収穫 島崎藤村  本郷区森川町一番地。  中根としてある家の門前で、佐々木先生と|同伴《つれ》の|斎 藤《さいとう》老人とが立ちどまった。先生のほうも、もうそろそ ろ老人の部に繰り込まれる年配である。 「こんちは。中根さんはおいでですかね。」  こう先生が尋ねると、三十かっこうの細君が出て来 てあいさつする。ちょうど日曜で、主人はいる。二人 の訪問者は、入口の庭のすみに|杖《つえ》を置いて帽子を手に 持って上がった。 「どうぞ先生、二階のほうへいらしってください。」  と細君が言う。 「ハイ。」と答えながら、先生は斎藤老人のほうを見 た。 「さあ、こちらへ。」とはしごだんの上から呼ぶ主人 の声が聞える。 「奥さん、失礼ですが、ハバカリを拝借します。」  と先生は笑いながら言って、話より何よりまず用を たしに下座敷を通り抜けた。  斎藤老人はふろしき包みのまま手みやげを細君のほ うへ押しやって、しばらくそこに待っていたが、容易 に先生が出て来そうにもないので、女に案内されて主 人のいるほうへ行った。まもなく先生もはしごだんを 上った。二階の座敷には、主人と斎藤老人とがはすに 向かい合ってすわっていて、先生のための座ぶとんが 縁に近いほうへ用意してあった。 「まあ、先生はこちらへ。」  と老人が敬意を表した。先生は老人のうしろを回っ て、すだれ越しに秋めいた空のよく見えるところへす わった。 「ところで、こういう手紙が来ました。」と先生はい ろいろ前置きをしたあとで言い出した。たもとには一 通の手紙が入れてあった。それを取り出して、手に持 ったまま、「簡単に言いますと、三島のほうである人 が|私塾《しじゆく》を始めたから、わたしにも英学の教師として来 てくれないかと言うんです。」  こう言って、先生はその手紙を見せた。 「へえ、自分の|家《うち》の蔵を仮校舎にして、もう三年ばか りもやってきたとありますな。」主人は手紙を読んだ あとで、元のとおりに巻き直しながら、「そいつを今 度大きくしようと言うんですね。蔵を開放したはおも しろい。それに、三年も継続して来た|事業《しごと》なら確かで しょう。」 「なにしろ、」と斎藤老人は話を引き取って、「来月の |一日《ついたち》に新築の祝いをしたい、それまでに間に合うよう に電報で返事をしてくれ、模様によってはすぐに上京 すると言うんですからーずいぶんこりゃあ忙しい話 です。」 「どういう経歴の人ですかサ。」と先生は主人の顔を ながめた。「わたしはすこしも知らない人なんです。」 「そこがおもしろいじゃありませんか。」と主人が言 った。 「そのくせ、わたしのことは|先方《さき》でよく知ってるよう に書いてある。」  主人は考えた。「まずこの手紙で見ると、三十四五 ぐらいの人らしいですね。そう年をとった人ではこう いう文章は書きませんよ。三十代の人の|事業《しごと》として は、すこしじみすぎるかとも思いますが、しかしこの 文面で見てもおおよそその人が想像されますね。しご くおもしろいでしょう。」 「さあ、わたしもそう思います。」と斎藤老人もあい づちを打った。 「さっそく返事を出したらいいでしょう。そうして|先 方《さき》へ行ってみた上で、もし具合がいいようでしたら、 ずっと先生はあそこに落ち着くんですねllまあ、三 島の土におなりなさるんですね。」  先生はほほえんだ。「もうわたしも御覧のとおりの 年ですから、具合さえよければ、あすこを自分の死に 場所として行くつもりですよ。で、わたしはこう考え るんです。とにかく自分ひとりで出かけましてネ、二 月なり三月なりたったところで、それから|家《うち》の者を連 れて行こうと思うんです。この前の話なんざア、あま りとっぴですものーそれ船が出る、|発《た》って行け、あ れじゃあまるで火がつくようで、考える余裕も何もあ りゃしません。よしんば出かけて行ってみたところ で、どうなるんだかわからない。そこへ行くと今度の 話は確かです。もうお|膳立《ぜんだ》てが出来ているようなもの ですからネ。」 「この手紙が来た時は、うれしかったでしょうナア。」 と主人は今さらのように、辛酸なめつくした佐々木先 生の学者らしい顔をながめた。  