百魔 其日庵杉山茂丸《そのひあんすきやましげまろ》 自序  天高地潤《てんこうちかつ》の間《あいだ》、四|時《じ》長《とこし》えに循環《じゆんかん》して、花鳥風月《かちようふうげつ》の偉観《いかん》を呈《てい》す。已《すで》に奇《き》と云《い》うべし。 而《しか》して天未《てんいま》だ其《そ》の奇《き》に飽《あ》かず、更《さら》に人《ひと》なるものを生《う》んで益《ますます》々|其《そ》の奇巧《きこう》を弄《ろう》す。蓋《けだ》し其《そ》 の性情《せいじよう》と境遇《きようぐう》とによりて活動《かつどう》の妙機《みようき》を変顕《へんげん》する奇中《きちゆう》の奇又之《きまたこ》れに過《す》ぎたるものなし。 一|夜《や》窓外風歇《そうがいかぜや》み雨静《あめしずか》なるの時《とき》、瞑目沈思《めいもくちんし》、半世《はんせい》の遭逢交遊《そうほうこうゆう》の間《あいだ》に於《おい》て、其《そ》の奇志奇行《きしきこう》 あるの人《ひと》を覓《もと》むるに、躍如《やくじよ》として一|篇《ぺん》の小説《しようせつ》を読《よ》むが如《ごと》し。又其《またそ》の事蹟《じせき》の、恰《あたか》も支那 水滸伝《しなすいこでん》に酷似《こくじ》したるものあるは、愈其《いよいよそ》の奇《き》を加《くわ》うるに足《た》るべし。水滸伝《すいこでん》は支那元代《しなげんだい》、 武林《ぶりん》の人《ひと》、施耐庵《せたいあん》、羅漢中等《らかんちゆうら》の筆《ふで》に成《な》ると伝《つた》うるも、尽《ことごと》く構想寓意《こうそうぐうい》によりて趣向《しゆこう》を雄 大《ゆうだい》にし、文章《ぶんしよう》を宏潤《こうかつ》にしたるものにして其《そ》の著述根拠《ちよじゆつこんきよ》の如《ごと》きも、只僅《ただわず》かに宋《そう》の張叔 夜《ちようしゆくや》が、賊徒《ぞくと》を招撫《しようぷ》したる檄文《げきぶん》によりて、百八|人起伏《にんきふく》の状《さま》を叙述《じよじゆつ》したるにあるのみ。而《しか》 して此《こ》の小説《しようせつ》が、東洋各国《とうようかつこく》の人心《じんしん》を鼓舞《こぶ》し、其《そ》の境遇《きようぐう》の機会《きかい》に触《ふ》れて、幾多《いくた》の奇人《きじん》を 現出《げんしゆつ》し、熾《さか》んに歴史《れきし》の光彩《こうさい》を発揮《はつき》したるの蹤《あと》あるは、正《まさ》に彼《か》の虚構《さよこう》の小説《しようせつ》に挑発《ちようはつ》せら れて、之《こ》れを実際《じつさい》に演現《えんげん》したるには非《あら》ざるかを疑《うたが》うなり。今庵主《いまあんしゆ》が記述《きじ つ》せんとする百 |魔《ま》なるものは、其《そ》の趣向《しゆこう》の幽妙《ゆうみよう》、文章《ぷんしよう》の霊撥《れいはつ》、固《もと》より施耐庵等《せたいあんら》の艨影《もうえい》だも望《のぞ》む能《あた》わず と雖《いえども》、其《そ》の事蹟《じせき》は、悉《ことごと》く庵主《あんしゆ》が之《こ》れを見聞《れんぶん》したる、記憶《きおく》の領域《ワよういき》に蒐輯《しゆうしゆう》し、之《こ》れに庵 しゆひつけん こしよう くわ    しようせつて耄    もつ どうもうほにゆう ぐ そな  どくしやあるいと薹 や 主筆硯の枯粧を加えて一の小説的となし、以て童蒙哺乳の具に供う。読者或は時に野 花《あんか》一|蝶《ちよう》の戯《たわむ》るるの思《おも》いあらん乎《か》。而《しか》して掲《かか》ぐる所《ところ》の人物《じんぷつ》は、多《おお》く今尚存在活動《いまなおそんざいかつどう》の人《ひと》に 属《ぞく》するを以《もつ》て、粗漫《そきん》の行文《こうぶん》、敢《あえ》て毀誉褒既《きよほうへん》の衝《しよう》に置《お》くに忍《しの》びず。故《ゆえ》に或《あるい》は人名地名等《じんめいちめいとう》 を変称《へんしよう》して之《こ》れを記述《きじゆつ》せる所《ところ》もあり。読者幸《どくしやさいわい》に諒焉《りよう》せよ。 大正丙寅四月花朝 其日庵主人識 百魔の刊行に就《つ》いて  簑笠翁瀧沢馬琴《さりつおうたさざわばきん》は南総里見《なんそうさとみ》八|犬伝《けんでん》の完成におよそ二十六ヵ年を費《ついや》したと聞く。  而《しか》してその着想構図等《ちやくそうこうずとう》の奇趣《きしゆ》は云《い》わずもがな、これ程《ほど》の長《なが》い年月惓《としつきう》まず撓《たゆ》まず執筆を続け た彼の努力《どりよく》と忍耐《にんたい》とは、いかに処世《しよせい》の寛《ゆる》やかな時代《じだい》とは云え、むしろ外的より内的に異常な る多大《ただい》の克己心《こつきしん》を要したに相違《そうい》ないと思わるるが、只僅《ただわず》かに余《よ》はこの点《てん》のみを捕《とら》えても、東 洋不世出《とうようふせいしゆつ》の文豪《ぷんごう》であると思《おも》う。後進の我々としては執着も無《な》い、自奮《じふん》もない、夢幻的《むげんてき》なまた 僥倖的《ぎようこうてき》な日《ひぴ》々の行動に対《たい》して、自《みずか》ら差恥《しゆうち》の念《ねん》とある種《しゆ》の悲哀《ひあい》とを感ぜずにはおられないので ある。  然《しか》るにたまたま、余《よ》の企《くわだて》、即ち化学研究所なる物を独力で経営して見たいと云《い》う心願《しんがん》を起 し大正十《たいしよう》四年の十月二日に世《よ》に煩悶病院長《はんもんぴよういんちよう》の聞えある杉山其日庵先生《すぎやまそのひあんせんせい》に訴《うつた》えたところが、先 生は『ウム、賛成《さんせい》じゃ。男子《だんし》の尊《たつと》む可《べ》きは独立心《どくりつしん》じゃ、また卑《いや》しむ可《べ》きは依頼心《いらいしん》じゃ。俺《おれ》は 金《かね》が無《な》いからこれでも持って行って基金《ききん》の一部にせよ』と云《い》うて玉稿《ぎよくこう》の百|魔《ま》を与《あた》えられた。  余《よ》はこの教訓《きようくん》を辱《かたじけの》うするさえ恐縮《きようしゅく》な上に、先生努力の結晶《けつしよう》とも云《い》うべきこの大切な物 を、惜気《おしげ》も無く余に与《あた》えられた慈愛心《じあいしん》は、ただ涙なくては過されぬのである。余は先生の膝 下《しっか》に哺《けぐく》まれてはいるが未《いま》だ百|魔《ま》の由来や、その内容がどんなものであるかは、うっかりして、 知らなかったけれ共、与《あた》えられたこの原稿の整理を行っている中《うち》に、この原稿が全く昨日や 今日のものではなく、明治三十八年、日露戦争の時から今年まで二十二ヵ年間、人も知る多 忙《たぼう》の身《み》でありながら、総《すべ》て先生自身《せんせいじしん》の執筆《しつぴつ》で継続《けいぞく》せられなおかつ今も続稿《ぞつこう》を執筆《しつぴつ》しておられ、 その忍耐努力《にんたいどりよく》はあたかも中天《ちゆうてん》に懸《かか》る星の光りの様に、結局|何時《いっ》始って何時《いっ》終るかとも分らな い物であると云う事に気付いた。彼《か》の馬琴翁《ばきんおう》が二十六ヵ年間の努力に感激《かんげき》した余《よ》は、今更《いまさら》な がら、先生の偉大さに驚いたのである。  また更《さら》に、その原稿の百|魔《ま》を読み親むにしたがって、一番深く余《よ》の肝《きも》に銘《めい》じた事は、全篇 の事実が、旧識故友《きゆうしきこゆう》の言行録《げんこうろく》となっているけれど、実は、其日庵先生《そのひあんせんせい》の尊《とうと》き処世訓《しよせいくん》であって これが整理中にも粛然《しゆくぜん》と襟《えり》を正《ただ》しゅうして、想《おもい》に耽《ふけ》った事が度《たぴたぴ》々であった。およそ吾々が相 当な年輩《ねんぱい》に達しても、父母《ふぼ》や故旧《こきゆう》の事を思い出すと云う事は、誠に幸福な、また愉快《ゆかい》な事に 相違《そうい》ないが、実際、余《よ》はこの原稿を手にしている時は、恰《あたか》も生前《せいぜん》の父母《ふぽ》に事《つか》え、故旧《こきゆう》と物語っ ている様な底知《そこし》れぬ力強《ちからづよ》さ、一種云い知れぬ懐《なつか》しさが胸《むね》に漂《ただよ》うて来て、終《つい》に湧《わ》き出《い》づるもの は、希望となり、勇気となり、光明となるのである。  およそ虐《しいた》げられた者、彷徨《さまよ》える者、そう云《い》う人達にとっては、絶望《ぜつぽう》の闇《やみ》はこの上もない悶《もだ》 えでありまた堪《た》え難《がた》い脅威《きようい》であるが霊感一度来《れいかんひとたぴきた》れば、遽然《さよぜん》、蒙《もう》を啓《ひら》いて、明光《めいこう》に接《せつ》し得《う》るの 心地《ここち》あるは、云《い》い得《う》べからざる愉快《ゆかい》である。この意味に於て余《よ》は、先生が原稿百|魔《ま》を付与《ふよ》せ られたと云う事《こと》は、量《はか》り知《し》れない意味《いみ》と、よくよくの御慈愛《ごじあい》から出《で》た片鱗《へんりん》であって余《よ》の一|身 上《しんじよう》に取《と》っては明《あきら》かに復活の萌芽《ほうが》が認《みと》められるのである。  願くは懊悩《おうのう》と困懸《こんぱい》の極《さよく》にある人《ひとぴと》々よ、また得意《とくい》と騷傲《きようごう》の限《かぎ》りを尽《つく》せる人々よ、御身等《おんみら》は、 未来《みらい》あるを知《し》るならば、よろしく、百|魔《ま》を座右《ざゆう》の銘《めい》として日《ひび》々にその洗礼《せんれい》を受《う》け、人間処世《にんげんしよせい》 の秘訣《ひけつ》の所在《しよざい》を懇《ねんご》ろに探《さぐ》り知られん事を切に希望するのである。  余《よ》はここに謹《つつし》んで、其日庵杉山先生《そのひあんすざやませんせい》の慈恩《じおん》を謝《しや》すると同時に、震災《しんさい》によりて全く焼尽《やきつく》した るこの先生の原稿を、日本全国に散乱《さんらん》せる雑誌中《ざつしちゆう》より蒐集《しゆうしゆう》せられたる大熊浅次郎老人《おおくまあさじろうろうじん》の丹念《たんねん》 を多《た》とし、また、剣仙清水潔氏《けんせんしみずきよしし》およびこの刊行《かんこう》に尽力《じんりよく》せられた大日本雄弁会諸氏《だいにほんゆうべんかいしよし》の労《ろう》を感謝《かんしや》 し、さらに一|交友《こうゆう》の故《ゆえ》を以《もつ》て並《なみなみ》々ならぬ援助《えんじよ》を与《あた》えられた、福光美規君《ふくみつみきくん》に満腔《まんこう》の敬意《けいい》を表す。    大正十五年四月                              其日庵門下 三角哲夫 百魔 其日庵杉山茂丸著 同郷の偉人頭山満氏との初対面 一 同郷《どうきよう》の偉人頭山満氏《いじんとうやまみつるし》との初対面《しよたいめん》   壮傑俊傑に会うて神機を覚り、俊傑士道を説いて盟交を契る  庵主《あんしゆ》が佐々克堂氏等《さつさこくどうしら》と誓約《せいやく》をして、政権《せいけん》を私《わたくし》して国威《こくい》の宣揚《せんよう》を沮害《そがい》する、藩閥《はんばつ》の頭を叩《たた》かんと覚悟《かくご》して、故郷《こきよう》を立出《たちい》で、馬関海峡《ばかんかいきよう》に陽関曲《ようかんきよく》を高唱《こうしよう》して、生還《せいかん》を期せず、急箭《きゆうぜん》の如《ごと》く東 京《とうきよう》に乗り込み、阿修羅王《あしゆらおう》の荒《あ》れるが如《ごと》く荒れ廻《まわ》ったので、忽《たちま》ち時《とき》の政府《せいふ》の厳忌《げんき》に触《ふ》れ、鼎鑁 斧鉞前後《ていかくふえつぜんご》に迫《せま》りて、広き大江戸《おおえど》の中に五尺の体《からだ》の置処《おきどころ》もないようになったのは、明治《めいじ》十七八 年の頃、即《すなわ》ち故《こ》三島《み しま》日本銀行《にほんぎんこう》総裁《そうさい》の厳父げんぷ《》三島《みしま》警視総監《けいしそうかん》の宰領《さいりよう》であった。幾多《いくた》の同志《どうし》は牢獄《ろうごく》に 繋《つな》がれ、刎頸《ふんけい》の親友は道途《どうと》に廣死《ふんし》し、常《つね》に志《こころざし》を通ずるの知人も四方に紛散《ふんさん》して、運善《うんよ》く庵 主《あんしゆ》だけは、同情《どう呈う》ある義客侠婦《ぎかく菫う江》等の為《た》めに縲絏栓梏《るい諧しつこく》の難《なん》を免《畜か》れ、わずかに新聞売をして人目《ひとめ》を 忍《しの》んでいたのである。  この時|庵主《あんしゆ》の為《た》めには彼《か》の水滸伝《すいこでん》の柴大官人《さいだいかんじん》とも云《い》うべき熊本《くまもと》の八重野範《やえのはん》三|郎《ろう》と云《いち》う長 者《ようじや》が、\深く庵主《あんしゆ》の境遇《きようぐう》を憫《あわれ》み、佐《さつさ》々|克堂氏等《こくどうしら》と共に庵主《あんしゆ》を同郷《どうきよう》の偉人頭山満《いじんどうやまみつる》なる人に紹介《しようかい》せ んと勧《すす》めた。当時庵主《とうじあんしゆ》は郷里《きようり》を見限《みかぎ》る事他郷《ことたきよう》の如《ごと》く、郷人《きようじん》を侮蔑《ぷべつ》する事異人種《こといじんしゆ》の如《ごと》き時故、 素《もと》より頭山氏《とうやまし》の姓名《せいめい》などを記憶《きおく》するはずもなく、ただ単身独歩自分《たんしんどつぽじぷん》の考えたる事《こと》だけを実行《じつこう》 して、安《やす》んじて死《し》に就《つ》くの覚悟《かくご》であった為《た》め、深く八重野氏《やえのし》の厚意《こうい》を謝《しや》すると同時に、堅《かた》く 同郷人《どうきようじん》に面会《めんかい》する事を拒絶《きよぜつ》した。然《しか》るに八重野氏《やえのし》はすでに庵主《あんしゆ》の性情《せいじよう》と、胸中《きようちゆう》の秘事《ひじ》とを看 破《かんぱ》していたものか、またはこのままにして可惜若者《あたらわかもの》を道路《どうろ》に敝死死《へいし》せしむる事を余程気《よほどき》の毒《どく》に 思うたものか、その勧誘《かんゆう》の決心は牢《ろう》として抜《ぬ》く可《べ》からざるものがあった。庵主《あんしゆ》も今は辞《じ》する に詞《ことば》なく、ええ儘《まま》よ、一度|頭山氏《とうやまし》とかに遭《あ》いさえすれば、この温厚《おんこう》の長者《ちようじや》に対する義理《ぎり》も立 ち、またそれほど豪《えら》いと云う頭山氏《とうやまし》の人物《じんぷつ》も分るからと、兎《と》も角《かく》も一度|面会《めんかい》の事を承諾《しようだく》した。  当時庵主《とうじあんしゆ》は銀座《ざんざ》三丁目|裏町《うらまち》の木賃宿《きちんやど》に土佐出身《とさしゆつしん》の書生一人《しよせいひとり》と同宿《どうしゆく》して居《い》たから、それと寝 物語《ねものがた》りに『明日《みようにち》は八重野氏《やえのし》の余儀《よざ》なき紹介《しようかい》にて、福岡《ふくおか》の豪傑頭山満《ごうけつとうやまみつる》と云う人に面会《めんかい》するのだ』 と云うたら、その書生《しよせい》が大変|正直《しようじき》な物事《ものごと》に気の付く男で『そんな人に貴方面会《あなためんかい》して、我《われわれ》々の 秘密《ひみつ》を看破《かんぱ》されては駄目《だめ》ですよ、また今時持《いまどきも》て唯《はや》す高姓大名《こうせいだいめい》の族《やから》と云うものは、たいてい腹 抜《はらぬ》けの外踏張《そとふんば》りばかりであるからしっかり褌《ふんどし》を〆めて掛《しかか》らねばいけませんぜ』と云うから、 庵主《あんしゆ》は『何《なに》心配するな、一|匹《ぴき》の人間が一匹の人間に遭《お》うて、負けて帰って来てたまるものか、 また人に云われた位《くらい》でかくまで犠牲《ぎせい》を払《はろ》うた殺人魂《さつじんこん》が止《や》められるものか』と云うた。その翌 日+一時頃|出掛《でか》ける時、その書生《しよせい》が、『貴方新聞売《あなたしんぶんうり》なら頬冠《ほおかぶ》りでも良《よ》いが、天下《てんか》を以て任《にん》ずる の国士《こくし》が、同郷《どうきよう》の豪傑《ごうけつ》に面会するのに、帽子《ぽうし》も冠《かぶ》らずに往《ゆ》くは恥《はじ》じゃから、僕が昨晩|夜店《よみせ》で 七銭で買《こ》うて来た、この帽子《ぽうし》を冠《かぶ》ってお出《い》で』と云うから、礼《れい》を云って冠《かぶ》って行ったが、今 考えるとこれが絹《シルク》ハットの古物《こぷつ》である。当時庵主等《とうじあんしゆら》の仲間は大抵尻切《たいていしりき》れの印半纒位《しるしばんてんぐらい》を着て働 いて居たが、庵主《あんしゆ》だけはどう云う工面《くめん》であったか、発明初売の紀州《きしゆう》フランネルの荒い立縞《たてじま》の 単物《ひとえもの》であった。それが大兵肥満《だいひようひまん》で絹帽子《シルクハツト》を冠《かぷ》り、尻切《しりき》れ草履《ぞうり》でのそのそと出掛《でか》けたから、 その恰好《かつこう》はまるで褌担《ふんどしかつ》ぎが宮中《きゆうちゆう》へ参内《さんだい》する様《よう》である。  頭山氏《とうやまし》の宿《やど》は芝口《しばぐち》一丁目の田中屋と云うので、店先で案内を頼《たの》むと『二階へ』と云うから 登って行って、その部屋《へや》を見てまず第一に驚《おどろ》いた。部屋の入口に『御宿料十《おんしゆくりよう》八|銭《せん》前金』と 書いた紙が張《は》ってある。破《やぶ》れ襖《ぷすま》を開《あ》けると、中が六畳で柱も鴨居《かもい》も菱形《ひしな》りに曲《まが》っている。壁 落《かべお》ち障子破《しようじやぶ》れた真中《まんなか》に、縁《ふち》の欠けた火鉢《ひばち》が一ッ赤《あか》ゲットの上に乗っている。その向《むこ》うに久留 米絣《くるめがすり》の羽織《はおり》を着た五|分刈《ぶがり》の三十四五のショボ鬚《ひげ》の生《は》えた男が一人坐っている。『サアこれへ』 との声に応《おう》じて中に入る。庵主《あんしゆ》は常から、冠《かぶ》り付《つ》けぬ帽子《ぽうし》故、これを取る事を忘れ、その上 |大男《おおおとこ》で高い絹《シルク》ハットを冠《かぶ》ったまま故、ごつんと鴨居《かもい》にぶっつかり、ぺこんと潰《つぷ》れて落ちた。 そのまま中に入《い》りて、火鉢《ひばち》の向うに座《ざ》を占《し》め、丁寧《ていねい》に初対面の挨拶《あいさつ》をしたら、向うもなかな か丁寧《でいねい》であったが、その眼光《がんこう》の烱々《けいけい》として人を射《い》る凄《すさ》まじさは、むしろ安宿《やすやど》の破《やぷ》れ座敷《ざしき》も眩《まば》 ゆき計《ばか》りの異彩《いさい》である。  まもなく隣室《りんしつ》より出て来た人々は、的野半介《まとのはんすけ》、月成元義《つきなりもとよし》、来島恒喜《くるしまつねき》、木本常《さもとつね》三|郎《ろう》など云う、 皆豹眼虎頭《みなひようがんことう》の壮士《そうし》ばかりであった。皆《みな》それぞれの挨拶《あいさつ》をして、まもなく出《で》ていった跡《あと》に、両 人差向《りようにんさしむか》いでいると、頭山氏《とうやまし》は左脇《ひだりわき》の床板《とこいた》の破れに口を付けて『おいおい茶を持って来《こ》い』と 叫《さけ》んだ。ふいと見ると、その床《とこ》の間《ま》の板は一尺|余《あま》りも破れて、帳場《ちようば》の有様《ありさま》がちゃんと見えて いる、これでもその宿《やど》の破《こわ》れ加減《かげん》が分る。しばらくすると頭山氏《とうやまし》は徐《おもむ》ろに口を開き、『貴下《あなた》は 官員《かんいん》でも仕《し》ておられた事《こと》が有りますか』と云《い》わるるから、庵主《あんしゆ》は『いやまだ一度も官員《かんいん》に成《な》っ た事《こと》はございませぬ』と云うと、頭山氏は手を伸ばして傍《かたわら》に転《ころが》っている絹《シルク》ハットのへこんだ のを取上げて『これは官員《かんいん》の冠《かぶ》る帽子《ぽうし》じゃありませんか』と云うた。庵主《あんしゆ》はそれも知らぬか ら『イエそれは木村屋の麺麭屋《パンや》が冠《かぷ》る物《もの》と同じです』と云い、これを動機《どうき》として色々と咄《はなし》も した。その頃までは庵主《あんしゆ》も今程《いまほど》のお饒舌《しやべり》でもなかったが沈重寡言《ちんちようかごん》の頭山氏《とうやまし》には、尠《すく》なからず 感《かん》に打たれたのである、、  それからぽつぼつと双方話して、ついに日の暮るるも忘《わす》れ『貴下牛肉《あなたぎゆうにく》で飯《めし》を食《く》うてはどう です』と云《い》われた時は、もう外も真暗《まつくら》であった。間もなくランプを灯《とも》し、飯《めし》も仕舞《しま》いまた深《しん》 更《こう》まで咄《はな》す中《うち》、頭山氏《とうやまし》はかく云うた『才《さい》は沈才《ちんさい》たるべし、勇《ゆう》は沈勇《ちんゆう》たるべし、孝《こう》は至孝《しこう》たる べし、忠《ちゆう》は至忠《しちゆう》たるべし、何事《なにごと》も気《き》を負《お》うて憤《いきどお》りを発《はつ》し、出《で》た処勝負《ところしようぷ》に無念晴《むねんぱら》しをするは、 その事《こと》が仮令忠孝《たとえちゆうこう》の善事《ぜんじ》であっても、不善事《ふぜんじ》に勝《まさ》る悪結果《あくけつか》となるものである。この故《ゆえ》に平生 無私《へいぜいむし》の観念《かんねん》に心気《しんき》を鍛錬《たんれん》し、事《こと》に当《あた》りては沈断不退《ちんだんふたい》の行《おこな》いをなすを要《よう》とす、貴下方《あなたがた》のお考え はどうか知りませぬが、御互《おたがい》に血気《けつき》に逸《はや》って事《こと》を過《あや》まらぬだけは注意したいと思います。  古歌《こか》に、   斯《かく》までにゆかしく咲《さ》きし山桜《やまざくら》をしや盛《さかり》をちらす春雨《はるさめ》 と云《い》う事《こと》もありますが、僕《ぽく》は有為《ゆうい》の知人朋友《ちじんほうゆう》の為《た》めに、常に心でこの感《かん》じを持って忘るる事 が出来ませぬ』と話された。庵主《あんしゅ》はこの話を聞了《ささおわ》るまでは恍惚《こうこつ》として夢《ゆめ》の如《ごと》く、思《おも》いに思う た多年の行為《こうい》に一々|鉄針《てつしん》を刺《さ》さるるが如《ごと》く、鳴呼《ああ》六|親眷族《しんけんぞく》を飢寒凍餒《さかんとうたい》の艱苦《かんく》に投じて顧《かえり》みず、 ただ世に対する已《おの》れ一|個《こ》の憤《いきどおり》にのみ一身を没《ぼつ》して、結果の如何《いかん》を慮《おもんぱか》らざりしが、人間の 誤《あやま》りと云う物はこんな物か知らん、今日《こんにち》まで悔《く》ゆると云う事《こと》を知らざりしは、誤《あやま》りと云う物 を弁《わきま》えざりし結果《けつか》である。天下に親《したし》む人もなく、世に畏《おそ》るべき友もなし、今|斗《はか》らずも同郷《どうきよう》の 偉人《いじん》この頭山氏《とうやまし》に会《お》うたは、幸か不幸かまだ分らぬが、何だか変な気持がすると、今まで張《は》 り通したる心の弓弦《ゆみづる》は、矢《や》も放《はな》たずに何だか切れたように思うた。これが庵主《あんしゆ》が大正《たいしよう》の聖世 丁巳《みょていし》の今年《ことし》まで残命《ざんめい》を持続《じぞく》した一|身《しん》の維新革命《いしんかくめい》二|番目狂言《ばんめきようげん》の序幕《じよまく》を切落《きりおと》した初まりである。 当時頭山氏《とうじとうやまし》は心あって云うたか、また何と感じて庵主《あんしゆ》とそんな咄《はなし》をしたか分らぬが、庵主《あんしゆ》に は何だか一種|天使《てんし》の声《こえ》と聞えたのである。  それから別に咄《はなし》もせずに宿《やど》に帰ったのは、夜の十時過であったが、寝《しん》に就《つ》いても、どたん どたんばたんと寝返《ねがえ》りばかりをして、過《す》ぎ越方《こしかた》を思い遣《や》り、天性の強情《ごうじよう》に理窟《りくつ》の付《つ》くだけは、 自分の方に理窟を付けて考えてみたが、結論は全《まつた》く自分の考えが誤《あやま》っていた事《こと》に帰着《きちやく》した。 ああ残念《ざんねん》と吐息《といき》する途端《とたん》に、窓下で鍋焼鰮飩《なべやきうどん》が大声を張上《はりあ》げた。消《き》え行く春《はる》の夜嵐《よあらし》に連《つ》れて 三|縁山《ま んざん》の鐘《かね》の音《おと》を聞く頃、はッと寝床《ねどこ》の上に起直《おきなお》った『大変だ、俺《おれ》にはまだ大きな事《こと》を考え ねばならぬ責任《せきにん》が有《あ》った、また考えるだけの脳髄《のうずい》をも持っていた、それを仕遂《しと》げるにはこう だ、俺《おれ》は今日《こんにち》まで自分だけの事《こと》を考えて、正《まさ》に誤《あや》まったから、今日《こんにち》からは断然《だんぜん》自分以外の事《こと》 を基《もとい》として、人《ひと》と世《よ》との為《た》めに極力働らくのだ、好《よ》し分《わか》った、極《き》まった』とこう叫《さけ》んだに違《ちが》 いない。  これから庵主《あんしゆ》が頭山氏《とうやまし》と寝《ね》るには床《とこ》を連《つら》ね、食うには卓《たく》を共にし、行蔵《こうぞう》一|日《にち》も苦楽《くらく》を離《はな》れ ざりし事《こと》、丁度《ちようど》十年である。日清戦争《につしんせんそう》の少し前より庵主《あんしゆ》は独《ひと》りで東京に上りて戦争道楽《せんそうどうらく》の群《むれ》 に入り、川上参謀次長《かわかみさんぽうじちよう》や、陸奥外務大臣等《むつがいむだいじんら》の間《あいだ》を縫《ぬ》うて、帝国《ていこく》の処分発展《しよぶんはつてん》に心を傾け、緩急 策謀《かんきゆうさくぽら》の青藍《せいらん》に身を染《そ》めたのである。ああ思《おも》えば長き夢《ゆめ》の世《よ》や、三十余年の春秋《はるあき》は、霞《かすみ》と霧《さり》に 打《うち》かすむ、月雪花《つきゆきはな》と眺《なが》め越《こ》す、幾艱難《いくかんなん》も九十《つづ》九|目織《らお》る、世《よ》の起《お》き伏《ふ》しに伴《ともな》いて、頭山翁《とうやまおう》も今 は早や、頭に宿《やど》る霜《しも》の影《かげ》、庵主《あんしゆ》も負けず父母《ちちはは》が、撫《なで》にき筐《かたみ》の黒髪《くろかみ》は、痕形《あとかた》もなく禿山《はげやま》に、雉 子《きぎす》も啼《な》かぬ憐《あわれ》さよ、思《おも》い出《いだ》して笑《わら》わじと、思えど笑う可笑《おか》しさは、知る人のみに限《かざ》るのであ る。兎《と》に角庵主《かくあんしゆ》はかかる魔人《まじん》の頭目《とうもく》に面会して、また不可思議《ふかしぎ》の新天地《しんてんち》を開き、また思《おも》いも 寄らぬ幾多《いくた》の新魔人《しんまじん》に遭遇《そうぐう》するの顛末《てんまつ》は、これより追《おいおい》々|筆《ふで》を馳《は》するであろう。  一一 |平岡浩太郎氏《ひらおかこうたろうし》と初対面《しよたいめん》の悲喜劇《ひきげき》   壮士旧恩を追うて墓頭に泣き、快傑貧窮に処して異名を得る  庵主《あんしゆ》が頭山氏《とうやまし》に面会《めんかい》して、四五日|位《ぐらい》の後|心臓《しんぞう》の皷動《こどう》も止《とど》まる程《ほど》の驚報《きようほう》を聞いた。それは庵 主《あんしゆ》が云《い》うに云われぬ厚恩《こうおん》を蒙《こうむ》った、旧藩主黒田長溥老公莞去《きゆうはんしゆくろだながひろろうこうこうきよ》の報である。庵主《あんしゆ》は七歳の時か らしばらくこの老公の君側《くんそく》に仕候《しこう》し、初名秀雄《うぶなひでお》と云《い》いしを、改《あらた》めて今の茂丸《しげまる》と云う名《な》を賜《たま》わっ たのである。去る明治《めいじ》十三年初めて上京の砌《みぎり》、生涯忘《しようがいわす》るることのできない老公の御訓誨《ごくんかい》と、 今|筆《ふで》に書くことのできない深大《しんだい》の恩恵《おんけい》とにことごとく違背《いはい》して、あくまでの我儘《わがまま》と暴戻《ぽうれい》とを |続行《ぞつこう》して、終《つい》に溜池《ためいけ》のお屋敷《やしさ》の門前《もんぜん》をも通れぬ程の、自分|咎《とが》めの大罪《だいざい》を犯《おか》したのである。何 時《いつ》かはこの罪《つみ》をお詫《わぴ》せんと思い思いて、心苦敷《こころぐるし》く暮して居《い》る中《うち》に、この悲報《ひほう》である、庵主《あんしゆ》は 数日前|同郷畏敬《どうきよういけい》の先輩《せんぱい》、頭山氏《とうやまし》の意見によって、多年強情《たねんごうじよう》の骨《ほね》をへし折られ、その後一週間 も立《た》たぬ中《うち》に、またこの落胆《らくたん》の悲報《ひほう》に、云い得《え》られぬ精神上の打撃《だげき》を受けたのである、この 庵主《あんしゆ》の心理状態を知る者は、第三者として一|人《にん》もない故、庵主《あんしゆ》は苦痛煩悩《くつうぼんのう》の余《あま》り、初めてこ の心中《しんちゆう》の顛末《てんまつ》を巨細《こさい》に自白《じはく》した長文の手紙を、郷里《きようり》の草《くさ》の屋《や》に淋《さぴ》しく暮して居《い》る老父に送り、 多年|剛情《ごうじよう》の詫言《わびごと》を云うたのである。これが庵主臍《あんしゆほぞ》の緒《お》を切って初めての詫言《わぴごと》である。庵主《あんしゆ》の 父は、庵主《あんしゅ》を生《う》んで庵主《あんしゆ》を育《そだ》て、庵主《あんしゆ》にてこ摺《ず》りて、常《つね》に庵主《あんしゆ》で泣続けて来た人故、今この 自覚改心《じかくかいしん》の手紙を見た時の悦《よろこ》びは、不日《ふじつ》に来た返書《へんしよ》にも躍如《やくじよ》としていて、今なお記憶《きおく》に新《あらた》な るのである。  さてこれは後《のち》の事《こと》で、庵主《あんしゆ》はまず頭山氏《とうやまし》および郷里《きようり》の人々と共に、この感慨深《かんがいふか》き黒田《くろだ》老公 の葬儀《そうぎ》に列すべく待構《まちかま》えたのであったが何様《なにさま》一ヵ月四|円《えん》の下宿屋に住み、新聞売《しんぷんうり》を渡世《とせい》とし ている身の上で、突然旧藩主《とつぜんきゆうはんしゆ》の葬儀《そうぎ》に赴《おもむ》くのであるから、その困難《こんなん》は名状《めいじよう》すべからずである。 まず理髪店に行って鬚《ひげ》や髪《かみ》を刈《か》り、宿《やど》の主人に事情を咄《はな》して、着物《きもの》と羽織袴《はおりはかま》を借り、八銭の 山桐《やまぎり》の下駄《げた》を買うて出掛《でか》けたが、その宿《やど》の主人は、人並|外《はず》れた小男であるから、羽織着物《はおりきもの》は 庵主《あんしゆ》の腕《うで》の半位《なかばぐらい》の袖で、袴《はかま》は脚《あし》の半分位よりないのである。時間間際の事故|仕方《しかた》なしにその まま出掛《でか》けたが、よほど不思議《ふしぎ》の恰好《かつこう》であったろうと思う。一方|頭山氏《とうやまし》の宿《やど》に行くと、氏も 生れて初めて、非常に高価な洋服を栫《こしら》えて、今日を晴《は》れと初《はじ》めて着るのであるが、着方《きかた》が分 らぬ。まず白《ホワイト》シャツを着《き》て、それから直《すぐ》にチョッキを着、それからズボンを着、その次にフ ロックの上着をつけたが、後《あと》に一つ不思議《ふしざ》な物《もの》が残《のこ》っている、それは桃形《ももがた》のネクタイである。 それを二人で相談《そうだん》をして、『何《なん》でもこれは頸飾《くぴかざり》に違《ちが》いない』と云うて、一番後で頸《くび》にピンでブ ラ下《さ》げた。最後にラッコの毛皮付の外套《がいとう》を着たが、サァ大変|帽子《ぽうし》が無《な》い。そうしてまたそれ を買う金が一|文《もん》もないのである。『帽子位は無《な》いでも構《かま》わぬ』と云うて、頭山氏《とうやまし》は市街中《まちじゆう》のそ のそ潤歩《かつぽ》するのである。とうとう葬儀《そうぎ》を仕舞《しま》い、青山《あおやま》の墓地《ぼち》に行って、思《おも》い出《で》多き旧主老公《きゆうしゆろうこう》 の御遺骸《ごいがい》は、地下|幾丈《いくじよう》の底に永久の眠に就《っ》かれたのである。会葬者《かいそうしや》は広き墓地《ぼち》に充満《じゆうまん》する程 あったが、その中《うち》もっとも敬虔《けいけん》の意と、棲欝《せいうつ》の感に閉《と》じられた者は身幅《みはば》の足らぬ借着《かりぎ》の庵主《あんしゆ》 と、不揃《ふぞろい》の洋服姿の頭山氏《とうやまし》ばかりでは無《な》かったかと思われた。  埋葬式《まいそうしき》が済《す》んで人は蜘蛛《くも》の子《こ》の如《ごと》く八方に散ったが、その混雑《こんざつ》の中《うち》に頭山氏《とうやまし》の紹介で、庵 主《あんしゆ》に挨拶《あいさつ》を云《い》うた人が、雷名天下《らいめいてんか》に轟《とどろ》いた同郷の先輩平岡浩太郎氏《せんばいひらおかこうたろうし》であった。そもそもこの 平岡氏《ひらおかし》の厳父仁《げんぷに》右|衛門氏《えもんし》と母《はは》の里方《さとかた》なる林作左衛門家《はやしさくざえもんけ》とは、浩太郎氏《こうたろうし》の幼少の時より殆《ほと》んど 同家庭内に暮した程の親《した》しき関係があったそうだが、庵主《あんしゆ》は七歳の頃より無類《むるい》の悪戯小僧《いたずらこぞう》で、 諸所《しよしよ》に流落《りゆうらく》していた為《た》めに、浩太郎氏《こうたろうし》とは面識《めんしき》をさえ有せぬのであった。浩太郎氏《こうたろうし》は天資《てんし》の |英邁《えいまい》に加《くわ》うるに、夙《つと》に深遠《しんえん》の大志《たいし》を抱《いだ》き、常《つね》に国事《こくじ》を慷慨《こうがい》して各地方の騒乱事件《そうらんじけん》には一とし て関係せざる事なく、弘《ひろ》く天下《てんか》の志士《しし》と結《むす》んで国事《こくじ》を謀議《ぽうぎ》せるより、一種|微妙《ぴみよう》の交際術に長《ちよう》 じて、初対面の人等には、一|見《けん》その人《ひと》の心を執《と》る程《ほど》の気醜《きはく》を漂《ただよ》わす人である。頭山氏が青山《あおやま》 原頭《げんとう》で庵主《あんしゆ》を介し『この人は同郷《どうきよう》の傑士杉山《けつしすぎやま》と云《い》える人なり』と、破格《はかく》の紹介《しようかい》をするや、平 岡氏《ひらおかし》は慇懃《いんぎん》の辞令《じれい》に、温厚《おんこう》の態度《たいど》を以て庵主《あんしゆ》にしきりに交歓《こうかん》を促《うな》がした。直《ただち》に自から奔走《ほんそう》し て三台の人力車《じんりきしや》を群集の中《うち》より呼び来り、庵主《あんしゆ》と頭山氏《とうやまし》とに『さあこれに乗《の》り給《たま》え今より自 分の宿《やノ》に同行して緩《ゆるゆる》々と物語《ものがたり》しようでないか』と云うた。庵主《あんしゆ》は紊《もと》より一|文《もん》の車代の持合《もちあわせ》も なく、頭山氏《とうやまし》も同様と見えて、帰路《きろ》もまた両人《りようにん》でのそのそ歩行すべく思《おも》うていたやさき故、 平岡氏《ひらおかし》の厚意《こうい》は至極《しごく》の幸《さいわい》と思うて、云《い》わるるままにその車に乗って一同|乗付《のりつ》けた所は、京橋 区南鍋町《きようぱしくみなみなぺもちよう》の山城屋《やましろや》とか云う宿屋《やどや》にて、(この宿《やど》は鹿児島《かごしま》の豪傑故野村忍助《ごうけつこのむらおしすけ》とて平岡氏《ひらおかし》が西南 役《せいなんのえき》以来の戦友の旧宿所《きゆうしゆくしよ》たりし家である。後年|庵主《あんしゆ》がこの家屋敷《いえやしき》を買入れて、門生《もんせい》共に三|興 社《こうしや》と云う輸入商店を開かせた家であったのは実に一種の奇縁《きえん》である)庵主《あんしゆ》も頭山氏《とうやまし》も、平岡 氏《ひらおかし》と共に車を乗捨て、二階に上り、三|人火鉢《にんひぱち》を囲《かこ》んで愉快《ゆかい》に談話《だんわ》をしている中《うち》、宿《やど》のお手伝 いが平岡氏の耳に近寄《ちかよ》りて何事《なにごと》か呵《ささや》くと、平岡氏は目《め》を瞋《いか》らして、『下で払《はら》っておけ』と小声《こごえ》 で云、つ、お手伝いはしぶしぶと下《お》りて行く、またしばらくするとそのお手伝いが来て『帳場《ちようぱ》 に小《こま》かいのが御座《ござ》いませぬからどうか戴《いただ》いて来《こ》いと申ます』と云うた時の平岡氏の極り悪《わ》る そうな顔《かお》は讐《たと》えるに物なしである。庵主《あんしゆ》はこれを聞くと同時に、『あ、この人も一|文《もん》なしじゃ なあ、俺《おれえ》が払《はら》って遣《や》りたいが素《もと》より一文なしである。鳴呼《ああ》車など飛《とん》でも無《な》い物《もの》に乗って来た』 と後悔《こうかい》したが頭山氏《とうやまし》はと様子《ようす》を見ると、これも一文なしの為《た》めか、笑《えみ》を湛《たた》えて火箸《ひぱし》で火鉢《ひぱち》に 字を書いている。平岡氏は同郷新顔の庵主《あんしゆ》に初対面《しよたいめん》の気前を見せて、車に乗せたのは好《よ》かっ たが、車代《くるまだい》を帳場《ちようば》が立替えぬで総《すべ》ての不体裁《ふていさい》を露出《ろしゆつ》したのは、当時|我《われわれ》々|浪人仲間《ろうにんなかま》が、いかに 惨澹《さんたん》たる貧乏海《ぴんぽうかい》に游泳《ゆうえい》していたかが分るのである。  それから平岡氏も余《あま》りのきまり悪さに『僕は失敬《しっけい》じゃが風《かぜ》を引いて頭が痛いから、寝《ね》なが らお咄《はなし》を仕様《しよう》』と云うて、直《ただち》に西洋寝巻《せいようねまき》と着替え、側《かたわ》らに床《とこ》を敷《し》いて寝て咄始《はなしはじ》めたがここに また第二の毒箭《どくや》は平岡氏の急所を射貫《いぬ》いた。それはお手伝いが座敷《ざしき》の隅《すみ》の方に散在《さんざい》している 蕎麦《そば》の丼三《どんぷり》四個を取片付《とりかたづ》けて持下《もちさ》げる序《ついで》に、また平岡氏に向って『今下《いました》に蕎麦屋《そばや》が昨晩の お蕎麦の勘定《かんじよう》を戴《いただ》きに参《まい》っておりますがいかが致《いたし》ましょう』と責《せ》め寄《よ》せたには、今まで堪《こら》え こらえて来た平岡氏ももう耐《た》え切れずに、思わず大声を発して『五月蝿《うるさ》い、金《かね》の無《な》い事《こと》は分っ ているでないか』と呶鳴《どな》り付け、その返《かえ》す声で『おい頭山《とうやま》知らぬ顔せずに少将《りり》の事《こと》だけは早 く金《かね》を拵《こしら》えて来て片付《かたづ》けてくれよ。風《かざ》を引《ひい》て寝ていても寝かさぬでないか』と叫んだ。この 時まで庵主《あんしゆ》も頭山氏《とうやまし》も可笑《おか》しさを耐《こら》えに耐えていた我慢《がまん》の堤防は、一時に決潰《けつかい》してただ腹《はら》も 破裂《はれつ》せんばかりにドッと哄笑《こうしよう》した。これを見た平岡氏も余程可笑《よほどおか》しかったと見えて、ズーッ と蒲団《ふとん》を頭から被《か》ぶって蒲団の中でわあーッと笑い出した。それがまた可笑《おか》しくて庵主《あんしゆ》も頭 山氏《とルつやまし》も満身汗《まんしんあせ》になり涙《なみだ》を流して笑い出し挨拶《あいさつ》も何もせぬ儘《まま》にただただ笑いに笑いて二人でぞ ろぞろ同道《どうどう》して帰って来た。  これが頭山庵主平岡《とうやまあんしゆひらおか》三|傑《けつ》の初対面《しよたいめん》の記念《きねん》で一|生涯忘《しようがい》るる事の出来ない事柄《ことがら》である。それよ り平岡氏の綽名《あだな》を庵主と頭山氏《とうやまし》は少将《りり》と付けて、同氏《どうし》の生涯中は平岡少将《ひらおかしようしよう》と呼《よび》なしたのであ る。この平岡氏《ひらおかし》が後《のち》に大炭坑《だいたんこう》の坑主《こうしゆ》として成功し、明治三十年の大隅内閣《おおくまないかく》の時には、数百万 円の黄金《おうごん》を泥土《でいど》の如《ごと》くに鄰却《てつきやく》し、双手大勢《そうしゆたいせい》の枢機《すうき》を握《にざ》って内閣《ないかく》の興廃《こうはい》を企画した同名同一の 平岡氏であろうとは、何人《なんぴと》も予想《よそう》する事は出来なかったのである。鳴呼世運《ああせうん》は梭《おさ》の如《ごと》く織成《おりな》 して、三十余年の年月を、花《はな》に紅葉《もみじ》に彩《いろどり》し、眺《なが》めに厭《あ》かぬ春秋《しゆんじゆう》も、移《うつ》ると共に平岡氏は、 図《はから》ず二|豎《じゆ》に冒《おかさ》れて、今はこの世《よ》になき魂《たま》を、弔《とむら》う野辺《のべ》も松風《まつかせ》の、音《おと》のみ戦《そよ》ぐ淋《さみ》しさに、ただ 頭山氏《とうやまし》と庵主《あんしゆ》のみ、仇事《あだごと》にして餉《かれい》を、潰《つぷ》す浮世《うきよ》の戯《たわむ》れは、可笑《おか》しき事《こと》の極《きわ》みである。かく物 語れば世の中の、憂事《うきこと》知らぬ若冠《わこうど》は、今も昔も均《ひと》しかる、青年血気の世渡りは、後先《あとさき》知らぬ 荒事《あらごと》と、ただ一向《ひたぶる》に思わんか、そは大いなる曲事《まがごと》にて、そも筑前《ちくぜん》と云《い》う国は、文久元治《ぷんさゆうがんじ》の昔 より、維新廃藩《いしんはいはん》のその時まで、夙《つと》に薩長《さつちよう》に先駆《せんく》して、勤王大義《きんのうたいぎ》の犠牲《いけにえ》に、幾多《いくた》の名士《めいし》を失い しが、図《はか》らぬ事より藩論《はんろん》の、蹉鉄《さてつ》と共に後《おく》れを取り、ついに藩閥《はんばつ》の族《やから》に乗り越され、道路に 倒れ牢獄《ろうごく》や、鼎鑁《ていかく》に就《つ》きて憤死《ふんし》せし、先輩傑士《せんぱいけつし》の血を受けて、二の手となって駈出《かけいだ》せし、頭 山平岡両氏等《とうやまひらおかりようしら》の如《ごと》き機澄《きはつ》の人々が、空手赤裸《くうしゆせきら》と艱難《かんなん》を、命の的《まと》と定《さだ》めつつ、君《きみ》と国《くに》との犠牲《いけにえ》 に、傾《かたむ》け尽《つく》す心血《しんけつ》の、その惨濾《さんたん》の有様《ありさま》は、貧《ひん》と飢《うえ》とのその後《のち》は、奴隷《やつこ》となりて大江《おおえど》戸の、街《ちまた》 に行吟《さまよ》う苦節《くせつ》こそ、むしろ郷国一致《きようこくち》の花として、今猶《いまなお》心に誇《ほこ》っているのである。これに引《ひき》か え一方|藩閥《はんばつ》の族《やから》は時を得て、日毎夜毎《ひごとよごと》の宴遊《えんゆう》に、太平楽《たいへいらく》の仮装会《かそうかい》、鹿鳴館《ろくめいかん》の楼上《ろうじよう》を、 火影《 かげ》の凄《すさ》まじく、帝都《ていと》の夜を睨《にら》むのであった。庵主時《あんしゆとき》に詩《し》あり曰《いわ》く、   ろくめいのかんじようよるひるのごとし       かきよくそうぜ人としてぶしゆうひるがえる   鹿鳴館上宵如昼。  歌曲騒然翻舞袖。   誰識艦窓零落中《たれかしらんかんそうれいちくのうち》。   幽囚月下作怨呪《ゆうしゆうげつかにえんじゆをなすを》。 照《て》らす 三 |庵主《あんしゆ》が大活躍《だいかつやく》の序幕《じよまく》   大池の蚊竜霊雲多く、辺睡良二千石を得て山川秀ず  庵主《あんしゆ》はこの機会に於て、頭山氏《とうやまし》の事を少し書いておこう。庵主《あんしゆ》は中年他県《ちゆうねんたけん》の人に紹介せら れ旅の空の東京で頭山氏に面会したが、氏は安政《あんせい》二年を以て福岡藩士筒井亀作氏《ふくおかはんしつついかめさくし》を父として 生れ、幼《よう》にして魁悟《かいご》、群童《ぐんどう》を抜《ぬ》き、風貌暗鶴《ふうぽうこうかく》の如《ごと》く、心身《しんしん》の素養《そよう》ただ品位の高潔《こうけつ》を以て礎趾《そし》 をなし、禅機満身《ぜんきまんしん》に往来して、常に汚籟《おとく》の外《ほか》に解脱《げだつ》せり、長《ひと》となるに及《およ》んで、早くも志《こころざし》を 済世救民《さいせいきゆうみん》の事に傾《かたむ》け、その為《な》す所一《ところ》も後生の師表《しひょう》たらざる事なく、実に山東《さんとう》の及時雨宋江明《きゆうじうそうこうめい》 もかくやと思《おも》わるるのである。庵主《あんしゆ》は艱難《かんなん》の中《うち》に長《ひと》となり、天下の各階級に於て数限りなき 清濁混清《せいだくこんこう》の知人と交《まじわ》りしが、ただこの頭山氏《とうやまし》との交誼程神聖《こうぎほどしんせい》にして、かつ親密《しんみつ》なりしものは ないのである。  したがって氏の性情《せいじよう》を知る事《こと》も割合に深甚《しんじん》なるを自信するのである。庵主《あんしゆ》の見《けん》を以てすれ ば、頭山氏《とうやまし》の事《こと》は総《すべ》て反対に解釈《かいしやく》すれば大抵間違《たいていまちがい》はない。氏は無学なようで学識《がくしき》があり、寡 言《かごん》なようで能弁《のうべん》であり、卑近《ひきん》なようで深遠《しんえん》の理を究《きわ》め、そっけないようで深切《しんせつ》であり、恬淡《てんたん》 なようで濃厚《のうこう》であり、忘《わす》れたようで強記《きようき》であり、放漫《ほうまん》なようで謹厳《きんげん》であり、冷酷《れいこく》なようで慈 悲無量《じひむりよう》であり、無勘定《むかんじよう》なようで締括《しめくく》りがあり、物を容《い》るる事大海《ことたいかい》の如くにして、生を愛する 事は昆虫も犯《おか》さず、功名富貴《こうみようふうき》を見る事塵芥《ことじんかい》の如《ごと》く、特《こと》に父母兄長《ふぽけいちよう》に厚《あつ》うして、勤王《きんのう》の志深《こころざし》 き事は、庵主《あんしゆ》の常に畏服《いふく》する所である。故に庵主《あんしゆ》が前《さき》に後生《こうせい》の師表《しひよう》なりと絶叫《ぜつきよう》するのは決し て過奨《かしよもつ》ではないのである。氏も幼少より刻苦《こつく》の中《うち》に長《ひと》となり、あるいは田を耕《たがや》して蔬菜《そさい》を作 り、あるいは薪《たきざ》を負《お》うて市井《しせい》に鬻《ひさ》ぎ、あるいは山林《さんりん》に入りて書を読み、あるいは江湖《こうこ》に放吟《ほうぎん》 して随処《ずいしよ》に眠る等《とう》、只管心身《ひたすらしんしん》の鍛錬《たんれん》と世運《せうん》の機要《きよう》とを察して大いに為《なす》べきの時を待《ま》っていた のである、白雲漠《はくうんばくばく》々たれども、多く高嶺《こうれい》に懸《かか》り、渓水渡《けいすいこんこん》々たれども尽《ことごと》く大江《たいこう》に入る、頭山氏《とうやまし》 の徳望《とくぼう》は覓《もと》めずして四万に響治《きようごう》し、天下有為《てんかゆうい》の青年は期《き》せずしてその高風《こうふう》を慕《した》い、桃李不言《とうりふげん》 の門前《もんぜん》は訪者《ほうしゃ》の為《た》め常に蹊《こみち》を成《な》すに至ったのである。家に憺石《たんせき》の貯《たくわえ》なけれども、気宇万方《きうばんぽう》の 富《とみ》を圧《あつ》し、身《み》に章帯《いたい》を結《むす》べども、居常天下《きよじようてんか》の大責《たいせき》に任《にん》ず、ここに於てその門下《もんか》に集欒《しゆうらん》する者 は、羆熊豹虎《ひゆうひようこ》の士尽《しことごと》く天下に咆哮《ほうこう》するの傑物《けつぷつ》である。頭山氏《とうやまし》の一|輩《ぴん》一|笑《しよう》は、実にこれ等《ら》百千 |豪傑《ごうれつ》の馳聘《ちへい》を制するの節施《せつぽう》である、庵主《あんしゆ》は白面空手《はくめんくうしゆ》の書生を以てこの中《うち》に帰郷《ききよう》し梶《おさ》ななじみ の青山江河《せいざんこうか》と十数年振りに再会して、実に感慨無量《かんがいむりよう》であった。まず軒《のき》傾ける伏屋《ふせや》に坤吟《しんぎん》せる 老父母を省《かえり》みて後《のち》、自分の今後に為《な》すべきの事業を考えた。  第一、郷国割拠《きようこくかつきよ》の風《ふう》を打破《だは》する事《こと》。  第二、天下《てんか》に気脈《きみやく》を通《つう》ずる事。  第三、郷国独立の資源を開《ひら》く事。  第四、地方的開発の事業を起す事。  第五、実社会の事物に接触する事。  これだけの事《こと》は庵主《あんしゆ》が頭山氏《とうやまし》と共に為《な》す事《こと》にして頭山氏《とうやまし》が喜ばざる事なく、援助《えんじよ》せざる事 なく、即《すなわ》ち第一の問題には頭山氏と共に今日まで蛇蜴《だかつ》の如く嫌悪《けんお》せし地方官憲等と交歓《こうかん》を通 じ、佐賀《さが》、久留米《くるめ》、熊本《くまもと》、鹿児島等《かごしまとう》の有志団体《ゆうしだんたい》と連衡《れんこう》の道を開く事、第二の問題は人の交通 と文書の往復とを以て常に脈絡《みやくらく》を天下《てんか》の士《し》に失わざる事、第三の問題は福岡全県《ふくおかぜんけん》の地下に含 有《がんゆう》する石炭を政府が海軍予備炭《かいぐんよぴたん》と称《しよう》して、その採掘《さいくつ》を封鎖《ふうさ》せるを随意民業《ずいいみんざよう》に移《うつ》さしむる事、 第四の問題は道路及び九州鉄道の敷設《ふせつ》、門司築港《もじちつこう》の事業を開始する事、第五の問題は総《すべ》て天 下社会的の問題を研究し、またその出来事には洩《も》らさず多少の興味と関係とを持って行動す る事、この間殆《あいだほと》んど十幾年、庵主《あんしゅ》海外に遊ぶ事前後四回、頭山氏の健康と威名《いめい》は郷里の山川 風物《さんせんふうぷつ》と共に長《とこしな》えに秀麗《しゆうれい》の色を湛《たた》えたのである。  ここに面白《おもしろ》き一|魔人《まじん》とも云《い》うべきは、安場保和《やすばやすかず》と云う人である。この人は熊本《くまもと》の生れで当 時|元老院議官《げんろういんぎかん》で前《さき》の目的の為めに芝兼房町《しぱけんぽうちよう》の金虎館《きんこかん》と云う宿屋《やどや》にて面会し、福岡県《ふくおかけん》に知《ち》たる べき事を勧《すす》めたところ安場氏曰《やすばしいわ》く、『明治《めいじ》の聖世《せいせい》に筑前《ちくぜん》の梁山伯《りようざんばく》に誘拐《かどわか》されて行って溜《たま》るもの か、真平御免《まつぴらごめん》だ』と云うから庵主曰《あんしゆいわ》く、『明治《めいじ》の聖世《せいせい》に藩閥高球《はんばつこうきゆう》のお鬚《ひげ》の塵《ちり》を払《はら》うと何《いず》れが好《い》 い、況《いわ》んや筑前《ちくぜん》の梁山伯《りようざんぱく》は宋江《そうこう》を晁蓋《ちようがい》も放火殺人の悪戯《あくざ》を廃業《はいぎよう》して、宋朝《そうちよう》の徳政《とくせい》に随《したが》い仁者《じんしや》 の民《たみ》たらんとするの時機《じき》に於て、その地《ち》の県令《けんれい》としてこれを聖代《せいだい》の化《か》に浴《よく》せしむるの良官た るを勧《すす》むるのに何が不足ですか、むしろ閣下《かつか》に大功《たいこう》の緒《いとぐち》を授《さず》くるものではあるまいか』と云 うたら、ウム、なかなか面白《おもしろ》い、しかし僕の身上《みのうえ》は山田顕義氏《やまだあきよしし》に誓《ちこ》うた事があるから相談の 上返事すべしと云う。庵主曰《あんしゆいわ》く、『藩閥《はんばつ》の末輩山田顕義《まつぱいやまだあきよし》に一身の進退《しんたい》を托《たく》するような閣下では 頼《たの》み少ない訳じゃけれど、此方《こつち》にも人物稀薄《じんぷつきはく》と云う弱身《よわみ》があるから仕方がない、山田氏《やまだし》の事 は小生|引受快諾《ひけうけかいだく》を得《う》る事《こと》にしよう』と云うて別れ、それより山田氏に面会して曰く、『安場氏《やすぱし》 をこの際福岡《さいふくおか》県の県令《けんれい》たらしむるは九州の統一を計《はか》る国家の善事《ぜんじ》だと思います、また頭山《とうやま》や 玄洋社《げんようしや》の一|統《とう》とも交驩《こうかん》的の結托《けつたく》が已《すで》にできておりますから今日安場氏《こんにちやすばし》を福岡に知事たらしむ るは、政事《せいじ》の為《ため》一|大功績事業《だいこうせきじぎよう》と思います』と云《い》うたら、山田氏曰く、『ナニ福岡の玄洋社《げんようしや》や頭 山等《とうやまら》と安場《やすば》が結托《けつたく》をしたと、俺《おれ》は安場《やすば》はそんな男とは思わなかった、あんな非常識な豪賊《ごうぞく》見 たような破壊的の者共と結托《けつたく》したとは沙汰《さた》の限りじゃ、彼は正義堂《せいぎどうどう》々の士《し》と信じていたのに』 と云うから庵主《あんしゆ》は占《し》めたと思い曰く、『閣下《かつか》は不見不知《みずしらず》の頭山《とうやま》一|類《るい》を目安として、それと交《まじわ》ら んとする安場氏《やすぱし》の正義堂《せいぎどうどう》々を直《ただち》に唾棄《だき》せんとせらるるは何の事です、なぜ従来親交ある正義 堂《せいぎどうどう》々の安場氏《やすぱし》を目安《めやす》として、それが結托《けつたく》せんとする玄洋社《げんようしや》や頭山氏等《とうやましら》を信ずるの材料とはせ ぬのです、かく云《い》う小生も従来頭山氏等と少しの交誼《こうぎ》もなかりしが已《すで》に渾身《こんしん》の信用を以て頭 山氏等の正義任侠《せいぎにんきよう》の俊傑《しゆんけつ》たるを認め国事《こくじ》を結托《けつたく》しました、その活動の初歩として安場氏《やすぱし》を勧 誘《かんゆう》した訳《わけ》である、安場氏の頭山氏等を信用するのは頭山氏等の幸福に非《あら》ずして安場氏の幸福 で、延《ひ》いては政府の幸福であります、又小生等の幸福であります、閣下が安場氏を已《すで》に重信《じゆうしん》 してある事情《じじよう》の為《た》めに俄《にわ》かにこれを軽棄《けいき》するは、安場氏の不信に非《あら》ずして閣下の不明を暴露《ばくろ》 するものであります、小生はむしろ閣下より安場氏に御勧誘《ごかんゆう》を願うものであります、もし安 場氏|赴任《ふにん》の為《た》めに多年の混乱《こんらん》を極《きわ》めたる九州の政海《せいかい》に平穏《へいおん》の曙光《しよこう》でも見る如き事あらば、国 家に対する闍下の御功績《ごこうせき》もまた尠《すく》なしとせずと思います』と云《い》うたら成程《なるほと》それもそうだ、と もかく安場《やすば》に面会して咄《はな》して見ようと山田氏《やまだし》は答えた。  庵主《あんしゆ》は直《ただち》に安場氏《やすばし》に面会して山田氏に面会の顛末《てんまつ》を咄《はな》すと安場氏《やすばし》は目を丸くしてそれは乱 暴《らんぼう》だ、自分は頭山等と結托《けつたく》した事はないでないかと云《い》うから、庵主《あんしゆ》は曰く『結托《けつたく》していなかっ たらこれから結托《けつたく》したら良いではありませんか、ただしそれが国家の為めに不善《ふぜん》の事なら、 已《すで》に結托《けつたく》していても何時《いつ》でも破壊《はかい》せられたがよい。善事《ぜんじ》と知って何を躊躇《ちゆうちよ》するのです、一|己《こ》 の浅薄《せんぱく》な事情の為めに善事《ぜんじ》と知っても逡巡《しゆんじゆん》せられるのなら、閣下は倶《とも》に語《かた》るに足らぬ人と絶 叫《ぜつきよう》して小生は引下《ひきさが》るまでの事じゃ』と云《い》うたので、いや実に九州の大事《だいじ》はこの秋《とき》である、早 速に面会の上|返事《へんじ》しようとの安場氏の約束を聞いて別れた。その後庵主《ごあんしゆ》が後藤伯《ごとうはく》に面会した ら伯曰く、『今日山田《こんにちやまだ》に面会したら「君が紹介したあの杉山《すぎやま》と云う小僧《こぞう》は太《ふと》い奴《やつ》じゃ、好《い》い加 減《かげん》な事《こと》を云うてとうとう安場《やすば》を福岡《ふくおか》の県令《けんれい》に凌《さら》っていったが、あれが福岡《ふくおか》で甘味《うま》く行くか知 らぬ」と云うから、僕は『安場位《やすぱぐらい》の犠牲《ぎせい》は払《はろ》うても福岡《ふくおか》は混《ま》ぜ返《かえ》して置《お》くが国家の為《た》めじゃ』 と云、つと、『うむそれもそうじゃ』と山田が云《い》うていたぜ』と語られ、庵主は甘《うま》いなあと思う ていたところが、その月の末に安場氏《やすばし》は福岡《ふくおか》の県令《けんれい》に任命せられた。これが庵主等《あんしゆら》が福岡《ふくおか》で 活動を初める序幕《じよまく》であった。 四 |大隈外相爆弾事件《おおくまがいしようぱくだんじけん》の嫌疑《けんぎ》で   衝冠の壮士外相を狙撃し、一口のヒ首自刎を遂ぐ  この新任福岡県令安場保和氏《しんにんふくおかけんれいやすばやすかずし》は、馬術《ばじゆつ》の為《た》めに足を折り不自由になられたが、資性至孝《しせいしこう》に して清廉意気磊落《せいれんいきらいらく》にして雅量《がりよう》に富み、勤王撫民《きんのうぷみん》の事に及んでは、日夜《にちや》を顧《かえり》みざる恪勤精励《かつきんせいれい》の 士《し》であって、実に当世|得易《えやす》からざる良二千|石《ごく》であった。この人が学礎《がくそ》を陽明《ようめい》に置き修養《しゆうよう》を禅《ぜん》 機《き》に覓《もと》めたる頭山氏《とうやまし》と、意気投合《いきとうごう》したが為め、多年|欝積《うつせき》せる地方の弊寶《へいとう》はことごとく以心伝 心《いしんでんしん》にて改善の緒《ちよ》に就《つ》き、国家的百般の美事善事《ぴじぜんぎよう》は、画工が彩色を施すが如くに、みるみる中《うち》 に九州は別乾坤《べつけんこん》の如《ごと》く立派になって来たのである、まず大幅道路の開鑿《かいさく》、九州鉄道、門司築 港《もじちつこう》、鉱業鉄道《こうぎようてつどう》、金辺鉄道《きんべてつどう》、海軍封鎖炭山《かいぐんふうさたんざん》の開放等《かいほうなど》、今日九州の天地に膀礪《ほうはく》する文明的大事業 の基礎は、皆この時に創設《そうせつ》せられたのである。庵主《あんしゆ》が弱冠《じやつかん》にしてこの偉大なる両魔人《りようまじん》に接触《せつしよく》 したのは、実に生涯中に特筆すべき光栄である。  これより間《ま》もなく発生した出来事は来島恒喜氏《くるしまつねきし》の爆弾事件《ばくだんじけん》である。この来島氏《くるしまし》の父は、庵 主《あんしゆ》の父と旧藩中同役《きゆうはんちゆうどうやく》の誼《よしみ》ある人にて通称を又左衛門《またざえもん》と云い、至《いたつ》て温厚《おんこう》な士気《しき》ある人物で、 その次男がすなわち恒喜氏《つねきし》である。この人も幼少の時は庵主《あんしゆ》の父の所へ読書などを習いに来 ていた。廃藩《はいはん》の後|庵主《あんしゆ》も恒喜氏《つねきし》も相互に瓢蓬流離東西《ひようほうりゆうりとうざい》に行吟《さまよ》い、前回にも述べた様に東京の 頭山氏《とうやまし》を芝口《しばぐち》の宿で面会したは、互《たがい》に八九歳の時以来十数年後の事であったが、庵主《あんしゆ》が頭山 氏《とうやまし》と共に郷里に帰り、志業《しぎよう》の為めに奔走《ほんそう》するようになってからは、常に来島氏《くるしまし》も庵主《あんしゆ》の家に 来って眠食《みんしよく》していた。ある日|恒喜氏《つねきし》は日当りの好き縁端《えんばた》に寝転《ねころ》んで、庵主《あんしゆ》に『おい杉山《すぎやま》人間 の自殺するのは咽管《のどぶえ》を刎《は》ね切《き》れば死ねるかのう』と云うから、庵主《あんしゆ》は『馬鹿《ぱか》な事《こと》を云うな咽 管《のどぷえ》などを切ったらそれこそ見苦しい恥《はじ》を掻《か》くぞ、咽管《のどぶえ》に疾患《しつかん》のある時などは医者が刎《は》ね切《き》っ て護謨管《ごむかん》を継ぎ足して呼吸をさせ、その上の方を休ませて治療をするではないか。武士《ぷし》の自 殺する時は頸動脈《けいどうみゃく》が耳より後にあるから、耳尻《みみじり》に深く短刀を突込《つきこ》んで、斜《なな》めに気管に掛《か》けて ,刎《は》ね切《き》り、短刀《たんとう》を握《にぎ》ったまま両手を膝《ひざ》に突《つ》き、少し辛抱《しんぽう》すれば脳《のう》の血液が直《すぐ》に下《さが》って出るか ら、見苦しく居住居《いずまい》を崩《くず》さずに死《し》ねるものじゃと、俺は武芸《ぶげい》の先生から聞いている。しかし これ等《ち》の先生も自分で死んで見てそんな事を云う訳でもあるまいが、まず斯道古来《しどうこらい》よりの経 験上で云《い》い伝《つた》えたのである。君は文学|染《じ》みた慷慨家《こうがいか》であるが、俺は無学で武的観念計《ぷてきかんねんぱか》りで暴《あば》 れ廻《まわ》ったから、幼少よりそんな事計《ことぱか》り心掛《こころが》けていたからな』と云うたら、恒喜氏《さつねきし》は、『うむそ うか』と点頭《うなずい》ていた。  二三日過ぎて恒喜氏《つねきし》は『俺は一寸《ちよつと》東京に行きたい』と云うから、庵主《あんしゆ》は彼が強烈《きようれつ》な胃病持 である上に、その頃|大隈外務大臣《おおくまがいむだいじん》の条約改正問題《じようやくかいせいもんだい》で、天下は蜂《はち》の如くに乱れ、人心《じんしん》は極度《きよくど》の 激昂《げつこう》をしている時であるから、短気の恒喜氏《つねきし》は行かぬ方が良いと思い、断然《だんぜん》これを留めた。 元来彼は寡言《かげん》にして決断に富む男故、別に庵主《あんしゆ》に反抗もしなかった。その後|庵主《あんしゆ》は用事あり て対州《たいしゆう》、厳原《いずはら》へ三泊の積《つも》りで平丸《たいらまる》と云う船《ふね》に乗《の》って往《ゆ》き、帰って来ると母が『恒喜《つねき》さんが今 夜の船で一寸東京に行くとて暇乞《いとまごい》に来たよ』と云うから、庵主《あんしゆ》は何の暗示《あんじ》か異様《いよう》の感じを起 して、何だか心配で堪《たま》らず草臥《くたぴれ》を休める間もなく直《すぐ》に飛び出した時は、薄暮《うすぐ》れの頃であった。 途中で林斧助《はやしおのすけ》と云《い》う書林《しよりん》の店先《みせさき》を通ったら、店の内から斧助氏《おのすけし》が、(この人《ひと》また知名《ちめい》の志士《しし》で 市井坊間《しせいぽうかん》の商賈《しようこ》に身《み》を潜《ひそ》めていたのである)『おいおい』と呼ぶので、その店に立寄ったら、 斧助氏《おのすけし》曰く『来島《くるしま》が今《いま》東京に立って行ったが、この手紙を君に渡してくれと置いて往《いっ》たぞ』 と云うて一|封《ぷう》の手紙を差出した。庵主《あんしゆ》取ってこれを読むと、『君が留めたけれど俺は用事が あって上京する、その事《こと》は着京《ちやつきよう》の上通知する。旅費が入るので斧助氏《おのすけし》の店から十八円借りて 往く、君直《さみすぐ》に払《はら》って置いてくれ、東京でも金が四五十円位は入るから電信打ったら送《おく》ってく れ』という意味が書いてあった。庵主はその手紙を見ると直《すぐ》に駈《か》け出して、商会と云う船場《ふなば》 を駈《か》け抜け、浜辺へ往《い》ったら、已《すで》に端艇《はしお》を一二町も海上に漕出《こぎだ》したところであった。暮沈《くれしず》ん だ春の夜の海面は鏡の如く静に、舷灯《げんとう》と漁火《いさりび》と大空《おおぞら》の星《ほし》とは、互いに濡《ぬ》れた漆《うるし》を辷《す》べるが如 く薄鈍《うすにぶ》き光を流し合うた中に、薄墨《うすずみ》の影法師《かげぽうし》のように二三の人の輪廓《りんかく》が見えている、浜辺へ 駈付《かけつ》けた庵主《あんしゅ》は『おーい来島《くるしま》あー』と呼《よ》べば端艇《はしけ》から『おーい誰《たれ》かあー』と呼返し、庵主は 『俺だアー杉山《すぎやま》だー』と答えたら、来島氏《くるしまし》は『一寸往《ちよつといつ》てくるから跡《あと》を頼《たの》むぞー』と答えた。庵 主は『それはよいが身体《からだ》を大事にしろよー』と云うと『大丈夫《だいじようぶ》じゃアー』と答えた。その次 は問屋の提灯《ちようちん》の「ハ」の印《しるし》の入《はい》ったのを高くさし上げてニツ三ツ振《ふ》ったが間《ま》もなく端艇《はしけ》も黒 い波影《なみかげ》にめり込んだようになって見えなくなり、ただごとんごとんと、總《ろ》を漕《こ》ぐ響《ひび》きのみが 微《かす》かに聞えた。これが庵主《あんしゆ》が来島氏《くるしまし》と今生後生《こんじようごしよう》の生き別れ、永久再会の期なき火宅分離《かたくぷんり》の交 りを、休止するの時であった。その後|庵主《あんしゆ》は天下の形勢《けいせい》に鑑《かんが》み、気掛《きがか》りで、溜《た》まらぬから左《さ》 の意味の手紙を来島氏《くるしまし》に送った。 『君は短気の為めに長策《ちようさく》を誤ってはならぬ。大隈外務大臣《おおくまがいむだいじん》の条約改正問題《じようやくかいせいもんだい》に対しては、天下 何者《てんかなにもの》か慷慨《こうがい》せざる者あらんや。しかしかかる問題の為めに満天下《まんてんか》の人心《じんしん》を憤《いきどお》らしむるは、国 家的観念を向上せしむるにこの上なき好機《こうき》である。而《しこう》して憤《いきどお》るべき憂世《ゆうせい》の問題は、決してこ の一事件のみでない。今当路娥冠彩寃《いまとうろがかんさいべん》の輩《ともがら》は、藩閥相比周《はんばつあいひしゆう》して党を廟堂《ぴようどう》の中《うち》に樹《た》て、国家の 大事《だいじ》を誤る事挙《ことあ》げて数《かぞ》う可《べ》からず、故にこの大隈外相の枇政《ひせい》を責《せ》むるを機会として、もっと もっと志士《しし》の激昂《げつこう》を拡大せしめねばならぬ、左《さ》すれば大隈外相事件は、吾人《ごじん》が為《な》さんと欲す る事業の端緒《たんちよ》である。昔時秦無道《むかししんむどう》なるによりて浦公《はいこう》は志《こころざし》を得《え》たり。大隈外相|横暴《おうぽう》なるによ りて、天下《てんか》の積弊《せきへい》を掃蕩《そハつとう》するの機会を得《う》べし君庶幾《きみこいねがわ》くは誤《あやま》る事勿《ことなか》れ』云《うんぬん》々と云うてやった。 この手紙が未《いま》だ来島氏《くるしまし》に到達《とうたつ》せぬ中《うち》に、一発の爆裂弾《ばくれつだん》はずどんと霞《かすみ》ヶ関《せき》の路上に響いた。庵 主《あんしゆ》の手紙は郵便局で押収《おうしゆう》せられたそうだが、庵主は前後そんな事は知らず、丁度その日は江 州《ごうしゆう》のある富豪《ふごう》と取引事件があって、博多《はかた》の水茶屋《みずぢやや》の常盤屋《ときわや》と云う料理屋で昼餐《ちゆうさん》を共にしてい たら、どかどかどかどかと警部二人《けいぷふたり》に巡査《じゆんさ》五人がその席上に闖入《ちんにゆう》して来て、検事《けんじ》の令状《れいじよう》を提 示《ていじ》し、庵主《あんしゆ》をぐるぐると捕縛《ほばく》して拘引《こういん》した。その時その富豪先生の驚きと云《ハ》うたら咄《はな》しにな らぬ、丸《まる》で驟雨《ゆうだち》に遭《お》うた山車《だし》の人形のように、 瞬《またたき》もせずに屍子垂《へこた》れていた。庵主も何が何 やら更に分らぬが、ずんずん拘引《こういん》して往《ゆ》かれて留置監《りゆうちかん》にぶち込《こ》まれたが、その夜の午前二時 頃まで、監獄内《かんごくない》は大混雑をしている模様《もよう》であった。  折柄庵主《おりからあんしゆ》の脊中がちくちくと痛い、何か虫でも蟄《さ》したかと思い、今まで凭《よ》り掛《かか》っていた後《うしろ》 の羽目板《はめいた》を獄窓《ごくそう》の前にある硝子灯《ガラスとう》の投げた光にすかして能《よ》く見たら、藁《わら》のような物が継《つ》ぎ目 から出てぴんぴん動いている、これは隣房《りんぽう》の誰《たれ》かが俺《おれ》を突《つつ》つくのだなと、能《よ》く注意している と何か小声に云うているようである。それからその羽目板《はめいた》の割目《われめ》に耳を押付けて聞くと『大 隈《おおくま》は軽傷《けいしよう》か重傷《じゆうしよう》か』と云う。庵主《あんしゆ》はマダ訳が分らぬから、今度は庵主《あんしゆ》が口を割れ目に押付け 『君は誰《たれ》れじゃ』と問うと『俺は皿茶碗屋《さらちゃわんや》じゃ来島《くるしま》が』と云《い》う声《こえ》の聞えるか聞えぬ中《うち》にがちゃ がちゃがちゃと佩剣《はいけん》の音がして、看守《かんしゆ》がまた一人|罪人《ざいにん》を連れて来て庵主の房内《ぽうない》に入れ、『神妙《しんみよう》 にせねばいかぬぞ』と云うて出て行った。庵主《あんしゆ》つくづくと考えてはっと気が付いた。皿茶碗 屋《さらちゃわんや》とは玉井騰《たまのいとう》一|郎《ろう》と云う人にて、この人は維新《いしん》以来|国事犯道楽《こくじはんどうらく》にて、大村事件《おおむらじけん》から前原一誠 事件《まえばらいつせいじけん》、西南事件《せいなんじけん》や福岡《ふくおか》、秋月《あきづき》、佐賀《さが》の騒動等《そうどうなど》、何時《いつ》でも関係していぬ事《こと》のない、途轍《とてつ》もない 魔人《まじん》である。それが隣房《りんぽう》に収容せられて大隈云《おおくまうんぬん》々|来島云《くるしまうんぬん》々と云う以上は、来島《くるしま》は何でも大隈《おおくま》 外相を何とかしたに違いないと、やっと始めて悟《さと》った。そこで庵主《あんしゆ》もどかんと腰《こし》が据《すわ》り色々 と冥想《めいそう》に耽《ふけ》りてうとうとする中《うち》に夜も明けた。翌朝の九時頃、濫車《かんしや》で裁判所《さいばんしよ》に送られ、さら に謀殺未遂《ぼうさつみすい》の嫌疑《けんぎ》で拘引《こういん》したとの言渡しを受けたから、来島氏《くるしまし》は大隈外相を謀殺《ぽうさつ》せんとはし たが、その事《こと》が未遂《みすい》であったと云う事が分った。  庵主《あんしゆ》を調べる検事《けんじ》は津田重照《つだしげてる》と云う人で眼光の燗《けいけい》々として見るから意地の悪るそうな、顎《あご》 鬚《ひげ》の一面にある五十|許《ばか》りの人である。一番に一封の手紙を突付《つきつ》けて、この手紙に覚《おぽ》えがある かと云う。それは来島氏《くるしまし》が林斧助氏《はやしおのすけし》に托《たく》して残し置いた手紙を庵主の家宅捜索《かたくそうさく》をして押収《おうしゆう》し た物である、その次に提示《ていじ》した手紙が、前に来島氏《くるしまし》に送った注意書である。『この手紙はその 方の自筆《じひつ》であるか』と聞くから『そうだ』と答えると、さあ調《しらべ》が峻烈《しゆんれつ》である『双方《そうほう》でかかる 手紙を往復する以上は、今度の謀殺事件《ぽうさつじけん》を根本的に知らぬ事はあるまい』と大石《おおいし》を屏風倒《ぴようぷだお》し するように押掛《おしかか》って来る。さあここで庵主《あんしゆ》が過《あやま》った。これは壮年血気《そうねんけつき》の者に得《え》て有《あ》る失策で ある、これ等《ら》は青年の者の心得《こころえ》ておらねばならぬ事故《ことゆえ》、かくは面倒《めんどう》を忍《しの》んで書いて置く。庵 主《あんしゆ》胃潰瘍の病後で頭《あたま》がぐらぐらするところに、この顛末《てんまつ》はまだまだ長いから、この位《くらい》にして 後は次回とするが、庵主《あんしゆ》がこの鬼検事《おにけんじ》と問答して居る時は、恒喜氏《つねきし》はすでに三日以前に東京 の霞《かすみ》ケ関《せき》で、筑前信国《ちくぜんのぶくに》の短刀《たんとう》を以て右の耳尻《みみじり》より左の耳尻《みみじり》まで突貫《つきぬ》き、力に任《まか》せて前へ引い たから、丁度頸《ちようどくぴ》の三分の二は、動脈気管《どうみやくきかん》とも一度に切離して、前古未曾有《ぜんこみぞう》の最期を遂《と》げ、庵 主《あんしゆ》とかつて自殺問答の讖《しん》を実行してうた、庵主《しもあんしゆ》は未《いま》だそんな事は知らぬから、せっせと津田 検事と論争《ろんそう》していたのであった。 五 庵主が受けた国事犯裁判 庵主薬泉に泊し公禍を蒙る  大隈伯謀殺未遂事件《おおくまはくぽうさつみすいじけん》の嫌疑《けんぎ》で庵主《あんしゆ》を調べる津田検事《つだけんじ》は、種《しゆじゆ》々|様《さまざま》々の論法を設けて、正犯来 島《せいはんくるしま》と庵主《あんしゆ》が何等《なんら》かの関係を以て、情を知って帑助《ほうじよ》したものと見做《みな》して掛《かか》って来る、はなはだ しきに至《いた》っては、ある同志の者が已《すで》に今回の事件に付来島《つきくるしま》と庵主《あんしゆ》が共謀《きようぽう》なる事を白状して、 今は遁《のが》るる道なし、もし明白に実状を告白《こくはく》すれば、情状《じようじよう》を酌量《しやくりよう》して減刑《げんけい》の処置《しよち》もあるかの 如く威《おど》しつ賺《すか》しつ詰《つ》め寄《よ》せるのである。庵主《あんしゆ》年は若しぐっと癩《しやく》に障《さわ》った為《た》め、左《さ》の如き問答《もんどう》 となった。それが裁判所《さいぱんしよ》と云《い》う所《ところ》に始めて出て、裁判官と云うものと始めて口を利《き》き、従来《じゆうらい》 悪い事も随分《ずいぷん》したが、縛《しば》られた事が始めてで、総《すべ》て始めて尽《づく》しである所に、検事が嘘《うそ》を吐《つ》い て庵主《あんしゆ》を威《おど》すから起った失策《しつさく》である。  庵主『君は検事で候《そうろう》と云うて、言語動作《げんごどうさ》共に傲慢無礼《ごうまんぷれい》で、総《すべ》て方角違いの事を云うて人を 威嚇《いかく》するが、】体事実を虚構《きよこう》しても、人を罪に落せばそれで満足するのであるか、予は今嫌 疑《いまけんぎ》で捕縛《ほばく》された即《すなわ》ち罪《つみ》に対する所謂《いわゆる》疑問の人であるぞ。それに対して無礼《ぷれい》の言語動作《げんごどうさ》は何事《なにごと》 であるぞ、予《よ》は一|箇《こ》の紳士《しんし》として、また国士《こくし》として、君等《きみら》の如き穢《けが》らわしき獄卒同様《ごくそつどうよう》の者共 に、侮辱《ぷじよく》を受けるはずがない。予に物を問うのなら、まず君が言語動作《げんごどうさ》から改めて、対人《たいじん》の 敬意《けいい》を表し玉え。然《しか》らずんば以後君が何を云うても、決して返答をせねから左様心得《ナさようこころえ》よ』 と云い放《はな》つと、検事《けんじ》も余程癩《よほどしやく》に障《さわ》ったと見えたが、そこが商売柄《しようばいがら》。  検事『その方は紳士《しんし》と云い国士《こくし》と云うなら、知ってもおるであろうが、ここを何と心得《こころえ》て る。ここは天皇《てんのう》に直属《ちよくぞく》して、独立したる司法《しほう》の大権《たいけん》を執行《しつこう》する裁判所《さいばんしよ》であるぞ、その手続さ えすれば、いかなる大官高位の人々でも、呼捨《よびすて》にして良《よ》い。決してこの裁判所の威厳《いげん》を凌辱《りようじよく》 する事は出来《でき》ぬぞ』 と云《い》われ、庵主《あんしゆ》はああしまったと心には思うたが、今更忌《いまさらいまいま》々しくて御免《ごめん》なさいとも口には出 せず棒立《ぽうだち》に立った儘《まま》に沈黙《ちんもく》していた。ところが様《さまざま》々の事を云うて詰《つ》め寄《よ》せるから、大喝虎《たいかつとら》の |吼《ほ》える如《ごと》き大声を発して、  庵主『五月蝿《うるさ》い。貴様《きさま》の如き獄卒《ごくそつ》とは口は利《き》かぬ。それが悪るければ勝手にせよ』 と呶鳴《どな》り付けた。この一|言《ごん》が無用の害となって毎日直立させられるやら、正坐させられるや ら、様《さまざま》々の迫害《はくがい》を受けた。ある日また法廷《ほうてい》に呼出《よぴだ》して、  検事『その方|能《よ》く聞け、この裁判所《さいばんしよ》は他の行政庁《ぎようせいちよう》と違い、天皇より司法の大権を委任《いにん》した もう所故、ここで取扱う法律は明鏡《めいきよう》の如きものである。その鏡に映ったその方故、何と云う ても寸毫《すんごう》も仮借《かしやく》する事《こと》は出来ぬ』  庵主『その明鏡《めいきよう》を君の如き根性の曲り拗《くね》った法官《ほうかん》が取扱《とりあつか》うから、無辜《むこ》の罪人《ざいにん》が幾人《いくにん》でもで きるのじゃ。現《げん》に予《よ》に提示《ていじ》したる証拠物件《しようこぷつけん》、即《すなわ》ち予《よ》が自筆の手紙にもある如く、予は来島《くるしま》に |大隈伯《おおくまはく》を殺してはいけないと書いてあるでないか。来島《くるしま》と云《い》う男は予の知友《ちゆう》である。剛毅寡 言《ごうきかごん》にして決意の明快《めいかい》な男故自分の為《な》さんと欲する事を人に語り、または人より使嗾《しそう》を受くる 如き粗末《そまつ》な人格でない。予もまた使嗾《しそう》せねば仕事のできぬような来島《くるしま》と思うておらぬ。これ は予が死者に対して永久の訣別《けつべつ》としてその人格《じんかく》を語《かた》る予が残生《ざんせい》の友誼《ゆうぎ》である』 と云《い》うた。これ等《ら》が庵主《あんしゆ》が後生《こうせい》に戒《いま》しむる血気《けつき》の言語で、即《すなわ》ちお饒舌《しやべり》の口は斧鉞《ふえつ》よりも身に |禍《わざわ》いすると云う蔵言《しんげん》である。もし後生の人が誤りて囚《とらわ》れの身《み》とでもなったなら、必ず法律の 命令は天皇の命令であると心得《こころえ》、法官《ほうかん》の声は陛下《へいか》のお声と思い、法廷《ほうてい》に立ったら直《ただ》ちに人間 |本然《ほんぜん》の心に復《かえ》り、神《かみ》と同一の心理を以て少しも罪を遁《のが》れようなどと云う心を出さず、善悪《ぜんあく》と なく正直明瞭《しようじきめいりよう》に申立てねばならぬのである。それが所謂《いわゆる》男のする事で、昔の武士が腹《はら》を切《き》る 際に様《さまざま》々の迷言《まよいごと》を云うのも、やはり引《ひ》かれ者《もの》の小唄《こうた》と同じで、卑怯未練《ひきようみれん》の動作である、現に |来島氏《くるしまし》は、善《ぜん》なり悪《あく》なり、自分の思うただけの事を仕《し》て、直《す》ぐに死ぬほど潔白《けつぱく》であったでな いか。その友人の庵主《あんしゆ》は生存《いきなが》らえている上に、口の開《あい》ているままに様《さまざま》々の迷言《まよいごと》を云うた。こ れは取返《とりかえ》しの付かぬ失策である。ただ事実の受返答だけさえしていたならば、法官の心証《しんしよう》も よく、法律と云う陛下《へいか》の大権《たいけん》に対しても、それに服従《ふくじゆう》する国民《こくみん》の良心《りようしん》に対しても、どれだけ 快いか知れぬのである、実に情けない失策をしたものである。  この心でこの間もある者に云い聞かせた。貴様《きさま》は金を遣《つか》い、弁護人《べんごにん》を雇《やと》い、無罪になった と喜び居《い》るが、法律上の罪をさえ遁《のが》るれば、外《ほか》に罪はないと思うているが、俺は来島事件《くるしまじけん》で 法律の罪人にはならなかったが、法律以外に恥《はず》かしいと云《い》う罪《つみ》を犯して苦んでいる。この罪 を犯した者は、生前死後までも決してその罪を償《つぐな》う金も弁護人もないものである。まず世間 で法律上の罪人でなく、立派《りつぱ》な男だと自分も思い、人も許《ゆる》している人物を、俺《おれ》のこの心で無 文《むぷん》の法律に照して見ると、その毎日《まいにちまい》々々に犯《にちおか》す彼等の罪悪は、死刑《しけい》に処《しよ》しても足らぬ位であ る。殺人強盗はその罪が単純であるが、自分の妻子にも打明けられぬ程《ほど》の大罪《たいざい》を、平然《へいぜん》とし て日毎《ひごと》に犯している奴許《やつぱか》りではないかと訓戒《くんかい》したら、見る見る中《うち》にその男の顔の色が変に なって来て、首を垂《た》れて黙《だま》り込んだ、これ等《ら》は庵主《あんしゆ》が実際に経験して云う事であるから、こ れを聞く青年は、もし過失をしたらば決して卑怯《ひきよう》な振舞《ふるまい》などして貰《もら》いたくない。庵主《あんしゆ》もこの 心があるから、個人としては昔日《せきじつ》の大隈侯《おおくまこう》に対して、常《つね》にこの物語をもしてすこぶる温順《おんじゆん》に、 |親切《しんせつ》の尽《つく》されるだけは誠意《せいい》を披瀝《ひれき》していたのである。  まずこの話はこの位《くらい》にして、次に起った問題は、明治二十五年の選挙干渉《せんきよかんしよう》の一|件《けん》である。 |庵主《あんしゆ》は当時海外貿易に従事して香港《ほんこん》に往来し、一方友人|荒尾精《あらおせい》と云う人と咄《はな》し合うて、朝鮮 支那の事を都合善《つごうよ》くしようと手を分けて着手《ちやくしゆ》したのであった。当事はたいてい東京住居《とうきようずまい》で あったが、二十四年の冬頃から脳病に罹《かか》り、久《ひさぴさ》々|振《ぶり》で帰郷《ききよう》し、筑後《ちくご》の船小屋《ふなごや》の温泉に転地療 養《てんちりようよう》をして、寝《ね》たり起《おさ》たりして居《い》たら、翌年の二月頃のある日に、三四十人の青年がぞろぞろ と遣《や》って来た。曰く、  青年『今度議会が解散になって議員の選挙があるとの事で、国の先輩《せんぱい》が皆《み》な往《い》って働いて こいと云いました。それからその働方《はたらきかた》は杉山《すぎやま》の叔父《おじ》さんが船小屋《ふなごや》の温泉に居るから、筑後《ちくご》の |競争《きようそう》だけは総《すべ》て杉山《すぎやま》の叔父《おじ》さんの指図《さしず》を受けよと云いました』 と庵主《あんしゆ》も生れて始めて選挙と云《い》うものに出逢《であ》い左程《さほど》の事《こと》でもないと思いはしたが、  庵主『それは遣《や》っても好《よ》かろうが、俺は今は商売人で殊《こと》に国に居《お》らぬ東京の者である。地 方の事情は知らず、また政党《せいとう》などのする議貝競争《ざいんきようそう》は大《だい》の嫌《きら》いじゃ。誰《たれ》か後《あと》から来るであろう から、それまでお前達は村《むらむら》々へ手分けをして往《い》って、戸別《こべつ》に今度の議貝には誰《だ》れ誰れを投票《とうひよう》 して下さいと頼《たの》んで歩けばそれで好《よ》《キ》|いのじゃ』 と云うて宿《やど》に言い付けて飯《めし》を焚《た》かせ、昼飯《ひるめし》を食わせその日は少《しようしよ》々|体《うからだ》の工合《ぐあい》が悪いので、そ れなりに寝込《ねこ》んでしもうた。ところがその夜の十時半頃|巡査《じゆんさ》が二人と百姓が五人ばかり駆《か》け 込んで来て庵主《あんしゆ》に訴《うつた》えた。今|玄洋社《げんようしや》の青年が、某《それがし》の村で反対党の壮士《そうし》と衝突《しようとつ》して闘争《とうそう》を始め、 |双方怪我人《そうほうけがにん》もでき、また人家間近《じんかまぢ》かい藁《わら》の積《つ》んだ稲叢《いなむら》に火を放ったとの事であるから、そん な浮雲《あぷな》い事《こと》を仕《し》ては大変だと思い、我破《がば》と刎起《はねお》き、二|人輓《にんぴき》の車でその場所へ馳《は》せ付けたら、 全く昼手分《ひるてわけ》した子供上りの者が二三人その村に入込《いりこ》むと、待伏《まちぶ》せして居《お》った三十|人計《にんばかり》の他党 の者が理不尽《りふじん》に殴打《おうだ》し、彼等が自から火を放って凱歌《がいか》し、帰路直《きろただち》に警察署《けいさつしよ》に立寄《たちよ》り、福岡《ふくおか》の |玄洋社《げんようしや》の壮士《そうし》が吾等を迫害《はくがい》して今火を放ったと告訴《こくそ》したのである。  この事実は村民一同と、実地巡回の一巡査の咄《はなし》で本署《ほんしよ》に於ては急報に接し、その子供の如 き青年を拘引《こういん》したと聞いた庵主は実に馬鹿《ばか》な奴等《やつら》ではあると思い、その村長や証人《しようにん》を引連れ、 |派出所《はしゆつしよ》に出頭《しゆつとう》してその青年等《せいねんども》を貰《もら》い受け、一方、その他党《たとう》の壮士等《そうしら》の有様《ありさま》を聞くと、向《むこ》うは 土地で有名《なうて》の悪漢共《あつかんども》、此方《こちら》は土地不案内の青年である。それに対していかにも不法の働きで あるから、帰路《きろ》その選挙の事務所様の所へ赴《おもむ》き、庵主《あんしゆ》は車から下りてそこに立寄《たちよ》り、頭立《かしらだ》っ た人《ひと》に面会して、壮士共《そうしども》の取締《とりしま》りを注意したらば、居合せた二三|人《にん》の博徒《ぱくと》らしい奴《やつ》が、バラ バラと出て来てすこぶる劣等《れつとう》な詞《ことば》で罵《ののし》り合い、直《ただち》に庵主《あんしゆ》に打《うつ》て掛《かか》るから、庵主《あんしゆ》はぎょっとし てこの様子《ようす》では今度は只事《ただごと》ならぬと思い、已《や》むを得《え》ず持《も》ったるステッキで先きに来る奴《やつ》の胸 下《むなした》を突き、返《かえ》す杖《つえ》で左に掛《かか》る奴の耳下《みみした》を殴《なぐ》り、縁端《えんばな》に上《あが》りて来《き》たらば一|打《うち》と身構《みがま》えたら、皆 よろめいて裏の方に逃げたが、何にしてもこれは大変と思い、直《す》ぐに車に乗りて一|里計《りばか》りあ る柳川《やながわ》の城下《じようか》に行き、郡長《ぐんちよう》の某に面会すべく、まず永松毅《ながまつき》と云う先生の家《うち》を訪問してその顛 末《てんまつ》を咄《はな》した。  その時は最早《もはや》十六ヵ所にも争闘が始り、永松翁《ながまつおう》の家《うち》には十四五人の壮士《そうし》も居《お》りて、八方よ りの注進櫛《ちゆうしんくし》の歯《は》を引くが如くである。庵主《あんしゆ》は何とかこの処置《しよち》を考えねばならぬと思い、宿に 着いて食膳《しよくぜん》に向ったが、いかにも気分が悪い、直《ただち》に医者《いしや》を呼んで診《み》て貰うと熱がある。病後 の体故《からだゆえ》動いてはいけないと云う、困《こま》った事だと思う中《うち》、さきに手紙を出した郡長某《ぐんちよう》が訪来《といき》 たので、大略顛末《たいりやくてんまつ》を咄《はな》している中《うち》、脳病《のうぴよう》に伴《ともな》う嘔吐《おうと》を催し、終《つい》に本当の病人となってしもう た。翌日になって聞けば、今度の選挙競争《せんきよきようそう》は、時の内務大臣《ないむだいじん》品川弥二郎氏《しながわやじろうし》が、福岡県令《ふくおかけんれい》の安 場保和氏《やすばやすかずし》と心を合せ、地方の有志者を結束せしめて、熊本《くまもと》の紫溟会《しめいかい》などと気脈《きみやく》を通じ、筑後 方面《ちくごほうめん》を挟撃《きようげき》するのじゃとの事が分り、また筑後《ちくご》の候補者《こうほしや》は、改進党《かいしんとう》の岡田孤鹿《おかだころく》、官僚派《かんりようは》の方 は庵主《あんしゆ》の知友権藤貫《ちゆうごんどうかん》一であるとこの時始めて分ったので、これはじつに困《こま》った事《こと》が出来たと 思うているところに、福岡《ふくおか》、熊本《くまもと》よりは二三日中に数千人の応援《おうえん》が入込んで来て、皆庵主《みなあんしゆ》を 目的にて咄《はなし》を仕掛《しか》けるから、今となっては止《や》むに止《や》まれず、どんと決心をして八方の指図《さしず》を 始めたのが、それから三日|過《す》ぎて、庵主《あんしゆ》の病気も大略軽快《たいりやくけいかい》した時であった。この競争《きようそう》の為《た》め に家《うち》を焼く事数軒《ことすうけん》、人を殺害《せつがい》する事十数人、また負傷《ふしよう》せしむる事数百人であった。この後始 末《あとしまつ》にはとうとう六七万の金と、七八年の年月を、費《つい》やしたのである。 六 |品川弥二郎子《しながわやじろうし》の勤王主義《きんのうしゆぎ》   頑夫巨人を境上に拒み、古史を説いて勤王を論ず  丁度《ちようと》この明治二十五年|選挙干渉《せんきよかんしよう》の後《あと》であった。時の内務大臣子爵品川弥二郎氏《ないむだいじんししやくしながわやじろうし》は、直《ただ》ちに、 |内相《ないしよう》を辞《じ》して侯爵西郷従道氏《こうしやくさいごうつぐみちし》と共に、国民協会《こくみんきようかい》の組織を発起《ほつき》し、東西に別れて遊説《ゆうぜい》を始めた。 |品川子《しながわし》は九州方面を巡廻《じゆんかい》し、まず熊本《くまもと》に入りて同士《どうし》を糾合《きゆうごう》したところが、一番にその旗下《きか》に |馳《は》せ参《さん》じたのが熊本の紫溟会《しめいかい》であった。熊本には相愛社《そうあいしゃ》や改進党《かいしんとう》などもあったが、その内の 一が率先《そつせん》してある勢力に因縁《いんねん》すれば、他の二党は必ずこれに反対する事《こと》に極《さま》っていた。この |時品川子《ときしながわし》には紫溟会《しめいかい》が第一番に着到《ちやくとう》したから、他《た》の二党はぷ1っと膨《ふく》れて、反対の態度を取っ たのである、品川子《しながわし》は藤崎八幡宮《ふじさきはちまんぐう》に郡衆《ぐんしゆう》を集めて演説《えんぜつ》を始めた、その当時《とうじ》の新聞記事に曰く、  の今回の議会解散《ぎかいかいさん》は、かく日《い》う品川弥二郎《しながわやじろう》がしたのである。  の今回|選挙干渉《せんきよかんしよう》は、今《いま》ここに演説《えんぜつ》して居《い》る品川弥二郎がしたのである。  佃晶川弥二郎は、改進党《かいしんとう》と自由党《じゆうとう》が嫌《きら》いである。  刪かく日《い》う品川弥二郎は、国家《こつか》の為《た》めに自由党《じゆうとう》や改進党《かいしんとう》が嫌《きら》いで、国家の為めに議会《ぎかい》を解《かい》   散《さん》し、選挙《せんきよ》に干渉《かんしよう》したのである。  向品川弥二郎は、皇室《こうしつ》を本位《ほんい》として国政《こくせい》に臨《のぞ》まんとする者である。決して人民を本位とす   る者でない。  伺品川弥二郎は、皇室本位|則《すなわ》ち勤王主義《きんのうしゆぎ》で少壮《しようそう》の時より敲《たた》き込んだ根性《こんじよう》で、幾多艱難《いくたかんなん》の歴   史は皆《みな》この主義の結晶《けつしよう》である。  の諸君《しよくん》はこの晶川の主義に賛同《さんどう》し、珈革固《きようこ》なる勤王党《きんのうとう》の組織《そしき》に尽力《じんりよく》せられん事を希望《きぽう》するの   である。 と説立《ときた》てた。これを聞いて紫溟会《しめいかい》の老壮《ろうそう》は、至大《しだい》の感動《かんどう》に打たれ、涙を流して歓喜《かんき》し、躍《おど》り |上《あが》りて賛同したのである。庵主《あんしゆ》は元来、品川子《しながわし》とは数《しぱしぱ》々|往来《おうらい》し、談論《だんろん》を試《こころ》みた事もあったが、 |子《し》は極《ご》く正直で厳粛《げんしゆく》で国家に忠実な人で心窃《こころひそ》かに畏敬《いけい》していた、ところがこの演説《えんぜつ》を聞いて |壮年血気《そうねんけつき》の庵主《あんしゆ》は、強く落胆《らくたん》したのであった。折柄熊本《おりからくまもと》の友人より書状が来た。曰く、  (前略)今回|品川子爵《しながわししやく》の来遊《らいゆう》は、蕾《ただ》に熊本《くまもと》一地方の幸福でなく、九州全体の人心《じんしん》に至大《しだい》の  感化《かんか》を与《あた》え、延《ひ》いて帝国勤王主義《ていこくきんのうしゆざ》の皷吹木鐸《こすいぼくたく》として絶好《ぜつこう》の機会逸《きかいいつ》す可《べ》からざる次第《しだい》に付《つき》、  君《きみ》も其積《そのつもり》にて柳川《やながわ》、久留米《くるめ》、佐賀《さが》と巡路歓迎《じゆんろかんげい》の尽力《じんりよく》を切《せつ》に頼《たの》む。 |云《うんぬん》々の文字が聯《つら》ねてあったから、庵主《あんしゆ》は直《ただち》に返書を書いた。曰く、  手紙見た。品川子《しながわし》はかつて知遇《ちぐう》を辱《かたじけの》うし、数《しばしぱ》々|馨咳《けいがい》にも接《せつ》して畏敬《いけい》して居《い》たが、今回の  議会解散始末《ぎかいかいさんしまつ》の演説《えんぜつ》と、党派組織《とうはそしき》の主意《しゆい》を聞いて実に失望落胆《しつぽうらくたん》の至《いたり》である。かかる粗末《そまっ》の  人物を推戴《すいたい》してその旗下《きか》に行動する事は、熊本諸士《くまもとしよし》の為《た》めに予の取らざる所である。この  意見の下《もと》に品川子《しながわし》の柳川《やながわ》、久留米等《くるめとう》に来遊《らいゆう》せらるるは、品川子《しながわし》の為め、熊本諸士《くまもとしよし》の為に、  予は絶対に阻止《そし》せんとする者である。もし強《し》いてこれを遂行《すいこう》せんとする諸士《しよし》の意気|旺盛《おうせい》な  らば、予がこれを阻止《そし》せんとするの意気もまた旺盛《おうせい》なるべし。予が山門郡観音山下《やまとごおりかんのんさんか》、本吉《もとよし》  村《むら》の寓《ぐう》を離れざる限りは断じて肥筑《ひちく》の国境を越えしめざるの自信を有す。文辞総《ぷんじすべ》て礼を失  するに似たれども、多年の親交徒《しんこういたず》らに隠忍《いんにん》するを欲せず、あえて誠悃《せいこん》を披瀝《ひれき》す。 |云《うんぬん》々と云うような主意であった、その翌晩になって、その親友より一通の電報が来た。曰く、   文見た明日十一時|高瀬停車場《たかせていしやば》まで来てくれ相談したし直ぐ返まつ |庵主《あんしゆ》直に返電した。曰く、   電承知 それで翌朝早起して高瀬《たかせ》の停車場《ていしやば》に着いたら、少し後れてその親友が来た。直にとある宿屋 に伴うて奥まりたる座敷に入った。  彼曰く『一|体《たい》君はどうしたのだ。日頃の勤王主義《きんのうしゆぎ》にも似《に》ず変じゃないか』、  庵主『君こそどうしたのだ。俺《おれ》の勤王主義は饒舌《しやべ》らぬ勤王主義じゃぞ。あの品川《しながわ》と云う男 は勤王の触売《ふれう》り商人《あきんど》じゃ。彼等は勤王を売って飯を食い、爵位《しゃくい》を貪《むさぽ》り、政権に因縁《いんねん》し終《つい》に勤 王を売りて人寄せをなし、以て勢力を扶植《ふしよく》しようとまで企《くわだ》てているのである。そんな者の尻 を追うて、君等はどうする積りだ』  彼曰く『君そんな事を云うたとて、今|党弊天下《とうへいてんか》に充満《じゆうまん》し、民党《みんとう》の気焔四方《きえんよも》に強烈《きようれつ》なる時に 当り、品川子《しながわし》が、巍然《ざぜん》として勤王論《きんのうろん》を以て、天下に咆哮《ほうこう》するのを、吾人《ごじん》は空谷《くうこく》の建音《きようおん》として、 歓迎せねばならぬと思う。饒舌《しやべ》らねば分らぬ勤王論、黙《だま》っていて分る勤王論があるか』  庵主『馬鹿な事は休み休み言え、元来党派と云うものは、争闘《そうとう》の集団である。然《しか》し勤王論 を党派の具《ぐ》に提唱《ていしよう》したら、反対党に不勤王論が起ったらどうするか。勤王は我国民心理の信 念にして、思うて行うべきを条件の第一とする。徒らに口に言うて利得便利《りとくべんり》を得《う》る物ではな い。この見地から俺《おれ》は勤王家《きんのうか》と忠義者《ちゆうぎもの》が大嫌《だいきら》いじゃ。勤王忠義を不断口《ふだんくち》に云《い》うている奴に、 昔から礒《ろく》な奴はおらぬではないか、元来君が村夫子《そんぷうし》のようになって青年子弟を教養し、俺が |商人《あきんど》にまで成下《なりさが》ったのも、藩閥《はんぱつ》と云う政権の詐欺師《さぎし》が蔓《はぴこ》りて、公権を弄《もてあそ》び、私党《しとう》を廟廊《ぴようろう》の中《うち》 に拵《こしら》えるから、それを憤《いきどお》って、身を政界の外に置いているのではないか』  彼曰く『それはそうじゃが、陛下《へいか》の御信任《ごしんにん》を受けて、政治に干与《かんよ》するのを、政権《せいけん》の詐欺師《さぎし》 とは云えまい』  庵主『君はそんな了簡《りょうけん》じゃから、品川子《しながわし》などの勤王論《きんのうろん》に随喜《ずいき》の涙を溢《こぽ》すのじゃ。五十年百 年の後には、藩閥《はんぱつ》を政権詐欺師《せいけんさざし》とは云えまいが、今は確かに詐欺師である、君|能《よ》く考えて見 玉《みたま》え、今上陛下《きんじようへいか》は、維新《いしん》の初に於て、王政復古《のりりり》を詔示《のりしめ》させ玉《たま》い、天子親政《りりりり》の大御心《おおみごころ》を宣《せん》し玉《たも》 うたではないか。それを翼賛《よくさん》し奉《たてまつ》り、所謂《いわゆる》この大詔《おおみことのり》の御主意を奉体《ほうたい》してこそ、従来の政治 番頭の幕府《ぱくふ》を打倒した。これがすなわち藩閥《はんぱつ》じゃ。さすれば越後口《えちごぐち》や会津《あいづ》や五|陵廓《りようかく》の朝敵《ちようてき》 が片付いた上は、藩閥は維新《いしん》の元勲《げんくん》たるべき御褒美《ごほうぴ》を頂戴《ちようだい》して、各郷里《おのおのきようり》に帰り、謹《つつし》んで子弟《してい》 を教養し、以て再び王事《おうじ》に奉尽《ほうじん》すべき時を待たねば、始め王政復古《りりりり》を翼賛《よくさん》した主意が立たぬ ではないか。それに悪番頭《あくぱんとう》の徳川《とくがわ》を追出した跡《あと》に、その徳川よりも劣等な、野武士上《のぷしあが》りの藩 閥《はんぱつ》が、また政治番頭に据《すわ》り込んだ。これでは保元平治《ほげんへいじ》や、元弘建武《げんこうけんぷ》や、元亀天正頃《げんきてんしよう》の武門武 士《ぷもんぶし》の政権争奪《せいけんそうだつ》よりも、一層|劣等《れつとう》な嘘吐《うそつ》き勤王《きんのう》の、政権の詐欺師《さぎし》ではないか。それと同じ径路 色彩《けいろしきさい》ある品川子《しながわし》の勤王論《きんのうろん》を旗幟《きし》として、人間最低の党派《とうは》を栫《こしら》える事に、君等が狂奔《きようほん》するのは、 俺は実に残念《ざんねん》に思う』  彼曰く『何だか議論が脇道《わさみち》へ移ったようじゃが、陛下《へいか》が御信任《ごしんにん》あらせられたら、藩閥《はんぱつ》でも 何でも王政《おうせい》ではないか』  庵主『それなら清盛《きよもり》も頼朝《よりとも》も尊氏《たかうじ》も徳川《とくがわ》も、皆|陛下《へいか》から征夷大将軍《せいいたいしようぐん》の宣下《せんげ》があったら、王 政《おうせい》で勤王《きんのう》の臣下《しんか》と云うのか。藩閥《はんばつ》に限って王政の臣《しん》で、勤王の士《し》ばかりと思うているか。俺 の云う王政とは、古《いにしえ》に復《かえ》る王政である。古《いにしえ》の王政は古史《こし》にも明瞭《めいりよう》であろうが、一例として 俺はかつて朝倉《あさくら》の宮《みや》の旧記《きゆうき》を読んだことがある。すなわち天智天皇《てんちてんのう》の木《き》の丸殿《まるどの》の事《こと》じゃ、曰 く、 刪|宮室三椽《きゆうしつてん》と云《い》うて、皇居《こうきよ》は三棟《みむね》であった。 伽それが皮の付いた丸木柱《まるきぱしら》である。 個そうして藁《わら》の苫《とま》で葺《ふい》てある。 ∞その苫《とま》が荒《あら》かった為《た》めに、陛下《へいか》の御袖《おそで》が夜露《よつゆ》に濡《ぬ》れていたと云うお歌《うた》が、   秋《あき》の田《た》の刈穂《かりほ》の庵《いお》のとまを荒《あ》らみ我衣手《わがころもで》は露《つゆ》に濡《ぬ》れつ・  の御詠《ざよえい》である。 樹また宮垣胸《きゆうえん》に上《のぽ》らずで、木《き》の丸殿《まるどの》の御垣《みかき》は胸よりも高くなかったとの事である。 ゆそれで百姓が早朝野良《そうちようのら》に往《ゆ》く時肩《ときかた》にした鍬《くわ》を下《おろ》し、宮垣《きゆうえん》の外より拝《はい》して『上様《うえさま》お早うご  ざいます』と御挨拶《ごあいさつ》を申上る。 の陛下《へいか》は「よう稼《かせ》ぐ男よ」と仰《おお》せられる。 佃百姓が野良《のら》より帰りに、山百合《やまゆり》の花を手折《たお》りて、御垣《みかき》の外に跪《ひざまず》いて、「上様百合が咲い  ておりましたから」と手を伸べて捧《ささ》げまつると、.陛下《へいか》は御手《おんて》ずから「よき花をよ」と宣《のたも》  うて、瓶《かめ》に挿《さ》し賜《たも》うたのが、   ときをぞしるき山百合《やまゆり》の花《はな》  のお歌《うた》である。 佃ある日|御垣《みかき》の外を子娘《こむすめ》が腰《こし》を屈《かが》めて、「上様お早うございます」と云うて行過ぎた。  0∞陛下《へいか》は今《いま》物《もの》云うて往った娘《むすめ》は、八兵衛の子であったか、杢兵衛《もくべえ》の子であったか、と仰《おお》せ られた。  即《すなわ》ち    朝倉《あさくら》や木《き》の丸殿《まるどの》に我居《わがお》れば      名《な》のりをしつ・行《ゆ》くは誰《た》が子《こ》ぞ   とのお歌である。  0"斯様《かよう》に古《いにしえ》の王政《おうせい》の天皇は、人民稼樒《じんみんかしよく》の事を思召《おぽしめ》して、しばしば皇居《こうきよ》を遷《うつ》し賜《たぎ》い、丸柱《まるぱしら》、   荒蓆《あらむしろ》の皇居に在《ま》しまして、直接八兵衛も杢兵衛《もくべえ》も御懇意《ごこんい》であった。 さあかくの如《ごと》く君民《くんみん》の間が親しき為め、  田王政の陛下《へいか》は「民《たみ》は国《くに》の本《もと》なり」と仰《おお》せられる。  のまた王政治下《おうせいじか》の人民は「陛下《へいか》は我《われわれ》々の父母なり」と慕《した》い奉《たてまつ》る。 この王政君民《おうせいくんみん》の間には、勤王家《きんのうか》も、忠義者《ちゆうぎもの》も社会党《ソシヤリスト》も、無政府党《アナキスト》も、虚無党《ニヒリスト》もないのである、 かくのごときものが王政で、今上陛下《きんじようへいか》は維新《いしん》の初めに、それに復古《ふつこ》すると仰せられたのであ る、然るに勤王家と忠義者が出て来てせっかく人民と天皇と親眤《しんじつ》せんとしているのにそれ頭 が高い、物を云うては恐れ多い、お姿を拝《はい》しては眼が潰《つぷ》れる、とこの親子の中を隔離《かくり》し、仲《なか》 に在《あ》って自分が威張《いぱ》るから、不平党《ふへいとう》や謀叛党《むほんとう》などが出てくるのである。それで俺が勤王家と、 忠義者が、一番嫌いと云うのである。所謂藩閥《いわゆるはんばつ》などは、この王政《おうせい》を翼賛《よくさん》して起《おこ》っていながら、 この君臣《くんみん》の間を劣悪《れつあく》に隔離《かくり》した食言者《しよくげんしや》で、俺が政権の詐欺師《さぎし》と云うのはこの故である。お互 に生命をも賭《と》して、討閥《とうばつ》を企《くわだ》て、一円の月給取にも成れぬのはこれを憤《いきどお》るからではないか。 |況《いわ》んや今の王政は、昨今|憲法《けんほう》と云う有難《ありがた》い御規則《ごきそく》ができて、この君民の間に各自守るべき道 を詔示《のりしめ》させ賜《たも》うた為《た》め、いよいよ勤王家も忠義者も入用《いりよう》でない。日本全国の人民は全部勤王 家である。また忠義者である。それを品川子如《しながわしごと》き一|介《かい》の男が、我物顔《わがものがお》に勤王を口にし人寄の 道具にするとは、言語道断《ごんごどうだん》である。元来党派とは同類と云う事で、礒《ろく》な物《もの》でない。貧乏人の 集りでも党派であるぞ。俺が藩閥《はんぱつ》を打たんとして、藩閥《はんばつ》よりも劣等な党派の有様を見て、そ れを先きに打たんが為めに、未だに藩閥《はんばつ》を打ち得ぬのである。たださえ悪い藩閥が、己《おのれ》より も劣悪な党派まで持《こし》らえるのを、どうして賛成する事が出来るか。況《いわ》んや今議会は松方総理《まつかたそうり》 に向って、選挙干渉《せんきよかんしよう》の攻撃《こうげき》を始めている、首相は「政府は決して干渉はせぬ」と頑強《がんきよう》に答弁 をしているところに、その旧同僚《きゆうどうりよう》であった品川子が、藤崎《ふじさき》八|幡宮《まんぐう》の神前に誓い「選挙干渉を したのはかく云う品川である、当時の内務大臣《ないむだいじん》である」と告白している。もしこれを議会が |提《ひつさ》げて松方内閣《まつかたないかく》に肉薄《にくはく》したなら何とする。現閣員に対する責任《せきにん》もなく、友誼《ゆうぎ》もなく、義気《ぎき》も なく、士心《ししん》もなき、全《まつた》く狂的落伍者《きようてきらくごしや》たる品川子を無暗《むやみ》に推戴《すいたい》する君等に、俺が忠告するのが 無理か、如何《どう》じゃ。而《そ》して俺が今整理をしている、旧柳川《きゆうやながわ》領はこの品川子干渉《しながわしかんしよう》の為《た》めに家を 焼かれ、人を殺し、多数は今なお牢獄《ろうごく》に繋《つな》がれて、人心全く荒《すさ》んで、適従《てきじゆう》する処《ところ》を知らぬ有 様である、何の面目《めんもく》あってめそめそとこの馬鹿演説《ばかえんぜつ》を為《し》に来るのであるか。またその旗持《はたもち》と なって、君等がどうしても無理押しに子《し》を引張って来れば、俺は残念ながら吾輩青年《わがはいせいねん》の生命 を賭《と》してまでも、俺の生きている間は、一歩もこの地《ち》には踏《ふ》み込《こ》ませぬと覚悟《かくご》をしている』 と云うたら、その庵主《あんしゆ》の友人はしばらく考えていたが『なるほど政治趣味を知らぬ君として は、もっともの議論である、能《よ》く分ったから、俺もこれからぼつぼつ熊本《くまもと》へ帰って考えて置《お》 こうよ』と云うて、晩方《ぱんがた》に別れたが、それなりに品川子《しながわし》はとうとう柳川《やながわ》、久留米《くるめ》、福岡《ふくおか》に来《きた》 らず、三角《みすみ》から直ぐ長崎《ながささ》に渡り、船で小倉《こくら》に廻りて、下《しも》の関《せき》へ出て、帰東《きとう》せられた。その後 程経《のちほどへ》て品川子に会うた時、庵主が二十歳前後の勤王論の咄《はなし》になって、大笑をした事があった。  因《ちなみ》に日う、庵主《あんしゆ》が壮年《そうねん》の時の討閥論《とうばつろん》に引替え、今日《こんにち》その閥族《ぱつぞく》にむしろ左袒《さたん》しているのは、 党閥の方が劣等過ぎるのと、藩閥を凌駕《りようが》するだけの人物がないのと、国政の燮理《しようり》が接続して 急を告ぐるからである。この議論の偏固《へんこ》にして、激越《げきえつ》なのは青年の時の放漫実写《ほうまんじつしや》であるから である。読者諸君はこの間に不言《ふげん》の興味《きようみ》のある事を知って貰《もら》いたい。 七 |庵主《あんしゆ》一|代《だい》の大失策《だいしつさく》   衣枹を典じて大辱を蒙り、 人格に服して自戒をなす  前回百魔伝中の謹格者品川子爵《きんかくしやしながわししやく》と最も懇意《こんい》であった庵主《あんしゆ》の友人|荒尾精氏《あらおせいし》は、尾張名古屋《おわりなごや》の 産で夙《つと》に身を陸軍の軍籍《ぐんせき》に置き、深く亜細亜《アジア》東方の将来を憂《うれ》え、自から東方斎《とうほうさい》と称して寤壯《ごぴ》牀 |心身《しんしん》をこの事《こと》に打込《うちこ》んだ人傑《じんけつ》であった。然《しか》るにこの人は資性《しせい》の深謀遠慮《しんぼうえんりよ》あるにも似ず、平生《へいぜい》 の正直《しようじき》と厳格《げんかく》と友誼《ゆうぎ》の切なるとには誰《たれ》もある場合に困る事があった。これに反して庵主《あんしゆ》は最 も不真面目《ふまじめ》にして、常に諧謔《かいぎゃく》を加味したる悪戯者《いたずらもの》であるのを、荒尾氏は何と取違えたか、非 常に庵主を信用して時に因りては下《くだ》らない事まで大真面目《おおまじめ》に相談をするのであった。ある時 |庵主《あんしゆ》と頭山満氏《とうやまみつるし》と芝《しぱ》の信濃屋《しなのや》と云う旅館に泊って、その宿が潰《つ》ぶれる程《ほど》喰い倒している中《うち》に、 頭山氏は郷里に緊急な用事があって帰った。その跡《あと》に庵主《あんしゆ》が抵当代《ていとうがわ》りに居残りていたところ が、荒尾精氏が尋ねて来て、庵主等が宿料《しゆくりよう》にまで詰《つ》まりて困難をしている事を聞き、日頃の 友情|忽《たちま》ちに湧《わ》き、千|辛万苦《しんぱんく》の心配をして終《っい》に品川子爵《しながわししやく》に大義名分《たいぎめいぷん》を説《と》き、親友|杉山《すざやま》等が巷閭《こうりよ》 の旅店《りよてん》に坤吟《しんぎん》するを済《すく》わずんば、顛浦《てんばい》も自から安《やす》んずる能《あた》わず、かかる憂国《ゆうこく》の志士《しし》を救護す るは閣下《かつか》もまたその任《にん》に非《あら》ずやなどと八方|説破《せつば》してついに彼の貧乏な品川子をして、工面魂《くめんこん》 |胆《たん》を尽《つく》して数百金を才覚《さいかく》せしめ、これを庵主《あんしゆ》に与《あた》えたのであった。庵主は年は若しまたそん な大変な金とは知らず、宿屋の借も茶屋《ちやや》の借《かり》も、借を払《はら》う上からは同じ事である。これを茶 屋に払えば今夜からまた遊びに往《ゆ》かれるから、その方が余程《よほど》便利じゃなどと思い、その晩直《ぱんただ》 ちに茶屋の方に払うてしもうたところが、その宿屋の娼《ばあ》さんは荒尾氏《あらおし》に密告《みつこく》して、杉山《すざやま》さん は貴方《あなか》の栫《こしら》えて下さったお金を私の方には少しも払わず、全部茶屋の方ばかりに払うて毎晩 遊びに往って帰っては来られぬと訴《うつた》えた。ところが荒尾氏は非常に激怒《げきど》した。それは庵主《あんしゆ》に ではなく、その密告した媼《ぱあ》さんに対してであった。  荒尾『この媼不届《ばばあふとどき》な奴じゃ。杉山氏《すぎやまし》は左様《さよう》な粗末《そまつ》な人間ではないぞ。彼は大義《たいぎ》を弁《わきま》え人情 を解し最も友情に厚き大人《たいじん》である。予が聊《いささ》かの金晶《きんびん》を調えてかくの如《ごと》き巨人《きよじん》の用に供《きよう》するは 予の光栄である。傷《きずつ》ける者に事を欠いて杉山氏等の人格を誹議《ひざ》するは、眼あって黒白《こくぴやく》をも解 せぬとはなんだ。この以後決して左様《さよう》の事を言うと赦《ゆる》さぬぞ』 と呶鳴《どな》り付けた。され共払《どもはら》わぬが事実であるから、媼《ぱあ》さん今度は荒尾氏の懇意《こんい》な番頭《ばんとう》に帳面《ちようめん》 を持たせて荒尾氏の宿に遣《や》り、一銭も受取らぬ理由と証拠とを陳弁《ちんべん》させたのである。ところ が荒尾氏《あらおし》はまた非常に怒った。  荒尾『この証拠《しょうこ》や陳弁《ちんべん》を聞けばあるいは宿料《しゆくりよう》は払わざりしやも知れぬが、決して茶屋払の 方をしてあの金を無駄遣《むだづかい》に供《きよう》したなどとは思いも依《よ》らぬ事である。彼は彼が責任として支那 へ出立《しゆつたつ》させねばならぬ男が一二人ある。自然その男を支那へ立たせる費用に供したかも知れ ぬ。予は今杉山氏《いますぎやまし》に対して彼の金銭出納《きんせんすいとう》の事実などは、聞くさえ無上《むじよう》の無礼《ぷれい》であると思う。 |汝等《なんじら》決して彼人《あのひと》を疑《うたぐ》ってはならぬ。予はまた別に金策の考慮《こうりよ》をなして汝等《なんじら》を安んずるの方法 を講《こう》ずるであろう』 と説諭《せつゆ》したそうだ。庵主《あんしゆ》は後《のち》にてこの咄《はなし》を聞きいか許《ばか》り悪摺《わるず》れた厚顔《こうがん》の庵主《あんしゆ》も、この荒尾氏《あらおし》 の資性《しせい》の美点《ぴてん》には辟易《へきえき》せずにはいられぬから、何とかして大至急支那に立たせる男の旅費だ けでも拵《こしら》え、次に宿屋がぎゃあぎゃあ云わぬだけの慰安《いあん》は与《あた》えねばならぬと決心した。その 翌日|庵主《あんしゆ》が外より帰って来て次の間にある箪笥《たんす》を見ると抽斗《ひきだし》から何か衣物《さもの》の端が出ている。 その室は素《も》と頭山氏《とうやまし》と庵主《あんしゆ》と二人同居の部屋であって、その箪笥《たんす》は頭山氏の所有ではあるが、 |疾《と》くに明殻《あきがら》になって、中身は質屋《しちや》の庫《くら》に宿替《やどがえ》をしているのに、不思議《ふしぎ》じゃなあと思いつつ、 上の抽斗《ひきだし》をずうッと引明けると、何やら衣物《きもの》が一杯|這入《はい》っている。その次もその次も四段と も皆|充満《じゆうまん》している。そこで庵主《あんしゆ》はしばらく考えたが、まず調べて見ようと思い、晩食の時に |給仕《きゆうじ》のお手伝いに向い、 『頭山《とうやま》が国《くに》に立つ時に質受けをした模様かどうじゃ』 と問うたら、お手伝いは、 『ハイ清吉《せいきち》さんが(頭山氏《とうやまし》の車番)お使に往って立派にお召替《めしか》えをなさって御立《おたち》になりまし た』 と答えたから、庵主《あんしゆ》は『占《し》めた。ハハァ頭山の品物があれ程有ればまず二百円は大丈夫《だいじようぷ》じゃ』 と腹の中に北叟笑《ほくそえ》んだ。それから食事を仕舞《しま》い襖《ふすま》を締《し》めてことごとく簟笥《たんす》を明け、中にある |膝掛《ひざか》けの毛布に全部の衣物を包み、直に車番の清吉《せいきち》の処《ところ》に往《い》って質使《しちづかい》に往くべく命じた。何 がさて半分は質使《しちづかい》専任の車番だから気軽に受合うたが、堂々と質に入れる事は宿の手前もあ るから、横丁の路地に清吉《せいきち》を廻らせ、庵主《あんしゆ》が二階からその包を釣下げて清吉《せいきち》に渡し、早速若 干の金を得て、直に待ちに待っていた支那行の男に面会をして、明日|直《すぐ》にと出立《しゆつたつ》を命じた。 これで一つはやッと安心して、今一つは明日より取掛ろうと思いつつ、宿屋慰安《やどやいあん》の金策《きんさく》に耽《ふけ》っ てうとうととついに眠に就いてしもうた。ところが翌朝未明に次の室が何だかざわざわと騒 がしい。夢心《ゆめごころ》に庵主《あんしゆ》は非常に不快に感じ、 『誰《たれ》だ早くから人の座敷《ざしき》に来て立騒《たちさわ》ぐ奴は』 と大声に詰《なじ》ると、例の媼《ばあ》さんが、 『どうも相済みません、御覧下《ごらんくだ》さいませ。あの手前所《てまえところ》の御定宿《ごじようやど》の某県の代議士様《だいぎしさま》お二人が、 |昨冬《さくとう》議会がお休になりまして、お正月を仕《し》に中帰《なかがえ》り遊ばしましたから、お預りのお召物《めしもの》一切 を、頭山様《とうやまさま》のお箪笥《たんす》が明いておりましたからお借をして、皆これに入れて置きましたら、昨 夜泥棒が悟《は》一旭|入《いり》まして一枚残らず持って往きました。今朝九時にその代議士様は上野《うえの》にお着に なりますから、お座敷に運んで置こうと思いまして見ましたら、右の始末《しまつ》でございますから |嫁《よめ》などは気を失わん許《ぱか》りに泣いております』 と答えた。庵主大抵《あんしゆたいてい》の事には驚かぬが、はッと思うて起上った。『サアしもうた。大変な間違《まちがい》 を起した。これも知己荒尾《ちきあらお》の正直に釣込《つりこ》まれて、とうとう泥棒《どろぽう》まで仕《し》てしもうた。全体人間 はかかる時の処置は何とした物であろうか』と、ぐッと思案《しあん》に耽《ふけ》り、幼少より学び得た古人《こじん》 の美事善行《びじぜんこう》から、金言格言座右《きんげんかくげんざゆう》の銘《めい》までを頭の中にかい探りて、この事《こと》の処置処方《しよちしよほう》を考えて みたが、読破《どくは》十年の書物の中には、顔も知らぬ代議士の衣物を質に置いて、宿屋の嚊《かかあ》の泣く のを慰《なぐさ》むる方法などは一字も書いてない。ハハアこれは道を聖賢《せいけん》に問《と》わず、例を古今《ここん》に覓《もと》め ず、すなわち其日庵《そのひあん》の一流で、事例《じれい》を百年に遺《のこ》す底《てい》の妙案《みようあん》により、この事《こと》を片付けねばなら ぬのじゃなあと決心して、きっと臍《ほぞ》を固めて考えた。すなわち逆旅豢上《げきりよきんじよう》の孤客《こかく》が、二三十分 間の坐禅《ざぜん》は、忽《たちま》ちにして妙案《みょうあん》を案出した。そこで直《ただち》に刎《は》ね起き、宿屋の帳場に下りて往った。 『皆安心せよ昨夜の泥棒《とろほう》が分ったぞ』 と云うたら亭主《ていしゆ》も媼《ばあ》さんも一斉に、 『工、どうしてです』 と云うから、 『その泥棒《どろぽう》は俺《おれ》じゃ、俺がこれこれの間違《まちがい》で昨夜清吉に質に入れさせたのじゃ』 と云うと一同はまた二度びっくり、 『それでは旦那様《だんなさま》どうしたら好《い》いでしょう。只今番頭《ただいまばんとう》がお迎に行っておりますから、もう追 付《おつつ》けお着になりますが』 とおろおろして云う。 『イヤ心配するな。俺に考えがあるから、マア風呂《ふろ》が沸《わ》いておれば一|杯這入《ぱいはい》ることにしよう』 と云い、風呂に入って上って来たら、今方《いまかた》着いた二代議士は已《すで》に座敷に通り、お手伝いが一 寸顔出をした許りで、主人等は丸で顔出をせぬとの事である。どの座敷かと問うたら、六番 との事故|庵主《あんしゆ》は濡手拭《ぬれてぬぐい》を下《さ》げたまま、その六番の座敷の襖《ふすま》をがらッと明けたら、二人は火鉢《ひぱち》 にさし向いで、小作《こづく》りの男が洋服を着てウヅ振《ふる》うている。庵主《あんしゆ》がすうッと這入《はい》って往《い》ったの で怪誇《けげん》な顔をして居るから、庵主は静にその火鉢《ひばち》の一方に坐り込み叮嘩《ていねい》に辞義《じぎ》をして、  庵主『僕はあの座敷《ざしき》に同県の頭山満《とうやまみつる》と申す者と同宿《どうしゆく》している、福岡《ふくおか》の杉山某《すぎやまぼう》でありますが、 |貴下《きか》にお詫《わ》びをせねばならぬ事があって、推《お》して推参《すいさん》して来た訳です。その事柄《ことがら》は』 |云《うんぬん》々と、荒尾氏《あらおし》、頭山氏等《とうやましら》と共に貧乏をしている事より、間違《まちがい》の起《おこ》った原因、支那行の男の 旅費に困却《こんきやく》をした顛末《てんまつ》、宿屋《やどや》の狼狽心痛《ろうばいしんつう》の有様《ありさま》、庵主《あんしゆ》が親友の義金を茶屋払《ちややばらい》にした過失の根 元《こんげん》まで、少しの落《おち》もなく物語り、全く宿屋の不埒《ふらち》にあらずして、全部庵主《ぜんぶあんしゆ》の不始末《ふしまつ》に属する 事である、とくわしく陳述《ちんじゆつ》し、どうかしばらくのところ、庵主《あんしゆ》が金策をして質物《しちもつ》を受け出す まで辛抱《しんぽう》をしてくれられよと、すこぶる真面目《まじめ》に陳謝《ちんしや》したところが、一人は少なからず吃驚《きつきよう》 の目を艀《みは》っておったが、一人の小《こ》デップリとした髯《ひげ》のある代議士先生は、耐《た》え難《がた》かりしかぷ うッと笑い出して、 『イヤ大変|面白《おもしろ》いお咄《はなし》を聞きました、イヤ間違《まちがい》は世の中にある物です。その間違も偶《たま》にはこ んな面白い事が出来ます、私共は毎日議会に許り往っておりますから、着物はどうでもなり ます。しかし大変《たいへん》お困りの御様子故、少々なら御用立《ごようだて》ても宜敷《よろし》ゆうございますが』 と云うから、 『そう願えれば大変有難い訳です』 とずうずう敷云《しくい》うてみると、紙入《かみいれ》から三十円出して貸してくれた。その金で庵主《あんしゆ》は即日|東京《とうきよう》 を立って大阪《おおさか》に往《ゆ》き、知人の西井某《にしいぽう》と云う石炭屋《せきたんや》に金を五百円借りて、その代議士《だいぎし》に送り付 け、質受《しちうけ》も宿屋《やどや》もその代議士《だいぎし》が程能《ほどよ》く始末《しまつ》をしてくれた、以来|永《なが》くこの二代議士とは面白く 交際をし、後にはこの二人《ふたり》が大変国事上にも尽瘁《じんすい》してくれたのである。これが荒尾氏美点《あらおしぴてん》の 性格によりて、庵主《あんしゆ》が鞭撻《べんたつ》せられ、自勉《じべん》以て道に進んだ一例である。 八 |日清構和談判《につしんこうわだんぱん》に対《たい》する警告《けいこく》   大官に謁して大義を論じ、嫌疑に遭うて自説を述ぶ  征清《せいしん》の役に日本《にほん》が大捷《たいしよう》して、ついに李鴻章《りこうし》は日本《にほん》下の関に全権委員《ぜんけんいいん》として出張し来りだん俄 |讐瓣集《こコとうこう》纏篶ポ躰櫓糞《しゆんぱんろう》灘糞佚、灘 の内意を知っていたから、大いにその不利を憤慨し、下の関阿弥陀寺町の大吉と云う宿屋に 泊《とま》り込み、始めは長文の意見書《いけんしよ》を以て、伊藤公《いとうこう》に警告《けいこく》した。もし聞かれざる時はこの談判《だんぱん》を 沮止《そし》するの手段までを提出した。公《こう》もよほど五月蝿《うるさ》く思われたかして、庵主《しゆ》をひそかに春帆 |楼《しゆんばんろう》に呼んで面会の上|慰撫《いぶ》せられたのであるが、とうとう庵主《あんしゆ》と意見の一致点を見出す事がで きず、咄《はなし》はとうとう破裂《はれつ》した。その庵主《あんしゆ》の咄《はなし》の要領はこうである。 『戦捷《せ人しよう》の代償《だいしよう》に遼東半島《りようとうはんとう》を日本《にほん》が領有《りようゆう》するのは、日本亡滅《にほんぽうめつ》の基《もとい》である。なぜなれば遼東《ようとう》の |地《ち》は烈寒瘠土《れつかんせきど》にして天与《てんよ》の富源《ふげん》に乏《とぽ》しく、殊《こと》に国土の基礎となるべき人民は、発展途上の民 族であって、田畑に高梁《こうりよう》の生育《せいいく》している間は百姓をするが、その農作《のうさく》が終ってからは、全国《ぜんこく》 濁流泥土《だくりゆうでいど》の国と変化し、人民《じんみん》もまた馬賊《ぱぞく》やその他の不良業に従事して、ひどい事《》ばかりを生 |業《せいぜさよう》としている土地である。これが現代に於て始めて発明開業したる業務でなく、先祖代々数 百年前よりの因習《いんしゆう》で、農業《のうぎよう》とその他を兼業しているのである。かかる人民の充満した土地を 取って我国《わがくに》の領土《りようど》となし、いかなる財源《ざいげん》を以てこの国を統治《とうち》しようと思召《おぽしめ》すか、収入のない 国に支出が厖大《ぽうだい》なる以上は、勢《いきお》い母国より年々多大の補足を与えねばならぬ。殊《こと》に行政の一 事に付ても、かかる人民を相手にその生命財産を安全に保護する事が出来ますか。一外国人 が旅行するに、一のカバンを盗まれても、この厖大《ぼうだい》なる領土が不秩序《ふちつじよ》にして極めて貧しい民 族たるものを相手に、どうして犯人《はんにん》を取押える事が出来ますか。止《や》むを得《え》ず苦しいながらも |軍政《ぐんせい》を布《し》かねば仕方がない。さすれば永久戦時状態を持続せねばならぬでは有りませぬか。 そんな恐るべき費用の支出が日本に出来ますか。ここに於て遼東半島《りようとうはんとう》の領有《りようゆう》は日本の亡滅《ぽうめつ》を 予期するものであります。殊《こと》に世界は遼東《りようとう》の地から渤海湾《ぼつかいわん》の一帯を掛けて、東洋安危《とうようあんき》の鎖鑰《さやく》 と誤解《ごかい》しております。東洋安危《とうようあんき》の鎖鑰《さやく》は渤海湾《ぽつかいわん》ではなくて台湾海峡《たいわんかいきよう》であります。なぜなれば |渤海《ぽつかい》一|帯《たい》の地に強国が敵となって深入して来れば、朝鮮《ちようせん》九|州《しゆう》の地帯を枢区《すうく》として日本の軍備 に組入れて有りますから、少しも恐るる事はありませぬが、もし強外国の敵が台湾海峡《たいわんかいきよう》を侵《おか》 して、南清《なんしん》七|省《しよう》の中《うち》に縦令《たとい》小区域でも、軍備《ぐんび》の足溜《あしだま》りを拵《こしら》えたなら、世界の列強《れつきよう》は皆|機会均 等主義《きかいきんとうしゆぎ》で、我《われ》も我《われ》もと軍備《ぐんぴ》の足溜《あしだま》りをこの七省内に拵えます、さすれば帝国《ていこく》の亜細亜《アジア》モンロー 主義は忽《たちま》ちに破れるのみならず、日本は戦わざるに直《ただ》ちに軍備に亡滅《ぽうめつ》してしまいます。それ は西洋《せいよう》にあると思うた強国が、一斉に東洋《とうよう》に移転して来るからであります。故に日本は不利 なる遼東《りようとう》の地を取らず、有利なる台湾《たいわん》を押え湧湖島《ほうことう》の軍備を厳《げん》にして、いかなる強国も南清《なんしん》 七|省《しよう》に爪も掛得《かけえ》ぬようにせねば、日本は亡びます。今度の日清戦争《につしんせんそう》も、亜細亜《アジア》の領土を完全 に保有して、東洋平和《とうようへいわ》の基礎を堅固《けんご》ならしむる為めにこそ清国《しんこく》を膺懲《ようちよう》したのではありませぬ か。然《しか》るにもし遼東半島の地を得るを主眼として談判《だんぱん》をなす時は、日本が侵略《しんりやく》の目的で戦を |宣《せん》した事になって、第一、陛下宣戦《へいかせんせん》の御主意《ごしゆい》に悖《もと》り、第二、経済的亡国の領土を背負《しよ》い込み、 第三、東洋平和の枢区《すうく》を逸《いつ》し、第四、世界列強《せかいれつきよう》には侵略主義《しんりゃくしゆぎ》の悪名を叫唱《きゆうしよう》せられ、第五、日 本は従来手も足も出ぬように、軍備も外交も支那海の東北以内に圧迫《あつばく》せられて、大世界《だいせかい》に対 する発言権はない事になりますぞ。これが日本の亜細亜領土保全《アジアりようどほぜん》の国是《こくぜ》であって、不良無用《ふりようむよう》 の遼東《りようとう》を領有して、一|時愚民《じぐみん》の賞讃《しようさん》を博《はく》するような事は絶対に避《さ》け、帝国《ていこく》が東洋《とうよう》の安危《あんき》を保 障し得《う》るだけの手段に考慮《こうりよ》を尽《つく》さねばならぬと思います』 と云《い》うにあった、ところが伊藤公《いとうこう》は、 『至極《しごく》もっともの議論《ぎろん》ではあるが、自分は命《めい》を奉《ほう》じて相当の権力を持っているから、君等の 如き書生論《しよせいろん》に習《なろ》うて今日《こんにち》どうするこうすると云う事は出来ぬ。これ等《ら》は大政外交《たいせいがいこう》の機微《きぴ》に属 する事故、余り立入って論ぜぬがよい』 と云われるから、庵主《あんしゆ》はぐッと癪《しやく》に障《さわ》り、年は若し前後の考えはなし、何でもこの構和談判《こうわだんぱん》 が片付《かたづ》いては大変とばかり思い、 『それでも閣下《かつか》の談判要領《だんぱんようりよう》は、私《わたくし》が申上げた通りの主意《しゆい》で御進行《ごしんこう》になっていると思いますか ら、それでは帝国《ていこく》の不利この上なく、他日|臍《ほぞ》を噬《か》むの悔《くい》を遺《のこ》しますから、御警告《ごけいこく》を申上るの であります。閣下は書生論と仰《おお》せらるるが、私も帝国忠良《ていこくちゆうりよう》の臣民《しんみん》でありますぞ。閣下が権力 呼わりで利害顕著《りがいけハちよ》なる議論を書生論として、無下《むげ》に排斥《はいせき》せらるるのは、国家の為めお宜敷《よろしく》な いと思います。私は閣下の如く権力は持ちませぬが、また青書生《あおしよせい》一|個《こ》の力を持《も》っております』 と云うたら伊藤公《いとうこう》はずいと起《た》って、物凄《ものすご》き眼で庵主《あんしゆ》を睨《にら》み付《つ》けフロックの釦《ボタン》を掛《かけ》ながら、 『君は君の力で沮止《そし》されるだけ沮止《そし》するがよいわ』 と云《い》うて別室に立去られた。時は丁度午前の十時少し前であった。庵主《あんしゆ》は憤恨《ふんこん》胸に迫り、少 時低首《しばしていしゆ》して考えたが、たちまちに一|決《けつ》した。これより直《ただち》に東京に上《のぼ》り、この談判《だんぱん》を喰《く》い止《と》め ずに置くものかと、またずいと起《た》って宿に帰り、一人の書生に出立《しゆつたつ》の用意を命じ、宿の勘定《かんじよう》 等を云付けて昼餐《ちゆうさん》に取掛《とりかか》ろうとする刹那《せつな》、警部《けいぶ》と巡査《じゆんさ》がどやどやと宿に闖入《ちんにゆう》し来《きた》り、尋問《じんもん》の |筋《すじ》があるから警察まで来《きた》れと云うて、庵主《あんしゆ》と書生《しよせい》と二人共に本署《ほんしよ》に拘引《こういん》して行き、直《ただち》に尋問《じんもん》 を始めた。それはこうである。 『その方は今朝九《こんちよう》時前後より伊藤公《いとうこう》に面謁《めんえつ》し、その帰路《きろ》ピストルを以て支那|全権公使李鴻章 氏《ぜんけんこうしりこうしようし》を狙撃《そげき》し負傷《ふしよう》せしめたる嫌疑者《けんぎしや》として二人共拘引《ふたりともこういん》したのじゃ、実状明白《じつじようめいはく》に申立よ』 と云うから、庵主《あんしゆ》はさらに合点《がてん》が行《ゆ》かず、そんな事のあった事も知らぬから、その通りを申 述べたところが、なかなか聴入《ききい》れぬ。折柄《おりから》宿の者も主人始め数人呼出され、尋問《じんもん》を受けたか ら、全く時間も実状も合致して、庵主等には何等関係なき事が分り、また実際の犯人《はんにん》は小山《こやま》 六|之助《のすけ》とか云う壮漢《そうかん》で、理髪店《りはつてん》に居《お》って李鴻章《りこうしよう》がその旅宿《りよしゆく》たる引接寺《いんしようじ》より、春帆楼《しゆんぱんろう》の会場 に出席する途上にこれを狙撃《そげき》したとの事が分ったから、庵主等は直《すぐ》に宿に返されたのである。 庵主はさあ大変じゃ。この先《さ》きはどうなるのであろうかと思うても、下《しも》の関《せき》ではとても真相《しんそう》 が分らぬ。この勝負《しようぶ》の仕事は東京だとこう思うと、直《すぐ》にその儘伊藤公《ままいとうこう》にはお悔《くや》みの手紙を送 り、直《すく》に下《しも》の関《せき》を出立《しゆつたつ》して東京に上《のぽ》ったが、間もなく露独仏《ろどくふつ》の三|国干渉《ごくかんしよう》となり、両国の休戦 となり、引続き吾人《ごじん》が永久不可忘的《えいきゆうふかぽうてき》なる遼島半島還附《りようとうはれとうかんぷ》の詔勅《しようちよく》となって来て、それからよう ようやっと台湾《たいわん》の領有《りようゆう》と、一億六千万円ばかりの償金《しようきん》にて、談判《だんぱん》の終結となって来た。庵主 等の快哉《かいさい》は殆《ほと》んど喩《たと》うるに物なく、終《つい》に伊藤公《いとうこう》は台湾《たいわん》に出張せられて、李経芳等《りけいほうら》と台湾《たいわん》の受 渡《うけわたし》を了《りよう》せられた。その後庵主が伊藤公《いとうこう》に面謁《めんえつ》したら公《こう》は、庵主の顔を見ると同時に、つかつ かと立寄り、手を出して庵主の手を握り、 『やあ負けたぞ負けたぞ。しかし遼東《りようとう》の領有も困難だが、台湾《たいわん》も中《なかなか》々困難だぜ。僕は個人と して君等の議論には実に感服《かんぷく》していたが、談判方針《だんぱんほうしん》の命を受けている僕には何とも仕方がな い。陸奥《むつ》にも会うたが君等の仲間の議論には実に困ったと云うていたぜ』 と隔意《かくい》なく咄《はな》された。庵主は一種異様の感に打たれ礒《ろく》に返事《へんじ》も出来なかった。一|体《たい》伊藤公は 何と云う立派《りつぱ》な恬淡《てんたん》たる人格の人であろうかと、心の底より敬服《けいふく》したのであった。それより 庵主は一年も欠さず台湾《たいわん》に渡航《とこう》して、台治台政《たいちたいせい》の事に研究の心を傾けて、考え付いた事《こと》だけ は、ことごとく伊藤公《いとうこう》にも報告していたが、何だかこの台湾統治《たいわんとうち》の善悪《ぜんあく》は、庵主が自身の毀 誉《きよ》にでも関するが如き感がして、頃刻《けいこく》も念頭《ねんとう》を離れた事はなかった。  時は復《ま》た鳴動《めいどう》して来た。それは東洋《とうよう》の天地《てんち》に礒囀《ほうはく》する日露運命《にちろうんめい》の衝突《しようとつ》する音響《おんきよう》であった。 この東洋無比《とうようむひ》の大戦《たいせん》も、陛下《へいか》の御威稜《みいつ》と国民忠誠《こくみんちゆうせい》の働《はたらき》の為《た》めに大捷《たいしよう》を続けて、終《つい》に露国《ろこく》は恐 るべき厖大《ぼうだい》な軍容《ぐんよう》バルチック艦隊《かんたい》の全部を挙《あ》げて大艦隊《だいかんたい》を組織《そしよく》し、以て東洋《とうよう》の小弱国《しようじゃつこく》を一 |呑《のみ》だと云う意気込《いきごみ》で海《うみ》を蔽《おお》うて乗込んで来たのである。そこで台湾《たいわん》の総督《そうとく》たる児玉伯《こだまはく》は、満 州軍総参謀長《まんしゆうぐんそうさんぽうちよう》として満州《まんしゆう》に転戦《てんせん》しておらるるから、その代理をしている後藤民政長官《ごとうみんせいちようかん》は、 |決死《けつし》の覚悟《かくご》で台湾《たいわん》に楯籠《たてこも》るべく準備をした。第一、全島の防備《ほうび》、第二、糧食《りようしよく》、第三、医薬、 第四、軍器《ぐんき》、第五、澎湖島大戦闘《ほうことうだいせんとう》の用意等にて、絶海《ぜつかい》の孤島《ことう》たる台湾《たいわん》は、一|人《にん》の生存《せいぞん》を思う ものなく、支那大陸と台湾《たいわん》の海峡《かいきよう》は、一|人《にん》の通過も許すまじと構えた台湾《たいわん》の上下必死《しようかひつし》の決心 は天《てん》に冲《ちゆう》し、偵察《ていさつ》に敏《ぴん》なるロジェストウェンスキー司令官《しれいかん》は、終《つい》に台湾海峡《たいわんかいきよう》を通過する事を |止《や》めて、スンダ海峡より日本海《にほんかい》に直航《ちよつこう》して、一直線に浦塩《うらじお》に入《はい》るを第一の目的とせねばなら ぬ事になった。さあこれが日本《にほん》の国是《こくぜ》たる、亜細亜領土保全主義《アジアりようどほぜんしゆぎ》の妙味《みようみ》のある軍事論《ぐんじろん》である。 |印度洋《いんどよう》より南清《なんしん》の地に立寄《たちよ》る事が出来ずして、日本海《にほんかい》に直航《ちよつこう》するとすれば、すなわち万里《ばんり》の |航程《こうてい》に労《つか》れた艦隊《かんたい》である。藻苔《そうたい》は船腹《せんぷく》に女の髪の毛の如く引いている。牝蠣《かき》は岩石《がんせき》の如く附 着《ふちやく》している。その上|玄人筋《くろうとすじ》の咄《はなし》を聞けば、『新鮮《しんせん》の物資を入換え、水兵が一度上陸休養し、酒 を呑み女と遊んだ、すなわち根拠地《こんきよち》を有している艦隊《かんたい》は、兵力に三割の強味《つよみ》を有するとの事 である』そこでこれのない艦隊《かんたい》は、反比例に三|割減《わりげん》である。その三割減の奴《やつ》が、戦闘《せんとう》は第二 で浦塩《うらじお》に入って休養し、新進《しんしん》の鋭気《えいき》を求むべく予期した艦隊《かんたい》が、日本海《にほんかい》に乗込み来《きた》るべく余 儀《よぎ》なくさせたものは、支那南部七省の封鎖《ふうさ》である。これを封鎖《ふうさ》したものは台湾《たいわん》である。その |台湾《たいわん》の妙味《みようみ》は云うに云われぬところから彼等バルチック艦隊《かんたい》の浦塩入《うらじおはい》りを益《ますます》々|翹望《ぎようぽう》せしめた のである。この艦隊《かんたい》が待ちに待ったる日本忠烈《にほんちゆうれつ》の全艦隊の真中に飛込み来り、その上|満身火《まんしんひ》 の如き義勇《ぎゆう》の戦士《せんし》が『皇国《こうこく》の興廃此《こうはいこの》一|戦《せん》にあり各員一層奮励努力《かくいんいつそうふんれいどりよく》せよ』などと云うような司 令官《しれいかん》の訓令《くんれい》を受けたから溜《たま》らない。巌石《がんせき》を以て累卵《るいらん》を打つが如く、粉微塵《こなみじん》に砕《くだ》けたのである。  こ7に至っては庵主《あんしゆ》が列挙《れつきよ》して来た数千の魔人《まじん》などは、跣足《はだし》で逃《に》げ出すばかりで、すなわ ち日本と云う国は魔人《まじん》で組織《そしよく》した世界全部の恐怖《きようふ》すべき一|大魔国《だいまこく》であると云う事が証拠立《しようこだ》て られるのである。庵主《あんしゆ》は筆尖《ふでさき》のここに至る時、現今の青年に一層の警告《けいこく》をするのである。『庵 主等の魔的《まてき》思想と行動は、宵《よい》の中《うち》の魔物である。さて君等の方は国家の存亡興廃《そんぽうこうはい》に関する大々 的|大魔的行為《だいまてきこうい》を意味するのであるぞ。下《くだ》らない学問に脳髄《のうずい》を過労し妙な腹《はら》の足《た》しにもならぬ |理窟《りくつ》を覚えて、御園白粉《みそのおしろい》などを面《かお》に塗《ぬ》り、クラブ洗粉《あらいこ》などで化粧《けしよう》を街《てら》い、人の舐《しやぷ》り粕《かす》の理窟《りくつ》 の骨に衣物を着て、饒舌《しゃべ》る事ばかり達者《たつしや》になって何になる。尾崎氏《おざさし》や犬養氏《いぬかいし》をクルップの大 砲の前に立たせて演説をさせて何の権威《けんい》がある。下《くだ》らない政権|争奪《そうだつ》の道に迷うて、その演説 に拍手喝采《はくしゆかつさい》している中《うち》にこの国を取られたらどうするのか』と。 九 |政党撲滅策《せいとうぼくめつさく》を伊藤公《いとうこう》に   政変に遭うて政党撲滅を論じ、 時機を逸して政党創設を説く  伊藤公《いとうこう》に面会《めんかい》しない以前より、庵主《あんしゆ》の対伊藤公《たいいとうこう》と云《い》う政治思想は、十七歳位の時からの事 で、殆んど生涯《しようがい》の関係と云うてもよい。故に面会後も意見の扞格等《かんかくとう》より葛藤《かつとう》を惹起《ひきおこ》した事柄 は数限《かずかぎ》りないが、今一つ思い出した事件があるから一寸《ちよつと》書いて置く。それは明治三十年前後 の事である。公《こう》の内閣《ないかく》の時に大隈伯《おおくまはく》と板垣伯《いたがきはく》と聯合して自由党《じゆうとう》と進歩党《しんぽとう》とを使嗾《しそう》し、旺《さか》んに |伊藤公《いとうこう》を包囲攻撃《ほういこうげき》したため、伊藤内閣《いとうないかく》はとうとうへとへとになって潰《つぷ》れてしまい、跡《あと》は所謂 板隈《いわゆるはんわい》の聯合内閣である。ところがこの内閣も腰前《こしまえ》がはなはだ面白くなって、組織後三ヵ月|経《た》 つか経《た》つぬに両党|大喧嘩《おおげんか》を始め、どたんばたんと争うた末《すえ》ぱったりと組んで倒れた。そこで |徳大寺公《とくだいじこう》は命《めい》を奉《ほう》じて支那から帰りつつある伊藤公《いとうこう》に、急遽《きゆうきよ》帰京せよとの事を伝えた。これ を聞いた庵主《あんしゆ》は日頃|伊藤公《いとうこう》と仲悪《なかあ》しきに拘《かか》わらず、公《こう》を下《しも》の関《せき》の春帆楼《しゆんぽんろう》に迎《むか》えて大いに政 治論を試みた。曰く、 『小生が閣下《かつか》の政府《せいふ》や閣下《かつか》単独の意見に常に反対するは対国家《たいこつか》の問題である。故に国家的の 為めには閣下《かつか》と敵ともなりまた味方ともなるは、双互公心《そうごこうしん》の支配に因るものと云う事を御諒 解《ごりようかい》を願うのである。そもそも小生等が多年|藩閥政府《はんばつせいふ》を忌憚《きたん》する所以《ゆえん》は、縁故因縁《えんこいんねん》によりて政 権《せいけん》を弄《もであそ》び、朋党比周《ほうとうひしゆう》して党を廟廊《びようろう》の上に樹《た》て終《つい》に国政《こくせい》の基礎を危くするより起るのでありま す。然《しか》れども藩閥《はんばつ》の罪悪《ざいあく》はその罪悪《ざいあく》なる事を知っているから陰密《いんみつ》にこれを行うのである。 |翻《ひるがえ》って政党なる者を見ればこの藩閥《はんばつ》よりもまたまた一層|深刻《しんこく》の罪悪を横溢《おういつ》するものである が故に、小生は藩閥よりもこれを憎《にく》むのであります。彼政党《かれせいとう》は公党《こうとう》と称して私団《しだん》を結び、藩 閥の為《な》すことごとくの罪悪を公然露骨《こうぜんろこつ》に公表し、我党と云う因縁《いんねん》によりて諸官属を任命し、 我党は馬鹿でも賢遇《けんぐう》し、他党は悧巧《りこう》でも愚弄《ぐろう》す。我党は愚論《ぐろん》でもひやひやと云《い》い、他党は卓 説《たくせつ》でもノーノーと云う。ただ多数の強みを頼《たの》んで檀《ほしい》ままに政権《せいけん》を弄《もてあそ》ばんとする故に、小生は これを藩閥以上に忌憚《きたん》するのであります。衆智《しゆうち》を集め人才《じんさい》を登庸《とうよう》して国政を料理せず、衆愚《しゆうぐ》 を以て国家を弄ばんとするから、小生が国家的に藩閥以上の罪悪と云うのは、決して無理で ありませぬ。閣下は今その衆愚《しゆうぐ》に打負けて、比較的従来国家に貢献《こうけん》した藩閥の功績をも耗尽《もうじん》 し、彼等政党にこの貴重なる政権を投与《とうよ》したる人で、ある意味に於て国家の興廃存亡《こうはいそんぽう》を無視 したる非国家的《ひこつかてき》の行為を敢行《かんこう》せられた人である。然《しか》るに彼等政党は閣下《かつか》の政後《せいご》を承《う》けて俄然 権勢《がぜんけんせい》の位置に立ち、さらに何事を為《な》し得たるぞ。公事《こうじ》を忘れて私事《しじ》を争い、一|念終《ねんつい》に国家の 事に及ばずして今や已《すで》に倒潰《とうかい》したのであります。この時に方《あた》って、陛下《へいか》はなお閣下《かつか》の前過《ぜんか》を |咎《とが》め給《たま》わず直《ただ》ちに召還《しようかん》の命《めい》を垂《た》れ給《たも》うて、閣下《かつか》を再び国政救済《こくせいきゆうさい》の大任《たいにん》に当《あた》らしめんとし玉《たま》え り。故に閣下《かつか》は上《かみ》、藩閥先輩《はんばつせんぱい》の遺勲《いくん》を顕彰《けんしよう》し、下衆愚《しもしゆうぐ》の罪悪《ざいあく》を明白にして国家国民《こつかこくみん》に判断《はんだん》を せしむべきの秋《とき》来れりと思います。それはこの際《さい》閣下は深く国家将来の大患《たいかん》を慮《おもんぱか》りて、少 なくも左《さ》の事を御上奏《ごじようそう》あらん事を切望《せつぼう》します、曰《いわ》く、 「博文不肖《はくぶんふしよう》の身《み》を以て過って陛下至仁《へいかしじん》の寵遇《ちようぐう》を辱《かたじけの》うし、しばしば国政の重任《じゆうにん》を負《お》い篷《けんけん》々|匪 躬以《ひきゆう》て聖謨《せいぽ》を輔翼《ほよく》し奉《たてまつ》らんと勉《つと》めましたが、憲政必須《けんせいひつしゆ》の成果と称して天下に咆哮《ほうこう》する各政 党は、常に博文等《はくぶんら》の政事《せいじ》を非難し、国政《こくせい》の前面に横わりて菲薄《ひはく》の奉公《ほうこう》を困難ならしめたる事、 ここに殆んど二十有余年でござります。今や術策尽《じゆつさくつ》き進退谷《しんたいきわ》まるの境遇と相成《あいなり》ました故、畏《おそ》 れ多くも聖鑑《せいかん》に訴《うつた》え奉《たてまつ》り、彼等政党をして国政輔弼《こくせいほひつ》の大任《たいにん》を忝《かたじけの》うせしむるに至ったのでご ざります。然《しか》るに二十有余年他の政策を非難し、政治の善悪を指摘し、所謂《いわゆる》国政の導師《どうし》を以 て自任したる政党の者共が、奉命後《ほうめいご》わずかに三|月《つき》を出でずして蹉鉄《さてつ》を見るに至りましたのは、 全くこれは不慮《ふりよ》の蹉鉄《さてつ》にして、決して彼等政党すなわち指導者の真価ではないと存じます。 |博文等《はくぶんら》すでにしばしば為政《いせい》の方針を誤り、引責負罪《いんせきふざい》の歴史在《れきしある》にも拘《かか》わらず、陛下鴻大至仁《へいかこうだいしじん》の 思召《おぽしめし》を以て、またしばしば為政《いせい》の大命《たいめい》を蒙《こうむ》りました事も有る次第故、彼等政党の者共へも一 度|御信任《ごしよにん》遊ばさせられたる以上は、真に彼等が政治上の力量を衡《みそな》わせらるるまでは、幾度も |寛大《かんだい》の聖慮《せいりよ》によりて慰諭任《いゆにん》を全《まつと》うせしむべき、大命《たいめい》と共に辞表を下《さ》げさせ給《たま》わんことを願い |奉《たてまつ》る次第《しだい》であります」 |云《うんぬん》々|等《ともつ》の主意《しゆい》にてぜひとも幾度も彼等を引摺《ひきず》り起しくして、多年の政治講釈を実行せよと |迫《せ》まらねばならぬ時であります。されば今でさえ足腰立たぬ彼等政党等は、また三|月《つき》をも待 たぬ中《もつち》にブッ倒れる事は受合であります。その時今一度起上って遣《や》れ、と迫《せま》っても彼等政党 は泥塗《どろまみ》れのまま片息《かたいき》で手を合せて御免御免《ごめんごめん》と云うは当然であります。その時|閣下《かつか》は大声《たいせいな》に汝 等《んじら》はその態《ざま》で二十年来他人の政治を非難したか、その態《ざま》で人の政策を妨害《ぽうがい》したか、爾後永久《じごえいきゆう》 政治上の講釈《こうしゃく》ケ間敷減《ましきへ》らず口《ぐち》を敲《たた》くかいかに、もし秋毫《しゆうごう》の未練《みれん》でも有るのなら、さあ起上っ て今一度|遣《や》って見よと責め付け、その上にて大仕掛《おおじか》けに満天下《まんてんか》に向って、従来|藩閥《はんぱつ》の建《た》てた る勲績《くんせき》と政党の妨害《ぽうがい》し来りたる実蹟《じつせき》とを明白に披瀝《ひれき》し、一ヵ月《げつ》位は無政府《むせいふ》の状態となして国 民にこれを周知《しゆうち》せしめ、その上にて真に憲政《けんせい》の大義に伴う人才《じんさい》を登用《とうよう》し、初めて衆智衆議《しゆうちしゆうぎ》を 集めてここに美事《みごと》なる藩閥離《はんばつばな》れの国政《こくせい》を実現せしめらるるが唯《ひと》り閣下《かつか》の責任《せきにん》のみならず、当 然|閣下《かつか》の執《と》らるべき機宜《きざ》の政策と思います』 と云うたところが、永《なが》の年月庵主《としつきあんしゆ》の議論《ぎろん》に一度も賛成した事のない伊藤公《いとうこう》も、この議論だけ には即時《そくじ》に賛成せられて、 『君の言う通りの手続《てつづ》きにも行《ゆ》くまいが、兎《と》に角板垣大隈《かくいたがきおおくま》をしてこの際幾度も幾度も遣《や》らせ ると云う事は何にしても名案《めいあん》である。僕も憲法の実施に伴う人才の蒐集方《しゆうしゆうかた》に付《つ》いては種《しゆじゆ》々 考えてもいるから、この際君の議論が最も面白いと思う。僕は明日|出立《しゆつたつ》して大磯《おおいそ》に行き、早 速その方に取掛《とりかか》ってみようよ。君もなるたけ早く帰って来給《きたま》え』 と言われた。この時の談話《だんわ》がその後|庵主等《あんしゆら》が陰《いん》に日露開戦《にちろかいせん》を獻策《けんさく》する前に天下の議論を統一 すべく、政友会《せいゆうかい》の組織を伊藤公《いとうこう》に慫慂《しようよう》した基礎である。  それから庵主《あんしゆ》は一寸《ちよつと》九州に行《ゆ》き、伊藤公《いとうこう》は東に向って去られた。庵主《あんしゆ》は心《こころ》ひそかに喜んで |多年嫌悪《たねんけんお》する政党と云う蛇の頭を今度|打砕《うちくだ》いて置けば、当分は頭は撞《もた》げ得ぬ、その中《うち》に出来 るだけ天下の人才を集めて、衆智《しゆうち》政治の端緒《たんちよ》を開いてやろうなどと、勝手な事を考えて匆《そうそう》々 帰京の途《と》につき、直《すぐ》に大磯《おおいそ》に伊藤公《いとうこう》を訪問したら、公《こう》は庵主《あんしゆ》がまだ椅子《いす》に掛《かか》らぬ中《うち》に、 『君あれは駄目《だめ》だよ。僕はあの翌日立って帰って来て見たら、もう直《すぐ》に平田等《ひらたら》の一派が山県 等《やまがたら》を煽立《あおりた》てて、山県《やまがた》は何《なん》でも、御前《ごぜん》に参内《さんだい》したとの事だよ。今日午後から東京に行くが多分 駄目《たぷんだめ》であろうと思うよ』 と云わるるから、 『それは残念至極《ざんねんしごく》であります。今度この事《こと》を遣《や》って置かぬと、政党と云うものは尻尾の長い ものでありますから、頭を潰《つぶ》して置《お》かぬと幾度でも生き返って人に祟《たた》りますぞ。平田子《ひらたし》は『ブ ルンチュリー』氏の翻訳書《ほんやくしよ》を介《かい》して私共の国家学の先生でありますが、非常の智者《ちしや》でまた徳 望《とくぽう》ある所謂智徳兼備《いわゆるちとくけんび》の人でありますから、何か外《ほか》に深い計画が有るかも知れませぬが、私は |大抵《たいてい》の事では、今後きっと国運の進歩を阻礙《そがい》すべき党害《とうがい》を助長《じよちよう》する永久《えいきゆう》の大患《たいかん》を貽《のこ》すという 事を覚悟《かくご》せねばならぬと思います』 と云うた。伊藤公も『ムー』と云うておられたが、その後《ご》間もなく山県内閣《やまがたないかく》は現出《げんしゆつ》して、引 続き北清事変《ほくしんじへん》が起り出兵《しゆつぺい》の止《や》むなきに至り、伊藤公《いとうこう》と庵主等《あんしゆら》は盛んに業《ごう》を煮《に》やし、頻《しき》りに人 才蒐集論《じんざいしゆうしゆうろん》を持込《もちこ》んでいたが、それが脱線《だつせん》して政友会《せいゆうかい》の創設論《そうせつろん》となり、伊藤公《いとうこう》また脱線《だつせん》して |政友会《せいゆうかい》を以て山県内閣《やまがたないかく》を十重二十重《とえはたえ》に追取巻《おいとりま》き、山県公《やまがたこう》の支那|出兵《しゆつべい》の糧道《りようどう》を予算の上で断ち 切ったから、山県公《やまがたこう》はこれ幸《さいわ》いとして辞表を提出せられ、再び伊藤公《いとうこう》の政友会内閣《せいゆうかいないかく》となった。 この辺《へん》に至りては伊藤公《いとうこう》の脱線程度《だつせんていど》のはなはだしかりし事と云うものは咄《はなし》にならぬ。庵主|今 更面目次第《いまさらめんぽくしだい》もない事《こと》ばかりで悧巧《りこう》そうな顔をしているが、全く議論も行為も形《かた》なしであると 云う事を門下の青年共にも自白《じはく》して置く。しかし腹《はら》の底に持つ日露戦争《にちろせんそう》の事《こと》だけは、日夜《にちや》の |苦心《くしん》を紹《つ》いで計画していた。この頃から天下に随分《ずいぷん》多数の魔人《まじん》も出て来たが、その魔人中《まじんちゆう》で |特筆《とくひつ》すべきは桂公《かつらこう》、児玉伯《こだまはく》、後藤男《ごとうだん》の三人である。この三人が日露戦争《にちろせんそう》と云《い》う大舞台《おおぶたい》の上に 最も面白き魔術《まじゆつ》を演出する幕が切って落されたのである。 十 |劉宜和尚親友《りゆうぎおしようしんゆう》の妾宅《しようたく》を襲《おそ》う   友誼を懐うて長鋏を逐い、怪僧を嗾して妖妾を放つ  今《いま》ここに叙述《じよじゆつ》する一|魔人《まじん》は、庵主《あんしゆ》の親友公道館主劉宜《しんゆうこうどうかんしゆりゆうざ》と云う大入道《おおにゆうどう》である。この豪僧《ごうそう》は元 島原《もとしまばら》の藩士《はんし》で、剣道真影流《けんどうしんかげりゆう》の奥儀《おくぎ》を極《きわ》めたる天下無双《てんかむそう》の達人《たつじん》であり、故子爵渡辺昇翁《こししやくわたなべのぽるおう》の如き は口を極めてその技能《ぎのう》を推称《すいしよう》せられた名人《めいじん》である。庵主《あんしゆ》がこの人に面会したのは、たしか頭 山翁《とうやまおう》の紹介であったと思う。この人は身《み》の長《たけ》六尺に近く、膂力絶倫《りよりよくぜつりん》、容貌《ようぽう》、魁偉《かいい》であって頗《すこぷ》 る意気を尚《たつと》び、侠骨隆《きようこつりゆうりゆ》々として山《う》の如しと云う人体《じんてい》である。ところで今一つ不思議なのは、 この人が善《ぜん》を聞いて移る事と、悪《あく》を懲《こ》らすの素早《すばや》き事は恰《あたか》も流箭《りゆうせん》の如く、何の思慮《しりよ》も分別《ふんべつ》も なく殆んど無意識にこれを実行するのである。この故にその為《な》す所往《ところおうおう》々にして常規《じようき》を逸《いつ》し、 単純|急進《きゆうしん》の結果は取返しの付かぬ大失策となり、またその滑稽《こつけい》さは全く真実と思えぬ程《ほど》の可 笑《おか》しき事が発生するのである。而《しか》して本人はいかなる事が出来《しゆつたい》しても、毫《ごう》も顧慮悔恨等《こりよかいこんとう》に頓 着《とんちやく》なく、さっさと先から先の事を実行して、さらに留滞《りゆうたい》することがないのである。  劉宜和尚《りゆうぎおしよう》、往年越後《おうねんえちご》地方の石油鉱の紛擾《ふんじよう》を、故青木子爵《こあおきししやく》と共に世話したとかで、幾多《いくた》の鉱 区が流れ込み、その始末《しまつ》に困っていたところへ、端《はし》なくも時世《じせい》の一転機に遭遇《そうぐう》し、数百万円 の大金《たいきん》を得て俄《にわ》か分限《ぷんげん》と成ることが出来た。和尚の事であるから、金の有るに任せて、芝《しば》の |山内《さんない》で故東京府知事高崎《ことうきようふちじたかさき》五六|男《だん》の旧宅《きゆうたく》を譲《ゆず》り受《う》け、邸内《ていない》に広大なる撃剣道場《げきけんどうじよう》を新築し、その |側《そば》に角力《すもう》の土俵を拵《こしら》え、剣客《けんきやく》や力士《りきし》や、破れ書生や兇状持《きようじようもち》や、浮浪《ふろう》の壮士等《そうしら》を数十人養成 し恰《あた》かも明治の孟嘗君《もうしようくん》を気取って澄《すま》し込んでいた。庵主《あんしゆ》はその家《いえ》が丁度通りすがらに昼飯を 食うのに便利であるから、常にこの家《や》に俥《くるま》を駐《と》めてここで飯を食う事にしていた。さあこの |長鋏《ちようきよつ》の徒《と》や、鶏鳴《けいめい》の輩《はい》や、屠狗《とく》の族《ぞく》は家内中《かないじゆう》に跋扈《ばつこ》して、その乱雑名状《らんざつめいじよう》すべからずである。 ある日庵主は飯食《めしく》いに立寄りこの有様《ありさま》を見てしきりに不愉快《ふゆかい》を感じたから、丁度和尚の不在 を幸い、その食客共《しよつかくども》全部を座前《ざぜん》に呼集め、一|場《じよう》の説教《せつきよう》を試《こころ》みた。曰く、 『人間最終の目的は独立である。人に寄食《きしよく》して生命を保つは禽獣《きんじゆう》にも劣るでないか。試《こころみ》に彼《か》 の野犬《やけん》を見よ。掃溜《はきだめ》を漁《あさ》り廻《まわ》っても天寿《てんじゆ》を保っている。汝等父母《なんじらふぽ》の慈育《じいく》に生き、鴻大《こうだい》の国恩《こくおん》 に成長して、なおかつ独立の精神に乏しく、人の家に臥《ふ》し人の糧《かて》を食《くら》うは男子の恥辱《ちじよく》この上 もない。故に余《よ》今日|汝等《なんじら》に五円札一枚|宛《ずつ》を与《あた》えて当家《とうけ》を放逐《ほうちく》するから、各《おのおの》その智力と体力 とを善能《ぜんのう》に働《はたら》かせて、自立の道を講《こう》ずるがよい。もし余が言《げん》に違背《いはい》する者は、人間の恥《はじ》を知 らざる獣類として、余が懲罰《ちようばつ》は忽《たちま》ち汝等の身上に及ぶであろう』 と、厳戒《げんかい》を下《くだ》したところが、その権幕《けんまく》に辟易《へきえき》したものか一同各自にのそのそと退散《たいさん》してしも うた。間もなく和尚《おしよう》は俥《くるま》を駆《か》って帰邸《きてい》したところが、玄関に出迎うる者もなく、一|家俄《かにわ》かに |寂寥《せきりよう》の境《きよう》と化しているので、和尚《おしよう》は怪訪《けげん》な顔をして庵主《あメしゆ》にその訳を問うから、庵主は澄《すま》し込《こ》 んで、 『ウム、皆な祿《ろく》な奴はおらぬから、一同に五円宛与えて暇《ひま》を出してしもうたよ』 と云うと和尚《おしよう》はムッとして、 『貴様《きさま》は客人《きやくじん》の癖《くせ》に、人の家の奉公人《ほうこうにん》を無断で何で暇を出したか』 と云うから庵主《あんしゆ》は厳然《げんぜん》と居直り、 『人間|自他《じた》の分別《ふんべつ》は、意気を解せず、信仰《しんこう》を弁《べん》ぜざるの以前にあり、余|已《すで》に貴様《きさま》を知り、貴 様を解し、貴様と交《まじわ》り、貴様と所信《しよしん》を同うして、何で自他の別が有ろうぞ、心|已《すで》に均《ひと》し身《み》同 じからざること有らんや、身已《みすで》に同じ両人の所在《しよざい》ことごとく一家たるを知るべし。いわんや 余は貴様を以て天下《てんか》の豪傑《ごうけつ》と信じておる以上は、貴様もまた余を以て天下《てんか》の傑士《けつし》として知る の光栄を忘るべからず。然《しか》るに貴様は常に余が枉駕《おうが》を辱《かたじけな》しとするの念なく、狐狸《こり》にも劣る |醜類《しゆうるい》を以て家内《かない》に充満《じゆうまん》せしめ、余をして不断不快《ふだんふかい》の念《ねん》を失わざらしむ。無礼《ぷれい》何ぞ之《これ》に若《し》かん や。余が家と雖《いえど》も之《これ》に等しき不良の醜類無《しゆうるいな》きに非《あ》らざるも、余は常にこれを訓戒《くんかい》して善良《ぜんりよう》 の徒《と》に化せしめんと努めつつあり。貴様はかつてこれらを善導《ぜんどう》するの道を講《こう》ぜず、徒《いたず》らに飯《めし》 を食《く》わせて遊惰放縦《ゆうだほうじゆう》に長《ちよう》ぜしむるのみ。これ唯《ひと》り余に無礼《ぶれい》なるのみならず、貴重の人類を亡 燼《ぽうじん》するの罪決して軽しとせず。見よ余が一|場《じよう》の訓戒《くんかい》は、日ならずして必ず何等かの反応を認 むるの時期あるべし。貴様の罪は余の罪なり。余の訓戒《くんかい》は貴様の訓戒なり。貴様は余に謝《しや》す るの事はあるとも、決して恨《びつら》むるの事あるべからず』 とその言|未《いま》だ了《おわ》らざるに和尚《おしよう》は曰く、 『好《よ》し分った。人の家《うち》の奉公人《ほうこうにん》を追い出すは少し変なようじゃが、一|身《しん》一|家《か》を同体とすれば 何の不思議もないわい』 と咄《はなこ》はこれで融解《ゆうかい》をし、不断の通りに笑い戯《たわむ》れ共に飯を食うて別れた。この和尚《おしよう》の得道解脱《とくどうげだつ》 は概《おおむ》ねかくの如しである。  またある時|和尚《おしよう》曰く、 『某大会社の重役某は、貴様も親友であるが、彼は金の手廻るに任《まか》せて魂性腐《こんじようくさ》り、女に溺《おぽ》れ て妾狂《めかけぐる》いを始め、家庭も素乱《ぷんらん》し信用もまた危殆《きたい》ならんとす。他の信友《しんゆう》もしばしばこれに忠言《ちゆうげん》 を尽《つく》づも毫《ごう》も悔悟《かいご》の状なし。何とかこれを救済するの法はなきや』 と庵主《あえしゆ》曰く、 『そもそも人を救うと云うことは広大無辺《こうだいむへん》の事業で、非常の善事《ぜんじ》ではあるが容易に発表の出 来ぬ事である。何故なれば、捨身済度《りりりり》と云うて、一方を救えば一方は潰《つぶ》れると云う覚悟《かくご》がな くてはならぬ。その覚悟《かくご》が救うと云う効果を現《あら》わすのである。それだから貴様が某《ぽう》を済うと 云う決心は、まず貴様《きさま》が身《み》を捨《す》てると云う決心の必要がある。余はこれを梵語学者《ぽんごがくしゃ》に聞いた が、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の南無《りり》と云づ語は、捨身即《リロすなわ》ち帰命《きみよう》と云《い》うことじゃげな、故に衆生《しゆじよう》が身《りり》を捨《り》 てまするぞ阿弥陀様《りりりりりりりりり》くくくと、一|心不乱《しんふらん》に唱誦《しようじゆ》すれば即《すなわ》ち帰依得脱《きえとくだつ》の果を得ると云う のじゃと。貴様も某の妾狂《めかけぐる》いを救うのには、身《りリ》を捨《ロリ》てる事《リ》が出来るか』 と尋ねたら和尚《おしよう》言下に曰く、 『俺も貴様もこの薄生温《うすなまぬる》い世の中に、薄盆鎗《うすぼんやり》と生きていて、御互《おたがい》にもう困り抜いておるから、 自分の思い立った事で身《りり》を捨《りり》てる事《り》が出来ればこの上もない仕合である。どんな事でも遣《や 》る から遠慮《えんりよ》なしに意見を云うてくれよ』 と云うから庵主《あんしゆ》は、 『貴様が死ぬ覚悟《かくご》さえすればきっと遣《や》り損《そこ》なわずに成功するよ。まず第一にあの妾は芸者上 りで極《ごくごく》々|心底《しんてい》の悪るい奴であるから、あれを善化《ぜんけ》をさせる必要があるが、貴様はあの女と姦 通《かんつう》をした体《てい》に粧《よそお》う事が出来るか。もしそれが出来《でき》れば某が妾宅《しようたく》に来る晩に一つ驚かして遣《や》れ、 それが救済術《きゆうさいじゆつ》の手初《てはじ》めじゃ』 と云うと和尚は、 『好《よ》し好し早速|遣《や》るよ』 と云《い》うて和尚は浜町《はまちよう》のその妾宅《しようたく》に出掛《でか》けて往《い》ってお手伝いに、 『主人は今夜ここに来るか』 と問うたればお手伝いは、 『ハイ今夜は会社のお客で帝国《ていこく》ホテルに往《ゆ》かれましたが、今電話が掛りまして追付《おつつ》けお出《いで》に なります』 と云うので、和尚は直《すぐ》にのそのそと奥深い二階に這入《はい》って往《いつ》たらかねて顔馴染《かおなじみ》のその妾《めかけ》が、 居間に寝床を敷いてぼんやり主人の帰りを待っている。和尚はその寝床《ねどこ》の上にどっかと坐り、 物をも云わずその妾《めかけ》を鷲攫《わしづか》みにして夜具《やぐ》を引《ひつ》かぶせ、少しでも声を立てると絞殺《しめころ》すぞとぐっ と夜具《やぐ》の片端《かたつぱし》の上に坐り込んだ。そうして煙草《たぱこ》一|服呑《ぷくの》むか呑まぬ中《うち》に、主人が帰りのそのそ と梯子《はしノ》を昇って来て、醉眼朦縢寝室《すいがんもうろうしんしつ》の方を見ると、友人の和尚が自分の寝床の上に妾《めかけ》を片膝《かたひざ》 に引敷《ひきし》き胡坐組《あぐらか》いているから吃驚仰天《びつくりぎようてん》はしたがその儘《まま》にもならず、 『何奴《なにゃつ》じゃ人外非道《にんがいひどう》の事をする奴は?』 と叫んだから和尚は雷霆《らいてい》の声を発して、 『公道館主劉宜《こうどうかんしゆりゆうぎ》であるこれへ這入《はい》れ』 と叫んだ。この破天荒的《はてんこうてき》の姦夫《かんぷ》の云分に、また某は一層の驚きをして、 『この不埓者覚《ふらちものおぼ》えていよ』 と云うと和尚は眼《まなこ》を瞋《いか》らし、飛蒐《とぴかか》らんず勢いにて恐るべき破鐘声《われがねごえ》を発し、 『待てっ!』 と云うて立上った。これを見た主人は、名にし負う天下無双《てんかむそう》の剣客《けんきやく》に飛蒐《とびかか》られては大変と思 い、大狼狽《おおろうばい》にて階子《はしご》を降り、勿《そうそう》々に悼《くるま》を飛ばして逃げ去った。それから単純水の如き和尚《おしょう》は 直に庵主の処《ところ》に来て、斯《かくかく》々|斯様《かよう》にまでは遣《や》って来たが、これからどうするが最善の方法かと 云うから、 『これからが大変面白い。この短刀を君に遣るから斯《かくかく》々にせよ』 と云《い》うと和尚は直にその某の本宅へと俥を飛ばした。丁度主人は不快《ふかい》の念と、恐怖《きようふ》の念とが |心頭《しんとう》に幡《わだかま》りながら、帰宅後妻君にありし実際を打明ける訳にも往かず、怏《おうおう》々として寝《しん》に就《つ》い て眠《ねむり》もやらずいるところへ、和尚は玄関に佇立《ちよりつ》して面会を求めた。取次のお手伝いが少々お 待ち下さいと奥へ行く跡から、和尚はノソノソと尾行してその寝室の前の廊下《ろうか》に立っていた。 ところが、お手伝いが差出す名刺《めいし》を一見した主人の驚きと云うたら大変である。恐ろしい押 の強い姦夫《かんぷ》も有るもので、向うから押掛《おしか》けて来るなどは古今無比《ここんむひ》である。兎《と》も角《かく》面会を謝絶《しやぜつ》 せよと命ずる言下《げんか》より、和尚はニュッと主人の枕頭《ちんとう》に顔をさし出し、 『オイ用があって会いに来たのだ、年来の交際だ、野暮《やぽ》を云わずに会ってくれ』 と云うたところが主人の顔は見る見る土の如くなって、妻君《さいくん》と共に飛起き目を艀《みは》って沈黙《ちんもく》し ている。和尚は徐《おもむ》ろに、 『オイ君、驚くな騒ぐな。