【このファイルは未校正です】 徳田秋声「復讐」「卒業間際」「彼女と少年」 彼女と少年              たけし       ぶり  幾江が初めて東京へ出て来る健に逢うのは六七年振であっ      いとこ               じぶん た。自分の従姉の子にあたるこの少年の、九つか十時分まで  おいたち の生立しか知っていない彼女は、あの子供がもうそんな年頃 になったのかと思うと、目鼻立の美しかった彼が、どんな風 の少年になったかを早く知りたいような気がして、毎日のよ うに彼の着くのを待っていた。                         つま  幼いときから自分を可愛がってくれた従姉の長男に産れた たけし 健を、彼女はその頃よく負ったり抱いたりした。彼の母に次 の子供が産れる前後、健は町のうちにある自分の家から、幾 江につれられて、屋敷町の方にある彼女の家へよく遊びに行 った。乳に離れかねていた健は、幾江が彼の幼い口に吸わせ       あともらた               て る小さい乳に飽足りないで、夜中に泣出してひどく彼女を手 こ ず 古擦らせた。幾江はむずかる彼を負って、寂しい屋敷町か ら、川一つ隔てた従姉の家へそれを届けたりした。学校へ行 くようになってからも、健はよく幾江の家に寝泊りして、ま だ処女であった彼女の懐で眠った。毛糸の靴足袋を編んでも         はかま らったり、着物や袴の世話をして貰ったりした。祭やお正月          ほんとう などには、幾江は、真実の母親らしい愛情をもたれなかった 従姉のそばから、彼をつれて行って、幾日も幾日も自分の手     おきふし で食物や起臥の面倒を見てやった。幾江の処へ来る彼女の友 達からも、健は可愛がられた。女にほしいようなその紡麗な は多わ   かつ 生際や、優しい恰好のいい鼻や口許を、若い女たちは誰も羨              たけし ましがった。彼等の或るものは健を抱しめて、絹のような軟 かいその顔に頬ずりをした。幾江は健をつれてよくその友達 の家を訪ねた。        かたず  幾江が東京へ縁付くことになったのは、彼女が二十を越し てからの、或る年の春であったが、その頃多くの人たちから 前途に望みを寄せられていた、今の良人の法学士の母親に望 まれて、東京へ行くことになった彼女の幸運が、彼女の仲固 を羨ませた。幾江たちの町では、その頃大学を出た青年は、   いくら まだ幾許もなかった。でも幾江の母親は、娘を遠くへ縁付け ることに不服であった。この住みよい町に産れて町に育った ものは、もし家を畳んで、遠く新しい運命を捜しに出かける か、出稼ぎをしなければならぬような不運に出会わない以 上、町で死ぬものとしか思われなかった。  そんな町に育った幾江は、自分の結婚について、かなり空 想的な夢を産れてから初めて見たのであった。        りさぱ  冬のあいだ、櫓端から近く見られる山続きや、庭の果樹な                          ふき どを埋めていた長いあいだの雪も融けて、築山蔭に小さい蕗  とう               ついじざわホ の璽が芽を吹き出し、築地際の椿が汚れ残った雪のうえに、 ぼたぼた落ちる頃に、ある夜彼女は、ふるめかしい綿帽子な どを被って、その頃まで書年の母親が、守っていた家へつれ                    おつと られて行って、そこで見たこともない、今の良人と杯をした のであった。それから間もなく、彼女は物悲しい思いで、良 人や姑と一緒にその町を離れたのであった。姑は幾江が物心        とごりキャ のついた頃から、切下げの寡婦であった。  幾江たちが、町はずれまで送ってくれた多勢の人達に別れ                      のおも て長い旅に立ったのは、或る日の早朝であった。野面にはま                        かすか だ寒い、とげとげしい風が吹いて、畑には青いものが微に萌 え出ていた。雪を戴いた遠山の姿が、寂しい地平線の果に、 ほのじろ                 うる 灰白く見えた。初めて旅へ出て見た幾江の目は潤んでいた。  長い松原蔭の街道を、一行は悼にゆられながら行った。松 原のあなたに、轍い海が遠く眺められたり、咀るい漁師町が      めのまえ 絵のように眼前に現れたりした。川口の長い橋や、帆影が見 えた。国境の峠を越えると、南方にそそり立っている山の姿    ものすご が一層物凄く見えた。自然の姿が何となく荒かった。  その晩ある寂しい港の町へついて、そこの宿屋で泊ったと き、幾江は健がどんなに寂しい夜を過ごすであろうかを考え   ひと なみだぐ て、独りで涙含んでいた。聞いたこともない浪の音が、夜も すがら彼女の耳にまつわっていた。  その翌日、三人はその港から船に乗った。薄暗い夜明方の          はしけ 浜辺へ出て、そこから端艇で親船へ運ばれたとき、幾江は初          まのあた めて海と云うものを面り見たのであった。旅馴れた良人 は、家にいると少しも変らないような様子で、母親や幾江の 世話をしたり、談笑したりしていた。  束が段々白みわたって、大きい太陽が浪の彼方に赤々と輝 くその姿を現したとき、幾江は初めて朝日の美しさと、海洋 の壮大なのに驚かされた。今までかつて、そんなに大きい生 生しい太陽を見たこともなければ、荘厳な海に接したことも なかった。デッキのうえには、派手な衣裳を著て、聴きなれ ない言葉を使っている美しい令嬢や夫人たちの姿が、ちらほ ら目についた。船は北海道がよいのかなり大きな汽船であっ          めずら た。幾江は何を見ても希しいものばかりであった。  その夕方幾江たちは、また一つの港へついた。そしてその 翌朝、そこから東京行の汽車に乗ることが出来た。  東京についたのはその日の夜であった。        二  たけし 健の友人が、健を訪ねて来た翌日の夕方に、健と、ズック        の の鞄と毛布とを載せた悼が、幾江の門前についた。奥では良 人の友人が来ていて、夕飯を食べていたところなので、彼女 は女中と一緒に台所で立働いたり、客の前へ出てお愛想をし たりしていたが、健がついたと聞くと、急いで玄関へ飛出し て来た。健は思ったより背が伸びていなかったが、髪を一分         はえぎわ          め もと ぐらいに刈ったその生際や、優しい目許などは昔と変らなか                  かすり    き った。彼は運動シャツのうえに真新しい緋の薄綿入を著てい た。そして、幾江に悼賃を払ってもらうと、茶の間の方へ入 って来て、改まった挨拶をした。 「どんなに大きくなったかと思ったら、そんなでもありませ んね。」幾江は長火鉢の側に坐って、じろじろ、彼の様子を 見ながら、言った。  いくつ 「幾歳になったの?」 「十六です。」健はおどおどしたような調子で、いくらか顔  あから を搬めた。 「あ、それから昨日××と云うお友達が尋ねて来ましたよ。」 「そうですか。僕は立ったのが一日遅れたもんですから。」 健はまた重い口の利き方で応えた。 「あの人もやっぱり軍人志願なの。」 「そうです。」                 うけこたえ  健はぎこちなく坐った膝も崩さずに応答をしていた。 「疲れたでしょう。お湯に行っておいでなさい。そのあいだ に御飯の支度をしておきますから。」 「いや、御飯は汽車のなかでやって来ました。」 「でもお腹がすいたでしょう。」                      せつけん  少年はしばらくすると、袴をとって、幾江から石鹸を受取 って、洗湯へ行ったが、その問に幾江は彼のためにお膳の支 度をしたり、彼の着いたことを良人に報告したりした。学校 を出るとすぐ大蔵省の方へ奉職することになって以来、彼は もう六七年間も、同じ課に事務を取っていた。官海へ出てか らの彼は、学校の成績で予想されたほど、才が働かなかった が、それでも地位は完全であった。長いあいだ同棲している うちに、幾江は自然と良人の価値を判断することを学ばせら れた。初めて縁付いて来たとき、彼女は田舎で描いていた想       あて 像が、まるで当にならなかったことを、その生活ぶりで知っ たのであった。  下宿から移ったばかりの、家の小さいことや、世帯道具な どの貧弱なことなどが、そんな書生の新世帯を初めて見た彼         なさけ 女の目に、ひどく情ないものに見えた。そしてどこを見ても しつか 確りしたところや、落着のない借家の粗雑で、鼻のつかえそ      じようだん      せまくる うなのが、常談事のように思えた。狭苦しい台所へ出るたび に、彼女は陰気くさいたがらも、広々して余裕のある故郷の                       かりずまい 古い住居を懐かしく思った。幾日も幾日も幾江は、仮住居に                     あざむ でもいるような不安定な気分がとれなかった。欺かれて、東 京へつれて来られたような腹立しさをさえ感じた。  じようだんぐち          ほん  常談口一つ利いたことのない良人は、版で刷ったように毎 日朝早く出て行って、夕方にてくてく帰って来た。そして二              うたい うた 三合の晩酌に酔うと、彼は時々謡を謳ったり、訪ねて来る友 達と碁を打ったり、時には議論をしたりしたが、彼女には荒                       わか い声一つかけたことがなかった、この良人の気心が解って来 る時分には、彼女も次第に東京生活に馴れて来た。良人とは                  ふんいき まるで正反対に不思議に、賑やかな或る雰囲気をもっている 彼女の周囲には、色々の人が集まって来た。商人とは滅多に 口を利いたことのないような人が、彼女の部屋に出入りをし た。     かた                 はやざん  幾江が縁づいてから、三年目に妊娠した子供が、早産で問 もなく死んでしまって以来、夫婦に子供がなかった。そして 三年目に姑が亡ってしまってから、この一二年夫婦の問に初     とけあ               にじ  で めて心の融合ったような愛が濠み出るのが感ぜられたが、一  ひとり               ゆううつ 日独でいる幾江は、どうかすると不思議な憂欝に陥りがちで あった。火鉢にもたれてほろほろ泣いているようなこともあ った。  たけし               はず  健が来てからは、彼女の心にも何となく弾みが出て来て、                    うちと 生活の単調が破られたようであった。どこか打釈けがたい沈                  なず 欝なところのある少年は、心から彼女に脆みかねるように見 えた。そして二人きりの差向いになると、こそこそと逃げる ようにして自分の部屋へ入って行った。 「健さんは一体何が好きなの。」  まだ東京の食べものに馴れない少年は、時々そう言って訊 かれるほど何も食べなかった。 「ほんとに何も食べないから、張合がなくて……。」          はし      ちやぷだい  幾江は健が黙って箸をおく後から、餉台のうえを眺めなが ら言った。 「東京の食べものは甘くて。」少年は優しい目許に笑いなが  こた ら応えた。         みみたぼ 「そう。」と幾江も耳朶を赤くしながら言った。                さわや  やがて山の手の町にも、夏らしい爽かな空気が漂って来                         とお た。幾江たちは、女中一人を残して、三人打連れて夕方通り の方へ散歩に出かけた。