大脳手術 海野十三 美しき脛  いちばん明るい窓の下で、|毛脛《けずね》を撫でているところ へ 例によって案内も乞わず、友人の鳴海三郎《なるみ さぶろう》がぬっ と入ってきた。 「よう」と、鳴海はいつもと同じおきまりの挨拶声を 出したあとで、 「そうやって、君は何をしているんだ」  と訊いた。 「うん」  と、私は生返事をしただけで、やっぱり前と同じ動 作を続けていた。近頃すっかり|脂肪《あぶら》のなくなったわが 脛よ。すっかり瘡せてしまって、ふくらっ|脛《ぱざ》の太さな んか、威勢のよかったときの三分の一もありはしない。 「つまらん真似はしないがいいぜ」  そういって鳴海は、私に向きあって|胡坐《あぐら》をかいたが、 すぐ立上って、部屋の隅から灰皿を見付けてきて、元 の座にすわり直した。私は毛脛を引込めて、たくしあ げてあったズボンを足首の方まで下ろした。 「   」 .「まさか君は、大切な二本の脚を:::」 「何だと」 「君の大切な脚を、迎春館へ売飛ばすつもりじゃない だろうね。もしそうなら、僕は君にうんといってやる ことがある」  私は友のけわしい視線を、中性子の嵐の如く全身に 感じた。頭の中の一部が、かあっと熱くなった。 「迎春館? ほう、君は迎春館を知っていたのかい」 「あんな罪悪の殿堂は一日も早くぶっ濾さにゃいかん。 何でも腕一揃が五十万円、脚一揃なら七十万円で買取 るそうじゃないか」 「ふふふふ、もうそんなことまで君の耳に入っている のか」 「迎春館などという美名を掲げて、そういうひどい商 売をするとは怪しからぬ。そうして買取った手足は、 改めて何十倍何百倍の値段をつけて金持の老人たちに 売りつけるのだろうが……」 「だがねえ鳴海。 この世の中には、そういう商売も 有っていいじゃないか。老境に入って手足が思うよう にきかない。方々の機能が衰えて生存に希望が湧いて こない。そういう時に、若々しい手足や内臓が買取れ て、それが簡単なそして完全な手術によって自分の体 に植え移され、忽ち若返る。移植手術、大いに結構 じゃないか」 「いや、僕は何も移植手術そのものが悪いといってい るのじゃない。移植手術のすばらしい進歩は、人類福 祉のために大いに結構だ。しかしこの種の手術を施行 するについては、|瀬尾《せお》教授のやって居られるように、 飽くまで公明正大でなければならぬと思う。つまり瀬 尾教授の場合は、例えばここに交通事故があって肝臓 を破って死に瀕した男があったとすると、これを即時 手術してその肝臓を摘出して捨て、それに代って、在 庫の肝臓を移植する。その肝臓というのは、肝臓病で はない死者から摘出し、かねて貯蔵してあったもので あり、そしてそれはその遺族が世界人類の幸福のため に人体集成局部品部へ進んで売却したものなんだ。ま あこういうのが公明正大で、瀬尾教授の手術を受ける 者は一点の後めたいところもない。これでなくちゃい かんよ」  と鳴海三郎は、真剣な顔付になって大いに弁じた。 しかし私は一向感心しなかった。移植手術に公明正大 か否かを問う必要はない。要するに移植手術を受けた 者は幸福になれるのだから、それでいいのだ。むしろ 問題は、その手術の手際如何にあるだろう。 「どうだ|闇川《やみかわ》。聴いているのか」 「うん、聴いている。で、君は迎春館の話そ一体誰か ら仕入れて来たのかね」 「ある新聞記者からさ。鵡ぺその記者は、倶楽蔀で仲 間からの又聴きなんだそうな。その話によると、迎春 館は表通を探しても見つからないそうだが、一度その 中へ飛込んだ者はその繁昌ぶりに|樗《むどろ》かされるそうだ。 そして何でも、僕たち小説家仲間に、迎春館のことに ついてとても詳しい奴がいるんだそうな、生憎その名 前を聞くのを忘れたがね。おや、何を笑うんだ」  私はぎくりとして、笑いを引込めた。そして硬い顔 になっていった。 「事実、迎春館主の|和歌宮鈍千木《わかみやどんちき》氏の技術は大したも んだ。和歌宮鈍千木氏は……」 「そのワカミヤ、ドンチキとかいうのは主任医なのか ね」 「そうだ。頭髪も頬髭顎鴛も麻のように真白な老人だ。 しかし老人くさいのは毛髪だけで、あとの全身は青春 そのもののように溌渕としている。尤もお手のものの 移植手術で修整したんだろうが……」 「呆れた、呆れた。いつの間に、君はそんな悪魔と近 づきになったんだい。悪いことはいわん。その和歌宮 館主には、もう近づくなよ。そんなところへ出入りを していると、,末にはとんでもない目にあうぞ」.  純情一本気の友は、私を睨みつけるようにしていっ た。 「君も一度、和歌宮先生に会ってみるのがいいよ。す ると、きっと今の言葉を取消すだろう」 「ちえっ、誰がそんな汚い奴の|傍《そぱ》へ近づくものか」 「その和歌宮先生が、私の長い脛をつくづく見ていう のだ。"あなたの脛は非常に立派だ。