柳橋スケッチ 島崎藤村 一 日光  そうだ、光と熱と夢のない眠りの願い、といった人 もある。こういう言葉を聞いて笑う人もあるだろう か。もしこれがただの想像の美しい言い回しでなく、 実際このおもしろそうなことで満たされている世の中 に、光と、熱と、それから夢のない眠りよりほかに願 わしいこともないとしたら、どんなものだろう。ちょ うどわたしはそれに似た名状しがたい心持で、二週間 ばかり床の上に震えていたことがあった。  過ぐる年の冬の寒さもやはりこの神経痛を引き出し た。わたしが静座する習癖は1実はわたしはそれで もって自分の健康を保つと考えているのだがーそれ がかえってこうした|蓬痛《とうつう》を引き起すようになったのか もしれない。それにおしゃべりが煩わしくて、月に三 四度ずつは必ず頼んだじょうずなあんまもやめた。わ たしは自分のからだが自然と回復するのを待つよりほ かはなかった。はかばかしい治療の方法もないと言う のだから。  わたしは眠られるだけ眠ろうとした。ある時は|酬酔《かんすい》 した人のように、一日も二日も眠り続けた。われらの 肉体は、ある意味から言えぱ、絶えず病みつつあるの かもしれない。それを忘れていられるほど平素あまり 寝たこともないわたしは、こういう場合に自分で自分 のからだを持てあました。ある時はもっと重い病でも 待ち受けるようなここちで、床の上に口がさめること があった。不思議な震動がわたしの全身に伝わってき た。それが障子の外に起る町の響きか、普通の人の感 じないような"こく軽いかすかな地震か、それとも自分 のからだの震えか、ほとんど差別のつかないものであ った。わたしは自分で自分の眠りが恐ろしくなってき て、まくらもとにいろいろな本や雑誌を取り出して読 んだ。 「われら芸術のあわれむべき労働者よ。普通の人々に はしかく簡単に自由を与えられるものも、われらには なぜに容易に許されぬであろう。それも|理《ことわり》である。普 通の人々はハートを持つ。われらはついにハートの何 物をも持たぬ。われらはとうてい理解されざる人間で ある……。」  この言葉にこもる痛ましい真実をわたしは寝ながら 思い続けた。  回想はわたしの心を高い煙突の立った火葬場のほう へ連れて行った。長く続く貧しい町々、畑中にある細 い平らな一筋の道、車の両側へ来てうるさいほど取り 付くこじきの群れ、そういうものが雑然とわたしの胸 に浮かんできた。今でもまだわたしはあの待合所に朝 早く集まった人々の顔、入口のたなの上に並べてあっ た陶器のつぼ、床の間に掛かった地獄極楽の絵などを 記憶でしかもありありと見ることができる。わたした ちは導かれて、天井の高い、薄暗い、赤レンガの建物 の中へはいった。そして大きなかまどの鉄のとびらの 前に立った。おんぼうがその中から、灰色に焼け残っ た貝がらのような骨や、歯や、それから黒い海綿のよ うに焦げた脳髄などを取り出して、わたしたちの前に 置いた。それがわたしの妻だ。  回想はまた、わたしの心を樹木の多い静かな墓地の ほうへ連れて行った。長雨の降り続いたあとのこと で、|墓守《はかもり》が掘った土の中には黄に濁ったどろ水がわき あふれていた。墓守は両手を深くその中に差し入れ たり、両足のつま先で穴のすみずみを探ったりして、 小さいどくろを三つと、離れ離れの骨と、腐った棺お けのこわれとを掘り出した。残酷な土のにおいはわた したちの鼻をついた。ちょうど八月の明るい光が緑葉 の間からさし入って、雨降りあげくの墓地を照らして 見せた。蒸し蒸しとした空気の中で、墓守はよ"これた 額の汗をぬぐいながら、三つのどくろのどろを洗い落 とした。その中でも一番小さく日数のたったのは頭や 顔の骨の形もくずれ、歯も欠けて取れ、半ば土に化し ていた。一番大きいのは|骸骨《がいこつ》としての感じも堅く、歯 並もそろい、髪の毛までもいくらか残って、まだなま なまとした額の骨のあたりに土といっしょに付着して いた。それがわたしの子供らだ。  すべてこれらの光景に対しても、わたしは涙一滴流 れなかった。ただ、見つめたままで立っていた。あわ れむべき観察者。しかり、われらはついにハートの何 物をも持たぬのであろう。  多くの悲痛、|厭悪《えんお》、|畏怖《いふ》、|銀難《かんなん》なる労苦、および|戦 標《せんりつ》は、わたしの記憶に上るばかりでなく、わたしの全 身に上ったーわたしの腰にも、わたしの肩にまで も。  わたしはこの歌の意味をせつに感じた。その意味を ズキズキ病める|疹痛《とうつう》で感じた。  