歌よみに与ふる書

 仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざ是からといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。兎に角に第一流の歌人と存候。強ち人丸赤人の余唾を舐るでも無く、固より貫之定家の糟粕をしゃぶるでも無く、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処,実に畏るべく尊むべく覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は人間としては下等の地に居るが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに実朝の歌は只器用といふのでは無く,力量あり見識あり威勢あり,時流に染まず世間に媚びざる処,例の物数寄連中や死に歌よみの公卿達と迚も同日には論じ難く,人間として立派な見識のある人間ならでは実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて他の半面を知らざりし故に可有之候。

 真淵は歌に就きては近世の達見家にて万葉崇拝のところ抔当時に在りて実にえらいものに有之候へども,生等の眼より見れば猶万葉をも褒め足らぬ心地致候。真淵が万葉にも善き調あり悪き調ありといふことをいたく気にして繰り返し申し候は、世人が万葉中の佶屈なる歌を取りて「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するを恐れたるかと相見え申候。固より真淵自身もそれらを善き歌とは思はざりし故に弱みもいで候ひけん。併しながら世人が佶屈と申す万葉の歌や真淵が悪き調と申す万葉の歌の中には生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そを如何にといふに他の人は言ふまでも無く真淵の歌にも生が好む所の万葉調といふ者は一向に見当り不申候。(尤も此辺の論は短歌に就きての論と御承知可被下候)真淵の家集を見て真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆れ申候。斯く申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候。楫取魚彦は万葉を摸したる歌を多く詠みいでたれど猶これと思ふ者は極めて少く候。左程に古調は擬し難きにやと疑ひ居候処、近来生等の相知れる人の中に歌よみにはあらで却て古調を巧に摸する人少からぬことを知り申候。是に由りて観れば昔の歌よみの歌は今の歌よみならぬ人の歌よりも遙に劣り候やらんと心細く相成申候。さて今の歌よみの歌は昔の歌よみの歌よりも更に劣り候はんには如何申すべき。

 長歌のみは稍々短歌と異なり申候。古今集の長歌などは箸にも棒にもかゝらず候へども、箇様な長歌は古今集時代にも後世にも余り流行らざりしこそもっけの幸と存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者には直に万葉を師とする者多く従って可なりの作を見受け申候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば多少手際善く出来申候。(御歌会派の気まぐれに作る長歌などは端唄に劣り申候)併し或人は難じて長歌か万葉の模型を離る、能はざるを笑ひ申候。それも尤には候へども歌よみにそんなむづかしい事を注文致し候はば古今以後殆ど新しい歌が無いと申さねば相成間敷候。猶いろ/\申し残したる事は後鴻に讓り申候。不具。

(明治三十一年二月十二日)

再び歌よみに与ふる書

 貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味會は能く存申候。崇拝して居る間は誠に歌といふものは優美にて古今集は殊に其粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋一朝にさめて見ればあんな意気地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候。先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。此外の歌とても大同小異にて駄洒落か理窟ツぽい者のみに有之候。それでも強ひて古今集をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得にて、如何なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。只之を真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事なら兎も角も二百年たつても三百年たつても其糟粕を嘗めて居る不見識に驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても皆古今の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。

 貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。嘗て或る人に斯く申候処、其人が「川風寒み千鳥鳴くなり」の歌は如何にやと申され閉口致候。此歌ばかりは趣味ある面白き歌に候、併し外にはこれ位のもの一首もあるまじく候。「空に知られぬ雲」とは駄洒落にて候、「人はいさ心もしらず」とは浅はかなる言ひざまと存候。但貫之は始めて、箇様な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候。詩にて申候へば古今集時代は宋時代にもたぐへ申すべく、俗気紛々と致し居候処は迚も唐詩とくらぶべくも無之候へ共、さりとて其を宋の特色として見れば全体の上より変化あるも面白く、宋はそれにてよろしく候ひなん。それを本尊にして人の短所を真似る寛政以後の詩人は善き笑ひ者に御座候。

 古今集以後にては新古今稍々すぐれたりと相見え候。古今よりも善き歌を見かけ申候。併し其善き歌と申すも指折りて数へる程の事に有之候。定家といふ人は上手か下手か訳の分らぬ人にて新古今の撰定を見れば少しは訳の分つて居るのかと思へば自分の歌にはろくな者無之「駒とめて袖うちはらふ」「見わたせば花も紅葉も」抔が人にもてはやさるゝ位の者に有之候。定家を狩野派の画師に比すれば探幽と善く相似たるかと存候。定家に傑作無く探幽にも傑作無し。併し定家も探幽も相当に練磨の力はありて如何なる場合にも可なりにやりこなし申候。両人の名誉は相如く程の位置に居りて定家以後歌の門閥を生じ探幽以後画の門閥を生じ両家とも門閥を生じたる後は歌も画も全く腐敗致候、いつの代如何なる技芸にても歌の格画の格などといふやうな格がきまつたら最早進歩致す間敷候。

