島崎藤村・伸び支度  十四五になる|大概《たいがい》の家の娘がさうであるやうに、袖子もその年頃になつて見 たら、人形のことなどは次第に忘れたやうになつた。  人形に着せる着物だ儒祥だと言つて大騒ぎした頃の袖子は、いくつそのため に小さな着物を造り、いくつ小さな頭巾なぞを造つて、それを幼い日の楽みと して来たか知れない。町の玩具屋から安物を買つて来てすぐに首のとれたも の、顔が汚れ鼻が欠けするうちにオバケのやうに気味悪くなつて捨てヤしまつ たものIl袖子の古い人形にもいろくあつた。その中でも、父さんに連れら れて震災前の丸善へ行つた時に買つて貰つて来た人形は、一番長くあつた。あ れは独逸の方から新荷が着いたばかりだといふ種々な玩具と一緒に、あの丸善 の二階に並べてあつたもので、異国の子供の風俗ながらに愛らしく、|格安《かくやす》で、 しかも丈夫に出来て居た。茶色な髪をかぶつたやうな男の児の人形で、それを 寝かせば眼をつぶり、起せばぱつちりと可愛い眼を見開い た。袖子があの人形に話しかけるのは、生きてゐる子供に話 しかけるのと殆んど変りがないくらゐであつた。それほどに 好きで、抱き、擁え、撫で、持ち歩き、毎日のやうに着物を 着せ直しなどして、あの人形のためには小さな蒲団や小さな 枕までも造つた。袖子が|風邪《かぜ》でも引いて学校を休むやうな日 には、彼女の枕もとに足を投げ出し、いつでも笑つたやうな 顔をしながらお伽話の相手になつて居たのも、あの人形だつ た。 『袖子さん、お遊びなさいな。』 と言つて、一頃はよく彼女のところへ遊びに通つて来た近所 の小娘もある。光子さんと言つて、幼稚園へでもあがらうと いふ年頃の小娘のやうに、額のところへ髪を切与さげて居る 児だ。袖子の方でもよくその光子さんを見に行つて、暇さへ あれば一緒に折紙を畳んだり、お手玉をついたりして遊んだ ものだ。さういふ時の二人の相手は、いつでもあの人形だつ た。そんなに抱愛の的であつたものが、次第に袖子から忘れ られたやうになつて行つた。そればかりでなく、袖子が人形 のことなぞを以前のやうに大騒ぎしなくなつた頃には、光子 さんともさう遊ばなくなつた。  しかし、袖子はまだ漸.く高等小学の一学年を終るか終らな いぐらゐの年頃であつた。彼女とても何かなしには居られな かつた。子供の好きな袖子は、いつの間にか近所の家から別 の子供を抱いて来て、自分の部屋で遊ばせるやヶになつた。 数へ歳の二つにしかならない男の児であるが、あのきかない 気の光子さんに比べたら、これはまた何といふおとなしいも のだらう。金之助さんといふ名前からして男の子らしく、下 ぶくれのしたその顔に笑みの浮ぶ時は、小さな暦があらはれ て、愛らしかつた。それに、この子供の好いことには、袖子 の言ふなりになつた。どうしてあの少しもぢつとして居ない で、どうかすると袖子の手におへないことが多かつた光子さ んを遊ばせるとは大違ひだ。袖子は人形を抱くやうに金之助 さんを抱いて、どこへでも好きなところへ連れて行くことが 出来た。自分の側に置いて遊ばせたければ、それも出来た。  この金之助さんは正月生れの二つでも、まだいくらも人の 言葉を知らない。蕾のやうなその唇からは『うまく』ぐら ゐしか泄れて来ない。母親以外の親しいものを呼ぶにも、 『ちやあちやん』としかまだ言ひ得なかつた。こんな幼い子 供が袖子の家へ連れられて来て見ると、袖子の父さんが居 る、二人ある兄さん達も居る。しかし金之助さんはさういふ 人達までも『ちやあちやん』と言つて呼ぶわけではなかつ た。矢張この幼い子供の呼びかける言葉は親しいものに限ら れて居た。もとく金之助さんを袖子の家へ、初めて抱いて 来て見せたのは下女のお初で、お初の子煩悩と来たら、袖子 に劣らなかつた。 