一夜 島崎藤村  会杜員|正太《しようた》の|家《うち》では、主人も、細君も、母親も出て いない。ただばあさん一人ぽんやりと|留守《るす》をしてい る。そこへ三吉|叔父《おじ》が石段を上って、格子戸をあけて はいって来た。この三吉はちょっと町を一回りして来 るにも|敷島《しきしま》の三四本はふかすというたばこ好きな男で ある。 「お|仙《せん》さんはまだ帰りませんか。」  こう叔父はばあさんに尋ねながら下座敷をながめま わしたが、|姪《めい》のお仙が帰らないばかりでなく、壁に寄 せて座ぶとんの上に寝かしておいたわが子の姿も見え なかった。 「|坊主《ぽうす》は?」 「ぽっちゃまですか。めんめをおさましでしたもんで すから、御隠居様がおんぶなざいまして、表のほうへ 見にいらっしゃいました。」  夏の夜のことで、川のほうから来る涼しい空気が座 敷の中へかよっている。叔父は水浅黄色のカーテンの 掛かったガラス障子のところへ行った。そこから石段 の下を通る人や、町家の|灯《ひ》や、水に近い夜の空などを ながめて、その夕方のことを思ってみた。子供は姉が 買っておいたという犬のおもちゃにも飽きて、むずが るので、|甥《おい》の細君とお仙とが町を見せに連れて行った あと、二階の縁に近くたばこ盆を持ち出して、そこで |姉弟《きようだい》が互に話を始めようとすると、急に|甥《おい》が|階下《した》から 上がって来た。「おっかざん、お仙さんがいなくなっ たそうです。」と|甥《おい》はすわりもせずに言った。その時 の甥の声、ランプの光に映った顔……やがてそれから 一時間ばかりたつ。  急に叔父がばあさんのほうへ引っ返した。 「もう一度、わたしは行って見て来ます。」  ばあさんは考え深く、「お嬢様も、もうそれでも、 お帰りになりそうなものですね。」 「どこですか、そのお仙さんの見えなくなったという 所は。」 「なんでも奥様がごいっしょに買物を遊ばしましてー ーホラ電車通りに小間物を売る|家《うち》が"こざいましょうl lあすこなんで"こざいますよ。奥様はお嬢様がおそば にいらっしゃることとばかりおぼしめして、ぼっちゃ まに何かお見せ申していらしったそうですが、ちょっ と振り向いて"こらんなさいましたら、もうお嬢様はお 見えにならなかったそうです。ええ、それはもうホン のちょっとの間に……」  このばあさんの言葉で、小間物屋の店頭ということ を確かめて、早く行って見っけて来よう、こう、思い ながら三吉は出て行った。  二度目に三吉が町を一回りして来て、電車通りの向 こう側にも、手前にも、暗い横町にも、どこにも|姪《めい》の 姿を見なかった時は、なんとなく不安を増して来た。 柳並木の陰には腰掛けを置いて涼んでいる人もあった が、だれもそんな娘を見かけないと言った。叔父はし ばらく路次のかどに立って姪を待ち受けていた。いつ までたっても見えそうもない。いったん甥の家へ引っ 返すことにして、例の石段の下までやって来ると正太 の母親はガラス障子のところに立っている。 「ねえさん、お仙さんはー」と叔父は往来から声を かけた。 「まだ帰らない。」と母親は娘の身の上を案じ顔に答 えた。  その時まで三吉はのんきに構えて、どうせこれは帰 ってくるものだぐらいに巻きたばこをふかしていた が、あまりにお仙の帰りがおそいので、ようやく本気 になった。そして、あの無邪気と言っても無邪気な、 二十二までも人形のように育てられて、ほとんどなん らの抵抗力もない、|可憐《かれん》な娘が大都会の真ん中で、し かも夜、方角もわからずにさまよっていることを感じ た。その年になるまで、母親は一日たりとも嬢の保護 を怠らなかったのである。 「三吉。」と母親は叔父を家の中ヘ入れてから言った。 「お前は今夜こっちで泊まってくれるだろうね。」 