出発 島崎藤村  時計屋へ直しにやってあった八角形の柱時計がまた |部屋《へや》の柱の上に掛かって、元のように音がしだした。 その柱だけにも六年も掛かっている時計だ。三年前に |叔母《おぱ》さんが産後の出血で急になくなったのも、その時 計の下だ。  姉のお|節《せつ》は外出した時で、妹のお|栄《えい》はほうきを手に しながらちらかった部屋の中を掃いていた。この|姉妹《きようだい》 が世話する|叔父《おじ》さんの子供は二人とも男の子で、下の ほうは|文《ふみ》ちゃんと言って、六歳のいたずら盛りであっ た。文ちゃんが外からお友だちでも連れて来ると、い つでもこのとおり部屋をちらかしてしまう。お栄は仏 壇のある|袋戸棚《ふくろとだな》の下あたりを掃いていると、そこへ叔 父さんが二階からおりて来た。 「子供はどうしたい。」  と|叔父《おじ》さんが聞いた。叔父さんは昼寝からさめたば かりの疲れた顔つきでいた。 「表へ遊びに行きました。」とお栄は物静かな調子で 答えた。 「節は?」とまた叔父さんが聞いた。 「ねえさんはお墓参り。」 「こんな暑い日によくそれでも出かけて行ったなあ。」 と言って、叔父さんは半ばひとり"ことのように、「お 墓参りには叔父さんもしばらく行かないナ……」しま いに叔父さんはためいきをついた。部屋には片すみに あるタンスからその上に載せた箱の類まで、|叔母《おば》さん が生きていた時分とちっとも違わずに置いてある。た だ、壁を黄色く塗り変えたので部屋の内がいくらか明 るくなったのと、縁先の狭い庭の一部を板の間にして 子供の遊ぶ場所に造ったのと、違ったと言えばそれぐ らいのものだ。叔母ざんの目を楽しませた庭の八つ手 は幾本かあった木が子供にひどい目にあわされて、枯 れてしまった。中で一本だけ威勢のいいのがズンズン 生長して、その年も幹のうらのところに新しい若葉を 着けている。叔父さんは縁先に出て、その葉の青い光 を見て、またお栄のほうへ引き返してきた。 「へえ、時計が出来てきたネ。」  と言いながら叔父さんはしばらく柱の下に立って、 親しいものの|面《おもて》を仰ぐように、みがきなおされて来た 時計を見ていた。ネジを掛ける二つの穴の周囲からロ 1マ数字を書いたあたりへかけて、手ずれたりはげ落 ちたりした跡が付いて、もうおぱあさんのような顔の 時計であった。でもまだこうして音はしている。ガラ スのふたを通して見える|真鍮色《しんちゆう》の振り子は相変らず静 かに時を刻んでいる。 「ずいぶん長くある時計だよll叔母さんといっしょ に初めて|家《うち》を持った時分から、あるんだからネー|阿 部《あぺ》のおじいさん(叔母さんのおやじ)がわざわざ買っ てさげてきてくれた時計なんだからネー」  こうお栄に話し聞かせて、やがて叔父さんは流しも とで癖のように手や足を洗って、また二階へ上がって 行った。姉の結婚は次第に近づいてきていた。お栄は そんなことを胸に浮かべながらひとりで部屋を片づ け、それから勝手のほうへ行ってざるの中に入れてあ ったじゃがいもの皮をむきはじめた。  昼"ころに姉のお節は細い柄のこうもりと黄色なばら の花束を手にして帰って来た。いつでもお節が墓参り に行くと、寺の近所の植木屋で何かしら西洋の草花を 見つけて、それを買ってはもどって来た。 「栄ちゃん、こういういいもの。」  とお節は妹の鼻の先へみやげのばらを持って行って 見せた。  お節が子供に隠れて外出したのを不平でいた|文《ふみ》ちゃ んは、それと見て表口からはいってきた。そしていき なりお節に抱きついた。|長《ちよう》ちゃんー兄のほうの子供 も学校から帰ってきた時で、かばんをそこへ投げ出す が早いか、弟と同じようにお節の手を引いたり、肩へ つかまったりした。 「まあそう|二人《ふたり》で取っつかないでちょうだいよ……ね えさんを休ませてちょうだいよ……暑くってしょうが ないんだから……」  そう言われると、よけいに母親のない子供らは甘え た。 「栄ちゃん、栄ちゃん1電車の中でそれはいい人を 見てよ。髪のかっこうと言い、からだの様子と言い ー」  お節の若々しい快活な笑い声と、子供らの騒ぎと で、ヒッソリとした|家《うち》の中は急ににぎやかになった。 お栄は姉からばらの花を受け取って、半分は勝手の|棚《たな》 の上に置き、半分は小さな大理石の花びんに入れて叔 母さんの|位牌《いはい》のそばへ持って行った。  日に幾度となく叔父さんは子供のことを心配して、 二階から見回りに降りて来た。叔父さんは仏壇のとこ ろへ首を突っ込んで、別にそれを拝むでもなく、ただ |金箔《きんぱく》のはげかかってきた位牌や、薄くほこりのたまっ た過去帳などをながめて、|惰然《しようぜん》としていた。 「どうだネ、お墓はきれいになっていたかネ。」と叔 父さんは仏壇によりかかりながら、お節に尋ねた。 「ええ、すっかりそうじがしてありましたよ。」とお 節が答えた。 「お墓も古くなったろうネ。でも節は感心にお参りす るよ。これで遠方へでも行くようになると、またしば らくお参りもできないからネ。」  お節は黙ったまま立っていた。 「三年たてばヒドイものじゃないか。」と叔父さんは 寂しそうに笑って、「叔母さんのこともよほど忘れて きた1正直な話が、そうだー」  お節は思い出したように、「わたしがこの|家《うち》へ帰っ てきたのはちょうど去年のきょうでしたよ。」 「そうだっけかなあ。」 「わたしはおっかさんのそばには半年しかいません。 ホラ、叔父さんのとこから電報をよこしてくだすった でしょう。あの時はおっかさんはわたしを離したくな いようなふうでしたけれど……」 「なにしろあんな|田舎《いなか》にクスブっていたんじゃしよう がないからと思って、叔父さんが東京へ出られるよう にしてやったんサ。ぐずぐずしている時じゃない、う っかりすると栄ちゃんまでお嫁に行きそこなってしま う。そう思ったから、ドシンと一つ電報で驚かしてく れた。お前がずっと|田舎《いなか》にいて.