奉公人 島崎藤村  |室賀《むろが》の|御新造《ごしんぞ》は新たに奉公人としてかかえた百姓の 娘を台所のほうへ連れて行って、いろいろとナること を言って聞かせた。信州の|山家《やまが》のことだから、|鍋釜《なべかま》を 洗うだけなら裏の流れで間に合うが、飲む水をくむた めには桑畑や野菜畑の間を通って、共同の掘り井戸ま で行かねばならぬ。御新造はそれを言って、それから 炭、|薪《まき》、ボヤなぞの置いてある暗い物置小屋の戸をあ けて見せた。御新造はまた、炉ばたに近い|部《へや》屋のほう へ娘を連れて行って、前にいた下女が敷いたふとんを さして見せて、そこに寝道具が置いてあることなぞを 言い聞かせた。  娘の名はりんと言った。年はようやく十五にしかな らないが、|家《うち》にいる時は|継母《ままはは》の子供をおぶいながら、 毎日勝手をさせられたものであるという。給金は別に きめなかった。盆暮れに仕着せをして、ふだんは御新 造の古かなにかで着せて、暑くなく寒くなければそれ でたくさんだ、そのかわり読み書きと針仕事とを仕込 んでもらいたい、この約束で来た。その晩から、りん は室賀の|家《うち》の炉ばたで寝た。  御新造は二人子持ちである。いずれも女の子で、|延《のぷ》 ちゃんは五つになるし、福ちゃんのほうは三つにな る。いつのまにかりんはこの二人の女の子に慣れた。 それから御新造に教えられて、炉ばたで食事のしたく が出来たころには、だんなのいる部屋のほうへ行っ て、手を突いて、 「だんなさん、御飯におやんなすって。」  こう言うようになった。  だんなは旅のもので、|小諸《こもろ》へ来て|田舎《いなか》教師をしてい たから、十一時、ころになると御新造が大きな弁当箱を つめる。りんはそのふろしき包みをさげて、子供を連 れて、例の掘り井戸のほうから菓子屋の前を通り、湯 屋のかどを曲がり、それから鉄道の踏み切りを越す か、さもなければ水車小屋のほうから乗合馬車の通る 広い道路へとって、|子守《こもり》の大ぜい集まる停車場前へ出 て、|石垣《いしがき》桑畑の間を通って、それから学校の門をはい ると、小使が出て来てはだんなの弁当を受け取るのが 常だった。  午後の三時過ぎになると、だんなは洋服に|下駄《げた》ばき で帰って来る。庭のりんごの木も|可憐《かれん》な花を持つころ で、どこかこう遠くのほうで呼ぶような、寂しい|蛙《かわず》の 声が風に送られてくる。だんなが同僚のことを言っ て、「|三枝《さえぐさ》さんがあの二階で、夜ひとり|蛙《かわず》の鳴くのを 聞いてると、寂しくてたまらないと言ったっけが、毎 年今時分になると一番旅の感じがするね、」こう|家《うち》の 者のいっしょに集まっているところで言った。  りんも思い出したように、 「ほんとに、たんぼのわきなんかを夜ひとりで通る時 に、|蛙《かわず》が鳴くと、なんとなく心寂しいものだねえ。」  こんなことを言い出した。その言い方がいかにもマ セているので、だんなも御新造も笑わずにいられなか った。 「ヒョイくくくく。」りんは蛙の鳴き声をま ねて聞かせた。 「蛙は親の言うことを聞かないでねえ、親が川へ埋め てくんろと言えば山と言うし、山へ|葬《い》けてくんろと言 えば川と言ったッて……そんな親不孝なやつだけん ど、親が死んだ時は、親の言うとおり山へ|葬《い》けてやっ たッて……それで雨でも降ると親の墓が流れる流れる ッて、泣くんだッてね。うちのばあさんが話してくれ た。」  ちょうど、|家《うち》にいて父親と|継母《ままはは》の顔を見比べるよう に、りんはこの室賀の家へ来ても、主人夫婦の顔をジ ロジロ見比べた。  |延《のぶ》ちゃんがこんなに大きくならない時分は、とかく 人見知りをした。近所の子供が来てもいっしょに遊ぶ ことを好まなかった。どうかすると友だちが来て積み 木をしている間に、延ちゃんは見えなくなる。  そして人のいない|部屋《へや》へはいって、ひとりで鉛筆な ぞをなめて何か書くまねをしている。