幕末維新懐古談 高村光雲 私の父祖のはなし  まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のこと を概略話します。  私の父は中島兼松といいました。その三代前は因州侯の藩中で中島重左え門と名乗つ た男。倅に同苗長兵衛というものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層美 事な鬢をもっておった人物であったから、世間から「鬢の長兵衛」と綽名されていたと いう。その長兵衛の子の中島富五郎になって私の家は全くの町人となりました。  富五郎の子が兼松、これが私の父であります。父の家は随分と貧乏でありました。こ れは父が道楽をしたためとか、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全 く心柄ではないので、父の兼松は九歳の時から身体の悪い父親の一家を背負って立って、 扶養の義務を尽くさねばならない羽目になったので、そのためとうとうこれという極ま った職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては種々の希望もあ ったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたた めに、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏まったものにならなかったことで ありました。  祖父に当る富五郎は八丁堀に鰻屋をしていたこともありました。その頃は遊芸が流行 で、その中にも富本全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道には なかなか堪能でありましたが、わけて総領娘は大層上手でありました。父娘とも芸事が 好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御 得意から招かれて、行く末は一廉の富本の名人になろうと評判された位でありました。 親の富五郎も鼻高々で楽しんでおりましたが、ふと、或る年悪性の庖瘡に雁って亡くな ってしまいました。そのため富五郎は悉皆気を落としてしまい、気の狭い話だが自暴を 起して、商売の方は打つちやらかして、諸方の部屋《へや》へ行って銀張りの博奕《ばくち》などをして遊 人《あそびにん》の仲間入りをするというような始末になって、家道は段々と衰えて行ったのでありま した。  しかし、この富五郎という人は極気受けの好い人で、大層世間からは可愛がられたと いいます。やがて、家業を変えて肴屋を始め、神田、大門通りのあたりを得意に如才な く働いたこともありますが、江戸の大火に逢って着のみ着のままになり、流れて浅草の 花川戸へ行き、其所でまた肴屋を初めたのでありました。  花川戸の方も、所柄、なかなか富本が流行りまして、素人の天狗連が申し合せ、高座 をこしらえて富本を語って大勢の人に聞かせている(素人が集まって語り合うことをお さらいという。これに月さらい、大さらいとある)。根が好きでもあり、上手でもあつ た富五郎がこの連中へ仲間入りをしたことは道理な話……ところが富五郎が高座に出る と、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけ でした。このおさらいは下手な者が先に語る。多少上手な者が後で語るのが通例である。 そのため聴衆は先に語る人に悪口をいう。下手な人が高座に上がると、「貴様なぞは早 く語って降りてしまえ、富さんの出るのが遅くなるぞ」など騒ぎました。すると、その 連中の中に、この事を口惜《くや》しがり、富五郎の芸を嫉《そね》むものがあって、私に湯呑の中に水 銀を容れて富五郎に飲ませたものがあったのです。そこは素人の悲しさに、湯〈みがな い。湯くみは友達が替わり合ってしたのですから、意趣を持った男はその際に悪いこと をしたのと見える(本職の太夫は、他人には湯はくませはしない。皆門人を使うことに なっている)。富五郎はその晩から恐ろしく吃逆が出て、どうしても留まらない。身体 も変な工合になって行きました。  すると、それを見たお華客先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五 郎さん、お前さんは水銀にやられたのだ、早速手当てをしなければ……」というので、 その主人は一通り薬剤のことには詳しかったので、解剤をもって手当てをしました。す ると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体は利かなくなる。ま るで中気のような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。  この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に 当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹 が一人、九つや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。  こういう風の一家の事情故、その暫く前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松は 家へ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうして好いか、十歳にも足らぬ子 供の智慧にはどうしようもない。けれど、小供心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬよ うになったが、手先はまことに器用な人であったから、「お父さん、何か拵えておくれ、 私が売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る玩具を製え、それを小風呂 敷に包んで縁日へ出て売り初めたのです。  そのおもちやというのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小 さな梯子が掛かり、梯子の上で、人形の火消しが鳶口などを振り上げたり、火の見をし ていたりしている形であります。それがちょっと思いつきで人目を惹き、子供が非常に ほしがるので、相当商売になりました。で、細々ながら、まずどうにかやって行く…… その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働 いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。  こういう有様であるから、とても普通の小供のように一通りの職業を習得するは思い も寄らず、糊口をすることが関の山でありました。その中、兼松も段々人となり、妻を も迎えましたが相更らず親をば大切にして、孝行息子というので名が通りました。それ は全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負って行く。頭を剃って上げる。食べた いというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべ てを父親のために奉仕し尽くしたといってもよるしいほどで、まことに気の毒な人であ りました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さつばりとしたものでありま した。  私の母は、埼玉県下高野村の東大寺という修験の家の出であります。その家の姓は菅 原。道補という人の次女で、名を増といいました。こうした家柄に育てられた増は相当 の教育を受け、和歌の道、書道のことなどにも暗からぬほどに仕付けられておりました ので、まず父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境 遇に同情し、充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。兼松には先妻が あり、それが不縁となって一人の男子もあった(これが私の兄で巳之助という大工で、 今年七十八歳、信心者で毎日神仏へのお詣りを勤めのようにしております。今は日本橋 浜町の娘の所で、達者で安楽にしている)。その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のた め、舅のために一生を尽くした事は、私どもに取っても感謝に余ることである。  祖父富五郎はちょうど私が十二歳で師匠の家に弟子入りした年、文久三年七十二歳の 高齢で歿しました。  また私の父兼松は明治三十二年八十二歳にて歿し、母は明治十七年七十歳にて亡くな りました。 私の子供の時のはなし  これから私のことになる——  私は、現今の下谷の北清島町に生まれました。嘉永五年二月十は日が誕生日です。  その頃《ころ》は、随分|辺鄙《へんび》なむさくるしい土地であった。江戸下谷|源空寺門前《げんくうじもんぜん》といった所で、 大黒屋繁蔵というのが大屋さんであった。それで長屋建てで、俗にいう九尺二間、店賃 が、よく覚えてはいないが、五百か六百……(九十六文が百、文久銭一つが四文、四文 が二十四で九十六文、これが百である。これを九六百という)。  四、五年は別に話もないが……私の生まれた翌年の六月に米国の使節べるりが浦賀に 来た。その翌年、私の二つの時は安政の大地震、三年は安政三年の大暴風——八歳の時 は万延元年で、桜田の変、井伊掃部頭の御首を水戸の浪士が揚げた時である。——その 時分の事も朧気には記億しております。  十歳の時、母の里方、埼玉の東大寺へ奉公の下拵えに行き、一年間いて十一に江戸へ 帰った。すると、道補の実弟に、奥州金華山の住職をしている人があって、是非私を貰 いたいといい込んで来ました。父は無頓着で、当人が行くといえば行くも好かろうとい っていましたが、母は、たった一人の男の子を行く末僧侶にするは可愛そうだといって 不承知であったので、この話は中止となった。  私は十二歳になりました。この十二歳という年齢は、当時の男の子に取っては一つの きまりが附く年齢である。それは、十二になると、奉公に出るのが普通です。で、両親 たちも私の奉公先についてよりより相談もし心配もしておったことであるが、私は、生 まれつきか、鋸や鑿などをもって木片を切ったり、削ったりすることが好きで、よく一 日そんなことに気を取られて、近所の子供たちと悪戯をして遊ぶことも忘れているとい うような風であったから、親たちもそれに目を付けたか、この児は大工にするがよるし かろうということになった。大工というものは職人の主としてあるし、職としても立派 なものであるから、腕次第でドンナ出世も出来よう、好きこそ物の上手で、俺に似て器 用でもあるから、行く行くは相当の棟梁にもなれようというような考えで、いよいよ両 親は私を大工にすることにした。  ちょっとその頃の私どもの周囲の生活状態を話して見ると、今からは想像の外である ようなものです。現代ではただの労働者でも、絵だの彫刻だのというようなことが多少 とも脳にありますが、その頃はそうした考えなどは、全くない。絵だの彫刻だのという ことに気の付くものは、それは相当の身分のある生活をしている人に限られたもので、 貧しい日常を送っている町人の身辺には、そんなことはまるで考えても見なかったもの です。早い話が、家のつくりのようなものでも、作りからして違っている。今日ではド ンナ長屋でも床の間の一つ位はあるけれども、その時代は、普通の町人の家には床の間 などはない。玄関や門などはなおさらのこと、……そういうもののあるのは、居附き地 主か、名主か、医者の家位です。住居でも、衣食のことでも、万事大層手軽なものであ りますから、今いったような絵画彫刻というようなことに気が附かぬのは当然なことで ある。何んでも手に一つの定職を習い覚え、握りつ拳で毎日幾金かを取って来れば、そ れで人間一人前の能事として充分と心得たものです。  そんなわけで、私も単純に大工という職業を親たちが選んでくれたので、私にもまた 別に異存のありようもなかった。でいよいよ弟子入りをするということに話は進んで行 くのであるが、そのまた弟子入りということも簡単なものであった。弟子入りとして、 弟子師匠と其所に区別が附いて相当の礼をして、師弟の関係の出来るのは、それは学文 とか、武芸の方のことであって、普通町人側の弟子入りは、単に「奉公」で「デッチ奉 公」であります。デッチ野郎が小僧に行くことでありますから、別段特別の意味はない のであるが、ただ、その年期のことが普通一般の定則として、十一歳がその季に当って いたのであります。十二歳になると、奉公盛り、十三、十四となると、ちつと台が立ち 過ぎて使う方でも使いにくくて困るといったもの……十四にもなってぶらぶら子供を遊 ばして置く家があると、「あれでは貧乏をするのも当り前だ。親たちの心得が悪い」と 世間の口がうるさかったもの——だから、十一、二歳は奉公の適期であって、それから 十年間の年季奉公。それが明けると、一年の礼奉公——それを勤め上げないものは碌で なしで、取るにも足らぬヤクザ者として町内でも浜斥されたものでありました。  私は、その頃の幼名を光蔵と呼んでおりました。 「光蔵、お前も十二になった。奉公に行かんではならん。お前は大工になるが好かろ う。どうだ。大工になるか」  父の言葉に対して私は不服はありませんから、 「大工は好い……大工に行きましょう……」 「そうか、それでは好い棟梁を探してやろう」  父はこういいましたが、ちょうど、私の父兼松の弟の中島鉄五郎という人の家内の里 が八丁堀の水谷町に大工をやっておったので、他を探すよりも、身内のことでもあるし、 これが好かろうと、いよいよ、明日は、おばさんが、私をその大工の棟梁の家へ伴れて 行ってくれることになりました。 安床の「安さん」の事  町内に安床という床屋がありました。  それが私どもの行きつけの家であるから、私はお湯に這入って髪を結ってもらおうと、 其所へ行った。 「おう、光坊か、お前、つい、この間頭を結ったんじゃないか。浅草の観音様へでも 行くのか」  主人の安さんがいいますので、 「いえ、明日、私は奉公に行くんです」 と答えますと、 「そうかい。奉公に行くのかい。お前は幾齢になった」 などと話しかけられ、十二になったから、八丁堀の大工の家へ奉公に参る旨を話すと、 安床は、大工は、職人の王なれば、大工になるは好かろうと大変賛成しておりましたが、 ふと、何か思い出したことでもあるように、 「俺は、実は、人から頼まれていたことがあった。……もう、惜しいことをした」 と、残り惜しそうにいいますので、理由を聞くと、それは元、この町内にいた人だが、 今は大層出世をして彫刻の名人になっている。何んでも日本一のぼりもの師だというこ とだ。その人は高村東雲という方だが、久万ぶりに此店へお出でなすって、安さん、誰 か一人好い弟子を欲しいんだが、心当りはあるまいか、一つ世話をしてくれないかと頼 んで行ったんだ。俺は、今、お前の話を聞いて、その事を思い出したんだが、実に惜し いことをした……しかし、光坊、お前は大工さんの所へ明日行くことに決まってるとい うが、それはどうにかならないかい。大工になるのも好いが、彫刻師になる方がお前の 行く末のためにはドンナに好いか知れないんだ。……という話を安さんが私の頭を結い ながら乗り気になって話しますので、私も子供心にちよいと脳が動いて、 「小父さん、その彫刻師ってのは、あの稲荷町のお店でこつこつやってるあれなんで すか」と私は使いに行く途中にその頃あったある彫刻師の店のことをいい出しますと、 「あんなもんじゃないよ。あれは、ほりもの大工で、宮彫りというんだが、俺のいう 高村東雲先生の方は、それあ、もつと上品なものなんだ。仏様だの、置き物だの、手間 の掛かった、品の好い、本当の彫物をこしらえるんで、あんな、稲荷町の荒つぼいもの とは訳が違うんだ。そりゃ上等のものなんだ。だからお前、ただの大工や宮師なんかと は訳が違って素晴らしいんだよ。光坊、お前やる気なら、俺がお前のお父さんに話して やる。どつちも知った顔だから、俺が仲へ這入ってやる」  こう安さんはしきりと私に勧めます所から、私も何時かその気になって、 「それじゃあ小父さん、私は大工よりも彫刻師になるよ」と承知をしました。  そこで、気の逸《はや》い安床は、夜分《やぶん》、仕事をしまってから、私の父を訪《たず》ねて参り、時に兼 さん、これこれと始終のことをまず話し、それから、 「その東雲という人は、お前の家の隣りにいた人で、それ、日本橋通り一丁目の須原 やもへえずえすせがれ 屋茂兵衛の出版した『江戸名所図会』を専門に摺った人で、奥村藤兵衛さんの悴の藤次 郎さん、……これがその東雲という方なんで、今では浅草諏訪町に立派な家を構え ……」と、きさくな調子で、小肥りの身体を乗り出して話すものでありますから、父も 心動き、 「聞けば、その東雲先生は、この同じ長屋に生まれた人だというし、お前とは親しい お方というから、それでは一つその彫刻の方へお願い申そうか。話の決まった大工の方 は親類のことでかえって好いと思ったが、また考えて見ると、奉公先の身内なのは事に よってはおもしろくないかも知れない。折角お前さんもそういって勧めてくれること故、 これは一つお願い申すことにしよう。だが、まあ当人の志が何よりだから倅に聞いて見 ましょう」というと、「そのことなら本人はもう先刻承知のことだ。善は急げだ、髪も 結っていることだし、早速それでは明日俺が伴れて行こう」 と、ここで話が決まりました。  この安さんという人は、その頃四十格好で、気性の至極面白い世話好きの人でありま したから、早速、先方へその話をして、翌日、私を東雲師匠の宅へ伴れて行ってくれま した。  それが、ちょうど私の十二歳の春、文久三年三月十日のことですが、妙なことが緑と なって、大工になるはずの処が彫刻の方へ道を換えましたような訳、私の一生の運命が まあこの安さんの口入れで決まったようなことになったのです。で、私に取ってはこの 安さんは一生忘られない人の一人であります。  後年私はこの安さん夫婦の位牌を仏壇に祭り、今日でもその供養を忘れずしているよ うなわけである。 私の父の訓誠  さて、いよいよ話が決まりましたその夜、父は私に向い、今日までは親の側にいて我 侭は出来ても、明日からは他人の中に出ては、そんな事は出来ぬ。それから、お師匠様 初め目上の人に対し、少しでも無礼のないよう心掛け、何事があっても皆自分が悪いと 思え、申し訳や口返しをしてはならぬ。一度師の許へ行ったら、二度と帰ることは出来 ぬ。もし帰れば足の骨をぶち折るからそう思うておれ。  家に来るは師匠より許されて、盆と正月、一年に二度しかない。またこの近所へ使い に来ても、決して家に寄る事ならぬ。家へ帰るのは十一年勤めて立派に一人前の人に成 って帰れ。……とこういい聞かされました。  そして、父は再び言葉を改め、 「今一ついって置くが、中年頃に成っても、決して声を出す芸事は師匠が許しても覚 えてはならぬ。お前の祖父はそのために身体を害し、それで私は一生無職で何んの役に も立たぬ人になった。せめてお前だけは満足なものになってくれ」と涙を流して訓誠さ れました。  この事だけは私は今によく覚えております。 その頃の床屋と湯屋のはなし  床屋の話が出たついで故、ちょっと話しましょう。当時の髪結床は、今のように小ざ つばりしたものではなく、特にこういう源空寺門前といったような場末では、そりゃ、 じじむさいものでした。  源空寺門前という一町内には、床屋が一軒、湯屋が一軒、そば屋が一軒というように チャンと数が制限され、その町内の人がそのお華客で、何もかも一町内で事が運んだよ うなものであります。で、次の町内のものが、その床屋へ飛び込むと、変な顔をして 謝絶ったりしたものです。  床屋はちょっと今のクラブのような形で、一町内の寄り合い所なり遊び場でありまし た。  床屋の主人は何んでも世話を焼いて、此所で話が決まるという風。お祭礼の相談、婚 礼の話——夫婦別れの悶着、そんなことに床屋の主人は主となって口を利いたものです。 床屋は土間で、穴の明いた腰かけの板に客が掛け、床屋は後に廻って仕事をする。側 に鬢塩というものがあって、ちよいちよい水をつけ、一方の壁には鬢付け油が堅いのと 軟かいのとを板に付けてある。客は毛受けという池紙なりの小板を胸の所へ捧げ、月代 を剃ると、それを下で受けるという風で、今と反対に通りの方へ客は向いていた。  夜分は土間から、一本の木製の明り台が立っていて燈心の火が細く点されていた。で も、結構、それで仕事は出来たもの。すべて何店によらず、小さな行燈一つを店先に置 いて、それで店の人の顔も見えれば、書き付けの字も見えたものだ。明るさにおいても、 ちつとも今とは違いはしなかった。燈火が明るくなればなるほど、人間の眼が暗くなる ので、昔はそれでよかったものです。  湯屋では、八けんというものが男湯と女湯との真ん中に点いていた。柘溜口を潜って 這入るのです。……柘溜口というのは、妙な言葉だが、昔から、鏡磨ぎ師は柘溜の実を 使用ったもの、古い絵草紙などにも鏡研ぎの側には柘楢の実がよく描いてある……でそ の名の意は、屈み入る(鏡入る)の洒落から来たもの、……むかしはすべてこう雅なこと をいったものです。  床屋は大人が三十二文、小供は二十四文、湯屋は八文であった。 高村東雲の生い立ち  そこで、これから師東雲先生の生い立ちを話します。  東雲師は元奥村藤次郎といった人で、前述の通り下谷北清島町(源空寺門前)の生まれ である。その師匠が当時江戸で一、二を争うところの仏師高橋法眼鳳雲という有名な人 でありますが、この人のことは別に改めて話すことにする。  東雲師の姓の奥村氏が後に至って高村となり、藤次郎が東雲と号したことについては 所以のあることで、この東雲という人は非常な師匠恩い……したがって正直律義であり、 製作にかけてもなかなか優れている所からして、師匠風雲の気にも入っておりました。 お決まりの十一年の年季も立派に勤め上げ、さて、これから東雲は師匠と別れて、別に 一人前として世に立って行くことになりましたから、その別るるに際し、日頃から特に 師匠思いの東雲師のこと故、謹んで申し出づるは、「さて、師匠、私も御丹精によって ようやく一人前の仏師と相成りましたが、お別れに臨み御高恩を幾久しく記念致したい と存じますによって、何卒か師匠のお名の一字をお貰い致したい」と申しました。 「それはいと安いこと、然らば鳳雲の雲をお前に上げよう。藤次郎の藤を東に通わせ て、今後東雲と名乗ったがよかろう」とのことに、東雲はよるこび、なお、言葉を亜ぎ、 「お言葉に甘えるようでございますが、おついでに、師匠の姓の一字をもお買い致し たい。高橋の高を頂いて旧姓奥村の奥と代え高村と致し、高村東雲は如何でございまし よう」という。「それは面白い。差し問えない。それがよかろう」ということになって 奥村藤次郎はそこで高村東雲となって仏師として世に現われたのでありました。  その頃は戸籍のことなども、至極自由であったから、姓を変じても、別にやかましく いわれもしませんでした。  さて、東雲師は、いよいよこの名前で浅草蔵前の森田町へ店を出しました。すなわち 仏師の職業を開いたのである。  東雲師はまだその頃は独身であった。兄が一人あり、名を金次郎という。この人は野 村源光の弟子です(源光のことも、いずれ別に話します)。金次郎はなかなか腕の出来た 人であったが、仏を彫刻することは不得手であって、仏に付属するところの、台座とか、 後光とかいうようなものの製作が美事であった。で、東雲師が仏の能く出来るのへ、ち ようど好い調和となって店の仕事にはかえって都合がよかった。姉さんが一人、お悦と いって後家を通した人(後に私の養母である)、この人が台所をやるという風で、姉弟 三人水入らずで平和に睦まじくやっていたのであります。  ところで、この蔵前という土地は、江戸でも名代な場所——此所には徳川家の米蔵が 並んでいる。天王橋寄りが一の口、森田町の方が中のろ、八幡町に寄って三の口と三つ 門があって、米の出し入れをして、相場も此所で決まる。浅草寺に向って右側で、御蔵 の裏が直ぐ大川になっており、蔵屋敷の中まで掘割になって船がお蔵の前に着くように なっていた(この中の口河岸に水面に枝を張った立派な松があった。これが首尾の松と いって有名なもの、此所は今の高等工業学校校内になっている)。左側は、伊勢広、伊 勢嘉、和泉喜などいう札差が十八軒もずっと並んでいて豪奢な生活をしたものである。 で、札差からの注文を受けるのは、必ず上等のもので、何職に限らず名誉の事のように 思った。東雲師は律義な人、人品もよるしい、気持も純である処から、彫ってある置き 物でも見る人があると、「お気に召しましたらお持ち下さい。差し上げましょう」とい った風な寡慾で、さつばりしていますので、この札差の旦那衆から同情されて、仕事は 次から次からと店は繁昌する。まず幸福に順調にやって行きました。  かくて、間もなく、東雲師は妻を娶った(生まれは本所二つ目の商人の娘)。下谷七軒 町酒井大学という大名の屋敷に奉行をしていた婦人で、女芸一通り能く出来(最も長唄 がお得意であった)、東雲師の妻として、好い取り合わせでありました。それからまた 間もなく、東雲師の店は浅草諏訪町へ転じました。これは森田町は往来広く空つ風の強 い日などは塵俟が甚くて、とても仕事が出来ないという有様なので、転居したのです。 まだ、その頃は硝子戸を入れる時代になっておりませんから、何処でも塵挨のために は困らされました(その頃、たしか、神田のお玉け池の佐羽という唐物屋がたった一軒 硝子戸を入れていたもので、なかなか評判でありました。硝子器の嬉は「ふらそこ」と いって、桐の二重箱へなど入れて大切にした時代です)。私が東雲師の家に行ったのは、 この諏訪町移転後三、四年のことだと思います。  店には私より以前に二人の弟子がいた。三枝松政吉と、覚太郎というものであった。 二人とも、もはや相当に腕も出来てきた所から、もう一人小僧が欲しいというような訳 で、例の床屋の安さんへ弟子を頼んだのが計らず私が行くことになったような順序にな るのです。  私の行ったのは、文久三年亥年の三月十日の朝——安さんに伴れられて師匠に引き合 わされました。安さんが「……これが、そのお話しの兼松の次男なんで……」と口上を いっている。「ふむ、これあ好い小僧だ……俺が丹精して仕込んでやろう」など師匠は 申していられる。子供心に初めて師匠との対面故、私はなかなか緊張しておりました。 すると、師匠が、側にあった人物の置き物を私に指し、「お前、この人を知ってるか」 と訊かれたので、私はおつかなびつくり見ると、長い髯が胸まで垂れ、長刀を持ってい るので、「この人は関羽です」と答えました。  師匠はにつこり笑い、「よく知っていたな、感心々々」と褒められたのでした。師匠 はさらに、「手習いをしたか」という。私は母から少しばかり手解きされて、まだ手習 いというほどのこともしていないので、「手習いはしません」というと、「そうか。手習 いはしなくとも好い。字はいらない。職人はそれで好いのだ」といわれました。「算盤 は習ったか」と次の質問に「そろばんもまだ知りません」と答えました。「算盤もいら ない。職人が銭勘定するようじや駄目だ、彫刻師として豪くなれば、字でも算盤でも出 来る人を使うことも出来る。ただ、一生懸命に彫刻を勉強しろ」というようなことで、 極簡短な口頭試験に私は及第したのであった。  今でも耳に残っていますが、その時、師匠が安さんに向って、 「何ね、新弟子の人柄を見抜くには、穿き物の脱ぎ方を見るのが一番だよ。遠くの方 へ引つ散らかして置くような奴は碌なものはありはしない。満足に揃えるほどの子供な ら物になるよ」  私はその時、満足に穿き物を揃えて脱いでいたものと見えます。 彫刻修業のはなし  早速彫らされることになる——  この話はしにくい。が、まず大体を話すとすると、最初は「割り物」というものを稽 古する。これはいろいろの紋様を平面の板に彫るので工字紋、麻の葉、七宝、雷紋のよ うな模様を割り出して彫って行く。これは道具を切らすまでの手続き。それが満足に出 来るようになると、今度は大黒の顔です。これがなかなか難儀であって、木の先へ大黒 天の顔を彫って行くのであるが、円満福徳であるべきはずの面相が馬鹿に貧相になった り、笑ったようにと思ってやると、かえって泣いたような顔になる。なかなか旨く行か ない。繰り返し繰り返し、旨く行くまで彫らされる。彫るものの身になると、真に辛い。 肥えさせればぼてるし、清せさせれば貧弱になる。思うようには到底ならないのを、根 気よく毎日毎晩こつこつとやっている中に、どうやら、おしまいには大黒様らしいもの が出来て来ます。  と、今度は蛭子様——これは前に大黒の稽古が積んで経験があるから、いくらか形も つく。大黒が十のものなら五つで旨く行って、まずそれでお清書は上がるのです。  すると、三番目の稽古に掛かるのが不動様の三尊である。不動様は今日でもそうであ るが、その頃は、一層成田の不動様が盛んであったもので、不動の信者が多い所から自 然不動様が流行っている。不動様はまず衿糟羅童子から始めます。これは立像で、手に 蓮を持っている。次が制咤迦《せいたか》童子、岩に腰を掛け、片脚を揚げ、片脚を下げ、捻《ねじ》り棒を 持っている。この二体が出来て来ると、次は本体の不動明王を彫るのです。  次は三体に対する岩を彫る。次は火焔という順序で段々と攻めて行くのである。この 不動様の三尊を彫り上げるということは彫刻の稽古としては誠に当を得たものであって、 この稽古中に腕もめきめき上がって行くのです。それはそのはずであって、この三体の 中には仏の種々相が含まれているからです。衿掲羅が柔和で立像、制味迦が岩へ「踏み 下げ」て葱怒の相、不動の本体は安座であって、片手が剣、片手が縛縄、天地眼で、岩 がある。岩の中央に滝、すなわち水の形を示している。後は火焔で火の形である。です から、これで立像も分る。「踏み下げ」も分る。安坐も会得する。柔和忍怒の相から水 火の形という風に諸々の形象が含まれているのであるから、調法というはおかしいが、 材料としてはまことに適当であります。しかし、この不動三尊を纏め上げるには容易な ことではなく、三、四年の歳月は経っていて、私の年齢も、もう十六、七になっている。 話しではいかにも速いが脳や腕はそう速く進むものでない。修業盛りのこと故、一心不 乱となって勉強をしたものです。  さて、それから仏師となるには、仏師一通りのことは出来ねばなりません。まずその 一通りというところを話して行くと、第一に如来です。 如来は、如実の道に乗じて、来って正覚を成す、とある通り仏の最上美称であって、 阿弥陀、釈迦、薬師、大日などをいうのであります。如来が一番むずかしいものとなつ ている。仏工は古来より阿弥陀如来の立像と、地蔵菩薩の立像をむつかしい物の東西の 大関に例えてある。  次に菩薩、これは大心ありて仏道に入る義にて、すなわち仏の次に位する称号。地蔵、 観音、勢至、文殊、普賢、虚空蔵などある。それから天部という。これは梵天、帝釈、 弁天、吉祥天等。次は怒り物といって怠怒の形相をした五大尊、四天、十二神将の如き 仏体をいう。諸仏の守護神です。それから僧分の肖像、たとえば弘法大師、日蓮上人の ような僧体である。一々話して行けば実に数限りもないことです。余は略します。  それから、また、本体に附属した後光がある。船後光の正式は飛天光という。天人と 迦陵頻伽、雲を以て後光の形をなす。その他雲輪光、輪後光、繊の光明(これは来迎仏 などに付けるもの)等で各々真行草があります。余は略す。  台坐には、十一坐、九重坐、七重坐、連坐、荷葉坐、多羅葉坐、岩坐、雲坐、須弥坐、 獅子肌坐、円坐、雷盤坐等で、壇には護摩壇、須弥壇、円壇等がある。  天蓋には、桜格、羅網、花鬢、瞳旗、仏殿魔等。  厨子は、木瓜厨子、正念厨子、丸厨子(これは聖天様を入れる)、角厨子、春日厨子、 麗筆形、宮殿形等。  その他、なお、舎利塔、位牌、如意、持蓮、柄香炉、常花、鈴、五鈷、三鈷、独鈷、 金剛盤、輪棒、賜磨、馨架、雲板、魚板、木魚など、余は略します。  前陳の各種を製作するにつき、これに付属する飾り金物、塗り、金箔、消粉、彩色等 の善悪を見分ける鑑識も必要であります。  まず「飾り」であるが、飾りには、金鍍金と「消し差し」の二つ。箔を焼きつけたも のが鍍金で、消粉を焼きつけるのが「消し差し」です。  金物の彫りの方では、唐草の地彫り、唐草彫り、蔓彫り、こつくい(極印)蔓などで地 はいずれも七子です。  塗り色にも種々ある。第一が黒の蝋色である。それから、朱、青漆、朱うるみ、べに がらうるみ、金|白檀《びやくだん》塗り、梨子地《なしじ》塗りなど。梨子地には焼金《やききん》、小判《こばん》、銀、錫《すず》、鉛(この 類は梨子地の材料で金と銀とはちょっと見ては分り兼ねる)。  塗りにも、塗り方は、堅地と泥地とあって、堅地は砥粉地と桐粉地とあり、いずれも 研いで下地を仕上げるもの。上塗りは何度も塗って研磨して仕上げるものです。泥地は 胡粉と腰とで下地を仕上げ、漆で塗ったまま仕上げ、研がないのです。泥地でも上物は 中塗りをします。  箔にも種類があって、一つの製品を金にするにも金箔を使うのと、同じ金であっても、 金粉を蒔いて金にするのと二色ある。  箔についても、濃色があり、色吉がある。中色、青箔、常色等がある。その濃色は金 の位でいうとやき金に当る。色吉が小判で、十八金位に当る。それから段々十二金、九 金というように銀の割が余計になって来る。  箔の大きさは、普通三寸三分、三寸七分、四寸である。厚さにも二枚掛け、三枚掛け と色々ある。これは私が仏師となった時代のことだが、今日ではいろいろの大きさの箔 が出来ていて調法になっています。  彩色にも、いろいろあります。極彩色、生け彩色、俗にいう桐油彩色など。その彩色 に属するもので、細金というのがある。これは細金で模様を置くのである。描くとはい えない。それから金泥で細金の如く模様を描くのがあります。  極彩色はやっぱり絵画と同じ行き方で、胡粉で白地に模様を置き上げ、金にする所は 金にして彩色にかかる。生け彩色は一旦塗って金箔を置いて、見られるようになった時、 牡丹なら牡丹の色をさす。葉は葉で彩り、金を生かして、彩色をよいほどに配して行く。 これはなかなか好い工夫のものです。  桐油彩色は、雨にぬれても脱落ないように、密陀油に色を割って、赤、青と胡粉を割 ってやるのです。余り冴えないものだが、外廻りの雨の掛かる所、殿堂なら外廓に用い られる。 「木寄せ」その他のはなし  木寄せのことを、ざっと話して置きましょう。  仏師に付属した種々の職業が分業的になってある中に、木寄師もその一つであります。 これは材料を彫刻家へ渡す前に、その寸法を彫刻家の注文通り断ち切る役なのです。  正式の寸法の割合として、たとえば坐像二尺の日蓮上人、一丈の仁王と木寄せをして 仏師へ渡します。結局、仏師が彫るまでの献立をする役です。これは付属職業の中でも 重要なもので、それに狂いがあっては大変です。建築でいえば立前だから立前が狂って いては家は建たぬわけ、木寄師がまずかった日には仏師は手が付かぬというのです。  木寄師の仕事はこのほかに天蓋の鉢、椅子、曲衆、須弥壇、台坐等をやる。なかなか 大変なものである。  それから、仏師塗師、仏師錯師等いずれも分業者である。江戸ではその分業が一々際 立って、店の仕事が多忙しいとまでは行かないが、中古から(徳川氏初期からを指す)京 都の方では非常に盛大なものであった。寺町通りには軒並みに仏師屋があってそれぞれ 分業の店々がまた繁昌をしている。中古の(前同意義)仏師の本家は此所でありました。  京都には、由来寺々の各本山がありますので、浄土とか真宗とか、地方の末寺の坊さ んが京の本山へ法会の節上って行く。その時、地方で、上等ものを望む人は、その坊さ んに頼み、これこれのものを注文して来て下さいと依頼する。坊さんは、法会の間、十 日、半月位滞在しているが、その短期間にこれこれのものをと注文する。一週とか、十 日間とかの間に、仏師はその注文品を仕上げるのであるが、たとえば、厨子に入れて、 丈五寸の観音を注文するとすれば、仏師屋では見本を出して示す。七円、十円と価格が 分れているのを、十円のに決めて日限を切って約束をする。そこで仏師屋では、小仏を 作る方の人が観音を作り始める。と、その五寸の観音の台坐を持って来い、と、それぞ れ分業の店から、五寸という寸法で附属品を取って来る。それから、また、厨子を持つ て来い、何を持って来いとやる。まだ本尊が悉皆出来上がらない中に、附属品も、納ま るものもチャンと揃っている。日限の日になって観音が出来上がると万事用意が整って いるのだから、五寸の立像の観音は、辷るように厨子に納まり、そのまま注文主の手に 渡る。ほんの半月以内の短日月でこう手早く揃うのは、分業の便利であって、繁昌すれ ばするほど、それが激しくなり、そうしてその余弊は仏師の堕落となり、彫刻界の衰退 となりました。  で、京都では段々と仏師に名人もなくなり、したがって仏師屋も少なくなり、今日で は、寺町通りへ行っても、昔日の仏はありますまい。これは彫刻というような特殊の芸 術を需要の多いのに任せて濫作する弊……拙速を尚んで、間に合せをして、代金を唯一 目的にする……すなわち余りに商品的に彫刻物を取り扱い過ぎるところの悪習ともいえ ましょう。  それに引き代え、江戸は八百万石のお膝下、金銀座の諸役人、前にいった札差とか、 あるいは諸藩の留守居役といったような、金銭に糸目をつけず、入念で、しかも傑作を 欲しいという本当に目の開いた華客の多いこちらでは、観音一つ彫らすのでも、念に念 を入れさせ、分業物の間に合せではなくして、台坐も天蓋も、これと目指した彫刻師の 充分な腕によって出来たものを望むという気風がありましたから、京の寺町とは趣を異 にし、芸術的良心が根まで腐るようなことはありませんでした。これは分業という話か ら余談にわたったが、まず以上のようなわけのものであった。 甲子年の大黒のはなし  話が少し元へ返って、私の十二の時が文久三年、十三が確か元治元年の甲子年であつ た。この甲子年はめったには来ません。六十一年目に一度という(二(それでその時の甲 子年には、大黒の信者はもとよりのこと、そうでないものでも、商売繁昌の神のこと故、 尊信するもの甚だ多くして、大黒様をその年には沢山にこしらえました。  そして、その大黒さまを作る材であるが、それは、桧材である。日本橋の登る三枚目 の板が大事にされたもの……王城の地を中心にして京を上としてある。で、登る三枚目 とは室町の方から渡って三枚目の橋板を差すのである。時たま、橋の修繕の際、この橋 板は皆が争って得たがったものです。私の師匠の東雲師はその甲子歳には沢山の大黒を こしらえましたが、まだ私は十三の子供、なかなかその手伝いは出来ませんでした。  さて、翌年が慶応元年の丑、私の十四の時ですが、押し迫った師走の……あれは幾日 のことであったか……浅草に大火があって、それは実に大変でありました。 仏師の店のはなし(職人気質)  師匠東雲師の家が諏訪町へ引つ越して、三、四年も経つ中に、珍しかった硝子戸のよ うなものも、一般ではないが流行って来る。師匠の家でもそれが出来たりしました。障 子の時は障子へ「大仏師高村東雲」など書いてあったもの。  仕事は店でやったものです。店には兄弟子、弟弟子と幾人かの弟子がいますが、そ の人々はただ腕次第、勉強次第でこつこつとやっている。別に現今のよう、その製作が 展覧会などで公開され、特選とか推薦とかいって品評されるわけでもなく、特にまた師 匠が明らさまに優劣を保障するわけでもないが、何時となく、誰いうとなく、腕の好い ものと、拙いものとはチャンと分っている。それは自然自他ともにそれを感ずるのであ って、自分がいかにお天狗でも人はそれを許さず、人の評判ばかり高くて虚名がよしあ るにしても、楽屋内では、それを許さない。だから自然と公平な優劣判断のようなもの が、仲間のなかに分っていたものです。  たとえば、或る仏師の弟子の製作があるとして、それが塗師屋の手に渡る。塗師屋の 主人は、それを手に取って、「おやこれは旨いもんだ。素晴らしい出来だ。何処から来 たんだ。誰の作だ」と訊くと、「それは、何さんの所の弟子の何さんという人の作だ」 という。それで、その作をした人の名が一人に分り、二人に記憶され、今度、たとえば、 その作人がその塗師屋へ使いに行くとして、親方の挨拶が、がらり違って、丁寧になる という塩梅、それはおかしなものであります。  右の如く、弟子たちは、仕事のことに掛けては、一心不乱、互いに劣るまい、負けま いと、少しの遠慮会釈もなく、仕事本位の競争をしますが、内面の交わりとなると、そ れはまた親密なものでありました。  たとえば、今夜はお鳥様だから、一緒に出掛けようという時に一人の弟子は、懐工合 が悪いので、行きしぶっているとして、工面の好い連中が、「何を考えてるんだ。出掛 けろ出掛けろ」と、一切飲食のことをも負担したもので、なかなかうつくしいところが あったものです。  と、いって、またなかなか仕事の事になると許さない処がある。田舎から用事のある 人が訪問て来て、或る仏師の店を覗き、「もし、お尋ねしますが、此店に仏師の松さん はいますか」 と聞いたものです。すると、誰かが、 「仏師の松さんね。そんな人はいないよ」と返事をしたもの。  実は其所に松さんは隅の方で小さくなって仕事をしているが、それはまだ「仕上げ 師」の方で、仏師と呼ばれる資格はないから、こんな皮肉な返事をしたもので、田舎の 人は、仏師屋の職人だから、仏師かと思って何んの気なしにいったのですが、松さん当 人は顔が紅くなるようなわけ。なかなか許さなかったものです。仕上げをするのを、け ずり師といって、これはまだ未熟の職人の仕事で「刻り」をするようにならなければ、 仏師の資格はないのです。けれども、当時は、各人その職に甘んじ、決して不平なんぞ をいいはしませんでした。それは自分の腕を各自が知っていたからでありましょう、す べて、一尺以内の小者を彫るのを小仏師、一尺以上を大仏師といったもの、大仏師にな れば大小を通じてやる腕のあることはもちろんのことでした。  それで、腕は優れていながら、操行のおさまらぬ職人の中などに、どうかすると、盤 と小刀を風呂敷に包み、「彫り物の武者修業に出るんだ」といって他流試合に出掛ける ものがいたもんです。仏師の店へ飛び込んで、 「師匠と腕の比べつこをしよう。何んでも題を出せ。大黒でも弁天でも、同じものを 同じ時間で始めよう。どつちが旨く、どうちが早く出来上がるか、勝負を決しよう ……」などと、力んだもの。それで、面倒であったり、または、腕のにぶい師匠は、そ つと草鞋銭を出して出て行ってもらったなど、これらもその当時の職人気質の一例であ りました。 大火以前の雷門付近  私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四つ時(午後十時)浅草 三軒町から出火して浅草一円を烏有に帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷 門もこの時に焼けてしまったのです。此所で話が前置きをして置いた浅草大火の件とな るのですが、その前になお少し火事以前の雷門を中心としたその周囲の町並み、あるい は古舗、またはその頃の名物といったようなものを概略と話して置きます。つまり、火 事で焼けてしまっては何も残らないことになりますから——  まず雷門を起点にして、現今の浅草橋(浅草御門といった)に向って南に取って行くと、 最初が並木(並木裏町が材木町)それから駒形、諏訪町、黒船町、それに接近して三好町 という順序、これをさらに南へ越すと、蔵前の八幡町、森田町、片町、須賀町(その頃 は天王寺ともいった)、茅町、代地、左衛門河岸(左衛門河岸の右を石切河岸という。名 人是真翁の住居があった)、浅草御門という順序となる。観音堂から此所までは十は町 の道程です。  観音堂から堂へ向って右手の方は、馬道、それから田町、田町を突き当ると日本堤の 吉原土手となる。雷門に向って右が吾妻橋、橋と門との間が花川戸、花川戸を通り抜け ると山の宿で、それから山谷、例の山谷堀のある所です。それを越えると浅草町で、そ れからは家がなくなってお仕置場の小塚原……千住となります。  花川戸の山の宿から逆に後に戻って馬道へ出ようという間に猿若町がある。此所に三 芝居が揃っていた。  観音堂に向って左は境内で、淡島のお宮、花やしき、それを抜けると浅草田圃で一面 の青田であった。  観音堂の後ろがまたずっと境内で、楊弓場が並んでいる。その後が田圃です。ちよう ど観音堂の真後ろに向って田圃を距てて六郷という大名の邸宅があった。そのも一つ先 になると、浅草溜といって不浄の別荘地——これは伝馬町の牢屋で病気に耀ったものを 下げる不浄な世界……そのお隣りが不夜城の吉原です。溜に寄った方が水道尻、日本堤 から折れて這入ると大門、大江戸のこれは北方に当る故北国といった。  それから雷門に向って左の方は広小路です。その広小路の区域が狭隣になった辺から 田原町になる。それを出ると本願寺の東門がある。まず雷門を中心にした浅草の区域は ざっとこういう風であった。  私はまだ子供の事とて、師匠の家の走り使いなどに、この界隈を朝夕に往復し、町か ら町、店から店と頑是もなく観て歩いたもの、今日のように電車などあるわけのもので なく、歩いて行って歩いて帰ることでありますから、その頃の景物がまことに明瞭と、 よく、今も記億に残っております。こうして話をしている中にも、まざまざと町並み、 店々の光景が眼に見えるようにさえ思われて来ます。そこで、管々しくあるかは知らぬ が、名代、名物といったようなものを眼の先にちらつくまま話して行きましょう。 名高かった店などの印象  雷門に接近した並木には、門に向って左側に「山屋」という有名な酒屋があった(麦 酒、保命酒のような諸国の銘酒なども売っていた)。その隣りが遠山という薬種屋、そ の手前(南方へ)に二八そば(二八、十六文で普通のそば屋)ですが、名代の十一屋という のがある。それから駒形に接近した境界にこれも有名だった伊阪という金物屋がある (これは刃物が専門で、何時でも職人が多く買い物に来ていた)。右側は奴の天麹羅とい って天麹羅茶濆をたべさせて大いに繁昌をした店があり、直ぐ隣りに「三太郎ぶし」と いった店があった。これはお歯黒をつけるには必ず必要の五倍子の粉を売っていた店で、 店の中央に石臼を据えて五倍子粉を磨っている陰陽の生人形が置いてあって人目を惹い たもの、これは近年まで確かあったと覚えている。その手前に「清瀬」という料理屋が あってなかなか繁昌しました。その横町が、ちつと不穏当なれど犬の糞横町……これも 江戸名物の一つとも申すか……。  清瀬から手前に絵馬屋があった。浅草の生え抜きで有名な店でありました。何か地面 訴訟があって、双方お上へばんしよう(訴訟の意)した際、絵馬屋は旧家のこと故、古証 文を取り出し、これは梶原の絵馬の註文書でござりますと差し出した処、お上の思し召 しで地所を下されたとかで、此店が拝領地であったとかいうことでありました(並木と 吾妻橋との間に狭い通りがあって、並木の裏通りになっている。これは材木町といって 材木屋がある)。それから、並木から駒形へ来ると、名代の酒屋で内田というのがあつ た。土蔵が六戸前もあった。横町が内田横丁で、上野方面へ行くと本願寺の正門前へ出 て菊屋橋通りとなる見当——  内田から手前に百助(小間物店があった。磯工用の絵具一切を売っているので、諸職 人はこの店へ買いに行ったもの)、この横丁が百肋横丁、別に唐辛子横丁ともいう。そ の手前の横丁の角が鰭屋(これは今もある)。鰭屋横丁を真直に行けば森下へ出る。右へ 移ると薪炭問屋の丁子屋、その背面が材木町の出はずれになっていて、この通りに前川 という鰻屋がある。これも今日繁昌している。これから駒形堂です。  堂は六角堂で、本尊は観世音、浅草寺の元地であって、元の観音の本尊が祭られてあ った所です。縁起をいうと、その昔、隅田川をまだ宮戸川といった頃、土師臣中知とい える人、家来の桧熊の浜成竹成という両人の者を従え、この大河に網打ちに出掛けたと ころ、その網に一寸八分黄金無垢の観世音の御像が掛かって上がって来た。主従は有難 きことに思い、御像をその駒形堂の所へ安置し奉ると、十人の草刈りの小童が、薮の葉 をもって花見堂のような仮りのお堂をしつらえ、その御像を飾りました。遠近の人々は 語り伝えて参詣をした。それで駒形堂をまた薮堂とも称えます。そうして主従三人は三 社権現と祭られ浅草一円の氏神となり、十人の草刈りは堂の左手の後に十子堂をしつら えて祭られました。  駒形は江戸の名所の中でも有名であることは誰も知るところ……何代目かの遊女高尾 の句で例の「君は今駒形あたりほとゝぎす」というのがありますが、なるほど、駒形は 時鳥に縁のあるところであるなと思ったことがあります。というのは、その頃おい、 駒形はまことによく時鳥の鳴いた所です。時鳥の通り道であったかのように思われまし た。それは、ちょうどこの駒形堂から大河を距てて本所側に多田の蕊師というのがあり ましたが、この叢林がこんもり深く、昼も暗いほど、時鳥など沢山巣をかけていたもの で、五月の空の雨上がりの夜などには、その薮から時鳥が駒形の方へ飛んで来て上野の 森の方へ雲をば横過って啼いて行ったもの……句の解釈は別段だけれども、実地には時 鳥のよく鳴いた所です。そして向う河岸一帯は百本杭の方から掛けて、ずっとこう薄気 味の悪いような所で、物の本や、講釈などの舞台に能くありそうな淋しい所であった。  さて、駒形堂から後へ退って、「川升」という料理屋が大層流行り、観音の市の折り など、それは大した繁昌。客が立て込んで酔興な客が、座敷に出てる獅噛火鉢を担ぎ出 して持って行ったのさえも気が付かなかったという一つ話が残っている位、その頃はよ く有名なお茶屋などの猪口とか銚子袴などを袂になど忍ばせて行ったもの、これは一つ の酒興で罪のないわるさであった。  諏訪町では向って左が諏訪神社、師匠東雲の店は社の筋向うの右側にあったのです。 町の中ほどには紅勘(小間物屋)があってこれも有名でした。紅勘で思い出すが、その頃、 鉦と三味線で長唄を歌って流して歩いた紅勘というものがあって評判でありました。こ れが小間物屋の紅勘と何か関係あるように噂されたが、実際は全く何んの因縁もなかつ たものといいます。菊五郎であったか、芝翫であったか、この紅勘のことを芝居にした ことがありました(長唄の紅勘とは別の男ですが、五代目菊五郎がまだ羽左衛門で売り 出しの時、鎌倉節仙太郎という者が、江戸市中を鉦三味線で、好い声で飴を売りながら 流して歩いて評判でした。羽左衛門がそれをやって大当りのことがありました)。  小間物屋の紅勘と近接した横丁には「みめより」という汁粉屋がある。それから「金 麹羅」という天麹羅屋がある。いずれも繁昌、右側は乾(煙草屋)、隣りが和泉屋(扇屋)、 この裏へ這入ると八百栄(料理屋)それから諏訪町河岸へ抜けると此所は意気な土地で、 一中、長唄などの師匠や、落語家では談枝などもいて、異な人たちが住まっていた。河 岸つづきで、河岸には「坊主蕎麦」というのがあって、これは一流でした。主人は坊主 で、聾のため「聾そば」で通っていた。その隣りが浅利屋という船宿、此所を浅利屋河 岸といった。表通りの金麹羅屋の向うに毛抜き屋があった。この店の毛抜きは上手とい われたもの、いろいろ七ツ道具が揃っていて、しゃれた人たちが買いに来た。それから、 錫屋というのがあった。この店は江戸市中にも極少ない店で、錫の御酒徳利、お茶のつ ぼ、銚子などを売っていた。  黒船町へ来ると、町が少し下って二の町となる。村田の本家(烟管屋)がある。また、 榧寺《かやでら》という寺がある。境内に茅《かや》が植わっていた。それから三好町《みよしちよう》、此所には戯作などを した玄魚という人のビラ屋があった。  こう話して行くと、記憶は記憶を生んで、何処まで行くか分りませんから、雷門へひ とまず帰って、門へ向って左側、広小路へ出ましょう。  此所にはまた菜飯茶屋という田楽茶屋がありました。小綺麗な姉さんなどが店先でで んがくを喰ってお愛想をいったりしたもの、万年屋、山代屋など五、六軒もあった。右 側に古本屋の浅倉、これは今もある。それから奴(鰻屋)。地形が狭まって田原町になる 右の角に蕎麦屋があって、息子が大纏といった相撲取りで、小結か関脇位まで取り、土 地つ児で人気がありました。この向うに名代の紅梅焼きがありました。  観音堂に向っては右が三社権現、それから失大臣門(随身門のこと)、その右手の隅に 講釈師が一軒あった。  門を出ると直ぐ左に「大みつ」といった名代な酒屋があった。ちろりで燗をして湯豆 腐などで飲ませた。剣菱、七ツ梅などという酒があった。馬道へ出ると一流の料理屋富 士屋があり、もつと先へ出ると田町となって、此所は朝帰りの客を沼ぶ蛤鍋の店が並ん でいる。馬道から芝居町へ抜けるところへ、薮の麦とるがあり、その先の細い横丁が楽 屋新道で、次の横丁が芝居町となる。猿若町は三丁目まであって賑わいました。 山の宿を出ると山谷堀……越えると浅草町で江戸一番の八百善がある。その先は重箱、 鱒のすつぼん煮が名代で、その頃、赤い土鍋をコグ縄で結わえてぶら下げて行くと、 「重箱の帰りか、しゃれているぜ」などいったもの。  花川戸から、ずっと、もう一つ河岸の横町が聖夫町、それを抜けると待乳山です。 「待乳沈んで、梢乗り込む今戸橋」などいったもの、河岸へ出ると向うに竹屋の渡し船 があって、隅田川の流れを隔て墨堤の桜が見える。山谷堀を渡ると、今戸で焼き物の小 屋が煙を揚げている。戸沢弁次という陶工が有名であった。  山谷堀には有明楼、大吉、川口、花屋などという意気筋な茶屋が多く、この辺一帯江 戸末期の特殊な空気が漂っていました。  また元の道へ引き返して、雷門の前通りを花川戸へ曲がる角に「地蔵の燈篭」といつ て有名な燈篭があった。古代なものであったが、年号が刻ってないので何時頃のものと も明瞭とは分らぬ。小野の小町の石塔だというかと思えば、弘法大師の作であるとか、 いずれも当てにはならぬ。中央に地蔵尊を彫り、傍に一人の僧が敬礼をしており、下の 方に、花瓶に蓮を挿してある模様が彫りつけてある。これは西仏といえる人、妻と、男 女二子の供養のために建立したものということだけは書きつけてあった。大火の際焼け ましたが、破片は今も残っていて、花川戸の何処かの小祠にでも納めてあるでありまし よう。  観音の地内は、仁王門から右へ弁天山へ曲がる角に久米の平内の厳めしい石像がある (今日でもこれは人の知るところ)。久米は平内妻の姓であるとか。元は兵藤平内兵衛と いった人、青山主膳の家臣、豪勇無双と称せられた勇士です。石平道人正三(鈴木九太 夫)の門人であった。俗説にこの人、武芸の達人で、首斬りの役をして、多くの人命を 絶ったにより、その罪業消滅のため、自分の像を石に刻ませ、往来へ拠り出し、恨みあ る人は我を蹴って恨みを晴らせとの希望で、こうして石像を曝したものであるという ……されば、その足で「踏み附ける」という言葉をもじり(文附ける)という意にして、 縁結びの心願の偶像となったものとか、今でも祠の格子に多くの文が附けられてある。  雷門から仁王門までの、今日の仲店《なかみせ》の通りは、その頃は極粗末な床店《とこみせ》でした。屋根が 揚げ卸しの出来るようになっており、緑と、脚がくるりになって揚げ緑になっていたも ので、平日は、六つ(午後六時)を打つと、観音堂を閉扉するから商人は店を畳んで帰つ てしまう。後はひつそりと淋しい位のものでした。両側は玩具屋が七分通り(浅草人形 といって、土でひねって彩色したもの、これは名物であった)、絵草紙、小間物、はじ け豆、紅梅焼、雷おこし(これは雷門下にあった)など、仁王門下には五家宝という菓子、 雷門前の大道には「飛んだりはねたり」のおもちやを売っていた。蛇の目の傘がはねて、 助六が出るなど、江戸気分なもの、その頃のおもちやにはなかなか暢気なところがあり ました。  雷門は有名ほど立派なものではなく、平屋の切妻作りで、片方が六本、片方が六本の 柱があり、中心の柱が屋根を支え、前には金剛矢来があり、台坐の岩に雲があって、向 って右に雷神、左に風の神が立っていました。魚がしとかしんばとか書いた紅い大きな 提灯が下がって何んとなく一種の情趣があった。  仁王門は楼門です。楼上には釈迦に十六羅漢があるはず。楼下の左右には金剛力士の 像が立っている。  仲店の中間、左側が伝法院で、これは浅草寺の本坊である。庭がなかなか立派で、こ の構えを出ると、直ぐ裏は、もう田圃で、左側は田原町の後ろになっており、蛇骨湯と いう湯屋があった。井戸を掘った時大蛇の頭が出たとやらでこの名を付けたとか。有名 な湯屋です。後ろの方はその頃新佃町といった所、それからまた田圃であった。  伝法院の庭を抜け、田圃の間の畔道を真直に行くと(右側の田圃が今の六区一帯に当 る)、伝法院の西門に出る。その出口に江戸侠客の随一といわれた新門辰五郎がいまし た。右に折れた道が弘隆寺、清正公のある寺の通りです。それから一帯吉原田圃で、こ の方に太郎稲荷(この社は筑後柳川立花家の下屋敷内にある)の薮が見え、西は入谷田圃 に続いて大鷲神社が見え、大音寺前の方へ、吉原堤に聯絡する。この辺が例のおはぐろ どぶのあるところ……すべて、ばくばくたる水田で人家といってはありませんでした。  ざっと略図のようなものでいうと、こんな風な地形となる。 浅草の大火のはなし  これから火事の話をします。  前に幾度かいった通り、慶応元年丑年十二月十四日の夜の四つ時(私の十四の時)火事 は浅草三軒町から出ました。  前述詳しく雷門を中心とした浅草一円の地理を話して置いたから大体見当は着くこと ではあるがこの三軒町は東本願寺寄りで、浅草の大通りからいえば、裏通りになってお り、町並みは田原町、仲町、それから三軒町、……堀田原、森下となる。見当からいう と、百助の横丁を西に突き当った所が三軒町で、其所に三島神社があるが、その近所に 濫楼屋があって、火はこれから揚がったのだ。  その夜は北風の恐ろしく甚い晩であった。歳の暮に差し掛かっているので、町内々々 でも火の用心をしていたことであろうが、四つ時という頃おい、ジヤン/\/\/\と いう消魂しい獲り半鐘の音が起った。「そりゃ、火事だ、火事だ」というので、出て見 ますと、火光は三軒町に当っている。通りからいえば広小路の区域が門跡寄りに移る際 の目貫な点から西に当る。乾き切った天気へこの北風、大事にならねば好いがと、人々 は心配をしている間もあらばこそ、火は真直に堀田原、森下の方向へ延びて焼き払って 行く。ちょうど大通りの並木に平行して全速力で南進して行くのであった。  この時、私の師匠東雲師の家は諏訪町にあることとて、火事は裏通り、大分遥かに右 手に当って焼け延びているのであるから、さして気にも留めずにいた。 「まず大きくなった所で、この風向きでは黒船町へ抜けるであろう。蔵前の八幡の方 へ……小揚の方へ抜けて行くだろう。こつちの方は大したことはあるまい」と安心して いる中に、焼け延びるだけ延びた火の手は俄然として真西に変って来た。 「おやおや風向きが変った。西になった」 と、いってる声の下から、たちまち紅勘横丁へ火先が吹き出して来た。これは浅草の大 通りだ。師匠の宅から正に半町ほど先である。と、見ると、火の手は、南進していたも のが一転して東方に向って平押しに押し込んで、大通りに向う横町という横町へ、長蛇 の走るよりも迅い勢いで吹き出して来た。今の今まで安心していた主人を初め、弟子、 下職、手伝いに駆けつけた人々が、「もう、いけない。出せるものだけ出せ」というの で、荷物を運び出しました。  荷物を運ぶといっても、人家楓密の場所とて、まず駒形堂辺へ持って行くほかに道は ない。手当り次第に物を持って、堂の後ろの河岸の空地へと目差して行く。  荷物を運ぶのは何処も同じことですから、見る見る中に、この辺は荷物の山を為す。 ところが、横丁々々から一斉に吹き出した火は長いなりに大巾になって一面火の海とな り、諏訪町、駒形一円を黒烟に包んで暴れ狂って来た。  で、今度は広小路の方へ追われて出て、私たちは広小路の万年屋(菜飯屋)の前へ荷物 を運び出しました(万年屋は師匠の家のしるべでした)。  すると、風が西に変って強くなったものだから、一度南進した火先は、先方へ延びず に後へ退り、西飛の癖として、火先へ延びず、逆に尻火に延び、反対に退却した形にな って仲町から田原町へと焼けて来た。それのみならず、今度は、その後退した火先は、 西風に煽られて物凄い勢いをもって広小路へ押し出して来たのです。  一体、浅草は余り火事沙汰のない所故、土蔵など数えるほどしかなかった。それに安 政の大地震の際、土蔵というものが余り役に立たなかったことを経験しているので、一 層数が少なかった。ただ、酒屋の内田に五つ戸前ばかり、他に少々あったほどだから、 枯れ草でも舐めるようにめらめらと恐ろしい勢いで焼いて行く。一方は諏訪町、駒形方 面から、一方は門跡から鉾々と火の手が攻めかけて来るのだが、その間は横丁の角々は 元より到る処荷物の山で、我も我もと持ち運んだ物が堆高くなっている。それを火勢に 追われて逃げて来る人々は、ただ、一方の逃げ口の吾妻橋方面へと逃げ出そうと急って いる。片方は大河で遮られているから、この一方口へ逃れるほかには逃げ道はなく、ま るで袋の鼠といった形……振り返れば、諏訪町、黒船町は火の海となっており、並木の 通りを荷物の山を越えて逃げ雷門へ来て見れば、広小路も早真赤になって火焔が渦を巻 いている。雷門から観音堂の方へ逃げようとしても、危険が切迫したので雷門も戸を閉 めてしまったから、いよいよ一方口になって、吾妻橋の方へ人は波を打って逃げ出し、 一方は花川戸、馬道方面、一方は橋を渡って本所へと遁げて行く。その遁げる人たちは 荷物の山に遮られ、右往左往している中に、片ッ端から荷の山も焼け亡せて跡は一面に 火の海となるという有様……ただ、もう物凄い光景でありました。  こんな工合で、風が真西に変って不意打ちを食ったのと、大河に遮断されて逃げ道の ないのとで、荷物を出した人などはない。出しには出しても、出した荷は山と積まれた まま焼けてしまうのですから、誰も彼も生命からがら、ただ身一つになって、風呂敷包 み一つも持たず逃げ出したもの……実に悲惨なことでありました。  さて、火勢はさらに猛烈になって、とうとう雷門へ押し掛けて行きました。  広小路から雷門際までは荷物の山で重なっているのですが、それが焼け焼けして雷門 へ切迫する。荷物は雷門の床店の屋根と同じ高さになって累々としている所へ、煽りに 煽る火の手は雷門を渦の中へ巻き込んでとうとう落城させてしまいました。それで雷門 から蔵前の取っ付きまで綺麗に焼き払ってしまった上、さらに花川戸から馬道に延焼し、 芝居町まで焼け込んで行きました。三座は確か類焼の難はのがれたように思いますが、 何しろ、吾妻橋際から大河の河岸まで焼け抜けてしまったのですからいかに火勢が猛威 を振ったかは推し測られます。それに、大河を越えて、本所の吉岡町へ飛火をして向う 河岸で高見の見物をしていた人の胆までも奪ったとは、随分念の入った火事でありまし た。  名代の雷門はこれで焼け落ちましたが、誰か殊勝な人があったと見え、風雷神の身体 は持ち出すことは出来なかったが、御首だけは持って逃げました。それが只今、観音堂 の背後の念仏堂に確か飾ってあると思います。これはその後になって、門跡前の塩川運 玉という仏師が身体を造って修理したのであります。 猛火の中の私たち  私は十四の子供で、さして役には立たぬ。大人でもこの猛火の中では働きようもない。 私の師匠の東雲と、兄弟子の政吉と、私の父の兼松(父は師匠の家と私とを心配して真 先に手伝いに来ていました)、それに私と四人は駒形堂の方から追われて例の万年屋の 前へ持ち出した荷物を卸し、此所で、どうなることかと胸を轟かしている。火勢はいや が上に募って広小路をも一舐めにせん有様でありますから、師匠は一同に向い、 「とても、この勢いではこの辺も助かるまい。大事な物だけでも、川向うへ持って行 こうじゃないか」というので、篭長持に詰め込んである荷物を、政吉と父の兼松とが後 先に担い、師匠は大きな風呂敷包みを背負いました。 「幸吉、お前は暫く此所で荷物の番をしていてくれ、俺たちはまた引つ返して来るか ら」そういって三人は吾妻橋の方を差して出て行きました。幸吉というのは私のその時 分の呼び名です。光蔵という語音が呼びにくいので光を幸に通わせて幸吉と呼ばれてい ました。  出て行った三人は、二、三十間ほども行くと、雷門際は荷物の山、人の波で、とても 大変、篭長持など差し担いにして歩くことはおろか、風呂敷包み一つさえも身には付け られぬほどの大混雑、空身でなければ身動きも出来ない。所詮は生命さえも危ないとい う恐ろしい修羅場になっておりますから「これでは、どうも仕方がない。生命あっての 物種だ。何もかも拠り出してしまえ」というので、父の兼松と政吉とは篭長持を投げ出 してしまう。果ては人波に押され揉まれしている中に三人は散々バラバラになってしま いました。  万年屋の前に荷物の番を扮附かって独り取り残された私は、じつと残りの荷物の番を しておりました。子供心にも、師匠や親からいいつかった荷の番の責任を感じている上 に、もう一度引つ返して来るから、といって出て行った言葉もあることとて一生懸命に 荷物を守っておりました。  すると、見る見る中に、両側の家は焼け落ちて、今にも万年屋の屋根を火先が舐めそ うになって来る。と、火消しの一群が火の粉を蹴って駆け来り、その中の一人が、長梯 子を万年屋の大屋根の庇に掛けました。そうして、するすると屋根へ上って行きました。 「おい、お前、こんな所に何をまごまごしてるんだ」  一人の火消しは私を見て怒鳴りました。 「私は荷物の番をしてるんだ」  そういいますと、 「何、荷物の番をしてるんだ? 途方もない。ぐつぐつしてると、荷物より先に手前 の生命がないぞ、早く逃げろ、早く逃げろ」  そう怒鳴りつけますが、さりとて、私は逃げ出すわけには行かない。師匠の預かり物 の番をしているので、師匠や親が、もう一度此所へ帰って来るまでは、何がどうあろう と踏み止まろうと、火消しの怒鳴るのをも係わず、やはり荷物へ噛り附いていました。  すると、仕事師の一人が、突然、私を突き飛ばして、 「逃げなきや死んでしまうぞ。早く逃げろ」 と、恐ろしい見幕で叫びながら、また私を突き出してくれました。私は突き飛ばされた のだか、それが突き出してくれたのだか、そんなことも夢中で、ともかく自分の身体が 荷物の側から大分離れた所へ弾き出されていて、二度とは、もう荷物の側へも行けない ので、とうとう断念めて何処かへ逃げて行こうと決心しました。  しかし、逃げるにしても、何処へ逃げて行って好いか分りません。とにかく、師匠や 親の行った方角へと心差して逃げ道を雷門方向に取りました。  一方、私の父は、どうしたかというと、大混雑の中で、師匠や政吉を見失い、自分一 人となると、さあ、子供のことが案じられて来ました。方年屋の前に荷物の番をさせて 置いた倅の身の上が気遣われて来ました。一念が子の上に及ぶと、兼松は顔の色が変り、 必死となって人波を掻き分け、元の道へ取って返しました。しかし、荷物の山と人波に 遮られ、あがいても、百掻いても人の先へは出られない。気が急げば急くほど身が自由 にならないので、これではいけないと、荷物の上へ躍り上がり、箪笥、長持を踏み越え 踏み越え、やつと、雷門の豚の大神宮様の脇を潜り抜けて、心ばかりは万年屋指して飛 び込んで来ましたが、やはり恐ろしい人波でニッチもサッチも行かないのでした。  私は何時の間にか、雷門の方を向いて人波の中を泳いでいました。泳いでいるといつ て好いか、揉み抜かれているといって好いか。人間と人間との間の板挟みにされ、両脚 は宙に浮いて身体が波の動揺のままにゆさぶられているのです。そのくせ、眼には昼よ りも明るい一面の火の幕がハッキリと見え、人の顔と、真黒な頭の頂天のチョン鬢とが 影絵のように映っている。そうしたままで、また良々暫く揉まれ抜いていると、ふと、 百千の人の顔の中から、父兼松の顔を見付けました。ハツと思うと同時に、父の眼顔に、 私を見付けたという喜悦の表情の動くのを見ました。父は、口を開いて、何かを叫び、 両手を上へ揚げて、一心不乱に私の方へ突進して来ようと焦燥っている有様。私は私で、 父を見付けると、ただ、もう、父の方へ、一本槍に進んで行こうと百掻いている。その 間隔はたった十人か十五人位の人垣によって押し隔てられているのですが、親も子の傍 へ来ることが出来なければ、子も親の側へ寄って行くことも出来ない。心は矢竹にはや れどもわれ人ともに必死の場合とて、どうすることも出来ないのでした。  しかし、私たち親子の一心が通ったものか、とにかく、親子は舜と抱き合いました。 「もう大丈夫だ。俺が附いている」  こう父が確かりした声で、私を抱いていった時、私は、一生に、この時ほどうれしか ったことはありません。私の父兼松は生粋の江戸つ児で、身長こそは小さいが、火事な ぞに掛けては、それはハシツコイ人物、……我子を両手に抱いたうれしさに勇気も百倍 し、それから人波を押し割って元の道に引つ返し、大神宮際の床店の所まで父は私の楯 となって引き退いたのでありました。  其所で、父は、とある荷物の中から、一つの網戸を引つばり出し、それを床店の屋根 に掛けました。そうして、私の尻を押すようにして、私を屋根に上らせました(戸の桟 を足場にして攀じ上る)。続いて父も屋根に上り、さらに網戸を大神宮の拝殿へ掛け渡 して逃げ道を作りました。 「さあ、これで、もう、大丈夫だ。此所で一気息吐こうじゃないか」  父はさも安堵したような顔をして私を見ながらいいました。私は、父の声を聞きなが ら、荷物の番をしていた万年屋の方を向いて見ました。すると、万年屋の二階の雨戸が 二、三枚、朱に染まった虚空の中へ、紙片か何んぞのようにひらひらと舞い上がりまし た。と、雨戸のはずれた中から真黒の烟がどつと出る。かと思うと、今度は真紅の焔が 渦を巻いて吹き出しました。 「お父さん。万年屋が……」 と、いっているうち、見る見る一面の火となってしまいました。 私はこの時仕事師のいった言葉を思い出し、もう少しぐつぐつしていようものなら ……と思わず身体が震えました。  私たちは、床店の屋根の上で、暫く火事の様子を見ていました。急に安心をした故か、 この時初めて恐ろしい風だということに気が付きました。それまでは全く夢中でした。 それから、今日でもハッキリ記憶をしておりますが、万年屋の前で荷物の番をしてい る時、持ち出してある大酒樽の飲み口が抜けて、ドンドンと酒が溢れ出る。その酒のし ぶきが私の衣物をびつしよりにしてしまいました。