風呂桶 徳田秋声 風呂桶 轡麟はこの頃何を見ても、長くもない自分の生命を測る尺度のような気がしてならないのであ った。好きな草花を見ても、来年の今頃にならないと、同じような花が咲かないのだと思うと、 それを待つ心持が寂しかった。一年に一度しかない、|旬《しゆん》のきまっている|筍《たけのこ》だとか、|松茸《まつたけ》だとか、 そう云うものを食べても、同じ意味で何となく心細く思うのであった。不断散歩しつけている|通《とおり》 の留麟榔の幹の、めきめき太ったのを見ると、移植された時からもう十年たちずの歳月のたって いることが、またそれだけ自分の生命を追詰めて来ているのだと思われて、|好《し》い気持はしないの であった。しかし津島のような年になると、死に面している肺病患者が、通例死の観念と反対の 側に結構脇れていられると同じように、比較的年の観念から離れがちな日が過せるのであった。 闇雲に先を急ぐような若い時の焦燥が、古いバネのように|弛《ゆる》んで、感じが稀薄になるからでもあ るが、一つは生命の連続である子供達の生長を|悦《よろこ》ぶ心と、哀れな心が、自分の憂いを容赦してく れているのであった。  その朝津島は一人の来客と無駄話をしていた。そんな時に彼は、それが特別な興味を|惹《ひ》くとか、 親しみを感ずるとかいう場合でない限り、気分が|苛《いらいら》々して来るのであった。いつもそう感じもし ない時間の尊いことを、特別に思いだしでもしたように、取返しのつかない損をしているように 感じて、苛々するのであったが、しかし其の人が遠慮して帰りそうにすると、思い切りわるく引 止めたくもなるのであった。津島は其の時ふと、妙なことが気になった。それは其の来客と何の |係《かかわ》りもないことだが、それが気になり出すと、もう落着いて応答していられないのであった。彼 は|浮《うわ》の空で話のぱつだけを合していた。それは板塀一つ隔てた、津島の書斎から言えぱ、前の方 にあたる一つの家の台所で、ちょうど其の時やって来た大工に何か|指図《さしず》をしている妻のさく子の 声が、妙に彼の神経を|刺戟《しげき》したのであった。  津島はその頃、やっとその家を明けてもらうことが出来て、いくらか助かったような気がして いた。彼は|年《ねんねん》々自分の住居の狭苦しいのを感じていた。勿論十人の家族に、|畳数《たたみかず》でいえばわずか 二十畳か二十四五畳の手狭な家なので、|何《ど》うにも|遣繰《やりく》りのつかないことは、女達に言われなくと も、今まで住居などには全く何の注意をも払わなかった、又払う余裕もなかった津島自身が痛感 しているのであった。この二三年、子供達がめきめき生長するにつれて、その問題は一層切迫し て来た。  津島はその頃長らく住んでいた自宅と、土地の都合でそれに附属している、今一っの家とを、 思いがけなく自分のものにすることができた。彼はそうする前に、自分の家が新しい家主に渡り かけたところで、明け渡しを迫られたが、借家の|払底《ふつてい》なおりだったので、家が容易に見つからな かった。彼は多勢の子供をひかえて家を追立てられる悲哀と、借家を捜す困難とを、その時つく づく感じた。そして友人の助力などで、とにかく其の|古屋《こおく》に永久落着くことになって、一時|吻《ほつ》と したのであったが、それだけの室数《まかず》では、何うにも遣繰りのつかないことが、その後《のち》一層彼の頭脳《あたま》 を悩ました。彼は家を増築するか、別に一軒家を借りるか、するより外なかった。入学試験を ひかえている子供に、近所で部屋を借りてやったりして、|忙《せわ》しい時は自分でも旅へ出たり、下宿 の部屋を借りて出たりしていたが、それよりも前の家主時代から、彼と同じ借家人である、前の 家を明けてもらった方が、|何《ど》んなに便利だか知れなかった。