 香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申す迄も無之候。俗な歌の多き事も無論に候。併し景樹は善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。只景樹時代には貫之時代よりも進歩して居る点かあるといふ事は相違無ければ、従て景樹は貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は俳人でいふと蓼太に比するが適当と被思候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具ヘた男で其句に両極端が現れ居候。

且つ満身の覇気でもつて世人を籠絡し全国に夥しき門派の末流をもつて居た処なども善く似て居るかと存候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り可申今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候。ちゞれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて束髪にゆふ人はわざ/\毛をちゞらしたらんが如き趣有之候。こゝの処よく/\濶眼を開て御判別可有候。古今上下東西の文学など能く比較して御覧可被成くだらぬ歌書ばかり見て居つては容易に自己の迷を醒まし難く、見る所狭ければ自分の汽車の動くのを知らで隣の汽車が動くやうに覚ゆる者に御座候。不尽。

(明治三十一年二月十四日)

三たび歌よみに与ふる書

 前略。歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候。歌よみのいふ事を聞き候へば和歌程善き者は他に無き由いつでも誇り申候へども、歌よみは歌より外の者は何も知らぬ故に歌が一番善きやうに自惚候次第に有之候。彼等は歌に最も近き俳句すら少しも解せず、十七字でさへあれは川柳も俳句も同じと思ふ程の、のんきさ加滅なれば、況して支那の詩を研究するでも無く、西洋には詩といふものが有るやら無いやらそれも分らぬ文盲浅学、況して小説や院本も和歌と同じく文学といふ者に属すと聞かば定めて目を剥いて驚き可申候。斯く申さば讒謗罵詈礼を知らぬしれ者と思ふ人もあるべけれど実際なれば致方無之候。若し生の言が誤れりと思さば所謂歌よみの中より只の一人にても俳句を解する人を御指名可被下候。生は歌よみに向ひて何の恨も持たぬに斯く罵詈がましき言を放たねばならぬやうに相成候心の程御察被下度候。

 歌を一番善いと申すは固より理窟も無き事にて一番善い訳は毫も無之候。俳句には俳句の長所あり、支那の詩には支那の詩の長所あり、西洋の詩には西洋の詩の長所あり、戯曲院本には戯曲院本の長所あり、其長所は固より和歌の及ぶ所にあらず候。理窟は別とした処で一体歌よみは和歌を一番善い者と考へた上でどうする積りにや、歌が一番善い者ならばどうでもかうでも上手でも下手でも三十一文字並べさへすりや天下第一の者であつて、秀逸と称せらるゝ俳句にも漢詩にも洋詩にも優りたる者と思ひ候者にや、其量見が聞きたく候。最も下手な歌も最も善き俳句漢詩等に優り候程ならば誰も俳句漢詩等に骨折る馬鹿はあるまじく候。若し又俳句漢詩等にも和歌より善き者あり、和歌にも俳句漢詩等より悪き者ありといふならば和歌はかりが一番善きにてもあるまじく候。歌よみの浅見には今更のやうに呆れ申候、

 俳句には調が無くて和歌には調がある、故に和歌は俳句に勝れりとある人は申し候。これは強ち一人の論では無く歌よみ仲間には箇様な説を抱く者多き事と存候。歌よみどもはいたく調といふ事を誤解致居候。調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑な様を歌ふにはなだらかなる長き調を用ふべく、悲哀とか慷慨とかにて情の迫りたる時、又は天然にても人事にても景象の活動甚だしく変化の急なる時、之を歌ふには迫りたる短き調を用ふべきは論ずる迄も無く候。然るに歌よみは調は総てなだらかなる者とのみ心得候と相児え申候。斯る誤を来すも畢竟従来の和歌がなだらかなる調子のみを取り来りしに因る者にて、俳句も漢詩も見ず、歌集ばかりを読みたる歌よみには爾か思はるゝも無理ならぬ事と存候。さて/\困つた者に御座候。なだらかなる調が和歌の長所ならば迫りたる調が俳句の長所なる事は分り申さざるやらん。併し迫りたる調強き調などいふ調の味は所謂歌よみには到底分り申す間敷か。真淵は雄々しく強き歌を好み候へども、さて其歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。「飛ぶ鷲の翼もたわに」などいへるは真淵集中の佳什にて強き方の歌なれども、意味ばかり強くて調子は弱く感ぜられ候。実朝をして此意匠を詠ましめば箇様な調子には詠むまじく候。「ものゝふの矢なみつくろふ」の歌の如き、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど調子の強き事は並ぶ者無く、此歌を誦すれば霰の音を聞くが如き心地致候。真淵既に然りとせば真淵以下の歌よみは申す迄も無く候。斯る歌よみは蕪村派の俳句集か盛唐の詩集か読ませたく存候へども、驕りきつたる歌よみどもは宗旨以外の書を読むことは承知致すまじく勧めるだけが野慕にや候べき。

