泉鏡花 継三味線 「|誰方《どたた》。」  と長六畳、妙な間取りの、それが茶の間で、壁際に|押着《おッつ》けた長火鉢の前に、其の壁の方を向い て、|円髷《まるまげ》で坐りながら、煮ものの|塩梅《あんぱい》をしつゝ、内の細君が玄関へ声を掛けると、 「私《わたし》、私《わたし》。」と無雑作に返事をして、少し性急《せつかち》らしい遣音で、づかく入つて来たのは、琉球緋 の書生羽織、縞の衣服、黒献上の角帯をしめた、三十二一二の痩せた男で、此処の主人の従兄弟に 当る、余り金に成らぬ洋画家で、廉三郎と云ふのである。 「ね、そら、廉さんだ。」  と火鉢の縁を白い指で|一寸弾《ちよつとはじ》いて、見迎への片頬に、|細《 》君は|莞爾《につニり》して、 「---何うも然うらしい楚音だと思つた。」 「|恭《かたじけ》ない。---跫音を聞知つてくれようと言ふのはお澄さんばかりだよ。」と軽く会釈しつつ背 後を通る。  向うで、座右の籠火鉢の前へ、引掴んで襖際の座蒲団を一枚直しながら、 「相かはらず|麓勿《そ つ》かしいなあ。-…何処の帰途だえ。」---と云つた。  窮屈さうに、押入を|背負《しよ》つて、|深山路《みやまぢ》の丸木橋にも|較《たぐ》へつべく、脚には蔓の搦みさうな、|大古《おほふる》 で・板に透間の見える卓子台を前に控へ、海鼠腸《このわた》で麦酒を傾けるのは、半之助と云ふ、即ち主人 で。|宝生名取《はうしやうなと》りのお能役者、年紀は廉三郎より二つ三つ少いのが、羽織を脱いで黒羽二重の紋着 で、舞袴のままで居るコ 「やあ、西片町さん、入らつしやい。」  と、も一人声を掛けたのは、小縁前の障子の中に、柱を背にして、同じく袴、同じく紋着の大 胡坐で、湯呑を卓子台の端へ御免蒙り、二升入り貧乏徳利を、酒肥りで象の如き膝頭へ引着けた、 太腹の前に、更科の|蒸籠《せいろ》九枚と云ふ豪傑は、半之助が|警間《なカま》に高砂やの|強《がう》のもの、・--芹生千蔵、 湯呑の底をぐッと煽つて、ほうとも言はず。蒸籠の|空策《あきざる》へ、茶碗酒の口を切つて、 「如何に|山伏《せんだつ》、一杯如何、」  と揺ぐが如く、袴の膝を居直つたは、此の|男予《をとこかね》て|酒顧童子《しゆてんどらじ》ー-鬼の絵でない、花屋敷に御存じ の可愛い人形iに|肖如《そつくり》で、潭名のあるのを、当人心得て居るのであるっ 「何うしてく、茶碗酒を冷で煽られるやうな大将ぢやないよ、.」  と半之助は、麦酒を鵜呑にして、頭を悼つた。  と云ふ人も、二升徳利に対して、麦酒の瓶は、余り幅の利いた勇士でない。が、実は世になき 親譲りの大酒を、|秋霜烈日《しうさうれつじつ》、|覇王《はわう》の如くだつた、故深川の家元から、遺一言キ.以て禁じられた、|発 心《ほっしん》の|柘瑠《ざくろ》である。  見給へ、其のかはり、膳の傍に、五本並んで|素面《しらふ》で居る。  酒顯童子は追掛けに、 「ぢやあ、麦酒を、半さん。」  半之助が黙つて笑ふと、細君のお澄が火鉢の前から、銘仙の袖を開いて、一寸掌で遮つて、其 の手をずうと廻して指をさす---敷居越、八畳東向の片隅に置炬燵があつて、|嬰児《あかんぼ》を寝かした、 色白なのが仰向けに、枕が緋の色、ふつと長い|真紅《まつか》な耳に見えて、兎のやうに|愛《あいく》々しい。  酒顧童子は、|禁厭《まじた》われた蜻蛉と云ふ身で、お澄のさした指の先に此方から大眼玉をきよろつか せて、 「何故、麦酒が不可いんです…-はてね-…とは又---何うして。」と頭を揺る。  |爾時《そのとき》、廉さん、苦笑して、|巻莫《まきたばこ》の灰を払き、 「此方が、夜更しをするもんだからね。」と、目で半之助を教えて言つた。        二 「それ、待つ身に辛きとか何とか云ふんで、置垣燵を指すのはね---今の私の遣音で、夜中の待 惚けを思出しさ、1怪しからん、主人をそつとして置いて、客に|抵《あた》るのだから堪らないんだ。」 「|御尤《こむつとむ》!」  酒顯童子は、円々しい肩を揺つて、大蝦膜の如く|合点《のみこ》みながら、 「ですが、貴方の麦酒を|飲《のま》ないのとは、|柳《いさし》か縁のない|事《こと》のやうですな。」 「何ね、それも酒ゆゑと言ふので、主人にも飲むなとね、|調《ふう》する処ありなんですよ。」 「嘘、嘘、嘘よう。」  お澄は向直つて口惜さうに、細い縞の前垂の膝を刻んで、 「憎らしい、嘘ばつかり。千蔵さん嘘ですよ。内ではね、麦酒を飲むのにお医師様に然う言はれ たつて、壕ごとお燗をするんでせう。湯沸や|銅壼《どうこ》に入りますかつて---|火燗《ひがん》じや危いし、小児に 掛つて手は足りないし、するもんだから、炬燵の傍へ並べて置くと、あとからく丁ど可加減に 暖るんだわ。其の炬燵でさ、|襯蘇《おしめ》を取替へたりなにかするのを御存じでね。1ー兄さんはーも う口惜いから叔父さんだ……Lと、黒嬬子の半襟をクゥと|扱《しご》き、 「叔父さんは、自分が小児がないもんだから、汚ながつて、それでお飲がりでないのですよ、憎 らしい。」一 「可恐しく憎がるね、兄貴も又可恐しく憎がられるぢやないか、、」  と半之助は麦酒を手酌で、 「何だね、---内証の悪事があつて、君ン許のお光さんが、当家の山の神に吹込んだものらしい ね。」. 「|蓋《けだ》し鍋下は其処等ですな。」と酒顧童子は大徳利を|引傾《ひつかた》げて、どく/\と湯呑に注ぐ事、恰も |生檎《いけどり》の|上繭《じやうらふ》の生首を抜けるが如しc 「憎まれる分は往生をしますがね、叔父さんは|些《ち》とあやまるよ。---何分にも色気がない。」 「…-・同感だよ、私は、お父さんでさへ、ぎよつとする。」 「そんなら、半さん。」  と、お澄が|可厭《いや》な笑ひ方。 「お澄や、おぢや。」と酒顧が、紋着で|科《した》を|遣《や》る。 「あゝ、此の|三十日《みそか》が|可恐《おそろし》い。」  と従兄弟二人が、殆ど同時に、同音に思はず音を出して、不図顔を見合はせた。 「はゝは・、|不可《いけ》ない、不可ない。」と廉三郎が額を|圧《おさ》へる。 「|座直《ざなほ》しに一杯、熱い処を。」 半之助が顔を向ければ、 「心得て居りますよ。」 とお澄が、既に立構への腰を切つて、 「……|件《くだん》の湯豆腐でね、」 「いや、,それには及びませんよ、|真個《ほんたう》だ。」 「私を嫌つてさ---叔父さんがお嫌ひな腿線の手は洗ひますよ。」 「あれだ1」 「ねえ、坊や、」  と茶棚越の柱に半身、炬燵を覗いて、笑ひながら勝手へ出て行く。 「何にも無いがね、|緩《ゆつく》りしたまへ。」 「いや、然うもしちや居られない。」 「告心ぐのかい。」 「私は、そんなに急ぎもしないがね、横浜の方は急ぐらしいよ。」 「あゝ、鼓の事だね。」と半之助が、飲み掛けの|硝子杯《コツプ》の端を軽く控ヘて頷いた。 「其の相談に来たんだが、半さん君は出掛けるんぢやないか。」 「否、つとめて帰つた処なんだよ。…-些と気骨が折れたのでね、呼吸つぎに一杯遣つて居るん だ。晩のは宴会です。此方が遊ぶのだから遅く出掛けても構はない。」 「お今どん。」  と、酒顧童子が台所の女中を呼んで、 「お燗をするんなら徳利をお持ちなさい。しかし、最う|沢山《たんと》はございませんーはじめッから。」  と|極低声《ごくこごゑ》。 「存じて居ります。」とお澄が言つた。 「南無三、聞え候な。」 「餌だわ-…・大江山の。ねえ、お今。」        三 廉三郎は、バツとしたやうに、其の「欲」を、耳よりは目で聞いた。 「あ、其の、餌の事だよ。」 「何かね、兄貴、此の間の春柳亭の美人の事ではあるまいね。」と半之助が|故《わざ》と微笑む。 「あゝ、成程奇遇だ、|此奴《こいつ》は。」  廉三郎は腕を|供《こまぬ》き、 「然う言へぱ、あの女は、たしか名を餌と言つたね。が、無論其の話ぢやないんです、急ぐと云 ふくらゐだから、鼓の事だよ。」 「さあ、あれだがね。1む\可いとも、些とも構はないよ。君にも相談に預つて貰ひたい事 なんだ。」  内談か、席を避くべきや、と少いが苦労人の酒顧童子が気を注けたのに-半之助が頭を悼つ て、|悠《か》う言ふと、千蔵は膝の臼をお伽話の如く据直して、 「承つてよろしけれぱ、へい、芸妓の名にも、鼓の名にも、研と云ふのがあるやうに聞えます が。」 「あゝ、其の美人に|就《つ》いちや、兄貴に聞かせたい事があるが、」  半之助は言ひかけて、千蔵に向きかへつて、 「大事な鼓の事から話さう、若い時、万三郎と云つてね、…・-廉さんや私たちには祖父に当る、 亡くなつた私の父の親父、廉さんには母の親父でね、|葛野流《かどのりう》を打つた爺さんが持つてたのさ。」 「あゝ、聞いて居る、万三郎と言ふ老人は、大鼓ぢやあ近世の名家だつたと聞くね。」 「血統の事で、恐縮だがね、とに|角打《かくう》てたと言ふんだよ。・--続いた|大鼓《おほかは》の家だつたんだから、 代々其の祖父さんまで|持伝《むちつた》へた、|織居《おりゐ》の作の胴なんだがね、蒔絵の箱に、研と言ふ銘がある--. と言ふ次第は……此は私よりか廉さんの方が可いな。」と又一息に傾けた。 「何、私だつて、唯推量に過ぎないのだが-…千蔵さん。」  唯、|倒《さかしま》にして底をしたんだ二升徳利をうつかり離すと、はづみに転がるのを、おつとしよ、瓢 箪鰭で慌てて圧へて、首実検と置直し、 「は、謹んで承はります。」 