悪い事は俺の方がしたのじゃ、俺が今夜来たのは謝罪《しやざい》の為《た》めじゃ、 故に〃ての謝罪の仕方は君の命ずる儘《まま》だ。殺《ころ》すか擲《ぶ》つか。もし旧交《きゆうこう》を思うて武士《ぶし》らしく腹《はら》を切 らせてくれるなら、この次の間を借りて君の面前《めんぜん》で縞麗《きれい》に屠腹《とふく》して詫《わぴ》をしよう。その為《ため》に短 刀《たんとさつ》も用意して持って来た』 と庵主《あんしゆ》の与えた大慶直胤《たいけいなおたね》の合口《あいくち》を左手に持って、衷心《ちゆうしん》よりの決意を示し、眼を据《す》えてドッカ と坐を占めたので、某は胆《きも》を抜かるる程驚《ほどおどろ》いて妻女《さいじよ》の手前も面目《めんぽく》なく首ウナ垂《だ》れて、 『劉宜君《りゆうぎくん》、実に私が悪るかった。君が僕に対する友誼的《ゆうぎてき》の行為は一々|心魂《しんこん》に徹《てつ》した。この上 はあの女の処分方《しよぷんかた》は一に君に一任する、もう已《すで》に多額の金も遣《やつ》てあるから、あの妾宅《しようたく》も本人 に与、えて緕麗薩張《きれいさつぱ》りと手を切ってくれ玉《たま》え。僕はお蔭で立派に断念したから』 と明言したので、和尚はイキイキとまた庵主《あんしゆ》の処《ところ》に帰って来て、 『オイここまで遣《や》って来たが、これからどうするのじゃ』 と云うから庵主は、 『もうそうなれば大丈夫じゃ。これから飯《めし》でも食うて直《すぐ》にまたその妾《めかけ》の所に行き、斯《かくかく》々にす るのだ』 と云うと和尚は、 『好《よ》し好し』 と云うて茶漬飯《ちやづけめし》を腹《はら》一|杯《ぱい》食うて出掛けて行った。その妾《めかけ》は不思議の驚きと恐怖との為《た》め俄《にわ》か に騨獻を起し・瓶。懃ぎ頭に耕せて寝込んでいる。その枕元に和尚はドッカと坐り、 『オイオイ丿よポ起きてくれ。あの後の駢荒はこれこれこうこうとなったが、実は罪にもお前 に鰍鵡を着せて旦那を綴尉らせたのも俺は一人の友達が惜しいからだ。お前が手管《てくだ》を継続《けいぞく》し ている間は・琲嵐あの男が別れる守歔いなしだ。故に思わず手荒の事を仕たが、お前もこれ |えんあきら《めかけ》 までの縁と諦め、今日から俺を旦那として俺の妾とならぬか』 と云うと、その女《おんな》はムックと起きて身構《みがま》え、柳眉《りゆうぴ》を逆立《さかだ》ててぐッと和尚を睨《にら》まえ、泣声を絞《しぼ》っ て、 『舞7の様な慰より恐ろしい人の妾などとは思いも寄らぬ。もしそうならねばならぬような ら、即座に死んでしまいます』 と云うから和尚は、 『そうか、それなら俺も仕合せじゃ。それならお前もう一度元の芸者《げいしや》にならぬか。着物の一 |揃位《そろいぐらい》は杉山《すざやま》が栫《こしら》えてやるとヨうていた、杉山《 すぎやま》も俺もただ友達一人が惜しいからの仕事だ、も しお前がなおも断念《だんねん》せず、あの男とこの後《のち》ただの一度でも逢引《あいぴき》などをする力《 ち》ま垂薯にな るのも嫌《いや》と不始末《ふしまつ》の事を云うて強情張《ごうじょうは》れば、俺も仕方がないから毎日この家《うち》に凍て大飯を食 い、お前を妾とする手筈《てはず》に取掛るのだ。しかしそれはお互に手数《てすう》も掛り、また迷惑《めしわく》もする事 故お前はこの叡だけを貰い受け、俺と杉山とで芸者になる着物を栫えて遣《や》るから、暢気《のんき》に面 自く芸者の方に取掛ったらどうじゃ』 と説立《ときたて》たので、この女も目先《めさき》の早い性質《たち》だから強情張《ごうじようは》ってこの和尚や庵主等に悪戯《いたずら》の標的と されては迚《とて》も溜《た》まらぬと思うたと見え、素直に稼《で》の着物一着でこの問題は落着《らくちやく》し、その友人 もまたその後|妾宅《しようたく》など構えれば和尚等が毎日《まいにち》ノソノソと入浸《いりぴた》りに来られても困るから、段《だんだん》々 |品行《ひんこう》もよくなり、永《なが》らくその大会社の重役を勤《つと》めて天寿《てんじゆ》を以て死亡した。その女も芸者になっ て、また大分全盛《だいぷぜんせい》を極めていたようだ。事落着《ことらくちやく》の後《のち》和尚曰く、 『成程甘《なるほどうま》い捨身済度南無阿弥陀仏《りひりりなむあみだぶつ》だ。これに限る。何事でも不成功は一つもない。人間南無《にんげんりり》 阿弥陀仏に限るものじゃ』 と士暑んでいた。 十一 |外資案計画《がいしあんけいかく》を時《とき》の政府《せいふ》に   紙幣を贋造して一員に賄し、議員を監禁して政府を圧す  この劉宜《りゆうぎ》という大魔人《だいまじん》については、面白き歴史が幾らもある、明治大正《めいじたいしよう》の間に有得《ありう》べから ざる絶驚《ぜつきよう》の行為《こうい》を緩《ゆるゆる》々|坦途《たんと》を往《ゆ》くが如く実行する、その人|即《すなわ》ち劉宜魔人《りゆうぎまじん》が、当時庵主《とうじあんしゆ》と日夜 交遊していたと云うは不思議な位である。  ある年|庵主《あんしゆ》が我国《わがくに》の工業界に、低利|永年賦《えいねんぷ》の資金を供給して、絶大の工業国と変化させよ うと思い立ち、当局の紹介状一本をも持《も》たず、単身孤剣《たんしんこけん》、米国《べいこく》に渡航《とこう》してゼー・ピー.モル ガン氏と、日米の資本融通《しほんゆうずう》のネゴシエーションを起し、不思議にそれが一致して、一億三千  ドル           しゆ  りん 万弗の外資を年三朱五厘にて輸入する事に仮契約《かりけいやく》を締結《ていけつ》し、日本《にほん》に帰朝《きちよう》して時の総理大臣《そうりだいじん》に 面会し、総理の尽力《じんりよく》によりて大蔵大臣《おおくらだいじん》にこの議《ぎ》を移した、ところが大蔵大臣はその総理大臣 よりも勢力強き人にて、絶対にこれを拒絶《きよぜつ》した否《いな》、拒絶するのみならず、雷霆《かみなり》の如《ごと》き声を発 して庵主《あんしゆ》を侮辱《ぶじよく》した。曰く『予はそんな借金政策は嫌《さら》いだ、また貴様《きさま》のような小僧《こぞう》と国家の 財政を議する事はせぬぞ』と罵倒《ばとう》した。  そこで黙《もく》しても引込まれず、ドンと腰を据《す》えて反論した。曰く『貴下《あなた》は朝命《ちようめい》を奉《ほう》ずる大官《たいかん》 なるが故に、辞《ことぱ》を改めて敬語《けいご》を用《もち》うるが、理《り》の存《そん》するところは王侯《おうこう》をも避《さ》けぬ。貴下《あなた》が壮若《そうじやく》 より国政に参与《さんよ》して経営した財政は、外国に金を借りて、元利共にこれを消費してしまいそ の尻《しり》は租税《そぜい》に仕払うて貰うた経験は有ろう。即《すなわ》ち外債《がいさい》と云う物を噛《かじ》った覚えは有ろうが、外 資と云う物を食うた覚えが有りますか。有るなら云うて御覧《ごらん》なさい……無《な》いでしょう。外資 と云う物の味は、なんとも云えぬ甘《うま》い物《もの》でありますよ。この外資《がいし》は生産事業でなければ喰《く》わ されぬもので、儲《もう》かる事だけに融通《ゆうずう》するものである。すなわち商売の資本である。手形《てがた》を外 国に出せば、チャランと音のする金貨がヨ一《は》旭|入《い》る。この金貨が無《な》くなった時は、汽車や船にウ ンと商品が積込んである。この商品が無くなった時は、その出した金より余計《よけい》になって金が 戻って来る。そこでその金を外国に返済《へんさい》すると、元《もと》の手形《てがた》が戻って来て、利益《りえき》だけが残って、 外資の責任が解除される時でありますよ。貴下《あなた》は今日まで夢《ゆめ》にも喰《く》うた事のない国家富強《こつかふきよう》の |大滋薬《だいじやノ 》であります。大蔵大臣《おおくらだいじん》が飯《めし》と糞《くそ》と間違えて、財政を遣《や》っては大変でありますよ。貴下《あなた》 は今日まで糞《くそ》より外に喰うた事のない方です。僕は余《あま》りお気の毒だから、飯と云う人間の為 めになる甘《うま》い物《もの》を貴下《あなた》に喰《く》わせようとするのですよ。また貴下《あなた》は貴様《きさま》のような小僧《こぞう》と云《い》わる るが、貴下《あなた》が明治八年|大蔵卿《おおくらきよう》をした時は四十歳です、僕は今三十七歳です。貴下《あなた》はたった三 ツの違いで、僕を小僧《こぞう》と罵《ののし》って、財政を論ずる資格がないと呶鳴《どな》りますか。勿論《もちろん》人間は年に 関係なく賢愚《けんぐ》はありますが、貴下《あなた》は怜悧《れいり》で、僕は馬鹿《ばか》と云《い》う。何様《どん》なメートルを持っておれ ば僕に対して小僧呼ばわりをしますか。また貴下《あなた》が国家に尽《つく》すのは月給を取って賃銭片手《ちんせんかたて》に |仕《し》た国政《こごちせい》ですよ。僕は一文も賃銭を取らず国民が不憫《ふぴん》じゃから自費で世話《せわ》をするのですよ。 |貴下《あなた》は勲等《くんとう》、官爵《かんしやく》と云《い》う、国家の名誉権力《めいよけんりよく》を以て国政《こくせい》をするのですよ。僕は無位無官《むいむかん》で国家 に奉公《ほうこう》するのですぜ。貴下《あなた》は困ればしばしば辞表《じひよう》を出して、責任を回避《かいひ》しますが、僕は十六 歳より今日まで、一度も国事に辞表を差出しませぬぞ。サア貴下《あなた》の明答を聴《き》くまでは、敬語《けいご》 を以て物を云いますが、徒《いたず》らに非理《ひり》を以て国家忠勤《こつかちゆうきん》の士《し》を罵《ののし》った以上は、答えが出来ねば、 僕も受けただけの恥辱《ちじよく》は、きっと倍加して報《むく》いますぞ』と詰め寄せた。  ところがこの大蔵大臣《おおくらだいじん》は実に人格《じんかく》の良い人で、非《ひ》を悟《さと》ったらいかなる人にでも直《ただち》に豁然《かつぜん》と して謝《あやま》る人故『イヤ、これは僕が悪るかった。気にさえてくれ玉《たも》うな。緩《ゆつ》くり話も聞き、書 類をも拝見しよう』と云《い》われたので、庵主《あんしゆ》は直立して今の無礼《ぷれい》を謝《しや》し誇《じゆんじゆ》々と説《ん》いたら、非常 に氷解《ひようかい》せられて『何《いず》れ総理《そうり》とも相談して再会しよう』と云われた。元《もともと》々この事は彼《か》の劉宜魔 人《りゆうざまじん》とも相談して仕組んでいた事故、直《ただち》に帰ってこの事を話すと、大変に喜んで『まずまず蔭《かげ》 ながらの御奉公《ごほうこう》が出来る』と同慶《どうけい》した。  その翌々日|総理《そうり》より呼びに来た。総理《そうり》曰く『大蔵大臣は大変君の話を面白く聞いて、何と か法案の工夫をしてみようと云うているが、ここに一つ相談がある。それは君の郷里選出の |代議士《だいぎし》や、君等の友人間の代議士を一|括《かつ》して、融和《ゆうわ》して貰《もら》いたい、政府《せいふ》は今度|増税案《ぞうぜいあん》を提出 する筈《はず》だから、これに君等も賛成《さんせい》して、その上君等の交際間を一括して同意《どうい》させて貰《もら》いたい』 との事《こと》であるから、庵主《あんしゆ》は曰く『素《もと》より増税は止《や》むを得《え》ますまい、故にこれに生産計画、即《すなわ》 ち外資案を併行して法案を御提出になれば、無論《むろん》増税も通過するように、直に活動を始めま しょう。即《すなわ》ち外資輸入によりて、国家の工業に低利永年賦《ていりえいねんぷ》の資本を供給する私共計《わたくしども》画の案 さえ御採用になれば、責任を以て同志間を纒《まと》めましょう』と答えて帰って来て、またこれを 劉宜魔人《りゆうぎまじん》に報告した。  ところがその翌日またまた呼びに来た故、面会したら、昨日話した事を大蔵大臣とも打合 せ、有益なる案故、工業銀行法案として提出し、その社債案《しゃさいあん》として採用する事に極《き》めたから、 十分に尽力《じんりよく》を乞《こ》う』との事だ。庵主《あんしゆ》は彼の劉宜魔人《りゆうぎまじん》と共に『サアこうしてはいられないぞ、 今夜から徹夜《てつや》で議員《ざいん》共を引纒《ひきまと》めよう』と両人一斉に結束《けつそく》して、大活動を始め、山下《やました》クラブや |帝国党《ていこくとう》などに、満身の力を傾けて、この両案に大多数の同意をさせたのは何でもそれから二 週間の後であった。まず安心と両人大飯を喰うて、一日昼寝をしていたら、また総理大臣《そうりだいじん》か ら呼びに来た。往《い》って見ると、蔵相《ぞうしよう》と一緒で、『御苦労《ごくろう》であったが、彼の外資案《がいしあん》は日本銀行《にほんぎんこう》お よび一般の銀行者と、資本家連が全部反対で今度は迚《とて》も提出されぬ、増税案《ぞうぜいあん》だけにするから、 そう思うていてくれたまえ。今日《こんにち》まで君の尽力《じんりよく》の結果や、費用等は、何《いず》れ弁償《べんしよう》の法を立てる から……」との事、そこで庵主《あんしゆ》は勃然《むつ》として、『イヤ、何れにしても国事でありますから、御 随意《ごずいい》になされませ、私は裸体《はだか》の増税案提出《ぞうぜいあんていしゆつ》には一人できっと反対致しますから、今日《こんにち》よりこ れを否決せしめる事に努めます』と言放《いいはな》ったら、両大臣共|俄《にわ》かに態度を変え、『それはまた君 の御随意《ごずいい》である。我々は大多数同意者の届出《とどけいで》が已《すで》にある、で、日程の第一に提出する積りで ある』と云うから、庵主《あんしゆ》も笑顔《えがお》を作って『イヤ、それも貴下方《あなたがた》の御随意《ごずいい》である』と云うて帰っ て来て、それから彼の劉宜魔人《りゆうぎまじん》と相談して『サア面白くなって来た。今日より二人でこの議 会を敲《たた》き潰《つぶ》すのじゃ』と評議《ひようぎ》一決し、直《ただち》に呉服屋《ごふくや》に言付けて鼠色《ねずみ》の紋服《もんつき》を持《こしら》えもし両人がこ の政府に負けたら、面当《つらあ》てにこの揃《そろ》いの衣物《きもの》を着て、総理官邸《そうりかんてい》の玄関で見事に腹を切ろうじゃ ないか、と云うたら劉宜魔人《りゆうぎまじん》は『宜《よろ》しい、薄生《うすな》ま緩《ぬる》いこの世《よ》の中に持《もち》あぐんだこの身体《からだ》、一 番立派に遣付《やつつ》けよう』と、ここに相談一決した。  ところでこの低利資本供給の大反対者の巨魁《きよかい》は、日本銀行《にほんぎんこう》を始め、高利貸《こうりかし》の銀行《ざんこう》共で、そ の代表者として両者を駆《か》け廻り、これを統一しているのは某銀行の副頭取《ふくとうどり》の貴族院議員《きぞくいんぎいん》某で ある。この人は庵主《あんしゆ》も劉宜《りゆうぎ》も年来|懇意《こんい》な男故『和尚《おしよう》これから行って連れて来て、人の分らぬ 所に監禁《かんきん》し、その運動の根《ね》を絶《た》とうではないか、何にしても同志は二人で、金が少しもなく、 相手は政府と両院全体と云う強敵《きようてき》であるから、敵としては実に面白い、もし負けたら腹を切 る事も、ここ数日にあるのじゃから、何にしても相手も仕事も面白い、さあ遣《や》れ』と、両人 一斉に飛出したのが、その日《ひ》の午後の六時頃であった。午後十時半頃|劉宜魔人《りゆうぎまじん》は、ぼんやり 帰って来て『いかに説《と》いても咄《はな》しても、彼の頭取議員奴《とうどりぎいんめ》は小石川原町《こいしかわはらまち》の寓居《ぐうきよ》を離れて出掛け て来ぬぞ、雪は深いし、風は吹く、仕方がないから一先《ひとま》ず帰って来た』と云《い》うから、庵主《あんしゆ》は 気の毒とは思うたが、大喝《だいかつ》一|声《せい》、呶鳴《どな》り付けた。『貴様《ささま》はもう帰れ! 貴様のような臆病者《おくびようもの》 の意気地《いくじ》なしと、この死生《しせい》を決する大事は倶《とも》にされぬ。今から俺が一人で遣《や》るから……と』 気は立っているし、足を挙《あ》げて蹴飛《けと》ばした。劉宜魔人《りゆうぎまじん》はにこにこして『好《よ》し好《よ》しまず飯を食 うてから、今度は決心して最《もう》一|遍往《ぺんい》くわい』と云うて、茶漬飯《ちやづけめし》を食うて、例の一頭立の破れ た母衣馬車《ほろばしや》に乗って出掛けた。  庵主《あんしゆ》は独り孤灯《ことう》に対《むか》って、苦心惨憺《くしんさんたん》の工夫を凝《こ》らせども、何分《なにぷん》相手は多数に、政府と来て いる、志《どう》も事前《じぜん》に拘引《こういん》されるような事をしでかしては、万事休《ばんじきゆう》すじゃから、秘密穏便《ひみつおんぴん》と云う は、すべての基礎であると考えて、ここに一策を思い付いて、出掛ける途端《とたん》に、劉宜魔人《りゆうぎまじん》は |濡鼠《ぬれねずみ》のようになった彼の貴族院議員《きぞくいんぎいん》を連れて来た。ふと劉宜魔人《りゆうぎまじん》の顔を見ると、洋服の満身《まんしん》 は泥に塗《まみ》れ、頭髪《かみのけ》も顔も泥を被《かぶ》っている、その貴族院議員《きぞくいんぎいん》は顔色青蒼《がんしよくせいそう》として、がたがた慄《ふる》え ている。庵主《あんしゆ》の宿《やど》の婆さんはびっくりして『阿方《あなた》、一寸お待なさい、それなりで上られては |堪《たま》りませぬ』と云うて、浴衣《ゆかた》と總抱《どてら》とを持来《もちきた》って、土間《どま》でこれを着替えさせ、直《ただち》に風呂場《ふろば》に 伴うた。するとその議貝先生、隙《すき》があらば逃げ出そうとするので、劉宜魔人《りゆうぎまじん》は風呂場《ふろぱ》の出口 の方を背にして、万一に備えている。『そもそも劉宜魔人《りゅうぎまじん》が原町《はらまち》の彼の住居に着いた時は、も う殆んど十二時過であって、門扉《もんび》は固く閉られている、叩《たた》けば警戒《けいかい》するから、馬車《ばしや》を踏台《ふみだい》に して門を乗越《のりこ》し、内から貫木《かんぬき》を外《はず》して玄関に往《い》くと、鎗戸《やりど》が鎖《と》ざしてある。その戸《と》を二枚共 に抱上《だきあ》げると、掛金《かけがね》のまま外《はず》れた、そこで直《ただち》に主人の寝室に闖入《ちんにゆう》すると、主人は目を覚して、 妻君と共に飛起きたから、劉宜和尚《りゆうぎおしよう》は、『君、どうしても一寸来てくれぬと、杉山が怒って俺 を蹴飛《けとば》すから、一,寸来てくれ』と、手を伸して引起すと、議員先生何をッ! と抵抗《ていこう》しよう とするのを、逆に腕《うで》を取って羽交締《はがいじめ》にして提《ひつさ》げ、廊下《ろうか》をのそのそ来ると、妻君が警察に電話 を掛けているから、片手を挙《あ》げてドンと電話器を打つと、ガタンと落ちて、しもうた。委細《いさい》 構わず主人を提《ひつさ》げて馬車に乗り、一|鞭《むち》当てさせて、原町《はらまち》を飛出し、なるたけ人通りの無い処《ところ》 を選んで、日比谷《ひぴや》の練兵場《れんぺいじよう》を斜《はす》に芝烏森《しばからすもり》の庵主《あんしゆ》の寓居《ぐうきよ》へと馳《は》せる途中、練兵場《れんべいじよう》の真中に元《もと》大 きい銀杏《いちよう》の樹《き》があったのを、掘取った跡《あと》が池ほどの穴になり、溜《たま》った水が氷った上に、雪が 一ぱい積っていた。それとも知らずに馬を鞭《むちう》ったので、馬は驀地《まつしぐら》にその池に飛び込み、車台 も人もドブンと水中に没して、馬は向うに飛上ったので両人とも満身《まんしん》ズブ濡《ぬ》れの次第《しだい》じゃ』 との物語である。  それから庵主は徐《おもむろ》にその議員先生に『多年の交誼《こうぎ》に背《そむ》き、理不尽《りふじん》の振舞《ふるまい》ながら、両人《りようにん》ここ に死を決しての快挙《かいきよ》故、どうか不承《ふしよう》をして二三日|我慢《がまん》してくれ玉《たま》え。但《ただ》し甘《うま》い物《もの》は食い次第、 芸者一人は買切り、選択は君に任《まか》せる。もし君が外界に覚《さと》らるべき挙動《さよどう》あらば、万止《ばんや》むを得 ず、無道《むどう》とは知りながら非常手段に出るの外ないから……』云々と申諭《もうしさと》し、それから庵主《あんしゆ》は |嚢底《ふところ》を調べると、金が五百円余り有る。仕方がないから、宿の婆さんを呼んで咄《はなし》をすると、 この婆さんは素《もと》より佼気横溢《きようきおういつ》の江戸《えど》ッ子気質《こかたぎ》の人故、近所《きんじよ》の質屋《しちや》を説いて、その家屋抵当《かおくていとう》の 約束で金を七百円借りて来てくれた。それをまた新しい十円札と両替をして貰い、隣りの帳 面屋《ちよもつめんや》の老爺《おやじ》を呼んで来て、洋紙を丁度十円札の型に断《た》たせ、その上に裏表《うらおもて》にして十円札を一 枚ずつ載《の》せて束となし、一|束《たば》だけ本当の千円束を栫《こしら》えて、これを小さい支那カバンに詰め込 みそれから多数党の尽力者某を呼びに遣り、庵主は厳《おごそ》かに云うた。曰く『君は僕と共に当初 よりこの増税案賛成勧誘《ぞうぜいあんさんせいかんゆう》に付き、日夜絶大の尽力《じんりよく》をせられた事が総理閣下《そうりかつか》を始め、全政府に |貫徹《かんてつ》し、今夜総理よりひそかに一時の慰労《いろう》として三十万円だけ送り越された故に、明朝増税 案の日程の議事に掛る前、正八《しよう》時に芝山内《しばさんない》の某楼《ぼうろう》まで同志諸君一同の御来臨《ごらいりん》を乞《こ》い、手短に 分配をして、僕の責任を果したいと思う』と云うた。それが丁度その日の午後八時頃であっ た。  尽力者某にはその支那カバンを開いて、本物の千円束一つを取出して渡すと、某は贋札《にせさつ》の 千円束が一杯カバンに充満《じゆうまん》しているのを、覘《のぞ》き込《こ》んでにこッと笑い、百|謝《しや》してその札束を懐 中《かいちゆう》したから、もう占《し》めたものと思うていると、某は大凡《おおよそ》朝の五時頃まで電話の傍《かたわ》らに立詰《たちつ》め て、肩息《かたいき》になって庵主の傍《そば》に遣《や》って来て『夜中の事故《ことゆえ》、電話は出ず、一人出れば、先から先 へと伝達を嘱《しよく》して漸《ようや》く今済《います》ました』と、明朝八時の参会を約して帰ったは十二時前後であっ た。それから庵主は劉宜魔人《りゆうぎまじん》と入れ替ってその監禁議員《かんきんぎいん》の監視《かんし》となり、劉宜魔人《りゆうぎまじん》は芝山内《しぱさんない》の |某楼《ぽうろろ》に往って、階上に茶菓の用意等を言附《いいつ》け、剣術《けんじゆつ》の門弟《もんてい》二十|人《にん》ばかりを結束《けつそく》して待ってい ると、丁度七時三十分頃は、階上に満員となって、到着する者六十三人と註せられた。これ と同時にばらばらと剣客二《けんきやく》十人はその階上に押込み、見る間に階段をみりみりと引外《ひきはず》した、 その時|劉宜魔人《りゆうざまじん》は屹立《きつりつ》して演舌《えんぜつ》を初めた。 『今日《こんにち》は武士道《ぷしどう》の一|分立難《ぷんたちがた》き理由あって、我等一死を決して、暫時《しぱらく》諸君に御来臨《ごらいりん》を願う事に なった。その理由は追付《おつつ》け申述るの機会となるであろう、この事件が相済《あいす》んだ上は、素《もと》より |厳刑《げんけい》は自覚罷在事故《じかくまかりあることゆえ》、暫時《しばらく》の間御静謚《あいだごせいひつ》に願いたし、もし一人にても騒擾《そうじよう》ケ間敷事《ましきこと》あるに於て は、引連れたる者共一同は、決死の覚悟《かくご》を以て御相手致《おあいていた》すべし』云々と云放《いいはな》った。これを聞 いた六十三名の議貝は、一同|瞠若《どうじやく》として、顔を見合せたが、中に気早の猛者《もさ》が二三あって、 直にその仲介者の某に喰って掛り『貴様《きさま》は我等《われら》を欺罔《だま》したな』と言い様《ざま》、その横鬢《よこびん》を乱打《らんだ》し た。最前《さいぜん》よりこれを待構《まちかま》えていた劉宜魔人《りゆうぎまじん》は『それッ』と一人の門弟に目配せすると同時に、 直に猛者《もさ》の議員に組付き、一〆して群《しめ》れ居《い》る議員の中に三間|斗《ばか》り投飛ばして、起上ったらま た候《そうろう》と身構えた。この擬勢《ぎせい》に一同は恐れをなし、全体これは何事でかかる事になったかと云 う事も分らず、ただ呆《あき》れ果て、目を崢《みは》っているのである。  そこで劉宜魔人《りゆうぎまじん》はまた演説を始めた。『我々の無礼《ぷれい》は本件の事後に於て諸君の厳刑《げんけい》を甘受《かんじゆ》す る筈故、それまでは当楼《とうろう》の召使や主人に至るまで、一人の外出をも許さぬ。この儀《ざ》は不悪御 承知《あしからずごしようち》を乞《こ》う』と云《い》うた。ここに可笑《おか》しい事は、その仲介者の某は、八方よりの攻撃に耐《た》えず、 |窓際《まどぎわ》に簇立《ぞくりつ》する赤松の枝に飛付き、袴《はかま》のままブラ下《さが》って、どうする事も出来ず苦しんでいる。 |劉宜魔人《りゆうぎまじん》はこれを見て『馬鹿者奴《ばかものめ》、袴掛《はかまが》けで松の枝にブラ下って暮す奴があるか』と叱陀《しつた》し て、側《かたわ》らの一青年を呼び、梯子《はしご》を持来らせその某の襟髪《えりがみ》を掴《つか》んでまた元《もと》の二階に投《ほう》り込んだ。 その中《うち》に迚《とて》も永くは持てぬので、絶えず庵主《あんしゆ》の方に『まだかまだか』と電話が掛る。庵主は 又一方の貴族院議員《きぞくいんぎいん》を監視《かんし》する側ら、衆議院議員《しゆうざいんざいん》の方へ、『どうなったくく/\』と電話 を掛けつつある。ここがこの戦争の焼点《しようてん》である。  折から議院中に派出して居た細作《しのび》より『今総理大臣《いまそうりだいじん》が出席して、演説を為《な》すべく演壇《えんだん》に臨《のぞ》 むと、議員の数は反対党の外《ほか》、予約議員の出席がないので、互に疑心暗鬼《ぎしんあんき》を生じ、あるいは 人を外に馳《は》せ、あるいは終《つい》には自分で退席した。それを見た他議員もざわざわと騒《さわ》ぎ出して、 総理の演説も四度路百度路《しどろもどろ》となって、終《つい》に賛成者二十八人と云う少数で、只今|解散《かいさん》を宣布《せんぷ》し た』との電話である。  これを聞いた庵主《あんしゆ》は身のおりどころも分らぬ程|歓喜《かんき》して、直《ただち》に劉宜魔人《りゆうぎまじん》に電話で報知し、 そのまま車に飛乗って総理官邸へと馳《ま》せ付けたところが、総理はソーフアに寝転《ねころ》んでシガー を燻《くゆ》らしていた。その前に庵主は案内もなく進み寄って『どうだ、正義で魂《たましい》を鎧《よろ》うた日本浪 人《にほんろうにん》の反対力は! 人を欺弄《だま》した総理大臣《そうりだいじん》の心魂《しんこん》に徹《てつ》したか2』と、占心を詰めて睨《にら》み付けたと ころか、総理《そうり》は『イヤ、感心したよ、君が国士《こくし》の自負《じふ》は今日僕が慥《たしか》に承認《しようにん》したよ、今後|弥 隔意《いよいよかくい》なく交際しようでないかハ丶丶丶』と笑れた。  庵主《あんしゆ》はそれより直に劉宜魔人《りゆうぎまじん》の方に駈《か》け付たら、魔人和尚《まじんおしよう》は悠《ゆうゆう》々と風呂から上《あが》って、門弟 に給仕をさせて飯を食うていた。庵主は『それからどうしたっ-・』と云うた。劉宜《りゆうぎ》和尚は『フ丶丶 ム』と鼻で返辞をして『どうもせぬ、貴様が電話を掛けたから、皆様御苦労でした。これで もう御解散《ごかいさん》を願ますと云うて帰って来た。飯を食うて自訴《じそ》するのだ』と云うから『いや、自 訴《じそ》なら俺も同様だが、被害者が腹の癒《いえ》るだけの条件を具して告訴《こくそ》するのを待つ方がよい』と 云うたら、劉宜《りゆうぎ》和尚は『そうか、それなら二人で昼寝でも仕《し》よう』と云《い》うた。それから庵主 が宿に帰った時は、彼《か》の監禁《かんきん》の貴族院議員はもう居《い》なかった。その翌日は号外が出て、総理 大臣は辞表を提出した。その漢文辞表の全文が発表せられた。庵主は第一に監禁議員に謝罪《しやざい》 の為《た》め小石川原町《こいしかわはらまち》の宅《たく》に行って面会し、その顛末《てんまつ》の委細《いさい》を陳謝《ちんしや》したら、曰く『君方《きみがた》が国事上 尽瘁《こくじじようじんすい》に一|身《しん》を犠牲《ぎせい》にせられた事は、慥《たしか》に諒得《りようとく》したよ。しかし僕も君方《きみがた》に監禁《かんきん》された事《こと》だけは、 |自衛上自白《じえいじようじはく》する訳に行かぬから、お互に今日限り無言とする事に約束仕ようでないか』と云 う。庵主《あんしゆ》は叩頭《こうとう》百|謝《しや》して帰って来た。  それから劉宜魔人《りゆうざまじん》は今日かくくと待《ま》つ告訴事件《こくそじけん》を二十年後の今日まで一人の告訴者《こくそしや》が ない。それが成程《なるほど》と思わるるは、告訴したら政府贈賄《せいふぞうわい》の金を分配するからとの召集《しょうしゅう》に応じて、 |芝山内《しばさんない》の某楼《ぽうろう》に馳《は》せ集った事がデベロープしては反《かえ》って困るからであろう。兎《と》も角《かく》悪運強い 為とは云いながら、若い時のこの罪悪《ざいあく》だけは自白しなければ、庵主《あんしゆ》も劉宜《りゆうぎ》も寝心地《ねごこち》が悪いと 思うて、ここに書いて置くのである。    十二 槿花《きんか》一|朝《ちよう》の夢《ゆめ》          北海道に砂金数百俵を攫得せんことを計り、南洋島にダイヤモンド          数千噸を占めんとす  ある日|劉宜和尚《りゆうぎおしよう》が来《きたつ》て日うには、 『おい其日庵《そのひあん》よ、貴様《きさま》も永い年月《としつき》貧乏をして、巷閭《こうりよ》に坤吟《しんぎん》していたが、その要は国事《こくじ》を憤慨《ふんがい》 するの余り後進《こうしん》を養成し、何《いず》れの日か世の警醒《けいせい》を期待した事に違いない。それでこそお互に |今日《こんにち》まで、一度も他人の傭雇《ようこ》を受《う》けず、月給《げつきゆう》や職役《しよくえき》に検束《けんそく》された事の無《な》いのは、ことごとく この精神の発動に外ならぬのである。然《しか》るに天運《てんうん》ここに循環《じゆんかん》して、今度は絶大無比《ぜつだいむひ》の大金《たいきん》が 得らるる事になって来たから、大安心《おおあんしん》をして国事《こくじ》に尽瘁《じんすい》する事ができるぞ。寸時《すんじ》も早く貴様 を喜ばせようと思うてやって来たぞ』 『それは実に結構《けつこう》な事じゃ。それこそ我々の幸福でなく、国家の幸福である。国家の根本を |腐敗《ふはい》せしむる事の実行は、これに要する金の出所《しゆつしよ》の問題で、それが玲罐無垢《れいろうむく》でさえあれば、 これほど結構《けつこう》な事はない。そこでどんな事で金が一《は》佶一旭|入《い》るのか』 と問うた。 『それは今度の事は最も玲瀧無垢《れいろうむく》な事で、立派な事業が二つも出来たのだ。第一の事業はま ずこうである。今度|俺《わし》の親友|馬城氏《ばじようし》が、南洋探検《なんようたんけん》に廻った所《ところ》が、ジャワの南方二百八十|哩《マイル》の |処《ところ》に一|孤島《ことう》がある。その島は四方共|絶壁《ぜつべき》で、海抜《かいばつ》五百尺以上もあって、その上がテーブルラ ンドになっている。その島の南方断崖《なんぽうだんがい》の中腹二《ちゆうふく》百五十尺の処に、三四尺のダイヤモンドの礦 脈《こうみやく》が露出《ろしゆつ》している。そうしてその絶壁《ぜつぺき》の下は、名に高き荒海《あらうみ》であって、狂瀾怒濤止《きようらんどとうや》む時《とき》なく、 |数哩《すうマイル》の間は乱石礁岩一《らんせきしようがん》面に散在して、白泡飛沫濠《はくほうひまつもうもう》々として亀鰐《きがく》その間《あいだ》に群遊出没《ぐんゆうしゆつぽつ》し、いかに するも舟筏《しゆうぱつ》の近寄るべき道がない。この故にこの宝礦脈《ほうこうみやく》に対して人間の力を以ては到底採収《とうていさいしゆう》 を試むべき手段がないという。馬城氏《ばじようし》はその岸上《がんじよう》に立って、遥《はる》かに白波の汀渚《ていしよ》を俯轍《ふかん》したと ころが、その赫櫂《かくやく》として波に揉《も》まるるものは皆ダイヤモンドであって、朝暾一《ちようとん》たびこれを照《て》 らせば、燦欄《 さんらん》として人目を眩《げん》し、再度《ふたたび》これを凝視《ぎようし》する事が出来ぬ。今世界に散布《さんぷ》するダイヤ モンドなる物は、ことごとくこの島に産せざるものはない。馬城氏《ばじようし》原住民の採収法を聞くに、 まず数塊《すうかい》の肉片《にくへん》をこの岸上《がんじよう》より汀渚《ていしよ》に投下し置く時は、一群の巨鳶飛来《きよえんとびさた》りてその肉塊《につかい》を抓《つま》み、 さらに岸上《がんじよう》の大樹《たいじゆ》に憩《いこ》うてこれを喫《くら》う。そこでその樹下《じゆか》の鳥糞《ちようふん》を漁《あさ》れば必ず数箇の小ダイヤ モンドを得ること、而《しか》して一方その国王の床上《しようじよう》に飾るダイヤモンド塊を一見するに、小は拳 大《こぷしだい》にして大は小児《しように》の頭大《あたまだい》を過《す》ぐと、かつて聞く大英国女帝《だいえいこくじよてい》の蔵《ぞう》するダイヤモンドは縦《たて》一寸六 分、横《よこ》一寸四分にして、その価三《あたい》億六千万円と、ここに於て吾人《ごじん》がこの宝石脈《ほうせきみやく》を採収するに、 すこぶる文明の器械設備をなし、すなわち彼《か》の昇降機《エレベ タ 》などを以て礦夫を降下《こうか》し、作業を開始 したならば、その採収の易《いい》々たること、宣《あに》それ石炭の採掘と選《えら》む事あらんやである。今当世 に於てダイヤモンドを二千|噸宛《とんずつ》も毎月輸入し来たならば、少くも吾人《ごじん》が天下《てんか》の志士《しし》を養い、 |醜類《しゆうるい》を掃蕩《そうとう》するの費《ひ》に乏《とぽ》しきを訴うる事はあるまいと云うのだ。しかしもしこの事業が一度 他に漏洩《ろうえい》して、我利《がりが》々々の事《り》業家共が、一斉にこの孤島《ことう》に雷集《きんしゆう》したならば、あるいは功《こう》を一 |實《き》に欠《か》くの虞《おそれ》あるかも知れぬ。故に今日ひそかに遠藤秀景氏《えんどうひでかげし》をして、郵船会社に就《つ》き二千|噸《トン》 級の汽船一ヵ月のチャーター料を取調べに往かしめたところである。この咄《はなし》は数日前より、 |密《ひそ》かに亠咼島将軍邸《たかしましようぐんてい》に集会して、まず社長を高島子爵《たかしまししやく》となし、その他|立雲氏《りゆううんし》、馬城氏《ばじようし》、秀景氏《ひでかげし》、 |僕《ぽく》および君《きみ》は、その重《おも》なる取締役《とりしまりやく》と定《さだ》めて置いた。  また他の一事業はこうである。ここに昔日榎本武揚子《せきじつえのもとぶようし》と共に、函館《はこだて》五|稜廓《りようかく》に楯籠《たてこも》り、幕恩《ばくおん》 の大義《たいざ》に満身《まんしん》を染めて官軍《かんくん》に抵抗し、満天下《まんてんか》に勇名《ゆうめい》を轟《とどろ》かした松平某《まつだいらぽう》と云《い》う人がある。この 人は夙《つと》に北海道通《ほつかいどうつう》を以て一世に聞え、昨今《さつこん》北海道の開発ようやくその緒《しよ》に就《つ》くに随《したが》って、彼《か》 の夕張川砂金鉱区《ゆうばりがわさきんこうく》の事に付いて熱誠《ねつせい》の研究を重ねた。それは夕張川《ゆうばりがわ》の中流、紅葉山《もみじやま》の下手《しもて》に 河流全幅の落下点があって、恰《あたか》もナイヤガラの瀑布《ぱくふ》の如く、常に韜《とうとう》々の声をなし、落下して いる。然《しか》るに不思議な事には、この瀑布《ぱくふ》以下に一の砂金鉱区がない。そもそも砂金採収《さきんさいしゆう》の実 況は、この瀑布《ぱくふ》以上を幾分宛《いくぶんずつ》に区切りて許可を取り、その区域内の水が石に堰《せ》かれて、流れ 行く最も水勢の激烈《げきれつ》なる処にネコブクと称する蓆《むしろ》を水底《すいてい》に布《し》き、その上流を足で烈《はげ》しく掻《か》き 混《ま》ぜ、しばらくしてその庸《むしろ》を上げ、他の平偏《ひらべつちや》な大桶《おおおけ》に少許《すこしばかり》の水を入れて、その砂塗《すなまみ》れの蓆《むしろ》 を下伏《うつぷし》に入れ、裏から足でこれを踏《ふ》みたる後《のち》、水を傾け去れば、金砂混入《きんしやこんにゆう》のものを残す。そ の砂と金とを揺り分けて砂金を得るものである。然《しか》るに彼《か》の瀑布壼《たさつぽ》以下にてこの法を施《ほどこ》して は、ただの一粒の砂金《さきん》を得る事も出来ぬのは、この瀑布壼《たきつぽ》に開闢以《かいぴやく》来の砂金が堆積《たいせき》して層《そう》を 成して居るに、万《ぱんぱん》々|間違《まちが》いないと云うことは、智者《ちしや》を待たずして知るべしである。今|厳冬《げんとう》の 時で河流全部|堅氷《けんぴよう》に鎖《と》じられおる故これをダイナマイトを以て粉砕《ふんさい》し、その氷塊《ひようかい》を拾い除《の》け たる跡には、ただ砂金《さきん》の堆層《たいそう》を見るのみである。故にこれも先日|高島邸《たかしまてい》で、この瀑布壷《たきつぽ》のみ を砂金鉱区として出願する事に決定すると同時に、取敢《とりあえ》ず叺五《かます》百|俵《ぴよう》とシャベル五十|挺《ちよう》だけは すでに注文した。吾党の士今日《しこんにち》ここに結束して密《ひそ》かに未開の北海道に闖入《ちんにゆう》せば、月余《げつよ》ならず して少くも砂金丑百俵は東京に持帰る事が出来るぞ。既《すで》に立雲氏《りゆううんし》や俺《わし》の如きは、食客多《しよつかく》きが |為《た》めに、芝《しぱ》、赤坂《あかさか》、麻布《あざぷ》、麹町等四《こうじまちとう》区の米屋を食潰《くいつぷ》して、何れも倒産《とうさん》の危機《きき》に瀕《ひん》している故、 昨日|彼《か》の米屋《こめや》共を召集して、来月中旬頃には汝等《なんじら》に各砂《おのおの》金二三俵|宛《ずつ》を取らするから、勉強 して家族共を食わせておけと申渡した位である。我々はこの二業のために、この位熱心に働 いているから、貴様も荘然《ぽんやり》としておらずに、今日から性根《しようね》を入れ替えて、共《とも》に奔走《ほんそう》するがよ い。実に千|載《ざい》の一|遇《ぐう》、盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》に逢《お》うたようなものである。天下《てんか》の事これより手に唾《つぱき》して 成るの秋《とき》であるぞ』 と息継《いきつぎ》もなく説立《ときたて》られた。当時|庵主《あんしゆ》の乾児《こぷん》共の仕事といったら、活版屋の工員やら、新聞売《しんぶんうり》 や薪割《まきわり》である。庵主《あんしゆ》は破れ洋服の着の身着の儘《まま》で、四円五十銭の下宿料が半歳以上も嵩《かさ》んで いると云う有様であるところに、劉宜和尚《りゆうぎおしよう》のこの咄《はなし》で、またその論理の整然《せいぜん》として、常識を 以ってこれを判断するも、決して有り得べからざる事とは思われなかったが、ただ余《あま》り甘《うま》い |咄故《はなしゆえ》、鳩《はと》が豆鉄砲《まめでつぽう》を食うたように、暫時《ざんじ》は呆然《ぽうぜん》としていたが、その中庵主《うちあんしゆ》は恐るべき勇気を 瞬間に湧出《ゆうしゆつ》して、好《よ》し一番|俺《おれ》も働いて遣《や》ろうと大決心をして、郵船会社の吉川氏《よしかわし》や、農商務   こちべし           ときつ  おのおの            ほんそう  あげ,、 省の巨智部氏なゼの間を手当り次第に説付け、各身を切るような金を使って奔走した揚句 が、この二事業共、春風《しゆんぷう》に吹払《ふきはら》われた霞《かすみ》と消果《きえは》てて、元《もと》の野山《のやま》の貧乏境界《ぴんぽうきようかい》、時雨勝《しぐれがち》なる憂草《モつきぐさ》 に、変わらぬ機《はた》を賤《しず》が織《お》る、麻布《あざぶ》の里《さと》の仮住居《かりずまい》、邯鄲《かんたん》ならぬ魂胆《こんたん》の、違《ちご》うた夢《ゆめ》も今《いま》は早《は》や、 |阿房烏《あほうがらす》に笑われた、大兵肥満《だいひようひまん》の髯男《ひげおとこ》が、四五人出来た始末となった。まず第一の砂金事業は、 夕張川《ゆうばりがわ》の瀑布壷《たきつぽ》が、表面幾尺の氷の下は水勢《すいせい》箭《や》を射《い》るが如《こと》くに流れ、殊に岩石《がんせき》重畳《ちようじよう》して砂金 などは薬に煎《せん》じてもないとの事、第二南洋のダイヤモンド事業は、馬城氏《ばじようし》の見た物は慥《たしか》にあ るに相違ないが、それは硅石《けいせき》とかの一部に属するものであって、何の役にも立たぬとの事、 こんな事業が明治末期の魔人劉宜和尚《まじんりゆうぎおしよう》等の計画する大事業であった。  ただ一概にこれを聞く時は庵主等《あんしゆら》の生涯《しようがい》は、馬鹿《ばか》の限りを尽《つく》したようであるが、今の学校 を卒業して出て来る青《あお》二|才《さい》共が、乞食のようにして貰った免状一《めんじよう》枚を、手垢《てあか》の付くまで売り 歩いて、人さえ見れば五十円に使ってくれと、天地間《てんちかん》自分の生活難より外《ほか》さらに大事業なし と云うような顔をして、恥《はず》かしいとも思わぬ者共と比較して見ると、庵主等の方は自分の食 物などを考えた事もなく、只管《ひたすら》に若い者に温《あたたか》い物の一つも食わせて、目前に横《よこた》わった国家の |大難中《たいなんちゆう》に爆弾《ばくだん》の如く飛込んで働いて貰いたいの外《ほか》、何にも希望なき所から、かくの如き途方 途轍《とほうとてつ》もない大事業に奔走《ほんそう》するので、その精神《せいしん》はことごとく血《ち》である。その奔走《ほんそう》はことごとく |涙《なみだ》である。故にその幾多《いくた》事業の大失敗は、失敗する程ことごとく血《ち》と涙《なみだ》の流れた歴史を物語っ ているのである。今日《こんにち》から思えば国家の大幸《たいこう》は、庵主等《あよ しゆら》の事業がことごとく失敗した一事で ある。それが失敗|斗《ばか》りであったればこそ各方面に今日まで首の継続を全《まつと》うした紳士が徘個《はいかい》し ている事が出来るので、こんな目出度《めでた》い事はない。噫失敗《ああしつぱいしつ》々々|庵主等《ぱいあんしゆら》の失敗は天下太平《てんかたいへい》の福 音《ふくいん》、庵主等自個《あんしゆらじこ》の一|大賀表《だいがひよう》であった事が、六十歳以後の今日に始めて理解《わか》ったのである。今 庵主は改めて劉宜和尚魔人等《りゆうぎおしようまじんら》に一|大賀詞《だいがし》を三|唱《しよう》せんとするのである。 十三 |京釜鉄道引受《けいふてつどうひきうけ》の魂胆《こんたん》   金策に窮して大都の中を奔走し、 家屋を讐って鉄道を買わんとす 百 魔ま 伝三 中藩 のつ 大耋 怪芒 僧三 |劉宜和尚《りゆうぎおしよう》の事に就《つい》てはその奇行奇蹟湧《きこうきせきわ》くが如くであるが、 |過《す》ぎ行く昔 しの出来事にて、手控《てぴか》えとてもなく、思い出す事も中々困難であるが、夜の寝覚《ねざ》めに浮《うか》み出 た事をそのまま筆《ふで》に乗せ、時代|遅《おくれ》の青年が、浮世《うきよ》に漂《ただよ》う荒浪《あらなみ》を、凌《しの》ぐ板子《いたご》の端《はし》にもと、婆心《ばしん》 ながらに書遺《かきのこ》すのである。世遠《よとお》く人亡《ひとほろ》び、教え緩《ゆる》まり修養の、梶《かじ》の苧綱《おづな》の切果《きれは》てし、澆季《ぎようき》の 流れは生存《せいぞん》と云う大海《たいかい》に浮沈《ふちん》して脳髄次第《のうずいしだい》に過労《かろう》を来し、意思《いし》の衰弱《すいじゃく》、神経《しんけい》の鋭敏《えいぴん》その度を 増すにつけ、ただ一身の生存に、全脳《ぜんのう》を消費して、国と人との休戚《きゆうせき》を思う心の麻痺《まひ》するは、 |世《よ》をおしなべたことぞかし。かかる中にも世《よ》の為《た》めに、身家《しんか》を忘るる心はも、失わざるは人 並に、あらざる人の心にて、これを魔人《まじん》と謂《いい》つべし。  思い起す庵主《あんしゆ》が豪侠生《ごうきよう》活は絶頂《ぜつちよう》に達し、来往《らいおう》の知人朋友《ちじんほうゆう》は満天下《まんてんか》に数え尽《つく》されぬ程の多数 となった為《た》め、もし孟光《かない》にこの煩累《はんるい》を及ぼさば、子女の教育より父母の定省《ていしよう》まで殆んど紊乱《ぷんらん》 を極めんことを虞《おそ》れ、芝日蔭町《しぱひかげちよう》の浜《はま》の家《や》を本拠《ほんきよ》として、終《つい》に十一年間も料理屋住居をするよ うな事となったのである。丁度その頃の事で、ある日|端《はし》なく大江卓氏《おおえたくし》と竹内綱氏《たけうちこうし》とが来訪せ られた。その咄《はなし》に、 『預《かね》て君等にも世話を掛けた彼《あ》の京釜鉄道創立《けいふてつどうそうりつ》の事は、だんだん人を実地に派して調査を遂《と》 げたが、収支《しゆうし》の点になってどうしても相償《あいつぐな》わず、政府が利子《りし》の保証でもしてくれねば、一株 も応募者の見込がない事に確定《かくてい》して、とうとう今日委員を事務所に集会してその評議《ひようぎ》を仕《し》た |位《くらい》じゃが、始め発起人《ほつきにん》で一人六百円|斗《ばかり》ずつ醵出《きよしゆつ》していた金をおよそ一万五六千円も消費した 訳で、一人|頭《あたあ》に二百円宛位の負担損《ふたんぞん》になりそうだ』 との事である。元来|庵主《あんしゆ》がこの鉄道の布設《ふせつ》を朝野《ちようや》に煽立《あおりた》てて、その事業の成立を熱望《ねつぽう》した訳 は朝鮮《ちようせん》に於ける自強会《じきようかい》や親露党《しんろとう》の形勢《けいせい》が目瞳《もくしよう》の危険で、きっと、一度は国家を賭《と》して露国《ろこく》と |干戈相見《かんかあいまみ》ゆるに違いないから、瞬間にして黄海《こうかい》の袋《ふくろ》の底《そこ》たる義州《ぎしゆう》や、安東県《あんとうけん》に立どころに十 万の貔貅《ひきゆう》を差遣《さけん》し得《う》るの準備《じゆんぴ》をするが国家の最大急務《さいだいきゅうむ》である。それには、第一|京釜鉄道《けいふてつどう》、第 二|京義鉄道《けいぎてつどう》である。この二鉄道は営業利益の有無でなく、国家の存亡《そんぽう》に関する動脈なりと考 えたからである。然《しか》るにそれ程重要視した第一の鉄道の事に付、俄然《がぜん》としてこの悲報を聞い ては、ただ惘然自失《ぽうぜんじしつ》の外《ほか》ないのである。しかしそんな事を誰人《たれ》にも公言する訳には行かぬか ら、 『成程《なるほど》、引合《ひきあ》わぬとあれば尤《もつとも》であるが、それは何時《いつ》解散するのか』 と聞いたら 『次の月曜日までには発起人《ほつきにん》総会をして、解散を宣告《せんこく》する積りである』 『それは待《ま》って貰いたい、僕はあの鉄道を道楽《どうらく》としてもぜひ出現させて見たい。僕がその一 万六千円の金を持《こしら》えて欠損《けつそん》を補填仕《ほてんし》ようから、月曜日の召集は待って貰いたい。その金さえ 出来れば皆一文の損《そん》もなくて、僕をして遣《や》れるか遣《や》られぬかを試みさせる事が出来るでない か』 と云うと 『それはよいが、天下の富豪《ふごう》が集まって企《くわだ》てた事業を、政府冷淡《せいふれいたん》の為めに解散《かいさん》せんとする時、 君が一|人《にん》でその欠損《けつそん》を補填《ほてん》して遣《や》ろうなどとは、少し例の法螺丸式《ほらまるしき》で、失礼ながらこの浜《はま》の |家《や》のお払《はら》いさえ険呑《けんのん》だと友人一同心配しているところに、一|人《にん》で一万六千円を投出すは少し 受取れぬぞ』 と云うから 『それはその通《とお》りじゃが、僕は金を持たぬが、人が持っている、それからその人がそんな風 の事に遣《つか》いたいから面白い事を工夫してくれよと頼《たの》んでいる。僕が道楽《どうらく》で少し尽力《じんりよく》してみよ うと思うから、きっと出来ると安心《あんしん》してくれたまえ』 『むう、それなら面白い、遣《や》ってみたまえ。しかし我々は両人とも明日から関西の方に旅行 をする。君から通知がなければ次週には無通告で解散を決行するから、それは承知《しようち》していて くれたまえ』 と云うて晩餐《ぱんさん》を共にして別れたのは夜の九時頃であった。それから庵主《あんしゆ》は寝床《ねどこ》に潜《もぐ》り込んで 一万六千円の金策《きんさく》を工夫した。さあ、輟転反側《てんてんはんそく》、耳を引き臍《ほぞ》を抉《えぐ》って肝胆《かんたん》を凝《こ》らせ共、百円 の金を栫《こしら》える工夫も出ぬ、とうとう後《あと》はうんうんと唸《うな》り出して、夜明前《よあけまえ》にとろとろと眠った ら夢に、『庭の柿の木の枝に妙《みよう》な嚢《ふくろ》がぶら下《さが》っている。梯子《はしご》を掛《か》けて取って開《ひら》いて見たら金が 一万六千円|這入《はい》っていた』と見て、夢がぱっと覚《さ》め朝日が硝子窓にてらてらと光っていた。 むっくり床《とこ》の上に起上って腕《うで》を組み『ははあ今の夢は桃栗《ももくり》三年|柿《かき》八年』と云うが、八《り》は坤《こん》な り、何でも坤《ひつじさる》の方向に往って金策をしたら出来るか知らぬ。それとも恥《はじ》の柿損《かきぞん》になるか知 らぬ。しかし嚢《ふくろ》に金が這入《はい》っていたから、誰《た》れかの巾着金《きんちやくがね》を覗《ねら》うがよいのか知らぬなど、丸 で泥棒が今夜の仕事を算段《さんだん》するように考えていた。そのうちふと心付いたのは、庵主《あんしゆ》の知己《ちき》 たる安場保和男爵《やすばやすかずだんしやく》の事を思い出した。貧乏ではあるがこの人《ひと》に打明けて咄《はな》して見ようと、直《ただち》 に二|人挽《にんぴき》の車を云付けて麻布《あざぶ》一|本松《ぽんまつ》の安場邸へと駈付《かけつ》けた。早起の男爵《だんしやく》は直に庵主《あんしゆ》を居間に |延《ひ》いて、 『やあ、丁度|今朝《けさ》、君を呼びに遣《や》ろうと思うていたところだ。あの君と頭山《とうやま》との炭山関係で 僕が裏書《うらがき》をした安田銀行《やすだぎんこう》の手形《てがた》が、不払いのため仕払命令《しはらいめいれい》が昨日来たぞ。等閑《なおざり》も事による、 早く相談して片付けたまえ』 と出端《でばな》の頭をごつん、庵主《あんしゆ》はぎゃふん、ただ目をぱちぱちさせるだけである。それから直《すぐ》に |麹町紀尾井町《こうじまちきおいちよう》の高島将軍邸《たかしましようぐんてい》へと馳《は》せ向うた。懇意《こんい》だからずっと座敷《ざしき》に通ると、書画の幅《ふく》や刀 剣《とうけん》、陶器《とうき》を所狭《ところせま》きまで列《なら》べて、将軍《しようぐん》はその中に没頭《ぽつとう》して二三の道具屋めいた者が立働いてい る。ははあ時ならぬ土用干《どようぽし》かなと思うと、将軍は大口を開《あ》いて笑い、 『日向《ひゆうが》の金山《きんざん》から金を取りに来て困るから今日は家財家具の糶売《せりうり》じゃ、どうじゃ君も少し買 わぬか』 との咄《はな》しである。庵主《あんしゆ》はまたぎゃふん、目をぱちくりである。それからまた小石川《こいしかわ》、本郷《ほんごう》、 |牛込《うしごめ》と奔走《ほんそう》してみたが、皆旅行の留守か病気かで結論は不調の一点である。その翌日から庵 主は殆《ほと》んど精神的異状を呈した。一万六千円のお化となったのである。ただ二|人挽《にんぴき》の車に乗っ て江戸中《えどじゆう》をうろうろして笹《ささ》を担《かつ》がぬだけの者に出来上ったのである。丁度四日目の昼頃|芝《しば》の |山内《さんない》で腹が空《へ》ったから、例の劉宜和尚《りゆうぎおしよう》の家《うち》に這入《はい》って飯を食うた。和尚は多数の門弟を相手 に撃剣《げきけん》の稽古《けいこ》をしていたが、宏大な家屋に植木屋などが数人|這入《はい》って庭造《にわづく》りをしている。庭 造りのチャンピオンとも云う可き渡辺昇子爵《わたなべのぽるししやく》は、劉宜和尚《りゆうぎおしよう》の頼みで師弟の間柄黙止難《あいだがらもだしがた》く、麦 藁帽子《むぎわらぽうし》を冠《かむ》ってしきりに植木屋の指図をしておられる。庵主《あんしゆ》は縁端で飯を食いながら、子爵 翁《ししゃくおう》に、 『閣下《かつか》この劉宜《りゆうぎ》の家が何程《なにほど》の値打が有ましょうね』 と聞いたら、 『さあ、高崎男《たかさきだん》から買うたのが一万八千円で内普請《うちぶしん》、造作《ぞうさく》、庭作《にわつく》りそれから倉《くら》一|棟《むね》の建増《たてま》し 等まで一万六七千円|計《ばか》り掛《か》けたから、まあ三万四五千円位の物かね』 と聞いた時に、庵主《あんしゆ》は箸《はし》をがらりと膳《ぜん》の上に音を立てて投出し、直《すぐ》に飛出して横浜《よこはま》の平沼銀 行《ひらぬまぎんこう》の馬場某《ぱばぼう》と云う人を呼寄せて、芝山内《しばさんない》六|号《ごう》のこれこれの家屋抵当《かおくていとう》で一万六千円貸してくれ と掛合《かけお》うたら、一見の上との事故、なるべく迅速《じんそく》にと云うので、明日|参《まい》るとの事、庵主はそ の晩初めてぐっと寝込み翌日、朝からの来客で昼飯を食うていた時ふっと思い出したのは、 |山内家屋《さんないかおく》の下見《したみ》に行く云《うんぬん》々の事を約しながら、事前にその理由を劉宜和尚《りゆうざおしよう》に打明け十分の説 得《せつとく》を遂行《すいこう》せねばならぬ事を忘却《ぼうきやく》した庵主は、また箸《はし》を投《ほう》り出して山内《さんない》に駈付《かけつ》けたら、さあ大 変、実に抱腹絶倒《ほうふくぜつとう》である。丁度|劉宜和尚《りゅうぎおしよう》も昼飯を食っているところであったが、庵主を見る と、 『おお杉山《すぎやま》、丁度好いところであった、今の先|俺《おれ》が植木屋を監督旁《かんとくかたがた》々|庭廻《にわまわ》りをしていると、 |縞《しま》の羽織《はおり》に中折れ帽子の町人風の男が二人で、玄関先から中を見廻り、縁先《えんさ》きや屋根廻《やねまわ》りを 見廻しそれから庭の路次《ろじ》からノソノソ這入《はい》って来て、植木《うえき》や灯籠《とうろう》を撫廻《なでまわ》し、座敷《ざしき》や応接《おうせつ》の間《ま》 などをうろうろ覗《のぞ》き込んでいるから、何でも裏町《うらまち》の左官《さかん》の親方ででもあるかと気にも留めず にいたら、そ奴不埒《やつふらち》にも座敷に上《あが》ってだんだん奥深く這入《はい》るから、俺は何か用でも有《あ》るかと 呼止めたところが、この家屋敷抵当《いえやしきていとう》に金を貸すのだと云うから、此奴《こやつ》いよいよあやしい奴に 違いないと思いそれは何か間違うてはおらぬかと聞いたら、其奴《そやつ》がいや決して間違はせぬ、 |芝山内《しばさんない》六|号《ごう》電話は千十三番、このお宅《たく》に違いないと云うから、俺はこの家の主人であるが、 今|普請中《ふしんちゆう》の家を抵当《ていとう》に入れる覚えがないと云うたら、其奴《そやつ》がいや、昨日|横浜《よこはま》の自分の銀行に 電話を以てこの家を抵当に金を借《か》るから、直《すぐ》に来京《らいきよう》せよと杉山氏《すざやまし》からの申込で、丁度|望《のぞみ》の場 所でもあるから早速に下見《したみ》に来た訳だとの事、そこで俺《おれ》はははあ杉山《すぎやま》の友達には随分《ずいぷん》おかし い奴が多い、こやついよいよそうに極ったと思うたから、大声を発して不届至極《ふとどきしごく》な奴じゃ、 |武士《ぶし》たる者の家に無断に踏込《ふみこ》み形《かた》なき嚶言《たわごと》を云う以上はその分《ぷん》には捨置《すてお》かぬぞ、直《すぐ》に杉山《すぎやま》に 電話を掛るから彼れが来るまで西洋客間に蟄居《ちつきよ》して沙汰《さた》を待て、一寸でも動いたら手は見せ ぬぞと云うて、門弟《もんてい》に云付《いいつ》けて西洋間に追込んで、今書生二人を番人に付けて貴様の処《ところ》へし きりに電話を掛けているところだ』 との事である、庵主《あんしゆ》は可笑《おか》しさと気の毒さで思わず全身に汗を滲《にじ》ませたがその儘《まま》でも済まず、 『これは俺の手落であるが、あの人は古今無双《ここんむそう》の大忠臣《だいちゆうしん》、国家無二の大巨人で、貴様や俺は |同席《どうせき》で言語を交《まじ》ゆる事さえ恐多《おそれ》き程の尊き人である、身分こそ一銀行員であるが所謂済世安 民《いわゆるさいせいあんみん》の大手腕《だいしゆわん》を持ったと云うは真にあの人の事であるぞ』 と云うたら、 『そうか、それがどうして俺の家を抵当《ていとう》に金を貸すと云うのだ』 と云うから、 『貴様《きさま》の家屋敷抵当《いえやしきていとう》で金を貸すと云うから大忠臣《だいちゆうしん》で大巨人《だいきよじん》であるのだ、まず静かに聞けよ』 と前の京釜鉄道云《けいふてつどううんぬん》々の顯末《てんまつ》を事落《ことおち》もなく咄《はな》し、 『この東洋《とうよう》の危機《きき》、国家《こつか》の大禍《たいか》に処する軍事政策の大根本とも云うべき京釜鉄道《けいふてつどう》の成立を逸《いつ》 せんとする刹那《せつな》に当り、天下《てんか》の富豪《ふごう》でさえ前《ぜんぜん》々政府以来の冷淡《れいたん》を憤《いきどお》り、根本よりこの鉄道計 画を抛棄《ほうき》せんず有様《ありさま》になった時、あの縞《しま》の羽織《はおり》の銀行員が、その鉄道を喰い止むる金一万六 千円を融通《ゆうずう》せんとするのはこれぞ国家無比《こつかむひ》の大忠臣《だいちゆうしん》として感謝するの外《ほか》ないのである。貴様《きさま》 の家を無断抵当に入れる事ははなはだ不将《ふらち》に似ているが、天下《てんか》の大《だい》より貴様の家を見れば、 |野末《のずえ》に荒るる貧弱な蒲鉾小屋《かまぼこごや》より浅間敷物《あさましきもの》である。これを以て国難《こくなん》を救い億兆《おくちよう》を安《やす》んずるこ とを得ば、御互《おたがい》両人の得喪休戚《とくそうきゆうせき》は富嶽《ふがく》一|粒《りゆう》の砂《すな》にも値せぬのである。半世の知交均《ちこうひと》しくこの 心を一にして、国事《こくじ》を憂《うれ》うる貴様《きさま》と俺《おれ》に何所《どこ》に異なるところがあるか、俺に家があれば決し て他の一人には鼻息《はないき》も聞かせずに片付けるが、俺に家がない故に貴様に有る物腐らした富今 の屍那猪口《へなちよこ》共に、爪の垢程《あかほど》も真似《まね》の出来る事柄ではないのである』  そもそも国家は吾人《ごじん》が護衛《ごえい》すべきものか、国家が吾人《ごじん》を護衛すべきものかの問題は、吾人《ごじん》 まず国家を護衛せざれば吾人を護衛すべきの国家が無くなると云う、その理《り》は即《すなわ》ちこの和尚《おしょう》 の一|挙動《きよどう》で分るのである。いや屍那猪囗共汝等《へなちよこどもなんじら》は何のお蔭《かげ》で四|分板《ぶいた》一|枚《まい》の中に安穏《あんのん》に眠り、 夏は凉風冷泉《りようふうれいせん》の辺《ほとり》に酒婦《しゆふ》に戯《たわむ》れ、冬は玻窓暖炉《はそうだんろ》の側《かたわら》に坐《ざ》して、我利《がり》、身勝手《みがつて》の銭勘定《ぜにかんじよう》をして いるのだ。この劉宜和尚《りゆうぎおしよう》の発揮《はつき》した魔人振《まじんぷ》りに、何とか挨拶《あいさつ》をしてみてはどうじゃ。その本 人は当時なお矍鑠《かくしやく》として白衣禅套《びやくえぜんとう》を身《み》に纒《まと》い、閙市門頭《とうしもんとう》に入処《にゆうしよ》を構えて苦笑《にがわら》いをして一|世《せい》を |睨脾《へいげい》しておったぞよ。 十四 |劉宜《りゆうぎ》・奥村両雄晴《おくむらりようゆうは》れの御前試合《ごぜんじあい》   殿下の台覧武道光輝を放ち、師弟の恩情遣弧煦育を受く  劉宜和尚《りゆうぎおしよう》は前《ぜん》にも云うた通り、渡辺昇《わたなべのぽる》先生を師《し》として日本無双真影流《にほんむそうしんかげりゆう》の達人《たつじん》である。かつ て日本武徳《にほんぶとく》の衰退《すいたい》を歎《なげ》いて、小松宮殿下《こまつのみやでんか》の令旨《れいし》を奉《ほう》じ、渡辺子爵《わたなべししやく》を会長として、武徳会《ぷとくかい》の創 立に着手し、渡辺子《わたなべし》と共に面小手竹刀《めんこてしない》を担《かつ》いで多くの門弟《もんてい》を引連れ、日本全国の武者修行《むしやしゆぎよう》を 始めたのである。庵主《あんしゆ》は丁度その時、大阪《おおさか》の花屋《はなや》に泊り合せて邂遁《かいこう》したのであった。当時|岡 山《おかやま》の奥村左近太《おくむらさこんた》と云う大先生は、日本《にほん》に名《な》ある達人《たつじん》にて、多数の門弟をも引立られたが、今 は早七十の坂を越《こ》えた老人にて、驪驪《りりゆう》の夢《ゆめ》に秋風《あきかぜ》の寒さを覚ゆる身となり、平常《へいぜい》は病褥《ぴようじよく》にの み親んでおられたのである。折柄《おりから》この宮殿下令旨《みやでんかれいし》の事を聞かれて彼《か》の、    せんかぜにいななくせんりのうま すでにそうれきをはなれてへいやにいる あきたかくみみをそばたつたいこうのにし えんきんのこへいげつかにとどろく   百戦嘶風千里馬。已離槽櫨入平野。秋高雀耳大江西。遠近皷輩轟月下。 の詩の如く、奥村先生《おくむらせんせい》はむっくとばかり起き上り、生きて甲斐なき老の身も、弓を袋《ふくろ》の太平《たいへい》 に、捨《すつ》べき命の場所もなく、ただ徒らに残生《ざんせい》を、孫子《まごこ》が尽《つく》す介抱《かいほう》に、任《まか》せてこのまま朽《く》ちん 事、南無宝無念《なんぽうむねん》の至《いたり》ぞと、日毎に悔《くや》み暮せしに、枯葉《かれは》に露《つゆ》のこの令旨《れいし》は、武士《ぷし》の本意《ほんい》に恵ま るる、此上《こよ》なき君《きみ》の賜なり、左《さ》あれ我身は老果《おいは》てても、心は今の生若《なまわか》き、壮夫《ますらお》共に劣るべき、 |殊《こと》には家に伝え来て、そも総角《あげまき》の頃よりも、手馴《てな》れし竹刀《しない》の打物《うちもの》を、取りて勝負を決するは、 この身の面晴《めんは》れ家名《かめい》の誉《ほま》れ、好《よ》し願《ねがわ》くば宮殿下《みやでんか》の、御前《ごぜん》に於て上覧《じようらん》の、試合の庭に老病の、 息の緒綱《おづな》の切れもせば、一|期《ご》の本懐《ほんかい》この上なしと、ここに猛然《もうぜん》と決心したる、名《な》も奥村《おくむら》老先 生の、心の程《ほど》ぞ勇《いさ》ましき。この有様《ありさま》に驚《おどろ》きたる、妻女孫子《さいじよまごこ》の止《と》め立《た》ても、引絞《ひきしぽ》りたる梓弓《あずさゆみ》、 返さぬ辞《ことば》に説付《ときつけ》られ、各勇《おのおのいさ》んで武士道《ぶしどう》の、誉《ほまれ》に心も打開き、互に交わす生別《せいべつ》の、杯了《さかずきおわ》りて そのままに、孫《まご》や忰《せがれ》に助けられ、直《すぐ》に殿下《でんか》の御旅館たる、大阪《おおさか》へと馳《は》せ向うたのである。  殿下《でんか》の御感斜《ぎよかんななめ》ならず、願によりて、明日|御前試合《ごぜんじあい》を仰《おお》せ出され、渡辺子爵《わたなべししやく》監督の下《もと》にその |門弟《もんてい》の随一たる、驍勇無双《ぎようゆうむそう》の劉宜和尚《りゆうぎおしよう》は、彼奥村《かのおくむら》大先生の、御相手《おあいて》を勤《つと》むべく命ぜられたの である。和尚の名誉《めいよ》は云《い》うも更《さら》なりその師友たる渡辺子爵《わたなべししやく》も、殆《ほと》んど肉《にく》も躍《おど》らんばかりの喜 びである。過ぎし昔は兎《と》も角《かく》も、今|明治《めいじ》の御代《みよ》となり、太平廃技《たいへいはいぎ》の武芸《ぷげい》をば、竹《たけ》の園生《そのう》の御 座前《みくらまえ》、雌雄《しゆう》を決する両人こそ、素《もと》より死生《しせい》の観念は、術《わざ》の極意《ごくい》と諸共《もろとも》に、定まる上の事なれ ば、迫《せ》まらず後《おく》れず立出《たちいで》しは試合の場所と定めたる、大阪府立学校の教場《きようじよう》であった。彼方《かなた》の 正面には、殿下御出座《でんかごしゆつざ》にて台覧《たいらん》ありその側《そば》には御附《おつき》の人々、下手《しもて》には渡辺子爵《わたなべししやく》、特別の役席《やくせき》 にて臨検《りんけん》ある。その他内外の貴顕紳士《きけんしんし》は、縞羅星《きらぽし》の如く居並《いなら》びて、片唾《かたず》を呑《の》んで見物す。  既《すで》に定めの時刻となれば、奥村先生《おくむらせんせい》は一方より、孫《まご》の安部《あべ》某に扶《たす》けられ、小袴筒袖《こばかまつつそで》にて入 り来る。その様恰《さまあだか》も十二三歳の小児《しように》の如き小兵《こひよう》にて、腰は海老《えぴ》の如く曲《まが》り、頭《あたま》は禿《は》げて一本 の髪毛《かみのけ》もなく、後頭部《ぽんのくぼ》に蜻蜒《とんぽ》の如き髷《まげ》を結び、歩行も素《もと》より自由ならず、病に疲れし身を以 て、今日の晴《はれ》を浮世《うきよ》の筐《かたみ》に、試合の庭に死果《しにはて》んと、予《かね》て期したる決心は、悠揚迫《ゆうようせま》らざる顔色 の、一|中《うち》に見《み》す見《み》す現われた。一方よりは劉宜和尚《りゆうぎおしよう》、六尺に余《あま》る大兵肥満《たいひようひまん》の大剣客《だいけんきやく》、四尺五寸 の大竹刀《おおしない》の先には、重味を付ける為め、。鉛《なまり》あるいは樫《かし》の木《き》を巻き込み、幾十年と手馴《てな》れたる、 手足に斉《ひと》しき振込みの、技物《わざもの》を小脇《こわき》にかい込み、双方《そうほう》息を合せて躪《にじ》り込み、同じ息にて宮殿 下《みやでんか》へ、平蜘蛛《ひらぐも》の如く拝礼《はいれい》し、双方《そうほう》別に礼を返し、呼吸気合《こきゆうきあい》を計合《はかりあ》い、容易に竹刀《しない》に手を掛け ぬ。この間大山《ヂいだたいざん》も大地《たいち》に減込《めりこ》まんず有様《ありさま》に、ただ静粛荘厳《せいしゆくそうごん》の気に満された。奥村先生《おくむらせんせい》の竹刀《しない》 は、何様《なにさま》老年の事故《ことゆえ》、大が長さ一尺六七寸、小が八九寸許りの袋竹刀《ふくろじない》である。今や互いに気 が合うて、睨《にら》み合うたまま竹刀《しない》を引いたが、奥村《おくむら》先生は、小刀《しようとう》の方を正眼《せいがん》に着け、大の方は、 静かに中段《ちゆうだん》に構《かま》えたが、何分《なにぷん》にも腰《こし》が海老《えぴ》の様に曲って伸びぬから、片膝《かたひざ》ついての構《かま》えであ るが、その立派《りつぱ》さと、.柔《やわら》かさと云うたら、始めに見た小児の如き姿はどこへやら、側目《わきめ》には 道場一杯になったような心地《ここち》がするのである。  劉宜和尚《りゆうぎおしよう》も何様日本無双《なにさまにほんむそう》の大先生を、向うに廻しての試合であるから、出来得《できう》るだけの、 |敬意《けいい》と警戒《けいかい》とを以て、ピタッと錐先《きつさき》を下《さ》げて、防《ふせ》ぎ一方に構えた。名《な》にし負《お》う、当代随一と |謳《うた》われたる剣客《けんきやく》にして六|尺有余《しやくゆうよ》の大兵《たいひよう》、この人が大上段《だいじようだん》に構えたら、一|人《にん》として、遯《の》がれ得《え》 た者なしとまで云われた位《くらい》の人が、下段《げだん》の構えで敵を防ぎしは、殆《ほと》んど奥村《おくむら》先生に対して許《ぱか》 りであったろう。双方この位取《くらいどり》にて、息《いき》で責《せ》めおうた間《あいだ》は正《ま》さに三十分間、恰《あたか》も猛虎《もうこ》の前に、 一小銃を着けた猟師である。満場水を打ったよう、塵《ちり》も動かず、片唾《かたず》の音もせぬのである。 その中《うち》に劉宜和尚《りゆうぎおしよう》は、徐《おもむ》ろにジリジリと寄り始めた。奥村《おくむら》先生も鉦先《きつさき》に押《お》されてジリジリと |退《さが》った。この時先生は、さも堅固《けんご》に構えた備えに一寸緩《ちよつとゆる》みをくれ、少し小手《こて》を見せた。劉宜 和尚《りゆうざおしよう》がその小手《こて》をちらり見たかと思う一|刹那《せつな》、奥村《おくむら》先生の右《みぎ》の太刀《たち》は、エイと云《い》う掛声《かけごえ》と共 に体《たい》は飛鳥《ひちよう》の如く、側目《わきめ》には、四五尺も地を離れて、わずか一尺六七寸の竹刀が劉宜和尚《りゅうざおしょう》の |面頭《めんがしら》の真只中《まつただなか》に、スポーンと這入《はい》った、和尚《おしよう》ピタリと先生の前に跪《ひざまず》き、『有難《ありがと》うございます』 と拝礼《はいれい》した。満場はただ武芸《ぶげい》の極意《ごくい》に打たれて、拍手《はくしゆ》の音《おと》一つ無いのである。人々互に顔を 見合せて、暗き夜の明けたように、閉詰《とじつ》めた気が緩《ゆる》んだ、無声《むせい》の音がしたのである。  次に二本目の試合となった。前には奥村《おくむら》先生が死を決して一|太刀《たち》打ったが、打たれた劉宜 和尚《りゆうぎおしよう》は、今度は猛然《もうぜん》と満身《まんしん》の精《せい》を凝《こ》らして、先《せん》を越《こ》して死を決した。今度も前と同じ備《そな》えで はあるが、劉宜和尚《りゆうざおしよう》の下段《げだん》に着《つ》けた太刀《たち》は、死身《しにみ》の太刀である。この小猿《こざる》め、ただ一突に串 ざしであるぞと、気合が奥村先生に冠《かぶ》り掛《かか》って先《せん》を押えている。その恐ろしさは、大山《たいざん》の崩《くず》 れ掛《かか》る勢《いきおい》である。これを見物している渡辺《わたなべ》先生の有様《ありさま》と云うたら、満面朱《まんめんしゆ》を濺《そそ》いで、前の手 摺《てすり》の大竹に両手を掛け、双方の息を見詰《みつ》めておられたが両掌底《りようたなぞこ》の手脂《てあぷら》は、その擱《つか》んだ大竹を 伝うてポトポトと下に滴《したた》っているのを見た。その中《うち》に劉宜和尚《りゆうざおしよう》は、微塵《みじん》の息の隙《すき》より割り込 んで、またジリジリと寄り始めた。奥村先生も同じく片膝にしゃがんだまま銘先《きつさき》に押されて、 ジリジリと後《うしろ》に座歩《いざ》られる。和尚は已《すで》に死身《しにみ》の備えであるから、今度は先生が、小手《こて》でも何 でも見せられただけが損《そん》になる訳故、一点の隙《すき》もなく、柔かに押されるままに座歩《いざ》られる、 和尚の攻方《せめかた》にも、秋毫《しゆうごう》の隙もない故、押して押して押抜《おしぬ》くのである。とうとう先生《せんせい》は、後《うしろ》の |羽目板《はめいた》近く退《い》ざられた。ここで自然的に奥村先生の方に死身《しにみオ》の太刀筋《たちすじ》が出て来るのである。 先生は恰《あだか》も弓《ゆみ》の刎《は》ね返《かえ》すような気合《きあい》になって、和尚《おしよう》の鉦先《さつさき》に割り込んで、出ようとせらるる その気鼻《きはな》に、和尚がポイと攻《せ》め込《こ》んだ太刀先《たちさき》を引いて、先生の左の小手《こて》をポンと打った。奥 村牛荏亠は思わず声を上げ『ハアーア有難う、久し振りに善《よ》い太刀《たち》で打たれた。これで私《わし》も死 土産《しにみやげ》が出来《も 》たよ』と云われた。満場はその勝負《しようぶ》の鋭くて、神聖《しんせい》なのに目《め》が及《およ》ばず。おや! ど うしたのだと云うような顔をして、また一人の声を出す者もない。この時|宮殿下《みやでんか》は、渡辺子 爵《わたなべししやく》を御前近《ごぜんちか》く召《め》され、『双方共殊勝《そうほうともしゆしよう》の試合大儀《しあいたいざ》であった、休息させよ』と有難《ありがた》き御諚《ごじよう》である。 |渡辺子爵《わたなべししやく》は立上って、御諚《ごじよう》との一声に、双方一斉に平伏《へいふく》して承《うけたま》わり、共に落涙《らくるい》して御座《ざよざ》を三 |拝《ぱい》し、劉宜和尚《りゆうぎおしよう》は、奥村《おくむら》先生を肩に扶《たす》けて、御前《ごぜん》を下《さが》ったのである。  この一試合の如き、恐ろしく尊《とうと》く、神聖《しんせい》な試合は、古老の咄《はなし》を聞いて見ても、嘉永安政《かえいあんせい》以 来殆んどないとの事である。日本武士道《にほんぶしどう》の、精《せい》を蒐《あつ》めたる武術の極意《ごくい》は、ただ信念ある、意 義ある、上品な死の決心一つにあると云う事が、幾千の見物に、委敷《くわし》く、明瞭《めいりよう》に、振《ふ》り仮名《がな》 付《つ》きで、分ったのである。今の青年共は、何事にも鍛錬《たんれん》と、修養《しゆうよう》と云う物がないから、死と 云う物を、困って、窮《きゆう》して、行止《ゆきどま》って、雪隠詰《せつちんづ》めに逢《お》うた時にのみ来る物と心得て、泣いた り、悔《くや》んだり、愚痴《ぐち》の百|曼陀羅《まんだら》を並べた上でなければ、死なぬのである。しかしまずそれ等《ら》 は上等の部で、多くは飲まずに酔《よ》うて、眠らずに夢を見て、飯を食いながら死んでいる奴許《やつぱか》 りである。本当に活界《かつかい》に死味《しみ》を解した、先覚者《せんかくしや》の前に於いて、呼吸《いき》を決して一|喝《かつ》したらば、 |腐敗《ふはい》した河岸《かし》の鮪《まぐろ》に物を云う如く、声と脈の響《ひび》きとは、疾《と》うに縁《えん》が切れているのである。薄 志弱行《はくしじやつこう》と云う、浮世《うきよ》の風呂《ふろ》に茹《ゆで》られ生温《なまぬ》るい情熱に上気して、終《っい》に極度の神経衰弱に陥り、 己れの生存《せいぞん》している境界《きようかい》も分らず、天を仰いでは荘《ぽうぼう》々たるものと思い、地を望んでは、ただ |漠《まくまく》々たる物とのみ考え、アーア、無情じゃ無情じゃ、惨酷《ざんこく》だ惨酷だなどと、下宿屋の二階も 滅り込む程|溜息《ためいき》ばかり吐《つ》いて、結論は是か非かの迷路《まよいじ》に行吟《さまよ》うて、華厳《けごん》の滝《たさ》や、大森《おおもり》の海位 で、ブクブク往生《おうじよう》するのを、死の標本《ひようほん》と思うている位の物である。  そもそも死なるものは、人間がおぎゃあと、母の腹から飛出した時に書いた証文《しようもん》であって、 この手形《てがた》は、百千万億、微塵《みじん》も間違なく、必ずきっと、残さず漏《もら》さず、取付け取立《とりたて》に来るも のである。ただそれが、無期限の手形《てがた》で、取付けも取立も、また無期限である。僅《わず》かなその 期間に油断をして、楽観《らつかん》したり、我儘《わがまま》を云うたり、身勝手な妄想《もうそう》に耽《ふけ》ったり、自慢《じまん》をしたり、 |天狗《てんぐ》になったり、己惚《うぬぽ》れをしたり、吝《けち》を行のうたり、放縦《ほうじゆう》に陥《おちい》ったり為《す》るから、何時《いつ》も思い も寄らぬ四九尻《しくじり》に、神と云う債権者を怒らせて無期限と云うを幸いに、命の差押《さしおさえ》を食うたり、 支払命令を受けたり、終《つい》には破産《はさん》の判決を頂戴《ちようだい》して死《し》の宣告《せんこく》に服従《ふくじゆう》せねばならぬ事になるの である。武士道《ぶしどう》は、死の法則であって、武術《ぷじゆつ》はそれの修養鍛錬《しゆうようたんれん》である。故に死には、信念が なくてならぬ。意義がなくてならぬ。その上で死様《しによう》の上品《じようひん》が始めて必要になって来る。これ だけの仕事が具備《ぐぴ》したら、さあ何時《いつ》でも好いと覚悟《かくご》ができるから、その時に始めて彼《か》の無期 限の手形《てがた》の所有者、すなわち生命の債権者《さいけんしや》の神様に、逆寄《さかよ》せに通告を発する、『さあ債権者様 |何時《いつ》でも返済《へんさい》の用意ができました。無期限の手形だから、何時でも取りにお出なさい、払《はら》い ますから』と云い放すのである。これからは一日|活《いき》れば一日の利益《りえき》で、毎日|配当《はいとう》が取れる、 食い儲《もつ》け、着儲《きもう》け、飲《の》み儲《もう》け、働《はたら》き儲《もう》け、またどんな事でも遣《や》り儲《もう》けで、富士山《ふじさん》の頂上に、 水力電気を思い立っても良い、波の上に、製鉄所《せいてつじよ》を栫《こしら》えても良い、無駄《むだ》であろうが、困難で あろうが、自分さえ我慢《がまん》すれば、決して、神の債権者の方で怒りはせぬ。故に同じ骨を折る ならば、そんな無駄《むだ》をせぬでも、国家、社会、民人の為《た》めになる事を道楽《どうらく》と思うて、遣《や》って 遣ってく遣り抜いたら、人も喜び自分も気持が良いから、それも面白い仕事である。庵主《あんしゆ》 が常に云うて聞かす活界《かつかい》の死味《しみ》は人間長寿《にんげんちようじゆ》の滋養剤《じようざい》で、今時理窟《いまどきりくつ》を考えて、匙《さじ》をひね繰《く》り廻 す藪医者《やぶいしや》共には、見た事もない名薬《めいやく》である。故にまず何事をするにも、考えるにも、とりあ えず南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と云うのじゃ、南無《なむ》とは、身を捨てると云う梵語《ぽんご》だそうだから、目を閉《と》じ て、心を淡快《たんかい》にして、身を捨ます、阿弥陀様《あみださま》くくくと、四五|度唱《たぴとな》えて掛《かか》ると、損《そん》をし ても儲《ももつ》けても、皆な利益のような心持がする。それは身を捨てて死と云うものを決した以上 は、慾心《よくしん》と云うものが無いからである。  四五年前死んだ露西亜《ロシア》の経済家ウイッテ伯は、かつてこんな事を教訓《きようくん》した、曰く、 『金と云う物は不思議《ふしぎ》な物で、必要のある場所には、決して往《ゆ》きたくないと云う性質を有《も》ち、 必要のない場所ばかりを選らんで集まっている。今日《こんにち》、金がなければ、破産《はさん》すると云う人の |処《ところ》には、親類《しんるい》の金でも、友人の金でも、一寸|躊躇《ちゆうちよ》をする。これに反して、この頃は、金が多 くて困る、俺の金に対して誰《たれ》か良《よ》い借《か》り手《て》はあるまいかと思うている人の処《ところ》には、見ず知ら ずの赤《あか》の他人《たにん》でも、ヤレ借《か》りてくれまいか、預《あず》かってくれまいかと、八方から持掛《もちか》けて来る。 それで経済家なる者は、この理を平生能《へいぜいよ》く弁《わきま》え、金を借《かり》るなら必要のない時に借りて置く、 貸すのなら有り余《あま》らぬ中《うち》に貸して置くと云うが秘訣《ひけつ》である』 と、庵主《あんしゆ》はこの理によって、大いに悟《さと》った所がある。『人間の死は、必要のない時に死を決し て置く。左《さ》すれば我慾《がよく》と云う物の、道が絶える。人間慾がなければ、幸福は八方より、貿易 風の様に、吹寄《ふきよ》せて来る物である』と。それぞれ輩固《きようこ》なる鍛錬《たんれん》と、修養《しゆうよう》が第一の必要である。 |彼《か》の奥村先生《おくむらせんせい》が病弱《びようじやく》の身を以て、畢生《ひつせい》の鍛錬と修養を提《ひつさ》げて、宮殿下《みやでんか》の令旨《れいし》に感奮《かんぷん》し、一死 を決して立向われたればこそ、驍勇無双《ぎようゆうむそう》の劉宜和尚《りゆうぎおしよう》のお面《めん》を、美事《みごと》に一|撃《げき》し得たのである。 また劉宜和尚《りゆうざおしよう》も二回目に一|死《し》を決すると共に、眼中宮殿下《がんちゆうみゃでんか》と奥村先生なく、恐怖《きようふ》と崇拝《すうはい》と共 に、観念の外《ほか》に奔逸《ほんいつ》して、満身武術の権化《ごんげ》となって、ただ一|突《つき》に芋《いも》ざしとの決心をしたれば こそ、この鬼神《きじん》も窮《うかが》う事の出来ぬ奥村先生の機先《きせん》を割って、その小手《こて》を打つの妙術《みようじゆつ》が実現し たのである。この霊怪限《れいかいかざ》りなき気息《きそく》こそ、人間総ての成功を実現せしむる妙機《みようき》であって、そ の基礎は無慾《むよく》の決心、所謂《いわゆる》死の定力《じようりき》の熾烈《しれつ》なると否《しか》らざるとに因由《いんゆう》するのである。庵主《あんしゆつ》は序《いで》 ながら例の婆心《 しん》に駆《か》られて、青年者|工夫《くふう》の一|助《じよ》にもと思《おも》い、ここに筆《ふで》を馳《は》するのである  因《ちな》みに日《い》う。奥村先生《おくむらせんせい》はこれより劉宜和尚《りゆうざおしよう》を信じて、嫡孫《ちやくそん》の安部某《あべぽう》を門弟《もんてい》として託《たく》せられ、 和尚はその六尺の子を我子《わがこ》の如くに育てていたが、日露戦役《にちろせんえき》に於て安部某は陸軍少尉《りくぐんしようい》として |美事《みごと》に戦死《せんし》を遂げ、奥村先生も老病にて日ならず天上不帰《てんじようふき》の神《かみ》となられたのであるが、庵主《あんしゆ》 はこの神《こうごう》々|敷人《しさひとびと》々の成行《なりゆき》を心行くまでに思遣《おもいや》って、今なお蔭《かげ》ながら楽んでいるのである。 十五 |従容死《しようようし》を待《ま》つ一|代《だい》の傑僧《けつそう》   貧者を恵んで氷雪の夜を徹し、 大患に罹りて三保の浜に寓す  だんだん述べてきた如く、魔人劉宜和尚《まじんりゆうぎおしよう》は性豪快《せいごうかい》にして温厚《おんこう》、一見|倨傲《きよごう》の如くにして柔順 な奇癖《きへき》を持った人であるから、普通|尋常《じんじよう》の人にては迚《とて》も交わる事も困難であるがその性質の |凝《こ》って発するや、総て一塊の任狹《にんきよう》となって膀罐《ほうはく》するのであるから、庵主等《あんしゆら》との間に発する葛 藤事件《かつとうじけん》なども何時《いつ》でも豁然《かつぜん》として氷解《ひようかい》するのである。ある時|故児玉大将《ここだまたいしよう》と劉宜和尚《りゆうぎおしよう》と三人で |閑話《かんわ》の際、庵主《あんしゆ》はこう云うた。 『我等は、生きて世に尽《つく》す事なく、死して後《のち》に聞ゆる事なくて、三十幾年|賛轂《れんこく》の下《もと》の大江戸《おおえど》 に住居し、商売もせず月給も取らずして太平楽《たいへいらく》の我儘《わがまま》を云い通して、それで人並みの天罰《てんばつ》を も蒙《こうむ》らずに、暮しておられるのは、大いにその理由がなくてはならぬ。それは人の知らぬ快 感が、己れの胸中に常に往来しているから、考えた通り、思うたまま無遠慮《ぷえんりよ》に、ズンズン突 抜《つきぬ》いて行けるのである。それが太平楽《たいへいらく》ともなり、我儘《わがまま》ともなるのである。我々|明日《あす》をも思わ ぬ其日庵《そのひあん》ではあるが、もしそれを一年も遣《や》り通《とお》したならば、その三百六十五日の間には、な かなか数多き罪を犯したに違いない。これを忘れて顧みず、先から先と、太平楽《たいへいらく》と我儘《わがまま》の仕 儲《しもう》けのように暮らして行ったら、必ず悪因《あくいん》の祟《たた》りが、一身に纒《まつ》わる事になるものである。そ れでその一年の終りには、必ず自分の心に快《こころよ》いだけの罪滅《つみほろ》ぼしをするのである。その自分に 快いと云う事は、世間《せけん》の人に知れぬようにする事が、第一の条件である。庵主《あんしゆ》は久しい以前 から、人知れず世話していた刑事巡査《けいじじゆんさ》が一人ある。その人が老年になって遊んでいるから、 この人に頼んで忠臣《ちゆうしん》、孝子《こうし》、貞女《ていじよ》、義僕《ぎぽく》の、不運不遇《ふうんふぐう》に行吟《さまよ》うている者を、常に調べておい て貰うて工面《くめん》の良い時は百円か二百円、工面の悪い時は十円か二十円を、二三円もしくは五 六円ずつ、新聞紙で栫えた状袋《じようぶくろ》に入れ『お歳暮《せいぽ》』と書いて幾通かをこの老刑事に渡すのであ る。この刑事先生も若い時から、多くの犯人を、縛《しぱ》っているから罪滅《つみほろ》ぼしと思うて、非常に 面白く奔走《ほんそう》してこの状袋の処分《しよぷん》をしてくれる。まず場末《ぱすえ》の貧民《ひんみん》にして、亭主《ていしゆ》が長の病気にどっ と寝付《ねつ》き、痩枯《やせが》れた小児を抱《だ》いた貞操《ていそう》の女房が、カンテラの灯《ともしぴ》さえ点《とも》し得《え》ず、病夫の枕元に 坐して、骨を刺す寒夜《かんや》に、明日の生計《たつき》の思案《しあん》に沈んでいる、その裏口《うらぐち》の戸の隙間《すきま》から、この 金の入った状袋を、ソーッと一つ投込んで置《お》くと、その翌朝これを手に取ったその女房が、 はっと、電気にでも打たれたように、有難いッ! と思う。その有難いッと思うた一|刹那《せつな》に、 |真正《しんせい》に庵主《あんしゆ》の、罪滅《つみほろ》ぼしが出来るのである。気立《きだて》の正しい人は、これを直《すぐ》に警察に持出した 者もあるが、明白に『お歳暮《せいぽ》』と書《か》いてあるから、『お前に誰かくれたのだ』と云うて、その 女房に下付《かふ》するから、『この活《い》きたる功徳《くどく》、即《すなわ》ち人の知らぬ妙感《みようかん》が決して余所《よそ》には酬《むく》わぬので ある。百発百中、必ず庵主《あんしゆ》が上に酬《むく》うて来るのである。その酬《むく》うて来る来ぬは議論ではない。 酬うて来るであろうと思うのが、快《こころよ》いのである。即《すなわ》ち罪が滅《ほろ》びるのである。これで無罪《むざい》の宣 告《せんこく》を受けたように青天白日《せいてんはくじつ》の身《み》となる、サア明日から、また太平楽《たいへいらく》を云い、我儘《わがまま》を行うので ある』 と咄《はな》した事がある、それが丁度|年末《くれ》の二十八九日の頃であった、その翌晩かにまた劉宜和尚《りゆうぎおしよう》 と打寄《うちよ》ったら節季《せつき》になったので借金取りの鬼が敵軍のように押寄《おしよ》せて来る。劉宜和尚も餅《もち》は おろか団子《だんご》も転《ころ》がらぬと云うている、そこで庵主《あんしゆ》が、 『君は何程《なにほど》あれば餅《もち》が鵁《つ》けるか』と問うと、 『何《なに》四五百もあればよい』と言う。 『それなら、桂二郎氏《かつらじろうし》が庵主《あんしゆ》に千円ばかり金を貸すと云うていたけれども、俺は千や二千で は迚《とて》も年は越《こ》せぬから、その金でまず君《きみ》だけなりと餅《もち》を搗《つ》く事にせよ』 『ウム、それじゃあそうしよう』 と云うて和尚は帰った。それから庵主《あんしゆ》は、鎧兜《よろいかぷと》で借金取と戦争を初めて、一文なしで二日を 暮し、造物主の助けで、新玉《あらたま》の春《はる》が、パアーッと明けて元日《がんじつ》が来た。その元日が大降りの震《みぞれ》 で、シミッタレな、一文なしのお目出度《めでた》であるから、庵主《あんしゆ》は硝子戸越《ガラスどご》しに雪を眺《なが》めて寝てい ると、六時半頃でもあろうか、劉宜和尚《りゆうぎおしよう》が坊主頭《ぽうずあたま》から脊中まで泥の刎《は》ねを掛《か》けてずぶ濡《ぬ》れに なって、のそのそと庵主の枕元に上り込んで来た。これを見た庵主の妻は飛《と》んで来て、 『あら、どうなさったのですか、大変にお濡《ぬ》れなさって、一寸お召《めし》をお脱《ぬ》ぎなさいな』 と云うと、和尚は歯《は》の根も合わぬ寒さの中《うち》に瞳《ひとみ》を据《す》えて、はったと睨《にら》み、 『まあ五月蝿《うるさ》い、奥さんもそこに坐って聞きなさい。お前の亭主《ていしゆ》の其日庵《そのひあん》と云う奴は飛んで もない奴じゃ、二三日|前《ぜん》に俺《おれ》に真正《しんせい》の功徳《くどく》と云うものを教えた。どうやら尤《もつと》もらしく聞いた から、昨日の朝、桂二郎《かつらじろう》から千円の金を取《と》って、俺《おれ》の入用《いりよう》だけを使い、残りをその功徳《くとく》に遣《や》 ろうと思うて、この通り新聞紙の袋に入れ、昨夜は夜通しに、方々の貧民窟《ひんみんくつ》を歩き廻り、中 臣《ちゆうしん》、孝子《こうし》、貞女《ていじよ》、義僕《ざぽく》を探がしたが、中《なかなか》々|暗夜《あんや》の泥檸《ぬかるみ》で銅貨を探すように、掻暮《かいくれ》分らぬ。家 毎覗《いえごとのぞ》き込《こ》んで居る中《うち》に、巡査《じゆんさ》に泥棒《どろぽう》と間違えられて、人立《ひとだち》の中を切り抜け、雪は降る腹は減 る、やっとの事、大部分は片付けたが、夜はがらりと明けるし、仕方がないから、今戻り掛《が》 けだ。俺はお前の亭主ほど、そう悪い事を仕《し》た覚えもないのに、罪滅《つみほろ》ぼしの功徳《くどく》は大変であ る、一文無しの年越《としこし》より、金の有る功徳《くどく》の方が迷惑《めいわく》である、俺も来年から一文無しで暮す、 だから功徳の方は全廃じゃ。やい、こん畜生《ちくしよう》、まだ目脂《めやに》を付けて寝ているな。それ見ろ、貴 様は一文無しの方に取り掛って、俺の方に千円を寄越《よこ》して、こんな目に逢わせやがった。そ れ、これだけ未配達の功徳袋《くどくぶくろ》が余《あま》ったから、これから其日庵《そのひあん》の奴を引摺《ひきず》り起して、方々|廻《ま》わ らせなさい、何様腹《なにさまはら》が減って、寒くて溜《たま》らぬから、奥さん、何か食わせる工夫をしておくれ』  和尚《おしよう》がどんと状袋《じようぷくろ》を投出して、嚔《くしやみ》を二つ三つ遣《や》ったその顔は、余程《よほど》面白い恰好《かつこう》であった。 こんな風の性質の人であるから、庵主《あんしゆ》との交りも絶えず、共に浮世《うきよ》の隔《へだ》てを忘れるのであっ た。  一時|鉋万《きよまん》の富を積んで、芝《しば》の山内御殿《さんないごてん》とまで謳《うた》われた、劉宜和尚《りゆうぎおしよう》が、かくの如く貧乏になっ て、顔も心も変りなく、天性《てんせい》の快活《かいかつ》と、浮世《うきよ》の面白味《おもしろみ》を忘れず、庵主《あんしゆ》と共に遊び暮す有様《ありさま》は、 |彼《か》の天竺《てんじく》の哲人《てつじん》が、雲《くも》に隠《かく》るる深山《みやま》の奥《おく》、霞《かすみ》に鎖《と》ずる古渓《ふるたに》に、自然《しぜん》の花《はな》と月影《つきかげ》の、真如《しんによ》の色《いろ》 に戯《たわむ》れて、生死《しようし》を忘《わす》るる境涯《きようがい》もまた一|入《しお》の趣《おもむき》である。  ある日|庵主《あんしゆ》が、ふと劉宜和尚《りゆうぎおしよう》の家を訪《と》うたところが、何だか混雑の模様《もよう》であるから、つか つかと奥に通ったら、和尚は見違える程の衰弱《すいじゃく》で、ばったりと病床《びようしよう》に臥《ふ》している。庵主《あんしゆ》は夢 かとばかり打驚いてその様子を聞いたら、細君《さいくん》が涙ながら、 『一昨日|出《だ》し抜《ぬ》けにかあっと血《ち》を吐《は》きまして、金盥《かなだらい》に一升も溜《たま》り、それから引続き、三四回 も吐血《とけつ》が続きましたので急にゲッソリ弱って、この様な有様《ありさま》になりました』 との事である、庵主《あんしゆ》は、鳴呼《ああ》、和尚《おしよう》の末期《まつご》じゃなあと思い、枕元《まくらもと》に寄って、 『おい劉宜《りゆうぎ》、良い塩梅《あんばい》の末期《まつご》じゃのう、骨の始末は俺がするから、楽しんで暢気《のんき》に死ねよ。 |貴様《きさま》は面白《おもしろ》い肉《み》の処《ところ》ばかり食うて死ぬのだ。俺《おれ》は不味《まず》い、貴様《きさま》の骨などをしゃぶらねばなら ぬ。しかし、ぐずぐずとそこいらをまご付《つ》いている中《うち》には、俺も直《すぐ》に往《ゆ》くからうろうろして |待《ま》っていろよ』 と云うたら、和尚は落《お》ち窪《くぽ》んだ目を見開き、莞爾《につこ》と笑って、『功徳袋《くどくぷくろ》の罪《つみ》で風を引いて、それ から熱が出て肺《はい》が毀《こ》われて、皆んな吐《は》いてしもうた。これで五慾も十悪も、皆な吐出《はきだ》して、 |綺麗《きれい》な体《からだ》になった。これからぼつぼつ極楽《ごくらく》の方に向って往《ゆ》くのだから、残念ながら貴様《きさま》と道 連《みちづれ》にはならぬわい。地獄《じごく》への伝言《ことづけ》は一つも聞かぬぞよ』 『羨《うらやま》しいなあ、しかし俺が来た以上は、貴様の体は俺が勝手にするから、ぐずぐず云う事 はならぬぞ』 と云うて、直《すぐ》に北里博士《きたざとはかせ》に診《み》て貰《もろ》うたら、左の肺尖《はいせん》が、どっかり毀《こ》われているとの事だから、 相談の上、万一を期し、途中で死んでも構わぬからと、直《すぐ》にその日に用意をして、新橋《しんばし》から 汽車に乗せて細君同道《さいくんどうどう》で、国府津《こうづ》の蔦屋《つたや》に送り付けた。新橋《しんばし》の汽車の中で、庵主《あんしゆ》はかく引導《いんどう》 を渡した、 『おい劉宜《りゆうぎ》、貴様《ささま》とは永い間、面白く遊んだが、今日ここで別れるのが、現世《げんせ》の臨終《りんじゆう》である ぞよ。今度面会の時期は、貴様《きさま》が棺《かん》に入って、同じこの新橋《しんぱし》に着く時であるぞよ。俺《おれ》がここ へ迎えに来るまでは、決して東京《とうきよう》の地を踏《ふ》むなよ』 と云ったら、目を閉《と》じたまま、二ツ点頭《うなず》いたばかりで、汽車はこの思い出多き友達の、病体 を載《の》せて威勢《いせい》よく馳《は》せ去った。それからもしや今日は死ぬか、明日は死ぬかと、心配してい たが何の報知《ほうち》も来《こ》ぬ。来《こ》ないのは固《もと》より結構《けつこう》であるが余り気になるから、一日|国府津《こうづ》に出掛 て見たら、また血を二三回|吐《は》いたそうだが、別に衰弱《すいじやく》が増した模様でもない。それから、北 里博士《きたざとはかせ》の出張所が興津《おきつ》にあるから、そこの遠藤《えんどう》と云う主任の先生を頼《たの》んで、また汽車に乗せ て興津《おきつ》へと送りつけた。それから庵主《あんしゆ》は劉宜《りゆうぎ》の山内《さんない》の家の始末《しまつ》に取掛《とりかか》ったが、何様一寸買人《なにさまちよつとかいて》 がない故、時の南満鉄道総裁中村是公氏《なんまんてつどうそうさいなかむらぜこうし》に、事情を咄《はな》して買うて貰い、道具は、ドンドン、 バッタ屋《や》を四五人呼んで来て、敲《たた》き売ってしもうた。これらの始末《しまつ》から、借金《しやつきん》の片付《かたづ》けまで、 |庵主《あんしゆ》の懇意《こんい》な、後藤勝蔵《ごとうかつぞう》と云う、任侠《にんきよう》の人の尽力《じんりよく》で、無事に片付いたのである。数日の後、 |劉宜《りゆうぎ》の細君《さいくん》は、病状の報告かたがた色《いろいろ》々入用の、道具を取りに上京し、山内《さんない》の家に行ったら、 知らぬ人がいて、何だか変だからと云うて、細君は庵主《あんしゆ》の家に来た、庵主《あんしゆ》は、 『家も道具も売ってしもうたから、もう何にも無いよ。道具が要るなら、庵主《あんしゆ》の家《うち》の物を持っ て往《ゆ》きなさい』 と云うと、この奥《おく》さんがまた劉宜《りゆうぎ》以上、庵主《あんしゅ》以上の、豪《え》らい賢婦人《けんぷじん》で、 『ああ然《そう》ですか、それは色《いろいろ》々お世話様でした、それじゃ今日用《こんにちよう》を達《た》して、私は帰りますから』 と平気なもので、直《すぐ》にまた與津《おきつ》に帰ってしまわれた。それから和尚《おしよう》は、満一年ばかりは、遠 藤《えんどう》ドクトルの治療を受けて、専心摂養《せんしんせつよう》に全力を尽《つく》していたが、薄紙《うすがみ》を剥《は》がすように回復して 来た。医師の咄《はな》しに人間の体には、白血球《はつけつさゆう》、赤血球《せつけつきゆう》と云う物がある、その血球が多くさえあ れば、何の徽菌《ばいきん》でも撃退《げきたい》してしまう、その血球を殖《ふ》やすには、,魚の骨などに効能《ききめ》がある物故、 そんな物を摂取《せつしゆ》するが宜《よ》いと聞いたから劉宜《りゆうぎ》は漁師が網を引くと、細君《さいくん》が海岸に往って、安 価に沢山買うて来て、夫婦《ふうふ》で大揺鉢《おおすりぱち》に入れて、これを摺肉《すりみ》となし、和尚《おしよう》は手掴《てづかみ》にこれを食う たと云う。その豪壮《ごうそう》な養生《ようじよう》の為《た》めかして、さしも強烈《きようれつ》な肺病《はいぴよう》も、漸次《ざんじ》回復して、満二年を経 過した頃は、体量等《たいりよう》も、殆《ほと》んど病前と同一になった。、、)の頃まで庵主《あんしゆ》は、貧乏を抵当《ていとう》にして まで金を持え、月に二百円位ずつは送っていたが、策《さく》も略《りやく》も尽《つ》き果てた暁《あかつき》は、友誼《ゆうぎ》も情義《じようぎ》も、 煎《せん》じ詰《つ》めて、送られぬだけの結論となった。そこで劉宜和尚の方は、居《きよ》を三保《みほ》の松原《まつばら》に転じ て、漁夫《ぎよふ》の網引《あみひき》の手伝や、松葉掻《をつばか》きを生業として、細君と諸共《もろとも》に稼いで、僅《わず》かの賃銭に命を |繋《つな》いでいた。丁度満三年目の一月十九日、庵主は耐《こら》え切れずに、電報を打った、 『ヨウジ アル、スグ ジヨウキヨウセヨ』  これを受取った和尚は、その晩|終夜不眠《しゆうやふみん》で喜び、俊寛僧都《しゆんかんそうず》そのまま、蓬《よもぎ》のように、乱れて いる頭の髪を細君が隣村まで、馬《うま》の毛《け》を刈るバリカンを借りに往って、怪しげに刈り込み、 長年着古した洋服一枚の、若の身着のままで、三保《みほ》を出立《しゆつたつ》し、酒袋一杯、手作の芋を脊負《せお》う て和尚が新橋《しんばし》に到着したのは、夜の七時頃であった。庵主《あんしゆ》は、和尚が棺に入った死骸《しがい》に、新 橋で再会するはずの覚悟《かくご》が、全快《ぜんかい》した和尚に面会するのであるから、時間前より迎えに往き 待っていると、群《む》れ出《いづ》る人に混じて、和尚は大袋を脊負《せお》って出て来たが、何様《なにさま》足掛け四年、 |灯心《とうしん》孟|筋《すじ》の、カンテラで暮した和尚が、百も二百も電灯の光る、停車場《ていしやぱ》に着いたのだから、 |目《め》も眩《まぱ》ゆく、庵主《あんしゆ》が袴掛《はかまが》けで、立っている前を通過しても、目に掛らぬのである。庵主《あんしゆ》は胸 が一杯で、物を云う事が出来ず、ステッキで、和尚の肩をどんと一つ打つと、和尚は振り返っ て庵主《あんしゆ》を見て、これも無言《むごん》で庵主を見詰《みつ》め、涙がホロリ、無言《むごん》のまま、待たせた馬車に乗っ て、双方三百《そうほうごん》も物が云えず、到着した処《ところ》が、日本橋茅場町《にほんばしかやぱちよう》の新福井《しんふくい》と云う料理屋《りようりや》である。こ こに待っていた人々は、後藤猛太郎《ごとうたけたろう》、渡辺亨《わたなぺとおる》、村上太三郎《むらかみた ろう》、郷誠之助《ごうせいのすけ》、内田直三《うちだなお》の五人であ 従容死を待つ一代の傑僧 る。一同が一斉に、無事を祝した有様《ありさま》は、生還《せいかん》を期しない、万里《ぱんり》の波濤《はとう》を凌《しの》いで、帰って来 た、ロビンソンそのままで誰《たれ》も生《い》きている和尚とは思わなかったのである。一同の挨拶《あいさつ》終る や和尚は、並べたる膳部《ぜんぷ》の飯《めし》もお汁《しる》も煮染《にしめ》も、ごったにして、大きな丼《どんぷり》に入れ、一息に鵜呑《うのみ》 に片付け、他人の膳部《ぜんぷ》まで平げてしもうたには、一同アッと驚いたのである。それから庵主《あんしゆ》 と共に、また馬車に同乗して帰って来た処は、すなわち築地《つきじ》の台華社《だいかしや》である。共に枕《まくら》を並べ て床を取って、四年振りに始めて咄《はなし》を初めた、咄はまだ半《なかぱ》も終《おわ》らぬ中《うち》に、夜はガラリッと明 けて、窓から朝日がテラテラと映込《さしこ》んだ。その以後は向島《むこうじま》の別荘《べつそう》に、一年有余|同棲《どうせい》をして、 |後《のち》和尚は芝《しば》の愛宕下《あたごした》に居《きよ》を占《し》めておったのである。  この数回の長き、劉宜魔人《りゆうぎまじん》の物語は、読者もさぞや倦厭《けんえん》であったろうが、庵主《あんしゆ》としては、 その事実の真状を、まだ百分の一だも書尽《かきつく》されぬのである。  鳴呼人生浮泡《ああじんせいふほう》の如《ごと》し、船歌謳《ふなうたうた》う柴筏《しばいかだ》、流《なが》れの儘《まま》に悼《さお》さして、漂《ただよ》う水は利根川《とねがわ》の、源清《みなもと》き筑 波山《つくばやま》、春《はる》の若葉《わかば》も秋来《あきく》れば、紅葉《もみじ》と散りて波《なみ》の畝《うね》、錦《にしき》を織《お》りて流れ行く、人生行路《じんせいこうろ》の浮沈《ふちん》に も、変わらぬ物は友垣《ともがき》の、隔《へだて》なき身の楽みを思い出す儘窓敲《まままどたた》く、時雨《しぐれ》と共に書付《かきつ》けたが、次 回よりはまた別の一|魔人《まじん》を捉え来って、筆《ふで》を馳《は》するであろう。 十六 |異郷《いきよう》の天地《てんち》に星一氏《ほしはじめし》と遇《あ》う   壮士志を決して海外に遊び、義友毒に触れて逆旅に死す  現今《げんこん》東京市京橋区南伝馬町《とうきようしきようぱしくみなみでんまちよう》一丁目に星製薬株式会社社長《ほしせいやくかぷしきがいしやしやちよう》として壮《さか》んに活動している星一《ほしはじめ》 と云う紳士《しんし》がある。この人は福島県人《ふくしまけんじん》にて明治六年生の今五十四歳である、庵主《あんしゆ》がかつて八 九歳の頃より育てた安田作也《やすださくや》と云う者と同じ様に可愛がった一|人《にん》である。庵主《あんしゆ》が多の人の子 を育てた中《うち》にもこの人の事は後進の青年に紹介せねばならぬと思う。丁度|庵主《あんしゆ》が浮浪生活《ふろうせいかつ》を して芝佐久間町《しばさくまちよう》の信濃屋《しなのや》に泊り込んでいた時に、右《みぎ》の安田《やすだ》と共に二人連《ふたりづれ》で夜逃げをして米国《べいこく》 に渡航《とこう》し、サンフランシスコに行って二人で労働に従事したのである。何様《なにさま》子供上りが二人 で不見不知《みずしらず》の外国に往き、朝な夕なにはまだ親の懐《ふとこ》ろ恋しき年頃故、杖《つえ》とも柱《はしら》とも相互に便 り合うて、やっと片言交《かたことまじ》りの英語を覚え、星《ほし》はある家庭のボーイに住込み、安田《やすだ》は洗濯屋《せんたくや》の 集配人になって、一生懸命に勉強をしていた。然《しか》るにこの二人は素《もと》より通勤《つうきん》であるから、あ る貧民窟《ひんみんくつ》の一室に起臥《きが》し、朝早く起きては互いに別れて職務ある家に馳《は》せ附《つ》けるのであった が、ある夜星は友人の処に所用あって出掛《でか》けて往《ゆ》き、安田《やすだ》は昼の疲れの為め寝台に仰臥《ぎようが》して 居《お》った。星は深更《しんこう》帰宿《きしゆく》して、 『おい安田《やすだ》、今帰った』 と呼んで見ても起きぬから、電灯を点けて見たれば、安田《やすだ》は依然《いぜん》仰臥《ぎようが》している。何だか様子 が変だから立寄って体に触《さわ》って見ると、こはいかに、全身氷の如く冷《ひ》え切って、手足《てあし》共に鱇 子張《しやちこば》ってしもうている。おや! と思うと同時に星《ほし》の鼻《はな》を劈《つんざ》く程に感じたのは瓦斯《ガス》の臭気《におい》で ある。星《ほし》は雷霆《らいてい》にでも打たれたように驚《おどろ》いたが、全く安田《やすだ》は瓦斯窒息《ガスちつそく》で死んだ事が分った。 それから宿の主人を起して騒ぎ出し医者よ薬と手を尽《つ》くしたが、もう間に合わぬ。警察官の 調査によれば、室内のある場所の瓦斯管が破裂《はれつ》しておったとの事である、それから星《ほし》は誰彼《たれか》 れを頼み、尾花《おばな》が原《はら》の片鶉《かたうずら》、一|穗《ほ》に縋《すが》る思いをしてこの安田《やすだ》の亡骸《なきがら》を野外《やがい》一|片《べん》の煙《けむり》となし遺 骨《いこつ》とした。彼は安田《やすだ》が最終の眠を遂《と》げた部屋にぽつねんとして孤灯《ことう》に対した時思わず涙声《なみだごえ》を 揚《あ》げたのである。 『安田《やすだ》、俺《おれ》は実に淋《さび》しいぞ』  この一声は彼が胸中《きようちゆう》に燃《も》ゆる活動力の烈火《れつか》を振り起して、その光力《こうりよく》が百千|哩《マイル》を照徹《しようてつ》する サーチライトの如く、信念の耀《かがや》きを発する小火口であったのである。彼はそれより親友|安田《やすだ》 の骨箱《こつばこ》をストーヴの棚《たな》に載《の》せ、一輪の花と欠《か》け茶碗《ちやわん》の水とを手向《たむ》け、出入共《しゆつにゆう》にかく曰《い》うた。 『安田《やすだ》、俺《おれ》はこれから君と二人前働いて、二人前の成功をせねばならぬぞ。かつて先生が「人 間は遊ぶ動物ではない、働く動物であるぞ」と云われた事を君と二人で聞いていた。今俺は その訓戒《くんかい》を一人で実行せねばならぬ身の上となった、しっかり働くから見ておれよ』  これが星《ほし》をして苦痛《くつう》を忘れ、辛労《しんろう》を思わず無目的主義に、ただ人間の本能《ほんのう》たる労働を不撓 不屈《ふとうふくつ》に続行せしめた動機である。庵主《あんしゆ》はかつて彼にこんな事を云うた事がある。 第第第第第第第 匕六五四二二- 第八 |粗食《そしよく》でも構《かま》わぬ十分に食え、十二分に食うベからず。 食うならどんな物でも嚥下《のみくだ》さぬ前に能《よ》く噛《か》めよ。 身体相当の営養《えいよう》を摂取《せつしゆ》したら、草臥《くたびれ》るだけ十分に働け、十二分に働くべからず。 |草臥《くたぴ》れたら能《よ》く眠れよ。 十分に眠りて、十二分に眠るべからず。 それで健康の平均《へいきん》が保《たも》てたら、脳髄《のうずい》の健康を平均して、決して空想《くうそう》に耽《ふけ》るべからず。 脳髄《のうずい》の平均が保てて、空想に耽《ふけ》らぬようになったら、一事件ずつ精細《せいさい》に深く考慮《こうりよ》せ よ、考慮が円熟《えんじゆく》したら、強度の忍耐《にんたい》と実行《じつこう》の力とを挙げて、善悪《ぜんあく》となくきっと遂行《すいこう》 せよ。 その遂行《すいこう》の結果が善《ぜん》なれば取《と》り、悪《あく》なれば取《と》らざる事を自分に査定して決するがよ いが、何にしてもその経過した経験《けいけん》だけは、決して忘るべからず。 星は実にこの意を自已より得たる理想として実行して止まなかった一川である。故に彼は、  第一 随分難儀《ずいぷんなんぎ》もしたが、病気をしなかった。  第二 彼の脳髄《のうずい》は常に興奮《こうふん》せぬよう、萎縮《いしゆく》せぬよう、能《よ》く平均《へいきん》を保《たも》っていた。  第三 彼は成敗共既《せいばいともすで》に着手《ちやくしゆ》した事だけはきっと仕遂《しと》げて来た。  第四 彼の生涯《しようがい》は以上の条件の為めに体力《たいりよく》、智力《ちりよく》、働力《どうりよく》とも平均して、無期無滅《むきむめつ》であった。  星《ほし》は親友|安田《やすだ》と死別れてから、一層|不変《ふへん》の勉強を継続して、鳥《とり》の粟《あわ》を拾うように、セービ ングができると同時に、その雇主《やといぬし》にも殆《ほと》んど貯金同様の信用を得た。然《しか》るに星《ほし》はその体力も、 脳力も過労していなかったから、この貯金に対しても、決して無駄な事を考えなかった。  彼は熟考《じゆつこう》の上、この金を全部イーストの方に向う旅費《りよひ》に使用すべく決心した。彼が紐育《ニユ ヨ ク》 に到着した時は、一文なしであったから、まず第一の武器《ぶき》たる体力《たいりよく》と脳力《のうりよく》とを行使して働ら いた。働くについては彼の前主人に得た信用を利用して、その主人の書いた信用紹介状《しんようしようかいじよう》を以 て、十分に活動の地歩を得た。庵主《あんしゆ》が端《はし》なく米国《べいこく》に用務《ようむ》ができて、時の農商務次官|藤田《ふじた》四|郎 氏《ろうし》と帝国大学《ていこくだいがく》の教授理学博士|箕作佳吉氏《みつくりかきちし》と共に、横浜《よこはま》からチャイナ号《ごう》と云う船に乗って米国 に渡航《とこう》し、紐育《ニユヨヨ ク》の『フィスアヴェニューホテル』に宿泊して、殆ど一ヵ月もした後の事であっ た。朝ボーイが一葉の名刺《めいし》を持って来た。庵主《あんしゆ》これを見るとヰ目○●〇三と書いた横文字《よこもじ》の名 刺《めいし》である。庵主《あんしゆ》は種《いろいろ》々の人の訪問を受ていたから探訪記者《たんぽうきしや》ででもあろうと速断《そくだん》して呼込《よびこ》んで 見たら、駆幹長大蓬頭垢面《くかんちようだいほうとうくめん》にして、縞柄《しまがら》も分らぬ程汚れた脊広の洋服を着た一青年であった。 前面に佇立《ちよりつ》したところを凝視《ぎようし》した庵主《あんしゆ》は、しばらくして脳髄《のうずい》が綻《ほころ》びるかと思う程驚喜《ほどきようき》の声を 発した。 『星《ほし》ではないか?』  星《ほし》は頭を俯低《うなだ》れて、胸迫《むねせま》りてか無言《むごん》である。庵主《あんしゆ》は星《ほし》が安田《やすだ》と共に夜逃《よにげ》をして以来、殆ん ど七八年の間、雨に付け風に連れ殆んど忘れる隙《ひま》もなく、アア今は何国《いずこ》に行吟《さまよ》い居るやらん、 |定《さだ》めこ難儀流浪《なんざるろう》をしているならんと、思い続けし愛男子《まなおのこ》が、天涯万里《てんがいばんり》の紐育《ニユ ヨ ク》にて、庵主《あんしゆ》の面 前《めんぜん》に現われんとは、思いもよらぬ喜びで、ツト進み寄ってシッカと握手し、 『能《よ》く無事でいてくれた、偉大の成長、一|期《ご》の満足、まず座《ざ》に着いてゆるゆる話そうではな いか』 と傍《かたわら》なる椅子《いす》を与《あたえ》たけれ共|星《ほし》はなお直立して、 『小生|図《はか》らず今日《こんにち》新聞紙上にて先生の来米《らいべい》を知り、夢路《ゆめじ》を辿《たど》る嬉《うれし》さに我を忘れて推参《すいさん》しまし たのは師訓《しくん》に背《そむ》きて遠遊《えんゆう》し、幾多《いくた》の風雨に曝《さ》らされましたが、未だ一事の告ぐべき事もあり ません。ただ頃刻《けいこく》も早く先生に云《い》わで、已《や》まれぬ一事と云《い》うは、同窓下《どうそうか》に育《はぐ》まれ、殊《こと》に愛憐《あいれん》 深かりし安田作也《やすださくや》が五年|前桑港《ぜんそうこう》の逆旅《げきりよ》に於て、思わぬ凶変《きようへん》の為めに命を墜《おと》し跡《あと》に残りし小生 は斯《かくかく》々|云《しかじか》々の進路を辿り翼折《つぱさ》られし孤鴟《こおう》の如く取り残されて、幾年《いくとせ》か波のまにまに漂いて、 |終《つい》に紐育《ニユきヨ ク》の岸辺に縋《すが》り附き、人波多き淵《ふち》や瀬《せ》を筆一本に棹《さお》さして、今は独力にて「ジャパン、 エンド、アメリカ」と云う雑誌を発刊し、余暇《よか》を以てコロンビア大学校《だいがつこう》の課程を修め、「ブルッ クリン」のある教会慈善の宿舎に起臥《きが》して雨路《うろ》を凌《しの》いでいます』       う        けいれき           あんしゆ しゆうじつう   よふ と始め終りの憂き苦労、七八年の経歴を落ちもなく物語った。庵主も終日倦まず、夜更けま で聞くに付け世の中の哀別離苦《あいべつりく》の筋路《すじみち》を、昔も今も繰り返す、苧多環糸《おだまきいと》の裃《かせ》となり、笑うも 泣くも煩悩《ぽんのう》の夢《ゆめ》の浮世《うきよ》の彩色《いろどり》か、迷悟《めいご》三|界住捨《がいすみす》つる、その結論は会者定離《えしやじようり》、教うる人の権威 はも、習うに劣る意気地《いくじ》なさと、坐《そぞ》ろに哀傷《あいしよう》の涙を止め得なかったのである。その夜、星《ほし》は |止《と》めるも肯《き》かず、午前の二時頃よりそこから約二三|哩《マイル》もあるブルックリンに帰った。さしも  ねつとう  ニユーヨーク        くつおとたえは                         ふ     まちなか    こ ぐら に熱閙の紐育の街上も、靴音絶果てて月の光に塵さえも、眠に耽ける町中を、小黒き影を後 にして、消去りたる星《ほし》の姿を階上の窓より見た庵主《あんしゆ》は、種《しゆじゆ》々|様《さまざま》々の刺激《しげき》にその夜はとうとう 一|睡《すい》もせず、暁《あかつき》の牛乳配達の鈴を聞いたのであった。翌朝星《よくあさほし》はまた早くから来て、土地不案 内の庵主《あんしゆ》の世話を何くれとしてくれた。正午頃一人の宿のボーイは一寸星《ちよつとほし》の姿の見えぬ所で、 |庵主《あんしゆ》の前に直立《ちよくりつ》し、 |ほし《しはい》 『あの星と云う「ジャパンニース、ゼントルマン」が、この「ホテル」に出入する事を支配 |人《にん》が非常に注意しております。それは彼《かれ》の靴《くつ》には馬《うま》の如き蹄鉄《ていてつ》を打ち付て、大股《おおまた》に室内を歩 きますので、絨毬《じゆうたん》が随所破損《ほうぽうはそん》しますからです』 と眼を円くして警告《けいこく》した。それまで何の気も付かざりし庵主《あんしゆ》が、ふと星《ほし》の靴底《くつぞこ》を注意して見 ると「ドッグ、ヘッド」と云う、所謂《いわゆる》犬の頭形《あたまがた》の重く厚き大きな破れ靴に、彎形《わんけい》の重き蹄鉄《ていてつ》 を打付けているにはさすがに一|驚《きよう》を喫《きつ》した。実に彼の満身の勇気を以て、この鋼鉄艦《こうてつかん》の如き 靴を穿《は》いて、石張《いしば》りの紐育《ニユヨヨきク》の市街を縦横に踏破《とうは》するのである。庵主《あんしゆ》は会心の余り星《ほし》に向い、 『予《よ》は君と再生《さいせい》の奇遇《きぐう》を祝するが為《た》めに、好《よ》き物を贈ろう』 と言って彼と共に外出し、「サムプル、ショップ」とて、流行毎の見本品のヒネ物計りを集め て商《あきな》う家に往《ゆ》きて流行遅れの型の最も頑丈《がんじよう》なる編《あ》み上《あ》げ靴《ぐつ》十足を買い求め、紙包として、星《ほし》 と共に旅宿に背負《せお》い帰りこれを星《ほし》に贈った。 『予《よ》は君が、自《みず》から決して、自《みず》から為《な》すところの今日《こんにち》の行為《こうい》は、崇高《すうこう》なる君が自覚の問題を |遂行《すいこう》するのであるから、その身を包む破帽弊衣《はぽうへいい》は、金銭で買うことの出来ない綺羅錦繍《きらきんしゆう》であっ て、庵主《あんしゆ》もこれを欣羨《きんせん》する訳であるから、これを改めよとは決して言わぬが、その靴《くっ》はホテ ルから抗議を申込んで来たので、予《よ》が買《こ》うて遣《や》るのである。君どうか、この十|足《そく》の靴の破る るまで、紐育《ニユキヨ ク》の全市を蹂躙《じゆうりん》して、成業《せいぎよう》に努力してくれ、その上では、予《よ》また何なりと君の要 求に応ずる』 と云い聞かせた。星《ほし》は戦争国が、十|艘《そう》の軍艦《ぐんかん》でも貰《もろ》うたように喜んで、その靴の包《つつみ》を軽《かるがる》々と |背負《せお》うて帰ったが、当時|庵主《あんしゆ》が連《つ》れていた通訳の神崎直三氏《かんざきなおぞうし》や、児玉文太郎氏《こだまぶんたろうし》の如きは、今 にこれを笑種《わらいぐさ》の一つとしているのである。これより段《だんだん》々|星一《ほしはじめ》の立志伝《りつしでん》を後進の者の為に紹介 することにする。 十七 |希望《きぽう》に輝《かがや》く青年《せいねん》の意気《いき》    一箇の行商全国を踏破し、 一介の書生北米を蹂躙す 希望に輝く青年の意気  星《ほし》は幼少より信念《しんねん》ある青年であった。弱年の時から言う事が普通と違うていた。曰く、 第一 天《てん》が自分を貧乏な艱難《かんなん》多き家庭に産んで下《くだ》さったのは自分の幸福である。きっと英雄《えいゆう》  豪傑《ごうけつ》になれと云う使命を持たせて英雄豪傑に選定《せんてい》して下さったのである。 第二 富貴潤沢《ふうきじゆんたく》の家庭に産まれたあの某《ぽうぼう》々の如きは、人生最大の不幸福者である、どうして  も豪《えら》い者にはならぬ事に極っている。 第三 人生の発達は丁度家屋の建築の如く基礎工事が根本《こんぽん》である。木火土金水《もくかどごんすい》のあらゆる技《ざ》  巧《こう》と困難《こんなん》とを尽《つく》して、打固めた上に建築せねば堅実《けんじつ》な大家屋は出来ぬのである。人間の発  達も物質的、即《すなわ》ち衣食住《いしよくじゆう》の不足|観念《かんねん》に鍛錬《たんれん》して身体意志《しんたいいし》の基礎を修養しておかねば、大人《だいじん》  物大事業《ぷつだいじぎよう》は決して出来ぬものである。 第四 自分は真の天の寵児《ちようじ》で産《うま》れ甲斐《がい》のある、生《い》き甲斐《がい》のある大人物大事業家になれよとの  大使命を受けた者であるから、この大使命を傷つけるが如き恥《はず》かしい事を仕《し》ては他日|豪《えら》く  成《な》った時に申訳がないのである。 第五 かく信じて自分は大世界に対して、大建築をなす基礎工事として忍耐堅実《にんたいけんじっ》の志操《しそう》を守  らねばならぬ。 とかような事を云うだけあって、その成長の順序は全く他の青年と違うていた。庵主《あんしゆ》はかつ て星《ほし》の厳父喜《げんぶさ》三|太氏《たし》とも面会した事があったが、一見|着実《ちやくじつ》な老人と見受けた。氏は若年の頃 より村長にも成り、県会議員《けんかいぎいん》にもなり、明治十五六年の頃は地方人に率先《そつせん》して民選議院《みんせんぎいん》の設 立《せつりつ》にも奔走《ほんそう》し、国家社会《こつかしやかい》の為《た》めにも尽瘁《じんすい》したと云う時代的の理解力も持っていた人であるか ら、その家庭に生れた星一《ほしはじめ》の薫陶《くんとう》の程も思い遣《や》らるるのである。  庵主《あんしゆ》は星《ほし》が渡米前《とべいぜん》の事の記憶《きおく》を辿《たど》って見るに、彼は明治二十四五年の頃|東京《とうきよう》の商業学校を 卒業して、その頃渡米の考えを起したらしい。彼は友人に語って曰く、 『人は米国《べいこく》に行くと米国人《べいこくじん》の様になって帰って来るが、僕はどこまでも日本人《にほんじん》であるから、 米国に行ってもその積《つも》りで知識を研《みが》き最も良き優等の日本人になって日本に帰って来るつも りである』  それで日本人《にほんじん》なる以上は日本《にほん》を知っておらねばならぬから、日本《にほん》の内地旅行《ないちりよこう》をして日本の |山河《さんが》の風物都鄙《ふうぷつとひ》の状況をも巡視《じゆんし》したいものである。  それには旅費と云う金が入用だがそれがない故その金策《きんさく》には今所有の書籍に加うるに所持《しよじ》 の学費の全部を投《とう》じて、神田《かんだ》の夜店《よみせ》などで最も安価《あんか》にしてなるたけ余計《よけい》に買われる古本を沢 山|仕入《しい》れて、それをウントコサと脊負《せお》い、行《ゆくゆく》々これを売って旅行をしてみたい』 と、その後|果《はた》して彼はそれを実行した。小川町《おがわまち》辺の古本を買い集めてこれを風呂敷《ふろしき》に包んで 脊負《せお》い瓢然《ひようぜん》と東京《とうきよう》を出掛《でか》けた。彼は日蔭町《ひかげちよう》で買《こ》うた水兵服《すいへいふく》に草鞋掛《わらじが》け、麦藁帽子《むぎわらぽうし》に大風呂敷《おおぷろしき》 を負《お》うて、九段坂《 だんざか》で同郷の学友に別れを告げ、その日は横浜《よこはま》の友人の許《もと》に泊り その翌日か らは木賃宿《きちんやど》や学校《がつこう》や停車場《ていしゃじよう》などに夜を明して、大阪《おおさか》に着いた時はその古本はもう一冊も無 かった。それより星《ほし》は庵主《あんしゆ》の友人にして大阪朝日新聞《おおさかあさひしんぶん》の主筆《しゆひつ》たりし高橋健《たかはしけん》三氏を訪《と》うたとの 事、この高橋氏はかつて官報局長となり、また内閣書記官長《ないかくしよきかんちよう》となり、また各方面教育上の枢 機《き》に関係した人であった。悲《かな》い哉、早く世を去られたが、庵主等は今なおその高風《こうふう》に憧憬《どうけい》し て止《や》まぬのである。けれ共|星《ほし》は決して高橋氏より金銭《きんせん》の恵《めぐみ》を受けなかった。毎朝《まいあさ》朝日新聞《あさひしんぷん》十 五枚宛《  まいずつ》を貰《もろ》うて、これを梅田停車場《うめだていしやじよう》や川口《かわぐち》の船着場所《ふなつきばしよ》等に往《い》って呼売をなし、夜は場末の木 賃宿《すうちんやど》位に泊って精細《せいさい》に大阪《おおさか》の風土人情《ふうどにんじよう》等を研究していた。故に星《ほし》は今日《こんにち》なお大阪の新聞呼売 の元祖は俺れだと歳張《モま》り、大阪市中で新聞の怒鳴売《どなりうり》を見ると手を挙《あ》げてこれを買《こ》うては、俺 の乾児《こぶん》だと云うて嬉々《きき》として喜《よろこ》んでいる。当時高橋氏は星《ほし》の生活状態を不憫《ふぴん》に思い 相当の 金を拵《こしら》えて遣《や》るから早く内地漫遊《ないちまんゆう》を終《しま》って亜米利加《アメリカ》に往《ゆ》けと云われたが、星《ほし》は厚くその好意 を謝《しや》した。曰く、  ごこんし   しんこん  てつ    ありがた  ぞんじ          あなた がた        えら              、 『御懇志は心魂に徹して有難く存ますが、私は貴下方のお蔭で豪い者に成ろうて思うており ますから自分の修養上に必要があってかようの生活を致しております。人間必要な金が有《あ》っ て奔走《ほんそう》するのは何の困難《こんなん》も有ませぬ。殊《こと》にまた縦令《たとえ》親でも師匠《ししよう》でも自分の信念《しんねん》を棄《す》てて金を 借用したり貰うたりする事はその時の苦痛《くつう》を凌《しの》ぐには一番便利でありますが、成業《せいぎよう》の後《のち》に取 り去る事の出来ぬ遺憾《いかん》を持たねばなりませぬから、もし頂戴《ちようだ》致しますなら私の修養の径路に 必要な物を戴《いただ》きとう存《ぞん》じます。それは何《いず》れ奥様に願出《ねがいいで》ますから……』 と云うて彼はその翌日|高橋氏《たかはしし》の細君《さいくん》に面会して相談を始めた。この細君こそ世《よ》に雛《はや》されたる 賢婦人《けんぷドん》で、健三氏とは十八も年上の人で有ったが、幾多の青年はこの賢婦人《けんぷじん》の訓戒《くんかい》によりて 大人物と成った人が沢山ある位故、早速に健三氏に星《ほし》の申出を取次ぎ、その望《のぞみ》を叶《かな》えてくれ た。それは全国の書林《しよりん》から新刊書籍の批評を朝日新聞社《あさひしんぷんしや》に乞《こ》う為《た》め年々沢山の寄贈書籍《きそうしよせき》が積《つ》 んで山を成しておる故、その不用の分を貰い受け、また脊負《せお》い出して全国|漫遊《まんゆう》を企《くわだ》てたいと の志望である。早速その相談が調《ととの》うて星《ほし》は高橋《たかはし》の命《めい》の如く再び漫遊《まんゆう》の途《と》に上《のぽ》ったのである。  この相談の調《ととの》うた時に高橋の奥さんは星《ほし》を招《まね》いて、 『星《ほし》さん、貴方《あなた》に見せる物があるから、一寸《ちよつと》お出なさい』 と云うて一室に伴《ともな》われたら、古本《ふるほん》が山の様に積《つ》んである。奥さんが、 『星《ほし》さん、これだけあれば貴方何所《あなたどこ》まで旅行ができます』 と云われたから、星は飛上るように喜んで、 『これだけあればきっと月世界《げつせかい》まで漫遊《まんゆう》する事が出来ましょう』 と云うたら、夫人は心から喜ばれた。それから星《ほし》はその本を売っては金を栫《こしら》えて色《いろいろ》々の品物 を買い、これを行先きの市《まち》で売ってはその金でまた新規《しんき》の物を買い、また先の市《まち》でこれを売っ てとうとう五|畿内《きない》を巡《めぐ》り、四|国《こく》に入《い》り、九|州《しゆう》に渡ったのである。九州も大分《おおいた》、宮崎《みやざき》、鹿児島《かごしま》 より琉球《りゆうきゆう》に渡り、長崎《ながさき》より肥前筑前筑後《ひぜんちくぜんちくご》より門司《もじ》に出で中国を経て再び大阪《おおさか》に帰った。まず |高橋先生夫婦《たかはしせんせいふうふ》に面会をして、潮《しお》の波路《なみじ》の旭日影《あさひかげ》、翠《みどり》の山《やま》の暮《くれ》の鐘《かね》、過《す》ぎ来《こ》し旅路《たぴじ》の起臥《おきふ》しを、 窓打つ風の淋《さぴ》しさに、語《かた》り尽《つく》して共《ともども》々に、花《はな》なす孤灯《ことう》を掻《か》き立てて夜《よ》の更《ふ》けるのを忘れたの である。それより星《ほし》はまた大阪《おおさか》を辞《じ》し辿《たど》り辿りて北陸《ほくろく》を廻り、東京《とうきよう》の古巣《ふるす》に舞い戻った時は、 |隅田《すみだ》の桜《さくら》も綻《ほころ》びて、待乳《まつち》の山《やま》の夕霞《ゆうがすみ》、影浅草《かげあさくさ》の鐘《かね》の音《おと》、響《ひぴ》くも知らず江戸《えど》ッ子《こ》が、踊り狂う て塒《ねぐら》さす、鳥さえ迷う頃であった。  その夏が即《すなわ》ち前回に述べた通り、星《ほし》は親友|安田作也《やすださくや》と共にひそかに東京を脱《ぬ》け出《い》で、十数 日の後には太平洋《たいへいよう》の赤道直下《せきどうちよつか》を乗り切って、彼《か》のコロンブスの発見したと云う米大陸を ーー金門湾《ゴヨルデンゲ ト》の急潮《きゆうちよう》を隔《へだ》てて遥《はる》かに桑港《サンフランシスコ》を船前《せんぜん》に望見《ぼうけん》した時であった。  これからが星《ほし》の燃《も》ゆるが如き青年の野心を実地に演出する大舞台《おおぷたい》、即《すなわ》ち亜米利加《アメリカ》大陸上の 一|人《にん》となって、貧書生《ひんしよせい》に扮《ふん》したる一俳優が試演劇場《しえんげきじよう》に上《のぽ》ったのである。  星《ほし》がこの渡米《とべい》の同船中には栗野公使《くりのこうし》も在《あ》ったそうだが、星《ほし》は彼《か》の朝日新聞《あさひしんぷん》の高橋先生およ び日夲新聞の主筆陸実氏《しゆひつくがみのるし》等よりも、時の桑《サンフラン》 港領《シスコ》事|珍田氏《ちんだし》に紹介の添書《てんしよ》を持っていたそうだ が、星《はし》が到着と行違いに珍田領事《ちんだりようじ》は帰朝《きちよう》せられたので、未知未見の外国に行ったポッと出の 二青年は、まず肚胸《とむね》を突く程がっかりしたそうである。安田《やすだ》の咄《はなし》は別として、星《ほし》はまず熱心 に自分の働き口を探《さが》し、やっとの事でスクールボーイと云うに住込《すみこ》んだ。これが前回に述べ. た星《ほしサ》の桑港労《ンフランシスコ》働の註解《ちゆうかい》である。スクールボーイとはまず朝四時半頃に起きて八時まで一生 懸命に働く、それから九時になると学校に行き、三時になると帰って来て、また七時半頃ま で働く、都合七時閭半位働いて五六時間学校に行く事の出来る室内的労働である。元来|星《ほし》は 精神こそ強固《きようこ》であるけれ共、生れ付き小気《こき》の利《き》かぬ申さば不調法《ぷちようほう》な男である上に今まで主取《しゆとり》 をした事もなく、また他人に使役《しえき》せられた事もない彼は人にも頼み自分も困難して働き口を 探してヤッと住込《すみこ》んだが、その仕事振《しごとぶ》りの不調法《ぷちようほう》なのを見た主人は直《ただち》に暇《いとま》を出す。彼は労働 どころでなく、学業ど、ころでなく、住込むが早いか直ぐに追い出される。最初の一ヵ月には 彼は二十五軒も追出された。はなはだしきに至っては短かいのは一時間、長いので一昼夜に 過ぎない。星《ほし》の友人は皆|星《ほし》の事を『=戸《ミスタ オえ》9戸《デ ホ》=000=一《シ》』と云うたのである。それは『《オイ》|9 0窰穹《ダサし》の自《ホ》8三《シ》』という綽名《あだな》である。かくの如く星《ほし》が方々の働き場所を縮尻《しくじ》っては日本青年《にほんせいねん》の 働き先が狭くなって、星《ほし》の為めに他の多数の日本青年《にほんせいねん》が困るから、支那人にも劣《おと》る星《ほし》だと云 うて排斥運動《はいせきうんどう》が友人間から起った位である。ここに至って星《ほし》も非常に困って、一|夜孤灯《やことう》に対 しグッと思案をしてここに一大決心が星《ほし》の胸底《きようてい》に湧然《ゆうぜん》として起った。それは、桑《サンフラン》 港《シスコ》で有名 な某家《ぽうけ》である。その家は主人が後家《ごけ》さんで、子供が二人ある。 『この家《うち》は皆|貪婪《けち》である』 『この家は皆叱言《みなこごと》を云う』 『この家は皆寄《みなよつて》たかって奉公人《ほうこうにん》をこき遣《つか》う』 『この家は食物《くいもの》が非常に不味《まず》い』  この噂《うわさ》の為《た》めに誰人《だれ》も今日《こんにち》まで三日と辛抱《しんぽう》した者がない。星《ほし》はこの家《うち》に住込むべく決心し た。彼以為《かれおもえ》らく、 『どんなに不味《まずく》とも食《く》いさえすればよい』 『命ぜらるるまま快《こころ》よく無暗《むやみ》に働く』 『どんな無理を云うても決して口答えせぬ』 『どんなに侮辱《ぷじよく》されても決して膨《ふく》れ顔《つら》をせぬ』 『この家を労働百般の稽古《けいこ》をする学校と心得《こころえ》きっと卒業をせねば、他の学校にても決して卒 業は出来ぬものと決心する』 『もし追出すと云うても、自分は無給金でも飲まず食わずでも働いて、死ぬまで出て来ぬと 決心してぜひこの家《うち》に置いてもらう事にする』と。  こう覚悟《かくご》をして、とうとうその家《うち》に住込んで、前の決心通りに働いた。友人は皆もう出て 来るか、もう追出さるるかと待っていたが、一週間目になってその主人が星《ほし》に給金を渡した。 |星《ほし》はこの時に『お前はこの家に居ぬでもよい、来週からは』と宣告を受けるであろうと待構《まちかま》 えていたのに、何にも云わぬ。また家人《かじん》の全体が一人も叱言《こごと》を云わぬ。翌週になっても同様 である。ここで星《ほし》は叫《さけ》んだ『俺は桑港《そうこう》の労働学校を卒業したぞ』と。庵主《あんしゆ》もここまで書き来《きた》っ て覚えず絶叫《ぜつきよう》した、星《ほし》は真に人間事業の一階級を優等で卒業したのだと、今時《いまどき》の神経衰弱し た青年共は、腹《はら》の足《た》しにもならぬ屁理窟《へりくつ》ばかりを先に覚えて、第一に人に使わるる事を知ら ぬから人を使う道も分らぬ。已《すで》に社会の一事業のどんな小部分をも成功しておらぬのである。 |況《いわ》んや成功もせぬ前に不平《ふへい》とか憤懣《ふんまん》とか事業《じぎよう》の成功《せいこう》と云う問題には何の関係必要もない事ば かりを先に振り廻して、手も足も動かすことは忘れている、丁度これは撒水夫《さんすいふ》が栓《せん》を抜く事 を忘れて、ブウブウ怒りつつ東西南北に車を挽《ひ》き廻《まわ》るのと一般で、何の目的で生きているの やら更らに分らぬのである。今の世の中にはこんな馬鹿物計りが生きているから、役に立た ぬ奴ばかり殖えて、何の成功も贏《か》ち得ぬのである。世の中の成功なる者は絶対の問題であっ て、自身の総《すべ》てをこれが犠牲《ぎせい》に供しても困難である。庵主《あんしゆ》はかつてある一|恩人《おんじん》の幼児の済癬《かいせん》 を全癒《ぜんゆ》せしめんと、抱寝《だきね》をして介抱《かいほう》した為《た》め、庵主の全身に伝染《でんせん》し二年半|苦痛《くつう》して、終《つい》に全 快《ぜんかい》せしめたから、今なお実父母以上に慕《した》われている一|人《にん》である。即《すなわ》ち成功は絶対の犠牲《ぎせい》が条 件である。星《ほし》が絶対犠牲《ぜつたいぎせい》の決心は万世不磨《まんせいふま》の教訓《きようくん》であって、彼《か》の釈氏《しやくし》が一|鳩《きゆう》を助ける為《ため》に股 肉《こにく》を裂いて犠牲《ぎせい》としたる教訓《きようくん》と殆んど一致している。星はこれより進んで米国第一のコロン ビア大学校《だいがつこう》に入学するの計画に入るのである。 十八 |至誠天地《しせいてんち》を動《うご》かす   忍耐克く志業を起し、 艱難能く人を玉にす 至誠天地を動かす  庵主《あんしゆ》が見る多くの青年の中《うち》で、星《ほし》は総《すべ》ての観念《かんねん》に一種動かざる基礎があった事を認めてい る。星《ほしサ》が桑《ンフラン》 港《シスコ》で就職難の渦中に漂《ただよ》うて、途方《とほう》に暮れた時、彼《え》は意を決して労働者仲介所|即《すなわ》 ち桂庵《けいあん》に飛込んで、その就職先を依頼《いらい》した。桂庵《けいあん》曰く、 『お前は英語を咄《はな》せるか』 『今お前と咄《はな》しているだけは咄せる』 『宜《よろ》しい分った。今この地を南方に去る二百|哩《マイル》のところに、お前の働く場所があるから、手 数料六|弗《ドル》を仕払《しはら》えば紹介状を書いて遣る』 と云うから星は所持品《しよじひん》一切を売飛《うりと》ばして、六|弗《ドル》を払《はら》い、添書《てんしよ》を貰《もろ》うて船に乗込んだ。その船 は米国《べいこく》の沿岸航路を営業とする至極《しごく》小さい船であって、それが南米海《なんべいかい》の大濤《おおなみ》に弄《もてあそ》ばれる笹葉《ささは》 の様に、他に比類なき動揺《どうよう》である上に、速力は非常に遅緩《のろ》いので、食物と云うては犬も喰わ ぬ堅パン一個に、豆を焦《こが》して煎《せん》じた茶一杯のみである。嘔吐《へど》の有《あり》たけを吐《は》いて、漸《ようよう》々港に一《は》一一一|氾 上《いあが》っても宿屋《やどや》もない。側《そば》の酒屋の土間にある板椅子《いたいす》に腰打掛けて疲労を休め、荒寥《こうりよう》たる不見《ふけん》 の殖民地《しよくみんち》の風景に眺《なが》め沈んでいるとその酒屋の主人が側に来《き》て、 『おいおい日本人《にほんじん》よ、この地に来てお前の働きに行く処《ところ》は、遥《はる》か二|哩《マイル》の向うの岡の上に見え るあの家である。もう暁《あかつき》にもなって来たからぽつぽつ出掛《でか》けてはどうじゃ』 と追立られた。星《ほし》は重き頭脳《あたま》を振上げて前路を見て、やっとその野路《のみち》を辿《たど》り、始めてその家 に至り添書《てんしよ》を出したら、主人の内儀《おかみ》さんが一人の料理人と仲働人《なかばたらきにん》とに紹介して、直に仕事 を命じた。即《すなわ》ち星《ほし》は昨夜来《さくやらい》の船量《ふなよい》のまま、食物も摂《と》っておらぬのに、一分間の猶予《ゆうよ》もなく直 に仕事を与えられた。そうしてその仕事は一時間も立たぬ中に、全部|零《ゼロ》の落第点《らくだいてん》を取った。 その家の内儀《おかみ》さんが、 『お前の働振《はたらきぶ》りは私の家の仕事と合致《がつち》せぬ』とこう云うて立去った。しばらくすると麦酒樽《ピヤだる》 のような腹を抱《かか》えた主人公が来て、 『お前はあの遥かの向うより航海《こうかい》して来る水平線上に煙《けむり》の見える桑《サンフラン》 港行《シスコ》の船に乗るが宜 しい』 と宣告《せんこく》して、ポケットより五|弗《ドル》の金貨《きんか》を取出して渡した。星《ほし》は地上に跪《ひざまず》いて、どうか一週間 だけ試験して下さいと頼んだら、 『俺と一緒にこの馬車に乗れ』 と厳命《げんめい》せられ、とうとうそれに乗せられて船場《ふなば》へ行った。船は干潮《かんちよう》の時故、桟橋《さんばし》より少し離 れて着いた為め梯子《はしご》が掛らぬ。船の樒《マスト》から長い棒を差出して、その先から綱《つな》が下って、その |綱《つな》に畚《もつこ》が付いて桟橋《さんぱし》の上に来ている。その主人公はそれを指《ゆぴさ》し、 『お前はこの畚《もつこ》の上に乗れ』 と云うからとうとう星《ほし》はその畚《もつこ》の上の人と成ると、直にがらがらとクレーンを捲《ま》いて星《ほし》を釣《つ》 り上げ、ドッサリその船のデッキの上に下《おろ》されて、また一人《ひとり》の下等船客と成《な》ったのである。 この船客《せんきやく》こそは現今の東京市京橋区南伝馬町《とうきようしきようばしくみなみでんまちよう》にある、白煉瓦《しろれんが》七|層楼星製薬《そうろうほしせいやく》会社社長の星一《ほしはじめ》で ある。それが二十幾年前の体を乗せて南米の大濤《おおなみ》に揺《ゆ》られ揺られて、また桑《サンフラン》 港《シスコ》に逆戻りし たのはその桑《サンフラン》 港《シスコ》を出発した五六日の後であった。星《ほし》は元の桑《サンフラン》 港《シスコ》には着いたがこの地は永 い間自分が就職難で漂《ただよ》うた処《ところ》である。その上に、嚢中《のうちゅう》は無一物で、どれ程|智嚢《ちのう》を絞《しぽ》ってもパ ンを得《う》る工夫が出来ぬ。万止《ばんや》むを得ず星《ほし》は始め紹介した彼の桂庵《けいあん》の家に行った。曰く、 『お前の尽力《じんりよく》で指図の働先《はたらきさき》に行ったら、一時間も立たぬ中に落第《らくだい》し帰された。お前は僕の英 語《えいご》だけを試験《しけん》して肝腎《かんじん》の仕事の問題を試験せずにただ無暗《むやみ》に追やったが、それだけの手数料 に六|弗《ドル》は高いから返してくれ』 と云うた。桂庵《けいあん》は星《ほし》がこの亜米利加《アメリカ》的経済論の談判《だんぱん》を、大勢来客のある前でするから直に、 『私も商売故それでは半分の三|弗《ドル》を返戻《かえ》しましょう』 と云うて三|弗《ドル》を投出した。星《ほし》はこれで数日の食物を得る準備が出来たのである。この三|弗《ドル》を 限度として何とか就職をせねばならぬと考えて、うろうろしている途中で、伊藤《いとう》と云う東京《とうきよう》 での友人に遭《お》うた。天涯異境《てんがいいぎよう》の途上、旧友《さゆうゆう》に邂遁《かいこう》して過越《すぎこ》し方《かた》を物語った星《ほし》は、いかに嬉《うれ》し かったであろう、星曰く、 『君はどうして米国《べいこく》に来たか』 『僕は年寄《としよ》ったお母さんが貧乏して難儀《なんぎ》をしているのに、僕が不運でどうしても職に就く事 が出来ぬから、何でも米国で一生懸命に働いて、お母さんの達者《たつしや》な中《うち》に一日でも楽《らく》をさせて 見たいと思うて出て来たのじゃ、君よもし出来るなら、その君が縮尻《しくじ》った月給五十|弗《ドル》の田舎《いなか》 の口《くち》に僕を世話してくれぬか、そうすれば今まで僕の働いていた家《うち》に君《きみ》を周旋《しゆうせん》しよう』 『それは君|良《よ》い心掛《こころが》けじゃ。僕はただ米国第一のコロンビア大学校《だいがつこう》に入りて学問がしたい ばっかりで米国に来たのであるから、君のように慾張《よくば》らぬでもよい。しかし僕は生れ付き不 調法者《ぷちようほろもの》であるから、僕がその家《うち》の仕事に駲《な》れるまで、君が教えてくれ。それを交換条件とし て僕が追出された田舎に照会《しようかい》してみよう』 『それは願《ねがつ》たり叶《かな》ったりじゃ。きっと君が仕事に落付いて追出されぬまで見届けて、僕は田 舎の方に行くから』 と約束してそれから星《ほし》は一生懸命に手紙を書いて、伊藤をその麦酒樽《ビヤだる》の主人公に紹介したと ころが、四日目に返事が来た。曰く、 『お前の親切を大いに謝《しや》す。この手紙の到着《とうちやく》した次の日午後四時に桑《サンフラン》 港《シスコ》を出帆《しゆつぱん》する船があ る。その船に間違いなく乗込んで来さえすれば傭入《やといいれ》てもよい』 との事である。伊藤《いとう》は躍《おど》り上《あが》って喜んだが、星《ほし》は一向|嬉《うれ》しくない。それは今度勤める家《うち》を縮 尻《しくじ》らぬまで教えてくれる筈《はず》の約束ある伊藤《いとう》が、明日出発するから、星《ほし》はまた直《すぐ》に追出される 事を悲観《ひかん》するからである。しかしそれも止《や》むを得《え》ぬから、また星は伊藤を田舎に出発させて、 自分はその日から今まで伊藤の居《い》た家《うち》に働く事に成《な》ったのである、そこで今度は星が絶対に 追出されぬ工夫《くふう》をした。  第一 どんな無理非道《むりひどう》な仕事を云付られても嫌《いや》と云うまい。  第二 どんな六ケ敷《しき》仕事でも出来ないと云うまい。  この二つをきっと守ったならば、皆《みな》人が可愛がってくれるに違いないと決心して、それか ら毎日毎夜どんな場合でも、どんな人からでも、物を云い付けられる時は、おっと声に応じ て立上り、直にその仕事を誠意《せいい》に片付《かたづ》ける事に従事した。そこで主人は申《もうす》に及ばず、家内中《かないじゆう》 の人から、出入をする人々まで、星《ほし》を非常に重宝《ちようほう》がって親愛《しんあい》するようになった。間もなくそ の親愛《しんあい》は敬愛《けいあい》となり、敬愛《けいあい》は信任《しんにん》となって来たのである。始めは一家内外の人が皆寄って集《たか》っ て虐使《こきつか》った星《ほし》を、今日は皆が寄って集《たか》って尊敬《そんけい》するように成《な》って来たのである。  それで庵主《あんしゆ》が常に青年の者に訓戒《くんかい》するのである。将来人を使おうと思うなら、十分に人に 使われる学問をせねば、人は使えぬものじゃと。故に庵主《あんしゆ》が世話をする青年は、幼少より小 僧を勤めさせ成長したら必ず兵隊に遣《や》るのである。これは華族《かぞく》の子《こ》でも兵役に付いたら、そ の上官に虐使《こきつか》われるのである。一番の好学問《こうがくもん》である。それが出来ずしてその青年が何で成功 するものか。星《ほし》はまず庵主学校《あんしゆがつこう》の第一の優等卒業生《ゆうとうそつぎようせい》である。  そこで星《ほし》が昼夜の差別《さべつ》なく仕事を仕《し》ているのを見た主人は、 『星《ほし》よその仕事はお前の仕事ではない』 と云うて他の者にもその仕事を分別して、明白に云付《いいつ》けるようになってきたため、星《ほし》の仕事  だんだんげんしよう                      ひま                                    つい は段々減少して来た。そこで星の体に暇が出来てきたから、勉強する事も出来る、終に主人 の許《ゆるし》を受けて夜学に通う事になった。それから給金を貰えば紐育《ニユ ヨ ク》へ東行《とうこう》する旅費《りよひ》にと主人に 預ける。主人も星を愛しているから、成るべく学資の溜《たま》る工夫《くふう》をしてくれる。それで星はか   けんやく                                            りつぱ   けいざいがく    しやかいがく なり倹約をし有用の書籍を購入して読む事に努める。当時星は立派な経済学や、社会学や、 せいじ がく     ぷんふ そうおう                   つ                        けいざいろん 政治学の本を分不相応に買込んで自分の部屋に積んでいた。ある時マーシャルの経済論を買 うて帰って来た時に、その家《うち》の娘さんがそれを見付《みつ》けて、 『星《ほし》、お前の持っている本を一寸《ちよつと》お見せ』 と云うてそれを見てその本が当時英米両国で持唯《もてはや》されている本であるから、娘さんは欽羨《きんせん》に 耐えず、 『おお星《ほし》よ、お前はこんな本を読むの』 と叫《さけ》んだ。 『はい私はこの本を読たいのが満身《まんしん》の希望でありましたが、買うお金が有ませぬため悔《くや》んで います内《うち》、此家《こちら》で働かせて下《くださ》るから、とうとうこの本が買えました。お嬢さん星《ほし》は今夜はこ の本にキッスをしてこの本を抱《だ》いて寝《ね》ます』 と云うたら、 『星《ほし》よ明日の午前にでも、お前の部屋に私の行く事を許してくれないか、お前のその様に思 うて買うた沢山の本を私は見たいと思うから』 『はい何時《いつ》でもお出下《いでくだ》さいませ』 と答えた。翌日娘さんが来て、星が本を愛蔵して積上《つみあ》げているのを見て、驚いたとの事であ る。その事を娘さんが父母や家内中に咄《はな》したので星《ほし》は益《ますます》々その一|家《か》の尊敬《そんけい》を受ける事になっ た。  ある時その家《うち》にお客があって、料理人のブリッチと云う独逸人《ドイツじん》の女が天手古舞《てんてこまい》をしていた。 星《ほし》は己《おの》れの仕事を早くしもうて、学校に行積《ゆくつも》りで働いているので、両人の間に端《はし》なく言葉争《ことぱあらそい》 の衝突《しようとつ》が起った。  ブリッチは星《ほし》に、 『ええこの悪嗅奴《スチンクめ》』 『ええこの猿奴《モンキミめ》が』 『どうして猿《モンキ 》と云う事が分るか』 『能《よ》く鏡に向って合点《がてん》せよ』 と云い争うと、ブリッチは側《そば》にあるパンを造《つく》る棒で星《ほし》に打って蒐《かか》った。星はその手を左手で 押えて、右の手で彼女の横面《よこづら》を打った。彼女は今度は肉切庖丁《にくきりぽうちよう》を持って星に切り掛けた。星 は再びその手を左の手で押えて、右の手でまた彼女の横面《よこづら》を打ったから、彼女は前の部屋へ 逃げた。星も直に本の包みを肩にして学校に駈《か》け付《つ》けたら友達が、 『今日は大変|遅《おそ》いじゃないか』 『今日は料理人の女と喧嘩《けんか》をしてブン殴《なぐ》って遣《や》った。そんな事で遅《おそ》くなった』 と咄《はな》すと友達の大勢は非常に心配して、 『米国の法律で女を殴《なぐ》ると牢《ろう》に入れられる。星《ほし》はきっと牢《ろう》に入れられるに違いないがどうし たら良《よ》かろう』 と打集《うちつど》って評議してくれるので、星《ほし》も始めて今更《いまさ》らに自分の軽挙《けいきよ》を後悔《こうかい》して、 『なるほど米国では女を神様の次に置いてあるから、その位の事は当然であろう』 と思い俄《にわ》かに怖気《おじけ》を催《もよ》おし、自分は前途《ぜんと》に種《しゆじゅ》々の志望を持って外国まで出て来たのに、全く |思慮《しりよ》の浅薄《せんぱく》なりし為《た》め、終《つい》に牢獄《ろうごく》にまで繋《つな》がるる事になっては、郷里に自分の成功を明け暮 れ門に倚《よ》って待っている父母兄弟や、先祖に対しても何とも申訳ない事をしたと、一|度《たぴ》思い |浮《うか》べては、しきりに己《おの》れを責《せ》めてその日は電車にも乗らず、色《いろいろ》々今後の処置《しよち》を考《かんが》えて、ぶら ぶらと徒歩して帰路《きろ》についたが丁度月が大空に懸《かか》って、薄雲《うすぐも》がこれを蔽《おお》い、何だか有為《ゆうい》なる 自分の前途を遮《さえぎ》られるような心地《ここち》して、屠所《としよ》の羊で帰って来て、ぼんやり孤灯《ことう》の前に坐して、 故郷の事やら、明日からカリホルニヤの牢獄《ろうごく》に入る事などの考えに沈んで、眠にも就《つ》かなかっ たが、 暁前《あかつさまえ》になる頃|俄然《がぜん》として大決心が付いたのである。  星《ほし》はこれよりだんだん青年処世《せいねんしよせい》の深山《しんざん》に分け登りて榛朞荊棘《しんもうけいきよく》を切披《きりひら》くのである。 十九 |星氏《ほしし》一|生涯《しようがい》の光栄《こうえい》   神女を殴打して神罰を恐れ、 神女駆逐せられて免罪を喜ぶ 星《ほし》は料理人の独逸《ドイツ》女ブリッチを殴《なぐ》ったため終《つい》に入獄問《にゆうごく》題をまで憂慮《ゆうりよ》せねばならぬ事になっ て、かなり煩悶《はんもん》もしたが、やがて決心がついて、その翌朝は何時《いつ》もより早く起き出でて、な るべく早く所定《しよてい》の仕事をしまい、断然暇《だんぜんいとま》を貰《もろ》うてこの家を出ようと思うて、そのプログラム にある仕事をさっさっと片付けていた、その家のお内儀《かみ》さんと云うは朝寝坊で、お化粧をす るに一時間半位もかかって、十一時頃でなければ二階から降りて来ぬ。それでその頃までに |総《すべ》ての仕事を片付けて、直に暇《いとま》を貰う決心であった。間もなく料理人のブリッチが起きて来 たのを見ると、どう我慢《がまん》しても笑わずにはいられぬ。彼女が下地《したじ》のでぶでぶした頬《ほお》に綿を当 てて、その上を赤いハンケチで顎《あご》から頭へとあべこべに頬かむりをして包んでいる。何の事 はない西瓜《すいか》に目鼻《めはな》を付けて、赤風呂敷《あかぷろしき》で包んだと同じ事である。星《ほし》は始めて殴《なぐ》り方の余り強 烈《きようれつ》であった事を後悔《こうかい》したのである。おりからその家の息子で、星《ほし》と共に学校に通うモリスと 云うが、 『星《ほし》よ、あのブリッチを見よ。どこの国に女を殴《なぐ》る者があるか』 『はい、私も今更悪《いまさらわる》かったと思うておりますから、貴下《あなた》のお母さんが二階から降りてお出に なれば、私はもう此家《ここ》の奉公人《ほうこうにん》ではございませぬ』  これを聞いたモリスは非常に同情の眼を光らして沈黙《ちんもく》した。間もなくお内儀《かみ》さんが降りて 来て仲働《なかばたらき》の女と二人で星《ほし》の仕事をしている後《うしろ》に立止まって咄《はな》している。 『見よあの星《ほし》は、私が星《ほし》の姿を見る度に、何時《いつ》でも働いていない事はない。彼は精神ある前《ぜん》 途《と》ある青年であるよ』 『お内儀《かみ》さんよ、貴女《あなた》がもし星《ほし》を追出さなければ、料理人のブリッチは、直《すぐ》に自分から出て 往きますよ』 と仲働《なかばたら》きが咄《はな》すとお内儀《かみ》さんは星《ほし》の側へ来て、 『お早う、星《ほし》よ』 『お早うございます。お内儀《かみ》さん』 と星《ほし》は姿勢《しせい》を正して答えて復《ま》た直に仕事に掛った。お内儀《かみ》さんは、 『星《ほし》よお前は本当に仕事が早くなったよ』 『はい有難《ありがと》う、私は今日は殊《こと》に自分の仕事を早くしまいまして、お内儀《かみ》さんに願う事があり ますよ』 『星《ほし》よお前はブリッチを殴《なぐ》ったか』 『はい殴りましてございます』  お内儀《かみ》さんは少し耳の遠い人故、扇《うちわ》に聴音器《ちようおんき》の付いているのを耳に当てて、 『星《ほし》よお前はブリッチを殴《なぐ》ったではなかろうのう』 『いえ確かに殴《なぐ》りましたが、私は今|後悔《こうかい》をしております。ブリッチさんの辞《ことば》に勘忍《かんにん》の出来ぬ と云う事ばかりを考えまして、ブリッチさんが女である事を忘れていました。私は今それが 悪《わる》い事であったと後悔《こうかい》しております。悪い事をして貴下《あなた》の家におる事は、私が貴下《あなた》に済みま せんから今日《こんにち》の受持の仕事を片付けてお暇《いとま》を頂きお詫《わぴ》をしようと思っております』 『星《ほし》よお前は私の家に居たいか』 『はい、貴下《あなた》の家の人々は皆親切で、私のような外国人にでも忘れられぬ程の慈愛《じあい》がありま す。それだけ悪《わる》い事をした私は居ては済まぬと思うています』 『星《ほし》よお前は私の家で今まで通りにしておれ』 と云うてお内儀《かみ》さんは台所の方に走って行ってブリッチに向い、 『ブリッチよ、ユー、キャン、ゴー(ブリッチよお前は宜《よろ》しいぞ出て往《いつ》ても)』 と云うて、後《あと》は何にも云わず直《すぐ》に星《ほし》の側に来て、 『星よお前は直に桂庵《けいあん》に電話を掛けて、お前の衝突《しようとつ》せぬような料理人を雇《やと》え』 と命ぜられた。その日の午後にブリッチは荷物《にもつ》を抱《かか》えて出て往《い》ったが、それと引違《ひきちが》えに新し い料理人が来た。星《ほし》は今度はその料理人が無能《むのう》でも、熱心に援助《えんじよ》して仕事を成功させねばな らぬ。また料理人も非常に星に依頼《いらい》して、心から星に服従《ふくじゆう》した。星《ほし》は直に信用の度を増して |日本《にほん》で云う三|太夫《だゆう》のような役になった。引続き会計となり、倉の鍵《かぎ》までも預かった。  一体、従来|桑《サンフラン》 港《シスコ》に居《い》る日本人《にほんじん》は、兎角米国人《とかくべいこくじん》の軽蔑《けいべつ》を受ける者が多かった中《うち》に、星《ほし》だけ は前に述べるが如き着実奮闘《ちやくじつふんとう》の結果、始めて一部の信用を贏《か》ち得《え》、終《つい》に尊敬《そんけい》を受け、この家《か》 人《じん》の舟遊《ふなあそ》びの時なども、同等の資格で伴われる事となって、後《のち》にはその息子のモリスが、夜 芝居《よしばい》を見物に往く時の監督《かんとく》として同行するまでになったのである。  それから段々|星《ほし》の信用は増進して、モリスと夜半遅《よなかおそ》く馬車で帰って来ると、その主人とお |内儀《かみ》さんは寝室中にてアルコールランプで温《あたた》かい夜食《やしよく》を拵《こしら》えて、モリスと星とに食わせる事 にまでなった。当時の奉公人《ほうこうにん》で、主家《しゆか》の息子と馬車を共にして出入《しゆつにゆう》し、芝居見《しぱいみ》や舟遊《ふなあそ》びにま で同等資格で往く者は、星より外《ほか》には無かったのであると。これは庵主《あんしゆ》の門下生で桑《サンフラン》 港《シスコ》に |居《い》た者共の咄《はなし》である。  かくの如く星《ほし》は弱冠《じやつかん》にして、早くも人生の辛酸界《しんさんかい》に分け入り、その人事《じんじ》を解《かい》するや、これ を善用《ぜんよう》するに無邪気《むじやき》、即《すなわ》ち誠実《せいじつ》を以て対人的に実現せしめたのである。故に地球の東西《とうざい》を問《と》 わず、人種《じんしゆ》の黒白《こくびやく》を論《ろん》ぜず、感化的《かんかてき》の信用を醸成《じようせい》したのである。  庵主《あんしゆ》は常に青年に訓《おし》える「天下親切《てんかしんせつ》に敵する武器《ぷき》はない」富婁那《フルナ》の弁舌《ベんぜつ》でも、誠実《せいじつ》がなけ れば匹夫《ひつぷ》も動かす事は出来ぬ。  もし鉄砲《てつぽう》と云う器械を人間が操縦《そうじゆう》する物として仮令晒弁《たとえとつべん》でも誠実《せいじつ》なる親切の気が充満《じゆうまん》して その前に向えばその弾丸はどう催促《さいそく》しても出て来るものでない。それは己《おの》れを捨《す》てて人を思 うのである。全く個人本位と、他人本位の差である。新約全書万頁《しんやくぜんしよまんぺきジ》の聖典《せいてん》も、仏説《ぷつせつ》百万の経 巻《きようかん》も、自他の二物を解釈する説明に過ぎぬ。古語《こご》に曰く「殺気已《さつきすで》に尽《つ》きれば猛虎《もうこ》すらかつ睡《ねむ》 る」と豊干禅師《ぶかんぜんじ》が虎に凭《よ》りて共に睡るの絵画は如上《じょじょう》の謂《いい》の縮図《しゆくず》である。  星《ほし》は自然的に、.無意識的に、覚《おぽ》えずこの界《さかい》に辿《たど》り入りて、終《つい》に他人種|猜疑《さいぎ》の外人をまで化 度《けど》したのである。ある時|彼《か》の星《ほし》の主人が、肺の疾患に悩んだ時に、医命《いめい》により脊と胸にテレ ピン油を塗る事になった。星は心から憂慮《ゆうりよ》して親切にこれを塗って遣るので、主人は看護婦 を排《はい》して星に頼んだ。星は学校に往《ゆ》く前と、帰ってからと、朝早く起た時と、日に三度時刻 も違えず熱心に塗ってやったので終に病気が平癒《へいゆ》した。星は心からそれを喜んで、やはり仕 事を熱心に働いていた。ある時主人夫婦が、 『星《ほし》よお前の郷里にある御両親は、非常な偉《えら》い人《ひと》であろうよ』 と云うた。星《ほし》は意外に感じて、 『ナゼです貴下《あなた》よ』 『お前の如き無邪気《むじやき》な児《こ》を産んだ事と、お前の如き忍耐強《にんたいづよ》き青年《せいねん》を育《そだ》てた事と、お前の如き |健康《けんこう》な体力《たいりよく》を養《やしな》われた事との三つは、私共は見ず聞かずして、その両親の偉《えら》い事を識《し》る事が 出来る』 と、聴いて星《ほし》は思わず両眼に涙の傍沱《ぽうだ》たるを禁じ得なかった。それは他郷万里にあって父母《ふぼ》 を思うの切《せつ》なるところに、自分の今の境遇《きようぐう》は全く父母の教戒《きようかい》の賜《たまもの》で、艱難《かんなん》の路《みち》に進みつつ ある事を自覚して居《い》た時であったからである。星《ほし》は思わず、 『私《わたくし》の両親は慥《たし》かに偉《えら》いです。私は子だからそう思いますがそれが事実である証拠《しようこ》はまだ 見もせぬ万里他境《ばんりたきよう》の貴下方《あなたがた》によって分る位ですからきっと偉《えら》い事を信じます。私はお父《とつ》さん お母《かあ》さんのお蔭《かげ》で貴下方《あなたがた》に可愛がられますよ』 と云うた時は星《ほし》はもう涙声であった。古語《こご》に「父母《ふぽ》を顕《あら》わすは孝《こう》の終《おわ》りなり」と日うてある が、星《ほし》は青年《せいねん》にしてこの孝の終りの光輝《こうき》ある端緒《たんしよ》を見たのである。星は他《た》にも善行《ぜんこう》があるで あろうが、星が生涯中《しようがいちゆう》に一番の誇《ほこ》りとすべきは、未見の外国人をしてその両親を誉《ほ》めさせた と云う一|事《じ》より以上の大なる成功はないと思う。星は将来事業の成功者にもなるかも知れぬ が、どんな成功をしても、この孝行の成功を凌駕《りようが》する程の成功は出来ぬと予測《よそく》する事が出来 る。  星が桑《サンフラン》 港《シスコ》での辛苦《しんく》は、紐育《ニユ ヨ ク》のコロンビア大学校に入りたい為《た》めばかりであった。ある日 星は主人に向い、 『私がこの家《うち》に来ましたのは、紐育《ニユ ヨ ク》のコロンビア大学校に入りたいばかりの精神が本《もと》であり ますが、お蔭《かげ》で旅費《りよひ》の貯蓄《ちよちく》も出来ましたから、イーストに向って往《ゆ》く事を許して頂《いただ》きたいと 思います』 『お前が学問に熱心な事を、私共は知っているから、私の家《うち》で辛棒《しんぽう》するなら、この桑《サンフラン》 港《シスコ》の 地のスタンホード大学に私共が学資を出して入れて遣るがどうじゃ』 『感謝《かんキや》は辞《ことば》に尽《つく》されませぬが、貴下方《あなたがた》は私の郷里の両親と同じ心にお成り下されて私をして 米国代表的の文明、則《すなわ》ち紐育《ニユ ヨ ク》や華盛頓《ワシントン》の文明に接触《せつしよく》せしむると同時に、米国式理想的の大学 校コロンビア大学校の教庭に立《た》たせると云う誇《ほこり》の希望を持って下《くだ》さる訳には参《まい》りますまい か』 『私共がお前に対する沢山の意見は、今のお前の辞によって全部|消滅《しようめつ》して、一切お前の考え に同意する事にしましょう。ただお前が紐育《ニユ ヨ ク》の学校に通う事が、桑《サンフラン》 港《シスコ》よりも幾層の辛苦《しんく》で あろうかを気遣《きづか》うのみである』 『私は米国|桑港《サンフランシスコ》の辛苦《しんく》と、貴下方《あなたがた》の慈愛《じあい》とには充分|接触《せつしよく》して、生涯の好記念《こうきねん》を得ましたが、 まだ紐育《ニユ ヨ ク》の文明と辛苦とには接触しませぬから、心は引絞《ひさしぼ》った弓のように緊張《きんちよう》しています』 『お前はどうして紐育《ニユ ヨ ク》の学校に通学する資力《しりよく》を得《う》るのか』 『私は貴下方《あなたがた》のお蔭で、貯蓄《ちよちく》してある金で日本の織物《おりもの》で、ドローイング・ウオークと云う、 |麻《あさ》の白地に花や蝶《ちようちよ》々などを鑁《うちりば》めた物が大変に桑《サンフラン》 港《シスコ》でも流行していますから、それを仕入れ て紐育《ニユミヨ ク》で行商《ざようしよう》をして資金を得《う》る積《つも》りです』 『私共はお前の心掛けに感心すると同時にお前の決心にもまた同意するから、それでは家内 一同打寄つて盛《さかん》に送別会《そうべつかい》をしよう』 と云うて、一|家団欒快《かだんらんこころ》よく送別《そうべつ》の宴《えん》を開き、他境恩遇《たきようおんぐう》の主人より、心往《こころゆ》くまでの好遇《こうぐう》を受《う》け たのである。  星《ほし》が紐育《ニユきヨきク》へ東行《とうこう》するには、桑《サンフラン》 港《シスコ》の日本人福音会《にほんじんふくいんかい》は五六十人の会貝を集め、盛《さか》んなる送別 会《そうべつかい》を開いた。来集《らいしゆう》の会員は皆|星《ほし》の東行《とうこう》を羨《うらや》んだ意を演《の》べて、星の前途を祝福《しゆくふく》してくれた。星 は満腔《まんこう》の誠意《せいい》を以て感謝《かんしや》の答辞を演べたが、その演説中に左《さ》の言がある。曰く、 『私は「人とは何ぞや」と云う自問自答《じもんじとう》が根本となって、父母に離れて桑《サンフラン》 港《シスコ》に来《きた》って色《いろいろ》々 の辛酸《しんさん》も嘗《な》め、今回また紐育《ニユ ヨ ク》に向って既往《きおう》と同一の境涯《きようがい》を実践《じつせん》に往《ゆ》くのであります。故にこ れを祝福《しゆくふく》して下《くだ》さる諸君に於て「人と云う物の解釈」を私と同一致に考えていて下《くだ》さるお方 ならば、前途を祝福《しゆくふく》して下《くだ》さるのを謹《つつし》んでお受致《うけいた》しますが、もしその「人とは何ぞや」との 解釈が違うお方《かたがた》々の祝福は、私の今後を御覧《ごらん》になったらきっと祝福でなくむしろ御失望を掛《か》 けるかと思うております。しかし私としては今祝福して下さるお方も、他日に失望を掛ける お方にも、平等一様《びようどうよう》に今日の御催《おもよお》しを深く感謝して、御厚意《ごこうい》の御教訓《ごきようくん》を忘却《ぽうきやく》してはならぬと 決心しております』 と云うた。この星《ほし》が弱冠《じやつかん》の当時に桑《サンフラン》 港《シスコ》に於てかけたる謎《なぞ》は、彼が紐育《ニユ ヨ ク》に往《い》ってから始まっ て、その後幾十年後の今日まで実践躬行《じつせんきゆうこう》を以て、その謎《なぞ》の解題《かいだい》をなしつつあるところである。  彼が掛《か》けたこの謎《なぞ》の問題に付ては、疇昔《ちゆうせき》より大哲巨儒《だいてつきよじゆ》が様《さまざま》々に筆《ふで》や口《くち》で、掛《か》けては解《と》き、 解《と》いては掛《か》ける謎《なぞ》であって、解《と》けたような解けぬような、不可思議の問題ではあるが、人間 は人に教わったのでなく、自発的に自分で必ずこの謎《なぞ》を掛《か》けて、自分でこれを解題《かいだい》すべきも のである。星《ほし》は普通人より一階級を抜いて、幼少よりこの謎《なぞ》の圏内に確《たし》かに這入《はい》っていた青 年であった。これから彼は紐育《ニユ ヨ ク》に往《い》ってどんな事を為るであろう。 一一十 |星《ほし》の熱誠米人《ねつせいべいじん》を感動《かんどう》せしむ   日人米都行商の鼻祖、蓬頭弊衣錦繍と輝く  日《ひ》の沈む西《にし》の都《みやこ》と称《たた》えたる、サンフランシスコを第二の故郷《こきよう》と定めて、住《すみ》なれし星《ほし》は、今 更起臥《いまさらおきふし》の床懐《とこなつ》かしき主家《しゆか》を出《い》で、幾多《いくた》新しき友人等《ともぴとら》に賑《にぎにざ》々|敷《しく》も送られて仮初《かりそ》めならぬ、離別《りべつ》 の涙《なみだ》を袖《そで》に止《とど》めつつ、東に向って旅立ち、ナイヤガラ市俄古《シカゴ》を経《ヘ》て、紐育《ニユヨヨ ク》に着いた時は、嚢 中僅《のうちゆうわず》か五|弗《ドル》の金《かね》より外《ほか》なかったのである。