町には新鮮な草花や匂の多い果物な どが、明るい電燈に照されて、美しい色を見せていた。少年 はさっさと先へあるいて行った。                      くさいちご 「私今夜は貴方に御馳走してあげてよ。」幾江は草葺などを 買って少年に見せた。 「田舎では、まだこんな物はないでしょう。」                 ぷあいそう 「今はどこでも作っている。」少年は無愛想に言った。              まぶた          おつ  幾江は八時になると、もう目蓋が重くなって来るような良 と                    いちゅ  た 人を寝床へ入れてからも、茶の間で健と二人、蒋を食べなが  たわい ら他愛のない話に耽っていたが、不断無口な健も、そんな時 にはよく田舎の話をして聞かせた。無邪気な冒険の話や、ボ ートレースの話などが、面白く誇張されて話された。山中で 大蛇に逢ったことや、おそろしい釣橋を渡ったときのことな              そそ どが、訳もなく幾江の好奇心を唆った。 「今でもそんな処があるの。」     む               むさぼ  幾江は剥いても剥いても、片端から少年が貧り食べる、大          まゆね きな夏蜜柑の一ト袋に眉根を寄せながら言った。       ひ だ 「あるとも。飛騨の山のなかへ入れば、いくらでもある。」 「そんな顔をして、よくそんな処へ行けるわね。お母さんが 心配するから、これからはお止しなさいよ。」 「僕は夏になると、家にいたことはない。去年も五箇の山 で、一ト月も高山生活をやっていた。」 「へえ、高山生活て、どんなことをするの。」 「里から米と味噌を運んで、天幕のなかで自炊しているのさ。」     こわ 「へえ、可伯くないの。」 「馴れるとちっとも可伯いもんじゃないよ。」 「そんなところにも、人が住んでいるの。」 「どんな山奥だって人間の住んでいないところはないよ。猿 もうようよしている。冬になると山犬も出てくる。」 「山犬って何?」    おおかみ 「普通狼といっているのが山犬さ。シベリァあたりから水 を渡ってやって来る狼のように、山犬は水掻をもっていない けれど、凄いことは、そりゃあ凄いよ。狼のように、いきな                     たきび り人問や馬に飛つくようなことがない代りに、焚火の傍へや         うなりごえ        しやが って来て、無気味な喰声を出して、いつまでも脆坐んでい る。ある晩なんか、一匹の山犬が喰ると、そこの森からもこ この森からも物凄い稔声が反響して来る。それで一晩中焚火 をして、一寝入もしなかった。空が白々とあけて来ると、ど こへ行ってしまったか、影も形も見えない。L                        ききほ ■へえ。Lと、一幾江は想像もできないようなその話に聴惚れ ながら、「健さんは何時の間にそんな冒険家になったの、お             かま 母さんがそんなことをしても介意わないの。」                     けんか 「お母さんは、始終くよくよしている。僕が喧嘩ずきだか ら。」                  みは       あい 「喧嘩も好きなの。」幾江は驚きの目を滞ったが、少年は不 かわちず  めもと 相変優しい目許に、笑っているだけであった。 「柔道の手を出していいんなら、どんな強い奴でも投げられるよ。」                ほか ■柔道は護身のためでしょう。その他の場合、柔道なんか無 闇に振廻しちゃ駄目よ。L 「でも家の婆アを投げてやったことがあるよ。」 ■あのお婆さんを。何だって、そんな乱暴なことをするの。L                  たけし  少年はにやにやと笑っていたが、近年健たちの母と同棲す             ふしだら ることになったこの老婦の不検束な生活を、幾江も知ってい た。寡婦になってから、一人で家を切廻していた彼女は、口             み    おさ      ばくと も八丁手も八丁だが、その身じようが修まらなかった、博徒 はだ ぬらずもの 肌の破落戸漢が、始終彼女の家に出入していた。少年の父親 は、その資産が傾いてから、終始遠国の方にいた。そして道 が遠いのと、母親の醜行を見るのが厭さに、三年に一度か五 年に一度くらいしか家へ帰って来なかった。健の母親は、良             っか 人の留守を一人で、その姑に事えたり、発育ざかりの多勢の 子供の世話をしたりしなければならなかった。中学へ出るよ うになってから健は暗いその家の空気を厭わしいものに思っ                   あび た。そして始終嫁に不愉快な皮肉や厭味を浴せかけたり、近     ざんそ   ふりま 所に嫁の議訴を振撒いてあるく姑のために、朝から晩までい らいらしい気持で暮さなければならぬ母親に、触れるのが厭     たけし であった健のためには、自分の家ほど心苦しい住居はなかった。  その老婦や家庭の話をしはじめると、少年の美しい目に、 陰欝な影が宿って来た。               かま 「そんなお婆さんなら、投げても介意わないようなものだけ         しつかり           やP れど、でも健さんが毅然していないと駄目よ。自暴なぞ赴す     ろく と、一生禄でもないものになってしまいますからね。今が一 番大切な時なんですからね。」  彼女はしんみりした調子で、少年のために憂えた。 三  七月中旬になった。町の往来が白く太陽の暑熱にやけて、       たけし             ほとぼり 西日を受ける健の部屋は夜になっても壁や押入の余熱が、肌 にむっと感ぜられるような暑い日が続いた。そして問もなく    かか 脚気に罹った健は、医師の勧めだといって、一度田舎へ帰っ て行った。                  あずき  幾江は少年のために麦飯をたいたり、小豆を煮たりした、 「小父さんに願って、どこか山のなかへでも転地するように してあげますからね。」幾江はそう言って少年を束京に引留               うち めようとしたが、彼はやっぱり家へ一度帰ることを願って止 まなかった。一月でも二月でも離れていると、家がやっぱり 懐かしかった。  少年を新橋に送ってから、幾江は急に家が寂しくなったの                       ど を感じた。長い夏の日の午後を、彼女はこれから何うして過            くつそししよ そうかと思うほど、心の空虚を感じた。 「いくら可愛がってやっても、やっぱりお母さんの方がいい のでしょうよ。あんな田舎へ行ったって面白くもないのに。」  幾江は良人と、そんな話をしていたが、幾江の良人は、妻 を通して少年の日常の生活を知っているだけで、直接には何 の交渉もなかった。交渉しようとも思わなかった。幾江の心 が、多く少年のうえに移っていることにも、格別不満を感じ なかった。 「己たちの時代の食客は、ああじゃなかった。」彼は一二度 そんなことを言い出したこともあったが、妻がすることに大                  ひた   かたわ した反対もしなかった。官庁の事務に浸っている労ら、専門 の学問の研究を、今も見棄てずにいる彼は、何事が世問に起 っても、没交渉であった。 「歯がわるくては、軍人になれんかも知れん。一つ経済学を やってみる気はないか。」                  しつう  彼は絢麗な歯並をもっている少年の歯痛に悩んでいるのを 見て、一度そんなことを言ったこともあったが、それもその 場きりであった。少年の生立や生活状態や心理やに立入って 考えたことは一度だってなかった。家庭をかなり楽しくやっ     きてん てくれる気転のある幾江に、少年を監視するだけの能力と深 切のあることを、信じているもののように見えた。  田舎から再び出て来た健の様子には、多少の変化が見出さ    からだ はば れた。体に幅がついて来て、初め出て来た時に見たような少 年の幼々しさが大分無くなってしまったと同時に、憂轡な気 分が緩和されたように見えた。それに初めよりは、よく多く                 じモと の友達と、気脈の通じていることも、直に幾江に感づけた。  友だちのなかには、どうかすると、一日も二日も部屋へ来 て、寝泊をしているような少年も、一人二人あった。 「おばさん松浦と山村に御飯を食べさしてもいいか。」  健は部屋を出てくると、幾江に言った。 「あ、いいとも。健さんのお友達だもの、私が御馳走してあ げますよ。健さんだって、また御馳走になるでしょうから ね。」                   う      むさぼ  健はお鉢なぞを、自身に運んで行って、磯えた人に、貧り          ありあわ 食べさせた。幾江は有合せの肉を煮て出したりした。飯がす       ちやにだい            たけし むと、三人で餉台や食器類を、台所へ運んで来た。健が最初 来たときいた女中が、国へ帰ってから、まだ好い女中が見つ からないので、幾江は一ト月余も一人で台所働きをしてい た。時々助けに来る年増の女が一人あるきりであった。          から 「おばさん、お鉢が空になったがいいか。」  健はそう言って、軽いお鉢をそこに置いた。 「よく食べたわね。」  幾江は「どれ。」といって、減り加減を見たとき、飯が一      あま しゃもじも剰されないのに驚いた。 「二人とも今朝から飯を食わないで、東京中ほつきまわって            めもと えみ 歩いたんだって。L少年は目許に笑じわを寄せながら、いく らか気の毒そうに言った。 「それはまたどうした訳でしょう。みんな家がないの。」 「ああ。山村の兄さんは旭川の聯隊に少佐をしているんだ        ヤつま し、松浦は東京産れで、国へ来ていたんだが、おっ母さんが 東京の人で、大分前から離縁になって、帰っているのだよ。 そのおっ母さんをたよって、やって来たんだけれど、おっ母 さんは今は嫁づいていて、力になってくれる訳に行かないん だって。」 「じゃ皆さん、家からお金が来ないの。」 「そんな訳でもない。」 「何だか心細いような人だちばかりね。」 「でも学校でストライキを起した連中なんだから、逃げて来 たのさ。そのうちにはどうかなるよ。」  健はそう言って、おどおどしながら引込んで行った。  しばら                しおせんべい  暫くたって、幾江がその部屋へ、お八つの塩煎餅を持って                       お 行った頃には、三人は本を枕にして、不健康な眠に陥ちてい           ふんぞ         ゆうげ た。健も枕を出して、踏反りかえって寝ていた。夕気づいた ひやつ 冷こい風が、窓からすやすやと流れていた。         あき 「健さん健さん。」個れたような顔をして、三人の寝姿を眺 めていた幾江は、問もなく健の枕もとへ近よって、揺りおこ した。  健はぽっかり目をあくと、極りわるそうに起あがろうとし た。 「寝ていてもいいけれど、風邪をひくと困るじゃないの。」                    まきたぱこ 「あ。」健はそう言って、後ろむきに坐った。巻莫の吸殻が、               たぱこぼん いつ持出していったかわからない萸盆の火入に、一杯突ささ っているのが、幾江の目についた。  夕方になると、幾江は飯の追いだきなどをするのに忙しか った。 「もう一々あちらへ運んだりなぞしないから、ここへ来て勝    あが 手にお食んなさいよ。」                    いいつ  幾江は良人の晩酌の膳を奥へ運ぶと、健に扮附けて、茶の 室で皆なに食事をさせるようにした。 