弟子 島崎藤村  師匠のお竹は|揉療治《もみりようじ》のほうでいそがしかった。奥の |植半《うえはん》からわざわざ車で迎えが来たので、お竹は|唐桟《とうざん》に 半えりの掛かったサッパリとしたなりをして、|向島《むこうじま》の ほうへ出かけて行った。あとはお竹の父親、六十いく つになるたばこ好きなおじいさんと、二人の|弟子《でし》1 お玉、お富とで、家の中が寂しい。そこは|代地《だいち》にある 狭い小道の中で、古風な蔵つづきの間を|柳橋《やなぎばし》のほうへ 抜けられるような位置にある。  年上のお玉は台所にいた。そこで米びつのふたをあ けて、さらしでこしらえた袋の中へ米をつかみ入れて いた。ちょうど、年下のお富はよごれ物を|洗濯《せんたく》するつ もりで、二階の|部屋《へや》からおりて来たが、その時|朋輩《ほうばい》の うしろから声をかけた。 「お玉さん、何するの。」  と言われて、お玉は袋を隠した。そして、平気を装 うようにして、 「御覧よ、まあ今度のお米の白いこと。」  こう言いながら、米びつの中にある白米を右の手で すくって、お富に見せた。  師匠の|家《ヨ》では、この節米が早くなくなる、不思議 だ、不思議だ、と言っている。お富は引き窓の下に立 って、しばらくお玉の顔をながめていた。「妙なこと をする人だよ。」こう思いながら、やがて|洗濯物《せんたくもの》を持 ったまま裏口のほうへ出て行った。  ある女髪結いの世話で、お富はここへ|弟子《でし》入りして から足かけ三年になる。急にお富もせいが延びたと言 われてきた。早いものだ1通り一つ隔てて向こう 側に住む|柏屋《かしわや》の小菊という娘なぞは、よく「ちび、ち び」と呼び捨てにされて、表格子のわきで張り物をし ていたが、もう長いそでの着物が似合って、秋には一 本になって出るという。それを思うと、近所の|下硫《したす》き なぞといっしょに遊んで歩くお玉のことを|姉妹弟子《きようだいでし》と 考えるさえ、お富には気恥ずかしくなって来た。  お玉についてはろくな話がない。ある時も師匠の親 類にあたる若い書生が来て、「お玉さんそんなに|白粉《おしろい》 を塗るのはおよし、見っともないから、」と言ってか らかったことがあった。すると、お玉はムキになっ て、「わたしだって、ばかにしたもんじゃありません よ、」とやり返したら、「へえ、お前がか、」と書生は 腹をかかえて笑った。この「お前がか」は師匠の|家《うち》で 一っ話になっている。すべてこの調子だ。とはいえ、 お富はあのお玉のふとったからだから出る笑い声を聞 くと、気は浮き浮きした。  師匠の|留守《るす》。お富はお玉に誘われて、まだ一度も行 ったことのない|家《うち》へ行った。小菊の|家《うち》のかどから細い 路地を通り抜けて次の通りへ出ると、、こちゃ。こちゃし た町中に古い長屋がある。そこにお石という後家さん が住んでいる。お玉は|下駄《げた》を脱ぎ捨ててツカツカと上 がった。そしてお富に知れないようにして、たもとか ら出した米の袋を後家さんの手へ渡した。 「おばさん、あすは|五目飯《ごもく》をたいておくれナ。」  こうお玉は低い、なれなれしい声で、お富のほうへ は聞えないように言った。  二階にはだれもいなかった。お富は無理やりに引き 上げられた。貸間にでもしてあると見えて、粗末な道 具なぞが置いてある。北側の窓の外はすぐ物干しで、 その小障子のあいたところから、|隅田川《すみだがわ》に近い空も見 える。  お玉は火ばちのそばへ寄って、そこにある座ぶとん を遠慮なしに敷いた。堅苦しい師匠の|家《うち》では、隠れて 巻きたばこをのみのみしたが、それを師匠に見現わさ れてから、刻みだけは許されている。ここは近所の女 中だの、|下硫《したす》きだのを遊ばせる|家《うち》で、お玉にとっては 一番気楽な宿だった。火ばちのそばには、袋入りの刻 みたばこ、長い|羅宇《らう》のきせるがある。