沈黙 島崎藤村  |勝田《かつた》君、すこし君の話をさせてくれたまえ。妙な人 を引き合いに出すようだが、ぼくの兄貴の友だちに|和 久井《わくい》さんという人があった。兄貴の話に、和久井はき たいな男だ、こちらが得意でいる時には決して寄り付 きもしなければたずねても来ない、逆境となると「ど うだい」なんて言葉をかけてたずねて来る。和久井は そういう男だと兄貴が言った。ちょうど君がそれに似 ていると思う。もちろん、君は君、和久井さんは和久 井さんで、それに兄貴の話した場合とぼくの言う意味 とは違うが、どうもそんなふうに思われてならない。  ぽくは君のことを忘れて過"こす月日もある。思い出 ざないことも多い。しかし、どうかすると君がこっそ りやって来て、こま.こまと話し相手になってくれるよ うな気もする。  勝田君、こんなことをぼくが言い出したところで君 はなんにも答える人ではない。君とぼくとの隔たりは 死んだ者と生きている者との隔たりだ。ちょうど君が 病気で|亡《な》くなった時は、ぽくは東京にいなかったか ら、君の葬式にも行かなかった。鈴木君は感心さね。 どつと君がわずらいついてからもよくたずねて行った というではないか。君が死んだあとでも、いろいろ世 話をしたよ。ぽくは鈴木君が雑誌に出した話を読ん で、君が病床のさまや、葬式の時の様子をあとで知っ た。君の晩年に、ホラ、君のそばで世話をした女の人 1あの人に君がほかから見舞いの牛乳だか薬だかを 取り寄せさせて、鈴木君たちのいるところで、君はそ れを細い|管《くだ》で吸ってみせて、どうせ助かる見込みのな いまくらもとでも君は他人の厚意を無にすまいとする ように、細かい心づかいをしたというではないか。鈴 木君は近"ころになってまた君の話をある雑誌に載せ た。その中に君の葬式のことが出ていた。君の時ほど 寂しい葬式を送ったこともないが、また、あれほど人 の死んだのを送って行くという気のしたこともない、 としてあった。鈴木君の話は短いが、感じはよく出て いた。君の葬式はさもあったろうと思う。たしか君の 死体は火葬場のほうへ送られて焼かれたように覚えて いる。君の戒名は寺島さんが選んで、いかにも君にふ さわしいものがついた。そのことは鈴木君も言ってい た:…沈黙……沈黙……君にあるものはただ沈黙だ… …君はもう永遠に無言な人だ……しかし勝田君、君が 笑うことも怒ることもできた時分よりはかえって今に なってよけいに君がぼくに物を言うとは、不思議では ないか…:  勝田君、人はとうてい沈黙に堪えられるものではな い、ぼくはよくそう思うね。あの寂しい修道院の中に 住んで、牛を|飼《か》ったり野原を開拓したりしながら無言 の行をやるというトラピストの|僧侶《そうりよ》たちですら、きっ とおなかの中で叫ばずにはいられなかろうと思う。い つぞやも鈴木君がぽくのところへ来て、あの話じょう ずな人が、自分ほど物を言っていながら、これでなん にも言わないような気もするという話が出た。そりゃ そうだろう、ぽくなども言いたいことがムズムズする ほどあって、こいつを言ったらさぞ胸がスーとするだ ろうと思うような時でも、さて口に出してみると、い つでもあとでボンヤリしてしまう。|心《しん》が黙ってる。で も、どうかするとひとりごとを言っていて、自分で気 がついてふきだすことがある。その話を鈴木君にした ら、 「ひとり、ことはぼくもよく言うよ。」  と言って鈴木君も笑った。  勝田君、君がぽくのところへやって来てくれるの は、多くこういう時だ。日がな一日わびしい単調な物 音が|部屋《へや》の障子に響いてきたり、果てしもないような |寂奥《せきばく》に閉ざざれる思いをしたりして、しばらく人もた ずねず、日のあたった黄色い壁などを慰みにひとりで 静かにすわっているような時があると、また君がほっ そりと背の高いからだに黒い|木綿《もめん》の紋付き羽織などを 着てやって来て、何年となく忘れていたぼくの前にす わって、白い、神経質らしい、しかし器用な感じのす る手で、長くたれ下がった額の髪をかき分けながら、  くがみらくづめ           らくがみく づめ 「苦髪楽爪とも言うし、楽髪苦爪とも言うね。」  そんな調子で君が話しかけてくれようとは思いがけ なかった。  勝田君、初めてぽくが君の手紙を見たのは|築地《つきじ》の佐 藤君の家の二階だった。そりゃ君の名前はとうから聞 いていたさ。まだ君に会わない前のことさ。君は|小竹《こたけ》 君のところへ会見を申し込んだことがあるだろう。あ の手紙をぼくが封を切って読んだ。あの時分にぽくら は鈴木君や佐藤君や小竹君などといっしょで雑誌を出 していたから、てっきりこれはぼくらの社のほうへ来 たんだ、そうぽくはいちずに思い込んでしまった。読 んでみると、君から小竹君への私信だ。あんなそそっ かしいことをしたと思ったことはないよ。