こらん、今度のような お嫁さんの話は聞かなかったかもしれないぜー女の 一生というものは、考えてみると妙なものさネ。」  叔父ざんは仏壇のそばを離れて、タンスの置いてあ るほうへ行った。一番上の引き出しから叔母さんの残 して行った着物を取り出してみた。 「どれ、お形見を一つくれようか。」と叔父さんが言 った。「叔母さんの着物もみんなにやるうちに、だん だん少なくなっちゃった。」 「栄ちゃん、いらっしゃいって。」とお節は妹を呼ん だ。  その時叔父さんは叔母さんの長じゅばんだのじゅば んだのそのほかこま、こました物を姉妹に分けてくれ た。 「それはそうと、御祝言の時の着物はどうするか。」 と叔父さんが言い出した。「四月の末に来るというお 婿さんが一月延びることになった。綿入れの紋付きを あわせに直して、またそれでも間に合わないなんて、 たいへんな話だぞ。弱ったナ、こりゃ。」 「根岸の|伯母《おば》さんにも相談してみましょう。たぶん間 に合いましょう。」とお節が言った。 「でも五月の末となりゃ暑いんですよ……たいていひ とえ物よ。」とお栄が言葉をはさんだ。 「待てよ。五月の末だなあ。おれはだいじょうぶと見 た。もし暑かったらなるべく曇ったような日を見立て て結婚するんだネ。晴天日延べとやるか。」  この叔父さんの冗談は姉妹の娘を笑わせた。  勝手のほうからは涼しい風が通ってきた。お栄は古 いすだれの外に出て、はち植えにしたシネラリヤのか わいらしい花をながめたり、葉をなでたりしていた。 その草花もお節が根岸の伯母さんの家へ行ったついで に買ってきたものであった。お節は長ちゃんをひざの 上に抱きながら、勝手の板の間に出かけた。叔母さん のお墓へ行く途中で行き会った知らない顔……電車の 窓から見たいろいろな若い人のうしろ姿……急いで熱 い往来を過ぎ行く影……あれか、これかと思い比べて きた人のことが激しい日光の感じに混じって、お節の 目をくらむようにさせた。今にもそこへ身を投げ出し たいような、荒い、しかも娘らしい願いが彼女の胸に わき上がってきた。お節は自分の胸の鼓動がしっかり と抱いている子供のからだにまで伝わってゆくことを 感じた。 「|長《ちよう》ちゃん、いいものをかがしてあげましょうか。」  とお栄は流しもとへ来て、|棚《たな》の上にある黄色いばら の花をちょっと自分でかいでみて、それから子供の鼻 の先へ持って行った。 「ああ、いいにおいだ。」と長ちゃんは目を細くした。 「なまいきねえ。」とお節は笑って、抱いている子供 のからだをゆするようにした。 「長ちゃんだって、いいものはいいわねえ。」とお栄 も笑った。 「そう言えば、どんなにいさんがいらっしゃるでしょ うねえ。」とまたお栄が言った。  妹は血ぶとりのした娘らしい手で自分のちぶさのへ んを着物の上から押さえて、遠くから海を越してやっ て来るというお婿さんのことを姉といっしょに想像し た。  三年もひとりで考えている二階から、また叔父さん が降りて来た。叔父さんは流しもとへ行って、水道の 口からほとばしるように出てくる冷たい水を金だらい に受けて、それで顔を洗った。  叔父さんは手ぬぐいで顔をふきふき勝手に近くいる |姉妹《きようだい》の娘に向かって、 「あゝ、あゝ、これでいくらか清々した……今日は|阿 部《あぺ》のおじいさんに手紙を書いて、こう自分の身のまわ りのことを報告しようと思ってサ……お|園《その》さん(なく なった|甥《おい》の妻)もいよいよ東京へかたずいてきたし、 節も近いうちにはお嫁さんになるし、みんな動いてき た……その中で自分ばかりは相変らず……なんて、そ んなことを書いてるうちに、涙が出てきて困った… …」  こう言いかけて、叔父さんは胸を突き出しながらひ とりで荒いためいきをついた。言葉を継いで、 「でも、おれはまだ泣けるーそう思ったらうれしか った……よけいに涙が出てきた……きょうはほっぺた が赤くなるほど泣いちゃった。」 「ほんとに。」  とお節は叔父さんの顔をのぞきこむようにした。叔 父さんは笑いながら物を言っていたが、そのほほはめ ずらしく泣きはれていた。  狭い町の中で、風通しのいいように表の戸をあけひ ろげると、日に反射する熱い往来の土がすだれ越しに 見える。勝手に近い所へぜんをすえて、そこで叔父さ んは昼飯をやった。 「あれもしなけりゃならない、これもしなけりゃなら ない……しなけりゃならないことは、ちゃんともうわ かってますけれど……気ばかりせいちゃって、からだ が動かないんですもの……」  給仕しながらお節は笑った。  叔父さんのそばへは文ちゃんが来て立った。叔父さ んはそのがんぜない様子を見て、 「揖んとに文ちゃんも大きくなったネ。」 「あんなに着物が短くなっちまいました。」と勝手に いたお栄も子供のほうを見て言った。 「ねえさんたちにはよっぽどお礼を言わなけりゃなら ないネ。」と叔父さんは自分の子供に言った。  何を思いついたか、急に文ちゃんはお節のほうへ行 って、からだをこすりつけるようにした。 「またぐずり始める。だれも笑ったんじゃないの。あ んたが大きくなったって、みんなほめるんじゃありま せんか。」  とお節は子供をひざの上に載せた。 「節の子供の時分に、叔父さんは一度お前の|家《うち》へたず ねて行ったが、覚えているかネ。」 「覚えていますとも。」 「いくつだったろう。今の長ちゃんぐらいのものじゃ ないか。」 「長ちゃんよりはすこし大きかったでしょう。」 「なにしろお前のところのおじいさんがまだ達者でい た時分だ……あの薄いひげをなでていた時分だ……何 か好きな物を、こちそうしよう、おふろをたいたからお れにはいれなんて、おじいさんが言ってくれた時分だ ……あのころにお前はまだ髪の毛などをさげていた よ、その人がもうお嫁さんに行くんだからねえ。」  多くの人から尊敬されたおじいさんの話が出るたび に、記節は自分の学校友だちなどの知らないような誇 りを感じた。  身内のものの話がそれからそれへと引き出されて行 った。