無言の人 島崎藤村 |麹町《こうじまち》の|見附《みつけ》内にある教会堂では、質素な弔いの儀式 がすんだ。オルガンの前に腰かけていた婦人は賛美歌 の譜を閉じて、元の席にもどった。|親戚《しんせき》一同の代りと して立った人が、会葬者のほうへ向いて、ていねいに あいさつし、なお墓地は青山であるけれども、遠方の ことでもあり、見送りはお断わりする、それが|親戚《しんせき》一 同よりの願いであると述べた。  黒い布を掛け、二つの花輪を飾った寝棺はアルター の下に置いてあった。その中には肺病で|亡《な》くなったヤ ソ信徒の|遺骸《いがい》が納めてあった。やがて寝棺は牧師や友 人などに前後左右を持ちささえられて、中央の腰掛|椅 子《いす》の間を通り、壁に添うて会堂の出入口のほうへ運ば れて行った。  この寝棺に手を掛けて行った|二人《ふたり》の男が引き返して くると、灰色な壁のところには|一人《ひとり》の仲間も立ってい た。この三人は亡くなった信徒の旧友で、いっしょに 同じ学校を卒業したのは二十一年も前にあたった。 「われわれの仲間はこれだけかい。」  と一人が言って、同窓の友だちを捜すような目つき をした。 「だれかまだ見えそうなものだ。」  と他の一人も言った。  会葬のために集まった人たちは思い思いに散じつつ あった。しばらく三人の旧友は会堂の内に残って、帰 り行く信徒の群れなどをながめて立っていた。二階さ じきふうに出来た柱の下のほうから来て、三人の立っ ているところに近づいたのは、親戚の代りにあいさつ を述べた人だ。以前の学校の幹事さんだ。 「|遠藤《えんどう》もかわいそうなことをしました。」  幹事さんは三人にあいさつしたあとで、亡くなった 信徒のことを言った。 「遠藤君は子供はいくたりあったんですか。」と一人 が尋ねた。 「四人。」  と幹事ざんは言ってみせて、「あとがすこし困るテ」 という言葉を残しながら、三人に別れて行った。 「ちょっと、牧師さんにあいさつしてくるか。」  と一人は言い出した。  牧師はオルガンの置いてあるほうに手をこまぬいて 腰かけていた。亡くなった人のためには、ごく若い学 生時代に教えを説いて聞かせるから、今また弔いの説 教までしてめんどうをみた牧師だ。旧友らは連れ立っ てあいさつに行った。 「先生、わたしの顔がおわかりになりますか。」 「ええ、わかります。」  と牧師も笑ってあいさつした。  三人が帰りかけたころは、会葬者はたいてい出て行 ってしまった。人気の少ない会堂の建物だけ残った。 正面にあるとがったアーチ風の飾り、高い壁、質素な アルター、すべてまだわりあいに新しく見えてここち のいいペンキの色で塗った柱と柱の間にはたくさん腰 掛|椅子《いす》が並べてある。模倣の様式で成り立っているよ うな建物の中には左右の壁に|瀧酒《しようしや》なはしごなどを渡し て、新意を加味したところもあった。窓々にさす五月 の光線はアルターの横にある大きな花びんの花や葉に 映って、高い天井の下を静かに見せた。一方の出入口 に近い壁のわきには、信徒らしい二人の女が並んで立 っていた。ここは亡くなった遠藤が生前来てはよく腰 かけたところだ。  はや棺も墓地のほうへかつがれて行ったあとだ。会 堂の前には車に乗ろうとする女連れが残っていた。三 人はいっしょに石段を降りた。  青山まで行こうというものもあったが、そこで"こめ んこうむって、三人とも|見附《みつけ》をさして歩いた。久しぶ りで一人の仲間の|家《うち》のほうへ誘われて行った。 「何年ぶりで会堂へ来てみたか……やはり会堂の内は 静かでいいネ。」 「ぽくもまた来ようかナ。」 「あの教会は、ぽくがもと籍を置いたとこだ。」 「君はそうだっけネ。」 「とにかく、静かな場所の一つだよ……人がいない と、なおいい……」  話し話し行くうちに、三人は古い見附跡に近い空地 のところへ出た。