旅 島崎藤村  汽車は嬬偉へ着いた.働獣芋通いの馬車はそこに旅 人を待ち受けていた。停車場を出ると、われわれ四人 はすぐに馬車屋につきまとわれた。その日は朝から汽 車に乗りつづけて、もう乗物には|倦《う》んでいたし、それ に旅のはじめで、|伊豆《いす》の土を踏むということがめずら しく思われた。われわれは互に用意して来た金でもっ て、できるだけこの旅を楽しみたいと思った。K君、 A君、M君、そろって出かけた。わたしはたばこの看 板の掛けてある小さな店を見つけて、|敷島《しきしま》を二つ買っ て、それから友だちに追い付いた。 「そろそろ腹が減って来たネ。」  とK君はわたしを見て笑いながら言い出した。|大仁《おおひと》 の町はずれで、またまた馬車屋が追い駆けて来たが、 とうとうわれわれは乗らなかった。 「なあに歩いたほうがかえって暖かいよ。」こうは言 っても、その実われわれはこの馬車に乗らなかったこ とを悔いた。それほど寒い思いをした。山々へは雪で も来るのかと思わせた。わたしの目からはとめどもな く涙が流れた。痛い風の刺激に会うと、きっとわたし はこれだ。やがて山間に不似合いな大きな建物の見え る所へ出て来た。修善寺だ。たいていの|家《うち》の二階は戸 が締めてあった。出歩く人々も少なかった。われわれ がブルブル震えながら、ようやくのことである温泉宿 へ着いた時は、早く心持のよい湯にでもはいって、|凍《こご》 えたからだを暖めたい、と思った。火。湯にはいるよ りもまずそのほうだった。  湯治に来ている客も多かった。|部屋《へや》が気に入らなく て、われわれは帳場の上にある二階の一間に引き越し たが、そこでも受け持ちの女中に頼んで長火ばちの火 をドッサリ入れてもらって、その周囲へ集まってあた った。なんとなく気は落ちつかなかった。  湯にはいりに行く前、一人の女中がはいって来て、 ゆうはん                      eしゆ 夕飯には何をしたくしようと尋ねた。「御酒をつけま すか。」こうつけたして言った。 「あゝ、お|燗《かん》を熱くして持って来とくれ。」とK君が 答えた。「ねえさん、それからお酒は上等だよ。」  われわれのからだも冷えてはいたが、湯も熱かっ た。谷底の石の間からわく温泉の中へわれわれは肩ま で沈んで、めいめいほしいままに手足を伸ばした。そ して互に顔を見合わせて、寒かった途中のことを思っ てみた。  その日、われわれの頭の中は朝から出会った種々雑 多な人々で満たされていた。とっさに過ぎる影、人の 息、髪のにおい1汽車中のことを考えると、都会の 空気はどこまでもわれわれから離れなかった。われわ れは、枯れがれな桑畑や、浅くもえだした麦の畑など の間を通って、ここまで来たが、来て見ると広い湯ぶ ねのまわりへ集まる人々は、いずれも東京や横浜あた りで出会いそうな人たちばかりである。男女の浴客は 大ぜい出たりはいったりしている。中には、男を男と も思わぬような顔つきをして、女同士で湯治に来たら しい人たちもいる。その人たちの老衰した、しなびた |乳房《ちぶさ》が、湯気の中にもうろうと見える。われわれはま だまったく知らない人の中へ来ている気はしなかっ た。  湯から上がって、洋服やインバネスの脱ぎ散らして ある部屋へもどった。これから行く先の話が出た。K 君とA君とは地図を持ち出した。その時われわれは茶 代の相談をした。 「どこへ行って泊まってもぼくは茶代を先へ出したこ とがない。」こうK君が言った。「いつでも|発《た》つ時に置 く。待遇がよければ多く置いて来るし、悪ければまた そのようにして来る。」 「ぽくもそうだナ。」とA君も言った。  とにかく、この雑踏した宿ではまず置くことにし た。大船でサンドウィッチを買った時から、M君は|帳 面方《ちようめんかた》を引き受けていてくれた。  ここの女中もやはり東京横浜方面から来ているもの が多いという。夕飯には、吸い物、|刺身《さしみ》、ソボロ、玉 子焼きなどが付いた。女中は堅ぶとりのした手を延ば して、みんなの杯へ酒をついだ。 「汽車の中で君に稲妻小僧の新聞を出して見せた女が あったネ。