『ちやあちやん。』  それが茶の問へ袖子を探しに行く時の子供の声だ。 『ちやあちやん。』  それがまた台所で働いて居るお初を探す時の子供の声でも あるのだ。金之助さんは、まだよちくしたおぼつかない足 許でへ茶の間と台所の間を往つたり来たりして、袖子やお初 の肩につかまつたり、二人の裾にまとひついたりして戯れ た。  三月の雪が綿のやうに町へ来て、一晩のうちに見事に溶け て行く頃には、袖子の家ではもう光子さんを呼ぶ声が起らな かつた。それが『金之助さん、金之助さん』に変つた。 『袖子さん、どうしてお遊びにならないんですか。わたしを お忘れになつたんですか。』  近所の家の二階の窓から、光子さんの声が聞えて居た。そ のませた、小娘らしい声は、春先の町の空気に高く響けて聞 えて居た。丁度袖子はある高等女学校への受験の準備にいそ がしい頃で、遅くなつて今迄の学校から帰つて来た時に、そ の光子さんの声を聞いた。彼女は別に悪い顔もせず、たドそ れを聞き流したま系で家へ戻つて見ると、茶の問の障子のわ きにはお初が針仕事しながら金之助さんを遊ばせて居た。  どうしたはづみからか、その日、袖子は金之助さんを怒ら してしまつた。子供は袖子の方へ来ないで、お初の方へばか り行つた。 『ちやあちやん。』 『はあい1金之助さん。』  お初と子供は、袖子の前で、こんな言葉をかはして居た。 子供から呼びかけられるたびに、お初は『まあ、可愛い』と いふ様子をして、同じことを何度も何度も繰返した。 『ちやあちやん。』 『はあい1金之助さん。』 『ちやあちやん。』 『はあいi金之助さん。』  あまりお初の声が高かつたので、そこへ袖子の父さんが笑 顔を見せた。 『えらい騒ぎだなあ。俺は自分の部屋で聞いて居たが、まる で、お前のは掛け合ひぢやないか。』 『旦那さん。』とお初は自分でもをかしいやうに笑つて、や がて袖子と金之助さんの顔を見くちべながら、『こんなに金 之助さんは私にぱかりついてしまつて……袖子さんと金之助 さんとは、今日は喧嘩です。』  この『喧嘩』が父さんを笑はせた。  袖子は手持無沙汰で、お初の側を離れないで居る子供の顔 を見まもつた。女にもして見たいほど色の白い児で、優しい 眉、すこし開いた唇、短いうぶ毛のま、の髪、子供らしいお でこーすべて愛らしかつた。何となく袖子にむかつてすね て居るやうな無邪気さは、一層その子供らしい様子を愛らし く見せた。こんないぢらしさは、あの生命のない人形にはな かつたものだ。 『何と言つても、金之助さんは袖ちやんのお人形さんだね。』 と言つて父さんは笑つた。  さういふ袖子の父さんは螺で、中年で連合に死に別れた人 にあるやうに、男の手一つでどうにか斯うにか袖子たちを大 きくして来た。この父さんは、金之助さんを人形扱ひにする 袖子のことを笑へなかつた。なぜかなら、さういふ袖子が、 実は父さんの人形娘であつたからで。父さんは、袖子のため に人形までも自分で見立て、同じ丸善の二階にあつた独逸出 来の人形の中でも自分の気に入つたやうなものを求めて、そ れを袖子にあてがつた。丁度袖子があの人形のためにいくつ かの小さな着物を造つて着せたやうに、父さんはまた袖子の ために自分の好みによつたものを選んで着せた。 『袖子さんは|可哀《かあい》さうです。今のうちに紅い派手なものでも 着せなかつたら、いつ着せる時があるんです。』  こんなことを言つて袖子を|庇護《かば》ふやうにする婦人の客なぞ がないでもなかつたが、しかし父さんは聞き入れなかつた。 娘の風俗は成るべく清楚に。その自分の好みから父さんは割 り出して、袖子の着る物でも、持ち物でも、すべて自分で見 立ておやつた、そして、いつまでも自分の人形娘にして置き たかつた。