私は濡れたままで、仕事師に突き出 され、人波に挟まれ、父に扶けられ、今、この床店の屋根に上って、父の傍で、師匠の 荷物も何もかも火の海と化し去る所を見ているのでありますが、万年屋、山城屋(菜飯 屋)などの火焔の煽りで熱くなって、その酒に濡れた衣物が乾いて、烟が出ているのに 気が付きました。乾きかけた袂からは酒臭い匂いが発散ていました。  そうして、火は私たちの上っている屋根の前を一面に舐めて、花川戸の方へ焼け延び て行きました。  やがて、父と私とは、家へ帰ることにしました。帰るといって私の師匠の家はもう焼 失してしまっていますから、父の家へ帰るよりほかありません。網戸を伝って拝殿へ這 い上り、其所からまた網戸を梯子にして大神官様の敷き石の上へ降りました。  父は始終私の身辺を気遣い、わが身のことは忘れたかのように劬わってくれました。 降りた処は雷門の直ぐ後ろで、それから大神宮の大きな花筒石の鳥居を潜り(この鳥居 は後で見たら、中央からボツクリと両つに折れていました。これは柳川力士雲竜久吉 が納めたもので、その由を彫ってあった)仲店を仁王門に向って、伝法院へ這入り、庭 を抜けて田圃を通り、前述の新門辰五郎のいる西門を、新門の身内のものに断わって通 るまでに、後を振り顧って見ると、仲店から伝法院へ曲がる角にあった火の見櫓に火が 掛かり、真赤になって火柱のように見えました。  それから、左は蛇骨湯、右は清正公のあるお寺の通り、それから上野の車坂の方へ真 直に合羽橋を渡ると、右角が海禅寺(これは阿波様のお寺)、二丁ほど行くと、右側が東 明寺で、左が源空寺……すなわち源空寺門前の父の家のある所で、私は久しぶり、我が 家へ帰って来たのでありました。 焼け跡の身惨なはなし  帰ったのは九つ過ぎ(十二時過ぎ)でした。さすがの火事もその頃は下火となって、や がて鎮火しました。  火事の危険であった話や、父に扶けられた話や、久方ぶり、母との対面や何やかやで、 雑炊を食べなどしている中、夜は白々として来ました。  さて、翌朝になり、焼け跡はどうなったか。師匠の家の跡は……と父とともに心配を しながら行って見ると、師匠の家はない。焼け跡に、神田の塗師重の兄弟と、ほかに三 人ばかり手伝いがボオンヤリと立っている。  互いに顔を見合わせて、何よりもまず昨夜の話、師匠はこれこれ、我々はこれこれと 父が物語る。塗師重兄弟も嘆息しながら、 「まずお互い様に生命に別条なく不幸中の幸い……しかし、我々は逃げ損くなって実 に酷い目に逢いやした。逃げようといって、蔵前の方へも逃げられず、並木へと行けど、 それも駄目なり。やむをえず河岸へ出たものだ。ところがちょうど引汐時であったから、 それへ荷物をウーンと出したものだ。すると、また上潮になって来て、荷物は浮いて流 れ出す。……それを縄で括って流すまいとするその大混雑(こ(其所へ、河岸へ火が出て 来て猛火に煽られ、こげ付くようになりながら、浮き上がった荷物の上へ、獅噛みつき、 身体を水に濡らしては火の粉を除けるという騒ぎ、何んのことはない、火責め水責めを 前後に受けて生きた心地もしなかった。それに苦しい上にも苦しかったことは、あの、 「乾」の烟草屋の物置きに火が掛かると、ありたけの烟草が一どきに燃え出して、その 咽ることは……焦熱地獄とはこんなものかと目鼻口から涙が出やした」 と、今は寒さに震えながら、下火に当っての物語、……茫々莫々たる焼け跡の真黒な世 界は、師走の鉛色な空の下に無惨な状で投げ出されていました。  師匠の荷物は、この兄弟が川の中で扶けたものばかりと、手伝いの人が持って帰って、 後に届けてくれたもの少々とが残ったほかには、何も残りませんでした。笑い事ではあ りませんが、前述の方年屋の前で、師匠が大事に背負って行った大風呂敷の包みは、諏 訪町河岸にいた師匠の妹の夜具蒲団であったので「わざわざ本所まで背負って行ったも のの、これは妹に返さねばならない」と、後で、師匠が苦笑しました。  ところが、また不思議なことには、私の道具箱が何処にどう潜んでいたか、そのまま に助かった。それは、まだ子供のこととて、羊羹の折を道具箱にしたもので、切り出し、 丸刀、鑿、物差などが這入っていた。これが助かったので、後に大変役に立ちました。  何しろ、今度の火事は変な火事で、蔵前の人々は、家が残って荷物が焼けました。こ れは、荷物を駒形の方へ出したためです。急に西風に変ったために蔵前の家々は残りま した。ちょうど、黒船町の御厩河岸で火は止まりました。楢寺の塀や門は焼けて本堂は 残っていた。  この大火が方付いてから、あの本願寺の門の前を通ると、駒形堂が真直に見えました。 そうして、大河の帆掛け舟が「そんな大火があったかい」といったように静かに滑って 行くのが見えました。  かくて、浅草は落莫たる年の瀬を越し、淋しい初春を迎えたことであった。 その頃の消防夫のことなど  江戸のいわゆる、八百八街には、火消しが、いろは四十八組ありました。  浅草は場末なれど、彼の新門辰五郎の持ち場とて、十番のを組といえば名が売れてい ました。もっとも、辰五郎は四十八組の頭の内でも巾の利く方でした。  いうまでもなく、消防夫は鳶といって、梯子持ち、纏持ちなどなかなか威勢の好いも のであるが、その頃は竜吐水という不完全な消火機をもって水を弾き出すのが関の山で、 実際に火を消すという働きになると、今日から見ては他愛のない位のものであった。竜 吐水の水はやつと大屋根に届く位、それも直接消火の用を足すというよりは、屋根に登 って働いている仕事師の身体を濡らすに用いた位のもの……ゲンバという桶を棒で担い、 後から炊き出しの這入ったれんじやくをつけて駆け出した(これは弁当箱で消防夫の食 糧が這入っている)。それから、差し子で、猫頭巾を冠り、火掛かりする。  火消しの働きは至極迂遠なものには相違ないが、しかし、器械の手伝いがないだけ、 それだけ、仕事師の働きは激しかった。身体を水に浸しながら、鳶口をもって、屋根の 瓦を剥ぎ、孔を穿ちゝ其所から内部に篭った火の手を外に出すようにと骨を折る。これ は火を上へ抜かすので、その頃の唯一の消火手段であった。  で、この消し口を取るということがその組々の一番大事な役目であって、この事から 随分争いを生じたものである。何番の何組がどの消し口を取ったとか、それによって手 柄が現われたので、消防夫の功績は一にこれに由って成績づけられたものです。それで、 纏のばれんは焼けても、消し口を取ると見込みをつけた以上、一寸も其所をば退かぬと いって大層見得なものであった。  消し口を取ると、消し札というものをぶら下げた。これは箱根竹に麻糸で結わえた細 い木の札で、これが掛かると、その組々の消し口が裏書きされたことになったのです。  その頃は、豪家になると、百両とか、二百両とか懸賞でその家を食い留めさせたもの です。こういう時には一層消防夫の働きが凄まじかった。  一体に、当時は町人の火事を恐れたことは、今日の人の想像も及ばぬ位である。それ は現今の如く、火災保険などいうような方法があるではなく、また消火機関が完全して もいないから、一度類焼したが最後、財産はほとんど丸潰れになりました。中には丸焼 けになったため乞食にまで身を落とした人さえある。今日では火事があって、かえって 財産を殖やしたなどという話とは反対です。したがって火事といえば直ぐに手伝いに駆 け付けた。生命の次ほど大変なことに思っていたこと故、見舞いに走せ付けた人たちを ば非常にまた悦んだものである。  ですから、火事見舞いは、当時の義理のテッペンでした。一番に駆けつけたは誰、二 番は誰と、真先をかけた人を非常に有難く思い、丁寧に取り扱いました。差し当って酒 弁当は諸方から見舞いとして買った物を出し、明日は手拭に金包みを添えてお礼に行く のが通例です。それで誰もかもジヤンというと、それツといって駆け出す。……知人の 家が火元に近いと飛び込んで見舞いの言葉を述べる。一層近ければ手伝いをする。それ で、今の小遣いを貰い、帰りには、それで夜鷹そばを食ったなどと……随分おかしな話 しですが、それも習慣です。というのも、畢竟町人が非常に火事を恐怖したところから、 自然、大勢の人心を頼みにしました。何んでも非常の場合とて、人手を借りねば埒が明 かない。それで、一般に町人の若い者たちは、心掛けの好いものは、手鍵、差し子、 草蛙、長提灯に蝋燭を添えて枕頭に置いて寝たものです。  普通、女、子供であっても、寝る時は、チャンと衣物の始末を順よくして、それ、火 事というと、仕度の出来るように習慣附けたものであった。特に、火事を重大視した実 際的な証拠として、一旦、その家を勘当された倅とか、番頭のようなものが、火事と聞 いて、迅速に駆け附けますと、それを手柄に勘当が許されたもの、全く火事は江戸人の 重大視したものの最たるものであった。  俗に、火事を江戸の花とかいって興がるもののようにいいなされておりますが、実際 は、興がるどころではなく、恐怖の最大なものであったのです。  それで、大火となると、町家の騒ぎはいうまでもないが、諸侯の手からも八方から御 使番《つかいばん》というものが、馬上で、例の火事|頭巾《ずきん》を冠り、凛々《りり》しい打扮《いでたち》で押し出しました。こ れは火事の模様を注進する役目です。一層大きくなれば、町奉行が出て、与力とか同心 とかいうものが働きます。  すべて、幕府時代においては、江戸の市中、大名、旗本の屋敷が六分を占め、四分が 町家である割合ですから、町家が火事を重大視した如く、武家もまた戦場のように重く 視ました。近火の場合には武家も町家も豪家になると、大提灯または高張りを家前なり、 軒下に掲げ、目じるしとして人々の便を計りました。  このほか、火事についてはいろいろまだ話もあるが、まずこれで終りと致します。 ザッと浅草大火の焼け跡を略図にして見れば下の如し。 猫と鼠のはなし  少し変った思い出ばなしをします。鼠の話を先にしましょう。  私が十五、六歳の時です。師匠の手元にいて、かれこれ二、三年も槽古をしたお蔭で、 どうやら物の形が出来るようになって来ました。それで、そろそろ生意気になって、何 か自分では一廉の彫刻師になったような気持で、師匠から当てがわれた仏様の方をやる のは無論であるが、それだけではたんのう出来ないような気持で、何か自分の趣向を立 てたもの、思い付いたものを勝手にやって見たいという気が起って来る。もっとも、こ ういうことは、師匠の眼の前で実行してはお叱りを受けますから師匠の眼に留まらない ような時を見て、朝がけとか、夜業のしまいとかいう時にコツソリといたずらをするの であります。  けれども、まだ初心のこととて、自分の腕に協いそうなものでなければ手が附きませ ん。そこで思い附いて彫り出したのが鼠であった。  それはちょうど実物大の鼠を実物をお手本にする気で考え考え、コツコツと彫り出し ましたが、彫り上げて見ると、どうやら形になったような気持……それは桧の材であり ますから、真白であるのを、本当の鼠を行くのであるから、自分で考えてちょうどな色 をそれに付ける。手に取って打ち返して見れば、さすがに自分の拵えたもの故、ほんの 遊びいたずらとはいいながら、他のあてがわれた仏様よりも愛念の情が自ずと深いわけ。 或る日、その出来上がった鼠をば、昼食を終ったわずかの休みの暇に、私かに店頭の棚 に乗せて眺めていました。その頃の仏師の店は前にも申した通り、往来に面した店がす なわち仕事場で、今日の仏師の店と大した相違もないような体裁、往来からも一目に店 が見えるのでありますから、私は内外に気兼ねをしながら見ていました。  すると、奥の方から師匠の自分を呼ばれる声がする。びつくりして師匠の前へ参ると、 「幸吉、お前、これから直ぐに大伝馬町の勝田さんへ使いに行ってくれ、急ぎの用だ から、早く……」 と、いうお言葉。畏まって、直ぐに店を飛び出して行きましたが、その時、急な要事と いうので、鼠のことを打ち忘れ、そのまま、棚の上に置きつばなしにして出たのであり ました。そうして、師用を済まし、私は午後三時頃てくてく帰って来ました。  ところが、その、私の留守中に、店へ来られたお客があった。その方は上野東叡山派 の坊様で、六十位の老僧、駒込世尊院の住職で、また芝の神明さまの別当を兼ねておら れ、なかなか地位もある方であったが、この方が毎度師匠の許へ物を頼みに見えられま す。今日もそれらの用向きで参られて、師匠と店頭にて話をしておられました。と、ふ と、坊様は、師匠に向い、 「先刻から、あの棚の上に鼠がいるので妙だなと思っていたのだが、あれは本当の鼠 ではないのですね。彫り物なんですね。誰が拵えたのですか」 といいながら、起って、その鼠を棚から卸して来て、掌に乗せて、つくづく見ながら、 「これは、どうも、まことによく出来ている。本物と私が見違えたのも無理はない。 誰が彫ったのですか」  坊様の興味ありげな言葉に、師匠も初めて心附き、それを見ながら、 「これは、あの幸吉のいたずらでありましょう」 と答えました。 「そうですか。彼児《あれ》がやったのですか。これは私が貰って置きたい。私は実は子《ね》の歳 なので、鼠には縁がある。これは譲ってもらいましょう」 「それはお安いことです。幸吉は今使いに参っておりませんが、いたずらにやった鼠 がお目に留まって貫僧に望まれて行けば何より……」 と、紙に包んで坊様に呈げてしまいました。  すると、坊様は、折角、幸吉が丹念に拵えたものを只で貰うは気の毒、これを彼児へ お小遣いにやって下さいと一分銀を包んで師匠へ渡しました。  私は留守のこと故、その場の容子は見てはいませんから知りませんが、まずこうした 順序の妙な事が起ったのでありました。そこで、ちょっと、師匠も困りました。実際な らば、まだほんの年季中の小僧の身のこと、師匠のいい付けもせぬものを勝手に彫って 見るなぞとはよろしくないと口小言をいって将来をも誠むべきであるのですが、今、こ うして師匠自身も尊敬している坊様より、お礼の意味の金子を幸吉へというて出されて は、その処置に困ったのでありました。  それで、師匠は、その一分銀の使用法を考えて、坊様が帰ってから、ちょうど時刻も お八ツ時となったこと故(二時から三時の間)思い付きて蕎麦の大盤振舞をすることにし たのでありました。物価の安い時、一分の蕎麦はなかなかある。師匠の家庭は師弟平等 主義で、上下の区別を立てず至極打ちとげた家風でありましたから、奥と店とが一緒で、 一家内中が輪になって、そのおそばを食べておりました。  其所へ私が帰って来ました。  師匠は私の顔を見ると、 「大きにご苦労だった。さあ、今日は蕎麦の大盤振舞だ。お前は蕎麦が好きだ。沢山 にお食べなさい」 という言葉。私は少し合点行かず、平生のお八ツとは大変に容子が違っていますから、 何か、お目出たいことでもあったのかと、その由を師匠に聞くと、 「まあ、好いから、沢山におあがり……」 という。私は好物のことなれば直ちに箸を取り、お礼をいって食べていると、誰やら、 くすくす笑い出します。師匠の妻君も笑い出す。師匠の妹にて、お勝という台所を仕切 っていられる婦人も笑い出し、「幸さん、ご馳走様……」などいい出して、いかにも容 子が変であるから、一体、このおそばはどうしたのですと、また問いますと、今まで真 面目な顔をしていられた師匠も笑をふくみ、 「実は、これは、お前の御馳走なんだ。お前の鼠は逃げて蕎麦になったんだ。遠慮な しに沢山おあがり……」  こういわれて初めて気が附き、あの鼠を棚へ上げたまま、忘れてしまって使いに行つ たが、どうしたろう、と店へ行って棚を見ると、鼠は何処へやったかおりません。…… しかし、鼠が逃げてそばになったとは、いよいよおかしいと思っていると、実は斯々と 師匠は私の留守に起った一条を物語り、世尊院の住職のお目に留まったは好いとしても、 今から勝手なことをするようでは末始終身のためにならぬからと、アッサリと注意をさ れ、その場は笑いで終りました。  その後、この上人が、鼠一匹のことから、何かにつけて私を愛してくれられ、幸吉へ と指名して彫る物を頼まれたことも度々で大いに面目を施したことがありました。この 世尊院という寺は本郷駒込千駄木に今でもあります。  ついでに、も一つ猫の話をしましょう。これは私の少し悪戯をし過ぎた懺悔ばなしで す。  誰でも奉公をした方は覚えがありましょうが、発育盛りの十六、七では、当てがわれ ただけの食事では、ややともすれば不足がちなもの……小体の家ではないことだが、奉 公人を使う家庭となると、台所のきまりがあって、奉公人の三、四人も使っておれば、 大概お縦菜など、朝は、しばのお汗、中飯に八ハイ豆腐か、晩は鹿尾菜に油揚げの煮物 のようなものでそれは斉しいものであった(朔日、十五日、二十八日の三日には魚を付 けるのが通例です)。  或る年の三、四月頃、江戸では鰹の大漁で、到る処の肴屋では鰹の山を為していまし た。それで何処の台所へもざらに鰹が這入る。師匠の家でも或る日鰹の刺身がお総菜に 出るという塩梅、大漁のお蔭にて久しぶり我々は有難くそれを頂戴したことであったが、 今申す如く、発育盛りの年輩ですから、おきまりの一人前の刺身位は物の数でもなく、 たちまちそれは平らげられてしまいます。おかしいお話だが、実は口よごしといった位 のもの……それでかえって物足りない気がして、もつと心行くばかり今の刺身が食べた いという気持になるは無理もなく、台所には、まだ師匠や妻君の分が大分皿に盛られた まま晩食の分が鼠入らずに這入っておりますので、私はどうも、それが気になって、何 んとかして一つそれをすつばりとやってみたくなりましたが、当時師匠の台所は師匠の 妹のお勝という婦人が仕切っていますからいかに奥店無差別の平等主義な家庭であって も、そう勝手に台所の権利を撹乱するわけには行きませんから、何んとか旨い案を考え て、その目当てのものを占領めてやろうと、店で仕事をしながら考えましたが、ここに 一つ名案が浮かんで来たので、私はそつと台所へやって行きました。  台所へ行くと、其所に大根卸しに使った大根の切れつ端がある。それを持って来て、 お手の物の小刀で猫の足跡を彫り出したのです。ちょうどそれは梅の花の形のような塩 梅に……たちまちそれが一つの印形のようなものに出来上がったのを、私は見ていると 自分ながらおかしくなったが、しかし、これが名案なのであるから、再びそれを持って 台所へ行き、お勝さんのいないのを幸い、竃の灰を今の大根の彫りものの面へなすりつ け、竃の側やら、板の間やらへ猫の足跡とそつくりの型をつけ、あたかも、泥棒猫が忍 び込んだというような趣向にした後で、私は鼠入らずの刺身のお皿を取り出し、美事に 平らげてやったのでありました。そうして知らん顔をして店へ来て仕事をしておりまし た。  暫くすると、台所の方で、お勝さんの声で怒鳴っております。何を騒いでいるかと耳 を立てると、案の条、鼠入らずの中の刺身がなくなっていることを問題にしているらし く、「あの畜生だ、あの泥棒猫の仕業だ」と怒っている。師匠の家にも三毛猫が一匹い るが、裏口合せの長屋の猫が質が悪く、毎度こちらの台所を荒らすところから、疑いは その猫に掛かっている様子であります。私は心におかしく、なかなか名案だったと思い ながら、なお、台所の方へ気を付けていると、また暫くしてから、台所でガタビシと大 変な物音がします。何んだろうと窺いて見るとお勝さんが、疑いを掛けたその裏長屋の 泥棒猫を捉まえて、コン畜生、々々といって力任せに鼻面を板の間へ渡り付けておりま す。物音を聞いて、師匠も其所へ立ち出で、様子を聞き「それはお勝、お前が手落ちな んだ。そんなに手荒らにしなさんな。もう好いから許しておやり」などなだめている。 「いえ、いけません。此奴がお刺身を奪ったんです。以後の見せしめに、こうしてや るのです」 と、また鼻面をいやというほど猫は捧られておりますから、私は、どうも甚だ恐縮…… 不埒な奴はその猫ではなく、悪戯半分の手細工は自分なので、何んとも早気の毒千万、 猫に対して可愛そうで、申し訳がないような立場、今さら斯々といって出るのも変なも ので、少し薬の利き過ぎたことを自分で驚きながら、やつと台所の静かになったのに胸 を撫で卸したことがありました。  それ以来、私は、無実の罪を得て成敗を受けた猫のために謝罪する心持で、鰹の刺身 だけは口に上さぬように心掛け、六十一の還暦までは、それを堅く守っておりました。 六十一は一廻りそれからは赤ン坊から生まれ還った気持ですから、今日では鰹の刺身も 口にするようになりました。他愛のない話であるが、何んの気もなくやった悪戯が存外 深い記憶を印しているというはなしで人間一生の中にはいろいろなことがあるものであ る。 一度家に帰り父に誠められたはなし  今の猫と鼠の話のあった前後の頃おい(確か十五の年)は徳川氏の世の末で、時勢の変 動激しく、何かと騒擾が引き続く。  それにつけて、四時の天候なども甚だ不順であって、凶作が続き、雨量多く、毎日、 じめじめとイヤな日和ばかりで、米は一円に二斗八升(一銭に二合は勺)という高値とな る。今までは円に四斗もあったものが、こう暴騰すれば世の中も騒がしくなるは当り前 である。しかし、米は高くなったからといって、日常のものがゝそれに伴れて高くなる ということはなく、やっぱり、百で六杯のそばは以前通り、職人の手間賃も元通りであ る。かと思うと、一方には沢庵一本が七十二文とか天保一枚とかいう高いものになって 来る。つまり、経済界が乱調子になったことでありますが、こういう世の中の行き詰ま った折から「倉窮人騒ぎ」というものが突発して来ました。  或る人が中ノ郷の梶殻寺の近所を通ると、紙の旗や薦旗を立てて、大勢が一団となり、 興の声を揚げ、米屋を毀ち壊して、勝手に米穀を奪って行く現場を見た。妙なことがあ るもの、変な話しだ、と昨日目撃したことを隣人に語っていると、もう江戸市中全体に でんばそこここひんびん その暴挙が伝播して、其所にも此所にも「貧窮人騒ぎ」というものが頻々と起っている。 それは実にその伝播の迅さといっては恐ろしい位のもの、一種の群衆心理と申すか、世 間はこの噂で持ち切り、人心胸々の体でありました。  また、或る人のいうには、 「何某の大店の表看板を打ち殿して、芝の愛宕山へ持って行ってあったそうな。不思 議なこともあるものだ」 という話。その話を聞いているものは、誰も彼も、妙な顔をしている。昔、やっぱり米 騒動のあった折に、大若衆が出て来て、そんなことをしたものだという。やっぱり、今 度のそれも大若衆がやったのであろうなど腹の中で考えて一層不安が増し、取り沙汰が 喧しくなるという風で、物情実に騒然たる有様であった。  私は、師匠の店におって仕事をしている間、子供心にも、これらの世間話しを聞きま すにつけて、自分の両親たちのことが心配でならないのでありました。一心に毎日の仕 事をしている中にも、ふと、家のことを思い出すと、仕事の手を留めて、茫然とその事 を考えている。今頃、父はどうしていられることだろう。母様は何をしていられること か……と思い出しますと、どうもこうして師匠の家に自分だけ安閑とはしていられな い気がして来るのでありました。  自分の父は、幼い時、その親が身体を悪くされたために、自分の身を犠牲にして、一 生懸命一家のために尽くされたという。自分は、その父が家のために尽くしたという年 齢よりも、まだ、ずっとおとなになっているのに、こうして、師匠の家に安閑として家 のことや、親たちのことを他所に見ているというは、何んたる不孝のことであろう。こ こはこうしている場合ではない。自分も父のしたように、自分の父に対して、その危急 を手助けしなければならない。  こう私は思い詰めぬわけに行かなかった。  或る日、日暮れに、ふらふらと、黙って、師匠の家を出て、親の家へ帰って来ました。 父は稀見な顔をして、私を見ていました。母は、それでも、何かと私に優しいことを いってくれていました。  私は父に向い、 「実は、世間がいかにも騒々しく、いろいろな噂を聞きますので、家のことが心配で たまりませんから、明日からあなたと一緒に商売をして、何なりとお手助けしようと思 い、それで戻って参りましたので……」  こういう意味のことを、恐る恐る述べました。それで父の意も解け、顔色も和らぐこ とかと思ったのは間違いで、父は恐ろしく厳励しい声で、私に怒鳴りつけて来ました。 「馬鹿野郎、汝は、もう俺のいったことを忘れてしまったか。汝が初め、師匠のお宅 へ奉公に出る前の晩、俺は汝に何んといった。一旦、師匠の家へ行った以上、どういう ことがあろうとも、年季の済まぬ中にこの家の敷居を跨いではならんといったではない か。途中で帰って来れば足骨をぶち折ると確かにいい付けた俺の心を汝は何んと聞いた のだ。俺は子供の時、一家の事情によって身に付くような職をも覚えず中途半パな人間 になってしまったが、汝にはそれをさせたくないという親の心が分らんのか。世間が騒 がしかろうが、貧乏をしようが、汝の手助けを当てにする位なら汝を奉公になど出しは しない。一旦師匠の家に住み込んで、年季も満足に勤め上げず、中途で師匠を暇取ると いうような心掛けで、汝は何が出来ると思う。帰って親の手助けをしようなどと、生意 気なことをいうな。俺には知己も交際もある。汝のような中途半パで帰って来た不埒な 奴を家に置いたとあっては、俺が世間へ顔向けが出来ない。今日限り親子の緑を切るか ら勝手にしろ、予ていった通り、足骨を打ち折ってもやりたいが、今晩だけは勘弁して やる。何処でも出て行って、その腐った性根を叩き直せ」  こういうわけで実に恐ろしい見幕。ぐずぐずしていると、本当に足骨を打ち折られそ うでありますが、しかし私はこの父の厳しい鑓責によって、つくづく自分の非を悟りま したので、散々その場で父に謝罪を致し、以来決して不心得を致しませんによって、今 度だけはお許しを願いますと、涙を流して申しました。 「そうか。それが分ればそれでよい。俺には長男巳之助があり汝は次男だが、母には 汝は一人の児だによって母に免じて今度は許す。汝が一人前の人間になるまで、ドンナ ことがあっても俺は汝の腕を借せとはいわぬ。家のことなど考えず、一生懸命仕事を励 み、師匠のため尽くせ。それが汝のすることだ。分れば、それで好い」  こういった後、父も機嫌を直してくれまして、それから母がお茶を入れ、菓子など食 べ、早速その晩、師匠の家へ立ち帰り、一層身を入れ仕事を励んだことでありました。  思うに、この時、父がかく厳しく訓誠してくれましたことはまことに親の慈悲であつ て、こうした教訓を与えられず、甘い言葉を掛けられ、また父の都合上から、私の小さ な力でも借りようとしたならば、私の将来もほとんど想像されたことであります。もし これが普通の人であったら、こうも私の父の如く、厳しくきつばりと頭からやつつけは しなかったと思いますが、全く、この時、かく手厳しく鑓責されたことは、私の身に取 り、ドンナに幸福であったことか分りません。父の賜によって、将来世に立ち、まず押 しも押されもせぬ人間一生をかく通り越し来たことは心に感謝する次第であります。  私の父は、前にも度々申した如く、まことに気性の潔い、正直真つ法で、それに乾児 のものなどに対しては同情深く、身銭を切っては尽くすという気前で、自分の親のこ とを自慢するようであるが、なかなかよく出来た人であった。後年隠居を致し、私から 小遣いを買って、神詣でなどに参りまして、貰っただけの小遣いはそれだけ綺麗に使つ て来たもので……それも自分のためというよりは、何んでも、江戸の名物と名のつくも のを買って来て、家のものにお土産にして、皆で一緒にお茶を入れて、それを食べて喜 んでいる所など、昔ながらの気性が少しも変りませんでした。よく、芝口のおはぎ、神 明の太々餅、土橋の大黒館などがお土産にされたものでありました。 上野戦争当時のことなど  慶応四年辰年の五月十五日……私の十七の時、上野の戦争がありました。  今日から考えて見ると、徳川様のあの大身代が揺ぎ出して、とうとう傾いてしまった 時であった。その時、何もかも一緒にいろいろなことが湧いて来る。先ほど話した通り、 四時の循環なども、ずっと変調で、天候も不順、米も不作、春早々より雨降り続き、三、 四月頃もまるで梅雨の如く、びしょびしょと毎日の雨で、江戸の市中は到る処、溝渠が 開き、特に、下谷からかけ、根岸、上野界隈の低地は水が附いて腔を没し、往来も容易 でないという有様であったが、その五月十五日もやっぱりびしょびしょやっている。た まに霧れたかと思えば曇り、むらにばらばらと降って来ては暗くなり、陰鬱なことであ った。  当時、師匠東雲の家は駒形町にありまして、私は相更らず修業中……その十五日の前 の晩(十四日の夜中)に森下にいる下職の塗師屋が戸を叩いてやって来ました。私が起き て、潜りを開けると、下職の男は這入って来て、師匠と話をしている。 「師匠、どうも、飛んでもない世の中になって来ましたぜ。明日上野に戦争があるそ うですよ。いくさが始まるんだそうで」 「何んだって、いくさが始まる。何処でね」 「上野ですよ。上野へ彰義隊が立て篭っていましょう。それが官軍と手合わせを始め るんだそうで。どうも、そうと聞いては安閑とはしていられないんで、夜夜中だが、こ ちらへも知らせて上げようと思って、やって来たんです。どうも大変なことになったも んだが、一体、どうすれば好いのか、まあ、そのつもりで皆で注意するだけは注意しな くちやなりませんね」 など、いかにも不安そうに話している。  やがて、下職は帰ったが、さて警戒のしようもない。夜が明けたら、また何んとかな ろうなぞ師匠は私たちにも話しておられたが、ふと、上野で戦争ということで気が付い て困ったことは、ちょうど、そのいくさのあるという上野の山下の雁鍋の真後ろの処 (今の上野町)に裏屋住まいをしている師匠の知人のことに思い当ったのであります。 その人は師匠の弟弟子で杉山半次郎という人、風雲の家にて定規通り勤め上げはした けれども、業がいささか鈍いため、一戸を構える所まで行かず、兄弟子東雲の手伝いと なって仕事をさせてもらっていたのでありました。師匠は、この半次郎のことを心配し だしたのであった。 「幸吉、半さんが山下にいるんだが、困るなあ」 「そうですねえ。半さんは、いくさの始まるってことを知ってるでしょうか」 「さればさ。あの人のことだから、どうか分らないよ。こつちが先に聞いた上は、一 つ、こりや半さんに報告せて上げなくちやなるまい。夜が明けたら、幸吉、お前は松を 伴れて行って知らしてやってくれ、ついでに夜具蒲団のようなものでも持って来てやつ てくれ」  こんな話でその夜は寝に就きましたが、戦争と聞いては何んとなく気味悪く、また威 勢の好いことのようにも思われて心は躍る。  夜は明け、弟弟子の松どんを伴れ、大きな風呂敷を背負い、私は師匠にいわれた通り、 半次郎さんの宅へ行くべく家を出ました。  道は駒形町より森下へ出て、今の楽山堂病院の所から下谷御徒町にきれ、雁鍋の背後 へ出ようというのですから、七軒町の酒井大学様の前を通り西町の立花様の屋敷——片 側は旗本と御家人の屋敷が並んでいる。堀を前にした立花の屋敷の所へ差し掛かると、 この辺一帯は溝渠が開いて水が深く、私と松どんとは、じやぶじやぶと川の中でも歩く ように、探り足をしては進んで行くと、何んだか、頭の頂天の方で、シユツシユツとい う音がする。まるで頭の側を何かが掠って行くような音である。何んだろうと、私は松 と話しながら、練塀へ突き当って、上野町の方へ曲がって行こうとすると、其所に異様 な風体をした武士の一団を見たのであった。  その武士たちは袴の股立ちを高く取り、抜き身の槍を立て、畳をガンギに食い違えに 積み、往来を厳重に警衛しているのである。  私は風呂敷を背負って、気味が悪いが他の人も行くから其所へ進むと、 「小僧、何処へ行くんだ」 と問いますので、師匠の用向きにてこれこれと答えますと、早く通れ、という。それか ら二、三ヶ所も、同じような警護の関を通り抜けて行く間に、早戦争は始まってるとい う話、今、道でシユツシユツと異様な音の耳を掠めたのは、鉄砲丸の飛び行く音であつ たことに心付き、驚きながら半さんの家へ駆け込みました。  半さんは長屋の中でも一番奥の方へ住んでいる。至って暢気な人で、夫婦にて、今、 朝飯を食べている所であった。  ところが、驚いたことには、この騒ぎを、半さん夫婦は全く知らずにこうして平気な 顔で朝飯をやってるということが分った時には、さすがに私も開いた口が塞がりません でした。半さんは、私から、師匠の報告これこれということを聞き、また途中の様子を 聞き、 「ハハア、そうかね。そいつは驚いた。ちつともそんなことは知らなかった。じゃあ こうしちやあいられないな」 と、急に大騒ぎをやり出しました。後で聞くと、半さんの妻君が少しお転婆で、長屋中 の憎まれ者になっていたため、当日の騒ぎのあることを知らせずに、近所の人たちは各 自に立ち退いたのだそうですが、世にも暢気な人があればあるものです。  私と松どんとは、半さんの家の寝道具を背負い、もう一度出直して来ることをいい置 き、元の道を通り抜けて、一旦、師匠の家に帰り、様子を話し、再び取って返して来ま したが、その時は以前よりも武士の数もさらに増し、シユツシユツという音も激しくな り、抜き身の槍の穂先がどんよりした大空に凄く光り、状態甚だ険悪であるから、とて も近寄れそうにもありません。それ弾丸でも食って怪我をしては大変と松とも話し、一 緒に家へ帰って、師匠に市中の光景などを手真似で話をしておりますと、ドドーン /\/\という恐ろしい音響が上野の方で鳴り出しました。それは大砲の音である。す ると、また、バチバチ、バチバチとまるで仲店で弾け豆が走っているような音がする。 ドドン、ドドン、バチバチバチという。陰気な暗い天気にこの不思議な音響が響き渡る。 何んともいえない変な心持であります。私たちは二階へ上がって上野の方を見ている。 音響は引つ切りなしに続いて四隣を震動させている。其所にも此所にも家根や火の見へ 上がって上野の山の方を見て何かいっている。すると間もなく、十時頃とも思う時分、 上野の山の中から真黒な焔が巻き上がって雨気を含んだ風と一緒に渦巻いている中、そ れが割れると火が見えて来ました。後で、知ったことですが、これは中堂へ火が掛かう たのであって、ちょうどその時戦争の甜な時であったのであります。  そして、小銃は雁鍋の二階から、大砲は松坂屋から打ち込んだが、別して湯島切通し、 榊原の下屋敷、今の岩崎の別荘の高台から、上野の山の横つ腹へ、中堂を目標に打ち込 んだ大砲が彰義隊の致命傷となったのだといいます。彰義隊は苦戦奮闘したけれども、 とうとう勝てず、散々に落ちて行き、昼過ぎには戦が歇みました。  すると、その戦後の状態がまた大変で、三枚橋の辺から黒門あたりに死屍が累々とし ている。私も戦争がやんだというので早速出掛けて行きましたが、二つ三つ無惨な死骸 を見ると、もう嫌《いや》な気がして引つ返しました。広小路一帯は今日とは大分《だいぶ》違い、袴腰が もつと三枚橋の方へ延び、黒門と袴腰の所が広々としていた。山下の方には、大きな店 で雁鍋がある。この屋根の箱棟には雁が五羽漆喰細工で塗り上げてあり、立派なもので した(雁鋼の先代は上総の牛久から出て他の端で紫蘇飯をはじめて仕上げたもの)。隣り に天野という大きな水茶屋《みずぢやや》がある。甘泉堂《かんせんどう》(菓子屋)、五条の天神、今の達磨は元岡村 (料理店)それから山下は、今の上野停車場と、その隣りの山ノ手線停留場と、その豚の 坂本へ行く道が、元は、下寺の通用門で、その脇が一帯に大掃溜であった。その側は折 れ曲がって左右とも床見世で、講釈場、芝居小屋などあった。この小屋に粂八なぞが出 たものです。娘義太夫、おでんや、稲荷ずし、吹矢、小見世物が今の忠魂碑の建ってい る辺まで続いておりました。この辺をすべて山王下といったものです。  停車場の向う側は山下町、その先の御徒町の電車通りの角に慶雲寺がある。この寺は 市川小団次の寺で法華宗です。山の上では今常磐花壇のある所は日吉山王の社で総彫り 物総金の立派なお宮が建っていました。その前の崖の上が清水堂、左に鐘楼堂。法華堂、 常行堂が左右にあって中央は通路を跨いで橋が掛かり、これを潜って中堂がありまし た。此所が山中景色第一の所でした。  この辺一帯をかけて、その戦後の惨景は目も当てられず、戦い歇んで昼過ぎ、騒ぎは 一段落附いたようなものの、それからまた一騒ぎ起ったというのは、跡見物に出掛けた 市民で、各自に刺子袢纏など着込んで押して行き、非常な雑踏。するとたちまち人心は 恐ろしいもので慾張り出したのであります。それは官軍が彰義隊から分捕った糧米を、 その見物の連中に分配しますと、我も我もと押し迫り、そのゴタゴタ中に一俵二俵と担 いで行く……大勢のことで、誰がどうしたのか、五十俵百俵はたちまち消えてなくなる。 群集の者は、もう半分分浦りでもする気になり、勝手に振る舞い、果ては上野の山の中 へ押し込んで行き、もう取るものがないと見ると、お寺の中へ篭み入って、寺中の坊さ んたちの袈裟衣や、本堂の仏像、舎利塔などを担ぎ出して、我がちに得物とする。たち まち境内のお寺は残らず空ツぼとなり、金属のものは勾欄の金具や、擬宝珠の頭などを 奪って行くという騒ぎで、実に散々な体たらく……暫くこの騒ぎのまま、日は暮れ、夜 に入り、市民は等しく不安な思いで警戒したことであった。  さて、我々の方面はどうかというと、浅草の大通り一帯も、なかなか安閑とはしてい られない。吾妻橋は一つの関門で、本所一円の旗本御家人が彰義隊に加勢をする恐れが あるので、此所へ官軍の一隊が固めていたのと、彰義隊の一部が落ちて来たためちよつ と小ぜり合いがある。市中警戒という名で新徴組の隊士が十七、八人楢寺に陣取ってい る。異様の風体をしたものが右往左往しているという有様でした。新徴組は市中取り締 りとはいうものの官軍だか、賊軍だか分らず、武士の食い詰めものの集団で、余り評判 はよくないということであった。  ですから、何事も無政府状態で、市民一般財産生命の危険夥しく、師匠の家の近辺 なども、官軍であるか、彰義隊か分りませんが、所々火を放って行きなどしたもので、 しかし雨天続きのため物にならず、燃え上がったのは人々見付け次第消しましたが、不 用心極まることでした。師匠の家なども我々は畳を上げ、道具を方付け、いざといえば 何処《どこ》かへ立ち退《の》く算段……天候は悪く、びしょびしょ雨で、春というのに寒さは酷《きび》しい。 師匠の家では、万一を気遣い、日本橋小舟町の金屋善蔵というのへ、妻君と子供だけは 預けようということになり、私が妻君の伴をして立ち退きましたが、浅草見附へ行くと、 番兵がいて門は閉まって通ることが出来ない。一々、人調べをしてから、犬潜りから適 しているので、私たちも改められて潜り抜けたが、何んだか陰気な不気味なことであり ました。  とにかく、上野の戦争といっても、私が目撃したことは右の通り位のもので、戦争の 実況などは分りはしませんが、後年知ったことで、当時御成街道を真正面から宮兵を指 揮して黒門口を攻撃したのは西郷従道さんであったといいます。これは私が先年大西郷 の銅像を製作した際、松方侯の晩餐に招かれて行きましたが、その席に大山、樺山、西 郷など薩州出身の大官連が出席しておられ、食卓に着きいろいろの話の中、当時のこと を語られているのを聞いていると、お国訛りのこととて、能くは聞き取れませんが、お いどんが、どうとか、西郷従道侯の物語りに、御成街道から進撃した由を承りました。  先刻話した群衆の分捕り問題は、後日に到ってやかましくなり厳しい調査があるので、 坊さんの袈裟を子供の帯などにくけて使っていたものはその筋へ上げられました。で、 いろいろなものがはき出され、往来へ金欄の袈裟、種々の仏具などが棄ててあったのを 見ました。 遊芸には縁のなかったはなし  上野の戦争が終んで後私が十八、九のことであったか。徳川家に属した方の武家など は急に生活の道を失い、ちりぢりばらばらになって、いろいろな身惨な話などを聞きま した。でも、町家の方はそうでもなく、やっぱり、夏が来れば店先へ椽台などを出し、 涼みがてらにのんきな浮世話しなどしたもの……師匠は仕事の方はなかなかやかましか ったが、気質は至って楽天的で、物に拘泥しない人であり、正直、素撲で、上下に隔て なく、弟子たちに対しても、家内同様、友達同様のような口の利き方で、それは好人物 でありました。  或る晩、家中、店先の涼み台で、大河から吹く風を納れて、種々無駄話をしていまし た折から、師匠東雲師は、私に向い、 「幸吉、お前も仕事ばかりに精出しているのは好いが、何か一つ遊芸といったような ものを稽古して見たらどうだい。俺は鳳雲師匠の傍にいて、やっぱり彫り物をするほか には何一つこれといって坐興になるようなことを覚えもしなかったが、人間は、何か一 つ、義太夫とか、常磐津とか、乃至は歌沢のようなものでも、一つ位は覚えているのも 悪くないものだぜ。今の中はこれでも好いが、年を老ってから全くの無芸でも変テコな ものだよ。私などもいろいろの宴会なぞの席で芸なしで困ることが度々ある」 などいい出され、それから師匠は、仕事ばかりに熱中するは結構なれども、そればかり では彫刻でもやろうというものには、頭が固くなるともいえる。それで、何か気晴らし の緩和剤として、遊芸をやって見よ。お前の性質ならば間違いもあるまいから、など至 極打ち解けたお言葉に、私も十八、九の青年のこととて心動き、何か一つ自分もやって 見ようかな、という気持になった。  しかし、私は声を出して歌を唄う方のことは、親から厳しく止められている。これは 例の富本一件で、腹に惨み込んでいることであるから、声の方の芸事は問題ではないが、 声を出さない方の芸事ならば、師匠の申さるる通り、やって見ても差しつかえもなかる うということを考えました。そこで私は偶然思い附いたことがあったので、これは旨い 考えだと思いました。  その頃、師匠の家は駒形(今の鰭屋の真向う)にあって表通り、裏は駒形河岸、河岸の 家の尻と表通りの家の尻とが相接していて其所に長屋の総井戸が、ちょうど師匠の家の 台所口にある。隣家は津田という小児科の医者、その隣りが舟大工、その隣りが空屋で あったが、近頃其所へ越して来た母娘の人があった。これは徳川の扶持を離れた武家出 の人で、母娘ともに人柄であったが、その娘の方が踊りの師匠をこの家へ来てから始め ている。私がふと思い附いたというのはこれで、此所へ踊りの稽古に行って見ようかと 思い立ったのでありました。  しかし、私は、今日まで、そういうことなど考えて見たことのない生初心な若者故、 いざ行くとなると気が差してなかなか行き渋る。が、或る晩、晩飯を済まし、裏口から、 酒の切手を手土産にして思い切って出掛けて行った。何んだか冷汗を掻く思いで敷居を 跨ぎ、御免下さいといったものである。すると、応対に出たのが母親の人で、武家出の こととて、芝居にでもあるような塩梅で甚だつきが悪い。 「何か御用でお出でですか」 と、いったようなことで、ちょっと挨拶に困ったが、実は踊りの稽古をしてもらいたい ので出ました、と自分が直ぐ表通りの仏師屋の弟子であることを話すと、なるほど、お 見掛けしたお顔だが、お見それして失礼です。しかし、こうしたお稽古はお宅のお師匠 さんのお許しがなくては、後でまた面倒が起りますと、申し訳がありませんから、など なかなか固苦しい。私は師匠から勧められ許しを得ている旨を答えると、 「それでは、まあ、よるしいでしょうが、こういうことはむやみと誰でもが遊ばすこ とでもないから……」など物堅く、やがて、一応、娘のその踊りの師匠という人に引き 合わされなどしてから、 「まあ、お遊びのつもりで、一晩、二晩は御覧なすってお出でなさい、今、お弟子の 若い人が稽古をしますから」 と話している処へ、若い男の弟子が来て、そろそろ稽古が始まることになった。  私は部屋の隅の方へチヨコナンと正坐りどんなことをするかと見ておりますと、やが て、お袋さんが地を弾き出すと、その若い男の弟子が立って踊り出した。娘のお師匠さ んが扇子で手拍子を取って、何んとか声を掛けると、若い男は変な腰つき手つきをして 一生懸命に踊っていたが、その状態の変テコなことといっては実に歯が浮き、見ていて も顔から火が出るよう……笑止といって好いか、馬鹿々々しいといって好いか、とても 顔を上げて正面に見られた図ではありません。  私は、飛んだ処へ軽はずみに飛び込んで、飛んだことをしたと、後悔の念やら、断塊 の冷汗やら、散々なことでありましたが、それにつけても思うには、男と生まれて、こ んな馬鹿気た真似の出来るものではない。一足飛びに上手になって、初手から立派に踊 りが出来ればとにかく、こんなことを毎晩見せられたり、やがては自分もこんな腰附き 手附きをして変挺極まる仕草をしなければならんとは、とても我慢の出来るわけのもの ではない。こんなことで時間を費やす位なら、夜業でもした方がよほど増しだ、と思い 出すと、もう、とても大儀で、其所へ坐っていることが出来ず、とうとう中途で、挨拶 もせず、こそこそとその部屋を逃げ出して帰って来て、ほつとしたことがありました。  それから、翌朝、裏の井戸へ顔を洗いに行くにも、そのお袋さんが出ては来ないかと 心配で、松どんに水を汲んでもらって井戸端へ出られないなど散々気を揉みましたが、 先方では、何か私に対して粗忽でもあったかなど物固い人たちとて気にし、どういう訳 で中途で帰られたか、心配をしてお袋さんが、師匠の家へ申し訳に来るやら、師匠の妻 君がいいわけをするやら、師匠はまた私に、榔癒半分に、一遍切りで逃げて帰るなぞ笑 うやら、まことに馬鹿々々しいことであうた。  要するに、踊りなどいうことは、真面目にいうと、その性に合わなかったものと見え る。その頃おい、この母娘のように、武士の家庭のものが生計のために職を求め、いろ いろおかしい話、気の毒なはなしなど数々ありました。 年季あげ前後のはなし  さて、今日から考えて見ても、当時私の身に取って、いろいろな意味において幸福で あったと思うことは、師匠東雲師が、まことに良い華客場を持っていられたということ であります。  たとえば、この前お話したように、札差の中では、代地の十一屋、天王橋の和泉屋喜 兵衛、伊勢屋四郎左衛門など、大商人では日本橋大伝馬町の勝田という荒物商(これは 鼠の話の件で私が師匠の命で使いに参った家)、山村仁兵衛という小舟町の砂糖問屋、 同所堀留大伝(砂糖問屋)、新川新堀の酒問屋、吉原では彦太楼尾張、佐野槌、芸人では 五代目菊五郎、市川小団次、九蔵といった団蔵、それから田舎の方では野田の茂木醤油 問屋など、いずれも上華客の方でありました。  武家の方は割合少なくて、町家の方が多かった。これらの人々の注文はいずれも数寄 に任せた贅沢なものでありますから、師匠自ら製作するのを見ていても私に取っては一 方ならぬ研究となる。また手伝うとしたらなおさらのこと、力一杯、腕一杯に丹念に製 作するので、幾金で仕上げなければならないなどいうきまりもなく、充分に材料を撰み、 日数を掛けてやったものであります。したがって、それに付属する塗り物、金具類に至 っても上等なものを使うこと故、その方へも自然私の目が行き届く。これはまことに師 匠のお蔭で、今日考えても私には幸福なことでありました。また、名あるお寺の仕事も しましたが、これらは一層吟味穿鑿がやかましいので、師匠が苦心する所を実地に見て、 非常に身のためとなった。それに当時は私も専ら師匠の仕事を手伝い、また自分が悉皆 任されてやったといっても好いものもあって、自分の腕にも脳にも少なからずためにな ったものでありました。  かくてちょうど私の年齢は二十三歳になり、その春の三月十日にお約束通り年季を勤 め上げて年明けとなりました。すなわち明治七年の三月十日で文久三年の三月十日に師 匠へ弟子入りをしてから正に丸十一年で(礼奉公が一年)年明けすなわち今日の卒業をし たのでありました。  で、師匠も大きにこれを喜んでくれられ、当日は赤飯を炊き、肴を買って私のために 祝ってくれられ、私の親たちをも招かれました。その時父兼松は都合あって参りません でしたが、母が参り、師匠の前で御馳走になりました。その時師匠は改めて私に向い、 将来について一つの訓戒をお話しであった。 「まず、とにかく、お前も十一年というものは、無事に勤めた。さて、これよりは一 本立ちで独立することとなれば、また万事につけて趣が異って来る。それに附けていう ことは、何よりも気を許してはならんということである。年季が明けたからといって、 俺はもう一人前の彫刻師となったと思うてはいかぬ。今日まではまず彫刻一通りの順序 を習い覚えたと思え。これからは古人の名作なり、また新しい今日の名人上手の人たち のものについて充分研究を致し、自分の思う所によっているいると工夫し、そうして自 分の作をせねばならぬ。それにつけて、将来技術家として世に立つには少時も心を油断 してはならぬ。油断は大敵で、油断をすれば退歩をする。また慢心してはならん。心が 関れば必ず技術は上達せぬ。反対に下がる。されば、心を締め気を許さず、謙って勉強 をすれば、仕事は段々と上がって行く。また、自分が彫刻を覚え、一人前になったから といって、それで好いとはいわれぬ。自分が一家を為せば、また弟子をも丹精して、 種子を蒔いて、自分の道を伝える所の候補者をこしらえよ。そして、立派な人物を自分 の後に残すことをも考えなくてはならぬ。お前の身の上についてはさらにいうこともな いが、これだけは技術のために特に話し置く」  こう東雲師は諄々と私に向って申されました。私は、いかにも御もっとものお話故、 必ず師匠のお言葉を守って今後とも勉強致します旨を答えました。  すると、師匠は、至極満足の体でいられたが、さらに言葉を継ぎ、 「お前の名前のことについてであるが、今後はお前も一人前となることゆえ、名前が 幸吉ではいけない。彫刻師として彫刻の号を付けねばならぬ。ついては、お前の幼名が 光蔵というから、その光に、わたしの東雲の雲の字を下に付けて光雲としたがよるしか ろう。やっぱり幸吉のコウにも通っているから……」 と申されました。  この事は私も不断から、そうも考えたり、また、その考えを師匠にも話したことなど あったのでしたが、今日この場で、師匠は改めて、私に光雲の号を許してくれられてか くいい渡されたのでありました。私は無論のこと、母も大いによろこび、お礼を申し述 べ、その日は母と一緒に、十一年ぶりで我家に帰って父にもその由を委しく話しました。 父も非常に喜びました。  しかるに人情というものはおかしなもので、年季が明けて一旦我家に帰っては来まし たが、元来、十二歳から十一年間、師匠の家におり、ほとんど内の者同様にされ、我が 家のように思っておったこととて、私の心は生みの親よりもかえって師匠になずんでお ります。それに家に帰っても、父の商売は違っておって、何となく私の気持が自分の家 に落ち附かぬ。一日師匠の家におりませんと、どうも工合が悪いような気持であります。 それで早速、師匠の家へ出掛けて行きますと、師匠は、これから先どうする考えかとい う。私は、自分の心持を話しますと、師匠はお前が相更らず家に来てくれるなら何より 好都合だとのこと、私に取ってはなおさらのことですから、早速翌日から参る旨を答え ますと、親御たちの考えもあろうから、差しつかえなければ来てくれとの事に親たちも 異存なく、再び私は師匠の家に寝泊まりして従前通り仕事することになりました。  しかし、もはや、私も年季明けの身であれば、師匠も年季中のもの同様に私を取り扱 うことは出来ぬ。そこで、私の手間のことについて相談がありましたが、一日に一分 (今の二十五銭)、一月三十日の時は七円五十銭、三十一日の時は七円七十五銭の手間を 師匠から貰うことになりました。私も満足でありました。当時立派な下職としても一分 が相当、年季明け早々の私に一日一分が貰えるかどうかと内心でも考えていたことであ ったが、師匠が私に対しての取り扱い方が立派な下職並みにしてくれられたのでありま した。当時仏師の手間は随分安い方で、一日一分は上等の職人でありました。  右の事など父に話しますと、 「それは結構である。我々はこのままでどうやらやって行けるから、お前はお前で随 意に彫刻をやれ」 との事で、万事私の都合はよろしく相更らず師匠の家で仕事をしておりました。  そこで私は自分も、もはや年季中の者ではなく、多少手間賃を貰うようになったこと 故、相当両親のことも考えねばならぬと思い、その一月の手間七円五十銭の中から半額 は親の許にやり、半分は貯蓄して何かの時の用意にすることにしました。手元にあれば 無駄遣いをするから、それを師匠に預けることにした。当時はまだ銀行のこともよく分 らず、郵便貯金などいうことはさらにありませんから、師匠に預けるのが一番確かでし た。諸色の安い時のことであるから、一分という額は、一日分親子四人位で、どうにか やって行けたものであります。 徴兵通齢のはなし  とかくする中、ここに降って湧いたような事件が起りました。  明治六年に寅歳の男が徴兵に取られた。それはそれ切りのことと思って念頭にもなか った。その当時の社会一股に人民が政治ということに意を留めなかった証拠で、こうい う事柄に関する世の中のことは一向分らぬ。もっとも徴兵令はその以前に発布されて新 しい規則が布かれていたのであろうが、新聞といっても『読売』が半紙位のものである かないかというような時代、徴兵適齢が頭の上に来ていることに私は気が附かなかった。  ところが、明治七年の九月に突然今年は子歳のものを徴集るのだといって、扱所とい ったと思う、今日の区役所のようなものが町内々々にあって、其所から達しが私の処へ もあったのです。なるほど当年二十三のものは子歳で、私は正にそれに当っている。何 時何日に扱所に出頭して寸法や何やかやを調べるという布令である。これは大騒ぎ。今 日から思うと迂聞極まることではあるが、今日とは物情大変な相違であるから、我々は 実に意外の感。まず第一に親たちの驚き。夜もおちおち眠られぬという始末。また師匠 の心配。私が兵隊に取られるとあっては、容易ならぬ事件。仕事の上からいっても、仕 事先のこともあるから、今、私を取られては仕事その他種々差し支えがあるというので、 当人の私よりも師匠がまず非常の心配をしました。  そこでいろいろ調べて見ると、其所にはまた楽なことがある。いわば逃れ道があるの です。というは、総領は取らぬということです。私は事実は総領のことをしているが、 戸籍の上では次男でありますから、この逃れ道は何んにもならない。私は兵隊に取られ る方である。ところが、また、次男でも、親を一人持ち、戸主であれば取らぬという。 それから、もう一つ、二百七十円政府へ上納すれば取らんというのです。  それで、金銭《かね》のある人は金を出して逃れる道をした、その当時何んでもない爺《じい》さま婆《はあ》 さまが、思い掛けなく、金持の息子の養子親となって仕合わせをしたなどいう話があつ て、これを「徴兵養子」と称えたものです。毎年この徴丘公巾のことは打ち続いて行われ るのだそうで、国家のため、さらに忌み嫌うべきことではないが、師匠の考えでは、幸 吉がこれから三年の兵役を受けることになると、今が正に大事な所、これから一修業と いう矢先へ、剣付鉄砲を肩にして調練に三ケ年の長の月日をやられては、第一技術の進 歩を挫き、折角のこれまでの修業も後戻りする。親たちの心配もさぞかし。これは如何 してもその抜け道を利用して何んとかこの場を切り抜けて始末をせんければならないと 師匠東雲師が先に立って、いろいろ苦心をされ知り合いのうちにこんなことを引き受け て奔走する人があって、その人に相談をすると、次男なら仮りの親を立てれば好い。誰 か仮りの親になる人がないかということであった。そこで師匠は直ぐに思い付き、 「それは格好な人がある。私の姉悦が、今日まで独身にて私の家にいる。それに一軒 持たして、幸吉を養子に、同時に戸主にしては如何でしょう」 というと、その人は、それが好かろう、しかし、日限が迫っているから、大急ぎという。 で、師匠は右の趣を姉お悦に話すと、もちろん承知で、早速、堀田原に、かねてから師 匠が立ち退きの用心の家を一軒持っていた其家へ引き移ることにしたのであった。この 事につき万事その人が始末を附けてくれました。  堀田原の家は二間あって、物置きが広い。お悦さんが籍を移し、私が養子となり、今 まで中島幸吉であった私が高村幸吉となった訳であります。私が高村姓を名乗るように なったのは全く徴兵よけのためであったので、これで一切始末が附いて、私は兵隊にな らずに終んだのでありました。今から考えるとこれはあまり良い事ではないようです。  右の如く、万事都合よく行ったので、師匠は、広小路の万年屋の隣りの花屋という料 理屋に骨を折ってもらった彼の人を招いてお礼に夜食のふるまいをしました。私も少し 預けてあった金銭もありましたので、それを当夜の費用に充てるよう師匠に申しました が、師匠は自分ですべてを支払いました。当夜の勘定その他すべてで十五円位掛かった ようであった。  その時、その席で、師匠が彼の人に話しているのを私は聞いていたが、もし幸吉が悦 の養子になれないとすれば、自分は二百七十円政府へ納めるつもりであったが、お蔭で 手軽く済んでよかったなどいっておられました。思うに師匠は私のために大金を出して も兵隊に取られぬようにしようという決心であったと察せられました。師匠がいかに私 のことを考えていられたか、今日でもその当時のことを思うと師恩の大なることを感ぜ ぬわけに参りません。  さて、私はお悦さんの養子という名義になったのですから、私はお悦さんに対し養子 であるから、何か形をと考えて、月々一円五十銭を小遣いに差し上げることに師匠に話 しますと、それは自分として甚だ困る。姉は私の親替わりに私が何所までも見るつもり、 今度の事は名義だけだから別に心配はいらぬ。しかし強いてお前が気が済まぬというな らば、堀田原の家の家賃ということにして、それを受けよう。そして、それを姉の小遣 いに差し上げることにしようと義理堅く、私は自分の志が通れば好いことだからそうい うことにしてもらいました。  何かにつけて、東雲師は義理堅い人であった。 家内を貰った頃のはなし  私の年季が明けると同時に、師匠東雲師はまず私の配偶者のことについて心配をして おられました。もっとも年の明ける前から心掛けておったようです。これは親たちも感 じていたことでありましょう。母もその頃は大分弱っておりましたので、相当なものが あれば、早く身を固める方がよいと思っておったことと思われます。  しかし、この方のことは私は至って暢気で、能く考えて見るほどの気もありませんで した。というは、両親が揃っていて、その上に家内を持つとなると、責任が三人になる。 その上四人五人になることと思い、只今の自分の境遇として、経済上、それだけの責任 を負うことは大分荷が重い。で、今の所、もう三、四年も働いて、いささか目鼻が明き、 技倆も今一段進歩した時分、配偶者のことなど考えて見ても決して遅くはないと思って いたのであった。それに当時の自分では、本当に、自分としても、まだ自分の技倆が分 らぬ。他人の中へ出て、いよいよ】本立ちとなった場合、どういう結果になるものか、 どうか、まだ、今日の場合、浮々と配偶者のことなどに係わっていることは出来ないと いう考えであうたのでした。  けれども、師匠は私がどう考えているかは頓着もなく、いろいろ相当と思うような人 を見つけて来たり、時には師匠の家へそうした人を置いたりしたこともあった。が、私 は今申す通りだからさらに顧みず、師匠の志を無にしておった。  徴兵のことも方付き、配偶者の話がしきりに師匠や師匠の妻君の口から出ますけれど も、いずれも私は承知をしません。私は心の中で、とても、今の身で、うつかりした所 から妻など貰えはしない。自分のような九尺二間のあばら家へ相応の家から来てくれて があろうとも思わず、よしまた、あると仮定して上つ冠りするのはなお嫌。といって、 つまらない権兵衛太郎兵衛の娘を妻にはこれも嫌なり。第一、母の面倒を見て手助けと なることが一番の大事な役目であるから、その注文にはまったものが、其所らにあろう とも思えず、また自分の取り前も考え、境遇を考えなどすると、全く配偶者のことなど 脳中に置くがものはなかったのであった。  ところが、その中に、ふと、一つの話があった。江戸彫刻師の随一人といわれた彼の 高橋鳳雲の息子に高橋定次郎という人があって(この人は当時は研師であった。後に至 って私はこの人と始終往復して死んだ後のことまで世話をした)、その妹にお情という 婦人があった。師匠はこの婦人をどうかと私に相談をしました。高橋家は彫刻師として は名家であり、定次郎氏は私とは年来の知己で、性情伎倆ともに尊敬している人である。 その人の妹娘というのであるから、私もむげに嫌というわけにも行かない。が、前申す 通り境遇上、まだ妻を娶るに好都合という時機へも来ていないのであるから、私は生返 辞をしていた。定次郎氏の家は神田富山町にあって、私も折々同氏を訪間し、妹の人と も顔は見知っている。器量も気立ても好かりそうだなど自分も考え、明らさまに断わり をいうわけにも行かず、有耶無耶の問に日が経っております中に、その娘の人は、計ら ず、ふとした病気で亡くなってしまいました。  その年は暮れ、明けて明治は年、私は二十四となる。  半年ばかり、一時結婚談も中絶していましたが、またその話が待ち上がる。同時に、 私として、どうも、家内を迎えなくてはならないようなことになって来ました。  これは今まで、大分弱っておられた母が、ドツと臥床に就くというほどではないが、 大変に気息切れがして、狭い家の中を掃くのさえ、中腰になって、せいせいといい、よ ほど苦しいような塩梅である。私は、どうも、これはいけないと思い、何んとかせんけ ればと心を痛めました。まず、何よりも滋養分を沢山差し上げるがよろしいと思い、そ の頃、厩橋側に富士屋という肉屋があって、其所の牛肉が上等だというので、時々牝牛 の好いのを一斤ずつ買って母へ持って行って呈げました。その頃、私は師匠の家に寝泊 まりしていた。当時は肉の佳いのは牝牛といったものです。ろーすだのひれーだのとい うことは知りません。母は倅の心尽くしですから、魚もきらいな人がこれだけは喜んで 食べ、味噌や醤油につけなどして貯えて食べたりしました。けれども、医師にもかけま したが、やっぱり加減はよるしき方には向わず、段々大儀が増すばかり故、ついに私も 意を決し、これは母のために面倒を見るものが必要であると考えて来ました。ところで、 母の手助けをするには、女中を置いても事足ることではあるが、女中といってもお大層 であり、また親身になって母に尽くすには、他人任せでは安心が出来ず、やっぱり、い つそ、これは家内を貰い、それに一任した方が一番確かであろうという考えから、私は ついに家内の必要を感じ、今度は自分から妻を持とうと考え出したのでありました。  ここで、話が八重になって少しごたごたしますが、一通り順序を話します。  養母の住居である堀田原の家には義母お悦さんが住んでいて、時々私は其所へ帰って いた。ところで、このお悦さんの妹が前述のお勝さん、そのまた妹におきせさん(東雲 師の末の妹)という人があって、小舟町一丁目の穀問屋金谷善蔵という人の妻となって いる。夫婦に子がないので、善蔵の兄に当る杉の森の稲荷地内(人形町の先)に当時呉 服の中買いをしていた金谷浅吉という人の娘お若というのを引き取って養女にしました。  これはお若の父も亡くなり、間もなく母も世を去って頼りなき孤児となったので、引 き取り養女としたのであった(お若は金谷善蔵夫婦からは姪に当る)。  しかるに、金谷善蔵がまた病気になったが、家は穀問屋で、御本丸へ出入りなどあり、 なかなか手広にやってはいたが、こうした町家の常で、店は手一杯広がっていて、充分 気楽に寝て保養をする場所がないので、妻のおきせさんが心配をして、堀田原にいる姉 のお悦さんの許へ来て、 「姉さん、これこれの都合ゆえ、どうか、こちらは人少なで広いから、良人の保養の ために一室借して下さいな」 という訳で、姉妹のことで、お悦さんが早速承知をする。善蔵夫婦がその家へ移って来 て、保養をすることになったのです。  私は自分の養家のことですから、時々帰る。おきせさんが感心に良人の看病をしてい る。私も気の毒に思い、世話というほどのこともしないが何かと心を附けて上げました。 それを病中の善蔵さんが大変によろこんで、私を何より頼りとしている。その中ついに 善蔵さんは病重り、気息を引き取る際になったが、その際、病人はいろいろと世話にな ったことを謝し、なお、この上、自分の死後を頼むというのであるらしいが、もはや最 後の際でありますから、何をいわれるか、確とは言葉も聞き取れませんが、何しろ、自 分の亡き後のことなど私へたのむということであることだけは分る。妻のおきせさんも 附き添い、いずれも涙の中に、病人は繰り返し私に頼む頼むと、いいおりますので、私 も、病人の心を察し、快く、畏まりました。御心配のないようにといい慰めている中に、 ついに病人はそのまま気息を引き取ってしまいました。  それで、おきせさんは未亡人になり、養女お若は血縁の叔父(すなわち餐父)に逝かれ、 まことに心細いこととなりました。しかし相当遺産もあり、また里方(東雲師の家)もあ りますから、未亡人になっても困ることもないが、女の手一つでは穀屋を続けて行くこ とも出来ないので、店を仕舞いました。  そこで、何んだか、おきせさんは中途半ばな身になっているので、養女お若の遣り場 がないような有様になっている。それで東雲師は、俺の家へお若を伴れて来て置け、何 んとか世話をしてやろうなどいっていられるのを私は知っておりましたが、何んとなく、 こうした境遇に落ちて来たお若の身の上が気の毒に思われてなりませんでした。  さて、私は、自分の境遇を考えると、前述のような羽目になっている。どうしても、 この際、家内を買わなければならない都合になっている。といって上つ冠りで、妻の身 内の方から何かと助けてもらうような状態になることなどは好ましくない。今の自分の 境遇相当、自分にもさして懸隔がなく、そして気立ての確かりした、苦労に耐え得るほ どの婦人があれば、それこそ、今が今といっても、家内にしても差しつかえがないと思 っているところへ、ちょうど、此所にお若という気の毒な境遇に立っている婦人を見出 したのであった。その娘は、今、何処といって行く所がなくて困っている。さて、自分 は親が二人、まだ全く一本立ちというには至っておらぬ。しかも母は病気で、家とても また貧しい。こういう処へ嫁に来るには、この娘ならばちょうど好くはないか。相当苦 労もしていれば、貧乏世帯を張っても、また病人の姑に対しても相当に旨くやり切つ て行くかも知れない。どうもあの娘ならば、それも出来そうである——とこう私は思い 立ったのであった。  しかし、自分はそうは思っても、先方の考えはどうであるか、さつばり分らぬ。ただ、 どうも、よさそうに思われることは、お互いに何もないこと、……無財産であることが 第一面倒でないから、持つとすれば自分の妻にはこの婦人がよかろうと心を定めました。 これは誰から勧められたのでもなく、全く自分の発案であった。  そこで私はまずこの考えを母に話しました。  すると、母もよろこび、この縁を纏めたいという。さて、そうするとなれば、お若は、 やっぱり師匠の気息の掛かっているものであるから、師匠にも一応相談をしなければな らないが、そこを何んとなく、母から師匠に、母だけの考えとしてお若を貰いたい旨を 話してもらうようにたのみました。これは、そうする方が穏当でよかったからでありま した。  或る日、母が病中ながら、師匠の家へ出掛け、右の一件を話をすると、師匠は、これ はといって大喜び。実は、お若のことはいろいろ心配をしておったが、そこまではちよ つと気が廻らなかった。燈台元暗しとはこの事だなど、師匠はこちらからの申し込みを 意外と感じてよろこんで、もし幸吉が貰ってくれる段になれば、これに越したことはな いが、しかし、幸吉がお若で承知をしてくれるであろうか。元々、私は、この組み合わ せは問題にしていなかったのだが……お袋さんだけの考えとあっては、幸吉の承諾がど うも危ぶまれる——など師匠の挨拶。ところが、元来、当人の幸吉が承知の上で、自分 で書いた筋でありますから、これほど確かなことはないので、母も、幸吉も方異存はご ざいますまいといって、大喜びで帰って参りました。  話は早く、早速この縁談は纏まりました。  条件は、家が貧乏であること、母親が病人であること、この二つを充分承知の上、よ くやってもらいたいというのであった。娘の方で、これに不足をいう境遇ではないこと はもちろんのことでありました。  そこで、媒妁人がなくてはならぬというので、誰に頼むかということになったが、私 とて、まだこれという友人も出来ない時分、誰に頼んだものかと考えましたが、思い出 したのは彼の高橋定次郎氏であります。この人は私がかねてから、その人格その他を尊 敬している知人であるばかりでなく、先年、その妹の人とのこともあって、何かと縁が つながっているように思います所から、媒妁人になってもらえば、仲人親という位、若 くしてこの世を早くした妹御のためにも何かと由縁があるよう感じまして、右の義を師 匠に話しますと、それは好い人を見つけた、早速頼むがよかろうというので、高橋氏に 話すと快諾してくれましたので、形ばかりの結納を取り交し、明治八年の十一月七日に、 九尺二間の我家で結婚の式を挙げたのでありました。  当時、高橋定次郎氏が自ら書かれた結納の書き附けが今以て残っている次第でありま す。当時、私は二十四歳、お若は十八でありました。  その夜のお客は、師匠東雲先生、お若の養母おきせさん、仲人の高橋定次郎氏、私の 兄の家内に、両親、我々両人、その他一、二名と覚えております。  この結婚式を挙げて来年がちょうど五十年に相当致します。 堀田原へ引つ越した頃のはなし  私は結婚後暫く親の家へ帰っていた。ちょうどそれを境にして彼の金谷おきせさんは 穀屋の店を畳んで堀田原の家に世帯を引き取りました。  この家は私が戸主で、養母が住んでいるけれども、それはほんの名義だけのことであ るから、万事は師匠の意見、またお悦さんおきせさんなど姉妹の都合の好いままに任せ、 私は自分の家なる前回度々申した彼の源空寺門前の親たちの家にいることになりました。  もうこの頃では北清島町という町の名前など附いていた頃であった。 師匠東雲師の住居は駒形にあったが、その時分蔵前の北元町四番地へ転宅することに なった。  この家は旧札差の作えた家で、間口が四間に二間半の袖蔵が付いており、奥行は十間、 総二階という建物で、木口もよろしく立派な建物であったが、一時牛肉屋になっていた ので随分甚く荒らしてあった。これが売り物に出たのを師匠が買い取ったのであるが、 その頃の売り買いが四百円であったとはいかに家屋の値段が安かったかということが分 ります。地面は浅草茅町の大隅という人のものであった。師匠の手に渡ると、造作を仕 直し充分に手入れを致しましたが、これらの費用一切を精算して七百円で上がりました。 当時江戸の仏師の店としてはなかなか立派なものでありました。  私は毎日弁当をもって北情島町からこの蔵前の家へ通っておった。道程がかなりにあ ることで、雨や雪の降る時は草鞋穿きなどで通うこともある。