あかり (燈火) 島崎藤村  |飯島《いいじま》夫人-栄子はいっさいのことを|放擲《ほうてき》する思い をしたあとで、子供を東京の家のほうに残し、年をと った女中のお|鶴一人《つるひとり》連れて、ようやく目あてとする療 養地に着いた。箱根へ、|熱海《あたみ》へと言って夫や子供とい っしょによく出かけて行った時には、ただ無心に見て 通り過ぎた|相模《さがみ》の海岸にある小さな停車場、そこへ夫 人はお|鶴《つる》と|二人《ふたり》ぎり汽車から降りた。  夫人はまだ若かったが、子供は三人あった。新橋を 立つから汽車じゅう言い暮らしてきたそれらのかわい いものからも、夫からも、彼女はかけはなれたところ へ来た。 「かあさん来たよ。」  と夫人は、この海岸に着いたことを子供に知らせる ように、ひとり口の中で言ってみた。そしてあたりを 見回して寂しそうにほほえんだ。  停車場わきに立って車を待つ間、夫人はお鶴の前に 近くいながら、病院のあるという場所をおおよその想 像であたりをつけてみた。二筋の細い道が左右にあっ た。その一つは暗い松林に連なり、一つは古い東海道 の町へでも出られそうないくぶんか空の開けたほうへ 続いている。悪くすれた目つきの車夫がまず車を引い て来て、夫人が思ったとは反対の方角を指さして見せ て、その病院も、夫人がこれから行ってまず宿を取ろ うとする|蔦屋《つたや》も、松林のかなたにあたると言って聞か せた。一帯に引き続いた遠見の緑は|沈轡《ちんうつ》で、それに接 した部分だけ空は重い黄色に光って見えた。  まもなく三台の車がそこへそろった。一台へは荷物 を積んだ。それを|先頭《はな》にして、夫人とお鶴とを乗せた 車は順に砂地の道をきしりはじめた。 「奥さま、お寒かございませんか。」  とお鶴は車の上から声をかけた。  そよともしない松林、小鳥の声一つ聞えない木立の 奥には同じようにヒョロヒョロと細くはえた幹が暗く 並んで、引き入れられるような静かさが潜んでいた。 細道の砂を踏む音をさせて、車夫らが進んで行った時 は、いっそう静かな林の間へ出た。海に近いことは感 じられても、遠くのほうは死んだように沈まりかえっ て、波の音もしなかった。  暮色が迫ってくるころであった。けむるような空気 はすべての物を包んだ。  そのうちに、車は病院の入口らしいところへ出た。 松林の一区域を囲って、白い。ヘンキ塗りの柱が建てて ある。薄明るい中を走って来て、かどの|街燈《ガス》に火を入 れて行く人もあった。  夫人は車の上からお鶴のほうを顧みて、 「お鶴、ここが病院の入口だよ、海浜院としてある よ。」  と言って聞かせたが、もうろうとした林の奥の広さ が想像されるのみで、建物は見えなかった。  この一区域について折れ曲がって行ったところに、 人家がゴチャゴチャ並んでいた。そこは海浜院の横手 にあたって、旅館の|蔦屋《つたや》だの、別荘風の建物だのがあ るところだった。車夫はかじ棒をおろしたあとで、そ こここに|灯《ひ》の漏れた家をさして見せて、病院通いの患 者が住むことを夫人に話した。  |蔦屋《つたや》には東京から出した荷物も届いていた。二階へ 案内されてから、夫人は寒い東京のほうに置いてきた 子供のうわさをして、やがて途中のことまで思い出し たように、 「もう梅が咲いていたっけねえ。」  とお鶴に言ってみた。お鶴はシッカリした体格の女 で、肩幅などはへたな男に劣らないほどあった。でも からだに似合わないような、優しい、サッパリとした 声で話す。 「奥さま、こういう所へいらしっただけでも、もうお なおりあそばしたような気分がなさいますでしょう。 なんですか、東京から見ますと、お陽気からして違い ますこと。」 