|河岸《かし》の家 島崎藤村  広田の|叔父《おじ》の家では、朝早く叔父が起きて|釜《かま》の下を たきつけた。つづいて、おばあさんも起きて、勝手で かいがいしく働いた。そこへ|鶴吉《つるきち》が|朝飯前《あさはんまえ》にたずねて 来た。鶴吉は少年のころから広田の家に書生をしてい て、ほとんど家族のもの同様に思われた男である。 「お早う"こざいます。」こう鶴吉は格子戸の外に立っ て声をかけた。 「どなた?」とおばあさんは勝手口のほうから顔を出 して言った。「鶴さんかーたいそうお早う"こざいま すねえ。」  鶴吉と聞いて、|叔父《おじ》はわが子がたずねて来たかのよ うに思った。その時おばあさんは奥のほうへ行って 「|寿《ひさし》、にいさんがいらしッたよ、」とそこに寝ているた った一人の孫を呼び起した。  しばらく鶴吉は昔の恩人の家の前に立っていたが、 やがて奥のほうでふとんをたたむ音などがするので、 すぐにはいろうともしなかった。彼は格子戸だけあけ て、自分の夏帽子を上がりがまちのところに置いて、 庭のすみにある草ぼうきを取り出した。そして、広田 の家がまだここへ移らない前、樹木の多い邸内を朝に 晩にそうじした時のように、この日本|橋元柳町《もとやなぎちよう》にあ る|住居《すまい》のまわりを掃き始めた。 「鶴さん、そうしておいてください。今、|寿《ひさし》に掃かせ ますから。」とまたおばあさんが勝手ロのところへ顔 を出して言った。  鶴吉はおばあさんからバケツを借りて、|神田川《かんだがわ》の水 をくみに行った。家の前は、すぐ|河岸《かし》で、|石垣《いしがき》に添う て段々を降りられるようになっている。そこは浅草橋 と柳橋との間にはさまれた位置にあって、川口に|碇泊《ていはく》 する多くの荷舟からは|朝餐《あさげ》の煙の登るのも見えた。白 壁、柳並木などの見える対岸の石垣の下あたりには、 動いて行く舟もある。鶴吉はバケツに水を満たした。 それを叔父の家のほうへ運んだ。それから叔父や寿が |部屋《へや》をそうじしたり片づけたりする間に、その川の水 を家の外へまいた。 「にいさん、すみませんーさあどうぞおはいりなす ってください。」  こう寿が上がりはなのところに立って呼んだ。  今でこそ広田の家は、養子にあたる叔父と、おばあ さんと、寿と、こう三人でツマしく暮らしているが、 以前には手広くやったもので、店も持ち、奉公人も大 ぜい使い、いろいろな事業にも関係して、芝居にまで 金を回していた。叔父はまた書生を愛したから、ひと ころは叔父の家の玄関へ来てころがっていた同郷の青 年が三四人もあった。広田の叔父ー1この言葉は、叔 父を知っているものの間に、なつかしい通称として用 いられている。  叔父は|河岸《かし》へ出て朝日を拝んで、それから家へ引き 返して来た。|亡《な》くなった|叔母《おぱ》1おばあさんの実の娘 -十幾年病床に横たわり続けて、しかもその間で叔 父の事業をよく助けた気性まさりの人は、今でも仏壇 の|位牌《いはい》のかげから、夫の精神を励ましつつある。叔父 はその位牌をも拝んで、柔らかな髪をなでて→そして たずねて来た昔の書生を迎えた。 「|寿《ひさし》、にいさんにお茶をあげとくれ。」とおばあさん もそこへ来て言った。 「お宅でもお変りはありませんかね。」と叔父は巻き たばこをふかしながら、「毎度寿があがっておじゃま します。この節は学校がないもんだから、寿もよく寝 坊するよ。」 「ア、、もうお休みが来ましたね。」と鶴吉は茶を飲 みながら答える。おばあさんはじっとしていられない というふうで、勝手のほうへ見に行くやら、またもど って来て客に朝茶をすすめるやらして、「鶴さん、よ くこんなに早く器出かけでしたね……うちでもこの節 は叔父ざんが一番早い……おかげでわたしも助かりま すよ……どうかすると、わたしや|寿《ひさし》が寝ている間に、 おみおつけがもう出来てることがある。」 「洋行して来ると、早く起きるなと言われたって、起 きずにはおられない。