ちょうど小 竹君が佐藤君の家の二階へ見えたから、ぼくは顔を赤 くしてさんざんあやまると、小竹君はまた小竹君だ、 ぽくらから見れば細君もあり子もあるくらいの人だか ら、 「なあに、ラバーからでも来たんじゃあるまいしl i」  そう言って、小竹君は軽く笑って、君からの手紙を 受け取った。  あの時は|伊勢町《いせちよう》の|明石《あかし》君も来ていた。君とラバー1 1小竹君の言い草がおもしろいと言って、|明石《あかし》君は手 を打って笑った。明石君は若い時からすぐそういうと ころへ気が付いたからね。 「小竹君iどうだったね、勝田君に会って見て。」  とあとでぽくが聞いてみた。君と小竹君と顔を合わ せるというのはよほどぽくらの好奇心を引いた。君も また小竹君の家へ行ってずいぶん黙ってすわりこんで いたと見えるね。たぶん君が小竹君に会ったのはあの 時が最初で、そして終りだったろう。  小竹君は君を認めた一人だ。ぼくはそう思う。その 証拠には、小竹君が君のことを書いたものを見るとわ かる。君もあれを読んでから会って見る気になったの だろう。まあたいていのものなら、自分を認めてくれ たと思うような人に対して、攻撃の態度には出ない。 ところが君は激しい。君はあとで小竹君のことをなん と言ったね。小竹などは自分がどぶの中へおっこちて いて、ひとまでおっこちると言って叫んでいる手合い だ。ほんとに、君には譲歩ということがほとんどない のだね。君はまたあの時分に羽振りのよかった人をつ かまえて、毒ついたことがあるだろう。|比喩《ひゆ》だなん て、なんだ、これは。類の無い大きないたちねずみを 御覧じろと言うから、見世物小屋へはいってみると、 三尺ばかりの板に血を塗って、それいたちねずみいた ちねずみと言うようなものだ。君のはあの調子だ。  去年の暮れ、ぽくはある雑誌に君の話をして、もっ と君は認められてもよかった人だ、君は誤解された人 だ、反抗の心に満ちあふれていた君はどうかすると|念 怒《ふんぬ》をもって世の誤解に報いた、これがますます君の誤 解されたゆえんだと言った。君の江戸趣味は迎えられ ても、君の神経質は世にいれられないものかもしれな い。  勝田君、君の知っているころからみると、ぼくもこ れでいろいろな話をするようになったろう。一時はず いぶんぽくも黙っているほうだったからね。あの時分 に今のぽくだったら、あるいは今日まで君があの時分 の元気でいたら、そう思うのがこの|生涯《しようがい》だろうか。そ んなふうにしてすべての知人や、|朋友《ほうゆう》や、|親戚《しんせき》や、そ れから情人などが過ぎ行くのだろうか。  もし、かりに君がこの世に生きながらえているとし たら、どんなものだろう。おそらくぼくは君に面と向 かってこんなふうには話せまい。昔はぽくも長い長い 手紙などをよく書いたものだが、年月のたつに従って だんだん短くなってきた。用だけしか書かなくなっ た。それもはがきで済ませるところはなるべく簡短 に。君からもらうとしても、例の細い、特色のある字 で、鈴木君といっしょに飯を食ってるが、やって来な いかぐらいにすぎなかろう。そこへぼくが出かけて行 ったとして、せいぜいきげんのいい君のくちびるから 酒の上の|小唄《こうた》の一つも聞いて、ヨウヨウめずらしく出 ましたねなどと冗談半分に戯れるにすぎなかろう。 君が料理の|通《つう》を振り回したところで、ぼくは聞いてい ることもあり、聞いていないこともある。君は君で食 い、ぽくはぼくで食う。君はぽくを|奴隷《どれい》にし、ぼくを もてあそび、ぽくの命にまで食い入らずにはおかなか ろう。それなら、もうたくさんだ。  だからぽくは死んだ君がやって来て、しみじみと物 を言ってくれるほうがなつかしい。孤独の幻よ。今と いう今は何事でも自分の言いたいと思うことが自由に 君に言える。  君が知っている大学生で山村君という人があったろ う。あの若々しいまなざしは君の記憶にもあるだろ う。あの人も出世した。今では立派なお役人だ。しば らくぼくも引っ込みきりでいるものだから、正月は一 ついろいろな|家《うち》をたずねてみようと思って、新年早々 |親戚《しんせき》回りをして、|根岸《ねぎし》から|谷中《やなか》を通つて|不忍《しのばす》の池の|端《はた》 へ出、あれから本郷へかかって|牛込《うしごめ》にある|親戚《しんせき》の|家《うち》ま で行った。暮れから降った雪は残って、山の手の樹木 の間からながめて行った時は、ふだん隠れて気のつか ないような、町々の屋根も白く現われ、なんとなく都 会の|眺望《ちようぼう》を変えて見せた。ちょうど山村君の|家《うち》へも近 かったから、寄って、二人で庭をながめながらみちみ ち見て来た話をしようとすると、柔らかい雪の印象の 大部分は逃げて行ってしまった。どうもしかたのない ものだとぽくは思った。鈴木君も今では牛込のほう だ。そこへもたずねたいとは思ったが、日は短し、暮 れ方で寒くはなってくるし、それぎりにして|家《うち》のほう へ帰って行った。お茶の水橋にさしかかった。