朝は早く、夕方は手元の 見えなくなるまで仕事をして、それからてくてく家に帰り、夜食を済まし、一服する間 もなく又候夜なべに取り掛かるという始末であった。これというもとにかく仕事に精を 出さないでは、一日の手間二十五銭では一家四人暮しの世帯を張っていては、よし父に は父の取り前もあるとはいっても、老人の事で私の心がどうも不安であるから、決まつ ている手間の上に夜業をして余分にいくばくかを働いたようなわけであって、ほとんど 二六時中、仕事のことに没頭していることであり、また朝夕の行き帰りの道もなかなか 遠くもある処から随分とそれは骨が折れました。そうして小一年もこういう状態が続い て明治九年も暮れてしまいましたが、その年か翌年であったか、私たち一家が全部堀田 原の家へ転宅することになりました。  これは金谷のおきせさんが一旦世帯を堀田原へ移して一人でいましたが、まだそうお 婆さんになったというではなく、再縁のはなしが出て或る家へ嫁入りすることになった ので、したがってお悦さんが一人になること故、この方は蔵前の師匠の方へ手伝いがて ら一緒になるということになり、堀田原の家が明くによって、師匠は私に其家へ来てく れてはどうだという。私の方も堀田原へ移れば家もこれまでよりは手広になるし、通う 道程も四分の一位になって都合もよいので、師匠の意のままに堀田原へ全部移転したの であった。  私に取って思い出の多かった源空寺門前の家とは、これで縁が切れたことになるので す。 初めて博覧会の開かれた当時のことなど  堀田原から従前通り私は相更らず師匠の家へ通っている。すると、明治十年の四月に、 我邦で初めての内国勧業博覧会が開催されることになるという。ところが、その博覧会 というものが、まだ一般その頃の社会に何んのことかサツバリ様子が分らない。実にそ れはおかしいほど分らんのである。今日ではまたおかしい位に知れ渡っているのである が、当時はさらに何んのことか意味が分らん。それで政府の方からは掛かりの人たちが 勧誘に出て、諸商店、工人などの家々へ行って、博覧会というものの趣意などを説き、 また出品の順序手続きといったようなものを詳しく世話をして、分らんことは面倒を厭 わず、説明もすれば勧誘もするという風に、なかなか世話を焼いて廻ったものであった。  当時、政府の当路の人たちは夙に海外の文明を視察して来ておって、博覧会などの智 識も充分研究して来られたものであったが、それらは当局者のほんの少数の人たちだけ で、一般人民の智識は、そういうことは一切知らない。その見聞智識の懸隔は官民の上 では大層な差があって、今日ではちょっと想像のほかであるような次第のものであった。  右の通りの訳故、博覧会開催で、出品勧誘を受けても、どうも面倒臭いようで、困つ たものだという有様でありました。ところが師匠東雲師も美術部の方へ何か出すように という催促を受けました。師匠も博覧会がいかなるものであるか、一向分っておりませ ん。それでどんなものを出して好いかというと、彫刻師の職掌のものなら、何んでもよ るしい出してよい。従来製作しておるものと同じものでよるしいという。それではとい うので師匠は白衣観音を出品することにしたのでありますが、そこで師匠が私に向い、 今度の博覧会で白衣観音を出すことにしたから、これは幸吉お前が引き受けてやってく れ、他の彫刻師たちもそれぞれ出品することであろうから、一生懸命にやってくれとい うことでありました。  私はこうした晴れの場所へ出すものだということだからなかなか気が張ります。師匠 の言葉もあることで、腕限りやるつもりで引き受けて、いよいよその製作に取り掛かつ たのであった。  その白衣観音は今日から考えても別段目先の変ったものではなく、従来の型の如く観 音は置き物にするように製作えましたが、厨子などは六角形塗り箔で、六方へ桜路を下 げて、押し出しはなかなか立派であった。それでその売価はというと、これが不思議な 位のことで、観音は大きさが一尺で、材は白檀、充分に手間をかけた念入りの作。厨子 はこれまた腕一杯に作ってある。それで売価七十円というのであった。今日では箱だけ 機で拵えてもそれ位の代価は掛かるかも分りませんが、何しろ一ケ月その仕事に掛かり 切っていても、手間は七円五十銭という時代であるから、自然そういう売価が附けられ たことと思われます。とにかくお話しにならぬほど安いものでありました。  さて、博覧会は立派に上野で開会されました。博覧会がどんなものかということを一 切知らなかったその頃の社会では多大の驚きであったことですが、これらのことについ ての話はまた他日に譲るとしまして、とにかく、博覧会も滞りなく半ば過ぎた頃、或る 日、当会から師匠の許へ呼び出しが来ました。それは何時何日に出陳の品に賞が付いて、 その賞牌の授与式があるのだということです。しかし、師匠、私なども、賞が付くとい うようなことを一向知らぬ。ただ、拵えたものを出して置いただけのものであったが、 師匠は呼び出しが来たので、当日は袴羽織で(師匠の家の紋は三ツ柏であった)上野の会 場へ出掛けて行きました。授与式がどういう有様であったかは私は知る由もないが、受 けた賞牌は竜紋賞であった。ところが、またその竜紋賞が好いのか悪いのかも師匠は知 らない。くれるものを買って来たという有様であった。  当日は、私は何かの都合であったか堀田原の家に休んでおりました。日暮れ少し前項 に、私の家の表の這入り口に地主の岡田というのがあって、その次男が私の宅へ飛び込 んで来て、突如に、 「高村さん、あなたはえらいことをやったね」 と頓狂な声でいいますので、私はびつくりして、 「何を私がやったんです……」 と訳が分らんからいいますと、 「何をやったって、大したことをやったじゃありませんか。君の観音は竜紋賞を得た のですよ」 「そうですか。その竜紋賞というのはどういう賞なのですね」 など、私はさすがに自分のことの話であるから聞いたりする。岡田の次男は予てから、 隣りずからのことで、私が白衣観音を製作していたことなどを知っており、師匠の代を やっていた種を知っていることだから、私の手柄のように褒めそやしている。そして、 今日の新聞に云「の号外のようなもの)その事が載っているが、賞牌の一番が竜紋賞で、 二番目が鳳紋賞、三番目が花紋賞というのです。君の観音は一番の賞牌ですよ、など物 語る。私は岡田のいうことばかりでは信がおけないから、やがて蔵前へ出掛けて行くと、 師匠は帰っておられた。 「今日、賞牌をお貰いなすったそうですね」  私が訊きますと、 「ふむ。竜紋賞というのを貰って来た。竜紋というのが一番好いのだそうだ」 と、師匠はいっていられるが、別段その事については気にも留めておられぬような様子 であるから、私もそれ切りで家へ帰って来ました。  翌日、私は師匠の家で、例の通り仕事をしている。その時分は仕事場は店でなく、二 階が仕事場になっていて、表二階の方が私、奥二階が兄弟子の政吉の仕事場になってお って、皆々仕事をしていると、衷通りをその頃の「読売」が声高々と読んで通るのを聞 くともなく聞くと、「当所蔵前にて、高村東雲の作白衣観音が勧業博覧会において竜紋 賞を得たり」と大声で読んでおりますので、一同はそれに耳を澄ますというようなわけ でありました。それに師匠の家の隣家遠州屋という外療道具商でも外療器械を出品し、 それが風紋賞を得たので、一町内から二軒並んで名誉のことだと、町内を行きつ戻りつ 『読売』は読んで歩いては、師匠の家の前では特に立ち留まってやっております。その 頃は事件のあった時には善悪ともにその当事者の家の前で特に声を張ってやったもので、 蔵前では例の高橋お伝の事件などやかましかったものですが、これはまず名誉のことだ というので騒ぎましたから、自然、そういうことが町内の人々、また一般にも噂高くな りましたのでした。  十年の博覧会も目出たく閉会になりましたが、最初博覧会というものが何んのことで あるか一切分らなかった市民一般も、これで、まず博覧会のどんなものかを知りました と同時に、また出品人の中でも、訳が分らなくなって、面倒がったり、困ったりしたも のも、大きに了解を得、「なるほど、博覧会というものは、好い工合のものだ」など大 いに讃辞を呈するというような結果を生じました。というのは、当時、政府もいろいろ 意を用いたものと見えて、政府から出品者に対して補助があったのでした。七十円の売 価のものに対しては約三分の一位の補助金が出た上、閉会後、入場料総計算の剰余金を 出品人に割り戻したので、出品高に応じて十円か十五円位を各自に下げ渡しました。  こんなことで、まず博覧会の評判もよろしく、そういうことなら、もつと高価なもの を出品すればよかった。自家のものは余り安過ぎたなど、私の師匠なども後で申された 位でありました。万事こんな訳で、十年の博覧会も一段落ついたことでありました。  それから、今の出品の白衣観音でありますが、それは、開会当時はそのままであった が、閉会後間もなく横浜商人の西洋人が師匠の宅へ右の観音を買いに来て、定価七十円 で話がきまり、或る日師匠がそれを持って横浜の商館へ行かれましたが、この時はちよ うど東京横浜間の汽車が開通して早々のことで、師匠は初めて汽車に乗ったので、帰つ て来られてから、「どうも汽車ってものは恐ろしく迅いものだ。まるで飛ぶようだ。電 信柱はとんで来るように見え、砂利は縞に見える」など胆をつぶして話されました。 店初まっての大作をしたはなし  かれこれしている中に私は病気になった。  医師に掛かると、傷寒の軽いのだということだったが、今日でいえば腸チブスであつ た。お医師は漢法で柳橋の古川という上手な人でした。前後二月半ほども床に就いてい ました。  病気が癒るとまた仕事に取り掛かる。師匠の家の仕事も、博覧会の影響なども多少あ って、注文も絶えず後から後からとあるという風で、まず繁昌の方であった。私が専ら 師匠の代作をしていることなども、知る人は知っておって、私を認めている人なども自 然に多くなるような風でありましたが、私としては何処までも師匠の蔭にいるものであ って、よし、多少手柄があったとしても、そういうことは虚心でいるように心掛けてお りました。  師匠は私の名が表面に出て人の注目を惹くようなことは好まれませんでした。世間の 噂に私のことなどが出ても、私の耳へは入れませんでした。  さて、とかくするうち、明治十年の末か、十一年の春であったか、日取りは確と覚え ませんが、その前後のこと、京橋築地にアーレンス商会というドイツ人経営の有名な商 館があって、その番頭のベンケイという妙な名の男と逢うことになった。  この人は年はまだ二十四であったが、なかなかの利け者で、商売上の掛け引き万端、 それはきびきびしたものであった。私は最初はこの人を三十以上の年輩と思っておった が、二十四と聞き、自分の年齢に比較して、まだ二つも年下でありながら、知らぬ国へ 渡って、これだけ、立派に斬り廻して行くというは、さてさて憂いもの、国の文明が違 うためか、人間の賢不肖によるか、いずれにしても我々は断塊に堪えぬ次第であると、 私は心秘かにこの人の利溌さに驚いていたのであった。  このベンケイが師匠の家に来るようになった手続きというのは、当時菊池容斎の高弟 に松本楓湖という絵師があった。この人は見上げるほどの大兵で、紫の打紐で大たぶさ に結い、まち高の袴に立派な大小を差して、朴歯の下駄を踏み鳴らし、見るからに武芸 者といった立派な風采。もっとも剣術なども達者であるとか聞きましたが、当時、住居 は諏訪町の湯屋の裏にあった。アーレンス商会では同商会の職工に仕事をさせるその下 絵をこの楓湖氏に依頼していたので、今の番頭ベンケイがその衝に当っている所から知 り合いの中であったから、折々、楓湖氏はベンケイを伴れて駒形町時代から師匠の店に 膨刻類を見に来たことがあったが、今度楓湖氏を介して改めてベンケイが東雲師へ仕事 を依頼すべく参ったわけであった。当時の楓湖氏は今日の帝室技芸員の松本楓湖先生の ことで、私よりもさらに五、六年も老齢ではあるが、壮健で谷中清水町に住まっておら れます。毎年の帝展へは必ず出品されております。  当日は両人で来て、仕事を頼むというので、どういう御注文かというと、唐子が器物 を差し上げている形を作ってくれという。それは何に用うるかというと洋燈台になるの で、本国からの注文であるということ。高さは五尺位で一対。至急入用であるから、そ のつもりにて幾金で出来るかつもりをしてくれという。唐子は生地だけを作ってくれれ ば、彩色は自分の方でするということであった。私もちょうど病気全快して師匠の家で 仕事をしていた時であるから、これらの応対を聞いておった。  楓湖氏とベンケイが帰ると、間もなく、師匠は私に向い、 「幸吉、今夜、夜食に行こうではないか」 といわれるので、私は師匠と一緒に夕方外へ出ました。観音様の中店の「燗銅壷」とい った料理店で夜食をしながら、師匠は少し言葉を改め、 「幸吉、実は、今度、お前に骨を折ってもらわなくちやならないことが出来たんだ。 一つ確かりやってもらいたい」  今の洋燈台の注文が来たことを師匠は話されて、一切万事私に製作の方を仕切ってや ってくれるという相談に預かりました。  ところが、今も申す通り、丈五尺の唐子で一対という注文、今日ではなんでもないが、 その当時、徳川末期のドン底の、すべて作品が小さくなっている時代の彫刻界では、丈 五尺というと、まずなかなかの大物であって、師匠の店においても、店初まって以来の 大作であった。それを私が一個の手でそれを製作するというは容易ならぬ重任、生やさ しいことではこの役目は出来ないのであるから、私も修業のためにもなることゆえ、一 層勇気も出て、師匠のたのみを引き受けることに承知しました。  話がきまれば、早速つもりをして見ると、店初まって以来の大作で、したがってまた 店初まって以来の高価な注文品——およそ、どの位の値段になったかというと、それが、 よほどおかしい。一つが百二十円、一対で二百四十円という算盤になった。もっとも、 私の手間一年で百円にはなりませんでした。これが江戸でも屈指の大店を張っている大 仏師東雲の店初めての金高でありました。  さて、私はいよいよ製作に取り掛かることになる。  唐子の下絵は楓湖氏の筆になったもので、それを見本として雛形を作る。ところが、 その唐子というものはお約束通り、ずんぐりとした身長のもので大層肥太っている。ま ずその下絵によって一尺位に彫り上げ、それを師匠に見せますと、これはよく出来たと いう。これならばベンケイに見せてもよろしかろうというので、その旨を報せると、或 る日、アーレンス商会のその注文主のお容と、それからベンケイとほかに一人で三人が 馬車に乗ってやって来ました。で、早速下彫りを見せますと、案外で、どうも先方の気 に入らぬような風である。何か互いに話し合って批評をしているが、その客人と覚しき 人の表情を見ても気に入っておらぬということが私たちにもよく分る。そしてベンケイ の通弁で大体を聞くと、どうも、ずんぐり、むつくりしているのが客の気に入らないの だという。つまり、ぶくぶくしていてはいけないので、もつと、すつきりと丈がすらり 高くなくてはというのである。師匠はそれを聞いていかにも不満の体でいられる。やが て彼らは馬車に乗っていずれかへ出掛けて行きました。多分浅草でも見物に行ったこと と見える。  彼らが帰った後で、師匠はぶんぶん怒っていられる。 「毛唐人に日本の彫刻が分るものか。気に入らないなら気に入らないで止したらよか ろう。こつちで頼んでさせてもらう仕事ではない。向うから頼みに来たのだ。いやなら よすまでのことだ。唐子には唐子の約束があるんだ。しかも、この下絵は楓湖さんがつ けたのだ。毛唐人に日本の彫り物が分ってたまるものか」など、そこはいわゆる名人 気質でなかなか一刻である。私も、気を張って製えた雛形が落第とあっては師にも気の 毒なり、第一自分も極り悪い。 「どうも案外な結果になって相済みません」というより仕方ないのでした。ところが 師匠は、「お前の粗忽ではない。俺が好いと思うからこれで結構といったのだ。俺の責 任だ。お前が心配をすることは一つもない。向うの人間が分らず屋なんだ」 と、一時は気をわろくしても、私のことは、こういって、サツバリした人ですから、怒 った後は笑っている処へ、二時間ほどして再びベンケイが一人でやって来ました。師匠 の不満な顔を見ると、にこにこしながら、 「先刻はお気に障ったかも知れないが、客が素人で彫刻を見る眼がないから気に入ら ない風を見せたのですが、実は、いうまでもなく、あの雛形は大変旨く出来てるんです。 けれど、単に外見の上から形が少し気に入らないというので、……それは、つまり思惑 が西洋の人と日本の人と違うのです。というのは、こうなんです。西洋人は唐子の約束 なんか分らず、人間なら人間のようにもつとすらりと身長が高ければ好いので、あんな に、ぶよぶよ肥太って、ちんちくりんでは第一物を捧げている台として格好が附かない と、まあ、こういった訳なんですから、今度は当り前の人間だと思って、当り前にやつ て見て下さい。西洋彫刻の人物は、すべて痩せて、すらりとしてるんですから、余り短 く、でくでくしてると、不具者の人間見たようだって、あの人に気に入らなかったんで す。気に入らない処はたったこれだけなんです。仕事の能く出来てることは、私はもち ろん、あの人たちも充分認めているんです。で、あの雛形を作った人の腕前なら、それ を、もつとすらりと痩せて拵えることは何んでもないことでしょう。その点さえ心得て やり直してもらえば今度は必ず気に入りますから、どうか、一つ、気を悪くなさらずに やって下さい」  相更らずベンケイの応対は旨いもので、流暢な日本語でやっている。一本気で、ぶん ぶん怒っている師匠も我を折って、 「日本人と毛唐人との思惑違いというのなら話は分る。では、もう一度やり直して見 よう」 ということになりました。私も傍で聞いておって、なるほど、ベンケイのいう所至極 道理であると思わぬわけに行きませんで、よく、先方の意味が了解された気がしました。  ベンケイが帰ると、師匠はさらに私に向って、もう一度やり直しを頼むという順序と なった。そこで、今度は私も一層心配だが、先方の意のある所が充分腑にも落ちている ことでありますから、今度は思い切ってこなして、下絵には便らずに自分勝手にやって 退けたといっても好い位に大胆に拵えました。つまり思い切りこなしてから唐子の服を つけさせるという寸法に彫って行ったのです。かれこれ半月ばかり経って、まず自分の 考え通りに出来たから、師匠に見せました。 「なるほど、これは好い。これならベンケイが見てもきつと気に入るだろう」 というので、先方へ知らせる。直ぐベンケイが来て、一目見て、 「これは結構、もう客に見せなくても、これなら大丈夫。私が責任を持ちます。有難 う」 とすこぶる意に適った容子で帰りました。  そこで、いよいよ本当に製作に取り掛かることになったのですが、何しろ、私も、生 まれて初めての大作のことで、かなり苦心をしました。  かくて、十一年の十一月頃、全く製作を終り、店に飾り、先方の検分を終って唐子の 彫刻は引き取られて行きました。この大作は私の修業としてはなかなかためになりまし たと同時に、また一面には、こうした作をやったことなどから次第に外国向きの注文を 多く師匠の店で引き受ける素地を作ったことになりました。  この時代から、そろそろ日本の従来の仏師の店において外国貿易品的傾向の製作が多 くなって行く一転機の時代に這入って来たのでありました。 引き続き作に苦心したこと  されば追つかけて、また一つ外国人からの注文がありました。  今度は、ドイツ公使館へ来た或る外国人からの注文で、同じく洋燈台であったが、趣 は以前と違っておった。これは前述のあ、れんす商会からの注文の製作をその人が見て 注文することになったか、そこまではよく分りませんが、あーれんすとは何んの関係は ないのであった。  注文の大体は、今度は純日本式の童男童女の並んで立っている処をたのむというので あった。まず一尺位の雛形をこしらえてもらって、それを本国に持ち行き、先方にて話 の上にて、さらに大作の方をもたのむ計劃であるが、差し当ってはその雛形を念入りに 彫ってもらいたい。これは雛形と思わずに、本物同様充分気を附けてやって欲しいとい うのであった。  今度もまた私がすべて製作することに師匠からの話がありましたので、私はそれに取 り掛かりました。今度は以前のように下絵などの面倒なこともありませんので、師匠の さしずももわれがさ 差図と自分の考案で、童女の方は十か十一位、桃割に結って三枚襲ね。帯を立矢に結び、 鹿の子の帯上げをしているといういわゆる日本むすめの風俗で、極めて艶麗なもの。重 男の方は、頭をチョン髷にした坊ちゃんの顔。五つ紋の羽織の着流しという風俗であつ た。  これは彩色なしではあるが、木地のままでも、その物質そのままを感じ、また色彩を も感ずるように非常に苦心をして彫《や》ったのであった。たとえば、帯は椴子《どんす》の帯ならば、 その滑らかな地質がその物の如く現われ、また緋鹿の子の帯上げならば、鹿の子に絞り 染めた技巧がよく会得されるように精巧に試みました。また、衣物の縮緬、裾模様の模 様などにも苦心し、男の子の着流しの衣紋なども随分工夫を凝らしてやったのでありま した。私が精巧繊密な製作をまず充分に試みたと思うたのは、その当時ではこの作が初 めであったと覚えます。これもなかなか修業となりました。  出来上がると、師匠も、なかなかな出来栄だとほめてくれられ、公使館の人が検分に 来た時は大変な気に入りで、よろこんで持って帰りました。これは本国へ送り、さらに 大作を注文するということではあったが、いかなる都合であったか、大きい方はそのま まになってしまいました。とにかく、こういう風な西洋人の仕事が段々と殖えて来まし て、その都度私が関係したのであった。  師匠はまず大体において、私の仕事を監督しておられたので、実際には手は下すこと はなかったのでした。 東雲師逝去のこと  それからまたこういう特別な注文のほかに、他の仕事もぼつぼつあります。それらを 繰り返して仏の方をも相更らずやっている。明治十一年も終り、十二年となり、これと いって取り立ててはなしもないが、絶えず勉強はしておりました。  すると、十二年の夏中から師匠は脚気に雁りました。さして大したことはないが、ど うも捗々しくないので一同は心配をいたしました。余談にわたりますが、師匠東雲師は、 まことに道具が好きで、仏の方のことは無論であるが骨董的な器物は何によらず鑑識に 富んでおりました。それで東京中の道具屋あさりなどすることが何より好きで、暇さえ あれば外へ出て、てくてく歩いていられる。歩くことが激しいから、下駄は後の方が直 ぐ滅ってしまうので、師匠は工夫をして下駄の後歯へ引き窓の戸の鉄車を仕掛けて、そ れを穿いて歩かれたものです。知人の処になど行って庭の飛び石を歩く時にはがらがら 変な音がするには甚だ困るなど随分この下駄では滑稽なはなしがある位、それほど外出 歩きを好かれた方であったが、脚気に躍られてからは、それも出来ず、始終、臥床に就 くではないが、無聊そうにぶらぶらしておられました。しかし、店の仕事の方には私の 兄弟子政吉もいること故、手が欠けるということはなく、従前通りやっておりました。 しかるに一夏を越して秋に這入っても、病気は段々と悪くなるばかり、一同の心配は 一方ならぬわけでありました。それに華客場の中でも、師匠の家の内輪へまで這入って いるいる師匠のためを思ってくれられた特別の華客先もありました中に、別して亀岡甚 造氏の如きは非常に師匠のことをひいきにされた方でありましたが、この方が大変に心 配をして、何んとか、もう一度癒してやりたいといっておられます。  この亀岡甚造という方は、その頃もはや年輩も六十以上の人で、当時は御用たしのよ うなことをしておられた有福な人でありました。若い時、彼のベルリの渡来時分、お台 場の工事を引き受け、産を造ったのだそうで、この亀岡氏は先代の目がねによって亀岡 家へ養子になったなかなか立派な人でありました。師匠とは気心も大変合っていて、内 輪のことなどまで心配をされました。また同氏は私にもなかなかよくしてくれました。 で、亀岡氏はじめ、我々、皆一同師匠の病気平癒を神仏かけて祈りましたが、どうも重 くなるばかりであります。医師に見せてもなかなか捗々しく参らず、そこで、私は先年 傷寒を病んだ時に掛かった柳橋の古川という医師が、漠法医であるけれども名医である と信じていましたから、師匠の妻君へ、この人に診てもらうよう話をしました。妻君も、 それではと古川医師に診察を頼みますと、どうも、これは容易でない。脚気とはいって も、非常に質が悪い。気を附けねばならんという診断。医者の紋切形とは思われぬ。重 大な容態は我々素人にもそう思われるようになったのであります。  それで、弟子は四人ありますが、店の方の仕事のことがありますので、昼の中は附い ておられず、奥の方では皆が附き切りになっている。師匠の家は親戚はない。一家内師 匠をのけてはすべてが婦人で、妻君、お悦さん、お勝さん、それからおきせさんとこの 四人が附き添い看護をしておられるので、私は、いろいろ師匠の病気についての看護の ことに心附いたことがあっても、そう深く奥のことにまで立ち入って行くわけにも行き ませんから、ただ、ひたすら、師匠の病気の少しにてもよろしくなることを祈っている 次第であった。  しかるにここに師匠の家の筋向うに眼鏡屋があって、その主人がちょうど師匠と同じ ような脚気に権って寝ていました。近所ずからのこと、また同病のことで、何かと奥の 人たちと往復して、平生よりもまた近しくなった処、眼鏡屋の妻君のいうには、私の宅 でも柳橋の古川さんに掛かっておりますが、どうも、さらに験が見えません処を見ると、 あのお医者は薮の方ではありますまいかなどいう。こちらでも、どうも、ますます重つ て行く処を見ると、余り上手なお医者さまとは受け取れませんなど話が合う。私は、そ ういう噂などチラチラ小耳に挟む所から、或る日、改めて古川医師に師匠の容態を承る と、 「今日の処は、師匠の病気はしのぐ時である。直す時機はまだ来ない。ここ暫《しばら》くを通 り越して、さて曙光を見た処で、初めて薬が利くので、それから漸次快気に向うわけで あって、今日の処は、拙者はそのしのぎをつけている。気長に、鄭重に、拙者が引き受 けてやれば、方、生命に係わるようなことはない。しかし、薬は必ず油断なく服ませて くれ」  こういう古川医師の返答。私も尤のことと思い、何分ともよろしくと申し、この上は この人の丹精によって師匠の一命を取り止めるより道もないことと観念致しおった次第 であった。  ところが、ここに一つ困ったことが起った。  それは或る御殿に勤めていたとかいうお婆さんがあって、その老婆は、ただ、握るだ けにて人の病気を癒すという。それを眼鏡屋にて聞き込み、右の老婆を頼んで、主人を 握らせた処、大きによるしいという。それを女同志のことで、こちらの奥の人たちが勧 められたものか、自分たちでその気になったか、とにかく、その婆さまに師匠を見せる ということになった。私はこの話を聞くと、これはいけないと思いました。断じてこの 際、そういうことをさせることは無謀の至りで、これは険呑至極と思いましたが、前に も申す如く、奥の婦人たちに向って強って口を入れて我意を張り通すことも、とにかく、 元、私が医師を世話した関係上、私としては言い兼ねもしたので、まず、やむをえず奥 の人たちのいう通りに従いました。  婆さまが来て師匠をさすりました処、師匠は加減がいくらか好いようだということ、 本当に好いのか、ほんの病人の気持だけでそう思われるのか、私は半信半疑でいると、 さて、さらに困ったことには、その婆さまのいうには、自分が病人を手掛けている間は、 医師の薬を廃めてくれということ、これは眼鏡屋の方でも同じことであった。しかし医 師の薬をやめるわけには医師に対していかないが、まず、のましたつもりにして婆さま のいう通りに薬をやめさせた。二日間薬をやめたのであった。  と、その少し前、眼鏡屋の主人がぼつくり死んでしまった。古川医師は、どうも可怪 しい、不思議なこともあるものと首を傾けていると、こちらの師匠の容態が、また危機 に迫うたというので、診断して見ると、これはどうも大変なことになっている。これは いけない。これは最早扶からない。しかし、今日までの経過は、こう迅く迫って来べき でないが、何か、どうかしたのではないか。何らか特別の手落ちがなくてはこうなるは ずはないと問い掛けられて、奥の人たちは今さら隠すわけにも行かず、実はこれこれで と右の婆さんの一条を話し、薬は二日休んだと有体に申しました。古川医師は、もはや、 自分の匙の用い処もないと嘆息する。一同も途方に暮れ、手の出しようもないのであり ましたが、その夜十時頃、師匠東雲師はついに永眠されたのでありました。それは、明 治十二年九月二十三日の午後十時、師匠は、享年五十四でありました。  法名は、光岳院法誉東雲居士、墓は下谷区入谷町静蓮寺にございます。  これより先、師匠の病篤しと聞き、彼の亀岡甚造氏には見舞いに来られました。この 人は平生でも手に数珠を掛けている人であったが、師匠の病床に通って、じつと容態を 見ておられたが、やや暫くの後、その場を去り、他へ私を招き、ただならぬ顔色にて申 すには、 「幸吉さん、今日、師匠の容態を見るに、もはや、余命も今日限りと私は思う。とて も明日までは持たれまいと思う。それで今夜はお前もその覚悟でおらねばならぬことと 私は思うが、不幸にして、そういう場合に立ち至ったなら、どうか、遠慮なく、私の番 頭をこちらへ招き、お前の相談相手として万事宜しく頼みます。それで、私は明日また 出直して参るが、番頭のことは遠慮なくやって下さい」  こういい置き帰って行かれました。私はまさかとは思いましたが、果してこの亀岡氏 のいった如く、師匠はその晩不帰の客となられたのでありました。  亀岡氏の番頭さんというのは、師匠の家の隣りの袖蔵の側の霧路に亀岡氏の別邸があ って、其所に留守居のようにして住まっていた人でありました。で、師匠の気息を引き 取られると、直ぐにその番頭さんが駈け附けて参り、間もなく報せによって彼の高橋定 次郎氏も駈けつけて参られた。奥の人たちはただ泣くばかりで、私たちは途方に暮れた ことであった。  ここで、順序としてちょっと私の兄弟子三枝松政吉氏のことをいわねばならぬことに なります。この人は下総の松戸の先の馬橋村という所の者で、私より六つほど年長、や つばり年季を勤め上げて、師匠との関係はまことに深いのでありましたが、どういうも のか、師弟の清誼はまことに薄いのでありました。それはどういう訳であったか、つま り気が合わぬとか、性が合わぬとかいうのであろう。何かにつけて師匠が右といえば左 といい、西といえば東というという工合で、どうも師弟の仲が好くないのでありました。 政吉という人は、別に深く底意地の悪いというほどの人ではないが、妙に大事の場合 などになるとその時をはずしていなくなったりして、毎度、急がしい時などに困らされ たものでありますが、そういう時にも師匠は寛大な人ゆえ、あれは、ああいう男だと深 く咎めはされませんでしたが、今度の師匠の逝去の際においても、やっぱり政吉は店に おらず、故郷の馬橋村へ帰っておったのでありますから、早速これへ報知をやりました。 政吉は帰って来ましたが、こういう場合に充分立ち働いてくれることよりも、何かと 余計に事件をこしらえて、どうも私の考えとびったり調子が合わないような風で、私も 甚だやりにくいように恩考えたことでありました。つまりは、政吉の方では、師匠と私 とが大変に気心が合い、師匠は何事につけても、幸吉々々と弟弟子の私をまず先に立て 仕事もさせれば、可愛がりもしましたばかりでなく、徴兵の一件などにも力瘤を入れて 尽力されたことなどが、彼に取っては面白く思わなかったのも人間としては無理ならぬ ことと思われます。それで政吉の仕向けは、また私には身に染まず、私の仕向けは彼に は面白くなかったことと思われます。このことは、まことに如何ともしがたいことで、 師匠没後早々にもこうした感情を少しでも互いに懐いたことは悲しむべきことでありま した。 東雲師没後の事など  さて、差し当っての責任として、私が主として師匠東雲師の葬送のことを取り計らわ ねばならぬ次第となったのであります。というのは、師匠の息子は、丑歳の時に出来た 子供であって、それが当年十四、五になっているが、これはまだ当面に立つことは出来 ぬ。政吉は一種の変人で、何か人と応対などすべきことでもあると、隠れていなくなる というような妙な気風の人。後に私の弟弟子が二人あっても、これは私にたよるばかり、 奥は女の人たちばかり、どうしても私が以前からの行き掛かり上、全責任を負って立た なければならぬことになった。また私も師匠のためにはそう致すが当然とも思いました。 ところで、相談相手としては亀岡の番頭さん、それに高橋定次郎氏は私よりも二つも 年長で師匠とは生前深い関係のあった人。この三人でまずやることになったが、無論、 亀岡氏は翌朝早々見えられ、自分の言の適中したことを大いに悲しみ、懇に仏の前に礼 拝をされて後、私を他へ招んで申すには、 「幸吉さん、今日の場合、何事も遠慮をしてはいかんよ。それでは物が運ばん。この 際は充分にお前自身の思う通りやってもらわんければ埒が明かん。それで、奥の人たち にも私が念のためにそのことを断わって置いたから、遠慮は無用にして、どしどしこの 際のことは片附けて下さい。これは私が特に師匠の知己としてお前にお願いする」 そう亀岡氏はキツバリいわれました。  そして金銭を五十円私に渡し、 「これは、葬式費用万事の事に滞りないようにと思って私が立て代えて置くのである から、これで思うようにやって下さい。一々奥と金銭のことで相談も入るまいから」 との事であった。そこで私は右の五十円を亀岡氏の番頭さんに渡し会計を頼んで金銭の 入用の時はそれから支出してもらうことにして、その他金銭の出入りはこの人に一任し ました。万事は高橋氏と番頭さん私と三人で相談して決めました。 今日から考えて当時のことを思うと、まことに私に取っては大役でありました。かく てまず別に落ち度もなく、師匠の葬式は後嗣ぎがまだ子供の仮葬ではありましたが、生 前名ある彫刻師として、まず恥ずかしからぬだけのとむらいを出したのでありました。 それから、初七日、三十五日、四十九日の後のことなども私が主となってまず滞りな く万事を致したことでありました。 身を引いた時のことなど  さて、これから後の始末をつける段となるのでありますが、急に師匠に逝かれては、 どうして好いか方角も付きません。しかし相更らず仕事だけはやらねばならぬから、ま ずこの方のことを引き締めて掛かることにしました。  ここでちょっと思い出しましたが妙なお話がある。それは師匠が生前丹精して寛永通 宝の中から、俗に「耳白」という文銭を選り出しては箱に入れて集めておられ、それが 貯り貯りして大変な量になっていたのを、蔵の中にある大蔵の中へ入れてありました。 それを奥の人たちが師匠歿後早々取り出し調べて見ると、勘算してちょうど五十円ほど ありました。一文銭の五十円ですから、随分大した量、ちょっとどうするにも困るよう なわけでありましたが、ちょうど彼の亀岡氏から用立てて頂いた葬式費用の五十円とい う借用の方へ、亀岡氏の望みでその文銭五十円でお払いを済ましたようなことがありま した。亀岡氏は、師匠生前永の歳月を丹精して集められたもの故、自分はこれを神仏へ のお賽銭に使用するつもりである。師匠の供養ともなるであろうと申されていたのを聞 いて、私は涙ぐましく思ったことがありました。  師匠の仮初の楽しみが、偶然葬式の料となったことなども考えて見れば妙なことと思 われます。  また或る日のこと、亀岡氏は私に向い、 「師匠没後の高村家の一切は、君が当面に立ってやってもらわねばならぬ。この事も 未亡人にも私から話してあるから、そのつもりで万事を遠慮なくやってくれるよう。政 吉はあの通りの人であるから、決して当てにせぬように」 との事であった。そして亀岡氏は高村家のために或る組織の下に店の業務を取り計らお うなどいわれたこともあったが、そういうことは私などもまだ智識が足らぬ時分で能く 分りもせず、そのことはそれ切りで実現はしませんでした。そして私は寿町の宅から (堀田原から寿町へ転居)毎日通い、仕事の方のことをやっておったのでありますが、い かに私が表面に立って師匠没後の仕事を取り扱う責任を持つとはいえ、私は一個の手間 取りでありますから、高村家の後事について一家の内事にまで指図をするというわけに は参らず、甚だ工合の悪い立場に立ったのであった。  それで、私はまず専念仕事の方のことを処理するが何よりと、従来よりも一層仕事の 上に忠実を尽くし、すべての注文の上に手一杯念入りにして、東雲師没後の彫刻に一層 好評を得るよう心掛けました。これは、店の寂れることを用心するには、注文の品を手 堅く念入りにして、一層華客場の信用を高めることが何よりと感じたからであった。し かるに、私の考えと、政吉の考えとは、どうも一致いたしませんで、政吉はまず差し当 りの儲けを見て行くという意見で、たとえば私が下職の方の塗師の上手の方へやろうと いうのでも、政吉は安手の方の塗師車で済まして、手間を省こうという遣り口。しかし 昼間はすべて私が積りをして、これこれの目算を立て、政吉に一応相談をすると、それ が好いだろうと同意している。私はその手順にして夜分家に帰ると、夜になって、政吉 は、未亡人に向い、 「幸吉はこれこれと積っているが、あれでは儲けが薄い。素人の客に馬鹿念を入れて やって見たってしようがない。塗りのことなんぞ素人に分るもんじゃない」 などいう風に自分の意見を吹き込むので、度重なれば、未亡人は利溌な人であっても、 やっぱりその気になって、政吉の意見に従おうとする。それに政吉は当時師匠の没後ず つと師宅に寝泊まりをしていて、遠慮のない男で、夜になると、酒を火鉢で燗をしての むなど甚だ不行儀で、そのくせ、必要な客との応対などは尻込みをして姿を隠すなど、 なかなか奇癖のある人物で、私とはどうも性が合いかねました。  まず右のような行きさつで、私が一つこの際踏ン張るとすると、勢い兄弟子を下つ取 りにしなければならぬ。それも嫌なり。何ともつかずやれば成績は上がらず、かえって 邪魔をされ、邪魔されて師匠の没後の家のためにならぬにかかわらず、のんべんだらり で附いているはさらに嫌なり。亀岡氏に話してこの成り行きを詳しくすれば、これまた 自然同氏から未亡人へ小言が行くことになる。何か物をいいつけるような形になってこ れまた私の性として好まぬところ、あれやこれやにてどうも面白からず思いましたので、 これはこの辺にて、もはや見切りを附けるところか。今日まで独立を思い立っても、義 理にからまれ、それも思うに任せなんだが、もはや年が明けて六年の歳月をいささか師 匠にも尽くしたと思うこともあるによって、今日、この場合、自分が身を引いたとあつ ても道にはずれたことでもあるまい。どうやら、自分の独立する時機が自然と来たのか も知れぬ。また、一方から考えると、自分というものが師匠没後の事に当っていればこ そ、政吉も当面に立って充分に働きを見せぬが、自分が身を引けば、彼は立って働くに 相違ない。自分が末亡人と政吉と頭の上に二人人間があうて仕事のしにくいと同じよう に、政吉とても、自分があっては、やっぱり同様の感があるであろう。これは政吉を表 面に立たせて働かすこそかえって目下のためであろう。——こう私は考えました。  この事は誰にも相談したのではなく、自分でかく決心して身を退く覚悟をきめたので ありましたが、さりながら、足元から鳥の立つよう、今日からお暇を頂くというのも余 りいい出しにくく、月に半月ずつの暇を貰いたいことを申し出ました。すると、未亡人 は、では、そうしてもらいましょうと、別に私を引き止めもしませんから、なるほど、 これなれば身を引くにもかえって好都合と、それから十日のものが七日、五日と段々足 が遠のくにつれて、こちらはますます入れ子の人間となり、政吉は、果して、まず立派 に店のことをやって行くようになりましたから、今は、もう、すべてを政吉に譲るべき であると思い、清く私の身を引いたことでありました。  政吉は後年ずっと師匠没後の家におり、その二階で病死したのでありました。  さて私のその後のことについては、ここで初めて師匠の家を離れ、独立することにな るのであるから、私の境遇はまた一段と形が変って来るわけであります。  私は、その頃は、堀田原の家を移って森下へ抜ける寿町へ一軒の家を借り其所におり ました。堀田原の家は師匠在生中、蔵前に移ったにつき、同所は火堅い所故、別段立ち 退き用心の家も不必要の所から堀田原の家は売られましたので、私は寿町へ転じました。 堀田原の家で私の総領娘咲子が生まれました。それは明治十年九月五日であった。 寿町時代は翌十一年頃のこと。それから浅草小島町へ、次は下谷西町に移りました。 師匠没後養母お悦さんは心細いことと思い私は出来るだけ気を付けておりましたが、 明治三十二年八月十九日、七十九歳の長命でおきせさんの家で没しました。 神仏混淆廃止改革されたはなし  明治は年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混靖で あった従来からの習慣が区別されることになった。  これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛を前に、その後ろには必ず 仏像を安置し、天照皇大神は本地大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は 本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混渚が行われていたのである。 この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一の宗教政 策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧 侶を別当と称え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭われていたよう な有様であった。政府はこの弊を矯めるがために神仏混滑を明らかに区別することにお 布令を出し、神の地内にある仏は一切取り除けることになりました。  そして、従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社という ようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方かに方附けなければならないこ とになったのである。これは日本全国にわたった大改革で、そのために従来別当と称し て神様側に割り込んでいた僧侶の方は大手傷を受けました。奈良、京都など特に神社仏 閣の多い土地ではこの問題の影響を受けることが一層甚かったのですが、神主側からい うと、非常に利益なことであって、従来僧侶に従属した状態になっていたものがこの際 神職独立の運命が拓けて来たのですから、全く有難い。が、反対に坊さんの方は大いに 困る次第である。  そこで、例を上げて見ると、鎌倉の鶴け岡八幡に一切経が古くから蔵されていたが、 このお経も今度の法令によって八幡の境内には置くことが出来なくなって、他へ持ち出 しました。一切経はお寺へ属すべきものであるからというのです。そこでこのお経は今 浅草の浅草寺の所有になっております。  それから、この浅草寺ですが、混渚時代は三社権現が地主であったから馬道へ出る東 門(随身門)には矢大臣が祭ってあった。これは神の境域であることを証している。観音 の池内とすれば、こんなものは必要ないはずであります。もう一つ可笑しいことには、 観音様に神馬があります。これは正しく三社権現に属したものである(神馬は白馬で、 堂に向って左の角に厩があった。氏子のものは何か願い事があると、信者はその神馬を 曳き出し、境内の諸堂をお詣りさせ、豆をご馳走しお初穂を上げてお蔵いをしたもので ある)。こういう風に神様の池内だか、観音様の地内だか区別がないのです。法令が出 てから観音様の境内と三社様の境内とハッキリ区別が出来ましたために、諸門は観音に 附属するものになって、矢大臣を取り去って二天を祭り、今日は二天門と称している。 神馬も観音の地内には置くことが出来ない故、三社様の地内へ移しました。  右のような例によって見ても、神仏の混猪していたものが悉く区別され、神様は神様、 仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。これは、つまり、神社を保護して仏様の 方を自然破壊するようなやり方でありましたから、さなきだに、今まで枝葉を押し拡げ ていた仏様側のいろいろなものは悉くこの際打ち段されて行きました。経巻などは大部 なものであるから、川へ流すとか、原へ持って行って焼くとかいう風で、随分結構なも のが滅茶々々にされました。奈良や、京都などでは特にそれが甚かった中に、あの興福 寺の塔などが二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い人がなかったというような滑 積な話がある位です。しかし当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代で ありますから、何事につけても、こういう風で、それは自然の勢いであって、当然のこ ととして不思議と思うものもありませんでした。また今日でこそこういう際に、どうか したらなど思うでしょうが当時は、誰もそれをどうする気も起らない。廃滅すべきもの は物の善悪高下によらず滅茶々々になって行ったものである。これは今日ではちょっと 想像に及びがたい位のものです。 本所五つ目の羅漠寺のこと  この時代のことで、おもしろい話がある。これは神仏混渚の例証ではありませんが、 やはり神仏区別のお布令からして仏様側が手酷しくやられた余波から起った事柄であり ます。  本所の五つ目に天恩山羅漠寺というお寺がありました。その地内に礫螺堂という有名 な御堂がありました。形は細く高い堂で、ちょうど蝶螺の穀のようにぐるぐると廻って 昇り降りが出来るような仕掛けに出来ており、三層位になっていて大層能く出来た堂で あった。もし今日これが残っておれば建築家の参考となったであろう。堂の中には百観 音が祭ってあった。上り下りに五十体ずつ並んで、それはまことに美事なもので、当寺 の五百羅漢と並んで有名であります。  この百観音は、羅漠寺建立当時から、多くの信仰者が、親の冥福を祈るためとか、 愛児の死の追善のためとか、いろいろ仏匠をもっての関係から寄進したものであって、 いずれも中流以上の生活をしている人々の手から信仰的に成り立ったものであります。 それで、各自にその寄進の観音をば出来得るだけ旨く上手に製作えてもらおうというの で、当時、江戸では誰、何処では誰と、その時々の名人上手といわれている仏師に依頼 して彫らしたもので、それが一堂に配列されることであるから、自然と自分の寄進した ものが、他より優れているようにと、一種の競争心を生じ、一層このことに熱心になる という傾向を為します。一方依嘱された仏師の方でも、各名人たちの製作が並んで公衆 の面前に開展されることでありますから、これも腕によりをかけるという風、伎倆一杯 に丹精を擬らし、報酬の多寡などは眼中に置かないという有様となる。そして、その寄 進された観音には京都の仏師もある。奈良の仏師もある。江戸の仏師が多分を占めては おりますが、いずれも腕揃いであって、凡作は稀で、なかなか結構でありました。  そして、その中には、五百羅漢を彫った当羅漢寺の創建者である松雲元慶禅師の観音 もありましたこと故、私の修業時代は、本所の五ツ目の五百羅漢寺といえば、東京方面 における唯一の修業場であって、好い参考仏が一纏まりになって集まっているのでした。 もっとも、五百羅漢、百観音は、いずれも元禄以降の作であって、古代な彫刻を研究す るには不適当であったが、とにかく、その時代の名匠艮工の作風によって、いろいろと  見学の功を積むには、江戸では此寺に越した場所はありませんでした。 それで、私などは、朝から、握り飯を持って、テクテク歩きでこの羅漢寺へやって来 て、種々と研究をしたものであります。日が暮れると、またテクテクとやって家へ帰る。 他に便利な乗り物がないから、弟子も師匠も、小僧も旦那も、それだけは一切平等であ りました。  右の如く、羅漠寺は名刹でありましたが、多年の風霜のために、大破損を致している。 さりながら、時代は前に述べた通り、仏さまに対しては手酷しくやられたものであるか ら、さながらに仏法地に堕つるという感がありました。で、このお寺を維持保存するな どは容易のことではない。部分的にちょっとした修繕をするということさえむずかしい。 彼の百観音を納めてある蝶螺堂のある場所を、神葬祭場にするという評判さえあって、 この霊場の運命も段々心細くなるばかり……その中、とうとう際螺堂は取り殿すことに なって、壊し屋に売ってしまいました。  ところが、この売るということが、お話しのほかで、買い手もないといった頃、その 頃の堂々たる大名、旗本の家屋敷、あるいは豪商大家の寮とか別荘とかいうものでも、 いざ、売り払うとなると二束三文、買ってもしようがないと貰い手もない時節であるか ら、この蝶螺堂を、壊し屋が買った値段も想像されます。とにかく、その建築物の骨を ば商売人が買ったが、その中に百観音が納まっている、さあ、この観音様の処分をどう しましたか。これが涙の出るようなことでありました。 蝶螺堂百観音の成り行き  蝶螺堂は壊し屋が買いましたが、百観音は下金屋が買いました。下金屋というのは道 具屋ではない。古金《ふるがね》買いです。古金買いの中でも、鍋《なべ》、釜《かま》、薬缶《やかん》などの古金を買うもの と、金銀、地金を買うものとある。後の方のがいわば高等下金屋である。これに百観音 は買われました。……というのは、観音の彫刻にはいずれも精巧な塗り彩色がしてあり ますので、その金箔を見込んで買ったのである。単に箔だけを商売人たちは踏んでいる ので、他には何んの見込みをつけているのではない。  下金屋は本所枕橋の際、は百松から右へ曲がった川添いの所にあった。その川添いの 庭に、百観音のお姿は、炭俵や米俵の中に、三、四体ずつ、稗々と詰め込まれ、手も足 も折れたりはずれたり荒縄でくくって拠り出されてある。これは、五つ目からこの姿の ままで茶舟に搭せられ、大河を遡って枕橋へ着き、下金屋の庭が荷楊げ場になっている から、直ぐ其所へ引き揚げたものである。  そうして、彼らはこれをどうするのかというと、仏体はそのまま火を点けて焼いてし まい、残った灰をふいて、後に残存している金を取ろうというのです。今、彼らはその 仲間たちと相談して、やがて仕事に取り掛かるべく、店頭で一服やっている所でした。 この妙な状態を或る人が見たのでした。その人は私の師匠東雲師を知っている人であ った。話を聞くと、これこれというので、その人も随分驚いた。音に名高い本所五つ目 の羅漠寺の、あの蝶螺堂に納まっていた百観音のお姿が、所もあろうにこんな処へ縛ら れて来て、今にも火を点けて焼かれそうになっているのだから、驚いたも無理はありま せん。その人は、何んとかして、この危急な場合を好い都合に運びたいものと考えたと 見え、かねて知人である仏師東雲へこの話しをしたら、何んとかなろうと思ったのでし よう。その人は、吾妻橋を渡って並木の方から東雲師の店(当時は駒形に移っていた)を 差してやって来たのでした。  その日は暑い日でした。何月頃であったか、表通りの炎天を見ながら、私は店頭で仕 事をしていました。其所へ一人の人が尋ねて来た。 「師匠はお宅ですかね」 「師匠は朝から山ノ手へ要事があって出掛けましたが……」 私がそう答えますと、その人は失望したような表情をしました。 「そうですか。じゃあ、ちょっとは帰りませんね。ああ、生憎だなあ……惜しいこと だなあ……」 と、何か容子ありげに嘆息しております。私はどうしたのかと思って、その来意を尋ね ると、「実はこれこれで……余り見兼ねた故、此店の師匠に知らせて上げたら、何んと かなるだろうと思い、わざわざやって来たんだが、師匠が留守とあってはどうもしよう がない。これが明日、明後日と待っていられることではないのだから、今一刻をも争う というところだからね。だが、どうも仕方がない。さようなら」 そうその人はいいながら、帰ってしまいました。  この話を聞いて困ったのは私です。  どう所置をして好いか分らない。後刻ともいわさず、今が今という速急な話……こう して困じ果てて考えている時間さえも今の人の話の容子では危ないほどのこと……はて、 どうしたものかと考えた所で師匠は留守、帰りを待っている中には万事は休してしまう。 これは実に困ったと真底から私は困り抜きました。  しかし、困ったといって、こうして腕を供んで、阿呆見たいな顔はしていられない。 どうにかしなければならないという気が何よりもまず先立って来る。あの百観音が今焼 かれようとしている。灰にされようとしている。灰にされてしまったらどうなるのだ。 ……あの、平生から眼の底に惨み附いている百観音が……自分の唯一のお師匠さんだつ たあの彫刻が、今にも灰になろうとしている……、もう、今頃はあのお姿のどれかに火 が点いているかも知れない。焼け木杭見たいになっているかも知れない……そう思うと 情けないやら、懐かしいやら、またそれがいかにも無残で、惜しいやら、私はただもう ふらふらとその現場へ飛んで行きたくなりました。  と、いって、私は、よし、その現場へ飛び込んだにしろ、その急場を扶うには是非入 用な金銭を持っておらぬ。私に金銭などのある時節でありませんから。けれども、そん なことは問題ではない。何んでもあれ、とにかく、その場へ行って見なければ気が済ま ないので、私は立ち上がりました。  そして師匠の妻君へ、理由を話し、ちょっとの暇を下さいと申した。すると、妻君も 驚いた顔をして、それでは行ってお出で、師匠が帰ったら、その事を話すから、という。 では、どうかそう願いますと、私は師匠の家を飛び出しました。  駒形から、枕橋までは、どれだけの道程でもない。私はドンドンと走って行く……  その間にもまた考えましたことは、こんな独断なことを師匠の留守にして、もしや、 師匠が帰って、馬鹿な奴だといって叱られるか知れない。というような心配を繰り返し ましたが、叱られたらそれまでのことだ、ともう度胸も据ってしまって、私は間もなく 下金屋の店へ行き着きました。  それから、私が、下金屋の主人と仲間とが三、四人一緒になっている前へ行って、私 の来意を語り終るまでには、随分間の悪い思いをしました。というのは東雲師自身がや って来たのなら話になるが、弟子の私では先方の信用がさらにないからです。先方は何 んだか面倒臭そうに、いくらか軽蔑したような顔をして碌に話しを聞いてもくれません。 けれども、私は、そんなことに閉口してはいられない場合ですから、ただ、もう百観音 の運命が気掛かりでたまらないのですから、こう主人に話し掛けました。 「……とにかく、私に、あの俵の中のお姿を二、三体見せて下さい」  すると、そんなことをされていじくられちや、仕事の邪魔になって困るという顔をし ている。中には、見るだけなら見たって好かろう、と口を添えてくれたものもあった。 私は彼らの返事は碌にも聞かず、もう脚がずんずん俵の傍に寄って行き、手は早くも荒 縄を解いていました。  ところで、私の考えでは、この百観音の中に、優れたものが五、六体ある。それを撰 り出そう。まずそれを撰り出すことが何よりも肝腎だ、とこう思いましたから、あつち、 こつちと俵の縄をほぐしては調べて行くと、かねて目を附けているものが出て来る。 「おお、これだ」 と私の悦びは飛び立つ位。胸はどきどきします。また、別の俵を開けて見ると、天冠、 台坐が脱れ、手足などが折れたりしたなりで出て来る。 「おお、これだ。此処にもあった」 と、私はその都度張り合いになって、一生懸命に探し廻る。  私の見付け出した観音様の中には、細金の精巧なものがある。これは京都仏師七条左 京の作。または天狗長兵衛と綽名のある名工の手の篭んだ作がある。それから羅漠仏師 松雲元慶禅師の作がある。けれども、それらが御首や、手や脚や、台坐、夫冠などが手 荒らに取り扱われたこととて、ばらばらになっているのを、私はまた丹念に探し廻って、 やつと、どうにか揃えました。  そうこうしている中に、午になる。私がこうやって五、六体を撰り出したことには 理由のあることだ。それはどうにかして、これだけは焼いてもらわない算段をしようと いうのである。師匠が帰って来るまで、とにかく、一時手をひかえてもらおうという決 心である。で、その旨を先方に話すと、先方は、いじくり廻された上に、こんなことを 掛け合うのですから、さらに嫌な顔をしている。 「そんな悠長なことはいっていられない。私たちはこれから焼こうというのだ。飛ん だものが飛び込んで仕事の邪魔をして困るじゃないか。おい。そろそろ仕事に掛かろう じゃないか」 「まあ、そういわずに、この撰り出した分だけは手をつけずに置いて下さい。お願い ですから」 など、押し問答している所へ、天の祐けか、師匠の姿が見えました。 「師匠が来た。まあ、よかった」 と思うと、私は急に安心しました。 「幸吉か、お前よくやって来てくれた。俺も心配だから飛んで来たんだ。家で様子を 聞くと直ぐに……」  師匠は私にそういってから、下金屋と挨拶をしている。かねてから、下金屋は師匠を 能く知っているので大変丁寧になる。 「先刻からお弟子さんがやって来て、大分撰り出しましたよ」 などいっている。  私は師匠に、名作の分だけ五、六体は撰り出したことを話すと師匠が、 「幸吉、もう好いにしようよ。そんなに買い込んだって売れやしないぜ。お前の撰り 出した名作五体だけにして置こう。後は残念ながら止しにしてとにかく引き取ることに しようじゃないか」  そこで師匠はさらに具体的に談判を進めました。  で、つまり、幾金ということになったのです。  こうなって来ると、下金屋の方でも慾が出て来ましょう。今、江戸でも有名な仏師の 東雲が、百観音の中から五体だけ撰り出して、これを幾金に売るか〕.というとなると、 彼らもちょっと首をひねらねばなりません。そこで足元を見て、一体を一分二朱で手放 そうということになった。五体だから、一分が五つの一両一分、二朱が五つで二分二朱、 すなわち五体で一両三分二朱(今日勘定で一円八十七銭五厘)ということに相談が纏まり ました。当時の一両三分二朱は現今の三十円内外にも当りましょうか。 そこで、車を借りてそれを乗せ、日の暮れる頃師匠の家へ運んで来ました。それから 買った後の九十五体の観音はどうで焼けてしまうのだから、その玉眼と白台(眉間に朕 めてある宝玉、水晶で作ったもの)が勿体ない。私が片ツ端から続目を割って抜き取り ました。師匠と両人で何んだか情けないような感じがしました。いうまでもなく下金屋 がそれらに何んの価値を認めないということで思い付いた仕事でした。 私の守り本尊のはなし  さて、五体の観音は師匠の所有に帰し「まあ、よかった」と師匠とともに私は一安心 しました。しかし、私にはここで一つの希望が起りました。私は、数日の後、師匠に向 い、その望みを申し出でました。 「師匠、あの観音五体の中で一体を私にお譲り下さいませんか。私はそれを自分の守 り本尊として終生祭りたいと思うのです。もっともお譲り下さるならば、師匠がお求め になった代を私はお払いしますから」  私は思い切ってこういいました。  私がそれを熱望した心持は、最初百観音が灰にされるということを聞いて、嘆き悲し み、懐かしみ、惜しみした心持と少しも変りはないのでありました。 こう私に望まれて見ると、師匠は五体揃っているのですから、何んとなく手放しにく いような容子が見えましたが、元々私がこの事件には先鞭を附けている手柄もあること を師匠も充分承知していることだから、 「そうか。それは譲って上げてもよい。だが、いったい、何の観音をお前は望むんだ ね」 こういって師匠はその中で特に精巧に刻まれてある細金の一体を取り上げ、 「これを欲しいというのかね」 といいました。 「いいえ、私のおねだりするのはそれではありません。これです」 私の撰み取ったのは、松雲元慶禅師のお作でした。 「そうか。それを欲しいのか。じや、譲ってやろう。お前が一生祭って置くというの なら……」 師匠は快く私の請いを容れてくれました。で、私は一分二朱を現金で払った時の嬉し さといってはありませんでした。  もうこの元慶禅師のお作のこの観音は私の所有に帰したのだと思うと、心が躍るよう でした。私は喜び勇んでそれを我が家へ持って帰りました。  それから、私は、右の観音を安置して、静かにその前に正坐りました。そして礼拝し ました。多年眼に惨みて忘れなかったその御像は昔ながらに結構でありました。  けれども、お姿に金が付いていたためにアワヤ一大御難に逢わされようとしたことを 思うと、金箔のあるのが気になりますから、いつそ、この木地を出してしまう方が好い と思い、それから長い間水に浸けて置きました。すると、漆は皆脱落れてしまい、腰で はいだ合せ目もばらばらになってしまいましたから、それを丁寧に元通りに合わせ直し、 木地のままの御姿にしてしまいました。これはお手のものだから格別の手入れもなしに 旨く元通りになりました。そうして、それを私の守り本尊として、祭りまして、現に今 日でも私はそれを持ち続けている。  私は観音のためには、生まれて以来今日までいろいろの意味においてそのお扶けを冠 っているのであるがこの観音様はあぶないところを私がお扶けしたのだ。これも何かの 仏緑であろうと思うことである。  さて、師匠の所有の四体の観音は、その後どうなったかというに、一つは浅草の伊勢 屋四郎左衛門の家(今の青地氏、昔の札差のあと)、一体はその頃有名だった酒間屋で、 新川の池喜へ行きました。それから、もう一体は吉原の彦太楼尾張へ行った。もう一体 は何処へ納まったか覚えておりません。  かく師匠の手に帰した観音も、日ならずして人手に渡り、ちりぢりばらばらになって しまいましたが、私の所有の松雲元慶禅師のお作は、今以て私が大事にして祭っており ますところを見ると、最初私がこの観音の灰儘に帰しようとする危うい所をお扶けしよ うとした一念が届いて、かくは私と離れがたない因縁を作っているように思い、甚だ奇 異の感を深くするわけであります。  この禅師のお作は、徳川期のものではあるが、なかなか恥ずかしからぬ作であります。 禅師は元来は仏師でありましたので、その道には優れた腕をもっておられ、五百羅漢製 作においても多大の精進を積まれ一丈六尺の釈迦牟尼仏の坐像、八尺の文殊、普賢の坐 像、それから脇士の阿難迦葉の八尺の立像をも彫まれました。なお、禅師についての話 は他日別にすることと致します。 実物写生ということのはなし  明治八、九年頃は私も既に師匠の手を離れて仏師として一人前とはなっておりました が、さて、一人前とは申しながら、まだ立派に世に立つに到ったとはいえない。師匠の 家は出たけれども、自分の家から師匠の家に通って仕事をしておりました。  ところが、その時分は前に話した通り仏教破壊のあおりを食って仏に関係した職業は 何事によらず散々な有様でありますから、したがって仏師の仕事も火の消えたようなこ とになりました。この社会の傾向を見ていると、私は、どうも考えぬわけには行かぬ。 師匠東雲師のように既に一家を成して東京でも一、二の仏師と知られていれば、いかに 社会が変化して来ても根抵が固まっているから、さほどに影響を受けもしません。また、 受けるにしてもそれに受け応えることも出来ますが、私たちのように、まだ一向に基礎 の確定しておらぬものは、生活するということからも考えねばならぬ。仏師という職業 がこのまま職業として世の中に立って行けるものか。よしまた行けるとして、従来通り の仏師でやって行って好いものか、その辺のことについて考えて見るに、どうも不安で なりません。自分の職業とする仏師の仕事その物にも不安であると同時に、仏師の仕事 によって糊口して行けるか否やについても不安である。いろいろ急激に社会の事物の変 遷する時代は、何事によらず、その社会に生きて行く人の上には不安な思いが襲い掛か って参るもので、私も大いに熟慮を要しなくてはならないと思ったことであります。 されば、段々と仏師への注文が少なくなって来る。師匠東雲師の店においても従前と はよほど仕事の数が滅って参りまして、この先どうなることか心配をしている……か ここにまた時勢の変遷につれて、いろいろな事が起って来る中に、横浜貿易というもの が恐ろしい勢いで開けて来ました。それで、その貿易品が一般に流行する所から、貿易 品的な置き物のようなものの注文が大分師匠の許に来るようになった(その頃は貿易と いわず交易といっていた)。しかし、従前通りの手法で仏様を長くやっていたこと故、 その習慣上貿易品向きのものを製作するとしても、どうしても仏様臭くなってしようが ない。仏様を作るには仏様臭いのは仕方もないが、貿易品的のものに仏臭のあるのは面 白くない。どうかしてこの仏臭を脱して写生的に新しくやって見たいものだということ が私の胸に浮かんで来ました。  もっとも、この考えは今さらのことでなく、私の年季中から既に芽差していたことで、 何かにつけ心掛けてはおりましたが、いよいよ社会の要求に駆られるようになって見る と、事実その写生的に行く方のやり方を実行して見たくなったのであります。すなわち、 私自身としては自分の製作の態度や方法を一変して新しくやって見ようという心を起し たのであります。  そこで、まず差し当っては、何をその研究の資料にするかというと、従来のお手本と は全く違った方面のもので、たとえば、西洋から輸入して来たいろいろの摺り物、外字 新聞の挿画のようなものや、広告類の色摺りの石版画とか、またはちょっとした鉛筆画 のようなもの、そういうものが外人との交際の頻繁になるにつれて所在にそれがある。 それを、いろいろの機会に見付け次第、買ったり借覧したりして見ると、どうも私の脳 がそれに惹き付けられ、また動いて来る。というのは、在来の彫刻の手本にした絵とか 彫刻の手本とかいうものとはよほど異なった行き方であって、動物でも、草木、花、物 品、すべてのものが真に迫って実物に近い。それはほとんど実物そつくりといってもよ るしい。犬一匹描いてあってもどう見ても本物である。特にその毛並みのやり方が目に 立って旨く出来ている。従来の彫刻の方でやる毛の彫り方は、まるで引つ掻いたように 毛が生えているという心特だけを肉の上へ持って行って現わすのであるが、西洋の絵は、 毛は毛で、皮膚の上へムツクリとして被いかぶさり、長い処、短い処、渦を巻いている 処、波状になった処、験ねた処、びったりと引つ付いた処と、その毛並みの趣が、一々 実物の趣が現わされている。それを私は見ていると、どうしても在来の彫刻のやり方で は、それが一向適切に現われて来ない。これは、どうしてもこの西洋の絵画の行き方の ように彫刻の方でも工夫をしなければいけないということを私は考えました。  そして、そういう西洋画の行き方に彫刻の方をやるには、やはり西洋画が写生を主と したと同じように写生を確かりやらなければならないと、こう考えました。今日から見 ると、甚だ当り前のことであるが、とにかく、私は此所へ着眼して一意専心に写生を研 究しました。ちょうど、それが画家が実物を写生すると同じように刀や鑿をもって実物 を写生したのである。毛の上に毛の重なり合い、あるいは波打ち、揺れ動く状態等緩急 抑揚のある処を熟視して熱心にやりました。で、万事がこの意気であるから、動物の骨 格姿勢とか、草木、果実、花などの形においてもやはり同じことで、いろいろと実物を 的にして彫刻するということに苦心したのであります。  この研究が一、二年続く中に、何時となく従来の古い型が脱れて、仏臭が去ったよう なわけであって、その頃では、こういってはおかしいが、私は新しい方の先登であった のであります。 脂土や石膏に心を惹かれたはなし  ちょうど、その時分、虎の門際の辰のろに工部省で建てた工部学校というものが出来 ました。噂に聞くと、此校では西洋人を教師に傭って、絵や彫刻を修業しているのだと いうこと、絵は油絵であり、彫刻は西洋彫刻をやっているのだという評判……そういう 話を聞くと、私はそれを見たくて仕方がないが、しかし見るわけにも行かぬ。生徒には 藤田文三氏、長沼守敬氏、大熊氏広氏などいう人たちが入校っているようであるが、自 分は純然たる仏師のこととて、まるで世界が違う。其日々々の手間を取って一家の生計 を立てて行くその仕事の余暇を見つけては、今申す通り実物を教師にして写生すること を心掛けているのであるから、なかなか、そういう学校へ入学してその人々とともに研 究修業することなどは思いも寄らぬ。  しかし、西洋の彫刻を西洋人の教師から習っているということは、聞くだけでも羨望 に堪えぬわけでありますから、何かにつけ、その噂を聞くことさえも心が惹かれるので ありましたが、或る人の話に、工部学校では、木彫りはやらないのだそうな。何んでも 「脂土」といって幾日経っても固まらない西洋の土を使って実物を写すので、その土は 付けたり、減らしたり自由自在に出来るから、何んでも思うように実物の形が作れる。 そうして今度は、その出来た原の形へ「石膏」という白粉のような粉を水に溶いたもの を被せ掛けて型を取るのだそうな。だから非常に便利で、かつ原型そつくりのものが出 来るということだ。というようなことを聞きます。けれども、実際、どういうことをや っているのか、実地を見るわけに行かないが、話に聞いただけでもどうも甚だ都合が好 さそうに思われる。かねてから、私は木彫りというのはちょっと不自由な所があること を考えていた。それは、木彫りは一度肉を取り過ぎると、それを再び付け加えることは 出来ない。この不自由なのに反して、増減自在でかつ幾日経っても軟らかなままである という「脂土」のことを考えると、どうも、その土が至極のものと思われる。 「どうだろう。その脂土というものは売り物はないだろうか」 こう私はその話をした人に聞きますと、 「そりゃ、売り物にはないだろうが、工部学校から、どうかすれば出ないものでもあ るまい、しかし非常に高価なものだそうだ」 「高価といってどの位するものだろうか」 「一寸四方一円位だそうな」 「なるほど、それは高い。とても我々の手にはまあ這入らない」 私は残念ながら、こういうよりほか仕方がありませんでした。が、どうも、その土の ことが気になってしようがありませんでした。 その後、或る日、工部学校の前を通り、ふと見ると、お濠へ白水が流れている。 「アア、これだ、これが石膏というものだな」と私は思いました。 それで、またその石盲が脂土と同じように私の憧れの種となりました。 