それをお玉はの みちらした。  まもなくお玉の取り寄せた菓子が来た。お世辞のい い後家さんは|階下《した》から茶を運んだ。 「お富さん、お前さんの好きなのをお上がり。」とお 玉は菓子を年下の|朋輩《ほうばい》にくれて言った。「ひょっとか するとわたしはお暇をいただいて、お師匠さんのとこ ろを出るかもしれないよ。」 「そう。」とお富は気のなさそうな返事をした。  やがてお玉は|戸棚《とだな》かEまくらを引き出した。お富に もすこし横になれと言った。 「わた、、-帰るわ。」  こうお富は言い出して、ぷいとその二階をおりてし まった。  その晩は、師匠はめずらしく向島に泊まるというこ とで、わざわざ使いが来た。で諸方から掛かって来た 口はたいてい断わった。お玉は柳光亭の女中、たけ|揉《も》み に行った。お富のほうはまだ修業中で、師匠のかわり に得意先を回るというところまでいかなかった。 「お弟子さんでもよう"こざんすから、」という声が掛 かって来なければ行かれなかった。  おじいさんは早く床へはいった。やがて寝る時が来 て、お富はお玉といっしょに二階へ上がった。ふとん の中へはいってからも、お富はつくづくあんまなぞに なるのがいやだと思って、「なぜ、わたしはお師匠さ んのところへもらわれて来たろう、」とそれを考える と、いっそ自分の|家《うち》のほうへ逃げて帰りたいような気 が起って来た。その晩はめずらしく母親の夢を見た り、黒いものが来て自分の上からおおいかぶさったか と思うと、それ、が夢であったりした。 「ハイ。」  とお富は夢中で言って、夜中にむっくと起き直っ た。  お富がわれに返って、自分の寝ぽけたことに気がつ いたころは、暗やみで寝床の上をなでてみていた。別 に寝床ケ片たくもなかった。毎晩一度ずつお冨は師匠 から呼び起される習慣になっている。その夜はよく自 分ひとりで目がさめたと思った。で、安心して、一度 |階下《した》へ行って来て、それからまた眠った。  あくる日の午後、ようやく師匠は軍で送られて帰っ て来た。おじいさんや弟子に食わせたいと思って持リ て来た|折詰《おりづめ》のかまぽこだの、キントンだのが、長火ば ちのそばで開かれた。 「ゆうべというゆうべはわたしも困ったよ。」と師匠 は二人の弟子の顔を見比べて、ウマそうに新茶をすす りながら話した。「わたしが帰ろう帰ろうと思っても、 どうしてもお客様が帰さないんだもの。『かねてお前 さんのうわさは聞いておったが、ようやくのことで思 いがかなった。きょうはまあユックリしておいで。な んでもお前さんの好きな物を食べとくれ。欄けばお前 さんのとこでは看板も出してないそうだが、よくそれ でやれるネ。』そうお客様はおっしゃるから、『ハイ、 おかげさまで、どうにかこうにか女の手一つで|老父《どしより》を 養っています、』ッてーーネ。」  師匠は言葉を続けて.「ああいう立派なお座敷で、 窮屈な思いをするより、うちでお茶をいれだくのが一 番気楽でいい。『なんなら、承う一晩も泊まっておい でナ』ッて、|植半《うえはん》の女中に言われたけれど、『まっぴ ら』1そう言ってわたしはお断わりして帰って来 た。」 「お師匠さん。」とその時お玉が言い出した。「わたし はあわせを着たいと思いますが、悪いほうのでもよう ござんしょうか。」 「あゝ、いいとも。あかさえ着いていなけりゃ、お 前、それでいいやね。」  こう師匠は答えたが、心には妙なことを尋ねたもの だと思った「その場はそれで済ました。お玉の尋ねた ことが気にかかるかして、まもなく師匠は二階へ上が って行った。ちょうどお富がひとりそこに居合わせ た。お富は、師匠が|戸棚《とだな》をあけるから、自分の夜具で も調べるのかと思って見ていると、そうでもなかっ た。師匠の調べるのはお玉の物だった。そのうちに、 お玉のふとんの下からさらしめ袋が出て来た。