|湯島《ゆしま》の ほうから見ると、白々と雪の積もった|駿河台《するがだい》が甲武線 の石がきのところでクッキリと黒く落ちていて、まる で大きな城郭を望むように思われた。あの雪の中につ いた線、石がきの色、薄くて暗い町々のゴチャゴチャ とおもしろい|眺望《ちようぽラ》は、死んでいる君にでも話さなけれ ば、とても生きている君などに話そうとしたところ で、言えもしない。ぽくの見る光は君の見る光……ぼ くの感ずる空気は君の感ずる空気……あの時、ぽくは 死んだ|甥《おい》のことも胸に浮かべて、甥にこの|景色《けしき》を見せ たら、と思った……君は知るまいが、ぼくはあの甥の 目を見るような気もした……  勝田君、ぽくが本郷の|森川《もりかわ》町にいた時分には君もよ くやって来たね。あの古い庭に向いた|部屋《へや》を借りてい た時分が、そもそも君がぽくのところへ来始めたころ ではないか。  森川町にはぼくの学校友だちがいる。あの友だちの ところへぽくが金を借りに行った時、 「ほんとに貧乏な連中ばかりだなあ。どこを見渡した って、金のありそうな友だちは|一人《ひとり》もいやしない。」  こうあわれむように言って、それからあの友だちは 君のうわさもして、 「勝田には君、用心してつきあいたまえ。ウッカリす るとあの男にはひどい目にあうぜ。」  そう言いながら快よく金を出して貸してくれた。  君が悪人だという評判の伝わっていることを、ぼく はまったく君に関係のないあの友だちの|家《うち》へ行って知 った。  佐藤君や鈴木君に君が交際するようになったのも、 あのころだろう。 「でも、勝田のように捨てばちになれれば、あれもま たおもしろい。ナカナカああはなれないものだよ。」  こう佐藤君なぞは一方で君のことを言っていた。ぽ くらと違って、君はとっくに一家を成していい年配だ ったのに、あいかわらず妻も迎えず、かまども持た ず、下宿の二階に寝たり起きたりしていた。その中 で、君が自分の弟に学資をみついで勉強させていたこ となどを知るものは、おそらく少数の人間だけだった ろう。  君はぽくが借りている部屋の外を回って、庭から上 がって来て、時には長いこと黙ってすわっていた。よ くあんなに黙って人の部屋にいられると思うほど黙っ ていた。  ぼくの貧しい本だなにはいろいろな書籍が雑然と並 べてあった。君はそれをながめていて、 「和洋|折衷《せつちゆう》だね。」  何か君は言ってみなければ虫の納まらない人だ。 「ホ、万葉集があるね。一つ借りて行ってみるか。」  と言って君はぼくのところから持って行ったことも あるが、しかしぼくが知ってからの君は読むことはあ まりしなかったようだね。 「本なんか読んだって、読まないたって、同じだ。」  そういうことの言える君の下宿へ大学生などが押し かけて行って、君にカブれて帰って来るのを見た時 は、確かに君はエライと思ったよ。  君は一度来だすと、続けて何度も何度も来る、来な いとなるとパッタリ来ない。ある日も庭からぽくの部 屋へ上がって、だれかのうわさをしたあとで、 「話せないような人間なら、おもちゃにでもするより ほかにしかたがない。」  すぐにそうだ。なんだか君が薄気味悪くなってきた こともあった。 「君はぼくをもてあそぶつもりかい。」  とぼくが言ったら、君は笑っていたではないか。  君も異人には感心したと見える。君が木村さんのと ころへ行って「ファウスト」の|梗概《ごうがい》を聞いて来た時に は、まったく君も感心した顔つきで、 「どうも異人はエライ。ああいうことを考えてる1 実はぼくも、悪魔というものを書いてみたいと思った が、異人はもうとっくにそれをやってる。」  まったく西洋の書籍に親しまなかった君がこういう ことを言うかと思うと、ぽくはおもしろいと思った。 ほんとに君が小竹君だけの西洋の学問をしていたら、 同じ君のしゃれでも、もっともっと違った言い回しが できたろうに。 「どうせ人間は一度は堕落する。同じ堕落するものな ら、一人でも道づれのあるほうがいいー」 「それで君はぼくのところへやって来るのかい。」  あの時の話には思わず君も苦笑したっけ。 「ぼくは君、冷たいかねえ1世間ではよくそんなこ とを言ってぽくを攻撃するが。」  と君が言葉を継いで、輝いた目でぽくのほうを見た 時は、ぽくのところへ話し込みに来る君の心がいくら か通じたような気もした。でも、ぼくには君が熱いと も冷たいとも言えなかった。君のはいっしょこただか ら。  話の途中で、君はぽくに紙をくれと言ったろう。何 をするのかと思ってぽくが見ていたら、君はその紙を ていねいに細かくたたんで、羽織のひもの乳のところ に結びつけたろう。 「こうしておけばだいじょうぶだ。」  と君は言った。君は何か思い出したことをあとで忘 れないために、そういうところへ細かく気のつく人 だ。君の記憶力は非常によかったわけだ。  勝田君、君と佐藤君とぽくと三人で目白のほうまで 歩きに行ったのはいつ時分だったろう。あの時分の郊 外は今から思うと別の世界だ。