いつまでも子供で、自分の言ふなりに、自由にな るものおやうに  ある朝、お初は台所の流しもとに働いて居た。そこへ袖子 が来て立つた。袖子は敷布をか」へたま」物も言はないで、 蒼ざめた顔をして居た。 『袖子さん、どうしたの。』  最初のうちこそお初も不思議さうにして居たが、袖子から 敷布を受取つて見て、すぐにその意味を読んだ。お初は体格 も大きく、力もある女であつたから、袖子の震へるからだへ うしろから手をかけて、半分抱きか」へるやうに茶の間の方 へ連れて行つた。その部屋の片隅に袖.子を寝かした。 『そんなに心配しないでもい系んですよ。私が好いやうにし てあげるから1誰でもあることなんだからー今日は学校 をお休みなさいね。』 とお初は袖子の枕もとで言つた。  祖母さんもなく、母さんもなく、誰も言つて聞かせるも の、ないやうな家庭で、生れて初めて袖子の経験するやうな ことが、思ひがけない時にやつて来た。めつたに学校を休ん だことのない娘が、しかも受験前でいそがしがつて居る時で あつた。三月らしい春の朝日が茶の間の障子に射して来る頃 には、父さんは袖子を見に来た。その様子をお初に問ひたづ ねた。 『えヤ、すこし!.・品・㌧』 とお初は曖昧な返事ばかりした。 袖子は物も言はずに寝苦しがつて居た。そこへ父さんが心 配して覗きに来る度に、しまひにはお初の方で.も隠しきれな かつた。 『旦那さん、袖子さんのは病気ではありません。』  それを聞くと、父さんは半信半疑のま」で、娘の側を離れ た。日頃母さんの役まで兼ねて着物の世話から何から一切を 引受けて居る父さんでも、その日ばかりは全く父さんの畠に ないことであつた。・男親の悲しさには、父さんはそれ以上の ことをお初に尋ねることも出来なかつた。 『もう何時だらう。』` と言つて父さんが茶の間に掛つて居る柱時計を見に来た頃 は、その時計の針が十時を指して居た。 『お昼には兄さん達も帰つて来るな。』と父さんは茶の間の なかを見廻して言つた。『お初、お前に頼んで置くがね、み んな学校から帰つて来て聞いたら、さう言つてお呉れーけ ふは父さんが袖ちやんを休ませたからッてーもしかした ら、気分が悪いからッてIIすこし頭が痛いからツて。』  父さんは袖子の兄さん達が学校から帰つて来る場合を予想 して、娘のためにいろく口実を考へた。  昼すこし前にはもう二人の兄さんが前後して威勢よく帰つ て来た。一人の兄さんの方は袖子の寝て居るのを見ると黙つ て居なかつた。 『オイ、どうしたんだい。』  その権幕に恐れて、袖子は泣き出したいばかりになつた。 そこへお初が飛んで来て、いろく言訳をしたが、何も知ら ない兄さんは訳の分らないといふ顔付で、しきりに袖子を責 めた。 - 『頭が痛いぐらゐで学校を休むなんて、そんな奴があるか い。弱虫め。』 『まあ、そんなひどいことを言つて、』とお初は兄さんをな だめるやうにした。『袖子さんは私が休ませたんですよlI けふは私が休ませたんですよ。』  不思議な沈黙が続いた。父さんでさへそれを説き明すこと が出来なかつた。たfく父さんは黙つて、袖子の寝て居る 部屋の外の廊下を往つたり来たりした。あだかも袖子の子供 の日が最早終りを告げたかのやうにーいつまでもさう父さ んの人形娘では居ないやうな、ある待ち受けた日が、到頭父 さんの眼の前へやつて来たかのやうに。 『お初、袖ちやんのことはお前によく頼んだぜ。』  父さんはそれだけのことを言ひにくさうに言つて、また自 分の部屋の方へ戻つて行つた。こんな悩ましい、言ふに言は れぬ一日を袖子は床の上に送つた。夕方には多勢のちひさな 子供の声にまじつて例の光子さんの甲高い声も家の外に響い たが、袖子はそれを寝ながら聞いて居た。