【これは未校正データです。】 田山花袋『トコヨゴヨミ』「一兵卒の銃殺」  ざつの5  雑嚢を肩からかけた勇吉は、日の暮れる時分ようやく 自分の村近く帰ってきた。村といっても、そこに一軒こ こに一軒という風にぽつぽつ家があるばかりで、内地の        しゆうらく ようにかたまって聚落をなしてはいなかった。それに、 家屋も掘立小屋みたいなものが多かった。それはそこら      童 にある木を伐り倒して、ぞんざいに板に引いて、丸太を 柱にして、無造作に細みあわせたようなものばかりであ った。勇吉もやはりそういう家屋に住んでいた。 「もう二年になる」                       きよう  勇青はいつもそんなことを考えた。海岸に近い村に教 べん  と 鞭を執っていた時分は、それでもまだ生活に余裕があっ た。「どうせ、田舎に埋れた志だ。無邪気な子供を相手 に暮していくのが自分にはふさわしい」こう思ってみず がら慰めた。国から兄弟たち松心配して送ってよ戸 ような妻は、かれ添まだ海を越えてこの地に渡っナ い前にいっしょになったのであるが、かれはそれ九 てあちらからこちらへと漂泊していった。海津の“ るまでにも、がれはすくなくとも四カ所の小学校右 て歩いた。ある山の巾では、自分一人きりで、十工                   あわもち 人の児童を桐手にのんきに暮した。そこは粟餅、   ぱ れいしよ  そ ば 飯、馬鈴薯、蕎麦、豆などよりほかに食うことの巾 いような処であった巳勇吉は今でもそこの生活を棉 て考えずにはいられなかった。 「なぜ、あそこから出てきたろう。なぜあそこにい ったろう。あそこぐらいいいところはなかった。夫 ぐらい自分に適当したところはなかった。−:−や片 淋しかったのかなア、世の中に出たかったのかな7                     くや んなことを言っては、そこから出てきたことを悔む  妻に向っては、「あそこを出てきたのは、拍前κ 任があるよ、為前も出たがっていたからな」どう入 と、璽吉はこんなことを言った添、しかし、妻に耐 っねに多く要求していない彼は、そう深く妻を相毛 ようとは思わなかった。妻はまた妻自身の独立し未 を持っていて体と物質との両面からつねに勇吉を印 ていた。 「あなた、何をそんなに考えてばかしいるんですよ」                      あお〔ろ  こんなことを一一一白っては、勇青が暗い窓の下で、蒼白い         た加ぷ 顔をして、神経を目叩らせて、鉛筆で手帳に何か書きつけ ていたりするのを叱るように言った。  勇育は三日間、雑嚢を肩からかけて村から村へと歩い ていった。自分の村から二、三十里近くのところまでも 出かけていった。雑嚢の中には、薬がたくさんに入って    か ぜ いた。風邪の薬、冑腸の薬、子供の気つけにする薬、ヨ ードホルム、即効紙などがごたごたといっぱいになって 入っていた。勇吉はそれを自分の村から五里ほどある停         こんい        しよほ5        もら 車場の町に行って、懇意な医師に処方をつくって貰って、               おろ    もら 小さな製薬会社からなるべく安く下して貰ってきた。 「薬、入りませんか」           こうぷ ち  こう言って、かれは荒蕪地のところどころにある家に                   かや  ささ 入っていった。一軒から一軒へ行くのに、萱や篠のいっ ぱいに茂った丘を越えていがなければならないようなこ ともあれば、沢地のようなぐLやぐじゃした水のある処 をぐるりと廻っていかなければならないようなこともあ った。「薬屋さんかネー・・−今日はいいがな」伊勢あたり                首 から移住してきた百姓はこんな口の利き方をした。「ま ア、休んでいかっし−:−薬はいらないが、遠いところを                  だんろ      しよ多 来て疲れたろうナモシ」などと言って、爆炉の傍に請じ てくれる婆さんなどもあった。村から村へ三里もきびし い山路を通っていかなければならないような処を通る時            くじ には、勇吉の勇気も幾度が挫けた。、独立独行−何で も自分で生きていくに限る。小学佼でつがってくれなけ                * れば、自分で働いて食うばかりだ。ω◎ユ印弄二 けっこ うな名をつけら犯たものだ。自分はωoo匡車だろう水。 それは思想にはいくらかそういう煩向を持っているかも しれない。国の新聞に出したあの歌などにはそういうこ とを主として歌った、それは事実だ。しかし、事実を歌 ったばかりで、ω◎o匡艮と断定する役人たちの無学がわ かる」 「自分は芸術家だ。ωg聾家ではないっていくら弁解し てもわからなかった」こんなことを思った勇吉の頭には あの多くの人たちが死刑に処せられた時の光景がありあ りと浮んモきた。かれはそれを思いだすごとに、いつも       ふる 体がわくわくと戦えた。それは日本などにはとうてい起 ることがないと信じていた光最であった。外国ーこと にロシヤあたり㍗なければ見ることができないと思って   せいさん いた嚢惨な光景であった。その時新聞を持っていたかれ の手はぶるぶる戦えた。そこには、かれの知っている友 だちの名前が書いてあった。その友だちはかれが東京に                      はげ 出ているころ懇意にした男で、よく往来しては、烈しい 思想を亙に交換したりした。しかし、勇盲はその時でも 芸術ということを忘れてはいなかった。ω8匡ぎを承認 してはいた茄、それは芸術上のω8堅索であった。勇       *         よ 吉は間もなく郡視掌に喚ばれたり警察に呼ぱれたりし た。休職−こうして唯一の生活法であったが机の職業 はかれ江ら永久に奪われていった。              かいにん  その時、妻は今の女の児を懐雄していた。「あなたは ほんとうに、そんなんなんですか。なら、私、今からで       ζわ も出ていく。怖い、死ぬの茄怖い」妻すらこう言って、 勇吉の体をさがすようにした。「そうモないなら、そう        も5しわけ って、ちゃんと申訳ができそうなもんですね…−・。そん           かみ なわからないことは着上だってなさるはずがないんです がね・−−・」な£と言った。纐岸の小さな小屋みたいな家       ふる で、ぶるぶる繰えながら寒い寒いぴと冬を過したことを 勇吉は思いだしてゾッとした。そごでは刑薯茄ときどき 様子を見にやってきた。黙って一時間も坐っていること などもあった。そのたぴごとに、勇青は弁解したが、そ 九は何の役にも立たなかった。「でもこうやってくるの 。が私どもの職務だから」などと刑事は笑いながら言っ た。勇音はその友だちから来た手紙をすっがり出してみ          の せたり、国の新聞に載せた歌の意味を解るように解釈し て聞かせたりしたが、それでもやはりだめだった。モひ と冬は少しぱかり貯金して着いた金でかろうじて過して 螂 いった。しかし断頭台に上って、十二分に絶命した若い                  工与がえ 友だちの悲惨な光景は絶えずかれの体に蘇ってきてい た。     しんせつ  懇意な深切な医師があって、勇吉の撞遇を気の毒がっ て薬の行商を勧めてくれたので、加れはかろうじて生活 の道を得るようになった。その翌年は、ひと夏かれはそ                      但5じよう こからここへと歩いていった。幸いにもその年は豊饒 で、薬は思ったより売れゆき添よかった。「思いきって 百姓になろう。それが一番いい。自分モ耕して自分で食 う。世の中やはω8匡零と呼ぼうがどうしよう茄、そ      とんちゃく んなことは頓薦しない」こう勇吉は幾度となく決心し                   ナ 首 た。しかしそのたびごとに、かれの体格が鋤梨を取るに             ちゆうちよ は不適当なのを考えてかれは騎踏した。がれの体は小柄   や で、痩せて、力がなかった。「せめて妻ぐらいの体があ            こ れば−」こう思って妻の肥えた体を見たごとも一度や 二度ではなかった。  山路を歩きな茄ら、 「できる、できる、小作にさせてもできる。たしかにモ きる1」    胆つさ て音  こう発作酌に叫んで、踏傍の草の上に腰を下して、肩     まつりう にかけた雑嚢の中から紙片と鉛筆とを出して、急いで数 字を書いて計算してみたりした目「そうだーこれが十 円、これが二十円、これが五円、たし払にできる、一軒                 カいこん 分だけ払下げを願って着いて、それに開墾をさせれば、 二年かかればむろんできる。そうすれば、こんなにして              旧うoよう 遠い路を歩かなくってもいい。豊鋳な土地はどんなにで も生活の道を与えてくれる。そうだ、そうだ、帰ったら、 さつそく 早速着手しよう。何も官憲などを恐れている必要はない んだ。猫立独行だ!」さも大きな独創的な考を得たよう     たた         舟6 に、膝を叩いて勇吉は跳り上って喜んだ。それは広くあ                      ぷ   を たりが見わたされるような処であった。向うには山毛棒 の森や白樺の林が広く遼く連っていた。ここらあたりま では、開墾者もまだ入ってこないとみえて、低い濯木の 野や、笹原や、林の中に、路がただ一筋細くついている ばかりで、あたりには百姓の姿も見えなかった。夏の日 が明るく心持よくかれの腰をかけている草地を照した。 「そうだ、そうだ。それに限る!」  がれはまた絶叫した。そしてまた新しいことに気がつ いたというように、早く鉛筆を紙の上に動かして計算を した。  これに限らず、勇吉は草の上に寝ころんで休むことが すきだった。上には空と日の光添あるばかりだ。どんな 大きな声を出しても誰も何とも言うものもない。そこに はかれのあとをつけねらっている刑事もなければ、がれ に向ってガ、、、ガ、・、言う力の強い妻もいない。心を絶えず          左童ご足 イライヲさせる子供の暗声もしない。何をしようが勝手               い 言 である。そこ㍗のみかれは自由に呼吸をつくことができ るような気がした。「空と日と鳥と…−何という自由な ひろい天地だろう」こう独りで書って、大きな自然に圧 迫されたように後頭部に両手を当てて、死んだようにな って、一時間も二時間も草原の中に寝ころんでいること などもあった。 「宥ーい」  などと大きな声を立てて、気違いのように手を振った りなどした。  長い山路を通りながら、勇吉はまたよく昔のことを考                     みち。つれ えた。山路を一人歩いていくかれにとって唯一の道伴だ といってもよい位であった。いろいろなことががれの頭  つ   あが に衝き上るように集ってきたり散ばっていったりした。                       わ  東京で暮した一年の生活、それがいつでも一番先に湧           よみがえ        ふる きだすような力でかれに蘇ってきた。顕えるような神 経をかかえて、かれはある作家の玄関にいた。そこでか れはいろいろな人を見た。当時の文壇で名高かった小説 家だの詩人だのを見た。美しい若い文学志願の女の群な    あ どにも逢った。恋、功名、冨貴ーそういうものの中に          ふ看 小さくなってぶるぶる顕えているようなか犯であった。    すうはい かれの崇拝した作家は東京の郊外にいて、トタン張の薯                  と い書斎で、大きな作を試みて熱心に筆を執っていた。田 舎で想像して出かけていった心持や希望がいちはやく氷 のように解けていってしまったかれを勇吉はありありと その山路に見た。一年いてもどうにもならないので絶え          たかぶ ずいらいらして神経を昂らせていた彼、持っている思想              はんもん を紙にのばすことができないで煩悶した彼、美しい女の        てんてん牡んそく 幻影にあこがれて鞭転反側した彼、キヲキヲする烈しい 日光のような刺戟に堪えられずに絶えず眩惑する頭を抱           らおτろ えるようにしていた彼、蒼白い髪の長い顔をして破謁の                    吋んか 詩に頭を痛めていた彼、下劣な肥った家媒と喧嘩して腹        う を立ててその頭を撲って怒られた彼、電僑柱が人間と岡 じく動いているような気茄して驚いて帰ってきた彼、郷           弓らや吉 里の友だちの学校生活を羨しく思って一夜寝られなか った彼、1そういうものは、いつも一人歩いていく勇   みち。つ打 吉の道伴になっていた。東京がら帰って、腹だちまぎれ   や o                              づ に、自暴まぎれに、郷里のある家に火を放けようとし て、気違扱いにされて、遠い田舎にやられたことなども かれはときどき思いだした。「どうしてこうだろう。ど うしてこう頭が悪いんだろう」かれは以前にもよくこう 思って、顔をしがめて頭を叩いたり何かしたが、今でも 刎 やはりかれは頭のことを絶えず賓にしていた。歩きな担 ら、コツコツ自分や頭を叩いてみたりした。 「こんなりっぱな思想が自分にはあるのにー」今でも                 へ音きよう どうかすると、そう思って、こうした僻撞に年を取って いくのを勇育は情なく思った。「他の人序は皆なそれぞ れ明るい平和な生活なり家庭なりができていくのに、な               みじ ぜ、自分ばかりは、こういう暗い惨めな押諸められたよ うな生活ばかりが続いていくんだろう」こう考える時に は、いっそう明かに自分の通ってきた路が暗い絵の具で 塗られた何枚続きかの絵のようになってみえてきた。そ                      あたま してその最後の一枚には、肥った妻と自分に似て頭顕ば 水り大きく発達した女の児と蒼白い顔をした自分とが暗         う      ふる い寒い一間で寒さと餓えとに戦えていた。                        ζん  かれはかれの行く都落の人たちにもやがてだんだん懇 い 意になって、後には、「薬屋さん、薬屋さん」などと呼ば れた。ただで午飯をご馳走してくれる家などもあった。。                   をお 「この問の薬はよくきいたよ。ごのと着り治った」ある        け が 百姓はこう言って怪我をした足を出してみせたりした。 勇吉はいたるところで、違い国からはるばるとこの荒蕪 地へやってきている人たちを見た。中には一村をあげて      (旧あ吉り 同じ調子の国認の言葉をつがっているようなところもあ った白人々は皆な精を出して働いていた。「これでも一 生のうちには、国に帰るつもりですよ」などと人々は皆 な言った。「寒いし、そ牝に、こういう処で一生暮す気 にはな牝ないね。まア、金をためて国に帰っていい田地 やも買って、年を取ってから、。楽をするんだ掴え」など という人もあった。かと思うと、荒蕪地をある程度まで 耕して、それを後から来た者に売って、もっと交通の便 な、開けた町に近いところへ出ていこうとしている人な         や盗ち どもあった。森だの藪地だのからは、大きな伐木を焼く 煙が高く高く挙っているのを勇吉は見た。  ざつの5  雑嚢にいっぱい薬を入れると、二貫目ぐらいの璽量が あった。それがだんだん一日増しに軽くなっていった。 勇吉はそれを楽みにして歩いた。  とにかくそれだけ売り上げれば、がれはいつも家のほ うへ引返してくることにきめていた。しかしそれが十里 行って売りきれるが、二十里行って売りきれるかわから なかった。一度は三十里近くも行って、それでも売りき れずに山を越して海岸に出て、そしてようやく帰ってき たことなどもあった。旅舎のない村では、頼んでようや く泊めてもらった。 二  ある夜、勇吉は荒れた小さな駅に来て泊った。そζは ある街道からある街道へ通ずるような処で、旅審が馬を 次ぐ宿駅になっていた。広い路に添って、人家添十二一二 軒あった。明るい灯のついた三味線の音のする料理屋な どもあった。十月の初めは、もう内地の初冬のころの気 候で、林の木の葉は黄葉してバ一7一バヲと散った。                     *  旅舎の店の処を通ろうとして、ふと見ると、ゴルキー 集と書いた短蔚集のさんざん読み古されたのがそこの机 の上に置いてあった。勇吉はそれを手に取ってみた。不          ぎうけい  わ 思議にも芸術に対する憧憶が湧きかえるように起ってき       たてぱ                             ナ5 た。この前にも立場などで古新聞の破片などに自分の崇 はい 拝していた作家の作を発見して、東京のほうをなつかし く思ったことも二、三度はあったが、しかしその時ほど 強い烈しい瞳憧を覚えたことはなかった。勇吉は頁をく ってみていたが、 「これは誰のだい?」  一苧主は振返ってみて、 ************************************ 「誰のっていうことはありましねえ。 が忘れて置いていった小説本だ」 「ちょっと借りていくよ」 「え、ようがすとも、」  その夜一夜、 ************************************ この間、 ************************************ 着客さま ************************************ かれはその短篇集を手から離さながっ た芭夕飯飾に読み、寝る前に読み、蒲団の中に入ってか らも読んだ。かれはそこにかれの日常多く見ているよう な旅客だの乞食だの強盗だのを見た。愚かな百姓、色気 のない田舎娘、行簡人、それは皆なかれのつねに眼で見 たり話で聞いたりするような人たちであった。作物の背                     加ぱ 景になっている天然もよく似ていた。やはり、樺の林や 白楊や白樺などで取囲まれてあった、空は広く星はキヲ    か。かや キヲと煙いていた。 「そっくりだ、そっくりだ、こういう人間はいくらもい る」  読みな松ら勇盲は何遍となくこう繰返した。 「こう書けばいいんだ」                    う  こんなことを言ったかれは、昂奮して膝を拍った。か れは自分の逢った人間を頭の中に繰返してみた。 「あれもそうだ、あれもいい、あいつも書ける」こう言 ってまた膝を叩いた。 「そうだ、そうだ1」              ふけ  こう言っては、妻た深く読み耽った。三二時間のうち に、かれはすっがりそれを読みつくしてしまって、中で 気に入ったものをもう一遍読みかえしたりした。「ぜぴ、 やってみよう」つぶやくようにかれは独語した。  夜遅くついた旅客の馬の鈴の音がちゃらちゃらと静か に窓の下のところでした。勇吉は窓を明けてみた。広い 犯      仁うこ・ウ 空には星が煙々とががやいていた。      三              た。かや  たしかな計算を立てて、少し耕しかけた円地を安くあ        ひ ようとo る人から買って、日傭取に頼んで聞墾に薦手し始めた。 自分はやはり薬売に遠く出がけていってはいたが、とに かく勇吉は百姓になろうと決心した。それよりほかに自 分の出ていく道はないとすら思った。旅から帰ってきて 自分の荒蕪地私少しずつでも閣墾されていっているの を、見るのは楽みであった。しかし、半年と経たないう ちに、たレがな計算だと堅く僑じていた数字担数字ど着 りになっていかないのを勇盲はだんだん発見した。一年 間に規定された荒蕪地を完全に開墾するにはな翁多くの 金と力とを要した。天然と戦うのについて思いもかけな  しようがい い障碍がたくさんに一方にあるとともに、日傭取たちは 何のかのと言っては怠けて遊んだ。開墾ができて賞した            な たれ      ま ほうの土地には、小作人は菜種などを蒔いたが、それも                      も5 +分な収穣を得ることができなかった。薬のほうで儲け た金はだんだん土地のほうにすい取られていった。勇吉 は鉛筆で数字を書いた脹面の上に、髪の延びた蒼白い顔     くつたく を落して、屈託そうに何か考えていることなどがよくあ つた。  し加し計算茄合わないでも、天侯さえ十分ならば、が 托の計画はだんだん成功していくであろうと思われた。 「なアに、そう心配したものではない。三年も経てばよ ほど目鼻が明いてきまさ」こう年を取った近所の百姓は           ふ し あわ 書ってくれた。ところが不仕合せにも二年目は夫候はよ                  あわ いほうではなかった。菜種も、豆類も、粟もすっかりだ              ぼ れいしよ  と5“ろ仁し めだった。百姓はこぼしながら馬鈴薯や玉蜀黍などを食                    官ようさく った。今年こそ、今年こそといって、昨年の凶作の取り かえしをしようとした今年は、また昨年以上に天候がわ るかった。暑い日影の照ったことなどはほとんど一腹も ないと言っていいくらいであった。秋の末のような薄ら        氷んじん 寒い気候が藍作に肝腎な夏の盛りのすべてを占めた。こ こでは、五日でも一週間でもいいから、かっと暑い日の 光線の照りわたるのが必要であった。強い日の光を受け さえすれば、作物は一日、二日のうちに三尺も四尺も伸 ぴるというような処であった。モ作物は醤な成熟せずに 終った。粟にも穂という穂もつかな水った。馬鈴薯さえ               ひえ  そ ぱ 完全にできなかった。豆、菱、稗、蕎麦!すべて小                  しも さくいLけて実を結ぶ間もないのに秋の霜ほ早くもやっ てきた。凶作という声添いたるところに満ちわたった。 物価はにわかに高くなった。とてもやりきれないなどと 言って、半分耕した土地を売払って他国に行ってしまう    ひんぴん ものが頻々として続いた。ことに旅をしてあちらこちら を見て歩いている勇吉には、その災害のはなはだしいの がいっそう明かに眼に映った。ある村などでは、ほとん どまったく無収穫というような悲惨な状熊に落ちている のを勇吉は見た。丘に添った村はひっそりとして煙の立 っている家などはないというくらいであった。いっも威 勢よく鈴の音をさせて山を越えたり野を越えたりして停 車場のほうへ行く駄馬の群にもめったには出あわなかっ た。どこの村も皆なひっそりとしていた。  勇吉は非常に大きな打撃を受けた。百娃の事業のほう もむろんそうだが、それよりもいっそう困ったのは、薬 のぱったり売れなくなったということでありた。病人は かえっていっもより多いのだけれど、どこの家でも薬な どは買わなかった。たいていは冨山から来る置き薬で間 に合せた。 「薬屋さん、気の毒だけど・−・−この凶作じゃ藥も買って 飲めねえや」  こういたるところで勇吉は言われた。  勇古は重い雑嚢を肩からかけてそして遠い旅がら帰っ てきた。 「だめだ、だめだ」  こう言って、小さな菖分の家に入っていった。六畳一 問に、その奥に小さい二登があるばかりであった。十月 の末はもう寒かった。雪も二、三度やってきた。ブリキ  だんろ         ま童  くすぶ の嬢炉の中には薪が燥って、煙が薄暗い室の中にいっぱ いに満ちていた。妻は裏のほうに行っていたが、声を聞             や きつけてこちらに来た。背に痩せこけた女の児を負って いた。 「どうだったね」 「だめだ、だめだ」 [ちっとは、それ㍗も…三」 「だめだ、だめだ、すっかりだめだ」勇吉は神経性の暗 い顔をして、「薬なんぞ買うものは一人もありゃしない」 「困ったね」  妻はこう言って、「まア、上んなさい。留守にあちら から来たよ。いくらでもどうかしてくれって、、」 「そうが」             わもじ  勇吉はこう言ったきりや、草鞍をぬいで上に上った。 腹は減っているけれど、飯を食う気にはなれなかった。      ま     ぞうサい 粟と麦とを雑ぜた雑炊−それすら今年水ら来年にかけ ての材料を持っていないということが、一番先に勇吉の 胸につがえた。勇吉は母親の背に負われてにこりともせ ずに襲せていしけている女の児を不愉快な心持で見た。    ナす    たんす                       こわ  盲い煤けた璽笥、ブリキ落しの安火鉢、半分壊れかけ 胴                      * た炭取りなどがそこに置いてあった。壁に張ったトルス トイの肖像は黒く煤けて見えていた。勇吉は嬢炉の前に 坐って後頭都に両手を組みあわせて、やがて来る寒い冬 を想像した。雪、雪、雪、恐ろしい雪がすぐ眼の餉に追 っていた。「こうしちゃいられない」勇盲はいても立っ てもいられないような気がした。 「ご飯は?」 「今、食う……」              せん  こう言ったが、勇吉は夢中で膳に向って三二杯暖いの をがきこんだ。で、いくらか元気が出てきた。「まア考                       えリ えよう」こう思って、蒲団を引ずりだして、言い汚い衿 に顔を埋めたが、疲れているので、いつとなくぐっすり 寝こんでしまった。  勇吉は一日、二日まったく考えこんで暮した。百姓の 事業のほうも捨ててしまうのは惜しいとは思ったが、こ れから先幽作が毎年つづくかもしれないと思うと、不安 がそれからそれへと起ってきた。それにかれの持ってい る土地を物にしようとするには、まだ少からぬ金が必要 であった。今でさえ借りた金に困っているのに、この上   く めん 金を工面することなどはとてもできなかった。貯金はい くらか持ってはいても、それは万一の時のために残して                    ためいき 着かなければならないものであった。勇吉は溜息をっい た。  ある日は何か思いついたことがあるように、きゅうに 勇みたって海岸の村へ出かけていったが、帰ってきた時 にぱ、やはりしおれた動播した顔をしていた。自分の住 んでいる村の人たちからはことにかれは何物をも得るこ とができないのを見た。 「とにかく、こうしちゃいられない。こうしてぐずぐず              う していれば、親子三人雪の中で餓えて死んでしまうばが りだ」  こう思うと、勇吉はいても立ってもいられないような 心持がした。それに、海岸の村で聞いてきたω8匡室に                 あわ 対する官憲の方針はかれの恐怖の血を泡だたせた。自分 のあとにはっねに刑事がついていて、自分の考えている ことは何もかも知っている。こう思うと、怖くってしか たがなかった。片時も心の安まる時がなかった。自分は 何もわるいことはしないのだけれど、今までのこと添す でに大きな罪になっていて、突然刑事や巡査がやってき     づ て自分を伴れていきはしないかとさえ疑われた。  がれは部落に一人いる巡査を怖いものに思って、その 駐在所の傍はつねによけるようにして通っていった。                   う  ふと思いついた。かれは例のと拾り膝を拍った。晴々 しい顔をして心の中に叫んだ。「そうだ。そうだ、そう しよう。あいつを持って東京へ行こう。あいつならたし                ちよう悟う かだ。たしかに売れる。誰も必要な重宝なものだから・− …」かれは海痒の村にいる時分、一生懸命になって、あ る一種の暦を発明したことを思いだしたのであった。そ            * れは千年前ないし千年後の二十八宿と七曜日淡数字の合 ぜ方で間違いなく出てくるというようなものであった。 それをかれはかれの不思議な数学的の頭から案出した。                    しようさん かれはそれを郷県出身の理学罐士に送って賞讃を博し た。現にその博士の手紙を勇吉は持っていた。「そうだ、 それに限る。暦は安くって必要なものだから、いくらで も売れる。東京に行って、安い印刷所モこしらえれば費 用だっていくらもががらない。一枚二、三十銭ぐらいで 売りだせばきっと売れる。そうだ。いいことに思いつい た」こう思って、かれは文摩の底からその暦の原稿を出 して、さらに樽士の手紙を読みかえした。「七曜の数の 出し方はたしかに貴下の新研究と存候1」ごう書いて あった。今まで持っていた才能をなぜ今までつ水わずに                     み在書 為いたかと勇吉は思った。限りない勇気が全身に涯って        たす きた。神!神が救けてくれた1 こんな風にも思って こお星り 雀躍した。  ω8雪堅としての圧迫も、東京に行けばどうにでもな                  かわ ると愛吉は思った。「東京は広い。身を燥してしまえぱ わかりゃしない。巡査だって、刑事だって、そうそうは さ添して歩かれやしまい。それに、東京には代用小学校 がいくらでもある。教員の口だってさがせばわけはな                 あ{せく い。そうだ。そうだ。こんなところに齪齪して、雪の中  う に餓えて死んでしまうことはない。そ札に限る1」勇吉 は妻にすぐ言って聞がせようとは思ったけれど、まアあ とで、すっかり決ってからでもよいと思いかえして、そ の愉快な計画を自分一人の腹の中に納めて担いた。勇吉 はポールの厚紙を押入の中から捜して、不完全な原稿の 訂正にその日を費した。丸く切ったボール紙をぐるぐる 廻して、別の紙の数字と合せるように勇吉は骨折ってこ しらえた。すべてがかれの思うようにいった。かれは使 用法を箇条書きにして書いてみたりした。 「うまい、うまい。これでできた」  かれは喜ばしそうな顔をして書った。 「何ヅていう名をつけようか」続いてがれはこう思っ た。万代麿、ぎうも固すぎると思った。薪式万世暦、年 代暦、こうも考えた。しかしどれもこれも皆な気に入ら         く定 な水った。もう少し砕けて出て、ちょうほう暦、百年こ よみなどという名をつけてみた。どうもやはり自分の思 ったようなよい名がなかった。  勇吉はその名のためにすくなくとも三日、四日考え 珊 た。ふとトコヨという字が頭に浮んできた。トヨヨゴヨ ミーいい、いい、これガいいこれ淡いいと思って、嬢      たた しそうに膝を叩いた。山田式トコヨゴヨ、・・−二、三厘 口でよんでみて、「やはり、式なんていう字がないほうが いい。ヤマダトコヨゴヨミ、それでいい、それでいい」 こう得恵そうに言って、それを原稿の上のところに、ゴ        ていねい ヂックスタィルで丁寧に書いた。そしてその上に理学博 士育田卓爾先生証明と横に書いた。 「これモいい、こ牝モいい」                   こ苗ぎ螂  勇吉はある大きな事業をしたような心持で雀躍して狭 い室の中を歩き廻った。 四  出京の準傭は思のほ水手間取った。土地の処分をし て、少しでも多く金を作りたいと思ったので、金を借り た家に行って相談をしたりなどした。懇薦の医師のもと などにも行った。  十一月の末が来ても、まだ土地の処分が完全にできな かった。勇吉はだんだんいらいらしだしてきた。「暦は 十二月がら正月が売れるんだ。ぐずぐずしていて時を失 ってはたいへんだ」こんな風に考えたかれは、しまいに は安く土地を手離してし麦わなければならなかった。 「何アにかまわない、貯金の金添あるから、東京に行っ てから一月、二月はどうにでもしていかれる。少しぐら い安くっても早く行けるほうがいい」勇吉はこう思って          お 土地売買の証文に判を捺した。・  勇吉の妻もむろん東京に出るという計画を薯んでい た。まだ東京を知らないかの女にとっては、東京はどん なことでも㍗きるところのように思われていた。はたし て夫の言う通りならば、こんな寒い荒蕪地の中に暮して いるよりどれほどよいかしれなかった。絶えず心配にな          けんま っているω8堅室の嫌疑を避けえられるだげでもよい と思った。始めて運が開いてきたという風にも考えられ た。長隼夫を知っているので、時にほ、「何を言っている んだかわかりゃしない。そんな暦が売れるもんだか何だ かわかりゃしない」こう不安に思うこともないではなか        ふる ったが、雪の中に頗えて餓えているよりは、どんな苦労 をしても東京に行くほうがまだしもよいと妻は思った。 「私はどんな苦労をしてもいいけど、あなたもしっかり してくださらなけりゃしかた添ないよ」  こう妻は勇吉に書った。 五                    にぎ  小さな海津の停車場から目も覚めるような賑やかな大 書な上野の停車場までのさまざまの光景は、何枚続きの 絵か何ぞのようになって勇吉の妻の眼に映ってみえた。 雪、雪、雪、どこを見ても雪ばかりの広い荒漢とした野 原の中の停車場松見えるかと思うと、何本もわからない        すさま   ぱいえん         みをぎ ほどの煙突が黒い凄じい煤煙をあたりに涯らしているよ うな大きな町なども見えた。ある線からある線へ乗換え る停車場では二人は寒気に顔えながら、家から持ってき     むすぴ た冷たい結飯などを食った。女の児が泣いて泣いてどう してもだまらないので、一度背中から下して、乳を含ま せてみたりなどしたが、やはりそりかえって火がつくよ うに烈しく泣いた。 「あなた、ちょっと抱いてください」  こう書うと、夫は暗い顔をして黙ってそれを抱いてあ     晦す ちこちと揺って歩いた。暗い暗いプ一フットホームだっ た。汽車は大きな眼のように光をかがやかして凄じい地 響をさせてその停車場に入ってきた。  拒びただしく混みあった三等室を勇吉の妻は眼の餉に 浮べた。大きな荷物を抱えて二人は入っていったが、ど こもいっぱいで坐る処がなかった。妻だけはどうやらこ うやら割りこむようにして腰をかけさせてもらった茄、 勇吉は大きな荷物を下に置きながら、便所の扉のところ  よ に党りかかっていなければならなかった。それに硬所の 扉は幾度か明けられたり開められたりした。後には夫は 立ちくたびれてたまらなくなったというようにして荷物 の上に腰を掛けた。                     すし  大きな町の雪に埋っているさまなども見えた。鮨、弁 当、正宗、マッチ、煙草1と長く引張った物売の声が 今だに耳について残っているように思われた。海に近い 町に来て汽車を下りて、停車場の傍のほうの小きな旅舎              つか モ朝飯を食った時には、ひどく労れて、一時間でも二時 問でもいいから寝て休んでいきたいと妻は思った。そζ は勇吉にとっても妻にとっても思い出の多い処であっ た。緒婚した翌年二人は山の中から海を渡ってそこに来 た。そこに二人は一週間ほどいた。「その時分は楽しが った」などと妻は思った。              ふ とう       か  追いたてられるようにして、埠頭のほうへ駈けていく 二人の姿が続いて見えた。向うに渡る汽船の白い日ヘンキ   あお 塗は碧い海の中にくっきりと見えていた。めずらしくそ                 まぶ の朝は晴れていた。朝日がきらきらと眩しく海に砕けて 光っていた。  寒い汚い狭い船室に、動物か何ぞのように人々は坐っ たり寝たりしていた。一種のイヤな臭気がどこからとも なく襲ってきた。妻は眠くって眠くってしかたがなかっ           かんぱん た自分を見た。「為れは甲板の上に行っているぞ」こう 珊 勢吉空首って出ていくのをうつつに聞いて、女の児に乳                  えぴ を含ませな添ら大勢の人たちの中に足を蝦のように噛げ て、何もがも忘れてぐっすりと寝た。  船がら下りたところにある停車場では、故郷のほうに          た          けむo わかれていく汽車が今発とうとして姻を挙げているのを 見た。「国になんか寄っていられない。そんな暇はない。 そうでなくってさえ遅くなったんだ。もう十二月じゃな            す、とお口 い歩」こう言って二人とも素通をしていくことにきめて いたけれど、ここに来てはさすがに国のほうに心をぴか れないわけにはいかなかった。「こうして來京に行けば           芭ようだい またいつ国に行って親や同胞に逢われることだろう」ζ                    ぬぐ んなことを思って、勇吉の妻は涙をそっと袖に拭った。  そこでも二人は停車揚の前の茶店にも休まなかった。 一銭でも多く金をつかうことを二人は恐れた。東京に行 って暦が売れるか、ある職業にありつくかするまでは、 餓を忍んでも暮さなければならないような境遇であっ た。勇畜の妻はそこで泣く子のために駄菓子を二つ三つ 買ったば氷りであった。  三等室はやはり渥みあっていた。一日も二日も汽車や                    つか 汽船に揺れ通しにやってきた体は、ヘトヘトに労札て、   よ                      い拍むo 物に究りかかりさえすればすぐ居眠が出るようになって いた。勇吉は蒼い昂奮した顔をして、両方から押っけら                  ガヲヌ  ほう音 れるようにして小さくなっていた。窓の硝子に簿のよう         よ         こん十い にぼさぼさした頭を究せかけて昏睡していたりした。          にざ  勇盲の妻はだんだん賑や水な町や村や停車場の多くな ってくるのを見た。人がたくさんに路を通っていた。こ んなに大勢人がいるかと不思議に思われるくらいであっ た。海をいっしょに越えてきた人は、「北海道はえらい 凶作ですよ。この冬が思いやられますよ」などと言って、 あお  ひえ  ぱ れいしよ 粟も稗も馬鈴薯も取れなかったことを車中の旅客に話し て聞かせたりなどした。  気候もだんだん暖くなってきた。畠には麦が青々と生          くら えていた。「あちらに比べたら、何ていい処なんだろう。 こういうところに住んでいる人たちはどれほど仕合せだ か」勇吉の妻はこんなことを思って、雪ひとつない地上 に草や木の青々と生えているのをめずらしそうに見た。 「暖かいこと」  こう勇音に言ってみたりした。  賑かな大きな目も覚めるような停車場−幸いにもそ こにはあらかじめ手紙をやって今日の到潜を知らせて為 いた遠い親類の男が迎いに来ていてくれた。荷物といっ しょに自分と女の児だけ車に乗せられて、借りて着いて   *うらだを くれた裏店のような三軒つづきの狭い家にやがて皆なは              すりぱち 落ちつくことになった。それは播鉢の底のようになって いる処で、ちょっとの隙間もなく家が一面に建てこんで あった。             餉つく回 「何て家の多い処だか1私吃驚した」こんなことを勇 吉の妻は言った。  三畳に六畳、床の間もないような小さな家であった。 それでもあちらの寒い掘立小屋よりはいくら増しだかし             ひしやく       おけ れないと妻は思った。新しい柄杓、新しい桶、瀬戸でで      や かん きた釜、鍋、薬罐、そういうものをやがて親類の男は買                  いとこ ってきてくれた。その男は勇吉の母方の従弟㍗、近所の 士場に勤めているような人であった。妻はあの荒蕪地の 中からこういう処にきゅうにやってきたのを不思議に思                   ゆら わずにはいられなかった。「私、まだ体が揺いでいるよ うな気がして」二一二日経ってからも妻はこんなことを勇 吉に書った。 ************************************ ⊥ ■、 ************************************  勇吉は薦いた翌日がら、あちらこちらと活版所をさが   き して訊いて歩いた。しかし落ちついてかれの要求を聞い         皇れ てくれるような所は稀であった。勇吉の様子をジロジロ と見て、てんがら相手にしないようなところも何軒かあ った。「そうですな、今は年の暮が近いもんですがら、 忙しくってとても為引受はできませんな。春にでもなれ     ゆつく ぱ、また緩りご桐談をしてもようございますが…−・」あ る小さな活版屋の爺はこんなことを言って笑った。勇吉                        言 は気が気でなかった。がれは一軒から一軒へと熱心に訊 いてみて歩いた。  かれは活版屋をさがすだけにも≡二日をいたずらに費 さなければならなかった。ようやくさがしあてた処は、 場末の小さな活版所で、見積もあまり安くはないと思っ たけれど、ぐずぐずしていて機会を失ってはたいへんだ と思って、勇音はとにかくそこで印刷させることにし て、その翌日すぐ原稿を持っていった。  ひげ             かつどう  類の生えた四十恰野の主人は、勇古からその原稿の説 明を闘いて、「なるほど、ごれは岩もしろいもんだ。千 年酌でも千年後でも何日は何曜日だっていうことがちゃ んとわかるんですな、これは新案だ」などと書って、丸 いものを自分で廻してみたりした。 「博士の証明までついているんですな、これならたしが なもんだ」などと言った。「忙」いけれども、とにかく二 十日までにこしらえてあげましょう、千枚ですな……」 こう言ってちょっと途切れて、「それモ紙の色は何がい いでしよう」  勇吉は見本に出した小さな帳面をひっくりかえしてみ                       すう た。色の種類も少なくいい色もなかった。ふとかれの崇 卿 はい 拝している作家の短篇集の表紙に似た色がそこにあった のを見て、「これにしましょう、これにしましょう」と 早口に言った白「知っている絵がきがありますから、何 か沙し掲囲に意匠をさせましょうか。いくらもががりゃ しません。あまり燭囲に仰もなくってはさびしいですか らな、書斎の柱なんかにかけて粧飾にして着くもんだか ら・−…」深切な主人はこんなことを言ってくれた。原稿 を祷っていってからにわかに主人の態皮の変っていった のも勇吉には成功の第一のようにみえた。  博士の邸を本郷の高台に訪ねていった時には、怪しい            か             ほ 姿を玄関にいる大きな犬に噛みつくように吠えられて、    ろうぱい 水れは狼狽した。幸いに博士は在宅で、りっぱな庭に面 した大きな室で逢ってくれた。「それはいいですな、登 録すればいっそういいんだけども、まあ、誰も始めは糞 似るものもあるまい。少」売りだしてからにするほうが いいLなどと卦、目って、版権登録の予続などを教えてくれ      みやげ た。勇吉は土産に持っていったものを出すのが恥かしい ような気がした。  掃る時に、ようやく思いきって、「これはあっちで取れ たのでございますが、私がつくったんだとな章いいんで すけども…−そうじゃございませんけれども、せっかく 持って参ったんですから」       も めん  こう言って、木綿の汚れた風呂敷から新聞紙に包んだ       いんげん 一升足らずの自隠元豆をそこに出した。 「イヤ、これはあり成とう。いい豆ができるな、 り、あちらでは」  博士はにっこりしながら書った。 ************************************ やは ************************************  勇吉はただまごまごして暮した。印刷ができあがらな いうちは販路のほうにとりかかることもできないので、 しかたなしに職業のほうをあちこちで訊いてみたりなど            Lゆうせん した。路の通りにある職業周施のビヲのたくさんに張っ て出してある家の中にも入っていってみた。そこにはや はりかれと同じように職業を求める青年がいて、あるか なしの財布の中から五円札を一枚出Lたりしていた己勇 吉はいろいろなことを訊いてそこから帰ってきた凸  ある学佼友だちは、この前東京に出た時分には、早稲 円の学校に入って劇のほうに志していたが、このごろで はだいぷ文壇に名筒くなって、その人の書くものなど松 ときどき芝居に演ぜられたりなどしていた。一度そこを 訪問してみようと思った沸まア印刷ができあがってから と思って、途中まで行ったのを引かえして戻ってきた。 「千枚で五十三円、二十円ぐらいでできると思っていた のに…−だいぶの違いだ」こんなことを思って、かれは 歩きながら貯金を腹の中で勘定したりした。「二月、三 月はまアいいが、そうかといって、女房と子供をかかえ               そ ぱ て遊んでなんかいられない」かれは蕎麦屋にも入らずに、        うらだ査 餓えた腹を抱えて裏店の狭い自分の宅に帰ってきた。  印刷はどうもはかどらなかった。二十日でも、もう運 いと思っているのに、二十一日になっても、まだその暦 ぱやきてこなかった凸催促に行くと、「どうも廻すとこ ろがうまくいきませんモな」などと書って主人はその半 分できかかったものを持ってきてみせた。なるほどうま く廻らなかった。「もう少し厚い紙に」なけりゃだめだ」 などと言った。周囲の意匠はかなりによくできていた。    か 童 四季の花卉が四隅に小さく輪廓を取って書いてあった自         こしら 「明日までにはぜひ栴えてください。でないと困るんで すがら」こう強く頼んで、勇吉はそこから帰ってきた。                 はいえん イヤに曇った寒い日で、近所の工場の煤姻が低くあたり       老ぴ にむせるように魔いてきていた。  家に帰ると、妻は不愉快な心配そうな顔をして埜って いた。  突然、 「あなた、また來たよ」  勇吉はゾヅとした。「え? 来た?」  ようやく免れた危難にふたたび迫られてきたような戦 ************************************ トヨヨゴヨミ ************************************ 1 8 2 操を勇畜は覚えた。勇育は棒のようにそこに立っていた。 「やはり、だめですね」  妻は失望したように曽った。今から一時間ほど前、巡                       き 査担入ってきて、「海前は北海道から来たのか」と訊い た。「士別の近所にいたんだな」こう書ってつづいてい ろいろなことを訊いた。ωg雪犀の取敬を受けていた ということをちゃんと巡査は知っていた。イヤなことを いろいろ言ってまたそのうち主人のいる時来ると言って 矯つていった。 「どうしてもだめかね」  勇吉は黙って暗い顔をしていた。東京に行けばそのイ      のが ヤな監視を遁れることができると思って、それを唯一の                   そら定のみ 希望にしてきたのであった。しかしそれも空頼であった。         いじ こうした弱い者を酷める社会の残醗さが、Lみじみと痛 感されてきた。勇吉ほ恐ろしくなって体を霞わした。 「着飾のように気にしたってしかたがないじゃないか。 わるいこともしないのに、向うで勝手についてくるんだ からしがたがないじゃないか」  こうたしなめるように妻には雷って聞かせたけ托ど、 勇音は妻以上にその監視を恐れていた。これで出京の希 望が十の八九まで破れたようにさえ勇吉には思われた。  二一二日して刑事が訪ねてきた時はちょうど活版所から ************************************ できた暦を届けてよこしてくれたところであった。勇吉 鋤  ていわい は丁寧に刑事を座敷に通して、死刑に処せられた友だち           くお と自分との関係について諦しく話して聞水せた。しかし ジロジロと体を鐘すようにしてみる刑事の眼に出あって      ふる と書どき声を顔わせたりなどした。刑事は痩せた神経質 の男を勇昔に見た。勇吉の眼のわるく光るのも気味わる く刑事ぼ思った。何をするかわからない危険人物のよう に刑察の眼には映ってみえた。 「どうも、そうでしょうけれど−:−私のほうも役目です からな」  刑事はこんなことを書った。 「実際、ばかな話なんです。仕事をするにも、そんな風 に思われていると、非常に迷惑なんです。友だちの手紙 の中に私の名淡あったから、帳面に書かれてしまって、 こうやってどこまでもどこまでもっいてこられるんです が、その腹面がら名を消していただくわけにはいがない でしょうが。謁べるなら、いくら鋼べていただいてもい いんです。かえって望むところなんです。調べもしない で、ただ、跡をつけられるんですがら困るんです。鋼べ ていただきたいもんですがな」      ふる  勇吉は声を顛わして言った。 「どうもしかたがないんですよ」刑事竜さす添に気の簿 そうな顔をして突って言ったが、そこに積ん㍗ある印刷 物を見て、「何です、それは?」  勇吉はそれを一枚取って渡した。刑事はヤマダトコヨ ゴヨミなどと読んでいた。暦だということだけはわかる が、トコヨゴヨミとはどういう暦だか刑事はよくわから なかった。刑事は勇盲の顔をジロジロ見ていたが、「何 です、これは?」  勇吉は為前なぞにはわかるもんかというような顔をし て得意そうにそのし紅けを話して聞かせた。 「はアそうですか、これはなるほど若もしろいな」こん なことを言って大正三年の処をくるくる廻して、「これ で来年一年の七曜が出るんですな、これは宥もしろい」 刑事はこう一冒ってまた今年のところを廻してみた。 二っさしあげましょう」 「そうですか」と言ったが、「イヤ何アに、買いますよ」  勇吉がくれぐれも頼むと、「私は疑っても何もいやし ないですけれどもな、職務ですがらな、しかし長いうち には、だんだん様子を見て、帳面を消すことになってい るんですから…−・私のほうだって用の抄いほうがいいん          うちと だから」後には刑事も打解けてこんなことを言った。 ************************************ 七 ************************************  麿を五、六枚持って、市中の雑誌店や呵かを勇盲松廻 って歩いたのはもう年の暮も押詰った二十五六日であっ た。