目白には君の知らない 学校などが建つし、家はドシドシできるし、驚くほど の開け方サ。あの日はずいぶん歩き回った。畑の中を ぐるぐる歩いたかと思うと、森のあるようなところへ も出たね。  君は人をバカにして、 「深林の|造《しようよ》遙。《う》|」  すると佐藤君もふきだしてしまった。  世間見ずのぽくには君の無遠慮な仕打ちが内々くや しくてたまらなかったから最初君に会った時分には 「先生、先生」と君を呼ぶことにしていた。見たまえ、 君だって「先生」と呼ばれてはあまりいい心持はしな かったろう。だからぽくはわざと呼んでやった。この 知恵はぽくは小竹君から教わった。それを君に応用し たのだ。もっとも「先生」と呼ばれて君が迷惑するよ りも、ぽくのほうが先にくたびれた。郊外へいっしょ に歩きに行く時分には、それはよしにした。  どこをどう歩いたかと思うほど歩き回って、ぽくら は|赤羽《あかばね》の停車場へと出た。確かそうだったろう。あの 停車場は赤羽だったろうと思う。かわいた土、よしず 掛けの休み茶屋などはまだぽくの目にある。君は休み 茶屋に腰かけている客を見つけて、しばらく話しに行 って、やがてまた佐藤君とぽくの立っているほうへも どって来た。あの時、よしずのかげから君を見送りな がら出て来た客の姿をながめて、ぽくは一代に盛名の あった人の末路を見た。なんとなく人目を避けている らしく、痛ましく見えた。過ぎし春を忍ぶ|老鶯《ろうおう》の|風 情《ふぜい》、ぽくはそう思った。でも君やぽくらのような粗末 なげたははいていなかった。 「あんまりはやりっ子になるからそうだ。」  ロにこそ出さなかったが、看の目つきは確かに言っ た。あの時ほどぽくは君の平気でいる様子を見たこと がない。  佐藤君といえば、あの温厚な人がひところ書いたも のはよほど激しいところを帯びていた。一時は|明石《あかし》君 やぽくなどといっしょにロセッチの愛の歌に読みふけ った人が、 「ラブなんてものは飯を食うようなものだ。」  と言い出してきた。その調子は一歩一歩君に近づい て行ったかとも思う。しかし、もともと佐藤君と君と は足場が違う。君は愛を無視して掛かっているし、佐 藤君のは愛を看破しての論だ。だから佐藤君はそう言 うだけにしてとどめておいた。 「ほんとに、勝田のは飯でも食いに行くようだ。し  と言って、佐藤君は君の態度の冷静なのに感心した ようにぼくに話した。ちょうど禅宗の坊さんでもほめ るように。  勝田君、君が人をほめたのをめったにぽくは聞かな い。だれに新体詩がわかるものかの、だれはまるで殿 様だの、君の眼中にはほとんど人がなかったようだ。 実際、君はまたそう信じて立っていたんだろうね。君 も寺島さんだけはほめた。「寺島は感心だよ。」とよく 君は言った。 「たいていのものは途中まで行けば引っ返さないが、 寺島だけは引っ返す。」  佐藤君が君に感心したとは別の調子で、君は寺島さ んに感心してぼくに話した。  本郷は君の下宿のあるところでありながら、君はひ どく本郷をきらった。きらいながら住んでいたところ が君だ。あのころはぽくらの仲間はたいてい本郷にい た。  ある日、君はぽくを誘いに来て、いっしょに大学の 前へ出た。 「オイ、|軍夫《くるまや》、どこでもいいから本郷を離れてくれ。」  と君がつじ待ちの軍夫に言い付けて車賃も決めずに 引き出させようとした時は、車夫はひどくめんくらっ た顔つきで、 「だんな、どちらへ参りましょう。」  と言って、車の上に乗っているぽくらの顔を見上げ たではないか。 「どこでもいい。本郷を離れさえすれぱいい。」  君の注文には車夫はちょっと当惑のていで、ぼくら 二人を乗せながらかじ棒を揚げた。二人乗りという車 は、あの時分には簡便なものだった。  君はよくああいう気紛れなことをやったね。車夫は 本郷の通りを引いて行って、やがて|切通坂《きりどおしざか》を降りた。  あの時、君がぽくを案内してくれたのは|隅田川《すみだがわ》の見 える前川の下座敷だった。あの|駒形《こまがた》のうなぎ屋はぽく は初めてだ。もう暮れ方で、あかりがついた。女中が 注文を聞きに来た。そう、そう、君は懐中をさぐっ て、これでうなぎを焼いてくれと言いながら札を女中 に渡したろう。ちょっとしたことだが君のやり方だ。  前川を出たころは暗かった。 「-そこいらをブラブラ歩こうじゃないか。」  と君が言うから、ぽくもいっしょに歩いて、浅草田 町のかまぼこ屋の前あたりへ出た。ひところぼくが|三 輪《みのわ》に住んだ時分はよくあのかまぽこ屋のある長い通り から土手へかけて往来したものさ。寂しい貧しい感じ のする、ところどころに|灯《ひ》の漏れた、暗い人家の続い たところを横手に見て通って、そのうちに明るい町へ 出た。|仁和賀《にわか》のあるころにはぽくも三輪から踊り屋台 を見に歩き回ったが、その見覚えのある高い幾層かの 建物などがぼくの目に映った。種々雑多な影がぼくら の目の前を行ったり来たりした。中には人の前に立っ てはしこく案内顔に過ぎ行くものもあった。