御新造が連れて 来て遊ばせようと思っても、延ちゃんはショゲ返って しまって、急に母親のほうへ行って泣き出したりなぞ する。こういう女の子が、いつのまにか近所の子供と 遊ぶことを覚えるようになった。「この野郎ぶつぞ。」 IIこんな荒い言葉使いまでも見習うようになった。 まったく、延ちゃんはりんの手にオエなかった。りん ばかりではない、御新造の自由にもならなかったので ある。  例のように、りんは福ちゃんをおぶって、延ちゃん を連れて、城跡のほうへ遊びに行った。「桃から」だ の、「かめさん」だのは、延ちゃんの好きな歌で、り んといっしょに楽しそうに歌って歩いた。無邪気な延 ちゃんは勝手に道草を食った。道ばたにほたる草の花 でも咲いていようものなら、延ちゃんはそのほうへ気 をとられて、りんの言うことなぞを聞き入れない。り んは無理にも歩かせるつもりで、いやがる子供の手を 引き引きしては歩いた。りんはまだ年が年で、自分で も遊びたいのである。あまり延ちゃんが言うことを聞 かないので、しまいにはりんもくちびるをかんで、な んの気なしに柔らかな子供の手を引っ張った。しか も、それを強く引っ張りすぎた。延ちゃんの左のほう の手はダラリとたれてしまった。  日暮れに近いころまで、りんは延ちゃんを連れて歩 き回った。延ちゃんが|家《うち》へ帰ろうと言えば、りんはい ろいろにきげんを取って、今度は自分のほうから花を 摘むやら草を採るやらしてくれて、どうかして延ちゃ んを引き留めたいと思った。 「延ちゃん、体操して"こらん。」  とふと、りんは思い付いたように言って、自分がま ず左のほうの手を揚げて見せた。  その時延ちゃんも思わず両手を揚げた。そして、ほ ほえんだ。りんは腰の手ぬぐいで延ちゃんの顔をふい てくれて、ホッと深いため息をついた。 「さ、行こう……オバケ来るから早くお|家《うち》へ行こう… ・::・…」  こう言って、りんは喜び勇む子供を連れて主人の|家《うち》 のほうへ急いだ。  黄色いかぽちゃの花の咲いた|垣根《かきね》のわきには御新造 が立って、子供らの帰りを待ちわびていた。 「今ごろまでどこを歩いてるんだねえ。」と御新造は 怒りを帯びた調子で言った。「延ちゃん……早くおい で。」  こう言われて、延ちゃんは母親のほうへ駆けて行っ て、その両手にすがりついた。急に延ちゃんは声を揚 げて泣き出した。 「今晩は。」  こう声をかけて、近所の娘たちがはいって来た。こ の娘たちは、夕飯の終るころから手習いの草紙をかか えて、御新造のところへかよって来るのである。 「どうぞ、お上がんなさいまし。」と御新造は入口の 庭のほうへ福ちゃんを向けて、自分もいっしょにしゃ がみながら言った。 「まあ、福ちゃんのふとっていなさること。」と娘の 一人が言った。  ほかの娘も笑いながら、「福ちゃん、シーコが出ま すかネ。」  福ちゃんは半分眠っていた。御新造は子供の両足を 持ち添えて、「シー」とさせて、やがて奥のほうへ連 れて行った。  延ちゃんはもう眠っていた。延ちゃんのまくらもと には人形が大事そうに寝かしてあった。御新造が福ち ゃんに寝まきを替えさせているところへ、りんは線香 の|粉《こな》にしたのを紙に包んで持って来た。福ちゃんは|股《もも》 ずれがしてそれが痛そうにただれている。そこへ御新 造は線香の粉をなすって、おしめをあてて、それから 人形でも縛るように福ちゃんの足を縛った。  御新造が横になって子供を寝かしつけ七いる間に、 近所の娘たちはランプのまわりへ集まった。りんも台 所を片づけて来て、手習いの仲間入りをさしてもらっ た。ともかくもりんは尋常科だけ卒業したと言って、 前にいた下女のように|仮名《かな》の「か」の字を右の点から 書き始めるようなことはなかった。  しかし、りんは性来読み書きがきらいである。どん なにほかの娘たちが優美な手紙の文字を書き習おうと して骨折っていても、りんはそれをうらやましいとも 思わなかった。やがて御新造が起きて来て、ヨモヤマ の話が始まるころには、りんは黙って引っ込んではい ない。りんはほかの娘たちよりもしゃべった。無知な 彼女はまたそれを得意にして、日.