お節姉妹は叔父さんのそばでおとうさんのこと やおっかさんのことや、それから年を取ったおばあさ ん、叔父さんの子供と幾つも違わない末の弟のうわさ などをしきりとした。 「しかし、お前たちはまだいい。」と叔父さんが言っ た。「叔父さんを"こらんな。叔父さんは十三の年にお とうさんに別れてしまったよ。おっかさんとしみじみ 暮らしてみたのもわずか二年ぐらいのものだ。その二 年の間も二人で苦労ばかりして……それを思うと、器 前たちはしあわせだ……なにしろ両親がピンピンして いるんだからネ……」 「ほんとに、よく遅れる時計ね1栄ちゃん、おさか な屋さんへ行って聞いてきてくださいな。」  と姉に言われて、妹は家の向かい側にあるさかな屋 へ尋ねに行った。  店さきに刺身を作っていたさかな屋の|亭主《ていしゆ》から正し い時間を聞いて来た後、お栄は年を取った時計の下に 立って長針を直そうとしていた。|呉服屋《ごふくや》の番頭がはい ってきた。それを聞いた叔父さんも下座敷へ来て、チ ョイチョイよそゆきに着て行かれるような女物を見せ てもらった。番頭は糸織の反物、|欝金《うこん》の布に巻いた帯 地などをみんなの前に取り出した。 「節、どれがいい?」 「どれでも……」  叔父さんは自分の気に入ったようなじみな反物ばか り出した。お栄も姉のそばにいて、あれかそれかとい っしょに|評定《ひようじよう》した。  番頭は羽織の裏地になるような物までそこへ取り出 した。 「節にはこれがよかろう。」  と叔父さんが混ぜ返すような調手で言って、みんな の前で|択《よ》ったのは変な赤い色の裏地だ。番頭まで笑っ た。この叔父さんの冗談に、お節は胸がいっぱいにな ってひとりで次の部屋のほうへ逃げ出してしまった。 「ねえさん、自分で|択《よ》ったらいいじゃないのーそん なとこにいないで。」  とお栄は姉を慰めた。  お節はきげんを直して、手持ちぶさたでいる叔父さ んや番頭のほうへ引っ返した。その時お節は白茶色に 模様のある裏地を取った。それには妹も賛成した。  番頭が帰ったあとで、叔父さんは買い取った物をお 節の前に押しすすめて、 「なんにも叔父さんから祝ってやる物がない。これを お前に祝うとしよう。いろいろ子供もお世話になりま した。」  と言って軽くおじぎをした。  根岸の|伯母《おぱ》さんもお節のことを心配してたずねてき てくれた。綿密な伯母さんは祝言の時の薄い色の紋付 きから白の重ね、長じゅばんまでそろえてていねいに 縫ってくれた。 「何かわたしどもでも節ちゃんに祝ってあげたいが… …いりそうな物をそう言ってくださいな……紋付きの 羽織にでもしましょうか、それともこれからのことで すからひとえのような物がいいか。」  こんな話をしているところへ叔父さんもいっしょに なって、いろいろ打ち合わせの相談が始まる。根岸の ねえさんが結婚した時の話なども混じって出てくる。 伯母さんの正直な打ち明け話は叔父さんを笑わせた。 「いったい、お嫁に行く前の娘というものは半分病人 のようなものですネ。」と叔父さんが言い出した。  根岸の伯母さんはうなずいて、「みんなそうですよ。 妙なもので、お嫁に行けばたいていの人はじょうぶに なりますよ。」  この伯母さんの調子には幾多の経験があるらしく聞 えた。  こういう時になくなった叔母さんでもいたら、とは 叔父さんの言い草ばかりでなく、お節はそれを自分の 身にせつに感じた。母親のない子供らはどんな場合で もそんなことにとんちゃくなしに、「節さん、節さ ん。」と言ってはまといついた。ことに下のほうの文 ちゃんときたら、聞き分けのない年ごろで、一度ぐず ぐず言い出そうものなら容易に泣きやまない。  根岸の伯母さんがいなくなると、またその子供の破 れるような声が起った。お栄がやさしく慰めたくらい では聞き入れなかった。しまいにはお栄は堅くそでに 取りすがろうとする文ちゃんの手を払って、あちこち の部屋の内を逃げて歩いた。 「着物が切れちまうじゃありませんか。」  お栄は庭の八つ手のあるほうへ隠れて、そでを顔に 押し当てて泣いた。  このありさまを見かねて、お節は縫いかけた自分の 着物もそこそこに立ち上がった。今度は文ちゃんはお 節のほうへ向かって来た。顔をまっかにして、おこっ たような首筋まで現わして。この子のきかないにはお 節もホトホト弱り果てた。 「どうしてそうあんたは聞き分けがないの?」  お節は子供を抱き締めて、これもいっしょになって 泣いた。  急に叔父さんは二階から駆け降りて来た。叔父さん の顔色を見ると、お節は子供をそでで隠すようにし て、 「もう泣きませんから、どうぞ"こらんなすってくださ い。」  と子供に代ってわびた。  文ちゃんがよけいにお節を慕ったのは、こわい思い をした時とか、さもなければひどく叔父さんからしか られた時だ。「もうおねむになったんでしょう、それ でそんなにぐずぐず言うんでしょう。」そこへお節は 気がついて自分のひざをまくらにさせているうちに、 子供は泣きじゃくりをつきながら次第に目をつぶりか けた。 「さ、おとなしくお昼寝なさい。ねえさんがいっしょ にねんねしてあげますからネ。」  お栄は気をきかしてタンスのそばへ子供の寝床を敷 いた。そこへお節は文ちゃんを抱いて行った。この神 経の強い子供はねえさんに抱かれなければ寝つかなか った。そして半分眠っていながら、母親でも捜すよう にお節のふところを捜した。 「まあこんな冷たいあんよをしてるの?」  とお節は言って、子供の頭をなでてやると、まだ文 ちゃんは時々泣きじゃくりをついた。お節が自分のは だに押し当てて小さな足をぬくめてやった時の子供の 寝顔は、すこし前までじだんだ踏んでおこったり戸を けったりして激しく泣いた文ちゃんと思われないほど の愛らしさがあった。いいぐあいに眠った子供の様子 をながめて、やがてお節はソッと文ちゃんのそばを離 れた。目をさまさせないように。  日に日に庭の八つ手は大きく葉を開いて行った。そ れが透けて見える深い軒先に近く叔母さんの形見の裁 ち物板も取り出してあった。