お玉の 着物は一枚もつづらの中になかった。 「お富、お前は|階下《した》へ行っておいで。」  と師匠が言った。  お富は|階下《した》へ降りた。どういうことになるかとお富 が思っていると、やがて師匠も二階からおりて来た。 お玉はボンヤリとねずみいらずの前に立っていた。 「この袋はどうしたの。」  こう師匠が言って|糠《ぬか》だらけになった袋の中をお玉に 見せた。 「それですか。」とお玉はトボケ顔に答えた。「アノ、 さっきお米屋さんが来て、|糠《ぬか》を入れる物がないって言 いますから、わたしが間に合わせに縫って上げたんで すよ。」 「ホウ、それでょくこんなに糠が着いてるねえ。」と 師匠は言いかけて、急に気を変えて、「お玉、お前も 考えて物をお言い。これだからよそへ行って泊まって ても、うちのほうが心配でならないんだね。わたしは 今なんにも言わないー」  得意回りをすると言って、お玉が出て行ったあと、 師匠は帯を締め直した。「これには知恵をつけるやつ があります。ちょっとわたしはお石さんのところまで 行って来る。」こう言って、やがて師匠は出て行った。 一足おくれてお富も|家《うち》を出た。お富は、師匠の顔色が 変っているのと、朋輩のことが気がかりなのとで、例 の後家さんの|家《うち》の窓の下へ行って、それとなく様子を 立ち聞きした。 「手前どものお玉が、毎度またお世話様になりますそ うでー」と師匠の声がする。 「お玉さんですか。あの|娘《こ》のわがままにも困ります よ。」というは後家さんの声で、「あなた、こうなんで すよ、勝手におひつのふたをあけて御飯をいただいた り、ふとんを引きずり出して寝たりしましてネ。」 「実は、そのお玉のことにつきまして、おじゃまに出 ましたようなわけなんですが。」 「あれ、そう改まっては困りますよ。」 「あの|娘《こ》の着物がそっくりこちらにお預け申してある そうですから、わたしはそれをいただきに上がりまし た。」 「着物なんか、あなた1宅にはございませんよ。」 「いえ確かにあの|娘《こ》が……」  二人の話はそこでしばらく途切れたかと思ううち に、やがて後家さんの声でこんなことが聞える。 「まあ、どうしたらよう"こざんしょう。ほんとうにわ たしは知ぼえが悪い。すっかりもう胴忘れしちゃって ……そうおっしゃれば、あなた、お玉さんの着物は宅 に"こざいましたようですよ。」  お富はからだじゅうが耳だった。  |内部《なか》のほうでは、師匠がお玉の着物を受け取ってか ら、どうやらこう開き直った様子。それを聞きつけ て、近所の人たちも窓の外へ立った。往来には、白い 前だれをかけた女髪結いだの、それから諸方のかみさ んだのが集まって、「この|界隈《かいわい》で、お石さんのことを 知らないものはないやね、ほんとうだよーもっと言 ってやればいい、もっと言ってやればいい、」こう力 を入れていた。お富はもうそこに立っていられなくな った。サッサと逃げて帰った。  夕方になって、お玉はぶらりと師匠のもとへ帰って 来た。後家さんの|家《うち》にあったことも、自分の着物が師 匠のほうへ取りもどされていることも、知らないらし い。 「お玉。」と師匠はなにげなく、「この節はちっとも|金 銭《おあし》をいただいて来ないじゃないか。そんなことでかせ ぎになるかネ。」       ・ 「えゝ、どこもかしこも貸しにばかりなっちゃってl -。」とお玉は答える。 「貸しに?」師匠は笑った。「人を疑ぐっては済まな いがね、すこしわたしにも思うことがあるから、念の ためにお富を聞きにやるよ。」  こんなわけで、お富は師匠に言いつけられて、心あ たりの|家《うち》を聞いて歩く役回りに当たった。お玉は黙っ てしまった。師匠は内と外とに気を配るというふう で、お富に向かって、「お前ていねいにロをきくんだ よ1誠にすみませんですが、少々物を承りとうござ います。