規律でもって、それが毎日の習 慣になってしまうからネ。」叔父はこんなことを言い 出して快活らしく笑った。  叔父が「洋行」とは、過ぐる三年ばかりの悲惨な|生 涯《しようがい》をさして言ったのである。武士らしい気質を持つ叔 父はむかしの主人を救おうと思うばかりに、あやまっ て獄中の人となったので。もっとも叔父の正直と主人 思いとは、最後に身の明かりを立てたが、いよいよ無 罪の人として未決監を出るころは、家のありさまがす っかり変っていた1店も焼けた1叔母もこの世の 人ではなかった。事業家の叔父は、獄中で描いたこと を夢みつつ、この|河岸《かし》の家へ帰って来たのである。 「鶴さん、こんなものはおきらいですか。」とおばあ さんは塩づけにした青梅を|皿《さら》に入れて出した。「御覧 な、寿1お前は毎晩おそくまで起きてるもんだか ら、それでこう朝起きられないんだよ。わたしがいく らお休みお休みと言っても、十二時が一時を打って も、まだ本ばかり読んでるもんだから・.….」 「またおばあさんの|十八番《おはこ》が始まった。」と寿がうる さそうに言った。 「若い時はだれしも眠たいものでサ。」と叔父はわが 子をかばうように言う。 「それだもの。|正夫《まさと》(叔父の名)はそうアマくするから いけない。なんぞというと、『もうすこし寝かしてお くがいい』1なんて。」こう言って、おばあさんは かわいい孫ばかりでなく、獄中から出て来た叔父まで も励ます気で、「わたしなら、ふとんでもなんでもヒ ンめくってくれる。」 「おばあさんにあっちゃかないません。」と|寿《ひさし》は鶴吉 のほうを見て笑った。  おばあさんも笑い出した。そして、勝手のほうから チャブ台を持ち出して、|朝飯《あさはん》のしたくを始めた。寿は それを手伝った。 「鶴さん、なんにもありませんが、あなたの好きなお なすがよくつかりましたから、一ぜん召し上がってく ださい。」こうおばあさんが言った。 「お気の毒ですナア。きょうは暑くならないうちにと 思って、起きぬけに出て来たんです。これじゃあ"こち そうになりに上がったようなものですね。」と鶴吉は 答えた。 「たまにはようござんしょう。」と寿も言葉を添える。 「さあ、やっとくれ。」叔父はチャブ台に向かいなが ら言った。 「では、遠慮なしにいただきます。」と鶴吉も叔父と 差し向かいにすわって、はしを取った。「実はわたし の|家《うち》でも叔父さんたちのほうへ引っ越して来ようかと 思うんですが、どうでしょう。けさ歩いてみますと、 だいぶこのへんにも貸し家の札が出てるようですね。」 「不景気、不景気で。」とおばあさんは|給仕《きゆうじ》しながら 言った。 「わたしは別になんとも思っていないんですが、」と 鶴吉は言葉を続けて、「|家《うち》のやつが方角を見てもら いましたら、今の|住居《すまい》がごくいけない、ぜひ引っ越 せ、それにはこっちのほうがよかろうなんてlIそれ から今の所にはいたくないと言い出したんです。バカ な! 災が来るものならどこにいたって来る。子供が 死ぬと、そんな御幣かつぎになるものですかナア。も つとも今の所には死んだ子供の友だちが大ぜいいます から、そんな娘を見るたびに、わたしまで思い出す… …いっそ今の所を離れたほうがいい……こう思って、 急にこっちのほうへ引っ越して来る気になったんです カ…・:《やさリ》|」 「お前の|家《うち》でそう思うのは、無理もない。」と叔父が 言った。 「ア、、そうとも。」と器ばあさんも引き取って、「み んなガッカリしやしないか、と言って|正夫《まさと》ともよくお うわさをしています。」 「にいさん、早く引っ越していらっしゃいよ。」と寿 も言った。  三人が食事を済ましたあと、おばあさんはすみのほ うヘチャブ台を寄せた。 「わたしもここでいただいちまおうか1鶴さん、ご めんなさい」とはし箱を鳴らしながらあいさつした。 おばあざんはひとりで朝飯をやり始めた。 「叔父さん、すこしやせたようですね。」