またお節は自分の縫物に 取り掛かった。お栄もそばへ来て、|姉妹《きようだい》いっしょに暮 らせる日数のだんだん少なくなった話などをした。  めっきり蒸し暑い晩もあった。鳥が鳴いたかと聞き 違えるような調子の高い物売りの笛に驚かされて、お 節は文ちゃんのそばに目がさめることがあった。悩ま しい夢ごこちで聞いた物音はシナそばを売りに来たの だと気がついてみると、夜のふけたことが知れた。二 しかった……おばあさんの顔が出て来たら、急にわた しはからだがゾーとしてきた……」 「ほんとうにお前たちには時々びっくりざせられる ぜ。」  こう叔父さんは言い捨てておいて、やがて一段ずつ はしごだんを上がって行く音をさせた。  幻は消えた。しかし寒い身ぶるいはまだお節のから だに残っていた。足は氷のようになった。何事も知ら ずに眠っている子供のそばで、まくら紙に額を押し当 ててみた時は、ようやくお節も我れに返ることができ た。早く記婿さんが来て自分をいっしょに遠いところ へ連れて行ってほしい、この熱くなったり冷たくなっ たりするようなひよわい自分をもっとどうかしてほし いと願った。 「叔父さんの|家《うち》にいるのももうわずかになったネ。」 その叔父さんの話が食後に出るころ、お節の結婚も 目の前に迫ってきた。  おとうさんも急いで東京へ出て来た。おとうさんは 旅館のほうから叔父さんの家をたずねて来た。おとう さんの手から帽子やインバネスを預かる時のお節は髪 も島田に結い替えていた。 「節1おとうさんにこしらえていただいた物を出し てお目にかけなーほうぽうから祝っていただいた物 もお目にかけたらよかろう。」  と叔父さんも娘たち親子のいるところへ来て言葉を 添えた。  祝いのしたくもほぼそろった。根岸のねえさんがお 節のために見立ててくれた流行帯揚げの薄赤な色ばか りでも、妹をうらやませるには+分であった。これは 根岸の伯母さんから、これは叔父さんの懇意な人から と、水引きのかかった諸方からの贈り物をお節はおと うさんの前に置き、根岸のねえさんから別に祝ってく れた帯なども取り出して見せた。  おとうさんは叔父さんといろいろな打ち合わせをし 人の子供らは人形を並べたように正体もなくなってい る。お栄もまだ寝間着も着替えずに疲れて横になって いる。蒸される髪のにおいもする。部屋の内の空気は なんとなく|沈欝《ちんうつ》だ。  五月はじめの晩らしい、町の白壁と暗い青葉とに薄 くざした月の光がお節の目に浮かんできた。その忘れ がたい晩には、いよいよお婿さんが出かけて来るとい う手紙の着いたことを思い出した。彼女の一生がほん とうにその一晩で決まったことを思い出した。その晩 は|姉妹二人《きようだいふたり》して眠らなかったことを思い出した。子供 と添い寝をしながら、お節はそんなことを考えて、ま たウトウトしていた。ふと、そんなところへ来るはず のないおばあさんの顔が彼女の目の前に現われた。 「栄ちゃん……栄ちゃん……」  お節は絶え入りでもしそうな苦しい息づかいをし て、妹を呼んだ。お栄が目をさましてはね起きてみる 「叔父さん、ちょっといらしってくださいませんか。 ねえさんがどうかしましたから。」  とお栄ははしごだんの下のところへ行って声を掛け た。  叔父さんも降りて来た。お栄は姉の背中をさすりな がら、叔父さんに向かって、「なんでもうちのおばあ さんの顔がつとそこへ出てきたんですって……」と話 し聞かせた。 「国にいる人がまくらもとへ出て来るなんてーばか なーシリカリしろ。」と叔父さんはしかった。 「だって、しょうがないんですもの。」とお節はうつ ぶしのまま苦しそうに答えた。  |刹那《せつな》にくる恐怖は叔父さんの心をもとらえた。叔父 さんは娘たちを励ますように無理に笑ったが、その叔 父さんもいくらかドギマギしていた。叔父さんは薬だ の水だのを持って来てお節にすすめた。 1, ,1ーーーー〜!芦と,。しレに廣はb日中Dほち たあとで、そこそこにして立ちかけた。 「それじゃおれはこれからなこうどのところへ寄っ て、式場のほうの都合も間い合わせるll今度はその ために出て来たんだから寄れたら根岸へも寄る。また 来ます。」  おとうさんの話はいつでも簡単で、そして|明瞭《めいりよう》だ。  お婿さんの新橋のステーションヘ着いたという日、 おとうさんはその話を持って、出迎えらしい羽織はか まの姿でまたたずねて来た。叔父さんと二人で二階へ 上がって、打ち合わせに来る根岸の伯母さんを待ち受 けた。高いおとうさんの話は下にいて聞くことができ る。「せんに|鈴木《すすき》(お婿さん)に会った時はまだ書生 だと思っていたが、今度来て見ると……どうしてナカ ナカ立派なものだよ……」姉妹の耳には聞きのがせな いような話があとからあとから出てくる。「親がまず ほれて、自分の嬢をくれようというくらいの人物だか ら……」  根岸の伯母さんも見えた。伯母さんは下で一服やっ て、お嫁さんの心得になるようなことをお節に言って 聞かせる、それから女持ちのたばこ入れを手にしなが らおとっさんたちのおっしゃるほうへ行った。  話半ばに叔父さんはちょっと下へ降りて来た。 「子供は?」  と部屋を見回した。 「お婿さんに式の済むまでは叔父さんのとこへ尋ねて 来ないようにって、今おとうさんに頼んでおいたー お嫁さんがそこへ取り次ぎに出るなんて、おかしなも のだからねー」  こんなことを立ち話しして、姉妹の娘といっしょに 笑って、また二階のほうへ相談に上がって行った。  おとうさんはその翌日もちょっと顔を見せた。「鈴 木が言うには、洋食というものはあれで本式にすると むつかしい作法がある。なこうどがなこうどだから、 へたなことをすると笑われる。だれの隣にだれをすえ て、だれの向こうをだれの席にしてーそうなってく ると、これでナカナカめんどうだ。それよりはやっぱ り日本料理に願いたいトサ。」 「なるほどねえ。本場から来るとそう思うでしょうな あ。」  