「ほんとに、思い立って出て来て、よかった……女が |家《うち》をおいて来るなんて、容易じゃないんだもの……こ ういう所へ子供を連れて来て遊ばしたら、さぞ喜ぶだ ろうねえ……」  何かにつけて、夫人は子供のことを言った。  栄子夫人は病のある人のようにも見えなかった。ど ちらかと言えば色の黒い、ソバカスなどのたくさん顔 にあらわれている婦人ではあったが、その暗い|斑点《はんてん》も 邪魔にならないほど若々しくて.それに女らしく快活 なところがあった。宿の女中が物を持ち運んでくる間 ですら、夫人はじっとしていられないというふうで、 廊下の外へ出て、ひやひやとした空気を呼吸した。宿 の女中はてすりのところへ来て、暗い大きな海浜院の 建物を指さして見せた。病院らしい窓々からはあかり が漏れていた。  また夫人は子供がそばにでもいるように、 「病院だよ……かあさんの病院だよ……今にかあさん も、あのあかりのついたところへ行くんだよ……」  こう自分ひとりぎりで言ってみた。  夕飯の後、蔦屋のかみさんが上がって来て、いろい ろと病院の話をした。大きな、ふとったかみさんで、 客をそらさぬ世なれた調子で、入院するに都合のいい ことも聞かせたし、夫人の気休めになりそうなことも 言った。もっとも、夫人は入院するばかりにしてこの 海岸へやって来たので、手続き万端はすでにあらか《ちちちち》|た 運んでおいた。夫人は東京のほうで院長の診察をも受 けていた。彼女は名のって病院の受付へ行きざえすれ ばいい人であった。 「奥さま、ただ今お熱はございませんか。」とお鶴が 心配顔に尋ねた。 「そんなに悪かないんですよ。」と夫人は打ち消すよ うに笑ってかみさんのほうを見た。「知らずにいれば、 まだこれであたりまえな人のからだなんです……た だ、時々熱が出ますもんですから、どうもそれが不思 議だって、懇意な医者に言われまして、初めて自分で も気がついたんです……早く今のうちになおせ、そう 宅も言うもんですから……」 「しかし、奥さま、早く先生にみていただいてようご ざいましたーお|家《うち》では大事なかあさまですもの。」 とお鶴が言った。 「御心配なさることはありませんよ。」とかみさんは 事もなげに言ってみせて、夫人の豊かな服装やこざっ ぱりとしたものを着たお鶴の様子までもジロジロなが めながら、 「入院なすったかたで、ずんずんよくなったかたはい くらもございます。ちょうど奥さまぐらいな年"ころの かたでーだんなさまもまだお若いかたなんですよl Iお子さんもおあんなさるーもう一冬も越したら、 いよいよ全快の免状をいただいて帰れるなんて、そう 言って喜んでいらっしゃいます。そのかたは、入院な すってから、たいへんおふとりなすった。わたしみた ように。なんでも十五貫じゃきかないなんてー」 「いくらふとっても、なおったほうがよう"こざんすわ ねえ。」  と言って、夫人も女らしく笑った。  その晩、夫人は夫へあてて手紙を書いた。お鶴はま た、夫人の疲労を休めさせるように、|風邪《かぜ》を引かせな いように、といろいろに気を配って、早く横になるこ とを夫人に勧めた。東京から届いた荷物の中には、軽 い柔らかな小ぶとんもあった。それをお鶴は暖かな床 の上に敷いて、その上に白いシーツを掛けながら、 「お嬢さまがたはどうしていらっしゃいましょう。き つともうおねんねでございますよ。」 「きょうはグズグズ言ったろうよ。」と夫人も思いや るように、「みんなを困らせたろうと思うよ。」 「ええ、そりゃ、お慣れなさるまでは。でも、|年長《うえ》の お嬢さまはちゃんと訳がわかっていらっしゃいます。 『かあさまはキイキをなおしにいらっしゃるんです よ。』とわたしが申し上げましたら、『知ってるよ』な んてそうおっしゃいまして……あれを思うとおかわい そうでございます。」 「お鶴、そんな話はよそう。お前も今夜は早くお休 み。」  