ころ|継栂《ままはは》を「おば さん、おばさん」と呼んだことや、その継母はかつて 隣の|後家《ごけ》であったことなぞをノベツに話した。この娘 の口にかかっては、たいていのものはしゃべりまくら れるくらいである。  だれのロまねかは知るものもなかったが、りんは自 分の継母をこんなふうに評した。 「ナニ、あの人は|小言《こごど》をヤカマしく言っても、腹のな い人ですからー」  それを聞いて、御新造もほかの娘たちも腹をかかえ て笑った。その日、だんなは学校の生徒を連れて遠足 に出かけたが、おそくなってわらじばきで帰って来 た。  十月の末になった。中庭にも、台所の裏手にも、|柿《かき》 の枝が重そうにたれ下がった。豆腐屋のむすこは頼ま れて来て、まず裏のほうの木へ上った。|山家《やまが》では柿の 実の熟するころで、楽しい秋の日の光がさし入る。だ んなや延ちゃんは裏へ出て見る。御新造は福ちゃんを 抱いて勝手口に立っている。こういう時には、りんは 夢中で、|陰日向《かげひなた》になった霜葉の下を歩き回った。  急にどどどどどと音がした。枝のヘシ折れる音がし た。豆腐屋のむすこは落ちたかと思われた。これは|策《ざる》 のなわが切れたためにもぎためた柿の実が一時に落ち て来た音であった。柿は桑畑のほうまで飛んだ。りん は延ちゃんといっしょになって、うれしそうにあちこ ちと拾って歩いた。 「なわじゃ切れていかん。りん、細引きを持って来 い。」こうだんなが言った。  りんは勝手口へ飛んで行って、「御新造さん、細引 きをちょうだい」と言った。りんはもうキョロキョロ そこいらを見回していた。  裏の柿は「こねり」と言って、日あたりのいいせい か早く色づいた。台所の板の間はごろ、ころする柿でい っぱいになった。中庭の「甘露」のほうはまだ青いの があって、豆腐屋のむすこは半分ほどしかもがなかっ たが、それでも縁側に山ほどあった。ちょうど日曜 で、隣の娘も話しに来た。この娘は茶断ちだと言っ て、御新造がすすめる茶を飲まずに柿だけ取った。み んな縁側のところへ集まって食った。「第一、大屋さ んへあげなくちゃ。」と御新造が言った。りんは柿を 入れた|策《ざる》を抱いて、 隣近所へそれを配って歩いた。 「りん、これを|岡本《おかもと》さんへ持っておいで。」とだんな が言った。岡本さんとは、やはりだんなの同僚であ る。 「こんなにたくさん!」りんは目を丸くした。  御新造は笑って、「お前、途中で食べていちゃいけ ないよ。」 「まざか。」とりんが答える。 「りんのことだものー」と御新造は意味ありげに言 った。 「りんのことだから、食べてなぞはいないナア。」と だんなが笑った。 「ヘヘヘヘヘ。」  とりんも笑って、柿の策をかかえながら飛んで出て 行った。やがてまた駆けて帰って来て、「行って|参《さん》じ やした、」と言う。だんなが「先生はいたかい、」と聞 くと、「先生はどうだか見えませんでしたが、御新造 さんが出て来ましたー御新造さんは奥のほうでね え、二十銭銀貨だと思って、めた喜んだら、五厘銅貨 だった、ツマラないナアなんて言ってました。」 「むだ口をきくな。」  こうだんなにしかられて、りんはすごすご引き下が つた。 「りんーりん。」  返事がない。南の明り窓からは、朝の光が薄白くさ して来た。戸の透き間も明るくなった。ランプは細目 に暗く赤くとぽっている。 「りんーりんーりん。」  とまた御新造が続けざまに呼んだが、まだ返事がな い。 「あゝあゝ、驚いちまった。」  御新造は嘆息した。この呼び声に、りんが目をさま さないで、子供のほうが目をさました。急に福ちゃん は泣き出した。「それ、うまうま」と母親に言われて、 福ちゃんは余計に激しく泣いた。 「ハイ。」  とりんは呼ばれもしないころに返事をして、起きて 寝道具をたたんだ。りんが台所の戸をあけるころは、 隣のほうでははたきをかけたり部屋をそうじしたりす る音が聞える。水車小屋のほうでは鶏の声が起る。