混雑した中で、おとうさんと叔父さんは話をやった り取ったりした。 「それじゃ|小常磐《こときわ》のほうはよろしく頼んだよ。式が済 んだら新夫婦に写真をとらせて、すぐに料理屋へ回ら せる。よし。」  そこそこにしておとうさんは出て行った。  いよいよ祝いのあるという前の晩に、叔父さんの|家《うち》 ではお節のために小さな送別の食事をした。子供はか わるがわる来てお節のそばを離れなかった。 「文ちゃんはいやーねえさんのふところへ手などを 入れて。」とお節はしかって見せて、着物のえりをか き合わせた。「ほんとに、文ちゃんは子供のようじや ない。」 「あんたは子供じゃないわねえ。おとなと子供の合い の子だわねえ。」とお栄もそばにいて戯れた。 「またぐずる。」とお節は子供を抱き取って、羽がい で締めるようにした。「合いの子だって言われたのが そんなにくやしいの? そんならおとなしくなさい ナ。それ、くすぐってやれーそうめんーにゅうめ ん1大根おろし大根おろし。」  上の長ちゃんは学校へ行き始めてから急ににいさん らしくなったと言われているが、なんとなくその日は しおれた顔つきで、うしろからお節にすがりついた。 「長ちゃん、そう人に取っ付くものじゃないのーい やよーいやよ」こらんなさいナ、髪がこわれるじ ゃありませんか。」  お節は大事な島田を気にしていた。すると長ちゃん は顔を寄せて、いきなりねえさんの額のところヘキス するまねをした。 「なまいき。」  と言ってお節は妹とともに笑ったが、その子供のほ ほへ軽いキスを返した。文ちゃんはひざによりなが ら、ねえざんのくちびるの鳴るのを聞いていた。  仏壇には燈明がついて、その光が花に映っていた。 何かこしらえたものも供えてあった。叔父さんは庭口 のほうからその前を通ってみんなのいるところへ来 た。 「どうだ、ねえざんはお嫁に行ってしまうがいいか い。」  と叔父さんが子供らに言った。お節は置いて行くの がかわいそうだという顔つきで、 「そんなこと言うのおよしなさいよ。」 「行っても、いいよ。」  と文ちゃんは下くちびるを突き出した。 「あまえる人がいなくなると、ちょっとこれが困るだ ろうなあ。」  と叔父さんはひとり"ことのように言った。  お節のためにはコマコマした買物が残っていた。姉 妹の娘は早く子供らの寝静まるのを待った。その晩は 叔父さんもめずらしく長く下の部屋にすわって、あす のしたくの話をした。 「叔父さんも忙しいよ,叔母さんのぶんまで引き受け なくちゃならないんだから。」  と叔父さんが笑った。 「男になったり、女になったり。」とお栄も横から。 「まだいろいろな物がいるぜ。紙おしろいなども用意 するがいいぜ。」 「あんなものを知ってるかと思うと、おかしいわね え。」とお節は妹に。 「叔父さんだって紙おしろいぐらい知ってらあー」  叔父さんはこんな冗談を言うかと思うと、急に調子 を変えてお節のほうへ切り込んできた。 「どうだネ、栄ちゃんのところへも、もらった物でも 分けて置いてったら。」 「わたしはあんまり人がよすぎるなんて言われますか ら……今度はなんにも置いて行きません。」  お節は一生懸命だった。一枚でも多く持って、これ からお婿さんといっしょに新規な生活を始めなければ ならなかった。ありていに言えば、妹のことなどはか まっていられなかった。 「行くものはサッサと行け。」  叔父さんは|饅別《せんべつ》の言葉でもくれるような調子に変っ ていった。  年を取った近所の女髪結いが来た。はや祝いの日が 来た。その日は根岸の伯母さんも紋付きを着てお嫁さ んの手伝いに出かけて来てくれた。根岸の伯母さんは 自分が縫った式の時の着物をお節に藩せてみるのが自 慢だった。 「文ちゃん、いやよ、そう人の帯を引っ張っちゃ。」  とお節は長い着物のすそを引きずりながら。 「お嫁に行くんだ、やい。やい。」  と文ちゃんはこっけいな調子で、ねえさんのほうへ 指さして、みんなを笑わせた。 「その着物でウマくすわれるか。」  いそがしそうに叔父さんはお節のしたくしたところ を見に来て言った。この叔父さんが自分で着ている礼 服は十五年前になくなった叔母さんと結婚した時から あるものだ。お節は"こく張り詰めた心で、やがてみん なといっしょに叔父さんの|家《うち》の敷居をまたいだ。  一台の馬車が子供らの遊んでいる狭い町中でとまっ た。お婿さんは外国仕立ての新調のフロック・コー ト、お嫁さんのほうは花やかなくしこうがいで髪を飾 って、いっしょにその馬車から降りた。新夫婦は結婚 の翌日諸方へ礼回りをして、午後の一時ごろに叔父さ んの|家《うち》へ来た。 「長ちゃん。」  とお節は車から降りると、すぐ子供に声をかけた。 「これが文ちゃんだネ。」  お婿さんははや子供の名前を聞いて知っていて、片 手に|外套《がいとう》を持ち、片手に子供の手を引きながら門の内 へはいった。  お節が旅館から妹へ通じてよこした電話で、叔父さ んのところではちそうぶりのうなぎ飯を冷たくして待 っていた。お婿さんの外国みやげなどもそこへ取り出 された。叔父さんは片づけた二階へ新夫婦を案内し て、そこでおなかのすいた人たちにまず昼飯をふるま った。叔父さんと胎婿さんの間には十年もつきあって いる人たちのような話が始まった。 「文ちゃんもほしいの? 残したんでも、ねえさんの だから食べてちょうだいな。」  とお節は自分の食べ残した物を持って、それから下 座敷にいる妹や子供らといっしょになった。 「立派なにいさんねえ。」  この妹の一語は何を祝われるよりも姉にとってうれ しかった。  二階では話がはずんで、まだこれから根岸の伯母さ んのほうへ回りほかにもう一軒礼に寄らなければなら ないところがあるのにと、しまいにはお節が心配し始 めたほどであった。 「|悼《くるま》っていうと途中で車夫などを取り替えるめんどう が起りますし、ナカナカ一日で東京を回るなんてわけ にゆきません。馬車のほうがかえって簡単です。そう 思って借りてきました。」  