死の床 島崎藤村 「|柿田《かきた》さん、なんでもかんでもあなたにいらっしって いただくように、わたしが行って院長さんにお願いし てきてあげるーそう言って、引き受けてきたんです よ。」  流行の服装をした女の裁縫師が、あの私立病院の応 接間で、日ごろ好きな看護婦の手を執らないばかりに して言った。  |柿田《かきた》は若い看護婦らしい手をもみながら、 「たぶん行かれましょう。ちょうど今、わたしも手が あいたばかし……さっきあなたから電話を掛けてくだ すった時院長さんにも伺ってみたんです。病院の規則 としてはお断わりするんだけれど、まあほかのかたで ないからって、院長さんもそうおっしゃるんですよ。」 「そうしてくださいな。あなたのようなかたに来てい ただくと、どんなに病人も喜ぶか知れません。」 「たいへんですね……なんですかわたしでなけりゃな らないようですね。」 「いえ、ぜひあなたにお願いしてきてくれろって、病 人も頼むんです。それでわざわざ上がったんです。わ たしがあなたをよく知ってることを病人に話したもん ですから……わたしは柿田さんが大好きって……。」  二人の女は応接間の腰掛に腰かけながら、互に快活 な声で笑った。  裁縫師の調子は、病人が頼みたいと言うよりは、自 分が頼みたい、と聞えた。それほどこの女は柿田をひ いきにしていた。  院長にも柿田を借りることを頼んでおいて、裁縫師 は帰って行った。  その翌日から、柿田は裁縫師のごく懇意なという家 へ行って、寝ているかみさんのそばで、看護すること になった。柿田が一目見た時のかみさんは、ほほ骨の とがった、顔色の青ざめた、もはや助かりそうもない 病人であった。でも気はごく確かで、寝ながらいろい ろなことに注意して、人にいやがられまいとする様子 ざえ見えた。  そこは|大経師《だいきようじ》とした看板の出してある家だ。病人の 寝床は二階に敷いてあったから、柿田は物を持ち運ぶ ために、高い天井に添うてはし"こ段を上がったり降り たりした。鋭い病人の神経は、目に見えない|階下《した》のこ とを手に取るように知っていた。|亭主《ていしゆ》が店で何をして いるか、|弟子《でし》が何をしているか、女中が台所のほうで 何をしているか、そんなことはかみさんには見とおす ようによくわかった。時々、かみさんはくし巻きにし た病人らしい頭をすこしもたげて、種々雑多な物音、 町を通る人の話し声、遠い電車の響きまでも聞いた。 表の入口にあるガラス戸の音がしても、すぐにそれが 店の用事の人か、それとも自分のところへ見舞いに来 てくれた客か、と耳を澄ますというふうだ。  近くに住む裁縫師はほとんど毎日のように見舞いに 来た。かみさんとは、若い時からの知り合いで、それ にこの女の出している洋服店は経師屋の家作だった。 裁縫師は病人の寝床のそばで、白い被服を着けた柿田 の様子をいっしょにながめて、 「どうです、いい看護婦さんでしょう。」  と言って聞かせるばかりでなく、どうかするとそれ を亭主のいる前でも言った。  柿田がこの家の者にとって、なくてならない人のよ うに思われていったころは、かみさんの病はよほど重 かった。ある日、柿田が病人の衷くらもとで、寝乱れ た髪の毛を解かしてやっていると、そこへかみさんが もと世話になったという|家《うち》の御隠居ざんが見舞いに来 た。  御隠居さんは柿田にもていねいにあいさつしたあと で、病人のほうを見て、 「こういうかたに付いていていただいて、何から何ま でお世話をしてもらえれば、お前さんも不足はないで しょう。」 「ええ、それはわたしもありがたいと思っています よ。ほんとうに柿田さんはよくしてくださるんですか らね。」  こんな話をするうちに、かみさんのとがったほほに はめずらしく血の気が上がってきた。その赤みがかえ って病的にも見えた。かみさんは骨と皮ばかりのやせ 細った両手を掛けぶとんの上に力なげに載せて、 「御隠居さんの前ですけれど、わたしがここへお嫁に 来た時分……あのころは、着物らしい着物といった ら、一枚も持たず……よそいきに着る物でも、帯でも、 たんすでも、みなここへ来てから自分で丹精した物ば かりなんですよ……まあ、御主人さまのおかげで、こ うして人さまがいらしってくだすっても恥ずかしくな いまでに、店も大きくなって……。」 「ああ、そうとも。ほんとうにお前さんは出世しまし たわね。どうして、お|力《りき》さんはナカナカのやり手だな んて、よく|家《うち》へ来る人がお前さんのうわさサ、そのた びに、わたしは自分の鼻が高くなりますよ。」 「御隠居さんにそう言っていただくと……なおさら ……せっかくこれまでにして……これまでに辛苦して  :。」 「まあ、そう気をおもみでないよ。お前さんは自分で 寿命を縮めるんですよ。」 