徳田秋声 戦時風景 或る印刷工場逃の千何百坪かの緒上の原ッぱ  長いあひた重い印刷機やモオタアの下敷にな つていたお蔭で、一茎の草だも生えてゐない其のぼかぼかした緒い粉上は、昼間は南の風に煽ら れ、濠々と一丈ばかりも舞ひあがつて北の方へと吹き廉き、周囲の芸者屋や待合、又は反対側の アパアトや住宅の部屋のなかまで舞ひこむのだつたが、その沙塵を浴びながら汗みづくになつて ゐた界隈の野球チイムや、ボール投げ、白転車乗りの少年達も散らばつてしまつて、東側の崖の 上に重なり合つてゐる其方此方の住宅の部屋のなかに、電燈がつく頃㌃訟ると、きまつて幾つか の縁台が持ち出されて、白いパアパを著た年増、浴衣がけの若い妓、居周りの若い人達の姿が、 この殺風景な原の宵闇に透かされるのであつた。  原つぱの南のはづれに、すしと焼鳥の屋台が一一つ花んで見え、角に公衆電話が露出しに立つて ゐる。風がそこからそよそよと吹いて来ると、焼鳥の匂ひと緒土に残つてゐる昼問の光熱とが、 仄かに鼻に伝はつて来る。 「わたしは此の焼鳥の匂ひが大嫌ひさ。」  縁台の傍にお行儀よくしやがんてゐる種次といふ六十幾つかの老妓が咳いた.、この女は無論明 治の末に|創《はじ》まつたこの花柳界の草分け時分に、既に好い年増であつたに違ひない。今は気むづか し字の此の老妓をかける出先きも希だし、若い妓は|怖《こイ 》がつて呼びもしないし、偶にかかつて来て も気の向かない座敷は「厭だよ、行かないよ」とびたびた衙るのだ.  縁台には芸者屋の姐さんと、その旦那らしい五十年輩の小でつぷりした浴衣がけの男とが腰か けてゐた。隅の方の柳の木の蔭で、若い芸者を二人とお酌を一人、それに待合の女中、近所の子 供を多勢集めてきやつきやつといふ騒ぎのなかで、頻りに花火をあげてゐる、黒い洋服の若いお 客がゐた.、花火が|引切《ひつきり》なし柳の木の下からしゆしゆと火玉を飛ばしてゐた.  濡れたアスハルトの広い道路を、時々自動車が辻つて来て、入口の植込のあたりで客を吐き出 して行くc空車も間断なく入つて来る、箱をかついで自動車に乗つたのやら、徒歩のやらの箱屋 も影絵のやうに往つたり来たりしてゐるー島田や洋髪の若い妓の影も走馬燈のやうに南へ北へと 往き交つている。三味線をひいて騒いでゐる明るい二階も浮きあがつて見えるのであつた、 「今日は少し動いてゐるね、、」  旦那らしい男が眩くと、 「さうね、大したこともなささうよじ奥さんや子供さんを避暑に遣つた人とか、避暑を遠慮した 人がぼつぽつ入つて来るから、霜枯にしては少し好いくらゐのものよ、姐さんおかけなさい。」 「有難う。私はこの方が勝手ですよ、縁台はお尻の骨が痛くてね.時に戦争は何うなりますか ね、,」 「拡がりさうだね.、」. 「この辺でも随分行きましたよ。あすこの蕎麦屋さんに通りの自転車屋さん床屋さん。東タクシ イでも若い人が二人も召集されて、自動車も二台御用なんですつて。あの現役のクリイニングの 不良も、この春満洲から帰つたばかりなのに、先月あたりから頓と姿を見せませんよ、」 「私は朝から晩まで新聞と睨みつこしてるんだけれど、年のせいか日露戦争の時なんかとちがつ て、心配で心配でたまらないんですよ。何だか|態《か》うやつて長生きしてるのも済まないやうな気が して、お座敷でもかかったら、耳糞ほどの玉代でも献金しようと思つてゐるんだが、何しろ税金 持出しの此の節ではね。」 「日露戦争の時は何んなでしたの。」 -私はあのちよつと前まで、吉原にゐましたがね、日露戦争の時分は足を洗つて青山にゐました よ、あの辺は軍人さんが多うござんすから、毎晩寝られないくらゐ近所がごつた返してゐたもん ですよ。なかなか芸者をあげて遊ぶどころぢやない、世間はひつそり鳴りを鎮めてゐたもんです よ。後の騒ぎが又大変でしたよ。方々で交番の焼打が初まりましてね。」 「あの時分から世のなかががらりと変つた。吉原が火が消えたやうに寂れて、ちやうど1団菊 が死んだりして歌舞伎の危機が来た。大概の古いものが影が薄くなつちやつたんだ。花柳界は何 んなだつたかね。」 「今のやうなことはありませんね。何しろ当節は髪を洋髪にして、歌謡曲なんか踊るんですから ね。芸者の値打が下りましたね。でも姐さん、それは時勢だから仕方がありませんよと言ひます けれど、私にや何が何だか薩張りわからない。第一昔しは春の出の帯を柳にしめられるなんて芸 者は、一つ土地に十人とはゐなかつたもんですよ。今ぢや芸者の作法も何もあつたもんぢやない、 猫も杓子も柳で反つぐりかへつてゐる。私なんか気はづかしくて到頭帯を垂らさない芸者で終り ましたがね。お湯へ行くたつてさうです、今の|妓共《こども》たちのお行儀のわるいこと。姐さんにお尻を むけて平気で流しを取つてゐる。昔しだつたら、何だ小汚ないおけつを出しやがつて、お前なん ざ溝の外へ出てろと|鉄火《てつか》な姐さんに曝鳴りつけられたもんですよ。」 「それに出先きが威張るやうになつて来ましたね。」 「さうですよ。芸者そつち退けてサアビスする達者な女中さんがゐるんですから。売りものだか らたとへ何んな妓にしろ花をもたすのが真実ですからね。この間も或るお座敷でお客さまが、何 だ彼奴は売らないんだと言ふ振れ込みなのに、聞いて見ればざらに売るんだと言ふぢやないかと 言ふから、いいえ、それは違ひませう、お客さまは言ふことを素直に聞くと、|誰方《どなた》もさういふ風 に気をおまわしになりますけれど、何うしてあの妓はそんなんぢやありませんから、安心してい らつしやいつてね、何うせ芸者はその場きりのもんだから、それでお客が安心したか何うか知ら ないけれど、お茶を濁しておいたのさ。私はまたぐぢやぐぢやしたことが大嫌ひでね、少し悪党 でもいいから、それかと言つて真実の|悪《わる》でも困るけれど、歯切れのいいのが好きさ。」  そこへ千人針をもつた仕込みらしい少女が二人組み合つてやつて来た。出てゐた時分から芸名 春代姐さんが赤い糸を結ぶと、今度は種次が針をもつた。 「下町には大した千人針がありますね。羽二重や小浜のちやんちやん児に、大勝利だの万歳だの と、千人針の赤糸で縫ひ取るんですよ。」 「男の千人針もありますよ。」春代の旦那が言つた。 「そんなのあるか知ら。」 「その代り男のは黒糸なんだ。看護婦が締めるんだろ。」 「姐さんの子息さん生きてゐたら、矢張り出たでせうね。」 「そう、あれは震災の二年前でしたから、」  工兵に取られて、除隊間際に肺をわづらひ、衛戌病院を出てから、種次の姉の青山の家で新ら しく造つた離れの病室に一年ばかり寝てゐた果に死んでしまつた彼女の子息のことである。 「お座敷へ知らせが来たから、駈けつけて行くともう駄目。勝ちやん勝ちやんつて、余り私が呼 ぶもんだから、煩くて行くところへ行けないから止してといつたきり-…。でも安心さ。この年 になつちや|蓮《とて》も。」  そこへ又千人針が来た。そして其の縫つたところへ、通りがかりの土地の長唄の若師匠巳之吉 が、ふらりと寄つて来た。 