犬 島崎藤村  この節わたしはよく行く小さな洋食屋がある。あそ このたいちり、ここのしじみじる、というふうによく あさって歩いたわたしは大きな飲食店などにも飽き果 てて、その薄ぎたない町中の洋食屋にわがままの言え る隠れ家を見つけておいた。青く塗った窓ぎわには夏 からあるレースの色のさめたのが掛かっている。十二 月らしい光線はどぶ板の外のほうからさし入って、し みのついた白い布の掛かった食卓の上を照らしてい る。そこにわたしはげたばきのまま腰かけた。  一生のさかりというべきわたしの三十代は数日の5 ちに尽きようとしている。なんとなくじつとしていら れないような気がする。わたしはいとわしい日のみ続 いたこの一年を忘れるというよりも、三十歳の終りの しかも誕生にあたる日に、用事ありげな人たちが窓の 外を行ったり来たりする寒い年の暮れの空気の中で、 ひとり半生の悔恨にふけろうとした。わたしはきょう まで会いすぎるほど会ったいろいろな男や女の顔を見 るにも堪えない。そうかといって、この洋食屋から半 町とない大川の水が鉄橋の下にある石の柱のほうへう ずまき流れて行くその岸の引き入れられるようななが めを見るにも堪えない。目の前にあるソースやからし の入れ物だの、ごちゃごちゃ並べた洋酒のびんだの、 壁紙ではりつめた壁だの、その壁にかかる粗末の額、 ビールの広告などは、かえってわたしの身を置く場所 にふさわしかった。  わたしは人並に賢い人間のつもりでいた。けれども 今という今になって、つくづく自分の愚劣なことを知 った。わたしにはどうかして一生のうちに自伝を書い てみたいという心があった。弗そらくこの心はわたし ばかりではあるまいと思う。ちょうどわたしのように して半生を費やしてきたものは、自伝の至るところに 得々として女の名を書きつけ|容貌《ようぼう》のよしあし、気だ て、年齢、触れた膚のかずかず、その他愚かしいこと の多ければ多いほどむしろそれを誇りとしたであろう と思う。そして、読み返してみて、このとおり自分が 愚かしい、しかしこれより愚かでないと言える人間が あるか、と問い返すであろうと思う。世にこれほど自 分の愚劣を表白することはあるまい。わたしは今にな って、見物の|喝采《かつさい》の前に自分のなしたことを舞台の上 で繰り返してみせる年老いた毒婦の心を読むことがで きる。  わたしには人に愛せらるる性質があった、人の心を 引くに足るだけの|容貌《ようぼう》もあった。自分で言うも異なも のではあるが、わたしはよく手入れをした髪と、高い 筋の通った鼻と、浅黒くはあるがしかしきめの|細《ちヤ》かい つやのある皮膚とを持っていた。のみならず、いかに せばこの容貌を用うべきかということをも知ってい た。わたしにはまた、若々しさがあった。力があっ た。ことにわたしは婦人の前で自分を大きくして見せ うる不思議な力と、|態惣《いんぎん》を失わない程度で大胆に勝手 にふるまいうる快活さとをも持っていた。こうしてわ たしはなんにも自分らのすることを考えてみたことも ないような、慣れて知らずにいる人たちに取り巻かれ て、ただ青春の血潮のわき立つままに快楽を追い求め た。わたしは求めたものが与えらるるばかりでなく、 求めないものまでも与えらるるのを知って、人知れず 自分の幸福を思ってみた。わたしは自分の精力も根気 もすべてむなしく費やし尽くすままに任せた。今のよ うな悔恨、悲痛が、しかもこの年ごろに自分を待つと は知らずに。そのことにわたしが気がついた時は、わ たしは自分で自分を深くのろうよりほかにしかたのな いようなものとなった。わたしは今、ようやく三十代 を終ったばかりの人間だ。それだのに、わたしのから だはもはや老人のように変って震えてきた。  白いよごれた前だれを掛けたボーイはわたしの前に 肉さしやさじを置いて、暗いのれんの掛かったほうか ら|牡蛎《かき》のスープを運んで来た。