 御承知の如く生は歌よみよりは局外者とか素人とかいはるゝ身に有之、従って詳しき歌の学問は致さず、格が何だか文法が何だか少しも承知致さず候へども、大体の趣味如何に於ては自ら信ずる所あり、此点に就きて却て専門の歌よみが不注意を責むる者に御座候。箇様に悪口をつき申さば生を弥次馬連と同様に見る人もあるべけれど、生の弥次馬連なるか否かは貴兄は御承知の事と存候。異論の人あらば何人にでも来訪あるやう貴兄より御伝へ被下度、三日三夜なりともつゞけざまに議論可致候。熱心の点に於ては決して普通の歌よみどもには負け不申候。情激し筆走り候まゝ失礼の語も多かるべく御海容可被下候。拝具

(明治二十一年二月十八日)

四たび歌よみに与ふる書

 拝啓。空論ばかりにては傍人に解し難く実例に就きて評せよとの御言葉御尤と存候。実例と申しても際限も無き事にていづれを取りて評すべきやらんと惑ひ候へども、成るべく名高き者より試み可申候。御思ひあたりの歌ども御知らせ被下度候。さて人丸の歌にかありけん、

ものゝふの八十氏川の網代木にいざよふ波のゆくへ知らずも

といふが屡々引きあひに出されるやうに存候。此歌万葉時代に流行せる一気呵成の調にて少しも野卑なる処は無く、字句もしまり居り候へども全体の上より見れば上三句は贅物に属し候。「足引の山鳥の尾の」といふ歌も前置の詞多けれど、あれは前置の詞長きために夜の長き様を感ぜられ候。これは又上三句全く役に立ち不申候。此歌を名所の手本に引くは大たはけに御座候。総じて名所の歌といふは其の地の特色なくては叶はず、此歌の如く意味無き名所の歌は名所の歌になり不申候。併し此歌を後世の俗気紛々たる歌に比ぶれば勝ること万々に候。且つ此種の歌は真似すべきにあらねど、多き中に一首二首あるは面白く候。

月見れば千々に物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど

といふ歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難無けれども下二句は理窟なり蛇足なりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。此歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申、若し我身一つの秋と思ふと詠むならば感情的なれども、秋ではないがと当り前の事をいはば理窟に陥り申候。箇様な歌を善しと思ふは其人が理窟を得離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず、今の所謂歌よみどもは多く理窟を並べて楽み居候。厳格に言はば此等は歌でも無く歌よみでも無く候。

芳野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり

 八田知紀の名歌とか申候。知紀の家集はいまだよまねど、これが名歌ならば大概底も見え透き候。此も前のと同じく「霞の奥は知らねども」と消極的に言ひたるが理窟に陥り申候、既に見ゆる限りはといふ上は見えぬ処は分らぬがといふ意味は其裏に寵り居り候ものを、わざ/\知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。且此歌の姿、見ゆる限りは桜なりけりなどいへるも極めて拙く野卑なり、前の千里の歌は理窟こそ悪けれ姿は遙に立ちまさり居候。序に申さんに消極的に言へば理窟になると申しし事、いつでもしかなりといふに非ず、客観的の景色を連想していふ場合は消極にても理窟にならず、例へば「駒とめて袖うち払ふ影もなし」といへるが如きは客観の景色を連想したる迄にて、斯くいはねば愛情を現す能はざる者なれば無論理窟にては無之候。又全体が理窟めきたる歌あり(釈教の歌の類)、これらは却て言ひ様にて多少の趣味を添ふべけれど、此芳野山の歌の如く全体が客観的即ち景色なるに其中に主観的理窟の句がまじりては殺風景いはん方無く候。又同人の歌にかありけん、

うつせみの我世の限り見るべきは嵐の山の桜なりけり

といふが有之候由、さて/\驚き入つたる理窟的の歌にては候よ。嵐山の桜のうつくしいと申すは無論客観的の事なるに、それを此歌は理窟的に現したり、此歌の句法は全体理窟的の趣向の時に用ふべき者にして、此趣向の如く客観的にいはざるべからざる処に用ゐたるは大俗のしわざと相見え候。「べきは」と係けて「なりけり」と結びたるが最理窟的殺風景の処に有之候。一生嵐山の桜を見ようといふも変なくだらぬ趣向なり、此歌全く取所無之候。猶手当り次第可申上候也。

(明治三十一年二月二十一日)