蔚婿さんは外国で苦労して来た人らしいことを言っ て、叔父さんといっしょに下へ来てまでいろいろな話 をした。 「長ちゃん、いっしょに馬車で行きましょうか。」  そういうお婿さんの調子には、内地にばかり引っ込 んでいる若者と違って、コセコセしていないようなと ころがあった。  お節は夫の外套を持って軍に乗った。 「文ちゃん、また来ますよ。」  と彼女がほろの内から顔を出して子供のほうを見た ころは、車は動き始めた。  それから四五日の間を、お節はお婿さんといっしょ に新婚の旅で暮らして、お婿さんの|生家《さと》のほうにもい て、またいったん東京のほうへ引っ返して来た。もう お婿さんでもなかった。だんなさんでよかった。だん なさんは勤め先の用で、旅からまた旅に出かけなけれ ばならないほどの忙しい身を持ってきていた。で、一 月ばかりの|留守《るす》の間、お節は叔父さんの家のほうへ預 けられることになった。だんなさんがひとりで遠い旅 に立つ日、お節は旅館のほうから妹のそばへ引き移っ て来た。結婚したばかりのだんなさんはまた旅立ちの したくにいそがしかった。立つにも叔父さんの|家《うち》から 立った。 「まるで叔父さんのところはお前たちの|家《うち》みたような ものだ。」  と叔父さんはお節やお栄に話して笑った。  新しい細君になって帰って来たお節は、なんとなく 様子もおとなびた。それに張り詰めた気は、まだゆる まないというふうでだんなさんに代ってたずねなけれ ばならない|家《うち》があり、言いつけられた用があり、書く べき手紙の数からしてふえた。新たに親が出来、弟が 出来、妹が出来た。  旅館に滞在するおとうさんが鈴木の|家《うち》の様子などを 聞きにくると、お節は叔父ざん●おっかさん(彼女の おじいさんの妹)にどこか似たような快活な調子で地 方にある大きな家庭のありさまを話して聞かせた。 「栄ちゃん、何をそんなに考え込んでるんだネー」  とある日、叔父さんは台所へ来て言った。お節は外 出していなかった。 「ねえさんのことじゃないか。」とまた叔父さんが立 っていて言った。「1ねえさんも変ってきたよ。」 「お嫁さんになればみんな変るって言いますけれど も、あんなに急に変ろうとは思わなかった。」とお栄 が答えた。 「しかたがないサーねえさんはもうお前さんのねえ さんじゃなくて、にいさんのねえさんなんだものII- 妹のふところにはいようたっていられない人なんだも の。」  叔父さんは勝手に近く置いてあるねずみいらずの前 へ行って立った。 「ここにお金を置くよ。」 と、その上に月々の会計のうちを置いた。 「いったん嫁に行った人を預かったのはおれの手落ち だった。どうしても節は鈴木のほうに置くべき人だ。」  こう叔父さんは言っていたが、しかし急激な動揺i l新婚のために起ってきたーが次第に沈まり、張り 詰めた気もゆるむにつれて、お節はいつもの調子を取 りかえした。やっぱりお節はお節であった。なんとな く彼女はサバけてきた。のみならず、いらいらした学 校時代などには半分夢中でつきあっていた人、名前は 知らなくても毎日叔父さんの|家《うち》の前を通る人、うわさ に聞いた人、そのほかいろいろな女の人を真実に見分 けるようになった。たとえば同じ学校時代から続いた 友だちでも、いなかから養生に出て来ている人とかI I養子が出て行ってしまったあとで、ひとりであかん ぽをかかえている人とかーまだどこへもとつがずに |長唄《ながうた》のけいこにかよっている人とか1医者の|家《うち》に雇 われて、立派にして町を歩いている人とかII  遠い旅に出かけただんなさんからは途中からよくた よりがあった。六月の二十日"ころに出た手紙は、海の 荒れるのと霧が深いのとでまだ同じ港に滞在して、目 的の地を踏むこともできずにいると言ってよこした。 お節は待ち遠しい思いをした。だんなさんが叔父さん の|家《うち》へ預けておいて行った外国製の立派なかばんを見 るにつけても。彼女は表の庭口のほうへ行って見た。 八つ手の葉はかさでもひろげたように大きくなった。 あけひろげてある庭の入口を通して、すぐ向こうにさ かな屋の店先が見える。さけなどがつるしてあるかわ いた町へは急に夏らしい雨が来た。  板囲いをした家々は見るまにぬれて行った。往来へ 向いた窓も戸も、ひさしも、乾燥し切った|瓦屋《かわら》根も。 お節はしばらくそこに立って、ボンヤリと腕組みして いるさかな屋の小僧の顔などをながめながら、旅にあ る夫のことを思いやった。雨に打たれるほこりのにお いは|部屋《へや》の内までもはいってきた。引っ返して勝手の ほうへ行って見ると、叔父さんは流しもとで雨を見て いるし、長ちゃんは板の間へ画学紙と色鉛筆を持ち出 して何かしきりと子供らしい絵をかいている。お栄は 草花のはちを取り込んだところであった。 「鈴木さんはまだ宿屋に|逗留《とうりゆう》しているんだそうだな あ。あんなに長くなるんなら、叔母さんの|生家《さと》へ紹介 してやるんだった。」と叔父さんが言った。 「ほんとに。」とお節も思いやるような目つきをする。  お栄は姉の前へ手にしたはちを置いた。叔父さんは そのほうを見て、 「何だっけねえ、そのけしみたようなやつは。叔父さ んは何度聞いても忘れちまう。」 「アネモネじゃありませんか。」とお節が笑った。 「むゝ、アネモネさ。お前たちはよくそれでもそんな 名前を知つてるよ。」 「花の名ぐらい知らなくってーねえ、栄ちゃん。」  とお節は妹に。 「叔父さん、.これを.こらんなさい、甘いつばきのよう なにおいがするでしょう。」とお栄はチューリップの 咲いたはちを持って来て見せた。 「そういえば、おさかな屋さんへ来ていた小ざな娘は どうしたろう。」と話し話し叔父さんは水道の水で手 を洗って、「1お前たちのところへよく髪を結って もらいに来た。まるでおれの|家《うち》は幼稚園だ。でもああ いう娘もちょっとめずらしいナ。みんなにいやがられ ていながら自分じゃ一番かわいがられてるつもりかな んかで、あるぜ。