで大いに後悔はしたものの、しかし不思議に怒鳴   ったあとの清《すがすが》々しさはなかった。   「君は僕を侮辱するのですね」   「そんなことは今考えていません。それよりも一分間でも早く、このタソクを開いていた  だきたいのです」   「よろしい、開けましょう」断乎《だんこ》として鴨田が思い切ったことを云った。「しかしもしこ  のタンクの中に園長が入っていなかったら君は僕に何を償います」   「御意のままに何なりと、トシ子さんとあなたの結婚式に一世一代の余興でもやります  よ」   この帆村の言葉はどうやら鴨田理学士の金的を射ちぬいたようであった。   「よろしい」彼は満更でたい面持でうなずいた。「ではこの装置を開けますが、爬虫ども  を別の建物へ移さねばならぬので、その準備に今から五、六時間はかかります。それは承  知して下さい」   「ではなるべく急いで下さい。今は、ほう、もう四時ですね。すると十時ごろまでかかり  ますね、警官と私の助手を呼びますから悪しからず」   「どうぞ随意に」鴨田は云った。「僕も今夜は帰りません」   帆村はその部屋から警官を呼んだ。副園長の西郷にも了解を求めたが、彼も今夜はタソ   クが開くまで爬虫館に停《とどま》っていようと云った。    しかし帆村は、彼等と別なコースをとる決心をしていた。丁度《ちようど》そこへ助手の須永がやっ   てきたので、万事についてこまごまと注意を与え、爬虫館の見張りを命じてから、彼一人、  動物園の石門を出ていった。すでに秋の陽は丘の彼方《かなた》に落ち、真っ黒な大杉林の間からは  暮れのこった湖面が、切れ切れに灰白《ほのじろ》く光っていた。そして帆村探偵の姿も、やがて忍び  闇《やみ》の中に紛れこんでしまった。それからは時計のセコソドの響きばかりがあった。午後五  時、六時、七時、それからハ時が打っても九時が打っても、帆村の姿は爬虫館へ帰ってこ なかった。九時半を過ぎると多勢の畜養員や園丁が橿《おり》を担いで入って来て、無造作にニシ キヘビを一頭入れては別の暖室の方へ櫻んで行った。仕事は間もなく終った。助手の須永 は、先ほどから勝ち誇ったように元気になってくる鴨田理学士の綾躯《わいく》を、片隅から睨《にら》みつ けていた。やがて爬虫館の柱時計がボーソ、ボーンと、あたりの壁を揺すぶるように午後  十時を打ちはじめた。人々は、首をあげてじっと時計の文字盤を眺め、さて入口をふりか   えったが、どうやら求める建音《あしおと》は蟻《あり》の走る音ほども聞えなかった。  「帆村さんはもう帰って来ないかもしれませんよ」   鴨田理学士が両手を揉《も》み揉み云った。   「いつまで待っていたって仕様がありませんから、このまま閉めて帰ろうではありません   か」   警官と西郷副園長とが、腰を伸ばして立ち上がった。須永も立ち上がった。しかし彼は  鴨田の解散説に賛成して立ったわけではなかった。   「もう少し待って下さい。先生は必ず帰ってこられます」    須永は叫んだ。   「いや、帰りません」   鴨田はたおも云った。   「それではー」と須永は決心をして云った。「先生の代りに僕が拝見しますから、この   タソクを開けて下さい」   「それはこっちでお断りします」   憎々しい鴨田の声に、須永がなおも懸命に争っている裡《うち》に、いつの間に開いたか入口の  扉が開かれ、そこにはこの場の光景を微笑《ほほえ》ましげに眺めている帆村の姿があった。   「皆さん大変お待たせしました」と挨拶をした後で、「おや蜂《うわばみ》どもは皆退場いたしました   ね。では今度は私が退場するか、それとも鴨田さんが退場なさるか、どっちかの番になり  ました。ではどうか、あれを開いていただきましょう、鴨田さん」   「   」鴨田は黙々として第一のタソクの傍へ寄り、スパナーで六角の締め金を一つ   一つガタソガタソと外していった。一同は鴨田の背後から首をさし伸べて、さて何が現わ   れることかと、唾《つば》を呑《の》みこんだ。   「ガチャリ!」    