五たび歌よみに与ふる書

心あてに見し白雲は麓にて思はぬ空に晴るゝ不尽の嶺

といふは春海のなりしやに覚え候。これは不尽の裾より見上げし時の即興なるべく、生も実際に斯く感じたる事あれば面白き歌と一時は思ひしが、今見れば拙き歌に有之候。第一、麓といふ語如何や、心あてに見し処は少くも半腹位の高さなるべきを、それを麓といふべきや疑はしく候。第二、それは善しとするも「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず、只心あてに見し雲よりは上にありしとばかり言はねばならぬ処に候。第三、不尽の高く壮なる様を詠まんとならば今少し力強き歌ならざるべからず、此の歌姿弱くして到底不尽に副ひ申さず候。几董の俳句に「晴るゝ日や雲を貫く雪の不尽」といふがあり、極めて尋常に叙し去りたれども不尽の趣は却て善く現れ申候。

もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり

 契沖の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、此歌の品下りたる事は稍々心ある人は承知致居事と存候。此歌の伝称せらるゝはいふ迄も無く八重一重の掛合にあるべけれども、余の攻撃点も亦此処に外ならず、総じて同一の歌にて極めてほめる処と他の人の極めて誹る処とは同じ点に存る者に候。八重霞といふもの固より八段に分れて霞みたるにあらねば一重といふこと一向に利き不申、又初に「藻汐焼く」と置きし故後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主観的に置きたる処いよ/\俗に堕ち申候。こんな風に詠まずとも、霞の上に藻汐焚く煙のなびく由尋常に詠まば、つまらぬ迄も厭味は出来申間敷候。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

 此躬恒の歌百人一首にあれは誰も口ずさみ候へども一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。此歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣無之候。趣向嘘なれば趣も糸瓜も有之不申、蓋しそれはつまらぬ嘘なるが故につまらぬにて、上手な嘘は面白く候。例えば「鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」面白く候。窮恒のは瑣細な事を矢鱈に仰山に述べたのみなれば無趣味なれども、家持のは全く無い事を空想で現はして見せたる故面白く被感候。嘘を詠むなら全く無い事、とてつもなき嘘を詠むベし、然らざれば有の儘に正直に詠むが宜しく候。雀が舌を剪られたとか、狸が婆に化けたなどの嘘は面白く候。今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと真面目らしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。「露の落つる音」とか「梅の月が匂ふ」とかいふ事をいふて楽む歌よみが多く候へども是等も面白からぬ嘘に候。総て嘘といふものは一二度は善けれど、たび/\詠まれては面白き嘘も面白からず相成申候。況して面白からぬ嘘はいふ迄も無く候。「露の音」「月の匂」「風の色」などは最早十分なれば今後の歌には再び現れぬやう致したく候。「花の匂」などいふも大方は嘘なり、桜などには格別の匂は無之、「梅の匂」でも古今以後の歌よみの詠むやうに匂ひ不申候。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るゝ

「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労さ加減は恐れ入つた者なれど、これも此頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめに被成ては如何や。闇の梅に限らず普通の香も古今集だけにて十余りもあり、それより今日迄の代々の歌よみがよみし悔の香はおびたゞしく数へられもせぬ程なるに、これも善い加減に打ちとめて香水香料に御用ゐ被成候は格別、其外歌には一切之を入れぬ事とし、鼻つまりの歌人と嘲らるゝ程に御遠ざけ被成ては如何や。小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。

(明治三十一年二月二十三日)

六たび歌よみに与ふる書

 御書面を見るに愚意を誤解被致候。殊に変なるは御書面中四五行の間に撞着有之候。初に「客観的景色に重きを置きて詠むべし」とあり、次に「客観的にのみ詠むべきものとも思はれず」云々とあるは如何。生は客観的にのみ歌を詠めと申したる事は無之候。客観に重きを置けと申したる事も無けれど此方は愚意に近きやう覚え候。「皇国の歌は感情を本として」云々とは何の事に候や。詩歌に限らず総ての文学が感情を本とする事は古今東西相異あるべくも無之、若し感情を本とせずして理窟を本としたる者あらばそれは歌にても文学にてもあるまじく候。故らに皇国の歌はなど言はるゝは例の歌より外に何物も知らぬ歌よみの言かと被怪候。「何れの世に何れの人が理窟を詠みては歌にあらずと定め候哉」とは驚きたる御問に有之候。理窟が文学に非ずとは古今の人東西の人尽く一致したる定義にて、若し理窟をも文学なりと申す人あらばそれは大方日本の歌よみならんと存候。

 客観主観感情理窟の語に就きて或は愚意を誤解被致居にや。全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竣たず。例へば橋の袂に柳が一本風に吹かれて居るといふことを其侭歌にせんには其歌は客観的なれども、元と此歌を作るといふは此客観的景色を美なりと思ひし結果なれば感情に本づく事は勿論にて、只うつくしいとか、綺麗とか、うれしいとか、楽しいとかいふ語を着くると着けぬとの相異に候。又主観的と申す内にも感情と理窟との区別有之、生が排斥するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主観の歌は客観の歌と比して、此主客両観の相異の点より優劣をいふべきにあらず、されば生は主観に重きを置く者にても無之候。但和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じ居候へば、客観的に重きを置くといふも此処の事を意味すると見れば差支無之候。又主観客観の区別、感情理窟の限界は実際判然したる者に非ずとの御論は御尤に候。それ故に善悪可否巧拙と評するも固より劃然たる区別あるに非ず、巧の極端と拙の極端とは毫も紛るゝ所あらねど、巧と拙との中間に在る者は巧とも拙とも申し兼候。感情と理窟の中間に在る者は此場合に当り申候。