さて、私はこうして一方には西洋彫刻のことに心を惹かれ、一方では自然の物象につ いて独り研究しつつ、相更らず師匠の家に通って一家の生計をいそしんでいる中、前述 の横浜貿易がこの一、二年間位の中に恐ろしい勢いで盛り出して来ました。 師匠の許へは米沢町の沢田という袋物屋から種々貿易向きの注文が来て、その方がな かなか多忙しくなる。今までは仏様専門であったが、今は不思議なものを彫る。たとえ ば、枝珊瑚樹を台にして、それに黒奴が大勢遊んでいるようなものを拵える。枝珊瑚の 根の方を岩にして、周囲を怒り波と涛とを現わし、黒奴が珊瑚の枝に乗って刺似を吹い ているとか、陸に上がって衣物をしぼっているとか、遠見をしているとかいう形を作る。 それは黒檀で彫るので、珊瑚の赤色には好くうつるので、外国人向きとしてなかなか評 判よろしく能く売れるという。それで職業的にはまずこうしていても生活の助けとはな るが、しかし、私の実物写生の研究と西洋彫刻に対する憧債は少しもゆるみはせず、ど うかして、一新生面を展きたいものである。このまま、こういうことばかりしてはいら れないという不安が始終私の心を鞭うち、そのため人知れぬ苦労をもしたのであった。 鋳物の仕事をしたはなし  とかくしている中、また一つ私の生活に変化が来ました。  それは牛込神楽坂の手前に軽子坂という坂があるが、その坂上に鋳物師で大島高次郎 という人があって、明治十四年の博覧会に出品する作品に着手していた。 これは銀座の三成社(鋳物会社)が金主となって大島氏に依嘱したものであるが、その 大島氏と息子に勝次郎(後に如雲と号す)という人があって、まだ二十歳前の青年である けれども、なかなか腕の勝れた人で、この人が主となってその製作をやっておった。と ころが、大作のこととて、なかなか大島氏父子の手だけでは十四年出品の間に合いそう もない所から、十二年の暮頃から、しきりと製作を急いで来たがどうも手助いを頼む人 物がなかなか見当らない。そこで、父の高次郎氏が、どういう考えであったか、その助 手を私に頼むことに決めたと見え、或る日、突然、私の宅へその人が訪ねて来たのであ る。  高次郎氏に逢って見ると、「実は、これこれで仕事を急いでいる。是非一つ来てやつ て頂きたい」 との頼み、しかし、話を聞くと、先方の仕事は鋳物の方で、蝋作りでやるのだという。 私は木は彫るが、蝋はいじったことはない。まるで経験のない仕事であるから、とても これはやれない。折角ですが……と断わりますと、大島氏はなかなか承知せず、 「そんな心配は御無用だ。木彫りの出来るあなたが蝋のひねられないという道理はな い。まあ、とにかく、来てやって下さい。木のやれる腕前だ。蝋は何んでもない。是非 一う引き受けておもらいしたい」 と、一本槍に頼まれて、私も実は当惑した。というのも、手練れないことを軽率にやつ て、物笑いになるようでは気の利かぬ話と思ったからであります。けれども、大島氏は 強ってといってなかなか許しませんので、経験がないということも、その経験を作るこ とによって、智識も啓け、腕も上達するというもの、聞けば蝋作りというものは、なか なか自由の利くもので、指でひねって形を作るのであるというが、これはかねてから心 を惹かれている彼の増減自在の「脂土」のことにも思い到り、手法は異うにしても、蝋 でやることも面白からん、これは大いに彫刻のたよりとなるであろう。初めての仕事な れど、何も経験である。行って見ようかと私の心は動いて来ました。  それに勝次郎という人の仕事の上手であることをも予てから知っており、この人と一 緒に仕事することは、いろいろ智識を開くことにもなろう。また仏師の仕事と異って、 鋳物の方になると、思いもよらぬ面白い仕事をするかも知れない。何も修業だ、とここ に決心しまして、承知の旨を答えました。  大島老人は大いに喜び、早速、明日から来てもらいたいというので、まるで、足元か ら鳥の立つような話でありました。  さて、仕事に掛かって見ると、なるほど、彫刻の土台があることだから、出来ないこ とはない。蝋を取って指でひねって物の形を作る……なかなかこれは面白いと思う。二 日三日と経つと存外手に入って来る。 「それ見なさい。私のいった通りでしょう」 大島老人にこにこ笑っている。  かくて如雲氏とともに毎日仕事を励み、とうとう十四年出品の作物を鋳物に作り上げ てしまいました。  この製作品は竜王の像で、これは勝次郎氏作り、私はお供と前立ちの方を主にやった のです。そうして丸二年間大島氏の家に起臥して鋳金の仕事を修業したのである。  したがって参考のため、その頃の私の給料のことを話すが、それが面白いのは、大島 の老人が余計に給料を払おうというのを、私がそれを辞退して長い間押し間答をしたこ とを覚えている。仕事に来たその月晦日の夜の事ゝ大島老人は、最初私に向って、 「さて、あなたも、いよいよ家へ来て下さることになったから給料を決めよう。一体、 幾金上げてよいか。お望みのところをいって下さい」という。私はこれまで師匠の宅へ 通っている間、日給二十匁ずつを貰っていたから、これまで通り、二十匁(この二十匁 は三日で六十匁一両に当る)でよろしいのだが、まず一分二朱も頂けば結構というと、 「今時の時節にそんな馬鹿なことがあるものか、一分や二分ではどうなることも出来 やしない。私は一両二分差し上げる。また急なものだから時々夜業をお頼みすることが あるから、それは半人手間ということにして頂こう」 と大島老人はいう。  私に取って一両二分などいう給料は従来の二十匁に比してどんなに結構か知れません。 しかし、そんなに貰っては多過ぎますので、私は散々辞退をし押し間答の末、私から一 両に決めてもらい、その代り、夜業は自分の随意ということにしました。  この大島高次郎という人は、若い時から草鞋穿きで叩き上げたほどな人ですから、な かなか確かりした人物でありました。そして能く私のことを心配をしてくれ、私もまた 同氏のためには心から尽くしたので、博覧会が終んでも、まだ暇が質えず、やはり、二 年越し此所へ勤めていたのでした。  しかるに、或る時、十四日勘定の給料を受け取り、その晩家に帰りまして、翌十五日 は休日故、家にいて、ふと道具箱の小刀の抽斗を開けて見ました。  すると、驚いたことには小刀が悉皆赤錆になっております。これを見た時、私は何と もいえない腕塊悔恨の念が胸にこみ上げて来ました。 私は、暫く、その錆だらけの小刀を見詰めておった。胸に「アア、これは、大変なこ とをしてしまった」という思いが一杯になって、自分の所業を塊ずかしく感じ、孔へも 入りたく思ったのである。自分は相当の給料を貰い、まず心安くその日の生計をば立て 行くことの出来るは結構なれども、そういうことのために師匠譲りの木彫りを粗略にし、 二年間も小刀の手入れをせず、打つ棄って置いたということは何とも済まない。これは こうしてはいられない。自分は元の道に帰って木彫りを再びやらなければならん。とこ う決心しますと、もう矢も楯もたまらず、直ちに大島氏の家に行って、右の趣を述べ、 大島老人は物の能く分る人故、引き留めもせず、誠に御尤だといって機嫌よく暇をもら められて牙彫りの方へ代ってしまいました(石川光明氏は最初より牙彫りをやった人で、 当時の流行者の一人であった)。また本郷天神前に、旭玉山という牙彫家がいて弟子の 五人十人も持ち、なかなか盛んであった。当時の物価の安い時分でも、一日の手間三円 五十銭を得た位、師匠の作はもとより弟子たちの作でもドシドシ売れ捌けたものであつ た。それで、象牙商というものが、四、五軒も出来て大仕掛けに商売をしている。すべ てこの調子で、象牙彫りは一世を圧倒するの勢いでありましたが、それに引き代え、木 彫りは孤城落日の姿で、まことに散々な有様でありました。  されば、その頃、この流行を逆に行って、木彫りをやっているなどは、誠に気の利か ない奴に相違なかったのであります。それに木彫りは破損しやすいが、象牙彫りは粘着 力があって、しかも、見た目に美しく、何んとなく手の中へ入れて丸められるような可 愛らしさがありますから、時流に適したは無理のないこと。需要の多いものを供給し、 人の好むに投じて製作すれば、したがって収入多く、生計もたちまち豊かに、名声もま た高くなるのでありますが、私は、どうも、おかしな意地を持って、なかなかこ「の象牙 彫りをやる気になれませんでした。 牙彫りを排し木彫りに固執したはなし 「いやしくも仏師たるものが、自作を待って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋 でも焼いていろ、団子でもこねている」  これは高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。  私もまた、東雲師から、風雲はこういって我々を諌められた、といってその話を聞か されたものであります。それで、私の脳にも、この言葉が残っている。いい草は下品で あっても志はまことに高い、潔い。我々仏師の道を伝うるものこの意気がまるでなくな ってはならない。心すべきは今である……とこう私も考えている。それが私のおかしな 意地であったが、とにかく、象牙彫りをやって、それを風呂敷に包んで牙商の店頭へ売 りに行くなぞは身を斬られても嫌なことであった。が、さればといって木彫りの注文は さらになく、注文がないといって坐って待ってもいられない。かくてはたちまち糊口に 窮し、その日の生計も立っては行かぬ。サテ、困ったものだと、私も途方にくれました。 しかし、いかに困ればといって、素志を翻すわけには行かぬ。そこで私は思案を決め、 「よし、俺は木で彫るものなら何んでも彫ろう。そして先方から頼んで来たものなら 何でも彫ろう」ということにしました。で、木なら何んでも彫るとなると、相当注文は ある。注文によってはこれも何んでも彫る。どんなつまらないものでも彫る。そこで、 洋傘の柄を彫る。張子の型を彫る(これは亀井戸の天神などにある張子の虎などの型を 頼みに来れば彫るのです)。その他いろいろのものを注文に応じて彫りましたが、その 代り今年七十一(大正十一年十二月)になりますが、ついに道具屋へ自作を持って売りに 行くことはしないで終りました。 こういう風で、この当時は、私の苦闘時代といわばいって好い時であった。 前に申す如く、西町の三番地の小さな家の、一間は土間、一間は仕事場で、橋を渡つ て這入れば竹の格子があって、その中で私はこつこつと仕事をやっていた(通りからは 仕事場が見えた)。 すると、或る日、前に話した袋物屋の、米沢町の沢田銀次郎が訪ねて来ました。この 人は以前蔵前の師匠の家にいた当時、あの珊瑚樹に黒奴のとまっている仕事をたのまれ た関係で、旧知の人でありますから、久しぶり対面しますと、「一つ木彫りをお願いし たい」ということである。今時分木彫りをわざわざ頼みに来るのは不思議のようである が、この沢田は貿易物の他に、地の仕事をも請け合うのですから、私に木彫りを頼みに 来たのであった。布袋を彫ってくれ、というので、早速私は彫りはじめたが、この製作 は、私がいろいろ西洋彫刻のことにあこがれ、実物写生によって研究努力した後の木彫 りらしい木彫りであったから、私も長々研究の結果によって充分心行くような新しい手 法をもって彫り試みたことであった。もっとも、図は布袋であるが、従来の仏師の仏臭 を脱した一つの行き方をもってこの布袋を彫り上げたのであった。  そこで、沢田へそれを届けると、何金お礼をしたら好いかという。製作の日数の掛か っただけ一日一円という割にして私は報酬を貰い受けた。 その次は魚盤観音を一体、それから三聖人(三つ一組)を彫った。これらも実費だけを 受け、決して余計な報酬を得ようとはしなかった。それで沢田は気の毒がって、 「それでは、手間が掛かる一方で、とてもお引き合いにはならんでしょう」という。 「いや、まずその日の生計が家業をこうしてやっていて行って行けるのだから文句も ありません」 など答えると、沢田は、 「それは、そうでしょうが、あなたが、もし、象牙をおやりなさると、そりゃ、立派 な手間が払えますのですが……こちらも商売ですから、見す見すあなたがお手数をかけ て下すったものでも、木彫りでは儲けが薄いので、緑な手間をお払い出来ません。手間 が細かくって、手数ばかり掛かる木彫りよりか、一つ、どうです。象牙の方をおやんな すつちや……」 など、親切にいってくれますが、私はぶさようで象牙などは到底彫れませんと断わり、 緑にその方の話の相手にはならず逃げておりました。  その後、或る日のこと、沢田の奉公人が、風呂敷に二尺五、六寸ほどもある長い棒を 包んだものを持って来ました。 「これをお預かり下さい。後刻主人が参りますから」  そういって帰って行きました。  私は一目見て、その風呂敷の中には、何が這入っているかが分りました。それは無論 象牙の材である。 「ハハア、とうとうやって来たな」と私は思いました。 所へ、沢田の主人が来た。 「この象牙は熨斗を附けて差し上げます……」 という前置きで、沢田氏のいうには、 「今日は是非一つ象牙を試みて頂きたく出ましたわけで、かねがね申し上げたが御承 知のない処を見ると、象牙に経験がないから謙遜してのお断わりかと思いますが、この 材を差し上げることにしまして、彫って御覧になり、思うように行かなくても、御自分 の材なら御心配はない。何んなりとお試しに勝手に彫って下さい。そうしてお気に入つ たものが出来まじたら、手前の方へお廻し下さい。すると、手前の方では、象牙の値と、 手間とを差し上げます。そうすれば、あなたにも御面倒がなく気楽に仕事が出来るわけ、 また私の方でも甚だ好都合……実はこういう考えで上がりましたが、是非一つこの象牙 を買って頂きたいものです」 という口上、これには私も沢田氏の行き届いた親切を感謝しないわけには行きませんが、 しかし私としては、そうはいっていられない。ここはキツバリするに限ると思い、 「御親切なお言葉甚だ有難く存じますが、実は、私が象牙を手掛けないことには趣意 がありますことです。かねて師匠から小刀を譲られて、今さら、今日に及び生計のため と申して、その家業の木彫りを棄てて牙彫りをやるというわけには参りません。打ち開 けたお話をすれば、全く、私は、象牙を嫌なんです。イヤなのです。どうか、私の趣意 をお察し下すって、こればかりは他の方へお廻しを願いたい。このお持ちの象牙も今晩 私が担いでお届け致しますから、その辺、どうか、悪しからず……」 こういう意味で私はキツバリと謝絶ました。すると沢田氏という人も理のわかった人 とて、 「なるほど、さようでありますか、今日まで、あなたが象牙をお手掛けなさらんこと については半信半疑でありましたから、実は今日のようなことを申し出たわけでありま す。が、只今、お話を承って能く了解しました。では、象牙のことは今日限り打ち切り まして、やっぱり従前通り、木彫りの方をお願い致しましょう」 と、よく要領を得た答えに私もよろこび、その後相変らず沢田氏の注文で二、三回も木 彫りの仕事をしたことがありました。実に沢田銀次郎という老人は商人には珍しい好人 物で、誠に親切なお方でありました。なかなか長命で四、五年前までお健者でした。 貿易品の型彫りをしたはなし  それから、また暫くの後、或る日私が仕事場で仕事をしていると、一人の百姓のよう な風体をした老人が格子戸を開けて訪ねて来ました。 その人は、チョン髷を結って、太い鼻緒の下駄を穿き、見るからに素撲な風体、変な 人だと思っていると、 「一つ彫刻を頼みたい」という。 「木で彫る方の彫刻なら何んでも彫りましょう」 と答えると、 「それは結構、では今夜私の宅へ来て下さい。能く御相談をしましょう。私は神田旅 篭町の三河屋幸三郎というものだ」 こういい残して帰りました。どういう人物か知らないが、とにかく、約束通り、私は、 その宿所へ訪ねて見ると、それはなかなか立派な構え、御成道の大時計を右に曲って神 田明神下の方へ曲る角の、昌平橋へ出ようという左側に、その頃横浜貿易商で有名な三 河屋幸三郎、俗に三幸という人の店であった。 私は、迂関していたことをおかしく思いながら、通されて逢うと、幸三郎老人はなか なか話が分る。そのはずで、この人は維新の際は彰義隊に関係したという疑いを受けた こともあり、後、五稜廓で奮戦した榎本武揚氏とも往来をして非常な徳川贔負の人であ って剣道も能く出来た豪傑、武士道と侠客肌を一緒につき混ぜたような肌合いの人物で、 この気性で、時勢を見て貿易商になっているのであるから、なかなか、話も分るわけで ある。  そこで、老人のいうには、 「私がお頼みしたいというのは、貿易品にする種々の器具の型彫りをしてもらいたい のであるが、今日まで、普通、下絵を絵師にかけてやっているが、どうもおもしろくな い。やはり、初手から彫刻師の刀にかけ、彫刻師自身の意匠で型を彫ってもらいたいの だが、一つ勘考して頂きたい。型彫りというものは、鉄へ反対にメガタに彫って、それ が型となって、貿易向きのマツチ入れとか、灰皿とか、葉巻入れ、布巾輪、たばこ差し、 紙切り、砂糖挟み、時計枠など、いろいろ外国向きの物品を作るのだが、それを一つあ なたの意匠を凝らし、絵師の手を借りずに、ジカ付けに彫って頂こう。そうする方が出 来が生きて面白く、同じ金属で打ち出したものでも値打ちがあるというもの、一つ自由 に腕を振って見て下さい」という注文、そこで、いろいろな用途の器物の見本を見ると、 なかなか興味があります。私もこうした新しい試みには以前から気があるのであるから、 「では、どういうものが出来るか、一つ行って見ましょう」 と、引き受けて帰りました。 私の仕事はやはり金型をヘコサに彫る工人の手本になるので、その意匠を考え考えし て種々な用途の器具の内面または外側に、旨く意匠づけたものを彫るのであるから、な かなか仕事に骨は折れますが張り合いがある。自分の意匠づけた一つの型が原になって 幾万の数が出来て、それが外国へ行くということも考えようによっては面白くもある。 そんなような訳で、私はこの仕事を三河屋から請け負い四、五年間も続けてやりました。 それで、生活の方も豊かではないが困るということはなく、まず研究かたがた、ゆつ くりと腰を据えてやっておりました。ちょうど、明治十六年頃までこの仕事を続けてお りました。その頃三幸の支配人で、現今湯島天神町一丁目におられる草刈豊太郎氏には 色々御世話になりました。 かれこれしている中に、内地向きの仕事もぼつぼつあるようになりました。また、私 の彫刻の技倆もどうやら世間でも見てくれるようになり、生計の方においても順調の方 へ向いて行くような有様となったのであります。で、思うに、明治八、九年から十五、六 年頃までの七、八年間は、私に取っては実際経験によって修業の出来た時代で、生活そ のものは苦境であったが、個人としての内容を豊富にするにはまことに適当の時代であ ったのでありました。 蘆の葉のおもちやのはなし  暫く話を途切らしたんで、少し調子がおかしい……何処まで話したつけ……さよう ……この前の話の処でまず一段落付いたことになっていた。これからは、ずっと、私の 仕事が社会的に働きかけて行こうという順序になるので、私の境遇——生活状態もした がってまた実際的で複雑になって行くことになりますが、話の手順はかえって秩序よく 進んで行くことと思う。  ところで、今日は暫くぶりであったから、無駄話を一つ二つして、それから改めてや ることにしましょう。この話は堀田原の家を師匠が売ったについて、寿町へ立ち退いた 時代で、明治十二年の頃、父兼松が六十一、二、私が二十六、七という時、随分他愛もな い話であるが、私の記憶には印象の深いものとなっている。……東京の年中行事の一つ である鳥の市で熊手を売ったという話や、葦の葉の虫のおもちやを売った話など……今 日、こうして此所に坐っておってその当時のことを考えると不思議な気がします。  私の父兼松は、もはや還暦に達した老人となったが、至極達者なもので、私が一家の ことをやっているので、隠居で遊んでいてもよろしいのであるけれども、始終、何かし ら自分で働くことを考え自分の小遣い位は自分で稼いでいる、何といって取りとまった ことはないが、前申す如く、大体器用な人で手術は人並みすぐれている所から、何かし ら自分の工夫で小細工をやって見たい。安閑としてぶらり遊んでいることは嫌いで必ず しも自分の仕事が銭にならなくても、手と脳とを使って自分の意匠を出して物を製えて 見ようというのである。それで孫が出来れば、孫のためにおもちやをこしらえる。引つ 越しをすれば、越した先の家の破損を繕う。醸を結い直す。羽目を新しくする、棚を造 るとか、勝手元の働き都合の好いように模様を変えるとか、それはまめなもので、一家 に取って重宝といってはこの上もない質の人でありました。  それに、元来、稼ぐという道は若い時から苦労をしているから充分に知っている。手 術が持ち前で好き上手であるので、道楽半分、数奇半分、慾得ずくでなく、何か自分の こしらえたものをその時々の時候に応じ、場所に適めて、売れるものなら売って見よう というのが父兼松のその頃の楽しみの一つでありましたが、それも買い手が気持よく自 分の趣向をおもしろいと思って喜んで買って行けばよし、そうでなければ売る気もない。 元手と利益を勘定ずくにしてやる商売ではなく隠居の道楽に、洒落で何か人の気を「な るほど、これは、どうも、おもしろい。好い趣向だ」と感心させて見たいという気分で、 これがこの老人に髄いて廻った癖でありました。  それで、ドンなものを父は襲えるかというと、この前話した火消し人形のようなもの から、いろいろ妙なものがありますが、その中で、夏向きになって来ると、種々な虫の 形を土で拵えて足は針金で羽根は寒冷紗または適当な物で造り、色は虫その物によって 彩色を施し、一見実物に見えるよう拵えるのです。その種類は蜂、蝉、鈴虫、きりぎり す、赤鯖蛤、蝶々、バッタなどですが、ちょっと見ると、今にも這い出したり、羽根を ひろげて飛び出そうというように見えます。 「どうだ。本当の赤鯖除に見えるだろう。このバッタはどうだ。この脚の張り工合が 趣向なんだ」 などいって、障子の桟へなど留まらせると、本当に、赤鯖齢とバッタが陽気の加減で出 て来ているように見える。老人は得意になって、そのままぶらり何処かへ出て行ってし まう。何処へ行かれたかと思っていると、やがて帰って来られる。手に青々とした葦を 持っている。何処か浅草田圃の方へ行って取って来たのでしょう。 「葦を取って御出でなすったね。それをどうするのですか」 「これか、これが趣向なんだ」  老人は細工は流々といったような自信のある顔をして、またぼつぼつ仕事を初め出し ます。何をするのかと思うと、その切って来た葦の葉へ、今のばったや赤鯖玲などを留 まらせて、と見、こう見している。 「これは、どうだ。異《おつ》だろう」  老人は葦の葉を縁先へ立てて見せる。なるほど、自然の色を持った若葦の浅緑の生々 した葉裏などにその夏虫のとまっている所は、いかにもおもしろい。異でもあり、妙で もあって、とても、市中の玩具屋を探して歩いてもある品でない。この妙な思い附きが 一つの趣向で老人はすつかり好い気持になって、それを持って、彼岸の人出する場所、 あるいは六阿弥陀のような所へぶらぶらと行って見るのであります。時候はよし、四方 の景色はよし、木蔭の石灯篭の傍などに、今の玩具を置いて其所に腰打ち掛けて一服や っている。通り掛かりの参詣仲間の人たちが、ふと目を附け、これは異だ、妙だといつ てる中に、何んとなく好奇心にそそられて、その赤鯖蛤のを私に一本、その蝶々のを私 に二本というように、つい興がって買う気になるのです。こうなると老人の得意はさぞ かし、手間は相応掛かっても、元が掛からない手細工ですから、幾金にしても儲けはあ る。二時間、三時間、気の向いた道を景色を眺めて散歩している間に幾金かのお小遣い が取れるのであります。  老人は日暮れ近くになって、ぶらぶらと帰って来られる。取れた儲けの中から、お 土産などを買って……手間と元手も実はもうそのお土産になってしまうこともあるが、 それでも老人は方と儲けたような気分、「今日はなかなかおもしろかった」といって罪 なく笑壷に入っている所はまことに人の好いもので、私たち夫婦は、つい貰い笑いをし て、 「お父さん、折角儲けたのをみんなお土産にしてしまってはお気の毒ですね。それで は商売にならないでしょう」 などいうと、 「何、先方が馬鹿に俺の趣向をおもしろがって買ってくれるんだ。儲けなくても、そ れだけでも気保養だのに、こんなお土産が買えて、まだ少し位残った所などは感心じや ないか」 など、何処までもお人柄な隠居気質。こういうところは、生馬の目を抜くような江戸の 真ん中で若い時から苦労ずくめの商売をした人のようでもなく、どうかすれば歌俳諧で もやるような塩梅でありました。それに、おかしいのは、老人のこの新案の葦のおもち やは極日中はいけないのでした。薄曇った日とか、朝夕位のところでないと、葦の若葉 がしおれるので、ほんの瞬間の生々した気分を売り物にするという、まことに妙な玩具 でありました。  老人はまた思い附くと何んでも拵えました。大山登山の行者などはお得意のものであ った。行者を白い紙で拵え、山を、小さな、芝居の岩山のようなものにして、登山のさ まを見るようにこしらえました。指先が利くので、一片の紙の片ッ端でも、この人の手 に掛かると不思議に生きて来たのであります。結局自分の感じたおもしろ味を、文字で なく、物の形にして、それを即興的に現わしたもので、当座の興でありましたが、まだ その頃にはこうした趣味をよろこぶ人が多少ともあったものでありました。 熊手を拵えて売ったはなし  こういうことが続いていたが、或る年、大分大仕掛けに、父は熊手を拵え出しました。  鳥の市でなくてならないあの熊手は誰でも知っている通りのもの。真ん中に俵が三俵。 千両函、大福帳、蕪、隠れ蓑、隠れ笠、おかめの面などの宝尽くしが張子紙で出来て、 それをいろいろな絵具で塗り附ける。枝刑瑚などは紅の方でも際立ったもの、その配色 の工合で生かして綺麗に景色の好いものとなる。この方は夏の中から拵えますが、熊手 になる方の竹は、市の間際にならないといけない。これは青い竹を使うので、枯れてい ては色が死んでおもしろくない。五寸、六寸、七寸、尺などという寸法は熊手の曲った 竹一本の長さできまる。いずれも竹の先を曲げて物を掻き込む形となって縁起を取るの であるが、その曲げようにも、老人の語る処によると、やはり手心があって、糸などを 使って曲げを吊っていたり、厚ぼったかったりするのは拙手なので、糸なしで薄くしま って出来たのが旨いのだなどなかなかこんなことでも老人は凝ってやったものです。  一本一本出来て数が積り、百本二百本というようになると、恐ろしく量張って場所ふ さげなものです。しかしまた数が積って狭い室一杯に出来揃った所は賑やかで悪くもな いものです。そのいろいろの飾り物の中で、例のおかめの面、大根じめ、積み俵は三河 島が本場(百姓が内職にしている)だから、そつちから仕入れる。熊手の真ん中にまず大 根締めを取り付け、その上に俵を三俵または五俵真ん中に積み、その後に帆の付いた帆 掛け船の形が出来て、そのまわりにいろいろな宝が積み込んであるように見せて、竹の 串に刺して留めてある、ちょうど大根締めと俵とに刺さるようになるのです。そうして、 金箔がびかびかして、帳面には大福帳とか大宝恵帳なぞと緑喜よい字で胡粉の白い所へ、 筆太に出し、千両函は杢目や金物は彩色をし、墨汁で威勢よく金千両と書くのです。  こんな風だから、相当これは資本が掛かります。なかなか葦の葉の玩具のように無雑 作には参らぬ。日に増し寒さが厳しく、お酉様の日も近づくと、めつきり多忙しくなる ので、老人は夜業を始め出す。私も傍で見ている訳にいかず自然手伝うようになる。家 内中、手が空いた時は老人の仕事を手伝い手伝い予定の数へ漕ぎ付けました。  当日が来る。  お酉様の境内、その界隈には前日から地割小屋掛けが出来ている。平生は人気も稀な 荒参とした野天に差し掛けの店が出来ているので、前の日の夜の十二時頃から熊手を篭 長持に入れて出掛けるのですが、量高のものだから、さしで担がなければなりません。 その片棒を私がやって、親子で寿町の家を出て、入谷田圃を抜けて担いで行く。  御承知の通り大驚神社の境内は狭いので、皆無理をして店を拵える。私たちの店は、 毎年店を出す黒人が半分池の上に丸太を渡しその上に板を並べ、自分の店を拵えてその 余りを、私の父が借りました。場所がよくて、割合に安いが、実に危険です。それは隣 りの店の余りで、池の上に跳ね出しになっているのです。前は手欄で、後は葭簀張り、 大きいのから高い方へ差し、何んでも一体に景気の沸き立って見えるように趣向をする。 縁起をかつぐ連中は午前一時頃から押し掛けて来る。いの一番に参詣して一年中の福徳 を自分一人で受ける考え——朝はちょっと人が薄く、午前十時頃からまた追々雑踏する が、昼の客は割合にお人柄で、夕刻から夜に掛けてお店者並びに職人のわいわい連中が 押して来て非常な騒ぎとなる。何んでも一年中でこの酉の市ほど甚い雑踏はないのだか ら、実に曲宣里雑多な人間が流れ込んで来る。とにかく、生馬の目でも抜こうという盛り 場のことで、ぼんやりしていては飛んだ目に逢うのですが、私の父は、そういった人中 の商売は黒人のことですから、万事に抜け目がなく、たとえば売り溜めの銭などは、ば らで拠って置いてある。商売用の葛篭の蓋を引つくり返して、その中へ銭をばらで拠り 込んで置く。そんな投げやりなことをして好いのかと私は心配をして父に注意すると、 「何、これが一番だ。入れ物などに入れて置いては、際をねらって掠って行かれてし まう、こうして置けば奪ろうたって奪れやしない」 と、自分の経験を話したりして、なかなか巧者なものである。師匠の店で彫り物ばかり している私にはなかなか珍しく感じました。  さて、夜が明けて当日になると、昼間はなかなか声が出せない。黙って店にぼんやり しているようなことではいけないので、何んでも緑喜で、威勢がよくなくつちやならな いのですから、呼び声を立てないといけない。それがなかなか私などには出来ません。  しかし、何時までも迷惑な顔をしておどおどしていれば何時まで経っても声は出ない。 思い切ってやればやれるものでこういう処へ出れば、また自然その気になるものか、半 日もやっていると、そういうことも平気になるのはおかしなものです。  当日の夜はまた一層の人出で、八時から九時頃にかけて出盛る。今日のように社の前 を電車が通ってはおりません。両方がずっと田圃で、田の畷を伝って、畷とも道ともつ かない小達を無数の人影がうようよしている。田圃の中には燈火が方燈のように明るく 点っている。平生寂参の田の中が急に賑わい盛るので、その夜景は不思議なものに見え る。時候も今日のように冬に入る初めでなく、陰暦の十一月ですから、筑波嵐がまとも に吹いて来て震え上がるほど寒い。その寒さを何とも思わず、群衆はこね返している。 商売人の方はなおさら、此所を先途と職を張って景気を附けているのです。  しかし、札附きの商売人になると、決して売ることを急がない。なかなか落ち付いた もので、店番の手伝いに任せ、主人はぶらり一帯の景気を見て歩き、そうして、今度の 市の相場を視察している。今夜は、は寸から一尺までがよく出るとか、チャンと目星を つける。そうして売れる方の側のものは仕舞い込んでしまう。ちょうど、素人のするこ とと反対のことをしている。そうして、売れ向きの悪い方から売って行って、それが売 り切れになると、売れる方のを三本か四本位出して、蝋燭四本の物なら二本へらして薄 ぐらくして置く、すると買い手の方は要求しているものが其所にあるから、値を聞く。 売り手は他店にもう品切れと踏んでいるから、吹つ掛けて出る。一声負けたところで、 利分は充分。それに商売がしやすいのであります。そうして売れないものは無理に売ろ うとせず、二の鳥を俟ち、三の酉があればそれをも俟つという風で、決して素人のよう に売り急ぎをしないのだそうであります。際どいのは、もの仕舞い際になると、蝋燭 (薩摩ろうそく)やかんてらを消して店を方附け、たった一本位出して置いて、客がつく と、それを売る。もうないのかと思うと、もう一本ある。他の客が奪うようにして買つ て行く。段々とそうして余分に儲けるなどなかなかその懸引があるものだといいます。 けれど、こつちはそこまではやれない。この商売はほんの駈け出しだから、何んでもか まわず早く売りたくて仕方がなかったものでした。  私たちの店は今も申す通り、大きい店の柚にあった跳ね出しの店です。この方が割方 安くてかえって都合がよるしい。大分、もう売って行ってほとんど出盛りのてつべんと 思う頃、仕事をしに入り込んでいた擬徒の連中が、ちょうど私たちの店の前で喧嘩を始 めた。これは馴れ合い喧嘩というので、その混雑の中で、懐中を抜くとか、売り溜めを 奪ろうとかするのです。それ喧嘩だというと、大勢が崩れて、私たちの跳ね出し店の手 欄を被り、店ぐるみ葭管張りを打ち抜いて、どうと背後まで崩れ込んで行ったものです。 ところが、背後は池の半分跳ね出しだから、池の中へ群衆はひと溜まりもなく陥ち込ん でしまった。  私はちょっと用を足しに他へ行っていたのでしたが、帰って見ると、店は粉微塵にな っている。他へ落ちた群衆が溝渠鼠のようになって這い上がって、寒さに震えている。 父は散らばった熊手を方付けている処でしたが、容子を聞くと、すりが馴れ合い喧嘩を したのだという。よく、他にも落ちず、怪我もしなかったことを私は安心しましたが、 父はこんな突発的な場合にも素早く、馴れたものでそれというと、葛篭の中の売り溜め を脇に挟んで、他を飛び越えて向うへ立ってすりの立ち廻りを見物していたそうで、私 は、いつもながら、年は老っても父の機敏なのに驚いたことであった。  こんな、中途の故障で、どうも仕方がないから、私たちは後始末をして帰ることにし た。は分通りは売ったので、まあこれで引き上げようと父は帰りましたが、まだ売れ残 りがあるので、私はそれを持って帰るのも業腹で、私は、これを売ってから帰りますと 後に残りました。  私は二十本位の熊手を担ぎ、さて、どうしたものかと考えたが、一つ吉原へ這入って 行って売って見ようと、非常門から京町へ這入ると、一丁目二丁目で五、六本売り、江 戸町の方へ行くまでに悉皆売り尽くしてしまいました。店の女たちが珍しいので、私に も、私にもといって買い、格子先に立ってる標客などが、では、俺等も買おうと買った りして、旨くはけてしまったので、私も大いに手軽になってよろこびました。  私は空手になってぶらぶら帰りました。  その頃は、もう、ぞろぞろと浅草一帯は酉の市の帰りの客で賑わい、大きな熊手を担 いだ仕事師の連中が其所らの飲食店へ這入って、熊手を店先に立て掛け上がったりして いる。何処の店も、大小料理店いずれも繁昌で、夜透しであった。前にいい落したが、 その頃小料理屋で、駒形に初富士とか、茶漬屋で曙などいった店があうてこんな時に客 を呼んでいた。  私が帰ると、父は、あれからどうしたという。吉原へ這入って残った奴を皆売りまし たというと、それはえらい。俺よりは上手だなどいって大笑いしました。  都合、すべての売り上げを勘定して、二十円足らずありました。元手と手間をかける と、とんとん位のものか。それでも父は大儲けをした気でよろこんでいました。  この熊手を拵えて売ったことは、そのずっと以前清島町時代に一度やったことがあり ましたが、私が父の仕事を手伝って一緒に働いたのはこの時の方であった。  故人になった林美雲なども出掛けて来て手伝ってくれました。 歳の市のことなど  それから、もう一つ、歳の市をやったことがあります。  歳の市の売り物は正月用意のものです。父の売ったものはこれは老人自身のひと趣向 なので巾八寸位の蒲鉾板位のものに青竹を左右に立て、松を根じめにして、注連縄を張 って、真ん中に澄を置き海老《えび》、福包み(楢、勝栗などを紙に包んで水引《みずひき》を掛けて包んだ もの、延命袋のようなもの)などを付けて門飾りにしたものです。  これは、大小拵えた。ちょっと床の間などに置いても置かれるもので、どつちかとい えば待合式のもので待合の神棚とか、お茶屋の縁喜棚に飾ると似合わしいものです。  歳の市の方は酉の市とは違い、景気附け一方でする気合い商売でないからです。つと 質素になります。縁日商人の方で、「流れ」ということをいいますが、これはちらりほ らり見物の客が賑やかな場所から静かな方へ散って来るはずれの場所に店を出して客の 足を留めるので、飴屋などはこの「流れ」の方のものに属するのだそうです。  「大流れ」というのは、さらに離れてぼつんと一つ店を出して置くなど、なかなか、 こういうことにも、気を働かさねばならないものと見えます。父のやった門飾りの売り 物なども流れの方へ属したやり方でありました。  歳の市は浅草観音の市が昔から第一、その次は神田明神の市、愛宕の市、それから薬 研堀の不動の市、仲橋広小路の市と、この五ヶ所が大きかった。  薬研堀と、仲橋広小路の市は、社寺の境内でなく、往来に立ったのだから、その地割 がその筋でやかましく、いろいろ干渉されますので、土地の世話役は旨く極め合いを附 けるのが骨が折れたものです。  それは往来の許す限り大小店が数多出来て、自然往来へはみ出すからです。警察がや かましく、世話役を呼びつけ、彼所をもつと、どうかしろと、棒を出すと、はいはいと いって置いてそのままにして置く。すると、また呼び出される。今度は別の男が行く。 同じことを注意されると、畏まりましたで引き退る。また呼ばれるとまた別の男が出る。  その不得要領の中に縁日は済んでしまうのだそうです。  仲橋広小路の市は、ちょうど鰭屋の近辺が一番賑やかであった(江戸の名物鱒屋は浅 草の駒形、京橋で仲橋、下谷で埋堀、両国で薬研堀この四軒でいずれも鰭専門で汗と丸 煮だけである)。仲橋は下町でも目抜きの場所であるから、市などの景況も下町気分で 浅草とはまた変った所がありました。  歳の市は飾り松、竹、〆縄、裏白、澄、ゆずり葉、ほん俵、鎌倉海老など、いずれも 正月に使用するものですから「相更らず……」といって何事も無事泰平であるように、 毎年同じ店で馴染の客が同じ品を買うという習慣などもあった。それでも、海老などは 気合ものの方に属し、形の大小、本場のよしあしなどで時々の相場があって、品ふって いになると、熊手の売り方と同じように買い手の欲しがる大きさのを一つ位ほん俵の上 などにとまらせて、客を引いたりして、これにもなかなか掛引があるのだということで す。  私の父はこういう縁日商人のことについてはなかなか詳しく、自分もまた若い時は自 ら手を下して地割などのことにも関係したので、時々他の縄張りのものとの間に出入り を生じ、生命の遣り取りというほどのことには至らなくても、際どい喧嘩場などに一方 の立物となったりしたことがあります。上野の三枚橋を中にして、双方が脱み合ってる 中に、父の弟分なり乾児なりであった肴屋の辰という六尺近くもある大男の豪のものが 飛び出して、相手を一拉ぎにしたので、兼松の名が一層仲間のものに知られたという話 もあります、こんな話は数々あるがまず略します。 東雲師の家の跡のことなど  ついでながら師匠東雲師の家の跡のことをいって置きましょう。  師が没せられて後私ら兄弟子三枝松政吉氏が後のことを私に代ってやったことは、先 日話しました。東雲の二代目になる息子は、雷門の焼けた丑年生まれで、師の没せられ た時は十四、五、名を栄吉といって後に二代東雲となりましたが、この人、気性は父に 似て至って正直で、物堅い人、また甚だ楽天家でありましたが、かなり酒量の強い方の 人であった。しかしそのため他人に迷惑を掛けるというようなことは決してなかった。 一時瓦斯株を買って大いに儲け、従前よりも一層派出にやっていた時代もあったが、そ の後また都合が悪くなったということであった。あるいは株の下落したためであったこ とであろう。その中、未亡人も没し、政吉氏も亡くなって、とても大店がやって行けな くなり、手元は不如意がちでついに店を人手に渡すことになりました。栄吉氏の弟に豊 次郎という人があったが、これは早世しました。妹のかね子という人は、女ながらなか なか確かりした人で、仕事も出来、手もよく書き貞女にて、千住中組の商家に嫁ぎ、良 人の没後後家で店を立派にやって行き、今日も繁昌致しおります。  二代東雲の栄吉氏の子息は、祖父東雲師の技倆をそのまま受け継いだようになかなか 望みある人物であります。これは私の弟子にして、丹精致しまして、目下独立して高村 暗雲と号しております。三代目東雲となるべき人であります。ただ、惜しいことには、 健康すぐれず、今は湘南の地に転地保養をしておりますが、健康恢復すれば、必ず祖父 の名を辱かしめぬ人となることと私は望みを嘱しております。  さて、また、彼の金谷おきせさん(東雲師末の妹)は良人没後再嫁し、娘が出来ました。 その娘が金物商中山家へ縁付きました。中山氏は北海道樺太地方に事業を起し、今日で は樺太屈指の豪商となっている。で、その弟息子に金谷の家の跡を襲がせることになつ ております。中山家と、私宅とは今日親密の交際を致し、同氏出京の時は必ず拙宅に訪 問されております。右ようなわけにて師匠東雲師の跡はまずよるしき方で残っているわ けであります。 竜池会の起ったはなし  さて、今日までの話は、私の蔭の仕事ばかりで何らこの社会とは交渉のないものであ ったが、これからはようやく私の生活が世間的に芽を出し掛けたことになります。すな わち自分の仕事として、その仕事が世の中に現われて来るということになる訳です。と いって、まだまだようやくそれは世の中に顔を出した位のものであります。  それは、どういう事から起因したかというと明治十七年頃日本美術協会というものが あった。これが私の世の中に顔を出した所で、いわば初舞台とでもいうものであろうか。 この一つの会が私というものを社会的に紹介してくれたことになるのであります。が、 この事を話そうとすると、その以前に遡って美術協会というものの基を話さなければな りません。それを話しませんと顔を出した訳が分らんのです。  私は、それまでは世の中がどういう風に進んでいるのか、我が邦の美術界がどんな有 様になっているのか、実の所一向知りませんのでした。また、実際そういうことを特に 知ろうという気もありませんでした。ちょうどそれは第一回の博覧会があった当時、そ の事にまるで風馬牛であったように、一向世の中のこと……世の中のことといっても世 の中のことも種々ありますが、今日でいえば美術界とか、芸術界とかいう方の世界のこ とは一切どんな風に風潮が動いているか、その方面のことは一向知らずにいたのであり ます。で、どういう会が出来ていて、どういう人たちが会合して、どんなことを話し合 ったり研究しあったりしているかなどは、さらに知らない。ただ、自分の仕事を毎日の 仕事として、てくてく克明にやっていたばかりであったのです。  ところが、明治十七年に初めて日本美術協会というものに或る一つの小品を高村光雲 の名で出品しました。これがそもそもの私の世間的に自分の製作として公にした最初の ことであった。今日までは全く蔭の仕事、人目には立たぬ仕事、いかに精力を振い、腕 によりをかけたものであっても、それは私の仕事としては社会的に注目されるものでは なかったのでありました。  ここで美術協会の起りのそもそもの最初の事を話します。明治十三年頃に、当時或る 一部の数奇者——単に数奇者といっては意を尽くせませんが、或る一部の学者物識りで あって、日本の美術工芸を愛好する人たち——そういう人たちが、その頃の日本の絵画、 彫刻その他種々の工芸的製作が日に増して衰退し行く有様を見るにつけ、どうもこのま ま打つちやって置いては行く末のほども案じられる。これは今日において何らか然るべ き予回の策を講じなくてはならない、と、こう考え及んだのであります。その人たちと いうのは、山高信離、山本五郎、納富介次郎、松尾儀助、大森惟中、塩田真、岸光景等 十人足らずの諸氏でありました。この人たちは日頃から逢えば必ずこのことを話し合い、 何か一つ適当な方法を取ろうではないかというておったが、まず何はとまれ、差し当つ て、手近な処から一つの催しを始めようではないか、ということになったのである。そ れは、お互いに所蔵している古い品物を持ち寄ってそれを鑑賞し批評し合って研究する ことになったのです。それは楽しみ半分で、数奇の気持でやったことで決してむずかし いことではなかった。それでもし工人側の人たちでこの会に参会することを望んで出品 物を見たいとか、話しを傍聴したいという希望の人たちがあるなら喜んでこれを迎え、 鑑賞側の人と、工人側の人とが一坐し、一緒になって話し合ったならば、さらに面白か ろうということになって、月に一回ずつの催しを始め、各自に古いものを持ち寄ったの であった。  場所は池の端弁天の境内静地院。それで竜池会と名附けた。この会が段々と育って行 くにつけて次第に会員も多くなり、絵画、彫刻はもとより、蒔絵、金工等の諸家をも勧 誘して入会させることにし回を重ねるごとに発展して行ったのであった。  そこで会頭を佐野常民氏、副会頭を河瀬秀治氏(同氏は今日なお健在である)に推薦し、 日本美術協会と名を改め、毎月一度ずつ常会を、年に一度展覧会を開くということにな って、これを観古美術会という。そして長い間それが続いたのでありました。  会員の中には私がこれからお話しようと思っている石川光明、旭玉山、金田兼次郎、 島村俊明の諸氏、蒔絵師では白山松哉などもいて、会はますます旺んとなり観古美術会 を開くことになったのでありました。  観古美術会はさらに一歩進んだ形のもので、会員所蔵の逸品といっても数限りのある こと故、一般に上流諸家から秘蔵品並びに宮内省御物等をも拝借し、各種にわたった名 画名器等を陳列し、それを一般に縦覧を許すことにしました。そうして、宮様を総裁に 頂きまして、歴とした会が成立したのであった。  会場は下谷の海禅寺(合羽橋側)、東本願寺等であった。この会は二、三回続きました が、美術思想を一般に普及した功は多大でありました。  こんな有様で、竜池会から出た日本美術協会の年中行事として観古美術会の会員はま すます殖え、大分工人側の人たちも這入って来たのでありますから、会員の意見の交換 などしばしばある中に、従来の如く、単に古いものばかりを出陳するということよりも、 さらに新奇なものを加えて出陳してはどうか。彫刻、絵画、蒔絵、彫金等の名家も多い こと故、この人々自ら製作して、それを出したら一層おもしろかろう。そうして古人の 作は参考品としたら、さらに興味が深いであろうという議が起りまして、それが決まる と、早速築地本願寺で開会することになった。これがすなわち実術協会の新古展覧会の 第一回で、明治十七年のことでありました。その時私は白檀で蝦墓仙人を彫って出品し ました。  私の製作を自分の名で世間へ発表したそもそもの初めです。私はその時三等賞を貰い ました。  ところが、私は、実の所、日本美術協会というものの存在さえも知らなかったのです。 明治十三年頃から竜池会というものがあり、それが発展して今日美術協会というものが 出来ているなどいうことを一切知らなかった。ですから、どういう人たちがどんなこと を話したり、論じたりしているかなどは知ろうようもない。私は毎度申す通り、ただこ つこつと仕事をしていたのである。それほど何も世間のことを知らなかった私が、どう して日本美術協会のあることを知り、また出品したかというと、それは、石川光明とい う牙彫りの名人で、当時既に牙彫りでは日本で一、二を争う人となっていた人であった のです。  光明氏は私と同年輩の人、人格は申すまでもなく、風来も至って上品で、さすがに一 技に優れた人ほどあって見上げたところのある人であった。後年美術学校教授を奉職し 私とは同僚となりました。  私は光明氏に勧められて美術協会に出品したのが緑となって、石川氏との交際はいよ いよ親しくなりまた同会とも接近して行くようになった。亜いで会員となることをも勧 められましたが、とてもまだ会員になる資格はないと辞退をしましたけれども、会頭の 佐野氏からもいろいろ御三日葉があり、或る時は、同氏のお宅へ招待され、大層歓待を受 けた上に、また入会のことを勧められたりしましたので、私もついに会員の末席を汚す ようなことになりました。  この時から私はいろいろの人の顔も知り、また当時の美術界に車きを為せる人々の所 説をも聞き、明治十三年以降その当時に及んでいる斯界の趨勢の大略をも知ることが出 来、また、その現在の有様をも了解することが出来たようなわけで、ここで私は一遍に 世間を眺め、一どきに眼を開いたような感を致しました。  今日までは実に眼の前に黒い幕が引かれていたようなもので、この時一時にそれが取 れたという感じでありました。 石川光明氏と心安くなったはなし  さて、話は自然私がどうして石川光明氏と交を結ぶことになったかということに落ち て来ます。それを話します。  明治十五年、私は西町三番地の家で毎日仕事をしておりました。仕事場は往来を前に した処で、前述の通りのように至って質素な、ただ仕事が出来るという位の処であった。 その頃、木彫りは衰え切っている。しかし牙彫りの方は全盛で、この方には知名の人 が多く立派に門戸を張ってやっている。その中で私は石川光明氏の名前は知っておりま した。それは明治十四年第二回勧業博覧会に同氏の出品があって、それを見て、心私か に感服したので能くその名を覚えていました。  同氏の出品は薄肉の額で、同氏得意のもので、世評も大したものであったらしく、私 が見ても牙彫界恐らくこの人の右に出るものはなかろうと思いました。しかし、その人 は知らない。またこの時に島村俊明氏兄弟の出品もあり、これもなかなかすぐれている と感服して見たことで、光明氏なり、俊明氏なり、いまだ逢ったこともなく顔は見知ら ぬが定めし立派な人であろうと思うておりました。  光明氏はその頃下谷竹町の生駒様の屋敷中に立派な邸宅を構え、弟子の七、は人も使 っておられ、既に立派な先生として世に立っておられたのであるが、そんなことまでは その時は知らず、ただ、名前だけを記憶に留めておったのでした。  私は相変らず降っても照っても西町の仕事場でこつこつと仕事をやっていた。  すると、時折ちよいちよい私の仕事場の前に立ち留まって私の仕事をしているのを見 ている人がある。時には朝晩立つことがあるので、私も気が付き、その人の人品を見覚 えるようになった。その人というのは小柄な人で、鬢をちよいと生やし、打ち見たとこ ろお医師か、詩人か、そうでなければ書家画家といったような風体で至極人品のよい人 である。格子の外から熱心に覗いて見ている。私も熱心に仕事をしているのだが、どう かしてちょっと頭を上げてその人の方を見ると、その人は面伏なような顔をしてふいと 去ってしまう。こういうことが幾度となく重なっていました。  私は、妙な人だと思っていた。いずれ数奇者で、彫刻を見るのが珍しいのであろう位 に思っていた。風采の上から、まず自分の見当は違うまいなど思っていた。とにかく私 の記憶には、もう何処で逢っても見覚えのついている人であった。  すると、或る夏のこと、先年、私が鋳物師大島氏の家にいた時分、その家で心やすく なっていた牧光弘という鋳物師があって、久方ぶり私の仕事をしている処へ訪ねて来ら れた。久聞を静し、いろいろ話の中に、牧氏のいうには、 「高村さん、あなたに大変こがれている人があるんだが、一つその人に逢ってやりま せんか。先方では是非一度逢いたいもんだといって大変逢いたがっているんですよ。こ の間も行ったらまたあなたの話が出てね。是非逢いたいっていってました。あなた逢う 気がありますかね」  こういう話。これは珍しいと私は思った。 「私に逢いたがってる人があるんですって、それは誰ですね」 「その人ですか。それは石川光明という牙彫家ですよ」  私はびつくりしました。 「ええ、石川光明さん、その人が私に逢いたがってるってんですか。そうですか。石 川さんならまだ逢ったことはないが、あの人の仕事は私も知ってる。今の世にどうも恐 ろしい人があるもんだと実は私は驚いているんだ」 「あなたも石川さんの仕事を感心していますか」 「感心どころのことではない。敬服していますよ。私とは違って牙彫りの方だけれど も、当今、日本広しといえども、牙彫り師としてはあの人の右に出るものは恐らくあり ますまい。私は博覧会の薄肉の額を見た時から、すつかり敬服しているんだ。その石川 さんが私に逢いたいなんてに二まそんならこつちからお目に掛かりに行きたいもんです。 案内してくれますか」 「そりゃ、案内するのは訳はありませんが、しかし、高村さん、そりゃいけませんよ。 先方があなたに逢いたがって、是非一度引き逢わせてくれといってるんです。先方から いい出したことだから、先方がこつちへ出向いて来るのが順序ですよ。何もあなたの方 から出掛けて行かなくても、先方がやって来ますよ。で、あなたは逢いますね」 「逢いますとも、……私もお目に掛かりたいもんだ。あの石川さんなら」 「では、私が今石川さんを貴宅につれて来ましょう。これは話がおもしろくなった」 「しかし、どうもそれでは恐れ入るが、じや、あなたのいう通りにしてお茶でも沸か して待っていましょう」 私は素直に牧氏のいう通りに従いました。牧氏は直ぐ坐を立って出て行きました。拙 宅からは竹町は二丁位の所、牧氏は直ぐ其所だから訳はないといって出て行きました。  暫くすると両人が這入って来る。ふと、私が、今一人の人の顔を見ると驚きました。 その人は、医師か、詩人か、昼画の先生でもあろうかと鑑定を付けた毎度自分の仕事場 の前に立つ見覚えのある人であったので、牧氏が両人を紹介せぬ前に、もう両人は顔と 顔とを見合って微笑まぬわけには行かないのでした。 「あなたですか」 「ええ、どうも……」 と、互いに名乗り合いこそしてはいないが、予てから、顔は充分見知っている仲、自然 にその事が、談話の皮切りとなり、私が頭を擡ち上げると、きまり悪そうに其所を去つ たことなども笑い話の中に出て、石川光明氏はいかにも人ずきの好い人。かねてから逢 いたい逢いたいと思うていたのに、今日は牧氏の橋渡しで念が届いて満足と光明氏がい えば、私もまた、お作にはかねてから敬服して、どういう方であろうか、さぞ立派な人 であろうと心に床しく思いおったのに知らぬこととて、毎度仕事場をお見舞い下された 方が石川さんあなたであったとはまことに奇縁。私は本懐至極に思いますなど、逢った その日その時から、一見旧知という言葉をそのままに打ち解け、互いに仕事の話など根 こそげ話をして時の経つのを知らない位でありました。  石川氏は既に一流の大家であって、堂々門戸を張っている当時の流行つ児ですが、そ れでいて言葉使い、物腰、いかにも謙遜で少しも高ぶったところがない。私はいうまで もなく、まだ無名の人間、世に売れている人たちの仕事場などに比べては見る蔭もない ほどの手狭な処、当り前ならば、こつちから辞を低くして訪間もすべきであるのを、気 軽に此所へわざわざ訪ねて来てくれられた人の心も嬉しいと、私は茶など入れ、菓子な どはさんで待遇す。互いに話は尽きませんのでした。 「高村さん。私は随分前からあなたを知っていますよ。この宅へ、お出でになってか らのお顔馴染ではないんですよ。北元町にお出での時から知っていますよ」  光明氏は静かに話す。 「それはまたどういう訳ですね」 「あなたは、北元町の東雲師匠のお店にお出での時分、西行を彫っていたことがあり ましょう」 「ええ、あります。それを知っているのですか」 「私は、毎朝、毎晩、楽しみにして、あなたの仕事を店先から覗いて行ったものです よ。確か西行は一週間位掛かりましたね」 「そうですそうです。ちょうど七日目に彫り上げました。どうしてまたそんなことを 詳しく知ってお出でなのですか」 「それはこういう訳です。私の宅はその頃下谷の松山町にありましたので、其所から 日本橋の馬喰町の越中屋という木地商(象牙の)の家へ仕事に毎日行くんでしてね。その 往復毎日北元町を通るんで、つい、職業柄、お仕事の容子を覗いて見たような訳なんで ……」 光明氏はチャンと何もかも知っている。なるほど、名人になる人は、平生の心掛けが また別なものだ。職業柄とはいいながら、他人の仕事をもかく細かに注目し、朝夕立ち 寄って見ては、それを楽しく感じたとは、熱心のほども推察される。この心あってこそ、 脳も腕も上達するというもの、まだまだ我々は其所までは行かない。名人上手の心掛け はまた別なものだと私は心私かに石川氏の心持に敬服したことでありました。  石川光明氏と私とは、嘉永五年子歳の同年生まれです。私は二月、石川氏は五月生ま れというから、少し私が兄である。  私は下谷北清島町に生まれ、光明氏もやはり下谷で、北清島町からは何程もない稲荷 町の宮彫師石川家に生まれた人です(稲荷町は行徳寺の稲荷と柳の稲荷と両つあるが、 光明氏は柳の稲荷の方)。父親に早く別れ、祖父の養育で、十二歳の時に根岸在住の菊 川という牙彫の師匠の家に弟子入りをして、十一年の年季を勤め上げ、年明けが二十三 の時、それから日本橋の馬喰町の木地間屋に仕事に通い出したというのですから、その 少年時代から青年へ掛けての逢路は、ほとんど私と同じであってただ私が仏師の家の弟 子となり、光明氏が牙彫師の家の弟子となったという相違だけです。共に二十三歳にし て年が明けてから、一方は松山町から馬喰町へ、一方は清島町から蔵前元町へ通う。そ の道程もほぼ同じこと、恐らく修業の有様も、牙彫木彫の相違はあっても、一生懸命で あったことは同じことであったと思われます。但し、石川氏は牙彫であったため、時流 に股じ、早く出世をして、世の中へ出て名人の名を辱ち得たので、既に頓治牛E年の竜 池会が出来た時分、間もなくその会員となって、山高、山本、岸などいう諸先生と知り 合い、美術のことを研究していられたのであった。もっとも、光明氏が抜群の技倆があ ってこそかかる幸運に際会するを得たのでありますが、私は、それに反し、木彫りのよ うな時勢と逆行したものにたずさわり、世の中に遅れ、かかる会合のあることも何にも 知らず、十三年から四年目に、初めて石川氏に廻遊して、その伝手によってようやく世 間へ顔を出したような訳随分遅れていたといわねばなりません。  その後両人は毎度訪ね合っている。  光明氏はしきりと木彫りをやって見たいことなど話され、 「ほんとに木彫りは面白いですねえ。今度の美術会には是非一つあなたの木彫りを出 品して下さい。きつとそれは評判になりますよ」 など毎々私に向って勧められる。 「どうも、なかなか、まだ、そういう処までに行きませんよ。もつと修業をしなけれ ば」 私が答えますと、 「そんなことがあるものですか。何んでも好い。あなたの手に成ったものなら何んで も結構……是非出品して下さい」 石川氏は熱心にいわれる。 「そう、あなたがいって下さるなら私も何んだかやって見たい気がして来ました。ど んなものを製作えましょうか」 「何んだって、あなたの好きなもので好いでしょう」 「では、何んともつかず、一つこしらえて見ましょう」 そういって製作したのが蝦墓仙人であったのでした。これが相当評判よろしく三等賞 を貰ったようなわけで、全く光明氏の知遇によってこの縁を生じたようなわけで、それ から間もなく会員になったりして、会員中の主立った竜池会当時の先輩は申すまでもな く、工人側でも金田兼次郎氏、旭玉山氏、島村俊明氏その他当時知名の彫刻家や、蒔絵 師、金工の人たちとも知り合いましたが、その中でも石川光明氏とは特に親密で兄弟も 琶ならずというように交際しました。それで、世間では、光明氏も光が附き、私も光が 附いているので、兄弟弟子ででもあるかのように、余り仲が好いものですから思ってい た人もありました。 とにかく、明治十三年に生まれた竜池会というものは、その後に起った美術界のいろ いろな会の母でありました。そして好い根砥を植え附けたのであった。 つまり、少数の先覚者が、幕未より明治初年にかけ、日本の美術は衰退し行くにかか わらず、在来の日本古美術は、どしどし西洋人に持って行かれ、好いものを製える人は 少なくなり、日本にあるものは持って行かれ、日本の美術が空になって行く有様を見て これはこうしては置けないと気が付き一方これを救済し、一方これを奨励するというこ とが動機となって、ついに竜池会が始まったのですが、この事はまことに日本の美術界 に取っては有難いことであったのであります。 而して、明治十七年日本美術協会が生まれてから、さらに進歩発達の度を高めて行つ たのでありました。美術協会が上野に引つ越して来た時は、副会頭の河瀬秀治氏がやめ、 九鬼隆一氏がその後を継ぎました。会頭の佐野常民氏はまことに我が美術界に取っての 大恩人で、人物といい、見識といい、実に得がたい方でありました。 彫工会の成り立ちについて  この頃になって一時に種々の事が一緒に起って来るので、どの話をしてよるしいか自 分ながら選択に苦しみますが、先に日本美術協会の話をしたから、引き続き、ついでに 東京彫工会のことについて話します。  東京彫工会というものの出来たのは、妙なことが動機となって出来たのであります (ちょっと断わって置きますが、その当時の彫刻家は全部牙彫という有様であった)。そ の彫刻界に一つの刺撃が与えられそれが導火線となってこの会が起ったのであります。 一方に既に美術協会が成立し、それがますます盛大になっているのであるから、この際 別に彫工会というような会の起る必要を感じない訳であるが、それが出来なければなら ない機運となって来ました。この彫工会発会のことについては私は木彫家のことで関係 は薄い。私が当面に立って立ち働いたという訳でもないのであるが、当時の牙彫界には 友人の多い関係から多少助力をしたことであるからその行きさつを話して置きます。 この事は、最初は象牙彫刻の方の人たちのいさかいから初まる……というもおかしな 話ですが、まずそういった形であった。 当時、牙彫の方は全盛期であるから、その工人も実に夥多しいもので、彫刻師といえ ば牙彫をする人たちのことを指していうのであると世間から思われた位。この事は前に 度々申したが、その中で変り者の私位が木の方をやっている位のものであって、ほとん ど全部が牙彫であった。で、こう物が盛んで流行り出せば、何んの業にもあることであ るが、その工人仲間の人々の中に党派とか流派とかいうようなものが出来て、同じ牙彫 の工人の中でも、比較的上等なものを取り扱って、高尚な方へかたまっている人たちと、 牙彫商人の売り物にはめて、貿易向き一方をやり、出来栄は第二にして、「まず手間にさ えなればよるしいという側の人たちと、こう二つの派に別れば分けられるといった形に なって来る。前のは、なかなか商人のいうままにはならない。自分で一己の了見があつ て、製作本位に仕事をする。つまり先生株の人たちであり、後のは、何処までも職人的 で手間取りが目的、商人のいうままにどうともなろうという側である。こうまず二派に 別れるのでありますが、その高尚の方の先生株には、旭玉山氏、石川光明氏、島村俊明 氏などを筆頭として、その他沢山ありますが、この人たちがまず代表的の人、いずれも 商人の方で一目置いている。一方は商人に使われる組で、一口にいえば売り物専門で貿 易目的である。この方もなかなか旺んにやっている人たちがあって、その大将株の親方 が谷中に住まっておった。なかなか勢力があったもので、商人との取引も盛んなところ から弟子や職工を沢山使っている。牙彫界ではこれを谷中派と称しておったのです。  ところで、当時、東京府(多分府であったと思う)の仕事の中に諸職業の組合組織とい うものを許可することになった。それはそれらの団体が一塊となって共通的な行動を取 るように仕組まれた組織で、一つの組合には組長、副組長というものがあって、その社 会の種々な規約的なことを総括する一つの機関であるのですが、この事が発表になると、 牙彫の方でも谷中派の連中がまずその組合というものを組織し出したのです。それはた とえば、牙彫業者がここに三百人あるとして、その三分の二以上の人数——すなわち二 百人が結托して組合を組織すれば、その組合というものは、その業務に従事しているす べての人の上に権力を働かすことが出来るのであって、よし、他に不賛成者があるとし ても、少数者はその規則の下に服さねばならんといった訳であった。もし不賛成者があ れば、市内から離れて郡部へ行かねばならんというのである。その組合の規約が随分不 条理なもので圧制的であると思っても、差し当って職業のことに影響するから、嫌でも 入らなければならない。よくよくいやならば郊外へ出るよりほかはない。と……こうい う有様であった。 そこで、谷中派の大将株の人たちは、自分側の方で、この組合を作って適過させ、権 力を握りたいものであるが、しかし、牙彫界を見渡したところで、前申す如き有様であ るから、どうも頭が問えている。自分たちの好き勝手な真似ばかりをするわけにも参り ません。それで彼らは自分たちの方の幕下のものを糾合し遊説して二百人からの人数を こしらえまして、その組合というものを組繊したのであった。 府の掛かりの方でも、牙彫界に幾人の人数が現在にあるものか、充分調べも附いてい ないので、谷中派の組織して出した願書を許可したのであった。すなわち谷中派の差し 出した願書には二百人以上あるから、この人数は現在の彫刻師の人数の三分の二強であ ろうと掛かりの人は思っていたので許可したのでしょう。それとも、そういうことまで 考えも及ばなかったのか。とにかく、谷中派のした仕事は通ったのであった。 そこで、組長、副組長は谷中派の大将株の両名がなることになって、規則書が出来上 がったのである。ところが、それを見ると、親方の方の都合の好いようなことばかり並 べてある。たとえば親方が弟子や職人を使うのに都合よいこと、つまり後進者を牽制す る向きの箇条が甚だ多い。年季中に暇を取るものは罰金を取るとか、或る親方から他に 移り変るものは組合中使用せぬとか除名するとか、これから修業しようという弟子側に 取っては不利益な規約ばかりである。こういうものが出来上がってそれを牙彫界一般に 配付したのであります。これを手にした一流側の人々は大いに面喰ったわけでありまし た。しかし、旭玉山氏や石川光明氏とか、島村俊明、田中玉宝氏などいう人たちは名人 肌な人で、別にこういう世間的のことには一向関係しないので、平生から自分の腕だけ のものを作り、気位は高く、先生気取りの人たちであるから、ただ、変なことが初まつ たものだと思う位であるが、他には、そういう人ばかりでもないので、まず谷中派の人 たちに出し抜かれた形で、一体これはどうしたものかと問題になったのであります。  元来、谷中派と先生派とこれに属する技術家とは技術に対する心掛けが違っているの であるから何にもこの際、弟子側のものを圧迫する必要も感じないし、またいろいろな 規約の中に押し篭められる因縁もないと思っている。いわばなるだけ面倒な事には関係 しないで仕事に励み忠実熱心である方ですから、こういう不条理な規約書が郵便で、 各自の許に舞い込んで来て見ると、甚だ迷惑に感じた。もし、不賛成を唱えるとなると、 市中で職業が出来ないという。郊外へ退いて行かねばならないとなると、これは差し当 って考え物である。さてそれが困るからといって規約に賛成して、組合へ這入るとなる と、平生から仕事の上で侮蔑している所の谷中派の支配を受けねばならない。これは郊 外へ退去するよりも一層馬鹿気ている。それもまあ好いとしても、修業盛りの弟子たち を何にも圧迫して叱責めることはない。かれこれ、この組合規則なるものは甚だ不都合 千万なのである。これはとても這入るわけには参らんというのがこの派の人たち一般の 意向でありました。 しかしながら、既にこうして、府からの許可を得て組合規則を出して来たものに対し て、不賛成であるからといって、反抗の趣意を申し立てるにしても、この際、反抗する だけの何らか確たる材料がないことにおいては、対抗的に運動することも出来ないとい うことに気が附くと、皆々気を操んで、どうしたら宣かろうかとよりより協議するよう な有様であった。 すると、ここに金田兼次郎という人が一つの意見を提出しました。金田氏は元刀剣の 鞘師でありましたが、後牙彫商になって浅草向柳原に店を持っている貿易商人で、主 に上等品を取り扱っているので、先生株の牙彫の人たちと懇意な間柄である(現時金田 氏の二代目は日本橋区大鋸町に店がある)。今、一人、外山長蔵という同業の人たちも 寄り合い、相談をした席で、金田氏のいうには、「それについて、私が思い付いた面白 いことがありますが、一つ皆さんへ申し上げて見ましょう。実は近頃私宅へ牙彫家の人 名録を作りたいから賛成してくれないかという相談を持ち込んでいるものがあります。 この話を一つ利用しては如何でしょう。というのは、先方も営利的に人名録を作るので ありますからこの際我々の方から相当補助してやれば、至急に調査が精細に行きわたつ て右の人名緑は出来上がるわけでありますが、この現在の牙彫家の人数が明瞭になった 暁には、谷中派が出願した組合の人数が、同業者の三分の二に達しているかおらんかと いうことが自然当局の方へも分ることになりますから、そうすれば当然成立すべき資格 をもっていない組合が成立していることになって、谷中派の立場を覆えさないまでも、 根砥のぐらついたものであることを世間に知らせることも出来ますし、また、府の当局 の許可が不当であったことをも掛かりの人たちに了解させることも出来る訳で、結局、 人名緑が証拠になって立派に反抗するだけの材料となり、物をいうことになろうと思う のですが如何でしょう」という意味を申し述べました。なるほど、これは至極宜い案で あるから、人名が多いか、些ないか、精細に調べさせて見ようと相談はたちまち一決し て早速人名録作成の人に補助することにして、至急人名調査に取り掛かったのでありま した。 そこで精細に調べ上げた人数を見ると、四百何十人約五百名という数である。谷中派 が三百人と見て、三分の二の二百人を糾合して組合を組織したことは、百何十人かを無 視したという事実が上がって来ました。人名録も出来上がって、ずらり宿所氏名の人別 が立派に乗っている以上、これほど確かなことはない。そこで、府の当局者が許可すべ からざるものを許可したのだという抑え所も出来たので、それでは府の掛かりをねじつ てやれというので、人名録を附けて意見書を府の掛かりの課へ突き出したのでした。 これには掛かりの人も一本参った。しかし、一旦、許可したのを、今さらむげに解散 させるというわけにも参らぬので、事を有耶無耶の中に葬ろうとして、どつちつかずの 態度を取ることになった。つまり谷中派の組合をも確実に認定せず、先生側の意見書を も取り上げぬといった形になったのである。こうなると金田氏の案は立派に成功したこ とになって先生側の方の一同はいずれも大喜びで、もはや谷中派の組合に這入る這入ら ぬを間題にする必要もなくなり、同時に谷中派が組合の権能を振り廻す権利を認める必 要もなくなりました。 「組合は組合で放棄って置け、彼らの書いた種が上がれば、相手にする必要はない。 文句をいって来たら、人名録を突き附けて先方の落ち度を抑えてやれば好い。