市中は賑かにはでな雄飾などをして、夜は電気が昼                 い せい のように街頭を照した。車や自動車が威勢よく通つてい つたりLた。  どこの雑誌店でも、相手にしないような家添多かっ た。しかけを説明してきかせても、容揚に飲みこめない ような人ばかりであった。「まア、なんなら三二枚置い ていってごらんなさい」こう言ってくれる家は申でも深 切ないいほうであった。ある店では、「暦はもう遅いで すよ。もうたいていどこの宅だって買ってしまいました からな−:・・もうちっと早ければ売りようもあったでしょ うけれども、こう押詰っちゃだめですよ」などと言っ た。勇吉はためしに置いてもらうくらい㍗満足しなけれ ばならなかった白  それでも百枚ほどは足を棒のようにして、あちらこち らの店に行って頼んで置いてもらった。本郷から小石 川、牛込、下谷、浅草のほうまで行った。矩日勇吉はへ     つか トヘトに労れて家に精ってきた。  二三目経ってから、置いてきた店を勇育は廻りに出か けていった。勇吉は非常に失望して帰ってきた。ほとん ど一軒も売れないといってもよいくらいモあった。どこ でも店の隅のほうに形式だけに置いてあった。「そこに あるから、見ていってください」などと言った。「売れ ませんなやはり、ゆっくり広告でもしなけりゃ、いくら よいものだって売れや」ませんよ」ある店ではこんなこ とを言われた。勇吉は都会の塵挨にまみれて暗い顔をし て帰ってきた。  荒蕪地で、薬売をやっていた時のほうがどんなによい かしれなかったなどと勇吉は思った。そこには広々した 天然があった。そこに住んでいる人も、都会に住んでい るような忙Lい冷淡な人間ではなかった、           5え          そ ぱ や  歩いている路にも、餓を刺戟する蕎麦屋、天ぷら墨な              音 れい どもなければ、性慾を刺戟する続麗なぴらしゃらする女                と ろう もなかった。勇吉は計画がまったく徒労になったような 気淋して秘っかりした。  刑事もその後たびたびやってきたという妻の諮やあっ た。どうかすると、夜などごっそり様子を見にくるもの もあるらしく勇青には思われた。職業のほうもさがす気 が出なくなってしまった。ωoo巨家という嫌疑がかかっ ているということが知れてはどこでもつかってくれる処 はありそうに思われなかった。望みをかけてきた小学教 員のほうはことにそうであった。教員になろうとするに                       つうちよう は、黙って隠して為いたところで、本籍からきっと通牒 ************************************ してくるに違いなかった。二度目に暦を持って博士をた 泌 ずねた時に、思いきってその話をすると、「困るねえ、 それば」どうかしてその嫌疑を解いてもらわなけれ ば、ほんとうに何にもやきやしないよ。困ったことにな っているんだねえ」こう博士は言って、やはり勇吉の体 Lゆうをさがすようにしてみた。にわかに博士の熊度が 変っていったように−そういう嫌疑を持っている人間 に邸に出入されては困るというように思っているらしく     じやすい 勇吉には邪推された。  勇昔はいても立ってもいられないような気がした。 「貯金はすぐなくなってしまう」。=…」  勇吉は絶えずこう思って、例の鉛筆で計算をやってみ たりした。        し め柾ぎo  正月松来た。注連飾などがみごとにできて賑やかな笑 声がそこここからきこえてきた。  しかし勇吉はじっとしてはいられなかった。正月の初                      に めにもっと家賃の安い家を別な方両にさがLて、遁げる ようにして移転していった。刑事の監視をのがれたいと                       ざつと5 いう腹もあった。できるならば、この都会の群集と雑沓     た{ との中に巧みにまぎれこんでしまいたいと思った。しか                      うち Lそれはやほり徒労であった。一週間と経たない中に刑                     ふる 事はそこにもやってきていた。勇育はわくわく震えた。 一兵卒の銃殺 ************************************  hくぼ                                          “や  薄暮はその爵けさと、初夏のころによく見る夕の霧               と“し             をぴ と、ところどころに輝き始めた灯と、そことなく駆きわ    ゆうげ   けむリ たった夕炊の姻とをもって、しだいにあたりに迫りつつ あった。大きな兵営のある町の通りでは、今しも門限に遅 れないように、あちらからもこちらからも兵士たちが急 いで歩いてくるのが見えた。向うの横町からも出てくれ ば、こちらの通りからもHてきた。急いで駈けていくも のもあれば、のんきそうに二人づれで呵か話しながら歩                 かり いてくるものもあった。列に離れた雁のように淋しそう に向う側をぽつりぽつり歩いてくるものなどもあった口 そういう人たちはすべて一日の日曜の外出をモきるだけ              うち 十分に楽しんできた。親類の家に行ったもの、活動写真       ついや 小屋に半日を費したもの、小料理屋に行って女を相手に ************************************ たわむ            し切あい 戯れてきたもた、知已も下宿もなく、そうかといって酒 を飲んだり芝居を見たりする趣味もないので、ひとり郊 外の蘇かなところで菓子などを食ってきたもの、昨日は                        はた からず若い女房が母親とやってきていて、町の小さな旅 、こ  や 籠屋で久しぶりで楽しく一日を送ったもの、すべて一週 間の激しい勤務と労苦とを忘れて、籠を離れた鳥のよう                     まちこが に、自由に快活に遊び廻ってきた。しかしその待焦れた 楽しい一週の一〔も過ぎた。これから六日はまた骨の折                  Lつせさ れる演習をしなければならない。上官の叱責も黙ってき かなければならない。朝も暗いうちに起きなければなら                       ほしよ5 ない。こんなことを思いながらかれらは皆急いで、歩哨 の立っている大きな営門へと近づいていった。  門の前でいちいち立ちどまって、敬礼して、手帳など を見せていった。  門の中には大きな建物と広い営庭とが見えた。営庭に      うろつ                           つらな はふらふら妨僅いている兵隊が三二見えた。横に長く連 っている兵舎にも、正面に見える兵舎にも、もうところ    あか切                           牡 どころ灯がついていた。夕の謂は静かに地上に這ってい た。  横町から出てきた二人の兵士は、 「どうだった、今日の外出は、もてたか」 「−…:…:」 ************************************ 285  一よミ考1θ)竈充至畏 [いやににこにこ笑っているな、持てたな」 「だめさ」 「何がだめなものか? 聞いたぞ、聞いたぞ」     童  {Lま 「それより賢様はどうだ?」 「俺か・…・・。俺なんか隠しゃしねえ。奴と三人で、これ      {−一わ を一と鼻を触ってみせて、「これをやってな。すっかり 負けちゃった」 「取られたんか?」  、 、 、 、 、 、 「すっからひんさ」 「どうだかし 「ほんとうだよ。隠しゃしねえぞ。しかたがねえ、今度    げん          ろうじよう の日曜は拳でも打って籠城さ」考えて、「あったら、少 し借せや」 「あるもんか、俺だって?」           うち 1貴様なんかいいや、家はいいし、金はどうでもなる       いいおんな                         かわせ し、ああいう情婦もあるしよ。金がなくなりゃ、為替で すぐ送ってくるじゃねえか」 「家だって、そうそうは送らねえや」         ちか一つ  ふと、営門の前に近いてきているのに気がついて、き                    唖しよう ゆうに話をやめて立ちどまって、型のごとく歩噌に敬礼 して、急いで門の中に入っていった。  続いて三人づれの初年兵が入っていき、そのあと水ら ************************************ 虫た一人入っていった。             緬                         2                    あわ  刻々ごとに門限の時刻は迫りっっあった。慌ててまた せh    こ へい                かけあし 背の高い古兵が一人、二人、三人まや駈足㍗走ってき て、急いで敬礼をして、門内にその姿を隠した。  しばらくは往来が絶えた。どこか工場で、汽笛の鳴る   胆 音が帆えるようにきこえた。また一人二人入ってきた。                       ら一。 しかしそれだけであとは絶えた。門限の時刻を報ずる螂 ば                    つんざ     oゆ5り上5          、ん 肌はやがて夕暮の空気を野いて、劇暁として、四辺に 鳴りわたった。 ************************************      二              ね   ようた ろう  その鳴りわたる門限の刺臥の音を要太郎はそこから五 町ほど手前で耳にした。しまった! と思ってかれは立 ちどまった。胸はにわがに強い鼓動を感じた。  さっき気がついて時計をポッケヅトから出してみた時 にも、門限の時刻のすでに迫りっっあるのを知った。慌 ててかれはそこから出てきた。かれは兵士たちのよく行  おLろい くH物を塗ったあやしい女のいる小料理屋の二階の奥に いた。「たいへんだ、たいへんだ、ぽやぼやしてるとま *えいそ5                     は       うわぎ         けん た営倉だ」こう当、白ってズボーを穿いたり上衣を着たり剣 たい  し 帯を緊めたりした。送って出てきただらしない風をした 女をも見ようともせずに、金を財布からじゃらじゃらと            5ろた 音させて出して、そして狼狽えてそこから出た。あたり にはもう兵士たちの姿は一人も見えなかった。さっきあ           ぷらつ                     ま れほどあちらこちらを妨僅いていた兵士たちはいっの間 にどこに行ったかと思われるほどであった。がれは駈足             ま で走った。女と戯れている間にいつとなく時間が緯った               な吉 ことなどを考えた。つづいて女の艶めかしい言葉や、白 い肌や、その時の状態や、そういうもの松、駈けている          よこぎ 間にも、かれの頭を横って通った。かと思うと、営倉に              へや       れんかん 入れられた時のガヲγとした室がそれに聯関して繰返さ                ごうし ど   おろ れた。寝台も何もない室、大きな格子戸の卸された室、 何もない冷い板敷の室、そこでかれはまた七日も十日も              あて              にぎOめL 暮さなければならないのか。宛がわれた冷めたい握飯を 食わなければならないのか。あの気難かしい意地悪な班      よヒびん 長や曹長に横費を張られなけ托ばならないのか。  …−かれは急いで走った。がれは左の手で、小さな剣 のブラブヲするのを押えながら走った。  ある町家の店にかかっている時計はもう時刻を過ぎて               あいだ いた。かと思うと、まだ二一二十分間のある時計の処もあ った。かれは走りながら自分の時計を出してみた。もう 五分しがない。それに、兵営まではまだ十五六町もあ る。                        や  あるところでは「なるようになれ」と思って、多少自 ************************************ け ぎ み               ゆる 暴気味で、小さく歩調を緩くして歩いた。班長などにも 反抗してやるような気分で歩いた。五分か十分、それが おく 後れたためばかりに、営倉に、一遇間も十日も入れられ               、 、 なければならないという情ないはめなどをも考えた。し 水し少し行った時には、やはりそうしてはいられなかっ た。やはり要太郎は駈けた。                      らつば  兵営茄見えるかと思うあたりに来ても、門限の螂肌が         い 彗 嗚らないで、ほっと呼吸をついて立ちどまったと同時に ぎわや               つんぎ   毒り 爽かに夕暮の空気を壁いて嗚わたったその音1 きゅう に閏された鉄の門! 「しまった!」かれは思わず立ちどまった。                阻5       もや  もう日は暮れていた。あたりほ荘と夕の講に包まれ      あかり て、兵舎の灯や町家の灯がぬれたようにぼんやりとがす んで見えた。突然、さっきあそこに自分が入っていくと ころを意地悪の班長にチヲと見がけられたことを思い だした。いっしょに行った同年兵が女にふられて自分よ り早く帰っていったことを思いだした。「だめだ、だめ だ1」こうかれは心の中に叫んだ。  じ だんだ                      しようそう  地団太踏んでも及ぱないような焦躁淡かれの全身を領 した。感清に強いかれ、意地に強いかれ、幼い時から強      もてあま 情で母親に持余されたがれ、そういうかれが底の底がら          苗つ 現われてきて、全身が赫とした。 ************************************ 287 一兵卒の銃殺  入営した一年はかれは非常に評判がわるがった。営倉                      甘つとうざい に入ったのも一度や二度ではな水った。ある時は窃盗罪  ぎ               し ぷつぱこ に擬せられて、自分の私物箱や寝台を調べられたり、丸 操にされて調べられたりした。紛失した物品が自分の寝                  ぷ       け 台の下から出た時には、班長や上等兵に打ったり蹴られ たりした。それが去年戦争に行ってがら、だいぶそうし      かいふく た不名誉を恢復してきた、戦場ではが札は勇敢な一兵卒            せつこう として誰にも認められた。斥候に出かけた時には、敵の 騎兵の追跡に逢って、林にがくれたり、池の中に半身を つ 浸けてその目を避けたりして、その重要な任務を果し た。 「貴様は、このごろはよくなったぞ。その意気を忘れて はならん。帝国の名誉ある軍人ということを第一に念頭 に置かなけりゃいがんぞ」こんなことを言って中隊長か  喧 ら褒められたこともあった。その褒められたり信用され                     うあつ たりしてきたことが、自分には不徹底な浅薄な上つらな 観嚢としか見えなかったけれども、それでもかれにとっ ては、評判のわるいのよりもいいほうがよかった。それ に、第一、国のほうで安心した。父母もその操行の改ま ったのを手紙で菩んでよこしたりした。この間母親が逢 いにきた時にも、ほくほく喜ん㍗いったことなどを要太 郎は思いだした。 ************************************  遅刻、営倉、そんなことは、考えようによっては、よ 郷 くありがちのことで、章となしくその卸裁を受けさえす れば、何でもないということは一方にはわかっている 添、しかし要太郎にはそういう風に考えることはできな かった。自分の生活、ようやく恢復しかけた坐活、それ がまた今度の専件ですっかりまったく破壊されてしまっ たようにかれには思われた。どうしてもこのまま婦って はいけないという気分添強い力でかれを圧迫した。                 さく  気がつくと、要太郎はいっか兵営の柵の側近く来てい                     よ   なまちたた た。もうすっ水り夜だ。それは星のない曇った夜で生湿 がい人をいらいらさせるような空気があたりに満ちてい         お                 匝こり た。ぽやけた夜風が圧すように石愉快に塵挨を吹いた。    七ろ  皆な揃って食軍ももう終ったころだ。こう思って水れ                珍かo は兵営の窓ごとに明るくついている灯を仰いだ。あたり はしんとしている。歩哨が黙ってあちこち歩いているの     すか が閣の夜を透して見える。一歩二歩、近づいてみたが、 がれはまた引返した。  特務らしい男が一人、剣をがちゃがちゃさせて、門か                     オす ら出てきた。歩哨が敏礼をしているのがそれと徴かに見 えた。要太郎はそれを見ると、さながら重い罪人でもあ       あわ            に るかのように、慌ててそこから遁げだした。      三              但とり  一時間後には、要太郎は川の畔に来て、ぼんやりして 立っていた。                      うお宮  今時分は隊ではもう自分について、いろいろな噂をし            あ由 ているに相違ない。あの搬ら顔の意地悪の班長は、傳意 そうに、自分のあの料理農に入ったことを週番士官や伸 間に報告しているだろう。あの同年兵は女にもてなかっ  うら与*ひ ぼ5 章ざんぷ                           ののし た恨を誹諺と謹誕とに托して、あしざまに自分を罵って いるであろう。勝手なことを誇張して言って自分の罪を 重くしようとしているだろう。同班の肥ったあいつは、           いや  せ じ しかつめらしく、あの厭な世辞笑いをして、班長の機嫌                      しやべ を取るべくあることないこと自分のことについて饒舌っ ているだろう。こう思うと、その一室のさまがありあり        ずつ と見える。二つ宛並べた寝台、その上の棚に置いてある 手廻りのものを入れる箱、中央の大机、整頓を入れた つづみ       か 包、廓下の架に立ててある銃、それにぴがぴかと輝いて             しつ    ドア 反射する電燈、っづいてその室がら扉を抹してずっと長  けしご い階悌を下りていくところにある中隊長のいる室、週番          テーヲル 士官のいる室、長い卓、そこに班長や週番下士が立っ ていて自分の話をしている。むろん、自分の箱や衣類は すっがり捜されたに相違ない。あの女から来た手紙もす ************************************ っかり見られたに相違ない。ここまで思って、ふとかれ     つ                        かわせ は吐息を吐いた口そうだ、たしかにあの為督の巻きこん であった蚊の手紙が入っているはずだ。あの為替はもう とうに郵便局で受取った。が奴め、三二旦舳から来たは ずの手紙が来ない、来ないと言っていた。それなのに、 そこからその手紙が出る。自分のやったことが知れる。 もう知れているに相違ない口 「ばかな、ドジな翼似をしたもんだ」こう自分で口に出 して言ったが、もう追いつかなかった。  かれはかれと兵常との距離が非常に遼くなったのを感 じた。もうどうしても帰れない、そこに帰っては行けな い。こう思うと、かれはぐったりした。  何もかも完全に破壊されたような気がした。続いて今 日の日、こうした運命になる最初の一歩を歩きだした今     のろ 口の日を呪いたくなった。それというのも財布に、あの 為督の金があったためだった。要太郎は朝街と元気よく 兵営の門を出ていったことを思いだした。金があるの で、大手を振って、かれは町から町を歩いた。ある逮い      うら 親類になる家を訪問した。そこにがれより四つほど年下 の丸ぽちゃな娘松いた。それにからかったり何かして、 ひるめし                         ピー札 午飯をご馳走になって、一本飲んだ麦酒に酔ってそこを               きんのう      をん 出た。また町を歩いた。ちょうど山王の祭か何かで、軒 ************************************ 28g 一呉卒の銃殺        ちよ5ちん には美しく並んで提灯が下っていた。それがら活動小屋         * をちょっと醜いた。ジゴマ水何かをしていた。儀にもあ あいうことができないことはない。すればいくらでもで きる。こんなことをかれは考えて、それのすむまでそこ で見ていた。で、一時間ほどして、そこを出ようとする                       阻つつ と、ばったりその同年兵に逢った。また二人で町を妨催 き歩いた。そしていっ入るともなく、その横町に入って しまった。あの時、あっちに入る気にならなければよか ったのだ。奴さえ誘わなけりゃあそこに入る気にもなら                   のろ なかったのだ。こう思うと、その同年兵が呪われた。あ   め いつ蚊今は俺のことを何のかのと言って、班長や下士ど もに着べっがをつかっているのだろう。  あいっの顔が…・えへらえへら笑っていやがるあいつ の顔が。女にからかってまずい唄をうたって、そのあげ く、女にふられやがったあいつの顔が。  ふと妻た、「なぜあの時ぐんぐん兵営の門の中に入っ                      し伊んじ晦ん ていがなかったろう」と思って、がれはその時の謹巡  ちゆうちよ   亡うかい と購踏とを後悔した。あの時なら、まだ、入っていけた のであった。いや、あの特務の出てきた時でも入ってい けたのだ。な娃あの時に入っていがなかった? こう思          むL           しようそう  こんしん ったかれは頭の毛を姥りたいような焦躁を潭身に感じ た。 ************************************         ひよ5ふう  雑然として回想が贈風のようにかれの頭の申をかき廻 珊    おき                     芭ようと5   し だん した。種ない時分からのわるい癖、郷党から指弾され冷    だ がいし 笑され塵外視されたような自分の生活、自分のことにつ いて怒ったり泣いたり恥を忍んだりした父母の顔、どう して自分はそういう生活をしなければならなかったか、 自分添わるいのか、それとも自分を生んだ親がわるいの か。それともまた自分をとり巻いた周囲のもの私わるい のか。それともまたそういう運命のもとに生きなければ ならない自分なのが。  ・…−とにがく、今はもうだめだ。今はどうしても兵営 に帰っていくことはできない。よしまたしいて帰ってい         ちようぱつれい ったにしても、あの懲罰令の規定のもとに厳重な所罰を 受けなけ牝ばならない。  がれはじっと闇を見つめた。  すぐ下に大きな川が流れていた。それはかなりに広い 帽で、閣の中にも水の黒く尤って流れているのがわかっ             カす一か た。対岸の土手などもそれと微に見えた。自分の下には、 あし    すすき 匿だの薄だのの新芽の繁っているのがあって、その向う  ともしび                                ろ に灯の小さくついた船担静かに通っていっていた。櫓                かざ をあさっている船頭の影が黒く閣を劃って動いた。ギー  かじ と舵の鳴る音がした。                 ちようちん  ふとかれのいるすぐ上の土手の路を提灯をつけて誰か 二三人で通っていく気勢がした。水れははっとした。中 隊の者でも探しに来たのではないかと思って、体を小さ        うずくま くして草の上に簿曙るようにした。話声は自分のすぐ上  かす を掠めて通ったが、そういう兵士添そこにいるなどとは 気がっがずにそのまま通っていってしまった。  しぱし経った。かれはぽんやりしていた。今までいろ いろな雑念が起ってきたとは反対に、今度は落ちつきす ぎるくらいに冷静になっている自分を要太郎は発見し た。それはこれまでにもたびたびがれの経験した心の状             左ん 態であった。「この子はまア何ツてずぶといんだか。お               おさを              あ音 っかねえような子だ」こう言って稚いころから母親は呆                       くそ れた。戦地に行った時でも、いざというと、がれは糞落             ひん ちつきに落ちっいた。危難に瀕した時とか、大事に臨ん だ時とが、そういう時には水れはいつ㍗もそうしたわる く落ちついた冷静な心持になった。  がれの前には、兵営の狭苦しい窮屈な生活とは違っ           よこた て、自由な、広い天地が横わっていた。かれは脱営兵に ついてのいろいろな話を思い浮べた。十人のうち、九人 までは、どこかで探しだされてつがまえられるが、その      たくみ に 申の一人は巧に遁げ終らせることができたもの淀という 話を氷れほ聞いたこと払ある。現に、長い間その逃跡を ξらま 晦していたものから直接にその話を聞いたこともある。 ************************************ その一人になりえないはずはない。どこか遠くに行く。             杜て 知人などの一人もいない緯の果とか山の奥とかいうとこ ろに行く。そして二一年働いて暮す。どこに行ったツ て、食っていられないことはない。こう思うと、罪悪を        いん。へい 犯して巧にそれを隠蔽している人たちの心持などが想像 されてきた。  ともしぴ  灯のついた河舟がまた一つかれの前を動いて通って いった。 ************************************ 四 ************************************  通に面した田舎の三等郵便局の一室がかれの眼の前に             すそ 浮んだ。それはちょうど山の縄のような処になっている       わ 町で、温泉が湧きだしていて、古い二階造の家々には、   お や宮                     君ん。ばん 湿泉御宿とか、御楢とか書いた招牌が古くなってかかっ      *すいα ていた。山の翠徴はすぐその町の前がら起って、雲は絶 えずそれにかかった。それに、そこには大きな山脈をこ ちらから向うに通っていくような街道が町を横断してい るので、荷車だの運送車だの乗合馬車だの車だのが絶え ず音を立てて通った。十月になると、山また山の奥は雪 で、その月の末はもう屋根の上がいっも真白になった。       どろみち                         わだち 半ば雪の解けた泥簿の中に深く喰いこんだ二条の車の轍                ガラス吐ξ の跡、向うの家の屋根を越して黄く硝子窓にさしこんで ************************************ 易一1 一兵卒の銃殺      もの惟しざお                       言もの  た び くる夕日、物干緯に並べてがけられてある衣服や足袋、              やかま 深く雪の積った鞠にチャチャと喧しく軒下に集る雀、そ            おみゆ ういう時には、湯のもとの大湯からは、白い湯気淡ぱっ  あ。か と踏って、それが遼く二里も三里も下の山の路がらも指 きされた。                     かまえ  通りに面した三等郵便局のペソキ塗の大きな構、それ はもう今は古くなって目に立たなくなっているけれど も、それの始めてできた時は、それはりっぱなものであ      まぱゆ った。腿も眩いほどであった。「まア、りっぱだな、分署 よりゃりっぱだ」などと町では皆評判した。青いぺ/キ 塗は、日に光って、鋼版画でも見るようであった。それ        宅なやつつ はちょうどかれが七八歳のころで、かれをこの上なく愛 した老祖時が麦だその時分には達者で生きていた。父の             しらが 顔ももっと若々しかった。白髪なども生えていなかっ          テーゴ北         と た口父が通りに面した卓㍗事務を執っているそばで、 かれはよくその手にぶら下ったり膝に抱かれたりした。  三人の孫の中で一番かれを愛した老祖母の顔は、今で もその飾にあるようにはっ萎りと思いだされた。良工が     芭ざ 苦心して刻んでも、ああはできまいと思われるような慈   こも                      しわ 愛の寵った深い複雑した顔の駿、笑うとやさしく出る えくぽ 腐、「よし、よし、泣くんじゃねえぞ。それくれべ」な           せんへい どと言って老祖母はよく煎餅などをくれた。 ************************************  何でもかれの記憶㍗は、がれは毎朝床から起される 羽                          2 と、す㌶籔の老祖母に負われたらしがった。長く軒に璽 下った氷桂、軒下を子供の群ってすべって遊んでいる穿 り                      い き 穣、はアとつく人の白い呼吸、遠くに白くぴがぴかする            ももさえずo 山の雪、寒い朝の軒の雀の百鶴、手拭を下げて大湯に 出がけていく滞客のどてら姿、そういうものの最初の印 象を、がればすべてその老祖母の薄中水ら得た。「そら 見ろよ、チュウチュウがたんといたべ」こんなことを言 って老祖母は背に負ったかれに指し示した。  ある日、かれはやはりその老祖母の背中の上で、今ま            にぎヤ で聞いたことのないような賑かな音楽の音を醐いた。か れは負われた老祖母の肩のところから小さい首を出し て、延び上って、それを見ようとした。「今、来る㍗、 見せてやるで、右となしくしてろや」こう老祝母は言っ                 はやし て、だんだん近くなってくる賑やかな灘のほうへ近寄っ ていった。何やもそれは秋の午後であった。黄ぱんだ目 が一面に人家の並んだ街道にさしこんできていた。それ                 かせ は男と女と隊を組んで、旅から旅へと稼いで歩いている ような人の群で、頭に載せた番台のとには、小さな旗       在ぴ が、ピラビヲと駆き、三昧練を弾いた女の顔には、とこ  “     主だ    泰しろい                       *げつきん ろところ斑らに白粉がついていた。一人の女は月琴、一               ひよ5きん 水つζう 人の女は三味線、男は着もしろい瓢軽な恰好をして、丸 い太鼓を打って唄をうたって歩いた。子供たちは人勢そ       ぜに          らめ こに集って、銭を出して、飴とその小さな旗とを喜んで 買った。かれもその小旗疹欲しかった。老檀母がなだめ   すか ても簾しても、その小旗を予にしないまでは一、胃うことを 聞かなかったことをかれは今でも為り宥り思い起した。                       な  その老祖母のいるうちは、かれはただ愛せられ、撫で             うち られ、甘やかされて育った。家はそうたいして財産があ るというほうではないが、それでもその老祖母のっれあ                      あくせく いの祖父が一生懸命に家道に熱中したの㍗、そう灘齪し なくっても楽に生活することができていた。郵便燭の尾 崎さんといえば、郡内でも誰知らぬ者はないくらいであ った。父は隣村から来た養子モ、したがって母親と老祖 母とに権力があって、右婆さんの前では、父は首が上ら         おさ左ごころ なかったのをかれは稚心にも覚えていた。がれには一 人の兄と一人の妹とが診った。兄とがれとは物心のっい た時分から仲がわるがった。それはどうしたわけがわが らないが、老祖母に自分が一人可愛がられたことなど も、その一つの原因をなしているのであろうとかれは思 った。  老祖母の死んだのは、かれの十一の時であった。雪の ふる日で、学枚で授業を受けていると、先生ががれのそ ばに寄っていって、「内から迎えが来たから、すぐ着帰 ************************************                       じい り」という。何事かと思って外に出てみると、近所の爺 が学枚の下駄箱のところで待っていた。「ご隠居さま、                つ 加減がわりいで」こう言ってかれを伴れていった。  帰っていった時には、もう老祖母は死んでしまってい た。二一二日前から、加滅がわるいにはわるかったが、そ うきゅうに死んでいこうとは家の人もかれも思わながっ た。しかしかれは死ということをまだよく知っていなか った。かれは涙もこぽさなかった。葬式をして穴に埋め てしまってがらでも、かれは幾日かしたらまたあの着婆 さん松来て、「坊ヤ、可愛い坊ヤ」と言うだろうと思っ た。かれは今でもその老祖母のことを老り為り思い浮べ         ほとり た。現にさっき河の畔までやってくる時にも、がれはそ の老栂慨の顔を眼の前に浮べた。  その老祖母の墓は、町から山路を五六町登っていった 大きな寺の墓地の巾にあった。歴代の尾崎家の墓地の申                ぼつとう に! 一生財産をっくることにのみ没頭して死んでいっ た老檀父の墓の隣りに…−・。  今時分はきっとあの山の上の栗の花が咲いているだろ う。その時々につれて、かれはそんなことを思った。                     さくぱく  しかしその老担母の死んだ後のかれの記憶は索莫たる ものであった。幼いころは身体が弱く、頭ばかり大きか      幸唯 てい                    いじ ったので、「布袋、布袋」と言って、兄に酷められた。 ************************************ 理3一兵卒の銃殺       hたずら 町でも宥名な悪戯な兄は、父母の餉では、やさしいこと を言っていて、陰ではよくかれをひどい目に逢わせた。 母に言っても、母はそんなことに取りあっているような 女モはなかった。父は兄を愛していたので、「弟のくせ に何だ」と言ってすぐ反対に叱られた。  老栂母が死んでからは、かれ旭一人でさびしく寝なけ               ひキめし ればならなかった。飯もいつも冷飯ぱかりを食わせられ た。十三四歳のころは黙ってむっつりしているような児 であった。そして臨をつくことと物を盗むこととをその ころから覚えた。  老祖母の生きているうちにも、そういう経験は一度あ         走んす一 った。八国貿の間に蟹笥がある。そこには餉に縁側があっ       ひあたり て、南向きの日当よく、冬でも障子を開けて着いていい くらいに暖かであった。がれはそこでよく遊んでいた。           ぜに ところがその箪筒には鐵がしまってあったのであった、 老祖母はときどきそこを明けてジャラジャラと音をさせ      かんじよら ながら銭の勘定をした、それをたぴたび見ているので、                    ま かれはある時そこが明いているちょっとの間をねらっ て、銭を五銭か六銭かつかみだした、がきゅうに老祖母 は入ってきた。かれは見られて顔を真赤にした。しかし 老栂母は別に叱りもしなかった。「銭が欲しいけ。− な ア欲しけりゃ言えやな。いくらモもやるで、着婆さん金 ************************************                 こ 一ζと 持だでレなどと笑った。その言葉が小曽を言われた以上 秘 に身に染みたとみえて、かれは今でもそれを思いだし た。  どうしてがれの経てきたような心と体の壇遇に置がれ たかといふことは、かれ自身にもわからなかった。かれ の家は物に困っている家ではない。食うものでも使う物              水 ね   い でも何でもあり余っている。金銭が入れぱ抽親も父親も 平気で出してくれる。それに、家庭という上からいって              だんらん も、どちらかといえば、円満で団簗的で、町でも数えら れるいい家庭をなしていた。かれの十四五の時、父親が 町の芸者にはまって、洒に酔ったり金を使ったりしたこ とはあったが、それも讃子の身分なので、万事がこっそ りと内緒で、泊って家を明けるようなことはついぞなか つた。どうかすると、朝から母親が赤い神経性の顔をし て父親に喰ってかかっていることなどもおり毒りはあっ たけれど、いつも父親のほうが下手に出て、大きな沖を 立てることはな水った。そういう穏かなる円満な家慶に お阯た 生立ちながら、どうしてかればかりが統一を失った感憎 的な強情な反抗的な性質を養成したであろうか。        ちかづ  かれが成年期に近いたころには、町でのかれの評判は さんざんなものやあった。郵便局の次男息子、こう書っ               、 、 て誰も彼も曹を向けた。「えらいわるができたもんだ。 今にあ牝やどんなことをするかわからねえ」こういう町 の人の定評であった。掌校は十一ぐらいまやはよくでき た淡、たいてい三四番のところを下らないくらいの成績 であったが、十三二からはぐっとわるくなって、落第も 二度ほどするし、卒業する時にも、最後から二番目とい う最もわるい成績であった。それでもかれは別に自省す るというような風もなかった。わきを向いて、黙って、 執念深く、皮肉な表情をしていた。 ************************************ 五 ************************************  他人がどうしてこう自分にばかり辛く意地悪く当るの かわからないというような気がいっでもしていた。なぜ この自分がわるいんだろう。また自分のやることはなぜ そうわるく他人にみえるのだろう。他人も自分自分で勝 手なことをしている。自分の好きなことをしている。そ れでいて、なぜ自分が自分の好きなことをしているのを    とが 他人は智めるのだろう。右世辞重言っていればいいのか         曲れ                 へつらい     や しれない淡それが已にはできぬ。あの醜い詔諌、あの野 ひ   げもの                      湘れ 卑な獣のような笑顔、あんなことは已にはできぬ。陰や              おれ は人はわるいことをしている。已のやったことなどより も数等わるいことをしている。ただ、かれらはそれをう まくやっているぱかりである。人に知れないようにやっ ************************************ ているばかりである。こう思うと、かれはいっでも他人 の渚先にっかわれて、正面に立たせられて、それで汚名 を買っていることを考えた。  ある時、かれは金を持ちだして、家出をしたことがあ った。それはかれが十八の冬であった。かれはもう町と    おじ上く 周囲の汚辱と圧迫とに堪えられなかった。街上で逢う誰 の顔にも、自分の悪名がはっきりと書かれているような 気がした。面と向って何も言わないでも、向うから来る 奴が自分に向って何を言おうとしているのがはっきりと かれにはわかった。それほどかれは神経過敏になってい                ひ雪芒も た。そうかといって、家にばかり引寵ってもいられな い。その狭苦しさと窮屈さと退屈とに堪えられない。神 経性らしいいらいらした母親の顔も気にかかる。黙って のんきそうに煙革をふからふからふかしている父親の顔  しやく さお も績に触る。友だちという友だちは誰も彼もかれを一種 冷やかな眼で見る。がれはとてもこんな狭いところには いられないような気松した。かれはある夜かねて知って     たんす           こしら いる奥の璽笥の鍵を別に推えて宥いた合鍵で明けて、金 を百円ほど持ちだして、そしてまだ夜の明けないころに、 こっそりと裏からぬけだして、雪の積っている上をさく さくと踏んで歩いて、そして街道のほうへと出た、  一里、二里ほど行って夜が明けた。振返ると、国境を ************************************ 羽5 一兵卒の銃殺 歩き 劃った大きな山脈の雪が美しくきらきらと日に光った。       お                    かたま 自分の生れて生いたった町が山裾に黒く固っているのが    かす                       あ。か それと微かに見える。大湯の湯の白く蜷っているのもそ れと指さされる。かれはきゅうに悲しくなった。ひとり でこうして雪を踏んで、誰も如る人もない底“世閑に出                   しつ由 ていくのが−故郷にもいられず、父母の膝下にもおら 托ず、人に見放され、またみずから見放して、こうして 知らない世間に山ていくのが、たまらなく悲しかった。 一方でぱまたそういう境遇にこの身を置かれるようにし た町の人々を呪い、一方ではそういう弱い心と感情とを       むちう 持った自分を鞭ちながらも、たまらなく悲しさが込み上 げてきて、オイオイ声を挙げて泣きながら歩いた。  蟹笥をこし明けて中から金を持ちだしてきた自分の行                ぷつつか 為も悲しければ、黙って皮肉に人に打架っていった自分 の心持も悲しかった。「俺には、こんなにやさしい美し い弱い心持があるのだ。町の奴らの持っている心より        童よ も、もっともっと浄いやさしい素直な心持があるのだ。 それが誰にもわからない。誰も知ってくれない。生みの 父母すらも知ってくれない。知ってくれたのは、ただ拾 婆さんばかりだ。その着婆さんは、もう墓の下にいるの だ」こう思ったかれはます凌す声を立ててオイオイ泣き ながら歩いた。 ************************************ 「衛のこの美しい心、やさしい心、故郷を別れるにっい 賄                         2 てもこうして泣いていく心、その心をなぜ他人は知って            く くれないのか。なぜ父母は汲んでそれを餐成してくれな いのか。俺がわるいのか。それを普通の人のように表面 に出さない俺がわりいのか。いや、いや、そうじゃない、          音ようだい そうじゃない、父母も同胞も親類も友だちも学校の先生 も、俺にそういう心持を起させないように、ようにと仕 向けた。俺担わるいんじゃない・−…」大きな涙はぼろぼ         たい世つ ろと、積って氷った堆雪の上に落ちた。           こ5口よう  鋭い明方の寒気は広い荒涼とした雪の高原に満ちた。 あたりにはまだ人の影は見えなかった。早立の車も罵車 もやってこなかった。かれぱ思うさま泣きながら歩い                     すさま た。かれの飾には、大きな高原を隔てて、高い凄じい山 が真白に雪に包まれて、にょきにょきと並んで立ってい た。今、始めてその形を現わし始めたばかりの朝日は、   去ぱ担ちしお         み珪ぎ 赤い瞳い血汐のような光をあたりに澁らせて、黒い小さ な点のようになって歩いていくかれの姿を照した。  あまりに泣いたので、がれは朝日を正面に見ることも できなかった。 ************************************    六              よ与がえ こういう記憶がおり翁りかれに蘇った。それはかれ が十六の時であった。その原因はそ牝ほもうとうに忘れ ている。どういうことであれほどまモにいきり立った か、またあれほどまでに抵抗する気になったか、それは わからない。  兄はその時M市の中学枚に行っていた。兄はよくでき た。学校の成績もよければ、品行も正しいという評判で あった。弟のわるいということが兄のいいということを いっそう色濃くした。兄は制服制帽モ有望な少年のよう な顔をして、夏や冬の休暇には、得意そうにして帰って きた。町の娘たちも「正男さん、正男さん」と言って兄  まわり の周囲に大勢集ってきた。                       つコざお  何でも夏の休暇中であった。場所は裏の広場で、釣竿       ちら などがあたりに散ぱっていたという記憶から考えると、       つ り 例の裏の川へ釣魚にでも行った帰りかとも思われる。  その原因は忘れたが、何でもかれがひどく兄から圧迫 されていたことは覚えている。ひどくばがにされていた ことも覚えている。がれは始めはいっものように暗く笑 ってにやにやしていた。どちらかといえば、押えっけら れて小さくなっていた。  きゅうにもうたまらなくなったというように、かれは   む しやぷ 兄に浅者振りっいた。  を 「何にツ!」 ************************************                 むをぐら          づか  こう叫んで、そこに立っている兄の胸倉をいきなり擾               けんまく  の んだ。その時はさす淡に兄も弟の権幕に呑まれたとみえ て、ぐっと押されて倒れそうになった。兄は水れに比べ   ぜい て、背も大きく、体も肥っていた。どちらかというと、 父親似である。年も三つ運いの十九だ。 「何しやがる?」          壮んこつ  兄は押されながら拳骨でかれの頭を二り三っなぐっ                   カぶ た。しかしかれはその時はもう平生の猫を被った狼やは        戸うもう        あら なかった。かれは解猛な本性を露わしたもののように、 いきなり兄の腕に済物の上からかじりついた。「痛い!」 こう叫んだ兄は、それを放そうとしてな若弟の頭をポカ       ひつ                            ころ ポカ打った。引かく、かLりつく、打つ、起きつ、転げ っしているのを遼くで見ていた妹は、泣きながら駆けて いってそれを母親に知らせた。驚いて母も出てきた。父 も出てきた。  それでもかれは容場に兄にかじりっいた手を離さなか った。兄の顔から濃い血がだらだらと流れ落ちた。                て むか 「こら! 要、何しやがる。兄に手向いする奴がある か」縁側から飛ん㍗下りてきた父と母とは、一生懸命に                 、、        しゆ5 なって二人を引離そうとした。しかしだにのように執ね  {い く食ついたかれは容易にその手を離さなかった。  むりに離されたかれは、今度は父と母とに向って食っ ************************************ 型7 一兵卒の銃殺 てかかった。眼は血定り、体は震え、歯をくいしぱっ              かか て、誰彼の見さかいもなく飛び蒐っていったかれは、さ ながら狂人か儘獣のようであった。父と母とに押伏せら れて、自分がわるいもののようにポカポカ顕を打たれた       { や 時には、かれは口惜しがって身もだえして声を挙げて泣 いた。 1この子は兄ば水りか、親にまで手向いするのか」  こう母親は叫んだ。  オイオイ声をあげてかれは泣いた。この世がつきてし                     あつ まったかと思われるような大きな悲哀がかれを圧した。 めったに声を立てて泣いたζとのないかれであるが、そ の時ばかりは、押えても押えても、その悲哀があとから あとへと胸にこみ上げてくるので、日の当った白壁の前 に立って、いっまでもいつまでもオイオイ泣いていた。 ************************************ 七 ************************************  情事を始めて知ったのは、かれがまだ家出をしない前 であるから、たしか十七ぐらいの時であったろうと思う。  かれの故郷は、湿泉があり、湿泉宿があり、それにまじ             じよろ5や って、街道に面して、宏大な女郎屋が何軒もあるので、                  いんわい 町の空気としては、どちらかといえば淫撰に傾いてい                     よ た。女郎がだらしない風をして、二階の欄干に党って通 ************************************ りを見下していることなどはけっしてめずらしいことで 秘 はなかった。それに芸者も二三十人はいたし、ところど ころにある小料理屋には、そごにもここにも色の白い酌               左甘 婦が人勢置いてあった。男と女と艶めかしい風をして並                 おい        そで んで通りを歩いていたり、男のあとを追かけて女が紬を 引張っていたりするさまを、かれはたびたび見かけた。 その時分はまだ汽車がやきない時分なので、こちらから                  みん 向うへ大きな山脈を越えていく旅客は皆なここを通っ                   わらじ て、一夜を湿泉に過すのを例としていた。