四十三糎という 長い脛は比較的めずらしい方に属するばかりか、あな たの脛骨と腓骨の形か非常に美しい。脛骨の正面なん か純正双曲線をなしている〃とね。そして、もしこれ を売る意志があるのだったら、九十九万円には買取る というのだ」 「ばかなことは、よせ。ここではっきり一って貴くぞ。 天から授かった神聖な躯を売却していいと思うか。そ れも物質的欲望のために売却するなんて、猛烈に汚い ことだ。万一君がそんなことをすれば、もう絶交だぞ」  鳴海は、膝で畳をどんどん叩いて埃をひどく舞上ら せながら|喚《わめ》いた。でも私はいってやった。 「売った方がいいという事情があれば、売ってもいい じゃないか。それにそういうものを売るか売らないか は、僕ひとりが決めていいのだ」 「それは許せない。売ってはならない。それに……そ れに、もし|珠子《たまこ》さんがそれを知ったら、どんなに嘆く・ と思う。君達の間に、きっと|艀《ひぴ》が入るぞ、それも別離 の致命傷な瞬が……」 「そんなことが有ってたまるか」 「大いに有りさ。考えても見給え、珠子さんが……」 「珠子が、それを望んでいるとしたら、君はまだ何か .いうことがあるかね」 「   」 驚異の技術  もともとこの記録は手記風に綴りたき考えであった。 ところが書き始めてみると、やっぱりいつもの癖が出 て小説体になっでしまった。やむを得ず筆を停めて胡 魔化した。今日こそは手記風に書きたく思う。  うるさき鳴海三郎は、いくら追払っても|懲《 セ》りる風を 見せず、毎日のように押掛けてきては砥なことをいわ ない。全く困った友だ。  彼は、必ず決って私が両脚を売るつもりでいること を非難する。そして始めは、珠子のことを引合いに出 して|諌《いさ》めたもんだが、私がそれをやっつけて、珠子が それを望んでいることを明らかにしてやったら、それ はもういわなくなった。その代りに、今度は珠子を非 難し、君の脚を売ることを望むような女性は外面如菩 薩内心如夜叉だといって罵倒した。そればかりか、近 き将来、珠子さんはきっと君を裏切って離れて行くに 違いないなどと、甚だ不吉な言辞を弄して、私を極度 に不愉快にさせた。私は彼に対し、直ちに出ていって くれといったが、そんなことで立上るような彼鳴海で はなかった。そして今度は攻撃の目標を変え、和歌宮 先生の手術にけちをつけるようなことを並べ出した。 -「僕は和歌宮某がどんな手術名人か知らぬが、手術の |痕《あと》はやはり醜く残るんだろう。つまり|接《つ》いだ痕は赤く ひきつれたりなんかして、醜怪な疲痕を残すのだろう が……」  私は強く首を左右に振った。 「君は|素人《しろうと》のくせに、和歌宮師の手術の手際にけちを つけるなんてよろしくないよ。この十年間に外科手術 は大発達を遂げた。そしてその第一は、今までのよう な醜い痕跡残存が完全に跡を絶ったことだ。だから顔 面整形手術の如きものが、どんどん行われるようになっ たのだ。しかも和歌宮師の手術は、この点では当代に 並ぶものがない。実際僕は先生のところで何十人、い や何百人もの手術者を見たが、痕跡らしいものを見付 けたことは只の一度もない」 「ふうん、そうかね。まあ、それならそれとしてだ、 太い脚の代りに細い脚を|継《つ》いだときはどうなるのか。 継ぎ目の皮には痕跡が残らないとしても、太い脚に細 い脚をつければ当然そこのところが段になるではない か。そうなるとやっぱり醜くないことはないね」 「君は非常識だよ。美観を一つの条件とする現代の外 科手術に於て、そんな段になるような手際の悪いこと をすると思うかね。手術の前には、廻転写真撮影器に よる精密な測定が行われ、それからブラウン管による 積算設計がなされて接合後の脚全体が資材範囲内で純 正楕円函数又は双曲線函数曲線をなすように選定され る。従って接合部切口に於ける断面積も算出されるわ けだから、これらの数値によって不要なる賛断は櫟み 出して切開除去されるのだ。だから股と移植すべき脚 との接合部はぴたりと合う。醜い段などは絶対に起り 得ない。分ったかね」 「ふん、理窟は分った。しかし実際はどうかなあ。い や、君の言葉を信用しないわけではない。それにいく ら外科手術が進歩した現代かは知らぬが、マネキン人 形を接ぐわけじゃあるまいし、生きた肢体の接合をす るんだから、相当むつかしい筈だ。例えば、血管と血 管との連絡はどうする。また神経細胞の連結はどうす る。これはたいへん困難なことだぜ」 「一向困難な問題ではない。太股のところでずばりと 切断されると、その切口は直ちに写真に撮られ、そし て現像後は壁一杯に拡大されて映写される。それから、 接ぐべき脚の切口も同様に撮影され、拡大映写される、 この二つはもちろん同一ではないが、同じ人類のこと ゆえ相似である。しかし接合するためには相似の程度 では困るので、是非とも同一でなければならぬ、つま り骨、血管、神経、筋肉、皮下脂肪、皮膚などの配列 状態がねえ。