「同じ用語同じ花月にても其れに対する吾人の観念と古人のと相異する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれどそんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度する必要無之、只此処にては古今東西に通ずる文学の標準(自ら斯く信じ居る標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は風帆船が早かつた時代もありしかど蒸汽船を知りて居る眼より風帆船は遲しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば貫之を下手と評すること亦至当に候。歴史的に貫之を褒めるならば生も強ち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的に其人物を評するにあらず、文学的に其歌を評するが目的に有之候。

「日本文学の城壁とも謂ふべき国歌」云々とは何事ぞ、代々の勅撰集の如き者が日本文学の城壁ならば実に頼み少き城壁にて、此の如き薄ツペらな城壁は大砲一発にて滅茶々々に砕け可申候。生は国歌を破壊し尽すの者にては無之、日本文学の城壁を今少し堅固に致し度、外国の髯づら共が大砲を発たうが地雷火を仕掛けうが、びくとも致さぬ程の城壁に致し度心願有之、しかも生を助けて此心願を成就せしめんとする大檀那は天下一人も無く、数年来鬱積沈滞せる者頃日漸く出口を得たる事とて前後錯雑序次倫無く大言疾呼我ながら狂せるかと存候程の次第に御座候。傍人より見なば定めて狂人の言とさげすまるゝ事と存候。猶此度新聞の余白を借り得たるを機とし思ふ様愚考も述べたく、それ丈にては愚意分りかね候に付愚作をも連ねて御評願ひ度存居候へども、或は先輩諸氏の怒に触れて差止めらるゝやうな事は無きかとそれのみ心配罷在候。心配、恐懼、喜悦、感慨、希望等に悩まされて従来の病体益々神経の過敏を致し日来睡眠に不足を生じ候次第、愚とも狂とも御笑ひ可被下候。

 従来の和歌を以て日本文学の基礎とし城壁と為さんとするは弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて明治時代に行はるべき事にては無之候。今日軍艦を購ひ大砲を購ひ巨額の金を外国に出すも畢寛日本国を固むるに外ならず。されば僅少の金額にて購ひ得べき外国の文学思想抔は続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。生は和歌に就きても旧思想を破壊して新思想を註文するの者にて、随つて用語は雅語俗語洋語漢語必要次第用ふる積りに候。委細後便。

 追て、伊勢の神風、宇佐の神勅云々の語あれども文学には合理非合理を論ずべき者にては無之、従って非合理は文学に非ずと申したる事無之候。非合理の事にて文学的には面白き事不少候。生の写実と申すは合理非合理事実非事実の謂にては無之候。油画師は必ず写生に依り候へどもそれで神や妖怪やあられもなき事を面白く画き申候。併し神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて、只々有りの侭を写生すると一部々々の写生を集めるとの相異に有之、生の写実も同様の事に候。是等は大誤解に候。

(明治三十一年二月二十四日)

七たび歌よみに与ふる書

 前便に言ひ残し候事今少し申上候。宗匠的俳句と言へば直ちに俗気を聯想するが如く和歌といへば直ちに陳腐を聯想致候が年来の習慣にて、はては和歌といふ字は陳腐といふ意味の字の如く思はれ申候。斯く感ずるもの和歌社会には無之と存候へど、歌人ならぬ人は大方箇様の感を抱き候やに承り候。をり/\は和歌を誹る人に向ひてさて和歌は如何様に改良すべきかと尋ね候へば其人が首をふつて、いやとよ和歌は腐敗し尽したるに、いかでか改良の手だてあるべき、置きね/\など言ひなし候様は恰も名医が匙を投げたる死際の病人に対するが如き感を持ち居候者と相見え申候。実にも歌は色青ざめ呼吸絶えんとする病人の如くにも有之候よ。さりながら愚考はいたく異なり、和歌の精神こそ衰へたれ形骸は猶保つベし、今にして精神を入れ替へなば再び健全なる和歌となりて文壇に馳駆するを得べき理を保証致候、こはいはでもの事なるを或る人が、はやこと切れたる病人と一般に看做し候は如何にも和歌の腐敗甚しきに呆れて一見して抛棄したる者にや候べき。和歌の腐敗の甚しきもこれにて大方知れ可申候。

 此腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、又趣向の変化せざるは用語の少きが原因と被存候。故に趣向の変化を望まば是非とも用語の区域を広くせざるべからず、用語多くなれば従って趣向も変化可致候。ある人が生を目して和歌の区域を狭くする者と申し候は誤解にて少しにても広くするが生の目的に御座候。とはいへ如何に区域を広くするとも非文学的思想は容れ不申、非文学的思想とは理窟の事に有之候。

