http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1252.html 別本 三人の双生児 海野十三  あの一見奇妙に見える新聞広告を出したのは、なにを隠 そう、この|妾《わたし》なのである。        がに す,           たちあ鴻い 「尋ネ人……サワ蟹ノ棲メル川沿イニ庭アリテ紫ノ立葵咲 ク。ソノ寮ノ太キ|格子《こうし》ヲ|距《へだ》テテ訪ネ来ル子ハ、黄八丈ノ着 物二|鹿《か》ノ|子《こ》絞リノ広帯ヲ|締《し》メオ|河童頭《かつぱあたま》三ニッノ|紅《あか》キ『リボ ン』ヲツク。今ヨリ約十八年ノ昔ナリ。名乗リ出デヨ吾ガ 双生児ノ|同胞《はらから》。(姓名在杜××××)」  これをお読みになればお分りのとおり、妾はいま血肉を わけたはらからを探しているのである。今より十八年の昔 というから、それは妾の五六歳ごろのことである、といえ ば妾の本当の|年齢《とし》が知れてしまって恥かしいことではある が、まあ算術などしないでおいていただきたい。  妾の尋ねるはらからについては、それ以前の記憶もな く、またその以後の記憶もない。まるで盲人が、永い人生 を通じてただ一回、それもほんの一瞬間だけ目があき、その とき観たという光景がまざまざと脳裏に|灼《や》きついたとでも |警《たと》えたいのがこの場合、妾のはらからに対する記憶であ る。思うに、それより前ははらからと一緒にいたこともあ るのであろうが、当時妾は幼くて記憶を残すほどの力が発 達していなかったのだろうし、それ以後は、妾とはらから とが何かの理由で別々のところに引き離されちまって記憶 が絶えてしまったのであろう。とにかく川沿いの寮の光景 はあたかも一枚の彩色写真を見るようにハッキリと妾の記 憶に存している、  なぜ妾がはらからを探すのかという詳しいことについて は、おいおいとお話しなければならぬ機会が来ようと思う から、今はまあ云うことを控えておこうと思う、  1とにかく当時妾は五歳か六歳だった。黄八丈の差物 に鹿の子の帯を締め、そしてお河童頭には紅いリボンを三 つも結んでいるというのがそのころの妾自身の|身形《みなり》だっ た。妾の尋ねるはらからというのは、その頃寮の中に|設《そな》え られた座敷牢のような太い格子の内側で、毎日毎日|温和《おとな》し く寝ていた幼童1といっても生きていれば今では妾と同 じように成人しているはずだーのことだった、 「なぜ、あの幼童は、暗い座敷牢へ入れられていたのだろ うP」  今もそれをまことに|講《いぷか》しく思っている。どうしたわけで、 あの|年端《としは》もゆかぬはらからのことを、いつも暗い座敷牢の なかに入れおいたのであろう。成人した人間であれば、気 が狂って乱暴するとかのような場合には、座敷牢に入れて おくのはいいことだったけれど、あの場合はともかくも五 つか六つかの幼童ではないか、乱暴をするといってもせい ぜい障子の|桟《さん》を壊すぐらいのことしか出来るはずがない。 それくらいのことのためにわざわざ頑丈な座敷牢を用意し てあったことはまったく解きがたい|謎《なぞ》である。  イヤよく考えてみると、あの幼童は別に気が狂っていた ようにも思われない。そのころ妾は、四度か五度か、ある いはもっとたびたびだったかもしれないが、その幼童の座 敷牢へ遊びにいった憶えがあるのであるが、決して乱暴を 働いているところを見たことがない。乱暴をするどころ か、その幼童はいつも|大人《おとな》しく寝床の中にじっと寝ていた のであった。ついぞ妾は一度も起きあがっているところを 見たことがない。恐らく幼童は病身ででもあったのだろう と思う。一体病身の幼童を座敷牢へ|艦禁《かんきん》しておくような惨 酷きわまる親があるだろうかしら。考えれば考えるほど不 思議なことではないか。  親といったので、また一つ思いだしたけれど、妾がその はらからの幼童のところへ遊びにいったときは、いつも必 ず座敷牢の中に、妾の母がつきそっていた。母はやさし く、寝ている子供のために機嫌をとっていたようである。 広告文にもちょっと書いておいたことだけれど、妾はその ころ髪をお|河童《かつぱ》にして、そこに紅いリボンを二つならず三 つまでもカンカンに結びつけて|悦《よろこ》んでいた。なぜそれをハ ッキリ憶えているかというと、座敷牟のなかの妾のはらか らは、そのカンカンに結びつけた紅いリボンがたいへん気 に入ったとみえて、ある日妾がツカツカと寮に入っていっ たときちょうどなにかのことで無理をいってつき添いの母 を困らしていたかの幼童は涙のいっぱい溜った眼で妾のカ ンカンをみると突然ピタリと機嫌をなおしてしまったのだ った、  妾はその後もたびたび母に特別賞与の意味でお菓子を貰 った上、その座敷牢へ連れてゆかれたように思うが、いつ もそのカンカンに紅い三つのリボンを結んでゆくのがお決 まりだった。それにつけて、また不思議なことをもう一つ 思い出すが、妾はそのとき得意になって暗い座敷牢の格子 に|駈《か》けより、「いいカンカンでしょ、ばア…・:」  と顔と髪とをさし入れたのであったが、寝ているはらか らはそのたびに|味噌《みモ》っ菌だらけの口を開けてキャッキャッ と嬉しそうに笑うのであった。それはいいとしてしばらく するとそこで母はきっと妾によびかけて、ちょっと庭の方 へ行って、|立葵《たちあおい》の花を一枝折ってきてくれと云いつけるの であった。それはいかにも唐突ないいつけであった。そん なときはらからの顔はいかにも不満そうにキュッと唇を曲 げて母の方を睨むようにするのであるが、母はそれを優し く慰め、それから妾の方を向いて声をはげまし、早く庭へ 下りて用事を果たすように厳然と云いつけたのであった。  妾はしぶしぶ云いつけられたとおり庭に下り、|梅雨《つゆ》ぢか い空の下に咲き乱れる立葵の一と枝をとっては、大急ぎで また元の座敷牢へとび上っていった。 「いいカンカンでしょ、ばア……」  妾は立葵を格子の中になげこむと、同じ言葉をくりかえ していうのであった。それを云わないと、母は妾を叱り、 必ず同じことを云わせられたものだった。幼童のはらから はふたたび妾のカンカンを見て、いかにも面白そうにゲラ ゲラと笑うのであった。そういうときに妾は奇妙な思いを したことがあった。それは大口をあいて笑う幼童の爾並 が、あるときは味噌ッ歯だらけで前が欠けていたと思うの に、あるときはまた大きい前爾が二本生え並んでいたこと があった。これは幼い妾にとっては奇妙なことというより ほかに仕様のないことだった。  妾はそのほかにも、舌切雀の遊戯を踊ったりして寝てい るはらからを悦ばせることをやったけれど、必ずその途中 で母の命令が出て、妾は庭へ下りると立葵の花を折ってき たり、|蛸蛉草《かたばみ》を摘んできたり、あるいはまた|大笹《おおざさ》の新芽か ら出てきた幅の広い葉で笹舟を作ってもってきたりするの であった。しかしながら子供ごころにも気のついたこと は、庭へ下りて持ってくるものが、立葵であっても蜻蛉草 であっても、それからまた笹舟であっても、どれであろう と大した違いがないのだった。つまり妾のはらからにして も、またそれを云いつけた妾の母にしてもが、せっかく持 ってきてやったものをほとんど見向きもしないで、ただ妾 が、 「いいカンカンでしょ、ばア……」  と同じことをやるのに対して、たいへん|悦《よろこ》び合うのだっ た。だから、姜はたびたび庭に下りさせられることがすこし 不満になった。あまり悦ばれもしないのに、そういちいち 力を出して花や草を折ってくるのが|莫迦《ばか》らしくなった。そ れで一度に草や花を沢山とって|懐中《ふところ》にねじこんでおき、母 が庭へ下りて取ってこいと云いつけると、待っていました とばかり、懐中からヒョイと草花を取出して格子の中に技 げ入れたのだった。すると母は顔を赤くして、そんなずるい ことをしてはいけない、すぐ庭に下りて新しいのを坂って くるようにと恐い顔をして云いつけるのであった。妾はま たしても無駄骨でしかないことを庭に降りて練りかえさね ばならなかった。その代り、母たちは妾の|手折《たお》ってくる花 や草が、たとえ破けていようが汚れていようが、決して 叱りはしなかった。とにかく妾は必ず庭に一度降りてき て、それからまた座敷に上ってきて、もう一度はじめから 同じことをして、かの不幸なはらからを慰めることが必要 であったのだ。だがなぜにそんな|煩《わずら》わしいことを繰返す必 要があったのか、どうも妾の|脇《ふ》に落ちかねる。  この紅いリボンのカンカンはよほど妾のはらからの気に 入ったものらしく、ある日妾が何の気もつかずいつものよ うな|紅《あか》いカンカンを結んで座敷牢に近づくと座敷牢に寝て いた幼童はさも待ちかねていたというふうに、いつになく 頭を振っていまだ一度もみたことのないほど悦び騒いだ。 妾は何ごとか起ったのだろうと|誇《いぷか》しく思っていると、|傍《そぱ》に 付添っている母が、 「ホラ|珠《たま》ちゃん(妾の名、|珠枝《たまえ》というのが本当だけれど) 1このカンカンをみておやりよ……」  と妾に云うので、それで始めて気がついてよくよく幼童 の髪をみると、向うでも髪に妾と、同じような紅いリボン を、数も同じく三つつけていたのであった。 「カンカン。……」  と廻らない舌で叫び、あとはキャーッというような奇異 な声をあげて、彼女ーカンカンを結って喜ぶのだから、 まさか「彼」ではあるまい、「彼女」にちがいあるまいー と妾と同じカンカンをつけているというので、たいヘんな 悦びようであった。母はいつも彼女の|背後《うしろ》に坐り、その頭 の後方にある真黒な|切布《きれ》を覆った枕とも蒲団ともつかない |塊《かたまり》の上に手をかけて、妾たちを見守っているのであった が、このカンカン競べのあったときは、どうしたものかそ の黒い|切布《きれ》をかぶったものがまるで自ら動きでもしたよう に|捲《まか》れてきた。そのとき妾はその黒布の下に、また別な紅 いリボンがヒラヒラしているのを|逸早《いちはや》く見てとったものだ から、たちまち大変気色を悪くしてしまった。 「ずるいわずるいわ、あんたはあたいよりも沢山リボンを 持っていて、隠したりなんかしているんですもの……」  と、妾は格子につかまって駄々をこねだした。母はその 内側でなにかひそひそと優しく叱りつけている様子であっ たがそれは妾を叱りつけているわけではなかった。と云っ て、そのヘラヘラ笑いつづけている機嫌のよい幼童を叱っ ているのだとも、すこし違っているように思えた。母はし ばらくしてから格子の外の妾の方を向き、 「珠ちゃん、リボンの数は皆同じよ。ホラよくごらんなさ い。:::」  といった。そういわれてからよくみると、妾のはらから の頭にはチャンとリボンが三つついていた。さっき四つか 五つぐらいにみえたのは思いちがいだったんだわと思った ことであった。  もちろんその日も、妾は次の順序として、庭に追いやら れた。それからふたたび座敷へ上ってきてから、 「あんたも今日はいいカンカンしているわねエ、皆同じだ わネ」  と、同じ祝詞を呈して、ふたたびはらからの大騒ぎをし て悦ぶ様をみたのであった。  格子のなかの妾のはらからについては、妾はそれ以外に 多くを憶えていない。第一どうしても思いだせないのは、 彼女の名前だった。母は格子の中に寝ている子供を指し て、これはお前のはらからで、同じ年である、お前の方は お姉さまだから、|温和《おとな》しく可愛いがってあげるのですよと いったのは憶えているのだが、どうしてもそのはらからの 名前が思い出せない。ひょっとすると、母はそのはらから の名前を妾に言わなかったのかもしれない。  妾がはらからについて記憶していることは大体右のよう なことだけである。その後のことについてはまったく知ら ない。その後のことは、座敷牢のはらからのことだけではな く、妾の母についても知るところがない。なぜなら妾はそれ から聞もなく、母と不幸なはらからとに別れてしまったか らである。それは突然の別れであった。それについては、 いずれ後に述べることにするが、とにかく思いがけない事 件が、妾から母と妹ーカンカンを結って喜んでいたはら からのことを妹と呼んでいいだろうーとを奪ってしまっ たのだ。  その後ある機会に、妾の母は死んでしまったことを知っ た。そして残るのは妾の妹(P)の消息だけなのであるが、 いま妾の企てている探索がもし成功しないとすれば、あの 川添いの家でカンカンを見せ合ったときが、実に母と妹と に対する最後の別れとなるのである。  だが実を云えば、あの新聞広告は、妾のあのはらからの 生死を確めることも目的ではあるけれども妾としてはもっ ともっと重大な意味があることを一言申しあげておかねば ならない。それはいかなるわけかと云えば、最近妾は偶然 の機会から船乗りだった亡父の残していった日記帳を発見 し、その中に、実に何といったらいいか自分の一身につい て、大きな謎に包まれた記載文を発見したのである。その 文意は、気にしないでいるのには、あまりに奇々怪々に過 ぎるのである。1いまから二十三年前の二月十九口の父 の日記帳には、次のようなことが書きつけてあった。 「ニハ十九口。1呪われてあれ、今口授かりたる三人の 双生児-」 二  三人の双生児?  二人の双生児なら、これはよく分るが、三人の双生児と はどうしたことであろうか。三とあるのは二の誤記ではあ るまいかと思ったが、よく考えてみると、双生児が二人な ら、別に改まって「二人の双生児」と断る必要はないはず である。三人だからこそ不思議なので、三人のと断ったも のだと考えられる、二月十九日といえば、たしかに妾の誕 生日なのである、これは妾の手文庫の中にあった|瞬《へそ》の緒に チャンと書いてあったから間違いはないと思う。すると二 月十九日には妾の外にもう二人のはらからが誕生したこと になる。  もっとも父は「授かる」と記し「家内が産んだ」とは書 いてないので、疑えば疑えないこともないが、まず授かる といえば父の子供として認める意志があったように取れる ので、出産のあったものと見るのが無難だと思う。  すると妾の母は、三人の双生児を産んだのであろうか。 そしてそのうちの一人が、この妾なのである。