そこで相似から同一へと、配列の調整が 設計される。もちろんこれはまず骨と骨とを一致せし め、血管、神経などはその後に順番に配列座標が決定 される。それから配列替えの手術だ。電気メスと帯電 器具と諸電極とを使ってこの手術は僅か五分問にて完 了する。そうなれば太股の切口も、これに接ぐべき脚 の切日も、はんこを|捺《 ヤヤむ》したように同一の配列、太さ、 形をとるわけだ。だからあとは両者をぴたりと合わせ て電気をかけ、瞬問癒着を行うのだ。残るは皮膚と皮 膚の接合部に対する適切なる処理だ。これも済めば、 全部の手術が終ったことになる。どうだ、これなら納 得できるだろう。部品を組合わせてエンジンを組立て るのと同等の技術をもって、この手術は確実|且《か》つ容易 に行われるのだ」  私はここで言葉を停めて、友の顔を見た。鳴海は軽 く|肯《うなず》いていた。 「どうだ、鳴海。納得いったんだね」 「まあ、或る程度はね。それにしても、接がれた脚が すぐ脳髄の命ずるとおり働くだろうか」  彼はまだ追及をやめない。 「それはもちろん周到な試験がなされる。特に神経反 応は念入りに|検《 ヤ ら》べられる。血行状態は心臓力ージオグ ラフによって完全に確かめられる。運動と筋肉の関係 は有尺高速映画で撮影され、筋肉圧はブラウン管の光 斑点の動きで検定するが、これは同時撮影されるから |若《も》しも異状があれば、|直《ただち》に発見される。麻酔の解かれ るのは、これらの試験が全部終了した上でのことだ」 「ふうん。君はなかなか詳しいね。それ位なら和歌宮 師の助手が勤まるだろう」  と鳴海は皮肉をいう。私はそれに構わず言った。 「もはや現代の医術は天才的特技ではなくなった。そ れは普遍性ある機械的技術となり、機械力によりさえ すれば誰にも取扱えるものとなりつつある。わが和歌 宮先生の特技と称せらるるものも実は先生が把握した 真理を大胆率直に機械的技術に移し、これを駆使する のに外ならない」 「そういっちまえば、君の崇拝する和歌宮師は、魔術 師の一種だてえことになる。とにかく君は即時即刻あ のような人物との関係を清算せにゃならんのだ。切に 忠告する」 「何をいうか。僕のことは僕が決めるんだ」 大脳手術  余計なおせっかいをする鳴海を、とうとう追出すよ うにして帰って貰い、私はそれからすぐさま迎春館へ 行って両脚を売却した。こうしてしまえば、いくら鳴 海だってもううるさいことはいえないのだ。尚私は両 脚の代償として、予ねて珠子から望まれていたとおり の五ケ年若き青春と代りの脚一組とを|購《あがな》い、 その場 で移植して貰った。 疑惑・  珠子は、果して大悦びだった。私の予期した以上の 悦び方だった。私の両手を握って見|較《くら》べ、以前よりも 蹴如してきたと饗めた。  それから私達は、ヨットに乗って、瀬戸内海の遊覧 列島へ出発した。  幸福な、そして豪華な生活に、私たちは暦を忘れて 遊び廻った。が、このような生活もいつしか|飽《あ》きを覚 える時が来た。勘定してみると、|丁度《ちようど》三カ月の月日が 経っていた。そこで私達はどっちからいい出すともな くそれをいい出してこの島を離れ、元の古巣である都 会へ引返した。  私は珠子と同棲するために新しい|住居《すまい》を見つけるつ もりでいたところ、珠子はそれに反対だった。同棲す るには準備もいることだし、旧居を片付けるためにも 時間を要するから、大体あと五週間の余裕を置いてく ださらないと訴えた。私は、五週間はちょっと永すぎ ると思ったが、折角珠子のいうことだし、・それでよろ しいと承知した。私達は、停車場の前で左右へ別れた。 そしてそれ以来今日まで約二週間、私は珠子に会わな いのである。  私としては、同棲はしないまでも、私が珠子を訪問 することは彼女の歓迎するところであろうと思ったの で、停車場前で別れたその翌日には、彼女を|美蘭《びらん》寮に 訪ねたのであった。ところが、寮はあったが、彼女は そこにいなかった。いや、正確にいうと、寮の建物は あったが、寮の名が変っていたのだ。つまり寮は売ら れて、倉庫になっていた。倉庫の番人に珠子の移転先 を聞いても、首を横にふるだけであった。私は失望を 禁じ得なかったと共に、珠子に対して或る不満をさえ 始めて感じた。  だが、私は帰途についてから、思いかえしてもみた。 珠子から私へあてた移転の手紙が、今郵便局の配達員 の手にあるのではないか。もう一日も待てば、その封 筒は私の家へ届けられるのではなかろうか。  私は家へ戻って、ひたすらにその手紙の到着するの を待った。時間は遅々として、なかなか|捗《はかど》らなかった。 私は縁側に出て|日和《ひなた》ぽっこをしながら、郵便配達員の 近づく足音を一秒でも早く聞き当てようと骨を折った。 