こういう中で、最もわたしの心を慰めたものは、本 間久雄君が訳したオスカー・ワイルドの『獄中記』で あった。わたしは床上であの翻訳を読むのを楽しみと した。  いかなる苦痛も、それが自己のものであれば尊いよ うな気がする。すくなくも人は他人の楽しみにもまさ って自己の苦しみを誇りとしたいものである。しかし わたしは深夜ひとり床上に座して苦痛を苦痛と感ずる 時、それが|麻痺《まひ》して自ら知らざる状態にあるよりはい っそう多く生くる時なるを感ずるたびに、かくも果て しなく人間の苦痛が続くかということを思わずにはい られない。  オスカー・ワイルドは傷ついた天才のような|傲然《ごうぜん》と した調子で、ある時は人目を忍ぶ囚人の心弱い調子 で、一生の憤りと感激とを漏らしている。  彼、『獄中記』にだだをこねていわく、 「神々はありとあるすべてのものを私に与えた。私に は天才があった、すぐれた名前があった、高い社会的 地位があった、|澄刺《はつらつ》たる情緒、知力的|勇桿《ゆうかん》があった。 私は哲学をして芸術たらしめ、芸術をして哲学たらし めた。私は人々の心根を替え、事物の色彩をも替え た。私の言ったこと、ないし行ったことで世人をして 驚嘆せしめなかったことは一つとしてなかった。私は 最も客観的形式の芸術として知られている戯曲を取っ て、それを|打情詩《じよじようし》や|小唄《こうた》のごとき主観的表白の芸術を 造り上げた。同時に戯曲の範囲を広め、その特質を豊 富にした。私は偽りなるものもまた真なるものと等し く、同様の領域を占むべきが真理であるとなし、真偽 は要するに知識的存在の形式にすぎないことを明らか にした。私は芸術をもって最高の現実となし、人生を もって作り物語の単なる様式となした……それらのこ とに関しては私はまったく他人と異なった天才を持っ ていたのである。けれども私は、また、愚かな、|婬逸《いんいつ》 な|安侠《あんいつ》のながき連鎖にわれとわが身を誘われるにまか せた。私は流行児をもって自ら任じ、しゃれ者をもっ て自ら快しとした。自分の周囲をもまた、多くの小人 物、卑しい心の人々に取りまかれるにまかせた。私は われとわが天才の浪費者となった。しかしてかつて自 分に不可思議な喜悦を与えたとこしえの若さをほしい ままにするようになった。高きものに疲れ果てた私 は、さらに新しき刺激を求めて一向に|下劣《ひく》きについた          私はもはや霊魂の支配者でなく なった。しかもこれを知らなかった。私はただただ快 楽の命ずるままに身をまかせた……。」  風流にして才気ある貴公子の面目がこれを読むと想 像される。同時に人をしてこの|婬逸《いんいつ》な一生に何が根強 く潜んでいたかを思わしめる。彼は二年|牢獄《ろうごく》に|坤吟《しんぎん》し 堪えがたき絶望に陥り、悲痛のかずかずのありとある 心持を経験したとまでしるしている。いわゆる流行児 であるならば、そこを終りの幕としたかもしれない。 否、そこまで行かなかったかもしれない。『獄中記』 のおもしろみはそれからさらに始めようとしたところ にある。彼は悲哀のかずかずも、一生の根底に横たわ れる苦痛も、ぬぐいがたき恥辱も、堕落も、隠れたる 卑しき行いも、罪悪も、ないし身にこうむれる刑罰ま でも、直ちにそれを霊的な意味あるものに化そうと努 めた。彼の「新生」とは人生をもって芸術の形式とな すにあった。かくして始まる芸術的生活は結局一種の 作り物語であろうと思うけれど、彼のいわゆる知力的 |勇桿《ゆうかん》には動かされる。 「私にして、私が到着しうる最高のところを言明すれ ば、それは芸術的生活の絶対的実現という境地である ……ぺーターはその『快楽主義者マリウス』におい て、芸術的生活と、深い、快い、しかもおごそかな意 味における宗教的生活とを融合しようと試みた。けれ どもマリウスは要するに一種の傍観者にすぎなかった  …ワーズワースは詩人の真の目的を、人生の諸相を 適当な情緒もて観照するにあると言うたが、理想的傍 観者もまた、かくのごとき観照眼を有する。けれども 要するにただただ傍観者にすぎない。この人々は静か に霊場の長|椅子《いす》に腰うちかけて、自分のながめている ところが悲哀の霊場であることに思い至るものはほと んどないのである。」  見よ、いかに哀傷多き音調と、宗教的情緒の色彩 と、そして性急な夢想とに富めるかを。  