残りの二人 はどこにいるのであろうか。どうして三人で双生児なので あろうか。そういうことはあり得ることではない。二人な らば双生児だし、三人ならばどうしても三つ子といわなけ ればならない。いくら三つ子が生れたからといって、父が 三つ子を双生児と書き誤るはずはないと思う。そうなる と、三人の双生児という有り得べからざる名称のうちに、 何か異状の謎が語られていることになる。  妾はいろいろと|縁《み》よりを探してみた。だがそれがどうし てもハッキリ分らない。実は父が死んだときは、妾が十歳 のときのことであるが、そのとき父についていた身内とい うのは妾一人だった。しかも生れ故郷を離れて、妾たちは 放浪していたその旅先だった。  前に妾が述べたように、妹とカンカン競ベをやったのが 最後となって、母と妹とに別れた話をしたが、両人が妾の 前から見えなくなって間もなく、父は親類の赤沢さんの伯 父さんと大喧嘩をやったことを|憶《おぼ》えている。恐らくこの喧 嘩は母と妹とが見えなくなった事件と関係のあることだろ うとは思うが、詳しいことは知らない。  と、間もなく妾は父に連れられて故郷を立ち、貨物船に 妾ともども乗り組んだ。それから妾は父の死ぬまで四、五 年の海上生活を送ることになり、船の上で物心がついてき たのであった、 「お母アさま、どうしたのP」  と、妾はよくこの質問を父にしたことだった。それを云 うと、父は急に機嫌を悪くして噛んで吐きだすように云っ た。 「おッ母アはどこかへ逃げちまったよ。お前が可愛いくな いだろうテ」 「あの|立葵《たちあおい》の咲いていた分れ|家《や》のネ」 「ウン」 「あの中に、あたしの|同胞《きようだい》がいたわネ。あの子を連れて逃 げちゃったのでしょ」  すると父は首を大きく振って、 「イヤイヤそうじゃないよ。あの子は赤沢の伯父さんが、 どっかへ連れていってしまったんだよ。おッ母アは、あの 子も可愛いくないのだろう」 「じゃお母ア様は、誰が可愛いの」 「そりゃ分らん。……赤沢にでも聞いてみるのじゃナ」  父は苦い顔をして応えた。 「ねえ、お父さま。もとのお|家《うち》へ帰りましょうよ、ねえ」 「もとのお家つ・・なぜそんなことを云うのだ」と父は|俄《にわ》か に声を荒げていうのであった。「もとの土地へ帰っても、 もうお家などはないのじゃ。あんな面白くもないところへ 帰ってどうするんか。この船の上がいいじゃないか。じっ として、どんな賑かな港へでもゆける」  父は故郷を|呪《のろ》ってやまなかった。 「お父さま。あたしたちの故郷は、なんというところなの」 「故郷のところかい。おお、お前は小さかったから、よく 知らんのじゃなア。イヤ知らなけりゃ知らないでいる方が お前のためじゃだ。そんなものは聞かんがいい、聞かんが いい」  と云って、父は妾がなんといって頼んでも、故郷の地名を 教えなかった、だから妾は、幼い日の故郷の印象を脳裏に かすかに刻んでいるだけで、あの夢幻的な舞台がこの日本 国中のどこにあるのやら知らないのであった。  いまにして思えば、あのとき何とかして故郷の方角でも 父から|訊《き》きだしておくのであったと、残念でたまらない。 なぜなら、その後父はふと心変りがして船を下り、妾を連 れて諸所賛沢な流浪を始めたが、妾が十歳の秋に、この東 京に滞在していたときとうとう卒中のために瞬聞にコロリ と死んでしまった。そしてとうとう妾は永久に故郷の所在 を父の口から聞く|術《すべ》を失ったのであった。それから後ずっ とこの方、故郷はお|伽噺《とぎばなし》の画の一頁のように、現実の感じ から遠く遠く|距《へだ》ってしまったような気がする。  幸いに父が持って歩いていたトランクの中に、相当多額 の遺産を残しておいてくれた。それは主として宝石と黄金 製品とであったが、父が海外で求めて溜めていたものであ ろう。その遺産故に妾を世話する人もあって、こうして東 京の地に大きくなることが出来たのであった。いま妾は至 極気楽に見える生活をしている。数年前には、話が出来て |聾《むこ》をとったけれど、彼は一年ばかりして胸の病気で針金の ように|痩《や》せて死んでしまった。それからこっち妾は気楽に 見える若い有閑|未亡人《マダム》の生活をつづけている。再縁の話も 実はうるさいほどあるのではあるが、妾は一も二もなくこ れをお断りしている。結婚生活なんて、そんなに楽しいも のではないからである。それにこの節は、結婚などという ことよりも、もっともっと気にかかることがあって、その 方へすっかり精力を引よせられているので、男のことなん か考えている余裕がないのである。気にかかることという のは、もちろんこれまでにお話したとおり、生死不明の妾 のはらからを探しあてることが出来るかどうかということ である。そして、妾の名誉のためにも誇りのためにも三人 の双生児の謎を解くことができるかどうかということであ る。  あの新聞広告を出したその翌口から、妾の住んでいる渋 谷羽沢の邸は|慌《にわ》かに賑かになった。それは新聞広告をみて から各種の訪問客が殖えたということである.それはきっ と私のことだろうといって、はらからを名乗ってくる人が 毎日十二、三人ある。しかし随分平気ででたらめをやれる人 があると見えてやってくる人のほとんどは三十歳を越して いる。妾が本年二十三歳なのを考えれば、もっと早く気がつ くはずだと思うが、妾の前で|酒《ンマつンマつ》々として原籍や姉妹のこと をしゃべってしまって、だいぶ経ってから気がついて急に 逃げだすというのが多い。ただその中に三人だけ、妾の関 心を持てる人が混っているのである。  まず第一にお話しなければならないのは、|速水《はやみ》春子とい う女流探偵のことである。彼女はあの新聞広告を見ると、 さっそく妾のところへやって来た。妾は小間使のキヨに、 一応その女流探偵の|身形《みなり》その他を訊きただした上で、客間 に招じて逢ってみた。  春子女史は、薄もので|椿《こしら》えた真黒の被布に、下にはやは り黒っぽい|単衣《ひとえ》の縞もの銘仙を着た小柄の人物で、すこし 青白い面長の顔には、黒い縁の大きな眼鏡をかけて、ちょっ とみたところ|年齢《とし》のころは二十五、六の、まずポインタ1種 の猟犬が化けたような上品な婦人だった。妾は女探偵など というと、もっと身体の大きな体操の先生のような婦人を 想像していたのであるが、速水春子女史はそれとは違った 智恵そのもののような女性だった。しかし彼女の眼だけは ギロリと大きくて、妾にとってはたいへん気味がわるかっ た。 「新聞で拝見しましたんでございますけれど……」と女史 はさも慣れ切っているというふうに話の口を切った。「た いへん六ヶ敷そうなお探しものでいらっしゃいますのネ。 あたくしにお委せ下されば、イエもう永年の経験で、こつ は|弁《わきま》えおりますから、すぐに貴女さまのご姉妹を探しだし てごらんに入れますわ。……ええと、それでまずその門題の お父上の日記帳というのを拝見しとうございますが……」  妾は手文庫のなかから、父の日記帳をとりだした。それ はポケット型というのであろう、たいへん小さな|冊子《さつし》で、 黒革の表紙もひどく端がすりきれて、その色も潮風にあっ て黄いろく変色していた。それを開くと、中は|罫《けい》なしの日 付は自由に書きこめるという式の自由日記で、|尖《さき》の丸い鉛 筆をなめなめ書きこんだらしい|金釘《かなくぎ》流の文字がギッシリと 各頁に詰まっていた。女流探偵はその中のある日の日記を 声を出してよみだした。 「ほう、こんなことが出ていますわ。1二月一日、『タ ラップ』ノ|手摺《てすり》ヲ修繕スル。相棒ガ不慣デナカナカ|捗《はかど》ラ ヌ。去年ノ今頃モ修繕シタコトガアッタッケガ、ソノトキ ハ赤沢常造ノ奴ガイタカラ、半日デ片付イタモノダ。|彼奴《あいつ》 ガ下船シテ故郷二引込ンダノハソノ直後ダッタ。モウ一年 ニナルノニ、彼奴ハ故郷ニジットシテイテ、ドコニモ働キ ニ行コウトシナイ。ワシハォ勝ノコトガ心配デナラン。ト 云ッテモ、オ勝ハモゥスグオ産ヲスル。オ産ヲスルマデ ハ、イクラ物好キナ彼奴トテモ手ヲ出ス様ナコトガアルマ イ。トハ云ウモノノ、女ヲ盗ムニハ妊婦二限ルトイウ話モ アルカラ、安心ナラン。Iほほう、亡くなった|貴女《あなた》さま のお父さまは、この赤沢常造という男をだいぶ気にしてい らっしゃるようですが、これはどんな関係の方でございま しょうか」 「その赤沢というのは、伯父さんだと憶えています。一度 父と大喧嘩をしたので、あたしは知っているのです」 「どんなことから大喧嘩なすったのでございましょう」 「さあそれは存じません」 「それは重大なことですね。……それから奥様のお生れ遊 ばしたのは何日でございましょうか」 「その日記の最後の日付がそうなのです」 「ああ、そうでございますか。そうそう、この同じ二月の 十九日に、貴女さまはお生れ遊ばしたのでございますね」そ ういって春子女史は日記の頁を最後のところまでめくり、 「ああありました二月十九日、オオ呪ワレテアレ、今日授 カッタ三人ノ双生児-・これでございますネ、三人ノ双生 児!」  と、女流探偵は深刻な表情をして、三人の双生児-・と 口の中でくりかえした。 「いかがでございましょう。お心あたりがありまして」  と訊ねると、女史は、 「これは現地について調べるのが一番早や道でございます わ。探偵が机の上で結諭を手品のように坂出してみせるの はあれは探偵小説家の作りごとでございますわ。本当の探 偵は一にも実践、二にも実践1これが大事なので、そこ にあたくしたちの腕の|奮《ふる》いどころがあるのですわ、奥さ ま」 「でも、その現地というのが雲を|掴《つか》むような話で節一どこ だかいっこうに見当がついていないのですよ」 「それは奥さま、調べるようにいたせば、分ることでござ いますわ」と女史は|怯《ひる》む気色も見せず云い放った。「広告 にお書きになりましたサワ|蟹《がに》とか|立葵《たちあおい》とかは、日本全国ど こにもございましてこれは手懸りになりません。でも奥さ まは、もっと何か地方的な特色のあることをご存知のはず と存じますわ。お小さいとき、よくお気のつくものとして は物売りの声、お祭りなどの行事、その辺のごく狭い地区の 名、幼な|馴染《なじみ》の名などでございますが、一っ思い出してい ただきましょうか」  そこで妾は変な|諮問《しもん》を受けることとなった、 「物売りの声で、なにか憶えていらっしゃるものはござい ませんP」 「さあ、1」と妾はこの意外な問いにはすくなからず驚 いた。そして長い閃考えていたが、やっと一つ思い出すこ とが出来た。「そうです、色…売りのおばさんの呼び声を思 いだしましたわいこうなんです1|鯛《いカ》や|鱗《かれい》や|竹輪《ちくわ》はおい《ヲち 》|ん なはらーンで、という」 「おいんなはらーンで、でございますか。たいヘん結構な 手懸りでございますわ。ではもう一っ、お祭の名称など、 いかがでございます」 「さあ、i明神さまのお祭りだとか、それから太い竹を 輪切りにしてくれるサギッチョウなどというものがありま した」 「ああ、左義長のことですネ、それも結構です。それから この辺の村の名とか町の名とか憶えていらっしゃいませ ん」 「近所の地名ですか何ですか、アタケといっていましたわ」 「ああ、アタケ、|安宅《あんたく》と書くのでしょう、ああ、それです っかり分りました」と春子女史はいった。「すると奥さま のお郷里は四国です。阿波の国は徳島というところに、|安《あ》 |宅《たか》という小さい村があります。そこならサワ蟹だって、立 葵だって沢山あります。ではあたくし、これからちょっと 行って調べて参ります。四五日のご猶予を下さいませ」  女史の探偵眼はたいへん明快であった。どうしても、そ んな明快な答が出たのか妾には合点がゆかなかったけれ ど、彼女は別に高ぶる様子もなく、妾の故郷だという四国 の安宅村へ、三人の双生児の実相を確めるために発足する といって辞し去った。妾は狐に鼻をつままれたように、女 史を見送ったが、後になっていっさいが判明するまではこ の女流探偵の神通眼は単にでたらめだと思っていたのであ った。 三 新聞広告を見て妾を尋ねてきた人の中で、第二にお話し ておかなければならないのは、|安宅《あたか》真一という青年のこと だった。その青年は、背がごく低くて子供ぽかった。身長 五尺四寸に肥満性というた女の妾と較べると、まるで十年 も違う弟のようにみえた。そして|痩《や》せている方ではなかっ たが、顔色は透きとおるように白く、|捲《ま》くれたような小さ い唇はほんのちょっぴり淡紅色に染まっているというだけ であってみるからに心臓に故障のあるのが知られた。顔だ ちも妾とは違ってメロンのようにまン丸かった。  その安宅という育年が邸に来たとき、妾は彼があまりに 年端もゆかない様子なのをみて、…体何の用で来たのか会 ってみたくなった。それで客問に招じて応接してみると、 やはり用というのは、自分こそは貴女の探している双生児 の片割れであろうと思ってやって来たというのであった。 「嘘をおっしゃい。あんたは一体いくつなの。妾よりも五 つ六つも下じゃないの」  と妾は少年1でもないが、その安宅真一を頭から|椰捻《からか》 った。 「そんなことはないでしょう。僕、これでも二十三か四な んです」 「あら、妾が二十三なのを知ってて、わざとそんなことを おっしゃるのでしょう」 「いえいえ、そんなことはありません。本当に二十三か四 なんです」 「二十三か四ですって。三か四かハッキリしないのは、 一 体どういうわけなの」  安宅青年はそこで物悲しげに眉を|餐《しか》めてから、 「実は僕は親なし子なんです。兄弟があるかどうかも分っ ていません。どうにかして小さいときのことを知りたいと 思って気をつけていたところへ、あの新聞広告が眼につい たのです。世の中には似たような人もあるものだナと思い ました。とにかく伺ってみればもしや自分の幼いときのこ とが分る手懸りがありはしないかと思って、それでやって 来たというわけです。僕は小さいときのことをすこしも憶 えていません。記憶に残っている一番古いことは、たしか 八、九歳の頃です。そのころ僕は、お恥かしいことですけれ ど、見世物に出ていました。