庭の若草の芽も一 晩のうちに伸びるやうな暖い春の宵ながらに悲しい思ひは、 丁度そのまおのやうに袖子の小さな胸をなやましくした。  翌日から袖子はお初に教へられた通りにして、例のやうに 学校へ出掛けようとした。その年の三月に受け損なつたらま た一年待たねばならないやうな、大事な受験の準備が彼女を 待つて居た。その時、お初は自分が女になつた時のことを言 出して、 『私は十七でしたよ。そんなに自分が遅かつたものですから ね。もつと早くあなたに話してあげると好かつた。そのくせ 私は話さうくと思ひながら、まだ袖子さんには早からうと 思つて、今まで言はずにあつたんですよ……つい、自分が遅 かつたものですからね……学校の体操やなんかを、その問、 休んだ方がいおんですよ。』  こんな話を袖子にして聞かせた。  不安やら、心配やら、思出したばかりでもきまりのわる く、顔の紅くなるやうな思ひで、袖子は学校への道を辿つ た。この急激な変化1それを知つてしまへば、心配もなに もなく、ありふれたことだといふこの変化を、何の故である のか、何の為であるのか、それを袖子は知りたかつた。事実 上の細い注意を残りなくお初から教へられたにしても、こん な時に母さんでも生きて居て、その膝に抱かれたら、としき りに恋しく思つた。いつものやうに学校へ行つて見ると、袖 子はもう以前の自分ではなかつた。事毎に自由を失つたやう で、あたりが狭かつた。昨日までの遊びの友達からは邊かに 遠のいて、多勢の友達が先生達と縄飛びに鞠投げに嬉戯する さまを運動場の隅にさびしく眺めつくした。  それから一週間ばかり後になつて、漸く袖子はあたりまへ のからだに帰ることが出来た。溢れて来るものは、すべて清 い。あだかも春の雪に濡れて反つて伸びる力を増す若草のや うに、|生長《しとなり》ざかりの袖子は一層いきくとした健康を回復し た。 『まあ、よかつた。』 と言つて、あたりを見廻した時の袖子は何がなしに悲しい思 ひに打たれた。その悲しみは幼い日に別れを告げて行く悲し みであつた。彼女は最早今迄のやうな眼でもつて、近所の子 供達を見ることも出来なかつた。あの光子さんなぞが黒いふ さくした髪の毛を振つて、さも無邪気に、家のまはりを駆 け廻つて居るのを見ると、袖子は自分でも、もう一度何も知 らずに眠つて見たいと思つた。  男と女の相違が、今は明らかに袖子に見えて来た。彼女は さものんきそうな兄さん達とちがつて、自分を護らねばなら なかつた。大人の世界のことをすつかり分つてしまつたとは 言へなbまで㌔、すべなくもそれを覗いて見た、その心か ら、袖子は言ひあらはしがたい驚きをも誘はれた。  子供の好きなお初は相変らず近所の家から金之助さんを抱 いて来た。頑是ない子供は、以前にもまさる可愛いげな表情 を見せて、袖子の肩にすがつたり、その後を追つたりした。 『ちやあちやん。』  親しげに呼ぶ金之助さんの声に変りはなかつた。しかし袖 子はもう以前と同じやうにはこの子供を抱けなかつた。  袖子の母さんは、彼女が生れると間もなく激しい産後の出 血で亡くなつた人だ。その母さんが亡くなる時には、人のか らだに差したり引いたりする潮が三枚も四枚もの母さんの単 衣を雫のやうにした。それほど恐ろしい勢で母さんから引い て行つた潮が1十五年の後になつてーあの母さんと生命 の取りかへつこをしたやうな人形娘に差して来た。空にある 月が満ちたり欠けたりする度に、それと呼吸を合はせるやう な、奇蹟でない奇蹟な、まだ袖子にはよく呑みこめなかつ た。それが人の言ふやうに規則的に溢れて来ようとは、信じ られもしなかつた。故もない不安はまだ続いて居て、絶えず 彼女を脅した。袖子は、その心配から、子供と大人の二つの 世界の途中の道端に息づき震へてゐた。