彼の声はあまりに高くて、どうかするとすぐにかれ てしまいそうな気がすることや、警句白出して星のご とくにその言説を飾るところから、見たところ多趣多 様の趣はあるが、その基調をなすものはわりあいに単 調な気がすることや、それから野にうずもれし宝のご とく心の奥深く潜めるものはすなわち|謙譲《けんじよう》ということ であると説いているにもかかわらずその実、彼が|嘲笑《ちようしよう》 して傍観者ほどの謙譲をも感ぜしめないことなどは、 わたしの心を満足させない。けれどもわたしは|慰籍《いしや》を 得た。私の病んでいる耳に、いろいろな快いことをさ さやいてくれたような気がした。私はいろいろな暗示 をも受けた。その証拠には、ボードレールの詩集とこ の『獄中記』は絶えずわたしが自分のまくらもとから 離さなかったばかりでなく、若い友だちで見舞いに来 てくれる人があるたびに「|苦銀《くかん》は一種の長い瞬間であ る」という句だの「囚人の一人でもこの世に象徴的な 位置に立っていないものはない」という一節だの、そ の他、彼の熱心なキリスト論に関する部分だのを引き 合いに出して、かのガリレヤの農夫が幾多の驚嘆すべ きことを単におのが身に想像したのみにとどまらずそ れを実際に実現したという、あの魔力のある言葉など を話して聞かせたくらいだから。  十二月の末のあるタベ、わたしは床を離れて忘年会 に行った。集まった友だちの中には久しぶりで会った 人もあった。わたしはまだ顔色が悪いと言われた。N 君はしきりにわたしに温泉行きを勧め、春は早々箱根 へ同行するという約束までした。0君もその伸間に加 わるとのことだった。  わたしは遠方にいる親しい友だちなどから見舞いの 手紙を受け取ったが、どうかするとそれからも床の上 に横になって、そういう手紙を読んだ。わたしはまだ 寝たり起きたりしていた。 「心がかわいてきたーどれ、日光を浴びようか。」  これはある画家の版画集のうちに、以前わたしが書 いて贈った言葉だが、ちょうどわたしの願いはこの短 い言葉に尽きていた。長いこと友だちもたずねず、旅 にも行かず、寒い|部屋《へや》の中に閉じこもってぱかりいた わたしは、|国府津《こうづ》の海岸あたりの暖かい日光に飢えか わいた。  春が来た。正月らしい朝日がわたしの部屋の障子に あたってきた。電車の車掌や運転手が同盟|罷工《ひこう》をやっ て、東京の町々はめずらしく静かだ。みんなぞろぞろ 年始回りに歩いている中を、わたしも|親戚《しんせき》の|家《うら》だけ訪 問して、二日にははや旅のしたくを始めた。  青い国府津の海はわたしを呼ぶような気がしてい た。わたしは一時も早く箱根へ急いで行って、温泉の 湯ぶねの中へ身を浸そうとした。 二 柳並木 「家の前はすぐ|河岸《かし》で、石がきに添うて段々を降りら れるようになっている。そこは浅草橋と柳橋との間に はさまれた位置にあって、川口に|碇泊《ていはく》する多くの荷舟 からは朝げの煙の上るのも見えた。白壁、柳並木など の見える対岸の石がきの下あたりには、動いて行く舟 もある。」  これはわたしが小話中に書いた一節であるが、この 位置は日本橋区よりのほうから見た|神田川《かんだがわ》の河口で、 往時船宿の軒を並べ、|行燈《あんどう》を掛けつらねたという場所 である。対岸は浅草区の領分で、つり船屋米穀の|問 屋《とんや》、閑雅な市人の住宅などが、柳並木を隔てて水に臨 んでいる。わたしが今住む町は妙に細い路地の多いと ころで、二三軒置いては必ずこの|小路《ころじ》があるから、ど のヌケミチを取ってもわたしは|神田川《かんだがわ》のほうへ出るこ とができる。朝に晩に、わたしは|河岸《かし》のほうへ歩きに 出かける。  いつぞや国民新聞記者がたずねて来て、半日の日記 を求めるから、わたしは好んであの|河岸《かし》を散歩するこ とを書いた。すると、K君という未知の人から手紙を もらった。K君はやはりわたしと同じ河岸を好んで歩 く人であった。手紙の様子でみると、K君は、三年ば かりも前からの柳並木のかげを往来している。われら |二人《ふたり》は互に会ったこともないが、同じ場所を見つけた ということだけでは不思議に一致した。  それからK君はわたしに会いたいと言ってきた。こ の節わたしはあまり人に会いすぎると思うから、その ことをK君へ書いて、未知の友の|一人《ひとり》として君の名を 記憶したい、われら二人は互に同じ柳並木のかげを楽 しもうではないか、こういう意味の返事を出した。  十月初旬のことであった。わたしはK君からはがき を受け取った。 「今日の夕やみに、久しぶりで例の河岸を歩きまし た。ほほへ触れるまでに低くたれ下がった枝葉の青い においをかいだ時は何ゆえとも知れぬなつかしさに胸 がおどりました。かしこの木かげには、石が"こざいま しょう。