「どうも済みません。」    うま  東京産れの松浦と云う少年は、幾江に愛想のいい挨拶をし て、食膳に坐った。 「温かい御飯がどっさりありますよ。」幾江はそう言って、 お鉢をつきつけながら、台所へ立って行った。  や                      ひようきん 「痩せっぽちの癖に、お前はよく食うな。」山村と云う剰軽          からか そうな少年が、松浦に椰捻った。 「そんな事を言うと、お前のこともすっぱぬくぞ。」松浦が 食ものを頬張りながら言った。                         や 「すっぱぬかれるような悪いことはしないぞ。」山村は遣り 返した。       はし                から  しばらくは箸ばかりが動いていた。お鉢があらかた空にな った時分に、二人は幾江の前に、ちょっと手をついて、挨拶 をして、部屋へ帰って行った。 「おばさん、今夜二人泊って行ってもいいか。」  大分たってから、もう二人とも帰ったのか知らと思ってい る侍分に、健は幾江の側へよって来て訊いた。 「一晩ぐらいならいいでしょうけれど……。」幾江はちょっ  あき と個れたような顔をして言ったが、いくらか彼等をかばって いるような健の兄ぶった気分が、いじらしいような気がされ た。 四  じキリ  直に幾江と親しくなった松浦と云う少年は、その後も、時 時行き場に困ると、遣って来ては泊って行った。        りつ                 たけし  幾江はどこか利発そうな、気立のやさしいこの少年を、健 と一緒に茶の間へ集めて、色々の話をさせて聞くのが、而白 かった。松浦は場合によると、友だちのおばさんのために、 ちょいちょいした用事を足してやったりするのに、気がきい ていた。健と一緒に、天窓の綱を直すこともできれば、風呂 場へ水を汲入れることも知っていた。買いものにもちょいち ょいまめに歩いた。  それに彼の不幸な身のうえが、幾江の同情を引いた。そし てその一家の人達の生活について、色々な解釈を加えている          そそ 少年の物語に興味を唆られた。田舎で或る機械場の技師をし         のちぞい ている彼の父に、後添が来てから、子供たちが父親との心持     へだて         いきさつ に、段々溝渠のおかれて来た経緯や、その後添が家へ入って 来る前後の、親達夫婦の険悪な生活気分が、少年の口によっ   こまか て、細いことまで話された。そんな話に幾江の感傷的な女ら                      いたわ しい心が動いた。そしてこの少年を健と一つに励ってやりた                   ハノ いような気持が、乾いたような家庭に倦みつかれた彼女の心 に、過度に衡きうごかされた。  地方の銀行を巡回するために、この頃彼女の良人は、しば らく出張を命ぜられて家を明けていた。 「おじさんがお帰りになるまで、松浦さんに来ていてもらっ  かま て介意いませんよ。」  彼女は、健にそんなことを言った。                       じき  少年は、二三日どこかへ行っているかと思うと、直にやっ て来て、幾江の家に寝泊りした。  暑気がいくらか薄らいで、蚊帳をふく風が肌にひやひやす るような晩が続いた。 「皆さん明日から座敷へ来て寝てもいいことよ。」  ある朝三人で朝飯を食べているとき、幾江は不意にそんな ことを言い出した。幾江は睡眠不足のような疲れた顔をして    すさ トとお       あおあお いた。透徹るような碧々とした彼女の目が、その朝ひどく充     うる 血して、潤んでいた。  主人の留守になってから、幾江はどうかすると、不眠の状 態に陥ることがあった。そんな時の彼女の病的な神経は、ち          お        ちようずぱち ょっとした物音にも怯じおそれた。風が手洗鉢のうえにある 手拭かけを揺って、板戸をことこと云わせるような音や、台       いたずら              さい 所でこそこそ悪戯をする鼠の音が、彼女の夢現の境に苛なま       あたま           おぴや れている弱い頭脳を、はげしく脅かした。彼女は自分がどう して、そんなに臆病になったかと怪しんだ。霜盗や強盗が、                  うかが どんな晩にも、戸の外に来て家のなかを窺っているような気 がしていた。                         なら  その晩は、広々した座敷に蚊帳を釣って三人が枕を拉べ て、眠りについた。風の一トそよぎもないような晩であっ                   うつとう た。残暑の蒸暑さが、蚊帳のなかを、一層欝陶しくしていた。              かいまき  幾江は腰のあたりに、軟かい掻巻をかけて、白い片腕を胸                 うちわ にあてながら、はたはたと何時までも団扇をつかっていた。 浅い藍染の絞りの寝衣が、蒼白い彼女の顔を、一層白く見せ ていた。     ものう  幾江の解い耳には、少年の話声が、何時までも心持よく聞               うつろ えていた。幾江はどうかすると、空洞のような声を出して笑                かけい   とだ った。するうち少年たちの話声が、寛の水音が途絶えでもし たように、いつとはなしに絶えてしまった。幾江もうとうと    ねむめ と快い眠に誘われて行った。  幾時間感覚を失っていたかを知らなかった。不意におされ るような重苦しさを感じて、彼女はふと目を覚した。     びつくり  幾江は吃驚して蚊帳から飛び出ると、毒恥と腹立しさと             ゆめうつつ ゆかた  かい の、不思議な溜息をついて、夢現に浴衣や伊達巻を掻つくろ った。 五  何かにつけてませている少年松浦が、どう話がついて、母 親の再縁先の家のある四谷の方に行ききりに来なくなってか   たけし ら、健のところへ訪ねて来る友人は少かった。山村が時々来 て健と一緒に代数をやったり、幾何の問題を解いたりするだ        すつかり        あきら けであった。健は悉皆軍人の方を諦めてしまって、この頃高                                           かたわ 等工業へ入る準備をするために、ある語学校へ通う傍ら、数 学を教わりに行っていた。  健はいつか、頭髪を分けていた。どうかすると、その髪が       ぷんぶん 香油の匂いに券々していることもあった。夜おそくまで帰ら                    よせ ないようなことが、二度も三度も重なった。寄席の話など を、滅多にそんなところへ近寄ったことのない幾江の前で、 して聞かせたりした。              はら  幾江の心には、次第に不安が孕んで来た。 「今が一番大事な時だから、ほんとに真面目に勉強しなけれ                      たび ば……。」幾江は心配そうに、二人差向いになる度に、言っ て聞せるのであったが、二人顔を突合せるような機会が、少 年の方から自然に避けられるようなことが多かった。本を買                つかいみち うために、幾江が出してやった金の費途のわからないような    めずら ことも希しくなかった。 「……それでこの間の本は何うしたの。」幾江はみっちり小           なじ 言を言うつもりで少年を詰った。 「本は友人に貸してある。」                すぐ  健はじろりと幾江の顔を見たが、直に傍を立ちそうに腰を           なだ        ことぱ 浮かした。幾江はそれを宥めすかすように、言を優しくし て、出来るだけ腕曲に説諭した。        うなず  少年は幾度も頷いた。                       た 「今度少し菌の療治に通っても、いいですか。」健は起ちが けに、言いにくそうに幾江に頼んだ。 「そんなことはいいですとも。ほんとに菌の療治をするな ら、お金をあげますからね。」  きん う 「金で埋めていいですか。」 「医師がそうした方がいいと言うなら、そうしてもいいでし よう、L  少年は、語学校の帰りに歯医師へ寄るのだと言って、毎日                  じゆうてん おそく帰って来た。間もなく幾江は金の充填の代価を渡して                  いいつ やった。そして受取をもってくるように扮附けたが、その受                もたら 取はいつまで経っても、幾江の許へ齋されなかったと同時 に、金の充填をした形跡が、どこにも見出せなかった。その 爾科医の名前や場所すら不分明であった。 「貴方がそんないけないものになろうとは、私は想像もしま せんでした。」幾江は健を呼びつけておいて、涙を流しなが ら言った。    うつむ  健は術いて聞いていたが、直にふとそこを立って行こうと した。                どき     かんだか 「健さん。」幾江は蒼白めた顔に、怒気をおびて甲高な声を 立てた。 「貴方は私の言うことを、何と聞いているの。」       しやが     うつむ  健はそこに脆坐んで、黙って傭いていた。ヒステリカルな         いいたて 彼女の涙ながらの言立が、いつまでも続いた。  その晩方、夕飯も食べずに出て行った健が、二三日家を明 けたことが、すっかり彼女を絶望させてしまった。 「何か女ができたに違いない。」幾江はふと健が上京したと き、彼女に言ったことを思出した。汽車のなかで、彼は誰と もしらぬ女学生から、色々のことを訊ねられた。そして袋の                      おぴただ なかから珍しい菓子を出してくれたり、水菓子を移しく買 ってくれたりした。幾江はその時はなんの気もなく聞流して いたのだが、急にその女のことが気にかかり出した。          ひきだし  幾江は少年の机の抽斗や、行李を調べはじめた。ある若い 女学生とも町娘ともつかぬ女の写真が一枚、行李の底から出 て来た。松浦愛子と、裏に記されてあるのが、幾江の神経を はげしく刺戟した。松浦と云う、例の少年の口からきいた、         いなずま       ひら 少年の姉のことが、電のように彼女の心に閃めいた。今舷 十九になったその女は、今年の春から、東京へ来て、ある役 所の職業に働いていると云うことも、思い出せた。  ひようきん し劉軽な少年山村が、翌日久振りで訪ねて来たとき、幾江は 強いて上へあげて、彼の口から健と愛子との関係を、残らず 聞くことができた。  健に裏切られたような失望に、幾江はしばらく口も利けな かった。                   かす  幾江の心に、ふと六七年前の或る記憶が微かに閃めいて来 た。不謹慎なその頃の自分の仕打が、少年の心をいつからか むし             おそ    せんざい 蝕ばみかけていたのではないかと怖れられた。潜在していた             あら     むく 少年の反感が、彼女にこの頃露わに酬われて来たようにも思                めん えた。そして今まで平気で、少年に面していた自分の心が不 思議に思われはじめた。  限りない着恥が、彼女の心に湧きかえって来た。暗いその            いと 頃の気分を考えるだけでも厭わしかった。               (大正六年 黒潮 二月号) --------------------- 復讐  たえ子はその晩も女中のお春と二人きりの淋しい食卓に向 って、腹立しさと侮辱と悲哀とに充された弱い心を強いて平          はし  と         いらいら 気らしく装いながら箸を執っていたが、続いて来る苛々しい 長い一夜を考えると、堪えられない苦痛を感じた。  