並木(初出版) 島崎藤村  近ごろ|相川《あいかわ》の|怠《なま》けることは会社内でも評判になって いる。一度弁当を腰につけると、八年や九年ぐらいさ げているのはぞうさもない。あくせくとした|生涯《しようがい》をほ こりぶかい|巷《ちまた》に送っているうちに、もはや相川は四十 近くなった。彼は外国文学に精通した大家で、英語の ほかに、仏語、それから露語もいける。もともと会社 なぞにうずもれておるべきはずの人ではないが、年を とったおふくろを養うために、こういうところの|椅子《いす》 にも腰をかけないわけにいかなかった。ここは会社と いっても、営業部、銀行部、それぞれあって、まず役 所のような大組織。外国文書の翻訳、それが彼の担当 する日々の勤めであった。足を洗おう、早くーこの 考えは近ごろになってことに激しく彼の胸中を往来す る。そのために夜ふけまでも思いふける。朝もおそく なる。つい怠りがちになるような始末。彼は長い長い 腰弁生活に飽き疲れてしまった。まったくこういうと ころに縛られていることが相川の性質にむかないので あって、あえて自らほしいままにするのではない、と 心を知った同僚は弁護してくれる。のみならず、苦労 人といったような人々はたくざんあっても、彼のよう に知り、彼のように気節というものを重んじ、彼のよ うに|数奇《すうき》の|境涯《きようがい》を通り越して来たものはーおそらく この会社内にあるまいとは、見習いの書記までそう思 っている。「相川さん、遅刻届は活版刷りにしてお置 きなすったらいかがです、」などと、|小癩《こしやく》なことをぬ かす受付の小使いまでも、心のうちでは彼の尊い性質 を尊敬して、普通の会社員と同じようには見ていな い。日本橋呉服町にある大きな建物の二階で、うずた かく積んだ簿書のうちに身をうずめながら、相川は前 途のことを案じ煩った。どういう|事業《こと》をしよう、どう いう方法にして辞職と同時に受け取る"へき手当の金を 費やそう、とその計画に心を労した。もっともこうい う計画にふけるのが相川の癖である。思い疲れている ところへ、ちょうど小使いが名刺を持ってやってき た。原としてある。原は金沢の高等学校に奉職してい ておよそ八年ぶりで尋ねてきたのであった。旧友ー という人は数々ある中にも、この原、大学に|教鞭《きようべん》を執 っている|乙骨《おつこつ》、イギリス留学中の|永田《ながた》、新進作家の高 瀬なぞは、相川が若い時から互に往来した親しい間が らだ。永田は遠からず帰朝するというし、高瀬は山の 中から出て来たし、いよいよ原も家をあげて出京する となれば連中は過ぐる十年間の|辛酸《しんさん》を|土産話《みやげぱなし》にして再 び東京に落ち合うこととなる。とりあえず、相川は|椅 子《いす》を離れた。高く薄暗い灰色の壁に添うて、用事あり げな人々とすれちがいながら、長い階段を降りて行っ た。  原は応接室に待っていた。八年ばかり見ないうち に、この友だちの変ったことは。まず目につくは何か というに|立派《りつぱ》な口ひげで、濃く厚く|生《は》えて、いかめし く長いところは「カイゼル」とも言いたかった。 「君の出て来ることは、|乙骨《おつこつ》からも聞いたし、高瀬か らも聞いた。」と相川はなれなれしく、「時に原君、今 度は細君もごいっしょかね。」 「いいえ。」と原はすこし改まった調子で、「ぼく|一人《ひとり》 で出て来たんです。」 「あゝそうですか、君一人ですか。」 「いろいろ都合があって、|家《うち》の者はあっちに置いて来 ました。それにまだ荷物も置いてあるしねー」 「それじゃ、君、もう一度金沢へ帰らんけりゃなるま い。」 「えゝ、帰って、|家《うち》を片づけて、それからまた出て来 ます。」 「そいつは大変だねえ。なにしろ、家を移すというこ とは容易じゃないよ。iおまけに遠方ときてるから なあ。」  原はただ嘆息していた。相川は金縁のめがねを取り はずして、丁寧に白いハンケチでふいて、やがてそれ を掛け添えながらつくづく友だちの顔をながめた。 「相川君、まだぽくは二三日東京にいるつもりですか ら、いずれお宅のほうへ伺うことにしましょう。」こ う原は言い出した。「いろいろお話ししたいこともあ る。」 「では、君、こうしてくれたまえ。あす|午前《ひるまえ》にぽくの |家《うち》へやってきてくれたまえ。久しぶりでゆっくり話そ う。」 「あす?」と原は驚いた。「あすは君、土曜-会社 があるじゃないか。」 