あの上にわたしは腰をかけ、ひざの上にほほ づえという形で、あなたがそこを歩かれる時のことを さまざまに想像してみました。」  こう若々しい筆跡でしたためてある。なお、会いた いという望みは|強《し》いて捨てたと付記してあった。  それからわたしは河岸へ歩きに行くたびに、K君の ことを思い思いした。K看から見れば、河岸はわたし だ。わたしから見れば、河岸はK君だ。こうわたしは 思った。なんぞというとわたしは訪問の客について、 その河岸まで歩いて行くのが癖で、ある日も|瓦町《かわらまち》に住 む×君を送りながら、いつものように家を出た。われ らは柳の下にしゃがんで、いろいろなことを語り合っ た。印象と記憶の関係や……夕方に浅草橋の下を流れ る水の色や……波に映るともしびや……  その時×君とわたしは、岸につないだ舟のほうへ運 ばれる病人を見た。水の上に住む人たちと思われた。 病んでいるのは年をとった女で、倉と倉の間にある細 い路地のところから出て来た。医師のもとへ通うので あろう、と思って見ていると、病人は人々の肩にかか って、石段の下へ移されていった。舟の上には女の子 が三人ばかり遊んでいた。しばしわむりの心はこの光 景から離れることができなかった。  十月の中旬、わたしはK君からはがきを受け取っ た。|逗子《すし》から出したものだ。その中に「海は青く光っ ていますが、それを見ても別にこうという考えもわき ません。例の柳並木のほうがむしろ静かです。」こん なことが書いてある。K君とわたしとは、ただ同じ水 をながめ、同じ土を踏むというだけの交わりにすぎな い。他にわれらは互に書くことがない。例の柳並木1 ーそれでわれらの心は通うような気もした。  十一月にはいって、K君から長い手紙が来た。それ には若い人にありがちな、ゆううつな心の境がこま.こ まと書いてあった。その時はわたしは急に返事も出さ なかったが、河岸へ行くとその手紙を胸に浮かべて、 K君という知らない人1まあわたしの想像では十七 八の青年のことを思ってみた。 「物象の明らかな時が来ました。柳並木も枯れがれと なりました。けさも河岸を歩いて君から来た手紙を胸 に浮かべました。」  こう簡単にわたしははがきを書いてK碧のもとへ出 した。  今度はさらに長い返事が来た。 「先日あのような手紙をさし上げましてから、私は非 常に|襖悩《おうのう》いたしました。さだめて妙なやつだとお笑い でございましょう……実に自分で自分の愚かさを笑わ ずにはいられません……私には母もあり、兄弟もあ り、友人もありますけれど、なぜか始終堪えがたいほ どの寂しい生活を送っております。ことに先日、あの 手紙を差し上げてからというものは、以前よりかいっ そう寂しくたよりなく感じて、夜もろくろく眠られぬ ほど思い悩みました……あれから、柳並木を二度ばか り歩きました。黄ばんで縮れ返った葉の力なさを見る と、なんとなく痛ましい思いに包まれます……人々は この"ころの物象をどういう目で見ているでしょうか。 私の心はやはり哀愁から離れることができません。私 はなぜ物事を楽しく愉快に見聞し、かつ思うことがで きぬのでありましょう……この夏×さんのお宅の前を 通りました時、二階のお|部屋《へや》にあるたくさんの本が見 えました。あれだけの本を読むには、どのくらい時日 がかかるだろう、などとつまらぬことを考えながら通 りました……また勝手なことを長たらしく書いてしま いました。失礼はくれぐれもお許しを願います……今 夜おはがきを拝見しました時、Kと呼ばれたような気 がいたします……。」  これがわれら知らないものどうしの互に通わせてい る消息である。  きょうもまた私は河岸へ歩きに行った。 三 柳橋  この|界隈《かいわい》より日本橋方面へ電車の便を取ろうとする ものは、ぜひとも浅草橋を渡り、あの樹木のすこしば かり残っている|広小路《ひろこうじ》まで出て乗らねばならぬ。あそ こで線路は二またに別れて、行きには大伝馬町、|本町《ほんちよう》 などを回り、帰りには市区改正中の|石町《こくちよう》、鉄砲町、|馬 喰町《ばくろちよう》を通り過ぎる。よくわたしもあのへんを往来す る。そしてある暗いのれんを掛けて、町の両側で荷造 りなどをする、ところによっては新しいタンスやそれ からいろいろな商品を高く積み重ねてある、黒い奥深 い土蔵造りの|問屋《とんや》が軒を並べた町々を電車の窓からな がめて通るたびに、わたしは少年時代の記憶を呼び起 さずにいられない。  ψせちよう  伊勢町といえばわたしは友だちの生まれた絵の具間 屋を連想し、本町といえばあの四丁目のかどの砂糖問 屋であった家を連想する。