と鶴吉は叔 父の顔をながめながら、「ひげがなくなったせいでし ょうか……あれから別に腹の工合が悪かありませんか ……よっぽど注意しないといけませんぜ。」 「えゝ。」と叔父はそりたての丸いあ、こをなでてみて 言った。「どうかすると、やられると言うからネー |娑婆《しやば》へ出て、急に物を食ったりすると。」 「|寿《ひさし》、にいさんにお茶をついであげとくれよ。」とお ばあさんは食いながら言った。  その時叔父は思い付いたように、「おばあさん、ど こか鶴に|適《む》くようないい|家《うち》はありますまいか。どうで しょう、こないだ|小里《こさと》が来た時に話していた家は。」 「そうサ。」とおばあさんはロをモガモガさせている。 「|駒形《こまがた》だがネ。」と叔父は鶴吉のほうを見て、「わりあ いにかっこうの家らしい。造作はすこし高いそうだ が、それがもういくらでもいいから、だれか借りてく れる人はあるまいかッて、|朋輩《ほうばい》の芸者が小里のところ へ頼みに来たそうだ。清元の師匠とかが|鍵《かぎ》を預かって る。小里は詳しいから、もしなんならこれから寄って 聞いてみてはー」  小里というは叔父の家に出はいりした女髪結いの娘 で、ある商人に引かされて、一時昔の叔父の家近くに 住んでいたことを、鶴吉も記憶している。叔母が病床 に横たわっていたころは、よく来て、叔父の着…物をた たんだことなどもあった。 「まあ、行って見ていらッしゃいナ。」とおばあさん は食事を終ったあとで言った。 「にいさんがこちらへお引っ越しになるようでした ら、またお手伝いに参ります。」こう寿も言った。 「わたしもこれからちょいちょいおじゃまにあがりま すサ。それに、親類へも近くなるし、古くから知った 人はあるし、都合はようござんすよ。いよいよわたし も住み慣れた川の岸へ移って参りますかナァ。」  こんな話をして、やがて鶴吉は礼を述べて立ち上が った。ともかくも彼は小里の家へ寄って尋ねてみるこ とにして、第六天のほうをさして出て行った。  |浜町河岸《はまちようがし》にある泳ぎのけいこ場も開かれるころであ った。暑中休暇になってから、|寿《ひさし》は毎日かよっている ので、その日も水着と手ぬぐいを携えて出かける。お ばあさんは、六十いくつになってもひとりで勝手をす るほどの人だから、流しもとへ出て養子や孫の清物を |洗濯《せんたく》する。こうなると叔父も何かせずにはおられなか った。叔父が未決監につながれているころは、しょう ことなしにこよりでたばこ入れなどを作り試みなが ら、種々な空想をし"こととしたもので、もし|娑婆《しやば》へ出 たら、あれもしよう、これもしようと、どんなにとら われの|生涯《しようがい》から脱し得た時のことを想像したろう。叔 父は、今、その娑婆におる。不思議にも朝飯の済むこ ろからーちょうどこれからひとが忙しくなろうとい う時分には、叔父はもう退屈してしまう。 そして、 差し入れの書物でも読むように、その日の新聞を読み 始める。それが毎朝叔父の癖のようになっている。  土用にはいって、鶴吉は新たに引き移った|住居《すまい》のほ うからたずねて来た。例の|駒形《こまがた》からこの|河岸《かし》までは十 町ほどの距離にある。その日は叔父も、寿も外へ出 て、おばあさんひとり|留守《るす》をしていた。 「どうも毎日お暑いことで"こざいます。」とおばあさ んは麻の夏ぶとんを出してすすめながら言った。「あ なたでもお引き移りになりましたそうでーその節は |寿《ひさし》が出まして、"こちそうざまで"こざいました。このあ いだはまた、おせんざん(鶴吉の細君)がお出かけくだ すって、ありがとう……毎度いただき物をしまして ...:」  こうおばあさんがあいさつするたびに、鶴吉は簡単 な答をして、おじぎですました。 「鶴さん、今度のお宅はたいそう見晴らしがよいそう ですね。」 「えゝ川はよく見えます。そのかわりなめくじの多い 所で、これには驚きましたよ。」