「なあに、一日ぐらい休むサ。」 「そんなことをしていいんですか、会社のほうは。」 「かまわん。」 「じゃあ、そうしようかねえ。あすはお邪魔になりに 伺うとしよう。久しぶりでぽくも出て来たものだか ら、電車に乗っても、君、さっぱり方角がわからな い。小川町から九段へかけてーあのへんは恐ろしく 変ったねえ。まあ東京の変ったのには驚く。実に驚 く。八年ばかり金沢にいる間に、ぼくはもうすっかり |田舎者《いなかもの》になってしまった。」 「そうさ、八年といえばやがて一昔だ。すこし長くい すぎた気味はあるね。」  と言われて、原は寂しそうに笑っていた。この友だ ちはやはり相川と同じように、外国文学の研究で一家 を成した人で、素養が素養だけにイギリス風の紳士と でもいったような、|質素《じみ》な、|高尚《ひとがら》な、気象のおもしろ い学者である。ありていに言えば、原は金沢のほうを やめてしまったけれども、都会へ出て来てまだこれと いう|目的《めあて》がない。今度の出京はそれとなく職業を捜す ためでもある。不安の念は絶えず原の胸にあった。 「では失礼します、君もお忙しいでしょうから。」原 は帽子を執って立ち上がった。「いずれーあすー」 「まあ、いいじゃないか。」と相川は男らしい|眉《まゆ》を揚 げて、自分で自分の|錆沈《しようちん》した意気を励ますかのように 見えた。たばこ好きな彼はさらに新しい紙巻きを取り 出して、それをふかしてみせて、自分は今それほど忙 しくないという意味を示したが、原のほうではそうも とらなかった。 「乙骨君は近"ころなかなかさかんなようだねえ。」  とふと思い出したように、原は戸口のところに立っ て尋ねた。 「乙骨かい。」と相川は受けて、「乙骨は君、どうし て。」 「どうぞ、お会いでしたらよろしく。」 「あゝ。」  そこそこにして原は出て行った。  その日は、人の心を腐らせるような、ジメジメと蒸 し暑い八月上旬のことで、やがて相川も翻訳の仕事を 終って、ちょうど|鍛冶屋《かじや》がそこへ|槌《つち》をおろしたように 。ヘンをほうりだしたころは、もうがっかりしてしまっ た。いつでも夕方近くなると、むだに一日を過ごした ような後悔の念がわきあがってくる。それがこの節相 川の癖のようになっている。ゆうべなぞはことに非常 な奮発をしたもので、「まず朝は三時に起きる、そこ いらを散歩してくる、一時間ばかり勉強する、飯を食 って、新聞を読んで、それから会社へ出かける」と、 考えて寝たが、けざになってみると七時に目がさめ て、新聞は床の中で読んだ。計画は一つも実行されな かった。よけいに頭の中はむしゃくしゃする。「えゝ、 きょうはもう仕方がない、」ーこう相川はひとりご とのように言って、思うままに一日の残りを費やそ う、と決めた。  |沈欝《ちんうつ》な心境をたどりながら、彼は|飯田町《いいだまち》六丁目の家 のほうへ帰って行った。道々友だちのことが胸に浮か ぶ。確かに|老《ふ》けた。朝に晩に会う人は、あたかも住み 慣れた町をながめるように、近すぎてかえってなんの 新しい感じも起らないが、たまに顔を合わせた友だち を見ると、実に、実に、驚くほど変っている。高瀬と いう友だちの言い草に、「人間には二通りあるー一 方の人はじりじり年をとる、片っぽうの人は長い間若 くていて急にドシンと落っこちる、」と言って笑った ことがある。相川は今その言葉を思い出して、原をじ りじり年をとるほうに、自分をドシンと落っこちるほ うに考えてみたが、しかし友だちもああ変っていよう とは思いがけなかった。原ともあろうものが今から年 をとってどうする。と彼は歩きながら嘆息した。実 際、相川はまだまだ若いつもりでいる。「君は変らな いよ、」と言われたことのある彼は、だから、久しぶ りで出て来た友だちのことを考えて、歯がゆいような 気がした。 「|田舎《いなか》に長くいすぎたせいだ。」こう言ってみたので ある。  古本をあさることはこの節彼が見つけた慰みの一つ であった。これほど|費用《ついえ》が少なくて楽しみの多いもの はなかろう、とは持論である。すでに幾冊か洋書を手 に入れもした。その日も何か珍本を掘り出すつもり で、例のように|錦町《にしきちよう》から|小川町《おがわまち》の通りへ出た。そこ ここと尋ねあぐんで、やがてぶらぶら|裏神保町《うらじんぼうちよう》まで歩 いて行くと、軒を並べた本屋町が彼の目の前にひらけ た。あらゆる種類の書籍が客の目を引くように飾って ある。