鎮守さまのお祭のときなどに は、|古幟《ふるのぼり》をついだ|天幕《テント》張りの小屋をかけ、貴重なる学術参 考『世界にただ一人の|海盤車娘《ひとでむすめ》の曲芸』というのを演じて いました」  そういって語る安宅の顔付には,その年頃の濃渕たる青 年とは思えず、どこか海底の小暗い軟泥に棲んでいる|棘皮《きよくひ》 動物の精が不思議な身の上|咄《ぱむし》を訴えているというふうに思 われた。真一は言葉を続けて、 「僕を持っていたのは|蛭間《ひるま》興行部の銀平という親分でした が僕は祭礼に集ってくる人たちから大人五銭、小人二銭の 木戸をとった代償として、青い力ーバイト燈の光の下に、 海底とみせた土間の上でのたうちまわり、白分でもゾッと するような『|海盤車娘《ひとでむすめ》』の踊りや、みせたくない|素肌《すはだ》を|曝《さら》 したり、ときにはお号物に|濁酒《どぶろく》くさい村の若者に身体を触 らせたりしていました。もちろん見物の衆は、僕のことを 女だと思っていたのです、本当は僕は立派に男なんです。 けれど生れつき血の気のないむっつりとした肉体や、それ から親分の云いつけでワザと女の子のように仲ばしていた 房々した頭髪などが、僕を娘に見せていたのでしょう」  ひとでむす鋤             かわ 「海盤車娘って、あんたの身体になにか異ったところでも あるんですか」  と、妾はゾクゾクしながら、尋ねたのだった。 「それは異状があればあるといえるのでしょう。でも結局 は興行師の無理なこじつけでした。それで見物の衆はイン チキ見世物を見せられたことになると思うのですが、実は 僕の背の左側に楕円形の大きな|搬痕《きず》があるのです。そして 僕がその搬痕を動かそうとすると、その搬痕は赤く|膨《ふく》れて 背中よりも五、六|分《ぶ》隆起して上下左右思うままにピクピク と動くのです。ですからどうかすると、むかし僕の背中には 一本の腕か生えていたのを、その付け根から切断したため に、跡が搬痕になっているようにも見えるのでした。見世 物になるときは、そこにゴム製の長い触手をつけ、それを 本当の腕であるかのように動かすのでした。つまり僕は二 本の脚と三本の腕とを持っているので、ちょうど五本の腕 の海盤車の化け物だというのです。いかがです。もしお望 みでしたら、今ここでその気味の悪い搬痕をごらんに入れ てもようございます」 「まあ、ちょっと待ってちょうだい。ー」  出されてはたいへんなので、思わず妾は悲鳴にちかい声 をあげた。なんといういやらしい男があったものであろ う。新聞広告を出したために、たいへんな人間がとびこん できたものであった。肩口のところで紅くなってムクムク 膨れ出してくる第三本目の腕の痕など、ちょっと一と目見 たい好奇心もおこるけれど、やはり恐ろしかρた。|白面《しらふ》で もって、そんないやらしいものを見られるものじゃありや しない。これは随分変態的な男であると、|呆《あき》れるよりほか なかった。でもどうしたというのであろう。呆れるという 以上に、近頃刺戟に飢えているらしい我が身にとって何か しら、気にかかることでもあった。 「それであんたは妾の兄弟だと思っているの」  と、妾は話頭を転じたのだった。 「さあ、それを確かめたくて伺ったのですけれど。とにか く僕は實女がなにか関係のある人に思われてならないんで す」  聞けば聞くほど、興味の深い|海盤車娘《ひとでむすめ》の物語ではあった けれど、妾はそれ以上、聞いているのに耐えなかった。そ れでもういい加減に、この変な男に帰ってもらいたくなっ た。それで妾は最後にハッキリと云ってやった。 「こうして話を伺っていると、あたしとあんたとは、たい へん身の上が似ているように思いますわよ。でも、あたし としては、知りたいと思う一番大事なことが、いまのあん たの話では説明されてないように思うのよ。第一それは ネ、あたしと双生児のその相手というのは、あんたみたい に男ではなくて、女だと信じているわ。つまりこうなの よ、あたしが小さいとき、その双生児の寝ている座敷牢の ようなところへ行ったときに、その子は|頭髪《あたま》に赤いリボン をつけていたのをハッキリ憶えているのよ。赤いリボンを つけているんだから、きっとその子は女に違いないと思う わ」 「しかし僕は、長いこと女の子にされてしまって海盤車娘 というのをやっていました。女といえば女じゃありません か」 「さあ、それは違うでしょう。あんたが女の子に化けたの は八、九歳から後のことでしょう、興行師の手に渡ってか ら、都合のよい女の子にされちまったんじゃありません か。あたしの憶えているのはずっと幼い五、六歳のころの ことです。その頃あたしたちはちゃんと父母の手で育てら れていたので、男の子を特別に女の子にして育てるという ようなことはなかったと思うわ」 「そうでしょうかしら」と真一は物悲しげに唇を曲げた。 「それにサ、世間をみても双生児には男同士とか女同士と かが多いじゃないこと。そしてさっきから、あんたの顔を 見ているのだけれど、あんたとあたしとはまるで顔形も違 っていれば、身体のつきも全然違っているように思うわ。 ね、そうでしょう。どこもここも違っているでしょう。|強《し》 いて似ているところを探すと、身体が痩せていないで肉が ポタポタしていることと、それから月の輪のような眉毛と 腫れぽったい|眼瞼《まぷた》とまアそんなものじゃないこと」 「それだけ似ていれば……」 「それくらいの相似なら、どんな他人同士だって似ている わよ。とにかくあんたは、あたしの探している双生児の一 人じゃないと思うわ」 「そういわないで、僕を助けて下さい」と真一は両手で顔 を|蔽《おお》い、ワッと泣きだした。「ぽ、僕はいま病気なんです。 それで働けないのです。僕はもう三日も、|禄《ろく》に食事をしな いでいます。ますます身体は悪くなってきます。お願いで すから、助けて下さい」  こんなことになってしまって、妾はたいへん当惑した。 これはなんとかして、早く帰ってもらわないといけないと 思った。それには彼がいたたまれないように、もっと弱点 を衝くことにあると思った。 「あたしは、本当のはらからを見つけたくてあの広告を出 したのよ。あんたは知らないでしょうけれど、あたしたち は双生児でも、三人一組なのよ。つまり三人の双生児であ ると、死んだ父が日記に書き残してあるのだわ。この点か らいってもあんたの持ってきた話の中には三人の双生児と いう重大な|謎《なそ》を解くに足るものがすこしも入っていないじ ゃありませんか。だからたいへんお気の毒だけれど、あた しはあんたを兄とも弟とも認めることができないのよ、ネ、 わかるでしょう」  畳に身を伏せて、|鳴咽《おえつ》していた真一は、このとき|俄《にわ》かに 身体をブルブルと|震《ふるわ》せ始めた。それは持病の発作が急に起 ってきたものらしかった。彼は苦しげに胸元を|掻《か》き|控《むし》り、 畳の上を転々として転がった。あまりに着物を引張るの で、その|垢《あか》じみた|単衣《ひとえ》はべりべりと裂け始め、その下から |爬虫《はちゆう》類のようにねっとりとした光沢のある真白な膚が|剥《む》き だしになってきた。そして妾は、はからずもそこについに 見るべからざるものを見てしまった。真一の背にある恐ろ しき|搬痕《きず》! 「おお、いやだー」  彼の話に|勝《まさ》って、それはなんという気味の悪い搬痕だっ たろう。それは確かに生きている動物のように|轟《ろごめ》いた。あ るいは事実そこに腕のような活漢なものが生えていたのか もしれない。  そのときふと妾は、いままでに考えていなかったような 恐ろしいことを考え出した。それは真一の搬痕のあるとこ ろにもう一つ別の人間の身体が|癒着《ゆちやく》していたのではなかろ うか。いわゆるシャム兄弟と呼ばれるところの、二人の人 間が身体の一部が癒着し合って離れることができないとい う一種の|崎形児《きけいじ》のことである。つまり真一の場合は、もと もと二人であったものが、搬痕のところで切開されて別々 の二体となったものではあるまいか。そうすると別にあっ たもう一つの人体はいまどこにいるのだろう、そう考える と、たいへん恐ろしいことだった。 「だが、それは真一の場合の恐怖であって、あたしの身の 上の恐怖でないからいい!」  と、妾は口の中で云ってみた。  前にも云ったように、真一と妾とでは、双生児らしく似 かよったところかないと思う。双生児に二種あって、一卵 性双生児と二卵性双生児とがある。前者はたいへんよく似 た|瓜《ヲつり》二つの双生児が生れるし、後者はそれほど似ていな い。似ていないといっても普通の兄弟姉妹を並べてみたと きのように、これははらからだと一見して分る程度にはよ く似ているのだった。妾と真一の場合を比べてみると、も ちろん一卵性双生児のように瓜二つではないことは云うま でもないが、また二卵性双生児といえるほども似ていな い。ややどこかが似ていないでもないが、その程度はとて も二卵性双生児などと認められるほどのものではない。だ から結局妾と真一とは、それほどの仮定を考えてすら双生 児らしいところがなかった。 「その上、もっとハッキリした否定証明がある!」  妾はもう一っ別の否定証明を考えついた。それはむずか しい医学的な証明でない。つまり仮りに真一にシャム兄弟 的なもう一人の人間があって、それと妾とが同じ日に同じ 母から分娩されたとしたら、これは常識からいってもいわ ゆる三つ子である。つまりていねいにいえば三人の三生児 と呼ぶことが出来てもこれを三人の双生児とは呼ぶことは できないであろう。  結局妾は疑心暗鬼から、たいへん入り組んだことまで考 えたが、これは考えすぎてたいへん莫迦をみたようなもの であった。まるで抜け裏のない露地を、ごていねいに抜け 路があるかしらと探しまわって|草臥《くたびれ》もうけをしたようなも のであった。ともかくこれで真一の場合は、妾に関係のな いことがハッキリ証明できたように思うのであるけれど、 それでいてなおなんとなく気がかりなのはどうしたことで あろうか。それは妾の身の上を離れて、真一が背中にもつ あの搬痕の怪奇性が妾を|脅《おびやか》すのであろうかP  とにかくそんなことは忘れてしまって、妾は父が手帳の 中に書きのこした「三人の双生児」という字句が持つ秘密 を、別な方面から調べてみなければならない。それはもっ ともっと別の種類のことなのではなかろうか。「三人の双 生児」のなかの一人は、どうしても妾の身の上のことなん だからして、残る二人で一人の人間という不合理にみえる 合理を解きあげて妾の重い負担を下ろすことにしたいもの である。 四  四国の徳島へ出発した女流探偵速水春子女史は、越えて 十日目に、たいへん緊張した顔つきで妾の邸を訪れた。 「まあ、奥さま。どうかびっくりなさいますな。あたくし はとうとう、貴女さまのほんとのおはらからを探しあてて 参りましたのでございますよ」  妾は女史の言葉を、|俄《にわ》かに信ずる気持にはなれなかっ た。この|六《むず》ヶ|敷《かし》い|同胞《きようだい》さがしがそんなに簡単に解けようと は考えていなかったからである。 「ねえ、奥さま。お驚き遊ばしてはいけませんよ。詳しい ことを申しあげるより前に、まずあたくしのお連れ申して 来たお妹さま……とでも申しましょうか、それともお姉さ まと申上げた方がよろしゅうございましょうか、とにかく 同じ年の二月十九日に、ご母堂に当ります西村勝子様がお 産み遊ばしたお二方のうち、1珠枝さまーつまり奥さ まーではない方のもう一方ーその方のお名前を静枝さ まと申上げますが、その静枝さまをお伴い申したのでござ います。いまご案内申し上げますから、なにょりもお会い 下すって、よくよくご覧遊ばして下さいませ。ーあの、 静枝さま。どうぞ、こちらへ」  |饒舌女《じようぜつ》史は可愛げもない|台辞《せりふ》をのべたててから、次の間 の方へ声をかけた。  襖の外では、微かな返事があって、やがてやさしい|衣摺《きぬず》 れの音とともに、水々しい背の高い婦人が入って来た。妾 はその婦人を一と目みて、どんなに驚いたことであろう か。まことに吾れながら、その顔形といい、身つきとい い、髪や衣服の趣味、さては化粧の癖に至るまでこんなに もよく似た婦人がいるものだと、しばらくは呆然と打ち見 護っていたほどであった。これが話したいという第三の人 物である。 「あら、お姉さまでいらっしゃるの。……まあお懐しいッ。 あたしく静枝ですわ。おお……」  といって、その静枝嬢はバタバタと畳の上を飛んでくる なり、妾の胸にとりすがって、嬉し泣きにさめざめと泣く のであった。それはまるで新派劇の舞台にみるのとソック リ同じことで、いとど感激の場面が演ぜられたのだった。と り|纐《すが》られたとたんに妾もハッと胸ふさがり、湧きくる|泪《たみだ》を |塞《ふさ》ぎ止めることができなかった。 「おん二方さま。お芽出とうご祝詞を申上げます。あたく しも思わず、貰い泣きをいたしました」  と、速水女史までもが、新派劇どおりに目を泣き腫らし たのだった。 「一体これはどういう事情だっヒんです」  と妾はいつまでも鼻をかんでいる速水女史に尋ねた。 「いえもうそれは、たいへん混み入った話になりますが、 今日はちょっとかい摘んで申上げます」  と、饒舌女史が語りだした省略話をもう一つ省略して述 べると、次のような事情であると分った  1速水女史が徳島の安宅村というところへのりこんで きいてみると、妾の母の勝子はもちろん死んでいて問題の 幼童1つまり静枝のことを聞きだすべくもなかった。そ れから伯父の赤沢常造のところに静枝がいたということで あるから、これを|質《ただ》してみたが、自分のところに、その幼 童をちょっと預ったことはあるが、問もなく母の勝子が連 れだしたまま行方不明になってしまって、白分は知らない という。そこで村の故老などにいろいろ閃きあわした末、 その幼童が静枝という名を名乗って、徳島市の演芸会杜の 杜長の養女に貰われていたところをつきとめて、それで無 理やりに東京へひっぱって来たのである。向うでも永く離 したがらないので、四、五日滞在したら、なるべく早く帰郷 するようにと、養父の銀平氏から頼まれて来たというので あった。  妾は気味のわるいほど実に自分によく似た艀枝と、いろ いろ故郷の話や、幼いときの話をした。