君のしゃ れは|宵闇《よいやみ》と酒の酔いとに紛れて入り込んで来たような 人たちだの、帽子まぶかにかぶった男だの、自分で自 分のものをどう使おうかと思案顔な若者だの、それら の人の中をごく平気で見て歩いた。あの時ぽくらは|西 鶴《さいかく》の物語などを引き合いに出して細い|小路《こうじ》から小路へ と話し話し見て回ったではないか。古い芝居にでもあ りそうなまぶしい色どりが行く先に展開したではない か。時には|格子先《こうしさき》に取りついて人を呼ぶ鋭い声を聞い たではないか。さんざん君の允供をして歩き回って、 しまいに浅草公園のほうへ出た。君に言わせるとあれ でやはり散歩かね。  |駒形《こまがた》には君の死んだずっとあとになって、ぼくの|甥《おい》 が住んだことがあった。あのへんの町は君の気に入り そうなところだ。あの古いうなぎ屋へもぽくは行くこ とはあるが、いつでも二階の座敷へばかり通って、て すりからすぐ下の|桟橋《さんぱし》につないであるいけす舟や、流 れて行く川の水などを見ては帰って来る。去年の八月 のはじめ、法事の帰りに客と下座敷へ集まって見る と、そこが初めて君の案内してくれた|部屋《へや》らしいの さ。その時は佐藤君も来てくれた。あの床の間から部 屋の間取りのぐあいから、そこに置いてある白いつい 立ての古風な|錦絵《にしきえ》まで、いっさい江戸ずくめな夏座敷 で、佐藤君と君のうわさをした。|隅田川《すみだがわ》ももはや君が 知っている時分の隅田川ではない。白魚もいない。で も涼しい川風は座敷の内へかよってきた。|蒲酒《しようしや》なとは 言っても、今の都会風の建て方から見ると、どこか|無 骨《ぷこつ》な、ガッシリとしたところがある。ああいう純粋な 江戸鳳の残った家は今では東京のうちでもそうたんと あるまいと思うよ。  勝田君、君にはほうぽうの飲食店へ連れて行っても らったね。いつでも君にばかりおごらせた。君はほと んどぽくのほうで金を出そうとする余地すらも与えな かった。そう言えば、鈴木君や佐藤君と四人連れで、 公園で柔らかい牛肉を煮て食ったことがあるではない か。ジリジリうまそうな音のする中で、煮えるそばか ら息の立つようなやつをみんな盛んに食った。二人ず つ牛なべを控えて、鈴木君は佐藤君とさしむかい、君 はぼくとさしむかいだった。見ていると、君は食うば かりでなく煮るのが楽しみというふうで、白いねぎを なべの片すみにていねいに積み上げてみたり、白滝は 白滝、焼き豆腐は焼き豆腐とそれぞれ寄せて煮て、赤 い生の肉がだんだん色の変ってくるのをジッと見てい たりした。あれからぽくらは二人ずつ車で本郷のほう へ帰って行った。あの時はぽくはすこしばかりの酒に 苦しくなってきて、君といっしょに乗った車の上でも どしたことがあった。  しかし勝田君、あの時分の血気さかんな群れの中に 君を置いて考えるということはおもしろい。佐藤君の 下宿へはよく連中が集まって話したが、どうかすると 君は黙って……気味の悪いほど黙って、佐藤君の黄色 い机のそばにすわりながらみんなの話を聞いていた。 山村君などは大学の帽子を手にしてやって来て、若々 しい調子で話し込んだ時は、そこにいるものの耳を傾 けさせずにはおかなかった。  黙って山村君の話などを聞いていた君はしまいに何 を言い出すかと思うと、 「さんざん物を思いたまえ。」  それが君の言い草だ。  いつだったかも、山村君は君のうわさをして、ぼく に向かって、 「あの勝田君の目を見たまえーあんな恐ろしい目が あろうか。」  と言ったことがある。  君のように静かに、しかも確かにこの世を歩いて行 った人をぽくはあまり見かけない。1どうかする と、音もしないほど静かに1忍び足でー  その調子で君は|椎名《しいな》のお|茂《しげ》さんの|家《うち》へも訪れて行っ たのだろう。 「まあ後学のためだと思って、いっしょに来てみたま え。」  なんて君がぽくを誘いに来て言って、夜ふけて椎名 の家の戸をたたいたことがあるではないか。  お茂さんはあの時どうしていたろう。もう病気で|亡《カ》 くなったあとだったろうか。そうだ。いないはずだ。 おっかさんとお菊さんとからぽくらは何かごちそうに なった。 「ほんとに勝田さんはおもしろい。」  とおっかさんが言ったことをぽくは覚えている。|椎 名《しいな》の|家《うち》のためには多少君も迷惑をかけたこともあろう が、しかし尽くしたこともよく尽くしたね。  お茂さんの葬式を出すという前の日かにぼくはちょ つと椎名の|家《うち》へ悔やみを言いに行った。なんでも君が おこってしまって手がつけられない、と言ってお菊さ んはとほうに暮れている。そこへぼくは飛び込んで行 った。話を聞いているうちに、ロシアたばこの粉がひ ざへ落ちて、ぽくの着物へは焼け穴が出来た。ではど うすればいいと言うんですか、ともかく出すものは出 すようにするがいいじゃありませんかとぽくが聞いた ら、女の一量見にも行かないとお菊さんが言うものだ から、その足でぽくは君の下宿へ行ってみると、君は 君で勝手にするがいいという顔つきで、説が行われな ければ退くよりほかはないと言っている。