ののしるものも、ののしられるものも、ここで は同じように砂ほこりを浴びていた。|棚《たな》ざらしになっ た聖賢の伝記や、読み捨てられた物語や、獄中の日誌 や、それから世に忘れられた詩歌もあれば、酒と女と 食い物との手引き草もある。およそ今日までの代のう つりかわりを見せる一種の展覧会、とでもいったよう なぐあいに、あるいは人間の無益な努力、いたずらに 流した涙、滅びて行く名1そういうものがごちゃ"こ ちゃ陳列してあるかのように見えた。方々の店さきに は立ってひやかしている人々もある。こういう向きの 雑書をあさることは、もっとも、相川の目的ではなか ったが、ふとある店の前に立って見渡しているうち に、意外なものを発見したのであった。まず彼は胸を 打たれた。  なにげなく取り上げて、日にさらされた表紙のほこ りを払ってみる。まがいもない彼自身の著書だ。自然 と彼の手は震えてきた。それは二年ばかり前に出版し たもので、今は版元でも品切れになっている。貸しな くして彼の手もとにも残っていない。とにかく一冊出 て来た。生意気な小僧がそこにいて、十八銭にまけて おくと言われた時は、あまりいいこころもちもしない のであったが、自分の書いたものを値切るのも変だ、 と思って、言い値で買って、やがて相川はその店を出 た。雨はポツポツ落ちてきた。|家《うち》へ帰ってから読むつ もりであったのを、その晩は青木といって彼の|弟《でし》子|分《ぷん》 にあたる大学生に押しかけられた。わりあいに蚊のい ない晩で、|二人《ふたり》で|水瓜《すいか》を食いながら話した。はじめて 例の著書が出版された当時、ある雑誌の上で長々と批 評して、他人が見てはむしろ著者をあざけったような 言葉でありながら実は相川のために|万斜《ぱんこく》の涙をそそい で、あるいは「超人ならぬ凡人の告白」であると言っ たり、あるいは「ツルゲネーフの情緒あって、ツルゲ ネーフの想像なし」と評したりしたのは、この青木と いう男である。青木は八時"ころに帰った。それから相 川は本をあけて、畳の上に寝ころびながら読み始め た。いろいろなことが出て来る。原や高瀬なぞの友だ ちのこともある。どこへ|嫁《かたす》いてどうなったかと思うよ うな人々のこともある。 「人は何事にても|或事《あること》を成さば可なりと信ず。されど その或事とは何ぞや。われはそを知らむことを求む、 されどいまだ|見出《みい》だし得ず。さらば、かく暗黒のうち に座するは、わが事業なるかー」  ずっと古いところの|稿《もの》にはこんなことも書いてあ る。  |豪爽《ごうそう》な感じのする夏の雨が急に滝のように落ちて来 た。屋根の上にも、庭の草木の上にも激しく降りそそ いだ。むっくと起き直って、涼しい雨の音を聞きなが ら、今昔のことを考えるといても立ってもいられない ような気がする。友にも言えず、妻にも話されず、ま して青年の時代には自分でも思いよらなかったような この一夜の心1だれが知ろう。|蚊帳《かや》の中へもぐりこ んでからも、相川は眠られなかった。多感多情であっ た三十何年の|生涯《しようがい》をその晩ほど思い浮かべたことはな かったのである。 「飽くまでも戦おう。」  こう|憤慨《ふんがい》に堪えないような調子で言って、寝苦しざ のあまりに戸をあけてみたころは、雨ももうすっかり やんでいた。洗ったような庭の中がなんとなく青白く 見えるのは、やがて夜が明けるのであろう. 「あゝ、|短夜《みじかよ》だ。」  とつぶやいて、また相川は|蚊帳《かや》の中へはいった。  あくる日、原は午前のうちにたずねて来た。子供へ と言って、|手土産《てみやげ》の「ビスヶット」なぞを忘れずに用 意して来るところは、さすが|田舎《いなか》で長く苦労した人だ けある。相川の家族はかわるがわる出て、どんなにこ の珍客をもてなしたろう。七歳になるかわいらしい女 の子を初め、四人の子供はめずらしそうに、このひげ のおじさんをとりまいた。      |御届《おんとどけ》   私儀、病気につき、今日欠勤つかまつりたく、こ   の段御届に及び|候也《そろなり》。  こう相川は書いて、それを車夫に持たせて会社へ届 けることにした。 「あれ、原さんで.こざいましたか。すっかり私はお見 それ申してしまいましたよ。」  と国なまりのある調子で言って、そこへあいざつに 出たのは相川のおふくろである。わが子の友だちを見 るにつけても、すぐに昔を思い出すというふうで、|老《お》 いの涙はこのおふくろの慈悲深い眼に輝いていた。 