「えゝとにかく行って坊主を置いて来ますIそれか らまたやって来ましょう。」 「あゝそうしておくれ。弱い子供だから、かあさんが 心配するといけない。ワンワンも持たせてやりたい が、いいわ、わたしがまたたずねる時におみやに持っ て行く。」  こういう話のあと、三吉は眠そうな子を姉の手から 抱き取った。 「ぼっちゃまのお|下駄《げた》はいかがいたしましょう。」と ばあさんは言葉を添えた。 「下駄は置いて行くサ。」と姉が言う。 「ナニ構いませんから、新聞に包んで、わたしのふと ころへねじこんでください。」  こう弟は答えて、子供を肩につかまらせながら出 た。子供は眠げに頭をたれて、左右の手もだらりと下 げていた。「まあおかわいそうに、おねむでいらっし ゃる。」とばあさんが言った。三吉は口に巻きたばこ をくわえることを忘れなかった。  やがて叔父が自分の|家《うち》へ子供を運んで、また電車で 引っ返して来たころは、半鐘が激しく鳴り響いてい た。電車の窓から見ると、火はちょうど|甥《おい》が住む町の 方角にあたる。近づけば近づくほど、正太の家あたり が今まさに焼けているかのように見える。お仙がいな くなったというさえあるに、おまけに、火事とは。三 吉はもう|仰天《ぎようてん》してしまった。電車から降りてさっそく 駆けつけてみると、路次、往来は人でうずまってい る。  火事は正太の家から半町ほどしか離れていなかっ た。 「これはまあなんということだ。」  という母親の言葉を聞き捨てて叔父は二階へ駆け上 がった。続いて母親も上がって来た。雨戸をあけて見 ると燃え上がる|河岸《かし》の土蔵の火は|姉弟《きようだい》の目にすさまじ く映った。もっとも心配したほどではなく、どうやら 一軒ですむらしい。見ているうちにすこし下火にた る。 「もうだいじょうぶ。」  と正太も|階下《した》から上がって来て、言った。しばしの 間、三人は無言のまま、いっしょに火をながめて立っ ていた。  三人が|階下《した》へ降りて、お仙の身の上を案じたころ は、まだ往来は混雑していた。石段を上って来て、火 事見舞いを言いに寄るものもあった。正太は心の震え をおさえかねるというふうで、三吉の顔をながめて、 「叔父さんすみませんが、|下谷《したや》の警察まで行ってくだ さいませんか。」 「さあ、そうしましょうかね。」と叔父も首をかしげ た。 「浅草の警察へは今届けて来ました。」 「お仙も。」と母親は引き取って、「ああいう神様か仏 様のようなやつだから、存外無事で出て来るかもしれ ないよ。」 「お仙さんは、ここの番地を覚えていますまいね。」 と叔父が聞いてみる。 「どうも覚えていまいて。」と母親は嘆息して言った。 「なかなか車に乗るという知恵は出そうもないーお まけに、|一文《いちもん》も持っていない。」と正太もつけたした。  叔父は思いついたようにばあさんのほうを見て、 「おばあさん、あなたはあの路次のところへ行って、 かどに番をしていてください。じゃあ、わたしは下谷 まで行って来ますからね。」  こんなふうに手はずを決めて、三吉は電車のなくな らないうちにと、下谷の警察をさして急いで行った。  往来の人通りも次第にすくなくなるころ、叔父は電 車で帰って来たが、もうなんとなくあたりがシーンと していた。暗い路次のかどまで行くと、そこにばあさ んが見張りをしている。正太の細君もしょんぽり立っ ている。 「まだ帰りませんか。」と三吉は二人に近づいて言っ た。 「叔父さん、どうしたらよう"こざんしょうね。」  こう細君はうれわしげに答えた。その時浅草の警察 へも見せたと言って、お仙が着ているゆかたと同じ|布《きれ》 を出して、細君はそれを叔父に見せた。三吉は手に取 って見た。 「まあ|家《うち》へ行って相談しようじゃありませんか。」  こういう三吉のあとにっいて、二人の女は黙って歩 いて行った。  