星《ほし》はとりあえず紐育《ニユ ヨ ク》と河一つ隔《ヘだた》ったブルックリン 市の、日本人教会《にほんじんきようかい》に一まず行李《こうり》を卸《おろ》し、嚢中《のうちゆう》の五|弗《ドル》を以て、四五日の食料を得るを限度とし て、見ず知らずの土地で活動を始めねばならぬ事を予定したのである。そこで桑《サンフラン》 港《シスコ》で仕入 たドローイング・ウオーク、即《すなわ》ち日本製《にほんせい》の反物《たんもの》を小さい鞄《かぱん》に入れて、行商《ざようしよう》に出掛けたが、し かし何分縢《なにぷんへそ》の緒《お》切って始めて来た、世界有名の都会|紐育《ニユきヨ ク》で行商するのであるから、不馴《ふなれ》と無 恰好《ぷかつこう》は申すに及ばず、一寸《ちよつと》言語に云い尽《つく》されぬ極《きまり》の悪るさでどうしても、人の門前に立って |商《あきな》いを申込むの勇気が出ず、度《たぴたぴ》々|人《ひと》の門内《もんない》に入ってそのドアーの前には立ったけれどもどう しても呼鈴《よぴりん》に手を掛ける事が出来なかった。とうとうその日一|日《にち》は重き鞄《かぱん》を提《さ》げ廻りて、一 軒も訪問せず晩方にその教会に帰って来て、薄暗《うすぐら》き孤灯《ことう》の前に坐して思案《しあん》に暮れた。現《うつつ》にも 見る夢心《ゆめごころ》、覚《さ》めても迷《まよ》う旅《たび》の空《そら》、青年の前途に横《よこた》わる幾多《いくた》の難関《なんかん》と、片時《かたとき》忘れぬ学業とを成《な》 し遂《と》げるには、かくばかりの意気地《いくじ》なさにては更《さ》らに見込もなき事ときっと覚悟《かくご》して、その 次の日は朝早くから起出で、今日よりこそは死生《しせい》を賭《と》し強敵《きようてき》と引組《ひきく》み雌雄《しゆう》を決せめと覚悟《かくご》し、 大なり小なり敵の首を掻《か》き落さずしては、おめおめ一歩も後へは下《さが》るまじと臍《ほぞ》を固め、奮然《ふんぜん》 として教会を飛出したのである。  然《しか》るにさてこの家はと目星《めぼし》を付けべきもの、一軒も見当らず、軒《のき》を並べる大厦高楼《たいかこうろう》は、見 窄《みすぽ》らしき行商などがどうしても、這入《はい》られぬ外構えで、屋根も玄関も、一時に自分の一《は》一一一旭|入《い》る のを目を瞋《いか》らして睨《にら》むが如き心地がして、とうとうその日も一軒だに進入し得ず、商《あきな》いを申 込む事が出来ず、ただ太陽のみは待暫《まてしば》しなく西へ西へと傾き、黄昏時《たそがれどき》の薄暮《うすぐれ》となったのであ る。星《ほし》はほとほと草臥抜《くたぴれぬ》いてとある公園0ペンチに、荷を卸《おろ》し、どっかりと腰を落して入日《いりひ》 の空を見詰《みつ》めていた。ああかかる有様《ありさま》では何として自分の前途を辿《たど》ったら良かろうかと、様《さまざま》々 なる思索《しさく》に耽《ふけ》ったのである。この時彼は庵主《あんしゆ》が幼少より教えておいた処世哲学《しよせいてつがく》の秘訣《ひけつ》をどん と探《さぐ》り当てたのである。それは星《ほし》が思わずポケットに手《て》を突込《つつこ》んだ時|指先《ゆぴさき》に当ったのは虎《とら》の 子《こ》のようにして使わずに持っている若干の金であった。ああこれだ。この金があるから他人 の家に商売に這入《はい》れぬのだ。ウム占《し》めた。……分《わか》った。……かつて其日庵先生《そのひあんせんせい》の教訓《きようくん》された 通り、ここが弱い人間の強くなる時、すなわち向上すると退歩するとの境はこの金《かね》を持って いると、捨てるとの分け目じゃ。好《よ》し、モゥ俺は出世《しゆつせ》するに間違いないと、どんと決心をし てからは、世界の聯合軍《れんごうぐん》でも一緒に掛《かか》って来い。引受《ひきう》けて戦《いくさ》が出来るぞと考えて、重い鞄《かぱん》も |軽《かるがる》々|提《さ》げて教会に帰り、食物を金の有《ある》だけ買込み、(電車賃だけは残し)鱈腹詰《たらふくつ》め込んで、宵《よい》 の内《うち》からぐっすりと寝込《ねこ》んだのである。  翌朝は早くから身支度《みじたく》をして、五|仙《セント》の電車賃で行止りの十八|哩《マイル》もある終点まで行って、さ あ今日こそ商売を仕《し》なければ、帰える電車賃もないからと、頓《とん》と背水《はいすい》の陣《じん》を張《は》って、どんど ん人家有《じんかあ》る方へと駈《か》け出した。さていよいよ人の家の門《かど》に立って、商《あきな》いを申込まねばならぬ となると、色《いろいろ》々の故障があって申込まれぬ。ベルを押そうと思うと、不在《ふざい》のマアクが出てい る。アーまあ好《よ》かったと思い、明《あ》き家《や》のベルを押しては、まあ好《よ》かったと思い、まごまごし ている中《うち》に、腹《はら》が減《へ》り咽《のど》が渇《かわ》いてきた。水を飲むにも一|文《もん》なしでは一|杯《ぱい》の水もくれる人はな く、道路の側に馬に飲ませる水はあるが、まさかそれを飲《の》む訳《わけ》にも行かず、たまたま人家《じんか》で 食物を得《え》ている犬《いぬ》を見てさえ羨《うらや》ましくなってきた。終《つい》には眩量《めまい》を起さんばかりとなって来た が、それでも頭の上に声があって、星《ほし》よめげずに進め進めと激励《げきれい》する者があるから、無意識 にずんずん進んで行くと、端《はし》なくも林間《りんかん》の大きな家の前に来た。一寸《ちよつと》見たところ裕福《ゆうふく》な家ら しい、小綺麗《こぎれい》な構造であるから、最早《もはや》大決心で敵に接触《せつしよく》せねばならぬ最後である。その門柱  よぴりん                              き れい                          したはら  ひざ  ところ の呼鈴を力一ぱいに押したら、間もなく綺麗なお手伝いが出て来た時は、下腹と膝の処もわ なわなと頭《ふる》えていた。お手伝いが、 『何の用ですか』 と云うから、 『私は日本の行商ですが、この二三枚の見本《みほん》を御主人に見せて下さい』 と頼《たの 》んだら、お手伝いは快く引受けて叮嚀《ていねい》に、 『オーライ、シッダウン、ヒュウミニッツヒヤァ(承知した、しばらくこれに腰掛《こしか》けて待よ)』 と瀬戸物《せともの》の椅子《いす》を指して一《は》一。妲|入《い》って行った。少時《しばらく》にして返って来て、 『暫時《ざんじ》このパーラーの室《うち》に待ってお出《いで》』 と云うて座敷《ざしき》に通した。丁度その時が一時頃で、星《ほし》は空腹《くうふく》を堪《こら》えて三+分ばかりも待ってい ると、綺麗《きれい》なお内儀《かみ》さんと娘さんが二人、都合三人出て来た。 『おお日本《にほん》の商人《しようにん》よその荷物を拡げて見せよ』 と云うので、星は臍《ほぞ》の緒《お》切って初めての商売、初めての店開《みせびら》きであるから、嬉《うれ》しさに前後も 忘れて有《ある》だけを拡げて見せた。三人は色々の品物を選出《よりだ》して、 『値段は』 と聞《き》くから、星《ほし》は正直に、 『私は学問をする為《た》めの商売ですから、これに付けてある正札《しようふだ》から二|割宛《わりずつ》安く売ります」 と云うた。 『お前は二|割負《わりま》けてなお利益《りえき》があるか』 『私は何程《なにほど》安く売っても全部利益であります。それは桑港《サンフランシスコ》で、私が働いて儲けた金で仕入 て来た品物だから』 『それは普通《ふつう》の資本《しほん》よりも一層|尊《とうと》い資本で仕入た品物じゃから、私等は一層|快《こころよ》く買うよ』 と云うてとうとう五十|弗余《ドルあま》りの品《しな》を買うてくれた。 『また外《ほか》に異《かわ》った品があったら持ってお出《い》で』 と云うて茶《ちや》と菓子《かし》とを御馳走《ごちそう》になってその家を出た。星《ほし》がその時の茶と菓子の味いの忘れら れぬ事と云うたら今|両鬢《りようびん》に霜《しも》を止《と》むる今日《こんにち》までも、食膳《しよくぜん》に向《むか》う毎《ごと》に思い出さずにはいられぬ のである。  星《ほし》はこの家に這入《はい》る前にはもしこの家で相当の商《あきな》いがあったら、数日の苦労休めに、開業《かいぎよう》 を祝《しゆく》して一二|弗《ドル》の上等食を鱈腹食《たらふくく》って遣《や》ろうと考えていたが、今この家を出る時には既《すで》に五 十|弗以上《ドルいじよう》の金を得てポケットに、重《おも》たい程|金《かね》を入れると同時に、腹の減った事は疾《と》うの昔《むかし》に 打忘れて、立所《たちどこ》ろに胃嚢《いぷくろ》との約束破壊で、傍《かたわら》の大道店《だいどうみせ》にある六|本《ぽん》十|銭《せん》のバナナを買い、それ で腹の不平を慰《なぐさ》めて、宙《ちゆう》を飛んで帰って来た。  星《ほし》はまたどんと孤灯《ことう》の前に坐して考えた。一昨夜のこの時間には、殆《ほと》んど人生の悲窮《ひきゆう》に陥《おちい》っ ていたが昨夜のこの時間には、六千|哩隔《マイルヘだ》った日本《にほん》の先輩《せんぱい》の教《おしえ》を思い出して、魂《たましい》がどんと |極《きま》って、勇気日頃に百倍して、真《しん》に明日《あした》楽しく大飯を食うて快《こころよ》く眠った。今夜はまた五十 余|弗《ドル》の大金《たいさん》を得て、優《ゆう》に二ヵ月は目的のコロンビア大学校に通う事ができる身の上となった。 実に俺《おれ》が大過失を起すか起さぬかの分岐点《ぶんきてん》は一昨晩《ち ちさ》と昨晩《 ち》である。アー危険《あぷな》い事であったと、 それから色《いろいろ》々前途の楽しき冥想《めいそう》に耽《ふけ》って快《こころよ》く眠りに就《つ》き、翌日からは学校通いの傍《かたわ》らちょ いちょい五|弗《ドル》十|弗《ドル》の行商《ぎようしよう》をして暮していた。  然《しか》るに行商片手間の学校通いでは、どうも十分に時間がないから、何か学資を得る方法も がなと工夫《くふう》を凝《こ》らした。  ある日|星《ほし》は彼《か》の見本をポケットに捻込《ねじこ》んで紐育《ニユ ヨ ク》で一番大きいシイケルクーバーと云うデ パートメントストアを訪《と》うた。これは日本《にほん》の三|越《こし》のような店である。星はその支配人に面会 してその見本を示し、 『貴家《きか》で店の一部分の小さい所に、この私《わたくし》の商品を陳列《ちんれつ》さして下さって、その売上げ利益 の幾分を分配して下《くだ》されば私は店番の女一人を傭《やと》うてその給料は私持で売らせますがいかが でしょう』 と云うた。支配人は理解ある米国商人風の咄故《はなしゆえ》大いに喜んで、 『それは面白い事である。とにかく見本を置いて明日この時刻にまた来《こ》られよ』と云うた。 |星《ほし》が翌日往ったら支配人は、 『ともかく店を出して見なさい』 と云うので、その店を開いて相当《そうとう》の利益を得、しばらく完全の時間を得《え》て快《こころよ》く学校に通う ていたところが、天《てん》に雨雪《うせつ》、地《ち》に水火《すいか》、花《はな》と月《つき》とは風《かぜ》に雪《ゆき》、地球《ちきゆう》の大《だい》より見る時は、千万|倍《ぱい》 の顕微鏡《けんびきよう》にも見《み》えぬ程|微細《びさい》な星《ほし》の孤独生活でも、神は決してこの懲戒《ちようかい》を洩《も》らさぬのである。 |彼《か》の支配人《しはいにん》は、米国《べいこく》に模造品《もぞうひん》の出来て来たのと、日本《にほん》の同品相場が非常に高くなったのとの 二理由の下《もと》に、星《ほし》との商契約を中止するの止《や》むを得《う》ぬ事となった。星はまた候学資《ぞろがくし》を得《う》るの エ夫《くふう》に憂身《うきみ》を婁《やつ》さねばならぬ事となった。そこでまず新聞に広告をして、桑《サンフラン》 港《シスコ》で年期を入 れて習得した働口《はたらきぐち》を求めた。  丁度ボストンの附近にある、ニューポートと云う避暑地《ひしよち》、日本《にほん》ならば、葉山《はやま》のような、金 満家《きんまんか》の集まる処《ところ》に働口《はたらきぐち》があったから、学校を休んで三ヵ月労働をなし、金《かね》を得《え》てまたコロン ビア大学校に帰って来た。一体この大学校の月謝は、一ヵ年百五十|弗《ドル》である。星《ほし》はこの月謝《げつしや》 は払《はろ》うたが、さて食《く》う事はとても出来ない。そこで星《ほし》はまた新聞に広告をして働口《はたらきぐち》を捜《さが》し、 ある女主人の店に傭《やと》われた。その家に奉公人《ほうこうにん》が三|人《にん》いたが、皆日曜日だけは外出して遊びに |往《ゆ》きたがる。星はそれに乗《じよう》じて、 『俺《わし》が日曜日だけは用事《ようじ》も少ない留守番同様位《るすばんどうようぐらい》の事務であるから、きっと三人分の留守《るす》をし て、お前達を外出させて遣《や》るから、一週間に三度《 ど》だけは午後一時から三時間だけ学校に遣《や》っ て、その時間内の俺《わし》の務《つとめ》は三人で仕《し》てくれぬか』 と談判《だんばん》した。三人の奉公人《ほうこうにん》は大変喜んで承諾《しようだく》した。そこで星《ほし》は約束の時閭だけは、学校に駈 付《かけつ》けて講義《こうぎ》を聴《き》いていたが、それ以外の時間は、星は最も忠実《ちゆうじつ》に家の事を立廻《たちまわ》って働いてい た。ところがその家の主婦《おかみさん》が非常に星を信用してきた。ある日《ひ》星は主婦に向って、 『私はこの領収証《りようしゆうしよう》の通り、コロンビア大学校に月謝《げつしや》を払《はろ》うておりますが、私が安心《あんしん》の往《ゆ》く だけ、貴家《きか》の用事《ようじ》を片付ける時は、一時間も学校に往く事は出来ませぬ。故にここが御相談《ごそうだん》 ですが、私は貴家《きか》のために無給《むきゆう》で働きます。その代《かわ》りに能《よ》く働く女を一人|傭《やと》うて下《くだ》されば、 それには私に払《はら》う給金《きゆうきん》の半分で済みます。そのまた半分の給金は、私の貴家《きか》に寝せて貰《もら》う金 と食物の金にして、私は一文も戴きませぬから、大学校に毎日三時間宛遣って下さいませぬ か。それ以外の時間にて、女の手の及ばぬだけと、私の気付いた即《すなわ》ち自分で満足するだけの 働きは夜寝《よるね》ずにでもきっと致《いた》しますから』 と云うたところが、女主人《おんなあるじ》は非常に喜んで、 『星《ほし》よ、私は今直《いますぐ》にお前の希望通りにする事を承諾《しようだく》するぞよ』 と云うてさらさらと新聞の広告文を書き、手紙に封《ふう》じて傭女《やといおんな》の事を申込んだ。早速に遣《や》って 来たのがアイルランド生れの女で、達者《たつしや》そうな一寸容姿好《ちよつとみめよ》き女で、中《なかなか》々|骨惜《ほねおし》みせぬ性質であ る。星《はし》は親切にその女に咄《はなし》して、快《こころよ》く任務に活動するように承諾《しようだく》させ、学校から帰って来次 第《きしだい》に、なるたけその女の仕事《しごと》の減《げん》ずるように助けたので、その女もまた星《ほし》の誠意《せいい》に感激《かんげき》して、 |昼《ひる》の中《うち》になるたけ星の修学の余計に出来るように、仕事を片付ける事になって来た。主人の お内儀《かみ》さんはまた、この両人の忠実振《ちゆうじつぷ》りを見て、非常に感心し、出来るだけ両人を、犒《いたわ》って 用をさせるようになって来た。ある日お内儀《かみ》さんは星《ほし》に金十|弗《ドル》を与《あた》えて曰く、 『星《ほし》よ、お前は大学校までは大変に遠いのに、徒歩《とほ》で往来しているからこれを電車賃《でんしやちん》にせよ』 と云うから星は、 『私はお内儀《かみ》さんから、金を貰わぬ約束を自分の発議《はつぎ》で仕《し》ました。金が無ければ歩くが当然 と云う道理《どうり》は、私《わたくし》ばかりの道理ではありませぬ。その当然《とうぜん》でない即《すなわ》ち徒歩《とほ》を止《や》めると云う事 即《ことすなわ》ちお内儀《かみ》さんとの約束を、違《たが》えてまで仕《し》たく思いません。学校に往《い》くのは、良《よ》き人《ひと》に成《な》る た                                     い やく      あくとく  あえ          ゆ           あなた 為めです。良き人になる方法を行うのに、違約と云う悪徳を敢てする訳に行きませぬ。貴婦 もどうか、奉公人《ほうこうにん》の私をして、完全な良き人に成るべく希望して下さいませ』 と云うと、主婦は、 『それではその金《かね》は、お前の本を買う足《た》しにせよ』 『実は本は入用ですが、それとても限り無き入用の本を、お内儀《かみ》さんに貰《もら》う金で買う訳に行 きませぬ』 『それでは星《ほし》よ、私がお前の修学の為《た》めにと思うた志《こころざし》は、どうすれば届くべきか、お前私 に教えてくれぬか』 『私はお内儀《かみ》さんの、世《よ》にも厚《あつ》きお志《こころざし》を、聞くに付けて考えました。私はまだ英文が十分 でありませぬから、日本《にほん》の太陽《たいよう》やその他の諸新聞にある、米国人《べいこくじん》の見て面白いと思う記事を、 |閑《ひま》の時に翻訳《ほんやく》しますから、お内儀《かみ》さんが店番《みせばん》をして、隙《すき》な時にその文章《ぷんしよう》を直して下さいませ。 それを新聞社に売ればお内儀《かみ》さんから戴《いただ》くお金よりも沢山になります。それで電車に乗り、 本を買いますと、私もお蔭で助かります。私が御奉公《ごほうこう》をして、毎日働いていますのは、お内 儀《かみ》さんの家のお為《た》めになるようにとの希望で、その奉公人《ほうこうにん》の私の為めに、御厚志《ごこうし》とは云いな がら、お内儀《かみ》さんのお金を減《へ》らす意味合《いみあい》の事は仮令《たとえ》一|銭《せん》でも、私の本意《ほんい》に背《そむ》きますから、ど うか今のお願を許《ゆる》して下さい』 と云うと、そのお内儀《かみ》さんは、しばらく星《ほし》の立姿《たちすがた》を眺《なが》めていたが、目に一|杯《ばい》涙を溜《た》めて、 『星《ほし》よ、私は親の代からこの商売《しようばい》をして、英人《えいじん》、仏人《ふつじん》、イタリアン、スコッチ、ポルトギー ス、チャイニス、インデアン、と有《あら》ゆる世界の人を使うたが、日本人《にほんじん》はお前が初《はじめ》てである。 その初めて使うたお前……星《ほし》よ、お前は私の目を見よ。かくの如《ごと》き涙を米国人《べいこくじん》に出させた者 は、日本人のお前の外《ほか》、世界の何処《いずこ》の国《くにぐに》々でも、一国も無いぞよ。星よ、私は心から日本人 を尊敬《そんけい》する、が為めに、涙さえ出して吝《おし》まぬのである。ましてお前の英文の添刪《てんさく》位は、人間情 合《にんげんじようあい》の神《かみ》に捧《ささ》ぐる光栄として、私も寝ずにでも書いて上げるよ』 と云うてくれた。それからというものはそのお内儀《かみ》さんが、星《ほし》の翻訳《ほんやく》するのを催促《さいそく》して添刪《てんさく》 してくれる。星《ほし》はこれを新聞屋に売る、新聞屋は争《あらそ》うて買いに来る。お内儀《かみ》さんはまたギャー ギャー八|釜敷云《かましくい》うて高く売ってくれる。これで星は思わぬ大金《たいきん》を貰《もろ》うて、楽《らくらく》々と学校にも通 い、英文もだんだん巧《びつま》くなってきたのである。  ちなみに日《い》う、庵主《あんしゆ》は本篇を草《そう》するに臨《のぞ》み、実に米国人《べいこくじん》の正純《せいじゆん》にして、人間最高の至情《しじよう》に 富んでいる事には感嘆《かんたん》するのである。庵主《あんしゆ》もしばしば彼国《かのくに》に遊んで、事実に接触《せつしよく》した経験《けいけん》も あるが、しかし仮令米人《たとえべいじん》でもこの星《ほし》が遭遇《そうぐう》したような婦人《ふじん》ばかりあるものでもない。残忍酷 薄《ざんにんこくはく》な者も沢山ありはするが、日本人《にほんじん》の大部分として、紳士紳商《しんししんしよう》などと威張《いぱ》ってばかりいて、 これら婦人の言語動作《げんごどうさ》に恥《は》ずるの心なきや否《いな》やを問《と》いたいのである噫《ああ》。 一一十一 |人間《にんげん》の最高目的《さいこうもくてき》を達成《たつせい》して   女侠青年を助けて学業を励まし、 庵主人を教えて自から己を戒む 人間の最高目的を達成して  前回に述べた星《ほし》の奉公《ほうこう》した女主人《おんなしゆじん》と云うは、ボストンのハーバード大学《だいがく》を卒業した人で何 事《なにごと》に掛《か》けてもなかなか豪《えら》いのである。この人《ひと》に依《よ》って星《ほし》は所定《しよてい》の学業に就《つ》いたのであるが、 ある年|星《ほし》は日本領事館《にほんりようじかん》に於ける天長節祝賀《てんちようせつしゆくが》の席上《せきじよう》に於て、英語《えいご》の演説《えんぜつ》をなさんことを企《くわだ》てた。 当時|紐育在留《ニユ ヨヨクざいりゆう》の学生《がくせい》としては実に稀有《けう》の企《くわだ》てである。殊《こと》にこの式日には、領事《りようじ》は国家《こつか》の名 誉《めいよ》、国民《こくみん》の名誉《めいよ》として、内外多数の紳士《しんし》を招待《しようたい》して、奉祝《ほうしゆく》の盛宴《せいえん》を開くのであるが、之の事 を聞いた女主人は、殆《ほと》んど自分の愛子《いとしご》が、この晴《は》れの席上《せきじよう》で演説でもするかのように熱心し て、夜になると星《ほし》をして、家の内《うち》で演説《えんぜつ》の下稽古《したげいこ》をさせ、あるいはアクセントを直《なお》し、ある いはその態度《たいど》などの小言《こごと》を云うて、演説振《えんぜつぷり》の教授《きようじゆ》をしてくれた。  さて当日となり、星《ほし》が演壇《えんだん》に立って所期《しよき》せる所の意見を述ると、彼女主人《かのおんなしゆじん》は狂喜雀躍《きようきじやくやく》して |泣《なか》ぬばかりに喜んだのである。星《ほし》はかくの如《ごと》くこの米国人《べいこくじん》の家庭の人とまでなり、その輔翼《ほよく》 に依《よつ》て立派に学業を卒《おえ》たのである。庵主《あんしゆ》の記憶《きおく》では、紐育《ニユヨヨ ク》に於ける学生で、星の如《ごと》き苦学系 統を辿《たど》りて、立派な学校を卒業した者は見当《みあた》らぬのみならず、その後《ご》とても無《な》いと思うので ある。庵主《あんしゆ》は昔《むかし》も今も星に云うて聞かすが、人間の最高目的《さいこうもくてき》は独立《どくりつ》である。仮に下駄《げた》の歯入《はい》 れを職とし、または紙屑《かみくず》を拾うても、他人の世話《せわ》にならぬ。依頼心《いらいしん》を持《も》たずに、自分の力で 食うて、自分の精神を活動せしむる事が志業志学《しぎようしがく》の根本《こんぽん》でなければならぬ。人に学資を貰《もろ》う て学校を卒業し、一枚の免状《めんじよう》を貰《もら》うと、その日《ひ》からそれを人の前に拡げ廻《まわ》りて五十円に使っ てくれと頼《たの》み廻《まわ》るのは、独立精神《どくりつせいしん》の消耗《しようもう》した、依頼心《いらいしん》の権化《ごんげ》である。故にその学業は依頼心《いらいしん》 の卒業で、その免状《めんじよう》は依頼心《いらいしん》の招牌《かんぱん》であると。  ある時|庵主《あんしゆ》の門下生《もんかせい》で、庵主《あんしゆ》が星《ほし》を賞揚《しようよう》する事を不快《ふかい》に思い、左《さ》の如き事を庵主《あんしゆ》に云うた。 曰く、 『先生《せんせい》は星《ほし》を非常《ひじよう》に誉《ほ》められますが、星は独立《どくりつ》の意義《いぎ》ある人とは思いませぬ。 私《わたくし》は星程依 頼心《ほしほどいらいしん》の旺盛《おうせい》な男はないと思います。星は桑《サンフラン》 港《シスコ》に渡航《とこう》して以来、人に寄食《きしよく》するばかりで、己《おの》 れの不調法《ぷちようほう》なる労働《ろうどう》と共に、一日も人に頼《たよ》らずして暮した日はありませぬ。彼が今日《こんにち》の経歴《けいれき》 は依頼心《いらいしん》の成功《せいこう》で、彼が今日《こんにち》の名誉《めいよ》は、依頼心《いらいしん》の光彩《こうさい》であります』と。  これを聞いた時、庵主《あんしゆ》は衷心《ちゆうしん》より慨歎《がいたん》して、非常に忙《いそ》がしい日にも拘《かか》わらず、うんと腰《こし》を 落ち付け、 『貴様《きさま》は不憫《ふびん》な奴《やつ》じゃ。自分が薄志弱行《はくしじやつこう》で、造次顛浦《ぞうじてんぱい》にも、人《ひと》に依《よ》って卑屈《ひくつ》の成功《せいこう》を心掛《こころが》け ている為《た》め目が眩《くら》んで、同種同類《どうしゆどうるい》の人間を理解する事さえ出来ぬようになったのか。人間と 云う動物は、もし宇宙間《うちゆうかん》にただの一|人居《にんお》ったらば、これを人間と名付くるかどうだか分らぬ ぞえ。多人数|居《い》るからこそ相互《あいたが》いに人間と云うのじゃ。元来支那の太古《おおむかし》に、文字《もんじ》を持《こしら》えた人 は皆《みな》禅哲《ぜんてつ》である。それが「人《ひと》」と云う字《じ》を栫《こしら》える時に「1」この様《よう》な棒《ぽう》の様《よう》な「人《ひと》」と云う 字は栫《こしら》えなかった。「丿《り》」かような画《かく》と「丶《り》」かような画《かく》の二つを寄《よ》せて、人と云う字を栫え たのである。もし天地間《てんちかん》に、一|人《にん》より外人《ほかひと》がいなかったならば「1」こんな字《り》を人《ひと》と読ませ たであろうが、そうでなく二人以人幾十|億万人《おくまんにん》もあるからまず「人《り》」こんな字を持《こしら》えたので ある。即《すなわ》ち二|人寄《にんよ》ったら、その内《うち》の一|人《にん》はきっと他《た》の一|人《にん》に勝《まさ》ったところがある。まず年長《としうえ》 で経験《けいけん》があるとか、物識《ものし》りであるとか、力《ちから》が強いとか、他の一|人《にん》に尊敬《そんけい》される価値《かち》資格《しかく》があ るに極《きま》っている。故《ゆえ》に「丿《り》」かように上になって、自分より下の者《もの》を庇護《ひご》するのである。庇 護《ひご》されるから他の一|人《にん》はまたその長上者《ちようじようしや》を「丶《り》」かようにして下になって支援《しえん》するのである。 この庇護支援《ひごしえん》が相寄《あいよ》って、始《はじ》めて人《り》と云うのである。これが世界中の社会|万般《ばんぱん》の基礎となっ て、二|人寄《にんよ》ったら直《すぐ》に、長幼《ちようよう》あり、夫婦《ふうふ》あり、親子《しんし》あり、君臣《くんしん》あり、師弟《してい》あり、互《たが》いの庇護 支援《ひごしえん》によりて国を成《な》すのである。それが本《もと》となって富貴《ふうき》、貧賤《ひんせん》、士農《しのう》、工《こう》、商《しよう》、職人《しよくにん》、芸人《げいにん》、 |乞食《こじき》、盗賊《とうぞく》に至《いた》るまで、「ソ」と「丶《りり》」があって有《あ》らゆる庇護《ひご》と支援《しえん》とを、相互《あいたがい》に尽《つく》し合《お》うて しようがい               きさま りかい  どくりつ        うちゆうかん にん 生涯の活動を続けるのである。故に貴様の理解する独立と云うものは、宇宙間一人の時の独 立で、人でも何でもない、「1」こんな独《り》立の事である。庵主《あんしゆ》が常に教える独立《どくりつ》は、幾十人幾 百人の助けによって成功しても、自分が神から貰《もろ》うた身心《しんしん》を、精神的《せいしんてき》に活動《かつどう》させて、他《た》の一 |人《にん》もしくは幾百人をも、中心より感服《かんぷく》させて、彼が自発的《じはつてき》に庇護《ひご》するように働いた個人こそ は彼《か》の卑屈的《ひくつてき》に憐《あわれ》みを乞《こ》うて、人の世話《せわ》に拠《よ》った者とは、人間《にんげん》の根本に於て霄壌《しようじよう》の差《さ》がある。 |庵主《あんしゆ》が星《ほし》を賞揚《しようよう》するのは、彼《かれ》は庵主《あんしゆ》を始め、見《み》ず知らずの異境《いきよう》に往《い》ってまで、一|人《にん》として星《ほし》 の真摯《しんし》と誠実《せいじつ》と勤労《きんろう》とに感服《かんぷく》せぬ者はないのである。それが本《もと》となって、人間の本性《ほんしよう》たる「ソ《り》|」 これになったり、また「丶《り》」これになったりして、相互《あいたがい》に庇護《ひご》し支援《しえん》して、終始《しゆうし》一|貫《かん》、間断《かんだん》 なく徹底《てつてい》し、独自の心の活動によりて今日《こんにち》あるに至《いた》ったのであるから、それを独立自主《どくりつじしゆ》とし て庵主《あんしゆ》が賞揚《しようよう》するのである。貴様等《きさまら》は、庵主《あんしゆ》が何一つ感服《かんぷく》せぬところに、来《く》る度毎《たぴごと》にいかな る卑屈《ひくつ》な依頼心《いらいしん》を発露《はつろ》してるかを知っているか。  一、己《おのれ》が不品行《ふひんこう》の為《た》めに、信用がない事を忘れて、誰《だれだれ》々に添書《てんしよ》を書《か》いてくれと云う。  二、虚栄《きよえい》の為めに心を役《えき》せられて、やれ洋服やその他の物を栫《こしら》えてくれと云う。  三、寝泊《ねとま》りをして身腹《みはら》を資《やしな》う宿屋《ゆどや》にさえ、己《おの》れの心情《しんじよう》を理解せしむるの誠実《せいじつ》を有《ゆう》せぬ為《た》め、   やれ宿銭《やどせん》を払《はら》ってくれの、保証《ほしよう》をしてくれのと云う。  四、庵主《あんしゆ》が車代《くるまだい》を減《げん》じ妻子《さいし》の用をまで抑制《よくせい》して、購《あがの》うて遣《や》った制服《せいふく》や書籍《しよせき》までを売飛《うりとぱ》して   挨及煙草《エジプトたぱこ》などを買込み、ひそかにこれをポケットに潜《ひそ》めているではないか。  五、かくの如《ごと》き心理《しんり》でいながら、あるいは就職を頼《たの》み、あるいは事業上の庇護《ひご》を乞《こ》うでは  ないか。 これが慧の霧兮・鐵笠の擬糺膂たモデルである。衝剴が櫟轡た他の 一人以上の人々は、男女老幼貴賤貧富《だんじよろうようきせんひんぷ》の別なく互いに相競《あいきそ》うて星《ほし》の成功《せいこう》を余儀《よぎ》なくせしめた と云う、それはことごとく星《ほし》その者《もの》の身心熱誠《しんしんねつせい》の活動に基因《きいん》せぬものはないのである。貴様  か   ほし        あんしゆ  り かいてき  ほめ                      こんにち    おの          むちう も彼の星の如く、庵主に理解的に讃られる事を望むならば、今日から己れの精神を靆って、 ねつ  まこと   はつき          もともとあんしゆ  き さまら   せ わ          か わい 熱と誠とを発揮せしめよ。元々庵主が貴様等を世話するのは、可愛いからである。可愛いか ら常に何とか世話してやりたいやりたいと、毎日待ち構えているのである。ただこの上は、 庵主《きさまあんしゆ》を感服《かんぷく》させるだけの熱心《ねつしん》と、誠実《せいじつ》をさえ発揮《はつき》すれば、元《もともと》々が可愛いのであるから、無理 から頼《たの》んででも世話《せわ》をしてやるのである。即《すなわ》ち庇護《ひご》して遣《や》る事が、庵主《あんしゆ》の自身に於ける希望 である。即《すなわ》ち人間社会に対する庵主《あんしゆ》の光栄《こうえい》である』 とかく云うて聞かせたら、その男《おとこ》は頭髪《あたま》の毛《け》の中《なか》からダラダラと汗《あせ》を流し、顔を林檎《りんご》のよう に赤くして、今日只今《こんにちただいま》より性根《しようね》を入れ替えて、御教訓《ごきようくん》に背《そむ》かぬように致しますと云《い》うて帰っ        ねん                   ねんしじよう      こ     よう      しようそく           あめ たが、その後三年ばかりと云うものは、年始状も何も来ず、杏として消息がないから、雨に つ   かぜ  つ                                                 たいしよう           か 連れ風に連れて、さてどうしたのであろうかと心配をしていたら、去る大正四年正月の五日   とつぜん                      だいか しや  おとずれ    あんしゆ  めいし                 とぴたつほど に、突然として立派な紳士となって台華社を音信た。庵主は名刺を見るとそのまま、飛立程 会いたい心を抑《おさ》えて、徐《おもむ》ろに面会して見たら、身装《みなり》にも似合《にあ》わず至極謙遜《しごくけんそん》の態度で、 『私《わたぐし》は去る大正元年、即《すなわ》ち、明治天皇崩御《めいじてんのうほうぎよ》の年の十月七日に、端《はし》なく先生に星君《ほしくん》の事を申 出《もうしだ》し、世にも有難《ありがた》き御教訓《ごきようくん》を蒙《こうむ》りまして心神酔《しんしんよ》えるが如く慚愧《ざんぎ》致し、十円ありし金を旅費と して、その足で直《ただち》に郷里《きようり》に帰りまして亡父《ぼうふ》の墓《はか》に詣《もう》で、先生のお辞《ことば》を懺悔《ざんげ》として申述《もうしの》べ、わ ずかの旅費を調《ととの》えて朝鮮《ちようせん》に渡《わた》り、釜山埠頭《ふざんふとう》の旭日《あさひ》に向って所持《しよじ》の法科大学の免状《めんじよう》を引裂《ひきさ》いて、 |天地神明《てんちしんめい》に誓《ちか》いを立て、向う当てもなく満韓《まんかん》の野《や》を志《こころざ》して分け入りましたが、端《はし》なくある 会社の探険技師《たんけんざし》の荷担《にかつぎ》となり、二ヵ月の後《のち》信用を得《え》まして、本社に紹介の上|雇員《やといいん》となり、終《つい》 にその技師の鉱物探険《こうぷつたんけん》の成功《せいこう》に伴い、私も社員の格《かく》となりまして、ただ今《いま》ではその出張所《しゆつちようじよ》 の支配人《しはいにん》となり、俸給手当《ほうきゆうてあて》を合《がつ》して殆んど四百円に近い収入に身《み》を委《ゆだ》ぬる事に相成ました。 これ全く先生|訓戒《くんかい》の賜《たまもの》と存《ぞん》じますに付け、今回社用によりて三日間|東京《とうきよう》に滞在致《たいざいいた》しますか ら、何を措《お》いても一寸《ちよつと》なりと先生に御挨拶《ごあいさつ》をしてと存《ぞん》じ参上致《さんじよういた》しました』 と、これを聞いた庵主《あんしゆ》の心情《しんじよう》はどうで有《あ》ったろう。今拙《いまつたな》き筆先《ふでさき》ではとても形容が出来ぬ。 『これは私《わたくし》の金山《きんざん》の附近で掘り出しました陶器《とうき》であります。先生は陶器がお好《すき》ですから、 |灰落《はいおとし》にでもと思うて持って参りました』 と眼の前に差出されたけれども、庵主《あんしゆ》は先刻《せんこく》より耳の下から頸筋《くぴすじ》まで、何だか棒でも這入《はい》っ たようで、咽《のど》が詰《つま》って物が云えぬ。庵主《あんしゆ》は日清戦争《につしんせんそう》に鎮遠号《ちんえんごう》を捕獲《ほかく》した時と、日露戦争《にちろせんそう》に奉 天《ほうてん》の陥《おちい》った時とこの時の一二度だけは、ただ腕《うで》を拱《こまぬ》いて椅子《いす》に仰向《あおむ》けにかかり天井《てんじよう》ばかりを見《み》 |詰《つ》めてしばらく無言《むごん》であった。 『君《きみ》が若年《じやくねん》の時より、祿《ろく》な世話《せわ》も出来なかった不肖《ふしよう》の庵主《あんしゆ》が云うた事を、事《ことごと》々|敷《しく》も聞入れて くれられて、今日《こんにち》の咄《はな》しを聞く庵主《あんしゆ》は、ただ至大《しだい》なる感謝《かんしや》と共に、転《うた》た崇敬《すうけい》の念《ねん》に堪《た》えられ ぬのである。庵主《あんしゆ》は星が米国《べいこく》に於て、幾多《いくた》の常人《じようじん》を感服《かんぷく》せしめた事よりも、君が今日庵主《こんにちあんしゆ》を |感服《かんぷく》せしめた事を最も無限に謹謝《きんしや》するのである。ただ韓山《かんざん》の風雨《ふめう》は殊《こと》に健康に宜《よろし》くないから、 着古した物で失礼《しつれい》じゃが』 と云うて毛皮付《けがわつき》の外套《がいとう》一着を分与《ぷんよ》して別《わか》れたが、その後|満韓《まんかん》の森林事業《しんりんじぎよう》にも着手《ちやくしゆ》して、いよ いよ都合が好《い》いとの報知《ほうち》を得《え》たのである。  庵主《あんしゆ》は今日《こんにち》まで、この人の事を思い出す時、決《けつ》して庵主《あんしゆ》がこの人を教戒《きようかい》したとは思わぬの である。それは意識《いしき》の実行者《じつこうしや》、すなわち実力ある星《ほし》が間接に教戒したので、これを聞いたこ の人もまた真《しん》の実力実行者《じつりよくじつこうしや》であって、僅《わず》かに当世《とうせい》の一|畸形児《きけいじ》、閭巷《りよこう》の痩浪人《やせろうにん》たる庵主《あんしゆ》などが、 |微力《びりよく》の結果で出来る事でないと思い生涯《しようがい》この人の名を包《つっ》んで、今後、咲出《さきいず》る所のこの花《はな》の色 香《いろか》を、心往《こころゆ》くまで楽《たのし》む積《つも》りである。庵主《あんしゆ》が五年前から荐《しき》りに筆《ふで》を染める百|魔伝中《までんちゆう》に於て、精 神上実力の猛者《もさ》、大魔人《だいまじん》の巨擘《きよはく》であると思う。およそ天下《てんか》に、雨注《うちゆう》する砲弾《ほうだん》を冒《おか》して、百万 の貔貅《ひきゆう》を叱陀《しつた》するの大勇者《だいゆうしや》は有《あ》ろうが、『己《おのれ》に克《か》つ』といえ大勇者《だいゆうしゃ》、かくの如き立派《りつぱ》な、精神《せいしん》 の奇麗《きれい》な人は庵主今日《あんしゆこんにち》まで未《いま》だ見た事がないのである。 一一十一一 |和魂米才主義《わこんべいさいしゆぎ》の人《ひと》   公徳心の旺盛を説いて米人を称し、 采薪の患訪客を捉えて訓戒を試む  ほし     ついで   てんか せいねん                    わこんべいさい  星の事を書く序に今一つ天下の青年に云うて聞かせて置たい事がある。彼れは『和魂米才  ひと        むかし すがわらみちざね    わ こんかんさい    とな                       あんしゅ の人である』往昔菅原道真は『和魂漢才』を唱えて教育の基礎としたが、庵主は明治十八九 年の頃から『和魂洋才《わこんようさい》』を高唱《こうしよう》して青年を指導したのである。庵主《あんしゆ》が多くの青年を育てた経       に ほん    ていねい                       たびせいよう  や     すぐ   ようこんようさい 験ではいかに日本で、叮嘩に教育をしておいても、一度西洋に遣ると直に『洋魂洋才』となっ     0 げんご どうさ     じ もくしんしんし こう                    ようしゆう ふ   まわ      ふ ぽ しんせき てしまう 言語動作より耳目神心嗜好の末に至るまでプンプン洋臭を振り廻して、父母親戚 より朋友知己《ほうゆうちき》に至るまで嘔吐《おうと》を催《もよお》させるような奴になって帰って来るのである。そんな奴は |庵主《あんしゆ》は先《まず》第一に意志《いし》の薄弱《はくじやく》を叱《しか》りはするが、実は同情に堪《た》えぬのである。  元来青年の心情《しんじよう》は素絹《そけん》の如きもので、何《ど》の色《いろ》にでも接触《せつしよく》した物の色に直《すぐ》に染《そ》むもので、一  ようしき そ          しようがいけつ  じゆんばく                  そめいろ 度洋色に染んだ青年の色彩は一生涯決して純白にはならぬ、そしてその青年を染むる染色の      よく  あく  どくそ   し   こ                  しよく しき  すがた よそおい  しんじゆん     せんく 多くは、五慾十悪の毒素が浸み込むのであって、まず食、色、姿、 粧の浸潤がその先駆と           せいよう                     こんじよう そこ      せいよう  かんぷく    に ほん  ぷ なるのである。その上西洋で学問をした奴は、その根性の底が真に西洋に感服して日本を侮 |蔑《べつ》しているのである。それなら西洋《せいよう》に帰化《きか》して西洋人《せいようじん》に成《な》るだけの勇気が有るかと云うにそ れも出来ずやはり日本《にほん》に帰って来て自国《じこく》を罵《ののし》り外国を称揚《しようよう》しているのである。庵主《あんしゆ》は西洋に |往《ゆ》かぬ前は夢現《ゆめうつつ》にまで西洋《せいよう》を欽羨《きんせん》していたが、一度は二度、二度は三度、三度は四度と往来《おうらい》 したら、その見《み》ぬ昔の考えは結局|半忌半羨《はんきはんせん》となったのである。然《しか》らば日本《にほん》は比較的どうかと 云えば、その精神界より社交界に到るまで、大負《おおま》けに負《ま》けてやはり半忌半羨詰《はんきはんせんつ》まり五|分《ぷ》五|分《ぷ》 と見ても、生れた馴染深《なじみぷか》い生国《しようごく》と云うだけは、離《はな》れ難《がたく》ない関係がある訳である。その上世界 地上の基礎たる民族即《みんぞくすなわ》ち種族観念《しゆぞくかんねん》はどうしても離るる事は出来ぬのである。それを忘れたら |鳥《とり》よりも獣《けもの》よりも劣等《れつとう》であるから自国《じこく》は罵《ののし》られぬのである。然《しかる》に彼西洋染料《かのせいようせんりよう》たる学問《がくもん》その他 に浸潤《しんじゆん》せられて、我《われ》を罵《ののし》り彼《かれ》を称揚《しようよう》するに至るとは実は恐るべく歎《なげ》かわしき次第《しだい》である。素《もと》 より西洋《せいよう》の美点たる究理製作《きゆうりせいさく》や公徳心《こうとくしん》の旺盛等《おうせいとう》は我が国の最も欠点とする処故、欽羨尊崇《きんせんそんすう》し てこれを学ぶべく、改良すべきは当然であるけれども、一方我が国の美点たる侠義《きようざ》、質素《しつそ》、 いんとくしんねん  みんぞくどうとく  おうせいとう  ますます      しようれいかくじゆう 陰徳心念や民族道徳の旺盛等は益これを奨励拡充すべきは、実に我が国民の大責任であ る。これを要するに、彼我共《ひがとも》に善悪邪正《ぜんあくじやせい》の差別《さべつ》なく一方にのみ心酔《しんすい》して、自己《じこ》と云う立場ま で忘却《ぽうきやく》するとは、世界創造《せかいそうぞう》の原理《げんり》にも背《そむ》いた沙汰《さた》の限りの事である。庵主《あんしゆ》の記憶《きおく》する多くの 実例が已《すで》にこうである。  ところで彼《か》の星《ほし》は弱冠《じやつかん》の頃より多く米国《べいこく》の風俗《ふうぞく》に浸潤《しんじゆん》しながら日本《にほん》と云《い》うものを忘れず、 また造次顛流《ぞうじてんぱい》にも父母《ふぽ》の事を忘れぬ。彼が如く多く米国《べいこく》で艱難《かんなん》をし、彼が如く多く米国《べいこく》の人《にん》 |情《じよう》に接触《セつしよく》し、終《つい》には米国の学校までも卒業して、少しも日本を忘れずに日本の欠点を憂慮《ゆうりよ》し これを改良《かいりよう》せんと努力し、またその美点を挙昂発揚《きよこうはつよう》せんと熱心《ねつしん》せる青年は決してない。而《しか》し て一方商業貿易より社交百|般《ぱん》の事に至るまで漏《もら》さず米国《べいこく》の美点《びてん》を拾収して、これを日本化《にほんか》せ しめんと勉《つと》めている者は現今《げんこん》星以外にはあるまいと思う。故に庵主《あんしゆ》はこれを『和魂米才《わこんべいさい》』と 云うのである。昔日《むかし》ビスマークは旅行から帰って来て『アルサス、ローレンの鉄剤《てつざい》は、仏人《ふつじん》 には毒《どく》で普人《ふじん》には薬《くすり》でございます』と皇帝《こうてい》に報告《ほうこく》した。薩州《さつしゆう》の村田新《むらたしん》八は洋行《ようこう》から帰朝《きちよう》して、 |西洋《せいよう》の海陸武器《かいりくぷき》を日本人《にほんじん》が持《も》つとよかぞ』と咄《りりりはな》したとの事、皆是我国家《みなこれわがこつか》を忘れぬ観察《かんさつ》これを |星主義《ほししゆざ》と云《い》うのである、、即《すなわ》ち星《ほし》の『和魂米才《わこんべいさい》』は現今《げんこん》の珍物《ちんぶつ》である。  庵主《あんしゆ》かつて在米中ホテルの真向うにカバン屋があった。その家の天窓《あたま》の禿《は》げた爺父《おやじ》が毎朝 早くから店先に一|脚《さやく》の椅子《いす》を持出して、白《しろ》シャツ一つで鼻眼鏡《はなめがね》を掛《か》けて新聞《しんぶん》を読むが例《れい》であ る。ある朝六時頃雨模様で今にも降り出しそうである。ところがその店の右側二三|間隔《げんへだ》った |処《ところ》に郵便凾《ゆつびんばこ》がある。紐育《ニユヨヨ ク》は夜中《やちゆう》二時間も郵便馬車《ゆうびんばしや》が来ぬと郵便物が凾《はこ》一|杯《ぱい》になるのである。 夜の四時頃から六時まで来なかった故手紙が凾《はこ》一|杯《ぱい》になって入《い》れられぬから、凾の上には小 包《こづつみ》やら凾《はこ》の台石《だいいし》には手紙やらが沢山置いて風で飛ばぬよう小石《こいし》などが載《の》せてある。そこに雨 がぼつぽつ落て来た。彼《か》の爺父《おやじ》ふいとその模様《もよう》が眼鏡越《めがねごし》に見えるとさあ気になって来た。し かし一方新聞の方もなかなか面白《おもしろ》いと見えて眼が離されぬ。新聞《しんぷん》を見い見いちょいちょいそ の郵便凾《ゆうぴんばこ》の方を見て気にしている。その間《あいだ》にまたちょいちょいちょい左の方の大通りを見て もう郵便馬車が来そうなものと待顔《まちがお》である。ところがなかなか来《こ》ぬ。その中《うち》いよいよ雨《あめ》がば らばらと降《ふ》って来た。爺父《おやじ》もう溜《たま》り切れず大声を揚《あ》げた。 『ボーイ』  ボーイが飛で来た。爺父眼鏡越《おやじめがねごし》に目《め》くばせして、 『ペロペロペロペロ』  ボーイは大急ぎで一枚の大桐油《おおどうゆ》を持って来てそれを郵便凾《ゆうぴんばこ》に覆《かぷ》せた。間《ま》もなく大降《おおぷ》りにな る。折《おり》から郵便馬車ががらがらがらと飛んで来て二三人の男が馬車の後から飛下《とぴお》り、その桐 油《とうゆ》を手荒く刎《は》ね除《の》けて手《て》ばしこく彼《か》の郵便物を馬車に抛《ほう》り込《こ》み一|鞭当《むちあ》てて、東《ひがし》に向って駈《か》け |去《さ》った。爺父《おやじ》は依然《いぜん》と新聞を見ていたが、風が吹出してその郵便馬車が刎除《はねの》けた桐油《とうゆ》は雨《あめ》と |風《かぜ》とに揉《も》まれてふわふわと動き始めた。さあ爺父《おやじ》またそれが気《き》になり始めた。ちょいちょい ちょいと眼鏡越《めがねごし》に見ていたが、街路《がいろ》の真中《まんなか》にまで桐油《とうゆ》が動き出すに至ってもう溜《たま》らぬ。 『ボーイ……ペロペロペロペロ』  ボーイはまた飛んで来てこれを片付《かたづ》けた爺父漸《おやじようよう》々|安堵《あんど》をしていよいよ新聞《しんぷん》に読み耽《ふけ》った。 最前よりホテルの三階の窓から眼も離さずにこれを見ていた庵主《あんしゆ》は覚《おぽ》えず嘆賞《たんしよう》の声を発し た。 『ああ立派《りつぱ》な風俗《ふうぞく》じゃなあ』  日本《にほん》では端書《はがき》一|枚《まい》でも郵便箱《ゆうぴんばこ》の外に在《あ》ったらその入用《にゆうよう》といかんに拘《かか》わらず直《すぐ》に盗んでしま う。況《いわん》や沢山な小包等《こづつみなど》に於てをやである。米国《べいこく》では本業の泥棒《どろぽう》でも乞食でもこれを盗《ぬす》まぬので ある。左《さ》すれば日本人《にほんじん》は米国《べいこく》の泥棒《どろぽう》よりも乞食よりも劣等《れつとう》である。またカバン屋《や》の爺父《おやじ》は自 分に何等関係もなき郵便物の濡《ぬ》れるのを己《おのれ》の公徳心《こうとくしん》から、どうしても見ている事が出来ぬ。新 聞《しんぷん》に読耽《よみふけ》っていながら絶《たえ》ず心配してとうとうその雨《あめ》に濡《ぬ》るるのを防御《ぽうぎよ》した。これは爺父自身《おやじじしん》 の公徳心《こうとくしん》に関する奉公義務《ほうこうぎむ》であってそれを果した時はさぞかし愉快《ゆかい》であったろう安堵《あんど》であっ たろう。然《しか》るにその公徳心《こもつとくしん》の結晶《けつしよう》とも云うべき桐油《とうゆ》を郵便馬車が『どうも有難《ありがと》う』とも何と も云わず刎除《はねの》けて駈《か》け去ったのを見て、少しの不快《ふかい》の念《ねん》も起さず、また新聞に読耽《よみふけ》りつつ心 配をして到頭《とうとう》また取片付《とりかたづ》けた。日本でこんな事があったらどうだろう、この爺父《おやじ》の行為《こうい》は何 か人の為《た》めに大美挙《だいぴきよ》でも仕《し》たように、口八釜敷吹聴《くちやかましくふいちよう》してもし郵便馬車がこんなことでもした らば忽《たちま》ちに一|場《じよう》の大喧嘩《おおげんか》を起すのである。然《しか》るにこの爺父《おやじ》何とも思わぬそんな了簡《りようけん》は絞《しぽ》って も無《な》いのである。その筈《はず》じゃ、爺父《おやじ》は飢《うえ》た時に飯を食い渇《かつ》した時に水を飲んだように、自分 の公徳心《こうとくしん》の飢《うえ》や渇《かつ》を桐油《とトつゆ》の飯《めし》や水《みず》で満《み》たしたのである。それ以外に何等思念《なんらしねん》はないのである。  またある日曜に庵主紐育《あんしゆニユ ヨ ク》の公園に往《い》ったところが、大勢の人《ひと》が出て来ている中に紳士《しんし》が夫 婦《ふうふ》でベンチに腰《こし》を掛《か》けて睦敷《むつまじ》そうに咄《はなし》に耽《ふけ》っている。その側《そば》に二人の子供が球《まり》を投げて遊《あそ》ん でいる。一人《ひとり》の子供が投げた球《まり》を一人《ひとり》が受《うけ》そこなうとコロコロ転《ころ》がって一方の芝生《しばふ》の中五六 尺の処に飛込《とびこ》んだ。子供は二人《ふたり》で慌《あわ》てて追《お》うたが間《ま》に合《あ》わず、その芝生《しばふ》の界《さかい》の処まで行って 立留って泣出《なきだし》そうな顔《かお》をしてその球《まり》を見詰《みつ》めている。一人《ひとり》の子供は彼《か》の両親《りようしん》の所に行ってそ の始末《しまつ》を訴《うつた》えた。父親《てておや》は今や談濃《だんこまや》かなる処故|左《さ》も面倒《めんどう》そうに立上って来てステッキを逆《さかさ》に持 ちその芝生《しばふ》の界《さかい》の処《ところ》に片靴《かたぐつ》を止《と》めて伸《の》びるだけ手も体も伸べてやっとステッキでその球《まり》を刎《は》 ね出し、二人の子供に向って、 『こんな処《ところ》で球《まり》を投《な》げるからだ、向《むこ》うの広い球投《まりな》げ処《どころ》に往《い》ってなげなさい』 と叱《しか》った。子供二人は喀《きき》々としてその広場の方に馳《は》せ去った。佇立《ちよりつ》してこれを見ていた庵主《あんしゆ》 は、 『ああ何《なん》たる立派《りつぱ》な風俗《ふうぞく》であろう』と嘆賞《たんしよう》した。  元来公園と云《モ》う物は一人の遊ぶ為めに設《もう》けた場所でなく公衆《こうしゅう》の遊園地《ゆうえんち》である。然《しか》るに日本《にほん》 では市役所《しやくしよ》で多額《たがく》の費用を投じ多人数の園丁《えんてい》を使《つこ》うて一年中手入をして咲《さ》かせた花を鉄条 網《てつじようもう》で防《ふせ》いでおいてさえもばりばりと手折《たお》って往《ゆ》くのである。現に遊園者《ゆうえんしや》が万一|喉《のど》の渇《かわ》く時の 為にもとて設《もう》けてある水呑場《みずのみば》の碗《わん》に金《かね》の鎖《くさり》を付けて置かねば、その碗《わん》を直《すぐ》に持って往《い》くので ある。それくらいでなく現に汽車の一等室に備え付《つ》けた櫛《くし》やブラシ石鹸《せつけん》などを、一等乗客の |紳士《しんし》がずんずん盗《ぬす》んで持《も》って行くので鉄道省《てつどうしよう》ではこれを備《そな》え付《つ》けぬ事とした。立派《りつぱ》な紳士が 芸者と共に傲然《ごうぜん》と乗込《のりこ》んで一度|洗面室《せんめんしつ》に一《は》一。氾|入《い》ったが最後、彼《か》の汽車中の貴重《きちよう》なる水《みず》を次《つぎ》に這 入《はい》る人は一|滴《てき》も使用出来ぬまでに消費《しようひ》して去るのである。  かかる紳士《しんし》は世《よ》の中《なか》に公徳心《こうとくしん》と云《い》う物の有るか無いかをさえ知るまいと思う。庵主《あんしゆ》が明治 三十六年に向島《むこうじま》の別荘《べつそう》で百四五十人の園遊会《えんゆうかい》をしたその時に、築地《つきじ》のホテル、メトロボ1ル に天幕張《テントぱ》りの食卓《しよくたく》を命じて積《つも》り書《がき》を取《と》ったら、『お器《うつわ》がお宅様の物なら七百|円《えん》、食器《しよつき》をホテル より持出《もちだし》ますのなら一千三百円』と云う。『何《なん》で器丈《うつわだ》けで左様《さよう》に価格が違うか』と反問《はんもん》したら、 『はい安物《やすもの》ではござりますが手前方《てまえかた》は一切マーク入りにして二百人前ずつ仏蘭西《フランス》に注文致し た品物《しなもの》でござりますから一つ二つ紛失致《ふんしついた》しましても全価格に掛《かか》りましてホテルの財産《ざいさん》にも影 響致しますから』と云う。『何で紛失《ふんしつ》するか』と問えば『昨今《さつこん》は紳士方《しんしがた》のお遊戯《いたずら》が流行《はやり》まして |余程《よほど》気を付ましてもお持帰りになりますから』と答えた。その時|庵主《あんしゆ》は実に紳士《しんし》でそうろう と云鷹風《いうおうふう》な奴の心裡《しんり》に憤《いきどお》ったがその後しばしばそれを見掛《みか》けたので、泣かぬばかりに残念《ざんねん》 に思うたのである。  かくの如く劣等《れつとう》なる国民なれども『未《いま》だ愚蒙《ぐもう》の集団を強迫《きようはく》して権利を奪わぬ』『忠義《ちゆうぎ》三千年 の歴史を貫《つらぬ》いて一|系《けい》の君を奉《ほう》じている』『父母《ふぽ》を後《のち》にして已《おの》れを恣《ほしいまま》にするの風がない』『侠 義身《きようざみ》を殺《ころ》し人《ひと》を助《たす》けて仁《じん》を成《な》している』『婦女《ふじよ》の節操上下《せつそうじようげ》に通じて恥辱《ちじよく》の念《ねん》を忘《わす》れずにいる』 『一朝外敵に当れば彼《か》の日清日露《につしんにちろ》の役《えき》の如く叢爾豆大《さいじずだい》の国を以て殉難大勝《じゆんなんたいしよう》の功《こう》を挙《あ》げてい る』『しばしば淺季《ぎようき》の世《よ》に処《しよ》して興国《こうこく》の気勢《きせい》を揚《あげ》ている』『世界の歴史に比類《ひるい》なき長期閭外敵 の侮辱《ぷじよく》を蒙《こうむ》りたる事がないのである』等の実例を有するはこの国民《こくみん》の祖先《そせん》および現在将来《げんざいしようらい》の |子孫《しそん》が秋毫《しゆうごう》も過《あやま》らざるの気風《きふう》である。彼《か》の西洋《せいよう》の如く『立国信念《りつこくしんねん》の基礎薄弱《きそはくじゃく》なるが為《た》め』た だ権利《けんり》と義務《ぎむ》と宗教道徳《しゆうきようどうとく》とだけにて世界大勢の潮流《ちようりゆう》に游泳《ゆうえい》するが為めに、しばしば革命《かくめい》の |濤《なみ》学問の風に揺蕩《ようとう》せられて国家の基礎を撹乱《かくらん》し、政治経済の右往左往《うおうさおう》は終《つい》に国民心理《こくみんしんり》の適従《てきじゆう》 を失い、いかにして国家興《こつかおこ》り、いかにして国家|亡《ほろ》びるやの、状勢をさえ知らざるに至るので ある。  そもそも学問は人間精神《にんげんせいしん》の食物《しよくもつ》であるが、これが選択《せんたく》と摂取《せつしゆ》の程度を愆《あやま》る時は忽《たちま》ちに中毒《ちゆうどく》 する。河豚《ふぐ》やモルヒネの中毒も手遅《ておく》れさえせねば救助の法もあるが、学問の中毒に至っては |薬剤《やくざい》もなく治法《ちほう》もないのである。学問の中毒は理性《りせい》に偏《へん》す。理性《りせい》は理想《りそう》を醸《かも》す。理想《りそう》は情義《じようざ》 を滅《めつ》す。情義《じようぎ》なければ民族死《みんぞくし》す。民族死《みんぞくし》すれば国家《こつか》は亡滅《ぼうめつ》するのである。今回の世界大乱は 学問の中毒である。支那は共和《きようわ》の理想《りそう》に耽《ふけ》り四百年の君主《くんしゆ》を放逐《ほうちく》したが、その代償《だいしよう》たる共和《きようわ》 の理想成《りそうな》らざることここに数十年である。 徒《いたずら》に劔戟《けんげき》を揮《ふる》って殺戮《さつりく》を維事《これこと》とし、四百余州と 四億の民衆とを抱擁《ほうよう》した国家は已《すで》に亡滅《ぽうめつ》の淵《ふち》に臨《のぞ》んでいる。露西亜《ロシア》は共産社会的の理想に耽《ふけ》 り、まずその皇帝《こうてい》を銃殺《じゆうさつ》し、国民《こくみん》一|致《ち》の中枢《ちゆうすう》を失えばこれを反対党と称して日々の虐殺千《ぎゃくさつ》を 以て数《かぞ》えたのである。たまたま事成《ことな》らざるの傾向あればその巨魁《きよかい》は銭嚢《せんのう》を負《お》うて瑞典《スエミデン》に逃亡《とうぽう》 せんとさえして、国家の亡滅《ぽうめつ》に対して何者もその責《せめ》に任ずる者はないのである。昔から人民《じんみん》 が国の為に犠牲《ぎせい》になった例はあるが、人民《じんみん》の為《た》めに国家が犠牲になった例が何処《どこ》にあるか。 元来学問と理想は損害要償《そんがいようしよう》をせぬものである。そんな物で国を打破《うちこわ》したらそれきりで、英独《えいどく》 の学問中毒《がくもんちゆうどく》は生存《せいぞん》の理想に向うた。生存《せいぞん》の理想は利害《りがい》となる。利害《りがい》の衝突《しようとつ》は野蛮《やばん》となる。即《すなわ》 ち戦争である。両国が野蛮行為《やぱんこうい》を実行するのに各学《おのおの》問を以て武器《ぷき》としている。船艦銃砲航 空機等所有製造工業《せんかんじゆうほうこうくうきとうあらゆるせいぞうこうぎよう》は皆学問|責《ぜ》めで、終《つい》には空中から窒素《ちつそ》を取り、人間の死体《したい》まで還元《かんげん》する |位《くらい》に学問を応用《おうよう》したのである。ここに至りて果して学問中毒でないと云えるか、即《すなわ》ち学問に 中毒すれば即《すなわ》ち禽獣《きんじゆう》に復《かえ》るのである。かくの如く世界の大勢を通観《つうかん》して総ての上に利害得失《りがいとくしつ》 を分別《ふんべつ》し、ことごとくこれを我国に応用し長《ちよう》を採《と》って短《たん》を補《おざな》い美《ぴ》を収《おさ》めて悪《あく》を去るは、今日 我日本国民《こんにちわがにほんこくみん》の最も努力《どりよく》すべき要務である。  これは庵主《あんしゆ》がこの間流行性感冒《あいだりゆうこうせいかんぽう》で寝てる折柄星《おりからほし》が見舞に来て庵主《あんしゆ》との対話を採録《さいろく》したも のだが、これを後生《こうせい》青年に告る所以《ゆえん》のものは、庵主《あんしゆ》が星《ほし》は『和魂米才《わこんべいざい》』の男であると云う事 を証拠立《しようこだ》てるが為《ため》である。 一一十三 |伊藤公《いとうこう》の知遇《ちぐう》を得《え》て   先輩に雇して欧州の大陸を跋渉し、 大官に謁して信用の基礎を得たり  さて星《まし》が学校に入《はい》って三年目位と思う。時の衆議院議長《しゆうぎいんぎちよう》の大岡育造氏《おおおかいくぞうし》が紐育《ニユヨヨ ク》に往《い》った。そ の用向《ようむき》は何でも米国《べいこく》のトラストの事と、交通機関の事とを調査するのであったらしい。星が 学校で勉強している問題が丁度同一であったから大岡氏は星をしてその材料《ざいりよう》の蒐集《しゆうしゆう》に従事《じゆうじ》 せしめたとの事、たださえ従順《じゆうじゆん》にして熱心《ねつしん》な星は、大岡氏を大学校の先生の処《ところ》に連《つ》れて往《い》っ たり、または市役所等に紹介したりしてとうとう市庁《しちよう》よりは、大岡氏の為《た》めに船や車を出し        じつきようとう           せいさい  とうどう  べん  はか                           べいこく て、交通機関の実況等を見せ、星は精細に東道の便を計ったとの事であった。大岡氏は米国 の事務を了《お》えて、欧州《おうしゆう》に向わんとする時、ぜひ星に同道《どうどう》して欧州旅行《おうしゆうりよこう》の伴侶《はんりよ》たれと勧《すす》めた。   ニユーヨークみつい ぷつさん             いわはらけん                 きみ           ちゆうちよ 当時紐育三井物産の支店長たりし岩原謙三氏も、星に勧めて君は学校の事で躊躇している であろうが、欧州旅行もまた君《きみ》が必要の修学旅行《しゆうがくりょこう》であるぞよと勧めてくれたとの事、星は一 めんしき              せいねんそうとう        はく                             こうい   かんしや 面識の大岡氏にさえ青年相当の信用を博したのである。そこで星は両氏の厚意を感謝して、 大岡氏と共に欧州に往《い》ったが、英国《えいこく》に往《ゆ》き、仏国《ふつこく》に往《い》って、大岡氏と共に東西《とうざい》に奔走《ほんそう》して各 種の調査をした末、大岡氏は単独|独逸《ドイツ》に往《ゆ》く事《こと》になった。丁度それが千九百年で巴里《パリミ》に世界《せかい》 |博覧会《はくらんかい》のある時であったから、大岡氏の厚意《こうい》で、星は大岡氏所有の中央新聞《ちゆうおうしんぶん》の巴里博覧会通 信員《パリ はくらんかいつうしんいん》とされて滞在《たいざい》する事になったのである。これが星の為《た》めにまた非常の好階梯《こうかいてい》をなしたの である。  星《ほし》が巴里滞在中万国新聞記者大会《パリ たいざいちゆうばんこくしんぶんきしやたいかい》が開《ひら》かれ星《ほし》もその一員として列席《れつせき》するの機会を得《え》た。何 様《なにさま》世界で始めての会であるから、一般の注目もまた格別《かくべつ》であった。星はその席に於て一|場《じよう》の 演説を試《こころ》みた。それは『日本《にほん》の新聞の過去現在』と云う事であった。この演説筆記《えんぜつひつき》が一般に |配布《はいふ》せられたので、星《ほし》はまた欧州否《おうしゆういな》少くも仏国人《ふつこくじん》にも知《し》らるる事が出来たのである。仏国《ふつこく》の |大統領《だいとうりよう》が新聞記者を招待して晩餐会《ばんさんかい》を開いた時、その席に陪《ばい》する事を得たのは日本人として は栗野公使《くりのこうし》と星《ほし》ばかりであった。これより仏国政府の好意《こうい》として、博覧会開会中は仏国内地 および其関係国を自由に旅行し得《う》るの便利《べんり》を与《あた》えられた。故に星はスイッツルや、伊太利等《イタリ とう》 をも旅行する事が出来たのである。かくの如く星は従順《じゆうじゆん》にして誠実《せいじつ》、事に当って熱心なるが 故に、一の大岡氏《おおおかし》に邂遁《かいこう》してさえ、これだけの地位を上げる事が出来たのである。  庵主《あんしゆ》は常に多くの青年《せいねん》に云うて聞かす通り、依頼心《いらいしん》と云うものは自殺《じさつ》以上の毒物《どくぶつ》である。 人間最終の目的は独立《どくりつ》である。野犬《やけん》さえ掃溜《はきだめ》を猟《あさ》って、天寿《てんじゆ》を保つでないか。自糞掻《まぐそかき》でも、 |紙屑拾《かみくずひろ》いでも独立して生存しているでないか。幼にして父母に依頼《いらい》して養育せられ、成長し てもやはり両親に依頼《いらい》して学業に従い、卒業すれば免状《めんじよう》に依頼《いらい》して飯を食わんとなし、就職 難に遭遇《そうぐう》すれば先輩《せんぱい》に依頼《いらい》して地位を得んとし、人に信ぜられんとすれば紹介状《しようかいじよう》を貰《もろ》うてそ の人に接近せんとす。生《うま》るるから三四十歳になるまで、依頼心《いらいしん》ばかりの生涯《しようがい》である。かりに も人に一度|添書《てんしよ》でも貰《もろ》うたら、それからさきはその者の責任《せきにん》がある。信ぜらるると信ぜられ ざるとは、その者の腕次第《うでしだい》である。剰《あまつさ》え、『お蔭で誰《だれだれ》々に面会《めんかい》を致しましたが、この上|私《わたくし》を しんよう                 よろしく  とりなし                                           やつ 信用してくれるように、宜敷お執成を願います』とまだ依頼心に捕われている。そんな奴は |終《しまいハ》には飯《めし》を与《あた》えられた上に箸《はし》で口につつき込んで貰った上に、噛《か》むのが困るから噛んでくれ とまで依頼《いらい》するかもしれぬのである。  しんけいすいじやく かか                                           もんせい      いまし   ため  神経衰弱に掛った当世青年には、こんなのが多いから、それらの門生などを戒むる為に、 |庵主《あんしゆ》は星《ほし》の自助心《じじよしん》の強いのを常に推賞《すいしよう》するのである。 |ほしニユ ヨ ク《ニユ 》  星が紐育に帰って来た時は、コロンビア大学校の冬季学期の始まる前であった。当時紐 |育《ヨこク》の新聞は、星《ほし》の肖像《しようぞう》を掲《かか》げて星が仏国《ふつこく》での事などを社会に紹介した。然《しか》るに星はその新聞   たれ                            とう                              あんしゆ 紙を誰にも送らなかった。ただ故郷のお父さんばかりに一枚送った。当時星は庵主にかく云 うた。 『私《わたくし》は先生に、親孝行《おやこうこう》をせぬ者は社会の何者にも徹底《てつてい》した情義《じようざ》を尽《つく》す事は出来ぬものじゃ と、幼少より教えられておりますが、現代の親孝行《おやこうこう》は昔日《せきじつ》の親孝行のように、父母《ちちはは》の側《そば》に在《あ》っ て奉仕《ほうし》する事は不可能であります。かりにもあるアンビションがある者の親孝行の方法は、 何等かの機会によって常に偽《いつ》わらざる安心を親に与《あた》える事を怠《おこた》らぬのが一つの方法かと心得《こころえ》 まして、私《わたくし》は毎月|朔日《ついたち》と十五日には神様に願《がん》を掛《か》けまして、善悪《ぜんあく》となく手紙をそこで書いて 父母に出します。これを努《つと》めた訳は、父母《ふぽ》を安心《あんしん》せしめると同時に、先生の教を守っている |心持《こころもね》です。米国《べいこく》に居る他の友人は、私共《わたくしども》が度々の忠告も用いずして、父母《ちちはは》に無沙汰《ぷさた》をする、 その文通の疎《そ》なる者に限りて、必ず一方|堕落《だらく》している事実が伴うております。そんな人がきっ と後《のち》には、亜米利加《アメリカ》ゴロと云われているようです。私《わたくし》はそれを畏《おそ》れに畏《おそ》れて、免《まぬか》れる方法と しても、この文通だけは続けております。彼《か》の新聞《しんぷん》は私の成功でも向上でも有《あり》ませぬ。大岡《おおおか》 さんのお蔭で、私《わたくし》の一時の幻影《げんえい》としてそんな事が出来たのです。しかしこれをお父《とう》さんに送 りましたのは、お父さんに安心させる為め、即《すなわ》ち星《ほし》はそろそろ新聞《しんぷん》にでも出《だ》されるようになっ て来たから、これから段《だんだん》々と出世《しゆつせ》をするであろうと思わせるので、私は将来に対して、安心《あんしん》 と希望《きぽう》とをお父さんに持たせ、またお父さんを慰《なぐさ》むるの一方法として悪い事ではないと思い まして送ったのであります。私はこれから千百の大岡さんを栫《こしら》えまして、本当の安心《あんしん》をお父 さんにさせねばならぬ責任《せきにん》がありますから、私は気恥《きはず》かしく、この新聞を他の人には一枚も 送る考えはありませんでした』 と云うた。彼がかかる行《おこな》いの基《もとい》たる孝道《こうどう》の稗気《ちき》が、多くの人に敬愛《けいあい》せらるる根本であって、 彼を鍋《なぺ》に入れて煎《せん》じても、洋書を読噛《よみかじ》った生意気の分子などを煎《せん》じ出す事は出来ないのであ る。  千九百一年の春であった。星はコロンビア大学校を卒業して、マスター・オブ・アーツの 卒業免状を貰《もら》った。当時コロンビア大学校にいた日本《にほん》の学生《がくせい》は、皆《みな》その卒業論文にたいてい |日本《にほん》の事《こと》ばかりを書いたと聞いているが、星だけは違《ちご》うていた。彼は落第《らくだい》をしても構《かま》わぬと 云う決心で『亜米利加《アメリカ》に於けるトラスト』と云う論文を書いた。彼はこの論文を書くに一年 半もその調査に掛ったのである。彼が今日本《いまにほん》で会社事業などを、とやかく経営《けいえい》しているのは この努力《どりよく》が与《あずか》って力《ちから》あるならんと、庵主《あんしゅ》は思うている。  星《ほし》はこの学校を卒業するおよそ五六ヵ月前に『日米週報《にちべいしゆうほう》』と云う雑誌を発刊した。それは |石版摺《せきばんずり》の日本字新聞《にほんじしんぶん》である。これは僅《わず》かの在留日本人に、内外の事を報道するもの故|極小規 模《ごくしようきぽ》の物であった。しかし彼は精力主義《エナ ジきズム》の試験《しけん》に遣《や》って見たのである。それは爾後半年計《じごはんねんばか》りで 立派に収支償《しゆうしつぐな》うようになった。人間の精力《せいりよく》と云うものは恐ろしいもので、大なり小なり半年 で成功すると云う事は、新聞事業のレコード破りである。それより星は英文の雑誌を出した。 これが星の目的であったのである。即《すなわ》ち『ジャパン・エンド・アメリカ』である。主筆《しゆひつ》には |庵主《あんしゆ》の知人の米人サムスと云う夫婦を雇入《やといい》れて、日本《にほん》の対米《たいべい》関係に必要な、商工業の出来事 を翻訳《ほんやく》して記事となし、ブロードウエーの市役所附近で、メエル・エンド・エッキスプレッ スと云うビルディングの八階を二|間《ま》借りて事務所としていた。彼は熱心に日米間の経済的連 絡を付ける事に努力していた。  ほし      ざつし              ニユーヨークライフインシユアランスコンパニー            ドル  ま けん  つけ  星はこの雑誌を出すと同時に紐育生命保険会社へ行って、五千弗の保険を附た。彼は 曰く、  か       ざつし                  だいじ   せきにん            ちゆうと                 だいしよう 『仮りにも雑誌の経営は、少くも一大事の責任である。もし中途に死んだ時は、必ず大小の |負債《ふさい》が残《のこ》るに違《ちが》いない。体《からだ》さえ健康であれば、きっと働いて返すが、死んだ時にきっと金を 返すと云う精神を何等の様式にか認《みと》むる事の出来る様《よう》の事実が跡《あと》に残っていないでは、日本     ざんねん                ほけん      は い             た       た           さいけんしゃ 人として残念である。故にこの保険にさえ樺一旭入っておけば、足っても足らぬでも、債権者に 星の精神《せいしん》だけは披瀝《ひれき》する事が出来るのである』     ことば                へいぜい  みと                                         にち と。この言でも星として、その平生を認める事が出来る訳にて、これはいささかながら百 の長《ちよう》として、常に星《ほし》を戒飭《かいちよく》する庵主《あんしゆ》としては、慚汗《ざんかん》三|斗《と》の事柄である。庵主《あんしゆ》が従来の事業を |顧《かえりみ》るに、この星程《ほしほど》の注意をした事がないのは実に恥《はずか》しい次第である。      ざつし                      あんしゆ     二ユ1ヨ1ク       ほし      たと  丁度この雑誌の三号目位の時であったろう。庵主はまた紐育に往った。星の喜びは譬うる に物なく庵主も親《した》しくその雑誌社《ざつししや》に往《い》って実況《じつきよう》を見《み》たが、若い日本人二三人と、女の米人二 三人と熱心に努力している有様《ありさま》は、実に可愛《かわい》くて、今なお眼底《がんてい》に残っているのである。星は     あけくれあんしゆ  やど      ね とま                         すなわ あんしゆ  ほつたん 相変らず朝暮庵主の宿に来て寝泊りをしていたが、この折こそ即ち庵主が発端に書いたとこ        きようくん          せいりよくしゆぎ        しようれい                        かつら ろの星に靴十足の教訓をして、その精力主義の発展を奨励したのであった。庵主は当時、桂 |内閣《ないかく》と相談をして、日米《にちべい》の経済的関係を附けに日露戦争前往《にちろせんそうぜんい》った際の事だ。丁度その最中《さいちゆう》に マッキンレー氏暗殺《しあんさつ》の珍事《ちんじ》など発生して、実に各方面|混雑《こんざつ》を起したが、その間星《あいだ》が庵主《あんしゆ》の為《た》 めの立働振《たちはたらきぶ》りは、今なおこれを忘《わす》れる事は出来ぬのである。  折柄伊藤公《おりからいとうこう》は、日露関係《にちろかんけい》に考慮《こうりよ》せらるる事があって、庵主《あんしゆ》が東京《とうきよう》を出る前に、交渉《こうしよう》した事 件を帯び、米国《べいこく》を通過して露国《ろこく》に往《ゆ》くべく来米《らいべい》せられた。庵主は星《ほし》を伊藤公《いとうこう》に紹介した。曰 く、 『星《ほし》は庵主《あんしゆ》が七歳より抱寝《だきね》をして育てた安田作也《やすださくや》と云う青年《せいねん》と共に、庵主《あんしゆ》の言《げん》を用いずに来 米《らいべい》した青年《せいねん》ですが、彼が性質の純良《じゆんりよう》なる事と、精力《せいりよく》の輩固《きようこ》なる事と、情誼《じようぎ》の濃厚《のうこう》なる事とは、 |庵主《あんしゆ》の常に心恥《こころはず》かしく思う程、当世に稀《まれ》なる青年であります』 と云うた。高潔《こうけつ》にして雅量《がりよう》ある伊藤公《いとうこう》は、星《ほし》を一|度引見《どいんけん》するとそのまま、非常に愛せられて、 |始終左右《しじゆうさゆう》に呼寄《よびよ》せて用事を云付けておられた。  ある日|伊藤公《いとうこう》は庵主《あんしゆ》に向ってこう云われた。 『あの星《ほし》と云う男は、青年《せいねん》に有り勝の悪性質《あくせいしつ》がなくて、なかなか良《よ》い筋《すじ》の男である。従《じゆうじ》 順《ゆん》 にして意思《いし》の鞏固《きようこ》な処《ところ》あり、熱誠《ねつせい》にして危険性《きけんせい》がなく、精励《せいれい》にして倦怠《けんたい》の状なく、あんな男 を役人に仕立《した》てたら立派な者となると思う。君どうじゃ役人になさんか』 と云わるるから、庵主《あんしゆ》は、 『私《わたくし》の連《つ》れ来《きた》りたる書生《しよせい》を、お誉《ほめ》に預り有難《ありがと》う存《ぞん》じますが、彼には種《しゆじゆ》々の米国式《べいこくしき》アンビショ ンを持っておりますから、なかなか役人《やくにん》にはなりますまいが、今|星《ほし》をお誉《ほ》めの条件なら、私《わたくし》 も具備して居《い》ると思いますが、どうでしょう私《わたくし》をまず役人に御採用《ごさいよう》は出来ますまいか』 と云うたら、伊藤公《いとうこう》はドンとソーフアの上に倒《たお》れて大笑《たいしよう》せられて、 『それは溜《たま》らぬ。君《きみ》は迚《とて》も駄目《だめ》だ。第一|横着《おうちやく》にして頑迷《がんめい》、諧謔《かいざやく》にして危険性《きけんせい》あり、奇侠《ききよう》にし て悪戯《あくぎ》多し。ことごとく役人性《やくにんせい》に反して、野獣性《やじゆうせい》に適《てき》している。もし過《あやま》って君《さみ》が役人《やくにん》にでも なったら、常に消防組《しようぽうぐみ》を詰《つ》め切《き》らせて置《お》かねば、何時根太下《いつねだした》から火《ひ》が出るか分らぬよ』  この伊藤公《いとうこう》の言《ことば》も、半諧謔《なかばかいぎやく》に包《つつ》まれておれども、星を信愛《しんあい》せられた事だけは、明白《めいはく》に窺《うかが》い 知らるるのである。伊藤公《いとうこう》は、 『ともかく米国《べいこく》に来て沢山書生《たくさんしよせい》にも逢うたが、星位真率《ほしぐらいしんそつ》にして真面目《まじめ》な面白《おもしろ》い青年《せいねん》に面会《めんかい》し た事はない』といわれた。 一一十四 |新聞売子《しんぷんうりこ》より製薬王《せいやくおう》となる   偉人業を起して帝都を飾り、奇傑庵主を圧して茅屋を典ず |伊藤公《いとうこう》が米国《べいこく》を出発して欧羅巴《ヨ ロツパ》に向われた後、庵主《あんしゆ》は星等を相手に、紐育《ニユえヨ ク》の用務を片付け て帰朝《きちよう》する事になった、その時|庵主《あんしゆ》は星《ほし》にくれぐれも訓戒《くんかい》した。 『青年《せいねん》には西洋《せいよう》でも日本《にほん》でも、メトロポール・シック即《すなわ》ち首府病《しゆふびよう》と云うものがある。それは どうしても田舎にはおりたくない。乞食をしても首府にただまごまごしていたい病気である。 国に居《い》る老父母には雨《あめ》の夜霜《よるしも》の朝《あした》にも、我子《わがこ》の身の上を案《あん》じ煩《わずろ》うて待焦《まちこが》れているのに、その 子は夢のような浮世《うきよ》の空想駆《くうそうか》られて、有《あら》ずも哉《がな》の所行《しよぎよう》に日を送っているものがある。君《きみ》は決 してそんな事はないけれども、外国に於て学業を修《おさ》めた青年としては、忍耐《にんたい》以て志業《しぎよう》を遂《と》げ、 |能《よ》く艱難《かんなん》に打勝ち、何事と雖《いえど》も遂《と》げざる事なく、日本人でも西洋人でも、庵主《あんしゆ》の引合せた人々 などには、何《いず》れも信用を受けざるのはない。この上は君《きみ》は紐育《ニユえヨヨク》の事業を人にでも托《たく》して一度 日本に帰り、せめて東京にいてでも何か生業《せいぎよう》をして、国許《くにもと》の父母《ふぽ》に一安心させ、万一の死目《しにめ》 の看護《かんご》をもなして、養育《よういく》の大恩《たいおん》の一|端《たん》でも報じては如何《いかん》。庵主《あんしゆ》思うに君《きみ》が大成功の後に、必 ず起るべき欠点《けつてん》の後悔《こうかい》は、即《すなわ》ち父母の末期《まつご》に於ける慊《あきた》らざる感慨《かんがい》であろうと云う事を、今よ り気の毒に思うのである』 と云うたら、星《ほし》はその時|庵主《あんしゆ》の宿泊する紐育《ニユヨヨ ク》のフィフスアベニューホテルの三階の一室で、 はらはらと涙を零《こぽ》して、 『私《わたくし》の今までの考えは誤《あやま》っていました。きっと最近に考えを定《さだ》めまして、先生の御訓戒《ごくんかい》に背《そむ》 かぬように致します』 と云つた。庵主《あんしゆ》が日ならず紐育《ニユ ヨ ク》を出立《しゆつたつ》する時、沢山の青年が停車場《ていしやじよう》に来ている中に、星《ほし》が相 変らずぼろ洋服に破れ靴を穿《は》き、髪の毛を長くして庵主《あんしゆ》一行のカバンなどを提《ひつさ》げて立働いて   すがた         あんしゆ  がんてい                                      がんてい いた姿は、今なお庵主の眼底に残っているのである。なぜ当時の星の姿が眼底に残ったので あろうか。  庵主素《あんしゆもと》より千|里《り》の馬《うま》を見《み》るの明《めい》ある伯楽《はくらく》ではないが、幾百の青年に接触した経験上、この 青年はきっとある成功《せいこう》をする者であると思うたら大抵間違《たいていまちが》いがないのである。果《はた》せる哉《かな》星の ようぽう 二駭ヨークていしやじよう  あんしゆ                  まんえん しほん   かつ 容貌が紐育停車場で一度庵主の眼底に印象した結果は、今日星が数千万円の資本を以て活 どう                     じ どうしや        ぜんこくいくまん  ばいやくし てん        ようぽう 動する製薬会社の社長として、自働車を乗廻し、全国幾万の売薬支店を支配する容貌と化し たのである。  庵《あんし》、王《ゆ》が東京に帰って幾何《いくら》も経過《たた》ぬ中《うち》に、星《ほし》の姿《すがた》は庵主《あんしゆ》が向島別荘《むこうじまべつそう》の囲炉《いろり》の向側に現《あら》われる 事となった。その彼が帰朝《きちよう》の顛末《てんまつ》を聞いた庵主《あんしゆ》は、一寸《ちよつと》形容の出来ぬ位に感心したのである。 元来一種の信念《しんねん》を持った男子《だんし》が、ある他人《たにん》の忠告を容れて、自己の仕事の方針を一変するは、 なかなか出来にくい至難中《しなんちゆう》の至難《しなん》なものである。それに星《ほし》は庵主《あんしゆ》が紐育《ニユ ヨ ク》で出立間際に話した  げん            だんぜん  ニユーヨ調ク      しよち   つ           はんせい  かんなん              ニユ1ヨ1ク 一言を基として、断然と紐育事業の処置を付けて、単身半生の艱難と、思い出多き紐 育 を後《あと》にして、知人も少なき他郷《たきよう》の如き東京《とうきよう》の人となったのである。彼は新橋《しんぱし》に着《つ》くとそのま ま、郷里《きようり》の両親《りようしん》を訪《と》い、細《こまごま》々|帰朝《きちよう》の顛末《てんまつ》を語《かた》り明《あか》し、少なからぬ喜びを受けて父母《ふぼ》を慰《なぐさ》めた 上、直に庵主《あんしゆ》の家を訪《と》うてまたその顛末《てんまつ》を報告したのである。  庵主《あんしゆ》はかつて山岡鉄舟先生《やまおかてつしゆうせんせい》の忠告《ちゆうこく》を拒《こぱ》みて、東京《とうきよう》を去らざりし折柄《おりから》、端《はし》なくも三|島警視総 監《しまけいしそうかん》の峻烈《しゆんれつ》なる追捕《ついほ》に余儀《よぎ》なくせられ、名古屋《なごや》に遁《のが》れ、大阪《おおさか》に潜《ひそ》み、隙《すき》だにあらば再び東京《とうきよう》に |這入《はい》って、所思《しよし》を果《はた》さんと思いとうとう追詰《おいつ》められて、終《つい》に下《しも》の関《せき》から和船《わせん》に便乗《ぴんじよう》して福岡 に帰った。詮方《せんかた》なくも郷里《きようり》の傾く雨の軒端《のきば》に佇《たたず》んだら、涙《なみだ》に咽《むせ》ぶ斑白《はんぱく》の母《はは》にパッタリと出逢《であ》 い、様子を聞けば、老父が九死一生の腸チブスなりとの事、三人の弟妹《ていまい》は飢《うえ》にも枯果《かれはて》なん有 様だと聞き、初めて山岡先生《やまおかせんせい》の先見《せんけん》ある訓戒《くんかい》と思い合せ、はったとばかり満身に冷汗《れいかん》を浴び、 それより猛然《もうぜん》と悔悟《かいご》し、数日|徹屑《てつしよう》して病父の看護《かんご》に全力《ぜんりよく》を致《いた》し、庵主《あんしゆ》の大兵《だいひよう》も数貫目の肉脱《にくだつ》 する程|奮闘《ふんとう》してとうとう父の大病を全快《ぜんかい》せしめた事がある。それより以来|庵主《あんしゆ》が非常識な程 |剛情《ごうじよう》な性質《せいしつ》も、他人《たにん》の忠告《ちゆうこく》にはどんな下《くだ》らぬ事でもはなはだしきは数日間|翫味《がんみ》する事になっ た。今山岡先生の霊位《れいい》を仏壇《ぶつだん》に祭《まつ》っているが、その前に拝跪《はいき》する度《たぴ》には、必ず先生の当時の |訓戒《くんかい》を思い出すのである。  星《ほし》は庵主《あんしゆ》のそれよりも、忠告に対する処置《しよち》が偉大《いだい》である。否《い》な荘重《そうちよう》である。庵主《あんしゆ》は一|身《しん》の |迫害《はくがい》に追われ追われたればこそ、郷里にも帰りたれ、星《ほし》はただ一|片《べん》の忠告に自覚《じかく》して、断然《だんぜん》 として猛省《もうせい》し、有《あら》ゆる困難事《こんなんじ》を処理《しより》して坦途《たんと》を歩《ほ》するが如く帰朝《きちよう》したのである。庵主《あんしゆ》の目よ りこれを視《み》れば、たしかに彼の偉大に庵主は及ばぬのである。しかし庵主は星に向ってただ |是《これ》だけ云うた。 『君《きみ》は庵主《あんしゆ》が一|片《べん》の訓戒《くんかい》に感じて、克《よ》く帰朝《きちよう》した。しかしさらに新《あら》たなる困難と戦うべく東 京《とうきよう》の地《ち》に入《はい》った決心は、全《まつた》く豪《え》らいと思うが、一方両親を久し振《ぶ》りで喜ばせた心持《こころもち》はどうで あったか』 と云うたら、 『私《わたくし》は先生の訓戒《くんかい》を聞いたばかり位では、紐育《ニユミヨ ク》に於ける多年の希望と計画は捨てられませ ぬ。私《わたくし》は先生の与えられたる暗示《ヒント》によりて、全く自分の考えを一転すべき妙機《みようき》に接触《せつしよく》したの でございます。実に今日の愉快《ゆかい》は、幾多《いくた》の困難《こんなん》や労苦《ろうく》を消滅《しようめつ》せしめてなお余《あま》りある位であり ます。私の困難や労苦は、不断常住《ふだんじようじゆう》の事で馴《な》れておりますから、困難でも労苦でもござりま せぬが、今日|父母《ふぽ》を喜ばせましたのは、生れて初めての事ですから、今なおその愉快《ゆかい》を忘れ ませぬ』 と心から物語った。庵主《あんしゆ》は星《ほし》のやはりぼろ洋服に長い髪毛《かみのけ》を見て、この真摯《しんし》な咄《はな》しを聞いて、 何だか古い書物の立志編中《りつしへんちゆう》の一人の物語りでも聞くが如き心地して、陶然《とうぜん》と人間性情味《にんげんせいじようみみ》の妙 感《ようかん》に酔《よ》うたのである。庵主《あんしゆ》はしきりに過越《すぎこ》し方《かた》の自分の所行《しよぎよう》に恥《は》じて一|詩《し》を賦《ふ》した。日く、   事母半生嘆不孝《ははにつかえてはんせいふこうをたんじ》  奉君終世恥微効《きみにほうじてしゆうせいびこうをはず》   怱忙已得双鬢霜《ノてつほうすてにえたりそうひんのしも》  秋鏡従之奈我貌《しゆうきようこれよりわがほうをいかんせん》 また星《まし》には旧作《きゆうさどさ》の一|絶《ぜつ》を書与《かきあた》えて彼を励《はげ》まして日く、   妻捜軽儂何要《さいるうわれをかろえずなんそはずるをよう》  董過誉却笑世人楡《せえかよかえつてわムォうせしメうすきを》   蛾冠畢寛沐猴具《かかえひつきようもつこうぬく》  蚤鼠群生狐酪裘《くうしりくんせいすこかこあきゆう》  その夜は七時頃から秋雨《あきさめ》がしとしとと降《ふ》り出したから、星《ほし》と共に庵室《あんしつ》に枕を並べて寝《しん》に就《つ》 いたが、星が洋服着のまま、丸寝《まるね》に久しく幾多艱難《いくたかんなん》に實《やつ》れた青年の寝顔を、孤灯《ことう》の影《かげ》に眺《なが》め た庵主《あんしゆ》は、さあ色々の感想が襲《おそ》うて来た。目《め》が冴《さ》えてどうしても眠《ねむり》に就かれぬ。  そのうち夜《よ》は深《しんしん》々と更《ふ》けて来る、流《なが》れに下《くだ》る隅田川《すみ がわ》の夜船《よぶね》は誰《たれ》を恨《うら》みてか、浮抵《うきよ》と軋《きし》る櫓《ろ》 の音《おと》に、連《つ》れて講《うた》うや水面《みなづら》に、辷《すべ》る橋場《はしば》の岸浪《きしなみ》と、砕《くだ》けて返《かえ》る漣《さざなみ》は、世《よ》を薄《うきぐさ》の根《ね》に止《と》めて、 |現心《ムつつつごころ》に瞹《かこ》つかと、思《おも》えば中《なかなか》々|様《さまざま》々の、感慨《かんがい》が起《おこ》ったのである。またまた一|絶《ぜつ》を砧《ひね》り出《だ》して曰 く、   鷺鳳潜蹤鶏鴇曖《へえほうあとをひそめてけいきようなく》  竃驢言駕何論価《ほんろここにがしてなえぞあたいをろんぜん》   椶河千歳好聞歌《ほくかはえざいよしうたをきくに》  撃樟漁夫徐上下《とうをうつのぎよふおもむろにじようドす》 などと吟《ざん》ずる中《うち》に、木母寺《もくぽじ》の鐘《かね》の音《ね》を聞いてとろとろとする中《うち》に、喧雀《けんじやく》の声に連《つ》れて夜も明 けたから、星《ほし》と共《ともども》々|起出《おきい》でて、くれぐれも彼が有為《ゆうい》の春秋《しゆんじゆう》に対する健康論をして戒《いまし》めてやっ て、彼が忘れぬ為めにまた詩《し》を作った。日く、   父母生吾辛苦多《ふほわれをうんてしんくおおし》  弱冠遊狹作悲歌《しぐつかんゆうきようにしてひかをなす》   秋林夜《ハリゆうりんやや》々|聞風雨《ふううをきく》  不孝無過旦獲痾《ふこうかつやまいをうるよりはなはだしきはなし》    ほし            いろいろ  かんそう  おか                あんしゆ  へ た   し               うつもん  この星との会合は、種々の感想に冒されたるが為め、庵主は下手な詩ばかりを作りて欝悶 を慰《なぐさ》めたのである。記憶《きおく》のまま書いておく。  ある時|星《ほし》は庵主《あんしゆ》の家にひょっこり来て曰く、 『私《わたピし》は種《いろいろ》々|駈《か》け廻《まわ》って仕事を見付ましたが、ここに一つの薬《くすり》を発明《はつめい》しました。日本にイヒ チョールと云う薬が外国から数十万円輸入しております。その薬は各病院でも、開業医でも、 非常に沢山使う薬ですが、これを製造《せいぞう》する方法をある専門《せんもん》の友達と研究してみますと、原料     すすくらい           む だ                            せいしゆつ            だんだん は石炭の煤位の物で、沢山無駄になっておりますから、これを製出したいと思い、段々調査    た やす                           し ほん                               く ふう の結果容易く出来る事になりましたが、その資本が六千円ばかり入用です、先生どうか工夫 は有《あり》ますまいか』 と云う、庵主《あんしゆ》曰く、 『君《きみ》が単身孤独《たんしんこどく》の力によって、その様な有利な事業を発見したのは実に好い事であるが、蠍 しゆ           くすりけんきゆう       しほん              むかし 、王は君に聞たい事がある、薬の研究は自分でして、資本の工夫は自分ではせぬのか、昔日よ り君にも云いかつ多くの青年にも云う通り、人間の依頼心《いらいしん》は、自殺以上《じさついじよう》の罪悪《ざいあく》である。庵主 は事業の考えもなく、蓄財《ちくざい》の考えもないけれど、工夫したら何《どう》か成るかも知れぬが、それは 必ず人に依頼せず、庵主一|己《こ》の工夫にて案出する事に相違ない。左《さ》すれば依頼心忌避信者《 らいしんきひしんじや》の 庵主は、君の依頼心の受負《うけおい》、仲継問屋《なかつぎとんや》を為《す》る訳《わけ》になる、そんな筋違《すじちがい》の事をして君《きみ》はなおそれ を事業と思い、かつその事の成立《せいりつ》を成功《せいこう》と思うか。元来資本と云うものは、世界を通じて利 益のある所に集合|仕《し》ようと熱望《ねつぽう》する事|恰《あたか》も水の低きに就《つ》いて平均を求むるようの物である。 |君《きみ》がそのイヒチョールとか云う事業が果して確実に利益あるなら、なぜ君自身に必要資本を その利益で呼ばぬのじゃ。呼《よ》べなければその事業が不確実《ふかくじつ》か、もしくは君に信用が十分なら ぬかの二つである。不確実で不信用であったら、それは事業でも何でもない。今|天下《てんか》に君を 信ずる者で庵主《あんしゆ》以上の者は無《な》いであろう。その庵主《あんしゆ》は君がイヒチョールの成功よりも、男子《だんし》 一|人《にん》として独立《どくりつ》の成功《せいこう》の方を熱望《ねつぽう》する者である。今|庵主《あんしゆ》が助けて君がイヒチョールで成功し たら、その成功は君の成功に非ずして、庵主援助の成功である。庵主は今は君を助けたいが、 君が総ての成功の後君がその立派《りつば》なる成功を傷《きずつ》けるに忍《しの》びぬのである。君は今イヒチョール を研究した通りに、資本もまた研究すべきである。君が自から資本を研究して、美事失敗《みごとしつぱい》し ても、決して君が男子独立《だんしどくりつ》の失敗ではない、その失敗さえ仕《し》なければ、君が生涯《しようがい》はやはり有 望《ゆうぽう》である。君がもし第一歩のそれを誤《あやま》ったなら、日本に帰って来た甲斐《かい》がないではないか。 |君《きみ》が金玉《きんぎよく》の成功《せいこう》は、やはり米国《べいこく》で苦んだ通りに人を信ぜしめ理解せしめて、漸次《ぜんじ》に進むが宜《よ》 いではないか』 と云うたら星《ほし》は一|言《ごん》の答えもなく膝《ひざ》に手をついて二《ふた》つばかり頷《うなず》いて、 『有難《ありがと》うございます、やっぱり誤《あやま》っておりました』 と云うて立上ろうとすると、丁度その時|庵主《あんしゆ》の家に居候《いそうろう》をしていた、伯爵後藤猛太郎氏《はくしやくごとうたけたろうし》は先 刻《さつき》より縁先《えんばな》に昼寝《ひるね》をして聞いていたと見えて、ぬーっと起上って、大声《たいせい》した。 『星君待玉《ほしくんまちたま》え、その事業の資本主には僕がなろう。決して第三者に話たもうな』 と云うと同時に伯《はく》は庵主《あんしゆ》の側《そぱ》にツカツカと来て、 『君《きみ》は実に惨酷《ざんこく》な男じゃ。かくの如く真摯純正《しんしじゆんせい》の人|殊《こと》に君《きみ》が身を傾《かたむ》けて愛している星君《ほしくん》が、 |見《み》ず知《し》らずの東京《とうきよう》で事業《じぎよう》の資本を調達《ちようたつ》するに、添書《 てんしよ》一|本書《ぽんか》いて遣《や》らずして突放《つきはな》すと云う事が あるか』  庵主《あんしゆ》は、 『愛しているから、無稽《むけい》の渡世《とせい》に放縦《ほうじゆう》な僕であっても殊《こと》に訓戒《くんかい》をするのじゃ』と云うと伯《はく》は、 『訓戒《くんかい》も糞《くそ》もない。星君《ほしくん》の事業は僕もかつて考えていた理想的の事業じゃ。僕もこうして遊 んでいるより、星君《ほしくん》と共にこの事業を遣《や》るのじゃ』 と云うと星《ほし》は、 『後藤伯有難《ごとうはくありがと》う存《ぞん》じますが、私《わたくし》はただ今先生の訓戒《くんかい》は青年の守るべき真理《しんり》じゃと思うて、厳 守《げんしゆ》する積《つもり》ですから、別に閣下《かつか》に依頼《いらい》して資本を出して戴《いただ》くのでなく、事業を賛《さん》し星《ほし》なる者を |御信用《ごしんよう》なされての御出資《ごしゆつし》なら有難《ありがた》く驥尾《きび》に付《つい》て働らきましょう』 と云うと伯は、 『素《もと》よりそれである。杉山君《すぎやまくん》いいだろう』 と云うから、 『君《きみ》が金《かね》があって、星《ほし》と共に実業に就《つ》くのならこれほど結構《けつこう》な事はない』、と云うと伯《はく》は、 『星君《ほしくん》それなら明朝|築地《つきじ》の台華社《だいかしや》で相談《そうだん》するから』 と云うので星《ほし》はほくほく喜んで帰った。その後《あと》で、 『おい君《きみ》、君の印判《いんぱん》はどこに有《あ》るか』と云うから、 『その笊《ざる》の中に有《ある》が何にするか』 『いや借《かり》るのじゃない盗《ぬす》むのじゃ。星《 ほし》のイヒチョールの資本に、この家《うち》を抵当《ていとう》に入れるの    きみ  へいぜいどろぽう  に          、               せ わ   や     あげく           やつ  どろぽう じゃ。君は平生泥棒の逃げ込んで来たのまで引受けて世話を焼いた揚句の果に、そ奴に泥棒 をされても悔《く》ゆる事を知らぬ男である。あれ程|可愛《かわい》い星《ほし》が成業《せいぎよう》を助くるに、この家《うち》が惜《おし》い訳 はない。殊《こと》に僕も事業に就《つ》くのじゃ。況《いわ》んや名乗掛《なのりか》けて泥棒《どろぽう》するのじゃ。世の中に承諾《しようだく》を得《え》 た泥棒程《どろぽうほど》安心なものはない。さあさっさと印判《いんばん》を出してくれ』 と詰《つ》め寄《よ》せられ、尾花《おばな》が野辺《のべ》に埋《うず》もれし、蒲鉾屋根《かまぽこやね》に憂伏《うきふ》しの、乞食《こじき》が纒《まと》う荒菰《あらごも》の、風《かぜ》にも |冷《さ》めぬ暖味《あたたかみ》、夢《ゆめ》の一|重《へ》を出《だ》し抜《ぬ》けに、引剥《ひつぱが》れたる心地《ここち》して、ぐうとも云《いえ》ぬそのままを、ぽっ かり質《しち》に曲《ま》げられて、手火事《てかじ》をぼやく事ならぬ、破滅《はめつ》とまでに陥《おちい》った、庵主《あんしゆ》の家は昼鳶《ひるとんぴ》に、 トウトウ掏《す》られた油揚《あぶらげ》、さても悔《く》やしきイヒチョール、腹黒主《はらくろぬし》の猛《たけ》さんを、押し曲げるさえ |康文《やすぷみ》に、行《ゆ》かぬ小町《こまち》の破れ家、いい金下《かねした》に業平《なりひら》と、諦《あきら》め付けば三角の、星の事業も円満《えんまん》に、 |成《な》るは僧正遍照《そうじようへんじよう》と、つい証文《しようもん》を柿《かき》の本《もと》、人丸呑《ひとまるのみ》の猛《たけ》さんに、トンと喜撰《きせん》を制《せい》せられ、歌《うた》にも |読《よ》めぬ六歌仙《ろつかせん》、ツイ借銭《しやくせん》となりにけり。これが星《ほし》と後藤伯《ごとうはく》の、第一歩の事業である。それよ り両人は、銀行家岩下清周氏《ぎんこうかいわしたせいしゆうし》、三井《みつい》の岩原謙《いわはらけん》三|氏《し》その他を説《と》いて、幾多《いくた》の発起人《ほつきにん》を持《こしら》え、数 百万円の株式会社を起し、京橋東畔《きようばしとうはん》に巍《ぎぎ》々たる七|層楼《そうろう》の、ビルヂングを建築し、星を社長と なし、日本無双《にほんむそう》の売薬会社《ばいやくがいしや》を営業する事になったのである。その後後藤伯《ごごとうはく》は病《やまい》を以て莞去《こうきよ》せ られたにつき、星《ほし》がその跡《あと》を支《ささ》うる事の親切《しんせつ》と、岩下氏が、端《はし》なく北浜銀行の破綻《はたん》より逼塞《ひつそく》 の身となられたのを音信《おとずれ》る有様《ありさま》は、皆《みな》人のその周到《しゆうとう》に感ずる所である。  庵主《あんしゆ》が永《ながなが》々|星《ほし》の経歴《けいれき》を書いたのも、決して星《ほし》その人の将来の為《た》めだけではない、壮弱《そうじやく》の時 より、庵主《あんしゆ》の耳目《じもく》に触《ふ》れた事《こと》を、記憶《きおく》のままに書綴《かきつづ》りて、後進子弟《こうしんしてい》の、浮世《うきよ》を辿《たど》る手綱《たづな》にも と、思う婆心《ばしん》の一|端《たん》である。庵主《あんしゆ》は筆をここに止《とど》むるに際し、この偉人《いじん》、否《い》な星《ほし》と云《い》う魔人《まじん》 の前途をば、筆硯《ひつけん》を洗うてさらに祝福《しゆくふく》するのである。これよりまた新《あらた》なる魔人《まじん》を捕《とら》え来《きた》りて |読者《どくしや》に紹介《しようかい》するであろう。 一一十五 |政界《せいかい》の巨人後藤象二郎伯《きよじんごとうしようじろうはく》   蕩児一宵に千金を投ず、孤舟絶海に怒濤を蹴る 政界の巨人後藤象二郎伯  三百年間、幕府《ばくふ》と云う雛壇《ひなだん》に飾り立てた諸道具《しよどうぐ》は、維新《いしん》と云う腕白小僧《わんぱくこぞう》が、斧《おの》や鉞《まさかり》で敲《たた》き |壊《こ》わして、粉微塵《こなみじん》となした。その大鉞《おおまさかり》を振り廻す事の一番名人であったのが、伯爵後藤象二 郎氏《はくしやくごとうしようじろうし》であった。三百年来の将軍様徳川慶喜公《しようぐんさまとくがわけいきこう》と膝詰《ひざづ》めの談判《だんぱん》をして、政権《せいけん》を返上《へんじよう》せしめたの もこの人であった。パークス事件の壮士《そうし》を敲《たた》き斬《き》りて、英皇《えいこう》の勲章《くんしよう》をせしめたのもこの人で あった。満天下《まんてんか》に獅虎《しこ》の咆哮《ほうこう》を絶《た》たぬ壮士《そうし》千百を堂々と提《ひつさ》げて、大同団結《だいどうだんけつ》を組織《そしき》し、朝飯前《あさめしまえ》 に台閣《だいかく》を乗取ったのもこの人であった。窮《きゆう》する時は庭内《ていない》の石垣《いしがき》を外《はず》して売喰《うりぐい》をなし、富《と》む時 は高島炭坑《たかしまたんこう》や、共同運輸会社《きようどううんゆがいしや》を倒《さかしま》にして、一|挙《きよ》に散《さん》ずるの大仕事をなせしもこの人であった。 |庵主《あんしゆ》はかつてこの巨人《きよじん》の風手《ふうぽう》を二《ふたつ》なき面白き人と思い、やっとの思いで大阪《おおさか》の洗心館《せんしんかん》で面会 したのは十八歳の時であった。爾来何《じらいなん》の天縁《てんえん》か、物《もの》に触《ふ》れ事に当って往来していたが、その 頃|後藤伯《ごとうはく》の最も呪近者《じつきんしや》として出入《しゆつにゆう》していた人は、大江卓《おおえたく》、大井憲太郎《おおいけんたろう》、井上角《いのうえかく》五|郎《ろう》、朝吹英 二《あさぷきえいじ》、竹内綱《たけのうちこう》、若宮正音《わかみやまさね》、国友重章《くにともしげあき》などの諸氏であった。庵主《あんしゆ》はその中の最小小僧《さいしようこぞう》であって、 右の諸氏《しよし》などには、礒《ろく》に物も云うて貰《もら》えぬ位の者であったが、主人の後藤伯《ごとうはく》は、常に庵主《あんしゆ》を 閑室《かんしつ》に延《ひ》き、卓《たく》を同うし食を共にして、時事《じじ》を談《だん》ずる事を避《さけ》なかった。そのころ庵主《あんしゆ》は、普 通に立勝《たちまさ》った大男で年よりもずっと老熟《ませ》て鰌髭《どじようひげ》などを生《は》やしていたそうだが、自分には今 |考《かんが》えてもさほどとも思われぬけれど、いま其頃《そのころ》の人に聞けばそうであったと云う。丁度|庵主《あんしゆ》 が後藤伯《ごとうはく》と対坐《たいざ》して咄《はなし》をしている頃、ジャケットの洋服を着た、伯《はく》の一人息子の猛太郎氏《たけたろうし》が、 ちょこちょこと這入《はい》って来て、 『お父《とう》さん学校に往《い》って参ります』 と云うて庵主《あんしゆ》の方を見て、 『叔父《おじ》さん入《いら》っしゃい』 と挨拶《あいさつ》をしたのが、猛太郎氏《たけたろうし》と詞《ことぱ》を交えた始めてであった。後《のち》に咄《はなし》を聞けば、猛太郎氏は八 歳の時から、西洋人《せいようじん》の家庭に預けられ、もっぱら語学の研究に従事せられたそうだが、道理 で英独仏等《えいどくぶつとう》の国語《こくご》には通じていたようであった。庵主《あんしゆ》の知る所にては、猛太郎氏は豪胆《ごうたん》にし て細心《さいしん》、秩序的《ちつじよてき》にしてすこぶる不羈《ふき》の性《せい》を持ておられた。古語《こご》に『偉人《いじん》の子《こ》は凡化《ぼんか》す』とこ れは凡化《ぽんか》するのではなくて、凡化《ぽんか》させるのである。猛太郎氏もその嫌《きらい》があって、先考《せんこう》が一|代《だい》 の偉人《いじん》であって、位名《いめい》共に世群《せぐん》を抜出《ぬけだ》していた為め、多くの親戚呪近者《しんせきじつきんしや》が、若様《わかさま》そんな事を 仕てはいけません。そんな事をされては資格に係《かか》るなどと、検束者《けんそくしや》ばかりの俗物《ぞくぶつ》が群《むらが》るとこ ろに、先考《せんこう》は内外公私の事務に劇忙《げきぽう》である。そこで子女《しじよ》の教育は人任《ひとまか》せとなる、故にその子《し》 政界の巨人後藤象二郎伯 |女《じよ》は寄って群《たか》って凡化《ぽんか》させられてしまう。然《しか》るに猛太郎氏《たけたろうし》は、天性《てんせい》の傑物《けつぷつ》であるから、なか なか多数の凡化党《ぽんかとう》には操縦《そうじゆう》されず、毅然《きぜん》として一|境界《きようかい》を守っている。それも渉猟《しようりよう》した学問に よりて基礎を築《きず》かれている。即《すなわ》ち平民主義《へいみんしゆぎ》である。それで世の中がだんだん馬鹿《ぱか》に見えて来 た、拗《すね》だして来た。我儘《わがまま》となって来た。十八九歳の時|木村屋《きむらや》と云《い》うパン屋が、日蔭町《ひかげちよう》で買《こ》う た大礼服《たいれいふく》の古物《ふるもの》を着て、往来《おうらい》でパンを売り歩いているのを見た猛太郎氏は、 『僕《ぽく》の親爺《おやじ》や、伊藤《いとう》さんは、あのパン屋《や》の真似《まね》を一生懸命《いつしようけんめい》になって仕《し》ているよ』 と云うた事がある。丁度その頃|庵主《あんしゆ》が、   人間生死本来空《にんけんのせいしほえらいくう》  千古栄枯千古同《せんこのえいこせんこおなし》   わするることなかれえいゆうごうけっのぎよう     ひつじよがいじようはなをうるのおう   毋忘英雄豪傑業  匹如街上売花翁 と云うたのと好《こう》一|対《つい》の共鳴《きようめい》であった。けだし功名利達《こうみようりたつ》はすでに猛太郎氏《たけたろうし》の眼中《がんちゆう》の物では無 かったのである。成年《せいねん》に及んで猛太郎氏は、花柳狭斜《かりゅうきようしや》の街《ちまた》に辿《たど》り込んだ。また絃歌醉唱《げんかすいしよう》の味 を覚えた。これもやはり当時の家庭と、上流社会《じようりゆうしやかい》の反映《はんえい》であったのである。さあ身辺左右 近親《しんべんさゆうきんしん》の人々がなかなか折合《おりあ》わぬ。鉄砲箭玉《てつぽうやだま》と先考《せんこう》にその不行跡《ふぎようせき》を訴える。先考《せんこう》も五月蝿面倒 臭《うるさいめんどうくさ》いが、進んで不愉快《ふゆかい》となり、遂《つい》には癇癪《かんしゃく》を起した結果、永《なが》の勘当《かんどう》となった。さあこれから が猛太郎氏は光彩ある魔界生活《まかいせいかつ》に入るのである。  その頃|井上候《いのうえこう》が外務卿《がいむきよう》であって、この顛末《てんまつ》を聞かれて、 『後藤《ごとう》の息子《むすこ》は、怜悧《りこう》な宜《よ》い子である。それを象二郎《しようじろう》が勘当《かんどう》したとの事であるが、あの子は 語学が甘《うま》くて、なかなか気《き》の利《き》いた青年《せいねん》である。俺《おれ》が外務省《がいむしよう》に入れて使って見よう』 と云うて外務《がいむ》の御用掛《ごようがか》りと云うものに採用せられた。この時まで猛太郎氏《たけたろうし》は一|文《もん》なしの貧乏 で暮していた所へ、にわかに月給取りとなったので、八方から借金取《しやつきんと》りが押寄《おしょ》せて来る。こ れでは井上候《いのうえこう》の恩沢《おんたく》は有難迷惑《ありがためいわく》じゃと云うていた。間《ま》もなく外務省《がいむしよう》に飛《と》んでもない事件が発 生《はつせい》した。それは日本《にほん》の漂流者《ひようりゆうしゃ》がマーシャル群島《ぐんとう》のある一島《いつとう》に漂着《ひようちやく》したら、原住民がこれを |虐殺《ぎやくさつ》した上に、その肉を食うたとのことが、ある帆前船《ほまえせん》の船長の報告で判った。サア外務省 では寸時《すんじ》もこれを打捨《うちす》てて置《お》く訳に行《ゆ》かぬ。費用を吝《おし》まず実地に吏員《りいん》を派遣《はけん》して調査せねば ならぬ事となった。井上侯《いのうえこう》は誰《た》れ行け彼《か》れ行けと、その人物を物色《ぷつしよく》したけれども、皆|逡巡《しりごみ》し てその命《めい》に応《おちつ》ずる者がない。その時これを聞いた猛太郎氏は、雀躍《こおど》りしてこれに応じて曰く、 『丁度|宜《よ》い。この生温《なまぬる》い世の中に格別の生甲斐《いきがい》もない所故、早速にこの命《めい》に従《したが》うことに仕《し》よ う』 と云うので、井上侯は大変喜ばれて、直《ただち》に辞令書《じれいしよ》が下《さが》って支度金《したくきん》壱千円を渡した。そこで猛 太郎氏《たけたろうし》は大旱《たいかん》の慈雨《じう》で、手近の借りを払うたは好《よ》かったが、残り金は横浜《よこはま》で一晩《ひとぱん》の中《うち》に、一 行の者と酒食《しゆしよく》の料《りよう》に抛《なげう》ってしもうた。さあ翌日になって酔《よい》の醒《さ》めた跡《あと》は、一同互いに顔見合 せ、策《さく》の出《いず》る処《ところ》を知らなかった。猛太郎氏は哄笑一《こうしよう》番して、 政界の巨人後藤象二郎伯 『諸君心配仕給うな、俺に考えがある』 と云うて直《ただち》に翌日|外務省《がいむしよう》に出頭《しゆつとう》し、井上侯《いのうえこう》に面会し、 『私は命《めい》を受けて早速用意の帆船《はんせん》に乗って出発する積りでございましたが、永《ながなが》々の貧乏で八 方に借が有りまして、それを払うた跡《あと》の金《かね》は、友人と傾《かたむ》けたる離杯《りはい》の酒の度を過し、一|文《もん》も ないようになりましたから、どうか別《べつ》に千円の支度金《したくきん》を今《も》一度|頂戴致《ちようだいいたし》とうございます』 と露骨《ろこつ》に陳述《ちんじゆつ》したところが、井上侯《いのうえこう》は先天的の癇癩《かんしやく》に、一万石《いちまんごく》の石油をぶっ掛けて火《ひ》を付《つ》け たように、天地《てんち》も裂《さ》けんばかりに怒り出した。 『この小僧奴《こぞうめ》、道楽《どうらく》で勘当《かんどう》受けたを不憫《ふびん》に思い、再生《さいせい》の恩と思うて拾い上げて助け置いたの に、俺《おれ》の私事《わたくしごと》でもない、国家《こつか》の一大事に拘《かか》わる大任《たいにん》を蒙《こうむ》りながら、官金《かんさん》と知りつつ千壱円の 大金を一夜の遊興《ゆうきよう》に使い捨るなどとは、言語道断《ごんごどうだん》の不埒者《ふらちもの》である。この上は俺がまた勘当《かんどう》を する』 と云うて直に用意の船を取上げ、蹴倒《けたお》さんばかりにして外務省を追《お》い出してしもうた。猛太 郎氏《たけたろうし》はすごすご横浜《よこはま》へ帰って来てその顛末《てんまつ》を咄《はな》すと、一同の者は色を失うてしもうた。ここ に於て猛太郎氏は曰く、 『諸君心配仕給うな、およそ世《よ》の中《なか》の事はどんな困難な事でも、人間が為《す》るものと極ったら どんな事件でも、自《おのずか》ら解決法《かいけつほう》はあるものよ。まず怒《おこ》るのは井上《いのうえ》の爺《じい》さんの商売じゃ。酒を飲 むのは我々の商売である。各商《おのおの》売をしたのじゃから遺憾《いかん》はない。そこで残った事はマーシャ ル・アイランドの事件じゃ。それさえ解決《かいけつ》すれば国家は不自由はない。それを解決するのは 僕より外《ほか》にないよ。さてこう極《き》まれば何でもない。諸君は僕の部下として休暇《きゆうか》を今日与《こんにちあた》える から、船に乗込んだ体にして、家族《かぞく》の貰《もら》う月給で湯治場《とうじば》にでも行って休息したまえ。マーシャ ル・アイランドは僕が行って、きっと実地を調査して来て遺憾《いかん》ない報告《ほうこく》をするから』 と云うと一同は、 『それでも船《ふね》を取上《とりあ》げられて、一文《いちもん》なしでどうしてマーシャル・アイランドまで行きますか』 と云うて心配する。猛太郎氏は、 『僕は船なしで、また一文《いちもん》なしで、きっと行《ゆ》く事《こと》を知っているから、君達は早く帰り給え』 と云うて無理《むり》に追《お》い戻《もど》し、跡《あと》で猛太郎氏《たけたろうし》はかねて知人の和蘭領事某《オランダりようじぽう》の所に行って、以上の顛 末《てんまつ》を残らず咄《はな》し、 『僕はこの一枚の辞令書《じれいしよ》を取上げられずに持っているから、どこまでも日本《にほん》の役人《やくにん》じゃ、そ れが署名《しよめい》をするからこの面白《おもしろ》き事件《しごと》を誓助《ほうじよ》してくれ給え』 と例の流暢《りゆうちよう》な英語《えいご》で相談したので、某も物好《ものず》きな人と見《え》え、これを引受けて相当《そうとう》の小遣《こづかい》を用 達《ようだ》て、折柄横浜港内《おりからよこはまこうない》に居合せて、出帆仕掛《しゆつぱんしかか》っている諾威《ノルウエさ》の漁船《ぎよせん》の、六十五|噸《トン》の帆船《はんせん》の船長に この任務《にんむ》を三千円の懸賞《けんしよう》で遣《や》らぬかと談判《だんぱん》したら元《もともと》々|帆前《ほまえ》の船長などは呑気《のんき》なもので不漁《しけ》な 政界の巨人後藤象二郎伯 しの取剥《とりはぐ》れなしの仕事と云うので早速|咄《はなし》が纒《まとま》り、その翌日の晩方の夕風《ゆうかぜ》に帆《ほ》を上《あ》げて、大胆《だいたん》 にも横浜《よこはま》を乗り出したのである。それから小笠原島《おがさわらじま》に寄港《きこう》して、さらに碇《いかり》を上《あ》げた以来は、 |浪路果《なみじはて》なき海原《うなばら》を、南へ南へと馳《は》せたのである。始めの中《うち》は猛太郎氏《たけたろうし》も船客《せんかく》らしく仕《し》ていた が、後《のち》には水夫等《すいふら》と親睦《しんぼく》し、鱶漁《ふかりよう》の仲間入をなしその後《ご》は一《いつ》の船員《せんいん》となって、日課の職務《しよくむ》を 時間通り働く事になったのである。この航海《こうかい》八ヵ月間の経験は、後年《こうねん》猛太郎氏が自《みず》からヨッ トを操《あやつ》り、熟練《じゆくれん》なる航海《こうかい》をして本業者の舌《した》を捲《ま》かしめるだけの技倆《ぎりよう》を養《やしな》ったのである。ある 時は風浪《ふうろう》と戦い、ある時は漁猟《ぎよりよう》をなして食料を貯《たくわ》え、雨天《うてん》には天水《てんすい》を取ってタンクに容《い》るる |等《など》の事務は、猛太郎氏の一生に云い知れぬ経験を得たのである。  難《なん》なく船《ふね》は八ヵ月の後マーシャル群島《ぐんとう》に着いて、その島《しま》この島《しま》と調査したら、ある一島に 於て適確《てさかく》な証拠《しようこ》を得《え》た。それは日本《にほん》の柳行李《やなぎごうり》の破片《はへん》と、原住民が日本《にほん》の剃刀《かみそり》とを持《も》っていた のを見付出《みつけだ》したので、確かにこの島で日本人《にほんじん》を虐殺《ぎやくさつ》したと認定《にんてい》し得《え》たのである。そこで猛太 郎氏《たけたろうし》は考えて何とか相当懲戒《そうとうちようかい》の端緒《たんしよ》となるべき処置《しよち》を取って、後日の証拠《しようこ》とせねばならぬと 思い、たちまち一策を案出《あんしゆつ》し、船長《せんちよう》と相談の上、この島の国王《こくおう》らしき者二人を款待《かんたい》し、船内 を見物させると云うを名《な》として酒宴《しゆえん》を開き、マッチ、ケットの類を与《あた》え酒《さけ》を飲《の》ましめ、熟睡 時《じゆくすいじ》に碇《いかり》を上《あ》げて出帆《しゆつぱん》し、段《だんだん》々とその二人《ふたり》の国王《こくおう》を懐柔《かいじゆう》して、後には船内で働かせ、また幾多《いくた》 の艱難《かんなん》を経て横浜《よこはま》に帰って来たのは、丁度十四ヵ月目であったのである。  それからその言語不通《げんごふつう》の国王二人《こくおうふたり》を、グランド・ホテルに泊《と》め置《おい》た。和蘭領事《オランダりようじ》よりは日本《にほん》 の外務省《がいむしよう》に照会《しようかい》して、貴国《きこく》の官憲後藤猛太郎氏《かんけんごとうたけたろうし》の依頼《いらい》によりて、かくかくの尽力《じんりよく》をなし、懸 賞金《けんしようきん》何千円、取替金《とりかえきん》何円を要する趣《おもむき》を申出た。猛太郎氏《たけたろうし》は直《ただち》に外務省《がいむしよう》に出頭《しゆつとう》し、井上候《いのうえこう》に 面接して航海中より各地調査の顛末《てんまつ》を報告し右国王二人を引渡《ひきわた》したので、外務省の驚《おどろ》きは一 方《ひとかた》ならず、その国王《こくおう》の島《しま》は多分西班牙領《たぷんスベインりよう》ならんと思うて、これを同公使《どうこうし》に引渡さんとすれど も、言《げん》を左右《さゆう》に託《たく》して受取らず、その中《うち》に段《だんだん》々|秋冷《しゆうれい》の季《き》にも向い来《きた》り、また寒気《かんき》にもなるの で早くよりストーヴを焚《た》き、ケットに包《くる》んでその国王を保護《ほご》したが、生れるから裸体《はだか》で暮し た習慣故、とうとう翌年の一月には二人共、蝉《せみ》の秋風《あさかぜ》に逢《お》うたように死んでしもうたのであ る。  大正《たいしよう》の今日こそ、南洋《なんよう》が何だ、千円の金が何だと云うけれども、当時に於けるこの猛太郎 氏《たけたろうし》の処置《しよち》については、実に聞く者をしてただ驚嘆《きようたん》の目《め》を艀《みは》らしめたのである。井上公《いのうえこう》は後年《こうねん》 云うておられた。 『何ともあの奴《やつ》ばかりは仕方《しかた》のない事《こと》ばかり仕出《しで》かして困らせるよ。ただ辞令書《じれいしよ》を取上げる 事を忘《わす》巾た為《た》め、和蘭領事《オランダりようじ》などと語《かた》ろうて、命令的に外務省《がいむしよう》の金《かね》を使《つか》い、原住民の二人《ふたり》も連 れて来て、それを凍《こご》え死《じに》させたような事になって、実に俺を弱《よわ》らせたよ』 と苦笑《にがわら》いしておられた。故人猛太郎氏《こじんたけたろうし》は気力才幹《きりよくさいかん》共に常人《じようにん》に超越《ちようえつ》して、適《ゆ》くとして可《か》ならざ るはなく、物事《ものごと》の裁決《さいけつ》また流る如く、屈託《くつたく》なかりし事、庵主《あんしゆ》の多くの知人中に未だその類《るい》を 見る事の出来ぬ人物《じんぶつ》であった。 一一十六 |勘当《かんどう》された後藤小伯猛太郎氏《ごとうしようはくたけたろうし》   猛獅怒を発して獅児狭斜に入り、老熊愛を垂れて獅児食を得たり 勘当された後藤小伯猛太郎氏  後藤小伯猛太郎氏《ごとうしようはくたけたろうし》は、普通|常人《じようにん》の為遂《しと》げる事の出来ない南洋行《なんようゆき》の事業を、百|難《なん》千|艱《かん》を冒《おか》し て、みごと帝国《ていこく》の大面目《だいめんぽく》と、大責任《だいせきにん》とを果《はた》して来た。またその報告書《ほうこくしよ》も立派《りつぱ》に出来た。初《はじ》め |私行上《しこうじよう》の顛末《てんまつ》から、航海日誌《こうかいにつし》や、証拠物件《しようこぷつけん》や、加害蕃人《かがいぱんじん》の頭領二《とうりよう》名まで引連れて来て、帝国《ていこく》 の責任《せきにん》は、面目《めんもく》と共に欠点《けつてん》なく立ったのである。ただ金《かね》を外国領事《がいこくりようじ》に立替《たてか》えさせて、一万余 円を政府《せいふ》に弁償《べんしよう》させた事《こと》だけは、事後承諾《じごしようだく》ではあったが、当時の外務《がいむ》の雅量《がりよう》では、とうてい この大責任《だいせきにん》を果すだけの支出は覚束《おぼつか》ないと認定《にんてい》したから、猛伯《たけはく》は初に於て外務省《がいむしよう》の命令を瓦 落瓦落《がらがら》に破壊《こわ》して、通行の道路を広く開拓《かいたく》し、総ての毀誉褒貶《きよほうへん》を一身に引受けて、この難事《なんじ》 を遂行《すいこう》したのである。もし尋常一様《じんじようよう》の士《し》をしてこの事に従事せしめ、役人然《やくにんぜん》として一|艘《そう》の船《ふね》  した    すべ  こようてき          ただ       たつ え          ばくだい を仕立てて、総てを雇傭的で実行したならば、蕾にその目的を達し得ざるのみならず、莫大 の費用を要し、かつ捕鯨船員《ほげいせんいん》などは元《もともと》々|残忍性《ざんにんせい》を帯《お》びている者共故、そのお役人様《やくにんさま》の生命さ えも危険である。猛伯《たけはく》は初《はじ》めに機敏《きぴん》なる観取《かんしゆ》をして、自分が丸裸《まるはだか》でその残忍性《ざんにんせい》の中に飛込み、 船員とまでなって彼等を慾導《よくどう》するに懸賞式《けんしようしき》を用い、その相手《あいて》は彼等の理解し易き外国の領事《りょうじ》 を証人《しようにん》としたる等の注意は、一の欠点も遺漏《いろう》もないのである。それでこそこの難事業《なんじぎよう》が、坦《たんたん》々 として平地を行くように片付《かたづ》いたのである。ただ机の上で利害得失《りがいとくしつ》ばかりの空論《くうろん》をしている 外務当局では、とても国辱《こくじよく》を雪《すす》ぐ等《とう》の事は出来ぬのである。  然《しか》るに外務省は、かえってこの猛伯《たけはく》を危険視《きけんし》して、一|片《ぺん》の賞詞《しようし》をさえ与えざるのみならず、 |彼《か》の酋長《しゆうちよう》の死に対する責任等《せきにんとう》、外務省は公明《こうめい》にこれを表明《ひようめい》せずして、その責《せめ》を総《すべ》て猛伯《たけはく》一|人《にん》 に転嫁《てんか》したのである。而《しか》してかえって許可《きよか》を俟《ま》たずして、帝国《ていこく》が費用を支出すべき文書に、 |官吏《かんり》として捺印《なついん》したりとの咎《とが》めを以て直《ただち》に免職《めんしよく》したのである。  この費用の支出に対して井上外相《いのうえがいしよう》は、一|日象二郎伯《じつしようじろうはく》に面会して、 『君《きみ》の処《ところ》の息子猛太郎《むすこたけたろう》を、俺が拾い上げて使うてみたが、なかなか賢《かしこ》い奴《やつ》ではあるが、金の |始末《しまつ》の悪い男で、今度|南洋《なんよう》の事件等は、これこれかくかくである。なるほど君《きみ》が勘当《かんどう》したの も実に尤《もつと》もで俺も困り抜いたよ』 と云われると象二郎伯《しようじろうはく》は苦笑《にがわら》いをして、 『うむ、あの猛《たけ》の性質は、僕とさえ距離があるのだから、君とは大変な違いである。君で猛 勘当された後藤小伯猛太郎氏 が使える筈《はず》がない。僕は産《う》んで成長さして、後《のち》に勘当《かんどう》したが、君ならば産まぬ前からの勘当 であろうよ。しかし今回の事件は、猛《たけ》が大手柄《おおてがら》を遣《や》って来た訳故、勘当をしていても僕の子 じゃから、もし外務省《がいむしよう》に費用《ひよう》が無ければ、僕が国に対して手柄《てがら》を為《な》した、破《やぷ》れ息子《むすこ》を賞《しよう》する |為《た》めに、払《はろ》うて遣《や》っても好《い》いよ』 と云《い》われた。この大腹中《だいふくちゆう》の象二郎伯《しようじろうはく》の一|言《ごん》にて井上外相《いのうえがいしよう》は、 『それは立派《りつぱ》な咄《はなし》じゃが、その費用の事は心配|仕《し》たもうな。しかし彼はすでに免職《めんしよく》したから、 その事は仕方《しかた》ない』 と云わるると象二郎伯《しようじろうはく》は、 『うむ、それは好い、太平《たいへい》の世《よ》になっては、僕でさえも遠からず免職《めんしよく》じゃから、猛《たけ》は当り前 じゃ、少しも構わぬよ』 と答えられたそうだ。これは後年|井上伯《いのうえはく》が庵主《あんしゆ》との雑話中《ざつわちゆう》、 『あの後藤親子《ごとうおやこ》には、面白《おもしろ》い話《はなし》があるよ』 と云ヶて咄《はな》された記憶《きおく》である。それより猛伯《たけはく》は面白く漂浪《ひようろう》して、下谷《したや》のある貧乏芸者某の情 夫《じようふ》となり、ある時は箱屋《はこや》までして、板張《いたばり》や戸障子《としようじ》の雑巾掛《ぞうきんが》けなどを遣《や》り、はなはだしきはバ ケツの中で下駄《げた》まで洗う事を、何の苦もなく遣《や》っていたら、この間|薨去《こうきよ》せられた、時の宮内 大臣土方伯《くないだいじんひじかたはく》がその事を聞き、同郷《どうきよう》の誼《よし》み黙《もく》し難《がた》く、 『あの衝艤の娥が纐外に蹴当されて默轍しているそうだが、あれは彫短のある青年じゃから、 |俺《おれ》が拾い上げて人間にしてみよう』      ぽうそうさく              きゆうしようかんてい  よぴよ     こんこん  くんかい  くわ    の と云うて八方捜索して、とうとう宮相官邸に呼寄せ、懇々と訓戒を加えた後ち、 『猛《たけ》よ今日《こんにち》からお前を俺《おれ》が推挙《すいきよ》して、翻訳《ほんやく》の臨時傭《りんじやとい》にする。それは今モッセーと云う外国学 者が毎土曜日毎に半日、国際公法《こくさいこうほう》の講義《こうぎ》をする、それの通訳《つうやく》をするのじゃ。お前は独逸語《ドイツご》が 轡都であるから、毎土曜日の正午には、必ず俺の処に来なさい、それがもし間違《まちが》えば大変《たいへん》だ ぞよ、当日《とうじつ》は宮殿下等《みやでんかなど》も御臨席《ごりんせき》になるから……。また俺はお前が見処ある故、立派な男にし   おやじ   いのうえ  み かえ                                      せ わ           あんしん て、親爺や井上を見返すだけの人間に仕立てるまでは、何が何でも世話をするから安心せよ。 それに月給はお前が芸者屋《げいしやや》などにいては遣《や》る訳《わけ》に行《ゆ》かぬから、早くどこぞ下宿《げしゆく》でもすれば、 月に四回の出勤《しゆつきん》に対《たい》して六十円遣るぞよ』 と云われた。これを聞いた猛伯《たけはく》は、びっくりして咽喉《のど》が鳴《な》った。当時|猛伯《たけはく》が芸者屋の居候兼《いそうろうけん》 はこ萋よう                  つく   か              しらみ 箱屋業で五十銭一円から有りとあらゆる手段を尽して、借りて借りて借り詰め、四方八方風 の卵の様に借り散した揚句《あげく》の事故、六十円はおろか六円の金の声をさえ聞く事の出来ぬどん 底であった故《ゆえ》、その喜《よろこ》びと云うたら大変《たいへん》である。  お じ     ありがと                                    おぽしめし                    な 『伯父さん有難うございます、私を人間にして下さいます思召なら、私もきっと人間に為ら ねば止《や》みませぬ。誓《ちか》って伯父さん以上の人間になります、どうか御指導を願います。きっと 勘当された後藤小伯猛太郎氏 土曜日の正午《しようご》には参ります。それから芸者屋住居も喰われぬからの事《こと》でございますから、今 日六十円さえ下さいますれば今日中にきっと下宿《げしゆく》致ます。伯父さん私も今日始めて暗い沈淪《ちんりん》 の底《そこ》から、明るい社会に出られます。偏《ひとえ》に伯父さんのお蔭《かげ》でございます』 と伯父さんを百も二百も云《い》い並ベて、まんまと六十円を土方伯《ひじかたはく》よりせしめて、飛ぶが如くに |下谷《したや》の芸者家に帰って来た。 『おい俺は今日から出世《しゆつせ》の道《みち》に有付《ありつ》いたぞ。今日|宮内大臣《くないだいじん》に呼ばれて、これこれの次第《しだい》じゃ 故に、早速下宿行の準備《したく》をしてくれ、金《かね》は勿体《もつたい》なくも畏多《おそれ》くも、宮内大臣《くないだいじん》から貰うた月給前 金の六十円この通りじゃ』 と十円札六枚を目の前に並べた。その頃の芸者は祝儀《しゆうぎ》がまだ五十銭以下の時である故、その 芸者の驚《おどろ》きもまた一層で、その喜びと云うたら喩《たと》え方《かた》ないのである。 『それは大変お目出度事で、私《わたくし》も永年御一所《ながねんごいつしよ》に暮して、今更《いまさら》別になるのは本意《ほい》ないとは思い ますが、貴方《あなた》の御出世《ごしゆつせ》でございますから、何はなくとも用意を致ます』 と云うて早速|柳原《やなぎはら》の古着屋《ふるぎや》に行って身巾《みはば》の狭いモーニングコート一着と靴と帽子とを調《ととの》え、 |頭付《かしらつき》のお肴《さかな》で快《こころよ》く一杯飲んで直《すぐ》に本郷《ほんごう》のとある下宿屋《げしゆくや》に入った。その宿へ同宿と云うて引越《ひつこ》 して来た親友が、今は大学で老教授の碩儒《せきじゆ》、理学博士《りがくはかせ》の飯嶋魁氏《いいじまかいし》で、これも猛伯《たけはく》と伯仲《はくちゆう》のの たくり書生である。猛伯《たけはく》が二階の一室、その教授《きようじゆ》が下の一室と、おのおの割拠的《かつきよてき》に座を占め たが、二階では義太夫《ざだゆう》を呶鳴《どな》る、下では豚を〆殺《しめころ》すような声で、団《だん》十|郎《ろう》の仮声《こわいろ》を始める、そ の宿の主人が、三|途《ず》と綽名《あだな》を取った三|途川《しようづか》の婆《ばばあ》のような老《ろうお》…瞠《ん》である。それが中間に在って抗 議を喃《なよなん》々と申立つる。そこで二階から五十銭、下から五十銭の出金《しゆつきん》で酒を買いに遣《や》るその棒 先《ぽうさき》を婆《ばげあ》が何程《なにほど》か刎《は》ねる、婆《ばばあ》は機嫌《きげん》がよくなる、終《つい》には三人|団欒《だんらん》して杯《さかずき》を飛ばし、共にこの婆《ぱぱあ》 のボンポコ三味線《しやみせん》で、義太夫《ぎだゆう》や仮声《こわいろ》を坤《うな》って寝《しん》に就《つ》くのである。而《しか》して猛伯《たけはく》は月給を受取れ ば、半額三十円は必ず下谷《したや》の旧恩《きゆうおん》ある芸者に与《あた》え、残三十円で十円の下宿料残り二十円の小 遣《こづかい》で何の苦もなく暮すのである。  ある土曜日に猛伯《たけはく》が、宮相邸講演《きゆうしようていこうえん》の日を打忘れて、隅田《すみだ》、荒川《あらかわ》に咲《さ》き匂《にお》う花の下径辿《したみちたど》り つつ、例の教授先生と共に、香酒薫菜《こうしゆくんさい》の漫歩《そぞろあるき》より醒《さ》めたる時は、午後の四時過ぎで、傾陽《けいよう》三 |竿《かん》、倦鴉待乳《けんあまつち》の林梢《りんしよう》に憩《いこ》うて、唖唖《ああ》の声《こえ》をなすの頃であった。さあ大変と思うたがもう間に 合わぬ。車を飛ばして宮相邸《きゆうしようてい》に駈《か》け付けたところが、土方伯《ひじかたはく》は河豚提灯《ふぐちようちん》に火を点《つ》けたよう に、プンプン怒《おこ》っている。伯父《おじ》さん伯父さんの百|曼陀羅《まんだら》を云うて詫《わぴ》たが勘弁《かんべん》してくれぬ。何 でも家扶《カふ》の咄《はなし》を聞けば、宮殿下《みやでんか》と、彼《か》のモッセー博士《はかせ》と、他の貴顕《きけん》数人と、二時間以上も同 室に集って、鼻突合《はなつきあ》せて居ながら、むうくく、むにゃくくくと、手真似顔真似《てまねかおまね》ば かりして、寒喧《かんけん》の挨拶《あいさつ》さえも出来ず、その中間にあって宮相《きゆうしよう》は真赤《まつか》になって斡旋《あつせん》を努《つと》められ たけれ共、終《つい》に何の効《かいえ》もなく、『むにゃくくく』ばかりの物別れで三|時頃《じごろ》おのおの帰邸《きてい》 勘当された後藤小伯猛太郎氏 せられたとの事である。  それから猛伯《たけはく》は大医橋本綱常老《たいいはしもとつなつねろう》の仲裁《ちゆうさい》で、やっとの事に詫《わぴ》が叶《かな》い、『当日は猛太郎氏《たけたろうし》、急性 胃痙嫐掣《きゆうせいいけいれん》で無断欠勤《むだんけつきん》した』との事になって、猛伯は更らに土方邸《ひじかたてい》に呼付られ、きっと将来を戒《いまし》 められて、『急性胃痙鑾と云う病気は酒を飲めば癒《なお》るのか、家扶《かふ》の報告では前晩から大病人《たいぴようにん》 である筈《はず》のお前が、大変|宿酔《ふつかよい》の臭をさしていたとの事、この後|俺《おれ》の顔を汚す如き事を為れば |許《ゆる》さぬぞ』と、したたか脂《あぶら》を取られて元《もともと》々となった。その当分は猛伯《たけはく》はなはだ勉強の体《てい》であっ たが、ある時|宮殿下《みやでんか》より宮相《きゆうしよう》に御下問《ごかもん》が有った。 『宮相《さゆうしよう》よ独逸語《ドイツご》を日本語《にほんご》に訳すれば、極めて簡単《かんたん》に短縮《たんしゆく》するものであるか如何《いかが》』 との事であったから、 『早速|取調《とりしら》べて奉答《ほうとう》致しますが、どうして左様《さよう》の御下問《ごかもん》がござりますか』 と伺上《うかがいあげ》たら、 『いや外《ほか》でもない、昨今彼《さつこんか》のモッセー氏が長時間|講演《こうえん》するのに、通訳《つうやく》の後藤《ごとう》のは、ぺろ くくくと少《すこ》しばかり通弁《つうべん》するだけだが、あんなに短かく日本語では言《い》い尽《つく》されるもの か、いかがと思うて問うたのじゃ』 との御意《ぎよい》であったので、宮相《きゆうしよう》ははっと思い、『あの猛《たけ》の野郎好加減《やろういいかげん》の通弁《つうべん》をして畏《おそ》れ多くも |殿下《でんか》を欺《あざむ》き奉《たてまつ》っているに違《ちが》いない』と、それから宮相は猛伯の行|動を、熊鷹《くまたか》の様な眼で調 査せられた。次の土曜日に独逸語《ドイッご》の分かる都築馨六男《つづきけいろくだん》を、ひそかに次の室に忍《しの》ばせておいて、 猛伯の通弁を聴《き》かせたら、モッセー氏の講話《こうわ》に対する、標題《ひようだい》の翻訳《ほんやく》だけを申上げている事が 解った。そこで宮相はその日|猛伯《たけはく》を足留《あしど》めして厳重《げんじゆう》な白洲《しらす》が開《ひら》かれた。 『この野郎太《やろうふと》い奴だ畏《おそ》れ多くも宮殿下《みやでんか》の御前《ごぜん》に於て、かくかく斯様《かよう》の不埒《ふらち》を働く、その罪《つみ》決 して赦《ゆる》す可《べ》からず。汝《なんじ》は慈悲《じひ》の親《おや》に勘当《かんどう》せられ、義侠《ぎきよう》の井上伯《いのうえはく》に見限《みかぎ》られ、世にも不憫《ふぴん》な者 と思い、俺が拾上《ひろいあ》げて遣《つか》わせば、再生《さいせい》の恩《おん》も忘れかようの人外|不埒《ふらち》を働く、最早|勘弁《かんべん》ならぬ、 世の中の害《がい》を除《のぞ》くのと人助けの為《た》めに、俺が今日美事《こんにちみごと》に成敗《せいばい》するから覚悟《かくご》せよ。それのみな らず、宮殿下《みやでんか》の御下命《ごかめい》にて、毎土曜日の講演《こうえん》に対する、国際公法《こくさいこうほう》の翻訳書《ほんやくしよ》を、御手許《おんてもと》に差上 げるのを、汝は芸者屋に昼寝をして、紅筆《べにふで》を以て書散《かきち》らし、そのまま御手許《おてもと》に差上《さしあ》げいたる 事も、ちゃんと調査の結果知っているぞ。さようの不謹慎《ふきんしん》の行為《こうい》を以て、俺の顔に泥を塗る ようの事を働く以上は、この後いかなる不届《ふとどき》を仕出《しで》かすやも解《わか》らぬから、今日は決死《けつし》の覚悟《かくご》 をして返答せよ』 と詰《つ》め寄《よ》せられた。そこで猛伯《たけはく》もまたまた伯父《おじ》さんくの百|曼陀羅《まんだら》を並べて、平蜘蛛《ひらぐも》になっ て謝《あや》まったが、今日と云う今日《こんにち》は、宮相瞬《きゆうしようまたたき》もせずに息を詰《つ》めて怒《おこ》っている。そこで猛伯《たけはく》は つかつかと立って床《とこ》の間《ま》に飾《かざ》って在《あ》った短刀を取って来て、びったりと宮相の前に端坐《さんざ》し、 『伯父《おじ》さんさほどの御立腹《ごりつぷく》で、私《わたくし》を殺すとまで御決心《ごけつしん》になった以上は、伯父さんのお手を借 勘当された後藤小伯猛太郎氏 るまでもなく、私も武士《ぶし》の子《こ》でございますから、みごと死んで御覧《ごらん》に入《い》れますが、臨終《いまわ》の際《きわ》 に伯父さんに御尋《おたず》ねする事があります。そのお答をみごと伯父さんより承《うけたま》わる事が出来れ ば、即座《そくざ》に御面前《ごめんぜん》で屠腹《とふく》致します。しばらく御聞下《おききくだ》さいませ。そもそも伯父さんは身宮相《みきゆうしよう》 の栄職《えいしよく》に在《あ》らせられて、畏《おそ》れ多くも宮殿下《みやでんか》を形式上に崇《あが》め奉《たてまつ》りて、精神上に蔑視《べつし》なさる思召《おぼしめし》 でございますか。私は今度のこの重命《じゆうめい》を蒙《こうむ》りましてから已《すで》に数月、彼の偏固《へんこ》なる学者のモッ セー氏の講演《こうえん》を通訳致《つうやくいた》します中《うち》、事《こと》、英米仏独等《えいべいふつどくとう》の外交軍事に関係致す事を除くの外は半頃 からはきっと伯父《おじ》さんを初め、並居る貴紳《きしん》および宮殿下《みやでんか》も、時《ときどき》々|居眠《いねむり》を遊《あそ》ばすのでございま す。殊《こと》に昨今《さつこん》は、未成的殖民地に於ける国際上の基礎論拠《きそろんきよ》を構成《こうせい》する為《た》め『若しこう云う事 があったなら万禁の場合の時には』『第二第三国にこんな既定法律《きていほうりつ》の結果としてかようの例外 が発生《はつせい》したならば』と云うような、我国などには、この数世紀間には更に入用の夢さえ見る 事の出来ぬ事柄《ことがら》を、自分の学問自慢《がくもんじまん》の為めに、長々とモッセー氏が述立《のべた》てます。それでなく てさえ居眠《いねむり》をする方《かたがた》々に、また私がそれを最一度|繰《く》り返《かえ》して、長々と述べ立ましたら、皆様 は必ず永久不覚《えいきゆうふかく》の眠に就《つ》いてお仕舞《しまい》であろうと思います。それ故に、私《わたくし》は左様《さよう》の分らぬ事を 繰り返して、御迷惑《ごめいわく》を掛けようよりさらに迹《あと》より翻訳書《ほんやくしよ》を以て委敷申上《くわしくもうしあげ》、明瞭《めいりよう》なる御取捨《ごしゆしや》を |願《ねが》うがお為《た》めになる通訳《つうやく》、適当《てきとう》の心得《こころえ》と思い、爾来不洩御手許《じらいもらさずおてもと》にさし上げておりますが、も しその翻訳書《ほんやくしよ》に就いて、何か異議《いざ》を申す者がござりましたら、何時でも御面前《ごめんぜん》で対決《たいけつ》を致し ましょう。またその翻訳書《ほんやくしよ》に追《お》っ飛《と》ばせて有るところがあり、杜撰《ずさん》な処《ところ》がございましたら、 私は安《やす》んじて伯父さんに殺さるる時でございます。また先《さき》の土曜日に出勤《しゆつきん》を忘れました一事 も序《ついで》に申し訳を致しますがそれは私が悪いのでございますから謝《あやま》りました。謝っても聞かぬ と仰《おお》せらるるのは、御無理《ごむり》でございます、私は悪気《わるぎ》で忘れたのではございませぬ、貴方《あなた》もこ の間自《あいだ》分が命名《めいめい》した、私の弟の名をお忘れになったではございませぬか。それが悪《わる》い気《き》でお 忘れになったのでないからこそ、私は堪忍《かんにん》して上げております。忘れるのは人間に有《あ》り得《う》る 事でございます。また紅筆《べにふで》で翻訳《ほんやく》をしたのを不謹慎《ふきんしん》と仰《おお》せらるるが、インキならなぜ不謹慎《ふきんしん》 でございませぬ。今はインキは様《さまざま》々の化学的でも栫《こしら》えますが、インキの起源《きげん》は、アフリカの 原住民がその原料を採収《さいしゆう》し、後《のち》にはジプシーがそれを収集して売歩いたものでございます、 |紅《べに》は茜草《あかねぐさ》から取りまして『御園《みその》に生《お》うる末摘《すえつむ》の花《はな》の色《いろ》にも』とか何とか申しまして朝廷《ちようてい》の御 園《ぎよえん》にも咲く目出度花《めでたきはな》の色《いろ》で、日本では貴人高位《きじんこうい》の貴《たつ》とむ物でございます。それとも始原《しげん》が原 住民やジプシーに依《よ》ったインキで書いた方が不謹慎《ふきんしん》に成《な》りませぬか。また私が芸者屋に於て 翻訳をしたから不謹慎《ふきんしん》である。殺してしまうとまで仰《おお》せらるるが、あの芸者は獣類でも何で もない、慥《たし》かに人間を慰安《いあん》せしむる芸人でございます。立派に鑑札《かんさつ》を受けた天下《てんか》の営業人《えいぎようにん》で ございます。たまたま節操上《せつそうじよう》の欠点は有りますが、左様《さよう》の欠点《けつてん》の有るべからざる、高位縉紳《こういしんしん》 の家庭の紊乱《ぷんらん》よりも優《ま》しでございます。昨今《さつこん》の有様は大概《たいがい》芸者以下の家庭ばかりでございま 勘当された後藤小伯猛太郎氏 す。彼等は義気《ぎき》あり、侠気《きようき》あり、情誼《じようぎ》ありて、決して人情《にんじよう》を疎外《そがい》致しませぬ。況《いわ》んや私《わたくし》の出 入する芸妓《げいぎ》は、私の恩人《おんじん》でございます。親兄弟も先輩知人も捨てて構《かま》わぬ漂浪《ひようろう》の私《わたくし》を、身《み》に |代《か》えて世話《せわ》を致しました恩人《おんじん》でございます。それも伯父《おじ》さんが出よとの仰《おおせ》だから、その日に その家を出《で》ました。彼女は私の出世《しゆつせ》を大変|喜《よろこ》んでいます。爾後今日《じごこんにち》まで一度も私はその家に |寝食致《しんしよくいた》しませぬ。即《すなわ》ちそれは双方の合意の結果《けつか》でございますから、しかし恩人に対して絶交《ぜつこう》 する訳には参りませぬ。おりおりには参《まい》ります。たまたま友人と二人で訪問している処《ところ》を、 伯父さんの方の家扶《かふ》が見付けましたから、不断常住《ふだんじようじゆう》と申し上たかも知れませぬが、私は今は そこに行《ゆ》かねば行く処《ところ》がない程の、芸者家|喰詰《くいつ》めの無頼漢《ぷらいかん》ではございませぬ。しかし原則と して、芸者を良《よ》い者《もの》とは申しませぬが伯父さんに殺さるる程悪《ほどわる》い者ではないと思います。況《いわ》 んや親戚《しんせき》以上の恩人《おんじん》なるに於てをやでございます。私は家の父や、伯父さんなんどの本当の お友達は、今日まで芸者ばかりかと小供の時から思うておりました。それは所有《あらゆる》芸者と余《あま》り |御懇意《ごこんい》であるのを見ておりますからでございます。かようの訳で私は、人間界の範囲に於て 行動を致して決して非人間界《ひにんげんかい》に足を踏入《ふみい》れた覚《おぽえ》はございませぬ。伯父さんが人間にして遣《や》る と始めに仰《おお》せられたのは、どんな人間でございますか、私はあらゆる人間学校《にんげんがつこう》をも、最早卒 業しまして、残りの課程は、金モールを着て大臣《だいじん》に役付《やくつき》するばかりだと思うています。私は |宮殿下方《みやでんかがた》に対し奉《たてまつ》りては、誠心誠意御解《せいしんせいいおわか》りになるように御倦怠《ごけんたい》を来たさぬようにと、職務《しよくむ》を |勤勉《きんべん》しておりますが、かえって伯父《おじ》さん等は、表面の阿諛《あゆ》を以て謹慎《きんしん》と心得《こころえ》、中心《ちゆうしん》の不謹慎《ふきんしん》 にはお心付《こころづき》のないよう見受けられます。さあいかがでございましょう伯父さん、立派に御返 事《おへんじ》が出来れば、私はただ今これで切腹致《せつぷくいたし》ます。それが出来ねば伯父さんの方にこの短刀をお 渡しますから、伯父さんの方で切腹《せつぷく》をなさいませ』 と猛伯《たけはく》はぺらくくくと立板《たていた》に水を流すように饒舌《しやべ》り立てた。 一一十七 |猛太郎氏土方宮相《たけたろうしひじかたきゆうしよう》を怒《おこ》らす   猛伯老伯を椰揄し、老伯短鎗を捫って猛伯を追う  前回の猛伯《たけはく》と土方老伯《ひじかたろうはく》との間に起った悶着《もんちやく》は、とうとう高潮《こうちよう》に達して、猛伯《たけはく》は老伯《ろうはく》に短刀 を突付けて、腹《はら》を切《き》れと迫まるに至った、土方伯《ひじかたはく》は元老中比類《げんろうちゆうひるい》なき正直な淡泊《たんぱく》な磊落《らいらく》な方故、 『ふうん貴様《きさま》は弁口《べんこう》で、俺《おれ》を胡魔化《ごまか》すのかも知れぬが、云《い》う事には一通り筋がある。この上 は殿下《でんか》へ差上げた翻訳《ほんやく》が、真《しん》に叮嚀正当《ていねいせいとう》に出来ているかどうかを取調べた上、俺《おれ》が悪かった ら、きっと腹《はら》を切る事にする』 と云われて、その日は物別《ものわか》れとなった、何でも翻訳《ほんやく》だけは甘《うま》く出来ていたと見えて、それな りに沙汰《さた》なしとなった、猛伯《たけはく》はその後、 猛太郎氏土方宮相を怒らす 『伯父《おじ》さん御取調《おとりしらべ》はどうなりましたか、未《ま》だですか』 と幾度《いくど》も催促《さいそく》をすると、土方伯《ひじかたはく》は何時も、 『まだ調中《しらべちゆう》くく』 と云うて、一向取調べが片付かぬ。猛伯は、 『伯父さんは随分《ずいぶん》ずるいですよ』 と云いく多くの時日を経過した。  その後|猛太郎伯《たけたろうはく》は、土方伯《ひじかたはく》を度《たぴたぴ》々|四九尻《しくじ》った。それは両伯の平民的と貴族的思想との衝突《しようとつ》 であった。土方伯も猛伯の英邁《えいまい》なる事を知っておらるるから、どうか親伯《おやじ》の跡《あと》を継《つい》で、一廉《ひとかど》 の大臣顔《だいじんがお》にでも仕立《した》てたいと思う親切《しんせつ》から、同郷出身の板垣伯《いたがきはく》や福岡子《ふくおかし》やその他|岩崎男《いわざきだん》との |続柄《つづきがら》もあって、現に今の小弥太氏《こやたし》は猛伯の甥《おい》であり、猛伯は小弥太氏《こやたし》の叔父《おじ》さんと云《い》う関係 もある事故|共《ともども》々にその向上進歩を望《のぞ》まるるは尤《もつと》も至極《しごく》の事である。その上|土方伯《ひじかたはく》は同郷人の 反対を一切引受けて、猛《たけ》を豪《え》らい人間にする事は自分が受合うからと云うて、猛伯に対する 総ての非難《ひなん》を防《ふせ》いでおられた故、さてこそ土方伯の意見が手強《てづよ》かったのである。然《しか》るに一方 |猛伯《たけはく》の方は年若い血気の上に、天性《てんせい》の平民主義《へいみんしゆぎ》で、どうしてもお爺《じい》さん方と馬が合わぬ。そ こで遭《あ》う度毎《たぴごと》の強意見《こわいけん》に劫《ごう》も沸《に》えて来る。随《したが》って反抗もするから失敗が多くなるのである。 ある時|猛伯《たけはく》は土方伯《ひじかたはく》の意見に対し、 『伯父さんには幼少から、お世話ばかり掛《か》けまして、親よりも御恩《ごおん》が嵩《かさ》んでおりますのに、 まだ御恩報《ごおんほう》じも出来ずに叱《しか》られてばかりおりますから、今日は緩《ゆつ》くり伯父さんの御意見を伺《うかが》 いかつ私の考えも包《つつ》まず申上げて、出来る事なら責《せ》めて叱《しか》られぬだけになりたいと存《ぞん》じます。 |一体《いつたい》伯父さんは私を豪《え》らい者《もの》にして遣《や》りたいと思召《おぼしめし》ますか』 と云うと土方伯《ひじかたはく》は、 『そうだ私《わし》はそれが何よりの望《のぞみ》じゃ』 『そんなら私はきっと豪《えら》くなりますから御安心下さい。しかし豪《え》らいと云う事は大臣《だいじん》などに なるばかりの事ではございますまい。私は大臣《だいじん》と云《い》うものは、一番馬鹿気た物であると思う ています。もし世の中に金モールの妖怪《おばけ》と云う物があるならば、それは大臣じゃと思います。 あれは私共よりも豪《えら》くない人がなるものでございます。即《すなわ》ち不適当《ふてきとう》な人《ひと》ばかりが成《な》っており ます。金《きん》モールが着たい着たいと思うような人ばかりが成っております。学識《がくしき》、徳望《とくぽう》、経験《けいけん》 とも人に超絶《ちようぜつ》して、大臣にでもなるより外仕方《ほかしかた》のない人なら、成《な》るも宜《い》いでしょうが、俳優 が角力《すもう》を取《とり》たい、角力が女形《おやま》になりたい、我慾《がよく》と身勝手《みがつて》と糞《くそ》とより外《ほか》、腹《はら》に詰《つ》め込《こ》んでいな い、第三者の事は考える能力《のうりよく》もない、人間の風上《かざかみ》にも立てない劣等な人物ばかりが大臣にな りたいというは、おかしな益ない物でございます。私《わたくし》は伯父《おじ》さんのお蔭《かげ》で、どうか豪《え》らい者 には成ってみたいと思《おも》うていますが、それは大臣以外の豪《えら》い者、まず金持《かねもち》の豪《えら》いものになる 229 猛太郎氏土方宮相を怒らす か、事業家の豪《えら》いものになるか、または芸術家の豪いものになるか、その外|大工《だいく》でも左官《さかん》で も構《かま》いませぬ。ぐっと豪《え》らい者《もの》になって見たいと思いますから、伯父さんどうか叱《しか》らずにお いて下《くだ》さい』 と云《い》うと、土方伯《ひじかたはく》は苦虫《にがむし》を噛《か》み潰《つぷ》したような顔をして、 『そんなら何事《なにごと》の豪《えら》いものになる積《つも》りじゃ』と云われた。 『そうですね、伯父《おじ》さん。私は自分が一番|嗜《すき》で、自分でも巧《うま》いと思う様な仕事が、一番豪ら くなるだろうと思います』 『それは何事《なにごと》じゃ』 『私はまあ義太夫語《ぎだゆうかたり》になるが、一番豪くなると思います。これならきっと日本《にほん》一になると、 この間|越路太夫《こしじたゆう》と大隅太夫《おおすみたゆう》がそう申しました』 とその声未だ終らぬ内《うち》に、土方伯《ひじかたはく》は大喝一声《たいかついつせい》、 『馬鹿《ばか》ッ……帝国無双《ていこくむそう》の光栄ある大官《たいかん》を罵《ののし》り、乞食同様の義太夫語《ぎだゆうかたり》になるとは何だ侍《さむらい》の家に |生《さつま》れながら』 『伯父さん。さあその侍《さむらい》と云う家に生れたのが私は残念です。あれは無能《むのう》、屈従《くつじゆう》を本《もと》とし、 |偽《いつわ》って徒食《としよく》する輩《はい》で、義太夫語《ぎだゆうかたり》は働《はたら》いて食《く》う、不味《まずく》ては世に立てませぬ。詰《つま》り腕次第《うでしだい》で出世《しゆつせ》 する芸術家でございますよ。つまり伯父さんは、偽《いつわ》って食《く》えと仰《おお》せられる。私は働いて食《く》う と云《い》う、精神《せいしん》の衝突《しようとつ》なのでございます』 『まだ云うか。貴様《きさま》も象二郎《しようじろう》の子《こ》じゃによって親《おや》の跡《あと》でも継《つ》がせようと思えばこそ……』 『私はお父さんや、伯父《おじ》さんの跡《あと》は決して継《つ》ぎ度《たく》ございませぬ。それも大臣《だいじん》らしい大臣なら |宜《よ》うございますが、大酒を飲んで芸者を買い、賄賂《わいろ》を取って無暗《むやみ》に威張《いば》り、年百年中反対党 と喧嘩《けんか》ばかりをして大臣《だいじん》と云《い》う大役《たいやく》をしていたらば、迷惑《めいわく》の掛《かか》るところは、その雇主《やといぬし》の天皇 陛下《てんのうへいか》ばかりでございます。私はまず日本《にほん》一の義太夫語《ぎだゆうかたり》になって、中心から人に誉《ほ》められ、せ めて一|家《か》一|門《もん》がお世話になった御恩報《ごおんほう》じに天皇陛下《てんのうへいか》に御迷惑《ごめいわく》を掛《か》けぬだけになりましたら きっとお父《とう》さんや伯父《おじ》さん以上に豪《えら》くなるだろうと思うております』 と猛伯《たけはく》が喋舌《しやべ》ってると、耐《こら》えに耐《こら》えた土方伯《ひじかたはく》は、雷霆《らいてい》の如き声を発して、床の間にあった一 刀を取って、 『猛《たけ》、今の言葉《ことば》は本気で言うのか』 『それは、私から伯父《おじ》さんに伺《うかが》う言辞《ことば》でございます伯父さんは私から議論に負けても、やっ ぱり不合理な仕事と覚《さと》られず、私にまで真似《まね》をせよと仰《おおせ》らるるのですか。人間の子として私 には出来ませぬ。即《すなわ》ち人たる道を履《ふ》んで、働いて食う豪《えら》い者に成りたいと言えば刀を取って |刃物《はものざ》、一昧《んまい》まで遊《あそ》ばす以上は、ただの御気分《ごきぶん》ではございませぬ。私は伯父《おじ》さんの御容体《ごようだい》を、橋 本先生《はしもとせんせい》に一|度診察《どしんさつ》して貰《もら》いたいと存《ぞん》じます』 猛太郎氏土方宮相を怒らす と云うを一度の合図にて、土方伯《ひじかたはく》はずらりと一刀を抜放《ぬきはな》された。猛伯《たけはく》は柔術《じゆうじゆつ》も川越《かわごえ》や江南《えなみ》な ど云う人と共に、初段位は取る腕前《うでまえ》故、ハッと土方伯《ひじかたはく》と呼吸が合うて身構をした。 『私《わたくし》が筋悪《すじわる》い事を中上げたら、伯父《おじ》さんに斬《き》らるるも宜敷《よろし》ゆうございますが、伯父さんの方 が理窟《りくつ》が悪くて、話が分らなくなっていらっしゃる以上は斬《き》らるる訳にも参りませぬ。可愛《かわい》 い私をもしお斬《きり》なさった後で、伯父さんのお気分が直ったら、さぞやお歎《なげき》でございましょう から、私は今日から一|生懸命《しようけんめい》に義太夫《ぎだゆう》を勉強致しまして少しでも巧《うま》く成《なり》ましたら、早速に聴《き》 いて戴《いただ》きに出ますから、どうかお気を静められて下さい、今日はお暇致《いとまいたし》ますから』 と云うた時は、土方伯《ひじかたはく》も昔取《むかし》った杵柄《きねづか》で、うんと押掛《おしかか》ってござった。それを猛伯《たけはく》は柱を小楯《こだて》 にポイと外して、襖《ふすま》や廊下《ろうか》の板戸《いたど》を足早《あしばや》に駈《か》け抜《ぬ》け、二三重も音高く立て切って、勝手口よ り帰路《きろ》に就《つ》いたのである。それから例の下宿に帰って、その顛末《てんまつ》を彼の親友に咄《はな》すと、これ も今日世界有数の理学博士になる位の飯嶋博士《いいじまはかせ》だから、手を拍《う》って快哉《かいさい》を叫《さけ》び、 『貴様《きさま》のその言《げん》は伯父《おじ》さんばかりでなく、現今天下《げんこんてんか》の人心《じんしん》を刷新《さつしん》する少年の為《な》すべき老年訓《ろうねんくム》 じゃ』 と云うてまたガマロを傾けて、例の婆に酒を買わせ、遅《おそ》くなるまで共に酌交《くみかわ》して寝《しん》に就《つ》いた。 翌朝になると宮内省《くないしよう》から土方伯《ひじかたはく》の手紙《てがみ》が来《き》た。曰く、 『重《じゆうじゆ》々の不埒《うふらち》故、モッセー博士《はかせ》の通訳《つうやく》を免《めん》じ、後藤家同様《ごとうけどうよう》、土方家《ひじかたけ》に於ても永久《えいさゆう》の勘当申付《かんどうもうしつ》 くる』 |云《うんぬん》々の文意《ぶんい》であった。そこで猛伯《たけはく》はまた無月給の文《もん》なしになって、親友と共に質の置食《おきぐ》いを |遣《や》っていたが、それも手《て》が尽《つ》きたから、無拠《よんどころなく》また元の下谷《したや》の芸者《げいしや》の家《うち》に燻《くすぶ》り込《こ》んだ。一方 |土方伯《ひじかたはく》は、猛伯《たけはく》の通訳《つうやく》を各宮殿下《かくみやでんか》にお断り申上《もうしあぐ》ると同時に、象二郎伯《しようじろうはく》に面会して、 『猛《たけ》はたしかに凡《ぼん》を抜《ぬ》いた豪《えら》い奴じゃが、俺共の手《て》には迚《とて》も了《お》えぬ奴じゃ。しかし放逐《ほうちく》して からその後どうしているだろう、嘸困《さぞこま》っているじゃろう』 と云われると象二郎伯《しようじろうはく》は微笑《ぴしよう》して、 『いやはや君《きみ》も俺《おれ》も親馬鹿《おやばか》チャンリンでのう、俺と君とで勘当《かんどう》したら、外《ほか》に往《い》く処《ところ》はないか ら君の処にまた来《く》るかも知れぬ。もし来たらば少し余計《よけい》に金《かね》を遣《や》って、まず東京《とうきよう》を去って田 舎《いなか》にでも這入《はい》り、落付《おちつ》いて修養《しゆうよう》をするように訓戒《くんかい》して遣《や》ってくれたまえ』 と云うて別れられたとの事。一方|猛伯《たけはく》は芸者家《げいしやや》に燻《くすぷ》ってはいたが、丁度|朝鮮《ちようせん》の騒動《そうどう》などが起 り、世間は段《だんだん》々不景気続きばかりで、猛伯と芸者とは、明日の煙《けむり》も立兼《たちか》ぬるように成《な》って来 た。徳川時代《とくがわじだい》の黥奉行遠江守《いれずみぶざようとおとうみのかみ》を学んだ訳でも有《あ》るまいが、有《あ》ろう事か伯爵《はくしやく》の若様《わかさま》が、下層 社会学の実地研究は少しくその度を過《すご》して、朝晩の掃除から、格子戸《こうしど》、板張《いたば》りの雑巾掛《ぞうきんが》け、 |終《つい》には箱廻《はこまわ》しまで遣《や》って、止《どど》々の詰《つ》まりが猛伯《たけはく》はその芸者に向ってこう云った。 『お前は江戸《えど》ッ子芸者《こげいしや》の意地《いじ》で、今日まで俺を親身に勝《まさ》る庇護《ひご》をしてくれたが、これまで遣《や》 猛太郎氏土方宮相を怒らす ればもう行止《ゆきどま》りじゃこれからは俺も一番|奮発《ふんぱつ》して、田舎《いなか》へでも引込んで、立身《りつしん》の道《みち》を講《こう》じて 見ようと思うがそれにしても一|文《もん》なしでは一|足《あし》も動けぬから、何程《いくら》かの金を持《こしら》えねばならぬ。 その金も親爺《おやじ》の世話《せわ》した町人や百姓に往ったら直《すぐ》に出来ようが、俺は前途に出世《しゆつせ》を望む者で あるから、立身《りつしん》の後《のち》思わぬ人に恩《おん》になって、一方|頭《あたま》を下《さ》げる事になるのは、即ち立身の望《のぞみ》の |傍《かたわら》おかしな立場になると云う訳である。そこで相談というのは、俺の伯父さん土方伯《ひじかたはく》は、口 でこそ怒《おこ》っているけれ共、俺の魂《たましい》は克《よ》く知っているから、きっと俺の事を心配しているに違 いない。それとても金《かね》を下《くだ》さいと過《あや》まって往《いつ》てはかえって卑劣《さげ》すまれるから、一番伯父さん を揶揄《からかつ》て金を貰おうと思う。それには原町《はらまち》のあの伯父さんの家の玄関に、義太夫《ぎだゆう》の門付《かどづけ》に往っ て見ようと思うから、お前何も修業《しゆぎよう》じゃ、一つ三|味線《みせん》を弾《ひ》いて俺と一緒に往ってくれぬか』 『妾《わたし》も種《いろいろ》々な事を仕ましたが、門付《かどづ》けの三|味線《みせん》を弾《ひ》いて歩行《ある》くのは厭《いや》ですわ、朋輩《ほうぱい》の手前《てまえ》も |極《きま》りが悪いじゃありませぬか』 『馬鹿《ぱか》をいえ。江戸中《えどじゆう》の町《まち》を門並門付《かどなみかどづ》けをするのじゃない。伯父《おじ》さんの家《うち》一|軒《けん》だけじゃ、構《かま》 う事《こと》はない遣《や》っ付《つ》けろ』 と云うて乗せ掛けると、その芸者《げいしや》も途徹《とてつ》もない太《ふと》っ腹《ぱら》の女であるから、 『仕方《しかた》がないワ。貴方《あなた》の御出世《ごしゆつせ》の首途《かどで》だから、後《のち》の語《かた》り種《ぐさ》に遣《や》って見《み》ましょうヨ』 と咄《はなし》しが極《きま》った。そこで猛伯《たけはく》は二台の人力車《じんりきしゃ》に乗って、白山《はくさん》の近所まで行き、その附近の茶《ちや》 店《みせ》に一《は》一一旭|入《い》って、千種《ちぐさ》の股引《ももひき》に編笠被《あみがさかぷ》り、女も同じ扮装《いでたち》で顔を隠《かく》して、出掛《でか》ける事《こと》になった。 『おいお前その冷飯草履《ひやめしぞうり》に後掛《あとか》けをして置《お》かぬと伯父《おじ》さんが刀《かたな》を引っこ抜いて追《お》っ懸《か》ける時 一生懸命に逃げねばならぬから』 『あら大変だ。刀を抜《ぬ》いて追《お》っ懸《か》けるって、随分《ずいぷん》ねえ、まあ良《い》いわ仕方《しかた》がない、逃《に》げ遅《おく》れて |斬《き》られたらそれまでとして往《い》きましょう』 と薄暮《はくぽ》に遣《や》って来たのが、誰有《たれあろ》う当時の宮内大臣伯爵土方久元閣下《くないだいじんはくしやくひじかたひさもとかつか》の玄関先である。そうっ と門内《もんない》の様子を窺《うかが》い見て、こっそり這入《はい》って逃げる時の用心に、大門《おおもん》の扉を八|文字《もんじ》に開き置 き、玄関先に差掛《さしかか》って出《だ》し抜《ぬ》けに、 『チャン、く。チャン/\く。イヤ。チンリンく く、  チチンチチン』 と野崎村《のざきむら》の段切《だんざ》りを弾始《ひきはじ》めた。そこで猛伯《たけはく》は破《やぷ》れ扇子《せんす》を敲《たた》いて、 『堤《つつみ》は隔《へ》だたる』と唸《うな》り始めたので、今日《こんにち》まで一度もそんな経験の無い玄関番や家令《かれい》は、びっ くり仰天《ぎエようてん》して飛んで出て来て、 『無礼者退《ぷれいものさが》れ/\く』 と呶鳴付《どなりつ》けた。そこで猛伯《たけはく》は頬冠《ほおかむ》りを除《の》けて、 『おい佐山《さやま》、伯父《おじ》さんに、お約束通り日本一の義太夫語《ぎだゆうかたり》に成りまして、自力《じりき》で食うておりま す、どうかお手の内を願《ねがい》ますと取次《とりつ》いでくれ』 猛太郎氏土方宮相を怒らす と云うたので、家令《かれい》の佐山《さやま》は転倒《ひつくりかえ》る程《ほど》驚いて、物をも云わず奥に駈込《かけこ》んだ。この様子を聞い た土方伯《ひじかたはく》は、怒《おこ》るまい事か直《すぐ》に承塵《なげし》に掛《か》けた手鎗《てやり》おっとり、鞘振《さやふ》り外《はず》して、 『己《おの》れ不孝《ふこう》の大胆者《だいたんもの》、武士《ぷし》の誼《よしみ》に昔の手並み今鎗玉《いまやりだま》に揚《あ》げてくれる』 と、とんくく廊下《ろうか》を踏鳴《ふみなら》して突掛《つつか》けて来る。 『そりゃ話の分らぬ伯父さんが抜身《ぬきみ》の鎗《やり》で追《お》っ懸《か》けるぞ』 と、芸者と共に雲《くも》を霞《かすみ》と逃《に》げ出《だ》した。喘《あえ》ぎ喘ぎに漸二《ようよう》三町逃げて来て、 『さあ動悸《どうき》が止《や》んだらまた出掛《でか》けよう』と云うと、 『あらまた往んですって、それこそ大変ですよ』 『いやこれからが仕事《しごと》じゃ。