「然う更まられては困るんです。しみつたれな話だから。1久いあと、明治維新の騒動に、お 能役者一同が、|麦《こ 》の家をはじめ、散々に、離散し、流転し、凋落し、と言ふ、落葉が落ち、落ち、 落散る時、万三郎爺さんが、私の故郷、御存じの北国へ落ちて行つて、山深い雪の谷に埋もれた んです。一世の思出に、打てば響いて、可懐い、都の空へ、せめて欲にも聞えるやうに、と其の 意味で、鼓に銘を打つたんだと思ふんです。  其の胴は、一度、私の母が預つて、其が亡くなる時、祖父さんには嫁ー私たちには義理の叔 母1(半さんの父親の兄が其の叔母の夫で、これは祖父さんより以前に矢張り旅で亡くなつて 居ました。)ll叔母の手に渡したのが、何十年ぶりかで、今度東京へ帰つたんてす。鼓から言 へば、研が真の音に成つた、本懐と言つて可いんですよ。」 「それは可いがね。」  半之助が言ひ継いで、 「叔母の手許の都合で、今度其の鼓を売らうと言ふんだ。叔母は、田舎から出て、今は横浜の、 娘が縁附いた家に|寄食《かち》つて居るのざ。もう一人の娘と一所にー  叔母には娘が二人ある。私たちの矢張り従姉妹で、皆な我々より|年紀上《としうへ》だがね。横浜のは妹の 方で、姉は、故郷に居て、おなじく縁づきさきで、叔母を貢て居たんだけれども、永年折合の悪 かった、夫婦なかが、到頭去年の夏破裂して、姉が家を駈出して、一時行方が知れなく成つたも んだから、妹夫婦が、横浜から故郷へ出向いて、あと片づけをして、お題目ばかり称へて居た、 老年の母者人、われくには其の叔母なる人を違れて来たと云ふのでね、」  お澄が銚子を持つて来た。 「はい、お燗のい・所、例によつて、叔父さん、お手酌で。」 「一寸、叔父さんは待つて下さい。いま叔母の噂をして居る処だ、こんがらかつて堪りますか。 |可歎《たんずべし》、叔母は七十三ですよ。」 四 「御同様に、・ゝ・の|懐《ボチく》中工合と云ふ中にも、ですな、妹と、妹婿、婿も最う老年でハ若い内稼 ぎ貯めたのを夫婦で少しづゝ食ひヘらすのを、心細いから、妹が琴の師匠で、所帯を扶けて居よ うと云ふ其の横沢のうちへ、叔母と姉娘とが引取られた始末だ。処が、衣類、諸道具、何一つ、 目星いものは唯其の鼓ばかりと云ふので、家の宝なり、記念なりだが、背に腹は替へられない。 蟹刊にでも値をよく売つて、まあね、姉娘と叔母とで、一銭菓子、小さな煙草店でも出さう、資 本にしたいと言ふ、…-飛んだ|果敢《はか》ない|仕誼《しぎ》なんだがね。」 「はあ、成程、名誉の鼓一代の有為転変、分けて|大鼓《おほかは》はお雌子の元締です。他人のやうには思は れません、こりや、茶碗でなんぞ、煽つて居る場合でない。」と酒顧童子が鬼の念仏。 「其のかはり、熱いのをお相伴なんでせう。」と横合からお澄が笑つた。  童子は額に合掌し、数珠さらくと押揉む真似して、 「古い奴だが、船中にて然やうな事は申さぬものにて候。」 「事を壊すね、お前は。」と、半之助が櫟つたい顔してお澄を睨む。 「だつて、親は泣よりの相談ごとをして居るやうぢや無いんですもの。紋着で胡坐で、容子つた ら・鵡鵡がへりに、土手の蕎麦屋で、三分なくなす智慧を出し、と言つた形ぢやありませんか。」 「可いよ、お前は学者だよ。」 「学者が、唯今湯豆腐を献上いたします。」と、また|莞爾《につこり》して、お澄は立つ。 「さて・知盛は失せにけり…-・と、もう一つの、春柳亭の方の餌の話にしたいが、廉さんの手前、 |速《すみや》かに然うも成るまい。」  と額を撫でた、半之助も|些《ち》と酔が廻つて、 「|串戯《じようだん》は止して、我々には工面が着かず、廉さんなどは、秘蔵の重宝、深窓の娘に身売でもさせ るやうに、惜しがるんだがね。私は、端から意見が違つて、実は売る方は賛成なんだよ。---此 のね、其がだ、鼓の身に成つて察して見ると、|記念《かたみ》だ、|重代《ぢうだい》だと云つて、叔母さんや従姉妹たち の袖に|密《そつ》と包まれて居るよりか、然るべき人物の手に抱かれて、何十年来秘めた声を、能楽の天 地に、大に鳴つて見たいだらうと思ふ。時節到来、鼓に取つては、---処で、人の手に掛るにし- ㌣%、女子供の初午の太鼓や、狸の腹鼓のやうな音は出したくなからう。行きたいのはお流儀の 手利の許です。  ・-・ね、廉さん、一つ僕がお酌をしよう。」と扇をさす手に、|丁《ちやう》と注ぎ、 「此の間、話があつて、私があの鼓を預つてから、人にも見せる、彼方此方、相談もするのだが ね、実はお素人には、余り向かない品なんだよ。同じ事でも、これが小鼓の方だと、近頃は貴婦 人令嬢、稽古に有頂天と言ふ処だから、羽が生えて飛ぶんです。が、それも蒔絵の有る方が|装飾《かざり》 に成るから望まれる。…-・それこそ、一挺で千両三千両と云ふ勢だけれどもね、|大鼓《おほかは》の方は余り 望み手がないのです、…-・習ふものが少いから。---それでも、昔の大名道具で、|金高蒔絵《きんたかまきゑ》なぞ 云ふのだと、|一廉《いつかど》の価もしよう、だがね。  然も祖父さんの、あの餌は、烏胴と称へてね、千蔵さんも知つてるが、|純商売人《じゆんくろうと》の使ふ蒔絵な し、見た処、玉川に落ちた|砧《きぬた》の杵を、月夜に拾つたと云ふ形なんだから、.素人は欲しがりません。  尤も商売人の方には、我も我もと、望手が沢山で、中にも今のお流儀の家元なぞは、あれを見 せると(織居の中でも名作だし、さすがは|持人《もちで》が持人だけ、柔かに美しく、ものの見事に打込ん である。長い月日の照降に、また一点のくるひもない。)と|些《ち》と|極《きま》りの悪い誉方で。(家の宝にも いたしたいが、)可いかい、(いたしたいが。)さあ、此処なんだ。……」 不断、口数を利かない半之助が、ものに激したやうに言ひ続けて、息継の麦酒をぐいくと又 |岬《あふ》つた。       五 「ね、|他事《ひとごと》とは言はれない。此の商売人と成ると、道具に凝つて大金を出しません。出さんのぢ やない、富豪や成金のやうに…-どころか、まるで雲泥の相違で金がないのだね。1家元も手 離せないほど欲しいには欲しいけれども、代金の処は、と言ふ。…-さ、其の代金の処が、叔母 さんや、姉さんたちが、折紙の心づもりに較べると、半分と言ひたいが三分の一足らずだよ。, …-売物には花だから、景気に言へば、千円のつもりが雑とまあ、三百両です。  家元も、それではお気の毒だから、余所へ見せる、---と云ふのだがね。1其の折紙とても さ、買手があつての上の事で、其の買手が、今いふやうな次第だから、何時あるか分りません。 1烏胴と来て|大鼓《おほかは》だから。  商売上、そりや私は、大名にも、華族にも|知己《ちかづき》がある。来歴を言つて相談すれば、有余る|身 上《しんしやう》で引受けないとは限らないが、それだと鼓が死ん了《ぢま》ふ。蔵の中で骨董に成らないまでも、拙《へた》に 打たれると、胴の調子に狂ひが出て、鼓の音色が濁るんだよ。一分、五厘と云ふ、くり方と手の 冴一づにあるんだからね、商売人でも、第一私なんか手も出せない。あれだけの品と思ふと、紋 着の上へ|密《そつ》と乗せて見るくらゐさ。…-だからね、私としては、大名にも、華族にも、富豪に㌔ 渡したくない、其の家元に譲りたいんだよ。  尤も、時を待つて、其のうちに、と云ふのだつたら、高価なものに成るかも知れない。-…叔 母さんの方も急ぐと云ふし、…-急いぢやあねえ。1いや、急がないまでも、急には大した素 人の客はあるまいと思ふ。が、それぢやあ、ずるくで話が|干《ひ》ない。1私は寧ろ、千両の客が 現に|菱《こモ》にあるとしても、三百両へ渡したい。|情人《いモひと》に身を任すんだ、旦那を止して。・…-些と当世 でないかも知れないが、昔の|遊女《おいらん》、|芸者《はおり》の意気だよ。われく芸人の一族だ。」  半之助は、衝と卓子台の端を打つた、が、タンとは響かず、右の古物でストンと鳴る。よし其 も、麦に餌の音がしたら、酒どころでなく泣かねば成るまい。 「君が承知で、叔母さんや従姉妹たちに納得さして、家元に渡さないか。鼓のために頼むんだよ。 実際…-」  と云ふと声がしめやかに成つて沈んだのである。  酒顯童子が聞きつゝむくくと身を|緊《し》めたかと思ふと、大粒な涙をぽろりと泣いて、「同感で. す、私もね、はな聞いた時は、然う云ふ事情なら、一つ|知己《ちかづき》の成金を煙に捲いて、ずばッと出さ せよう、と思つた、心当りが無いでもなかつたんですがな、成程、せつかくの鼓のためには、風 呂敷づつみをぶら下げて道具屋の真似はしたくない。廉三郎さん、出来るものなら、一つ、しめ て下すつた方が結構です。」と、我が事ででもあるように、手をつくまでに言つたのは、|実《げ》に一 芸は|頼母《たのむ》しい。 「賛成々々。」 「|芸者《はおり》、|遊君《おいらん》の意気は嬉しいな。・-…」  と、そんなことのみを嬉しがる、おなじ若手の花形の、姿も相舞の対に揃つた、藤波、松山と 云ふ両人、までは可いが、一人は|檜物町《ひものちやう》に、年増があつて|願《おとがひ》が痩せ、一人は新婚で目がくぼい、 生命がけの色男、鶴と亀とが舞袴で、廊下から並んで入つた1晩の宴会に、こゝで落合ふため に一所に来たのが、茶の間の話の、思はず真に入つた処、と廊下傍の台所口で、お澄の目が留女 で、いままで控へて居たのであつた。 