ことに本町の家にあった茶 室風の静かな座敷は、往時同志の青年が集まって、夜 のふけるのも知らずに文学、美術を談じたところであ る。数寄を凝らした床の間、炉、壁の色1あそこで 雑誌が毎月編集されたものであった。「時」は人の住 まいをいろいろに動かした。友だちも動けば、わたし も動いた。本町でも、伊勢町でも、今ではみななつか しい記憶の家である。  町家の変遷にも驚かれる。|米沢町《よねざわちよつ》あたりは全く町の 姿を一変してしまった。あの名高いきせる屋の跡など はどうなったろう。人形町へんも変った。あの通りに は|藤掛《ふじかけ》という古い袋物屋があって、そこで『高祖遺文 録』を取り次いだものであった。あの店などは相変ら ず栄えているであろうか。花屋敷の古本屋も今では見 あたらない。|浜町《はまちよう》、|不動新道《ふどうしんみち》、|竈河岸《へつついがし》、みな変った。 |翁堂《おきなどう》といえば、あのへんでのよい菓子屋であるが、あ の|家《うち》などはもとのままにあると思ったら、のれんは同 じでも、代が替っている。  わたしは勝田の一門の繁栄を追想せずにいられな い。それを考えると、確かに商家というものの歴史が 時代とともに速回転したことを感ずる。|唐物店《とうぷつてん》、荒物 店、|下駄店《げたみせ》、その他勝田ののれんを掛けた大きな問屋 が、石町の通りに軒を並べたころは、実に全盛をきわ めたものであった。もし本店の御隠居を中心にして、 あの婦人の若い盛んな時から|悲惨《ひさん》な老後までを伝える ことができたなら、一時代前に栄えた大きな商家の面 影をしのばしめるであろう。わたしは|吉村《よしむら》のおばあざ んから、よくあの御隠居の話を聞くが、先代の菊五郎 をひいきにして、舞台の上からおじぎをさせたほどの |豪奢《ごうしや》を尽くしたものであるという。家が衰えてからで も、御隠居の芝居見物には、金を十円包み、かもを二 羽添えて、それを俳優へ祝儀として出したとか。この 勝田の分家にあたる勝新の娘の法事が浅草の寺であっ た時、わたしは一度御隠居という人を見たが、そのこ ろは勝新のほうが栄えて、本店はもうよほど衰微して いた。勝田の一門は今は多く跡かたもない。御隠居も なくなった。|鼻緒店《はなおみせ》、|針店《はりみせ》、この二軒が継続して商業 を営んでいるばかりである。  電車が開通してから、夜店の位置も変った。両国の 通りへ出たものが、今では浅草橋の通りへ出る。  |成島柳北《なるしまりゆうほく》の書いたものを見ると、柳北の号は柳原の 北からつけたもので、家は浅草森田町にあった。柳北 は浅草橋と|左衛門橋《さえもんばし》の間あたりに住んだものと見え る。『柳橋新誌』にいわく、  「橋は柳を|以《もつ》て名となす、しかも一株の柳を植え  ず。旧地誌にいわく、その柳原の末にあるを以て|命《なづ》  けたりと。それ柳橋の地は、すなわち|神田川《かんだがわ》の|咽喉《いんこう》  なり。しかして両国橋と|相距《あいさ》ることわずかに数十  弓。ゆえに江都の|舟揖《しゆうしゆう》の利、この地を以て第一と  なす。しかして|遊航飛駒《ゆうぽうひか》最も多しとなす。その南し  ては日本橋八丁堀芝浦品川におもむくもの、北して  は浅草千住|墨陀《すノた》橋場に向こうもの、東はすなわち本  所深川柳島|亀井戸《かめいど》の来往、西はすなわち|下谷《したや》本郷|牛《うし》  |籠《むめ》番街の出入、皆ここを|過《よ》ぎらざるものなし。しか  して五街の|娼騨《しようし》に遊び、三場の演劇を|観《み》、探花|浸月《はんげつ》  納涼賞雪に及ぶ客も、また皆水路をここに取る。ゆ  えに船商の戸、舟子の口、|星羅雲屯《せいらうんとん》して他境の及ぶ  ところにあらず。しかして|釣艇網駒《ちようていもうか》の徒もまたその  間に居す。橋の東西は両国橋の南北に連なる。各戸  の|舟航《しゆうぼう》、|舳艇相街《じくろあいふく》み、|揖擢《しゆろとう》相撃つ、その数幾千|艘《そう》な  るを知らず。」  これを読むと、舟がおもなる交通機関であった|安政《ちんせい》 の昔を想像することができる。同時に、両国橋と柳橋 とを控えた神田川の河口がほとんどその中心ともいう べき場所であったことを知ることができる。今でも天 気の悪い時には、あそこへ荷船が集合して、風波を避 けるために小さな港の趣をなしているが、しかし往時 の神田川ではなくなった。屋根船は一そうしか残って いない。