しかし私の望みはいつまで経っても達せられなかった。  私の気持は、段々と佗しくなっていった。まだ明日 という日もあるものをと、自分を叱ってもみた。しか し佗しさは消えなかった。私は自分の脚の毛脛をーー いや、これはあのとき貧民窟から出た売物を買って取 付けたものであるが、今はこれが自分の脛の第二世と なっているーそれを撫てるともなしに撫て始めたが、 佗しさが一層加わるばかりであった。この脚は、美し くてすらりと長かった私の前の脛とは全く異り、皮膚 がいやにがさがさし、悪性のおできの跡が、梅干を突 込んだような|凹《くぎ》みを見せてそれが三つもあり、おまけ に骨が醜くねじれていた。尚その上に良くないことに、 今だにちょいちょい悪性のおできがふき出し、我慢の ならぬ臭気を放つのであった。たった五千円ばかりの ものだったから今になって聾澱をいえた義理ではない けれど、こうも悩まされるものと知ったなら、青春の 方をもうすこし値段をねぎって、人並な脚を買うんだっ た。金さえあるなら今から良い脚を買い直してもいい のだけれど、残念ながら珠子との遊覧の旅にすっかり 使い切って、実をいえば目下金策をあれやこれやと考 慮中であるわけだ。  私が、この厄介な脛に|膏薬《こうやく》を貼りかえているところ へ、めずらしく鳴海が入ってきた。 「よう闇川。やっぱり帰って来たんだね」  鳴海はそういって、いつものように灰皿を探しあて ると、それを持って私の前に胡坐をかいた。私は|周章《あわ》 てて彼を叱り飛ばした。この|穣《けがらわ》しい第二世の脚を彼 に見られたくなかったからだ。でも鳴海は、ふうんと 噌ったばかりで、私の脚へちらりと一轡を送り、あと は気にもとめていないという顔をした。 「珠子さんと一緒じゃなかったのかい」 「なにい……」  私は不意打をくらって|蒼《あお》くなった。 「いや、機嫌を悪く」たら、勘弁したまえ。なあに、 さっき珠子さんの後姿を見つけたもんだから……」 「えっ、どこで珠子を……。詳しくいってくれ」  鳴海はびっくりして暫く私の顔を見詰めていたが、 「君を興奮させるつもりはなかったのだ。H街を彼女 は歩いていたよ」 「ひとりきりか。それとも連れがあったか」 「さあ……困ったなあ」 「本当のことをいってくれ。欝は今真実を知りたいん だ。珠子は他の男と歩いていたのだろう。その男は、 どんな奴だったい」  私の|険《けわ》しい追及が、鳴海の返答を|反《かえ》って遅らせた。 でも結局彼は答えた。 「別に怪しい人物ではなかったよ」 「でも……どんな男だ、|其奴《そいつ》は……」 「君の知っている人だよ」 「じらせてはいけない。珠子の連れの男は誰だったか、 早くそれをいってくれ」 「いっても|差支《さしつか》えなかろう。瀬尾教授だ」 「なに、瀬尾教授。あの、大学の瀬尾外科の主任教授 である瀬尾先生か」 「そケだ。だから君は別に興奮しないでよかったのだ」  私はしばらぐ沈黙していた。そしてそのあとで吹や いた。 「一体珠子は瀬尾教授なんかに何の用があるんだろう」  その理由は、見当がつかなかった。しかし珠子があ れ以来私に対し御かをくらまし、音信不通の状態をと っていることから考えて、たとえ相手が瀬尾教授であ ろうと、それと肩を並べて歩いているということは、 私にとって重大問題たることを失わないのだ。 「君は今、H街だといったな」 「おい、血相かえて|何処《けこニ》へ行くんだ。待て、待てといっ たら」  私は鳴海の|狼狽《ろうぱい》する声を後に残して、外に飛出した。 行先はもちろんH街であった。  H街はひどく羅麟していた。はげしい人波をかきわ け、或いは押戻されつして、私は何回となく求むる人 を探し廻った。しかしその結果は、何の得るところも なかった。二人はどこかへ雲隠れしてしまったのだ。  まあいい。いずれそのうちに、二人は又このH街に 現われるだろう。そのときこそ|引捕《ひつとら》えてくれるぞと、 私は深く心に期するところがあった。そしてそれから は毎日のようにH街に出ばって眼を光らせた。  もちろん珠子からの手紙は、その翌日も、その翌々 日も、それからずっと後になっても、遂に来なかった。 またH街の監視も一向効果がなく、珠子たちの姿を一 度も見付けることができなかった。  それから相当たっての或る日のこと、私の|許《もト 》へ一通 の無名の書状が届けられた。私はそれと見るより、こ の書状の中に、私の求める重要なニュースが書きつけ られてあるのを察することができた。  開封してみると、それは果して怪しい文書であった。 全文は、邦文タイプライターによる平仮名書であった。 その文に|曰《いわ》く、 "やみかわ、きちんど に けいこくする。こみや、 たまこ は、きみのうつくしいあしを、わかみや、-ど んちき よりかいとった。そしてそのあしは、かのじょ のかねてあいするおとこへささげられた。