散歩 島崎藤村  やはりわたしには散歩のほうがいい。実は、宿の|亭 主《ていしゆ》が|釣竿《つりざお》を貸してくれるからと言うので、わたしも一 日やってみたが、どうも思うように|釣《つ》れなかった。  往来の柳並木ももうなんとなく灰色がかって見える ころであった。わたしは海岸の旅館を出て、ぶらぶら 月島のほうへ歩きに行った。やがて、海に近い掘割の ながめがわたしの目に映った。  ちょうど引き潮時で、この掘割を流れる水と、岸の |石垣《いしがき》近くあらわれる|泥土《ゼろつち》とが、ほとんど同じ色に見ら れる。わたしは橋の上に立って、てすりによりかかり ながらながめ入っていたが、ふと|泥《どろ》のなかに何か動い ているものを見つけた。もっとも、これも似たり寄っ たりの色で、最初のうちはわたしも気に留めずにいた ほどである。急にそれが腰を延ばした。そして、泥の くっついたような、きたない手で、胸のあたりをひろ げてかいた。わたしはそんなところにばあさんが働い ていようとは思わなかった。  岸の上の工場でガンガン|鉄板《てついた》を打つ音も、その時は もうわたしの耳にうるさく響かなかった。橋の下を行 ったり来たりする荷舟、水から陸へ物を運ぶ労働者、 |餌《え》をあさるかもめ、それからまた"こちゃ"こちゃいっし ょになってわたしの目に映っていた物も、次第にわた しの心から動き離れるようになった。いっのまにかわ たしの心はーあたかも囚人のそれのようにーその ばあさんのほうへ行ってしまった。  ばあさんは鼻水をすすりすすり、黒ずんだ水のほう ヘジャブジャブはいって行った。そこで腰をこごめ て、|沙蚕《ごかい》を掘る道具や、泥のついた|岡持《おかも》ちなどを洗っ た。岡持ちの中には、あかい沙蚕がう"こめいている。 彼女は、岡持ちから|小桶《こおけ》へ、小桶から岡持ちへと、そ の日の|獲物《えもの》を両手ですくい入れて、いくつとなく丁寧 に水をかえていた。 「もうおしまいですかい。」  と小舟に乗って通る漁夫が、寒そうな顔つきをし て、声をかけた。 「あい。」  とばあさんは気のない返事をして、今度は自分の|手 甲《てつこう》だの|脚絆《きやはん》だのを取りはずして洗った。  わたしはその橋の上を離れることができなかった。 ちょうど喪心した人のようになって、いつまでもなが め入っていると、やがてばあさんはいろいろな道具を さげて橋の下のほうへやって来た。|石垣《いしがき》に添うてはし .こがある。最後に彼女はそのはしごへつかまって、足 の泥を洗って、それから腰の手ぬぐいで水をふき取っ て上がった。茶色な帯の間には古いたばこ入れがはさ んであった。彼女ははし、こを上がりながらも、ちょい とその帯をなでてみて、女らしい注意をするらしかっ た。腰のへんには|下駄《げた》も|足袋《たぴ》もゆわいつけてあった。 わたしはばあさんがそれを石垣の上にそろえるまでも 同じ所にたたずんでいた。 「ばあさん、二升もとれましたかね。」  と彼女のそばへ来て言って、岡持ちの中をのぞいて 見るものがあった。  ばあさんは答えなかった。彼女は橋のたもとで一服 やっていた。その時、わたしはこの年老いたおんなに 近づいて、|憂欝《ゆううつ》な、孤独な|容貌《ようぼう》をよく見ることができ た。  |沙蚕《ごかい》をさげて帰って行くうしろ姿をながめたころ、 わたしの心はようやくこのばあざんから離れた。その 日は散歩が散歩にならなかった。わたしは、なにかこ う仕事でもしたように疲れて帰って行った。