「いやあ、ひよろくと出て来たな、女の子の影法師等。」と酒顧童子が指を輪にして眼を|腰《みひら》く。 「さあく天下は穏かでなく成つた。1真面目な話はして居られない。-.-しかし兄貴、」  と半之助は目をしばたゝいて、 「此の人たちの前につけても、身勝手のやうだけれど、実に私も、上手の手で打つて貰つて、舞 台の上で・…-生れてからまだ見た事のない、世を隔てた祖父さんの、其の窃の音が聞きたいよ。」  ほろりとしつゝ、卜|莞爾《につこり》して、 「金もなくつて、鼓の情人に成りたいのさ-・-・何うだい、些と図々しいかい。」  廉三郎は、拳をしかと膝について、 「可、従姉妹二人、叔母もともに、…-其の|遊女《おいらん》、|芸者《はおり》の意気だ。」と肩を|從耳《そぴや》かして言つた。        六  銚子が一時に二本出て、話題が春柳亭に於ける美人に替つた。…-其の欲と言ふ柳橋の芸者の 名は、隅田川の流に響いて、若い三人も予て皆知つて居た。 「聞けば、猿楽町や、九段の舞台へも来た事はあるさうだがね、かけ違つて、私は、ついお目に 掛らずさ。それがね、先月、正月の、六日年越の夜、廉さんと二人、浜町の春柳亭、ね、俗に御 殿とか言ふとさ、|金燦欄《きんぴか》な待合へ呼ばれた時、其の美人に逢つたんだよ。」と半之助が言ふ。  廉三郎は引取つて、三人にまた話した。 「私たちを呼んだ客は、京都の請負師でね、いつか、私は旅行、半さんは|催会《もよほし》があつて京都へ行 つたのに、|西石垣《さいせき》の松華楼で、旅宿が一つだつた時、二人で其の男に|知己《ちかづき》に成つたんです。正月 早々日本橋の或旅館から、頂づけ自動車を飛ばして来て、東京へ遊びに来た、直ぐに何処かへ飲 みに行かう、と誘ふんですが、|予《かね》て酒の上のよくない、些と・…-どころか、大分に乱、と云ふの で、お荷物な事を知つてるからね、|脚《いさト》か高慢だけれども、止むを得ざる前約ありか何かで、体よ く辞退に及ぶ、とそれぢや明日と言ふ。都合が悪い、明後日と言ふ。さあ、と遁を張る。|夜分不 可《やぷんいけ》なければ、昼間、昼問いけなければ朝でもと言ふ。いや、いづれ此方からお宿へ、と帰したが、 帰るか、帰らないうちに電報を寄越す、取次で呼出しの電話が懸る、、-・…私にさへ其の勢だから、 半さんの方は又其の猛烈さ察すべしで、とうく六日の晩に、それも、好い心持に、うとく一 裸入した処を、無理にも起きて、御招待に預からなけりや成らない事に成つたんです。尤も半さ んと打合せて、此方も|屹《きつ》と行くからと言ふ約束なんでね…-九時頃から浜町へ|渋《しぷく》々。  何、一体が、お茶屋へ渋々と云ふ柄ぢやない。飲むなら蕎麦屋で、-したぢは、よしだが、御殿 で請負師はあしらひ兼ねる---半さんも知つてるけれども。……春柳亭へ行くと、(お待兼)か 何かで、女中がさや<と帯を鳴らして奥座敷へ御案内。卜金屏風の裡に右の請負師大尽の、て らてらと分けた|頭髪《かみのけ》が光つて居ります、色の真黒な五十余りの肥つた芸者が、(入らつしやい! おやまあ嬉しいこと、お揃ひの|頭髪《おぐし》で。)と来ました、人をつけ1」  廉三郎は馴れた手酌で、ぐつと|岬《あふ》つて、 「|温習《おさらひ》の地を弾きやしまいし、野郎にお揃の島田と云ふがあるものかね。おまけに風邪気で|雲脂《ふけ》 だらけと云ふんです。…-馬鹿世辞を云ふか、調子はづれにトチ狂ふ。悪く|権高《けんだか》く澄ますのがあ るし、男でさへ顔から火の出る大口を利くかと思へば、|少《わか》い妓にぺこ<して、涙の出るやうな、 みじめなのがある。客も五十を過ぎたら遠慮をして遣るから、芸者も四十過ぎにやよすこつた。」  半之助が笑ひながら、銚子を取つて、 「まあ、|然《さ》う怒るなよ、兄貴。」 「|可《よし》、|可《よし》、いゝ児だ、怒りはしない。が、見て居て|果敢《はか》なく成らあね、さみしいよ。…-のつけ に、から世辞を食つて|棟然《ぞつ》とした処へ、床の間へ席を取つては恐縮として、二つ座蒲団の艶々と したのが|堆《うづたか》く並んで、まだ半さんは来て居ない。で、次に坐つて居たのが、当日負けた、何と か言ふ素敵もない大きな相撲取さ。どうせ取るなら勝てぱ可いのにーまた、叱られるがね、私 と違つて、此の人は相撲と来ると夢中だから。」  と火鉢の縁で、半之助の手に手をのせつ・、廉三、三傑に対して曰く、 「大尽は、暮方から、ウイスキイ、カクテルの立てつけで、酔ふと蒼く成る質。最う些と舌が引 釣つて居て、(ようこそや、や、や、や。)と、ぐたくとしては、テンテレツクと唯すやうに、 首をぐにやくと|悼《ふ》つては肩をのめらすかと思へば、|赫《かノ》と、苦さうな口を開けて、額に稲妻を打 たせて、|屹《きつ》と正面に眼を据ゑる。-…猛虎、金屏に|嚥《うそぷ》く処、所謂大虎とこそは成つたるものです。 いや、人の事は言へません。 (|宝生《はうしやう》の若大将はまだか、直だすか。フン<、)と詰つた鼻をクン/\鳴らすと、くな/\と 頭突をくれて、又|腕転《のめ》る。それ赫と気を吐いて|四辺《あたり》を睨む。」 七 「すぐに、しよぼくと成る。其の真赤な目を、やがて快から半巾を揉出して、拭いては擦り、 拭いては擦る。…-泣くのかと思へば、どたりと横ッ転けに、難産の赤子が突張つたと言う片手 をヌイと挙げて、(ガーゼと、|瑚酸《はうさん》と、水持て来い。)です。  それから取寄せて目を洗ふのですがね、女中に噺茶碗を持たせて、ぐたりと|願《おとがひ》をつけて、ガ ーゼを突込んだと思ふと、(冷たい!)と怒鳴つて暖くしろと言ふ。やり直して持つて来ると、 今度は(熱い!)と|喚《わめ》く。---三度目には、(|鈍《どん》くさい、湯加減も出来ぬかい、鼻つたらしが。) と鰍て僻雌る脇歳に突掛けて・ざぶりと湯を溢す…乱脈さね。芸妓の若いのが、毛収で拭くと、 えへゝ、と笑つて、あ、あ、あ、と泣くやうな呼吸を内へ引いて、頭を引込めたと思ふと、拍子 にかかつて、ア、クシンと|嘘《くしやみ》だ。(これい、看病をせんかい1)と喚く下から、(目かいも見え 工ぬウ)何とかと、義太夫を両手を悼つて揉出して、(太樟を弾け、太樟を弾け、何や、此のへ げたれ芸妓。)と赫と睨む。  柵撲が立つた-ー髭が天井に支へたのが、向うへ、のしんと、セルの袴の大きな膝を、畳んだ 蚊帳ぐらゐに|押開《おつぴら》いて、(旦那、少し寝なはれ。)と膝を出すと、いきなり、乗つかかつて、相撲 の胸に噛り着いて、ベロ〈と其の頬を嘗める、…-関取も気の毒さ。いや、最う飲んでます、 と私は、綺麗な|少《わか》いのが三人居た誰かに、有合せた葡萄酒を注いで貰つて、お通夜をする気で見 て居ると、 (おや、入らつしやい、お待兼ね。)と婆芸者が、金屏風の蔭へ向つて、スッと一膝座を引いて 言つたつけ。助かつた、半さんが来た、と思ふと違つた。  屏風越に面影立つて、知らない花の香が、ほんのりと薫ると、此の白けた座の青畳に、淡い紫 の影が映す。すらくと裾を曳いて、霜かと思ふ羽二重足袋で、尚ほ緋の冴えた|褄捌《つまさぽ》きで、ト手 を支くと、芸妓島田。水晶かと見える籠甲の|突透《つきとほ》し、同じ平打の|笄《かうがい》、白襟の品の可さ。|端然《きちん》とし て座についたのを見ると、もう幾座敷か猪口を重ねて来た、色の白い、目の瞼がぼつとして、む かひ合つた床の間の|是真《ぜしん》の絵の、白梅に発と薄紅を映すばかりに見える。---|紫紺《しこん》の葉に包まれ た、冬牡丹と云ふのだつけ。                          .  すぐに銚子を向けられた時は、私は思はず、飲めないと言つて居た杯を取つたんです。お互に 凡夫は|可厭《いや》だね。  |最一《ちひと》つ、つきの可い事は、(まあ、思ひも掛けません処で、先日は失礼。)と挨拶をしたと思ひ 給へII先日にも、今日にも、つい唯今金屏風を半身で|顕《あらは》れた時までまるで見た事もない|婦《をんた》です。 いや、人違ひだらうと言ふと、(否、何うせお目には留まらなかつたでせうけれど、……あの時、 ですわ、ね。あの時のやうに、お隣へ参りませう。一寸引越しますから、皆さんお蕎麦を配りま すわ。)なんか言つて、|莞爾《につこり》しながら、|菖蒲《あやめ》の池の静な舟に乗つた姿で、一寸ふらついて、立つ て来て、火鉢に袖を兜れるやうにして又莞爾する。龍が天井からバタリと落ちたやうに、私の羽                                ぞ7 織へ揺れか」る下げた箱むすびの帯の端が触つたので、お恥かしいが、棟然としたくらゐでね。L  廉三郎は湯豆腐の湯気の中に、陶然と酔ふたる色して、 や「|次第《わけ》を聞けば、成程分つた。隣家と云ふは、能舞台の桟敷の事で、九段で、半さんが、暮に|熊《ゆ》 野を演つた時、来て居たと云ふのなんです。あ」然う言へば、円髭に結つて、貴夫人らしい、品 のい、、然も意気づくりなのが居ると思つた事があつた。つき通しの芸妓島田で、さげ帯と来て は、余りな変りやうで、こりやあ誰だつて見違へようぢやないか。  半さんが、やがて春柳亭へ来るのだと私が言ふと、・--・花片に蝶々の触つたやうに、髪の動く ほど喜んでね、いつも舞台でばかし、……一度お目に懸りたかつた、是非おひき合せ下さいまし つて言ふから、先づお名のり、と聞いたんですー(餌。)