こんごゆだ んをすると、とんでもないことになるぞ。はやみみせ しより!  予感は適中した。珠子は私の脚を和歌宮先生から買 取り、そして彼女が予ねて愛する男へ捧げられたとい う。今後油断をすると飛んでもないことになるぞ、早 耳生1というのた。  珠子にかねて愛する男があったとは、私の方で否定 するわけには行かぬが、先頃遊覧中は、一そんなことは おくびにも出さなかった珠子だった。そして今、私の 大事にしていた脚を彼女が買取ってその男に捧げたと は何たる事か。私に脚を売払えとしきりに|薦《すす》めたのは |余人《よじん》ならず珠子であったではないか。そして私に売却 させて置いて、後でそれを自分で買取って予ねての愛 人への贈物にするとは、実に許しがたい暴状である。  それにしても、彼女の予ねて愛する男とは何者であ ろうか。彼は今、珠子から私のあの美しい脚を贈られ てそれを移植し、いい気持になっているのであろう。 何と私は|莫迦《ぱか》者あつかいされたことか。ああ、それで 読めた。外科手術の大家たる瀬尾教授と彼女が並んで 歩いていたのも、その脚の移植手術を教授に頼んだも のに違いない。  私は憤激の極に達した。時間の推移と共に、私の頭 は痛みを加え、胸は張りさけんばかりになった。 (このまま|見遁《みのが》すことはできない。何が何でもその男 を引捕え、珠子に思い知らせてやらねばこの腹の虫が おさまらない!)  私は遂に|復讐《ふくしゆう》の鬼と化した。 凧の夜店  復讐の鬼と化した私は、前後を忘じ、昼といわず夜 といわず|巷《ちまた》を走り廻った。もちろんその目的は、珠子 と、私の生れついたる美しい脚む騨恥したる1聯え てそういうのだーその男とを引捕えるためであった。  が、珠子とその男とは、なかなか私の視界に入らな かった。その二人は、巷を歩かないわけではなく、私 はたびたび珠子とその男の姿を見かけた話を耳にした。 しかも私の不運なる、遂に両人に|行逢《ゆきあ》うことができな いのであった。  私は|自暴自棄《じぽうじき》になって、|不邊《ムてい》にも和歌宮先生の許へ 暴れ込んだ。私は悪鬼につかれたようになって、先生 を診察台の上へねじ伏せると、かの私の生れついた美 しい両脚を珠子ずれに譲渡したことを|詰《なじ》った。しかし 先生は、私の無礼を轡めもせず、静かな声で、一且君 から買取つた上はこれをどう処分をしようと私の自由 であり、君は文句をいう権利がない旨を|諭《 ヨと》した。私は 先生の|咽喉《のど》を締めあげた腕を解き、その場に平伏して 非礼を詫びるしかなかった。そしてその日、私は私の 両の腕を先生に買取って貰ってから、そこを辞した。 値段は百十五万円であるから、普通以上のよい値段で あった。その代りに私は八千五百円を投じて割安な礫 死人の両腕を譲りうけ、それを移植して頂いた。で、 手取りが百十四万千五百円也となった。これだけあれ ば、当分生活に困らない。  こういう呪わしき境遇に追込まれた者の常として、 平面無臭の生活ができないことは首肯されるであろう。 私の場合に於てもこの例に漏れず、日夜刺激を追求し、 その生活は次第に|荒《すさ》んでいった。その行状は、ここに 文字にすることを|慣《よズか》るが、私の金づかいも日と共に荒 くなり、両腕を売飛ばして|懐《ふところ》に持った百十四万余の 大金も、そう永からぬ期間のうちに他人にまきあげら れてしまい、私はまた金策に苦労しなければならなく なった。そして結局は、酒の勢いに助けられて和歌宮 先生の門に飛込み、或いは心臓を売り、或いは背中一 面の皮膚を売りなどして、内臓といわず何といわず、 次から次へと売飛ばして金に替えたのであった。只そ のような際に、常に守ったことは窺から上のものにつ いては一物も売ろうとはしないことだった。顔を売っ てしまえば、私の看板がなくなるわけだから、どんな ことがあろうと、これだけは売ることはできない。  欠乏と|懊悩《むうのう》を背負って|喘《あえ》ぎ喘ぎ、私は相も変らず巷 を|血眼《ち コなこ》になって探し歩いた。しかし運命の神はどこま でも私に味方をせず、珠子とその伽し男の姿を発見す ることはできなかった。私は毎夜遅くへとへとになっ て住居へ転げこむように戻るのが常だった、  鳴海の奴は、相変らずやって来ては、頭の悪いお|祖 母《ぱあ》さんのような世話を焼いたり、忠言を繰返した。 「君も莫迦だよ。いくら珠子さんは美人か知らないが、 あれが生れながらの美人なら、それは君のように追駈 け廻わす価値があるかもしれない。しかしよく考えて 見給え、そんな価値はありゃせんよ」 「生れながら、どうしたって」 「そこなんだ。いいかい、珠子さんという人は瀬尾教 授とも古くから親しくしているんだぜ。或る人の話に よると、珠子さんは以前はあんな美人じゃなく、むし ろ器量はよくない方だった。