それからぽ くは君を椎名の|家《うち》へ引っ張って行って、お茂さんの棺 の置いてあるそばで、君らの間へはいったことがあっ た。  それぎりぼくは君らの処置に任せておいて、くちば しをいれなかったが、あとになって君がぽくのところ へ来て、 「印紙のはりっぱなしはヒドい。」  と言って笑ったろう。  あそこをぽくはお菊さんたちの女らしい、自然なと ころかとも思うよ。年を取ったおっかさんのことを考 えてみたまえ、女ばかりの|世帯《しよたい》でよくあれまでやった と思うね。  勝田君、君はぼくの|家《うち》で新花町のかどへ引き移って からもたずねて来たことがあろう。君が来て話して行 った隣の|部屋《へや》には|年増《としま》の女の笑い声がしたはずだが、 君は気がつかなかったか。いなかの女には似合わない ほどのしゃれものだ。 「どうして、あの人は苦労人だ……」  と君が行ったあとで、その女が君のことを評した よ。見る人が見れば、そういうものかしら、とぽくは 思った。苦労にも、君、いろいろあるから。  ぽくはあらゆる芸術を味わえるだけ味わおうという ような若い量見をもって、いくらか取っていた教師を 辞し、東北のほうから帰ってもう一度一書生の身に返 った。それが初めて君に会ったころのぽくさ。ぽくが ヴァザリの美術史などをあけてイタリアの文芸復興期 時代の文学と絵画の関係を尋ねたいと思ったは、もう ずっと以前からだ。詩人であると同時に美術家であっ た勺,」W社中の運動などはよけいにこの心を深くさ せた。君に会ったころはまた、しきりに文学と音楽と を並べて考えたい時代で、シューマンの「音楽と音楽 者」などはあの当時ぼくが読みふけった書籍の一つ だ。一度思い立ったことはともかくもそれを試みない ではいられないのがぼくの性分だ。そこでぼくは音楽 の世界へもいくらか足を踏み入れた。ぽくは上野の音 楽学校でそこにしまってある図書をあさることを許さ れた。バハの伝などがあって、借りて読んでみた。  こういうぽくの位置はわがままな気楽なようでも、 苦しいことも多かった。ぽくはあまり自分のしたいこ とをすると言って非難されると同時に、一方では真実 に自分をショパンやワグネルまで連れて行ってくれる ような人も見あたらなかったから。  もしぽくが金に困るようなら助けようか、と君が佐 藤君を通じて言ってよこしてくれたのも、あの新花町 に母や兄といっしょにいたころだった。そりゃ君の厚 意は感謝したさ。けれどもぽくだって君が高利貸しに 苦しめられていたことを知っている。そういう深刻な 性質の金で君がぼくを助けようと言ってくれても、そ れはぼくの本意でないと思ったからそのことを佐藤君 に話して君に断わった。  君は佐藤君に、 「どうせぽくだって足りないさー足りないついで に、なんとかしようじゃないか。」  と話したそうだね。  ああいう君の行動はなんとなく今になって思いあた る。君が|椎名《しいな》の|家《うち》のほうへ歩いて行ってお菊さん親子 の力になろうとした心は、やがてぽくを助けようと言 ってくれた心ではなかったろうか……それほど君の心 は|寂奥《せきぱく》をきわめたものではなかったろうか……こうし て音のしないほど静かに、忍び寄る雨のように、また ぽくのところへこっそりやって来てくれるというは昔 ながらの無言な君ではないか…・:  ねえさんが亡くなってからのお菊さんも気の毒なよ うだった。しばらくどこかの屋敷づとめなどに行って いたこともあるではないか。秋葉の大将が心配して、 ひとりで椎名の家を立て通すなんてわけにもゆくまい から、いっそ縁づいて、おっかさんを安心させたほう がよかろうとなったのだろう。それから君のほうへ話 があったのだろう。君も断わるくらいならなぜ最初か らお菊さん|母子《おやこ》にあんなに親切を尽くしたのかね。そ こが君だ。君なら頼もしいと思うような人でもなんで も、君はごく冷然として答をしたのだろう。  妙なもので、さんざん苦労をしぬいたお菊さんが今 では立派なだんなさんがあり、子福者で、家は栄えて いる。お菊さんもなかなかやり手だね。安心したま え。  同じ本郷の中でも君が動いた下宿の二階へぽくはた ずねたことがある。日がカンカン部屋の障子へさして 朝というよりは昼のほうに近いほど明るい光の中で、 「今ようやく起きたばかりだ。」  と言いながら、君は小さい長火ばちの前にすわっ て、例の長い髪をかきあげた。朝寝で疲れたらしい君 の|容貌《ようぼう》にはまだ夢の中のここちが残って働いているよ うにも見えた。  部屋には飾りらしい飾りもなかったが、でもさっぱ りと取り片づけてあって、いいここちがした。君は何 を待つともないような様子で、長火ばちに掛けてある 鉄びんの湯をきゅうすに移して、朝顔なりの茶のみ茶 わんに茶をついでぽくの前に置いた。  