彼女は妾の知って いることは残らず知っていて、すべてはよく符合した。妾 を見習って、カンカンに赤い三つのリボンをかけたことも よく覚えているそうであるし、紫の|立葵《たちあおい》のこと及びその色 ちがいのもので赤や白のものがあることや、日本全国到る 処に棲息するサワ|蟹《がに》のこと、特にその|鋏《はさみ》に大小の差があっ て鋏に糸をつけるとすぐそれが|椀《も》げることなどをスラスラ と語った、 「静枝さん、あなたはどうしてあの座敷牢のようなところ に入って暮していたんですの」と妾はかねて聞きたく思っ ていたことを聞いてみた。 「それはこうなのでございますわ。あたくしはどうしたも のか、ごく小さいときから夢遊病を患っていたのでござい ます。それで夜中に起きてどこかへ行ってしまうようなこ とがあってはと、いつも座敷牢の中に入れられていたので ございますわ」 「でもいつでも貴女は寝てばかりいて、起きてたところを みたことがないわ。昼間から寝てばかりいたのはなぜです の」 「あれはこうなのでございます。あたくしはある夜、夢遊 して外に出たんですの。そして不幸にも崖から川の中へ落 ちて足を|挫《くじ》き、腕を折り、ひどい怪我をしたことがあるの で、それで立ち上れなくて、いつも寝ていました」 「ああそうだったの。気の毒だったわネ。でも、脚を挫い ているのなら夢遊でも外は歩けないのじゃない。」 「いえそれはこうなんですの、夢遊病者は、たとえ足が悪 くて屯そのときは歩けるのですから、不思議ですわ」  静枝の答は一々明快だった。まだ聞きたいことが沢山あ ったがあまり尋ねてはせっかく|巡逢《めぐりあ》った|同胞《はらから》のことを変に 疑うようで悪いと思ったので、もう一つだけ重大なことを 尋ねた。 「あの、『三人の双生児』とお父さまがお書き遺しになっ た言葉ね、あれはどういう意味でしょうね。あなたと妾と だけでは二人の双生児で、三人ではありませんものネ」 「ええ、それはこういうわけなのですわ」と静枝は|淀《よど》みもな くこの重大な質問をとりあげたのだった。「あれはお父さま のユーモアであったんですわ。つまりお産の|褥《しとね》の上には、 お姉さまとあたくしとの二人の嬰児と、それからお産を済 ませたばかりのお母アさまと、都合三人で枕を並べて寝て いたのをご覧になって三人の双生児とお書きになったんで すわ」 「アラいやだ。そんなことだったの」  妾は、このいままで重大視していた「三人の双生児」の 謎が意外も意外、あまりにも明快にスラリと解けたので、 |滑稽《こつけい》でもあり、気ぬけもして、しばらくは笑いが停まらな かった。実にそんなことであったのか。妾は今夜はこの新 しくみつかった|同胞《はらから》のために、内輪ながら極めて盛大なお 膳を用意するよう、召使に云いつけたのだった。そして妾 は、しばらくの間休息するために、自分の居間に入ったの であった。  そこヘチョロチョロと人の足音がして、人目を|輝《はぱか》るよう にして、速水女史か入ってきた。そこで妾は、手文庫から 二百円の小切手をかいて、謝礼のため女史に贈った。女史は たいへん悦んだが、すぐには部屋を出てゆかなかった。 「アノ失礼でございますが、この前伺ったときとはちがい まして、お邸の中に変な男の人がいるようでございます が、あれはどうした|仁《ひと》でございましょう」  速水女史は商売柄だけあって、目のつくのも速かった。 その不審をもたれた男というのは安宅真一のことだった。 彼は妾と始めて話をしたあの日、話半ばに急病を起して、 座敷に倒れてしまった。妾は驚いて、さっそく医者を呼ん でみせたところ、だいぶん衰弱しているから動かしてはい けないという診断であった。妾は迷惑なことだったけれ ど、そうかといって真一を|戸外《そと》につきだしたため、門前で |擁《たお》れてしまわれるようなことがあっては困るから、仕方な しに邸のうちへ留めおいて、療養をさせることにした。そ れからこっち一週聞あまり経ち、真一はずっと元気づい た。妾の見立てでは、この「|海盤車娘《ひとでむすめ》」はどっちかという と空腹で参っていたといった方が当っていたように思う、 この邸でも、男ぎれというものがまったくないので、妾も 不用心だと思っていたところであるし、かたがた真一を邸 内にそのままブラブラさせておいたのが、逸早く速水女史 の眼に止ったというわけなのである、妾はそのいきさつを 手短かに女史に譜って聞かせた。 「まあそうなんでございますか」と女史はいったが、そこ で一段と眉を|整《しか》めて「でもあの安宅さんとやらはどうも人 相がよくございませんわ、お気をおつけ遊ばせ。これはあ たくしの経験から申すことでございますよ」  女史はそういいおいて、なお心配そうに妾の顔をふりか えりながら帰っていった。  それから三日間というものは、妾の邸のなかは主賓の静 枝と、飛び入りの安宅真一とを加えて、たいへん朗らかな 生活を送った。真一は別人のように元気に見えた。しかし 彼の青白いねっとりした皮膚や、怪しい光のある眼つきな どは別に消散する様子もなく、どっちかといえば更に一層 ピチピチした爬虫類になったような気がするほどであっ た。  それに引きかえ実は妾はこの四五日なんとなく肩の凝り が|欝積《うつせき》したようで、ただに気持がわるくて仕方がなかっ た。考えてみるのに、それは静枝が来てからこっちの緩め ようのない緊張のせいであろう。それから妾は静枝の対等 の地位や静枝を帰すときに|頒《わ》け与えたいと思う金のことで も気を使いすぎた。  妾はこの肩の凝りをどうにかして早く取りのぞきたいと 思った。どうすればそれは簡単にとることが出来るだろう か。  そうだ。いいことがある。  妾はとても素晴らしい遊戯を思いついた。それはなによ りも、妾の居聞に真一を呼ぶことであった。 「なんかご用ですか」  彼はイソイソと室に入ってきた。 「真ちゃん。貴方にすこし命令したいことがあるのよ。き っと従うでしょう。」 「命令ですって。-…・ええ、ようござんすよ」 「いいのネ、きっとよ.1」  と駄目を押しておいて、妾は秘めておいた思惑をうちあ けた、それはこの肩の凝りを癒すために、今夜妾の室にき て、妾だけにあの「海盤車娘」の舞踊をみせて貰いたいと いうことだった。それを聞いた真一は、ちょっと|樗《おどろ》きの色 をみせたが、やがてニッコリ笑って|肯《うたず》いた。どうやら彼は 妾の胸の中にあるすべてのプログラムを知らぬようだっ た。妾の全身は、急に|渡《こんこん》々と精力の泉が湧きだしてきたよ うに思えて、肩の凝りも半分ぐらいははやどこかへ吹き飛 んでしまった。 「ねえ奥さん」と真一はすこし改まった調子で妾に呼びか けた。「あの静枝さんという女は、ありや本当は何なんで す」 「オヤ早もう目をつけているの、ホホホホ」  妾はそこで彼女が妾の探していた双生児の一人らしいこ と、また速水女史の手で探しだされたことなどを詳しく話 した。 「へえ、そうですか」と彼は軽蔑したような口訓でいっ た。 「そりゃ奥さん、大でたらめですよ」 「でたらめだって」 「そうです、みんな嘘っ八ですよ。こうなれば皆申上げて しまいますがネ、あの女はしばらく僕と同座していたこと があるのです。やっぱり銀平の一団でしたよ。お八重とい うのが本名で、表向きは蛇使いですよ」 「人違いじゃないP 速水さんの調べがすんでるのよ」 「いまに尻尾を出すからみていてごらんなさい。第一年齢 が物を云いますよ。あの女は|申《ましる》年なんで、今年はやっと二 十一です。奥さんは|午《うま》の二十三でしょう、それでいて二人 が双生児というのは変じゃありませんか.ま、御用心、御 用心ですよ」  そういって真一は立ち去った。  妾は彼の話をにわかに信ずることは出来なかった。明 日、速水女史に聞いてみよう。とにかく今日は考える力の ない妾だったから。  その夜を妾はどんなにか待ちかねた。今夜真一が妾の室 で素晴らしい海盤車娘の踊りをみせてくれることだろう と。  その夜に入ると、幸にも静枝は外出の仕度をして妾のと ころへ現れた。これから約束があるので速水女史のところ へ行ってくるといって、そのまま出かけた。  首尾は極上だった。自室の方はすっかり妾の手で準備が 整った。そこで妾は決心をして、真一を呼びにいった。彼 は呼ぶとすぐ部屋から現れた。そして子供っぽい顔を照れ くさそうに|赫《あか》く染めて、長い廊下を妾について来た。妾は 海盤車踊の舞台を、いつも寝室にしている離れの寮に選ん だのであった。  そのとき、廊下にバタバタと|楚音《あしおと》がして、小間使のキヨ が飛ぶように走ってきた。 「あ、奥さま。お客様がおみえになりました」 「お客様P 誰なの」  せっかくの楽しみのところへ、お客様の御入来は迷惑だ った。なるべく追いかえすことにしたいと思った。 「お若い紳士の方ですが、お名前を伺いましたところ、奥 さまに逢えばわかるとおっしゃるのです」 「名前を伺わなければ、あたしが困りますといって伺って 来なさい」 「ハア、でございますが、その方……」といってキヨは目 を円くしてみせながら、「殿方で"こざいますが、とっても 奥さまによく似ていらっしゃいますの。殿方とご婦人との 違いがあるだけで、まるで引写しで、こざいますわ」  妾はギクリとした。自分にそんなによく似ている男の人 って誰のことだろう。妾はちょっと気ががりになった。 「じゃあ真さん、先へ入って待っててちょうだい。しかし 何を見ても出て来ちゃ駄目よ」 「ははア、なんですか。じゃお先へ入っていますよ」  妾は部屋の鍵を明けると、真一を中へ押しやった。そし て入口の扉を引くと、そのまま廊下へ引返して、キヨの後 を追った。キヨは先に立って御玄関へ出た。 「アラ、どうしたの」  妾は御玄関でキョロキョロしているキョの肩を叩いた。 「まあ変でございますわねえ。いままでここに立っていら っしゃいましたのですけれど、どこへお出でになったの か、姿がみえませんわ」  「まあ、いやーね」  妾はすこし腹が立って、今夜は逢わないといえと云いつ けて、すぐさま真一の待っている離れの間へ引返した。 「真さん、お待ち遠さま」  重い|扉《ドア》をあけて、中へ入ったが、どうしたものか真一は 返事をしなかった。|狸寝《たぬき》入かしらと一歩、室内に踏みこん だ妾はそこでハツと胸を衝かれたようになって棒立ちにな った。 「まあ、1」  当の真一は蒲団の側に長くなって|擁《たお》れていた。顔色は紫 色を呈して、四肢はかなり冷えていた。心臓は鼓動の音が 聞えず、もうすっかり絶命しているようであった。その枕 もとに水を呑んだらしいコップが田宜の上にゴロンと転がっ ていた。  意外なそして突然の変態男「|海盤車娘《ひとでむすめ》」の死だったー.  自殺か、他殺P 他殺ならば一体誰が殺したのであろ ヲつ?・ 五  |妾《あたし》は「|海盤車娘《ひとでむすめ》」の真一がもう死に切っていることを知 ると、あまりのことに|頭脳《あたま》がボーッとしてしまった。さし あたりまず何を考え何から手をつけてよいのやら、まるで 考えがまとまらない。ただ空しく真一の|屍体《したい》を眺めている ばかりだった。  そのうちに少し気が落着いてきた妾は、 「医者だー・早く医者を呼ばねばいけない!」  ということに気がついた。そして立ち上った。医者なら ばこの男をあるいは助けられるかもしれないーと、始め は思ったものの、しかしもしもこの真一がこのまま生き返 らなかったらどうなるのだろうと、それがにわかに|気懸《きがか》り になった。この男は妾の寝室で死んでいるのだ。ああ、そ してi今この寝室の中には、|他人《ひと》にみせたくないもの《しヲ》|が いろいろと用意せられてあるのだった。そのようなものを もし他人に発見されたらば、どんなことになるであろう。 若い未亡人がそのような秘密の慰安を持っているのは無理 ならぬことだと善意に解釈してくれる人ばかりならいい が、そんな人は十人に一人あるかなしかであろう。悪くす れば、そんなことから妾の行状を誤解してなにか妾が真一 の死に関係があるようなことを云いだすかもしれない。そ んなことがあっては大変である。妾はすぐ医者を呼ぶのを ちょっと見合わせて、それより前に、この部屋を整頓する ことに決心した。  妾は、そこらに転がっているものや、押入れの中にある 怪しげなものだのを、大急ぎですっかりトランクにつめ、 別室へ持ってゆく用意をした。でも真一の屍体の方は、寝 具の上にそのまま手をつけずに放置し、疑惑を|蒙《こうむ》ることの ないようにした。結局他人がみたとき、この離座敷は妾の 寝室として用意したものではなく、真一の寝室として用意 されてあったように信じさせねばならぬと思った。  それから妾は部屋を飛びだした。そして女中のキョやの 部屋へ行って、 「キヨや。大変なことになったから、ちょっと、来ておく れ……。」  というと、キヨやは縫物を|勉《ぽう》りだして、 「えッ、大変でございますって……。ま、何が大変なので ございますか……。」  妾は手短かに、いま真一が離座敷で死んでいることを述 べ医者を迎えるまでに片づけておきたいものがあるからち ょっと手をお貸しといってキヨやを引張っていった。 「キヨや、いいかい。知れるとうるさいからここからトラ ンクだのを|搬《はこ》んだことは、誰にも云っちゃいけないよ。い いかい。」  と妾は念入りな注意をすることを忘れなかった。キヨや は黙って頭を振って同意を示すだけで、いつものようにハ ッキリと返事をしなかった。どうやら真一ののけぞった屍 体をみてから、すっかり恐怖に|囚《とら》われてしまったものらし い。  ちょうどそのときのことであった。ジジーンと、突然玄 関のベルが鳴った。折が折とて妾は胸を|衝《つ》かれたようにハ ッとし、持ちあげていた荷物をドスンと廊下へ落してしま った。 「|冴《あ》ッ。キヨ、入れちゃあいけないよ、入れちゃあいけな いよ……。」  誰だろうP  警官だろうか。妾の胸は早鐘のように|躍《おど》った。  ジジーン。ベルは再びけたたましく鳴った。lもうお 仕舞いだと思った。 「もしもし、西村さん。もうお寝み? あたくし|速水《はやみ》なん ですけれど。」  ああ、速水、1なるほど女探偵の速水春子女史の声に 違いなかった。