放棄って 置け放棄って置け」 というようなことで、先生側の意気は大いに振ったわけでありました。  こうなって来ると、形勢が逆になって来た。技術派の方へ加担をするものがかえって 多くなって、同情が高まり、旭玉山、石川光明氏等へ味方するものが旗々と出て来まし た。今までいやいやながら組合へ盲従していたものも脱げたり、思案しておったものは 急に活路を見出したようにこつちへ付いて来るようになりましたから、谷中派の方は急 に気勢が挫け、人数が減り、看板だけは上げてあっても、実際の人数は半数にも満たな いような結果になって、結局、技術側の勝ちといったようなことになったのでありまし た。  彫工会の成立は、この事件が導火線となったのであります。今まで、種々、組合の対 抗運動について奔走斡旋した人々の中で、旭玉山氏は主要な人でありました。同氏は湯 島天神町一丁目(天神境内)に邸宅を構え、堂々門戸を張っておりました。現在は京都に 住居して八十三の高齢で現存の人でありますが、なかなか文学もあり、繊密な脳の人で、 工人に似ず高尚な人で、面倒な事務を引き受けて整理してくれましたから、誰推すとな く、玉山氏を先生派の中心人物のようにしている処から、同氏宅を仮事務所に宛て、此 所へ技術派の重な人々が五人十人毎日集まっては善後策を講じたわけでありました。 「折角此所まで進んで来て、このままで済ましてしまうのは惜しいではないか。何ん とかしようではないか」 という意見が誰いうとなく起って来た。 「それでは一つこの意気組みで会を起そうではないか。今、この場合に拵えて置かん とまたこの後野心家が面倒なことをやり出すかも知れん。今会を起せば三百人や二百五 十人位の会員はたちまち集まる。会を起そう」 という相談が纏まりました。 これは行き掛かりの上の勢いから自然こういう風になったのであります。そこでいよ いよ一つの会を起すとなると、相当学識のある人もなくてはならない。また会の事務に 当る事務的才能のある人、また会則を作るということに精通した人をも要することにな って来ましたが、その向きの人々には誂えたような先生たちが美術協会の会員の方にあ る。幸い、美術協会の関係で予て協会員として懇意の人々のこと故、塩田真氏、前田健 次郎氏、平山英造氏、大森惟中氏などを頼んで相談相手となってもらいました。 この人々は官民間で夙に美術界のことに尽力していた人で、当時の物識りであり、先 覚者でもあったのであります。 ここで私もこの人たちの集まりの中に顔を出すことになるのですが、しかし、私は牙 彫の方ではありませんから、直接この事件の起った当時からこの行きさつの中へ曲ゝ凧這 入っておらぬのでありますがどういう相談があったものか、この方から私へ使いを遣し て私にも相談相手になってもらいたいという申し込みがありました。 もっとも、これは石川光明氏とは私は兄弟も宮ならぬ親密の中のこと故、同氏からの 話もあり、他の玉山氏その他の人々とも日頃懇意の仲柄であるから、私を引つ張り出そ うということになったと見えます。私は、仕事の方でも畠違い、最初から関係もないこ とで、大してお役にも立つまいが、彫刻界の発達向上のためのこととあればお仲間へ這 入ろうと承諾をしたのでありました。それから、毎晩天神の玉山氏宅へ参って、人々と 膝を交え、発会の相談にあずかったわけでありました。  さて、会を起すについては、会則を作り、会頭、理事、評議員というようなものの必 要を生じて来る。会の取り扱うべき事柄についてもいろいろ討議する。毎月常会を開き、 青年子弟の養成ということについて、特に重要視し、まず若い人々の製作を集めて常会 に出品し優劣を評定して褒美として参考書の類を授けるということなどを初めとして、 種々審議されました結果、彫刻の大会を年に一回開催するという話が纏まったのであり ます。そうして、会費のようなものも、申乙丙の三種で、師匠分の人は甲、独立してい る程度の所は乙、まだ年季中の者で、弟子連中は丙というように公平に取り扱い、会の 維持法等については、合理的に能く相談を致し、また会頭、幹事並びに理事部長の任期 何年という事を討究の末ほぼ決定しました。 会の名のことなど そこで、この会名の相談になったのでありますが、牙彫家の集団の会であるから、牙 彫の「牙」という文字を入れるか、入れないかという間題になった。 無論牙彫の人たちばかりのこと故、「牙」を入れるが当然であるが、しかし、御相談 を受けて私もその席上にあってこの話を聴いていたことであったが、元来、私は牙彫師 でないのにかかわらず、この会合の仲間に這入って来ているので、或る人などは、高村 は畠違いへ踏み込んで来て牙彫の土を持っているなど悪口をいっていることも私は薄々 耳にしている所である。けれど、私の考えとしては、彫刻界の発達進歩の事に骨を折る 会合であると思ってこの会に仲間入りしているのでありますからして、彫刻という大き い意味の世界のことについての利害得失に関しては、充分に自己の考えをも申し述べる つもりで、真面目に審議の是非について考えていた所でありました。 で、右の会名の問題となって「牙」の文字を入れる入れないとなって、そうして、入 れるが当然という話になると、私は一応自分の考えを述べる必要を感じたのであった。 「私の考えを申しますが、「牙」を表わすことになると「木」をも表わしてもらいた いと私は思います」 こういう意味で述べました。 つまり、私の考えは、今日の審議する所は、単に牙彫と限られた会の名を付ける主意 のものでなくして、日本の彫刻家の集合でもつと広義な意味のものであると思うのであ ったわけであります。 すると、或る人は、 「なるほど、お考えは一応御尤と存じますが、しかし木の方は幾人ありますか」 という質問をされました。 たずはやしびうん 「幾人あるかとお質問ねに対しては、只今の所差し当り私一人で、弟子に林美雪とい うものがある位のもので、何んともお答えのしようもありませんが、しかし、今日、私 一人であっても、何時までも一人や二人という訳はありますまい。他日、幾人に殖えて 来るかも分りません。木彫りの方がもし殖えた場合「牙」の字を表わした会名では如何 かと思われます。で、牙は牙、木は木とその部によって部を作る時が来ることでありま しようが、その時には自から部長というものが必要だろうと思います。会名は牙を表わ し、また木を表わす必要はない。牙も木もすべてを総括した彫刻の意を全体にいい表わ す会名が命けられるならば、それは甚だ結構と思います。私は木の方であって、当席に 連なっておりますのですが、既に列席を致している以上、右の主意は申し上げて置きた いのであります」 という意味のことを申し述べた。 「只今、木の方の部長ということを申されたが、木の方はどういうことになります か」 またこういう質間が出ました。 「只今も申す如く木は私一人であるから、部長も何もあり得ることではないが、段々 殖えると見るべきが至当であって、入れ物だけは今日この会の成立に際して拵えて置く が順序でないかと思います。木の人員が私一人でも、既に一人はあるのである。他に今 一人あるから両人は既にあるのである。今日の場合は部長を欠くということにして、他 日殖えた場合に部長を置いたらよろしかろうと思います」 と意見を述べた。 私のこの主張は大体において人々の了解を得ました。また了解を得られたことは至当 のことであったと思います。そこで、大森、塩田、前田などの学者側の人と相談をして 「東京彫工会」と命名したのでありました。 内部の献立が悉皆出来上がり、会名が附いたので届を出し、許可になったので、その 年の秋すなわち明治十九年十一月向両国の貸席井生村楼で発会することになった。 発会当時およびその後のことなど  当日は会の発表祝賀会を兼ねて製作展覧を催したのでありました。  展覧の方は今日のように硝子箱に製品を陳列するなどの準備などは無論なく、無雑作 なやり方ではあったが、牙彫の製品はかなり出品があって賑やかであった。木彫の方は 私は都合が悪くて出品しませんでしたが、林美雲が一点だけ牙彫の中に混って出品しま した。 発会式は非常な景気で諸万からお遣い物などが来て盛大を極め、会合するもの三百人 以上で予期以上の成功であった。 それに井生村楼の女将が同会に大変肩を入れ、楼の全部の席を同会のために提供して くれ、しかも席料なども安くしてくれ、非常に同情的に暗に後援してくれたのでいろい ろ都合がよく、会員一同も女将の好意を感謝したことであった。 会は充分の成功をもって終りました。 本会の成立について、特に尽力をされた人々は旭玉山、石川光明、島村俊明、金田兼 次郎、塩田真、前田健次郎、大森惟中、平山英造の諸氏で、事務所は仮りに玉山先生の 自宅に置き、当分同氏が事務を扱ってくれました。そして井生村でこの会は二一に回催 されました。 こういう風に東京彫工会の成立が予期以上に盛大でありましたので、形勢全く一変し、 東京の彫刻界を風靡するという有様で、会員は渦を巻いて集まって来て、三百人以上と 称されました。 そうなると、今度は谷中派の方からかえって和解を申し込んで来たりして、両派に関 係のあった人たちを介して会員になりたいなど続々申し納れがあったりしました。彫工 会の方はもとより心から谷中派を敵視しているわけでないから、そういう要求は快く容 れましたので、谷中側の人も大分入会したような訳でした。 先生側の人々が反抗態度を手強くし、歩調を揃えて熱心に行動を取ったためにかえつ て好結果を来たしたような訳で、したがって両派の軋蝶も穏便に済んだのでした。もつ とも初めから喧嘩をしたわけではない。暗闘的ないさかいはあったが、見ともなく喧嘩 するようなことはなくて終ったのであった。 それで府の勧業課の掛かりの人たちもよろこび、中に彫刻熱心の人たちが賛助会員に なったりしました。 既に彫工会も充分成立の基礎が認められたので、学芸員と一般会員の多数で二十一年 上野の美術協会陳列館で第一回彫刻競技会を開き一般の観覧を許しました。これが彫_ 会の競技会の初まりです。こうなるといよいよ会頭がなくてはならないので、最初の会 頭に渡辺洪基氏を撰みました。同氏は永く会のために尽力されました。途中死去され、 没後は榎本武揚氏。氏が没して後は土方久元氏。それから現在の会頭は平山成信氏で、 井生村で発会以来今日までおよそ四十余年の間継続されております。  右の如く東京彫工会は、彫刻会の先駆であった日本美術協会に次いでの古い会であり ますが、当初美術協会の存在しているのにかかわらず、この会の出来たのは、美術協会 に対して不平があって分派したとか独立したとかいう訳ではなくして、前述の通りの行 きさつから勢いとして生じたものでありますが、この彫工会の方は全く彫刻専門であつ た。後日に到って彫刻の世界のものは種々包含されて、木の部に竹彫が入って木竹部と なりました。牙彫の方は牙角介甲部となりその他種々部が出来て、今では+何部となつ てすべてを網羅したのであるが、最初は牙彫だけで、木彫は一両人であったのです。 かくの如く、種々網羅されるにつけて、会の性質が美術協会に似て来ましたが、しか し協会の方は絵画が中堅となっており、蒔絵、織物、刺繍、写真など工芸的に一層範囲 が広く、彫工会の彫刻と限られたのとはもつと広大なものになりました。そうして彫工 会の方でも、金工部は金工会など独立して会を成立しますし、また協会の方でも蒔絵の 方では漆工会などが独立して、種々雑多な会が現われて来ました。 要するに、東京彫工会もまた当時美術界に貢献することの多かったことは美術協会に 次いでの功績であったことと思います。 同会は現在の会員数は八百名以上であります。 大病をした時のことなど ちょうどこの彫工会発会当時前後は私は西町にいました。 その節ゝ彼の三河屋の老人と心やすくなって三河屋の仕事をしたことは前に話しまし たが、その関係上、少しでも三河屋の方に近くなる方が都合がよかったので、老人の勧 めもあって、仲御徒町一丁目三十七番地へ転宅しました。西町の宅よりも四丁ほど近く なったわけでした。 さて、彫工会の発会等もすべて落着し私はこれから大いにやろうと意気組んでいた矢 先、大病に雁りました。 掛かった医師は友人の漢法医で、合田義和という人であった。この人は漢法ではある が、なかなかの名医でありました。 私の病気は何んとも病名の分らぬ難病であって、一時はほとんど家内のものも絶望し た位で、私も覚悟を極めておったのでした。どういう病気かと申すと、身体全体が痛む。 実に何んともいいようのない疼痛を感じて、いても起ってもいられない位……優麻質斯 とか、神経痛とかいうのでもなく何んでも啖が内訂してかく全身が痛むのであるとかで、 強いて名を付ければ啖陰性という余り多くない病気だと合田氏は診断している。一時は 腰が抜けて起つことも出来ない。寝ていても時を頻って咳き上げて来て気息を吐くこと も出来ない。実に恐ろしく苦しみました。 それで、医師の合田氏は、これはいけないと非常な丹精をしてくれまして、夜も帰宅 らず、徹宵付き添い、薬も自身煎じて看護してくれられました。その丹精がなかったら 恐らく私は生命を取られたことと思いますが、三ケ月ほどしてようやく快方に趣いたの であった。  この合田氏という医師は、これまた一種の変人であって、金持ちを嫌いという人、貧 乏人のためには薬代も取らぬというほどに貧窮者に対して同情のあった人で、医は仁術 なりという言葉をそのまま実行されたような珍しい人でありました。気性が高潔である 如く、医術も非常に上手でありました。私がこういう名医に友人があってその人の手に あらゆる親切と同情をもって看護されたことは全く私の幸福でありました。 しかし、私は、既に世の中に顔を出して来てはおったものの、まだまだ木彫りが行わ れているという世の中にならず、相更らずの貧乏でありますから、医師にお礼をしたく てもするわけに行きません。大病で、三ケ月も床に就いていることだから、生活には追 われて来る。知人などの見舞いのものでその日を過ごしていたような有様でありました。 けれども、どうにか都合をして薬代だけは払いましたが、合田氏の膏ならぬ丹精に対し ては、まだお礼が出来ぬので、私はそれを心苦しく感じている中段々身体も元に恢復し て参って、仕事も出来るようになりましたので、日頃念頭を離れぬ合田氏への御礼のこ とをいろいろ考えましたが、病後の生活にはこれといって適当な方法も考え附かず心な らずも一日一日と送っておりました。さりながら、人の普通ならぬ親切を受けてそのま までいることはいかにも気が済まぬ。何か形をもって謝礼の意を致したいものであると 私は切に感じていたことであった。 これより先、私は一人の道具商を知っていました。斎藤政吉といって同業者の間では 名の売れた人であったが、この人が明製の白衣観音を持っておった。それは非常な逸品 でもあるというので、斎藤氏が自慢に私に見せてくれた。見ると、自慢するだけのこと はあってなかなか優れたものである。で、私もそれがほしい気がして、およそ、幾金の ものかと聞くと、百五十円だということ、薬代さえもようやく工面をして払った時代の ことで、私に金のありよう訳でないから買い取ることは思いも寄りません。で、或る時、 斎藤氏にとても自分はあの白衣観音を買うことが出来ぬが、作はいかにも結構と思い、 心に残っている。もし、あれを借りることが出来れば、私はあの通りのものを写して置 きたいと思うがどうであろう、と話すと斎藤氏は快く承知して私に貸してくれました。  そこで私は仕事の際々を見て、桜の木で、そのままそつくりに模刻をした。そして右 の観音を仏間に飾って置いたのでした。ふと、私はこの観音のことに気が付き、これを 合田医師へお礼としてはどうであろうと思いました。随分自分としては精神を篭めて写 したものである。写したとはいいながら原作が優れており自分も手間をかまわず丹念に やった仕事であるので、これならば自分のお礼の意味も満更ではあるまい。これがよる しかろうと思いましたので、或る日、それに熨斗を付け、病中一方ならぬ世話に預かつ たお礼のしるしという意を述べて、それを合田氏に贈りました。 すると、合田氏は大変に満足した顔で、君からこうしたものを頂くことは私も心苦し いが、しかしこれは君の手になったものであり、君の心特もよく分っているので、他品 とか、金銭ならばお貰いしないが、これは快く有難く貰いましょう。実は自分も日頃か ら、何か君に一つ拵えて頂きたいと希望しておりましたが、病後のことでもあり、いさ さかなりとも君に尽くした後において、こちらより物をおたのみすることは如何かと遠 慮しておった処であるが、君より進んでこれを僕に下さるとあれば、何よりのことで、 甚だ心悦ばしい。と合田氏は大変によろこんでくれますので、私も日頃の念が届きやつ と肩の荷を卸した気になったことであった。 しかるに、この合田氏も貧乏では余り引けを取らぬ方で……元来、今申す通りの性格 の人であるから金持ちでありようがない。それで家計の都合が悪い所から随分大事にし てあった右の白衣観音を質に入れました。これは後に私が知ったことであるが、そうい うことになった。もっとも売ったのではありません。今に都合が好くなり次第受け出す つもりで合田氏は一時手離したのでありましょうがその中に合田氏は病気で亡くなりま した。永眠の際も及ばずながらお世話もしたような次第で、墓は千住の大橋で誓願寺に あって、今日とても時々墓参をしている次第であるが……月日は何時か経って三十余年 を過ぎ、当時の知人朋友も亡くなって行く中、彼の観音はめぐりめぐって去年の秋のこ と、或る人が箱書をしてくれといって持って来た作を見ると、それが合田氏に贈ったそ の観音でありました。  私は、どうも、亡くなった子にでも逢ったような気持で、懐かしくそれを眺めたこと で、私の作に相違ない旨を箱書して持ち主に戻しましたが、何んでも持ち主は千五百円 とかで手に入れたのだそうであります。私は余り懐かしく思ったまま、昔時を追懐し、 右の観音をまたそのままに模刻して記念のために残し、只今は仏間に飾ってあるような わけであります。 この合田義和医師の家と現時美術学校に仏語を教授しておられる合田清氏の家とは遠 縁に当るそうで、同んでも清氏の令閨が合田医師の姪とかに当るということを後に至つ て知りました。  さて、私は、都合上御徒町へ転居したのであったが、早々大病をしたりして、この家 は緑喜のよくない家になって家内のものらが嫌がりましたが、どうやらその年の秋にな って病気も全快、押し詰まってから、突然皇居御造営について私もその事に当る一員と して召し出される旨の命令を受けて、今まで緑喜がよくないと嫌がった家が、急に持ち 直してかえって好い春を迎えたような訳で、何がどう変化するか、人間の一生の中には まことにいろいろな移り変りのあるものと思うことであった。  この御徒町の家は三十七坪あって、地面は借りていましたが、玄関二畳、六畳に、四 畳に、台所、物置き、それに庭が少しあって、時の相場六十円で買ったのでありました。 そうして一家の生計が、どうしても三十円は掛かりました。当時、一日の手間一円を働 くことは容易なことではなかったのですが、しかし五、六年以前一月の手間七円五十銭 から見ると、私の生計はずっと張っており、また手間や物価なども高くなっておりまし た。 とはいえ、相当の家一軒六十円という値は今日から考えるとおかしい位のものであり ます。 大隈綾子刀自の思い出  話がずっと後戻りしますが、今日は少し別のはなしをしようかと思いますが、どうで すか。 ……では、そのはなしをすることにしましょう。  実は、先日来、大隈未亡人綾子刀自が御重体であると新聞紙上で承り、昔、お見知り の人のことで、蔭ながらお案じしていた次第であったが、今朝(大正十二年四月二十九 日)の新聞を見ると、お歿なりになったそうで、まことに御愁傷のことである。  それにつけて、この頃、綾子刀自の素性のことについて、いろいろ噂を聞いたり、ま た新聞などで見たりしますと、元、料理屋の女中であったなど、誰々の妾であったなど というようなことが伝えられているが、そういうことは皆間違いで一つも拠処がない。 こういう噂は何処から出たものか。察するに綾子刀自が大隈家へ嫁がれた時分は、ちよ うど何もかも徳川瓦解の後を受けたどさくさの時代で、その頃の政治家という人たちは 多くお国侍で、東京へ出て仮りの住居をしておって、急に地位が高くなり政治家成り金 とでもいうような有様で、何んでもやんちやな世の中::二殺風景なことが多く、したが ってその配偶者のことなども乱暴無雑作なことがちで、芸妓、芸人を妻や妾にするとか、 女髪結の娘でも標織がよければ一足飛びに奥さんにするとかいう風であったから、こう いう一体の風習の中へ綾子刀自のことも一緒に巻き込まれて、同じような行き方であつ たろうなど推測し、右のような噂が今日も伝えられるのであろうかと思われますが、こ れは全く大間違いであるのです。  という訳は、その因縁を話しませんと分りませんが、実は、私は、昔、綾子刀自の娘 盛りの時代を妙なことで能く知っている。この事を話せばおのずから綾子刀自の素性が 明らかになることで、何時か、この事を何かのついでに話して置くか、書き留めて置き たいと思っておったことであったが、今日はちょうどよい折とも思いますから一通り話 しましょう。  幕府瓦解の後は旗下御家人というような格の家が急に生計の方法に困っていろいろ苦 労をしたものであった。  その頃、旧旗下で三枝竜之介という方がありました。この方の屋敷は御徒町にあった。 立花家の屋敷を前にした右側(上野の方から)にありました。禄は何程であったか、七、 八百石位でもあったか内証豊かな旗下であった。  この三枝家が私の師匠東雲師の仕事先、俗にいう華客場であったので、師匠は平常当 主の竜之介と極懇意にしておりました。その中旗下は徳川の扶持を離れ、士族になって、 世の中の変るにつれ今までの武家の格式も棄て、町人百姓とも交際をせねばならなくな ったので、私の師匠は従前よりも一層親しく三枝家の相談を受けておったことでしたが、 三枝家でも世変のためにいろいろ事情もあって、今までの屋敷が不用になったから、そ れを売りたいというので師匠は相談を受けておった。けれども、他に好い買い手もなか ったが、師匠がその屋敷を買い取ることになって、一時、向島へ預けて置いたが、預か り主が風のよくない人で、預けた材木が段々減って行くような有様なので、師匠は空地 を見附け、右の三枝家から買い取った家の材木で家作を立てました。この家がすなわち 前お話した堀田原の家。師匠の姉のお悦さんの住んでいた家であります。お悦さんは私 の養母であって、私も其所に寝泊まりをし、後には一家すべてが引き移ったのです。座 敷など三枝家の時とそのままで武家風な作りであった。  当時、竜之介氏も他の旗下衆の人たちと同じように一家の事も充分でなかったと見え、 或る日、東雲師の家に来られて、 「東雲さん、私も、どうもこの頃運が悪くて困る。一つ運が好くなるように、縁喜直 しに大黒さんを彫ってくれませんか」 という頼み、師匠も尋常ならぬ三枝氏の頼みだから、「それは、早速彫りましょう」と いって和白檀で二寸四分の小さな大黒さんを彫って上げました。すると、それが大変竜 之介氏の気に入ったのでした。というのは、木の木目の玉が、頭巾にも腹のところにも、 また、俵の左右の宝球のところにもまるで球のように旨く出たのであったので、それが 緑喜が好いといって三枝氏が大層よるこんだのでした。 この木の玉の出るのは、必ずしも偶然ではなく、木取りの仕様で、出そうと思えば出 るものです。師匠は特にそういう風に作られたのですが、素人にはそういうことは分ち ないから、奇瑞のようにも思われてよるこんだのでありました。すると、この大黒が出 来上がって間もなく、妹御のお綾さんが、時の大官大隈重信という人の処へ貰われて大 変に出世をされた。これは東雲師の彫った大黒の御利益だといって三枝家の親類の人た ちは目出たがって、自分たちもあやかりたいものだと、二軒の御親類から、また、大黒 を頬まれたが、この方は御利益があったか、私はそこまでは知りません。 竜之介氏と妹御のお綾さんとの母親になる方は、その頃は未亡人で、頭を丸めてお比 丘さんのように坊さんでしたが、そんなにお婆さんではありませんでした。俗にいう美 人型の面長な顔で、品格といい繰繊といい、旗下の奥さんとして恥ずかしからぬ相貌の 方で、なかなか立派な婦人でありました。お綾さんも、母親に似てまことに美しかった が、もちっと丸顔であった。後に歳を老られてからの写真を新聞などで見ても、やはり、 その時の悌がよく残っておって、母人よりも丸い方に私は思ったことだが……それはと にかく、三枝未亡人は、このお綾さんのことを心配されて、よりより師匠へ縁談のこと について相談をしておられました。 或る時も三枝未亡人が駒形の師匠の宅へ見えられ、娘のことについて師匠に相談をさ れている。 「……今日では、もはや、武家、町人と区別を立てる時節でもなく、町家でも手堅い 家であり、また気立ての好い人物ならば、綾を何処へでもお世話をお願いしたい。貴君 は世間が広いから、好い縁があらば、どうか、おたのみします」 など話しておられる(私はまだ小僧時代であるが、店のことや、奥のに此過−帥ゐ、。 配をしておられました。  ここにまた師匠の華客先で神田和泉橋に辻屋という糸屋がありました。糸屋でこそあ れ辻屋は土地の旧家で身代もなかなか確かりしたもの、普通の糸屋と異って、鎧の織の 糸、下緒など専門にして老舗であった。主人は代々上品な数寄者であって、いろいろそ の頃の名工の作など集められた。それで師匠も辻屋に出入りをしておった訳である。波 の彫金の大先生加納夏雄さんが京から江戸へ出た時に草鞋を脱いだ家がこの辻屋という ことです。今日でいう美術家とはいるいる深い縁故のある家であった。  この辻屋の次男に貨一郎という人があった。神田お玉け他に徳川様のお大工棟梁をし ていた柏木稲葉という人の養子になって柏木貨一郎と名乗っておった。二十四、五の立 派な人品のよい、すこぶる美男子で、少し小柄ではあるが大家の若旦郡といって恥ずか しからぬ人でした。この人もまた美術愛好家であって、夏雄さんの彫り物では鏡蓋、前 金具、煙管など沢山に所持しており、また古いものにも精通しておられ、柏木貨一郎と いうとその頃の数寄者仲間には知られた人で、同氏が所持していたものといえば、それ を譲り受けるにも人が安心した位、信用のあった人でありました。  この柏木氏は今申す通り、大工棟梁の家筋で素の町人ではない。屋敷も門構えで武家 住居のような立派な構え、したがって資産もあり、男振りは美男子というのであるから、 私の師匠はこの人に目を附けたのでした。この師匠の見立てが、甚だ適当で、一方お旗 下のお嬢様であるお綾さんにはいかにも似合いの縁辺というべきであった。それにお綾 さんはまたなかなかの美人であり、武家の家庭のことで教育は充分、生まれつき怜悧で、 母人はまたよろしい方、今は瓦解をして士族になって、多少は昔の威光が薄くなってい るけれども、まだまだ品格は昔のままである。でこの柏木貨一郎さんとお綾さんとを並 べると、それこそお雛様の女夫のような一対の美しい夫婦が出来ると、師匠も家にいて その事を妻君などに話し、どうか、この縁は纏めて見たいものだ、といっておられまし た。  師匠はこの縁談を柏木家へ申し込んだのでありました。これは師匠が辻屋に出入りを していた関係で柏木家へも出入りする。柏木家の末亡人からも養子に相当な嫁があった ら世話してくれと頼まれていたので、ちょうど両方からの依頼で、自然と一対のものが 出来たような塩梅になったのですから、師匠もこれは出来ると思った柏木家へ申し込ん だのであります。すると、案の条、柏木家でもまことに結構とある。そこで柏木家から 改めて師匠を介して三枝家へお綾さんを貰いたいと申し込んだのです。三枝さんでは師 匠に一切を任した位に師匠を信じて頼んでいるのであるから、こちらもまた甚だ結構と いうことで、どうか骨折って纏めてくれという挨拶である。で、師匠が双方を幾度か往 復していよいよ見合いをしようという運びになりました。  さて、見合いということになりましたが、当時世の中もまだ充分に静謐になったとい うではなく明治新政の手の付け初めで、何となく騒々しい時で、前から多少とも物持ち の家でも財産を減らさぬようにと心掛け、万事控え目にした時でありますから、この見 合いのことなども双方ともに極質素に致すがよるしかろうということで、師匠の宅の坐 敷で、双方が落ち合うようにしたらというのであったが、師匠は、どうも、自分宅とい っても坐敷というほどの坐敷もなし、柏木家と三枝家との歴とした両方の関係者をお招 きするだけのことは出来ませんから、何処か、極倹約で、人目に立たない好い場所を考 えましょうといって、思い付いたのが諏訪町河岸の「坊主そば」の二階であった。  このそば屋のことは、前に浅草界隈の名代な店のはなしをした折はなしました通り、 主人が聾であるから「聾そば」ともいってなかなか名の売れた店で並みの二八そばやで はない。この二階をその見合いの場所にするということになった。  当日は無論、私の師匠は双方の仲介者であるから誰を差し措いても出掛けなければな りません。で師匠は羽織など着て出掛けることになったが、そのお伴は相変らず私であ る。私はその時分はまだ小僧で、師匠に幸吉々々と可愛がられ重宝がられたもので、便 い先のことはもとより、お伴も毎々のことで、辻屋でも、三枝さんでも、また柏木家で も師匠と多少とも関係交渉のあった家は何処でも知っており、また種々な事件の真相な ども大方は心得ておったものでありました。それで、今度もお伴を仰せつかって師匠の 後から「坊主そば屋」へお伴をして参ったのでありました。  かれこれする中に柏木貨一郎さんが養母とともに見える。三枝のお嬢さんお綾さんに は母者人のおびくさんが附いて見えられる。二階で落ち合って蕎麦を食べて見合いをさ れた。一方は水の垂るような美男、一方は近所でも美人の評ある旧旗本のお嬢さん、ま ことに似合いの縹緻人揃いのことで、どつちに嫌のあろうはずなく、相談はたちまち整 ったのでありました。この時、お綾さんは確か十八で貨一郎さんは二十五位であったと 思う。私はお綾さんよりは一つ年下で十七であった。小僧とはいっても最早中小僧で、 今日でいえば中学校の青年位の年輩であるから、記憶などは人間一生の中で一番確かな 時分——見合いというものは、どういうことをするものかなど恐らく好奇心もあったか、 婿さんの貨一郎さんも、お嫁さんの方のお綾さんも、今日でもその美しい似合いの一対 であったことがハッキリと記憶に残っております。  そこでこの縁談は整い、早速仕度をしてお輿入れという段になって、目出たく婚儀は 整いました。しかるに、これが意外にも不縁となってしまったのでありますが、これに はまた理由があった。……というのは貨一郎さんには養母がある。これは柏木家の未亡 人で、すなわちお大工棟梁稲葉という人の後家さんであります。この方が、今日でいえ ばひすてりーのような工合の人で、なかなかちょっと始末の悪い質の婦人。まず一種の 機嫌かいで、好いとなると火の付くように急き立て、また悪いとなり、嫌となると前後 の分別もなく、纏まったことでも破談にしてしまうという質で、甚だ面倒な人であった。  こういう性質の人を養母にしていた柏木貨一郎さんは、とてもこの緑は一生添い遂げ ることは困難しかろうと想われたらしい。元来、この貨一郎という人は考え深い人であ ったから、今度の縁談については、いろいろ深く考えておったものらしく思われる。こ れは私の後日に到っての想像でありますが、どうもそうと解釈される。つまり、貨一郎 氏の世では、あの養母がいられる間は、いかに発明な婦人を妻としたとても、一家に波 が立たずに済もうとも思わず、また添い遂げ得られようとも思われぬ。どうで、添い遂 げられぬものなら、一旦、自分の妻となった女であっても、その人へ傷を付けたくない。 とこう考えられたものと見える。それで御夫婦の間のことは極疎遠であったらしい。夫 婦のかための杯はあったが、夫婦の語らいはなかった。で、お綾さんが里へ来て、その 事をお母様へお話をしたものらしい。  三枝未亡人がこの娘の話を聞くと、意外に感じたことは道理なこと。これはまず何よ り媒酌人の東雲さんに話すが好かろう。この嫁入り前より何か他に思い込んだ婦人でも あるのではないか。もしそういう事なら今の内引き取った方が双方のために好かろうと いうので、御母様が来て話されましたので、東雲師もこれは困ったと思ったが、貨一郎 氏にも深い考えあってしている心持ちが分ると、夫婦の中へ立ち入って好い工合に纏め ることも出来ずそのままになっている中とうとう柏木未亡人方にも何か都合があって、 双方話合いでいよいよ破談となってお綾さんは里へ引き取られることになりました。 三枝家の方では、婿の貨一郎さんの真意のある所が分りませんから、やはり疑惑を懐 き、先方の仕打ちを面白く思わないのも道理な次第です。また、柏木貨一郎氏の心の中 には種々辛いこともあったでありましょう。しかし、当人に傷の附かない中に綺麗に還 すということが、この際何よりのことと最初から思い極め、お綾さんのために後々のこ とを心配し、また自分にも用心をして非常にたしなんでいたものらしいが、そういう深 い実情は三枝家の方には分りようもなく、ついに双方の間に意思の疎通を欠いたまま不 縁となったことはまことに残念なことでありました。  私の師匠もこの間に挟まって、いろいろ斡旋しましたことはいうまでもないが、何し ろ、一方のお袋さんが、嫁を貰う時には貨一郎氏が何んといっても自分先に立って極め てしまい、少し気に向かなければ、なかなか気随者で、いい張ったとなると、誰が何ん といっても我意を張り通すような有様で随分手古摺らされたような塩梅でありました。 私は小僧のことで直接にはそういう交渉に当ったわけではないが、毎度、これらの要件 のことで師匠の意を受けてお使いをしたり、また師匠が妻君に話していること、時々、 私に愚痴を洩らされることなどで、この結婚が破れるのであろうということを予想して おりました。後に至っても偶々師匠が当時のことを私に話して、本当に媒酌人をすると いうことは重大な責任のあることを語られましたが、この時の心配苦労の一通りでなか ったことが推察されました。  さて、その後、お綾さんが里へ帰られ、間もなく大隈さんへ貰われることになったの ですが、この関係は私は知りません。また、師匠もこの時のことには立ち入っておりま せんでした。しかし、或る日三枝未亡人が師匠宅へ見えられてお綾さんのその後のこと について話しておられました。 「……実は、綾のことですが、今度お国のお侍で大隈という人から是非慾しいという ので、遣わすことに承諾しましたのですが、まるで娘を掠奪われるような工合で、私も 実に驚きました」 と、愚痴交じりにいっておられた所を見ると、未亡人も承諾はしたものの、先方の行方 が乱暴なので迷惑に感じたような口裏であった。  これは一方は直参のお旗下で、とにかく、お上品で三指式に行こうというところへ、 一方は西国大名の中でも荒い評判の鍋島藩中のお国侍、大隈八太郎といって非常な論客 で政治に熱狂していた志士の一人。その時は既に大官を得て出世しているとはいえ、万 事が粗野放胆で婚儀のことなど礼節にかかわらず、妻を娶るは品物のやり取り位に思つ ていたであろうから、お品の好い御殿風な三枝未亡人を驚かしたも無理ならぬことと思 われます。何んでも人力車に書生をつけてよこして、花嫁御寮を乗せて、さつさと伴れ て行ったりしては、お袋さんも娘の出世はよろこんでも、愚痴の一つもいいたくなって、  東雲師の宅へ出掛けてお出でになったものと見えます。  東雲師は、黙って話しを聴いておられたが、 「なるほど、しかし、そりゃ仕方がありませんよ。東京の方と、田舎の人とでは、ど うも……」 など挨拶をしている。 「でもねえ、何んだか、私は不安心ですよ。綾が取って食べられそうな人なんで ……」 「いや、御隠居様。今の世の中は、そういう男が役に立つのでございますよ。御安心 なさいまし」  師匠は高声で、笑い声も交じって奥で話していられる。私は店にいて、聞くともなく そんな話しを聞いて、あの御婦人も今度田舎のお武士へお片附きになったかと思ったこ とでありました。  その後、幾日かを経て、三枝未亡人はまた東雲師宅へ参られ、申すには、東雲さん、 今日は妙なことをちょっとお願いしたいので参りましたが、実はこれを貴君に始末して 頂こうと思って持って参じましたといって風呂敷包みを解かれると、中に絹の服紗に包 んだものが米ならば一升五合もあろうかと思うほどの嵩になっている。それを拡げると、 中から出たものが無数の紙片の東であった。 「これは綾子が宅におります時分、長い間掛かって丹精して書きためたものですが、 仕舞って置くにしても置き所もなし、焼いて棄てるにしては勿体なし。貴君は仏師のこ とで、こういうものの始末はよく御存じと思いますので、何んとか好い方法で始末をな すって下さい」 との事。  師匠は何んであるかと、その物を見ると、それらの紙片は短冊なりに切った長さ三寸 巾六、七分位の薄様美濃に一枚々々南無阿弥陀仏の御名号が書いてある。それが一 束々々になっているが、一束が千枚あるか、二千枚あるか、実に非常な数である。 「どうもこれは驚きました。これをお嬢様がお昼きになったのでございますか」 「さようで……」 「何か御心願でもあってこんなに御丹精をなされたのでございますか」 「さあ、どうで御座いますか。あの娘の心持は私には分りませんが、何んでも毎日の 勤行のようにして、幾年か掛かって書きためたのですが、一心の篭ったもの故、こうし て置くのは勿体なく……。 「なるほど、宣しゅうございます。では、これは隅田川で川施餓鬼のある時に川へ流 すことに致しましょう。焼いて棄てるは勿体ない。このまま仏間になど置きましてもよ ろしいが、それより川へ流せば一番綺麗でよろしゅうございましょう」 「では、どうか、よろしく……」 というような談話をして、三枝末亡人は帰られました。  それから、その年の夏に隅田川で川施餓鬼のあった日、師匠は私を呼んで、これを吾 妻橋から流すようにといいつかりました。  で、弟弟子の小沢松五郎を伴れ(上野戦争のはなしの条にて、半さんの家へ私と一緒 に参った小僧)、小風呂敷に包んだものを持って吾妻橋へ行きました。川施餓鬼の船が てんてんてんてんと囃して卒塔婆を積んで橋下を抜けて行くのを見掛け、私と松五郎と 南無阿弥陀仏の名号の書いてある紙片を一枚々々水面へ向けて流し出しました。妙なも ので、どうもこういう風に一枚々々丹念に名号が書かれてある短冊ですから、それを束 なりに川の中へ拠り込むわけには行かない。流すという心持になりますと、やはり一枚 々々と我が手から離れて風がひらひらと持って行って水に流れて行くのでないと流した 心になりませんから、私たちは丁寧に一枚々々とめくっては流したことですが、何しろ、 無数の紙片のこと故、二、三時間も掛かってやつと流してしまいました。  私は、その時は別に何んとも深く考えもしはしませんでしたが、後年、その時のこと を想い出して信神も信神であるが、これだけのことを倦きず榛まず、毎日々々やり透す ということは普通のものに出来ることではない。噂に聞けば大隈夫人綾子という人は、 大層よく出来た人だとの評判であるが、なるほど、娘時代からあれだけの辛抱をして心 を錬っておられただけあって、今日天下一、二といわれる政治家の夫人となってもやは りその妻としての役儀を立派に仕終せるというは、心掛けがまた別なものであるかと感 心したことでありました。  私が綾子刀自について知っている因縁ばなしというのはこれだけのことで、そのほか 何もありません。  けれども、私は、刀自が初緑の際の見合いに仲介人の師匠のお伴までしてその席を実 見したほど、その時代のことを能く知っており、正銘疑いなしの話である。よって、 私は、この奇妙な話はまことに不思議ともいうべきであるから、何時かは何かに書き残 して置きたいとも思っていたのですが、ここにそれを差し控え、今日まで、かって口外 したこともなく、これだけの話をそのまま黙っておったのは、綾子刀自が大隈家へ方附 かれたのが、初縁でないのであるから、もし、ひょっとそういうことを私の口から口外 しては、と遠慮を致したわけでありました。もっとも、大隈家へ再縁されたと申しても、 事情は前申す適りの訳で、一向処女というに変りはないことで、刀自の身上に何ら潔白 を傷つける次第でもありませんが、御当人、およびその御良人の存生中は善悪ともに他 人のとかくをいうべきはずもないことと、実は口を織しておったわけであります。  が、今日はもはや、御両方とも黄泉の客となられた場合、私がこのはなしをしたとて、 さして差し間えもないことかと思うばかりでなく、かえってこのはなしは、刀自の素性 について世間の噂が全く間違って、飛んでもない悪名をつけるような有様になって、女 中であるとか、芸妓をしていたとか、甚だしきは他人のおめかけであったなど取りとめ もつかぬ噂を立てるのを耳にもし、また目にもするにつけ、昔は旧お旗下の令嬢にて、 立派に輿入れをされ、また清く元の身のままにて里へ帰され、そうして、また立派に大 隈家へ貰われてお出でになった当時の事実を、知りながら黙っているより、今日を好機 会として、この昔ばなしの中にはなして置くことは、間違いを矯し、偽を取り消すよす がともなろうと存じてかくは話をしたような訳であります。  なお、因みに、彼の柏木貨一郎氏は、後年、確か、某家の飛鳥山の別荘へお茶の会に 招かれての帰り途、鉄道のれえるに下駄の歯を取られ、あつという間に汽車が来て、無 惨の最後を遂げられました。  これは明治三十一年九月の事と記憶しています。  また、三枝竜之介という方は、先年、私が、一、二度大隈邸へ招かれ参ったことのあ った時、お玄関で一人の老人にお目に掛かったが、その方が竜之介氏であったことを記 憶しております。 皇居御造営の事、鏡縁、欄間を彫ったはなし  御徒町に転宅しまして病気も概かた癒りました。  その時が明治二十年の秋……まだ本当に元の身体には復しませんが仕事には差し悶え のないほどになった。  すると、その年の十二月、皇居御造営事務局から御用これあるにつき出頭すべしとの 御差紙が参りました。何んの御用であるか、いずれ何かの御尋ねであろう、出て行けば 分ろうと思って出頭しますと、皇居御造営について宮城内の御間の御装飾があるによつ てその御用を仰せつけられるということであったので、誠に身に取り名誉のことで、有 難き仕合わせと謹んでお受けをして退出したことでありました。  この皇居御造営の事は日本美術協会の方にも関係がある。協会の役員の一人である山 高信離氏は御造営の事務局長でありました。氏は当時有数の博識家で、有職故実のこ とは申すまでもなく、一般美術のことに精通しておられ、自ら絵画をも描かれた位であ りますから、建築内部の設計装飾等の万般について計画をしておられまして、各種にわ たった技術家諸職工等を招きそれらの考えを聞き、自分の考えと参考勘酌して概略のと ころをまず決定されておられたようなことであった。それで氏は私のことをも美術協会 の関係上多少知っておられ、私の技術をもお認めになっておったものか、氏のお考えに よって私にも御用を仰せ附けられた次第であったことと思われます。  宮城内の事は雲深く、その頃の私は拝観したことも御座いませんから分りもしません が、その御化粧の御間に据えられる所の鏡の鏡縁の彫刻を仰せ附けられたようなわけで ありました。  鏡縁は大きなもので、長さ七尺、巾四尺位、縁の太さが五寸。その周囲一面に葡萄に 栗鼠の模様を彫れということで御座いました。右の材料は花樹で、随分これは堅くて彫 りにくい木であります。早速お引き受けは致したが、何しろ押し詰まってのことでその 年はどうにもならず、明けて明治二十一年、新春早々から取り掛かりました。普通、庶 人の注文とは異なって、宮中の御用のことで、わけて御化粧の間の御用具の中でも御鏡 は尊いもの、畏きあたりの御目にも留まることで、仕事の難易はとにかく事疎かに取り 掛かるものでないから、斎戒休浴をするというほどではなくとも身と心とを清浄にして 早春の気持よい吉日を選んでその日から彫り初めました。  木取りは御造営の方で出来ていて、材料はチャンと彫るばかりになって私の手へ廻さ れておりますので、こつちは義を下せば好いわけであります。そこで彫るものは葡萄に 栗鼠というので、ざっとした下図も廻っている。まず、従来から誰でも知っている図案 であるので、葡萄は分っている。栗鼠も分っているが、栗鼠は生物で、平生から心掛け て概略は知っているものであるが、いざ、これを手掛けるとなると、草卒には参らぬの で、栗鼠を一匹鳥屋から買いまして家に飼うことにして、朝夕その動作を見るために箱 の中に木の枝または車などを仕掛けてそれを渡って活動するその軽快な挙動を研究的に 見究めなど致した上で、葡萄の中に栗鼠の遊んでいる所をあしらって図案を決め、いよ いよ彫り初めたのでありました。  けれども、前申し上げた通り、私の家は手狭であって仕事場も充分でない。広い室と いって六畳しかありませんから、其所へ七尺からの鏡緑の材料を運んで仕事をすること は出来ませんので、仕方なく、私の実家(私は高村家の養子であることは前申した通り) の菩提寺が浅草松葉町にあるので其寺の坐敷を借りることにしました。寺の名は涼源寺 といって至って閑静で、お寺のことで広々としておりますから、仕事には甚だ都合が宣 い。しかし宮内省からお預かりをしている品物は、木地とはいえ、大切のものであるか ら、不慮のことでもあってはとなかなか心配。それに日限りもあることで、毎日其寺に 通い充分注意を致して仕事に取り掛かりました。  仕事は私一人でなく、弟子を使い、荒彫りは自分がして、仕上げは弟子にも手伝わせ、 まず滞りなく仕事を終って首尾能く掛かりの方へ納めたことでありました。出来上がつ たのが四月……桜の花の散る頃でありました(手伝わせた弟子には林美雲氏も山本瑞雲 氏もおりました。美雲氏は既に故人となったが、後に美術学校の助教授をもしたことで あって、至極穏健な作をする人であった。東雲師のお宅で年季を勤め上げ、一人前にな ろうという所で師匠が歿されましたので、その後は私の許に参って私の弟のようになつ たのであります。また山本瑞雲氏は現存で今日盛んに活動しております。この人は元萩 原国吉といいましたが、後に実家の山本姓に復し号を瑞雲と改めました)。  鏡縁が納まると、今度は御欄間の彫刻を仰せつかりました。  これは七宝に山鵠の飛んでいる図であった(山鵠という鳥はちょっと鵠に似て、羽毛 に文系があり、白冠で、赤い峰、尾が白くて長い。渡り鳥の一種で、姿の上品な趣のあ る鳥です)。それが済むと次は同じく欄間で鉄線蓮唐草の図(鉄線蓮はよく人家にある蔓 草で、これも紋様などにして旧くから使われているもので、大変趣のあるもの、葉は三 葉で一葉を為し、春分旧根から芽を出し、夏になって一茎に一花を開く。花の大きさは 二寸余で、六弁のものも八弁のもある。色は碧か白、中心に小さな紫弁が旗がってちよ つと小菊の花に似ているもの)、それが終ると、今度は小鳥に唐草を一組仰せつかった。 この一組は二枚の処も四枚の所もあって、なかなか大きく手の篭んだもの。……これら はいずれも首尾よく納まりました。それから暫くすると、今度は御学問所の欄間で蟻幅 を彫工会の方へ御命じになって、大勢で一つずつ膨れという命令。つまり合作でありま す。私は白幅を一つ彫りました。  これらの彫刻は掛かりの方から下絵が出ているので、そうむずかしく意匠することも 入らず、得手々々に彫刻して雲形の透かしに配置したものです。何しろ宮中のお仕事で すから謹んで落ち度のないように心掛けたことでありました。 葉茶屋の狆のはなし  さて、鏡緑御欄間の仕事が終りますと、今度は以前より、もつと大役を仰せ付かりま した。  これは貴婦人の間の装飾となるのだそうで御座いますが、貴婦人の間のどういう所へ 附いたものかその御場所は存じません。何んでも御階段を昇り切ったところに柱があつ てその装飾として四頭の狆を彫れという御命令であった。 これは東京彫工会へ御命令になったので、木彫りで出来るのではなく、鋳金となって 据えられるので鋳金の方は大島如雲氏が致すことになったが、原型の彫刻は高村にさせ ろという御指命で彫工会がお受けをしたのでありました。 そこで、私は原型を木で彫ることになりました。およその下図は廻って来ましたが、 今度は鏡縁欄間のような平彫りとは違って狆の丸彫りというのですから、下図に便って いるわけに行かない。まず何より第一番にモデルとする狆の実物を手に入れることが必 要となって来ました。  しかし、狆を手に入れるということは容易でない。狆なら鳥屋へ行っても何程もある が好いものは稀です。もし好いのがあれば高価であるから私も当惑しましたが、以前用 たしで浅草の三筋町を通った時に或る葉茶屋になかなか好い狆がいたことを思い出した ので、早速出掛けて行って見ると、店先にチャンとその狆はいる。それはなかなか狆ら しい狆で、どうも好さそうに思われるので、それが欲しくなりましたが、葉茶屋では自 慢にするほど可愛がっているらしいので、ちょっとどうするわけにも行きません。  けれども、まず当って見ない分には容子も分らないので、そんなに入用でもない番茶 やお客用の茶などを買いまして、店先に腰を掛け、そろそろその狆を褒め出したもので す。可愛がっているものを褒められれば誰しも悪い気持はしませんが、細君が奥から出 て来て講釈を初める。私は一服やって仲の話を聞きながら、細君があやしているその狆 の様子を見ると、どうも、いかにも仲らしくて好さそうである。  それで私は言葉を改め、 「実は、私は近日一つ狆を彫ろうというのですが、お宅の仲はいかにも種が好さそう で、これを手本にして彫ったら申し分なかろうと思うのですが、手本にするには手元に おらないと仔細な所を見極めることが出来ませんので、甚だ当惑している次第ですが、 どんなものでしょうか、無猿なお願いですが、この狆を一週間ばかり拝借することは出 来ますまいか。もっとも仲の手当てはお習いして、決して疎略にはしません。一つ御無 心をお許き下さるわけには参りますまいか」  こう私は申し込みました。  すると、細君は大変驚いた顔をして私の顔を今さらのように眺めておりました。 「そうでございますか。貴方が狆をお彫りになるのですか。でも、生物のことで、ち よつとお貸しするというわけにも参りませんよ。これはもう私の子供のようにして、こ うして可愛がっていますんで、暫くも私の傍を離れませんので……」 というような挨拶。  どうも、ちょっと話が纏まりそうでないから、もう何もかも本当のことをいって頼む より仕方はないと思い、……もっとも、いよいよとなれば、そうする考えでもいました ので、私はさらに押し返して、 「……実はまだ詳しいことも申し上げず、いきなり狆を拝借したいと申しては薮から 棒でさぞ変にお思いでしょうが、私は、今回、皇居御造営について、貴婦人の御間の装 飾に狆を彫刻することをお上の方から命令されましたので、そのため、いろいろ好い狆 を見本に探しておりますようなわけで、貴店の舛がいかにも狆らしく美事であると、 平常からも思っておりましたので、今日、実はお立ち寄りして拝借を願ったような訳な ので……」 と、話し出しますと、細君は二度吃驚というような顔をしている。 「まあ、そうで御座いますか。皇居御造営になるとか申すことは私どもも噂で承知し ておりますのですが、すると、貴君は狆を彫って貴婦人のお問へそれをお納めになるの ですか」 「そうなんです。それで鳥屋へも二、三軒行って見ましたが、どうも気に入った狆が おりません。とても、貴店のに比べると狆のようにも見えませんので……これが、その 彫刻をして売り物にでもしますのなら、気に入らない見本でも間に合わせも出来ますが、 何しろ、宮城の貴婦人の御間へ備え附けられますので、よほど本物が上等でありません といけませんのでして」 「まあ、お話を聞けば勿体ないようなことで御座いますね。すると、この狆を見本に してお彫りになれば、この狆の姿が九重のお奥へ参るわけで御座いますね」 「そうです。御場所柄のことで、高貴の方の御集まりになる所へ飾られますわけで」 「そうでございますか。では、まあ、お見立てに預かった仲は、随分名誉なことでご ざいますわね」 「そうです。仲に取ってはこの上もないことと申しても好いかと思います」 婦人相手のことで、なかなか、その応対が念入りで、私も一生懸命ですから、掛引を するではないが願望を遂げたいために弁を振う。細君も訳を聞けば勿体なくも右の次第 と分っては、可愛がっている生物のことでお貸しするわけには参らんと断わるわけには 行かなくなった。  そればかりでなく、話を聞いては案外、皇居云々のことがあるので、細君も深く感じ たものと見えまして、暫く考えていましたが、良人や娘などに相談した結果、細君は快 く貸してくれることになりました。 「畏れ多いお場所のお飾り物にこの仲の形が彫られるのでしたら、形のある限りは後 に残るわけでございますねえ。それではお役に立つものなら立てて下さいまし、私ども も大よろこびでございます。それで一週間というのも何んですから、まあ十日というこ とにしてお貸ししましょう」 ということになりました。私は思いのほか事が容易に運んだので安心しましたが、実に 日本という国でこそあれ、皇居という一声で、私の名も所も聞かないで、ありがたがつ てお役に立つものなら立てて下さいと誠の心を動かして来た心持は、全く、他国の人の 真似の出来ぬことであろう、と非常に私も嬉しく感じたことでありました。  そこで、私は自分の名札を出し、住所氏名を改めて名乗り、これから自分で狆を伴れ て行こうかと思いましたが、貴君の書き附けを持ってお出でならお使いでもお渡ししま すと、充分に私を信じてくれておりますので、私は家に帰り、弟子の萩原国吉を使いに やりました(この国吉は今の山本瑞雲氏の旧名。当時の青年も今は五十以上の老人とな っている)。国吉は早速中風呂敷をもって三筋町の葉茶屋へ狆を借りに参り、遠い所で もないので暫くすると抱いて帰りました。  二三日は座敷に置いて狆の挙動を眺めていた。普通の犬ころなどと異って品の好い ものでなかなか賑やかで愛矯がある。そこで第一に一つ彫り初めました。  今日のように脂土などで原型をこしらえるのでなく、行きなり木をつかまえて彫るの です。何んでも十日という日限りもあることで、一つ写して置けば、後はまた出来るか らとまず盤打ちに掛かり四、五日縫って概略狆が出来、これから仕上げに掛かろうとい う所まで漕ぎつけ、モデルの本物の狆と比べて眺めて見ると、どうやら狆に似ているよ うである。まずこれならと思って、なお、きまり所など仔細に観ている所へ、かねて懇 意の合田義和氏が計らず来訪されました。この人はこの前話した漠法の名医で私の難病 を癒してくれた人であります。 「どうですね。お身体は悉皆よくなりましたか」と合田氏はいう。 「お蔭様で。この通り仕事も出来るようになりました。全くこれは貴方のお丹精 の賜です」 「それは何より結構……狆を拵えてお出でですね。仲とはまた珍しいものですね」 「実は皇居御造営の御仕事を命ぜられましたので、仲の製作を仰せつかったような訳 ですが、これは仲と見えましょうかね。物が物なので、このモデルにする狆を探すのに 大骨折りをして、初めた所ですが、どんなものでしょう。狆と見えますかね」 私は仲の見本を得ることに因難した話などしながら、出来掛かった彫刻を合田氏に見 せている。合田氏は黙って私の製作を眺めていました。 「なるほど、彫刻はなかなかよく出来ているように素人の私にも思われますが……あ なたが狆を彫刻なさると、もちっと早く知ったら、ちょうど好いことがあったのにまこ とに残念なことをした」 と、さも残念そうに合田氏はいっているので、私はそれはどういうことですと問いまし た。 好き狆のモデルを得たはなし  合田氏のはなしを聞けば、なるほど耳寄りな話である。  合田氏は、私の今使っているモデルの狆を口ではそれと悪くはいわないが、この狆よ りも数等上手の狆がいることを話された。それはつい先月の話のことだが、合田氏の知 人に、徳川家の御側御用を勤められた戸川という方があって、その御隠居が可愛がった 一匹の狆があった。それはなかなかの名狆であるのだが、戸川家も世が世で微禄され、 御隠居も東京を引き上げ、郡部へ引つ込むについて狆を田舎まで伴れて行くのも大儀故、 何処か好い貰い手があれば呈げたいものというので、合田氏へも話しがあったが、合田 氏も狆を飼って見る気もないので話はそれ切りになってしまったのである。今少し早か ったら、注文通りのお手本があったのに惜しいことをしたという話である。 「どうも、これはあなたが残念がるよりも私は一層残念なことに思いますが、もうそ の狆は何処かへくれてしまったでしょうか」 私が訊ねますと、合田氏は、 「さあ、多分、もう何処かへ縁付いたことと思いますが、ひょっとすると、まだその ままになっているかも知れません。一つ聞いて見て上げましょう。ついこの御近所の御 徒町四丁目に戸川の親類が荒物屋をしていますが、ひょっとすると、其処へ買われて行 ってるかも知れません。私が手紙を付けて上げますから、誰かお弟子を使いに上げて下 さい」 ということになった。 戸川さんの親類の荒物屋というのは、これもお武士の微禄された方で、荒物渡世をし てどうにかやって行かれているのだと合田氏の話。何はとまれ、狆が其処にいてくれれ ば好いと、私は国吉を使いにやった。 「もし、狆が荒物屋にいなかったら、行った先を其処で聞けば分ります。郡部へ伴れ て引つ込んだか人にやったか、当りは付きます。その事をよく聞き正して見て下さい」 合田氏はいるいる注意して下さる。 毎度国さんは御苦労だが、例の中風呂敷を持って出掛けました。近所のことなり、若 い者の足で間もなく帰って来た。話を聞くと、狆は荒物屋にはいないということ。 「仲は、もういないのかね」 「ええ、仲は荒物屋にはいません。ですが、四谷の親類の方にいるんだそうです」 「四谷にいると、本当に」 「いるんだそうです。それで荒物屋さんの御主人が、私が附手紙を四谷へ書いてあげ るといって、それを貰って来ました。これを持って四谷へ行けば、狆は多分貰えるだろ うということです。私は直ぐ四谷へ行こうと思いましたが、ちょっとお知らせしてから と思って帰って来ました」 国さんはこういいながら立ったままでいる。それがまだ昼前のことで、これから四谷 へ行くは大変、お午餐をたべてからというので、早昼食をたべて国さんは四谷へと出掛 けて行きました。 国さんは午後四時頃に帰って来た。 見ると、何か嵩張る箱のようなものを背負って、額に汗を掻いて大分疲労れた体であ る。まだ馬車もなく電車は無論のこと、人力に乗るなど賛沢な生計ではないので、てく てく四谷から、何か重そうなものを背負わされて戻った。見ると四角張ったものは狆の 箱で、箱ぐるみ貰って来たという訳、箱だってなかなか手を尽くしたもので、きりぎり す篭の大きいような塩梅に前へ竹の管の千本格子が這入っている。箱を座敷へ上げて中 を見ると、動物がその格子の内に寝ころんでこつちを見ておりました。 その動物を見ると私は驚きました。  というのはその権識が実に男います。見ていると気味が悪い位です。その目が素晴ら しく大きく鼻と額と付つ着いて頬の毛が房さり達筆に垂れ、どろんとした目をしてこち らを見ている所をこつちから見ると、何か一種の怪物のような気もしてどうも変なもの だと思いました。 「どうもこれは妙だね」 「どうも妙なものですね」 家のものもそういって見ている。 私は近寄って箱の蓋を明けましたが、直ぐに飛び出して来ようともしません。寝転ん だままで悠々としている処、どうも動物とはいえ甚だ権が高い。 「名は何んというのかね」 「種っていうんだって教えてくれました」 国さんはいっている。 私が「種、種」って呼んで見ますと、やがて、のつそりと起き出て来ました。出たの をよく裾ますと、まるで葉茶屋の狆とは雲泥万里の相違で、同じ狆とはいいながら、似 ても似つかぬような風采です。のそりと畳の上を歩く音がばさりというように間えます。 ばさばさと畳の音がするのです。そうして悠々然と四方に人もおらぬといった風に構え ている処は鷹揚といって好いか、寛大といって好いか、とにかくその迫らぬ態度は葉茶 屋の狆のちよこまかと愛嬬あって活溌なのとは比べもつかぬ。もっとも、この戸川さん から来た狆は大分年老っているので皿気旺んというのでないから、その故もあるか、私 たちが狆らしい狆だと思う種類とは掛け離れたものに見えます。しかし、どつちが好い とも分りません。どつちが好いとも分らないが、戸川さんから来た方は指と爪が長くて、 指と指との間に毛が一杯生えている。それが歩くとばさりという。尻尾の毛は大鳥毛の ようで高く巻き上がって房さりしており、股の前にも伴毛が長い、胴は短くつまって四 足細く指が長く歩く時はしなしなする。頭が割方大きく見ゆる。そうして眼は今申す通 り度はずれ大きく、どんよりして涙を含んでいるように見えます。それに大きさも葉茶 屋の方のよりは一廻り大きく、全体の毛がぼつさりしていかにも大々として立派に見ゆ る。両つを比べて見ると人間ならば階級の違う人が並んで立っているよう、その相違は 不思議な位でありました。  私は今日まで、葉茶屋の狆を本当に狆らしい狆だと信じていたのですが、今度の 「種」が来て、その権識の高いのを見て、狆というものはこういうものか知らんと思つ た。それで二、三日は坐敷に放って置いていろいろその動作を眺めていましたが、ちよ つと手を附ける訳に行かない。彫って見ようという気になれないのです。それに一方、 葉茶屋の方は既に荒ぼりが済んでいる所でありますから、今、どつちへ取り掛かって好 いか気迷いがしてどつちにも取り掛かることが出来ないのでありました。  しかし、また二、三日すると、目に馴染んで来て、今度来た方の狆が、どうも本当の 狆というものだということが分りました。同時に葉茶屋の方のは、仲と思っていたが、 何んだか洋犬のように見えて来て、どうも貧弱で、下品で、一緒に並んでいても「種」 の方へは寄りつけないように見えて来ました。私もただ愛玩的に狆を飼ったのでなく、 名誉な仕事の見本となる生きたモデルでありますから、真剣な態度でいろいろと骨格態 姿を一々仔細に観察するのでありますから、物を公平に観ることが出来るのですが、少 しも晶負目を付けず、「種」の方が全く良種であることに得心が行きました。  もっとも、狆を見ることに巧者な人に話しても、両方の態姿や動作を二、三点いえば 直ぐに「種」の方がずっと上手なのだといいもしますし、見れば一見して「種」の方を 好いというのでも証拠立てられました。 これも後に分ったことですが、畳ざわりのばさつという感じのするのは狆として良種 であるのだそうです。こんな塩梅で一度に二頭の仲を坐敷に置いたようなことで、対比 的に自然研究したようなわけで、随分仲ではおかしいほどに細かい処を見たものであり ました。  さて、「種」をモデルにしていよいよ彫ることになりました。 葉茶屋の方のは一つ出来ましたので、厚く礼をいって還しました。先方もお役に立つ て満足とよろこびました。 「種」を手本に毎日馨の数が進んで行くにつけて、いかにも御尤と感じて、彫る上に も気乗りがして来ました。それで、つくづく私は思うことには、物の形を表わすものは、 世間を広く見てモデルも撰ばなければならない。疎かにしないまでも、狭くては、充分 でないものをも結構と心得て飛んだ手落ちをするようなことを生ずる。これは心得べき ことだと感じたことであった。 四頭の狆を製作したはなし いよいよ狆の製作が出来ました。 せんた 先のと、それから「種」のモデルの方が三つです。一つは起って前肢を挙げている (これは葉茶屋の方のです)。一つは寝転んでいる。一つは駆けて来て鞠に戯れている。 今一つは四肢で起っている所であった。この四つの製作はいずれも鋳物の原型になるの であるから、材料を特に木彫りとして勘考することもいらぬので、私は桧で彫ることに しました。いうまでもなく、桧の材はなかなか鑿や小刀を撰むもので、やわらかなくせ に彫りにくいものですが、材としては古来から無上のものとなっている。荒けずりから 仕上げに掛かり、悉皆出来上がって、彫工会へ納めました。 木型が出来ましたので、大島如雲氏はそれを原型として鋸金にしましたが、なかなか 能く出来て、原型をさらに仕生かすほどの腕で滞りなく皇居御造営事務局の方へ納まり ました。私は、すなわち鋳物の原型を作ったというにとどまるわけであった。  そこで、毎度余り物の値を露わにいうようでおかしいが、これも参考となるべきこと ですから、いって置かねばなりませんが、私の原型を作った手間がどうかといいますと、 狆の丸彫り四つで百円であった。一つが二十五円……今日の人が聞くと不思議と思う位 でありましょう。その当時、桧の最良の木地が一つで一円五十銭二円もしたか。材料な どのことは何とも思わない時分、今日で見れば木の値にも及ばぬ位のものでありましよ う。しかし技術家としてはそういう問題は別のことで、製作に掛かってはただ一向専念 で、出来るだけ腕一杯、やれるだけ突き詰めて行くことで、随分私もこの時は苦心をし ました。彫工会の方でも余り気の毒だというので後で五十円御礼が参りました。 四頭の仲の製作は、彫工会の幹部の人たち、また実技家の方の人々の見る所となりま した。私が、自分の口からいうのはおかしいけれども、これは大変に評判がよかった。 というのは、第一見た所がいかにも派手で、鮮やかで、しかも図の様が変って珍しい。 非常に綺麗なものであるから見栄がある。材が桧であるから水々しく浮き立っている。 これを見て幹部の人々もよろこんだことでありましたが、しかし、今日から見れば、ま だまだすべてが幼稚なもので、今であったら彫り直したい位に感じますが、当時はこう した作風はまず薪新であって、動物を取り扱うことはこれまでもあるとしても、その行 き方が従来の行き方と違って、実物写生を基として何処までも真を追窮したやり方であ りますから、本当のものを目の前に出されたような気が観る人にも感じられて「これは どうも」といって感服されました。 私は、今も申した如く、人より早くから写生ということを心掛け、西洋の摺り物のよ うなものから物の形を像ったものは何んでも参考材料とし、一方にはまた自然に面して 自然をそのまま写して行くことを長い間研究したことでありますが、……しかし、これ もまだ解剖的に内部を根から掘り返して窮理的に看極めて行ったという所までは行かず、 外観から物の形を見て研究した程度に止まることではありますけれども、何しろ、写生 という一生面はまずとにかく作の上に現われて、従来とは、別の手法を取っているもの でありますから、非常に賞讃を博し、私も普通の注文品と異なり、畏きあたりの御たの みで、名誉の仕事でありますから、面目を施したような訳でありました。 すべてこの製作が完了致したのが、その年の秋。ちょうど第二回の競技会の開催され る間際に打つかりました。確か、二十一年の十一月であったと覚えます。そういう時期 であったから彫工会の幹部の方々たちが、右の製作を見られて満足に考えておられる時 でありますから、折角、これまでの出来であるから、折も好し、これを一つ競技会へ出 すことにしたら好かろうということになりました。 けれども、他の事とは違い、まだ御造営の方へ納めない前に私に陳列してこの製作を 公衆へ発表するということは、どうも僣越なことではないかと気遣う向きもありました が、その心配は山高さんにお聞きすれば直ぐ分ることだと幹部の方で是非出したい方の 人の考えで御造営事務局長の職にあられた山高信離氏の他の端七軒町の住家へ人を遣つ て氏の意向を聞かせますと、それは差し問えないだろうとの事であったので、とうとう 競技会へ製作が持ち出されることになったのでした。 こういうことは皆他のしたことで、私は、出された方が好いものか、悪いものか、最 早製作は済んで彫工会へ渡したもので自分の自由にはならない。とにかく同会の幹部た ちが出せというので陳列することになりました。 会場の中でも大きな四方硝子の箱の扉をはずして真ん中へ敷き物を敷いて四つの狆を 陳列べました。数が四つというので、見栄がする。見物が大勢それに縫ってなかなか評 判がよるしかった。 この競技会の審査員は学芸員の人々また、実技家の主立った人々で、私もその一人で ありました。で、いよいよ審査することになると、審査員は困りました。この作品は高 村が競技的に自分の作を出したのでなく、彫工会が出品したのであって、御造営の方か らの命令で出来た品であるから、それを審査するというはどんなものかというのが頭痛 になったのであります。で、問題になると面倒臭いから、これだけは避けた方が好かろ うという審査員たちの考えもあったことと見える。しかし高村の作として出品されてい るものを、審査しないということも、競技会の性質として工合が悪い。それで審査員の 方では一案を考えて、これは我々は傍観態度で、この作の始末は幹部の方へ一任しよう。 そうすれば、理事、会長の考えで処置されるであろうというので、幹部へ持ち込んだも のですから幹部の山高信離、松尾儀助、岸光景、山本五郎、塩田真、大森惟中諸氏の手 に掛かることになりました。 幹部の方々はその事を協議されたことですが、どういう風になったか、私は自分のこ とでもあり、また審査員の一人ではあるが、まだ年も若しするので、何事も控え目にし ているのですから、ただ、傍観していましたが、自分考えでは、なるべくならば審査し てくれない方がよろしいと思っておりました。審査の結了の時は、審査員すべてがさら に寄り合って、今一度精選して万一の疎忽のないように審査会議がありますが、その際、 万事済んで行った後で、一つ事項が残っている。 「高村のこの作品をどうするか」 という問題。 「どうするといって、既に出品した以上、競技会だから審査せんという訳には行くま い。それに故人でもあることならとにかく、現存でまだ年も若い人であり、しかもこの 作は丹誠の篭ったものだ。審査せんわけに行かん」 こう幹部の意見が一致した。 そこで審査することになりました。  すると、まだ審査の結果が発表にならない前日に金田氏に逢いますと、氏のいわれる には、審査の結果、君の仲は、金貸になるということを聞き出して来たが、どうもお目 出たいとの話。どうもこれはお目出たいかも知れませんが、私は困りました。その困る というのはちょっと理由もあったことであります。話が大変管々しくなって煩わしいが、 委曲話すだけは話しませんと自分の思惑が通りませんから話して置きますが、ちょっと 話しが少し戻って、私の仲の作が陳列されて幾日目かに会場へ後藤貞行氏という馬車門 の彫刻家が見物に来ました。この人は私の弟子ではないが、物を彫ることは私が教えた んで親しい間柄。私の作の前に立って、つくづく狆を見ている。 「後藤さん。こんなものが出来たんだが、どう見えますか。仲に見えますかね」 私が批評を聞くと、 「まことに結構です。しかし只今、お作を拝見して、この彫刻の結構なことを思うに つけて、いと残念に思うことは、この狆をお彫りになる前にその事を私が知っていたら よかったが残念なことをしたと思いますよ。