浅草橋から柳橋へかけて、あの両岸にある物 揚げ場の装置、高い石がき、古風な石段、鉄の鎖すべ て往時の光景を語るものであろう。  神田川は至るところおもしろい。湯島の森の見える あたりもよし、川下へ行って白い壁や赤レンガの壁が 岸に接近して並んだ光景もいい。そのおもしろさは、 半ば死んだ水のように、あくびをしながら都会のまん なかを流れているところにある。濁った、きたない川 だが、品川の海のほうから青い潮が押し寄せて来る と、急に生き生きとした趣を呈する。多くの荷船はこ の潮に乗って川口へはいってくる。 『柳橋新誌』の二編は、初編から見ると十二年の間を 置いて出したとしてある。その中に元柳橋という言葉 が出ている。「余昔|竹西披《ちくせいは》と|故《もと》柳橋の某楼に飲む。詩 をその壁に題していわく。|嬌歌《きようか》酒を|侑《すす》めて高秋に酔 う。無限の歓情かえって|愁《うれい》を|惹《ひ》く。門柳|粛疎《しようそ》として美 人去る。他年追感この楼に|在《あ》り。今を|距《さ》るわずかに七 八年、しかも西披老病北地に流離し、当時の|紅裾皆凋 落《こうくんちようらく》して|農星《しんせい》のごとし。余また余生を風塵の中に託す。 |故《もと》柳橋を過ぐる"ことに仰ぎて老柳樹を見、|槍然《そうぜん》として 旧を感ず。|桓《かん》氏金城の嘆あり。」この元柳橋は|難波橋《なにわばし》 とかの別称で、柳北の時代に別に柳橋が出来たと言っ てある。とにかく、昔の柳橋の跡は今日野菜市場のあ るあたりだというから、焼けるとか、埋め立てるとか して、地形はよほど変ったものと見える。昔なかった ところに今では橋がある。船宿のすたれた跡に今では 鶏が遊んでいる。  響きー|小諸《こもろ》から|大久保《おおくぽ》へ、大久保からこの市中 へ、次第にわたしを引き寄せた響きが、今二階の障子 に近く聞える。わたしが信州にいたころ、浅間の山腹 にある川番へ通う途中で、しきりに耳をそばだてて聞 こうとしたかすかな物の音も1小諸の古い城跡のか たわらで、白い煙の見えるたびに立ちどまって、遠く なるまで聞こうとした汽車の音もーやはりこの響き であった。今わたしはその響きの中にいる。ある時は 破壊するように恐ろしげな、ある時は眠たく物うく単 調で退檎な……どうかするとわたしはこの響きを障子 の外で聞くのか、自分の頭の内で聞くのか、よくわか らないような気のすることもある。  夕日は|部屋《へや》の内に満ちた。二階から屋根越しに見え る|靴《くつ》製造場の高いガラス窓は光り輝いた。  わたしは空想の部屋を離れて、夕日の満ちた町へ歩 きに出た。そして初冬らしい、冷たい空気を呼吸し た。柳橋のたもとまで行くと、柳の葉はみな落ちてし まって、枯れがれな茶色がかった細い枝を通して、寒 そうな濁った水が見える。船の影もない。埋立地につ いて、料理屋のかどを曲がり、交番の前を通り過ぎる と、やがてわたしは両国橋の上に立った。  本所のほうへ帰って行く人たち、男、女、労働者な どが、いそがしそうに橋の上を通った。両国の公園の ほうを見ると、大福もち屋だの、西洋料理店だのの高 い屋根や低い屋根が、"こちゃごちゃ並んだ家と家との 聞のところへ、赤い夕日が沈んで行った。 四 神田川の岸  夕日は|神田川《かんだがわ》の岸に満ちた。暴風雨のために枯れ死 んだかと思われるような柳並木の枝からは、二度目の 新芽が吹いた。春先黄色い花といっしょに出た芽はも はや黒ずんでしまったが、それが七月の柔らかな著葉 に混じって、すずしい風の中に動揺する。かがやく夕 日を浴びて生きがえったようにも見える。橋畔の古い 柳は幹の中ほどから吹き折られていた。石がきから流 れのほうへ倒れた枝は、すでに半ば生気を失った。じ りじり枯れるのを待つばかりだ。でも、さかさまにた れ下がった半死の葉の中には、折れたまま吹いた芽が 弱々しげに見えている:…  日が暮れて行った。  暗くなってからも光の多い晩だ。一日の暑気に|酎酔《かんすい》 したような人たちは、いずれも涼しそうな白いゆかた を着て、|灯《ひ》のついた町々を歩き回った。長い|森雨《りんう》のあ と、この暑気は実ににわかにやって来た。わたしは橋 のたもとへ行って川のほうから来る夜風を待った。鉄 の|欄干《らんかん》によりかかりながら、はてしもない空にきらめ く星の姿、白々とした雲の群れなどを望んだ。わたし ははげしい疲労もなしに1目、耳、皮膚、その他の 部分を通じて1蒸されるようなからだの熱を楽しむ ことができた。時ならぬ食欲をも感じた。  空は青白く、明るい。そういえば、家へもどって二 階の裏のほうの窓から町々の屋根をながめた時、向こ うの白壁のところに淡い月光の映じているのを見た。 