「何だ姐さん此処にゐるのか。今ちよつとお宅へ寄つて来た。当分お稽古はお休みだ。僕は今夜 名古屋へ立つんだ。義兄が召集されたんで、後の整理をしに。」  名古屋の姉の家は、曾つて巳之吉が小説好きの少年であつた頃働いてゐた本屋であつた。 「巳之さんは。」 「僕はまだ。足留くつてるから、直ぐ帰るけれど、千人針も二つ出来ましたよ。」  今年二十二になつた巳之吉は、土地の師匠巳子蔵の愛弟子であつたが、また其の内縁関係の朗 子の若い愛人でもあつた。  ちやうど去年の春頃のことだつたが、師匠がしばらく足踏みもしなぐなつた芸者屋横丁の、彼 がこの土地の稽古を引受けることになつてから、もう五六年ものあひだ住み馴れた家に、代稽古 を委かせきりにされてゐた巳之吉は、朗子と五つになる子供と三人きりで、尾しく暮してゐるや うなことが多かつた。それといふのも師匠と朗子とのなかが兎角しつくり行かなかつたからで、 朗子の養父であつた、今は故人の謳ひ手の大家米蔵の|贔屓《ひき》もあつたが、歌舞伎の大舞台で若手の 腕達者といはれただけに、芸の魅力だけでも、芸事に凝つてゐる姐さん達に、多くのフアンのあ つたことも当然で、近頃俗謡で売り出した人気ものの小峰といふ九州産れのモダアン芸者の熱情 が、今まで噂の立つた幾人かの女を超えて、放将な彼の心を悉皆壷惑してしまつたところで、彼 の足がぴつたり家へ向かなくなつてしまつた。見番の稽古にだけは約束どおり通つて来たが、そ れも小峰の傭ひつけのハイヤで、稽古がすむと、又その車で赤坂へ帰つて行くのだつた。  或る晩も巳之吉は、小峰と巳子蔵師匠と三人で、末広でビフテイキを御馳走になつてから、少 し銀座をぶらついてゐたが、さうやつて二人に附き合つてゐても、留守してゐる朗子や子供のこ とが気にかかつた。師匠の三味線の弾き方は、感がいいとか音が冴えてゐるとかいふよりも、近 代人らしい濃刺味を多分にもつてゐるにしても、もとが古い芸人型の、芸だけで叩きあげた人な ので、飲むことと女道楽にかけでは人に退けを取らなかつたけれど、朗子とちがつて映画とか、 小説とかいふものには趣味もなかつたし、雑誌一σ読むといふやうなこともなかつた。それに比 べるともともと朗子は養父の御贔屓先きの、堅気の商家の娘で、芸人好きで金をなくした父が死 んでから、子供のなかつた米蔵の家に養女として引き取られて、芸事がさう好きでなかつたとこ ろかち、山の手の女学校へ通はせてもらつただけに、養父の目論んだこの結婚は、初めから気に 染まなかつた。しかし彼女に愛をもてなかσた養母の方に、跡を継がせたいやうな身内もあつて、 朗子は家に居すわる訳にもいかなかつたし、片づくにしても我盤な相手の撰択は許されなかつた。 為方なし巳子蔵との同棲生活が初まつた訳だつたが、一年たつても二年たつても許す気にはなれ なかつた。  一緒になりたてに、養父は浜町の方に家を一軒もたせてくれた。下町はちやうど震災後の復興 に忙しい頃で、金座通りもほぼ出来あがつて、清洲橋の工事も完成してゐた。朗子は芝居もさう 好きではなかつたけれど、.子供の時分からの習慣で、新らしい歌舞伎座や明治座へも、お義理で 見物に行つたが、それよりも映画やレヴイユの方へ気持が注がれがちだつたが、巳子蔵とは話が 合はないので、人身御供にでもあがつたやうな気持で、寂しい孤独の世界に兎角閉ぢ籠りがちで あつた。  暫らくすると今の土地へ引越すことになつた。