ああ、ちようどいいところへ、いい人が来 てくれたものである。妾はさっそく女史を家の中へ招じ入 れた。 「あら奥さま、すみませんです。」といつになく上ずった 調子で、「静枝さまいらっしゃいますか。 一緒に出かける お約束だったんですが、お出でにならぬのでお迎えに伺っ たんですけれど……。」  と女史は云った。ああ、静枝はどうしたのだろう。女史 を訪ねてゆくといったが、これは行き違いになったものら しい。 「まア皆さん、どうかなすったの。……お顔の色っちゃな いですわ。」  突然女史はそういって、妾とキヨやの顔を見較べた。もう いけない。もう隠しておくことは出来なかった。|咄嵯《とつさ》に妾 の決心は定まった。ー 「速水さん、ちょっと上って下さいな、実は大変なことが 出来ちゃって……。」  と妾は速水女史の手を取るようにして上にあげた、  そこで女史に、この突発事件について、さしつかえのな い範囲の説明をして、善後策を相談した。 「これは|厄介《やつかい》なことになりましたのネ。」と女史は現場を 検分しながら沈痛な面持をして云った。「奥さまは、真一 さんの死因が何であるとお思いなんでございますか。」  さあそれは妾の知ることではなかった。|頓死《とんし》かもしれな いと思うが、同時に他殺でないと証明する材料もないの だ。それよりも妾には、真一がここに死んでいることが迷 惑千万であったのである。1妾は偽りなくその心境を詰 った。 「これは奥さまの想像していらっしゃるよりも面倒なこと になると存じますわ。お世辞のないところ、奥さまの立場 は非常に不利でございますわ、お分りでしょうけれど。こ とにこの部屋から物を持ちだして証拠|浬滅《いんめつ》を図ろうとなさ っていますし(といって廊下のトランクのことを指し)そ の上に真一さんが横たわっている、寝具は誰がみても奥さま の寝具に違いありませんし、それからこの部屋に焚きこめ られたこのいやらしい挑発的な香気といい・…-。」 「ああ、もうよして下さい。」と妾は女史の言葉を遮った。 彼女は何もかも知っているのだ。この上妾は黙って聴いて いるにたえなかった。たとえ妾に恐ろしい殺意がなかった にしろそれを証明することは面倒なことだし、それに妾が 寝室へ|曲馬団崩《きよくばだんくず》れの若い男を引入れたことが世聞に|曝露《ぱくろ》し ては、妾の生活はめちゃめちゃになることがハッキリ分っ ていた.それは白分を墓穴に埋めるに等しかった。どうし て堪えられよう。 「速水さん。お噸いですから、智恵を借して下さい。十分 恩に着ますわ。」 「さあーあたくしも奥さまを絞首台にのぼすことも、ま た社会的に葬ることも、あまり好まないんでございます が、1」と女史は意地悪いまでの落着を見せて、「でも 困りましたねえIl。」 「お礼なら十分しますわ。」 「いや|銭金《ぜにかね》で片づかないことでございます。」と突っぱね て、 「といってこのままでは絞首台の縄が近づいてくるばかり で……ああ、そうですわ、仕方がありませんから、安の親 しい医師の金田氏を呼びましょう。彼に頼みましてこの場 をあっさりと死亡診断させてしまいましょう。」  この女史の提案を受けて妾はああ助かったとホッと息を ついた。この場がうまく治まりさえすればいい。真一の屍 体が火葬炉の中で灰になってくれさえすればそれで万事治 まる。妾は女史に謝意を表して、さっそくその金田医師を 呼んでくれるように頼んだ。女史は別人のように快く引受 けると、すぐその手配をしてくれた。  やがて金田医師というのが、駈けつけてくれた。彼は真 一を申し訳に診ただけで、 「心臓麻痺1ですな。永らく心臓病で寝ていたというこ とにしておきますから……。」  といって、その旨をすぐに死亡診断書に|認《したた》めてくれた。 「ああ、助かったー。」  と妾はそこで始めて胸を撫で下したのであった。  それがすむと、金田医師は手馴れた調子で屍体をアルコ ールで|拭《ぬぐ》ったり脱脂綿を詰めたりして一と通りの所置をし た。速水女史もクルクル立ち廻って、その辺を片づけてく れた。そして枕許にあった冷水の|罎《びん》などは、わざわざ持っ ていって下水に流し、中を緕麗に洗ってもって来るなど と、実にまめに立ち働いた。妾はそれらをただ|呆然《ぽろぜん》と見つ めているばかりだった。  ちょうどそこへ、静枝が外から帰ってきた。彼女は玄関 を上ると、今まで速水女史の家で、女史がふたたび帰って くるかと待ち合わせていたものの待ちあぐんで引返してき たのだと声高に述べたてていたが、真一の突然の死を女中 から聞くと、驚いて|離座敷《はなれ》に駈けつけてきた。その顔は真 青だった。  妾の気がすこし落藩いたのは、それから十日ほど経った のちのことだった。  真一の屍体は納棺して密かに火葬場へ送って焼いた。そ の遺骨はお寺へ預けてしまった。ささやかなる初七日の法 要もすんで、やっと妾は以前の気持を取りかえしたのだっ た。  あれほど気にかかっていた「三人の双生児」の謎も、解 けないままに、そう気にならなかった。それよりも突然に 死んだ真一の死因を早く知りたかったのだ。  真一は病気のために|頓死《とんし》したのであろうか。いやいやあ のように元気だった彼が頓死するようなことはない。それ よりも閂題は彼の|枕頭《まくらもと》に転がっていた空のコップのこと だ。コップで当り前に|嚥《の》んだものなら、盆の上に戻されて いなければならないと思うのに、コップが空になって畳の 上に転がっていたのはおかしい。コップから水を嚥んで、 下に置こうというときに異変が起って、コップを手から|墜《お》 としたら、ああもなるのではないかと恕像される。ではそ の異変というのはなんであろう? それは嚥み下した水の 中に、なにか毒物が入っていたというようなわけなのでは あるまいか。  仮りにそれが本当であったとしたらば、その|水瓶《みずびん》の中の 毒物は一体誰が投げこんだものであろうか。その恐ろしい 犯人は誰なのであろうか。誰が真一を殺さねばならない特 種の事情を持っていたのだろうか。  まさに妾の全然知らない人物が入りこんで殺していった とは考えられない。どうしても犯人はわが家に出入する人 物の中にあるのだと思う。その点では、彼が曲馬団時代に 怨恨を残して来た者がわが家に忍びよって殺したとも思わ れない。ただ、曲馬団というので思い出したが、あの静枝 はその例外だと思う。  静枝! 静枝!  そうだ、瀞枝が殺したのではなかろうか。静枝のこと は、速水女史の調べで妾のはらからということが判明した ことにはなっているが、直二から訊いたところによると、 元同じ銀平の曲馬団にいたお八重という蛇使いだという話 であった。彼女の秘密が|旧《ふる》い|馴染《なじみ》の真一の口から洩れそう だと知ると、これは殺しかねないことだろうと思われた、 だがそれをハッキリ云うには、それほど確かな証拠が揃っ ていない。それにまさかあのような優しい静枝がとは思う が、これは一つ確かめてみる必要があると思った。 「真一を殺したのは、誰だP」と。  もう妾は静枝を疑う気はしなかった。誰か外に真一殺し の真犯人がいなければならぬ。そういえば、あの日気がつ いたことだが、確かに閉めさせてあったと思った奥庭つづ きの縁側の雨戸に|締《しま》りがかかっていなかった。その奥庭と いうのは玄関脇の木戸さえ開けばそのまま入って来られる ようになっていたのであるから、これはひょっとすると、玄 関の方から誰かが密かに縁側へ廻って来て、あの室内の水 瓶に毒を温入した。それを知らないで真一が水瓶からコッ プに水を注いで嚥み、あのように死んでしまったのではな いかと考えた。そうでないと、あまりにも不思議な毒物の 出現であったから。  そこに気がついた途端に、妾はいままですっかり忘れて いたあの夜の重要人物のことを思い出した。それは妾が真 一とともに|離座敷《はなれ》に入ろうとしたときに、キョやが玄関に 来訪を告げに来た未知の紳士のことだった。キヨやの言葉 を借りると、その紳士と妾とは、男と女との違いこそあれ、 まるで|瓜二《うりふた》つのように似ていたので惜いたということであ る。その紳士に逢おうとて、妾が玄関に出て行ったときに は、どうしたものか姿が見えずなっていた。それから妾は キヨやにいろいろ命じたりして、約五分か十分経って、妾 が離座敷に行ったときにはもう真一が|擁《たお》れていたのであっ た。それから以来、あの妾によく似ているという紳士には 逢わないが、彼こそそのような奇術めいたことが出来る立 場にあったのではなかろうか。 一体あれは|誰人《だれ》だったろ ・つ。  そこで妾は、勝手の方からキヨやを呼びよせて、怪紳士 のことを尋ねてみたのであった、 「ああ、あの榊士の方のことでございますか。」とキヨや はにわかに|狼狽《ろうばむ》の色を示しながら「まあ奥さま、あたくし どういたしましょう。真一さまのことで大騒ぎとなりまし たので、忘れていましたが、実はあの夜あれからもう一 度、あの方にお逢いしたのでございます。」  そこで訊ねてみると、妾が寝室へ引取ってからものの五 分と経たないうちに、彼の紳士はまた玄関に入って来たが 今夜は逢わないという妾の奥さまのお言付けを伝えるとそ のまま帰った。しかし自分の名前を名乗りもせず、九月の 始めになると、また当地を通るから、そのときに気が向い たら寄ろうなどと云ったそうだ。  なんという不可解な紳士だろう。話をきくと、妾に好意 を持っているようでいて、よく考えると行動の上において このくらい怪しい人物はないと思われる。黙って訪ねて来 て、黙って殺人をして引取っていったとすると、これは実 に大胆不敵な兇漢であるといわなければならない。妾をび っくりさせるなんてー殺人者として妾の目の前に立って びっくりさせるぞという悪党らしい遊戯かもしれない。  ただ|脇《ふ》に落ちないのは、妾にこの上なくよく似ていると いうことである。静枝がよく似ていると白分でも思ってい るがキヨやはそれよりももっとよく似ているという。未知 の|同胞《はらから》を探していると公表したけれど、こう後から後へ と、妾によく似た人物が出て来たのでは気味がわるくて仕 方がない。  妾は、その怪紳士が寄るかもしれないと云い残しておい た九月を迎えるのが、急に恐ろしく感ぜられてきた。 七  八月も末になって、暑さがだいぶ|和《やわ》らいで来た。  ある日妾は、なんとなく家にいるのが堪えられなくなっ てブラリと邸を出た。久し振りの散歩につい興に乗っ         }こ                        ちんじゆ  もり て、思わずも歩を搬びすぎ、いつの間にか隣村の鎮守の杜 の傍に出た。そしてそのとき|杜蔭《もりかげ》に思いがけなくも、曲馬 団の小屋が掛っているのを見て、たいへん奇異の感にヴた れたが、近づいてみると、古ぽけた|蝦茶《えびちや》色の|鍛帳《どんちよう》に金文字 で「銀平曲馬団」と銘がうってあったのには、夢かとばか りに驚いた。銀平曲馬団といえば、これは亡き真一が一座 していたという曲馬団と同じ名であった。  そこで妾は、小屋の前へ廻って中を|覗《のぞ》いてみたが、あい にく一座は休演していることが分った。横手の草地の上に は、顔色のよくない若衆がいて、前日までの長雨に|大湿《おおしめ》り の来た|鑓《むしろ》を何十枚となく乾し並べていたので、妾はそれに 声をかけた。そしてこれが紛れもなく、銀平の率いる曲馬 団に相違ないことを知ったが、ちょうど幸いにもいま座長 の銀平老人は、|古幟《ふるのぽり》で綴った|継《つ》ぎはぎだらけの垂れ幕の向 うに茶を飲んでいるということであったから、妾は思いき ってズカズカと中に入っていった。なるほどそこには浮世 の苦労を|嘗《な》めつくしたというような顔をした小柄の半白の 老人が、ただ独りで渋茶を|暖《すす》っていた。 「ナニ、|昔咄《むかしぱなし》を聴きたいというのですかい。」と銀平老人 はいっこう|骸《おどろ》きもせずに、「|汚繊《きたなら》しいが、まアとにかくこ っちへお上りなすって……。」  といって、|鍵《むしろ》の上へ招じた。  妾の不意の訪問も、この佗しい休演中の座長の老人を|反《かえ》 って悦ばせたらしい。妾は、思いがけなく熱い茶を御馳走 になって、この老人の行い澄ました心境を|覗《のぞ》いたような気 がして物を云いだすのに気持がたいへん楽であった。 「もとこの一座にいたという|海盤車娘《ひとでむすめ》をご存知p」 「ああ、海盤車娘かネ。海盤車娘もたくさんいたが、どの 娘かネ。」 「娘と名はついているが、本当は|安宅《あたか》真一という男なんで すが……あの肩のところに傷跡の残っている…-。」 「ああ、真公のことかネ。あいつはついこの問までいた が、とうとうずらかりやがった。あっしとしては、これん ばかりの小さいときから手がけた惜しい玉だったが……。 |貴女《あん》さんはなぜ真公のことを訊きなさるのかネ。」  そこで妾は、真一が頼ってきて、ついに死んだ話をした 後、始め真一が幼いときの身の上ばなしをしたが、何かほ かに銀平老人が知っていることはないかと訊ねた。 「ああ、真公の生い立ちが知りたいというのだネ。あれは 今からザッと十五六年も前、四国の徳島で買った子だった がネ当時はなんでも八つだといったネ。病身らしい子で、 とても育つまいかとは思ったが、肩のところにある|瘤《こぷ》が気 に入って買ってしまったのさ。L 「誰から買ったんですの。」 「さあ、そいつは誰だったか覚えていないが、とにかくど この国にもある人売稼業の男から買った。」 「その親は誰なんでしょう。」 「さあ、1その|親許《おやもと》だが。」と老人はしばらく考えてい たが、「さあ、後に開演中の客席から大声をあげて飛び出 して来た若い女がいたがネ、それがなんでも生みの母親と か云っていたが家出をしている女らしかった。父親という のは徳島の|安宅《あたか》村に住んでいるとか云ったが、その|苗字《みようじ》 は……。」  と老人は首を曲げて、思い出そうと努めているらしかっ た。妾は銀平老人の話を聞いているうちに、真一の語った 身の上が想像していたよりも正確であり、妾にとって実に 興味のある話であることが分った。 「苗字は安宅というのじゃありませんの。」 「イヤ安宅は後になってあっしがつけてやった名前だよ。 