たえ子がここへ嫁いでから、かれこれ一年近くになってい た。もちろんそれは偶然のーと謂っても、今の世のなかで 善良な普通の家庭における結婚を取決める場合に、尽される だけの順序は踏まれたので、東京にいる叔母夫婦も出来るだ けの注意を払うのに手ぬかりは無かった。田舎の彼の家柄と か、出身の学校とか、現在の収入とか、性質とか品行とか、 それらのものは型どおりに調べられもしたし、見合いもした                     おちつき のであった。そしてその上でまあそこいらが落着どころと決 ったわけであった。  彼女自身もそれに不足のあるはずもなかった。幸福な運命     しゆび の一つを首尾よく自分に引当てたらしく思われて、内心ほっ としたほどであった。無論二三年前、学校出たての時分にた     あたま だ漠然と頭脳に描いていた夢のような空想などは、二三のそ んな話を受取るたんびに影が薄くなって、それに無上の寂し さを感じながらも、恵まれた現在の運命に不服はなかった。 けれど品行方正らしく見えた良人が、会社で一日働いて帰っ て来ても、晩酌のときなぞに、そんなことにはまるで馴れな          あきた い彼女に、何かしら飽足りなさを感じていることが、ほどな                      こしら くたえ子にも判って来た。最近たえ子は自分で桁えたもの を、良人に食べてもらえるようなことは滅多になかった。そ                    やつ のうえ夜明頃になって、絶望と疲労のために漸とうとうとと ねむり お 眠に陥ちることも珍らしくなかった。  そんなことが長く続こうとは思われなかった。結婚前から                     きまぐ の惰勢か、悪友の誘惑か、でなければ酒の上の気紛れに過ぎ ないのだと思われたが、心配をする段になれば際限がなかっ た。その上結婚当時のけい言葉や優しい態度など思合せる          ぎさん      かたまり と、彼の愛も卑劣な欺隔と賎しい情慾の塊にすぎないのだ                 わな と思われた。何も知らない清純な女を係締にかけておいて、 苦しむのを見て興がっているのだとしか思われない、彼の享 楽気分にさえ触れたような不快と届辱を感じた。           ずる 「男はみんなこうした狡さをもっているものだろうか。」                    はずか  考えると際限はなかった。たえ子は今まで可恥しくて、誰   も             おもいき にも洩らさなかった自分の苦痛を、思断って友達に話してみ ようと思った。 「私今夜はちょっと用達しに出ますから、お留守をしていて ちょうだいね。」         いいつ  たえ子はお春に啄附けて着替をすると、そのままふらりと 家を出た。たとい良人が今夜は帰るにしても、顔を合せるの  いまいま も忌々しいような気がしていた。  しばらく外へ出ない問に、世問がめっきり春めいて来たよ うに思えた。ひっそりした宵の町の静かさや、潤いをもった 星の瞬きや、空に透けてみえる桜の枝などを見ても、淡い春 の悦ばしさが感ぜられるのであった。その辺は一体に勤人の                 つつ        わ らく 住宅が多かったので、どこの家でも裏ましげな和楽の声がし ているように思えた。ピアノの音なども何となく彼女の胸を そそ 唆った。  たえ子は音楽が好きであった。容貌などに自信のないとこ ろから、一時は音楽家として世の中に立とうかとさえ思った こともあったが、田舎の家の事情が、そう長く学校に通うこ                       ひけめ とを許さなかった。自分が音楽の天才でないという負目も、       くじ 彼女の勇気を挫いた。しかし今となって見ると、むしろ芸術            さつち にでも精進して、孤独の科に生きた方が、どんなに仕合だっ たか知れないと思われた。  静かな町を三四町も行くと、そこがもう電車通りであっ た。たえ子はその間も今電車から降りて来たらしい洋服姿の        おつと 人達のなかに、良人を物色することを怠らなかったが、こう いケ時には、得て行き違いになりがちなものだと云う気がし たので、二三台待っても見た。しかし期待は外れて、何の電     おろ             しかた 車も彼を卸しては行かなかった。たえ子は為方なし反対の側 へ渡って、急いで電車に乗った。  電車は相変らず満員であった。たえ子は込合う乗客のあい だに、辛うじて足の踏み場を見つけて、釣革に掘まっていた が、実は時間もそう早くはないので、ここから四谷まで行く のは大変だと思った。もちろん折があったら一度は相談して                   にわか みようと思っていたのであったが、今夜遼に思立ったこと は何だか唐突のように思われた。それにこの縁談の橋渡しを してくれた彼等夫婦のことだから、同情はしてくれても、結                    すごすご 局どうにもならずに、好い加減に慰められて情々帰るより外 ないことだろうと思うと、結果が見えすいていて、騒ぐだけ         と  ら 自分の弱味と辱を俊け出すに過ぎないのだと云う気もした が、現在の気持では、そんなことを考えている余裕はもちろ んなかった。で、何ということなし、思いきりめかして、小 遣いも多分に帯の間へ入れて、ふいと家を出たのであった。 そしてその時の気分では、ことによったら劇場か活動館のよ うな、多くの人の集まる歓楽場へでも行って、この悶えを紛 らそうと云う意識もあったに違いなかったが、それには時間 がおそかった。  電車はいつか白山をおりて、柳町から春日町を経て、水道 橋の乗替場へ出て来ていた。たえ子はそこで牛込行きへ乗り かえたが、その電車は前のよりも一層込合っていた。そして 劇しく揺られたりぎゅうぎゅう圧されたりしていると、その     と 方に気が擬られて、今まで煮返るように思い詰めていたこと が、どうかすると寂しい影のように薄らぐのを感じた。それ がまた不思議に彼女の心を寂しくしたりした。電車は荒い響                 かす きを立てて、暗い通りを走っていた。微かな電燈の光が目の   かす                   ほとぱし 前を掠めたり、自動車が昼のような白い光を地上に逆らせ て通ったりした。  前からも微かに感じていたことではあったが、たえ子はそ                       はいよ の時ふと暗い蔭になっている右の方の手先に何やら這寄るよ                  ひじ  すく うな不思議な触覚を感じて、無意識的に肱を辣めた。と同時 に肉体の温みを感じ合うくらいに近接していた一人の青年の   ふりかえ                     まえのめ 顔を振顧った。青年は黒のソフトを前踏りに冠ってマントを       くちひげ 着ていたが、口髭を短かく刈込んで、黒いたっぷりした髪が くび  もみあ 頸や揉上げに盛りあがるような分厚さでつやつやしていた。     ひしや で、鼻は夷げて、唇も厚かったし、顔の輪廓も整った方では なかったにしても、決して悪い感じの顔ではないことに気が                 とぼ あいきよう ついた。その上彼はにっこり目元に呪けた愛矯をたたえて、 じっとたえ子を見返したが、その目の底には暗い影が隠せな かった。  たえ子は何となし軽い衝動を感じたが、同時に釣革を左の 手に持替えた。節々のしなやかな、小さいその手は、黒い絹     つつ の手袋に裏まれていたが、しばらくすると、下げた方の右の 手に、同じような触覚が感ぜられた。そしてその瞬問、強い 握力を感じた。                  せんりつ  たえ子はかっとしたような不思議な戦傑を身に感じた。そ して不思議な好奇心が彼女を唆った。もちろん不可抗的な運 命のように、彼女の手が働きかけた。  二つ目の停留場へ来たとき、ちょっとした目配せに、全く 支配されたもののように、たえ子は人を掻別けて行く青年の 後につづいて、電車をおりてしまった。 暗い川添いの通りを二人は少し離れて歩いていた。 「こっちへ行って見ませんか。」                         ゆめうつつ 今更極り悪そうに彼が言ったようであった。たえ子は夢幻 のような気持でその後からついて行った。                     ひた 水は音もしないで、静止したように星の影を酒していた。        たちこ 対岸には濠霧が立軍めてどこを見ても起きているような家は               はげ なかった。電車の響きばかりが劇しく耳についた。                          ふり 「貴女ここでおりてもよかったんですか。」青年は彼女を振 かえ           き 顧って、おどおどした調子で訊いた。  たえ子は先刻から胸をわくわくさせていたが、自分の今置 かれた位置ははっきり過ぎるほど意識していた。もちろん侮 辱を感じない訳にはいかなかったが、それを耐え忍ぶことは 大した苦痛でもなかった。その上それは思いがけないことで はなかったようにすら感ぜられた。             こた 「いいえ。」たえ子は微かに応えた。 「どこへ行くんですか。」 「四谷まで行こうと思ったんですけれど、もう遅いでしょう ね。」 ■四谷ですか。L 「四谷の本村なんですの。」 「そう、もう十侍半ですからね。」 「まあ……もうそんなですかね。」たえ子は心安さを示すよ うな調子でいった。 「四谷は貴女の家なんですね。」 「いいえそうじゃございません。家は小石川なんですけれ ど…・:。」                      ぱか 「小石川から四谷じゃ大変ですね。それに今夜は莫迦に寒い じゃありませんか。」 「ええ。そうね。」と、たえ子は笑って、「失礼ですけれど、 貴方学生さんでしょうね。」 「え、X×大学生ですが、安心していらしてください。」彼 も声に出して笑った。 「それはいいんですけれど、何だか悪いですわね。」たえ子  ちゆうちよ は蹄.蹄気味で自嘲的に言った。  二人は河岸に立って、ぽつりぽつりそんな話を交換したの ち、そろそろ歩きはじめた。 「僕は下町の方で友人と少し飲んで来たんですが、もう醒め てしまったようです。お願いですから御迷惑でも一時間ばか                   ね だ  り附合っていただけませんかね。」青年は強請るように言う のであった。 「お酒ですか。」 「え、どこかそこいらのカフエでもいいんですよ。」 「でも、私何も存じませんのよ。」 「それあ判っていますよ。」 「それに私今夜は、お友達に少し相談したいことがあって、 わざわざ来ましたの。」 「相談って、何ですか。」 「だって、初めてお目にかかった方に、そんなお話できませ んわ。」 「いいじないですか。どこの誰だかも知れないんですか ら。」                         はずか 「え……。」とたえ子は薦路していたが、「ほんとうにお可恥                         まつたく しい身の上なんでございますの。どうすればいいか、真実判 断がつきませんので、今夜も実は思い余ってお友達に御相談 に行こうと思って家を出ましたの。」 「伺わないうちは、問題の性質もわからないですが……もし                 しかた 僕でよかったら…-僕が伺ったって、為方がないかも知れま せんけど、何なら話して見てくれませんですかね。」  