五 海岸  |上総《かずさ》の海、とうとうこの海岸の漁村へ来た。わたし は、長い間の海に対するかわきを医することができた。  |富津《ふつつ》行きの荷物、その他上総通いの客を載せて横浜 を出発した|帆船《はんせん》は実に快く走った。十二分に風を含ん だ帆はすこし船体を斜めにして、まるで青い波の上を すべって来たようなものだ。船の中で、船頭のたいて くれた飯もうまかった。富津へ着いてからこの漁村へ 来るまでの海岸も、わたしの好きな道だ。わたしは波 打ちぎわの細かい砂をサクサクと踏んで、保養のため にここにいるS君に会うのを楽しみにして来た。  毎日わたしはどういう日を送っていると言ったらよ かろう。わたしたちにはあらかじめ定められた規則約 束、ないし考え方というようなものがあって、それに 日常の行為をあてはめてみているのだから、その意味 から言えばわたしはムスほんとうになすこともなく日 を送っている。けれども自分らのすることに気がつい てみると、かくも矛盾した、筋道のない、理屈に合わ ない、それを書きつけるさえ不可能だと感ぜしめるの がわたしたちの生活の真相だ。わたしたちが日常の行 為の一面には、自らいかんともしがたき、また自ら知 るところのないものがあって、しかもそれらのことの 多くは無為とか空虚とか平凡とかの言葉に隠されてし まう。旅などに来てほしいままにしていると、わたし は毎日自分のすることのあまりに連絡のないのに驚か される。  流動したこの|生涯《しようがい》は、わたしにとっては、ますます |漠然《ぱくぜん》としたものとなってゆく。わたしは村で評判のい い医者と話した。この人はひとえ一枚でこの海岸へ着 いたと言われるほど|難難《かんなん》なところから出発して、今で は立派な医院を建て、無知な漁夫らから神様の"ことく に思われている。わたしはこの|風采《ふうさい》などにあまりとん ちゃくしない、男性的な、なんとなく好ましい|田舎《いなか》医 者から、S看の健康のことや、他の村医者のことや、 宿の人たちのうわさや、その他彼が馬に乗って近在の 病家を尋ね回ったころの奮闘生活のさまなどを聞かせ られた。わたしたちは種々雑多なことを話した。あと になって思い出してみると、わたしはこの医者から彼 の結婚のこと、家族のこと、かわいい子供のことなど も聞いた。まだまださまざまなことを聞いた。もう忘 れていて、思い出せないようなこともある。こういう 人と会って、何をわたしたちは話し合って、半日を送 ったと言ったらいいだろう。書きしるされることの多 くは、むなしい輪郭のように思われてならない。実に |花漠《ぼうぱく》としてとらえがたいような気がする。  海岸へ出て、旅らしく日に焼けた美術書生の海を写 生するのに会った。|磯《いそ》臭い砂地には他に人の影も見え ない。こういうへんぴなところへ来て、静かに風景を 描いているということもなつかしかった。で、わたし は邪魔にならないようにと思いながら、その美術書生 の背後に忍んで、眼前にひらけた海と、画板の上に写 されてゆく海とを見比べて立っていた。若い画家はわ たしのほうを振り向くこともしないで、パレットの油 絵の具を取ってはそれで自分の思う色をつけていっ た。いくらか風のある日だったから、絵の具箱まで砂 にまみれて見えたが、若い画家はそんなことにとんち ゃくなく、熱心な目を動揺する波のほうにそそいで、 どうかして自分の絵に深さを加えようとしているらし かった。一つの色の上へまた他の色が塗られた。画板 には船の影さへ映じてきた。  これにわたしは失望した、なぜというに船の影が海 に映ずるような夕方ではなかったから。なお見ている と若い画家は一日の仕事を終ったというふうで、むぞ うさにパレットの上に残った絵の具をふきとって、よ ごれたふきんの一つは海の中へ投げ込んだ。そこそこ に絵の具箱をも取り片づけて、立ち上がるころには、 わたしもその人のそばを離れた。  物を確実にすることのできないわたしも、この影の ないところに影を造ってみる旅の美術家に比べると、 まだしも自分のおぽつかない判断に信頼することがで きるかとも思った。この美術家の見た海、わたしの見 た海-海とは実にそれだけの話だ。海そのものに隠 れたさまざまの不思議に関しては、わたしたちはきわ めて知るところが少ない。  あわれむべき万物の霊長、いかめしいわたしたちの 鼻もその実愚かな犬がかぐほどの力も持たないし、鈍 い牛が聞くほどの耳も持たない。