「どうもわたしのために会社をお休みくだすってはお 気の毒ですなあ。」と原は相川の妻のほうへ向いて言 った。 「なんの、あなた、たまにいらしってくだすったんで すもの。」と相川の妻は如才なく「どんなにか宿でも 喜んでおりますんですよ。」  こういう話をしているうちに、相川は着物を着かえ た。やがて二人の友だちはいっしょに飯田町の宿を出 た。  |昼飯《ひる》は相川がおごった。その日は|日比谷《ひぴや》公園を散歩 しながら久しぶりでゆっくり話そう、ということに決 めて、街鉄の電車で市区改正中の町々を通り過ぎた。 日比谷へ行くことは原にとって初めてであるばかりで なく、電車の窓から見える市街のありさまはすべて驚 くべき事実を語るかのように思われた。道も変った。 家の|構造《たてかた》も変った。店の飾り付けも変った。そこここ に高くそびゆる|宏大《こうだい》な建物は、壮麗で、|斬新《ざんしん》で、くす んだ従来の形式を圧倒して立つように見えた。何もか も進もうとしている。動揺している。活気にあふれて いる。新しいものが古いものに変ろうとしている。八 月の日の光は窓の外に満ちて、家々の屋根と緑葉とに 映り輝いて、この東京の都をさかんに燃えるように見 せた。見るもの聞くものは激しく原の心を刺激したの である。原は相川といっしょに電車を降りた時、|馳《は》せ ちがう人々の|雑沓《ざつとう》と、いりみだれた物の響きとで、す こし気が遠くなるようなここちもした。  新しい公園のありさまはやがて二人の前にひらけ た。池と花園との間の細い小道へ出る、と「かくれみ の」の木の葉が生き生きと茂り合っていて、草の上に 落ちた影はことに深い緑色に見えた。日にしおれたよ うなバラの息は風に送られてにおってくる。それをか ぐと、急に原は金沢の空が恋しくなった。畑を作った り、|鶏《とり》を飼ったりした八年間の田園生活、どんなにそ れが原の身にとって、のんきで、静かで、楽しかった ろう。原はこれから家をあげて引っ越して来るにして も|角筈《つのはす》か|千駄木《せんだぎ》あたりの郊外生活を夢みている。足る ことを知るという哲学者のように、原は自然に任せて 楽しもうと思うのであった。  美しい|洋傘《こうもり》をさした人々は幾群れか二人のわきを通 り過ぎた。昔のように内輪に歩いている娘は一人もな い。いずれも親泣かせといったような連中が、互に当 世の流行を競い合っての風俗は、はでで、ほしいまま で、絵のように見える。色も、好みも、みな変った。 中には男にしなやかな手を預け、横からささやかせ、 軽く笑いながら木陰を行くものもあった。妻とすらい っしょに歩いたことのない原は、この大胆なふるまい に|怖毛《おぞけ》を震って、時々立ちどまっては嘆息した。「こ れが首を延ばして待ちこがれていた、新しい時代とい うものであろうか。」こう原は心に驚いたのである。  奏楽堂のうしろへ出たころ、原はながめ入って、 「しかし、お互に年をとったねえ。」  と言い出した。相川は忌ま忌ましそうに肩をゆすり ながら、 「年をとった? ぽくは今までそんなことを思ったこ とはないよ。」 「そうかなあ。」と原はほほえんで、「ぽくはある。お とといも大学の|柏木《かしわぎ》君に会ったがね、あゝ柏木君も年 をとったなあ、とそう思ったよ。だれだって君、年を とるサ。ぽくなどを見たまえ。頭に|白髪《しらが》が|生《は》えるなら まだしもだが、どうかするとひげにまで出るようにな ったからねえ。」  相川は答えなかった。 「心細いことを言い出したぜ。」と相川は腹の中で言 った。年をとるなんて、相川に言わせると、そんなこ とはおくびにも出したくなかった。だれやらの言い草 ではないが、まだ|海老茶《えびちや》のにおいもする気でいる。昔 の束髪連なぞが青い顔をして、つやもなくなって、ま るでおばあさん然とした様子を見ると、ひと"ことでも 腹が立つ。それ、そういう気象だ。「お互にまだ三十 代じゃないかーぽくなぞはこれからだ。」と相川は 心に繰り返していた。  二人は並んで黙って歩いた。  ややしばらくたって、原は金沢の生活の楽しかった ことを説き始めた。大きな士族屋敷を借りて住んだこ と、裏庭には茶畑もあれば竹やぶもあったこと、自分 で|鍬《くわ》を取って野菜を作ったこと、西洋の草花もいろい ろ植えて、鶏も飼う、|猫《ねこ》もいるーちょうど、八年の 間、百姓のように自然な暮らしをしたことを話した。 「ふむ。」  と相川は歩きながら答えた。