だつて言ふぢやないか。私は聞直し たよ、(筋。)と聞くと、都がへりをLた大鼓で相談のある最中。母も、叔母も、従姉たちも皆、 少い、美しいのが、其の座敷から遠く故郷の雪の中まで髪影弗と目に見えて、あゝ、鼓の精が顕れ た。と私は夢のやうに胱惚として、其の婦を見た。  半さんが入つて来た。」 八 「待ち給へ。」  半之助は卓子台を若手三傑の方へ、ぐいと押して、膝をづッと従兄に向けた、其の癖、麦酒の 七本目と、硝子杯だけは、手許に近く引着けながら、 「不思議だね。私は、あの晩、兄貴に紹介をされて、はじめて名を聞いたが、君が今、(心持。) で思つたと云ふあの研の姿を、生きた鼓のやうに見た。妙な事があつたんだよ1先刻、話した い珍談があると言つたのは其の事です。あれから、掛違つて、兄貴とは今日はじめて逢ふんだね ー皆も聞いてくれ給へ。然ほど思出のある其の美人が座にあつたものを、此の人はね、私が出 先から春柳亭へ廻ると、其の筋姉さんを私に|紹介《ひきあは》せて、間もなく目で知らせて、一足先へ帰りた いと言ふ。私も察して居たからね、引受けた、とのみ込んだもんだから、右の美人に送られて、 早めに、一人で引揚げた、と云つて、やがて十二時半だつたらうね。…-虎を押着けて遁げたの は卑怯だけれど、当方には遅参と申す落度ありで仕方がない。勇気を丹田に練つて、朝鮮陣の後 詰の形で、と大虎を引受けましたさ。  尤も私が行つた時分に、関取の膝枕から、むく<と 目を覚まして、大尽(やあ。)と一つ突んのめつて会釈をしたあとで、猛然として、口をゆがめ、 目を光らして、例の額に稲妻を打たせた処は、虎よりか、それ何だつけ、蒙雲国師が分身の禍と 云ふ怪獣に似て居ました。  廉さん、君が遁げると間もなくだつたよ。…-宝生先生に曲がない、(関取甚九が、其の姉さ ん弾いてんか、)と研に順を突出して、(|俺《わい》も踊る。)と諸膝で立揚る…-緒ら顔の肥つた女中と 婆さん芸妓が、(もう時間過でございます。)と断つたが騒動のはじまりでね。(けつたいな、十                         はξた"    けつ    しやぷ 二時過ぎに三味線が弾けんとは何や、あかんな東京の漢垂し。尻でも舐れ、祇園も新地もこれか らや。)(否、御規則でございます。)と宥めたのが尚ほ火を煽つて、(御規則おもしろい、法度が 何や、|俺《わい》が押潰いてお目に懸ける。恐らく五条の真中では朝比奈と呼ばれた門破りの大ぼんちや。 警視庁へちやっと|電《ノ》話を掛けてんか、総監殿に朝比奈が逢はうと吐せ。早うせんか、何に、掛け たが、居らぬと、はてな、遁げをつた。可わ、本家本元のみすや針へ談じてこまそ。つい晩方も 逢うて来た。内務省、いやさ、内務大臣官舎へ電話や、京は五条の朝比奈がお目にぶらさがらう と|悪《か》う取次げ。何ぢや、もうお休みだ。罧たらば起きろ、とすぐに電話だ。やい、行せぬかい|玄 妻《げんさい》め。)で、真個に掛けはしなからうが、遠くで鈴の言だけさして、女中と婆さんが行つたり来 たり、(ええ将があかぬな、|俺《わい》が元老にかけ合ふわ。)と突立つ処へ、見兼ねて、春柳亭の女房が づッと入つた。(旦那誠に行届きませぬ、私があるじでございます。)と|端正《きちん》と手を|支《つ》くと、(は あくはあ、)と退つて(大けに、)ときよろんとするトタンに、どんと尻餅を突く下から、行燈 仕立てのぞろりとした袴の紐を解くんだよ。おや、妙な事をする、と見るうちに、すぽりと脱い で、(先生、失礼なが此を穿いておくなはれ。)は突飛だね。---私は穿いてるんです、---然う 云ふと、(折角差上げようと思うて、西陣で織らせたものを、満座の中で突かへされるのは情な い。)ツてね、おいく泣出す。・…-仕方がないから、立つて裾を入れるとね、|研《こだま》がつき膝で、 うしろから腰板を当てたんだがね。」 「えへむ!」  此の時唐突に、酒顧童子が大江山以来の奇声を放つた。.  |唯《ト》、此の酒毒には|魔《うな》されよう、|嬰児《あかんぼ》が、むづかつたので、|添乳《そへぢ》をしながら、をかしさうに、目 をぱつちりと顔を上げて、炬燵で聞いて居たお澄が、くるりと背後向きの円髭の髪と、白い襟脚 と、白い二の腕ばかりを見せて、 「すう/\---」と軒を掻く。  松山、藤波二枚の役者も、おなじく声を合せて、 「すう/\、ぐう/\。」と言つた。 「勝手にしろ。」 「半さん、それから……」 九 「恰好なぞ構つては居られない、結城お召か何かのを上へ穿込んで、二枚で坐るとね、(よう聞 分けたや、念が届いて嬉しい<。)つて……又泣出した。おいノ\声を揚げるもんだから、渋 い面を苦くして居た関取がね、(泣きなはるない、大きξ坊や、坊。)と|団扇《うちは》見たいな掌で大尽の 背中を擦ると、よろくと|膝行立《ゐざりだ》ちして、其の関取の背中へ|伸掛《のしかち》つて、(負ぶ/\。)と甘たれ声 を出すぢやないか。 (あい、負なあれ。)と関取も酒落た奴さ、腰を抱いて、ぬつくと立つて、(坊ち帰ンはあれ、な、 あんじやうするさかい、|柔順《おとた》で|母《かち》はんへ行んなはれ。)とのつさり踏出すのを、機会に、春柳亭 の女房が、気転で、(お立ちだよー)此は出来たね。. 若い三人も、婆さんも、女中ぐるみ、潮に引かれたやうに、一斉に颯と立つて出る。私も一所に、 あの広々とした大式台まで誘はれた…・・悼は待たしてあるんです。時間は、やがて、一時半。す ぐに出ようと思つたけれど、外套が奥に在る-・・-第一袴の始末が悪い。|彼家《あすこ》に置いて待合から返 させようと、一人で奥へ引返すとハ此処なんだよ。窃が、一人で、もと居た処に薄ら寒さうに坐 つて居たがね。」  途切れくに掻いた軒が、ハタと留むと、酒顧童子は|眼《まなこ》を|円《つぷら》に火鉢に頬杖。 「何だか|悄乎《しよんぼり》と…-俯向いた髪の毛もはらくして、頬のあたりも痩せたかと見える---白襟よ りか顔の色が薄りと蒼味をさして、白い手の細いので、ぐつと胸を圧へた姿は、あの、|媚《たまめ》かしい、 意気なのだからね、対手は私で納まらないが、河庄の障子を覗いた、上京の梅川と云ふ形に見え ます。…・-冷えたらう、座敷は通魔が抜けたあとのやうに|寂翼《ひつそり》して、床の掛ものの絵の梅がハし ろじろと浮いて|芽《ぶん》と薫りさうでね、青畳が、私の足にも、霜を踏む気がして冷たい。あの、緋縮 緬の所々が宛然紅猪口が氷つたやうです。 (何うかしましたか。)と立つてて袴の紐を解きながら訊くとね、」 「すうくすうく。」と又お澄が軒でc 「うーむ。」と二枚が魔される。  |悠《か 》る時、酒顧童子は|頭禿《かしらかむろ》に|歯諮《はあらは》である。 「欲がね、兄貴、(否-・…別に・…-)と幽な声をして言つた廿れども、それ、脇腹へ指を反らし て、襟を捻ぢられたやうに、横顔の口をゆがめて、|姻梛《あだ》な眉をキリ<と釣つたんだもの、野暮 が見たつて差込む嶺さね。圧してあげう、と無理にも言つて見たい処だが、せめて一度でも逢つ たん尤と、.っきは可いが、初対面と来て居る、そいつは不可ない。第一績に対して経験がね」i むづかしいがー皆無なんだよ。L 「お澄さん、如何です、、」と、酒願は炬燵に声を掛けた。  お澄は寝んねん、寝んねんよを、手で言はせて、嬰児のオギーと泣くのをあやしながら、 「お生憎様、私は逆上せ性ですよ。」 「おさん泣かすな、馬肥せだ、此方は戦場に臨んでる処だぜ。」  と半之助は、膝を敲いて打笑ひ、 「人を呼ばうと、出しなに屏風の外にあつた外套を被たつけが、声を出して呼ぶのも変だし、駈 出すのも可訴いし、其のま、出了ふのも気掛りだし、また、来さうなものを誰も来ないし---」 「嬰児ちやん、お泣き。」と松山が声を掛けると、 「此奴は堪らない、ばアー」とばかりで、藤波は垣燵の方へ、すいと行く。  酒顯が目を|瞬《は》り、肩を怒らし、腕を張ること蟹に似たり。 「帽子まで持つたが、振切れないから、金屏臥を楯に兜う見るとね、龍のやうな、さげた帯が、 背から腰へ、弱々と成つて、横に伸びると、手を弱々と、脇息を取つて、ぐい、と引寄せたのが、 乳の下へ入つた、と思ふと、胸を圧へながら、斜に仰向いた眉が|輩《ひそ》んで、片手で帯の間から、|懐《くわい 》 ちゅうかがみ ふところがみ  しよひあげ         きせるづっ 中鏡、懐紙、背負揚、煙草入、煙管筒ー持つてたらう、君、いづれも紅いのを、其を、ば らくと畳の上へ投出したがね、鶴が悩んで血染の羽毛が一握づゝ、脱けるやうに痛々しい。 --然うすると、…-〆めて居たね、下/の緋縮緬の結び目を解いて、解いたのを潜らすと、片 端を左手へ掴んで、片端を唇に|御《くは》へると、仰向けに呼吸を入れる、鱈歯が、キリ<と幽に鳴つ て、片手で|病《つかへ》を圧しながら、ぐいと上下へ其の|扱帯《しごき》で、鳩尾を引結へて、ギイと総れるほど緊め た時、流れるやうに裾を投げる、褄にも緋の|絡《まつは》つたのが、千鳥に掛けた調の|緒其《をそ》のまゝで、窃の 姿は、秘曲のために、美しい胴を絞る、|宛然《さたがら》の鼓に見えて、ーハッと祖父さんの大鼓が目に見えて、 私は魅入られたやうに浮かり立つた--・-」 「半さん。」  と、更まつて呼ぶ…-廉三郎の声は、何故か震を帯びたのである。 「其処へ、芸者だの、女中-・-」 「待つておくれ、半さん。