先生も喜びの情を分けずにはいられなかった。先生 はわれを忘れたように、思い出してみて、笑った。 「けさわたしがたばこをのんでますとネ、なにかこう 表のほうでゴソゴソという音がするじゃありませんか ー」  この「ゴソゴソ」が主人を笑わせた。 「すると、手紙だ。配達人が置いて行ったんだ。オヤ と思って手に取ってみると、知らない人の名前でしょ う.それからまあ、さっそく斎藤さんのところへ駆け つけたんです。」  斎藤老人は思わず|禿頭《はげあたま》を押さえた。 「斎藤さんもあなたのところへごぶさたしているか ら、御相談にいらっしゃるなら、わたしもお供をしよ う、てんでこうしていっしょに来てくだすったような わけなんです。落合君にも御相談しなけりゃ悪いかと 思うんですがナァ、あいにく東京にはいらっしゃらな いしーまあ、しかたがない。」 「ナニ落合君だっても無論賛成でしょう。落合君が聞 いたら、きっと喜びますよ。さっそく承諾したと言っ てやったらいいじゃありませんか。われわれに相談す るまでもないことでしょう。」と言って主人はすわり 直して、「先生は長い経験もおありなさるし、親切に 書生の世話もなざるほうですし、きっと三島は先生の ためにいいでしょうよ。ずいぶん先生も御苦労なすっ たー十年も二十年もかかってまいた種がようやく実 を結ぶ時節になって来たんでしょうナア。」 「そうです、ようやく実が結ぶ時節になってきたんで す。」  こう斎藤老人も力を入れた。  その時主人は|階下《した》へ降りて行ったが、しばらくたっ と羽織の解いたのを持って上がって来た。それは小紋 かなにかの昔の物であったのを、黒に染めたので。 「先生、失礼ですが、これはお祝いです。」 「へえ、ちょうだいしてもいいんですか。」 「こんな物をあげてはかえって失礼ですけれど、学校 へ行く時にでもお召しなすってください。それに表ば かりで、裏はないんですよ。」 「ちょうどうちに、この裏になるようなのがありま す。」  そこへ斎藤老人が言葉を添えた。「先生、いただい ておおきなすったらいいでしょう。」 「じゃあ、遠慮なくちょうだいして行きますかナ。」 と先生は笑った。「時に、ブチマケたお話ですが、旅 費としてどのくらいもらったものでしょう。三十円も 請求しますか。」 「三十円はすこし過ぎましょう。」と主人が言った。 「|先方《さき》も創業の際というんですから、そこも考えてま ず二十円、せいぜい二十五円でしょうな。」 「そこいらの見当がよさそうです。」と斎藤老人も言 った。 「途中はいくらもかかりますまい。」と主人が聞く。 「ええ、それは知れたもんですよ。」 「お|家《うち》のほうのしたくもありましょうナア。それに着 物だっても、ととのえるだけのものはととのえていら しったらいいでしょう。ずいぶん先生はかまわないほ うだから。」と主人は子が親に言うようなことを言 う。 「そこが尊いところでもありますがー」こう老人は 解釈した。 「先生、着物は和服になすったほうがようがすぜ。」 「そうですかナア。わたしはまた、洋服のほうが便利 かと思う。」 「洋服もよう"こざんすが、付属物がやっかいです。い くら|田舎《いなか》でも、パクパク|靴《ぐつ》はあまり感心しませんから ねえ。」 「それもそうですナ。じゃあ、これから和服とやりま すかナア。はゝゝゝゝ。」 「それから新しい参考書はぜひかばんの中へ入れてい らっしゃる必要がありますよ。」 「ええ。無論それは用意して行くつもりです。」 「なにしろ一刻も早く電報をお打ちになったほうがい いでしょう。」 「、こいっしょに行って、これからすぐに打ちましょう か。」と老人も言い出した。 「では、そうしましょう。中根さん新聞を一枚ちょう だい。」と言って、先生は主人が祝ってくれたものを 新聞に包んで、それを無造作にふところにねじこん だ。「まだきまりもしないうちから、こんなお祝いな ぞをいただいてー」  やがて先生と老人とは礼を述べて立ち上がった。主 人は客を見送るために、ついて|階下《した》へ降りた。 「いずれわたしも出かける前にもう一度伺います。」  こう先生は主人のほうを見て言って、斎藤老人とい っしょに中根の門を出た。