あの女なぞはよっぽどおもしろかった。ぽ くはそう思って見て来たーあれで得意なんだネ。」  とK君はわたしのほうを見て思い出したように言っ た。われわれは楽しく笑いながら食った。  宿帳はA君がつけた。A君はみんなの年を聞いて書 いた。K君三十九、A君三十五、M君三十、わたしは 三十八だ。やがてK君は|大蛇《だいじや》のように横になった。酔 えばここちょさそうに寝てしまうのがK君の癖だ。残 る三人は、K君のいびきを聞きながら話し続けた.  |翌朝《よくあさ》頼んでおいた馬車が来た。われわれは旅のした くにいそがしかった。したくが出来ると、すぐに宿の 勘定をした。 「K君、ぼくのほうで払おう。」とわたしが言った。 「ナニぼくが出しとくよ。」とK君はふところから紙 入れを出しながら答えた。 「ホウ、かかりましたナ。」とA君はのぞいて見た。 「ずいぶん食ったからね。」とK君は笑った。さっそ くM君は手帳を取り出した。  宿からは手ぬぐいをくれた。A君のふろしき包みは 地図やら絵はがきやら|脳丸《のうがん》やら、それから|修善寺《しゆぜんじ》みや げやらで急に大きくなった。われわれは宿のおかみさ んや番頭に送られて、庭の入口からがた馬車に乗って 出かけた。  天気はよくても、風は刺すように冷たかった。K 君、A君、M君、三人とも手ぬぐいで耳をおおうよう にして、その上から帽子をかぶった。わたしの目から はまた涙が流れて来た。車中の退屈まぎれに、われわ れは|馬丁《べつとう》のラッパを借りて戯れに吹いてみたが、そん なことからこの馬丁も打ち解けて、道ばたにある樹木 の名、行く先ざきの村落をわれわれに話して聞かせ た。こうして|狩野川《かのがわ》の谷について、さかのぼった時 は、次第に山深く進んで行ったことを感じた。ある村 へさしかかったころ、われわれは車の上から四十ばか りになる旅やつれのした女に会った。その女は|猿《さる》をお ぶっていた。馬車ははせ過ぎた。  湯が島へ藩いた。やがて昼近かった。温泉宿のある ところまで行くと、そこで馬丁は馬を止めた。われわ れはこの馬車に乗って|天城山《あまぎさん》を越すか、それともここ で一晩泊まるか、未定だった。山上の激寒をおそれ て、みんなの説は湯が島泊まりのほうに傾いた。  われわれの案内された宿は谷底の|樫《かし》の木に隠れたよ うな位置にあった。その日はほかに客もなくて、|漢流《けいりゆう》 に臨んだ二階の部屋を自由に選ぶことができた。「夏 はいいだろうね。こんなところへ一月ばかりも来てい たいね。」と互に言い合った。天城の|山麓《さんろく》だけあって、 寒いことも寒い。激しい山気は部屋の中へ流れこむの で、障子をあけ放して記くこともできないくらいだっ た。洋服で来たM君とわたしとはどてらにゆかたを借 りて着て、その上からもう一枚どてらを重ねたが、ま だ、それでもからだがゾクゾクした。  ここへ来ると、もうまったく知らない人の中だ。|北 伊豆《きたいず》の北伊豆らしいところは、雑踏した修善寺に見ら れなくて、この野趣の多い湯が島に見られる。何もか もわれわれの生活とはかけ離れている。湯はぬるかっ たがあとはポカポカした。|昼飯《ひる》には鶏を一羽ツブして もらった。肉は獣のようにこわかった。骨はたたきよ うが荒くてみんな歯を痛めた。しかしうまかった。 「ねえさん。」とわたしは|山家者《やまがもの》らしい女中に聞いて 見た。「ここは|家《うち》の人だけでやってるね……ねえさん はやはりこの|家《うち》の人かね。」 「いいえ、わたしはここの者じゃございません。」と 女中は答えた。  この娘の出て行ったあとで、A君が、「修善寺に比 べると女中からして違うネ。われわれの前へ来るとビ クビクしてる。」こう考え深い目つきをして言ってい た。  日"ころ|樫《かし》の木に特別の興味を持つA君はだれよりも まず軒先に|生《お》い茂る青々とした葉の新しさを見つけ た。この谷底の樫の木を隔てて、どうかすると、雨で も降って来たかとだまされるようなことがあった。よ く聞けばやはり|漢流《げいりゆう》の音だった。