わたしは酒はあまりや らないほうだから、すこし甘口ではあるが白"ふどう酒 の杯に一ぱいついであるのを前に置いて、それをすこ しずつやったり、乳色のした|牡蛎《かき》の|汁《しる》をすすったり、 それからのれんの奥のほうでコックのさせる物音や|脂《し》 |肪《ぼう》のジリジリ煮える音を聞いたりしながら、夢のよう に過ぎ去った年月のことを胸に浮かべてみた。  ボーイが|汁《しる》の|皿《さら》と入れ替えてメンチ物を|一皿《ひとさら》持って 来た。わたしの心はずっと少年の昔に帰って行った。 ようやく物心のついた、まだまだ無邪気な、幼い、物 に驚きやすい日のことに帰って行った。ふだんめった に思い出したためしもないようなことが、しかもきの ろあったことと言うよりもきょうあったことのよう に、生き生きと浮かんできた。  なんにも知らずに世の中へ出て来たわたしを仮りに 生徒とすれば、その少年の生徒の前へ来ていろいろな ことを教えてくれた教師がだれだったか、わたしは肉 さしの音をカチャカチャさせながら皿の上の料理を味 わい味わいそんなことを考えた。そして、その教師が 厳格な目上の人たちでなくて、つぎつぎに変って行っ た|下碑《かひ》であることを思い出した。ある|下脾《かひ》はわたしの 前に立って、わたしが学校などで見たこともないよう な本をふところから取り出して見せたこともあった。 そして、これは女の持つものだということをわたしに 話して聞かせてくれた。ある|下碑《かひ》はまことに人のいい ものであったが、しかし心の浮き浮きとした女で、長 く奉公する間には幾度となくしくじりをして、そのた びにわびを入れてきた。わたしはその女のかんざしを さした髪の上からねずみ色のずきんをかぶった形が端 のとがった|擬宝珠《ぎぼうしゆ》によく似ていたことを覚えている。 「あれがお|由《よし》の|色男《いろおとこ》だ」とその女の名を言って、|家《うち》の 人がわたしにある時計屋の職人を指さしてみせたこと があった。わたしは初めて「色男」という言葉を覚え た。ある下碑はまた、奉公するものに似合わないほど のきりょうよしで、髪なども黒くふさふさとしていた が、時とするとわたしの見ている前で主人にからかわ れて、「あれ、御新造さん、いけません」と叫ぶように 言ったことがあった。女はわずかの間しか奉公してい なかったが、それと入れ替りに色の黒い、言葉になま りのある、わたしの一番きらいであった下脾が来た。 いなかから奉公に来ているとかで、時々|亭主《ていしゆ》らしい百 姓風の若い男がそっとたずねて来た。そのことは家じ ゅうのだれよりも一番よくわたしが知っていた。とい うは、下碑がわたしを前に置いて、半分述懐するよう な調子で、いろいろと男のことをわたしに話して聞か せたから。  わたしは愚かしいものだが、正直な人間ではあるつ もりだ。しかし、わたしの記憶はわたし以上に正直 だ。いろいろなおとなのすることを見たり聞いたりし ても、そのころのわたしはすぐにそれを見ならおうと はしないで、ただ自分で自分に知れる程度にとどめて 茄いた。わたしの知らないようなことを一番多くわた しにつぎこんでくれたのは、一番わたしのきらいな|下 碑《かひ》だった。ある晩、わたしは女に呼び起されて、黙っ て寝たふりをしながらひとりで恐ろしく震えていたこ ともあった。女は間もなく暇を取って男といっしょに 国のほうへ帰って行った。  そのあとへほおの赤い、まるまるとふとった、しん ぽう強く働く|下碑《かひ》が雇われて来た。だれにでも好かれ て、少年のわたしも一番よくなじんだことを覚えてい る。この|下脾《かひ》はわたしのところへ来て、すこししわが れたような、女らしい声で、みだらなはやりうたをよ くわたしにうたって聞かせた。どうかすると女自身で すら自分の声に聞きほれるほど巧みにうたった。わた しも耳を傾けて、知らない世界のほうへ連れられて行 くような気がした。  ボーイが別の|皿《さら》を運んで来た。ちょうどそこへ表ロ のとぶ板のほうから犬が二匹ばかり電話口の前を回っ てわたしの腰かけているそばへ来た。