その家は二つに仕切られて、二組の 家族が住んでいた。津島はその一方だけでも立退いてもらうつもりで、交渉してみたけれど、普 通の交渉では、|辿《とて》も明渡してくれそうになかった。そして数回の折衝を重ねた結果、|到頭《とうとう》法廷に まで持出されることになったのであったが、法律家の手に移されてからは、問題は一層困難に陥 るばかりであった。ちょうど泥沼へでも足を踏込んだような形で、彼も借家人も、全く抜差しの ならない破滅に引込まれた。  津島が板塀の節穴などから、間取の工合などを、時々覗いてみていた其の一方の家へ足を|容《い》れ ることのできたのは、二年の後であった。わずか一夜で、|他《た》の弁護士が片着けてくれたのであっ た。  その家は荒れ放題に荒れていた。子供達が机でもすえるようになる迄には、可なり手がかかっ た。でも津島たちは、いくらか|寛《くつろ》ぐことができた。  「一|時《じ》ここを湯殿にしようか。」津島は或る日、台所へ入って見て、ふとそれを思いついた。  彼は現在物置になっている湯殿が破損してから、幾年もの長いあいだ、洗湯へ通っていた。多 分第三回目の妻の妊娠のとき、津島は彼女のために|中古《ちゆうぷる》の好い風呂桶を見つけて来て、それを湯 殿へすえることになったのであったが、それから二三年たってから、知人が特別に作らせて、そ の後家の都合で不要になった巌丈な|角風呂《かくぶろ》が、持込まれることになったのであったが、湯殿が破 損してから間もなく、その桶にも隙ができてしまった。  彼は洗湯のなかで、色々の人と顔を合したり、挨拶を交したりするのが、年々煩わしくなって いた。|偶《たま》には子供も洗ってやらなければならなかった。|髪《ぴん》の毛などが白くなるにつれて、それが 何となし|惨《みじ》めくさく感ぜられた。何よりも湯殿の必要を、彼は先ず感じた。  「訳はありませんよ。」妻も同意した。  だから、今彼女が自分で頼んで来た大工に、この台所を|何《ど》う云う工合に直せるかを相談してい るのに、不思議はなかった。そして少しばかり、その声の調子が高かったからと云って、そう気 にするほどのことでもなかったが、ちょうど其の時、妻に対していくらか不機嫌になっていた折 だったので、そんなちょっとした手入れをするのに、朝っぱらから、今の一つの借家人や隣家へ も筒ぬけに聞えるような調子で、何か話しているのが、いつもの彼女の安価な虚栄心でないにし ても、職人などに対して、何かひどく気の利いた風を示そうとするような|浅果敢《あさはか》な|倒巧《りこう》さだと思 われて、わざとらしい其の調子が|何《ど》うにも|堪《たま》らない気がしたのであった。勿論それは津島のみが 感じ得ることかも知れなかったが、年を取ってから出て来た彼女の|厭味《いやみ》の一つかも知れないので あった。男は年を取るに従って、洗練されて来る。しかし女はその反対だと思われた。  「何だってあんな大きな声を出すんだ。」  暫くしてから、さく子が|此方《こつち》の家へ|来《 》て、|茶《ちや》の|室《ま》の縁先で、そこに干してあった|足袋《たび》の位置を かえていると、津島が座敷の縁へ出て|詰《なじ》った。  さく子はちょっと驚いたような顔を、こっちへ向けた。二人は昨日から口を利かないのであっ た。  「何です。」  「あんな調子づいた声を出して、どんな湯殿を作るつもりなんだ。」  「別に大きな声を出しゃしませんよ。」  「ここまで筒ぬけに聞えるじゃないか。隣じゃ何んな普請をするかと思ったに違いないんだ。」  「|可《い》いじゃありませんか。