と言って、鶴吉はふ ろしき包みを取り出して、「おばあさん、|醸製《くんせい》の|鮭《さけ》を もらいましたから、すこし持って来ました。」 「へえ、何かまた下さるんですか。」とおばあさんは そのふろしき包みをほどいて見ながら、「まあお珍し い物をありがとう。」 「|梅雨《つゆ》があいたら食べろと言われて、今まで正直に掛 けておいたんです。堅う"こざんすよ。おばあさんの口 にはあわないかもしれませんがー」 「何よりな物を。みんな喜びましょう。」  こう言って、そり落としたまゆのあたりを動かし て、それからおばあさんは古くからある茶道具をそこ へ取り出した。 「叔父さんは?」と鶴吉が聞いた。 「ちょっと用たしにーきょうはそれでもしのぎいい ほうですから、ほうぼう回って来るなんて、さっき出 かけましたよ。」 「寿さんは相変らず泳ぎのほうですか……寿さんも色 が黒くなりましたね。」 「真っ黒!」 「じょうぶそうでよう"こざんすサ。」 「泳ぎに行ってからだの白いものは幅がきかないー そんなことを言って毎日干してます。そのくせ、|家《うち》へ 帰って来ると、『痛い、痛い』って、寝ころんでばか りいる。あれで一皮むけるとよう、こざんすが。」 「わたしも泳ぎでは経験がある。」と鶴吉は思い出し たように笑った。 「それにしても、寿さんはよくあんなにじょうぶにな ったものですナア。わたしが抱いたり、おぶったりし たころから見ると、まるで別の人見たように。」 「どうして、あなた、この節ではおとっさんよりずっ と背が高くなりました。」とおばあさんもうれしそう に笑って、「それに正夫がいなかったのは、実際かわ いそうなようでしたが、あれから寿も一生懸命になり ましたよ……ただ一つ、わたしが心配なことは、まこ とにあれが人なつこいものですから、どうも近所の娘 がヤイヤイ言って困る。『寿さん、寿さん』と言って …:それがあれにはとかく勉強のじゃまになるらしい ……正夫にそれを言えば、『そうおばあさんのように 心配したってきりがない』1なんて。まあ、おかげ で正夫も帰りましたし、よくまた相談した上で、うち でもそのうちにどこかへ引っ越そうかと思いますよ。」 「これから叔父さんもどうなさるか。」と鶴吉はおば あさんの顔を|熟視《まも》りながら言った。「ずいぶん骨が折 れましょうね。」 「叔母さんでもこれで生きてるとねえー」こうおば あさんは力を入れた。 「なんですか、|本町《ほんちよう》へは相変らずお出かけですか。」 「えゝ、ちょくちょくlだんなもこの節は、叔父さ んの顔さえ見れば、|愚痴《ぐち》ばかりコボしていらっしゃる ッて。」 「何か、それでも、仕事がなくては困りましょうに。」 「|炭山《たんざん》の話はあるーそのことで、こないだもいっし よに|獄中《あちら》にいた人がたずねて来ましてね、広田さんに はいろいろお世話になったが、これから共々しごとを してみたいッてーネ。し"こく人物はよさそうな人 サ。そのほうの話が、これでまとまってくれると、だ んなもまた心配してくださるだろうと思いますよ。」 「どうかまあ、ウマくやってもらいたいものですナ ア。」 「その人の話を聞いてみましても、ひととおりの苦労 ではなかったと言いますよ。もっともその人は叔父さ んとは違って、刑を受けた人だそうですが・:…|巣鴨《すがも》へ 送られて米つきとかをして……|娑婆《しやぱ》へ出て来た日のま たうれしかったことは、こう|足《たぴ》袋はだしで|牢屋《ろうや》の前の 草の中を飛び回ったとか……」  おばあさんの話は、急にそこで途切れた。その時勝 手のほうで、鶴吉の耳にも聞き慣れた|肴屋《さかなや》の声がし た。 「|行徳《ぎようとく》!」 「なんだねえ、今時分。」とおばあさんは聞きとがめ て、「きょうは何か持って来たの?」 「おあいにくさま。」投げ出したような声で。 「ちょッ、きまりをやってるよ。」とおばあさんはし かるように言った。 「御隠居さん、すみませんが、|乾物《ひもの》を五枚ばかりここ に置いてまいりますから。」 「行徳も年を取りましたよ。」