恐ろしく気乗りのする 時と、しない時とある人で、「ふむ」と答えるには答 えたが、まったく別のことを考えながら返事をしてい た。  原は聞いてもらうつもりで、市中には事業があって も生活がない、生活のあるのは郊外だーそこで自分 の計画には|角筈《つのはず》か|千駄木《せんだぎ》あたりへ引っ越して来る、と にかく家を移す、まず住むことを考えてそれからしご とのほうに取りかかる、こう話した。 「それじゃあ、|家《うち》のほうはおおよそ見当がついたとい うものだね。」と相川は尋ねた。 「そうさ君。」 「はゝゝゝゝ。原君とぽくとはだいぶ違うなあ。ぽく ならまずし"ことを捜すよー|家《うち》のほうなんざあどうで もいい。」 「しかし、出て来てみたら、何かまたしごとがあるだ ろうと思うんだ。」 「容易にないねーまず一年ぐらいは遊ぶ覚悟でなけ りゃあ。」  家を中心にして一生の|計画《はかりごと》を立てようという人と、 まず|屋《うち》の外に出てそれから何かしようという人と、こ の二人の友だちはやがて公園内の茶店へはいった。涼 しい風の来そうなところを選んで、腰をかけて、相 川は洋服のかくしから巻きたばこを取り出す。原は|黒 組《くろろ》の羽織のまま腕まくりして、ハンケチで手の汗をふ いた。  黄に盛り上げた「アイスクリーム」、夏の|果物《くだもの》、菓 子等がそこへ持ち運ばれた。相川は左の手に「アイス クリーム」のさじを持って、右の手で巻きたばこをふ かしながら、 「時に、原君、今度はどうかいう計画があって引っ越 して来るかね。」 「計画とは?」と原はハンケチで長い口ひげをふい た。 「だって君、そうじゃないか、やがてお互に四十とい う声を聞くじゃないか、なんとか計画をしなけりゃな るまい。」 「だからぽくも|田舎《いなか》をやめて来たようなわけさ。それ に、まあさしあたりこれというし、こともないが、その うちにはどうかなるだろうと思ってー」 「いや、ぽくはさしあたってのことを言ったんじゃな いよ。」と相川は原の言葉をさえぎった。「その何さI lこれからの方針さ。もう君、一生の事業に取りかか ってもよかろう。」 「それにはぽくはこういうことを考えてる。」と原は 濃い|眉《まゆ》を動かして、「しかし君、笑っては困るよ。」 「だれが笑うものか。こりゃあまじめな問題だ。」と 相川は腹立たしそうに。 「ぼくはねえ、ひとつ図書館をやってみたいと思って る。」こう原は言い出した。 「むゝ、図書館もよかろう。」と相川は力を入れて、 「君が一生の事業としてやろうと言うんなら、それも よかろう。」 「すでに金沢のほうで、学校の図書室を預かって、多 少そのほうの経験もあるがね、こう静かで、世間の声 が聞えなくって、ちょうど中世紀あたりのお寺にでも いるような気がする。まわりにはダンテもいる、ボッ カシオもいるーなんとなくぼくの趣味に適するんだ ね。」 「もっとも、君は昔からそういう|性質《たち》の人だった。」 「まず柄にあるほうかネ。はゝゝゝゝ。」 「しかし。」と相川は堅く自分の手を握り締めて、「図 書館もいいが、そこに物がなくっちゃあしようがある まい。まず準備が|要《い》る、金をかける人がある、建物が 出来る、それから君のような人を要する、こういう順 序だから、それを待っているのは容易じゃない。はた してそういう機会にうまくでっくわすかどうか。」 「ぼくはこんなことも考えてる。あの議院に付属した 大きな図書館でもあると、ひとつやってみたいと思う んだがー」 「まず出来そうもないね。今の政事家が、君の思うよ うな図書館を要するのはーそうざ、何十年の後だろ うよ。」 「はゝゝゝゝ。」と原はロひげをひねりながら笑った。  茶店の片すみには四五人の若い給仕女が集まって|小 猫《こねこ》を相手に戯れていた。時々高い笑い声が起る。小猫 は黒毛の、目を光らせたやつで、いつのまにか二人の 腰かけているほうへ来て鳴いた。 「しッ、しッ」と相川が追うようにすると、小猫は彼 のほうを遠回りして、やがて原のひざの上に上がった。 「まあ、その猫をおろしたまえ。」と相川は|靴《くつ》を鳴ら しながら言って、「そうしてると、なんだか見ても暑 苦しそうだ。」 「ナニ、ぼくはこういうものが好きなんでね。」と笑 って、原は黒い小猫の頭をなでてやった。 「好きな人はわかるものと見えるなあ。」と相川は顔 をしかめて、「それはそうと、原君、長く|田舎《いなか》にいて、 ずいぶん勉強したろうねえ。