よそう、よそうと言いながら、夫人は子供のうわさ をした。 寝床についてからも、夫人はひとりで、「きょうは おとなしくお|留守《るす》したかい……かあさんのお|留守《るす》した かい」と繰り返した。目をつぶりながら、一人ずつ子 供の名を口の中で呼んでみた。  翌日の朝になると、前の晩に暗くてよくわからなか った海浜院が|蔦屋《つたや》の二階から見えた。窓にあかりを望 んだのは、幾むねかある西洋風の高い建物の一角であ ることがわかった。窓をあけて、何か朝日に干す人も あった。白い被服を着けた看護婦も見えた。  午前に、夫人はお鶴を宿に残しておいて、ひとりで 海のほうへ歩きに行った。患者らの借りて住む家まで 見て回ったと言って、ハンケチに包んだものをさげな がらもどって来た。いつもよりは顔のソバヵスなども 濃く多く現われ、色もすこし青ざめていた。 「柔らかい雨でも降りそうな所だね。」  こう夫人はお鶴のそばへ寄って言った。お鶴は茶を 入れる用意をしていたが、夫人の言ったことを聞きと がめて、 「奥さま、また雨が出ましたと。」と笑った。 「わたしは雨が大好きサ……」 「よくそういうかたが"こざいますよ。雨の降る日には 用たしに歩くのも好きだなんて。」 「きょうのようにカラッと晴れた日よりか、すこし曇 ったほうが、わたしにはここちがいい。」 「そうおっしゃれば、お顔色はあまりょかございませ ん。」 「顔色はあてにならない。たいへん顔色が悪いなんて 言われる時でも、わたしはかえって気分のいいことが あるよ。」  |部屋《へや》のすみにある違いだなの上には姿見が置いてあ った。夫人はそのほうへ行って、ちょっと自分の顔を 映して見て、またお鶴のほうへ来た。海岸で夫人は、 よほど病気の進んだらしい婦人がしおれて歩くのを見 て、気を悪くして帰って来たが1肺の悪そうな人 か、そうでないかは、夫人にはすぐに見分けがついた ーしかし、それを言い出そうとはしなかった。夫人 はお鶴といっしょに茶を飲みながら、オゾンを合むと いう楽しい海岸の空気を吸ってきたこと、|富士《ふじ》のよく 見えたこと、子供に送ろうと思って小石を拾い集めて きたことなどを話した。 「お鶴、お前はこれから東京のほうへ帰っておくれ な。」 夫人は海岸のほうからこんなことまでも考えて帰っ て来た。  お鶴は心配して、「それで、奥さまはどうあそばし ます?」 「ナニ、わたしのことはそんなに心配しなくてもいい よ。それよりか子供を見ておくれよーわたしはこれ から病院へ行きさえすればいい人だー1もうここまで 来たんだもの。」 「でもせっかくお供をして参りましたのに……『なん だって病院まで行かないんだ、なんのためについて行 ったんだ』なんて、きっとまたわたしがだんなさまに しかられますー」 「だいじょうぶ。そんなだんなさまじゃないから。な んだか子供のほうが気になってしようがない……お前 に行って見てもらうと、わたしは一番安心だ。|家《うち》のほ うじゃきっとみんな困ってるよ。」 「それもそうで"こざいます……」  お鶴も迷って、どうしていいかわからないような顔 つきをした。宿のかみさんが来ての話には、入院のこ となら及ばずながら引き受けた、夫人も寂しかろうか ら、また子供衆でも連れて東京からたずねて来るよう に、と言って勧めてくれた。 「もし病院の近所へお|家《うち》でもお借りなさるようでした ら、またお世話をいたします。ぼっちゃまがたをお連 れなさるがようございます。いくらもそうして来てい らっしゃるかたが"こざいます。」  こうかみさんは話したあとで、長くいる療養の客の 中には松林の間にながめのいい借屋を見立てて、海に 近く住んでみる人なぞもあるが、いずれもしまいには 寂しがって、また人家の多いほうへ引き移ってくると いう話をした。  