実をいいますと、このお作はどういう狆を モデルになすったか、なかなか狆としては名狆の方ではあるが、どうも大分年を老って いるように見受けます」 こういう答え。私は後藤氏の(曰葉を聞いている中に、なるほどさすが馬専門の人で、 動物を平主からいじりつけているだけに、なかなか詳しい。この狆を老年と見た目は高 いと思いながら、黙って聞いていますと、氏は言葉を次ぎ、 「それで、残念なことをしたと思いますのは、このモデルの狆よりも、もつと上手で、 恐らく日本一の名狆と思われる良い狆を私の知り合いのお方が持っておられます。その 狆をあなたに参考としてお見せしたら、必ずこの作以上のものがお出来だったろうと、 只今、感じながら拝見している処でありますが、惜しいことをしましたL 「……御尤のお言葉で……その狆は誰方がお持ちなんですか」 「それは侍従局の米田さんの狆です。何でもよほど高価でお求めになったとかで、東 京にもこれ以上のものはまずなかろうという評判で、年齢もまだ若し、それは実に素晴 らしいものですよ」 というような訳。 そこで、私も、良きモデルを得ることに苦心した前述の話などしまして、さらにこの 次狆を彫る時にはゝ右の米田さんの仲を是非見せて頂きましょうなど話しましたことで あったが、それにつけても考えられることは、モデルを選むということは、世間を広く 見た上にも広く、深く探し求めた上にも深く探究しないで、好い加減の所で、もうこれ で好いと自分一人決めにするようなことがあっては意外な欠陥を製作の後に残す悔いが ある。これは注意の上にも注意すべきことだと深く感じたことでありました。  こういう事などもあって、私は、どうも、今度の製作には、まだ充分という確信が持 てない。それに自分も審査員に加わっているにもかかわらず、審査の結果は金貸になる との事。金貸といえばこの会では上のない賞で、またこれを買う人はほかにないという 事でもあり、どうも、自分の確信のない作に、金賞とあるのは少し過賞過ぎるように感 じられて心苦しくなりましたから、これはやめにしておもらいしたいと、その夜、岸、 塩田氏その他の幹部学芸員のお集まりの処で、「薄々承りますと、私の作は金貸になる とかいうことでありますが、まだ充分という所まで行っているものでありませんから、 この賞はこの次さらに努力しました時までお預けすることにお願いして、今回は無質に 願いたいが、折角の御厚志でありますから、せめて銀貨を頂くことになりましたら、私 も至極満足に思います」云々と自分の心特を正直に申し述べた上、後藤氏との談話の結 果、モデルが充分でなかったこと、米田さんに充分なものがあることが判り、この次そ れを参考としてさらに力作をしたい下心であることなどお話しました。 幹部の人々も、至極もっともの話で、心持はよく分ったが、それは君のモデルの穿鑿 が足りなかったといえばいえもしようが、彫刻という美術上の技倆の上には別に大した 関係のないことで選んだモデルをモデルとしてやった結果が優秀と認める以上、そうい う遠慮は君の謙遜した心持としておもしろいと思うけれども、我々の考えは一に製作そ の物の出来栄如何を批評鑑賞するのが任務で、当然君の作が金賞に値すると審査した結 果であるから、これは我々の意見に一任されたがよろしかろうとのお言葉であった。な るほど、承って見ればこれもまた一理あり、先輩はまた先輩の見識もあることで、まだ 私も後進のことなり、今度は何もいわずお任かせしようと思いましてそのままにしたこ とで、ついに金賞となりましたが、今日から考えても、随分努力の作とは申しながら、 まだ考えが足らず誰方にもやれそうな仕事で、今見れば銅賞にも及ばぬものかとも思わ れます。 しかし、大島如雲氏の手に掛かって鋳物にして、また見直したことで、その年の中に 鋳造も出来して御造営事務局へ彫工会から納めました。 その後においても、今日に至るまで、宮城は度々拝観も仰せつかりましたが、貴婦人 の間というのは拝観人にはお許しにならぬ御場所でもありますから、どういうえ合に飾 られてあるか、さらにそれは知りません。  それから、右の木型の原型は彫工会の事務所に保存してありますが、その中四肢で立 っている分(この分一番出来がよかったと思う)が、何処かへ貸した際紛失してしまって、 今は三つだけ残っております。その頃、私が狆を作ったため、それが珍しかったか、一 時諸方に仲を拵えたのを見受けたことがありました。  今度の製作については、随分幹部の方々にもお世話を掛けたようなわけで、別して山 高氏には御心配をかけました。同氏は先申す通り、博識で、美術界のために大いに尽く された方で、他の端に宏壮な邸宅を構えておられました。今日でもその建築は他の端に 高く蜜え立っております。何んでも、かね勾配をもう一層高くしたほどの高い屋根の家 でありますから、山高さんのことを「屋根高」さんなど人はいった位でありました。 これから引き続いて鶏の話をする順序となります。 鶏の製作を引き受けたはなし  仲の製作が終ってから暫くしてふと鶏を彫ることになりました。  その頃京橋南鍋町に若井兼三郎俗に近兼という道具商があった。この人は同業仲間 でも好い顔で、高等品を取り扱い、道具商とはいいながら、一種の見識を備えた人であ った。またその頃、築地に起立工商会社という美術貿易の商会があって、これは政府の 補助を受けなかなか旺んにやっておった。社長は松尾儀助氏で、右の若井兼三郎氏は重 役といった所で、まあ松尾氏の番頭さんのような格でありました。この若井氏から私が 鶏の彫刻を依嘱れたのであった。 松尾氏も若井氏も共に美術協会の役員であったので、或る日の役員会に一同が集まつ ていました。旭玉山氏が来ていられたが、私は玉山氏からこの若井氏を紹介された。同 じ会員の人でありながら、その時まで双方ともに一面識もなかったのです。玉山氏が特 に私を若井氏に引き合わせたことには理由があったのでした。 これより先、若井氏は或る目論見のために各種にわたった作品を各名手の人々に依嘱 していたのであったが、蒔絵、彫金、牙彫のような製作はすべて注文済みとなり、作品 も出来上がった物もあったが、ただ、一つ木彫りだけが残っていた。それで木彫りの方 を誰に頼もうかということをその席で旭玉山氏に相談をされたのであった。 玉山氏は木彫りの方なら高村光雲氏にお頼みすればよるしかろうと答えましたが、若 井氏が少しも高村のことを知らないで、何処にその人はいるかとの質問に、何処にいる かといってその人は協会員で来ておられるというと、では早速逢いたいというので、玉 山氏が若井氏を私に紹介したようなわけです(このことは後で知ったことですが)。 若井氏は私に逢うと、一つ木彫りをお頼みしたいのですが、詳しいことは拙宅でお話 したいと思いますから、明晩お出で下さるわけに行くまいかとの事。 それで私は南鍋町の若井氏宅へ出掛けて行きました。  道具商といっても若井氏の宅には商品などは店に飾ってはなく、立派なしもた屋であ る。若井さんは頭の禿げた年輩な人で、江戸つ児のちやきちやきという柄。註文の要点 を訊くと、なるほど、ちょっと、立ち話位では埒の明かない話……それはまず次のよう なわけ……若井氏はフランスに美術店を出している。ばりでもかなり評判が好い。とこ ろで、来年の春にはばりに博覧会(一八八九年万国博覧会)が開かれるので、同所に店の ある関係上、出品をしないわけに行かない。また出品する以上は普通の物では平日の店 に障るので、なかなか苦しい立場である。で、今度の事は、一時の商売的ではなく、た だただ店を保護するためである。それで、利益があれば作家へも上げますし、また、実 は、製作者の名前で貰うことにします。自分の利益は平日の店にあるので……云々。つ いては、当代の名匠にいろいろな製作を頼んで、既に大分目鼻が付いたのであるが、た だ一つ木彫りの製作をする人に困って今日まで延びている。で、その製作を私に頼むと いうことであった。 そうして同氏がさらに附け加えていうには、何んでも今度の出品は、日本の美術を代 ぞろみ 表するような傑作揃いを出品したい。世界の美術の本場のような仏国のことで観る人の 目も高いから、もし、拙劣ないものを出しては第一自分の店の名に係るので、算盤ずく でなく傑いものばかりを選り抜くつもりで、一つやんやといわせる目論見であるのだが、 それには一趣向あるので、自分の案としていろいろ考えた結果、日本の鳥を主題にして 諸家に製作を頼んだのである。これは日本の美術を代表しようと思ってもこれといって 題材としておもしろいものがないが、ただ、日本の鳥だけは出品になりそうなので、そ う思いついたわけである。で、蒔絵、焼き物、鋳物、象牙、……何んでも鳥を題にして 製作してもらいましたが、一つ木彫りの方では高村さんあなたが代表して鳥を一つ拵え て頂きたい……という注文であった。 この話を聞いては、私も迂闢とは手が出せないと思いました。「是非一つやって見て 下さい」といわれて「では、やって見ましょう」と軽弾みな返事は出来ない。それに、 鳥といって何んの鳥を彫るのか。一応、主人の考えを聞いて見ると、何んの鳥と自分で も考えてはいない、それも決めて頂きたいという。そうして、これまで注文した分には、 鷹、雑子、賞寿、鶴、鶏など……もう、それぞれ諸家の手で取り掛かったものもあり、 また出来掛かっている物もあるのだという。日本の鳥の中でも製作しておもしろそうな ものは、もうそれぞれ手が付けられている。自分の手に掛けてやるとして、さて、どの 鳥をやったものか。私も即座では当惑しましたが、ふと、思い付いて、鳥として西洋人 に示しておもしろい題になるものという考えから矮鶏はどうかと思いました。矮鶏はち んまりして可愛らしい形……木彫りとして相当味が出そうに思われる。それに、もう一 つ軍鶏も面白いと思った。  矮鶏の温柔なちんまりした形に対して、軍鶏の勇猛な処を盤打ち半分で、かさかさと 荒けずりの仕事を見せると、形の上からも矮鶏の軟らかさに対して剛柔の対比にもなる し、また、仕事の上では粗密とか強弱などの調和も見せられる、これは話して見ようと 思い、その事を話すと、 「それはどうもおもしろい。それは名案だ。一つやって下さい」 と若井氏は非常に乗り込んで来ました。  そうして、矮鶏のようなものを木彫りにしてはさぞ骨が折れることであろうが、そこ を一つ是非やって頂きたいとくれぐれもいわれる。 それで、日限は今年の暮一杯。これは掛引のない処で、実は来年の四月博覧会が開か れるので日本からは一月に出る船が積み切りだから、是非ともそれまでに問に合わせて くれということであった。  当時の私は相当世にも知られ初めて来ていましたが、まだそう仕事が沢山にあるとい う時ではない。現にその道の若井氏さえまだ私の存在を知らなかった位ですから、仕事 の手は充分開いています。それで、自分に出来る仕事ならば引き受けるつもりであるか ら、同氏の懇請に対して、私は、やれるだけやって見ましょうと引き受けたのでありま した。  帰る時に、若井氏はこれで材料でも買って下さい、また入用があったら何時でも差し 上げますといって紙包みを私に渡しました。私は製作に掛かってから頂きますといって も、それでは頼んだ主意が立たないからといって聞かないので、それを持って帰りまし た。家に帰って見ると、五十円包んでありました。その当時のことで、仕事の前にこれ だけのことをするはその人の気性にもよりますが、製作を要求した同氏の心持が察せら れますので、私も充分に力を入れようと思ったことであった。 矮鶏のモデルを探したはなし  以前狆のモデルで苦労した経験がありますから、今度はチャボのモデルは好い上にも 好いのを選みたいというのが私の最初の考えであった。  しかし、矮鶏《ちやぼ》は仲と違ってその穿鑿《せんさく》も楽であろうと思った……とにかく、早速、仲の モデルの事で注意を与えてくれた彼の後藤貞行氏を訪ねて、今度の製作のことを話し、 チャボの良いのがなかろうかと相談しました。  動物には何かと関係のある人だから、早速、或る人を私に紹介してくれた。その人は、 元農商務省の役人をしていた人で、畜産事業をやっていたが、目下は役をやめ家畜飼養 をやっている、本郷駒込千駄木林町の植木氏という人であった。  私は直ぐその人を訪問しました。ちょうど、現在の私の宅と同町内で、その頃長 寿斎という打物の名人があった、その横丁を曲がって真直突き当った家で、いろいろ家 禽が飼ってあった。  植木氏に逢って、これこれと話をすると、同氏は暫く考えて、矮鶏の見本として上乗 のものがある、という事。それは何処にありますかと訊くと、自分の宅にある。が、し かし、それは、世間でおもちやにして飼っている矮鶏とは異って、本当の矮鶏で、自分 が六代生まれ更らせて、チャボの本種を作り出そうと苦心して拵え上げたもので、これ 以上本筋のチャボはない。世間で一升桝に雄雌這入るのが好いとか、足が短くて羽を曳 くのが好いとかいうのは、これは玩具で、いわば不貝同様、こんなのは矮鶏であって、 矮鶏ではない。今、それをお目に掛けようといって、主人は書生に命じてその雄雌のチ ヤボを私の前へ持って来させました。  見ると、これが矮鶏かと思うような鶏である。  しかし、立派なことはなかなか立派であった。脚が長く、尾は上へ背負っている。羽 毛は切れ上がって非常に活溌で、鶏としては好い鶏とは思えますが、どうも、従来、私 たちが目に馴染んでいる矮鶏とは形が余り大まかで、矮鶏という感じがない。けれど、 以前、葉茶屋の狆と、戸川さんの狆との対照のこともあるから、家禽専門家の言葉を信 用せぬわけには行きません。  それに植木氏はこういって説明を加えられている。 「お話を聞くと、フランスの博覧会へお出しになる木彫りの見本になさるというのだ と、日本の在来のおもちやのチャボでは困りましょう。あれは型にはめていじめて作つ たもので鉢植えの植木と同様、そういう不具物を見本にしたのではフランスの家禽通が 承知をしまい。やはり、モデルとするとなるとこの私の丹誠して仕上げたものが適当で、 これなら万非点の打たれようはあるまい」 との事。至極もっともな話だ。では、どうかこれを拝借することにお願いしたいと頼み ますと、植木氏は一風変った人で、お役に立てばお持ちなさい。あなたに差し上げまし よう。私も道楽に六代も生まれ変らせて作ったものが、そういうことに役に立てば甚だ 満足ですといって、早速書生さんに苞を拵えさせ、一匹ずつ入れて、両方に縄を付けて、 提げて持てるようにしてくれました。鶏は苞から頚だけ出して、びつくりした顔をして いる。私は素直に植木氏の好意を謝し頂戴して帰りました。  狭いけれども宅には庭がありますから、右の矮鶏を、俺せ篭を買って来て、庭へ出し て、半月ばかり飼って置きました。 そうすると、色々な人が来て庭にいる植木さんから買って来た鶏を見て 「あれは何んの鳥ですか」 という塩梅。 「矮鶏ですよ」 といっても、どうも腑に落ちないような顔をして 「へへえ、矮鶏ですか。……」といって、チャボにしちや変だなあといいそうである。 私は、その説明をするために植木さんの受け売りをするのだが、どうも誰も承知しませ ん。中にはチャボ通などがあって、 「どうも、チャボとは受け取れませんね。元来、チャボは占城国とかから渡ったもの で舶来種だが、この鶏は舶来なんですかね。鶏の中でも極めて小さいもので、腔の高さ がわずか一、二寸、それが低いほど、また体が小さいほど好いものとなっています。小 さいのは南京チャボとか地輝りとかいって脚も噴も眼も黄色です。これはチャボの化け たようなものでしょう」 など講釈するものもあって、十中の十まで右の鶏を本当のチャボといいません。私も半 月ほどいろいろ鶏の批評を聞きながら、その姿や動作を見ていたことですが、右のよう なわけで少し不安心になりました。 それで、今度は普通のチャボの、つまり背の低い方のを探したいと思い、御成街道の 鉄屋に好いのがいるという話を聞いたので、また出掛けて行きました。 御成街道のどの辺であったか今日能く記憶しませんが、訪ねて行ってその銭屋の主人 にチャボを見せてもらいました。が、これは今の南京チャボとか地握りとかいう方のも のでしょう、小ぢんまりした可愛らしいいかにも矮鶏らしいチャボですから、また、事 情を話して借りたい旨を申し込んだ。すると、この人は工人だけに分りが早い。御同様 に仕事のことでは苦労します。これでよければ持って行って御覧なさいといって快く貸 してくれました。 そこでこの方の鶏も庭に飼って、前のと両方、別々の掩せ篭に入れて置いた。  そうしますと、来る人ごとに銭屋の方のチャボを見て、これこそチャボだといって賛 成しますが、植木さんの方のは依然として反対します。私もどつちをどうと判断に苦し んでいる処へ、例の後藤さんが見えた。 で、早速、先日の礼をいい、植木さんから貰って来た鶏を見せますと、何んだか不得 心らしい顔をしている。実はこれこれと例の受け売りをやって見ましても、後藤氏は腑 に落ちた様子がない。で銭屋の方を見せると、 「これは好い、これはどう見てもチャボです」と首肯いているので私も案外、狆の時 とは違って、立派に見える方が落第ということにまずなった。 つまり、私は、十目の見る所、世間に通用する矮鶏をチャボのモデルとする方に考え が決まりましたのです。毎度このモデル問題では大真面目でありながら滑稽に近い話な どが湧いて、家のものなども大笑いをしたことが度々ありました。 矮鶏の製作に取り掛かったこと  かれこれ批評を聞いたり、姿形を研究したりしている間に、一月余りも経ってしまい ましたので、いよいよ取り掛かることにしました。  材は桜です。その時分はまだ桜の材で上等のものが沢山あったが現今では甚だ稀です。 南部の方から出るのが良材であります。まず、雄鶏の方から初めました(木彫りの順序 は鑿打ちで形を拵え、鑿と小刀で荒彫り、それから小作り、仕上げとなる)。無駄をし ていたわけではないが、前述のような次第で思わず時日を費やしたので、随分精出して やりましたけれども、その年の十二月の末になってやつと小作りが出来た位でした(仕 事の順序からいうと、この小作りというのは荒彫りと仕上げの間となる)。十二月の末 といえば若井氏と約束の日限でありますから、当然ならば全部出来上がっていなければ ならない所であるが、器械的の仕事と違ってこういう側の仕事は、そう日限通りに参る わけには行かない。それも自分で怠惰ていればとにかく、毎日精を出して一生懸命やつ て見て、やつと此所まで来たのでありますから、どうも仕方がありません。 といって日限が来たのですから、そのまま、打つちやって置くわけには行かない。そ れに若井氏の心持も分って私もその厚志に感じてやっている仕事であるから、いずれに しろ、御返事をしなければならないが、返事をするとなると、申し訳をするよりほかな い。訳を話して日限に間に合わなかったことをいって、以前受け取った手附けの金をお 返しするよりほかはないのでありますから、私は考えを決め、二十一年の十二月の大 晦日の晩、手附けの金を懐にし(この金は封を切ったまま手箪笥の抽斗に入れて手を附 けずに置きました。万一間に合い兼ねた時、これがなくなっていては申し訳が立たない から)、荒彫りのまま、チャボを風呂敷に包み、てくてく南鍋町の若井氏の宅を訪ねま した。 「その後はどうしました。時に、御願いしてあった鶏は出来ましたか」 というようなことになりました。 私は、その後の製作の経過を物語り、とうとう日限に遅れた旨をお詫びし、手附けの 金をお返しして一時前の契約を解いて頂き……彫りかけては置きません、いずれ仕上げ ます。出来上がれば是非御覧に入れます、その時御意に入ったら御取り置き下さい。と にかく、御約束を無にしたのは私が悪いのですと若井氏へ申し納れました。 若井氏は私の申し納れを大分不機嫌な顔をして聞いておりましたが、その話はそれと して、何よりまずその荒彫りを見せて頂こうといいますから、私は風呂敷を解きました。 すると、中から彫刻の矮鶏が出て来たので、若井氏はそれを見ていましたが、急に機 嫌が直ったような様子になった。 「どうも、これはおもしろい。これはよく出来ました」 そういって感心したような顔をしている。そして手に取って打ち返しなどして視た後 で、 「高村さん、あなたのお話はよく分りました。ですが、私はお約束を解きませんよ。 博覧会の日限は一月の船が積み切りで、もはや間に合いません。しかし、それは、それ でよろしゅうございます。今後、あなたが何時これをお仕上げになるか分らんが、この 矮鶏は出来次第私が頂戴することに願います。それから、此金は、木の代というつもり で差し上げて置いたのですから、私へお返しになることはいけません。それに今夜は大 晦日ですよ。お入用のことがあったら、後をお持ちになって下さい。差し上げましよ う」というような訳となって、若井氏は少しも私の日限に遅れたことを咎め立てをせず、 製作を見て、何所か気に入ったものと見え、私に対して厚意をもっているいるいうてく れました。  これは思うに、若井氏が荒彫りを見て、これならと思ったよりも、同氏の気性が私の 気持をよく理解しておもしろいと思ったことが手伝ったのでありましょう。とにかく、 私には好い気持な人だという感を与えてくれました。で、私は厚意を謝し、この矮鶏は 製作は出来るだけ早く仕上げて若井さんにお渡ししようという考えで、その約束をして、 私は持って参ったものを、また元の通り持って帰りました。 大晦日のことで、私も随分入用の多い時、それを耐えて返済しに行ったのですが、話 が一層進んで帰って来たのですから、その金を諸払いに使い、都合がよかったことであ りました。  明けて明治二十二年、一月、二月何事もなく鶏の仕上げを続けておりました。 矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ  それから、三月一杯掛かって、四月早々仕上げを終る……その前後にまた一つお話し をして置くことが出て来る……  美術協会の展覧会は、毎年四月に開かれることになっている。ちょうど私の製作を終 ろうという間際にそれが打つ附かったのです。  協会の方では開会の準備のためにそれぞれ技術家たちへ出品の勧誘などをしていた時 であった。  或る日、役員たちの集まった時に、幹部の方の一人が私に向い「高村さん、今年は君 は何をお出しになります」と尋ねましたので、私は、今年は生憎何も出すことが出来ま せんと答えました。  すると、その人は意外なような顔をして、私を視て、 「何も出せないとはどうしたことです。怠けてはいけないね、君のような若い会員が 出品しないなんて困りますね。是非何か出すようにして下さい」というのであった。 その人の言葉は何んでもないのであったでしょうが、ふと、今いった言葉の中に、 「怠けてはいけない」という一語があったので、私の癖に障りました。 怠けるどころの話か。自分はこの約一年間、一羽の鶏を彫るために散々苦心し、まだ それも全部出来上がったという所までも行っていない。それほど自分は仕事の上に丹誠 しているものをつかまえて、怠けてはいかんとは少し人を見そこなったいい分ではない かと私は思いました。  まだ年も若し、虫のいどころでも悪かったか、何んだか心外なような気がしましたか ら、私はこう答えたのでした。 「私の出品しませんのは、怠けていて作が出来なかったというのではありません。年 に一度の展覧会のことですから、出したいのは山々ですが、出す作がありませんのです。 なまけてもいないに出す作がないというと、やはりなまけていたとお思いになるかも知 れませんが、私は拠所ないことで人から頼まれたものをやっているのです」 という話から、行き掛かり上、若井兼三郎氏の依嘱によって矮鶏を彫っていて既に二年 越しにわたっていることを私は話し、怠けていないことの証拠を挙げました。 その席には山本氏、岸氏など幹部の人々がおられましたが、右の話を聞くと、 「それは、どうも、そういう仕事をやっておられたのですか。君が矮鶏を拵えたと聞 くと、これはどうも拝見しないわけには行かん。一つその新作を見せて頂こう」 ということになりました。 私の、証拠を挙げて申し開いた以上、証拠物件を望まれて見せないわけに行きません から……また私としてもこれらの幹部の識者の批判を受けることは望ましくないことで ありませんから、まだ脚の方のつなぎを切ったりしない九分通り出来ている矮鶏の作を 次の日の集まりの席へ持って行きました。 私が人々の前で、風呂敷の中から矮鶏を出して、机の上へ飾って見せました。 「これは面白い」 「こいつは素晴らしい」 などいう声が人々の口から起りました。 この席上には会頭もおられましたが、 「これはどうも傑作だ」 といって乗り出して見ておられました。 「なるほど、こんな大仕事を君は黙ってやっていたのですか。それを怠けていたなど と仮りにもいった人は失言だね」 など笑っていっていた人もあった。 とにかく、私の製作はこの席上の人すべてが賞讃しているように私には見えました。 私は、作の上についての非点を聞きたいつもりであったのに、皆からただほめられて 少し気抜けがしたような形でありましたが、しかし、なまけていなかったという言葉の 偽でないことが分れば、それで私は好いのでしたから、別にいうこともありませんでし た。一 すると、幹部の人から、 「どうでしょう。折角これほどに出来たものを今度の展覧会に出品しないで、直ぐに 若井の手に渡すのは余り惜しい。一つ出すようにしては頂けませんか」という声が起る と、一同またそれを賛成したものです。 「それは困ります」 私はそう答えるよりほかありませんでした。ただそういっただけでは承知されないか ら、若井氏と私との間にこの作をした事情を掻い摘まんで話して、こんな訳ですから、 とても出品するわけに行かない旨を述べました。 「若井の方へは会から話をします。これは是非出すことにして下さい」 こう幹部の方はいっている。 私はこの作を終って若井氏の手元に届けさえすれば私の役目は済むことで、後は出す とも出さないとも若井氏の随意であることを述べ、私一己の考えとしては、どうしても 若井氏に対して出品出来ないことをいい張りました。 これは、注文者がもし素人の数寄者とでもいうのであれば、あるいはそうすることも 時宣に依ってかまわぬことでもあろうが、若井氏は商売人である。商売用のためにこの 作を特に私に依嘱したものとすれば、注文主に断わりなしでこれを公衆の前に発表する ことはどんなにその人の損害となるかも分らぬ。この事をば私は附け加えて出品の出来 ない埋由をいったことであった。 それでも幹部は承知せず、若井氏へ人を遣ったが、ちょうど若井氏は上方へ旅行中で、 旅行先の宿所へまで手紙を出して問い合せたが、商用で転々していたものか何んの返事 もありませんでした。  それで私の作を出す出さない件は行き悩んだなりになっており、私は残った仕事を続 け脚の方を仕上げていました。  その内開会の日は来てしまって、常例の通り何時何日には、聖上の行幸があるという 日取りまで決まりました。 すると、或る日、幹事から私を呼びに来ました。 出て見ると、幹部の人のいうには、 「高村さん、あなたも御承知の通り、いよいよ明後日は聖上の行幸ということになり ました。ついては本会の光栄として、特に天覧に供するものがなくてはならないのです が、それについて、いろいろ協議の結果、涛川惣助氏の無線七宝の花瓶と、あなたの作 の矮鶏とを出品中の主なるものとして陳列することに決議しましたから、どうかお作を 出すことにして下さい。これは会場へ陳列するとはいうものの天覧に供し奉るのであり ますから、公衆の前に発表するでなくただ上御一人の御覧に供するだけで御還御の後は 直ちにお引き取りになって下さい。右は幹部一同から特にあなたにお頼みします。それ で若井の方のことは会で責任を負いますから少しもあなたに御心配はかけません」 とのいい渡しであった。  これには私も大いに困りましたが、どうもこうなっては前説を固守するわけに行かず、 ともかくも会へ一任する旨を答えて帰りました。  明日は私は自作を午前の中に会場へ持って行かねばならないことになった。 聖上行幸当日のはなし  さて、当日になりました。  午前中に準備に取り掛かる。  涛川惣肋氏の無線七宝の花瓶というのは、高さ二尺、胴の差し渡し一尺位で金属の肌 の上に卵色の無線の七宝が施されたもので、形は壷形をしている。その鮮麗さは目も覚 めるばかりです。  そうして、私の矮鶏はその右側に置かれました。  大きな硝子箱の中に古代裂の上に据えた七宝と、白絹の布片の上に置かれた鶏とはち ようど格好な対照であった。自分ながら幹部の人々の趣向の旨いのに感心した位であつ た。  いよいよ、聖上行幸に相成りましたので、幹部の人たちは御迎えを致し、御巡覧の間 我々平の審査員は休憩室の方へ追い出され、静粛にしておりました。 すると、やや暫くして、会場の方に当って、塩田真氏が擦り足であつちこつちを駆け ているのがこつちから見えました。その容子は何か俄に探し求めている風……どうした のだろうなど他の人もいって不思議な顔をしている処へ、塩田氏が駆けて来た。  そうして、私の顔を見附けるなり手招きする容子がいかにもあわただしい。  私が側に行くと、 「君、あの矮鶏はおよそ幾日位で出来ますか」 と、いきなり変な質間、幾日で出来るといって貫下もこれは御存じのことでしょう。二 年越し掛かったのです。と、いうと、 「あれは、もう一つ同じのが出来ますまいか」 と塩田氏は重ねていう。私は、何をこの人はこの際こんなことを自分に訊くのかと思つ た。 「もう一つ同じものは出来ません。丸一年も精根をからしてやったものです。もう一 度同じようなものを気息をくさくしてやる気はありません」 「どうも始末が悪いな。困ったな。……実は君のチャボが聖上のお目にとまったの だ」 といったなり、塩田氏はばたばたと駆けて行ってしまった。  やがて、聖上には御還御に相成りました。  で、私は会場に参り、前約通り、もはや用済みのこと故、自作を持って帰るつもりで 行くと、会頭初め幹部の人々が立っていて、 「ちょっと、俟って下さい」という。松尾儀助氏が私に向い、 「先ほど、塩田氏がちょっとお話した事でしょうが、あなたのチャボが聖上のお目に 留まり、御用品に遊ばさる旨仰せ出されたにつき、当会の光栄この上もないこととお受 けを致しました。それでこの件はこの松尾がすべての責任を引き受け、若井とあなたと の間のことは充分な解決を付けますから、どうかそのおつもりに願う。何しろ、本会無 上の光栄で、あなたに取っても名誉この上ないことである」 という話で、まるで煙に捲かれた形。私も若井氏の思惑を心配したがこうなってはどう することも出来ませんでした。 そうして、自作は、宮内省御買い上げという下げ札が附いて開会期中そのまま陳列す ることにして公衆の展覧に供した。これはお伴の方が直ぐお持ち帰りになろうというの を、本会の光栄を一般奨励のため公衆に見せたいからと御願いしてお許しを受けたので あるということでした。而して、この作と、涛川氏七宝の花瓶と並んで金賞となりまし た。 叡覧後の矮鶏のはなし  さて、展覧会もやがて閉会に近づいた頃、旅先から若井兼三郎氏が帰って来た。 いうまでもなく矮鶏の一件のことは直ぐ同氏の耳に入った。早速、同氏は会場へやつ て来られた。私はどうも直ぐに若井氏に逢うのが気が引けますから、はずしていると、 若井氏は松尾儀助氏に向って何か話していられる。無論、今度の一件であることは分る。 そこで、どういう風に松尾儀助が若井氏をいいなだめたかというと、当日同氏が、聖上 へ作品を御説明申し上げた時のことをそのまま話したのである。すなわち聖上が右のち やぼに御目が留まって、ほしいと仰せ出された時、右の矮鶏を彫刻した高村光雲と、依 頼主なる若井兼三郎という者との間の意味合いをお話した。すなわち、かかる傑作の出 来た事は、作家当人の丹誠によることもとよりなれども、美術工芸のことは他より奨励 援助する厚意があって、依嘱者と作家と両々相俟たなければ、かく滝然たる作品を得る ことは困難でござりますという意味を概略陳述して、若井兼三郎の作家に対する好意を 御披露に及んだ所、聖上にも御嘉納あらせられた旨を松尾氏はありのままに若井氏に物 語ったのであった。 「そういう訳でありましたか。それは私も無上の光栄。文句をいう所ではありません。 目出たいことであった」とそこは物分りの早い江戸つ児の若井氏、さらりとしたもので、 私に向っても祝意を述べなどされ、この事件は美しく解決されることでありました(松 尾氏は御説明を申し上げた時、涛川惣助氏の無線七宝も、フランス人の頼みで、日本に 無線七宝がまだ出来ていないということは日本の技術の上の名誉に関するというので、 同氏は非常に努力され、またフランス人は費用を惜しまず、作家を援助したことをも申 し上げ、共に美術界には奨励の必要ということを奏し上げたとの事を私は承りました)。  かくて、宮内省からは、矮鶏の代価として百円をお下げになった。 協会からそれを若井氏の手に渡した。  すると、四、五日の後、若井氏は突然私の谷中の宅に訪ねて来られました(私は、その 頃は谷中茶屋町に転居しておった)。 「今度は、どうもお自出たかった。ともども名誉のことであった。ついては宮内省よ り百円お下げになったから、此金を君へ持参した。まあ、赤飯でもたいて祝って下さ い」 という言葉。  いつもながら、若井さんの仕打ちには私も一方ならず感激していますから、 「それは、毎々御志有難うございます。しかし、私は、前既に充分頂いております。 此金はお返しします。もしお祝い下さるお心があったら、私はそういう事は不得手で分 りません。あなたが此金で宣しいようになすって下さい」といって押し戻しますと、 「そうですか。宜しい。では、そうしましょう」といって帰られた。 五、六日経つと、京橋采女町の松尾儀助氏から、幾日何時、拙宅にて夕餐を差し上げ たく御枉駕云々という立派な招待状が参りました。 当日、私は出て見ると、松尾邸では大層な饗宴が開かれていました。主人役は松尾氏 と若井氏、お客は協会の会頭および幹部はもとより、審査員の人々が皆来ている。 今夕は、高村光雲氏作が無上の光栄を得られるについての祝宴であると松尾氏起って 一場の趣意挨拶を述べられ、私が会頭の次の正客で、盛大な宴会が開かれることであつ た。  吉原から選り抜きの芸妓が大勢来ていました。余興に松尾氏と若井氏とが得意の一 中を語ったりして陽気なことでありました。 佐竹の原繁昌のはなし  下谷西町で相変らずこつこつと自分の仕事を専念にやっている中に、妙なことで計ら ず少し突飛な思い付きで余計な仕事を遊び半分にしたことがあります。これも私の思い 出の一つとして記憶にあること故、今日はその事を話しましょう。  その頃(明治十八年の頃)下谷に通称「佐竹原」という大きな原がありました。この原 の中へ思い付きで大仏を拵えたというはなし……それは八角形の下台ともに高さが四丈 八尺あった。奈良の大仏よりは一丈ほど小さいが、鎌倉の大仏よりよほど大きなもの、 今日では佐竹の原も跡形なくちょっと今の人には想像もつかないし、無論その大仏の影 も形もあることではない。夢のようなはなしではありますが、それがかえってハッキリ と思い出されます。 私の住んでいる西町から佐竹の原へは二丁もない。向う側は仲御徒町で、私の宅から は初めての横町を右に曲り、これを真直に行くと生駒屋敷の裏門となる。西町の通りを 真直に浅草の方へ向いて行けば左側が七軒町、右が小島町で今の楽山堂病院のある通り となる。竹町は佐竹の原が形を変えて市街となったので、それで竹町というのであって、 佐竹の屋敷を取り払った跡が佐竹の原です。東南に堀があって、南方は佐竹の表門で、 その前が三味線堀です。東方が竹町と七軒町の界でこの堀が下谷と浅草の界だと思いま す。七軒町の取っ附きまでが一丁半位、南北は二丁以上、随分佐竹屋敷は広かったもの です。それが取り払われて原となってぼうぼうと雑草が生え、地面はでこぼこして、東 京の真ん中にこんな大きな野原があるかと思う位、蛇や蛙やなどの巣で、人通りも稀で、 江戸の繁昌が打ち庫されたままで、そうしてまた明治の新しい時代が形にならない間の 変な時でありました。 すると、誰の思い附きであったか。この佐竹の原を利用して、今でいうと一つの遊園 地のようなものにしようという考え……それほど大仕掛けではないが、ちょっとした興 業地を此所へ拵えようと出願したものがあって、原の或る場所へいろいろのものが出来 たのであった。まず御定りの活惚れの小屋が掛かる。するとでろれん祭文が出来る(こ れは浪花節の元です)。いずれも葭費張りの小屋掛け。それから借り馬、打毬場、吹き 矢、大弓、その他色々な大道商売位のもので、これといって足を止め腰を落ち附けて見 る物はないが、一つの下等な遊戯場のような形になって来ました。それで人がぞろぞろ と出る。陽気は春に掛かっていてぼかぼか暖かくなって来るし、今まで狐狸のいそうな 原の中が急にこう賑やかになったのであるから、評判が次第に高くなって、後にはこの 原へ通う人で西町の往来は目立つようになって来ました。こうなると、それに伴れてま た色々な飲食店が出来て来る。粟餅の曲鳴きの隣りには汁粉屋が出来る。吹き矢と並ん で煮込みおでん、その前に大福餅、稲荷鮪、などとごった返して、一盛りその景気は大 したものでありました。  といって別にこれといって落ち付いて、深く見物しようなどというものはない。いわ ば縁日の本尊のないようなもので、何んというきまりもなく、ただ一時の客を呼んでど んチャンと騒いでいました。  私は、西町の例の往来の見える仕事場で仕事をしていると、ぞろぞろ前を人が通る。 これが皆佐竹の原へ行くのだということ。花時に上野の方へ人出の多いは不思議がない が、昼でも追い剥ぎの出そうな佐竹の原へこんなに人出があるとは妙な時節になったも のだと思って仕事をしていたことであった。 佐竹の原へ大仏を拵えたはなし  私の友達に高橋定次郎氏という人がありました。この人は前にも話しました通り高橋 鳳雲の息子さんで、その頃は鉄筆で筒を刻って職業としていました。上野広小路の山崎 (油屋)の横を湯島の男坂の方へ曲って中ほど(今は黒門町か)に住んでいました。この人 が常に私の宅へ遊びに来ている。それから、もう一人田中増次郎という蒔絵師がありま した。これは男坂寄りの方に住んでいる。何処となく顔の容子が狐に似ているとかで、 こんこんさんと緯名をされた人で、変り者でありましたがこの人も定次郎氏と一緒に朝 夕遊びに来ていました。お互いに職業は違いますが、共に仕事には熱心で話もよく合い ました。ところで、もう一人、やはり高橋氏の隣りに住んでる人で野見長次という人が ありました。これは肥後熊本の人で、店は道具商で、果物の標本を作っていました。枇 杷、桃、柿などを張り子で拵え、それに実物そつくりの彩色をしたものでちょっと盛り 篭に入れて置き物などにもなる。縁日などに出して相当売れていました。この野見氏の 親父さんという人は、元、熊本時代には興業物に手を出して味を知っている人でありま したから、長次氏もそういうことに気もあった。この人も前の両氏と仲善しで一緒に私 の宅へ遊びに来て、互いに物を拵える職業でありますから、話も合って研究しあうとい う風でありました。  或る日、また、四人が集まっていますと、相変らず仕事場の前をぞろぞろ人が通る。 私たちの話は彼の佐竹の原の噂に移っていました。 「佐竹の原も評判だけで、行って見ると、からつまらないね。何も見るものがないじ やありませんか」 「そうですよ。あれじやしようがない。何か少しこれという見世物が一つ位あっても よさそうですね。何か拵えたらどうでしょう。旨くやれば儲かりますぜ」 「儲ける儲からんはとにかく、人を呼ぶのに、あんなことでは余り智慧がない。何か 一つあつといわせるようなものを拵えて見たいもんだね」 「高村さん、何か面白い思い付きはありませんか」 というような話になりました。 「さようさ……これといって面白い思い付きもありませんが、何か一つあってもよさ そうですね。原の中へ拵えるものとなると、高値なものではいけないが、といって小つ ぼけな見てくれのないものでは、なおさらいけない……どうでしょう。一つ大きな大仏 さんでも拵えては……」  笑談半分に私はいい出しました。皆が妙な顔をして私の顔を見ているのは、一体、 大仏を拵えてどうするのかという顔附きです。で、私は勢い大仏の趣向を説明して見ね ばなりません。 「大きな大仏を拵えるというのは、大仏を作って見物を胎内へ入れる趣向なんです。 どのみち何をやるにしても小屋を拵えなくてはならないが、その小屋を大仏の形で拵え て、大仏を招ぎに使うというのが思い附きなんです。大仏の姿が屋根にも囲にもなるが、 内側では胎内潜りの仕掛けにして膝の方から登って行くと、左右の脇の下が瓦燈口にな っていて此所から一度外に出て、印を結んでいる仏様の手の上に人間が出る。其所へ乗 って四方を見晴らす。外の見物からは人間が幾人も大仏さまの右の脇の下から出て、手 の上を通って、左の脇の下へ這入って行くのが見える。それから内部の階段を曲りなが ら登って行くと、頭の中になって広さが二坪位、此所にはその目の孔、耳の孔、ろの孔、 並びに後頭に窓があって、其所から人間が顔を出して四方を見晴らすと江戸中が一目に 見える。四丈は尺位の高さだから大概の処は見える。人間の五、六人は頭の中へ這入れ るようにして、先様お代りに、遠眼鏡などを置いて諸方を見せて、客を追い出す。降り て来ると胴体の広い場所に珍奇な道具などを並べ、それに因縁を附け、何かおもしろい 趣向にして見せる。この前笑覧会というものがあって阿波の鳴戸のお弓の涙だなんて壕 に水を入れたものを見せるなどは気が利かない。もつと、面白いことをして見せるので す……」 「……そうして切の舞台に閻魔さまでも躍らして地獄もこの頃はひまだという有様で も見せるかな……なるほど、これは面白そうだ」 「大仏が小屋の代りになる処が第一面白い。それで中身が使えるとは一挙両得だ。こ れは発明だ」 など高橋氏や田中氏は大変おもしろがっている。ところが野見氏は黙っていて何ともい いません。考えていました。 「野見さん。どうです。高村さんのこの大仏という趣向は……名案じゃありません か」 高橋氏がいいますと、 「そうですな。趣向は至極賛成です。だが、いよいよやるとなると、問題は金ですね、 金銭次第だ。親父に一つ話して見ましょう」  野見氏は無口の人で多くを語りませんが、肥では他の人よりも乗り気になっているら しい。私は、当座の思い付きで笑談半分に妙なことをいいましたが、もし、これが実行 された暁、相当見物を惹いて商売になればよし、そうでもなかった日には飛んだ迷惑を 人にかけることになると心配にもなりました。  野見長次さんは早速親父さんにその話をしました。  野見老人は興業的の仕事の味の分っている人。これは物になりそうだ。一つやって見 たいというので、長次さんが老人の考えを持って来て、また四人で相談して、一応、私 はその大仏さまの雛形を作って見るということになりました(実の所は雛形を作っても 大工や仕事師に出来ない。また金銭間題でやめになるに違いないとは思いましたが、と にかく、自分でいい出したことだから雛形に掛かりました)。  その日は竹屋へ行って箱根竹を買って来て、昼の自分の仕事を済ますと、夜なべをや めて、雛形に取り掛かりました。見積りの四丈は尺の二十分一すなわち二尺四寸の雛形 を作り初めたのです。まず坪を割って土台をきめ、しほんといって四本の柱をもって支 柱を建て、箱根竹を矯めて円蓋を作り、そのしほんに梯子段を持たせて、いつぞやお話 した百観音の蝶螺堂のぐるぐると廻って階段を上る行き方を参考としまして、漸々と下 から廻りながら登って行く仕掛けを拵えて行きました。最初が大仏の膝の処で、次は脇 の下、印を結んでいる手の上に人間が出られるようになる。それから左から脇を這入つ て行くのが外から見え、段々と顔面へ掛かり、口、目、耳へ抜けるように竹をねじって 取り付けます。……雛形は出来たがこれは骨ばかり、ちょっと見ると何んだかさつばり 分らない。変なものが出来ましたが、張り子紙で上から張って見ますと、案外、ありあ りと大仏さまの姿が現われて来ました。 「おやおや何を拵えているのかと思っていたら大仏様が出来ましたね」 と家の者はいっております。 「大仏に見えるかね」 「大仏様に見えますとも」 といっております。大仏が印を結んで安坐している八角の台の内部が、普通の見世物小 屋位あるわけになります。出来上がったので、それを例の三人の友達に見せました。 「旨く行った。これならまず大丈夫勝利だが、今度はこれを拵えるに全部で何程金が 掛かるかこれが問題です。そこで、この事は仕事師に相談するのが早手廻しでこの四本 の柱をたよりにして、仕事をするものは仕事師の巧者なものよりほかにない。早速当つ て見よう」 ということになりました。で、御徒町にいた仕事師へ相談をすると、これは私どもの手 で組み立てが出来ないこともないが、こういう仕事は普通の建物とは違い、かや方の仕 事師というものがある。それはお城の足場をかけるとか、お祭りの花車小屋、または興 業物の小屋掛けを専門にしている仕事師の仕事で、一種また別のものですから、その方 へ相談をしたらよるしかろうというのでありました。それではその方へ話をしてくれま いかと頼むと、早速引き受けて友達を伴れて来てくれました。  私はそのかや方の仕事師という男に逢って見ました。  私の虻の中では、この男に逢って雛形を見せたら、恐らくこれは物になりません、と いうだろうと思っておりました。もし、そういってくれたらかえって私には好かったの で、この話はそれで消えてしまう訳。もしそうでもないと、話が段々大きくなって大仏 が出来るとなると、私の責任が重くなる。興業物としての損益は分りませんが、もし損 失があっては資本を出す考えでいる野見さんに迷惑が掛かることになります。どうか、 物にならないといってくれれば好いと思って、その男に逢いますと、仕事師は暫く雛形 を見ておりましたが、 「これはどうも旨いもんだ。素人の仕事じゃない。この梯子の取り附けなどの趣向は なかなか面白い。私どもにやらされてもこう器用には出来ません」 といって褒めています。それで、これを四丈八尺の大きさに切り組むことが出来るかと 訊くと、訳はないという。この雛形ならどんなにでも旨く行くというのです。そして早 速人足を廻しましょう、といっております。その男の口裡で見ると、十日位掛かれば出 来上がりそうな話。野見さん初め他の友達もこれでいよいよ気乗りがして来ました。 しかし、この仕事はかや方の仕事師ばかりでは出来ません。仕事師の方は骨を組むの でありますが、この仕事は大工と仕事師と一緒でなければ無論出来ません。そこで大工 を頼まなければならないので誰に頼もうという段になったが、高橋氏が、私の兄に大工 のあることを知っているので、その人に頼むのが一番だという。なるほど私の兄に大工 があるが、しかしこういう仕事を巧者にやってのける腕があるかどうか、それは不安心、 けれども、いやしくも棟梁といわれる大工さん、それが出来ないという話はない、漆喰 の塗り下で小舞員を切ってとんとんと打って行けば雑作もなかろう。兄さんを引つ張り 出すに限るというので、私もやむなく兄を頼むことに致しました。  そこで、兄は竹屋から竹を買い出して来る。千住の大橋で真ん中になる丸太を四本、 お祭りの竿幟にでもなりそうな素晴らしい丸太を一本一円三、四十銭位で買う、その他 お好み次第の材料が安く手に這入りました。そこで大工の方で、左官に塗らせるまでの 仕事一切を見積って幾金で出来るかというと、(紐箋凧仕事師の手間賃も中に這入ってい て)百五十円でやれるということです。それで、兄の友達の左官で与三郎という人が下 谷町にいるので、それに漆喰塗りの方を頼んでもらいました。 黒漆喰で下塗りをして、その上に黒に青味を持ったちょうど大仏の青銅の肌のような 色を出すようにという注文……それが五十円で出来るというのでした。すると、まず二 百円で大仏全体が出来上がることになります。そうして、胎内に一つの古物見立展覧場 を作るとして、色々の品物を買いこむのだが、この方には趣向を主として実物には重き を置きませんからまず百円の見積り……足りない所は各自の所持品を飾っても間に合わ せるという考えです。それで何から何まで一切合切での総勘定が三百円で立派にこの仕 事は出来上がるというのでありました。 「よろしい。三百円、私が出します」 と野見さんはいうのです。何も経験、当っても当らなくても、こうなつちや、損得をい っていられない。道楽にもやって見たい。儲かれば重畳……いよいよ取り掛かりましよ う、ということになりました。 それが三月の十五日で、梅若さまの日で、私が雛形を作ってから十日も経つか。話は 迅く、四月八日釈迦の誕生日には中心になる四本の柱が立って建て前というまでに仕事 が運んでいました。最初はまるで串戯のように話した話が、三週間目には、もう柱が建 っている。実に気の早いことでありました。 さて、かや方の仕事師は人足を使って雛形をたよりに仕事に取り掛かって、大仏の形 をやり出したのですが、この仕事について私の考えは、まず雛形を渡して置けば大工と 仕事師とで概略出来るであろう。自分は時々見廻り位で済むことだと思っておりました。 で、膝を組んだ形、印を結んだ形、肩の丸味の附けよう……それから顔となって来て、 顔には大小の輪などを拵えて、外からドンドン木を打つけて……旨く仕事は運んでいる ことだと思っておりました。 或る日、私は、どんなことになるかと心配だから仕事の現場へ行うて見ると、これは どうも驚いた。まるで滅茶々々なことをやっている。これには実に閉口しました。  大工や仕事師は、どんなことをしているかというに、まるで仕事師が役に立たない。 先には苦もないようなことをいっておったが、実際に臨んでは滅茶々々です。また、兄 貴の大工の方も同様でまるでなっていないのです。たとえば、大仏が膝を曲げて安坐を しているその膝頭がまるで三角になっている。ちつとも膝頭だという丸味が出来ており ません。印を結んだ手が手だか何んだか、指などは分らない。肩の丸味などはやはり三 角で久米の平内の肩のよう……これには閉口しました。 「これはいけない。こんなことは雛形にない」 と私がいうと、 「どうも、こうずう体が大きくては見当が付きません」  仕事師も、大工も途方に暮れているという有様……そこでこのままで、やられた日に は衣紋竿を突つ張ったような大仏が出来ますから、私は仕事師、大工の中へ這入って一 緒に仕事をすることに致しました。 「私のいうようにやってくれ」というので指図をした。  膝や肩の丸味は三角の所へ弓をやって形を作り、印を結んだ手は片面で、四分板を切 り抜いて、細丸太を切って小口から二つ割りにして指の形を作る。鼻の三角も両方から 板でせって鼻筋を拵え小鼻は丸太でふくらみをこしらえる……という風に、一々仏の形 のきまりを大握みに掴んで拵えて行かせるのですが、兄貴の大工さんも、差し金を持つ て見込みの仕事をするのなら何んでも出来るが、こんな突飛な大仕掛けな荒仕事となる と一向見当が附きません。仕事師の方も普通の小屋掛けの仕事と違って、大仏の形に型 取った一つの建物の骨を作るのですから、当って見ると漠然として手が出ません。此所 をこうといい附けても間に合わないという風で、私は大いに困りましたが困ったあげく、 芝居の道具方の仕事をやっている或る大工を伴れて来て、これにやらせて見ますと、な かなか気が利いていて役に立ちます。私はこの大工を先に立てて仕事を急ぎました。 それで、私はよすどころでなく毎日仕事場へ行かねばならなくなった訳であります。  が、毎日高い足場へ上って仕事師、大工たちの中へ這入って仕事をしていますと、なか なかおもしろい。面白半分が手伝って本気で汗水を流して働くようになりました。今日 では思いも寄らぬことですが、まだ歳も若し、気も旺んであるから、高い足場へ上って、 差図をしたり、竹と丸太を色々に用いて願などの丸味や、胸などのふくらみを拵えてお りますと、狭い仕事場で小仏を小刀の先で弄っているとはまた格別の相違……青天井の 際限もない広大な野天の仕事場で、拵えるものは五丈近い大きなもの、陽気はよし、誰 から別段たのまれたということもなく、まあ自分の発意から仲の善い友達同士が道楽半 分にやり出した仕事ですから、別に小言の出る心配もなし、晴れた大空へかんかんと金 槌の音をさせて荒つぼく仕事をするので、どうも、甚だ愉快で、元来、罷り間違えば自 分も大工になるはずであったことなど思い出して独りでに笑いたくなるような気持にも なったりしたことでありました。  段々と仕事の進むにつれて、大仏の頭部になって来ましたが、大仏の例の螺髪になる と、ちょっと困りました。俗に金平糖というぼつぼつの頭髪でありますが、これをどう やって好いか、丸太を使った日には重くなって仕事が栄えず、板ではしようもない。そ こで、考えて、神田の亀井町には竹筑を拵える家が並んでおりますから、其所へ行って 唐人京を幾十個か買い込みました。が、螺髪の大きい部分はそれがちょうどはまります けれども、額際とか、揉み上げのようなところは金平糖が小さいので、それは別に頃合 いの旅を注文して、頭へ一つ一つ釘で打ち付けて行ったものです。仏さまの頭へ桁を植 えるなどは甚だ滑稽でありますが、これならば漆喰の噛り付きもよく、案としては名案 でありました。 「やあ、大仏様の頭に糸が乗つかった」 などと、群衆は寄ってたかって物珍しくわいわいいっております。突然にこんな大きな ものが出来出したので、出来上がらない前から人々は驚いているという有様でありまし た。  或る日、私は、遠見からこれを見て、一体どんな容子に見えるものだろうと思いまし たので、上野の山へ行って見ました。ちょうど、今の西郷さんのある処が山王山で、其 所から見渡すと、右へ筋違いにその大仏が見えました。重なり合った町家の屋根からず つと空へ抜けて胸から以上出ております。空へ白い雲が掛かって旅を植えた大きな頭が ぬうと讐えている形は何んというて好いか甚だ不思議なもの……しかし、立派な大仏の 形が悠然と空中へ浮いているところは甚だ雄大……これが上塗りが出来たらさらに見直 すであろうと、一層仕事を急いで、どうやら下地は出来ましたので、いよいよ、左官与 三郎が塗り上げましたが、青銅の味を出すようにという注文でありますから、黒つぼい 銅色に塗り上げると、大空の色とよく調和して、天気の好い時などは一見銅像のようで なかなか立派でありました(この大仏に使った材料は竹と丸太と小舞貫と四分板、それ から漆喰だけです)。 「どうも素晴らしいものが出来ましたね。えらいものを拵えたもんですね」 など見物人は空を仰いでびつくりしております。正味は四丈八尺ですが、吹聴は五丈八 尺という以上、一丈だけさばを読んで奈良の大仏と同格にしてしまいました。そこで口 上看板を仮名垣魯文先生に頼み、立派な枠を付け、花を周囲に飾って高く掲げました。 こんな興業物的の方は友達の方が受け持ちでやったのでありました。  それから、胎内の方は野見の親父さんの受け持ちで、切舞台には閻魔の踊りを見せよ うという趣向。そこでまた私は閻魔の顔を拵えさせられるなど自分の仕事をそつち退け にして多忙しいことで、えんまの顔は張り子に抜いてぐるぐる目玉を動かすような仕掛 けにして、中へ野見の老人が這入って仕草をするという騒ぎ……一方、古物展覧の方も 古代な布片とか仏像のような何んでも時代が付いて曰く因縁のありそうなものを並べ、 鴫戸のお弓の涙などと小供だましでなく、大人でも感服しそうな因縁書などを野見の老 人がやって、一切、内外ともに出来上がりまして、いよいよ蓋を明けましたのが確か五 月の六日……五日の節句という目論見であったが、間に合わず、六日になったように記 憶しております。 この興業物は「見流しもの」といって、ずっと見て通って、見た客は追い出してしま うので、見世物としては大勢を入れるに都合の好いやり方であります。大仏の頭が三畳 敷位の広さで人間が五、六人位は入れますが、目、口、耳の窓から外を見ると、先の客 は後から急かれて出て行くので、入り交り立ち交るという手順で、手つ取り早く出来て おります。蓋が明いた六日の初日には果して大入りでありました。 大仏の末路のあわれなはなし  佐竹の原に途方もない大きな大仏が出来て、切舞台で閻魔の踊りがあるという評判で、 見物人が来て見ると、果して雲を突くような大仏が立っている。客はまず好奇心を唆ら れてぞろぞろ這入る。——興業主は思う壷という所です。  大入りの筑の中には一杯で五十人の札が這入っております。十杯で五百人になる。そ れがとんとんと明いて行くのです。木戸口で木戸番が札を客に渡すと、内裏にもぎりと いって札を取る人がおります。これは興業主で、その札によって正確な入場者の数が分 るのであります。初日は何んでも二十杯足らずも不が明いて、かれこれ千人の入場者が ありまして、まず大成功でした。 ところで、物事はそう旨く行きません。……  初日の景気が少し続いたかと思うと、早くも六月に這入り、梅雨期となって毎日の雨 天で人出がなくなりました。いずれも盛り場は天気次第の物ですから、少し曇っても人 は来ない。またこの梅雨が長い。ようやく梅雨が明けると今度は土用で非常な暑さ、毎 日の炎天続き、立ち木一本もない野天のことで、たよる蔭もなく、とても見物は佐竹原 へ向いて来る勇気がありません。ことに漆喰塗りの大仏の胎内は一層の蒸し暑さであり ますから、わざわざそういう苦しい中へ這入ってうでられる物数寄もないといったよう な風で、客はがらりと減りました。 そういう間の悪い日和に出逢わして、初日から半月位の景気はまるで一時の事、後は お話にもならないような不景気となって、これが七月八月と続きました。もっとも、こ れは大仏ばかりでなく佐竹原の興業物飲食店一般のことで、どうも何んともしようがあ りませんでした。 私は、この容子を見ると、自分の暇潰しにいい出した当人で仕方もないが、どうも、 野見さん父子に対して気の毒で、何んとも申し訳のないような次第でありましたが、さ りとて、今さら取り返しもつかぬ。しかし、野見さん父子はさつばりしたもので、これ が興業ものにはありがちのことで、一向悔やむには当りません。いずれ、秋口になって、 そろそろ涼風の吹く時分一景気付けましょう。といって気には止めませんが、私はじめ、 高橋、田中両氏も何んとか景気を挽回したいものと考えている中に残暑が来て佐竹の原 は焼け付く暑さで、見世物どころの騒ぎではなくなりました。 「もつと早く、花の咲いた時分、これが出来上がっていたら、それこそ一月で元手ぐ らいは取れたんだが、少し考えが遅蒔だった。惜しいことをした」 など、私たちは愚痴交りに話していますが、野見さんの方は、秋口というもう一つの季 節を楽しみにして、ここを踏ん張ろうという肥もあるのですから、愚痴などは一つもい わず、涼風の吹いて来るのを俟っておりました。 楽しみにしていた秋口の時候に掛かって来ました。 ここらを口切りに再び大仏で一花返り花を咲かそうという時は、もう九月になってお り、中の五日となりました。 この日は本所では牛の御前の祭礼、神田日本橋の目貫の場所は神田明神の祭礼であり ました(その頃は山王と明神とは年番でありました。多分、その年は神田明神の方の番 であったと思います)。それで私は家のものを伴れてお祭りを見に日本橋の方へ行って おりました。  午後三時頃、空模様が少しおかしくなって来たので、降らない中にと家に帰りますと、 ぼつりぼつりやって来ました。好い時に帰って来たよといってる中に、風が交って雨は 小砂利を打つつけるように恐ろしい勢いで降って来ました。四方は真暗になったままで、 日は暮れてしまって、夜になると、雨と風とが一緒になって、実に恐ろしい暴風雨とな りました。その晩一晩荒れに荒れて翌日になってやつと納まりましたが、市中の損害は なかなかで近年稀な大あらしでありました。何処の屋根瓦も吹き飛ばされる。塀が倒れ、 寺や神社の大樹が折れなどして大あらしの後の市中は散々の光景で、私宅なども手酷し くやられました。が、まず何より心配なのは佐竹の原の大仏のこと、昨夜の大あらしに どうなったことかと、私は起きぬけに佐竹の原へ行って見ますと、驚いたことには大仏 の骨はびくともせず立派にしやんとして立っております。しかし無残にも漆喰は残らず 落ちて、衣物はすつかり剥がれておりました。私は暫く立って見ていましたが、どうも 如何ともしがたい。ただ、骨だけがこう頑丈にびくともせずに残っただけでも感心。左 右前後から丸太が突つ張り合って自然にてこでも動かぬような丈夫なものになったと見 えます。それに漆喰が剥れて、すべて丸身をもった形で、風の辷りがよく、当りが強く なかったためでもありましょうが、この大仏が出来てから間もなく、直ぐ向うの通りに 竹葉館という興業ものの常設館が建って、なかなか立派に見えましたが、それが、一た まりもなく押し潰され、吹き飛ばされているから見ますと、大仏は骨だけでもしやんと していた所は案外だと思って帰ったことでありました。  この大嵐は佐竹の原の中のすべてのものを散々な目に逢わせました。  葭管張りの小屋など影も形もなくなりました。それがために佐竹の原はたちまちにま た衰微《さび》れてしまって、これから一賑わいという出鼻を敲《たた》かれて二度と起ち上がることの 出来ないような有様になり、春頃のどんチャン賑やかだった景気も一と盛り、この大嵐 が元で自滅するよりほかなくなったのでありました。  大仏は、もう一度塗り上げて、再び蓋を明けて見ましたが、それも骨折り損でありま した。二度と起てないように押し潰された佐竹の原は、もう火の消えたようになって、 佐竹の原ともいう人がなくなったのでありました。  しかし、このために、佐竹の原はかえって別の発達をしたことになったのでありまし た。  というのは、興業物が消えてなくなると、今度は本当の人家がぼつぼつと建って来た のであります。一軒、二軒と思っている中に、何時の間にか軒が並んで、肉屋の馬店な どが皮切りで、色々な下等な飲食店などの店が出来、それから段々開けて来て、とうと う竹町という市街が出来て、「佐竹ツ原」といった処も原ではなく、繁昌な町並みとな り、今日では佐竹の原といってもどんな処であったか分らぬようになりました。  若い時は、突飛な考えを起して人様にも迷惑を掛け、また自分も骨折り損。今から考 えると夢のようです。 学校へ奉職した前後のはなし  これから話の順序が学校へ泰職った時分のことにちょうどなって参ります。今日はそ のはなしを致しましょう。……ところが随分迂間なことでありますが、私は自分の拝命 する学校を知らなかったというようなわけであった。  明治二十二年の二月十一日は憲法発布式の当日でありましたので、東京市中は一般の お祝いで大した賑わいでありました。市中はいるいるな催しもの、行列などがあり、諸 学校でも教員が生徒を伴れて宮城外の指定の場所へ参列でもするのか、畏きあたりのお 通りを拝するのであるか、とにかく大した賑わいであるという評判。私はそういうもの を見物に出掛けもしなかったが、家内には子供を伴れさせて見物に出しましたが(光太 郎がちょうど六、七歳の時と思います。母につれられて行きました)。広小路でいろいろ な催し物行列などを見てから間もなく帰って参った家内のはなしに、「上野の方は大層 な人出で、いろいろな催しがありましたが、その中に、何時か家へお出でになった竹内 さんが行列の中に這入ってお出ででした。その行列は朝鮮人か支郡人かというような風 をして頭に冠をかぶり金欄の旗を立てて大勢が練って行きましたが、この行列が一番変 っていました」  ということ。私はその話を聞いて、あの竹内さんは数寄者で変ったことが好きだから、 町内の催しで、変った風をして行列の中に交ったのであろう、元禄風俗を研究したりし ていなすったから、きつとその時代の故実を引つ張り出して面白い打扮をやったのであ ろう、など私は話したことでありました。  その日憲法発布の式場へ参列のため大礼服をつけて官舎を出るところを玄関前で文部 大臣の森有礼氏が刺客に刺されたのであった。お目出たいことのあった後の不祥事で 人々は驚いていました。 それから、ずっと後になって、私が美術学校へ奉職するようになり、憲法発布式の当 日に家内が上野で竹内先生が不思議な風をして行列の中に交っていたという話しの訳が 分りました。それは竹内先生はその時美術学校の教官であったので、学校の正服を着け て、学生を率いて式場附近へ参列する途中であったということが分ったのでありました。 私は実は早合点をして竹内さんの好みで古代の服装でも真似て町内の行列へ這入ったの だと思ったことで、竹内さんが学校の教師になっていられることなどは少しも知りませ んのでした。 憲法発布式のあったのは二月のこと。三月にはいって間もなく、或る日竹内久一氏 が私宅を訪間されました。 「高村さん、今日は私は個人の用向きで来たのではありません。今日は岡倉覚三氏の 使者で来たのです」 という前置きで、その用件を話されるのを聞くと、私に美術学校へはいって、働いても らいたいという岡倉氏の意を受けてお願いに来たのだということであった。私は寝耳に 水で、竹内さんのいってることがちょっと要領を得ないので、 「一体、今お話しの美術学校というのは同んですか。またその学校は何処です」 と聞くと、竹内さんもちょっと意外な顔をしていましたが、 「美術学校は上野にあります。現に私はその美術学校の教師を勤めているのです。浜 尾新氏が校長で、岡倉さんは幹事です。この美術学校というのは日本画と彫刻とで立つ ているので、岡倉さんがあなたに来てもらいたいという主意はその木彫の方の教師にな ってもらいたいというのです。岡倉さんもいろいろこの事については考えたが、どうも 他に適当の人がない。それで是非あなたに這入ってもらって一つ働いて頂こうというこ とになったのだから、これは一つ否が応でも引き受けて頂かねばなりません」という話 であった。  これで一通り事情は分ったが、さて、私に取っては困ったことであった。 「そうですか、私はちつともそういう学校の出来ていることを知らなかった。今のお 話でよく訳は分りましたが、どうも私はそういう学校というような所へ出て教師の役を つとめるなどということは私には不向きだと思います。つまり、私はその衝に当たる人 でないと思います。家にいて仕事をして傍ら弟子を教えることなら教えますが、学校と いうようなことになると私には見当が附きません。御承知の通り、私はそういう生い立 ちでありませんから……なまじつか、柄にないことに手を出して見た処で、自分も困る し、他も迷惑と思います。これはお断わりしたいものです」 とお答えをしました。 「君にそういうことをいわれた日には甚だ困る。君はひどく謙遜して、自分は器では ないといわれるが、現にこの私がその美術学校の教師をやっている。あなたも私も生い 立ちは同じようなものじゃありませんか」  竹内さんはこういっておられる。 「いや、そうは思いません。あなたはいろいろ古いことなども能く穿盤して知ってお 出でで、なかなか学もある方だから、あなたは適しております。自分はそうは思いませ ん」 といいました。 「それは、あなたの勘違いというものだが、それを今ここで議論して見たところで初 まらない。とにかく、私は岡倉さんの使者でお願いに来たのですが、君が、承知されな いとなると、私も使者に立った役目が仕終せられないので岡倉さんに対しても面目ない か……それでは、とにかく、右の返辞は君から直接岡倉さんへしてくれることにして下 さい。今日一つ岡倉さんの家へ行って、逢った上のことにして下さい」 「では、そうしましょう。岡倉さんの家は何処ですか」 「池の端茅町で、山高さんの手前の所です。馬見場(以前不忍他の周囲が競馬場であ った頃、今の勧業協会の処にあった建物)から向うへ廻ると二、三軒で冠木門の家がそれ です。承知不承知はとにかく岡倉さんに逢ってよく同氏の話を聞いて下さい。私は今日 は都合があって、御同席は出来ませんが万事よろしく……」 といって竹内氏は帰られました。  それから、午後四時頃私は出掛けて行った。岡倉氏に面会すると、同氏は私の来訪を 待っていた所だといって、「今日、竹内氏をもって御願いした件はどういうことになり ましたか」 という。私は竹内氏に答えたことと同じ意味のことを答えますと、 「高村さん、それはあなたは考え違いをしていられる。学校をそうむずかしく考える ことはいりません。あなたは字もならわない、学問もやらないから学校は不適任とおい いですが、今日、あなたにこの事をお願いするまでには私の方でも充分あなたのことに ついては認めた上のことですから、そういうことは万事御心配のないように願いたい。 あなたに出来ることをやって頂こうというので、あなたの不得手なことをやって頂こう というのではありません。多くの生徒に就くことなどが鬱陶しいなら、生徒に接しなく とも好いのです」 というように岡倉氏は説いていられる。岡倉氏の説明するところはなかなか上手いので、 私に嫌といわさないように話しを運んでいられる。氏はさらに言葉を継ぎ、 「それで、あなたがお宅の仕事場でやっていられることを学校へ来てやって下さい。 学校を一つの仕事場と思って……つまり、お宅の仕事場を学校へ移したという風に考え て下すって好いのでそれであなたの仕事を生徒が見学すれば好いのです。一々生徒に教 える必要はないので、生徒はあなたの仕事の運びを見ていれば好いわけで、それが取り も直さず、あなたが生徒を教えることになるのです」 という風に話されるので、自分のことを私がいおうと思えば、先を越していってしまつ てどうにも辞退の言葉がないような有様になりました。 「お話はよく分りました。そういうことなら私にも必ずしも出来ないこととは思いま せんが、私には、現在、いろいろ他から引き受けてやっている仕事がありますので、仮 りに学校の方でお世話になるとしても、二、三ケ月後のことでないと困ります」 こういいますと、岡倉氏はまたすかさず、 「それはどういう訳でしょう」 と突つ込みますから、 「それは、今日までの仕事を方付けてしまってから、お世話になるものなら改めてお 世話になることに致しましょう」 と答えると、 「いや、それは、まだ、あなたは能く私の申し条を会得して下すっておらん。それで は、学校のことと、内のこととを別にしていられることになる。お宅の仕事場でなさる ことを学校でして下されば結構と申したのはすなわちそこで、ただ、仕事部屋が、お宅 から学校へ移ったというだけのことで……そう考えて頂けば現在お引き受けになってい る仕事を学校の部屋へ持って来てやって下されば結構なので、つまり、生徒の学ぶのは、 あなたの仕事を実地に見学することが何よりなので、私のあなたに学校へ来て頂こうと いう主意も実に此所にあることです。仕事部屋も早速拵えましょう? で、仕事をそつち へ持って来て下さい。また今後とても、他からの依頼は何んなりとお引き受け下すって、 それを学校で拵えて下さい。それがかえって結構で、学校の方では至極好都合なのです。 現在、学校にも木彫科の方は一切教科書と同様の木彫りの手本がありません。