伺いさえすれば、それでょろしいので、御催 促に上がったわけではございません。実は手前どもの ほうで取り調べたいと思うことがございますからッ て。」こう言い聞かせた。 「今晩は。」とそれをお富が得意先へ言いに寄るころ は、日暮れに近い時で、座敷の掛かったことを知らせ に歩く男の声、切り火の音、それから|姐《ねえ》さんがたの格 子戸を出たりはいったりするその混雑の中で、胎富は 一軒一軒聞いて歩いた。お玉の言うことはみんなうそ だった。さんざん恥をかいて、いいかげんにして師匠 の|家《ラち》へもどった。その時はもうあの朋輩は姿を隠して しまった。  それぎりお富はお玉を見なかった。お玉は、その 晩、例の後家さんの二階に泊まっていた若い郵便配達 夫といっしょに手を取って逃げた。  この若いもの同士の出奔は、師匠に言わせると、い い見せしめで、お富が眼鼻立ちの愛らしいにつけて も、師匠は決してうぬぽれるなうぬぼれるな、と言い 始めた。それからは師匠は一人の若い弟子に向かっ て、手に職のない女の|不幸《ふしあわせ》を口のすくなるほど説き聞 かせて、自分が十八の年に一度|亭主《ていしゆ》を持ったこと、そ の夫に別れてからこのかたいっさい男を|断《た》ったこと、 こうして奮発次第で一流を伝えることもでき、おまけ に女の手一つで娘も育て、立派に養子まで迎えたこと を話した。そのためには|報難《カんなん》をなめつくしたもので、 ある年の|大晦日《おおみそか》なぞは客のひけるころから|亀清《かめせい》の女中 を|揉《も》み始めて、五人目を|揉《も》むころに夜が明けた。とう とううちで年もとらなかった。こんなことまで話し た。まったく師匠はお富を仕込んで自分の流儀を伝え たいと思ったのである。しかし年の若いお富には、一 生寂しいひとりみで、働け、働けと言っている師匠の 心持をくみとることができなかった。まだそれでも、 若い配達夫といっしょに逃げたお玉の心持のほうがよ くわかるように思った。  秋から、両国の公園が新たに開かれた。ちょうどそ の祝いの日、お富は師匠の|家《うち》の前を|神田川《かんだがわ》の岸へ出 て、柳橋を渡って、あれからまっすぐに新公園のそば を通り、踊り屋台などの設けてあるところから人ごみ の中を|大川端《おおかわばた》へ取って、|生稲《いくいね》のだんなを揉みに行っ た。「若いものでもいいからよこせ。」こういう使いが あったので、行ってみると、だんなが待ちかねてい た。 「すみませんが、お手ぬぐいを拝借。」  こう女中に言って、それからお富はだんなのうしろ へ回った。 だんなの肩はさほど凝ってもいなかった。|頭《つむり》へさわ って、鼻の両わきまで揉むのが師匠の流儀であった。 で、教えられたとおりに順に血の凝りをホグして、左 の肩から、腕、手と揉み下げた。その時だんなは笑い ながら、 「お富さんーお前さんぐらいのきりょうを持ってい て、あんまさんになるなぞは、実に惜しいものだ。い っそ芸者になったほうがいいじゃないか。」  お富はだんなが戯れて言うとも思えなかった。  不思議にも、このだんなの一言は無知なお富の一生 を決めさせるほどの力があった。礼を言って、おじぎ をして、料理屋の|門《かど》を出るころは、お富はもうその気 になっていた。またもとの道を新公園のほとりまで来 かかると、その日の祝いもすんだとみえて、高い帽子 をかぶった人、ひげの|生《は》えた人なぞが引き回した幕の 中から出て来る。新公園を見ようとして集まった|男女《なんによ》 の中には、晴れ着を着飾った|姐《ねえ》さんたちがいっしょに ぞろぞろ帰って行く。向こう横町に住む柏屋の小菊 も、もう肩揚げをおろして、紋付にたすきをたれ下げ ながら、すこし顔をあかくして通った。みんな祝いの 酒をしいられたと見えた。  小菊のうしろ姿をながめながら、お富は橋のたもと まで来た。