正太の|家《うち》には、お仙を除くのほか、捜しに出たもの がみんないっしょになった。こうして集まってみる と、あの娘のいなくなったという感じがいっそう深 い。三吉は巻きたばこが尽きたので、ばあさんに使い を頼んで、敷島を二つほど注文したが、もうどこのた ばこ屋も戸を締めてしまった。ばあさんはむなしく帰 って来た。 「何時でしょう。」と三吉が言い出した。 「十一時過ぎました。」  と正太は懐中時計を出して見て答えた.  彼は|坤吟《しんぎん》するように|部《へ》屋の中を歩いた。やがてガラ ス障子の締めてあるところへ行って、暗い空をうかが いながら立っていた。  夜はふけて来た。正太はみんなのいるほうへ引っ返 して、今さらのように考えこんだ。時々彼は|精桿《せいかん》な恐 ろしげな目つきをしながら、最愛の妻の顔をにらみつ けた。 「あぶないあぶないとふだんから思っていたが、これ ほどとは思わなかった。」  正太はこんなふうに妹のことを言ってみた。 「いったい、わたしが子供なぞを連れてやって来たの が悪かった。」と叔父が言った。  母親は引き取って、「そんなことを言えばわたしが お仙を連れて出て来たのが悪いようなものだ。いや、 だれが悪いんでもない。みんなあの|娘《こ》が持って生まれ て来たんです。どんなことがあろうとも、わたしはも うあきらめていますよ。それよりは働けるものがよく 働いて、夫婦して|立派《りつぱ》なものになってくれるのが、何 よりですよ。」 「わたしはね。」と正太は叔父のほうを見て、「|事業《しごと》と なるとどんなにでも働けますがーまあ使えば使うだ け、ますます頭がさえてくるほうですが、こういう人 情のことには実際|閉口《へいこう》だ。」 「正太もまたこんなことにヘコんでしまうようなこと じゃいけない。」と母親はけなげにもわが子を励ます ように言う。 「ナニこれしきのことにヘコんでたまるもんですか。 わたしの頭の中には今会社の運命があるーおまけに あすは|三十日《みそか》という難関を控えている。」  こう言って正太は鋭い目つきをした。 「さアさ。」と母親はゆかたのえりをかきあわせなが ら、|家中《うちじゆラ》を見回して、「出来たことはしかたがありま せん。とにかく一時ごろまでみんなに休んでもらっ て、三吉と正太には気の毒だが、それからもう一度捜 しに行ってもらいましょう。三吉すこし寝たがいい。 ばあやもそこで横に器なりやーそれにかぎる。」  寝ろと言われても寝られるわけのものではなかっ た。そういう母親が、第一眠らなかった。すこし横に なってみた人も、いつのまにか起きて、みんなの話に 加わった。十二時"ころ、一同は夜食した。  柱時計が一時を打つころから、三吉、正太の二人は さらにしたくをして出かけることになった。 「叔父さん|風邪《かぜ》を引くといけませんよーシャツでも 上げましょう。」と言って、正太は細君のほうを見て、 「ももひきも出してあげな。」 「じゃあ、拝借するとしよう。」と叔父が言った。 「叔父さんはたばこがないんでしたね。こんなんでも 持っていらッしゃいませんか。」 と言って細君は女持ちのたばこ入れを貸してくれ た。叔父はそれをたもとに入れてももひきにしりはし ょり、正太もきりりとしたなりをして、夏帽子をかぶ って出かけた。 「正さん、君はこの裏通りを捜してくれたまえ。ぽく は電車通りを捜しますから。そして、雷門の前あたり で二人落ち合うことにしましょう。」  こう叔父は発議した。 「えゝ、ではそういうことにしましょう。」と正太も 同意して、「|雷門《かみなりもん》の交番の前あたりでーどっちか 先に行ったものがあのへんで待つことに。」  この約束で二人は別れた。  雷門へは叔父のほうが先に着いた。もう往来の人も 絶えて、ざすがの東京もまったく眠った。  