とおばあさんは鶴吉の ほうを見て、「叔父さんが留守の間も、ずっとああし て来る1二時間も三時間も話しこんで行くー」 「どっこいしょ。」と行徳はひとり"ことのように、「こ れで一服やっていた日にゃあ途中で日が暮れちまう。」  やがて、「アバヨ」という無邪気な|漁夫《りようし》らしい声を 残しておいて、行徳は行ってしまった。 「鶴さん。」とおばあさんはまた以前の話にもどって、 「お浜さんはこの節どうしていらッしゃいますか、お 聞きになりませんか。」  こんなことを言い出した。お浜は、鶴吉が義理ある 姉の姉にあたる。今は|後家《ごポ》でいる女である。 「相変らずでしょう。」と鶴吉は気のない返事をした。 「わたしの|家《うち》にも後家が一人出来ちゃった。」とおば あさんは笑って、「どうでしょう、あの人に叔父さん のところへ来てもらっては。」  鶴吉も笑い出した。そしておばあさんの言ったこと を冗談のようにして、「叔父さんももうひとりでいら ッしゃるがいいじゃありませんか。」 「いえ、冗談でなくー」 「だってーおばあさん。」 「そういうものじゃありませんよ。」と言って、おば あさんはまじめになって、「わたしはちょうどよかろ うと思いますよ。それにあなた、年を取ってから世話 する人もないのを考えて.こらんなさい……いつまでこ うしていられるもんじゃない……わたしだってそうそ うはやりきれやしません……」  鶴吉は、黙ってたばこをふかしながら、おばあざん の言うことを聞いていた。その時鶴吉はこの家に出は いりしたいろいろな人たちのことを胸に浮かべて、一 時は全盛をきわめた京橋のだんなという人などが、商 いの手違いから店をしまい、細君にも暇をやり、自分  ぎ`だ ゆう           おおさか  しゆぎ舐う は義太夫語りとなって大阪へ修業に行くとやらで、お ばあさんところへいとま、こいに来たという驚くべき|生《しよう》 |涯《がい》のうつりかわりを思ってみた。 「御免くださいまし。」  と女の声がして、ちょうどそこへ勝手ロのほうから はいって来た人があった。この人はお|親《ちか》といって、や はり叔父の家の世話になった女の一人である。ある学 校を卒業して、今では叔父の家近くに住んで、独力で 裁縫の|私塾《しじゆく》を経営している。 「オヤ、鶴さん、いらッしゃいまし。」とお|親《ゑ》は鶴吉 にあいさつしておいて、何かふた物を記ばあさんのほ うへ押しやった。 「ツマラないものですが、うちでこしらえましたか ら。」 「そう。毎度ありがとう。」とおばあさんはお|親《ちか》の顔 をながめながら言った。  つい話しこんでいた鶴吉は、この女の客のあったの を機会にして、ようやくしりを持ち上げた。「どれ、 わたしも行って泳いで来ようか。」こう彼は自分に言 った。昔は彼もよく|浜町河岸《はまちようがし》へかよって、泳ぎ場で暑 さを忘れたものである。ともかくも、遊びに寄ってみ ょう、そこで|寿《ひさし》といっしょになろう、とこう思った。 「お帰りにまたお寄んなすってください。」とおばあ さんは、鶴吉があいさつして出て行こうとする時に、 声をかけた。  鶴吉は、叔父の家の前から|釣舟屋《つりぶねや》のかどを曲がっ て、旧両国の通りへ出て、あれから|隅田川《すみだがわ》について青 物市場のあたりを通り過ぎて、やがて浜町河岸のほう へ歩いて行った。むかしを思い出させるような板囲い の小屋の上には、泳ぎ場の旗を望むことができる。あ る物揚げ場の辺まで行くと、そこには川のほうへ向い て|釣《つゆ》の道具をひろげた人たちが並んでいる。立ってい るものがある。しゃがんでいるものがある。中に、ほ っかぶりした上から夏帽子をかぶって、|釣竿《つりざお》を手にし たまま、水をながめている人があった。 「叔父さん!」  鶴吉はこんなところに叔父を見つけようとは思わな かったのである。 「鶴か。」  と叔父もそこにしゃがんで、|釣針《つりばり》の|沙蚕《ごかい》を取り替え ながら言った。 