一度でも二度でも金をくれるまで往《い》かねば、来た甲斐《かい》がない。 くれねば玄関で腹切るのじゃ。それともお前は俺が得知《えし》れぬ町人《ちようにん》などに金を貰って、出世《しゆつせ》す るのを希望するか』 『ほんとに困りますネー、まあ仕方《しかた》がない殺される気で、一|遍往《べんい》きましょう』 と、またそろそろ出掛《でか》けて往《い》って内の様子《ようす》を見ると、寂寥《ひつそり》としているから玄関に立って、 『チャンチャン』と弾掛《ひきか》けると、家令《かれい》が飛んで出て来て、 『後藤《ごとう》の若様《わかさま》、御前《ごぜん》が貴方《あなた》にお手の内を上げよと云うて、このお手紙を下さいました』 と云いながら二通の手紙を渡した。 『そうか有難《ありがと》う、宜敷《よろしく》申上げてくれよ』  二人は門外に出て、その手紙を開いて見れば、  はなおちらくようふううおおし  せいざんふかきところさいかんのいろ 『花落洛陽風雨多。青山深処歳寒色』 と古詩《こし》の転結《てんけつ》が書《か》いて有って、思ったよりも沢山の金が封入してあった。(庵主《あんしゆ》曰く何でも千 円と聞いたがその額《たか》は今|確然《はつきり》と覚えぬ)  また一|封《ぷう》の手紙には、  お前には仕様《しよう》のない腕白息子《わんぱくむすこ》が引掛《ひつかか》って、一|廉《かど》の面倒《めんどう》を掛《か》け、心情忝《しんじようかたじけな》く存《ぞん》じ候《そろ》。しかし |猛事《たけこと》一度は出世謝恩《しゆつせしやおん》の道《みち》も可相立候間《あいたてべくそうろうあいだ》、この場合北国《ばあいほつこく》にでも身《み》を潜《ひそ》めるよう御申聞《おんもうしき》け頼入 候《たのみいりそろ》。些少《さしよう》ながら金《きん》三百|円封入《えんふうにゆう》、当座《とうざ》の寸志《すんし》として御納《おおさ》め可被遣候勾《つかわさるべくそろそうそう》々。     月    日                    ひさもと        某女どのへ (庵主《あんしゆ》曰《いわく》くこの書は今なお保存《ほぞん》しているとの事)  この二通を読《よ》んだ猛伯《たけはく》も、その女も見る見る中《うち》に五|体《たい》五|輪《りん》から、頭脳《あたま》の中まで一度に痳痺《しぴ》 れたようになって、鳴咽《おえつ》の声と共に溢《あふ》れ出る涙は止度《とめど》もなく、終《つい》には立ってもいられず、大 地《だいち》にどっと跪《ひざまず》き遥《はる》かに家居《いえい》を伏拝《ふしおが》み、互に顔を見合せて、暫《しば》しが程は無言《むごん》でいた。鳴呼猛伯《ああたけはく》 は……幼少《いとけなき》より比類《ひるい》なき腕白者《わんぱくもの》と生《お》い育ちて、今が今まで我儘《わがまま》の、張《はり》に張《は》ったる弦《つる》も切れ、 |終身動《ついみうごき》も成《な》りがたく、暫《しば》し佇《たたず》むその中《うち》に、漸《ようよう》々|返《かえ》る人心地《ひとごこち》、心《こころ》も暗《やみ》の宵《よい》の空《そら》、騒《さわ》ぐ嵐《あらし》に身《み》も |冷《ひ》えて、霞罩《かすみこ》めたる春《はる》の夜《よ》の、朧《おぽろ》の月《つき》の影《かげ》を踏《ふ》み、すごすご帰《かえ》る古巣《ふるす》には、東叡山《とうえいざん》の鐘《かね》の声《こえ》、 |迷《まよ》いの夢《ゆめ》を撞破《つきやぷ》り、常《つね》に見馴《みな》れし神灯《じんとう》の、光《ひかり》も今《いま》はゆらゆらと、二人《ふたり》の馬鹿《ぱか》な姿《すがた》をば、睨《にら》め つ笑《わら》う心地《ここち》して、身《み》の置所《おきどころ》もないようになった。さてこれから猛伯《たけはく》が越後銅山《えちごどうざん》に於ける奮闘《ふんとう》 の時代《じだい》に入りいよいよ話《はなし》は佳境《かきよう》に進んで来るのである。 二十八 一|躍銅山成金《やくどうざんなりきん》となる   山花春渓に清節を守り、 壮士怪窟に大業を企つ 一躍銅山成金となる  後藤猛太郎伯《ごとうたけたろうはく》が越後落《えちごおち》の前に、書いて置《お》かねばならぬ事がある。弥生《やよい》の空《そら》に咲誇《さきほこ》る、花《はな》な らなくに人心《ひとごころ》、浮立《うきたつ》頃はあまさかる、鄙《ひな》の山家《やまが》に薪樵《たきぎこ》る、翁《おきな》も憂《うき》を苧環《おだまさ》に、糸《いと》をつむぎの賤 女《しずのめ》も、打集《うちつど》いつつ叢雲《むらくも》の、色珍《いろめず》らしき、都路《みやこじ》の、上野墨田《うえのすみだ》の花《はな》に酔《よ》う、折柄上野桜雲台下《おりからうえのおううんだいか》の ベンチに腰打掛《こしうちかけ》た親子連《おやこづれ》の二人があった。一人は五十四五にもなるべき頑丈作《がんじようづくり》の田舎親爺《いなかおやじ》、 一人は年齢二十《としごろはたち》にも見ゆる嫁持《よめごしら》えの女である。髪形《かみかたち》は幾日《いくひ》の旅に打乱《うちみだ》れておれども、花色加 賀《はないろかが》の手織縞《ておりじま》を、ぬればに染《そ》めし鉄漿色《かねいろ》とて、その既婚《きこん》の女なる事が解《わか》るのである。折柄《おりから》来か かる一|群《むれ》の学生連《がくせいれん》、どこの茶店《ちやみせ》に沽《か》う酔《よい》か角帽阿弥陀《かくぽうあみだ》に打冠《うちかぶ》り、蹌踉足《ひよろひよろあし》に濁声《だみごえ》高く、この |二人《ふたり》に諧戯掛《からかいか》けた。 『ヤア親子連《おやこづ》れの東京見物、もう浅草《あさくさ》は見られたか、動物園《どうぶつえん》はこの向《むこう》じゃ、さあ僕等は両君 の、ガイドたるの光栄に浴《よく》したいのじゃ』 と戯《たわむ》るれば、その他の学生、 『やあ平田《ひらた》奴が汐汲《しおく》む海女《あま》の賤《しず》の女《め》に目を着けたぞ、おい案内ならば吾人《ごじん》の本役引込《ほんやくひつこ》みおれ』 と突《つ》き退《の》ける、これを相図《あいず》に五六人|足許《あしもと》目先き見えばこそ、ヒョロヒョロと一|群《むれ》は件《くだん》の女に |雪崩《なだ》れ掛《かか》る、最前より田舎気《いなかかたぎ》質の例の老人、腹《はら》を据《す》え兼《か》ねいたりしが、この有様《ありさま》に立上り、 『ヤアこれはさても理不尽至極《りふじんしごく》、かねて聞いたる東京《とうきよう》の、書生《しよせい》の風儀《ふうぎ》を今目前《いままのあたり》、田舎の親《おや》が、 |慈悲《じひ》の玉《たま》、汗《あせ》と脂《あぶら》の貢《みつぎ》にて、良《よ》き事《こと》学ぶ身を以てこの有様《ありさま》は何事ぞ、我等《われら》も素《もと》は田舎武士《いなかぷし》、 |人事《ひとごと》とは思いませぬ、皆さん方の父御《ててご》に代《かわ》り、きっと御異見《ごいけん》申まする、若気《わかげ》は人間一度の花、 なれども悪い辻風《つじかぜ》に、吹散《ふきち》らされては一生に、取返《とりかえ》されぬ身の傷《きず》じゃ、どうか謹《つつし》み召《め》されよ』 と押宥《おしなだ》むれば一同が、 『やあ生意気《なまいき》な天保銭《てんぽうせん》、四角な穴で現代の、文明観が出来ようか、それ酔醒《よいざ》ましに引畳《ひつたた》め』 と】度に打って掛《かか》るので、老人今は止《や》むを得《え》ず、昔取ったる杵柄《きねづか》を、執《と》るも懶《ものう》く二三人、払 い倒せば残りの二人、その嫁娘《よめむすめ》に飛蒐《とびかか》る、今まで堪《こら》えし件《くだん》の女性も、一|期《ご》の難儀《なんぎ》に止む事な く、引外《ひつはず》して小腕《こがいな》に、頸《うなじ》を薙《な》げば真打伏《まうつぷせ》、砂《すな》を食《く》うやの馬鹿坊主《ばかぽうず》、背《せな》より蒐《かか》る酔《よい》どれを、襟《えり》 一躍銅山成金となる に手を掛け背負《せお》い投《な》げ、この有様《ありさま》に一同は、ビックリ仰天立騒《ぎようてんたちさわ》ぐ、たださえ都《みゃこ》の物見高《ものみだか》、群《むらが》 り掛《かか》る人垣《ひとがき》の、後の方《かた》より鯨波《とき》の声また一|群《むれ》の学生共、それ応援と競《きそ》い来る、これに勢《いきおい》を得 て以前の学生、一|緒《しよ》になって押蒐《おしかか》る、哀《あわ》れ難儀《なんぎ》の親子の二人、傍《かた》えの桜《さくら》を小楯《こだて》に取り、共に |覚悟《かくご》の身の構え、あわや一|期《ご》の難渋《なんじゆう》と、思う折から右手《みぎて》なる、群集の人を掻退《かきの》けて、現《あら》われ |出《いで》たる一人の旅僧《たぴそう》、身の丈六|尺《しゃく》にも及ぶべく、白《しろ》の脚絆手《きやはんて》ッ甲《こう》や、墨《すみ》の衣《ころも》に草韃掛《わらじが》け、首に も代える忍辱《にんにく》の、頭陀《ずだ》の袋《ふくろ》に百八の、念珠《ねんじゆ》を収め有漏無漏《うろむろ》の、地軸《ちじく》に立つる錫杖《しやくじよう》を、右手《めで》に |携《たずさ》え立ち出でつ、舞《ひしめ》き合える学生を、ハッタと睨《にら》み声荒く、 『やあ蝿《はえ》程にもなき小童《こわつぱ》共、神と仏の御恵《みめぐみ》に、螽《うごめ》き出し身を以て、有《あ》らずもがなの乱行《らんぎよう》は、 |無穢金剛《むえこんごう》の大罪人、身動きなさば御仏《みほとけ》の、御罰《みばち》に代えて如意《によい》の鞭《むち》、この錫杖《しやくじよう》の石突《いしづき》にて、迷《まよい》 に閉《と》ずる月角《げつかく》を、割《わ》って湛《たた》ゆる悪血《あつけつ》を、迸《ほとば》しらして、済度《さいど》せん』 と腹《はら》の底《そこ》より湧《わ》き出《いづ》る、その大音《だいおん》は黄昏《たそがれ》に、響《ひび》く上野《うえの》の鐘《かね》の音《ね》に、散らぬ花さえ散りそうで ある。これに呑《の》まれし一同は、荒胆抜《あらぎもぬ》かれているところへ、佩劒《はいけん》の音鴛《おとかまぴす》しく、駈《か》け来《く》る三四 の警官を、見るより先の学生共、蜘蛛《くも》の子を散すが如く、何処《いずく》ともなく逃げ去ったのである。  そもそもこの老人《ろうじん》は元《もと》越後国《えちごのくに》頸城郡《くぴきごおり》山村《やまむら》の郷士《ごうし》にて、中川次郎右衛門《なかがわじろううえもん》と云える人、去る頃 一女そへ子《こ》をばその遠戚《えんせさ》たる山尾晴雄《やまおはるお》を娶《めあわ》せ、その年より晴雄《はるお》をば帝国大学《ていこくだいがく》へ入校させ、鄙 叢《ひなくさむら》に咲く花に、ただ一朶《ひとえだ》の紅《くれない》を、待心地《まつここち》して暮す中《うち》、暮れては明ける春心《はるごころ》、娘《むすめ》が紡《つむ》ぐ更科《さらしな》 の、葛《くず》の一重《ひとえ》の織衣《おりぎぬ》を、去年《こぞ》の砧《きぬた》の音《ね》に落《おつ》る、涙《なみだ》に罩《こ》めて渡さんと、わざわざ上京《じようきよう》したので ある。また上野の公園にて危難《きなん》を救《すく》いし豪僧《ごうそう》は、同じ根室《ねむろ》の国《くに》に住む、刀匠月心坊《たんしようげつしんぽう》の末葉《まつよう》た る、天台成道院《てんだいせいどういん》の院主《いんしゆ》、月潭《げつたん》と云《い》える老僧《ろうそう》にて、旧藩中《きゆうはんちゆう》は北陸《ほくりく》の、各藩の師範《しはん》に聘《へい》せられて、 もっぱら武芸《ぷげい》八|般《ぱん》の伝授《でんじゆ》をなせしより、彼《か》の中川老人《なかがわろうじん》とは無《む》二|莫逆《ばくぎやく》の友垣《ともがき》である、それが端《はし》 なく、山河《さんが》百|里《り》の旅の空、東京の上野に邂遁《かいこう》したので、その喜《よろこ》びは喩《たと》え方《かた》ないのである。而《そ》 してこの月潭坊《げつたんぽう》は、故山岡鉄舟先生《こやまおかてつしゆうせんせい》と剣道《けんどう》の友《とも》にして、同時に後藤象二郎伯《ごとうしようじろうはく》とも、他意《たい》なき |交《まじわり》を結び、此度|越後《えちご》にある、他に比類《ひるい》なき大銅山発見の吉報《きつぽう》を齋《もたら》して上京《じようきよう》した。令息猛太 郎伯《れいそくたけたろうはく》も、以前この僧に就《つ》いて武芸《ぶげい》の一|斑《ぱん》を学んだ因縁《いんねん》あるより、今日図《こんにちはか》らずもこの僧の来訪 を受け、猛伯《たけはく》はこれを東道《あんない》して上野に来り、この出来事に遭遇《そうぐう》したのである。  これより彼《か》の三人を、猛伯《たけはく》が案内して附近なる、伊予紋《いよもん》と云える料理屋に伴《ともな》い、昼飯《ひるげ》の馳 走《ちそう》をなしおのおの一見|旧誼《きゆうぎ》の交《まじわり》を結び、互《かた》み交《がわ》りに身の上をも物語りし、猛伯《たけはく》は若気《わかげ》の誤り より、乃父《だいふ》の勘気《かんき》を受けたるにより、これより土方伯《ひじかたはく》の忠告《ちゆうこく》に従い、越後《えちご》方面に蟄居《ちつきよ》の志を も語りたるに、何《いず》れも深く猛伯《たけはく》の磊落《らいらく》に同情し、然《さ》れば今回|月潭坊《げつたんぽう》の携《たずさ》えたる、銅山《どうざん》をば後 藤老伯《ごとうろうはく》の内諾《ないだく》を受け、令息猛伯の事業として、経営すべく都合なすべしと一決し、月潭坊《げつたんぼう》は 中川氏を、後藤老伯にも紹介し、また老伯は、中川氏の婿《むこ》がね、晴雄氏《はるおし》の学業を後援して、 卒業の上は(この人|河野鯱雄《こうのしやちお》と云う鉱山学士《こうざんがくし》の世話《せわ》にて大学へ通学せり)その修業《しゆうざよう》の採鉱冶《さいこうや》 一躍銅山成金となる 金学《きんがく》を以て、猛伯の事業に関係すべく約束調い、猛伯はその月の末《すえ》つかた、この三人|同道《とうどう》に て、飽《あ》かぬ別《わか》れと鳥《とり》が啼《な》く、東《あずま》の空《そら》を後《あと》に見て、湯火《ゆぴ》の谷間《たにま》に雪積《ゆきつも》る、越《こし》の国《くに》へと旅立《たびだ》った のである。  さてこの猛伯《たけはく》の関係したる銅山《どうざん》と云《い》うは、往昔足利氏《むかしあしかがし》の時代に、越中佐伯呉服郷《えつちゆうさえきごふくごう》の富豪崎 里蔵人《ふごうさきりくらんど》と云う、由緒《ゆいしよ》ある郷土《ごうし》の発見したる処にて、荒金山《あらがねやま》とも云い伝えたるが、当時|崎里氏《さきりし》 を八千|貫長者《がんちようじや》と云い、また金山城《かねやまじよう》とも云うた位にて、その豪富《ごうふ》は、遠く奥羽《おうう》の果までも圧倒《あつとう》 した位であったが、国の司柴田右京《つかさしばたうきよう》と云える暴官が、室町《むろまち》の執権《しつけん》、二|階堂《かいどう》と諜《しめ》し合せ、様《さまざま》々 の難題《なんだい》の下《もと》に、その所領《しよりよう》を没収《ぽつしゆう》したるより、崎里《さきり》の一族は屋形《やかた》を自焼《じしよう》の上、同じ枕《まくら》に滅亡《めつぽう》し たのである。それよりこの山を経営《けいえい》せし者は、国主代官《こくしゆだいかん》より、豪商富農《ごうしようふのう》の嫌《きら》いなく、僅《わず》かに |富《とみ》を成《な》さんとする時機《じき》に臨《のぞ》めば、家災天殃《かさいてんおう》しきりに至《いた》って、一|家滅亡《かめつぽう》せざる事なく、世挙《よこぞ》っ て皆《みな》これを、崎里《さきり》の祟《たた》りと云い伝え、この山に手《て》を下《くだ》す者もない事になっていたが、星霜移《としつきうつ》 るに随《したが》って、天正《てんしよう》の頃|近江国《おうみのくに》の豪僧良誉《ごうそうりようよ》なる者《もの》、仏基建立《ぷつきこんりゆう》の資《し》にせんとてこの山を開きしが、 後年《こうねん》織田信長《おだのぷなが》、一向宗《 こうしゆう》の僧徒《そうと》、顕誉《けんよ》親鷲等《しんらんら》に因縁《いんねん》あるを名《な》とし、これを剥奪《はくだつ》し、その僧徒の 全部を斬殺《ざんさつ》せしより、里人等《さとぴとら》はこれを坊主谷《ぼうずだに》と唱《とな》え、谷《たにだに》々へ百僧の怨霊集《おんりよう》って、岬吟《しんぎん》するを 聞くなど云伝《いいつた》え、徳川家《とくがわけ》三百年の治世中《ちせいちゅう》には、ついにこの伝説《でんせつ》をさえ打忘れ、密樹深林欝蒼《みつじゆしんりんうつそう》 と生《お》い茂り天日《てんじつ》を見る事も出来ぬ、人跡絶《じんせきた》えたる鬼棲《おにす》む里《さと》と化し去ったのである。それが明《》 治《めいじ》の昭代《しようだい》となっては鳥《とり》も通わぬ島《しま》が根《ね》や、虎狼《とらおおかみ》の臥床《ふしと》たる、いかな深山幽谷《しんざんゆうこく》も、斧鉞《ふえつ》の入ら ぬ場所もなく、段《だんだん》々|山樹林木《さんじゆりんぽく》も伐採《ぱつさい》して、とうとう往昔《むかし》の幽霊山《ゆうれいやま》や坊主谷《ぽうずだに》も、皆一|様《よう》に国富 滷養《こくふかんよう》の源《みなもと》となって、左様《さよう》の伝説等《でんせつとう》を少しも知らぬ、彼月潭坊《かれげつたんぽう》の発見《はつけん》と自称《じしよう》するに至ったので ある。  この咄《はなし》は後年|猛伯《たけはく》が越《こし》の八百塚《やおづか》と云う名所地誌のような古本を見て知ったと云う物語りで ある。その銅山《どうざん》の経営に取掛《とりかか》るには、定《さだ》めて乃父象次郎伯《だいふしようじろうはく》の内援《ないえん》も有《あ》ったであろうが、実に |僅《わず》かの資本で、稀有《けう》の大成功《だいせいこう》をしたのは、その銅鉱《どうこう》のある旧穴《ふるあな》の附近に、大なる山が三つも あって、それが皆|昔《むかし》の銅《どう》を分析《ぶんせき》した屑金《くずがね》である。それを文明流で分析すると、驚くべき分止《ぷとま》 りである。そこで大資本を掛けずに、その鉱屑《こうくず》の山《やま》を、片端《かたはし》から切崩《きりくず》して、分析して、ずん ずん純銅《じゆんどう》を得たと云うが、大成功の本《もと》である。それよりさらに、坑内採掘《こうないさいくつ》もしたであろうが、 その方はまだ、今日程《こんにちほど》も開けぬ技術でする事業故、一勝一敗も却《なかなか》々あったようである。しか し、僅《わず》かに二年半位で当時の金を二十万円以上も得《え》られたと云うのは全くこれらの事が原因 であると思う。  庵主曰《あんしゆいわ》く、 『猛伯《たけはく》は三十年前の青年で、銅山成金《どうざんなりきん》である。それで出来るだけの贅沢《ぜいたく》もしたであろうが生 来極涙脆《せいらいごくなみだもろ》いまた面倒臭《めんどうくさ》い事嫌《ことぎら》いの人であったから、人の窮情等《きゆうじようとう》を救《すく》う事の手早いのは、古今《ここん》 一躍銅山成金となる |無比《むひ》である。一|人《にん》の困難者《こんなんしや》が来て、まだその窮情《きゆうじよう》の全部をも咄《はな》し終らぬ先《さ》きに、直ぐにその |所用《しよよう》の金《かね》を投《な》げ出しているのである。それで思わぬ味方を得て、後年幾多《こうねんいくた》の困難《こんなん》を凌《しの》ぎ得《え》ら れたのも、全くその余慶《よけい》であると思う。伯《はく》はこの越後《えちご》に於て妻君《さいくん》を迎えられて、一|男児《だんじ》を挙《あ》 げられた。これを聞いた親伯《おやはく》の喜びは、譬《たと》うるに物なく、議論も問題もなく、早速|勘当御免《かんどうごめん》 となって、一時も早く孫《まご》を連《つ》れて上京《じようきよう》せよとの急命《きゆうめい》である。猛伯《たけはく》は半世《はんせい》の漂浪《ひようろう》より脱出《だつしゆつ》して、 |故郷老伯《こきようろうはく》の膝辺《しつべん》に帰らるる事故取る物も取敢《とりあ》えず帰京せられたが、老伯の豪邁《ごうまい》も嫁孫を左右《さゆう》 に引付け、その当分は他事《たじ》を打忘《うちわす》れ余念《よねん》もなき程に喜ばれたとの事である。  これを聞いた土方伯《ひじかたはく》や、井上伯《いのうえはく》は、大変に膨《ふく》れ出《だ》して「俺《おれ》共があれ程|面倒《めんどう》を見た猛《たけ》を、一 |応《おう》の挨拶《あいさつ》もなく孫《まご》が出来たと云うを合図に、そのまま勘当《かんどう》を赦《ゆる》して、澄《すま》し込《こ》んでいる象二郎《しようじろう》 は、不都合千万《ふつごうせんばん》な男じゃもういよいよ俺は永久《えいきゆう》の勘当《かんどう》じゃ」とぶうぶう云い出した。天下無 双《てんかむそう》の剛復《ごうふく》な後藤伯《ごとうはく》は「ふふ」と笑ていたとの事。また一つの美談《びだん》は、彼猛伯《かのたけはく》の大知己《だいちき》たる、 |下谷芸者《したやげいしや》の某《ぼう》は、猛伯《たけはく》が妻子を引連れて東京入の時これを上野に迎《むか》え「私はあなたのこの御 成功《ごせいこう》を見まして、本当に心の底からお嬉《うれ》しく存《ぞんじ》ます。どうかあなたは、これを限り昔の事を 夢にも思い出して下さらぬよう願ます、それがあなたのお為め、御国《おくに》の為めでございます」 と云うた時ばかりは、天下《てんか》の道楽者《どうらくもの》、乱暴者《らんぽうもの》の猛伯《たけはく》も、背汗《はいかん》三|斗《と》、その咄《はなし》を聞いた老伯《ろうはく》も、 |猛伯夫婦《たけはくふうふ》と共に生涯《しようがい》の恩人《おんじん》として忘《わす》れなかったそうである』 一一十九 |妾付借金三《めかけつさしやつきん》十六|万円付《まんえんつき》の居候《いそうろう》   鳳雛墨堤に雌伏し、俄然また南溟に飛ぶ  猛太郎氏《たけたろうし》の厳父象二郎伯《げんぷしようじろうはく》は、錚《そうそう》々たる維新《いしん》の元勲《げんくん》であった。乱麻《らんま》の如くなった幕末《ばくまつ》の政界 に、薩長《さりちよう》の浪士《ろうし》が血に飢《う》えた虎狼《ころう》の如く咆吼《ほうこう》する中《うち》に立交《たちまじ》って、坦途《たんと》を行くが如くに、自己 の見識《けんしき》を実現せしめて誤らなかった人傑《じんけつ》である。同じ土佐出身《とさしゆつしん》の勤王家《きんのうか》でも、坂本竜馬氏《さかもとりようまし》や |中岡慎太郎氏《なかおかしんたろうし》の如きは、平生《へいぜい》の所思《しよし》に満足を得る事が出来ず、慷慨《こうがい》に次ぐに悲憤《ひふん》を以てし、 |終《つい》には新撰組《しんせんぐみ》の兇刃《きようじん》に倒れたが、象二郎伯《しようじろうはく》は常に目標を時勢《じせい》の高所に定めてついに徳川慶喜 将軍《とくがわけいきしようぐん》に直談判《じかだんぱん》をして、政権返上等の大転機《だいてんき》を描き出したのである。かくの如き大仕事をする 人に似合わず、其親孝行《そのおやこうこう》な事などは抜群《ばつぐん》であった。これに反して処世社交《しよせいしやこう》の一段となっては、 まるで別人間の如く、豪放不羈《ごうほうふき》、細故《さいこ》に拘泥《こうでい》せず、家政子女《かせいしじよ》の教育の如きは、放任主義《ほうにんしゆぎ》、自 然の発達を期待するを理想としておられたようである。猛伯《たけはく》の如きも、その放任《ほうにん》自由の中に 人となったのであるから、悪い事も沢山あるが、身心《しんしん》共にその伸《のびのぴ》々とした処《ところ》などは、ただ見《み》 るさえ好《い》い心地《ここち》であった。明治三十二三年の頃、庵主《あんしゆ》の剣道《けんどう》の友人、恭道館主劉宜和尚《きようどうかんしゆりゆうざおしよう》があ る日|向島《むこうじま》の独居庵《どつきよあん》に来て、 妾付借金三十六万円付の居候 『オイ杉山《すぎやま》、貴様《きさま》は知っているかどうか解らぬが、あの後藤《ごとう》の猛《たけ》さんが、一|度貴様《どきさま》に面会《めんかい》し たいと云うていたから、都合の好い時会って遣《や》ってくれ』 『猛《たけ》さんと云えば、象二郎伯《しようじろうはく》の賢息《けんそく》の猛太郎《たけたろう》さんか、さぞ大きく成《な》ったろうね! 俺《おれ》が十八 九の時|象二郎伯《しようじろうはく》の所に往来《おうらい》している頃は、まだ、ジャケットの服を着て学校に通っていたが、 何でも一二度は面会して、象二郎伯の莞去後《こうきよご》は如何《どう》せられたか……、俺も会たいから、宅《うち》に さえいれば何時でも面会するよ』 と答《こた》えた。その翌日の朝十時頃、自転車で一人の紳士《しんし》が来た。名刺《めいし》を見れば猛太郎伯《たけたろうはく》である。 早速応接の間で面会して見ると、伯曰く、 『十七八年振りの御面会ですが、少々|御頼《おたのみ》があって来《き》ました、一つ咄《はなし》を聞いて戴《いただき》ましょう か』 『官疋《まこと》にしばらくでした、貴下《あなた》には御疎遠《ごそえん》でしたが、青年の時お厳父様《とうさま》には謀反《むほん》を御勧《おすす》めした り、国事犯《こくじはん》の嫌疑《けんぎ》を掛けたりして、御迷惑《ごめいわく》ばかりを掛ましたが、図《はら》らずも御薨去《ごこうきよ》になって、 今では御報恩《ごほうおん》の道もありませぬが、私で出来る事なら何でも伺《うかが》いましょうよ』 『早速の御承知辱《ごしようちかたじけな》い、それでは申ますが、僕は貴下《あなた》の居候《いそうろう》になりたいのです』 『その位の事なら御心配に及びませぬ、お引受致ます、しかし貴下《あなた》は、お厳父《とう》さん御在世中《ございせいちゆう》 は、御勘当《ごかんどう》と云う事を聞いていましたが、今は御蒭去後《ごこうきよご》であるのに、どうして私共の居候《いそうろう》に なりたいとおっしゃるのですか』 『いや親父《おやじ》が居《い》れば居候《いそうろう》は致ませぬ、死ましたから居候になるのです』 『ハハアそれではまだお道楽《どうらく》が止《や》まずに、我儘《わがまま》が出来ぬからの事ですなあ』 『いいえ我儘《わがまま》ではございませぬ、また道楽《どうらく》でもございませぬ、少々困る事があってです』 『宜《よろ》しいお引受は致ますが私も貴下《あなた》と同棲《とうせい》する事となれば、貴下《あなた》の目下お困りの事だけは、 その実情《じつじよう》を承《うけたまわ》っておかねば私の心得《こころえ》が立《たち》ませぬから』 『その実情《じつじよう》は大《たい》した事でもありませぬ、簡単《かんたん》に申せば一つです』 『私が貧乏《ぴんぽう》をして、居処《いどころ》がなく食う事が出来ぬから、貴下《あなた》の家に居て食おうと云うだけです。 も少し委敷《くわしく》これを説明すれば、  一、借金《しやつきん》の為《た》めに三|田《た》の屋敷《やしき》を取られました。  二、財産全部《ざいさんぜんぷ》を糶売《せりうり》しました。  三、現在|僕《ぽく》は仕事もなくまた将来何事《しようらいなにごと》を仕《し》ようと云う目的もありませぬ、それで僕《ぽく》が貴下《あなた》   の居候《いそうろう》になって貴下《あなた》に要求する事は左《さ》の通です。  四、借金《しやつきん》の残りが三十六万円|有《あり》ますから、それを何《なん》とかして払う工夫《くふう》を仕《し》て戴《いただ》きたい。  五、十七、八から手元に来て、今では追出す事も、嫁《よめ》に遣《や》る事も出来ぬ妾《めかけ》が一人あります。   その始末《しまつ》を何とか付《つけ》て貰いたいのです。 妾付借金三十六万円付の居候  六、家族全部が、浦賀《うらが》の久里浜《くりはま》にある、大江卓《おおえたく》の別荘《べつそう》におりますから、それに月《つきづき》々百|円《えん》ば   かり送って戴きたいのです。  七、それから僕《ぽく》の為《な》すべき職業を与えて貰《もら》いたいのです。  八、喰《く》う物《もの》は腹《はら》さえ乾《ほ》さねば宜《よろし》いです。毎晩ウイスキーの角壜《かくびん》か、それとも酒なら一升位   でよいです、甘《うま》い吸《す》い物が一|品《しな》あれば跡《あと》は刺身《さしみ》と塩辛《しおから》位があれば沢山です』  サア大変な居候《いそうろう》が飛込んで来たものだ、妾付借金《めかけつきしやつきん》三十六万円、その上百円の仕送金《しおくりきん》、喰《く》 う物《もの》が酒とウイスキー、吸物《すいもの》と刺身《さしみ》、塩辛《しおから》と来た日には、いかに物に動ぜぬ庵主《あんしゆ》でも、一寸《ちよつと》 ギョッとせざるを得《え》ぬのである。そこで庵主《あんしゆ》は考えた。俺《おれ》も色《いろいろ》々の居候《いそうろう》を置《おい》てみたが、皆玄 関番位の木葉居候《こつぱいそうろう》ばかりである。今日《こんにち》まで居候で歯《は》にこたえたのは一つもない。およそこの |猛伯《たけはく》を居候に置《お》けば居候の大統領《だいとうりよう》、即《すなわ》ち前代未聞《ぜんだいみもん》、天下無比《てんかむひ》の居候を支配した事になるの じゃ。元来俺は物心の付いてから今日まで、何事《なにごと》に因《よ》らず、命掛《いのちが》けで跡構《あとかま》わずの仕事より外《ほか》、 仕た事がないのであるから、一体居候に限って、這般《しやはん》の決心を不必要とする訳《わけ》がないのじゃ。 よし遣《や》っ付けろ、とこう腹の中で決心をして、 『解りました何もお厳父《とう》さんに御恩返《ごおんがえし》の仕様《しよう》もありませぬから、出来る出来ぬは別問題とし て、今日からこの隅田河畔《すみだかはん》の茅屋《ぽうおく》に入《い》らっしゃい。貧富艱難《ひんぷかんなん》を共《ともども》々に致しましょう』 『有難う、僕も妾《めかけ》だけは親戚《しんせき》の者の忠告《ちゆうこく》もあるから、因果を含めて親許へ返そうかとも思う ていますから、その点を含んでいて下《くだ》さい』 と云うから、もうこう決心した以上は、何でも来い五分々々だと思い、 『それはいけませぬ。そのお妾《めかけ》さんが来ぬ事になれば私は一切のお世話をお断り致します』 『へーそれはまたなぜです』 『先刻からお話を聞けば、十八九の時から貴下《あなた》のお側《そば》に奉公《ほうこう》をして、今では嫁《よめ》にもやれず、 独立も出来ぬまで翫弄《がんろう》して、親戚《しんせき》の忠告じゃからと云うてそれを追出すような貴下《あなた》では、人 類動物の愛情《あいじよう》を理解《りかい》せぬ人です。そんな人間の一番弱点たる女に対する愛をさえ犠牲《ぎせい》に供《きよう》し |得《う》る人は、必ず友達にも不人情《ふにんじよう》をする人です。疎遠《そえん》の私《わたくし》に貴下《あなた》がお頼《たの》みになると云うは私 を男と見たる人情《にんじよう》の売掛《うりか》けである。また頼《たの》まれた私も、人情の買掛《かいがか》りであって、腕面白《うでおもしろ》く引 受くるのですから、初め売掛けられた通り、妾付《めかけつき》でなければ、一切お断り申しますからさよ う御承知《ごしようち》を願います』 『なるほど御尤千万《ごもつともぱん》、それではこれから僕はその妾《めかけ》の所に行って、異議《いぎ》を申さば引摺《ひきず》って来 ますから、どうか変改《へんかい》だけは思い止《とま》って貰《もら》いたいです』 と云うて、例の自転車で飛で出掛られたが、その午後の三時頃、ホテルメトロポールの馬車《ばしや》 で、美人《びじん》を一人|連《つ》れて来られた。面会して見《み》ると、庵主《あんしゆ》も旧識《きゆうしき》ある横浜富貴楼《よこはまふきろう》の娘《むすめ》さんであっ た。もっとも気達《きだて》の柔順《やさ》しい婦人であるから、庵主《あんしゆ》は洒落《しゃらく》に話しをした。まずこの婦人と猛《たけ》 妾付借金三十六万円付の居候 |伯《はく》の前に、少《すこ》しばかりある庵主《あんしゆ》の全身代《ぜんしんだい》と心云うべき、第三銀行の預金通帳《よきんかよいちよう》と印判《いんばん》とを投出 した。曰く、 『私《わたくし》は今日までこの二千坪以上の大屋敷《おおやしき》に、独居《どつきよ》の楽《たのしみ》を四年間もしていましたが、今日 からは貴下方《あなたがた》お二人と同棲《どうせい》の楽《たのしみ》に入《い》るので、実に浮世旅行《うきよりよこう》の大愉快《だいゆかい》であります。それで今 日からはこの銀行の金《かね》で最も質素《しつそ》に暮しを立てて見て下さい、私は貴下方を今日から主人と 思うて、私の方が居候《いそうろう》になりますから、いえそれでないと面白くない、第一貴下方が気を置 いて居苦《いぐる》しい、また経済上の責任《せきにん》も厳立《げんりつ》せぬ訳ですから、私はあの川端の離家《はなれや》に起臥《きが》します、 |飯《めし》が出来たらこの鈴《すず》を引いて下さい、同じテーブルに出掛て来ますから、また明日《あす》は適当の お手伝いでも捜《さが》して、私が四年間食うた花月華壇《かげつかだん》の仕出《しだ》し飯《めし》は今日限り断《ことわ》って下さい』 と宣告《せんこく》した。それからその翌日は、何もかも整頓《せいとん》した家庭となって、その翌々日からは、三 年も経過したようにホームが平和になったのである。朝は離座敷《はなれざしき》で蒲団《ふとん》の中から頭を出して、 縦に見る隅田川《すみだがわ》の船《ふね》の往来《おうらい》を眺《なが》めて、花よりも青葉の面白さに、下《くだ》らない空想を混《こん》じて楽ん でいると、鈴がチリチリと鳴る、〆めたと刎起《しはねお》きて、顔を洗うて食卓《しよくたく》に就《つ》くと、そのまま流 れ川に白布《しろぬの》を晒《さら》すような猛伯《たけはく》の洒落《しやれ》に、早速心も浮《う》きくとして飯《めし》を了《おわ》り、それから共に一 |銭蒸汽《せんじようき》に乗って吾妻橋《あずまばし》に来る、電車に転乗《てんじよう》して天下《てんか》の梁山泊《りようざんぱく》、築地《つきじ》の台華社《だいかしや》に着く時は、大 抵《たいてい》九時半から十時頃である。そこで始めて浪人事務《ろうにんじむ》に就《つ》いて、宇宙間《うちゆうかん》の有象無象《うぞうむぞう》共に面会し て、四|角《かく》とも八|角《かく》とも付かぬ、半楕円不等辺《はんだえんふとうへん》三|角形見《かつけいみ》たような、訳の分らぬ奴等を相手に、 |雷霆《らいてい》の如《ごと》き声を発して齷齪《あくせく》し、三四時頃からまた猛伯《たけはく》と共に、船車《せんしや》を同うして向島《むこうじま》の新鮮《しんせん》な るホームに帰るのである、それからまた飯を食う、馬鹿話《ばかぱなし》をする、居眠《いねむ》りをする、寝る、起 る、また昨日《きのう》の通《とお》りである。その面白《おもしろ》さは天上《てんじよう》の快楽《けらく》もとうてい及びもなかろうと思うたの である。ある朝|庵主《あんしゆ》が出《だ》し抜《ぬ》けに、   淋《さぴ》しさを百万|石《ごく》と隅田《すみだ》の秋《あき》 とほざくと猛伯《たけはく》がその下に、   馴《な》れぬ朝湯《あさゆ》に紋付《もんつき》で往《ゆ》く と付《つ》けた。共に手を拍《う》って笑うたが、能《よくよく》々考えて見ると、隅田《すみだ》の春《はる》を厭《いと》うて『秋《あき》の淋《さび》しさを 百万|石《ごく》』と喜んでいる庵主《あんしゆ》に配するに『朝湯《あさゆ》に紋付《もんつき》で往《ゆ》く』猛伯《たけはく》の品格《ひんかく》は、昔《むかし》の程も偲《しの》ばれ た。これが庵主等《あんしゆら》両人が当時の実生活実写であった。さて辿《たど》れば尽《つ》きぬ花《はな》の山《やま》、帰《かえ》る柴折《しおり》を |忘《わす》るるは人《ひと》の老幼《ろうよう》を押《おし》なべての習癖《しゆうへさ》である。その日庵主《ひあんしゆ》は金《きん》五百円を猛伯《たけはく》二人の前に列《なら》べて こう云うた。 『御互三人で、三年|掛《かか》って腹散《はらさんざん》々楽んで、有《あ》るたけの物は喰《く》うてしまいました。ここにある この五百円は、浅草《あさくさ》の豆腐屋《とうふや》の臍繰金《へそくりがね》を借《か》りて来たのであります。この金以外は、もう金策《きんさく》 の当《あて》は陰嚢《きんたま》を掴《つか》んできりきり舞《も》うても出来る処《ところ》が有りませぬ。そこで貴下方両人《あなたがたりようにん》は、この金 妾付借金三十六万円付の居候 とこの二本の手紙とを持て、神戸から船に乗って南《みなみ》へくと往《ゆく》のです。そうすると台湾《たいわん》と云 う国に行ます。そこには児玉《こだま》と云う総督《そうとく》と、後藤《ごとう》と云う民政長官《みんせいちようかん》がいます。その二人にこの 手紙を一本ずつ渡すと貴下方両人《あなたがたりようにん》の身《み》の落着《おちつき》が出来るのです。その落着《おちつき》の出来た以上は、貴 下《あなた》の生涯中《しようがいちゆう》は決して変わらざる程の信用《しんよう》を博取《はくしゆ》せねばなりませぬ。その時が貴下《あなた》の世《よ》に生《うま》れ た義務《ぎむ》、責任《せきにん》として独立独行《どくりつどつこう》する生存《せいそん》の意義を発揮《はつき》する第一歩であります。既往《さおう》三年|貴下《あなた》と かくまで愉快《ゆかい》に楽しんで暮した揚句《あげく》、一|文《もん》も金がなく、喰う事が出来ぬぞと云う警告《けいこく》を受け た時は、奮起自励《ふんきじれい》以て独立生存《どくりつせいそん》の意義を立てよと云う天《てん》の大《だい》なる声《こえ》であります。人間として もしこれを覚《さと》らざる時は、貴下《あなた》も故後藤象二郎伯《こごとうしようじろうはく》の子とは云えぬと同時に、私《わたくし》も人界《にんかい》の不良《ふりよう》 に殺到《さつとう》して、善《ぜん》を披《ひら》くの男子《だんし》とは云えぬので有ます。今|貴下《あなた》の向うべき処《ところ》は、宇宙間南《うちゆうかんみなみ》より |外《ほか》ないのである。また貴下《あなた》を信ずべき者は、台湾《たいわん》の児玉後藤《こだまごとう》の両官人より外《ほか》ないので有《あり》ます。 その貴下《あなた》の最後を送るべき金は、この五百円より外《ほか》また空気中に存留《ぞんりゆう》せぬので有ます。 私《わたくし》 もまた貴下《あなた》に立派《りつぱ》な紳士《しんし》として、父祖の墓に奠《てん》せしむるより外一寸《ほかちよつと》仕事もないですから、こ の以後はまた分《ぶん》に安《やす》んじてこの向島《むこうじま》の独居庵《どつきよあん》に独居《どつきよ》するより外《ほか》、天《てん》の命《めい》を奉《ほう》ずる筋合《すじあい》がない ので有ます。故に貴下《あなた》も天《てん》に従《したが》えばきっと数年の後成功《のちせいこう》をして、再《ふたた》び東京《とうきよう》に帰って、今日《こんにち》ま での快楽《かいらく》をまた私《わたくし》と共にするの機会を得《う》るに間違《まちがい》なく、私もまたこの天《てん》の命《めい》に従《したご》うて、貴 下《あなた》との楽を割《さ》いて多情生別《たじようせいべつ》の苦《くるしみ》を忍《しの》べば、きっと無病息災《むびようそくさい》にして独居《どつきよ》の情操《じようそう》を守り得るの みならず、貴下《あなた》と再びまた腕《うで》を叩《たたい》て少年行《しようねんこう》を唱《うた》うの爽快《そうかい》に逢《あ》う事が出来ると思います。貴下《あなた》 どうか忘れてはなりませぬ。これは私の意見でなくあの皇天《こうてん》の命《めい》なのでありますから』 と諄《じゆんじゆ》々として説《んと》いた時は、何でも三十五年か六年の九月十七日の朝であったと思う。猛伯《たけはく》は しばらく酒《さけ》に酔《よ》うたような顔をしておられたが俄《にわ》かに、 『杉山君有難《すぎやまくんありがと》う、僕は大抵《たいてい》どんな事でも仕て来たが、まだ仕残《しのこ》しておった事があった。それ は人に頭を下《さ》げる事と、人に信用《しんよう》を受ける事であった。おい(愛女《あいじよ》を顧《かえり》みて)何をぼんやり しているのか、今日から大変|忙《せわ》しゅうなって来《き》たぞお前と共に台湾《たいわん》に行のじゃ、早く荷物を カバンに捻《ね》じ込《こ》め、今晩の七時の汽車で兎も角|神戸《こうべ》のミカドホテルに着いてあの地で旅装《りよそう》を |整《ととの》えるのじゃ。杉山君《すぎやまくん》大きに有難《ありがと》う、色《いろいろ》々お世話《せわ》になった。ひょっとするともう僕は君に再 びお目に掛られぬかも知れぬから、随分《ずいぷん》お達者《たつしや》で……ああ別れに臨《のぞ》んで君に一つのお頼みが ある。これから僕と一緒に青山《あおやま》の父の墓に参詣《まい》ってくれたまえ。僕は四年間ぶつ通しの無沙 汰《ぷさた》じゃから、最後に綺麗《きれい》に掃除《そうじ》でもして、地下の父にも安心をさせて行《ゆさ》たい。君《きみ》どうか立会《たちお》 うてくれたまえ』 と云う、これを聞く庵主《あんしゆ》も、これを云う猛伯《たけはく》も、眼瞼《まぶた》に漂《ただよ》うものは産声《うぷごえ》を上げて以来三+七 八年目の涙である。猛伯は早速に紋付《もんつき》を着て袴《はかま》を引掛《ひつか》け、 『おい(愛女《あいじよ》に向《むか》って)お前はこれくの荷物《にもつ》を栫《こしら》えて、新橋《しんばし》のステーション前の茶店《ちやみせ》に六 妾付借金三十六万円付の居候 時半までに来ていよ……何手道具《なにてどうぐ》は神戸《こうべ》で買《こ》うて遣《や》る……知人へ暇乞《いとまご》いか……命《いのち》があったら その時にきっとする。今日は一時間でも早く行かねば杉山君《すぎゃまくん》の厚意《こうい》に済《す》まぬ。否俺《いやおれ》の精神に 済まぬ。否《いな》死んだ親父に済まぬのである、よいか間違えるな』 と言放《いいはな》って玄関へ来たらば、庵主《あんしゆ》が常用《じようよう》の芦毛《あしげ》の馬《うま》は、モスコー馬車を引いて、鬣《たてがみ》を振《ふ》って 待っていた。送って玄関へ来た猛伯《たけはく》の愛女《あいじよ》は、耐《こら》えに耐えた声を絞《しぼ》って、 『杉山《すざやま》の旦那様色《だんなさまいろいろ》々|有難《ありがと》う存《ぞん》じます。今度|私共《わたくしども》が世《よ》の中《なか》に立《た》ってこの恩《おん》を報《ほう》ぜねば、もう これっ切《きり》お目《め》に掛《かか》りませぬから』 と云うた。庵主《あんしゆ》も猛伯《たけはく》もこれを凝視《ぎょうし》する事が出来なかった。引出した馬車の中で、庵主も猛 伯もその愛女の姿が眼底《がんてい》に映《えい》じて、さぞ跡《あと》で泣きく荷造《にづく》りを仕《し》ておらるるであろうと思う て、長堤斜風《ちようていしやふう》の隅田《すみだ》の道《みち》も、無言の中に過《す》ぎて、吾妻橋《あずまばし》の上に来た猛伯《たけはく》は突如《とつじよ》として、 『女は註文《ちゆうもん》もせぬのに何処《どこ》ででもめそめそ泣くから遣《や》り切れねえよ』 と云われた庵主《あんしゆ》はこれに答えるの勇気《ゆうさ》がなかった。向島《むこうじま》より青山墓地《あおやまぽち》までは一時間半ばかり の行程《こうてい》である。その間無言《あいだむごん》で到着《とうちやく》したが、猛伯《たけはく》は特約の墓番人《はかばんにん》に命じて、三人の掃丁《そうてい》を呼《よ》び、 |庵主《あんしゆ》と共に心往《こころゆ》くまで掃除《そうじ》をして、その掃丁《そうてい》の親方を招き金《きん》五十円を渡して大声を発した。 それは変な調子《ちようし》っ外《ぱず》れの声であった。 『おいこの五十円を貴様《きさま》に遣《や》るから、今日から三年の間は、命日毎《めいにちごと》にこの墓《はか》に塵《ちり》っ葉《ぱ》一つ落 す事はならぬぞ。三年を過ぎたらこの後藤家《ごとうけ》の墓地《ぽち》は、塵溜《ごみた》めにしても差支《さしつか》えないから…… きっと言付《いいつ》けたぞ』  墓番《はかばん》の親方は驚いて、地に手を突いてペコペコお辞儀《じぎ》をしていた。〃てれから猛伯《たけはく》は庵主《あんしゆ》と 共に懇《ねんご》ろに礼拝《らいはい》をしたが庵主《あんしゆ》はただ故象一《こしようじ》+郎伯《ろうはく》が、九|仭《じん》の地下嘸喜《ちがさぞよろこ》んでおらるるであろうと 思うと、松籟謖《しょうらいしゆくしゆ》々の声《く》までが、聞馴《ききな》れた老伯《ろうはく》の声音《こわね》のように思われて、しばらくは低御去《ていかいさ》 るに忍《しの》びなかったのである。その晩の七時には、新橋《しんばし》のプラットホームに於て、三年間|卓《たく》を |囲《かこ》んで麁菽《そしゆく》を嘘《か》んだ莫逆《ばぎやく》の友と、双方|決意《けつい》の生別《せいべつ》をしたのであった。それから庵主《あんしゆ》はすごす ご向島《むこうじま》に帰って独り蚊帳《かや》の中に潜《もぐ》り込《こ》んだ。十時頃から雨がしとしと降り出して、どうして も眠に就《つ》かれぬ。庵主《あんしゆ》のような荒坊主《あらぽうず》でもやはり赤い人間の血《ち》が通《かよ》うているものだと見えて、 とうとう待乳山《まつちやま》の明《あけ》の鐘《かね》を聞《き》いたのである。   雨滋《あめしげ》し萩《はぎ》の臥床《ふしど》や鐘《かね》の声《こえ》 三十 |児玉総督《こだまそうとく》に大人物《だいじんぷつ》を推薦《すいせん》す   二賢一は駿を御し、千里一鞭風を生ず |浮沈《うきしず》む、 八|重《え》の潮路《しおじ》を打渡《うちわた》る、 翼雇 傷三 めた し 浦2 鳥葺 |心細《こころぼそ》くも住馴《すみな》れし、 |吾妻《あずま》の空を後《あと》に見て、 児玉総督に大人物を推薦す 幾夜《いくよ》の憂寝《うきね》累《かさ》ねつつ、辿《たど》り着いた所が即《すなわ》ち、今より三十年前の台湾《たい沽ん》と云う島である。山川風 物《さんせんふうぷつ》皆熱帯的孤島《みなねつたいてきことう》の珍奇《ちんき》を連《つら》ねて囲《かこ》まれた思いがしたのは、猛伯《たけはく》と云う新《しん》ロビンソンである。 |取《とり》あえず大稲堤《たいとうてい》と云う街《まち》の某旅亭《ぽうりよてい》に泊りを定めたが、次の事業はただ二本の手紙で、前途の 安危《あんき》存亡《そんぼう》を決するまでである。その翌朝、早速|衣服《いふく》を改《あらた》めて、児玉総督《こだまそうとく》と、後藤民政長官《ごとうみんせいちようかん》と の二|官邸《かんてい》を訪問して、各《かく》一通|宛《ずつ》の添書《てんしよ》を渡し、身の上の事を頼《たの》んで帰宿《きしゆく》した。庵主《あんしゅ》の添書《てんしよ》に は左《さ》の文字《もじ》が聯《つら》ねてあった。  謹啓《きんけい》万卒《ばんそつ》は覓《もと》め易《やす》し、一将《 しよう》は得難《えがた》し、閣下《かつか》治台《じだい》の大業《たいぎよう》は、現下《げんか》御使用《ごしよう》の万卒《ばんそつ》のみにては無覚束《おぽつかなし》と奉《ぞんじたて》 存《まつりそ》 候《うろう》。舷《ここ》に後藤象二郎伯《ごとうしようじろうはく》の賢息《けんそく》、猛太郎氏《たけたろうし》を御紹介申上候《ごしようかいもうしあげそうろう》。同氏《どうし》は学識《がくしき》  宏遠《こうえん》にして、気力才幹亦人《きりよくさいかんまたひと》に超絶《ちようぜつ》す、克《よ》く上下人情《じようげにんじよう》の機微《さび》に精通《せいつう》して、事《こと》を処《しよ》するの敏活《ぴんかつ》  は、又遠《またとお》く閣下《かつか》の右《みぎ》に出《いで》らるべくと存申候《ぞんじもうしそうろ》。 敢《うあえ》て閣下鳳榻《かつかほうとう》の侍《じ》に薦候間《すすめそうろうあいだ》、何卒卿客《なにとぞけいかく》  の御優遇《ごゆうぐう》をこそ切望仕候《せつぼうつかまつりそうろう》、恐惶頓首《きようこうとんしゆ》。 これを見た児玉総督《こだまそうとく》は、直《ただち》に庵主《あんしゆ》に、  貴書拝見《さしよはいけん》、大人物《だいじんぷつ》の御推薦《ごすいせん》を謝《しゃ》す、しかし添書持参《てんしよじさん》の人は新橋無宿《しんばしむしゆく》の猛《たけ》さんである。貴下《きか》  は此人《このひと》を僕《ぼく》に紹介《しようかい》せらるるのか、それは即時《そくじ》お断りをする。 と書《か》いた電報《でんぽう》を送られた。庵主《あんしゆ》は直《すぐ》に左《さ》の電報を打返した。  貴電拝承《きでんはいしよう》す。閣下《かつか》は昔日《せきじつ》の一|兵卒《べいそつ》、今日《こんにち》の台湾総督児玉中将閣下《たいわんそうとくこだまちゆうじようかつか》を知《し》りたもうか、閣下《かつか》  は昔日《せきじつ》の藪医者《やぷいしや》、今日《こんにち》の台湾民政長官《たいわんみんせいちようかん》の後藤新平閣下《ごとうしんべいかつか》を知《し》り玉《たも》うか、もしそれを御存《ごぞん》じな  らば、昔日《せきじつ》の新橋無宿《しんぱしむしゆく》の猛《たけ》さんが、今日《こんにち》の大偉人後藤猛太郎伯《だいいじんごとうたけたろうはく》たる事を御存《ごぞん》じなるべし、  苟《いやしく》も小生《しようせい》の推薦《すいせん》したる人物《じんぷつ》を、御使用《ごしよう》もなく、即時《そくじ》にお断《ことわ》りあれば、閣下《かつか》は自身《じしん》を解釈《かいしやく》  せずして、自身《じしん》を侮辱《ぷじよく》せらるる人《ひと》として、小生《しようせい》は直《ただ》ちに、後藤伯《ごとうはく》を引取《ひきとる》べし、慎《つつし》んで明確《めいかく》  なる御返事《ごへんじ》を待《ま》つ。 と書いた、その後三日目に返電《へんでん》が来た。  明治《めいじ》の大豪傑《だいごうけつ》、後藤伯《ごとうはく》を、今日《こんにち》より、官邸《かんてい》に引取《ひきと》り、ある事務《じむ》を嘱託《しよくたく》した。  との事であった。それから庵主《あんしゆ》は、その総督《そうとく》との往復電文を一|纒《まと》めにして、ことごとく猛 伯《たけはく》に郵送して、まず一段落と安堵《あんど》をしたのであった。  その後|段《だんだん》々|噂《うわさ》を聞くに、台湾《たいわん》で十数人の役人が、参事官会議等《さんじかんかいぎとう》を開いて、ある法律案を議 し、一週間も掛《かか》って決せぬ問題を、早い事好きの総督が、ひそかに猛伯《たけはく》に命じて調査させる と、猛伯は彼の下宿|住居《ずまい》の時から、例のモツセーの国際公法通訳やら、貧困《ひんこん》のあまり各種の 法律学校等に頼まれて、講師として講義を担任《たんにん》し、衣食《いしよく》の給《きゆう》としていた人故|直《ただち》に二日か三日 で調査を了《お》え、この法律案は仏国《ふつこく》ではこうである、英国《えいこく》ではこうなっている、現今《げんこん》の米国《べいこく》は こうしていると云うように、その法の性質から、適用の実際《じつさい》まで、さっさっと調べて報告す るのであるから、一週間も掛って会議して、総督の手許《てもと》に提出する以前に、総督はその問題 児玉総督に大人物を推薦す を裁決《さいけつ》することをちゃんと極《き》めている。それでその早い事には一同目を驚かすばかりだとの 事である。これを聞いた庵主《あんしゆ》は甘《うま》い、それならよし、最早総督が手離しはせぬと括《くく》りを付け たから、ある日|左《さ》の電報を打った。  後藤伯急《ごとうはくきゆう》に入用《いりよう》の事《こと》あり、何卒《なにとぞ》お帰しを乞う。 早速返事が来た。  後藤伯は、当分帰されぬ。 と、そこで庵主《あんしゆ》がまた打った。  そんなら、新橋無宿《しんばしむしゆく》の猛《たけ》さんが、また台湾無宿《たいわんむしゆく》の猛さんになっては、困りますから、台湾  では、無宿にならぬよう願います。 と、直にまた返事が来た。  承知《しよもつち》した。 と、それから児玉総督《こだまそうとく》は、特に猛伯《たけはく》の為《た》めに今の南国公司《なんこくこうし》なるものを持《こしら》えさせ、公然《こうぜん》の事業 を開かせて、非常に愛撫《あいぷ》せられたのである。而《しか》して一方|児玉総督《こだまそうとく》が、かくの如く猛伯《たけはく》の事を 世話せられた径路《けいろ》の裏面《りめん》には、彼《か》の後藤新平男《ごとうしんべいだん》があって、些末《さまつ》の事までも男《だん》に相談せられて、 |即《すなわ》ち前の電報の往復まで、皆|後藤新平男《ごとうしんぺいだん》がせられたとの事である故、これを要言すれば人を 用ゆるの雅量《がりよう》は、児玉総督《こだまそうとく》にあって、これを用《もち》いしめたのは後藤新平男《ごとうしんべいだん》であると言《い》わねばな らぬ。猛伯《たけはく》は常に云うていた『君《きみ》と児玉総督《こだまそうとく》には恩報《おんほう》じなどはせぬが、後藤男《ごとうだん》の為めには自 分の心の済むだけの事をして尽《つく》したいものじゃ』と。なるほど猛伯《たけはく》の達者《たつしや》な間は、あの大兵 肥満《だいひようひまん》の体《からだ》で、後藤男《ごとうだん》の事とさえ云えば、左右の事まで普《あまね》く立働いていたようであった。そこ でまず猛伯《たけはく》は立派に社会の人となったのである。綻《ほころ》びる世《よ》は、荒布《あらたえ》の糸切《いとき》れて、乱《みだ》れ初《そ》めた る禍《わざわい》の、雲《くも》の行交《ゆきか》う夜嵐《よあらし》に連《つ》れて日露《にちろ》の葛藤《かつとう》が、満韓《まんかん》の野《の》に蔓《つる》となり、東洋《とうよう》の天地《てんち》にはた だならぬ有様《ありさま》を現出《げんしゆつ》して来《き》たのである。  この間|児玉総督《こだまそうとく》は、身台湾《みたいわん》に在《あ》りながら、眼《まなこ》は東洋《とうよう》の満天地《まんてんち》に注《そそ》ぐ明星《みようじよう》の如く光っていた。 |即《すなわ》ち現任《げスにん》の外に陸軍大臣《りくぐんだいじん》を兼《か》ねたかと思うと、内務大臣《ないむだいじん》を兼《か》ね、また文部大臣《もんぷだいじん》を兼《か》ね、たち まちにして参謀次長《さんぽうじちよう》となり、揚句《あげく》の果ては満州軍《まんしゆうぐん》の総参謀長《そうさんぽうちよう》となって、満州鋒鏑《まんしゆうほうてき》の真只中《まつただなか》に |出征《しゆつせい》せねばならぬ事にまでなったのである。そこで後藤民政長官《ごとうみんせいちようかん》は、一人|台湾《たいわん》に踏止《ふみとどま》って、 事実の総督《そうとく》となり一人で台政《たいせい》の全部を切盛《きりもり》する事となって来たのである。そこで猛伯《たけはく》も、台 湾《たいわん》に踏止《ふみとど》まって、陰《いん》に陽《よう》に後藤男《ごとうだん》を助けて立働いていたが、いよいよバルチック艦隊《かんたい》が舳艫 相啣《じくろあいふく》んで東洋の天地を粉砕《ふんさい》せんとすると云う報が伝わった時《とき》は、一番|衝突《しようとつ》の先登《せんとう》たる台湾全 島《たいわんぜんとう》の緊張《きんちよう》は大変なもので、母国より一千|哩以《マイル》上へだった孤島《ことう》故、洋中孤立《ようちゆうこりつ》の覚悟《かくご》をせねばな らぬ事になったのである。  それで仮総督《かりそうとく》の後藤男《ごとうだん》を中心として、八方に独立防衛《どくりつぼうえい》の策《さく》を講《こう》ぜねばならぬ。第一|糧食《りようしよく》、 児玉総督に大人物を推薦す 第二|薬剤《やくざい》、第三|各物資《かくぷつし》、それからは全島人心《ぜんとうじんしん》の結束《けつそく》である。何様《なにさま》三百万の人は皆|新附《しんぷ》の民《たみ》で |一寸《ちよつと》でも人心《じんしん》に狂いが来ると、七万や十万の母国人は、岩石の下の卵である。その後藤男《ごとうだん》始 め一般の苦心と云うたら筆紙《ひつし》に尽《つく》し難《がた》いのである。猛伯《たけはく》はその間《あいだ》に処《しよ》して、台湾《たいわん》の原住民と 南支那よりの在留人等を一緒にして、固き結束をなさしめ、万一|事有《ことあ》るの時は、一報の下に 警察と守備隊《しゆぴたい》との活動となって、島内の生死《せいし》一|致《ち》を実行し得るまでに働いたのである。政庁《せいちよう》 の方は、令《れい》を八方に伝《つた》えて、最後の一人まで外敵《がいてき》と戦《たたか》う準備決心をなし、軍隊の方は澎湖島《ほうことう》 の防備《ぽうび》を拡張《かくちよう》して、台湾海峡《たいわんかいきよう》に一|隻《せき》の敵艦《てきかん》をも通しはせじと構え込み、やっとの事で用意整 頓《よういせいとん》して、各方面の地角《ちかく》に望楼《ぼうろう》を据《す》え、敵の艦影《かんえい》を見付け次第|令《れい》を全島に伝えて、活動を開始 する事となった。この間《あいだ》に於ける猛伯《たけはく》の立働き振りは、最も敏活《ぴんかつ》を極めたのである。この意 気込《いきごみ》が島内の露探《ろたん》にでもによって敵艦《てきかん》に洩《も》れたものか、彼《かの》世界的の大艦隊《だいかんたい》は台湾海峡《たいわんかいきよう》に出《い》で ず、台湾島《たいわんとう》にも突掛《つつかか》らず、遥《はる》か東の洋上を外廻《そとまわり》して、日本海《にほんかい》に乗り込んだのである。  元来|艦隊《かんたい》と云うものは、艦底《かんてい》の蠣《かき》と藻《も》を掃除《そうじ》し、積込《つみこみ》の諸物資《しよぶつし》を新鮮《しんせん》にし、兵士《へいし》に上陸《じようりく》を させ即《すなわ》ち寄港地《きこうち》を得《え》てさらに進撃《しんげき》するものと、万里《ばんり》の航程《こうてい》を継続して、そのまま戦場に臨《のぞ》む ものとの、戦闘力《せんとうりよく》の差は三割五分の増減《ぞうげん》を視《み》る由《よし》である。左《さ》すれば仮《か》りにバルチック艦隊《かんたい》を、 五十|艘《そう》と見做《みな》したならば台湾《たいわん》を突破《つきやぶ》り、もしくは南支《なんし》のある一港に寄泊《きはく》して、さらに進む時 は、その勢力三割五分を増し、すなわち十七|艘半《そうはん》の戦闘力《せんとうりよく》を増して、五十|艘《そう》はたちまちにし て合計六十七|艘半《そうはん》となる訳である。これに反して台湾《たいわん》にも南支《なんし》にも寄らずして、スンダ海峡 を直通して直ちに日本海《にほんかい》の戦闘に就いたものとすれば、即《すなわ》ち十七|艘半《そうはん》の減勢力であって、五 十|艘《そう》は直に三十二|艘半《そうはん》の実力となるのである。それが精鋭無比《せいえいむひ》、これに加うるに帝国《ていこく》の全勢 力と、忠勇無比《ちゆうゆうむひ》の傑士《けつし》が、待ちに待ったる渦中《かちゆう》に飛び込んで来たのを、『皇国《こうこく》の興廃此《こうはいこの》一|戦《せん》に あり』と東郷司令長官《とうごうしれいちようかん》の信号機《しんごうき》を檣頭《しようとう》に掲げて、全部戦死の覚悟《かくご》で奮闘《ふんとう》したから、岩も山も |崩《くず》れずにはいられなかったのである。敵艦《てきかん》の全滅《ぜんめつ》はむしろ当然の事である、これらは庵主《あんしゆ》の 耳学問でなく、本式に玄人筋《くろうとすじ》の話としたら、立論《りつろん》や数字にもまた沢山《たくさん》の違《ちがい》を生ずるであろう が、要するにバルチック艦隊《かんたい》の勢力は、台湾《たいわん》もしくは南支《なんし》各港に寄港せずして、日本海《にほんかい》に乗 込んで来たのが大いなる減勢力の原因である。それには台湾《たいわん》の結束が跏革固《きようこ》にして、澎湖島《ほうことう》の |防備威力《ぽうぴいりよく》が強大であって、南支《なんし》の一|角《かく》にも寄港《きこう》する事《こと》を得《え》せしめなかったのが、敵艦敗北《てきかんはいぽく》の 大なる原因と云うべき理由があるのである。この時なども猛伯《たけはく》などは、全く日夜無我夢中《にちやむがむちゆう》で 働いたようであった。  曩《さき》には南洋行《なんようゆき》の旅費で酒を飲んでしまい、酋長二《しゆうちよう》人を連れて来て、凍死《とうし》させて井上外相《いのうえがいしよう》 を困らせ、ある時は芸者《げいしや》を連れて土方伯《ひじかたはく》の玄関に門付《かどづ》けをした等、丸《まる》で他愛《たわい》もなき猛伯《たけはく》が、 かくまで真面目《まじめ》な好紳士、否国士《いなこくし》として恥《はず》かしからぬ人になられたと云うは『人《ひと》は氏《うじ》より育《そだ》 ち』との古語《こご》に漏《も》れず、父公老伯《ふこうろうはく》もさぞさぞ地下《ちか》に喜んでおらるるであろうと思う。 児玉総督に大人物を推薦す  往昔《むかし》アラビヤの一|村落《そんらく》に、兄弟二人の青年がおった。兄《あに》は克《よ》く神の教えを守り、多くの人 を憐《あわれ》んで、善根《ぜんこん》を積《つ》む事を楽《たのしみ》としていたが、 弟《おとうと》の方は、食物《しよくもつ》や情慾《じようよく》をのみ貪《むさぼ》って、毎日 |殺生《せつしよう》を好《この》み罪悪《ざいあく》ばかりを行うていた。ある日|神《かみ》の化身《けしん》たる老翁《ろうおう》が来て、汝等《なんじら》人間の前生《ぜんせい》と云 うものは、後半生の行為《こうい》によりて、善果悪楔《ぜんかあつけい》の両科《りようか》となるものである。今ここに赤白《せきはく》二|個《こ》の |神玉《しんぎよく》がある。おの/\これが一を持ち、南北《なんぽく》の二方に去って、神《かみ》の教を自覚《じかく》せよと云うて、 兄の方に赤玉《せきぎよく》を与《あた》え、汝《なんじ》は南方に往《い》って努力せよ、弟《おとうと》の方には白玉《はくぎよく》を与え、汝《なんじ》は北方に行っ て業《ざよう》を励《はげ》めよと命じて去《さ》った処《ところ》が兄は遠き沙漠《さばく》を越《こ》えて南方に行くを厭《いと》い、弟に向って予《よ》に |汝《なんじ》の白玉《はくぎよく》を与えよ、予は北方に行って事を成すべし、汝《なんじ》は予《よ》の赤玉《せきぎよく》を携《たずさ》え、南方に行って業 務を求むべしと云うた。弟|思《おも》えらく、自分は生《うま》れてより半生《はんせい》の間悪業《あいだあくぎよう》ばかりを為《な》し、人に背《そむ》 いてばかり暮して来たから、せめて最後に、兄《あに》の言《げん》にまかせ従《したご》うて、心を安《やす》んじようと諦《あきら》め、 兄の命ずるがままに、赤玉《せきざよく》の方を持って、遠く南方に去り、幾多《いくた》の艱難《かんなん》を経て、とうとうア ラビヤ海浜《かいひん》に到着《とうちゃく》した。海岸は山の如く浪高《なみたか》き故、それ以上|南方《なんぽう》に進む事が出来ず、空《むな》しく 海岸に佇立《ちよりつ》していると、何物《なにもの》とも分らず、白光汀《はつこうみぎわ》を蔽《おお》うて目《め》も眩《げん》せんばかりである。  折柄《おりから》一人の老聖《ろうせい》来りて曰く、汝従来道《なんじじゆうらいみち》に背《そむ》く事《こと》はなはだ多し、然《しか》るに今日《こんにち》何の幸《さいわい》かこの |聖地《せいち》に来る、汝今《なんじ》木を伐《き》りて一|艘《そう》のくり舟《ふね》を造《つく》り、この海浜《かいひん》の白光砂礫《はつこうされき》を搭載《とうさい》して東に向い 去り、舟止《ふねとど》まる処《ところ》の人に、この宝礫《ほうれき》を与《あた》えなば、永く幸福の人となるべしと。ここに於てそ の弟は日夜刻苦《にちゃこつく》して、独木船《まるきぶね》一|艘《そう》を造《つく》り、その砂礫《されさ》を積込み揖《かじ》を操《あやつ》りて東方に去った。風潮 日《ふうちようひ》を経《へ》てある城都《じようと》の一角に到着したところが、一人の大人《たいじん》これを見て驚《おどろ》いて曰く、今|汝《なんじ》の舟 に載《の》せたる物は、西南万里《せいなんぱんり》の海底《かいてい》にある夜光《やこう》の貝なり。この国|道啓《みちひら》け教正《おしえ》しく、風俗《ふうぞく》また醇 朴《じゆんぽく》を極《きわ》むと雖《いえど》も、ただ国《くに》に貨幣《かへい》なるもののなきに苦しむ、汝《なんじ》もしこの宝貝《ほうぱい》を予《よ》に与《あた》えて、こ の国の貨幣となさば、予《よ》は汝《なんじ》を以てこの国《くに》の花園長者《かえんちようじや》となすべしと。弟は終《つい》にこの命《めい》に従い て、終生長者《しゆうせいちようじや》の位置を得《え》たのである。  また一方の兄の方は、神《かみ》の命《めい》に背《そむ》き、白玉《はくぎよく》を携《たずさ》えて北方に到り、石木《せさぽく》の宝《たから》を漁《あさ》り廻ったが、 |半生《はんせい》さらに得《え》るところなく、寒気《かんき》の為《た》めに指も落ち、足も切れ、後には耳鼻共凍《みみはなともこご》え落ちて、 目も見えぬ事になって、とうとうもじもじと道路《どうろほ》を一一一旭うて、ペルシャの原に来た時|獰猛《どうもう》な野 獣《やじゆう》の為《た》めに喰い殺されたとの咄《はなし》がある。素《もと》より一|場《じよう》のお伽咄《とぎばなし》の様《よう》なれ共、猛伯《たけはく》が半生《はんせい》の漂浪《ひようろう》 生活は、丁度この弟《おとうと》の如くであったが、ただ従順《じゆうじゆん》に赤玉《せきぎよく》を持《も》って南方《なんぽう》に去《さ》ったのが幸《さいわい》と なって、老聖《ろうせい》ならぬ児玉大将後藤長官等《こだまたいしようごとうちようかんら》の教《おしえ》によって、満貨夜光《まんかやこう》の貝ならねども、後半生《こうはんせい》の |善導《ぜんどう》を開いて、前半生《ぜんはんせい》の罪科《ざいか》を償《つぐな》われたと云うも、全く知識ある従順《じゆうじゆん》の性《せい》を具備《ぐび》しておられ たからであると思う。 三十一 |某維新元勲《ぽういしんげんくん》の遺骨《いこつ》を拾《ひろ》う   墓頭一朶の花、遍照千畦の月 某維新元勲の遺骨を拾う  楚罠《そせつ》の珥孔《みみだまはなは》だ貴《とうと》しと雖《いえど》もこれを用《もち》ゆるの佳嬢《かひん》に遇《あ》わざれば屠壇《とだん》の骨《ほね》に斉《ひと》しく、佩印《はいいん》の李 斯《りし》大いに器《き》ありと雖《いえど》も、これを用《もち》ゆるの秦皇微《しんこうなか》りせば、厠下《しか》の鼠《ねずみ》に同《おな》じ、堆塵市裡《たいじんしり》の猛伯《たけはく》、 |縦横《じゆうおう》の才幹太《さいかんはなは》だ奇《き》なりと雖《いえど》も、これを用《もち》ゆるの後藤子《ごとうし》、児玉伯莫《こだまはくなか》りせば、正さに新橋無宿《しんぱしむしゆく》の |猛《たけ》さんに終るべきなり。半生《はんせい》の士操《しそう》全く狭斜《きようしや》の衢《ちまた》に倒れ、稀世《きせい》の英才徒《えいさいいたず》らに道途《どうと》に流転《るてん》して |斗管《としよう》の群《むれ》に伍《ご》すると雖《いえど》も、一度金石《ひとたぴきんせき》に櫻《ふ》るるときはたちまちにして鏗鏘《けんそう》の声を発す、猛伯《たけはく》が |日露戦役《にちろせんえき》後に於て大いに時運《じうん》の妙機《みようき》を解し、ここに政治上の意見を定めたに付ては、一方|後 藤子《ごとうし》、児玉伯《こだまはく》、桂公《かつらこう》、芳川伯《よしかわはく》、山県公等《やまがたこうなど》の推奨《すいしよう》に擁《よう》せられ、たちまちにして貴族院伯爵議員《きぞくいんはくしやくぎいん》 に当選《とうせん》せられ、盛《さか》んに縦横《じゆうおう》の経綸《けいりん》を説《と》くに至ったのである。ここに於て庵主《あんしゆ》も半世糟糠《はんせいそうこう》の交《まじわり》 を至大《しだい》の光栄と心得《こころえ》、それこれが手助けをなして、麹町紀尾井町《こうじまちきおいちよう》に一|邸宅《ていたく》を構《かま》え、改めて『伯 爵後藤猛太郎《はくしやくごとうたけたろう》』の標礼《ひようさつ》を門頭《もんとう》に掲《かか》げるようになった時は、一|世《せい》の泥界《でいかい》、功名《こうみよう》の道途《どうと》に冷淡《れいたん》な ること夢の如き庵主《あんしゆ》でさえも、何だか自分の身上に楓爽《さつそう》たる運命の光が蔽《おお》うたかのような気 がして、とかく物事《ものごと》が手に付かぬ位に嬉《うれ》しかったのである、その時|庵主《あんしゆ》は猛伯《たけはく》に向って、 『今日こそは青山原頭《あおやまげんとう》の老公墓前《ろうこうぽぜん》に報告をせねばならぬぞよ』 と云うたら、猛伯《たけはく》は、 『僕も今日は大《だいだい》々|的《てき》に墓参《ぼさん》をする積《つも》りで、昨晩《さくぱん》から増上寺《ぞうじようじ》の和尚《おしよう》を呼びにやって、今朝未明 に読経《どきよう》をさせた、これから君に来て貰《もろ》うて共《ともども》々に墓参《ぽさん》する積《つも》りであった、どうか一緒に来て くれたまえ』 と、云《い》わるるので、庵主《あんしゆ》も心から喜んで、馬車を共にして、青山に出掛けたのは午後の三時 頃であった、例の墓番《はかばん》の老爺《じじい》は鼻《はな》も目《め》も皺《しわ》の中に埋《うず》まる程喜んで、 『若旦那様《わかだハなさま》の御屋敷《おやしき》が紀尾井町《きおいちよう》にお出来になったとは、こんな有難《ありがた》い事《こと》はございませぬ、こ れからまたお出入が出来まする』 と、いそいそして掃除《そうじ》をしていた。折から五|月《つゆ》雨|晴《ばれ》の雲重く、青山墓頭《あおやまぼとう》四|囲《い》の草木《そうもく》も皆|湿《しめ》り |勝《が》ちと思う中に、髯男二人《ひげおとこふたり》が紋付袴《もんつきばかま》で故老伯《ころうはく》の墓《はか》の草《くさ》を務《むし》りつつ、色《いろいろ》々の咄《はなし》をしているとこ ろに、空高く郭公《ほととぎす》が啼《な》いて過ぎ去った、庵主覚《あんしゆおぼ》えず、   墓《はか》の草《くさ》とりつつ聞《き》くや時鳥《ほととぎす》 と口走《くちぱし》ると、その尾《お》に付《つ》いて猛伯《たけはく》が、   鬚《ひげ》のはえたる変な浪人《ろうにん》 と遣《や》った。二人とも互いに顔を見合せて、心往《こころゆく》まで掃除《そうじ》をして、両人《ふたり》並んで懇《ねんごろ》に墓前《ぼぜん》に拝《はい》を 某維新元勲の遺骨を拾う 取った時は、猛伯《たけはく》も瞼《まぶた》にこれまで見た事のない清《きよ》い清《きよ》い涙《なみだ》の露《つゆ》が一|滴宿《てきやど》っておった、庵主《あんしゆ》も 思わず、 『君は永年不孝《ながねんふこう》の有限《あるかぎ》りを仕尽《しつく》したが、今|父公《ちちぎみ》の墓前《ぽぜん》で君がその眼瞼《がんけん》に溢《あふ》るる一滴の涙は、 最も人生の意義ある活《い》きた涙《なみだ》である。故老公《ころうこう》をして、真に地下《ちか》に安んぜしむる程の力ある涙 であるぞよ』 と云うたら、猛伯《たけはく》はしばらくの間、他方を顧《かえり》みて無言であったが、漸《ようや》くにして、 『杉山君有難《すざやまくんありがと》う』 と云うて、庵主《あんしゆ》の右手《みぎて》をしっかりと握《にぎ》った。庵主《あんしゆ》はまたかく云《い》うた。 『世界中どんな種族の者でも、人間の形をしている以上は、親に対する観念《かんねん》の濃厚《のうこう》なる動物 こそ、きっとその民族間《みんぞくかん》の上位を占め得る可能性《かのうせい》を具備《ぐび》するものである、君や僕のような悪 性《あくしよう》の道楽者《どうらくもの》でも、今日《こんにち》なおこの地位を保《たも》ち得《う》るのは、今日《こんにち》この墓前《ぽぜん》の行為《おこない》がある為《た》めである。 今日は君も僕も珍《めず》らしく人間らしき行為《こうい》をしたので真に衷心《ちゆうしん》からの愉快《ゆかい》である』 と云い放《はな》った、これを聞いた猛伯《たけはく》はただちにかく云うた。 『その親で思い出した、死んだ親への報告はお蔭で済んだが、まだ生《いき》た親がある、それに報 告をして詫《わぴ》をしたいから、君どうか迷惑序《めいわくついで》に遣《や》ってくれ給《たま》え』 と云う、庵主《あんしゆ》は怪訐《けげん》な顔をして、 『うむ、生きた親二人とは、お母さんの外に誰があるかな』 と云うと、猛伯《たけはく》は、 『いや、母《はは》には已《すで》に報告も済んで非常に喜んでいてくれるが、二号の男親井上侯《おとこおやいのうえこう》と土方伯《ひじかたはく》に、 ぜひ'遍積年《べんせきねん》の詫言《わびごと》をして、僕の精神界を広くして置きたいと思うから:.…』 と云われるから、庵主《あんしゆ》は坐《そぞ》ろに猛伯《たけはく》の心裡《しんり》に同情すると、感服《かんぷく》するとが、一緒になって、 『いや、実に僕は気付《きづか》ずにいた、早速その手続《てつづき》を仕《し》ようよ』 と云うて、その翌日|井上侯《いのうえこう》と、土方伯《ひじかたはく》と、伊藤公《いとうこう》とに左《さ》の手紙《てがみ》を出《だ》した。  謹啓時下初夏《きんけいじかしよか》の候閣下愈《こうかつかいよいよ》々|為被渉広胖候由慶賀至極《こうはんにわたらせられそうろうよしけいがしごく》に奉存候陳《ぞんじたてまつりそうろうのぷれ》ば唐突《とうとつ》の言上《ごんじよう》に  候得共小生昨日青山墓地《そうらえどもしようせいさくじつあおやまぽち》にて亡友弔奠《ぽうゆうちようてん》の折柄不図某維新元勲《おりからふとぽういしんげんくん》の遺骨《いこつ》を拾得致《しゆうとくいた》し澆季《ぎようき》の末《まつ》  世《せ》とは申《もうし》ながら此《かく》の如《ごと》き日頃崇敬《ひごろすうけい》の念《ねん》に耐《た》えざる先輩《せんぱい》の遺骸《いがい》を野草風雨《やそうふうう》の間《あいだ》に委曝《いばく》し置《お》く  に忍《しの》びずと存候而《ぞんじそうろうて》窃《ひそ》かに収拾致置候間《しゆうしゆういたしおきそうろうあいだ》此等《これら》始末方《しまつかた》に付《つき》内密《ない一つ》御指教《ごしきよう》をも蒙《こうむ》り度《たき》心底《しんてい》止《や》  み難《がた》く候《そうろう》 洵《まこと》に近頃御迷惑《ちかごろごめいわく》ながら明後日晩景《みようごにちばんけい》五|時半頃《じはんごろ》より浜町常盤屋《はまちようときわや》へ御枉駕奉願上度  こうしよ  みぎり そうらえどもしんじようや  がた  あえ  あいねがいこころみもうしそうろうきようきようとんしゆ  向暑の砌に候得共心情止み難く敢て相願試申候恐々頓 首 云《ごおうがねがいあげたてまつりたくうんぬん》々と、書《か》いたのである。その中土方伯《うちひじかたはく》の返事に、  前略《ぜんりやく》……明治《めいじ》の聖代皇恩枯骨《せいだいこうおんここつ》に及《およ》ばざる者無《ものな》く左様《さよう》の事《こと》の有得《ありう》べき筈無《はずな》し畢竟不暹《ひつきようふてい》の馬《ぱ》  鹿息子共《かむすこども》が監墓追孝《かんぼついこう》の道《みち》を怠《おこ》たりたるに因《よ》る不祥事《ふしようじ》と被存候日頃国事御憂慮《ぞんぜられそうろうひごろこくじごゆうりよ》の貴台《きだい》により 某維新元勲の遺骨を拾う  て之《これ》を収《おさ》められたるは我《われわれ》々|生存者《せいぞんしや》の仕合《しあわせ》と被存候命《ぞんぜられそうろうめい》に依《よ》りて必《かなら》ず参向可仕候《さんこうつかまつるべくそうろう》  云《うんぬん》々。 |土方伯《ひじかたはく》の真面目《しんめんもく》には庵主少《あんしゆしようしよ》々|辟易《うへきえき》した。次に井上侯《いのうえこう》の返書《へんしよ》には、  前略《ぜんりやく》……青山原頭《あおやまげんとう》に骨を拾うは恰《あだか》も海浜《かいひん》の石の如きものに有之候維新以来相当国事奉《これありそうろういしんいらいそうとうこくじほう》  公者《こうしや》の追魂《ついこん》には殆んど遺漏《いろう》なき積《つも》りの確心《かくしん》を有《ゆう》し罷在候《まかりありそうろう》 貴命《きめい》の事《こと》は定めて何かの間違《まちがい》  と被在候併《ぞんぜられそうろうしか》し幸《さいわ》い当日《とうじつ》は小閑《しようかん》に御座候間兎《ござそうろうあいだと》も角参上委曲承《かくさんじよういきよくうけたま》わり可申候《もうすべくそうろう》……云《うんぬん》々、 これも真向《まつこう》の意気にて、庵主《あんしゆ》少々|薄気味《うすきみ》悪き感をなせり。最後に伊藤公の返書は、  前略《ぜんりやく》……明後日の御寵招日《ごちようしよう》頃|御趣向《ごしゆこう》多き貴台《きだい》の御催《おんもよおし》に候《そうろう》 間定《あいださだ》めて興味《きようみ》ある事と拝察《はいさつ》  御懇情《ごこんじよう》謹謝仕候《きんしやつかまつりそうろう》兎《と》も角《かく》御馳走《ごちそう》頂戴《ちようだい》の覚悟《かくご》にて参 趨可仕候《さんすうつかまつるべくそうろう》……云々《うんぬん》、 これだけは流石《さすが》に伊藤公《いとうこう》の老熟《ろうじゆく》、庵主《あんしゆ》の肺肝《はいかん》を看破《みやぶ》られ、覚《おぽ》えずあっとしたのである。それ から当日は芸者《げいしや》は一人も入れず、瓢屋《ひさごや》、浜《はま》の屋《や》、三|州屋《しゆうや》、武田屋《たけだや》、芳野屋《よしのや》、新喜楽《しんきらく》、吉原山 口巴等《よしはらやまぐちともえとう》の老女将連《ろうじよしようれん》ばかりを招いた。旧来象二郎伯《きゆうらいしようじろうはく》や伊藤公《いとうこう》、井上侯《いのうえこう》、土方伯等《ひじかたはくとう》の青年時代に 遊んでばかりおられた時その席に侍《はべ》りし、この賓客《ひんきやく》と年歯経験《ねんしけいけん》とも少しも遜色《そんしよく》なきやはり維 新《いしん》以来の女将《じよしよう》の元老《げんろう》ばかりを集めておいたのである。来賓《らいひん》の驚異《きようい》と喜びは格別《かくべつ》なもので、一 同手を拍《モつ》って、 『なるほどこれは杉山君《すぎやまくん》が青山《あおやま》で拾《ひろ》うた維新元勲《いしんげんくん》の骸骨《がいこつ》ばかりである』 と云われた。座已《ざすで》に定まって配膳《はいぜん》未だ到らざるに先《さきだ》ち、庵主《あんしゆ》は座敷《ざしき》の中央に袴羽織《はかまはおり》の猛伯《たけはく》を |伴《ともな》い出《い》ご、叮嚀《ていねい》に平伏《へいふく》をして、左《さ》の如く述べ立てた。 『今日《こんにち》は初夏嵐気《しよかうんき》の砌唐突《みぎりとうとつ》の御案内《ごあんない》にかく打揃《うちそろ》うての御賁臨《ごひりん》は誠に以て有難き次第に存上《ぞんじあげ》 ます。さてこれへ伴《ともな》いましたる者は一昨日御案内状にも申上ました通り不図《はからず》も青山原頭《あおやまげんとう》に於 て拾い得《え》ました維新元勲《いしんげんくん》の遺骨《いこつ》でござります。この遺骨《いこつ》が生前《せいぜん》にはまず第一に青春の放蕩無 頼《ほうとうぷらい》の為《ため》、実父の勘当《かんどう》によりて身の置処《おきどころ》を失い、それへ御控《おひか》えの井上侯閣下《いのうえこうかつか》に不一方御愛撫《ひとかたならずごあいぷ》を |蒙《こうむ》り、真に実親にも勝る御懇情《ごこんじよう》を蒙《こうむ》りましたが、青年中|有勝《ありがち》の放慢不埒《ほうまんふらち》にて、事《じじ》々|物《ぶつぷつ》々と侯《こう》 の御配慮御厄介《ごはいりよごやつかい》のみと相成、第二には次に御控《おひか》えの土方伯閣下《ひじかたはくかつか》の御憐愍《ごれんぴん》によりて、親にも勝《まさ》 る御贔廣御推挙《ごひいきごすいきよ》を蒙《こうむ》り、それさえも心得違《こころえちがい》の為《た》めに、多年の御慈愛《ごじあい》に違背《いはい》するの行為を相続 け、第三には上席《じようせき》に御坐《ござ》ある伊藤公閣下《いとうこうかつか》には、死灰《しかい》に斉《ひと》しき大磯蟄居中《おおいそちつきよちゆう》にしばしば浪宅《ろうたく》へ御 枉駕《ごおうが》を玉《たま》わり、絶《た》えず親にも勝《まさ》る御訓戒《ごくんかい》を辱《かたじけの》うし、爾後《じご》幾多の艱難《かんなん》を備《つぷ》さに相嘗《あいな》め、はか らずも台湾島《たいわんとう》に於て児玉伯《こだまはく》、後藤子《ごとうし》の丹精《たんせい》に因《よ》りて、翻然自覚《ほんぜんじかく》の身と相成《あいなり》、日夜努力の結果、 始めて社会の人に復《ふく》し、帰京後|同伯《どうはく》、男《だん》の推挙《すいきよ》、芳川伯《よしかわはく》、桂公《かつらこう》、山県公《やまがたこう》の御尽力《ごじんりよく》によりて今 回|亡父《ぽうふ》の遺跡《いせき》に復《ふく》し、貴族院議員《きぞくいんざいん》の末席に列席するの栄《えい》を得ましたから、先般来麹町区紀尾 井町《せんぱんらいこうじまちくきおいちよう》に小《ささ》やかなる邸宅《ていたく》を設《もう》け、初めて家庭を相開き候事《そうろうこと》と相成《あいなり》ましてござります。そこで 昨日|青山墓地《あおやまぽち》に参向《さんこう》して、亡父の墓に奠《てん》し、積年《せきねん》の大罪《たいざい》を謝《しや》し、小生立《しようせい》会の上にて勘当《かんどう》の赦《しや》 某維新元勲の遺骨を拾う |免《めん》を得ました。この上は一日も早く、この御列席《ごれつせき》の御《お》三|方様《かたさま》に、既往罪科《きおうざいか》の御詫《おわび》を申上げ御 赦《おゆるし》を蒙《こうむ》り度志願《たきしがん》にてかくは御尊来《ごそんらい》を願出《ねがいいで》たる次第でござります、全く死灰《しかい》再び火を発して、 |昔悪《せきあく》を今功《こんこう》にて相償《あいつぐな》うの精神、微衷御賢察《ぴちゆうごけんさつ》の上|多年御厚意《たねんごこうい》に背《そむ》きましたる大罪《たいざい》、御赦免《ごしやめん》の程《ほど》 を偏《ひと》えに懇願致《こんがんいた》しまする次第でござります、今や本人素《ほんにんもと》より謹慎恐謙《きんしんきようけん》の砌《みぎり》でござりまするが、 親友たる私《わたくし》より申しますれば、これ正《まさ》しく維新《いしん》の元勲後藤象二郎伯《げんくんごとうしようじろうはく》の遺骨即《いこつすなわ》ち正嫡《せいちやく》でござ りまするから、皆様どうか父に対せらるるの旧交《きゆうこう》を思召《おぽしめし》、今日《こんにち》一|段《だん》の御宥恕《ごゆうじよ》を願《ねがい》ます次第で ござります』 と、語未《ごいま》だ終らざるに、土方伯《ひじかたはく》はつかつかと席を立って、猛伯《たけはく》の前に来て、 『ようお前は猛坊《たけぼう》か、三十年近く逢《あ》わぬぞ、やあ頭に白髪《しらが》が出たでないか、議員に成った事 は聞いていたが、困った奴じゃ、また親《おや》の顔《つら》を汚《よご》しに出て来たのかと思うていたが今|杉山君《すぎやまくん》 の咄《はなし》を聞けば、艱難《かんなん》と云う薬《くすり》を飲《の》んで我儘《わがまま》と云う砂利《じやり》は人間の胃袋では消化せぬと云う道理 が分ったとの事、それは何よりの事じゃ、これも児玉《こだま》と後藤《ごとう》のお蔭《かげ》じゃ、俺はこの席で早速 |礼状《れいじよう》を書いて出すのじゃ、ああ、俺も生甲斐《いきがい》があって嬉《うれ》しい事を聞いた、亡父《おやじ》もさぞ喜んで おるであろう』 と云われて、猛伯《たけはく》の平伏《ひれふ》している後頭《ぽんのくぽ》の処《ところ》にぽとぽとと老《おい》の涙《なみだ》を落された時は海千山千の老 婆達も一|期《ご》の情《なさけ》に迫まられて、涙で袖《そで》を濡《ぬ》らしたのであった。土方伯《ひじかたはく》の咄未《はなし》だ了《おわ》らぬ中《うち》に井《いの》 上侯《おつモえこしつ》もまた立って来て、 『猛《たけ》さん、しばらく逢《あ》わぬのう、私は土方伯《ひじかたはく》よりも永く疎遠《そえん》であった。君が事で僕は君のお 父さんとしばしば衝突《しようとつ》をしたが、しかし象二郎君《しようじろうくん》は良《よ》い子《こ》をもったと僕は常に心で羨《うらや》んでい たよへ猛《たけ》さん、日本の国にはね、良くも悪くも人間が入用《いりよう》じゃ、これから百人分も、千人分 も働きなさいよ、私は杉山《すぎやま》から骨《ほね》を拾《ひろ》うたとの手紙じゃから、それを真《ま》に受けて物好《ものずき》な汚な い事をする男じゃと思うていたら、山豆図《あにはか》らんや、千|里《り》の馬《うま》の骨《ほね》でもなく、立派に生きた大丈 夫《だいじようぶ》の骨であった。否《いな》、明治《めいじ》の大人物《だいじんぶつ》、陛下《へいか》の忠臣我《ちゆうしん》々の旧友象二郎君《きゆうゆうしようじろうくん》の賢息《けんそく》であった。僕 はかくの如く立派になった君と、三十年前から交渉のありし事をむしろ光栄と思うのじゃ、 |浮世既往《うきよきおう》の罪悪《ざいあく》に未練《みれん》を残さず、思い切ってこれからしっかり遣《や》るのだぞよ』 と、実に親にも勝《まさ》る教訓《きようくん》は言《げんげん》々また涙《なみだ》である。これを聞く猛伯《たけはく》は平伏《へいふく》の儘《まま》、落涙《らくるい》を禁《きん》じ得《え》な かったのである。流石伊藤公《さすがいとうこう》は先刻《せんこく》より黙《もく》して聞いておられたが、 『猛《たけ》さんよ、そう何もへこ垂《た》れるには及ばぬ、君《きみ》はただ酒を飲んで道楽《どうらく》をしただけだよ、そ れは僕も遣《や》る、井上君も、土方君も、皆|遣《や》った事じゃよ。ただそれ以外に何を仕《し》たかと云う 問題だよ、人間は良《よ》い事ばかり出来る動物ではないよ、きっと悪い事も半分はする物じゃ、 どんな聖人《せいじん 》でも、死んだ後から神様《かみさま》が十露盤《そろばん》を持って差引《さしひき》を付けると、誰れでも必ずぜろの 物じゃ。しかし君はこれまで酒を飲んで道楽《どうらく》ばかりを仕《し》て来たから、これから何とか少し十《そ》 露盤《ろばん》の持てるぜろになるだけの事を為《し》にゃならぬのじゃ。さあ、両君|折角《せつかく》の御馳走《ごちそう》じゃ、頂 戴《ちようだい》しようじゃないか』 と、それから酒になって、女将達《じよしようたち》が水も洩《もら》さず、息《いき》も吐《つ》かれぬ接待《もてなし》で、深更《しんこう》まで一二|老公《ろうこう》十|分《ぷん》 の歓《かん》を尽《つく》し、踊嬲《まんさん》として帰られた。これでやっとの事|猛伯《たけはく》二号の親、伯父《おじ》の勘当《かんどう》赦免《しやめん》は済《す》ん だのである。 三十一一 |噫稀世《ああきせい》の英才後藤小伯《えいさいごとうしようはく》   詩を賦して旧時を偲び、秋老いて俊才睡り終る 噫稀世の英才後藤小伯  猛伯《たけはく》、身華冑《みかちゆう》の家に生れ、位《くらい》、台鼎《だいてい》に登った後藤老伯《ごとうろうはく》の子として、資性《しせい》の豪放不羅《ごうほうふき》は尠な からず経世《けいせい》の事に不利を来し、半世の数奇《さつき》常に纒綿《てんめん》してあるいは狂瀾《きようらん》に漂《ただよ》い、あるいは泥谷《でいこく》 に沈み、人生幾多の艱難《かんなん》を備《つぷ》さに試嘗《ししよう》すと雖も、一片の雄心《ゆうしん》は、緇《し》せず隣《りん》せず、終《つ》いには南 濠蛮邦《なんえいばんぽう》の岬角《こうかく》に立って鬣《たてがみ》を奮《ふる》い千|里《り》の馬《うま》始めて好伯楽《こうはくらく》に逢《お》うて、蒼天《そうてん》に噺《いなな》くに至り、行路|難 界《なんかい》幾多の駅頭《えきとう》は、恰《あたか》も風を斬るが如くに馳抜《はせぬ》け、瞬間にして所定《しよてい》の決勝点に到着したのであ る。元《もと》これ一介の髫児《ちようじ》、弱冠《じやつかん》にして頴悟《えいご》、已《すで》に数国の語学に通じ、長《ひと》となりて天賦《てんぷ》の智嚢常 人《ちのうじようじん》に超絶《ちようぜつ》し、倏忽《たちまち》にして新橋無宿《しんばしむしゆく》の名より、伯爵貴族院議員《はくしやくきぞくいんぎいん》たるに至る、奇《き》は素《もと》より奇なり と雖ども、けだしまた当然《とうぜん》の帰結《きけつ》と謂《い》うベしである。已《すで》に先考《せんこう》を慰《なぐさ》め、老母公《ろうぼこう》を安んじ、旧 育《きゆういく》の浩恩《こうおん》ある三元老に謝《しや》して、猛伯《たけはく》の身辺《しんぺん》はさらに一点の遮雲《しやうん》を止《とど》めず温豊《おんぽう》なる家庭の人と なりしまで、匹如《ひつじよ》たる一巻の小説的歴史は、これこそ明治大正の聖代《せいだい》に於ける、教訓多き好 立志編《こうりつしヘス》である。世《よ》に身《み》を立《た》て家《いえ》を興《おこ》しその父母《ふぽ》を安《やすん》ぜんと欲するの青年|多《たた》々ありと雖ども、 皆|目前区《もくぜんくく》々の私情物慾に支配せられ、役《えきえき》々として得《う》る処《ところ》のものは一身を奉《ほう》ずるに足らず、焉《いずく》 んぞ人を助くるの余力《よりよく》あらんや、また何の邊《いとま》あって世を済《すく》い民《たみ》を安《ゃす》んずるの謀《はかりごと》あらんや。 |猛伯《たけはく》がいかなる境遇《きようぐう》にあるも、已れを省《かえり》みるに猛《た》けく、事を断《だん》ずるに軽捷《けいしよう》なりしは、心中常《しんちゆう》 に綽《しやぐしゃ》々の余裕《くよゆう》を存《そん》し、突詰《つきつ》めたる考慮《こうりよ》をなさず、行止《いきどま》りたる画策《かくさく》をなさざりしに於て、大い に学ぶべき所多かりしを思うのである。  庵主《あんしゅ》は前後十二年間、猛伯《たけはく》の世話《せわ》をなしたりしが、その飢餓《きが》に迫るの時も、富有《ふゆう》を共にす る時も、却《かえつ》て庵主《あんしゆ》が伯《はく》に就《つ》いて学びたるもの、実に多大なりしを偲《しの》ばざるを得ぬのである。 それより猛伯《たけはく》は、泰西写真術《たいせいしやしんじゆつ》の進歩、活動写真《かつどうしやしん》の発現《はつげん》を見てこれを一片の興行物《こうぎようもの》と見る事を 許さず、世運《せうん》の進歩と社会の改造および学術の発展は、全く百|聞《ぷん》の一|見《けん》に如《し》かざる事を認め、 |直《ただち》にこれを編《あ》んで一編の議論となし、当時不完全なる興行物《こうざようもの》たりし活動写真を一括して、大 ツラストとなし、規律《きりつ》あり、節制《せつせい》ある大会社を組織し、頃刻《けいこく》にして一千万円の資本を蒐集《しゅうしゅう》 したのである。これは郷男爵《ごうだんしやく》を始め、その他|幾多《いくた》の有力者の援助《えんじよ》ありしに因《よ》ると雖《いえと》も、猛伯《たけはく》 噫稀世の英才後藤小伯 の創意《そうい》また与《あずか》ってその多きにおるを認めるのである。もし今日《こんにち》まで猛伯所定《たけはくしよてい》の方法によりて、 事業の進運《しんうん》を辿《たど》らば、きっと家国民人《かこくみんじん》の上に偉大なる反映を認め得るあらんと思うのである。 今や弊風却《へいふうかえつ》て彼《か》の興行物《こうぎようもの》より起り来るの譏《そし》りあるも、幵《そ》は全く根本操作《こんぽんそうさ》の科《とが》にして、存在《そんざい》の その物は猛伯遺留《たけはくいりゆう》の筐《かたみ》として見るを得るのである。 |猛伯《たけはく》その頃|青梅村玉川《おうめむらたまがわ》の畔《ほとり》に小別荘を構《かま》え、一|詩《し》を賦《ふ》して庵主《あんしゆ》に贈《おく》つた、曰く、  嘗塩茹粟亦風流《しおをなめあわをくらうまたふうりゆう》  身在青山臨水楼《みはありせいさんりんすいのろう》  万丈塵消一杯酒《はんじようちりはけすいつはいのさけ》  釣魚培菜太平秋《うおをつりさいをつちかうたいへいのあき》 猛伯《たけはく》が忙中《ぽうちゆう》の心胸《しんきよう》また知るべしである。庵主《あんしゆ》その韵《いん》に次して曰く、  科頭飲酒領風流《かとういんしゆふうりゆうおしむ》  何羨江東三五楼《なんぞうらやまんこうとうのさんころう》  半世加餐唯淡泊《はんせいのかさんただたんぱく》  鳶飛魚躍自然秋 猛伯《とひとんぺしうおおとるしぜんのあきたけはく》またある時|彼《か》の別荘に蟄《ちつ》して出《い》でず。庵主《あんしゆ》これを詰《なじ》る、伯《はく》一句を贈り来る曰く、  煙《えんか》 霞《また》 又《やま》 作《いをな》 痾 庵主《すあんしゆ》これに承句《しようく》を贈《おく》る、曰く、  漫唱泪羅歌 猛伯《まんにうたうべきらのうたたけはく》また転句《てんく》を贈り来る、曰く、  却《かえつ》 笑《てわ》 都《らうと》 門《もんの》 士《し》 庵主《あんしゆ》これが結句《けつく》を贈る、曰く、  銭幺悪友多《ぜにすくのうしてあくゆうおおし》 終に一五|絶《ぜつ》を得《え》たが、紅塵万丈《こうじんぱんじよう》の帝都《ていと》にあって俗事《ぞくじ》にのみ囲繞《いによう》せられた庵主《あんしゆ》は、全く猛伯《たけはく》の |高風《こうふう》に降伏《こうふく》したのである。  猛伯《たけはく》一日|庵主《あんしゆ》の僑居《きようきよ》に馬車を駐《とど》めて、緩《ゆつ》くりと咄《はな》し込んだ。その用向《ようむき》は、そも猛伯が庵主 と同棲《どうせい》するようになった当日より十二年間、一切の財政《ざいせい》を猛伯《たけはく》に委託《いたく》し、庵主《あんしゆ》は却て居候《いそうろう》と なったのである這《こ》は前にも云うた通り、  第一は猛伯《たけはく》をして気の置けぬようにしたのである。  第二は猛伯が従来、若様育《わかさまそだち》で稼槽《かしよく》の艱難《かんなん》を知らぬから、それを知らせる為めである。  第三は猛伯に心の内で敬意《けいい》を払《はら》う意味からである。  そこで今度猛伯が、伯爵家《はくしやくけ》の家庭を造《つく》られたに付いて、従来の会計を報告せんとて、馬車 中よりカバンを取卸《とりおろ》し、順序よく書類を並べて説明せられるのである。ただ驚《おどろ》いたのは庵主《あんしゆ》 で、それまでは『其日庵《そのひあん》の袂経済《たもとけいざい》』と云うて有名な物で、即《すなわ》ち袂《たもと》に入れた金束《かねたば》の有《あ》る間は富 貴《ふうき》で、それが探って見ても無くなった時が貧乏である。それで永年暮して来た庵主《あんしゆ》が、この 報告によると、ちゃんと正当の金文字入の簿記帳が出来ていて、一銭一厘の事まで伝票《でんびよう》とか 云うものが付いていて、それからまた半年毎に貸借対照表《たいしやくたいしようひよう》が出来ているのである。『収入と 憶稀世の英才後藤小伯 云うは借銭《しやくせん》の事で』『貸方《かしかた》と云うは人にくれた事で』『債権者《さいけんしや》と云うは高利貸《こうりかし》と質屋《しちや》の異名《いみよう》で ある』『債務者《さいむしや》と云うは手形《てがた》や証文《しようもん》の連判《れんばん》をして、一|文《もん》も払《はら》うていない事の符号である』事が 分った。兎《と》も角浪人会社《かくろうにんがいしや》、業務銀行《ぎようむぎんこう》の成績は、一|厘《りん》一|毛《もう》の間違もなく、この帳簿で一|目瞭然《もくりようぜん》 である。それからその簿記《ぽき》の口座《こうざ》とか云うものを見てまた驚いた。  一、経常費《けいじようひ》と云うは○酒屋○鳥屋○牛屋○蕎麦屋《そばや》○丼屋等《どんぶりやとう》の事である。  一、臨時費《りんじひ》と云うは○葬儀社《そうぎしや》○病院○薬価《やつか》○監獄《かんごく》の差入《さしいれ》の事である。  その外不思議《ほかふしぎ》の口座が幾個《いくら》もある。  一、騒動費《そうどうひ》と云う口座は○政府破壊運動《せいふはかいうんどう》○国民騒動《こくみんそうどう》○選挙騒《せんきよさわ》ぎ等《とう》の仲裁《ちゆうさい》または取鎮《とりしず》め、も  しくは幇助始末《ほうじよしまつ》の事である。  一、浪人費《ろうにんひ》とは○浮浪《ふろう》の徒《と》の不始末片付《ふしまつかたづ》け○宿屋《やどや》の引受《ひきうけ》○無銭遊興《むせんゆうきよう》の始末《しまつ》○または無心合《むしんごう》  力《りき》の事である。  一、道楽費《どうらくひ》とは○刀剣《とうけん》○義太夫《ぎだゆう》○新聞雑誌《しんぶんざつし》の失敗○その他は料理屋|待合《まちあい》の始末《しまつ》の事である。  その他○学生費《がくせいひ》、喧嘩費等《けんかひとう》の口座《こうざ》は、一寸名称《ちよつとめいしよう》の珍《めず》らしきものである。ある時|庵主《あんしゆ》が、入 獄者《にゆうごくしや》の掛《かか》り合《あい》で引合に出された時、裁判所《さいぱんしよ》から家宅捜索《かたくそうさく》を受けて、この帳簿全部《ちようぼぜんぷ》を引上げら れた。検事《けんじ》はこの帳面《ちようめん》を調《しら》べて胆《きも》を潰《つぶ》し、いずれも失笑《しつしよう》を禁《きん》じ得《え》ずに訊問《じんもん》したとの事がある。 これは猛伯《たけはく》から引継を受けた後の事であったから、この口座《こうざ》には段《だんだん》々|改正《かいせい》を加えたが、今現《いまげん》 |存《そん》する台華社《だいかしや》の簿記《ぼき》は、全く猛伯《たけはく》の仕置《しおき》の簿記《ぽき》である。およそ天下に月給を取らず、商品を 扱わずして、儼然《げんぜん》たる会社簿記の下《もと》に、浪人暮《ろうにんぐらし》をしている者は、古今《ここん》を通《つう》じて庵主一人《あんしゆひとり》だと の事《こと》である。即《すなわ》ちこの日|猛伯《たけはく》は、この簿記《ぽき》の一|切《さい》を引継《ひきつ》いだのであった。この後も猛伯は、 元老伯爵の時代は、大臣附《だいじんづき》の警部《けいぶ》をしていて、後《のち》、伯爵家の家令《かれい》となった鈴木敏彦《すずきとしひこ》と云う人《ひと》 を台華社《だいかしや》に入れて、この簿記《ぽき》の素乱《ぷんらん》せぬように、永らく会計の任に当らせてくれられた。彼《か》 の若様育《わかさまそだち》の猛伯《たけはく》、金銭の事には最も疎遠《そえん》な、即《すなわ》ち不始末不信用《ふしまつふしんよう》と評判《ひようぱん》のありし猛伯が、その 金銭経済に関する始末《しまつ》と知識《ちしき》は、大抵《たいてい》こんな物である。庵主《あんしゆ》この引継《ひきつざ》を受けて、始めて自分 の経済を知ったが、丁度その頃が一番浪人生活不況の時、すなわち浪人会社《ろうにんがいしゃ》の霜枯《しもが》れのシー ズンとでも云うのであったろうが、それで債務金総額《さいむきんそうがく》が八十二万四千六百四十円余で、その |内他人《うちたにん》の家屋敷《いえやしき》を抵当《ていとう》として借りた金が、六|万《まん》三千円余、質入借用《しちいれしやくよう》が三万六千円余、債権者《さいけんしや》 に巨利《きより》を得《え》せしめて遣《や》ったとか云うので、貸金《かしきん》を棒引《ぽうぴき》にしてくれたと云うのが二十六万円余 で、これを差引《さしひ》いた四十六万余円が即《すなわ》ち所謂雲借《いわゆるくもがり》と云うもので、雨になったら払《はら》う、旱《ひでり》になっ たらその上をまた借《かり》ると云う、ふわふわした借金《しやつきん》であるとの報告であった。仮《か》りにも貴族院 議員伯爵《きぞくいんぎいんはくしやく》が、かくの如き会社の報告《ほうこく》をするのは一寸|古今《ここん》に珍らしい事だと思うのである。  これらの面白き報告咄しをしもうた後《のち》に猛伯《たけはく》が悄然《しょうぜん》として言わるるには、 『さて杉山君《すぎやまくん》、今日は君に無駄《むだ》としても咄《はな》して置《お》かねばならぬ事がある。僕は二三ヵ月前よ 憶稀世の英才後藤小伯 り脚気《かつけ》の工合で、青梅《おうめ》にもしばらく引込《ひつこ》んでいたが、足に少《しようしよ》々|腫気《うはれけ》を帯《お》びた。全く脚気《かつけ》の 為めだと思い、陽気《ようき》でも直《なお》ったら回復《かいふく》する事と思うて、一向気にも懸《か》けずにいたところが、 この頃よく医者に調べさせて見ると尿には糖分蛋白《とうぶんたんぱく》もあり、また円柱《シリンダき》もあって、全く腎臓病《じんぞうびよう》 と確定《かくてい》した。たださえ性来《せいらい》心臓が弱くて、常にその養生《ようじよう》は怠《おこた》らぬ事にしていたが、昨今《さつこん》に至っ て著るしく健康が悪るい事を自覚する事になった。今日《こんにち》まで全く君のお蔭で面白く苦楽《くらくさ》の境《かい》 を遊《あそ》んで来たが、今となっては死を好まざる範囲に於て、覚悟《かくご》をしておきたいと思うのであ る。この覚悟《かくご》だけは人《ひと》に為《し》て貰《もら》う訳に行かぬ事故、相談もなく独りで極《き》めたような次第であ る。それはまずそれとして、本腰《ほんごし》で養生《ようじよう》をして見たいと思うから、何を置いてもまず君だけ にはこの心情《しんじよう》を打明けて咄《はな》して置きたいと思うて今日《こんにち》来えのである』 と切り出した。庵主《あんしゆ》はこの知已《ちき》の言《げん》に勘《すくな》からず感じて直《ただち》にこう云《い》うた。 『それは非常に良い覚悟《かくご》であり、また良《よ》い咄《はな》しである。まず死《し》ぬと極《き》めても、因果《いんが》とまだ死 なれなかったら、またその時にその残生《ざんせい》の相談は仕ようが、まず死《し》ぬ積《つも》りで折角《せつかく》用意を仕玉《したま》 え、高儒藤田東湖先生《こうじゆふじたとうこせんせい》は三度死《みたぴし》を決して死せずとか何とか云うておれども、揚句《あげく》の果は、地 震《じしん》で死なねばならぬ。我々から見れば、聖人のような東湖先生《とうこせんせい》でさえそれである。僕などは 三|度《たぴ》どころでなく、何度|幾度《いくたぴ》死を決したか、お恥《はず》かしくて咄も出来ぬ位死を決したのである が、因果とやっぱりこの薄生温《うすなまぬる》い世の中に生きておらねばならぬのである。よし、君が先き に往く事になっても、ぼつぼつ往《い》きおる中《うち》には、好《い》い加減《かげん》に僕も直《すぐ》に跡《あと》から追付《おいつ》くから、遠 慮《えんりよ》なく自由行動を取玉《とりたま》え。元来人間と云うものは、おぎゃあと母の胎《はら》から飛出したを合図に、 |死《し》ぬと云う証文手形《しようもんてがた》を書いているのである。その声《こえ》を出した途端《とたん》に動き出した心臓は、何か のとたんにまたきっと止《と》まると云う堅《かた》い約束《やくそく》なので、ただその手形が無期限《むきげん》だから面白いの である。思わぬ喧嘩《けんか》をして、下駄《げた》で頭を打割られて死ぬ事もある。また酒に酔《よ》っ払って、電 車に韓《ひ》かれて死ぬ事もある。これはその時《とき》この証文《しようもん》の取付に遭《お》うたのである。まごまごして いると、今の富豪や、政党の奴等のように、活《い》きていても生存《せいそん》の意義が分らず、妙な声を出 して何やら欲しいく/\とばかり叫喚《きようかん》して、眼を引付け、口を尖《と》がらかして、馬《うま》の糞《くそ》より 悪い物を食《く》って味《うま》いと云い、狐の着せた藁裃《わらがみしも》のような物を着ては、有難《ありがた》いと云うようになっ て、やはり活《い》きているかと思うようになったらそれこそ君|大変《たいへん》だよ。君は道楽《どうらく》はしたが、そ れは人間血気の生理的高大な行為である。飢寒窟《きかんくつ》には落ちたが、それは人間生存《にんげんせいそん》の行路《こうろ》を飾《かざ》っ た尊《たつと》き勤行《ごんぎよう》である。已《すで》に父母を安《やす》んじ、恩人《おんじん》に酬《むく》い、世間が名誉《めいよ》とか貴顕《きけん》とか云うた親の遺 跡《いせき》を起して返却《へんきやく》したからは、差引十露盤《さしひきそろばん》はぜろである。ただ一つお互に残って居《い》る財産《ざいさん》は、 どこを探しても不愉快《ふゆかい》でなく、安《やす》んじて死《し》ぬると云う一事である。儒仏耶《じゆぷつや》の三教は、皆罪に 生れア、罪に活き、また罪に死する教えばかりである。世界十五億の人口中、大概《たいがい》は死の一|大 事《だいじ》を解せず、べそを掻《か》いて罪に死する奴ばかりである。少なくも君と僕だけは、この生死《せいし》の 噫稀世の英才後藤小伯 大問題を楽しく解脱《げだつ》したいと思うている。猛伯《たけはく》と云う柿《かき》の実《み》が、核《たね》から生えて幹《みき》となり、花《はな》 を着け実《み》を結《むす》んで、その実《み》が風雨《ふうう》の恵沢《けいたく》を経て、今|正《まさ》に熟《じゆく》して地に落ちるのならば、それこ そ本当の解脱《げだつ》である。即《すなわ》ちこれを本当の愉快《ゆかい》とする。天上の神仏《しんぷつ》は、鳴呼《ああ》よく勤行《ごんぎよう》を終えて 来りし汝《なんじ》の死《し》よと云うて、蘚茄《しようか》の音楽を供《そな》えて、喜んで迎える。即《すなわ》ち完全なる死《し》の正覚《しようかく》であ る。君《きみ》まごまごすると遣《ゃ》り損《そこ》ねるからどうか今日より正当《せいとう》の養生《ようじよう》を怠《おこた》らず、固我《こが》なく正覚《しようかく》の |死《し》を遂《と》げる工夫をしたまえ』 と云うたら、猛伯《たけはく》は心から会心《かいしん》の笑《え》みを漏《もら》して辞し去った。それが丁度、桐《きり》の葉風に窓寒く、 |築地本願寺《つきじほんがんじ》の晩鐘《ばんしよう》が、細雨《こさめ》に睾《こ》められて、陰《いんいん》々と響《ひぴ》く大正三年十一月の初旬であった。それ から庵主《あんしゆ》は、大阪《おおさか》方面に所用《しよよう》あり、旅行して帰京《ききよう》したその月の二十九日、猛伯の目黒《めぐろ》の別荘《べつそう》 から電話が来た。昨夜来|猛伯《たけはく》が心臓痂痺《しんぞうまひ》を起して危険であるとの事、庵主《あんしゆ》は早速自動車を駆《か》っ て駈け付けたが、猛伯《たけはく》は十畳の書斎に、 東枕《ひがしまくら》に横臥《おうが》して、すやすやと眠っているから、庵 主《あんしゆ》がそうッとその側《そば》に坐《ざ》すると、猛伯《たけはく》はパチッと眼を明けて微笑《びしよう》している。庵主《あんしゆ》は小声で、 『どうじゃ甘《もつま》く行くかの』 と云うたら、 『実に注文通り甘《うま》く往《い》くらしい。しかし君に云うて置くが、相当苦い物だぜ、君その積《つも》りで いたまえよ』 と云うから、 『その苦楽《くらく》が注文通りに行《い》くものか。僕などは逆磔刑《さかはりつけ》の方だよ、まあ贅沢《ぜいたく》を云わずに辛抱《しんぽう》す るさ』 と云うたら、こつこつと二つ首肯《うなず》いた。それから次の間の親戚《しんせき》の人々などに挨拶《あいさつ》をして、そ の晩は初めて夜伽《よとぎ》をして翌朝になったら、医者が大変|御工合《おぐあい》が良好《よい》と云うから、庵主《あんしゆ》は病床 に往って、 『おい君、大分良好《だいぶよい》ようだぜ、君《きみ》俗僧のそれのように決して何事も無理をしたり、急いだり しては折角《せつかく》の辛抱《しんぽう》も無駄《むだ》になって、五+年を棒に振るぜ、僕は用があって帰るから、模様《もよう》で は直に電話を掛《かけ》させたまえ、僕はどこにも行かずにいるから』 と云うと、 『有難う今朝《けさ》の模様《もよう》では二三日は大丈夫《だいじようぶ》と思う』 と云うから、庵主《あんしゆ》は帰って来た。それから毎日電話で容体《ようだい》を聞くと、十二月三日の晩方少し 様子が悪いと云うから、直《すぐ》に駈付《かけつ》けて見ると猛伯《たけはく》は全く昏睡状態《こんすいじようたい》である。『ああしまった』と 思うて、それこれ心配している夜の十時頃、パッチリと眼を開けて、 『おい医者に注射《ちゆうしや》を一本させてくれ』 と云うから、早速その事をすると気分もはっきりなって、庵主《あんしゆ》の耳の傍《そば》で、 噫稀世の英才後藤小伯 『おい君甘《きみうま》く行《い》ったぜ、もう直《すぐ》だぜ、改めてお礼を云うが、全く君のお蔭で二十年間面白く 暮したぜ有難う』 と云うてまたすやすやと眠る、それからその翌朝までまた昏睡《こんすい》である。もうかもうかと皆息《みないさ》 を詰《つ》めていると、またパッチリ眼を開けて、 『おい医者に注射を一本させてくれ』 と云うから、またその通りさせるとしきりに眼を艀《みは》って庵主《あんしゆ》の顔を見付け出したようにして、 『おい君甘《きみうま》くいったぜ、有難うお蔭で二十年間面白く暮したぜ……』  それから跡《あと》の事は分らぬ。詰《つ》まりこの事《こと》だけを二度|繰《く》り返して云うた訳である。とうとう そのまま昏睡中《こんすいちゆう》に絶息《ぜつそく》して、清く明かな死を遂《と》げ猛伯《たけはく》は快《こころよ》く白玉楼中《はくぎよくろうちゆう》の遊《あそ》びに入ったので ある。その後猛伯《ごたけはく》が十一月二十一日付の書面《しよめん》を、大阪《おおさか》の庵主《あんしゆ》の宿《やど》に出《だ》したのが廻り廻って十 一月二十八日に、庵主《あんしゆ》の本宅《ほんたく》に到着《とうちやく》して居《い》たのを発見した。開いて見れば一詩あり、曰《いわ》く、   人元如水水如人《ひともとみずのごとくみずひとのごとし》  泡沫忽生還忽埋《ほうまつたちまちにしようじてまたたちまちにいんず》   午睡醒時秋已到《こすいさむるときあきすでにいたる》  梧桐葉落亦天真《こどうはおちまたてんしん》 と。 三十三 |男勝《おとこまさ》りのお菊娼《さくぱぱ》   佼媼争うて能く人を助く、 浪客漂うて終に身を寄す  庵主《あんしゆ》が東京《とうきよう》に於ける漂浪生《ひようろう》活の時であった。友人の世話で日本橋区浜町《にほんばしくはまちよう》の、細川屋敷《ほそかわやしき》の附 近にある越前屋《えちぜんや》と云う宿屋《やどや》に下宿した。丁度泊った晩の九時頃、庵主《あんしゆ》の部屋とした、六畳と 壁一|重隣《えとなり》の部屋から、男女の話声が聞えて来た。始めは余り気にも止めずにいたが、庵主が |蒲団《ふとん》の上に、帯《おぴ》も解《と》かぬ大の字で丸寝《まるね》をしている、頭の方の直隣《すぐとなり》の声であるから、段《だんだん》々手に 取るように聞えて来た。女の声で、 『鉄《てつ》ちゃんそんなだらしの無《な》い事が有《あり》ますか、私《わたし》が頼《たの》まれて隠《かく》している人を、これからお前 さんの方に引取って、世話《せわ》を仕《し》ようと云うのは、お前さんの了簡《りようけん》では、大事のお友達だから、 私じゃあ頼甲斐《たのみがい》がない、……不安心《ふあんしん》だ、万一《まさか》の時に当てにならないからと云う、大変失礼な 事に当りますよ、下《くだ》らない話《はなし》は止《よ》しておくれよ。私はこれでも一|本立《ぽんだち》の女ですよ。江戸《えど》の真 中《まんなか》でお飯《まんま》を喫《た》べてる女だよ。聞きゃあお前さんは今、大隈《おおくま》さんの所にいると云うじゃあない か。自分が人の居候《いそうろう》をしていて、人の世話を仕ようなんてお止しなさいよ。彼方《あのかた》の事《こと》だけは、 私の匿話で沢山なんだよ。私がどんなにお前さんに威《おど》かされても、一|端《たん》自分が頼《たの》まれた人を 男勝りのお菊媼 お前さんなんぞにゃ渡しゃ為《し》ないよ』  今度は男の声で、 『おいお菊《きく》、お前がなんぼ意地《いじ》っ張《ぱ》りの負ない気でも、女じゃないか、また宿屋《やどや》の神《かみ》さんじゃ ないか。少しは商売柄《しようばいがら》も考えて、温和《おとな》しく為《し》たが能《よく》はないか。書生や野浪人《のろうにん》位なら、お前が 世話をするも好いが、彼人《あのひと》は物が大き過るじゃあないか。私共の仲間じゃ、打捨《うつちや》って置けな い人なんだから、せめてその居所《いどころ》なりと知らせておくれと頼《たの》むのじゃ、これ神《かみ》さん、癇《かん》を立 てずに我々と一所になって世話をする積《つも》りになって咄《はなし》をしてくれぬか』 『いけないよ……いやだよ、女だからどうしたって、宿屋《やどや》の神《かみ》さんだからどうしたって。お い鉄《てつ》ちゃん、物を間違《まちが》えちゃあいけないよ、この越前屋《えちぜんや》と云う宿屋稼業《やどやかぎよう》は、お菊《きく》と云う女が |為《し》ているのじゃないよ、宿屋の方でお菊《きく》と云う気《き》の強い女に飯を喰わせる為《た》めに働いている のだよ。宿屋《やどや》の畜生奴《ちくしようめ》が神《かみ》さんの気に入らねえ稼業《かぎよう》の仕《し》っぷりを為《し》やあがりゃあお神《かみ》さんは 飯を喰って遣《や》らねえまでだ。稼業に負けてお菊婆《きくばば》あが頼まれた人の鼻を明かすような事を為《せ》 にゃあならなけりゃあ憚《はば》かりながらお前さんの見た事もねえこの赤い舌《した》あ喰い切って死んで 見せるから、そうお思い……いやだよ、何だって……そんならこの五十両の金を届けてくれ よって、いけないよ。彼人《あのひと》が金が入りゃあ、私が出すよ、懇意《こんい》だか何だか判りもしない人か ら、金を託《ことづ》かるのはお断りだよ。私しゃあ私の世話を仕ようと思うた人の為《た》めにゃあ、一|生《しよう》 懸命《けんめい》遣るから、お前さんはまたお前さんで、人の世話が仕たけりゃ、別に何か恰好《かつこう》の兇《きようじよ》 状 持《うもち》でもお探《さ》がしよ。人の物を横から取るような事は止しておくれよ……いいよお前さんがそ んなに疑《うた》ぐるなら、明日は起抜《おきぬ》けに私の方から警視庁《けいしちよう》に出掛《てか》けて行て、三|島《しま》さんにお目に掛っ て「鉄《てっ》ちゃんやお巡査《まわり》さんが始終穴《しよつちゆうあな》を突つきに来て五月蝿《うるさ》いから、私を引括《ひつくく》って牢《ろう》の中に 放り込んでおくれ、どうせ私しゃあ殺されても云やあせんのだから同じ事なら牢《ろう》の方が五月 蠅《うるさ》くなくって好《よ》いからって」そう云うて、明日《あす》から這入《はい》っちまうから鉄《てつ》ちゃんもうこれから 来ておくれでないよ』 『おいお菊《きく》、男勝《おとこまさ》りで人の世話あ為《す》るのが尊《とうと》さに、押黙《おしだま》って聞てもいるが、余り口が過るぜ、 私も小分《しようぷん》ながら男だ。引込んでいられねえ友達の世話だ。横取《よこどり》するのじゃねえから世話焼《せわやき》仲 間に入れてくれよ』 と段《だんだべ》々|声高《こわだか》になって、双方なかなか引込《ひつこ》みの付かぬ云掛《いいがか》りとなって来《き》た。最前から隣座敷《となりざしき》で 息を詰めて聞いて居た庵主《あんしゆ》は、しきりに興味《きようみ》が乗って面白くなって来て、思わずふいと起上《たちあが》っ てつかつかとその隣座敷《となりざしき》に踏込《ふみこん》だので、両人の驚《おどろ》きは一通でなかった。庵主《あんしゆ》もこの頃は胆裂《きもきれ》 で、江戸馴《えどな》れた傍若無人《ぽうじやくぶじん》の男であったから、その火鉢《ひぱち》の傍《そば》にどっかと坐り込んで、 『君達は両人《ふたり》とも声高《こわだか》の争いは、人間の地鉄《じがね》が出るよ。それほど世話《せわ》が仕《し》たけりゃあ、俺の 世話を仕《し》ちゃあどうじゃ、お前方の争《あらそ》っている男は、俺《わし》も懇意《こんい》で、その居《い》る所もちゃんと知っ 男勝りのお菊媼 ているが、(その世話《せわ》になっている男は、庵主《あんしゆ》の艱難《かんなん》の友である故に、庵主も世話をしている が、今は態《わざ》と悪口《わるぐち》を云うのである)その男は自由とか改進とかを売物にして、飯を食うてい る国事《こくじ》の触売商人《ふれうりあきんど》である。そんな男はこの後|縛《しば》られても牢《ろう》に一《は》 。旭|入《い》っても何でもかでも手当り 仕第にそれを広告の材料《たね》に使って、なるたけ大勢|人寄《ひとよせ》をして見る影もない藩閥《はんぱつ》とか役人《やくにん》とか 云うような陽気《ようき》の好《よ》い時《とき》ばかりに飛廻《とびまわ》る、蜻蛉見《とんぽみ》たような虫《むし》を相手にして、喧嘩《けんか》をしたり、 |邪魔《じやま》をしたりする、大道《だいどう》かせぎの商人である。それを君方《きみがた》が一生懸命になって世話《せわ》をするの は、その小商人《こあきんど》のまたその手先きになるのである。それよりか俺共《わしども》の世話《せわ》をすると男らしい |事《こと》だけは間違《まちがい》ないよ、なんぼ国事《こくじ》でも商売にしては駄目である。俺はそんな者とは違う、揮《はぱかり》 ながら今お尋の首俊組《くぴさらいぐみ》の棟梁《とうりよう》、林矩一《はやしくいち》(庵主《あんしゆ》の常時|偽名《ざめい》)と云う兇状持《きようじようもち》である。その主 義|綱領《こうりよう》と云うのは『演説《えんぜつ》をせず』『人寄せをせず』『名前を売らず』『恐喝《おとかし》を云わず』『国《くにそ》を傷《こなわ》 ない民《たみ》を惑《まど》わす者にだけ向って睨《にら》み打《うち》に、直接に大義名分《たいざめいぶん》を説《と》いて、その改悛《かいしゆん》を迫まり、ま ず人間で出来るだけの親切《しんせつ》と忠告《ちゆうこく》の努力《どりよく》を為《し》た最終には直《すぐ》に生首《なまくび》を掻払《かつぱら》ってしまう』組合の |棟梁《とうりよう》である。党員は首領《しゆりよう》を入れて僅《わず》か四人以上に多かった事がないが已《すで》に牢死《ろうし》をしたり、流 刑《りゅうけい》に処《しよ》せられたりした党員は、始めから今日まで合計たった九人より外《ほか》ないのである。今の 三|島《しま》と云《い》う警視総監《けいしそうかん》は恐《おそ》ろしい程|物《もの》の分らぬ官吏《かんり》であって、云うても叩《たた》いても志士《しし》と云う人 間の道理《どうり》が一つも判らず、何《なん》でもかでも、俺共《わしども》をひっ縛《くく》らねば承知《しようち》せぬ蛮性《ぱんせい》の男である。そ れで俺《わし》は二ヵ月《げつ》前から追廻《おいまわ》されて、とうとう天水桶《てんすいおけ》の中にまで寝起《ねおき》をして、どうしても東京 の非常線を潜《くぐ》って高飛をする事が出来ぬからこの日本橋署《にほんばししよ》の刑事《けいじ》に入れ込んで置いた同志《どうし》の 男の世話で、この櫓下《やぐらした》の越前屋《えちぜんや》と云う宿屋《やどや》に今夜から泊り込んだ訳である。さあこう名乗っ た上からは二人で俺の世話をして貰いたいのだ同じ掛り合に遭《お》うても、遭い景気《げいき》が良いよ、 |自由改進触売商人《じゆうかいしんふれうりあきんど》の掛り合では、掏摸《すり》の提灯持《ちようちんもち》位のものでだらしのない事|夥《おぴただ》しいものじゃ。 |俺《わし》の方は男らしい命と云《いう》ものが力の本となって、君国《くんこく》の為《ため》になら火が飛ぼうが、血が飛ぼう が、それでなければ首が飛ぼうが、三つの中《うち》に一《ひとつ》だけはたしかに飛ばなけりゃあ引込みの付 かない商売である。さあどうじゃ俺《わし》の世話を仕切らぬのなら、君方両人《きみたちりようにん》の世話好《せわず》きは、やは り人栄世話《ひとみえぜわ》、広告世話《こうこくぜわ》、掏摸《すり》の提灯持世話《ちようちんもちぜわ》である。さて何とか返事を仕てはどうじゃ、俺《わし》も もう絶体絶命《ぜつたいぜつめい》で、こう名乗ったからには、もし世話が出来ねば明日は早朝にのそのそと出掛《でか》 けて行って、三|島警視総監《しまけいしそうかん》に自首《じしゆ》をする覚悟《かくご》である。どうじゃ男は死んでも桜色《さくらいろ》、面白《おもしろ》から ねば暮《くら》せぬものじゃ、一|番《ばん》器用に垢抜《あかぬ》けの仕た返事《へんじ》を仕《し》て貰《もら》いたいものじゃ』 と云うて、じいっと両人《りようにん》の顔を見詰《みつ》めていたがその神《かみ》さんと云うのは、年頃五十ばかりで、 |胡麻塩頭髪《ごましおあたま》を小さな丸髭《まるまげ》に結《ゆ》い、茶微塵《ちやみじん》の襟付《えりつき》の袷《あわせ》を着て長火鉢《ながひばち》を前に長羅宇《ながらう》の煙管《きせる》を持て、 |眼《め》を見張《みは》っているが、その顔の色艶《いろつや》と云うたら、綺麗《きれい》と云わんより、むしろ崇高《すうこう》である。頸 筋《くびすじ》から咽胸《のどむね》に掛《か》けて、生来《せいらい》少しの粉黛《ふんたい》にも泥まぬ痕《あと》が昭《あきら》かに見えて、恰《あだか》も白玉《はくぎよく》の彫《ほり》に桃紅《とうこう》を 男勝りのお菊媼 |漉《そそ》いだようである。年相当に一面の小皺《こじわ》はあるが、耳目口鼻《じもくこうび》一|体《たい》の締《しま》り方《かた》は、三十六|相具足《そうぐそく》 の建窯名作観世音《けんようめいさくかんぜおん》の坐像《ざぞう》を見るが如しと云たい位である。  また一方の男と云うたら、色黒の小男で、顔一面の痘痕《とうこん》、これまた古銅名作《こどうめいさく》の勢多加童子《せいたかどうじ》 の如く、威勁《いけい》の中に一種|柔和《にゆうわ》の相《そう》を備《そな》えた形相《ぎようそう》で、木綿着物《もめんきもの》に紬《つむぎ》の紋付羽織《もんつきはおり》を着て、その火 鉢《ひばち》の向うに坐っている。そこに庵主《あんしゆ》が出し抜けに押込んで坐り込んだから、両人《りようにん》の争はどん と腰《こし》を折って双方目を見合せてぴったりと黙《だま》り込《こ》んだのである。ややしばらくしてその男の 人が口を開いた。 『君《きみ》は生国は何処《どこ》ですか』 『日本国《にほんこく》です』 『日本の何処《どこ》です』 『答えても差閊《さしつか》えはありませぬが、詰《つま》らぬ事を聞く人である。日本《にほん》は米国《べいこく》のミシガン湖水の 広さよりも小さい国ですよ。世界の広袤《こハつぽさつ》より見れば、一村落一|小字《こあざ》にも足らぬ国ですよ。そ の同村の同郷人《どうきようじん》に相違ない俺《わし》の、生れ故郷を聞いて何にします。俺は無名隠棲《むめいいんせい》の間に、この |御互郷国《おたがいきようこく》の危急《ききゆう》を見るに忍びず、我れを忘れて善悪《ぜんあく》ともに自から任じて努力しつつある一人 であるよ。それが賊官無法《ぞつかんむほう》の所為《しよい》に世《せ》を狭《せば》められて困っているから、喧嘩《けんか》までして人の世話《せわ》 を仕《し》たがる、君方《きみがた》両人に少しの間世話をしてくれよと頼むまでじゃ。嫌《いや》ならもうこれまでと 諦《あき》らめて、仕事を打切りにして、その賊官の方に出掛けるまでであると今はその話をしてい る処《ところ》じゃあないか』  こう云う時、その娼《ばあ》さんは曩《さつ》きから聞馴《ききな》れた鈴を鳴らすような声を振り立て、 『ああ、もう良《よ》いよ。判《わか》ったよ、世話《せわ》して上げるからもう話はお止《よ》しよ。お前さんはこの隣《となり》 の六畳に今日来た書生《しよせい》さんでしょう。何だか怪《おか》しな人と思うていたよ。いいよ安神《あんしん》お仕《し》よ…… よう鉄《てつ》ちゃん私が引受けるから……こんな木葉書生《こつぱしよせい》の一人や二人はどうでも仕《し》ますよ。心配 お仕でないよ。それは良《いい》が彼方《あのかた》の事はもうお前さん口出《くちだし》を止《よ》すでしょうね』 と云うとその男が、 『おいお菊《きく》、困るねえ私《わ》しゃあ大勢の友達に引受けて来たのだから、このままじゃあ帰られ ないよ』 と云、つとお菊媼《さくばあ》さん、口《くち》の傍《わき》をきりりっと締《し》めて心の底から忿怒《ふんぬ》の形相《ざようそう》を顕《あら》わしたから、庵 主《あんしゆ》はぷいとその座《ざ》を立って表へ出て、庵主の手下の刑事の宅に出掛《でか》けて行って、その妻君に |申含《もうしふく》めて、直《すぐ》に日本橋署《にほんばししよ》に遣って、その刑事《けいじ》を呼寄《よぴよ》せて貰《もろ》うて、手短かに前の顛末《てんまつ》を話して さて、 『こんな事からその二人の面白き話を、隣座敷《となりざしき》で聞いて手頃の者と思うたから、身の上を打 明けて一寸面白《ちよつとおもしろ》い鎌《かま》を引掛《ひつか》けて置《お》いたが、何にしても二人共鼻っ張りだけ強い奴許《やつぱか》りじゃか 男勝りのお菊媼 ら、荒胆《あらぎも》を抜《ぬ》いて遣《や》らなければ、役に立つ人間には成れぬと思う、君隙《きみすき》ならこれからこれこ れの方法で少し手伝ってくれ』 と云うとその刑事《けいじ》もなかなか面白い男であるから、 『それは丁度|好《い》い事がある、その高島《たかしま》(この人は今その御子息《ごしそく》が立派《りつぱ》に華族《かぞく》になっている人 であるから名前を包《つつ》んで置《お》く)と云う国事犯嫌疑《こくじはんけんぎ》、兇徒嚥集罪《きようとしようしゆうざい》の倶発者《ぐはつしや》は、今朝署長《けさしよちよう》から |内命《ないめい》を受けて、指証《ししよう》を渡され捜索《そうさく》を命ぜられている処じゃから、早速|逃《に》がす事に仕ましょう よ』 と相談をして、直《す》ぐに高島《たかしま》の隠家《かくれや》、植木棚《うえきだな》の植銀《うえぎん》と云う職人の家に出掛けて往《いつ》て、庵主《あんしゆ》は顔 馴染《かおなじみ》で度々|高島《たかしま》に面会に往った事がある故、その女房に云うて二階に上り込んだところが、 |高島《たかしま》はもう寝ていたが二人|連《づ》れで往《い》ったので、びっくりしてはね起きたからこれを押鎮《おししず》めて 理由を話した。 『先日君が依頼《いらい》した二人の書生は、確実に助けて無事に北海道《ほつかいどう》に遣《や》ったが、僕が今度はこれ これの境遇《きようぐう》になって、自分の事が旦夕《たんせき》に迫って来たから君の世話も出来なくなったが、ここ に同行《どうこう》したこの人は、日本橋署《にほんばししよ》の河辺刑事《かわべけいじ》である。今朝署長《けさしよちよう》から君の捜索逮捕《そうさくたいほ》の事を命ぜら れたとの話であって、幸《さいわい》に僕が年来|刎頸《ふんけい》の親友であるが為め同君の厚意《こうい》で君を今夜|直《すぐ》に当家 を立退《たちの》かせ高飛《たかと》びをさするのなら、きっとその余地《よち》があるとの事、明日《みようにち》になれば署員一同|評 議《ひようぎ》の上、各署《かくしよ》に通告《つうこく》して、区内《くない》の捜索線《そうさくせん》を確定《かくてい》するとの事である。故に直《す》ぐにこれから出立《しゆつたつ》 したまえ』 と云うと高島《たかしま》は非常に厚意《こうい》を謝《しや》して、 『実に再生《さいせい》の厚恩《こうおん》忘るる事は出来ぬ程有《ほどあり》がたいがこの二三日|脚気《かつけ》が起って、足部がこの通り に腫《は》れて起居《たちい》も不自由であるから、とても立退《たちの》きは不可能であろう』 と云うので、河辺《かわべ》は改めて名刺《めいし》を通じ、携帯《けいたい》の書類を見せて、 『脚気《かつけ》とあればなおの事、私の知人が安房《あわ》の北条在《ほうじようざい》にありますから、転地《てんち》には、もっとも屈 竟《くつきよう》であります。また途中は今夜十二時に、両国《りようごく》から利根川行《とねがわゆき》の川蒸汽《かわじようき》が出ますから、それに 乗って市川《いちかわ》まで行き、それから人力車《じんりきしや》で千葉《ちば》に行き、それから車《くるま》を替《か》えて木更津《きさらづ》に行き、ま た車を替えて北条《ほうじよう》に行き、この手紙を以て御養生《ごようじよう》になれば、何でもありませぬ』 と云うたので高島《たかしま》は非常に感謝して、早速|支度《したく》に取掛り、庵主《あんしゆ》は持っていただけの金を与《あた》え て、余り永《なが》くなると工合《ぐあい》が悪るいからと云うて、万事《ばんじ》を申含め、そこを河辺《かわべ》に託《たく》し、越前屋《えちぜんや》 へと帰って来たのが、丁度十一時頃であった。庵主《あんしゆ》は両人その後の様子如何《ようすいかん》と覗《のぞ》いて見たら、 |火鉢許《ひばちぱか》りで誰《た》れもいなかったから、そおっと自分の部屋に這入《はい》って寝てしもうた。翌朝にな ると、彼の植銀《うえぎん》の親爺《おやじ》が来て、お菊媼《きくばあ》さんに面会して、何か話していたら、さあ媼《ばあ》さん騒ぎ 出して、直《すぐ》に出掛《でか》けて行った。植銀《うえぎん》は素《もと》とり、懇意《こんい》な庵主《あんしゆ》が自分の出入先の越前屋に泊って 男勝りのお菊媼 いる事を知らぬから、誰《たれ》か自分の留守に二人来て、一人は先に帰り、一人が残って支度《したく》をし て、高島《たかしま》さんが女房に向い、 『今夜に迫《せま》りて警察《けいさつ》が捜索《そうさく》するとの報を得たから取敢《とりあ》えずこの家《や》を立退《たちの》く落着先きが極った ら知らすると、越前屋《えちぜんや》に内分《ないぷん》知らせて置いてくれ』と伝言《でんごん》をして立出《たちで》たとの事を話したので ある。それから越前屋《えちぜんや》の神《かみ》さんが、銀《ぎん》と銀《ぎん》の女房を呶鳴付《どなりつ》ける高島《たかしま》の不行届の立退方《たちのきかた》を恨《うら》み、 |自暴酒《やけざけ》を岬《あお》って怒り出すと云うような喜劇《きげき》があって、庵主《あんしゆ》はしきりに興《きよう》に乗り、その翌日に この顛末《てんまつ》をお菊綢皿《きくばあ》さんに話してまた一|場《じよう》の面白き話が持上るのである。  ちなみに曰くこの鉄《てつ》ちゃんと云うは、後には彼《か》の有名なる明治一代の老練紳士、朝吹英二 氏《あさぷきえいじし》であって庵主《あんしゆ》は初対面に正《まさ》にかくの如き面白き奇縁《さえん》が本となって交際したのである。また このお菊《きく》ど云う媼《ぱあ》さんは、彼《かの》有名なる横浜富貴楼《よこはまふきろう》の女将《おかみ》、お倉娼《くらばあ》さんの姉分《あねぶん》であって、この お菊媼《きくばあ》さんが昔日新宿《せきじつしんじゆく》で初菊《はつぎく》と云って、お職《しよく》を張《は》っていた時、お倉媼《くらばあ》さんを新造《しんぞう》に遣《つか》ってい たとの事である。庵主《あんしゆ》はこの編に於て朝吹氏《あさぶきし》とお倉媼《くらぱあ》さんとより聞得た事を材料として、こ のお菊媼《きくばあ》さんの伝記を追《おいおい》々と紹介するであろう。 三十四 |絶世《ぜっせい》の美貌《ぴぼう》が禍《わざわい》して   痴漢痴に因って其身を亡ぼし、 小娘難を逃れて他郷に吟う  庵主《あんしゆ》はその翌日お菊媼《きくばあ》さんに向い、 『君等《きみら》二人の咄《はなし》が余り馬鹿気《ぱかげ》ているから、その油揚《あぷらあ》げの玉とも云うべき、高島《たかしま》と云う兇《きようじ》 状 持《ようもち》を引俊《ひきさら》って、高飛《たかとび》をさせてしもうたのである。お前方では分るまいが、罪人がこの東京《とうきよう》の 非常線を破って高飛《たかとぴ》をすると云う事は、非常な困難《こんなん》な事である。僕は已《すで》に四ヵ月を費《つい》やして、 それが出来ずにとうとうお前方にまで厄介《やつかい》を頼《たの》む事になったのであるが、高島《たかしま》が昨夜やっと 無事に東京を出る事の出来たのは、まだ高島の為めに非常線が張られていず、その上|河辺刑 事《かわべけいじ》が逸早《いちはや》く尽力《じんりよく》してくれたからである。そこでお前と朝吹君《あさぶきくん》とで世話を争うた目当《めあて》の玉《たま》は無 くなったから、今度はいよいよ僕の世話《せわ》を両人に仕《し》て貰う事に問題が極ったので、僕は大安 心したところだ』 と云うている中《うち》に、彼《か》の植木屋|銀《ぎん》の女房が来て、庵主《あんしゆ》と顔を見合せ、 『あら林さん(僕の偽名《ぎめい》)貴方《あなた》はこちらにいらっしゃいましたか、まあ大胆《だいたん》な事ねえ、昨夜 宅《さくやたく》に入らっしゃった時も、ようまあ御無事《ごぶじ》で入らっしゃる事だと思うて、亭主《やど》にも高島《たかしま》さん 絶世の美貌が禍して のお友達が、お二人入らっしゃったとだけ申し置た位なんですよ、こちらのお神《かみ》さんのお世 話《せわ》にさえなっていらっしゃれば大安心なんですよ』 と云うとお菊媼《きくばあ》さんは最前からただ惘《あき》れたような顔をして庵主《あんしゆ》を見詰《みつ》めていたが、 『私《わたくし》もこれまで種《いろいろ》々の人の世話もして見たが、こんなずうずうしい書生《しよせい》さんは見た事がない わ……まあ好《い》いわ仕方《しかた》がないからお世話は仕《し》ますがね、一体どんな悪い事を仕たのですか、 構わないなら聞かせて下さいよ』 『どうも有難う、その事はもうこの銀公《ぎんこう》の神《かみ》さんも知っている事だから咄《はな》すがね、今度の問 題は外務大臣《がいむだいじん》と総理大臣《そうりだいじん》が、ある運輸会社と結託《けつたく》して、ある外交上の譲歩《じようほ》を意味して利益的 輸入品《りえきてきゆにゆうひん》を政府《せいふ》で買入れたと云う事を、僕の友人がその確証《かくしよう》を得て直接に当局に談判《だんぱん》を開いた ら、それを取上げぬのみならず、却《かえつ》て国事犯《こくじはん》の嫌疑《けんぎ》を以て捕縛《ほばく》せんとするから、俄《にわ》かに身を 隠し、それから書面に認《したた》めて、外相と総理とに、二三回も送り、それでも験目《ききめ》がないから、 最後には三|島警視総監《しまけいしそうかん》に、親展書《しんてんしよ》として訴えたところが、がらり官憲《かんけん》の態度が変り、強《し》いて |刑事有罪《けいじゆうざい》の欠席裁判《けつせきさいばん》を確定《かくてい》し、峻烈《しゆんれつ》な探偵《たんてい》を放《はな》ってこれを迫害《はくがい》し、昨年八月には九|段坂《だんざか》で端《はし》 なくも刑事三人に出会《でつくわ》したら、彼は有無とも云わず捕縛《ほばく》に掛ったので、同行の僕も見るに見 兼《みか》ねて、一|斉《せい》に右の刑事を三人共あの高い処から牛《うし》ケ淵《ふち》の濠《ほり》の中に投《ほう》り込んで、共に逃亡《とうぽう》し たところが、その刑事の一人が負傷入院の後死んだとか云う事である。それからその友人を 手早く遠隔《ズんかく》の地にふけさせたが、僕は全く従犯であるのに、却《かえつ》て正犯《せいはん》として僕の下宿の主人 からお手伝いに至《いた》るまでを拘引《こういん》して、言語《ごんご》に絶した迷惑《めいわく》を掛けたのである。僕はしばしば人 を以て、また書面を以てその寃《えん》を三|島総監《しまそうかん》に訴えたが、どうしても聴入れぬので、とうとう 下宿屋の迷惑《めいわく》を解《と》く為め自首《じしゆ》と決心した。ところがその下宿屋の主人が、非常な義佼《ぎきよう》な男で、 |断乎《だんこ》として僕の自首《じしゆ》を厳止《とど》め、もし従《したが》わねばその主人が偽《いつわ》りを自白《じはく》して、罪を受けるぞとま で云うので、僕が躊躇逡巡《ちゆうちよしゆんじゆん》の中《うち》に、とうとうかくの如く非常線を張られてしもうたのであ る。今でも僕は、素《もと》より自首《じしゆ》を覚悟《かくご》しているけれども、その肝心《かんじん》の外相と総理が、内外|結託《けつたく》 の証拠物件《しようこぷつけん》とも成《なる》べき書類をその友人が持って立退《たちの》いたから、僕の手許《てもと》にそれがない、それ でしばしば手紙で掛合《かけお》うても友人の居所不確実《きよしよふかくじつ》の為め、今に返事が来ぬところである。その 他|国事《こくじ》に対する官憲との衝突事件《しようとつじけん》は、明治十三年以来、数限もないが、今度の問題はざっと かくの通りであるのじゃ』 『お前さん方《がた》は本当に詰《つま》らない事で命掛《いのちが》けの喧嘩《けんか》ばかりを仕《し》ているのねえ……他所《よそ》のお店《たな》の |番頭《ぱんとう》さんが悪い事をしているのと思うたら、腹は立んじゃ有ませぬか、しかしそれもねえ、 お前さん方は元がお侍なら仕方がない、まあ何とかお世話を仕ますからゆっくりこの家《うち》に入《い》 らっしゃいよ』 と云うので、やっと安心をして、庵主《あんしゆ》は天水桶《てんすいおけ》の中に寝る事だけの苦艱《くかん》は免《まぬ》かれたのである。 絶世の美貌が禍して さてこの辺で一寸この媼《ぱあ》さんの履歴《りれき》を大略云《たいりやく》わねば百|魔伝《までん》にならぬ故ここらでぽつぽつと 書初《かきはじ》めるのである。  雪閉《ゆきと》ずる、越《こし》の県《あがた》に翠《みどり》なす、松《まつ》に縁《えん》ある敦賀在《つるがざい》に、代々|郷代官《ごうだいかん》を勤《つと》めたる、小畑六郎右衛 門《こぱた ろうえもん》と云う人があった。元《もともと》々|由緒《ゆいしよ》正しき京侍《きようざむらい》の家筋《いえすじ》にて、先祖より文武の道を貴《たつと》び、家|富《と》み |栄《さか》えてもっぱら慈悲善根《じひぜんこん》の道を行い、近郷近在《きんごうさんざい》の民百姓は、只管《ひたすら》その徳風《とくふう》に靡《なぴ》き、父母の如 く親み懐《なつ》きしが、時世《ときよ》に変る紫陽花《あじさい》の、色褪勝《いろあせがち》の人心《ひとごころ》、六|郎左衛門一人《ろうざえもんひとり》の愛娘《まなむすめ》、お菊《きく》と云え るが十三歳の時、同敦賀郡《おなじつるがごおり》の従者郷《とむべごう》の富者《ふうしや》、粟野金《あわのきん》右|衛門《えもん》の忰《せがれ》、金《きん》十|郎《ろう》なるもの、容姿形質《みめかたち》 人《ひと》に勝《すぐ》れたるにも似ず、心様《こころざま》宜《よろ》しからず我家の有福《ゆうふく》に慢《まん》じ、人を人とも思わずして、壮若《そうじやく》 の頃より酒色《しゆしよく》に泥《なず》み、近郷《きんごう》の酒肆《しゆし》に出入し、村里《むらざと》の年若き女共に戯《たわむ》れて、騷慢《きようまん》の挙動《ふるまい》のみ多 かりしが、何時の頃よりか、六|郎左衛門《ろうざえもん》の娘、お菊《きく》が絶世《ぜつせい》の美貌《ぴぼう》に目を着け、折もがなと窺《うかが》 いおりしが、その年の夏、白木浦《しろきうら》の、鵜羽明神《うのはみようじん》の祭礼《さいれい》に詣《もう》でんと奴婢両人《しもべりようにん》に伴われて、お菊《きく》 の出往《いでゆ》くを垣間見《かいまみ》しより、知らず顔にて儕《おの》れも往き、群集の中にて奴婢《しもべ》の油断《ゆだん》を見澄《みすま》し、手 早くお菊嬢を引俊《ひつさら》い、とうとうそれより一|里《り》ばかりもある、立石岬《たていしみさき》と云える所に誘拐《ゆうかい》し来《きた》り、 ついに鬼《おに》をも恥《は》ずる所業《しよぎよう》を、敢《あえ》てせんとしたる時、春《はる》の若菜《わかな》に斉《ひと》しかる、まだ十三の早乙女《さおとめ》 が、金《きん》十|郎《ろう》の手挟《てばさ》みし、尺許《しやくばかり》の小刀抜取《しようとうぬきと》って、左の肋《あばら》へ突込みし、痛手《いたで》に耐《た》えず金《きん》十|郎《ろう》は、 お菊《きく》を脇《わき》に抱《かか》えしままに、数丈の崖《がけ》を踏外《ふみはず》し、荒浪砕《あらなみくだ》く海中へ、真逆様《まつさかさま》に落込んだのである。 そもそもこの立石岬《たていしみさき》と云うは、敦賀湾《つるがわん》西方の半島地にして、今は灯明台《とうみようだい》を設け、光力十《こうりよく》五|海 里《かいり》を照《てら》すと云う。その側《そば》に往昔《むかし》は三|島明神《しまみようじん》ありしと、即《すなわ》ち延喜式《えんぎしき》に三前明神《みさきみようじん》というはこれで ある。この辺は総て峭立《しようりつ》せる岩石《がんせき》にて構成した処《ところ》であった。昔より各種の犯罪等は、種《しゆじゆ》々の |様式《ようしき》にて、この地に密議《みつぎ》せられた事があるのである。この立石岬《たていしみさき》の東南が所謂色《いわゆるいろ》の浜《はま》と云う |処《ところ》で彼《か》の西行法師《さいぎようほうし》が、 『しほさゐにますをの小貝拾《おがいひろ》ふとて色《いろ》の浜《はま》とは云《い》うにやあるらん』 と云いしも、また芭蕉翁《ぱしようおう》が、 『さびしさや須磨《すま》にかちたる色《いろ》の浜《はま》』 と云いしもここである。彼《か》の六|郎左衛門《ろうざえもん》の愛娘《まなむすめ》、絶世《ぜつせい》の美人お菊は、一|時兇漢金《じきようかんきん》十|郎《ろう》と共に、 この立石岬《たていしみさき》、色《いろ》の浜《はま》の、底《そこ》の藻屑《もくず》と消え失せたのである。ここに恰《あだか》も、小説の如き事実を物 語るものは、彼《かの》お菊媼《きくぱあ》さんの、左の角額《すみぴたい》の毛《け》の中に掛けた、長さ二寸余の裂傷《れつしよう》の痕《あと》あること である。これがその時受けた創痕《きずあと》であって、この女性《じよせい》が幼少よりの気象を偲《しの》ばす何よりの証 拠《しようこ》である。丁度|墜落《ついらく》した刹那《せつな》か、または少許《すこし》の時間を経過したる後か、そこは分らぬが、そ の汀近《みぎわ》く通り掛った一|艘《そう》の船は、松前通《まつまえがよ》いの長門船《ながとぶね》であって、船頭《せんどう》の名は儀《ぎ》三|郎《ろう》、妻《つま》の名は ふき、船《ふね》の名は久栄丸《きゆうえいまる》、と云うのであったとの事、綺麗《きれい》な振《ふ》り袖姿《そですがた》の小娘《こむすめ》が、浪《なみ》に巻《ま》かれて いるのを、ちらと見た船頭《せんどう》の儀《ぎ》三|郎夫婦《ろうふうふ》は、無意識にこれを船に引上げて、介抱《かいほう》した。船は 絶世の美貌が禍して |晩風《ばんぷう》に孕《はら》んで、ひた走りに走っている、妻《つま》がしきりに介抱《かいほう》する中《うち》にお菊《きく》はその夜の中に蘇生《そせい》 した。船は幾日の後|丹後国《たんごのくに》に仮泊《かはく》した。段《だんだん》々少女の咄《はなし》を聞くにつけ、夫婦《ふうふ》は復異心《またいしん》を起した、 最早|朧気《おぽろげ》にこの少女の素性《すじよう》も、国処《くにところ》も分らぬでもないが、いかにも天《てん》の成《な》せる美貌《ぴぼう》である、 それに無教育なる船頭夫婦の事であるから、報告や文通の手間も遅緩《もど》かしく、また子無《こなし》の夫 婦《ふうふ》は、可愛《かわい》くなったのと、末の頼母《たのも》しさとの慾《よく》とがごっちゃになって、夫婦相談の上この少 女を、騙《だま》し賺《すか》す事に骨を折ったのである。 『きっとお父さんの処《ところ》に送り届けて上げますよ』 『もう手紙を出して置いたから迎いに来ますよ』 など出鱈目《でたらめ》ばかりを云うて、津《つづ》々|浦《うらうら》々に仮泊《かはく》し、日を累《かさ》ねて落付いた処《ところ》が長門《ながと》の下《しも》の関《せき》であ る。その中《うち》にその年も暮れ、お菊は十四の春を迎えたので、いよいよ天然《てんねん》の麗質美容《れいしつぴよう》は発揮《はつき》 して来た。その船頭《せんどう》の親方である、下《しも》の関豊前田《せさぷぜんた》の、大浦丸《おおうらまる》の重蔵《じゆうぞう》と云える者は、沢山の船 も持っている上に、人格《じんかく》も立派《りつば》な男であったので、儀《ぎ》三|郎《ろう》が、 『今度|娘《むすめ》を一人|貰《もろ》うて来まして、私共も夫婦《ふうふ》で働《はたら》き景気《ぱえ》が出来て来ました』 など云う口振《くちぷ》りが、どうも合点《がてん》が行かず、何か仔細《しさい》の有る事と高《たか》を括《くく》って重蔵《じゆうぞう》は、 『それは良《よ》かった、しかしお前達も海上万里《かいじようぱんり》の旅稼《たぴかせ》ぎであるから、娘《むすめ》っ子《こ》の養育《よういく》は出来る事 で無《ね》え、どうじゃその娘《むすめ》を俺《おれ》にくれるなら、きっと一|資手《もとで》の金を遣ろうがどうじゃ』 と荒木《あらき》を切って云われたので、ぐずぐず云《い》やあ根掘《ねほ》り葉掘《はほ》り、尋《たず》ね兼《かね》まじき親方の剣幕《けんまく》であ るから、夫婦相談の上、ただ、 『へいへいこの娘《むすめ》が仕合せでござりますから』 と云う一|言《ごん》で、大枚《たいまい》百両の金で、この娘を親方に売って、また帰期《きき》も分らぬ、浪の上の人と なって、松前《まつまえ》へと碇《いかり》を抜《ぬ》いたのである。それから重蔵は、ぼつぼつとお菊《きく》の身《み》の上を尋ね始 めたが、そこがお菊《きく》が人並外れた、悧巧《りこちつ》な娘であるから、きっと考えた。 『自分は事情《じじよもつ》はあるがたしかに人を殺した』 と心で繰《く》り返し、国処《くにところ》や父の名前を、云うて宜《い》いか知らぬ、と容易に実状《じつじよう》を打明けなかった。 |重蔵《じゆうぞう》もまた苦労人でもあるし、何か事情のある事と思うから、無理《むり》にもそれを聞かなかった。 お菊はまた子供《こども》ではあるし未丁年《みていねん》の犯罪《はんざい》とか、相手が名代《なだい》の兇漢《きようかん》であるとか、そんな事は分 らぬ、ただ、 『人殺《ひとごろ》しく、お父様《とうさま》に難儀《なんぎ》が掛《かか》りはしまいかく』 ばかりが頭に往来《おうらい》している、その後《ご》はただ起居振舞《たちいふるまい》もきびきぴと、家内《かない》の事を立働いている ので、重蔵夫婦も二なき者に思い、心に有《あ》りたけの慈《いつくし》みを垂《た》れて、養育《よういく》していた。その年も 暮れてお菊は十五の春を迎えた。その年の三月に、養い親の両親《りょうしん》が、年長《とした》けた自分の為めに、 |盛《さか》んな雛祭《ひなまつ》りをしてくれたので、それを見てきっと思案《しあん》を定《さだ》めた。 絶世の美貌が禍して 『自分が梶《おさ》な心に覚《おぽ》えている、国に有りし時の雛祭《ひままつ》りはこうであったああであったと、また 実親は三年のこの年月《としつき》の間に、いかに暮《くら》しているのであろうか、なんとかしてその実状《じつじよう》を聞 たい、それには慈愛《じあい》の養父《ようふ》には済《す》まぬが、重蔵《じゆうぞう》の取引先《とりひきさき》の敦賀《つるが》の問屋若狭屋久右衛門《とんやわかさやきゆうえもん》に委細 事情《いさいじじよう》を書いて、手紙を出して国許《くにもと》の事情を聞いて見たい』 とこう考えを定めて、手代《てだい》の清《せい》七と云う老人を賺《すか》して、程能《ほどよ》く手紙を書かせ、便を得てその 手紙を送ったが、丁度その年の暮れ十二月の初めに、養父《ようふ》の重蔵《じゆうぞう》は晩酌《ぱんしやく》の居間へ、一寸お菊《きく》 に来いと呼寄《よびよ》せられた。何の気もなく行って見たら、妻も遠ざけて重蔵一人で、 『お菊《きく》や、今夜《こんや》は面白い手紙を読んで聞かせるぞ』 と養父が読聞かせた手紙は、敦賀《つるが》の若狭屋久右衛門《わかさやさゆうえもん》から父に来た返事《へんじ》であるその大略《たいりやく》に曰く、 『お尋ね越《こし》の松原郷《まつばらごう》の御代官《おだいかん》(小畑《こぱた》六|郎左衛門《ろうざえもん》の事)は一昨年夏、白木祭礼《しろきさいれい》の夜に一人娘《ひとりつこ》の お嬢様が行方不明となられて、近郷近在《きんごうきんざい》大騒ぎとなりしが、誰《たれ》云うとなく徒者郷《とむべごう》の粟野金右《あわのきんえ》衛 |門《もん》の忰金《せがれきん》十|郎《ろう》が誘拐《かどわ》かせしと云い始め、お上よりも御詮議《ごせんぎ》の役人|御出張《ごしゆつちよう》の末、数日の後|金《きん》十 |郎《ろう》の死骸《しがい》は、鷲島《わしじま》の浦辺《うらべ》へ打上げ、検視《けんし》の上|左《ひだり》の脇腹《わきばら》に突傷《つききず》ありて、自殺か他殺か、不相分《あいわからず》、 その上|立石岬《たちいしみさき》の岩原《いわはら》と云う処に、お嬢様の管《かんざし》と草履《ぞうり》が片足落散《かたあしおちち》っていたので、いよいよ御上《おかみ》 の御不審《ごふしん》も深くなった。その節は金十郎も、お嬢様と共に相果たものと評議は一決した由。 その後|強慾《ごうよく》の金右衛門一家は、近在諸郷《きんざいしよごう》の悪《にく》しみいよいよ深くなり、昨年の飢饅《ききん》の節《せつ》に、と うとうその金右衛門相手の一|揆《き》が起《おこ》り、御領主様《ごりようしゆさま》の御執鎮《おとりしず》めにより、金右衛門は今に入牢し ていて、身代《しんだい》は欠所《けつしよ》となった。また小畑御代官様《こばたおだいかんさま》は、御自身《ごじしん》に支配下の百姓不取締《ひやくしようふとりしまり》にて、一 |揆等《きら》の騒動《そうどう》を起し、御上《おかみ》に御手数《おてすう》を掛《か》け奉《たてまつ》りしは、私の不行届《ふゆきととき》武士の一|分不相立《ぷんあいたたず》と、恐入《おそれい》り を申出られ、御引籠《おひきこも》りの末|昨年《さくねん》九月十七日御病気にて御逝去《おかくれ》になりました。外《ほか》に御子様《おこさま》も無《な》 き事故《ことゆえ》、御身上《ごしんじよう》一切は、御遺言旁御上《ごゆいごんかたがたおかみ》の御指図《おさしず》にて、御親類様御《ごしんるいさまご》一同にて御預《おあずか》りとなった。 |近郷近在《きんごうきんざい》の者共は、永年御仁徳《ながねんごじんとく》の御代官様《おだいかんさま》や御嬢様の御菩提《ごぽだい》の為《た》め、今年は立石岬《たていしみさき》に灯籠流《とうろうなが》 しをして御供養《ごくよう》を仕《し》まして、三十ヵ寺の僧侶《そうりよ》と群集の老弱男女《ろうじやくだんじよ》は、御念仏《ごねんぷつ》を手向《たむ》けました。 この日は新御代官《しんおだいかん》の藤脇権右《ふじわきごんえ》衛|門様《もんさま》も御出張《ごしゆつちよう》に相成《あいな》った』 |云《うんぬん》々の筋合《すじあい》を叮檸《ていねい》に書いた手紙であった。これを聞いたお菊は耐《こら》えに耐《こら》えたが、とうとうわっ とこの場に泣倒れたのである。 三十五 |繊弱《かよわ》き腕《うで》に強盗《ごうとう》を生捕《いポど》る   奉公身を投じて大義を助け、 挺身敵を打て火薬庫を救う  さてもお菊《きく》は、己《おの》れが養父|重蔵《じゆうぞう》の名《な》を仮《か》りて出した手紙の返事が重蔵の手に入りしは当然 の事にてこれを読聞《よみき》かされて、初めて故郷《こきよう》の有様《ありさま》を聞き、これまで包《つつ》みし身の素性《すじよう》もさらり と分り、また実父|死亡《しぼう》の後に、殆んど絶家《ぜつけ》の有様にて、殊《こと》に金《きん》十|郎《ろう》の横死《おうし》が、自殺《じさつ》か他殺《たさつ》の |嫌疑中《けんぎちゆう》にあって、就中《なかんずく》自分は死んだ事に確定《かくてい》したりと云う評判まであると、事明細《ことめいさい》の文通に て、世事《せじ》に敏《さと》き養父重蔵は、忽《たちま》ちにしてその大要を覚《さと》ったのでお菊《きく》は今は、秋毫《すこし》も、身の上 を包むの必要を認めぬ事となったので湧佗《はふりおつ》る不覚《ふかく》の涙《なみだ》を止《とど》めも敢《あ》えず平伏《ひれふし》して、 『浮世《うきよ》に類《たぐ》い稀《まれ》に見る、奇《く》しき時運《じうん》に取捲《とりま》かれ、我のみならず親までも、浮《うか》ぶ瀬《せ》のなき有様《ありさま》 を、この文《ふみ》により知るからは、枝に離れし小猿《こましら》の、沈《しず》む淵瀬《ふちせ》に影探《かげさぐ》る、月さえ暗《くら》く鳥羽玉《うぱたま》の、 |闇《やみ》に彷徨《さまよ》うこの身はも、この末如何《すえいかが》なるべきか、ただひたすらに父君の、情《なさけ》の袖《そで》の蔭《かげ》に伏《ふ》し、 世に恐《おそ》ろしき道筋《みちすじ》を、辿《たど》る知《しる》べを為《な》したまえ』 と、涙《なみだ》と共に取付《とりつ》いたので、侠肌気質《いさみかたぎ》の重蔵《じゆうぞう》も、しきりに同情の涙を催《もよ》おし、 『磯《いそ》の千鳥《ちどり》の片羽《かたは》さえ、憩《いこ》う間《ま》もなく吹《ふ》き荒《すさ》む、乙女若葉《おとめわかぱ》の葭葦《よしあし》を、揉《も》み砕《くだ》くまで渦風《うずかぜ》の、 |止《や》む隙《ひま》もなき禍運《とがつみ》を、如何《いか》で凌《しの》がん術《すべ》さえも、知らぬおことが今の身は、片帆《かたほ》ながらに重蔵《じゆうぞう》 が、年頃取りし揖柄《かじづか》の、腕のさえにて育《はぐ》くまん、千|石船《ごくぶね》に乗《の》った程《ほど》、安心《あんしん》とまで行かずとも、 |碇《いかり》を卸《おろ》して心《こころ》から誠《まこと》の父《ちち》と思《おも》うべし、我《われ》またおことのその外《ほか》に、子《こ》と思うものあらざるべし』 と、いと頼母敷詞《たのもしくことば》を尽《つく》し、慰《なぐさ》めくれし親切に、お菊《きく》はそれより束《つか》の間《ま》も、父よ母よと呼び返 し、他《あだ》し塒《ねぐら》の時鳥《ほととぎす》、子ならぬ親に真心《まごころ》の、孝《こう》を尽《つく》して今日と逝《ゆ》き、明日と暮してとうとうお |菊《きく》は、十八の春を迎えたのである。この時が丁度|嘉永《かえい》五年、畏《かしこ》くも明治天皇御降誕《めいじてんのうごこうたん》の吉辰《きつしん》に して、山間僻阪津《さんかんへきすうつつ》々|浦《うらうら》々まで、杵臼《ききゆう》の音の大空に、轟《とどろ》くまでに祝い込め、万民自然《ばんみんしぜん》と声を揃《そろ》 え、ただ万歳《ばんざい》とこそ叫んだのである。爾来国歩《じらいこくほ》の艱難《かんなん》は、世界の潮と諸共《もろとも》に、我島《わがしま》ケ根《ね》に押 寄《おしよ》せて、歴史に未曾有《みぞう》の光彩を、放つに連れて天照《あまてら》す、神の威稜《みいつ》も弥高《いやたか》く、この聖天子《せいてんし》の御 代《みよ》にして、欧亜《おうあ》の強き国々も、撫《な》で懐《なづ》け玉うべき、宏大無辺《こうだいむへえい》の勲《さおし》を、知《し》ろし召《め》すべき聖徳《せいとく》の、 始めはここに萌《きざ》したのである。即《すなわ》ちそれがこのお菊十八歳の秋《あき》、九月二十二日の事である。 まだ世馴《よな》れざる香《かおり》を軍《こ》め、憂霜《うきしも》さえも白菊《しらぎく》に、置惑《おきまど》わせぬ年栄《としぱえ》で朝日出《あさひい》ずるか山の端に、祥 雲蒸《みずくもむ》してこの聖皇《きみ》の、天降《あまくだ》らせ玉《たも》う事《こと》、お菊《きく》が命百八千代《いのちももやちよ》、続かん限り忘れ得で、寿《ことぶ》き込《こ》め る思い出である。  お菊《きく》は只管《ひたすら》に重蔵夫婦《じゆうぞうふうふ》に孝養《こうよう》を尽して、家内の事を立働いていたが、何様《なにさま》一|暼《べつ》の風相忽《ふうそうたちま》ち に、人目を牽《ひ》く程の美人であるから、場《ば》狭き鄙《ひな》の人心、出入|数多《あまた》の若者等は、為《な》すべき用事 も打忘れ、お菊《きく》の噂《うわさ》のみで持切る有様であった。養父重蔵は、物馴《ものな》れたる男故、家門の災《わざわい》は 必ず、子女の容色《ようしよく》に因《いん》するを悟《さと》り、程遠からぬ長府《ちようふ》より、幸次郎《こうじろう》となん云える、器量心立《きりようこころだて》も |健《すこ》やかなる若者を迎えて、お菊《きく》の婿《むこ》がねとなし、家事一切を引渡して、稼《かせぎ》の道《みち》に就《つ》かしめ、 自分夫婦は、裏手《うらて》に小《ささ》やかなる離家《はなれや》を構え、それに引入りて商売を監督《かんとく》していたのである。  月日に関守《せきもり》なく、それより八九年の年月は夢の間と過ぎ、お菊は二十八九歳の年増盛りの |世話女房《せわにようぽう》となり、二人の愛児《あいじ》さえ産《もう》け、人の母となりし頃、父重蔵は已に六十路《むそじ》の坂を越え、 纎弱き腕に強盗を生捕る |戴《いただ》く霜《しも》は深《ふか》けれど、磨く心は氷なす、関《せき》の名物男気《めいぷつおとこぎ》の重蔵親分《じゆうぞうおやぶん》と崇《あが》められ、養子《ようし》息子の幸次 郎《こうじろう》も、舅《しゆうと》の気質《きしつ》を商売の、表と共に受継いで、多くの人に達《た》てらるる、気負《きお》いの名をば売っ ていたが、丁度|文久亥《ぶんきゆうい》の年《とし》は、長藩《ちようはん》血気の雄夫《ますらお》が、攘夷《じようい》の旗《はた》を押《おし》立てて、毛臭《けぐさ》き夷《えびす》の軍艦《ぐんかん》に、 |命《いのち》と共に強薬《つよぐすり》、籠《こ》めて打出す鉄砲《てつぽう》は、響《ひぴき》と共に海峡《かいきよう》の、雲《くも》と浪《なみ》とを躍《おど》らせて、人の心の底ま でも、轟《とどろ》き亘《わた》る戦は、三百年の太平《たいへい》に、眠り腐《くさ》りし夢魂《むこん》をば、打覚《うちさ》ましたのであるが、この 事を逸《いち》早くも知ったる重蔵親子の者は、人より先きに割って入り、船の用意は申すに及ばず、 |陸上人夫《りくじようにんぷ》の手配まで、目覚《めざ》ましきまで立働き、父重蔵は敵艦《てきかん》より、打出す弾《たま》の煽《あおり》を受け微塵《みじん》 となってその場に…鐇《たお》れ、間もなく母も病死して、残れるお菊夫婦《きくふうふ》は、藩庁《はんちよう》より厚き手当《てあてこ》を蒙《うむ》 りしが、跡《あと》を弔《とむら》う間《あいだ》もなく、幸次郎《こうじろう》が気立殊勝《きだてしゆしよう》なりとあって、藩庁《はんちよう》の内命《ないめい》を受け、江戸表《えどおもて》、 |幕府《ばくふ》の状況隠密《じようきようおんみつ》の探偵《たんてい》として、差遣《さけん》せられたるは、勝浦《かつうら》の儀助《ぎすけ》、関《せき》の幸次郎《こうじろう》二人であった。  そこで幸次郎《こうじろう》は儀助《ぎすけ》と相談の結果、隠密《おんみつ》とあれば、女房連れを便利とすると云う事になり、 |儀助《ぎすけ》は子供なければ、幸次郎は二人の子を扶持付《ふちづけ》にて親戚《しんせき》に養子に遣《や》り、再び生きて帰らざ る、堅《かた》き心をお菊《きく》にも云い聞かせたので、素《もと》より男勝《おとこまさ》りの女故、一|議《ぎ》に及ばず了諾《りようだく》し、夫婦 |死生《しせい》を共々と、四人《よたり》の誓《ちか》いも山鳥《やまどり》の、長門《ながと》の国《くに》を跡《あと》にして、隠密《おんみつ》の隊長村井某と共々に、手 船《てぶね》の纜解《ともづなと》くくに、外廻りをして、出雲国松江港《いずものくにまつえみなと》に碇《いかり》を卸《おろ》し、それより陸行《りつこう》して大阪《おおさか》に出《い》で、 |木曾路《きそじ》を辿《たど》りて、とうとう江戸《えど》へ出《で》たのである。それより江戸での隠密《おんみつ》に、幾多の苦労為し たる末、儀助幸次郎《ざすけこうじろう》の相談にて、おのおの女房を遊廓《ゆうかく》に勤《つと》め奉公《ほうこう》をさせて、探偵第《たんていだい》一の手蔓《てづる》 を得《え》んとここに捨身《すてみ》の決心を定め、これをお菊《きく》にも申聞《もうしき》かせ、その秋の八月に、お菊《きく》は新宿《しんじゆく》 の相模屋《さがみや》と云うに、初菊《はつぎく》と名乗《なの》って店を張り、儀助《ぎすけ》の妻《つま》は(本名《ほんみよう》を逸《いつ》した)若菜《わかな》と云うて、 客を迎うる事になったのである。お菊《きく》が身《み》を遊女《ゆうじよ》に沈めたは、二十九歳の時であるが、何様 美人《なにさまぴじス》の聞えある女故、たちまちにして廓《くるわ》の評判高く、僅《わず》か一年立つか立たぬに、お職《しよく》を張る 事になったのである。  ここまでが、お菊《さく》が新宿《しんじゆく》に勤《つと》めをするまでの、大略であるが、ここに至たるまでの、奇事 珍話《きじちんわ》は、拙《つたな》き筆《ふで》に書尽せぬほどの事共が沢山ある故、章を追うてぼつぼつと記述するであろ う。  ます第一に書くが、お菊《さく》が幸次郎《こうじろう》と結婚して、一年ばかりも立ちし頃、薩州《さつしゆう》の探偵《たんてい》として、 |長州《ちようしゆう》に入り込みおりし波多野桂助《はたのけいすけ》と云える者、久留米浪人《くるめろうにん》と称して、しきりに勤王《きんのう》の説《せつ》を唱《とな》 え、博多《はかた》より来る船便《ふなびん》にて、下《しも》の関《せさ》に来《きた》り、重蔵方《じゆうぞうかた》に止宿《ししゆく》し、為《な》す事もなく日を送りしが、 たちまちにしてお菊《さく》の容色《ようしよく》に惑溺《わくでき》し、晩酌給仕《ばんしやくきゆうじ》の砌《みぎり》に乗《じよう》じて有《あら》ずも哉《がな》の不躾《ぷしつけ》を云うて戯《たわむ》れ掛 りしを、お菊《きく》は旅人《たぴぴと》相手の商売|柄《がら》とて、柳《やなぎ》に風《かぜ》と綾《あや》なしていたが、果ては食《く》われぬ山梨《やまなしつ》に礫《ぷて》 を打って身を谷底《たにそこ》に沈めんとする、馬鹿《ばか》の本性を現わし来りし故、お菊《きく》はたちまちこれを夫 幸次郎《おつとこうじろう》に物語りしに、幸次郎《こうじろう》はこれを父なる重蔵に咄《はな》したところ、重蔵はしばらく腕《うで》を組ん で、 『それこそは一大事《 だいじ》の良《よ》き事である、初めより物騒《ぷつそう》の人柄《ひとがら》とは見ていたが、詞《ことば》の端々《はしはし》に、決 して久留米藩《くるめはん》ではない、きっと薩摩《さつま》に相違ない、左《さ》すれば我長州《わがちようしゆう》より、薩摩《さつま》に隠密《おんみつ》を送りし 事、已《すで》に数人に及びたれ共、未だその生死《しようし》さえも分らぬとの事であるが、もしあの人が薩摩《さつま》 の探偵《たんてい》なら、長州《ちようしゆう》に取っての宝物《たからもの》である、お菊《きく》と共に相談《そうだん》して、かくかくの方法にて、居《い》な がら薩摩《さつま》の有様《ありさま》を知る手段こそ肝要である』 と云うので、幸次郎《こうじろう》は直ちにお菊《きく》と咄合《はなしあ》い、彼《か》の波多野《はたの》の馬鹿侍《ばかざむらい》を、釣り上げる手段に取掛っ たのである。それよりお菊《きく》は、親父《おやびと》の命によりて、波多野《はたの》を綾《あや》なしていたが、これが、浮《うい》た る稼業《かざよう》に生れた女と違い、仮《か》りにも武士の娘なる故、就《つ》かず離《はな》れずの機合《かねあい》を、七分三分《 ぷ ぷ》に辿《たど》 る事、素《もと》より一通りの困難《こんなん》ではない。ある時お菊《きく》はきっと心を定めた。人を謀《はか》るに詐《いつわり》を以て すればこそ、かくばかり困難もあるべけれ、誠《まこと》を以て無上の謀計《ぼうけい》となす時は、かかる苦労は なき筈《はず》なりと、ある日人なき処《ところ》にて、波多野《はたの》と語《かたろ》うた。 『数《かず》ならぬ、卑《いや》しき身分の我々を、左程《さほど》までに思召《おぽしめし》て下《くだ》さるるお心の程は、女|冥利《みようり》も恐ろし く、難有程《ありがたきほど》の限りではござりまするが、何《いずれ》にしても夫《つま》ある身《み》、恋《こい》の習《なら》いと諸共《もろとも》に、道なき道 を踏分《ふみわ》けて、危《あやう》く渡る丸木橋《まるきばし》、好《よ》し落《お》ちずとも末永く、人たる道を誤《あやま》らば、唯《ただ》さえ重きお身 分の、後の栄《さかえ》を如何《いか》にせん、愛《めで》らるる程我もまた、君《きみ》の行末《ゆくすえ》繰返《くりかえ》す、小田巻糸《おだまきいと》の本末《もとすえ》は、乱《みだ》 るる物と思召《おぽしめし》、耐《た》え難《がた》き思を忍《しの》ぶこそ、互《たが》いの誠《まこと》と申べけれ、殊更君《ことさらきみ》は久留米藩《くるめはん》と偽《いつわ》り玉《たま》え ど、日本諸国《にほんしよこく》の旅人《たぴぴと》を客として、稼業《かぎよう》を営《いとな》む我家《わがいえ》の、父も夫《おつと》も初めより、お国訛《くになま》りの端《はしはし》々に、 |疾《とく》より君を薩州《さつしゆう》のお侍《さむらい》とは知り居《お》るなり、今|薩長《さつちよう》の両国は、表面《うわべ》を詐《いつわ》り裏腹《うらはら》は、互いに隠密 往来《おんみつおうらい》し、申さば白刃《はくじん》の林なる、敵陣に入り玉《たも》う御身《おんみ》なり、もしも誤り玉《たも》う時は、お身の上こ そ気遣《きづか》わし、況《いわ》んや我家《わがいえ》は父夫《ちちつま》とも、藩主《はんしゆ》の御用《ごようう》を承《けたま》わる、義情《ざじよう》固き性質《さが》なれば、知らざる 事にも目を注ぐ、入込む多くの旅人は、御身《おんみ》ばかりの事ならず、已《すで》に御身を薩州《さつしゆう》の、お侍と 知る上は、針の落ちる音までも、決して油断致すまじ、妾《わらわ》が痴《おろ》きお諌《いさ》めも、御身《おんみ》を思う為め ぞかし』 と、説《とき》聞かせたので浪人《ろうにん》は、夢《ゆめ》の覚《さ》めたる有様《ありさま》にて、しばしお菊《きく》を見詰《みつ》めていたが、この時 は父重蔵《ちちじゆうぞう》と夫幸次郎《おつとこうじろう》の手には、波多野《はたの》が数通の報告書《ほうこくしよ》を、博多通《はかたがよ》いの便船《ぴんせん》に托《たく》した物を没収《ほつしゆう》 して、これを阿弥陀寺町《あみだじまち》の奇兵隊《きへいたい》の屯所《とんしよ》へ報告し、却《かえつ》て薩州《さつしゆう》へは、反対の偽《に》せ報告を送る事 となり、また波多野《はたの》に来る多くの書面も、皆重蔵親子の手にて、奇兵隊《きへいたい》の手《て》に交附せられた のである。