やがて公園の暗黒な光景が二人の眼前にひらけた。 観音堂の周囲は言うに及ばず、そこここの木陰、軒下 には一夜を震え明かすような無宿者の群れがうじゃう じゃ集まって、ほしいままに手足を投げ出していた。 これが夏の夜でなかったら、互に、抱き合って、わず かにからだをぬくめようとするものもあるだろう、こ う正太は薄気味の悪い人たちの前を通りながら言っ た。驚くべきことには、ここへ来て眠りをむさぼって いる|老婦《としより》もあった。こうして二人は公園の中を探って 歩いて、最後に活動写真の絵看板の下に立ったが、ど こにもお仙の姿を見なかった。 「公園にもいない。」  とうとう正太はあきらめたように言い出した。  よんどころなく二人は交番へ行って、巡査にお仙の ことを詳しく話して、年齢は二十二になるが十八九に しか見えないということまで言いおいて、それからま たもう一度広小路の通りへ出た。  柳並木の下には、しゃがんで一服やるによさそうな 所があった。二人はガッカリしながらたばこ入れを取 り出した。 「川のほうを探る必要はあるまいか。」と叔父が言っ た。 「さ、わたしもそれを思うんですがー⊥と正太も沈 んで、「しかし……そんな様子はすこしも見えません でしたもの。」  しばらく、二人は無言のまま、ポカリポカリとたば こをふかしていた。 「今ごろ、横町なぞに迷っているようなこともあるま いナア。」 「えゝ、えゝ、自然と暗いほうから明るい大通りへ出 て来ましょうからね。」  この正太の説明に叔父は感心したというふうで、夏 帽子をかぶり直して起き上がった。 「正さん、ではこういうことにしましょう。君はこの 通りを上野のほうへ行ってみてくれたまえ。ぽくはも う一度浅草橋のほうを捜します。ここでわれわれは別 れましょう。」  と言われて、正太も叔父の前に立った。二人は|惨《さん》と した感に打たれて、互に帽子を脱いで左右へ別れた。 「こりゃあ、ウカウカしちゃあいられない。」  別れる時、二人はこう思った。  叔父が|広小路《ひろこうじ》の道路を浅草橋のほうへたどって、交 番の前に足を留めたのは間もなくであった。意外に も、叔父はその交番の巡査から、お仙が警察の手に救 われたことを聞いた。たぶん細君が迎えに行って、も う今ごろは帰宅しているだろう、と聞いた時は地を踏 んで喜んだ。 「なるほどーあゝそうですか。フン。」  叔父は|狂人《きちがい》じみた声を出して、何べんも同じことを 繰り返してその巡査に礼を述べた。 「早く正さんにも知らせたいなあ。」  こう思いやりながら、|甥《おい》の|家《うち》をさして飛ぶように急 いで行った。 「ねえさん、お仙さんが帰って来たそうですねーよ かった、よかった。」  まず叔父はそれを庭で言って、それからみんなのい るところへ上がった。もしお仙が子供なら堅く抱きし めて自分の喜びを表わしたい、と叔父は思うくらいで あった。 「お仙、叔父さんにお礼を言わないか。」  と母親に言われて、胎仙はすこし顔をあかめながら 手を突いた。この無邪気な娘には、どう思うことを言 い表わしていいか、わからなかったのである。 「叔父さん、もうすこしであぶないところ。」と細君 は妹のうしろにいて言った。「なんでも悪い者に付か れたらしいんですが、いいあんぱいに刑事に見つかっ たんだそうです。そして今まで警察のほうに留めてお かれたんですって。」  こんな話をしているところへ、正太もある交番で聞 いたと言って、妹の無事を喜びながらはいって来た。 「ずいぶん心配をさせられたぜ。もうもうどんなこと があっても、ひとりでなんぞ|屋外《そと》へ出されない。」  正太はホッとため息をついた。「お仙がもし帰らな かったら、それこそ|家《うち》のやつをはり殺してくれようか と思った。」  興奮のあまり、正太は、われを忘れてこのような激 語を吐く。