其処へ、誰も来なくっても可い。---あの女は、|予《かね》て舞台の君を思ひ 込んで居たらしい。其の夜の、それが空循で、君に介抱をさせるために、陰で女中と打合せがし てあつて……」  と半ば聞くや、松山が又すいと垣燵へ遁げた。 「桑原々々桑原。」と酒顛童子は頭を抱へて畳へ突伏す。 「詰らん事を。」 「否、そして其の晩言交はしたのでも構はない。私は、筋の其の様子、其の姿が、聞いたばかり で、恋しくつて、懐くつて、我慢が出来ない。…-然も母から叔母の手、従姉妹たちの手に伝へ た鼓を金子のために人手に渡す、此方は身売りの愁歎場だ。よし、それが、立派な打手の手に渡 つて鼓としては本望でも、離れる身には未練がある。愛惜があり、煩悩がある、執着、妄念と言 つても構はん。  売るのを厭だと言ふのぢやないよ。…-さあ、何と言はうか、可懐しい恋しい人に、鯉竹ぬわ かれをする悲みだ、それが其の人の幸福でも、出世でも、本望でも、私は、哀別離苦の疹に堪へ ない。  君は専門の芸人だ。舞台ぢや其の鼓に逢つて、且つ聞き且つ語つて心を通はす事が出来る-- 又概斜いて鼓の音色を聞分けられる技禰がある。私は不可ない。手に触れ、袖に包み、胸に抱く、 其の姿に一旦別れると、逢つても見えず、聞いても聞えず、且つ語つても心の通じないと同然な んだc  心を察して…-可いかい、此の欲に分るゝかはりに、あの鼓を、形、姿其のまゝに、半さん、 廉三郎に譲つておくれ。……少い、花やかな時の母、叔母、従姉妹たち、祖父さん、叔父の時代 を偲ぶ面影として視たい。恥を言ふが、私は寧ろ、鼓より、其の筋の姿の方が、心持を表はすの に容易いのだから、半さん、廉三郎に譲りたまへ。」  と、やゝ呼吸せはしく、しめやかに言つた。  岨燵で㌔火鉢でも、さすが、一流一技の芸人たち、粛然として、聞澄ます。  寝んねんよく。… 「1坊やのお守は、何処へ行た、山を越えて里へ行た、里の土産に何もろた。---」お澄が静 な優しい声。  半之助も、涙ぐんで、其の従兄の手を取つて、 .「可いとも…-私はもとより。……」        十 「まあ、|気障《きざ》だ。」  一口に唯… 「まあ、気障だ……」  念に掛け、思ひに思ひ、越えて二月の末つ方、浜町の待合、渚の一間で、宵から、やがて十二 時近くまで、待ちに待つて、漸と首尾が出来た研に対して、其の|大鼓《おほかは》の思出を、やゝ語り得た時、 芸者の口から一口に、 「まあ、気障だ。」  此を聞いた時の廉三郎の、心の裡は?……顔の色は?・…-全身の血が皆砂利に成つて、町に近 い隅田川の流も忽ち溝泥に変る思ひがした。  1欲は座敷に入る時、媚かしく絡はる裳裾を、爪さきでトンと捌くまで、艶に其の夜は酔つ て居た。  渚と言ふ此の待合は、はじめ仲の町の芸者で、半頃新橋で鳴らした、名を千貝と云ふ、諸芸に 丹練な中にも、清元に名誉の聞えがあつたが、  不思議な事で1同じ土地の若手の芸妓に、 其の千貝と言ふ名を譲つて、本名のお梶に返つて、此の待合をはじめたので、間数も座敷も少い が、|御館《おやかた》、御殿の春柳亭に対して、|鉄拐《てつか》づくりの磨格子、ともに横町の名物で、両方の問さへ、 |間隔《なか》一町に足らず近いのである。  餌は、宵から春柳亭に出て居たが、後口の此の渚に来ようと、横町の黒板塀を、白襟で、上着 は縫の紅梅に、銀糸の雨の裾模様、黒儒子に貫くばかり白羽の矢を刺繍して薄紅の矢文を結んだ          -ひつた がのこ   しよ"あ 丸帯をお太鼓に、緋の匹田鹿子の背負上げ、ほんのりと、絵が抜出た風情で、取る手がふらつく、 棲も酔うたり。紅を、翠の柳の腰で極めて、突袖で通りかかると---其の時、ふと態う言ふ事が あつた。  前途から、するくと|空俸《からぐるま》を曳いて来る。  空悼に仔細はなけれど、|母衣《ほろ》を刎ねたのが、腰掛へ、悪う、三味線を一挺、|転斡《てんじん》を直に立てて。 包みもしないから、胴のなりの白い顔で、其の三味線が乗つて居る。待て、三味線を乗せて居る。  広くて薄暗い、何か、長廊下に点されたやうな、ふわく春めくが些と寂しい軒燈の影に、其 の高い処にスッと乗つた四角な白い顔がへいつも影身につき添ふ、芸妓は同じ誰も馴染の姿だか ら、ふと立停まつて、欲が、と見る処へ、くるくと近寄つた。 「おや、玉三の姉さん…-お|歩行《ひろひ》で、」  と其の車夫が声を掛ける…-餌の家は桂家と言つて、其の色香で、品が可いのに、我盤が出来 て、贅沢をするから、出入りのものなどは桂姫に見立てて、通り名を玉三と言ふのである。 ノ 「あゝ元さん、何処から。」 「へい、唯今渚さんから。」 「私も・…とれから。」 「渚さん?」 「あゝ。」 「道理こそお歩行で、御苦労様でございます。」 「何うしたのよ。」 「えゝ。」 「其の三味線さ。」 「えゝ、こりやね、姉さん、そら御近所の初田家さん、彼処の操さんのでございますがね、宵か ら些と、もつれがありましてね、迎ひに行つた操さんが帰らないで、箱だけ|悪《か》うやつて乗ッかつ. てお帰りてつた、」  と振返つて、擁めて見て、 「へゝゝ、妙な形でございましてね。」 「をかあしな、操さんが帰らないで、箱ばかり。可厭だ、記念にでも成るやうに聞えるぢやあり ませんか。・・…・可哀相な妓だからね、他所様の事だけれど、もつれツて、何かい、あの妓に心配 な事ぢやないのかい、一寸聞いときませうよ、渚さんへ行くのだから、私がまた、」 ーと挟を揚げて胸を教えた。振を、はつと溢るゝ|留南奇《とめき》に、心の薫りも色に出て、黒板塀の紅梅 が、目許の酔と島田を彩る。…-鼻筋の通つた、色白な、細面の美しさ。 此の意気の此の婦が、廉三郎を、 「まあ、気障だ。」 十一 「何ね、玉三の姉さん。」  車夫は腕で一つ、棒を極めて、 「初田家ぢや、操さんが、渚へ出ると間もなく、後口が掛つたつてんで以て、幾度も電話ロヘ呼 出して催促をしたんださうですがね。御当人、ぢきだの、すぐだのと言ふばかりで、手間が取れ て、一向将があかないもんですから、|大焦《おほじ》れに成つて、私がお迎ひのお使ひでさ。え」、此のお 迎ひが|尋常《たぺ》のぢやないんです。  主人の代理だ、客は先方のもの、芸者は此方のもの---」  玉三の餌が|莞爾《につこり》しながら、 「理窟だわね。」 「え斗、筋は立つてるんですよ。何でも|厳談《げんだん》に及んで、無理だつて構はない、又無理は無いのだ から、すぐに、其の悼へ乗せて帰つて来い、と云ふお使ひでしてね。御存じの通り、操さんは年 期ものですから、自由は利きませんや1処へ、今夜の客つて言ふのは、何処か、人形町辺の小 体な小問物屋の、お|剰《まけ》に部屋住と来て、為に成りませんのを、生憎と又操さんが血道を上げてる のを、内で知つてて、予々、中を堰いてるらしいんですがね。」 「羨しいね、色師や。」と|輻《やぼね》について、横に出て、三味線を覗いて言ふ。 「|御串戯《こじようだん》。」 「些とお静に願ひませうか。|悪《か》う見えても春柳亭で嫌はれたのが一人居るんだからさ。」 「|非望人《むほんにん》だね、姉さんを口説くんぢや、」 「あら、勿体ない、口説いたのは私の方だよ。」 「罰が当る!」と、ひよこくと|叩頭《おじぎ》をする。  唯、褄を片捌きに背後向きで、|泥障《あふり》を軽く指で弾いて、 「そして、何うなの、操ちやんは?」 「祝儀不祝儀にやよらないんだ、貰つて帰る! 芸妓衆をおくんなさいと此方もお役目でさ。渚 の式台へ凄味に手拭を捻込んで、肱を張つたんだ、私あ。彼処の女中が揉手をしながら、(実は ね、操さんは今しがたお客様と何処か運動をするつて出掛けなすつたから、悪からず、お前さん 其処を可いやうに。)1可いやうにたつて、袖の下へ些とも|銭《ねた》が通はねえ。」 「おや、お前さんは|手品師《てじなや》かい。」 「まあ話でさ。怪しからねえ、人の内の|抱妓《かしへ》を預つて、勝手に運動もねえもんだ、大川が近い、 落ちたら何うする。網でも釣樟でも持つて行つて探して違れて来ておくんなさい、芸妓衆を乗せ ねえぢや帰られません、と|式台《しきだい》で反返りますとね。(一寸、人の内の抱妓さんは、此処に居るぢ やないか、何処へも行きやしない、今お帰し申すよ。)とお帳場わきの障子の陰から爽かな声が 掛つたと思ふと、お前さん、薄手な|円髭《まるまげ》に水色の手絡、|古渡珊瑚《こわたりさんご》の管、襟のか」つた|唐桟柄《たうざんがら》の |縞縮緬《しまおめし》に、八端の|腹合《はらあは》せを〆めた、背のすらりとした、ぞつとするほど意気な年増が、」 「|主婦《おカみ》さんだね。」 「え」、此の三味線を、|悠《か》う、櫓を切るやうに、前へ取つて片手で持つて、づッと出ました。」 「紀之国屋。」 「誉めちや不可ませんや、此方は凹みだ。---(若い衆さん、御苦労様、さあ、操さんを乗せて おいで。渚が箱を返します。芸者衆を返すより、此の方が確だつて、お抱主に然うお言ひ…-酔 つてるから気をつけておあげなさいよ。)つて、莞爾すると澄して入つて了うたんでね。え・、 何だか、煙に巻かれましてね、些とも訳が解りませんがね、変に其の言葉に力が入つてて、妙に ね、此の三味線は操さんが乗つてるやうな気がするんですよ。」 「嬉しいねえ!」  と|姻梛《あだ》な声して、片手探りに帯の問から、祝儀づつみを其のまんま、 「飛んでもねえ、こりや、姉さん、何ですえ。」 