結局二人は、飲食いをするような家を見つけて、そこで話 をすることになった。          やつ  たえ子はその晩、漸と電車に間に合った。もちろんどこを 捜しても話をするような家はなかった。どこでも戸をしめて いたり、火を落していたりした。そうした会合に適した家も あるにはあったが、青年はまだそれほど世間に触れてもいな かったし、たえ子にも余りぱっとしたところや、人に顔を見 られるような家は忌避されねばならなかった。                         おつと  家へ帰ってみると女中はもう戸を鎖して寝ていたが、良人 はやっぱり帰っていなかった。たえ子は寂しい家を見ると初   ほつ めて吻とした気持になったが、同時に家を出るまで胸にもや もやしていた憤愚や、嫉妬や反抗心が、水をそそいだように                      に■みだ 消えていた。そしてその代りに自嘲と悔恨とが泌出してい た。                      なず  廿い私語と、秘密の享楽とに、何となし心から睨みきれな     かす い、厭な津のようなものの舌触りを感じながらも、好奇心の 充されたことだけでも、全く無意味ではなかったような気が した。もちろん誘惑はおそろしかった。ずるずる惑溺して行 くのではないかと気遣われた。たといそれが復讐という意味 で、悩ましい一夜の行為が是認されてもいいことだと思われ          こじつけ  べんそ ても、それは後から附会た弁疏に過ぎないのであった。外来 の誘惑が動機であったとすれば、やっぱり自分の意志の薄弱 から来ていることは争われなかった。  たえ子は次の火曜日の昼頃に、再び三越の休憩室で落会う              たもと ことを約束して、そこそこに挟を分ったのであったが、二度              ぬきさし も三度も……そして終いには抜差のならないハメに陥って行                   いつ くのが不安であった。のみならず、秘密は何時か暴露される 時が来ないとも限らなかった。その結果をも想像しない訳に 行かなかった。         おつと  翌日の夕方に、良人が帰って来た。彼は工業学校出の男 で、或る大きな会社の機械部にいたが、収入はただそこから 受ける俸給ばかりではなかった。その晩も彼は酒気を帯びて いた。もちろんカフエか何かで飲んだのであろうと想像され た。                         とが  たえ子は何だか顔を見られるような気がして、気が答め た。夜が一層不安であった。良人はいつもの通り、ポケット                ま から夕刊を取出すと、それを茶の室の電燈の明りで読んでい たが、やがて風呂へ入った。たえ子はその間に、晩飯のお膳 立をしていたが、やっぱりおちおち落着けなかった。  するうち良人は風呂から出て来て、鏡台の前で、頭髪に香                      ちやぶだい 水を振りかけたり、櫛をつかったりしてから、餉台へ来て坐               と った。たえ子も伏目がちに箸を執っていた。          はなだよゆ  食事をしながら、花信や、活動の話をしていたが、食後間 もなく眠気が差して来て、彼はいつもの寝室で、疲れた体を ふとん 蒲団の上に横たえた。  たえ子も夕刊に目を通してから、今日の小遣帳をつけなど して、九時を聞くと同時に寝仕度に取りかかったが、寝所へ                      いぴき 行って、看ると良人はあんぐり口をあいたまま、蔚をかいて                よど       あと 深い眠におちていた。皮膚の黄ろく滞んだ顔に疲労の迩が深                にじみ く刻まれて、毛孔から汚い分泌物が入染出ていた。たえ子に            ヤつと はその寝様が憎らしくも妬ましくも思えて、横になりながら            しかた    そぱや も容易に眠れなかった。為方なし入った蕎麦屋の二階が目に 浮んだり、薄い口髭に愛矯をもった青年の顔が想出されたり         キト して、心気が一層冴えて来るのに苦しまされた。                ひさし  一時問ばかりすると、ぱらぱらと廟や庭木の葉にかかる雨                     たばこ ふか の音が耳についた。いつか彼は腹這いになって萸を喫してい               まくらもと         あめ たが、たえ子も寝そべったまま、枕頭へ引寄せた飴を口にし ながら白い手を延べて髪を直していた。 「それあ私だって淋しいわ。」たえ子は良人の問いに答えた9  おれ                      きり 「己ももう止した。売色なんかいくら遊んだって、あれ限の もんだ。」彼は言うのであった。                 だま 「あんな巧いことを言って、また人を隔そうと思って。」た    のど え子は咽喉で笑って、 「男なんて随分勝手なものだと思いますわ。外で何をしてい るのか知れやしないんですもの。ただお酒を飲むだけなら、 泊ってくる必要はないでしょう。私ほんとにそう思ってよ、 夫婦くらいお互に信用のおけないものはないってことを、自 分の心だって信じられないことがあるでしょう、貴方なぞき っと。」  たえ子は天井を見つめながら、そんなことを言い言いして いるうちに、自身の表情がいつか暗くなっているのを感じ た。そしてそれが良人に何の反応もないことに気がついて、       つぐ そのまま口を摩んだ。  火曜日が来ると、たえ子の心は自然に彼の青年の方へ動い て行った。  もちろん興味を追求して止まないような彼女の気分が、或 る飽足りなさを感じていたことも争われなかったが、約束を              いつ 裏切ることも不安であった。何時どこで逢っても、差障りの            きつぱり ないように、別れぎわを明白させておく必要もあると思われ た。  しかし後の企図は全く失敗に終った。彼女はまた別れぎわ に、第三回目を約束しなければならなかった。          もちろん    か  逢ったところは、勿論指定どおりの彼の宏大な建物のなか               うろつ であったが、二人は長くそこに彷僅いていなかった。  たえ子は彼のために万年筆を一本買ったが、やがてそこを 出ると、電車で築地へまわって海岸へ出た。船で水を渡る と、向うの土地にそうした会合に適当した家のあることを、 青年は誰からか教わっていた。たえ子は幾度か鷹躇したが、 そのまま別れることは出来なかった。  青年は野球などの好きな男で、体には若い血が躍動してい るように見えた。そして塩湯へ入ってから、ビールを飲みな がら、一つ二つ話しているうちに、彼の田舎が相当な資産家 であることも知れた。 「あなたも勉強中の体なんですから、こんなことはもう止し ましょうね。私はそれを言おうと思って、今日は来たのよ。」  青年はそれに感謝の意を述べた。 「僕にだって良心はありますよ。」                        し かた 「でも私もそうですけれど……それは何といわれても為方が ないけれど、貴方も、随分大胆ね。」  彼はさすがに紅い顔をした。 「そう言われちゃ形なしですね。」彼は笑いながら、 「しかし反応はきっとあるから不思議ですよ。」              い        おこ 「そんなことを言っちゃ、私厭やよ。」たえ子は慣ったよう な目をした。 「貴女の場合は別です。貴女の動機は、むしろ同情に値いし ますよ。そんな非人道的な人には、復讐してやるがいいんで す。僕はそれを思うと、痛快ですね。」 「貴女の場合なんて…-じゃ、貴方は私きりじゃなかったん だわ。」たえ子は暗い不快な目をして、彼を見た。               はずか  しかし黙っている彼を、その上辱しめることは出来なかっ た。  時間が流れるように過ぎた。そしてそこを辞して、ふらふ  わたしぱ                ほのズら ら渡場の方へ出て来た時分には、水の上はもう微暗い夜の色  おお に蔽われていた。繋っている船のうえにも、対岸の人家にも            わぴ 電気がついて、何となし佗しい寂しさが、心に喰入ってくる のを感じた。たえ子は涙ぐましいような気持になっていた。 それは必ずしも感傷的なその場の気分から来ているのではな かった。あの家を出ぎわに、耳にした、興味半分の青年の自 白が、ひどく彼女の幻影を裏切ったからであった。  実に彼は、そんな経験をしばしばしているらしかった。そ して興味の対象が、大抵の場合処女であったことなど想合せ ると、たといそれが深い悪意ではないにしても、それだけに  ゆる 又赦しがたいことのように思われて、たえ子の心は憎悪に燃 えた。  たえ子は自然にそれが色に出たが、口へ出して言う資格は なかった。  ひっそりした海岸の町らしい、宵の築地海岸を、二人は距 離をおいて、黙って歩いていたが、やがて明るい劇場の傍ま で来ると、一緒に電車に乗った。 「今度ね、貴女の都合を見て、どっかもっと面白いところへ               ささや 行きましょう。」青年はたえ子に嚇いた。                   こた 「え、貴方考えてちょうだい。」たえ子は応えた。  しかしやっぱりあの大きなデバートメントストァで落合う ことになって、乗換場でたえ子は彼と別れた。早くこの不安 と悩みから脱れなければと、そう思った。             み のが 人が附いていることをも、見遁さなかった。彼はそのまま見 え隠れに二人の後を追った。                   あたり  ふと彼女の姿が見えなくなったと思って四下を見まわして いる青年の傍へ、やがて彼女の顔が現われた、青年ははっと したように立停って、急いで彼女に手を差延べながら、            おく 「球で怪我をして、つい後れて済みませんでした。」 「いけませんですよ。」たえ子は手を引込めながら紅い顔を して言った。 「これ限りお目にかかりません。どうぞ悪しからず。」  たえ子は言い棄てて、急いで良人の傍へ行った。彼は帽子 の売場の前に立っていた。青年は詰問する間もなかった。              (大正十年 中央公論 五月号) --------------------- 卒業間際                    井出はその朝も近所を通るひろめ屋の楽隊の騒ぎで目がさ めたが、頭脳が何だかぼんやりしていた。もちろん二月の月 といえば、冬ともつかず春ともつかず、太陽はいつも日没の ような鈍さで、長いトンネルの出口が容易に来そうもないよ うな、中間的な或る怠屈を感ずる時であるように、人問生活                けだる の営みの上にも、眠ったいような解さと淀みとが感ぜられる のであった。井出も暮には少し働きすぎたし、一月はやや遊 びすぎた形で、この月は何か知ら、散漫になりがちな生活に いらいら 苛々させられていた。  天気は相変らずどんよりしていた。楽隊の音は次第に裏通                   みつ りへ遠のいて行って、茶の間の見当でお光と叔母との話声が していた。何を話しているのかと耳を静めると、それは公園   ホ  うわさ                                      ぱ の芝届の噂であった。権十郎の直侍が羽左衛門そっくりで莫 か                      ネ      ホ 迦に評判がいいとか、愛の助の三千歳が素敵に縞麗だとか言 うので、今時分未だ寝床にもぐり込んでいる井出に当てつけ         しやべり るように高声でお饒舌をしていた。