わたしたちはあわれ にも無能な器官を擁して、狭苦しい感覚の世界に住 み、|鵬購《きよくせき》として一生を送るまでだ。  わたしはこの岸のほうへ巻き寄せて来る海にー 「永遠」そのものを見るような海にーもっと透徹す ることもあるかと思って足を運ぶこともある。一目見 渡した時のなめらかな波の背、波のしわ、うず、日光 の反射、透きとおるような海の色、それらのものが集 まって自分のほうへはいってくる印象はあざやかに生 き生きと感ぜられる。けれどもそれは"こくわずかの間 だ。たちまちわたしの心はかき乱されてしまう。なん だか恐ろしくなってくる。退屈をも感ずる。わたしは 海に向かって立っていられないような気がする。その 時、わたしは逃げ出すように宿のほうへ帰るか、さも なければ、何か紛れるものを見つけて、注意を他にそ らすのがきまりだ。一時間はおろか、一.一十分と一つ岩 などに腰かけてながめてはいられない。  このわたしの経験から言うと、世には一生風景を描 いている美術家もあるが、よくそういう人たちは気が 狂わないーわたしは時々そんなことを考えることも ある。  この海岸はほとんど女の国だ。遠く沖のほうへ波に 乗って行く|勇敢《ゆうかん》な壮丁も陸へ上がっては、から|意気地《いくじ》 がない、'朝暴風雨にあえばたちまち死別の悲しみを 見ないともかぎらないような生業から、彼らは陸上で 優待の限りを尽くされる。読書算術も女が多く修め る。村役場の用も女が|達《た》しに出かける。男が大漁の祝 いに染めた長い上着のすそを風に吹かせて、ブラブラ 遊んでいるそばで、女が紺のももひきをはき、|鍬《くわ》を肩 に掛け、ほら貝の知らせを聞いて|道普請《みちぶしん》に出かけるな どは、こうした海岸でなければ見られない図だ。  大漁の祝いはまた、このあたりを酒肉の世界と化す る。多くのいやしい女が横浜あたりから入り込んでく る。彼らは若者の飲食する相手になり、|唄《うた》を歌い、金 銭を湯水のように使わせ、やがて祝いの終るころには 船から別れを惜しんで、またもと来たほうへこぎ返っ て行く。  ここには言い伝えられたさまざまな話がある。海を 泳いで情夫のもとへかよったという海人が恋愛の物語 などは、このへんの色の黒い女のアクチイブな情熱を しのば甘る。  わたしの泊まっている宿では、村の通路に添うて、 店先に雑貨を置き並べてある。砂糖の類までひさいで いる。店には顔色のつやつやした、ふとったかみさん がすわって、腕まくりで商売をやっている。|亭主《ていしゆり》は|漁 場《ようば》に半生を送った人で、今では、つりを道楽にすると か、さかなの買い出しにでも行くとかのほかには、た いして用のない、気楽な身だ。せっせと働いて食わせ てくれるかせぎ人のかみさんのそばで、幸福な亭主は 居眠りしながら網なぞすいている。  S君といっしょにわたしが借りている座敷は、この 夫婦らの住まいの奥にある新しく建てた二階の一間 だ。海岸から少し離れたところにあって、二階にいて 海を望むことはできないが、てすりの下に見える樹木 のこずえ、家々の屋根などは、漁村のさまらしい。わ たしたちは灰白な貝がらの多い砂地を踏んで、裏庭か らすぐ海岸のほうへ降りて行くこともできる、その細 い道もわたしの好きなところだ。  S君は世辞のいいかみさんのことをわたしに話し て、彼女の前半生は横浜の|南京《ナンキン》屋敷で送ったものであ るとか言った。それはともあれ、あまり世辞のいいに もへいこうする。  この宿に一人のおばあさんがある。七十近い、目の 見えない老婦だ。その年まで生き延びたら、食うとい う欲よりほかに残らない人で、あてがわれたわんを大 事にしては、食事の時間でなくともガツガツ震えてい る。暗い|部屋《へや》にひとりで引きこもっていて、かみさん の足音を聞きつけるたびに、例のわんをさしつけて拝 むようにする。 「おばあさん、朝の御飯がすんだばかりだよ……そん なに食べたがって、また腹下しするよ……。」かみさ んにしかられては、おばあさんは、子供のようにわん を引きこます。わたしは思いがけない所で、人の一生 の最後を見る気がした。  わたしはよく年"ころな婦人やかわいらしい娘などを 見るたびに、その人たちの子供の時の|容貌《ようぼう》や、それか ら年をとっての、姿などを思い比べることがある。 「わたしたちがずっと年をとったら、どんなふうにな るんでしょうねえ。」  とある娘が言ったが、わたしは今、あの娘の言った ことを思い出した。おそらくわたしが東京へ帰って、 この漁村で見たおばあさんの話をしたら、どうかして そんなになりたくないものだと、あの娘などは言うか もしれない。