細君はまた細君で涙をふいて、 「えゝ、そこどこじゃない。お仙さんが帰らなけれ ば、わたしはもう死ぬつもりでしたよ。」  これほど兄夫婦を心配させた出来事も、実際、お仙 ははたで思うようには考えなかった。その無邪気さは いっそう|彼女《かれ》を|可憐《かれん》にして見せる。  一同はお仙を取りまいて、いろいろなことを尋ねて みた。お仙は混雑した記憶をたどるというふうで、手 を振ったりからだをゆすったりして、 「なんでも、その男の人がわたしの所を聞きましたか ら、わたしは知らん顔をしていた。しまいには、あん まりうるさいから|長岡《ながおか》だってそう言ってやりました。」 「長岡はよかった。」と叔父が笑う。 「|先方《さき》の人も変に思ったでしょうねえ。」と細君は妹 の顔をながめて、「お仙さんは自分じゃそれほどこわ いとも思っていなかったようですね。」 「知らないから。」と正太もほほえみながら言った。  お仙はきれぎれに思い出すという顔つきで、「ハン ケチの包みを取られてはたいへんだと思いましたから ーあの中にはねえさんに買っていただいた|白粉《おしろい》もは いってますからーわたしはこうしッかりと持ってま したよ。男の人がそれをたもとへ入れろ入れろと言う ものですから、わたしは入れました。そうすると、こ のたもとをつかまえて、どうしても放さないじゃあ りませんか。」 「ア、|白粉《おしろい》を取られるとばかり思ったナ。」  こう正太が言った。 「えゝ。」とお仙は思い出したようにほほえみを浮か べて、「それから方々暗い所を歩いて、しまいに木の ある、明るい所へ出ました。くたびれたろうから休め ッて、男の人が言いましたから、わたしも腰をかけて 休みました。」 「へえ、腰掛けがありましたか。してみるとやはり公 園の中へはいったんだ。」と叔父は言ってみた。  お仙は言葉を続けて、「たばこをのまないかッて、 その人がくれましたが、わたしは一服しかもらっての まなかった。夫婦になれなんて言いましたーえゝえ えそんなバカなことを。」 「しかし、刑事巡査がちょうど通り合わせてようござ んしたよ。」と細君は警察で聞いて来たことを言い出 した。「もしそうでなかったら、どんな目に会ったか もしれません。」  お仙は兄や、姉や、叔父などの話し合う言葉に耳を 傾けて、時々わかったと思うことがあるたびに、無邪 気に笑いころげた。その年になるまで|彼女《かれ》は男という ものをも知らずにいる。暗黒な人生に対しても|彼女《かれ》の 心には少女らしい恐怖しかない。この|可憐《かれん》な娘は自分 をおとしいれようとするケダモノをすら疑わなかっ た。 「よかった、よかった。みんな二階へ行って休むこと にしましょう。正太もあす|事業《しごと》のある人だから、すこ し休むがいいーさアさ、みんな行って寝ましょう。」  こう母親が先に立って言った。 「皆様のお床はもうのべて"こざいますよ。」とばあさ んも言葉を添えた。  やがて一同は二階へ上がって寝るしたくをした。三 吉は|甥《おい》のそばですこし横になれと勧められたが、どう しても寝られなかった。彼はいったんはいった|臥床《ふしど》か らまたはい出して、|蚊帳《かや》の外でたばこをふかし始め た。お仙も眠れないと見えて起きて来た。細君も起き. て来た。三人は二階の縁のところへたばこ盆を持ち出 した。しまいには、母親もがまんがしきれなくなった とみえて、白い寝巻のまま蚊帳の中から出て来た。 「正さんはよく寝ましたね」と叔父は蚊帳をのぞい て見る。 「これ、そうッとしておくがいい。あすはだいぶ忙し い人だそうだからー」と母親は声を低くして言っ た。  その時、細君は立って行って、水に近い雨戸をあけ かけた。 「叔父さん、一枚あけましょう。もう夜が明けるかも しれません。」