草鮭がけの旅                     つ 客、車に乗っていく洋服姿の紳士、いっしょに伴れた若                      らつば い細君、着りおりは乗合馬車が客を集めるための螂吹を けたたましく鵬らして折れ曲ってやや坂になっている町 をガタガタ通っていった。大きな湿泉宿のある用のとこ      *たて、ほ ろには、伸の立場があって、元気のいい車夫が六人も七 人も寄り集まって客を待っていた。「ばか言うなえ? 六貫で山越しをして、それで飯が食える水え?」こう働 めてついていった旅客を離れてきて、単夫は大きな声で 皇一菖つた。  夜の町の賑かさ! どこの女郎屋にも客が上って、き ゃっきゃっと女の騒ぐ声が手に取るようにきこえて、三    つ、っみ               やけ 昧線と鼓と松いたるとごろで自暴に鳴った。着酌の小さ な姿の踊っているのがはっきりと明るく障子に映って見 えたりした。と思うと、や添てその騒ぎはぱったりと誰 まって、あとはしんと静かになる。手を叩く音などがす                     ね る。どこか遠くでまだ騒いでいる鼓や三味線の音がきこ える。  その賑や水な町の通りを、白く宥っくりした顔をはっ          つま きりと闇に見せて、棲を取って、急いで右座敷へ出かけ ていく芸者などをもかれはよく見かけた。  それ以前にも、かれは父親の関係した芸者というのを 見たことがあった。それは何でも十四五のころであっ た。かれは不思議な気淋した。世の中の人の言うことは 当てにならないという気がした。かれの眼には父親はも うかなりの年輩であった。為爺さんというほどではない が、ひとかどの年寄のようにかれには思われていた。そ れがそうした若い二十二一の女に関係するということ は、ありようはずがないように思えた。此間の人たちは いい加減なことを言っているのだと思った。その芸者と                 あいきよう                        、 いうのは、丸顔の、色の白い、ちょっと愛矯のある女で          こうじ そういう女のいる細い巷路の中に住んでいたが、世間の                 じ まえ 評判では、何でも父親が金を出して、自前にしてやった ということであった。兄は二一度その家に行ったといっ て、よく自慢していた。            音 れい                つ崔  どうかすると、その女が締麗に拒つくりをして、棲を ************************************ 取って、為座敷に出かけていくところにでっくわすこと などもあった、そういう時には、がねて知っているとみ えて、女はいやにじろじろと要太郎のほうを見た。にこ にこと笑って通りすがっていったりした。それが、その 緯麗な若い女が、自分の姉のようにしてもいいような女 が、父親と関係している女だとはどうしても思われなか った。でもどうもそれがほんとうらしいということは為 り拒りがれの眼から耳に触れた。母親が機嫌のわるい時     ご みつ にいう「小光」という名は、その芸者の名であった。       だま 「小光なんがに覇されていて、ほんとうにしようがねえ」 こんなことを母親の言うのを要太郎はよく耳にした。  かれは時には、不思議だ、めずらしいことだという感          い す じを抱いて、父親が椅子に腰をかけて、助手と相向いあ って、のんきな顔をして、郵便事務を取扱っているのを むっと見つめていることなどもあった。どこをさがして も、そういうところはない。そういう感じのするところ           と。か はない。ヤヤ浅黒い顔、尖り加減の鼻、どんよりとした 眼、ところどころに白髪のまじっている頭、もじゃもじ   つくろ                             殺 やと繕わない髪・…・・。下思議だとかれは思った。   銃          おさ在                    の  しかしそういう風に稚かったかれも、一年二年経った 卒                          兵 後には、そういう方面の知識にかけて驚くべき長足の進 一 歩をしていた。かれに最初に情事を教えたのは、自分の 珊            じよろうや 家とは二一二町隔った大きな女郎屋にその時分いた、かれ よりも三つ四つ年上の女郎であったが、その翌年には、                 ただよ かれはすでにかなりに深い情海の波に漂っている自分を                つ 発見せずにはいられなかった。最初伴れていったのは、   わ由いしゆ 町で若衆になったばかりの、かれよりは年上の友だちで あった疹、その後は、かれは自分一人でこっそりと裏か らわからないように入っていったりした。  最初の年上の女郎は、二一二度行くと、かれには若もし ろくなくなってきたので、今度は別な女郎屋に行って、                       トホ まだ出たばかりの十七ほどの若い玉菊という女を聰ん だ。かれはいつか酒を飲む術をも、唄をうたうことをも 覚えていた己歓楽の興味は時の間に深くかれの成熟しか けた体と心とを完全に捕えてしまった。                 うち  その時分であった。かれがよく金を家から持ちだした      ようだんす のはー1七用欝笥の底、父のそばに置いてある箱の底、 人が持ってきたのをちょっと母親が手近に置いた金なぞ をも平気でかれは持ちだした、そして聞かれると、かれ            音ゆうもん は知らぬ知らぬと蒼った。札間すれば札尚するほど、か れは頑強に知らぬ知らぬと一ゴ。二た。後には何を言っても 黙っていた。  兄はそのころはもうM市へ行って中学校へ入ってい た。それに引替えて、かれは成績がわるいのと、そうた ************************************ くさん学者ぱかりできても困るというので、どこにもや o0                          3 られずにぐずぐず家で遊んでいた。かれはいっ茜暗い心 持でいたが、ことに学枚を出てから情事に関係するまで の間の月日を暗い暗い心持で過した。そしてその暗い心 のわずかなやり場をかれは情海に発見した。  しかしたいていの若者なら、十七八の年輩では、そう いう波に深く入りこむということについて、一種の危険 と不安と反省とを感ずるはずであるが、かれには、何ゆ えかそういうところが欠けていた。強い感情であったか らか、それとも根本から反省心の欠けている膏年であっ たからか、それともまたわざと皮肉に反抗的に押して出 ていったのか。  けれどかれの遊び方は、始めに対者を一人きめておく という風ではなかった。かれには世間の青年に多く見る                       れん セソチメンタルなところがなかった。女に同情したり隣 ぴん 欄の心を持ったりするようなところがなかった。現にそ    うち             こおんな の時分宅でつかっていた小瞬とできていて、それでやは     凌 じみ りかれは馴染の女郎のもとへも通っていた。  小蝉はM市の少し手前の村から来たもので、その時か れと同じ年であった。名を着雪と呼んでいた。「雪や、 雪や」こう呼ぶ母親の声が奥からかれのいる室のほうま できこえた。ちょっと丸ぽちゃの肉の豊かな色の白い子       まゆ で、眼つきと眉のところに可愛いところがあった。二人 の関係は、どちらかといえば、男がちょっと触ってみた         弓Lお       みをぎ のに、女のほうから潮のように澁る熱い心を寄せて書た              こ や      あいホ盲 のであった。二人はいつも裏の小舎の中で購曳した。  それはめったに人の行がないようなところであった。 家ではいくらか百姓もしているので、馬までは飼ってい                      しま なかったが、小作の持ってくる米や豆や麦などを蔵って 着く大きな小舎が裏にあった。かれのいる室、ちょっと 樹の茂った庭、それから野菜物の青々とつくってある 自田、それを通り越したところにあるその小屋1その中 にはいろいろな物が雑然として置かれた。                     こ#んを  かれにとっては、潮のように熱く瀕ってくる小蝉の情      5る がいくらか煩さいような気がしていた。たやすく手に入 れられたということも、恋そのものについての安価の表 現のように思わ。れていた。小蝉なんか、どうにもなるも んだというようなところもないではなかった。それにも がかわらず、かれはよく女とその裏の小屋へ行った。      すが                        つら  その女の縄るようにしてくるやさしいむ、辛い忙しい 生活の中にその瞬間をのみ唯一の生命のようにしている   しいた 心、虐げられた小鳴がわずがにその安恩所をそこに発見                 おおぜい して絶えずまつわってくるような心、多勢の中にいて着 り奉り心を通わせるようにUっとこちらを見る眼、それ ************************************ をなつ水しいともいじらしいとも思わぬではなかったけ れど、1また田舎にはめずらしいその豊かな肌を自分 で所有しているということを誇りにしないではいなかっ たけれども、それでもかれはけっしてそれだけでは満足                   *かんかく していられなかった。かれの根本の矛盾した托、格した感             やさ 情は、かえってそういう弱い柔しい美しい愛情の隙問に    た。がね 冷淡な錘を打ちこまずにはおがなかった。        こ九ん左  その仲が知れて小媒が暇を出されていった時のかれの                  うわさ 態度は、町のある部分の人たちには当分噂のだねとして      あ菖 語られた。「呆れた青年だ。冷めたい蚊だ」こういう声                      もてあそ をかれはいたるところで耳にした。誰も皆なその弄ば れた小蝉の不幸な運命と涙とに同情しないものはなかっ た。その小蝉の母親は、要太郎の父母が冷淡であったと いうことよりも、よりいっそう冷淡であったがれのこと を、あちこちに行って話した。        むじゆん  しかしこうした矛盾した汗格した性格にも、やがてそ うばかりはしておられないような時が到着した。そのこ                   あずさ ろ、かれの通っている女郎に、十七になる梓というの淋    言oよう いた。容色はそういいほうではなかったけれど、その姿 態やら表情やら言葉やらに、どこか人の魂まで深く入っ ていって魅してしまうようなところがあった。要太郎は 始めはやはり、例のたんなる歓楽の対照として通ってい ************************************ 301 一兵卒の銃殺 たのであったが、しばらくして気のついた時には、自分        かんせい      おらい がすっかりその陥葬の中に陥っているのを発見した。日      あか岨 が暮れて、灯がつきさえすると、かれは家にじっと落ち ついていることができなかった。しかし、親の財産より     もつ ほ水に一物を持っていない彼は、しだいに思いのままに ならなくなっている自分を見た。女郎屋でも、初めのう ちは、現金を持っていかなくとも遊ばせたが、それもそ                        たん うそうは長く続かなかった。父も母も注意して厳重に簿 ナ 笥に鍵をかけ、ちょっと持って書た金もそこらには置が   小わせ ず、為督や貯金のために出して為く金も、事務が終ると          しま いちいち金庫の中に蔵った。                 ふ み もち  それにこのごろでは、かれの道楽と石身持があたりに 知れわたっているので、親類や知已や友だちはもうかれ の借金の相手にはならな伽った口皆な笑って、あるいは 怒ってかれを遇した。二里ほどある山ぎわの叔母のもと に無心に行った時にも、あべこべにさんざんに小書を弓、口 われて、腹が減っているのに、夕飯をも食わせずに追い 帰された。がれは女に対する苦癩と世間に対する苦痛と     なめ                               Lつと を二重に嘗させられなければならなかった。かれは嫉妬                 へら というものの恐ろしさに体も精神も減されてしまうよう       あずさ な気淡した。梓には有力な客が二人も三人もあった。こ        建いじん               いいかわ とに、ある村の大尽の息子が一番深く書交しているとい ************************************ うことを知った時には、成熟の一歩を経たにすぎないが 02                          3 れの体と心とはガヲソとした恐ろしいある空虚に陥った                  ぎ へん ような深い大きな動揺を感Lた。虚偽、欺鰯、陥葬、そ       しつつこ        から ういうものが執念くかれに絡みついた。       とうろう                   よ  金私なくて登楼することのできない夜もかれはじっと して家に落ちっいていることはできなかった。そういう 時には、かれは裏の山路から(露地を入っていって、見 つかって赤恥をかかされたことが二一度あった)草や樹  す。か      一とぶ に縄って、溝のあるところへ下りて、そこからぬき足さ し足して、その遊女屋の裏口へと忍び入った。そこがら        うえこみ は、梓の居間払栽込を通してそれとよく覗かれた。それ にしても、がれは若い十七八の青年の身で、どんなに暗      いた                 ひ いどんなに疹い心を抱いて、その灯の明るい女の屠間と かすか 徴な嬉しそうな話声とに対したであろう。暗い暗い心、 胸が上ったり下ったりするような心、体も精神もこなご なに打砕が牝てしまうかと疑わるるばかりの心、そうい           なんぺん う深いむをかれはそこヤ何遍となく経験した。                       いんとう  人間の持った最も底のもの、最も深いもの、最も淫蕩           かいこう なもの、そういうものに避遁すると、十分成熟しきった 人間ですら、何らかの感化を受けずには若られないもの であるが、一歩一歩深く掘っていく穴が、さながら恐ろ   わに しい鰐の口のように恐ろしい暗い底をひらいてみせるも のだが、年の上からいっても知識の上からいっても、ま だわずかに最初の階悌を上りかけたばかりの彼淡、こう した撞に身と心とを置いたということは、かれの一生に       み のが とってじっに見遁すべからざる一大事であった。かれは 女に逢うために、−むしろがれの実在を確実ならしめ るために、ついに郵便物の中から、小為替券だけを選ん  せつLゆ で窃取して、それを他の町へ行って受取ってきた。  その為替を受取る町にいつでもかれは青年に似あわぬ 細心な注意を払っていた。かれはけっして同じ郵便局で 二度も三度もつづけてそれを受取らなかった。かれはか れの町の附近にある丁町、S町、N町とわざわざ出かけ               みとめいん ていった。それを実行するための認印も二つ三つほど作 って、Nの局では、どういう名、Sの局では何という 名、Kの局では何という名という風にきめて着いた。          まなζ  そのころにはかれの眼は鋭く光を放ち、態度にも落ち つかぬところがあり、何となくそわそわと淫意深くあた りを見廻すというような癖ができた。かれは郵便局の人                 めつ君        とが たちの無心に調べる為薔券の手もとや目色を不安な尖っ た心持㍗見つめた。そして局員がその為替券水ら眼を離             ひ雪だし して、現金の入っている机の抽斗を明けかけるとほっと した。金を受取って外に出た時には喜悦が胸に猷れた。  S町から一里半、N町から二里、その間を急いで自分 ************************************ の町のほうへ帰ってきた印象は今でもはっきりとかれは 眼の前に浮べることができた。S町から来るほうには、                       た吋やぷ かなりに長い坂があった。運送車や荷車が通った。竹籔    氷らす5コ に赤い馬瓜などがぶら下っていたりした。N町から来る            すその ほうには、飾に遼く聞けた裾野を見て、山の裾をぐるぐ                    、、  * る廻っていくようになっていた。子供たちがざるやさで         うお  ずく 網を持って、小川で魚を掬っていたりなどした。かれは    旺う 小石を技ってかれらを驚かした。  丁町松一番遠かった。そこに行くにはどうしても半日 かがった。しかし女に逢うためには、そんなことは何㍗ もなかった。かれは山に添ったり泥池に添ったりして行 った。どうかすると、帰りは途中で夜になることなども                 、をぴ あった。かれはどんなに山の斜陽の上に駆き下る自分の 町の明るい灯を望みながら路を急いだやあろう。  しかしこうした悪事が長く知れずに残っているわけが                      はさ なかった。N町の郵便局は一番最初にそれに疑を挾ん だ。かれはある日その局員の一人にあとザ匿けられた。       あ、は あらゆる秘群は発かれた。その町の郵便局の次男息子だ ということもわかった。為そらく、今であったなら、あ らゆる人たちの調停と心配と運動とをもってしても、か  *るいせつ れは繰紋の恥を免るることができなかったであろう。幸 いに、まだその時分には、地方警察にもどこかルーズな ************************************ 303 一兵卒の銃殺 ところがあった白それに、同じ郵便局の息子ということ と、その父親が地方でもかなりに知られている人である         かたま ことと、まだ志の固らない青年の一生をそうした一過失            ざんこく で葬り去ってしまうことの残酷であるということ、それ              せつ    こん。かん から父親始めその町の有力者の切なる梱願とによって、 かれの犯した罪悪はそのまま公に世間に発表せられずに すむことになった。そのためには父親はすくなからず金 を使い、母親は神経性の顔をいよいよ赤くして、口癖の    ぐ ち    こぽ ように愚痴を零した。「親不孝」「泥棒」「家名を汚す悪               わレ 人し「着前のような子をどうして私が生んだか」「ば水な              地 た             ,ぜに 扱もあればあるもんだ。貴様が覇取った金の百倍も銭を 使ったしこうした言葉をかれは父母から口癖のように浴 ぴせられた。  否、父母や親類からばかりではなかった。町㍗は誰も その事件を知らないものはなかった。もちろん口に出し て、かれの面前でそれを、青うものもなかったけれども、    ぷじよく                             かいこう かれは侮辱と好奇と冷笑との眼にいたるところで蟹遁し た。誰も彼も皆なかれを指してみて笑った。     あ加じろ  つか                    うち  かれは蒼白い労れたような顔をして終口家の中にい た。しかしその専件そのものよりもいっそうかれに強い 打撃を与えたものは、その十一月の末に、女がかれの競 争者であった他の村の豪農の息子に引がされて、土地を ************************************                     ま 去ったということであった。事件が起っている間にも、郷 かれは≡二度女に逢いにいったが、それがぱっと世間に 知れてからは、もうどうすることもできなかった。かれ  岩んねつ は寒熱の往来するような心の苦痛の中にその口その日を       のろ 送った。女を呪い、競争者を呪い、自己を呪い、父母を 呪い、この世間の存在を呪い、金を呪った。またかつて                   い しや はかれの唯一の生命のように感じ、唯一の慰籍のように 感じ、唯一の快楽の場所のように感じた大きな二階屋を    いろガテス 呪い、色哨子の窓を呪い、夜ごとにひびきわたる太鼓を          しやく 呪い、障子に移る宥酌の踊り姿を呪い、女と二人相関し  在ん在んめんめん て哺々綿々とした居問の長火鉢を呪い、遠くからきこえ             ぞう口 てくる長廊下のばたばたした草履の音を呪い、燃えるよ   ひ考一がじゆ。はん うな緋の長締絆を呪い、白い美しいベッドの中の肌を呪 った。かれはどうしていいのかわからなかった。かれは 自分がもうわからなくなって、自分が世間の脅年と同じ であるかを自分に訊ねるような日などもあった。それか らまた女がどうしてその豪農の息子についていったか、      みな芒 あれほどの涯る情と熱い心とを見せた女が、自分には何 の言葉も残さずに、わずがばかりの心残りのしるしをも 見せずに、路傍の人のように、否、路傍の人よりももっ と無関心にどうしてここから離れていったか。いかれた      苛」よξ    ぎ へん か。それは虚偽か、欺覇か、それとも人間にもそういう ことがほんとうにできるように造られてあるのか。そこ              むL までいくと、かれは髪の毛を捲らずにはいられないよう           しようそう な、熱い燃えるような焦躁を感じた。  そうかと思うと、それとはまるで反対に、その虚偽と ご へん 欺覇とを肯定して、復讐的に自分もそうした打撃を人に                     やくぜん 与えてやらなければ止まないというような気添躍然とし て起ってくるのをかれは見た。がれは皮肉な顔の表清を        か して下唇を堅く噛んだ。年を重ねても容易に経験するこ とのできないような、またはあるいは一生そういう経験 に逢わずにすむものもあるような深い大きな経験に逢っ たかれは、すでに世間に多くあるナイーブなセソチメン タルな青年などとはまるで違った心持を義成されるべく 余儀なくされたのであった。  その年の暮には、冬期休業で、兄はM市のほうから帰 ってきた。学校生活の秩序正しい、元気な、活灌な、物 を受入れることに素直な、同じ我儘でも純な兄と比べ                       * て、かれはいかに大人らしく、陰気にひねくれて、デジ ェネレートしてみえたであろう。肥った色の浅黒い健康 らしい兄とは反対に、がれの顔は蒼白く、眼は鋭い中に どんよりと不定な動揺を蔵し、体は痩せてひょろ長く、 過重の重荷に堪えられないというようなところがあっ た、かれは兄と比べられることを恐れた。それがしばら ************************************ くして比べられることを怒るようになった。っづいて白        くわ 分のふしだらを詳しく父母から聞いて知っていな茄ら、            あだがた言 二言もそれに及ばない兄を仇散のように憎んだ。兄の成 績のいいのをもって弟の不評判をかくそうとする父母の 態度を憎んだ。  そしてかれはある夜金を持ちだして家出をしたのであ つた。 ************************************ 八 ************************************  しかしかれにものんきな時代松あった。  どうしてああいう風にのんきになったか自分にもわか らないが、一時変った人のようにぽんやりして、その持 っている皮肉と観寮と動揚とはまったくどこかに捨て去 ってしまったように、置き忘れてきたように、ただぶら ぶらして遊んでいた。  家出をして一年ほどしてつれられて帰ってきてから も、かれの女に対する興味はけっして鈍りはしなかった が、しかしそのころはもう以前のように張りっめた突き つめた考を持っていなかった。金さえあると、彼はそれ からそれへと女をさがして遊んで歩いた。地の女などに もかれはよく手を出した。  かれはそういう種類の男の持っ女に対しての気安さと ************************************ 305 ************************************ 一兵卒の銃殺 テキスト-001-------- のんきさと無閣心というようなものをだんだんと養って                    あ・いて 持ってきていた。女は男の桐手、男は女の対手というよ うに、なるたけそういう風に解釈してみるほうが、かれ にも楽であったし、面倒でもなかったし、世間の受けも いいし、女に対してもかえってそういうほうが有効であ るということをもかれはだんだん覚えてきた。  しかし町では水れの評判はやはりわるかった。それ に、かれのことというと、人がことさらに注目してみる ようにがれには思われた。かれの一つのわるいことは、 十にも二十にもなって世間の人たちに反響していくのに 反比例して、かれのよいことの一つはその半分ないし三         ひ 分の一も人の眼を惹かなかったのをかれは見た。  その時代は、しかしがれにとっては無難であった。か れもだんだん肥ったりっぱな体格を持つようになった。   き れい               ち蛯めん 頭を締麗にわけて刈って、白縮緬の大帽の帯をしめて、 時計の銀ぐさりをそこに見せながら、小料理屋の店の長 火鉢の餉に埜っていたりした。            つ o            さお  その時分、がれは一時釣魚に熱中して、竿をかついで 一里二里のところによく出かけていった。かれはもう二 十歳やあった。いっしょに行く近所の子供たちの眼に                   ゆかた は、もういい加減な大人にみえた。白い浴衣、鼠添かっ                ぴ く た三尺帯、長く絡麗に刈った頭、苓苔を下げて、釣竿を ************************************                 う かついで、いつも二人三人の子供を伴れて、がれは底々 泌 とした野のほうへと出かけていった。  野にはところどころに用水の長い流れがあったり、そ こから縦横に引いた小流があったり、わざわざ水を溜め      どぷ て右く堀、溝みたいなものガあったりした。川柳の生え         あし  が珪                      こい ているところや、麓や蒲の茂っているところには、鯉や ふな  、、 鮒やはやがたくさんにいた。そういうところで、かれは 草を折敷いて、竿を水に入れて、じっとしてその浮きの 動いてくるのを眺めた。「為い、為い、そんなところで騒 いじゃい水ん。せっ水く、魚のいるところに来たんだ」           つ こんなことを言って、伴れてきた子供らを別な堀のほう へ追いやつたりした。  どうかすると、その堀切や溝の持主の百姓などがやっ てきて、苦情を言ったりするこよなどもあったが、そう いう時にも、がれは別に反抗が衰しい態度を見せながっ た。かれは素直に竿の糸を巻いて、さっさと子供たちを 伴れて向うのほうへ行った。  夕暮など苓蒼を持って、町の通りなどを歩いていく と、知人の三二がそばに寄ってきて、「このごろはいい 道楽を始めましたな」などと言って通りすがった。  時には一人で出かけていくことなどもあった。そうい                    ふけ う時には、かれはことに深い静水な空想に耽ることを楽 んだ。別に掌間はないし、そうした種類の文学的の本も ひもと 縄いてみたことのないがれではあるが、それでも川柳の          こ じわ                   さざなみ 陰にそよと風につれて小雛をつくって寄ってくる小波、       しみい               あわ 静かに人の心に沁入るようにあたりに淡く薄れていく夕     あお        かぎ   そぴ 日の光、碧く地平線を劃って聲えている山、ふわふわと       なび 羊の毛のように瞬きわたる雲、どこか遼くでガヲガフと 静かな音を立てて通っていく荷車の響、長くつづいた街 道の電信柱に添って歩いていく旅客、そういうのに対し                     う  菖 て何を考えるともなく、ぽんやりとしていると、浮標が     えさ  から 動いて針の餌が空になっているのも知らず、セコノドが 動いて時間が経っていくのも知らず、自分が経てきたよ うな辛い苦しい世界がこの世の中にあるのも知らず、女    ナ。が 払男に縄っていくのも、男が女に引張られていくのも、 何もかも忘れてしまったかのように、かれには思われ た。  かれはただぼんやりとしていた。    つ o  この釣魚の道楽は二年ほど続いた。その間にはかれは がれの将来のことなどをいろいろに考えたりした。いっ そこんな処にぐずぐずしているよりか、アメリカにでも 行ってしま為うか。過去の何物をも知っていない土地に 行ったほうが、何にほど自分のほんとうのことができる がしれないと思った。現に一度などは、すっかりその気 ************************************ になって、南米移民の勧誘員の町にやってきたその族館              こ去 にまで押しかけていって、その細かい話を聞いたり、心 をそそるような外国の珍奇なさまに耳を傾けたり、規則 書を貰ったり、そこに行くについての費朋を細かく勘定 してもらってみたりした。  すくなくともその稀望は二力月聞かれの胸に燃えてい た。しかし、信用のないかれは、父からも母からも、親 類からも、そうした比較的まじめな話をまじめに聞いて もらうことができなかった。その要求は一も二もなくい たるところで否定された。ある人は頭から笑ってそれを 相手にしなかった。かれのほんとうなまじめな希望、兄 などに比較したならば、当、口うにも足りないほどの小さい 要求、それすらがれは信用して父母から出してもらうこ とができなかった。水れはその時のことを今でもおり若 りは思い起した。それはちょうどこれから冬になろうと                       言ん するころで、暗れた空は毎日のようにっづき、山には錦 しゆう 繍をかけたように紅葉が染め、風は大きな山脈を越して すさま 凄じく吹下してきた。奥の奥の山には雪が白く指さして                         殺 仰がれた。かれは達しがたい心の不平を抱いて、いつも銃                         の 裏の細い路を歩いた。              卒      じよろうやふとん兵  そこからは女郎屋の赤い蒲団が、さながらかれに昔の 一                なお        、、、 夢でも呼び起すように、または一度癒った傷のうずきを w かナ 徴がに感ぜさせるように、または自分とはまるで無関係 でそしてどこがに深い関係があるようにくっ書りと明水 に午後の日影の中に現われて見えていた。がれはじっと それに見入った。時にはまたわざとそれを見ないように して通った。林に添ったところには、栗がたくさんに落 ちていて、それを拾って帰ってきたりした。ある夜は ヒ、からし 凧が凄じく吹きあれて、山の木の葉は雨のように敵っ た。  それからは寒くなるばかりであった。やがて雪茄来 る。あたりは一面に深くそれに埋められる。大湯の湯気    あか                        こ たリ が白く麗る。町に住む人々には、これがら炬燵と酒と女               悟うらつ         いんとう との世界が来るのであった。あの放将と無節制と淫蕩と が来るのであった。そして人々はその山裾の狭い湿泉の 町に満足して住むのであった。  女と酒との生活はまたやがて伽れに迫ってきていた。 ************************************ 九 ************************************  兵営生活に入る前に、かれは一度妻帯した。       すさ  か牝のように荒んだ破壊された生活にも、進んや妻に なってくるようなものがあるのであった。しかしそれま モの三二年のかれの生活、それはここに繰返す必要はな い。それはふたたび始った皮肉と反抗とに満ちた生活、 ************************************                       ぎ 、ん 自分水ら自分の生命を浪費するような生活、借金と欺踊 郷  きよ苦 と虚偽とに満たされたような生活、だんだんと老いて気         ぐ ち                       おじよ{ が弱くなった母親の愚痴を背景にしたような生活、汚辱 と不名誉とに塗られたような生活、そう書いて奉けばそ れモたくさんであった。             童ゆ5だい  兄はその時分、人学試験に及第して、東京の大きな学 校のほうへ行っていた。兄の前には美しい華やかな光明 の世界への路が開けていた口兄は医者になるっもりでそ のほうの掌間を修めていた。妹は一年前に、良縁があっ て、近所の町の大窒な商人のもとに貰われていった。順 序としては、名目上はとにかく、実際ヒはかれがその家 の跡をつがなければならないような位置に身を置いてい た。し水し父も母もけっしてそういう熊度をかれに示さ なかった。「まア、しかたがねえ、あれでも子は子だが ら、いくらかわけてやらずばなんめい。麦ア、それより        か由あ 何より、一番先に蝉どん持たせなけりゃなんめい。どう しても、女がなくちゃじっとしていられねえような奴だ 水ら」などξ父母の言うのをかれはよく耳にした。 「それにゃ、妻ア、兄のほうからきめてか水らなけりゃ いけねえんだが…・−どうもあれはまたあれで、学問はか しで、女なんかには眼もくれねえいん㍗困る。この冬も、 その話をしたが−今、祝儀をしねえでも、為前の好き な時まで待っから、約束だけでもして宥けヅて言ったん が、それもイヤだツて言うだでな。どうも困るが、しか                     由かあ たがねえ。順序ではねえが、要の奴がら先に燐どんを                     モ と さがすかな。これで、来年徴兵にでも取られて他所へ出            町ようけん き圭 るようになって、それでも了簡が定らねえようじゃ、そ                    ゆくゆく れこそ心配だからな。媒どんでも持たせて、行々は分家 でもさせるようにしてやったら、いくら何でもちっとは 了簡も出べいからな」こんなことを父母は言って、そし てあちこちとかれの妻になるべき女を探し始めた。  その相手はいくらもあった。息子は評判がわるくて                 唾うとう も、町では昔からの家柄ではあるし、放蕩だといっても、                        むこ それは若いうちには誰もあることだ。そういうことは婿 には勘定に入れたツて際限がない。こういう普遍的な、               しよう、がい 妥協的な低級道徳の世間では、障畷になるにはなって も、そうたいして重きを奉いてはいられなかった。中に は、「かえって、そういう世間のことをよく知っている ものひほうが結局いいもんだ、人情ということがよくわ かるからしなどと言った。  かれがその相談を父母からかけられた時には、かれは どうでもいいというような気がしていた。そうかといっ        ひ て、全然興味を惹かないというわけでもなかった。人勢 の女の中の一人にその女があり、その女に特別に妻とい ************************************ う名のつくということが不思議でもありめずらしくもあ るというような気でかれはいた。かれはその時三人の女 の写真を母親から。耶された。           モ・・牡つ               せい  その三人の一人が、束髪に結った丸顔の背の高い女 が、それでもM市へ行って一年文学枚へ通ったという女 が、見合をした時にぱイヤにきまりがわるそうにうっむ いていた女が、悲しい辛いことを青わ托るとすぐ泣いた  わ り喚めいたりするような女が、床に入っても完全に男に 触れることもできないような女が、髪の結い方や衣服の                あ・わ 潜方も満足に知らないような女が、慌ただしく不用意に 彼の妻という名目の下に置かれたということは、水れに とっては、体にも心にも別に深い感動をも興味をも起さ なかった。一夜寝たあくる朝は、かれは床の中で、かれ                       あく の関係した大勢の女とその女とを比べて退屈そうに欠び などをしていた。  その女は若雪といった。それが不思議にも、突然に               おんな も、かれにかつてかれの関係した小脾を思い起させた。 やき                          寸が 柔しかったその心、専愈に男のほうに縫りついた為ど若      か れん どした心、可憐な眼に涙をいっぱい溜めて泣いて寄って                     よみがえ くるような心、それが思いもかけずかれの心に蘇って きた。「宥雪、岩雪」こう言って母親の呼ぶ声を聞くと、                をき牡 男の薄情に、男の冷淡な態度に眼を泣腫らして、し為し ************************************ 309 一兵卒の銃殺       つ 為とその母に伴れられていったあわれな姿茄思いだされ た。  どうかすると、その母親に坪ばれているのは、あの奉           あいび首 雪で、裏の小屋や今日も購曳の約束するはずであったと いう風にかれには空想された。田舎では、時はさらにあ たりの状態を変えなかった。そこに柿の木がある。そこ に青々とした畑がある。そこに昔と少しも変らない物置 小屋がある。やはりその時のように米や麦や豆が入れら                や泊吉   さえずり れてある。雀なども同じようにその喧しい苑輔を続けて いる・:…。  しかし妻の宥雪は、そのやさしい心の持主ではなかっ       寸が た。また男に縄ってくるような女でもなかった。顔だけ は、それでも満足で、衣服でも潜替えさせて、着つくり でもさせて、しゃんとして伴れて歩けば、田舎の息子の                        こわ 妻としては、まずと十人並以上に見られるけれども、硬 ばったその心と、形式っけられたその態度はかれにまだ たん打ん  唾身こ               つたを 鍛錬の施してない線の單純な拙い彫刻を思い起させた己         く もん                へんせん 人の心の折蘭とか、苦悶を通遇して書た心の変遷とか、 そういうものには少しも触れるところのない女をかれは 発見した。  女の里の父親や母親もかれにいい印象を与えなかっ た。「道楽もまアいい加滅に切り上げて、ちっとはこれ ************************************ から精を出すだ」こんなこと空冒われると、たとえ自分 側 の最愛の娘だとはいえ、ああいう娘の力で、価値で、こ の辛いさびしい悲しい自分の心が慰められ腰められ満足 させられると思う愚な妻の親たちを冷笑せずにはいられ           ひたい         ζぶ なかった。その父親の額にできている瘤も醜ければ、母 親の田舎臭い皇、自葉も不愉快であった。金と先栂の田地と  ごLよう を後生大事に守って、莫黒になって働いているというよ うな生活もがれには物足りなかった。        く  じ  モあるがら、抽籔が当って、いよいよ入営するという 定ん                                   こ 蓼よ 段になっても、かれは妻については何らの顧慮をも責任 をも持っていなかった。否、それ以餉にも、妻をよそに して、依然として茶屋酒を飲みにかれが出かけていくの や、母親などは、あれのこれのと言って心配したが、か れは別にそれを罪だともわるいことをしたとも思わなか                じよろ5や った。夜寝る時も、運わるく田舎の女郎屋で床振りにで   あ               ざんこく                 まれ も出遇った時のように、残酷に妻を取扱ったことも稀で はなかった。  しかし、兵営に入っていくことも、かれには喜ばしい ことではなかった。体格は大きいし、病気は二三年餉に かか 羅った花柳病ぐらいで、間がわるければ徴兵に取られる ということはがねて覚悟していたことであったが−時               はず加L にはまだこうした不愉快な故郷に辱められて圧迫され て暮しているよりは、いっそ兵営にでも入って、変った 世界の空気でも吸ってきたほうがいいとも思わないこと                    く o    あた もないではなかったが、それでもいよいよ抽籔が中っ                      だいてつつい て、入営と決定した時には、いよいよその運命の大鉄槌 が自分の頭の上に落ちてきたような気がした。町から出 て三年の兵営生活をしてきた者の話は、今さらのよう に、かれの身を圧迫した。鬼のような上等兵、寒い冬の   ぞう音ん。がけ 朝の雑巾掛、暑い夏の行軍、厳重な検査、意地のわるい 軍曹、耕兵の間の辛さは、それはそれは口にも話にもで きないという。除隊された今だから、こうやって、のん きに昔話でもするようにして話すけれどなどと言って、 その経験のある人たちは、軍隊に着ける勤めと蜆律のい がに困難であるかをも話した。それからまたかれはひど                     か。こ いところがらでも出てきたようにして、または籠の中か ら放たれた鳥のようにして、除隊兵の喜んで国に帰って いくのをたびたび見たことがあった白軍隊は彼のような むじゆん    かんかく 矛盾した托。格した性格にとっては、かならず辛くあらね ばならぬように想われた。  かれとかれの妻とについては、その後いろいろな相談 がかれら両家族の間に持上ったらしかった。初めは除隊           5ち になって帰ってくるまで家に置いて、嫁としてとめてい くという話であったが、入営が近づいてきたころには、 ************************************ やはり、それまでは里に帰して着〜 うことになった。妻の籍もまた公κ なかっ。た。  いよいよ入営する五六日前から、 松あちこちで開かれた。とにもか〜 は、今までの生活の一破壊であるル 化であらねばならなかった。執念坦 いたこの山裾の町の空気、湿泉宿の  あかり                 らつぱ な灯のかがやき、乗合馬車の刺臥の いろガ 一7ス 色硝子の窓、軒を救へている小料哩 そういうものはかれにとってたいて そ5 躁を与えたものではあるけれども、 離れて、広い別な社会に入っていく   なごり には名残惜しく感じられた。それに ら、まだよくわからないけれど、こ 外国との戦争があるかもしれないと 入営していく人々と、その人々の家  二一二日前から、町の入営者の家の      おくる 営」とか「送何兵某君」とかいう旗    童いろ れて、黄い白い吹流しが晴れた冬の なぴ 駿いて見られた。中でも要太郎の家              ばかま くさんにたくさんに立られて、袴を したりした人々が大勢出たり入ったりした。「とうとう 郵便局の息子さんも、行くけな。兵隊さんになって…。」 町の芸者たちもこんな簿をした。     、 、  しかししんからかれの入営を悲しんで、表向㍗はでき ない茄、人知れずこっそりなりと見送りたいというよう                 あずさ な女は一人もなかった。それはかれは梓以来、女に対し  あいぷ て愛撫したり同清したりやさしい心づかいをしたりする ようなことはもうなかったから。  でその日は区長や、病院長や、小学較の校長や、その              たモば 他の有志にぞろぞろ乗合馬車の立場まで送られて、万歳                     しゆうと を三喝されて、M市へと行った。妻はそれで屯舅と自 分の父親とその他の親類の人たちといっしょにM市妻で 送っていって、その夜は大きな旅館に一夜寝て、あくる 朝早く区長に送られてかれは兵営の門を入った。 ************************************ 十 ************************************  気がつくと、かれはM市の南の方面のあやしい女など の家ごとにいる狭い汚い通りを歩いていた。もう夜はが    ふ                        まれ   あホ回 なりに更けたらしく、往来ももう人影が稀に、灯の影の      皇た走                           あく みいたずらに瞬いて、客のない酒屋の店では女が欠びを しているのが見えた。      喧とり  かれは川の畔を去ってから、市中をどう歩いたか、自 ************************************ 分にもよくはわからなかった。頭はいろいろなごとモい 聰         しまい                          3 っぱいになって、終には何が何だがわからなくなった。 故郷のことやら、一年行っていた戦場のことやら、幼い                      さくれつ 記憶やら、兵営の中の友だちやら、凄じい砲弾の炸裂や                        う ら、妻のことやら、そういうものがいっしょになって巴 ヂ                  てつつい 渦を巻いたその中に、鉄鵜のようにはっきりと横たわっ       かわせ  せつし映 ているのは、為督を籟取したあとの手紙茄箱の底に残っ ているということと、せっがく取戻した名誉をこの一事      じゆうりん ですっがり躁鵬してしまったということと、永久に脱営 するとしてもどうしてそれを巧に完全に実行してよいか                  と5とん ということであった。一度は強く永久の逃遁を肯定し、        みち それよりほかに途はないと決心して、そして川端の閣の                    かつζ 中水ら身を動かしたのであったが、それとて確乎とした 動播しないものではなく、二一間歩くと、そんなことは とてもできないと思うと同時に、こうして歩いているう ちにも憲兵なり巡塞将校なりに発見されて、意気地なく とら 捉えられて、兵営に引張っていがれて、衆人環視の申   ののし     ど な       なぐ で、罵られ、怒嗚られ、撲られ、果てはすっかり軍人と       竃 そん            唯う しての名誉を穀損されて営倉に投りこまれている自分の 姿を見た。せっかく戦地で立てた軍功、故郷への唯一の みやげ 土産にしょ多としていた功労、それももうめちゃくちゃ になっている自分を見た。そうかと思うと、二三目こう して歩いているうちに、どこ水らか自分を救けてく托る ものがあって、思ったより軽い罪でふたたび兵営に戻っ ていくような径路などをもかれは頭に描いた。  少くともかれはここまで来る間に、賑やかな通を歩い                あかり てきた。人の大勢通る晴れがましい灯の中に自分の姿の きわだって見えるのを気にして、なるたけ暗いところを 歩いてきた。それから大きな門のある暗い板塀のところ に身を寄せるようにして立って、長い聞いくら考えても 考えきれない身の始末をかれは考えてきた。寺の前のよ うなところも通った。M町通らしい賑やかなところをも 通ってきた。巡査の交番の灯、それは兵士としての今ま での自分らには何らの権力がなく、酔払った時なぞ、む       い ぱ しろその前を威張るようにして、歌など唄って通ったも のが、今ではその巡査の立っている交番の灯さえ恐れら れて、なるたけそれを避けるようにしてがれは歩いてき た。ふと、ある酒場らしい店の前に来た時、「なアに、 かまうことはない、酒でもいっぱい飲んでやれ」こう思 って、かれはいきなりそこに飛びこんだ。かれはさっき 女の家で財布の中からチャヲチャラ金を出してわたした 時に、まだあとに五六十銭金の残っているのを知ってい        テーゴ几 た。で、かれが卓の前の椅子に腰をかけると、色の蒼                       ひ 白い白いエブロソをかけた、どっちから見ても心を惹く ************************************ ようなところのない、十八九の給仕女淡酒かビールかと     邑L いうことを訊いた後で、コップになみなみと正宗をっい モ持ってきた。                       あお  それをかれは顔を仰向け加減にして一気にみごとに岬 った。コップの底にさした電燈の光は、その酒添みるみ         の ど る波を打ってかれの咽喉にうまそうに入っていくのを照 した。蒼白い顔の女は黙ってそのそばに立ってみていた。 「もう一杯」  こう言ってかれはコップを出した。さもうまかったと             を いうように、かれはあと口を舐め廻しながら−−。。  続いて女が持ってきた酒をも、かれは同じようにして 飲み千した、かれは烈しいアルコール性の刺戟がたちま      みをぎ ち全身に熱く滋ってくるのを感Lた。  