り んはボヤを取りに裏口へ出て見たが、早起きの隣のお ばさんはもう裏庭をきれいに掃いて、大きなごみとり に落ち葉をかきとって、それを裏の竹やぶのほうへ捨 てに行くところであった。 「どんなにお前を呼んだかしれやしない……いくら呼 んだって、返事もしやしない。」  こう御新造が起きて来て言った。  りんは答えなかった。黙って|釜《かま》の下をたきつけた。 暗い、むせるような煙は、すすけた台所の壁から高い 草ぶきの屋根裏をはって、炉ばたのほうへ遠慮なく侵 入して行った。家の内は一時この煙で満たされた。 黄ばんだ日があたった。|収穫《とりいれ》を急がせるような小春 の光は、植木屋の屋根、機械場の白壁をかすめて、激 しい霜のために枯れがれになった桑畑の間を通して、 |室賀《むろが》の|家《うち》の土壁を照らした。家.ことに大根を洗い、そ れを壁に掛けてかわかすぺき時節が来た。毎年山家で のならわしとは言いながら、こうして野菜をたくわえ たり|漬《つ》け物の用意をしたりするころになると、また長 い長い冬ごもりの近づいたことを思わせる。  隣のおばさんは裏庭にある大きな柿の木の下へむし ろを敷いて、ネンネコ半天を着たおばあさんといっし ょに、大根を干す用意をしていた。まだ洗わずにある 大根は山のように積み重ねてあった。この勤勉な、労 苦を労苦とも思わないような人たちに励まされて、室 賀の御新造も手ぬぐいをかぶり、ウワッパリに細ひも を巻き付けて、りんを助けながら働いた。時々隣のお ばさんは粗末な|垣根《かきね》の所へやって来て、御新造に声を かけたり、お歯黒の光る口もとに|微笑《えみ》を見せたりし た。りんは隣のおばさんと同じように荒れ性で、ひび の切れた手を冷たい水の中へ突っ込んで、土のっいた 大根を洗った。  俗に「地大根」ととなえるは、この|荒蓼《こうりよう》とした土地 でなければ産しないような野菜であるが、室賀でもこ れを白い「|練馬《ねりま》」に交ぜて買った。地大根は、堅く、 短く、かぶを見るようで、 土地慣れない御新造がな わで縛ろうとするにはだいぶ時がかかった。  学校のひけるころ、だんなは小倉のあんどんばかま をはいて帰って来た。やがて洗うものは洗い、縛るも のは縛って、半分ばかりはかわかされる用意が出来た ので、りんはだんなを呼びに行った。だんなは勝手ロ のほうからはしごを持って来て、それを土壁に立て掛 けた。それから、だんなの力ではようやく持ち上がる ような、重い大根のつないであるなわを手にさげて、 よろよろしながらそのはしごを上った。女どもは、笑 って、揺れるはし、こをおさえた。 |冬至《とうじ》には、室賀の|家《うち》でもかぼちゃと|蕗味噌《ふきみそ》を祝うこ とにした。かぽちゃはそのために取っておいたのが、 南向きの部屋の床の間に残っている。|蕗《ふき》の|董《とう》は御新造 が裏のほうへ行って、桑畑の間を流れる水のほとりか ら、頭を持ち上げたやつを摘み取って来た。 「お寒う。」  こう声をかけて、大屋さんの娘が|家《うち》のわきを通っ た。  御新造は炉ばたへ|鍋《なべ》を持ち出して、手製の|蕗味噌《ふきみそ》を 作ろうとしていたが、ふと大屋さんの娘で思いついた ように、「りん、そこからのぞいてごらんよ1大屋 さんから取りに来たかナ、」と言い出した。  りんが台所から流れのほうを見ると、大屋さんの娘 は寒そうな様子をしながら、石の間を捜し歩いてい る。「黙ってみんた取ってしまって、悪いことをし た。」とまた御新造が気の毒そうに言った。「捜したっ てもうありゃしない。それじゃねえ、りん、このお味 噌が出来たら大屋さんへ持っておいで。」  りんはジロジロ御新造の顔を見た。やがて蕗味噌が うまそうに出来たころ、御新造から小さいふた物を受 け取って、それをふろしき包みにしてさげて出た。ま た雪の来そうな空模様であった。だれも見ていないと ころへ行くと、りんはひとりで愚かしく笑った。そし て、室賀の|家《うち》の|土塀《どぺい》について、枯れがれな桑畑の間を 通って、大屋さんの裏手にあたる小高い石段を上っ た。  御新造はすこし|風邪《かぜ》の気味で、春着のしたくを休ん だ。