|黄昏《たそがれ》 島崎藤村  日の暮れるころ、|二人《ふたり》は|切通坂《きりどおしざか》をおりて、上野広小 路のほうへ歩いて行った。|相厭《あひいと》う心と相愛する心とが いっしょになって、互に物を言いたくなかった。二人 は並んで黙って歩いた。  知らない人の集まる場所へ行くことはこの節二人が |快楽《たのしみ》とするところである。なぜというに、知らない人 の中ほど、二人の身にとって、|差恥《はじ》と|悲痛《かなしみ》とを忘れる によい場所はなかった。男はかれこれ四十に近い。女 は二十五六である。男が今どういう|事業《しごと》をしている か、昔の友だちで答えうるものはない。女の居所はそ の親ですら知らなかった。あたかもどこかの薄暗い軒 下から飛び出す|蠕幅《こうもフリ》のように、こうして夕方になると ぶらぶら散歩に出かけるのはこの二人の癖である。  男は、ずっと底の抜けた人に生まれて来るか、さも なければ、いっそう性来|拙《つたな》いか、どちらかであった ら、と思われる|一人《ひとり》でーその証拠には、彼よりもひ とに迷惑をかけていながら、それでそんなに悪く思わ れない者もあるし、または彼ほどの器量がなくて、さ らに信用されている人もある。しかしながら、物を受 けいれることの速い、のみこみのいい、すぐに火の燃 えやすいような性質のために、彼はあらゆる社会のこ とを経験した。慈善事業もした。新聞も書いた。社会 運動もやった。青年の味方となって演説をして歩いた 時は、驚くべき才能を発揮したということである。世 が変るにつれて、彼もまた変った。それから鉱山に関 係したといううわさもあるし、|樺太《からふと》へ人夫を送って手 を焼いたという話もある。彼はまっさかさまに世のど ん底へ落ちた。もしも変節のためにしりぞけられるな ら、のれんを掛け替えたものは彼ばかりではない。い たずらでとがめられるなら、身を持ちくずしたもの は、世に数えきれないほどある。彼のように|爪弾《つまはじ》きさ れるとは、そもそも何ゆえだろう。そこがそれ、彼の 人がらにある。|社会《よのなか》から捨てられるようなつらい目に あうものは、いずれ一度はかわいがられた人だ。実に 彼の|生涯《しようがい》は、正義と|汚濁《けがれ》と、美しいことと悲しいこと との連続した|数珠《ずず》のようである。  女は彼に身をまかせた|処女《おとめ》の一人で、いつ自堕落に なったともなく平気で恥ずかしいことを言うようにな った。もう身も世も恨み捨てている。昔の|衿持《ほこり》、昔の |徳操《みさお》、そういうものはどこへか行ってしまった。こう いう二人も、ひどく物事にえりごのみをした時代があ って、がやがやとした人の集まる場所なぞへはなるべ く避けて立ち寄らないようにしたものであったが、今 はその群れの中に交じって、往来を通る人々をながめ 楽しむようになったのである。多数の頭に宿る好奇 心、卑俗の趣味、無意味の|喝采《かつさい》1その一時の満足で すら、二人のわびしい心を慰めた。女は時々立ちどま って、流行を追う人々の風俗を見送っていた。男はま た、女の髪のにおいをかぎながら、多くのほかの情婦 のことなぞを考えて歩いた。  悲しい覚醒の思いは来て急に男の頭を打ち砕くよう にした。暗い、暗い彼の|精神《こころ》の|内部《なか》へも、時とすると こういう光が明るくひらめくのである。眠っていた彼 の魂はにわかに目をあいた。まだ世の中がこうならな かった前のことや、何年も忘れていた友だちのこと や、それから死に別れた人のことなぞが胸に浮かんで 来た。変節者、背徳漢、その他あらゆる汚名をこうむ って、まるで昔とは別人のように世間から思われてい る彼も、そう心の暗い時ばかりはない。この初夏の|黄 昏《たそがれ》のように、急に明るくなることはしばしばある。そ の時は、人間として高いことをも考えるのである。そ うして、こういう|閃光《せんこう》に打たれた一瞬時-彼が現在 の生涯は最も|惨鷹《さんたん》たる色を帯びるのであった。悪酒に 酔ったあとのさめぎわのように、苦しいここちになっ て歩いていると、ふと広小路の曲がりかどのところで 若い紳士風の男にでっくわした。 「やあ。」  と双方から声をかけた。この若い紳士はある座付き の作者で、それに近ごろ洋行帰りというのですばらし く羽ぶりがいい。くろうと好みの夏服といい、どこと なく気のきいたなりふりといい、五分のすきもないと いったようなとこは、どう見ても芝居道の人になりす ましていた。 「あいかわらず"こさかんですなあ。」  こんなことを言って、若い紳士は険しい目つきをし ながら、じろじろと女のほうを見た。  二人は非常に侮辱されたような気がした。やがて、 不得要領な言葉を残して器いて、ぷいと若い紳士は別 れて行った。女はそのうしろ姿を見送りながら、堅く 堅く男の手を握りしめた。言うに言われぬくやしいと いう心を通わせたつもりである。  相あわれむ心が起った。男もまた女の冷たい手を握 り返した。その時、男は自分のそばにあわれむべき一 個の人間がいるということに気がついた。その人は自 分のために一生をあやまって、親は言うに及ばず、|親 戚《しんせき》にも友だちにも見放されてしまったということに気 がついた。その人は自分のために|許持《ほこり》も失い、|徳操《みさお》も 失い、若々しい思いも失い、どんなことをしてももう とりかえしがつかなくなってしまったということに気 がついた。「不幸な女だ。」と男は心に繰り返したので ある。 「何か食おう。」  こう男が言った。二人は飲み食いするよりほかの考 えがなかった。  女も歩きだした。