「小菊さん、|若柳《わかやぎ》のお師匠さんへは何年ば かりかよって?」こう呼びかけて尋ねたく思ったが、 お富は自分の姿を恥じてよした。  神田川の岸には、|石垣《いしがき》から女の髪の毛のようにたれ 下がる長い柳の枝がある。それを通して、水の上を|往 来《ゆきき》する船が見える。しばらくお富は木の下に立って、 ボンヤリ考えた。 「こういう時におとっさんがいたら……」と思った。 お富は父親というものを知らない。母親だけしかな い。父親のことを考えると、頭が変になるのがお富の 癖だった。  |生稲《いくいね》のだんなから言われたことを、まずだれに相談 したものか、師匠に話したものか、おじいさんに話し たものか、とお富は迷った。男だからおじいさんのほ うが話しよい。こう思って、自分のからだに四十円と いう金の証文が入れてあることなぞを考えるようない とまはなかった。|家《うち》へ帰ってみると、師匠は療治に出 たあとで、おじいさん一人しかいない。  とうとうお富はこんなふうに切り出した。 「おじいさんーすみませんが、わたしは芸者になり とう"こざいます。」  するとおじいざんは穴のあくほどお富の顔をながめ ていたが、たばこのやにで黒く染まった歯をむき出し て、 「バカ!」  と言ったきり、あとはなんにも言わなかった。また おじいさんはたばこをふかし始めた。  一時間ばかりたって、師匠は帰って来た。お富は二 階にある自分の部屋に隠れていた。  やがて師匠の声で、 「お富、|階下《した》へおいでーちょいと|階下《した》へおいで。」  こうはしごだんの下から呼んだ。お富はモジモジし て、何べんか師匠の前へ出ることをちゅうちょした が、行かないわけにいかなかった。 「このバカが暇をくれろとサ。」と淡泊なおじいさん が言った。  師匠はいちぶしじゅうを聞き取って、もう嘆息して しまった。「お富、お前はほんとうに芸者になりたい のかい。だんなもだんなだよ。こんな罪のないものに 向かって、そんな冗談を言わなくたってもいいじゃな いか。何も|稼業《かぎよう》だーこうして正当にやっているの に、あんまだからってどこが恥ずかしい。わたしが今 度だんなのところへ行ったら、きっとあやまらせない うちはおかないから。」  さすがに師匠はだんなの冗談だとは思った。しか し、お富も言い出したことではあり、打っちゃってお くわけにもいかないので、一応お富の|叔母《おば》にあたる人 を呼び寄せることにした。その翌日、叔母は驚いて、 飛んでやって来た。この叔母はよく物のわかった人 で、どれほど師匠がお富のために尽くしたか、お富に は悪い|粗相《そそう》をする癖があっても、別に師匠はいやな顔 もせず、医者にまで見せて、そのためには何ほどのめ んどうを見たか、とお富の心得違いを師匠の前でさん ざん説いた。 「どうしてもわたしは芸者になりとう"こざいます。」  と言い切って、お富はそこへ泣き伏してしまった。  四十年の間苦労を仕続けて鉄石のようになった師匠 の心も、その時、お富の心をくんだ。何ゆえに自分が こういう職業を選んだかということに思い至った。父 のすすめに従い、いよいよ独身と決心した時は、自 分もまだ若くて、ちょうどお富と同じようにこの職業 を悲しんだ。それを師匠は胸に浮かべた。 「わたしはもう一生弟子は持たない。」  こう師匠は若い弟子の骨をえぐるような調子で言っ て、そして、お富を許した。  まもなくお富は暇をもらって師匠の家を出た.それ から八月ばかりたって、一度お富は勤勉な師匠にめぐ りあった。その時は、お富はだらしのないなりふりを して、暗い所に銘酒のびんを置き並べたような|家《うち》の二 階にいたが、|階下《した》へ降りて来ようとするとたんに、思 わず顔から火が出た。 「あら、お師匠さん……しばらく。」  とお富が穴へでもはいりたいように言うと、むかし の師匠は黙っておじぎをした。それぎりお富は隠れ た。