 外国語も用ゐよ、外国に行はるゝ文学思想も取れよと申す事に就きて日本文学を破壊する者と思惟する人も有之げに候へども、それは既に根本に於て誤り居候。たとひ漢語の詩を作るとも洋語の詩を作るとも将たサンスクリツトの詩を作るとも、日本人が作りたる上は日本の文学に相違無之候。唐制に摸して位階も定め服色も定め置き唐ぶりたる冠衣を著け候とも、日本人が組織したる政府は日本政府と可申候。英国の軍艦を買ひ独国の大砲を買ひ、それで戦に勝ちたりとも運用したる人にして日本人ならば日本の勝と可申候。併し外国の物を用ふるは如何にも残念なれば日本固有の物を用ゐんとの者ならば、其志には賛成致候へども迚も日本の物ばかりでは物の用に立つまじく候、文学にても馬、梅、蝶、菊、文等の語をはじめ一切の漢語を除き候はば如何なる者が出来候べき。源氏物語、枕草子以下漢語を用ゐたる物を排斥致し候はば日本文学ば幾何か残り候べき。それでも痩我慢に歌ばかりは日本固有の語にて作らんと決心したる人あらば、そは御勝手次第ながら其を以て他人を律するは無用の事に候、日本人が皆日本固有の語を用ふるに至らば日本は成り立つまじく、日本文学者が皆日本固有の語を用ゐたらば日本文学は破滅可致候。

 或は姑息にも馬、梅、蝶、菊、文等の語はいと古き代より用ゐ来りたれば日本語と看做すベしなどいふ人も可有之候へど、いと古き代の人は其頃新しく輸入したる語を用ゐたる者にて、此姑息論者が当時に生れ居らばそれをも排斥致し候ひけん。いと笑ふ可き撞着に御座候。仮に姑息論者に一歩を藉して古き世に使ひし語のみ用ふるとして、若し王朝時代に用ゐし漢語だけにても十分に之を用ゐなば猶和歌の変化すべき余地は多少可有之候。されど歌の詞と物語の詞とは自ら別なり。物語などにある詞にて歌には用ゐられぬが多きなど例の歌よみは可申候。何たる笑ふ可き事には候ぞや。如何なる詞にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申、之を外にして歌の詞といふ者は無之候。漢語にても洋語にても文学的に用ゐられなば皆歌の詞と可申候。

(明治三十一年二月二十八日)

八たび歌よみに与ふる書

 悪き歌の例を前に挙げたれば善き歌の例をこゝに挙げ可申候。悪き歌といひ善き歌といふも四つや五つばかりを挙げたりとて愚意を尽すべくも候はねど、無きには勝りてんと聊か列ね申候。先づ金槐和歌集などより始め申さんか。

武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

といふ歌は万口一斉に歎賞するやうに聞き候へば今更取り出でていはでもの事ながら、猶御気のつかれざる事もやと存候まゝ一応申上候。此歌の趣味は誰しも面白しと思ふべく、又此の如き趣向が和歌には極めて珍しき事も知らぬ者はあるまじく、又此歌が強き歌なる事も分り居り候へども、此種の句法が殆ど此歌に限る程の特色を為し居るとは知らぬ人ぞ多く候べき。普通に歌はなり、けり、らん、かな、けれ抔の如き助辞を以て斡旋せらるゝにて名詞の少きが常なるに、此歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の最短き形)居候。此の如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。新古今の中には材料の充実したる、句法の緊密なる、稍々此歌に以たる者あれど、猶此歌の如くは語々活動せざるを覚え候。万葉の歌は材料極めて少く簡単を以て勝る者、実朝一方には此万葉を擬し一方には此の如く破天荒の歌を為す。

其力量に測るべからざる者有之候。又晴を祈る歌に

時によりすぐれは民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ

といふがあり、恐らくは世人の好まざる所と存候へども、こは生の好きで好きでたまらぬ歌に御座候。此の如く勢強き恐ろしき歌はまたと有之間敷、八大龍王を叱咤する処、龍王も懾伏致すべき勢相現れ申候。八大龍王と八字の漢語を用ゐたる処、雨やめたまへと四三の調を用ゐたる処、皆此歌の勢を強めたる所にて候。初三句は極めて拙き句なれども其一直線に言ひ下して拙き処、却て其真率偽りなきを示して祈晴の歌などには最も適当致居候。実朝は固より善き歌作らんとて之を作りしにもあらざるべく、只々真心より詠み出でたらんがなか/\に善き歌とは相成り候ひしやらん。こゝらは手のさきの器用を弄し言葉のあやつりにのみ拘る歌よみどもの思ひ至らぬ所に候。三句切の事は猶他日詳に可申候へども、三句切の歌にぶつゝかり候故一言致置候。三句切の歌詠むべからずといふは守株の論にて論ずるに足らず候へ共、三句切の歌は尻軽くなるの弊有之候。此弊を救ふために下二