どうかするとそういう人はある。そ こへゆくと鈴木さんなどは年は若くても物がわかって らあね。」  お節は何か言いかけたが、急に長ちゃんがそれをさ えぎった。 「黙っといで1黙っといで1学校の先生と大将と どっちが強い?」  この子供の「どっちが強い」には娘たちはさんざん 弱らせられている。 「お前のだんなさんはナカナカ話せる。」とまた叔父 さんはお節に話した。 「それじゃ、今度帰って来たら話してやりましょうI I叔父さんがほめていましたって。」 「でも、なんだなあ、新婚早々すぐに遠い所へ行かな くちゃならないなんて、お役目とは言いながら残酷な 話だナ。」 「黙っといで。」と長ちゃんはねえさんに物を言わせ なかった。「おまわりさんと兵隊さんとどっちが強 い?」 「どっちも。」とお節は返事に困った。  雨が小降りになった。文ちゃんは隣の家の小娘とい っしょにかさをさしかけて表口からはいって来た。二 度目にお節がこの|家《うち》へ預けられてからは、叔父さんは あまり子供を抱かせなかった。 「かまわないでおいてくれーかまわないでおいてく れーひと」りで遊ばせるような癖をつけておかない と、あとの者が困る。」  それを叔父さんに言われるたびに、お節はたよりの ない子供をただひざに腰かけさせて、涙ぐんだ。  長いこと叔父さんの|家《うち》で捜していた|田舎《いなか》出のばあや が来て台所をかせぐようになってから、お節はいっそ う快活になって行った。にぎやかな笑い声が絶えなか った。じょうぶ一式を自慢にして来たばあやは、来た てには、いくらかねえさんたちをばかにした気味であ ったが、その若いものが「やわらかもの」でもなんで もズンズンひとりで仕立てることを知っていたには、 目をむいた。裁縫の得意なお節はたいていのものは自 分で造った。彼女は以前から見ると、そういい物でな いまでも新しくて自分の好みにかなったような物を着 ていた。細君となってからだいぶ着物も出来た。妹の ほうはまだ質素な娘のなりでいなければならなかった が…… 「栄ちゃんが時々寝たりなんかするのは、わたしには ちゃんとわかってる。」  とお節が言うと、叔父さんは、 「生きてる人間だもの、それぐらいのことはあらあ。」  と言って取り合わなかった。  途中で三週間近くも延びただんなさんの旅の日数を 勘定すると、お節は七月末あたりまでも叔父さんの|家《うち》 の世話になっていなければならなかった。彼女はだん なさんの帰りを待ちわびて、暑苦しくてたまらないよ うな日には妹とかわりばんこに横になった。 「栄ちゃん、叔父さんは?」 「お舟よ。」  七月にはいってからのある朝のことであった。姉妹 は流しもとで|手洗《ちようす》をつかいながら話した。お栄のほう は水道の前にしゃがんで冷たい柔らかな水でもって寝 起きの顔を洗っていた。お節は両手をうしろの首筋の ほうへ回して細いつげのくしで髪をときつけながら立 っていた。物置きの戸口と柱一つをさかいにして小窓 が切ってあるその外には|手洗《ちようす》ばちが置いてある。お節 は勝手のぞうりをはいたままその小窓のところへ行っ た。いちじくの枝、漆の葉、裏長屋の屋根などがごち ゃごちゃ入り組んで見える町裏を通して朝らしい光を 帯びたうろこ形の雲が望まれた。  勝手口のすだれへ日がさしてきたころ、叔父さんは 汗ばんだ顔つきをして舟こぎから帰って来た。 「けさの|隅田川《すみだがわ》はまるで湖水のようだった。どうも実. にいい心持だった。」  と叔父さんは部屋の内までかぶってはいって来た夏 帽子を壁に掛けながら言った。 「お舟はいかがでした。」  と勝手のほうから来て声を掛けるお栄にあいさつし た後、叔父さんはめずらしく活気づいた調子であちこ ちと時計の下や仏壇の前を歩き回った。 「川のまんなかへ出てみると、いいよ。都会の中の空 気とは思われない。」  とお栄に言って聞かせて、叔父さんはホッと荒い息 をついた。  毎日毎日二階にすわって考えてばかりいた叔父さん が舟でもこ。こうという人になったことは、|姉妹《きようだい》のもの を喜ばせた。お節は朝飯前の茶を入れて茶好きな叔父 ざんにすすめた。 「こういういい運動があるなら、もっと早く気がつく んだっけ。野蛮人は必要によって動く。おれもやっぱ りそのほうだ……どうにもこうにもしようがなくなっ たもんだから始めた……このぶんじゃ、叔父さんもま だ死ねそうもない……」 「死にそうな顔でもないわーねえ栄ちゃん。」とお 節はやや皮肉な調子で。 「ほんとに冗談じゃないよ。こういうことがあるがど うだいー1心を起そうと思えば、まず身を起せって。 それだ。」と言って叔父さんは熱心に姉妹の顔をなが めて、 「どうして少しばかり散歩なんかしたってだめサ…: 物を考えながら歩いてる……運動にもなんにもなりゃ しない……そこへ行くと舟はいいよ……ア、向こうか ら帆掛け船がやって来たぞ、あいつに一つつきあたら ないように、そんなことを思うだけサ……第一、川に 近いのが何よりだ。いくらいい運動だって近くなけり ゃだめだね。」  お栄がそこへ朝飯のぜんを運んで来た。姉は飯をつ けて出し、妹はみそしるをぜんの上に置いた。  その朝は叔父さんはぜんを前に置いてすわり直した り、飯を食いかけてはまた話を始めた。 「このまあ半年ばかりの間、おれはいったい何をして いたろう  ホ  十日も十五日もほんとうにボンヤ リしてすわってたことがあるんだよ、それでも自分じ ゃ何かしてるつもりかなんかで……そりゃとても叔父 さんの心持を節やなんかに話そうたって、話せるもん じゃない……生の炎ってことがあるが、叔父さんは生 の氷ということを経験した。一8え=ま1栄ちゃ ん、どうだい、叔父さんのしゃれはわかるかい。」  姉妹は顔を見合わせて、黙って|微笑《えみ》をかわした。  長ちゃんが表口から飛んではいって来た。文ちゃん もばあやに連れられて来た。 「どこへ行ってたの? さあ、御飯をおあがり。」  と叔父さんが言った。 