この音から起るいれ まじった感覚は別の世界のほうへわれわれを連れて行 った。われわれは遠く家を離れたような気がした。 「まったく世間を忘れたね。」  とK君は力を入れて言った。  K君とわたしはこの宿の絵はがきを取り寄せて書い た。わたしはそれをA君にも勧めた。 「ぽくは旅から出したことがない。」とA君が言った。 「そうかなあ、うちへ一枚出すかなあ。」 「M君、君もおっかさんのところへ出したらどうで す。」とわたしは言ってみた。  M君は絵はがきをながめながら笑った。「めずらし いことだーきっとだれかに教わってよこした、なん て言うだろうなあ。」  われわれはこの二階で東京にいる人のことや、まだ 互に若かった時のことや、|亡《な》くなった友だちのことな どを語り合った。K君はわたしのほうを見てこんなこ とを言い出した。 「ぽくの|生涯《しようがい》には暗い影が近づいて来たような気がす るね、なんとなくこう暗い恐ろしい影が1君はそん なことを思いませんか。もっとも、ぽくには兄が死ん でる。だからよけいにそう思うのかもしれない。」 「君が死んだら、追悼会をしてやるサ。」とわたしは 冗談半分に言った。 「今はそんな気楽を言ってるけれどー。」とK君は 大きなからだをゆすりながら笑った。「あの時はあん なことを言ったッけナア、なんて言うんだろう。」  とうとう湯が島に泊まることになった。日暮れに近 いころ、われわれは散歩に出た。門を出る時、わたし は宿のかみさんに会った。 「このへんには山の芋はありませんかね。」とわたしは かみさんに尋ねてみた。 「ハイ、見にやりましょう。あいにくただいまはなん にもございません時でして1野.菜もございません し、川魚もとれませんし。」とかみさんは気の毒そう に言う。 「とろろが出来るなら"こちそうしてくれませんか。」  こう頼んでおいて、それから谷を一回りした。われ われのために酒を買いに行った子供は、ちょうどわれ われが散歩して帰ったころ、谷の上のほうから降りて 来た。  夕方から村の人は温泉に集まった。この人たちはタ ダではいりに来るという。|夕飯《ゆうはん》前にわれわれが暖まり に行くと、湯ぶねのまわりには|大人《おとな》や子供がいて、多 少われわれに遠慮する気味だった。われわれはむしろ この|山家《やまが》の人たちといっしょに入浴するのを楽しん だ。あいかわらず、湯はぬるかった。容易に出ること ができなかった。われわれの目にはいろいろなものが 映った1激しく労働する手、荒い茶色の髪、わずか にふくらんだばかりの|処女《おとめ》らしい|乳房《ちぶさ》、はれ物の出来 た痛そうな男のくちびる……  夕飯にはわれわれの所望したとろろは出来なかっ た。おかずは、鳥の肉の残りと、あやしげな茶わん蒸 しと、野菜だった。茶ににおいのあるのは水のせいだ ろうと言い出したものがあったが、そう言われると飯 も同じようににおった。ここの女中が持って来た宿 帳の中にはわれわれが知っている|画家《えかき》の名もあったの で、雑談はまたそれから始まった。昼の間寂しかった 漢流の音は騒がしく変って来た。寝る前にわれわれは もう一ぱいはいりに行った。  朝早く湯が島を|発《た》った。われわれを待っていた馬車 は、修善寺から乗せて来たのと同じで、|馬丁《べつとう》も知った 顔だった。|天城《あまぎ》の山の上まで|一人前《ひとりまえ》五十銭ずつ。夜の うちにあられが降ったと見えて、乗って行く道は白か った。 「A君。」とわたしはひざを突き合わせている友だち の顔をながめた。「こうして天城を越すようなことは、 一生のうちにそう幾たびもあるまいね。」 「そうさナ、せいぜいもう一度も来るかナ。なにしろ まあよく見ておくんだね。」  こうA君が答えた。その日A君が興奮した|精神《こころ》の|状 態《ありさま》にあることをわたしはその力のある話しぶりで知っ た。朝日が寒い山の陰へあたって来た。A君は高い響 けるような声を出して笑った。  |馬丁《パつとう》は馬車から降りて、馬のくつわを執りながら歩 いた。山の上まではこうして馬に付いて行くという。 