とうとう、お鶴は夫人の言葉に従った。荷物はすっ かり引きまとめて、いつ何時でも入院のできるばかり にした。思いのほか、夫人は元気でいるので、お鶴は ようよう安心したというふうで、その日の午後の汽車 で東京の屋敷のほうへ帰ることにした。 「奥さま、奥さま、すっかりよくおなりあそばしてく ださい。おからだが第一でございますよ……ほんとに 世の中は訳がわかりません、御病気さえなければ、も う申すところはございませんのですけれど……お|家《うち》の ほうのことなぞは当分お忘れなさるがよう.こざいます  …奥さまのは、あまりお気をつかおうとなさりすぎ る……」  こう言って別れて行くお鶴に、夫人は子供へと言っ て海岸で拾った小石なども持たせ、それからお鶴が車 に乗るところまで見送った。 「いずれだんなさまもお見えなさいますでしょうよ。」  とお鶴の残して言った言葉がまだ耳にあるころは、 夫人は、まったくひとりで宿の二階の廊下のところに 立っていた。  庭の芝生《しばふ》に面した、天井の高い、古風な部屋《へや》が、夫 人の胸に浮かんだ。|長唄《ながうた》の|三味線《しやみせん》などが置いてある。 けいこ本も置いてある。障子のはめガラスを通してさ しこむ光線はその部屋の中をお寺のように静かに見せ ている。そこは夫人のねえさんがまだこの世にいたこ ろの居間のさまだ。ねえさんが相続した飯島の本家の 奥のほうの座敷にあたるところだ。夫人が養子の夫を 迎えて分かれて出るまで、娘の時代を送った記憶の多 い家の中だ。ねえさんもやっぱり婿養子をして、夫婦 の間に子まであったが、病気するようになってからと いうものは、まったく世の中とかけはなれ、わずかに 長唄の|三味線《しやみせん》をざらって薄命な一生を慰めていた。あ の静かな居間にひとり閉じこもって自己の破滅を待っ ていたようなねえさんの姿を、夫人はまだありありと 見ることができた。不幸なねえさんは死ぬまで長唄の 三味線を離さなかった。  栄子夫人が肺の悪そうな人を見るとすぐに目がつく というは、このねえさんの悪くなり始めから|亡《な》くなる までを実地に見たからであった。それがどうやら彼女 自身の大事なからだにまで現われかけてきた。脅やか すような定まりない体温、肉体の動揺と不安、悲しい 幻滅……色の白いきゃしゃなねえさんと違い、もとも と夫人はそんなふうになりそうもなかった人で、同じ |姉妹《きようだい》でもこうも違うものかと娘時代には言われたもの だった。  夫人には、日ごろたよりにするフランス語の教師が あった。B夫人という西洋の女だ。こうしていっさい のことを|放櫛《ほうてき》して来るまでには、何度そのB夫人の家 のほうへ足を運んで、決心を促してもらったか知れな かった。  午後のうちに夫人は海浜院のほうへ行くことに決め た。 「かあさん行くよ……キイキをなおしてくるよ……」  と夫人はひとりごとのように言って、病室の都合を 尋ねたいと思いながら蔦屋を出た。  妙に足が進まなかった。静かな松林の横手へ出る と、その朝海岸で会ったしおれた女の患者の姿が夫人 の目にチラついた。これから行って、ああいう人たち の中に交わり、また知らない床の上に横になるという ことは、夫人には堪えられなかった。  用事にかこつけて、夫人は蔦屋のほうへ引っ返して しまった。 「奥さま、お忘れ物でもございましたか。」  と若い女中が聞いた。  |部屋《へや》へ来ては気休めになるようなことを言って聞か せ、廊下へ出てはキャッキャッと笑い騒ぐ女中たちに 取りまかれながらも、夫人の耳はとかく患者のうわさ に傾いた。長い廊下へ出て、聞くともなしに耳を立て ると、患者とは思えないほど|爽快《そうかい》な声で話す男の客が ある。見舞いにでも来た人があるとみえて、病院生活 の話が始まっている。