と音がして、タソクの上半部がパクンと口を開いた。が内部は同心管のようになってい   て、鱗《ふか》の鰭《ひれ》のような大きな襲《ひだ》のついたその同心管の内側が、白っぽく見えるだけで、中に   は何にも入っていなかった。   「空虚《から》っぽだッ」    誰かが叫んだ。    鴨田研究員は第二のタソクの前へ、黙々として歩を移した。同じような操作がくりかえ   されたが、これも開かれた内部は、第一のタソクと同じく、空虚だった。    失望したような、そしてまた安心したような溜息《ためいき》が、どこからともなく起った。  遂に第三のタソクの番だった。さすがの鴨田も、心なしか緊張に震える手をもって、ス パナーを引いていった。  「ガチャリ!」   とうとう最後の唐櫃《からびつ》が開かれたのだった。   「啄《ユあ》ッ!」   「これも空虚っぽだッ!」   帆村は須永に目くばせをして彼一人、前に出た。彼の手には自動車の劇帆《ラツパ》の握りほどあ   るスポイトとビーカーとが握られていた。   彼は念入りに、白い嚢のまわりを猟《あさ》って、何やら黄色い液体をスポイトで吸いとり、ビ   ーカーヘ移していた。    だがそれは大した量でなく、ほんの底を潤す程度にとどまった。   帆村はなおもスポイトの先で、弾力のある襲を一枚一枚かきわけて検《しら》べていたが、   「啄ッ」    と叫んで顔を寄せた。   「これだッ。とうとう見付かった」    そう云って素早く指先でつまみあげたのは長さ一|寸《すん》あまりの、柳箸《やなぎぱし》ほどの太さの、鈍く  光る金属1どうやら小銃の弾丸のような形のものだった。    一同は怪訪《けげん》な面持で、帆村が指先にあるものを眺めた。帆村はその弾丸のようなものを  鴨田の鼻先へ持っていった。   「貴方《あたた》はこれをご存知ですか」   鴨田は膀《ふ》に落ちかねる顔つきで無言に首を振った。   「貴方はご存知たかったのですね」   帆村はどうしたのか、ひどく嘆息して云った。   「これはですねー」    一同は帆村の唇を見つめた。   「1これは露兵の射った小銃弾です。そして、これは三十日から行方不明になられた河  内園長の体内に二十ハ年この方、潜っていたものです。いわば河内園長の認識票なんです。   しかも園長の身体を焼くとか、溶かすとかしなければ出て来ない終身の認識票なんです」   「そんな出鱈目《でたらめ》は、よせー」   鴨田が蒼白《そうはく》にブルブルと傑《ふる》えたがら怒鳴った。   「いや、お気の毒に鴨田さんの計画は、とんだところで失敗しましたよ。貴方は園長を殺   すために、医学を修め、理学を学び、スマトラまで行って癖の研究に従事せられた。そし   て日本へ帰られると、多額の寄附をしてこの爬虫館を建て、貴方は研究を続けられた。七   頭のニシキヘビは貴方の研究材料であるとともに、貴重な兇器を生むものだった。私ども   はよく医学教室で、犬も手術し、唾液腺《だえきせん》を体外へ引っ張り出しておいて、これにうまそう   な餌《えさ》を見せることにより、体外の容器へ湧《わ》きだした犬の唾液を採集する実験を見かけます が、貴方は生物学と外科とにすぐれた頭脳と腕とで、蟻の腹腔《ふつこう》に穴をあけ、その消化器官 の液汁を、丹念に採集したのです。それは周到なる注意で今日まで貯蔵されていました。  そしてまたここに並んでいるタソクは、巧妙な構造をもった人造胃腸だったんです」   あまりに意外な帆村の言葉に、一同は唖然《あぜん》として彼の唇を見守るばかりだった。   「鴨田さんは、三十日の午前十一時二十分頃、園長をひそかに人気のないこの室に誘い、  毒物で殺したんです。そこで直《ただ》ちに園長の軽装を剥《は》いで裸体とし、着衣などは、あの大 以《おおハ》 鞄《かぱん》に入れその夕方何|喰《く》わぬ顔で園外に搬《はこ》び去りましたが、それは後の話として、鴨田さん   は園長の口をこじ開けるや、蟻の消化液では溶けない金歯をすっかり外して別にすると、  もうこれで全部が溶けるものと安心してこの第三タソクに入れました。