彼は自分の財産を守るようにーある時は|一人《ひとり》の友だ ちを頼みにするように、馬を大事にした。馬も彼の言 うことを聞いて、足に力を入れ、われわれを乗せた重 い車を引きながら、御料林の中の山道を進んで行っ た。  |茅野《かやの》という山村の入口でわれわれは三人ばかりの荒 くれた女に会った。「ホウ、半鐘がありますぜ、こん なところに宿屋もあるーこの次に来る時は是非あの 宿屋で泊めてもらうんだネ。」とA君は戯れるように 言った。この村の出はずれに枯れがれとした耕地があ って、向こうのほうには屋根の低い小屋が見える。き こりらしい男が通る。われわれの馬車はそれからいっ そう深く山の中へはいった。  半道ばかりの間、われわれは人に会わなかった。立 ち木のまま枯れた大きな幹が行く先の谷々に灰白くあ らわれていた。馬丁に聞くと、|杉《すぎ》のために圧倒された |椎《もみ》の枯れ木だという。この恐ろしげな樹木の墓地の中 を、一人、われわれのほうへ歩いて来る者があった。 男だ、いや女だ、とわれわれは車の中で争った。近 づいて見ると、きこりの妻ででもあるか、からずねに わらじばきで、寒い山道を平気で歩いていた。そのへ んは水草の多い、沢深い所だった。薄日をうけたシダ の葉も大きく物す"こく見えた。それぎりもうだれにも 会わなかった。次第にわれわれは激しい寒さを感じて きた。K君はM君と、A君とわたしと、二人ずつ堅く ひざを組み合わせ、からだの熱を通わせるようにし て、互にぬくめあった。馬車は天城の谷に添うて一里 ばかり上った。車中の人は言葉をかわすことも少なく なった。みんな黙ってしまった。 「K君、深い谷だね。」とわたしは筋ちがいに向かい 合っている友だちのほうを見て言い出した。「|景色《けしき》が いいなんていうところを通り越して、恐ろしいような 谷だね。」  K君はうなずいて熱心にながめ入った。 「まるで冬だ。」とA君も震えながら言った。「今だか ら、よけいに深いところがよく見えるのかもしれませ んナ。」  その時M君は車の上から、谷底を指さして、落葉し た木の名を馬丁に尋ねてみた。 「あそこに見えるのは、|山《ぷ》毛|棒《な》に、|檸《けやき》だそうだ。」と K君はそれを伝えた。 「ア、、あの黒いのが|山《ぷ》毛|棒《な》で、白いのがきっと|樺《けやき》で すぜ。」こうA君が言った。  われわれは|雪舟《せつしゆう》の絵などを引き合いに出して、なが めながら話して行ったが、そのうちに一人黙り、二人 黙り、またまたみんな黙ってしまった。  峠に近づいたころ、馬車は氷を製造する小屋のわき を通った。そこでわれわれは≡二人の働いている男に 会った。  ようやくのことで山上の小屋へ着いた。われわれは 馬車からおりた。何よりもまずたき火にあててもらっ て、さらにこれから湯が野まで乗るか、それとも歩い て下るか、とその相談をした。よくしゃべるばあさん がいて、ここで郵便物は毎日交換されるの、あの氷を 製造しているのは自分のだんなだの、とノペツに話し た。われわれは湯が野まで乗ることにきめた。|馬丁《べつとう》は 馬に食わせて、今度は自分も乗って、つららの下がっ た暗いトンネルをさして出かけた。  トンネルを出ると、やがて下りだった。馬車は霜く ずれのした|崖《がけ》のわきを勢いよく通り過ぎた。時とする とわれわれの前には、大きな土のかたまりが横たわっ ていた。そのたびに、馬丁は車からおりて、土のかた まりを押しのけて、それから馬を駆った。例の灰色の 枯れ木が突っ立った山々はいつのまにかうしろに隠れ た。われわれは緑色の杉林を見て通った。その色は|木 曾谷《きそだに》あたりに見られるような暗緑のそれでなくて、明 るい緑だった。|半里《はんみち》ばかりおりた。いくらか暖かにな った。道路にはもうあられが消えかかっていた。  楽しい笑い声は馬車の中に起った。 「なるほどすこし暖かいや。」とA君が言い出した。 「見たまえ。」とわたしは冗談のつもりで、「今に菜の 花が咲いてるから。」 「ア、海のにおいがしてきた。」とA君は戯れて言っ た。  この「海のにおいがしてきた」には、笑わないもの はなかった。  