このお菊《きく》の注告より、波多野は段々|身辺《しんべん》の事に注意を仕初めたが、胆玉《きもだま》も落《おと》さん ばかりに驚いたのは、自分が堅く秘め置たる、荷物の中なる往復《おうふく》の秘書《ひしよ》全部は、何時《いつ》の間《ま》に か一|品《しな》も残さず抜取《ぬきと》られていたので、死人《しにん》に斉《ひと》しき顔色となって、その夜の中《うち》にお菊に宛《あて》た る、一封の書面を残し、見事腹《みごとはら》を切って死んでいたのである。翌朝に至りお菊《きく》はこれを見出 繊弱き腕に強盗を生捕る し親夫《おやおつと》にも告《つ》げて、その侍《さむらい》の心情《しんじよう》を憐《あわ》れに思い、引接寺《いんしようじ》の墓地《ぽち》にこれを埋《うず》めて、お菊《きく》が下《しも》の |関《せき》にいる間は、墓参香華《ぽさんこうげ》を怠《おこた》らなかったとの事である。  またある時、下《しも》の関《せき》に於ける、煙硝倉《えんしようぐら》の番頭某《ばんがしらぽう》と云える萩《はぎ》の侍《さむらい》が、常にこの大浦丸《おおうらまるじ》の重蔵 方《ゆうぞうかた》に宿泊《ねとま》りしていたが、ある夜お菊《きく》が風の心地にて打伏《うちふ》しいたる壁一重の次の間にて、筑前 若松《ちくぜんわかまつ》の船頭《せんどう》と、密談《みつだん》の端《はしはし》々を聞くに、唯事《ただごと》ならずと思い、お菊《きく》はそうっと抜出《ぬけい》で、その顛末《てんまつ》 を夫幸次郎《おつとこうじろう》に告げたが、その大略《たいりやく》はこうである。 『あの煙硝倉《えんしようぐら》の番頭某《ばんがしらぽう》が密談《みつだん》しつつある、若松《わかまつ》の船頭《せんどう》は、きっと幕府《ばくふ》の廻し者に相違《そうい》なく、 幕府の隠密《おんみつ》は、あの船頭《せんどう》を手先《てさき》に遣《つか》い、あの倉の火薬《かやく》を、何とか仕《し》ようと思うているに相違 ない、それから一番の煙硝倉の隣にある倉に、あの船頭共が廻米《かいまい》して来て積入《つみい》れた米俵《こめだわら》は、 きっと数量の上に大不足が有るに相違《そうい》ない、それは彼《か》の番頭《ばんがしら》と船頭《せんどう》共の間に、不正《ふせい》の事《こと》ある に極《きま》っている、それであの一番の倉の火薬《かやく》が爆発《ばくはつ》すれば、隣《となり》の倉も焼失《しようしつ》するから、その不正 事件《ふせいじけん》は、明日に迫まる検査の罹災《りさい》と共に逃《の》がるる事が出来る、故に危険《きけん》は今夜に迫っている、 以上は自分が風邪《かぜ》にて、隣室《りんしつ》に臥《ふし》ていて聞いた、両人の対話によりて綜合した考えと、また 日頃あの番頭《ぱんがしら》と船頭《せんどう》の振舞《ふるまい》が、どうしても幕府《ばくふ》の手先《てさき》、廻者《まわしもの》に相違ないと目星《めぽし》を付けていた 考えとの結果である』 と云うたので、幸次郎の驚きは一方《ひとかた》ならず、万一そんな事があっては、第一|下《しも》の関《せき》半分、即《すなわ》 ち豊前田《ぷぜんた》の市街《しがい》一|円《えん》は火になる、第二|奇兵隊《きへいたい》の人々の困難《こんなん》は、戦争の勝敗に拘わるのである、 第三|藩《はん》の軍資《ぐんし》に大損耗《だいそんもう》を来《きた》すのである、第四|幕府《ぱくふ》の隠密《おんみつ》共が憎《にく》いから、きっと征伐《せいばつ》せねばこ ん後どれ程|大害《たいがい》が起るやら知れぬ、第五|萩藩《はぎはん》の侍に、あの倉番頭《くらばんがしら》のような人間がおっては、 全く獅子身中《しししんちゆう》の虫《むし》であるから一|藩中《はんじゆう》の見せしめに、きっと成敗《せいぱい》をせねばならぬとこう考え、 |直《すぐ》に父、重蔵《じゆうぞう》に打明けて咄《はな》したので重蔵も仰天《ぎようてん》せんばかりに驚き、阿弥陀寺町《あみだじまち》の奇兵隊《きへいたい》の屯 所《とんしよ》に馳《は》せ付《つ》け、物頭《ものがしら》にこの顯末《てんまつ》を咄《はな》したので、一同|喫驚《びつくり》して心利《こころき》きたる人々数十人を、仲仕 人足《なかしにんそく》の風《ふう》に粧い、その一番の倉《くら》の附近に、ばったりと伏《ふ》せ込んだのであった。  それとも知らず彼《か》の番頭某《ばんがしらぼう》と船頭《せんどう》と、外三人の黒影《くろかげ》は、夜《よ》の子《ね》の半刻位に、その倉の周囲 に立現われ、雨催《あめもよお》しの雲低く、草木も眠る闇《やみ》の中に、しとしとと行交《ゆきか》う事になって来た。彼《か》 の曲者《くせもの》の中《うち》一人は、四方の見張《みはり》をなし、二三人は藁束《わらたば》を火薬庫《かやくこ》の戸前《とまえ》に積《つ》んで、正《まさ》に火《ひ》を放《はな》 たんとする一|刹那《せつな》、八方よりどっと伏勢《ふせぜい》が起って、しばらく格闘《かくとう》したが、中に幕府《ぱくふ》の隠密《おんみつ》、 |八田《やだ》十五|郎《ろう》、秦川甚吉《はたかわじんきち》の両人は、剣術無双《けんじゆつむそう》の達人《たつじん》にて、奇兵隊《きへいたい》の勇士《ゆうし》三人まで傷《きず》を負《お》わせ、 |動《やや》もすれば逃亡《とうぽう》せんとするので、とうとう本隊より第二の応援来り、とても敵《かな》わざるを自覚《じかく》 した秦川八田《はたかわやだ》の両人は、闇《やみ》に紛《まぎ》れて倉側《くらわき》の塀影《へいかげ》に身を潜め、両人|見事屠腹《みごととふく》して相果たのであ る。  当時|幕府《ぱくふ》の祿《ろく》を喰《は》む者《もの》とさえ云えば、徒《いたず》らに口を極めて悪罵《あくぱ》をしていた天下《てんか》の人心《じんしん》も、そ 繊弱き腕に強盗を生捕る の両人の行為には、言句《ごんく》も出《いで》ざる程の立派《りつぱ》な最期《さいご》であったとの事である。幕府《ばくふ》に抗して異心《いしん》 を抱《いだ》く、長州《ちようしゆう》の奇兵隊《きへいたい》を窮迫《きゆうはく》せしめんと、孤剣敵地《こけんてきち》に深入《しんにゆう》して、その弾薬庫《だんやくこ》を爆発《ぱくはつ》せんと企《くわだ》 てるさえ豪胆《ごうたん》なるに、見顕《みあら》わされて少しも怯《ひる》まず、身力《しんりよく》の限《かざ》りを尽《つく》して戦いたる後《のち》、白玉《はくざよく》と なってかかる立派な最期を遂《と》げたる事、これぞ武士《ぶし》の鏡《かがみ》と云う可《べ》しである。また一方かかる 一大事の陰謀《いんぽう》を、未発に発見したるお菊《きく》、即《すなわ》ち重蔵親子《じゆうぞうおやこ》の者は、実に奇兵隊《きへいたい》の命《いのち》の氏神《うじがみ》にて、 その感賞《かんしよう》もはなはだ敷、重蔵には奇兵隊《きへいたい》の半纒《はんてん》一枚と金《きん》二十両、幸次郎《こうじろう》お菊《きく》の夫婦《ふうふ》には、賞 状《しようじよう》と金《さん》十両を贈り来り、その後|毛利《もうり》の殿様《とのさま》よりは代官の手を経て、永世《えいせい》三|人扶持《にんぶち》を賜りて、 その忠心《ちゆうしん》を賞《しよう》せられたので、この親子三人は、益《ますます》々|忠勤《ちゆうきん》に身《み》を果《はた》さんと決心したのである。  また、お菊が総領娘姙娠《そうりようむすめにんしん》の時、抜身《ぬきみ》の強盗《ごうとう》二人|這入《はい》り、折節《おりふし》重蔵も幸次郎も不在なりし 為め、態《わざ》と顫《ふる》い恐《おそ》れたる体《てい》を粧《よそお》いて打伏《うちふ》し、云うがままに倉《くら》の鍵《かざ》を両人に渡し、両人を倉に |追遣《おいや》りし後、そうっと様子を伺《うかが》いしに、初めは一人|倉前《くらまえ》に立番《たちばん》していたが、終《つい》に両人共倉の 中に這入込《はいりこみ》しを見済まし、抜足《ぬきあし》して倉《くら》の戸前《とまえ》をびたんとしめ切り、錠前《じようまえ》をぴんと下《おろ》して、父 と夫の帰《かえり》を待ち、その顛末《てんまつ》を咄《はな》したので両人倉に行って、窓戸《まど》より様子を見《み》しにもう、時間 もしばらく経《た》っていた事故、両人共|押並《おしなら》んで切腹《せつぷく》せんとしていたので、驚いて声を掛け、段《だんだん》々 問答して見れば、ある藩《はん》の立派《りつぱ》な侍《さむらい》にて、全く軍用《ぐんよう》の為《た》めに、強盗《ごうとう》を働きしと判り、親子相 談の上この両人を助け、路用等《ろようとう》を与《あた》え意見をして帰したので、両人は深くその侠気《きようさ》を謝《しや》し、 立去《たちさ》ったが、御維新《ごいしん》の後《のち》その姓名《せいめい》の人は、立派なお役人に成って、高義《こうざ》の行い世に多しとて、 もっとも評判宜敷事《ひようぱんよろしきこと》を、一人|生《い》き残ったお菊《きく》は聞《き》いて、大変に喜んではいてもこれをさらに 人にも咄《はな》さずにいたが、雨降る夜半《よわ》に浅草《あさくさ》の、鐘《かね》の音澄《ねす》みて淋《さび》しき時、人間半生《にんげんはんせい》の過ちは、 |後《のち》の改悛《かいしゆん》に一層の価値《かち》を添《そ》うるものなりと云う。意見の序《ついで》にお菊媼《きくばあ》さんが、庵主《あんしゆ》に咄《はな》した事 があった。庵主生来無学《あんしゆせいらいむがく》なれ共、総《すべ》てかかる人々の忠告意見が聖典経義《せいてんきようざ》となりて、暴慢無双《ぽうまんむそう》 の魂性《こんじよう》がやっと今日《こんにち》位に善化《ぜんか》したのである。 三十六 |血《ち》の雨降《あめふ》らす漁場争《ぎよじようあらそ》い  嬌婦身を捨てて夫舅を助け、 侠夫命を堵して家郷を出づ 『春秋《はるあき》の雲井《くもい》の雁《かり》もとどめえぬ、誰《た》がたまずさの文字《もじ》の関守《せきもり》』という古歌《こか》は、豊前《ぷぜん》の国《くに》、文 字《もじ》の関所《せきしよ》にある海布刈明神《めかりみようじん》、謡曲乱舞《ようさよくらんぷ》の起縁《きえん》である、その後|詩《し》にも、   硯海孤舟去不還《げメかいのこしゆうさつてかえらす》  眼前認得筆頭山《かんせんしたためえたりむっとうのやま》   春秋過雁終無信《しルえじゆうのかかんついにしえなく》  千古誰言文字関《せんこたれかいうもじのせき》    註曰、『関門《かんもん》の海峡《かいきよう》を硯海《げんかい》と云い、速靹《はやとも》の岬《みさき》と、檀《だん》.の浦《うら》の狭水道《きようすいどう》を、文字《もじ》の関《せき》と云《い》いそ      の背南屹立《はいなんきつりつ》の山嶺《さんれい》、即《すなわ》ち要塞地帯《ようさいちたい》を筆頭山《ひつとうざん》と云う』 血の雨降らす漁場争い と吟《ぎん》ずるが如く、千数百年の往昔《むかし》より、山水の秀霊《しゆうれい》は、歴史の曲折《きよくせつ》に幾層《いくそう》の淡雅幽趣《たんがゆうしゆ》を彩《いろど》り て、過筑《かきよう》の騒人《そうじん》をして転《うた》た吟腸《ぎんちよう》を爛《ただ》らすの名所旧蹟《めいしよきゆうせき》である。さてもお菊は十四歳の時よりこ の地に行吟《さまよ》い孤雁《こがん》さらに翼なく、只管《ひたすら》に老狹《ろうきよう》の重蔵夫妻に助けられ、夫を迎《むか》うるに至っても、 その夫の壮狹父《そうきようちち》に劣らざる意気に薫陶《くんとう》せられ、殊《こと》に徳川《とくがわ》三百年、太平《たいへい》の破綻《はたん》はこの山水秀麗《さんすいしゆうれい》 の馬関海峡《ばかんかいきよう》の砲声《ほうせい》にその端《たん》を啓《ひら》いたので、女ながらもお菊《きく》の心胆《しんたん》は、なかなか普通《ふつう》常人の企 及《ききゆう》する事の出来ぬ程の鍛錬《たんれん》があったのである。  時は未《ま》だ養父重蔵生存中《ようふじゆうぞうせいそんちゆう》、お菊《きく》二十二歳の頃、豊前小倉《ぷぜんこくら》の漁民と、長州下《ちようしゆうしも》の関《せき》の漁民と、 |猟場領分《りようばりようぶん》の争い起り、初めは仮初《かりそ》めの事なりしが、後には双方入乱れての海戦となり、怪我 人《けがにん》等も出来、これに双方両藩士分の人までも立入り、至極面倒《しごくめんどう》となって来た。この時|頼《たの》まれ て仲に入ったのが、養父の重蔵と、夫の幸次郎である。しかしながら双方の申分六ケ敷《しく》、こ の仲裁《ちゆうさい》が成立《なりたた》ねば、大浦丸重蔵親子《おおうらまるじようぞうおやこ》の顔《かお》は丸潰《まるつぶ》れとなる破目《はめ》に陥《おちい》った、この時親子はお菊に 向い、 『事《こと》ここに及んでは最早|為《な》すべき道もないから、明日は親子|打揃《うちそろ》うて小倉《こくら》に渡り、仲裁の詞《ことぱ》 を聴いてくれねば、その場を去らず親子一処に腹を切って、 長州男《ちようしゆうおとこ》の名前《なまえ》だけでも残して 死ぬ覚悟《かくご》じゃ。お前女の身ではあるし、不憫《ふぴん》には思うが跡《あと》に残って骨を拾うて弔《とむろ》うてくれ』 と云聞かせた、お菊はさらに悪るびれもせず、 『男仕事の表看板《おもてかんばん》、命《いのち》を的《まと》の仲裁《ちゆうさい》が出来《でき》ずば、ただでは引込《ひつこ》めまい、今夜は機嫌能《きげんよ》く酒酌《さけく》み |交《か》わし翌日《あす》は立派《りつぱ》に遣《や》っておくれ』 と親子夫婦|快《こころ》よく晩酌《ぱんしやく》を了《おわ》り、早くより寝《しん》に就《つ》かしめたが翌朝になってお菊の姿が見えなく なったのに心付き、親子《おやこ》は大騒動《おおそうどう》をなしたが、長火鉢《ながひばち》の上に一通の書置《かきおき》がある、その文に、 『岸《さし》に漂《ただよ》う葭葦《よしあし》の、片葉《かたは》に斉《ひと》しき果敢《はか》なき我身《わがみ》、父上様や最愛《さいあい》の夫《おつと》の慈悲《じひ》にて、今日《こんにち》まで譬《たと》 え方《かた》なき大恩《だいおん》を、何時《いつ》の世かは酬《むく》うべきと、日毎《ひごと》に思う甲斐《かい》あって、今日はからず親夫《おやつま》の、 かかる大事《だいじ》に出会いしは、予《かね》て無《な》き身と覚悟《かくご》した、命を捨てる屈竟《くつきよう》の好《よ》き折《おり》とこそ思うなれ、 どうか私を今日限り親夫《おやつま》の縁《えん》を切って下さりませ』 と書残して、恰好《かつこう》の押切《おしき》り伝馬船《てんません》一|艘《そう》を雇《やと》い、潮《うしお》の狂《くる》う海峡《かいきよう》を、月代高《つきしろたか》き亥《い》の刻《こく》に乗切って、 |小倉藩《こくらはん》の城下《じようか》の橋下《はしした》に漕《こ》ぎ付《つ》けて、直《ただち》に城代家老小笠原外記殿《じようだいかろうおがさわらげさどの》の屋敷《やしき》に馳《は》せ付け、小門《こもん》の扉 を打敲《うちたた》き、一大事の御訴訟《ごそしよう》にござりますると云うので、門番《もんぱん》は打驚《うちおどろ》き、武者窓《むしやまど》よりこれを見 るに、年若き綺麗《きれい》の女、息を切っている様子故、仔細《しさい》ぞあらんと問答するに、今宵《こよい》に迫る小 倉藩の一大事との事のみを云うて他を云わぬ故、そのままに門外に待たせ置《おき》、直《すぐ》に取次を以 て主人外記殿《しゆじんげきどの》へ申入れしに外記《げき》は、 『今薩長《いまさつちよう》の浪士《ろうし》共、幕政外交等《ぱくせいがいこうとう》の事に付、人心《じんしん》すこぶる穏《おだや》かならず、いかなる事の出来《しゆつたい》せし か、注意を怠《おこた》らぬこの日頃、夜中の訴訟心許《そしようこころもと》なく、女たりとも打捨難《うちすてがた》し、客間《きやくま》の縁《えん》を明《あ》け払《はら》 血の雨降らす漁場争い い、中庭《なかにわ》に通すべし』と。  主人の命《めい》に家来共、早速お菊《きく》を中庭《なかにわ》に通らせたので、小笠原外記殿《おがさわらげきどの》一|藩《ぱん》の安危《あんき》を預《あずか》る分別 盛《ふんべつざか》り、着流《きなが》しのまま縁側《えんがわ》に褥《しとね》を布《し》かせ、二人の若侍《わかざむらい》が両方より翳《かざ》す紙燭《ししよく》にお菊《きく》の姿《すがた》をじいっ と見下《みおろ》し、 『女の身にて夜中の訴訟《そしよう》、当時|各藩共内外物騒《かくはんともないがいぶつそう》の折柄故、親敷訴訟聞取遣《したしくそしようききとりつかわ》す、事情包まず申 し立てよ』 と最《い》と厳《おごそ》かに云うたので、お菊《きく》はようよう頭を挙《あ》げ、 『私事《わたくしこと》は長州下《ちようしゆうしも》の関《せき》、豊前田町大浦丸幸次郎《ぶぜんたまちおおうらまるこうじろう》なる者の妻《つま》、菊《きく》と申者にござりまするが、夫 幸次郎《おつとこうじろう》を初め舅重蔵共下様気負狹気《しゆうとじゆうぞうともしもざまきおいきようき》の者にござりまする処この度御管下《たぴごかんか》の猟師衆と、長 州領《ちようしゅうりょう》六ケ浦《うら》の猟師共と、猟場の争|差起《さしおこ》り、再応《さいおう》の喧嘩口論《けんかこうろん》と相成り、いよいよ明後日また また福浦沖《ふくうらおき》にて喧嘩《けんか》の手配《てはい》と相成ましたので、両方の頭立ったる人々より、親夫《おやつま》なる重蔵幸 次郎の両人へ、片落《かたおち》なき仲裁《ちゆうさい》を相頼《あいたの》まれましたが、永年領内《ながねんりようない》の御恩《ごおん》を蒙《こうむ》りましたる両人故、 もし長州方利分《ちようしゆうがたりぷん》と相成《あいな》らざる取捌《とりさば》き致したる時は身の立場もなき事と相成《あいなり》、然《しか》らばと申小倉 方《もうしこくらがた》猟師衆の利分相立《りぷんあいた》たざる時は、喧嘩《けんか》はいよいよ枯木《こぼく》に油《あぷら》の勢と相成《あいなる》べく、その上双方共日 頃お快《こころ》よからざる御武家様方《おぷけさまがた》も、この喧嘩《けんか》の後《うし》ろ控《びか》えとして御力添《おちからぞ》え遊《あそ》ばされおる有様《ありさま》にて、 |殊《こと》に下《しも》の関《せき》の関奉行須貝源右《せきぷざようすがいげんえ》衛|門様《もんさま》を初《はじ》め、これを潮《しお》に小倉藩《こくらはん》と一|廉《かど》の行掛《ゆきがかり》を持《こしら》え藩《はん》の力を 示さんと、おさおさ御手配《ごてはい》の様子を承《うけたま》わり、その仲裁《ちゆうさい》に悟《は》一旭|入《い》る私共|親夫共《おやつまども》、成敗《せいぱい》二つながら 身の置処《おきどころ》なき場合と相成る事を覚悟致《かくごいた》し、明日を限りとして命を捨てるの覚悟を致し、私に |迹《あとあと》々の事共|申聞《もうしき》かせ、決心の程を示しましたが、私も薄《うすうす》々その成行《なりゆき》を存じておりますから、 |快《こころ》よく訣別《けつべつ》の盃《さかずき》も酌交《くみか》わし、隙《すき》を見合せ親子夫婦|離別《りべつ》の状一《じよう》通を残し、下《しも》の関《せき》を抜け出まし たる次第は、世に公《おおやけ》の御政道《ごせいどう》、お慈悲深《じひふ》かき御家老小笠原様《ごかろうおがさわらさま》に駈《か》け込《こ》み、事の様を逐《ちく》一に申 上げ、この喧嘩御差止《けんかおさしと》めの上、明白のお捌《さば》きを願上《ねがいあ》ぐれば、第一には御両方様の御威光《ごいこう》も汚《け》 がれず、随《したがい》まして私共|親夫《おやつま》の身《み》の上も無事《ぷじ》に助かり申べきかと、女の浅墓《あさはか》な考《かんが》えより、早船《はやぶね》 乗切りにて御城下《ごじようか》へ馳《は》せ付け、夜中御訴訟《やちゆうおうつたえ》申上たる次第、素《もと》より何程のお咎《とが》めあるとても已 に離別致《りべついた》し参りましたる事故、 私一身《わたくししん》はいかが相成《あいなり》ましても、覚悟《かくご》の前の儀《ぎ》にござります れば、憐《あわ》れ下民《げみん》の人情御汲取下《にんじようおくみとりくだ》され、この事無事落着致《ことぶじらくちやくいた》します様のお捌《さば》き、偏《ひと》えに願上《ねがいあげ》ます る次第にござります』 と事落《ことおち》もなく申述べたので小笠原《おがさわら》は延管《のべろう》の煙管《きせる》を杖に息を詰めて聞き居たるが、からりとそ れを投げ捨《す》てて、 『さて驚き入りたる女が訴訟《うつたえ》、予が聞く事|今一歩遅《いまひとあしおそ》かりせば、長豊《ちようほう》の両藩《りようはん》、物あれかしと睨《にら》 み合《あ》う日頃の気勢《きせい》に火を煽《あお》り、由《ゆゆ》々|敷確執《しきかくしつ》の種を蒔《ま》き、その上あたら義侠《ざきよう》の男子等《おのこら》を二人ま でも失うべかりしを、汝《なんじ》が決心の訴《うつたえ》によりて、両藩の大災《だいさい》ここに免《まぬ》かるる事《こと》を得《え》たるは、全 く汝《なんじ》が気転《きてん》の働き、外記過分《げきかぶん》に存《ぞん》じ賞《しよう》し置《お》くなり、それ家来《けらい》共この女を労《いたわ》り遣《つか》わし下部屋《しもべや》に て扶助致《ふじよいた》せ』 と鶴《つる》の一声、お菊は身に余る面目《めんもく》を施《ほどこ》し、小笠原屋敷《おがさわらやしき》にて介抱《かいほう》せられたのである。それより |家老外記《かろうげき》は直様大目付梶原喜太夫《すぐさまおおめつけかじわらきだゆう》に早使《はやづかい》を立てて役宅《やくたく》に呼寄せ、事の様を取糺《とりただ》し、お菊《きく》の訴 訟《うつたえ》に相違《そうい》なき故|直《ただ》ちにその喧嘩《けんか》の後押したる若侍《わかざむらい》の面《めんめん》々十六人に自宅謹慎《じたくきんしん》を申付け、猟師中 の頭立《かしらだち》たる者三人に介添付役宅止《かいぞえつきやくたくど》めを申付け、一方|張方組子《はりがたくみこ》百人を以て猟師町の辻固《つじがた》めを申 付けたので、夜の明くるまでには、小倉方《こくらがた》はちゃんと鎮撫方手配片付《ちんぷかたてくばりかたづ》いたのである。一方|下《しも》 の関《せき》にては奉行須貝源右《ぷぎようすがいげんえ》衛|門《もん》が初め逸《はや》り雄《お》の若侍等《わかざむらいら》は今日こそ大浦丸《おおうらまる》の重蔵親子《じゆうぞうおやこ》を雄鳥《おとり》に遣《つか》 い、小倉方《こくらがた》の手出《てだ》しを挑《いど》み、その機《き》を押えて多年の望を果さんと、藩地《はんち》に遠き支《えだし》々|配地《はいち》の下《しも》 の関《せき》にて、長州武士《ちようしゆうぷし》の威力《いりよく》を示さんと待構えていたのに、重蔵親子はお菊の事も気掛《きがか》りなれ ど、時刻|来《きた》ればぜひに及《ハ》ばず、夜《よ》の引明《ひきあ》けに早船《はやぶね》を押切り小倉《こくら》に到り猟師頭の者共の自宅を |音信《おとず》れたるに、何れもその人々は不在《ふざい》にて、かえって小倉藩《こくらはん》の物頭八屋諸左衛門《ものがしらはちやしよざえもん》なる人、重 蔵親子に面会し、こん度猟師共の不埒《ふらち》に付《つき》、長州領のその方共|格別《かくべつ》の心労肝入《しんろうきもい》り致《いた》しくれる |段藩公《だんはんこう》のお聞に達し、奇特殊勝《きとくしゆしよう》の事に思召《おぼしめ》され、我等役宅《われらやくたく》に於て馳走致《ちそういた》すべしとの君命《くんめい》なり とあって、無理に両人を八|屋氏宅《やしたく》に伴い行き、外出も許《ゆる》されざる位であった。  一方また下《しも》の関方《せきがた》の奉行付《ぷぎようづき》の侍共《さむらい》および長州領《ちようしゆうりよう》の猟師共はかかる事とも露《つゆ》知らず、その 翌々日は夜中より、おさおさ喧嘩《けんか》の準備をなし、今や乗り出さんとする処に、小倉藩国老小 笠原外記《こくらはんこくろうおがさわらげき》の命《めい》とあって、応接方下村市兵衛下《おうせつがたしもむらいちべえしも》の関奉行宅《せきぷぎようたく》に来候《らいこう》し、先頃より小倉領内《こくらりようない》の漁民 共、私《わたくし》の了簡《りようけん》を以て猟場領分《りようばりようぷん》の争を尊藩領民《そんばんりようみん》と相企《あいくわだ》ての趣《おもむき》、畢竟弊藩不行届《ひつきようヘいばんふゆきとどき》の致《いた》す処《ところ》と存《ぞん》 じ、これ等不心得士民《らふこころえしみん》の者《もの》一|切《さい》に抑留謹慎《よくりゆうきんしん》を申付置《もうしつけおさ》たる次第、元来|長豊両藩《ちようほうりようはん》海上領分の義 は、去る寛政戌年公儀《かんせいいぬどしこうざ》より御達《おんたつ》しの次第により、上役人御出張御立会《かみやくにんごしゆつちようおたちあい》の上、劃定致《かくていいた》したる以 来決して藩政我儘《はんせいわがまま》の振舞《ふるまい》致すべき儀《ぎ》も無之物《これなきもの》を、士民共勝手《しみんどもかつて》の振舞《ふるまい》を致候事《いたしそうろうこと》、誠に以て御 恥《おはず》かしき次第、右に付弊藩《つきへいはん》に於ては、それぞれ処罰申付《しよばつもうしつ》ける事に致《いたしそ》 候間《うろうあいだ》、直《ただち》に尊藩萩公《そんはんはぎこう》に 使者を以て、公儀《こうぎ》に対し手落《ておち》なき御処分《ごしよぷん》を願いたる次第、これ等《ら》は全く両藩《りようはん》の無事安泰《ぷじあんたい》を庶 幾《こいねが》う、恭順《きようじゆん》の処置《しよち》たる儀《ぎ》と存《ぞん》じ候間《そうろうあいだ》、この儀関御奉行《ぎせきごぶぎよう》にも申陳《もうしちん》じ、処行不埒《しよぎようふらち》の者共|御取調《おとりしら》 べ藩公《はんこう》へ御書上《おんかきあ》げ上申《じようしん》に相成度《あいなりたく》、御心得《おこころえ》の為めこの段《だん》使者を以て申入まする云《うんぬん》々の口上《こうじよう》で あった。これを聞いた奉行須貝源右《ぷざようすがいげんえ》衛|門《もん》は、全身《ぜんしん》水を浴《あ》びたる如く顫《ふる》い上って顔色土《がんしよくつち》の如く、 |為《な》す処《ところ》も知らぬ有様であった。  間もなく萩藩《はざはん》よりは永年土着《ながねんどちやく》の関奉行《せきぷざよう》および附属《ふぞく》の侍共は、全部|退役所替《たいえきところが》えの厳命来《げんめいきた》り、      くにし   ろう  え  もんどのらいちやく あいなり  こ くらはん  お がさわらこくろう 代りとして国司八郎右衛門殿来着に相成、小倉藩の小笠原国老と相談の結果、領分の再調も |相済《あいす》み、双方の士民《しみん》も安堵《あんど》しさしも大騒動を根ざしたる、猟場争の問題も、一段落ついたの である。これ全く大浦丸《おおうらまる》のお菊重蔵幸次郎《きくじゆうぞうこうじろう》の働とあって、小倉藩《こくらはん》より国司関奉行《くにしせきぷぎよう》に掛合《かけあい》の上、 |小倉湊奉行《こくらみなとぶざよう》の公許《こうきよ》を受けて、下《しも》の関《せき》の大浦丸《おおうらまる》の持船《もちぷね》だけは小倉領《こくらりよう》へ船掛《ふながか》り勝手《かつて》たるべしとの |沙汰《さた》を受け、小倉藩《こくらはん》よりは数《かずかず》々の賜物《たまもの》を頂戴《ちようだい》し、関奉行《せきぷぎよう》よりも萩公《はぎこう》の御聞《おきき》に達《たつ》し、酒器御賞 状等《しゆきごしようじようとう》を頂戴《ちようだい》したのである。お菊は浜町旅館《はまちようりよかん》営業の砌庵主《みぎりあんしゆ》に示した品々の中、右小倉藩《みぎこくらはん》の八 |屋諸左衛門《やしよざえもん》の与《あた》えたる短冊国風《たんざくこくふう》一ひらを見せた。曰《いわ》く、      風寒《かぜさむ》きあれ野《の》の原《はら》におく霜《しも》の          かげより清《きよ》き白菊《しらぎく》のはな                            蜂 家 の 翁 と書いてあった。その後お菊《きく》は小笠原国老《おがさわらこくろう》の口利《くちきき》にて、元《もともと》々|通《どお》り幸次郎《こうじろう》の妻《つま》として下《しも》の関《せさ》に 帰り、昔に変らぬ営業をなし、特に小倉《こくら》に於ける小笠原家《おがさわらけ》八|屋家等《やけとう》に親子夫婦三人共出入の 身となり年中五|節句《せつく》、物日《ものぴ》の伺候《しこう》をなし最《い》と巾広《はばひろ》く世間《せけん》を渡ったのである。後年|長州《ちようしゆう》と小倉《こくら》 の藩論行違《はんろんゆきちがい》の頃は、大浦丸《おおうらまる》の一|家《か》は断然《だんぜん》として小倉《こくら》と行通《ゆきかよい》を絶《た》ち、もっぱら長藩《ちようはん》の為《た》めに全 力を尽《つく》していたが、惜いかな重蔵《じゆうぞう》は馬関海峡英艦砲撃《ばかんかいきようえいかんほうげき》の時|名誉《めいよ》の戦死《せんし》を遂《と》げ、幸次郎夫婦《こうじろうふうふ》は |江戸表探索《えどおもてたんさく》の大役《たいやく》を受持ち、江戸住居《えどずまい》の身の上となったのである。  またある時|石州小浜《せきしゆうおばま》より一人の駈《か》け落者《おちもの》の女来り、余儀《よぎ》なき事にて幸次郎|引受世話《ひきうけせわ》して二 階に隠恩置《かくまいお》きしに、幸次郎の留守中にその相手方の男子《だんし》尋ね来り、お菊《きく》に向《むか》い逐《ちく》一|事情物語《じじようものがた》 りしより、お菊《きく》は何の気も付かず、その相手の女に引遭《ひきあわ》せた後、幸次郎《こうじろう》帰り来り大いに立腹《りつぷく》 し、 『男の仕事に女が差出《さしい》で、一|応《おう》の咄《はなし》もなく相手の女に面会せしめたるは、言語道断《ごんごどうだん》なり、今 各藩共人心穏《いまかくはんともじんしんおだや》かならず、譬《たと》え駈《か》け落者《おちもの》たりとも、いかなる素性《すじよう》の者なるかも調《しら》べず、もし長《ちよう》 しゆうはん ふため                        たんさ×                         め あ       にようぽう 州藩の不為になる取返しの付かぬ事など探索する人物であったら何とする、目明かしの女房 として、男の魂《たましい》を引抜《ひきぬ》かるるかもしれぬ、他国者《たこくもの》を調《しら》べもせず、男子の差図《さしず》も聞かずに引入 れて安閑《あんかん》と油断して居る様《よう》な女房《にようぽう》は一日も持っている事出来ぬ、親爺《おやじ》さんが過ぎ行かれた跡《あと》 は、なおさら大浦丸《おおうらまる》の名前を汚さぬようにせねば、幸次郎《こうじろう》の一|分《ぷ》が立たぬ、汝《なんじ》は家の娘《むすめ》同様 の女故、喰《く》うに困らぬように身代全部《しんだいぜんぶ》を投出して遣《や》るから、一時も早く出て行け』 と、怒《いか》り猛《たけ》りて承知せぬので、如何《いか》なお菊《きく》も一|言半句《ごんはんく》も弁解《べんかい》も出来ず、折柄《おりから》お菊《きく》は丁度|姙娠 中《にんしんちゆう》にて、頓《とん》と途方に暮れたとはこの事である。飽《あ》きも飽《あ》かれもせぬ恋婿《こいむこ》から、自分の不埒不 行届《ふらちふゆきとどき》にて、厳《おごそ》かに離別《りべつ》の宣告《せんこく》を受け、これを他人の耳に入るれば、いよいよ夫《おつと》の面目《めんぽく》を汚《け》が し、自分一人で夫の心を解くよしもなき筋合《すじあい》にて、ましてや夫は言出した事は一分も後へ退《ひ》 かぬ猛火の如き気性故|布婁那《フルナ》の弁《べん》も云解由《いいとくよし》なし、そこでお菊《きく》はきっと思案《しあん》を定めた。人の耳 を汚《け》がさず、夫の心を宥《なだ》むるには、ただ死の一|事《じ》あるのみである、さあこう心に極めてその 準備に取掛るには、腹《はら》にある子供の事である、野山《のやま》に猛《たけ》き獣《けもの》さえ、子故の暗《やみ》には踏《ふ》み迷う、 |況《ま》してや雄《おお》々|敷《しき》お菊《きく》程、女《おんな》の操《みさお》の命《いのち》にも、代《か》えて大事の夫《おつと》の胤《たね》を闇《やみ》から闇《やみ》に葬《ほうむ》る事、何と耐《た》 べき、この一|事《じ》をさえ為《な》す道の、有らまほししと幾度か、繰り返した後、またきっと |思案《しあん》を定めた。それはお菊《きく》が懇意《こんい》にする南部山《なへやま》の産科医者の家に寄宿《きしゆく》し、子供安産《こどもあんざん》の事《こと》を頼《たの》 んだのである。  その内幸次郎《うちこうじろう》は彼駈落者《かのかけおちもの》を尋《たず》ねて来りし男の身の上、素性《すじよう》を探査《たんさ》したるところ、果して幕 府《ぱくふ》に内通《ないつう》する石州者《せきしゆうもの》でありし為め、直ぐに物筋《ものすじ》と相談して、適当の処置を為《な》したのであるが、 これを聞《き》いたお菊《きく》は、いよいよ身《み》も世《よ》も有《あ》られず、一日も早く安産《あんざん》して、死んで夫に申訳な さんと、堅《かた》き決心を持ったのである。折柄幸次郎実父幸左衛門《おりからこうじろうじつぷこうざえもん》なるもの端《はし》なく、お菊《きく》の出養 生《でようじよう》の事《こと》に付《つき》、一家の取締《とりしまり》に宜《よろし》からざる事を幸次郎《こうじろう》に意見せしにより、幸次郎は止《や》むを得《え》ず、 お菊《きく》の許《ゆる》し難《がた》き不届《ふとどき》を責《せ》めて、離別《りべつ》したる趣《おもむさ》を物語《ものがた》りたれば、父は大いに驚き一時の不行届《ふゆきとどき》 はこの後の注意にて十分なり、過《あやま》って改《あらた》むるは君子《くんし》の道《みち》、況《ま》してやお菊《きく》が世《よ》にも類《たぐい》なき心立《こころだて》、 立派の女を、汝《なんじ》が若気《わかざ》の一|存《ぞん》の計《はか》らいにて、離別等《りべつなど》の事あっては、死行《しにゆ》かれた重蔵殿へ相済《あいす》 まぬと、深く幸次郎の処置《しよち》を戒《いまし》め、直ちに産科医《さんかい》の処《ところ》に来りて、お菊《きく》の病褥《ぴようじよく》を慰《なぐさ》めしに、お |菊《きく》も遺《さすが》女にて、今まで張《は》りに張《は》り詰《っ》めし決心の堤は、涙の川に崩《くず》れ落ち、生れ来て女盛《おんなざか》りま で、一度も女《めめ》々|敷《しき》涙を出さぬ、男勝《おとこまさ》りの気性《きしよう》も折れ、わっとそこに泣伏《なきふ》したのである。舅《しゆうと》は お菊《きく》の決心を聞いて、ぎょつとなし、殊《こと》にその決心も一時の軽挙妄動《けいきようもうどう》に非《あら》ずして、正しく女《おんな》 の道《みち》を守り、静かに後事《こうじ》の処置《しよち》をして、その上にて死を決したるは、ただ驚《おとろ》くの外《ほか》はないの である。父は直ちに幸次郎を呼び寄せ、武士《ぶし》も及ばぬお菊《きく》の決心《けつしん》を咄《はな》し聞かせしに、幸次郎 も感心《かんしん》して、 『好《よ》くも死を決した、それでこそ幸次郎《こうじろう》の妻《つま》である、父の詞《ことば》に随《したが》いて安産《あんざん》の後《のち》共々に、養父《ようふ》 に尽《つく》す家名《かめい》の繁昌《はんじよう》、以後を必《かなら》ず謹《つつし》むべし』 とようやく解《と》けし夫《おつと》の心、お菊の喜びこの上なく、それより程なく安産《あんざん》して、夫婦仲睦《ふうふなかむつ》まじ く暮したのである。この咄《はなし》をする時、お菊媼《きくばあ》さんは、夫の気性《きしよう》に、常に駭《け》たくられる程|恐《おそ》れ をなしていたものと見え、この時の思い出に襲《おそ》われて、頭に戴《いただ》く雪霜《ゆきしも》の、年《とし》を忘れて落涙《らくるい》を |禁《きん》じ得《え》なかったのである。 三十七 |天下無双《てんかむそう》の女丈夫《じよじようふ》   阿嬌意を決して密書を倫《ぬす》み、 老婦義を説いて皇帝を服す  前回にも段《だんだん》々|叙述《じよじゆつ》する如く、このお菊媼《きくばあ》さんの前半生は、総《すべ》て楓爽《さつそう》として物《もの》に凝滞《ざようたい》なき、 |男勝《おとこま》さりの生存《せいぞん》であった。それがその夫《おつと》たる幸次郎《こうじろう》が、侠気無比《さようきむひ》の性質の上に、長藩《ちようはん》の内囑《ないしよく》 を受け、一死を決して江戸隠密《えどおんみつ》に入込《いりこ》むに付き、二|人《にん》の愛子《あいし》の絆《きずな》をさえ断切って、妻たるお |菊《きく》を引連れ江戸《えど》に上《のぽ》った位であるから、孤剣《こけん》を提《ひつさ》げて易水寒《えきすいさむし》を謳《うと》うて掛った事には相違ない ある。果《はた》せる哉維新《かないしん》の鴻業《こうざよう》が成功するか失敗するか、千|載《ざい》一|遇《ぐう》の切羽《せつぱ》に臨《のぞ》んだから、夫 たる幸次郎も、女房《にようぽう》を女郎《じよろう》に売り、女房も甘《あま》んじて夫の命《めい》に従《したが》い、生きながら地獄《じごく》に落る如 き仕事を仕たのである。  元治元年甲子《げんじがんねんきのえね》の頃は、長幕《ちようばく》の間《あいだ》、擦《す》れに擦《す》れ、縺《もつ》れに縺《もつ》れて、とうとう長州征伐《ちようしゆうせいぱつ》を決する までには、幕府内幾多《ばくふないいくた》の議論経過《ざろんけいか》があったに相違ないが、それが今日《こんにち》と違《ちが》い、上下の隔絶《かくぜつ》は なはだ敷《しく》、なかなか民間《みんかん》で幕府内《ぱくふない》の意向を知る事は出来る事ではなかった。長州《ちようしゆう》の方では、 幕府が長州を討《う》つか討たぬか、それを知る事が一藩安危《いちぱんあんき》の分るるところで、討《う》つとなれば長 州は、最後の一人まで、人種《ひとだね》の尽《つ》きるまで、天下《てんか》の兵《へい》を引受けて戦わねばならぬ。その藩論《はんろん》 を決する事が、また一大事である。その間、長州でも、江戸でも、大阪でも、流言蜚語《りゆうげんひご》は蜻 蛉《とんぽ》の飛《と》び交《か》うが如く、入乱《いりみだ》れて行《おこな》わるる故、士分《しぷん》でも重役連でも、なかなかその真相《しんそう》を知る 事は出来ぬのである。ここに幸次郎夫婦《こうじろうふうふ》は、それを知るべく第一の事業としたのであった。  風寒《かぜさむ》き明日《あす》は枯野《かれの》の女郎花《おみなえし》、露凝《つゆこ》る夜半《よわ》に尚《な》お笑《わら》う、人様《ひとさまざま》々の浮世《うきよ》には、儚《はか》なく辿《たど》る艀蟻《かげろう》 の、一夜《ひとよ》の夢《ゆめ》を名残《なごり》とて、草葉《くさぱ》の裏《うら》に啼《なき》に往《ゆ》く、増《ま》してや遊廓照《くるわて》る月《つさ》の、影《かげ》さえ心《こころ》おく露《つゆ》を、 |踏《ふ》みつつ通《かよ》う網笠《あみがさ》に、似合《にあわ》しからぬ二|本棒《ほんぼう》、迎《むか》うる門《かど》に馬鹿鳥《ばかどり》の、声呼《こえよ》び交《か》わす店男《みせおとこ》、誘《さそ》う |嵐《あらし》に袖屏風《そでびようぶ》、ここを御室《おむろ》か相模屋《さがみや》の、霜《しも》にも傲《おご》る初菊《はつぎく》の、色香《いろか》を愛《め》づる客人《まれびと》は、平河町《ひらかわちよう》の御 用飛脚《ごようぴきやく》の宰領問屋《さいりようといや》、丸菱惣左衛門《まるびしそうざえもん》の手代《てだい》、源《げん》八二十八歳と云うが、下谷《したや》の江戸侍《えどざむらい》、菅原源《すがわらげん》八 |郎《ろう》と名前を偽《いつわ》りて、この初菊《はつざく》に通い詰めるのである。 、 あみがさいでたち          おか          よそお                                   すがわら  網笠出立の大小も、可笑しからざる粧いに、初めは心を付けて持てなせしがこの菅原を取 巻きの連客《つれきやく》、喜《き》三|郎《ろう》の相方《あいかた》は、彼《か》の勝浦《かつうら》の儀助《ぎすけ》が女房、若菜《わかな》である。初菊諸共心敏《はつぎくもろともこころき》きたる女 故、たちまちにしてこの両人の本性を見破《みやぶ》り、ほどよく待遇《もてな》しおる中《うち》に、両人の夫、幸次郎 儀助《こうじろうぎすけ》よりは長幕《ちようばく》の風雲《ふううん》、いよいよ急を告《つ》げる事となって来た故、必死に心を付くべしと、申 越す事しばしばなるより、初菊若菜《はつざくわかな》の両人も、八方に心を配り、ここを先度《せんど》と働《はたら》きしが、あ る夜《よ》、彼《か》の通《かよ》い来《く》る菅原《すがわら》両人、何時《いつ》もになく座敷《ざしき》も淋《し》み、飲《む》む杯《さかずき》の廻るに付け、近《きんきん》々|遠方《えんぽう》へ たびだち                                           きんす など  あた                かみいれ 旅立の事共物語り、当分の別れぞと、両人に心付けの金子等を与え、その出入れの紙入に、 ちらと見たるは、御用状様《ごようじようよう》の一|封《ぷう》である。何知《なにし》らぬ顔の初菊《はつぎく》は、はっと心に鐘《かね》を突《つ》き、いか にもしてこの書状《しよじよう》を見んものと考えを起した。それより一層|咄《はな》しに身を入れ、勧《すす》める酒に神 仏《しんぷつ》の、力をまでも禳《いの》りつつ、常に一入待遇《ひとしおもてな》せしが、夜更《よふ》けに及んで理に落た、酒が一度に打 揚《うちあ》げア、、前後も知らず熟睡《じゆくすい》したので、初菊《はつざく》は、そうっと菅原《すがわら》の紙入《かみいれ》より彼《か》の書面《しよめん》を引出して これを見るに、前略《ぜんりやく》、 『此度将軍様御上洛《このたぴしようぐんさまごじようらく》の事御治定《ことごじてい》に相成《あいな》るは容易《ようい》ならざる天下《てんか》の一|大事《だいじ》と相成始《あいなるはじ》めと存《ぞん》じ候《そうろう》 あいだわれわれご ようあいつと  そうろうものども  きんす   ゆうずうちようたつかたとうきようおおさかえ どおもてとももつと じつこん  ごそうだんいたすべく 間我々御用相勤め候者共は金子の融通調達方等京大阪江戸表共尤も入魂に御相談可致 そうろう   て だいげん  さしのぼ  そうろうあいだしよじよろしくおさししめしねがいたくそうろううんぬん 候ため手代源八差上せ候間諸事宜敷御差示願度候云々』 天下無双の女丈夫    子三月十日                   江戸  丸菱惣左衛門        宛  名  初菊《はつぎく》は手早くこの書面《しよめん》の文言《ぶんげん》を鼻紙《はながみ》に書き写し、元の如く仕舞《しまい》置き、早速|前後《ぜんご》の顛末《てんまつ》を書 認《かきしたた》め、この写《うつし》と共にこれを幸次郎《こうじろう》が許《もと》に送り遣《つか》わした。それを受取った幸次郎は、つくづく とこの書面を打眺《うちなが》め、そもそもこの将軍《しようぐん》の上洛《じようらく》と云うが只事《ただごと》に非ず、何か京都《さようと》の手筈《てはず》を滑《なめら》か にして、俄然《がぜん》として馬を長藩《ちようはん》に向けるのであるまいかと思いしより、直《す》ぐに隠密頭村井《おんみつがしらむらい》の許《もと》 に馳《は》せ付け、事《こと》の顛末《てんまつ》を細《こまごま》々と咄《はな》すと、流石村井《さすがむらい》は、今や長幕《ちようばく》の親善覚束《しんぜんおぽつか》なく、とうてい一 |大衝突《だいしようとつ》を起すべき時期なるに、ここに将軍《しようぐん》の上洛等《じようらくとう》を決行するは、必ず朝命《ちようめい》を以て征長《せいちよう》の軍 を起すに相違あるまいと見極《みきわめ》を付け、早速|江戸詰《えどつ》め合の人々と評議《ひようぎ》の上|早打《はやうち》を以て、 『幕府《ばくふ》は予《あらかじ》め朝廷《ちようてい》の御内許《りりり》を得《え》て置《お》いて、長州《ちようしゆう》を征伐《せいばつ》せんと相企《あいくわだ》ておるものと相見受《あいみうけ》、そ の為《た》め将軍上洛《しようぐんじようらく》の事《こと》を、昨今慥《さつこんたし》かに決定致候様|相見《あいみ》え申候|云《うんぬん》々』 の事を、長州本藩へ申遣《もうしつかわ》したのである。それでこそ長州ではこの江戸《えど》の報告を根拠《こんさよ》として、 評議を重《かさ》ね終《つい》には内乱まで起し乾坤《けんこん》一|鄰《てき》の決心をして藩論《はんろん》を一定し、直《ただ》ちに国境を固めて隣 藩の外交に全力を注《そそ》いだのである。これ等《ら》に対するお菊幸次郎等《きくこうじろうら》の働きは、最も目覚《めざま》しかり しと云わねばならぬのである。  ちなみに曰く、この初菊《はつぎく》の探偵顛末《たんていてんまつ》に付ては、友人|朝吹英二氏《あさぷきえいじし》がかつてお菊媼《きくぱあ》さんに就《つ》い て尋ねて、調査もした事があったが、この江戸丸菱惣左衛門《えどまるぴしそうざえもん》より、京都大阪の同業者に宛《あ》て たる即《すなわ》ち手代源《てだいげん》八が所持《しよじ》なせし書面《しよめん》こそ、その筋合《すじあい》としてははなはだ不徹底《ふてつてい》の物のようであ るが、それが当時の関係者では、幕府征長《ばくふせいちよう》の秘密《ひみつ》を、明瞭《めいりよう》に理解《りかい》し得る程の、必要千|万《ぱん》の物 であったとの事、またこれ等書状《らしよじよう》以上の有力なる物件を得る事はその時分とうてい出来な かったとの事である。果《はた》せる哉長州《かなちようしゆう》は、会桑《かいそう》二|藩《はん》が禁闕《きんけつ》を守護《しゆご》するのを、君側《くんそく》の姦《かん》を払《はら》うと 云う名を以て蛤御門《はまぐりごもん》で発砲《はつぽう》した、それに俄然薩州《がぜんさつしゆう》が長州《ちようしゆう》に鉄砲《てつぽう》を向けたので、この戦《たたかい》は負《ま》 けになった、故に長州は禁闕《きんけつ》に発砲したと云う名《な》の下《もと》に、直に長州を朝敵《ちようてき》として追討《ついとう》の詔勅《しようちよく》 が下《さが》ったと云うだけは、世の中に知れ渡っているが、このお菊艦《きくぱあ》さんの咄《はなし》、朝吹氏《あさぷきし》の調べに よれば、幕府《ばくふ》はずうっと前から、どうかなして長州を討《うち》たい討たいとの計画をもって居って、 様々の隠密《おんみつ》などを使うて、長藩《ちようはん》の動静《どうせい》を窺《うかご》うていたに相違ない、それで長州《ちようしゆう》の方でも、苦肉《くにく》 の探偵《たんてい》を入《い》れて、幕府《ばくふ》の様子《ようす》を密偵《みつてい》していたものと見えるのである。  これよりいよいよ世《よ》は刈菰《かりごも》と乱《みだ》れ来て、やっとの事に王政《おうせい》の維新《いしん》となり、明治太平《めいじたいへい》の天地《てんち》 が開けたのである。この間に最も悲惨事《ひさんじ》は、幸次郎儀助等《こうじろうぎすけら》の身の上である。儀助《ぎすけ》は上野戦争《うえのせんそう》 の砌《みぎり》に行衛不明《ゆくえふめい》となり、幸次郎《こうじろう》は強烈《きようれつ》なる腎臓病に罹《かか》って、麹町《こうじまち》の僑居《きようきよ》に蜷《たお》れ、儀助《ぎすけ》の妻若 菜《つまわかな》は、明治五年頃また病気で艶《たお》れた。墓《はか》は四谷妙光寺《よつやみようこうじ》にありて、お菊《きく》が常に墓参《ぼさん》せしとの事、 お菊は夫幸次郎《おつとこうじろう》の病気を勤《つとめ》の身《み》にありながら色々と看護《みとり》をしていたが、彼れの死後無事勤め の年期を終えて、一端幸次郎の実家長府《じつかちようふ》にも帰ったが、身寄《みより》の者《もの》も段《だんだん》々|死絶《しにたえ》て、代易《だいが》わりと もなっていたので、生国《しようごく》なる越前《えちぜん》に初《はじ》めて墓参旁帰《ぽさんかたがた》り、だんだん生残《いきのこ》った古老《ころう》の人共をも 招きて、寺院《じいん》に寄附供養《きふくよう》の事共をなし、それからお菊《きく》が遠縁《とおえん》の血統《けつとう》ある、十歳の小娘君子《こむすめきみこ》な る者を養女《ようじよ》に貰い受け、再び江戸《えど》に出来《いできた》りて、丁度|距《さ》る明治十一年、即《すなわ》ち西南戦争《せいなんせんそう》の後この |浜町《はまちよう》に旅館営業を始めたのである、その時丁度|其娘《そのむすめ》の君子《きみこ》は十七歳であった。それからお菊《きく》 の産《う》んだ娘《むすめ》の児《こ》二人の内|一人《ひとり》は、養子先《ようしさ》きにて病死し、一人《ひとり》はその婿《むこ》なる者が北海道《ほつかいどう》の小樽《おたる》 で材木商《ざいもくしよう》をなし、一人の孫《まご》さえ出来たので、お菊は一度は小樽《おたる》にも行き、娘夫婦《むすめふうふ》も孫連《まごづ》れに て上京《じようきよう》もして来たのである。親身《しんみ》の身寄《みより》と云うは先《まず》これであった。丁度明治二十三年の憲法 発布《けんぽうはつぷ》の後《のち》であった。小榑《おたる》の娘夫婦《むすめふうふ》が上京《じようきよう》して、親子相談の上|越前屋《えちぜんや》の店《みせ》を、居成《いな》りに人に譲《ゆず》 り、綺麗《きれい》に送別の宴《えん》などを開き、小樽へ引越して往《い》ってしもうたのである。  その後|寒暑年始末《かんしよねんしまつ》には、庵主《あんしゆ》と音信《おんしん》の贈答《ぞうとう》もしていたが、庵主《あんしゆ》は生来の漂浪生《ひようろう》活にて、支 那や香港にも往来し、その後|洋行等《ようこうなど》も四五回に及び、段《だんだん》々|無音《むおん》となり、去る四十二年の頃お 菊は七十四歳を一|期《ご》として大往生《だいおうじよう》を遂《と》げたとの通知《つうち》を得て、庵主《あんしゆ》は朝吹氏《あさぶきし》とも相談の上、昔 を偲《しの》ぶ事共を書連ね、香花《こうげ》の料等《りようなど》を贈ったのであった。  庵主等は元来|乱世《らんせい》の不逞児《ふていじ》、太平《たいへい》の屑男《くずおとこ》にて、たいていの人間には驚かぬ性質《たち》であるが、 このお菊媼《きくばあ》さんの如き女丈夫《じよじようふ》偉大なる傑物《けつぷつ》には今なお一|驚《きよう》を禁《きん》じ得《え》ぬのである。即《すなわ》ち慾望《よくぼう》と 執着《しゆうちやく》とを解脱《げだつ》して、義気《ぎき》の強烈《きようれつ》なるかかる婦人を見た事がないのである。第一、人の世話《せわ》を してどんな掛り合に会うても悔《く》いたる事なく第二、人の為に大損《おおぞん》をしても永久に微塵《みじん》も愚痴《ぐち》 を渡《こぽ》した事なく第三、養父《ようふ》と夫《おつと》に孝貞《こうてい》にして、それを表面《みえ》に少しも見せた事なく第四、慈悲《じひ》 と善根《ぜんこん》の心深くして、総《すぺ》て人の知らぬ処《ところ》に親切《しんせつ》を運び第五、権勢《けんせい》に秋毫《しゆうごう》も屈せず、弱者を微 塵《みじん》も慢《あなど》らず、ただ見る崇高《すうこう》なるある仏陀《ぷつだ》の化身《けしん》と思うたのである。この媼《ばあ》さんに世話になっ た顕要《けんよう》の巨頭《きよとう》も沢山あるが、娼《ばあ》さんは丸《まる》でそれを忘却《ぽうきやく》してしもうている。たまたま事に触《ふ》れ て庵主等《あんしゆら》がそれを説明付きに咄《はな》して聞すれば、 『まああの方《かた》がそうなんですか、それはまあ結構《けつこう》な事です。早速|亀戸《かめいど》の天神様《てんじんさま》にお参《まいり》を仕《し》て、 この上の御繁昌《ごはんじよう》を祈りましよう』 と云うだけで、その後は再び口にも出さなかった。即《すなわ》ちかく云う庵主《あんしゆ》も、この娼《ぱあ》さんの世話 厄介《せわやつかい》になって正《ま》さに今日あるのであるが、多くの人々はあの人もこの人も、あの媼《ばあ》さんの世 話になった人であると云う事を、庵主《あんしゆ》は能《よ》く知っているが、今日では皆知《みなし》らぬ顔をしている。 それは心に思うても、口では云えぬのであろう。曰《いわ》く伯爵《はくしやく》、曰《いわ》く男爵《だんしやく》、曰《いわ》く社長《しやちよう》、曰《いわ》く大金 持《おおがねも》ち、その高階級《こうかいきゆう》を得《え》ている人々が、昔日顔役《むかしかおやく》の女房《にようぽう》や、後家《ごけ》などで宿屋稼業《やどやかぎよう》をしている女 の世話になったと云う事を、濃厚《のうこう》に発表しては、子孫《しそん》の末までその家系《かけい》と経歴《けいれき》を傷《きずつ》けるとで も思うのに相違《そうい》ないのである。ある時|庵主《あんしゆ》が某|新華族《しんかぞく》で、高官《こうかん》にある人を浜町《はまちよう》の常盤屋《ときわや》に招 待して、客も大略散《たいりやくさん》じた後|世間咄《せけんばなし》の時、 『ああ閣下《かつか》よ、あのお菊媼《きくばあ》さんが、この間北《あいだ》海道で死んだそうですから、何か贈《おく》って遣《や》りた いと思うていますが、閣下《かつか》も何か遣《や》って下さったらどうです』 と云うたら、閣下《かつか》ははっと顔に一種感情の血《ち》を澁《みなぎ》らして、 『お菊《きく》とは何です。僕はそんな人は知らないよ、何かそれは君方《きみがた》の考《かんが》え違《ちが》いではないかえ』 と云うから、庵主《あんしゆ》も少し可笑《おか》しく思ったところが、側《かたわ》らにいた朝吹氏《あさぷきし》は、交際社会で円満《えんまん》と 云うては、比類《ひるい》なき程の人であるのに、何と考えたか大声《たいせい》を発して、 『閣下《かつか》よ、それはいけませぬ。人間と云う物は、人の物を喰った事と、人の親切を受けた事 だけは、決して忘れてはいけませぬ。閣下《かつか》はあの媼《ばあ》さんの事だけは、お忘れになってはいけ ませぬよ』 と云うたら、閣下殿《かつかどの》はお額《でこ》に青筋《あおすじ》を立《た》てて怒《おこ》り出した。 『君方《きみがた》は、今日は僕を侮辱《ぶじよく》する為《た》めに此所《ここ》に呼んだのですか。僕はかかる席には御免《ごめん》を蒙《こうむ》る』 と云うてぷいと立って帰ってしもうた。さあ朝吹氏《あさぶきし》が怒《おこ》り出した。 『なんだあの畜生《ちくしよう》、君と僕の証人二人《しようにんふたり》の外には、人も居《お》らぬ席《せき》で、かかる顕著《けんちよ》なる忘恩的《ぽうおんてき》の |馬鹿《ばか》を吐《は》く以上はもう勘弁《かんべん》ならぬ』 と力味《りきみ》出した。酒《さけ》の勢《いきお》いも有ったろうが、朝吹氏《あさぷきし》には珍らしき奮発《ふんぱつ》であった。庵主《あんしゆ》は余りに 面白くなって来たから、一つ朝吹氏《あさぶきし》と同道して、その閣下《かつか》のお屋敷《やしき》に伺候《しこう》して、閣下の面《つら》の |皮《かわ》をひん剥《む》き、黄色《きいろ》の泡《あわ》を吹かせて遣ろうかとの好奇心《こうきしん》も起らぬでもなかったが、庵主《あんしゆ》はか く云うて朝吹氏《あさぶきし》を慰《なぐさ》めた。 『あの馬鹿野郎《ばかやろう》を摘《つま》み潰《つぶ》すのは何でもないが、お互一《たがい》寸考えねばならぬ事がある。あのお菊《きく》 と云う塩《ばあ》さんは、人の世話をした事を口に出して云う事を、何かの罪悪ででもあるように嫌《いや》 がった女である。それをお互がただの癇癪《かんしやく》の為《た》めに叩《たた》き破《こわ》して、娼《ばあ》さんの一番|嫌《きらい》の事《こと》を暴露《ばくろ》 するのは、第一お菊《きく》の仏意《ぶつい》に背《そむ》き、第二お菊《きく》の心立《こころだて》に対しても恥《はず》かしい事では有まいか。こ れはあの馬鹿野郎《ばかやろう》の為《す》るが儘《まま》にしばらく打捨《うちす》てて置《お》いた方が宜《よ》かろうと思う』 と云うた事があった。  以上|庵主《あんしゆ》が数回の叙述《じよじゆつ》に因《よ》って、読者は定めてお菊《きく》の生《うま》れ素性《すじよう》から、その生存中《せいそんちゆう》の行為《こうい》の |純潔無垢《じゆんけつむく》なる事を知《し》らせられたであろうが、これは全く仏陀《ぷつだ》の化身《けしん》と思うのが無理《むり》ではない のである。庵主《あんしゆ》もこの仏陀《ぶつだ》の功力《くりき》によりて、一|時難厄《じなんやく》を免《まぬか》れたのであるが、これを明白に発 表宣伝するのは、そのお菊媼《きくばあ》さんの崇高《すうこう》なる仏意《ぷつい》にも背《そむ》くからと思い、今日までは人にも咄《はな》 さず、雨《あめ》に連《つ》れ風《かぜ》に連れて、それ等《ら》の恩義《おんざ》と、その面影《おもかげ》を偲《しの》んでいたが、今は朝吹老人《あさぷきろうじん》も逸《いち》 早く世《よ》に無《な》き人《ひと》となられ、ただ庵主《あんしゆ》一人となったのであるから、もし庵主《あんしゆ》がお目出度《めでた》くなっ た後には、そんな媼《ばあ》さんが世の中に有ったかどうか、と云う事も分らぬままに、潭滅《いんめつ》してし にある大略《たいりやく》をここに書残すのである。  庵主《あんしゆ》がかつて西洋《せいよう》の書物を読んでいたら、仏国巴里《ふつこくパリミ》の片田舎に、母子暮しの男があって、 その男の職業は牛酪《パタ》を製《せい》する事であった。その母は往来《おうらい》の側《かたわら》に茶店《ちやみせ》を出《だ》して、人の腰《こし》を休め る商売をしておったところが、ある日の朝《あさ》、店の戸を開けると、直《ただち》に倒れるように這入《はい》って 来た一人の軍人《ぐんじん》があって、『腹《はら》が減《へ》って動けぬから何でも少し喰《く》わせてくれ』と云うた。老母 は取《とり》あえず自分等の食糧《しよくりよう》の堅《かた》パンに、青《あお》バタを添《そ》えて与《あた》えたら、士官は腹一杯|喰《く》うて水を飲 み、 『もうこれで大丈夫だ、きっと天下《てんか》が取れるぞ。成功の後はお前にしっかり報恩《ほうおん》をするぞ』 と云うと、老母は曰《いわ》く、 『私はお前さんが飢《うえ》と云う病気に罹《かか》っているから、取敢《とりあ》えず私共親子の食糧《しよくりよう》とする堅《かた》パンを |与《あた》えたが、腹《はら》が出来たら全快して当り前の人間になったのであるから、一つ問う事がある。 お前さんは一体今|仏国《ふつこく》の王家《おうけ 》に敵対《てむこ》うて戦争をしている革命軍《かくめいぐん》の方の人か、または王家の味 方をしている軍人であるか』 と問うたら、 『俺《おれ》はその革命軍《かくめいぐん》の方である』 と答えた。 『お前さんは今日《こんにち》ただ今、私《わたくし》にパンを貰《もろ》うて喰《く》うたと云う事を事実《じじつ》から取去《とりさ》ったように忘れ る事が出来ますか』 と云うたら士官は、 『老女はなぜそんな事を云うか』 と詰《なじ》った。老母は平然《へいぜん》として、 『食《しよく》に飢《さつ》えた人間一人を、神に代りて助けた事はあるけれど、革命軍でありながら、王家の |軍人肩章《ぐんじんけんしよう》を付けて、今日まで王家の治下にある老母を欺《あざむ》いて、食を得た軍人を助けた事を、 今事実の上から取去りたいと思うからである』 と答えたので、その軍人は慌《あわ》ててその肩章《けんしよう》を拐《むし》り取《と》って、そのパンの代金《だいさん》を払《はら》うべく身構《みがまえ》た ので、老母は直ちにその残《のこ》りのパンとバタの皿とを土間に投出して、側にいる犬に喰《く》わせて しもうて、その士官《しかん》の仕払《しはらい》を拒絶《きよぜつ》した。 『私《わたぐし》と忰《せがれ》との二日分の食糧《しよくりよう》は、今誤《いまあやま》って皆犬に喰《く》われてしもうたけれども、まだ私は神に 代りて一人の飢餓《きが》に迫《せま》った軍人を助けた事はないと云うことを、念を入れて明言《めいげん》します』 と云うて、その軍人を戸外に押出《おしだ》し、ばたんとドアを締めてしもうた。その後その軍人が、 とうとう皇帝《こうてい》の位に上《のぽ》って、その老母親子《ろうぽおやこ》を呼出《よびだ》し、賞勲局長《しようくんきよくちよう》をして恩賞《おんしよう》を与《あた》うべく申渡 したら、老母はけげんな顔をして、 『私《わたくし》が往日貧困《おうじつひんこん》の時に犬に親子《おやこ》二日分の食糧を喰われたのを、ある慈善心《じぜんしん》のある軍人が見か ねてこれを不憫《ふぴん》に思い、そのパンの代を償《あがの》うてくれようと仕《し》た事《こと》は記憶している。即《すなわ》ちかか る心掛《こころが》けの軍人は、きっと後《のち》には今の王家《おうれ》に代りて皇帝様《こうていさま》位にはなるであろうと思うた事は 記憶しているが、貧困《ひんこん》の老母《ろうぽ》は、未だ已《おの》れの食を割《さ》いて、他の人に喰わせる程の余裕《よゆう》はなかっ た。但しグリーキの神話《しんわ》の如く、その人が犬に見えたのかも知らぬが、それがもし事実なら ば、決して犬は皇帝様になるはずがないと思います』 と答えたので、役人も皇帝も、顔を真赤にして、その老母《ろうぽ》の精神《せいしん》の崇高《すうこう》なのに恥入《はじい》り、とう とうその皇帝《こうてい》はその老女《ろうじよ》を、慈母《じぽ》の模範《もはん》として、その子を孝子《こうし》の模範《もはん》として表彰《ひようしよう》した、との 事である。  庵主《あんしゆ》が今この紙上《しじよう》、数回を以てお菊媼《きくばあ》さんの事歴《じれき》を叙述《じよじゆつ》したのは、人間と犬と間違えて貰 いたくない為めの表彰で、多くのお菊媼《きくばあ》さんの世話になって、今|高位高官《こういこうかん》や、大金持になっ ている人々には多分今頃は大抵《たいてい》お菊媼《きくばあ》さんの方で、犬と間違えているであろうと思うのであ る。 奇才縦横の俳人銭六  庵主《あんしゆ》はここに百|魔人中《まじんちゆう》の一|奇人《きじん》を紹介《しようかい》するであろう。その人は福岡藩士《ふくおかはんし》にして、名を川辺 青人《かわべあおんど》と称《とな》えて、庵主《あんしゆ》の曾祖父《そうそふ》に当る杉山夢樵《すぎやまむしよう》と云う歌人《かじん》の門弟《もんてい》である。この人は幼少《よトつしよう》より、 奇才縦横《ささいじゆうおう》を以て一世に聞えた狂歌師《きようかし》であったが、その内的に充実《じゆうじつ》した気魂《きはく》は、すこぶる豪胆《ごうたん》 にして百|難《なん》を処理裁決《しよりさいけつ》する抜群《ばつぐん》の器量《きりよう》を備《そな》えた人であった。庵主《あんしゆ》は幼少《ようしよう》の頃より、祖父母《そふぽ》や、 |父母《ふぽ》の寝咄《ねばな》しにその逸話《いつわ》を聞いていたが、その狂歌《きようか》の如《ごと》きも、多くは後《のち》の剽窃家《ひようせつか》に愉奪《ちゆうだつ》せら れて、あるいは一|休禅師《きゆうぜんじ》や仙崖和尚《せんがいおしよう》や、蜀山人《しよくさんじん》などの詠歌《えいか》として世《よ》に伝《つた》えられているのがあ るのは、正《まさ》にその奇人《きじん》たる一面を顕《あら》わしている。またその歌《うた》の中には面白《おもしろ》いのもあり面白く ないのもあるが、総《すべ》て歌と云う物は、その境遇《きようぐう》に入《い》って味《あじお》うてみねばよい味を得《え》ぬものであ る。庵主《あんしゆ》は我家《わがや》に懣拠《ひようきよ》のある物と、伝聞《でんぶん》の存《そん》する物とを考証《こうしよう》して、その分《わか》り易《やす》い分《ぷん》だけをぽ つぼつと読者《どくしや》に紹介《しようかい》してみようと思う。この人|自《みず》から信州真田幸村《しんしゆうさなだゆきむら》の末裔《まつえい》なりと称《しよう》し、好《この》ん で六|文銭《もんせん》の紋章《もんしよう》を衣服《いふく》に着《つ》け、俳名《はいめい》をも銭《せん》六と称《しよう》していた。  この人《ひと》が狂歌《さようか》の奇才《きさい》を以て、一世に認《みと》められた始めは、ある年、家老席《かろうせき》の大家《たいか》に年頭《ねんとう》の祝 儀《しゆうぎ》として伺候《しこう》したところが、元日早々主人の登城前《とじようまえ》に、一人の年賀客《ねんがきやく》が、癲癩《てんかん》の持病《じぴよう》でもあっ たかして、門前《もんぜん》の門松《かどまつ》に取縋《とりすが》り、全身彎曲《ぜんしんわんきよく》して泡《あわ》を吹《ふ》いて苦んでいたのを、門番《もんばん》共が気付か ずにいた。主人《しゆじん》は大勢の家人等《かじんら》に送られて出て来て見たらばこの始末故縁起《しまつゆええんぎ》を重んずる時代 の事とて、烈火《れつか》の如く憤《いきどお》り、門番《もんばん》の不取締不埒《ふとりしまりふらち》とあって、左右に命じて将《ま》さに斬《さ》りも捨《す》てん ず結構《けつこう》である。主人は直《ただち》に元の玄関《げんかん》に引返《ひきかえ》してその始末《しまつ》を見ていたところに、日頃出入《ひごろでいり》の銭《せん》 六が屠蘇機嫌《とそきげん》にて入来《いりきた》り、この有様《ありさま》を見《み》て手《て》を打《う》って大笑《たいしよう》し、 『これは元日早々から、御当家《ごとうけ》のお目出度《めでた》にて、御家《おいえ》の繁昌幸福《はんじようこうふく》またこの上なき御慶事《ごけいじ》にご ざりまする』 と云うたので、主人公《しゆじんこう》は不興気《ふきようげ》に、 『銭《せん》六よ元日早々|酒機嫌《さけきげん》の嚶言《たわごと》その訳《わけ》を申出《もうしで》よ』 と詰責《きつせき》せられたのをびくともせず、 『さればの事《マしと》でござります、  門松《かどまつ》にもたれて泡《あわ》を福《ふく》の神《かみ》これぞ真《まこと》の弁才癲癇《べんさいてんかん》  御主公様《ごしゆこうさま》これでも不吉《ふきち》に思召《おぽしめ》しますか』 と云われたので、主人公《しゆじんこう》思わず失笑《しつしよう》して、限《かぎ》りなく機嫌《きげん》を直《なお》され、 『殊勝《しゆしよう》千|万《ばん》なり銭《せん》六よ、門番《もんばん》の罪《つみ》を赦《ゆる》すは申すに及ばず、その方に祝酒《しゆくしゆ》一|献《こん》を酬《むく》うべし』 とあって呼入《よぴい》れられ、客間《きやくま》に請《しよう》じてまず大福茶《おおぷくちや》を一|服賜《ぷくたま》わるべしとて、小姓《こしよう》が土瓶《どびん》と茶器《ちやき》を 持出し将《ま》さに茶碗《ちやわん》に茶《ちや》を注《つ》がんとする一|刹那《せつな》、何としたかその土瓶《どぴん》の蔓掛《つるか》けが取れて、茶汁《ちやじる》 は全部|主人面前《しゆじんめんぜん》の畳《たたみ》に顛覆《てんぷく》した。はっと思うと同時に、癇癖高《かんぺきたか》き主人公は、 『無礼者奴式日《ぷれいものめしきじつ》の不作法許《ぶさほうゆる》さぬぞ』 と叱陀《しつた》した。小姓《こしよう》ははっと平蜘蛛《ひらぐも》の如《ごと》くそこに平伏《へいふく》した。その声に応じて銭《せん》六は、 『重《かさねがさ》々のお目出度御祝儀申上《ねめでたごしゆうぎもうしあげ》ます』 と平伏《へいふく》した。主人公は怒気《どき》いよいよ止《や》まず、 『何《なに》が目出度《めでた》いのじゃ』 と励声《れいせい》に叫《さけ》んだ。銭《せん》六|声《こえ》に連《つ》れて、 『さればの事《こと》、  元日《がんじつ》や鈍《どん》と貧《ひん》とは取落《とりおと》し手《で》に残《のこ》れるは金《かね》の蔓《つる》なり  御主公如何《ごしゆこういかが》でござります』 と云うたので、主人公は心の底より銭《せん》六の奇才《きさい》に感服《かんぷく》し、直《ただ》ちに小姓《こしよう》の不届《ふとどき》を赦免《しやめん》して、銭《せん》 六には当座の引出物《ひきでもの》を賜《たま》わり、機嫌能《きげんよ》く登城《とじよう》せられたがその後いかに繰返《くりかえ》して考えてみても、 |銭《せん》六の才器凡《さいきぽん》ならずと思わるるより、折を以て右《みぎ》の顛末《てんまつ》を君前《くんぜん》に披露《ひろう》せられたので、君公《くんこう》も |殊勝《しゆしよう》この上なき者に、思召《おぽしめ》され、折《おり》に触《ふ》れ君前《くんぜん》に召《め》され、特殊《とくしゆ》の寵遇《ちようぐう》を蒙《こうむ》ったとの事である。 ここに於て銭《せん》六は、この年の元日に、二|人《にん》の人命《じんめい》を助けたと云うので、この家老殿《かろうどの》より二|文 坊《もんぽう》と名付《なづけ》られ、それより時に触《ふ》れて詠歌《えいか》に二|文坊《もんぽう》と記《しる》したるは、この銭《せん》六の事である。この 時の歌に、   一|文《もん》の直《ね》もなき飴《あめ》を甘《う》ま甘《う》まと           二|文棒《もんぽう》とて売付《うりつ》けにけり  この人は尤《もつと》も武道《ぶどう》を好《この》み、倹素《けんそ》を貴《たつと》び、その毎日の所行《しよぎよう》の洒脱風流《しやだつふうりゆう》なるに似ず、操行《そうこう》に少 しの油断《ゆだん》もなき人であった。服装は鼠色手染《ねずみいろてぞめ》の木綿物《もめんもの》であって、大小を手挟《たばさ》み、糞桶《こえおけ》を荷《にな》い       てんびんぽう  うね  わき                 だいとう  さげお   ひっか     ひりよう  や さい  そそ て畑に致り、天秤棒を畝の側に突き立て、それに大刀の下緒を引掛け、肥料を野菜に灌いで いるその野菜《やさい》がいかにも立派《りつぱ》に出来ていたので、ある知人が通り掛《かか》り、 『銭《せん》六|殿《どの》よ実《じつ》に立派《りつぱ》な菜葉《なつぱ》である。差支《さしつかえ》なくば少し私に分けてくれぬか』 と云う声に応じて、 『武士《もののふ》の名《な》を惜《おし》むにはあらねども肥《こえ》かけられて引くに引《ひ》かれず』 と口《くち》を突《つ》いて吟《ぎん》じたので、その知人はあっと感嘆《かんたん》してその歌を直《ただ》ちに流布《るふ》したとの事である。  ある年|隣国肥前《りんごくひぜん》より、筑前《ちくぜん》への申込みあったのは背振山国境紛争《せぷりやまこつきようふんそう》の一件であった。これは |事柄《ことがら》と云い息込《いきご》みと云い、場合によりては兵馬《へいぱ》の接衝《せつしよう》にも及び兼《か》ね間敷有様《まじきありさま》となってきた。 とうとう始に肥前《ひぜん》より差越《さしこ》した使者《ししゃ》の口上《こうじよう》では、尤《もつと》も手詰《てづ》めの申条《もうしじよう》が含まれているから、こ の度肥前《たぴひぜん》に対する応接方《おうせつかた》の選定《せんてい》を、誰彼《たれか》れと評議中《ひようぎちゆう》ある重役の一人が、不図例《ふとれい》の銭《せん》六にその |人選《じんせん》の事を話したところが、二|文坊先生即座《もんぼうせんせいそくざ》に、   背振山塩《せぶりやましお》ふり焼《やき》のお料理《りようり》は            海老《えび》と川辺《かわべ》の青人《あおんど》がよい と詠《よ》んだので、さてこそ肥前《ひぜん》への応接方《おうせつかた》には、海老太郎左衛門《えびたろうざえもん》と、その附役《つけやく》として銭《せん》六を初 め、七人を差添《さしそ》えられたのである。それより八人の一行は駄洒落《だじやれ》の千|万《ばん》を尽《つく》して、肥前神崎《ひぜんかんざき》 の駅《えき》に到着し、ここで談判《だんぱん》の順序《じゆんじよ》を評議《ひようぎ》した。この時|詠《よ》んだ銭《せん》六の歌は今《いま》なお神崎《かんざき》の本陣《ほえじん》に あるとの事である。曰く、   名物《めいぶつ》の柿《かき》より甘《うま》いたねとりは            渋《しぶしぶ》々せずに横腹《よこぱら》をきれ  (因《ちなみ》に曰《いわ》く肥前《ひぜん》は柿《かき》の名所《めいしよ》なり)  それより手筈《てはず》を定めて佐賀城《さがじよう》に乗込《のりこ》み、藩公《はんこう》に直《じきじき》々|言上《ごんじよう》の筋《すじ》ありて、福岡《ふくおか》の藩臣海老太郎 左衛門《はんしんえびたろうざえもん》以下三人|伺候《しこう》せり御重役御立会《ごじゆうやくおたちあい》の席《せさ》にて申述《もうしの》べんとの事である。翌日|藩公《はんこう》一|同着席《どうちやくせき》の 前に、右三人の使者を呼出したところ、太郎左衛門は藩公《はんこう》および一同へ辞儀挨拶《じぎあいさつ》を了《お》え、さ て申述べるよう、 『そもそも背振山御国境《せぶりやまおくにざかい》の儀《ぎ》は、元和年中《げんなねんちゆう》、長政入国以《ながまさにゆうこく》来|両藩御立会《りようはんおたちあい》の上|相定《あいさだ》まりおり、そ の節《せつ》より手前|先祖海老太郎左衛門《せんぞえびたろうざえもん》と申せし者以後|代《だいだい》々|境番専役相勤《さかいばんせんやくあいつと》め、延《ひい》て承応年中《しようおうねんちゆう》、公儀《こうぎ》 より御取調《おとりしらべ》を蒙《こうむ》り、当時|立会《たちあい》として日田代官《ひただいかん》および久留米殿御出張相成《くるめどのごしゆつちようあいな》り爾後《じご》幾代受続き、 |手前代《てまヱだい》と相成候処《あいなりそうろうところ》、この度俄《たびにわか》に尊藩《そんぱん》より白鳥峰《しらとりみね》以北を以て筑前領《ちくぜんりよう》と御認定相成候趣《ごにんていあいなりそろおもむき》、然《しか》る に手前祖先以来《てまえそせんいらい》の勤役《きんやく》、歴代《れきだい》の証文証拠等《しようもんしょうことう》に因《よ》る時は、赤熊谷《しやぐまだに》以南が肥前御領分《ひぜんごりようぷん》と相成《あいな》りお り。それでは双方の申立《もうしたて》のみにても、已《すで》に五ヶ谷《だに》の相違有之事《そういこれあること》と相成《あいなり》、随《したが》って村民田畑《そんみんでんぱた》の争 いも、引続き差起《さしおこ》り可申《もうすべく》、左《さ》ある時は双方|至極《しごく》の証拠《しようこ》を以て争議相生可申《そうぎあいしようじもうすべく》、また今回の議 点《ぎてん》は、尊藩御先代様《そんぱんごせんだいさま》より白鳥神社《しらとりじんじや》へ社領社地等御寄附相成候《しゃりようしゃちとうごきふあいなりそうろう》より起り候事《そうろうこと》なれ共、弊藩《へいはん》と ても、正徳以《しようとく》来|長瀬境《ながせざかい》の白山神社《はくさんじんじや》に、社領寄附等《しやりようきふとう》の証拠《しようこ》も有之《これあり》、旁臺国祖《かたがたこくそ》以|来尤他意《もつともたい》なき隣 藩御交誼《りんぱんごこうざ》の疎隔之《そかくこれ》より相生《あいしよう》じ候事《そろこと》、私共臣下《わたくしどもしんか》の身《み》として不本意無此上《ふほんいこのうえなく》、就《つき》ましては現在|何時《いつ》 の頃よりか相定《あいさだ》まり居候御国境古谷峠《おりそろおくにざかいふるやとうげ》の分水《ぶんすい》を境《さかい》と致《いた》したる儘《まま》、境目論御沙汰止《さかいめろんおさたや》みと相成候《あいなりそうら》 わば両国《りようごく》の安堵無此上《あんどこのうえなく》、只《た》だ差残《さしのこ》る所《ところ》は、元《もともと》々|赤熊谷《しやぐまだに》まで筑前領《ちくぜんりよう》たるべきを主張《しゆちよう》する境番専 役《さかいばんせんやく》の私共《わたくしども》にして、其証拠等《そのしようことう》も所持罷在候身分《しよじまかりありそろみぶん》が、此度無念《このたびむねん》の為《た》め、中央古谷峠《ちゆうおうふるやとうげ》を以《もつ》て国境《くにざかい》 と確定候様《かぐていそろよう》の事《こと》を、肥公様御前《ひこうさまごぜん》にて取極《とりき》め候事《そろこと》と相成候《あいなりそうら》わば全《まつた》く私共役柄家柄《わたくしどもやくがらいえがら》の不調法《ぷちようほう》と云  ことだけ  あいなりそろあいだ みぎさかいろんしらべしよ わたくしどもしよめいなついん うえ  はばかりながらごりようけ  ご い こう  おと     もうし う事丈と相成候間、右境論調書に私共署名捺印の上、乍憚御両家の御威光を墜さざる申 訳《いわけ》として武士道《ぶしどう》の表御次《おもておつぎ》の間《ま》にて、一|同切腹《どうせつぷく》の覚悟《かくご》にて罷出候次第《まかりいでそろしだい》、愚臣《ぐしん》の心中御賢察《しんちゆうごけんさつ》の上《うえ》、 |両国《りようごく》の無難藩交安堵《ぶなんはんこうあんど》の思召《おぽしめし》を以《もつ》て、御賢慮給《ごけんりよたま》わり度此儀御許容偏《たくこのぎおゆるしひと》えに奉願《ねがいたてまつる》』 と弁舌《べんぜつ》流るるが如《ごと》く、一同|堅固《けんご》の決意を示して申し述べたので、藩公《はんこう》を初め並《なみ》いる家老諸士《かろうしよし》 の面《めんめん》々ただ酔《よ》えるが如《ごと》く感服《かんぷく》し、満場の同情《どうじよう》は一にこの三人の上に集まったのである。藩公《はんこう》 は徐《おもむ》ろに口を開き、 『その方共|両藩《りようはん》の安危《あんき》を一身に引受け身を賭《と》して双方《そうほう》の安堵《あんど》を図《はか》る、忠臣《ちゆうしん》の心入れ、奇特《きとく》に 思うの余り、肥筑両藩《ひちくりようはん》の境論《さかいろん》は、この度《たぴ》を以て沙汰止《さたや》めと致《いた》すべし。ことに古谷峠《ふるやとうげけ》に決定調 書《つていしらぺしよ》の事は、最早取極《もはやとりき》めに不及事《およぱざること》に致《いた》さば、使者にも落度無之事《おちどこれなきこと》と可相成《あいなるべく》に付、この上|心労無 用《しんろうむよう》たるべし。帰国《きこく》の上は、藩公《はんこう》へも予《よ》の心中好《しんちゆうよ》しなに披露可致云云《ひろういたすべくうんぬん》』 との上意《じょうい》であったので、使者の一同も佐賀藩《さがはん》の人々も、初めて安堵《あんど》の思《おもい》をしたのである。こ れ全《まつた》く初発《しよはつ》に於て、銭《せん》六が人選《じんせん》を過《あや》まらず、また決死《けつし》の方針《ほうしん》を示したからである。この故に さしも永年肥前《ながねんひぜん》よりぐずり掛《か》けし喧嘩《けんか》の種《たね》も縺《もつ》れにもつれし境界揉《きようかいも》めの一件も、日本一の横 着者《おうちやくもの》、種《たね》も証拠《しようこ》もなき大山師《おおやまし》共が、今回の談判《だんぱん》にて、思わざる有利の事に根本的解決《こんぽんてきかいけつ》を告《つ》げ たのである。  それから帰路《きろ》、神崎駅《かんざきえき》に於て一同また駄洒落《だじゃれ》の一|夜《や》を明かし、銭《せん》六は早速《さつそく》一|首《しゆ》を仕《つかまつ》った。   種《たね》もなき手品《てじな》の罠《わな》に掛《か》けまくも            神《かん》さき駅《えき》の神酒《みき》の甘《うま》さよ  後《あと》にて段《だんだん》々話を聞けば、銭《せん》六|奴《め》は三人の附人《つきぴと》を神崎駅《かんざきえき》に残し、二人を共《とも》として佐賀《さが》ヘ伴《ともな》い 行き、山事《やまごと》まんまと縮尻《しくじ》らば、種《たね》を洗《あら》われぬ中《うち》に、三人一同|佐賀藩《さがはん》の無法《むほう》を云立《いいた》てて、立派《りつぱ》 に腹《はら》を切り、その顛末《てんまつ》を同伴人《どうはんにん》に通じ、それより直《す》ぐに神崎駅《かんざきえき》に通じて、待設《まちもう》けたる三人は |予《かね》て栫《こしら》え置《お》きし書状を以て、佐賀藩無法《さがはんむほう》の顛末《てんまつ》を久留米公《くるめこう》、柳川公《やながわこう》、日田代官等《ひただいかんら》へ急訴《きゆうそ》に及 び、三方より公儀《こうぎ》へ上申《じょうしん》に及《およ》ばせ、佐賀藩《さがはん》に煮《に》え湯《ゆ》を呑《の》ませるの手筈《てはず》をちゃんと立《た》てていた との事である。  ここにまた或士分上席《あるしぶんじようせき》の大家《たいか》があった。武道《ぶどう》には堪能《たんのう》の人であったが、少し文事《ぷんじ》に疎《うと》い方 で、それが為《た》め家政《かせい》上に時々|不都合《ふつごう》な事があった。銭《せん》六は至極懇意《しごくこんい》な間柄《あいだがら》であったから、こ れをにがにがしき事《こと》に思い、何とかしてその家政《かせい》を直《なお》して遣《や》ろうと考《かんが》えていた。しかし多く の親類朋友《しんるいほうゆう》が、入代り立代り大義名分《たいぎめいぷん》などを説《と》いて意見をするので、その主人公元来が武士 気質《ぷしかたざ》の、意気旺盛《いきおうせい》の人であるから、ぐうっと腹《はら》に据《す》え兼《か》ね、 『何《なん》だ生意気《なまいき》な、多くの人の上に立って大役《たいやく》を勤《つと》めて御奉公《ごほうこう》をなし、お上《かみ》のお覚《おぽ》えも目出度《めでたい》、 ことに武士《ぷし》の表芸《おもてげい》たる武道《ぷどう》を以て立つ某《それがし》に、始終絶《しじゆうたえ》ざる意見立《いけんだて》とは片腹痛《かたはらいた》い咄《はなし》じゃ。この以 後|左様《さよう》の挙動《ふるまい》ある者は、譬《たと》え親友縁者《しんゆうえんじや》たりとも一|切絶交《さいぜつこう》を決意《けつい》したから左様心得《さようこころえ》よ』 と絶叫《ぜつきよう》したので一同|震《ふる》い上《あが》りて近寄《ちかよ》る者もなかったのである。そこで大才大豪無双《だいさいだいごうむそう》の銭《せん》六は これをすこぶる興味《きようみ》ある事に思い、何とかして一挙にあの人を降伏《こうふく》させる工夫《くふう》はないかと、 肝胆《かんたん》を砕《くだ》いたのである。それから銭《せん》六はまずその家庭素乱《かていぷんらん》の原因を調《しら》べてみると、その家に 田舎《いなか》より奉公《ほうこう》したるお手伝いがある。それがすこぶる美貌《びぽう》なるのみならず、一|際立《きわだ》った才女《さいじよ》 である。それに主人公何時《しゆじんこういつ》の間《ま》にやら手《て》を掛《か》けている。それからその妻女《さいじよ》と云う人が、立派 な家庭に育った人ではあるが、非常に嫉妬心《しつとしん》の強い性質である。しかし教育ある人故、表面 には少しも端《はした》なき挙動《ふるまい》を見せず、却《かえ》ってそのお手伝いを一入《ひとしお》に愛撫《あいぷ》しているが、燃《もゆ》る胸火《むねび》の |遣《や》る方《かた》なく、種々の様式《ようしき》にて手段《しゆだん》を廻《めぐ》らし、その主人公《しゆじんこう》を戒《いまし》めんとなし、またはそのお手伝 いを懲《こ》らしめんとする。それが発《はつ》して常《つね》に家庭の風波《ふうは》となるのである。以上の要点《ようてん》を早くも 見て取った銭《せん》六は考えた。 『筋合大抵《すじあいたいてい》は分《わか》ったが、さてどうした物か、我国古今妾狂《わがくにここんめかけぐるい》の歴史を繙《ひもと》いて考うるに、妾《めかけた》を蓄《くわ》 うる主人公計《しゆじんこうぱか》りに向って、強意見計《こわいけんばか》りをして、終《っい》には喧嘩口論《けんかこうろん》あるいは果《はた》し合いまで仕《し》た事 歴《じれき》は沢山あるが未だ主人公には関せず焉《えん》で、その裏面《りめん》の妾計《めかけばか》りに手《て》を付《つ》けて処置《しよち》を付けた事 は一例も見ぬのである。俺《おれ》は一つその妾《めかけ》の方から手を付けて、この難問題《なんもんだい》を主人の知らぬ中《うち》 に片付《かたづけ》てみよう』 とこう考えを定《さだ》めて、それから銭《せん》六はそのお手伝いが用事《ようじ》あって親里《おやざと》へ帰る道に鋲打《びょううち》の立派《りつぱ》 な駕籠《かご》を用意して待伏《まちぷせハ》し、黒装束《くろしようぞく》の覆面頭巾《ふくめんずきん》で、途中《とちゆう》にこれを引凌《ひきさら》って持《もつ》て行ってしもうた。 |落付先《おちつきさ》きはどこかと云えば、その主人公《しゆじんこう》の大親友の大目附役《おおめつけやく》の某の宅《たく》、今なら警視総監《けいしそうかん》の宅《たく》 である。かねて打合せていたものか、直《ただち》に奥座敷《おくざしき》に連込《つれこ》み駕籠《かご》の戸《と》を開き、猿轡《さるぐつわ》を解《と》いて、 生きた心地もなきお手伝いを労《いた》わり出し、その大目附《おおめつけ》と共に銭《せん》六が面会したので、女はびっ くり仰天《ぎようてん》した。それから徐《おもむろ》に両人《りようにん》で説《と》いた。 『其方《そち》が気質優《きだてやさ》しく、才気衆《さいきしゆう》に勝《すぐ》れ、多くの女に立勝《たちまさ》っている事は、能《よ》く我《われわれ》々両人も存《ぞん》じて    しか       お やくがら       しゆじんこう    か てい       よろし        りようにん     すで  おおめ いる。然れ共重き御役柄を勤むる主人公が、家庭はなはだ宜敷からず、両人ながら已に大目 |附《っけ》の耳にも入り、この後《ご》いかなる災害《さいがい》がその家《いえ》に来《く》るやも知れず夫《それ》は妻女《さいじよ》の心立宜《こころだてよろし》からざる |故《ゆえ》かかる悪評《あくひよう》も起《おこ》るのではあるが、その原因《もと》は其方《そち》あるが為《た》めであるから嘸驚《さぞおどろ》きつらんが、 人知れずかかる手荒《てあら》き事《こと》を為《な》したる訳なり。その方もし我々が申聞《もうしき》ける事《こと》を能聞《よくき》き入《い》れ、神 妙《しんみょう》に教訓《きようくん》を守るに於ては我《われわれ》々|武士《ぷし》の意気地《いきじ》に掛《か》け、第《だい》一|主人公《しゆじんこう》の心立《こころだて》を直し、第二|妻女《さいじよ》の不 心得《ふこころえ》を改《あらた》めさせ、その上にて其方《そち》を彼家《あのや》に入れ、永《なが》く我々が保証《ほしよう》して生涯安穏《しようがいあんのん》を図《はか》り得《え》さす べし、如何《いか》に/\/\』  リ ハ)   つく    と   き                       はじ    さいじよ  かん'い  ち かく           ぜんぴ と理非を尽して説き聞かせたところが、その女は始めて妻女の奸計を知覚して、自分の前非 を後悔《ころかい》するのみか、ただ何事《なにごと》も主人《しゆじん》の為《た》め、御家《おいえ》の為《ため》とあれば幾年《いくねん》は愚《おろ》か、一|生涯《しようがい》にてもお |差図《さしず》に随《したが》い、何事《なにごと》にても辛抱致《しんぽういた》すべしと、衷心《ちゆうしん》よりの頼《たの》みであったので、両人はしきりにそ の女の心栄《こころばえ》に感心《かんしん》し、それより銭《せん》六は、さらに主人公《しゆじんこう》を攻落《せめおと》す謀《はかりごと》を廻《めぐ》らしたのである。一 方|妾《めかけ》の行方不明となった主人公《しゆじんこう》は、一家たちまち騒動《そうどう》の巷《ちまた》となり、殊《こと》に妻女《さいじよ》と主人公《しゆじんこう》は血眼《ちまなこ》 で、親許等《おやもとなど》や心当《こころあた》りの方面を詮議《せんざ》したが、掻暮行方《かいくれゆくえ》が分らぬので、とうとう例の大目附《おおめつけ》の友 人方《ゆうじんかた》に来《きた》り、その詮議方《せんぎがた》を頼《たの》んだのである。 三十九 |鯛《たい》の眼球吸物《めだまのすいもの》の縁起《えんぎ》   奇計友を救うて家道を正し、 奇句酒を沽うて貧楽を貪る 鯛の眼球吸物の縁起  さて銭《せん》六はその友人の家庭を正《ただ》さんと考《さ》えてから、その妾《めかけ》を俊《さら》い取って大目附《おおめつけ》の家に預け、 |大目附《おおめつけ》と共に懇《こんこん》々その妾《めかけ》に訓戒《くんかい》を加え、直《すぐ》にその友人の家に到《いた》って顛末《てんまつ》を聞きだんだん理《り》を |責《せ》めてとうとうお手伝いに手を接《つ》けて妾《めかけ》としたる事《こと》まで自白《じはく》せしめ、それからその妻女《さいじよ》の奸 計不埒《かんけいふらち》までを責《せ》め上げたので、いかなる才智武勇《さいちぶゆう》の人でも親切《しんせつ》に敵《てき》とう武器《ぶき》は無いから、終《つい》 に夫婦共|降伏《こうふく》したので、彼《か》の大目附《おおめつけ》と共に右の妾《めかけ》を同道《どうどう》して、その家に入れた。三人は衷心《ちゆうしん》 より改悟《かいご》して、ここに家政の円満《えんまん》を計《はか》り、主人《しゆじん》は御奉公《ごほうこう》に精勤《せいきん》を尽《つく》し、妻妾《さいしよう》の二人は、各《かく》二 三の子《こ》を産《もう》けて一|家繁昌《かはんじよう》の基《もとい》を開いたのである。かくの如き仕事に着手して、立派に完結す るまでに三四日間を費《つい》やし、美事《みごと》に三人の人を善化《ぜんか》させたのである。庵主《あんしゆ》はこの咄《はなし》を聞いて、 |銭《せん》六は全く釈迦達磨《しやかだるま》以上と思うている。その後十|日《か》ばかりして銭《せん》六が様子を見に往《い》ったら二 人の妻女《さいじよ》が飛んで出て来て、その主人と共にまあ一杯飲んでくれと云うて、有合《ありあわ》せの肴《さかな》で丸 盆《まるぼん》の上に二つの盃《さかずき》を乗せて持って来た。銭《せん》六も主人も波《なみなみ》々と一|杯受《ぱいう》けて、銭《せん》六|盃《さかずき》を持ちな がら口走《くちばし》った。   嘗しきさ盈き二つ籍と鵡うを薹る藍の上 と云々ぐうとその酒を聾した。その時彦また察の空に十蕃恥がぬうっと揶つた ので銭六また一首、   斯《か》くばかり清《ま》い月《つき》をば過《す》ぎし夜《よ》は浮雲《うきも》かけて黒《くろ》うしにけり その年の暮《く》れに黄《せん》が、うっかりその家を轄たら、霞は議警て、上を下へと藩 している。何事かと尋ねたらばその主人公が、 聴や毯な時鐸たねえ、昨夜から霞が戲斧いて、今やっと孥るとこ言や・佚 辛抱で母子共に安産じゃ』 『構諧れは蒿出佚《めでた》諧や誦|手前《てまえ》の方は金が葎で、その与鑾ときているから・ お目出度尽しじゃ早速御祝儀窒首』   貧坊《ぴんぽう》で青《あお》ん坊《ぽう》なる年《とし》の瀬《せ》を一ト辛坊《しんぽう》で赤《あか》ん坊《まう》とは 篶欝竃驚'マ箒曇鱒欝讐暑諧嬬 荘き"沁るから、盃遅しと二人共待っている、お手伝いと鎌六の藷列とは、大急ぎで二つの 艫に呶嫩漾せて持諧諧ところが、妻奈寡筥幤て騫晏け、野足は取れる・ 鯛の璧吸物は前に撒き散してしもうたので、客姜女も声を上げて驚いた壷六少しも騒 がず、 『女房出《にようぽうで》かした、それで今年《こんねん》の縁起《えんぎ》が直った、君も共《ともども》々|祝《しゆく》してくれよ』   元日《がんじつ》や足《あし》きはのけて膳《ぜん》ばかりその上《うえ》にまたお目出鯛《めでたい》とは と云つつ、立って女房を扶起《たすけおこ》して笑《わら》い囁《さざ》めいて年首《ねんしゆ》の祝杯《しゆくはい》を挙《あ》げたとの事である。  この銭《せん》六の門長屋《もんながや》に与助《よすけ》と云う米槝《こめつき》の男衆がおった。この男が途方もない面白《おもしろ》い奴で、や やもすると銭《せん》六を負かす位に狂歌《きようか》を詠《よ》む、これは門前《もんぜん》の小僧《こぞう》位でなく、全《まつた》く門傍《もんぱた》の大僧《おおぞう》であ る。この与助奴《よすけめ》、至《いた》って夫婦《ふうふ》なかよく一|人《にん》の悴《せがれ》を持《も》っていて、今年《こんねん》六歳である。それを銭《せん》六 は我子《わがこ》の如く愛《あい》していた。ある時|与助《よすけ》は土間《どま》で例の如く米を樢《つ》いている、その側《わさ》にその悴《せがれ》が |竹弓《たけゆみ》を持って遊んでいたがどうして顛倒《こけ》たかその持っている弓《ゆみ》で眼《め》を突いて、わっと泣出し た、日頃《ひごろ》愛している銭《せん》六は、びっくりして座敷《ざしき》より駈《か》け来《きた》り、 『与助《よすけ》、親《おや》が側《そぱ》におって怪我《けが》させると云う事があるか、目が見えなくなったらどうするか』 と叱責《しつせき》した。与助《よすけ》声に応じて、   お旦那《だんな》は大目玉出《おおめだまだ》す悴《せがれ》めは親爺《おやじ》と共《とも》に子目《こめ》を突《つき》けり  銭《せん》六かっと怒りて与助《よすけ》を土間《どま》より外に突出《つきだ》し子供を抱えたまま、   米樢《こめつ》いて子目突《こめつ》き潰《つぶ》す与助目《よすけめ》は大目玉《おおめだま》にて突出《つきだ》しにけり  与助《よすけ》も悴《せがれ》の事が心配でたまらぬから、つかつかとまた土間《どま》に駈《か》け入り、   大目玉《おおめだま》で突き出されても一人子《ひとりこ》の子《こ》には目《め》のない小目突《こめつさ》の親《おや》  この有様《ありさま》を見て、与助《よすけ》の女房《にようぽう》が駈《か》け付《つ》け旦那様《だんなさま》もお前さんも何と云う呑気《のんき》な事じゃと云う て、その子を引抱《ひつかか》え表《おもて》へ飛んで出《い》で直《す》ぐにお医者様《いしやさま》に連れて行った。  ある夏の日に、この与助《よすけ》の娯《かかあ》が臨月腹《りんげつばら》を抱《かか》えて、垣根《かきね》の日蔭《ひかげ》で洗濯《せんたく》をしていたが、俄《にわ》かに 産気付《さんけづ》いて虫がかぶってきた。銭《せん》六は駈け付けその罎《かかあ》を抱《かか》えながら与助《よすけ》を大声で呼び、   この罎《かかあ》は和歌仙人《わかせんにん》の末《すえ》なるか柿《かき》の本《もと》にて人《ひと》を丸《まる》なり と口走《くちばし》った、その中苦《うちくる》しんでいる嬶《かかあ》を与助《よすけ》と共に抱《かか》えて家の中に連れて行《ゆ》こうと騒《さわ》ぐ。罎《かかあ》は |苦《くる》し紛《まぎ》れにぷうっと屍《へ》を一っ垂《た》れた、与助取敢《よすけとりあ》えず、   人《ひと》を丸《ま》るついでに屍《へ》をもまりにけり音《おと》は文屋《ぶんや》で産《さん》は康秀《やすひで》  それから二|人《にん》にてやっと家の中に連れ込み、間もなく立派な女の子が生れたので、銭《せん》六も |与助《よすけ》もやっと心から喜んだのであった。それから両人《りようにん》で名《な》をお安《やす》と付けて一|首《しゆ》やった。   先《ま》づ喜《き》せん乙女《おとめ》は小町名《こまちな》はお康《やす》きりゃう業平髪《なりひらかみ》は黒主《くろぬし》(この歌少し分らぬ所あれど、そ   のままに記《しる》し置《お》く)  この銭《せん》六の門人《もんじん》に、高屋《こうや》の小兵衛《こへえ》とて、酒屋店《さかやみせ》を出したる歌人《かじん》があった。銭《せん》六も弟子《でし》では あるが、貧乏の為《た》め永年|酒代《さかだい》の溜《たま》りが嵩《かさ》み、この上|貸《か》せとも云い兼《か》ねているけれども、さり とて飲みたき酒の事故、顔押拭《かおおしぬぐ》うて酒を取りに遣《や》るのである。また小兵衛《こへえ》の方でも、先生の 事故、貸《か》せるだけは永年貸していたけれども、何分|資夲薄《もとでうす》の事故、この上|際限《さいげん》なく先生に飲 倒《のみたお》されては、店の商売が廻《ま》わらぬようになるからと、常に苦心しておった。ある日何でも今 日頃は、先生の方から酒を取りに来る時と思うて、一|首《しゆ》の狂歌《きようか》を筆太《ふでぶと》に書いて、店の酒場《さかば》に 張出して置いた。   売《うり》ますは現金《げんさん》だけに限《かぎ》ります掛商《かけあきない》はもう困ります  この張札《はりふだ》を張《は》ってしまうかしまわぬかの晩景《ばんけい》に、銭《せん》六は徳利《とくり》を羽織《はおり》の下に隠《かく》し、一つ談判《だんぱん》 を仕ようと思うて店先《みせさき》に遣《や》って来た。内《うち》に這入《はい》ってみると、張札《はりふだ》がしてある。銭《せん》六がそれを 読でいるのを見ると流石《さすが》の小兵衛《こへえ》もきまりが悪く、飛んでは出たが、ただそこに手を附いて お辞儀《じぎ》をしているばかりである。銭《 せん》六は庭に立《た》ったまま、   買《かい》ますと貰《もら》ひましたと思ひます現金《げんきん》ならば余所《よそ》で買《かい》ます と口|吟《よ》んだので、小兵衛《こへえ》は日頃|尊敬《そんけい》している銭《せん》六の事であるから、何とも気の毒に耐《た》えられ ず、直《す》ぐに返歌《へんか》をした。   聞《きき》まして恐《おそ》れ入《いり》ますこの上《うえ》はますます酒《さけ》は只《ただ》で上《あ》げます  これを聞いて銭《せん》六も微笑《びしよう》をなし、右手に徳利《とくり》を差出《さしだ》して、   貰《もら》ふとは嘘《うそ》で有《あり》ます切米《きりまい》を貰《もら》ひましたら直《す》ぐ払《はら》ひます と云うて大笑いをしたが、その年の暮れに銭《せん》六は君公《くんこう》の思召《おぽしめし》に叶《かな》いし事ありて、御褒美《ごほうぴ》を頂 戴《ちようだい》したので、第一に有《あ》るだけの酒代《さかだい》を払《はら》い、その上|都合好《つごうよ》き手蔓《てづる》を得《え》たので、小兵衛《こへえ》は倉屋 敷《くらやしき》のお出入御用《でいりごよう》を承《き》く事《こと》に仕《し》て遣《や》ったので、小兵衛《こへえ》もだんだん有福《ゆうふく》になり、銭《せん》六もまた小兵 衛《こへえ》の親切《しんせつ》で、好物《こうぷつ》の酒を快《こころよ》く飲んで暮す事が出来るようになったとの事である。  同じ城下《じようか》の中に、彼《か》の小兵衛《こへえ》と同様、銭《せん》六の門人で巾着屋善助《きんちやくやぜんすけ》と云う袋物一切《ふくろものさい》を仕立《した》てる 商人がおった。ある年の暮れに善助《ぜんすけ》が綺麗《きれい》な滑皮《なめしがわ》に更紗形《さらさがた》を置いた鹿皮《しかがわ》を以て、縫上《ぬいあ》げた皮 足袋《かわたぴ》を栫《こしら》えて銭《せん》六に進物《しんもつ》した上に、一首の歌が添《そ》えてある。   巾着《きんちやく》を仕立《した》てる針《はり》で縫《ぬ》ふ足袋《たぴ》は福禄《ふくろく》につく鹿《しか》の皮《かわ》なり |銭《せん》六は心からその親切を喜《よろこ》び押戴《おしいただ》いて、   福禄《ふくろく》に伴《ともな》ふ鹿《しか》の皮足袋《かわたぴ》におあし入《い》るれば直《す》ぐに巾着《きんちやく》  またここに面白《おもしろ》き咄《はなし》がある。それはこの銭《せん》六の手下に兵作《へいさく》と云う柔術《じゆうじゆつ》の達人《たつじん》にして、その 上一種の飛術《とぴじゆつ》を研究している男があった。竹竿《たけざお》が一本あれば、五十|間《けん》や八十間は苦《く》もなく飛 ぶのである。ある時|銭《せん》六はその者を招《まね》いて共に酒を飲んで、だんだん飛術《とびじゆつ》の咄《はな》しの末の議論《ぎろん》 が福岡城下《ふくおかじようしも》の橋西《はしにし》のお濠《ほり》を飛渡《とびわた》る工夫《くふう》を仕《し》てみることになったのである。兵作《へいさく》は長さ一|間《けん》ば かりにて、巾《はば》一尺ばかりの板を両足に付けて、長い竹を濠《ほり》の中に突立《つつた》て、はずみを付けて濠 の中に飛び込み、水上に身体《しんたい》の落ちる時、その板を辷《す》べらして、お城《しろ》の石垣下《いしがきした》にきっと到着《とうちやく》 できると云い出《だ》したので銭《せん》六は余《あま》りに興《きよう》を催《もよ》おし、ある月の夜の深更《しんこう》に乗《じよう》じて、一度試験を …『てみようと相談一決したので、両人その約束の日、夜中に出掛《でか》けて行った、さて兵作《へいさく》はそ               ちようどげた はなお           けん    さお  ぽん の前より用意をして、二枚の板に丁度下駄の鼻緒の如き物を附け、三四間ばかりの竿を一本    か   ほりばた  ど て                ひね                       ま   へいさく 持って彼の濠端の土手に立ち、妙に体を捻りてぼいと飛んだら、見る間に兵作の体は、四五 |さおな《あおむ》 間高き竿の上の人と成った。それが向うに倒れて、水中に落ちたら、その二枚の板に仰向け            すべ       いしがき                せん になったようにして、一辷りに向うのお城の石垣に取付いたので、銭六はやんやと感、七して          すぐ    はら  し  もろて  か            さお 見ていると、今度は直にその板を腹の下に敷き、諸手に水を掻いて泳ぎ来り、途中でその竿    ぬきと やすやす  もと  どて  せん       たんれん までを抜取って易々と元の土手に戻って来た。銭六は物事の研究と鍛錬とは、かくまでに上               へいさく  しようぴ    ごじようばんよまわ  あや 達する物であろうかと思うて、兵作を賞美しているところに、御城番夜廻りの者これを怪し   か           きつもん     せん         とうべん んで駈け付け、むんずと捕えて詰問を始めたので、銭六は平気で身分名前共答弁すると、何         とぴわた        ただごと  あら                     ごじようぱんつきそえ でも警備のお濠を飛渡りたるは只事に非ずとあって、夜中ながら御城番附添にて重役の宅へ と引かれた。それからだんだん詮議《せんぎ》が掛《かか》り、三人の家老職の吟味《ぎんみ》を受けたる後《のち》、銭《せん》六|兵作《へいさく》の 二|人《にん》は、君公《くんこう》の御前《ごぜん》へ引出された、君公《くんこう》重役を以て申聞《もうしき》けらるるは、     しぷん   あり       しろぽり ようがい とぴこ   く衾こころ   しんじようようい 『その方士分の身に有ながら、夜中に城濠の要害を飛越えんと企て試みる事、心情容易なら   ご ふ しんこれあり  ごんご どうだん  しよぎよう     おぼしめし      ご ぜん     お たず ざる御不審有之、言語道断の所行たるの思召を以て、御前に於て御尋ねあらせらるる次第で ある。包《つつ》まず申開《もうしひら》き致《いた》すべしとの上意《じようい》なり』 |云《うんぬん》々との事である。銭《せん》六少しも臆《おく》する色なく、 『銭《せス》六|下賤《げせん》なりと雖《いえど》も君公《くんこう》の禄《ろく》を食《は》み先祖《せんぞ》より数代相変ず御奉公致《ごほうこういた》し罷在上《まかりあるうえ》は、身分相当《みぶんそうとう》の |心掛《こころが》けを忘却致《ぽうきやくいたし》たる事無《ことな》く、天性《てんせい》の愚昧《ぐまい》は愚昧のまま、文武《ぶんぶ》の両道《りようどう》に精勤罷在候積《せいきんまかりありそうろうつも》りにご ざりまする、然《しか》るに世に尤《もつと》も恐るべき者は、自然と来《きた》る天災地変《てんさいちへん》にては無之《これなく》、人間の修業と |鍛錬《たんれん》より来《きた》る技芸妙術《ぎげいみようじゆつ》にござりまする、あるいは宙《ちゆう》を翔《かけ》り、地《ち》を潜《くぐ》り、鉄《てつ》を穿《うが》ち、石《いし》を砕《くだ》く |等《とう》の恐ろしき事共は、何の苦もなく為《な》し遂げ候事《そうろうこと》は不尠事《すくなからざること》にござりまするが、これらは 武士たる者の攻城防守《こうじようぽうしゆ》の上に、きっと油断致《ゆだんいた》し難《がた》き儀《ぎ》と存《ぞん》じ罷在《まかりあり》ましたところ、私手下《わたくしてした》の 者に兵作《へいさく》と申者有之《もうすものこれあり》、多年の鍛錬《たんれん》によりて飛ぶ事の妙《みよう》を得《え》おるより、ふと考えまするに、か かる者が一|朝君家《ちようくんか》の御大事《おだいじ》に臨《のぞ》み、あるいは敵城《てきじよう》に忍《しの》び込《こ》み、あるいは敵《てき》にまた兵作同様の |忍術《にんじゆつ》の者あると致《いた》したらば、その城廓《じようかく》の危《あやう》き事|累卵《るいらん》の如くであろうとこう考えましたから、 一夜同人を相招《あいまね》き、この福岡城|攻守防備《こうしゆぽうび》の事共|談論致《だんろんいた》したる末、聞けば聞く程一段の恐ろし き事共に心得《こころえ》ましたから、斯《か》くは御城濠飛越《おしろぽりとぴこし》の儀《ぎ》を試《こころ》みましたる次第にござりまする。兵作《へいさく》 のこの妙技《みようぎ》を実見致しました以上は、明日は必ず兵作《へいさく》を召連《めしつ》れ、御家老《ごかろう》の御役宅《おやくたく》に伺候《しこう》し、 相当の御褒詞《ごほうし》をも忝《かたじけの》う致す積《つも》りに罷在《まかりあり》ましたところ、不図却《はからずかえ》って武士道《ぶしどう》の恥辱《ちじよく》、御城番《ごじようばん》よ り御召捕《おめしとり》に相成《あいなり》、殊《こと》に君前《くんぜん》に於て御詮議《ごせんぎ》を豪《こうむ》る事と相成《あいなり》しは、銭《せん》六|御奉公《ごほうこう》の武運《ぷうん》も最早《もはや》これ までと心得《こころえ》まするに因《よ》って、この上の御燐愍《ごれんぴん》には、切腹《せつぷく》の儀《ぎ》を許容下《きよようくだ》し賜《たま》わるよう、御前体 善《ごぜんていよし》なに御取成《おんとりなし》の儀偏《ぎひと》えに奉願《ねがいたてまつる》』 と水も流るる様に述立《のべた》てたので、並《なみ》いる重臣の面々も、互に顔を見合せて俄《にわか》に答うる詞《ことぱ》も無 かったのであるが、当時の君公《くんこう》は世にも名君《めいくん》と呼ばれた御方《おんかた》で有《あ》ったから、直《ただ》ちにお詞《ことば》が 掛った。 『銭《せん》六の心掛《こころが》け殊勝《しゆしよう》に存《ぞん》ずるに付、加増《かぞう》の沙汰《さた》に及ぶであろう、しかし城壁要害《じようへきようがい》の見積《みつもり》をな すに、重役《じゆうやく》および掛《かか》りの者の許《ゆる》しを得《え》ずして、夜中に相企《あいくわだつ》る事|不行届《ふゆきとどき》の至《いたり》に付、加増《かぞう》の沙汰《さた》 あるまではきっと蟄居謹慎申付《ちつきよきんしんもうしつく》る、また小者兵作儀《こものへいさくぎ》は、平生《へいぜい》の心掛鍛錬《こころがけたんれん》の段《だん》、格別《かくべつ》の者と思 うに付、扶持《ふち》を宛行《あてが》い無足組《むそくぐみ》たる事を申付るまた重役一|統城番《とうじようばん》の者共は、平生《へいぜい》かかる心掛《こころが》け の藩臣《はんしん》に気付行届《きづきゆきとど》かず、殊《こと》に事態《じたい》の取調《とりしらべ》を誤り、武士《ぶし》の恥辱《ちじよく》とも可相成《あいなるべき》、召捕《めしとり》の処置《しよち》をなし、 |剰《あまつさ》え予《よ》が目通《めどお》りにまで引出したる事、一|藩《ぱん》の取締《とりしまり》にも相係《あいかか》わる儀に付、一同七日間|謹慎出仕《きんしんしゆつし》  およぱず  よくよくじ かいし りよいたすべくようこころえ に不及、能々自戒思慮可致様心得よ』 との上意《じようい》であった。鶴《つる》の一声にて銭《せん》六の面目《めんもく》は申に及ばず、小者兵作《こものへいさく》まで士分《しぷん》に召出《めしいだ》され、 殊に重役一同に対しては事明白《ことめいはく》にお叱《しかり》のお詞《ことば》を下されたるより、銭《せん》六は大地《だいち》に平伏《へいふく》し、君恩《くんおん》 の辱《かたじけな》きを拝《はい》し、一方」々|重《いちいち》役の人々に向って、自分の不行届《ふゆきとどき》を叩頭謹慎《こうとうきんしん》したので、重役の 人々も、 『いやはやかかるお叱《しか》りは、全く我々共の不坪《ふらち》にてただただ恐入《おそれいる》の外《ほか》なく、殊に貴殿《きでん》の如き |忠心抜群《ちゆうしんばつぐん》の士《し》が御家臣《ごかしん》の中に在る事、却て我々の面目此上《めんもくこのうえ》なし、以後一同の者は別して入魂《じゆつこん》 御懇思《ごこヱし》の程《ほど》を頼《たの》み存《ぞん》ずる』 との挨拶《あいさつ》にて、残る方《かた》なき銭《せん》六の面目《めんもく》であった。これから一同は、 『お叱《しか》りの御趣意《ごしゆい》により一同|謹慎蟄居《きんしんちつさよ》の事に相成《あいな》るから、これを御当家御繁栄《ごとうけごはんえい》の一|端《たん》たる蟄 居《ちつきよ》お祝いの初めとして、これより詰所《つめしよ》に於て祝杯《しゆくはい》を挙《あ》げて、各自|屋敷《やしき》に引籠《ひきこも》る事に致《いた》そう』 と相談一|決《けつ》して、一同は詰所《つめしよ》に打寄ったところが、間もなくお小姓数人が、 『君公《くんこう》より一同の者が蟄居《ちつきよ》の屈託《くつたく》を思召《おぽしめさ》るる』 とあって御酒肴《ごしゆこう》を賜《たま》わったので、一同は快《こころよ》く酒盛《さかもり》をして別れたとの事である。かかる不思議 なる事は、天下広しと雖《いえど》も更《さら》に一例だになき事共にて、君臣水魚《くんしんすいぎよ》の道《みち》と、士分制統《しぷんせいとう》の上に、 |恩威《おんい》共に行《おこな》わるる、雄藩《ゆうはん》の権勢隆《けんせいりゆうりゆう》々の時代にてこそ行わるれ、後世に君臣《くんしん》の合体《がつたい》を教ゆる 好模範としてかかる咄《はなし》を浬滅《いんめつ》させたくないものである。一同の人々は、叱《しか》られて恩賜《おんし》の酒に 酔い、上下別なき無礼講《ぶれいこう》にて、後《のち》にはそこそこに居睡《いねむ》りを初めるまでに酩酊《めいてい》したのである。 この時の銭《せん》六の歌に、   君恩《ぐんおん》に酔《よ》わされて漕《こ》ぐ居睡《いねむり》は命《いのち》の程《ほど》も白川《しらかわ》の船《ふね》 かかる名君《めいくん》の手に掛っては、吉凶禍福《きつきようかふく》の有《あ》る度毎《たぴごと》に君恩《くんおん》の手が延《の》びて何に付け彼に付け、君 家国家《くんかこつか》の為《た》めに命を捧げて働かねばならぬ事にのみ成行と云う事の実際《じつさい》が判るのである。 四十 |遺産争《いさんあらそ》い解決《かいけつ》の妙案《みようあん》   虞萬の利田警告に解け、 未開の名校晩酔を呼ぶ 遺産争い解決の妙案  銭《せん》六の友人の一人が死んで、その遺子《わすれがたみ》が二人《ふたり》あったが、両人《ふたり》とも負けじ魂《だましい》の強い男子《おとこ》で、 その遺産相続《いさんそうぞく》の事で悶着《もんちやく》を起した。それがまた先妻《せんさい》と後添《のちぞい》の子と分れているために、親類も 二派に分れて盛んに争いを始めたのである。銭《せん》六は亡友《ぽうゆう》の為《た》め、苦《にがにが》々|敷事《しきこと》に考えていたが、        ゆいごんじよう あ               なか  はい     かたづ 双方とも亡父の遺言状が有るので、一歩も引かぬのである。故に誰が仲に一一一氾入っても、片付 く見込がない。かかる次第故|幾多《いくた》の親友は評議《ひようぎ》の上、友人関係で銭《せん》六にその仲裁《ちゆうさい》を頼《たの》んで来   せん          しやぜつ        てこず  あげく  なさとも ちじよく ばん たが銭六はたちどころにこれを謝絶した。しかし各方面手古摺った揚句故、亡友の恥辱一藩 の名誉《めいよ》にも関する事故、ぜひこの紛争《ふんそう》を片付《かたづ》けてくれと頼《たの》んだので、銭《せん》六止むを得ず、武士《ぶし》 の一|分《ぷん》に掛《か》けて辞《じ》する事を得《え》ず引受けたのである。然《しか》るにそれほどの悶着《もんちやく》が、銭《せん》六が引受け てからわずか三|日目《かめ》にちゃんと片付いて、双方より銭《せん》六の方に挨拶《あいさつ》に来る事になったので、 当時この事件に関係ありし者は、不思議《ふしざ》に思い、段《だんだん》々と調査したけれども、その真相《しんそう》が何《どう》し ても分明《はつきり》しなかった。当時の大目附役《おおめつけやく》、大岡寛太夫《おおおかかんだゆう》と云う人、ある日|銭《せん》六をひそかに役宅《やくたく》に 招き、打解《うちと》けて尋《たず》ねた。 大『彼等兄弟の紛争《ふんそう》は、未だ表立って我等の耳には峇《は》一旭|入《い》らぬが、実に苦《にがにが》々|敷事《しきこと》で、殊《こと》には一 |藩《ぱん》の名誉《めいよ》にも係《かかわ》る事柄故《ことがらゆえ》、表立って聞込む事になれば、双方の兄弟|御叱《おしか》りにも遭《あ》うべきほど の事柄だと思うていた。然《しか》るに貴殿《きでん》が引受けられて、あれほどの悶着《もんちやく》がたちどころに片付き |安穏《あんのん》に相成《あいな》りたる事旁《ことかたがた》々以て不思議の至りである。我等|役柄《やくがら》にて、後《あとあと》々の心得《こころえ》とも相成事故 事情包《あいなることゆえじじょうっっ》まず御物語《おんものがた》り下さるまいか』 銭『事《ことごと》々|敷御尋《しきおたず》ねにて、銭《せん》六ただただ恐入りまするが、この儀《ぎ》に付ては、私儀《わたくしぎ》も当初より苦《にがにが》々 |敷事《しきこと》に存居《ぞんじおり》ましたが、何分世話致す力量《りきりよう》と身分柄《みぷんがら》に無《なき》ため絶《た》って断り申候得《もうしそうらえ》共、一|円聞入無《えんききいれな》 し、万《ばんばん》々|止《や》むを得《え》ず引受《ひきうけ》ましたに付《つき》ては、第一の条件として、兄弟双方ともきっと趣意《しゆい》は立 て遣《つか》わすに付、この度|限《かぎ》り至極《しごく》の秘密《ひみつ》と相心得《あいこころえ》、武士道《ぶしどう》の刀に掛けて片附《かたづき》の顛末等口外根問 等致《てんまつとうこうがいねどいとういた》さざる神文《しんもん》を取交し、候上《そうろううえ》にて世話致《せわいた》し片附候事故《かたづきそうろうこと》この儀《ぎ》だけはなにとぞ御尋《おたず》ね被下 間敷様願上《くださるまじきようねがいあげ》ます』 というて一|円打明《えんうちあ》けなかったので、その座はその儘《まま》となったが、彼《か》の大目附先生《おおめつけせんせい》いかにして も不思議で叶《かな》わず、心掛《こころがか》りで暮していたが、ある日|君公御晩酌《くんこうごばんしやく》の御対手被仰付四方山《おあいておおせつけられよもやま》の咄《はなし》の 時|君公《くんこう》が、 『大岡《おおおか》よ、予は毎度|晩餐《ばんさん》をなす時、汝等臣下《なんじらしんか》の者をかく順番にて相手申付《あいてもうしつ》くるが、これは世 間《せけん》に何か珍らしき咄《はなし》でもあるのを聞いて、予が政治向一|廉《かど》の心得の足しにも致《いたし》たいと思うか らである。何か面白き事あらば咄《はな》し聞かせよ』   ごじよう     たいやく  みぶん     めいくん  あいて   はべ との御諚である。大岡も大役の身分ではあるし、かかる明君のお対手に侍って、かかる御下 問《ごかもん》に会う事の面目《めんもく》を深く感じたから、不計彼銭《はからずかのせん》六の事を思い出し、自分の不思議に思うてい る顛末《てんまつ》を、包《っつ》まず言上《ごんじよう》し、また銭《せん》六がどうしても打明けて咄《はな》さず、武士道《ぶしどう》の表に掛けて、包《つつ》 み蔵《かく》している次第を言上《ごんじよう》したところが、君公《くんこう》は殊《こと》に興味ある事に被考早速銭《かんがえられさつそくせん》六を召してそ の片附《かたづ》けたる秘計《ひけい》を聞くべしとて、夜中|即時《そくじ》の登城《とじよう》を命ぜられたのである。銭《せん》六は晩餐《ばんさん》の酒 に陶然《とうぜん》として、火鉢《ひばち》の傍《そぱ》で居睡《いねむり》をしていたところへ急のお召《めし》と云うので、取物《とるもの》も取敢《とりあ》えず、 衣服を改め登城《とじよう》した。君公大《くんこうだい》の御機嫌《ごきげん》にて、お側《そぱ》近く召《め》され、大目附大岡《おおめつけおおおか》と共に御酒《ごしゆ》を下《くだ》さ れ、さて右兄弟の者|不埒《ふらち》の争《あらそい》を表立てず片付けたる秘事妙法《ひじみようほう》を内分にて咄《はな》し聞かせよとの君 命《くんめい》である。銭《せん》六も頓斗当惑《とんととうわく》はしたが何分主命《なにぶんしゆめい》ではあるし、虚言取構《きよげんとりかま》えて申述ぶる訳にもいか ず『過去《すぎさ》りたる事故、譬《たと》えいかなる成行顛末《なりゆきてんまつ》にても、この事に付ては総《すべ》て内分御見遁《ないぷんおみの》がしお |咎《とがめ》なき事を条件として言上《ごんじよう》すべし』と云うてぽつぼつと銭《せん》六が咄《はな》し出《だ》したのである。 『この儀《ぎ》に付ましては、私も苦《にがにが》々|敷事《しきこと》に存《ぞん》じ先祖以来|一廉《ひとかど》の御奉公《ごほうこう》を相続けし家柄《いえがら》の亡友《なきとも》が、 その死後たちまちにしてかかる不届《ふとどき》の伜《せがれ》共二人まで相残候事《あいのこりそうろうこと》、残念至極《ざんねんしごく》と心得《こころえ》、もしま た役筋《やくすじ》の表沙汰《おもてざた》とも相成候《あいなりそろ》時は亡友《なきとも》の不名誉《ふめいよ》は申すに不及《およばず》、一|藩《ぱん》の御瑕瑾《ごかさん》とも相成りてはと |存候《ぞんじそうろう》も何分私《なにぶんわたくし》の力量に不及事《およばざること》と差控《さしひか》え罷在《まかりあり》ましたが親友《しんゆう》共|無余儀頼《よざなきたの》みにござりました ため、引受裁判致《ひきうけさいばんいたし》たる儀《ぎ》にござりまするさて元来がこの争いの根源と申ますは亡友《なきとも》の遺言《ゆいごん》に、 一家屋敷家財および拝領物《はいりようもの》等は、惣領《そうりよう》たる忰《せがれ》の所得《しよとく》たるべき事《こと》 一|知行《ちざよう》は分知《ぶんち》を願出《ねがいい》で兄弟にて分家半知《ぷんけはんち》を所得可致《しよとくいたすべき》との事 一|鎧一領大小一腰《よろいりようだいしようこし》は、二|男《なん》に分け与《あた》うベき事 一|高宮村田畑《たかみやむらでんぱた》一|切《さい》は惣領《そうりよう》の所得たるべき事 一|平尾村《ひらおむら》山林畑地一|切《さい》は二男の所得たるベき事 一|出入町人湊屋久兵衛《でいりちようにんみなとやきゆうべえ》へ、小判正金《こばんしようきん》の預《あず》け金有之《きんこれあり》これは兄弟にて三百両|宛分配可致事《ずつぷんぱいいたすべきこと》  等《とう》の数《すう》ヵ条にござりまして外《ほか》条件は無事相片付《ぶじあいかたづき》ましたが彼湊屋預《かのみなとやあず》け金《きん》の儀《ざ》は、全く亡友《なきとも》の  考え違いにて、種《しゆじゆ》々|勘定差引《かんじようさしひき》の結果、小判正金《こぱんしようきん》やっと五百両に有之《これあり》それを双方の兄弟が知  ると同時に(三百|金《きん》は金高《きんだか》少き様《よう》なるも当時の小身武士《しようしんぶし》にあっては当時の百両が今日《こんにち》の千  両、一万両とも匹敵《ひつてき》すべき金高《きんだか》である) 一兄の方は、俺《おれ》は惣領《そうりよう》の事であ諧るから、亡父《なきちち》の書認《かきしたた》めたる通り三百両を所得すべしと申出《もうしだ》し 一弟の方でも種《しゆじゆ》々|継母《けいぽ》の差鉄《さしがね》もあり、亡父《なきちち》の書認めた通り三百両を所得すべしと申出たので  ござりまする、それは親戚朋友等《しんせさほうゆうとう》が打寄《うちよ》り、惣領《そうりよう》の事故《ことゆえ》、兄は三百両を取り、弟は二百両  にて了簡可致《りようけんいたすべし》と申したるより、弟の方にては已《すで》に知行《ちぎよう》さえ半知《はんち》と極《き》まり、兄は外《ほか》に所得物《しよとくぷつ》  も多く、殊《こと》に継母事《けいぽこと》も血筋の関係上、多く分家《ぷんけ》の方にて世話致す事と相成《あいな》る事故、兄は二 百両にて負承《ふしよう》し、この方に三百両を分与《ぶんよ》すべし、況《いわ》んや亡父《ぽうふ》が三百両と明記《めいき》したる遺言《ゆいごん》あ る以上は、父の責任は惣領《そうりよう》たる兄にある事故、弟には無相違遺言《そういなくゆいごん》通りの所得可然《しよとくしかるべし》との申条《もうしじよう》 でござりまする。 一それを引受ましたる私は、兄弟の者を一人ずつ呼寄《よぴよ》せまして、まず兄の方に左《さ》の事を申聞《もうしき》 けました。 一兄弟の争いもし表立時《おもてだつ》は、亡父の恥辱《ちじよく》は申すに不及《およばず》一|藩《ぱん》の瑠瑾《かきん》とも可相成《あいなるべく》に付、今日《こんにち》を限 りこの事件はなきものと思い、骨肉友愛《こつにくゆうあい》の交《まじわ》り可致事《いたすべきこと》この事承知するに於ては、正金分 配《しようきんぷんぱい》の事は、これはきっと弟を説得して継腹弟《けいふくてい》の身分《みぶん》たる事を弁《わきま》えさせ、二百両にて承服為 致可申《しようふくいたさせもうすべし》と申聞《もうしき》け、弟の方には亡父|名跡《みようせき》の継嗣《けいし》たる兄としては、権威上|分知新立《ぷんちしんりつ》の弟を憐《あわれ》み、 自分は二百両にて負承《ふしよう》し、弟に三百両を分与《ぶんよ》する事に可為致《いたさすべし》と誓言致《せいごんいたし》たのでござります。 そこで兄弟共心より承服致《しようふく》し、叩頭《こうとう》私に恩を謝《しや》しましたから、それなら俺《おれ》が一つの注文が ある。それは、 一兄が三百両取ったと云う事が知れては、世間体《せけんてい》もお上体《かみてい》も宜敷《よろしく》ないから、銭《せん》六|叔父《おじ》の説得 にて、二百両にて負承致《ふしよういたし》たりと申触《もうしふ》らし可申《もうすべく》、而《しか》して実際は三百両取る事に相成ぞと申聞 けました。 一弟の方にも同様、銭《せん》六叔父の説得にて、二百両にて辛棒致《しんぽういた》せりと申向《もうしむ》け、決して実際に三  百両を収得《しゆうとく》したる事も申間敷《もうすまじく》。  さすれば名義上だけは、世話賃《せわちん》に銭《せん》六が百両取った事に相成るから、その百両をお前にだ  け内所《ないしよ》で遣《や》るから、決して人に覚《さと》られてはならぬぞと申聞ましたと、 |申上《もうしあぐ》ると、側《かたわら》より大岡が、 『その筋道《すじみち》は分ったが、実際は兄弟双方共に三百両宛を与えねばならぬのに、湊屋方《みなとやかた》に預《あず》け ある金子《きんす》は五百両より無《な》いと申すでないか』 と云うから、銭《せん》六な、 『左様《さよう》にござりまする、古語《こご》にも溺《おぽ》れる者を救う者は衣を濡《ぬ》らし、道を説く者は費《ついえ》を失うと、 |銭《せん》六初よりこれを救《すく》うの力量なしと申したはこのことにて、年来の貧乏にて、その百金の工 夫調達《くふうちようだつ》に苦みました故、辞退《じたい 》も致しましたが、万《ぱんばん》々|止《や》むを得《え》ざる事と存《ぞんじ》ました故、第一に私 先祖より伝来の鎧《よろい》一|領《りよう》、拝領《はいりよう》の刀二|振《ふ》りを相携《あいたずさ》え湊屋方《みなとやかた》へ参り、勝手不手廻《かつてふてまわ》りの次弟を申 し聞けて正金百両《しようきんりよう》の融通《ゆうずう》を頼《たの》みハその用路《ようろ》を得ましたから、直《ただち》に兄弟共を別に呼寄《よびよ》せまして、 三百金宛を相渡《あいわたし》た故、三|日《か》にして事落着致《ことらくちやくいたし》たる次第にござりまする。ただ亡友《なきとも》の名誉《めいよ》を相考《あいかんが》 え、一|藩《ぱん》の暇瑾《かきん》を恐ましたる銭《せん》六の浅慮《せんりよ》にござりまする。日頃の貧困にて如此万《かくのごとく》一の時、 物の御用《ごよう》にも不相立《あいたたず》、窮迫《きゆうはく》の身の上|御恥《おはずかし》さの限り故、この事は生涯口《しようがい》外|致《いたす》まじと存じました れども君命黙止難《くんめいもだしがた》く、かくは言上致《ごんじよう》まする次第にござりまする』 と満面《まんめん》に汗を流して申し述べ、しばらくは平伏《へいふく》して頭も上げ得《え》なかったのである。君公《くんこう》と大 目附《おおめつけ》は互《たがい》に顔を見合せて、沈黙していられたが、君公《くんこう》は、 『銭《せん》六よ、予《よ》は汝《なんじ》に極内分《ごくないぶん》にて無心《むしん》がある、それは予に於て汝の貧乏を買上《かいあ》げたいが売って くれる事は出来《でき》ぬか。予も汝の貧乏を買上げたら、治国《ちこく》の道《みち》が今少しは平易に立つであろう と思うから』 との御諚《ごじょう》であった。銭《せん》六は非常に狼狽《ろうばい》して、 『君命素《くんめいもと》より黙止《もだ》すべくも無し。銭《せん》六の命なりとて何時《なんどき》にても献上可申《けんじようもうすべき》は平生《へいぜい》の覚悟《かくご》にござ りまするが、この貧乏だけは銭《せん》六が御奉公《ごほうこう》第一の資本《もとで》にござりまして、これなければ銭《せん》六の 武士道はたちまちにして徽《かぴ》を生《しよう》ずるかと思われまするのでございますから、どうか貧乏|御召 上《おめしあ》げの儀《ぎ》だけは暫時御猶予下《ざんじごゆうよくだ》し置《お》かれますように願上《ねがいあげ》ます』 と云うたので君公《くんこう》も御褒美《ごほうび》の出《だ》し様《よう》もなくほとほと当惑《とうわく》せられたので、側《かたわ》らにある大目附《おおめつけ》に 向って大岡よ、銭《せん》六は貧乏を予に売らぬと申すが、どうしたものかのうと仰《おお》せられたので大 岡は頭《かしら》を下《さ》げて、 『銭《せん》六がお買上げをお断申上げるのも、彼の武士道として、もっともに存じまする。それで は当分彼の貧乏をお借り遊ばしたらいかがでござりまする』 と申上げたら、銭《せん》六|側《かたわら》より、 『いやはやその儀《ぎ》ならば何時《なんどき》にてもお受致まする。その借上げ料は、どうか正金百両にて願 上げます。私は不計事《はからざること》にて只今《ただいま》武士の表道具たる、具足刀等《ぐそくかたなとう》を湊屋久兵衛方《みなとやきゆうべえかた》に質入致《しちいれいたし》てお りますから、直《ただち》にそれを受出しとう存《ぞん》じますから』と云うたので、君公《くんこう》と大目附《おおめつけ》とは、期《き》せ ずしてぷうっと笑い出したのである。銭《せん》六はお小姓《こしよう》に云うて半紙《はんし》を乞《こ》い受《う》けさらさらと認《したた》め て差し上げた。   貧《ひん》と云ふ馬《うま》は正金百《しようきん》両の轡《くつわ》を喰《は》んで声も銭《せん》六  その後|彼《か》の兄弟の者共が、自分等の各三《おのおの》百両宛を領得《りようとく》したのは、仲裁者《ちゆうさいしゃ》の銭《せん》六が、武具《ぷぐ》 を典物《てんぶつ》して自分等に分与《ぶんよ》したのだと云う事が、何かの端から分ってきたので、ある日兄弟同 道して銭《せん》六の宅に来《きた》り、心から先非《せんぴ》を悔《く》いて、銭《せん》六に前罪《ぜんざい》を謝《しや》し、両人より各五十両宛を出《だ》 して一々|詫言《わびごと》を云うて返済《へんさい》した、銭《せん》六は喜んで受収《うけおさ》め、それでこそ武士《ぷし》の子《こ》と云うべきであ る。以後は両人共きっと志《こころざし》を立てて君家《くんか》に忠勤《ちゆうきん》の御奉公《ごほうこう》をして、先祖の名までも揚《あ》げねば ならぬぞと、懇《こんこん》々と教訓《きようくん》したので、兄弟の者も汗を流して後悔《こうかい》をし、武士道を励《はげ》むようにな り、後年|長崎御番《ながさきごばん》の時、和蘭船《オランダせん》の騒動《そうどう》に当り、兄弟共|抜群《ばつぐん》の功《こう》を立てたのである。これ全く |銭《せん》六が教訓《きようくん》の勲《いさおし》であると、人皆《ひとみな》云い難《はや》したのである。銭《せん》六はその兄弟が持来りし百両を携《たずさ》え て、直《ただち》に大目附《おおめつけ》の役宅《やくたく》に到り、右金子《みざきんす》を勘定方《かんじようかた》へ返済方《へんさいかた》を頼み、かつ兄弟の者|悔悟《かいご》を実証《じつしよう》 として、この金子《きんす》を持来りし顛末《てんまつ》を報告し、この旨|君公《くんこう》へも御披露《ごひろう》を願出《ねがいいで》たので、大目附は 早速|登城《とじよう》をして、この趣上申《おもむきじようしん》したところが、君公《くんこう》の御喜《およろこ》び一通りでなく、大目附へも銭《せん》六 へも種々の御賞物《ごしようもつ》を忝《かたじけ》のうし、面目《めんもく》を施《ほどこ》したのであった。この時に銭《せん》六が詠《よ》んで兄弟に分 与して教訓した歌《うた》と云うは、   人《ひと》は皆《みな》みがけば光《ひか》るたまくにくもるは慾《よく》と云《い》ふ雲《くも》の影《かげ》  この銭《せん》六のお蔭にて、右の兄弟両人は、見替《みか》えたような友愛深き人となりて、その兄弟仲 の良き事は一|藩《ぱん》の手本となるほどであった。銭《せん》六はただ無暗《むやみ》に喜んでばかりいたが、ある時 その父の亡友《なきとも》が、くれぐれも銭《せん》六に頼んで置いた。兄弟が妻帯《さいたい》の事を申出した、それは同藩《どうはん》 の人でその亡父《ぽうふ》が同役の某が姉妹の娘《むすめ》を持っているのを許婚《いいなずけ》して、きっと死後まで生前|友誼《ゆうぎ》 の縁《えん》を結ぶぞと約束《やくそく》していたが、今は双方の父も已《すで》に故人《こじん》となっているから、銭《せん》六はそれを 思い出し、兄弟を説得して、この際兄弟共その姉妹《しまい》と結婚《けっこん》せよと勧《すす》めたのであった。ところ が兄弟はそれより少し早くある先輩《せんぱい》の方より縁辺《えんべん》を申込まれてあったので、はなはだ迷って ぐずぐず決し兼《か》ねていた末とうとうそれを銭《せん》六に申述べて、裁決《さいけつ》を乞《こ》う事になった。銭《せん》六は 兄弟に向って、双方両亡父の生前約束したる事を申勧《もうしすす》めて、その申込の方を断わらせ、とう とう親の許した方と結婚せしめたのであった。その時の歌に、   無《な》き父《ちち》の敵《かた》き誓《ちか》ひと工藤《くど》かれて夜目《よめ》あるままに忍《しの》ぶ兄弟《きようだい》  それから二年ばかり過ぎると、兄弟共一人ずつ男女の子供が出来たのでその祝の時に銭《せん》六 は親代りとして何時《いつ》も招かれて行った。その時の歌に、   右左《みぎひだ》り孫《まごまご》々として出来《でき》る児《こ》は親見《おやみ》たやうな祖父《じい》の銭《せん》六  その後この兄弟が、山林方《さんりんかた》を永く相勤《あいつと》め、多くの松苗を仕立《した》てて、箱崎《はこざき》八|幡宮《まんぐう》に奉納《ほうのう》し、 |彼《ちか》の千代《ちよ》の松原《まつばら》の松《まつ》の枯跡《かれあと》を補欠《ほけつ》し、永く神威《しんい》の隆盛《りゆうせい》を祈《いの》ったので、多くの氏子《うじこ》共はこれを 祝して、その植付《うえつけ》終りの日に於て、箱崎《はこざき》八|幡宮《まんぐう》に能楽《のうがく》を奉催《ほうさい》し、当時の能太夫梅津《のうだゆううめつ》、田代《たしろ》、 |藤林《ふじばやし》の三|大家《だいか》を迎《むか》えて、三|番叟《ばそう》と、住吉《すみよし》と、竜神《りゆうじん》との三|番《ばん》の能楽《のうがく》を演奏させたのである。銭《せん》 六|翁《おう》は心からその兄弟の処業《しよぎよう》を喜んで一首を詠《えい》じた。   千歳《せんざい》の仕置《しおき》を松《まつ》に翁面万代《おきなめんよろずよ》を舞《ま》ふ神三番叟《かみさんばそう》  それからだんだん年を累《かさ》ねて、その兄弟の人々も老年になり、銭《せん》六|翁《おう》も七十|幾歳《いくさい》の高齢と なりて来たが、ますます元気|矍鑠《かくしやく》として、酒を飲んでは狂歌《きようか》を詠《よ》んで楽しくその日を暮して いた。ある時|春《はる》三月頃、城下《じようか》より三里ばかりある山の桜谷《さくらだに》を訪《と》わんと、銭《せん》六と三人連れにて |辿《たど》り入ったれ共、この年は気候が後《おく》れて、まだ咲初《さきはじ》めぬ千|株《しゆ》の桜《さくら》は、蕾《つぽみ》ながらであった。兄 弟の両人は尠なからず失望したが銭《せん》六は少しも頓着《とんちやく》なく、取敢《とりあ》えず樹下《じゆか》に用意の薄縁《うすべ》りを敷《し》 いて、水筒《すいとう》の酒を傾け大機嫌《おおきげん》に酔潰《よいつぶ》れて、晩景月《ばんけいつき》の出る頃となり、二人とも酔歩踊嬲《すいほまんさん》として、 |麓《ふもと》の泊《とま》りの村まで下《くだ》って来た。その時の歌に、   まだ咲《さ》かぬ花《はな》の下《した》にてさけくと居催促《いざいそく》して酔月夜《よいづきよ》まで 四十一  化呈斈  物仆 怪屋や 轟離 人発蕚 に楓 逐 わ れ 武人一句に撃たる 化物屋敷発掘  往昔享和《むかしきようわ》の頃、福岡《ふくおか》に知行《ちぎよう》六百|石《こく》を頂戴《ちようだい》する、須川織部《すがわおりべ》と云う武士があったそうだ。この 人は文武《ぷんぷ》の道《みち》にも通じて、品格《ひんかく》の良き人であったが、ふとした事よりその家に怪事《けじ》が属《つ》いて きた。第一番には一|藩《ぱん》で評判《ひようばん》の美人の妻君《さいくん》が、朝自分の居間の鴨居《かもい》に掛《か》けてある薙刀《なぎなた》の埃《ほこり》を |払《はら》わんと、ハタキを掛《か》けていたら、どう云う機会《はずみ》か、掛《か》けてある釘が折れて、ガワラガワラ と薙刀《なぎなた》が落ちる拍子《ひようし》に、鞘《さや》が割れて、その刃《は》が顔に倒れ掛って来て左の眉間《みけん》より鼻《はな》から右の |頬《ほお》に掛《か》けて、筋違《すじか》いに大怪我《おおけが》をした。段《だんだん》々|手当《てあて》の末傷《すえさず》は癒《い》えたが、それほど評判美人《ひようばんぴじん》の奥《おく》さ んの顔は、左の眼が斜視となり、鼻は引釣《ひきつ》り、右の頬《ほお》の所は、溝《みぞ》の如く真黒《まつくろ》の刀痕《かたなきず》を留めた。 それは最後に化膿《かのう》して、直《なお》りが永引《ながぴ》いたからで、ただ一|目《め》見るも恐ろしき相好《そうごう》となってしまっ た。当時不幸にも妊娠《にんしん》であって、生れた男の子は、瘡痕《そうこん》ではないが、丁度奥さんの通り顔の 左より右に掛けて、薄墨《うすずみ》を引いたように、癢痕《あざ》が附《つ》いている。これを聞いた藩《はん》の者は、一目 見て身慄《みぶるい》をして恐れたのである。  嘘《うそ》に嘘《うそ》が累《かさな》り、評判《ひようばん》は評判に枝が生えて、様《さまざま》々の事を云《い》い触《ふら》すように成ってきた。悪るい 時には悪るい事ばかりあるもので、その家の腰元《こしもと》の春野《はるの》と云う、十九歳の女が、紛失物《ふんしつもの》の疑 いが掛ったのを憤慨《ふんがい》して、庭の松の枝に、細紐《ほそひも》で首を釣《つ》ったところが、その夜強い風が吹い てぶらぶらしたため、紐《ひも》が切れてその下の小池《こいけ》の中に落ち、膝《ひざ》から下半分を泥《どろ》に突込《つきこ》んでチャ ンと立っていた。その姿《すがた》の物凄《ものすご》さと云うたら、島田髢《しまだまげ》はぐらっと崩《くず》れ後《おく》れ毛《げ》は両頬《りようほお》に掛り、 |首《くぴ》は長く伸びて硬直《こうちよく》し、赤の帯《おぴ》はだらりと下り、年頃の派手《はで》な着物は、しだらなくなって眼 を見張《みは》り、歯を喰《く》い締《しぱ》っていた有様を、若党《わかとう》の良助《りようすけ》が庭箒《にわぽうき》を提《さ》げたままこれを見付けた時は、 ギヤッと叫んで早腰《はやごし》を抜《ぬ》かしたとの事である。それから夜の丑満《うしみつ》の頃になると、その春野《はるの》の |幽霊《ゆうれい》が何時《いつ》でも出《で》てくるといい、こんな事が初りでその須川《すがわ》の家には怪事《けじ》が付いて来て、そ の主人の織部殿《おりべどの》が、江戸参勤《えどさんきん》の途中、遠州《えんしゆう》の掛川駅《かけがわえさ》で急病で死んでしまい、引続き一人死に 二人死に、とうとう数年の内に一人残らず死に絶えた。それからこの家はいろいろ薄気味《うすきみ》悪 い評判《ひようばん》ばかり立つので誰一人《たれひとり》居住する人もなく、とうとう化物屋敷《ぱけものやしき》となってしもうたのであ る。  ある時|行暮《ゆきく》れた行脚《あんぎや》の僧が案内もなくこの家に一泊して、書残した物を見れば『この家は ある樹木《じゆもく》の精《せい》で、かく破滅《はめつ》したのである。一|夜《や》の中《うち》に出た数《かずかず》々の化物《ばけもの》は、家の内中《うちじゆう》を騒ぎ廻 りて、台所や勝手《かつて》では、何を云うのか大勢で賑《にぎや》かに咄《はな》しさざめいて、鶏鳴《けいめい》頃まで立騒《たちさわ》いでい た』との事、それからだんだん古老などについて調べてみるとこの家の門内《もんない》東側の、孟宗藪《もうそうやぷ》 の横に、三抱《みかか》えもある古き松の大木が二本ある。この樹《き》は幾百年を経《へ》たか分らぬ老木で、杪《こずえ》 の方はだんだん枯《か》れて空洞《うつろ》となり、一二の枝などは、一抱えもあって、その葉《は》が蔽《おお》いかぶさ るほど茂《しげ》っている。一本の方の枝が、余《あま》り他の一本の方に蔽《おお》い被《かぷさ》って、門内《もんない》が昼でも暗いよ うな心地がするから、この時の若主人|織部殿《おりべどの》の父君に当る重左衛門殿《じゆうざえもんどの》と云う、意気《いき》の豪《えら》い人 が、その蔽《おお》い被《かぷさ》った大枝を切って除《の》けたところが、半年と立たぬ内に、その枝を切られた大 木は枯《か》れて、それから残った方の大木も、次第に衰《おとろ》えて翌年枯れてしもうた。ここに殊《こと》に不 思議なのは、この須川家《すがわけ》に先祖代々から、長屋を貰《もろ》うて三|太夫《だゆう》を勤《つと》めていた、松村久太夫《まつむらきゆうだゆう》と 云う七十七歳の老人が、妻の松寿《まつじゆ》と云う六十八歳の婆《ぱあ》さんと共に、同《おなじ》く一|夜《や》の中《うち》に枕を並ベ て死んでいたとの事である。これが丁度、この織部殿《おりぺどの》が元服祝《げんぷくいわい》の翌日であった。かように取 止《とりと》めもなき因果咄《いんがぱなし》が湧《わ》いた揚句《あげく》が、前に書いたような怪談《かいだん》であるから、泰平《たいへい》の世《よ》には一層評 判が高くなるのである。  彼《か》の狂歌師《きようかし》の銭《せん》六は、世渡《よわたり》は風流《ふうりゆう》で、ちゃらん、ぽらんと暮しているけれ共、元来が魂《たましい》の |据《すわ》った立派な豪胆者《ごうたんもの》、武士《ぶし》の標本《ひようほん》とも云わるる人物《じんぶつ》であるから、ある時かかる咄《はなし》を聞いて、 たちまちに一種の好奇心《こうきしん》を起した。『天下《てんか》に屈指《くっし》の雄藩《ゆうはん》たる、福岡の侍屋敷《さむらいやしき》に、かかる怪《あや》し き物があっては、藩公《はんこう》の御威光《ごいこう》にもかかり、一|藩《ばん》の名折《なおれ》にも相成《あいな》りまた他藩《たはん》の聞えも恥《はずか》しき 訳故、一番|小身《しようしん》ではあるが、俺《わし》が彼《か》の須川《すがわ》の大屋敷《おおやしき》を、お預《あずか》り屋敷《やしき》として自分が居住致度《きよじゆういたしたい》と   ねがい                    つきぱんおおおかかんだ ゆうどの 云う願を出してみよう』とこう思い立って、これを例の月番大岡寛太夫殿まで願出たのであ る。この事を聞いた親戚朋友《しんせきほうゆう》の人々はわざわざ銭《せん》六に面会して、だんだんと意見《いけん》して、止《や》め させようとしたが、銭《せん》六は平気な物である。 『御親切は千万忝《せんばんかたじけの》う存《ぞんじ》ますが、元々武士道の意気地《いきじ》より思い立った事故、一|命《めい》は始めから 投出している事である。もしあの屋敷《やしき》が安穏《あんのん》に、誰《たれ》でも住居《すまい》の出来る事にでも相成《あいなつ》た時は、 |拙者《せつしゃ》の武士道も、一|藩《ぱん》の威信《いしん》も挙《あが》る事になり、したがって君公《くんこう》へ御奉公《ごほうこう》の一|端《たん》とも相成《あいな》る次 第である。泰平《たいへい》の世《よ》の御奉公《ごほうこう》は、かかる仕事も肝要《かんよう》な事であると思う』 と云い放《はな》って平気でいるのである。  それから銭《せん》六は、上《かみ》の御允許《ごいんきよ》を得《え》、お預り屋敷として、彼《か》の明屋敷《あきやしき》即ち化物屋敷《ばけものやしき》の須川邸《すがわてい》 に居住する事になつたが、何様《なにさま》六七年間火の気も人の気もなしに成《な》っていた屋敷の事故、そ の物棲《ものずご》き事は大変である。銭《せん》六は一人の手下《てした》、即ち例の兵作《ひようさく》と共に出入《でいり》の人足《にんそく》大勢を伴《ともの》うて 乗込んだが、まず第一に門の閂《かんぬき》は、日蔭《ひかげ》の青苔《あおこけ》を見るように錆付《さびつ》き、玄関の遣戸《やりど》は粗《まぱら》に板が 離れ、畳は全部|湿気《しつき》に蒸《む》されて踏《ふ》む度毎にシャクリシャクリと云うて、床まで抜ける。間毎《まごと》 の障子襖《しようじふすま》は、紙の痕《あと》もなく剥《は》がれ落ちている。客間居間《きやくまいま》等にも萱《かや》や笹《ささ》などが、色褪《いろあせ》てニョキ ニョキと生出《おいで》ている。その屋敷地《やしさち》の一面には、名も知れぬ数多《あまた》の雑草が、伸放題《のびほうだい》に茂りて、 さしも数寄《すき》を凝《こら》した大家《たいけ》の庭園は、将門《まさかど》の荒《あ》れ御所《ごしよ》もかくやと偲《しの》ばるるのである。銭《せん》六の第 一に手を付けたのは、人足をして全屋敷地の雑草を椅麗《されい》に刈《か》り取らせた。第二には、一切の 建具《たてぐ》を執外《とりはず》して張易《はりか》えた。第三には畳屋に全部の入易えを命じた-第四には家の曲りを直さ せた。第五には壁を全部|塗《ぬ》り易《か》えさせた。第六には門の東側にある孟宗藪《もうそうやぶ》を全部|掘返《ほりか》えさせ た。第七には彼《かの》有名な大松の二本の枯れたる根と幹を、全部掘返えさせたところが、その根 入《ねいり》の深さと云うたら、二丈に近いほどである。それをも掘り取れと命じたので、大勢の人足《にんそく》 は汗塗《あせみどろ》になって掘り返したところが、一つの大石をその根《ね》が抱《だ》いている。それを引上げて見 ると、鮮《あざや》かに文字が彫《ほ》り付《つ》けてある。曰《いわ》く、  天正十《てんしよう》五|年丁亥《ねんていがい》三月十五日、秀吉殿《ひでよしどの》の軍勢《ぐんぜい》に対《たい》し、前後七回の血戦《けつせん》を為《な》し、刀折《かたなお》れ箭尽《やつ》き    しゆうめいぞくあそうたてわき★ちばなまさひろ       とふく  ものなり      ぽし       その て、九州の名族麻生帯刀橘の正弘、ここに於て屠腹する者也。同十六年戊子三月十五日、其 |家臣大原次郎《かしんおおはらじろう》右|衛門正房《えもんまさふさ》、自《みずか》ら此石《このいし》を刻《きざ》みて地中に埋《うず》め上に荒津神《あらつかみ》の松樹二株《しようじゆしゆ》を植え、其側《そのかたわ》 らに於て殉死《じゆんし》を遂《と》げ畢矣《おわりぬ》(以上漢文)  またその横手《よこて》の方より、一個の餐様《かめよう》の物を堀出《ほりだ》したがその中《うち》より小饕入《こかめいり》の古金貨《こきんか》一|貫目余《かんめよ》 を見出したのである。それからまたその辺《へん》の地底を掘廻《ほりまわ》りいたら黒石《くろいし》の箱を掘出《ほりだ》した。その |上蓋《うわぶた》は三つに割れていたが、表に何やら呪《まじな》いの梵字《ぼんじ》を彫付《ほりつ》け、下に『盛者亡滅怨魔永着《せいじやぽうめつおんまえいじやく》』の 八字が明かに読まれた。  そこで銭《せん》六は、一々それらの顛末《てんまつ》を目録上申《もくろくじようしん》として、大岡殿《おおおかどの》の手許《てもと》まで届出《とどけい》でたので、一 藩の重役達は、奇異《きい》の思《おも》いをなし、これを君公《くんこう》の御聴《おきき》に達《たつ》したので、お上《かみ》の思召《おぼしめし》によりて、 |雷山《いかずちやま》の僧《そう》数人を召《め》され、怨霊鎮魂《おんりようちんこん》の事を命ぜられたので、僧侶《そうりよ》相談の上、彼《か》の石碑石箱《せきひいしばこ》を |主魂《ぬしたま》として、不動明王《ふどうみようおう》の祠《ほこら》を建立《こんりゆう》し、降魔得道《こうまとくどう》の祈禳《きとう》を修《しゆう》し、城下の老若に参拝回向《さんぱいえこう》を為《なさ》し めて、三日間の施行供養《せぎようくよう》を為《な》したのである。それからこの銭《せん》六の所行《しよぎよう》を御賞美《ごしようぴ》あって、御普 請奉行青木甚《ごふしんぶぎようあおきじん》十|郎殿《ろうどの》の検分によりて、須川屋敷《すがわやしき》掃除料として金子《きんす》三百両を下《くだ》し賜《たまわ》り、日なら ずして、一切の物が立派に出来《しゆつたい》したのであるが、銭《せん》六はその祠《ほこら》の側《そば》に建石《たていし》をして、一首の歌 を彫付《ほりつ》けた。   斯《か》く深《ふか》き怨《うらみ》もこれで麻生《あそう》さんたまも霊《みたま》も沈《しず》めならくに  それから一|藩《ぱん》の陽気《ようき》この家《うち》に集まり、碁会、俳句会は申《もうす》に及ばず、泰平《たいへい》の世に遊ぶ娯楽《ごらく》の 人々を集めて、丁度今の倶楽部《くらぶ》の如き物となして、銭《せん》六先生幹事のような気取で大得意《だいとくい》に巾《はば》 をきかして暮していたとの事である。  因《ちなみ》に曰く、史《し》を案ずるに、天文《てんもん》の頃|天下《てんか》大に乱《みだ》れ、殊《こと》に九州は僻地《へきち》なれば、中央の威令《いれい》に 接する事遠く、騒擾一入《そうじようひとしお》はなはだしく、天正《てんしよう》の頃に至っては、薩摩《さつま》に島津《しまづ》、肥前《ひぜん》に龍造寺《りゆうぞうじ》、 |豊後《ぷんご》に大友《おおとも》ありて、ほとんど鼎足《ていそく》の勢《いきお》いをなし、境を侵し国を争いて、合戦|更《さ》らに止む時な し、中にも筑前《ちくぜん》の地は、襟喉《きんこう》の地なれば、常《つね》に戦争の衢《ちまた》となり、国中には少弐《しように》、宗像《むなかた》、原田《はらだ》、 |秋月《あきづさ》、麻生《あそう》の五|大家《たいけ》ありて、その家人《かじん》には豪雄智略《ごうゆうちりやく》の者も多く、各《おのおの》々|小塁支砦《しようるいしさい》を守りて、驍 勇《ぎようゆう》一世に抜群《ばつぐん》なる事少なからざりしが、天正十五年に至りて、秀吉《ひでよし》九州|征伐《せいばつ》を企《くわだ》て、豪族を |圧伏《あつぷく》してこの国を小早川左衛門佐隆景《こばやかわさえもんのすけたかかげ》に与《あた》えた。その後|隆景隠居《たかかげいんきよ》、秀秋越前《ひであきえちぜん》に転封《てんぽう》の後《のち》、石 田治部少輔《いしだじぶしようゆう》三|成《なり》三年間この国の代官として政治を取行《とりおこ》なう時まで彼《か》の三|傑《けつ》、五豪族、余類《よるい》の |制統《せいとう》には最も難儀《なんぎ 》せしとなり云《うんぬん》々。  これによって見るも、この化物屋敷《ばけものやしき》にありし不思議の発掘物は、まさに天正戦乱《てんしようせんらん》の遺跡《いせき》で ありし事が明白になったのである。これを狂歌師《きようかし》の銭《せん》六が、風流三眛《ふうりゆうまい》の戯《たわむれ》にこれを発見し て、一|藩《ぱん》に安穏《あんのん》の道を開きしは、殊勝《しゆしよう》この上なき事であるとの事である。その後この遺跡《いせき》は、 |追手道通《おうてみらとお》り御模様変《おもようが》えの時、その祠《ほこら》は全部御城内に引かれたとの事である。  銭《せん》六がこの屋敷に居住中の事であるが、長州《ちようしゆう》の侍太田源次郎《さむらいおおたげんじろう》と云う武人が、武者修行《むしやしゆぎよう》と して訪問《おとず》れ来《きた》り、しばらく逗留《とうりゆう》している事があったが、この者元来|勇猛巨胆《ゆうもうきよたん》の性質にて、あ る時|銭《せん》六が座敷《ざしき》の床《とこ》に掛《か》けて置いた布袋《ほてい》の懸《か》け物《もの》に墨黒《すみくろぐろ》々と讃《さん》をした、曰く、   我腹《わがはら》を撫《な》でては笑《わら》ふ布袋《ほてい》かな  銭《せん》六これを見て少しも憤《いきどお》る気色なく、 『お心入れの御筆労祝着《ごひつろうしゆうちやく》に存ずる。お蔭《かげ》にて座敷《ざしき》に一入《ひとしお》の光彩《こうさい》を添《そ》えました。失礼ながら下 を付けましょう』と云うて筆《ふで》を執《と》って、   指《ゆぴ》にさはるは糞《くそ》と高慢《こうまん》 と書いた。これを見て太田はムッとして、膝《ひさ》を刻《きざ》んで詰《つ》め寄り、 『これは一|体《たい》何と云う御趣意《ごしゆい》なるや』 と詰《なじ》ったが、銭《せん》六は平気で、 『これは上《かみ》の句《く》の御趣意《ごしゆい》によりて、下《しも》の句《く》を濱《けが》したのでござる。元来|布袋《ほてい》と申先人《もうすせんじん》の寓意画《ぐういが》 は、一|面福徳《めんふくとく》の神《かみ》のように申せ共、決して左《さ》に非《あら》ず、人見栄《ひとみえ》に大きな袋を持ってはおれども、 中はきっと殻《から》でござる。その実《じつ》は鬚《ひげ》を剃《そ》る銭《ぜに》もない大貧乏者である。その証拠《しようこ》は、寒暑《かんしよ》の別 なく、肩にも掛《かか》らぬ麻《あさ》の衣《ころも》一枚にて暮している位で、布袋《ほてい》の襲《かさ》ね着《ざ》はお互《たがい》に見た事もないで はござらぬか。それから大兵肥満《だいひようひまん》ではあるが、人間として体芸《たいげい》即ち一|身備《しんそな》えの修養などした 者ではないと云う事が、その身構《みがま》えで分るではござらぬか。それを何か高大《こうだい》な身嗜《みだしなみ》でもある かの如く世間体《せけんてい》を粧《よそお》い、大風《おおふう》ににこにこ笑顔《えがお》ばかりしている。即ち大嘘吐《おおうそつき》の殻尻野郎《からけつやろう》でござ る。拙者《けつしや》がこの掛物《かけもの》を床の間に掛けて置くのは、『人間と云う者は、この布袋《ほてい》の態《ざま》になっては 大変ごある。天《てん》より賜《たま》わる福徳《ふくとく》にも有付《ありつ》けず、武士などでは微運《びうん》この上なき者と堕落《だらく》するか ら、総て布袋《ほてい》を学ぶべからず』と云う戒《いましめ》にしていたのを慧眼《けいがん》の貴下《きか》がこれを観破《かんぱ》して『布袋 奴《ほていめ》が自分《じぶん》で腹《はら》を撫《な》でて見てその殻《から》っぽうを、笑わずにはおられぬ』と云う一|句《く》をお付下《つけくだ》さっ たので、これは誠に銭《せん》六の意《こころ》を得《え》たる為《な》され方、有難《ありがた》く存《ぞん》ずるの余り、かくは下《しも》の句《く》を付《っ》け ましてござる。銭《せん》六の喜《よろこ》びこの上ない事に存《ぞんじ》まする』 とすらすらと物語って平気である。太田の不快この上なく、とうとうその夜《よ》の晩酌《ばんしやく》の上にて、 |銭《せん》六に武芸《ぶげい》の立合を申込む事となった。銭《せん》六は堅く辞したが聴かぬので、 『重々の御懇志《ごこんし》千|万忝《ばんかたじけな》く存《ぞん》じますが、拙者《せつしや》は今文事《いまぶんじ》に心を傾け、僻《ひが》める心と曲《まが》れる行《おこない》との ある者を、教導《きようどう》する事のみを以て老後《ろうご》の楽《たのしみ》と致しておりますが、しかし矢張《ゃはり》武士の端《はし》くれに て、武道を以て知行《ちぎよう》は頂戴致《ちようだいいた》し罷在事故《まかりあることゆえ》、達《た》って御指南下《ごしなんくだ》さるれば、喜んでお受けは致すが、 太田先生かくまでの御所望《ごしよもう》は、銭《せん》六の武芸《ぶげい》をお試《ため》し下《くだ》さるのであるか、御教導下《ごきようどうくだ》さるのであ るか、または何かお心に染《そ》まぬ事でもあって、御懲戒下《ごちようかいくだ》さるのであるか、拙者《 せつしや》も武士でござ る以上は、思召《おぽしめし》の次第《しだい》を承《うけたま》わって、御手合《おてあわ》せ致《いたし》たいと存ずるが』 と云われたので、太田も一寸困却《ちよつとこんきやく》したが、意《い》を決して、 『拙者《せつしや》も武士の一|分《ぶん》でござる。何も包み隠《かく》しは致さぬ。貴殿《きでん》の付《つ》けられた下の句が気に入り 申さぬ。拙者《せつしゃ》を高慢者《こうまんもの》と卑《さみ》せられては残念に心得るより、武士の表《おもて》、有無《うむ》の勝負《しようぷ》を決し度く |存《ぞん》ずるのでござる』 『いやそれならば、達《た》って御免《ごめん》を蒙《こうむ》りたし。拙者《せつしや》は主持《しゆもち》の身分故、私の意趣《いしゆ》にてのお立会は おゆるしくだ      せつしや  ほ てい  さん  しものく           こうまん       き でん           ひ ぽう 御許下さい。拙者が布袋の讃の下句を付けたのを高慢に非ざる貴殿を高慢なりと誹謗したの    おぽしめし               せつしやまこと めいわく              ごきようどう  こうむ       ご しんせつ  ご し だと、御思召ての御申込は、拙者誠に迷惑に存ずる。ぜひ御教導を蒙ると云う御深切の御試 |合《あい》ならば仮令《たとい》打殺されてもさらに異存《いぞん》はござらぬが』 『その辺《へん》は貴殿《きでん》の御望《おのぞみ》に任《まか》せまする。ぜひ共|御立会《おたちあい》を希望致す』 『それならば千万忝《せんばんかたじけ》なし。然《しか》らばここに御相談がござる。拙者《せつしゃ》は御覧《ごらん》の通り老衰致し血気の 貴殿に御相手《おあいて》もいかがと存《ぞん》じますから、拙者が愛撫致《あいぷいた》しおる一人の若者をして、御相手致さ せまするから、十|分《ぶん》それを御教導願たし。もしその者が貴殿《きでん》に打負《うちま》け申たらば、その席にて 拙者共両人は、貴殿《さでん》と師弟《してい》の契約《けいやく》を致し、永《なが》く御指南《ごしなん》を蒙《こうむ》る事に致たい。この儀何卒御承引《ざなにとぞごしよういん》 を願いたし』 『いやかくなっては、誰《たれ》にても御相手致《おあいていた》すべし。殊に今の御《ご》一|言《ごん》お忘れなく御用意なされたし』 との事であったので、銭《せん》六は早速《さつそく》自分の世話している、下湊町《しもみなとまち》のお倉御用聞《くらごようきき》、三|島藤兵衛《しまとうべえ》の |悴藤之助《せがれとうのすけ》を呼出して立会を命じた。この者はその父なる藤兵衛《とうべえ》が五年以前、小倉街道《こくらかいどう》にてあ る浪人の為《た》めに斬殺《ざんさつ》せられたと云う、敵持《かたきもち》である。その敵《かたき》が打《うち》たい打たいと云う孝心者《こうしんもの》故、 |銭《せん》六はかねてこれを世話《せわ》して伊岐流《いきりゆう》の鎗術《そうじゆつ》と鎖鎌《くさりがま》の修業をさせた。この若者の武芸《ぷげい》を試《た》めし 見るべく、心掛《こころが》けていた時故、銭《せん》六は藤之助に向い、 『今その方の立会う太田《おおた》と云う長州浪人《ちようしゆうろうにん》は、どうも貴様《きさま》の親の敵《かたき》らしく思う筋《すじ》があり、幸い 先方から立会を望むのだから、その方は心に父の敵《かたき》と心得《こころえ》、神明《しんめい》に誓《ちか》いて立会存分《たちあいぞんぶん》に打据申《うちすえもうす》 べし』  もうしき   ぽたんやり さき くさりがま ぶんどう  ね ごふん つ せん ていぜん    かの と申聞け、牡丹鎗の先と鎖鎌の分銅には練り胡粉を付け、銭六の庭前にて彼太田源次郎と立 合わせたのである。太田は案外の若者故、ただ一|撃《げき》と身構《みがま》え、藤之助の突出《つきだ》す鎗《やり》をたちまち に巻《ま》き落した時は、已《すで》に右の肩先《かたさ》きをしたたかに突《つ》かれていた、それも構《かま》わず猛鷲《もうしゆう》の如く付 け入る太田が出鼻を、懐《ふところ》にしたる鎖鎌《くさりがま》の分銅《ぶんどう》は飛退《とぴしざ》り様《ざま》に大廻《おおまわし》にてその脳天《のうてん》をしたたかに打《うち》 す       せん     とうのすけ はやわざ   す とぴこん    かいほう  ねぎろ 据えたのである。銭六は涙ぐむ程藤之助の早技に感心したが直ぐ飛込で太田を介抱して、稿 うたので、さしも高慢《こうまん》の太田も、心《しん》から深く銭《せん》六の人格に感じ、重《かさ》ね重ねの不埒《ふらち》を詫《わ》びてこ     せん   ずいしん  くろだけ    ちようしゆうはん  かけあい  すえ  か   おおた げんじろう   ふくおか の日より銭六に随身し、とうとう黒田家より長州藩に掛合の末、彼の太田源次郎は、福岡 はん めしかかえ           と・易すけ  せん     せわ   さつまろうにん蕚やましようじ 藩に召抱らるる事となった。その後藤之助は、銭六と太田の世話にて、薩摩浪人松山庄司と      ひ ぜんた しろかいどう      かたき     うちはた    じ ご                    つい    しまとう  ろう 云う者を、肥前田代街道で父の敵として打果し、爾後数年武者修業をして、終に三島藤六郎     とうぐんりゆうそうじゆつしはん    こくらはん めしかか                  せん と称し、東軍流鎗術の師範として、小倉藩に召抱えらるる事になったのである。この時銭六 が藤之助《とうのすけ》に与えた歌《うた》は、 『打撥《うつはち》と打《う》たるる太鼓音《たいこおと》の妙《みよう》わざは人《ひと》なり負勝《まけかち》はなし』  今日《こんにち》に至るまで伝来せる、東軍流秘伝《とうぐんりゆうひでん》の歌として持《も》て噺《はや》さるるものは、享和《きようわ》の昔、この銭《せん》 六が詠《よ》んだ歌で、恩誼《おんぎ》を忘れざる印《しるし》であるとの事である。この三|島藤《しまとう》六|郎仇討《ろうあだうち》の実談は材料 も有る故また折をみて書残す積《つも》りである。 四十一一  驤  山萋 俳伏査 金戰 に治し 至るまで奇句を弄し 神霊道を得て明光を放つ   何糞《なにくそ》と思《おも》へど最早屍茶《もはやへちや》も暮《くれ》さらば草葉《くさぱ》の蔭《かげ》に往《ゆ》かうぞ   句《く》もなくて死《し》ぬるは明日《あす》か狂歌師《きようかし》の屁《へ》の如《ごと》くなる武士《ぶし》の青人《あおんど》   ぷしどう  ひつさ   ふうりゆう      すご     せん  おう とは武士道を提げて風流の蔭に隠れ、八十六歳の高齢を過したる銭六翁が、老病にて息を引 いなりかみ《じせい》|よ 取る時の辞世の二歌である。丁度この年の二月であった、当時世の中に、稲荷の神寄せと云 う事が流行した。これは後世の狐懣《きつねつき》と云《い》うが如きもので様々の不思議な事を為《し》て、愚民《ぐみん》を迷     せん    にがにがしく   ちくぜん  げんかい  ことうおき  しま  ご ふ わすのを銭六は苦々敷思うていたが、それが筑前の北、玄海上にある孤島沖の島の御符さえ いただ     たちどころきつねつき         ごふ うけさ             つい 戴かすれば、立所に狐懣が落ちるので、その御符を受下げに行く事がまた流行し、終にはそ  ごふ        にせやまぷし  やぶれぽうず  みだ  せつ          ぷい       たい の御符の売買が始まり、贋山伏や、破坊主などが、濫りに附会の説をなす故、武威輝ける大 爰かきん     ゆ一つりよ  斈   ことう           竈しんこん 藩の瑕瑾にもならんかと憂慮の末、自からこの孤島に押渡りて実際を取調べ、その迷信の根 げん           やくすじ           と こう                    しんせきほうゆう    としより  ひやみず 元を清めんと、役筋に願を立て、渡航を思い立ったのである。親戚朋友は、老人の冷水仕事、 いのち《たや》|が 達って止めよと忠告をしたけれども、例の如く『武士の仕事は命懸けのものである』と云う   てんばり                    こ ぷね  むしろほ  か       はかた わんとう が一点張で、さっさと用意をし小舟に蓆帆を掛けて、博多湾頭を乗出したのであるが、そも そもこの沖《おき》の島《しま》と云うは、世に荒島《あらしま》に荒神《あらがみ》の鎮座《ちんざ》ましますと云《い》い伝えてあるので、風波《ふうはた》に漂《だよ》 う漁夫釣人《ぎよふつりぴと》さえ、万難《ばんなん》を凌《しの》いでも決してこの島に船を寄せる者はないのである。  元《もともと》々この島は博多《はかた》の陸地を距《さ》る事《こと》西北四十海里、小呂《おろ》の島《しま》を北に距《さ》る二十七海里、長州《ちようしゆう》 の豊浦郡神田崎《とようらごおりかんださき》を西に距《さ》る事四十二海里にして、丁度|下《しも》の関《せき》と、対馬《つしま》との中間に在って、九 州の陸地と、朝鮮《ちようせん》との中央に位《くらい》する一孤島である。古史に拠《よ》るに、遠き神代《かみよ》に於て天照大 神《あまてらすおおみかみ》と、素菱鳴尊《すさのおのみこと》と、天《あま》の安河御誓《やすかわおんちか》いに産せ玉《たま》える女神《によしん》の鎮座《ちんざ》まします所、即ち我大日本の大 八洲《おおやしま》、御高見《おんたかみ》の海路《うなじ》、御足止《おんあしどま》りの霊島《れいとう》である。それより潮路《しおじ》によりて出雲《いずも》に御船渡《おんふなわた》りあらせ られたがこの御島《おしま》に幾干《いくぱく》の歳月《としつき》を御過《おすご》し在《あ》りしかは分らぬのである。この島の御神《おんかみ》は贏津島 姫《おきつしまひめ》の尊《みこと》と申奉りて、二大神《ふたおおがみ》は御筐《おんかたみ》として青薙玉《アオミタマ》を残《のこ》し玉《たま》えりとなり、この島は周囲一里余と |云《い》い伝え、島中三つの霊峰《れいほう》相連り、白き石|峭立《しようりつ》し怪岩異木《かいがんいぼく》を以て充《み》たされ、殊《こと》に奇薬妙剤《きやくみようざい》に 富める鱗介《りんかい》を産するのである。往古《おうこ》より一人もこの霊地《れいち》に住居する人民なく御神《おんかみ》の宮居《みやい》は南 部に建祀《たてまつ》りてあるのである。  慶長《けいちよう》の頃、この筑前《ちくぜん》に封《ほう》ぜられたる、黒田長政《くろだながまさ》は第一にこの御神《おんかみ》を崇敬《すうけい》し、斎戒沐浴《さいかいもくよく》の足 軽《あしがる》三人と、船手《ふなで》四人を遣《つか》わして、各《かく》百日|交替《こうたい》と定めて、神域《しんいき》の瀧掃《さいそう》を怠《おこた》らなかったのである。 