そこで永年貯蔵し   ておいたニシキヘビ消化液をタソクヘ入れて密封をすると、電動仕掛けで円心管1それ   は嚢をもった人造胃腸なんですが、その胃腸を動かし始めたんです。適当な温度を保って   これを続けたものですから、鴨田さんの研究によると今夜のハ時頃までに完全に園長の身  体はタソクの中で、影も形もなく融解してしまうことが判っていました。   鴨田さんにその自信があったればこそ、この時間になってタソクを開くことを承知され   たのです。そしてなおも計画をすすめて、タソクの中の溶液をそのまま下水へ流してしま   うことにしました。急いで流せば、こんな静かなところだからそれと音を悟られるので、  排水弁を半開きとしソロソロと園長の溶けこんだタソクの内容液を流し出したんです。し   かしそれは一つの大失敗を残しました。流出速度が極めて緩慢だったために、園長の体内   に潜入していた弾丸は流れ去るに至らず、そのまま嚢の間に残留してしまったんです。こ   の弾丸というのは、園長が沙河《さか》の大会戦で身に数発の敵弾をうけた後に野戦病院で大手術   をうけましたが、ついに抜き出すことの出来なかった一弾が身体の中に残りました。その   一弾が皮肉にも棺桶《かんおけ》ならぬこのタソクの中に残ったわけなんです。本当に恐ろしいことで   すね。なお附け加えると、園長の金歯は、大胆にも私の見ている前でビーカー中の王水に  溶かし下水へ流しました。万年筆や釦《ボタン》は鴨田さん自身がまいたもので、これは犯罪者特有   のちょっとした撹乱《かくらん》手段です」   「出鱈目だ、捏造《ねつぞう》だ!」   鴨田はなおも砲障《ほうこう》した。   「ではやむを得ませんから、最後のお話をいたしましょう」帆村は物静かな調子で云った。  「この犯行の動機はまことに悲惨な事実から出ています。話は遠く日露戦役の昔にさかの  ぽりますが、当時軍曹の河内園長が一分隊の兵を率いて例の沙河の前戦、遼陽《りようよモつ》の戦いに奮  戦したときのことです。そのとき柵山南条《さくやまなんじよう》という二等兵がどうしたことか敵前というのに、  目に余るほど遺憾な振る舞いをしたために、我が軍の一角が崩れようとするのでやむを得  ず泪《なみだ》をふるってその柵山二等兵を斬殺《ざんさつ》したのです。これは、軍規に定めがある致し方のな   い殺人ですが、それを見ていた分隊中の或《あ》る者が、本国へ凱旋《がいせん》後柵山二等兵の未亡人にう   っかり喋《しやべ》ったのです。未亡人は殺された夫に勝るしっかり者で、そのときまだ幼かった一  人の男の子を抱きあげて、河内軍曹への復讐《ふくしゆう》を誓ったのです。その男の子-兎三夫君は  爾来《じらい》、母方の姓鴨田を名乗って、途中で亡くなった母の意志を継ぎ、さてこんなことにな ったのです」  帆村は語り終った。しかし鴨田理学士は、今度は何も云わずにうなだれていた。  「もう後は云う必要がありますまい。最後に御紹介したい一人の人物があります。これは   この話のヒソトを与えて以後私の調べに貢献して下すった故園長の古い戦友、半崎甲平老  人であります。この老人は同郷の出身ですが、衛生隊員として出征せられたので、後に園  長がX線で体内の弾丸を見たときにも立ち会い、また戦場の秘話を園長から聴きもした方   です。鴨田さんの亡き父君のことも知っていられるんですからここへお連れしました。い  ま御案内して参りましょう」   そういって帆村は立ち上ると、入口の扉をあけた、が、そこには老人の姿はなく、向う  を見ると、爬虫館の出入口が人の身体が通れるほどの広さに開き、その外に真っ黒な暗闇《くらやみ》  があった。   「啄《あ》ッ! 鴨田さんが自殺しているッ」   そういう声を背後に聞いた帆村は、もう別にその方へ振り返ろうともしなかった。   そして彼の胸中には、事件を解決するたびに経験する苦が酸っぱい憂欝《ゆううつ》が、また例の調  子で推し騰《のぼ》ってくるのであった。