また|半里《はんみち》ばかりおりた。暖かな日光が馬車の中へさ しこんできた。われわれは争って風よけの|布《きれ》を揚げ た。それほど激しく日光にかわいていた。 「南と北とはこうも違うものかねえ。」とK君は地図 を取り出して見る。 「K君、あの道ばたに植えてあった若い並木はなんと 言ったッけ。」とわたしが聞いた。 「ヤシャさ。」とK君は答えた。「ぽくは忘れないよう に鬼でおぼえておいた。」  その時M君はこれからみんなが行こうとしている下 田のうわさをした。 「どんな港でしょうなあ。H君の話ではなんでも非常 に|淫擁《いんび》なとこだそうですねllきょうは雪舟から|歌麿《うたまろ》 ですかナ。」  こう言ったので、車中のものは笑わずにいられなか った。  それから一里ばかりおりた。村があった。畑の麦も すこし延びていた。また禁里ばかりおりた。冗談のつ もりで言ったことはほんとうになってきた。実際、菜 の花が咲いていた。青草は地べたから頭を持ち上げて いた。  湯が野へ着いたのはちょうど昼飯を食うころだっ た。そこで|馬丁《べつとう》は別れを告げた。二日の間の旅で、わ れわれはこの馬丁と懇意になって、知らない土地のこ とをいろいろと教えられた。この馬丁から、色男のた めに石碑を建てたとかいうラシャメン上がりのばあさ んのことまで教えられた。その健康でかつ金持のばあ さんが住むという屋敷の赤い窓をわれわれは車の上か ら見て通って来た。  湯が野ではすこしユックリした。ここにも温泉があ った。洋服を脱ぐのがめんどうくさいから、わたしは はいらないつもりだったが、みんなに勧められて旅の 疲れを忘れに行った。ここの宿から|河津川《かわづかわ》が見えた。 二階の部屋の|唐紙《からかみ》に書いてある漢詩をながめながら|昼 飯《ひる》を済ました。ここにはウマイねぎがあった。  別の馬車に乗って、やがて下田をさして出発した。 われわれはつばきの花の咲いている陰を通った。|豊饒《ほうじよう》 な河津の谷はわれわれの目の前にひらけて来た。傾斜 は耕されて幾層かの畑になっていた。山の上のほうま で多く桑が植え付けてあった。みかんは黄色く|生《な》って いた。「ここから英雄が生まれたんだろうね。」とA君 は川岸に散布する幾多の村落をながめ入りながら言っ た。ある坂の上まで行くと、われわれは河津の港を望 むことができた。海は遠く光った。  下田へ近づいた。女は激しく労働していた。われわ れは車の上から街道を通る若い男や女の群れに会っ た。そのほおの色を見たばかりでも南伊豆へ来た気が した。  夕方に下田に着いた。町を一回りして記念のために 絵はがきを買って、それから港に近いところへ宿をと った。奥のほうの二階からながめると、伊豆石で建て た土蔵・ナマコ壁・古風な蹴麟梗などが見渡される。 どじょうを売りに来る声がその間から起る。夕方であ るのに、このしり下がりのしたどじょう売りの声より ほかには何も聞えなかった。|夕餐《ゆうげ》の煙は静かな町の空 へ上がった。  宿のおかみさんはふとった、ていねいな物の言いよ うをする人だった。夕飯にはわれわれのためにあわび を用意して、それを酢にして、大きな|皿《さら》へ入れて出し た。われわれは湯が島の鳥の骨で歯を痛めていたか ら、この新しいあわびを味わうにはだいぶ時がかかっ た。M君は歯を一枚落とした。ここの女中もやはりお かみさんと同じように、ていねいな、優しいロのきき ようをして、われわれのために暖かい、心持のよい|寝 床《とこ》を延べてくれた。われわれはみんな疲れて横になっ た。 「ア、、|極楽《ごくらく》! 極楽!」  とK君はほうりだすような声を出して、ふとんの中 へもぐりこんだ。 「きょうも上天気ですぜ。天気のぐあいは実に申しぶ んありませんナ。」  とA君は宿屋の二階から下田の空をながめながら言 った。その朝は、伊豆の南端をきわめるためにみんな わらじばきで出かけることにした。われわれは勇んで 旅じたくを始めた。その時M君は手帳を取り出した。 とにかくここで一度帳面の締めくくりをして、出すも のは出す、受け取るものは受け取るとした。 