それが急に生れかわった ような美人になったんだそうで、そこにはそれ瀬尾教 授の施した美顔整形手術の匂いがぷうんとするじゃな いか。そういう人為的美人に、君という莫迦者は愚か にも純粋の生命と魂を捧げているんだ。いわば珠子さ んは、雑誌の口絵にある印刷した美人画みたいなもの だぜ。そういうものに熱中する君は、よほどの阿呆だ」 「   」  これは痛い言葉だった。私は終日不愉快であった。 鳴海の奴は、私の熱愛していた偶像を|滅茶《めちや》々々に壊し てしまったのだ。私はそれ以来一層不機嫌に駆りたて られた。こうなれば珠子に対する愛着は冷却せざるを 得ないが、その代り珠子が私の脚を仇し男に贈ったと いう所業に対する怨恨は更に強く燃え上らないわけに 行かなかった。 「よし、こうなればたとえ骸骨となっても、|彼《か》の仇し 男を引捕えてやらねば……」  その頃丁度或る筋から、珠子とその仇し男らしき人 物とが、K坂の夜店に肩を並べて歩いていたという話 を聞込んだので、私は新しい探求手段を考えついて早 速実行することにした。それは私もK坂の夜店に加わっ て、手相トいの店を張ろうというのだった。そして腰 をどっしりと落付けて、かの両人の見張を行おうとす るのだった。  私はこの夜店の委員会の認可を受けた上で、黒の中 折帽子に同じく黒い長マントを弗智るように着て、  |凧《こからし》の吹く坂道の、小便横町の小暗き角に、お定まり の古風な提灯を持って立商売を始めた。始めの二、三日 は、むしろ楽しきことであったが、四日五日と|経《へ》て行 くうちに、この商売が決して楽なものではないと分っ た。いやむしろよほどの体力がないとやれない仕事だ `と分った。しかし私は屈しなかった。  風邪を引込んだが、私は休まなかった。加灘を職り あげながら、尚も来る夜来る夜を頑張り続けた。さり ながらその甲斐は一向に現われず、焦燥は日と共に加 わった。珠子とあの仇し男とは、余程巧みに万事をやっ ているらしい。  ところが突然、一つの機会が天から降って私の前へ 落ちて来た。それは立商売を始めてから四週目の金曜 日の宵だったが、坂の上の方から折鞄を小脇に抱えた 紳士が、少しく酵配の気味でふらふらした足取で、こっ ,ちへ近づくのが何,故か目に停った。  「あ、瀬尾教授!」  おお、間違いなく瀬尾教授だ。このとき私の頭脳は 稲妻の如く|閃《ひらめ》いた一事がある。  (ははあ、この先生のことかもしれぬ。私はうっかり この先生と珠子との結びつきを忘れていたぞ。そうだ、 珠子から私の脚を贈られたのは、この瀬尾教授かもし れない。よし、今それを改めてくれるぞ)  私の胸は|躍《むど》った。|後《あと》は何が何やら夢中である。もう |恐《こわ》さも恥かしさもない。私は狂犬のように横町から飛 出していって、いきなり教授の腕を捉えた。それから 教授をずるずると横町へ引張りこんだ。それから隠し 持ったる小刀で、教授のズボンを下から上へ向ってび りびりと引裂いた。そして教授の長い脛をズボン下か ら|剥《む》き出すと、商売ものの懐中電燈をさっと照らしつ けて、教授の毛脛をまざまざと検視した。 「うわっ、た、助けてくれ」  教授は教授らしくもない大悲鳴をもって、このとき 助けを求めた。さあ、たいへん、|忽《たちエま》ち人の波が私たち の方へ殺到した。これはしまったと、私は提灯も懐中 電燈もそこに放り出すと、一|目散《もくさん》に暗い小路を突切っ て、いよいよ暗い方へ逃げ出した。  逃げながらも、私は朗かであった。どうかと疑っ た瀬尾教授のズボンの下には、私が忘れることの出来 ないあの売払った脚が発見されなかったのである。す ると瀬尾教授は、私の血眼になって探している男では ない。  それはいいが、一向姿を見せない彼の仇し男は一体 誰であろうか。どんな顔をしている男だろうか。 無間地獄  |這《ほうにう》々の体で逃げ出した私は、さすがに追跡が恐ろし くなって、その夜は鳴海の家を叩いて、泊めて貰った。  鳴海は、私から事情を聞いて、その乱暴をきつく戒 めた。そして今夜はたとえどんなことが起ろうと僕が 引受けてうまくやるから、君は安心して|睡《ねむ》れといって くれた。お蔭で私は、ぐっすりと安眠することができ た。  朝が来た。窓が明るくなると、私は反射的に馳超き た。曙くことはなかった。鳴海が|傍《そぱ》でぐうぐうと睡っ ていたし、家は彼の宅であった。追跡者も、遂に私の 身柄を取押えることができなかったのである。一安心 だ。  食堂へいって鳴海と共に朝食を済ませた。それから 彼の部屋へ行って、電気暖房を囲んで|蓑《たぱこ》をのんだ。  そのとき鳴海が、突然妙なことをいい出した。 「ねえ闇川。一体、迎春館主和歌宮鈍千木師なる者は 実在の人物かね」  私は声が詰って、しばらく返事ができなかった。 