皿の上のものを ほしそうな顔つきをして、そばに付いていられるのも うるさく、すこし追ってみたくらいで外へ出て行く様 子もない。わたしは犬のほうへかまわずにナイフを取 り上げた。二匹とも白いやつで、客のない食卓の下の ほうをかぎ尋ねるように歩き回って、またわたしの物 を食うそぱへ来た。 「まさか、犬から物を習った覚えはないよ。」  とわたしはだれか話し相手でもあるように、自分で 自分にひとりごとを言ってみた。わたしが「まざか」 と言ってみたのは、あの|下脾《かひ》ばかりで女くて、犬もま た自分の教師であったことを心の底に否むことができ なかったからで。  頭から目の上あたりまで白い毛の長くたれ下がった ちんのすがたがはっきり胸に浮かんできた。|屋《うち》の中で 飼われていた獣は、ある時は少年時代の友だちのよう に、ある時はごく無気味なもののように、わたしの目 の前をよく行ったり来たりした。わたしは今でもあの 小がらな、性質の賢いちんが、頭の毛を振ったり|尻毛《しりげ》 を振ったりしながら畳の上を歩き回ったその足音を聞 くことができるような気がする。 '「この犬には人間の言葉がわかる。」  と言って|家《うち》のものは笑ったことすらある。それほど よく人に慣れていた。あの首をすこし傾けてわたした ちの前にかしこまった様子は、人の表情を読むことを 知っているとしか思われなかった。わたしはあの長い ふさふさとした毛のかげにあるりこうそうな目からよ く涙の流れたことを覚えている。それから毛がよ"これ てきたなくなったと言って、いやがるやつを無理にた らいに入れて、シャボンをつけてごしごし洗ってやる と、鼻をクンクン言わせながら鳴き騒いだことを覚え ている。ぬれた時はずっと小さく見えた。その時ばか りは目もあらわれた。毛のかわくのを待っていられな いというふうに、|家《うち》じゅう駆けずりまわって、小さな からだを至るところにすりつけて、"ころ"ころ|部屋《へや》の中 をころがって歩いた。どうかすると、そのぬれた毛を 人の前でブルブルさせて、無遠慮なしずくを飛ばして よごした。表のほうに人でもあると、それが客である か、|家《うち》のものであるかは足音で聞き知っていて、まっ さきに飛び出して行くのもあのちんだった。  呼ぶと、うれしそうな声で鳴いて、よくわたしのほ うへ来た。ちんはわたしの手に抱かれながら、鼻と言 わず、口と言わず、長い舌でわたしの顔じゅうペロペ ロなめ回さなければ承知しなかった。それがわたしに 対する親愛の表情だった。わたしはそれにはへいこう して、いつでも顔だけよけてはひざの上に乗せた。  このちんの種を得たいと言って、同じような美しい 毛並のめすを引き連れて来る人もあった。時とすると ちんは人の習慣を無視する動物の本性にかえって、ほ とんど本能的にわたしのまわりを狂って歩いた。わた しが人であるか犬であるかの見さかいすらも忘れてし まったかのように。 「おあとは何にいたしましょう。何かサッパリとした ものでも。」  とボーイはわたしのそばへ来て手をもみながら言っ た。  急に日が濃く窓からさしてきた。なんとなく部屋の 板敷の日かげになったところは寒く感ぜられた。わた しは耳が鳴ったり腰が痛んだりする自分に返って、そ れが身に付きまとう持病のように離れないことを思っ てみた時は、一種の|悪寒《おかん》を覚えた。洋食の出前持ちは 堅い|靴《くつ》の音をさせながらどぶ板のところを出たりはい ったりしていた。わたしはテーブルの布の上につめの 延びた手を置いて、あの前だれ掛けでぞうきんを手に したような無知な|下碑《かひ》たちと犬とから、こうした自分 をまず教育されたことを考えて、思わずほほえまずに はいられなかった。  ボーイは熱くした紅茶をこぼさないようにと用心し ながらわたしの前へ持ち運んで来た。うるさい二匹の 犬はわたしがそれを飲み終るまでもそばに付いてなが めていた。