真公の生れた村の名だからいいと思ったのでネ。さて、本 当の苗字はちょっと忘れちまったネ、なんしろ古いことで もありあまり覚える|心算《つもり》もなかったのでね。ひょっとする と、梱の底に何か書付けとなって残っているかもしれな い。」  妾は老人に十分のお礼をするから、その書付けを探して おいてくれるように頼んだ。  妾はそれから、蛇使いのお八重という女を知っているか と尋ねた。 「ああお八重かネ。あいつも先頃までいたが、可哀想なこ とをしたよ。」 「可哀想なことというと……。」 「なに、あの女は真公に惚れてやがったが、真公がいなく なると気が違ってしまって、鳴門の渦の中へ飛びこんで死 んでしまったよ。」 「まあ、誰か飛びこむところを見たんですの。」 「見たというわけじゃないが、|岩頭《がんとう》に|草履《ぞうり》やいつも|生命《いのち》よ りも大事にしていた順飾りのものなどを並べてあったのを 見つけたんだ。それから小屋の中からは、皆に宛てた遺書が 出て来たが、世を|果無《はかな》んで死ぬると、美しい文字で連ねて あった。あの子は仲間の噂じゃ、女学校に上っていたこと があるらしいネ。」 「死骸は上ってきたんでしょうか。」 「さあ、どうかネ。ーなにしろあっし達は|旅鴉《たびがらす》のことで あり、そうそう同じ土地にいつまでもゴロゴローして、出奔 した奴のことを考えている|邊《ひま》がないのでネ、それに鳴門の 渦に飛びこめば、まあ死恨の出ることなんざないと思った ほうがいいくらいだよ。」  この話では、蛇つかいのお八重はインテリ女らしい。す ると、やはりあの静枝はこの蛇つかいのお八重なのであろ うか。そこで妾は彼女の素性を訊ねたが、あの娘は二年ほ ど前に突然一座に転げこんで来たので、前身は知らないと 老人は答えたUまたそのお八重が|申年《さるどし》かどうかも知らなか った。  妾は、果して静枝が蛇つかいのお八重であるか、どうか と思って、それとなく、お八重の容貌などについて尋ねて みたが聞いていた銀平は大きく|肯《うなず》き、 「そういえば、お前さんをどこかで見たような|仁《ひと》だと思っ ていたが、なるほどお前さんはお八重に似ているところが あるネ。お前さんはその姉さんか身内でもあるのかい。」  と云ってシゲシゲと妾の顔をみた。妾はまさかそんなこ とがネと、軽く打消した。だが、静枝はお八重に違いない 気がする。恐らく彼女は一座と縁を切るために、ことさら 自殺したらしく見せかけたものであろう。そこには智恵袋 の速水女史が采配を振っただろうことが想像されるのであ った、でも彼女の前身が分っていないのでは、どうにも仕 方がなかった。疑うなれば、なにか別の手段によって、ハ ッキリした証拠を探すよりほかはなかった。ただ静枝が真 一に恋をしていたということは初耳だった。一方真一は静 枝を愛していたのだろうか。そう思うと、妾の全身はカッ と熱くなってきた、  思い起してみると、真一が静枝の前身を告げたときも、 どっちかというと静枝を軽蔑しているようであったから、 これは真一が慕われる方であったとしても、慕う方ではな かったと思われるり妾は僅かに気を持ち直した。  どうも分らないのは妾と|両人《ふたり》の血の関係だった。静枝は あの三つの赤いカンカンを結って座敷牢にいた妹らしいと 思うのに、一方真一の身の上が妾の幼時と非常に似かよっ たところがあり、ことに家出をした妾たちの母が曲馬団の 舞台にいる真一に声をかけたらしいことから考えると、真      ほんとう      はらから 一もまた、真実に妾の同胞らしい気がした。一体どっち力 本当の同胞なんだろう。 「イヤ真一と葡枝との二人とも、妾の同胞なのではあるま いか。」  と、ふとそんな疑惑が浮んできた。ああ、そんなことが あっていいであろうか。もし妾たちが同胞だったとした ら、これはなんという浅ましいことだろう。妾はまだいい として、静枝と真一とはどうであろう。二人の関係は到底 妾の知ることを許さなかったが、もしや曲馬団からこっち に何かあるのではなかろうか。もしあったとしたら。. 妾はベッと唾を吐きたくなった。  ただ慰めは、百二の容貌が、妾や静枝とはだいぶ違って いることであった。ハッキリ似ていると考えられるのは月 の輪がたの眉毛と、腫れぼったい|眼瞼《まぷた》とだけで、外はそれ ほど似ていなかった。たとえ二卵性の双生児としても、そ れはあまりに似合わしからぬところであった。すると真一 は、境遇の上では妾の同胞に相当していながら、身体の上 の印からはどうも他人|染《じ》みていた。この不可解な問題は、 父が書きのこした「呪ワレテアレ、三人ノ双生児ー.」の謎 をときさえすればすべてが氷解することと思う。どうして も妾は、静枝の云うように、彼女と安と|産褥《さんじよく》にある母とを 加えて、父が三人の双生児と|酒落《しやれ》らしいことを云ったなど とは考えない。  話によると、身体の一部が|接《つな》がった双生児を、そこのと ころから切り離して、まったく独り立ちの二人の人間にし た手術の話もあることだから、これはひょっとすると、妾 の身体の一部に、そんな恐ろしい切開の|痕《あと》があるのではな いかと、今までに考えてみたこともないような恐ろしい疑 惑が浮び上ってそれは嵐の前の|旋風《はやて》に乗った黒雲のように 拡がってゆき、ついに妾はいても立ってもいられない焦燥 の念に包まれてしまった。誰がそんな恐ろしい疑惑をもっ て、自分の裸身の隅から隅までを|検《しら》べてみた者があろう か。第一、自分ではどうしても十分に観察の出来ない身体 の一部があるではないかと思うと、妾の心臓はにわかに激 しい|動悸《どうき》に襲われたのであった。 八  そのような悩みに、独り苦悶しているその最中に、妾は また一つの大きな|傍《おどろ》きを迎えなければならなかった。 「ああ、奥さま。お客さまでございますが-::。」  とキヨやが顔色を変えて、妾の居間に駆けつけた。 「まアどうしたのよオ、お客さまって、誰り」 「それが奥さま、いつか夜分にいらしって、名前も云わず にお帰りになった若い紳士の方でございますよ。忘れもし ません、あれは真さまがお亡くなりになった晩でございま したわ。」 「えツ、あの晩の人が!」  妾はハッと|骸《おどろ》いた。妾によく似ているという紳士のこと なのだ。あんなことを云い置いていったが、二度と来るも のかと思っていた。妾はいまだにその紳士が、真一を殺害 したのではないかとさえ思っているくらいだ。その怪しい 紳士が、チャンと予告どおりに訪ねてきたというのだ。悪 人であろうか、善人であろうか。ちかごろ驚きやすくなっ た妾は、もうワクワクとしてなんの考えも|纏《まとま》らなかった。 「お会いするわ。また帰ってしまわれると気味が悪いか ら、早く客問の方へ上げてよ。」  妾に似ているというところを、僅かに安心の足掛りとし て思い切って会ってみることにした。さあ、どんな男だろ うか。一と目見て、心臓が凍ってしまいそうでもあり、ま た早く覗いてみたいようでもあり……。 「妾が主人の珠枝でございます…-。」  |頃合《ころあい》を計って客間へ入っていった妾は、客という背広の 紳士の背中に声をかけた。 「いやアー。」  と紳士は、|居住《いずま》いを直しながら、こっちを振り向いた。 ああ、その顔1まあ、なんてよく似ている人もあればあ るものだろうーと、妾は驚くというよりも感心してしま った。 「ああ、確かに|貴女《あなた》だ。こんなによく似ているとは思わな かった。ああ僕は満足ですー。」  と向うでも容貌の|似通《にかよ》っていることに驚歎して、たて続 けに叫びつづけた。 「アノ、失礼でございますが、|貴方《あなた》はどなたさまでいらっ しゃいましょうか。」 「ああ、僕ですか。イヤどうもあまりに驚いてしまって、名 乗ることを忘れて申訳ありません。」と云いながら、紳士 はチョッキのポケットから一葉の名刺を抜いて、妾の前に 差出した。 「僕はこういう者です。姓の方に何かご記憶がありません でしょうか。」  その名刺の表には、 「南六丈島医学研究所、医学士赤沢貞雄」  とあって、隅の方に「東京府八丈島庁管下」と|記《しる》してあ った。するとこの紳士は|赤沢貞雄《あかざわさだお》と名乗る人である。赤沢 という姓P ああ、赤沢といえば……。 「赤沢というと、徳島の安宅の……。」 「そうです。よく覚えていましたネ。僕は赤沢常造の息子 なんですが、父だの僕だのを覚えていらっしゃいますか。」  妾は突然故郷のことを云いだされて、ボーッとなってし まった。しかし赤沢の伯父のことはなぜ忘れよう。いつも その伯父は、わが家へ繁く来たではないか。貞雄1とい う名にもなるほど、そういわれると覚えがあった。伯父の うちに、自分と同じ年の少年がいて、遊んだことを思い出 した。あれがこの紳士なのであろうか。当時貞雄さんはま だ五、六歳の幼童で膝までしかない|鶯色《うぐいす》のセルの着物を着 た|脆弱《ひよわ》そうな少年だった。彼はいつも寒そうに、両手を|腋《わき》 の下から着物の中にさし入れて、やや|毒渋《はにか》んで歩いていた のを想い出した。 「まア、貞雄さんでしたの。大きくなられて、……妾すっ かりお|見外《みそ》れをいたしましたわ。」  貞雄は笑いながら、この前は、妾の家を探すのにたいへ ん手聞どってやっとこの家を探しあてたので、待たせてあ った円タクを帰すために一度出て行って、間もなく引返し てくると、女中さんから面会を断られてしまったので、た いへん|面喰《めんくら》ったこと、そのときは北海道の大学へ打合わせ にゆく途中だったので、また|帰路《かえりみち》に寄ればいいと思ってそ う云い残してさよならをしたことなどを語った。それを聞 いていた妾は、あの夜の心境を想い出して、穴あらば入り たいと思ったことであった。 「でも、どうして名前を云って下さらなかったの。赤沢と おっしゃれば、妾必ず出ていったと思うわ。」 「イヤそれはネ。貴女に会って驚かせたかったのさ。」  というわけで、二人は直ぐ幼馴染の昔にかえって、打ち 融けた。妾は近頃うち続く不安が、貞雄の不意の来訪によ って大半は|拭《ぬぐ》い去られたように感じたのだった。  聞けば貞雄も、妾と同じように二十三歳だということだ った。彼はどうやら秀才中の秀才らしく、本年大学を出る と、在学中からの研究事項だったものを一層研究するつも りで、断然南六丈島研究所へ赴任したのだった。なんの研 究であるのかを訊ねたところ、 「ちょっと説明しても分らんなア。まア遺伝学みたいなも のだが、ム7までのようなものではない。……イヤもうよし ましょう。それよか今日は御馳走でもして貰って、昔話で もしたいネ。」 「ええ、御馳走してよ。そしてぜひ泊っていって下さい ネ。昔話を沢山したいわ。妾もいろいろ伺いたいことがあ るのよ。」  ちょうど、妹の静枝は、すこし身体を|壊《こわ》している女探偵 速水女史に付き添わせて、奥伊豆の温泉にやってあるの で、家の中はキヨやと二人切りだったので、貞雄を泊らせ るにはいっこう差支えなかった。 「いや泊ることだけは断る。僕はこれで、ひとの家にお客 なんかになってなかなか|睡《ねむ》れない性分なのでネ。それにチ ャンとホテルに部屋をとってあるのだから、心配はいらな いよ。」 「いいから、ぜひお泊りなさいよ。」 「いやいや、断る。1」  小さいときもこんな性分だったが、とにかく今の貞雄は 学者だけあってなかなか頑固であった。妾は近くから珍し い料理を狩りあつめて貞雄を饗応しながら、この機会に妾 の悩みを打ちあけて、力になって貰おうと思った。.  まず妾は貞雄に向い、あの|立葵《たちあおい》の咲く家の座敷牢の中に 寝ていた妾の同胞を探したいという気になって新聞広告を したことから始めて、静枝や真一などが現れるに至ったま での話を詳しくして、もしや彼が、妾の同胞を知らないか と尋ねた。 「どうも小さい折のことで、僕はよく覚えていないけれ ど、いつか夜、父が子供を連れて来たことを覚えている。 僕はその顔をみたわけではないが、二階に上げた子供がヒ イヒイと泣いているのを聞きつけた。それが君のいう座敷 牢の中にいた同胞だろうと思うが、泣き声から想像する と、二人のようであったがネ。」 「ええ、なんですって、連れられていったのは二人だった んですって。まア、1」  妾は想像していたところと、まるで違ってきたので|呆然《ぼうヅん》 としてしまった。向うが二人だとすると、妾を入れて三人 になるではないか。,すると双生児と|称《よ》ぶのはいかがなもの であろう。それを貞雄に云ってみると、 「幼いときのことだから、 ハッキリしたことが分らなん だ。それに父の常造も先年死んでしまったし、母はもっと 前に死んでいた、今安宅村へ行っても、その夜のことや、 君の同胞の秘密については、知っている人は一人もあるま い。」 「そうでしょうか。1」  妾はガッカリしてしまった。その様子をみていた貞雄は 気の毒に思ったのであろう。すこし厳とした声で、 「でも、君の知りたいと思っていることは、絶対に分らな いというわけではあるまい。つまりそれは学問の力による ことだ、もし君が欲するならば、僕はいかなる手段によっ てでもその答を探し出してあげようと思う。そう気を落し たものでもないよ。」 「分る方法があれば、どんなことをしてでも探しだしてい ただきたいわ。妾、これが分らないと、死んでも死に切れ ないと田心うのよ。」  と妾は切なる願いを洩らした。それは|自《ひとりで》に妾の口を|送《ほとばし》り 出でた言葉だったけれど、このとき云った、(どんなこと をしてでも探しだしていただきたいわ)という言葉が、後 になってまさか、大変な妾への重荷になろうとは露ほども 気がつかなかった。それがどんなに恐ろしい重荷となった かは、この物諮の進んでゆくに連れ、だんだんと明白にな ってくることであろう。 「でもおかしいわネ。女探偵の速水さんは、その徳島へ行 って、諦枝という妹を探して来たのよ。安宅へ行ったとこ ろ何もかも苦もなく分ったようなことを云ってたけれど ……。」  というと、貞雄は首を振って、 「どうもその女探偵というのが怪し気だネ。これから一度 行ってみると分るだろうが、いまそんなに簡単に分るはず はないと思う。それから『|海盤車《ひとで》娘』 の血二看の死因だ が、これなどはずいぶん不審な点があるネ。