光子はお母さんがないの で、東京ではずっとこの叔母さんの世話になって来た。別に 学校をやらしてもらった訳ではなかったけれど、裁縫や何か はいくらか仕込んでもらった。そして堅気の奉公からカフエ の女給になるまで、その家にいた。家は家具屋で、小さい工 場も持っていたが、そこに働いている義理の弟を養嗣子とし て、お光をそれに結びつけようとしていたのを、光子は嫌っ て、それを逃げまわった揚句に、学生である井出と恋におち   ふしようぶしよう て、不承不承叔母の許しを得て、その近所で世帯をもったの は、つい去年の冬であった。しかしそれがうまく行くかどう                 おさ かが、叔母には疑わしかった。井出の修めている学科の卒業 後の志望が、彼女の気に食わなかった。いくら偉くても、そ んな男と一緒になって、中途で飽きられなければ、一生苦労 が絶えないだろうと、彼の山世を危ぶんでいた。  井出は夜具を被って、叔母の帰るまで狸寝入りをしようと      しぱら 思ったが、暫くすると光子が起しに来たので、仕方なし目を 開けた。 「もう貴方十時だわ。今日は学校へ行くんでしょう。」 「学校はお昼からでもいいんだよ。」井出はまだもぐもぐし ていたが、到頭耳を引張られたり、鼻をつままれたりして光 子に起されてしまった、                          ふり  叔母は茶の間で仲の好い二人の様子を、聞いて聞こえぬ振 をして、新聞を見ていた。近頃景気がいいので、ブラチナの             み なり 指環なぞはめていつも好い身装をしていた。彼女は自分だけ でこそこそ色々なことをやって、いつも懐ろが暖かであっ た。ここへ世帯をもったときも、光子は敷金などいくらか叔 母に立替えてもらっていた。 「お早う。」井出は茶の間へ顔を出すと、叔母に挨拶した。 「あまりお早いこともないじゃありませんか。貴方黒玉が流 れてしまやしませんか。」叔母は笑った。 「僕は夜が遅いんです。昨夜も寝たのは一時でした。少し仕 事があったんですよ。」        たく 「そうですか。宅の繁さんも、あれで何か読んだり見たりす ることが好きでしてね。誰の小説が面白いとか、何とかの活 動が素敵だとか、よくそんなことを言っていますがね、井出 さんも何か書くなら、今にえらい小説家になってもらいさえ すれば、それで結構ですよ。」  井出は頭をかいていたが、           かな 「叔母さんに逢っちゃ敵わない。先のことは自分にも判りま せんけれど、何だかむずかしそうですね。だから光子にも言 っているんです、別れるなら今のうちだって。」  井出は光子がもしそう云うことで、一緒になっているな   い つ ら、何時でも別れてもいいとは言っていたけれど、光子がそ                    ひな うだとは思っていなかった。光子のどこか郡びたところのあ る美しさが井出の気に入ったと同時に、井出のきっぱりした 愛らしい顔と無邪気な態度とが彼女の気に入った。唯それだ けであった。光子には外に彼女を愛している男が二人もあっ た。その一人は金廻りの好い商人で年が四十以上であった が、一人は医学生であった。商人からは殊に物質的に恩を被 せられていた。そして井出との愛がしばらくの間進行したこ とが、主婦の反感さえ買った。光子は家具の職人や商人と文 学青年との区別くらいは知っていたけれど、井出の価値を本 当に解しているという訳ではなかった。井出も光子にそんな ことまで認めてもらおうとは思っていなかった。光子はハイ カラよりも島田が似合うような柄あいの女であった。                        す  井出は叔母の側を離れて、流しへ出て顔を洗うと、直ぐ出 かけようとした。 「あなた御飯は。」              もら 「御飯は食べたくない。牛乳を貰おうよ。」              はかま  井出は牛乳を呑むと、やがて袴をはいてマントを著て出た             ひ が、いつものことで後へ心が惹かされた。そんな悪意はない と思ったけれど、世帯をもってから、生活がとかく思わしく ないところから、光子もまたカフエヘ通おうかなどと考えて いる場合なので、叔母の口先きで彼女の気持がどう変らない とも限らないのであった。  井出は今日は聴いておかなければならない講義もあるし、         す あまり長く課業を棄っぽぬかしにしておいたので、不安を感 じていた。それに試験毛間近で、卒業論文の準備にも取りか からなければならなかった。最近死んだ或る老大家の評論が それであった。大体の腹案はついていたが、大して自信はも てなかった。          ホ  彼は土堤から川蒸汽に乗った。学生らしいものは一人も乗 っていなかった。皆な町家の女か勤め人か商人で、それが又               かいわい 角帽ばかりぞろぞろしている学校界隈にいるより安気であっ            ホ た、学校の附近で、素人屋に友人と一緒に問借りをしていた 頃、光子としばらく同棲生活を経験したこともあった。しか                  うる し色々な友人が学校の往復に立寄るので煩さかったし、叔母 の承認をも得ていなかった。それに光子の通っているカフエ が浅草に近いところなので、夜帰りがおそくなると、彼は気  も が揉めて仕方がなかった。しばしば彼は電車の終点まで見に 行ったが、光子が疲れた顔をして、ぼんやり電車をおりてく るのを見ると、やっと安心するのであった。しかし下町のカ フエから電車に間にあうように帰って来るのは、光子にとっ てもあまり体裁の好い訳はなかった。光子はカフエを止めた い止めたいと言っていたが、しかし二三日も怠って、狭い部 屋にばかり閉籠っていると、やっぱり明るい世界が懐かしく なるのであった。それに一緒にいてみると井出は思ったより 駄々ッ児であった。心持のうえだけでも、光子が色々犠牲を 払っていることも、彼はさほど理解してくれないように思え         はや た。で、光子は朝夙くから通いはじめるのであった。せっせ と通いはじめると、井出はまた気になるのであった。ああし       キも て人のなかへ曝らしておけば、いつどんな有力な競争者が現                     てつぺん われて来ないとも限らなかった。それに頭の天辺から、足の 爪先きまで、肉体の全部が、そんなに挑発的でない程度で愛          まと くるしく、ちんまり纏まっている。軟かい乳色の皮膚、張れ       ま ぷた ぼったい一重目蓋の下に、うっとり夢でも見ているように刻                        と   かく まれた目、下脹れの顔や薄紅い唇などは、お上品さは左に右 として、誰が見てもすぐ好きになれそうな顔であった.井出                  あきた も永久の意味では、教養の乏しいのが飽足りなかったけれ ど、教育すれば出来ないことはないと思っていたけれど、カ フエ気分を抜くだけでも、ちょっと骨が折れそうに思えた。                おつくう 光子がカフエヘ通うのを、時には億劫にしていながら、やは り通わずにはいられないのは、経済上の都合もあるには違い なかったけれど、やはり真面目を欠いているからだという気 がした。井出にはそれが飽き足りなかった。そして腹立しか った。                        ニぼ 昨夜も井出が、内職が勉強にさわることを言って渡すの      す で、光子は直ぐカフエ通いの復活を申出でた。 「またカフエヘ行こうと言うのかい。」 「だって貴方が勉強が出来ないと言うから。」 「うまく言ってら。お前はカフエ生活が忘れられないんだろ う。」 「何故?」 「なぜでも。お前は浮気ものなんだよ。多くの男にちやほや されていたいんだよ。自分でそう思っていなくても、そうい う風に生れついているんだよ。」 「それならそれでもいいわ。貴方さえこぼさなければ、私だ って強いて行きたいって言ってるんじゃないじゃありません か。」 「おれだってカフエヘ行くのが悪いと言うんじゃないんだ。 お一…川がほんとうにしっかりしていれば、カフエヘ行こうとレ ストランヘ住込もうと、己は平気だ。しかしお前はそんなに しっかりしている女じゃないんだ。やっぱり男に取囲まれ て、お酒でも飲んで陽気に騒いでいることが好きなんだよ。」 「だって客商売ですもの、少しはお愛想もしなければ困るじ ゃありませんか。でもなくて誰がチップをくれるもんです          やきもちや か。貴方もずいぶん嫉妬家さんだわ。」  井出も笑出した。 「そう言うけれど、己はカフエヘは出してやりたくないんだ よ。おれを裏切るほど大胆でないまでも、動揺しやすいか ら、何か言われれば悪い気持はしないに違いないんだ。一日 のうちに一人や二人は、たとえばその瞬間だけでも、きっと 好い男があるだろうからな。L 「それは御自分のことを言っているんだわ。貴方こそよく途 中で好い女に目がつくじゃありませんか。」  カフエヘ出る出ないの問題が、格別強く主張される訳でも なかったけれど、光子は井出が卒業するまで出た方がいいと 考えていた。井出も不賛成ではなかったけれど、そうすれば カフエ気分がますますしみこんで来るばかりだし、友人達や     きま                   いいじよう 叔母にも極りが悪かった。光子の言条は真面目に信じてもい いと思ったけれどやっぱり不安であった。            たもと  蒸汽がやがて吾妻橋の挟へ著いたところで、井出は急いで 岸へあがったが、大塚方面の電車が、ちょうど雷門のところ                      ふみだん で乗客を吸込んでいたので、それに乗ろうとして踏段に足を 踏みかけようとしたが、ふと或る女のことが頭脳に浮んで来                ちゆうちよ たので、逢って行こうかと思って、鷹踏しているうちに、電 車は発車してしまった。町は相変らず砂埃が深かった。目を                     うかが 突くような貨物自動車や荷車や自転車の隙間を規って、うよ うよ動いている群集が無秩序に右へ左へと混乱していた。そ                     な だ してそれ等の多くは、大抵仲店の方へぞろぞろ崩雪れこむの         ざつぱく                     きょうざめ であった。井出も雑駁で俗悪な浅草の歓楽場に興醒を感じな がら、向島へ世帯をもつようになってから、よく川向うから     ホ                                          つう 明るい六区へと散歩の足が向くので、先刻も光子の叔母が通 ぶっていたような公園の役者の名前などを、いつか覚えるよ                      ち  ち     ヤ うになった。それからバァーやカフエ、牛肉店にしるこやな ども、あらまし知っていた。殊にいつか友達二三人と飯を食 ったことのある鳥屋では、顔馴染の女中が二人まで出来て、    うぷ 井出を幼な学生と見たらしく、今度来る時は一人で来いとか                   そそ 何とか言ったのが、ちょっとした好奇心を唆って、一度行っ て見たいような気もしながら、ついそれっきりになってい た。たしか友達同士で活動の帰りに寄って、文学談なぞやっ ていると、その女もその世界のことをいくらか知っていて、 有名な小説家や戯曲家の名を知っているばかしでなしに、人 間も知っていた。それはそう云う人達の遊びに行く場所にい たことがあるからで、年もそう若くはなかった。子供子供し た光子に比べると、体も大きく、顔もしっかりした方で、大 人ぶっていた。