「とうさん、お舟1」と長ちゃんは叔父さんのそば へ行ってからだをこすりつけた。 「またこの次に連れてってくださいな。」 「叔父さん、わたしたちも一度連れてってください な。」  とお栄が頼んだ。 「連れてってくださらないって、ねえ栄ちゃん、つい てくからいい。叔父さんは三年も前から約束しとい て、一度もお舟をお、こってくださらないんですもの。」  器節も物をねだるように言った。  叔父さんの|家《うち》から船宿のあるところまでは路地を通 り抜けて行けば二町とないくらいだ。屋根の上を鳴い て通るからすの声を聞いただけでも、川に近く住むこ こちをさせる。  その翌朝早く姉妹は身じたくし、子供らにもひとえ を着替えさせ、ばあやに|留守《るす》を頼んでおいて、すずし いうちに家を出た。長ちゃんは近道をよく知っていて ズンズン先へ歩いて行く。みんな川の岸でいっしょに なったころ、そのへんに遊んでいた子供は長ちゃんを 見つけて呼んだ。 「長ちゃんはこんなほうまで遊びにくるのよ。」  とお節は妹に話した。  叔父さんがよく借りて行くという船宿の子は長ちゃ んと同じ学校へかよう上の組の生徒であった。その朝 はわりあいに波の立つ日で、一時間ばかり水の上で揺 られてまた舟から水の上、潮風のためにみんなの着物 はいくらかベトベトした。姉妹は子供らの手を引きな がら、まだ戸を締めた家のある町を回って帰った。 「ア、くたびれた。」  とばかりでお節は|部屋《へや》へ上がるとすぐ着物を着替え ずに柱によりかかる、お栄もひどくガッカリした様子 をしてすみのほうに足を投げ出す。|二人《ふたり》ともためいき ばかりついた。 「そんなにみんなくたびれたのか。」  叔父さんは二人の様子を見て笑った。 「だって、あんなに舟が揺れるんですもの、もっと叔 父さんは|上手《じようす》かと思った。」とお節はそこへ身を投げ 出すようにして。 「そりゃお前、けさは風があったからサ。ずっと吹き つけられちゃった。あの波じゃたまらない。」 「でも、あの小僧さんのほうはうまくこいだわねえ。」  とお栄はさもくたびれたらしく、肩まで一つ息をし た。 「小僧さんがこいだ時はあまり揺れなかった。」 「そうかなあ。叔父さんの船頭にはみんな懲りちゃつ たかなあ。」と言って、叔父さんは頭をかいた。  ねえさんたちがまだ舟に揺られているような目つき をしている中で、長ちゃんは床の間のほうから机を持 ち出した。それを部屋のまんなかにひっくりかえし て、さっそく舟をこぐまねを始めた。麻の夏ぶとんは "こざの代りになった。小さな畳の上の船頭はうちわ掛 けに長い物さしをゆわいつけて、それで|櫓《ろ》の形を造っ た。  たぶん東京へ帰るのは八月の六日ごろになるだろ う、と手紙で叔父さんのところへ言ってきた鈴木から は七月の末に急に電報を打ってよこした。その電報 で、はや途中まで帰って来ていることが知れた。お節 は妹と連れ立って上野のステーションヘ迎えに出かけ た。心待ちにした日よりは一週間ほど早く、遠い旅か ら帰ってきた人に会うことができた。夫はさほど日に 焼けもせず、相変らずの元気で、東京へ着いた晩に旅 館から叔父さんの家までお栄を送りに行って、夜の十 時、ころまでも叔父さんと二人で話し込んだくらいだ。  だんなさんといっしょにまた旅館のほうへ移ってか らのお節は、今度は自分ら二人の本当の旅じたくやら 買物やらで、急にいそがしいからだになった。その中 でも妹の顔を見に叔父さんの家へ立ち寄って、 「にいさんはやっぱり叔母さんの|生家《さと》へ知らずに買物 に行ったのよ。三度も。なんでもハイカラな娘がいた なんてーきっとお|君《きみ》さん(叔母さんの|姪《めい》)のこと よ。」  こんな話をしておいて、またそこそこに引っ返して 行った。  ある日は髪を結いに寄った。わがままの言える妹の そばで、お節は髪結いが来るまでのわずかばかりの時 を送ろうとして、 「栄ちゃん、"こめんなさいよ、すこし横になるからI iくたびれたやら、眠いやらで。『いくじがないね』 なんて、にいさんに笑われちやった。」  いよいよ遠いところへ行くという前の日には妹のと ころへ来るには来たが、ものの十分と話して行かなか った。  おとうさんはとうとうひと夏旅館に滞在して、新夫 婦しての旅立ちを見送ろうと言ってくれた。お節がだ んなさんといっしょに東京を立つにもやっぱり叔父さ んの|家《うち》から立つことになった。 「人|一人《ひとり》送り出すというのはナカナカ容易じゃありま せん。」  と叔父さんは二階から降りて、お節の髪を丸まげに 結いに来た髪結いに話した。  黄色く塗りかえたばかりの深い|床《どこ》の壁には、長ちゃ んが鉛筆でもって、大きな波だの舟だの変な顔の曲が った船頭だのを一面に書いてしまった。そのそばで、 だんなさんはお節の丸まげの出来るのを待ちながら、 「わたしが今行ってるところは、外国といっても非常 に単調な、ごく寂しい感じのするところなんです。何 か宗教でもなければおられないような所なんです。」  若い輝きをもった大きな目は言葉で言えないところ を補った。 「宗教と言いますと。」と叔父さんは問い返した。 「まあ自分は自分だけの宗教に安心を求めるんですネ ー他力とでも言ったような。」こうだんなさんが答 えた。  根岸では伯母さんもねえさんもステーションまで見 送ってくれるという。叔父さんの|家《うち》では、叔父さん一 人だけ|留守居《るすい》で、あとのものはみんな送って行くこと になった。ばあやまでしたくした。  若い細君に似合わしいお節の髪が出来た。 「文ちゃん、もう一度抱っこしてみましょう。」  と言って下の子供を抱きあげ、それから長ちゃんの ほうも抱いてみた。 「ほんとに二人とも大きくなった。」  とまたお節が言うと、長ちゃんは鼻へしわを寄せ て、さもうれしそうな様子をした。 「大きくなったと言われるのがそんなにうれしいの ?.」  とお栄もそのそばにいて言った。頼んでおいた車夫 が来てそろそろ旅のかばんなどを運び始めた。