こたつであたためた寝まきに着替えさせてから、 延ちゃんも福ちゃんも寝てしまった。押しつまってか らは、ちょうちんつけて手習いにかよって来る娘たち もなかった。御新造がこたつのところに頭を押し付け ているのを見ると、りんも手持ちぶさたの気味で、ア カギレの|膏薬《こうやく》を火ばしで延ばしてはったりなどしてい た。  寒い晩であった。時々部屋の柱の|凍《し》み割れる音がし た。りんは自分から進んで一字でも多く覚えようと思 うような娘ではなかったが、主人の思わくをはばかっ て、申しわけばかりに本のおさらいを始めた。いつの まにか彼女の心は、いな"こをとって遊んだり、草をし いて寝そべったりした楽しいたんぼわきのほうへ行っ てしまった。そして、主人に聞えるように同じところ をなんどもなんども繰り返し読んでいるうちに、眠く なった。しまいには、本に顔を押し当てたなり、しば らくそこへつっぷしてしまった。  急に、福ちゃんが声を揚げて泣き出した。またりん は読み始めた。 「|風邪《かぜ》を引いてるじゃないか。ちっとも手伝いをして くれやしない。」  こう御新造が言った。御新造はもうがまんがしきれ ないというふうで、いきなりこたつを離れて、不熱心 な奉公人の前にある本を壁へ投げ付けた。 「やかましい!」  りんはよすにもよされず、キョトキョトした目つき をしながら、うろたえている。 「なんにもしてくれなくてもいいよ。」と御新造は鼻 をすすり上げて言った。「居眠り居眠り本を読んで何 になるーもういいから、よしてお休みー」  まもなくりんは自分の床をとりに行った。北側の庭 に降った雪は消えずにあるので、だんなのいるほうは 余計に|凍《し》みる。その寒い部屋の|唐紙《からかみ》をすこしあけて、 「お先へお休み」とおじぎをしに行った時は、だんな はまだ本を読んでいた。りんは炉ばたへ返った。ふと んの上へは自分が脱いだ着物を掛けた。それから、冷 たい寝床の中へもぐり込んで、だんなや御新造へは聞 えないようにすすり泣きをした。 「どうしてあんなに子供を泣かせるんだねえ。あんな に泣かせなくっても済むじゃないか。」  と御新造はりんの前に立って言った。隣では朝から |餅《もち》つきを始めて、それが壁一重を隔てて地響きのよう に聞えて来る。室賀でも、春待つ宿のいとなみにせわ しかった。|門松《かどまつ》はもう入口のところに飾りつけられ た。だんなは南向きの日あたりのよい場所を選んで、 裏白だの、譲り葉だの、|禮《だいだい》だのを取り散らして、子供 を相手に|注連《しめ》飾りの用意をしていた。  貧しい|田舎《いなか》教師の|家《うち》にももう正月が来たかと思われ た。だんなは裏白のついた細長い輪飾りを部屋部屋の 柱に掛けて歩いたが、何かまた子供のことで御新造が 気を痛めているかと思うと、顔をしかめた。だんなの 癖で、見込みのない奉公人よりは御新造のほうを責め るi理屈があっても、なくても、一概にだんなは使 うほうの人がワルイとしている。だから奉公人が増長 するーこうまた御新造のほうでは残念に思ってい る。 「そりゃ、お前が無理だ。」こうだんなが御新造に言 った。「まだりんは十五やそこいらじゃないか1子 供じゃないかーそんなに責めたっていけない。」 「だれも責めやしません。」と御新造はさもくやしそ うに。 「責めないって、そう聞えらア。」 「わたしがいつ責めるようなことを言いました。」 「お前の調子が責めてるじゃないか。」 「調子はわたしの持ち前です。」 「お前がおっかさんに言う時の調子と、今のとは違う ように聞えるぜ。」 「だれが親と奉公人といっしょにして物を言うやつが あるもんですか。こんな奉公人の前で、親の恥までさ らさなくってもようござんす。」 「わからないことを言うナア……なにもそんなわけで 親をかつぎ出したんじゃなし    奉公人は親くら いに思っていなくって使われるかい。」  奉公人そっちのけにして、だんなと御新造はついこ んなふうに言い合った。