君はこの節どういうもの を読んでる。」 「ぼくかい。」と原は苦笑いした。「ぽくなぞは別に新 しいものを読まないさ。こないだもイギリスの|永田《ながた》君 から手紙が来たがね、お互にチョンまげ党だって。」 「そう|謙遜《けんそん》したものでもなかろう。バルザックやドー デーなぞを読み出したのは、君のほうがぽくより早い ぜーそれ、見たまえ。」 「あの時分は夢中だった。」と原は言い消して、やが て気を変えて、「君こそ勉強したろう。君は大陸通だ、 という評判だ。」 「大陸通というほどでもないがね、まあロシア物はだ いぶ集めた。」と相川は思い出したように、「この節、 またツルゲネーフを読み出した。晩年の作で、ホラ、 『ヴァージン・ソイル』1あれを会社へ持って行っ て、暇にあけて見てるが、ネズダノーフという主人公 が出て来らあね。なんだかこう自分のことを書いたん じゃないか、と思うようなところがあるよ。」 「ホウ。」 「その主人公は、理想はあるが、実行することのでき ない人なんだ。事業をしようしようと思っても、どう してもそれができないような性質だから仕方がない。 かわいそうに、ネズダノーフの|生涯《しようがい》は自殺で終る。」 と言って、相川は力を入れて、「つまり1空想家で はダメなんだねえ。」  急に相川の目は輝いた。  その時、大学生の青木が、|布施《ふせ》という友だちといっ しょに、この茶店へはいってきた。 「やあ」という声 は双方からいっしょに出た。相川のまわりはにわかに にぎやかになった。 「原君、御紹介しましょう。」と相川は青木のほうを 指さして、「これは青木君です。大学の英文科にいて、 来年卒業されるかたです。」 「あゝ、あなたが青木さんですか。お書きになったも のはよく雑誌で拝見していました。」と原は丁寧にあ いさつする。  青木は銀縁のめがねを掛けた、髪を五分刈りにして いる男で、原の出ようが丁寧であったために、すこし きまりのわるそうにあいさつした。 「こちらは、」と相川は布施のほうを指さして、「布施 君1やはり青木君と同級です。」  布施は髪を見事に分けていた。男らしいうちにも|愛 矯《あいきよう》のある物の言いぶりで、「わたしは中学校にいる時 代から原先生のものを愛読しました。」 「この布施君は永田君に習った人なんです。」と相川 は原のほうを向いて言った。 「永田君に?」と原はなつかしそうに。 「はあ、永田先生には非常にごやっかいになりまし た。」と布施は答えた。 「青木君、洋服は珍しいね。」と相川は笑いながら、 「むう、なかなかよく似合う。」 「青木君はー」と布施は引き取って、「洋服を着た ら若くなったという評判です。」 「どうも至るところでひやかされるなあ。」と青木は 五分刈りの頭をなでた。 「時に、会のほうはどう決まりました。」と相川は尋 ねた。 「乙骨先生の講演、これは動きません。それから高瀬 先生も出てくださるとおっしゃいました。」こう布施 は答える。 「高瀬は君、あんまり澄ましてるからね、ちっと引っ ぱり出さんけりゃいかんよ。」と言って、相川は原の ほうを見て、「君も引っ越して来たら、ぜひわれわれ の会のために尽力してくれたまえ。」 「どうぞ、原先生にもお話を一つ。」と布施は敬意を 表わして言った。 「ダメです。」と原は|謙遜《けんそん》な調子で言って、「今、相川 君にも話したんですが、ぽくなぞはもうチョンまげの ほうでー」 「そんなことはありません。」と布施は言葉をやわら げて、さもなつかしそうに、「実際、わたしは原先生 のものを愛読しましたよ。永田先生にもよくその話を しましたッけ。」 「まあ、わたしたちは先生がたが産んでくだすった子 供なんです。」と青木は付けたした。  めがねごしにこちらをながめる青木の目つきの若々 しざ、昔をなつかしがる布施のおもてに現われた真実 1いずれも原の身にとっては追懐の種であった。相 川や、乙骨や、高瀬や、それから永田なぞと、よく行 ったり来たりした時代は、もう遠くうしろになったよ うな気がする。 「相川先生。」と青木はだしぬけに新しいことを持ち 出すのが癖で、「こないだからわたしは並木というこ とを考えていますがー」 「並木?」と相川は不思議そうに。 「あのお|堀端《ほりぱた》なぞに柳の木が並んでるのを見ますと、 こう同じような高さにそろえられて、枝も何も切られ てしまって、各自の特色を出すこともできないでいる ところはーちょうど今の社会に出て働く人のようで はありますまいか。個人が特色を出したくても、社会 が出ざせない。