勝田君、あれきりぽくは君に会わないだろうか。そ れとも、ホラ、鈴木君や佐藤君と四人いっしょになっ た時君は低い落ちついた声で小歌か何かを口ずさん で、なぐさみにぼくらに聞かせたことがあろう。さわ やかな笑い声が君の神経質なくちびるから漏れるたび に、病人のようにデリケートな君の手まで動いた。あ れが最後だろうか。  ぽくが東京を去るようになってからも、一時絶えて いた君と鈴木君との交通がまた長く続いたようだね。 「勝田はああいう男だけれど、またやって来るところ がおもしろい。」  という言葉を、たしか鈴木君の口からぽくは聞いた ように覚えている。 「何かにつけて思い出すところをみると、やはりあの 男には変ったところがあったとみえる。」  近ごろになって鈴木君はそんなふうに君の話をある 雑誌に出したこともあるよ。  地方に行って、ぼくは一度君のしゃれを聞いた。三 橋さんーだれが言い出したのか、あの人は以前から 若い|翁《おきな》のように呼ばれるーあの三橋さんが雑誌を出 した時、昔のよしみにぼくにも何か言えというから、 三橋さんもたいへん若返ったものだとぽくが書いて送 った。するとその次の月の雑誌を手にして見ると、君 のしゃれが載っている。君はぽくの書いたものを引き 合いに出して、あの男があんなことを言ったが、三橋 老人は決して若返ったとはみえない、あの男も今では いなかの|居候《いそうろう》だ。山ざるにしてはちと色が白すぎるま でだ。あれを読んだ時は、ア、勝田君はまだまだ達者 でいるナ、とそうぼくは思ったよ。そして君のしゃれ をありがたくちょうだいした。なぜというに、ぼくの 心は自分をあらわすに適当な清新な形式を捜し求めて いる時だったから1  勝田君、君も小田原へ行くころにはもはや全く黙っ てしまった人のようだったね。戦士のように強い君の 声はだんだん短く、きれぎれになっていって、しまい はぽくの耳には聞えなくなってしまった……深い深い 雪の中にうずめられた声のように…  勝田君、あれほど強情を言いとおしていた君がとう とう降参して、世話する女の人といっしょに晩年を送 った。その話が近"ころになってまた鈴木君とぽくの間 に出た。 「でも、勝田のような男が最後に"こく平凡な女を見つ けたところはおもしろい。」  と鈴木君が言うから、 「なるほどねえ。大きにそうだ。」とぼくは鈴木君の 言葉に感心した。  鈴木君はぼくの顔を見て笑い出すじゃないか。「前 に君の言ったことなんだよ。」 「そうかナア。ぽくがそんなウマいことを言ったかナ ァ。」  と言ってぽくは半信半疑で笑った。  どうもぽくは自分で言ったことのような気がしな い。やはり鈴木君の言葉としか思われない。よしこれ が鈴木君の冗談でないとしても、そのために長いこと 思い出しもしなかった君の晩年がまたぼくに光って見 えてきたとしたら、だれの言葉でもいい。  勝田君、ぽくは今、柳橋に近い町の中に住んでい る。|種菓子屋《たねがしや》の隠居さん夫婦がもと住んだという|家《うち》を 借りている。ぽくがここへ引き移って来たころは、あ たりはわりあいに閑静な町で、古い商家のある町々に 続いて、昔のままの板ぶき屋根さえついこのごろまで            うち       ときわ ゆりんちゆう 二階から見られた。ぽくの家の裏には常盤津林中のお かみさんもいるし、前には|英一蝶《はなぷさいつちよう》の子孫の住む家も ある。一つ通りを置いて古い漢方医の|多紀《たき》の|家《や》のあと もある。|一中節《いつちゆうぷし》の家元、|長唄《ながうた》の師匠、その他音曲にた ずさわる人々の住み家も多い。こういう町々に残った 空気はあるいは君の心を喜ばせるものがあろうかと思 ,つ。  しかし柳橋も変った。船宿の窓のあかりが|裏河岸《うらがし》の 水に映ったということなどは、もうずっと昔話になっ た。旧両国の夜店は浅草橋の通りへ移り、橋も掛け替 り、以前の|広小路《ひろこラじ》の跡には君の知らない小さな公園が 出来た。そのために一部の狭斜の町は取り払われて、 ぽくが今住むほうへ流れ込んできた。町の三分の一は 見る間に新しく建て直った。ぽくの隣には待合が出 来、筋向こうには芸者屋が越してきた。暗かった細い 路地路地は急に明るくなった。いつのまにかぽくの二 階は三味線の音で取りまかれた。  ここへ来てぽくは君のロからそく平という芸者の名 を話のついでに聞いたことを思い出した。君は若い時 に、人に連れられて来て、この土地で多くの栄華と|凋 落《ちようらく》とを見たという話をぽくにしたことがあろう。山村 君のいわゆる恐ろしい君の「目」はそういう中で早く 開いたのではないか。そく平という女の名も今では"こ くわずかの人の口に残っている。わたしがお|酌《しやく》の時分 に、もうそく平さんは立派なねえさんでしたという女 を見れば、|白髪《しらが》を染めているような人だ。君の名を記 憶するような女はおそらくいまい。ひところ両国橋の たもとに近いところに増田屋の看板が出ていたが、近 ごろではそれも見えなくなった。  