十中の九までは伝染の憂いがな いから、安心して話して行ってくれと、正直な物の言 い方をする人もあるものだ。それほど心の美しい人で も、こんな療養地へ来ている悲しさには、親しい友だ ちにまで気をつかって、じょうぶな人の知らないとこ ろに苦労すると見える。なお、聞けば、その男の客は こんな話もする。やはり海浜院へはいっていた患者の ことだ。若い人と見えて、海岸へ行って石をほうって 遊んだ。するとまもなく血を吐いて死んだ。 「よく人の死んだという話を聞きます。」  それを聞いて、夫人は自分の部屋のほうへ忍ぶよう に帰った。  夕方から、|階下《した》で蓄音機の音が起った。若い女中が 来て、いい器械を借りてきたから、と勧めてくれた が、夫人は二階の廊下のところでてすりにもたれなが ら聞いた。外はそろそろ暗くなりかけてきた。また夫 人は海浜院の窓々に美しいあかりを望んだ。  お鶴はもう子供のそばへ行ったろうか。それを夫人 は思いやった。 「かあさん……なぜ、あのあかりのついたところへ早 く行かないの……」  と一番上の娘の尋ねるような声が、夫人の頭のなか で聞えた。夫人はまたその返事でもするように、 「行くよ…:♪打くよ……」  と口の中で言ってみた。  とうとう、夫人はすこし気分がよくないからという 口実のもとに、もう一晩蔦屋に泊まることにした。実 際、からだにはすこし熱も出た。その晩は床の上へ倒 れるように身を投げて、子供のことを思いつづけた。 「みんなおとなしくお|留守《るす》してますかい…・:さぞかあ さんを捜してるだろうね……かあさんはここにいます よ……ここにねんねしてますよ……早くよくなって、 みんなのそばへ行こうねえ……お休み……お休み… ...」  栄子夫人はいっそう病院のほうへ行きたくないよう な、といって今のうちに病に勝たねばならないという ここちで、翌朝になって目がさめたが、疲れが出てま た一眠りした。九時過ぎに、夫人は床を離れて、その 日こそは入院するという堅い決心を定めた。  不思議にも、この決心がいざ病院のほうへとなると 鈍った。二度も、三度も、夫人は行きかけては|躊躇《ちゆうちよ》し た。 「奥さま、どうあそばしました。」  と蔦屋のかみさんが客の様子を見に来て言った。患 者を扱いなれているこのかみさんは平気なもので、言 葉を継いで、 「病院のほうでは、部屋を明けてお待ち申しているそ うです。院長さんも、|飯島《いいじま》さんの奥さんはどうなすっ たろうって、わたしどもへことづてがありました。」 「どうしてもわたしには病院のほうへ行く気になれま せん……いろいろなことを考えるもんですからね。」 「そうおっしゃるかたも"こざいます。ナニ、いらしっ て、慣れておしまいなされば、なんでもありません。 |徽菌《ぱいきん》が病院じゅう飛んででもいるように、慣れないか たはおぼしめすでしょうが、そんなわけのものでは、こ ざいませんサ。よくわたしは皆さんを病院のほうへお 連れ申します。それじゃ、奥さまもわたしといっしょ にいらっしやい。」  かみさんは世にありふれたことのように、意味もな く笑って、夫人の荷物などは先へ届けさせることにし た。  宿の男が来て順にかばんだの、セル地の大きな袋だ のを|階下《した》へ運んだ。  三日目の夕方に、ようやく夫人は蔦屋を離れること になった。それも自分の力でなく、大きなふとったか みさんに助けられて、無理やりに引き連れて行っても らうように。 「奥さま、シッカリとわたしの肩へつかまるようにな さいまし。」  とかみさんは男のような声を出した。  暗い松林の間からはチラチラ海浜院のあかりが見え た。サクサクと音のする砂の道を踏んで、夫人はかみ さんの肩に掛かりながら、一足ずつその光のほうへ近 づいて行った。