かれはな奉しばらく考えていたが、その間にもその未      すtし                  おしの 来の問題が少く首を出しかけていたが、それを押除ける          ねえ ように頭を振って、「姻さん、もう一杯」こうかれは叫 んだ。  ぜに                      音きめ  銭を払ってそこを出たが、たちまち利目を現わした酒 は、今までとは違って、かれの前に広い節制のないしか  げ皆〔う し激日叩した自由の世界を現山した。「なアに、かまうも んか。なるようにしかならんのだ」こう口に出して言っ て、かれはまた頭を振った。 ************************************ 315 一兵卒の銃殺  がれは戦地のことなどを頭に繰返しな担ら歩いた。頭      さくれつ 上で砲弾の炸裂する音を聞きな松ら、半日も進出茄でき     ぎんごう                       、 ないで、藪壕の中にうずくまっていた光景などがありあ りと映って見えた。「なアに、戦筆に行った時の心持を                       き お 考えると、何でもできないことはない」こう思って気負 って鍬臓して参た当時のことなどが不思議にもにれの前 に現われた。「何も小さくなっていることはない。これ    *首んしくんしよう  奄たい でも俺は金鶏勲章に値する功を立てた兵士だ。りっぱな 帝国軍人の一人だ」  きゅうに、かれの頭に上ってきたのは、そのM市の南          く  由く の方面にあるある一区劃のことであった。と、女の顔 −久しく逢わなかった女の顔茄、かれの記憶の底から ほっがりと浮んできた。色の白い丸ぽちゃの豊な肉の持 主である女の顔牟。。。。。、 「なアに、かまうもんか、金なんかどうにでもなる。そ んなことはその時肥なってからでいい。もう一生のうち に二度と逢われる水逢われないかしれない女だ。そう         お乱い だ、そうしよう。思たったら勇敢にやろう」こう思っ て、か牝は歩調を早くした。  その一区劃−あやしい女の大勢巣を作っているド” 一区劃は、ここがらさして遠くなかった。表向は酒場 か、でなければ小さな看板ばかりの小料理屋、その輿に ************************************                     やかま 二間三聞かの小さな都屋があって、警察のそう喧しくな 泌 いこのごろでは、場合によってば、まんざら泊めないこ                   く もん  おウのう ともないということもかれは知っていた。苦悶、換悩、 不安、そういうものよりより以上に強い魅力を持ったも のは、女と酒とよりほかに何物もなかった。  や茄てその一区劃に入りこんだかれは、今妻でとは遠         晦る って、わざと歩調を緩くして瀞かに歩いた。夜が更けた ので、あたりはもう静かで、めったに人の通っていくも                   さ ま よ のもなかった。かれは長い間、あちこちを妨僅い歩いた ことを考えた。その時雨がぽっつりと一つ顔に当った。 「ヤ、雨かな−・…」  こう思ってかれは上を仰い㍗みた。空は真暗で、星の            5つと5           柑 影は一つも見えず、蒸暑い蟹陶しい空気が、圧すように                       もや あたりに低く琵れていた。このごろの夜によく見る露も                     あか匝 いくらかはあるらしく、向うにある小料理屋の灯もぽん やりと光を放たずにががやいていた。                よろよろ  かれは酔っていた。いくらか体が跨躁するくらいモあ った。で、やがて三二度来たことのあるその店の灯の前               非れんじ ま芭 に来たが、その入口のそぱの低い騎子窓の一寸ほど明い ところへと顔を寄せて、そして店の中を覗くようにし た。そこにはがねて知っている色の白い丸ぽちゃのその 女はいなかった渉、やはりその時も出てきてちやほやし         去ゆ た十八九の背の低い眉のくしゃくしゃした女淡、ふっと 色の白い顔を明るい電燈の光の中にあげて、こっちを見 るようにした。女はすぐ立ってきた。 「あら、まアあなた?」いきなり入口の半ば明いた障子 の蔭に来てその女は与、目った。  かれは手で押えるようにした。 「いるわよ」 「今、いるのかえ?」        よそ 「今、ちょっと他に行っているけども、じき来るわよ、 あの人、このごろ、よそに下宿しているんだから。。≡」 「ほんとうに来るかえ?」 「来るツたら、おトんなさいよ」こう書って軍服の袖口             hんしよう つか を引張ったが、今度は短かい剣鞘を櫻んで、店の巾にむ りに押入れながら、「いったい、どうしたのさ、こんな に遅く−:−。兵隊さんなんが、今時分出てるものはない じゃないが」             あした 「外泊を貰ってきたんだい。明日国に行くんだい。親が 大病なんだい」  靴をぬぎながら、こんなことを弁解らしく言うと、女 は、                    とめ 「親が大病なのに、来たの? 感心だわねえ。留ちゃん、 童口ぶわ、きっと」 ************************************          はし。こ  そこに、奥の二階の階悌の下の帳場にいた四十先の気  告一 の利いた上さんが出てきて、「あなた、ほんとうに為久 しいのね」「よくいらしゃいましたね」「よく路を忘れま せんでしたね」とか言って、二人して、そのままかれを          つ 奥の一間のほうへと伴れていった。そこに行く前に、か れは上さんのいる帳場のあるゴタゴタした六畳の電気の 明るい中を通っていった。そこには上さんの子らしい女            なか  からだ の児が、心持よさそうに、半ば糎を蒲団の外に出してす やすや寝ていた。  奥の一間へ入ろうとするところで、かれは二階の明る い灯と、半ば明けられた障子とをちらと見⊥げた。そこ には客がいるらしかった。         ちやぷだい  六畳の真中にある餉台の前にどっがと坐ったかれは、 一番先に、時計を出してみて、 「何んだ、十一時だ。もう・−−」  と言った。かれの頭には、消燈時刻はとうに過ぎ去っ て、皆な暗い一間の中に並んで寝ている光景がありあり        、カラ皿まど  づか と浮んで見えた。硝子窓を透して夜の空が白く見えてい                         殺 るさまなどもそれとみえた。           銃     あんぜん                     ひじ  の  かれは騎然として、やがてかたわらに身を倒して肱を 卒                         呉 曲げて頭に当てた。さっき取った軍帽だの剣だのがその 一 傍に散ばっていた。               狙 「あら、ま、もう寝ころんじゃったの? イヤだねえ。 酔ってるの? あなた?」 「うん…・−」 「枕を持ってきましょうが」 「いいよ一  と言ったが、またすぐ起きあがって、 「来るのかえ?」 「今、すぐ来るったら、あなた? そうでしょうよ、拾                       ちやぶ 待ちかね㍗しょうよ。久しぶり㍗すからね」ちょっと飼 だい             すわ 台にかれと対して坐ってみたが「でも、着酒を持ってく るのね? それから、一晶、二晶:・…」  うなずいてみせると、 「じゃ、すぐよこすからね、待っていらっしゃい」  こう言って女は出ていった。  と、またかれはすぐぐったりと横に倒れて、前と同じ    ひ、L                   ためいき ように肱を顔に当てた。思わず溜息が旧た。  ふと何もかも忘れたというように、ないしは魑も心も                    ねむ町 疲れきってしまったというように、きゅうに睡気がかれ に催してきた。女がふたたび酒と料理とを逮んできた時          いぴ音 には、かれは重苦しい野を立てて、眠っていた。 「また、寝ちゃったのね。酒が来てよ、もしあなたY」  こう女は呼起した。恐ろしい夢から覚めたように、か ************************************ れはまたすっくと起上った。そしてあたりを見廻した。旭                         3 「何か言ったがえ?」 「何にも……」 「そうがえ。…・ああ夢を見た1」こう書って、重苦しそ           さかず音 うな不愉快な顔をして、盃を取って女の酌を受けた。  そこに、女の廓下を歩いてくる軽い足音がした。障子 が明いた。                由。こ 「着待ちかねだよ、為留ちゃん、翁書りよ」 「ばア」  と言って、その留という女はそこに顔を出して、かれ のそばに寄添うようにして坐った。色の白い肉づきのい い顔、丸々と肥った白い腕、二つの乳の盛上るように高                   与壱ぎ くなった胸、かれはきゅうに元気の全身に澁りわたって くるのを感じた。 「あそこに行っていたんだろう?」    あ。こ  がれは顎で二階をしゃくってみせた。 「どうせ、そうさ、きまっていらね」こう言って女は        *じんすり 盃を男に渡して、「甚介なんか起すもんじゃないよ、男 は?」      せん 「でも、二番煎じは恐れるからな」 「繭じな翁しはいいもんよ、ねえ着つるさん」留という 女ももうかなりに酔っているのをがれは見た。  五六杯さしたりさされたりするころには、かれの眼の 箭には一猷〆麟擬が舞っているような気がして、頭がが んとした。「こうして、酒を飲んで、騒いモいるうちだ …・−。騒ぐうちだけでも為もしろく騒がなければつまら ない」こんなことを考えたかれは、また盃を自分の口に 当てた。  少し経った後には、その一間は陽気な唄やら、きゃツ                  吋oい      も きゃツと騒ぐ声やら、女の男に押さ牝る気勢やらが洩れ          な てきこえた。三味線も何にもなしに、手拍子か何かや、          や川   裟  享 続けざまに、ないしは自暴に男は浬らな卑しい唄をうた った。 「そうだんべいよ。そんなに酔っていちゃ帰れめいよ。 泊めてやるべいよ」こんな大口を聞きながら、やがて女      けはい      芭もの の出ていく気勢淋した。浴衣に道替えて寝るようにした くができてから、女はなかなかやってこなかった。かれ は立ったりいたりした。床の中に入って寝てみたがボ犯 うも寝られない、頭がガソガソする。そして、隙を覗っ           しようそ5      もた ては、その不安と絶望と焦躁とが頭を鶴げてくる。。=。。こ うしてはいられないような気がする−−・それに、計画を 実行するには、あたりをもっとよく児て着かなければな らないような気がする−−悪潤の刺戟で頭が重いととも に胸がむかつきそうになる。二階の一問にたしかに行っ ************************************ たらしい女が気になる。寝たり起きたり、わざわざ畳の     すわ                 かわや 上にきて坐ってみたりしたが、きゅうに剛に行くような 風をして、かれは静かに障子をあけて廓下に出た。  腔に松があって、石添あって、その向うに塀があるの が夜目にもそれが明かに見えた。かれはいろいろな計画 を胸に擶きながら、烈しく酔っているのにもかかわら ず、足もと正しく静かに廊下を伝って、測のほうへと行 った。  脚の中では、山ない小健をしぼりながら、かなり長い 聞いろいろなことを考えながら立っていた。しかしそれ                       ちようナ も際限がないので、そこから出てきて、そこにある手水 ぱち 鉢で予を洗為うとすると、ふとある光録が鋭いかれの眼 にありありと映った。                かみ  折曲った廊下の向うは、ちょうど上さんのいる帳場の あるところに当っていた。そこには電燈茄明るくついて いるのや、暗いこっちからは、その一間のさまがはっき りと手に取るやうに見えた口女の児の寝ているそばに、            ようだんす 机があって、そのこちらに用覇笥が置いてあるが、上さ                   ぜに んがこっち向きになって立って、しきりに銭勘定をして      ぜにばこ いた。そこに銭箱があった。かれはしばらく立ってそれ を見ていた。上さんが立って用璽笥を明けるのをも見て いた。ある的薩とした計画がその時かれの胸に浮んだ。 ************************************ 317 一兵卒の銃殺                   あやう  戻っていく時は、わざと音高く、足もと危く見せかけ て、その上さんの居問のそばを通っていった。   しも 「券下ですか」  などと上さんは声をかけた。  今度はいくらかその計画のために、心私落ちっいて、         よこた がれは床の上に身を横えた。しばらくすると、女の軽い 足音茄して、その白い肌の大きな乳の持主である女がこ        けはい ちらにやってくる気勢がした。 ************************************      十一   しよく                      おお  五燭につけかえた電燈には、薄く蔽いがかけてあるの で、室の中は、そうはっきりとは見えなかったが、それ でも上さんの向うむきになっている髪と、女の児のこっ ちを向いてすやすや寝ている白い顔とがぼんやりと見え た。  銭箱も、用璽笥も、机も、長火鉢も、さっき見た時と                       5サ 同じであった。上さんのぬいだ薦物の赤い裏地が、淡い 夜潜の上にかけてあるのが見えた。  外の廊下のところに立っているがれの影は、薄く障子 に移っていた。  静かに、爵かに、机のあるところの隅の障子が明い た。わずが一寸ほど、しばらくしてそれが二寸ほどにな ************************************ ったと思うと、その下の下から、ほとんど畳に近いくら 18                          3 いのところから、太い手が瀞がに動いてきて、それが銭   ムら 箱の縁にかかったがと思うと、その銭箱はすうとそっち へと音もせずに引審せられていった。Lさんは大きな金      Lま は用躍笥に蔵ったが、あくる朝早く帰るというので、二               さ つ     こ ぜに 階の客の勘定した四円なにがしの紙幣は、小銭といっし             硅う よに、鍵もかけずにその中に技りこんで右いた。                 さ つ・  大きな手には、や茄て、その四枚の紙幣私一枚一枚ず つ握られた。で、一度、その手は引っこんでしまったが、 もう一度出てきて、今皮は銭箱の中をかき廻すようにし た。銭の音がした。  その予はすぐ引っこんでしまった。  それ㍗もう思いあ参らめたらしがった。今度は障子が 静かにまた小しずつ閉められていった。そしてそれがま たもとのように閉った。     かす  今まで微かに障子に映っていた薄い影は、いつがそこ   のぞ出                        けはい から除れていった。人の静かに歩くような気勢が、着り                      古き箏よ5 翁り、ミシ、ミシという音、それもいつかもとの夜の寂蓼に 帰ってしまった。      身な  ふと憂に魔されたように、上さんは微かなうめき声を     ね がえ 立てて、寝反りを打った。今度は白い顔が見えるように なった。           さ主  こちらでは、女が眼を覚した。あるいは無意識に男が 離かに障子を明けて入ってくるのが耳に入ってそれで眼 を覚したのかもしれなかった。女は男が壁にかけてある うおぎ 上衣のところに立って、後姿を見せて、何かごそごそや っているのが眼に入った。  女は起上った。 「帰るの、もう?」 「いや」 「だツて…:・」 「今、小硬に起きたんだよ。時計が落ちていたから… …」 「そう?」女は眠そうにして、「何時? いったい?」  がれは時計を見て、 「まだ、三時だよ」 「それじゃまだ早いわ」 「やも、今朝は早く帰らなけりゃならないんだから。親 淡大病だって言うんだから」 「でも、まだ早いわ」  で、ふたたびがれは床に入った。静かな話声が長く長 く続いた。 ************************************ 十二 ************************************  あくる朝の七時ごろには、軍服を薦たかれの姿が、M 市から丁町のほうへ行く大きな街道の松並木のところに 動いていっていた。昨夜降った雨は、からりとあがっ   沙ちぱた             こ じやり て、路傍の草や、木や、小砂利や、そういうものは洗っ     書 れい たように絡麗になってみえていたけれども、空にはそう   おもかげ                          あお  こまや した面影はもう少しも残っていなかった。碧い穫かな前                    うず在 の山がらは、白い湧くような雲がもくもくと渦きあがっ た。             きんらん  朝日はすでに昇って、その燦燗とした光線は、広い野 から遠い山へとさしわたっていた。露は皆な美しく氷が    お宮 やいて躍った。山裾のところどころに散夜している村落     あさげ からは、朝炊の煙が半ば白く半ば灰色に真直に立昇って いた。             こま  かれは昨夜からのことを細かに頭に浮べながら歩い た。かれはまだ暗いうちに、二円なにがしの勘定をし           の、か て、いちはやくそこから遁れるようにして出てきたこと を思った。そしてそこから裏道をずっと大通りに出てこ ちらへとやってきたことを思った。し水しかれの持った                   いち。こう 重荷は、依然としてもとのままであった。二曇も減じな                      よろこび かった。とにかく、そういう危機を遁れたという醤悦は           いちさ じ あっても、それはほんの一些事で、かれはその身の処置 についてはな為深く思い悩まなければならな渉った。大 ************************************ 319 一兵卒の銃殺 通近くにきた時には、もう夜が明け離れていたが、がれ はどんなにその軍服姿を町の人々に見られるのを恐れた ぐあろう。少し知識のあるものは朝早く兵士の歩いてい るのを見て怪し嘆ぬものはあるまい。もし、憲兵にでも                  の一か 逢ったら、何と言着う。何とごまかして遁れよう。昨ほ 脱営兵のあったことは、もはや市の憲兵隊には知れてい            モ、うさく よう。あるいはすでにその捜聚の網を張っているかもか                 由いこう れない。路の角で、ひょっくり憲兵に翅遁したが最後、   ぱんじoよう                                  かわせ もう万事了すである。その暁には何もかも知れる。為替 の一件ばかりではない。昨夜やったことも知れる。かれ      幅と切              胆 はもう川の畔で思ったような煮えきらない決沁ではいら れないことを痛切に思った。かれの運命は一夜のうちに       わだち ますますその轍の中に深く入っていっているのをかれは            と5とん 思った。もう、どうしても逃遁するよりほかにしかたが ない。今までの自分の生活も知らず、存在も知らなかっ たところに行くよりほがしかたがない。「あの洒がわる       ホ,几 かった。あの酒揚の酒がわるかった。あの時、あの酒を              うち 飲嘆ずに、行き憎くとも親類の家に行くか、そうでなけ                  由 しつ れば、中隊長の宅にでも行って、自分の遇失をあやまれ ばよかった。あの酒がわるかった」こう後侮してみても もう追いつかながった。  それに、一方には、「もうこうなった上はしがた淡な ************************************                       控 じ い。なるようにしかならない。ぐずぐずしていて、恥辱 仰  うわぬo の上塗をするようになっては、それこそな着愚だ」こう いう腹があった。あるいはかれは、財布に金の余裕があ ったなら、いや金があってもM市ではできない松、もし できたなら、いちはやくこの軍帽と軍服と銃剣とを捨て        き か                           己う て、曹通の和服に着改えたいと思った。かれは蒼白い昴 ふん 奮した顔をして、巡査の交番の前を通るのをすら、恐れ て廻り道をして、かろうじてこちらの街道のほうへ出て きたのであった。  この街道はM市からずっと長く東京のほうにもつづい ているし、また反対に日本の北の果てまでも行っている ような古い大きな重要な交通路である添、それに沿って 汽車のレーカもっづき、電信の柱も並んでいた。それは かれの故郷のほうへ行く街道とはまったく方角を異にし ていた。  しかし、伽れがどうしてこの街道を選んだが。ごちら のほうに向って歩いてきたか。知已も縁故も何もないこ              もゆみ の方面に向ってなぜその最初の歩を進めてきたか。それ にもかれが広い自由な世間に向ってその身をかくそうと する意謹茄動いていたことはたしかであるが、それ以外                  い在螂Lや      にぎ に、がれはかねて漫然聞いていた大きな稲荷社のある賑    弓まいち やがな馬市の立つその丁町に行ってみて、な着そこで、 もう一度深く自分の運命について考えてみようというよ うな念が、かれのむの底に潜ん㍗いた。 「しかし、何を為いてもまず第一に、危険の多いこのM 市から脱しなければならない」こう思って、かれは一生 懸命に場末の家並の不揃な町を歩いてきた。  で、町から火る最初の松並木の入口に来ると、かれは      ためい童  つ 立どまって溜息を吐いた。                     ^ンケチ  かれは軍帽を取って、ポッケヅトから引出した手巾で、                 ボ貞一一 はず 流れ落ちる汗を拭いて、それから胸の釦を外した。  と、兵営の生活がまた新たにかれにいろいろと思いだ               らつは されてきた。もう七時半だ。起床螂臥はとうに鳴った。 もうそろそろ人員点呼が始まっているころだ。あの班長      ひげ  ひね は桐変らず嚢を捻りながら号令を立てているだろう。こ とによるとあの将校は難かしい顔をして、営庭で兵士た ちに号令をかけているであろう。Nはあいつは平生から 伸がわるかったから、別に阿とも思っていないだろうけ れど、戦友のKはさすがにこの俺の身を心配していてく れるだろう。どうしたろうと思っていてくれるだろう。         ふらつ Kには、昨日、町を術傳いている時に、あのB通りでち ょっとでっくわした。Kはいくらか酒に酔っていて冗談 口などを聞いた。そこで逢ったこの俺が−その時まで はこんなことがあろうとはゆめにも思っていなかった俺 ************************************ が、不意に脱営兵の汚名を帯びようとは、Kも不思議に も思っているだろうし、驚いてもいるだろう。あの男と                ざん、こう は戦争にいっしょに行って、恐しい塑壕の中の生渦の味     を                せつζう もともに嘗めれば、危険な斥候にもともに出かげていっ たことがあった。敵の騎兵に追かけられて、林の中から                  む亡う 池の中に半日がくれていた時、あいつは向の土手の下に 小さくなっていたっけ−・・−。こう思うと、考えは戦場の 光景のほうへゆくりなく引寄せられていった。辛いには 辛がったけれど、着もしろいにも右もしろかった。あの                       さくえん 空申にぱツと散る敵の砲弾−・・−白いないしは灰色の炸煙  …山陰に巧にかくれてある敵の砲兵陣地、ピカリと光      十さま             とどろき ると思うと、凄じい雷のような轟の反響…−。  何だか自分の今歩いているところは、戦地で、あの向 うの林のこんもりとした中に敵が隠れているような気が する。自分はある任務を持ってここに来ているような気 淡する。−きゅうにわれに返る。ポ安の重荷が依然と       ふさ してかれの胸を塞いでくる口 「しかし、とにかく、ここまでくれば、もうだいじょう      とら       射それ ぶだ。憲兵に捉えられる虞はない」こう思ってまたかれ は歩き始めた。  その松並木を出ようとする時、ふと遼くから音淡近づ いてきて、や添て貨軍と客車とを連結した長い汽車が、 ************************************ 521 ’兵卒の銃殺 かれの歩いているすぐ左の畠の中を通っていった。それ  ゆ多べ は昨夜十一時に東京を出た急行車で、客車の窓には朝日 添さし通って、客躯ごたごたしているのが半ぱ黒く見え ていた。「あそこにいる人たちは、皆なのんきに旅行を つづけているのだ。自分のような重荷を持っているもの は一人もないのだ」ふとこう思うと、かれはたまらなく さびしく悲しくなってくるのを覚えた。          むを  汽車の通過し去った空しい長いレールをかれはぼんや りした態度で、立ちどまって、じっと跳めた。  しばらくしてかれはまたぼつぼつと歩きだした。 ************************************      十三            かやぷ音  人家が見えだしてきた。茅暮の草の生えた屋棋添、不 揃な高低のある見すぼらしい屋根が、首い大きな昔は本 陣でもあったかと思われるような旅館が、一年に幾度嗚                       そうLん るであろうと思われるような半鐘台が、ぼんやりと喪心 したもののようにぶらりぶらり歩いている男が……。  なかば  半は崩れかけた荒壁のかたわらに、田舎によく見る外 便所があって、そこに粟の大きな樹に、白い花が一面 に、咲いているのが見えた。土台の曲った、間の溝の仰         やまとしようじ 向い永小さな家に、大和障子がのめるようにはまってい   老カぱ               たば            みをo て、半は闕いた処から、束ね髪の汚ない身装をした女 ************************************   あく が、欠びをしな淡ら出てくるのが見えた、家と家との間 迦            ば れいしよ に、狭い野菜畑があって、罵鈴馨添白く紫に花を咲がせ     5ち                      ののし ていた。家の中で母親らしい声で何か罵っているのが聞 えて、や松て男の児添急いで家から走りだしてくるのが 見えた。  かれは急いで来たために、すでによほど前がら空腹を 感じていた。人家のある処に行ったら、とにかく食う物 を捜そうと思いながらかれは歩いてきた。まだ朝食を食 うくらいの金は残っていた。       そ ぱ  ふと、うどん蕎麦と障子に書いてある家添眼についた。  かれは入っていった。 「うどん水、そばねえかね?」  そこにいた肥った上さんは、靴の音にちょっと驚いた ように撮向いたが、 「まだ、ねえな、朝が早いで」 「できねえいかな」 「でかしゃできるが、まだ、起きたべいだでな」  つべ 「冷たくっても、何モもいいんだが、昨日の残ったのも ねえか」 「何にも、はア、ねえだよ」  しがたがないので、かれは出てきた。なるほどまだ朝 が早い。どこの飲食店でも、朝食を早く食わせてくれる ような家はありそうにも思われなかった。かれは二三         き 軒、同じようにして訊いてみたが、どこでも同じような 答を得るばかりやあった。  かれはある店で訊いた。                  ゆん、へ      皐く 「どこがないかね、食わせる家が?…−昨夜、隊に徴れ                へ て、夜通して堆いて、すっかり腹が空っちゃったんだが」 「そうさな」                     おやじ  そこでかれに応対したのは、四十五六の汚い爺であっ た。「そうさな」こうもう一度言って考えたが、かれと いっしょに外へ出て、「もう小し行くとな、有側にな、 二 を や 古奈屋ヅていう家があるア。あそこへ行ったら、できる がもしんねえ」 「ありがとう」  かれはまた歩いた。  一軒、一軒かれは右側を見い見い行った。しかし容易 にその古奈屋という家もなければ、飲食店らしい家も見 当らなかった。ただ同じような不揃な高低のある家並が 続いた。C村信用組合などという札のかかっている家な どもあった。  ふとガフソとした広場がかれの眼の前の単調を破っ た。見ると、それは村の小学校であった。奥に二階建の 大きな枚舎が見えて、朝日が晴れやかにそこを照した。 ************************************          ぷらんこ     ゆうえんぽく     もくぱ 広場には機械体操の鰍纏だの、遊円木だの、木馬だのが                       ぱかま 見えた。生徒はすでに大勢集っていた。風呂敷包を袴の 上に負っている女の生徒なども見えた。     ぐ あい  校舎の具合がちょっと似ているので、かれはまた兵営 を思いだした。もう奴ら、朝飯を食ってしまったろう な。と思うと、ぞろぞろ炊事場へと当番の出ていくのが                   ど  な 見えるような気がした。炊事の下士が何か怒鳴っている のが見える。つづいて、戦地での炊事の光景がありあり                    オL と浮んで見えた。大きな釜…−白い湯気・−−炊いだ米を 入れたほうの釜をザブリと湯釜の中に人れる…:・そこら                うわぎ に歩いているカーキー色の軍服・…−上衣を脱いでせっせ  まないた        さけ と銅板で大きな鮭を切っている兵士:…。  人家がほぼつきて向うに野と畠と広い街道とが見えだ したと思った時、かれはふと有側に飲食店らしい家が一 軒あるのを発見した。はたして古奈屋という字が入口の 障子に書いてあった。  いきなり入っていったかれは、 「朝飯を食わせてくれないかな」                   たポ彗      殺  そこにいた主婦らしい中年の女の眼も、曜がけをして 銃                          の いた若いぼってりした一目でそれとわかる酌婦の眼も、卒   くりや                           兵 前の厨のところに眠そうにして立っていたこれもやはり 一 若い女の眼も、皆ないっせいにこっちを見た。   郷 「へい……」  と主婦は言って、女たちとちょっと眼を合せた淡「ま ア、着かけなさいまし」  これモ安心したというように、かれはそこに行って腰 をどっかと下した。がれはかなり疲れていた。そうたい                      ゆう、へ して歩いてきたというわけモはないが、石安が、昨夜が                 と。が らの不健康の行為が、気がねと心配と尖った神経が、久 しく忍んできた飢がかれをまったくぐったりさせた。か れはポヅケヅトから朝口の袋を出して、四本残っている          たす善 うちから一本出した。簿がけをしているぼってりした女 は、そこにある火鉢をがれのほうに押してやった。 「拾上んなさい、奥も空いていますから」  こう主婦は言った。  それには返事はせずに、腰かげたまま、がれは火をつ   たぱζ けた姻草をスバスバとう妻そうに吸った。浅黒い底には わ            こうふん 若かい案分のある口叩奄した顔が軍帽の下からそれと覗か    く箏や れた。厨のほうにいる女はまたこっちのほうを見た。 「まア、着上んなさい」  主婦はまた勧めた。                      ゆ5ぺ  かれは姻草を吸いながら、弁護するように、「昨夜、    おく 演習で後れちゃってね、夜ひる歩いて、すっかり腹が減 っちゃった」 ************************************  「それはどうも・:…」                理                          3 「どこに行っちゃったか、これがら隊を探さなくっちゃ ならない」 「それはたいへんですね」         ゆう。へ 「この村は、隊は昨夜通らな加ったかな」  主婦は女たちのほうを向いて、「兵隊さん?……通ら ないようだったね、お前」 「え、通らないようでしたよ」  厨のほうの女が答えた。 「じゃ、この村は通遇しなかったんだな。どこに行っち ゃったか」こう苗、口って、わざとかれけ考んるような風を して、「じゃ、向うへ行ったとみえるな」  しぱらくして、「まア、若上んさい」こう主婦は勧め た。 「面働だから、ここでいいや」 「まア、それでも……」 「じや上るかな」  こう言って、靴をぬいで、かれは上へと上りかけた。 ぼってりしたほうの女がかれの先に立った。  かれには入ってきた時から、この飲食店のどういう種 類の飲食店であるかということがすぐ飲みこめた。厨の            とくo   せん  わん ほうにずらりと並んである徳利、膳、椀、小皿、その下                    ゆ5、へ にまだ片づけずにある膳と椀と徳利とは、昨夜更けてか          かんらく  たん{萱    壱、こo らのある男の騒ぎと歓楽と耽溺との名残を語っていた。 かれは自分の昨夜やったことなどを繰返した。  かれの導かれたのは、すぐとっづきの六畳の一問であ       やh          ちやぶだい った。中央に焼こげだらけの餉台が置いてあって、丑も 酒や汁や焼穴で汚くよごれていた。               たぱ〔阻ん  安物の火入の縁のかけている姻草甜にいっぱいになる       、 、 ような大きなオキを入れて、やがて女は持ってきた。  女はにこにこと笑いながら、 「隊に若くれちゃ困ったろうね」 「うん−…困った」 「これからまた探すのかえ」 「もう少し探がして、わからなけりゃしかたがねえから、 帰るんだが−」  こう芸一口ったが、「早く持ってきて着くれね。何にもな くってもいいがら・…−」 「かしこまりました。奉酒は?」 「酒なんかいらない」 「そう?」             ちやぷだい  女はまだそこを去らずに、餉台に寄りかかるようにし て、色の白い肉づきのいい笑顔をこっちに見せていた。  ゆう、へ                   から  昨夜の女のことがかれの頭に絡みつくようにみえた。 ************************************ その女の肉づきのいい肌がそこにいる女といっしょにな ってがれを刺戟した。 「忙しいだろう?」 「そう忙しくもねえがね1」笑ってまだ去らずにいる。 「為もしろいことがあるかね」 一。何にもねえよL 「そんなことはねえだろう。たくさんあ−るだろう」  こう軽い心持で号−目ったが、そういう心持ではいられな い自分やあることを思って、か札は顔を曇らせた。  女はぐずぐずしていたが、何が阻舎唄らしいものを軽 く口の中で唄いながら、立って向うに行った。  一人になったかれは、それとなくあたりを見廻した。 をげし 長押には何と読むのだかわからない大きな字を警いた額 がかかっていて、その下に押入れがあり、右に汚いくし ゃくしゃした庭が小さく見えていた。かれは立って抑入 を明けてみた。箱みたいなものと、汚い蒲団と、油だら けになった船底枕とが入っていた。                    ゆう、へ  ふと、洒を一本飲むかなとかれは思った。昨夜の悪酒 がいくらかまだ残っていて、頭がぎ・Wぎん痛む。いやに                む池い、さけ 圧しつけられるような気分である。迎酒をすればきっと いいにきまっている。かれは腹の中で、財布に残ってい る金を考えた。まだ一円と少し残っているはずである。 ************************************ 325 ************************************ 一兵卒の銃殺 二本、飲んでやれ、かまうもんが」こうかれは思った。 しかしすぐ手を鳴らす気にもなれなかった。  女が玉子燥か何かで膳を運んできたのは、ややしばら く立ってからであった。それでもかれはまだ酒を飲もう が、飲むまいかと思って考えていた。  きゅうに、 二本、着くれな」 「酒?」 「その代り一本きりだ。酔っちゃっても困るから……」  女は笑いながら出ていった。こうした女には、客はど ういう客であるか、これまで自分たちと同しような女を 椙手にした客であるか、それともそうでないか。そうい うことはすぐわかるらしかった。やがて女は徳利を持っ てきた。  そしてそこに坐って酌をした。               し  あつい酒は疲れた体にむっと染みこむように感じられ た。すこぶるうまかった。一杯二杯とかれは盃を重ねた。  ゆう。へ  昨夜の女の肌がまたはっきりと浮んできた。かれには どうしてそう女添ついて廻っているのかわからないが、 凌たどうしてそう女が深く自分の頭の中に食いこんでい                せんい るがわからないが、とに水くその繊維と自分の繊維の問 に密接なある接触関係を深く強く持っていることを考え ************************************ ずにはおられなかった。加れは悲しいような箕がした。鋤 とはいえ、ぼってりした肉づきのいい女が、かれといっ しょにそこにいて、酌をしてくれるということは、かれ をその重荷からいくらか落ちつかせたことは事実であっ た。         皆  かれは冗談口を利くような軽い気分でないのにかかわ らず、それでもやはり女を桐手にして軽い口を利いた。             者 かれは女の生れた故郷などを訊いた。 「そうかえ、A町かえ」 「知っているの?」 「B町に、親類があるから、よく行ったことがあるよ」 「そうかね、まア」  などと言って女はなつかしがった。その近所の話だ の、そこの奉祭の話などをかれはした。しかしかれは疲 れていた。飢えていた。一本酒を飲んでしまうと、かれ はすぐ飯を食った。  膳を片づけて、女のふたたびそこに入ってきた時に      すわ は、かれは坐った位置の童重に後に倒れて、両手を後顕         こんすい 部にあてながら、昏睡したというようにして眠ってい     悟う吉ん た。体の飽満とアルコールの刺戟とは、苦もなく疲れた がれを眠らせた。           あて  女添枕を,出して頭に宛がったのもかれは知らずにい た。 何時間眠ったかかれは知らなかったが、ふと気払っく と、さっきのぼってりした女がそばに来て、しきりにか   よぴさ れを呼覚ましていた。  かれは驚いたような顔をして、すぐ起上ったが、 「ああ寝ちゃった、寝ちゃった1」 「あまりよく寝ているから着気の毒だったけれど、あま り時間が経って、遅くなるとわりいツて着上さん埜言う から…−」 「ああたいへん寝ちゃった…−いったい何時だ。。≡」時                ひる 計を出してみて、「もう十一時だ。午だ。ずいぶん寝た」 「よほどくたびれたとみえるのね」 「行こう、行こう、たいへん邪魔しちゃった…」こう 言ってかれは立上った。勘窟のほかにかれは二十銭女に やった。 ************************************ 十四 ************************************  かれはまた歩きだした。                   ゆう。へ  寝た若蔭で頭はからりと晴れていたが、昨夜からの疲      過いふく 労もよほど恢復したように思われたが、その代りにセン チメソタルなもの蒜しいような気分がかれの心を占めて いた。 ************************************  天気はよく晴れていた。日はうららかに照った。若葉               みをぎ の濃い緑は、野にも山にも一面に瀕りわたって、麦の穂          をいろ は傭び、中でももう黄く色づきかけたものなども見え   いんげんまめ                      ぱ れいしよ た。隠元豆の畑、白い紫の花の咲いた馬鈴薯の畑、稻の 言 れい 続麗に植えつけられてある水田、その向うには低い山か        れんこ5 ら高い山へとの連亙が鮮かに指ささ牝た。  どこを見ても皆な明るく、鮮かに、天地は光りと輝き  よろこぴ と冨悦とに満ちわたっていた。それに比べて、かれの心           さん の内部の状態は、いかに惨たるものであったろう。いか  あんたん に暗濃としたものであったろう。またいかに苦痛に満た されたものであったろう。かれはこの明るさと鮮がさと 喜ばしさに対して、じかにそれに面してはいられないよ                       苗 キL うな気がした。天地はこのと為り美しく、人間は皆嬉々 としているのに、自分ばかりなぜこう辛い苦しい重荷を    おうの5                             、、 おちい 抱いて換悩しなければならないのか。こういうハメに陥 ってゆかなければならないのが。きゅうにいろいろな記                一こたごた 憶や追想やらがいっしょになって、混雑と集ってきて、 堪えがたい涙がグッと胸にこみ上げてきた。  ちょうどこの飾家出をした時、雪の白い大きな山脈を                      みな封 仰いで涙を流したような悲哀が、止め度なく強く滋るよ うにがれを襲ってきた。  かれは泣きな淡ら歩いた。 ************************************ 327 一兵卒の銃殺                しやポ  がれは立ちどまったり歩いたり騨躍んだりした。  犬きな街遭は長くその飾にっづいていた。向うには美 しい並木松茄また見えだしてきていた。概してその路を 歩いていくものは沙いほうであったが、それでもかれは              わらじ いろいろな人たちに逢った。草鞍をはいて違い旅を来た              ひ ようなあわれな旅客、荷車を曳いて疲れたようにしてや ってくる若者、旧式な雇台をかついでよぽよぼとして歩           主やじ いていく汚い風をした老爺、どこ水近所の百姓の上さん らしい尻からげをした女、三二人づれで、中には女もま     公しろい  まだら       げつきん ざって、白松を斑にっけて月琴などを持って歩いていく     あめや                   けちのoひげ ヨカヨカ飴屋、村の医者らしい八字蟹を生やして鞄を持 った車の上の中年の紳士・…−。と思うと、汽車がまたそ の響をあたりに振わせて勢よく通っていった。                 かτ  兵営のさまが翁り拾りかれの頭を掠めて適ったが、し がしもうかれは始めのようにはっきりと、また長い間そ れを浮べてはいなかった。何と思ったって、もうあとへ 引かえすことはできなかった。先へi耕しい運命へ向 っていくよりほかにしかた茄ないということをかれは思 つた。  丁町−そこは汽車㍗はたぴたび通ったが、また話に は闘いていたが、大きな]本での元租であるTという稲 荷があって、馬市には非常に賑やがであるとは知ってい ************************************ たが、とにかく始めてそこに行くかれは、理由なしに、28                          3 そこにある運命がかれを待っているような気がした。と にがく、そこまで行ってみよう。そうした上で、先へ出 るなりあとに戻るなりするとして、それまでいっさいい ろいろなことを思い悩んだり苦んだりするのは止そう。 あるいほそこに行ったなら、思いもかけない運命私自分 を待っていて、この不安な不定な状態をたやすく解淡し 得るかもしれなかった。  M市から丁町虫で、五里には少し逮かった。 ************************************ 十五 ************************************  午後三時ごろ、水れの姿は丁町から一里手前にある、     し夢く 昔の中の宿といったようなK町の通に見えていた。              ようさん  それは汚い衰えた長い町で、養蚕などでわずかに息を ついているような小さな町であった。したがってどこの          か、こ  、、 家でも、養蚕につかう寵やざるが干してあって、軒には   まゆ 白い繭が美しく臼にかがやいて光っていた。                  唾ご 口  いくらか午後からは風が出て、街道の塵挨がところど     あが                             りこぎり ころ白く殿っているの松見えた。どこがで大工の鋸や かん考 鉋を使っている音がした。                       うわぎ  かれは軍帽を脱い㍗、為り為り額の汗を拭った。上衣  ポ女ン 珪かぱ の釦は半はずしてある。ズ蒜ンは逮く歩いてきたという     稻こo しるしの挨が白くぽかしのようについている。一歩一歩 歩く靴も重そうであった。                      あ一か  かれはこの町の入口で、うまそうに湯気の白く鵬って        まんじゆ5                   す いるふかしたての饅顕を五つ買って、それでいくらか伜                   はず き加減の腹を満した。今、かれはその町の外れ近いとこ ろを歩いていた。        おけや  そこに一軒、桶屋があった。店にはできトった棚だ の、できかがった桶だの、桶にする板だのがいっぱいに               ち舳うこオ、う 棚やら仕事場やらに並んでいて、中小僧がせっせと台に       珪た                     な査め 板を当てながら鉱で削っているのが、午後の斜にさしこ んでくる日影に明るく浮きだすように見えていた。家の                     むしろ 前では、四十五六になるそこの亭主が、地両に筵を敷い て、坐って、桶のだがをかけるために、長い細い割竹を せつせつ  し。こ 精々と扱いて丸めていた。                、 、  かれはそこに来がかったが、そのだがに丸める細い割 竹のくるくると廻るのに眼を留めて、さながらめずらし     み と いものに見惚れたア供か何ぞのように、じっと立ってそ れを見た。  といって、そばに寄るでもなく、何か亭主に話しかけ るでもなかった。かれはぽんやりとしてただ立ちどまっ て眺めた。  亭主の引くにつれて、細い割竹はくるくると丸まっ ************************************       、 、 て、だんだんたがになっていったが、それを亭主ば楴の                      ゆる 縁にあてて、一度あてがってみて、また外して、緩めた りっめたりして、さらにそれを桶の縁にはめこませた。    あ そして宛てがったくさびの上を、桶を廻しながらトント         、 、 ンと軽く叩くと、たがはしだいにうまく楠の中ほどのと ころにはまっていった。  トノ、トノと叩くにつれて、亭主の手にした桶は着も しろく廻っていった。  がれはぽんやりと立って見つめた口  一つすむと、今度は亭杢はさらにまた糾い長い割竹を    た ぐ 取って手繰って丸め始めた。くるくると見るがうちに、                 、 、 竹は丸く輸を描いて、予早くふたたびたがになっていっ た。長い綱い割竹の末が絶えず動いた。  立ちどまったがれの横顔の半面からかけて、亭主の手 もと、桶の一方の側、それから店の仕専場、中小僧の蛇 をつかっているほうへと午後の日影は明るくさしわたっ ていた。  かれはそこに十分ほどじっとして立ちどまっていた。                      、 、 なぜそこにそうして立ちつくしていたか、亭主のだがを はめるさま松着もしろくってそれに見惚れていたのか、                        つか それともほかに何か那由があったのか、それともまた労 れたのか、それはかれ自身にもわからなかった。かれは ************************************ 329 一兵卒の銃殺 そうしん 喪心したもののようにみえた。  や沸てふたたびかれは歩き始めた。  亭主は店の中小僧に言った。 「変な兵隊がいるもんだな。立って見てやがった」         わたくL 「ほんとうですね。私はまた何か胴でもあるんかと思 った」  、か 官                       、、 「餓鬼じゃありゃしめいしな。たがを入れているのを見 ている奴もねえもんだ。変な兵隊だな」 「ほんとうですね、親方」 「どうかしてやがるんだ。どうだ、あの歩きざまを見ろ          かつこう よ。肩が落ちるような恰好をして歩いてら」 1どれ?」  と言って、中小僧は仕事をやめて出てきた。それとき きつけてヒさんも出てきた。