「何故急にそんなことを訊くんだい」 「だって僕は、これまで和歌宮を|散《さんイらん》々尋ねて歩いたん だが、遂に彼を見ることができなかった」 「探し方が悪いんだろう」 「いや、そうとは思わない。僕の調べたところでは、 多くの人々が迎春館という名を知っており、和歌宮鈍 千木師の名前も聞いて知っているが、さて迎春館のはっ きりした所在も知らず、また和歌宮師に会った者もな いのだ。変な話じゃないか。君は、これに対してどう いう釈明を以て僕を満足させてくれるかね」 「はっはっはっはっ」  私は声をたてて笑った。 「なぜ笑うのか」 「だって君はあまりに懐疑的だよ。和歌宮先生の如き 貴人が、そう安っぽく人前に現われるものか。先生や 迎春館に関する話がたくさん知られていることだけで も、その存在はりっぱに証明されるじゃないか。先生 は、本当に人体売買の手術を希望する当人以外には会っ ている邊がないのだ。仕事も忙しいし、それに更に深 い研究を続けて居られるものだからねえ」 「じゃ、君は僕を和歌宮師のところへ連れていって会 わせて呉れ」 「駄目だよ、君はそういう手術を希望していないんだ から、やっぱり駄目だよ」 「とにかく僕は大きな疑惑を持っている。よろしい、 そういうんなら他の方法によって、この疑惑を解いて みせる」  こんな話から、私は気|拙《まず》くなって、鳴海の宅から立 ち去った。そして私は、更に荒んだ生活の中に落込ん でいった。  生活と刺戟のために、ー私はいよいよ自分の体の部品 を売飛ばさねばならなかった。頸から上だけは売るま いと思っていたが、今はそれさえ護り切れなくなり、 眼球を売ったり、歯を全部売ったり、またよく聴える 耳を売ったりして、遂には頭髪付の顔の皮膚までも売 払ってしまった。そして私は、鏡というものを極度に 恐怖する身の上とはなった。全くあさましき限りであ る。  顔がすっかり変ったということは、淋しきことでは あるが、その代り都合のいいこともあった。それは、 今まで私を知れる者が、今では私だといい当てること ができなかった。鳴海さえ、町で出会っても、気がつ かないで私の傍をすれちがって行ってしまう。私はた いへん気楽になった。  或るとき、私は図らずも一つの問題に突当った。そ れは外でもない。こうして容貌も変り、声も変り、四 肢から臓器までも変り果てた現在の私は、果して本来 の私といえるかどうかという問題であった。こんな苦 労を経てきたというのも、元.々本来の私というものが 可愛いためであった。ところが、よく考えてみると、 本来の私というものが、今では殆んど残っていないの である。残っているのは脳味噌だけだといっても過言 ではない。あとは皆借り物だ。質の悪い他人の部品の 集成体だ。そんないい加減の集成体が、果してやはり 愛すべき価値があるかどうか、甚だ疑わしい。この問 題は意外にも非常に深刻な問題であった。私はこの問 題に触れたことを大いに後悔した。しかし手をつけて しまった以上、もうどうすることもできない。問題の 解決より外に、解決の方法はないのだ。  現在の私は、本来の私と同じように、自ら愛すべき 価値ありや。  ああ、恐ろしいことだ。私はとんでもない過誤を犯 した。自己を愛するためにあんなにまで苦労を重ねな がら、|識《し》らず識らずのうちに、それと反対に自己を破 壊し尽していたのだ。こんな悲惨な出来事があるだろ うか。私にとっては、それは大なる悲劇であるが、世 間の人達にとっては、この上もなくおかしい喜劇だと いうであろう。  私はすっかり自信と希望とを|喪《 つしな》ってしまった。私は 急に病体となった。心も体も、日ましに衰弱していっ た。思考力が、目立って減退し始めた。記憶も薄れて いく。こんなことでは、本来の自己の最後の財産であ る脳髄までが腐敗を始め、やがて絶対の無と化してし まいそうだ。この新なる予感が、重苦しい恐怖となっ て私の全身を責めつける。  私は一日医書を|繕《ひもと》き、『若返り法と永遠の生命』の 項について研究した。その結果得た結論は次の如きも のであった。 ."臓器や四肢を取替えることによって見掛けの若返り は達せらるるも、脳細胞の老衰は如何ともすべからず、 結局永遠の生命を獲得することは不可能である〃  私は失望を禁じ得なかったが、そのうちに|不図《ふと》気の ついたことは、この優書はかなり版が古いことである。 そこで今度は近着の医学雑誌を片端から探してみた。 するとそこに耳よりな新説が記載されているのを発見 した。  "……大脳手術の最近に於ける驚異的発達は従来不可 能とされた諸種の問題を相当可能へ移行させた。老衰 せる脳細胞は、若き澄渕たる脳細胞に植継ぎて、画期 的なる若返りが遂げられる。かかる場合、智能的には 低き脳細胞へ移植を行うことが手術上比較的容易であ る,  この一文は、私に新なる元気をもたらした。