風の多いほこりの立つ日で、黄ばん だ煙がうずを巻いてやってくる。そのたびに三人は背 中をそむけて、ほこりの通り過ぎるのを待った。  蒸し蒸しと熱い日あたりは三人の目にあった。牧師 がアルターの上で読んだ遠藤の略伝-四十五年の平 凡な人の一生ー互にその旧友のことを思いながら、 城下らしい地勢の残ったところについて、なだらかな 坂の道を静かに上がって行った。 「さっきの説教も惜しいことに、しまいのほうへ行っ てすこし誇張した気味だネ。」 「でも、まだあの牧師だから、あれだけにいやみがな く聞かせるんだよ。へたな牧師ときてみたまえIIあ なたがたも教えを信じておかないと、こうなります よ。そういう調子だ。」 「牧師もああなれば立派なものだ。感心した。やはり 年を取らんけりゃだめだネ。」 「きょうは、あまり説教などを聞きたくなかった。も っとぼくはいたむような言葉でも聞きたかった……|家《うち》 からやって来る途中では、しきりに遠藤君の死んだこ とを考えたっけが、会堂へはいってからかえってそん な心が起らなかった……」 「いったい、あの|祈薦《きとう》というものは変なものだネ。」 「しかし会堂へ行って一番聞いてみたいのは、|祈薦《きとう》だ よ……あれで、教会の内がもっと木かげのようなすず しい気分のするところだったらよかろうと思うネ。」 「そうあるべき性質のものだろう。」  同じ会堂でも、簡素を重んずる新教のほうと、人の 官能に訴える部分の多い、色彩とか音楽とか、香料と かに富んだ旧教のほうとの比較などをして、それを仏 教のお寺にあてはめてみたり、中世の教会を引き合い に出したりして、思い思いのことを話して行くうち に、三人は長い坂の道をよほど上った。 「さっき、ぼくが|家《うち》から出かけて来ると、ちょうどお |濠端《ほりばた》のところでみんなにでっくわした。ぼくは棺につ いて会堂までやって行った。」 「アァ、そう……」 「おもしろい話がある。いったい、君とぽくとはどつ ちが宗教に返るポッシビリチーがあるだろう、とK君 が聞くからネー遠藤のところでいっしょになった時 の話サーそりゃぼくのほうがあります、と言った サ。」 「さあねえ……」 「するとK君が、『そうですか、わたしどもから見る とちょうど反対に考えられます』って……なぜと言う に、君はヤソ教を悪く言うが、ぽくはいいとも悪いと も言わない……悪く言うだけ、まだ君のほうには脈が あるかと思うとサ……」  いつのまにか土手の向こうに青葉まじりの町々を望 むところへ出た。 「われわれのクラスでは、もういくたり亡くなって る?」 「二十人の卒業生の中が、四人欠けていたんだろう。 遠藤君を入れて五人目だ。」 「まだだれか死んでやしないか。もっといないような 気がするぜ。」 「この次はだれの番だろう。」 「さあ……」  しばらく、三人は黙って歩いた。 「この三人の中じゃ、一番先へぽくが行きそうだ。」 「いやぼくのほうが怪しい。」 「ナニ、君はだいじょうぶだよ。ぼくこそ一番先かも しれない。」 「ところがネ、ぼくはマイるものなら、この二一年に マイってしまいそうな気がする……無事にここのとこ ろを通り越せば、ずっと長く生きられるかもしれない |力《び 》:.…」  また煙のような風ほこりが恐ろしくやって来た。三 人は口の中がジャリジャリするほど、砂を浴びた。  この人たちはある見附跡を越して、いっそうほこり の舞い揚がる|濠端《ほりぱた》へ出た。そこまで行くと、仲間の一 人の家に近かった。 「葬式の帰りがけに押しかけるなんて。」 「いや、どうしてーこうしてそろって来てもらうこ とは、めったにない。」  こんなことを言い合って、やがて三人はながめのあ る二階の座敷にくつろいだ。今まで歩いて来た土手の つづきは反対にそこから望むことができる。遠見の草 は青々としてここちがいい。 