「しかし御隠居さん、わたしも今ここで死にたくはご ざいません……」  かみさんは両手を顔に押しあてて泣いた。  もうこの病人はむずかしいと言われたころから、ま だ幾日となく同じような容体が続いた。柿田は|家《うち》のも の皆から好かれて、|田舎《いなか》出らしい女中ばかりでなく、 店のものからもなれなれしく言葉をかけられた。時に は、|階下《した》へ降りて、亭主がたすきがけで弟子を相手に 働いているほうへ行って、大きな板の上に裏打ちされ る表具をながめたり、高い壁に添うて下張りされてあ る絵を見せてもらったり、二年越しもしくは三年越し にたくわえてあるという古いのりの講釈を聞いたりし てまた二階へもどって来てみると、いつでも病人の顔 色が悪かった。そういう時には、かみさんはきまりで |痙箪風《けいれんふう》にからだを震わせていた。  二階に、柿田が病人と二人ぎりでいると、|階下《した》から いろいろな話し声がとぎれとぎれに聞える。トントン トントンと店のほうで打つ経師屋らしいのりばけの音 は、寝だこのあたったかみさんのからだに響けてく る。柿田が手伝って、寝返りを打たせてやると、かみ さんはまくらに耳を押しつけてーちょうど、電話口 へからだを持って行ったようにしてーそのまくらに 伝わってくる話し声に聞き入った。  寝ている病人のほうは、立ったりすわったりして看 護している柿田の気のつかないようなことまで聞い た。 「柿田さん、今店であなたのおうわさしてますよ… …。」  と病人は言って聞かせて、自分の色つやのない細い 手と、柿田の若い看護婦らしい手とを見比べる。柿田 が|階下《した》へ薬のびんなどを取りに行って来ると、かみさ んは神経質らしい目を光らしていることもある。そし て、何かこう待ち受けていたかのように、無心に潮紅 する女の表情を読もうとした。  例のように、また裁縫師が見舞いに来た。亭主も病 人の容体を心配して、二階へ上がって来た。床の上の 人はスヤスヤ眠っている様子なので、なるべく眠らせ るがいいと言い合って、皆まくらもとで話していた。 急に病人は大きく目を見開いて、裁縫師と看護婦と、 それから亭主の顔とを見比べた。 「お力さん、夢でも御覧なすったの。」  と裁縫師は古なじみのそばへ寄って言った。  病人の額には冷たい汗が流れていた。それを柿田は 湿したガーゼでぬぐいとってやった。  病人は、まだ自分が生きていたかというふうに、頭 をもちあげて|部屋《へや》の内を見回した。かすかなヒステ リー風の笑いが暗いほほに上ったころは、まったくの 正気にかえっていた。この気丈夫なかみさんは、自分 が死んだあとの後妻のことまでも心配して、御隠居さ ん初め、裁縫師にもよろしく頼むと言い出した。 「そうあなたは気をもむからいけないんですよ。」  と裁縫師は慰め顔に言った。亭主はまくらもとに首 をたれて、黙ってすわっていた。看護婦はまた手持ち ぶさたの気味で、用事にかこつけて|階《した》下へ降りて行 った。  御隠居さんもちょっと様子を見に来た。裁縫師は|階 下《した》で人を避けて、御隠居さんと|二人《ふたり》ぎり病人のことを 話した。 「お力さんももう長いことはなさそうですね。」と裁 縫師が言った。 「そうサ……。」と御隠居さんも声を低くして、「それ はそうと、柿田さんをああして付けておいてもよかろ うか…:。」  御隠居さんがまだ半分しか言わないうちに、その意 味は裁縫師のほうへ通じた。 「じゃ、あの人を出さないようにしましょうか。」  と言って、裁縫師は御隠居さんと顔を見合わせて笑 った。 「お前さんはどこへた打くの。」  と御隠居さんが言葉をかけたころは、裁縫師は柿田 り腕をしっかりつかまえた。それを親しげに組み合わ せるようにして、物をも言わせず経師屋の外のほうへ 連れ出した。 「まあ、どうしたの……わたしをどこへ連れてくの ……。」  と柿田はあきれた。 「なんでもいいから、いっしょにいらっしゃい。わた しの店へ行ってすこしお休みなさい。」  裁縫師は女どうしいっしょに身を寄せて、しばらく ほかの話をしながら町を歩いて行ったが、そのうちに 女らしく笑い出した。 「柿田さん、あなたがそばに付いていたんじゃ、どう してもあの病人が死に切れないんですよ。」 「まあ……。」とまた看護婦はあきれて、「わたしが看 病にこなけりゃ、あの病人が助からないようなこと を、あなたは言っといて……わたしがそばにいれば、 今度はまた死に切れないなんて……あなたは何を言う の。」  二人の女は子供のように笑った。  裁縫師が柿田を自分の|家《うち》に休ませておいて、また経 師屋のほうへ引っ返してみると、二階には病人と御隠 居さんと二人だけいた。柿田の姿が見えないというこ とは、病人を安心させておかなかった。半死のかみさ んはブルブル震えながら畳の上をはって行って、はし ごだんのところから|階下《した》をのぞいてみた。