竹内さん ともいろいろ相談をして、どういう風にしたらということを研究中でありますが、まず 何より、差し当ってあなたに学校へ来て頂いて、仕事をしておもらいすれば、それこそ、 それが生きた教科書であるから、これに越した授業の方法はほかにあるまいと、実は竹 内氏もあなたを推薦されているわけなので、私たちは、あなたにこがれているので、ど うか学校のために一つ御尽力を願いたい」 こういう訳で、一々抜き差しの出来ないように岡倉氏は説かれるので、私にも能く了 解が出来、なかなか断わるにも断わることが出来なくなりました。実際岡倉氏のいう如 き方法ならば、私の立場として見て、そう仕事の上に差し間えることもないように思わ れ、怪しむところもなくなって来ました。 そこで、岡倉氏は明日からでも学校へ出てもらいたいと、短兵急なことで、私もとに かく、お受けを致したわけであった。 それから、酒が出たりしました。岡倉氏は酒は強い方。私もその頃は多少いける方で あった。酒間にいろいろ寛けて話し合いました。岡倉氏は、話が纏まって悦ばしい。浜 尾校長もさぞよろこぶことであろうといって満足の体であったが、氏はちょっと話頭を 更え、「高村さん、いよいよ話が極まったら、一つ早速実行ておもらいしたいものがあ る……」そういって女中を呼んで持って来させたものがあった。 「それは美術学校の正服です。一つこれを着て下さい」 といって、岡倉氏は自分でその服をひろげ、強いて私を起たして背後から着せてくれま したが、袖を通すと、どうも妙なもので私は驚きました。私は心の中で、憲法発布式の 当日に竹内さんが着て行列の中に混っていたというのはこれだなと思ったことでした。 これは岡倉氏の意匠で学校の正服に採用された関服というものだそうで、氏は私に着せ てから、 「それを明日から着て学校へ出て下さい。今日もそのままでお宅へ帰って下さい」 などいわれるので、私はこれには大いに閉口しました。 「いずれ学校へ出るときまりましてから着て行くことにしましょう」 といってその場は済んだが、それから、それを着て出るのが苦労になりまして、どうし ても、それを着ては何んだか身に添わないような気がして、戸外に出られないので、一 度着たものをまた脱いで、羽織袴で二、三度も出掛けたことがありました。  私はいよいよ学校へ出ることになりました。  しかし、その時はまだ本官ではなかった。お雇いというのであったが、東京美術学校 雇いを命ずという辞令を受けたのが明治二十二年三月十二日で、月俸三十五円給すとい うことでありました。生まれて初めて辞令を手にした私にはよく分らない。学校へ雇わ れるのだからお雇いというので、皆がお雇いなのか、自分だけが雇いなのか、そんなこ とすら一向訳が分らなかった。学校は二月十一日の憲法発布式当日に開校したので、私 が這入る前に加納鉄哉氏が這入っておられたらしいが、どういう訳であったか、氏は暫 くの間で出てしまわれたので、そのあとへ私を岡倉氏や竹内氏が引つ張り出したのであ りました。  約束通りに私は学校の仕事場へ行って仕事をすることになった。それで毎日学校へ行 くのに、例の服を着て出なければならないのに、変テコで困りましたが、しまいには馴 れて着て出ました。  その頃の美術学校は上野公園の現在の場所とは模様が違っておった。その頃、屏風坂 を上って真直に行くと動物園の方から来る通りで突き当りになる、其処に教育博物館と いうのがあって、わずかな入場料を取って公衆に見せていた。その博物館の後ろの方に 空いた室があって、それを美術学校で使っていたので、学校は博物館に同居していたの です。博物館の裏口に美術学校の看板が掲っていました。それで、彫刻の教場はどうか というと、ばらつくようのもので、まだ一つの教場という形を為しておらなかった。  教育博物館の方はなかなか整頓していて、植物などはいろいろな珍しいものが蒐めて あったが、或る方面は草茫々として樹木繁り、蚊の多いことは無類で、全く、まだ美術 学校も開校早々という有様でありましたが、その中段々と生徒も殖えて、学校の範囲が 広くなったものですから、博物館は引つ越して全部その跡を学校が使うことになり、年 とともに旺んになったのであるが、明治四十四年の一月二十五日の零時二十分に出火し て大半を焼失してから、さらに新築して現在のような形になったのであります。  私の学校へ這入った時分は、今の枢密院副議長浜尾男爵が校長で、故岡倉覚三先生が 幹事、有名なふえのろさ氏が教頭という格で生徒がすべてで四十人位であったと思いま す。科は日本画と木彫との二科であった。これは日本の在来の美術を保存しまた奨励す るという趣旨の下にこの学校が出来たもののように見えました。日本画も木彫も古来か ら伝統的に日本の美術として立派に存在して来たものであるから、それを今日において、 日本国民に普及させ、在来のものを一層発達させようという主意であったものと見えま す。当時は普通科が二年と専修科が三年、合せて五年で卒業というのであった。普通科 は絵画と木彫と両方をやった。そうして二年目になって、生徒は、絵画なり、木彫なり、 自分の志望の科を選んで専修することになっていたので、普通科の二年間に生徒は充分 自分の適当と思う道を撰むことも出来たので、今から思うと、この法は大変よかったよ うに思われます。今日でも当時、普通科をやった人たちがよくこの普通科を修めたため に、絵をやる方の人でもちょっと小刀が使え、木彫りをやる人の方でも、絵のことが分 るというわけで、相当の用が足りるので都合が好いといっておりますが、全くそういう 便利があって、これは重宝で好いと思うことであります。  第一期の普通科には、大村西崖《おおむらせいがい》、横山大観《よこやまたいかん》、下村観山《しもむらかんざん》、白井雨山《しらいうざん》、関保之助《せきやすのすけ》、岡本勝 元、溝口禎次郎、島田佳矣、本田佑輔、高屋徳太郎の諸氏でありました。専修科になつ て、絵の方と木彫りの方とへこの生徒は別れて行ったのであります。教師には狩野芳崖 (芳崖先生は私が這入った時には、既に故人となっておりました。氏は美術学校の前身 が小石川の植物園にあって、まだ美術取調所といった時分から這入っていられたので、 その時代は彼のふえのろさ氏が日本美術を鼓吹された時代であります)、橋本雅邦、川 端玉章、狩野友信、結城正明などいう先生方が絵画の方を受け持たれ、木彫は竹内久 一先生、それから私が這入ってその方をやっておった。私は二十二年の五月に本官の辞 令を貰いまして教授ということになり、奏任官五等を拝命して、年俸五百円を給されま した。 奈良見物に行ったことのはなし  三月十二日にお雇いを拝命すると、間もなく、岡倉幹事は私に奈良見物をして来てく れということでした。岡倉氏という人はいろいろ深く考えていた人であって、私がまだ 今日まで奈良を見たことがないということを知っていたので、私にその方の見学をさせ るためであったことと思われます。これは氏の行き届いた所であります。  私と、結城正明氏とが一緒に行くことになりました(結城氏という人は狩野派の画家 でありました)。両人ともに往復十日間の暇を貰いまして、旅費百六十幾円かを給され ました。まだ東海道の汽車が全通しない頃でありましたから、私たちは横浜へ出て、船 問屋の西村から汽船で神戸へ着き、後戻りをして奈良へ参り、奈良と京都の一ヶ所につ いて古美術を視察見学したのでありました。私は生まれてから江戸の土地を離れたこと がないので、今度こうして長旅をすることになったので、いろいろ旅ということについ ておかしい話もありますが、それは略するとして、とにかく、今度の旅行は、美術学校 の教官として実地見学に出向くのでありますから、学校の正服を着けて参らねばならな い。これが始末が悪いので閉口しました。  それから、今日思い出しても、当時の物の安かったことが分りますが、奈良では対山 楼といえば一流の旅館ですが、其所に泊まって一泊の宿料が四十五銭であった(夜食と 朝食付き)。また京都では麹屋町の俵屋に泊まった。これは沢文の本家見たいな家で、 これも一流の宿屋ですが、その宿料が五十銭であった。ちょっと人力車に乗っても、三 銭とか五銭とかいう位で、十銭というのはよほど遠道であった。万事がこんな風であり ましたから、十日間に百六十余円を使うのは骨が折れましたが、私は旅費として官から 給されたものは、全部使ってしまわねばならないものだと思って気ぜわしないことであ った。同行の結城氏は物馴れていて、こういう時に旅費は残すものだと話された。  私の今度の奈良京都見物は、生まれて初めての事で、かねてから見たい希望もあった ことで、大変ためになり、また熱心に見たことでありました。その後古社寺保存会の用 件で、私は幾度奈良京都に出張したか知れませんが、この初旅の時が一番正直に見て来 ております。いろいろその時にすけつちなどしたものが今日も残っておって、それを見 ると、なかなか熱心に見たということが分りますが、すべて物は一番初手に見たことが 一番深く頭に残っているものと思われます。  当時の古美術に対しての印象などについては他日一纏めとして話して置きたいと思い ますが、まず、在来、人が評判しておったいろいろなものについては私の考えもほぼ同 じことでありますが、奈良では、余り当時人がかれこれいわなかったあの法隆寺の仁王 さんは私は一見して結構だと思いました。これは和銅年間に出来たもので、立派なもの であります。法隆寺の仁主は、あれは化物だなどいって人がくさしたけれども、私は、 そうは思わず感心しました。南大門の仁主は鎌倉時代のものでこの方が世間の評判が高 いが、法隆寺の仁王の方も実に立派であると、帰って来てから岡倉氏へ報告をしたこと であったが、氏も意を得たようにいっておられました。  他のものは大概批評の標準が立っていて、特に私が見出すまでもないことで、奈良の 新薬師寺の薬師如来など木彫りとして結構なものの中でも特に優れていると思って見た ことであった。わずか十日間の見物でありましたが、彫刻家としての私には得る所が多 大でありました。  明治二十七年、第一回の美術学校卒業生は、いずれも今日美術界の重鎮となっており、 また二回、三回と続いて優技者の続出した事は美術学校の誇りであると思います。 帝室技芸員の事  美術学校の教授を拝命したのが三月十二日、奈良京都への出張が同月十九日、拝命早 早七日ばかりで旅に出まして、旅から帰ると学校の人となり、私の今日までの私生涯が ここで一転化することになったのでありますが、それはそれとして、今日はその翌年の 明治二十三年の十月十一日に帝室技芸員を拝命した話をしまして、それから楠公の像を 製作した話へ移りましょう。  この技芸員を拝命したということは、当時の官制にいろいろ新しい制度が出来て、そ の新しいことにわれわれが打つ付かったのであって、新しい制度がどういう風に出来た かということは一向知りません。私のみならず、他の同時に技芸員を拝命した人々も皆 不意であったのでありました。  十月の十一日に宮内省から御用これあるに付き出頭すべしという差紙が参りました。 自分には何んの御用であるか一向当りが附かないが、わるいことではあるまいと思って おりました。しかし何んのことかさらに分らんのでありました。翌日学校へ出ると、石 川光明氏もお差紙が参ったということで、 「高村さん、あれは何んでしょう。どういう御用なのでしょう」という話です。私は 石川氏に聞いて見ようと思っていたところへ、こう先からいわれたので、やはり石川さ んも何んのことだか知らないと見える。氏は我々よりも先へ世の中へ出て交際の範囲も 広く、世間的智識も広いのに、今の話で見ると、この事の当りが附かないものと見える なと思っていると、橋本雅邦先生も食堂へ見えて、 「あなた方のところへもお呼び出しがあったのですか。私の許へもありました。あれ はなんでしょう」とやはり同じことをいっている。 三人は一緒になって、さて何んのことだろうなど話し合いましたが、結局、宮内省で 絵画並びに彫刻でもお買い上げになるので、我々にその鑑定をしろと仰せ附けられるの であろう。というような推測に一致しまして、とうとう「それに違いありますまい」と 決めてしまいました。  こういうわけであったから、出頭の当日まで実際何んのことであるか、さらに容子が 分らないのであった。  さて宮内省へ出頭すると、お呼び出しに預かった人々が出頭致しておった。……しか し、それは少数で橋本雅邦先生より、もつと、ずっと年を老った狩野氷憲先生という老 大家、この人はその頃根岸に住まっていて、八十以上の高齢であったから、出頭するに 不自由であったか、代理の人が出ていた。それから、加納夏雄先生、この方も私などか ら見れば遥かな年長者。それに石川光明氏。私というような顔触れであった(京都の方 で銭金家の秦蔵六氏も当日お呼び出しになるはずであったのであるが、ちょうど数日前 に物故されてこの日出頭が出来なかったのであるということを後に到って承りました。 その他の方々はちょっと忘れました)。私たちは宮内省の控え室へ集まっていたのでし た。  すると、加納夏雄先生が、 「今日の御呼び出しは何んでしょうなあ」と私たちに聞いていられましたが、誰も何 んの御用かということを答えるものもありませんので、一同妙に気掛かりなような心特 で腰掛けていたようなわけで、その席に臨んでいても、まだ何んのことか見当が附かな かったようなわけであった。 それに、私としては、それよりも、もう一つ変に思ったことは、今日お呼び出しを受 けて出頭した人々の顔触れを見ると、いずれも七十以上の高齢者であって、若い方でも 六十以下の人はない。それにもかかわらず、石川氏と自分とはまだ四十歳そこそことい う若い者……今日ではもはや私もおじいさんでありますが……この両人の若い者が、こ れらの老大家の中へ這入っているということはどういう訳だろう、妙なことだと思いま した。  かれこれする中に一人一人ずつ呼び出されました。一番初めには狩野老人の代理。次 が確か橋本先生。それから夏雄先生というような順序であったと思う。……一同が元の 席に就くと、皆が帝室技芸員というものを拝命した辞令を持っておりました。そうして 手当として年金百円を給すというもう一枚の書附と二枚……これで一同は帝室技芸員と いう役を拝命したのだということは分りましたが、さて、その役目がどんなことをする のか、誰にも分りませんので、誰いい出すとなく評定が初まりました。 「一体、この帝室技芸員というのは何んでしょう。月に一度とか二度とか宮内省の方 へ勤めるのでしょうか。何も勤めをせずにお手当を頂くということはないでしょう」 「無論、そうでしょうとも、何か御役目があるのでしょう」 など誰もいいましたが、さて何をするのか、とうとう分らずじまいで一同引き取って来 たような次第であった。  それから、段々、宮内省の方へ関係のある人たち——たとえば博物館長の九鬼隆一氏。 佐野常民氏。学校の方では岡倉先生——そういう方たちに右の帝室技芸員という役目に ついて訳を聞きますと、「それは別段勤めるということはない。この帝室技芸員と申す は、そういう名称を作って、美術御奨励のためにという上の厚い思し召しであるので、 年金を給したのはいわば慰労金といったようなもので、多年我邦の美術界のために尽く した功労をお褒めになった思し召しであろうと推察される。そういう御主意であろうと 思うからして別段何んの役目をするということはないのである。しかしまた追々何か御 用もあるかも知れないが、今日の処ではこれという御用はないようである。そこで実は 我々の考えであるが、御参考までに申し述べて置くが、この帝室技芸員というものは、 日本においては、美術家としてはまことに尊い名義を下し置かれたもので、既にこの名 称だけを得られただけでも光栄至極の義であるが、その上になおこの御手当として年金 を給されたということは、聖上の思し召しまことに何んとも有難い次第である。それで この高大な優渥な思し召しに対しては充分に技芸員たるものは気を付けねばならぬこと と思う。すなわち美術および美術工芸のことには一層忠実でなくてはならないこと、同 時にまた後進子弟に対しては親切懇篤の心をもって指導することは申すまでもなし、既 に帝室技芸員という名称の下に身を置くものは一層身の行いを正し、誠実を旨として、 各自に行いのみだらでないよう、この名称に恥じないよう、天恩の有難いことを思うて 身を慎み行いを励まなくてはならない……」という意味のことを話されたのでありまし た。私たち技芸員はまことに御尤のことであると存じたわけでありました。  この帝室技芸員のことはこれでおしまいでありますが、それにつけて、当時、私と石 川光明氏とは互いに申し合わしたことには、実に今度の事は不思議なことであった。他 の老齢の諸先生方がこの恩典に預かったことはあり得べきことと思われるが、われわれ はまだ老人というわけでもなく、また、今日まで多少美術のことに力を尽くして来たと はいうものの、まだ歳月も浅し、経験も浅く、功績というほどのことを残したと思うほ どのこともない。それにもかかわらず、他の老巧の人々と同じように、われわれ両人が 特にこの恩典に浴したことは、実に有難いことで、これを思うても、今後はさらに一層 勉強しなければならないと話し合ったことでありました。  そして、また我一己として考えて見ますに、私は難儀な世の中に生まれ、彫刻などい うことは地に墜ちてほとんど社会から見返られなかったにもかかわらず、今日、ゆくり なくもこうした光栄を得たことを思うと、自分の過去が不幸であったに反して甚だ幸運 であると存じました。これというのも、当時、年の若いものの中には、石川光明氏とか 自分とかをおいては他に相当の人物が見当らなかったためにこの人数の中へ加えられた のであろうが、今日にしてこの事のあるということは全く時の力であって、まことに不 思議とも思われ、何んと申して好いか、過去のことを振り返ると、感慨無量とも申すべ き心持でありました。それで、今日でも思うことでありますが、人間の事はまことに測 り知りがたく不仕合わせな時もあり、また時が過ぐればその不仕合わせがかえって幸福 ともなる。まことに妙なものであると思うことであります。  それから、今日においても別に何んのお役に立ったこともありませんが、今日も引き 続き帝室技芸員として恩典にあずかっているのであります。心ばかりは、何かと斯道の ために尽くしたいものであると思いおる次第であります。ついでながら今日の帝室技芸 員で在京の人々の顔触れをいって置きましょう。明治二十三年に初めてこの名称が出来 て以来、欠員があると入り代り立ち代り、いろいろの人が撰抜されまして、今日では確 か十五名あると思います。東京に十名京都に五名と思いますが、東京の十名は、日本画 では、河合玉堂、小堀師音、下村観山、西洋画では黒田清輝、彫刻では私と新海竹太郎、 刀剣では宮本包則、蒔絵では白山松哉、写真では小川一真、建築では佐々木岩次郎の諸 氏であります。  それから明治二十二年十二月に第三回内国勧業博覧会の審査員を命ぜられました。こ れもういでながら申し添え置きます。 楠公銅像の事  宮城前なる馬場先門の楠公銅像についてお話しましょう。  この銅像のことについては世間でまちまちの噂があります。  この楠公像は高村光雲が作ったのだといい、また岡崎雪声氏が作ったのだとも専らい われている。時が過ぎ去りますと、いろいろこういうことには間違いが出て分らなくな りますから、今日は詳しくこの事についていい置こうと思います。  大阪の住友家の依頼で、明治二十三年四月に楠公像の製作は美術学校が引き受けてや り出したのであります。そうして右製作の主任は私でありました。  これは住友家の所有である別子銅山の二百年祭の祝賀のために、別子銅山より採掘し たところの銅を用いて何か記念品を製作し、それを宮内省へ献納したいというところか ら初まったのでありました。そして右製作のことを美術学校に持ち込んで来たのであつ た。 それで、どういうものを製作するかということについては、私は与《あずか》り知りませんでし たが、いろいろ撰定の結果楠公の像を作るということに決定しました。楠氏は申すまで もなく我邦有史以来の忠臣、宮内省へ献納する製作の主題としてはまことに当を得たも のでありましょう。ところで忠臣楠氏の銅像ということに決まったが、どういう形にし て好いか、ただ、立っているとか、坐っているとかでは見たてがないので、楠公馬上の 図ということに決まりました。それで、この馬上の図をば、一個人の考案でなく、学校 内の教員生徒を通じて広く人々の図案を募集することになりましたので、その募りに応 じた図案が余り沢山ではなかったがかなり集まりました。その中で当選したのが岡倉秋 水氏の図案であった(秋水氏は第一期優等の卒業生)。まずこの当選の図案を基として楠 公像を作るということになったのでありますが、右図案は、楠公馬上の側面図でありま すから、これが全身丸で彫刻製作されるとなると、原図案とはまた異ったものとなるこ とであるが、概ねこの原図によったものでありました。  それで、その図案を参酌して製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかと いいますと、元弘三年四月、足利尊氏が赤松の兵を合せて大いに六波羅を破ったので、 後醍醐天皇は隠岐国から山陽道に出でたまい、かくて兵庫へ還御ならせられました。そ のみぎり、楠公は金剛山の重囲を破って出で、天皇を兵庫の御道筋まで御迎え申し上げ たその時の有様を形にしたもので、畏れ多くも鳳輦《ほうれん》の方に向い、右手《めて》の手綱《たづな》を叩《たた》いて、 勢い切った駒の足掻きを留めつつ、やや頭を下げて拝せんとするところで御座います。 この時こそ、楠公一代において重き使命を負い、かつまた、最も快心の時であり、奉公 至誠の志天を貫くばかりの意気でありましたから、この図を採ったわけでありますが、 これらの事は岡倉校長初め、諸先生のひたすら頭を悩まされた結果でありました。  さて、いよいよ彫刻に取り掛かるというまでには、なかなか時日を要し、また多人数 の考案を経て来たものであって、決して一人や二人の考えから決まったものではないの であります。すなわち大勢の先生方がそれぞれ受持を分けて研究調査されたのであった。  まず歴史家として有名な黒川真頼先生が楠正成という歴史上の人物について考証さ れた公「泉雄作先生も加わっていました)。それから服装のことは歴史画家で故実に詳 しい川崎千虎先生が調べました。先生はこの調査のためにわざわざ河内国へ出張し、観 心寺および信貴山、金剛寺その他楠公に関係ある所へ行って甲胃を調べたのです。また 加納夏雄先生と今村長賀先生とは太刀のことを調べました。  川崎千虎先生は河内へ行っていろいろと楠公の遣物について調べましたが、結果はど うもハッキリ分らないということであった。何故、楠公の遺品などが世に存在していな いかと申すと、楠氏滅亡の後は子孫に至るまで世を憚る場合が多かったので、楠氏伝来 の品などは隠蔽したというような訳で、それでハッキリ分らないということでありまし た。しかし兜は信貴山の宝物になっている兜がどうしても楠公の兜と定めて置かなけれ ば、それ以上その他に頼るものがないというので、それを基として採ったのであります。 けれどもこの兜には前立がないのです。柄が残っているので、前立は何んであるかと詮 索をして見ると、これは独鈷であるということです。が、よく調べると、独鈷ではなく て、剣の柄であろうという川崎先生の鑑定でありました。それから、また一方に同氏の 調べた中に大塔宮護良親主の兜の前立が楠公の兜の前立と同様なものであろうという考 証が付いたのです。ちょうど時代も同時、親王と楠公との縁故も深し、前立のない処に 柄が残っている所を見ると、剣の柄と相当するから、桶公の前立は剣であろう、という ことに極まりました。  それから、鎧ですが、これは漠としてほとんど拠所がありません。大和河内地方へ行 けば、何処にも楠公の遺物と称するものはいくらもあるけれども、一つも確証のあるも のはない。皆後世人の附会したものばかりです。それで常明山という所に楠公の腹巻き というものが一つあったそうで、これは正しく当時のものであるし、何様、楠公の遺物 ではないかと川崎氏はさらに調査を進めまして、皮を剥がして見ると、中から正平六年 六月という年号が出て来ました。そうして見ると、楠公が没した後の製作だということ が分ったので、川崎氏も失望したと同氏が当時私に話されたことを記憶していますが、 万事、こういうような訳で、これは正しく楠公着用の鎧だと決定するに足る鐘はついに 見つかりませんのでした。しかしまずこの腹巻きは近いものに相違なかろうとそこらを 参酌したのでありますが、しかしまた馬上であって腹巻きはおかしいという説を出す人 もあって、それもまた道理ということで、結局、鐘は大袖ということに決定しましたの ですから、実際は、これに拠るというよりどころはなかったのであります。これは参考 とすべきものがなかったから致し方ありません。ただし、楠公没後のものはしようがな いが、それ以前、鎌倉時代より元弘年間にわたったものなら参考にして差し支えなかる うというので、楠公の服装はその辺のものを材料にして決めたようなことでありました。 馬貝なども同様で、厚総を掛けた方が好かろうという説を出した人がありましたけれど も、どうも戦乱の世の中に厚総も感心しないだろうというので、この説は取りませんで した。川崎千虎先生が中心になって、この辺のことは実に熱心に研究されたのでありま した。  太刀は、加納、今村両先生の調べで割合正確なものになりましたけれども、それも楠 公佩用の太刀が分ったのではありませんでした。太刀物の具がハッキリしないばかりで なく、第一、楠正成という人は大兵であったか、小兵だったか、それすら分りません。 少なくも記録に拠所がなく、顔などは面長であったか、丸顔か、また肥えていたか、痩 せていたか、そういうことが一切分らんのでした。しかし、楠公は古今の武将の中でも 智略に勝れていた人であったことは争われぬ歴史上の事実でありますから、智の方面に 傑出した相貌の顔に作りました。総じて智謀勝れたる軍略家は神経の働きの強く鋭い人 でなくては出来ないことで、多くそういう側の人は肥え太っているというよりも、潜せ ぎすの人が多いものですから、どつちかといえば溶せ方の顔で、まず、中肉……したが って身長なども中背……身体全体能く緊張した体格に致したことで、大体において楠公 は智者の心持を現わすよう心掛けたのでありました。  それから、またもう一つ間題となるのは楠公乗用の馬であります。楠公はどういう馬 に乗っていたか、その馬が分らぬ。木曾駒か、奥州駒か、あるいは九州の産のものか、 どうも見当が付かない。そこで主馬寮の藤波先生、馬術家の山嶋氏などのお説を聞くと、 その頃の乗馬として各産地の長所を取って造ったらどうかという説、これも調べるだけ 調べたあげく、この説を探ることにしました。とにかく楠公の姿勢、服装、乗馬等がか くの如く忠実な研究によって決まったのであった。 馬車門の彫刻家のこと  そこで、彫刻製作となるのですが、岡倉校長は、主任は高村光雲に命ずるということ であり、それから山田鬼斎先生を担任とすることになった。すると、ここで一つ主任と しての私に問題が起って来たのであります。  それは、何かと申すと、楠公は馬上であるが、馬の産地も分らぬということ……出来 上がる大きさはというと、馬上で一丈三尺、馬の鼻から尾の先までが一丈八尺というこ の大きな馬をまず自分が手掛けてやるとしてどうであるか、これはなかなか容易なこと ではないと申さねばならぬ……そこで当然思い出すのは後藤貞行氏のことです(後藤氏 のことは前に狆の話のところでちょっと話して置きました)。後藤氏は、馬の後藤とい う位馬車門の人である。それ故、いよいよ手を附けるとなれば、是非とも後藤氏に相談 してその助力を借りなければならない。「私は今楠公の馬をやり初めた。どうか御助力 をたのみます」といえば氏は喜んで相談に乗ってくれましょう。また頼まずとも、先方 から話を聞けば乗り出して来ても手伝いましょう。もしそうなるとすると、私は、自分 で不安心なものを、人に手伝わせ、その助力を借りて製作するということになる。そう して、それが仮りに上手に出来たとして手柄は誰のものになるかということを考えると、 後藤氏の骨折りは全く蔭のものになってしまう。どうで後藤氏の骨折りを借りなければ ならぬものとすれば、私の考えとして、どうも後藤氏の骨折りを殺すということは情に おいて忍び得られぬところである……とこう私は考えたのであった。  で、これは後藤氏をハッキリと公のものにして表面へ立たせたいという考えが私の肥 に決まったのでありました。これは当人の後藤氏の思惑は分らないが、私の良心として はこう切に思われる。この事が単に私用的の仕事で、馬を彫るということならばとにか く、宮内省献納品で、主題は楠公、馬の大きさは前申した通りの大作、これほどのもの を作るのであるから、私は、日頃から、後藤氏のろ癖にもいってる言葉を思い出してさ えも、これは打つ棄って置くべきことでないと思ったのであります。氏は、「自分は、 多少の余財を作って等身大の馬を製えて招魂社にでも納めたい」というのが平素の願望 で、一生に一度は等身大以上の大作をやりたいという希望は氏が常に私に話されていた のであります。こういう志を持っている人を蔭に使って、その出来栄がよかったとして、 後藤氏の立場はどうなるか……こう思うと、もう私は矢も楯もたまらなくなって、この 事は是非とも解決しなければならないと心を決し、その晩、急に岡倉覚三先生方へ出掛 けて行ったのでありました。  その頃の岡倉先生宅は根岸であった。夜分の来訪、何事かと岡倉さんは思ってお出で のような面持で私を迎えました。 「今夜は一つお願いがあって参りました」 そういう私の意気組みが平生と違っていたと見え、 「そうですか、何かむずかしいことですか」と氏はほぼ笑んでいられた。 「実は、楠公製作の件で是非御願いのことがあって出ました。これは充分聴いて頂き たい……私は今度、主任の役をお受けしたのでありますが、馬上の楠公というので、差 し当って馬の製作に取り掛からねばなりません。ついては、馬のことは、私は専門的に 深く研究しておりません。普通の仕事であれば、また製作のしようもありますが、御承 知の通り今度の馬は容易でありません。私一個の腕としてこの大物を立派にやり上げる ということはお恥ずかしいが不安心であります……といって私の片腕となって立派にこ の馬をやりこなせる人物は差し当り学校には見当りません……」 「なるほど、御もっともな話で……それは困りましたね。これは容易なことではあり ますまい」 「……学校には、馬の専門知識をもった人を見当りませんが、ここに私の親友に後藤 貞行という人があります。この人は馬専門の彫刻家であります。……」 というところから、私は、後藤貞行氏の人為と馬について研究苦心された概略を岡倉校 長へ紹介しました。  後藤貞行氏は、元は和歌山県の士族で、軍馬局へ勤めている。馬の調査のため奥州地 方へ長らく出張して軍馬の種馬について研究し、馬のことといえばその熱心は驚くばか りで、目をねむっていてただ触っただけでも馬の良否が分るというほどに馬のことには 詳しい。そういう馬熱心のために馬の絵を描きたいと思い立って日本画の積古をしたが、 どうも日本画では思うように行かない処から、油画の稽古を初めました。これは日本画 では肉の高低、蔭日向などが思うように行かないので、さらに洋画をやり出したのです が、洋画でも絵は平面のもので、そうくり丸写しに実物を写すには工合が悪いので、今 度は彫刻をやり出しました。これは彫刻なら立体的に物の形が現われて都合が好いと考 えたからであります。それで牛込辺の鋳物師の工場で、蝋作りを習って、蝋を捻って馬 をこしらえました。  まだ、未熟ではあるが、馬には通暁した人ですから、急所々々の間違いはないものを 作った。後藤氏は彫刻ということよりも、馬その物を作るのが本意で、馬の標本になる ようなものを作ろうというのが目的で、自分の考え通り一匹の馬を作り上げ、それを鋳 物にしてもらう段になったのですが、不幸にしてふき損って蝋を流してしまったので、 折角苦心してこしらえた馬の形は跡形もなくなってしまった。それには後藤氏も実に驚 いた。こんな迂遠なことでは便りにならん、どうしても、木で彫るより仕方がないとい うので、東京中の仏師屋を歩き廻って木彫りの稽古をつけてくれる師匠を探して見たが、 何処でも「あなたのような年輩の方が今から彫刻を初めるといってもそれは大変、子供 の時から年季を入れて稽古をしても、まず物になるには十年も掛かる……どうもこれは 思い切りなすったがよかろう」などと相手になってくれませんので、後藤氏も大いに弱 ったがふと私のことを思い出した。  というのは、私が大島如雲氏の宅に原型の手伝いをしていた時代(この事は前に話し ました)、この後藤氏が如雲氏の工場へ見学に来られて、私が其所で木彫りをやってい るのを見て、自分にも心があるから、つい、私と近づきになっていた。その事を思い出 したので、西町に住まっている私をわざわざ尋ねて来られた次第であった。  或る日、私が仕事をしていると、がちやがちやサアベルの音をさせて人が這入って来 たから私は戸籍調べが来たのかと思って見ると、その人は顔馴染のある後藤貞行さんで あった。 「突然にやって来ましたわけは、今日は立ち入って御願いしたいことがありますの で」との話。理由を聞くと、木彫りの手ほどきをして頂きたいとの事で、今日までいろ いろ馬のことに苦心し、馬の姿を造形的に現わしたいので、日本画、洋画、蝋作りまで 試みたが、どれも物にならぬので、人からは移り気だの飽きつぼいのといろいろ非難さ れますが、それは自分の目的を突き留める所へ参らんので、段々に変更して来たわけで ありますが、今度こそ木彫りならば自分の初念がこれで達せられることが分ったので、 木彫りをやりたいと切望していろいろ師匠を求めたけれども、相手になってくれる人が なく、困じ果てた結果、あなたのことを思い出して、今日参上したわけで、どうか一つ 折り入っての御願いですが、彫刻を教えて下さい。しかし、私のような年輩でも一生懸 命になれば物の形が彫れるものでありましょうか、あるいはまた到底手をつけることも 出来ないものでありましょうか……と後藤氏は心の誠を篭めてのお話。その話を聞いて いる私はお気の毒とも感心とも思い、 「それは後藤さん、余人なら知らぬこと、あなたには出来ますよ。あなたは馬だけ彫 ろうというのですから。これは出来ます。あなたには馬が頭にある。木を彫ることさえ 出来れば自然馬は彫れるわけです。お望み通り教えて上げましょう」  こういいますと、後藤氏は大喜び。翌日から弁当持ちで通って来られたので、私は木 取を教えて上げた。  暫く稽古をしている中に、後藤さんの馬が出来ました。これは規則的の、馬としては 非難のない馬が出来た。後藤氏は、お蔭で馬が出来ましたといって、さも満足そうに礼 をいわれ、それから一層気乗りがして来て勉強されて、いろいろ馬を彫られた処、その 事が軍馬局に分り、主馬寮に分り、宮内省に分りして、後藤は馬を彫ることは上手だと いう評判が立って、後には馬車門の彫刻家となりましたので、今上天皇がまだ御六歳の 時、東宮様と仰せられる頃御乗用の木馬までもこの人が作られたというような次第であ りました。  しかし、まだこれという大作はしない。それで、一生の仕事として、等身大の馬を製 作し、招魂社にでも納めたいというのが日頃の願望……これほど、馬ということには熱 心な人であったのであります。  こういう一条の逸話を、私は岡倉校長へ後藤氏の名を紹介するためにお話したのであ った。そこでまた言葉を改め、 「後藤貞行という人は右の如き人物。この度私が楠公の馬を彫刻するとなれば、従前 の関係上、必ず助力をしてくれることでありますが、しかし、その助力を蔭のものにし て、私が表面に立って、美事に馬が出来たとして、後藤氏の力がそれに多分に加わって いるにもかかわらず、後藤氏は全く縁の下の力持ちになってしまうわけであります。そ の事を私は考えますと、どうしても後藤氏の手柄を殺すことは忍び兼ねますので、どう か後藤氏を公に使うようなことに、貴下の御斡旋を願います。これは私の折り入っての 御願いであります……」 という意味を私は岡倉先生へ申し述べました。 「いかにも御尤です」 と岡倉さんはいわれ、 「では、早速、その後藤という人を傭いましょう」と快く承諾されたのでありました。 私はこの言葉を聞いた時は、まことに延々するほど嬉しく思いました。  岡倉覚三先生という方は、実に物解りの好い方であって、こういう場合、物事の是非 の判断が迅く、そして心持よく人の言葉を容れられる所は大人の風がありました。なお、 岡倉先生は後藤氏への給料のことなど尋ねられたので、目下、軍馬局で、三十円ほど取 ってお出でだから、三十五円位も出せばどうでしょうといいますと、それ位のことなら 必ず都合が附きます。早速雇いましょう。と、案じたよりは容易に話が決まりましたの で、私は早速この旨を後藤氏へ通じると、後藤さんは飛びかえるほど嬉しがりました。 そこで、後藤氏は馬の方の担任ということで傭われて、私が主任でやることになって、 後藤氏は毎日学校へ通って来ました。  ところが、先申す通り、楠公の馬の出所が分りません。木曾、奥州、薩摩などは日本 の名馬の産地であるが何処の産地の馬とも分らんので、日本の馬の長所々々を取ってや ろうということに一決しました。  しかし、馬ばかりでなく、楠公という本尊があることで、前申す通り大勢が関係をし ている。彫刻になってからは石川光明氏も手伝われる。新海竹太郎氏は当時後藤氏の宅 に寓していたので、後藤さんが伴れて来る。私の方からも弟子たちを引つ張って行くと いう風で、なかなか大仕事であった。  その頃は、まだ、美術学校には塑像はありません時代で、原型は木彫です。山田鬼斎 氏は楠公の胴を彫りました(山田氏は福井県の人でまだ年は若かったが、なかなか腕が 勝れ、仕事の激しい人でありました。明治二十三年の博覧会に大塔宮を作って出品し好 評であった。惜しいかな故人となられました)。それから私は顔を彫りました。後藤氏 は馬をやりました。私は楠公の顔をやって甲を冠せた。石川さんも手伝いました。竹内 久一先生はどうであったか、少しは手伝われたかも知れません。とにかく学校総出でや った仕事で、主任は私、担任が鬼斎氏および後藤氏で、それから、鋳物の主任が岡崎雪 声氏でありますが、岡崎氏は原型には関係がありません。鋳造だけです。  以上が、楠公製作についての事実であります。 木彫の楠公を天覧に供えたはなし  原型の楠公像はすべて桧材を用い、原型全部出来ましたので、明治二十六年三月十六 日に学校庭内に組み立て、時の文部大臣並びに学校に関係ある諸氏の一覧に供したので あるが、住友家から学校へ製作を依嘱したのが明治二十三年。着手したのが翌年の四月 ですから、木膨原型が全部出来上がった二十六年の三月までには約四ケ年間を要したの であります。大勢の人と長い時日を要しただけあって原型はなかなか大きなものであり ました。今日では帝国美術院の展覧会でも、また個人の製作にしても随分大作が出来る けれども、まだ明治二十五、六年頃にはこの楠公像の木彫のような大作は稀であったか ら世間で珍しく評判をしたものらしい。美術学校は前申した通り我邦固有の美術工芸を 保存し、また奨励する主旨によって開かれたものでありますから、そうした思し召しが 一入お深いと洩れ承りまする先帝(明治天皇の御事)には、時々侍従をお使いとして学校 へお遣わしになって、生徒の作品のようなものをもお持ち帰りで、お慰みに御覧に入れ たこともありまして、何かと宮内省とは縁故がありましたから、今度の楠公の馬につい ては主馬寮の藤波氏にも種々お尋ねした関係もあり木型の出来上がったことも、侍従局 から叡間に達したのでありましょう。  それで、右の木彫を宮城へ持って来て御覧に供せよとの御沙汰が岡倉校長に降ったの でありました。その事について、三月十七日、斎藤侍従が学校へお出でになって校長と 打ち合せの上、上覧に供える時日は来る二十一日午前十時と定められました。 学校は名誉なことにて早速お受けを致して、関係者一同協議をしましたが、何しろか なり大作であるから、御指定の場所にそれを運搬して組み立てるまでの手順、何時間手 間が掛かるか、途中故障などが生ずるようなことはないか、その辺のことを充分研究す る必要がありますので、まずその練習をすることになりました。 行り方は、三本の丸太をもって足場の替りにして、滑車で引き揚げると、旨く組み立 てが出来ました。この練習をやってまず一時間あれば組み立てが出来るということが分 りました。 それで、岡倉校長、私など宮城へ場所選定に参りまして、掛かりの人と相談を致しま したが、位置は、陛下が御玄関へ出御あって御覧の出来る所、すなわち正門内よりほか あるまいということになった。その地位は、二重橋を這入った正面の御玄関からぐるり と廻って南面したところの御玄関先ということに決まりました。  明治二十六年三月二十一日がその当日でありました。  東の空が白む頃関係者は学校へ出揃い、木型を車に積んで運び出しましたが、上野か ら宮城までにかれこれ二時間位掛かり、御門を這入って、それから三本の足場を立て、 滑車で木寄せの各部分を引き揚げては組み合わせるのに、熟練はしていても一時間半位 を費やし、都合四時間ほどの時間が掛かりました。なかなか大騒ぎで、大は車が三台、 細引だの滑車だの手落ちのないよう万事気を附け、岡倉校長を先導に主任の私、山田、 後藤、石川、竹内、その他の助手、人足など大勢が繰り込みましたことで、仕事は滞り なく予定の時刻の九時頃に終りました。御玄関に向った正面へ飾り付け、足場を払って 統麗に掃除を致し、慢幕を張って背景を作ると、御玄関先は西から南を向いて石垣にな っていて余り広くはありませんから、其所へ楠公馬上の像が立つとなかなか大きなもの でありました。 それに材は桧で、只今、出来たばかりのことで、木地が白く旭日に輝き、美事であり ました。 これで好いとなりましたのが午前十一時。 聖上には正十二時御出御という触れ。一同謹んで整列をして差し控えておりますと、 やがて、ふろつくこおとの御姿で侍従長徳大寺公をお伴れになってお出ましで御座いま した。 陛下には靴をお召しで、階段の上にお立ちになってお出でで御座いましたが、やがて 階段をば一段二段とお下りになって玄関先に御歩を止め御覧になってお出でで御座いま した。岡倉美術学校校長は徳大寺侍従長のお取り次ぎで御説明を申し上げておりました。 すると、聖上には、何時か、御玄関先から地上へお降り遊ばされ、楠公像の正面にお立 ちであったが、また、馬の周囲を御廻りになって、仔細に御覧になってお出でで御座い ました。  そして、陛下には、いろいろこの彫刻の急所々々を御下間になるので、岡倉校長は、 一々お答えを申し上げたが、実に御下問の条々が理に叶って尋常のお尋ねではないので、 岡倉校長は恐懼致されたと、後に承ったことで御座いました。私たちも馬の直ぐ近くに 整列致しておりますので、お尋ねの御言葉は能く聞き取れました。この楠公馬上の像は 楠公がどうしている所の図かとのお尋ねがあった時、岡倉校長は、これは楠公の生涯に おいて最も時を得ました折のことにて、金剛山の重囲を破って兵庫に出で、隠岐より還 御あらせられたる天皇を御道筋にて御迎え申し上げている所で御座いますと奉答をされ たよう承りました。なお、聖上にはこの像は、木の材を纏めて製作したものか、学校の 教員たちが力を協せて作ったものか、などいろいろ立ち入って御下問があったとの事で、 御答えを申すには、実にゆるがせでなく恐れ入ったということをこれまた校長から後に 承りました。 聖上御覧の間は、私は責任が重いものでありますから非常に心配をしました。御覧済 みとなって御入御になった時はほつとしました。今日でも骨身に惨みるようにその時心 配をした事を記憶しておりますが、実は、聖上御覧の間に、楠公の甲の鍬形と鍬形との 間にある前立の剣が、風のために揺れて、ゆらゆらと動いているのには実に胸がどきど き致しました。これは組み立ての時に、どうしたことか、楼をはめることを忘れたので、 根が締まっていないので風で動いたので、標一本のため、どれ位心配をしたことか。も し剣が風のために飛んだりなどしては大変な不調法となることであったが、落ち度もな くて胸を撫で卸した次第でありました。 陛下御覧済みになりますと、引き続いて、午後一時に皇后陛下が御出御で、これもな かなか御念入りで三十分ほども御覧で御座いましたが、この時も落ち度なく役目を終う たことで御座いました。元通り取り崩《くず》してちょうど午後二時半頃一同は引き退《さが》りました。 宮中にて一同午餐を頂戴しまして、目出たく学校へ帰ったのが午後四時頃でありました。 当日はまことに万事が滞りなく都合よく運んだのは私どもの幸運で御座いましたが、 こんな大事な場合は、能く能く落ち付いて考えなければならないことは、今も申したよ うなちょっとした手抜かりがあって、生命を縮めるような心配を致さねばなりませんか ら、心すべきことであると存じます。 その他のことなど  さて、楠公像は、この原型を同じ美術学校の鋳金科教授岡崎雪声氏が鋳造致して住友 家へ引き渡したことでありました。木型はその後大阪の博覧場というのに飾ってありま したが、今日は何処にあることか。確か、白い木地は銅色に色をつけてあったと記憶し ます。 またその後に至って、右の木型の形を縮めて、床置き位な小さい鋳物が四つか五つ出 来ました(住友家の依頼であった)。これは山田鬼斎氏が大作に依って小型を彫りました のです。その小型が今日美術学校の文庫に保存されてあります。これを元の原型と間違 えている人もあるから、これもついでに間違わないように断わって置きます。事実を確 かにして置きませんと、現にまだその製作主任をした私が生きている間に、早くもその 作者の名さえも間違うようなわけでありますから、確実なことを記録に止めて置くは必 要の事と思います。  楠公像の馬場先門外に建ったのは、ずっと後のことで、その建設の場所なども、最初 は学校の方で選定することになっておって、二重橋寄りで、直ぐ門に接した処にしたい という考えであったが、それは宮内省の方で、練兵の都合などあって御許しがなく、現 在の位置に立つこととなりましたが、かえって今日ではこの方がよるしかったかと思わ れます。  また台石の方は多分宮内省の方で作ったことと思います。この台石製作の任に当った 人は、研究調査のため洋行をしたとか聞きました。 何しろ、その当時のことで、銅像は東京市中に珍しく、九段の大村さんの銅像以来の ことで、世の注目を惹きました。 総領の娘を亡くした頃のはなし  学校奉職時代の前に少し遡り、話し残したことを補充して置きたいと思います。  学校へ入りましたのは仲御徒町一丁目に住まっていた時のことで、毎日通勤するよう になってから、住居はなるべく学校へ近い方が便利だと思いました。それにこの御徒町 付近一帯は軒並み続きで、雑沓するので、年寄りや子供には通した処でない。衛生の方 からいっても低地で湿気が多く水が非常に悪いので、とうから引つ越したいと思っては いましたが、そういう訳になかなか参りませんので、よんどころなくそのままになって おりました。しかるに今度学校へ出るようになって、学校へ近い方が便利という必要か ら、何処か格好な家がないかと気を付けるようになりました。 、こういう時には私の父は、前にも申した通り、至うて忠実な人であるから、隠居仕事 に学校最寄りの方面を方々と探して歩きました。 それでもなかなか格好な家が見当らないと見えて幾日か過ぎましたが、或る日、父は、 「今日こそ好い家を見附けた」といってその模様を話されるところを聞くと、その家は 学校へ三丁位、土地が高燥で、至って閑静で、第一水が良い。いかにも彫刻家の住居ら しい所という。それは何処ですと聞くと、谷中天王寺の手前の谷中谷中町三十七という 所で、五重塔の方へ行こうとする通りに大きな石屋があるが、その横丁を曲って、石屋 の地尻で、門横えの家。玄関を這入ると二畳で、六畳の客間があり居間が六畳、それに 四畳半の小部屋が附いている上に、不思議なことには直ぐ部屋続きに八畳敷き位の仕事 場とも思われる部屋がある。その部屋は南向きで日当りがよく、お隣りは宝珠院という お寺の庭に接しているから、充分ゆとりもあり、庭はまたお寺の地所十四、五坪を取り 入れてなかなか広く、お稲荷さんの祠などあってなかなか異だということです。それで 家賃はというと、四円……別にお寺へ納める庭の十四、五坪の地代が五十銭、都合四円 五十銭、ということです。老人は大変気に入っていられる。 それで、私もこれは好いと思い、早速行って見ますと、なるほど、これは格好、往来 に向いて出格子の窓などがあり、茶屋町の裏町になった横丁だが四方も物静かで、父の 申す如く彫刻家が住むにはいかにも誂え向きという家ですから、早速話を決めました。 その頃のことで、別に敷金を取るでもなく、大屋さんへちょっと手土産をする位で何 んの面倒もなく引き移りました。  さて、段々と住んでいると、どうも普通の素人の住まった家とは趣が異う。いきなり、 客間があったり仕事部屋があったりする処は妙だと、近所の人に聞いて見ると、これま では牙彫師の鵜沢柳月という人が住んでいたのだということでした。 この人は先に彫工会の成り立ちの処で話しました谷中派の方の親方株の牙彫師で、弟 子の三、四人も置いてなかなか盛んにやっていた人である。庭のお稲荷さんもその人が こしらえたものということ……それで、妙だと思った仕事場のことなども分りました (この家の持ち主は御徒町の料理店伊予紋であった)。家で仕事をするにも都合がよく、 学校へ通うにはなおさら、昼食に一走り家へ帰ったとしても授業時間には間に合う位近 いので、まことに気安くて都合がよかったのでした。老人が、どうしてこんな工合の好 い家を見付けたものか、谷中の奥で、しかも通りからは横へ這入った人の気の付きそう もない処を、よく探し出したものと、何時もながら老人の眼の届くのを感心して家のも のにも話したことでありました。この引つ越しは二十三年であったと思います。 この谷中時代に総領娘咲子を亡くしました。亡くなった日は明治二十五年の九月九日 でした。まことに残念で、今日でもこればかりはどうも致し方もないことではあるが、 残り惜しく思われます。娘は十六歳でありました。すべて子供は皆同じで、いずれに愛 情のかわりは御座いませんけれども、この総領娘は私が困苦していた盛りに手塩にかけ ただけに、余計に最愛しまれるように思われます。 こういう苦しい時代であったために芸事も多分に仕込むことも出来ませんでしたが、 初めは三味線をやらせました。ところがどうもこれはその娘の器でないかのように私に は思われました。家内が長唄を少しやるので、それで、家でも母がちよいちよい槽古を つけたりしましたのを私が聞いていて、どうもそう感じられました。当人も三味線を取 る時はどうも気が進まないようにも見えました。それで手習いとか、本を読む方のこと をさせて見ると、よろこんで筆を取り書物に向いまして、普通には出来るようでありま す。それで、この娘は三味線のような遊芸はやめさせた方が好かろうと三味線をやめさ せました。これはまだ西町時代のことで本人は七歳位の時です。それから娘が筆を持つ 事が好きという処から、その頃竹町の生駒様の屋敷内にいた狩野寿信という絵師のお宅 へ槽古に上げました。この先生は探幽の流れを酌んで、正しい狩野派の絵をよく描かれ た人で、弟子にも厳格な親切な人でありました。娘は今度は自分から進んで稽古を励み、 まだ手ほどきをしてもらってから間もないが、先の三味線の方とは違って、どうも性に 合っているように思われました。親の慾目かは知れませんが、師匠のお手本によって描 いたものを見ましても能くまあこんなに描けるものだと思ったこともありまして、子供 の前ではいえないことだが、家内とも「今度はどうも本人に合ったようだ。今からこれ 位に行けば未頬母しい」など話してまことに可愛ゆく、出来得る限りはこの娘の天性を 発揮させてやろうと存じたことでありました。 しかし、師匠の寿信という人は、なかなかその道に手堅く、稽古をおるそかにしませ んところから、その稽古はなかなか金銭が掛かりました。……というのは別のことでは なく、絵を描く材料に金銭が掛かるのであって、まず何よりも絵具が入るのです。たと えば、金銀、群青、緑青など岩物を平常使うので、それも品を吟味して最初から上等品 を用いさせました。これは稽古の際でも楽な絵具で稽古するようではいざという段にな って本当の仕事が出来ないから、平生の稽古にも本式で掛からせるという師匠の教授法 なのです。で、朱にしても、生腕脂にして、墨一挺、面相一本でもなかなか金銭が掛か ります。しかし金銭が掛かるといって、師匠の趣意はいかにも道理のことですから、出 来得る限りは用品も撰んでやるという工合で、その頃のことでそう大した入費というで もないけれども、困難な盛りの時分であったから、一分金、一匁の群青を買うにしても 私にはかなりこたえました。 谷中へ越した時は、もはや娘は十四、五歳で、師匠は、まだ肩上げも取れぬけれども、 絵の技倆は技倆だからといって許をくれました。当人は好きな道故、雨が降っても雪の 日でも決して休まず、谷中へ転宅してかなり遠い道を通学致し、昼夜絵筆を離さぬとい う勉強で、余り擬っては身体の毒と心配もしましたが、勉強するは上達の基で、強って 止めもせず好きに任せておりましたが、師匠に素月という名を頂いて美術協会の展覧会 にも二度ほど出品をしました。すると、この娘の絵に何か見処があったか、物数寄の人 がその絵を買って下すったり、またその絵が入賞したりしました。それから或る時はま た御前揮台を致したこともあり、次第に人の注目を惹くようになって、親の身としては 喜ばしく思っておりました。 それが、二十五年の九月九日にぼこりとやられました。今日では、もつと治療の方法 もあったことかと思いますが、尽くせるだけは手を尽くしたけれども、とうとう奪られ てしまったのは、いかにも残念で、私は一時落胆して、何をするにも手が附かぬような ことでありました。西町で母を亡くしまして、私の成功の緒に就く処までは是非存命で いてもらいたいと思った甲斐もなく、困難中に逝かれたことと、今度また折角苦しい中 から、これまで育て上げた娘をほんの仮初の病で手もなく奪られましたことは、私に取 っては二つの不幸でありました。私は幼少の時から苦労の中に生まれている身だから、 自分の蓮不運はさして気にも止めはしませんが、この二つの事は身にこたえました。そ の前下谷西町で明治十六年に次女うめ子を五歳で驚風のために亡くしましたが、これは 間もなく長男の光太郎が生まれましたので幾分かまぎれました。 栃の木で老猿を彫ったはなし  総領娘を亡くしたことはいかにも残念であったが、くよくよしている場合でもなく、 一方には学校という勤めがあるので取りまぎれていました。  すこし話が前後へ転じますが、その年の春、農商務省で米国シカゴ博覧会に出品のこ とについて各技術家に製作を依嘱していました。私にも木彫としての製作を一つ頼むと いうことであった。 この出品については、政府が奨励をしました。しかし政府出品ではなく、出品は個人 出品ですが、奨励策として、個人の製作費を補助したのであります。たとえば私が八百 円のものをこしらえて出すとすると、その価格の半額を政府で補助し、もしそれが売約 になればその代金も補助費もすべて作家の方へくれるので、その上出品は作家の名です るのでありますから、作家側に取っては大変に都合の好いことでありました。当時はま だ政府当局がこれ位の程度に補助していたものであった。しかしこの時限り補助という 事はやみましたし右のような都合で私も何か製作しなければならない。何を作ろうかと 考えましたが、その以前から栃の木を使って何かこしらえて見たいという考えを持って いました。この栃の木という材は、材質が真白で、木理に銀光りがちらちらあって純色 の肌がすこぶる美しいので、かってこの材を用いて鶏鵡を作り、宮内省の御用品になつ たことがある。それで今度も栃の木の良材を探し、純色で銀色の光りのある斑を利用し て年老った白猿をこしらえて見ようと思いました。 その頃は私は専ら動物に凝っていた時代で、いろいろ動物研究をやっていた結果こう いう作を考えたのであった。 そこで、丸太河岸の材木屋を尋ねて見ると、栃の木の良材はあるにはあるが、何分に も出し場が悪いので、買い入れを■賭しているのですが、材木はすこぶる立派で、直径 六尺から七尺位のものがある。ただ、困るのは運賃が掛かるのと、日数がかかることで、 商売になりませんから手を出さずにいますという話で、その場所をも教えてくれました。 それで私はこの事を後藤貞行君に話すと、それは一つ直接当って見ようではありませ んか、あなたがお出でになるなら、私もお手伝いかたがた同行しましょう、というので、 私は栃の木の買い出しにその他へ参ることになりました。  其所は栃木県下の発光路という処です。鹿沼から三、四里奥へ這入り込んだ処で、 段々と爪先上がりになった一つの山村であります。私と後藤氏とは上野発の汽車で出掛 けたが、汽車を乗り違えたため宇都宮に一泊し、翌早朝鹿沼で下車し、それから発光路 へ向いました。 時は三月で、まだ余寒が酷しく、ぶるぶる震えながら鹿沼在を出かけましたが、村端 れに人力車屋が四、五人焚火をして客待ちをしております。私たちは、彼らの前を通れ ば、必ず向うから声をかけて乗車をすすめることと思っていたのに、くるま屋は何とも いわず、通り過ぎても黙っていますので、少し当てがはずれ、こつちから立ち戻って言 葉を掛け、発光路まで幾金で行くねと聞きますと、発光路って何処だいと一人の車夫は いってるのには驚きました。も一人の車夫は発光路ってこれから四、五里もある山奥だ、 道が悪くてとても大変だよといっている。そんな処はおれは御免蒙りだといったり、道 が遠くて骨が折れるからまあよそうなどと、とても話になりそうでなく、強いて乗ろう といえば足元を見られるに決まっているので、後藤君は軍人だけに健脚で「何も車に乗 るほどのことはありません。発光路まで歩きましょう」と歩きかけますので、私は少々 困ったが、まだ若い時のこと「では歩きましょう」と二人でてくてく歩きはじめました。 山にはまだ雪が白く賂間などには残っており、朝風は刺すように寒く、車夫のいった 通り道もわるい。もうよほど歩いたから、発光路も直だろうと、道程を聞いて見ると、 ちょうど半途だというので、それからまた勇気を附けて歩きましたが、歩いても、歩い ても発光路へは着かない。段々爪先上がりの急になって道は喰しく、左手に賂間があつ て、それが絶壁になっており、水の落ちる音がざあざあと聞える。 「どうもえらい処ですね。……しかし絵師などには描けそうな処だ」 など話しながら、足は疲労れても、四方の風景の佳いのに気も代って、漸々発光路に着 いたのがその日の午後三時過ぎでありました。 家屋といっても家屋らしい家はなく、たった一軒飯屋兼帯の泊まり宿があって、その 二階に私たちはひとまず落ち附きました。それから湯に這入り、食事をしましたが、食 べるものは何もない。何かあるかというと牛があるというので、この山奥に牛肉は珍し い。それを買って来てくれといって煮てもらって箸をつけたが、とても歯も立たないの で驚きました。 さて、それから、材木屋に掛け合うことになって、その男が来ました。名は確か長谷 川栄次郎とかいったと覚えていますが、立派に姓名はあっても、逢って見るとまるで山 猿同然のような六十四、五の爺さん……材木屋といっても、柚半分の樵夫で、物のいい ようも知らないといった塩梅ですから、こういうものを相手にして掛け合って、話が結 局旨く運ぶかどうか、甚だ危ぶまれましたが、もう此処まで出掛けて来ているので、話 を進めるより道なく、段々右の男に当って見ると、栃の木の佳いのはいくらもある、そ れらは大概崖に生えているのだが、小判形で直径七尺以上のものがあるという。それ で、直段は何程かと聞くと、三円だというので、その安いのにはまた驚きました。 直径七尺有余もある栃の木といえば、その高さもおおよそ察せられましょう。枝が五 間十間と張り拡がって、山の半腹を掩わんばかり、仰いでは空も見えないほどでありま しよう。そういう大木でしかも材質が上等で彫刻の材料になろうというのが一本ただの 三円とは、まるで偽のようなことですが、それでも、宿屋の主婦に相場を聞いて見ると、 少し高いという話。あの老爺さんは確か二円五十銭で買ったはず、五十銭儲けるとはひ どい、もつと負けさせなさいなどいっています。しかし、三円なら値ぎりようもありま せん。木の当りもこれで付いたので、その日は其所に泊まり、翌朝実地に木を見ること にしました。  この土地では栃の木は切り倒して焚いております。……栃木県というのは栃の木が多 いから付けられた名か、それは知りませんが、何んでもこの付近一帯の山には栃の木は 非常に沢山あります。しかも喬木が多いのですが、その代り田地はない処。畠はあるが、 畠には一面に麻を植えてあります。鹿沼は麻の名産地といわれる位の処で、垣根も屋根 の下葺きもすべて麻柄を使ってあって、畠は麻に占められているから、五穀類は出来ま せん。それで住民は何を食物にしているかというと、栃の実を食べている。栃の実を取 って一種の製法で水に洒して灰汁を抜き餅に作って食用にしている。それで、栃の木の 所有は田地の所有と同じ格で、嫁入り婿取りなどに、栃の木何本を持って行くとかいつ て、数の多いのが有福の証となった位、栃の木はつまり食い料でありますから、この近 在に栃の木の多いのも道理のことであります。 しかし、今は栃餅のはなしもなくなりました。その後、足尾銅山が開けて交通が便利 になって以来、栃餅を食うことはやみました。銅山の仕事で、土地にも金銭が落ちる。 銅を積み出した荷の帰りは米を積んで来ますから、五穀はふんだんに這入って来るので、 余り旨くもない栃餅を食べるものはなくなった次第です。こうなると、栃は厄介なもの になってしまい、場ふさげで、値もなくなったから、切り倒して焚いてしまって、後へ 杉苗とか桐苗を植えるような始末で、栃の木は貰い手があればただでもくれたい位なも のになっているのですから、東京から、ただでもいらないものを金出して買いに来ると ものずきらつとも は、物数寄な人もあったものというような顔を宿屋の主婦がしていたのも道理、一本三 円でも高いといった言葉も本当のことでありました。  さて、翌日実地検分に出掛けました。  山猿のような例の老爺が先に立って私と後藤君とは山道に掛かりましたが、左の方は 断崖絶壁……下を覗いて見ると、幾十丈とも分らぬ谷底の水が紺青色をして流れている。 それを見ると、もう一足も先に出ないような気がします。というのはその断崖の山の半 腹から道がその絶壁の谷へと流れていて、それを我々は攀じているのですから、ひよつ と踏みはずせば、千尋の谷底へ身体は落ちて粉微塵となるわけです。しかし、山猿のよ うな人間には、何んでもないこと、木の枝岩角などに縫って、私たちの手を引つ張り上 げてくれなどして、漸々木のある場所まで登りましたが、さあ、今度は降りるのに大変 ……少し降りかけた処に一本の栃の木が天を摩して生えている。 「これだ。お前さんに売ろうという木は……」 と老爺は指しました。 なるほど、話の如く、それは実に立派な栃の木で、幾千年をも経たかと思われる。 「どうも素晴らしい樹ですな」 と後藤氏も幾抱えもあろうというその幹を見ております。  老爺が寸法を取ると、廻りが二丈余、差し渡し七尺幾寸かある。 「どうだね。七尺からある。三円は安いもんだ」と老爺は独語のようにいっておりま す。全くその通りで私は三円でその横を買い取りました。 さて、木は買いましたが、これを東京へ運ぶのが大仕事……どういうことにするかと いうと、今は三月ですから、五月までには浅草の花川戸の河岸まで着けるという。その 運賃はと聞くと、三十円位で出せるという。まずそれ位。多少相違はあっても大したこ とはないということ。それから立木を切り倒し、六尺ずつ二つに切って、これを中通し をして四つにする。その木挽《こびき》の代が十円ほど。木代、木挽代、運賃引つ括《くる》めてずっと高 く積ってまず四十五円位のものであろうと私は見ました。先方で金額の半金を入れても らわなければ仕事に取り掛かれないといいますからゝ二十円の手金を打って、五月まで にはきつと間違いなく花川戸の河岸へ着けてくれるように約束しました。  しかし、この約束はどうも当てにも何もならぬと思いました。前金の受け取りを取っ ても相手は山猿同様……まるで治外法権のような山村のことで、当の相手が人別にもな いような男である。その他のものでも、この近在に住んでいるものは柚で、半分ばくち 打ち見たような人間ばかり……こういう人を相手に約束をして、五月という日限をした 処で、当てにするものが無理だという位のものですから、私たちはいかにも便りなく思 いましたが、もう仕掛けた仕事ですから、今さら手の引きようもなく、五月までは待つ て見る気でこの山を降りて東京へ帰って来ました。 案の条、五月が来ても何んの音沙汰もない。 「高村さん、発光路の一件はどうなりましたね」 後藤君は五月の中頃になって私に聞きました。 「何んの音沙汰もありません。相手があれですから、当てにはなりませんよ」 私は答えました。 「では、私が一遍発光路へ行って見て来ましょう」 「まあ、も少し待って見ていましょう。五月一杯だけは……」 そういって、もう音信はないものと思いながらも約束は約束だから待っていますと、 先方も満更打つちやって置いたのではなく、五月の末になって、長谷川栄次郎からたよ りがありました。それで、今度は後藤君に出掛けてもらうことにして、氏は二度目に発 光路へ参りました。  そうすると、いろいろ難儀なことが出来て、実に閉口したと帰って来てから後藤君が 話された処によると、木挽は木を四つにしたのです。直径六、七尺のものを長さ六尺ず つ二つに切り、それを縦に二つに割ったのです。これは持ち運びのために重量を減らす つもりで、切り倒したその場でやった仕事だが、これがかえって仕事の邪魔になって大 変面倒だったのです。というのは二つ割りにしたために木の形が蒲鉾型になったから、 崖から下へ転がり落とせなくなったのです。丸太のままで置けば、両手で押してもごろ ごろと下まで落とせたものを、蒲鉾型になったので、どうしようもない。二人や三人で は動かすことも出来なくなった。しようがないから人足を頼んで、いろいろ仕掛けをし て、ずるずると下へ辷り卸したということですが、こういうことには経験のありそうな はずの山の人間でも智慧が働かなかったか二つに割ってしまった。またわれわれにもこ ういうことに経験があったら、前に注意をして置けばよかったのに、経験のないため、 飛んだ無駄骨を折ることになりました。 さて、山から麓までは、どうやら辷り落としたが、其所から往来まで持ち出すのがま た大変……山際には百姓家の畠があって、四、五月から物を植え附けてある。その畠を 転がさねば往来へ木は出ません。 「損害は賠償するから、どうか、畠を通して下さい」 後藤君は畠の持ち主に頼んだが、どの持ち主も不承知。これには後藤君もはたと当惑 しました。 「どうも面倒なことが出来て困りました」 といって後藤君は帰って来ました。 訳は、百姓が畠を荒されるので、木を通さないということ。いろいろ相談しました結 果、今度発光路へ行く時は学校用品を買って持って行こうということにしました。それ はこうした山村で学校用品も乏しく、東京の品は珍しいので、これを小学校の生徒へお 土産にすれば、生徒は無論、父兄や、教員たちはきつとよるこぶであろう。そこで校長 から父兄に訳をいって頼んでもらったら、こつちの好意もあることで、何処までも意地 を張りもしなくなるであろうという思い付き。これは両方で都合も好いことで、甚だ名 案だというので、後藤君は学校用品を仕入れて三度目に発光路へ出張したのであった。 そうして、目論見通りをやったところ、予期通りそれが旨く行って、文句なしに畠を 通してくれました。此所まで漕ぎ付けるには容易なことではなかったので、後藤君がい ろいろ骨を折ってくれましたが、確かこの三度目の時に後藤君と一緒に新海竹太郎君も 同行されているいる面倒なことをやって下すったと記憶しております。  木は往来まで出すには出しましたが、これから船に積むので牛車に付け、人足が大勢 掛かって川岸まで二里ほどある道を運ばなければならないのです。それに、川まで行く 間に小川が二つあって、田舎のことで粗末な橋が架かっているのだから、非常な重量な 牛車は通れません。まず橋の手入れとして予備杭などをやって大丈夫という所で、牛車 を通したような訳で、手間の掛かること夥多しく、そのため運賃は以前約束した四十円 どころでなく、その六、七倍となりました。それから糟尾川を船に積んでそれから道中 長々と花川戸まで出すことにして、後藤君らは帰って来ましたが、花川戸の河岸まで来 るのがまた容易でなく、随分日数を重ねまして、総領娘が亡くなる少し前、八月の半ば 過ぎにやつと河岸へ着いたという報せを受けました。 それから、木を谷中の家へ引き取りましたが、庭に地り出して置くほかにしようもな く、大きな四つの蒲鉾なりの木が転がったままで雨被いを冠っておりました。 しかしこの材木は後でなかなか皆さんの重宝にはなりました。 政府から四百円の補助を私は受けたけれども、この材木のために半額の二百円ほどと られました。木代は三円ですが、面倒の交渉に使った旅費、学校用品代、橋の修繕費、 運賃などで二百円以上を掛けたのは、先の四十円の予算とは大変な番狂わせでありまし た。 右の材の一つ分は、竹内先生が使い、も一つは山田鬼斎氏にお譲りし、も一つは二、 三の先生が分けられたように記憶しています。それを思うと、二百円も高いものではな かったのです。 私は、いよいよ猿を彫ろうと目論でいる処へ、八月の末に娘が加減が悪くなり、看護 に心を尽くした甲斐もなく、九月九日に亡くなってしまいましたので、私の悲しみは前 にも申したような次第で、一時は何をする気も起りませんでしたが、こういう時に心弱 くてはと気を取り直し、心の憂さを散らすよすがともなろうかと、九月十一日娘の葬送 を済ますと直ぐに取り掛かったことでした。 もはや、明治二十五年も九月の半ば、農商務省からの日限はその年の十二月のさし入 れに製作を納めなければならんという注文。今日から手を附けても、随分時期は遅れて おります。木は庭に雨掩いをこしらえて、寝かせたままで、動かすことも出来ません。 何しろ一片が九十貫もあるのですから……  そこで、いよいよ鑿を入れて見ましたが、栃は木地の純白なものと思っていたのは案 外。この材の色は赤黒く、まるで桜のように茶褐色でありますので、最初の白猿を彫ろ うという予期を裏切られました。しかし、材質はなかなかよろしく、彫刻には適当であ りました。栃の木の木地の純白なのは若木のことで、この木のように年を経ては茶褐色 を呈して来るものかと思いました。  白猿の当てははずれたが仕方なく、考えを変えて野育ちの老猿を彫ることにしました。 