「何でもないの、途中でお手間を取らせ賃、私が油を売つたお代。1操さん、今頃は|嚥《さ》ぞお楽 み。」  と擦れて|出状《でざま》に、|車上《しやじやう》の三味線を密と叩くと、手が冴えたやうに、リーンと響く。 「あ、|棟然《ぞつと》した。姉さんっ」 「寒いね、」  と突袖の快を帯へ|掻込《かいこ》んで、すら<,と分れながら、 「|母衣《ほろ》をお掛け、露は可いけど、色師には夜風は毒だよ。」 十二  電話口で、壁一重に、きつぱりとした女の声、 「車が、お迎ひの車ですか、手間が取れますつて、今しがたーはあ、今しがた帰りました。貴 方の操さんは、はあ、芸者衆は乗つては帰りません、が箱は確に其の車に乗つて参ります。馬鹿 に、馬鹿にするなつて、何を仰有るんです。お呼び申した芸者衆の表道具をお返し申せば、御当 人より確だと存じますよ。はい、はい、何です、人間…・-えゝ、茶屋では人間の芸者より箱が大 事ぢやありませんか。箱はお預り申しますが、えゝ、お預りの品は確にお帰し申しますとも。決 して間違へはいたしません。人間の方はでございますね、まあ、まあ、お聞きなさいまし、貴方 でおつしやる人問の芸者衆は、手前ども勝手には成りかねます。貴方からお呼立てがあればお取 次はいたします、けれども、お客人が帰せ、とおつしやらず、芸者衆が帰らうとしないものを、 えゝ、はあ、さあお|抱妓《かトヘ》か、御譜代か、お旗本か何か存じませんが手前どむの家来でも、女中で もないものを、早く帰れとは申されないではありませんか。・…・否、否、まあ、お待ちなさいま し、貴方は、女中さんですか。そんな事を言つて、御主人ではあります玄い。-…渚の梶でござ います。梶が申します。・…-はあ、それは。お聞きなさいましよ、お客が誘つたんですか、芸妓 衆の|発議《ほつぎ》でございませうか。両方で気が合つて、何処かへ、運動がてら出掛けると言ふものを、 私どもで、|不可《いけな》いとは申され玄せん。えゝ、然うですとも。行つて入らつしやいまし、お静に、 と確にお見送り申しましたとも。何処へ、…-・そんな事を知るものですか。1-人間が勝手に|歩 行《ある》くんですから。しかし、しかしですね、芸妓は貴方からお呼び申したんですから、人間は出て 行きましても、三味線は出しません、決して渡しません、此は貴方から私の預りものですから、 御主人の貴方へ丁とお返し申します。え、何でございますつて、箱どめ、以来は私どもへ芸妓衆 を断るんですつて、可うございますとも、私の方でもお断りをいたします。はあ、怪我でも-- 間違でもあ.つたら何うするつて、ほゝ・」、人間の方は分りません、いま返しました三味線が、 途中で、怪我、間違ひの無いやうには、茶屋小屋のあるじとして、はい、お燈明を上げて祈つて 居ります4然やうなら……」  壁越しの|編子《しゆす》の|鼠鳴《ねずみなき》。 「女房だ、嬉しいな5  此の一間で、廉三郎は又独酌の杯を挙げた。  白魚鍋も春景色。…-今宵は二月の末と言ふのに、|雪催《ゆきもよ》ひに似た曇空で、竹があるか、障子の 外を、時々さらくと鳴る風に、白いものが交りさうに思はれた。が、それも、大川の風情にこ そ、筆火の燃ゆるに似た、火桶に紅き桜炭。戸外の寒さに、|可懐《なつか》しい人の手は、ちらりと近く、 其の白魚の影を暖めよう。  待焦れた、今夜が三度めで、前は二度とも、当時第一のうれつ妓の、隙がなくて逢はずに戻つ た。  渚の家も繁昌で、来た時に、外に座敷がなかつたので、通廊下の細いのを隔てたばかりの、帳 場に近い、式台を背後にした|端近《はしぢか》な此の六畳を、お我慢が成りますなら、で、通されたものだつ け。何、お我慢どころか、金子には成らぬ、画家も、洋画の何派と来ては、腰張どころか、壁が 落ちて、それさへ家賃が滞る…-此だけの座敷は内には無い、、  いまの電話は、先刻からのいさくさで、廊下で、何かひそ<話。男が焦れる、女が泣く、女 房が捌いて、やがて二人づれで出たらしい。はじめから催促の電話やら、遣取やら、一々手に取 るやうに間近に聞えたのも、白魚の外に、本場らしい、刺身のやうな肴で可かつた。 「御退屈様。」  か、何か言つて、…・-但、女中が|脇息《けふそく》をくれたのには、殿様、ぎよつとなすつたが、それも、 緋鹿子の|扱帯《しごき》でしめた、鼓の台と髪影弗として、薄面影の幻の、|由縁《ゆかり》の色を見るばかり。肱は掛け ずに、胸を圧へて可懐しかつたに1  其の電話が切れる、と間もなかつた。 「此方、」  と、すらりと襖が開く、と見ると、|裾《もすそ》を曳いた、すつきりとした立姿で、|悪《か》う(緋の|背負揚《しよひあげ》を 手で一緊めした、が、不思議に、夢にも忘れぬ、鼓の緒とは見えないで、冷い帯の|蛇身《じやしん》に燃ゆる 焔に|紛《まが》つて、冷やかに凄かつた。        十三 「---気障かい。」  いつか、半之助の家で、其の従兄弟たちと語合つた意中を1実は、最う筋が座敷に入つた時 の顔色と容子の冷やかなので悟らねばならなかつたのに、戸外の寒さに、酔覚が胸の暖かさを|櫻《さら》 つたらう、ど手前勘に当推量して1一通り話すが否や、 「まあ、気障だ。」  一言、毒の針で脈を刺されて、廉三郎は、声も血も氷りついたのを、火をば|便宜《よすが》に、や」震へ ながら火鉢に縄つた。あゝ、一息の先刻までは、これを大川の春深き白魚の篭火と視た、うつゝ 心の浅間しさ。 「勿論、気障だらう、が、気障と言はれるには替へられないほど、然うね、何と言はうね、堪ら なく、可懐しく床しかつたんだよ。」  餌は、まあ、気障だで、ハッと手を拍つやうに、落した金口の煙管を拾ふと、袖の上で、. 払かずに清えた吸殻の小さな火皿を、凝と傭目の砒を上げて、|擁《た》めて視つ、、 「…-此方は堪らなく気障ですよ。尚ほ堪らない、一可懐しく床しく、ガって、三世相の上の棚に. 投込んである煤だらけの女今川の書抜きだわね。舌つたらずな、可厭味な---今時は堅気だつて、 そんな文句は受取りはしませんツさ。いけ|不好《すかた》い、芸妓に向つて,--」  と煙管を刎ねるほど袖を張つて、すつきり言つた。 「悪かつた。」  と又頬のこけるまで、気を|萎《なや》して、 「悪かつた、が、私は芸妓だと思つて言つたのぢやなかつたんだよ、可懐しい-.ゝ-又不可ないか ね。然し何う言なう、他に言ひやうはない、矢張り可懐しい、其の従姉妹だの、何か。」 「お目には掛りませんがね、一寸へ、」  研はトンと煙管を払いて、 「もつけの|廃倖《しあゆせ》と、私は貴方の従姉妹なんぞに似て居やしないんですから。」 「まあ、お前さん、顔容が似て居ると言ふんぢやない。先刻から話した通りの次第で、われ< 一族が少なからず可懐いおもひでのある、其の鼓に分れねばならない処へ、半さんに聞いた、あ の晩の、,お前さんの、然うやつて、|下《したじめ》〆で鳩尾を結へた姿が、」 「あ・、気味が悪い。」  と、むづつきさうに、ぶるくと肩を振つて、 「下!だの、鳩尾だのつて、些とでも私の膚に近い処を、貴方の口にされちや|棟然《ぞつ》とする。止し て頂戴。・…-芋虫が上這ひをしさうで成らない。」  最一つ自棄に身震ひして、 「男つてものはね、一寸、殿方はよ……そんな、ふやけた、ねばイ、した、口説きやうをするも んぢやありません。|御飯粒《おまんまつぷ》のふやけたのを|麓末《そまつ》にすると|蜻蠕《ためくぢ》に成りますッさ、葛西から来た娼や が然う言つたつけ。貴方は御飯粒がふやけたやうね、これだけ芸者に鹿末にされりや、追着け蜻 蠕に成りますからね、私ン許の羽目板へ来て取着いて御覧なさい、|塩花《しほばな》を振ってあげますから。  あ、打つ、打てますか、面白いね。」  唯、一膝引いた、が、廉三郎は顔の色を変へたばかり、手を動かさうともしなかつた。其のま ま欲は居直つて、椀を見て、|蓋《きせ》を取ると、トンと肱を横に突いて、たッ/\と銚子を注いだ。 「ふゝん。」  と気勢つた笑を洩らすと、島田が揺れたが、.眉のあたり爽な気が満ちて、 「川端近くへ出掛けて来て、白魚鍋なんて行過ぎてるわよ。牛肉でも突いてれば可いのに、葱沢 山で。此の渚さんはね、待合で、お取次なんですから、御前様御意とあれば、焼芋でも何でも取 寄せて上げるんですわ。」  と卓子台に|凭懸《よつか》つて、|鳳鳳《ほうわう》の円を透彫の平打の|黄金簪《きんかん》で鍋の白魚をつ・いた、が、口ヘは入れ ずに、簪もカチリと投げつゝ、お蓋の酒を一息に呻《ぐい》と煽る。 十四 「成程。さあ、矢張り、其の白魚鍋が同じ事で、」  と廉三郎は、成程ふやけたことを言ふ。が、しかし考へて見れば、|渠《かれ》が今の此の場合は、花見 に|験雨《ゆふだち》に逢つたか、願掛けの|御籔《みくじ》に大凶と出たやうなもので、驚けぱとて、恐るればとて、憤る ことは出来なかつたかも知れないのである。 「気取つて、選好みをして其を食散らさうと云ふ心ぢやなかつたんだ、如何にも身分相当なら、 牛が焼芋で十分なんだ。」 「え」、然うよ、其の通りですわ。牛肉か、焼芋ね、でなけりや、|五荷棒《ごかぼう》かへ蕨が可いんだよ ーいくらか東京に近い処の芸妓が欲しいと言ふんなら。一度やそこら、人の御馳走に呼ばれた お庇で、芸妓が口を利いたつて、いゝ気に成つて、何処だと思つてるの、此処はね、柳橋芳町が 入交ぜに、本場の姉さんが出入る処ですよ。