井出はそんな女に、そう幾人もの近づきをも       よ                                           あさ つことを深く施じたし、学校もまだ出ないのに、恋ばかり猟         すさ って歩く醜い最近の荒み方を内心怖れてもいたので、光子以 外の女を振向くまいと決心していたけれど、その女にだけは           しろぱ ら 心を動かされた。井出は白薔薇のような光子の単純を愛して いたけれど、その女にはもっとそれ以上の魅力と享楽気分が 多分にあるのを感じた。  その鳥屋は仲見世の裏の通りにあったが、井出の足は自然      ひきつ にその方へ惹著けられて行った。そして井出が上って行く   ちいさ と、小い女が奥の小間へ案内してくれたが、井出は食物を注 文してから、 「お花さんはいるの。」わざと今一人の若い方の女のことを きいて見た。 「お花さんですか。」            や 「あの色の白い縮れ毛の痩せた人。」 「あの人はおりません。」 「いないの。どこへ行ったの。」 「先日お嫁に行ってしまいました。」 「ヘ一え、ぴ⊂》】へ。」 「さあ、どこですか。」 「お直さんは。」 「お直さんはいます。」 「それじゃ後でちょっと来ないかと言ってくれない?」             あお      えいえい  目の前に泉水があった。碧い水が盈々と堪えて、緋鯉が二             しようしや 三尾岩の聞を泳いでいた。浦洒な植込みを隔てた向うの部屋 にも折鞄など持込んで、飲食をしている二人連の男のいるの が見えた、ブロオカアか金融業者のような風の男であった。 井出はそんなような世間の人までが、この頃目につくように なった。彼等の生活も、泉水の鯉のように、どこへ頼りがあ る訳ではなかった。彼は学校を出てから前途を考えると、生                       おど きて行くには余りに能なしのように思えた。いっそ脅かし半 分光子にいつも言っているように、田舎へ引込んで二三年教    と 鞭でも執ってみようか、それとも地方新聞の記者にでもなろ うか、そんなことを考えていた。口は二三の先輩にも頼みこ んであるけれど、卒業が近づくにつれて、生存競争が年一年 深刻味を加えているのが、ひしひし感じられた。  その時お庖が廊下伝いにやって来た。 「入らっしゃい、しばらくでしたわね、」お直はそう言っ                ちよこ   はし  つま て、物馴れた手つきで食卓のうえに猪口や箸や摘みものを並 べた。 「そう、あれは何時だったっけ……。」井出は極りわるそう に言った。 「さっき貴方が入ってくる姿を、ちらっと見たんですよ。あ ちらの部屋から。だけど、貴方の用事のあるのはお花さんで        あいにく したっけね。お生憎さま、あの人はもういません。」                 キエエ 「いや、そうじゃないんだよ。何だか極りが悪いから……。」 「正直に弁解なんかしなくてもよござんすよ。今日は本当に お一人ね。学校の帰りでしょう。」 「これから行くところさ。だけど何だかちょっと来て見たく なったから。」              たま 「それじゃ学課は怠業ですね。偶にはいいでしょうね。貴方 は不断は勉強家のようだから。」 「僕が勉強家に見える。」 「まあそうですね。」  女は鍋を仕掛けたり、食卓を拭いたり、小まめに働いてい た。 「お花さんはお嫁に行ったんだってね。どこへ行ったの。」 「本所ですよ。」 「本所だって随分広いじゃないか。」    じ 「でも直きそこですよ。橋を渡って三町ばかし先ですから、 そんなに好きだったら、今度頭髪でも刈りに行って、見てご らんなさい。」 「僕あの女はそう好きじゃないんだよ。ただね、あんな女が        おちつ どんなところへ落著くものだろうかと思ったから。L 「それは色々ですね。」      かたぎ 「あんな女堅気になれるかしら。」 「厭に心配するわね。」                 いいなずけ 「心配する訳じゃないが、僕田舎に許婚の女があるんです よ、学校を出ると、結婚させられることになるかも知れない んだけれど、でも、僕どうせ東京で暮したいと思うから、そ                           で んな田舎ものを連れて来たって詰らないからね。」井出は出 たらめ 鱈目を言った。 「ああ、それで……。」女は感心したように言った。 「それに学校を出たところで、僕なんか飯が食えるかどうか わからないから、そんな学校出の世間見ずと結婚して、貧乏 世帯を切廻して行けないと困るでしょう。田舎ものは虚栄心 が強いから。」        おつと 「そこは貴方が良人の権利で、抑えつけておけばいいじゃあ りませんか。」 「けれど君にしたって、貧乏暮しは厭でしょう。」 「私はお金は沢山いりませんね。お金廻りがよくて道楽する 人よりかも、不自,由しても真面目な人が好きですね。私達は そう云う人を沢山見つけていますから、そんな人の奥さんは 本当にお気の毒だと思いますよ。」  女は肉のお代りなぞ取りに一二度立って行ったが、二度目 に来た時には顔や髪など直していた。浅黒い顔の地肌がやや     きれ                               こ わく 荒れて、切の長い目が、陶酔した井出の眼に一層盤惑的に見 えた, 「私この頃に貴方の下宿へ遊びに行ってもよござんすか。あ の辺には私の友達が一人あるの。」 「来てもいいけれど、汚いところを見られるのは極りがわる いし、宿で変に思うからね。今のところは素人屋だから、」 「そういうところが私見たいの、だけれどここからじゃ、毎 日学校へ通うのが随分大変ね。」 「しかしここにいると、友達が大勢来なくていいでしょう。 それに卒業論文さえ書けば、学校の方は出ても出なくてもい いんだから。ああそうだ卒業論文を書かなくちゃならないん だ。それを考えると僕は何だか頭脳が痛くなる。もうそろそ ろ花の季節になりそうだからね。」 「そしたらお花見に行きましょうね。」 「いや、それよりか兵隊検査に帰らなきあならない。」 「ずいぶん忙しいんですね。検査に帰ればきっとお嫁さんを 貰ってしまうでしょう。」 「それよか兵隊に取られそうだ。」 「何だか取られそうね。」 「二年入って、帰って来ると二十七か。厭になっちまう。君 なんかもその時分はどうなっているか知れやしない。」 「だから今から約束しておきましょうよ、」 「約束してもいい、」 「そんなことを言うと、私ほんとうにしてよ。」 「何だか変だな。」井出は自分を見廻すように言った。       ち  ヤ  ヤ 「じゃげんまんしましょう、」  それから問もなく、二人は前後して外へ出た。そしてその 辺をぶらぷらした揚句に、日の暮れまでの数時間を活動館の 闇のなかに消したのち、井出はその女につれられて、路次の なかにある芝居の舞台のような家へ入って行った。  井出はそれからしばしばその女と逢った。幾日かのあいだ                  ゆううつ その女に逢わないでいると、彼は頭脳が憂欝になった。彼は 苦しいなかから、どうかこうか金を工面して、その女に逢いに 行った。愛らしい光子のようにはその女を愛することは出来 なかったけれど、女から愛せられた。彼の光子に対する愛は、       ゆる 今までよりも寛やかで安らかなような感じのものであった が、どうかするとまた残忍な気持にさせられることもあった。  或る時井出は久しぶりで、学校へ姿を現わしたが、帰りに ちょっと友人の宿へ立寄った。その宿は学校に近いところの 静かな町筋にある、或る官吏の未亡人の家で、井出が光子と しばらく同棲していたのも、その宿であった。未亡人は白い なめしがわ 繰革のような皮膚と、細い目と、痩せた躯とをもった、三十 ばかりの不仕合せそうな女であった。  井出はまだ光子を見つけない前、商売屋の下宿にいた頃、 しばしば友人をその宿に訪ねたことがあったが、井出が遊び に行くたびに、彼女はいつもお愛想がよくて、御馳走をして くれた。 「入らっしゃいませ。随分お見限りでしたわね。」未亡人は 玄関へ出て来ると、そこに立っている井出の大きな姿を見上 げながら、顔を紅くした。 「どうも暫く。遠くなっちゃったもんですから。それにずっ                   いいわけ と学校を怠けているもんで……。L井出は言訳した。 「そんなに弁解なさらなくとも、誰方だって新婚岡際は奥さ まの傍がいいんですからね。」  井出は頭をかいた。 「新婚という訳でもないんですよ。どうなるか先きのことは 判りゃしませんよ。」  この女は井出の訪問を、いつでも歓迎した。そして友人の いないときでも引留めて、話をしかけるのであったが、或る 時なぞ上りこんで友人の帰ってくるのを待っていると、その 女は話のついでに、「家にこんな古い画があるんですが、何 でも大変好いものだという話ですけれど、そんな好いもので しょうか。」と言って、その画を持って来て井出の前にひろ げてみせたことがあったが、しかし善良で親切であるところ から、光子と同棲するとき、今までの下宿からそこへ移って 行くと同時に、自炊に似た生活を始めた。そしてそこで三月 ぱかりを暮したが、さすが光子は好意をもたれなかった。井 出は何かにつけて気詰りで、小姑を一人もったような光子の 位置に気がつくと、やがてそこを引払うことにした。 「生憎小島さんはお出掛ですけれど、まあお上りなさいま せ。」 「そうもしていられないんです。しばらく来ないからどうし ているかと思ってね。」 「小島さんは相変らず御勉強ですが、あの方は体がお弱いで                      うらや すから、貴方のように面白く暮せないと言って、羨ましがっ ていらっしゃるんですよ。」 「僕はまた小島が羨ましいんです。あの男は僕なんかと違っ て、真面目に生活して行けるでしょう。」 「あれからどうなさいました。奥さんにお子供さんでもお出 来になりましたか。」 「子供なんか出来てたまるものですか。結婚するかどうか、 それすらはっきり決っていないんですもの。第一叔母が我々 に理解がないんだし、私の田舎へだって未だ話をした訳じゃ ないんですもの。私自身だって、まだ本当に決めてないんで すよ。面倒くさくなれば、いつおっ放り出すか知れやしませ んよ。あの女だって、教育がある訳じゃないし、本当のこと を考えていませんから、多勢の男を相手に、お金を取ってい た時のことが忘れられないでしょうからね。」 「それはどうしても、ああいう処にいた方はね。」      うぶ 「それでも幼で素直ですから、こっちが親切に言って聞かせ ば解ってくるだろうと思うんです。ただ僕にその親切と辛抱 がないだけですよ。」                         すつかり  そう言っているうちに、井出は小島を訪問した用事を悉皆 忘れていたことに気がついた。それはお直から小島へ気附の 手紙がもう来ているはずなので、それを確める必要のあるこ とであった。  女は井出と度々出歩くので、店で評判が悪くなっていた。 或る日も彼女は午後から店をすっぽかして五時頃まで井出と その辺を遊び歩いていた。井出は帰りに裏口まで彼女を送っ て、そこで別れて帰った。それはもう三月の半ばで、井出は 論文を書くのに忙しかったけれど、必要上兎に角光子がまた カフエヘ出るようになっていたので、つい机の前に落著いて いられないことが多かった。     よいざめ  井出は酔醒の顔を、春の宵らしい川風に吹かれながら、蒸 汽の来るのを、桟橋に立って待っていた。やがて玩具のよう な蒸汽が、薄暗い電燈をつけて、闇のなかをとっとっとっと 機関の音をさせながら目の前へ現れて来た。