「それだよ、それ、向うに                 3しろ よちよち歩いていく兵隊だよ。じっと後に来て立って見                   、 、 てやがる。それがちょっとじゃねえ、このだがを二つは めてしまう聞見てやがった。何か、言うかと思えや何にも 言いやしねえ。変なのんきな兵隊もあったもんだなア」 「どれさ…−」         き  出てきた上さんは訊いた。 「それ、向うにぐずぐず歩いていくじゃねえか」 「ああ、あれ」 ************************************  こう言った止さんは、午後の日影の中を、通りの右側 郷      ちやカつしよく に添って、茶褐色の軍服と軍帽とをはっきりとあたりに 見せて、欝がに歩いていっている一人の兵士の姿を見 た。 「ほんとうに変でしたね、親方」                   准こ o  こう言って三人は笑った。風がまた白い塵壕をあたり に立てた。 ************************************ 十六 ************************************  丁町に行き着くまでに、かれはな為かなりに長い時間  ついや                           ひるめし      ぜに を費した。腹は減ったけれども、もう午飯を食う銭もな    ・                          い も いので、二銭出して、かれはまたふかし甘薯を買って食 った。同じような並木松と、町と、村落と、野と、畠と は、行っても行っても際限なく続いた。                   れんこう  有に絶えずその餉景をなしている山嶺の連亙は、その 色と姿とをいつか変えていっていた。今は午後の日影の    あお                         ひだ 下に、碧はやや赤味を帯び、その複雑した嚢も、午前の ようなはっきりした形を見せなくなった。雲はいくらか                     うずま 出て、遠い山の頂には湧くような白い堆積が渦き上っ た。       ぽ ろ  入口に汚い監霞の蒲団を干しているような家もあれ ぱ、ぼっつり道路に面してさびしく立っている農家など                       あし もあった。ところどころ川松満ちて流れて、川柳や麓や 欝が青々と生えていた。あるところでは、そうした小川 に橋がかかって、その向うに農家の邸宅と思わるるよう  しようしや な瀞酒な家に女の姿などが見えた。  す                き  摩れ違った男にかれは訊いた。 「丁町までまだよほどありますかし 「いいえ、もうすぐ」            そつけ  と言い捨ててその男は素気なく向うに行った。  しばらく行って、かれはまた同L間をくり返した。     はんてん  今度は絆纏を滴た汚い爺さんであったが、立ちどまっ  ていねい て丁寧に、「もうすぐだ。五六町あんめい。もう家が見                 ゆぴさ えるはずだ」こう言って後のほうを指してみせた。  少し行くと、はたしてその丁町1どんな運命がそこ にかれを待っているかしれない丁町が、午後の日影を帯                  いらか          、こた びてそれと見えだしてきた。高い低い麓、白い⊥蔵、混 ごた 雑した家並、それが広い晴れた平野の地平線の上に浮き だすように・…−。  汽車のレールがずっと町に入っていって、その向うに               とど庄 大きな停車揚、信号柱、そこに留っている貨車などが見 えた。白っぽけた小さな丘陵がそこここに現われだし て、ひょろ松が二一本その上に生えていた。左は一面の               ひろ 野で、青々とした水田の果ては潤く遠く、たぶん海の⊥ ************************************ に浮んでいるだろうと思わ札る白い人きな鳥の翼のよう な雲が、日に照されて半ば赤く染って見わたされた。  やがてかれは丁町の入口のところへと来た。  川の水が流れていた。そこには橋ががかっている。見 ると、向う岸にこんもりとした緑樹の繁茂があって、そ    かたよ         あひる の下に偏った流れに家鴨が七八羽ギャアギャア言いなが                        缶t ら泳いでいた。山から出てまだいくらも流れない水は精 れい 麗で、せせらぎを立てて流れていたが、こっちは石原に                 はだ」 脊い草が生えて、子供たちがその間を跣足で遊んでいる のが見えた。緑草の中には何という花か知らないが白い 花がまじって咲いていた。野藤などもかかっていた。  橋の上でまたぼんやりとして立ちどまったかれは、見 るともなく、その水に浮んだ家鴨の群を見た。家鴨は水 かきのついた大きな足で、伏の重さを持扱っているよう にして鳴きながらよちよち歩いた。ふとがれは故郷のこ とを思った。一番先に、母親の顔が眼に浮んだ。この餉 の日曜日に別に用事があってM市に来たついでだと言っ て、ある家の二階で半日母親といっしょにいた。母も老 いて、白髪がもう眼に立ち始めてきていた。その時里に 帰っている妻の話をしたことをかれは思いだした。母親 は里の人たちの義理知らず情しらずをさんざん並べたて た後で、「いったい、若雪はまたどういう気でいるんだ ************************************ 331  一よ毒・考宇・¢)隻充葦簑                  うつちや か」と言った。がれはその時、「なアに、投って為くさ、 あんな奴、もう帰ってきてもらわなくったっていいんだ   珀つか                                  きんし くん よ、母さん」と言った。その時は今度の戦功で、金鶏勲 しよら                                           ’ 章はとても貰えないが、ちっとは金がよけいに下るだろ うなどと言って、一年後の除隊の時の話などを母親にし た。それもこれも皆なだめになったとかれは思ったぺ続      やますそ                                ーオ いてかれは山裾の寺の中に埋められている老祖母の鮫の                   いろガラ ユ 多い笑顔を思いだした。大きい女郎屋の色硝子の窓に当 った夕日のさまがちょっと浮んでそLてすぐまた消えて いつた。            らんかん  よ  いつとなくかれは橋の濁干に党りかかるようにしてい た。もうかれは家鴨の群を見るでもなく、子供の遊ぶの を見るでもなく、また川の流れを眺めるでもなかった。 かれはただぽんやりしていた。と、その側を荷車が通っ たり、女を乗せた車が通ったり、人添ぞろぞろ通ったり した。若い町の妓が二人づれで予をっなぎながら、何か 若もしろそうに楽しそうに笑って話しつつ通っていった りした。  しばらくしてはっと気がついたようにして、かれ伐ま た静かに歩きだした。  町淡長く続いた。それはこの平野の中では、M市につ いでの重要な町で、人口も一万近くあって、月に三回賑 ************************************    いち やかな市も立つので、どことなくあたりが活気に冨んで 勉 いた。家並なども揃っていた。  でも、町の申心まで来るには、かなりの距離松あっ た。すくなくとも七八町、もっとあるようにすらかれに は思われた。呉服屋、乾物屋、雑貨店、金物屋、桶屋、            廿つせづ ある家の前では、小僧が精々と荷をっくっていた。ある 店では、ここらに見かけないような若い東京風の細君   そく牡つ                 巳 い 寸 が、束髪姿を後に見せて、丸い小椅子に腰をかけて、物            は以あたま を買っていた。ある店には禿頭の番頭添退屈そうに坐っ て通りを見ていた。  町に入るとともに、しばらくかれを離れていた不安が またかれを襲ってきた。こζには、憲兵の心配はない が、それ㍗もこうして一人で軍服で歩いていて、もしや 人に疑われはしないが。不思議に思われやしないか。こ う思うと、何だかたまらなく不安に危険に感じられてき た。何より一刻も早くこの軍服を脱ぐ、算段をしなけれ ばならないと思った。そうだ・−−・ほんとうに一刻も早く              とが 「しかし、しかたがない、もし智められたら、外泊で帰 郷中だと答えよう。外泊証を見せろと言ったらまたその 時のことだ…・−あるいは、隊からここまでもう手淡廻っ ているかもしれないけれど、警繁と軍隊とでは捜聚の方 針も違うだろうがら、まだだいじょうぶだろう。知れた ら、知れた時だ」こんなことを思いながらかれは歩い た。  だんだん町の中心に近づきっっあった。しかし思いの ほかに時間が経った。あるところで見た時計は、もう五 時を五六分すぎていた。五六里の路に一日! 自分なが らずいぶんぐずぐずして歩いてきたものだと思った。 「しかし、あそこで半Hは寝たようなもんだから」とも思 った口それに、早く行く必要はない。あまり早く行って 泊るとかえって旅館の人たちにも疑われる口  つづいて自分の財布にもういくらも金が残っていない ことが気になりだした。どこにかれは宿賃を得るやあろ うか。どこにかれは茶代を得るであろうか。かれはまた 昨夜のようにして金を得る算段をしなければならないの か。こう思うと、かれはうんざりした。どこまでこの重 荷がかれについて廻っていくのであろう。どこまで行っ たら、かれはこの重荷を脱することがモきるであろう。 がれの考えは、循環小数のように、またそれからそれへ           ちゆうらよ と繰返された。「あの時購踏せずに、営門の中に入って いけばよがった。なぜいかなかったか。なぜ…」こう 思うと同時に、いっそこれから宿に着いたら、国に手繰 を出して、事情を詳しく警いて金を送ってもら着うか。 ************************************ こういう考がまた浮んだ。しかしそうすれば、どうして もふたたび兵舎の中に戻っていかなければならなかっ た。自分のやった罪悪を明るみに出すばかりではなく、 ちようぱつれい            告」んご 懲罰令以上の恐ろしい禁鋼の処分を今皮は受けなければ ならなかった。したがって、来年どころか、な着二年も 三年もあの兵常の中にいなければならなかった。ほんと うにどうしていいか、かれには分らなくなってしまっ た。  銀行だの、信用組合だのがだんだん町の両側にあらわ れだしてきた。人きな土蔵造の家などがあった。丁銀行                 れん、か と小さく黒い札に金文字で書いてある煉瓦づくりの家の 前には、自転車が二三台置いてあったが、ちょうどその                  むぎわら 時二十二一のハイカ一7の店員が、薪しい麦稗帽子とセル の洋服とをくっきりとあたりに見せて、そこに置いてあ               たくみ る一台の自転車に乗って、すうと巧にそこから出かけて いった。きっとどこかに現金を持っていくのに違いな          躰oか。抽ん い。あの男の持った折鞄の中には五百や千の金は入って いる。……もっと入っているかしれない−−・。こう思っ てかれはその後姿を見送った。                  かわせ  郵便局の大きな建物の前では、貯金、為替と札の出て いるところに、髪をくし巻にした女と近在の百娃らしい   おやじ                               と 汚い爺とが立って待っていた。局員の事務を執っている ************************************ 333 一呉卒の銃殺      とお のが金網を透して見えた。 「為替や貯金の跨間は、もうすぎたはずだ淡な」  それとなくかれは思った。  それから少し行ったところで、かれは、丁町警察署と 書いた札の下っているのを見た。かれはぎっくりした。                た がれはかれとこの建物との間に何水断つことのできない 因縁があって、何となく自分の体がそっちに引張られる ような気添した。それは大きな白いベンキ塗の建物であ った。二階づくりであった。門の中に形のおもしろいひ        う よろ松が二一一本裁えてあって、その奥に五六段の石段の   いか          のぞ ある厳めしい入口が覗かれた。ズボンだけ白い服にした 巡査が剣を嗚らしてそこがら出てきた。  かれは急いで、それを避けるように、通の反対のほう           さいわい の側に行った。しかし幸にも巡査は一人こうして歩い ている兵士をあやしみもしなかった。がれの撮返っ走時 には、その巡査はすで炬遠くのほうへ歩いていってい た。          ゆる  かれはまた歩調を緩やかにした。        やしら                はザ  有名な稲荷の社は、何でも町でも南の外れ近いところ にあるということをかねてかれは聞いていた。そしてそ この町の旅館の大きいのもその近所にあるということで     そうま や あった。相馬屋という旅館の名をかれはたぴたび耳にし ************************************ た。「丁町では、相馬屋疹一等さ」誰もかれも皆なこう 螂 言つた。  その桐馬屋にがれは泊ろうと思った。「とにかく、そ こへ行って考えよう」こうまたかれは思った。  かれは向うがら来た人に訊いた。         はた。−」や 「相馬屋ツていう旅籠屋はまだでしょうか」 「相馬屋、それは稲荷さまの前だ。もうじきだがー」 「ありがとう」       じ ぎ  こうかれは時宜をした。        い壱切Lや  それでもまだ稲荷社のあるところま㍗は二一町あっ      はやり泌み                            まなこ た。や松て疏行神の門前町のようなカヲアがかれの眼に 映りだしてきた。小さな旅館、つづいて、小さな料理     たす音    悟お       みやげもの 屋、赤い躍をがけた頬の赤い女中、土産物などをいっぱ いに並べて払る店、正月の勧祭はたいしたもので、近在     さい芭{く 近郷から餐客が大勢集ってきて、汽車が臨時列車を出し ても乗りきれないほどで、その時は旅館はどんな小さな 旅館でも、客でいっぱいになるということであった。そ れは古い千年も前からある稲荷社で、M市松まだ城にな            げん         ちんざ らない時分から、すでに嚴としてそこに鎮座していたの であった。 「珍入んなさい、着休みなさい」        κ芭  こう言う声は賑やかにそこにもここにもきこえた。  大きな稲荷社は、通りからは、ずっと奥深く行ってい   のぞ          と蛯い て、覗くと、大きな華表と門と宮とが暗く深い杉の森を 背最にして見えていた。                     きんけい  しかし、縁日でも何でもないので、その日は参詣する ものも少く、どの料理店にも旅館にも、客がそうたくさ んは入っていないらしがった。通りの角には、昔、街道        を 。こり                        のれん であった時分の名残の大きな女郎屋の脊い古びた暖簾           在ぴ 添、さびしそうな夕風に魔いていた。通りには駄馬が五 頭も六頭もっづいて通っていた。  ふと左のほうを見たがれは、そこに三階建ての大きな 古い旅館のあるのを見た。それが相馬屋であった。店の        Lんち晦う              こうしや 裏中に置いてある真録の大きな火鉢や、講社のビラや、 左にひろくできている門などが一番先にかれの眼に映っ た。店に接して、別に奥深く庭から入っていく入口など も見えた。  がれはそこに来て立ちどまって、高い三階を仰いだ。          ひ よけ 三階の廓下には、白い日除の幕に夕日が明るくさしわた っていた。かれは店のほうから入っていった。 ************************************ 十七 ************************************ 「いらつしやい」 こう言って番頭は迎えた。 ************************************  それにつづいて、「いらっしゃい」という上さんやら 女申やらの異口同音の声が聞えた。大きな帳場のところ には、かなり年を取ったこの家の祖母らしい婆さんがに こにこして笑っているのが見えた。 「為泊りさま㍗」「へい、きようでございますが」など とかれの様子をじろじろ見ながら番顕昼、、目ったが、「じ ゃ、二階の奥の二番」こうそこに案内に立とうとして出 てきた女中に一一一、口った。 「静かなところがいいのだがな」 「へい、ごく静かで−今じゃ、どこも空いて着ります から−−−へい、今はちょうど餐蚕の時期㍗、田舎からご 芭んけい 参詣がございませんから、それは静かで、へい」         もみモ  こう番頭はやはり操手をしながら言った。  で、かれはだぶだぶするズボンのポヅケヅトに両手を さしこみながら、幅の広い階段を女中に導かれて登って い。つた。           か お  横肥りに肥ったあまり谷色のよくない女申をかれは見 た。  なるほど番頭の言ったと着り、どこの窒もがらりと明 いていて、二階の上り口の一間に近在の農家の息子らし い客が一人いるばかりであった。やがてかれはそれをぐ         うえこみ るりと廻って、裏の裁込に両したような六畳の一間に通 ************************************ 3ラ5 一兵卒の銃殺 された。 「ちと陰気だね」 「でも静かなことはここが一番静かですな」 「それはそうだね」 「よろしいでしょうか」 「いいよ、ここで」  女申はすぐ下りていった。  さすがにかれは疲労を感じた。わずか五里の道ではあ るげれど−平生ならば半日かからずに歩いてくるほど の距離であるけれども、精神と神経払動揺しているの で、十里も十五里も遼く歩いてきたような気淋した。か     つ れは剣を吊った帯皮を取ると、その虫まいつもするよう            あおむけ に両手を後頭都に当てて仰向に倒れた。  か牝は溜息を深くついた口     てんごよう  そして天井を見つめたまま何か物を深く考えているも ののように大ぎく眼を明いてじっとしていた。  女中はやがて火を持ってきて箱火鉢の中にそれを入れ             じゆうのう て、残った巻煙草の吸殻在十納に取った。つづいて菓子           ゆオた と茶とを持ってきた。浴衣をも持ってきた。それでもな 為仰向けになったまま、かれは身動きもしなかった。  女中は言った。 「翁くたびれでしょうね?」 ************************************ 「うむ」                搬  始めてそこに女中がいるのに気がついたように、こっ ちを見て、 「そんなに歩かないのだがな」 「どこから来たな、著客さん」 「M市がら;・:・」 「汽車でなしに歩いてきたんですか」 「途中に用もあったで・・・…」 「でも、歩いちゃ、たいへんですね。五里ですか、六里 ですか」 「六里だな。五里には違いな」 「そうでしょうね、着客さまも、どうかすりゃ歩いてき たヅていう人があるけど、やはりそう言うで」 「このごろは瀞かかね?」                    “こ5じゆう 「今日は静かだけども−…−昨日は十人ほどの講中が来て な。それが騒いで、いそがしかった」こう言った添、女 中はまだ起きようともしないかれを見て、「くたびれが 治るだで、すぐ為湯に入んなされな」 「もう、できてるのか」    わ 「今、沸いて、向うの着客さんが入ったばかりだ」 「あのお客さん、前加らいるのかね」  きのう  おととい 「昨日、一昨日がら泊っていなさる。何やも、登記所か 何かに用があるんでしょう。今日はそこに行ってた−・…」 「在郷のもんかね?」 「そうらしいな」  かれは体を起したが、「ああもう和服を持ってきてく                 きゆうくつ れたのか、それはありがたい。軍服は窮屈でな」こう言        ボタン はず    うわ望             旺こり  まみ って立上って、釦を外して上衣を脱いて、白い塵挨に塗             己5し じま れたズボンを取った。下には格子縞の綿ネルのシャツの   ざら         し 洗い晒しに汗の染みこんでいるのが児えた。ズボン下も もう薄黒く汚れていた。  女中がズボンを二階の欄干のところに持ちだして、塵 壕を払っている間に、かれはそこに置いてあったさっぱ    ゆかた りした浴衣を取って薦た。 「ああ、これでさっぱりした」  ちやぷだい       あぐら  鯛台の前にゆるく胡坐をかきな泌らかれは言った。 「亡や、為風呂に右入んなさいな」     う在が  女中に促されて、がれは静かに体を起した。「まア湯 にでも入って考えよう」とこうがれは思ったのである。          はし、ご 二階の裏の折れ曲った階梯の上に来た時、そこに深く茂   あおぎ切 った梧桐に日影の薄れていっているのをかれは見た。風 はまだ吹いているが、よほど静かにはなったらしく、前        れんこう に深紫の山嶺の連亙を持った平野の町は、やがて静かな 初夏の薄暮に迫ろうとしつつあった。 ************************************            はしご  やや薄暗い足もとの危い階級を下に下りると、また、   う   ごみ                          かわや 庭の裁え込に添った廊下があって、その奥に則らしいも       ちようずぱち の茄見えて、手水鉢など淡置いてある。そこにまたもや 雲◇やりとし(立っ((る払札を、「二ちらζ丈一と葦 ’’−   、一一 、1  ■’貞:  1 i−一」−一=一‘      いろガラ云 って女中は色硝子をはめたその風呂場の尿を明けた。  がれは一番先にそこに掲げてある大きな鏡に自分の顔 の映っているのを見た。  あ布じろ  蒼白い顔、額のところの軍帽をかぶった白い跡、帽子                   いちじる のあとを印した延びた五分刈の頭、角度の著しくきわ だった頬骨、何だかそれは自分ではないような気がして −昨夜ああいうことをしたり、長い路をやってきたり した自分ではないような気がして、じっと深くそれに見           ためい首  つ 入った。かれはまた軽い溜息を吐いた。  湯に入っている時間はかなり長かった。隊とはちがっ ていかにも静かな風呂場であった。そこは早やすでに薄 暗かった松、それでも前水ら夕暮の残照がさしこんでい       ランゴ るので、まだ洋燈を要するほどでもな水った。「翁加減 はいかがでございますか」顔は見えずに、外で女の声が 殺 した。                    銃                          の 「ちょうどいいよ」                卒  音誤                茎        兵  縛麗な湯の中に白く自分の体のすき徹るのを見なが 一 ら、かれはこう無意味に答えた。あとは女は去ったらし 獅        けはい く、外に人のいる気勢もしなくなった。              ヨち  穴水ら覗いてみると、そこは家の裏の野菜畑になって       いんげん          じや。かいも      5 いるらしく、隠元だの菜だの馬鈴薯だのが裁えられてあ るの添見えた。ささげに手がやってあるのなども見え た。赤い白い花など添咲いていた。  流しに出ても、かれは別に体を洗宥うともしながっ た。一瞬の間にも心はすぐその重荷に触れていってい た。かれはぽんやりとして、考えるともなくまたそのこ とを考え始めた。           かす  硝子戸の隅のところに徴かにさしこんできていた夕暮                        あと の余照ほ、しだいに薄く薄くなって、もう少しでその痕 をとどめなくなるぱかりになっていたが、伽れ払二度目 に湯に入って流しへ出てきた時には、もうその影もまっ たく消えてしまっていた。  加れはさびしい気がした白            ゆかた  それでも蕩から上って、浴衣を潜た時には、さすがに 体がサパサバして、そんなことを同じように考えていた ヅてしかた松ない、もう少し元気をっけなければいけな い。こういう風にかれは考えた。一方から考えて。みる     はんもん と、そう煩悶して、思い崩折れてぱかりはいられながっ た。いがようにしてもかれはそのあやしい運命の申から 活路を求めなければならな水った。 ************************************                     かわや  かれは風呂場の入口の扉を明けて、それから則に入っ 珊 て、やがてそこから出てきて手を洗ったが、ふと昨夜の        ちか切 庭を隔てた暦間の燈の光景を思いだした。かれはそれと なくあたりを見廻した。     ま音    ひ扮き                    5えこみ  それは損だの檎だの松だのの繁っている裁込のところ どころに大きな石が置いてあるような庭であった。石燈 籠が一つ薄暮の空気の中に立っていた。垣を隔て、隣の        屯なめ 底場を隔てて、斜に広い平野の山のかがやきが見えた。           ひ  しかし別にがれの心を憲くようなものほなかった。水 れはそのまま静かに歩を進めて、もと来た廊下を折れ曲   はしご った階級のほうへと行った。  もう薄暗くなった二階の階級を三二段上って、折れ曲 って、な靭登ろうとしたがれは、ふとそこに、上に一人 の女の立っている姿を見た。女は顔を斜めにして、柱に 片手を寄せて、戸外の夕暮のさまでも見ているという風 であった。  さっきの女中ではないということはすぐわかったが、 がれは別に心にもかけず、そのまま一段二段と階級を上 っていった。ふと、女はこっちを見たが、自分の眼を疑 うというようにして、さらにじっとこっちを見つめて、 「まア」  と叫んだ。  かれも驚かずには若ら牝なかった。こういうところに がれを知っているものはないはずであった。かれはふた        お旦ろき  Lゆ5しよう       よろこぴ たび女を見た。驚傍は周章を混じた喜悦と昔の罪悪に                  こおんな 対する不安とに変った。かれはそこに小蝉を見た。裏の    あいび音              すが 小屋で購曳した右雪を見た。縄ってくるやさしい心と惰                        つ音」 と涙との持主であるお雪を見た。いざとなって冷淡に突 肚在 離した右雪を見た。自分の今の妻と同名であるがために 「拾雪、着雪」と母親の呼ぶ声を聞いて、今はどこにど うしているであろうと思った着雪を見た。大勢の女に触 れてみてから始めてその小さい眼から出た真珠のような まことの涙を理解することができたその為雪を見た。 「着雪じゃないかり−」 「まア」                     た  女もあまりの不意に、しばしは心臓の鼓動に堪えなか                       おもいまど ったように、またはどういう言葉を交していいかと思惑 ったように、今モも思いだすには思いだしたが、逢った                 つら ら、今度逢ったら思うさまこっちから辛く出ていってや ろうと不断思っていたのに、それを現にここで逢って、 どうした熊度に出たらいいかと思い惑うように、いくら  ち庫うちよ か騎踏の態度を見せたが、しかし、そのなつかしい、惚 れた記憶のある、始めて深い恋ということを小さな心に                 うら 植えっけてく牝たその男に対しては、俣み、つらみより ************************************ 阿より先に、なつかしいという念担胸にいっぱいになっ                せつな てきて、女は平生の考えなどをその刹那の念頭に置いて いるわけにはいかなかった。 「まア、ねえ」 「えらいところで逢ったね、こんなところで逢為うとは 思わなかった」  こういう男の一、已葉の中にも、為雪はその声と態度と表 情と気分とのかくすところなく現われているのを見た。 それはなつかしく恋しいとともに、恨めしく腹だたしい 声モあり表情であり気分であった。お雪はじっと男の顔 を見た。           いちじる  要太郎はまた要太郎モ著しく変っている着雪を見た。 かの女はもういつの間にかすっがり大人になって、肉づ きにも、顔にも、髪にも、多い男の中を、愛憎と執潜と わくでき                   ぎ へん  きよぎ   ゆうとう 惑溺との満ちた中を、ないしは欺騎と虚偽と遊蕩との中             さずあと をいくつとなく通過してきた痕跡の残っているのをかれ は見た。  かれも着雪もいろいろな記憶やら感じやらの雑然とし て起ってくるのに逢って、互に黙って立ったまま、きゅ うには何ま言えなかった。二人は互に二人を調べあうよ うにして立っていた。 「えらいところで逢ったね」 ************************************ 339 一兵卒の銃殺               幅阻えみ 男のほうがまた言った。一種の微笑−昔着雪に対し てよく男淡見せた忘れがたいなっかしい微笑を為雪は見 た。 「ほんとうですねえ、私は、どうも似てる、似てるツて 思ってはいたんですよ。さっき、廊下で後姿を見た時に も、そう思ったんだけども−まさが、若旦那だとは思 いもかけなかったもんだから・−・−今、そこで顔を合せた 時は、ほんとうにはツとしましたよ」 「まったく奇遇だな」こう言ったかれの心の底には、自                       為ぼ 分の運命の前に突然あらわれてきたこの一女性が、溺れ かけたこの自分定救命縄を披げかけてくれるか、それと                おとしい も深い谷の中にいっそう深く自分を陥れていく怖ろしい 予となるか、それがどちらともわからないような不安が 起った。一方では、「こいっから、金を引きだしてやれ」 などとも考えていた。    うらみ  昔の怨恨の痕跡−始めちょっと見えたその怨恨の痕 が、や茄て時の間にすっかり女の顔から態度から消えて            与 のが              こと  こと なくなっているのを男は見遁さなかった。一言二言話し                むご ているうちに、がれは裏の小屋で酷く取扱った小妓の笑 いと表情とをふたたびそこに発見した。かれにとっては 不思議に、またはまったく奇蹟と思われるぱかりに、自          いち口る   かたよ 分の沁が女に向って著しく偏っていっているのを感L ************************************           こおんを た。かれはそこに昔の小媒の涙と色白のあわれな顔と男測             つ の冷たい情に泣いて母親に伴れられてゆくさまとを描い た。「奉雪、宥雪」こう今の妻の名を母親が呼ぶごとに、 その小さなあわれな鳩を思いだした心松今でも続いて波 打ちっつあるのを感じた。 「若旦郡は兵隊さんになって戦争に行っているツて聞き ましたが、もう除隊になったんですが?」 「いや、今日、ちょっと用があってね」どきりとしたの  か卓 を面にもあらわさず、こう軽い調子でかれは言った。 「戦争からはいつ着帰りになったの?」 「ついこの聞だよ。まだ五六力月しが経たないよ」     がいせん 「じゃ、勤旋の時ですか」 「あの少し前だ」 「そうモすか−…・」  かれは、「今日はね、少し用があってね、二一二日の暇 を貰って出てきたんだよ」 「そうですか」  こう言ったが、翁雪は笑って、「若旦那、色払黒くなっ たのね」 「そうかな。どうしても、兵隊さんになっちゃね」やは り笑ってみせた添、「着前もずいぶん変ったぜ!」 「それは変りましたとも…−」ふとそれ水らのいろいろ  がんをん の銀難を思いだしたという風に、女は曇った顔の表情を して、「あれがら、いろんなことがあったんですもの」 「そうだろうね」  女の顔をじっと見て、 「ずいぶん、薔労したろうね」 「それや、ね、苦労しましたよ、若旦郡!」いろいろな ことを思いだすと、にわかに胸が迫ってきたというよう に、「話しきれないほどいろんなことがあるんですよ」  涙が女の眼に浮んだ。 「いっから来てるんだえ? ここに、」 「ここに来たのは、まだ先月、先々月ですけどもね、こ こに来るまでに、ずいぶん、あちこちを歩きましたよ」                      滑うぱい  突然、下で、「お雪さん、着雪さん!」と呼ぶ朋輩の 声淋した。 「はアい、何に、ここにいるよ」  こう大きな声で言った添、要太郎のほうに寄って、「十 番ね。あとで、ゆっくり話しに行きますからね。・…−㍗ もね、私茄あなたを前から知ってるようにはしないで拍 いてくださいね。まるで知らない人のようにして着いて くださいね」  かれはうなずいてみせた。 「為雪さん、何してるのよ」下からこういう声が迫って ************************************ きた。 「今、行くよ。忙しいね、ほんとうに……」こう言った が、要太郎のほうを見て、ちょっと笑ってみせて、すた すたと折れ曲った階段を下りていった。  要太郎は二歩三歩静かに歩いて、廊下の曲り角の処へ 行って無意識に立ちどまった。突然湧くようにかれの前               かいこう に起ってきた思いもかけなかった鰹遁が、かれの体の底  よこた に横わっている暗い不安の状熊といっしょになっていろ    う ず いろに巴渦を巻いた。しかし今の場合、かれにとって、 その女ががれの前に現われてきたということは、けっし                       やおらか て喜ばしくないことはなかった。久しぶりで、その柔           なみだもろ い、やさしい声を聞き、涙脆い素直な姿を見、なつかし い笑顔に接しただけでも嬉しかった。それに、女が当然 持っているであろう男のことよりも、女の財布の底など          かす が暗いかれのむの中を掠めていった。  かれはややしばらくそこに立っていた。野はすでに暮 れつつあった。山々にさし残った夕日の影も暗く、どこ     ま ご か遠くで馬子の唄を唄う声淋した。街道の角の古い大き             吋はい な遊女屋では、女のさざめく気勢が賑かにきこえた。 ************************************     十八   いなり    さんけい 今ほ稲荷への参詣の客の大勢来る時節ではなかったけ ************************************ 341 ************************************ 一兵卒の銃殺 れど、それでも昔から丁町の椙罵屋といって聞えている      ゆ身ぐれ     とま蠣きやく 旅館だけに、薄暮にだいぶ泊客が大勢入ってきたらし く、女中たちの忙しげに二階を上ったり下りたりしてい  吋はい く気勢や、どたどたと客の座敷に入ってくる音や、手を 鳴す音や、番頭が何か言っている声などが、そこの揮こ      に曹 この廊下に賑やかにきこえた。「いらっしゃい」などい う声が下で聞えたりした。  要太郎の眼には、さっきちょっと下りていってみてき た大きな店の明るいさまがありありと映ってみえた。店     づる の真中に吊された大きなヲンプ、明るく四方にさしわた った光線、しがみ火鉢を前にして坐っている番頭、大福    そろぱん 帳だの算盤だののいっぱいに置いてある帳場の中に坐っ            くりや ている主人、その向うは、厨で、そこは忙しげに物を煮       あが                          まぐろ る湯気が白く腸って、ランプの薄暗い光線の中に、鮪の  ぴ音              さか 一疋なりの大きなのが倒さに鍵に吊されているのなどが 見えた。女中たちは皆な忙しそうにして働いていた。ど こに行ったかと思って、あたりを見廻すと、塘雪は厨の                ひざ 向うの暗い処に後姿を見せて、半分膝をっいて、しきり  ぜんぷ   Lたく に膳部の準傭をしていた。  要太郎はその以前に、すでに宿帳をっけ、夕飯をすま せていた。               目しご  番頭が宿帳を持ってきたのは、階段の上で為雪にわか ************************************ れて、自分の室に帰ってきてから間もなくであった。番地                 ち 頭は腰を砥くして、そこに厚い宿帳と禿びた筆の二一二本     ナずコぱこ 入っている硯箱とを置いていった。かれは番頭の去った 後で、宿帳をひっくり返してみて、さて何と名をっけよ うかと思い迷った。為雪に逢いさえしなければ、むろん とくめい 匿名で書くのであったけれど、為雪自身も自分と清雪と は知合ではないようにして着いてくれとは言ったけれ ど、着雪に見られて、匿名で書いたのを疑われてはと思 った。かれはまたちょっと思案した。またがれは思っ た。どうせ二一日のうちには、どうにか自分の運命がき まるのである、また、きめなければならないのである。 かまうものか、ほんとうの名を書いてやれと思って、筆  すみ                     ちゆらちよ に墨をっけた。しかしかれはまた騒踏した。憲兵隊と警 察との連絡は、どうなっているがよく解らないけれど、 どの道、それは危険でないことはない。もしものこと淋 ないとも限らない。若雪に知れると言ったって、着雪と 自分との知合であることが知られない以上、匿名で書い たとて、為雪に知られるようなことはまずまずめったに はあるまい。で、かれは自分の近所の町のある商家の息 子の名をそこにつけた。  夕飯の給仕は、最初水れをこの室に案内した女が来て         わんも匝 した。刺身、野菜、椀盛−そういうものが膳の上に並 んでいた。酒を一杯飲みたかったけれど、か牝はそれよ                   ひるめし      まん りもいっそう為びただしく飢えていた。午飯はかれは饅 ご卓う       いも 頭とふかし芋で間にあわせた。  ねえ 「!  ノ、−)} )コ ,ノ“=ユ一 一娃さ人  レ〜。カウ一レそぺ茨オ」    ふるだぬ首 「私は古狸だよ。これでも・−−」 「何年ぐらいいるんだえ?」 「もう三年」 「着もしろいことがあるだろうね」 「着もしろいことなんかあるもんかね。忙しいのと、眠 いのと、それっきりだよ」 「どうだかな……」            かま  て 「私のようなもの、誰が構い手があるもんかね」 「うまく言っているア」 「ほんとうだよ」                みな回               こ  言葉のぞんざいなのに比べて、身装などはちょっと小 ざ れい          しゆす 締麗にしていた。濡子の腹合せ帯などをしめていた。 「いったい、何人いるんだえ? 姓さんたちは?」 「今?」  こう言って考えて、「五人・・…」 「割合に少いね」 「だから忙しいんだよ」 「岩雪というのがいるね」 ************************************ 「知ってるの?」 「いや、さっき呼んでたからさ」  こんなと着り一遍の話をしながら、要太郎は夕飯を四                 さか右      わん 杯まで為代りをして食った。刺身、肴、野菜、椀の汁の 最後の一滴も残さず吸った。しかも、そうしている間に も、かれは営舎のことを考えずにはいられなかった。咋                         ゆく 夜から、今日にかけて、申隊で、大騒ぎをして自分の行 え 方をさ淋しているさまなどがありありと映って見えた。 むろん、故郷に竜その報知添行ったろう。M市の知已の もとにも尋ねていったろう。あるいは−あるいは昨夜       弓ち とまったあの家にも行ったかもしれないと考えてみた が、誰の班の者でいっしょに行ったものはないからと思 って、それほ否定した。ちょうど今時分は営舎では食事                 ふか がすんだころだ。のんきに煙草でも喫して自分の噂をし                   ほとo ているだろう。こう思うと、昨夜、川の畔でぽんやりし ていたことなどが思いだされた。  女中の右り着り話しかける言葉と、そうした想像と、 ほL                 うえ 箸を取ってゆくにつれて飢の満されてゆく快感とが、い っしょになって水れの体を領した。兵士が一人こうして 普通の旅舎にとまっていることについての疑いが、この 旅舎の人たちに起っていはしないかという不安も、為り      もた 若りは頭を彊げてくるの㌣、かれは鋭い眼つきをして、 ************************************ 3皇3 一兵卒の銃殺                 くわ 女中のほうを見た。担雪と、為雪と詳しい誘をするまで は−それまでは、脱営兵であるということを知られた くない。こんな風にもかれは考えた。わざとのんきな風 を装ってみたりした。 「耽眺は別に宥早くなくってもいいんだね」こう言っ      ぜん   ひつ     の て、女中は膳を為櫃の上に載せて、そして下に下りてい った。幸いに女中はかれの明日の行程をきがなかった。         そ ぶり 疑っているような素振も少しもなかった。ふたたび上っ てきた時には、女中はかれが横に倒れているのを見た が、さっきかれのっけたままそこに置いてあった宿帳に 眼をつけて、 「もう書いたの?」 「う々…−書いた」  寝ながらかれが言うと、女中はその虫童それを持っ   珪かぱ て、半明いた障子のところから出ていった。  涼しい夜風が室に吹きこんできた。  横になって、じっとしていると、すぐその運命に対す          もた る怖しい不安が頭を鎧げてくるので1いろいろと頭淡          とが 痛くなるほど神経が尖ってくるの㍗、がれはすっと立っ て、廓下へ出て、閣の夜に吹く涼しい風に熱い顔を向け た。故郷に手紙を出して金を送ってもら奉うかとちょっ と思ったが、かれはすぐそれを打消した。 ************************************  いつの澗に、こう大勢客が来たかと思われるように、     あ出り 室ごとに灯が明るくついて、笑声だの話声だのがきこえ た。大きな闘えた旅館ではあるけれども、この近所の慣 習の料理屋兼業なので、きゃっきゃっと笑う女中などの                いんとう 声も陽気に、どこか砕けた、土地の淫蕩の臭いのあたり に満ちわたっているようなのをかれは感じた。どこか       拘 で、三昧線の音などがした。  廊下を歩いていくと、「あら、田中さん、そんなこと をしちゃいやよ」などという女中の声がした。男が女に たおむ                       とが 戯れているさまがかれの神経を尖らせた。 「担雪じゃないか?」  こう思った添、それは宥雪ではないらしかったの㍗安 也して、二足三足向うに行きかけた添、今度は着雪がど うしているか、見ないではいられないような気がしだし てきた。者雪はあれっきり姿を見せなかった。忙しいの ではあろうが、どうしたろう? 何をしているだろう?            うち               かんじん と、きゅうに、「とにかく、家を見て奉くことが肝心だ。 ここで自分の運命を右なり左なりにきめるのだ。そう だ。見て右こう」こう渉れは思って歩きだした。  室添ずっと並んでいた。そして廊下がぐるりとその室   めぐ 室を廻っているようになっていた。そろそろ暑くなって くるころなので、どこの室もたいてい障子は一枚ぐらい ずっ明けてあった。ある客は商人らしく、さっきの女中 を桐手にして、さびしそうにしてもさもさと纐純食い㌣ いた。ある客は、食事をすました後の身を暢々と横え て、手帳などをつけていた。たいてい今日使った金を書 きつけているのであろう。ある室では、洋服姿の男が、 これからどこがに山ようとしていた。ある室では、客は いずに、大きな旅鞄が二つまで床の間に置いてあるのが がれの眼に映った。と、その鞄の中淡かれに考えられて きた。  で、がれはお雪の姿をあっちこっちに探したが、最後   くりや     ぜん、こしら に、厨の奥に膳栴えをしている後姿を発見するまで、ど こにもその姿を見いだすことができなかった。順番で、 今日は着雪は、膳栴えのほうへ廻って、忙しくしている のであった。  店に出た時四十五六の主人が、 [どこか着出かけですが?L  こう声をかれにかけた。 「ちょっと町を散歩してくる」                     は  で、番頭は下駄を並べてく牝た。ふと番頭の禿げた頭 添灯に光って見えた。 「行つていらっしやい」  こういう声をあとにして、がれは大通へと出た。さす ************************************ がは稲荷の社の前だけに、その門前には、茶屋だの料理     あかり           あ 店だのの灯がちらちらと明かくついて、色の白い女や、    あ一が 湯気の鰐った厨や、二階に上る段梯子などが闇の夜の中  ナ                        牡ず に透くように見えていた松、小し町を外れると、もうす       かわず っかり闇で、蛙の声松ただ湧くようにきこえてくるぱか りであった。かれはそこに行って、ややしぱらく立って             くつろ   ゆ由た いた。涼しい風が袖の明いた寛いだ浴衣から肌へと吹き こんできた。           なぴ  星の光りに山々の黒く駆いているのが見えた。  引返して、稲荷社へ入る角の古い遊女屋の前に立ちど                  朝うかく まったかれの頭には、山裾の故郷の町の遊廓茄思ひださ れていた。ここらでも、故郷の町と同しく、やはり、張 見世をしないので、店い座敷茄ただ添らんとしているだ けモあるが、それでも、そうした家の内部に熟している かれには、眼に見えない内部のさまもありありと見える        あずさ ような気松した。梓の顔などが思いだされた。  しばらくして、そこを出て、稲借の社の中に入りかけ      あかり          くら         ひ てみたが、灯も見えず、路も闇く、別に心を惹くような ものもないので、かれはすぐ引返して、ぶらりぶらりと 歩いて、厘間歩いてきた通りを警察署のあるあたりまで 行った。  そしてかれはそこから引返してきた。 ************************************ 架5一呉卒の銃殺           {囲や  翁雪の後姿は、やはり厨の奥のところに見えていた。 「為がえんなさいまし」こう言ってそこにいた人たちは 迎えた。  ふと、かれの眼にくっきりと映ったものがあった。そ          ぱあさん れはここの祖母らしい婆様淡坐っている帳場のそばに、 ひとところ三尺の押入くらいにくりあけて、そこに大き な金箱らしいものが置いてあることであった、金庫では                 しま なかった淡、すくなくともそこに金が蔵ってあるという ことは、本能的にすぐかれの頭に反響した。かれはじっ とそれに見入った。今年七八歳になる女の児に何か書い      Lら跡        しわ かけている白髪の婆さまの鍍の多い顔もそれと見た。        はしご  かれは急いで階段を上った。 ************************************      十九                  かわや  そ托から一時間ほど経って、かれは厩へ行こうとし て、暗い廊下のところを通ると、向うから運よく拾雪淡 来た。  幸にあたりに誰もいなかった。 「あ、若旦那!」 1忙しそうだね」     したぱん 「今日は下番のほうに廻されたもんだから、手が明けら れないんですもの。……行って、奉話がしたいんだけれ ************************************ “ とも…」 「………」          す音 、もう、しかし、じき隙になります九 「すんだら、岩いで−・…」 「ええ」  こう言って、「でも、誰にも、若具 ことを言わないでしょう?」 「言わない、言わない」 「十番ね」 「そうだよ」  白い笑顔が閣の中に浮きだすようκ         うえこみ には、樹の繁った栽込茄あって、その            あかり がそれとも下座敷からかの灯沸明る〜 ているのが見えた。そしてそれと反対 廊下は、暗くなっていた。廓下の突当        はしご 上る折れ曲った階子があり、こちら叶 を通って、店のほうへ行くようになっ 二階との寝道具のしまってある室が阜 は船底枕とくくり枕と添たくさん並ん  がれは為雪の白い笑顔を見、着雪叶 頭と顔とを閣の中に見た。さっき突献         、 、 、 一度結ばれた肉のきずなが、女のほち    小いしん                        ざんこく しての戒慎茄あり、男のほうではかねての残酷な自己の 所為に対する一種の反抗のような心持があったのにもか かわらず、強い力で亙にそれを結ぴつけようとしていた が、今㍗は、その強い力が、いっそう菖目酌に、ちょう           あいこうさζ ど遠心力と求心力とが相交錯するように、二人の心と体       ちよ5いつ との間にある澁澄を示してきていた。  