「二円といくらぼくのほうから君へ上げればいいね。」 とA君が言った。  M君はわたしの前に銀貨を置いた。「これは君の受 け取るぶんだ。」 「ぼくも受け取るのかい。」とわたしは言った。 「君には湯が島で出してもらったから。」とA君はそ ばにいて説明した。  頼んでおいた新しい|白足袋《しろたぴ》が四足来た。みんな|十文《ともん》 だ。A君の足にはすこし大きすぎて、プクブクした。 A君はまた宿から|脚絆《きやはん》を借りて当てた。旅慣れたK君 はそのそばへ寄って、A君が右を当てるうちに左のほ うのひもを結んでやった。 「A君はやせてるね。」とK君はわたしのほうを見て 笑いながら言った。 「この定鐸を見たまえ、まるで貯㎎がはいたようだ。」 「いくらでも、そんな警句の材料にするがいいサ。」 こうA君も苦笑いして、やせた足に大きな|足袋《たび》で、部 屋の中を歩いてみた。 「ぼくは今までこの白足袋をはいたことがない。いつ でも紺足袋ばかり。」とA君はまた思い出したように 言った。「男が白足袋をはくなんて、|柔弱《にゆうじやく》だーよ くおやじに言われたものだ。ぽくのおやじはやかまし かったからねえ。ある時などは、|家《うち》のもののそでが長 いと言ってーナニそんなに長いほうじゃないんで さ、女としてはむしろ短いほうでざーそれをはさみ でもってジョキジョキ切っちゃった……」  わたしはA君の顔をながめた。「君のおとっさんは そんなに厳格だったかね。」 「えゝ、えゝ。」とA君は今さらのように|亡《な》くなった 父親を追想するらしかった。「そのかわり、おかげで いい事を覚えましたよ1|木綿《もめん》のきものを着てどこへ 出ても、すこしも恥ずかしいと思わなくなりました よ。」  途中の暖かさを想像して、K君はインバネスを置い て行くことにした。A君はきものを一枚脱いだ。宿へ は茶代だけやって、それから新しいわらじをはいて、 |発《た》った。  |長津呂《ながつろ》の漁村へ行くにちょうど昼までかかった。そ こから|断崖《だんがい》の間にある細道をよじた。登ると、松林の 中へ出た。半島の絶端をきわめたいと思う|勃《ぼつぽつ》々とした 心が先に立って、われわれはここへ来るまでの疲れと 熱苦しさとを忘れた。「ぽくはこういう道を歩いて行 くのが好きサ。」とK君はわたしを顧みながら言っ た。「ぽくも好きだ。」とわたしが答えた。やがて松と 松の間が青く光って来た。|遠江灘《とおとうみなだ》が開けた。|石室崎《いろうざき》の 白い燈台のあるところまで行くと、そこで伊豆は尽き た。望楼もあった。われわれは制服を着た望楼の役人 に会った。この役人は寂しい生活に飽いたような、生 気のない目つきでわれわれをながめていた。 「A君、来て見たまえ。」とM君は燈台に近い絶壁の 上に立って呼んだ。  A君、K君続いてわたしもM君といっしょになっ た。われわれは深い海を見おろして思わず互に顔を見 合わせた。その時急激な、不思議なみぶるいはわたし のからだを伝わった。わたしは長くそこに立っていら れないような気がした。 「同じ死ぬんならここだネ。」  冗談のつもりで言ってみて、わたしはめまいを紛ら そうとしたが、なんとなく底の知れないほうへ引き入 れられるような気がした。  燈台の入口にある壁のところには額が掛けてあっ た。その額の下に|燈台守《とうだいもり》の子供らしい娘がよりかかっ て立っていた。なおよく見ようとするうちに、一そう の汽船が|駿河湾《するがわん》のほうから進んで来た。 「あの船だ。」とK君が言った。「船で帰るんなら、こ こにぐずぐずしていたんじゃ間に合わない。」 「だめらしいナァ。」とA君は言った。「われわれが|長 津呂《ながつろ》まで行くうちにはあの船は出てしまう。」  こう言い合ったが、なるなら歩いて帰りたくなかっ た。そこで燈台の見物をそこそこにして長津呂のほう へ引き返すことにした。  そんなに急いで帰るにもあたらなかった。|岬《みさき》で見た のは別の汽船だった。われわれを乗せて下田まで帰る 船はまだ来なかった。