この御神《おんかみ》の祭祀《さいし》を掌《つかさど》りし者は、田島神社《たじまじんじや》の宮司《ぐうじ》にして、彌宜主典《ねぎしゆてん》一|人《にん》、使部《つかいべ》一|人《にん》、加子《かこ》五人 は常に六|根清浄《こんしようじよう》して、この霊地《れいち》に定番《じようばん》していたのであるが、社前に達する石階《せつかい》は、島礎《とうそ》の自《じ》 然石《ねんせき》を刻《きざ》みたるもの三百三十段にして、その左右には蘇鉄樹数多生茂《そてつじゆあまたおいしげ》り祠側《しそく》に三箇の大巌樅《おおいわしよう》耳 |立《りつ》し、総て喬木大樹《きようぼくたいじゆ》の蓊欝《おううつ》たるを見る。  また岩石空洞《がんせきくうどう》の宝庫《ほうこ》ありて、その中には神代《かみよ》よりの神器祭器等堆積《しんきさいきとうたいせき》せるのが、銅器鉄器《どうきてつき》共、 |平人《へいじん》のさらに渡りたる事なき、この霊地《れいち》に、その毀損欠壊《きそんけつかい》したる古器《こき》に、鍍金光輝《ときんこうき》の燦爛《さんらん》た るを見るは、全く古代の文明に一|驚《きよう》を喫《きつ》するの外ないのである。古人はこの島を恩賀島《おんがしま》と云《い》 い、後訛《のちか》して嵐《おき》の島《しま》と云《い》えり、二大神恩賀《ふたおおがみおんが》の霊地《れいち》なりしが為《ため》なりと云《いい》伝う、また二大神《ふたおおがみ》の弥 深《いやふか》き神心《かんこころ》を定め給いて、この大八洲《おおやしま》に民を移し、その安楽《あんらく》を謀《はか》り玉《たも》う大御業《おおみわざ》に西神国《にしかみぐに》の人々 は、此上《こよ》なき僻事《ひがごと》と思い、これを妨げ仇《あだ》し、奉《たてまつ》らんと、様々の手段をなし、金鼓《きんこ》を鳴して、 |御後《おんあと》を追《お》い奉りしかども、浪風高《なみかぜたか》き大海原故《おおうなばらゆえ》、その事を達《たつ》し得《え》ざりしとなり。  彼木集《ひほくしゆう》に、   立浪《たつなみ》に鼓《つづみ》の音《おと》を打《うち》そへて神人《かみぴと》おはめ沖《おき》の島《しま》が根《ね》 とあるが、この神代《かみよ》の事を詠《よ》んだ歌にて、この沖《おき》の島《しま》の事を証拠《しようこ》立てる一つである。彼銭《かのせん》六 |翁《おう》は、かかる神徳弥著《しんとくいやちこ》の御神《おんかみ》を、愚民《ぐみん》共が汚《けが》し奉るは、藩政《はんせい》第一の蝦理《かきん》なりと思い定め、役 筋《やくすじ》の特許《とつきよ》を受て、万難《ばんなん》に身命《しんめい》を賭《と》して乗出《のりだ》したのである。、真個《しんこ》の武士たる者は、太平《たいへい》の時ほ ど難儀《なんざ》なるものはない、命《いのち》を的《まと》の戦争はなし、かかる事に命《いのち》を掛《か》けるより外仕方《ほかしかた》がないので ある。とうとう狂瀾怒濤《きようらんどとう》を乗切って危《あやう》くもこの霊島《れいとう》に着いたので、直《ただち》に用意の通り沐浴《もくよく》して 浄衣《じようい》を纒《まと》い、彌宜《ねざ》に面会して藩命《はんめい》と自分の意見とを申述べ、今日以後はいかなる信者崇敬《しんじゃすうけい》の |人来《ひときた》るも、役筋《やくすじ》の許可《ゆるし》なくして御符《ごふ》を与《あた》え、祈禳《きとう》をなす事|相成《あいな》らざる次第を申聞《もうしき》けそれより 島中の霊跡《れいせき》、残る所なく参拝《さんぱい》しいよいよ大和民族《やまとみんぞく》の発祥根元《はつしようこんげん》の、尋常《じんじよう》ならざるを知って、信 心一入肝《しんじんひとしおきも》に銘《めい》じ、三日の間通夜絶食《あいだつやぜつしよく》して、一|身《しん》の帰命頂礼《きみようちようらい》を捧《ささ》げたのである。居《お》る事五|日《か》に してまた船を出して、博多《はかた》の津《つ》に帰り来て、直《ただ》ちに博多大浜町《はかたおおはまちよう》の臓津宮《おきつぐう》の遥拝所《ようはいじよ》に狐懣《きつねつき》の病 人共を数多《あまた》呼び集め、 『この度藩命《たぴはんめい》によりて、公《おおやけ》に沖《おき》の島《しま》に参拝《さんぱい》し、多くの御符《ごふ》を頂き来りし故、汝等《なんじら》に分け与《あと》う べし』 と触《ふ》れさせたので、彼贋山伏《かのにせやまぷし》や、破れ坊主《ぽうず》共|付添《つきそい》にて、大勢の患者を連れて来た銭《せん》六|翁《おう》は、 |恭《うやうや》≧敷御符《しくごふ》を分け与えたところが、立処《たちどころ》に狐懣《きつねつき》の病気は全快して、元の正気《しようき》となったので、 |各《おのおの》は打喜《うちよろこ》びて御礼《おれい》の百|曼陀羅《まんだら》を述《の》べる。銭《せん》六はその病人を一人も帰さず、即座に演説を初 めたのである。 『汝等《なんじら》が神寄《かみよせ》の病気は、平生《へいぜい》の曲《まが》れる心に、外《ほか》より迷の念を添《そ》えたるより、かかる恥《はずか》しき病《やまい》 に罹《かか》ったのである。恐れ多くも日本《ひのもと》の神様《かみさま》は、左様《さよう》の私《わたくし》の心に染《そみ》し者共には、決して与《く》みし 給わぬのである。誠沖津宮《まことおきつぐう》を尊敬し奉るならば、かかる贋山伏《にせやまぶし》や、破《やぷ》れ坊主《ぼうず》の唱《とな》うる、稲荷《いなり》 の神《かみ》などを信じてはならぬ、汝等《なんじら》がかようの奴《やつ》共に誑《たぷら》かされて、一種の神経病に罹《かか》りおる証《しよう》 拠《こ》は今|汝等《なんじら》が三|拝《ぱい》九|拝《はい》して飲《の》んだる御符《ごふ》と云《い》うは、予が船中にて食余《くいあまし》の弁当の飯《めし》を、板子《いたご》の 上に乾《ほ》してかわかした物で、それを沖津宮《おきつぐう》の御符《ごふ》と云うて与《あたえ》たるを、汝等《なんじら》が左様《さよう》に信じて飲 んだ故、全《まつたく》の神経病は即座《そくざ》に全快したのである。即ち迷の神経病であると云う何よりの証拠《しようこ》 である。以後は役筋《やくすじ》の許しなくて、決して御符《ごふ》の売買等《ばいばいとう》は相成《あいなら》ぬ、もし背《そむ》く者あらばきっと |曲事《きよくじ》の御沙汰《ごさた》あるべし。またそれなる山伏坊主《やまぶしぽうず》共はこれまで言語道断《ごんごどうだん》の不埒《ふらち》を働きしにつき、 |即座《そくざ》に御召捕《おめしとり》の御沙汰《おさた》ありたり、それ』 と銭《せん》六の声の下より、予《かね》て用意の捕方《とりかた》は、山伏坊主《やまぶしぼうず》の全部を縛上《くくしあ》げて連れ去ったのである。 それより銭《せん》六は八方に捕方《とりかた》を馳《は》せ廻らせて、右の山伏《やまぶし》や坊主《ぼうず》共をことごとく召捕《めしと》らせたので、 一|藩《ぱん》の人心はたちまちにして矯正《きようせい》されたのである。その時の歌に、   噛《か》まれたる博多福岡野狐《はかたふくおかのぎつね》のたたりも消《き》えて羸津《おきつ》しらなみ  それより銭《せん》六は君公《くんこう》へ拝謁《はいえつ》を願い、臓《おき》の島探検《しまたんけん》の委細を言上《ごんじよう》し、 『かかる神道最初の霊地《れいち》の御領内《ごりようない》にある事は、万民国土《ばんみんこくど》の安全をはかりたもう御政治の根本 を備《そな》え玉《たも》う御国柄《おくにがら》にござりまするから、何卒祭政《なにとぞさいせい》一|致《ち》、人心帰服《じんしんきふく》の思召《おぽしめし》を以て役筋《やくすじ》の人々へ それぞれ御触《おふ》れ示し遊《あそば》されるよう偏《ひと》えに願上奉《ねがいあげたてまつ》る』 と申上たので、只さえ賢明《けんめい》の君公《くんこう》は、 『諌《いさ》め殊勝《しゆしよう》と思うぞよ、国祖長政公《こくそながまさこう》御入国の第一に、すでに祭政《さいせい》一|致《ち》の御政治を示し給うに、 予《よ》が不敏《ふびん》これを怠《おこた》りしより、かかる迷信邪道《めいしんじやどう》の者が領内に俳個《はいかい》せし事、全く予が過ちと思う 故、以後はきっと心掛申《こころがけもうす》べし』 との御諚《ごじよう》であったので、銭《せん》六は平伏《へいふく》して嬉《うれ》し涙に咽《むせ》んで、しばらくは頭《かしら》も上《あ》げ得《え》なかったと の事である。その後|間《ま》もなく御領内《ごりようない》の国民《こくみん》は、何時《いつ》となく神祀仏祭《しんしぷつさい》の事に心を傾け、節面白《ふしおもしろ》 き俗謡等《はやりうたなど》が行なわれて来たのである。その一節に、 『国《くき》よ国《く 》よ民《みき》よ民《みき》よ、山《やき》よ山《や 》よ川《か 》よ川《か 》よ、国土《く と》は神《かき》の開《ひえ》かせ玉《た》ふ、民《み 》草は神《かき》の産《うミう》み玉《た》ふ、五 穀草木皆穣《ご くそきくみコみの》り、花実《は み》の間《まき》に鳥鳴《と とな》き、民《みき》も唱《とえ》ふよ我里《わ がさ》よ、父母父母父母《てふちてふちてふち》よ、祖父母祖父母祖父 母《ち もみぢ もみぢ もみ》よ、働休働休働休《てんぐるてんぐるてんぐる》よ、発運発運発運勢《ば とばニとぱ とせき》運』  この謡《うた》は田島明神《たじまみようじん》の神主《かんぬし》、藤原敏晴殿《ふじわらとしはるどの》が君公《くんこう》の命により神代《かみよ》の譜《ふ》を調べて認《したた》め差上げし物 との事である。即ち祭政《さいせい》一|致《ち》の効果は『国《くに》を開《ひら》き民《たみ》を産《う》みこれを衣食住の安穏《あんのん》に導く時は、 即ち禽獣草木《きんじゆうそうもく》もまた皆その処《ところ》を得《う》るに至る。けだし上下尊卑《しようかそんぴ》共、誠に鼓腹撃壌《こふくげきじよう》の恵みを垂《た》れ |玉《たも》うの御教訓《ごきようくん》は、ただ父母も祖父母《じじぱぱ》も共にその心を一にして只管《ひたすら》日は耕して夜は休み切《せつ》に一 |身《しん》一|家《か》の発運《はつうん》をのみ庶幾《こいねが》う時は、それを以て国民国家の勢運《せいうん》を盛んにする事が出来る物であ る』との事になるのである。  銭《せん》六|翁《おう》は、この君恩《くんおん》の辱《かたじけな》きを喜んで、小供の頭《かしら》になって手を拍《たた》いてこの童謡《どうよう》を唱《うた》い、酒 に酔うては止《と》め途《ど》もなく騒ぎ戯《たわむ》れていたとの事である。丁度その秋の九月、重陽《ちようよう》の節句《せつく》に、 多くの人を集めて、祝いの酒を酌《く》み交《か》わしたが、その日の肴《さかな》は烏賊《いか》とセンブキ曲げ(江戸《えど》に てワケギと云う葱《ねぎ》の小《ちいさ》きような野菜《やさい》で、それをうでて一|本《ぽえ》ずつくるくる曲《ま》げて、酢味嗜《すみそ》を付《っ》 けて食《く》う)と蛸《たこ》のふくら煮《に》、それから酒《さけ》は当時の銘酒菊《めいしゆきく》の露《つゆ》で、一升三百文と云う高価な酒 であったとの事、銭《せん》六の歌に、   鳥賊《いか》さまに蛸《たこ》う思《おも》へど貧乏《ぴんぽう》をセンブキ曲《ま》げて飲《の》む菊《きく》の露《つゆ》  その日も酔《よい》に酔《よ》い、彼《か》の『クーヨ、クーヨ、ミーヨ、ミーヨ、も連《つ》れ節《ぷし》で、来客《らいきやく》と共に唱《うた》 い、とうとう酔い潰《つぷ》れ、家人《かじん》に助けられて寝所《しんじよ》に這入《はい》りそれから老病で、日に日に弱《よわ》り果《は》て るばかりとなり名医と聞く人は、門弟中が駆け廻りて、幾人《いくにん》も呼んで診《み》せたが、何処《とこ》と云《い》う て押えて悪るい所もなく、病み付いてより十三日目に、眠るが如く八十六歳を一|期《ザし》として、 |冥途黄泉《めいどこうせん》の旅に一人で赴《おもむ》いたのである。今や臨終《りんじゆう》と云う時に、門弟《もんてい》の人々が先生先生と声を 掛けたが受け答がないので、門弟は、  『あーあ如何《いか》な洒落《しやらく》の先生ももう斯《こ》うなっては一句も出ぬ事になった』 と云うたら、銭《せん》六|翁《おう》はぱっちり眼を開き、手を伸ばして、側《そば》近き一人の門弟《もんてい》の耳を引寄せ、 口を寄せて小声に囁《ささや》いたのが、この回の初めに書いた辞世《じせい》の二首である。この三百《ごん》を残して、 その翌日の朝|大往生《だいおうじよう》を遂《と》げたのである。それより一同は打寄《うちよ》り、約筋《やくすじ》よりお上《かみ》にもお届けを したところが、君公《くんこう》も『この上なき名物男を失うたのう』と、深く御哀惜《ごあいせき》を蒙《こうむ》りて種《いろいろ》々の賜《たまもの》 を下《くだ》し置《お》かれ、多くの門弟と親戚朋友《しんせきほうゆう》共打寄りて野辺《のべ》の送《おく》りを営んだのである。銭《せん》六の戒名《かいみよう》 は、 『蓼虫軒蛙顔銭《りようちゆうけんあがんせん》六|寂光居士《じやつこうこじ》』 と号して蓼虫軒《りようちゆうけん》、蛙顔《あがん》、銭《せん》六、までは、皆俗称《みなぞくしよう》の内から取ったのである。以下の寂光居士《じやつこうこじ》 だけが宝僧《ほうそう》の諡字《しじ》である。その他|俗号《ぞくごう》には河辺《かわべ》の青人《あおんど》、二|文坊《もんぼう》、馬鼻助等《まぴすけら》まだ沢山あれども、 ことごとくは分らぬのである。墓は承天寺《しようてんじ》と云う事であるが、調べても分らぬ由、銭《せん》六の門 人に深井勇助《ふかいゆうすけ》と云う面白き男があって、師《し》より生前蓼虫軒《せいぜんりようちゆうけん》の号を貰い、大阪《おおさか》の筑前倉屋敷《ちくぜんくらやしき》 に庭奴《にわやつこ》を勤《つと》めていて、盛《さか》んに狂歌《きようか》を詠《よ》んで、京阪《けいはん》の同好者《どうこうしや》をへこました、それがまた師《し》の銭《せん》 六の歌と、ごっちゃになって、世に伝えられているのが沢山あるとの事である。大阪|蓼虫 軒《りようちゆうけん》の歌に、   蓼《たで》食うてむしむしあつき夏《なつ》の夜《よ》に奴豆腐《やつこどうふ》ですき隙《ずき》に飲《の》む   一人来《ひとりき》て二人連《ふたりつ》れだつ極楽《ごくらく》の心中弧《しんじゆうしらみ》と痒《かゆ》い道行《みちゆき》   百|年《ねん》を五十にまけておきながら毎日《まいにち》百の酒《さけ》で往生《おうじよう》 などその詠歌《えいか》が沢山あるとの事である。 四十三 |魔人龍造寺隆邦《まじんりゆうぞうじたかくに》   壮士大姓を復して志業を企て、 一敗大損を為して外人を苦む  庵主《あんしゆ》の実弟に龍造寺隆邦《りゆうぞうじたかくに》と云《い》う者があった。幼名を乙次郎《おとじろう》後に五百枝《いおえ》と改名したが寅年《とらどし》の 生れ故|庵主《あんしゆ》より二つ下で、慶応《けいおう》二年八月の誕生である。これが庵主《あんしゆ》としては、百|魔伝《までん》中に最 も特筆《とくひつ》すべき魔人《まじん》で、実弟の事ゆえ今日まで控《ひか》えていたが、今|庵主《あんしゆ》は、この実弟|隆邦《たかくに》が旧宅 東武《きゆうたくとうぷ》の郊外、中野郷《なかのごう》に寓居《ぐうきよ》する事になったから、彼《かれ》が瞑目《めいもく》した思い出多き寒窓《かんそう》の下《もと》、空しく |孤灯《ことう》に対して荐《しき》りに昔日《せきじつ》を偲《しの》び、考出したまま、筆の運ぶに任せて、その記憶《きおく》を書綴《かきつづ》る事に したのである。  ここに一寸彼が龍造寺《りゆうぞうじ》と名乗る訳を書いて置《おこ》うと思う。庵主《あんしゆ》の姓《せい》、杉山《すぎやま》と云《い》うは、系図に 因ると本姓《ほんせい》ではない。即ち龍造寺《りゆうぞうじ》と云うが本姓であって、先祖より伝わる系図の混雑は、全 く普通と異なっているのである。庵主《あんしゆ》が幼時、父は福岡藩の系図学者とも云うべき、長野和 平《ながのわへい》と云う長老《ちようろう》に、系図の調査を頼み、長野氏にある正系《せいけい》を根拠《こんきよ》として、一直線に系図の前後 を糺《ただ》して貰うた事があるが、その正系《せいけい》に拠《よ》ると、杉山《すぎやま》と云うは仮《か》りの姓《せい》である事が明白《めいはく》であ る。その訳は古き事は省略して、近く天正《てんしよう》の往昔《おうせき》より、九州に龍造寺《りゆうぞうじ》、大友《おおとも》、島津《しまづ》の三|豪族《ごうぞく》 が鼎立割拠《ていりつかつきよ》の勢《いきおい》をなし、互《たが》いに侵掠殺戮《しんりゃくさつりく》を事としておったが家運の傾く時は余儀《よざ》ないもの で、薩摩《さつま》の伊集院《いじゆういん》の攻撃《こうげき》に対して、龍造寺《りゆうぞうじ》の家老はこれに内通裏切《ないつううらぎり》をなし、城に火を掛け一 挙にして主家《しゆか》を滅亡《めつぽう》せしめ、その主君の後妻《ごさい》を納《い》れて己《おのれ》が妻となし、子女を片端《かたつぱし》より殺戮《さつりく》せ んとする傾向が見えたので、忠義の家臣等《かしんら》は、各自に若君《わかぎみ》を引連れて各国に逃げ隠《かく》れたが、 多くは隠密刺客《おんみつせつかく》を以て殺し龍造寺《りゆうぞうじ》の枝葉《しよう》を剿滅《そうめつ》せんとしたのである。庵主《あんしゆ》の家祖《かそ》は、その長 子即ち嫡男《ちやくなん》にして、龍丸《たつまる》と云う者であった。四方に流寓《りゆうぐう》の結果、信友《しんゆう》三|宅某《やけぼう》が黒田家《くろだけ》に重用《じゆうよう》 せられおるのを手便《たよ》りて寄食《きしよく》し、終《つい》に藩主長政公《はんしゆながまさこう》の御聴《おきき》に達し、客分《きやくぷん》として最も手厚き保護 を受けていたが、後には藩公《はんこう》にその才器《さいき》を見込まれた。ある時|藩公《はんこう》は右《みぎ》三|宅《ゃけ》を以て子孫《しそん》百|世 忘《せいわす》る可《べ》からざる懇諭《こんゆ》を賜《たまわ》ったのである。曰く、 『龍造寺龍丸《りゆうぞうじたつまる》は予に於て格別の庇護《ひご》を加えおるも、何分戦乱の余殃未《よおういま》だ止《や》まず、四方より入 込む刺客隠密《せつかくおんみつ》の処置に油断|相成難《あいなりがた》く、今なお安堵《あんど》の生活致《たつきいた》させ難《がた》く思うに因《よつ》て、予は一案を 得た。それは予が郷国播州《きようこくばんしゆう》に、儒者《じゆしや》として客分《きやくぶん》なりし杉山如庵《すざやまじよあん》なる者あり、この者の祖先《そせん》は、 |相州箱根杉山《そうしゆうはこねすぎやま》の城主杉山三郎左衛門《じようしゆすざやまろうざえもん》の尉誠久《じようのぷひさ》と云う者であって建徳文中《けんとくぶんちゆう》の頃より南朝に心を 寄せたる家柄《いえがら》であったが、明徳《めいとく》の頃より家勢衰《かせいおとろ》え、播州《ぱんしゆう》に来りては代々|予《よ》が家祖《かそ》と、去《さ》り難《がた》 き因縁《いんねん》を結んだ、如庵《じよあん》死後に、その遺孤八重《いこやえ》と云う一女子あり、予《よ》これを扶助《ふじよ》せんと思うに 付き、これを九州の名族龍造寺龍丸《めいぞくりゆうぞうじたつまる》に娶《めあわ》せ、しばらく龍丸《たつまる》をして杉山《すぎやま》の姓《せい》を名乗らせ予《よ》が家《か》 臣《しん》の中に差加《さしくわ》える時は、龍造寺《りゆうぞうじ》の跡《あと》を晦《くら》ますに於て、屈強《くつきよう》の便宜《べんぎ》たらんその事を龍丸《たつまる》に汝《なんじ》よ り申聞かすべし。龍丸承引《たつまるしよういん》の上、産《もう》けたる中《うち》の一|子《し》を以て、杉山《すぎゃま》の家名《かめい》を継《つ》がせ時代静謐《じだいせいひつ》の 上、再び龍造寺の家名《かめい》を興《おこ》さば、予に於ても満足《まんぞく》ならん』云《うんぬん》々、 との仰《おおせ》を蒙《こうむ》ったので、龍丸《たつまる》は三|宅《やけ》の執成《とりなし》によりて君命《くんめい》の忝《かたじけな》きを奉じ、ここに杉山家《すぎゃまけ》を名乗 る事となったのである。龍丸《たつまる》入家の時、君公御手《くんこうおて》ずから延寿国時《えんじゆくにとき》の御刀《おかたな》を下《くだ》し賜《たま》わり、杉山《すぎやま》 三|郎左衛門誠隆《ろろざえもんのぷたか》と称《しよう》して、御奉公《ごほうこう》を為《な》す事となったのである。故に庵主《あんしゆ》の家は、福岡藩に沢 山杉山姓を名乗る名家《めいか》があるにも係《かか》わらず、往昔《おうせき》より一|本杉《ぽんすぎ》と云《い》うて、同苗《どうみよう》も何もなき孤立 の杉山姓であったのである。その後|直方御分地《のうがたごぶんち》の時、杉山《すぎやま》三|郎大夫誠正《ろうだゆうのぷまさ》と云《い》える者|奥御用人《おくごようにん》 の重職にて勤仕《きんじ》していたが、御本家御継嗣《ごほんけごけいし》の為《た》め、直方公御本藩御直《のうがたこうごほんばんおなお》りの節御伴《せつおとも》をして、親 戚辻某《しんせきつじぽう》と共に御側《おそば》を相勤《あいつと》めていた、然《しか》るにその後|子孫《しそん》に不心得《ふこころえ》出国の者があって、一|旦断絶《たんだんぜつ》 の家名《かめい》となったが、旧事思召出《きゆうじおぽしめしだ》されて、再び御奉公《ごほうこう》を許《ゆる》されたる次第である。故に何《いず》れの時 代、何れの場合にても、龍造寺姓《りゆうぞうじせい》を名乗らんとすれば、何時《いつ》にても差許《さしゆる》される事になっては いたが、何《いず》れもただただ君恩《くんおん》の忝《かたじけ》なきを回想し、代々その事を御遠慮申《ごえんりよもうし》上げていたとの事 であった。庵主《あんしゆ》の代《だい》になっては、叔父信太郎《おじしんたろう》も分家して杉山姓を名乗り、弟も分家して杉山 姓を名乗る事となった故、庵主《あんしゆ》は何時か先祖の遺志《いし》を紹《つ》ぎ、改姓《かいせい》をなさんと思い、ある時親 友|頭山満《とうやまみつる》氏にこの改姓《かいせい》の事を相談した事があった。ところが、頭山氏曰く、 『貴様は悪い名でも、その位|天下《てんか》に売《う》っているから、改姓《かいせい》などはせずに「我《われ》は鎮西《ちんぜい》八|郎《ろう》にし て可《か》なり」で遣《や》り通してはどうじゃ』 と云《い》われたので、庵主《あんしゆ》もそれをもっともに思い、さらにこう考えた。 『俺《おれ》の様な祿《ろく》でなしが、先祖の姓氏に復《ふく》するなどは、言語道断《ごんごどうだん》の不心得《ふこころえ》である。俺は朝鮮《ちようせん》を |日本《にほん》の治下《ちか》に置く事が、畢生《ひつせい》の志望であるから、それができる時は、俺の死ぬ時だ、その時 にはこの本家《ほんけ》の杉山《すぎやま》の家名《かめい》は、俺の死と共に断絶《だんぜつ》させて遣《や》ろう、迚《とて》も俺《おれ》以後には龍造寺《りゆうぞうじ》の姓《せい》 を名乗り得る者は無いと見て差支《さしつかえ》あるまい』 とこう決心はしたが、その後|余儀《よぎ》なき父母の命で、遠戚《えんせき》より妻を迎《むか》えねばならぬ事になった 時にも、自分限りでこの家名は滅《めつ》せしむる事を承知《しようち》して置《お》いてくれと、里方《さとかた》先方に談判《だんぱん》をし た位であった。それ故に庵主《あんしゆ》の忰《せがれ》にも、その事を堅《かた》く云い付けて置《お》いたから、忰《せがれ》は慶応大学 入学後、四十ヵ寺《じ》の禅僧《ぜんそう》を集めて、得道式《とくどうしき》なるものを挙《あ》げ、ちゃんと坊主《ぽうず》の鑑札《かんさつ》を貰い受け、 ここに俗的姓名《ぞくてきせいめい》は絶家《ぜつけ》せしむるの覚悟《かくご》と準備《じゆんぴ》とをしていたのである。然《しか》るに日韓《につかん》の事は、叡 聖《えいせい》なる陛下《へいか》の御稜威《みつい》と、忠誠《ちゆうせい》なる日韓志士《につかんしし》の尽力《じんりよく》に依りて、一|滴《てき》の血を見ずして解決した故、 |庵主《あんしゆ》はまんまと駄死《だし》を免れ、豚命《とんめい》を繋がねばならぬ悲惨事《ひさんじ》に陥ったのである。その中|近戚《きんせき》の 者の包囲攻撃《ほういこうげき》によりて、家名継続の止《や》むを得《え》ざる事になってきたので、云《い》わず語《かた》らずに、平々 凡々として今日に至ったのである。これは余談であるが、そこで弟の杉山五百枝《すざやまいおえ》は、十四五 年前|俄然《がぜん》として龍造寺隆邦《りゆうぞうじたかくに》と改姓改名《かいせいかいめい》して、これを世に発表したからいかなる無頓着《むとんちやく》の庵主《あんしゆ》 でも、びっくりして早速に弟を呼び付けて曰く、 『汝《きさま》は兄たる予に一応の相談もなく不肖《ふしよう》の身を以て先祖の巨姓大名《きよせいだいめい》を紹《つ》いで、これを世に公《おおや》 けにするとは言語道断《ごんごどうだん》である。そもそもいかなる考えで、またいかなる必要で、さような不 届を決行したか包《つつ》まずその理由を申出よ』 と居丈《いた》け高《だか》になって、詰問《きつもん》したところが、弟は平気な顔ですらすらと答えて曰く、 『兄上がさようの思召《おぽしめし》に違《たが》いたるは、いまさら誠《まこと》に恐懼《きようく》に耐えませぬが、私には一|円《えん》お叱《しか》り のお趣意《しゆい》が判りませぬ、先祖が巨姓大名《きよせいだいめい》と仰せらるれば、私も正《ま》さに巨姓大名《きよせいだいめい》の子に相違ご ざりませぬ、たとい私共が不肖《ふしよう》であっても、正《ま》さに巨姓大名《きよせいだいめい》の先祖の血統《けつとう》を享《う》けたる、不肖 の子孫に相違はござりませぬ。大日本帝国《だいにほんていこく》の武士《ぶし》は、世界に抽出《ちゆうしゆつ》して血統《けつとう》を貴《たつと》び、先祖の名 姓はきっとその子孫が継ぐ事を以て、君民上下《くんみんじようげ》共に動かざる捷《おきて》と致しております。決してそ の正当の子孫《しそん》が、馬鹿でも痴漢《たわけ》でも、どんな不肖の子孫であっても、先祖に謙遜《けんそん》して他の苗 字《みようじ》に改姓改名《かいせいかいめい》を致した者は一人も無いと思います。まずそれはそれと致しても、私《わたくし》は先祖龍 造寺《せんぞりゆうぞうじ》に比較して、決して謙遜《けんそん》を致さねばならぬ家名《かめい》を継ぐ事までも遠慮せねばならぬ程の不 埒者《ふらちもの》ではないと存じます。その訳は先祖龍造寺隆信《せんぞりゆうぞうじたかのぶ》はその立身《りつしん》の初めに於て、その妻の里方《さとかた》 なる肥前蓮池《ひぜんはすいけ》の城主、蓮池肥前守重光《はすいけひぜんのかみしげみつ》を妻と共に攻落《せめおと》してその城を領有しております。当時 戦国《せんごく》の習い血族戟《けつぞくげき》を交え、姻戚鎬《いんせきしのぎ》を削《けず》る事は珍らしからぬ事ではござりますが、その事はきっ とあった事には相違ござりませぬ。私はその正当の子孫として、かかる明治《めいじ》の泰平《たいへい》に生れ、 かかる聖天子《せいてんし》の制《せい》を忝《かたじけの》うしたお蔭には、未《いま》だかかる先祖の如き大罪を犯《おか》した事はござりま せぬ。それで今日《こんにち》まで決して巨姓大名《きよせいだいめい》の子孫《しそん》なりと威張《いぱ》った事もござりませぬ。また先祖龍 造寺隆信《せんぞりゆうぞうじたかのぶ》は、身微賤《みびせん》より起りて、両筑両肥《りようちくりようひ》の豪族《ごうぞく》殆んど全部を攻亡《せめほろ》ぼし、その領地《りようち》を併有《へいゆう》し て威《い》を四方に張ったに相違《そうい》ござりませぬが、その正当の子孫の私は、未だ他の領土《りようど》を侵掠《しんりやく》し、 人の所有物を奪略《だつりやく》した事も決してござりませぬ。多額の借金《しやつきん》こそ有《あり》ますが、一つとして貸主《かしぬし》 の承諾《しようだく》を得《え》、正当の証文《しようもん》を入れて借らざるものはござりませぬ。左すれば聖代《せいだい》の民《たみ》としては、 先祖より私の方の人格が生れ優《まさ》っているのでござります。もし先祖の龍造寺《りゆうぞうじ》や、島津《しまづ》や大友《おおとも》 のように、互《たが》いに掠奪殺戮《りやくだつさつりく》を事とする者が、この明治《めいじ》の聖世《みよ》におりましたならば、それこそ 幾百十|犯《はん》の重罪人であって、逆磔《さかばりつけ》の死刑《しけい》は決して免かれぬのでござります。その重罪人の家 名《かめい》を紹《つ》いで遣《や》る子孫の私には、先祖の方で一応の礼を云《い》うか、恥入《はじい》るかせねばならぬと思い ます。また兄上に御相談なしに家名《かめい》を継《つ》ぎましたのははなはだ不届《ふとどき》の様でござりますが、こ れも一通りお聞取を願います。元来兄上は、先祖の龍造寺《りゆうぞうじ》を名誉徳望《めいよとくぽう》を兼備《けんぴ》したる名家《めいかお》と思 召《ぽしめし》ていらっしゃるから、御謙遜《ごけんそん》のお心より、この家名《かめい》を断絶《だんぜつ》してまでも汚《けが》すまいとお考えに なって、すでに絶家《ぜつけ》の御決心《ごけつしん》にて御放棄《ごほうき》になったのでござります。謂《い》わば公然《こうぜん》とお捨になっ たのでござります、それを正当の子孫の私《わたくし》が、拾《ひろ》うて相続致たのでござりますが、それも詐 欺的《さぎてき》に窃取《せつしゆ》したのではござりませぬ。私の友人で佐藤平太郎《さとうへいたろう》と申す福岡市の市長がおります からそれに系図《けいず》を持出しまして、相談致しました上、最も正当の手続を経て、改姓改名《かいせいかいめい》を致 たのでござりますから決《けつ》して人に爪弾《つまはじ》きを受けるような後暗《うしろぐら》い事は致ておりませぬ。また、 何の必要あって改姓改名致たかとのお尋《たずね》に対しましては、包《つつ》まず申上ますが、私《わたくし》も武士の家 に生れまして、ある生存《せいぞん》の意義《いぎ》を立てたいと思いまして、身《み》を立《た》て家《いえ》を興《おこ》し、終《つい》には家国民 人《かこくみんじん》の為《ため》にも尽《つく》したい考えを持っていますから、八方に奔走《ほんそう》をして、営々と事業に努力を致ま したが今日《こんにち》までは全部失敗に了《おわ》りましたから、最後の一案と存じまして、ある外国の宣教師《せんきようし》 と棒組《ぽうぐみ》になり鹿児島県下《かごしまけんか》に金山《きんざん》を発見しまして、共々に一生懸命に働きましたが、とうとう それも失敗に了《おわ》り、その負債《ふさい》が十二万円余となりましたが、ここに気の毒なのはその宣教師《せんきようし》 で、その負債《ふさい》の割前《わりまえ》の為《た》めに、自分の受持っている長崎市《ながさきし》の寺を、債鬼《さいき》のために取られる事 になりました。私も日本男子たる者が、外国人と合同をしたためにその宣教師の坊主《ぽうず》が寺を 取られて、生きながら地獄《じごく》に落ちるような事を見ておっては、一|分《ぶん》が相立《あいた》たぬと心得《こころえ》まして、 だんだん債主《さいしゆ》とも相談致ましたところが、債主《さいしゆ》が申ますには、 『山海万里《さんかいばんり》を出稼《でかせぎ》に来ている外国の旅人、一|文《もん》なしの坊主《ぼうず》を剥《は》ぐには、国際上相当の手続き も必要だし、殊《こと》に人が地獄《じごく》に落ちぬよう世話《せわ》をする坊主を、自分がそれを地獄に突落《つきおと》しては、 金貸冥利《かねかしみようり》もいかがと思い、同じ一文なしなら、日本人のお前だけを相手として置《お》く方が、順 当かも知れぬ。しかしお前の今聞くような、世に知られた由緒《ゆいしゅ》ある家柄《いえがら》の人で、改姓改名《かいせいかいめい》を |容易《たやす》く出来るのなら、一番ここでその龍造寺姓《りゆうぞうじせい》に改姓して、十二万円の証文《しようもん》に判を押しては どうじゃ、鉱山で損《そん》をした人は、煎《せん》じても烟《けむり》も出ぬ物じゃ、それと同時に鉱山師《こうざんし》に貸した金 の取っぱぐれは、捨《す》てても跡《あと》に祟《たたり》の来る物じゃと云う位の物故、私はその龍造寺某と云う公 正証書《こうせいしようしよ》の借用証文《しやくようしようもん》を、後生大事《ごしようだいじ》にドル箱に入れて、一まずこの貸借問題《たいしやくもんだい》の段落《だんらく》を著《つ》けよう じゃないか』と、荒木《あらき》を切って出すような債主《さいしゆ》の談《はなし》でございましたから、義を見て為《せ》ざると |銭《ぜに》を見て借らざるとは勇なきなりと存じましたから、早速に福岡に馳《は》せ付《つ》けて、改姓改名《かいせいかいめい》の 手続を致したのでございます。私は乱暴狼藉《らんぽうろうぜき》な先祖の名前、即ち兄上が放棄《ほうさ》して顧《かえり》みなかっ た名前を、大枚十二万円と云う大金《たいきん》に成《な》しました手柄者《てがらもの》でございます。否《い》やそれで日本人《にほんじん》の 私どころでなく外国人をも助けました。人を天国に導くと云う事業の人、即ち宣教師《せんきようし》を地獄《じごく》 から救い出しました。私の改姓改名の必要と申すのはこんな理由でございます。今日の法律 から申せば泥棒半分《どろぽうはんぶん》の処行《しよざよう》をした、先祖《せんぞ》の名前でござりますがその正当《せいとう》の子孫《しそん》の私は、これ だけの手柄《てがら》を立ましたのでございますから、どうか叱《しか》らずに一つお誉《ほめ》を願《ねが》い度《たい》のでございま す』 とぺらぺらぺらと饒舌立《しやべりた》てられたので、法螺丸《ほらまる》の綽名《あだな》ある庵主《あんしゆ》もぐっと閉口《へいこう》してしまい、 『此奴《こいつ》め、一寸一二枚人間が俺《おれ》よりも上じゃわい』 とこう思うたから、直《ただ》ちに心機《しんき》を一転して、庵主《あんしゆ》はぽんと膝《ひざ》を敲《たた》いた。 『いや理由を聞いて安心《あんしん》した、克《よ》く改姓《かいせい》した。克《よ》く先祖《せんぞ》の名《な》を借金に使用した、克《よ》く外国人 を助けて、この後|迚《とて》もますます先祖《せんぞ》の名を、善用《ぜんよう》でも悪用《あくよう》でも何でも構わぬ、どしどしと汝《なんじ》 の思う存分《ぞんぶん》の事《こと》を遣《や》ってみよ。爾後汝《じごなんじ》の為《た》めに及ぶだけの助力こそすれ、決して汝の事業を |掣肘《せいちゆう》するような事はせぬから、安心《あんしん》してどしどし進めよ』 と云《い》うて兄弟共々|膳羞《ぜんしゆう》を分《わか》ってその夜は別れた。  かかる顛末《てんまつ》で、龍造寺姓《りゆうぞうじせい》を名乗った弟は、幼少より抜群《ぱつぐん》の奇事奇行《きじきこう》を遺《のこ》した者であった。 これからぽつぽつと思い出した事を書くであろう。 四十四 |家運挽回《かうんばんかい》に志《こころざ》す勇少年《ゆうしようねん》   忠言忌諱に触れて山野に隠れ、 幼童大金を負うて投機を為す  龍造寺隆邦《りゆうぞうじたかくに》は、丁度|幕政《ばくせい》三百年の瓦解《がかい》を胎《はら》む最初の頃、即ち慶応《けいおう》の寅年《とらどし》に生れたがため、 一方|日本帝国《にほんていこく》が、世界の文明に気脈《きみゃく》を通じて、握手《あくしゆ》すべき運命にも進まねばならぬ、両様の 国運に遭遇《そうぐう》したのである。故に家庭は父が旧藩学爨《きゆうはんがつこう》の教授にして、その子弟の業は、農工商《のうこうしよう》 の何《いず》れかに就《つ》かねば、衣食さえも出来ぬと云《い》う、悲惨《みじめ》な境遇《きようぐう》に取囲《とりかこ》まれたのであった。父は |逸《いち》早く、藩士帰農《はんしきのう》の建白書《けんぱくしよ》を藩公《はんころ》に提出したが、旧習固魎《きゆうしゆうころう》の多数藩論《たすうはんろん》は、これと一致せず、 |却《かえつ》て父は執政《しつせい》の全部に取込められて、  くん二うご ふ しん  し だいこれあり  ちつきよきんしんつかまつるべくそうろう 『君公御不審の次第有之、蟄居謹慎可仕 候』 との命によりて、閉門《へいもん》の身《み》と成った位であった。去《さ》らばと云うて、藩論《はんろん》は帰農排斥《きのうはいせき》以外に、 これと云う大策もなく、ただ因循《いんじゆん》として決《けつ》するところはないのである。とうとう時世の進運《しんうん》 に押された藩論《はんろん》は、隣藩他藩《りんぱんたはん》の振合に捲《ま》き込まれて、やはり帰農的《きのうてき》の議論《ざろん》に傾き、終《つい》に何や ら取止《とりと》めもなき事にて、父は半年ばかりの後に、 『御不審《ごふしん》の廉相晴《かどあいは》れ、蟄居差許《ちつきよさしゆる》さる』 との伝達《でんたつ》を受けたので、父は一応の御礼《おれい》を申述ぶると同時に、一|藩《ぱん》に先んじて旧領地《きゆうりようち》の田舎 に隠遁《いんとん》し、濁世《じよくせ》の汚塵《おじん》を避《さ》け、風月を伴侶《とも》として暮す事に成ったのである。この時の庵主《あんしゆ》の 家族は、老祖母と父母と、庵主《あんしゆ》と弟二人と、妹一人(次弟《つぎのおとうと》は即ち龍造寺《りゆうぞうじ》、三|弟《てい》は林駒生《はやしこまお》、 妹は現在|安田勝実《やすだかつざね》の妻《つま》)都合七人であった。ここに於て父は庵主《あんしゆ》を農工の事に従事せしめ、 |龍造寺《りゆうぞうじ》は筑後河畔《ちくごかはん》の材木問屋《ざいもくといや》、西原弥《にしはらや》一なる者の養嗣子《ようしし》として、入家《にゆうか》せしめたのであった。 この材木問屋《ざいもくといや》と云う者は、上《かみ》は水源地たる豊後《ぶんご》の国日田《くにひた》の郷《ごう》にて材木を仕入れ、これを筑後 川《ちくごがわ》の流域に沿う材木小売商に売捌《うりさば》きて、下《しも》は有明《ありあけ》の海口《かいこう》、若津《わかつ》より長崎《ながさき》に至るまでが、大概 の得意先《とくいさき》である、故に総《すべ》ての運輸機関は、ことごとく水運《すいうん》に由《よ》るのである。龍造寺《りゆうぞうじ》が西原《にしはら》に |入家《にゆうか》したのは、丁度彼が六歳位の時、即ち明治四年の頃であった。その後九州は、明治八年 の頃より旱魅《ひでり》が多くて、雨が少なかった為め、さしも九州の大河たる、筑後川《ちくごがわ》の流域も、一 帯に水渇《みずか》れて、殆んど水運は杜絶《とぜつ》の有様となったのである。その為めに一帯の農作は十|分《ぶん》な らず、したがって川船船頭《かわふねせんどう》や、筏乗《いかだのり》の多数は、殆んどその営業の全部を奪《うば》われて、人心《じんしん》も自 然と険悪《けんあく》になる有様である。ところが明治七年来、佐賀《さが》の乱《らん》が導火線となって、秋月《あきづき》、熊本《くまもと》、 |鹿児島《かごしま》とも、人心《じんしん》しきりに穏《おだや》かならず、流言蜚語《りゆうげんひご》は至る処に行われ、何時内乱《いつないらん》の端《たん》を開くや ら分らぬ形勢《けいせい》となってきたのである。かかる形勢《けいせい》故、右の材木問屋《ざいもくといや》の弥《や》一は、売先きの掛金《かけきん》 は取れず、山方《やまかた》には仕入《しいれ》の払いはせねばならぬと云う破目《はめ》に陥《おちい》ったから、商運必至《しよううんひつし》と行詰《ゆきづ》まっ た折柄《おりから》、思《おも》わざる大病に取付かれて、どっと病床の人となったのである。強熱《さようねつ》日夜に往来し、 数人の医師は、入り代り立代り診察《しんさつ》をしたが、なかなか重患《じゆうかん》との事で、家内一同ただ顔を見 合すばかりである。丁度主人が重病になって十|日目《かめ》の夜、養母《ようぽ》のたつ子は涙に浸《ひた》って、行末 の思いに沈み打案んじているところに、当年十一歳になる隆邦《たかくに》は、養母の側《そば》に進み入り下座《しもざ》 に手を突《つ》いてかく云うた(以下は弥《や》一の妻、即ち隆邦《たかくに》のためには養母に当るたつ子が庵主《あんしゆ》に 対しての直話《じきわ》である)。 『お母さん貴方《あなた》も私ももう決心をせねばならぬ時が来ましたと思います。その訳をただ今申 上ましょう。  〇一つ、最前三人のお医者様が咄《はな》しているのを立聞しましたら、お父さんの病気は、チブ  スと云《い》う熱病《ねつびよう》の極《ごく》たちの悪いので、この十|日間《かかん》は、とても持たぬであろうとの事でござり  ます。  〇二つ、番頭《ぱんとう》の六四郎は、お父さんが病気になられてから、方々の掛先《かけさ》きに談判《だんぱん》をして、  掛金《かけきん》を半減《はんげん》して集めて、身仕度《みじたく》を仕ていると云《い》う事を、酒屋《さかや》の平助爺《へいすけじい》さんが私に教えてく  れました。  〇三つ、世間《せけん》の話では、どうしても騒動《そうどう》が起るとの事、もし起って、佐賀《さが》地方のように焼《や》  かれれば、焼《や》かれ損《ぞん》、取られれば取られ損《ぞん》でござります。この川筋《かわすじ》の各問屋《かくといや》にも、もう夜《よなよな》々  士族《しぞく》の強盗《ごうとう》が押入《おしいり》を始めまして、警察でも手の付けようがないとの事でございます。  〇四つ、それでこの家ばかりでなく、この川筋《かわすじ》に商売をしている者は、一|帯《たい》に必至《きつ》と破滅《はめつ》  する時が来ると思います。  〇五つ、さすれば世間並よりも一と足早く『悪くばかりなるもの』と決心をした者が、一  番|能《よ》く運命《うんめい》に勝つ時と思います。  それ故にお母さんが第一にその御決心をなさる事を願いますので、その御決心とは、  〇一つ、お父《とう》さんは、どんなに御介抱《ごかいほう》をしても亡ならるるものと御決心をなさる事、  〇二つ、掛先《かけさ》きの得意《とくい》には、直《す》ぐに別に使を出して、今年の冬までは掛金《かけきん》を待《まち》ますから、  何者が取立《とりたて》に往っても、決して払《はろ》うて下さるなと云《い》うて、一|文《もん》も取らぬとの御決心をなさ  る事、  〇一儼つ、何《いず》れの道、お父さんとお母さんとの働き出してできたこの家は、どうでも一|旦《たん》は  滅亡《めつはう》する時が来たと思いますから、この際|有《ある》だけの金を寄せてそれを持って日田《ひた》に往《ゆ 》き、  現金《げんきん》で手附《てづけ》を打ち、日田《ひた》の郷《ごう》の材木全部買占めの決心をして我家《わがや》の商運《しよううん》を一|時《じ》に試《ため》して見  る気にならるる事、  ○こうなりますと、得意先《とくいさき》も喜び、山元《やまもと》でも見込《みこ》を付ます、たとえこの商売でこの家が潰《つぷ》  れましても同情《どうじよう》と信用《しんよう》とは他《ほか》の家よりも豪《えら》いと思います。それはお母さん今の御決心《ごけつしん》一つ  でござりますがどうでござりましょう。 と云うたので、母《はは》は目《め》を崢《みは》ってかく云うた、 『お前さんの話はよく分りますが、そんな大胆《だいたん》な仕事を誰《たれ》がしますか』 と云うたら龍造寺《りゆうぞうじ》が、 『私が致ます。お母《かあ》さんは私にこの家を継《つ》がせようと思うて、幼少《ようしよう》の時から養子《ようし》に貰《もろ》うて下《くだ》 さったのでございますが、今お父さんが亡《な》くなられて、掛金《かけきん》が取れず、借金《しやつさん》ばかり残ったと ころへ、世の中に騒動《そうどう》が起りましては私の継《つ》ぐべき家は、影《かげ》も形《かたち》もないようになります。そ れではお母《かあ》さんと家族一同は、乞食《こじき》になってこの土地を立退《たちの》かねばなりませぬ。同じそれま でになるのなら、男らしく遣《や》れるだけ遣《や》って、後《のち》に立退《たちの》きたいと思いますから、お母《かあ》さんど うかこの家は私に継《つ》がせるお心で、私に潰《つぶ》さして頂《いただ》きたいのでございます』 とこれを聞いた養母《ようぽ》も、ただの者ではなかった。 『お前さんが今一々私に咄《はな》す事は、よく分りましたから、私も一切決心をして、お前さんの 云う通りに任《まか》せますが、何様《なにさま》お前さんが柄《がら》は大きいが、年が十一じゃから、そんな仕事を仕 終るかどうかそれを第一に心配《しんぱい》します』 『いえそれは御心配《ごしんぱい》に及びませぬ、私の実家《じつか》は兄がまだ幼少の時に、実父が熱病で精神が昏 耄《こんもう》しました時に、兄が幼年で家督《かとく》を相続《そうぞく》して、母が一|切《さい》兄に任せて一家を経営した事をよく 聞いていますからまんざら遣《や》り切れぬ事もござりますまい、またたとえ遣《や》りそこねて全くの 失敗になりましてからが、それを限《かぎ》りと思うて下《くだ》されば良いではござりませぬか。それがお |母《かあ》さんの御決心と云う物でございます』 と淀《よど》みもなく述立てたので、養母《ようぼ》は店の有金《ありがね》全部と、自分の貯金等まで集め、また父が内所《ないしよ》 の金をも集めてここに五千七百円を計上《けいじよう》したので、養母はその中《うち》の金七百円を自分の手許《てもと》に 置き、全くの背水《はいすい》の陣《じん》を張《は》りて、残りの五千円を十一歳の龍造寺《りゆうぞうじ》と云う小僧《こぞう》の養子《ようし》に渡した のである。庵主《あんしゆ》は今も人に咄《はな》す事があるが、人間が大節《たいせつ》に臨《のぞ》んで為《な》す決心は女性でも男子を 凌駕《りようが》するものであると、この養母《ようぼ》は全く男勝《おとこまさ》りの人であったと思《おも》う、龍造寺《りゆうぞうじ》はその金《かね》を受取《うけと》っ て、さてこれからどうしたであろうか。  龍造寺《りゆうぞうじ》は母より五千円の金を受取り、母と相談の上、父の病気見舞にとて、他より送って きている菓子折《かしおり》の底を二重にして彼《か》の金を入れ、上に綺麗《されい》に菓子を並べ、それをまた病気見 舞《ぴようきみまい》の贈物《おくりもの》の体《てい》に持《こしら》えて風呂敷《ふろしき》に包み、弁当《べんとう》その他《た》の旅装束《たぴしようぞく》も洩《も》れなく栫《こしら》え、それから母と共 に父の枕辺《まくらべ》に至りて介抱《かいほう》し、鶏鳴頃《けいめいごろ》にも成《な》ったので、父の寝顔《ねがお》に対して叮嚀《ていねい》に暇《いとま》を告げ、母 だけが呑込《のみこ》みて、家内《かない》は誰も知らぬ中《うち》に我家を飛出《とびだ》したのである。龍造寺《りゆうぞうじ》は家を出る時、店 先きに有った○に一の字の入った、材木商の極印入《ごくいんい》りの鉄槌《かなづち》を一|挺提《ちようひつさ》げて出たとの事、(こ の材木に打つ極印《ごくいん》は、柄《え》の長き鉄槌《かなづち》の小口《こぐち》に、自家《じか》の印《しるし》の文字を彫りて、それを以て材木の |切口《きりくち》にとんとんと打込む道具である)それより龍造寺は、片傍街道《かわべりかいどう》を夜《よ》と共に辿《たど》りて、豊後《ぷんご》 の日田《ひだ》の郷《ごう》へと向うたのであるが、易水《えきすい》ならぬ千年川《ちとせがわ》、流《なが》れも寒《さむ》き、暁《あかつき》の、草葉《くさぱ》に宿《やど》る露《つゆ》に さえ、幼《おさ》な心《ごころ》の儚《はか》なくも、一家《いつか》の安危《あんき》と父母《ちちはは》の、身《み》に降《ふ》りかかる災難《まがつみ》を、我身《わがみ》一つに引受《ひきう》け て、道《みち》の二|里《り》ばかりも来た時、路《みち》の側《わき》なる庚申《こうしん》の森の中から、一人の男がつかつかと出て来 て、じーっと龍造寺の顔を覗《のぞ》き込んだが、東雲《しののめ》の光に分ったか、 『おや貴方《あなた》は西原《にしはら》の若旦那《わかだんな》ではございませぬか』 と云《い》うから、龍造寺はぎょっと度胆《どざも》を抜《ぬ》かれたが、よくよく見ると店で使う船頭《せんどう》の要吉《ようきち》であ るので、少し落付き、 『要吉《ようきち》じゃないか、今頃|何《なん》の為《た》めにこんなところにいるか』 『私は船の方はこの通りのからから川《かわ》では駄目《だめ》でございますから、漁師《りようし》の利蔵《りぞう》と組んで、鰻《うなざ》 の穴釣《あなづ》りを仕て、僅《わず》かに渡世《とせい》をしております、それで今|利蔵《りぞう》の来《く》るのを待《ま》っているところで ございますが、若旦那《わかだんな》は今頃どこへお出《いで》になりますか』 『俺は親父の使で吉井《よしい》の親類《しんるい》の病人を見舞《みまい》に行ってそれから日田《ひた》に行《ゆ》くのじゃがお前は俺の 親父もお袋《ふくろ》も探していたぜ、それは俺を一人日田《ひといひた》に遣《や》るから、要吉《ようきち》でも附けて遣《や》らねばなら ぬと云うていたから、俺《おれ》が酒代《さかて》を遣《や》るから、お前はこれからすぐに日田《ひた》の「又《かねまた》の店《みせ》に往《い》って、 待っていてくれ、鰻釣《うなぎつり》りなどはもう今日から止めよ』 と云うたので、要吉は大変に喜び、 『それは有難うございます、それでは吉井《よしい》まで若旦那《わかだんな》をお送りして、それからすぐに日田《ひた》に |参《まい》る事に致します。しかし大旦那《おおだんな》の御病気《ごぴようき》はどうでございますかな』 『ああ親父《おやじ》の病気は、この四五日前から大変良くなって、お医者方も皆口を揃《そろ》えてもう大丈 夫《だいじようぶ》じゃから安心せよと云われ、熱も下《さが》り食物《たべもの》もだんだん食べてきたよ』 『へえそれは結構《けつこう》でございます、昨日友達に聞《き》きましたら、この二三日が危険《あぷな》いのだと申し ましたから、私はがっかりしていたところでございました。永年お出入《でいり》をしたお店《たな》の大旦那《おおだんな》 も、今度と云う今度は、もうお別れかと思うていますが、それはまあ結構《けつこう》な事でございます、 さあ若旦那往《わかだんなゆ》きましょう』 と云うて先に立つから、龍造寺《りゆうぞうじ》も共に道を辿《たど》ったが、その道中で要吉が咄《はなし》に、 『若旦那《わかだんな》、これほど春口《はるぐち》から夏口《なつぐち》を追通《おつとお》して、早《て》り続いたお天気も、もう十|日《か》と立たぬ中《うち》に、 大雨になりますぜ、一昨日《おととい》の朝から、高良山《こうらさん》に雲柱《くもばしら》が立始めました。今度雨の足さえ見まし たら、筑後川《ちくごがわ》一帯の人気は大変な物でございましょう。そこで一|儲《もう》けせねばなりませぬと、 |昨日《きのう》から力瘤《ちからこぶ》を入れて待っているところでございますよ』  これを聞いた龍造寺《りゆうぞうじ》は、我家《わがや》の厄難《やくなん》と境遇《きようぐう》との全部を洗い流す、天上《てんじよう》の神《かみ》の福音《ふくいん》ではない かと、耳に響いたのである。とかくして往《ゆ》く中《うち》に、吉井駅《よしいえき》の棒鼻《ぽうはな》に来たから、幾干《いくら》かの小遣 銭《こづかいせん》を遣《や》って、要吉《ようきち》をすぐに日田《ひた》に馳《は》せ上《のぽ》らせたのである。  それから龍造寺《りゆうぞうじ》は、何様《なにさま》数日父の介抱《かいほう》にて、毎晩の徹夜《てつや》をしたので、父の知《し》る辺《べ》の吉井《よしい》の |宿屋《やどや》に立寄りて、昼よりその夜《よ》に掛《か》けて十分に寝て、しばらく不足した睡眠《すいみん》の疲《つかれ》を取返した のであった。それからその宿屋《やどや》には程能《ほどよ》く云いなして、其家《そこ》を立出《たちい》で心ひそかに今後の大勇 断、大勝利を期《き》して日田《ひた》の郷へと向《むこ》うたのである。名《な》にし負《お》う九州の大河《たいが》たる筑後川《ちくごがわ》は、彼《か》 の山陽《さんよう》の詩にも有る如く、忽然《こつぜん》として激流急滞《げきりゆうきゆうたん》なるかと思《おも》えば、見る見る長湖《ちようこ》一|帯鏡《たいかがみ》の如 くなり、山谿《さんけい》は長《とこし》えに緑樹《りよくじゆ》の影《かげ》に添《そ》うて、幽逮《ゆうすい》四方を囲《かこ》むの仙境《せんきよう》に辿《たど》り込《こ》むのであるが、大《だい》 事《じ》を荷える幼稚《ようち》の龍造寺《りゆうぞうじ》には、脳中《のうちゆう》さらにそんな考えなどはなく、ただせっせと足に任《まか》せて 進んだが、とうとう日田《ひた》を距《さ》る四|里《り》ばかり手前の山中《さんちゆう》にて、日がとっぷりと暮れた。気は勝っ ていても小供の足、疲れに疲れて引摺《ひさず》る如く、草韃《わらじ》の紐《ひも》の食込みに、痛《いた》む跟《かかと》を厭《いと》いつつ、爪 先《つまさき》き上《あが》りの山道を、上《のぽ》るところに向うより、下《お》り来《きた》る一人の男、突然《いきなり》に、 『小僧待《こぞうま》て』 と云《い》うて襟髪《えりがみ》を撰《つか》んで引止《ひきと》めた。龍造寺《りゆうぞうじ》はびっくりして、薄明《うすあか》りに透《とお》し見る中《うち》に、ぷうんと 酒の香《か》が鼻を突《つ》いた。ははあ酔払《よつぱら》いじゃなあと思い、 『叔父《おじ》さん御免《ごめん》なさい』 と云うとその男は濁声《だみごえ》高く、 『小僧《こぞう》、汝《なんじ》が頸《くぴ》に括《くく》っている風呂敷包《ふろしきづつみ》は何だ。金になる物なら小父《おじ》に渡せ。俺《おれ》は士族《しぞく》じゃ、 |軍用金《ぐんようきん》に入用じゃ、さあ渡せ』 と云う。(この頃は前に書く通り、両肥両筑鹿児島等《りようひりようちくかごしまなど》の間は、何時爆発《いつばくはつ》するやら分らぬと云う |物騒《ぶつそう》の形勢《けいせい》であったので、正真《しようしん》の士族《しぞく》が軍用金《ぐんようきん》じゃと云うて押込《おしこみ》や追剥《おいはざ》などする。また全く |贋物《にせもの》の士族泥棒《しぞくどろぽう》と名称詐欺《めいしようさざ》で追剥等《おいはぎなど》をするものが、豊後路《ぶんごじ》には沢山有ったのである)龍造寺《りゆうぞうじ》 は平気《へいき》で、 『叔父《おじ》さん、この風呂敷包《ふろしきづつみ》はお菓子《かし》だよ、叔父さんお菓子を喰《く》うのなら遣《や》るよ。私は川下の 材木屋《ざいもへや》の小僧《こぞう》で、お使で日田《ひた》に行くのじゃが、これは主人《しゆじん》が託《ことづ》けた病人見舞のお菓子だよ』 『何、菓子などが喰われるか、どれ見せよ』 と云うので仕方《しかた》なく頸《くび》から卸《おろ》して開いて見せるとその男マッチをパッと付けて蓋《ふた》を明けて見 て、 『むうなるほど菓子だ。早くしまえ、そして酒代《さかて》になる程銭《ほどぜに》は持《も》たぬか』 と云うから、 『むう叔父《おじ》さん酒《さけ》を呑《の》むのなら、私五十銭なら持ってるよ。しかしこの先のお春婆《はるぱあ》さんの茶 店《ちやみせ》に行けば私本当に懇意《こんい》じゃからいくらでも酒を呑ませるよ』 『むうその茶店《ちやみせ》はどこじゃ』 『今|叔父《おじ》さんが通って来た、四五丁向うの小滝《こだき》の落《お》ちている、大石の曲角《まがりかど》の一|軒茶屋《けんぢやや》だよ』 『む……そうだそうだ、よしそれならそこまで迹返《あとが》えろう、小僧《こぞう》はなかなかの気転者《きてんもの》じゃの う』 と呑気《のんき》な泥棒《どろぽう》もある者で、その店に着《つ》いたから龍造寺《りゆうぞうじ》はつかつかと這入《はい》って、 『お春婆《はるぱあ》今晩は』(幼少《ようしよう》よりしばしば父に連《つ》れられて来たからこの婆《ばばあ》と懇意《こんい》である) 『おや西原《にしはら》の若旦那《わかだんな》、夜夜中《よるよなか》今頃どうして入らしった、大旦那《おおだんな》も御《ご》一|所《しよ》でございますか』 『いや親父《おやじ》さんは明日迹《あすあと》から来るよ、また要吉《ようきち》も来《く》るはずじゃ』 『はあ要吉どんは昨晩方《ゆうべがた》ここを通《とお》りましたよ。おやお連様《つれさま》でございますか』 『むうこの叔父《おじ》さんはね、私の路連《みちづれ》で、ここまで送って来《き》て下《くだ》さったお方故、お酒をたんと |上《あ》げておくれ、酒代《さかて》は明日お父《とう》さんが払《はら》うから』 『へいへい畏《かしこま》りました。さあ貴方《あなた》こちらでゆっくり召上《めしあが》りませ』 と云うので、泥棒《どろぽう》はのそのそ婆《ばばあ》の云う処《ところ》に行ってぐいぐいと飲《の》んでいた。その中下地《うちしたじ》が飲《の》ん でいたものと見えて、急に酔いが廻ってきて、こくりこくりと睡《ねむり》を催《もよお》してきたので龍造寺《りゆうぞうじ》は 婆《ばばあ》に小声で、 『お婆《ばあ》さんどうしても私は今夜の中《うち》に日田《ひた》に着かねばならぬから、此家《ここ》の爺《じい》さんが隣《となり》の小屋《こや》 に繋《つな》いでいる、あの駄賃馬《だちんうま》で送って貰いたいが、駄賃《だちん》は五十|銭遣《せんや》るから』(その頃一|里《り》五|銭《せん》か ら六|銭位《せんぐらい》であった) 『えーえ1若旦那《わかだんな》、そんなに下《くだ》さればお爺《じい》さんは大喜びで夜通《よどおし》でも参りますよ』 と云うて、隣《となり》の馬小屋《うまごや》で馬の始末《しまつ》をしていた親爺《おやじ》のところに婆《ばぱあ》が駈《か》けて行って、相談を極《き》め て来て、龍造寺《りゆうぞうじ》はまんまとこの爺《おやじ》の馬《うま》に乗《の》って、日田《ひた》に瀁いたのが夜の九時過であった。ウて れより警察署《けいさつしよ》の前でぴったり馬を止《と》めさせて、龍造寺《りゆうぞうじ》は馬方《うまかた》と共に、『今これこれの追剥《おいはざあ》を欺《ざむ》 き、酒《さけ》を与《あた》えて瀧《たき》の一|軒茶屋《けんぢやや》に止《と》めて置いたから』と訴《うつた》え出たので、警部《けいぶ》はソレと一隊の警 吏《けいり》を伴《ともな》いて馳《は》せ向うたのである。これより龍造寺が材木買占《ざいもくかいし》めの商略を開展《かいてん》すると云う咄《はな》し である。  因《ちなみ》に日う彼《か》の一|軒茶屋《けんぢゃや》に、 の泥棒《どろぽう》であったそうじゃが、 と察《さつ》しられるのである。 |酔潰《よいつぶ》れて寝ていた追剥《おいはざ》は、豊前《ぶぜん》の炭山《すみゃま》から流れ来った、極低級 幼年にして金を持っていた龍造寺の驚《おどろ》きは嘸《さぞ》かしであったろう 四十五 十一|歳《さい》の少年大山師《しようねんおおやまし》   巨材大河を蔽うて奇利を博し、 無識教鞭を執りて郡監と争う  当年十一歳の児童|龍造寺《りゆうぞうじ》は、五千|円《えん》と云う大金《たいきん》を持って、酔払《よつぱら》いの追剥《おいはぎ》を欺《あざむ》いて途中で撒《ま》 き、直《ただち》に日田郷《ひたごう》の警察に訴《うつた》えてこれを捕縛《ほばく》せしめ、それより同地の材木問屋《ざいもくどいや》で有名なる(「 又)のお六と云う、大胆不敵《だいたんふてき》な狹義《きようぎ》な、娑婆気《しやばけ》のある、六十五歳の婆《ばあ》さんの家に、辿《たど》り付い たのである。それから養父の病状より、母の決心の次第、店の手代《てだい》の状態《ていたらく》まで洩《もれ》もなく咄《はな》し、 それに五千円の現金を菓子箱の底より取出して、この金を手付金《てつけきん》として、永《なが》の夏中《なつじゆう》の旱魃《かんばつ》に て、川下《かわくだ》しの出来ずして、困りぬいている各材木問屋の材木《ざいもく》を買《か》い占《し》めらるるだけ買付けて |貰《もら》いたい、その受渡しが出来ると出来ざるが筑後川筋《ちくごがわすじ》で第一の材木商《ざいもくしよう》、西原弥《にしはらや》一が最後血戦《さいごけつせん》 として破産《はさん》の戸《と》を〆めるか〆めぬかの境《ししさかい》であると物語ったのである。先刻よりこれを聞いて いたお六|婆《ばあ》さんは、同情《どうじよう》の念《ねん》と咄《はなし》の勇《いさ》ましさとが婆《ばあ》さん日頃の気性《きしよう》に混《こん》じて、満身《まんしん》の血《ち》が湧 返《わきかえ》るようになったので、胸まで突掛《つつか》ける息の苦さを押割《おしわ》る如き声音《こわね》にて、 『西原《にしはら》の坊さん、よく云いなさった。またお母さんの覚悟《かくご》と、お前さんの決心が気に入った。 私も女子《おなご》でこそあれ、人がかかる決心をして仕事に掛《かか》るのに、一|足踏込《あしふみこ》んで助けぬと云う事 は出来ませぬ。私も親代々|連綿《れんめん》と続いたこの材木問屋《ざいもくどいや》を後家《ごけ》の身《み》で持続《もちつづ》けた、この(「又) の家業《かぎよう》を天秤《てんぴん》に掛《か》けて潰《つぷ》すか起すかの覚悟をして、買占《かいし》めて見ましょうよ。この上は坊さん、 お前さんも決して人を手便《たよ》る了簡《りようけん》を持ってはなりませんぞ。人間が本当の決心をした時は、 神様以上の力が有るものです。神《かみ》にも仏《ほとけ》にも頼《たの》まぬ、自分の命を的《まと》に、思《おも》うただけの事を遣《や》っ てみるのだと思いなされよ。さあ見ていなされ。伸《の》べても狭き山問《やまあい》のこの日田《ひた》の郷《さと》にある材 木を、根太木《ねだき》一本も残らぬよう買い占めるのは今日と明日との両日じゃ。それから先きは筏 組《いかだぐ》み人足《にんそく》の有《あ》るだけを寄《よ》せて、本流の僅《わず》かの水を手便《たより》にして、小幅《こはば》の筏《いかだ》を流すのじゃ。運《うん》が |元手《もとで》の荒仕事《あらしごと》、目の覚《さ》めるだけ遣《や》って見せます』 と云い放《はな》ったのである。それから婆《ばあ》さんは、二階や納屋《なや》にごろごろして、足《あし》の毛《け》ばかり拐《むし》っ ていた、多くの番頭《ばんとう》を呼集め、一度に切って放《はな》ったので、退屈《ひま》と無聊《ぶりよう》に酔《よ》うていて酒には酔《よ》 えぬ荒男共《あらおとこ》、今度の露震一声《へきれきいつせい》に、酔《よ》う程|気味《きみ》よき心地しておっと叫んで八方に、蜘蛛《くも》の子《こ》を |散《ちら》すが如く、山なす材木を買占めたので、大抵《たいてい》は一|山《やま》百|文的《もんてき》の代価にて、その翌日の昼頃ま でには、大概日田《あらましひた》の郷《さと》の材木は、買占めてしもうたのである。一方|龍造寺《りゆうぞうじ》は、自分が一本だ け携《たずさ》えてきた(〇一)の印入《しるしいり》の鉄鎚《かなづち》を見本に日田《ひた》にある六軒の鍛冶屋《かじや》に昼夜|兼業《けんざよう》で栫《こしら》えさせ て、出来て来た極印入《ごくいんいり》の鉄鎚《かなづち》で、自分が先きに立ち、多くの人足《にんそく》を指揮《しき》して、約束《ゃくそく》の出来た 材木の小口《こぐち》に、とんとんとんと極印《ごくいん》を打込み、それが済《す》んだ分《ぶん》を、数百人の筏組《いかだくみ》の人足《にんそく》が頃 合いの小筏《こいかだ》に組んで小流《こなが》れの河中《かわなか》に流し、それを下《しも》へ下へ下へと押流《おしなが》す人足《にんそく》が、また一|組《くみ》出 来て作業をなし、九日間の出来高は、丁度|筏《いかだ》を以て日田《ひた》の郷《さと》より、二里半の川下まで材木を 以て充満《じゆうまん》し、この上はもう一組の筏《いかだ》も組めぬまでになったのである。  それからお六と龍造寺《りゆうぞうじ》は、また手代《てだい》の者《もの》共を指図して、川下の村役場や、警察署へ(「又) と(〇一)の印入《しるしいり》の材木が、もし川筋《かわすじ》の田畑《でんぱた》や作路《さくみち》に流れ込んだら、どうか大川《おおかわ》へ突流《つきなが》して 貰いたい、その他の物は何分宜敷頼《なにぶんよろしくたの》むと手紙を出し、また一方|手代《てだい》の者《もの》を手分して、各川筋 の要所要所へ、酒《さけ》一|斗《と》と干《ほし》アゴ十|把《ぱ》(アゴとは飛魚《とびうお》の干《ほ》した物)を配り込んで頼んだので(「 又、〇一)の材木商は、気でも違うたのか、蚊《か》の涙などの湿《しめり》さえなき干魃《かんばつ》の、この頃に材木 流《ざいもくなが》しの挨拶《あいさつ》は、空徳利《からどつくり》の酒盛《さかもり》に、酔狂沙汰《すいきようざた》の限りなりと笑う人も多かったのである。  頃《ころ》は明治丙子《めいじへいし》の秋《あき》、菊《きく》の蕾《つぽみ》の香《か》も薄《うす》く、酌《く》む酒《さけ》さえも黄《き》に燬《や》けて、酔《よ》うも苦《くる》しき民草《たみぐさ》の、 |凋《しぽ》む心《こころ》を慰《なぐさ》めの、宮森山《みやもりやま》の神祀《かみまつ》り、雨乞《あまご》い太鼓《だいこ》の音《ね》も遠《とお》く、聞草臥《ききくたび》れて熟睡《うまい》する、暁頃《あかつきごろ》に時《とき》 ならぬ、寒冷俄《かんれいにわ》かに身《み》に迫《せま》り、高良《こうら》の山《やま》に掛《かけ》まくも、神舞《かみま》い下《さが》る黒雲《くろくも》の、間《あい》より洩《も》れて降《ふ》る ひよう くり  み だい  もの        ま       な らく  ち じく      うす  ひ       いんらい    とどろ ひぴ  ものおと 雹は、栗の実大の物にして、間もなく奈落の地軸にも、臼を挽くなる陰雷の、轟き響く物音 の、怖《おそろ》しなんど云うばかりないのである。あれよあれよと見《み》る中《うち》に、一|天俄《てんにわか》に掻《か》き曇《くも》り、筑 豊《ちくほう》の山河《さんが》一|時《じ》に裂《さ》け崩《くず》るるかと思わるる程の大雷雨《だいらいう》となったので、実《みの》る田の面《も》に水増して、 |亀裂《きれつ》の田畑《でんぱた》たちまち青色を復《ふく》し山野ことごとく枯死《こし》を免《まぬか》るる事となり到処《いたるところ》の百姓は歓呼《かんこ》の 声を絶たず、したがって筑後川筋《ちくごがわすじ》は、数日の間|大洪水《だいこうずい》となったので、かねて待構《まちかま》えていた(「 又、〇一)の筏《いかだ》は、数百千と潮《うしお》に群るる鯨《くじら》の如く、見るも際涯《はて》なき濁流《だくりゆう》の、水面を覆《おお》うて流 れ下《くだ》るので、降続く大雨《たいう》に増来《ましく》る水嵩《みずかさ》は、終《つい》にさしも莫大なる材木を一つ残さず流《なが》し下《くだ》した のである。  さてそれより(「又、〇一)の部下は、八方に手分けをして、その打込《うちこ》んだ極印《ごくいん》によりて、 散乱した材木の聚集《しゆうしゆう》を始めたので半月足らずの間に、たいてい、要所々々に取集める事が出 来たのである。殊《こと》に目覚しかりしは、素《もと》より筏師《いかだし》なき筏《いかだ》が、放縦《ほうじゆう》に勝手《かつて》に水のまにまに流れ 行くので、大部分は筑後川下流|有明海《ありあけのうみ》に注《そそ》ぐ、若津《わかつ》の港を打過ぎて、その附近の海中に散乱《さんらん》 した。それがまた南西《なんせい》の早風《はやて》に煽《あお》られ、三潴《みつま》および佐賀《さが》地方の沼浜《ぬまはま》へ打上げいたので、逸早《いちはや》 くそれを纒《まと》めた手代《てだい》共は、その随所《ずいしよ》でそのままに商売を仕《し》たとの事である。これを要するに |龍造寺《りゆうぞうじ》が今まで為《な》した大山師《おおやまし》の仕事は、養母《ようぽ》の決心と(1又)のお六|婆《ぱあ》さんとの策略多《さくりやく》きに いるとは云え、この投機《とにつき》がずどんと当り、その年の暮れまでの総計算に於て、両家は八万有 余円の利益金を折半《せつぱん》する事が出来たとの事である。それから西原弥《にしはらや》一の店は商運頓《しよううんとみ》に恢復《かいふく》し、 この川筋《かわすじ》にては一と云うて二と下《さ》がらぬ問屋《といや》と成ったとの事である。したがって養父の弥《や》一 は万死《ばんし》に一生を得て、永らく豊後《ぶんご》の温泉等に養生《ようじよう》をして、一年ばかりの後には、強健《きようけん》とまで にはならぬが、ともかく身の不自由はないだけに回復したのである。これより龍造寺は、十 七歳の年即ち明治十五年までは、学びに馴《な》るる十露盤《そろばん》の玉《たま》を命《いのち》の家業《かぎよう》ぞと、脇目《わきめ》も振《ふ》らず働 いていたのである。  然《しか》るに魚《うお》の性《せい》は水《みず》に稟《う》け、人《ひと》の性《せい》は天《てん》に享《う》けると云うが如く、この龍造寺《りゆうぞうじ》も元々|血統《けつとう》を武 甲《ぷこう》の家に牽《ひ》いて生れた為めか、物心《ものごころ》の付く十六七歳の時よりその心理に偉大なる変化を起し て来たのである。丁度その頃|庵主《あんしゆ》は、筑前旧領地《ちくぜんきゆうりようち》の寒村《かんそん》に住居して、秉《と》るに懶《ものう》き鋤鍬《すきくわ》の、稼《かせぎ》 の業《ぎよう》を主《おも》として、その合間《あいま》には大工《だいく》を職とし、僅《わず》かの賃《ちん》に朝夕《ちようせき》の、煙《けむり》の色《いろ》も絶《た》え絶《だ》えに、育《はぐく》 み兼《か》ぬる麦畑《むぎばた》の、片羽《かたわ》の鶉声瘠《うずらこえや》せて、辿《たど》る鄙路《ひなじ》の起臥《おきふし》に、暮《くら》すも辛《つら》き時であったので、龍造 寺は、己れが商《あきな》う材木を、庵主《あんしゆ》の家の稲小屋《いなごや》に積上げ、正礼《しようふだ》を付けて売らせたのである。然 るに庵主《あんしゆ》が不在の時などは、父がチョン髢《まげ》に侍《さむら》い結《むす》びの帯《おび》を〆めて、材《し》木買いのお得意《とくい》に、 『その方共は、土百姓《どびやくしよう》の分際で、品物《しなもの》を選《よ》り買いなど致し、あるいは値段を値切るなどは、 |言語道断《ごんごどうだん》じゃ、不埒《ふらち》を致《いた》すと許《ゆる》さぬぞ』 などと云うので、田舎朴訥《いなかぼくとつ》の百|姓《しよう》でも、一|人《にん》も買人《かいて》が来ぬ事になったので、龍造寺《りゆうぞうじ》は心《しん》から 苦《にがにが》々|敷事《しきこと》に思うたかして、月の中にあるいは五|日《か》十|日《か》と、自家商用《じかしようよう》の隙《すき》を伺《うかが》い、庵主《あんしゆ》の家に 商売の伝習《でんしゆう》に来る事が多かったのである。丁度その頃|庵主《あんしゆ》の父は、病後羸弱《びようごるいじやく》の余暇《よか》を以て、 隣村の子供等を集め、牛小屋の側《かたわら》に一室を設け、夜学《やがく》の家塾《かじゆく》を栫《こしら》え、手近かの四|書《しよ》五|経《きよう》など の講義をしていたので、龍造寺も逗留中《とうりゆうちゆう》は、夜間の暇《ひま》に任《ま》かせて、その学生の群に入って、 父の講義を聴《き》いていたが、天性勝気不抜《てんせいかちきふばつ》の魂性《こんじよう》ある者故、たちまちにして志学の観念を起し、 見る見る間《あいだ》に銖鑞《しゆし》を争う十露盤《そろばん》の稼業《かぎよう》に愛想《あいそ》を尽《つ》かし、何と養父母に説《と》き入れたものか、あ る日|西原《にしはら》の養父母は打連れて庵主《あんしゆ》の家に来《きた》りて、 『タッタ一|人《にん》の掛《かか》り子《ご》を、六ツの歳《とし》より守《も》り育て、家の財宝夫婦《ざいほうふうふ》が行末《ゆくすえ》、この児《こ》に凭《よ》るを杖 柱《つえはしら》と、寝物語《ねものがたり》に繰返《くりかえ》す、頼《たの》みの糸も今は早や、掛《か》け易《か》え兼《か》ねる小由巻《おだまき》の、節明《ふしあきら》けき願事《ねがいごと》、素《もと》 はと云《い》えば稼業《なりわい》の、卑《いや》しき家に氏《うじ》も名《な》も、由緒貴《ゆいしよとうと》き武士《もののふ》の、正《ただ》しき血筋受《ちすじう》けたもう、和子《わこ》を |賜《たま》わり根継《ねつ》ぎを変《か》え、身《み》の安楽《あんらく》を願《ねが》わん事《こと》、宴《まこと》に鳥滸《おこ》の望《のぞみ》なり、果《はた》せる哉和子殿《かなわこどの》が、年長《とした》け |生《お》うる葉蕾《はつぽみ》の、色付《いろつ》く時となるに付け、華《めばえ》に享《う》けし栴檀《せんだん》の、香《か》おり床《ゆか》しき志見《こころざし》るさ聞くさ に感《かん》に耐《た》え、ただこの上はこの和子《わこ》を、賤《いや》しき業《わざ》に終らさぬ、事こそ我等が勤《つとめ》なれと、思い にければ今はしも、夫婦打連《ふうふうちつ》れ和子殿《わこどの》を、元《もと》の園生《そのう》に植《う》え易《か》えて、行末《ゆくすえ》尊き繁昌《はんじよう》を、見るこ と責《せ》めての願いなれ』 と、最《い》と細《こまごま》々との志《こころざし》、真心面《まごころおもて》に顕《あら》われて述べるを聞いて今さらに、庵主《あんしゆ》の父母も只管感《ひたすらかん》に 入ったのである。 『茜蒔《あかねま》く、園生《そのう》も今は荒れ果てて、三百年も根を延《の》べし、悪草荐《しこくさしき》りに蔓《はびこ》れど、上下耕耡《しようかこうじよ》の道 を怠《おこた》り、たまたま交《まじ》る撫子《なでしこ》の、花葉《かよう》も萎《な》えて恥《はず》かしき、姿《すがた》を君《きみ》が庭に植え、この幾年を愛撫《あいぷ》 して、育《はぐく》みくれし優しさは、何《なん》と礼言《いやごと》申すべき、ただこの上は我許《わがもと》へ、呼返して一入《ひとしお》の、教 戒《きようかい》をも加うべし』 と双方の間に善意《ぜんい》の諒解《りようかい》を得て、弟《おとと》の龍造寺《りゆうぞうじ》は十七歳の時|養家西原家《ようかにしはらけ》と破縁《はえん》になったのであ る。それより我家《わがや》に帰り来《きた》り、最《い》と厳重なる父の教訓《きようくん》を受けていたが、蛟竜永《こうりゆうなが》く池中《ちちゆう》の物《もの》に |非《あら》ずと云うも烏滸《おこ》ヶ間敷《ましい》が、とても父母の膝下《しつか》にあって、瀧掃《さいそう》の業《ぎよう》に甘《あまん》ずる者ではなかった。 一度|学事《がくじ》に志しては、それに対する行為もまた破天荒《はてんこう》である。ある時我村より北方に当る、 |竈門山峡《かまどさんきよう》の寒村《かんそん》、本道寺村《ほんどうじむら》と云う所に、小《ささ》やかなる破れ学校がある、それが貧村《ひんそん》の事故、た だ一人の教員に僅《わずか》かばかりの月俸《げつぽう》をさえ給する事が出来ぬので、閉校同様《へいこうどうよう》となっている事を 聞出し、自《みず》からそれに交渉して、直ちに無給教員として、その明家《あきや》の学校に住込んだのであ る。それよりその山村《さんそん》の児童を集め、課程の教授を開始したが、何様幼少《なにさまようしよう》より学問手習《がくもんてならい》の業 を忌《い》み嫌《きろ》うたる結果、普通の往復文さえ自由ならぬ程度の身を以て、行成《なりゆき》に無免状の教員と なって、児童を教育するので今時ならなかなか行なわるべき事ではないが、それが今より四 十年近き昔日《せさじつ》の事故、人民《じんみん》の程度も低く、かかる乱暴《らんぽう》の教員に対して、却《かえつ》て感謝《かんしや》の意を表し、 先生先生先生と八方より尊敬して、米麦疏菜《べいばくそさい》の類《るい》に到るまで、不自由なきまでに持運び来る より龍造寺《りゆうぞうじ》はまず糊口《ここう》の道に就《つ》くと同時に、もっとも程度低き教科書を、第一自分に修業し、 それをそのままに児童《じどう》に教え、また一方には只管愛撫懐柔《ひたすらあいぶかいじゆう》の道を尽《つく》すので僅《わず》かの閭にその児 童等《じどうら》は、父母の感を以て龍造寺を慕《した》う事になったのである。  ところがここにもっとも破天荒《はてんこう》の問題は、この頃|地方官吏《ちほうかんり》の所為《しよい》では学校等の取締《とりしまり》がかく の如き山村に対してもっとも不完全であって教員などの事は一|切構《さいかま》い付《つ》けず、春秋《しゆんじゆう》の試験期 になるとその学生名簿にある生徒に向って、試験だけは命ずるのでまるで課業を廃したる学 校故村長よりこれを拒《こば》むも聞入れず、ともかく試験はしてこれを全部|落第生《らくだいせい》とするまでも、 その手続《てつづき》だけは施行《しこう》するのであった。そこを龍造寺《りゆうぞうじ》はこれを憤慨《ふんがい》し、その秋には、命《めい》ぜらる るままその試験に応ずる事にして、三十人ばかりの生徒を引連れ、所定《しよてい》の試験場に出席した ところ、その二十二名は卒業生を出《いだ》し、その残余《ざんよ》の者が落第生《らくだいせい》となったのである。各自卒業 免状《かくじそつぎようめんじよう》を授与《じゆよ》せられて、生徒が帰村したので、その父兄《ふけい》は歓喜雀躍《かんきじゃくやく》の声を発し、先生様のお蔭《かげ》 にて、しばしば廃校《はいこう》か休校《きゆうこう》かの悲境《ひきよう》にあった児童が、始めて卒業免状を得たのは、無月謝無 学費《むげつしやむがくひ》の結果としては、一入《ひとしお》に先生様に感謝を表せねばならぬと、誰彼《たれかれ》相談の上、鎮守《ちんじゆ》の森《もり》に |宮籠《みやごも》りなる村宴《そんえん》を開き、龍造寺を招待して村酒村菜《そんしゆそんさい》の馳走中《ちそうちゆう》村長の某《それがし》はあわただしく馳《は》せ来《きた》 り、郡役所《ぐんやくしよ》より急の御用にて、本道寺《ほんどうじ》学校の教員|同道《どうどう》にて出頭《しゆつとう》せよとの厳命《げんめい》であるとの事、 何事ならんと龍造寺《りゆうぞうじ》は、支度《したく》もそこそこ出頭《しゅっとう》せしに郡の学務掛《がくむがか》りは厳《おごそ》かに、 『其許《そこもと》は小学校教貝たる免許状《めんきよじよう》を所持《しよじ》せずしてみだりに児童を教育する事|言語道断《ごんごどうだん》の所為《しよい》で ある。故に今日限り差止《さしと》むるに付左様心得《つきさようこころえ》られたし』 との事である。龍造寺は待構《まちかま》えいたる如き顔付にて、 『委細承知致《いさいしようちいた》しました、然《しか》らば小生が同道して試験を受けしめたる生徒の卒業免状は、直《ただち》に |総《すべ》てを取纒《とりまと》め返上したる上にて退去致《たいきよいた》すでござりましょう』 と答えたるに学務掛《がくむがか》りは、 『いやその生徒《せいと》は、本官が立会の上、学力試験の上|与《あた》えたる免状故、決して其許《そこもと》の干渉《かんしよう》を要 せぬ』 と答えたので、龍造寺頑《りゆうぞうじがん》として折合わず、 『こは無礼《ぶれい》なる属官《ぞつかん》かな、元来あの村は、此所《ここ》に村長も立会の上聞く如く、往昔《むかし》よりの貧村《ひんそん》 にて学費賦課《がくひふか》に耐《た》え得《え》ずして、教員傭聰《きよういんようへい》の道なく、三ヵ月と居付く教師なく、しばしば休校 の不幸に遭遇《そうぐう》せる生徒を見るに忍びず、小生進んで彼地《かのち》に到り、幾干《いくばく》なりとも文化進展の聖 恩《せいおん》に浴せしめんと思い、無報酬《むほうしゆう》にて私《わたくし》に教鞭《きようべん》を取りしは事実なり、然《しか》るを当路の官憲とし て、奮《ただ》に二《ご》一|百感謝《んかんしや》の意《い》を表せざるのみならず、一|片《べん》の法規《ほうき》を楯《たて》に、罪人同様に放逐《ほうちく》に斉《ひと》しき |処置《しよち》を申渡すとは不将至極《ふらちしごく》である。この上は余は直《ただち》に県庁《けんちよう》に出頭《しゆつとう》し、貴官《きかん》が余《よ》に対する処置《しよち》 の曲直《きよくちよく》を争わねばならぬ』 と云放《いいはな》ったので、郡官《ぐんかん》は一寸閉口《ちよつとへいこう》はしたが、 『其許《そこもと》の意《い》に因《よ》って法規を曲《ま》ぐる事は出来ぬ。その他は随意《ずいい》にせられよ。退去《たいきよ》の事は決して |譲歩《じようほ》するの余地《よち》なし』 と答えたので龍造寺は村長に向い、 『今聞かるる通りの命令につき、小生は直《ただち》に県庁《けんちよう》に赴《おもむ》き、この属官《ぞつかん》と是非《ぜひ》を争わざるを得《え》ぬ 事となったから、その趣《おもむき》を村民諸氏《そんみんしよし》に伝《つた》えられたし』 うんぬん  いいす            ふくおかけんちよう   はせむ二                           ただち 云々と云捨てて、そのまま福岡県庁へと馳向うたのである。これを聞いた村長は、直に山村 に帰り人々を集めてこの顛末《てんまつ》を報告したので、朴訥《ぽくとつ》の村民《そんみん》はドッと一度に不平《ふへい》の声を上げ、      せんせいさま  ま         わけ                       そつぎようめんじよう へんじよう     ただ 『この上は先生様に負けさせる訳にいかぬから、生徒一同は卒業免状を返上して、直ちに学 校を打破壊《うちこわ》して、この以後再び教育などの命令《めいれい》を奉《ほう》ぜぬ事にせねばならぬ』  けつぎ     ただち          けんちようしよざいち は むか   りゆうぞうじ かせい と決議をして、直に五名の委員を選び、県庁所在地に馳せ向わせ、龍造寺に加勢せしむる事 としたのである。この時が丁度龍造寺は数え年十八歳だがら、年齢《ねんれい》の上からも、教鞭《きようべん》を執《と》る のは犯則《はんそく》で、その上に無鑑札《むかんさつ》のモグリ教員であったのである。さてこの悶着《もくちやく》の顛末《てんまつ》はさらに 次回に譲《ゆず》る事とする。 四十六 |稀代《きだい》の兇賊《さようぞく》を手捕《てどり》にす   捕吏縄を飛して兇賊を縛し、 画伯冤を呑んで孤島に瞑す  龍造寺《りゆうぞうじ》はその足にて、直《すぐ》に福岡県庁《ふくおかけんちよう》の学務課長に面接をもとめ、以上の顛末《てんまつ》を具申《ぐしん》したが、 初めは県官《けんかん》も小僧扱《こぞうあつかい》をして、相手にもなさざりしが、終には時の知事公《ちじこう》の耳にまで入れる 事に運動したので、課長等も事荒立《ことあらだ》てるを不利と思うたかして、郡役所《ぐんやくしよ》の方を取調べ、事実 相違《じじつそうい》なきを確めて、その郡書記《ぐんしよき》を謎責《けんせき》し、龍造寺《りゆうぞうじ》へは寒村《かんそん》の学事《がくじ》に尽力《じんりよく》したと云う名を以て、 |知事公《ちじこう》より文章軌範《ぷんしようきはん》一|部《ぷ》を賞与《しようよ》せられ、なお既定《きてい》の卒業生は、この賞与《しようよ》と共《とも》に記念《きねん》の卒業生 と認むと申渡された。これと同時に学務課長は、彼が引続き小学教員の試験《しけん》を受くべき事を |勧誘《かんゆう》したが、龍造寺は、自分の学歴《がくれき》と学力《がくりよく》は、その試験に応ずべき資格《しかく》なき事を自覚《じかく》し、と うとうその勧誘《かんゆう》を拒《こぱ》み、それよりはるかにやさしい、巡査教習所《じゆんさきようしゆうじよ》の試験に応じて、とにかく |及第《きゆうだい》し、その科程《かてい》に就《つ》く事になったが、素《もと》より気力抜群《きりよくばつぐん》の性質故|日夜竈勉《にちゃびんべん》して、予定の通り 卒業をし、やっと一個の巡査《じゆんさ》と成り了《おわ》せたのである。  この間|龍造寺《りゆうぞうじ》が職務以外に興味を以て努力したのは、柔術《じゆうじゆつ》と捕縄《とりなわ》の修業《しゆぎよう》であった。当時鹿 児島出身の人で、荒巻清次郎《あらまきせいじろう》と云う老人は、徳川時代《とくがわじだい》から不思議《ふしざ》なる捕縄《とりなわ》の名人《めいじん》で、所謂《いわゆる》早 縄《はやなわ》なる術《じゆつ》の粋なる鍛錬《たんれん》を得《え》、一時は久留米警察署《くるめけいさつしよ》で、警部《けいぶ》まで勤務した人であったが、病気 の為《た》め職を辞して、当時福岡県の巡査教習所《じゆんさきようしゆうじよ》の教官となっていた。龍造寺《りゅうぞうじ》はこの先生に愛護《あいご》 せられ、ふと捕縄《とりなわ》の興味《きようみ》を起したので、しきりにこれが研究を始めた。まず一例を挙《あ》ぐれば、 この先生が秘密《ひみつ》の捕縄《とりなわ》は、公定《こうてい》の捕縄を所持《しよじ》するの外に、琴《こと》の糸《いと》三|筋《すじ》を撚《よ》り合せたる、一丈 二尺ばかりの物を手繰《たぐ》りて、左の三の腕《うで》に篏《は》め置《お》き、それを千変万化に使用して、兇漢《きようかん》を捕 縛《ほばく》するのである。もちろん柔術《じゆうじゆつ》の素養はなくてならぬ事ではあるが、まずその縄《なわ》を首《くび》に搦《から》み て、相手を引倒すと同時に、自分も仰向《あおむ》けに倒れ、それから様《さまざま》々の仕事をするのである。か く敵を荒《あら》ごなしして取締《とりし》めたところで、規定《きてい》の捕縄《とりなわ》で正式《せいしき》に縛《ばく》すると云う様な事である。龍 造寺はその術《じゅつ》に於て、ある程度までの鍛錬《たんれん》を得ていたのである。庵主《あんしゅ》なども、ある時仕合を して、美事《みごと》に縛《ばく》された事があった。龍造寺《りゆうぞうじ》は巡査《じゆんさ》を奉職《ほうしよく》すると同時に、庵主《あんしゆ》の許《もと》に来《きた》り、 『私は巡査の小吏《しようり》を以て、天下無双《てんかむそう》の事を仕《し》てみたいと思《おも》いますが、ここに早速《さつそく》大事件が発 生致ました。それは明治|改暦《かいれき》以来の兇賊《きようぞく》とも名付べき強盗《ごうとう》で、内山源次《うちゃまげんじ》なる者、京阪《けいはん》より両 肥両筑《りようひりようちく》の間《あいだ》を股《また》に掛《か》け、第一、強盗《ごうとう》、第二、殺傷《さつしよう》、第三、放火《ほうか》、第四、強姦等《ごうかんとう》、あらゆる兇 暴《きようぽう》を為《な》さざる事なく、その被害高は本年に入りても多大なるものでございます。而《しか》して彼が 一|口《ふり》の短剣《たんけん》を使う事に妙を得て、一度は四五名の警官、一度は八名を相手に致たる事まであ りますが何《いず》れの時も此方《こちら》に多少の負傷《ふしよう》を被《こうむ》りて、まんまと取逃《とりに》がしています。それが今回福 岡県内に入り込んだとの密報《みつぽう》を得ましたから、私は単身《たんしん》その賊《ぞく》に向って、死生《しせい》を決してみよ うと思います。どうかお許《ゆるし》を願います』 と云うから、庵主《あんしゆ》は、 『その事は御両親のお耳に入るれば、決してお許《ゆるし》はないと思うが、俺《おれ》は至極面白《しごくおもしろ》い事として、 |衷心《ちゆうしん》から同意《どうい》をする。元来|我日本国民《わがにほんこくみん》は、平生《へいぜい》に於て総て全部が国家の干城《かんじよう》である。況《ま》して |巡査《じゆんさ》なるものはもっとも愉快《ゆかい》なる職務を持ったものである。故にその公務上に横《よこた》わる事は、 |難易細大《なんいさいだい》となく、献身的《けんしんてき》に必ず徹底的《てつていてき》でなければならぬ。その公務執行《こうむしつこう》の上に発したる生死《せいし》 は、無上の光栄である。もしさようの場合に命《いのち》を惜《おし》み、臆病《おくびよう》を構《かま》えて拾い得たる命は、既に 命たるものの意義《いぎ》を失い、揚句《あげく》には、牛馬《うしうま》に踏《ふ》み殺さるる位が落《おち》である。公安《こうあん》の為《た》めに命を 捨つるは、先祖に対しても無上の光栄と思うてきっとした立派《りつぱ》な仕事を為《す》るがよい』 と云うて帰したところが、その後彼は署長《しよちよう》の允許《いんきよ》を受けて、二週間ばかり不在《ふざい》となった。何《いず》 れの方面に旅行をしたか、誰《た》れも知る者はなかった。折柄《おりから》ある日、久留米《くるめ》郊外の豪農某《ごうのうぽう》の家 に強盗《ごうンう》が這入《はい》り、有金《ありがね》三百有余円、他に物品《ぶつぴん》を四五百円ばかりを持出したとの風説《ふうせつ》が立った。 その三|日後《かご》の事である。福岡市外の住吉河原《すみよしがわら》の広場に、一人の男が笠《かさ》を冠《かぶ》り、側《そば》に釣竿《つりざお》を立 て、その下に籠《かご》を置いて、何か物勘定《ものかんじよう》をしている様子である、それが昼の一時頃である。そ こへまた一人の若者が、釣竿《つりざお》を肩にして通り掛り、 『叔父《おじ》さん鮎《あゆ》が釣《つ》れたかい』 と咄《はな》し掛《か》けたので、その男は少なからず驚いて、直《すぐ》に立上るところを、ビタリ組付いて、そ の右の手先を取った。何を小癪《こしゃく》なとその手を懐《ふところ》に入れて、引出したのが短刀《たんとう》であった。その |刀光《とうこう》を見ると同時に、その若者はひらりと身《み》を飛退《とびの》くと共に、その男は真伏《まつぶせ》に引倒された。 即ちその右手を握《にぎ》った時に、若者の二の腕《うで》にあった琴糸《こといと》の捕縄《とりなわ》は、彼《か》の男の手首《てくび》に辷《すべ》り落ち て、疾《とう》に掛《かか》っていた。それを強く引いたから、不意《ふい》に引倒されたのである。その男の倒るる のを見るが早いか、若者は飛鳥《ひちよう》の如く飛掛《とぴかか》って、その縄《なわ》がその男の首に引掛けられた。それ をまた強く引いたから、短刀を持った右手は、ぐいと背部《はいぶ》を伝《つと》うて左の頸際《くびぎわ》まで引付けられ た。また何をと一|刎《は》ねに寝返《ねがえ》りを打った時は、その首《くび》の縄《なわ》は本式《ほんしき》に二重になって、首に掛っ ていた。それを引締《ひきし》め釣《つ》り上《あ》げて、やっと左の二の腕《うで》に引掛けて絞《しほ》ったから、彼は難《なん》なく捕 縡《ほまく》されてしもうた。その男が彼の兇賊内山源次《きようぞくつちやまげんじ》であって、その捕縛《ほばく》した若者が、龍造寺巡査《りゆうぞうじじゆんさ》 であり、それが丁度|奉職《ほうしよく》して二ヵ月半の時である。龍造寺は兇賊内山《きようぞくうちやま》が柔道家《じゆうどうか》で、蹴《けり》の名人《めいじん》 なる事を聞いていたから、もっとも大事《だいじ》を取りて、足先きまで縛《しば》り上げ附近の人を呼んで人 力車《じんりきしや》に乗せ、警察署へ持込んで来たので、新米小憎《しんまいこぞう》の巡査が、さしも世間で恐をなしていた |兇賊源次《きようぞくげんじ》を手捕にして来たと云うて非常に称讃《しようさん》を受けたが、所持金六百七十余円と、上等の 金時計等は、調査の上|被害者《ひがいしや》に下渡《さげわた》され、龍造寺には賞状と金五円の褒美《ほうぴ》とを下賜《かし》せられた のであった。  それからまた龍造寺巡査《りゆうぞうじじゆんさ》が、夜警巡廻中《やけいじゆんかいちゆルつ》、夜明の三時頃、博多《はかた》の商会という所の旅人宿《りよじんやど》の 裏手の、黒板塀《くろいたべい》を乗越えて、盗賊《とうぞく》の忍《しの》び入るのを遠目《とおめ》に見たので、忍足《しのぴあし》で抜《ぬ》け道を辿《たど》り、近 寄りて見たところ、一人の見張《みはり》らしき男が立ている故、その盗賊のまんまと忍び入った後を 見済まし、見る間に投げ縄《なわ》を以てその一《き》人を縛《しば》り上《あ》げ、半丁《はんちよう》ばかりの露路《ろじ》の中に投げ入れ置                      へい          えんした      ひそ    ま                とうぞく      ふ き その盗賊の忍び入った塀の向う店の縁下に身を潜めて待っていると、その盗賊は一の風 |呂敷包《ろしきづつ》みを、縄にて町中《まちなか》に釣り下げ、自分は元《もと》の足掛《あしがか》りによりて下《おり》るところを、右の足先に       いさ                                        しぽ                ぜつそく 縄を掛け、一息に引落し、折り重なりて例の縄を首に掛けて引絞ったので、盗賊は絶息せん ばかりに苦むのを、その縄を以て左右の両腕共|引絞《ひきしぽ》りて縛《しば》り上《あ》げたのである。盗賊は足を伸《の》    のど  し         で き う          ちぢ                 の              うご ばせば咽が〆まる故、出来得るだけ足を縮める故、万に一つも逃がるる道なく、蠢めいてい  うち    りゆうぞうじ              は       ひきわた            ひとり             ふたり   とうぞく  しば る中に、龍造寺は附近の交番に馳せ行き引渡した。つまり一人にてまんまと二人の盗賊を縛 り上《あ》げた事もあった。この時も何か御褒美《ごほうび》を頂戴《ちようだい》したようであった。  その後、福岡市の近郷須恵村《きんごうすえむら》と云う所に、駐在巡査《ちゆうざいじゆんさ》が必要となった。それはその年が凶作《きようさく》 で、様《さまざま》々の小泥棒《こどろぼう》が入込《いりこ》み、被害者が多いより、ある事情にて望まれて、駐在巡査となった のである。この時も一度の仕損《しそんじ》もなく、数人の泥棒《どろぽう》を取押《とりおさ》えたが、田舎の事であるから、あ る了解《りよセつかい》の為《た》めに、私《ひそか》に大分放免《だいぷほうめん》して遣《や》ったそうである。後《のち》にはこれが職務上の手落となって、 巡査を罷《や》めねばならぬ事となったのである。この駐在所|詰《づ》めの頃、親戚《しんせさ》の者共の勧《すす》めもあり て、龍造寺に妻帯《さいたい》せしむる事となった。その妻と選ばれた一婦人は、同藩中の士族《しぞく》、鯉沼源 右《こいぬまげんえ》衛|門《もん》なる人の孫娘増女《まごむすめますじよ》と云う者であった。この鯉沼家《こいぬまけ》の事に付、また一|場《じよう》の物語りがある。  この鯉沼源右《こいぬまげんえ》衛|門《もん》なる人は、庵主《あんしゆ》の為めには大叔父《おおおじ》、父の為めには叔父《おじ》さんである。即ち 父の実家《じつか》の出《しゆつ》にて、庵主《あんしゆ》の祖父《そふ》の弟である。この人は立派な知行《ちぎよう》を領《りよう》する福岡藩の絵師《えし》の家 に、養嗣子《ようしし》として入夫《にゆうふ》したので、狩野派《かのうは》の画《え》を描き、それを以て家業《かぎよう》として食祿《しよくろく》を頂戴《ちようだい》して いたのである。庵主《あんしゆ》は小供心に覚えているが、その叔父さんは大兵《たいひよう》にして、膚色飽《はだいろあく》まで白く、 それに銀の針の如き白髪《はくはつ》を後《うし》ろにてプツリと切り下げて撫《な》で付《つ》け、雪よりも白き長大なる眉《まゆ》 は、盛上げたように濃《こ》く、所謂眉目口鼻《いわゆるまゆめくちはな》もっとも秀麗《しゆうれい》で一見して明るい思いをするような顔 であった。その娘がまた一|藩《ぱん》を圧《あつ》する程の美人である。それに源太郎《げノハたろう》と呼ぶ養子婿《ようしむこ》を取って、 三人の子供が出来た。その二女が即ち龍造寺《りゆうぞうじ》の妻となったのである。  なぜかかる遠縁《とおえん》の家の娘を貰《もろ》うたかと云えば、親戚《しんせき》も庵主《あんしゆ》の父母も、庵主もそれに同情を 表したのである。その訳はこの鯉沼家《こいぬまけ》が世にも不幸の重なりたる家にて、いかにもして家運 を恢復《かいふく》して遣《や》りたいと云う心からであった。人世《じんせい》には衰運《すいうん》と云う事もあり、また物《もの》の崇《たたえ》りな どと云う事《こと》もあるが、この鯉沼家《こいぬまけ》は、代《だいだい》々|嘉因善行《かいんぜんこう》を積《つ》んだ家で、殊に祖父|源右《げんえ》衛|門《もん》に至っ ては、専《もつば》ら画家を以て甘《あま》んずる世外超術《せがいちようじゆつ》の人なるに、一|度禍雲《たびかうん》その家を覆《おお》いてより、人力を 以て恢復《かいふく》し難《がた》い悪運が取捲《とりま》いたのである。  風荒《かぜすさ》む世《よ》は刈菰《かりこも》と、乱《みだ》れ来《き》し天保弘化《てんぽうこうか》の頃よりして、幕府《ばくふ》の綱紀《こうき》しきりに弛《ゆる》み、各藩治国《かくはんちこく》 の要を失い、士心《ししん》したがって常軌《じようき》を逸《いつ》し、異言喧蠶《いごんけんごう》として、王幕《おうぱく》の制《せい》を論じ、年毎に派を立 て党を設《もう》けて、政道《せいどう》に牴梧《ていご》するより、各藩の国用《こくよう》たちまちに窮乏《きゆうぼう》を加えてきた。それは丁度 |幕府《ぱくふ》も同じ事にて、誅求《ちゆうきゆう》に得《え》たる苛歓《かれん》は、用度法《ようどほう》を失いたる惰吏《だり》の為《た》めに浪費し、その極|遂《つい》 に不換無償《ふかんむしよう》の金札《きんさつ》なるものを印刷して、その欠陥《けつかん》を補わんと企《くわだ》てたのである。化膿《かのう》の悪腫物《あくしゆもつ》 一|度中枢《どちゆうすう》に発して、四支いかでかその毒素に感ぜざるを得んや、たちまちにして全国の各藩《かくはん》 その策に風靡《ふうぴ》し、国用《こくよう》の困難を救うは金札《きんさつ》の発行に如《し》くものなしと絶叫《ぜつさよう》した、しかし各藩《かくはん》に は、紙幣発行《しへいはつこう》の特権がないので、一度は躊躇《ちゆうちよ》もしたが、大勢の向うところは、終に一|隅《ぐう》の制《せい》 を逸《いつ》して、ここに幕府《ばくふ》の金札《きんさつ》に模倣《もほう》する贋札論《がんさつろん》なるものが湧起《ゆうき》し、各藩競《かくはんきそ》うて幕制《ばくせい》同様の金 札《きんさつ》を発行する事となったのである。福岡藩もその一類に洩《も》れず、藩命《はんめい》によりて、庵主《あんしゆ》の大叔 父源右《おおおじげんえ》衛|門《もん》も、その画家と云う名《な》の下《もと》に、その金札《きんさつ》の版下《はんした》になる、雨竜《あまりゆう》の部分だけを、役所 にて筆を執らせらるる事になったのである。それよりして一|藩《ぱん》の経済は、恰《あたか》も濁流《だくりゆう》の湧逸《ほういつ》す るが如く素乱《ぷんらん》して底止《ていし》するところを知らぬ事となった。  かかる有様が各藩《かくはん》に行なわれてきたので、幕府《ばくふ》の狼狽大方《ろうばいおおかた》ならず、直《ただち》に大官《たいかん》を八方に派遣《はけん》 して、これが取調べに着手してみたところが、何《いず》れの藩に入っても、只《ただただ》々|驚顎絶倒《きようがくぜつとう》するばか りの惨状《さんじよう》である。そこで幕府《ばくふ》もたちまちにして大評議《だいひようぎ》を起し、ともかく幕府《ばくふ》の允許《いんきよ》を得ずし て、幕府同様の紙幣《しへい》を私《ひそか》に発行したるは、素《もと》より罪重刑《つみじゆうけい》にあたるに付、各藩主《かくはんしゆ》共その分に応 じて屠腹謝罪等《とふくしやざいとう》の実《じつ》を挙《あ》げさせ、峻厳少《しゆんげん》しも仮借《かしやく》せずして、幕府の衰頽《すいたい》を恢復《かいふく》すべしと評決《ひようけつ》 したので、もっとも腰強くある程度までは、兵備《へいぴ》までして問罪《もんざい》の使《し》を各藩に向けたのである。 これを聞いた各藩《かくはん》の士《し》は、蜂《はち》の如く起り、そもそも贋幣《がんへい》の俑《よう》は幕府まずこれを作りながら、 何を以て他を責《せ》むるの威信《いしん》あらんやとまでは論じたが、強弱衡《きようじやくこう》を失い、衆寡敵《しゆうかてき》し難《がた》きの数 に漏《も》れず、とうとう泣く泣く幕命《ばくめい》に伏《ふく》する事となったのである。一  ここに於《おい》て各藩贋札《かくはんがんさつ》の事、素《もと》より藩主《はんしゆ》の知るところに非ず、家老席《かろうせき》、勘定奉行等《かんじようぷざようら》が、単独 の専意《せんい》に出《いで》たるものに付《つき》、御取調《おとりしらべ》の上相当に、御処分仰《ごしよぷんあお》ぎ奉《たてまつ》ると上書《じようしよ》したので、幕吏《ばくり》の方で も追究却て自創《じそう》を被《こうむ》るの虞《おそ》れを抱《いだ》くより、各藩士をその分に応じ、打首《うちくび》、斬罪《ざんざい》、切腹等《せつぷくとう》の処 分《しよぶん》にして事落着《ことらくちゃく》に及んだのである。この時|彼《か》の鯉沼源右《こいぬまげんえ》衛|門老《もんろう》は、版下執筆《はんしたしつぴつ》の重罪にて、死 一等を減じ、福岡藩地を西北に距《さ》る、玄海洋上《げんかいようじよう》の一|孤島和呂《ことうわろ》の島《しま》に流罪《るざい》に処《しよ》せられ、居《お》る事 六年、波浪残月《はろうざんげつ》に咽《むせ》び風光一層|冷《ひやや》かなりの感に打たれて、憂《う》き年月を送ったのである。この 時はこの和呂《わろ》の島《しま》は、全く無人《むじん》の孤島であった。独居孤棲《どつきよこせい》の徒然《つれづれ》には、草の根を筆とし、島 渓《とうけい》の赤土《せきど》を汁《しる》に溶《と》かして、木皮《もくひ》を編《あ》んだ布に描いた、水鏡《みずかがみ》の自像《じぞう》は、白髪伸びて踵《かかと》に達し、 |白眉耳《はくぴみみ》に及び、鬚髯《しゆぜん》共に垂《た》れて膝《ひざ》を蔽《おお》うに至ったのである。   今日こそはこと伝《づ》てまつれ荒津浪《あらつなみ》       君《さみ》にぬかづく人《ひと》のまことを 昔し気質《かたぎ》の老画伯、鯉沼源右《こいぬまげんえ》衛|門《もん》は、満身忠誠《まんしんちゆうせい》の心を抱き、藩公《はんこう》の御座所《ござしよ》の方を拝《はい》しながら、 六十九歳を一|期《ご》として、この一|首《しゆ》の和歌《わか》を残して、この絶海《ぜつかい》の孤島に絶命《ぜつめい》したのである。死 後数ヵ月の後《のち》、避難《ひなん》の漁船がその死体《したい》を発見した時は、日光と潮《うしお》に干《ほ》し堅《かた》められて鬚髪無垢《しゆはつむく》 の骸骨《がいこつ》は濫褸《つづれ》に包まれたるまま、洞窟《どうくつ》の前に横わっていたとの事である。洞中《どうちゆう》の遺物《いぶつ》は、そ の後|知友《ちゆう》の手に因って、藩公《はんこう》の台覧《たいらん》に入れたが、さて明治維新《めいじいしん》の前後に伴う、幕政藩治《ばくせいはんち》の瓦 解《がかい》は、幾多志士《いくたしし》の惨劇《さんげき》を産出《さんしゆつ》した。その中《うち》にこの鯉沼翁の死等《しとう》は、聞く者の脳裏《のうり》を離れ得ぬ 一|惨事《さんじ》であった。それから嗣子源太郎《ししげんたろう》は、家名《かめい》を相続《そうぞく》して間もなく、勤王佐幕《きんのうさばく》の論《ろん》四方に起 り、雷霆《らいてい》に伴う浦雨《はいう》の如く、士心《ししん》の洪流《こうりゆう》となって来たので、源太郎《げんたろう》は直《ただち》に身を勤王《きんのう》の群《むれ》に投 じ、血気《けつき》の迸《ほとばし》るところ、身家《しんか》を顧《かえり》みるの邊《いとま》なく、八方に飛来《ひらい》を檀《ほしい》ままにしたので、忽《たちまち》に幕 吏《ばくり》の注目するところとなり、捕吏《ほり》の追究日《ついきゆう》夜にはなはだしく、あるいは山間に潜《ひそ》んで難を免 れ、あるいは雇傭《こよう》となって城下《じようか》に入込み等《など》していたが、ある日|捕吏《ほり》にその寓居《ぐうきよ》を襲《おそ》われ、直《ただち》 に一刀を手挟《たぱさ》んで裏より脱走《だつそう》し、城下を西に距《さる》一|里余《りよ》の、室見川《むろみがわ》と云う長橋《ちようきよう》に差掛《さしかか》りたるに、 |橋《きようじよ》ヒには数《う》人の歩哨《ほしよう》あることを知《し》って、川下に逃《のが》れたが、跡《あと》より数人の捕吏《ほり》の追究が余《あま》り に急なるより、裸体《らたい》となって長刀《ちようとう》を脊《せ》に負うとそのまま、身《み》を躍《おど》らして中流に飛込んだので ある。折節五月雨《おりふしさみだれ》の頃にて、降続く大雨《たいう》は濁流《だくりゆう》となって堤防《ていぽう》に溢《あふ》れ、逆巻《さかま》く渦《うず》は群像《ぐんぞう》の暴《あぱ》る るが如き時故、数人の捕吏《ほり》はあれよあれよと云う中《うち》に、終《つい》に源太郎《げんたろう》の影を見失うて行衛《ゆくえ》も知 れずなったのである。それより星月数《せいげつすう》十|年《ねん》、室見《むろみ》の逝水《せいすい》は滔《とうとう》々として変らざれども、その人 の姿はまた永久に見えぬのである。    あと        わかご け     なんによ                   そむ      ぼうふ`  い せき  さて跡に残りし若後家と、男女三人の子供は、藩命に背いたる亡夫の遺跡、人目に掛るを |厭《いと》うより、博多《はかた》の浜辺に小《ささ》やかなる裏屋《うらや》を借り、手内職《てないしよく》にて三人の子供を養育して、、十一ヵ 年がその間、その未亡人は外出を絶対にせなかったとの事である。その中《うち》に子供もだんだん |生長《せいちよう》して、長女は二十歳、二女は十八歳、長男が十二三歳になった時|庵主《あんしゆ》は初めてこれに面 会をしたが、その長男を庵主《あんしゆ》の家に連れて来て、昼食《ちゆうじき》を振舞《ふるま》いしに、 「叔父《おじ》さんの家《うち》の御飯《ごはん》は、なぜこんなに堅《かた》いの、私はこんな御飯《ごはん》を食べればお腹《なか》が痛《いた》くなる よ。私はお箸《はし》で挟《はさ》まるる御飯《ごはん》は厭《いや》じゃ」 と、何心《なにごころ》なく云うた時には、庵主《あんしゆ》の父母は申すに及ばず、座にあるものは皆顔見合せて、覚《おぽ》 えず湧佗《ぽうだ》たる涙を禁《きん》じ得《え》なかったのである。庵主《あんしゆ》がこの子を養育して、成長させるにつき、 又一場の物語があるが、それは次回からぼつぼつ述べるであろう。 四十七 |奇計《きけい》を案《あん》じて恋病《こいわずらい》を癒《いや》す   小娘恋を知って病をなし、壮士志を立てて学に就く  庵主《あんしゆ》がその鯉沼家《こいぬまけ》の遺孤橘之助《みなしごきつのすけ》をして、小学中学より、専門の学科|採鉱冶金《さいこうやきん》の学術を修め させるまで、およそ十二三年の月日であった。丁度この橘之助《きつのすけ》十七八歳の頃、庵主《あんしゆ》が福岡市 の博多奥《はかたおく》の堂《どう》と云う町に、ある二階を借り受け、博多《はかた》に用事《ようじ》あって滞在する時の寝泊《ねとま》りを為《す》 る所として、その留守番《るすぱん》には彼橘之助《かのきつのすけ》を置いて学校に通わせていた。一切の賄《まかな》いは、家主《やぬし》た る五十余歳になる後家《ごけ》の老媼《ばあさん》が、世話をしてくれる事になっていた。この橘之助《きつのすけ》は遺伝血統《いでんけつとう》 の美貌《ぴぼう》にて、膚色《はだいろ》全く玉《たま》の如く白く、眉目《びもく》あくまで秀《ひい》で、身《み》の丈《た》け普通よりも立伸び、一|睥《ぺい》 の風相はたちまちにして人を魅《み》せんとするが如く、幼にして漢文を綴《つづ》り、数学に堪能《たんのう》なる事 は、全く天質《てんしつ》であろうと思われた。ある日|庵主《あんしゆ》がこの寓所《ぐうしよ》に立寄った時|下《した》なる老媼《ばあさん》は、恐る 恐る庵主《あんしゆ》の側《そぱ》に来《きた》りておもむろに咄《はな》し出した。 『旦那様《だんなさま》、私は鯉沼《こいぬま》の若旦那様《わかだんなさま》の事に付て、少しお咄《はな》したい事《こと》がござります。それはこの二 三ヵ月前の事でござりました、市外の住吉《すみよし》に住《すま》わるる、ある豪家《ごうか》のお袋様《ふくろさま》がお出《いで》になりまし て、(お恥《はず》かしい事ながら私の娘《むすめり》みちと云《り》う、今年十九歳になるのが御当家様におらるる鯉《こい》 沼《ぬま》の若旦那《わかだんな》を垣間《かいま》見て、娘心《むすめごころ》の遣《や》る瀬《せ》もなく、通《かよ》い馴《な》れたる裁縫《さいほう》の、学校にさえ行《ゆ》かずして、 思いに悩む様子《ようす》なるより、夫《おつと》と共にいろいろと、問慰《といなぐさ》め賺《す》かせしが、思い乱《みだ》るる黒髪《くろがみ》の、解《と》 く由《よし》もなき有様《ありさま》故、途方に暮《く》れて夫婦とも、泣に泣かれぬ一人娘《ひとりご》の、家の跡継《あとつ》ぐ婿《むこ》がねは、 |已《すで》に博多《はかた》のある豪家《ごうか》と、婚約《こんやく》さえも整《ととの》えある故、親族共とも相談して、娘の心を直さんと、 |交《かわ》る交るの強意見《こわいけん》も、為《す》れば為《す》るほどいや増《ま》す思い、終《つい》には病の床《とこ》に臥《ふ》し、日毎《ひごと》に悴《やつ》れ湯茶《ゆちや》 さえも進まぬまでの痛付《いたつき》にて、ほとほと困《こん》じ果《は》てたので、ある日夫婦相談して、向うの店に 半日程、腰打掛《こしうちか》けて若旦那《わかだんな》の、お帰りを待おりしに、日足《ひあし》傾く夕前《ゆうまえ》に、学校道具を手《て》に提《さ》げ て、お帰りなさるお姿を、見るとそのまま夫婦共、あっと云うほど感嘆《かんたん》し、娘が迷うも無理 ならず、何と云う立派な凛《りり》々しい若旦那様《わかだんなさま》、誰《たれ》あろう御家中《ごかちゆう》にて、品格《ひんかく》高きお家柄世《いえがらよ》が世の 時であろうなら、云寄《いいよ》るすべもあらがねの、地《ち》を一《は》一一一旭う町家《ちようか》の我々が、お側《そば》へさえも寄《よ》りかぬ る、身分を忘れ今の世の、逆さま事のお願いを、お前を頼み云い出《いず》る、心を不憫《ふびん》と推量して、 |申探《もうしさぐ》りて給《たま》われかし、養子と云うが恐《おそ》れあらば、娘を嫁《よめ》にさし上げるも、ただお主《ぬし》に任《まか》すべ し)と掻口説《かきくど》かれて私も、さしより返事に困《こう》じ果《は》て、その夜|若旦那《わかだんな》のお側《そぱ》に往《いつ》て、事の顛末《てんまつ》 物語り、思召《おぽしめし》を伺《うかが》いしに、若旦那様《わかだんなさま》は膝捻向《ひざねじむ》け、 「女《おなご》が僕にどうしたと、僕はこれから勉強して、男《おとこ》に成《な》る稽古《けいこ》を為《す》るのじゃ、それに女《おなご》が何《なん》 に成《な》るか」 とまるで、石地蔵《いしじぞう》の鼻《はな》の先を、燕《つばめ》が飛《と》んで往《いつ》たほども、お感じのないお詞《ことぱ》に、私もはっと行 詰《ゆきづま》り、御返事《ごへんじ》さえも禄《ろくろく》々に、出兼《でかね》ます故ようようと(それでも若様《わかさま》あなたにも、遅《おそ》かれ早《はや》か  おくさま      もん          なり                        けつそう れ奥様は、お持なさらにゃ成ますまい)と云えばたちまち血相かえ、 「老媼《ばあぬ》、そんな事は、叔父様《おじさま》が、一度も云うて聞かせない。叔父様は逢《あ》う度《たぴ》に、男《おとこ》になれ、 勉強せよ勉強せよ、この二つの外《ほか》云わないよ。僕は、叔父様の云う二つでさえ困《こま》っているの に、老媼《げあや》の云う事まで聞いて溜《たま》るものではない。老媼《ばあや》、飯《めし》も僕が注《よそう》て食《く》うから、お前は下へ 降りてくれ」 と大変な権幕《けんまく》で入らっしゃいますから、私も、ほとほと閉口《へいこう》しましたが、さらばと云うて先 方の、御老人の御夫婦にも、お気の毒に思いますし、その嬢様《じよちつさま》のお身上は、どんなであろう と気が病《や》んでなりませぬ、旦那様《だんなさま》、何《なん》とか御工夫《おくふう》は有《あり》ますまいか』 と老《お》いの心の一|筋《すじ》に、説立《ときた》てられて、庵主《あんしゆ》はそれを、面白き事に思い、橘之助《きつのすけ》が返答振りの |素直《すなお》さと、恋《こい》の病治《やまい》療法の研究とに一入《ひとしお》の興味を持ったのである。それから庵主《あんしゆ》は老媼《ばあや》に答 えた、 『老媼《ぱあや》、いろいろの事情《じじよう》よく分った。しかしその事は心配するな、直《ただち》にその娘を思い切らし て遣《や》るから、先方の両親にも、俺《おれ》が逢《お》うて咄《はな》すからと、安心させておいてくれ』 と云えど老媼《ぱあ》さんなかなかに承知せず、 『旦那様《だんなさま》、そんな手易《たやす》い病気ではございませんよ、先方のお嬢様は、今頃は大変でございま すよ』 『いや心配するな、恋病《こいのやまい》と云うものは、女の神経衰弱《しんけいすいじゃく》じゃから、直《なお》すのは訳はないよ、あの |橘之助《きつのすけ》は一人息子で、家《うち》の名籍《みようせき》を興《おこ》す責任のある体故、今から妻帯《さいたい》をさせる訳にはいかぬ、 双方無事に、俺が片付ける工夫をするから心配せずにいてくれよ』 と云うてその話は済《す》ませたが、さて、あまり永《なが》く打棄てて置く訳にも行かず、庵主《あんしゆ》はその老 媼《ばあや》を頼《たの》んで、その住吉《すみよし》の豪家《ごうか》に出入する医者を呼寄せ、事の顛末《てんまつ》を委細咄《いさいはな》して、一策を授《さず》け たのである。その医者は早速に先方に行って、庵主と宿の老媼《ばあや》と橘之助《きつのすけ》とその医者《いしゃ》とを、お |九日《くんち》と云う、村祭神事《そんさいしんじ》の御馳走《ごちそう》に呼ぶ事に頼んで置いて、橘之助《きつのすけ》には庵主《あんしゆ》がこう云うたので ある。 『橘之助《きつのすけ》よ、貴様《きさま》はお九日《くんち》の御馳走《ごちそう》が食い度事《たいこと》はないか』 『叔父様《おじさま》、僕は一度も腹《はら》一|杯御馳走《ぱいごちそう》を食うた事がございませんから、どうか連れて行って下 さい』 『うむそれなら連れて行くが、何《なん》でも叔父さんの云う通りにせねばいかぬぞ。それから貴様《きさま》 は病人にならねば連れて行かれぬぞ』 『叔父さんそんな真似《まね》をしていても、御馳走《ごちそう》はうんと食うても好《い》いんですか』 『うむ好《い》い共《とも》好い共、病人の真似《まね》さえすれば、腹《はら》の破《わ》れる程喰《ほどく》うても好いのじゃ』 『それじゃあ叔父さん、どんな病人の真似《まね》でも致しますから、どうか連れて行って下さい』 と云う中《うち》、かねて呼んでおいた、その医者が来たから、 『さあ橘之助《さつのすけ》、これから病人の持《こしら》えをするのじゃ』 と云うて、まず顔《つら》一|面《めん》を下の老媼《ばあや》さんが頭髪《あたま》に使う煤油《すすあぶら》の紙で薄《うつ》すらと汚《よご》し、それから左の 眼の上に綿を小丸にして乗せ、頭の所《ところどこ》々に梅干《ろうめぽし》の肉を張りその上から医者に繃帯《ほうたい》をさせ、片 目《かため》だけを出して頭半分を包み、繃帯《ほうたい》の所々から、梅干《うめぽし》の汁《しる》を浸《し》み出すように〆付《しめつ》けて、すっ かり膿血《うみち》の流るる腫物《しゆもつ》が、幾《いく》ヵ所《しよ》にも出来たように拵《こしら》え上げて、 『さあ橘之助《きつのすけ》よ、これで充分御馳走《じゆうぶんごちそう》が喰えるぞ』 『叔父さん、御馳走《ごちそう》は喰《く》えるか知りませぬが、片眼《かため》ばかりでは、何だかぐらぐらして見当が 付きませぬ』 『その位の事を辛棒《しんぽう》せずして、御馳走《ごちそう》が喰《く》えるか、馬鹿野郎《ばかやろう》』 と云うて叱り付け、三人連れで住吉《すみよし》の豪家《ごうか》の所に出掛けて行った。ところがかねて医師《いし》より その趣《おもむき》が通じて有った為め、豪家《ごうか》の人々は打揃《うちそろ》うて歓迎をして、御馳走《ごちそう》の限りを尽くしたそ の中《うち》に橘之助《きつのすけ》は片目《かため》ばかりを出して、出《で》る御馳走《ごちそう》も出る御馳走も、喰《く》うわ喰うわ、生れて初 めて、放楽《ほうらく》で、箸《はし》を下に置く間もなく、詰《つ》め込《こ》んだのである。その中《うち》に病人の娘はお手伝い の咄《はなし》に、思《おも》い焦《こが》れた橘之助《きつのすけ》が、来ていると云う事を聞いたので、乳母《うば》に助られて、次の間か らソーッとその様子を覗見《のぞきみ》に行ったところが、見違《みちが》えると云わんより、むしろ恐ろしい形相《ぎようそう》 であって、頭部頸筋《あたまくびすじ》の所《しよしよ》々よりは血膿《ちうち》のようなものが繃帯《ほうたい》を透して浸《し》み出して、顔色もただ ならぬので、病に疲れた体には気絶《きぜつ》せんばかりに打驚《うちおどろ》き、息遣《いきづか》いさえ苦し気になったので、 |乳母《うぱ》も驚き、ヤッと助けて床《とこ》の中に連込《つれこ》んだら、ただソッと枕に縋《すが》りて泣入《なきいる》ばかりであった。 |乳母《うば》は様子を知らぬ故、胸轟《むねとどろ》かして直に来合せている彼《か》の医者に通じたので、診察《しんさつ》をなし、 |取《と》り敢《あ》えず、鎮神《ちんしん》の手当を為《な》したので、直《す》ぐに心気《しんき》も落付いた。  しばらくして娘は医者に向い、 『先生|今日《こんにち》は大変|気分《きぶん》も好《よ》いようですから、今|次《つぎ》の間《ま》から、神事《しんじ》のお客様を覗《のぞ》きに往《い》きまし たが、端《はし》にいるあの書生さんの、相好《そうごう》の恐ろしさと云うたら、今なお魂《たましい》も消失《きえう》せんばかりで、 |未《いま》だ動悸《どうき》が止《や》まぬくらいでございます』 と物語りて、余所事《よそごと》に橘之助《きつのすけ》の事を問掛《といか》けた故医者はこの時こそと思うてかねて庵主《あんしゅ》に含め られた通りを答えたのである。 『お嬢さん、あの書生さんはね、あの上席にいる杉山氏《すぎやまさん》の甥子《おいご》さんに当る鯉沼橘之助《こいぬまきつのすけ》と云う |方《かた》でありますが、若い時に慎《つつし》むべきは身持でござります。ああ天然《てんねん》の美貌《きりよう》が身《み》の仇《あだ》となって、 あの様な業病《ごうぴよう》に取付《とりつ》かれたのでござります。先月頃からふとあんな腫物《しゆもつ》が出来初めましたの で、私はあの杉山氏《すぎやまさん》に頼《たの》まれて治療をしておりますが、あれは世にも恐ろしい悪性の梅毒《ばいどく》で ござりまして、頭部《つむり》から顔、それから全身の節《ふしぶし》々まで、潰瘍《おでき》を吹き出しまして、とうとう左 の眼の球《たま》を侵《おか》しまして、今ではとても左の眼だけは取止《とりと》めが付かぬ事になりております。今 日《こんにち》の医術《いじゆつ》では、いかな名医の手に掛けましても、彼《か》の全身の毒《どく》を抜《ぬ》く事は出来ぬ事に極《き》まっ てしまいました。杉山氏《すぎやまさん》もこれにはほとほと困《こま》り果《は》てておらるる模様《もよう》でござります。貴嬢《あなた》の ご両親は、杉山氏《すぎやまさん》とはかねて御懇意《ごこんい》でいらっしゃるところに、今日《こんにち》はからずも九日祭《くんちまつ》りで杉 山氏《すきやまさん》がこの近所の御親類に、あの橘之助様《きつのすけさん》を連れてお出《いで》になっていたのに御出会《おであい》なさったの で、御家《おうち》にお立寄りを薦《すす》められたので、今一寸|御寄《おより》になっているのですが、アノ甥子《おいご》さんを 御同道なさったのには御両親もお困《こま》りの様子でござりますよ』 と誠《まこと》しやかに物語ったので、娘は倒れんばかりに打驚《うちおどろ》いたのである。 『あの温順《おとなし》そうな甥子《おいご》さんが、どうしてそんなお身持《みもち》を為《な》さるでしょうね』 と云うて打臥《うちふ》したのである。医者は一入詞《ひとしおことば》を和《やわ》らげ、 『青年の時に一番|鎮《つつし》むべきは誘惑《ゆうわく》の一|事《じ》で"こざいます。行末栄《ゆくすえさか》ゆる一生を、みすみす縮《ちぢ》めて |非業《ひごう》の最期を早めるは、あの鯉沼《こいぬま》の若旦那《わかだんな》が好《い》い手本でござりますよ。しかし御病中《ごびようちゆう》に掛《かか》り |構《かま》いもない、余所事《よそごと》を気にして、神経を痛めてはいけません。もう大概《あらまし》は全快《ぜんかい》に近づいた貴 嬢《あなた》故、この際一層|薬《くすり》を精出《せいだ》して召上《めしあが》り、かねて申上げた冷水《れいすい》の全身摩擦《ぜんしんまさつ》を、一入烈敷《ひとしおはげしく》して早 く御全快《ごぜんかい》なさいませ』 と云い労《いたわ》りて立去ったのである。この報告を聞いて庵主《あんしゆ》は別間《べつま》に両親の人々を招き、 『この際、早く婚約《こんやく》ある婿《むこ》がねを呼入《よぴい》れて家事《かじ》を任《まか》せ、娘子《むすめご》の介抱《かいほう》にも一入心《ひとしおこころ》を付けて、忸《な》 れ親《したし》ませるが肝要《かんよう》であります。年頃の娘子《むすめご》を稚気《おさなげ》とばかり見誤り、終には生涯|取返《とりかえ》しの付か ぬ疵物《きずもの》となし、一生涙で暮らせる事は、これ皆|親達《おやたち》の無念《むねん》でありますぞ。よくよく忘れぬよ うにせられよ』 と深く云い戒《いまし》めて、橘之助《きつのすけ》を引連《ひきつ》れ暇《いとま》を告げて帰ってきたのである。これより庵主《あんしゆ》は、一ヵ 月ばかりの後《のち》、種《しゆじゆ》々の事情《じじよう》があって、とうとう東京住居《とうきようずまい》をする事となった故、橘之助《きつのすけ》も引連《ひきつ》 れて、則ち専門の学校に通わせる事とはなったのである。それから三年程過ぎて、庵主《あんしゆき》が郷 里《ようり》に帰った時は、その豪家《ごうか》の娘子《むすめ》は、滞《とどこお》りなく結婚を済ませ、最可愛《いとかわい》らしき一|子《し》を産《もう》けて、 |老夫婦《ろうふうふ》は初孫《ういまご》の顔を見て、目も明かぬほどの喜びに耽《ふけ》りつつあるとの事を、彼《か》の宿《やど》の老媼《ばあや》か ら聞いたのである。  それより間《ま》もなく橘之助《きつのすけ》は、無事に学校を卒業した故、庵主《あんしゆ》の友人|巨智部忠承《こちべちゆうしよう》と云う、高 徳《こうとく》の博士《はかせ》に頼《たの》み、博士《はかせ》の監理《かんり》せらるる農商務省《のうしようむしよう》の地質調査局《ちしつちようさきよく》と云う役所に橘之助《きつのすけ》を出勤させ て、博士《はかせ》の引立《ひきたて》によって、格外の俸給をも戴き、只管職務《ひたすらしよくむ》に勉励《べんれい》しているから、ある人の世 話《せわ》によりて妻帯《さいたい》をなさしめ、ひさしく滅家同様《めつけどうよう》となっていた鯉沼《こいぬま》の家名《かめい》を興《おこ》して、小《ささ》やかな る一家を設《もう》け、丁度|親戚《しんせき》たる阿部磯雄《あべいそお》と云う博士《はかせ》が、早稲田大学《わせだだいがく》の教授《きようじゆ》であるを幸いに、そ の人の世話《せわ》にて牛込《うしごめ》の早稲田附近《わせだふきん》に、初めて鯉沼橘之助《こいぬまきつのすけ》の表礼《ひようさつ》を掲ぐる事となったのである。 |居《お》る事一年にしてこの新夫婦《しんふうふ》の中には愛らしき一女児を産《もう》け、ここに初めて家庭の彩色《さいしき》を増 し、流《なが》れに登《のぽ》る鯉沼《こいぬま》の、末の栄《さかえ》を松影《まつかげ》の、旭日《あさひ》に翳《かざ》す心地《ここち》して、庵主《あんしゆ》もこの上なく喜んでい たのである。  然《しか》るに人間の運命《うんめい》と云うものは、有《あ》る人数《ひとかず》のそれぞれに、奇《く》しき筋道辿《すじみちたど》り行《ゆ》く、いと果し なき因果こそ、神《かみ》の御座《みくら》に繰《く》る枠《わく》の、廻《めぐ》る程《ほど》なお解《とき》かぬる、罪恐《つみおそ》ろしき物なるか、この鯉沼《こいぬま》 の家名《かめい》こそ、善《ぜん》こそ積《つ》め、悪《あく》に泥《なず》まぬ誉《ほま》れある、家系《かけい》に誇《ほこ》りて有《あり》ながら、ふと祖父|源《げん》右|衛門《えもん》 の代よりして、端《はし》なく贋礼《がんさつ》の災禍《さいか》にかかり、祖父は島死《とうし》し父は水歿《すいぽつ》し、その子の橘之助《きつのすけ》は幼 少より、餓《うえ》も果《は》つべき艱難《かんなん》の、佗《わぴ》しき中に人となり、炮烙《ほうろく》に咲く豆花《まめはな》に、斉《ひと》しき命を繋《つな》ぎた る、その夢消てようようと、人波《ひとなみなみ》々に家の名を、起す汀《みぎわ》に渦巻《うずまき》の、淵《ふち》恐ろしき悪霊《あくりよう》が、この |橘之助《きつのすけ》の身の上に覆《おお》い掛《かか》って来たのである。それはある夏の初《はじ》めっかた、橘之助《きつのすけ》は役所より 帰宅して、いささか心地悪《ここちあ》ししとて、ろくろくに食事もせず、先に床を取って寝《しん》に就《つ》き、し ばらくは寝《ね》ながら子供などをあやなして、妻女《さいじよ》と咄《はな》しなどもしていたが、間《ま》もなく克《よ》く眠《ねむり》に |就《つ》いたので、妻女《さいじよ》は側《かたわ》らに床を取って、寝に就きしは夜の十時過であったが、十一時頃起上 りて厠《かわ》…に行《や》き、 『烈《はげ》しき下痢《げり》をした故、懐炉《かいろ》にて下腹《したはら》を温《あたた》めん』 と云うより妻女《さいじよ》は、その通りにして遣《や》ったら、また快《こころ》よく眠ったので、妻女も共に安神《あんしん》して |床《とこ》に入りしが、昼《ひる》の草臥《くたびれ》一時に襲《おそ》うて、ぐっすりと寝込《ねこ》んでしもうて目の覚めしは、朝の五 時頃であった。橘之助《きつのすけ》はと覗《のぞ》き見しに、よく熟睡《じゆくすい》しているから、妻女《さいじよ》は徐《おもむ》ろに起出て、朝餉《あさげ》 の仕度等《したくなど》を調《ととの》えおりしが、毎朝六時頃には目覚《めざま》す橘之助《きつのすけ》が、今朝はさらにその様子なきより、 |濡《ぬ》れたる手先を前掛《まえか》けにて拭《ふ》き拭き、枕元《まくらもと》に来て、静かに揺起《ゆりおこ》し試みしに、こはそも如何《いか》に |橘之助《きつのすけ》は、何時《いつ》の頃に死果てたか、全身氷の如くに冷えて、四股《てあし》も疾《とう》に硬直《こうちよく》している有様《ありさま》な ので、妻女《さいじよ》はただ叫《さけ》ばんばかりに打驚き、直《ただち》に近所の車屋《くるまや》を呼んで、医者を迎《むか》えて診察《しんさつ》をさ せたが、何でも午前の一二時前後に、激烈《げきれつ》なる大下痢《だいげり》を数回なし、全身の水分を一時に排泄《はいせつ》 したので、暫時《ざんじ》にして心臓麻痺《しんぞうまひ》を起して死亡したものに相違ないとの事である。その中誰彼《うちたれか》 れの人々も駈《か》け付け来て、何様変死同様《なにさまへんしどうよう》の次第故、警察医《けいさつい》の検視《けんし》をも受けたが、何《いず》れも同様 の見立にて、今更となっては何の手当も甲斐なき事と成果てたのである。丁度|牛込《うしごめ》より馳《は》せ |来《く》る車屋《くるまや》の使《つかい》の知らせにて駈《か》け付けたのは、庵主《あんしゆ》の店員|多田豊吉《ただとよきち》と云者《いうもの》であったが、庵主《あんしゆ》は |生憎他行中《あいにくたぎようちゆう》でこの報《しらせ》を聞くとそのまま、橘之助《きつのすけ》の宅《たく》に馳《は》せ付けて見たのは、何でもその日の 十一時半頃であった。それより親戚阿部博士《しんせきあべはかせ》の、親切《しんせつ》なる世話によりて、何かと取片付《とりかたづけ》をな し、年若き妻女と嬰児《みどりご》とを伴うて、見るも悲しき野の果の、茶毘《だぴ》の煙《けむり》に愛惜《あいじやく》の儚《はかな》き影《かげ》を焼捨《やきす》 聴佚佚|諧《わか》    四十八筆驚野|筆《た》ボ功力正覚を説-                                      うち   か 薫聴聴 男子志を決して立てば れには生命《せいめい》の限りを尽《つく》すのである。故にその他の事は、何物《なにもの》も犠牲《ぎらせい》として顧《かえり》みないのである。 これが何時《いつ》も兄《あに》たる庵主《あんしゆ》を困却《こんきやく》せしむる第一の条件である。彼|曰《いわ》く、 『獅子《しし》は兎《うさぎ》を榑《う》つに全力《ぜんりよく》を用《もち》ゆ、人《ひと》として山豆獣類《あにじゆうるい》に劣《おと》るべけんや』と。  庵主自《あんしゆみず》からも、素《もと》より天下《てんか》の豪傑《ごうけつ》を以て任じてはいるが、鯉沼家《こいぬまけ》を再興《さいこう》し、妻子と家庭を 造りて一|家《か》を成《な》さしむべき使命を嘱《しよく》したる龍造寺《りゆうぞうじ》が、常往不断《じようじゆうふだん》に兎《うさぎ》を榑《う》つ底《てい》の事業に、生命《せいめい》 も妻子《さいし》も犠牲《ぎせい》にして、猛進《もうしん》ばかりされては溜《たま》るものでない。庵主《あんしゆ》が肚胸《とむね》を吐《つ》いて当惑《とうわく》するの は、何時《いつ》もこの龍造寺《けゆうぞうじ》の決心である。即ち今回も発端《ほつたん》に云う通り、鹿児島《かごしま》の某所《ぽうしよ》にある金山《きんざノハ》 を引受け、あらゆる資本家《しはんか》を説《と》いて、その鉱山の経営に着手したが、何様学識《なにさまがくしき》は小学校の贋 教員《にせきよういん》で、経験《けいけん》は巡査《じゆんさ》だけと云う男が遣《や》る事業故、金鉱《きんこう》の無《な》い方角ばかりに掘進《くつしん》して、ただ赤 土《あかつち》と岩石《がんせき》を破壊《はかい》するだけの努力であったが、そこにまた西洋《せいよう》にも龍造寺的《りゆうぞうじてき》の男がある物と見 えて、長崎《ながさき》に在《あ》る和蘭《オランダ》生れの宣教師《せんきようし》で、いささか化学に経験ある男が、この龍造寺《りゆうぞうじ》の事業に 引掛り、講釈《こうしやく》の百|曼陀羅《まんだら》を尽《つく》して、ある程度の資本を供給して、組合事業《くみあいじぎよう》と為《し》たので、龍造 寺《りゆうぞうじ》は狂犬《きようけん》の尻尾《しつぽ》に炬火《たいまつ》を付《つ》けたように無我夢中《むがむちゆう》で駈《か》け廻り、キリキリ舞《ま》いの後《のち》が、龍造寺《りゆうぞうじ》も |宣教師《せんきようし》も、一斉にバタンと舞い倒れてしもうたのである。ただ簡単に書けばこれだけである が、何様心力《なにさましんりよく》もあり、才気《さいき》もある人間が、二人で心身を絞《しぼ》りて仕出《しで》かした失敗故、出来るだ けの魂胆《こんたん》や、遣《や》り繰《く》りは仕尽《しつく》しての後の失敗であるから、多くの災害を経済方面の人々にも 加《くわ》えている事は、論《ろえ》を待《ま》たぬのである。それで彼《か》の宣教師先生は、教会堂《きようかいとう》まで引剥《ひきは》がれるま でに成《な》ったのである。この時にも庵主《あんしゅ》は龍造寺を呼んで、多くの訓戒《くんかい》も加えたが、彼の答は すこぶる簡単|明瞭《めいりよう》であった。 『不肖《ふしよう》の私《わたくし》を人間らしく思召《おぽしめし》て懇切《こんせつ》の御訓戒《ごくんかい》を賜わる段《だん》は誠に有《あり》がとう存《ぞん》じますが、しかし |山師事《やましごと》は私が仕《し》た事《こと》で、決してお兄様《あにいさま》がなさった事ではござりませぬ。これに伴《ともな》う多くの不 善事《ふぜんじ》も、全く私の手にて致《し》た事でございますから、私が始末《しまつ》を付けるが当然と心得ます。万 一お兄様《あにいさま》が山師事《やましごと》でも遊ばす場合が有《あ》ったら、ただ今私に御訓戒《ごくんかい》遊ばした通りの方法で、物 事を処理遊《しよりあそ》ばすが宜《よ》うござりますが、私が仕事の当事者でござりますから、私が最善《さいぜん》と信ず る方法を考えて為《な》すの外致方《ほかいたしかた》が有ませぬ。しかし御訓戒《ごくんかい》の段《だん》は、将来の私に取っては慈愛《じあい》の |御教訓《ごきようくん》故、金科玉条《きんかぎよくじよう》として考慮《こうりよ》の資料として、遵奉致《じゆんぽういたし》ますでござりまする。ただここに一|言 申上《げんもうし》げて、お許《ゆる》しを受けて置たい事は、たとえ私が不埒不届《ふらちふとどき》を致ましてもやはりお兄様《あにいさま》の実 弟たるを辱《はずか》しめている事は、どこまでも真実《しんじつ》でございますから、人間生存中《にんげんせいそんちゆう》の一|動作《どうさ》たる、 仕事の遣《や》り方《かた》が不味《まず》い位で、人類天縁《じんるいてんえん》の兄弟関係をまで、断絶《だんぜつ》遊ばすようの重大なお考えに 至る様の事は、御無用《ごむよう》に願います。それはお父様も、お兄様《あにいさま》も、私も各《おのおの》々|甘《うま》くか不味《まずく》か働い てこそ、人間生存《にんげんせいそん》の意義があるのでございます故、働き方が甘《うま》くとも、不味《まずく》とも、やはり親 は親、兄弟は兄弟でござります。況《いわ》んやお父様からも、お兄様《あにいさま》からも、御教訓《ごきようくん》の一|角《かく》として、 御自身既往《ごじしんきおう》の失敗談等は沢山に伺《うかが》っている位でございますから、失敗もやはり人間の為《す》る仕 事には相違《そうい》ござりませぬと思召《おぼしめし》て、馬鹿な弟では有《あ》りますが、今は人生学中《じんせいがくちゆう》の失敗科《しつばいか》、攻究 中《こうきゆうちゆう》であると思召《おぽしめ》されて、やはりお兄様《あにいさま》は、お兄様《あにいさま》だけの御心配と、御迷惑は真正《しんせい》なる兄上と 云うお名前の分量《ぶんりよう》だけはお引受け下されまして、私を活動させて見ていて下《くだ》さいますのが、 日頃の御浩量《ごこうりよう》、即ちお兄様独《あにいさま》特の太《ふと》っ腹《ぱら》なところだと存上《ぞんじあ》げますからその境界線《きようかいせん》に混雑《こんざつ》を生 ぜぬように今からお願申上げておきます』と。  まるでどっちが教戒《きようかい》せられているか分ぬのである。しかし云う事は真理《しんり》である。そこで庵 主《あんしゆ》が仮《か》りにこう自問自答《じもんじとう》した。 『いや左様《さよう》な事業は悪いからこんな仕事をせよ』と云えば、弟《おとと》の事業ではなくて、庵主《あんしゆ》の事 業となる、『そんな遣《や》り方は悪い、ぜひ斯様《かよう》にせよ』と云えば、.弟《おとと》が為《す》るのではなくて、庵主《あんしゆ》 が当事者となるのである。『俺《おれ》の云う事を聞かねば構《かま》わぬぞ』と云うても、やはり真実の弟《おとと》に は相違《そうい》はないのである。『そんなに兄《あに》に心配と迷惑を掛《か》けるなら、兄弟の縁を切るぞ』と云う てもその公証《こうしょう》条件は、人間生存中《にんげんせいそんちゆう》の一|動作《どうさ》が予《よ》の気に入るか入らぬの一|事《じ》であって、『生《い》き ていて何も為《す》るな働《はたら》くなら兄の気に入る通りの外《ほか》、動《うご》くな』と云うのなら、一|気《き》一|体《たい》である から、何も兄弟と云う二つ別々に体《からだ》を拵《こしら》えぬでもいいのである。 『心配と迷惑は、兄弟相互いの共通義務である』日頃の御浩量《ごこうりよう》とか太《ふと》っ腹《ぱら》のお兄様《あにいさま》など、煽《あおり》 立《たて》られてみると、『どうも心配と迷惑は、兄《あに》たる庵主《あんしゆ》の個性的職務《こせいてきしよくむ》らしい』と観念《かんねん》せざるを得《え》 ぬのである。止《や》むを得《え》ずこう考えるより外《ほか》、仕方《しかた》がなかった為《た》めに、庵主《あんしゆ》はかく決心して云 うた。 『真実《しんじつ》の弟《おとと》、可愛い弟、俺《おれ》より一二枚|腰骨《こしぽね》も肝玉《さもつたま》も強い弟が、善でも悪でも働くと云うのは |宜《い》い事《こと》じゃ、然《しか》し俺《おれ》の意を迎え、差図《さしず》ばかりを待《まつ》て阿附順《あふじゆんじゆ》々たる弟《ん》ならば、死《し》んでいると一 緒である。心配でも迷惑でも、腹《はら》一|杯《ぱい》引受て遣《や》るから、腹一杯|無茶《むちや》の有《あ》る限《かぎ》りを遣《ゃ》ってみよ』 と申渡したのである。それから龍造寺《りゆうぞうじ》は、妻と子を庵主《あんしゆ》に託《たく》して、何でも宮崎《みやざき》地方に鉱山を |開始《かいし》したようであった。庵主《あんしゆ》は弟の妻子共を自宅に収容《しゆうよう》して、両親と庵主の妻に、克《よ》く人間 の大義《たいぎ》を説得《せつとく》し、また人間一人の天才《てんさい》と力量《りさりよう》を伸《のば》し試《こころ》みるには、その本人の苦労以上に、周 囲の者も輔翼《ほよく》せねばならぬものであると申し聞け、快《こころよ》く一|家団欒《かだんらん》の家庭を作らしめたのであ る。それから一年ばかりの間は、絶《た》えず音信《おとずれ》もあったが、更《かわ》る衣《ころも》も色槌《いろあ》せて、木《きぎ》々の梢《こずえ》も幾 度《いくたぴ》か、葉《は》を交《か》え枝《えだ》の影繁《かげしげ》く、雨《あめ》や嵐《あらし》と春秋《はるあき》は、移《うつ》れど待《まて》ど龍造寺《りゆうぞうじ》は、何《なん》の便《たより》もせぬ事《こと》になっ たのである。それから丁度二年余りも経《た》った頃、庵主が東京より帰国の途次《とじ》、下《しも》の関《せき》の逆旅《げきりよ》 に一泊せし時、一寸外出の街上《まちなか》にてパッタリ出会《でくわ》したのが龍造寺であった。時恰《ときあたか》も十月の肌 寒《はださむ》き頃に、洗洒《あらいざら》した浴衣《ゆかた》一枚に、垢染《あかじ》みた兵子帯《へこおび》を〆めて、破《し》れた蝙蝠傘《こうもりがさ》を携え、裳端折《すそはしお》っ て草韃掛《わらじが》けであった。庵主が、 『ヤア龍造寺《りゆうぞうじ》でないか』 と掛《か》ける声に応じて、 『ヤァお兄様《あにいさま》』 と相応《あいおう》じた。それから手短かに話をして、庵主は用事も中止をし、宿に連れ帰ってだんだん と様子を聞けば、彼は二年半前、宮崎《みやざき》に於て知人数名と連合して、有利な金銅《きんどう》の混合鉱《こんごうこう》を発 見し、わずかばかりの資本を持寄って開坑《かいこう》したが、始めの間は鉱石の分止《ぷど》まりも好《よ》く、各自 年若《かくじとしわか》な組合員は、何れも空を翔《か》ける翼《つばさ》でも得たように景気付《けいきづ》いて、さらに資本増額の計画を      ぶ ぜんぶんご                       こうべ                           にしやまぼ3 も立てて、豊前豊後の間の知人と相談して、神戸のある外国商館に関係ある、西山某と云う を組合員に入れて、資本の供給と、販路《はんろ》の事共を任《まか》せ、さらに技師《ぎし》や人夫頭等《にんぷがしらら》も、西山より 入れる事になって、事業の手順《てじゆん》もだんだん優勢《ゆうせい》になってきたところに、坑内《こうない》に大変動《だいへんどう》を来《きた》し、 巨大なる断層岩石に衝突《しようとつ》して、一|塊《かい》も鉱石を出《いだ》し得《え》ぬ事となった。八方苦心して一|同凝議《どうぎようぎ》も したが、何とも策の施《ほどこ》すべきなく、半年ばかりも掛って煩悶《はんもん》の結果が、とうとう維持の力尽《ちからつ》 き、やっとその西山に少々ずつの金《かね》を立替《たてか》えて貰《もろ》て、一同|散《ちりぢり》々ばらばらと退山《たいざん》したのである。 |然《しか》るに自分《じぶん》だけは、この鉱山に対し、単独の責任にて借入たる資本も多く、懇意《こんい》の人々に責 任を以て勧誘《かんゆう》し、金品《きんぴん》を提出させた関係もあり、旁《かたがた》々さらに一場の失敗談《しつぱいだん》だけにては相済《あいす》ま ざる訳もある故、一々その人々に面会して、事《こと》の顛末《てんまつ》を打明け、徹底的に承諾《しようだく》を得て、自分 の再挙《さいきよ》を待ちくれるよう相談を極《き》め、やっとその関係は片付《かたづ》いたがここに一問題が突発した のは、彼西山《かれにしゃま》はその鉱山の権利全部が、自分《じぶん》一|己《こ》の物《もの》に移《うつ》ると間《ま》もなく、さらに坑内にて一 大脈を発見したと云うを名《な》として、阪神《はんしん》の間《あいだ》にて資本を募集し、数月ならずして盛《さか》んに採掘 出鉱《さいくつしゆつこう》の成績を挙《あ》ぐるに至ったので、元組合員たる一同は、さらに集会をして、その不徳《ふとく》を詰 問《きつもん》もしたが、法律上の権利《けんり》を楯《たて》として、さらに談判《だんぱん》に応ずる景色《けしき》もなく、種《しゆじゆ》々法律家などと も研究をしたが、少しも勝利の余地《よち》がないので、とうとう一同も泣寝入《なきねいり》の姿《すがた》と成果《なりは》てたが、 さらにまた有望《ゆうぽう》な問題が、自分《じぷん》一|己《こ》の手《て》に落《お》ちてきた。それはその鉱山の一谷隔《ひとたにへだ》てた北方に |当《あた》りて、巨大《きよだい》なる大鉱脈ある事を発見したる一坑夫があって、自分に密告《みっこく》してきたので、ひ そかに調査を遂《と》げてみたところが、以前の鉱山の主脈《しゆみゃく》は、この谷に至《いた》って全く発展し、そこ が該鉱山《がいこうざん》の中心点たる事を見極《みきわ》めたので、直《ただ》ちに充分なる鉱区の広袤《こうぽう》を測定《そくてい》して、試掘願《しくつねがい》を 提出し、その鉱石等も携《たずさ》えて、千|辛万苦《しんばんく》の末、当|下《しも》の関《せき》の一友人に謀《はか》り、猛然《もうぜん》として再挙《さいきよ》の 旗を揚《あ》げ、彼《か》の悪竦《あくらつ》なる西山等《にしやまら》に鼻明《はなあ》かせくれんずと、計画中である云《うんぬん》々の長物語《ながものがた》りである。  庵主《あんしゆ》はこの弟が物語りを聞く中《うち》より、満身《まんしん》の悲哀《ひあい》は胸臆《きようおく》に湧《わ》いて、禁《きん》ぜんと欲しても止《とど》め |得《え》ぬ涙《なみだ》は、湧佗《ぽうだ》として双頬《そうきよう》に滴《したた》るのであった。ようやくにして日《い》えらく、 『汝龍造寺《なんじりゆうぞうじ》よ、汝《なんじ》は何が為に左様《さよう》に利益成功《りえきせいこう》の迷路《めいろ》に彷徨《さまよ》うのであるか。男子《だんし》一|度《たぴ》意を決し て志業《しぎよう》の道に踏出《ふみだ》し、成敗《せいばい》を死生《しせい》の間《あいだ》に争わんとするは、始めにまず大義名分《たいぎめいぷん》の道を明かに し、次ぎに世道人心《せどうじんしん》に益する事を定めてでなければならぬ。然《しか》るに汝《なんじ》はその出発の第一歩に 於て、興業射利《こうぎようしやり》の事に満身《まんしん》の精《せい》を打込み、一|敗《ぱい》一|励《れい》以てますますその迷路《めいろ》を辿《たど》らんとするは、 よ       い かん                    インド             ヘいぜい     .〜う         ゆうあい 予の最も遺憾とするところである。「昔印度に一農夫あり、平生は親に孝に、兄弟に友愛深き さが                              さいちようぴ  ごくらくちよう         やすら 性なりしが、ある日山中に入りて、五彩長尾の極楽鳥が、地上に休いおりしを見付け、これ を手捕《てどり》にせんと思い、飛掛《とぱかか》ってこれを押《おさ》えしに、その鳥はポーッと四五尺を飛去り、また地 上に餬旬《ほふく》した。今度こそはきっと捕押《とりおさ》えんと、呼吸を決して再び飛掛りしに、またポーッと 四五尺を飛去ゆ、何でも片翼でも痛めおるかのようである。そこでその農夫は、今度は必ず .この鳥を間違《まちがい》なく捕《とら》え得《う》る物と信じて、三度四度と飛掛《とびかか》り飛掛りして、とうとう逕《みち》もなき深 山《しんざん》に分け入り、腹《はら》は減る、身心《しんしん》は疲れる、日は西山《せいざん》に傾くの時となったので急燥《あせり》にあせって、 とびかか                   こつぜん              ゆくえ                                しげ 飛掛り飛掛りしていたが、忽然としてその鳥の行衛が知れぬようになった。何でもこの茂み の中と思うて薄暗《うすぐら》き処《ところ》に踏《ふ》み込《こ》んだ一|刹那《せつな》、古き洞穴《ほらあな》の幾百丈とも知れぬ、井戸の如き中に 落込んだのである。その農夫がはっと思うた時に、今までの迷の夢はたちまちに覚めたが、 み   すで  ついらく                                      ちゆうと                かずら 身は已に墜落の中にありて、手足をもがき、その井戸の中途にあった、一夲の蔓の根に手が |触《さわ》ったので、それをやっと櫻《つか》んで、一身をぶら下《さ》げる事が出来たが、何様身《なにさまみ》は暗黒《あんこく》の穴の中  つ   さが           すじ  かずら ね   いのち つな                    たより           み うご に釣り下って、ただ一筋の蔓の根が命の綱である。それとても誠に手便なき物にて、身動き の度々に、ぱりぱりと音がして、一《は》一一.氾附《いつ》いている岩石から、根は離れつつあるのである。それ と共に崩《ノさず》れ落る小石が、幾百丈と深き井《い》の底に落込む音は、百|口《こ つ》の半鐘《はん しよもつ》を一度に撞《つ》き立てる が如き響《ひぴき》を立て、今その手にする蔓《かずら》が切れるが最後、身は百|仭《じん》の底《そこ》に落ちて、微塵《みじん》となるよ り外《ほか》ないのである。この時|山上紫雲《さんじようしうん》の間に遊《あそ》びたまえる文珠《もんじゆ》、普賢《ふげん》の両菩薩《りようぽさつ》は、この農夫の 叫び声が、何《いず》れかの地底より聞ゆるに驚《おどろ》きたまいて、直《すぐ》に馳《は》せ来《きた》りて、智恵万丈慈悲《ちえぱんじようじひ》の御縄《おんなわ》 を垂《た》れたまい、一斉に声を張上げて日《のたま》わく『汝農夫《なんじのうふ》、一|旦《たん》の迷夢覚《めいむさむ》る時は、人間生死《にんげんせいし》の界《さかい》な り、生死の界は正覚《しようがく》の刹那《せつな》なり、今|我《わ》が垂《た》れたるこの縄は、自他忍辱幾多行法《じたにんにくいくたぎようほう》の功徳《くどく》を積《つ》ん だる、百|練《れん》の絆《きずな》なり、凡念《ぽんねん》百|劫《ごう》の衆生億兆《しゆじようおくちよう》の手を上げて、一|斉《せい》にこれに縋《すが》るとも、倶誓本願《ぐぜいほんがん》 の功力広大《くりきこうだい》にして、決して中断することなし、頓悔念仏帰依《とんげねんぶつさえ》の心は、堕落地獄《だらくじごく》の刹那《せつな》に於て |結定《けつじよう》すべし。速《すみゃ》かに凡百《ぽんぴやく》の疑念《ざねん》を去って、この縄に縋《すが》るべし』と涙を垂《た》れて告《の》り示《しめ》したもう と雖《いえど》も、元《もともと》々|穢土不離脱《えどふりだつ》の農夫の手は、万力《ばんりき》の鬼《おに》と化して、この不浄垂法《ふじようすいほう》の蔓根《まんこん》を離さず、 |徒《いたず》らに悲鳴《ひめい》を暗黒《あんこく》の中《うち》に上げて、無法の救いを求むるのみである。菩薩《ぽさつ》は御声《おんこえ》いよいよ悲し げに、我は倶誓《ぐぜい》の本願《ほんがん》に渇仰《かつごう》し、已《すで》に六|根《こん》を清浄《せいじよう》し、五慾一悪の心魔《しんま》に遠ざかりて、汝等を 迷路に救うこと、その数挙《かずあ》げて数《かぞ》う可《べ》からず、早く疑《うたがい》を去《さ》りて、この縄に縋《すが》るべしと叫《さけ》び たまえども、農夫はなお未だ私情《しじよう》一|念《ねん》の悪根《あくこん》を捨《す》てて、倶誓本願《ぐぜいほんがん》の大綱《たいこう》に随《したが》う事能《ことあた》わぬ有様《ありさま》 である」 と云う僅諺《りげん》がある。今汝図《いまなんじはか》らずも、射利追随《しやりついずい》の事業を起して、身《み》を傷《やぷ》り心を找《そこな》い、なお追《お》い |縋《すが》らんとする五|彩《さい》の鳥は、宣奠《あにいずく》んぞ百|仭《じん》の地獄《じごく》、暗黒《あんこく》の洞中《どうちゆう》に落《おち》ざることを得んやと、自覚《じかく》 せねばならぬのである。その兄《あに》たる予《よ》は、決して菩薩《ぽさつ》の六|道《どう》を悟《さと》りし、解脱《げだつ》の仏には非ざれ ども、汝を思う慈悲《じひ》の心念《しんねん》は、如何《いか》でか御仏《みほとけ》に劣るべきと思うのである。今|兄《あに》が垂《た》れたる慈 愛《じあい》の絆《きずな》は少くも今汝の縋《すが》り附いている、蔓《かずら》の根に勝ること万《ばんばん》々と信ずる。方今《ほうこん》文化の華《はな》とも 云うべき、学理《がくり》と学術《がくじゆつ》の結晶《けつしよう》に因《よ》って成功《せいこう》する鉱山事業は、汝等|無感《むかん》の力量《りきりよう》にては、決して |良果《りようか》を収《おさ》むべきものでないと云う事を、逸早《いちはや》く自覚《じかく》して、男子《だんし》一|期《ご》の方針を改めよ。予は決 して徒《いたずら》に汝に無法の教訓《きようくん》と干渉《かんしよう》とを為《な》す者でないと云う事を知ってくれ』 と涙と共に説得《せつとく》したのである。龍造寺《りゆうぞうじ》は庵主《あんしゆ》が説《と》き聞かせたる物語りを、何と聞いたか分ら ぬが、直《ただ》ちに内懐《うちぷところ》より一|包《つつみ》の書類を取出し、側にある火鉢《ひばち》の中に投入れ、火を点じて一片の |灰燼《かいじん》と化せしめ双眼《そうがん》に涙を浮《うか》め、両手を膝《ひざ》にして、さて何事《なにごと》をか説出《ときいだ》す。 四十九 |突如来訪《とつじよらいほう》せる怪紳士《かいしんし》   北越の逆旅紳士と邂遁し、 県吏饌を供えて兄弟を慰む  下《しも》の関《せき》の逆旅《げきりよ》に於て、兄弟|図《はか》らず邂遁《かいこう》し、庵主《あんしゆ》が長《ながなが》々|敷説教《しきせつきよう》に、 て、しばらく落涙《らくるい》の体《てい》であったが、ようように頭を擾《もた》げ、 |龍造寺《りゆうぞうじ》は両手を畳に突い 『狩場《かりば》の雨《あめ》に兄弟《はらから》が、仇《あだ》を討《うち》にし安元《あんげん》の、昔《むかし》を偲《しの》び諸共《もろとも》に、世《よ》の仇草《あだぐさ》を薙払《なぎはら》い、天《てん》に代《かわ》りて   や   ち  たいら  ひと た   そが   は、  ぷしどう  みが     おぽしめ  あにうえさま 道を行り、地を平げて人を矯め、曽我にも恥じぬ武士道を、研かんものと思召す、兄上様に |似《に》もやらで、徒《ただ》に利《り》を栓《お》う市人等《しじんら》の、群《むれ》に交《まじ》わり一筋に、卑《いや》しき業《わざ》を遂げなんと、急燥《あせ》る心 の私を、なお人《ひと》ケ間敷思召《ましくおぼしめ》し、枯葉《かれは》に瀧《そそ》ぐ露《つゆ》かそも、儘馬《ふすめ》に糧《かご》の御教訓《ごきようくん》、今更|尊《とうと》き恩顔《おんがん》を、 |仰《あお》ぎ見るさえ身に恥《は》じて、ただ恐ろしくのみ思いまするが、ここを克《よ》く御聴取下《おききとりくだ》されまして、 |私一期《わたくしご》の御願を、御聞済《おききず》み下《くだ》さりますれば、世《よ》に有《あり》がたき事でござりまする。そもそも御 教訓の大主意《だいしゆい》は武士《ぷし》としての大道《たいどう》、人としての大義《たいぎ》、共に違背《いはい》のあるべき様なく、ただ恐入っ て御教訓に従いまするの外《ほか》ござりませぬが、私志業《わたくししぎよう》の出発一歩に於て、已《すで》に万世《ばんせい》の志を愆《あやま》 り、失敗に次ぐに失敗を以てし、今や已に人の産《さん》を傷《きずつ》け、人の財を失うこと、積《つ》んでここに 十二|万余円《まんよえん》と相成り、青年一|己《こ》の負債《ふさい》としては、吾人《われひと》共に案外に存《ぞん》ずる事でござりまする。 もしこの事の顯末《てんまつ》が御《ご》両親様の御耳にも入《はい》らば、たださえ物堅《ものがた》き御心《おこころ》に、さぞかしのお驚《おどろ》き と御歎《おなげ》きは、目に見るよりも恐ろしく思いまするので、かくは途方に迷う訳でござりまする。 この故に天運《てんうん》万一|私《わたくし》に尽《つ》きず、この大難事《だいなんじ》の義務を果し敢《おお》せる時もござりましたなら、その 時こそは御教訓に従い、心機《しんき》たちまちに一転|致《いたし》まして、左右の御膝下に侍《はべ》って、武士《ぶし》の志業 にお伴する事を万望《まんぽう》致ますのでござりまする。その運命の分限《ぷんげん》を、験《た》めし試みますその間《あいだ》は、 |不心得《ふこころえ》なる弟は、世に無き者とでも思召《おぼしめし》まして、私存分《わたくしぞんぶん》の活動をお赦《ゆる》し下《くだ》さる様にとの願で ござりまする、申上るも恐入る事ではございますが、その間|御《ご》両親様の御定省《おんみとり》と、私妻子の 上の事共は、偏《ひと》えに兄上の御眷顧《ごけんこ》を御願申上《おんねがいもうしあげ》まする、その代りに私は、今日限りに九州の事 業全体を放棄《ほうき》致まして、身《み》を東北の瞹野《こうや》に放《はな》ち、運命《うんめい》の輸贏《しゆえい》を一|挙《きよ》に賭《と》してみたいと存《ぞんじ》ます る。その期間は、今日《こんにち》よりどうか十年と思召されて、鴻封雁信共《こうふうがんしんとも》に断絶《だんぜつ》をして、死生《しせい》の御通 知《ごつうち》さえも申上ませぬから、運あって再び温顔《おんがん》を拝《はい》しますまでは、世に無き者と思召お断念《あきら》め おきを願上まする』 と最も堅《かた》き決心の程を申述たのである。庵主《あんしゆ》も現在の龍造寺《りゆうぞうじ》が境遇《きようぐう》にては、その辺が彼《かれ》の性 質上、適当の決心ならんと思うたから、心からその申出を許し、持合せの金《かね》を過半《かはん》龍造寺に 分け与え、なお後《あとあと》々の事共《ことども》までそれこれと申聞《もうしき》け、その夜《ょ》は図《はか》らずも兄弟|旅《たび》の浮寝《うきね》に枕を並 べて語り明し、翌朝は未明より起き出で、衣服万端旅《いふくばんたんたぴ》の調度《ちようど》をも世話して、大川丸とか云え る大阪行の汽船《きせん》に乗込ませ、惜《おし》むも尽《つ》きぬ兄弟《はらから》の、訳《わけ》なき涙《なみだ》に引分《ひきわ》くる、袂《たもと》と袖《そで》と振分《ふりわ》けて、 |海《うみ》と陸《りく》との東西《とうざい》に、悲き別れを為《な》したのである。  それより庵主《あんしゆ》は故郷《こきよう》に帰り、嬬《おとうとよめ》 と甥《おい》との養育《よういく》に注意し、両親には『男《おとこ》の子《こ》と云う者《もの》は、 |蓬桑《ほうそう》四方に志を伸《の》べて、運命を開拓《かいたく》せしむる、所謂可愛子《いわゆるかわいこ》には旅《たび》させよの僅諺《りげん》に因《よ》るを最《もつと》も |可《か》とする』所以等《ゆえんとう》を説聞《ときき》かせて、憂《う》き年月《としつき》を送ったのである。彼《か》の秒《セコンド》は、世界の原始《げんし》より |終末《しゆうまつ》まで、決して休止せぬものである、人類その他の森羅万象《しんらばんしよう》は、各自《かくじ》この秒《セコンド》の音に連《つ》れ て、舞踊《ふよう》を続け、世界劇場にてダンス一頁の筋書《すじがさ》と、歴史の劇作とに憂身《うきみ》を竃《やつ》しつつ暮すも のである。その秒《セコンド》はたちまちにして三千百五十三万六千の音を立てて一ヵ年を過したまた |夢《ゆめ》の間《ま》に三億千五百三十六万の音を立てて十年は経過したのである。この間《あいだ》に彼《か》れ龍造寺《りゆうぞうじ》は、 |何《どん》なダンスを踊って、どんな歴史劇を演じたかはさらに分らなかった、庵主《あんしゆ》の監督《かんとく》に係《かか》る方 の、歴史劇の報告はこうである。 『父は上顎下顎《うわあごしたあご》の歯《は》がことごとく脱落《だつらく》して、半禿《はんはげ》の残毛《のこりげ》は、銀《ぎん》の如く白くなった、母は拳骨 位《げんこつぐらい》であった髭《まげ》が五|厘饅頭位《りんまんじゆうぐらい》になって、リョーマチスの為《た》め歩行が不自由になり、眼鏡を掛け ても、針の目が通らず、僅《わず》かに日向好縁端《ひあたりよきえんがわ》で、孫の着物のつづくり位を仕事とする様になっ た。庵主《あんしゆ》の妻《つまお》と婦《とうとよめ》の二人は各《かく》子供片手に内外《うちそと》の事に立働《たちはたら》いてはいるが、世話女房染《せわにようぽうじ》みたの が通り越して、世話女房|煮染位《にしめぐらい》になった。しかし子供の手足は反比例に、驚くばかり伸びて、 |甥《おい》の道之助《みちのすけ》は十一歳何ヵ月となって、小学校の成績は甲抜《こうぬ》けの優等尽《ゆうとうづく》しであった。ここで庵 主《あんしゆ》の大失策は、かの鯉沼家再興《こいぬまけさいこう》の意思に急なるが為《ため》にこの道之助《みちのすけ》だけを東京《とうきよう》に呼登《よぴのぽ》せ、彼《か》の |阿部博士《あべはかせ》に頼《たの》んで、早稲田《わせだ》に入学せしめた。丁度この頃が彼《か》の不良少年発生の初期であって、 一寸の油断もなき中《うち》に、悪友の為《た》めに損傷《そんしよう》されて、不良少年の群《むれ》に這入《はい》ったので、博士《はかせ》と庵 主《あんしゆ》の狼狽《ろうばい》は一通りでなかった、直《すぐ》に退校《たいこう》はさせたが、間《ま》もなく、大病を煩《わずろ》うたので、諸所の 病院に入れて全快《ぜんかい》させ、このままでも済《す》まぬから、ある田舎の園芸学校に転校させ、やっと それを卒業させて、故郷《こきよう》に孤棲《こせい》している母たる嬬《おとうとよめ》の処《ところ》に送り帰し、ともかく鯉沼家《こいぬまけ》だけは |継《つ》がせる事にしたのである。以上の顛末《てんまつ》は即ち彼《か》の三億千五百三十六万|秒間劇中《セコンドかんげきちゆう》の抜書《ぬきがき》で はあるが、一|方龍造寺《ぽうりぬうぞうじ》の方の芝居の景気は、一向に分らぬのである、はなはだしい事にはそ の居所《きよしよ》さえ分らず、また死生《しせい》さえ杏《よう》として、知るべき手段《てだて》がないのである。その中《うち》起った一事 件は、十|幾年孤閨《いくねんこけい》を守《まも》っていた、貞操無比《ていそうむひお》の嬬増女《とうとよめますじよ》は、天性至《てんせいいた》って孝心《こうしん》深き性質《うまれつき》にて、そ の里方《さとかた》の鯉沼家《こいぬまけ》にある一人の母が老病の床に就《っ》く事となったので、庵主《あんしゆ》および親戚協和相談《しんせききようわそうだん》 の上その病母の介抱《かいほう》に従事せしむる為め、新《あらた》に出来た鯉沼家《こいぬまけ》の里方《さとかた》に復籍《ふくせき》せしむる事とした のである。 『これにて龍造寺《りゆうぞうじ》は生きていても死んでいても、庵主《あんしゆ》の目的たる鯉沼家《こいぬまけ》は立つわ鬩女性一人 前の尽《つく》すべき、半生以上の貞操《ていそう》は立通《たてとお》したわ』『子供は生長《せいちよう》したわ』『一|時滅家《じめつけ》に瀕《ひん》した鯉沼 家《こいぬまけ》の再興《さいこう》は癩舳《ゆが》みなりに出来たわ』この上は老母《ろうぽ》の看護《みとり》を終《お》えて、孝道《こうどう》に欠点《けつてん》さえ無ければ増 女《ますじよ》の生涯《しようがい》は立派《りつば》なものであると云う事になったのである。ところで一方|庵主《あんしゆ》が間断《かれだん》なく憂身《うきみ》 を竃《やつ》している天下国家《てんかこつか》、即ち世間と云う物に対しての、不平不満《ふへいふまん》の低気圧は、いよいよます ます濃厚《のうこう》を加えてきて、最早我慢《もはやがまん》も辛抱《しんぽう》も出来ぬ事となってきた。殊に外交方面の危険と、 |不体裁《ふていさい》は言語《ごんご》に絶《ぜつ》する有様と成ってきたので、庵主《あんしゅ》は両親と妻にその意中を明かして、かね て気脈《きみやく》を通じ、山間僻阪《さんかんへさすう》に潜伏《せんぷく》している、憂国同志《ゆうこくどうし》の人々に事を謀《はか》るべく、意《い》を決《けつ》して瓢然《ひようぜん》 と故郷を立出《たちいで》たのは、秋《あき》の田《た》の面《も》の零《こぽ》れ穂《ぽ》に、飢《うえ》を囀《さえず》る雀等《すずめら》が、食を争《あらそ》う頃であった。それ より山陰《さんいん》地方より廻《まわ》り廻りて北陸《ほくろく》に入り、越前加賀越中《えちぜんかがえつちゆう》より越後《えちご》に辿《たど》り着いた時は、最早|遠 山《とおやま》が峯《みね》に雪降りて、近谷《ちかたにだに》々に紅葉散《もみじち》る、秋《あき》の末の頃であった。即ち新潟《にいがた》にて浦塩斯徳《ウラジオストツク》より密 行《みつこう》し来《さた》る同志に面会して、また此方《こちら》より同方へ密航させねばらなぬ用向に従事したが、これ 等の秘密行為《ひみつこうい》のために、京阪地方《けいはんちほう》との通信は絶《た》ゆるし不謹慎《ふきんしん》な事は為《し》ているし、路用《ろよう》の金《かね》に は必死《ひつし》と行詰《ゆきつ》まると云うので、新潟《にいがた》のある逆旅《げきりよ》に空《むな》しく滝留《えんりゆう》せねばならぬ事となったのであ る。時雨降《しぐれふ》る日の炉辺《いろりべ》に、あるいは書《しよ》を読《よ》み筆《ふで》を走《はし》らして、一|日《にち》の悶《もだ》えを遣《や》るを所作《しよさ》として いたがその時の詩《し》に、     えいゆうしふくきちゆうをいかんせん     ほくろくのせんざんまたあきにうそぷく     英雄雌伏奈機籌。  北陸千山復驕秋。     かんせずてんじふううのあしきに     こちゆうのさいげつあんりゆうにふす     不管天時風雨悪。  壼中歳月付安流。  ある日の事|突如《とつじよ》として這入《はい》って来た紳士があった。ラッコのチョッキに山高帽子、ロング コートに長靴で、ぴたり縁側の板張《いたばり》に平伏《へいふく》して辞儀《じぎ》をするので、庵主《あんしゆ》の胸《むね》はどきんとした。 これは何でも東京《とうきよう》から、国事《こくじ》を探偵《たんてい》する官憲《かんけん》が、庵主《あんしゆ》の挙動《きよどう》を物色《ぶつしよく》する為《た》めに追掛《おいか》けて来た ものに相違ないと考えて、逸早《いちはや》く相当の覚悟《かくご》は極《き》わめたのであったところが、徐《おもむ》ろに顔を上 げるを見れば、宣図《あにはか》らんやそれが龍造寺《りゆうぞうじ》であった。おやと庵主《あんしゆ》が意外の叫《さけび》をした時は、彼は |満面充血《まんめんじゆうけつ》の眼に涙さえ漂《ただよわ》して、声も唖《つまり》て云い能《あた》わざる有様である。しばらくして、 『図《はか》らざるところにて、お兄様《あにいさま》の御無事《ごぶじ》なお顔を拝しましたのは、私今生《わたくしこんじよう》の仕合せではござ りますが、一通りならざる不孝の身を以て、押してお目通りを致ますは、身の罪を弁《わきま》えざる |致方《いたしかた》でござりますが余《あま》りのお懐《なつ》かしさに、前後を忘れての推参《すいさん》、何卒万《なにとぞぱんばん》々の御赦免《ごしやめん》を願ます。 |下《しも》の関《せき》でお別れ申して以来の為体《ていたらく》は、お許《ゆるし》を得て追《おいおい》々に申上ますが、取敢《とりあえ》ず御《ご》両親様は御機 嫌宜《ごきげんよろしゆ》ういらせられますか』  これを聞く中《うち》に庵主《あんしゆ》は、嬉《うれ》しさと懐《なつ》かしさの感に打たれたものか、答える声はもう疾《と》うに |曇《ノちユも》っていた。 『おう御機嫌良《ごきげんよ》いぞ、安心せよ、道之助《みちのすけ》も増女《ますじよ》も達者《たつしゃ》でいる。色《いろいろ》々変った咄《はな》しもあるが、急 には出合わぬ。まず何より貴様《きさま》の健在《けんざい》は兄が一|期《ご》の喜びである、何はともあれ、世《よ》に憚《はぱ》から るる不埒《ふらち》の所行《しよぎよう》、少《すこし》は改《あらた》むる気になったかどうじゃ』 『世《よ》の諺《ことわざ》に申如く、己《おのれ》の欠《あく》び臭《くさ》からずと、私の所行《しょきよう》に就《っ》いて、その善悪《ぜんあく》は分りませぬが、九 州方面の筋悪《すじあ》しき債務《さいむ》だけは、大略始末《たいりやくしまつ》を付ましたのでございます。