とても仕事場へ運んで屋根の下で仕事をすることは出来ませんので、庭の野天で、残暑 の中に汗みずくとなり、まず小口からこなし初めました。何しろこのような大きなもの だから、弟子を使ってやりました。その頃米原雲海氏も私の宅に来ていたので手伝い、 また俵光石氏も手伝いました。  娘のことで、ほとんど意気消沈しておりましたのが、この仕事で大いに勇気付けられ、 また紛れました。  それから、モデルはその頃浅草奥山に猿茶屋があって猿を飼っていたので、その猿を 借りて来ました。この猿は実におとなしい猿で、能くいうことを聞いてくれまして、約 束通りの参考にはなりました。物置きに縛いで置いたが、どんなに縄をむずかしく堅く しばって置いても、猿というものは不思議なもので必ずそれを解いて逃げ出しました。 一度は一軒置いてお隣りの多宝院の納所へ這入り坊さんのお夕飯に食べる初茸の煮たの を摘んでいるところを捕まえました。一度は天王寺の境内へ逃げ込み、横から樹を渡つ て歩いて大騒ぎをしたことがありますが、根がおとなしい猿のことで捕まえました。 私の猿の彫刻はほとんど原型がなく(ほんの小さなものをちょっとこしらえたが)、い きなり、かまぼこなりの八、九十貫ある木をつかまえて、どしどし小口からこなして行 ったのでした。栃の木は桧や桜などと違って、また一種のものでちょっと彫りにくいと ころのあるものです。農商務省との約束は十二月のさし入れというのですが、その年一 杯にはとても仕上がらず、翌年へ掛かったのでした。 初めて家持ちとなったはなし  ここでまた話が八重になりますが、……その頃馬喰町の小町水の本舗の主人に平尾賛 平氏という人がありました。  今日の平尾家はその頃よりも一層盛大で、今の当主は二代であるが、先代の賛平氏時 代も相当な資産家で化粧品をやっていました。この平尾氏が、どういう心持であったか、 私のことを大変心配をしてくれているということであった。私の方ではさつばりそうい うことは知りませんでしたが、私とは関係の浅からぬ後藤貞行君を通じて右の趣を承知 したのであった。  後藤君のいうには、 「平尾さんが、あなたのことを大変気に掛けていられる。娘を亡くして気を落とした りしたあげく、残暑の酷しい中の野天で、強い仕事をしたりして暮らしていてはさぞ大 変なことだろう。それに、もう、あの人も相当年輩、世間的の地位も立派にあるのに、 今日といえども、まだ微々たる借家住居をしているようでは気の毒だ。あの分では何時 までたっても自分の家持ちになることは出来まい。どうかまず家持ちにして上げたい。 何事も居所が確かり定まってのことだからに……とこういってあなたのことを心配してい られます。平尾さんの気では一日も早くあなたに一軒の家を持たせたいという望みなの ですよ。あなたはどう思いますか。一つ考えて見て下さい」 ということ。しかし、まだその頃は、私も平尾氏の噂こそは後藤君からちつとは聞いて いるようなものの、まだ一面識もないことで、先方がどういう気でそういうことをいつ ておられるのか見当も付かず……多分、私が永年の間に多少とも貯蓄などをしていて、 いくらか土台が出来ているだろうからその上へ幾分のたし前でもして補助して、そうし て一軒の家持ちにでもして上げたいというような心特か、御好意は忝いが、今日まで 何事も自力一方でやって来た自分、まあ、自分は自分の力をたよりにするにしくはない と、別に乗る気もなしそのままになっていました。  すると、また後藤君が見え、 「高村さん。平尾さんの、あなたに対する力の入れ方は本当に真剣の話です。串戯で はないのですよ。この間もあなたに話した家持ちにしたいという一件……あれを是非実 行したいといわれるのです。無論あなたは学校の勤務もあり、家では差し迫った仕事の ある身で御多忙なのは平尾さんも万々承知。ですからあなたに面倒は少しも掛けず、何 事も平尾さんの手でやってしまうというのです。どうですか。折角これまでに尽くして くれるのですから、あなたも承知なすったら、どうでしょう。今日は私は平尾さんの意 を受けてあなたの御返辞を確かり承りに来ました」  こういう話。私はこうなると、何事も打ち明け話をしなければ理が分らぬと思いまし たから、 「平尾さんのお志は感謝しますが、実は、私も貧乏の中で娘を亡くし、いろいろ物入 りもして、今日の処少しの貯えもありません。仮りに家をこしらえてくれる人があった として、引つ越しをする金もありません。……といったような有様ですから、ちょっと お話しに乗る気もしませんが、今のお話によると、すべての事を平尾さんが一切引き受 けて下さるというおつもりのようだが、そんなことまでも引き受けてやって下さるので しようか」 「そんな細々したことまで、私は平尾さんから聞きませんでしたが、一切、高村さん には面倒をかけず、万事を自分の方でする。高村さんはただ、身体だけを新しい家へ持 ち運べば好いのだというのですから、曲戦凧何もかも一切背負う気でお出ででしょう。そ れは承知の上のことでしょう」 「そうですか。そういうことならお世話になっても好い気がします」 「では御承知下さいますね。平尾さんもさぞ張り合いがあるでしょう」 といって後藤君は帰りました。  しかし、私は平尾氏の思惑についてもまだ半信半疑でいました。世間によく人の世話 をするという人があっても、今のような世話の仕方はほとんど例のないことのように思 われますから。  ところが、平尾さんの方では早速家を探し初めた。  私には手間を掛けないというので、店の人たち、後藤君などに頼んで私の住居として 格好な家を探し始めたのです。無論平尾さんの主意は家と地所と一緒で、地所が自分の ものでないということは落ち付きのないことで、地所ぐるみの家作でなければいけない というのでした。で、いろいろ探して四ヶ所候補地を見付けたのでした。  平尾さんの方から人が来て、いよいよ家が四ヶ所見当りました。御多忙中ですが、明 朝、主人もその家を見に参りますから、あなたも御一緒にお出でを願って決定して頂き たいと主人からのお報せですということ。私は、その翌朝、打ち合せて置いた団子坂下 のやぶ蕎麦で平尾さんに落ち合い、此所で初めて平尾氏に面会したのであった。 「家が四軒見当りました。どれでも一ヶ所を見立てて下さい。後々のことも決してお ひまはつぶさせません。登記万端のことなど店のものにいい付けますから」 というような至極自由な話、私もこれならば気安いと思いました。  その家というのは、一軒は本郷駒込です。薬種の取引関係から平尾家へ出入りをして いた藤井という医師があったが、その人の兄の藤井諸照という人の持ち家……これが一 つ。それから、もう一ヶ所は谷中で、団子坂を降りると石橋がある。その側に地面四百 坪に家作の附いたところ。も一つは、善光寺坂の上で、大河内の邸の上、一方が薮であ った。此所も四百坪ほどの地面と表通りに貸長屋が数軒付いていた。もう一つは本郷千 駄木町であった。  そこで、私は平尾さんと一緒に出掛け、まず善光寺坂の家を見ました。平尾さんは、 この家が気に入って、「どうです。此所にしたら。地所も相当広し、家も手入れをすれ ば住まえる。此所に決めたら好いでしょう」といいましたが、私はどうも此所は気に入 りませんでした。付いている貸長屋があって、月々家賃を取るのだというのが、第一嫌 でした。家持ちになるのは好いが、貸家をして家賃など取り立てるのはそれこそ大変と 思いましたので、これはお断わりしました。  それから千駄木町と団子坂とを見ましたが、いずれも気に入りません。  最後の駒込林町を見ようというので、団子坂を登って右に折れて、林町の裏通りの細 い道を這入りまして、一丁目ほど行くと右側に茅葺屋根の門がある。はてな。この家は 去年の春、盆栽の陳列会があって、石川光明氏と一緒に見物に来た時会場になった家で、 茅葺屋根の田舎造りで何んだか気に入った家であったがと思ってると、不思議なことに はそのかやぶき屋根の家へ平尾さんが先に立って這入りました。  はてな。この家がそうなのかしらと思って妙な気がしました。  かやぶき家根の門を這入ると、右手は梅林、左手が孟宗薮。折から秋のことで庭は紅 葉し、落葉が飛石などを埋めている。その中に茅葺屋根が小さく見え、いかにも山の中 に隠士でも棲んでいそうな処です。上へあがってからも、石川さんと来たことがあるの で、見覚えがあり、間取りなども悪くなく、甚だ気に入りました。 「この家なら私は気に入りました」 私は平尾さんにこういいますと、 「妙な家が好きですね。随分引つ込み過ぎて不便なことじゃありませんか。……しか し、なるほど、あなたの好きそうな家ですね。それに此所なら私の家へ出入りをしてい る医師の兄の藤井という人の持ち家だから、取引にも面倒がなくて結構、では此所に決 めましょう」ということで早速話が決まりました。  地所が二百六十坪ほど、家ぐるみ、七百十五円で登記が済みました。  この家は藤井という人が倅同様にしている人のために住宅として買って置いた家であ ったが、その人が洋行をしているので、一時不用になり売っても好いというのであった。 もつと高かったのを平尾さんとの知り合いのために負けて七百十五円としたということ でした。  いよいよ家の登記は済みましたが、手入れをしたり、また七畳の隠居所のような坐敷 があるが、これは私の仕事部屋に使うことにして、地所内に別に父の這入る隠居所を建 てました。それが百五十円。母家の方は九畳の坐敷に八畳の中の間、六畳の居間、ほか に二畳と三畳と台所、それに今の隠居所でした。  父も這入る前に一度見に来まして大変気に入りました。当時住まっていた谷中町の家 も気に入ってはいたが、今度は自分たちの持ち家となることで、一層閑静なことや、水 の好いことや、茅葺の風流なことや、庭が広く寂びていることなど、好いとなると一々 気に入りました。隠居所も出来たことでいよいよ十一月の幾日であったか谷中を引つ越 しこれへ移りました。藤井という人もなかなか風流な人で、私が移る日に床の間に一行 物を掛け、香を焚いて花までさしてありました。これは今でも忘れません。よい心持で した。その後も藤井氏はこの辺へお出での時はお寄りになります。  彫りかけの猿はこの時一緒に引つ越しました。モデルの猿は用が済んで飼い主に返し ました。仕事の方は荒彫りが済んだ処で、これから仕上げに掛かろうというところでし た。初めよりも目方で減っていたこと故、離れの七畳の方へ担ぎ込み、仕上げを初めま した。ところが、重味で真ん中の根太が凹んで困りましたが、それなりでとうとう翌年 の二月に仕上げ、農商務省へ納めました。やつとシカゴの博覧会出品に間に合ったこと であった。  米国シカゴの博覧会には、日本から塩田真氏などが渡米されました。私の老猿の彫刻 は日本の出品でかなり大きい木彫りであるから欧米人の注目を惹いたが、ちょうど陳列 の場所でろしあと向い合っていたので、あの、老猿が賢の毛を掴んで一方を眺めている 図を、何か諷刺的の意味でもあるように取って一層評判されたということでありました。 それから、入場者が老猿の前を通ると、猿の膝頭を撫でて通るので膝の頭が黒くなった などいうことでした。これは塩田真氏が帰朝してのお話であります。今日、その作は、 帝室博物館にあるそうです。  この時、私や竹内先生などが栃の木を使ったので、その頃栃の材を彫刻に使うことが 流行りましたが今日では余り使われていないようです。美術学校でも例の発光路で立木 のままで二一二本栃の木を買ってあったはずでありますが、どうなりましたか。学校で も忘れているかも知れません。もし、その木がそのままあれば、その頃よりさらに大き くなっていることでありましょう。 不動の像が緑になったはなし  そこでまた話がいろいろ転々しますが、平尾賛平氏が、どうしてこうも私のために厚 い同情を注いで下すったかということについては、今までお話をしたばかりでは少し腑 に落ちかねましょうが、これにはちょっと因縁のあることで、それをついでに話します。 どういう訳か知らないが、私の一生には一つの仕事をするにも、いろいろ曰くいんねん が附いて廻るのは不思議で、ただ、その事はその事と一ろに話せないような仕儀であり  ます。それは本当に妙です。  或る晩、私は上野広小路を通りました。  元は岡野今の風月の前のところへ来ると、古道具屋の夜店が並んでいます。ひよいと 見ると、小さな厨子に這入っている不動様が出ている。夜の十時頃で、もう店の仕舞い 際でしたが、かんてらの灯の明りでも普通のものでない気がしましたので、手に取って 見ると、果してそれは好いこなしで、こんな所に転がっているものではありません。片 方の足が折れていましたが、値を聞くと、十銭といいました。妙なもので一円でも素迩 りは出来ないのに、は銭に負けろといったら、負けましたから、二銭つりを取って挟に 入れて帰りました。  その後、私は右の不動を出して見ると、なかなか凡作でない。折れた足を継ぎ、無疵 にして、私の守り本尊の這入っている観音の祠(これは前におはなしした観音です)の中 へ入れて飾って置きました。これは西町時代のことであります。  ちょうどその頃、彼の後藤貞行氏は馬の彫刻のことで私の宅へ稽古に来ていた時分、 親しみも一層深くなっていた時ですから、或る日、私の本尊の観音様の洞を開けて見る と、中に小さな不動様の厨子があるので、それを見ると、非常に欲しくなったらしいの です。  初めの中は後藤氏も、あの不動さまは実に好いと褒めていた位でしたが、いかにも心 が惹かれたと見えて、 「高村さん、どうか、私に、あの不動さまを譲ってくれませんか。私は一目あれを見 てから、どうも欲しくてしようがありません」 という言葉つき。いかにも余念なく見えましたが、 「あれは私の彫刻の参考ですからお譲りするわけに行きません」  私は一応お断わりしました。  すると、後藤君は押し返して、 「そうですか。私は実は酉年で不動さまを信仰しております。私の守り本尊にしたい と思いますから是非どうかお譲り下さい」 と、たっての頼み。 「そうですか。あなたが、あの不動さまを拝むというのならあなたに差し上げましよ う。実をいうと、あれは広小路の夜店で八銭で買ったのです、値は八銭であっても、作 は凡作でない。どんな大きな不動を作るにも立派に参考になると思って私は買ったので すが、あなたがそんなに御執心なら差し上げます。しかし、なくなさないようにして下 さい。私が参考にしたい時はまた借して下さい」  こういうことで、右の不動様を後藤君に進呈しました。後藤君は大いによろこび、そ れを自分の守り本尊として持っていたのでした。おかしいことには、よほど後藤君もあ の不動が欲しかったか、ちょっと私へたのむのに細工をしたことが後で分って笑いまし たが、実は後藤君は酉年ではなくて、戎年であったのでした。  さて、その後、平尾賛平氏が、後藤さんの大切にしている右の不動さまを見たのであ りました(平尾氏と後藤氏とは、どういう縁故か知りませんが、ずっと前から親しい間 柄であったのです)。すると、平尾さんが大変惚れ込み、どうか、これを譲ってくれと いいました。しかし、後藤君は、実はこの不動だけはお譲り出来ない。その訳はかくか くと私と後藤君との間の約束のことを平尾氏に打ち明けました。 すると、平尾さんは、 「なるほど、もっともの話だが、高村さんが君になくなさないようにといった意味は、 行処が分らなくなることを恐れたためだろう。君のところにあるも、私のところにある も、在り所がわかっていれば同じことではないか。君が師匠同様の人の言葉を背くのが 気が済まないなら、一つ高村さんから君が許しを受けてくれたまえ。そうして是非僕に 譲ってくれたまえ」というので、後藤君も詮方なく私に右の趣を話して「どうしたもの でしょう」との話でした。 「それは呈《や》りなさい。行処が分っていれば好いじゃないか。それに、平尾さんの処へ 行けば不動さまも仕合せ。命日々々には私の所や君の処よりも、平尾さんの処の方が御 馳走もあろう。ただ、我々が借りたい時は借りる条件をつけて置けば好いでしょう」 で、後藤君は、快く不動さまを平尾氏に譲ったのでした。  この時に私の事が平尾さんの話頭に上り、高村という人物について後藤君からも聞き、 また他からも聴いたことであったと思います。これが緑で……といってまだ逢ったこと もないが、後藤君を通して、平尾氏から大黒と蛭子の面を彫ってくれと頼まれて、こし らえてあげたことなどがあり、それ以来、近しいともなく近しく思って私のことを心配 してくれられていたものと見えます。私の方では、向他の気は分りませんから、知らず にいたが、その後、後藤さんを通して、私のために家を持たしてやろうと考えるまでに 平尾氏の好意が進んで来たのは、平尾氏の技術家を尊重する心特も手伝ったことであり ましょうが、私の考えでは後藤君がかって私が氏に対してした仕打ちを恩義的に感じて いて、私のことを平尾氏に特に推奨したような心特もあったのではないかと推察もされ るのであります。  それはとにかく、また、平尾氏の奥さんという人もなかなかよく出来た人で、平尾氏 が人のために尽くすことに関しては、良人の善事を内で助けて行った質の人でありまし た。私は今日でも、平尾氏の好意は特に恩に思っている次第であります。  それから、家持ちになれというので、平尾氏から立て代えて頂いた金銭は、技芸員の お手当の金や、いろいろのその他の収入のあった都度、二年間ばかり平尾氏の方へ運び ました。二年目の終りの頃に平尾氏は、 「もう、よほど、金が来過ぎている」 ということで、 「では、おついでの時に調べて置いて下さい」 といって置きましたが、調べた結果、大分余っていました。平尾氏は、 「私は商人のことだから、銀行へ預けて置くだけの利子は買いますよ」 といって一旦利子をお取りになって勘定を済ませ、やがて日を変えて改まって利子の分 五十余円を持って来て、これはお老人が何かの楽しみになさるようにいって差し上げて 下さいと、老人に下されたので、年寄も非常な喜びでありました。  ちょうど二ケ年間に七百十五円の地所と家作代、それから百五十円の隠居建築費、合 せて八百六十五円をお返ししましたが、都合の好い時に自侭に運んだので、私には、そ う骨の折れたことではありませんでした。けれども、妙なもので、一時に纏まったもの を出して強いても私を家持ちにさせて下すった平尾氏の御親切がなければ、私はその後 幾年経っても借家住居でいたかも知れません。家持ちになってから今日まで三十年にも なりますか。その間私の家は段々古くなって建て直しをする必要も感じましたが、さら に新築をする自力もないことではあるけれども、それよりもなるべく、三十年前の家持 ちになった当時の家の侭を存して置きたいと思い、破損のひどい所だけは余儀なく修繕 をして出来得る限り昔日の仏を残して置いてあります。  只今こうしてお話をしているこの九畳の座敷も、その時そのままで、初めて、石川光 明氏と打ちつれ盆栽会を見物に来た時も、この部屋や縁側に盆栽が沢山並んでいました。  今日から思えば三十年はかなり古く、また私としても、それ以来いろいろな境涯を経 来ったことであります。 門人を置いたことについて  今日までの話にはまだ門人の事について話が及んでおりませんから、今日はそれを話 しましょう。実は、私が弟子を置いたということは偶然のことではないのです。これに は少し理由のあることで……といって何もむずかしいことでも何んでもありませんが、 ……別にも度々話した通り、私が弟子を置き初めた時分……ちょうど西町時代の初期頃 は木彫りが非常に頽れ、ひとえに象牙ばかりが流行った時代。木彫りといってはほとん ど全く顧みる人もなかったのであります。しかし木彫りをする人は多少はありました。 多少はあるにはあうても、その中に腕のすぐれた人はなおさら牙彫りの方へ職を変えて しまいましたから、一層木彫りの方は頽れて行ったような次第であって、わずかに自分 ら一、二のものが取り残されたようなわけで木彫りの振わないことは夥多しいのであり ました。したがって生計上に困ることは自然の理で、ようやくその日を糊する位のもの で、さらに他を顧みる隙もなかったことでありました。  木彫りの世界はこういうあわれむべき有様でありましたので、私は、どうかしてこの 衰頽の状態を騒回したいものだと思い立ちました。ついては、何事によらず、一つの衰 えたものを旺んにするにはまず戦わねばならぬ。戦争をするとすると兵隊が入ります。 で、その兵隊を作らねばならないとまず差し当ってこう考えました。すなわち木彫界の 人を作らなければならない。人の数が多くなればしたがって勢力が着いて来る。そうす れば世に行われると、まあ、こういう見当をつけたのであります。そこで、どういう手 段でその人を殖やす方法を取るべきであるか……ということになるのですが、どうとい って、弟子でも置いて段々と丹精して、まず目分から手塩に掛けて作るよりほかはない。 ……と気の長い話でありますが、こう考えるよりほかに道もありませんでした。  ところが、木彫りは今も申す如く、衰えていて、私自身がその当時現に困窮の中に立 ち、終日孜々汲々としていてようやく一家を支えて行く位の有様であるから、誰も進 んで木彫りをやろうというものがありません。私自身が弟子を取りたいと考えても、弟 子になりてがないという有様である。それは無理ならぬ事で、木彫りをやって見た処で、 世間に通用しない仕事と見做されていることだから、そういう迂遠な道へわざわざ師匠 取りをして這入って来ようという人のないのは、その当時としてはまことに当然のこと であったのでした。  それはそうとして、とにかく私は弟子を取って一人でも木彫りの方の人を殖やす必要 を感じている。でその弟子取りを実行しようと思うのですが、それがまた容易には実行 出来ないのであります。……というのは、弟子を置けば雑用が掛かります。自分の生計 向きは困難の最中……まず何より経済の方を考えなければならない。弟子を置いても弟 子に食べさせるものもなく、また自分たちも食べて行けないとあっては、何んとも話が 初まらぬわけでありますから——が、まあ、食べさせる位のことはどうやら出来る。自 分たちが三杯のものを二杯にして、一杯ひかえたとしても、弟子一人位の食べることは 出来る。しかし、暑さ寒さの衣物とか、小遣いとかというものを給するわけには行かな い。たとえば私の師匠東雲師が旺んにやっておられた時代に、私たちのような弟子を層 いたようなわけとは全く訳が違います。で、なるべくならば、衣食というようなことに 余り窮していない方の子弟があって、そういう人が弟子になりたいというのならば、甚 だ都合が好いのでありました。しかし、困ってはおっても身の皮を剥いでも、弟子を取 り立てたいという希望は充分にあったことで、これが私の木彫り挽回策実行の第一歩と いうようなわけでありました。 西町時代の弟子のこと  その当時、私の友達で京橋桶町に萩原吉兵衛という人がありました。家職は道具商で すが、その頃は横浜貿易の盛んになった時ですから、「焼しめ」という浜行きの一種の 焼き物をこしらえて商売としていました(これは綺麗な彩色画を焼き附けた日用品の陶 磁器です)。この人には子供がないので、伊豆の熱海温泉場の挽物師で山本由兵衛とい う人の次男の国吉というのを養子にしたのですが、この子供が器用であって、養父の吉 兵衛さんも職業柄彫刻のことなどに心がある処から、国吉を私の弟子としたいと頼んで 来たのであります。これは西町時代の初めの頃で、国吉は十四歳の時に私の宅へ参って 弟子となりました。この子供が後の山本瑞雲氏であります。  国吉の父の由兵衛という人は、土地では名の売れた人で、熱海の繁栄策にはいろいろ 力を尽くし、また義侠的に人のためにも尽くした人で、したがってそのため資産を滅ぼ したが、それでも三井の物産の方に関係し、楠の大広蓋などを納めて相当立派にやって いたのでした。一方、萩原吉兵衛氏は、身体が弱かったので熱海の温泉に行った処、こ の人も変り者で、任侠的な気風の人であったので、何かの事で逢ったのが緑で、同気相 求め、君の次男を貰おう。遣ろう。ということになったのでした。国吉は故郷熱海を後 にして東京に来り、養父の許に暫時いたのであったが、養父は家に置いて家職のことを 覚えさせるより、後々にはきつと世の中に認められて来るであろうと思われる木彫りの 修業をさせた方が行く行くこの児のためであろうと考え、私に弟子入りを頼んで来たの でありました。しかし、私は困難の最中のことでありますから、食いぶちだけはとにか く、その他の一切のことはそちらにてやってもらいたいというと、吉兵衛さんは相当立 派にやっていることですから、無論それは承知で、国吉は私の内弟子として私宅へ参つ たのであった。これが私の最初の弟子で、弟子中では最も古参であります。国吉は後に 仔細あって旧姓山本に復し山本瑞雲と号したのです。  瑞雲氏は実父、養父の気性を受けてなかなか人の世話をよく致します。また信仰者で 仏典にも委しい。  さて、その次に来た弟子は日本橋馬喰町の裏町に玉村という餅菓子屋がありましたが、 その直ぐ隣りの煎餅屋の倅長次郎という若者でした。この人の来た時分は、前に話しま した三河屋の隠居と私が懇意になり、三河屋の仕事をして多少生計が楽になった時であ りましたから、大変家の貧乏だった煎餅屋の悴を弟子に取るだけのことも出来ました訳 ……長次郎は至って気質の温しい男で、今この席にいる光太郎を抱いたり背負ったりし て能く佐竹つ原へ見物に行ったものです(光太郎は打毬が好きで長次郎が仕事をしてい ても、原へ行こう行こうといって能くせがんだものです)。父は島田という人で、茶人 でした。大変生計に困っているらしいので、気の毒に思い、石川光明さんその他三、四 の友達を誘い、お茶の稽古を初めることを思いつき、石川さんの宅や、私の宅と交る交 る四、五人会合し、この島田氏を宗匠にして槽古をしました。その頃のことで月謝はわ ずか四、五十銭でしたが、四、五人寄れば多少纏まりますので、島田氏はよろこんでおり ました(流義は千家でした)。しかし、長次郎は一身上の都合で、長く弟子にして置くわ けに行かず、途中で暇をやりました。  その次に参ったのは、林美雲です(美雲のことは時々前に話しましたが)。この人は旧 姓を西巻庄八といいました。これは私の親たちの肝煎りで私の師匠東雲師へ弟子入りを させたのですから、私の心からの弟子ではなく、弟弟子でありますが、不幸なことには、 まさに年季が明けようという際に師匠が歿しましたので、師匠歿後の高村家におりまし たけれども、彼の三枝松政吉(私の兄弟子)が私に代って師匠歿後のことを一切引き受け てやるようになってから、政吉と衝突しまして、正直律義の人であったから、かえって むか腹を立てて暇を取りました。しかし、まだ一人前になっていないことで、どうする わけにも行かぬので、私が西町にいる所へやって来て、「どうか、世話をして下さい」 といいますので、気の毒とは思うけれども、師匠の家を兄弟子と衝突で暇を取ったもの を、直ぐに私が自分の家に置くとあっては、何か私が蔭で操ったように思われるのも嫌 ですから、双方理解の後ならばということにして、話が分った後に改めて家に置くこと にしました。美雲は、もはや、ほとんど一人前となっているので、仕事をさせても間に 合いますから、多少小遣いを与え、私が第二の師匠となって仕込みました。徴兵のがれ のために西巻を冒し、林が西巻となったのでした(その後元の林に復す)。美雲の父は鎧 師で、明珍の未孫とかいうことで、明珍何宗とか名乗っていて、名家の系統を引いただ けに名人肌の人でした。実雲もこうした家の生まれだけあって、仕事は上手で、若さも 若し、小刀は能く切れ、仕上げなど綺麗なもので、今日でも、この人位仕上げの美事な 腕の人は余り多くはあるまいと思います。作風は、やはり仏師育ちですが、私に就いて から、置き物風のものをも研究しましたが、仏様に関した方のものがやはり得意でした。 後に私の紹介で美術学校の助教授となりましたが、明治四十五年七月二十九日五十一歳 病気で歿したのは惜しいことをしました。遺作としては大きさ二尺位の文殊の像があり ましたけれども、学校の火事の時焼失しました。  それから、美雲の弟で竹中重吉(光重と号す)も、兄が来てから間もなく来ました。兄 弟の父は今申す鎧師、その頃は鎧師などいう職業はほとんど頽っていましたし、それに 世渡りの才は疎い人で、家は至って貧乏でした。それで私も出来得るだけ美雲に対して は心づけていましたが、或る日、美雲の父の家を訪ねて見ますと、暗い室の中に、年頃 の青年が甚く弱って隅の方に坐っております。どうしたのかと聞くと、これは重吉とい って、美雲の弟で、花川戸の鼻緒屋に奉公しているものであるが、病気にて帰っている のだということです。私は気の毒に思い、話し掛けると、ぼんやり坐っていた青年は私 に挨拶をしていうには、 「私は、今、父の申し上げました通り、鼻緒屋に奉公しておりますのですが、どうも 皮を扱うことは性に合いませんか、あの臭気を喚ぎますと、身体が痩せるように思いま すので、とうとう身体を悪くしてしまって、帰って来ております」という話。それは気 の毒なこと、人間は、性に合わない職業をするほど損なことはない。何か、身に合う仕 事はないものかなど私はいいますと、重吉は、「あの臭気を喚がない仕事なら何んでも します。もう二度と花川戸へ帰る気もしません」といっている。その容子はいかにも廃 然でありました。 「では、私の家へ来てはどうかね」 といいますと、本人は大いによるこび、「どうか、そういうことに願えますなら何より のことですが、私は兄貴のように年季を入れて彫り物の稽古をしたわけでもありません から……」と心細がりますが、「何、これからでも、励めば一人前にはなれよう。しか し、花川戸の方をよく片をつけてから、来るようにしたがよかろう」といって帰りまし た。それで重吉は間もなく私の内弟子となったのでありました。 重吉は後に光車といって一人前になってから、妻を娶りましたが、この妻女は当時仲 御徒町に住まっていた洋画の先生で川上冬崖氏の孫娘でした(川上未亡人の家作に美雲 の親が住んでいたので、その知り合いから、娘を姜雲の弟の重吉にもらったのです。で、 冬崖氏の孫の川上邦世氏とは義理の兄弟になるはずです)。  以上の四人は私の西町時代の困難盛りの時の弟子で最も古い人でありました。  この重吉は今は竹中光車といいます。誠に正直一途の人で、或る日、本郷春日町停留 場の近所で金を拾い直ぐさま派出所へ届け、落とし主も解りその内より何分か礼金を出 した所、本人は何といっても請け取らないので、先方の人もその意ざしに感心して観音 の彫刻を依頼されました。その後も種々頼まれたそうです。 谷中時代の弟子のこと  さて、谷中(茶屋町)時代になって俄に弟子が殖えました。  これは私がもはや浪人しておらんからで、東京美術学校へ奉職して、どうやら米櫃に は心配がなくなったからであります。そこで私はこの際奮発して出来得る限り弟子の養 成に取り掛かろうと思いました。それに私の名が、ずっと社会的に現われて参って時々 新聞などに私の作品の評判なども紹介される処から、地方にも名が嘔われるようになつ て来ていました。  谷中に来て第一に弟子にしてくれといって訪ねて来た人は米原雲海氏でありました。  この人は出雲《いずも》の国、安来《やすき》の人、この頃|流行《はや》っている安来節の本場の生まれの人であり ます。米原氏は私の処へ参った多くの弟子の中で最も変ったところのある人であった。  東京へ出るまでには、故郷で大工をしていた。主に絵図引きの方で行く行くは好い棟 梁になるつもりであったが、京都、奈良を遍歴してしきりと古彫刻を見て歩いている中 に、どうも彫刻がやりたくなって来た。しきりにその希望が烈しくなったけれども、好 い師匠がないので困っている中、京都で彫金家の海野美盛氏を知り、かねての希望を話 して相談すると、君にそういう固い決心があるのなら、東京の高村先生に僕がお世話を しようというので雲海氏は大いによるこび、故郷に帰り、非常な決心で、その頃既に氏 は妻子のあった身ですから、妻子にも自分の覚悟を話し、東京へ出て彫刻を三年間修業 して来るから、その間留守をよろしくたのむ、子供のことをたのむと打ち明けました。 妻女も夫の堅い決心を知っては強いて引き止めることも出来ず、では行ってお出でなさ いまし、貴郎のお留守中は確かにお引き受けしました、どうか、錦を着て故郷へお帰り なさるよう、私は三年を楽しみにして待っておりますとの事に、雲海氏も大いに安心し て東京へ出て来たのでありました室云海氏に妻子のあったことは私は知らずにおった。 故郷へ帰られる時初めて打ち明けました)。或る日、私の谷中の宅の玄関に案内を乞う 人があるので、私が出て見ると、相当年輩の若い衆、丁寧に挨拶をして、何かいってい るのであるが、どうも何をいっているかさらに分らぬ。しかし、自分を私の弟子にして くれといっているようである。どうも私にはこの人のいってるお国言葉がちつとも分ら ない。その中懐から添え書きようの物を出したから、見ると、それは海野美盛氏から の添え状で、この人は自分の友人で、彫刻熱心の人であって、至って物堅く、懸念のな い人であるが、万事は自分において引き受けるから、弟子にしてやってくれと認めてあ る。それでこの人の来意は分りましたが、さて、こうして遠国からわざわざ上京して彫 刻をやろうという覚悟はさることながら、実地に当ってはなかなか容易なことでありま せんから、私はその旨を一応話し、まず少しの間通ってやって見るがよるしかろうと答 えますと、米原氏はよろこび、それから何処であったか谷中からは大分離れた処に下宿 をして毎日弁当持ちで通って来ました。  この時代は、私は先方の都合はどうであっても委細かまわず弟子にしました。自分持 ちで通える人は通ってもらい、また食べることが出来ず、居る所のない人は、家へ置い て食べさせるようにしまして、なるべく自分の方を切りつめ切りつめして、一人でも多 く弟子を作ることに心掛けましたので、次第にその数が多くなったことであるが、その 中でこの米原氏はなかなか感心なところのあった人で、また大分他とは異った処があり ました。今日でも世評はいろいろあるかも知れませんが、初めて私の玄関へ来てから以 来、その熱心さというものは到底普通では真似の出来ない処がありました。もっとも故 郷を出る時の意気が違うから、自然その態度がはげしいのでありましょうが、たとえば、 毎日通って来るようになってからも、上京早々のこと故、上野、浅草と少しは見物もし て歩きたいのは誰しも人情であろうが、私が仕事場へ出て見て、今日は休日であるから、 他の弟子たちはいずれも遊びに出払っているような場合でも、米原氏だけは、チャンと 仕事場におって、道具を磨いているとか、木ごしらえをしているとか、何かしら、彫刻 の事をやっているのである。私とても一々弟子たちのことを監視しているわけでもない が、時に触れ、こういうことをしばしば見受ける。どうも米原氏は権幕が違う。仕事に 取っ附き方が他と異っている。何んということなしに一生懸命、真剣勝負という態度が 見えますので、私も教えかたを考えて、彫刻製作の順序を踏んで最初から一々規則的に 仔細に教え込んで行きました。この教え方は、道も長いし、迂遠なようであるが、落ち つく処へ落ち付くとかえって歩みは速やかで、ドンドンと捗取るのであります。だから 習わる方になってもこの習わり方がかえって近道なので、急がば廻れで、遠国から出て 来て、三年の修業というようにあらかた日限を切って自分の仕事を物にしよう、目的を 果そうという真剣態度の人には、これがかえって苦しいようだが楽な法で、また廻り遠 いようだが近い道であるのでありました。  米原氏はすつかり、その製作順序を順序的にのみ込み、今いうように見物をするでも なく、仕事場を自分の居所にして、彫り物と百つびきで、一向専念に勉強されたのであ った。  その時分のことで、米原氏は元大工さんであったから、大工の方のことも無論出来る が、或る時、下駄をこしらえた。日和下駄でもなく、足駄でもない中位の下駄、……晴 雨兼帯というので実に奇妙なものだが、これはなかなか経済的、一つあれば随分長い間 天気にかかわらず役に立つ……ただ、この新案の下駄の歯で時々雨上がりの庭をほじく られたのには弱ったが……、それは昔の一笑話で、今日では氏もこうずになって、なか なか庭を下駄歯でほじくられるようなことはない——笑い話はさて置いて、出来る人は 世話の焼けないもので、米原氏へ或る一つの手本を与えると、それを手本に模刻が出来 る。薄肉とか半肉とかで、此所はこうと一ヶ所極まり処を教えると、一を聞いて十を知 るという方で、その次に同様の趣の処はチャンと前例によって旨くやってある。それで 一、二年の間にはめきめき腕が上がって私の手伝いも立派にするようになりました。こ れはひとえに勉強の功でありますが、またその人の素質によることでありました。  さて、歳月流るる如く、米原氏が出雲言葉丸出しで私の玄関へ参ってから、早三年に なりました。三年という約束だから、或る日、私は米原氏に向い、 「君は、もうなかなか出来る。三年の間まことによく修業をされた。君の三年は他の 人たちの六、七年にも相当しよう。もはや国へ帰っても、さして彫刻家として恥ずかし からぬと思われる。それにつけて帰国する前に何か目星しい作をしては如何……。 こういうような話をしました。米原氏もかねがねそう思っていたであろう。やがて一 つの大作を初めました。それは衣川の役を主題としたもので、源義家と安倍貞任とが戦 中に立て引きをする処、……例の、衣の楯はほころびにけりという歌の所であります。 薄肉で横二尺以上、縦四尺以上でなかなかよく出来ました。これは彫工会であったか、 美術協会であったか、ちょっと忘れましたが、いずれかへ出して好評で、銀賞を取りま した。そして安田善次郎氏が百何十円かで買い取りました。当時の百円以上の製作は珍 しい方であった。  米原氏はこの手柄を土産にして国へ帰りました。私は思うに、この事あるも決して偶 然ではない。……というのは、米原氏の出生地は出雲であって、松平不味侯や小林如泥、 荒川鬼斎などの感化が土地の人の頭に残っているので、美術的に自然心が養われている。 おそらく米原氏もそういう感化を受けて来た一人であろうと思ったことでありました。 そうでなければ、なかなか一介の大工さんが志を立て、京都、奈良の古美術を見て歩き 他日の成業を期する基を作るなどいう心掛けはなかなか起るものでないと思うことであ ります。米原氏が相当功を収めて帰国しましたことは、また島根県下の美術を愛好する 青年たちにも影響したと見えて、その後続々島根県人が上京して彫刻の方へ身を入れた のを見たことであります。  もう一つついでながら、米原氏のことにていって置きたいことがあります。私が先日 話した猿を彫っていた時分、ちょうどそれは総額娘を亡くしまして、いろいろ物入りを して、大分内証が窮していたのでありますが、自然そういうことが弟子たちにも感じら れていたことか。しかし、私は精々弟子の張り合いのために、腕の相当出来るものには、 一年も経つと、手伝いをさせた手間として幾分を分ち、また出品物が売約されたり、御 用品になったりした時には、その半額を本人にやったりして、私自身の素志に叶うよう 心掛けたことで、弟子の中にても一際目立って腕の出来ていた米原氏に対しては、仕事 の上から、一層心を配っていたのでありますが、氏は心のたまかな人で、そういう時に 得たものを無駄に使わず何かの役に立てるつもりで貯えてあったものと見えます。或る 日、氏は人なき処で私に向い、 「先生、近頃お見かけしていますに、先生も御不幸があったりしてなかなかお骨が折 れるように思われます。差し出るようですが、私は少し位は持っています。どうか御融 通なすって下さい」 との事。私は米原氏の日頃からの気性は知っているが、この際こういわれてうれしく思 いました。 「どうも君の心づかい、うれしく思います。お察しの通り、私は今困っている。弟子 の君から、そういう心づかいをされては倒さま事だが折角のお志故、では辞退せず暫時 拝借することにしよう」 といって百円を融通してもらいました。この時は本当に心掛けの好い人だと思ったこと でありました。この融通してもらったものは、農商務省から、猿を納めた時に下った金 で返済しましたが、弟子から恩を着たこと故、特に申し添えて置く訳である。  氏は大正十四年四月十七日年五十六で歿しました、実に惜しみても余りありです。  それから小石川水道端の木平何某の倅の木平愛二という人が弟子になった。弁当持ち で毎日通っていた。器用過ぎの気の多い人で、何んということなくやっていました。  こんな移り気な弟子があるかと思うと、大阪天王寺町の由緒ある仏師の弟で田中栄次 郎という人が内弟子になっていました。なかなかな変り者で、また極ずいの勉強家で、 その丹念なことに到っては驚くばかりでした。後に大阪に帰り、京阪地方で彫刻家の牛 耳を取るようになりました。宅にいる間四、五年修業を積み、年が明けて後、この人は、 手間の掛かる限りを尽くして十二神将の中の波夷羅神将を二尺以上にこしらえ、美術協 会へ出品しました。この作は三年間も掛かったのでその気の長いことは無類で、一つの 木に取りつくと、気の済むまでは何時までも取っ付いていじっているので、何処までも、 突きつめて行く精力はえらいものでありました。私はこれには感心しましたので、波夷 羅神将の出来上がった時、百五十円の売価を付けることが不当とは少しも思いませんで した。当時一個の木彫りで百五十円という価格は飛び切りで、かって山田鬼斎氏が百円 という売価を付けたので驚いた位の時代でありますから、まだ、知名の人でもない田中 氏が百五十円というのは不当のようでしたが、私の目から見て、歳月の掛かっているこ とと、努力の篭っていることに対して、まだまだ安いとも思われました。その頃は木彫 りの置き物一個三十円から、七十円というのが関の山であったのに、これは異例でした が、やはり一心の篭ったものは恐ろしいもので、見処があったと見え宮内省の御用品と なりました。後に或る奈良の宮家へ下されたそうですが、それをまた奈良の新薬師寺の 尼さんが御ねだりして拝領して、今は同寺の宝物になっているそうであります。田中栄 次郎氏、号を祥雲といいました。奇行湧くが如き人で、頗はずしの名人でありました。 ……あごはずしというのは、言葉通り大笑いと、大あくびで、ひょっとすると、頗がは ずれるので、両手で抑えたり、縦に八巻をしたりして、用達をして人を驚かせたり笑わ せたりしました。人柄は無類で、腕も今申す通りで、惜しい人でしたが一昨年故人とな りました。生前、私のことを恩にしていたと見え、或る年、家内が大阪見物に参った折 など別して親切にしてくれたそうで、私も昔の心持を忘れぬ同氏の好意をうれしく思つ たことであります。祥雲氏は精密なものが特に得意であったが、或る大阪の商人から頼 まれ、興福寺の宝物の華原馨(鋳物で四疋の竜が絡んだもの)というものを黄楊で縮写し たのを見ましたが、精巧驚くべきものでした。これも三年掛かったと本人が私に話して いました。風采は禅坊主見たいな人で、庵室にでも瓢然として坐っていそうな風の人で あった。  ちょうど、祥雲氏と同時代に私の宅にいた人で越前三国の出身滝川という人を弟子に しました。これは毎度話しに出た彼の塩田真氏の世話で参った人であります。三年ばか り宅にいました。この人もまた実に不思議な人で、器用というのは全くこういう人の代 名詞かと私はいつも思ったことであります。まず、たとえば、料理が出来る。経師屋が 出来る。指物が出来る。ちょっと下駄の鼻緒をすげても、まるで本職……すべてこんな 調子ですることが素人ばなれがしているのです。しかも仕事が非常に早く屈托もなく、 すらすらとやって退ける。それから編み物が旨い。ちくちく針を運ぶ手などは見ても面 白いようでした。また月琴が旨い(その頃はまだ月琴などいうものが廃っていませんで した)。すべてこういった調子に相当折り紙つきの黒人でした。また何をさせても一通 りに出来ました。  しかし、こういう人の癖として、ずば抜けてはいないのでした。万能的なのは一心が かたまらぬせいか、心が篭らないせいか、傑出するには足りなかった。それを見ると、 不器用の一心がかえって芸道のことには上達の見込みがあるか。とにかく、米原雲海氏 などとは違った畑の人であって、貫徹いては出来ない側の類です。滝川氏はまた特に写 真が上手であったが、私の宅にいる間、私や他の弟子たちが写真機などをいじっていて も、写真の写の字もいいませんでした。私宅を出る際、初めて自分は写真をもって本職 として世に立つ考えで、写真は多年苦心をしたものであると打ち明けました。この話を 聞いた時に私はそのたしなみのえらいのに感心しました。後日この人が写真師となって 私の写真を取ったのが今も残っております。  こういう風の性格の人であったから無理ならぬことですが、とかく商売気が旺んであ って、じつと落ち付いて一向専念に彫り物をするなどいうことは性には合わなかったと 見えます。写真をもって世に立つ考え故、今日でいえば浅沼の向うでも張る気で大仕掛 けに台紙などを売り出したりして大儲けをしたり、また損もしたりしました。それにな かなかの雄弁家で、手も八丁口も八丁とはこの人のことでありましょう。私の手元の 門人控え帳の連名を見ますと、おおよそ六十幾人の名が並んでいるが、この滝川氏の如 く多芸な人はありません。  それから、やはり谷中時代の人で、今日は銅像製作で知名の人となっている、本山白 雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊氏の書生をしていて、親を大 切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参って弟子になりたいとい うことで、内弟子となっていました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔の ことを忘れず、熱さ寒さ盆暮には必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技 術を持った人です。  それから、今日では鋳造の先生で原安民氏が、彫刻の手ほどきは私の宅にてされまし た。氏は大磯の人、その頃は川崎伊三郎といいました。  もう一人、俵光石という房州北条の石屋さんがあります。この人が宅へ参ったのはち よつと話がある。  谷中茶屋町の私の宅はお隣りが石屋でした。私の宅にて中二階の仕事場を建てました ので、二階から仕事場が手に取るように見え、また石屋の方からこちらの仕事をしてい るのも見えました。一方は木、一方は石の相違はあっても同じく物の形を彫って仕事を しているのには違いはありません。もっとも石屋の方では主に石塔のようなものを彫つ ているが、時には獅子、狐、どうかすると観音などを彫っていることもある。こつちで は動物流行の折からで、象、虎、猿、などいうものを彫っている。石も材料、木も材料、 材料は違うけれども双方ともに彫刻師である……にもかかわらず、石屋さんの仕事場の 方ではこつちの仕事をしているのを振り向きもせず、さらに知らない顔をしている。て んで無感覚であります。これを見て私は思ったことですが、いかに何んでも、お互いに 物の形を彫ることを職業としている身でありながら、自分たちからは異った材料でやつ ている仕事の工合は一体どんなものだろう。木彫をやってる彼の人たちの、腕を一つ見 てみよう位の気は起りそうなもの、こつちでは随分毎日仕事の合間に石屋のこつこつ叩  いている処を見て、もうあの獅子の頭が見えて来た、狐の尻尾があらわれたと、形の 如何はとにかく、段々と物の形の現われて来るのを楽しみにする位にして見てもいるの に、石屋の職人たちの気のなさ加減にもほどがあると、余計なことですが、私はそう思 いました。そう思うにつけて、何かこちらでも石を彫って見たい気持になる。石という ものも彫れば我々にも彫れるものか——彫って見れば彫れぬこともあるまい。彫れば、 まさかにあんな形を平気でやりもしない。どうせ、物を彫るものなら、もう少し、石で あっても物の形を研究すれば好いのに、あれでは石の材料が可哀そう……一つ石を彫つ て、もつと物らしい物をこしらえて見たい……というような物数寄な気が起るのであり ました。  それで、或る時、毎度話に出ました例の馬の後藤貞行さんに逢った時、私がこの話を して見ると、後藤さんも至極同感で、いろいろ話の末に、同氏のいうには、「私の知人 の軍人の知り人に北条の石屋で俵という人がありますが、この人は石屋に似合わず感心 な人で、ざらの石屋職人と違い、石でも一つ本当に彫刻らしいものを彫って見たいとい ろいろ苦心しているそうですが、田舎のことで師匠もなく、困っているという話を、そ の軍人上がりの友達が私に何んとかならないものかと話していましたが、高村さん、あ なたが、そんな気がおありなら、一つそういう人を仕込んで見たらいかがです。必ず、 相当、石で物を作ることが出来るようになるかも知れませんよ」  こういう話を後藤さんがしましたので、「それはおもしろい。その人は根が石屋だか ら石を扱うことは出来よう。物を彫る心を教え込めば物になりましょう。やらせて見た い」というような話になりました。この話が基になり、後藤さんを介して軍人上がりの 人からその話を俵氏に通じますと、俵氏は日頃から望んでいることですから、早速、北 条から東京へ出て来て、私を尋ねて参りました。無論、相当石屋の主人のことで、生計 の立っている人ですから、万事好都合でした。  それから、石ということを頭に置いて色々なことを試みさせて見ましたが、彫ること には心がないのではありませんから、なかなか満更ではありません。或る時は私の作の 狆を手本にして、伊豆から出る沢田石で模刻させて見ると、どうやらこなして行きます。 石にして見るとまた格別なもので、石の味が出て来ておもしろい所があって、前に雲海 氏の衣川の役の作が安田家に買われた縁故などもあって、この石の狆は、安田家に買わ れ、新宅のばるこにいの四所の柱の所へ置き物にするというので四つ拵えて納めたりし ました。  こんなことから、美術学校にも石の部を設けたらどうかという話などが出て、岡倉校 長も賛成して、俵氏に標本を作らせて、石を生徒にやらせたりしました。  光石氏の石の作としては、平尾賛平氏の谷中の菩提所の石碑の製作があります。これ は墓石のことで少し仕事が別にはなりますが、仕事は花岡石で手磨きにして、墓石は別 に奇を好まず、形は角で真じめな形ですが、台石の周囲などに光石君の石彫としての腕 が現われております。私の弟子の中に石彫家のあるのはこの人だけです。今は北条に帰 って活動しております。 その後の弟子の事  ここで、少し断わって置かねばならぬことは、こういう門弟たちのことは別段興味の ある話しというではなく、また事実としても、いわば私事になって、特に何かの参考と なることでもありませんから、深く立ち入り、管々しくなることは避けたいと思います。 それに、最早世を去った人などのことはとにかく、現存の人であって見れば、私と師 弟関係があるだけ、庫誉褒貶の如何に関せずおもしろくないと思いますから、批評がま しいことは避けます。それに、自分では、今思い出すままを、記億に任せてお話するこ とで、疎密繁閑取り取りですから、その辺はそのつもりでお聞き下さい。とにかく、私 の覚え帳に名前の乗ってるだけの弟子の数も五、六十名に達することで、一わたり、ざ つと話して置きましょう。  今度は山崎朝雲氏が入門された時分のことになります。朝雲氏は私の弟子となる以前 に、もはや相当仕事が出来ていた人です。明治二十八年に京都で内国勧業博覧会が開か れた時、私は農商務省の方からは審査員を嘱托され、個人としては彫工会の役員として 当会に出張したのでしたが、その時山崎氏の作は出品されていました。氏は福岡県博多 の人で、同地よりの出品でした(米原氏も当時は安来に帰郷していて其所から軍鶏の彫 刻を出品した)。山崎氏の作は養老の孝子でありましたが、地方からの出品としては、 この作と、米原氏の軍鶏とが出色でした(いずれも三等賞を得た)。私は審査員として山 崎氏の作を見た時、なかなか傑作であるが、惜しいことには素人離れがしておらぬ。つ まり、道具の拵え方が鈍くて、水ばなれがしないので、何んとなく眠たい感がある。こ れが惜しいと思いました。これは地方の作家のことでやむをえないが、今一応その道の 門をくぐったらさらに確かなものになるであろうと思ったことでした。  やがて、博覧会も終りに近づいた頃、私は彫工会の事務所にまだいましたが、或る日 大村西崖氏が見え(氏はその頃京都美術学校に教鞭を取られていたと記億す)、弟子を一 人御丹精を願いたい。その人はこれこれこうこうという話を聞くと、私もその作品はよ く知ってかなり認めていた養老の作者ですから、あの人なら、もはや弟子入りをする必 要もないかと思う。ただ、道具の鈍いのは難で、素人離れのしないのは欠点といえば欠 点だが、事々しく私へ弟子入りするほどの必要もないかと思う。まあ友達のつもりで、 聞きたいことがあれば聞きにお出でになれば、知ってるだけはお話もしましょう。実は 私も、少し弟子を作り過ぎて持て余しの形の処故、そういう軽い気持でなら、東京へお 出での時にお尋ねになってもよるしいと答えましたが、大村氏は、それではきまりが付 かぬから是非とおいいで、二度目には当人の山崎氏を伴れて見えられたから、前と同様 のことをいって置きました。そして帰京すると、ほどなく山崎氏は道具箱をしよって出 掛けて来られ、是非弟子にしてもらいたいというので、もはや否応をいう処でもないか らそのまま弟子ということになったのです。  しかし、前にも申した通り、衣食住のことなど自弁出来る人はなるべく自弁にするよ うにしてもらうのが、自弁出来ない人を世話するために私の都合も好いので、……山崎 氏は他の二、三の弟子たちと一緒に私宅の直ぐ前の小さな家を借り、自炊をしてやるこ とになったが、もはや、大体出来ている人ですから、手を取って教えるというような余 地もなく、ただ小刀が不完全ですから、自分の多年使った道具を同氏に見せますと、氏 は大層感じたような顔をして見ていました。おそらく田舎と江戸前とは道具だけでも大 分違うと思ったでありましょう。「なるほど、これでなくつちや」といって、非常に得 心した風であった。  それから、道具を新しく購い、毎日々々それを磨いでは柄をすげ、道具調べの方をひ たすら熱心にやっていたようでありました。そうして道具が一切これで好いとなった暁、 初めて東京へ出てからの彫刻に取り掛かったものを見ると、これは一目見てもよく分る ほど旧来のものとは異ってほとんど生まれ代ったかの感がありました。これは、この人 の作風が異なったというのではなく小刀が変ったのであるが、作品は、生き生きとして 出来て、前の水離れのしない眠ったいような素人臭さは全然取れていました。  こういう風であったから、山崎氏は私について長年槽古をしたというわけでなく、私 の傍へ来て私のやっていることを見ただけで、自分で研究されたのです。それから氏に は黒田清輝氏、金子堅太郎氏など知名の人の援助もあって、製作するのに好都合であつ たらしく、作品は美術協会、彫工会等においていつも好評でありました。こんなわけで、 氏は上京後はさしたる苦労もなく一家を為すに至り、国許より妻子を招き、まず順当に 今日に至ったのである。  前にも申した通り、私の弟子を取った目的は我が木彫の勢力を社会的に扶植しようと いうことにあったというよりも我が木彫芸術の衰頽を挽回するということにあったので、 したがって、旧来私どもが師匠を取った時のように年季を入れてどうするとかいう面倒 なことは省いて(またそういうことをする時勢でもなかったから)、規則だったことより も、後進子弟が自由に気ままに彫刻を勉強することの出来る方針を取ったので、いわば 私の仕事場は一つの彫刻の道場で、彫刻熱心の人は遠慮なく来ておやりなさいといった 塩梅で、弟子入りをしたからといって月謝を取るでもなく、万事、その人たちの都合の よるしいようにと私は心掛けておりました。だが、経済的の事があるので、これは、そ の人々の境涯次第で、或る人は少しも物質的に私の扶助を借りずに、仕事のことばかり を習った人もあれば、また或る人は、小遣いまでも心配をしたり、その親御たちの生計 のことまで見て上げたりしたもので、少しも一様ではありませんでした。また、中には 美術学校入学の目的で、その下槽古をするために一時私の弟子となった人もあり、こう いう人は学校へ這入るのに都合の好いような教え方を取り、人の気質、境遇等に応じて なるべく自由な方針を取る心持で弟子をあずかったことでありました。  そこで、ざっと前後次第不同でその人々の名をば挙げて置きます。  後藤光岳君は、後藤貞行氏の息で、私の内弟子となったが、美術学校へ入学、卒業後 一家を為している。  斎藤作吉君は、山形県鶴岡の出身で私の門下で彫刻を学び後美術学校鋳金科へ入学し、 優等で卒業し後朝鮮李主家の嘱托を受けて渡鮮し、帰国後銅像その他鋳造を専門にやつ ております。  高木春葉君は、美術学校の給仕であったが、日曜ごとに稽古に参り、相当物になった 処で、残念ながら病死しました。  川上邦世君は古い洋画家川上冬崖氏の孫で、私の弟子となり、美術学校卒業後今日に 及んでいる。  米原雲海氏が島根出身という処から、郷党に感化を及ぼしたのであろうか。島根県か らは二、三の人が出ている。加藤景雲君、内藤伸君などで、いずれも私宅へ参って槽古 を致し、今日では知名の人となっている。内藤伸氏は帝国美術院会員の栄職を負う。加 藤景雲氏は島根県能義郡荒島村の出身で大工の家に生まれ、父の大工を修行中彫刻を志 望し、二十一歳の時出京し、私の門人となり成績良く卒業後独立し、再三帝展出品して 皆入選す、その他種々の会にて入賞を得、現在私の助手として本郷区神明町の自宅から 通勤しています。  本多西雲君は深川木場の人。鹿島岩蔵氏の番頭さんの倅で、鹿島氏の援助で私の許へ 来て稽古し一家を為した。  安田久吉君は日本橋新右衛門町の安田松慶氏という仏師の次男、一時門生となり、後 美術学校入学。  佐藤理三郎君も初めは私の門生、後美術学校入学。卒業後、香川県下の工芸学校の校 長となった。 松原源蔵君(象雲と号す)は熊本県人。今日は熊本市本妙寺清正公の池内に彫刻をやつ ているとの事です。  平櫛田中君は人の知る如く日本美術院の同人である。大阪で修業をされ、中年に私 の門下となった。朝雲君等と同じく手を取って教えた人ではない。出身地は備後であつ たかと思います。  山田泰雲君は元豪刻師の弟子であったが、芦野楠山先生の世話で師の許を得て私の門 下となった。大分出来て来て、これからという処で病歿しました。  前島孝吉君は幼少の時から私宅へ参り、中年米国へ渡り、今日に至るまで、まだ帰つ て来ません。  明珍恒男君は深川森下の生まれ、初めは私の弟子で、後美術学校入学、卒業後、古社 寺保存会の新納忠之介氏の助手として奈良に行き、古彫刻修繕の方を専らやっている。  毛利教武君は浅草小島町の生まれで、私の門下となって美術学校に入り、卒業後研究 を続けられている。  薬師寺行雲君は本所茅場町の松薪間屋の息で、家が資産家であるから、いろいろなこ とを研究し盆栽、小鳥、尺は、書画のことなどいずれも多芸であるが、最後に彫刻をや ろうという決心で、私の門下となった。小刀もよく切れ、原型をやっても旨く、美術協 会で銀賞を得たこともあるが多病と生活に追われぬためかえって製作は少なく、今日は 意に適する程度にやっているが、かって、米国せんとるいす博覧会に「日本娘」の塑造 を出品して、それが彼の地の彫刻の大家の一人であるまくねえる氏の賞讃する処となり、 当時米遊中であった故岩村透氏を介して、右の「日本娘」を譲り受けたい旨を伝言さ れたので、岩村氏帰朝後、その旨を私に話されたから、私から薬師寺君に話をした処、 同君もよろこび、承諾しまして、ちょうど光太郎が米遊の途次でありましたから、好便 に託し、右の塑造をまくねえる氏にお届けしました。すると二一に年の後、まくねえる 氏から自作の婦人の胸像を右の返礼として送って来ました。同君は大いによろこび、大 切に秘蔵されています。つまり交換製作といったような工合になったのです。  竹内友樹君は富山県出身。私宅にて美術学校入学の下拵えをして、後に入学。卒業後、 香川県の工芸学校の教師となった。  それから、少し変った方面の人には、  佐々木栄多君、この人は横浜の生まれで、土地で家具の彫刻などやっていた。後に私 の門下に来ましたが、なかなか才気のある人で、腕もかなり達者になった頃、米国へ行 き詩などを作り、詩人としてはどうか知りませんが、先年帰朝して指月という名で雑誌 などに筆を執っておった。今日はまた米遊中であります。  佐野喜三郎君、この人も文筆の人で角田浩々歌客と号した新聞記者の弟で、私の門下 に来てなかなか前途のあった青年であったが、途中文学に代り、夫声という名で物を書 いておった。今日は郷里駿河富士郡に帰っている。  増田光城君、この人はなかなか綿密な人で作もまた驚くほど綿密であった。気の毒な ことには郷里で学友と猟に行き、散弾を頭に中てられて負傷したため健康を害し、製作 も前のように行かなくなった。古社寺保存会の用向きで紀州熊野に行きそのまま帰らず、 今日は消息も絶えている。  荒川嶺雲君、島根の人で、私の門を去ってから、今日も郷里にて研究を続けている。 小泉徳次君は、鎌倉雪の下に住み、鎌倉彫りの方をやっている。この人は私が猿を彫 った時分にいた弟子の一人です。  根岸昌雲君、京都の人で、或る人から頼まれ弟子にしたが、私の家にはいなかった。 山形の人で菅原良三(この人は中途病死)、名古屋の人で小島伝次郎、三重の人で乾丹 蔵、根津のおかめそばの悴で伊藤義郎などいう弟子が相前後していました。それから細 木覚次郎君は内弟子となって修業中、気の毒なことに脚気衝心で私宅にて亡くなりまし た。遠慮深い人柄な人で、私も病中何かと世話をしたが急なことで、どうしようもなく 気の毒なことでありました。多くの弟子を置くとこういうような非常な場合もあり、な かなか心配なものであります。随分、前途有望の身で、途中で斃れた弟子があります。 矢沢陸太郎(或る牙彫師の弟)、今岡吉蔵、角田新之助、野房義平などいう人はいずれも 修業盛りで死んでしまいました。中にも野房君は鑑識家坪井晋氏の世話で十二歳の時に 私の家に来て、子飼いともいうべき弟子でありましたが、三十歳末満で亡くなったのは 惜しまれます。  大和田猛君は、前に話した竹内光重君等と同時代の弟子で、なかなか古く今日も彫刻 でやっております。  名倉文四郎君は、両国の骨接の息子で、下拵えを私宅でやって美術学校入学、卒業後、 目を病み、職業をかえました。  まず記憶にある処を思い出して見ると、ざっとこんなことですが、さて何んの業でも その道に這入っても成功という所まで漕ぎつけるはなかなか難事であって、途中何かと 故障があって一家を成すに到る人は甚だ稀であります。私は前申す通り、多く弟子を作 る目的であったが、望みの通りかなり多くの弟子は出来ました。しかし弟子の多くなる に従って何かと物入りの嵩むは当然で、私が学校へ奉職して、谷中に引つ越した時代は、 月給は三十五円でありましたが、その中から五円を割いて一人の弟子の生活費に充てる として、次第上がりに月給が殖えても、三年目に五円位のものですから、その割に弟子 も一人二人と殖え、幾分給料が多くなったとしても、次々の弟子の方へ行きますから、 私の生活はやはり元の三十五円程度の暮らしで、物質的にはなかなか縁遠いことであり ました。こういう風であったから、自然、前に申した平尾賛平氏などが、商人だけに物 を見る目が敏く、私の境遇を察し援助して見る考えを起されたかと思われます。  それからその後、私は一時弟子を取ることを中止しました。それは私の目的も多少果 たされ、また私の年もようやく老い、同時に学校の仕事も責任が重く忙しくなったりし て、弟子の面倒を見る暇もなくなりましたことで、弟子のまた弟子が出来て、子弟の面 倒はその方でも事足る時代ともなったので、ひとまず一段落着いたのでありました。 しかし、それでも、拠所ない場合で、弟子を断わり切れぬので両三人また弟子を置く ようになりました。これは私の仕事の手伝いをするものが一人もないのは不自由で、大 きな材を切ったりするのは、年の若いものに限りますことで、年老ってからぼつぼつ丹 精した弟子がまた多少出来ました。  田中郭雲君は、その時代の弟子で、横浜の実業家上郎清助氏の世話で来た人です。 この人は元郷里山口で大工をしていたので、朝鮮に行き木工をやっていた時に、米原雲 海君の作の旅人というのを写真で見て模刻したのが最初で、実は上郎清助氏が鋳金家の 山本純民君をたのみ、右の模刻を私に見てもらいに来て、「これ位の仕事をするものが 将来彫刻家となる素質があるものかどうでしょうか」という妙な質問を受けたので、そ れを見ると、相当出来ているので、「これ位なら、勉強次第物にならぬとはいえません」 と答えたのが、何かの間違いで、当人へ弟子入りを承諾したように受け取られ上郎氏の 細君が当人を伴れて見えたので、今さら否ともいえず、弟子にしたわけでした。この人 は私の家を去ってからも上郎氏の後援もあることで、まず仕合わせの好い方の人であり ます。非常な勉強家で帝展へ三度出品して三度入選しました。  関野聖雲君、神奈川県の人、小供の時から物を彫ることが好きで神童のようにいわれ ていたのを県の書記官の秦氏に見出され、その人から博物館長の股野氏にたのみ、同氏 より溝口美術部長を介して私の門下となったのです。当時私は、「子供の時に郷里で名 を嘔われたりしても、これを鼻にかけるようなことがあってはならぬ。子供の時に褒め られたものも、本当にその道の門に這入れば、その時の作など黒人側からは何んでもな いのであるから、決して子供の時のことを頭に置いてはいけない。その頭が取れないで は決して上達しないから、能く気を付けねばならぬ」 といって聞かせました。これは本人がまだ十四歳の時で子供ですから、子供のようにい って聞かせたのであります。  それから、古い四天王をあてがって膨らして見ると、すばすばとこなしてなかなか達 者ですが、こういう性質の子供は学校に入れ、正式に勉強させた方が好かろうと思い、 美術学校へ入学させました。もっとも、これは秦源祐翁の方で都合して学資をこしらえ てやったのであります。卒業後もとんとん拍子に何かと都合よく行ったらしく、今日は 美術学校の木彫部の助教授となっています。帝展に数度出品して特選になり立派な技術 家です。それから、今一人、私の弟子には違いないが、家筋からいえば私の師匠筋の人 私の師匠東雲師の孫に当る高村東吉郎君(晴雲と号す)があります。この人のことは、 前に東雲師歿後の高村家のことを話した処でいい置きましたから略します。  それから、現在のことにわたりますが、ついこの間まで家にいた吉岡宗雲君は、京都 高辻富小路の仏師の倅で、今は郷里に帰っており、次に奈良多門町の大経師の倅で、鏑 木寅三郎君は紫雲と号す。これは昨年卒業し、現在府下滝の川の自宅にて勉強しつつあ ります。  その次に、九州久留米出生で、上野義民というのは卒業をして後、今日私の工場に通 勤して盛んに働いております。  また、今一人は山口県小郡町仏師田坂雲斎氏の甥で、田坂源次号柏雲といい、これは 最早近々卒業、なかなか勉強家で、本年の帝展出品製作も盛夏の頃より夜業に彫刻して 首尾よく入選しました。  このほかに茨城県稲田出生の小林三郎、これはまだ本の初めでありますから名前だけ 記して置きます。  こう数えて来ると、西町時代から今日まで、随分歳月も畏く、弟子としての人数も多 いことで、おおよそ六十名もありますが、その中には名の落ちた人もありましょう。有 為の材を抱いて若死にしたものもあります。また天性に従って一家を為した人もありま す。こういう人々の身の上を思えば、決してまた他事でなく、自分が十二歳の時に蔵前 の師匠の家に行き、年季奉公を致した時から以来のことなども思い合わされ、多少の感 慨なき能わずともいわばいわれます。それに師匠といい、弟子と申し、共に縁あってこ そ、かくは一つ家根に住み、一つ釜の御飯をたべ、時には苦労を共にし、また楽しみを も共にし、ひたすらお互いに斯道を励んだことで、今日といえども、私は既に七十有余 の高齢に達しておりますが、その心持は昔日も今日もさらに変ったことはありません。  ただ、深く思うことは、後進子弟の教養ということも、なかなかゆるがせなことではな く、これまた一つの大きい仕事だと感じていることで御座います。 (この「光雲翁昔ばなし」は大正十一年十一月十九日(日曜日)の夜から始め出し、爾来毎日曜の夜ご とに続き、今日に及んでいる。先生のお話を聴いているものは高村光太郎氏と私との両人限りで静か な空気をこわすといけない故、絶対に他の人を立ち入らせなかった。最初の第一回は光太郎氏宅他は 今日まで先生のお宅でされつつある。私たちはかねてから、先生の昔ばなしを聴きたく希望していた ので、二、三年ほど前からこの事を先生にお願いしてあったが、この頃になってやつとその時機が来 たのである。先生のお話に対しては、時々私たちは質問をしたり、或る時は、話題を提出したりする こともあるけれども、多くは、先生は口述的にぼつぼつと話し続けられて行った。私は丹念にそれを 口語のままに聞き書きして行ったのである。もっとも筆記をするためにお話を伺ったのでなく、お話 を聴きたいために話して頂いたのであるが、この有益にして多趣味のお話を我々両人の記憶にはとて も残らずは記憶し切れないと思ったので、失念遺漏を恐れ、私が筆まめなのに任せてすべてを聞き書 きしたのである。しかし、私の最初の考えは(今もそうであるが)彫刻家としての先生の七十年の生活 を詳しく知ることを希望したと同時に、もう一つ、それを現代の人々にも知らせたく、また後の世に 残して置きたいと思う意味もあった。私に、そういう考えがあったために、特に聞き書きすることに 丹精したのでもある。それで、後の方の意味について、先生の御意見を伺って見たら、それはあなた の御勝手だ、ということであるから、私は聞き書きをさらに清書して、それを先生に御覧に入れた。 先生は、また、私の丹精をよろこび非常に丹念にそれに筆を入れて下すったのである。そうして、私 はまたそれを浄書し、さらに先生に御覧に入れた。先生は、また、それを丹念に読んで、「これなら、 よろしかろう」といって私にその稿本を戻して下すったのがすなわちこの本文である。ただし、先生 は、私たち後進に対して、過去の記憶を、記憶のままに、不用意に思い出してはぼつぼつとお話しな すったのであるから、必ずしも記億に問違いがないとはいえないと、度々私たちにお断わりになった ことである。よって、年月日、地名、人名、その他の事柄についての行きさつ、もしくはその他いろ いろな事柄についても間違いのようなものがもしあったとして、それは、先生の記憶違いか、然らざ れば私の聞き書きの誤謬である。この占仙は特に読者へお断わりをして置きます。本篇を発表するに当 って、私に責任がありますから、ここに長々しく一言申し添えて置きました。大正十一年十二月末 田村松魚記)