しかし男に対する着雪の戒慎の力はまだかなりに強く                {匝や その盲目な愛情の中に働いていた。厨で忙淋し払ってい る間にも、着雪はいろいろ男のことを考えた。ふたたび 陥っていく自分の運命などということも考えた。それ に、お雪には、ここに来て問もなくできたKという男が いて、それが親切に何かとやさしいことを言ってくれる    ほ ので、惚れているというほどではないが、頼りになる人 とは思っていた。膳ごしらえをしながら、為雪はその男 のことを考えたり、二階にいる昔の残酷な恋人のことを 考えたりした。厨にばかりいて、二階へ上っていかなか ったのも、たんに若雪が忙淋しいからばかりではなかっ たのであった。着雪はもう昔の無邪気な小鳩のような娘 ではなかった。奉雪はその時の悲哀と恨みと母親の憤怒 とを今㍗も若り翁りは思い起した。それでいて、章雪は またわかれてからも二年も三年もその残酷な恋人が忘ら れなかったことを思いだした。あるいは残酷だけそれだ ************************************ け忘れられなかったのかもしれなかった。いっそもう今                   おとしい 日は逢うまい。なまじいに逢って、自分を陥れていく よりも、明日になって静かに、普通の人と少しも変らな いようにしていくほうがいい。こうも考えた。しかしあ                       かい らゆる抑制も戒慎も、盲目な愛慾に対しては、何の効も ないような一種の強い衝動を右雪は感じた。  それに、わかれてがらの自分の経てきた辛い悲しい境 遇を男に話さずにはおられないような気がした。      け ほい  人の来る気勢淋して別れようとした時、翁雪はポ意 に、男の熱い握手を自分の右の手に感じた。  右雪はむりに引離すようにして、頭を振ってみせた。 戒慎と抑制とがまた章雪の胸に上ってきた。 「じゃ、ね、話もあるからね」 「え」                  ぞうり  こう言って、女はわざとバタバタと草履の音を立て て、店の明るい灯のほうへその姿を隠した。 ************************************      二十                          殺                       しいた  どんな物語が為雪の口から話されたであろうか。虐げ 嚇    じゆう鉋ん              ののし られ、躁蝸せられ、打たれ、罵られた小さな嶋の物轟引 解 1それがどんなに深い影響を要太郎の心と体との上に齎 一                          7 したであろうか。                 34           あずさ             な  そこにかれはがれ添梓や他の女のために嘗めきせられ  ただ                          むち  むち た燭れるような苦痛と悲哀とを発見した。鞭と答との下  せつかん に折艦せられるものの苦痛と悲哀とを発見した。水と火       井偲 との中に半ぱ溺れようとした隣机なもの小さなものの姿 を発見した。かの女はかれの家を出てから、母親と継父 との折濫を受けなかった日はなかったという。ほとんど 食うものをすらろくに食わせられなかったという。豪家 の若旦郡をそういうところまで手に入れて為きな添ら、 どうすることもできなかった意気地なさをどんなにひど  のりし く罵られたかしれなかったという。それに思いもかけな い薪しい事実ががれを驚かした。女の言うところによる と、水れの家を出る時、女は月のものがとまっていたと いうことであった。しかし経験のない身には、別に、そ ういうことも気がつかず、始めてそれと疑われだしたの は、それから二月ほど経ってからのことであったが、父 母に知れて、若旦那のもとにまたその心酎を袴っていく ようなことがあってはと思って、どんなに女は苦労した かしれな水った。それに、そういう話を若旦那のところ                     さ へ持っていくということは、絶対に二人の間を割いてし まうことだと信じていたかの女は、小さい心ながらも、 独りでそれを処分しようとしてどんなに苦也したがしれ なかったという。幸い、近所に、不断からかの女の不幸 ************************************ に同情していてくれた中年の女がいて、それを為ろすよ 挫 うにしてくれたが、そのため、かの女は半年以上も書し     よこたわ い痛味に横って寝ていたという。そして、その閏に      ぎんこく も、絶えず残酷な恋人のことを思って忘れること添でき なかったという。     音  それを訊いた時、 「ほんとうかな−」  こう要太郎が言うと、 「ほんとうでないことを私が言うわけがあります加」  こう言って、やさしい着となしい性質に似げなく、女    つる は眼を吊し上げて、涙をほろほろこぼしな添ら言った。           こまめ  要太郎は黙って手を棋いたままにしていた。  かれにしては、こうした大きな運命のせとぎわに立っ               ぷつつか て、さらにこうした大きな愛情に打突るということは、                        ほ5 驚かるることでもあり、またさらに神秘な不可思議な報 しゆう 酬を報いられつつあるようにも感ぜずには宥られなかっ た。女の恋の苦痛は、これまでかれの経験した恋の水火                       あザさ の苦痛の中にいちいち裏書をして蒋現されてきた。梓や その他の女に向って注いだがれの空しい愛情を、女もや はりかれのために長い間経験させられていたということ 添、だんだんかれにもわかってきた。  女の家は渉れの生れた町から東に七八里隔てたM市に 近い広野の中にある小さな農家ヤあった。女は毎日かれ めいる山のほうを見て暮したという。そこに雪がかかっ                    旺うむ たり晴れたりするのを見ては、闇がら闇へと葬られた愛 情の塊を思ったという。そしてただ二菖でもいい、それ だけでもいいがら皆げたい。一生のうちにはぜひその話 をせずには翁がない。こう思ってかの女は暮した。かの                   しやくふ 女はやがてそこから西に十五里もある町へ酌婦として売 られていった。それはこの附近に見るような困舎の人た        うち              おんな ちを桐手にする家㍗、一面その家の蝉のようにして働く              セ」由       おしろい とともに、夕方からは、潜物を潜改えたり白粉をつけた                   かんしやくもち りして、客の酒の席へと行った。そこには瘡績持の亭主          ピ 毒 がいて、毎日のように怒鳴りつけられた。横面を張り倒                  肚たち されるくらいのことは何でもなかった。二十にもなって み そ ぐら 味贈蔵の中で一日泣いたりしたことなどもあった。しか し石の上にも、水火の中にも生き机ぜ生きられる生活が                }んとう あった。そこで女は男というものの浬蕩なふまじめな女     お也ちや の真心を玩具にすることを得意とするものであることを 教えられた。自分の正直な小さな沁ではとてもその荒い     しの 熱い波を凌いでいくこと淡できないということをも悟っ た。かの女の今までの状態は赤手で恐ろしい火の中に策 びこんでいったようなものであった。一夜、為雪は泣い て泣いて泣きつくした。それは自分が今ま㍗思っている ************************************            しん 男の心の冷酷ということが心から飲みこめたため㍗あっ       ぎんこく た。ああした惨酷も、あのような薄情も、皆なそうした 男の心であると思った時、いっそう涙は胸へとこみ上げ てきた。胸の底に人知れず思いを包んで、この真心のい                   たの つかは先方に通ずる機会があるであろうと燭みにして、 それば水りをだいじなだいじな生命のように思っていた      そら定の のも、皆な空頼みで、空想で、夢か幻のようなものだと 女はだんだん思い始めたのであった。かの女は今でもそ                     わけ の夜の浪をはっきりと思いだすことができた。訳なしに         よ 涙が旧てくる。窓に免っていても出てくる。星の空を見 ても出てくる。客の前に坐っていても出てくる。そして 冷めたい夜床も、浮くばかり一夜泣明かした。    上くとし  その翌年、かの女はそこ水ら湿泉のある遠い山の中に 行った。しかし時はすでに水の女の小さな純な心を砕い ていた。もう酒席に出て小さくなっているようなお雪㍗           ちんせ首  じ はなくなっていた。客の枕席に侍するにも、最初の二一 年のような苦痛と悲衷とを感じなくなっていた。かの女 は運命に従わねぱならない身を自覚していた。したがっ     あや てお客を綾なして金をつ氷わせる術をも覚え、心にもな               て (だ いやさしい言葉を客に授げかける手管なども覚えた。軽      言 い口なども利くようになった。            射5のうはんもん  要太郎が梓を忘れかねて慎悩煩悶している時分、ちょ ************************************ 梨9 一兵卒の銃殺 うどかの女はその遠い湿泉の山の中にいた。かの女は土 地のある若者に思われて、その男は毎晩のようにかの女 のいる小料理屋へとやってきた。小さな室、山に向った    れんじ 主ε 小さな橘子窓のっいた室、そこをかの女は今でもありあ りと頭に描くことができた。その窓からは、山にがかる 雲払見え、白く瀬をなして流るる谷川が見え、デ時間ご               あ、が とに吹き上げる湿泉の白い湯気の贈るのが見えた。谷川 の橋の上を雨の降る日に傘の通って渡っていくのをがの 女はよく眺めた。      かよ  しげしげ通ってくるその若い男を要太郎と思ってみた                  査ぴ こともあった。そしてそのっもり㍗也を駆かせていって            あト餉芭  うれ みたりした。裏の小屋での嬢曳の嬉しかったシτソをそ                      ま のままその山に向った室でのシー/にいっしょに雑ぜて 楽んだりなどした。忘れ担たいのは、勧恋の心であっ          ま た白しかし、いかに交ぜてみても、その声、その顔、そ                     吉ぽろし の言葉、その表情、そういうところから、その幻影はい つも破れていった。その若者のために別に水の女のもと に通ってきた申年の男を、振ったり何かしたので、その 土地では一時はかなりに評判になった茄、し水しその若 者が親類から束縛されて、むりに妻帯した時にも、かの 女は別に深く悲しみもしなかった。その若者と別れてく る時に屯、要太郎に別れた時の半分も心を動かそうとも ************************************ しなかった。                   50                          3  それ水らかの女はあちこちへと流れた。E町にもいた こともあれば、K町にもいたことがある、そしてそれ松                  ふ ら移り替っていくたびに、その借金は殖えていってい た。そしてそれはたいていは強慾な母と継父とのためで あった。今で屯、着り着り母親はやって書て、せっかく 心松けてためて拒いた金や着物を持ちだしていった。  要太郎の妻がかの女と同し名で、今は里に帰してある      彗 という話を訊いた時には、翁雪は言った。 「子供は?」 「子供なんかない」 「うそでしょう。あるんでしょう。坊ちゃん? 嬢さ ん?」 「ほんとうにありやしないよ」 「そう、ほんとうに:・−」  拾雪はじっと男の顔を見て、   あ忙 「拷兄さんは?」 「東京の学校に行ってる」 「もう、大学に入るんですか?」 「来年だろう?」                おつか       と5 「やはり、それじゃ、あの方ばかり母さんやお父さんに 可愛添られているのね?」 「どうせ、そうさ…。:」 「どうしてでしょうね」 「やはり、俺がばかだ水らさ・…−」要太郎は考えるよう な眼つきをして、「戦争にはやられる。死ぬ生きるの思 はする。兵隊の辛い勤務はする−−−今でも、それで苦し んでいるんだからな」                虫や。臣 「ほんとうですね。どうして、ああ親御さんと気が合わ ないんでしょうね」 「誰にだって気なんかく〕わないんだ。勧めから、誰に㍗ も憎ま牝るように生れてきたんだから…−」 「−……」  その時分を知っている為雪には、要太郎の境遇が同情                  うち されずにはいられないような気淋した。家の人たちが誰             やづ由いむすこ        とoあつ由い もかまわない。まるで他人の厄介息子のような取扱を している。それを気の毒に思ったのも、着雪の恋の初め の沁であったかもしれなかった。二人は黙って相関し た。夜はもう十二時をすぎていた。誰も彼も皆眠った。 女中も客のあるものは客の室へ、ないものは女中室にい ぎたなく熟睡していた。お雪はここにやってくる前に、 すでに自分の受附の用事をすまし、主人夫婦、つづいて いつも遅くまで起きている老婆の奥に寝に入っていくの を見送り、料理方の男と番頭とが大戸を閉めて外へ出て ************************************         ほうぱい いくのを見すまし、朋輩の着咲が客があって三階の奥の 一問に寝にいくのを承知してから、静かにこっそりとこ の十番の室へとやってきたのであった。  入ってきた時には、要太郎は床の中に入っていたが、                    ちやぷだい それでもまだ大きな眼を明いて起きていた。飼台の上の ランプは、ホヤが黒くなって薄暗い光線を一間に投げて いた。為雪は静かに障子を明けて、少し笑いながら入っ てきた。  要太郎は起き上った。  火鉢にはまだ火がいくらか残っていて、そこにかけて   てつぴん                             とお ある鉄瓶の湯はまだ熱かった。薄暗い光線の中を透し   左げL                       かす て、長押匡かかっている軍服と軍帽とが徴かに見えた。  火鉢を前にして坐った為雪は、餉台の角のところに坐             珪なめ っている要太郎と、ちょうど斜に相関するという形にな                   な圭 っていた。翁雪はまじめな顔の表情をして艶めかしい様 子などほさらに抄しも見せなかった。  始めは小声で話した。 ************************************ しぱらくしてから、 「隣は?」 こう着雪は訊いた。 「いないだろう、誰も・ 「そう」 ************************************ 。」 ************************************ 351一呉卒の銃殺  こう苦一目って、「いるんじゃない」と疑うようにしたが、                ふすま そのまま立っていって、中しきりの襖を細目にあけて覗 いてみて、「だいじょうぶ、いない」  で、もとの座に戻って、それから二人は普通の声で話 した。  かんなん  鰯難と苦痛との長い長い話、それも口に上せては、そ う長くはかがらなかった。要太郎は為雪の色の白い頬に       つたわ 奉り宥り涙の伝って落ちるのを見た。思いだしてはたま らないというようにして、話をやめて、袖㍗涙を拭くの を見た。悲しい思出にみずから誘われて着り為り話を中 途でやめる顔のあわれな表憎を見た。要太郎も動かされ                      ひきず ずには為られな水った。かれは憐れな女の物語に引摺ら                れいこく れていくようなのを感じた。自己の冷酷と無構に対する 腫うしゆう      むく 報酬が完全に酬われつつあるのを感じた。こういう也を                       おろか よそにして、ほがに熱いまことの心を求めた自己の愚さ                       うる などもくり返された。為雪も要太郎の目のときどき潤ん      み の・、が でいくのを見遁さなかった。  戴難の多い人生が今さらのように要太郎の胸を圧し た。自分に離れずについて廻っている璽荷、その重荷も             よみ。がえ ときどきがれの胸に重苦しく蘇ってきた。年に比べて いろいろな経験をしたとはいいながら、さすがに年のま だ若い要太郎は、これから来る人生の大波に斌して、不 ************************************ 安と恐怖とを感ぜずにはいられなかった。かれにとって 洲 は、これがら無限にひろげられた人生は、まったく暗黒 で一道の光明すらその前に認められないようなものであ つた。  女の話を聞いている間に、今日長い路をM市からここ 妻でやってきた自分のあわれな姿が見えたり、水くしに         い も   ひ看めし 一文の金もなくて甘藷を午飯の代りにした自分が見えた り、寝床に熟睡した兵士たちの顔茄見えたりした。故郷                 じよろ5や の父母の顔、裏の小屋、夕日の当った女郎屋の色硝子の         テーヲル 窓、三等郵便周の卓なども見えた。要太郎は三二本残               ひ ぱし った煙草を静かにふかした。女は火箸で灰の中をいじっ ていた。        音  女はきゅうに訊いた。 「それでも奥さんはときどき来て?」  がいせん 「凱旋した時に、ちょっと一度来たきりだよ」要太郎は   ゆが                   オかあ 口を歪めて皮肉な顔をして、「娯なんかに、もう思いは 残っていないんだよ。除隊になって帰っていったヅて、 蜂なんか、もう帰ってきやしないよ」 「そんなことはないでしょう?」 「だヅて、そうなんだもの。この間、着袋が来た時にも、 その話をしたんだもの。あんな奴はどうでもいいん だ!」 「だヅて……」 「離縁してもらうように話してあるんだよ、もう。どう せ、気が合わないし、それに、親たち同士も仲添わりい んだ」 「どうして、また、そんな奥さんを貰ったんだろうね」 「始めから、こうなるのは、わかって“るんだ。不思議                 かカあ はないんだよ。−:・思わないとも−・・:蜂のことなんかち っとも思いやしない。戦地に行っていたって、手紙一本 よこしゃしない。一年以上もいっしょにいて、子供もで きないんでも分らア」 「やはり、薄情なのね、あなたは?」  こう女はまじめに言った。 「だヅて、:…・だヅて」かれはどぎまぎして、「だヅて、 気が合わない奴なんだもの」        か わいそう 「奥さんだヅて可哀椙だ」 「何アに、可哀相なことなんかあるもんか。先だヅて、     おれ                         o ちっとも已のことなん水考えていやしないんだ、 向うから離縁されるのを望んでいるんだもの」 「どこの人?」 「M村の百姓だよ」  症いじん 「大尽?」 「金は少しはあるんだろう。−…・」こう言ったが、「ほ ************************************ んとうに右前も苦労したな」 「ええ・・…・」 「まア、しかたがないあの跨分は、已もまだわからなか ったんだから。子供だったんだから。男と女のことなん かよくわからな水ったんだから…−・」 「今じゃ、もうよほど経験が積んで、な為薄情になった んでしょう?」 「ずいぶん、いろんな目に逢ったよ、俺も」・・−−枠のこ となどを要太郎は顕に浮べながら、「ずいぶん女にはえら い眼に逢わせられたよ。これも皆んな着前のたたりだ」 「うまいことを一一一−目うのねえ」 「ほんとうだよ。苦労させて、ほんとうにすまないと思              かかあ ったよ。だって、その証拠には、蜂の名が着前と同じなの で、宥袋が呼ぶと、着前を思いだして困ったんだもの」        とんちやく  女はそれには頓着せずに、「でも、私の思いだけでも 属いたからいい。どうか一度逢って話したい。話さずに は宥かない。どんな奉婆さんになってからやも、一生の うちには一度は逢って話さずには着かないと思ったんだ  …。でなくっちゃ闇へやった子に対してもすまないと 思っていたんだから・…・」  女は長い話をすませて、ほっとしたというような顔を していた。二人はまたしばし黙って相関した。 ************************************ 353一兵卒の銃殺  要太郎は鉄瓶を取って、妻だいくらか熱くなっている   音ゆうす 湯を急須にさしてそれを茶椀についで、自分も飲み、為                  ひら 雪にも勧めた。新しい局面私二人の間に展けてこなげれ ぱならないような気分がそれとなくあたりに満ちた。 「戦箏はたいへんでしたろうね?」 「ずいぶんえらい目に逢ったよ」  た ま 「銃丸なんが来るところへ行くんでしょうね」 「行くどころじゃない。もっと先へ行くんだ。猷の中に 世ウEう 斥候に行く時なんか、それやえらいもんだよ。まるで生 きてる空はないね」 「そうで」ようね」                        くん  翁雪は考えて、「その代り、手柄したんでしょう。勲 しよう 章は貰えるんでしょう?」 「どうだか、当てにはならないけれども・−−ちっとは貰 えるだろう?」 「除隊はいつ?」 「順よくいけば、来年だけれども…・−ぎうなるが」重荷 に対する不安は、またかれの胸に押寄せてきた。 「今日はどうしてこっちに来たの?」                       ふる  かれははっとした。脱営兵−こう思うと胸が震え た。 「ちょっと用添あって…−」 ************************************  あした 「明日帰るんですか」               挽 「明日はどうなるが、用の都合で、もう一日いなくっち ゃならないかもしれない。海岸まで行ってこなくっちゃ ならないかもしれないから……」  着雪は別に深く疑うような様子もないのでかれはいく らが安心して、「隊がいるんだよ、海岸に…−。K町に いるか、それとも丁村にいるがちょっとわからない添ね …・−。その郭合で、明日一日また泊らなけりゃならな いかもしれない」 「そう?」  着雪は笑ってみせた払、そこに置いてある時討を取っ てみて、「もう一時よ」 「そうなるがね」  こう一。冒ったが、要太郎はきゅうにある衝動を受けたと いうように、いきなり手を女のほうに延した。  女はそれを避けるようにして立ちあ茄った。  男も続いて身を起した。        そセ  と  女は男の手に袖を執られながら、「帰してちょうだい     ごしよう よ、ね、後生ですがら。聞いていただきさえすれやそれ でもういいんだから…:。このままにして、その代り一 生、あなたのことを忘れずに考えていますからね、後生 ㍗すがら、為願いだから」こう言った女の眼からは、ほ             こうふん ろほろと涙が流れた。翁雪は昂奮していた。  かんにん 「堪忍してくれ、な、な、ほんとうに、今夜という今夜、 着餉のほんとうの心はわかったんだから。今度こそ、俺 がほんとうの真むを見せてやるから・−・−な、な、ほんと うに堪忍してくれ、俺だって、俺だって、そんなにわる い人間じゃないんだから、これでも血もあり涙もある同 じ人間なんだから、な、な」こう言ってそばに立ってき た要太郎の眼がらも、涙がほろほろ落ちた。 「俺ア、悪人じゃないんだから、な、な、ほんとうにす 妻なかった。な、な」 「でも、後生ですがら」着雪も泣きながら言った、  着雪も男の眼から涙の流れて落ちるのを見た。為雪も どうすることもできなかった。 「まア、坐って…:」  こう言って、男はむりに着雪をそこに坐らせた。  暗いランプがパチ、バチと音を立てた。しばらくする と、夜行の汽車が来たらしく、停車場のほうで物の動く 音がひとしきり賑やかに聞えた。着雪はかよわい自由に ならない女の身の悲裏をしみむみと感じた。 ************************************ 二十一 ************************************ どうかしなければならない。いよいよ決必を固めなけ ************************************ ればならない。右なら有、左なら左へ行く決心をしなけ            、 、 ればならない。こういうハメに陥った以上はもうしかた がない。実行、実行、それよりほかに路はない。自分の 出ていく踏はない。   …・それなら、国に帰る? イヤだ。イヤなことだ。 国にはもう思い残すところはない。国に帰ったって何も    かかあ ない。蜂はむろん離縁、父親だって母親だって、俺に対 しての奨情はちっともない。檎てて去ったって、何とも 思いやしない。故郷のあの山、山裾の町、湯、そんなも のだって、一つとして自分に敵意を持っていないものは                   ののL ない。誰の顔も皆な俺を見て笑っている。罵っている。 冷笑している。湿がい心持などを持っていてくれるもの は一人もない。  淀  遁げる…−このまま遁げる・…−着雪をつれて遁げる。                        つ どこの海の果か、山の中か、そういうところにお雪を伴 れて遁げのびる。そうすれば、為雪といっしょになるこ とができる…−地方へ帰ったのでは−除隊されて国に 帰ったのでは、とうてい為雪といっしょになることはで きない。とてもできない。親たちや親類の反対だけでも できないのはき虫りきっている。・−−・それに、着雪躯こ んなにまでこの俺を思っていてくれたとは思わなかっ た。熱いまこ左の心がーさがしてさ淋してさがし廻し ************************************ 355一兵卒の銃殺 た沁松、こうしてここにあろうとはゆめにも思わながっ     に た。−…・遁げるよりほ伽に路はない。翁雪をつ牝て遁げ る。初めは自分は一人で遁げて、そして、あとから毒雪淡 やってくるようにする…−。それにはぜひ実行しなけれ ぱならない。一文も持っていない自分は、まず金をつく ることを考えなければならない。…−金、−。…金、1 金、こう思うと、昼間銀行で金を持っていったらしい銀 行員の自転車姿淡ふと浮んで見えた。  と思うと、一方では、翁雪の恋をふたたび得たこと淡 何ともいわれずうれしいような、力強いような神秘のよ うな気淡する。自分の運命の中に突然そうした女の惰添 入ってきたということは、善か悪か、そういうことは沙 しもわからないけれども、とに水く何らかの暗示である ように思われる。・…−すぐ自分のそばに、その心がある。 その魂がある。その呼吸がする。触れぱ触られる。髪洪       たぼ ある。油臭い篭がある。  ふとある計画をかれが考えた時には、かれははっとし      たか た。神経が踊ぶって、体茄動播して、身が際限のない谷 底に陥っていくような気淋した。と、一方㍗は、秘密、 罪悪に対するかれの興味がかなりに強い力でかれの魂に よみがえ 藤ってきた。暗い闇の中に自分が見える目安芝屠など で見た悪人の心理が自分の心理になる自怖ろLい罪悪を ************************************ 平気で嘗分茄やっている。罪悪そのものよりも、それを 弼       はつらつ 実行する勇気が蟹刺として眼の飾に浮んで見える。他人                       廿んoワ のできないことを自分疹しているということに深い戦操 を感ずる。暗くなったり、明るくなったりする。闇の申 に無限の罪悪が見える…−と思うと、金銀の輸がじっと        さんらん                      せんせん 見つめた闇の中に燦燭として見える。つづいて、閃々と            ちまた した火が見える。戦争の港である。自分が今そこにい        ほうえん                あが る。黄色い灰色の砲姻がそこにもここにも畷る。砲声添   さ 耳を磐くばかりに、ひびいてくる。自分は今その中を通    まぱら って、琢な林の中をぬけて、味方の陣地のほうへと帰っ てきている。あの時の也持を思うと、いじけた意気地の          あか ないような気分は爪の垢ほどもない。何もかも張りつめ ている。この世の中の罪悪を犯す沁なぎはそれに比べる                  と と阿でもない。なぜならば、それは死を購しているがら ㍗ある。こう思うと、戦争で養われたどうともなれとい           らた う気分が、さかんに頭を彊げだしてくる。そこはまるで       けんか                  回やく淀灼 別の世界だ。喧嘩淋したければする。掠奪がしたけれぱ いくらでもできる。支那の女が小さな足で、ちょこちょ こ逃げていく。それを追いかけてつかまえる、。  ぐずぐずしているから人間はだめなのだ。死を賭しさ えすれば、どんなことでもできる。できないというもの はない。と、今虞はそれに対する厳しい制裁が目覚めて テキスト-002--------       きか くる。自分は働さにっるし上げら牝る。でなければ寒中 氷を割って水風呂に入れられる。かつて聞いた銃殺の光 景が眼に浮ぶ……ウテ! バヲ、バヲ、バラ、バラ。標 的にされた奴はたちまち倒れる。かれはそこまで考えて            世んりつ いって思わずぶるぶると戦操した。                  い 看  女はよく寝ている。すやすやと静かに呼吸をついてい                       こうたん る。いっそ殺していっしょに死のうかというような荒誕  さんζく な残酷な沁が起ってくる。そしてそれとともに昨夜の心 も魂も奪われた大きな歓楽の光量が病的に誇張されて考        し.E言                            まわコ えられてくる。扱帯を取る。そしてそれを女の首の周囲             し にそっと廻す。そしてぐっと緊める。力限りに緊める。 声も立てず死んでいってしまうに相違ない。さて死んだ のを見すまして、今度は自分で死ぬしたくをする。ふと考 えた。自分はその時になって死ねるだろうか。死ぬつも りでいても、その時になったら、生きてるつもりになり ゃしないか。そしてこっそりと雨戸を明けて、屋根を伝    に わって遁げる方法を講じはしないか。と思うと、自分松                    おし 今現にそれを実行しているような気がする。押つめられ て、行くところがなくなって、そういうことをしている                     ぼう 自分が見える。夜は明けたぱかりで、あたりは荘として いる。人はまだ誰も起きていない。自分は屋根をそっと           ナが 伝わって、庭の樹の枝に縄って、反動をつけて塀に取り ************************************ つく。まごまごすると、ずぶりと足の裏を刺しそうな大   くぎ きな釘がそこに並んでいる…・−それをも無事に下りる・: …一散に街道を遁げだす−:−。             え鉋  女はよく寝ている。夜潜の襟に押されて、静かにっく い 言 呼吸が苦しそうにきこえる。よほど起そうがと思った が、よして、こちらへ寝返りを打って、「まア、まア、         あした 決心をするにしても明日になってからだ。今夜はまず寝 よう、静かに寝よう」こう思って、がれは眠るべく骨折 った。                も5そう  やはり、長い間眠られなかった。妄想は払っても払っ てもあと水らあとへとやってきた。ほとんど際限がなか った。  しかしいつの間にが眠ったとみえる。ふと眼を明く と、雨戸の隙間はもう明るくなって、女は静かに障子を 明けてそして廊下へ出ようとしていた。   こと  ヒと            はしご  二冒二言話をして女が階段を下りていったあとや、か          じゆくすい れはふたたび深い深い熟睡の境に落ちた。 ************************************ 二十二 ************************************  女申が入ってきたのモ、目を覚ましたのは、それから 二三時間経ってがらのことであった。いつの間に水、雨               うらら 戸はすっかり明放されて、朝日が麗がに室から室へとさ ************************************ 357一兵率の銃殺                        芒え苧  しこんでいる。雀淡ちゅうちゅうと喜ばしそうに軒に璃  つていた。   今日もいい天筑だ。   がばとはね起きて、「もう、遅いのかえ?」   女中は持ってきた火を火鉢に入れながら、「そうだね。  そんなに早くもないよ。さっき一度来たんだけども、  あまりよく寝てた水ら、起さずに行ってしまったんです 一よ」      珪かぱ              ちやぶだい   水れは半起き上りながら、餉台の上の時計を手に取っ  てみた。九時五分前−「ああ九蒔だ」こう言ったが、        ヒうふん                      ただ  睡眠不足と神経昂奮とで充血したかれの眼は、赤く濁れ                     のぞ  たようになっていた。顔にも緊張した表清が覗が牝た。   九時まモ寝ていたことなどは何年にもない。こう思う                    みなぎ  と、すぐ自分の身の上が、運命が、璽荷が涯るぱかりに  押寄せてきた。あまり思いつめたので頭が一時ぽんやり  したようにも思われる。かと思うと、一方ではどうにか  しなければならないという気が張りつめる。今日で三日  目だ。あと三日経過すれば、もう逃亡だ。つかまえられれ  ぱ軍法会議に廻されて重い刑に附せられるのだ…。も  う運い…−。つづいて昨夜のことが考えられる。今朝そ  っと出ていった宥雪のことが考えられる。見ると、茶器  も堕蒲団もそのままになっている。そこに埜ったあとが ************************************                     そゼ 依然として残っているように思われる。泣いて袖を顔に 珊 当てたさ凌が見える、実際こうしたものがここに自分を 待受けていようとは思いもかけなかった。脱営兵の自分 を、一文なしの自分を、どっちにも行くことのできない 窮地に陥った自分を−…。               はL  やがて女中が運んできた朝飯の箸をかれは取った。そ の餉に、かれは下に、風呂揚に近いところにある洗面所 に行って、つまみ壇で歯をみ松いてそして顔を洗った。                   言 昨日風呂の中で、「翁加減は?」と外から訊いた女は為 雪であったというごとをふとかれはその時思いだした。 顔こそ合せないが、そこで始めて五六年も逢わなかった 二つの心が逢ったのであった。昨夜為雪はそう話した。 で、かれは顔を洗ってから、奉雪の姿をあちこちと目で 探してみたけれども、三階にでも行っているとみえて、                   し事小ら あたりにその姿は見えなかった。かれは戯い汁を吸 い、硬い珠ソポソとした飯を食った。米の飯でありな淋      の ざ ら、それも咽喉に通らぬような気淋した。心も体もすっ   つか                                書いろ ちo かり労れて、頭がガソガンLた。眼の前には黄い慶が日 に舞って見えた。 「着軽いね」             ひつ  こう書って、女中はすんだ櫃をかかえて立ちあがった 淡、ちょっと立ちどまって、「今日はご滞在?」    つ 、ζう 「用の蔀合でどうなるがわからない…−。ちょっと出て こなくっちゃならないから」 「そう」  こう言って、女巾は静かに下に下りていった。  とにかくどうかしなければならないとかれは思った。 女の熱い情を考えると、それを捨てて去ることはできな い。どうしても、将来いっしょになる。妻にする。自分  ざんこくれいじよう の残酷冷情であった報酬からいっても、これがらあの翁          たましい 雪を妻にして、悲しい魂を復活させてやらなければな らない。それにはぜひあることを実行しな吋ればならな い。金をつくらなければならない……。ふと帳場のそぱ              ○よう にある金銭を入れて着くらしい錠の下りた大きな箱が眼 に映って見えた。。  滞在客を除いたほかの泊り客は、もうたいていしたく をして勘定をして立っていったらLかった。「ご機嫌よ う」「右だいじに」などという声が店のほうから聞え た。  ちょっと出てくると言って猪いたので、どこかに行っ てこなければと思ったが、さていざとなると外出する気 にはなれなかった。大勢人の歩いている町中を、巡査な           あしあと ども歩いている通りを、足迹を探されている場所を、う かうかと歩いては行けないような気がした。それに金も ************************************                        ぞう 持っていなかった。かれは半ば喪心したようにして、草 履を突っかけて、長い前の廊下を、通りに面したほうの 角の所まで歩いていった。  その角のところからは・車やら俺馬軍やら旅客やらの ごた、巳た          へだて            じよろうや          いを匝 混雑した通りを隔て、角の大きな女郎屋から奥深く稲荷 の社に入っていく広い路が見えていた。初夏の朝日が期        とりい に照って、大きい華表の向うに門、その向うに古風な社     うしろ 殿、その背後を塗ったこんもりとした杉の森の中には、 暗い緑の葉の中に新しい緑葉茄くっきりときわだって鮮   をぴ                                 りぼ口 かに駆いているのが見えた。華表の前には二一二本幟がぱ たぱたと朝の風に動いていた。                   たナさ  こっちの門前の小料理屋の前では、赤い躍をかけた女 が二人立って何かしきりに話していた。  かれはぼんやりしてそれを見るともなく見っめてい た。 ************************************ 二十三 ************************************  ひと片づけかたづいた時分、奉雪はそこにその姿を見 殺 せた。            嚇 「もう手茄明いた?」              躰 「まだ、用があるにはあるんだけども……もうさっき起 一                         9 きたの?」                    35                     ゆうべ 「もう、すこしさっき飯を食ったぱかりだよ。昨夜は寝 られなかったもんだから:・・:」 「そう…≡」  宕雪はにこにこと嬉しそうにしていた。 「講かに知れやしなかったかえ?」 「だい」ようぶですよ」         ゆ5。へ  こう雷ったが、「昨夜、考えたのよ−・−・。昨夜言った ことはほんとう?」  水れがうなずいてみせると、                  わたくし 「きっとほんとうですね。…・−それなら私もよく考え て宥くから−・・−そしてね、あなたが除隊になる時分、そ ちらに行けるようにして拾くがらね」 「うむ……」          おとつ    おつか 「でも……あなたの父さんや母さん担何とか言うがもし れないけども:::」                   お言 「だいじょうぶだよ。…−ぐずぐず言えぱ、他に出てしま       うち うから。俺は家にいなくったっていい人間なんだから」 「そうですね・:…」嬉しそうにして「ほんとうやすよ。              うら 今度こそうそを言うと、一生慢んで恨んで恨みぬくから  ::」 1だいじょうぶだよ」                   わたし 「そのつもりでね、それ亡やね、来隼ま㍗私も辛鞄する ************************************ 泳ら……」                娩  こう言ったが、「どこがへ行ってくるんじゃないの?」 「うん、行ってこなくっちゃならないんだけども・−…」 「そして、今日帰るの?」 「今日はどうだか…−もう一夜泊るようになるかもしれ ない」こう言ったかれは、いっそ女にだけ話してしま宥                       ゆ5ぺ うかと思った。自分の重荷を、運命を…−。Lかし昨夜 もそう思って打明けることができなかったと同じよう                 みさ に、かれはそれを深く自分の胸の中に蔵めた。すくなく ともそれを話してしまっては、女に話してしまっては、 自分の実行しなければならないあることの邪魔になると                  せんoつ かれは思った。かれは一種の勇気に似た戦悚を総身に覚 えた。                       に冒  そ犯を騒すようにして、「稲荷さまの祭礼の時は賑や かだろうね」 「正月はそれは賑やかですよ」  通のほうを向いて、「そこら、いっぱいに店添立ってが ら…。・。」 「罵市はぎちらでやるんだえ?」           ゆびさ          とoい 「馬? 罵市ほ」拒雪は指して、「そら、華表の向うに、 広いところがあるでしょう。あそこがいっぱいに罵市に なるんですよ。それはその時は賑やがモすよ。赤いんだ  きいろ の黄いんだの白いんだのいろいろな旗が立ってね…−そ                    ばくろうしゆう して、私たち淡聞いちゃわからないけれど、博労衆たち        ふちよう                       まいo がわいわいって符牒を言ってね。−−−それに、着参詣添 たいへんですから…−L 「忙しいだろうね、その時分は?」         をん 「それは忙しいにも何にも、どんな室でも着客が三人や 四人はぎっしり詰るんですから、それは目が廻るようで すよ」  ふ沼ん 「平常の縁日は?」 「丑日に十目」 「その時も客が出るだろう?」 「少しは出ますけども−:−それはそんな忙しいほどでも ない」  二人は廊下の角のところでこうして立話をしていた が、やがて「拒雪さん!」と呼ぶ声が下でしたので、女 はそのまま下へ下りていってしまった。  その後もな翁ややしぱらく要太郎はそこにぼんやりし て立っていた添、ふとあることを思いついたというよう        はしご にその向うにある階梯のところに目をつけて、じっと長 い間それを見つめていたが、そのまま歩を移して、ある 見えざる力に引張られるようにして、一歩一歩階段を三 階のほうへと登っていった。 ************************************  三階といっても、そうたいして底いものではなかっ た。廊下がやはりぐるりと三方を廻っていて、六畳、八 畳の間私一つ一つ並んでつくられてあった。客は螢な立               あ音 ってしまって、どの室も皆ながら明になっていた。床の   かけもの 問に懸物がかけてあったり置物が置いてあったりした。 ある室には、午前の日影添美しくさしこんできていた。         そ昨                  あ、が 廊下の角からは前に聲えた山々に雲の白く鰐っているの 茄指さされた。  一間、一間見ていった向うの角のところに、かれはふ と隅にがくれるようになって四畳半の一間のあるのを見 た。そしてその一間のこちらの廊下の前には、三階で使         たぽこぱん う夜着や蒲団や枕や煙革盆や火鉢がごたごたと置いてあ るのを見た。折れ曲った階段は、さっきかれの上ってき たのとはまるで別に、それを下りていくと、ちょうどか れの泊っている一間のそばに出ていくようになってい た。  ふと、下からバケツを持った女中添上ってきた。 「ああ重い!」  こう書って、女中は水の八分目満たされたバケツをそ                     いちようがえし こに置いた。それは知らない十八九の女中で、銀杏返に 串      L匝はLお囲 結って、尻端折をして、下から赤い腰巻を見せていた。 そゼ 袖を後で緕んで、白い両腕を惜しげもなく出していた。 ************************************ ヨ61一兵卒の銃殺     老がめ 「三階は眺望がいいね」  こんなことをかれは書った。             やつかい [でもね、高くって、掃除は厄介ですよ。水を特って上 るの担たいへんでね」 「それはそうだね、手伝ってやろうかね」 「手伝ってくださいよ。親切があるなら。…。」  こう言って女申は笑った。かれも笑ってみせた。                  と だ 「ほんとうにたいへんだな」ちょっと途絶えて、「しか しおもしろいこともあるだろうね」 「何担翁もしろいことなんがあるもんです水。夜は遅く 寝るし、朝は早く起されるし、それに一日働いてさ… …。夜になると、足が棒のようになってしまいますよ」  こう言いな躯らも、じっとしてはいずに、女中はバケ         ぞう古ん ツの水の中から、雑巾を出して、尻を高くして、元気よ              ふ く、こちらから向うへと廊下を拭いていった。 〕二階の番は君がね」 「私ば淋しでもないのよ。笹日順番があるがら……」  かれは女中の雑巾がけをするのを見な添ら、しばらく そこに立っていた。ふと気がつくと、そこがらは、裏の        うLろ 畑−風呂場の背後になっているらしい野菜畑茄毘え             みつつ              者 喜 て、そこにこの家の老祖母空二歳ぐらいになる子を苗負 って、あちらこちらと歩いていた。物干には赤い白い潜 ************************************   た ぴ 物や足袋ががけて干してあった。         瑚                     値しζ  やがてトントンと静かに音をさせて、かれは階沸を下 りていった。                ζ  こ  かれにとっては、すくなくとも、此家に為雪がいると いうことが力でもあり生命でもあり、また気懸りやもあ               ひをあし った。で、午前はとうとうがれは一歩も外へ出ず、不安  お5のう                                       もうそう と換悩と神経の動播とある事を実行するについての妄想 と、そういうものの中に、いたずらに時間を過したが、                   ほ5ふづ し水しその問にも、ときどきは若雪の姿の髪露を得たい         かわや と思った。かれは則に行くにつけても、そこらをぶらぶ らするにつけても、そこに奉雪の姿が見えやしないかと 思って目で探した。ある時は翁雪がほかの女中と何水話 しているところを発見して、そのそばを通っていった。 目と目とで話をした。ある時は風呂場のそばで着雪茄せ             ひるめし っせと働いているのを見た。午飯の時には、気をきかせ て着雪が膳を運んできた。 ************************************      二十四           ゆかた  午後三時ごろ、旅舎の浴衣を潜た要太郎の姿が、稲荷           とoh 社の門前町から、大きな藻表のほうへ静松に歩いていく の茄見えた。「拾入んなさい、翁休みなさい」という声  かLま 茄喧しく両側がらきこえた。  初夏の晴れたいい日であった。風というほどの風もな かった。午前と違って、新緑の葉はその鮮やかさと美し さとをいくらか減じていたけ牝ども、それモも空気が澄       あ“ わでいるの。で、碧い空との対照が、美しく人の顔に照り ほ一    弓                         とoい 栄えた。物添すべて明るく浮きだすようにみえた。婁表                 うち    さんけい も、門も、社殿も、両側に並んでいる家も、参詣に出か けていく人たちも、何もかも・…−。                    かやぷ音  華表を入ろうとすると少し手前の右側に、茅聾の、ち ょっと見ると小屋のような家添二軒並んでいて、そこに                    そを 同じような婆さん添二人、稲荷の宥狐さまに供えるため  たきご  あぷ隻げ                 すす の鶏卵と油揚とを、しきりに参詣者に勧めていた。     たまご 「油揚と玉子はいりまへんかね。翁狐さまにあげる油揚 と玉子1」  こう言っては、人が通るたびに、出てきて勧めた。  二人とも五十水ら六十ぐらいの婆さんで、純乎たる田          たぱ 舎者で、髪を後に丸く束ねて、汚れた潜物を潜て、縄の      し ような帯を緊めて、しかも二人とも競争者であるかのよ うに、「若狐さまに⊥げる油揚と玉子1」を連呼した。  