残るところの物は友誼《ゆうぎ》 もしくは法制の上にやや適法《てきほう》の物《もの》ばかりと相成ました次第でございますからこれからはお兄 様《あにいさま》のお咄《はなし》も多少は耳にも入《はい》る筈《はず》に心得《こころえ》ております。さて世の中と申す恐《こわ》い風波《ふうは》に揉《も》まれてみ ますると、お兄様《あにいさま》の御教訓《ごきようくん》が不思議にも可笑《おかし》い程《ほど》思い当る事ばかりでございます、只管《ひたすら》、有 難《ありがた》く存《ぞんじ》まして、改めて厚くお礼を申上ます』 『おうそれが分れば、千万の負債《ふさい》も物の数かわである。俺も貴様にこそ、講釈《こうしやく》も為《す》るが、俺 自身の自分の所行《しよぎよう》を吟味《ぎんみ》すれば、背《そびら》に汗《あせ》する事が度《たぴたぴ》々である。しかしその結果が善《ぜん》にあれ悪《あく》 にあれ、俺は善意《ぜんい》の行為《こうい》である。またそれが自己《じこ》でない、期する所は世間《せけん》である、自外他救《じげたく》 である、天下国家《てんかこつか》の事である、貴様等《きさまら》の目に余《あま》り、耳に余る事があっても、それは笑ってく れるな』 『いや今日《こんにち》お兄様《あにさま》の御在所《ございしよ》を知りました事に付いて一寸|申上《もうしあげ》ますが、私の友人|当県庁《とうけんちよう》の警部 長《けいぶちよう》、久保村活《くぽむらかつ》三なる人は、前年福岡県の警部長を勤務《きんむ》していた事のある人にて、知事《ちじ》は籠手 田安定《こてだやすさだ》と申す人でございます。その両氏を他用《たよう》にて訪問致ましたところ両人にてひそかに別 室に私を招いて…… 「君《きみ》の賢兄杉山君《けんけいすぎゃまくん》は、今|当市《とうし》に滞在中である、かねて半洋船《あいのこぷね》の帆船《はんせん》に、エンジンをひそめた る密猟船《みつりようせん》にて、異籍《いせき》の露領《ろりよう》に往復《おうふく》せしむる行為に、杉山君が関係あるとの嫌疑《けんぎ》で、その事を 東京より通知《つうち》してきている、それが各方面である、萩港《はぎみなと》、松江港《まつえみなと》、西郷港《さいごうみなと》、舞鶴港《まいづるみなと》、伏木港《ふしきみなと》 と時《ときどき》々|変更《へんこう》あるが、今度は新潟港《にいがたみなと》である、浦塩領事《ウラジオリようじ》からも注意が来《き》ているのである、その通 知を手にしたのが今朝である、元《もともと》々福岡に於て懇意《こんい》なりし杉山君が、この新潟市に滞在して おらるる事を、今知るさえ驚いたのに、その弟君《おととぎみ》たる君《きみ》が来訪《らいほう》せられたので、また驚いたの である、今|知事公《ちじこう》とも相談してみると、知事公《ちじこう》も杉山君は剣道の友で、東京の山岡鉄舟先生《やまおかてつしゆうせんせい》 との連絡《れんらく》で懇意《こんい》であるとの事、旁表向《かたがたおもてむ》き官憲《かんけん》の手に掛ける訳にはどうしても行かぬから、幸《さいわ》 いの来訪故、君《きみ》お兄《あに》さんの処《ところ》に行《いつ》て、両人で心配していると云う事だけを早く通じて貰《もら》いた い、もう巳《すで》に所用済《しよようずみ》になって、間《ま》もなく東京へでも帰らるる模様《もよう》ならば、県庁《けんちよう》よりは最早出 立後《もはやしゆつたつご》なりとの通牒《つうちよう》をして、当庁は責《せめ》を遁《の》がるる積《つもり》である、ともかく様子を聞いて何分《なにぶん》の返事 を頼《たの》む」との事でございました』 『うむ最早嗅《もはやか》ぎ付けたか、それはもっともである、大分日数も永くなったから、俺はもう用 事は疾《と》うに済んでおれ共、不見不知《みずしらず》の旅で、金が一文も無《な》くなったが大《おお》びらに東京との通信 も出来ぬのは今度は東京から直行して、ここに来たのではない、九州から山陰、北陸《ほくろく》を経《へ》て、 |此処《ここ》に来たのであるから、東京の関係者との連絡《れんらく》が取ってない、故に万止《ぱんや》むを得《え》ず、全く方 角違《ほうがくちが》いの東京の子分《こぶん》の奴に、偽名《ぎめい》の手紙を出したが、先方が不在の為め延引《えんいん》して、やっと先 刻《せんこく》三十円の為替手形《かわせてがた》が到着しておるが、今日の日曜ではそれを受取わけにもいかぬから、こ の手形《てがた》と印判《いんばん》とを宿《やど》に託《たく》して、明日早朝に新潟《にいがた》を出立《しゆつたつ》する積《つも》りである。それ故に知事《ちじ》や警部 長《けいぷちよう》に、徒《いたず》らに心配をさせるでもないから、貴様《きさま》これから直《すぐ》に行って、明早朝に立つから今度 は失礼《しつれい》するとよく礼《れい》を云うて断ってきてくれ、それから今夜はまた共《ともども》々に寝《ね》て夜《よ》と共に積《つも》る |咄《はなし》をして、明朝別《あすわか》るる事にしよう』 と、ここにこの問題《もんだい》は打合済みとなった。  その龍造寺《りゆうぞうじ》が出て往《い》ったと摺違《すれちが》いに、庵主《あんしゆ》の身《み》に大難事《だいなんじ》が突発《とつぱつ》した。それは数日前、彼《か》の |秘密用《ひみつよう》の為めに、日本船《にほんせん》と偽《いつわ》って、一寸|寄港《きこう》した密猟船《みつりようせん》が、出帆以《しゆつぱん》来|強烈《きようれつ》な北《きた》の颱風《たいふう》に吹黶《ふきしじ》 められて、船に損所《そんしよ》を生じ、何とも凌《しの》ぎの道なく、直江津港《なおえつこう》は平灘《ひらなだ》にて寄港《きこう》出来ず、伏木《ふしき》ま での航海に船が堪《た》えず、万止《ばんや》むを得《え》ず新潟に吹付けられ、港口《こうこう》に近《ちか》づかんとする時、怒濤《どとう》に 巻かれて船を粉砕《ふんさい》され、船員は破片《はへん》と共に散乱《さんらん》し、米人《べいじん》にして加奈陀籍《カナダせき》のリードと云える者 と、密行《みつこう》の庵主《あんしゆ》の友人一人が、破《わ》れたるボートに縋《すが》り付いたまま、浜辺《はまべ》に打上げられ、万死《ばんし》 に一生を得て、庵主《あんしゆ》の宿に濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》のようになって飛《と》び込んで来た一事である、庵主《あんしゆ》は驚樗《きようがく》と |喜《よろこ》びと当惑《とうわく》が一時に襲来《しゆうらい》したが、万策尽《ばんさくつ》きている時故手短かに事情を咄《はな》して、直《すぐ》に二台の車 を呼んで、濡《ぬ》れ衣服の上に庵主《あんしゆ》の外套《がいとう》と、和服《わふく》のコートとを羽織《はお》らせ、幸いに肌付《はだつき》の金は、 両人とも持っておるからともかくも新潟市《にいがたし》を離れたら、適宜《にてきざ》の方法によりて、管轄違《かんかつちが》いの長 野市善光寺《ながのしぜんこうじ》の某所《ぽうしよ》に宿泊して、庵主《あんしゆ》を待つべしと申含め追い立てたのである。  間もなく龍造寺《りゆうぞうじ》も帰って来て、何《いず》れも首尾好《しゆびよ》き報《ほう》を齋《もた》らして来《き》たから、久し振りにて共々 に食事をして、打寛《うちくつろ》ぎて有《あ》りし往事《おうじ》を物語ったのである。深雪降《みゆきふ》る夜《よ》の友垣《ともがき》は、薪《たきぎ》に勝《まさ》る炭《オみずみ》々 の、憂《ち ソ》き嬉《うれ》しさを様《さまざま》々と、互《かた》み交《がわ》りに語《あ》げつろう、炉《いろり》に増《ま》して温《あたたか》き、情《なさ》けあふるる兄弟《はらから》の、 |邂遁《めぐりあい》たる楽《たの》しさは拙《つたな》き筆《ふで》には書かれぬのである、その夜はとうとう諸共《もろとも》に眠《ねむ》りもやらず、遠 里《とおざと》の鶏《とり》の声を聞くに至ったのである、然《しか》るに翌朝になってみると、昨夜来の風雨にて、信濃《しなの》 川《がわ》の水嵩《みずかさ》幾丈を増したとかにて、附近市町村の騒動大方《そうどうおおかた》ならず、殊に北陸無比《ほくろくむひ》の長橋《ちようきよう》と称せ られた、信濃川橋《しなのがわばし》はあわや洪水《こうずい》にて押流《おしなが》されんばかりの有様で、一人の渡橋者《ときようしや》をも厳禁《げんきん》した との事である、為《た》めにその日は空《むな》しく龍造寺と共に宿にて暮《くら》していたが、薄暮《はくぽ》頃に突然龍造 寺に一封の手紙が来た。  それは警部長久保村活《けいぶちようくぽむらかつ》三|氏《し》からである。披《ひら》き見れば、 『御相宿《おあいやど》の高知県《こうちけん》の林矩《はやしく》一|君《くん》と同道にて料理店|鍋茶屋《なべぢやや》まで御枉駕《ごおうが》を願う』と林矩《はやしく》一とは庵主《あんしゆ》 が久敷《ひさしき》以前からの偽名《ぎめい》である。それを書いて送ったは変ではあるが、それが警部長《けいぶちよう》だけに面 白いのである。 『好《よ》し面白《おもしろ》い往《いつ》てみよう』 と、龍造寺と共に出掛けて往《い》ったが、久方振《ひさかたぶ》りに旧友久保村《きゆうゆうくぽむら》、籠手田《こてだ》の両氏に面会して、ま たいかなる物語りがあるか、それは次回に譲《ゆず》る事としよう。    五十 祖国《そこく》の危機《きき》を憂《うれ》えて           兄弟再び南北に別れ、諺話更に雪山に深し  庵主《あんしゆ》は龍造寺《りゆうぞうじ》に伴われて薄暮《はくぽ》の頃より籠手田知事久保村警部長《こてだちじくぽむらけいぷちよう》に面会すべく鍋茶屋《なべぢやや》へと出 掛けたのである、名にしおう北《きた》の県《あがた》の冬の暮れ、眼も開けられぬ粟雪《あわゆき》を、嚥《うそぷ》く海の荒風に、 |卍巴《まんじともえ》と吹捲《ふきま》くるを、硝子障子《ガラスしようじ》に隔つつ、手炉《しゆろ》を囲みし友垣《ともがき》は、十幾年振りの邂逅《かいこう》にて、音《おと》す る鍋《なべ》の沸《ふつふつ》々に、連れて豆腐《とうふ》か千賀小鯛《ちかこだい》、四面八満方《よもやまがた》の物語《ものがた》り、相互《かた》み交《がわ》りの応答《うけこた》え、絶間《たえま》も なしに打廻《うちめぐ》る、盃《さかずき》の数累《かずかさ》なりて、顔に濠《みなざ》る紅潮《こうちよう》の、湛《たた》えに近き頃となり、さて久保村《くぽむら》は云え るよう。 『久方振《ひきかたぶ》りの酒莚《さかむしろ》、子極《ねがた》の陸《くが》の涯《かぎり》にて、雪《ゆき》を蓐《しとね》の物語り、尽きぬ中にも一入《ひとしお》に、先問度《まずといたき》はこ の土地に、思いも寄らぬ珍客《ちんきやく》の淹滞《さすらい》、殊に今日まで吾儕《われわれ》に、何の信牒《しらせ》も無かりしは、事故あっ てかまた外《ほか》に、余儀《よぎ》なき理由《わけ》のありしのか』 とそれとは無《な》しになじり問う、詞《ことば》に庵主《あんしゆ》は心中《しんちゆう》に、尠なからざる警戒《けいかい》の、慮《おもんぱか》りを起せしが、 いや待《まて》しばしこの二人《ふたり》は、昔日《むかし》より、一入《ひとしお》我を知る友垣《ともがき》、武道《ぶどう》の親交《ちぎり》に年古《としふる》く、往通《ゆきかよ》いたる 人々故、包み隠すは野暮《やぽ》の至《いたり》、事の顛末赤裸《てんまつせきらら》々に、打明け語って荒胆《あらぎも》を、抜いてみるのも可《よ》 かるべしと、即時に決して座を正し、 『その問《とい》こそは僥倖《もつけ》のさいわい、それを賢兄等《きみら》に告げざりしは、賢兄等《きみら》に友誼《ゆうき》を重んずる、 いささか儕等《われら》の心尽《こころづく》し、その訳こそは二賢兄共《ふたりとも》、首傾《くびかし》けずして判るべし、そもそも庵主《あんしゆ》がこ の土地に、来りし事は先月の、末つ方《かた》より二賢兄《ふたり》とも、既に知っていたではないか、それに 今日まで音信《おとずれ》の、我儕《われら》に無きは中央政府より、厳敷通牒《きびしきしらせ》を受けしより、賢兄等《きみら》は下僚《かりよう》に命を 下し、事故《じこ》の顛末細《てんまつこまごま》々と、探偵《たんてい》したが何より証拠《しようこ》それを我儕《われら》は知らず顔、今日まで旅宿《やど》に蟄 居《ちつきよ》して、過ごしていたは県《あがた》にて、他に並びなき大官の、旧知《きゆうち》の友が嫌疑《けんざ》の眼に、掛《かか》れるを知 る故である、公私の別に賢兄等《きみがた》の、職務《たちば》を安すくさせんため、今は賢兄《きみ》より招かれて、隠《かく》れ |潜《ひそ》むべき時ならず、下風《かふう》に趨《ゆ》いて本末を、親しく話すは身に取って、この上もなき倖《さいわい》なり、 |儕《わ》が心尽《こころづく》しをまず識《し》りて、これから話す物語りを、私事《わたくしごと》の一節《ひとふし》と、思うて緩《ゆるゆる》々|聞《き》きたまえ、 そもそも儕《われら》が新潟《にいがた》を、地点に選びて浦塩《ウラジオ》や、西比利亜《シペリア》などに耳を伸べ、露西亜北政《ロシアほくせい》の鋒先《ほこさき》に、 眼を離なさざるその訳は、帝国《ていこく》の廟議浅薄《ぴようぎせんぱく》に流れ、安危《あんき》の鎖鑰方外《さやくほうがい》に逸《いつ》し、恥辱《ちじよく》を損得《そんとく》の数 に加えず、徒《いたず》らに戦《たたかい》を忌《い》んで国力《こくりよく》を麑《しじ》め、苟且愉安《こうしよとうあん》を以て国策とするを慨《がい》するより、止《や》むな くここに出《いず》るのである、それ国家《こつか》なる物は、栄辱《えいじよく》を以て生命となす、辱《はじ》を忘るれば国家に非《あら》 ず、即ち名なき民族の集団なり、国家と云う名を取除けたる物である、この故に国家には往 昔《むかし》より興亡《こうぼう》の歴史あり、力足らざる物は必ず亡ぶ、これを防ぐの道宇宙間《みちうちゆうかん》に決して無し、故 に理由あれば何時《なんどき》にても亡《ほろ》ぶる物である、この場合|志士《しし》の務《つと》むべきは、ただその亡び方の如 何《いかん》にあるのみである、樽狙《そんそ》、揖譲《ゆうじよう》、事理《じり》、道徳《どうとく》、いかなる事の限りを尽《つく》すも、彼《か》れ意《い》をただ 力の一点に注いでこれを圧倒し来《きた》らば、何を以て亡びざるを得んやである。国を解せざる鄙 流《ひりゆう》の族朝《やからちよう》に立って、娥冠長衣徒《がかんちよういいたず》らに国際の理義《りぎ》を尽《つく》すと雖も、その亡滅《ぼうめつ》に帰するの時、何を 以てその責《せ》めを償《つぐな》わんとするやを問わば、ただ荘《ぼう》として答えるの辞《じ》はないのである、彼《か》の印《イン》 度《ド》の歴史を見よ、比爾西亜《ペルシヤ》の歴史を見よ、土耳古《トルコ》、希臘《ギリシヤ》の歴史を見よ、否《い》な波蘭《ポモランド》を見よ、匈 牙利《ハンガリき》を見よである。理《り》に酔うて力《ちから》に醒《さ》めざる者、ことごとく皆然《みなしか》らざる者は無いのである、 今|帝国《ていこく》の有様《ありさま》は、理《り》の酒《さけ》に酔《よ》う鄙流《ひりゆう》の輩《ともがら》に向って帝国《ていこく》の千|鈞《きん》を一|髪《ぱつ》に掛《か》け、力の上の亡滅《ぽうめつ》に 対する損害賠償《そんがいばいしよう》を覓《もと》めんとするの時機《じき》である、見られよ露西亜《ロシア》は、多年国家呼吸器の傷害《しようがい》に 苦んで、これをバルカンに求めて得《え》ず、またこれを阿富汗坦卑利斯坦《アフガニスタンペルヂスタン》に求めて得ず、今や既 に窒息《ちノそく》の境遇に苦んでいるのである故に挙国満朝《きよこご まんちよう》の力を傾《かたむ》けて、東洋に突出せんと企て、既 に国帑《こくど》二|億《おく》六千|万留《まんルミブル》を注いで、烈寒瘠土《れつかんせきど》の西比利亜《シベりア》を通じ、以て浦塩《ウラジオ》に達せんとする大鉄道 の布設《ふせつ》に着手し、国内第一の名望家《めいぽうか》にして、経済上の大識見者と謳《うた》われたる、ウイツテ伯《はく》を 起して、西比利亜鉄道布設首部《シベリアてつどうふせつしゆぶ》の委員長となし、日夜《にちや》その行程《こうてい》を急《いそ》ぐの時、我国《わがくに》の大官《たいかん》はど うしていた、椅子《いす》に臥《ふ》し酒《さけ》を仰《あお》いで、『なに云う可《べ》くして行《おこ》なわれざるの事は西比利亜《シベリア》の鉄道 である、あの、バイカルの湖《みずうみ》がどうして越《こ》せるものぞ、長蛇《ちようだ》の中断は両片共に首《しゆ》と尾《び》とを欠《か》 く、ただ事を構えて内政に倫安《ごうあん》する露国《ろこく》一|流《りゆう》の政策である、と罵《ののし》っていたではないか。然《しか》る に嵩図《あにはか》らんや、そのバイカルの湖《みずうみ》は、見る間に、フエレ1ボーにて連絡を取り、半成《はんせい》の線 路ハルピンに達せんとするの時に、露国《ろこく》は直《ただち》に清国《しんこく》との秘密条約《ひみつじようやく》を発表し、欠《あく》びして手を伸 ばすように、ぬーっとブランチ、ラインの南下を企《くわだ》てた、奉天《ほうてん》、遼陽《りようよう》、金州《きんしゆう》、南山《なんざん》、旅順《りよじゆん》は、 見る見る中《うち》に輸送《ゆそう》の開始《かいし》を成《な》し、あれよあれよあれよと云う中《うち》に径《ただ》ちに朝鮮《ちようせん》に爪牙《そうが》を伸《の》べた、 その王室《おうしつ》と内閣《ないかく》とはたちまちにして露国公使館《ろこくこうしかん》に蟄《し》を齋《おく》るの有様となったでないか、歳久《としひさ》し く我国は、日韓協約《につかんきようやく》の誼《ぎ》を重んじ、第一|朝鮮王室《ちようせんおうしつ》の隆盛《りゆうせい》を謀《はか》り、第二|朝鮮富強《ちようせんふきよう》の基《もとい》を開き、 第三|朝鮮《ちようせん》の独立《どくりつ》までは無期限《むきげん》に資《し》を投じて保護して遣《や》った、その苦楽糟糠《くらくそうこう》の好誼《こうぎ》を無視する のは、その背後に非義非道《ひぎひどう》の露国《ろこく》と云う姦夫《かんぷ》あるが為《ため》に非《あら》ずして何ぞやである、今や帝国安 危《ていこくあんき》の一|髪《ぱつ》は、多年|放縦無稽《ほうじゆうむけい》に国政を玩弄《がんろう》して、一時の愉安《とうあん》にのみ酔《よ》うていた廟堂《びようどう》の汚吏《おり》に掛っ て、その興亡《こうぽう》を決せんとするではないか、二賢《きみ》兄|等《ら》は今なおこの当路《とうろ》に向って、現在国家の |蒙《こうむ》りたる、損害賠償《そんがいばいしよう》を覓《もと》めんと欲するのであるか、またそれを可能性の事と思惟《しい》するのであ るか、予幸《よさいわ》いにして永年知《えいねんち》を二|兄《けい》に辱《かたじけの》うす、奠《いずく》んぞ肺肝《はいかん》を披《ひらき》て教《おしえ》を乞《こ》わざるを得《え》んやであ る、予不肖《よふしよう》なりと雖も、我国祖先伝統《わがくにそせんでんとう》の血液《けつえき》を享《う》けて、常に身を国家の安危《あんき》に委《ゆだ》ね、これを |坐視《ざし》するに忍《しの》びず、これを傍観するに堪《た》えず、身《み》を挺《てい》して制機《せいき》の大策を立てんとすれば曰く、 国法を犯す曰く法制を乱《みだ》ると、たちまちにして幾多枝葉《いくたしよう》の小属《しようぞく》に命《めい》じて進退《しんたい》を拘束《こうそく》し、やや もすれば槿梏《しつこく》その後《しり》えに臨《のぞ》まんとす、何事《なにごと》の児戯《じざ》ぞ沐猴《もつこう》にして冠《かん》するの徒《と》、国運廻転《こくうんかいてん》の大豪 傑《だいごうけつ》を犯して、その裳《もすそ》を撞《ひ》かんとするやと云《いい》たくなるのである、二賢《きみ》兄|等不幸《らふこう》にして濁世汚流《だくせいおりゆう》 の末に入って、身をユニホームに包むと雖も、元《もと》これ憂国慨世《ゆうこくがいせい》の傑士《けつし》、何《なん》の戯《たわむ》れにか、触《ふ》れ なば燃えんとする予《よ》を縛《ばく》するの事《こと》を為《な》さんや、また何の慰《なぐさ》みにか予に、憂世《ゆうせい》の涙《なみだ》を徒放《とほう》せし むるの事を為さんやである、庶幾《こいねがわ》くは、二賢兄《きみら》は旧誼《きゆうざ》の私事《しじ》を懐《おも》う勿《なか》れ、ただ旧知奉公《きゆうちほうこう》の精《せい》 神《しム》を採《と》って済世《さいせい》の大業《たいざよう》に、義奮《ぎふん》一|片《ぺん》の誠《まこと》を贈《おく》ってくれられよ』 と心を傾けて説《と》いたのである、現今《げんこん》の世《よ》には爪《つめ》の垢《あか》ほどもそんな事の分る人間はおらぬが、 この二氏は素《もと》より日本武士道《にほんぶしどう》の精神《せいしん》を弁《わきま》えたる、瞹世《こうせい》の士人《しじん》であるから、口を揃《そろ》えて、 『よし分った安心《あんしん》して遣《や》りたまえ、出来るだけの便利《べんり》は足《た》すよ、君が悪い事をしたと云うて も、米国の密猟船《みつりようせん》に因《よ》って浦塩《ウラジオ》に無券《むけん》の旅行《りよこう》をさせた事と、無券《むけん》の洋人《ようじん》を内地《ないち》へ入《い》れたるだ けであるから、それは手続上の事を追駆《おつか》け、事務にしてしまえば幾等《いくら》も前例があるから、能《よ》 く調《しら》べて遣《や》ってやるよ、その位の事は何でもないが、縦《よし》んば容易《ようい》ならぬ事件が起ったとして も、元《もともと》々|主意《しゆい》を国家的善意《こつかてきぜんい》に起した事《こと》なら、我々の職務《しよくむ》にどんな障害《しようがい》の犠牲《ぎせい》が掛《かか》ってきても、 この国難《こくなん》を救《すく》い遂《と》げる目的の前には、少しも恐れる事はないから、安心してしっかり遣《や》って くれたまえ』 と青竹《あおだけ》を割《わ》ったように、口を揃《そろ》えて云うてくれた時には庵主《あんしゆ》は、 『あ1日本《にほん》はまだ亡《ほろ》びぬわい、日露戦争《にちろせんそう》にはきっと勝《かつ》わい』" と思うた。かかる話を最前より押黙《おしだま》って聞いていた龍造寺《りゆうぞうじ》は、三百《ごん》も発《はつ》しなかったが、庵主《あんしゆ》 は両人の好意《こうい》を心より謝《しや》して、明早朝出立《みようあさしゆつたつ》の事《こと》を告《つ》げて、とうとうその夜の十二時少し前に 別れて宿に帰ったのである。それからまた兄弟床《きようだいとこ》を並べて寝《ね》る事になったが、龍造寺《りゆうぞうじ》は庵主《あんしゆ》 の枕元《まくらもと》に坐《ざ》して、最《いと》も真面目《まじめ》な顔付でかく云うた。 『お兄様今《あにいさま》日私は始めて阿方《あなた》が知事《ちじ》や警部長《けいぶちよう》にお咄《はなし》になったのを能《よ》く側《そば》にあって聞ました が、私が幼少より褥《しとね》を同じゅうして成長した自分の兄は、こんな人で有ったかと云う事を始 めて知りました、小耳《こみみ》にお兄様《あにいさま》が国事《こくじ》国事と云うていらっしゃるのは、一体どんな事が平民《へいみん》 のする国事《こノさし》であるかと思うて、今日まで聞流にしておりまして、そんなつまらない事よりも、 |男子《だんし》の為《な》すべき事は、実業の事より外《ほか》はないと思うていましたが、実に国事《こピモじ》と云う物は実《み》の |入《はい》った面白い事でございます、私は幼少よりお兄様《あにいさま》と鬼《おに》ごっこも共《とも》に為《し》ました、百姓も共に |為《し》ました、山遊《やまあそ》び川遊《かわあそ》びも共《とも》に為《し》ましたが、成長して世間に対する仕事《しごと》だけは、全く別《べつぺつ》々に なってしまいました、今日のお話で始めて自分の兄はこんな事を仕《し》ている人であったかと云 う事を知りましたので、今では私の今日まで幾多《いくた》の辛苦《しんく》を累《かさ》ね、幾多《いくた》の失敗を積《つ》み、幾多《いくた》の 人の産《さん》に危害を加えて、努力仕ました実業は、夢見る片手に温《ぬる》い風呂《ふろ》に入っていたような、 |馬鹿臭《ばかくさ》い事が分りました、私も武士《ぶし》の家に生れた者でございますから、今日から総ての仕事 を打捨てまして、お兄様《あにいさま》の弟子となって、国事専門《こくじせんもん》に尽《つく》したいと思いますが、どうでござい ましょう』 というから庵主《あんしゆ》は思わず噴《ふ》き出して笑うた。 『貴様《きさま》は俺《おれ》より生れ勝っている点は沢山あるが、国事《こくじ》に関する事は俺の方が先輩《せんぱい》である、こ の商売《しようばい》はなかなか一寸|早速《さつそく》に出来る事ではない、その入門の試験に四|鯛病《たいぴよう》を根治《こんじ》させねばな らぬ、それは「長生仕鯛《ながいきしたい》、金儲《かねもう》け鯛《たい》、手柄《てがら》が立鯛《たてたい》、名誉《めいよ》が得鯛《えたい》、の四つである、即ち死《し》、貧《ひん》、 |功《こう》、名《めい》、の上の観念《かんねん》を解脱《げだつ》して、命《いのち》は何時でも必要次第に投出《なげだ》す、貧乏は何程《なにほど》しても構《かま》わぬ、 縁の下の力持をして、悪名《あくめい》ばかりを取って、少しも不平がなく、心中《しんちゆう》常に爽然《そうぜん》の感が漂《ただよ》うて |春風祖徠《しゆんぷつそらい》の中に禰律《しようよう》するが如き境涯《きようがい》にならねばならぬ、今の世の国事家《こくじか》は、往成《ゆきなり》に国事《こくじ》を触 声《ふれごえ》に売歩きて、次手《ついで》に死の責任は免がれよう、次手《ついで》に金《かね》は儲《もう》けよう、次手《ついで》に手柄自慢《てがらじまナハ》はしよ う、次手《ついで》に美名《びめい》は得ようと云う四よう病」に罹《かか》った患者《かんじや》ばかり故働けば働く程|害菌毒素《がいきんどくそ》を第 三者に振《ふ》り掛《か》けて、世に多くの迷惑《めいわく》を掛けるのである。いまもし貴様《きさま》が国事家《こくじか》となって入門 するには、この種類の国事屋《こくじや》の番頭《ばんとう》により外成《ほかな》れぬのである。それでは国事上に何の利益も ないのである。真の国事家《こくじか》は国家が事実の上に利益する事である。故にその国事家は損《そん》して、 |悪名《あくめい》を取って、身《み》を粉《こ》に砕《くだ》き、揚句《あげく》の果は死んでしまう。それが大成功《だいせいこう》であるから、普通常 識の考えからは大損《おおぞん》である。まずそんな事《こと》は止《や》めたが好《い》いと思う。俺《おれ》は端《はし》なくこんな家業《かぎよう》に 取掛ったから、親を凍《こご》やし妻子《さいし》を飢《う》やし、身《み》に濫褸《ぽろ》を纒《まと》うて道路に彷徨《ほうこう》し、終《つい》には鼠《しらみ》の吸う |血程《ちほど》の月給《げつきゆう》を取《と》る役人から、鍋茶屋《なべぢやや》で御馳走《ごちそう》になって有《あり》がたいとお礼を云うて、こんな古雨 戸《ふるあまど》を背負《せお》ったような堅《かた》い蒲団《ふとん》にくるまって、この寒国《かんこく》に愉快《ゆかい》がって寝《ね》ねばならぬ者に成り果《はて》 た、故に貴様だけはそれに仕《し》たくないと思うから、どうか貴様《きさま》は人間並に身《み》の振方《ふりかた》を付けて くれ』 は何と思うたか、しばらく頭を下げて考えていたが、こそこそと寝《しん》に就《つい》 てしもうた、庵主《あんしゆ》も共にとろとろと眠ったかと思うと、窓打つ夜半《よわ》の寒風《かんぷう》と、靉《あられ》の音《おと》に夢覚《ゆめさ》             あさげ   し たく                     たちいで    りゆうぞうじ  ぜんこう¢ めて、起よと歌う鳥の声、朝餉の支度もそこそこに、その宿を立出たが龍造寺は善光寺まで 送ると云うて庵主《あんしゆ》に同行してくれた。ああ持つべき物は兄弟《はらから》か、たけなす雪《ゆき》の野中道辿《のなかみちたど》り辿 りてその晩に長岡《ながおか》に所用《しよよう》ありて一泊し、その翌日はまた直江津《なおえつ》に一泊し、また高田《たかだ》の旧友《きゆうゆう》の |孤独《こどく》に暮す老母を訪《おとな》い、とうとう四|日目《かめ》に長野町《ながのまち》の更科館《さらしなかん》と云う旅亭《りよてい》に辿《たど》り付たのである。 この間龍造寺《かんりゆうぞうじ》は庵主《あんしゆ》をして、生来始めて兄弟の親しみを感ぜしめて、今なおそれが忘《わす》れ難《が》た いのである。道中荷物の宰領《さいりよう》から、雨具草韃《あまぐわらじ》の調度《ちようど》まで、一切|龍造寺《りゆうぞうじ》の世話賄《せわまかな》いに何の不自 由もなく雪中の旅行を続けたが、これより、ここに待居《まちい》たる西洋人一名と、友人一名と共に 旅立ねばならぬのである。それから幾多の艱難《かんなん》を嘗《な》めて木曾街道《きそかいどう》を辿《たど》り、名古屋《なごや》に到着した のは、九|日《か》の後《のち》であった。この道中の奇話珍談《きわちんだん》は筆《ふで》に尽《つく》されぬ面白味があったが、それは後 日の談片《だんぺん》に譲るとして、庵主《あんしゆ》はこの長野《ながの》に於て龍造寺《りゆうぞうじ》と云い得られぬ哀愁《あいしゆう》の念《ねん》を忍《しの》んで袂《たもと》を 別ったのである。  ある伊国《いこく》の情話《じようわ》に、二人の兄弟が雪の山中にて離別をする時、兄は十|哩《マイル》程山奥の鉱山に、 |雇主《やといぬし》の命《めい》に依《よつ》てその要書を届けねばならぬ、弟は八|哩《マイル》先きの渓村《けいそん》に、孤棲《こせい》せる老母に糧《かて》を届 けねばならぬので、両方共寸時も等閑《とうかん》にすべからざるの要務を持っているから、別るべき事 は双方共決心をしていた、然《しか》るに兄は弟の事を案じ、弟は兄の身の上を気遣《きずか》い、ある繁《しげ》れる |大樹《だいじゆ》の下《もと》に火《ひ》を焚《た》いた、しばらく沈黙《ちんもく》していたが、兄は意《こころ》を決して弟にかく云うた。『弟よ予《よ》 は汝《なんじ》と共に母に顔を見せる事を無上の楽としているから、遅《おそ》くも明日の昼までには要務を仕 舞《しも》うてここに来るから、汝はこの薪《たきぎ》に暖《だん》を取り、この餉《かれい》を食してここに待ちおらぬか』 『兄上よ母の糧《かて》はなお半月を支うべし、予《よ》はかねがね兄上《あにうえ》の往《い》く鉱山を一度見たいと思うて いるから予が代って鉱山に往《ゆ》きたいから、兄上はここにいて予の帰り来るを待ちたまわずや』 『いや予は予が雇主《やといぬし》より予が命ぜられたる要書を他人《ひと》に届けしむる事を好まぬ、ぜひとも汝《なんじ》 ここに待《まつ》っておるべし』 とこの兄弟|切情《せつじよう》の話の中《うち》に、峠の方の道より下《くだ》り来《きた》る一人の旅客《りよきやく》があった。図《はか》らざりきそれ が手紙を届く可《べ》き兄の鉱山の支配人《しはいにん》ならんとは、故に兄はその要書を親《した》しく手渡して、兄弟 共々にとうとう母の村に往って糧《かて》を渡し、また共々に顔を揃《そろ》えて母に見せて、限《かぎ》りなき母の 喜びを得て、共に元の雇主《やといぬし》の所に帰り来《き》たのである。それから後にだんだんと聞いてみると、 その来《きた》りたる人は鉱山の支配人ではなかった。一羽の白鳥が飛来りて、その兄《あに》の携《たずさ》えたる要 書をその支配人の家の窓際に置《お》いて飛去《とぴさ》らんとするので、不思議《ふしぎ》に思うて見ている中《うち》に、た ちまちにそれが一つの老宣教師《ろうせんきようし》と化し『我《われ》は天使《てんし》なり』と叫《さけ》んで消失《きえう》せてしもうたとの事で ある。  素《もと》より一|片《ぺん》の情話《じようわ》取るに足らざれども、人種教育を異《こと》にしたる伊国《いこく》でさえ、兄弟相思《きようだいそうしじ》の情《よう》 は無言沈黙《むごんちんもく》の間に、径《ただ》ちに神に感応《かんおう》するのであると云う諷諺《ふうげん》であると思う。庵主《あんしゆ》と龍造寺《りゆうぞうじ》が 長野駅頭の離別《りべつ》は伊国《いこく》の兄弟とその目的《もくてさ》も境遇《さようぐう》も異にしてはいるが、ただ沈黙不言《ちんもくふげん》の中《うち》に心 を浸《ひた》した情合《じようあい》は、今なお髣髴《ほうふつ》として忘却《ぽうきやく》し難《がた》いのである。 五十一 |厄介《やつかい》な国事道楽者《こくじどうらくもの》   漁夫弾を抱いて敵国に向い、 暴漢母を倒して其財を奪う 厄介な国事道楽者  その後一ヵ年《ねん》ばかり過ぎた頃、庵主《あんしゆ》が東京築地《とうきようつきじ》の台華社楼上《だいかしやろうじよう》に晏居《あんきよ》の折柄、警視庁《けいしちよう》の刑事 係が一名突然と来て面会を求めた。会《お》うてみると曰《いわ》く、 『貴殿《きでん》の実弟たる、龍造寺隆邦氏《りゆうぞうじたかくにし》が、今回ある北陸《ほくろく》の漁民等数名と共に、漁船の親船《おやぶね》一|艘《そう》を |仕立《した》てそれに日露戦役軍夫《にちろせんえきぐんぷ》と称して一種の徒党《ととう》を組み、莫大《ばくだい》の爆発薬《ぱくはつやく》と共に乗込んで、能登《のと》 の七尾港《ななおこう》から出帆《しゆつばん》せし形跡《けいせき》がある為《た》め、八方|捜索《そうさく》の末、貴下《きか》の実弟なる事を聞き出し、何か と御存《ごぞん》じの事情もあらば承《うけたまわ》り度《た》しと思うて参上《さんじよう》せり』 |云《うんぬん》々の咄《はなし》である。庵主《あんしゆ》ははっと思うた『あの奴新潟《やつにいがた》の鍋茶屋《なべぢやや》一|夕《せき》で急造|憂国家《ゆうこくか》になって、ま た胆切《きもぎ》れの大胆《だいたん》な事を始めたな、困った事を仕出かしたなあ』とは思うたが、何様刑事《なにさまけいじ》の前 で黙っている訳にも行《ゆ》かぬから、 『はい龍造寺隆邦《りゆうぞうじたかくに》は僕の実弟に相違ありませぬ。しかしこの者《もの》は幼少より商家に養子《ようし》に行き、 |拙家《せつか》へ復籍《ふくせき》後も、主《おも》に鉱山業に従事し、少しも対外交とか、内政上に対する政治思想とかに は没交渉《ぽつこうしよう》の男であります。僕は故郷にて一別後、十数年も面会せざりしが、昨年はからず新 潟《にいがた》にご邂遁《かいこう》し、一|夕宿《せきやど》を共にして旧事《きゆうじ》を語り明した位にて、その際《さい》も決して談国事《だんこくじ》などに及 ばなかったのであります。今のお咄《はなし》は余りに突然なのと、事柄が余り本人と懸隔《けんかく》がある為め、 急に何等のお答も出来ませぬが、まず当方でも相当の捜査《そうさ》を仕《し》まして、何等か事情を得《え》まし たら日頃懇意《ひヰころこんい》に致《いた》す警視総監閣下《けいしそうかんかつか》まで、直《ただち》に申通《もうしつう》じましょう。何《いず》れにしても事柄が国事《こくじ》に関 する事ですから、破廉恥罪《はれんちざい》とは違い、何等隠蔽《なんらいんぺい》の必要もないと思いますから、御安心の上今 日は御引取を願います』 と云うたので、そこそこに刑事《けいじ》は帰ったが、さて龍造寺奴《りゆうぞうじめ》何を仕出かしたか、何様捜査《なにさまそうさ》の仕 様《しよう》もなく取敢《とりあ》えず新潟《にいがた》の彼の住所へ長電を打《う》って問合せたら、翌朝返電が来た。 『主人は不在居所《ふざいきよしよ》も今日《こんにち》は分らぬ』 との事である。庵主《あんしゆ》も頓《とん》と行詰《ゆきづ》まり、あの竜造寺《りゆうぞうじ》が、今|不馴《ふな》れの国事道楽《こくじどうらく》などを初めて、首 尾始末《しゆびしまつ》の付かぬような事を仕出かしては困るがなあと、分けても親身《しんみ》は芋汁《いもじる》の、味《あじ》は匂《にお》いの |田舎武士《いなかぶし》、若《わか》い親爺《おやじ》の気《き》になって、焚《た》く焚《た》く愚痴《ぐち》る炉《ろ》の炭《すみ》の、起《おこ》る程《ほど》には心にも、怒らぬ変 な気煙《きけむり》で、燻《くすぶ》るままに二三日を、暮して居《い》たる午前二時頃、雨にも堪《た》えぬ門《かと》の戸《と》を、こつこ つ叩《たた》く者がある。風《かぜ》か水鶏《くいな》か電報《でんぽう》か、番《ばん》の小僧《こぞう》が居穢《いぎた》なく、気他無《きたな》く、寝込《ねこ》んで起《お》きぬ焦躁《もど》 かしさに、自分で起て戸締りを、開ければ、にゅーと入り来《きた》る、夜目《よめ》にもそれと知《し》らるるは、 思い続けし龍造寺である。その驚《おどろ》きと嬉《うれ》しさに、云う事さえも後《あと》や先《さ》き、まず居間《いま》へ伴《ともな》いて、 さてその来意《らいい》を問うて見れば、彼はにこにこ笑を湛《たた》え、 『今夜参りましたのは、お兄様が私の事で御心配になっているとの事を、新潟《にいがた》の宅《うち》から申て 参りましたから、夜中《やちゆう》お休《やすみ》の時にもかかわらず、参上致しました訳でございます。さて私の 今回致ました事件は、元浦塩《もとウラジオ》に在《あ》る私の友人が、何時《いつ》の間にかどえらい対外交の思想と成っ ていまして、ひそかに日本に帰ったが、一の知人も無いところから、私に手便《たよ》って来まして、 現在日本外交の拙劣《せつれつ》と、軍事計画の手後《ておく》れは、切歯扼腕《せつしゃくわん》に堪《た》えぬと云う顛末《てんまつ》を物語りまして、 個人行為として敵国《てきこく》の鉄道橋梁《てつどうきようりよう》その他を破壊する考えであるが、何様肝心《なにさまかんじん》の爆発薬《ばくはつやく》が手に入 らぬからと、夜を徹《てつ》しての慷慨咄《こうがいばな》しでござりますから、私も日本人で、彼の一死を決した覚 悟《かえ ちご》と精神《せいしん》を見捨てる訳にも参りませぬから、この間《あいだ》よりいささか手蔓《てづる》を得《え》ておりました米国 捕鯨船《べいこくほげいせん》の所有する爆発薬を、鯨《くじら》を捕るよりも余計《よけい》の代価《だいか》で買い入れまして、その男に遣《や》りま したところが、この爆発物買入れ等に使いました私の手下《てした》にある命知らずの漁民共が私に膝 詰《ひざづ》めの談判《だんはん》を致しますには「我々は親の代から、魚と取組合《とつくみあい》をして、命を捨てねばならぬ職 業であるのが、今度は千載《せんざい》の一|遇《ぐう》で、敵国人《てきこくじん》と取組合って死ねる時が来ましたから、ぜひあ の浦塩《ウびジオ》の先生と一緒に、露国《ろこく》に遣《や》って下さい。私共五人は、昨年の大暴風《おおしけ》に、三日も海中に |澤《ただよ》つて、敦賀《つるが》の救難所《きゆうなんじよ》で救われた者でござりますから、一年前に死んだと思うて出掛《でか》けます」 と云《いい》ますので、その友人と相談の結果、大賛成を致まして、共《とも》に出帆《しゆつぱん》させる事に致ましたが、 |新潟《にいがた》や敦賀《つるが》では出帆《しゆつぱん》が面倒でござりますから、船を七尾《ななお》に廻し、出帆《しゆつぱん》を企《くわだ》てましたところが、 きっと名前の知れた人で、戸籍《こせき》の証明《しようめい》を出帆届《しゆつぱんとどけ》に要する戦時中の取締であるとの事ですか ら、その浦塩《ウラジオ》の友人に、私の名前と戸籍証《こせきしよう》を使用せしめて危《あや》うくも出帆《しゆつぱん》させたのでございま す、故にもし発覚《はつかく》しましても、その友人が私の名前を詐欺《さぎ 》したと云う事になるだけで、私に は法律上の罪はございませぬと思います。私もだんだん考えまするに、その友人をそのまま に放って置《お》くのも面白くありませんから、お目に掛《かか》ってお赦《ゆる》しを得《え》ましたら、松花江《しようかこう》の方に |往《い》ける手蔓《てづる》がござりますのを幸富山県《さいわいとやまけん》の漁夫数人と、漁船に乗て出掛け何なりと少しばか りでも敵国《てきこく》の物《もの》をぶち破《こわ》して来《こ》ようかと思い、ただ今その準備中でございます。已《すで》に友人と 先発の漁夫共は、敵国の鉄道橋桁《てつどうはしげた》を破《こ》わすには、笊《ざる》で帽子《ぽうし》を栫《こしら》え、それを頭に被《かぷ》り、その中 に爆裂薬《ばくれつやく》を入れて、川上から夜中|流《ながれ》に従《したが》って立泳ぎをして、橋桁《はしげた》に到着し、それを打付けて 頭と共に橋桁《はしげた》を破《こ》わすと申ていました。これらも新発明の破壊術《はかいじゆつ》とは思いますが、私はこれ ら漁夫共より、今少し甘《うま》い工夫《くふう》をしてみたいと思うています、どうか、人間として生《うま》れ来《きた》っ た世《よ》に、復《ま》た遭《あ》う事のできぬ千|載《ざい》一|遇《ぐう》の時でございますから私の思い立《たち》を御許可なさって下《くだ》 さいませ』 とぺらぺらと喋《しゃべ》るのである。庵主《あんしゆ》もしばらく沈黙《ちんもく》して彼が云う事を聴いていたが徐《おもむ》ろに口を 開いた。 『総《すべ》て意外《いがい》千|万《ばん》の事を聞く物である。汝《なんじ》にして左様《さよう》な対国家的思想《たいこつかてきしそう》のある者とは今まで思う ていなかった。まず我家の血統《けつとう》として、かかる奉公《ほうこう》の考えを起した事《こと》だけは取敢《とりあ》えず賞する が、この種《しゆ》の事業としては、汝はまだ全くの素人《しろうと》である、生《う》ぶの小児《こども》である。男子仮染《だんしかりそ》めに も国事《こくじ》に身を委《ゆだ》ねる事を決する時には、その精神《せいしん》と生命《せいめい》の消耗《しようもう》に、一定の覚悟《かくご》がなくてはな らぬ。その時《とき》その時の出来心《できごころ》で、功名《こうみよう》をのみ診《お》うて走る者、これを糞虫士《くそむしざむらい》と云う、今|天下《てんか》に |充満《じゆうまん》する志士《しし》は皆《みな》この種類である。陽気《ようき》の加減で、艀化《わい》て、嵩《は》一氾い登っては落|三《は》胄一旭い登っては 落ちて、遂《つい》に糞汁汚濁《ふんじゆうおだく》の中で溺死《できし》するのである。また、千百万中その糞虫士《くそむしざむらい》の解脱《げだつ》したのが、 |蒼蝿士《はいざむらい》と云うのである、いたずらに権要《けんよら》や群衆に詣《こ》びて、迎歓《げいかん》の説《せっ》をなし、出来るだけ説《せっ》を 売り問題《もんだい》を食《く》うて、揚甸《あげく》の果《はて》は、蒼蝿《うる》さがられて、撲《たた》き殺される位が落《おち》である。汝の今の出 来心《できごころ》邸ち急造志士《きゆうぞうしし》は、以上の者よりも今一層|劣等《れつとう》である。予は天性《てんせい》の頑鈍《がんどん》ながら、いやしく も予《よ》は予の対国家的出発点に於て、その精神《せいしん》と生命《せいめい》の消耗《しようもう》にきっと覚悟《かくご》を定めている。第一 は皇上《こうじよう》の御為《おんた》め、第二は国土民人《こくどみんじん》の為《た》め、第三は朝鮮《ちようせん》の始末《しまつ》と釣《つ》り代《か》えである。この三つの 為《ため》なら、何時《いつ》でも現在の生命《せいめい》を提供するが、それ以外には決して死なぬ、後《あと》はその日その日 の出来事に対して、適当の智《ち》と才《さい》と体力《たいりよく》とを尽《つく》すのみである。然《しか》るに汝《なんじ》は予《よ》の弟として、北 国《ほつこく》の漁民と同じく、笊《ざる》の帽子《ぽうし》を頭に冠《かぶ》りて、爆裂薬《ばくれつやく》をその上に載《の》せて北露《ほくろ》の橋桁《はしげた》と共に頭を |破《こ》わして済むと思うか、目に一|丁字《ていじ》なく、心に理非《りひ》の弁《わきま》えなき漁民が、大和民族《やまとみんぞく》の一部とし て、全身の血をその一|挙《きよ》に傾《かたむ》け尽《つく》すの決心はその分限《ぶんげん》として賞するにも余《あま》りある事じゃが、 |汝《なんじ》は已《すで》に相当の識力《しきりよく》と、理解力とを持ち、名家《めいか》の血液《けつえき》を受けたる一男子である。それが自か ら漁夫と選を同《おなじゆ》うするは言語道断《ごんごどうだん》である。汝已《なんじすで》に口あり声あり、誠《まこと》を以て道を説くに、何 の不自由かある、動くには已《すで》に手あり足あり、進退坐作《しんたいざさ》何の不自由かあらん。まずそれを試 みたる結果として善悪《ぜんあく》の期決《きけつ》に対し、腹を屠《ほふ》るも宜《よ》し、頭を割るも宜《よ》し、それはその以後に 於て何の遅《おそ》き事か之《これ》あらんである。君国《くんこく》の干城《かんじよう》には已《すで》に軍人あり、戦陣《せんじん》に命を捨るを目的と す、これに従《したが》うの軍夫《ぐんぷ》また後方の勤務を以て身命《しんめい》を抛《なげう》つ、予が友《とも》数十は、已《すで》に政府《せいふ》の命《めい》を奉《ほう》 じて通訳の官たる者多《ものたた》々あるのである、これ等はまたそれを以て身命《しんめい》を抛《なげう》つのである。けだ し汝はまた何の纏蓄《うんちく》あってこの企《くわだて》を為《な》すか、已《すで》に悪事業の為《た》め人の産を傾むくる事十数、妻 拏《さいど》十年、離散《りさん》の苦楚《くそ》に吟《うめ》き、その全責任ある汝が最終の結論は、漁夫と死を共にするに帰着 することは、現在の兄として決してこれを許《ゆる》す事が出来ぬのである、速《すみや》かに一|心《しん》を立命《りつめい》の地 に安《やす》んじ、中心より人に対《こた》え、世《よ》に報《むく》ゆるの策を決し、生死《せいし》をこれに賭《と》する事をなすべし、 殊に兄が躍絆く轡ざるの事は・瀲じ野ら肇を米船誉うてこれ爰に与え、また齢 から椥譲して瀦げ名をその友に名乗らせながら、法律上その友が氏名詐称《しめいさしよう》になるだけで、自   むざい      芝れつ せいしん     萋む      おの  耋む   あら 分は無罪兮端と云う賤劣轄芝るか、人姦く準に諧沁れ矯くは羅排佚 か、汝はまず己の罪を知り、今予が与うるこの一書を携えて警視総監に面接し、事実真情残 らず鼻して甘聯の藁を掀悟せずんば、決して予が弟たるを許さざるべし、決して遅疑 逡巡《ちぎびしゆんじゆん》はならぬぞ』  と            よわ 耋耋くちつ  、薹わくも  しののめ あかわ と説き聞かせたのである。いと長き、夜半の苧環口尽きて 窓枠漏るる東雲の、茜さすまで      と     かた    くちしげ    のきば   すずめな   か       さかきう  こえほがら     となり おやじ   おきい 綾り返し、解くも語るも口繁き、軒端の雀啼き交わし、榊売る声朗かに、隣の親爺も起出で   かしわでたた                     りゆうぞうじ    あんしゆ        たずさ   けいし そうかん        おとず て、柏手叩く頃となった。それより龍造寺は、庵主の手紙を携えて警視総監の官舎を訪問れ、 事件の照君瀞れもなく趾猷したところが、だんだん調査の結果、その相手たる浦塩《ウラジオ》の友人を ま ぱく      たいしよう                  りゆうぞうじ                    へんげん  じ しゆ       りゆうぞう 捕縛して、対照せざる限りは、やはり龍造寺が初めに信じた通り、片言の自首にして、龍造 ぎそのま轟に等る事も岸ぬ諧自然その友人が龍造寺の名を詐称《さしよう》して江尾塩《ななおしゆつ》 幟したと云う事に見傲さざるを得ぬ事と成ったそうである、それから龍造寺は、新潟を引揚            なが  あざぷ   かわだい                        みぎりあんしゆ  ようこう げ、東京の住居となって、永く麻布三河台の辺に居住していたが、その砌庵主が洋行の留守 中、また小説的俳優じみた一|奇事《きじ》を仕出《しで》かしたとの事である。           りゆうぞうし    じゆが わら    どうらく  うおつり  いつ               ねむけ  それはある春の日に龍造寺が千住河原へ、道楽の魚釣に往ていたらしきりに眠気を催して きたので、日当り良きとある藁小積《わらこづみ》の蔭《かげ》に、居睡《いねむ》りを仕《し》てぐっすりと、眠り込んでる中に、 その藁小積《わらこづみ》の後《うしろ》の里道《りどう》の辺で、年頃五十ばかりの老媼《ばあさん》の、泣き叫ぶ声がするので、ふと目を |覚《さ》まして窺《うかが》い見るに、三十|恰好《かつこう》の頑丈《がんじよう》の若者が、その老娼《ばあさん》の背負《せお》うている荷物と、首に掛け ている財布《さいふ》まで剥取《はぎと》らんと強追《きようはく》しているので、なおじっと見ていると、立上り様|老娼《ばあさん》を一蹴《ひとけ》 りに蹴倒《けたお》した。その老媼《ぱあさん》は真逆様《まつさかさま》に横の殻溝《からどぶ》に陥《おちい》り、大怪我《おおけが》を仕《し》たらしいので、龍造寺《りゆうぞうじ》は余 りの乱暴を見兼《みかね》て、かねて巡査《じゆんさ》も奉職《ほうしよく》していたし、捕縄《とりなわ》の名人ではあるし、持合せた魚籃《びく》の |僅《わず》かの苧縄《おなわ》を引解《ひきと》きてそれを携《たずさ》え一声掛けて、不意にその曲者《くせもの》に飛付いた、その曲者《くせもの》も声に 応じて驚いた時には、もう右手と頸《くぴ》に縄が掛っていて、ばた付くところを脾腹《ひぱら》を嫐《け》って弱わ らせ、遥《はる》かの野良《のら》にいる百姓を呼んで、老媼《ばあさん》の介抱《かいほう》をさせ、やっと人家《じんか》まで連れて来て、直《ただち》 に千|住《じゆ》の警察署《けいさつしよ》に人を遣《や》り、自分の身許《みもと》から、事件の顛末《てんまつ》までを陳述《ちんじゆつ》して引渡したのである。 それからその老媼《ばあさん》の身上を聞けば、生れは埼玉県安達在《さいたまけんあだちざい》の者なりしが、一人の息子《むすこ》が放蕩者《ほうとうもの》 にて、酒《さけ》と博奕《ぱくち》に身《み》を持崩《もちくず》し、とうとうその母は故郷《こきよう》にも居堪《いた》えず、千|住《じゆ》に出て来て、人仕 事《ひとしごと》の傍《かたわ》ら小店《こみせ》を出して微《かすか》に暮らしていたが、その亭主《ていしゆ》が日清戦争中田庄台《につしんせんそうちゆうでんしようだい》にて戦歿《せんぽつ》せる功《こう》に |依《よ》り下賜《かし》せられた金《かね》合計二百|円《えん》だけを某銀行に預け置きしに、一時その銀行が破産《はさん》に瀕《ひん》した 時、村の誰《た》れ彼《かれ》の世話《せわ》にて、それを受取って貰《もろ》うて、以来は銀行と云うものはただただ恐《こわ》い 物と思い込み、夫《おつと》の遺物《いぶつ》の財布《さいふ》にその金を収め、これは夫の命の代りの金故、息子の性根《しようね》が 直《なお》らねば決して遣《や》らぬと、頑張《がんぱ》って、日夜肌身《にちやはだみ》に着けて離さぬ故、その息子は常にその母を 付け廻し隙《すき》を窺《うかが》うので、母も薄気味悪《うすさみわ》るく、とうとう故郷の家を息子のいぬ中《うち》に畳《たた》んで、千 |住《じゆ》に引移《ひさうつ》ったは一年半も前との事、然《しか》るにその日《ひ》どうしてかその息子が母の居処《いどころ》を突止め、 |闖入《ちんにゆう》して来て恐喝《きようかつ》したので母は程能《ほどよ》く云宥《いいなだ》めて、自分の重立《おもだ》った手廻の品を風呂敷《ふろしき》に包み、 |王子《おうじ》の親類方《しんるいかた》へ逃亡《とうぽう》せんと企《くわだて》たのを、その息子が見付けて、先《さ》きの顛末《てんまつ》に及んだとの事、こ の始終《しじゆう》の咄《はなし》を聞いた龍造寺《りゆうぞうじ》は、自分が一日も父母に孝養《こうよう》せずして死別れたのを、常に心の底 に持って不安の念に責められていたところ故、この事件がひどく龍造寺の頭を刺戟《しげき》したもの と見え、老娼《ばあさん》をその住所に連れ返すと共に、直に千|住警察署《じゆけいさつしよ》に馳《は》せ付け、彼の罪人《ざいにん》には種《しゆじゆ》々 の事情があるのを聞いた故、このままに自分《じぶん》に下渡《さげわた》してくれと懇《こんこん》々|頼《たの》んだところが、もう警 察では一応の訊問《じんもノヘ》も済《す》み、罪状《ざいじよう》も分明《ぶんめい》なる上、前科《ぜんか》も数犯の者故、折角の御申込ながら、下 渡《さげわたし》の事は不可能《ふかのう》であると承知《しようち》してくれ、また貴下《きか》がこの罪人の捕縛《ほぱく》に対する御尽力《ごじんりよく》は、その |筋《すじ》へ委敷《くわしく》報告しておいたからとの事で、止《や》むを得《え》ずすごすごと引取って来たが、彼が悔恨《かいこん》の 心は火のようになって、どうかしてその者を自分と一|処《しよ》に悔悟《かいご》させ、母に孝養《こうよう》がさせてみた くて、その当分は全く抜《ぬ》け殻《がら》のようになって考込《かんがえこ》んでいたが、ふとその罪人が明日|浦和《うらわ》の裁 判所《さいばんしよ》に送らるるとの事を聞出し、直に龍造寺《りゆうぞうじ》は一種の大奇行《だいきこう》を企《くわだ》てたのである、それはその 日の午後四時頃、浦和街道《うらわかいどう》の人里離れた所を見澄《みすま》し、不意《ふい》に護衛巡査《ごえいじゆんさ》に当身《あてみ》をして、その罪 人を連れて大塚村《おおつかむら》のある在家《ざいか》に一|夕《せき》を潜伏《せんぷく》し、夜《よ》を徹《てつ》してその男に人道《じんどう》の説諭《せつゆ》をなし、彼が 十|分悔悟《ぶえハかいご》の心あるを見て、龍造寺《りゆうぞうじ》はその罪人の衣服《いふく》を全部脱がせて自分が着、またその罪人 には自分の着ていたモウニング服を全部着せ、嫌《いや》がるを無理《むり》に金を与《あた》えて、その家より追出 した後その家主《いえぬし》を説得《せつとく》し、金《かね》を与《あた》えて大塚《おおつか》の警察《けいさつ》に告訴《こくそ》させた、『私《わたし》の内《うち》にこれこれの罪人《ざいにん》が |飛込《とびこ》んで来ました』と云うので、直に大塚警察《おおつかけいさつ》から捕縛《はばく》に来て拘引《こういん》されそれから五|日《か》ばかり |獄舎《ごくしや》に入《はい》ったのである。その中《うち》に千|住警察《じゆけいさつ》へ大塚署《おおつかしよ》から照会《しようかい》があって、引渡された、全くの |化《ば》けの皮が現われたので、改めて龍造寺《りゆうぞうじ》は自分の意思《いし》と非行《ひこう》とを自訴《じそ》した、千|住《じゆ》でも困って、 龍造寺を警視庁《けいしちよう》の方に廻《まわ》したのである、当時の総監《そうかん》は随分磊落《ずいぷんらいらく》な人であった為《た》め、龍造寺《りゆうぞうじ》は とうとう罰金《ばつきん》で放免《ほうめん》となった。  これに関聯した事を書けば、まだ面白い事が沢山あるが、ここには省《はぶ》く。この顛末《てんまつ》の為め |龍造寺《りゆうぞうじ》はその当身《あてみ》をくれた巡査《じゆんさ》を辞職《じしよく》させて、北海道《ほつかいどう》の事業の支配人となし、その親不孝《おやふこう》の 男は、麻布《あざぶ》の谷町辺《たにまちへん》に家を持たせ、庵主《あんしゆ》が帰朝の後、龍造寺《りゆうぞうじ》が連れて来たから、ことさらに |説諭《せつゆ》もした事があるが、悪に強ければ善にも強く、その後は別人の如く母に孝養《ニうよう》を尽《つく》し、こ れも龍造寺《りゆうぞうじ》が世話《せわ》で、その母の死後、森岡移民会社とかの募集に応じて、南米《なんべい》に出稼《でかせぎ》をする 事になったのである。龍造寺《りゆうぞうじ》は俳児気《やくしやざ》の為《た》め生れて始めて牢獄《ろうごく》と云う物に入られたのである。 五十一一 |支那《しな》は永久亡《えいきゆうほろ》びぬ国《くに》   一場の観劇心頭を刺され、 対支議論傍若無人 支那は永久亡びぬ国  だんだん記述する如く、龍造寺《りゆうぞうじ》と云《い》う男は、庵主《あんしゆ》が全国幾百千の人と交際する中で、嶄然《ざんぜん》 として一|色彩《しきさい》を輝かしていた変り者であったと言うに躊路《ちゆうちよ》せぬのである。庵主《あんしゅ》の畏友頭山翁《いゆうとうやまおう》 の如きも『あの龍造寺《りゆうぞうじ》と云う男は、貴様の弟ではあるが、貴様より二三|割方豪《わりがたえ》らい男である ぞ』と云《い》うていた、庵主《あんしゆ》も常にそう思うていた。元来が惆儻不覇《てきとうふき》の所に一|種潭然《しゆこんぜん》たる柔《じゆうじ》 順 性《ゆんせい》を持ち、改悛《かいしゆん》の力に富んでいるから、どんな六《むず》ヶ敷先輩長者《しいせんばいちようじや》でも、龍造寺《りゆうぞうじ》の前には、ころ りと転《ころ》ばされて、愛憐《あいれん》の情《じよう》を垂《た》れられし事ある。所謂大事《いわゆるだいじ》に接触《せつしよく》し得《う》る資格を持っていた事 は、庵主《あんしゆ》今なお忘却《ほうきやく》せぬのである。それが青年の第一歩に於てその出発を過ったが為めに、 |生涯《しようがい》この器才《きさい》を国家社会の上に試みる事が出来ずして死んだのは、庵主幾年《あんしゆいくねん》の星霜《せいそう》を経過し ても悵然《ちようぜん》として愛惜《あいじやく》の情《じよう》に耐《た》えぬのである。  さて龍造寺《りゆうぞうじ》が東京住居《とうきようずまい》の中《うち》に日露戦争《にちろせんそう》も終熄《しゅうそく》し、大勝利を占めて国民全体が戦勝《せんしよう》の酒に酔 うている頃、覯趨荊は獻卦の娃げ来てかくコムうた。 『私《わたくし》はお兄《あにい》さまのお蔭で後《おく》れ馳《ば》せながら国家社会の事を考える、憂国家《ゆうこくか》の仲間に嵩《は》.氾|入《い》りまし たが、元来|東洋《とうよう》の安寧《あんねい》を生命《せいめい》とする、我邦《わがくに》はまだ大なる仕事が残っていると思います、日本《にほん》 の存立《そえりつ》を外から壊《こ》わす、露国《ろこく》は膺懲《ようちよう》しましたが、東洋を内から壊わして、日本を危殆《きたい》ならし むる攴那と云《い》う物がござります、この始末を適当《てきとう》に付けてしまわねば、日本は決して安全で ないと云《い》う一大事が残っています、故に私は及《およ》ばずながら、その始末《しまつ》に取掛ってみたいと思 いまづが、日本には兄《あに》さんがいらっしゃるから、私は支那|三《は》一一氾|入《い》りまして、適当な仕事《しごと》を仕《し》 てみようと思います。どうかお許しを願います』 と云うから、 『その考付《かんがえつき》は至極好《しごくよ》い、俺《おれ》も永年《ながねん》その事にかかっているが、なかなか六ケ敷《しい》事である、しか し支那に入込《いりこ》むのにどんな手蔓《てづる》で往《ゆ》くつもりか』 『はいそれはこんな書面往復《しよめんおうふく》の結果で参ります』 と云《い》うて見せた数通の手紙を庵主《あんしゆ》が見て先《ま》ず一|驚《きよう》を喫《きつ》したのである。 『これは支那革命《しなかくめい》の頭目《とうもく》数名との往復《おうふく》書類ではないか、殊《こと》にその物資《ぶつし》の問題に対する条項《じようこう》に 対して貴様《きさま》の考えはどうするつもりか』 『それが主眼《しゆがん》で、革命党《かくめいとう》の内外にある力を漂《ただよ》わしてみるつもりでございます、殊に私《わたくし》の刎頸《ふんけい》 の友二人《ともふたり》は横浜上海《よこはまシヤンハイ》にある英商《えいしよう》と連絡して、この照電《しようでん》を受取ましたから断然《だんぜん》出発したいと思 います』 支那は永久亡びぬ国 『宜《よ》しそれならあるいは東洋問題《とうようもんだい》の一|端緒《たんちよ》を得《う》るかも知れぬ、しかしここに一条件がある、 「それは貴様《きさま》はこの事業を最終としてその成敗《せいばい》にかかわらず必ず死すると云《い》う決心があるか、 再び俺《おれ》に遇《あ》わぬと云う覚悟《かくご》があって出かけるのか」それが聞《き》きたい、苟《いやしく》も身を君国《くんこく》の大事《だいじ》に |任《にん》ぜんとする時|微塵《みじん》でも死生《しせい》に纏綿《てんめん》した觀念があっては、全部駄目《ぜんぶだめ》である、それはどうじゃ』 『その儀《ぎ》に付ては篤《とく》と考《かんが》えまして上海上《シヤンハイ》陸の上、この手紙を家族《かぞく》および恩顧《おんこ》の人々へ出すつ もりで已《すで》に認《したた》めて置《おき》ました』 『むう……この手紙の決心なら宜《よ》い、貴様《きさま》も国事家《こくじか》の開業式《かいぎようしき》であるから、見苦《みぐる》しい事《こと》の無《な》い まで決心をして、心往《こころゆ》くまでこの事業に身を打込んで働いて見よ、取敢《とりあ》えず明日は兄弟で今 生《こんじょう》の訣別式《けつべつしき》を行なおう』 と約束をして、庵主《あんしゅ》は種々の薬剤等を取揃《とりそろ》え、それから銀行に談判《だんぱん》して、若干《いくぱく》の金貨を用意 し、これを庵主《あんしゆ》が青年の時|長旅《ながたぴ》に出立《しゆつたつ》する前夜に、母の手《て》ずから賜《たま》わりし欝金木綿《うこんもめん》の古胴巻《ふるどうまき》 に入れて待っていると、龍造寺《りゆうぞうじ》が来たから、直《すぐ》に馬車を共にして帝国劇場《ていこくげきじよう》へと乗込んだ。そ れからあの食堂の一隅に陣取《じんど》って、心にあるだけの事、心残《こころのこ》りのないだけの咄《はなし》をして思い軍《こ》 めし種々の品を手渡して、それから芝居《しばい》の見物にかかったところが、その外題《げだい》が(白石噺揚 屋《しらいしぱなしあげや》の段《だん》)である、これを見ている中《うち》に龍造寺《りゆうぞうじ》はかく云《い》うた。 『兄《あに》さんお互い兄弟が、今生《こんじよう》の離別《りべつ》に催《もよお》された、今日の芝居見《しばいみ》は、実に生前死後《せいぜんしご》の好記念と も成《なり》ましょうが私《わたピせし》はこの外題《げだい》が気に入ませぬから、この位でもう帰ろうでは有《あ》りませぬか』 『なぜそんな事を云うのじゃ』 『なぜって、奥州辺陬《おうしゆうへんすう》の土百姓《どぴやくしよう》の子《こ》の姉妹《きようだい》が、孝貞無双《こうていむそう》の女性として、その父を暴官《ぽうかん》に討《う》た れ復離《ふくしゆう》の念《ねん》燃ゆるが如く、幾多《いくた》の艱難辛苦《かんなんしんく》を経て天下《てんか》にその大志《だいし》を遂行《すいこう》せんとするこの演劇《 えんげき》 は、この女性を主として組立てたる作者に、この鬚面大男《ひげづらおおおとこ》の我々兄弟が何《なん》だか揶揄《やゆ》されて、 その鞭撻《へんたつ》の策《むち》に耐《た》えられぬような気が致ますからです』 『なるほど貴様《きさま》にそう云《い》わるると、俺も最前から、この女豪《じよごう》の小娘に責《せ》められて何だか男の 一|分《ぶス 》に気恥《きはずか》しい心地がしていたとこじゃ、まあ芝居《しぱい》はこの一|幕切《まくき》りとして、どこぞ恰好《かつこうと》の処《ころ》 で咄《はな》す事にしよう』 と云《い》うてまた帝劇《ていげさ》を出て、ぶらぶら馬車《ぱしや》で市街《しがい》のドライヴをしてとうとう上野《うえの》の精養軒《せいようけん》に這《は》 入り、一室に陣取《じんど》ってまた物語りを初めた。庵主曰《あんしゆいわ》く、 『俺《おれ》は今一つ貴様《きさま》に聞いて置《お》かねばならぬ事があるが、この間《あいだ》の咄《はなし》では日本《にほん》に危害《きがい》を加える |露西亜《ロシア》は懲《こ》らしたが、同じく日本に危害を加える支那《しな》が懲《こ》らしてないから、これも懲《こ》らさね ばならぬと云《い》うように聞えたがそれに相違《そうい》ないか、果《はた》してそうなら、革命軍《かくめいぐん》に投じて、今後 |貴様《きさま》が仕事をするのは、支那《しな》を懲《こ》らす為《た》めに往《ゆ》くのか、そこはどうじゃ』 『それは違《ちが》います。懲《こ》らす懲《こ》らさぬは、その時の模様で所謂臨機《いわゆるりんき》の処置《しよち》でございますが、何《いず》 支那は永久亡びぬ国 れにしても日本に危害を加えぬと云う、屹《きつ》とした安全だけは付《つ》けねばなりませぬ、元来は懲《こ》 らさねばならぬ行掛《ゆきがか》りになっていますが、その懲《こ》らす好機会を日本の無能外交《むのうがいこう》が失なってい ますから、これから私《わたくし》が参《まい》りまして、甘《うま》く工夫をして臨機《りんき》の処置《しよち》を取ろうと思います』 『日本の無能外交が懲《こ》らすべき好機会を失うたとはどんな事か』 『それは日本《にほん》は已《すで》に二十七八年に於て、あるこの好機会《こうきかい》を捕《とら》えたから、日清戦争《につしんせんそう》で懲《こ》らしま した、然《しか》るに今度も対露外交《たいろがいこう》の上に、この好機会を捕《とら》えたから、日露《にちろ》の戦争《せんそもつ》となりまして、 十分な勝利《しょうり》を得《え》ました故に、その結末《けつまつ》にはまた十|分《ぶん》にこの好機会を捕えて、戦果《せんか》の上に平和《へいわ》 の条件を収《おさ》めねばなりませぬ、然《しか》るに全く当局の無能外交《むのうがいこう》の為《た》めに、それを失いましたので ございます、而《しか》してその好機会と云うは、彼《か》のボーツマス条約《じようやく》の出来た時に、日本《にほん》は露西亜《ロシア》 と戦うた血刀《ちがたな》のまま、それを北京政府《ペキンせいふ》に突付《つきつ》け、『東洋《とうよう》で乱暴《らんぽう》を働いた露西亜《ロシア》だけは、二十三 万の死傷《ししよう》と、二十七億の軍費《くんび》とを犠牲《ざせい》としてやっと懲戒《ちようかい》してそれはポーツマスの日露構和条 約《にちろこうわじようやく》で片付いたが、この露西亜《ロシア》に乱暴《らんぽう》をさせた国は貴様の国である、即ち支那《しな》である、日本《にほん》は |露清《ろしん》の国交に付き正当なる外交の手続を以て、十年前よりしばしば抗議《こうぎ》と注意とを怠《おこた》らな かった、曰く(東洋《とうよう》の平和を保障する日本《にほん》、支那《しな》の領土保全《りようどほぜん》を主張《しゆちよう》する日本《にほん》、即ち日本《にほん》の世 界《せかい》に対する生存《せいそん》の基礎《きそ》たる主義に背戻《はいれい》する。露清《ろしん》の秘密条約《ひみつじようやく》は終《つい》に国家生存《こつかせいそん》の意義に於て、 |大衝突《だいしようとつ》を免《まぬか》れぬから、日本《にほん》を省《はぶ》いての露清条約《ろしんじようやく》はせぬが宜《よ》い、日本《にほん》もその間に参加《さんか》せしめよ) と一|再《さい》ならず警告《けいこく》したに拘《かか》わらず、貴様の国は大声《たいせい》に之を排除した、.曰くく支那《しな》は国際公法 を解釈したる帝国《ていこく》であるぞ、日本《にほん》を参加せしむべき必要が有《あ》れば、必ずこれを参加せしむる であろう。その必要がないから参加せしめぬのじゃ。かつ思え露清両国《ろしんりようこく》は、三千|余英里《よえいり》の土 壌《どじょう》を接した隣国《りんこく》である、故に土地民族《とちみんぞく》に関したる外交問題《がいこうもんだい》は年中一|日《にち》も絶《た》えた事はない、そ れを一々|横《よこ》から口を入れて、とやかく云《い》われて溜《たま》るものでない、日本に咄《はな》す可《べ》き事が有れば 云うから、それまでは黙《だま》って引込《ひつこ》んでおれ)と云うたでないか。その揚句《あげく》に貴様は、あらゆ る武器軍器《ぶきぐんき》にも超越《ちようえつ》したる、土地と云う物を秘密条約《ひみつじようやく》で露国《ろこく》に提供《ていきよう》して、とうとう南満洲《なんまんしゆう》に |永久《えいきゆう》の軍備的設備《ぐんぴてきせつぴ》をさせたでは無《な》いか、故に万止《ばんや》むを得《え》ず、日本は国家の全勢力を傾《かたむ》けて、 |開闢以来未曾有《かいびやくいらいみぞう》の大犠牲《だいぎせい》を払《はら》い、やっと喰《く》い止めたのである。左《さ》すれば挑発《ちようはつ》せられた露西亜《ロシア》 の乱暴《らんぽう》は制止《せいし》したが、これを挑発《ちようはつ》した支那《しな》は、一層の懲戒《ちようかい》を加えねばならぬのである。故に これからは貴様の国の懲戒《ちようかい》に取掛る事務である、極《ごく》消極に見積りても、将来永久に二度と再 びこんな事の出来ぬだけの鎖鑰《さやく》は、押《おさ》えておかねばならぬ。日本《にほん》はこの上今一度、支那《しな》の外 交行為《がいこうこうい》で、二十三万人を殺し、二十七|億《おく》の国帑《こくど》を抛《なげう》って溜《たま》るものか、国家は直ちに滅亡《めつぼう》して しまうから、決して二度とこんな事の出来ぬだけの鎖鑰《さやく》を押《おさ》える条件は取るぞ』と云うが、 外務当局の当然の職責《しよくせき》で、世界全国《せかいぜんこく》一|言《ごん》も云えぬ、同情《どうじよう》せねばならぬ申分《もうしぷん》でござります、そ れに日本の外交官《がいこうかん》が、北京《ペキン》でした北京条約《ペキンじようやく》と云うは、どんな物でござります、蕾《ただ》に支那《しなち》を懲《よう》 支那は永久亡びぬ国 |戒《かい》せざるのみならず、無戦争《むせんそう》で露西亜《ロシア》に贈《おく》った、南満洲《なんまんしゆう》の租借地《そしやくち》を戦争して大犠牲《だいぎせい》を払《はら》った |日本《にほん》にその証文《しようもん》のままを交附《こうふ》したのではござりませぬか、従来この証文《しようもん》には南満洲《なんまんしゆう》の土地は 向う幾年の間は、戦争にでも何でもお遣《つか》い下《くだ》さい「露西亜殿《ロシアどの》」と書いて有った宛名《あてな》に棒を引 いて「日本殿《にほんどの》」と書入れただけではござりませんか、それではこの露西亜《ロシア》に対する年限経過 の後は、直《すぐ》に支那《しな》に引上げられて、また露西亜《ロシア》に名前|換《がえ》をされても仕方が無いではござりま せぬか、それで私《わたくし》は全く当局が好機会を失《うしの》うたと云うのでございます、それとても今は過去《すぎさ》 りし跡事《あとごと》でございますから、私は一|身《しん》の精《せい》を抛《なげう》ち、邦家《ほうか》の為《た》めに生死《せいし》を賭《と》して、この重要関 係ある支那《しな》に乗込み、一策を画してみようと思ますので兄《あに》さんの御許可《ごきよか》を願うのでございま す、その一策と云うても、今日《こんにち》から十分の案も定めていませぬが、大体《だいたい》に於て支那人《しなじん》をして、 世界の大勢《たいせい》から、東洋全滅《とうようぜんめつ》の運命にある事を知覚《ちかく》せしめ、彼《か》の三|韓満蒙《かんまんもう》の如き、印度《インド》、波爾 斯《ベルシヤ》のごとく、今や国土《こくど》と民族《みんぞく》の精気《せいき》を脱落《だつらく》せんとしつつあるに対して、西洋強国《せいようきようこく》が、これに |乗《じよう》ぜんとする有様《ありさま》は、恰《あたか》も虎狼《ころう》の前の睡羊《すいよう》に斉《ひと》しき理《り》を説いて、自覚発奮《じかくはつぷん》以て東洋の連衡共 立《れんこうきようりつ》を確立《かくりつ》してみようと云う様な、夢を考えて乗出《のりだす》のでござります。それから先は所謂臨機《いわゆるりんさ》で ございます』 『むうまあ能《よ》くそれだけ考えた。俺《おれ》は貴様《きさま》の考えの経路《けいろ》を賞《しよう》するのである。しかし支那《しな》の事 は、それが名案の上策ではない。今|俺《おれ》が貴様《きさま》の考えを定める前に、一二|参考《さんこう》に云うて聞かせ る事があるから、それを克《よ》く理解した上で、考えを決定せよ、決して忘れてはならぬぞ』  第一、他の国に相談を初めたり、他の国を動かそうとする時には、まず己《おの》れの国のどんな 物かと云《い》う事を知《し》らねばならぬ。  今日本全国の大名巨姓《だいめいきよせい》の経綸家《けいりんか》を、俺《おれ》が委敷通覧《くわしくつうらん》して見るに、全部ことごとく支那《しな》に対す る考えは間違《まちご》うている、それは「日本《にほん》は新進興隆《しんしんこうりゆう》の国《くに》である、支那《しな》は敗亡自滅《はいぽうじめつ》の国《くに》である」 とこう思うているのが大間違《おおまちがい》の基《もと》である、俺《おれ》は日本は「即滅崩潰《そくめつほうかい》の国《くに》である、支那《しな》は健全永 久《けんぜんえいきゆう》の国《くに》である」と信じている。なぜなれば、支那《しな》は往古《おうこ》より一度も全部統一せられた国では ない。唐虞夏殷周《とうぐかいんしゆう》、即ち禹陶文武《うとうぶんぶ》の聖代《せいだい》と雖も、その泰平《たいへい》は版図中《はんとちゆう》の一部分の治績《ちせき》である、 その他はことごとく自立の王国で有《あ》って、僅《わず》かに軽些貢物《けいさこうもっ》の実あるのみで、それさえ永く続 いた事はないのである。  第一通信交通機関と云《い》う物がないから威令信《いれいしん》の実《じつ》を及《およ》ぼす事が出来ない。それからその聖 朝《せいちよう》なるものも盛衰《せいすい》常ならず栄枯時《えいことき》なくし、凋落《ちようらく》するから、その歴史《れきし》は黒い草紙《そうし》に字を書くよ うに辣薤《らつきよう》の皮を剥《む》くように同じ事《こと》ばかりをして、盛衰凋落《せいすいちようらく》して来たのである。始めには仁政《じんせい》 で起り、後には酒と女と建築の三つで潰《つ》ぶるるのである。どんな聖代《せいだい》でも、二三代目から長 安宮《ちようあんきゆつ》、西安宮《せいあんきゆう》、銅雀台《どうじやくだい》と云《い》うような大建築を始めて、その重租《じゆうそ》に狭い区域の人民《じんみん》が耐《た》えられ ぬ。それから酒池肉林《しゆちにくりん》、それから宮女三《きゆうじよ》千人、それが衰桔凋落《すいこちようらく》の結論であり、それが四五千 支那は永久亡びぬ国 年も繰り返されている、然《しか》るにそれでも決して国と民族は無《な》くならぬのである。  今は通信交通等の道が開けたから、我国より見て敗亡自滅《はいぽうじめつ》のように見ゆれども、決してそ うでない。俺は支那開闢以《しなかいびやく》来の泰平《たいへい》は今日《こんにち》であると思うている。現《げん》に長安《ちようあん》、西安《せいあん》、銅雀《どうじやく》の大 建築はない、酒池肉林《しゅちにくりん》もない、宮女三《きゆうじよ》千人もない、支那版図内《しなはんとない》は比較的に世界の大勢にも通 暁《つうぎよう》して来て、それ相当《そうとう》に民族の国家論《こつかろん》も、不完全なりに起って来ている。もし交通通信の無 き事、昔日《むかし》の如き時ならば、支那大陸《しなたいりく》の大々的|泰平《たいへい》を謳歌《おうか》する時であると思う。即ち既往《きおう》か らあの通り、将来も永久《えいきゆう》にあの通りであって、決して潰《つぶ》れる気遣《きづか》いのない国である。然《しか》るに 日本はどうかと云《い》えば民族土地《みんぞくとち》が支那《しな》と接同《せつどう》していても、彼は大であり、我は小である。彼 はこの点《てん》だけでも亜細亜《アジア》の主人《しゆじん》である。我《われ》は亜細亜《アジア》の属小《ぞくしよう》であるは実際である。また文学美 術《ぷんがくびじゅっ》も彼は師で、我は弟子である。ただ彼《かれ》に勝《まさ》れるところと云《い》うは、我《われ》は開闢《かいびやく》以来の統《とう》一|国《こく》で、 |彼《かれ》は開闢以《かいぴやく》来の不統《ふとう》一|国《こく》である。我は統治《とうち》の威霊《いれい》がますます顕揚《けんよう》していて、彼は全く無威霊《むいれい》 の国である。これだけである。故に我天皇《わがてんのう》はこの理《り》を夙《っと》に知《し》ろし召《め》されて、日本《にほん》の国是《こくぜ》を支 那領土保全《しなりようどほぜん》とお治定《じてい》になった、なぜなれば、もし世界の一|強国《きようこく》が、支那《しな》の領土内に一|威霊《いれい》を 輸入して、その一角に軍備《ぐんび》を成す時は、他の強国《きようこく》は機会均等《さかいきんとう》の意義《いぎ》に因《よ》って、我《われ》も我もと軍 備《ぐんび》を持込んで来る、さすれば、日本は戦わざるに先《さきだ》って、已《すで》に軍備《ぐんぴ》に亡滅《ぽうめつ》してしまう故に、 |日本《にほん》はもし支那《しな》の領土内に、軍備《ぐんぴ》をなす者があったなら、国家を焦土《しようど》にするも、最後の一人 となるまでも、犠牲《ざせい》となって、その相手を打潰《うちつぶ》して僅《わず》かに我国《わがくに》の存立《そんりつ》を図《はか》る事《こと》になっている。  故に支那《しな》の対韓政策《たいかんせいさく》で、日清戦争《につしんせんそう》を開《ひら》いてこれを懲《こら》し、露国《ろこく》の南満旅順軍備《なんまんりよじゆんぐんぴ》で、日露戦争《にちろせんそう》 が開かれて、これを膺懲《ようちよう》したのである。それを為《せ》ねば日本《にほん》は直《すぐ》に潰《つぶ》れるのである。即ち支那《しな》 の一外交の意志で土地を割譲《かつじよう》して、外国に与《あた》えたならば、直《すぐ》に潰《つぷ》れる程《ほど》の貧弱《ひんじやく》な日本《にほん》である。 故に貴様《ささま》はまず「支那《しな》は永久亡《えいきゆうほろ》びぬ国《くに》、日本《にほん》は何時《いつ》でも亡びる国《くに》である」と云《い》う一例として、 |俺《おれ》のこの咄《はなし》を能《よ》く知了《ちりよう》せねばならぬ。それを知って支那《しな》の事を画策せぬ者はことごとく駄目《だめ》 である。第二、は支那《しな》は世界中で特殊《とくしゆ》、国家機能《こつかさのう》を持《も》っていることを知るのがなかなか六ケ |敷《しい》のに、民族《みんぞく》と、東洋立国《とうようりつこく》の意義《いぎ》だけを疏通了解《そつうりようかい》して、日本《にほん》と東洋立国精神《とうようりつこくせいしん》の同化を計《はか》り、 決してその他に触《ふ》れざる事が真正《しんせい》な対支政策《たいしせいさく》である』 五十三 |庵主《あんしゆ》が懐抱《かいほう》せる支那政策案《しなせいさくあん》   壮図未だ発せず大患を起し、開腹数次俎上に戦う  庵主《あんえゆ》は支那政策《しなせいさく》につきまた話を続けた。 『龍造寺《りゆうぞうじ》よ、汝支那《なんじしな》に向って日本《にほん》の政策《せいさく》を定《さだ》めんと思わば、前に云う通りまず「支那《しなえ》は永久 亡《いきゆうほろ》びざる強国《きようこく》である、日本《にほん》は支那《しな》の行為《こうい》によりては、直《す》ぐ目前《もくぜん》に亡《ほろ》びる弱国《じやつこく》である」と云う 事を、第一の条件に置いて考えねばならぬぞ。それから支那《しな》に対する外交手段は、他の諸外 国に対する、同様の心得《こころえ》ではいかぬ。世界中で外交は、支那《しな》が一|番甘《ばんうま》い、また商業貿易経済 政策で、支那《しな》をいじめては駄目《だめ》である、商業貿易は、世界中で支那《しな》が一番甘い、また決して 組織的兵力で支那《しな》を圧迫《あつぱく》しては駄目《だめ》である。組織《そしき》と器械《きかい》との圧迫《あつぱく》に抵抗《ていこう》するには、支那《しな》は無 組織《むそしき》と無抵抗力《むていこうりよく》と云《い》う、強き抵抗力を以て世界に抵抗している。往昔《むかし》から英仏《えいふつ》共に、軍《いくさ》には |勝《か》って支那《しな》を領有《りようゆう》し得《え》た者はない、支那《しな》に向っての百|戦《せん》百|勝《しよう》は、事実に於て損《そん》をするだけで ある、それが世界中で支那《しな》が一番その抵抗力《ていこうりよく》が強いのである、故に外交《りり》と商業《りり》と軍事《りり》の支那《しな》 に対する刺戟《しげき》は、恰《あたか》も象《ぞう》と云《い》う猛獣《もうじゆう》に対する、虻《あぷ》や嵐《しらみ》の刺戟《しげき》であると思わねばならぬ。然《しか》ら ばそれを差引《さしひい》て、支那政策《しなせいさく》の資料は何が残るか、さあこの辺を知るのが対支《たいし》の識者《しきしや》である。 その識者が今日《こんにち》まで殆んど世界中に一|人《にん》もないのである。世界中|皆無駄骨《みなむだぽね》を折《お》りて、無駄損《むだぞん》 ばかりをしているのである、日本《にほん》も正《まさ》にその一|人《にん》である、今貴様は志をそこに立てたからに は、それを知らねばならぬのである。  克《よ》く魂《たましい》を腹《はら》の底に据え、落付いて考えよ、宇宙間《うちゆうかん》に造物者《ぞうぷつしや》の所為《しよい》を凌駕《りようが》して、これを具体 的に変更する者は、人間より外に無いのである、今|富士《ふじ》の山《やま》を切崩《きりくず》して、平坦《へいたん》な土地にする ことの事業を思い立`っても、これに関する器機《きかい》は出来るであろうが、その器械の能率《のうりつ》で、組 織的に何百何十年で、綺麗《きれい》に平坦《へいたん》にする予算《よさん》をその通りに器械を運転して実行する者は、人 間でなければならぬ。さすれば支那《しな》を平穏《へいおん》にするには、物質《ぶつしつ》と予算《よさん》が入用ではあるが、その 上に人間の行為《こうい》と云う事《こと》を徹底的《てつていてさ》に考えねばならぬ。  故にまず支那《しな》の人間《りり》と云《い》う事を考えてみると、その端緒《たんしよ》が直《す》ぐに開ける、今|支那《しな》に東亜《とうあ》の 問題に付いて、咄しの出来る人間が何人いるかと云うと、俺の考えでは知らざる者までを入 れてもおよそ三十人である、この三十人と議論《ぎろん》が一|致《ち》結合さえすれば、支那《しな》の事は自由自在 である、その僅《わず》か三十人がなぜ結合せぬかと云《い》えば、各個人に一種の希望があるからである。 何の希望であるかと云えば、金《り》と権力《リロ》が欲しいのである、故にまずその希望《きぽう》の金《り》を与《あた》えると したら、一人仮《ひとりか》りに二千万円を与えて、その慾望《よくぽう》を充《み》たすとしたら、全部で六億円でないか。 そこで今度はその権力《けんりよく》を与えるに付いて、独り支那《しな》だけでなく、東亜《とうあ》の平和に対して、腹《はら》一 |杯《ぱい》に持っているだけの議論《ぎろん》を吐露《とろ》し得《う》るだけの発言権を与えて、東亜大会議《とうあだいかいぎ》なるものを組織 し、その会議員として十分の権力を揮《ふる》うべき力《ちから》を与えるのである。この場合に日本《にほん》は秋毫《しゆうごう》の |慾望《よくぼう》をも有してはならぬ、誠意誠心東亜《せいいせいしんとうあ》の平和《へいわ》さえ確立《かくりつ》すれば、何等野心《なんらやしん》は無い事を中心に 定めてこれを中外に表明せねばならぬ。即ち東亜《とうあ》の平和《へいわ》がまず消極的に日本《にほん》を失わぬ第一の |政策《せいさく》であることを理解しておらねばならぬ。さすれば結論は、金《かね》が六億万円と彼等三十人に |大東洋平和会議《だいとうようへいわかいぎ》の発言権とを与《あた》うるだけとなるのである。然るに大事《だいじ》の問題は彼等がその生 命財産を保ち、またその権力《けんりよく》を行使するの力を維持《いじ》するに必要なる確固《かつこ》な護衛力《ごえいりよく》を持たぬの 庵主が懐抱せる支那政策案 である、即ち秩序維持力《ちつじよいじりよく》が無いのである、その場合には日本《にほん》の天皇陛下《てんのうへいか》がこれを保証《ほしよう》して下《くだ》 さるのである。それは彼等が日本《にほん》と共に議定《ぎてい》した、東洋平和会議規則《とうようへいわかいぎきそく》の範囲限度《はんいげんど》に依って働 くのである。かかる政策が仮りに確立《かくりつ》するものとすれば、彼等は生存中《せいぞんちゆう》に容易に得《え》がたき金《り》 と権力《りり》とを得て、永久無限《えいきゆうむげん》に日本《にほん》およびその他の強国《きようこく》に侵害《しんがい》せられざる事になるのである。 この場合に成《な》って、平和《へいわ》を希望せざる者は一人も無《な》いはずである。  さて、平和《へいわ》と云う事が、仮りに実現したものとすれば、ここに始めて東洋の繁栄《はんえい》、即ち文 明の発達を企図《きと》せねばならぬのは、また相互当然《そうごとうぜん》の思想でなければならぬ。即ち繁栄発達《はんえいはつたつ》せ しむるには、東洋が真丸《まんまる》に一団となり、全世界の諒解《りようかい》を求める事に向ってその宣伝《せんでん》を発表す るのが必要となるのである、曰《いわ》く、 一、全東洋《ぜんとうよう》の資源《しげん》は、全世界の前に提供《ていさよう》せられて、その開拓《かいたく》を待っていますぞ。 二、全支那全日本《ぜんしなぜんにほん》の商業貿易《しようぎようぽうえき》は、全世界の力を招徠《しようらい》してその接触《せつしよく》を期待していますぞ。 三、それに対する秩序上の危険《きけん》は、根本より一|掃《そう》せられて東洋に於けるその各自《かくじ》の財産《ざいさん》と生《せい》  命《めい》とは、絶対に保護せらるるの組織《そしき》が出来ていますぞ。 四、東洋の資源は、世界と均等共通《きんとうきようつう》の力によりて開発《かいはつ》せらるる事に根本的に理解確定《りかいかくてい》してい  ますぞ。 五、日支《につし》の両国は、全財産と全精力とを挙《あ》げて、オリエンタル、オーバアランド、エンド、  才ーバシー、ゼネラル、インシユーランス、コンパニーの資本に投入しましたぞ、安心し  てお出《いで》なさい、安心して事業をお興しなさい、安心して利益をお取りなさい。 と広告し得《え》らるるのである、以上の様な意味が、日本支那政策《にほんしなせいさく》の根本でなければならぬ、そ の外《ほか》にはどんな事を試みるも、みな怨《うらみ》を買い禍根《かこん》を醸《かも》すの外《ほか》見るべき成績《せいせき》はないのである。 |予《よ》はある時|軍事当局《ぐんじとうきよく》を元老《げんろう》の前に引出して、諄《じゆんじゆ》々とこの論《んろん》を説いた事がある。元老《げんろう》曰く「実 に名論《めいろん》である、世界中これほど穏当《おんとう》なる支那政策《しなせいさく》は有《あ》るまい。しかし一つ合点《がてん》の行かぬ事は、 |日支《につし》相談の上、世界に向って、東洋の資源は無条件にて世界の前に提供するから勝手に利益 を獲得《かくとく》せられよ。秩序《ちつじよ》の維持《いじ》即ち泥棒防《どろぽうふせ》ぎは自費《じひ》で日本が引受けて上《あげ》ますと云って利益は世 界が取って逃げて行《ゆ》くに、その事業安全《じぎようあんぜん》の保護《ほご》は日本《にほん》が自費《じひ》でするとは道理《どうり》のない事ではな いか、そんな事でどうして日本の軍隊の費用は、どこから出てくるか、君は軍隊の費用は幾 |干《ばく》の物と思うているか、殊に支那に出張すれば、日本にいるよりももっと多額《たがく》を要する事に なるがそれは分っているのか」と云わるると、その軍事当局《ぐんじとうきよく》はその尾に礪《つ》いて「帝国《ていこく》の軍人《ぐんじん》 は、人の営利事業の寝《ね》ずの番《ばん》は御免《ごめん》を蒙《こうむ》る、第一軍隊の威厳《いげん》に係《かか》るから」と云うた。さあそ こで予が折合《おりあ》わぬ。「その御両君の根性《こんじよう》が、帝国軍人《ていこくぐんじん》の威信《いしん》を墜落《ついらく》し、世界《せかい》に忌揮《さたん》せられて終 には我国を国家的盗賊呼《こつかてきとうぞくよば》わりをさるる元《もと》であります。  第占、軍人は平和秩序《へいわちつじよ》のサーバントと云うが本旨《ほんし》でございますぞ。それから日本に居る時   は腹干《はらほ》し働《はたら》いているのですが、支那《しな》に行けばただ増手当《ましてあて》を取《と》るだけですぞ。  第二、軍隊《ぐんたい》は国家防備《こつかぽうび》の完全《かんぜん》を限度とすべきもので果して圧制侵掠《あつせいしんりやく》の力まで蓄えねばなら   ぬものでございますか。  第三、それに我国の軍隊が、平和秩序維持《へいわちつじよいじ》専門の事業をして、どこに威信《いしん》が汚《けが》れますか、   防備《ぽうぴ》以上の力を備えて、もしそれが圧迫《あつぱく》を超過《ちようか》した侵略《しんりやく》にまで疑《うたが》わるるの行動をしたら、   どこに威信《いしん》が保てますか。私は両君を前に置いて、帝国《ていこく》の威信《いしん》を汚《けが》すものは軍隊《ぐんたい》である  ■と叫《さけ》びます。  また元老閣下《げんろうかつか》のお咄《はなし》の、利益は他人が得て、秩序維持《ちつじよいじ》の費用は自弁《じべん》とは、道理にないとの |御説《おせつ》は一応もっとものようですが、それが大間違《おおまちがい》でございます。人に向ってウエルカムを云 う者は、これを云う資格《しかく》が無ければなりませぬ。仮《か》りにある商店が今日売出《こんにちうりだし》を致しますに付 き、花客《とくい》にウエルカムをしてどうかお出を願ますと云うその主人の家はその家族中に下駄泥 棒《げたどろぽう》もおれば、外套盗人《がいとうどろぽう》もいる、その主人も隙《すき》を窺《うかご》うてちょいちょいその客人《きやくじん》の持物《もちもの》をちょろ まかす根性《こんじよう》があって、客人《きやくじん》が呼べますか。そうしてその盗人根性《ぬすぴとこんじよう》の取締費用《とりしまりひよう》は、一|切客人《さいきやくじん》持 ちとしてその商店は客人を案内すると云う人格《じんかく》ある主人と云えますか。その商店は少なくも、 |主僕総《しゆぼくすぺ》て一団となりて、真剣に善意《ぜんい》を持って花客《とくい》を送迎《そうげい》し、万《まん》一|紛失物等《ふんしつものとう》があったら、弁償《べんしよう》 する位の覚悟《かくご》が無くては相成《あいな》らぬものでございます。心を静かにしてお聞なさい。先年|英米《えいべい》 のインジニヤクラブの報告を調査した事がございます。曰く強国《きようこく》が殖民《しよくみん》もしくは未開《みかい》の地《ち》を |開発《かいはつ》するには既往《きおう》の統計《とうけい》に依《よ》るに、山嶽《さんがく》を拓《ひら》き、河川《かせん》を俊漂《しゆんせつ》し、諸建築《しよけんちく》をなす、所謂固定資 本《いわゆるこていしほん》なる物が、資本の百分中六十二で、残る三十八が流動資本《りゆうどうしほん》である。而《しか》して利益《りえき》は大抵《たいてい》一割 を目的とするのであると、左すれば彼等は、一朝|事変《じへん》があった時には抱《かか》えて逃げられない固 定資本を、仮りに一千万円の資本中六百二十万円はその土地に投入《とうにゆう》せねばならぬのである。 その六百二十万円は着手第一に、まずその土地《とち》の人、即ち東洋ならば日支《につし》の人民《じんみん》が頂戴《ちようだい》する のでございますぞ。それから一割の利益を得んには仮りに資本一千万円のある事業に対して も、およそその三割のモンスペー即ち月払金《つきはらいきん》およそ三百万円ばかりは、労銀その他の諸掛費《しよかかりひ》 に向って仕払《しはら》わねばなりませぬ、これもその土地《とち》の人民《じんみん》が、永久に頂戴《ちようだい》致しますぞ。即ち年 額三千六百万円の仕払《しはらい》である。それに彼等の目的とする一割の利益《りえき》すなわち一百万円を加え て都合《っこう》三千七百万円が、その製品《せいひん》の売価《ばいか》となって世界に売出すのでございます。  その売った代価《だいか》を、また持て来てその翌年《よくねん》も翌年もまた三千六百万円宛を日支《につし》の現地人に 払うて、彼は一百万円宛の利益を所得《しよとく》するのでございますぞ。即ち機会均等《きかいさんとう》、門戸開放《もんこかいほう》なる ものの、日支両国の現地人に対《たい》する賜物《たまもの》、即ち利益は仮りに一千万円の一会社を、英米《えいべい》の人《ひと》 が東洋に栫《こしら》えたとしてもまず一時限りに六百二十万円を頂戴《ちようだい》し、次には永久に年々三千六百 万円宛を、日支の人が頂戴するのでございます。そこでその莫大《ばくだい》の金《かね》を得《え》た日支《につし》の労働者な どが、セービングあるいは消費《しようひ》に対する向上は、たちまちにして購買力《こうばいりよく》の増進《ぞうしん》となります、 即ちその労銀《ろうぎん》の過半は、酒を飲み煙草《たぱこ》を吸い、毎日の放歌高唱《ほうかこうしよう》は総《すべ》てこれ民族消費《みんぞくしようひ》の音響《おんきよう》で ございます。それに対する供給の物資《ぶつし》は、日本《にほん》の努力でなければなりませぬ。四|面環海《めんかんかい》であ るから、原料の集収に便利である、器械と勤労の算用《さんよう》に敏捷《ぴんしよう》な民族であるが為め、能率《のうりつ》の増 進を図る事が容易である、東亜《とうあ》の各国に距離《きより》が接近している為め、フレートその他のエキス ペンスが安価《あんか》である。その結果は遠距離《えんきより》で、費用の沢山掛る国の商品と十分競争が出来る余 地があります。かかる努力《どりよく》の為めにその向上した民族の消費だけでも莫大《ばくだい》で、今からその数《すう》 を計算《けいさん》するに苦むので有ます。況《いわ》んや日支《につし》の単独経営権《たんどくけいえいけん》や、合弁経営権《ごうべんけいえいけん》は元の通り依然《いぜん》とし て残存《ざんそん》するに於てをやでございます。これらが世界に幾多《いくた》の強国を産《う》んだ、民族向上の顕著《けんちよ》 なる一大歴史の現象《げんしよう》と云うのでございます。  さあこうなった時の日本の利益《りえき》は、秩序維持《ちつじよいじ》の軍隊費《ぐんたいひ》の幾倍《いくばい》を支払《しはら》い得《う》ると思いますか。 今|閣下方《かつかがた》の権威《けんい》とする、海陸《かいりく》の軍隊は、無用《むよう》の日月《じつげつ》を煉瓦《れんが》の家《うち》の中《なか》で弁当《べんとう》を喰って寝て暮し ております。幾多《いくた》の軍艦《ぐんかん》は振睾丸《ふりきんたま》でぶーぶ1屁《へ》を垂《た》れ用もない海上を遊んで暮しております ぞ。それを世界人道《せかいじんどう》の為め、東洋開発《とうようかいはつ》の為め、機会均等門戸開放《きかいきんとうもんこかいほう》の為めに、自発的に支那と 相談をして、世界にこれを高唱《こうしよう》してその為めにこの海陸の軍隊が、善意《ぜんい》に努力するのが何で |威信《いしん》に係《かか》りますか、何で損《そん》が行《ゆき》ますか、私《わたくし》はここに閣下方《かつかがた》の為めに門戸開放機会均等の国家 の為めに、有難《ありがた》い一例をお咄致《はなし》ましょう。  昔日浅草観音様《むかしあさくさかんのんさま》の境内《けいだい》は、あの池《いけ》の畔《ほとり》に榎《えのき》の並んでいる所《ところ》までで、それ以北は全部|浅草田 圃《あさくさたんま》と云うて、水の溜《たま》った沼田《ぬまた》でございましたのを、飯田某《いいだぽう》とか云う者が、一坪二十銭一|反《たん》六 十円で買《か》って、池を掘り縦横に溝《みぞ》を通じて、その土を左右に刎《は》ね上《あ》げて、僅《わず》かに地面を拵《こしら》え ましたとの事故、今でも一尺か二尺も掘れば水でございます。その地上を浅草《あさくさ》六|区《く》と称して、 |門戸開放《りリロゆ》、機会均等《りりりり》を宣言《せんげん》しましたところが、八方の商人が押寄せて来まして、安芝居《やすしばい》や、 |女義太夫《むすめぎがゆう》、尻振踊《しりふりおど》り、手品軽業等《てじなかるわざとう》が集って幾多《いくた》の繁栄《はんえい》を累《かさ》ねまして、一時はその土地の六尺 真四角《しゃくましかく》の地上権が、六百円にもなったとの事でございます。さあ門戸開放機会均等《もんこかいほうきかいきんとう》の賜《たまもの》はこ んな物でございます、そのお蔭《かげ》であの場所に、二十幾万の人口が群集《ぐんしゆう》して生活をしているの で、即ち東京人口《とうきようじんこう》の十分の一は、あの場所に集って、その利益《りえき》に瞼嵎《あぷあぷ》しているのでござりま す。故に日支《につし》の両国は、満韓《まんかん》から西比利亜《シペリア》、松花江《スンガりさ》、沿海州《えんかいしゆう》、黒竜江沿岸《こくりゆうこうえんがん》まで、皆《みな》一|坪《つぽ》六百 円の地上権になして、世界人口の+分の一即ち二一二億の人口を招集《しようしゆう》したいのでございます。  ただここに重大なる要件は、秩序維持《ちつじよいじ》の法規《ほうき》でございます、それが即ちちゃんと日支両国 が最も鄭重《ていちよう》に審議《しんぎ》すべき、彼《か》の東洋平和会議《とうようへいわかいざ》で極《き》まる規則条件でございます。それさえ強固《きようこ》 に厳立《げんりつ》して、これに対する警備《けいぴ》さえ、永久不抜《えいきゆルつふばつ》の法を立て得たならば、門戸開放《ロのロリ》、機会均等《リリリリ》 位、世界に結構《けつこう》な物はございませぬ。元来が私は生れるからの軍備拡張論者でございますが、 その拡張は基礎ある計画の下《もと》にでなければ、これほど恐ろしい戯《たわむ》れはござりませぬ、古人日 く『天《てん》の時《とさ》は地《ち》の利《り》に如《し》かず』と。左《さ》すれば我日本は、亡ぶべき天の時は幾度有《いくたびも》ったかも知 れませぬが、地《ち》の利《り》が世界中絶好の優勢《ゆうせい》を占《し》めている為めに一度も外国に取られた事はござ りませぬ。また『地《ち》の利《り》は人《ひと》の和《わ》に如《し》かず』と申ますが、これほど地《ち》の利《り》に富《と》んでいても、 人の和には敵《かな》いませぬ、その人の和が三千年の訓練を経て、一種|義勇《ぎゆう》の風《ふう》を成《な》していますか ら、相俟《あいま》って他から掠奪《りやくだつ》せられなかったのでございます。  第一|絶東《ぜつとう》と云《い》うて世界の絶端《ぜつたん》に位して、気候が中温《ちゆうおん》である、それから強国は、太平洋五千 |浬《カイリ》の向うか、または印度《インド》、ベンガル、スエズ、地中《ちちゆう》の諸海洋《しよかいよう》を隔《へだ》てておりますが、まだ器機 の進歩は、この海を隔《へだ》てて戦う程になっていませぬ。今仮りに米国《べいこく》が一|万噸《まんとん》の軍艦《ぐんかん》一|艘《そもつ》を以 て日本を敵として攻撃するとしても、その燃料が一昼夜三百|噸《とん》とみて、バンカ、ハッチに一 千|万噸《まんとん》入るとし、三昼夜を駛《はし》ったら、その軍艦《ぐんかん》は息の切れた人間のように、船《ふね》の土左衛門《どざえもん》で あります、左《さ》すればまた三|日《か》の航海《こうかい》をなさんには、また一千|噸《とん》の石炭船《せきたんせん》がお供《とも》をせねばなら ぬ。またその三|日《か》の後《のち》はまた一千|噸《とん》の石炭船がなければ、九|日《か》の航海《こうかい》は出来ませぬ。  日本《にほん》の海岸まで来るには、少なくも五|艘《そう》や六|艦《そう》の一千|噸《とん》の石炭船を、お伴に連れねばなり ませぬ。その石炭船に、また護衛艦《ごえいかん》が入用《いりよう》です。それから日本の海岸にその軍艦《ぐんかん》が到着《とうちやく》した だけでは駄目《だめ》だ。それが活動するだけの石炭供給船が、米国から日本まで続き続きて供給《きようきゆう》 してくれねば、その軍艦《ぐんかん》の活動は出来ませぬ。一|艘《そう》の軍艦《ぐんかん》でさえそれです。少なくも日本の |艦隊《かんたい》を打潰《うちつぷ》すだけの軍艦《ぐんかん》に供給する運送船《うんそうせん》でも、米国から日本《にほん》まで幾《いく》千|万艘《まんそう》を要するのでご ざいます。その運送船を米国から日本まで連続せしむるだけが、現代ではまだ不可能の事で あると、欧米の軍事当局《ぐんじとうきよく》にはちゃんと勘定《かんじよう》が出来ております。さあ御覧《ごらん》なさい。それほど不 便な所に日本と云う国を建国《けんこく》してくれた人は誰《たれ》です。吾人《ごじん》は伊勢《いせ》の天照皇大神宮様《てんしようこうだいじんぐうさま》にお礼を 申さねばなりませぬ。  それからこの民族《みんぞく》を教養する事ここに三千年にして、世界から見たら一種独特とも云うべ き敵棆凩心《てきがいしん》が練習《れんしゆう》して有《あり》ます。その上日本を亡《ほろ》ぼすだけの軍艦《ぐんかん》を、東洋《とうよう》に持って来たらば、そ の軍艦《ぐんかん》と兵士《へいし》との食《く》う物資《ぶつし》がございませぬ。東洋には熱帯地《ねつたいち》も有《あ》って、一年に米が二度出来、 四度も筍《たけのこ》の生《は》える土地は有《あり》ますが、それは皆地《みなち》の底《そこ》に有る物資でございます。そこで東洋を |攻略《こうりゃく》する為め、欧米《おうべい》の強国は、その物資集収《ぶっししゅうしゅう》および製造所《せいぞうしよ》から栫《こしら》えて懸《かか》らねばなりませぬ。 |好《よ》しそれほどにして日本を取ってどうかと云えば、土地狭小《とちきようしよう》にして山嶽《さんがく》多く、水力燃料共不 完全にして、経営《けいえい》の十露盤《そろばん》が持てませぬ。一本の狭軌鉄道《きようきてつどう》を布《し》くにさえ、一二|哩間《マイルかん》カ1ブと |勾配《こうばい》なしでは出来ぬような貧弱《ひんじやく》な国柄《くにがら》である為め、ただで貰《もろ》うても引合ぬと云う事を独逸《ドイッ》と |米国《べいこく》の参謀局《さんぽうさよく》はちゃんと数字を示して発表致しています。それ御覧《ごらん》じませ、人の取って引合 ぬようなところに、国家を建設して下《くだ》さったお礼はまた伊勢大廟《いせたいびよう》に申上げねばなりませぬ。 その上|寒熱帯《かんねつたい》の分岐点《ぶんきてん》に在《あ》るが為《た》め、気流の険悪《けんあく》は世界一で、元窟《げんこう》の乱《らん》から、今度の日本海《にほんかい》 の海戦《かいせん》まで、皆《みな》これを神風《かみかぜかみ》々々と云《かぜい》うているではございませんか。それで世界はきっと確実《かくじつ》 に日本は欲しくない厄介《やつかい》千|万《ぱん》である事を自白《じはく》しています。ただ支那が欲《ほ》しい為めに、総て日 本に考慮《こもつりよ》の交渉を持つのでございます。    に ほん  ぐんび   こつか   ぽうぴ   げんど              とうよ「  ちつじよい じ                 え  故に日本の軍備は国家の防備を限度とし、次ぎには東洋の秩序維持を限度として、その得 たる平和《へいわ》は、それほど欲がる世界の前に、支那と共にさらけ出して、両国の誠意《せいい》をさえ披瀝《ひれき》 すれば、東洋はただ向上進歩するばかりで、来《きた》る物は幸福より外ござりませぬ。それは門戸 開放機会均等《もんこかいほうきかいきんとう》を、日支の自発的に発表するのでございます」と、予が攻《せ》め付《つ》けたので、その |元老《げんろう》と軍事当局《ぐんじとうきよく》の人は、永年《ながねん》の日支交渉《にっしこうしよう》の方針を誤まっていた事を繰返《くりかえ》して、全然同意《ぜんぜんどうい》をし てくれた事があった。  しかしかかる大局の大議論は、五十年|弁当飯《べんとうめし》に馴《な》れた役人にはなかなか実行が出来ず、俺《おれ》 は爾後怏《じごおうおう》々として沈黙《ちんもく》して今日《こんにち》を送っているところであるから、予は、貴様《きさま》が今度の支那行 を賛成すると同時に、この意義《いぎ》を含ませて、彼地《かのち》の志士《しし》をして、この議論《ぎろん》の圏内《けんない》に入れたく、 かくは心中《しんちゆう》を披瀝《ひれき》して云《い》い聞かす訳《わけ》である』  と云うたところが龍造寺《りゆうぞうじ》は手に持った一杯のコーヒーも、水の如く冷えて頭と共に冷化し てしまい、しばらくして初めて口を開いた。 『お兄《あにい》さん、私《わたくし》は初めて支那《しな》と云う物の咄《はなし》を聞きました、否日本《いなにほん》と云う物の咄《はなし》を聞きまし た、今日《こんにち》まで私の考えておった事は、全部間違《ぜんぷをちご》うていました。これから好《よ》く前後将来《ぜんごしようらい》の事を 考え、大略《たいりゃく》の方針《ほうしん》を極めまして出発する事に致まする』 と云うて、その日は別れたのであった。それから数日の間、音信《おんしん》も無かったが、その月の二 十二日にいよいよ新橋《しんばし》から出発すると云うから、庵主《あんしゆ》もそれこれと気を配りて、その日の、 時間前に馬車を共にして新橋停車場《しんばしていしやじよう》に往《い》ったが、見送りの人など一人も来ておらぬから、 『家族《かぞく》も書生《しよせい》も朋友《ほうゆう》も誰《た》れにも知らせぬのか』 と聞くと、 『これはお兄《あにい》さんの米国行《べいこくゆき》の例に傚《なろ》うたので、家族共には見送りを禁じ、友達には乗船後知 らせるつもりでございます』と云うから、 『それもそうだ、一人《ひとり》の真身《しんみ》の兄《あに》が見送る以外、別に見送人の必要もあるまい』 と云うている中《うち》に、だんだん時間も切迫《せつぱく》してきて、多<の乗客も立騒《たちさわ》いできた頃に、龍造寺《りゆうぞうじ》 は一寸|用達《ようたし》に行《いつ》て来《き》ますからと云うて、便所の方に行った。暫時《ざんじ》待っていても来《きた》らず、もう |発車《はつしや》の振鈴《しんれい》が響いてきたのにどうしたかと、気を揉《も》んでいると、一人の赤帽《あかぽう》が来て、 『龍造寺《りゆうぞうじ》の旦那《だんな》が一寸|貴方《あなた》を呼んできてくれと申されます』 と云うから、一寸|吐胸《とむね》を突かれ便所に馳《は》せ付けて見ると、龍造寺は小便所の階段の上に立っ ている、其所《そこ》に行《いつ》てまず一|驚《きよう》を喫《きつ》した。それは彼《あ》の横長《よこなが》き尿樋《にようひ》の流しは全部|鮮血《せんけつ》が漂《ただよ》うてい る。 『どうしたのか』 と聞くと、 『何だか分りませぬが、放尿後尿道《ほうにようごにようどう》より出血してどうしても止りませぬ、この通り尿口を摘《つま》 んでおりますが、出血が尿道に充満《じゆうまん》しますから、離すとこの通り滝《たき》のように出ます』 と云う中《うち》、みるみる顔色も蒼白《そうはく》を呈して来たから、これは大変と思い、直《すぐ》に車を飛ばせて龍 造寺の親友なる、木挽町《こぴきちよう》の池田病院《いけだぴよういん》に連れ込んだ、院長は直ちに診察《しんさつ》をしたが、何だか原因 が分らぬ、種《しゅじゆ》々|手当《てあて》の結果、一|時出血《じしゆつけつ》は止ったが、また放尿時《ほうにようじ》になると出血を伴うので、し ばらくは大騒動である。そのうち池田院長の診断で全く膀胱内《ぽうこうない》よりの出血と極《き》まって、その |施術《しじゅつ》を行のうたので、やや緩和《かんわ》して、十数日の後《のち》退院するの運《はこぴ》となったところが、自宅療養 後、数日の後《のち》またまた出血を初めて、体力《たいりよく》も漸次《ぜんじ》弱るから、今度は順天堂《じゆんてんどう》に入院せしめ、阿 久津博士《あくつはかせ》の専門治療《せんもんちりよう》を受けている中《うち》、膀胱鏡《ぽうこうきよう》などにて実見《じつけん》の結果、いよいよ膀胱癌《ぽうこうがん》と病名が 確定して、入院より七日目位に腹部《ふくぷ》を切開《せつかい》して、膀胱内より葡萄《ぶどう》の実《み》の如き物を幾房《いくふさ》となく 取出し、内部を電気で焼灼《しようしやく》して、一|旦施術《たんしじゆつ》は終ったが、これが龍造寺《りゆうぞうじ》最終の病気とは素人《しろうと》の |庵主《あんしゆ》に気も付かず、ただはらはらと心配ばかりして暮していたのである。 五十四 一|世《せい》の巨豪癌腫《きよごうがんしゆ》に斃《たお》る   坤吟十年医療の妙を尽し、 解剖総て医界の料に捧ぐ  龍造寺《りゆうぞうじ》が第一回の施術《しじゆつ》の腹部切開《ふくぶせつかい》は、名《な》にしおう当代の名医阿久津博士《めいいあくつはかせ》の執刀《しつとう》であるから、 |存分《ぞんぶん》に徹底的《てつていてき》に行われたので、案外に結果も宜敷《よろしく》、日ならずして退院して、庵主《あんしゆ》の宅にも来 訪するようになったから、全快《ぜんかい》次第、早速に支那《しな》に行くべく準備をしていた。一方|庵主《あんしゆ》は、 |阿久津博士《あくつはかせ》に挨拶《あいさつ》に行って、だんだん話を聞くに博士曰く、 『元来が癌腫《がんしゆ》の事故、早くて一年、遅《おそ》くて三年の中《うち》にまたまた病勢《ぴようせい》の増進《ぞうしん》を見るべし』 との事である。庵主《あんしゆ》も勘なからず落胆《らくたん》して、この模様《もよう》にてはとても支那などに旅行せしむる 心地もせず、だんだん研究の結果、こう決心をしたのである。 『父母《ふぼ》の片筐《かたみ》とも云うべき弟の身体《からだ》が、絶対に不治《ナふじ》の病気とある以上は、庵主《あんしゆ》の健康《けんこう》と力《ちから》が 続く限り現代の医術にて、生命《せいめい》の持続《じぞく》される限り、最善《さいぜん》の手《て》を尽《つく》してみよう、次ぎには、設 令《たとえ》いかなる悪性の病気にもせよ、我家に生れて、我国民人《わがくにみんじん》の為めに、犠牲的《ぎせいてき》の観念《かんねん》を以て立 つ以上は、この病気を以て無上《むじよう》の犠牲的行為《ぎせいてきこうい》が出来ぬ事はないから、この病気を以て十分に 研究の資料たらしむるが良き事である、それには龍造寺《りゆうぞうじ》にその旨《むね》を申含めねばならぬ』と思 い、一|日龍造寺《にちりゆうぞうじ》に面会してかく云うた。 『今回汝の病気に付いて、能《よ》く阿久津博士《あくつはかせ》と相談してみるに、かくかくの病症《びようしよう》にて、絶対に |不治《ふじ》の病気であるとの事故、汝《なんじ》は左《さ》の覚悟《かくご》をなすべし、  第一、男子《だんし》一|度生《たぴせい》を得《え》て、発奮志《はつぷんこころざし》を決し、国家民人《こつかみんじん》の為《ため》に尽《つ》くすは、決して偏固《へんこ》の心を 以て為《な》すべからず。その為《な》し得《う》べき境遇《きようぐう》と、為《な》し得《う》べき事柄《ことがら》とを弁《わきま》えざる可《べ》からず。この故 に汝《なんじ》は支那に行ってのみ然《しか》る志《こころざし》を成《な》す物《もの》ではない。生きて世に尽《つく》す事能《ことあた》わず、死して後《の》ち 聞ゆる事なきその身体《からだ》を以て全部医学上の研究資料に捧《ささげ》げ、人間の『モルモット』となる事、 |我家《わがいえ》としては光栄《こうえい》この上なしと思う。もし万一研究の結果、医学上に何等かの成績を得るに 至らば、兄はこの上の満足《まんぞく》なく、またもし助命再生《じよめいさいせい》の好果《こうか》を得《え》なば、それこそどんな献身的《けんしんてき》 の御奉公《ごほうこう》でも出来る訳故、この際衷心最《さいちゆうしんもつと》も爽快《そうかい》にして、未練《みれん》なき決心をなして、医師が為《な》す まま、また飲《の》めと云う物《もの》は喩《たと》え糞尿腐敗《ふんにようふはい》の物《もの》にても、決して辞《じ》する事勿《ことなか》れ、予《よ》もまた堅くそ の決心をなし、費途《ひと》と時日《じじつ》とを顧慮《こりよ》する事なくきっと献身的《けんしんてき》に汝《なんじ》が身体《からだ》の保護《ほご》に従事《じゆうじ》すべし』 と申聞かせたのである、龍造寺《りゆうぞうじ》は満身《まんしん》の笑《えみ》を浮《うか》べてかく日うた。 『世《よ》に廃物利用《はいぷつりよう》と申事《もうすこと》を承《うけたまわ》りおりましたが、私《わたくし》の体《からだ》がそれになるとは、こんな有難事《ありがたいこと》はご ざいませぬ。幼少《ようしよう》より抜群《ばつぐん》の腕白《わんぱく》にて、人となって処世《しよせい》の出発第一歩を誤まり、半世《はんせい》の流離 困頓《りゆうりこんとん》は、ことごとくお兄様《あにいさま》に御心配を掛《かく》るばかりの結果と相成《あいな》り、最終に及んでいささか自《じ》 |覚致《かくいた》します。君国《くんこく》を思うの道に入りましたら、直《すぐ》にかかる難病《なんびよう》に罹《かか》り一|応落胆《おうらくたん》は致《いた》しました が、ただ今|承《うけたま》われば、それが医学界の資料になるとは、誠に以て有難事《ありがたいこと》にて、この上の廃 物利用《はいぶつりよう》はござりませぬ。今日《こんにち》より私の体は、きっと『モルモット』と心得《こころえ》、切《き》るも突《つ》くも医 師《いし》の勝手仕第《かつてしだい》にて、薬物《やくぶつ》の如きも、薬はおろか研究の為めなら、湯《ゆ》でも飲《の》みますから、御安 心下《ごあんしんくだ》さいませ』 と快《こころよ》く決心の返答をしたから、庵主《あんしゆ》も大いに安堵《あんど》してそれから大抵病院住居《たいていぴよういんずまい》をさせた。まず |東京《とうきよう》での名家《めいか》と云う名家《めいか》、まず阿久津《あくつ》、阪口《さかぐち》の専門博士《せんもんはかせ》より、青山、林、土肥、金杉、佐藤、 松本の諸博士《しよはかせ》はもちろん、庵主《あんしゆ》の平生依頼《へいぜいいらい》する牧、杉本等の諸名医《しよめいい》まで、種《しゆじゆ》々|様《さまざま》々の手を尽《つく》 した治療を受けたのである。而《しか》して庵主《あんしゆ》の仕事としてはまず何よりも膀胱内の瘡面《そうめん》を清潔《せいけつ》に すると云う条件の下に、看護人《かんごにん》の熟練《じゆくれん》なる者を附随《ふずい》せしめ、毎日|薬液《やくえき》を以て洗滌《せんでき》し、医師《いし》の |指図《さしず》に依《よ》って、食物に十分注意し、それを丹念《たんねん》に持続せしめたのである、その中《うち》また膀胱内 の癌《がん》の瘡面《そうめん》は、葡萄《ぷどう》の実の如く、粒《つぶつぶ》々|腫脹《しゆちよう》して出血を始めたから、種々手当の末、またまた |腹部切開《ふくぶせつかい》の事に決したのである、阿久津博士《あくつはかせ》を始《はじ》め、その他の名医達《めいいたち》も、    くりかえあらりようじななにさはしつかんもの   すあま 『かく繰返しての荒療治を為すも、何様疾患その物が悪性故、一時の仕事たるに過ぎず、余 りに痛わ敷てお気の毒である』 と申さるるも龍造寺《りゆうぞうじ》は断然聞入《だんぜんききい》れず、庵主《あんしゆ》もまた龍造寺《りゆうぞうじ》に、根本的同意をして、あくまで徹《てつ》 |底的施術《ていてきしじゆつ》を要求するので、阿久津博士《あくつはかせ》は再び決心をして、大施術《だいしじゆつ》を執行《しつこう》せられたのである。 今度は膀胱内の組織《そしさ》の悪《あ》しき所を、十分に切断《せつだん》じて取除《とりの》け、その瘡面《そうめん》を電気にて十分に焼《しようし》 灼《やく》 せられたが、何様大施術《なにさまだいしじゆつ》の事故、博士は満身《まんしん》の流汗《りゆうかん》は下着《したぎ》を透《とお》して、上衣《うわざ》まで絞《しぼ》るように至 りたれ共、十分|為《な》すベき仕事は為《な》さねばならぬと、その施術《しじゆつ》を終られたのは、二時間の後《のち》で あった。それより龍造寺《りゆうぞうじ》は、例に依って施術後《しじゆつご》の摂養《せつよう》に注意して、とうとうまた本の通り位 には回復したのである。  丁度この頃の事で、庵主《あんしゆ》の秘書役《ひしよやく》を頼《たの》んでいる、陸軍出身の清水《しみず》と云う人がある。この人 の叔父君《おじきみ》に当る老人で書家《しよか》を以て業《ぎよう》とする人があって、老年に及ぶも子供がないので、諸国 を周遊《しゆうゆう》して書道に遊んでいた折柄、不計《はからず》も胃癌《いがん》となり、総ての医者に見放《みはな》されたるまま、責《せ》 めても死水《しにみず》は一人の甥《おい》の清水《しみず》に取って貰わんと、人に連れられて来たので、清水氏は懇切《こんせつ》に |介抱《かいほう》している中《うち》、京都《きようと》のある寺より胃癌《いがん》の妙薬《みようやく》を施薬《せやく》すると聞き、それを煎《せん》じて叔父君《おじぎみ》に飲《の》 ませていたら、最早死期《もはやしき》に迫《せ》まっていると医師《いし》に云われた叔父君《おじざみ》が、なかなか死なぬので、 一同|不思議《ふしぎ》に思い、なお一層その薬《くすり》を継続《けいぞく》して飲《の》ませている中《うち》、ある日|血《ち》の糞便《ふんべん》を排泄《はいせつ》して 以来、だんだん回復《かいふく》に向い、とうとう全快《ぜんかい》して、またまた元《もと》の書家《しよか》となって諸方《しよほう》を周遊《しゆうゆう》して いるので、清水氏はその薬《くすり》の種《たね》を見付出して、今それを宅に植付けているから、それを龍造 寺《りゆうぞうじ》に飲《の》ませては如何《いかん》との勧《すす》めにより、薬とさえ聞けば、何でも飲む龍造寺《りゅうぞうじ》の流儀《りゅうぎ》故、早速に その種実《たね》を得《え》て、自宅内に五十坪ばかりも蒔《ま》き込《こ》んで、その枝葉《しよう》を煎《せん》じて毎日の常飲料《じよういんりよう》とし て龍造寺は暮していたのである。  折からまただんだんとこの薬の話を聞くに、二十年前|泉州堺《せんしゆうさかい》の人で奥某《おくぽう》と云える人が、拳 大《こぷしだい》の癌腫《がんしゆ》が胃の跣《ふ》に発生し、まず大阪病院《おおさかぴよういん》にて見放《みはな》され、それより東京《とうきよう》の胃腸病院《いちようぴよういん》にて見放 され、赤《せき》十|字病院《じぴよういん》にて見放され、帝国大学病院《ていこくだいがくぴよういん》にて見放され、最後に順天堂《じゆんてんどう》にて見放された ので、いよいよ死期が数月の中《うち》に迫《せま》りたると聞き、それなら帰りて郷里《きようり》の土《つち》とならんと思い、 自宅にて療養中、ある人の勧《すす》めにて、右の植物を煎《せん》じて飲用《いんよう》せば、胃癌《いがん》の全快疑《ぜんかいうたがい》なしと聞き、 |全然無駄《ぜんぜんむだ》と思いながら、手の尽《つき》たる後《のち》の気慰《きなぐさ》みに、それを土佐《とさ》の国《くに》より取寄《とりよ》せ、毎日の飲料 として服用《ふくよう》していたるところ、五六ヵ月《げつ》を過《す》ぐるもなかなか死《し》なぬので、ますます気を得て |服用《ふくよう》を続けていたるに、八ヵ月目に及んで、ある朝|真黒《まつくろ》なる血《ち》の如き物を、多量に吐出《としゆつ》した ので、驚きのあまり一時|喪心《そうしん》したのを、家人《かじん》は驚きて種々|介抱《かいほう》の末|人心《ひとごころ》に帰り、今までは水 さえ胃中に収《おさま》り兼《か》ね、右の煎薬《せんやく》だけは、種々の困難をして、やっと飲用《いんよう》していたのに、それ から後《のち》はまず重湯《おもゆ》が嚥下《えんげ》出来る事となり、その次には僅《わず》かな粥《かゆ》が食《く》われ、漸次体力《ぜんじたいりよく》も回復《かいふく》し て、爾後《じご》五ヵ月にして平常に回復《かいふく》したので、その薬草《やくそう》を以て内務省《ないむしよう》より許可《きよか》を受け、治癌剤《じがんざい》 と命じ売薬《ばいやく》として売出したるところ売行抜群《うれゆきばつぐん》なりと聞き丁度清水氏の話と一|致符合《ちふごう》するに 付、庵主《あんしゆ》は弟の可愛《かわい》さと、研究の面白さとにて進んでこの薬《くすり》の研究にも着手《ちやくしゆ》する事としたの である。  それからこの薬草《やくそう》を本《もと》として調査を遂《と》げたるに、俗称《ぞくしよう》『ハマジシャ』と云《い》い、和名《わめい》『ツル ナ』と云《い》い、漢名《かんめい》『蕃杏《ばんきよう》』と云《い》い、英名にて『エキスパンサー』と云うとの事、一|見蔓生《けんまんせい》の 如くして、黄《き》なる小花《しようか》を着け、葉《は》は丸味《まるみ》を持って厚く、副食物《ふくしよくぶつ》としては茹《ゆで》て浸《ひた》し物《もの》、もしく は味嗜汁《みそしる》の身などに宜敷《よろしく》『しゃきしゃき』とした歯当《はあた》り宜敷《よろしく》、少し塩気《しおけ》を含む味を有せり、 |種《たね》は堅《かた》き殻内《かくない》に芥子《けし》の如く、障隔内《しようかくない》に群列《ぐんれつ》して、その殻《から》のまま、播種《はしゆ》する時は、二ヵ月位萌 芽《げつぐらいほうが》を生ぜず、故に槌《つち》を持って半《なか》ば打割《うちわ》って播種《はしゆ》するを常とす。それより世間《せけん》に癌腫《がんしゆ》とさえ聞 けば、この薬《くすり》を施薬《せやく》して飲用《いんよう》させて見たが、脈榑《みやくはく》が良好《りようこう》となる事だけは一般に同一であるが、 |子宮癌《しきゆうがん》、肝臓癌《かんぞうがん》、膀胱癌等《ぽうこうがんとう》には一|切験目《さいききめ》を認めざりしが、胃癌《いがん》だけには慥《たし》かに顕著《けんちよ》なる効験《こうけん》 があるので、庵主《あんしゆ》の友人《ゆうじん》岸博士は、大いにこの薬草《やくそう》に興味を持ち、もっぱら製薬試験《せいやくしけん》の事《こと》に 従事せられ、数ヵ月の後、一の製薬を得られた頃、丁度|庵主《あんしゆ》の友人|栗野子爵《くりのししやく》の姉君《あねぎみ》の七十|有 余《ゆうよ》にならるる人が、また拳大《こぶしだい》の癌腫《がんしゆ》が胃眈《いのふ》舳に出来たるより、土肥博士《どいはかせ》の『ラジウム』治療等 にて、種々|手当《てあて》も尽《つく》されたるが、さらに効験《こうけん》なきより、この岸博士より製薬《せいやく》の散薬《さんやく》を貰い、 それを服用《ふくよう》して五十幾日を持続の折柄、ある日|看護婦《かんごふ》が、気《け》たたましき報告に『御隠居様《ごいんきよさま》が 多量の血便《けつべん》を排泄《はいせつ》せられました』との声に驚き、一同|駈付《かけつ》けて見るに、何とも形容の出来ぬ |臭気《しゆうき》にてありしと。それから何れも応急《おうきゆう》の手当をなす内、漸次《ぜんじ》落付き日を経るに従《したが》って衰弱《すいじやく》 に衰弱《すいじやく》を重《かさ》ねたる体も、だんだんと回復《かいふく》してとうとう後《のち》には湯《ゆ》も咽《のど》に通らざりし病人が、性 来好物《せいらいこうぶつ》の西瓜《すいか》を幾切《いくき》れも摂取《せつしゆ》せらるるに至ったとの事である。  かかる薬を龍造寺《りゆうぞうじ》が自宅内に沢山|蒔付《まきつ》けて、平常不断《へいじようふだん》に飲用《いんよう》する事を継続《けいぞく》したので、その 為か脈搏《みやくはく》だけは何時《いつ》でも丈夫で暮していたが、何様《なにさま》難病故とうとう三度まで腹部切開《ふくぶせつかい》の施術《しじゆつ》 を行い、同一の方法にて焼灼《しようしゃく》しては快癒《かいゆ》する事を繰り返したのである。数《かぞ》え来《きた》れば龍造寺《りゆうぞうじ》が |新橋停車場《しんばしでいしやじよう》にて発病以来、丁度十年の間、各名医方も驚嘆《きようたん》する程学理《ほどがくり》と薬剤《やくざい》と、施術《しじゆつ》と看護《かんご》 との四つに最善《さいぜん》を尽《っく》したのは、  第一、医学上の研究  第二、父母《ふぼ》の遺体《いたい》に対する務《つと》め  第三、兄弟《きようだい》の恩情《おんじよう》より、万一にも全快《ぜんかい》の機《き》はなきやとの未練心《みれんしん》 で有《あ》ったに相違《そうい》ないのである。  その後庵主《ごあんしゆ》が、郷里福岡《きようりふくおか》へ帰省中『龍造寺容体不良《りゆうぞうじようだいふりよう》』との電報に接したから、取る物も取 り敢《あ》えず帰京《ききよう》して見たれば各医師が、『どんな龍造寺《りゆうぞうじ》さんの健体《けんたい》も、今度は六ヶ敷《しい》と思います、 それは『ブルース』の性質がはなはだ不良であるから電報を打ました』との事であった。病 床《ぴようしよう》に行って龍造寺《りゆうぞうじ》に面会して見れば、顔頬《がんきよう》もさほどの衰弱《すいじゃく》は見えねども、脈《みゃく》と呼吸《こさゆう》は素人目《しろうとめ》 にも大分多いようである。何でも十年目の病体故、予《よ》を隊長《たいちよう》として皆代《みなかわ》る代《がわ》る夜伽《よとぎ》をせよと 命令《めいれい》して、予も夜伽看護《よとぎかんご》を続けたが三|日目《かめ》の昼頃、俄《にわ》かに段落《だんおち》がして、医師が『カンフオル』 の注射を始めた。また食塩の注射をも為《し》た。それから二三|時間奮闘《じかんふんとう》の後《のち》、いよいよ絶望《ぜつぽう》となっ て来て、もう頸髄《けいずい》が痙鑾《けいれん》してきて、瞬《またたき》が出来ぬように成って来た時、龍造寺《りゆうぞうじ》は庵主《あんしゆ》に向って かく日うた。 『お兄様大分《あにいさまだいぶ》気持が良くなってきました。この塩梅《あんばい》では今度もまた難関《なんかん》を切《き》り抜《ぬ》けまして回 復《かいふく》するであろうと思います。今までは色《いろいろ》々の不養生《ふようじよう》を致しまして、御心配ばかりを掛ました が、今度こそはシッカリ保養《ほよう》を致します。この冬《ふゆ》を兎《と》や角凌《かくしの》ぐ為めには、熱海《あたみ》に頃合の家を 見付けて置ましたから、体が動けるだけに成ましたらば、腰を据《す》えて熱海《あたみ》に転地《てんち》しようと思 います。来春菜種《らいはるなたね》の花《はな》の咲《さ》く頃にはきっと全快《ぜんかい》するであろうと思います』 と云うから、庵主《あんしゆ》は思わず満身《まんしん》の血《ち》が凍るほど不憫《ふびん》になってきた。今この末期《まつご》に及び、これ |程脳髄《ほどのうずい》の明晰《めいせさ》な男でもその死期《しき》を知らぬのか知らん。況《いわ》んや度《たぴたぴ》々の施術《しじゆつ》の時も自《みず》から進んで 大施術を受けたのは、已《すで》に絶対に不治《ふじ》の病気たる事を知っていたればこそ、その旺盛《おうせい》な決心 もあったのである。然《しか》るを『菜種《なたね》の花《はな》の咲《さ》く頃には全快仕《ぜんかいし》よう』とは、全く安楽国《あんらくこく》へ行く積 りであると見えると思い、 『おおそうじゃ、十年の星霜短《せいそうみじ》かしとせず、今日《こんにち》まで汝が生命を持続《じぞく》したのは、全く汝が勇 猛《ゆうもう》の結果である。この上は身心《しんしん》共|無為《むい》の境界《きようがい》に入り、安楽《あんらく》の処《ところ》に転地《てんち》をして心安《こころやす》く暮せよ』 と云うたのが、庵主《あんしゆ》が愛弟龍造寺《あいていりゆうぞうじ》に対する今生後生《こんじようごしよう》と限った最後の引導《いんどう》であった。それから 三十分立つか立たぬ中に、呼吸がごとんと響《ひび》いて、跡《あと》はふーっと一つ長い息を吐《は》いて落命《らくめい》し たのである。これが東京府下中野郷字中野《とうきようふかなかのごうあざなかの》一千五十五番地の龍造寺《りゆうぞうじ》が自宅の八畳の間に於て である。それから立会医師《たちあいいし》の最後《さいご》の診断《しんだん》も済んで、いよいよ龍造寺隆邦《りゆうぞうじたかくに》は死亡したとの知ら せを為し、親近の者も最後の式も終えたから、庵主《あんしゆ》は医師《いし》に向ってかく云うた。 『我《わが》が家憲《かけん》として、家中死亡者《かちゆうしぽうしや》は、何物《なにもの》でも掛り医|立会《たちあい》の上、ことごとく解剖《かいぼう》を行わせるの であるから先生方の御相談で、どうか順天堂《じゆんてんどう》で至急解剖《しきゆうかいぽう》の上、病理研究《ぴようりけんきゆう》の資料として戴《いただ》きた いのである』 『それは実に有難事《ありがたいこと》でござりますから、十年以前より今日まで龍造寺《りゆうぞうじ》さんを診察《しんさつ》した医師《いし》の 方々に、ただ今《いま》から至急通知《しきゆうつうち》を致しまして、明朝の十時に解剖を致す積りで準備を致します』 と云うて一同引取られたのである。それからその夜《よ》は一同と共にいよいよ最後の夜伽《よとざ》をして、 明朝の八時半に自動車を以て龍造寺《りゆうぞうじ》の遺骸《いがい》を順天堂《じゆんてんどう》に送り付けたのである。その解剖《かいぽう》の結果 は、  刪主病たる膀胱《ぽうこう》の癌腫《がんしゆ》は『クルミ』実のように収縮固結《しゆうしゆぐこけつ》して、これを裁断《さいだん》したるに綺麗《きれい》に   尿道《にようどう》だけの働をする事に成っていたとの事  伽|腎臓《じんぞう》は両方とも、一方は腐敗《ふはい》一方は全部が化膿《かのう》していたとの事  御|肺部《はいぶ》に結核《けつかく》の病竈《びようそう》がありしとの事  ∞心臓部《しんぞうぶ》に結核《けつかく》の転移《てんい》ありしとの事  伺|脳部《のうぶ》の解剖《かいぼう》は脳量《のうりよう》も目方《めかた》も抜群《ばつぐん》普通の人より多量《たりよう》なりしとの事  右の如き事から幾多《いくたび》病理上の事を宜敷書《よろしくか》いて、各部の写真を添え、広くこれを配布《はいふ》せられ たとの事である。要するに龍造寺《りゆうぞうじ》の癌《がん》は、ある形式に於て直《なお》っていたのである、死因《しいん》は腎臓 および心臓であると確定《かくてい》したのである。  鳴呼庵主《あああんしゆ》は生来始《せいらいはじ》めて骨肉《こつにく》の弟を失うたのである。それも三回まで人切俎板《ひときりまないた》の上に載せて、 |血塗《ちまみ》れになしてである。然《さ》れども庵主《あんしゅ》の心理状態はすこぶる満足《まんぞく》であった、なぜなれば、如 何《いか》にもそれが徹底的であったからである。  第=効果は収《おさ》めなかったが、出来得《できう》る限りの教訓《きようくん》を得《え》たのである  第二、豪放不轟《ごうほうふき》の男《おとこ》ではあったが、生涯寸時間《しようがいすんじかん》も兄弟友愛《きようだいゆうあい》の情を失わなかったのである  第三、癌腫《がんしゆ》の病《やまい》に罹《かか》ったのを、十年間|看護《かんご》したのである  第四、現代《げんだい》に於てあらゆる名医の手にて、十分の治療をなし、また十分の研究をして貰《もろ》う   たのである  第五、癌《がん》に対するあらゆる薬《くすり》は、善悪《ぜんあく》とも飲《の》ませ尽《つく》して、各《かく》その成績《せいせき》を調べる事が出来た   のである  第六、その遺骸《いがい》は帝国大学《ていこくだいがく》より解剖《かいぽう》の講師《こうし》が出張《しゆつちよう》して、数十人の名医立会の上、熾烈《しれつ》なる   眼力《がんりき》の焼点《しようてん》に横《よこた》わって、その学的資料に提供したのである  庵主《あんヨゆ》はこの上この稿《こう》を書くに忍《しの》びぬからここに筆《ふで》を擱《さしお》くであろう。これを読む青年諸士《せいねんしよし》は、 あんしゆ きようだいこうい ぜ、あく かか    しよし 庵主の兄弟が行為の善悪に拘わらず、諸士が兄弟間友情の何かの資料としてくれられなば、 庵主の満足よりもむしろ龍造寺《りゆうぞうじ》の冥福《めいふく》を祈る上に於て、多大なる功徳《くどく》であると感謝するので ある。庵主《あんしゆ》この間龍造寺《あいだりゆうぞうじ》の後家《ごけ》の宅《たく》を訪《と》うて見たらば庵主《あんしゆ》がかつて書いて遣《や》った、不味詩《まずいし》の |掛物《かけもの》を壁間《へきかん》に掛《か》け、その下に龍造寺《りゆうぞうじ》の位牌《いはい》を祭《まつっ》ていた。曰く、     かんかはんせいくしんおおし      ごていじゆうねんぴようまにともなう     坎軻半世苦辛多  吾弟十年倶病魔     あわれむべししんぎんただわれにとう      こんしゆうのきくしんはたしていかん     可憫坤吟唯問我  今秋菊信果如何 五十五 |夜陰《やいん》に響《ひぴ》く鉄槌《てつつい》の音《おと》   奇遇金蘭を契り、鐘音正覚を覓む  明治十七八年の頃であった。庵主《あんしゆ》が他県の人の紹介で、同郷の頭山満氏《とうやまみつるし》に面会し、それが |動機《どうき》となりて、郷里事業《きようりじぎよう》の興隆《こうりゆう》を思い立ち、久《ひさ》し振《ぷ》りにて福岡に帰ったが、何にしろ壮年血 気《そうねんけつき》の頃であるから、一|度意気協合《たびいききようごう》した上は、全く阿修羅王《あしゆらおう》の如く荒《あ》れ廻り、一|文《もん》なしで下駄《げた》 もはかず、手拭《てぬぐい》も持たぬまま石炭山《せきたんやま》の計画を立てたり、当時三四万円も掛《かか》る新聞などを起し たり、見る事聞く事ことごとく旧套《きゆうとう》を打破《だは》して、弱りに弱った郷里《きようり》の風紀《ふうき》を革新改造《かくしんかいぞう》してい る最中、庵主《あんしゆ》が玄洋社《げんようしや》の機関たる、福陵新報《ふくりようしんぽう》と云う新聞社に行ってみると、会計方《かいけいかた》をしてい る一人の青年で、椅子《いす》にばかり腰を掛けてぼんやりしているのがあった。庵主《あんしゆ》と毎日のよう に顔を見合せて、双方一|言《ごん》の挨拶《あいさつ》もせず経過していたが、庵主《あんしゆ》はその風采《ふうさい》の通常でないとこ ろから、一種|異様《いよう》の感《かん》を持っていた。ある夏の日の事、その青年がつかつかと庵主の傍《そば》に寄っ て来て、 『あなた非常に暑いから、一|緒《しよ》に海へ泳ぎに行《ゆ》こうではございませんか』 と云うから、庵主《あんしゆ》は余り突然の事ではあるが、その突然がまた面白かったので、 『はい儼緒に行きましょう』 と、共に海岸《かいがん》に行って腹散《はらさんざん》々|瀞泳《ゆうえい》して、がっかり疲れたので、海浜《かいひん》の松陰《まつかげ》に休んでいたとこ ろ、その男が云うには、 『あなたは毎日何を仕《し》ておりますか』 と云うから庵主《あんしゆ》は、 『僕は毎日|馬鹿《ばか》の限《かぎ》りを尽《つく》しております』 と云うとその男がにやりと笑って、 『世《よ》の中《なか》で馬鹿《ぱか》らしい事は、皆《み》んな男のする事であろうと思います。僕は新聞杜の会計をし ております』 て云《い》い云い双方|衣物《きもの》を着て共に新聞社に帰り、その男は机の上に拡げている帳面《ちようめん》を見せた。 一金百七十円    月給皆んなの分 一金二十八銭    うどん食う 一金五十銭     ござござ分らぬ と云うような事《こと》を書いてある、庵主《あんしゆ》はその男に向い、 『この新聞社の月給は、皆《みんな》で百七十円ですか』 と聞くと、 『はい』 と云うから、 『これは何月分《なんがつぶん》ですか』 と尋《たずね》ると、 『それは今月分です』 と云うから、 『何月分《なんがつぶん》と書いてないでは有《あり》ませぬか』 と問うと、 『今月私《こんげつわたくし》の手で、私が書きましたから今月分です』 と云う。庵主《あんしゆ》は面白いから、 『この「うどん食《く》う」と書いてあるが、これは誰《たれ》が食いましたのですか』 『それは同僚《どうりよう》の吉田《よしだ》さんと食いました』 『このござござとは何です』 『それは何であったか分らぬが、ただ銭《ぜに》だけ五十|銭足《せんた》らぬようになりましたから、ござござ と書きました』 『新聞社の会計はそんな事で良いのですか』 『いえ新聞社でなくとも、日本国中の会計は皆《み》んなこの通りで宜《よろし》いと思います』 『なぜですか』 『一体|会計方《かいけいがた》と云《い》う者は、嘘《うそ》を書くのが一番悪いと思います。事実有った通りの事を書き得 る者なら、それ以上の良い会計方はないと思います。日本国中そんな会計方ばかりになった ら、天下泰平《てんかたいへい》であります。僕は自分で仕た事を、その通り僕が書いておりますから、決して 間違はありませぬ。それを事実忘《じじつわす》れておっても、忘《わす》れぬ振《ふ》りをして嘘《うそ》で間都合《まつごう》を合せては済 まぬと思います。また事実を書いているのを信用《しんよう》せぬ社長なら、辞職《じしよく》した方が好いと思いま す。我社《わがしゃ》の社長は頭山君《とうやまくん》で、僕の書いた事を信用《しんよう》してくれる人ですから遣《や》っております』  これを聞いた庵主《あんしゆ》は、何時《いつ》の間《ま》にやら目を見据《みす》え、体《たい》を堅くして、その男の顔を凝視《ぎようし》して いたが、腹《はら》の中《なか》に言得《いいえ》られぬ慙愧《ざんき》の心が湧《わ》いて来て、強烈《きようれつ》なる刺戟《しげき》を受け、実際|師父《しふ》以上の |教訓《きようくん》を聞いた心地《ここち》がしたのである。これは只人《ただぴと》ではない、きっと自分の為めになる友達とし て良い人である、と思うと同時に、玄洋社《げんようしや》が天下《てんか》を睥睨《へいげい》して四方を震慄《しんりつ》させているのも、こ の会計法《かいけいほう》一つではないかと、少なからず畏敬《いけい》の念を起したのである。この人は姓《せい》を結城《ゆうき》、名《な》 を虎《とら》五|郎《ろう》と云うて、当時二十五六歳で庵主《あんしゆ》とは五つ六つ年上であった。その父は福岡藩《ふくおかはん》の大 家家老席《たいけかろうせき》にある久野氏《ひさのし》の家来《けらい》であって、陪臣《ばいしん》の家ではあるが、有名な忠誠《ちゆうせい》の人で、歳《とし》八十|有 余《ゆうよ》まで勤務《きんむ》せられたそうだが、その間に二度も閉門《へいもん》に遭《あ》うような大事件にあったが、主家《しゆか》で もこの人を使わずにはいられず、本人もまたこの主《しゆ》に仕えずにはいられなかった程の人物で あったとの事である。この父の死後、母の手一つで育て上げられた虎《とら》五|郎《ろう》は、殆《ほと》んど口にも 筆にも尽《つく》されぬほどの艱難《かんなん》の中に人となったが、世《よ》の有《あり》ふれた小児《しように》の如く、少しの『いじけ』 気もなく、ひがみ根性《こんじよう》もなく、最も無頓着《むとんちやく》に、無邪気《むじやき》に生長して来たが元《もともと》々|父兄師長《ふけいしちよう》の訓戒《くんかい》 があるではなく、小学校へさえ入学した事もなく、ただ憂《う》きに馴《な》れたる母親の、肌寒《はださむ》き懐《ふところ》を この上なき安楽《あんらく》の世界《せかい》として伸び伸びと育《そだ》ってきたと云《い》うが、この人の著《いちじる》しき経歴《けいれき》である。  風薫《かぜかお》る、立花山《たちばなやま》の北陰《きたかげ》に、藍《あい》の島打《しまう》つ玄海《げんかい》の、濤《なみ》の音《おと》さえ響灘《ひびきなだ》、幾暮《いくく》れ告《つ》ぐる鐘崎《かねざき》の、沖《おき》 に漂《ただよ》う漁舟《いさりぶね》、それを前《まえ》にした一|漁村《ぎよそん》を新宮村《しんぐうむら》と云うのである。この村は上古《じようこ》よりはなはだ由 緒《ゆいしよ》ある所にして、新宮《しんぐう》の名は筑前那珂《ちくぜんなか》の郡《こおり》にある、住吉神社《すみよしじんじゃ》の支祠《しし》としてこの名あるとの事、 ほんちようむるいししゆう  しゆうこう さく       ぎよこみぎわにそうてしゆんりゆうくらく うんしきしにうつつてこしようあおし     れん 本朝無類詩集に周光の作として『漁戸傍汀春柳暗。雲祠移岸古松青』の一聯あり。ま た釈蓮禅《しやくれんぜん》の詩にも『沙塘岸遠漁村白《さとうきしとおくしてさよそんしろく》。松越山高烏路青《しようえつやまたこうしてうろあおし》』の句ある如く筑前明媚《ちくぜんめいぴ》の風光は、 |大概《たいがい》この辺に展開せられているその一つであるこの村に、母と共に小貧《ささやか》な暮しをしていた、 一の奇童《きどう》が即ちこの結城虎《ゆうきとら》五|郎《ろう》である。  結城《ゆうき》の母親は頼《たの》む夫に死別れ、幾多浮世《いくたうきよ》の憂節《うきふし》に揉《も》まれて、生活の脅威《きようい》に漂《ただよ》い、終《つい》にこの 村に落付き、虎《とら》五|郎《ろう》とその姉《あね》の難病《なんびよう》に罹《かか》れる者の二人《ふたり》を育《はぐ》くみ、艦褸《つづれ》させという針仕事《はりしごと》、洗《あら》 い濯《すす》ぎの傍《かたわ》らに、村の子供に手習《てならい》の、仮名《かな》を教えを生業《なりわい》の、助けとなして暮せしが、虎五郎 十二三歳の頃よりして、その母に至孝《しこう》なる事は、一村の模範《もはん》ともなるべき程《ほど》にて、心なき村 人《むらぴと》も、自然《しぜん》とこの親子の風《ふう》に善化《ぜんか》せらるるに至ったのである。虎五郎は十二歳の時より、近 村の鍛冶屋《かじや》に弟子入《でしいり》して、十五歳の頃母の許《もと》に帰りて、家の土間《どま》に、小《ささ》やかなる鞴《ふいご》を据《す》え、 |釘鍛冶《くぎかじ》の業《わざ》を始め、いささかなりとも母の手助《てだす》けをせんものと、夜《よ》も半《なかば》は眠らずにその業《わざ》を |励《はげ》み、僅《わず》かに得たる品物は、これを博多《はかた》の町に負《お》い行《ゆ》きて、一|生懸命《しようけんめい》に母の生計《せいけい》を助けてい たのである。  然《しか》るに時恰《ときあたか》も維新《いしん》と云う旋風《つむじ》の吹《ふ》き荒《すさ》んだ後《あと》、西南戦争《せいなんせんそう》の前後であったため、旧士族《きゆうしぞく》の窮 困惨状《きゆうこんさんじよう》は、眼も当てられぬ程で、結城《ゆうき》はこの僅かなる釘鍛冶《くぎかじ》に、必要なる地鉄《じがね》の仕入にも困 難《こんなん》し、日毎《ひごと》にその苦痛《くつう》に耐《た》え兼《か》ねていたが、ふと心付《こころづき》しは、数年前この村の浜辺《はまべ》にて、一|腰《そう》 の小蒸気船《こじようきせん》が難破《なんぱ》した節《せつ》、この村の漁民《ぎよみん》が気を揃《そろ》えて尽力《じんりよく》をしたので、その微塵《みじん》に破壊《はかい》した る物の中、蒸気《じようき》のボイラを謝礼《しやれい》として村民に贈《おく》り、その船主《せんしゆ》は立去ったが、何様《なにさま》当時の事ゆ え、この鉄《てつ》の塊《かたま》りの丸《まる》き釜《かま》を何とも手の付けようもなく、その儘《まま》に海浜《かいひん》に打捨て転《ころ》がして有《あ》っ た。結城《ゆうき》はそれにふっと目を付け、これを村の人々と相談をして、ある値段にて買入れ、こ れを釘《ぐぎ》となして売ったら、何程《なにほど》ずつか仕払《しはら》う約束《やくそく》をして、我物《わがもの》となしたのである。然《しか》るに何 様《なにさま》こんな大きな鉄塊《てつかい》を、釘《くぎ》の材料となすには、何程《なにほど》の大仕掛《おおじかけ》をなすもなかなか困難《こんなん》である。 それをいかにするかと見ておれば、結城《ゆうき》は晩景《ばんけい》より一|挺《ちよう》の玄翁《げんのう》を提《さ》げて浜辺《はまべ》に出《い》で、月夜に |乗《じよう》じてそのボイラの横腹を打始めた。その音響《おんきよう》は、海面《うなづら》に亘《わた》り山彦《やまぴこ》に徹《てつ》し、夜陰《やいん》と共に鳴響《なりひび》 き、村の誰彼《たれかれ》は何事が始まったかと一|驚《きよう》を喫《きつ》したが、後《のち》その事が分って村の書老《きろう》はその翌晩 からは、 『あれは、親孝行《おやこうこう》の音《おと》であるから能《よ》く聞いておけ』と孫《まご》や子供に教訓《さようくん》して、結城《ゆうさ》が年若《としわか》にし て万事《ばんじ》に精励《せいれい》なるを称賛《しようさん》していたとの事である、結城は毎晩毎晩|夜陰《やいん》に乗じ、満身の力を軍《こ》 めてそのボイラを玄翁《げんのう》で打っていたが、玄翁《げんのう》が熱するばかりになる時、やっとボイラの横腹《よこぱら》 に一つの穴を打抜いたのである。それから鉄片《てつべん》を一つ二つと打落し、それを鞴《ふいご》に掛《か》けて細く はりがね                       くぎ せい  せい一い きそ  こしら 針金のように打伸ばし、とうとうその古ボィラ一つを、全部釘に製して生計の基礎を栫えた、 それが十五六歳の小児《しように》のした事である。庵主《あんしゆ》はかつてその村に往って、老人の咄《はなし》を直《じきじき》々に聞 いた事があったが、 『結城《ゆうさ》さんが子供時代に、蒸気《じようき》の釜《かま》を打割《うちわ》んなさる音を村の年寄《としより》は子供や孫を集めて、毎晩 咄《まいばんはな》していました。あの音はこの村中の若い者の耳に響く、親孝行《おやこうこう》の音であると申していまし た。結城さんがこの村に来て、鍛冶屋《かじや》を始められましてから、この村の若い者や子供は、皆《み》 んな夜業《よなべ》を為《す》るようになりました』 と云うていた。今の世の中の若い者には、こんな事を云うたとて、何事の謎《なぞ》かと思うて聞く 力さえあるまいが、これ等が人間壮若《にんげんそうじゃく》の時からの修養《しゆうよう》の第一である。往古印度《むかしインド》の釈迦《しやか》と云う 人は悉達太子《しつたたいし》と云う、その国の皇太子《こうたいし》であった。年若《としわか》にして人問の無常《むじよう》を感じ、宮殿楼閣《きゆうでんろうかく》や、 |錦衣玉食《きんいぎよくしよく》を捨てて、夜中宮闕《やちゆうきゆうけつ》を抜出《ぬけだし》て、檀特《だんどく》、雪山《せつせん》の深山に分け入り、謫仙《たくせん》を求めて、きっ と衆生《しゆじよう》を済度《さいど》し、正覚《しようがく》の道《みち》に入れようとの本願《ほんがん》を起し、その大法《たいほう》を謫仙《たくせん》に求めんと、あらゆ る忍辱《にんにく》の業《ぎよう》を積《つ》んで、修養《しゆうよう》をしたのである。  それにはまず『三|界無安《がいむあん》』と云うて、前世《ぜんせ》、現世《げんせ》、未来《みらい》とも人間に、安《やす》き心は一時もなく、 先ず第一に『生きる』というて食わねばならぬ、着ねばならぬ、人と交際せねばならぬ。そ の生きている苦みは、物心《ものごころ》の付く頃からして、一生の苦痛《くつう》である。第二は『老《お》ゆる』と云う 恐ろしい事がある。如何程泣《いかほどな》いても慟《わめ》いても、このずんずん年を取って慥《たし》かに間違なく、凋 落《ちようらく》する心細さを引止める事は出来ないのである。第三には『病《や》む』と云う難儀《なんぎ》があり、これ も免《まぬか》るる事は出来ぬのである。痛《いた》い、苦《くる》しい、切《せつ》ない、と云う七|顛《てん》八|倒《とう》の大難事《だいなんじ》をきっと免《まぬか》 れぬのである。第四には『死《し》』と云う結論《けつろん》に到着《とうちやく》する。さんざん生きている苦しみをして、 |老《お》ゆると云う心細い瀬《せ》を渡り、病苦《ぴようく》と云う難儀《なんぎ》を忍《しの》びて、その揚句《あげく》の果《はて》が、正《まさ》に間違《まちがい》なく『死《し》』 ぬるのであるから、人間は一|生涯七顛《しようがいてん》八|倒《とう》の苦しみに弄《もてあそ》ばるる為めに生れて来たような物 である。それを気の毒に思うて最も深酷《しんこく》に感じた人が、悉多太子《しつたたいし》であり、またその苦しみを |根本《こんぽん》より救済《きゆうさい》しようと思うたのも、悉多太子《しつたたいし》である、故にその救済方《きゆうさいほう》を聖哲仏仙《せいてつぷつせん》の謫仙《たくせん》に求 むるが為めに山に入《はい》ったので、これが釈迦《しやか》の本願《ほんがん》である。まず物慾《ぶつよく》を去り、食《しよく》を廃《はい》し、妻親《つまおや》 を捨《す》てて、心耳《しんに》を清澄《せいちよう》にし、この大法《たいほう》に接近《せつきん》せんと勤《つと》めたのである。その山に入る前には、 『箇中衆生悉《このうちしゆじようことごとく》 是吾子《これわがこ》』 と叫び、また、  しこうしていまこのところ もろもろのかんなんおおし   ただわれいちにん  よくきゆうごすることをなす 『而今此処。多諸艱難。 唯我一人。能為救護』  こうせい  ぜつきーう                        いりが                    ド ラ       かね  もろ と高声に絶叫したのである、それから山に入掛けに、村人から一つの銅鑼と云う鐘を貰うて 曰く、 『自分が深山《しんざん》に入《はい》って、飢《う》えて起《た》つ事が出来ない時は朝に晩に一度ずつ、この銅鑼《ドラ》を打つか ら、その音《おと》の聞える間は、自分がまだ生存《せいそん》して、大法《たいほう》を求めているものと思うてくれ』 と云うて、山《やま》に分《わ》け登った、それから今日まで入相《いりあい》の鐘《かね》と、暁《あかつさ》の鐘《かね》を寺々で撞《つ》くのは、この |因縁《いんねん》であるとの事である、法華経《ほけきよう》には、  かねをついてしほうにつぐ  たれかたいほうをゆうするものぞ もしわがためにせつをとかば まさにもつてぬぽくとなるべし 『撞鐘告四方。誰有大法者。若為我解説。当以為奴僕』と書いてあるにても分 るのである、それからその鐘《かね》の音が、朝晩《あさばん》に絶《た》えず、多年の辛苦《しんく》をして、この大法《たいほう》を得《え》て下《くだ》っ て来た時、即ち出山《しゆつさん》の釈迦《しやか》は何と云うた、曰く、  もろもろのあくはなすことなかれ おおくのぜんはうけおこなえ 『諸 悪莫作。衆善奉行』 と云うたのが本《もと》となって、後世《こうせい》千百万年の後《のち》までも、百|万《まん》の経巻《きようかん》を縦横《じゆうおう》して、この大法を説《と》 いて世界第一の大宗教を開き今日に至ったのである、故に丁度、結城《ゆうき》が年若《としわか》にして、筑前新 宮村《ちくぜんしんぐうむら》の海浜《かいひん》で、一の古《ふる》ボイラを打った音を、その村人《むらびと》が親孝行《おやこうこう》の響《ひぴき》じゃと云うたのは、その |撞《つ》く人の心と、聴《き》く人の心が真《まこと》の道《みち》に触《ふ》れて、如此釈迦《かくのごとくしやか》が檀特《だんどく》、雪山《せつせん》にて撞《つ》いた鐘《かね》と、同 じ意味の響《ひぴき》がしたのであると、庵主《あんしゆ》は今日《こんにち》まで思うているのである。  かかる素養《そよう》のある人を、福岡《ふくおか》の頭山氏《とうやまし》が呼寄《よぴよ》せ、その部下となして薫陶《くんとう》し、自分の経営す る福陵新報社《ふくりようしんぽうしや》の会計となしていた、その人に庵主《あんしゆ》がはからずも出会い、共に海水浴をしたの が交《まじわ》りの初めとなり、一|生涯《しようがい》の良友《りようゆう》として少なからず自分の欠点《けつてん》をも補《おぎな》い、益友《えきゆう》としての交 りを全《まつと》うしたのは、庵主《あんしゆ》もまた生涯中の光栄《こうえい》と思うているのである。 五十六 |榎本武揚《えのもとぶよう》を救《すく》った大西郷《だいさいごう》   壮士指を割いて主家を救い、 巨人身を捨てて忠臣を助く  ゆうき       なんびよう                かいざい      ようしよう   つぶ    せ ろ   かんなん  な  結城は母と難病の姉と、二人の間に介在して、幼少より備さに世路の艱難を嘗め、学問と ては小学校にも通う事出来ず、母が夜《よ》な夜な近隣《きんりん》の小児《しように》に、習字を教うるに、自分はその群《むれ》 に入る事さえ出来ずして、土間《どま》の一|隅《ぐう》に小さき鞴《ふいご》を据《す》えて、釘鍛冶《くぎかじ》を毎晩の夜業《やざよう》としていた           ききおぽ    ほか  がくぎよう                                   しきりよく かぎ 位であるから、全くの聞覚えの外、学業の交渉とてはないのである。それも母親の識力を限 りとして、覚えた学問であった。やや物心《ものごころ》が付いて来ても、振仮名付《ふりがなつき》の真書太閤記《しんしよたいこうき》や、源平 盛衰記《げんべいせいすいき》、三|国史《ごくし》や水滸伝《すいこでん》を拾《ひろ》い読みに読んで、無上の物識顔《ものしりがお》をしていた位である。丁度彼が        ぞうせんじよ                                  きた    ゆうき         しゆく 十九歳の頃、ある造船所の職員が、何か調査の事あってこの村に来り、結城の家に一宿して、 その夜咄《よはなし》に松脂《まつやに》と云う物《もの》の需要《じゆよう》に付き物語を為《し》たのを聞き、ふと結城《ゆうき》が考えを起したのであ る。これが結城《ゆうき》の脳裏《のうり》の、事業心の萌芽《ほうが》を生じた時である。この福岡県《ふくおかけん》と云う所は、北海岸       まつばやし   う       むかし   りまつ ちよ まつばら い  穹ばら 一帯全部を、松林とも云い得る場所にて、往昔より十里松、千代の松原、生きの松原などの めいしよう     もじ だいり  かいがん   にし からついまり      がい  はくさせいしよう 名称多く、まず門司、大里の海岸より、西は唐津伊万里の海岸まで、概して白砂青松を以て れんぞく             こ じん  ふ ど き     しいか      かずかぎ      たた  つく             まつばやし 連続しているので、古人の風土記や、詩歌にまで数限りなく称え尽されてあるこの松林は、 大部分|官林《かんりん》にして、私有《しゆう》もしくは民有林《みんゆうりん》は、殆んどまれな位である。そこで結城《ゆうき》はこの北方 |豊《ほう》、筑《ちく》、肥《ひ》の海岸《かいがん》にある、三四十里間の大小松樹《だいしようしようじゆ》の数を調査すべく思い立ったのである。  その頃|結城《ゆうき》の刎頸《ふんけい》の友として筑前遠賀郡《ちくぜんおんがごおり》の農家の悴《せがれ》に、大貝直太郎《おおがいなおたろう》と云《い》う青年があった、 それと協議《きようざ》して、この三ヵ国《こく》の海岸に散布《さんぷ》する松樹《しようじゆ》の数の調査に着手《ちやくしゆ》したが、その着眼《ちゃくがん》の奇 抜《きばつ》なる事と、気魄《きはく》の旺盛《おうせい》なる事は、今より想像《そうぞう》しても、一|驚《きよう》を喫《きつ》するのである。この大貝《おおがい》と 云う青年も、天性《てんせい》の正直者《しようじきもの》で、至極約束《しごくやくそく》の堅《かた》い男であったから、互いに励《はげ》み合《お》うて、幾月《いくつき》も 幾月も倦怠《けんたい》と云う事を打忘れて、その事に専念従事《せんねんじゆうじ》したのである。素《もと》より両人とも貧家《ひんかせ》の悴《がれ》 であるから旅費《りよひ》や糧食《りようしよく》の貯《たくわ》えとてもなく、ある時は山《やま》の芋《いも》を掘《ほ》りて食い、ある時は菌《きのこ》を焼《や》い て食い、川渡《かわわたし》の船銭《ふなせん》が無いと、代りに一本の破傘《やぶれがさ》を与《あた》えたり、大抵《たいてい》は宮寺《みやでら》の門や大木《たいぽく》の下に |野宿《のじゆく》をして、とうとうこの三ヵ国の松の樹《き》を数え尽《つく》して、それからその松の樹の根元に、一 |斧宛《おのずつ》の切形《きりがた》を付けて、そこから吹き出る脂《やに》を、箆《へら》の如き物にて採取《さいしゆ》する手順《てじゆん》を立て、それに よりて幾干《いくばく》の松脂《まつやに》を、幾干の費用にて得《え》らるると云う、立派なる組織的の計画を立てこの事 業を以て志士《しし》たる者が、君国《くんこく》に奉《ほう》ずるの資《し》を得《え》ようと企《くわだ》てたのであるが、さてかくまで計画 はしたが、誰《たれ》かこの事業の頭領《とうりよう》たるべき人を見付出して、その指揮《しき》の下《もと》に努力するを、最も |適当《てきとう》の事と心得《こころえ》、色《いろいろ》々|物色《ぶつしよく》したところ、福岡《ふくおか》の偉人《いじん》、頭山満《とうやまみつる》と云う人が、多くの青年を引連《ひきつ》 れ、福岡市《ふくおかし》より三|里隔《りへだた》りたる、向《むか》い浜《はま》と云う人里離れし松林の中に籠《こも》りて、青年の教養に従《じゆう》 じ               ゆうきおおがい                   とうやまし 事していると云う事を聞出して結城大貝の両人は、打連れて福岡に出て来て、頭山氏に面会 を求めたのである。これが両人が始めて頭山氏に接近した最初である。  よ とお  ひとほろ    きようぎただし           せいそう  し いたず   どうと   めいとう    けんげんほうこう      てんか  世遠く人亡び、教義正からずして、青壮の士徒らに道途に迷倒し、喧言咆哮の声、天下に じゆうま云    せい       きしゆ うしな    まんしん こうがい まことそ    きゆうせいたいし かい 充満して、一世ことごとくその帰趣を失うの時、満身を慷慨の誠に染めて、救世の大志を懐 ほう    ふか  そうもう  あと  ひそ    し し   もと      とうやまし                       そうし   あいぶ 抱し、深く草朞に跡を潜め、志士を覓むるの頭山氏は、たちまちにしてこの二壮士を愛撫し たので、恰《あたか》も嬰児《えいじ》の乳房《ちぷさ》を含むが如く、枯苗《こぴよう》の浦雨《はいう》に浴《よく》するが如く、活気全身《かつきぜんしん》に充満《じゆうまん》して、 せいし         たく                                      まつやにじざよう  とうやまし 生死をこの人に託せんとこそ決したのである。それより両人は、右の松脂事業を頭山氏の名 を以てその筋《すじ》に出願《しゆつがん》する事になったが政府《せいふ》の方でも、  ○何様西南大戦乱《なにさませいなんだいせんらん》の余温未《よおんいま》だ冷《さ》めず、殊《こと》に頭山氏等《とうやましら》の身辺《しんべん》、その嫌疑《けんぎ》と注目《ちゆうもく》の濃厚《のうこう》なる時  であると、  ○その松樹《しようじゆ》は国家唯《こつかゆい》一の物件《ぶつけん》であると、  ○殊《こと》にこの地方の松樹《しようじゆ》は、天下風致風防《てんかふうちふうぽう》の第一として保存《ほぞん》しあるのと、  ○その事業がその松樹全部に、斧鉞《ふえつ》の痕《あと》を入《い》るる事の善悪《ぜんあく》に付て、官憲《かんけん》の判断付《はんだんつ》かざる事、 等の故障《こしよう》の為めに、俄《にわ》かに許可《きよか》の運《はこ》びに至《いた》らざるより結城等《ゆうきら》は一入《ひとしお》の憤慨《ふんがい》を累《かさ》ねていたが、 その中少量の松脂《まつやに》を採収《さいしゆう》して、精製《せいせい》に従事《じゆうじ》してみたが、未《いま》だ器械業、化学業等の充分に発達 せざる時であるから、その成績《せいせき》も充分ならぬので、一時この事業は断念《だんねん》する事となった。し かしながら結城《ゆうき》の事業心は、かかる一|挫折《ざせつ》の為めに消滅《しようめつ》すべき物でなく、とうとう種々研究 努力の末、従来長き歴史によりて、放棄腐敗《ほうきふはい》に帰《き》しておった、農産中の麦藁《むぎわら》を精製《せいせい》して、麦 稈真田《ぱつかんさなだ》を組み、これを帽子《ぼうし》の原料として、外国に輸出《ゆしゆつ》する事を発明し、自《みず》から大阪《おおさか》、神戸《こうべ》、 |東京《とうきよう》、横浜等《よこはまとう》に出張して、その実験を収《おさ》め、技工熟練《ぎこうじゆくれん》の工人《こうじん》を引連《ひきつ》れ帰り来《きた》りて、福岡市に この製造所《せいぞうじよ》を開始《かいし》したのである、日《ひ》ならずして原料の収集《しゆうしゆう》すこぶる民意《みんい》に適《てき》し、工手《こうしゆ》の募集 も案外人気《あんがいにんき》にかない、一時はその収益多額《しゆうえきたがく》に上《のぽ》った。元《もともと》々義のあるところ、死生《しせい》を避《さ》けず、 |道《みち》の存《そん》するところ難事《なんじ》を辞《じ》せざる的《てき》、全く志士《しし》の典型《てんけい》を以て任《にん》ずる頭山氏《とうやまし》一|派《ぱ》も、利《り》を収《おさ》め |財《ざい》に処《しよ》するの道に至《いた》っては、全く無能力《むのうりよく》の境界《きようかい》にあるし、十数年最も悲惨《ひさん》の処世《しよせい》に沈淪《ちんりん》して いたから、ここに俄然《がぜん》として蕭何《しようか》の大才《たいさい》を得《え》たる、高祖《こうそ》の思いをなしたのである。庵主《あんしゆ》の考 えは、頭山氏等後世《とうやましらこうせい》の発達《はつたつ》は、一にこの結城《ゆうき》の内助《ないじよ》がまた与《あずか》って一|廉《かど》の力《ちから》ありし物と思うの である。     ぱ うご          ぱ   しよう       うきよ   なら        ゆうき                  てんか  しゆう  折柄一波動いてまた一波を生ずるは、浮世の慣い、この結城の事業も、だんだん天下の周 |知《ち》するところとなり、中国筋《ちゆうごくすじ》にも、山陰方面《さんいんほうめん》にも、この廃物利用《はいぷつりよう》の事業を起す者が沢山出来、     はんしんかん  しようかん                                  もと    て うす  し ほん  や とうとう阪神間の商館に対して、売込の競争が初まったので、素より手薄き資本で遣ってい      ゆうき           ささ  き     は め             すこ            か   ふくりようしんぽう そうりつ た事業故、結城もとうとう支え切れぬ破目となり、この少し以前より、彼の福陵新報の創立 に着手せられ、いよいよそれが創刊《そうかん》する事となったので、結城《ゆうき》は頭山氏《とうやまし》に擢《ぬ》かれて、その会                    しよたいめん                               えきゆう        ともがき 計方《かいけいがた》なっていたから、庵主《あんしゆ》が初対面をして、前回に書いた通り、無二の益友として、友垣 を結《むす》ぶ事《こと》となったのである。元来結城は、天性慨世《てんせいがいせい》の傑士《けつし》たるの素質《そしつ》を有していたところに |単純正操《たんじゆスぜいそう》なる母の教訓《きようくえ》を受け、その上|頭山氏《とうやまし》の偉大なる薫陶《くんとう》に接したので、ますます思想上 の操執《そうしラ》を得《え》て人物《じんぶつ》を上《あ》げるばかりであった。かつて結城は母よりかかる教訓を受けた事が あった。曰く、 『男子の第一に覚えておかねばならぬ事は、親に孝行《こびつこちつ》をする事である、それを覚えたら、そ の親を捨てる事を知らねばならぬ、それが孝行《こうこう》の第二である、その親を捨てるのは、旧恩《きゆうおん》あ る御主人《ごしゆじん》の為めである、また友達《ともだち》に愛想《あいそ》を尽《つ》かされぬ事も肝要《かんよう》であるが、事《こと》と品《しな》に因《よ》っては、 |命《いのち》も惜《おし》まぬ義理《ぎり》が出来る物である、それほどの友達も、また捨《すて》ねばならぬ事がある、それは |旧恩《きゆうおム》ある御主人《ごしゆじん》の為めである、それがまた孝行《こうこう》にも友誼《ゆうぎ》にもなるのであると死んだお前のお |父様《と つさま》が常に云うておられたぞ』 と云い聞かされたのである。小供《こども》の時は、何の気も付かずに聞いていたが、この母の庭訓《ていきん》が、 |長《ひと》となるに従い結城《ゆうき》の意思《いし》の根幹《こんかん》となって、彼は最も孝義《こうぎ》の二つに絶対服従《ぜつたいふくじゆう》の男となったの である。