汽船宿で聞くと一時間の余も待 たなければなるまいと言う。で案内されて、まだ新規 に始めたばかりの宿屋へ行って、若い慣れないかみさ んに|昼飯《ひる》のしたくを頼んだ。  まったく知らない生活を営む|素朴《そぼく》な人々の中に、一 時間ばかりいた。われわれはわらじばきのまま、広い 庭の内に腰かけて食った。この宿のかみさんはまだ|処 女《むすめ》らしいところのある人で、炉ばたでわれわれのた《ノ》|め  のり                        あ力 に海苔をあぶった。下女は油さしを見るような銅の道 具へ湯を入れて出した。ここの豆腐の露もウマかっ た。  汽船を待つために、はしけのあるところへ行った。 その時は男盛りの|漁夫《りようし》と船頭親子といっしょだった。 かつおの取れるころには、そのへんは人で埋ずまると か、その日はしんかんとしたもので、えび網などが干 してあって、二三の隠居がのんきに網をつくろってい た。やがてはしけが出た。船頭は|断崖《だんがい》の下に添うて右 に燈台の見える海のほうへこいだ。海はまだらに見え た。|藻《も》のないところだけ透きとおるように青かった。 強い、若い、とはいえひきつけるように美しい女同士 が、赤いはばきを当てて、われわれのそばを勇ましそ うにこいで通った。それはさざえを取りに行って帰っ て来た舟だった。ちょうど駿河湾のほうから進んで来 た汽船が、左の高い岩の上に翻る旗を目がけてはいっ て来て、帆船の一そう|碇泊《ていはく》しているあたりで止まっ た。われわれはいっしょになった|漁夫《りようし》とともに、この 汽船へ移った。A君は船が大きらいだ。酔わなければ いいが、と思ってみんな心配した。  まもなく船は|石室崎《いろうざさ》の燈台を離れた。最初のうちは 甲板の上もめずらしかった。われわれは連れになった 灘知から、島々の説明を聞いた。禰ヂ鷲餓、禮瀞餓、 大島、そのほか島々の形を区別することができるよう になった。われわれはまた風の寒い|甲板《かんぱん》の上をあちこ ちと歩いて、船の構造を見、勇ましそうな海員の生活 を想像した。しかし、それは最初のうちだけのこと で、次第に物うい動揺を感じた。船は魚を積むために 港々へ寄ったが、所にょると長く手間が取れた。われ われはその間、むなしく不愉快に待っていた。海から 見た|陸《おか》は、|陸《おか》から海を見たほどの変化もなかった。  |小稲《こいな》という所を通った時、海から舟で通うほらあな があった。ここへ見物に来た男が、細君だけ置いて、 五百円ふところに入れたまま舟から落ちたという。こ れは行きに聞いた話だ。あのラシャメン上がりのばあ さんとは違って、金はあっても寿命のない男だと見え る。われわれはこの不幸|塗亭主《ていしゆ》の沈んでいるというほ らあなを望んで通った。  日暮れに近く下田の港へはいった。幸いにA君は酔 いもしなかった。われわれははしけを待つに長くかか った。この汽船の会計らしい人は自分の室の戸をあけ て、小さな植木ばちなどの飾ってある机の前でていね いに髪をなでつけ、かばんを抱いて、それから別のは しけへ移った。甲板の上にはよごれた服を着た船員が 集まって、船の中で買い食いでもするほかに楽しみも ないような、ツマラなそうな顔つきをして、上陸する 人たちをうらやましげにながめていた。ようやくはし けが来た。われわれも|陸《おか》へ急いだ。  下田の宿では夕飯の用意をしてわれわれの帰りを待 っていた。その晩、われわれは親類や友だちへあてて 記念の絵はがきを書いた。天城を越したら送れと言っ たY君を初め、信州の丁君へは、K君とわたしと連名 で書いた。旅のつれづれに士地のあんまを頼んだ。暖 かい雨の降る音がしてきた。  早く起きた。雨は夜のうちにやんで、湿った家々の 屋根から|朝餐《あさげ》の煙の白く登るのが見えた。音一つしな かった。眠るように静かだ。 「想像と実際に来て見たとは、こうも違うかナア。」 とK君は下田の朝をながめながら言った。「まあ、ぼ くの知ってるかぎりでは、酒田に近いー酒田よりも うすこしまとまってるかナ。」 「そんなに|淫靡《いんび》な所だとも思えないじゃないか。」