亡くなつた春代の母が巳子蔵系統の或る師匠の 名取りだつたところから、この土地で四五人お弟子が出来、ちやうど定まつた師匠もなかつたの で、やがて見番の稽古を引き受けることになつた。  朗子はお花やお茶も心得てゐて、静かな暮しが好きだつたがハ長唄の家に育つて来たので、朝 から晩まで聴き飽きるほど聴かされるお稽古もおしまひになつて、巳子蔵が芝居へ出かけて行つ て、そのまま遅くまで帰つてこない晩などには、二階の部屋でそつと音締を合すこともあつた。`. 或る時は外へお稽古にも通つてゐた。そしてそこへ長唄の稽古に来てゐる或る大学生とのあひだ に恋愛の発生したのも、つひ三年前のことであつた。学生の手触りは彼女に取つては全く新らし い世界であつた。裁判官志望の法科のこの学生は、退職海軍中将を父にもつている青年としては、 珍らしい江戸趣味の真面目な理解者であつた。  逢つてゐると、馴れ馴れしい口も利きえない二人のあひだに、手紙の遣り取りの初まつたのは、 ちやうど朗子が妊娠してゐたころのことで、同じ長唄の世界での出来事であるだけに、噂はこの 土地の人の耳へも伝はつて、その子供の主が誰であるかが問題になつたこともあつたが、二人の. 関係はそこまで進んでゐた訳ではなかつた。厳格な家庭に育つた青年は、結婚の不幸を訴へる彼 女の好い聴き手であり、近代の恋愛観や女性観について、今までよりいくらか|分明《はつきり》Lた考へを彼 から得たくらゐの程度だつた。秋晴れの或る朗かな日だつたが、二人一緒に師匠の家を出ると、 しばらく静かな其の辺のブルヂヨウア町を散歩した果に、円タクを呼んで時のはづみで、新様式 の武蔵野館へ行つたが、帰る頃になると雨が降り出して、彼女は四谷の屋敷町まで送つて行くと、 何か悟かしい気持で別れたきり、その車で家へ帰つて来た。師匠はまだ芝居から帰つてゐなかつ た。  暫く手紙の往復がつづいたが、ちやうど学校を出る次ぎの年の四月、彼から最後の手紙を受け 取つた。地方へ赴任するとばかりで、任地も書いてなかつた。そして其れきりであつた。  巳之吉が或る機会に、朗子に打ち明け話をされたのは、たゞ其だけのことだっただが、もつと 立入つて疑へば、疑へる余地もないことはなかつた。その学生らしいサインのある「アンナ・カ レニナ」を彼女がそつと耽読してゐたのも其の頃であつた。  巳之吉は其の頃朗子の膨が、いつとはなしに胸に巣喰つて来るのを感じてゐた。  子供の正也はもう三つになつてゐた。朗子は愛してもゐない巳子蔵とのあひだに出来た子供が、 何うしてさう憎くもないのかと、時にはうとましさうに幼ない其の顔を見ることもあつたが、そ れは其の子供が疎ましいといふよりも、子供の愛に縛られなければならなくなつた自身が疎まし いのであつた。子供の或る部分、たとへば目だの鼻だの、手足や指のすんなりしたところは自分 に肖てゐたが、何うかした瞬問に父親の面彰がまざまざと出てくることがあつた。幸ひにそれで 世問の誤解も釈け、いつも身近にゐる巳之吉にもわかつて貰へるやうな気もするのだつた。正也 は日増しに可愛くなつて行つた。そして巳之吉にばかり附きまとつた。父のゐないのが何か寂し いやうに思はれて、巳子蔵の還つて来ることを願つたが、時とすると連れていらつしやいと小峰 にいはれて、巳之吉が自動車で連れ出して行くこともあつた。  或るレコオド会社の専属であり、地方の招聰にも応じて行くほかに、お座敷も忙しいので、収 入も多かつた。