「叔父さんは用たしかと思いましたよ。実はお宅のほ うへ伺って1今までおばあさんと話して来たんで す。」 「ア、、そうかい。うちを出る時はそのつもりだった が、きょうはすこし模様を変えてーネ。」  こう叔父は言って、新しい|沙蚕《ごかい》にちょっとつばをか けた。糸は間もなく水の中にあった。白い、小さな浮 きは風につれて、動揺する波の間に見えたり隠れたり する。すこし岸から離れたところには、逆に川上のほ うへ流れて行く物が見えるー 「上げてますね。」と鶴吉は言った。しばらく彼は叔 父のそばにしゃがんで、|釣《つり》をする人たちをながめてい た。彼も、子供をなくなしてからこういう閑散らしい 人たちのすることを笑えなくなったのである。  叔父と鶴吉の二人はやがて、この川の岸で、話し た。どうかすると叔父は鶴吉に向かって、「君」とい う対等な言葉で話しかけることもあった。この「君」 は鶴吉を弱らせた。おそらく鶴吉が叔父のロからそん なふうに呼ばれたことはかつてなかったのである。叔 父はまた、囚人同士で話でもするように、在監中の苦 い経験を普通の話の中に交ぜて話した。 「……鼻は非常に鋭くなるよ。ア、、きょうのお|菜《かす》は なんだ、というようなことが見なくってもちゃんとわ かる。1だって、風というやつがあらあねーその 風がまかないのほうから食い物のにおいを持って来ら あねーすると、戸をコンコンとたたく。きょうの器 |菜《かす》はこれこれだと隣へ伝える。それからそれへと伝わ る-|監中《なか》にいると、食うことよりほかに楽しみはな いからね。」  叔父はこんな話をして笑った。  |寿《ひさし》のいる泳ぎ場をさして鶴吉が泳ぎに行ったあと、 叔父も釣の道具を携えて、そのほうへ移って行った。 いつのまにか叔父の心は、青く光る潮のほうへ行って しまった。幕を引き回した小屋のわきからは、いろい ろな色の帽子や、ぬれた水着や、それから舟のまわり に泳いでいる連中の日に焼けた手なぞがながめられ る。川蒸汽の波をめがけて泳いで行く人々も見える。 向こうには、両国橋のほうから流れて来る|水尾《みお》を横ぎ って、鳥のように浮いたり沈んだりする手合いも見渡 される。叔父は、窓から外をながめる囚人のような目 つきをして、自由自在に水の中を泳ぎ回る青年らの姿 をながめ入った。それから、自分のからだが自分で思 うように動けなくなったことを考えて、震えた。  |寿《ひさし》はよく泳いだ。この青年が水泳場へ通うのは二夏 目で、抜き手などももう自由に切ることができた。鶴 吉も向こう|河岸《がし》をした経験はあるが、何年ぶりかで水 にはいったので、泳ぐというほどは泳がなかった。彼 は泳ぎ手としても普通で、寿ほど身が軽くはなかった のである。  泳ぎ場の生徒が次第に帰って行くころ、叔父は小屋 から出て来る寿や鶴吉といっしょになった。 「おとっざん、何か|釣《つ》れましたかネ。」こう寿はおや じが手にしているビクの中をのぞきながら言った。 「ア、。」  と父親は気のなざそうな返事をして、若いものとい っしょに歩き出した。  午後の五時過ぎの日光は向こう河岸を明るく見せ た。品川の海のほうからはいって来る荷舟は、ちょう ど一日の労働を終って郊外から帰って来る農夫の群れ のように、幾そうも風に送られて通る。これから漁に 出かけようとする舟もある。以前叔父が鶴吉を供に連 れて、よく釣にやって来たころから見ると、川の幅も 変り、岸のさまも変った。川上からは器械の油を流す とやらで、昔のように魚もいなくなった。叔父は懐旧 の情を語りながら歩いた。そして、あまり釣れもしな かった道具をざげて、何かこうしごとでもしたように 疲れて帰って行った。  河岸の家では、おばあさんがひとりで夕飯のしたく にいそがしかった。おばあさんはよいたよりでも聞き たいと思って、叔父の帰りを持ち受けながら、汗を流 して働いていた。かわいい孫に食わせるつもりで、鶴 吉からもらった|燃製《くんせい》の|鮭《さけ》の肉も切っておいた。