有難い。 わが脳細胞の老衰は全然処置なしではなかったのだ。 私は何とかして若返える途を発見せねばならぬ。それ ,にはどうしたら一番よいであろうか。  いろいろ考えぬいた|揚句《あげく》、私は遂に一案を思付いた。 それは甚だ突飛な解決法であった。しかし現在の私の ような境涯にあっては致し方のないことだ。読者よ、 呆れてはいけない。私は、私の体に残れる本来の私の 最後の財産たる老衰せる大脳の皮質を摘出して、これ を動物園につながれている若きゴリラの大脳へ移植す ることを思付いたのだ。何と素晴らしきアイデアでは ないか。貯くして私は、あの溌渕たるゴリラの測り知 られぬ精力を、自分のものにすることが出来るのだ。  私は、和歌宮先生に嘆願して、この思切った大脳手 術を乞うた。 |幸《さいわい》に先生は大きな同情をもって快諾し、 そして私の注文通りの手術を行ってくれた。それから 幾日経ってか、私が気がついたときは、私は一頭のゴ リラになり果てていた。そして従来に例なき安楽な気 持と澄渕たる精力とをもって、|濫《むり》の中より動物園入場 者の群を眺めて暮らす身の上とはなった。桜の稽肥は、 ひらひらと、わが濫の上より舞い落ちるのであった。 私は生れて始めての安楽な生活に法悦を覚えた。  そういう楽しい生活が無限に続いてくれることを祈っ ていた私だが、入園後まだ浅き或る日のこと、私の楽 しい気持は突然剥奪されるに至った。それは私の橿の 前に立った一人の見物人を見上げたときに起ったこと である。そのとき私は思わず、があがあと叫んで牙を |剥《む》いたものである。  その男1わが橿の前に立ち、熱心にこっちを碑い ているその男  その男の顔、肩、肉づき、手足、全 体の姿、そのすべてがなんと曾つての本来の私そっく りであったではないか。私はその瞬間、万事を悟った。 (貴様だな、俺の両脚から始めて両腕、臓器、顔など と皆買い集めてしまったのは:…・。貴様は、俺のもの をそっくり奪ってしまったのだ。買取るならそれもよ ろしいが、そのように俺のものを全部集成しなくとも よいではないか。殊にこれ見よがしに、俺の艦の前に 立つとは怪しからん。……だがな、貴様はまだ俺から その全部を奪っているのではないのだぞ。脳細胞のこ とよ。肝腎の脳細胞は、今ちゃんとこうしてこっちに 有るんだ。あはは、お気の毒さまだ)  私は腹を抱えて、ごヶごうと笑ってやった。すると 彼の男は、私の言葉を了解したと見え、急に恐ろしい 形相となって、私の艦へ歩みよった。 「あ、危い」  それを後から引留めた者がある。おお、鳴海だ。鳴 海が、何故こんなインチキ野郎についているのだろう と私はちょっと不思議に思ったが、それを解いている 邊はなかった。彼のインチキ男は、櫨の鉄棒に掴って、 それを前後に揺り動かしながら、私に向って訳のわか らぬ言葉で罵った。私はむらむらと|癩《しやく》にさわって、 いきなり立上ると橿の方へ飛んでいって、恨み重なる 不愉快なその男の小さな顔を両手で抑えつけ、ぐわっ と噛みついてやった。ああ、いい気持だ。 ×××  以上は、第三十四号室の患者○○○○氏の手記であ る。同氏は本日余の執刀によって大脳手術を受けるこ とになっているものであるが、氏の錯倒精神状態はこ の手記によって自明である。だが、これは精神病では なく、弾片によって脳髄に受けたる圧迫傷害に基くも ので、大脳手術を施すことにより多分恢復するだろう と思われる。  尚この手記は極めて興味あるものであって、患者の 脳症を顕著に示しているが、しかし氏が嬬る患者であ るとの準備知識なくして一読するときは、一つの|纏《ニナとま》っ た物語として受取れる。しかしこの物語の中にある事 件は大部分が実在したものではない。  すなわち氏の挺謝鰺き親友鳴海三郎氏の談によれば、術               O 次の如き興味ある事実が判明する  一、珠子なる婦人は実在せず、全く|闇川吉人《やみかわきちんど》の幻想 に出づ。  二、迎春館も和歌宮鈍千木氏も実在せず。但し、和 歌宮先生なるものは、実は闇川吉人が自ら二役的存在 として仮装せるものと信ずべき節あり、すなわちヤミ カワ、キチンドなる名を逆に読めばワカミヤ、ドンチ キにして、こは彼の小説家らしき|仕業《しわイピ》なりと思料す。  三、闇川吉人は一脚すら売飛ばせるものにあらず。 況んや最後に残りたる脳細胞を動物園のゴリラに移植 したるなどのことは全然虚構に属する妄想なり。只、 一日|吾《われ》は彼を散歩に連れ出し、落花紛々たる下を動物 園に入場し、ゴリラの檻の前に至りたる事、及び彼が ゴリラの檻へ近付かんとしたるを以て、吾は樗いてそ れを引留めたるは事実なり。  吾は、不幸なる闇川吉人が、幸いに瀬尾教授の手篤 き手術によりて、戦前の如き健全なる彼にまで恢復す ることを祈念してやまざるものなり。