みんな同じように切られて、|風情《ふぜい》も何 もない人間になってしまう。実はけさ散歩に出てそう 思いました、あゝわれわれも今にこの並木のようにな るのかなあ、と。」 「むう、なるほどーむう、おもしろい。」と相川は 涙の出るほど笑った。「そういう青木君はだいぶ特色 を発揮したね。はゝゝゝゝ。」  原も、布施も、いっしょになって笑った。 「してみると、ぽくなぞは今その並木になりつつある ほうだ。」と言って、相川は笑いの涙を押しぬぐった。 「いえ。」と青木は頭をかきながら、「先生のことを言 ったわけではないんです。先生は並木にはなれないほ うです。」 「そうかねえーぽくは並木になれないほうだねえ。」 「だから時々会社をお休みになったり、|怠《なま》けたりなさ るんでしょう。」  また一同は大笑いになった。  まもなく四人はこの茶店を出た。細い幹の松が植え てある|芝生《しぱふ》の間の小道のところで、相川、原の二人は 書生連に別れて、池に添うて右のほうへ曲がった。原 が振り返った時は、もう青木も布施も見えなかった。  原は嘆息して、 「今の若い連中はなかなかおもしろいことを考えてる ねえ。」 「そりゃあ、君、進んでいるさ。」と相川は歩きなが ら新しい巻きたばこに火をつけた。「われわれの若い 時とは違うさ。」 「そうだろうなあ。」 「それに、あの二人なぞは立派に働ける人たちだよI iどうして、君、よく物がわかってらあね。」 「どうもそうらしい。われわれの若い時代には考えな いようなことを、今の若い人はみんな考えてるよう. だ。」  こういう言葉を取りかわして歩いて行くうちに、二 人は池に臨んだ|石垣《いしがき》の上へ出て来た。木陰に置き並べ た共同腰掛けには、昼寝の夢をむさぽっている人々が ある、青ざめて死んだような顔つきの女もいる。貧し い職人ていの男もいる、中にはぽんやりとながめ入っ てどうしてその日の夕飯にありつこうと案じ煩うよう な|落魂《らくはく》した人間もいた。木と木との間には、花園のな がめがおもしろくひらけて、流行を追う人々の|洋傘《こうもり》な ぞが動揺する日の光の中に輝くありさまも見える。  二人はこんもりとした|樺《けやき》の下を選んだ。そこには人 もいなかった。 「あゝ、きょうは疲れた。」  と相川はがっかりしたように腰をかける。原は立っ てながめいりながら、 「相川君、なぜこう世の中は急に変ってきたものだろ う。この二三年、特に激しい変化が起ったのかねえ。 それとも、十年前だって同じように変っていたのが、 ただわれわれにわからなかったのかねえ。」 「そうさなあ。」と相川は胸を突き出して、「この二三 年の変化は特に急激なんだろう。こういう世の中にな ってきたんだ。」 「戦争の影響かしら。」 「無論それもある。それから君、電車が出来て交通は 激しくなる1市区改正のためにどしどし町は変るl l東京は今、革命の最中だ。」 「|海老茶《えぴちや》も勢力になったね。」と原は思い出したよう に。 「うん、|海老茶《えぴちや》か。」と相川は考えぶかい目つきをし て言った。 「女も変った。」と原は力を入れて、「|田舎《いなか》から出て来 て見ると、女の風俗の変ったのには驚いてしまう。こ う世の中がぜいたくになっては、つまりどうなるかと 思うようだ。実に、はでな、大胆な風俗だ。見たま え、通る人はてんでに思い思いの風をしてる。」 「とにかく、進んできたんだね。着物の色からして、 昔はわりあいに単純なもので満足した。今は子供の着 るものですら、黄とか赤とか言わないで、多く間色を 用いるようになった。それだけ進歩してきたんだろう ねえ。」 「しかし、相川君、内部も同じように進んでいるんだ ろうか。」 「無論さ。」 「そうかなあーどうも今の若い人のこころもちがぽ くなぞにはわからなくなった。」 「原君、原君、まだまだわれわれの時代だと思ってる うちに、いつのまにか新しい時代が来ているんだね え。」  長いこと二人は言葉をかわさないで、|惰然《しよラぜん》とながめ 入っていた。 「あゝ、ぽくは昔のことを思い出した。」  と相川は身を起した。急に彼は十年、十五年前の心 に返った。今さらのように友だちの顔をながめると、 二度とは来ない青年時代のそのなつかしいに記いをか ぐようなここちがした。「お互に年をとったねえ」な どと言われて、腹の立つように思った彼は、相あわれ むという心に変ったのである。 「南君はどうしたかねえ。」