……二度も三度も、一人で出て来て、名ざしで人を 呼ぶなんて---お剰に、宵から、座敷ふさげに、私ぱかりを当にして、一人で待つて居るなんぞ、 品川の|脚楊釣《きやたっづり》だね、笠を被つて、釣竿を持つておいでなさいよ、1何か、私と、わけでもあり さうに見えて、此家の内へも外聞が悪いわ。そんな事はね、もう些と、お金子があるか、で、な けりや、容子の可い人のする事です。」 「まあ、聞き給へ。其だ、それが、互に心持のくひ違ふ基なんだ。たとへば其の白魚鍋だね、今 も云つた通り、敢て気取らうとも酒落ようとも思つて読へた次第ぢやないのだ。1直き其処が、 電話口だからよく聞える。先刻此処へ来た時に、女中が何処か料理屋へ電話を掛けた。他の座敷 の註文だらう-…白魚と、小鯛を、と任心う言ふんだ。  可いかい。焼くか、煮るか、此方はそれさへ分別のつかない男だが、二月の末だ、雪模様だ、 黄肌鮪だ、鰻だと言ふなら知らず、隅田が其処の此の辺に、其の白魚と小鯛とが、如何にも景色 に相応しい、と思ふと、何だか電燈さへ、梅に月が出たやうで、又気障だらうが|可懐《なつか》しかつた。 お芋の煮えたも御存じなしが、いくらか極りは悪かつたが、女中が来た時、相談すると、(白魚 は鍋が出来ます、小鯛は椀になさいまし、鶯菜のお浸を添へませう。)と言つてくれた。見給へ、 其の屏風は檜垣の紅梅、私は実に嬉しかつた。L  欲は、まともに島田を見せて、肌の紅かすかにほのめく、すつきり白い襟脚で、うしろ向きに 肱をついて、天井を見て居たが、がつかりするやうに片頬を捻ぢると、おくれ毛がはら<と、 椀の中を、谷川の如くに覗いて、 「あゝ、此の小鯛も災難だ。」 ,「いや、食やしない、見て居たんだ。春景色の心に浸つて、それも災難なら、災難だらうか。お 前さんに対するのも同一訳だ。…-名も研だし、-活きた其の鼓の姿、と思ふと、母も、叔母も、 従姉妹も、月があり、紅白の梅が咲き、すらく春の風が吹く、そして鶯の鳴音が聞える。・' あ・、年月は可恐しい、或は凋み、或は枯れ、或は散り、或は朽ちた人たちに、其の春の景色の 中で、若く、花やかに、美しく、目前に逢へるやうな気がしたので、覚めた夢を追懸けるやうな、 あこがれた、心で、それで、実は、実は-…」  と、はずむ息を|吻《ほつ》と吐き、 「それで、お前さんに逢ひに来たんだ。今更、申訳や、卑怯ぢやない、決して、お前さんを口説 くの何の、そんな気は微塵もなかつた。L 「ふん、」と笑ふ。 「否、実際、徴塵もなかつた。」 「また、口説かれて堪りますか、ふ」ん、罰の当つた、ですがね、」  と焦つたさうに、褄を返して、向直つて、 「それは負惜みよ。私の、私の此の権幕を見たもんだから、色気の無いやうな事を言つて、高慢 に清浄がつて、何の、少し白い歯を見せようものなら、すぐにつけ込まうッて気で居る事はね、 目つきにも、鼻つきにも、丁と人相に顕れてますさ。」  と又椀の蓋を、今度は|弥蔵《やぞう》とか云ふやうに、袖を投げた懐手の、つッかけた襟をあらはに、搦 んだ紅見ゆるまで、ドンと胸ぐるみ卓子台に口をつけて飲まうとして、ハッと咽る、と切なさを、 其の切なさを押堪へる、鑓甲の照もたらくと、髪の柳の姿を揉んで、何故か、わなくと震へ たのである。 十五  其の閉ぢた目を細りと、顔を上げて、胸を抱いて、ぢつと視ながら、 「其で居ながら、其の癖、人になつかしがらせようの、あはれがらせようの、人情のある処を見 せようのと、叔母が何うの、従姉妹が何うの、と影武者を大勢並べて、まだ足りないで、鶯の、 春の、白魚のと、天狗俳譜ぢやあるまいし、煩くって遣切れない。其の言ぐさが癩なんですよ。 ふやけて、ねばついて、みゝッちくつて、小細工で、折鶴こさへる娘があつても、今時そんな事 を聞きますか。だから貴方は、洗ひ流しだ、|蜻蛾《なめくぢ》だつて言ふんですよ。卑怯だわ、第一、見つと もない。男の癖に、芸妓に、そんな景物を出すのは、素女におしろいをつけて見せる男があるの と同一ぢやありませんか、すたりものだよ。さあ、おあがんなさい。」  と|蓋《きせ》を其のまゝ衝とさして、銚子を取つた、が、これは来てからはじめてである。 「貴方も、お儀式だけ御祝儀をするでせう。私の方で断つても、此家の内で頂くから、商売冥利 です、お酌をします。…-・勢よく一つ飲んで、引岬けて、男らしく言うことをお言ひなさい。寝 ないかとか、起きないかとか、金があるとか、無いとか∵いろに成りたいとか、妾にしたいとか、 それとも夫婦に成らうとか、、一口言へば分る事だわ、口説くんならそれが可いの、早解りで、ど つち道、」  と、つんと横を向いて、 「此方は断る分だから、…-」 「可。」  と今の酒の勢で、廉三郎は蘇生つたやうな勢で、ぐつと卓子台に|伸《のし》かゝつて、 「断つておくれ、口説くから。実は私は口説きに来たんだ。」  それ見た事かと、|流眄《ながしめ》にじろりと見る。 「金はない、が、出来るだけ礼はしよう、口説くと言つて外ぢやない。いつか、私が帰つてあと で、半之助が春柳亭の奥で視たと言ふ---お前さんが、脇息をたゞ力草に、胸に圧へて、緋の下 !を、手と、白い歯で、キリ/\と帯を絞つて鳩尾をしめたと聞いた、結に悩んだ、あの姿を  …一度で可い、丈夫な身体で踊りのやうに、振事のやうに、美しく見せて貰ひたかつたまでの …… 事です、それ丈だ。」   「一寸、それが、大鼓の形に見える、と言ふのでせう。気障だ、またはじめたよ、煮切らない。  縁日で買つて読んだ、|木遣《きやり》くづしから思ひついて、それぢや些と甘過ぎます、しめつ、ゆるめつ  .が呆れるよ…-惚れたから、なぞらへて、其処を抱かうが図々しい。小鼓なら、肩に掛ける気で、  まだ幾らかしをらしい。抱くものよ、|大鼓《おほかは》は。---祖父さんの筋が、可恐しい。孫ならばね、孫  の気でね、|堂宮《だうみや》の|日南《ひなた》へ出て、でんく太鼓に|笙《しやう》の笛さ、守つ子の唄でもお聞きなさいな」。   「もう、そんなにまで言はれちや、私は、私は口の利きやうがない。・…-余りと言へば、あゝ、  私な、父とも言はん、母とも言はない。叔母、従姉妹にも面目ない。」と、舌もしどろに、言が  乱れる。   餌は声もすつきりと、   「面目ないのはお心がらです。…-第一貴方は、人が病気で苦しんだ処を視て、美しいの、綺麗  だの、懐しいの、床しいのつて、|酷《ひど》いぢやありませんか、|鬼見《おにみ》たやうぢやありませんか。」   「餌さん。」   思ひも掛けない、今夜の|容子《ようす》、が其の怨みなら、言ふことありで、廉三郎は一息して、   「たとへば、お前さんの三味線だ、鼓にしろ、あの音を出す貼られた皮は、もとは活きて居たも  のだ。其の皮から見れば、はりつけられて、|暴露《さら》された上、打ちたゝきをされる、と思ふだらう。  散る花は風情がある、が、散る花の身に成つて見ればー」   ふと廉三郎は俯向いて、   「いや、こんな事を言つたつて、今夜のお前さんには分るまい。人の病を楽しむ、残酷だと言ふ のなら、手短に|弁解《いひわけ》をしよう、霜を結へたお前さんを、爵の大鼓だと思つたのは、私ではない、 半之助だ。半さんなんだよ。-…窃さん。L  窃は、此をき・もあへず、じりくと火鉢に寄つて、 「えゝ、其の半之助さんでしたら、死んだ皮は愚なこと、生身を剥がれて、打たれようと、撲か れようと、引摺られようと、雪駄の裏でも構ひません。勿体ないが、私や、鼓に成れば、本望で すわごと、声も湿んで、目に充満の露がある。  廉三郎は、ただ|謄《みまも》つた。 十六 「其れ、其れを、其の鼓を、(くれろ自分に。)と言つて、貴方が、半之助さんから、お貰ひなす つたんぢやありませんか。半之助さんは貴方に(遣る。)とお返事をなさいましたさうですね。  其のために、其ゆゑですよ-…・私は、死ぬほど、生命に掛けて思つて居る半之助さんに、思ひ が叶はなく成りました、嫌はれて了ひました。  衝と其の儒絆の袖口を目に当てて、鶴の病めるが如く傭向いたが、 「あれから、一度ならず、二度ならず、・…-今夜も此家へ来ますまでは、春柳亭の宴会で、半様 がお客に見えて居るのと一所でした。……廊下へお立ちなすつた、鷹の羽の御紋附、舞袴のお姿 を見ては我慢が仕切れない。庭の鉄燈籠の薄暗い、灯のない部屋に待構へて、私は夜鷹に成下つ て、暗がりで羽二重のなつかしい袖を引いて、思ひのたけを言つたんですが、(約束でね、君は 廉さんに渡したよ、丘が貰つたよ。)と振切つてお了ひなすつた。  あの方だから厭ひはしない、厭ひはしませんけれどもね、柳橋の看板ぬし、一軒の世帯持が、 辻に立つ真似までして、嫌、嫌はれて了ひました、口惜い。」  とヒイと泣くと、胸をしめて堪へた、が、面に袖して、傭伏しに身を畳に投げた、溢る、涙は、 其の白銀の線と成つて、紅梅に|颯《さつ》と散り、酒にも乱れて|情《しを》るゝ姿は、帯の縫なる白羽の矢、一筋、 背筋をグサと貫いて、薄紅なり七結文、血の垂るゝかと|颯《さつ》と濃い。  廉三郎は片膝立てて、卜其の背に手を掛けようとした時であつた、|身動《みじろぎ》に、ひらりと揺ぐ、帯 の矢が貫きさうで、掌を開いて、バッと退いた。 「返す。欲さん、半さんに私が返す。」  