たとえば速水 女史が|水壌《みずびん》の水をさっそく明けに行ったというのも妙なこ とじゃないかネ。どうだい。|珠枝《たまえ》さん。その|壌《びん》とかコップ         こぽ          だ⇒きん とか、あるいは水の零れを拭った雑巾とかいうものは残っ ていないかしら。」  貞雄が抱いている疑惑の点を、妾はすぐに察することが 出来た。彼は真一の死を中毒死だと思っているのだ。それ は貞雄があの部屋の中で口にしたと思われるその水埋の中 にいっさいの秘密があるというらしい。 「そんなものは、その場で始末してしまったから、あるは ずはなくてよ。」と云ったものの、よく考えてみると、妾 はあの夜|離座敷《はなれ》を大急ぎで片づけたことを思い出した。あ のときに部屋の中の品物を仕舞ったトランク類はそのまま 土蔵の奥深く隠してしまって、その後は一度も開いたこと がないのであったが、ひょっとするとそのトランクの中 に、なにか当時の隠れた事実を証明するようなものが入っ ていないとも云えないと思う。そう考えた妾は、恥かしい けれどいっさいのことを貞雄の前にさらけだした。 「ああ、そんなものがあるのなら、一度出して検べてみた らどうだネ。」  さすがに医者である彼は、変態的な妾の生活などを|喧《わら》う 様子もなく、真面目に聞いて呉れたのだった。だから妾は すぐさまそのトランクを開いてみる決心をして、貞雄を案 内して|徽《かび》臭い土蔵の中に入っていったのであった。 九  貞雄の云ったことは正に図星だった。  妾たちはトランクを一つ一つ開いてゆくうちに、その一 つの中に、あの夜真一が水を飲むのに使った大きいコップ を発見した。それは狼狽のあまり妾の他の品物と一緒に|拠《ほう》 りこんでしまったものに違いなかった。  貞雄は、そのコップを取上げて、明りの方に透かしてみ たり、ちょっと臭いを嗅いでみたりしていたが、やがて妾 の方を向き、 「珠枝さん、ハッキリは分らないが、どうやらこれは|砒素《ひそ》 が入っていたような形跡がある。たぶん|無水亜砒酸《むすいあひさん》にある 処理を施すと、まず水のようなものに溶けた形になるが、 こいつは猛毒をもっている。普通なら飲もうとしても気が つくはずだが当人が酒に酔ρているかなにかすれば、気が つかないで飲んでしまうだろう。砒素は簡単に検出できる から、あとで検べてみよう。しかしまず間違いないと思う ネ。」 「まア、水瓶の中に砒素が入っていたの。まア恐ろしいこ と。 一体誰がそんなものを入れたのでしょう。」 「いや今に、僕が分らせてみるよ。」  妾はホッと息をついた。貞雄の来てくれたお蔭で、妾の 疑問としていたところはドンドン氷解してゆくのであった から、感謝をしずにいられなかった。どうか今夜はぜひ泊っ てくれといったけれど、貞雄はなかなか承知しなかった。 「ずいぶん貴方は頑固なのネ。貴方と妾とは|従兄妹《いとこ》じゃあ りませんか。泊っていったってなんともないじゃないの。」 「ああ、1」  と貞雄はちょっと眉を|頻《しか》めたが、 「貴女は知らないらしいネ。貴女の西村家と、僕の赤沢家 とは、赤の他人なんだよ。」 「あら、-でも赤沢の伯父さんと呼んでいたことを覚え ているわ。」 「ははア、そんなこと、意味ないよ。幼いころは、だれを みても『おじさん』と呼ぶ。僕は知っているけれど、両家 は他人同士だった。」 「まア、そうなの。1」  すると妾にとっては、赤沢貞雄は赤の他人なのだ。今ま で馴れ馴れしくしたことが悔いられたけれど、その代り他 人であればあるだけ、妾はにわかに胸のワクワクするのを 覚えた、 「医者として僕は珠枝さんに云っておきたいけれどネ。」と 貞雄はいっこう頓蒲なしに話しかけた。「君は|同胞《はらから》を探す ことに夢中になっているようだが、たといそれを探し当て ても、君はサッパリしないに決っているよ。」 「アラなぜ、そうなの。」  妾は貞雄が何を云いだすのやら、すこし驚かされた。 「君は、そうした要求の背後に、いかなる本尊さまがある のかを知らねば駄目だ。」 「本尊さまってP」 「端的に云えば、君は母性欲に燃えているのだ。若は白分 の血を分けた子孫を残したがっているのだということに気 がつかないかネ。同胞探しは、その根木的要求が別の形に なって現れたに過ぎない。本当のところは、君は子供を生 みたいのだ。」 「そうかもしれないわ。」と妾は云った。「でも妾は男性と そういう原因を作ることを好まないのよ。つまりそういう 交渉を極端に|億劫《おつくう》がる|性質《たち》なの。そういう交渉なしに子供 が出来るんだったらいいけれども、そうもゆかないでしょ う。それに妾は一度結婚生活を送って分ったことだけれ ど、妾には子供が出来る見込なんかありゃしないわ。」 「そんなこともなかろうけれど、結局君のあまりに変態的 な生活が、そうした能力を奪ってしまったのかもしれない ネ。忍耐づよい夫婦生活が、おそらく自然に丑の能力を坂 り返すだろうと思うが、夫婦生活そのものを極端に忌避す るようでは困ったものだネ。」  といって、貞雄は軽い|吐息《といき》をついた。妾白身でもこれは 困ったものだと思っているのである。変態道に陥ったばか りに、妾は正しい勤めをさえ極端に不潔に思うのだった。 「しかし本当は、君日身子供が欲しいと川心うのだネ。」  と、しばらくして貞雄は尋ねた。 「いく度云っても同じことよ、でも原因の不能者に、子供 の出来るはずはないわ。その上にどうも妾は生れつき大き な欠陥があるような気がしてしようがないのよ。」  貞雄は気の毒そうな顔つきで、妾をしげしげとみてい た、そのとき妾は、いままで忘れていた大事なことを思い 出した。それはいつかも考えたことであるが、ひょっとし たら妾の身体には自分で観察することの出来ない個所に異 常な徴候が印せられているのではあるまいか。それを専門 的知識をもって十分に診察してくれる適当な医師としては 恐らく目の前に居るこの貞雄のほかにないということを感 じた。それで妾の胸のうちには、それを確めて貰いたい嵐の ような|願望《のぞみ》が捲き起ったのである。 「ねえ、貞雄さん。妾、医師である貴方にとても重大なお 願いがあるのよ。1」 「医師である僕に。どんな願いがあるというのかネ。」  妾はそこで思いきって、全身にわたる診断のことを頼ん でみた。一つには不具あるいは|崎形《きけい》的な異状または異状の ゆと               か一いたい 痕跡の有る無しのこと、もう一つには妾の懐胎の機能が健 全であるか不健全であるかということ、この二つについて さっそく検べてくれるように頼んだのであった。 「よろしい。そんなことは訳はないことだ。では明H道具 を揃えて来て、やってあげよう。」  といった。妾としては非常に重大なことを、彼があまり に手軽に引受けてくれたことに対して、妾は意外の感にう たれたけれど、医師にしてはそんなことは格別なんのこと でもないのであろうと思った。  さてその夜は貞雄はわが家に一泊を承知しないでホテル に引上げて行った。1そしてその|翌朝《あくるあさ》になると、医療器 械のギッシリ詰まっているらしい大きな|鞄《かぱん》を下げ、まるで 事務員かなにかのように正確にやって来た。 「さあ、こういうことは、午前にやるのがいいのだから、 さあ早く|仕度《したく》をして……。」  と云って妾を促した。妾はキヨやを用事にかこつけて外 出させてしまおうと思ったので、それを命じていると、奥 から貞雄がノコノコ出て来て云った。 「キヨやさんを使いにやるのなら、アレがすんでからにし てはどうかネ。」  この貞雄の言葉には、妾はすっかり興を醒ましてしまっ た。キヨやを外に出してしまえば、どんなに落着いて妾の 楽しみを味うことが出来るだろうと予期していたのが、す っかり駄目になった。 「キヨやがいては、妾厭だわ。l」  と、妾はちょっと|拗《す》ねてみせた。 「それはいけない。こういうことは、たとえ医師でも誤解 をうけやすいことだ。どうしても誰かに立ち会って貰うの でなくては、僕はやらないよ。」  貞雄の蔵脚な潔白さには、妾はつくづく霧れてしまっ た。また一面においては、それだけに彼の人物が気に入っ た。もう仕方がないので、キョやを立ち合わせることに同 意した。  貞雄は、妾の居問を診察室に決め、その隣の|納戸《たんど》を準備 室に決めた。準備室には、何に使うのだか訳の分らないい ろいろな器具を並べたて、みたところたいへん|大袈裟《おおげさ》でか つ|帖廠《おごモ》かだった。  こうして午前十時から、いよいよキヨや立ち会いのもと に綿密な診祭が始まったが、それは約一時聞にわたった。妾 はあらゆる場所をあらゆる角度から診察され、その上にま るで手術を受けるのかと思うような器械を当てられたり、 いろいろな場所にさまざまの注射をしたり、幾度も血液を 採取せられたりした、妾はキヨやの立ち会っていることな ど直ぐ気にならなくなった。どうやら診察が一と通り終っ たらしいと思っていると貞雄は静かに妾の傍へよって来て 「これで診察は終ったよ。君の母性欲が今日は顕著な|曝露 症《ぱくろしよう》の形で現れていたと思う。」と笑いもせずに云ってのけ た。「|精《くわ》しいことは、あとで報告するけれど、見たところ 君の身体にはさしたる重大な異状を発見しない。子供を育 てる機能も充分に発達している。君が考えさえ直すなら、 普通の人より以上に健康な躰躯の持ち主だということが出 来る。」  そんなことは云われなくても分っているようなものだっ た。それよりも、もっと|訊《き》き正したいことがあった。 「それよか妾の身体に、何か|崎形《きけい》なところか、崎形の|搬痕《あと》 のようなものは見つからなくて。」 「気の毒だけれど、君を悦ばせるような異状は何一つ発見 できなかったよ。1」  それを聴いて妾はホッと溜息をついた。それならばい い。妾は心配したようなシャム姉妹的な存在でもないのだ った。妾は一時に身が軽くなったような気がした。それで 起きて何かお美味いものでも喰べようと思って、|蒲団《ふとん》から 身体を起しかけた。ところがそれをみた貞雄は、|骸《おどろ》いてそ れを留めた。 「あッ、動いちゃいけない。ー」 「アラどうして!」 「もう一時間ばかり、そのまま絶対安静にしているんだ よ。いろいろな注射などをしたものだから、その反応が|恐《こわ》 い。生命が惜しけりゃ、僕の云うことを聞いて、もう一時 問ほど静かに|横臥《おうが》しているのだ。」  そういって貞雄は、妾の肩にソッと毛布を掛けてくれ た。1妾は羊のように|温和《おとな》しくなった。  貞雄が当地を出発したのは、その翌日のことだった。い ずれ冬の休暇ごろには、用があるので、また当地へ来るか ら、そのときぜひ立寄ると云った。そして例の「三人の双 生児」に関する問題も故郷の方をもっと探してみて、面白 い発見があれば必ず知らせるからということだった。  妾は彼の再訪を幾度も懇願した上、名残惜しくも貞雄を 東京湾の|坤頭《ふとう》まで送ったのであった。 十  五ヶ月という日数は、妾にとって、あまりに永すぎた。 1しかしとうとう、その五ヶ月目がやって来たのだっ た。  五ケ月!  その聞、妾は貞雄をどんなに待ち|佗《わ》びたことだろう。堪 えかねた妾は幾度も、南六丈島の彼の許へ手紙を出したけ れどそれは|梨《たし》の|礫同《つぷて》様で、返答は一つもなかった。  その五ヶ月の問を、妾はどんなに驚き、|焦《あ》せり、|悶《もだ》えた かしれない。前にはコニ人の双生児」のことで、思い悩ん だ妾だったけれど。このたびはそれどころではなかった。三 人の双生児などは、もうどうでもよかった。ましてや真一の 死などはなんのことでもなかった。彼を殺した犯人が女探 偵の速水女史であっても、また静枝が妾の本当の妹でなく ても、それはどうでもよいことだった。事実妾は平気で、 かの二人の女を同居させていた。二人は全く家族のように 振舞っていたのである。ときには、誰がこの家の主人だか 分らぬようなことさえあった。1その五ヶ月を、妾は一 体何事について驚き焦り、悶えていたのだろうか。  妊娠!  妾は目下妊娠五ヶ月なのであった。  そういうと、きっと|誰方《どなた》でもこのあまり意外な出来ごと のために、目を丸くなさることだろうと思うが、妾の懐妊 はもはや疑う余地のない厳然たる事実なのである。  さらに驚くことは、この懐妊した|胎児《たいじ》について、誰がそ の父親であるのか、妾には全く見当がつかないことであ る。妾は全く身に覚えがないのに、このように妊娠してしま ったのである。乳首は|騒《くろ》ずみ、下腹部は歴然と|膨《ふく》らみ、こ の節ではそう胎動をさえ感ずるようになった。婦人科医の 診断もうけたが紛れもなく妊娠しているのだった。1相 手もないのに身ごもるなどという不思議なことが、今の世 にあってよいものであろうか。  妾は早く貞雄に会って、このことについて教えをうけた いと思う。彼のような卓越した学者ならねばこの神秘の謎 は解けないであろう。日を繰ってみると、妾は彼が身体の 健全を保証していってくれたその直後に受胎したことにな るのである。といって彼は決してその胎児の父ではないと 思う。なぜなら貞雄は非常に潔癖で、妾の家に一泊するこ とすら断ったほどであり、もちろん妾は一度たりとも彼を 相手にするようなことはなかった。いや貞雄ばかりのこと でない。そのほかの男という男についても同じことが云え る。妾は絶対に誓う。妾は男を相手にして、懐妊の原因を つくるような行いをしたことは一度もないのだ。しかも妊 娠していることは、どこまでも厳然たる事実なのであっ た!  妾も驚いているけれど、ひょっとするともっと驚いてい る人がありはしないかと思う。中でも女探偵の速水女史 と、妾の妹の静枝とがはからずもそれを発見したときの驚 きようといったらなかった。 「まア驚いてしまいますわねえ。奥さまはどうして妊娠な すったんですの。相手はどこの誰でございますのP」  女史は横目で妾のお|瞬《ヘモ》のあたりを睨みながらあたり|悼《はぱか》ら ず驚きの声を放った。 「まアお姉さま、驚かせなさるわネ。でもあたくしは存知 ていますわ、あたくしたちが伊豆へ行っている間に、お作 り遊ばしたんでしょう。」  