「遠勝君などといっしょに学校を出た時分1あのこ ろは、何かおもしろそうなことが先のほうに待ってる ような気がしたよ……こうしているのが、これが君、 人生かねえ……」 「そうサ、これが人生だ。ぼくはそう思うと変な気の することがある。」 「もうすこしどうかいうことはないものかナァ」 「そんなにおもしろいことがあると思うのが、間違い だよ。」 「ツマラない。」 「ツマラないと言えば、だれだって君、ツマラない さ。」 「ほんとにツマラない。どうしてもこのままじゃ、ぼ くには死に切れない。」 「ラブでも始めるサ。」 「何かおもしろい話でもしようじゃないか。」  と言って、それから一人が次のような話を始めた。  ある海岸のお寺のことだ。長いことそこの部屋を借 りて数学を勉強していた男があった。お寺には、|和尚《おしよう》 さんに、大黒さんに、それから娘が二人もあった。み んな|質朴《しつぼく》な、いい人たちだから長くいるうちに男はす っかり懇意になって、お寺のものも同様に思われるほ ど親しくなった。  男も質朴な、いい人だった。毎年きまりで数学の試 験を受けに都会のほうへ出かけて、帰って来てはまた お寺にこもって勉強した。早いもので、和尚さんの娘 は二人とも相応な年"ころになるし、ねえさんのほうな どはウッカリするともうお嫁に行きそこなうくらいの 年になった。ある夏のこと、男は例のように試験を受 けに出かけたが、不思議にも口のきけない人になって 帰って来た。  どうしたというんだろう。と和尚さん初めお寺の人 たちはあきれた。和尚さんは考えた。いずれ数学にで も凝りすぎてこんなことになったに相違ない。そこ で、紙と筆を渡して、男に書かせてみると、まったく 口のきけないということがわかった。姉娘などは悲し がって、男の勉強している部屋へ行ってみるが、言葉 というものは|一言《ひどこど》も聞かれなかった。  この無言な人は時々海岸のほうへ走って行って、遠 くお寺を離れて、だれも知った人のいない砂山へ駆け 上がり、松林の間へでも出ると、そこで思うさま大き な声を出して叫んだ。男は砂山を降りて、また岸づた いに口のきけない人になってお寺のほうへもどった。  ある日も、男は沈黙の苦しみに堪えられなくなっ た。お寺のある漁村から一里ばかり離れて、同じ海岸 にかなりにぎやかな港町がある。そこにおもしろい、 隠れた|田舎《いなか》医者があるーそんな|田舎《いなか》には過ぎた人だ と言われるくらい1書生の好きな、よく若いものの 世話をするような人物だから、自然と男もその医者に 知られて、有望な青年と思われていた。この|田舎《いなか》医者 はなんでもやるような人だった。鶏も飼う、野菜も作 る、菊も植える、学問も相応にあって、聞けば和算の ことなども知っている。そこへ男がたずねて行った。 ちょうど医者は病家回りに出かけた|留守《るす》だったから、 細君や子供を相手にして、くたびれるほどいろいろと しゃべり続けて帰った。  お寺の大黒さんが港町の医者の|家《うち》へ寄ったことがあ った。男のうわさが出た。医者の細君はなんにも知ら ないから、男が来て、いろいろな話をして行ったこと を告げた。口のきけない人だとばかり思っていた、と 大黒さんは非常に立腹して、さっそくお寺へ帰り、そ のことを和尚さんにも娘たちにも告げた。  とうとう、男はお寺にもいられないようになった。 港町の医者のところへやって行った。なぜ、そんなト ボケたまねをした、と医者が聞いたら、男も実に正直 な人で、書生らしく頭をかいた。この男の答は、堅 い、質朴な性質をよく現わした。和尚さん初め大黒さ んでも、姉娘でも、お寺の人たちの目は物を言って因 ったから…:  亡くなった旧友のうわさは、こんな話のあとで、ま た三人の間に引き出されて行った。 「何か遠藤君の置いて行ったような話はないかねえ。」 「そうさ……別にこれといって、置いて行ったような 話もなかったナ・…:」