勝田君、君は世と戦い、当時の文学者と戦い、迫り くる貧しさと苦痛とも戦い、しかも冷然として死ん だ。こんなふうにぽくは君の一生をある雑誌に書いて みた。君はほほえむだろうか。鈴木君の話に、勝田は |晒巷《ろうこう》に窮死したようなことを世間では言うが、どうし て|亡《な》くなった本所の家へ行って見ると、勝田は勝田ら しい家を見つけていた、とぽくに話したこともある よ。  ある年、まだぽくの|甥《おい》が生きていたころのことだ。 いかに言ってもぽくは今の住まいが狭くて困るものだ から、川一つ越して本所の横網のほうへ家を捜しに出 かけた。|河岸《かし》からすこし折れ曲がった町の中に、往来 に向いておもしろい窓のある、屋根の高い平屋を見つ けた。裏のほうへ回って見ると板べいで囲われて庭も かなり広そうに見える。大屋さんも近いものだから、 寄って聞くと、部屋の数も相応にある。しばらく明け てあるからもし借りてくれるなら屋賃はまけておくと いう。大屋さんの娘は裏口の木戸をあけてぽくを案内 してくれた。外から見かけたより広い家で、片すみの 一部を仕切ってだれかに貸してある。庭の植木の間か らそこに住む人のいることがわかる。戸をあけて上が ってみると、往来に接して窓のある部屋は茶の間にな っていて、細い古風な戸だななどが壁の中に造りつけ てある。どの部屋へ行って見ても実によく出来ている が、なにしろ薄暗い、壁などまで黒ずんだ緑色に塗っ たところざえある。そのうちに、しばらく人も住まな いような陰森な感じが身を襲うようにやってきた。  なんとなく身内がゾーとしてきて、ぼくはひとりで 暗い戸だななどを見ていられなかった。恐ろしさのあ まり、そのあき屋を飛び出した。 「どういう|家《うち》だろう。」  とぼくは日のあたった裏の板べいの外へ出て、いろ いろに想像してみた。  あまりに部屋部屋がよく出来ているので、それにぼ くは心を引かれた。帰りに大屋さんの|家《うち》へ寄って話し てみると、そこの娘の口から君の名が出てきた。  勝田君、君が最後に移って住んだのはぼくが見てき た家の一方に仕切ってあるところなんだそうだね。ぽ くはそれとは知らずに君がまくらした|部屋《へや》の隣を歩い ていた。もっとも壁は厚くてほとんど隣の物音は聞え もしないほどヒッソリとしていたが。  それから二三日たって、どうもまだぽくはあの家を 断念することができなかった。|甥《おい》を連れてもう一度い っしょに見に行った。甥の意見をも聞くつもりだっ た。 「まあ、来てみたまえ。」  とぽくは甥を誘って行った。 「へえ、ここが勝田さんのなくなった|家《うち》なんですか。」  と甥はぽくといっしょに往来に立って隣のほうの窓 を外からながめた。甥は君のことをかげながら知って いたからね。  また大屋さんの娘に戸をあけてもらってぼくらは表 の入口からはいった。 「表の見つきはなんでもない家のようで、内へはいっ てみると実に凝ったことがしてある1昔の人は考え て造ったものですナア。」  と言いながら甥も見て回った。 「惜しいナア。いかに言っても暗いね。」  とぽくは部屋部屋へ甥を連れて行った。その暗さは 普通の暗さでなくて、妙にもうろうとした暗さだっ た。からだの震えてくるような暗さだった。 「下屋敷にでも造ったものだろうか。変に陰気な|家《うち》だ ね。」 「そうですねえ。」 「ちょっと、君、向こうのほうを見たまえ。何か芝居 にでもあるお嬢さんが長い髪の毛をさげて立っていそ うじゃないか。」  ぽくは茶の間の横の暗い突きあたりにある白い古風 なふすまを甥に指さして見せた。甥も見て笑いもしな かった。 「暗い。暗い。」  と甥も深いひざしから日の光のさした縁側のほうへ 出て言った。 「叔父さんの神経でいやだと思ったら、およしなすっ たほうがいいでしょう。」  こう甥も言うものだから、ぽくらは互に顔を見合わ せて、やがてまた二人で心持のいい日のあたった家の 外へ出た。とうとうぽくは借りることを見合わせた。  君が以前住んだという隣の家の勝手口からは、おか みさんらしい人が顔を出して、ぼくらのほうを見てい た。  勝田君、甥も今では君と同じようにもうこの世には いない人だ。それからまたぽくの|家《うち》では人数も小勢に なり、住みなれた今のところに落ちつくようにもなっ た。  夕日は二階の部屋に満ちてきた。壁も、障子も、ぽ くの眼前にあるものは何もかも深い色に輝いてきた。 一度聞えなくなった君の声はこの節またぼくの耳に聞 えてきた。下座敷には今、遠い旅から帰って来た人が いる。十年の余も音信を聞かなかった人がいる。その 年老いた客のために、ぼくは夕飯のしたくをさせよう と思う。  そういえば勝田君、君は以前とすこしも変らないで はないかーほとんど昔のままだ1君よりはずっと 年下であったぼくなどが、髪のこわいせいか、よけい に白いやつが目立つとこの節では言われているのに、 君の長い髪の毛はいつまでも黒々として見えるー