と わたしもながめて、「船藩きの町で、よそから来る人 をたいせつにして、風俗を固守してるlIそれ以上は わからん。」 「こんな宿屋じゃわからないサ。」とK君は笑った。 「料理屋へでも行って飲み食いしてみなけりゃーぽ くはよくそう思うよ、その土地土地の色はああいう場 所へ行って見ると、一番よく出てる。」  こう二人で話していると、やがてA君とM君もそこ へいっしょになった。われわれはこの,卜田をほかのい ろいろな都会に比較してみた。「西京がこういう町の 代表者だ。」とM君は言った。 「保守的だから奔放はないサ。」  とまたM君が言った。M君はそこまで話を持って行 かなければ承知しなかった。  |朝飯《あさはん》の後、|伊東《いとう》へ向けてこの宿を発った。是非また 来たい。この次に来る時は大島まで行きたい、と互に 言い合った。かみさんや娘は出てわれわれを見送っ た。下女ははしけの出るところまで手荷物を持ってつ いて来た。  まもなくわれわれは伊東行きの汽船の中にあった。 この汽船は長津呂から下田まで乗ったと同じ型だっ た。大小の帆船、荷舟、小舟、古い修繕中の舟、その 他種々雑多な型の舟、あるいは|碇泊《ていはく》している舟、ある いは動いている舟1これらのものは、やがてうしろ に隠れた。三月の節句前のことで、船は港々へ寄っ て、さざえを詰めた俵を積んだ。魚も積んだ。それを 船員が総がかりで船の底へ投げ込むたびに、われわれ のいる室のほうまで響けた。A君は無理に寝て行っ た。船の中では昼の弁当を売ったが、だれも買うもの がなかった。こうして午後まで揺られた。  伊東へ着いた。その日もA君は別に船旅に酔ったよ うな様子はなかった。  湯の|香《か》のする古い朽ちかかったような町、そうかと 思うと絵はがきを売る店や、玉突き場や、新しく|普請《ふしん》 をした建物などの軒を並べた町1こういれまじって 続いているところへ来た。ここはもう純粋な|田舎《いなか》では なかった。それだけ|熱海《あたみ》や小田原のほうへ近づいたよ うな気もした。  われわれは行く先ざきで何かしらほめたーすくな くも土地の長処を見つけて、その日その日の旅の苦痛 にふけりたいと思った。修善寺の湯は熱すぎたし、湯 が島ではぬるすぎたし、湯が野も悪くはなかったが、 はいりごこちのいいのはここだ。これは伊東の宿へ来 て、町の往来へ向かった二階のかどの部屋で、みんな いっしょに茶を飲んだ時の|評定《ひようじよう》だった。 「ここの湯で、下田の宿で、湯が島の|渓流《けいりゆう》があった ら、申しぶんなしだネ。」とわたしが言ってみた。 「長津呂のかみさんでー」  とK君は笑いながらつけたした。  その日は|昼飯《ひる》を食わずだから、宿へ頼んで、夕飯を 早くしてもらった。みんなおなかがすいていた。一時 は飲み食いするよりほかの考えがなかった。きらいな 船に揺られたせいか、A君はなんとなく元気がなかっ た。わたしがそれを尋ねたら、「ナニ、別にどこも悪 かないーただ意気|錆沈《しようちん》した。」こう答えていた。  日が暮れてから、A君はここの絵はがきを買って来 た。「東京へみやげにするようなものはなんにもなか った。」と言って、その絵はがきを見せた。中に大島 の風俗があった。大島はよくながめて来て、島の形か ら三原山の噴煙まで目の前にあるくらいだから、この 婦人の風俗はわれわれの注意を引いた。右を取るとい うものがあり、左を取るというものがあった。「左は ぼくの知ってる人によく似てる。」などと言って笑う ものもあった。礼服、労働の姿で|撮《と》れていた。K君は 二枚分けてもらった。  それはあくる日東京へ帰るという前の晩だった。わ れわれは激しい、しかしながら楽しい疲労を覚えた。 短い旅のわりにはかなりいろいろな所を見て来たよう な気もした。みんな|留守《るす》にしておいた|家《うち》のことが気に かかってきた。同時に、しばらく忘れていた工場の 笛、車の音、うなるような電車、すすと煙とほこりと で暗いような都会の空に震えるあの響きを思い出すよ うになった。あの単調な、退屈な………