するとその時不 意にお直がやって来て、彼の傍へ寄って来たのに驚かされ た。 「どうしたの。」  お直は息を切らせていた。そして手に屈呂敷包をもってい た。    けんか 「到頭喧嘩して出てしまったの。」 「それあ悪かったね。」 「ちっとも悪くはないの。どうせどこかへ替ろうと思ってい たんですから。」 「これからどうするの。」 「どうするって別に当もないけれど。」  井出は当惑してしまったが、お直が処置するだろうと思っ           としかさ た。その家ではお直が年嵩だけに一番幅を利かしていたが、 最近若夫婦が店をやることになってから、商売人あがりの若 い妻君からいえば、彼女はちょっと使いにくいものになって いたし、お直から言えば働きにくい立場になっていた。お直 の話によると、彼女の気が向きさえすれば、前から知ってい    うけおいし る或る請負師の世話になろうと思えば、何時でもなれるのだ                  めかけ         こ けれど、三年ほど前に一度お店もののお妾になって、懲りて いるので、気が進まなかった。お直の腹違いの兄は横浜で堅 気な会社員であった。死んだ父も堅気な商人であった。母の ことについては、何事も話さなかったけれど、東京に生存し          いず ているらしかった。敦れにしてもお直はこんな場合、帰って 行く家をもたないのは判っていたが、どうにかするだろうと 思った。         やホ 「私たちが曾我の家を見に入るところを内の上さんが見たん ですって、ちっともしらなかったわ。」 「だから僕が止そうと言ったじゃないか。」 「そんなこと言ったって仕様がないじゃないの。でなぐても                       ホ どうせあすこは出ようと思っていたんです。震災後ずっと客 種が落ちていたんですから。」 「出てくれと言ったの。」 「まさかそうは言わないけれど、厭味を言われたの。お上さ                  おおぴら んたちを馬鹿にしているとか、あまり公然すぎるから気をつ けてもらいたいとかね…-済みませんと一言いえばそれでい                        キエよ いんですけれど、先きが若いだけに頭を下げるのも極りが悪 いでしょう。いきなりお暇をいただきますと、つい高飛車に 出てしまったんです。」 「損しちゃったね。それでどうする。」 「まさか貴方に引取ってもらう訳にも行かないし、飛び出た には出たけれど、差当って困るの。」                  ちようだい     と  そして女は、「ちょっとこれをもって頂戴。帯が釈けそう だから。」と、風呂敷包を井出に渡して、帯を締直していた。  井出は一層困惑した。女が気が立っているらしいので、押 しかけて来そうな気がした。早く光子のあることを言ってし まえばよかったけれど、そうすれば女と逢う機会が全くなく なるのが飽足りなかった。彼は兵隊検査で帰国する時を一区 劃として、こんな生活から一切足を洗おうと思っていたけれ                "きすい ど、そうなる前に出来るだけ享楽に溺酔したい感じであっ た。もし入営したとしてもーそれは疑いのない事実だが                  あやぶ 1神妙に兵営生活が、勤まるか否かが危まれる不安にさえ 襲われた。  井出は仕方なしに桟橋から上って、橋の挟から薄暗い町へ と、お直に引張られてぶらぶら歩いて行った。そして、それ                 うまやぱし から春の宵らしい静かな町の裏通りを厩橋の方へ出て、そこ から又際限もなく、ほつき歩いた。そうして歩いているうち に、全然寄辺がないこともなさそうな口吻を女は洩らしてい た。そして居所がきまり次第、手紙を出す約束で、到頭別れ てしまった。  井出はその所を小島の宿にしておいたので、もう知らせが 来ている筈だと思ったが、あの晩女は歩いているうちに、ひ どく感傷的になっていた。そして井出が明るいところへ出よ うとするのと反対に、とかく暗い河岸端を撰んで歩いた。そ れは彼女が深川育ちであるせいでもあったが、井出は気味が 悪かった。彼は足が疲れて眠気さえして来たけれど、どこで 別れるというきっかけもなくて、いつまでも月の光を浴びな がら、ほつき歩いた。事によると、女は井出の独身でないこ とを、感づきかけたのではあるまいかと言う感じもした。  家へ帰ったのは、十二時近くであった。光子は寝床で雑誌 を読んでいたが、不機嫌であった。井出が何を話しかけて も、気持がほぐれなかった。 「今日余り詰らなかったから、小島と銀座を散歩して来た。 お前は何時頃に帰ったの。」 「今日は頭痛がしたから、早く帰って来たわ。お昼少しすぎ に。帰って見ると、貴方がいないんですもの。詰らないか ら、浅草へ遊びに行っちゃったわ。」  井出はひやりとした。 「浅草へ? 僕がいるかと思って?」          うぬぽれ 「ちょッ、どこまで自惚が強いんでしょう。」 「だってそうじゃないか。」 ■貴方こそ私がいないと、何時でも出歩くんでしょ。」 「嘘つけ。そんなに怒るなよ。浅草から帰ったのは何時頃。」 「八時頃。」 「どこかへ入ったね。」 「詰らないから芝届へ入ったわ。」  ひと 「独りで。」 「独りよ。」                      いら 「僕が帰って待っているだろうと思って、わざと苛つかせる         だがおあいにくさま……。 つもりか何かで。            いいぐさ 井出は駄々ッ児のような言草をした。 「ずいぶんね。」 「芝居はどこ。」    や 「曾我の家。」 井出はぎょっとした。 L 「詰んないものを見るね。」 「どうせ私なんか低級よ。」 「何と何を見たの。」 「何だか忘れちゃったけれど、面白かったわ、」 「だけれど、どんなものやっているの。しばらく見ないけれ ど。」 「そらごらんなさい。貴方だって見るじゃありませんか。」 「けどどこにいたの。」 「二階の正面よ。」  そして時間や見たものを聞いてみると、ちょうど或る同じ 時間を井出もお直と、光子の下あたりにいたことになる訳で                 けいせき あった。しかし光子の感づいたような形迩はどこにもなかっ た。  井出はやっと安心した。 「明日からカフエやめようかしら。」 「どうして。」 「私がいないと、貴方もいないんですもの。」  たま 「偶には仕方ないさ。」 「何時だってそうよ。」 「だけれど僕が出ろと言ったんじゃないじゃないか。」 「私だって好きで出ている訳じゃないのよ。」 「それじゃ止めなさい。」 「止めてよければ止めます。何を言っても貴方はちっとも親 身にならないから、私張合がないわ。」  光子は涙ぐんでいた。  井出も何だか憂欝になった。 「貴方はこの頃変よ。本なんか皆などこへもって行くの。」 「本は友人に貸したのもあるし、不用なのは売ったのもあ る。そんなこと気にする必要ないじゃないか。僕が遊ぶとで も思っているの。」 「私のいない間に何をしてるか知れやしない。」 「そうさ。お前だって何を考えているか判らないんだから           うるさ ね。叔母さんがあまり煩いことを言うんで、己も不愉快だ。 叔母さんのために、そんな大事なお前なら、いつでも別れる よ。明日にでも破壊してしまおう。」井出は腹立しげに言っ た。 「それは貴方の御自由だわ。壊すなら、こんな家、訳ない わ。」             まきなお 「そうすれば、おれは新規蒔直しだ。女なら何時でも持えて 見せる。」     うぬぼれ 「そんな自惚の強い人に、女なんか出来っこありゃしない わ。」 「できなくてどうするものか。己は葉書一本で、明日にでも 女をここへ呼寄せて見せる。」     え 「そんな豪らそうなこと言って、私を脅かそうたって駄目で      うる す。」光子は潤んだ目で冷笑した。 「さあ、女があるなら手紙を出してごらんなさい。」               いたずら  井出はおかしかったけれど、悪戯な気持が動いた。そして 光子の見ている前で、簡単な手紙を書いた。その封書の宛名 には「××理髪店、花子様」と、こう書かれた。発信人の名 も、 所番地の傍に「井出より」と書かれた。  それはお直と当てなしに、夜おそくまで河岸を散歩して帰 ってからの、彼と光子との間に起った挿話的な一つの出来事 に過ぎなかった。  井出はその翌朝、子供らしい悪戯な思いつきで書いたその                   からか 手紙を光子と一緒に散歩したとき、光子に椰楡われながら投 函したが、その時はもう仲が好くなっていた。  井出はその反応なんかどうでもよかったけれど、お直の知 らせが待たれた。そして彼は今その手紙が来ているか否か を、小島の宿まで確めに来たのであった。女があれきり手紙 も寄越さないだろうと思うと、やっぱり寂しかった。      にわか  未亡人も遽に思出したように、その手紙を捜しに小島の部 屋へ入ったが、やがて本箱の引出しのなかから取出して、持 って来た。 「一昨日来たんですよ。私が受取って小島さんにお渡しした んですよ。」未亡人はそう言って、何か汚いものでも持つよ うに、そっと井出に渡した。 「どうも有難う、小島は何とか言っていましたか。」 「あの女も到頭物にしたって、笑っていらっしゃいました。       きいり 貴方なかなか凄いのね。」 「ちっとも凄かありませんよ。」井出は甘えるように言って、 頭を掻きながら、 「別に関係はないんですよ。ただいる家が変ったら知らせる から、そこへ皆さんで飯を食いに来てくださいと言うだけな んですよ。L 「うまく言ってらっしゃいますこと。余り罪なことなさいま         すつぱ すと、光子さんに素破ぬいて上げますよ。」     じ  井出は直きにそこを出た。そして途中手紙の封を切って見 た。別に何のこともなかった。デパアトメントの向う横町の 鳥屋へ住かえしたから、都合のいい時来てくれということだ けだった。         す  井出はその足で直ぐその横町を訪問しようと思ったけれ ど、その日は都合が悪かった。初めて行くのに、金がなくて は極りが悪いと思った。彼はお直を光子に感づかせたくなか ったので、手紙は引裂いて道傍に棄てた。  彼は何となく緊張した気分で、向島へ帰って来た。お直に 逢う日が待遠しくてならなかった。  光子はその日もカフエを怠けていた。そして帰って来た井        しキし 出の顔を見て、連りににやにやしていた。井出は薄気味が悪 かった。 「到頭来たわ。」  井出はひやっとした。 「何が……。」 「貴方の色女が。」 「色女って……。」  井出はお花のことを度忘れしていた。頭脳がお直のことで 一杯になっていた。 「お花さんが今日来たじゃありませんか。」光子は少し不機 嫌に言った。 「お花が来たって。そしてどうしたんだ。」 「私が出て見たら、不思議そうな顔をして、もじもじしてい            キし るの。私が誰方ですかって訊くと、お花というものですが、 井出さんはお宅でしょうかって訊くんですの。井出は出かけ ていますと、私がそう言うと、紅い顔をして、貴女は井出さ んの奥さんじあないでしょうかと言うから、私そうですって 言ってやったわ。」 「そしたら。」 「すごすご帰って行きましたわ。貴方には言わなかったけれ ど、私あの人なら、あの手紙を出した翌日カフエヘ行きしな に、前を通って見て知っていましたわ。あの人きっと怒って           いたずら てよ。貴方もずいぶん悪戯する人ね。」 「いや、きっとしょげたよ。悪かったね。その代りお前に自 信がついたろう。」  井出はそう言って、光子の幸福そうな顔を眺めた。             (大正十五年 中央公論 一月号〉