聞くと、洗はれたる玉の如き、ぬれ髪の面を上げて、屹と視て、 「えゝ、返して下さい、私の身体を、鼓を戻して下さいましとも。貴方、男だわね、、」 「今更、然う、と申憎いが、確に男だ。」 「返すと言ひましたね、男が、」  と、まくれた袖を手首に引いて、端然として、 「ぢや、何うぞ、証拠を下さいまし、後生ですから。」  証拠と言ふ……証拠とか。 「証拠は何うする。」 「あの、一筆。」 「何、一筆。」 「え・、無理に私を、餌を無理に貰つたのを、君に返す、と半さんに-・…」 「無理に、」  と思はず気色ばんだが、 「無理にでも構はん、1が、しかし、一筆には及ぶまい。口で可い、ね、口で可からう。私も 口で貰つたんだ。」 「それは、貴方の御勝手ですもの。」 「可し、では書かう。が、それは、直接に半之助に手渡しをするので可からう。・-・-せめて、其 だけにさしておくれ。」  黙つて頭を悼るのを視た。 「如何に、何でも、一札して、芸妓のお前に手渡しするのは、余りと言へば、屈辱だ。」と、堪 へに堪へた先刻からの、あるゆる仕向けが、一時に、むらノ\と胸に湧上る. 「何うせ、男はすたつてるぢやありませんか。一筆おくんなさる位なら、直接にだつて、私へだ つて、同じことぢやありませんか。未練らしい。だから貴方は、煮切らない、ふやけた御飯粒だ と言ふんですよ。あらひ流しに、にちやくぐづく、此のくらい髭末にされりや、やがて最う、 蛞蝓だよ.」 「谺ー・」 「殺到なすつた。」  と、椀の|蓋《きせ》を衝と大杯。 「面白い。貴方も飲んで、男らしく、-…打つかい、蹴るかい!」 「む---」 「一寸、私は筋ですよ、貴方の祖父さんの。打てますか、蹴れますか。一寸、私は鼓ですよ、貴 方の母さんの、.叔母さんの、従姉妹御たちの。」  廉三郎は|岸破《がぱ》と其処へ手を支いて、 「詫びます、祖父さんに、母に、叔母に、従姉妹に、天に、地に、遙に詫びます。就中、父母、 悪うはお生みなさるまい。廉三郎心得違ひをいたしました。あ・、此処に、誰か、唯一人が欲し い。」  と、はらくと不覚の涙。 「・ー-帰る! 何にも言はずに帰してくれ。」  衝と外套を引抱へる。 「不可ません。」  唯、屏風を楯に袖を開いた、帯に緋鹿子乱れても、矢一筋、羽白く、すつきりと胸を張り、島 田の丈長キリ、と立つて、支膝縦に凛と成る。廉三郎は蒼く成つた。 「帰しません。」 「御免なさいよ、」  と|姻梛《あだ》な声して、すつと入つたのはお梶である。其の襟つきの縞お召、客へ礼儀の一つ紋、○ に千鳥の黒縮緬の羽織を被て、手に硯箱を捧げて居た。 「旦那、一筆お認めなさいまし。-…私が悪いやうにはいたしません。…-研さん、其の半之助 様とおつしやる方は、まだ春柳亭に在らつしやるかい。あ・、然うかい。」  半紙にかいたを、 「私は些とも読めないから。」  餌に見せて、そと頂き、軽く折つて帯に挾むと、 「一寸お預り申しますよ…-・何事もまかせてお置きなさいまし。」  座を立つと、やがて、式台で女中の声、 「主婦さん、よろしいんでございますか。」 「何、お前、政府の御規則を破るほかに、何だつて出来ぬことがあるものかね。」  磨格子が、からりと音して、 「おや、雪に成つたよ、風が止んだと思つたら。もう道が白い。お島や、番傘をおくれな。 な、帰りには、お能役者と相合傘だ、蛇目傘の方にしようかね。」 待ち 十七      「田舎づくりの籠花活に、        ずつぷり濡れし水の色、       たつたを活けし楽さは、         日頃の憂さも何処へやら∴-・・」  座敷が替つて、二階の八畳に、絹夜具の置炬燵して、お梶と、さしにあたりながら、蝶足の取 膳で、廉三郎は、しのび音の、此の爪弾を、涙ぐみつゝ身に染みて聞いて居る。  嘗て聞く、此のお梶が、前に新橋に左褄を取つて、|嬌名南北《けうめいなんぼく》を圧した頃、名古屋が大阪の何某 と云ふ大尽が、築地辺の或待合に来て、酌人大勢の一座に、是非とてお梶を所望した事がある。 其の時分は千貝と云つたが、|大幣《おほぬさ》の引手あまたで、振切れない袖を、其の座に連ぬる事が出来な かつたを、客に対して、其の待合が、看板に権威の無いのを見透かれるのを苦しがつて、客の酔 うたるを奇貨として、替玉を座に請じて見せた。 「これが、名に響いた|千貝《ちかひ》かい。」 「はあ、」 「違ふやうだぜ。」 「旦那は酔つて在らつしやる。」  他の芸者が待合に対して践を合せたので、花は散らさず市は栄えた。が、身替りの犠牲に成つ た婦のみじめさ。あれがくと出入りに、目引き、袖引き、其の替玉をさげしまるゝ、三月半年 の恥辱に堪へず。然るにても後には二代目の千貝と成つて、全盛世を驚かしたほどの婦だから、 袖を面に蔽ひながら、千貝の家に駈込んで、泣いて苦衷を訴へた、、 「姉さん、何うぞ、貴女のお名を私に譲つて下さいまし。」  と膝に縄る、背を撫でて、千貝のお梶は快く、あい、と言つた。爾時、手すさみに、膝に三味 線を取つて、爪弾をして居たのが、田舎住居の、此の小唄であつた。ー  ーいまも、爪弾である。夜も早や一時半頃の、世を揮つた、しのび音は、律ある|閨《ねや》のさゞめ 言。で、三味線は、欲のを、此処に移したが、玉三と名にしおふ姫御前の大名道具、と手に取つ て、お梶が笑ひながら誉めた類少なき逸品である。  ひき手はお梶、仲之町仕込みの冴えた手の、然りながら、大鼓の調とても、其の微妙の奥をき き分くる素養は持たないと言つた、廉三郎は、声より、音より、唯其の意気に聞惚れて居るので ある。  知らずや、お梶は、看板名を、其の何某の芸妓に譲つた時、 「のしに添へて、芸を一つ譲りませう、のぞみのものをーあゝ、清元。」  渠は、それ以来未だ嘗て、いかなる席にも、客に清元を聞かせなかつた。  廉三郎は、悠くして慰められつゝ、階下の一室に、半之助と餌の、縁を結ぶのを待つたのである。      「今朝結ひし、島田もいつかもつれ髪、         人に問はれて恥かしや。       笑顔つぐれど目にうるむ、        涙を露と夕暮に         、野分のあとの|女郎花《をみたへし》……」  チリリンリン、チテントンシヤン、と弾澄ます、と、さらくと雪が響いた。  ばたく、ばたくと遣音聞えて、 「廉さん、兄さん。」と、地の底から呼ぶやうに、二階に響いた、夜更の声は半之助。  早や、其の階子の中段まで。 「兄さん。」一 「おい。」  と応ずる此方を知るべに、半之助が、寝着で、すた<と入る、と見ると、ドウと廉三郎に膝 を組んで、息急いて、 「やられた、弄ばれだ、|玩弄《おもちや》にされた。」 「何、弄んだ。」  唯、三人顔を合せた。炬燵を的に射掛ける如く、白羽の矢の帯、廊下にすつぐと窃の姿。きち んと礼儀に手を支いて、 「然やうなら。」  と、立状に、横顔で|流踊《しりめ》に掛けて、 -ほ、、」と笑ふ、と壇け刊叫へ灘と行く。 「お待ち。」  と斜めに炬燵を出た、お梶が片糠を丁と打つて屹と呼んだ。 「ご用?」 「芸妓衆、箱を忘れて可いのかい。」 「あ。」  と、つかくと引返して、手に取らうとする、三味線を、取らせず、掬つて取る手も見せず、 すつくと立つや、 「場違、生意気だよ。」と言ふが疾いか、胴を天井に悼を緊した、雪の腕の,片手打に|軒《ひし》と打つ。  筋の背に、三味線はポキリと折れて、根緒が嬢くと、糸が|刎《は》ねつゝ、ツンと立つて、ぬしを|庇《かば》 ふやうにお梶を隔てる。  思はず、二人が、両方から、二人の中に割つて入る、廉三郎と半之助の、二人の膝に、弱々と 両手を槌つて、島田もいつかもつれ髪、餌は、わなくと震へながら、 「御免なさい、御免なさい、堪忍して下さいまし。半之助様は申すまでもありません。丘さん、 貴下に先刻から、心にもない失礼なことを言つて、よく此の口が裂けなかつた。---お一方は太 夫さん、お一方も知つて居ます、俳優の似顔や、錦絵より分らない私だつて、偶には人に連れら れて、上野の絵の会になんぞ行かないこともありません。其の貴方がたがお二人で、お二人で、 |真個《ほんとう》に私を思つて下さるんなら、どつちへ廃かう、身体は一つ。昔話に聞いて居る、|真間《まま》の|手児 那《てこな》を羊手本に、死んでなりと、脊筋を二つに裂いてなりと、情を立つて見せますのに、いくら果 敢ない芸妓だつて、私や、私や、殿方同士|串戯《じようだん》に、遣つたり、取つたりなさるんですもの、口惜 い、否、情ない、情ない、情ないんですよ、だから復讐に11おかみさん。」と振仰いで縄りつ. く、研を膝にしつかと抱き、お梶は、力にしびれて手も萎々と、 「私や、何うせう、餌さん、堪忍おしよ。」と、はつと泣く。 「否、否、貴女の芸をお慕ひ申して、人づてにもお頼み申し、お勝手口から伺つても、教(ては 下さいません。お師匠さん、今の三味線の御打榔は、私に取つては難有い、お不動様の剣です、 骨身を透して嬉しいの、嬉しうございますよ、|主婦《おかみ》さん。」  と、仇気なく、嬰児が乳に縄るやうに、(野分のあとの女郎花)胸に頬を押当つる。  感に打たれて、従兄弟同士、男二人が、思はず確と手を取つて、 「勉強しょう。」 「むゝ、お互に。」  と手にじり<と力を籠めた。  三味線は、廉三郎の親友なる、おなじ学校彫金科出の勇士が、銀に鉄槌打つて継いで、渚の梶 折之、宝生半之助、丘廉三郎継之、桂家欲所持、と|鏨《たがね》を入れた。