抱えには此のところはづれがちで、商売にはならなかつたし、巳子蔵のために旦 那も|失敗《しくじ》つてしまつたけれど、彼を|貢《みつ》ぐくらゐに事欠くやうなことはなかつた。大々した体には 女盛りの血が濠り、幅のある声は流行家の唄い手の誰にも負けを取らず、派手派手しい扮装をし て舞台に立つときは、誰も花柳界の女とは思はないくらゐ新鮮味があつた。それはちやうど現代 風の奔放さをもつてゐる巳子蔵の三味線と、一脈相通ずるものでなければならなかつた。彼女は 誰よりも高く巳子蔵の芸を買つてゐて、きつと今にすばらしい大物になるだらうと思つてゐた。 巳子蔵も自覚したらしく、給銀をあげる要求を会社に持ち出して見たがそれは早速には容れられ ず、双方の折合ひがつかないので当分出場しないことにしてゐた、しかし愛弟子の巳之吉の叔父 に、座附の有力な|下方《したかた》もゐるので、いつかは折合ひのつく時が来るのに違ひなかつた。  その晩巳之吉は、小峰が買つてくれた熊の仔の玩具などを角袖の外套のポケツトに入れて家へ 帰つて来たが、正也はもう寝てゐて、朗子だけが玄関に近い茶の問で雑誌を読んでゐた。巳之吉 は奥へ行つて、中腰になつて子供の寝顔を見てゐたが、熊の仔を枕元におくと、師匠に附き合つ た酒の気の熱つてゐる頬を両手で撫ぜながら、長火鉢の傍へ来て坐つた。  石を敷き詰めた細い芸者屋横丁に、急ぎ足の下駄の音や格子戸の鈴の音が時々耳につく。 「酔つちやつた。見せつけられちやつたもんだから-…。」  薩摩耕のお対の著物の快から、バットとスヱヒロのマッチを取り出した。 「この頃飲めるの。」 「む、少しは。何うして赤ん坊が産れるんだつてお師匠さんに聞いて、笑はれちやつた。仲のわ るい夫婦でも子供くらゐ産れるつてさうですか。」 「何うですかね。|貴方《あんた》まるで子供のやうね。」 「ああ、さうくお茶菓子を買つて来たんだ。お茶をいれませう。」  巳之吉は立つて、熊の仔と別のポケツトに入れ忘れた筑紫の菓子の包みを開きにかかつた。 「但しこれは僕。」  彼は朗子と長火鉢の傍の差し向ひなどは、ひどく気のひけたものだつたが、今夜は不思議にも 寧ろそれが自然のやうな感じだつた。  銅壼の湯で、お茶を|煎《い》れながら、皮包みの牛皮を自分もつまみ、朗子にも勧めた。 「どうも御親切さま。」  若いにしては、この頃めきめき腕があがり、咽喉も去年から見ると吹き切れて来て、少し早熟 かと思ふくらゐだつたが、ふはふはした見かけよりも頼もしいところもあると思はれた。 「しかし年取つた女の人の恋愛は凄いところがありますね、」 「小峰さん?」  朗子は顔を赤くした。 「貴方も妙なことに興味をもつて来たのね。」 「己の極道は|真似《まね》るなと、お師匠さん言ひますけれど、僕はあんな風に無軌道にはなれません ね。」 「さケね、勝之助さんといふ人が、昔し大変な女喰ひで、今でいへば色魔だわ。女から女を渡り あるいて搾つたものなの。その果てに酷いことになつちまつたんです。詰り肺病なのね。何うせ 悪い病気もあつたでせうけれど、悉皆り衰弱してしまつて、頭があがらなくなつたところを、最 後の女に置いてき堀喰つちやつたの。それで段佛子の三段目からのめずり落ぢて血を吐いて死ん ぢやつたの。」 「陰惨ですね。」 「家の師匠のは、そんな|大時代《おほじだい》な質の悪いのと違ふの。ただ浮気つぼいのね。でも喰い止まるで、 せうよ、今度で。」 「さうか知ら。」 「また何か初まつた。」 「さあ。」  巳之吉は首を傾げた。 「あんたの彼女はあれつ限り?」 