その時、延ちゃんが飛んで来 て、何事が起ったかと言ったような目つきをして、親 たちの顔を見比べていた。りんはりんで、すみのほう に小さくなって、震えていた。「奉公人のことで、言 い合いをするなぞはーバカバカしい。」とだんなは 思い直した。「だんなはなんにも知らないからだーー そばにいて見ないからだ。」とまた御新造のほうでは 思った。この奉公人の前で言われるということが、御 新造には一番イヤだった。御新造はだんなが奉公人と いうものをよく知らないと思っている……どんなにり んが自分の言いつけを守らないか、どんなに延ちゃん をヒドくするか、そんなことはもう一向お構いなし だ、こう思っている。 「こんちは。お|餅《もち》を持って|参《さん》じやした。どうもおそな はりやして申しわけが"こわせん。」  こう大きな百姓らしい声でどなりながら、|小原《こはら》の|在《ざい》 の米屋が表からはいって来た。 「お|餅《もち》! お|餅《もち》!」と延ちゃんが呼んだ。  小原の百姓は家の前まで|餅《もち》をつけた馬を引いて来 た。「ドウ、ドウ」などと言って、|落葉松《からまつ》の枝で出来 た|垣根《かきね》のところへまずその馬をつないだ。  正月が来た。春とは言いながら、山家はまだまった く冬のありさまである。寒い北向きの草屋根からは、 二三尺もあろうかと思われる長い剣のような|氷柱《つらら》が|垂《た》 れ下がる。庭にある草木は溶けない雪のために深くう ずもれている。  十五日の宿入りには、りんも村のほうヘ帰ることを 許されたので、前の日からそのしたくで騒いだ。御新 造はりんのために、着物を縫ってくれるやら、|下駄《げた》を 買ってくれるやらした。  りんはすこしも落ちついていなかった。同じ主人の 子供でも、りんは幼い妹のほうをひいきにして、「福 ちゃん、福ちゃん」と言って、人形のように愛してい たが、その日も人の見ないところへ福ちゃんを抱いて 行って、福ちゃんの柔らかなほっぺたに自分のをすり つけて、 「福ちゃん……りんはもうあっちへ行って帰って来ま せんよ。福ちゃん、いいの?……りんがあっちへ行っ てしまったら、福ちゃんはどんなよそのお|子守《こもり》に|子守《こも》 られるの?    」  こうかきくどいた。  日は短かった。午後の三時に|部屋《ハや》のそうじをして、 四時半には|夕飯《ゆうはん》を済ました。あかりのつくころから、 だんなの同僚がたずねて来て、奥でうさぎ狩りの話な ぞが始まった。こたつのあるところには、御新造へ女 の客もあった。  りんは御新造に言い付けられて、炉ばたで|餅《もち》を焼い たが、ぱあさんでもするようなくしゃみが三つばかり 続けざまに出た。「あゝ、どこでうわさしてるかナア。 うちでうわさなんかする気づかいがない。おばさんが 一つ、ねえさんが一つ、それから……」  りんの心はもう会いたいと思う人たちのほうへ行っ ていたのである。その晩、りんはマンジリともしなか った。一番|鶏《どり》の鳴くころには、りんは起きて、暗い台 所で働いた。それから、夜のうちにすっかりまとめて おいた自分の荷物を持ち出して、まだ主人が知らずに 眠っている戸の外を通って、そのふろしき包みを|土塀《どぺい》 のわきにある大きな石の間に隠しておいた。  御新造は、りんが流しもとで氷を砕く音に目をさま した。起きて来て、ションボリとした五分心のランプ のかげで、りんのために髪を結ってやった。りんは手 が震えた。御新造も寒さのために震えた。まだ夜は明 けなかった。  薄い朝日がポッと屋根の雪にあたり始めたころ、り んは新しい宿入りの着物を着て、その上からずきんを かぶって、だんなや御新造にあいさつして出た。 「気をつけておいでよ。」  と御新造は人のよさそうな調子で言った。  りんが|室賀《むろが》の|家《うち》を出る時は、小さな手荷物一つしか 持たなかったが、やがて|土塀《どべい》を一回りして、野菜畑や 桑畑のわきを急いで行くころは、大きなふろしき包み をしょっていた。乗合馬車の通る往来まで行くと、も うラッパの音が起る。真綿帽子をかぶった人たちも寒 そうに通る