佐藤義亮を偲ぶ 高須 芳次郎      記者の末席を占めて  新潮社四十周年記念祝賀会が開かれるについて想い出は多い。今、新潮社の前身、新声社時 代—『新潮』創刊前の十年間—について回想の一端を略記する。  これは私一個の考えかも知れないが、今日、新潮社の目ざましい発展は、基礎を、ほぼ雑誌 『新声』時代に築かれたといってよい。『新声』は佐藤橘香(義亮)氏主幹のもとに、明治二 十九年に創刊されて、雑誌『文庫』と対峙し、数年の間に、めきめきと伸びた結果、青年文壇 の覇権を握った。  私は明治三十一年の冬、『新声』寄稿家の中から記者に採用されて、十九歳で上京、『新声』 の編集に従事した。爾来約八年の間、梅溪のペンネエムのもとに、始終、社末にあって厄介に なった一人である。この間のことを書けば、数十ページを要するから、挿話的に二、三の記憶 を点描する。      雑誌『新声』の呼び物  雑誌『新声』が最初、青年間に愛読されるようになった有力な一因は、何といっても、毎号 掲載した佐藤橘香氏の「文界小観」にあると思う。これは決してお世辞ではない。  当時、私は田岡嶺雲氏が『青年文』に書いていた文芸評論を中村吉蔵(春雨)氏と共に、よ く愛諦したものだが、佐藤主幹の筆が嶺雲に似ていて、その文壇革新の意気が炎のように燃え ているのに何より共鳴した。殊に文壇の情弊を鋭く指摘し、あるいは公平に新進作家の推奨に 努めた点が痛快だった。  さて上京して、毎日、佐藤主幹と机をならべ、兄事していると、この「文界小観」が多忙な 用務のために、編集締切りまぎわに、徹夜で書かれることを知った。それも一晩でなく、二晩 も続いた場合が珍しくない。氏はひどい無理をするので、烈しい風邪にかかったこともある。  その苦心は、なかなか尋常でなかった。  「なるほど、あのくらい真剣にならなくては……」 私はこう、しみじみ考えたことがある。      記者と読者と酒間に浩歌  『新声』と読者との関係はきわめて親密で、兄弟のようであった。  日曜日や土曜日には、読者中の豪傑たちが一升徳利を提げ、竹の皮包の牛肉をたずさえて、 杜へ来ることが珍しくない。  禁酒で押し通して来た私も、『新声』記者になってから、そういう豪傑連に強いられて、と うとう禁を破ってしまった。それに、佐藤主幹は当時、一升以上の酒量があったから、知らず 識らず、私も上戸党に加盟したものと思う。  今も忘れないのは、S・Kというある政治学校の学生で、来れば鯨飲する、浩歌する、腕相 撲をやるという風で賑かだった。こうした連中で、新声杜は梁山泊の観があるといわれた。  まさに活気横温だった。 筆と箸の優劣 佐藤義亮氏と斎藤緑雨氏。  こう列べると、妙なコントラストだと思う人もあろう。が、皮肉好きの一点では、共通した ところがあった。三十一、二年頃の『新声』には、緑雨の恋愛観などを批評した佐藤氏の文章 が出ていると思うが、当時、氏が案を拍って激賞した緑雨の名文句が一つある。   筆は一本にして箸は二本なり。衆寡敵すベからず。  それは確かに当時文壇の真相を穿っていた。事実、文壇人は、大御所の地位にいた尾崎紅葉 すらが貧乏だった。したがって、文学で生活するのは大きい冒険でもあり困難でもあった。佐 藤氏はここに考える所があって、三十二年、出版方面に力を入れるようになり、文学上、意義 あるものを公刊することに努められた。  この時、氏はほとんど筆を絶っ決心で、専念、経営に努力するようになった。最初、文学者 志望で、平生、文学生活を熱愛した氏だけに、筆を絶つということは、非常に苦痛だったろう と察せられるが、二兎を追うものは一兎をも得ない。氏の勇断が、今日の新潮杜の大をなす一 主因となったと思う。 役に立った私の羽織  今日の佐藤氏は、巨万の財を擁する人であるが、最初、出版経営に専心することになった時 分は、貧乏だった。  田岡嶺雲氏(当時、青年間に人気があった)の『嶺雲揺曳』を出版するとき、猿楽町の印刷 屋へ出かけるについて、衣服などに頓着しなかった佐藤氏に外出にふさわしい羽織がない。  丁度、その時、私が絹の羽織を一枚持っていたので、「では、これを着て下さったらどうで しょう?」と差し出した。始めて交渉に行くのに、羽織なしでは先方の信用がどうだろうかを 心配したのだ。  「よかろう」と氏は、うなずいて、無造作に私の絹羽織をひっかけて出て用を弁じたことが ある。背が民よりも低い私であったから、どうかと思ったが、その羽織は、しっくり長身の氏 に合った。  この羽織のことを想い出すと、昔なつかしく、自然に微笑が湧いてくる。       社会改造問題に先駆  新声社時代は、まだジャアナリズムが烈しくなかった。何となく、のんびりしていたが、し かし相当に新しい思いつきを出した時代で、『新声』もこの点について最も熱心な佐藤氏が采 配を揮い、続々、新案を連発した。  それは、文壇風聞記、文士月旦、社会時言、海外文壇、甘言苦語、創作合評などのたぐいで ある。『文庫』は文芸一方だったが、『新声』は足尾鉱毒事件や下宿屋改良問題などをも取り扱 い、田中正造氏が救済の叫びをあげた鉱毒事件については、私も実地視察員として、木枯吹く 頃、渡良瀬沿岸を視察したことがある。  これは、佐藤氏の思いつきだった。  その視察記をあつめたのが『亡国の縮図』となった。そのほかに、プロレタリァ救済の目的 から強い叫びをあげた『弱者の声』も、新声社から出た。  白柳秀湖氏・山口孤剣氏などが、当時『新声』の愛読老だったのも、一つはそうした関係か らであったろう。       愚痴一ついわぬ佐藤氏  新声社の十年間は、文学的に見て、なかなか意義があった。  しかし経営は困難だった。  一万の部数を出した『新声』は、有力な誌友を多く持ったから、出版物も相当に成績がよか った。しかし元来が文学者志望で、物質上のことに比較的淡泊だった佐藤氏は、売掛金の回収 について寛大で、思いのほかに経済上の苦難が少なくなかったようである。けれども愚痴一つ 言ったことがない。いつでも、精桿の気が、その眉宇に漂うて、少しも屈托せぬのである。  『新声』同人の著書では、損をしたことも往々あったが、それを私らに語ったことがない。 私らが世に出たのは、『新声』によるところが多いから、いつも、愚痴一ついわぬ佐藤氏に感 謝していた。この機会に、衷心の至情を告白する。