の内を字余りにする事屡々有之、此歌も其一にて(前に挙げたる大江千里の月見ればの歌も此例、尚其外にも数へ尽すべからず)候。此歌の如く下を字余りにする時は三句切にしたる方却りて勢強く相成申候。取りも直さず此歌は三句切の必要を示したる者に有之候。又

物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

の如き何も別にめづらしき趣向もなく候へども、一気呵成の処却て真心を現して余りあり候。序に字余りの事一寸申候、此歌は第五句字余り故に面白く候。或る人は字余りとは余儀なくする者と心得候へどもさにあらず、字余りには凡三種あり、第一、字余りにしたるがために面白き者、第二、字余りにしたるがため悪き者、第三、字余りにするともせずとも可なる者と相分れ申候。其中にも此歌は字余りにしたるがため面白き者に有之候。若し「思ふ」といふをつめて「もふ」など吟じ候はんには興味索然と致し候。こゝは必ず八字に読むべきにて候。又此歌の最後の句にのみ力を人れて「親の子を思ふ」とつめしは情の切なるを現す者にて、若し「親の」の語を第四句に入れ最後の句を「子を思ふかな」「子や思ふらん」など致し候はゞ例のやさしき調となりて切なる情は現れ不申、従って平凡なる歌と相成可申候。歌よみは古来助辞を濫用致し候様、宋人の虚字を用ゐて弱き詩を作ると一般に御座候。実朝の如きは実に千古の一人と存候。

 前日来生は客観詩をのみ取る者と誤解被致候ひしも、其の然らざるは此の例にて相分り可申、那須の歌は純客観、後の二首は純主観にて共に愛誦する所に有之候。併し此の三首ばかりにては強き方に偏し居候へば或は又強き歌をのみ好むかと被考候はん。尚多少の例歌を挙ぐるを御待可被下候。

(明治三十一年三月一日)

九たび歌よみに与ふる書

 一々に論ぜんもうるさければ只々二三を挙げ置きて金槐集以外に遷り候べく候。

山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも

箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ

世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも

大海のいそもとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

 箱根路の歌極めて面白けれども斯る想は古今に通じたる想なれば実朝が之を作りたりとて驚くにも足らず、只々「世の中は」の歌の如く古意古調なる者が万葉以後に於てしかも華麗を競ひたる新古今時代に於て作られたる技倆には驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝のはじめたる句法にや候はん。

 新古今に移りて二三首を挙げんに

なこの海の霞のまよりながむれば入日を洗ふ沖つ白波 (実定)

 此歌の如く客観的に景色を善く写したるものは新古今以前にはあらざるべく、これらも此集の特色として、見るべき者に候。惜むらくは「霞のまより」といふ句が瑾にて候。一面にたなびきたる霞に間といふも可笑しく、縦し間ありともそれは此の趣向に必要ならず候。入日も海も霞みながらに見ゆるこそ趣は候なれ。

ほの%\と有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風 (信明)

 これも客観的の歌にてけしきも淋しく艶なるに語を畳みかけて調子取りたる処いとめづらかに覚え候。

さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵を並べん冬の山里 (西行)

 西行の心はこの歌に現れ居候。「心なき身にも哀れは知られけり」などいふ露骨的の歌が世にもてはやされて此歌などは却て知る人少きも口惜く候。庵を並べんといふが如き斬新にして趣味ある趣向は西行ならでは得言はざるべく、特に「冬の」と置きたるも亦尋常歌よみの手段にあらずと存候。後年芭蕉が新に俳諧を興せしも寂は「庵を並べん」などより悟入し、季の結び方は「冬の山里」などより悟入したるに非ざるかと被思候。

閨の上にかたえさしおほひ外面なる葉広柏に霰ふるなり (能因)

 これも客観的の歌に候。上三句複雑なる趣を現さんとて稍々混雑に陥りたれど葉広柏に霰のはじく趣は極めて面白く候。

岡の辺の里のあるじを尋ぬれば人は答へず山おろしの風 (慈円)

 趣味ありて句法もしつかりと致し居候。此種の歌の第四句を「答へで」などいふが如く下に連続する句法となさば何の面白味も無之候。

さゞ波や比良山風の海吹けば釣する蜑の袖かへる見ゆ (読人しらず)

 実景を其儘に写し些の巧を弄ばぬ所却て興多く候。

神風や玉串の葉をとりかざし内外の宮に君をこそ祈れ (俊恵)

 神祇の歌といへば千代の八千代のと定文句を並ぶるが常なるに此歌はすつぱりと言ひはなしたる、なか/\に神の御心にかなふべく覚え候。句のしまりたる所、半ば客観的に叙したる所など注意すべく、神風やの五字も訳なきやうなれど極めて善く響き居候。

阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ (伝教)

 いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、此歌を勅撰集に加へたる勇気も称するに足るべくと存候。第二句十字の長句ながら成語なれば左迄口にたまらず、第五句九字にしたるはことさらにもあらざるべけれど、此所はことさらにも九字位にする必要有之、若し七字句などを以て止めたらんには上の十字句に対して釣合取れ不申候。初めの方に字余りの句あるがために後にも字余りの句を置かねばならぬ場合は屡々有之候。若し字余りの句は一句にても少きが善しなどいふ人は字余りの趣味を解せざるものにや候べき。

(明治三十一年三月三日)

十たび歌よみに々ふる書

 先輩崇拝といふことは何れの社会にも有之候。それも年長者に対し元勲に相当の敬意を尽すの意ならば至当の事なれども、それと同時に何かは知らず其人の力量技術を崇拝するに至りては愚の至りに御座候。田舎の者などは御歌所といへばえらい歌人の集り、御歌所長といへば天下第一の歌よみの様に考へ、従て其人の歌と聞けば読まぬ内からはや善き者と定め居るなどありうちの事にて、生も昔は其仲間の一人に候ひき。今より追想すれば赤面する程の事に候。御歌所とてえらい人が集まる筈も無く御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候。今日は歌よみなる者皆無の時なれどそれでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間に可有之候。田舎の者が元勲を崇拝し大臣をえらい者に思ひ、政治上の力量も識見も元勲大臣が一番に位する者と迷信致候結果、新聞記者などが大臣を誹るを見て「いくら新聞屋が法螺吹いたとて、大臣は親任官、新聞屋は索寒貧、月と泥亀程の違ひだ」などと罵り申候。少し眼のある者は元勲がどれ位無能力かといふ事、大臣は廻り持にて新聞記者より大臣に上りし実例ある事位は承知致し説き聞かせ候へども、田舎の先生は一向無頓著にて不相変元勲崇拝なるも腹立たしき訳に候。あれ程民間にてやかましくいふ政治の上猶然りとすれば今迄隠居したる歌社会に老人崇拝の田舎者多きも怪むに足らねども、此老人崇拝の弊を改めねば歌は進歩不可致候。歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賤も無之候。歌よまんとする少年あらば老人抔にかまはず勝手に歌を詠むが善かるべしと御伝言可被下候。明治の漢詩壇が振ひたるは老人そつちのけにして青年の詩人が出たる故に候。俳句の観を改めたるも月並連に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候。

 縁語を多く用ふるは和歌の弊なり、縁語も場合によりては善けれど普通には縁語、かけ合せなどあればそれがために歌の趣を損ずる者に候。縦し言ひおほせたりとて此種の美は美の中の下等なる者と存候、無暗に縁語を入れたがる歌よみは無暗に駄洒落を並べたがる半可通と同じく、御当人は大得意なれども側より見れば品の悪き事夥しく候。縁語に巧を弄せんよりは真率に言ひながしたるが余程上品に相見え申候。

 歌といふといつでも言葉の論が出るには困り候。歌では「ぼたん」とは言はず「ふかみぐさ」と詠むが正当なりとか、此詞は斯うは言はず、必ず斯ういふしきたりの者ぞなど、言はるゝ人有之候へども、それは根本に於て已に愚考とは異り居候。愚考は古人のいふた通りに言はんとするにても無く、しきたりに倣はんとするにても無く、只々自己が美と感じたる趣味を成るべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候。故に俗語を用ゐたる方其の美感を現すに適せりと思はば雅語を捨てて俗語を用ゐ可申、又古来のしきたりの通りに詠むことも有之候へど、それはしきたりなるが故に其を守りたるにては無之、其の方が美を現すに適せるがために之を用ゐたる迄に候。古人のしきたりなど申せども其の古人は自分が新たに用ゐたるぞ多く候べき。

 牡丹と深見草との区別を申さんに、生等には深見草といふよりも牡丹といふ方が牡丹の幻影早く著く現れ申候。且つ「ぼたん」といふ音の方が強くして実際の牡丹の花の大きく凛としたる所に善く副ひ申候。故に客観的に牡丹の美を現はさんとすれば牡丹と詠むが善き場合多かるべく候。

 新奇なる事を詠めといふと、汽車、鉄道などいふ所謂文明の器械を持ち出す人あれど大に量見が間違ひ居り候。文明の器械は多く不風流なる者にて歌に入り難く候へども、若しこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外無之候。それを何の配合物も無く「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。せめてはレールの傍に菫が咲いて居るとか、又は汽車の過ぎた後で罌粟が散るとか、薄がそよぐとかいふやうに他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。又殺風景なる者は遠望する方宜しく候。菜の花の向ふに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするが如きも殺風景を消す一手段かと存候。

 いろ/\言ひたき侭取り集めて申上候。猶他日詳かに申上ぐる機会も可有之候。以上。月日。

(明治三十一年三月四日)