と原は思い出したように、 同窓の友だちのことを尋ねる。 「むゝ、南か。」と相川は熱心なひとみを原の|面《おもて》に注 いだ。「南も衰えたよ。|相馬《そうま》は死ぬし、三島も|亡《な》くな ったし、あの小林もアメリカの|客舎《やどや》で倒れてしまっ た。もう君、同級生の中で三人も死んでる。いつ会っ てみても昔と同じこころもちのするのは、君と、高瀬 だ。」 「高瀬君には近ごろお会いですか。」 「うん、時々会う。」 「どうぞ、高瀬君にもよろしく。」と原は急に改まっ たようにあいさつした。 「あゝ。」と相川は受けて、「考えてみると、われわれ 二人を文学という方面へ引きつけたのはあの男だね。 うん、とにかく、火をつけたのはヤツだ。それから三 人はずっと同じような道を歩いて来た。なんといって も、三人は兄弟サーそのくせ、お互にわかってやし ないんだがね。」 「はゝゝゝゝ。」と原は|相好《そうごう》をくずして笑った。「わか らないから友だちになってるのかもしれない。」 「はゝゝゝゝ。」と相川もそりかえって笑って、「しか し、高瀬も変ったよ。」 「お互に変るサ。」 「そうだ、お互に変ってきた。ただ変らないのは友情 だ。」と相川は感慨に堪えないというふうで、 「原君-君とぽくと友だちになったのは、偶然だろ うかねえ。」 「偶然?」原の目は輝いた。「偶然じゃないさ。そん なら見たまえ、ほかに同級生が|幾人《いくたリ》かあっても、そう 親しくならない人もあるじゃないか。」 「してみると、どこか性質に同じようなところがある のかなあ。」 「そりゃあ、君、あるサ。」 「共通な点がねえー」 「無論あるよ。」 「あゝ、君とぽくとは友だちだI離れることのでき ない友だちだ。」  二人はまた涙の出るほど心の底から笑って、いっし ょに並んで公園の門のほうへ降りた。  やがて別れる時が来た。しばらく二人は門外の石橋 のところにたたずみながら、混雑した往来のありさま をながめた。古い都が倒れかかって、まだそこここに 徳川時代からの遺物も散在しているところはーちょ うど、さかんに燃えている火と、煙と、人とに満たさ れたその火事場のすさまじい雑踏を思い起させる。新 東京1これから建設されようとする大都会1それ 7はおのずからこの打破と、崩壊と、驚くべき変遷との 間にひらけてゆくように見えた。 「あゝ出て来てよかった。」  と原は心に繰り返したのである。再会を約して彼は 築地行きの電車に乗った。  友だちに別れると、にわかに相川は気の衰えを感じ た。痛ましい|覚醒《かくせい》の思いを|抱《いだ》きながら、|内濠《うちぼり》に添うて 平らな道路を帰って行った。友だちの計画しているこ とを空想のように笑った彼は、あべこべにその友だち のために、深く、深く、自分の抱負を傷つけられたよ うな気もした。実際、相川の計画していることはたく さんある。学校を新たに興そうとも思っている。新聞 をやってみようとも思っている。出版事業のことも考 えている。すくなくも|社会《よのなか》のために尽くそうという熱 い|烈《はげ》しい|希望《のぞみ》を|抱《いだ》いている。しかしながら、彼は一つ も手を着けていなかった。  和田倉橋から一つ橋のほうへ、|濠《ほり》を左に見ながら歩 いて行くと、日"ころ相川が「腰弁街道」と名をつけた ところへ出た。方々の役所もひけるころと見えて、ふ ろしき包みを小わきにかかえた連中が、柳の並木の陰 をぞろぞろ通る。なんらの遠いおもんぱかりもなく、 なんらの|準備《したく》もなく、ただただ身の行く末を思い煩う よヶなありさまをして、今にも地に沈むかと疑われる ばかりの不規則な力のない歩みを運びながら、あるい は洋服で腕組みしたり、あるいは頭を|垂《た》れたり、ある いは|薄荷《はつか》パイプをくわえたりして、熱い砂を踏んで行 く人の群れをながめると、あたかも長い戦争に疲れて しまって、肩で息をしながら歩いて行く兵卒を見るよ うな気がする。「あゝ、並木だ。」と相川は大学生の青 木が言ったことを胸に浮かべた。原も、高瀬も、それ からまた自分も、すべてこの|濠端《ほりばた》の並木のように、 片輪の人になって行くようなここちがしたのである。  暗い、悲しい|思想《かんがえ》が、憤慨の情に交じって、相川の 胸を突くばかりにわきあがった。彼は敗兵を|叱吃《しつた》する 若い士官のように、ほこりだらけになった腰弁の群れ をながめながら、 「もっと頭をあげて歩け。」 こう言った。 冷たい涙は彼の|頬《ほお》を伝わって流れた。