別に悪いことをするんじゃないんですもの。」さく子はそう言って部 屋へ入りかけて、  「ああ|煩《うるさ》い。」と眉に|小搬《こじわ》を寄せた。  津島とさく子が不快を感じ合っていたというのも、今までも|善《よ》くあった彼女の弟のことからで あった。その弟が津島に対して金銭上で、ちょっと|狡《ずる》いことをやった。預けたものを質へ入れて、 携鷲いておいたのが、津島の気を悪くした。その不正なことを、さく子も腹を立てていたけれど、 其れ以外にも少し金銭上の取引があって、そんな事には|頭脳《あたま》の働きの鈍い津島に、さく子はいく らか弟の非を蔽うような説明を加えたのであった。津島はその弟に可なりな補助を与えたことも あったけれど・利き目のないのに欝りて、そうした交渉は作らないことに決めていたのであった が、ふいと|虚《きよ》につけ込んで小股をすくわれたのが、|腹立《はらだた》しかった。さく子も弟の悪いことは十分 知っていた。大袈裟《おおげさ》に津島の恩を弟に着せたりすると、それが津島には櫟《くすぐ》ったくもあった。し力 しその時は幾らか僻鎌を作るためにか、それとも気づかずにか、とにかく|曖昧《あいまい》にしようとした。 が・斯よりも差当って質に入れられたものを、津島は取返そうとした。そして|終《しまい》に自分で金を払 って、漸《ようや》く取返すことができた。その金は僅かだったけれど、人を舐《な》めたような彼の態度が憎か った。彼はさく子にも当らずにはいられなかった。そんな場合に、子供に甘いさく子たちの母親 が、誠意をかいていることも津島を不快にした。  津島はさく子に移されて行った不快が、まだ|津《かす》のように腹に残っていたので、そうしたさく子 の調子が、|忽《たちま》ち逆上性の神経を|苛立《いらだた》せてしまった。  津島は二言三言応酬しているうちに、さく子を打った。いつもの通り、さく子はそれを避けも 逃げもしないのであった。人が止めるまでは打たせるのであった。自分で手を上げることも・そ う珍しくはなかった。 津島は猛烈に打った。彼女がいつも頭脳を痛がるのは、自分の舞ためだと意識しながら・打 たずにはいられなかった。近頃の彼に取っては、それはおかしいほど荒れた。人々に避えられた ところで、床の間にあった日本刀を持出して、抜きかけようとさえした。本当にそんな事のでき る自分だとは思えなかった。好供じみた|脅嚇《おどカし》に過ぎないの|姦《よ》じていたけれど、そんな事魯り かねない野獣性が、どこかに潜んでいるようにも思えた。彼はそんな時、幼少の折犬に吹まれて・ 籟㍗鎌|櫨難《ひつさ》"れ嚢奪鯉齢篭欝欝 あげて母を打無うとした父の可笑しな表情も目についていた。母視けた手つきで踊りのような 身振をして、却って父を笑わせてしまった。 さく子はしかし|剰軽《ひようきん》な女ではあったけれど、決して踊りはしなかった。鶴くなって反抗するの であっ.た。 夕方になってから、津島は杢が張って行った、湯殿の板敷を響唯きこわしてい㌃ 津島がやはり湯殿を利用した方が得だと思って、妻と一緒に風呂桶を買いに行ったのは、それ から半月もたってからであった。そして其の翌日風呂桶が届けられて、|急持《きゆうごしら》えの煙突なしで、 石炭が|焚《た》かれた。  津島は久しぷりで、|内湯《うちゆ》へ入ることができたが、周囲が小汚いので、気持は余りよくなかった。 それに広々とした湯殿へ入りつけていたので、そうやって風呂桶のなかへ入っているのが窮屈で あった。  「この桶は幾年|保《も》つだろう。」彼はいつもの癖でそんなことを考えた。  「おれが死ぬまでに、この桶一つで好いだろうか。」と、そうも思って見た。  すると其が段々自分の棺桶のような気がして来るのであった。