「二度ばかり手紙来たけれど---あんな小便くさいの止せつて、家のお師匠さんも口が悪いから な。しかし此の頃は僕も少し目が肥えて来たから。」 「さうお。」  子供が泣き出したので、朗子は傍へ寄りそつて、上から叩いた。時間過ぎとみえて鉄棒の音も 聞えて来た。  翌朝朗子が二階からおりて来た頃には、巳之吉はそこらを綺麗に掃除して、樺掛でせつせと入 口の格子戸を拭いてゐた。  |密《ひそ》やかな驚異と悦楽と苦悩の幾月かが、それ以来巳之吉に過ぎた。しかし二人の秘密が曝露し かけて来たのは、師匠の巳子蔵が土地の招聰に応じた小峰と一緒に、彼女の故郷の博多へ旅をし て、帰りに別府で五日も遊んでゐた間のことであつた。  朗子は人目を避けて、この土地の人の行かない、少し遠いところの洗湯へ行くやうにしてゐた が、しかしそこにも世間の目はあつた。  その月も、|機織場《はたぱ》の多い上州の方へ、巳之吉は三日がかりで出張したが、その時分には、朗子 の普通でない体のことが方々で問題にされてゐたが、その主が、漸と今年徴兵検査を受けたばか りの巳之吉であるのか、それとも前に浮名の立つた大学生であるのか、又は思ひも寄らないとこ ろに、誰も気づかない恋人が出来たのか、誰にも確かなことはわからなかつたが、巳之吉らしい とは、誰も一応は考へるのだつた。  その中でも長唄色草会の連中が、殊にこの事件に興味を寄せたし、口も煩かつた。巳子蔵を中 心にした名取りの七人組の組織してゐるのが、色草会であつた.、取りわけ春代、千代次、元枝、 恋香なぞと云ふ、この土地では嫡々の姐さんたちが、何かといふと巳子蔵のまはりに不断集まる 連中だけに、師匠の一大事とばかりに騒ぎ出した。彼女たちのなかには真実か偽か、師匠に据ゑ 膳をして嬉れしがつてゐるのもあるといふ噂だつたが、これも|明白《はつき》りわからなかつた。地獄より も恐ろしい此の少女虐待の世界にも、そんな風が吹いてゐるのだつた。  或る日も色草会の連中が、デパァトの演芸場で催すことになつてゐる、各花街の演芸会のこと で見番に寄り合づてゐると、相変らず其の話が出た。そこへ種次姐さんも抱へのことで役員に用 事があつてやつて来たので、 「姐さん何う思ひます。見て見ない振してゐていいもんですか。」 「私や知らないよ。人様のお腹のふくれたことまで、気にしちやゐられないよ。」  種次は膠なく言ふのだつた。  その後で、年上の春代と千代次が、巳之吉の留守を目がけて朗子のところへ押し寄せて、彼女 をびくりとさせた。朗子は奥の間で、爪弾きで何か弾いてゐた。 「あら珍らしいわね。」 「暑いぢやありませんか。貴女達こそお揃ひで---。」 「さケね、偶にはお寄りしようと思ひながら、つい其の何だか変挺りんで。」 「お師匠さんからお便りあります?」  千代次も|況《とぼ》けて聞いた。 「いいえ、ちつともないんですよ。」  朗子は彼女達の目の前で立ちあがるのも厭で、お茶をいれずに其処に居据つてゐた。 「巳之さんもゐないんでお寂しいでせう。坊やは。」 「仕込さんが可愛がるもんで、お隣へばつかり行つてるんですよ。」 「朗子さんも家に懐つてばかりゐないで、何処か一日涼しい処へ遊びに行かうぢやありません か。」  さすがに気がひけて、二人とも言ひそびれてしまつたが、そのうちに春代が坐り直して言ひだ した。 「変なこと伺ふやうですけれど、朗子さん此の頃躯が変なんぢやありません? 皆なさう言つて 心配してますわc」 「私達不断からお宅のお師匠さんに碑懇意に願つてゐるでせう、見て見ぬ振て訳に行かないんで すわ。