群れ 島崎藤村  花火が上がる。  川開きの夜のありさまを見ようとして、群集は|潮《うしお》の 、ことくに押し寄せて来ている。両国橋のたもとは言う に及ばず、|広小路《ひろこうじ》、|柳橋《やなぎばし》、|浜町河岸《はまらようがし》へかけて、空地と いう空地は拍手の音や狂喜するような叫び声で満たさ れている。日ごろ町の左右に|眼《まなこ》を配って、用事、買 物、もしくは納涼のために、いそいそと出歩く人たち ですら、もう恥もなく、外聞も忘れ、ただただ連れに 離れまいとして、のぼせるような息づかいをした。お まけに、蒸し暑い夏の夜の空気は人々の心を酔うばか りにさせた。ほとんど平素の習俗はここに来て忘れら れたかのようにも見える。みんなどうかした。男や女 は互に手を引き合って歩いた。  わたしが二人の|姪《めい》を連れて両国橋近くへ行ったの は、九時過ぎであった。その日は親類一同そろって昼 間のうちに写真を|撮《ど》ったし、夕飯には表をあけひろげ て、涼しい風の来る古すだれのかげで、いっしょに冷 や麦を取り寄せて、食った。|河岸《かし》の種菓子屋から使い があって、家の者はかわるがわる見に出かけた。信州 出の|子守女《こもりおんな》なぞは時々目を丸くして帰って来て、「ま あ、東京というところは、男と女が手を引いて歩いて る、」こう言って息をはずませていた。|木所《ほんじよ》の大将は また大将で、|家《うち》の表の涼み台に腰をかけて、|扇子《せんす》をパ チパチ言わせながら、「世が世なら、|伝馬《てんま》の一そうも 買い切って押し出すのにナァ、」と深い嘆声を発して いた。  わたしどもは、肩と肩とすれあうばかりの群集の中 を通り抜けて、花火のよく見える所へ出た。ちょうど そこは電信柱のわきで、片すみには大ぜい動かない人 がいる、一方には押しつ押されつする人たちが暗い波 のように入り乱れている。手を引き合った|男女《おとこおんな》は、 幾組も、幾組も、わたしどもの立って見ている前を通 り過ぎた。 「|叔父《おじ》さん、御覧なさいよ。」  と年上の|姪《めい》は笑いながら、無遠慮な夫婦を指さして 見せた。親子と言ってもよさそうな人たちは相携えて 歩いて行った。 「あらまた来てよーハイカラねえ。」  と言って、年上の姪はえりをかきあわせた。年下の 姪はまだ|田舎《いなか》から出て来たばかりで、都会の風俗をさ げすむような目つきをして、なんとなく見るに堪えな いという様子をした。  ポンポン花火が上がる。十年前には見られなかった .薄紫の煙が夏の夜の空に映る。混雑した群集の中で、 わたしの心は遠く少年の昔へ行った。|亡《な》くなった|叔母《おば》 がいっしょにこの花火を見に来た時、わたしの手を握 って放さなかったことは、長い間の疑問として残って いた。それはわたしが少年の時のことであった。その 晩1ちょうどわたしも叔母の年ごろになってーは じめてわたしはあの時の叔母の心持を想像することが できた。