静枝も驚きの眼を|瞠《みは》ったが、これは嬉しそうな驚きに見 えた、しかし速水女史の方はそれ以来、ニコリとも笑わな くなってしまった。こうなっては、妾の立場というものが いよいよなくなってしまったのだった。  それだけではなかった。それからというものは女史と静 枝とは、暇さえあれば額を合わせて何事かブツブツと口論 しあった。それを耳にするにつけ、妾はたまらなく不愉快 になっていった。  ところで妾の待ちに待ったる貞雄が、約束した五ヶ月目 にはとうとう姿を見せず、ついに七ヶ月目となってまだ肌 寒く雪さえ戸外にチラチラしている三月になってやっと妾 の家の玄関に姿を現した。 「貞雄さんが来たって?」  キヨやからその知らせを聞いて、すぐ飛びだしかけたも のの、もう七ヶ月の腹を抱えた妾のことである。妊娠のこ とは手紙で知らせはしてあったものの、この醜態を白ら見 せにゆくほどの勇気がなかった。 「ほう、ずいぶん見事な腹になったネ。」  と、貞雄は真面目な顔をして入ってきた。彼がそんなに 取すましていなかったら、妾はいなきりどなりつけたかも しれない。 「貞雄さん、一体これはどうして下さるの。」  と、妾は思う仔細があって、つっかかって行った。 「いや、どうにでもするよ。」と貞雄はさりげなく答えなが ら、 「今度は君のために、いろいろと大きな|土産《みやぱ》を持って来た よ"どこか静かなところへ行って、ゆっくり話したいネ。」  といって、例の静かな瞳をジッと妾の顔に据えた。妾に はそれ以上つっかかってゆく勇気を持ち合わさなかった。  彼はその日一日をわが家でブラブラしていたが、妾が何 を云っても|砥《ろく》な返事をしなかった。その代り速水女史に呼 ばれると、イソイソと彼女の後についていって、長い間部 屋から出て来なかったりした。彼等はわざと注意をしてい るらしく二人の声は全く洩れてこなかった。  その|翌日《あくるひ》になると、貞雄は妾を伴って外へ出た。そして 連れこんだのは、市内の某病院だった。彼はそこで顔の利 く方と見えて、ズンズン通っていった。そして妾を「レン トゲン室」と表札の懸っている部屋へ入れて、三十分問あ まり、ジイジイとレントゲン線を発生させて、妾の腹部を 覗いたり、写真を撮ったりした。その間、彼はまるで人が 違ったように無口だった。  それがすむと、彼は始めて微笑を浮べながら、妾を|携《ねぎ》ら              しのぱずのいけ った。それから再び外へ出て、不忍池を真下に見下ろす、 さる静かな料亭の座敷へ連れこんだのだった。いよいよ貞 雄は妾に重大なことを云おうとするのに違いなかった。妾 は並べられたお料理なども全く目に入らないほどの緊張を 覚えたのだった。 「珠枝さん、ー」と、貞雄は諦かに呼びかけた。「貴女は 僕に聞きたいいろいろのことがらを持っているだろうネ。 イヤ、しはらく黙っていてくれたまえ。僕が適当な順序を 考えて一応話をするから、どうか気を鎮めてよく聞いてく れ給え。1まず真一君を殺した犯人のことだが、それは 今日、本人の自白によってハッキリ分ったよ。」 「まア、誰なのでしょう。」と妾は思わず乗りだした。 「そう興奮しちゃいけない。Iその犯人というのは、や はり速水女史だった。静枝さんは無関係だ。」 「ああ、速水さんが真ちゃんを殺したの。」  「そうなのだ。僕はある交換条件を提出し、その代償とし て聞いたんだ。が、その条件というのは、君が腹に持って いる胎児を流産させることなのだ。イヤ驚いてはいけな い。一体速水女史は、事実君の妹でもなんでもない蛇使い のお八重という女を|籠絡《ろうらく》して、静枝と名乗らせ、この家へ 乗り込ませた。それはお八重がたまたま君によく似ていた ので使ったまでで、そうすることによって君の財産をお八 重に継がせ、そこで速水女史は軍師の恩をふきかけて結局 莫大な財産を自由にしようという企みをしたのだ。その計 画はたいへん巧く行った。これなら大丈夫と思っていたと ころ、意外にも意外、君が妊娠してしまったので、速水は 大狼狽を始めたのだ。なぜなら、君に子供が生れりゃ、い っさい財産はその子供が継ぐに決っているからネ。そこで これはたまらないと|惰気《しよげ》ているところへ、僕が悪党らしく 流産手術を持ちだしたものだからすっかり安心して、真一 君を|亜砒酸《あひさん》で殺したことを自白に及んだというわけさ。も ちろん想像していたとおり、この家に潜伏していた女史 は、酔っている真一が水を呑むのを見越して、水瓶の中に その毒薬を入れておいたのだ。女史が事件後、真先にその 水をあけに行ったのも|肯《うなず》かれるネ。」  妾はただ|呆《あき》れて聞いているよりほかなかった。 「ところで真一君だが、あれは紛れもなく君の|同胞《はらから》だ。『三 人の双生児』の説明は、後で詳しく云うけれど、とにかく 亡くなった君たちの母は真一君と君とを生んだのに違いな        いん亡い い。これは徳島に隠棲しているその時の産婆の平井ネ梅と いうのを探しだして聞きだしたのだ。書いて貰ってきたも のもあるから、後でゆっくりみるがいい。ただし、君と真 一君とは、あのよく似ていて瓜二つという一卵性双生児で はなくて、すこし顔の違ってくる二卵性双生児であったこ とは、君にもよく分るだろう。しかしまだその上に、恐ろ しい因縁話があるのだ。」と云って貞雄は茶碗からゴクリ と番茶を飲んだ。 「君と真一君が、双生児にしてはあまりに似ていないこと を不思議に思うだろうが、そこに重大な謎が横たわってい るのだ。このところをよく分って貰いたいが、実は君たちは 双生児であって、その卵細胞は同じ母親のものながら、そ の精虫を供給した父親が違っていたのだ。いいかネ、分る だろうか。1つまりハッキリ云うと、真一君を生じた精 虫は君の亡くなった父親のものであり、それから君を生じ た精虫は、実に僕の父親である赤沢常造のものだったん だ。さ、そういうと不思議がるかもしれないが、君はこん なことを知っているだろう。|膣内《ちつない》の精虫の多くはその日の うちに死んでしまうけれど、中には二週問たっても生存し ているのもあるということを。だからここに二卵性の双生 児が出来たとしても、それが同一日に発射された精虫によ るとは限らないのだ。そういえばもう分ったろうが、僕の 父の赤沢常造の精虫が発射されたその数日か+数日か後 に、真一君の父親が船から下りて来てまた精虫を発射す る。このとき偶然にも二人の精虫が、君の母親の二つの卵に 取ついてこの二卵性双生児が出来上ったのだ。それで合点 がゆくことと思うが、君と僕とが、戸籍の上では赤の他人 でありながら、実は二人は父親を同じくする異母兄妹なの だ。だから君と僕とが、兄妹のように似ていることが肯か れるだろう。」  妾はあまりの奇怪なる話に、気が遠くなるほど|骸《おどろ》いた。 話は分るけれど、そんな不思議なことが吾が身の上にある とはなんという|呪《のろ》わしいことだろう。それにどんなにか慕 わしく思っていた貞雄が、血をわけた兄妹であったとは、 なんという悲しいことだろう。 「君の|拷《おどろ》くのはもっともだが、まだまだ惜くべきことが控 えているのだよ。1ところでいよいよ『三人の双生児』 の謎だがこれは解いてみると案外くだらないものさ。こん なことを日記にかきつけたのは真一の父親だった。彼はし がない船乗り|風情《ふぜい》だった、船乗りの預脳でもって『三人の 双生児』といったことをまず念頭に置かなくちゃいけな い。実は君の方は普通の健全な人間だったけれど、真一君 の方はそうでなかった。彼は生れもつかぬ|崎形児《きけいじ》だったの だ。手も足も胴体も一人前だったが、気の毒なことに首が 二つあった。つまり両頭の人間だったのだ、そういえば思 い当るだろうが、直二君の肩にあるあのいやらしい|搬痕《あと》の ところには、昔もう一つの首がついていたのだ。その首に はチャンと名前がついていた。西村真二というのだ。いく ら子供が可愛くても、この両頭の崎形児を人に見せるわけ にはゆかない。そこであの座敷牢があるのだ。君は女の児だ と思っていたろうが、子供のときには男女の区別はハッキ リしない、ことに終日寝かされてなんの変った楽しみもな い真一真二の幼童が、たまたま君の髪に結んだ赤いカンカ ンをみて、あたいたちにもつけてよオとせがんでも無理の ないことではないか。そして二つの首を君に見せて骸かす ことのないように、母親がいろいろと気を配ったことも無 理ならぬことだ。その後、真二は顔に悪性の|腫物《しゆもつ》が出来たの で、ついに大学で|未曽有《みぞう》の難手術をやり、とうとう切って しまった。そうしないと貰二までが死んでしまう|虞《おそ》れがあ ったからだ、真一君が流浪の旅にのぼるようになったこと などは説明するまでもあるまい。僕は君を大学へ連れてい ってアルコール漬けになっている真二君の首をみせたいと 思うよ。1まあそんなわけだから、君たちが生れたとき に、お父さんが『三人の双生児』と呼んだのも根拠のある ことだ。身体からみれば双生児であり、首の方は三つあっ たんだからネ。」  ああ、なんという恐ろしい話だろう。これほど怪奇を極 めた話が、この世に二つとあろうか。妾は舌を噛み切って 死にたいような衝動に駈られた。といって、舌を噛み切っ て死ねば、妾の腹にある胎児は、|暗《やみ》から暗へ葬られるのだ と気がつくと、妾はハッと正気に返った。そしてそこで妾 は、吾が子のまだ知らぬ父親のことが急に知りたくなっ て、自らを制することができなくなった! 「妾の腹の子の父親のことを教えて下さいな。どうぞ後生 ですから……。」と叫んだ。 「ではそれを教えてあげようが、これから大学まで歩いて ゆく道々、話すことにしよう。」  もはや妾たちは折角の料理に箸をつける気もなくなっ て、そのまま外に出た。池の端を本郷に抜ける静かなゆる い坂道を貞雄に助けられながらゆっくりゆっくり歩を|搬《はこ》ん でゆくーが、妾の胸の中は感情が戦場のように激しく渦 を巻いていた。 「君の|胎《はら》の子の父親はね工」と、貞雄は耳許で嚥いた。 「i骸いてはいけない、この僕なんだよ。」 「まア、|貴方《あなた》ですって、1」  妾はそれを聴くとクワッとして、思わず貞雄をドンと突 き飛ばした。 「ああ、悪魔! 恐ろしい悪魔!」と妾は|喚《わめ》きつづけた。 「貴方と妾とは血肉を分けた兄弟じゃありませんか。それ だのにこんな罪な子供を|妊《はら》ませるなんて-…。ペッ、ペ ッ。」  と、妾は烈しく地面に唾を吐いた。 「ま、そう怒ってはいけない。君は誤解しているようだ。」 と貞雄は恐れ気もなく、傍に寄り添って来ながら、「僕は 誓う。また君自身も知っているだろうが、僕は絶対に君と 性的交渉を持ったことはないのだ。ね、そうだろう。ー だから怒ることはないじゃないか。」  そういわれると、妾にもその|忌《いま》わしいことの覚えはなか ったが、それにしても… 「じゃあ、それが本当なら、なぜ妾は貴方の|胤《たね》を宿したの です。誰が|託《だま》されるもんですか。嘘つき!」 「君と関係を持たなくても、妊娠させることは出来る。 1君は覚えているだろうが、この前、僕が医師として君 の|身《からだ》を検べたときに、簡単な器械で君に人工妊娠をしとい たのだ。造作のないことだ。」 「じゃあ、忌わしい関係はなかったんですね。」と妾はや や安堵はしたものの、重ねて詰問をした。「でも、なんの 目的で、妾を身籠らせたんです!」 「それは君、君の頼みを果しただけのことだよ。君は『三 人の双生児』のことを知りたがって、どんな手段でもいい と云ったではないか。実を云えば、|先刻《さつき》話をした結論の中 には、重大な欠陥があったのだ。それは私の父と君の母親 とが果して関係したかどうかということだ。それを僕は遺 伝学で証明しようと思った。調べてみると、君の母親の血 統にはあの忌わしい両頭児の生れる傾向があるのだ。真一 真二が生れたのは、君の母親が割合に血縁の近い|従兄《いとこ》であ る西村氏と関係したので、その血族結婚の弱点が真一真二 の両頭児を生んだのだ。しかし僕の父とは他人同士だか ら、とにかく健全な君が生れた。そこで君が私の父の子で あることを証明するのには僕の考えた一つの方法があると 思うのだ。それはそこでもう一度君が君の血族から受精し てみると、きっと血族結婚の弱点で両頭双生児が生れるだ ろうというーこれは僕が諭文にしようと思っているトピ ックスだ。そこで僕は学問のためと君の願いのため、僕の 精虫を君の卵子の上に植えつけてみたのだ。その結果は 「おお、その結果というと……。」妾はハッと思った。 「その結果は、果然僕の考えていたとおりだ。僕は偉大な る遺伝の法則を発見したのだ。すなわち君が胎内に宿して いる胎児は、果然真一真二のような両頭児なのだよ。レン トゲン線が明かにそれを示してくれたところだ。」 「ああ、双頭児ですってP」妾は気が狂いそうだ。 「僕の研究は一段落ついた。で、この上は君の希望を聞い てみたいと思う。その双頭児をこれから大学の病院で流産 させてしまおうと思うのだがネ。」 「ええ、どうぞ、そうして下さい。ぜひそうして下さい、 妾は化け物の親となって育てるのはいやです。」  と|喚《わめ》き散らした。  そこで妾たちは、大学の医学部教室へ入った。 「ほら、これが真二の首だよ。」  そういって貞雄は、硝子瓶の中にアルコール漬けになっ た塊を指した。妾はそれを|覗《のぞ》いた。 「ああ、あの子だ。」  それは確かに、妾の記憶にある懐しい|幼馴染《おさななじみ》の顔だっ た。実になんという|奇《く》しい対面であろう。色こそ|槌《あ》せて居 るけれど、彼の長く仲びた|頭髪《かみのけ》は、可愛いカンカンに結っ て、その先に色を失った三つのリボンが静かにアルコ1ル の中に浸っていた。ああ、なんという可憐な顔だろう。  妾はそれをじっと見つめているうちに、妾の考えが急に 変ってくるのに気がついた、そうだ、今腹に宿っている両 頭の子供を|下《おろ》すのは思い止まりたい。たとえそれが崎形児 であろうとも妾が母たることに違いはないのだ。血肉を分 た可愛い自分の子に違いないのだ。流産して殺すなんて、 そんな|惨《むご》たらしいことがどうして出来ようか。  妾は貞雄が向うの標本を眺めている隙に、独りで教室を ドンドン出ていった。