外の事と違つて、是許りは世間の口が煩いでせう。後はまた何とかお|取倣役《とりなしやく》を勤めますか ら、私達だけに真実のこと打明けて頂けませんか知ら。」  朗子は足を崩して|俛《うつむ》いたきりでゐたが、 「御心配かけて済みません。、」 .「いいえ、実は私達の出る幕ぢやないんだと、さうも思つて見たんですけれど、そうぢやないな、 朗子さんのことだから、相談する人がなくて困つてゐるんぢやないかな、さうだとすると、遠慮 なしにお話していただけるのは、矢張り私達より外にないでせう。厭に詰問するやうで悪いけれ ど、相手は一体誰ですの。」 「ちょいと巳之さんだと云ふ噂だけれど、真実ですの、」  千代次は低声で言つた。 「巳之吉さんだとすれば、無理のないところもあるやうだわね。」 「誰にしたつて、これはかかり易い係締だわ。」  暫く言葉が途絶えて、風鈴が気うとい音を立ててゐた。朗子が肯定も否定もしないで、ただじ つと成り行きに委せきりの肚をすゑてゐるらしいので、泥を吐かせようと意気込んで来た二人も、 その上しち醇くは言へなかつた。その上幼い時からの環境に痛めつけられて来て、女の意地とい つたやうなものの、 朗子にあることも解つてゐた。  まだ某の頃は検査前の巳之吉が、朗子の分娩ときいて、あわてて滝の川の産院へ駈けつけたの は、その年の十二月、クリスマスの二三日前の午後であつた。  離縁になつた朗子は、滝の川の産みの母の手元へ引き取られて、そこで身軽になる日を待つて ゐたが、何か肩身の狭い思ひで、折々訪れて来る巳之吉が待たれるのだつた。 「お産は何時?」  巳之吉は来る度に催促するやうにきいてゐたが、自分が映画劇の主人公にでも成つたやうな感 じがしてゐるものらしく、朗子は可笑しかつた。来る度に彼は何か彼か買つて来た。チヨコレイ トとか、ソフトビスケットだとか、又は綺麗な映画雑誌に季節の花など。  産院で赤ん坊を見たときには、彼はちよつと見ただけで「何だこんなものか」と言つた風だつ たが一見てゐるうちに奇蹟に打たれたやうに、父にまで飛躍した自身に驚きの目を瞬り、大人の 跨りを感じた。男性らしい強い愛情が朗子へ湧いた。赤子は朗子のベッドから離れた小さいベッ ドのうへに寝かされてあつた。 「目あかないね。」 「さうお、今にあくわよ。浮世の風に当つたばかりですもの。」 「額の広いとこ己に似てゐるね。厭んなつちやふな。」  朗子は力なげに頬笑んだ。 「お師匠さん己達に結婚させると言つてるよ。」 「お気の毒みたやうね。こんなおばあさんと。」 「ううん、そんな積りぢやないよ。」  そこへ看護婦が入つて来て、何か赤ん坊の手当をしてゐた..  巳子蔵は朗子を離縁する一方、愛弟子の巳之吉とも一応師弟の縁を切つたのであつたが、|下方《したかた》 の叔父がお詫を入れてくれたので、形式的に巳之吉に|謝罪《あやま》らせて、元通り一切の代稽古を任せる ことになつた。  その翌日も、出稽古を二軒も断りにあるいて、産院を訪れた。朗子は一日のことで、滅切り顔 色が好くなり、水々した目にも力が出てゐたが、赤ん坊もむづむづ口を動かしたり、目を明いた りした。巳之吉は傍へ椅子をもつて行つて不思議さうにじつと見てゐたこ 「面白いもんだね。正ちやんもこんなだつた?」 「あの時は別に気もつかなかつたわ、.、」 「いや、世間ぢやね、この赤ん坊を己の子ぢやないなんて言つてるんだよ。