ちょっとはたから聞いてはわかりかねるようなひどい   套り 田舎説で、「着狐さまな、な、油揚をあげると、えろう             〕 やく 喜ばっしゃるでな、きっとご利益のうあるで、な、な、 一杯、買ってあげっしゃい」と、こう書って二人は参詣 ************************************   たも占 者の挟を取らぬばかりにした。   かご 二籠十銭1 一籠十銭!」  こう呼ぶ声が遠くから聞えた。           げあ  そうかといって、この婆さんたちは、油揚と玉子ばか                       に しめ りを売っているのではなかった。店にはいろいろな煮染    するめ     いものi」 だの、鯛だの、芋子だのが皿に盛って並べて右いてあっ て、ちょっと休んモ一杯飲めるようにもしてあるのであ った。そして祭礼の時は、この狭い小屋が田舎の百姓の おやo ぱぱあ 爺や婆でいっぱいになった。したがって稲荷の婆さんと                       も弓 いえば、土地でも誰知らぬものはなく、昔から金の儲か るいい株になっていて、婆さんが死ぬと、その位置は、              まと 町の婆さんたちの大きな競争の的になるのがつねであっ た。そしてこの慣習はかなりに古い昔からつづいてきて      そ老 いた。狐に供える油揚を売るその婆さんたちといえぱ、 その大きな流行神の稲荷での一つのカラアにまでなって いた。  要太郎が通ると、婆さんたちは油揚と玉子の入った籠  芭そ を競って持って出てきて、わからないひどい田舎誰の言   あられ 葉を霞のようにかれに浴せかけた。 「ご利益があるでな、な、一つ買わしゃ牝! あげなさ れ1」 「為狐さまが喜ばっしゃるで、な、な」 ************************************ 363 一兵卒の銃殺          し庫うね        からま   一人の婆さんは、執念くかれに絡りついて勧めた。               言いせん  二寵十銭! 一籠十銭! 若餐銭をあげたと思わっし  やれ!」   一文も金というものを持っていないのにもかかわら ず、要太郎はその一人の婆さまの勧める油揚と玉子の入  っている寵をむりやりに持たせられた。   しかしかれはぼんやりしていた。一面にはどうともな               “た れ1 というような心持が首を謹げていた。で、かれは 平気で、押つげられた一つの籠を取って、それを手に持       と里い  って、大きな華表の中へと入っていづた、「帰りに寄ら  っしゃれ」後からこういう婆さんの声がきこえた。  小さな寵を持って一歩一歩社殿の前の門のほうへ歩い 。ていく要太郎の姿は、午後の日影の明るい中にくっきり と見えていた。あたりにはそうたくさん参詣者はなかっ た。田舎の爺婆が一人二人歩いているぱかりモあった。             をぴ 広い広場には薪緑が美しく駆いて光った。  大巷な門−それは古風な典雅な建築で、何でも七八 百年をそのまま経過したというので有名であった。要太 郎の姿は、やがてその門のところに見えた。かれは籠を                は回       なげL 持ったままそこに立ちどまって、梁を見たり長押を見た り彫刻を見たりしていた。しかし、がれはそれを注意し  て、または興味を祷って見ているというのではながっ ************************************ た。彼はただぽんやりとして立っていた。かれの眼ほ也 碓                         3 は、外部よりもかれの内部に向って鋭く開かれていた。  籠を供えるところは、ちょうど社殿の裏のほうになっ               牡かま け ていた。そこには十八九の抄年茄袴を穿いて、それを供 える参詣者の来るのを待って、いちいち奥の神前に供え るべくそれを受取った。要太郎もそこで籠を渡した。  それからかれは大きな社殿のほうに歩いてきた。がれ ほ別に神に祈念するモもなく、そこにかかっている大き                そうLん な鈴を鳴らすでもなく、ただじっと褒心したもののよう にあたりを眺めて立っていた。その問にも、参詣者が二 三人来てほ鈴を鳴らしていった。  要太郎の姿は、そこに立ったまま、しばらく動がなか     まい った。奉詣りして帰っていく参詣者もそこを通っていく          を れい  崎う童 神官の白衣姿も、庭に絡麗な簿の目を立てて掃除してい る爺さんの姿も、何もかもまったくかれの眼には映らぬ ようにみえた。始めはかれは立っていたが、しばらくす   しや。か ると騨躍んだ。そしてまた同Lようにじっとしていた。  参詣者の嗚らす鈴の音が絶えず聞えた。  しかし三十分ほど経った後には、かれの姿は、今度は 門の中を通らずに、その傍の広場に添って、ぶらりぶら                  ゆオた り歩いて戻ってくるのが見えた。旅舎の浴衣の袖と裾と が欝かに動いた。  とoい 華表を出ると、 「為帰り、着帰り、休まっしゃれ、休まっしゃれ−」  こう言って、さっきの婆さまがそのままかれをその店 に引張りこんだ。  かれは婆さまの言うなりにして、その小さな店の巾に ある古い長い腰掛に腰をやすめた。 「いい天気だな、もし・・:−ご参詣には何よりだな、もし」  こう言って丸い小さな火鉢をそこに持ってきた。  かれは昨日巻煙草の最後の一本を吸ってから、まった く煙草を吸わなかった。で、「煙草はあるかえ」と言っ たが、ないと言うので、ずがず水立っていって、二服、 着さき煙草だ」こう平気で言って、婆さまの吸っている 言せる 煙管と煙草とを持ってきて、それを一服つめてうまそう に鼻から出して吸った。つづけてもう一服吸った。        みまわ  かれはあたりを胸していたが、そこに並んでいる徳利          に Lめ と、皿に盛ってある煮染とに眼をつけると、もうたまら なくなったというように、 「着婆さん、酒があるな1」 二本つけやすか、へえ、かしこまりやした」  婆さんが後向きになって、大きな壷から片口にゴトゴ ト音をさせて酒を出しているのがこちらから聞えた。そ の音淡要太郎には何ともいえぬ快よさを与えた。やがて ************************************        かん6つく匝 婆さんはそれを燗徳利に移したらしく、そばに置いてあ     ちやがま  ふ走 る盲風な茶釜の蓋を取ると、湯気がぱっと白く薄暗い家       あが                 けはい の空気の中に鰻った。燗徳利を入れる気勢がつづいてし た。 「為菜は何にすべかな」 「何があるな」  するめ   やきどうふ     いも 「鯛に、焼豆腐に、芋ぐらいなもんだ」 「鯛と焼豆腐くれや」  しばらくして、小さな盆に徳利と盃と脇を入れた皿と  の       はし を載せて、薯を添えて持ってきた婆さんは、 「着前さん、兵隊さんかね?」 「どうして?」  要太郎はぎょっとした。 「そうだべ?」 「・:−−」 「俺の眼で見れや間違いこはないだからな、えらかんべ や」笑ってみせて、「だって、すぐわからアな、頭んと ころ、黒く白く筋がついていらアな。胸がしゃんと張っ ていらアな。兵隊さんヅていうことは一目でわかるアな」 [そうかな」  こう言ってかれはいくらか安也したようにして、手酌    さかξ  つ で酒を盃に注い㍗、そしてグッと飲んだ。アルコール ************************************ 365一兵卒の銃殺 性の強い刺戟が体と心とに染みるような気添した。 「相馬屋かな。宿ぱー?」             書  婆さんはまた笑いながら訊いた。かれはうなずきなが                  吉 ひ らまた一杯ぐっと飲干した。動揺し、麻輝し、混乱した       かいふく     者                    もた 頭がいくらか恢復して、萎えた勇気がしだいに頭を彊げ てきた。 「相馬屋はいい宿だな」 「そうだな」                      おら  ぱ 7 「どう」ても古いだで…−昔からある宿だべ。俺が祖母 さまの時代からあるだや、な、親切だな」  かれは何のかのと言いかける婆さまは相手にせずに、 一杯二杯と盃を重ねた。だんだん体がほてってきた。熱  さオん い熾な血が脈から脈を流るるような気淋した。着り為り さんけい 参詣者が通るたびに、婆さんは例の籠を持って、「油揚 と玉子」を連発して、そのかたわらについていった。隣                   す。か の婆さんも負けぬ筑になって参詣者に縫りついていっ た。 「婆さん、もう一本くれや」 「翁代りがや」               したζ  こう言って、婆さんはさらに準備して着いた別の徳利 を茶釜に入れた。要太郎はどす赤い顔をして、鋭い目っ きをあたりに放って、そツとぬすむようにして、皿の中 ************************************      はさ の鏡豆腐を撚んで口に入れた。           弼 「兵隊さん、今日来たんけ」  婆さんはまた話しかけた。 「いいや」                     つら 「担暇でも貰ってきたんげア そうけえ? 辛いてヅて            みい な、兵隊さんは? 俺が甥が今一人行ってるが、来るた    ぞう首んがけ びに、雑巾掛が辛いってこぼしていくだよ。あんじょそ うしたことをするか、同じ人間だアにツていうこんだが な。これもな、親則だヅていえばしようがねえがな」 「何アに辛いツていうこともねえけど……」わざと落ち ついた調子で要太郎は昌、口った。 「戦争さ、行ったけ?」 「行った」 「えらかったんべな。玉ア来るヅてな、頭の上さアヘ… …」 「それは来るとも−…」 「着っかなかんべな。生きた空はあんめいな」考えて、 「俺が出た村で、騎兵でな、林清太郎ツていうんが、戦 死したがな。知らねえかよ」 「絢らねえ」 「大勢いんべからな」  二度目に持ってきた徳利を空にするころには、がれの 体には、もうかなりにアルコール性の持った力が澄牝て きていた。顔も、胸のところもわるく赤く、眼は鋭くあ たりを見廻した。「そうだ。それよりほかに路はない。                   こ 自分の出ていく路はない。そうだ。勇気を鼓してそれを                     せつこう 実行するに越したことはない。戦争に行って、斥候に出 たと思えば、こんなことは何でもない。盗むとか何とか いうなら、ドジを組むと発見される恐れがあるけれど、 そうすれば知れっこはない白そうして金を得る……その 金さえあれば、どんなにでもして逃げられる。ちゃんと 奉雪に打合せをして着いて逃げられる。そして人の知ら            か ないところへ行って、名を更えてしまう。分りっこはな い。奉雪だヅて、何もこの近所にまごまごしていなくっ てもいいんだ。……そうだ、それに限る。よし、きっと 実行しよう」かれはキヅとひとところを見つめるように した。  で、最後の一杯を、深く物を考えるようにして飲み終            ふとζろ ったが、きゅうに、がれは懐だの三尺帯の間だのをさ       そ河      たもと 淋し始めた。袖のない挟のところへも手をやった。 「着やI」  婆さんはこっちを見ていた。           まわ蠣 「宥やー」立上って、周囲を見廻したり何かした。 「どうしたな?」 ************************************       かし  が牝は首を傾けて、「着や、忘れて置いてきちゃった かな。持ってきたと思ったがな」こう言って、「落ちる わけはないが!」 、何んだな?」 「財布だがね……たしかに持ってきたと思ったんだが、 …−さては忘れてきたとみえるな。そうだ、床の間に置 いてきちゃったかもしれねえ」わざと笑って、「たいへ    水んじよう んだ、勘定ができねえ」 「そこらへ落したんじゃねえけ?」 「落すわけがねえ」念のためというように、もう一度そ のあたりを見廻して、「困ったな」 「何アに、宿がわかっているで、いいやな」 「そうだな、気の毒だな。これア、えらい恥かきだ。じ ゃ、すぐ届けてよこすからな。たしかと持ってきたと 思うんだがな」もう一遍さがしてみて、「やはり、忘れ                      かんじよう てきたんだ」ちょっと考えて、「それでいくらだな勘宅 は?」       ナるめ                          む壱 「酒が二本に、鰯に焼豆腐…−それに油揚」婆さんは胸 ざんよ5 算用をして、「四十二銭になるぺ」 「それじゃ、すぐ届けるから、…−それに、まだ今日は 一日泊っているで……。ほんとうにえらい恥かきをした」  デ」う言って平気やかれはそこを出ていった。 ************************************ 367一兵率の銃殺  こっちがら行く参詣者に「油揚に玉子、翁狐さまに上        ナナ げる油揚−…」と勧める婆さんの声が後でした。 ************************************ 二十五 ************************************  自分の運命1ゆくりなく陥っていった不思譲な重苦 しい辛い自分の運命をいよいよ切り開かなければならな い時期が到達したことをがれは思った。風呂に入ってい     かわや る間にも邸に行っている間にも、廊下に立って今日も凌     #だや た静かに穏かに碁れていく夕日の山々を跳めた時にも、 ちょっとの間を得て着雪と話している間にもその運命が         しゆうね  から 絶えず体と心とに執念く絡みついていて、それを決行し               の ざ てしまわないうちは、飯もろくに嘔喉に通らず、話も落 ちついてしては翁られず、すぐそっちに頭が引張られて いって、自分で自分の体が自由にならないような気がし た。自分ながらどうしてこう突きつめたか、どうしてそ         とら の恐ろしいある物に捉えられたか、どうしてその決行と いうことに引張られていったか、自分でも自分がわから なかった。為り珍りかれは立ちどまって、その決行当時 の光景を頭に浮べるようにした。それに、帳揚の隣にあ                    みせさ言 る金の入っている箱が、どこに行っても1店頭に入っ てきた時はもちろん、室にいても、廊下にいても、誰か と話していても、衝動的にすぐかれの眼から頭へと映っ ************************************ ていった。人々の騒ぐうちに、それを取りだしている自 68                          3 分が、手伝う振りをしてそれを表へ持ちだしている自分   さ つ が、紙幣やら銀貨やらを取りだしている自分がありあり と眼に見えた。  時には、あらかじめその目的物をさらに正確に見て右 かなければならないと思って、素知らぬ振りをして、一 度ならず二度までもその店先に下りていった。首い帳   そろばん 場、算盤、大福帳、老婆の姿、その白髪の老婆がなぜか かれの気にかかった。帳場の隣にある金犀に似た箱、大 きな錠のかかった箱、その上のところには大きな広皆の 美人画が下げてあった。主人と番頭とは何かそこでしき りに物勘定をしていた。二度目に下りていった時には、 ちょうどそこに客が三二人入ってきて、「いらっしゃい」 と言って、人たちはそっちに気をとられていた。で、ぼ んやり立って見ていると、そこにいた一人の女中が「担 出かけ」こう言ってかれのそばに寄ってきた。「いや、 ちょっと湯を持ってきてもらいたいと思って…−」こう 言ってかれはごまかした。  室やら、庭やら、裏のほうやらをもっと見ておかなけ ればならないと思ったかれは、二階三階の廊下をぐるぐ る歩いた。しかもなるたけ人目に触れることを恐れて、      奉ん毒 客松いたり蝉がいたりするところは急いで何か用事でも                 は あるようにして通った。庭から下駄を穿いて向うに行っ た時には、木戸を明けて婁の畑のほうまで行った。廊下 から裏へと出ていく扉のあることをもかれは見て着い た。野菜畑の向うには井戸があって、そこで体の大きな    ぽんぷじ かけ 下男が卿筒仕懸の蚊でせっせと風呂に水を入れているの        た                       けむo を見た。もう火を燃きつけたとみえて、青く白い姻が屋     えんとつ         あが                      うち 根の上の姻突から綱々と麗っていた。その向うでは、家 の男の児らしい十三二の少年と七八歳の女の児とが遊ん でいた。    たんす  奥の璽笥の置いてあるほうも見たいと思ったけれど、 さすがに人目が繁くて、そこまで入っては行けなかっ た。でも、そこの一郁の見える廊下と店との間のところ へは、かれはたびたびその姿を見せた。  着雪とはまた廊下でちょっとこんな話をした。 「帰ったら、きっと手紙はちょいちょいくださいよ」 「ああ・」 「ほんとうですよ、でないと、心細くなってしまいます から」 「ああ一」  こう言って、「今日はいそがしいかえ?」 「そう忙しくもない…−でもね」着雪はきゅうに声を低     ゆう、へ くして、「昨夜は変に思われてね」 ************************************ 「どうして?」 「はっきりとわかりゃしなかったけれどね、寝たと思っ た女中が起きていて、知っててね」 「どう?」 「着雪さん、来たのは今朝だツたね、なんて、一、肖われちゃ った」 「でも、ほんとうには知れやしないんだろう?」 「それや、わかりゃしないけどもね」こう言って、「で も、今口もいろいろ考えたのよ。・・:−とてもいっしょに はなれないかと思って、:::いっしょになってもいいん だかわるいんだかわからなくなっちゃった」 「だいじょうぶだよ」        けはい          あわ  そこに人の来る気勢がしたのモ、慌ただしくかれらは 別れた。  かれは室の中にいることを恐れた。なぜかと小えば、                    よみがえ それはそこに昔の生活と昔の記憶とがいつも蘇ってか   いかく                  在げ」 犯を威嚇するからであった。脱いで長押にかけたままに なっている軍帽と軍服と剣、それが一番先にかれの眼に ついた。がれの踏みこんできた最初の一歩はそこにあっ た。浅瀬からだんだん深い淵に入っていくかれの罪悪は そこにあった。今ではもうそこから脱けだすことができ なくなっていたが−脱けだそうとしても脱けだせなく ************************************ 369 一一兵卒の銃殺 なっていたが、それでもそ札を見ると、一昨夜からのこ とが一つ一つ眼の前に浮んできて、堪えがたく心を不愉 快にした。不安と恐怖とがすぐかれを襲ってきた。  また日が暮れていくのであった。三日Hの口が、人間 の世の中にこういう不安と罪悪とがあるのを少しも知ら ないような日が、穏かな静かな日が、荷車の音と罵車の らつぱ                  み皇螂 螂臥の音と美しい山々の深い碧とを背景にした出舎の日 が。  がれはじっとそれを跳めながら、廊下の角のところに 立っていた。理由なしに、涙がこぽれてきた。自分を可             Lわ 愛がってくれた老いた祖母の鍍くちゃな顔が見えた。家                   く ず 出をした時の朝のように泣いて泣いて泣き崩折れたくな った。 ************************************      二十六        けはい  女の下りていく気勢がした。           はしご  その足音は折れ曲った階悌を下りて、静かに静かに向 うへと行った。もう聞えなくなったと思うころでも、ま だそれがはっきりきこえているような気がして、かれは              そぱだ 宋の中に半ば身を起して、耳を聲てた。  女が女中室にこっそり寝に入っていくさまがありあり        せ首ぱく と見えた。深夜の寂翼はすでに一面にあたりを領して、 ************************************ 少し吹き始めたらしい風のほかは何の音もきこえなかっ 洲 た。かれば続けて耳を聲てた。  キュウキュウという畜がした。久しい間、が牝はそれ              ひさし が何だかわからなかった。樹の庇に触れるような音でも        ね い 芭 あり、また誰か寝呼吸を立てているような畜でもあっ             屯たぶ た。かれはしばしそれに耳を傾けた。しかし、それは白                   しよう一かい 分のあることを決行するについての何らの障畷でないと いうことを判断して、かれはつとめて心を平静にしよう とした。かれは枕もとの時計を見た。  二時半を少L過ぎていた。  とにかく皆な寝静まってしまうまで待たなければなら ないと思った。今帰っていった女の寝静まるのも…・・  しかし都合はいいと思った。今夜は三階には、客が一 人向うの違いほうの室にいるばかりであった。二階には 三組ほどいるが、それとて邪魔にはならなかった。首尾 よくいけば、三階に一人いるあの客に罪をなすってし凌 うことができるかもしれなかった。それにかれの選んだ 場所の隣りには寝道具やら煙草盆やら火鉢やらが置いて あった。そういう所がら起ったように人に思わせること もできた。  かれほ蒲団の上に身を起して、その前に置いてある時 計の針を眺めた。もう二十分過ぎた。あと十分経ったら、 疲れているので女もたいてい寝てしまうであろう。ふと かれは薄暗くついたラノブの石油の壼のところに眼をや った。石油は十分にある。だいじょうぶだと思った。  また五分経った。        そぱだ  かれはまた耳を聲ててみた。キュウキュウという音は まだしているけれども、低かには何の音響もなかった。   のぞ                      もちまえ 事に臨んで案外冷静であるかれの性質の冷静か、力強く       み左ざ がれの金身に薩ってきた己かれは一種の力強さを感じ      せつこ5       壮 た。戦争で斥候の任務を帯びて、深夜敵の中に入ってい った時のことなどが思いだされた。「決行」こう思って かれは立上った。  まずマッチを懐に入れて、それからラソプを7ツと吹 き消した。と、あたりは闇になったが、眼を定めてみる                        かす と、二間三間隔てた客のいる間についたランプの光が徴 かにそこに来ているのでそう真暗な闇というほどではな                はず かった。かれは消したヲンブの笠を外し、半分ぐらい残 っている石油の入った壼だけを持って、そしてすっくと        はしご 立上って、三階の階級のほうへ出ていく隅の障子をそツ と綱目に明けた。  ソッと身を外へ出した。              昔し  音のしないように、あたりが軋まないように、抜足し て、一歩一歩三階へ登る階級の下のところへと行った。 ************************************        あか切 そこはどこからも灯が来ていないので、真暗であった。 かれはかえってそれを心安く思った。かれは手さぐり で、階級を上って、上りきるとそのまま有の室に入っ た。  南の隅の一問に客が一人いるはずである。それに知れ          苫つたてみみ てはと思って、かれは屹立耳をしてしばしLっとしてい た。し水LあたりはLんとしている。いささかの物音も ない。それにこの室は、壁の陰になっているので、南の 一聞から来る灯の光も見えない。かれはな為闇の中に立 ちつくした。自分の今犯そうとLている罪悪を反省する    ちゆうちよしゆんじゆん        ののし 心と、購購邊巡する態度を罵る心とが両方から強く押    5 ず                              てんと5 寄せて巴渦を巻いた。かれは自己の体も精神も顛倒して しまうような気がした。Lかしそれも瞬間であった。か れは思いきって、手に持ったヲンプの壷の石油を半ば畳                        こ一つ の上に明けて、そっとマヅチをすった。光線が蒼白い目叩 ふん 奮した床れの顔を照した。  二本目にすったマヅチの火はたちまちこぼした石油へ           は と移って、みるみる蛇の這うように一面に燃えひろがっ                 さん た。闇はきゅうに明るくなる。障子の桟の目や、半間の 床の間や、ちがい棚や、そういうものが浮きだすように はっきりと見える。かれはきゅうに不安になりだした。 かれはいきなり石油の半分残ったヲノプの壷を火の上に ************************************ 371一兵卒の銃殺                    にしご ひっくりかえすとそのまま、急いでもと来た階級を下へ と下りた。  自分の室に入りかけて、また思い返して、かれはもう 一度階級のところに行って上を仰いでみた。上は一面に 明るくなっている。火は障子に燃えついたらしい。  ふたたび自分の室に入ったがれは、そのまま床の巾に 入って、夜薦を顕からかぶった。じっとしていた。  胸がドキドキした。実行したその時よりもかえって今        、せん螂つ のほうが精神が戦傑するようなさまを感じた。じっとし ていられないのをしいてじっとしていなければならない       こんしん 苦痛をがれは溝身に覚えた。  三階ではさかんに火が燃えているらしい。三階の階級 がらかけてこっちのほうの障子も明るく照されて見えて いる。しかしまだ誰も騒ぐものがない。皆んな知らずに 眠っているらしい。三階に一人いる客も知らぬらしい。 「もうだいじょうぶだ。あのヲンプの壷も燐けてしまう。 あとに罪跡の何者をも残さない。だいじょうぶだ、もう だいじょうぶだ」こう思ったかれは、人が騒ぎだしたら、 て童ぎ 適宜に下に下りていって、その計画を成功させなければ ならないと続いて思った。 [火事だ、火事だ1」       お軋て  という声が戸外からきこえた。 ************************************  つづいて戸を明ける音がする。「火事だ、火事だ!」犯 という声がする。近所がにわかに騒がしくなる。戸を明         けはい                    お軋て けたり閉めたりする気勢がする。内よりもかえって戸外 のほうにきゅうにがやがやと騒ぐ音がした。しかしこれ もしばらくの間だ。今は内でも起きたらLく、「たいへ んだ、たいへんだ、三階だ1」と言う声がする。ばたぱ たと大勢駆けて上ってくる音がする。声を限りに叫ぷ 声、つづいて水を呼ぶ声、中には女の金切声で何か言う のもまじってきこえた口            はし。こ  あお  きゅうに三階から向うの階級を慌てて審の下りていく けはい 気勢がした。    をげし    てんじよう  もう長押から、天井、屋根へと火は燃えていったらし かった。昼のように明るくなった光線とともに、かれは       けむり むせ しだいに火の姻の咽るように室内に入ってくるのを覚え た。かれは急いで起上った。そして、始めてそれと知っ て慌てたもののように、わざとけたたましく音を立てて 一階の折れ曲った階級を下へと下りていった。 「もう、だめだ1」  躬塩わらお  大童になって向うから駈けてきた番頭が坦一目った。 「だめか? もう:−・」  ろうぱい  狼狽した主人は、寝巻きのだらしない風をしてすれ運 っていった。  半鐘が深夜の眠を驚かして、けたたましく鳴り始め た。                   ふる  誰も彼れも皆んな起きて、ぶるぶる身を戦わして慌て 廻っているのをかれは見た。女中も番顕も下男も、何も                 芒よう 手がつかない㍗、うろうろしている。気丈な婆さんは、                     ちようちん きょときょととしてあたりを見廻している。「提灯、提 灯1 何より先に提灯1」こう書われて、女中の一人は、         おろ 長押から高張提灯を下したには下したが、手足も歯の根             ろうそく もガタガタと震えて、一っの魑燭を魚火するにすら容易          柑おわらわ でなかった。急いで、大董になって下りてきた主人は、 「だめだ、もうだめだ。出せるだけ荷物を出せ!」こう      珪 去 大きな声で怒鳴った。  町はすでに騒ぎだしていた。にわかに半鐘の音に深い 眠をさまされた近所の大勢の人たちは、群をなして通り                       す士」ま に集ってきていた。今しも、三階の屋根に抜けだした凄     唯のお 亡い紅い焔は、怪物が舌を出したがのように高く筒く燃         芭いろ          けむり え上って見られた。黄い赤い褐色の姻が燃える火を包ん   いなり  やしろ で、稲荷の社の門前町を昼のように明るくした。  風がいくらがあるので、火と火烙と燗とは、裏のほう      左ぴ へほうへと駆いていく。大きい小さい火の子は、無数の 螢火を散らしたようにさかんに窒に舞い上る。町にある            寸さま 半鐘という半鐘は、すべて凄じく鳴りわたる。近所の家 ************************************   あわ         けはい 家の慌てふためく寅勢、水を迦呼する声、群集のわいわ                   みを葦 い騒ぐ声、そういうものがあたりに凄じく澁りわたって 聞えた。    珪                                 かざ 「着い、退け、退け!」こう一一、目って提灯を旗り窮して、 群集の中をわけて枳馬屋の店先に入っていったのは、こ この分家で、停車場に店を出している主人の弟とその二 三の番頭とであった。入っていった弟の眼は、ここの主 入と番頭とが慌てふためいてまごまごしているそばに、 ゆ右た 浴衣を満た客らしい男が立ってじろじろとあたりを見廻             ど な しているのが映った。弟は怒嗚った。「兄貴、早く肝心 なものを出さんといかんぜ」 「ヤ、来てくれたか。頼むぞ、一番先に、ここだ」  こう言って、主人は帳場のそばの三尺の押入のほうを 庫ぴさ 指した。「よし、よし」弟と番頭とは、それを明けにか がったが、この時、そばに立って見ていた要太郎は、「ど れ、俺も手伝ってやろう」こう書って急いでそのそばへ と近寄っていった。             ようだん♪       じよう  その押入の中には、小さな用箆笥やら、錠のがかった 大きな金箱やら、必要なものの入托られた大きな箱など が入っていた。弟は一番先に用襲笥を出して、つぎに金 箱を出したが「兄貴、為前さんは何にも出さんでもよい から、肝心なものを置いたところに、ちゃんとついてい ************************************ 373一兵卒の銃殺 なくちゃいかん…−」 「よし、よし」             ようだんす  圭人はこう言って、金箱と用璽笥とを運びだす番頭た ちのあとについていった。要太郎はこっちのほうにちょ っとついていったが、すぐ引返して、さも頼りになる手 伝人のように、「出すものはあるなら、、一、門え、出してやる から」と叫んだ口  主人の弟の眼には、見知らない蒼白い眼の鋭い顔が映                 うたぐ ったけれど、そうした親切な手伝人を疑ってみるような              つづら  こうり 余裕もなかったらLく、そこに葛籠や行李を出すと、そ の男はそのままそれを表のほうへ運んでいった。  そうこうしているうちに、。町のあちこちがら、不時の 災難に援助に向った人たちが、大勢店の中へと入ってき た。奥からも、箪笥や長持や鏡台や葛籠や、そういうも のがしきりに運びだされる。婆さんと子供たちと女たち は、危ないといって、すでによほど前に表と裏のほうへ 避難させら牝たが、主人と土さんとは、それでも家具の 搬出の指図をしなければならないので、奥と店との間を 往来してしきりに手伝いに来た人たちに声を懸けた。か        かんじ㌧ と思うと、不意に肝心なものを思いだしたように、「あ の欝笥1 あの堕笥も出さなけりゃ!」こう言って上さ んほ奥に駆けていった。 ************************************  要太郎はうろうろとあっちへ行ったりこっちへ行った 捌 りした。二三度金箱、用箪筒のある処へ行ってみたが、 そこには番頭が一人厳重に番をしていて、容易にその鍵 を破ったり何かする隙もなかった。一度はそツとその後 へも廻ってみたが、それでもどうすることもできな水っ た。で、引返して今度は奥から運びだしてくる道具類に 眼をつけながら、予伝の人々の群に交って、自分もその 一人であるかのように見せかけつつ、奥のほうへと入っ          か げん ていった。昼間、よい加減に研究はしておいたものの、 こう混雑した状態の中に入っては、さすがのかれもどう            ちまなか することもできなかった。生中なものに目をくれて、自 分の犯した罪悪を疑われはしないかという懸念もかれの 敏活な行動の邪魔をした。  この時には、火はすでに三階から二階へと凄じく燃え 移って、折り廻した雨戸が姻と火とに包まれてメリメリ 焼け瀦肺ていくのが大通から手汰源るように見練た。二 階の欄干のところにある大きな梧桐の葉の焼け濁れたの    すか も火を透してそれと指さされた。町のポソプは、この時                    口よろうや すでに、二台、三台までやってきて、一台は女郎屋の井                   L 戸に、一台は門前の料理屋の弁戸にそれを仕かけて、ヅ                {いしゆつ ツクの太い丸い管から水が高く高く避出していっていた が、その二本の管の水ぐらいでは、燃えさかる火はどう することもできないようにみえた。隣近所、わけても風     うち 下にある家の屋根には、消防に上っている人々の姿が黒 く浮きだすように見えて、近いところには、火の子の散       うずま          まとい 乱し、黒燗の渦く中に、消防の纏の不動の態度を示して 立っているのがそれとはっきり指さされた。 「もう、一台、東にかけろ!まごまごすると、隣へ移 るぞ!」  こういう命令の下に、今しもそこに到滴したポンプの              ろ じ 一台は、向側に行って、細い巷路の中に井戸を発見し   またた て、瞬く間にそ托を仕かけたが、そのヅックの水管から        阻とぱし は、やがて水が遊るように風下の火焔のほうへと向っ  そそ て注がれていくのが見られた。 「うまい、うまい」  こう消防の指揮官は言った。  さえぎ  遮るものなき平野の町の深夜の火事は、三二里の周囲 の人たちの夢を驚かしたに相違なかった。あるいは山裾 のさびしい村、あるいは海津に近い静かな田舎、あるい は街道に添った三二軒の家屋、昨日かれの通ってきた桶             ね ぽ   まなこ 屋のある町あたりでも、皆な寝惚け眼をこすりながら雨 戸を明けてみて、ないしは街道へ出てみて、「丁町は火 事だ」などと言っていたに柑違なかった。あるいはこの 西の山奥の半腹にある大きな温泉宿からもこの夜の火事 ************************************ がはっきりと指さされていたかもしれなかった。町に近 いところに佳んでいる人たちは、「稲荷さんじゃねえか な。見ろよ、あの黒く見えているのが、為稲荷さんの森 だんべ。…・−着稲荷さんでねえにしても、あの門前にち がいねえな。−;・・あそこは、小料理屋があって、だるま          そ そう なんかいるとこだで、粗相でもしたんだんべ」こう言っ て、明るい火を仰いで噂した。  ちょうどその時、通っていった夜行の汽車の窓からは、         み もの さもさもめずらしい見物だと一昔。目わぬばかりに、睡眠に落 ちているものも、眠りからさめて、智な右の窓水ら顔を 出して、すぐ近くにある黒い杉森を隔てた火事を眺め                     うずま た。火はさがんに燃え上った。火焔のおり着り渦き上る のもはっきりと見えた。「近いな、すぐそこだ」こう言               うち うものもあれば、「かなり大きな家だとみえる。なかな かよく燃える」などと書うものもあった。停車場には、    あかり                           と 駅員が灯の下で依然として平気で事務を執っていたけれ ど、それでもあたりは何となく騒々しかった。停車場の 餉を大勢人が駈けていったりした。乗客の一人が車掌を つかま          吉                   牡たごや 捉えてそれを訊くと、「稲荷の前の旅籠屋だそうです」 と教えた。夜行の汽車はやがて出ていった。汽車の進む につれて、その火はしだいに遼く遠くなっていった。「火 事はやけ太りツていうが、そうばかりでもねえだ。火事 ************************************ 375 一兵卒の銃殺 のためにさんざんになったものもあるだやな」などと同       こうふん 筒したらしい口吻である乗客は言ったりした。それも次         tんぱつ の駅に来た時分には天末がぽっと赤くなっているくらい で、誰の頭からもすでにその火事の印象は薄らぎつつあ                     ねむ った。乗客たちは時計を見たりして、ふたたび睡るした くをした。  稲荷の境内にも、いろいろな人々が集ってその火索を                 ろうもん 見ていた。火の反射の光で、広場も、機門も、社殿も、 社務所も一面に昼のように明るがった。祭礼の夜でもあ るかのように、人がぞろぞろと通った。社殿の前のとこ    *ぐうじ  *ね 雪 ろには、宮司や彌宜やその家族などが見ていた。「椙馬     うち                                     そ 屋は古い家だがな、どうして火事なんか出したかな。粗 そ5                                ひ と     うら 相がな。あそこは評判がいい家だから、他人から恨みを 買うようなことはないはずだが・・−・。それに、百年以来 ある家だ。惜しいことをした」こう年を取った禰宜は言 った。  昼間要太郎に酒を飲ませた油揚を売る婆さんもその前          しわ に出て見ていた。その鍍くちゃな顔が赤く火に照されて    ゆう。へ いた。「昨夜とりに行けやよかった。あの兵隊も焼けだ さ札て困っていべ」などと思いながら、じっと立ってそ の二階の焼け落ちるのを見ていた。そこにもう一人のほ うの婆さんがやってきた。 ************************************ 「何年ヅて、火事アなかったに……」        76                         3 「ほんだ−・・−」 「えらい騒ぎだ」 「相罵屋の婆さまも困んべ」  などと噂した。                 ちよ5ちん  門前ではどこの家モも、前に高張の提灯がかがげられ てない家はなかった。見舞の人々は、家から家へと歩い ていった。肩と肩とがすれるように人々が群集した。通              も りには、ポンプのヅック管から洩れた水がそこここに流 れて、雨上りか何ぞのように路がぐちゃぐちゃした。                  えら 「でも、下火になった。やっぱりポンプは豪いな。あれが 来てがら、ぐっと火が弱くなった。これじゃ、まア、二 三軒ですみそうだ」こんな話をLているものもあった。 「俺ア、また、どうすべと思った。火事だ! ツいうん や起きてみると、梢罵屋の三階から火がぽんぽんふきだ しているじゃねえかね。うったまげたにも何にも…・−」 「どうしてまア、三階なんかから出たかな」 「女中か何かの粗椚だべな」  こういう会話がそこここで取交される時分は、火ぱも うすっがり下火になって、三階、二階、それがら下へと                      をかぱ すっかり燥け落ちて、その裏につづく三二軒の家の半は     よ えん 焼けて姻と余焔との中に立っているのが見えた。大黒柱              なかぱ ぱ真赤になって、まだ倒れずに半はそこに立って燃えて いた。巡査が剣を鳴してあっちへ行ったりこっちへ来た               いま りした。一台のポンプ管からは、未だに水が余焔に向っ     へいしゆつ て勢よく逝出していた。 「そばに寄るんじゃない。そばに寄るんじゃない」  こう詳って、巡査は近づいてくる人々を制した。  もう午前四時を時計は過ぎていた。鎮火の半鐘がとこ ろどころで鳴ったころには、明けの明星成すでにきらき   れいめい らと黎明近い東の空に輝いていた。 ************************************ 二十七 ************************************  朝が来た。           ゆうべ            すさま  静かな晴れた朝だ。昨夜の騒ぎは、あの嚢じい火災 ほ、あれは憂であったがと思われるばかりであった。雨 上りのようにグチャグチャした通りには、人はまだ大勢 通っていたけれども、一珍事、一現象に向けられた興味 が、すでに大半は人々の頭から離れて去ったかのよう に、または町の事件がいつか一家の事件に移っていった         あわて もののように、別に狼狽たり驚いたりするような様子も なく、静かに、落ちついて、ただたんに一現象の跡を見 るというようにして歩いていた。燐跡には燐け落ちた柱   左げし    はo      じゆ5柑う やら長押やら梁やらが縦横に散乱して、黒くなって、ま      くす主 だぶすぶすと燥っていた。大きな大黒柱は、半分ほど残 って立っていた。  薄白いないしは灰色をした燗がうっすりと朝の明るい             こげちや 光線を受けて、ひとと}」ろは焦茶のような笛をあたりに みな童              十か                  しコ 涯らせた。そしてそれを透して、昨夜騒いだ人たちが尻 はーしお切            牡ちま音                                        ま わ 螂 端折をしたり鉢巻をしたりして運びだした家具の周囲を                      あ充ぎ螂 歩いているのが見えた。庭であったあたりには、梧桐の 葉が燦けただれ、形のいい松が半ば焼け、裏の野菜畑の            ふみ忙じ 野菜が若びただしく無残に躁蝸られているのも見えた。                  す 野菜畑の向うの二階屋は半分焼けて下が空けて見え、こ っちの平屋は人が上ったり何かしたので、瓦が一面に無 残に砕けていた。何もかも夜の騒ぎの跡を示していない ものはなかったo          おぷ     ひたいがみ  近所の子守が子供を負って、額髪を手拭で巻いて、そ こらをぶらぶら歩いていたりした。  そこに、どこから来たともなく、要太郎の姿茄ぴょっ             ゆかた くり現われた。かれは旅館の浴衣を潜ていた。そしてそ の浴衣はところどころ泥を滞びていた。        こ5ふん  かれは蒼白い昂奮したような顔をして、細い露地から 出てきて、通りのほうへと静かに歩いていった。かれも また跡を見ずにはいられない一人であった。跡を、恐ろ しい騒ぎの跡を、自分の犯した罪悪の跡を−…。  か九は夢に夢を見ているような気淋した。あの三階の 百油の壷、あの嚢じい火烙、あの恐ろLい騒動、それか らつづいてこの焼け落ちた跡、晴れた美しい朝日、それ をやったのが自分で、そしてこうして自分がここにいる とはどうしても思わ托なかった。恐怖と不安と不定、そ れも昨日とは違って、今は恐ろしい確実な否定すべから         よこたわ ざる物が自分の前に横っているのを感した。かれは不 恩議な気がした。一方では自己の罪悪を感じていな淋 ら、よく自分に1平生は気の小さい臆病な自分にこう したことができたと思った。つづいて成功しなかったと いうことが、いたずらにこの火災を起したということが、       圭 ね ぱかばかしい真似をしたということがかれの胸の底林ら 起ってきた。やはり、今もかれは無一物である白どうに もならない…−。と思うと、警繁で当然他の旅客といっ Lよにしらべられなければならない不安が為びただしく   ふさ                      いいわo 胸を塞いだ。そのほうはいかようにも言訳はすることが できるが…・−脱営兵のほうは、そっちのほうは?  かれは立ちつくした。大勢の人がいろいろなことを言 ってかれのそばを通っていった。中には、「まだわかんね       つけぴ えか、粗相か放火が?」こう話しな成ら行くものもあっ た、「罪跡は何も残っていない。何もかもやけた。あの 石油の壷も、マッチも、軍服も…・−何もかもやけてしま った。それだけはだいじょうぶだ。誰も知っているもの 弼 はない。また疑われるようなこともない」こうは思った が、脱営兵のことはどう書い解いていいかわからなかっ た。しかし一方では平気でいようという心持がかなりに 強く動揺するかれの也を静めた。「なるようにしかなり ゃしねえ。行当ってから考えるほうがいいや1」  こう思ってまたかれは歩きだした。  通りモは、大勢の人々の中にまじって、まだぶすぶす  くナぷ と嬢って燃えている燐跡を眺めた。人たちはいろいろな ことを言っている。「これだけの家が焼けるんだから、 騒いだはずだ」などとも言っている。その話す言葉がい ちいち自分の頭に反響してくる。ふとまた為雪のことな どが考えられる。「かまうことはない。脱営兵がわかっ たら、それだけの処分を受けるんだ」こんなことを心の 中のどこかで喜。目っているのに気がっく。  ふと、ある話が耳についた。それは泊っていた人もい たろうが、困ったろうなというようなことを話している のであった。  かれは突然言った。  加れ 「俺は泊ってたんだ」 「そうかえ、あんたが−」  話していた人は、振返ってこっちを見て、「そうかえ、 まア、困ったべえ」 「すっがり燥いちゃった。すってんてんだ」 「そうだんべ。……いったい、どこから出たんだな」 「三階だ」 「翁客さんどこへいただ」  おら                         あわ 「俺ア、二階だ。火事だって⇒、口うんで、慌てて目を明く      けむ とすっかり姻だもの、びっくりしち由、った」  そ そう 「粗相だんべかづけ火だんべか」 「それやわかんねえ−…」こう言ったが、「とにかくす っかり蜷いてしまって、すってんてんで困った。財布か ら何からすっかり焼いて」まった。持って出たな、時計 ぱかりだ」 「えらい眼に逢ったな」 「ほんとうだよ」 「どうも、これもな、災難でな、しようがねえや」  自分をそばに置いて、こんな話でもしていると、−自 分に関係のない話でもしているように話をLていると、 いくらか胸の電荷が軽くなるような気がした。       すか                {カにじ  薄青い姻を透して、向うにめちゃめちゃに躁蝸られた          らの悟し 野菜畑と、半分焼けた物干と、その間を拾うようにして              れいめい 歩いている人たちとが見えた。黎明近く、旅館の人たち  たちの の立退いた場所へ−それはそこがら遠くはなかった− 1自分もいっしょに行ったことも思いだした。いっそこ    に のまま遁げてしま着うかと思ったけれど、そうすればい よいよ自分の罪が知れると思って、何食わぬ顔をして、 その大勢の人たちの群の巾にましっていたことを思いだ                      うち した。その避難した場所は、旅館の婆さまの弟の家で、 かなりに大きな呉服屋であったが、そこでは、裏から入           あけ牡右 る座敷や居間をすっかり開放して、人たちの避難してく                       つれ るのに任せた。婆さんや子供だけいちはやくそこへ伴ら れていった。女中たちも逃げていった。土人私そこに来 たのは、もうすっかり鎮火して、黎明の光がそことなく                 げ首こう  ふんとう    つか あたりに満ちわたるころであったが、激踊と奮闘とに労 れきったというようにぐたりとして、「どうもわからね え、あんなところに火の気のあるはずはねえ。…あそ      たぱこぼん こに火鉢や煙草盆が置いてあるから、女どもが火のある のを下げて、それから出たと考えれば考えるんだが、ど うも変だ」などと言っていた。いろいろな家財適具は、 十中八九は焼いてしまったけれども、それでも手伝人が 多く、手廻しも早かったので、肝心のものだけは出すこ とができた。「ふふん、あれも出した。よかったな」と言 ってきゅうに思いだしたように、「あの箱はどうした?」 「出しました」                       と  主婦も疲れきったというようにして、乱れた髪を硫こ *     ぼんやo うともせず、荘然した顔をして、末の女の児に乳房を含 ませていた。  座敷には泊っていた客が七八人避難してきた。いちは               た冒。