私の歩んで来た道 田山花袋 大正9年11月号掲載 ○  過ぎ去つた事を考へて、何よりも満足に思ふのは、自分の やりたいと思ふ事をして来た事である。一体私と云ふ人間は 余程変なところがあつて、遅鈍で、性急で、才がないものだ から、何事でも好い加減のところで止めるわけに行かない、 酒にしても、女にしても、どこ迄も徹底しなければ気がすま ないのである。それが好い事か悪い事かは別として、兎に 角、自分はさう云ふ風にしてやつて来たのである。それは、 社会の為とか、文芸の為とか云ふものでなくて、飽く迄も自 分自身の要求から出て来たものである。  自然主義の運動が起つた頃の自分にしても、西欧の文芸の 影響をうけた事も重大な原因ではあるが、硯友社の人達の中 で|紅葉《  》山人は別としても、その他の人々のあの遊びの気持に はどうしても同ずる事が出来なかつたのである。私だつて、 遊戯的の気持が全然ないわけではない。酒を飲んで面白がつ たり、女を見てうれしがつたりしなかつたのではない。併し さうした深い感興本位な、真剣にぶつかつて行くことを欲し ない気持にはどうも不満であつた。かう云ふわけで、自然主 義運動も起した次第である。 ○ 「蒲団」を書いたのは、明治四十年で、今の代々木の家ヘ引 越して来てからである。今から考て見れば、大した作ではな い。併し、あの時は、いろく苦んだ結果何とかして落付い た気持になつて、一つ一転機を劃するやうな作をしたいと思 つて書いたものである。二人の女と一人の男を主題にした作 品は、その頃メーテルリンクや、ハウプトマンを読んで知つ てゐたので、それ等の影響と、あゝした事件があつた際なの で、あの作が出来たわけである。序でに云つて置くが、「西 鶴しや「近松」のものもずつと以前にも読んだのであるが本 当に理解して面白いと思ふやうになつたのは、矢張異性を知 つてから後の事である。  私の思ふのに、一体、不見転などを買つて、面白く騒いで 見たところで、それは何でもない事だと思ふ。それは唯、ホ ンの接触があるのみで、どちらでも許してゐるのではない。 だから、到底魂に迄触れて行く事は出来ない。この魂に迄触 れて行くと云ふ事は、男女の問にしても、徹底的に真剣にな つて、深く入つて行かなければ駄目なのである。  私が、社会の為とか、芸術の為とか云ふ、その「為に」と 云ふ事を嫌ふのも、矢張そこなのである。人間はみんな魂を もつてゐる。それが社会とか、団体とか云ふものに蔽はれ て、それを通して見るから、魂に触れてゆく事が出来ないの である。自分が純真に赤裸々になつて、すべてを出して行く 事け、自分の為にも好い事であり、他人の為にも好い事であ るから、現在の私などの心持では、かう云ふ心持で、一人の 人間の魂をつき動かせれば万人の魂にも触れて行けると云ふ 心持になつてゐる。  ○  私は可なり多くの作を書いたが、今見返して見るとつまら ない作が多い。作品として一番うまいと思ふのは、非常に技 巧的になつてゐた「一兵卒の銃殺」や「時は過ぎ行く」など を書いた頃の作である。それは、芸術的に好いので、単に技 巧的なものだから、うまくは書けてゐても、今から考ヘると 不満てある。  その前「一握の藁」を書いた頃は、実に暗い気持になつて ゐる際なので、このまゝ続いてはどうにもならないと思つて ゐた。「残雪」を書いた頃も、つきつめた気持で、あのまゝ で進んで行けば、とても芸術などでは満足は出来なさゝうに 思はれた位である。併し、最近、「電気と文芸」に「黒猫」 を書いて、つく人'\「自分も芸術家だな。」と思つた位であ る。矢張り自分は芸術とは離れる事は出来ないやうに思ふ。  私もまだ四十二三位では駄目だつた。人も恐れず世間も恐 れなくなつたのは、四十五を過ぎて後である。さうでない人 もあるかも知れぬが、人間と云ふものはどうしても年齢と云 ふ事は重大な関係をもつてゐるものだと思ふ。殊に五十にも なれば、次第に死の方へ近づきつゝあるのだから、無理もな いと思ふ。二十代などで年齢の事など考ヘてゐたら、何にも 出来ないが、吾々のやうになるとさうは行かなくなる。仕事 の方から考へても、自然主義運動などは何と云つても世間を 対象にしたものであつた。それから後、だんく思想も変つ て来て、今日に到つたのである。  まだ/\私もいろくな変つたものが出来さうに思はれ る。今「読売」に書いてゐる「恋草」なども自分のつもりで は通俗小説ではなく、多少変つた方面に筆をつけてゐる考へ なのである。  ○  文壇的の交友では|国木田独歩《・・・・・》君などは最も親密にしたが、 あれは「我儘」の出しつこのやうなものであつた。|国木田《   》君 ははでで、快活で、才気もあり、話好きであつた。私は陰気 で、黙りこくつてゐると云ふ風なたちであつた。この二人が 互ひに「我儘」ばかりをし合つてゐたやうな交友関係であつ た。|島崎《  》君も私は前から尊敬してゐた。あゝ云ふ落付いた考 への深い人だから、初めから好い作ばかりを書いた。案外 「破戒」などは価値としては落ちるかも知れないと思ふ。「新 生」は何と云つても意義のあるもので、考ヘさせられる作で ある。一番古くから交つて、西洋の書籍などを読むやうに勧 めてくれたり、目録を見せてくれたりしたのは|柳田国男《・・・・》君で ある。|柳田《・・》君にはいろくな意味に於て世話になつた。最初 は歌の仲間で|宮崎湖処子《・・・・・》の紹介で知つたのだが、後私は|国木 田《   》君をも紹介し、|島崎《  》君をも紹介したわけである。 |国木田《   》君は閃く方の人だから、今生きてゐても|島崎《  》君のや うに大きなものを書いた人かどうかは分らぬが、宗教に儀ら ないで芸術に来た人だけに、よく分つてゐた。鋭いところも あり、人心の機微を穿つと云ふ事に優れた天分をもつてゐ た。「酒中日記」や「運命論者」も今から見ると書き方に古 臭いところもあるが、あれでよく実感も出てゐるし、決して 空想のみの所産ではなかつた。前者の主人公が金で苦心する ところは、彼の実感であるし後者の題材もつくりものではた かつた。私は天才であるが故に、どんなつくり事でも本当に 書けるかどうかと云ふ事には疑ひをもつてゐる。 (了)