春代さんなんかもね、 |押《おつ》つけられたんぢやないなんて言つてるんだよ。」 「四谷怪談の小助ぢやあるまいし、そんな事欝はれナ藪㎞つ七る法ない-でせう-、上あの人達の師匠ヘ お|誤《ヘつら》ひよ。」 「それあさうだ。しかし変なことを聞いたよ。己は何んにもしらなかつたけれど、、」 「何よ、言つてごらんなさい、0 「ううん何でもないよ。」  巳之吉は打消したが、ちよつと口を辻らせてしまつた、 「朗子さん病院で初めて許したんだつて、さう。」 「誰がそんな事言つたのよ。」 「ちよつと耳にしたの。」 「それあさうだわ。結婚して四月目かに師匠が痔の手術で入院してゐた時、この機会とぱかりに、 皆んなで否応なしに私に附添はしたものなの、、」  朗子はそめ時のことを思ひ出して、顔を報らめてゐた。 「でもあの人は私なんか何うだつて可いんですもの。」 「いや、さうぢやない、師匠は小峰さんをほんたうに愛してるか何うだか解んない。正ちやんの 実のお母さんとしての朗子さんが、何と言つても師匠の頭脳に刻まれてゐるんだね。」 「何うして?」 「今に僕に結婚させると言つてゐながら、自分では小峰さんと結婚する気があるのやらないのや・ ら、小峰さんに催促されると、も三年も経つて世間の噂が静まつてからなんて言つてるんだも の。」 「じらしてゐるのよ、|故意《わざつ》と。」 「さうかしら。でもね、師匠の心理では、小峰さんの人気のあるのも、余り好い気持はしてゐな いらしいんだ、殊にこの頃芝居へも出ないでせう。酒を飲んでゐても何だか寂しさうだよ。」 「私と関係ないことだわ。」 「いやさうぢやない。小峰さんに惹著けられれば惹著けられるほど、貴女を思ひ出すらしいん だ。」 「気持は好くないでせう。それは解るけれど…-・。」 朗子が疲れるので、巳之吉はやがて病室を出た。  姉の店の整理もそこそこに、名古屋から大急ぎで帰つて来た巳之吉のために、色草会の連中に 五六人のお弟子も交つて、或る夜土地の料亭で送別の宴が開かれてから、兵営生活の三ヶ月もす ぎて、彼は浅草にある|家《うち》の、町内の人達に送られて、東京駅から戦地へと立つて行つた。色草会 の違中に取りまかれて、師匠屯来てゐた。  巳之吉は何が何だか解らずに、プラットホームの群衆の殺気立つてゐるのに、頭がぼつとして ゐた。プラツトホームは、国旗の波と万歳の声とで、蒸し返されてゐた。  列車に乗つてからも、窓の下に集まつて来る人の顔が、誰が誰やら身分けもつかなかづた。ふ ・とみると、春代や千代次の立つてゐる蔭で、目の下に朗子と師匠と顔を寄せて、何か話してゐる のに気をひかれた。悦いた朗子は時々バンケチで目の縁を拭いてゐた。巳之吉は一時に神経が蘇 つて来るのを感じた。瞬間微笑を浮べた巳子蔵の目と目が|直《ぴつた》り合つた。 「今も朗子に言つてるんだが、補充の己に召集令が来ないで、第二乙のお前が一足先きに立つこ とになるなんて。しかし心配することはない、己が召集されるまでは朗子のことは時々面倒見る `。お前も帝国軍人充、心を残さずしつかり遣つてくれ。いづれ戦場でお目にかかる時もあるだ らうよ。」 「はつ。」  兵士らしく巳之吉は頭を下げた。 「先づそれまでは……去らばくでせう。」 春代が傍から混ぜかへした。 後ろから万歳の叫びが物凄く|雪崩《なだ》れて来たところで、 「××××X×××××××××××。」 巳之吉は顔の筋肉の|痙攣《ひきつけ》るのを感じた。 やがて列車が動き出した。 巳子蔵も手をあげて万歳を叫んだ。