だ     むすぴ やく運んできた親類からの見舞の燦出しの結飯、大きな 土瓶、かけ茶椀、そういうもの添いっぱいにそこに並べ                    ね 哩   ま春二 られた。出火の原困についての疑惑、驚いて寝惚け浪で 飛びだLた狼狽、それからそれへとどこでも火事の話で 持ちきっマいて、旬を燐いたというものもあれば、大切     カぱん                              あわ の書類の鞄を出す暇がなかったというものもあった。慌   とま身い てて戸惑をしてどうしても出口が分らなくなって困った という人の話は人々を笑わせた。三階の西の隅に寝た客 は商人風の三十五六の色の白いほっそりとした男だが、    はLご           ふみはず 慌てて階梯を半分ほどで踏外した話をしながらも、自分  けんぎ に嫌疑がかかりゃしないかという恐れがあるので、何と        し よ なく困ったような憎気げたような顔をあたりにきわだた せて見せていた。  女巾たちも何かしら燐かないものはなかった。風呂敷   つ、つら  こうり                          こしら 包、葛籠、行李、中には永年働いてようやく搾えたばか     ひとかさ りの晴衣一重ねなどもあった。男から貰った指環を人れ ておいた小箱を燦いてしまったものもあった。男の写真 だけを持っていちはやく外へ飛びだしたものもあった。 「どうも災難だからしかたがないさ。ご主人はもっとた いへんなんだから」などと客は女中の一人をなだめた。 その間にも夜はしだいに朝になりつつあった。消し忘れ   *ゆみは螂ぢようちん 弓すあかる っ られた弓張提燈の薄明く点いているのを番頭は消して歩 いたりした。かれはその大勢の客の中にまじりながら、 たきだL  むナぴ 錐出の緒飯を食ったり、その場その場に適応した話の相             たんす      すね 千になったり、手伝うために璽笥の角に脛を打ちつけた 血のにじんだ跡を出してみせたり、そこらをぶらぶら歩 いたりしていた。そしてかれの眼は絶えず着雪を探した。 女中の姿さえ見るとそれは右雪ではないかと思った。も           き ちろん、今の場合、口を利くわけにはいかない。うっか りして、疑われるようなことがあってはならない。しか しかれは着雪の姿を眼で探さずには右られなかった。夜 が甑けてから、かれは初めて奥で女中たちにまじってい っしょになって働いている為雪を認めた。  燐跡をぶらぶら歩いていたかれは、稲荷社の門前近く まで行って引返して、今度は襲の道のほうへと行った。        ろうぱい                       をか そこにもここにも狼狽と混雑との跡が残っている。半ば        ひも 焼けた子供のつけ紐のついた四ツ身、八分ど拾り焼けた               く寸ぶ     こかい圭き 女足袋、まだ火がっいてぷすぷす燥っている小撞巻など                   ぬかるみ もあ■った。ポンブの水で雨あがりのように泥薄になった                    おぷ 路には、酬るく朝uがさして、子守が子供を負ってめず らしそうにあたりを見て歩いていたりした。物のくすぶ             みをざ る匂いがそ牝となくあたりに澁りわたった。          まり・  一昨々日がら自分に縄わりついてきている遵命が、裏  をか      ひξし      一 の半ば焼けて庇の落ちた一−階屋のそばを通る時、またも 強くかれの念頭を襲ってきた。現由なしに−ほんとう                 、 、 にこれという理由なLに、こうしたハメに陥って、将来 はどうなっていくかわからない運命のそれでも八分ど着                       ふる り通過したことを考えた時、がれはゾッとして身を戦わ せた。自分ながら自分でどうしてこういうことをしたか わからないような気がした。ランプ壷をつかんで闇の中 を三階へと上っていった自分然ありありと見える。そう してそういうことを存外冷静に実行した自分が、それが 自分であるのが下思議に思われる。そしてまたなぜそん なことをしたかということが不思議に思われる。依然と して無一物であるかれにはことにそう思われる。きゅう   こうかい     すさま      つ に、後悔の念が凄じく胸を衝いて起ってきた。  人を騒がせ人を驚かしたのは誰か。他人の財産を、何     為んえん の関係も恩怨もない他人の財産を一夜のうちに亡してし まったのは誰が。そして知らぬ顔をして、ないしはでき るならばその罪を他に潜せてまでも自分はいい子になっ ていようというようなずぶとい不正直な考を持っている のは誰か。そういう人間もやはり斑もあり涙もある人間        げきこう の一人か。こう激昂して自分で考えたが、そういう性質 と性情とを持ってこの世の中に生札てきた自分というこ とを考えると、たまらなく悲しくなってきて、自分の心も 苦痛も何もかも闇から闇へと葬られていくようなさびし                  ひる、かえ さと悲しさとで胸がいっぱいになった。鎌って考えてみ ても、かれのこれまでの生活には、少しの光酬もなけれ ば少しの渦情もない。かれのやったことは皆な誤解され、      ぱ とう 憎悪され、罵倒され、冷笑されて、一つとして自分の真 の心の通ったためしがなかった。故郷でもそうだ。兵営                       いさぎ でもそうだ。戦地でもやはりそうだ。、…不意に、潔よ く自首しようがと考える。昨夜火をつけたのはこの身で ある。自分で自分がわからないこの身である。いかよう   世いさい なる制裁でも受ける…−。こう言って潔よく自首しよう                   しやくぜん か。そうすれば、この重荷は、心の重荷は釈然として解        ひら ける。遵命もその展ける路を得る…=。  こう考えてがれはぽんやり立っていたが、しかLそれ                     よど は一時の激情で、だんだん心が重苦しく沈んで澱んでい くのを見た。それのモきるようなかれではなかった。凌 た着雪のことを考えると、とてもそんなことはできるは ずはなかった。罪悪をごまかしても、ざうしても、生き ていなければならなかった。  で、かれはまた歩きだした。  裏道を通って、避難所になっている家の裏門近く行っ た時、かれはふと剣の萱をさせて、ズボンだけ白い姿を 朝の空気の中に浮きださせて、二人の巡査がそこに入っ                せんりつ ていくのを見た。かれは一種の璽い戦傑を総身に覚えて そこに立ちどまった。  しかし思返して入っていったかれの眼と心と態度と は、すべて鋭敏にその巡査の制服のほうへ動いていって いた。その他は何も見えないというほどの強さで…。 かれは巡査の一人が主人と何か話しているのを見ると同 時に、一人の巡査がこっちへ、昨夜泊った客の大勢集っ              み のが ているほうへやってくるのを見遁さなかった。  それはまだ若い巡査であった。かれはその若い巡査が 落ちついた声で何か言っているのを耳にした。中にいた 大勢の客たちは、あるいは坐ったままで、あるいはそこ          めいめい まで出てきて、皆な銘々に勝手に自分の見たことを話し た。「三階にぴとりいたツていう客は誰れだな」こう間 われて、その商人風の男は、着ずおずとしたという風 で、運わるく三階に泊ったばかりでいくらかかけられて                にぷ いるらしい嫌疑をさも迷惑そうに、諏った口っきで、自 分も始めてそれと知った時の光景を話した。「眼が覚め た時はもう真赤でした。ぱちぱち物の燃える音がしてま した。とにかく、三階の隅から出火したことだけはたし かですな」 「それから、二階には、誰がいた  そこにいた客たちはあちらこちらから顔を出した白「も う、一人いたはずだがな」客の一人はあたりを見廻して から、庭に立っているがれのほうを見て、「ああ、あそこ にいる。あの人もそうです」      庫びさ  と、。一日って指した。  苫い巡査は振返ってかれの立っているのを見た。かれ は顔を見られるのに気がさしたというようにいくらかう つむき加減にした、しかし巡査は別に気にも留めぬらし かった。 「とにがく、あとで、いち着うは調べなければならない から、気の毒だが、誰もどこにも行水ずにいてくれ」  こう言って、苫い巡査は、また奥に行って、もう一人 の椰長らしい巡査とともに、今皮は士人主帰老婆女中と いう順、で、いろいろに調べるらしがった。婆さんが部長 に向って、熱心に何かしきりに述べ立てているのが、そ こにいるかれにも見えた。  巡査が帰ったあとで、かれは初めて者雪のそばに近づ くことができた。 「阿か焼きやしなかったか」                こうo 「たいしたものでもないけれど…−行李一っ焼きました よ」 「俺も燥いちゃった……」 「何を?」 「金入を焼いちゃった−−」 「そう、それはいけなかったのね。困るでしょう。それ 亡や−」 「困っちゃった」 「よほど多く・−・−」 「何アに、少しだけども、十両ばかし……」 「そう…−」と言ったが、気を兼ねるというようにあた        おたし りを見廻して、「私とあなたと知っている同士だってい うことをわからないようにしなくってはだめですよ」 「それはだいじょうぶだ……」  そこに、向うに人の影が見えたの㍗、翁雪はすっと別 なほうへ行ってLまった。  よくoゆう  抑留された大勢の客の中には、苦情が百出した。中に は忙しい、ぜひ今日の午前中に行がなければならない商                      じよう 用を持っている人などもあれば、「災難とは言い条、ば             つぷ かばかしい話だ。これで一日潰されてしまってはやりき れない。時は金だ」などといきまくものなどもあった。 客が放火した。そんな話はないという意見に大勢は一致         そ こつ していた。「女中の粗忽に相違ない。それを、客を一体 にすべて調べるという法はない」こんなことをそこでも ここでも雪目った。  奥の圭人主婦や婆さんの述べたところでは、女中の粗 忽では絶対にないという主張であった。その三階の隅に 火鉢なり煙草盆なりを昨日は置かなかった。どうも不思 議だ。あそこから火が出るわけ私ない。こう言って街な 巡査の問に答えた。婆さんは中でも思い当ることがある ような調子で話した。「どうか為調べください。いずれ、 そういうわるいことをしたものがあると思いますから」 と言った。  家族の人たちの中の評議では、どうしてもその放火者 は二階と三階との客の中にあるらしく思われた。火災保 険も何もつけてないので、金や貴重な財産の一部は出し                     かいふく たけれども、この不意の厄災にふたたび容易に恢復する                  わずら ことのできない将来について主人ほ思い煩わずには着ら れなかった。昔から何代となく評判よく続いてきた旅 館、事件という事件も災厄という災厄もなかった家、そ の家がこういう騒動を町じゅうに起させたということも             5ら 心外であった。「代々、人に恨まれるようなことをした                       し おざ 例はないんだから、どうしても物取りか何かのした仕業 に相違ない」こう主婦も婆さんも言った。  それは、こういうことは、主として男女の関係からよ く起るものだということを主人も婆さんも考えた。そし て女巾たちに観爽の眼を向けた。しかし、誰にもそうし た嫌疑のがかりそうなものもなかった。「まア。しかし、  がみ 為上で調べてくださるからこっちでやきもきするがもの もない」と思い屈したようにして主人は与、目った。主人は 一方そのために抑留されている大勢の客を気の毒に思っ て、たびたびそっちへ行って、挨拶をした。その間要太                あぐら 郎は緑葉の日に照る縁側のところに胡座をかいて、ぼん        、 、 やりして、頭のふけなどを取っていた。 二十八 「着餉、為前、ちょっと。。。。」  こう小声で、そツと手で招くようにして、婆さんは主 人をそのそぼに呼びつけて、耳に口を当てて何かこそこ そと話した。  主人はうなずいて聞いていたが、ときどき眼の前に浮 んでくる光景を思い浮べるようにしたり、またあまりに 他人を疑いすぎるような判断を考えるような表情をした りして聞いていたが、「しかし、あまり人を疑ってもい けないからね」 「でも、ね、どうも、そうじゃないかと思うよ。それも、 今、ふっと、考えごとをしていて思いついたんだがな… …あそこは」また、耳に口を寄せて、「あそこからは、 はしご 階級を上っていけばすぐあそこだから、:−・それに、よ 蝕 うく考えてみると、為かしいことがあるだよ。第一、兵 隊さんが二晩ああして泊っているツていうこともおかし                カせさき いLな。それに、道具を運ぶ時に、店頭にいやにちょこ 妻かしていたじやねえかね」 「それはそうだな」  そう言われれば、なるほどあの時、手伝ってやるとか 何とな冒って、金や貴重晶の入っている箱に手を懸け        すき  ねら た。それから、隙を蜆って何かしようとしたようにも取            由し れば取られる。主人は首を傾けて考えた。                   おら 「第一、あの顔からして気に入らねえだ、已にはー1、               おら  うち 善人じゃねえぞな、あの顔は? 俺は家に入ってきた時 水らそう思った」 「でもな、むやみに、そう人を疑うわけにもいかねえだ な」 「それはそうだがな。気をつけてみろや、……そ牝にな  ・−」また耳に口を寄せて、「警繁にも、それとなく言っ                 おら て着けよ、どうも、そうじゃねえかと已は思うんだ」            としとつ  小さな声の中に包まれた年経た老婆の観察、それが深          ひら くその秘密を主人に展いて見せたような気がした。主人 は黙って腕を組んで考えた。なるほど祖母の書葉の中に            こま は、経験に経験を重ねた細かい観塞がひそんでいる。ほ んとうにそケかもし牝なかった。しかし一方では、わず かな金を盗むために、わざわざ火をつけなくってもよさ そうなものだと思った。主人はどちらがといえぱ、三階       但さ の客に疑いを挾んでいたのφ、あったが、婆さんは「どう して、若前、三階のあの着客さんなんが、そんなことを する人じゃねえぞな。ひと目見て、するかしねえか、わか るだ」こう言って、昔聞いたことのある同じような揚合 の話をそこに持ちだした。主人は深く深く考に沈んだ。 二十九  その日の午前十時過、その避難所から、前夜の大勢の と主切音やく       そろ             一 泊客がぞろぞろと揃って、町の大通りの中ほどにある 警察署のほうへと歩いていくのが見えた。主人と巡査部 長とが先に立って、あとからその人たちは続いた。要太 郎もその中にまじっていた。                   ひつけ  そ そう  町ではその噂で持ちきっていた。「まだ、放火か粗忽か         ひつけ わかんねえかよ」「放火だとすると、あの大勢の中に誰か つけた蚊添あるんだぞよ」「どうも外から入ったものじ ゃねえらしいな」こんな樽がそこにもここにもきこえ                    むざわらぱうL た。初夏の午前の日は明るく一行を照した。麦程幅子を かぶっているものもあれば、ぼやぽやした頭髪をそのま                     珍かた まむき出しに現わしているものもある。旅館の浴衣の泥  ぬ に塗拓たのを薦ているものもあれば、ちぐはぐの下駄を は 穿いているものもある。両側の町の人たちは、たいてい は外に出てその一行を見送った。 「でも、物を燥いた客もあるんだろうな」 「それはあるだろうとも……」 「どうも、災難だから、しかたがないけれど、着客も迷 惑さな」 「もし、あの中に、やった蚊があるとすると、ひどい蚊 もあるもんだ」  こうした噂がかれら一行の歩いていく跡に長く続い た。  中には、困ったようにし為し着した桐馬屋の主人に同              5ち 情して、「ああいう評判のいい家に、こういう災難が湧 いて出てくるんだから、ほんとうに何私何だかわかりゃ しねえ。俺たちだって、明日が日どんな目に逢うかわか りゃしねえ。それに保険に一文もついていねえっていう じゃねえか。気の毒だな、あの着やじ」 「ほんとうに、桐馬屋が気の毒だ」  やがて一行の人たちは、都長に導かれて、ぞろぞろと 警繁の松と階段のある入口の見えている門へと入ってい った。要太郎は一昨日の夕暮、この飾を通った時のこと を思いだした。見えない、し水し的確な運命の糸のよう なものがあって、それがそこと自分とを引きつけていく ように考えたあの空想が事実となったことをかれは思っ た。しかし、かれにはどうすることもできなかった。                 ガラス  警察の大きな建物に続いて、三面硝戸で明るくしきっ               テーゴル た抜敷の、ひろい、三二力所に卓と腰掛とが置いてあ るところへと一同はまず入れられた。「こういう処に入 れられたのは始めてだ」こう昌一向うものもあれば、「何も 経験の一つだト、な、一日遊ぶ気でいるんさ、しかたがね え」などと与、口うものもあった。この広い板敷の中で、と          げ音けん  けいこ              Lない きどきは巡査たちが撃剣の槽古をするらしく、竹刀や道 具がそこらに置いてあったりした。要太郎は何となく落                     こLかけ ちつかないような顔をして、隅のほうの長い楊に腰を かけていたが、この時は朝あたりとは蓮って、人の眼が 鋭く意地わるく自分にのみ注がれているような気がして た圭     ぷ きみ 堪らなく無気味であった。ことに、主人の眼がつねにが れの態度から離れないのをかれは感じた。かれはその眼 を避けるようにした。  便所に二三人行くものがあったので、ふとかれも立ち あがってそっちのほうへと行った。かれには便所よりも    忙 むしろ遁げる時のことが気に懸っていた、いざといえぱ、 遁げなければならない…−。その時はー その蒔は! こうかれはすでによほど前水ら思っていたが、しかし、 ************************************ いざ遁げるとなると、自分の罪悪を自分で承認した形に 緬                          3 なる口めったに遁げるわけにもいがない。こう思ってか     と5とん れはその逃遁の意思を押えた。しかし、いかにしても気 になってしかたがない。体がわくわくするようだ。で、       かわや かれは立って則のほうへ行った。主人の眼がかれのほう を目送するのをがれは感じた。  正直に大便所に入って、戸を閉めたが、そこでかれは 自分の罪悪と秘密とに正面に対するような心持がした。 と同時に、一方では、どうかしてこれを切り抜けなけれ            こんしん  みなぎ ばならないという努力が潭身に蔽ってきた。「そんな惹              ゆうぺ 気地のないことで、どうする。昨夜のような大胆なこと                   しつた をやった身が……」こうどこかで、自分を叱陀する声が きこえる。がれはとにかく覚悟をきめて若かなければな             と らないと思った。黙って口を絨じていれぱ、罪があって も罪にされられないことをかれは知っている。しかし、 それをするには、兵営、世間、故郷、そういうところま  ホもてむ書 で公然に知られることを覚悟しなければならない凸新聞 にも大々的に書かれるに相違ない。それよりも、逃げる ほうがいいとか札は思った。どうせ逃げなければならな い身だ。うまくいけば巧に逃げ終らせることができるか もしれない。こう思って、かれは即の中から外を見わた した。そこに扉秘ある。その向うに青々とLた野菜畑が    もの唯しざ拍 ある。物千樟に低く赤いものを干した小さな家屋があ る。その前に路がある。  かれは則を出て、乎を洗いながら、あたりに誰もいな             むこ5 いのを見定めてから、五六歩向へ出ていってみた。あの 扉さえ破れぱ、逃げるのに、そう胴難でないのを見て、 かれはいくらか安心した。「なアに、戦地でやったこと に比べれば、このぐらいのことは何でもありゃしない」 などと思った。                  ζLかけ  かれは戻ってきて、以前腰かけていた楊にやはり腰 をかけた。  ひつけ 「放火は重いんだんべ」  賓がつくと、こう誰かが言っている。 「重いとも・−…」 「無期か、十年か?」 「死刑かもしれねえぞ。何でも璽いヅていうこと、俺ア 聞いてた」 「でも、死刑じゃあんめい」 「どうだかわかんねえぞ」  田舎に生活しているこういう人たちは、法律のことな どにも明るくないので、「死刑か? 無期か?」という ことについて、いろいろ言い争ったりした。かれは聞く ともなくそれを聞いていた。                       へだて  かれの腰を下した横のガラス戸からは、狭い中庭を隔     おもや            あおぎ, て、警察の母屋の一間が見え、梧桐の深く茂った緑葉が 見え、その上に深く澄んだ青空と明るい日の光線とが見 えた。  巡査が二人ほど入ってきた。  とにかく、二階と三階とに寝た客に来いということで あった。で、三階の客が一人、二階の客が四人、揃って 巡査と主人との跡についていった。かれもむろんその一 人であった。かれらは今度は長いテーブルの置いてある      ナえ やはり腰掛の鋸である細長い狭い一間へと通された。  署長も郁長もいた。  三階の客が一番先に調べられた。かれは姓名を訊がれ しる 記されてから、いろいろと当夜のことを訊ねられた。警 官たちは別にかれらを罪人扱いにしなかった。署長はに     ひげ  ひね こにこと髭を捻りながら、しかもじろじろと鋭く人間の      かんは 心の内都まで看破しなければ着かないという眼で、じっ と話をしている人の二言一行を見た。「いいえとんでも    あわ                     ひざ ない。慌てて飛び下りて、こんな膝をすりむいたぐらい なんですから」こう言って、まじめな顔をして、三階の 客は足をまくってみせた。  次にかれの番が来た。  かれはわざと冷瀞を保った。宿帳に書いた虚偽の姓名 重言って、そして、自分が気がついた時には火はすでに 二階に廻っていたと話した。 「現役かね」           言んちよ5 「は…・−」かれの顔は緊張した。手を両側に当て不動の 姿勢で立った。  署長はじっと長い間見つめて、「いつから来て泊って いる1」 二昨日です?」 「現役兵がどうして、そう長く外に出ていられるのか」 「講願休暇を貰ってきましたから」 「幾日間1」 「一週間……」 「すぐ電報できけばわかるんだが、ほんとうだな」かれ は黙ってうなずいた。 「着前だな、稲荷前で、無銭飲褒をしたのはー」 「無銭飲食をしたわけではありません。あいにく財布を 忘れていったものですから……」 「そうか、よし、隊は一中隊だな。電報でききあわせば すぐわかるから……」  こう言って次の客の番になった。他の三人もやはり同 じようにして調べられた。別に難がしいことを闘かなか った。やがて署長が出ていったのモ、「これでいいんで          みん すか」などと言って、皆な揃って出ていこうとした。で、88                          3 かれもあとについて出ていこうとすると、部長は、「酋 だけは残っていてくれ、もう少」調べることがあるか         さえざ ら」と、冒ってかれを違った。      まつさ出  かれの顔は蒼膏になった。 三十  午後一時過、かれは絶えずそばについている巡査に言 った。 「便所に行きたいのですがね」 「そうが」                      かわや  こう言って、巡査はかれの後について中庭から囲のほ うへ行った。例の若い巡査であった。  水れはその後いろいろに調べられた。脱営兵であると いうことももう知られた。一昨日長い路を歩いて町に入                       とら ってきたということも、稲荷前で油揚墨の婆さんを捉え て無銭飲食をしたことも、何もかも知ら牝た。かれは訊       い き   ふさ               あうの5  せん螂つ 間のたびごと、呼吸も塞がるような苦痛と燥悩と戦操と                   とうとん を感じた。今はもう一途あるのみである。逃遁の一途あ るのみである。  大硬所の中にしばらく入っていてやがて出てきたかれ               ちようずぱち は、そのまま黙って、そこにある手水鉢で爵かに手を洗 っていたが、一もとのほうへ行くと見せかけて、いきなり                        ぴん スタスタと別なほうに行った。何をするかと思うと、敏 しよう 捷なかれの手は、さっき見て章いた扉を明けて、そのま  おつ ま追かけてきた若い巡査を突き飛ばして、野菜の畑のほ うへと一散に走った。  向うに通じていると思った路は、そこに行ってみる   し、はが音  きえ と、柴垣で避ぎられているので、かれはそこでちょっと まごまごした。その間に巡査は剣を鳴らしてあとから追 いついてくる。後から組みつく。撰りほどく。かじりつ   を く。郷ぐる。それはただ瞬問であった。二人は声も立て      まろ ずにこけつ顛びつしたが、かれのために幸運なことは、      よ             くい       く 私れの体の究りかかった坦の枕が、古く朽ちていて、ぐ らぐらと向うに倒れかけたことであった。それにがれは 一気に巡査に押されていた。かれと巡査とはやがていっ しょに重りあって杭とともに向うに倒れた。  それは町の裏通であった。  一度は下に組み敷かれたかれも、力が強いので、たち          なぐ    け まち巡査をはね返し、騨り、蹴り、振りきり、振り放っ て、一散にその裏通を向へと走った。 「逃げた! 逃げた1」  あとから追いかけた巡査は、始めてこう大きな声を立 てた。              に 「逃げたー 逃げた! 犯人が遁げた、」  こういう呼声が静かな一時すぎの裏通に長く続いた。  通りには三二人通っていた。誰も皆振返ってみた。あ る家では、そこの紬君が子供を負いながらびっくりした 顔をして見ていた。ある家では、声をききつけて、何事 かと驚いて主人が出てきた。人々は服を泥だらけに制帽 もどこかに火った一人の巡査が、「逃げた! 逃げた!」 と呼びながら走っていくのを見た。 「何だ、何だ!」  あっちからもこっちからもその大声を聞いて人々が出 てきた。向うに遠く半町ほど隔てて、一人の男がこれも           はだし やはり幅子もかぶらずに跣足で走っていくの添見えた。  ゆう。へ  ひつ吋 「昨夜の放火の犯人だ1」               い 舌  こう巡査はやはり走りながら呼吸も絶え絶えに言っ た。 「放火の犯人!」       みは  人々ほ目を瞭った。  その時分には、警繁でももう大騒ぎになっていた。「逃 げた!」ということと、「いよいよ犯人はあいつだ!」と         に。が いうことと、「それ遁すな」ということとがいっしょに なって人々の頭に上った。犯人の遁げていった跡から、 巡査も行けぱ部長も行き署長も行った。そこに大勢集っ ていた昨夜の客たちも出ていった。       告Lた  しかL戦地で鍛えられ演習で馴らされたかれの足は非 常に早かった。遁げる者と辿う者との問の距離はしだい に遠く遠くなった。がれはあるところまで行って按返っ              ゆる               い 音 てみたが、それがらは少し足を緩めて、苫しそうに呼吸 をつきながら歩いた。そこはもう畠で、あたりには人家 がなく、有には稲荷社の暗い杉森がこんもりと指さされ た。             よ,」たわ  追う者と遁げる者との間に横っている距離はどうす ることもできなかった。向うから誰が廻ればい小がなと                     由 思っても、そういう間はなかった。かれは川に架けた橋         音“ろ               ψこぎ を渡って、麦白田の黄く熟した巾についている路を横っ て、それから停車場の向うに見えているレールの路のほ うへと走った。  町ではその噂がたちまちいたるところにひろがった。 電話は警察署からあっちこっちへとがけられた。停車場            と へかかった時には、事務を執っていた駅員が電話口に出                      ゆうぺ たが、それときくと、「たいへんだ、たいへんだ。昨夜    つ の火を放けた犯人がこっちへ遁げてきたそうだ」こう書 って駅長に報告するとともに、そのまま走って場外へ出 ていった。ちょうどその時、要太郎は畠から汽車のレー ルを越えて、小松の生えた赤土の小さな丘陵の起伏した ほうへ行く路にその婆を見せていた。        側 「あれだろう?・」 「そうだ、あいつだ」 「のんきそうに歩いてやがる1」  そこに集って山てきた駅畏や助役や駅員たちはこんな ことを言いながらそれを見ていた。踏切の少し先のレー ルのところをかれは越えていったのであった。 「いったい河者だ1」 「脱営兵だとよ」 「脱営兵1」  助役はこう書って、「相馬屋に泊っていたのか」 「そうですとさ!」         と 「それじゃ、物でも盗ろうと思って火をつけたんだな」 「そうでしょう」  こんなことを書っているうちに、かれの姿は向うの村 に通ずる路に山て、それから畠の中をグソグンと丘の中 のほうへ進んで歩いていくのが見えた。初夏の午後の日 は美しくあたりを照した。  追いかけてきた人たちは、それと接触を保っていた が、戸」ちらから見て、どうすることもできないように思 われた。かれらもレールを越してこちらへとやってきて いた白巡査たちの白いズボンと、日に光る剣とが鮮かに 見えた旬大勢集ってついてきている人たちも見えた白  少し経ったころには、追う者追われる者の現場より             ホ労げ さ は、かえって町の噂のほうが大袈裟になっていた。そこ                     つの からそこへと伝えられたその簿は、だんだん募って、 にが                       ちじよく 「遁しちゃならん、それこそ町の恥辱だ。いったい、警 察の奴らがまごまごしてるからわりいんだ。遇がすヅて いうことがあるもんか」などと言った。いたるところそ                や じ うま の噂ばかりで、事件のあるのを好む弥次馬は、そこから もここからも出ていった。かれの遁げていった裏通は、 人でいっぱいになつた。       些つく   去ろ  やポ音  巡査とかれと取組んでこけつ転びつした破れ坦のあた りにも、人々が大勢来て集って見ていた。 「ここから遁げたんか」 「そうだ」 「ここを破って遁げたんだな。……ははア、なるほど警 繁の裏だ」  こんなことを言って見ていた。その現場を見た細膏 は、「何事が始まったかと思いましたよ。ぱたぱたツて     とお口 いう音茄通でするから、何事だと思って出てみると、大 きな男が遁げていくじゃありませんか。そしてあとから  言わり     あつ                      ぴつくり 為巡査さんが追かけていくじゃありませんか。吃驚した にも何にも…−」などと話した。青年も走っていけば、                かぎよう 子供たちも走っていった。その日の稼業をそっちのけに 急いで出ていく人などもあった。               な おれ 「とにがく遇すな。遁しちゃ町の名折だ」こう誰も彼沓 書った。  裏道から川にかけた橋を渡って、麦白田の中を通って、 レールを越えて、犯人と接触を保っている追手の群のい           匝くぞく るところまでは、群集が陸続として絶間なく続いた。あ              じゆうりん る野菜畑は第され、ある麦畑は躁鯛され、レールの餉の    旧と蠣 小川の畔の草原はしとどになびき伏した。  ちょうど要太郎茄丘の上にグソグソ登っていく時分、 避難所の奥で働いていた着雪は、始めてその噂を聞い                       まつ て、はっとして顔色を変えた。かの女の顔はみるみる蒼 さお 青になった。「まア……」とも言わなかった。しかしか の女は黙っていた。深くその秘密を胸に包んでおくびに も現わさなかった。     あぷらあげ  稲荷前の油揚の婆さまは、 「え、あの兵隊の奴が…−」   ちき  と呆れて、 「そん亡や、金なんか一文だツてなかったんだな、野         くいた拘 郎。野郎、始めがら喰倒すつもりだったんだな、ふとい 野郎だ」 「とれねえぞ、もう−…■」  隣の婆さまがわざと冷かすよう£一自うと、                       ぜに 「ほんまだ。ばかな目に逢っちゃったな」倒された銭の 額を数えてみて、「四十二銭、ばかみた、ほんにばかみ た。ふとい野郎だ。どうも、変な野郎だとは俺も思った                      つつぱし だア、・−…ずぶとい奴だ。…−あ? 兵隊屋敷を突走っ て出てきやがったんか。えらい目をみた。−−七も、な ア、相馬屋のこと思えや、大難が小難だ」 「それはそうともな……」 「でもな、あとで、どうかして取んねえじゃなんねえ、 野郎だヅて、親類ぐらいあんべい。だから、今朝早く警               ゆう。へ 察へ言って着いただ」考えて、「昨夜遅くなっても、取 りに行けぱよかっただ」 「ほんとによ」                      きゆうりよう  そのころには、追跡隊はすでに大勢になって、丘陵の 中に逃げて入っていったかれのあとを追かけていってい          忙 た。そこは小さな赤く禿げた丘がところどころにいくっ となく起伏しているようなところで、その丘をめぐっ            きじ          もつ て、畠道や村道や里道が混りあったり纏れあったりして ついていた。一つの路はM村に、もう一つの路はH村      Eうさ に、それと交又して、大きな県道が山の中のR町へと向 ってつげられであった。  追跡隊は犯人の遠く遁げ去るのを防ぐために、一方は                ふき M村の路を、一方はR町への街道を塞いだ。     棚  R町への街道のほうへ行った隊の中には部長茄いた。 「この二つの路さえ霧いでしまえば、やっこさん、ど弓 にも㍗きやしませんよ。どっちへも出られやしませんが ら。これで押つめていけや、袋の鼠も同然だ」などと言 って笑った。  犯人と接触を保っているほうの群集は、要太郎の姿が       ナそ あるいは丘の裾のほうへ、あるいは丘から丘へ続く路   かや  ナす音 へ、萱や薄の脊く生えているところへとだんだん動いて いっているのをつとめて見失わないようにと心がけた。 要太郎は今はもう走らなかった。氷れは静かに歩いた。 蒔には大勢集っている群集のほうを眺めた。その間に        けむり            み在ぎ は、汽車が白い燗を眼下の野山に澁らして、丁停車場へ と入っていくのがかれの眼に映った。 「それ、どこかに見えなくなったぞ」 「どこかへ行ったぞ」  時には、群集はこんなことを言って騒いだ。しかし、 しばらくすると、がれの姿は、あんなところと思われる ような路も何もない丘の上のところにあらわれた。     牡だし  かれは跣足で遁げてきたのモ、すやにところどころ㍗                 したた 岩角などに触れて、血が二一ニカ所がら滴り落ちていた。 かれほ為り若り立ちどまって考えた。どうがLて逃げて         い き いく道を、ほっと呼吸のつけるところまで出ていく道を −…。しかL後からの追跡を片時も念頭に置かずにいら れないかれにとっては、その群集がらかれの姿をかくす ということは容易でなかった。                   ひるがえ  そればかりでなかった。かれは為り着り鎌って、一咋        がら 昨日がら自分に絡みついてきた運命が、とうとう自分を     芭ゆうち こういう窮地に陥れたということを考えた時には、かれ は何もかも冷築したいような気分になった。かと思う                  よみがえ と、生に対する執薦が、強い力でかれに蘇ってきた。 にけ 遁られるだけは遁げてみようと思って、かれはまた路を 丘の陰のほうへと取った。  着り為り着雪のことが思いだされた。もう何もかも知                 ぴつくり れたろう。それと聞いて、かの女は吃驚しているだろ   あ書 う。呆れているだろう。こう思うと、かれは何もがもみ ごとに破壊されてしまった自分の生活を発見せずにはい られなかった。「もう、着しまいだ!」こうかれは思っ                    たま て頭を振った。きゅうに、どうにもこうにも堪らなくな            かお ってきたというように、面に手を当てて泣きだした。 「誰がわるいでもない。俺がわるいんだ! しかたがな い」  すすo毒             ひと切ご  戯歓きながらがれは独語ちた。  こう叱すればよかった、ああもすればよかった。こう いろいろと後悔の念も湧くように起ってきたが、今さら そんなことは少しも役に立たなかった。          ついそ5  こういう間にも、追院はいよいよ迫ってきたので、か   ちわ れは暁ててがけだした。             じゆう柑5  丘から丘への道をかれは縦横に縫うようにして歩い た。水れは小松の中に身を隠してみたり、岩穴みたいな ところに入っていってみたり、M村のほうへ行く路のほ うへ下りていってみたりした。しかし、しばらくして、 そのM村のほうへ行く路にも、R町のほうへ行く路に も、追跡隊がすでにぐるりと取巻いているのを発見した 時には、かれは絶望した。かれはすでに周囲に網を張ら   つか れた労れたかつ飢えた獣に似ていた、 「何アに、その時は突破してやれ!」  こういう烈しい心の状態にもおり着りかれはなった。  かれはしかしあくまでも遁れることを考えた。M村、 H村、R町1すべてその方面はだめらしいが、この続 いている丘から丘を越えて行ったなら、どうにか遁げる 方法があるかもしれなかった。それに、長く潜伏してい れば、夜になる、夜になれば1闇夜になれば、いかよ うにも、この網の目をぬけ出していくことができる…                たナけ そうだ。それがいい。さながら天の佑モも得たように、 かれは喜んで、また丘から丘へと越していった。           あ1。 おぎ   も    がま  庁と丘との間にぱ、薩や荻や藻や蒲などの岸に茂った 小さな池がさながらかくされてあるかのようにところど    たた           よし芭口 ころに湛えていた。剖薫がしきりに鳴いた。           すいぴ  一面を取巻いた山の翠徴は、しだいに午後の濃淡の多                        かさを い爵を帯びるようになった。丘がら先には低い丘が重       しわ                  つらあ り、その上に蟹の深く刻まれた山が連り、さらにその上      おく切よう                   そぴ に高い高い屋梁のような山嶺の連りが聲えた。雲がそこ   曼 ず から巴渦を巻いて湧き上った。  何事もないように、人々の大勢騒いでいるのも知らな           あめや いように、野の道には飴屋の笛淡聞え、農夫の唄が聞 え、麦刈の男女の群が見えた。山近い村からは、塵壊を   けむり           なび 焼く燗が白く静けく駿き上った。  かれが一刻も早く夜になるのを望むのと正反対に、追                    唯 ぱく 跡隊は、ぜひとも暗くならないうちに犯人を捕縛しなけ ればならないと思った。R町の路のほうから押寄せてき た群衆は、中㍗もことにその念に駆られた。 「ぐずぐずしていちゃ、だめだぞ」                 つか古 二人ばかりの犯人を半日がかって捕えられないツてい うことがあるか」  こう人々はいきまいた。町での騒ぎは、いよいよ大き く、火の手が盛んになって、是が非でも今日のうちに逮 捕してしまわなければならないと誰もかれも言った。丁 桝 町の重だった人たちは、皆な出てきた。町長も助役も白 紐車を飛ばしてやってきた。電報でM市の兵営に照会し たら、三日前から脱営している兵土があるから右右かた それだろうと一一一目ってきたという薪しい噂なども伝えられ た。  接触を保っているほうでも、しだいに近く押し寄せて きていた。                      ゆくえ  しかし、五時少し遇ぎたころになって、犯人の行衛が 不明になったのが人々を不安にした。どこに行ったか、 その姿添きゅうに見えなくなった。今まで見えていた姿 が、丘を越すなり路に出るなりしなければならないその 姿が…−。  で、追跡隊の人たちは、かれの歩いた丘から丘へと行 った。あっちこっちと残るくまなく探し廻った。R町の 路のほうの人たちもこっちへとやってきて探した。 「どうしたろう? 不思議なことがあるもんだな」 「ほんとうだ」 「つい、さっきまで見えていたんだ躯な。どこにも行く わけはないがな」 「たしかに隠れているんだ。いるに違いない」こう署長 はせき心になって書った。  人たちはそれからそれへと探し廻った。一番最後にそ の姿の見えていたあたりへほ、讐官たちが代る代る行っ た。  白いズボンがそこにもここにも見えた。追跡隊の中に                ひる、がえ は、紫の色をした丁町の町膜などが蘇って見られた。  それはちょうどさっきかれ添歩いていた丘の路から少 し下ったようなところであった。下には路に臨んで小さ な池があって、その半両は赤く夕日に彩られていた。  小松の中を一つ一っさがし廻って帰ってきた部畏は、 「どうもいない」 「不思議だな」                 こまぬ 「ほんとうに不思議だ」署長も手を棋いて、「それも、 深い森があるとが何とかなら、その中にまぎれこむツて いうこともあるけれど、別に隠れるにも隠れるようなと ころがないんだからな」 「ほんとうだ」 「下に下りたんじゃないだろうな」こうそばにいた町の 宥志が出、一[った。 「いつの問にか、非常線を破って、遁げだしたんじゃな いかな」 「そんなことはない。それほたしかにない」こう部長も 断言した。  丘の附近には、かなり大勢の群集が押寄せてきてい た。皆なわいわい書って騒いだ。 [もう少しさがしてみるんだ、しかたがない」こう署長 はく叩令した。 ************************************ 三十一 ************************************  夕日の薄赤くさし添った小さな池、そ牝に添った路、 三二本生えた小松、そこを追跡隊の人々はたびたび通っ   かわず た。蛙添静かに鳴いていた。  あし  湘き  い  蔵や荻や蘭の新緑松津を縁取って、黒くなびいている 藻の上に白く点々として花が咲いた。静かなしんとした   おも         しわ                    みどり 池の面には、少しの雛も小波も立たずに、夕暮の深い碧    湘 の空が捺したようにはっきり映って見られた。白い雲の 影も静かに落ちていた。  池を縁どった小松の向うに、浅くはある私ひとところ                   こま 雑木の林があるので、そこはちょっと影が濃やかに何と                       やまぽ なく暗く陰気に感じられた。初夏のころによく見る山木 け 爪の赤い花などがポツポツ咲いていた。  三度目にその岸を通った時、部長の眼にちょっとある 物添映った。それはポ思議な光景であった。それは人の 頭だ。水に浸って首だけ出している人の頭だ。真白な、            ひげ 死人のような、それでいて窺の生えた、五分刈頭の…。。 ************************************ 一・兵卒の銃殺 部長は突然叫んだ。  人々は飛んできた ************************************ 「いた、いた、いた1」 。水中での楴闘がしばし続いた。 ************************************  丁町を騒がした脱営兵の放火事件、それはずいぶん長 い間地方の人たちの記憶に残っていた。M市の新聞は二 号活字や、大々的にその券もしろ一い記事を連載した。要 太郎の故郷でも、一時はその話で持ちきった。                  こうかん  一兵卒の犯した罪、それはやがて厚い浩瀞な調書とな    非 って、軍法会議に廻されていった。軍籍にあるものは、 普通と違って、陸軍の刑法の制裁を受けなければならな かった。普通の犯罪は普通の裁判所で判決を受けなけれ ばならなかった。  普通道徳上、一東も同憎され得べき点を持っていない                     量 かれの罪跡は、多少の弁護人の珊解ある弁護を駁ち御た ぱかりで、法偉の規定のままに、通るべき所を通ってい った。この間にはすくなくとも一年以上の月日は経過し た。その間にその厚い浩潜な調書は、いろいろな人の手       ひげ に取られた。寮の生えたいかめしい人の目にも触札れ ば、やさしそうな顔をした法官のれの上にも置かれた。 「えらいことをやったな」  こうある人は言った。ある人は、「いったい、家庭淋 わりいんだ。それに性質もよくないんだ。どうもしかた 弼 がないLと一一、首って、家庭教育のなおざりにできないこと を話した。  ある心理学者は、「阿しろ、まだ年が芳いんだからな。             、 、 つい、する気もなくそういうハメになっていったんだ。 二十三四という年齢は人間の危い時だ水ら」と言って、                       君つさい その一部の心理のあらわれをその講演の材料にして喝架 を樽した。  判決が下され、運命がきまってからも、かれはなお半    ろうピく 年ほど牢獄の中に生きていた。そのころ、そのかれの罪 跡の調書は、一番最後の、ここを通過すれば万事すべて             串かんが         テープ几 結了するというような大きな官衙の大きな卓の上に一 度置かれた。もちろん、それはかれの調書ばかりではな かった。それと同じような重い罪科の調書がそのそばに                  ぞうけい     牡くはつ たくさんに並んでいた。そこには掌間の造詣の深い白類 の老人や、新進の知識の豊冨な博士や、議論の正確な法 律に明るい若い学士などが椅子に腰かけていた。  別に異論も出なかった。  その遠中の一人は、旅行家で、かねてその地方のこと に熟していて、油揚の婆さんのいる丁稲荷のさまなども 知っていた。それだけかれほその連中に比べてζの厚い 調書に興味を持った。かれはやはり旅行家であるその友 だちの一人に話した。「どうも、あそこいらにありそう なカヲアじゃないか。あの間を五里歩いてきたんだぜ。 兵隊さん−;・・」などと一言った。しかしそれきりであっ た。別にどうにもならなかった。  ところがそれから少し経って、M市の新聞はかれがい よいよ阿日をもって銃殺されるという記事を掲げた。何        、 、 、 、 らか後の罪人のみせしめという意味もあるらしく、東の     しやだ 練兵場の射架で、何口何時に執行するということまで報                 * 道されてあった。M市はまた新しいω窒聲{昌に燃え            みは た。誰もかれも好奇の眼を瞬った。どこでもその噂で持 ちきった。それはかれが丁町に来た翌年の十一月の初め であった。しかし、束の練兵揚で、公衆の前に執行され             あやま るという報道は、新聞記者の過った報道であったか、そ れともこうしたω竃ω筆昌些なシーγが人心にある悪影                  ひる。かえ 響を与えることを恐れて中途でその議を蘇したのか、 それはどちらだかわからないが、とにかく、その時刻 に、それを見に、東の練兵場に出かけていった大勢の人 たちは、皆な失望して帰ってきた。練兵場はいっものと 着りで、何も変ったことはなかった。    あかつき         れいめい  その暁であった。黎明の才レンジ色の空が美しく朗 かな朝を予想させるころ、銃を持った一分隊ばかりの兵 隊の姿は、指揮者の命令の下に一列にある聞隔を置いて ************************************ お。ζそ 厳かに並んで見られた。夜はまだまったく明け離れなか った白山近い暁の空気は鋭く人々の肌に染みた。かれら はかれらの前にすでに適当の距離を隔てて置かれてある ある黒い標的を見た。  宥切し 「折敷け!」           うザく吉          そ5tん   け  ばたばたと兵士たちの跨鱈って、銃を構え装損する気 はい  かす 勢が徴がに暁の空気の中に見えた。  しばら■くしんとした。  ね 「狙え1」  つづいて第二の沖がかがった。またしんとした。  あけ  暁の明星がきらきらした。  て 「撃1」  ナさま  凄じい一斉射撃が起った。 ************************************ 397 一兵卒の銃殺