維新《いしん》と云う旋風《つむじかぜ》は、日本帝国《にほんていこく》を上下《じようげ》に吹捲《ふきまく》りて、三百年来|鞏固《きようこ》なる社会組織を破壊《はかい》 したので、結城《ゆうき》の旧主人《きゆうしゆじん》たる久野家《ひさのけ》は、木葉微塵《こつぱみじん》となり、殆んど朝夕《ちようせき》の生計《たつき》に困るようになっ た。多くの家来《けらい》も皆四方に散《ちりぢり》々ばらばらとなって、この旧主人《きゆうしゆじん》の朝夕《ちようせき》の面倒《めんどう》を見る者が一人          か   ゆうき               いそ  み る め     ふさ    うら  おおね     さげ もなかった。それに彼の結城の母親だけは、磯の海松布の一房や、裏の羅萄の一提を、昔に    ぽう    みつぎ       ひさの け     くりや い     きゆうおん            しるし     か       つとめ し 変る七宝の、貢に代えて久野家の、厨に納れて旧恩を忘れぬまでの印ぞと、欠かさぬ務を仕 ていたのであったが、これを見習うた結城《ゆうき》も、旧主人《きゆうしゆじん》の事とし云えば万事《ばんじ》を捨てて駆《か》け付け、 なにくれと世話をしていた。待たでも変る年月の、経《た》つに連れても久野家《ひさのけ》は、ますます困苦《こんく》  ふち  しず    わず          しな    か ほう                   ひな  すまい   ひそ            かいて の淵に沈み、僅かに残る二品の、家宝を売ってあまさかる、鄙の住居に潜まんと、その買人 をば探せしに当時|何国《いずく》も同様の、境遇《きようぐう》にある人々が、同様の宝物《ほうもつ》を売放す者はなはだ多く、 一方|家政《かせい》の処分《しよぶん》には、タベも待たれぬ事情ありて、久野家《ひさのけ》および旧臣《きゆうしん》の人々は、途方《とほう》に暮れ ていたのである。  ゆうき おやこ         .  かたときわす    しゆか   あんき                                   か  結城母子は日頃より、片時忘れぬ主家の安危、夜も寝ず思い暮らせしが、いかにしても家 |宝《ほう》の二|品買人《しなかいて》のなきに行止《ゆきど》まり、その日の事に困《こ》まりし主家《しゆか》、多くの旧臣打寄《きゆうしんうちよ》りても、為《な》す べき道もなき折柄、結城《ゆうき》は身を挺《ぬき》んでて『その家宝《かほう》を予定の金《かね》に換《か》える事をしばらく拙者《せつしゃ》に |託《たく》せられたし』と申出たので何《いず》れも策尽《さくつ》きたる上の時故、ともかく二日間を期《き》して汝《なんじ》に一任 すべしとの許諾《きよだく》を受けた。結城はその二|品《しな》を持って出て行ったのであるが、何にしても未《ま》だ |世間《せけん》と云う物を、知らぬ一青年が、何事を仕出《しだす》べきかと、多くの人々はなはだ不安の心で待 居《まちい》たるに、その日の晩景頃《ばんけいごろ》、結城はにょっこりその旧臣寄合《きゆうしんよりあい》の席に帰り来《きた》り、所定《しよてい》より余分《よぶん》 の金子《きんす》を携《たずさ》えて、一同の面前《めんぜん》に投出《なげだ》した。曰く、 『金《かね》はこれだけで久野家《ひさのけ》の処置《しよち》は出来ますか』と云うので一同はぎょっとして驚歎《きようたん》したので ある、結城は、 『それ聞いて安堵《あんど》致しました、それでは皆様《みなさま》で何分跡《なにぶんあと》の御処置《ごしよち》を宜敷願上《よろしくねがいあげ》ます』 と云うて引下《ひきさが》って、帰って往《いっ》たのである。  一体|結城《ゆうき》はこの時代、この折柄《おりから》に如何にして、この困難《こんなん》なる金策《きんさく》をして来《きた》かと云うに、結 城は生涯《しようがい》この顛末《てんまつ》を、一|言《ごん》も云わざりしが、後《のち》に残る咄《はなし》を聞けば、結城はその二|品《しな》を持って、 |城下《じようか》より三里ばかり隔《へだ》たりたるある村の豪家《ごうか》に到《いた》り、その主人に面会して、 『この度旧主家《たぴきゆうしゆか》の破滅《はめつ》に付《つき》、退転蟄居《たいてんちつきよ》の仕組《しくみ》をなすに無余儀金子入用《よぎなききんすにゆうよう》に付《つき》、誠《まこと》に大事《だいじ》の品《しな》な      しな  ていとう  いたしじやつかん きんす おんしやくいたしたくせつしやこと      きゆうしんゆうき とら  ろう  もうすもの がら、この二品を抵当と致若干の金子恩借致度、拙者事はその旧臣結城虎五郎と申者にて |候《そろ》、もし抵当不足《ていとうふそく》に候《そうら》わば、今一|品《しな》や二|品《しな》は相添可申枉《あいそえもうすべくま》げて御用立《ごようだ》てを願上《ねがいあげ》ます』 と申述べたので、その豪家《ごうか》の主人は、何心《なにごころ》なくその風呂敷包《ふろしきづつみ》を開き見れば、一|見《けん》目を驚かす |大家《たいけ》の重宝《ちようほう》二|品《しな》と、今《いま》一|品《しな》の紙包《かみづつみ》を開けば、血に染みたる生《なまなま》々|敷《しき》指一本出て来たのである。 その主人《しゆじん》は直に結城《ゆうき》の左手《ゆんで》を見れば、白布《しろぬの》を以て左の手を巻いていて、辞色厳《じしよくおごそ》かなる青年の 態度であるから、ぎょっとすると同時に、その切情《せつじよう》を了解《りようかい》したので、二|言《ごん》と云《い》わず所望《しよもう》の金 子《さんす》を用立《ようだて》たとの事である。ここに於て結城《ゆうき》が左手《ゆんで》の無名指《むめいし》は、生涯彼《しようがい》が忠君義烈《ちゆうくんざれつ》の瘢痕《はんこん》と して、その筐《かたみ》を止《とど》めていたのである。気高《けだか》く意強《いつよ》く、言寡《ことばすくな》にして行《おこな》い清《きよ》き、男子《だんし》の操執《そうしつ》は大《たい》 抵古今《ていここん》を通じて如此物《かくのごときもの》である。  庵主後年《あんしゆこうねん》これを先輩《せんぱい》に聞く。維新《いしん》の際、旧幕臣《きゆうばくしん》たる榎本釜次郎氏《えのもとかまじろうし》は、幕府《ばくふ》四百年の恩誼《おんぎ》を |思《おも》い、挺身官軍《ていしんかんぐん》に抗《こう》し、蝦夷《えぞ》五|稜廓《りようかく》に楯籠《たてこも》り、心力《しんりよく》を尽《つく》して官軍《かんぐん》と戦いしが、錦旗《さんき》の威耀抗《いようこう》 するに道なく、箭尽《やつ》き刀折れて、旧幕臣勝安房守《きゆうぱくしんかつあわのかみ》に拠《よ》りて生死《しようし》を託《たく》した。それより勝氏《かつしき》は旧 幕臣《ゆうばくしん》と、朝廷《ちようてい》の大官《たいかん》と各《おのおの》々|打寄《うちよ》りて榎本《えのもと》の忠誠《ちゆうせい》に感激《かんげき》し、彼が助命《じよめい》の事を相談して、一同協 力の誠《まこと》を尽《つく》してみたが、何分《なにぶん》にも剣戟《けんげき》を振《ふ》りて、王師《おうし》に抗《こう》したる重罪《じゆうざい》は、免《まぬか》るるに道なく、 |皆《みな》涙を呑《の》んで同情をしつつ、彼の処刑《しよけい》を待つの外《ほか》なかったのである。ここに於て万已《ぱんや》むを得《え》 ず、勝安房守《かつあわのかみ》は榎本《えのもと》を膝近《ひざちか》く招き、 『朝憲《ちようけん》を正《ただ》し大義《たいざ》を明《あきら》かにするには、貴所《きしよ》の一|死《し》を以てするの外道《ほかみち》あるべからず速《すみや》かに覚悟《かくご》 せられよ』 と説得《せつとく》したので、榎本《えのもと》は莞爾《かんじ》として笑《えみ》を含《ふく》み、 『釜次郎《かまじろう》に今日死《こんにちし》を許《ゆる》し賜《たま》う事《こと》、その微忠《ぴちゆう》を遂《と》げ、志《こころざし》に終始《しゆうし》あらしめらるる所以《ゆえん》、ただ天恩《てんおん》 の忝《かたじけな》きを拝《はい》するの外《ほか》ござりませぬ』 と喜悦《きえつ》した。折柄障子《おりからしようじ》を開《ひら》いて入来《いりきた》れる人は、西郷隆盛先生《さいごうたかもりせんせい》であった。勝安房守《かつあわのかみ》と挨拶《あいさつ》が済《す》 んだので、勝氏《かつし》は側《わき》を指《ゆぴさ》し、 『これこそ旧幕臣榎本釜次郎《きゆうばくしんえのもとかまじろう》でござる』         さいごうせんせい  せき  ひら    じ 一 と引合せたので、西郷先生は席を開いて辞儀をなし、 『ハア阿方《ア タ》が榎本《えのもと》ドンでゴワすか、命《いのち》の方《ほう》はドウなりましたか』 |榎本《えのもと》曰く、 『有難事《ありがたいこと》には、只今勝氏《ただいまかつし》より死《し》を許《ゆる》されましたところで、釜次郎《かまじろう》この上の悦《よろこ》びなく、お礼を 申述べたところでございます』 |西郷先生《さいごうせんせい》曰く、 『ハァそれは貴方《あなた》のお為《ため》には、大層御都合《たいそうごつごう》の宜敷《よろし》い事《コツ》でゴワすが、朝廷《ちようてい》の御為《おため》には、イカン |事《コツ》でゴワすぞ』 |勝氏側《かつしそば》より曰く、 『朝野《ちよつや》の大官《たいかん》、力《ちから》を尽《つく》して助命《じよめい》を計議致《けいぎいたし》ましたが、万策尽《ばんさくつ》きてトウトウ駄目《だめ》と相成《あいなり》ました』 |西郷先生《さいごうせんせい》曰く、 『左様《ソ ジ》ゴワすか夫《ソイ》じやア私《わし》が釜《かま》ドンはお助け申《もうし》ましょう』 |勝氏《かつし》曰く、 『万策尽《ばんさくつ》きたる朝敵榎本《ちようてきえのもと》の死《し》を、先生《せんせい》はどうしてお助けに相成《あいなり》ますか』 |西郷先生《さいごうせんせい》曰く、 『イヤナーに溺《おぽ》るる人を助けるには、自分も一所に溺《おぽ》るる覚悟《かくご》が宜敷《よろしゆう》ゴワす、皆《みな》さんが自分 の衣物《きもの》の濡《ぬ》るるトヲバ嫌《きろ》うてござるから助かりマッセン、釜《かま》ドン貴方《あんた》と私《わし》と、一|所《しよ》に腹《はら》ば切《き》 りましょう、安神《あんしん》してゴザイ、勝《かつ》さん私《わし》はこれから政府に往《いつ》て咄《はな》して来《き》ましょう』 と云うて、ポイと座《ざ》を立って出て往《ゆ》かれたが、美事榎本氏《みごとえのもとし》は御助命《ごじよめい》の御沙汰《ごさた》となって、維新 後永《いしんごなが》く朝廷《ちようてい》の大官《たいかん》として、御奉公《ごほうこう》をせられたのであると。  うちゆうかん  だいい じん  だいさいごうせんせい    ほくちく    かんせい  ゆうき とら  ろう  "ら  宇宙間の大偉人、大西郷先生と、北筑の一寒生、結城虎五郎と較ぶべきにはあらねども、 二夕|品《しな》の宝物《ほうもつ》ばかりで、主家《しゆか》を助けようとするから、百人寄りて会議をしても、決して助か らぬのである。その二夕|品《しな》の外《ほか》に、結城《ゆうき》の精神《せいしん》を罩《こ》めた指一本を添《そ》えたから、直《すぐ》に助ける事 が出来たのである。一本の指で足らねば腕も絶《た》つ腹《はら》も切《き》ると云う覚悟《かくご》が、結城《ゆうき》の魂《たましい》にチャン と据《すわ》りていたから、二|言《ごん》と云わずその豪家《ごうか》の主人《しゆじん》に感応《かんのう》したのである、これ等は庵主婆心《あんしゆばしん》た だ一|場《じよう》の繰言《くりごと》ながら、後生《こうせい》青年の一|蔵《しん》にもやと、序《ついで》ながらに書いておくのである。 五十七 フランネルとモンパの争《あらそ》い   嫉婦を懲して二児を救い、挌闘を為して旧交を復す  結城《ゆうき》は天性寡言黙行《てんせいかごんもつこう》の人であった、二十歳前後の時、用事《ようじ》あってある炭坑地《たんこうち》に行《い》き、二三 日|滞在《たいざい》している内《うち》、その田舎宿《いなかやど》にてふと風邪《ふうじや》に罹《かか》り、床《とこ》に就《つ》いたところが、その部屋の後《うしろ》が   もの耋         やしや    しぼだ       こども  もの耋" 隣の物置である、夜の十一時頃、夜叉の如き声を絞り出して、一人の女が子供をその物置4 |屋《や》に連れて来て、罵《ののし》り懲《こら》す様子である、その子供《こども》は、執拗《しつよう》に打擲《うちたた》かれた上の事にて、声も立  え   な                い か     た   え            こわね                 くる て得ず泣いている、それに如何にも耐え得られぬ怒りの声音にて、その女の方が狂わんばか   しか  と       せつかん                       ゆうき           た       やど りに叱り飛ばして折橦をする様子である、病中の結城は、聞くに耐えず、宿のお手伝いを呼 んで様子を聞けば、曰く、 |となりかみ《ござ》 『あの隣の神さんは、この村から三里ばかり東の、私と同じ村の人で、今三十二三歳でムり            かたづき                   な   こ ども  ご ざ                りんき もの ますが、元々自分の村に嫁入まして、丁度今十歳に成る子供が御座いました。大変な嫉妬者 で、それが本《もと》で子供を捨《す》てて夫婦別《ふうふわか》れをしました、とうとう隣《となり》の弥《や》七さんの所にまた嫁入《よめいり》し           りんき           ままこ いじ                        ござ            や て来ましたが、やはり嫉妬と同じ様に継子苛めを致し、近所でも評判でムいます。丁度弥七    せん  かみ                                 ほか                たんこう  かせぎ ゆき さんも先の神さんが死にましてあの男の子一人より外ありませんが毎日炭坑に稼に行ますの で、その帰って来ている間は、皆人《みなひと》さんが驚く程優《ほどやさ》しく致しますが、弥《や》七さんが出て行った ら、金《きん》ちゃんと云うあの継子《ままこ》を苛《いじ》める事に掛《かか》り切《き》っており自分が苛《いじ》めた事を、お父《とう》さんに云 う事はならぬと執拗《しつこ》く云い、打《ぷつ》たり鄰《たた》いたりして、自分も涙を溢《こ》ぼして怒っているのでござ |よき《や》 います。それ能くお聴きなさいませ、あんなに云うて自分も泣いております、あの子には弥 七さんが留守《るす》になれば、食べる物も遣《や》りませず身体中|傷《きず》だらけでムざいます。皆《ご》な可愛想《かわいそう》に     たべものや はら つかや と思い、食物などを遣りますと、それが腹が立つと見えて、お母さんが何にも遣らぬから腹 が減《へ》ったと人さんに云うたのであろうと半日もその子を苛《いじ》めます。この家《うち》のお婆《ばあ》さんが先月 この部屋《へや》で亡《な》くなりましたが、幾度《いくど》となく人にも頼《たの》んで、意見も致しましたが、村の人に自 分の継子苛《ままこいじ》めを知られたと思うてからは、あの神《かみ》さんは泥坊《どろぽう》でもするように、夜の十一時頃 からあの子をこの薪小屋《まきごや》に連れて来て、夜通《よどお》し苛《いじ》めて、一|夜《や》も家《うち》の中《なか》に寝《ね》せず、あの小屋《こや》に |捨《す》てています。何とかしてあの子を助けて遣《や》りたいものでございます。なかなかに可愛《かわい》い。 あれも丁度十歳になる男の子でございますよ』 と、これを聞いた結城《ゆうき》は、 『ははあその神《かみ》さんこそは、俺《おれ》がかつて医者に聴いた、女の通有病本当《つうゆうぴようほんとう》の『ヒステリー』で、 それが多く嫉妬《りんき》と継子苛《ままこいじ》めなどに偏《かた》よって発作《ほつさ》して来る、一つの発作病《ほつさびよう》である、俺《おれ》が試《ためし》にそ れを直す事を工夫《くふう》して遣《や》ろう』 と云うて、だんだん結城《ゆうき》が聞合《ききあわ》せてみると、その神《かみ》さんの先夫《せんぷ》は、やはり炭坑夫《たんこうふ》ではあるが、 一寸話も解《わか》り侠気《きようき》のある者であるとの事であるから、結城《ゆうき》はそのお手伝いを宿《やど》に咄《はな》して借《か》り 受け、人力車《じんりさしや》に乗せて、その先夫《せんぷ》の作次郎《さくじろう》と云う男を呼寄《よぴよ》せ、だんだん種《いろいろ》々の咄《はなし》をして、そ の男の子を給仕《きゆうじ》に遣《つか》ってやる、教育をして遣《や》ると云うて、その作《さく》一と云う子を結城が預《あずか》る事 にした。それから結城はその作《さく》一にだんだん咄《はなし》をして聞かせて、二日ばかりもして結城の云 う事を承諾《しようだく》させ、よく子供心《こどもごころ》にその云う主意《しゆい》を呑込《のみこ》ませて待《ま》っていると、案《あん》の定夜《じよう》の十一時 頃、隣の弥《や》七の噂《かかあ》は、その継子《ままこ》を例の小屋に連れて来て、散《さんざん》々に苛《いじ》め、}時|過《すぐ》る頃、薪小屋《まきごや》 に〆め込《しこ》んで、主家《おもや》に帰って行った様子であるから、結城《ゆうき》は直《ただち》に起き上って、その宿のお手 伝いを案内者《あんないしゃ》にして、隣の小屋に行き、外から掛けた鐸《かきがね》を外《はず》して、その金《きん》ちゃんを連れて、 自分の部屋に帰り食物《たべもの》などを腹《はら》一|杯《ぱい》に遣《や》って、だんだんと可愛《かわい》がって云うて聞かせ、夜明前 にその嚊《かかあ》が作次郎方《さくじろうかた》で産《う》んだ、彼《か》の作《さく》一に金《きん》ちゃんの衣物《きもの》を着せその小屋《こや》の中に連れ行って、 『しばらくここに寝《ね》ていよ、それはお前を産《う》んだ本当のお母《かあ》さんの病気を直《なお》すのであるから』 と云い聞かせて、様子を聞いていたのである。ところがまだ薄暗《うすぐら》き朝の六時頃、その隣《となりか》の嚊《かあ》 は、近所の人の起き出ぬ前にと思うて、その薪小屋《まきごや》に来り、戸を明けて内に入り、破《やぶ》れ蓆《むしろ》を |被《か》ぶって寝ている作《さく》一を、ニツ三ツ鄰《たた》いて抓《つめ》って、 『この餓鬼《がき》起ぬか、昨夜《ゆうべ》もアレ程《ほど》云うておいたのに、悠《ゆうゆう》々と寝《ね》くさるのは、この母への面当《つらあて》 か』 と罵《ののし》りて引起《ひきおこ》して見れば、夢《ゆめ》にも忘《わす》れぬ自分の実子《じつし》の作《さく》一であるから、 『ハ一/……』 と惘《あき》れた一|刹那《せつな》、結城《ゆうき》はその小屋の入口から這入《はい》って、 『おい神《かみ》さん、打鄰《ちようちやく》するなら毎晩《まいばん》その子と取代《とりか》えて苛《いじ》めてはどうじゃ、俺《おれ》は作次郎《さくじろう》からその 子を預《あずか》って教育《きよういく》をして遣《や》る、この隣《となり》に泊《とま》っている福岡《ふくおか》の者であるが』 と云うたので、その嚊《かかあ》は結城《ゆうき》の顔を見詰《みつ》めていたが、直《す》ぐに倒《たお》れるようにその小屋《こや》の土間《どま》に |打伏《うちふ》して、 『旦那様御免下《だんなさまごめんくだ》さいませ』 と云うて泣出《なきだ》した。折から亭主《ていしゆ》の弥《や》七も、朝の交代《こうたい》で帰って来たので、結城《ゆうき》は夫婦共に自分《じぶん》 の宿《やど》に呼付《よぴつ》けて色《いろいろ》々と談判《だんぱん》の末、二人の子供を結城《ゆうき》が預《あずか》る事にして、金ちゃんは、結城《ゆうき》の知 人で、直方村《のうがたむら》の鍛冶鉄工屋《かじてつこうや》に奉公《ほうこう》させる事に肝煎《きもい》り、作《さく》一は大隈《おおくま》の酒屋《さかや》に奉公《ほうこう》させて始終結 城《しじゆうゆうき》が監督《かんとく》をして、精神上《せいしんじよう》の教育を加えた。後年に至り金《きん》ちゃんは、門司《もじ》に来て立派な鉄工《てつこう》の |職人《しよくにん》となり、作《さく》一は大阪《おおさか》にて、嘉島《かしま》商会と云う店を開いて、灘《なだ》や諸国《しよこく》の榑木《たるき》を商《あさな》い、後《のち》には |親《おや》の作次郎《さくじろう》も引取《ひきと》った。結城《ゆうき》は大阪《おおさか》にさえ行けば、必ずこの家《うち》を音信《おとず》れていた。また一方|弥《や》 七|夫婦《ふうふ》は、結城《ゆうき》の教誡《きようかい》に依《よ》って、夢《ゆめ》の覚《さ》めたように善心《ぜんしん》になって、結城《ゆうき》が後年筑豊《こうねんちくほう》五|郡《ぐん》に炭 坑《たんこう》の借区等《しやつくとう》を買収《ばいしゆう》に行《ゆ》く時《とき》は、常に各村《かくそん》に案内等《あんないとう》をした。その時|庵主《あんしゆ》は結城《ゆうき》の紹介《しようかい》にて、面 会《めんかい》した事があった、後庵主等《のちあんしゆら》が九|州鉄道布設《しゆうてつどうふせつ》の為め、門司《もじ》に住居《じゆうきよ》する時、庵主等《あんしゆら》も世話をし て、その金《きん》ちゃんの鉄工夫《てつこうふ》をして、下《しも》の関《せき》に少《すこ》しばかりの店を開かせ、門司《もじ》、下《しも》の関《せきし》の商船 会社支店《ようせんがいしやしてん》の鉄物《てつもの》の入方《いれかた》をさせ、相当《そうとう》の信用《しんよう》を得《う》る事《こと》となって、弥《や》七|夫婦《ふうふ》も共にこの家《うち》に来て 暮していた。総《すべ》て結城《ゆうき》の遣《や》り方《かた》は、前に云《い》う寡言黙行主義《かごんもつこうしゆぎ》であって、その成績《せいせき》は大概《たいがい》こんな 物であると云う事を証拠立《しようこだ》てる一つとして書いて置《お》くのである。  この結城《ゆうき》の寡言黙行《かごんもつこう》については、面白い話が沢山ある。今一を書けば、結城《ゆうき》の友人に六田《むだ》 と云《い》う正直な古武士《こぶし》と、同じ正直者の瓜江《うりえ》と云う二人があった。昔時《むかし》より同質相戻《どうしつあいもど》るの喩《たと》え の如くこの二人が結城《ゆうき》の正直者と、相互《あいたが》いに何か意思《いし》の疏通《そつう》を欠き面会しても物を云《い》わぬま でに成《な》っていた。ある日|庵主《あんしゆ》がその瓜江《うりえ》と同道して、町を歩いていると、向うから結城《ゆうき》が来   よ                                や               どうはん                むだ.  もん た。好い折りであるから、仲直りをさせて遣ろうと思い三人同伴して歩くうち丁度六田の門 |前《ぜん》を通行する事になったので、庵主《あんしゆ》はまた好《よ》い折じゃとこの二人をその家《うち》に引入れて、座敷《ざしき》 に上《あが》り込んだ。三人共|寡言黙行主義《かごんもつこうしゆぎ》の権化《ごんげ》のような性格の者ばかり落合《おちお》うたので、瓜江《うりえ》と六 田《むだ》とは咄《はな》すけれ共、結城《ゆうき》には物を云わぬ、結城《ゆうき》は庵主《あんしゆ》とは咄すが、六田《むだ》と瓜江《うりえ》には物を云わ ぬ、ただ庵主《あんしゆ》のお饒舌《しやべり》は、三|人咄《にんばなし》の焦点《しようてん》とのみなったのである。その時|庵主《あんしゆ》は『ハイカラ』 な『フランネル』の単衣《ひとえもの》を着《き》ていたから、結城《ゆうき》が手持無沙汰《てもちぷさた》で、余《あま》り一|座《ざ》が白らけたのを見 て、 『杉山《すぎやま》は「フランネル」の単衣《ひとえもの》など着て、洒落《しやれ》ているネ』 と云うと日頃|結城《ゆうき》に不快の感を持っている六田《むだ》は、横から、 『ウンこの切《きれ》は「フランネル」ではない「モンパ」である』 と云うた、サァこれで結城《ゆうき》はムッとして、 『イヤこれは「モンパ」ではない「フランネル」じゃ』 『ナニ馬鹿な、これは「モンパ」じゃ』  これからとうとう『モンパ』じゃ『フランネル』じゃ『モンパ』じゃ『フランネル』じゃ と云うていたが結城《ゆうき》も六田《むだ》も訥弁《とつべん》で双方『モンパ』じゃ『フランネル』じゃの云《い》い負《ま》けを心 外に思い結城《ゆうき》は手近にある手付きの炭取《すみとり》を櫻《つか》むが早いか六田《むだ》の横面《よこツつら》をびしゃと鄰《なぐ》った。さあ |六田《むだ》もそのままでは済まず飛付《とぴつ》いて結城《ゆうき》の胸を突いて倒し、それから大立廻《おおだちまわ》りとなった。そ こで庵主《あんしゆ》がやっと取鎮《とりしず》め、それで一|段落《だんらく》を切って六田《むだ》の妻君《さいくん》が酒肴《しゆこう》と昼飯《ひるめし》を御馳走《ごちそう》した。そ れを快《こころよ》く了《しま》っていると今度は食後の咄《はな》しに瓜江《うりえ》が政治談を庵主《あんしゆ》に持掛けた。その一節に、 『元来|共和《きようわ》とか立憲政体《りつけんせいたい》とか云う物は、英米仏《えいべいふつ》と云うような大国でなければ行なわれぬ、日 本《にほん》のような小国では駄目《だめ》である』 と云うと最前から腹《はら》のむくむくしている結城《ゆうき》は横から、 『馬鹿《ばか》な事を云うな、小国でも行なわれる。殖民地《しよくみんち》を除いた英国《えいこく》でも白耳義《ベルギき》でもバルカン諸 邦《しょほう》でも行なわれている所は沢山あり、大国でも独逸《ドイツ》、露西亜《ロシア》、支那、印度《インド》はまだ行なわれて いないではないか』 とたださえ訥弁《とつべん》の瓜江《うりえ》は、 『馬鹿《ばか》とは何だ、それでも行なわれていると云うその小国は英国を除くの外、その国の発達 進歩《はつたつしんぽ》の見込がまるでないではないか。それが駄目《だめ》と云うのである。大国は皆《みな》この政体《せいたい》が可能《かのう》 性《せい》である、独《どく》、露《ろ》、支《し》、印《いん》、皆行《みなおこ》ないさえすれば、英《えい》、米《べい》、仏《ふつ》の如く発達《はつたつ》するのである』 と双方とも大国じゃ小国じゃ大国じゃ小国じゃと云い募《つの》っているうちに口訥《くちとつ》し咽唖《のどあ》し双方共《そうほうとも》 一度に立上って鄰《なぐ》り合《お》うた。そこでまた庵主《あんしゆ》がこれを取鎮《とりしず》めたのである。これで永い間双方 |欝積《うつせき》の気が晴れたに違いないと庵主《あんしゆ》が思うたから、海岸の気儘亭《きままてい》と云う料理屋に連れて行っ て仲直りをさせ、三人共|牛飲馬食放歌高唱《ぎゆういんばしよくほうかこうしよう》して昔日《せきじつ》の交《まじわり》を復《ふく》する事になったのである。即 ち三人の唖訥病患者《あとつぴようかんじや》の中に介在《かいざい》して永年を経過して来た庵主《あんしゆ》も相当《そうとう》に困難《こんなん》な者であった。こ れが結城《ゆうき》の寡言黙行主義《かごんもつこうしゅぎ》の第二例である。  ある時庵主《ときあんしゆ》は結城《ゆうき》と共にその計画している炭坑借区買収《たんこうしやつくぱいしゆう》の金融《きんゆう》に困難を生じたので、かつ て貸借《たいしゃく》の関係ある肥前佐賀《ひぜんさが》の金満家某《きんまんかぽう》に金借《かねかり》に出掛《でか》けた。まず白山町《はくさんちよう》の某《それがし》の旅館《りよかん》に投《とう》じ、知 人鮎川某《ちじんあゆかわぼう》を呼んでその金主《きんしゆ》に面談《めんだん》すべく申込んだ。鮎川氏曰く、 『彼金主《かのきんしゆ》は金《かね》は持っておりますが、非常に吝《けち》な性分《しようぶん》の人で、今《いま》はなかなか貸ませぬ。その上 |石炭《せきたん》の事に付いては今|懲《こ》り懲《ご》りしているところであります。既に昨日自分の抵当《ていとう》流れに取っ ていた肥前炭《ひぜんたん》千八百|噸《とん》を長崎《ながさき》の仏蘭西船《フランスせん》の焚料《たきりよう》に一|噸《とん》三円で売込み、倍額以上の利益を得《う》る つもりでいたところが、自分の番頭《ばんとう》が外国語《がいこくご》が不充分な為めにその代価《だいか》が受取れず、二|艘《そう》の |仏国船《ふつこくせん》は石炭を積んだまま出帆《しゆつぱん》してしもうたとの事元来が長崎《ながさき》の「ホームリンガー商会《しようかい》」に でも頼《たの》んで売込んで置けばこんな間違《まちがい》は無いのに手数料を取らるるのがいやさに直売込《じきうりこみ》をし たのが失策にてこんな事になったので、昨日からがっかりして蒲団《ふとん》を被《かぶ》って寝込《ねこ》み、石炭《せきたん》ば かりは孫子《まごこ》の末まで関係する物でないと泣顔《なきがお》になっているところ故、今|貴下方《あなたがた》の石炭咄《せきたんばな》しで |金《かね》を借《かり》る事はとうてい出来ぬよ』 と云うので庵主《あんしゆ》は非常に弱り込み、今回|金策《きんさく》の三千円|入用《いりょう》の事は第一に従来得《じゅうらいえ》ている坑区《こうく》の |借区税《しやつくぜい》それを納入《のうにゆう》せねば借区《しやつく》を没収《ぽつしゆう》せらるる事、第二は次に得《う》る坑区《こうく》の村契約金《むらけいやくきん》それを入《い》れ ねばその坑区《こうく》は他人《たにん》の手《て》に取《と》られてしまうと云う少しも猶予《ゆうよ》のできざる命掛《いのちが》けの急要金策で ある。その目星《めぽし》を付けて来た金主《きんしゆ》がそんな下《くだ》らぬ事で金を貸さぬと極《きま》ると、庵主等《あんしゆら》の事業に |大番狂《おほぱんくる》わせを起すのである。  そこで庵主《あんしゆ》は胸に八|丁鐘《ちようがね》を撞《つ》きながら鮎川氏《あゆかわし》に何とか尽力《じんりよく》の仕様《しょう》は有《ある》まいかと手を易《か》え品 を易えて相談をする。鮎川氏《あゆかわし》も元庵主等《もとあんしゆら》に満腔《まんこう》の同情を有する人故、種々様々に工夫をする。 それでもかかる折柄《おりから》の事故なかなか名案《めいあん》が出ぬので、二人《ふたり》はとうとう顔を見合せ、首うな垂《だ》 れて沈黙《ちんもく》に陥《おちい》ったのである。この時|結城《ゆうき》は先刻《せんこく》より次の間の襖越《ふすまご》しに飯《めし》を食《く》うていたが、突 然《とつぜん》びっくりするような大声で、 『その長崎《ながさき》の石炭代《せきたんだい》を借りたまえ』 と叫《さけ》んだ、庵主《あんしゆ》も鮎川《あゆかわ》もびっくりして一方を顧《かえり》み、 『取れざる石炭代《せきたんだい》を借《か》ってどうする』 と云うと結城《ゆうき》は飯椀《めしわん》を抱《かか》えながら間《あい》の襖《ふすま》を開けて、 『金主《きんしゆ》から君《きみ》がその関係書類を譲《ゆず》り受けて長崎《ながさき》に行《ゆ》けばきっと取れると思う、今|証文《しようもん》を遣《や》っ て置《お》けばいや応《おう》なしに借れるよ。今から外《ほか》に金策《きんさく》に奔走《ほんそう》しても駄目《だめ》と思う』 と云う。庵主《あんしゆ》は危《あや》ぶみながらその事を鮎川氏《あゆかわし》に咄《はな》すと、 『それなら金主先生何程喜《きんしゆせんせいいくらよろこ》ぶか知れませぬ、直《すぐ》に行《いつ》て咄《はな》して来ます』 と云、つて出て行き、間《ま》もなく書類全部に金子借用証《きんすしやくようしよう》の案文《 あんぶん》を持って来た。その証文《しようもん》に曰《いわ》く、 『この売掛代金《うりかけだいきん》が取れたら六ヵ月問は無利息《むりそく》で十二ヵ月目に返済《へんさい》する事』 の文言《もんごん》が彼より自働的《じどうてき》に認《したた》めありし位故、余程《よほど》弱っていたと云う事が分るのである。それか ら庵主《あんしゆ》は結城《ゆうき》と共に若津港《わかつこう》より汽船に乗りて長崎《ながささ》に翌朝|到着《とうちやく》し、緑屋《みどりや》と云う宿屋《やどや》に泊り、直《ただち》 に長崎県庁の知人の役人《やくにん》にその書類を翻訳《ほんやく》して貰《もろ》うたら、生れて初めて見た『インヴイズ』 から『フリー、オン、ポート』一|噸《とん》三円と云う船長《せんちよう》の『サイン』した書類までちゃんと揃《そろ》う ていた。それを分らぬ番頭《ばんとう》が、この分らぬ書付を貰《もろ》うてまごまごしているところにその石炭 を積《つ》んだ船が出帆《しゆつぱん》してしもうたから、がっかり落胆《らくたん》して泣面《なきつら》で佐賀《さが》に帰って来たのである。 今から三十五年前の貿易《ぽうえき》の有様は総てこんな物であった。それからその書類を持って長崎の |仏国領事館《ふつこくりようじかん》に一見して貰うたら、これはちゃんと『ホームリンガー商会《しようかい》』で仕払《しはら》うと書いて あるから其所《そこ》で受取るがよいとの事でその商会《しようかい》に行《ゆ》き、総計五千四百円から積込《つみこみ》その他の諸《しよ》 フランネルとモンパの争い |入費《にゆうひ》四百何十円を引去りおよそ五千円ばかりの金を受取ったから、すぐにそれをその商会か ら福岡《ふくおか》の十七銀行に送金をして貰《もら》い、両人はまた汽船《きせん》に乗り博多《はかた》に帰って来たのである。要 するに三千円の金策《きんさく》に五千円を得て而《しか》も六ヵ月は無利息《むりそく》、十七銀行へは外国商館から金《かね》が 廻ってきたので一層信用せられ、金主《きんしゆ》よりは地獄《じごく》で仏《ほとけ》に逢《お》うたように感謝せられ、その金《かね》で |坑区《こうく》の方の困難は全部解決した上に残金《ざんきん》でまた一の新坑区《しんこうく》を得《う》る事が出来たと云う四方八方 |好都合《こうつザしう》の事となったのは、ただ結城《ゆうさ》が飯椀《めしわん》を抱えたまま、 『その石炭代を借《か》りたまえ』 と云うた三目《ごん》が主因《しゆいん》である。天性寡言《てんせいかごん》の結城《ゆうき》が天性商事経済《てんせいしようじけいざい》の事に腹捌《はらさば》きの好《よ》き事|大概《たいがい》この 類であった。庵主《あんしゆ》はこの一事件に『ヒント』を得て外国語を皆目《かいもく》知らず、まだ九|州鉄道《しゆうてつどう》が僅《わず》 かに博多鳥栖間開業当時《はかたとすかんかいぎようとうじ》即ち門司開港前《もじかいこうぜん》に門司《もじ》より香港《ほんこん》にベンラワーと云う英国船を借入れ |石炭直輸出《せきたんじきゆしゆつ》の嚆矢《こうし》として業《ざよう》を始めたのも、この『ホームリンガー商会』の指導《しどう》に因《よ》ったので ある。 五十八 一|撰《かく》千|金《きん》の有利事業《ゆうりじぎよう》   壮士意を決して海島に入り、 乃舅資を投じて大志を助く  ゆうき   ふくりようしんぽう     ふ つうけいえい                 とつぜんあんしゆ            さ           はな  結城は福陵新報のやや普通経営が出来る頃、ある夜突然庵主の家に来て、左の如き事を咄 した、それが訥弁《とつべん》であるから、ポツ、ポツ、と兎の糞《ふん》の如き切《きれぎれ》々の談話《だんわ》である。 (1)世《よ》は文弱的太平《ぷんじやくてきたいへい》じゃ、このままでは日本男児《にほんだんじ》の腸《はらわた》は腐《くさ》ってしまう。   げんようしや                いのち す                          ようす     せいとう      と とうてき (2)玄洋社も外交的の間題で命を捨てるかと思うていたら、今の様子では政党などの徒党的  になりそうじゃ。 (3)今の内に玄洋社《げんようしや》の圏外《けんがい》に出て働こうと思う。 (4)将来《しようらい》の安危《あんき》に係《かかわ》る外交《がいこう》問題は、差寄《さしより》が朝鮮《ちようせん》の問題から始まると思う。 (5)支那もこのままでは済《す》まぬ、露西亜《ロシア》も英吉利《イギリス》も、このままでは済《す》まぬと思う。 (6)まず日本《にほん》は朝鮮《ちようせん》から片付《かたづ》けるのじゃ。 (7)それが二千年来、日本男児《にほんだんじ》として死を遂《と》げた、先輩の霊《れい》を弔慰《ちようい》する第一と思う。 (8)俺《おれ》は今から身を朝鮮《ちようせん》に投じて、その計画《けいかく》を仕《し》ようと思う。 (9)その投《とう》ずる所は、朝鮮群島《ちようせんぐんとう》の中《うち》に、金鰲島《きんごうとう》と云う島で、日本にも釜山《ふざん》にも近く屈強《くつきよう》の場  所である。 (10)その島に一二人を入れて偵察《ていさつ》して見るに、島民《とうみん》が淳朴《じゆんぼく》で漁業専門《ぎよぎようせんもん》である。 (且)故に俺《おれ》は新宮村《しんぐうむら》で育って、漁業の事は大略心得《たいりやくこころえ》ているから、五六人|達者《たつしゃ》な若い者を連れ  て行ってその島に居住《きよじゆう》してまず漁師《りようし》になろうと思う。 (12)それには漁船漁具《ぎよせんざよぐ》その他の準備《じゆんぴ》に五百円ばかり入用じゃ。 (13)それが頭山君《とうやまくん》の諒解《りようかい》を得《え》ずして、瓢然《ひようぜん》と抜《ぬ》け出るのであるから、金《かね》の事を頭山君《とうやまくん》に図《はか》り  たくない。 (14)なぜなれば、事外交《ことがいこう》に関する問題が起るかも知れぬから、失敗した時に、頭山君《とうやまくん》や玄洋《げんよう》  社《しゃ》に累《わずらい》を掛《か》けたくないからじゃ。 (15)君《きみ》が一|己《こ》の工夫《くふう》で、何とか五百円出来ぬか。  咄《はなし》はこれだけであるが、庵主《あんしゆ》はこの結城《ゆうき》の提言《ていげん》に、一々|賛成《さんせい》せずにはおられなかった。な ぜなれば、庵主《あんしゅ》の生存《せいそん》は、朝鮮問題《ちようせんもんだい》の落着《らくちゃく》を除けば、全部|無意義《むいざ》である。政府《せいふ》と喧嘩《けんか》するの も、政党《せいとう》と戦うのも、頭山氏《とうやまし》や結城《ゆうき》と結託《けつたく》するのも、その朝鮮の事が心中の秘奥《ひおう》で、玄洋社《げんようしや》 の興隆《こうりゆう》をはかり、事業を計画するのも、金儲《かねもう》けが仕《し》たいのも、各国に先鞭《せんべん》を着け、何所《どこ》の有 志家《ゆうしか》よりも、逸《いち》早く朝鮮問題の咽喉《いんこう》を押《おさ》えんと云う事より外に、目的はないのである。それ を結城《ゆうき》が何時《いつ》の頃よりか、同じ問題に考えを起して、現在|目前《もくぜん》に一身をその問題に投入せん       こうがい                うんちく  も                       あんしゆ              ぽ とまで考え、口外に切り出すまでの纏蓄を持っておったのは、今では庵主よりも、また一歩 |抽《ぬき》ん出た噴世《こうせい》の傑士《けつし》の行為《こうい》であると、少なからぬ驚愕《さようがく》の思いと、敬畏《けいい》の念《ねん》を起さずにはいら れなかったのである。この天下無《てんかむ》二の同志が、庵主《あんしゆ》の繙壁《しようへき》の間にあった事を知らざる不明を |悔《く》ゆると同時に、何とかしてこの結城《ゆうき》の決心を挫折《ざせつ》せしめぬように、即刻《そつこく》その所望《しよもう》を達《たつ》せし めて遣《や》りたいと思うた、しかし当時|庵主等《あんしゆら》の境遇《きようぐう》は、   とうやまし       から        たんざんし くつけん                    あおやぎ      げ しゆくや   しゆくりよう (い)頭山氏は全く殻のような炭山試掘権の、二つ三つを持って、青柳と云う下宿屋に、宿料  の仕払《しはらい》さえ出来ず、青息《あおいき》を吐《つ》いている時である。 (ろ)玄洋社員《げんようしやいん》は、未だ殆んど全部|裁判所《さいばんしよ》の指紙配達夫《さしがみはいたつふ》の境遇《きようぐう》を脱しておらない位の時である。 (は)庵主《あんしゆ》は未だ羽織《はおり》も持たず、一枚の縞《しま》の羽織《はおり》を結城《ゆうき》とかわり番子《ばんこ》に着て廻る位の時である  から、なかなか五百円などと云う大金《たいきん》を調《ととの》える事は思いも寄らぬ事である。  かかる境遇《きようぐう》にも拘《かか》わらず庵主《あんしゆ》は、 『好《よ》し大賛成《だいさんせい》である、その金《かね》は俺《おれ》がきっと栫《こしら》えてやる、安心して遣《や》るべし』    はな           ごん  ゆうき   か ごん              もくもく                    いつ と云い放った。この一言で結城は寡言な男であるから、黙々としてその日は別かれて行たが、 数日の後また諷然《ひようぜん》として来た。曰く、   おれ                                                  きみ            ほ ご   たの (1)俺は七十になる老母と、病人の姉とを捨てて出て行くから、君出来るだけの保護を頼む  ぞ。 (2)漁船《ぎよせん》は箱崎村《はこざきむら》の漁師の物を二|艘《そもつ》ばかり買う事に約束《やくそく》したから安心せよ。 (3)漁具《ぎよぐ》その他食料のような物も、それぞれ買入《かいい》れる事に選択《せんたく》して極《き》めておいたからこれも  心配はない。 (4)明日《あした》か明後日位《あさつてぐらい》から、金を渡さねばならぬから明日《あした》あたり金を持って来てくれ。 (5)俺《おれ》は今日から五|日目《かめ》の未明《みめい》に、箱崎《はこざき》の浜《はま》から乗出すはずにしたぞ左様《さよう》なら。 と云うて、ぷいと出て行った。さあ庵主《あんしゆ》は大恐慌《だいきようこう》を起した、実はその金策《きんさく》に付いて、庵主《あんしゅ》は |日夜《にちや》少しも油断《ゆだん》した事なく、東西南北《とうざいなんぽく》に奔走《ほんそう》して、終には『金策《きんさく》ぼけにぼけて』目的《あて》もなく 五六里もある田舎にまで行き訪問《ほうもん》する人もなく、咄《はな》して見る相手もなく、空《むな》しくすごすごと 帰って来て、一|夜《や》を輟転反側《てんてんはんそく》に明した事も有るのである。最早百|計《けい》の術尽果《じゆつつきは》てたる揚句《あげく》、今 この結城《ゆうき》の一|言《ごん》に、庵主《あんしゆ》はさらにその脳血《のうけつ》を割られる大鉄槌《だいてつつい》を加えられたような心地《ここち》がして、 ぐうの音も出ぬ始末《しまっ》となり、人間が悪心《あくしん》を起して、切取強盗《きりとりごうとう》をしたり、金故《かねゆえ》に道《みち》ならぬ事を |為《す》るのはこんな時かと思うたのである。その日の昼頃、庵主《あんしゆ》は骨の抜けた阿呆《あほう》のようになっ て、中洲《なかず》と云う処《ところ》をひょろひょろ歩行《ある》いていたが、何様腹《なにさまはら》が減《へ》ったので、ふと林又吉《はやしまたきち》と云う |庵主《あんしゆ》の叔父《おじ》の門前《もんぜん》を通行するのに気が付き、思わずその家《うち》に這入《はい》って台所から、 『叔母《おば》さん、腹《はら》が減《へ》ったから飯《めし》を御馳走《ごちそう》して下さい』 と云うて上《あが》り込んだら、叔父《おじ》の声で、 『今|叔母《おば》さんは寺参《てらまい》りして留守《るす》じゃ、茂坊《しげぽう》じゃないかどうして来た。誰《たれ》もおらぬから自分で 出して茶漬《ちやづけ》でも食え』 と云、つ。庵主《あんしゆ》はその声が雷霆《らいてい》にでも撃《う》たれたように感じた。それはこの叔父《おじ》さんに、一年前 百円と云う大金を借《か》りて、利息《りそく》も何《なに》も遣《ゃ》らず、そのままに放《ほう》り捨ててあるのでこの叔父《おじ》さん 時々|庵主《あんしゅ》の母の所に来て、散《さんざん》々いじめるとの事を聞いている。その叔父《 おじ》の家に無意識《むいしき》で一《は》一一氾|入《い》 り込《こ》んだのであるから、驚かざるを得《え》ぬのである。それからまず台所で飯《めし》を腹《はら》一|杯掻《ぱいか》き込《こ》ん でしもうていると、 『茂坊一寸《しげぽうちよつと》ここへ来《こ》い』 と来《き》た。屠所《としよ》の歩みで、叔父《おじ》の前に行《ゆ》くと、この叔父さん元藩の漢学《かんがく》の先生で、廃藩後《はいはんご》は先 祖の遺禄《いろく》たる奉還金《ほうかんぎん》の公債《こうさい》を、町人や百姓に貸して、大変高い利息《りそく》を取り、蓄財《ちくざい》を思い立ち、 |大分《だいぶ》の金《かね》を溜《た》めているとの事である、その食う物も食わずに溜《た》めた金《かね》を、庵主《あんしゆ》が百円も借り て、一ヵ年も放り捨てて寄り付かぬので、怒っているも何も、手の付けようもない程《ほど》かっかっ と怒《おこ》っているところで、その前に呼出《よぴだ》されるのであるから、庵主《あんしゆ》も弱《よわ》らざるを得《え》ぬのである。 むじむじと躄《いざ》りてその前に行くと、 『馬鹿者《ばかもの》が百円と云う大金《たいきん》を、小店《こみせ》を出して一家の生計を営《いとな》む資本《しほん》になる大金《たいきん》であるぞ、そ れを塵《ちり》か芥《あくた》のように遣《つか》い捨てて、現在の叔父《おじ》の処《ところ》に一ヵ年も寄り付かぬと云うは、何と云う 心得《こころえ》か、それと云《い》うも貴様《きさま》が玄洋社《げんようしゃ》とか、頭山《とうやま》とか金《かね》の貴《とうと》い事も知らぬ、梁山伯《りようざんぱく》のような豪《ごう》 けつ                           さむらい       せんぞ     やりさき  ご い くん    し そんあんの一  たちゆ 傑などと交際するからの事である。武士たる者は先祖  鎗先の御遺勲で、子孫安穏に立行 く事《こと》を忘却《ぼうきやく》してはならぬ。聖人《せいじん》も静以《せいもつ》て身《み》を修《おさ》め、倹以《けんもつ》て徳《とく》を養《やしな》うとの教訓《きようくん》を垂《た》れたもうた。 |国家《こつか》とか、国民《こくみん》とか、身分不相応《みぶんふそうおう》な事ばかりを言い、出来もせぬ大胆《だいたん》を口癖《くちぐ》せにし、一|身《しん》一 |家《か》の始末《しまつ》も付かぬ不行跡《ふぎようせき》で、何で大世間《だいせけん》の事が出来るか、貴様《きさま》が少なくも人間並に成《な》るなら、 |可愛《かわい》い甥《おい》の事であるから、俺は金を返せなどとは云わぬ、向後《こうご》心を改めて、取止《とりと》めもなき悪 友《あくゆう》と交際《こうさい》を絶《た》ち、一|身《しん》を立て一家を営《いとな》み、父母親戚《ふぽしんせき》に安堵《あんど》させる事を心掛《こころが》けよ』 と開き直って親身《しんみ》の意見《いけん》である、庵主《あんしゅ》は殊勝《しゆしよう》らしく手を突いて、 『叔父様《おじさん》の親《おや》にも勝《まさ》る親身《しんみ》の御意見《ごいけん》、有《あり》がたく存《ぞん》じます。私《わたくし》も昨年来、ようやく一|身《しん》の行跡《ぎようせさ》 を後悔致《こうかいいた》しまして、どうがなして只今の浪人境界《ろうにんきようがい》を脱出致《だつしゆついた》し、一|身《しん》の独立《どくりつ》を計《はか》りたいと存《ぞん》じ まして、だんだん計画も致しましたが、どうしても旧友等《きゆうゆうら》と福岡《ふくおか》に居《お》りましては、今までの 関係を改《あらた》める事が出来ませぬから、色々|工夫《くふう》を致しまして、いよいよこの度朝鮮海漁業《たぴちようせんかいざよざよう》の事 に取掛《とりかか》るつもりで、乗り出すはずでございます。一度乗り出しますれば、また何時御目《いつおめ》に掛《かか》 れる事やらも分りませぬしハ常々|御心配《ごしんぱい》ばかり掛《か》けております事でございますから、今日は |御暇乞《おいとまご》いに一寸参上致《ちよつとさんじよういた》しましたのでございます』  叔父《おじ》は少《すこ》しく涙を催《もよお》して、 『むうそうか、それは良《よ》い心掛《こころが》けじゃ、そこに気の付たと云うは、まだ見限る程《ほど》の馬鹿《ばか》でも ない。しかしその朝鮮海《ちようせんかい》の漁業と云うは、また失敗するような事業ではないか』 『いやこの事業《じざよう》に付《つき》ましては、当業《とうぎよう》の者を数人調査にも遣《や》りまして、実際の報告《ほうこく》も承《うけたま》わりて おりますが、朝鮮群島《ちようせんぐんとう》の中《うち》に、この博多《はかた》の港《みなと》より一番近いところに、金鰲島《きんごうとう》と云う所がござ います、その島は人気《にんき》もよろしく、漁師《りようし》も極幼釋《ごくようち》で、その島の附近は、海も極穏《ごくおだや》かな所でご ざいますが、漁獲《ぎよかく》の道具《どうぐ》が一つもございませぬ為め、その島の浪打際《なみうちぎわ》から、海《うみ》一|面《めん》昼も夜も、 |魚《うお》が舟《ふね》も漕《こ》ぎ通《とお》せぬように寄集り、ただの抄《すく》い網《あみ》でも、十分に漁獲《ぎよかく》があるそうでございます。 それを塩漬《しおづけ》や乾魚《ほしうお》に致しまして、下《しも》の関《せき》や博多《はかた》の魚市場《うおいちぱ》に持って来ますれば、その日に売れ てしまうとの事でございますから、意を決してその方の仕事《しごと》に従事《じゆうじ》致しますつもりでござい ます。しかし資本《しほん》もございませず、不完全な小舟《こぶね》一|艘《そう》で乗り出しますのでこの玄海灘《げんかいなだ》の往復《おうふく》 にどんな危険《きけん》が起るかも分りませぬから、日頃の御懇情《ごこんじよう》に対《たい》し、一応の御暇乞《おいとまご》いだけはして |参《まい》りたいと存じ、参上致《さんじよういた》しましたのでございます』 『その不完全《ふかんぜん》な小舟《こぷね》で、あの玄海《げんかい》の荒海《あらうみ》を往来《おうらい》するとは危険千万《きけんせんばん》である。その資本は何程《なにほど》あ れば、大丈夫《だいじようぶ》の船《ふね》とその魚《うお》を捕《と》る漁具《どうぐ》が調《ととの》うのじゃ』 『それは船は大形の堅牢《けんろう》なのが三百円で、その魚《うお》を立廻《たてまわ》して捕獲《ほかく》する網《あみ》が二百円、その他食 料などの準備に百円か二百円|掛《かけ》れば完全無欠《かんぜんむけつ》でございます』 『それなら俺《おれ》は貴様《きさま》が一生の生業《せいぎょう》に有付《ありっ》く事であるから、その資本を出して遣《や》らぬ事もない が、俺《おれ》はここに親身《しんみ》になって貴様《きさま》に咄《はな》さねばならぬ事がある。それは俺《おれ》も未熟《みじゆく》ながら養子《ようし》の |身分《みぶん》で、先祖の家を受継《うけつ》ぎ、兎《と》や角今日《かくこんにち》までは来たが、貴様《きさま》の知る通り男の子も三人まで持っ たが、皆早世天折《みなそうせいようせつ》して、今では娘二人より外《ほか》ない。即ちこの林家《はやしけ》を相続《そうぞく》する嗣子《しし》がないので ある。それで二人の娘が少しでも困らぬように、第一|倹素《けんそ》を旨《むね》とし、蓄財《ちくざい》をして切《せ》めても多 少の金なりと残して置《お》いて遣《や》りたいと思うて今已《いますで》に多少の金《かね》を持っておる、それを今|貴様《きさま》に 貸す訳になるから貴様《きさま》は能《よ》くこの道理《どうり》を考えねばならぬ。万《まん》一|貴様《きさま》がその金《かね》を返せぬ時は、 きさま まつていこまお    とうきようりゆうがく       おれ うち ようし↓ 貴様の末弟駒生が、今東京に留学しているのを、俺の家に養嗣子としてくれる事を、きっと |承諾《しようだく》せねばならぬ。その上ならば今|貴様《きさま》の入用の金を貸す事は何でもない、俺も今日まで貴 様《きさま》の親父《おやじ》にもしばしばその事を相談はしてみたが、とかく捗《はかばか》々|敷要領《しくようりよう》を得《え》ぬから、今|貴様《きさま》に |心底打明《しんていうちあ》けてきっと咄《はな》すのじゃ』 『ははあそれでは、その資本《しほん》を叔父様《おじさん》に借用《しやくよう》するには、東京《とうきよう》に留学《りゆうがく》している弟を、抵当《ていとう》にせ ねばならぬのでございますなあ』 『そうじゃ、金が無くなれば嗣子《しし》が入用、嗣子《しし》が出来れば金《かね》は減《へ》っても宜《よ》いのじゃ』 『宜《よろ》しゅうございます。未熟《みじゆく》の弟ではございますが、どうで、他家《たけ》の跡目《あとめ》を継《つ》ぐのでござい ますから叔父様《おじさん》の家《うち》の相続《そうぞく》をするのなら有難《ありがた》くお受をするでございましょう。また私《わたくし》も きっと説得《せつとく》も致しますから、その点《てん》は御安心下《ごあんしんくだ》さいませ』 と答えたら、叔父《おじ》はすうっと立って、足継台《あしつぎだい》を持って来て、天井《てんじよう》の下に釣るしてある煤《すす》ぼた くれの真黒《まつくろ》な提灯箱《ちようちんぱこ》を下《おろ》し、その中から金禄公債証書七《きんろくこうさいしようしよ》百円を引出して、 『ここに御先祖《ごせんぞ》から頂戴《ちようだい》した、当家《とうけ》の知行《ちぎよう》がこれだけある。これを持って行って売払《うりはろ》うたら、 五六百円は得《え》らるるであろう、それで今度の貴様《きさま》の事業《じぎよう》に取付事《とりつくこと》にせよ。ああ俺《おれ》もかねがね |心痛《しんつう》の一|大事《だいじ》に安心《あんしん》を得《え》て満足《まんぞく》じゃ、貴様《きさま》決して今の詞《ことば》を間違《まちが》える事はならぬぞ、確《しか》と約束《やくそく》 したぞ』 『委細承知《いさいしようち》致しました』 と云うて、とうとう一人《ひとり》の弟を承諾《しようだく》もさせずに、叔父《おじ》に抵当《ていとう》に入れて、七百円の公債《こうさい》をやっ と借人《かりい》れて、積日《せきじつ》の困難を解決する事が出来た。この顛末《てんまつ》を結城《ゆうき》にも咄《はな》し、双方共《そうほうとも》一層の決 心をして、猛然《もうぜん》としてこの朝鮮海《ちようせんかい》の事業《じぎよう》に取付《とりつ》くことが出来た。この一事が、庵主《あんしゆ》と結城《ゆうき》の |魂《たましい》の底に、深く深く刻《きざ》み込まれて、朝鮮と云う命掛《いのちが》けの問題に対して、始めて具体的に余 程真面目《よほどましめ》に、身心《しんしん》に徹底《てつてい》して働く事になったように思われたのである。それから弟にも、以 上の大略《たいりやく》を申聞《もうしき》けて、異議《いぎ》なく叔父《おじ》の家を相続《そうぞく》してくれる事と成《な》ったから、叔父《おじ》は大安堵《おおあんど》を して、間《ま》もなく病気になり、弟と庵主《あんしゆ》は、その当時の境遇《きようぐう》で、出来るだけは介抱《かいほう》もしたが、 |定命《じようみよう》にやとうとう叔父《おじ》は帰らぬ人となったのである。この故に庵主等《あんしゆら》が、生涯中生死《しようがいじゆうせいし》の目 的としたる、朝鮮《ちようせん》の問題も、今日《こんにち》の如くまず一段落|片付《かたづ》く事に成《な》ってみると、結城《ゆうき》のこの事 業も、庵主《あんしゆ》のこの苦心《くしん》も弟の犠牲《ぎせい》もこの朝鮮問題《ちようせんもんだい》に対しては、間接《かんせつ》に於て強き一廉《ひとかど》の隠功《いんこう》を |成《な》していると云《い》い得《う》るのである。それから当時|庵主《あんしゆ》の処《ところ》に来遊《らいゆう》していた、朝鮮問題の大熱心 家《だいねつしんか》たる、筑後《ちくご》の人《ひと》にて武田範之《たけだはんし》と云える篤学《とくがく》の青年にも、この顛末《てんまつ》を申聞《もうしき》け、結城《ゆうさ》と共に海 上《かいじょう》の人となる事になり、また結城《ゆうき》の親友《しんゆう》たる、彼《か》の瓜江氏《うりえし》も、結城《ゆうき》と共《ともども》々一|葉《よう》の軽舟《けいしゆう》に身《み》を |託《たく》して、乗出す事に成ったのである。それからこの結城《ゆうき》一行が、爾後《じご》三年間に試甞《ししよう》した海上 の辛惨《しんさん》は、とうてい筆《ふで》にも口《くち》にも尽《つく》されぬ。殆んど古今《ここん》の立志伝中《りつしでんちゆう》にも容易《ようい》に見得《みえ》られざる |困難《こんなん》を経《へ》て、あらゆる大難《だいなん》と戦うたのである。  ○あるいは一日|支那海漂流《しなかいひようりゆう》の人《ひと》となり  ○あるいは海賊《かいぞく》と戦うて死生《しせい》を賭《と》し  ○あるいは山林《さんりん》に入《い》りて、材木に歳余《さいよ》の命《いのち》を繋《つな》ぐ等《とう》  今これを記述《きじゆつ》すれば、東洋《とうよう》の文豪《ぶんごう》、曲亭馬琴翁《きよくていばきんおう》を呼起《よぴおこ》して、補輯《ほしゆう》せしむるも、容易《ようい》の業《ぎよう》に は非《あら》ざる程《ほど》の奇事珍説《きじちんせつ》がある、それが本《もと》となって、彼《か》の武田《たけだ》の如きは、永《なが》く鮮人同志《せんじんどうし》の群《むれ》に 入って、日鮮《につせん》の為《ため》に最終まで、尽痒《じんすい》する事となったが、庵主《あんしゆ》はまた陸上にあって、結城《ゆうき》の遺 族《いぞく》や、叔父《おじ》の家の事等にて種《いろいろ》々思いも寄らぬ出来事と奮闘《ふんとう》していたのであった。 五十九 |万死《ぱんし》に一|生《しよう》を得《え》たる幸運児《こううんじ》   猛鷲翼を延べて東洋を撃ち、庵主病を得て万死を免る  風光《かぜひか》る青葉の夏も過ぎ行て、穣《みの》りの秋に月冴《つきさ》ゆる、利鎌磨《とがまと》ぐという世《よ》の様《さま》は、復《ま》た十廻《とがえ》り の年を経て、亜細亜《アジア》の陸《くが》に生《お》い茂《しげ》る、刈《か》り菰《ごも》とこそ乱《みだ》れけれ、露国《ろこく》は強独猛英《きようどくもうえい》の、辛《つら》く傭《ものう》き 外交に、弄《もてあそ》ばれて命《いのち》なる、黒海《プラツクシき》の富源《ふげん》さえ、世界文化の市場《いちくら》に、行交《ゆきか》う道を断切《たちき》られ、癇 癪玉《かんしゃくだま》の強薬《つよぐすり》、国運賭《こくうんと》して幾度《いくたび》か、強硬南下《きようこうなんか》の勢いに、バルカン六|国《くに》を一|蹴《しゅう》し、ボスポラ、ダー ダネルスの海峡《かいきよう》を、一|手《て》に握《にぎ》りて全欧《ぜんおう》の、海陸《かいりく》の市《いち》を荒《あら》さんと、企《くわだ》てたりしはしばしばにて、 それさえ多くの失敗に、国力次第《こくりよくしだい》に傾《かたむ》きて、外《ほか》は物《もの》かは内政《ないせい》の、蹉畊圦《さてつ》ようやくはなはだしく、 このヒは最後の運命《うんめい》を一|挙《きよ》に掛《か》け、安危《あんき》を一戦に決せんと、露国《ろこく》一代の英才《えいさい》「ウヰッテ」伯《はく》 を挙《あ》げて西比利亜鉄道施設首部《シベリアてつどうしせつしゆぷ》の長官となし、二億六千万|留《ルヨブル》の大国費《だいこくひ》を投《とう》じて、彼《か》の烈寒瘠 土《れつかんせきど》三千|余英里《よえいり》の間《あいだ》に大鉄道《だいてつどう》を布設《ふせつ》し蜿蝿《えんえん》の蛇首《だしゆ》を渤海湾頭《ぽつかいわんとう》の大連《たいれん》に出して直ちに東洋《とうよう》の海上 に闖入《ちんにゆう》せんと企《くわだ》てたのである。  この故にその勢い猛鷲《もうしゆう》の空を翔《か》けるが如く、その線路《せんろ》が哈爾賓《ハルピン》に達せんとするの一|刹那《せつな》、 |俄然《がぜん》として転《てん》じて、南満洲《なんまんしゆう》に支線《しせん》を布設《ふせつ》し、見る間に奉天《ほうてん》、遼陽《りようよう》、金州《きんしゆう》、大連《たいれん》、旅順《りよじゆん》は彼《かれ》が 軍事的永久《ぐんじてきえいきゆう》の施設地《しせつち》と変じたのである。たださえ日本《にほん》の上下惰眠《じようげだみん》に耽《ふ》けりし官民は、恰《あたか》も百 |雷《らい》の枕辺《ちんべん》に落下《らつか》せしが如く驚駭《きようがい》し、あれよあれよと云《い》う中《うち》に朝鮮《ちようせん》の上下《じようげ》は、また彼《か》れが威力《いりよく》 の抱擁《ほうよう》に陥《おちい》ったのである。ここに於て、明治天皇陛下《めいじてんのうへいか》には帝国《ていこく》の安危《あんき》と東洋《とうよう》の治乱《ちらん》と世界締 盟《せかいていめい》の誼《よしみ》とを思召《おぽしめ》され、轟然《ごうぜん》たる一発の宣戦詔勅《せんせんしようちよく》は日夲国民《につぽんこくみん》の頭上に落来《おちきた》ったのである。  この時まで彼《か》の結城《ゆうき》は多数の部下を率《ひき》いて根拠《こんきよ》を対州《たいしゆう》の山間《さんかん》に置き、只管《ひたすら》熱心に名《な》を朝鮮 海漁業の事に仮《か》りて、日鮮《につせん》の関係に努力していたので、世人《せじん》はその消息《しようそく》をさえ知らざりしに、 |恰《あたか》も虎豹《こひよう》の山林を出《い》でて閭里《りより》に闖入《ちんにゆう》したるが如く、ことごとくその部下を分《わか》って朝鮮《ちようせん》の各道《かくどう》 に分派し、単身俄然《たんしんがぜん》としてその郷里の福岡《ふくおか》に現《あら》われたのである。彼《か》の武田範之和尚《たけだはんしおしよう》が身《み》を朝 鮮の一|進会《しんかい》に投じて、死に至るまで尽瘁《じんすい》せし等《とう》は、全くこの時の反応《はんのう》である、而《しか》して結城《ゆうき》が なにごと  な                                            きゆうごう                にちろ せん 何事を為すかと見てあれば、数日にして福岡に於ける有志を糾合し、たちまちにして日露戦 |争《そう》に於ける軍夫《ぐんぷ》の募集に着手《ちやくしゆ》したのである。曰く、  おれども  しにば しよ                      おれ  けんり                         へいたい  し 『俺共の死場所が始めて出来た、死ぬ事は俺の権利だ人に相談する必要はない、兵隊は死ぬ  やくめ          し                                  ぴんかつぐんぷ   やくめ        おれども が役目だ、それが死なれるようにしてやるのは、後方勤務の敏活軍夫の役目だ。故に俺共は へいたい                                        やくめ   し             いのちが 兵隊が死なれるようにしてやる為めに働いて、その役目に死ぬのだ。双方命掛けでなければ いくさ                          ぐんぷ     へいたい      ゆうしや                       ちくぜん 戦は負けじゃ。故に俺の募集する軍夫は、兵隊以上の勇者でなければ出来ぬ事じゃ。筑前の |壮士《そうし》は、上下の別なく、この勇ましい前古未曾有《ぜんこみぞう》の大戦《たいせん》に突入《とつにゆう》し、弾丸炸裂《だんがんさくれつ》の戦場に出入し て、成仏得脱《じようぶつとくだつ》の光栄に死ぬのじゃ』 と直《すぐ》にどこをどうしたか、師団司令部等《しだんしれいぶとう》の允許《いんきよ》を得《え》、筑前《ちくぜん》の壮士《そうし》を箒《ほうき》で掃《は》き寄《よ》せるように募 集して戦場《せんじよう》に送ったのである。この間結城《あいだゆうき》は、庵主《あんしゆ》などへも殆んど面会の機会を得ぬ位で、 きよう系くおか しがい おうらい        あす まんしゆうせんけつちまたほんそう         あんしゆ 今日福岡の市街を往来するかと思えば、明日は満洲鮮血の衢に奔走していたのである。庵主 はこの戦争前より、多く東京《とうきよう》にのみあって、奔来《ほんらい》に邊《いとま》なかりし故、郷里などには一回も帰る の機会がなく、結城《ゆうき》に面会が出来なかったのであった。而《しか》して日露《にちろ》の戦争《せんそう》は天皇|陛下《へいか》の広大 なる御威徳《ごいとく》と、忠烈無比《ちゆうれつむひ》なる勇士《ゆうし》の血戦《けつせん》に依《よ》りて連戦連勝《れんせんれんしよう》、さしも世界に強猛《きようもう》を誇《ほこ》っていた ろ こく    ゆみや   ふ       るい  ぬ       こうわ   だんぱん                   こうえい    しようり  がいか 露国も、弓箭を伏せその塁を抜かれ、構和の談判となったので、軍隊は光栄なる勝利の凱歌  そう    き かん             ゆうき     ぐんぷ ら     ぜんじ せんち   ひきあ                      せ を奏して帰還する事となり、結城共の軍夫等も、漸次戦地を引揚げる事となった。この間世 けん    ゆうき             ばくだい  り えき  しゆうとく            つた       た        ゆうき 間では結城一派の者共が、莫大の利益を収得したなどと云い伝えたが、他は知らず結城の一 |身《しん》に纒《まつ》わる結論は、人《ひと》の産《さん》を傾くる事十数、負債数万円《ふさいすうまんえん》と計上せられ、また至孝《しこう》なる結城《ゆうき》は、 老母の葬式《そうしき》をこの間に行い、差引残《さしひきのこ》る物《もの》は以上の負債《ふさい》と責任《せきにん》と病毫《びようもう》の姉《あね》とだけであった。こ の顛末《てんまつ》を東京《とうきよう》なる庵主《あんしゆ》に委《くわ》しく言《い》い送りて来たから、庵主《あんしゆ》は左《さ》の意味の手紙を遣《や》った。曰く、 『君《きみ》と俺《おれ》との仕事は今回に限りて勝利《しようり》であった。否《い》な全勝《ぜんしよう》であった。俺《おれ》はこれまで内外総て の仕事が全部失敗ばかりであったが、それでもやはり尻拭《しりぬぐ》いは為《せ》ねばならぬ、それに今度は 始めて全勝《ぜんしよう》して、その尻拭《しりぬぐい》に努力するのは生前の光栄《こうえい》である、また当然《とうぜん》の責務《せきむ》である。それ が完全に出来ねば、全勝の光栄は消滅《しようめつ》するのである。即ち光栄ある尻拭《しりぬぐ》いを愉快《ゆかい》に仕《し》ようで はないか。それには債務《さいむ》があり、責任《せきにん》の嵩《かさ》んでいる福岡《ふくおか》に居《い》ては、何事も出来ぬ事じゃから、 ここを能《よ》く君《きみ》考えよ、譬《たと》えば借銭《しやくせん》あり、責任《せきにん》あって喰詰《くいつ》めた処《ところ》は、丁度地を掘り下げて低く なった所のような者《もの》である。自分が仕事《しごと》の鍬《くわ》で掘《ほ》り下《さ》げたのじゃから、外《ほか》から土を持って来 て元の通りに平らに埋《うず》めれば、それで異議《いぎ》はないのじゃ、それには何の関係もない、低くな い高い地に来《こ》ねば、その土はないのである。故に君は直《ただち》に東京《とうきよう》に来《きた》れ、ただし東京に来るに 付ては、その債権者《さいけんしや》などが、一種の疑懼心《ぎくしん》を起して、心細《こころぼそ》がる物《もの》であるから、その疑念《ぎねん》を根 本的《こんぽんてき》に除去《じよきよ》する為《た》めに左《さ》の方法を採《と》れ。  一週間ばかり連続して、毎日|逆寄《さかよ》せよ債権者《さいけんしや》の家に押掛《おしか》くべし、曰く、 「俺《おれ》は光栄《こうえい》ある自信《じしん》せし事業の為めに、君に債務《さいむ》を負《お》うたのじゃ、その尻拭《しりぬぐ》いをする事が出 来ねば、従来の俺の仕事の光栄は全滅《ぜんめつ》じゃ、縦令君等《よしきみら》が取らぬと云うて拒《こば》んでも、この債務《さいむ》 だけは君が咽《のど》を〆めても返《し》さねば俺の方の一|分《ぶん》が立《たた》ぬのじゃ、それには俺が働かねば返され ぬ事は、債権債務等《さいけんさいむとう》の事理《じり》を解《かい》する者の当《まさ》に理解すべき事である。しかしそれが分らぬとす れば、君が愚蒙《ぐもう》なのであるから、俺は君が理解《りかい》するまで毎日来るのじゃ」 と云うてぎゅうぎゅう責付《せめつ》けよ、必ず五日位で敵はきっと陥落《かんらく》する』 と云うて遣《や》ったら、十日ばかりの間に結城《ゆうき》より電報《でんぽう》が来《き》た。曰く、 『債権者《さいけんしや》は三日間で落城《らくじよう》した。直《す》ぐ立《た》つ金《かね》があるなら五百ばかり直ぐ送れ』  ところが庵主《あんしゆ》は一|文《もん》も金《かね》がない。そこで時計やら何やら掻《か》き集め、質屋《しちや》へ叩《たた》き込んで五百 円やっと栫《こしら》えた。 『金五百円送る直《す》ぐ立て』  その後五日目に、結城《ゆうき》は庵主《あんしゆ》の本城《ほんじよう》たる築地《つきじ》一丁目の柳花苑《りゆうかえん》と云う料理屋《りようりや》の一室に坐り込 んだ。それから庵主《あんしゆ》はその隣りの江口《えぐち》とか云う旅館に結城《ゆうき》を入れて、久《ひさびさ》々|振《ぷ》りに閑談《かんだん》に夜を |徹《てつ》した、寡言《かごん》の結城《ゆうき》は曰く、 『一汗《ひとあせ》かいて面白かった…:  低《ひく》い処《ところ》を埋《うず》める土は何処《どこ》にあるか、俺は明日からそれを掘りたい……』  庵主曰く、 『その土は東京《とちつきよさつ》にはない』 『俺は東京にあると思うて来たのに……』 『いや、東京は俺《おれ》が低《ひく》く低く低く低く掘下《ほりさ》げて、もう泥水《どろみず》が出るまで掘《ほ》っているから駄目《だめ》 じゃ』 『それなら何処《どこ》にあるのか』 『それは北海道《ほつかいどう》にある……俺《おれ》の友達で本間英《ほんまえい》一|郎《ろう》と云う土木に明るい人の咄《はな》しに、北海道《ほつかいどう》の |小樽《おたる》に好《よ》い埋立地《うめたてち》があるが、道長官《どうちようかん》がどうしても許可《きよか》せぬと云うていた、君《きみ》は善《ぜん》でも悪《あく》でも |構《かま》わぬ、これから直《すぐ》にその本間《ほんま》の事務所に行って、図面《づめん》を写《うつ》して、総《すべ》ての願書《がんしよ》の様式《ようしき》を習《なろ》う て、直に郵便で出願《しゆつがん》せよ。俺が直《すぐ》に道長官から許可《きよか》を取《と》って遣《や》る。それを種《たね》に何とでもして 千|変万化《ぺんばんか》は君が独特の長所じゃ。遣《や》って遣って遣って遣《や》りこくれ……出来るだろう』 『好《よ》し……』  結城《ゆうき》はその日に直《すぐ》に本間《ほんま》の所に行った、晩方帰って来て、 『願書は郵便で今日出した。さあ北海道長官《ほつかいどうちようかん》に添書《てんしよ》を書け、俺《おれ》は金が余《あま》っているから今夜|上 野発《うえのはつ》の汽車で立つ……』  庵主《あんしゆ》は用意して置いた書面を三通|結城《ゆうき》に渡した。一は長官に、跡《あと》の二は小樽《おたる》の豪士高野源 之助《ごうしこうのげんのすけ》、金子元《かねこもと》三|郎《ろう》の二氏に宛《あ》てた添書《てんしよ》であった。結城は何とも云わずにがさがさカバンを片 付《かたづ》け始めた。折柄|晩餐《ばんさん》の膳《ぜん》が出た、結城は茶を掛けてまたがさがさと二三杯|掻《か》き込《こ》んで十円 |紙幣《しへい》一枚を女中に投出し、 『おいこれは茶代《ちやだい》』と女中に遣《や》り『宿銭《やどせん》は杉山《すぎやま》から取れ、左様《さよう》なら……』 と云うて庵主《あんしゆ》を顧み、にーっと笑うてカバンを提《さ》げてどんどん出て行った。それから結城《ゆうき》か らは三ヵ月ばかりどこにいると云う手紙一本も来なかった。庵主《あんしゆ》は折々結城はどうしたかと 心配していたら、ふいと一本の電報《でんぽう》が来た。曰く、  うめかて  きよか            けんり                      かね  たんこうしやつく           かねた 『埋立の許可を取ってその権利を三千円で売った。その金で炭坑借区六つ取った。金足らぬ 千円送れ』  あんーゆ  こ とう  もと  うで              きよう きつ          ゆうき   す ばや  ことり す       わた  庵、王は孤灯の下に腕を組んでただ一驚を喫した。その結城の素早き事木鼠の枝を亘るよう である。庵主《あんしゆ》は自分《じぶん》の遅鈍《ちどん》を顧みて、自《みず》からまた一|驚《きよう》の外《ほか》ないのである。さて千円の送金は どう-したものであろうか、当時|庵主《あんしゆ》は料理屋《りようりや》、待合《まちあい》、宿屋《やどや》を喰《く》い倒《た》おしその上お手伝いや箒 かん  かね    かり         ばんのう               し かた  し よう               ばんさくつ     か 間の金まで借るばかりを万能としている時故、仕方も仕様もないのである、万策尽きて彼の 小樽《ほうおたる》の豪士高野源之助氏《ごうしこうのげんのすけし》に左《さ》の電報を打った。 『結城虎《ゆうきとら》五|郎《ろう》へ金千円、僕の送金《そうきん》として渡してくれ、御願申す』  三|日目《かめ》に結城《ゆうき》より返電《へんでん》が来た。 『金《かね》受取った、五六日|中出立《うちしゆつたつ》して東京《とうきよう》に行く』  結城《ゆうき》は東京に来た、素《もと》より寡言《かごん》な男であるから、簡単《かんたん》に仕事経過の報告をした、四五日す るとヒ野発として突然《とつぜん》一本の電報が来た。 『急用で今北海道へ行く』 とそれから結城《ゆうき》よりは杏《よう》として何の消息《しようそく》もない、中《うち》にその年明治三十九年の十月二十八日と        あんしゆ  おおおかいくぞうし   こうようかん    ぎ だ ゆうてんぐ   しんけんしようぶ  す     ひ なった。この日庵主は大岡育造氏と紅葉館で、義太夫天狗の真剣勝負を為べき日であったの   つるざわなかすけ  し てい  よ     さか    ぎ だ ゆう  けいこ              が ぜん      ふくつう        い で、鶴沢仲助の師弟を呼んで盛んに義太夫の稽古をしていたら、俄然として腹痛を起し、居 ても立《た》っても溜《たま》らぬ。そこで万事《ばんじ》を中止して麻布森本町《あざぶもりもとちよう》の自宅に帰り、懇意《こんい》の長与称吉博士《ながよしようきちはかせ》 を呼んだら、 『強烈《きようれつ》な盲腸炎《もうちようえん》で、熱は四十|度脈性宜《どみやくせいよろ》しからず、直《ただち》に外《ほか》の名医の立会を要す』 との事である、それからさらに懇意《こんい》な赤《せき》十|字病院長《じぴよういんちよう》の橋本綱常男《はしもとつなつねだん》を招いた。また友人《ゆうじん》共より は大学の青山胤通博士《あおやまたねみちはかせ》を呼《よ》んで、さて長与氏《ながよし》と三人立会の結果、橋本氏と青山氏と枕頭《まくらもと》で大 喧嘩《おおげんか》を始めた。青山氏は曰く、 『強烈《きようれつ》な堆糞性盲腸炎《たいふんせいもうちようえん》にて、化膿《かのう》の恐れがある故、直に腹部切開《ふくぷせつかい》の必要がある』 と。橋本氏は曰く、 『臨床上《りんしよう》どこに化膿《かのう》の疑いがあるか、予は今切開《いませつかい》の時機《じき》に非《あら》ずと思う』 『切開《せつかい》の時機《じき》は何《いず》れの時を適当とするか、予は盲腸炎《もうちようえん》と診断《しんだん》の確定《かくてい》したる時は、何時《いつ》にても |切開《せつかい》の時機《じき》なりと信ずるのである』  こんな事で摺《す》った揉《も》んだの喧嘩《けんか》をするのである。庵主《あんしゆ》の苦痛《くつう》と云うたら、灼熱《しやくねつ》の鉄丸《てつがん》を腹 部《ふくぶ》に入れている程|強烈《きようれつ》である。それで何《いず》れも懇意《こんい》な青山橋本の中に這入《はい》って喧嘩《けんか》の仲裁《ちゆうさい》をす るのである。長与氏《ながよし》は仲《なか》に在《あ》ってまごまごしていたが、耐《た》えられずしてこそこそ帰ってしも うた。次で青山氏はぷんぷんと怒《おこ》って、 『杉山君万止《すざやまくんばんや》むを得《え》ぬ……君《きみ》は名医橋本君《めいいはしもとくん》の治療を受けて死生《しせい》を決したまえ。僕は君の全快《ぜんかい》 を満腹《まんぷく》に希望する』 と云《い》うてぷいと立《た》って帰ってしもうた、橋本老先生は曰く、 『杉山君僕は君に僕を押売《おしう》りはせぬぞえ、青山の怒るのも僕の主張も、各医術上の親切《しんせつ》な議《ぎ》 ろん       しゆしや  きみ  ずいい        かいふく                               でんわ か 論である、取捨は君の随意である。開腹を希望せらるるなら、僕が今直に青山に電話掛ける よ』 と云わるるから、庵主《あんしゆ》は曰く、  わたくし         ぎ ろん  しゆしや                                  あなた   けんか     びようちゆう 『私は医術上の議論を取捨するだけの知識を持ちませぬが、青山と貴方の喧嘩は、病中な がら非常に面白く感じていましたが、青山が私のこの大患《たいかん》を自分の議論《ぎろん》の結末も付けずに、 自分で怒って帰ってしまいました、一|事《じ》に付ては医術に不親切《ふしんせつ》なと同時に私にも不親切であ   、   おこ    かつて あ        せきにんも  ぜんあく ると思います。怒るのは青山の勝手で有りますが、病気に対しては責任を持って善悪とも、 この友人のこの病気は拙者《せつしや》が引受《ひきう》けて責任《せきにん》を持《も》つからと云《い》うて、なぜ私を連《つ》れて行《い》ってくれ ないでしょう。私は死んでも宜《よ》いですから、今では貴方《あなた》にお頼み致します、十分に手《て》を尽《つく》し て殺して戴《いただ》きたい、少しも遺憾《いかん》は有《あ》りませぬ』 と云、つたら、神経質《しんけいしつ》の橋本氏は涙を流して、 『充分《じゆろぷん》に遣《や》るから任《まか》せたまえ』     ただち せき  じぴよういん             たんか                      つきそ と云うて、直に赤+字病院に電話を掛けて担架を呼んで、自分はその横に付添うて入院せし 万死に一生を得たる幸運児 められた。それから三|日目《かめ》に、難波一氏岩井禎造氏《なんばはじめしいわいていぞうし》、その他橋本氏《たはしもとし》と立会の上、何でも開腹《かいふく》 しておくが安心《あんしん》と決定《けつてい》したかして、明朝+時に開腹《かいふく》と確定《かくてい》したのである。その日《ひ》の午後四時 頃|庵主《あんしゆ》が寝《ね》ながら、看護婦《かんごふ》の手《て》で排便《はいべん》したところが、その看護婦《かんごふ》が何を驚いたか、ばたばた ばたばたと庵主《あんしゆ》の病室から駈《か》け出した。間《ま》もなく白い衣物《きもの》を着た医員が五六人、またばたば たばたばたと駈込《かけこ》んで来て騒動《そうどう》を始めた。間もなく橋本院長《はしもといんちよう》は病気で寝ていたのに、寝巻《ねまき》の まま馬車《ばしや》で駈付《かけつ》けた。それは医員から、 『杉山《すぎやま》さんの盲腸《もうちよう》は化膿《かのう》していて、只今|穿孔《せんこう》しました』 との電話《でんわ》にて、橋本院長は青山氏と喧嘩《けんか》の次第《しだい》もあり間近《まぢか》く同業の岩佐博士《いわさはかせ》の子息が盲腸炎 穿孔《もうちようえんせんこう》で直《す》ぐに腹膜炎《ふくまくえん》を起し、虚空《こくう》を撰《つか》んで四十時間ばかりで死亡せられ、徳大寺侍従長《とくだいじじじゆうちよう》の子 息も同様であったのを見ておられるから、かくは狼狽《ろうぱい》して駈付《かけつ》けてくれられたとの事である。 |来診《らいしん》して見られたら、已《すで》に大化膿《だいかのう》していた事が分ったので、庵主《あんしゆ》の耳に口を付けて、 『杉山君僕は医者《いしや》は下手《へた》だよ、これだけの化膿《かのう》が分らなかった。しかし君は万死《ぱんし》に一|生《しよう》を得《え》 られたのは腸管《ちようかん》の中に穿孔《せんこう》したから、今後|安静《あんせい》の養生《ようじよう》さえしておらるれば、完全に平癒《へいゆ》する から』 との事である。庵主《あんしゆ》は咄《はなし》を聞いて自分ながら悪運《あくうん》の強き事に驚《おどろ》いた。それから余病《よびよう》も併発《へいはつ》し て危険《きけん》にも瀕《ひん》したが、二ヵ月ばかりの後《のち》全く平癒《へいゆ》したのである。さあ命拾《いのちぴろ》いをしたから跡《あと》は |破《やぷ》れかぶれである。かねて思うていた日本経済界《にほんけいざいかい》の大革命《だいかくめい》、外資輸入《がいしゆにゆう》の計画を以て、身体疲 労《しんたいひろう》のまま米国《べいこく》に渡航《とこう》した。農商務次官藤田《のうしようむじかんふじた》四|郎《ろう》、帝国大学教授箕作佳吉《ていこくだいがくきようじゆみつくりかきち》の両氏はその時の同 行者《どうこうしや》であった。この間結城虎《かんゆうきとら》五|郎《ろう》は何をしていたろうか、それは次回に書く事にする。 六十 |庵主《あんしゆ》の口添《くちぞ》えが一|挙《さよ》六十|万円《まんえん》   巨利を得て巨債を償い、旧恩を思うて墓前に謝す  庵主《あんしゆ》が万死《ばんし》に一生を得たる病体を提《ひつさ》げて、太平洋《たいへいよう》五千|浬《カイリ》の航海《こうかい》を企て、米国《べいこく》に押渡《おしわた》り、言 葉も分らないままに、世にも面白き事共を為《な》さんと、半生住馴《はんせいすみな》れし東《あずま》の都《みやこ》を後にして、波濤《はとう》 の上の人と成《な》った頃、結城《ゆうき》は何事《なにごと》を為《し》ていたであろうか。彼はすでに石炭の宝庫《ほうこ》とまで云わ れた北海道《ほつかいどう》で、石炭の坑区を数ヵ所占有したが、それを転換洗煉《てんかんせんれん》して、優秀なる坑区《こうく》二三ヵ 所となし、それを確実《かくじつ》に所有したのである。かかる迅速《じんそく》の働を為《な》し得たのは、往年頭山氏等《おうねんとうやましら》 と九州|筑豊《ちくほう》の炭田《たんでん》を開発して、玄洋社《げんようしや》の基本を建《た》てた時に得《え》た、尠からざる経験《けいけん》がこの北方 未開《ほつぽうみかい》の地に馳駆《ちく》するのであるから、かくは俊隼機敏《しゆんしゆんきぴん》の働きを成《な》さしめたのであったと思う。 それとてもこれに伴《ともな》う巨額《きよがく》の資本を、いかにして調達《ちようたつ》したかが第一の疑問である。それには 彼が寡言《かげん》にして、人を魅《み》する的の素質《そしつ》を有し、事に当り堅実《けんじつ》にして、他の信《しん》を負荷《ふか》するにた るだけの素行《そこう》を有していた為めに、逸早《いちはや》くも世《よ》に、敏腕家《ぴんわんか》の聞《きこ》えある、飯田延太郎氏《いいだのぷたろうし》や、三 |井《い》一|派《ぱ》の人々と結託《けつたく》する事が出来たのである。然るにかかる有望《ゆうぽう》なる大炭田《だいたんでん》を獲得《かくとく》したる結 城《ゆうき》は、俄然《がぜん》として霊鷲《れいしゆう》の古林《こりん》に眠《ねむ》るが如く、蛟竜《こうりゆう》の深淵《しんえん》に潜《ひそ》むが如く、静まり返りて音もな く終《つい》にはその居所《いどころ》さえも分らぬように迹《あと》を潜《ひそ》めた。これが結城《ゆうき》でなければ出来ぬ芸当《げいとう》である。  庵主《あんしゆ》の多くの知人は、気力才幹《きりよくさいかん》も結城《ゆうき》に勝り、学識経験《がくしさけいけん》も結城《ゆうき》を凌駕《りようが》する程の者も沢山あ るが、それが大部分|蹉鉄失墜《さてつしつつい》の厄《やく》に遭《お》うて、各地の辺隅《へんぐう》に坤吟《しんぎん》するのは、皆押《みなおし》なべて延《の》べつ |幕《まく》なしに、その有するだけの気力才幹《きりよくさいかん》を、徒費消耗《とひしようもう》し、蓄うる所の学識経験《がくしきけいけん》を、濫用連発《らんようれんぱつ》し て、人間栄枯《にんげんえいこ》の妙界《みようかい》に処《しよ》するの真諦《しんてい》を解せず、ぎりぎり舞いの飛《と》んだり刎《ま》ねたりに目を廻し て、その日その日に幻影《げんえい》する、喜憂《きゆう》の妄想《もうそう》に昏倒《こんとう》して暮している。所謂《いわゆる》息の通《かよ》う死骸《しがい》同然の 者ばかりである。お恥《はず》かしいが、後《の》ちに醒《さ》めた目から見れば、庵主《あんしゆ》もその一人であったので ある。そこになると、繕堺は莉讎この煎の隷瞬だけは・普通に携群していた男であった。さ て庵主《あんしゆ》は例の幕なしのぎりぎり舞《まい》を、耳の聞えぬ、口の利けぬ米国《べいこく》で実演《じつえん》した結果、何か相 当の夢の様な、妄想《もうそう》を捕《とら》えて、日本に帰って来たのは一ヵ年ばかり後《のち》の事であった。その夢  たい沽ん じゆうおうてつどう は       さいにゆうあ    にほん がいし ゆにゅう      芒 は台湾に縦横の鉄道を張って一億円位の歳入を挙げたい、日本に外資を輸入して、全国を生 |産工業《さんこうぎよう》の衢《ちまた》と為《な》してみたい。この夢の重さと云うたら、六千|噸《とん》一万馬力のエンプレス・オブ・ チャイナ号も沈《しず》まんばかりの船足《ふなあし》で、横浜《よこはま》に着いたのであった。           あんしゆ  からだ     か           まい ヰた             だいぷ かいふく    たいりよう  もらろんこの時は、庵主の身体も、彼のぐるぐる舞の為めに、健康も大分回復し、体量も   いくかんめ                            つうさん        そうとんすう            あ       ちが 二十幾貫目となっていたから、希望の夢と通算すれば、総噸数も多大な物で有ったに違いな いのである。日本に着いたその翌日から、また例のぎりぎり舞《まい》を初めた。庵主《あんしゆ》は四五|度《たぴ》も外 遊《がいゆう》をしたが、その出発に際しては、一度も人に通知せぬ、その帰朝《きちよう》に際しても、また人に通 知せぬのである、故にその出発前の忙《いそ》がしさも、帰朝砌《きちようみぎ》りの忙《いそが》しさも同じ事である。ただぐ るぐる舞《まい》の回転数に、少し増減《ぞうげん》がある位である。帰朝《きちよう》の翌晩早くから寝《しん》に就《つ》いて、やはり船 室に横臥《おうが》しているような心持ちで、ぐうぐう遣《や》って引続きの面白い夢の継続を見ているとこ    ま`らもと                                たいひようひまん ろに、枕元に来て『おいおい』と起す者がある、ふいと頭を上げて見ると大兵肥満の大男で ある、それがすっかり念慮《ねんりよ》の中から忘却《ぼうきやく》していた結城《ゆうき》であった、曰く、 『体はもう大丈夫か』  庵主《あんしゆ》は寝惚《ねぽ》け顔で起上って、嬉《うれ》しさの余《あま》りに直ぐ次の間の応接《おうせつ》の椅子《いす》に掛った。 『うむこの通じゃ一体|今迄何処《いままでどこ》にいたか』 『其処此処《そこここ》に行《い》って遊《あそ》んでいた、仲々面白かった、君が帰るのを待っていた、俺は君が留守 中に、北海道《ほつかいどう》で好《よ》き炭山《たんざん》の借区《しやつく》を二つ三つ取って、世に炭山熱《たんざんねつ》の出るまで、遊《あそ》んで寝《ね》ている つもりでいたがもう福岡《ふくおか》を出て足掛《あしか》け四年にもなるから、あの炭山《たんざん》を売飛ばさねば、あの逆 捻《ぎやくねじ》に捻《ね》じた郷里の借金取が、もう待たぬ事になったから、日夜売《にちやう》る事《こと》にばかり苦心《くしん》している が、今は万策尽《ばんさくつ》きたところじゃ、何とか急に金にする工夫《くふう》はないか』 『うむそうそう、あの低い所を埋めて、返す埋土《うめつち》の借金借区《しやつきんしやつく》か、俺は忘れていた、君は一体 ぜんしん                                                                 ていでん 全身にエレキを掛けて、ぐるぐる廻す時は見ている目まで廻るように働くが、時々停電する から困る、それが君の欠点《けつてん》じゃ、俺は決して停電《ていでん》せぬように廻す事は廻すが、それが多く空 車《からぐるま》の空廻《からまわ》しで、割合に能率《のうりつ》の事を忘れているから、それが俺の欠点《けつてん》と思うている、しかし不 思議《ふしぎ》にも君と俺が計《はか》らず同業者に成《な》ったとは面白いね』 『何が同業者じゃ』 『借金《しやつきん》と云う商売が同業であろう、それから借区《しやつく》と云う商売が同業であろう、またそれを金《かね》 にしたいと奔走《ほんそう》しているのが同業であろう』 『借金《しやつきん》は同業かも知れぬが、君が借区《しやつく》を持ってそれを売る仕事をしているような事はないで ないか』 『何有《なにあ》るさ、俺は外国の金を借りて、日本全部を借区《しやつく》にして、それで金を借りて金にしよう としているところじゃから同じ事さ、ただ少し大きいと小さいだけだ、君の借区《しやつく》は、俺の借 区の中のまたその借区で、比較すれば炭塊《たんかい》一こげか二こげであるから、売ろうと思えば直《すぐ》に 売れるさ』 『君は大法螺《おおぽら》を吹いて、俺の仕事の方を戯談《じようだん》にするから困る、真面目《まじめ》に売る工夫をしてくれ よ』 『何に決して戯談《じようだん》じゃない。その位の仕事は訳ないよ。大きい借区《しやつく》は大きい事業家に売らね ば売れぬ、小さい借区は小さい小商人《こあきんど》に売らねば売れぬ物である。それで俺は米国の大きい 事業家に売りに行ったのじゃ』 『君はそんな事を云うけれ共、俺の借区《しゃっく》もかれこれ二百万坪位はあるから小商人《こあきんど》ではなかな か買えぬよ』     しようしやつく                         い    ぴし  ふるかわ 『それが小借区と云うのじゃ、そんな小借区を買う者は日本では、三井とか三菱とか古河と か云う小商人《こあきんど》がいるから、それに売ったら宜《い》いでないか』 『それになかなか手を入れて運動しているけれども、酢《す》だの牛蒡《ごぽう》だのと云うて容易《ようい》に買《か》わぬ よ』 『それは売《う》りようが悪《わる》いから買《か》わぬのじゃ、そんな奴《やつ》には買うようにして売らねば、殴《なぐ》られ ても殺されても、元《もと》が小商人《こあきんど》と云う者であるから買わぬ物じゃ、元来|小商人《こあきんど》と云う者は、寛《かん》 えいつうほう  い こ       もん  ぴたせん    て   ひら          うらおもて               なが 永通宝と鋳込んだ一文の鐚銭を、手の掌に乗せて、裏表をひっくり返して眺めて暮らしてい るような者であるからその鐚銭《びたせん》の地金《じがね》が、もし純金《じゆんきん》で出来ていると云う事を発見したらば、 その時はまた殴《な》ぐられても殺されても買うものである、なぜ君程《きみほど》の男が、鐚銭《びたせん》を純金で鋳立《いた》 てて、その小商人《こあきんど》に見せぬのじゃ、君《きみ》は貝のように無口《むくち》な男であるから、なるたけ説明入ら ずで売る工夫《くふう》をせねば、百年|経《た》っても売れる気遣《きづか》いないのじゃ』 『君《きみ》と云い合えば俺《おれ》が負けるから、何でも宜《い》いから売る工夫を仕てくれ』 『うむ好《よ》し、君が借金払《しやつきんばら》いは俺《おれ》も責任《せきにん》があるから工夫してやろう』 『それでは頼むぞ、それこれが借区券《しやつくけん》、これが図面《ずめん》、これが炭《たん》の見本、これが作業の収支計 算書、これが噸当《とんあた》りの原価《げんか》、これが各地に於ける石炭の市価の書付《かきつ》けである』 と結城《ゆうき》は一々|説明《せつめい》付きで庵主《あんしゆ》に渡した、庵主曰《あんしゆいわ》く、 『その炭《たん》の分析表《ぷんせきひよう》は無《な》いか』 『それはまだ試験してないけれども、たいがい空知《そらち》、幾春別《いくしゆんべつ》の上等炭の上位にあると思うて おれば間違《まちがい》はないよ』 『それがいかぬ、君《きみ》は何より先きに、分析表《ぶんせきひよう》を一番に艀《こしら》えねば、鐚銭《ぴたせん》が純金《じゆんきん》にならぬよ。好《よ》 し好しそれは俺が拵《こし り》えてやる』 と云うて別れたのは丁度その夜《よ》の十二時過で、忘れもせぬ結城《ゆうき》が長い間破れ応接《おうせつ》の破れ椅子《いす》 に掛《かか》っていて、立上るなりにその椅子《いす》の破《やぷ》れ目《め》に睾丸を挟《はさ》んで、 『ああ痛《いた》い』 と叫んだ。庵主《あんしゆ》は飛付《とぴつ》いてその椅子《いす》を押えてやって、 『この椅子は、時々|客人《きやくじん》の睾丸に喰い付いて、悲鳴《ひめい》を挙《あ》げさせるよ。しかし君は睾丸に喰い 付かれる位だからきっと金持《かねもち》に成《な》るに違いないぞ』 『まあだ持《も》ちもせぬ内《うち》から喰《く》い付かれて溜《たま》るものか。君《きみ》この椅子は易《か》えたらどうじゃ』 『それが俺《おれ》が貧乏《ぴんぽう》じゃから、十五年も前からその椅子《いす》じゃ、その椅子も荒尾精《あらおせい》が仙台屋敷《せんだいやしき》を 引越づ時にくれた椅子じゃ、あの荒尾《あらお》も貧乏《ぴんぼう》であったから、荒尾《あらお》の所でも相当に客人《さやくじん》の睾丸 に喰《く》い付《つ》くのにこの椅子も年期を入れていたのであろうよ』 と云うた。その後|結城《ゆうき》は丸曲《まるま》げ木《き》の椅子《いす》五|脚《きやく》を持たせてくれた。庵主《あんしゆ》はそれからまた結城の 事が頭に往来《おうらい》しだして、早速書付けを添《そ》えて、庵主《あんしゆ》の友人|農商務省地質調査所《のうしようむしようちしつちようさじよ》の巨智部忠承 博士《こちべちゆうしようはかせ》の所に、この結城の石炭を持たせて遣《や》ったら、間《ま》もなく精細《せいさい》なる分析表《ぶんせきひよう》に、その炭《たん》の普 通炭よりも抜群《ばつぐん》の良質であると云う証明書《しようめいしよ》を交付《こうふ》しその上|結城所有《ゆうさしよゆう》の炭坑《たんこう》、北海道留萌《ほつかいどうるもえ》とか 云う所は、博士がかつて調査した事があるので、その報告書の写《うつし》をも添《そ》えて送りてくれる程 の親切《しんせつ》な人であった。そこで庵主《あんしゆ》はその時までは逓信省《ていしんしよう》の所属《しよぞく》であった鉄道《てつどう》の掛り官に手紙一 を遣って鉄道で買上げる石炭の分析格付《ぶんせきかくつ》け書《しよ》を写《うつ》して貰い、それと引合せて見たら、著《いちじ》るし く結城の石炭の方が優等であったので、庵主《あんしゆ》も口を添《そ》えて鉄道係りから左の意味の書付けを 貰う事にした。その書付《かきつけ》に曰く、 『本分析表《ほんぶんせきひよう》に準《じゆん》ずる、該礦所《がいこうしよ》より出炭《しゆつたん》する石炭を、政府指定《せいふしてい》の場所にまで輸送《ゆそう》し来《きた》らば○○ 円の価格《かかく》にて何時《いつ》にても買上《かいあぐ》べし云《うんぬん》々』 の趣意《しゆい》であったと思う、そこで庵主《あんしゆ》は早速|結城《ゆうき》に云うた。 『さあ結城《ゆうき》、鐚銭《ぴたせん》が純金《じゆんきん》になったぞ、これだけの道具を揃《そろ》えて、この価格から採炭費《さいたんひ》と、運 賃《うんちん》と諸費用《しよひよう》とを差引《さしひ》いて、その政府の買上げ値段との差が即ち利益である事に確定《かピ てい》さえして おれば、例の小商人《こあきんど》共はきっとこの炭山《たんざん》を買《か》うに相違《そうい》ないと思う。元来日本の小商人《こあきんど》と云う 者は、政府《せいふ》の木葉役人《こつぱやくにん》共の書いた物が、純金以上に非常に嗜《す》きな奴共《やつども》ばかりである故、これ から君等《きみら》が勝手《かつて》に好きの値段《ねだん》でこの山《やま》を売るが宜《よ》い』 と云うた。その後庵主《ごあんしゆ》はまた小《こ》一年ばかりも東西に奔走《ほんそう》して結城《ゆうき》の事を忘れ旅行から久振《ひさしぷ》り に帰社してみると、立派な純銀揃《じゆんぎんぞろい》の煎茶道具《せんちやどうぐ》が箱入《はこいれ》になって一|揃来《そろい》ていた。見ると結城虎《ゆうきとムォ》 五|郎《ろう》、飯田延太郎《いいだのぶたろう》と二つの名刺《めいし》が付いて、御礼《おんれい》と書いてある。はてどうしたのであろうと思 うていると、その中から手紙が出て来た。曰く、 『色《いろいろ》々|世話《せわ》になった、北海道《ほつかいどう》の炭山《たんざん》が三|井《い》に売れて何《なん》でも、六十万円とかに成《な》ったから一寸 礼に来た』 と云う様な文意《ぶんい》であったようである。その時の庵主《あんしゆ》の悦《よろこ》びはまた一通りでなかった。 『あああ流石《さすが》はやはり結城《ゆうき》じゃ。立派に尻の括《くくり》が付いた。左《さ》すればやはり尻仕末《しりじまつ》だけは俺よ りか結城《ゆうき》の方が甘《うま》いわい』 と思わず独語《どくご》したのであった。その後もまた永い事面会の機会もなかったが、庵主が全国到 る所、思いも寄《よ》らぬ所で、思いも寄らぬ人から挨拶《あいさつ》を受ける、それは曰く、  き か お ともだち  ゆうき                  とりかえきん  へんさい          ごほうしよう    ちようだい 『貴下御友達の結城さんから、かねてお取換金の返済と、十分の御報償とを頂戴しましたの で、誠《まこと》に感謝《かんしや》しております。お面会の時は宜敷《よろしく》』 との挨拶《あいさつ》である。その庵主《あんしゆ》の悦《よろこ》びはまた幾何《いくばく》であろう。 『あーあやはり結城《ゆうき》は俺《おれ》より尻《しり》の括《くくり》が甘《うま》いわい』 と独語《どくご》した。それが其日庵主《そのひあんしゆ》は、叔父《おじ》から提灯箱《ちようちんばこ》の中の公債《こうさい》七百円を借りて、今日まで返さ      まつてい  こまお           ていとう              か めい  そうぞく                 か  はやし れぬ為めに末弟の駒生はとうとう抵当になって、その家名を相続させたような始末の彼の林 け   こうさい           へんさい             あんしゆ           お じ   ぽ ぜん  ぬか 家の公債も全部立派に返済していたので、庵主はある日その叔父の墓前に額ずいて、  お じ さま             れいいま        わたくし ごんじよう                  せきじつおんしやく おんきん  ご か 『叔父様よ、なお地下に霊在さば、今私の言上をお聞き下さいませ、昔日恩借の恩金の御家 |禄《ろく》七百円は、今回義友結城虎《こんかいぎゆうゆうきとら》五|郎《ろう》が、総てその返済《へんさい》を致しくれました。御臨終《ごりんじゆう》まで御心配の 様でございましたから、どうかお心をお休み下さいませ。御遺族《ごいぞく》の事は弟駒生《おとうとこまお》が、微力《ぴりよく》な がらお受持申て、保育を致しております。また私《わたくし》も及ばずながら監視保護《かんしほご》を怠《おこ》たってはいま せぬ。したがって私共《わたくしども》の事業も、御蔭《おかげ》にて朝鮮《ちようせん》の事にも深く歩武《ほぷ》を進むる事が出来まして今 にち        ぬ         な             シベリア たい沽んなん 日では他より容易に抜く事が出来ぬまでに成っております。また一方支那西比利亜、台湾南 洋《こんよう》、終《つい》には米国《べいこく》にまで、手を延《の》べて、御国《みくに》の福利を計画致す事の出来ますよう相成《あいな》りました のは、偏《ひと》えに叔父様《おじさま》が昔日《せきじつ》の御助温《ごじよおん》に胚胎《はいたい》致す事と、衷心《ちゆうしん》より喜んでおります事を慥《たし》かに御《お》 聞取《きさとり》を願上ます。今|御墓前《ごぽぜん》に額《ぬか》ずいてこの積恩《せきおん》を拝謝《はいしや》し、これより捧《ささ》げ奉《たてまつ》る一|片《べん》の法要《ほうよう》は何 卒万僧《なにとぞぱんそう》の供養《くよう》とも思召《おぼしめし》て御饗《おう》け下さいますように』 と額《ひたい》を土地《つち》に埋《うず》めて長く謝恩《しやおん》の誠意《せいい》を告《つ》げたのであった。この法要《ほうよう》を終って庵主《あんしゆ》はまた嘆息《たんそく》 を発した。 『あーあ結城《ゆうき》のお蔭で、一生出来まいと思うていた叔父《おじ》の法要《ほうよう》が出来た。ただこの上は弟|駒 生《こまお》が身《み》を立《た》て道《みち》を行《おこな》い、家名継続《かめいけいぞく》の道《みち》を子孫《しそん》に伝えてくれればいいが、これには庵《おれ》も決して |怠《おこた》らず注意せねばならぬわい』 と繰返《くりかえ》して思うたのである。  さてそれから結城《ゆうき》は、彼日露戦役《かのにちろせんえき》に於ける軍夫《ぐんぷ》一件の、個人的|負債等《ふさいとう》も、庵主《あんしゆ》の門外漢《もんがいかん》に て記憶《きおく》しおる方面を、寄《よ》り寄りに問合せ見《み》ると残《のこ》る方《かた》なく片付《かたづ》けていたと思われたのである。 彼はその為め、一ヵ月《げつ》ばかり宛《ずつ》二回も郷里に帰りて、東西《とうざい》その事務《じむ》に鞅掌《おうしよう》していたらしい。 その後|庵主《あんしゆ》は、折返《おりかえ》し折返し米国《べいこく》に渡航《とこう》したので、結城《ゆうき》とは交通も出来なかったが、彼は何 時《いつ》の間《ま》にか、牛込区《うしごめく》の高台《たかだい》に邸宅《ていたく》を構えて、立派な東京の実業家に立並ぶ紳士《しんし》と成《な》っていた のである。庵主《あんしゆ》は竹馬《ちくば》の友を初め、その好友四方《こうゆうよも》に多く、その数幾《すういく》千百を以て数《かぞ》うれども、 結城の如く中年《ちゆうねん》より、頭山氏《とうやまし》の門下《もんか》に入《はい》って、その志《こころざし》に随い、田舎新聞社《いなかしんぷんしや》の会計位の任《にん》に当 りて、それよりまたぐっと後《あと》に、東京人《とうきようじん》が初めて九|州福岡《しゆうふくおか》に旅行をしていったと同様の庵主《あんしゆ》 と、初めて面会をして、ただの数語《すうご》を交《か》わしたばかりで、百年の交《まじわ》りを起した。この結城《ゆうき》が かくのごとく機変縦横限《きへんじゆうおうかぎ》りなき傑物《けつぷつ》であって、僅《わず》かの短時日に縦横した事蹟《じせき》でさえ、今筆《いまふで》の |立《た》て途《ど》にも困る程の経綸家《けいりんか》であろうとは、夢《ゆめゆめ》々|庵主《あんしゆ》は思わなかったのである。 六十一 |寡言黙行《かげんもつこう》の志士《しし》   病者死に臨んで剣刃を磨し、 牝狸人を戒めて古諺を遺す  庵主《あんしゆ》元来が内外|多忙《たぽう》の男である。なぜ左様《さよう》に忙がしい事務があるかと云えば、ただ内外人 に無暗《むやみ》に知人が多いところに、無職無業で不思議にも螯轂《れんこく》の下《もと》、天下《てんか》のお膝元《ひざもと》に四十年間|無 意義《むいざ》にて暮してきた為め、日本国中の人の集合する首府《しゆふ》であるから、知る人が弥《いや》が上《うえ》に多く なるのであった。それが種《しゆじゆ》々|様《さまざま》々の事を持込《もちこ》んで来て、庵主《あんしゆ》を忙《いそ》がしがらせるのである。そ こで庵主はある時|規則《きそく》を設《もう》けた。  第一、商事会社の件には一切関係せぬ事  第二、鉱山の件には一切関係せぬ事  第三、議員選挙の件には一切関係せぬ事  第四、がらくた新聞は一切読まぬ事  これだけ毎日の事務を切捨《きりす》てて、なるたけ東京におらぬ工夫《くふう》をして、郷里《きようり》の福岡《ふくおか》に三百年 来|閉鎖《へいさ》せられていた築港事業《ちつこうじぎよう》を、開拓《かいたく》して遣《や》ろうと思い立った事が、丁度、大正元年、即ち |庵主《あんしゆ》が腸《ちよう》ネンテンの大患《たいかん》を遁《のが》れた。先帝陛下《せんていへいか》の崩御《ほうざよ》になって、故桂公爵《こかつらこうしやく》が無分別にも政党を |持《こしら》えると騒ぎ出した。この時にそれを機会の記念として、心機《しんき》を一|転《てん》したのであった。故に |庵主《あんしゆ》はその当時、一ヵ月の半分は筑前《ちくぜん》の博多《はかた》で暮して、その半《なかば》を東京《とうきよう》で事務を処理《しより》したので ある。故に刎頸茣逆《ふんけいばくぎやく》の友たる、結城《ゆうき》などとも、殆んど面会するの機会が少なく、折に触れて 結城は、築地《つきじ》の梁山伯《りようざんぱく》を訪問《ほうもん》してくれた事はあるが、庵主《あんしゆ》は不幸にして一度も結城の居宅を 訪問する事が出来なかった。丁度大正十年の八月の末頃であったかと思う。結城より庵主《あんしゆ》に |電話《でんわ》が掛《かか》って来た。曰く、 『少し病気で寝《ね》ているから、一寸自宅まで来てくれよ』 と庵主《あんしゆ》も何がな心に掛《かか》ったから、用事を繰《く》り合《あわ》せて、牛込《うしごめ》の結城《ゆうき》の宅《たく》を音信《おとず》れたが流石《さすが》結城 は、身始末《みじまつ》の好《い》い男だけに、その居宅《きよたく》も長屋門《ながやもん》になっていて、家《うち》も檜造《ひのきづく》りで、庭園までも相 当に行届《ゆきとど》いている、我々|浪人仲間《ろうにんなかま》には、これまでに構《かま》え込《こ》んだ者は、未だ一人もないと思う た。二階の寝室《しんしつ》に通ってみると、彼は見晴《みはら》しの好《よ》き、二方|縁《えん》の広い座敷《ざしき》に寝《ね》ているから、容 子《ようす》を見ると、大分病《だいぷや》み疲《つか》れている。直《ただち》に容体《ようたい》を聞くと、 『一二週間前より胃腸《いちよう》を傷《そこの》うて食慾がない、大学の稲田博士《いなだはかせ》に掛っておれ共、はかばかしく ない』 と、それから庵主《あんしゆ》は杉山博士流の診察《しんさつ》を始めた。 『脈《みやぐ》も悪るくはないが何だか気の為《せい》か、底に不安が感ぜらるる、眼晴《がんせい》には一種の弱相《じゃくそう》を現わ して、膚色《ふしよく》に底暗《そこぐら》きある物を漂《ただよ》わしている』  何か用があって呼んだのかと問うたら、 『いや何《なに》も用は無いが一|遍会《べんお》うてみたかったからである』 とそれから様々の雑談《ざつだん》をしている中《うち》、妻君《さいくん》に命じて地袋《じぷくろ》の中から刀《かたな》を二三本取出した。曰く、 『この君《きみ》から貰《もろ》うた鞘《さや》に力抜山《ちからやまをぬき》、気蓋世《きよをおおう》』と金蒔絵《きんまきえ》した国広《くにひろ》の刀が錆《さぴ》たようじゃから、綺 麗《きれい》にして貰《もら》いたい。またこの二本は大小揃《だいしようそろい》の肥前忠吉《ひぜんただよし》である。これも錆《さび》た様じゃから綺麗《きれい》に して貰《もしり》いたい』 と云《い》うた、庵主《あんしゆ》も心中にて彼が歳《とし》を数えれば六十三である。それがかかる病気をして、庵主《あんしゆ》 を呼んで、国広《くにひろ》と忠吉《ただよし》との刀《かたな》の錆《さぴ》を落してくれと頼むのは、国《り》と忠《り》との二|魂《たましい》が、死後に錆《さ》び ていては困ると云う心底《しんてい》では有《ある》まいかと、暗黙《あんもく》の中《うち》に思うたのである。庵主《あんしゆ》は快《こころよ》く引受けて、 それを自動車に入れさせて、さて帰りがけに妻君《さいくん》を別間《べつま》に呼んで左《さ》の事を話した。 『結城《ゆうき》が今度の病気は、大患《たいかん》であると思います。十分|遺憾《いかん》なきだけの看護《かんご》が必要と思います』 と、その後度々電話で容体《ようたい》を聞いたら、大分工合《だいぶぐあい》が好《い》いとの返事ばかりであるから、いささ か安心はしていたが、ある日|雪隠《せついん》に一《は》一.旭|入《い》っていたら、書斎《しよさい》の方に結城《ゆうき》の声が聞こえる。 『あの男がなかなかあの大病《たいぴよう》で、外出などの出来るはずはないが、また例の不養生《ふようじよう》で、少し |宜《よ》いと云うので、もう出て来たに違《ちが》いない。早速追返して遣《やろ》う』 と思うて、早々に雪隠《せついん》から出て、書生に、 『結城《ゆうき》が来ているだろう、どこにいる』 と云うと書生はけげんな顔をして、 『いいえ結城《ゆうき》さんはお出《いで》になりませぬ』 と云うから、庵主《あんしゆ》ははっと何かの暗示《あんじ》でも受けたように、丁度外出に用意していた自動車に |飛乗《とぴの》って、とりあえず結城《ゆうき》の家《うち》に行ってみたら、案外にも結城《ゆうき》の容体《ようたい》は好《よ》かった。結城《ゆうき》は大 変喜んで、 『もう日ならず全快すると思う、安心してくれ』 と云うから、庵主《あんしゆ》は一種の喜びに打たれた。それからしばらくいる中《うち》に、気を付けて見てい ると、やはり眼晴《がんせい》に一種|不安《ふあん》の色がある、それから声が何分にも力がない。庵主《あんしゆ》は雑談数刻《ざつだんすうこく》 にして帰掛け、また妻君《さいくん》に、 『やはり容体不穏《ようたいふおん》である』 |旨《むね》を警告《けいこく》して帰って来た。  それから台華社員《たいかしやいん》の広崎栄太郎《ひろさきえいたろう》をして、日《ひび》々|結城《ゆうき》の看護《かんご》と、内外の用事の為めに、詰《つ》め掛《か》 けて行《ゆ》くように命じた。その広崎《ひろさき》の報告もその後、容体不良《ようたいふりよう》の事はなかったが丁度|庵主《あんしゆ》が近 県《きんけん》へ旅行《りよこう》をして不在《ふざい》の中《うち》、俄《にわ》かに容体《ようたい》に劇変《げきへん》を起した。庵主《あんしゆ》が結城の枕辺《まくらべ》に駈け付けた時は、 結城は見るも神《こうごう》々しく、綺麗《きれい》な眠《ねむり》に入《はい》った骸《むくろ》となっていた。家人《かじん》の咄《はなし》を聞けば、 『昨夜中に二回|咯血《かつけつ》して事切《ことぎ》れになった』 との事である、庵主の考えでは強烈《きようれつ》な胃《い》力夕ールが、長く持続した為め、胃の内膜《ないまく》が庭爛《びらん》に |糜爛《ぴらん》を累《かさ》ねて、一種の胃潰瘍《いかいよう》を起して咯血《かつけつ》し、衰弱《すいじやく》に耐え得られずして、永眠《えいみん》した物と思わ れた。庵主《あんしゆ》はその枕辺《まくらべ》に端坐《たんざ》して惆悵《ちゆうちよう》これを久《ひさしゆ》うして、回顧《かいこ》の念《ねん》に耐《た》え得《え》なかったのであ る。心の中にてかく云うた。 『鳴呼結城《ああゆうき》よ、君は予と相交《あいまじ》わる事ここに三十六年、その間君は小にしては、吾人同志《ごじんどうし》の為 め、大にしては、家国民人《かこくみんじん》の為め、その世《よ》に尽《つく》すべき事業の基礎に向って努力を仕続けたの である。君は幼《よう》より孝《こう》の終始《しじゆう》を全《まつと》うして、郷党《きようとう》を導き、財を軽んじ義を重んじて、多くの人 を救うた。君は同志対世《どうしたいせい》の基礎たる、新聞事業を創設《そうせつ》して、その今日《こんにち》あるの素《もと》を開いた。君 は麦藁手工《むぎわらしゆこう》の事業を起して外国貿易に対する郷国子女勤労《きようこくしじよきんろう》の道を開いた。君は九州炭たる土 中産物《どちゆうさんぶつ》の初歩を開発して、これを巴蜀《はしよく》の粟《ぞく》たらしむる、蕭何《しようか》の任《にん》を尽《つく》し以て同志対世《どうしたいせい》の出発 力を助けた。君は朝鮮海漁業《ちようせんかいぎよぎよう》の一番乗りをして、今日隆盛《こんにちりゆうせい》の因を成した。君は志士《しし》を選抜し て、朝鮮魂《ちようせんだましい》なる物を植《う》え込《こ》み、遠く今日|日韓合邦《につかんがつぽう》あるの素地《そち》を成《な》した。君は日露戦役《にちろせんえき》に対 して、常人《じようじん》の追随《ついずい》し能《あた》わざる程の、労苦《ろうく》と犠牲《ぎせい》とを縁の下にて努《つと》め以て、帝国軍人《ていこくぐんじん》の行動を 助けた。君は未開北地《みかいほくち》の炭田を開発してこれを善用《ぜんよう》して自から対世《たいせい》の事業家《じぎようか》たる資格《しかく》を具備《ぐぴ》 した。君はこれよりこそ、始めて鋒錐鋭利《ほうぽうえいり》の国広《くにひろ》を研《と》ぎ、忠吉《ただよし》を磨《みが》いて、志士《しし》最後の志業《しぎよう》に 向って一大団円を画《かく》するの一段に及び不幸病を以て今ま終焉《しゆうえん》を予が面前《めんぜん》に告げた。予が断腸《だんちよう》 の痛痕《つうこん》また何を以て喩《たと》えん、今君が死と共に、予《よ》を電光の如く刺戟《しげき》する物は、予が生《せい》の一事 である。予や君と一生を賭《と》し、一|死《し》を盟《ちかい》し事その幾回なるを知らず、中道にして、君予《きみよ》と改 進《かいしん》の画策《はかりごと》を異にし努力縦横共《どりよくじゆうおう》に一日の寧《やすき》を貪《むさ》ぼらざりしは、最後の旗《はた》を同《おなじゆ》うして、凱歌《がいか》を 同日に唱《とな》えんと欲するに過ぎぬのであった。然るに今や予《よ》一|人《にん》、荒寥狐兎《こうりようこと》の間《あいだ》に残生《ざんせい》してま た何をか為《な》さんとするのである、予《よ》や天性《てんせい》の蠢愚《しゆんぐ》、その生素《せいもと》より犬豚《けんとん》の生《せい》に斉《ひと》しと雖《いえど》も、生《せい》 は正《ま》さに生《せい》である、この生《せい》の意義をして、君を地下に顰笑《ひんしよう》せしめんとするの志業は、予《よ》のもっ とも苦痛《くつう》とするところである。君は已《すで》に寡言黙行《かげんもつこう》を以て生涯《しようがい》を全《まつと》うし、今将《いまま》さに棺《かん》を蓋《おお》わん とす、予已《よすで》に狂言騒行《きようげんそうこう》を以て、徒《いたず》らに一世を馳突《ちとつ》し、生きて世に効なく、死して後ちに名な きを恥《は》ず。今や却って怨《うら》む、君が死の潔《いさざよ》き事を』 と、思わず涙泗《るいし》の潜《さんさん》々たるを禁《きん》じ得《え》なかったのである。それからその晩《ばん》には、頭山氏《とうやまし》、飯田 氏《いいだし》、本城氏《ほんじようし》、染谷氏《そめやし》、その他結城《たゆうき》が生前知交《せいぜんちこう》の士《し》は、彼が遺骸《いがい》の枕辺に対して灯香《とうこう》の薦《せん》をな し、一|夕《せき》の通夜《つや》に、結城《ゆうき》と永劫《えいごう》の別れを惜《おし》んだのである。妻君《さいくん》また稀世《きせい》の賢婦人《けんぷじん》にして、家 政機《かせいはた》の如《ごと》く斉《ととの》い、遣代梭《けんたいおさ》の如く正しく、良人生前《おつとせいぜん》の知交《ちこう》に対する、もっとも敬虔《けいけん》の情《じよう》を尽《つく》さ るるので、見る人一層の哀《あい》を催したのであった。已《すで》に結城《ゆうき》はこの賢婦人《けんぷじん》に因《よ》って子女諸壻《しじよしょせい》の 教養に抜群《ばつぐん》の善果《ぜんか》を得て、常に後顧《こうこ》の憂《うれい》なく、独り垣外《えんがい》の来奔《りり》を自由に為《な》し得《え》たのである、 それからまた、結城の信友飯田延太郎氏《しんゆういいだえんたろうし》は、真正なる結城の知己《ちき》であって、彼が生前死後《せいぜんしご》の |事《こと》に至るまで、一|切《さい》を担任《たんにん》して、真情《しんじよう》の限りを尽《っく》された。一同はただ感謝の意を以て、飯田 君に対するの外《ほか》なかったのである。かくの如き有様にて、死後の始末《しまつ》の好《よ》き事は、庵主等が 多くの友人中、この結城《ゆうさ》程手の入らぬのは一つも無い位であった。往昔頭山氏《むかしとうやまし》は、こんな事《こと》 を云うた事がある、曰く、 『結城《ゆうき》は八|分《ぶん》を知る男故安心じゃが、杉山《すぎやま》は十二|分《ぷん》の男じゃから困る』 とこれは人を見るの明《めい》ある、頭山氏《とうやまし》の至言《しげん》と思う、それが蔵《しん》を為《な》して、果して結城の方はま ずまずかくの如く始末《しまつ》が宜《よ》いのである。さあここにもし庵主《あんしゆ》の方が死んだら、万事万端《ばんじばんたん》が、 十二分に遣《や》ってあるから、どんな豪傑《ごうけつ》が出て来ても、始末《しまつ》にだけは慥《たし》かに困《こま》るであろうと思 う。それは庵主《あんしゆ》がまだ死なぬ先から、この頭山氏《とうやまし》の蔵言《しんげん》が、已《すで》に眼前《がんぜん》に展開《てんかい》されているから である。昔噺《むかしばなし》に、 『ある山村《さんそん》に、甲吉《こうきち》と乙助《おつすけ》と云う二人がおったところが、その旦那寺《だんなでら》の和尚《おしよう》さんが、ある日 この二人を呼んで云うには、この寺に二|匹《ひき》の狸《たぬき》がおって悪戯《いたずら》をして困る、本堂《ほんどう》の料具膳《りようぐぜん》を食 い荒したり、阿弥陀様《あみださま》を転《ころ》がし落して鼻《はな》を破《こ》わしたり、各仏壇《かくぷつだん》の供え物を食廻《くいまわ》りたりして困 るから、お前等二人で手分《てわ》けをして、一|疋《ぴき》ずつこの狸《たぬき》を捕《と》ってくれぬかと頼まれた。そこで こうきち             ぴき                                    いたずら    せ     よ 甲吉が云うには、一匹だけなら私は受合ますが、お寺では狸が出て悪戯さえ為ねば宜うござ いますか、つまりその取れた狸は、私が頂戴《ちようだい》しても宜《い》いのでございますかと云うので、和尚《おしよう》 さんは、ああ宜《い》いとも、捕《と》れた狸はお前さんの自由であると答えた。そこで乙助《おつすけ》が口を出し た。いや申和尚《もうしおしよう》さん、元来狸はお寺の境内《けいだい》にいるめでございますから、お寺の財産《ざいさん》の一つで ございます故に、私も甲吉《こうさち》も捕《と》れたら、その狸はお寺に差上《さしあげ》ますよ。狸の皮と云う物は鍛冶 屋《かじや》の丙作《へいさく》に売りましたら、高い値段で買いますと云うと、和尚《おしよう》さんは手を振っていや私は人      けだもの             し がい                        まえがた  かつて   ほうむ   や 間でない、獣物を殺して、その死骸をどうすることも出来ぬ、お前方の勝手に葬って遣んな さいと云われたので、甲吉《こうきち》も乙助《おつすけ》も、大変に喜んで、その狸の居処《いどころ》を和尚さんに聞いたら、 和尚さんがあの本堂の後《うし》ろの大榎《おおえのき》の根に穴を掘っていると云われたので、乙助《おつすけ》はその帰り足      かじや   へいさく  ところ よ                     へいさく                  ぴき に直ぐに、鍛冶屋の丙作の処に寄って、かく云うた。おい丙作どん明日は俺が狸を一疋持っ て来るが、肉《にく》は狸汁《たぬきじる》にして晩《ばん》に御馳走《ごちそう》をするが、皮は鞴《ふいご》の用《よう》に何程《いくら》で買《か》うかえと云うたら、 |丙作《へいさく》はいや丁度この頃狸の皮が破れて、鞴《ふいご》がかからぬから、八方に探しているところじや、     かんもん                   おつすけ                       うち  たたみがえ 今なら一貫文に買うよと云うので、乙助は大喜びをして、それなら家の畳替が出来た上に、 ひとえもの                    やと           あす 単物が一枚着れるよと云うて、家に帰り、その晩に雇いの男共と相談をして、明日はこれこ れの手段で、お寺の狸を捕って、晩には狸汁《たぬきじる》を栫《こしら》えて、御馳走《ごちそう》をするぞ、また皮は鍛冶屋《かじや》の |丙作《へいさく》に売って、一|貫文《かんもん》の銭《ぜに》にして、家の畳替えを為《す》るのじゃと云うて明日《あす》を待ったのである。 ところが甲吉《こうきち》の方は、直《すぐ》にその晩大榎《ばんおおえのき》の側《そば》に藕《わな》を掛《か》け、色《いろいろ》々と狸の嗜《すき》な食物《くいもの》を並べて、狸を つ       よあ  まえ  ぴき         こうきち     ひる にく たぬきじる 釣ったから、直に夜明け前に一匹の狸が捕れたので、甲吉はその日の昼に肉を狸汁にして、     ふるま            か じ や   へいさく                 かんもん  こ              ぜに たたみ 一家中に振舞い、皮は直に鍛冶屋の丙作に持って行って、一貫文に買うて貰い、その銭で畳 がえ  し            おつすけ       あさめしご     おとうとども           なた  かま  さ          おおえのき 替を仕てしもうた。乙助の方は、朝飯後から弟共を引連れて、鉈や鎌を提げて、その大榎 の処《ところ》に行き、まず小さき犬を連れて行て、その穴に入れて見たら、臭がするので、犬が狂っ たようになるが、狸は出て来ぬ、乙助《おつすけ》もまた取りつかれたように、長竿《ながざお》でつつくやら、様々 の事をしてみても、狸が恐《おそ》れて出て来ぬので、とうとう青松葉《あおまつぱ》を持って来て燻《くす》べ始めたので、 |狸《たぬき》は苦しまぎれに飛出して来た、それを犬と乙助《おつすけ》とで、鎌《かま》や鉈《なた》を振《ふ》り週して、八方に追い廻 し、晩方まで掛って、隣側にある竹藪《たけやぷ》の中に追込んだが、日は暮れるし、とうとう手を空《むなし》う して帰って来た。その晩に狸が乙助《おつすけ》の家に遣《や》って来て云うには、おいおい乙助《おつすけ》さん、今日お 前さんが私をさんざん追廻《おいまわ》したが、私も亭主《ていしゆ》の男狸《おだぬき》は、今朝方甲吉《けさがたこうきち》さんの御馳走《ごちそう》の羅《わな》で捕《と》ら れたから、世《よ》の味気《あじけ》なさを感じ、お前さんに捕《と》られて上《あ》げようかとも思うたが、お前さんが まだ捕れもせぬ、私《わたくし》の皮を売る事まで饒舌《しやべ》ったし、甲吉《こうきち》さんは昨晩から沈黙《だまつ》て私共に御馳走《ごちそう》 をして、とうとう男狸《おだぬき》の亭主《ていしゆ》を捕《と》って、肉は汁にして一家中に振舞《ふるま》い、皮は疾《とう》に丙作《へいさく》さんに 売って、もう畳替《たたみがえ》まで仕てしもうた位でお前さんの饒舌《しやべ》った事は甲吉さんが皆沈黙《みなだま》って実行 してしもうたから、今私がお前さんに捕られて上げても、もう丙作《へいさく》さんも皮は買わぬし、三 |文《もん》にもならず、捨《す》てられるだけであるから、あの丙作《へいさく》さんの鞴《ふいご》の皮が、また破《やぶ》れる頃|黙《だま》って 私だけに御馳走《ごちそう》でも仕《し》なさったら、浮世《うきよ》の義理《ぎり》と思うて、お前さんに捕《と》られて上ますから、 当分はそんな軽挙《かるはずみ》な算用《さんよう》は仕《し》なされぬが好《よ》かろうよと云うたとの事、これが俗《ぞく》に云う捕《と》らぬ |狸《たぬき》の皮算用《かわざんよう》と云う僅諺《りげん》である』  丁度|結城《ゆうき》の八|分性《ぷんせい》と、庵主《あんしゆ》の十二|分性《ぶんせい》が、これと同じ事である。庵主《あんしゆ》は疾《と》うからそれを自 覚しているのである。これは結城《ゆうき》の仏前《ぶつぜん》で、頭山氏《とうやまし》を前に置いて、庵主が心の中《うち》の伽話《とざばなし》であっ た。  それから結城《ゆうき》の遺骸《いがい》は、六|親眷族《しんけんぞく》と、尊《とうと》き高僧達《こうそうだち》の引導《いんどう》と、幾多親友《いくたしんゆう》の囲繞《いじよう》に因《よ》って、地 下長《ちかとこし》えに眠ったのである。  庵主《あんしゆ》その夜《よ》は親友結城《しんゆうゆうき》の位牌《いはい》を、其日庵《そのひあん》の仏壇《ぶつだん》に供《そな》えて、深夜《しんや》まで読経《どきよう》に耽《ふけ》ったのである。 |詩《し》あり、     ひともとみずのごとくみずひとのごとし     ほうまつたちまちにしようじてまたたちまちにいんす     人元如水水如人。  泡沫忽生還忽灌。     酔夢醒時秋已到《すいむさむるときあきすでにいたる》。  梧桐葉落又天真《ごどうはおちまたてんしん》。 六十一一 |北陸《ほくろく》の傑士広瀬《けつしひろせ》千|磨《ま》   強弩苟も発せず、鳴箭権要を狙う  大正十一年九月廿七日、芝明舟町《しばあけふねちよう》の鳥羽館《とばかん》と云う旅館に、四五年間も止宿《ししゆく》して、脚気《かつけ》と腎 臓病《じんぞうびよう》の併発《へいはつ》で、六十八|歳《さい》を一|期《ご》として死亡した一人の老翁《ろうおう》があった。この人は庵主《あんしゆ》が、今を 去る三十四五年前に、頭山満翁《とうやまみつるおう》の紹介で、大阪《おおさか》にて面会した、石川県士族広瀬《いしかわけんしぞくひろせ》千|磨《ま》と云う人 である。頭山翁《とうやまおう》は、国事上《こくじじよう》無二の親友《しんゆう》であって、終始刎頸《しゆうしふんけい》の交《まじわり》を継続し、殊に同年齢の事で もあり、病中より実に親身も及ばざる看護《かんご》をして、頭山翁《とうやまおう》と妻君《さいくん》と賢息《けんそく》とが打寄《うちよ》って世話《せわ》を せられたので、広瀬氏《ひろせし》は息を引取までも頭山翁の親切厚誼《しんせつこうぎ》を感謝したのである。庵主《あんしゆ》も知人 ではあるし、常に広瀬氏の人となりに、崇敬《すうけい》の念《ねん》を持ていたし、殊に頭山翁と踞懇《じつこん》の関係か ら、及《およ》ぶだけは手助けもして、生前死後《せいぜんしご》の始末《しまつ》に関係《たずさわ》ったのである。  この人は元来|石川県金沢《いしかわけんかなざわ》市、長町《ながまち》と云《い》う処《ところ》に、安政《あんせい》二|年卯《ねんう》の八月を以て生れ、本姓《ほんせい》は岡田 氏《おかだし》、父は助右《すけえ》衛|門《もん》、号《ごう》は静山《せいざん》と云い其《そ》の四男であった。この岡田助右衛門氏は、元尾張《もとおわり》の国 星崎《くにほしざき》の城主《じようしゆ》、岡田長門守重孝《おかだながとのかみしげたか》(三万石)の嫡孫《ちやくそん》であって、世《よよ》々|前田家《まえだけ》に仕《つか》えて侍大将《さむらいだいしよう》であっ て、食禄《しよくろく》も千六百|石《こく》を有する家柄《いえがら》であった。千|磨《ま》は幼少の時から、同藩士広瀬仁次郎氏《どうはんしひろせじんじろうし》の養《よう》 |嗣子《しし》となり、幼名を千|磨《ま》八|郎《ろう》と称したが、慶応《けいおう》四年|歳《とし》十四にして家督《かとく》を相続し、元服《げんぷく》して千 |磨《ま》と改めた。この千|磨《ま》は慶応二年の頃より、藩《はん》の学校明倫堂《がつこうめいりんどう》にて学業を修め、剣道は同藩士 矢島源之丞《どうはんしやじまげんのじよう》に就《つ》いて学んだのである。廃藩置県《はいはんちけん》の後《のち》、彼《か》の明倫堂《めいりんどう》は官立学校《かんりつがつこう》となったので、 千|磨《ま》は選抜《せんぱつ》せられてこれが学頭《がくとう》となったのである。  明治四年、彼《か》の廃藩置県《はいはんちけん》の詔勅漢発《しようちよくかんぱつ》するに至って、各藩兵《かくはんぺい》は同時に解隊《かいたい》せられその一部 を選抜《せんばつ》して官兵《かんぺい》に徴《ちよう》せられたが、加州藩《かしゆうはん》にありては、堀尾猪之吉《ほりおいのきち》、中村虎《なかむらとら》三|郎《ろう》、原正忠等《はらまさただら》が、 か   せんばつへい                  あと        ざいごう  ゆうし すぎむらひろまさ  は せ がわじゆんやら     か   かいたい 彼の選抜兵を引連れて上京し、跡に残った在郷の有志杉村寛正、長谷川準也等は、彼の解隊 の兵貝中にて、有為《ゆうい》の青年を糾合《きゆうごう》して、天下国家《てんかこつか》の大事《だいじ》に率先《そつせん》して参加せんものと、計議《けいぎ》を |凝《こ》らしたのである、これに馳《は》せ参じた者は、もっとも多数であったが、その重《おも》なる者は、当 時|陸軍中尉《りくぐんちゆうい》たりし島田《しまだ》一|郎《ろう》一|派《ぱ》の人士《じんし》で、これが後年に金沢唯一《かなざわゆいつ》の政治結社となって、忠告《ちゆうこく》 しや    .   げんしゆっ                        つい    とうきようきお い ざか  おおく ぽ さんざ ざんさつじ けんとう 社なる物を現出し、それがまた基礎となって、終には東京紀尾井坂の大久保参議斬殺事件等 を迸出《ほうしゆつ》したのである。即ち一方東京に在《あ》る、加州出身《かしゆうしゆつしん》の有志等《ゆうしら》は、相謀《あいはか》りてこの廃藩後《はいはんご》の地 方政治を整頓《せいとん》せんには宜《よろ》しく藩吏《はんり》を更迭《こうてつ》して時勢練達《じせいれんたつ》の人士《じんし》を聘《へい》して、治績《ちせき》を挙《あ》げしむべし と云う議《ぎ》を起して時の参議板垣退助等《さんぎいたがきたいすけら》に面《めん》してその意見を開陳《かいちん》し、これ等の賛同《さんどう》を得《え》たるの 結果、薩州《さつしゆう》の名士《めいし》、内田正風《うちだまさかぜ》を以て県令《けんれい》に任じ、特にこの方面の事に当《あた》らしめたのであった。  然るに明治七年、東京に於ては板垣氏等《いたがきしら》の首唱《しゆしよう》にて、彼《か》の愛国社《あいこくしや》の設立《せつりつ》を見るに至ったの で、島田《しまだ》一|郎等《ろうら》の一派は、直ちにこれに加盟して、同時に金沢にも政社《せいしや》を創立《そうりつ》したのが、即 ち前に云うた忠告社《ちゆうこくしや》である。故にこれが領袖《りようしゆう》は、杉村寛正《すぎむらひろまさ》、長谷川準也等《はせがわじゆんやら》であって、この |政社《せいしや》に入社《にゆうしや》する者はたちまちに壱千数百名と註《ちゆう》せられ、北陸政界《ほくろくせいかい》の気勢は、立《たちどこ》ろに隆盛《りゆうせい》を極 めたのである。然るに彼《か》の島田一郎一派の急進派《きゆうしんは》は素《もと》より他の多数と意見の一致を見ず、相 率《あいひき》いて退社《たいしや》し、同志《どうし》と共に市内三|光寺《こうじ》なる寺院《じいん》に立籠《たてこも》る事となったが、その数は五百名に及 んで、これを当時三|光寺党《こうじとう》と呼んだのである。  一方、内田正風《うちだまさかざ》の加州《かしゆう》に着任《ちゃくにん》するや、専《もつぱ》ら諸政《しよせい》を改革し、新旧《しんきゆう》の制度の適否《てきひ》を按配《あんばい》し、治 績大《ちせきおお》いに挙《あが》った。就中《なかんずく》もっとも人目を惹《ひ》いたのは、明治八年にこの金沢全部《かなざわぜんぷ》に自治的の区制《くせい》 を布《し》いた事である。即ち金沢を七区に分て、各区《かくく》に区長《くちよう》を置き、区民をして自由選出《じゆうせんしゆつ》せしむ る法を立てたが、千|磨《ま》は、居所《きよしよ》が第五区であったため、区民一致の選挙に因《よ》って、その区長 に選任《せんにん》したのである。この時千|磨《ま》は年僅《としわず》かに十九歳の未成年《みせいねん》たるのみならず、彼が平生志《へいぜいこころざ》す ところもまた異なるが故に、断ってこれを固辞《こじ》したが、区民《くみん》はさらにこれを許《ゆる》さず、双方|押 合《おしあい》の中《うち》に、思わず歳月《さいげつ》を過した。ある期間の後、区長《くちよう》千|磨《ま》の俸給《ほうきゆう》の預《あずか》りなりとて、金《きん》百八十 余円を県令《けんれい》より交附《こうふ》し来《きた》りしが、固《もと》より千|磨《ま》の受くべき理由もなく、しばしばこれを返附《へんぷ》せ るも、法規素《ほうきもと》より許《ゆる》すべからずとあって、とうとうそれを千|磨《ま》の手許《てもと》に止《とど》め置かねばならぬ 事となった。この頃の区長《くちよう》の月給は、大枚《だいまい》二十五円三十二銭の割合であったけれ共、当時二 十五円は、今日《こんにち》の二百五十円をも超過《ちようか》したる金額にて、当時千|磨《ま》は、高等官以上《こうとうかんいじよう》の格式《かくしき》を以 て取扱《とりあつか》われたのであった。そこで当年十九歳の千|磨《ま》は、この二百円ばかりの大金《たいきん》を、どうし たかと云うとそこが千|磨生涯《ましようがい》の出発点《しゆつぱつてん》を見ねばならぬところである。千|磨《ま》はこの大金《たいきん》を、ど んと投《とう》じて金沢貧民学校《かなざわひんみんがつこう》の設立《せつりつ》を叫《さけ》んだ。この晴天《せいてん》の霹靂的《へきれきてき》千|磨《ま》の行動には、全金沢市民が 少なからず共鳴《きようめい》して、八方より寄附寄贈《きふきそう》の山《やま》を成《な》し、たちどころに開校《かいこう》の運《はこぴ》となったのであ る。即ち地方の篤志者打寄《とくししやうちよ》って、職員の就任《しゅうにん》にも尽力《じんりよく》し、立派に成立をみるに至ったのは、 千|磨《ま》と云う青年が、出発の第一歩に於て、終生《しゅうせい》の美事《びじ》を成《な》したと謂《い》い得《え》らるるのである。  それから明治九年となった。即ち長州萩《ちようしゆうはぎ》の乱《らん》と、肥前佐賀《ひぜんさが》の乱が起った、これに対してこ の加賀《かが》の三|光寺党《こうじとう》は、直ちに応じて兵《へい》を挙《あ》げんとしたが、何様遠隔《なにさまえんかく》の事ではあるし、とうと う其間《そのま》に合《あ》わなかったのである。この時千|磨《ま》は、深く薩長《さつちよう》の政府《せいふ》に憤《いきどお》りを含むの余り、同志 岡本順平《どうしおかもとじゆんぺい》、川越政勝《かわごえまさかつ》の両士と共に、袂《たもと》を投《とう》じて彼《かの》三|光寺党《こうじとう》に加盟《かめい》して画策《かくさく》したが、何様無援 孤立《なにさまむえんこりつ》の金沢《かなざわ》にて西南長肥《せいなんちようひ》の義挙《ぎきよ》に応ずる事の困難なる為め、ついにその機を失するに至った のである。これよりさき金沢の中村俊次郎《なかむらしゆんじろう》、石川《いしかわ》九|郎《ろう》の二|人《にん》は、ひそかに相携《あいたずさ》えて薩州鹿児 島《さつしゆうかごしま》に赴《おもむ》き、親しく桐野利秋《きりのとしあき》に面議《めんぎ》し、彼《か》の征韓論《せいかんろん》に纒綿《てんめん》する、総ての顛末《てんまつ》を聴き、間もなく 金沢に帰り、これを編纂《へんさん》して『桐陰仙譚《とういんせんたん》』なる一書を綴《つづ》りて、これを同志の面《めんめん》々に頒布《はんぷ》した ので、石川県下《いしかわけんか》に於ける志士一|派《ぱ》の人々には一に西郷《さいごう》、桐野《きりの》の先輩《せんぱい》を崇拝《すうはい》し、何でも国運《こくうん》の |開発《かいはつ》、醜腥一掃《しゆうせいそう》の大快挙《だいかいきよ》を共にせんとの覚悟を持たぬ者はなかったのである。この時に当り て千|磨《ま》は独りその選《せん》を異《こと》にして曰く、  一、薩南《さつなん》に共鳴《きようめい》するは不善事《ふぜんじ》に非《あら》ずとするも、その共鳴点《きようめいてん》の主義は、さらに金沢志士《かなざわしし》の自《じ》   覚的純粋《かくてきじゆんすい》なる本領《ほんりよう》たるべき事  二、薩摩《さつま》、加賀《かが》、とその主義を同《おなじ》うするも、地理《ちり》を異《こと》にして人情風俗《にんじようふうぞく》を異にす、いかにし   て薩州《さつしゆう》に附和雷同的共鳴《ふわらいどうてききようめい》の実《じつ》を挙《あ》げ得《う》べきか  三、已《すで》に薩南《さつなん》と加北《かほく》とは、山河万里《さんがぱんり》の隔絶《かくぜつ》あり、いかにして意志《いし》と行為《こうい》の連絡を取り得べ   きか と、独《ひと》りその考慮《こうりよ》に耽《ふけ》り、終《つい》に意を決して明治九年の末|単身金沢《たんしんかなざわ》を出《い》でて東京に至り、鹿児     しし  えぴはらぽ"し  と   ごこう こころ        えぴはら     かごしま 島出身の志士、海老原穆氏を訪うて、互交を試みたのである。この海老原なる人は、鹿児島 |私学校出身《しがつこうしゆつしん》の、錚《そうそう》々たる一|人物《じんぶつ》にして、所謂鹿児島《いわゆるかごしま》の中央特派員《ちゆうおうとくはいん》である。自から評論新聞《ひようろんしんぷん》 なる物を発行して、小松原英太郎《こまつばらえいたろう》、関新吾等《せきしんごら》の諸氏《しよし》は、当時その執筆者《しつぴつしゃ》であった。故にこれ 等の人に因って、中央の政情《せいじよう》は、絶《た》えず鹿児島《かごしま》の本部に手に取る如く通報《つうほう》せられておったの である。キ磨《ま》はかかる人々と往来《おうらい》して、中央と鹿児島との政情を、徹底的に偵察《ていさつ》して金沢《かなざわ》に 帰り、独り計画を怠《おこた》らなかったが、明治十年二月には、突然《とつぜん》として鹿児島私学校党《かごしましがつこうとう》の事変《じへん》が |爆発《ばくはつ》したので、千|磨《ま》は案《あん》を拍《う》ってその軽挙《けいきよ》を慨嘆《がいたん》し、天下大勢上《てんかたいせいじよう》の権衡《けんこう》、必ずその均《きん》を失う べきを予想して煩悶《はんもん》したのであった。  一方この飛報《ひほう》の金沢に達するや、平生彼《へいぜいか》の西郷桐野《さいごうきりの》を崇拝《すうはい》し、徹頭徹尾彼等《てつとうてつぴかれら》と死生《しせい》を共に せんと期待せる、忠告社《ちゆうこくしや》および三|光寺党《こうじとう》の如きは、即時|袂《たもと》を投《とう》じて挙兵《きよへい》以て薩南《さつなん》に応ずべき はずなるに、水陸《すいりく》の隔絶《かくぜつ》と、軍資《ぐんし》の不足《ふそく》と、政府監視《せいふかんし》の峻厳《しゆんげん》とは、多大の支障《ししよう》となって、忠 告社《ちゆうこくしゃ》はいささか蜘搦逡巡《ちちゆうしゆんじゆん》するに至ったのである。ここに於て日頃|過激派《かげきは》を以て任ずる三|光 寺党《こうじとう》は、猛然《もうぜん》と奮起《ふんき》し、素《もと》より成敗利鈍《せいはいりどん》を顧《かえり》みるの蓬《いとま》なく、義正《ぎまさ》に立《た》たざる可《べ》からざるに至っ て起《た》つは、男子《だんし》の事たりと高唱《こうしよう》し、終《つい》に忠告社と激論《げきろん》の末、三光寺党は蹶然《けつぜん》として忠告社と |袂《たもと》を分ったのである。それより三光寺党は、その同志|村井照明《むらいてるあき》、塩谷《えんや》三|郎《ろう》、沢田孝則等《さわだたかのりら》とひ そかに水沢駅《みずさわえき》の官金掠奪《かんきんりやくだつ》を計《はか》り、また一方|水越正令《みずごしせいれい》、沢口期《さわぐちき》一|等《ら》をして、大阪表《おおさかおもて》に馳《は》せ下《くだ》り、 |形勢《けいせい》の偵察《ていさつ》をなさしめたのである。然るにその事|遂《つい》に露顕《ろけん》に及び、彼《か》の両人は警吏《けいり》の為に捕 縛《ほばく》せらるるに至った。  而《しか》して一方|薩南《さつなん》の戦報《せんぽう》は、日々に薩軍《さつぐん》の不利を伝え、官軍《かんぐん》は終《つい》に熊本城《くまもとじよう》に連絡を取り、田 原坂《たばるざか》の戦況《せんきよう》また日に非《ひ》なるを聞き、未《いま》だその戦旗《せんき》を樹《た》てざるに先《さき》だって、万事休《ばんじきゆう》するに至っ たのである。ここに於て三|光寺党《こうじとう》は、たちまちに意を決して、他に直接行動を取るべく計画 し、即ち薩南《さつなん》の敵《てき》を討《う》つ能《あた》わずんば、近く中央にある要路の大敵《たいてき》を討《う》って、その官軍の勢力 に一|大刺戟《だいしげき》を与《あた》うべく肝胆《かんたん》を砕《くだ》いたのである。  これより先き、西南《せいなん》の戦雲酪《せんうんたけなわ》なるに及び、政府《せいふ》は官軍《かんぐん》の増派に努力し、大阪鎮台《おおさかちんだい》、近衛 へい  ほ》かいどうとんでんへいとう     くりだ              つ          げき                きゆうしぞく 兵、北海道屯田兵等までも繰出し、なお不足を告ぐるより、檄を全国に飛ばして、旧士族の 募兵《このえぽへい》をなすに至ったのである。ここに於て千|磨《ま》の一派は、千|載《ざい》一|遇《ぐう》の機《き》、逸《いつ》すべからずとな し、かねて同志|岡本順平川越政勝《おかもとじゆんぺいかわごえまさかつ》、静川為景《しずかわためかげ》、金岩克巳《かないわかつみ》、古屋虎太郎《ふるやとらたろう》、吉田吟《よしだれい》二|等《ら》と相謀《あいはか》 り、大いに為すところあらんと企《くわだ》て、岡本、川越は議《ぎ》を齋《もた》らして、当時の浅野町組《あさのちようぐみ》と称する 一派の、遠藤秀景《えんどうひでかげ》、山田副忠《やまだそえただ》、大屋凉《おおやりよう》、山口信定《やまぐちのぷさだ》、藤井雅正等《ふじいうたまさら》と合議し、一派一同の賛同《さんどう》を 得て、ここに東京の禁闕守護《きんけつしゆご》の募兵《ぽへい》たらん事を決し、市内善福寺内《しないぜんぷくじない》に会所を設け、一般に同 志《どうし》を募《つの》りたるに、たちまちにして応募者二百名ばかりを得《え》たので、直《ただ》ちに願書《がんしよ》に連署《れんしよ》をなし、 これをその筋《すじ》に提出したのであるが、左《さ》なきだに薄気味悪《うすきみわ》るき広瀬《ひろせ》、遠藤等《えんどうら》一派の出願であ るから、当局の評議《ひようぎ》も逡巡遅疑《しゆんじゆんちぎ》し、荏再《じんぜん》として終に許否《きよひ》の命《めい》を伝え得《え》なかったのである。  とかくする中《うち》に、薩南《さつなん》の事件《じけん》も、漸次鎮定《ぜんじちんてい》に赴《おもむ》いて来たので、これらの計画も、全部|画餅《がへい》 に帰したのである。それより一方、島田《しまだ》一|郎《ろう》、長連豪等《ちようれんごうなど》は、とうとう明治十一年の五月に、 とうきよ・丿こうじまちくきおいざか    せいりよくちゆうてん がい   おおくぽさんぎ ようげき 東京麹町区紀尾井坂に於て、勢力冲天の概ある、大久保参議を要撃してこれを倒し、以 て昨年|挙兵《きよへい》の義約《ぎやく》に代《か》えてその予期《よき》したる事を実行したのである。この事件に連盟《れんめい》したる嫌 疑者《けんぎしや》の糾明《きゆうめい》せらるる者、はなはだ多数に上《のぽ》り、一時は金沢上下の人心《じんしん》を震撼《しんかん》せしむる程の騒 動《そうどう》であったのである。  これより先き広瀬の実弟たる、橋爪武《はしづめたけし》なる者は、深く島田《しまだ》、長等《ちようら》と相結《あいむす》び、第一番隊の島《しま》 だ ちようら   おおくぽさんぎ  ようげき                        あいやく 田、長等が、大久保参議を要撃する事とし、もし失敗せば第二番隊を組織すベく相約したの で、この歳《とし》の春《はる》に於て、橋爪《はしづめ》は因州鳥取《いんしゆうとつとり》の浅井寿篤《あさいひさあつ》なる友人を音信《おとず》れ、相謀《あいはか》るにこの後挙《こうきよ》の 事を以てしたが、そもそもこの浅井なる人は、素《もと》より標悍無比《ひようかんむひ》の豪傑《ごうけつ》にして、一|諾《だく》の義気《ぎき》は、 |勇往無前《ゆうおうむぜん》にして、その死を視《み》ること恰《あたか》も帰するが如きの人である。故にこの年の三月廿七日、 浅井が橋爪と共に鳥取《とつとり》を発して、金沢に帰るや、丁度|長連豪等《ちようれんごうら》も鳥取に在りし故、これと深 く相謀《あいはか》ったが、長等《ちようら》はその自《みず》から前挙《ぜんきよ》の大任《たいにん》を負《お》うの身なれど誠《まこと》に切《せつせつ》々の情を以て両人を 送ったのである。曰く、 『驚鳳伏《よきひとはふ》し潜《かく》れて、鴟集翔翔《あしきひとがはぴこり》し、闖葦尊顕《つまらぬひとがよにもちい》せられて、讒諛志《へつらいものがこころざし》を得《う》るの時《とき》に当《あた》り我 輩等身《わがはいらみ》を君国《くんこく》の大義《たいぎ》に委《ゆだ》ねて、不良《ふりよう》を剪除《せんじよ》せんとす。もし愆《あやま》って目的《もくてき》を遂《と》げ得《え》ざるの時《とき》あら ば、この大義《たいぎ》はたちまちにして兄等《けいら》の身上《しんじよう》に懸《かか》るべし、その任務《にんむ》の重《おも》きと、困難《こんなん》の程度《ていど》とを |増《ま》す事《こと》は、さらに我輩等《わがはいら》に倍薩《ばいし》するものあらん、願《ねがわ》くは自重以《じちようもつ》て邦家《ほうか》の為《た》めに尽痺《じんすい》せられん ことを』 と云うて両人を激励《げきれい》したのである。それより両人は、共に結束《けつそく》して行程《こうてい》百廿|里《り》を踏破《とうは》して金 沢に着きその足にて夜間《やかん》千|磨《ま》の居宅《きよたく》を訪《と》うたのである。橋爪は曰く、 『お兄様只今鳥取《あにさまただいまとつとり》から帰国致《きこくいた》しました。今回は鳥取《とつとり》の傑士浅井寿篤氏《けつしあさいひさあつし》を同伴《どうはん》致しましたから、 どうか御面会を願います』        ま もと  はしづめら へいぜい        じよう          きんぜん と云うので、千磨は素より橋爪等の平生を知り、またその情を知る者であるから、欣然とし て賓客《ひんきやく》の礼《れい》を以て浅井を迎えたのである。曰く、  ほくち  ご かん  いま  そのい  おと          さんがばんり  ばつしよう    が   ぽうおく  ま       せんぷ 『北地の沮寒、未だ其威を墜さざるの時、山河万里を跋渉して、駕を茅屋に枉げらる、賤夫  か えいまこと しや      じ      こいねがわ   そんさいや ろう    さん         えんらい  ろう  い        こと の過栄誠に謝するに辞なし、庶幾くは村菜野醪の一盞を傾けて、遠来の労を医せられん事を』 と浅井《あさい》また千|磨《ま》を揖《ゆう》して一二|拝《ぱい》の礼《れい》を返し、  さんいんやせいあえけんていはしづめしちえ きゆうけん   あとしたが  しようかいかたじけの 『山陰の野生、敢て賢弟橋爪氏の知を得て、笈剣を共にしその蹤に随いさらに紹介を辱う    そんけい  か ふう  えつ          え     ちゆうしん かんき きん            ねがわ   ぐ もう  あわれ    しゆう して、尊兄の下風に謁することを得る、衷心の歓喜禁ずるに耐えず願くは愚蒙を憐んで、終 |日不違《じつふい》の高教《こうきよう》を垂《た》れたまわん事《こと》を』 と、ここに於て千|磨《ま》は直ちに酒肴《しゆこう》を命じて両人を饗《もてな》したが、盃廻《さかずきめぐ》り耳熱するに随って、三人  だんろんかぜ                  がい            てつ                                     りよ は談論風の如く発して当世を慨し、終に夜を徹するに至ったのである。元来この橋爪は、膂 りよくあく                  いき     きようもう     せい そな  あさい 力飽までに強く敵多きを加うるに随って、意気しきりに強猛を加うるの性を備え、浅井は常  ばつざんがいせい  がい          おく                        しようがい しつさく        ちんわ に抜山蓋世の概あって、人に後れを取りし事なし、ただこの人が生涯の失策と云うべき珍話 は、かつて大酔《たいすい》のあまり、柔道《じをうどう》の大家戸塚老先生《たいかとづかろうせんせい》に迫《せま》りて、柔道《じゆうどう》の試合《しあい》を強要《きようよう》した。先生は、 『老夫病櫨《ろうふぴようはい》の砌故《みぎりゆえ》、偏《ひと》えに試合《しあい》の儀《ぎ》は許《ゆる》されたし』 と断ったのを、浅井は武士《ぷし》の面目《めんもく》を傷《きずつ》けられたりと主張して、強いて先生を試《ため》さんとせしに、 先生は万已《ばんや》むを得《え》ず、 『それでは病体《ぴようたい》であるから、拙者仰臥《せつしやぎようが》のまま、御随意《ごずいい》にお試《ためし》を乞《こ》う』 と云わるるに因《よ》り、大兵《たいひよう》にして飽《あく》まで強猛《きようもう》なる浅井はこの戸塚先生《とづかせんせい》の胸部を、足の踵《かかと》を以て |満身《まんしん》の力を罩《こ》めてぐいと踏み付けたところが、先生さらに何の感もせざるにより、なお一層 の力を振うて蹂躙《じゆうりん》するも、少しの感じもなきより、浅丼は頓《とん》と閉口《へいこう》し、今度は私をお試《た》めし を乞《こ》うと云うを、先生は堅《かた》く辞《じ》したれども、いつかな浅丼が聴入《ききい》れぬので、先生また万已《ぱんやむ》を |得《え》ず、浅井が正坐《せいざ》している頸部《けいぶ》を平手《ひらて》を以てぼんと打ったところが、浅井の頸《くぴ》にごくりと音 がしたが、そのままに頸《くび》は右に傾いて引付け満身《まんしん》の力を入れても、元の通りにならぬので負 惜みの浅井は、頸も腰も曲らぬままに、戸塚先生に向って、 『有《あり》がとうございます』 と挨拶《あいさつ》をして帰宅し、種々治療の末、三日の後旧態《のちきゆうたい》に復し、さらに贄《にえ》を戸塚先生の門下に執《と》っ て、柔道《じゆうどう》の修業をしたことが、浅井終生の珍談《ちんだん》として残っているのである。これよりまた千 |磨《ま》の談《はなし》に入るのである。 六十三 |大阪毎日新聞《おおさかまいにちしんぶん》の成立《せいりつ》   巨頭人を嗾し、奇人門に迫る  前回に書いた鳥取《とつとり》の豪傑《ごうけつ》、浅井寿篤《あさいひさあつ》は素《もと》より虎《とら》を榑《う》ち、竜《りゆう》を縛《ばく》するの勇者であったが、そ れが一|度《たび》千|磨《ま》の広義深情《こうぎしんじよう》に触《ふ》れては、柔順猫《じゆうじゆん》の如く、嬉《きき》々|小児《しように》の如く、橋爪氏等《はしづめしら》と笑《わらた》い戯《わむ》 れ、千|磨《ま》の宅にて日を送ったのであるが、一|閃《せん》の彗星天《すいせいてん》の一方に耀《かがや》くが如き、東京《とうきよう》の警報《けいほう》を 聞くや否や、この小児の如き浅井橋爪《あさいはしづめ》の二|傑《けっ》は、我破《がば》と起って金沢《かなざわ》を飛出《とぴだ》した。一|口《ふり》のヒ首《あいくち》 は懐《ふところ》に呑《の》まれて、肌《はだ》冷水の如く壮士《そうし》一|度去《たぴさ》って復《ま》た還《かえ》らず、一|決《けつ》の意気翻《いきひるがえ》って暁天《ぎようてん》の雲の 如く、共に易水寒《えきすいさむし》を謳《うと》うて出掛《でか》けたがその迅《はや》き事俊隼《ことはやぶさ》の如きは金沢より三|日市《かいち》まで二十三里 の道途《どうこ》を、一日にして踏破《とうは》し、そこより広瀬《ひろせ》に今此所《いまここ》に着《つく》との報告をしたのでも分る。彼等 が東京に着くや、直ちに島田《しまだ》一|郎《ろう》、長連豪等《ちようれんごうら》の会合の座《ざ》に押込《おしこ》み、激論夜《げきろんよ》を徹《てつ》して終に彼等 第一の壮挙《そうきよ》に割込《わりこ》み、行動流るるが如く立働《たちはたら》いて、ついに明治十一年五月十四日、東京《とうきようこ》 麹 町区紀尾井坂《うじまちくきおいざか》に於て、時の内務卿大久保利通氏《ないむきようおおくぽとしみちし》を狙撃《そげき》しその首《くび》を挙《あ》げたのである。浅井はそ の年の七月十七日に、市《いち》ケ谷監獄刑場《やかんごくけいじよう》の露《つゆ》と消《き》ゆる時、 『今や薩南《さつなん》千百の知友の欝魂《うつこん》を慰《なぐさ》め得《え》たり、男子志を遂《と》げ、目的を達して瞑《めい》す、その快《かい》、禁《きん》 大阪毎日新聞の成立 ぜざらんと欲《ほつ》するも得《え》ず。ただこの上は、皇家《こうか》の万歳《ぱんざい》を祝《しゆく》し奉《たてまつ》るのみである』 と云うて、死に就いたのである。彼は時に年二+六歳であったと思う、これに伴う千|磨《ま》の実 弟|橋爪氏《はしづめし》は、この紀尾井坂事件と共に就縛《しゆうばく》し、終身禁獄《しゆうしんきんごく》と云う刑名《けいめい》の下《もと》に東京佃島《とうきようつくだじま》の監獄《かんごく》 に幽閉《ゆうへい》せられ、十一年経過の後、即ち明治二十一年に特赦《とくしや》を以て出獄《しゆつごく》したが、これには切《せつ》に |榎本武揚氏《えのもとぶようし》、井上毅氏等《いのうえこわししら》の熱誠《ねつせい》なる尽力《じんりよく》があった為《た》めじゃと聞いている。  さてこれ等|血気《けつさ》の青年等が、思う存分遣《ぞんぶんや》りに遣《や》り散《ちら》した跡《あと》は、恰《あたか》も大風後《たいふうご》の原野の如く、 その跡始末《あとしまつ》の困難なる事|言語道断《ごんごどうだん》である。往昔《むかし》より大禄《たいろく》を食《は》んだ千|磨《ま》も、その擁護力《ようごりよく》は次第 に枯渇《こかつ》し、今はその日の始末《しまつ》にも苦悩《くのう》する有様となったのである。万策尽《ばんさくつ》きて、千|磨《ま》はとう とうある人の勧《すす》めにより、製紙業に着手する事となり、ここに初めて大阪《おおさか》に赴《おもむ》き、製紙器械《せいしきかい》       じゆくれん しよつこう                                           'と を買い入れ、熟練の職工を引連れて、金沢に帰り、ともかく開業はしたが、素より士族の商 法は越中褌《えつちゆうふんどし》と同じ事で、当《あて》は向うから外《はず》れ、たちどころに失敗の憂目《うきめ》を見る事となった。 その滑稽《こつけい》の事歴《じれき》は、到底庵主《とうていあんしゆ》などの筆紙《ひつし》の能《よ》く尽《つく》すところでない。千|磨《ま》はかつて当時の苦境《くきよモつ》 を咄《はな》して曰《いわ》く、 『武士《ぶし》と憂国《ゆうこく》との兼業者が、営利事業《えいりじぎよう》を企《くわだ》てて失敗した時の困難は、往昔《むかし》からの咄《はなし》にも書物 にも無い程《ほど》の苦みである。まず藩主《はんしゆ》か政府《せいふ》かまたは一派の首領株《しゆりようかぷ》などの懐《ふところ》を当《あて》に、即ち金の 事だけには関係なく、腹《はら》一|杯遣《ぱいや》るだけ遣って、国家の為めに死ぬなどは、全くお茶《ちや》の子《こ》さい さいであるが、まず俺《おれ》の遣《や》った製紙業《せいしぎよう》は、紙《かみ》を持《こしら》える業であるから、紙さえ出来たら、その 喜びは喩《たと》うるに物なく、これからこそこの紙で金が何程《いくら》でも、入用だけはぞろぞろ湧《わ》いて来 ると思うていた。当《あて》は直ぐに外《はず》れて、しばらくすると大困難が起ってきた。それは人に金を |借《か》りている事と人に金を貸した事と、ただこの二つだけ忘れていたためである。故に貸した のは全部分らぬから、回収《かいしゆう》など一つも出来ず、借《か》りていた金の方は、色々の証拠証文《しようこしようもん 》などを 以て、どしどし取りに来る、五月蝿《うるさ》いから一層の事その債権者《さいけんしや》を斬《き》って捨《す》てようかとも思う たが当時不自由な事には、社会の上下周囲《しようかしゆうい》の事情《じじよう》は、借金取《しやつきんとり》の斬捨《きりすて》を禁じていて一人も俺の 方に同情してくれぬ事になっている。もしそれを構《かま》わずに、斬捨《きりすて》を遂行《すいこう》すれば、却て正義廉 潔《せいぎれんけつ》の俺の方を無視して、俺の首を取りに来る法律があるとの事、世の中に正義《せいぎ》を無視《むし》し、廉 潔《れんけつ》を認《みと》めぬ法律があって、吾人《ごじん》が一日でも立《たつ》ておれる道理《どうり》が有《あ》る物でない。揚句《あげく》の果《はて》は、天 下憂国《てんかゆうこく》の志士《しし》の首《くぴ》と、素町人《すちようにん》や、土百姓《どぴやくしよう》の借金取《しやつきんとり》などの首とを釣《つ》り易《か》えにせんとする法律を 有する国家と成《な》り下《さが》っては、一日も吾々の生存《せいぞん》する国家では無い事に何時《いつ》の間にか成り果て ていたのである。故に当時|吾人《ごじん》は、国家を怨《うら》み、政治を憤《いきどお》り、何《なん》とか甘《うま》い方法を考え出し て、一|死《し》を賭《と》しても、この政府要路《せいふようろ》を叩《たた》き潰《つぷ》す事《こと》に苦心《くしん》せねばならぬと思うたのであった。 つまり義の為《た》めに必要なる金《かね》の生《な》る樹《き》とも云うべき製紙業は、この虫螻《むしけら》のような役人《やくにん》の拵《こしら》え た法律と借金取《しやつきんとり》に潰《つぷ》されたのであった』 と千|磨《ま》は顎《あご》を解《と》いて笑い倒れたのであった。  かかる次第で、千|磨《ま》は到底金儲《とうていかねもう》けの事業などは駄目《だめ》である。それよりも手馴《てな》れた政府叩《せいふたた》き |潰《つぶ》しの方が捷径《ちかみち》であると考え、志士《しし》を糾合《きゆうごう》して、一箇の集団を形成する事とし、当時の先覚 者《せんかくしや》たる大儒《たいじゆ》、井口無加之《いぐちむかし》、河瀬貫《かわせかん》一|郎等《ろうら》と謀《はか》りて、盈進社《えいしんしや》なる物が生れ出た、後年には、遠 藤秀景《えんどうひでかげ》が社長となって、一団の青年子弟を集めたが、この頃また精義社《せいぎしや》なるものも出来た、 前者は武断派《ぶだんは》と称し、後者《こうしや》は文治派《ぶんじは》と唱《とな》えたが、共に爾後《じご》の政界に聯立《れんりつ》して立働いたのであっ た。  その後明治十四年頃となっては、千|磨等《まら》の政治論も、大分進歩し、また政府の方も、大分 |手順《てじゆん》が立《た》って来て、互いに鎬《しのぎ》を削《けず》りて政治を争うようになってきたので、とうとう国会開設《こつかいかいせつ》 の大詔《たいしよう》が発せらるるに至りたるがこれと同時に、幾多《いくた》の政党は強烈《きようれつ》なる政府の圧迫《あつぱく》に耐《た》え得《え》 ずして、相踵《あいつ》いで解散《かいさん》もしくは沈黙《ちんもく》する事となったので、千|磨《ま》は彼《か》の盈進社《えいしれしや》を遠藤秀景《えんどうひでかげ》に一 任して、天下四方に遊び、各地の政情を視察《しさつ》して廻る事に努《つと》めた。丁度この期間、庵主《あんしゆ》は頭 山満氏《とうやまみつるし》の紹介によりて、明治十九年に大阪に於て広瀬《ひろせ》に初めて面会したのであった。即ち今 の大阪毎日新聞《おおさかまいにちしんぶん》は、当時|頭山満《とうやまみつる》、柴《しぱ》四|朗《ろう》、広瀬《ひろせ》千|磨《ま》、渡辺治《わたなべおさむ》、池辺吉太郎《いけべきちたろう》、書生ながら庵主 等《あんしゆら》の集団から、大阪《おおさか》の藤田伝《ふじたでん》三|郎《ろう》、その他実業家の一派と連絡して成立したのであった。丁 度|当時庵主《とうじあんしゆ》が別懇《べつこん》にしていた後藤象二郎伯《ごとうしようじろうはく》が、中《なか》の島《しま》の洗心館《せんしんかん》と云うに滞泊《たいはく》していたから、 |庵主《あんしゆ》は頭山《とうやま》に一度面会しては如何《いかん》と勧《すす》めたら頭山《とうやま》曰く、    ごとう              おれ かんり   あ   しかた    ひろせきさま 『むう後藤は面白い男とは思うているが、今俺が官吏などと会っても仕方が無い。広瀬貴様 行って面会してみよ』        とうやまら   い き                                       あんしゆ  ひろせ と云うた、当時頭山等の意気は、この一語でも分るのである、それから庵主は広瀬を同道し   せんしんかん        ご とうはく             は い                      た なかいちべ え   か.わらのぷ て、洗心館に行って後藤伯のいる大広間に一一一一旭入ったら、丁度その座に、田中市兵衛、河原信 |可《よし》などと云う人が居《お》った。後藤伯《ごとうはく》はその面前《めんぜん》で、 『おい杉山《すぎやま》、僕に案内無《あんないな》しで、変な者を連れて来ては困るじゃないか』 |庵主《あんしゆ》曰く、  かんりちゆう          あなた                   わたくし   へん  おとこ                さしつか 『官吏中の変な者の貴下の所に、書生中の変な私が、変な男を連れて来て、何の差支えがあ りますか』 |後藤伯曰《ごとうはくいわ》く、 『来たら仕方《しかた》がない、まあそこに坐りたまえ』 千|磨庵主《まあんしゆ》に向って曰く、 『ははあ後藤《ごとう》と云う人《ひと》は、町人《ちようにん》などを集めて、お諂諛《べつか》を聴《き》いて喜んでいる人かね』 と云うたので、直《ただち》に怒濤雷霆《どとうらいてい》の大喧嘩《おおげんか》が始まりそうになったので、田中《たなか》、河原《かわら》の両氏《りようし》は匆《そうそう》々 に帰った、後藤伯《ごとうはく》お手伝いに命じて曰く、 『おいおい飯《めし》を三つと酒を持って来い、さあ町人は帰った、天下《てんか》の名論《めいろん》でも聞くかね』 |庵主曰《あんしゆいわ》く、 『おい広瀬《ひろせ》、頭山《とうやま》は後藤伯《ごとうはく》の事を官吏《かんり》と云《い》うて、容易《ようい》に腰《こし》を上《あ》げぬが、後藤伯は日本官吏中《にほんかんりちゆう》 の孟嘗君《もうしようくん》である。否《い》な孟嘗君以《もうしようくん》上である。その証拠《しようこ》は、僕の如き鶏鳴《けいめい》でも、狗盗《くとう》でもない、 全く無能の浪人《ろうにん》、即ち長鋏専《ちようさよう》門の者と、予期《よき》せざる親交《しんこう》を重《かさ》ぬるような人であるが、頭山 が後藤伯を諒解《りようかい》するにも、後藤伯が頭山を理解するにも、大分《だいぷん》まだ手間《てま》が掛《かか》るとは思うが、 僕の考えでは、その当人同士の後藤頭山の距離間隙《きよりかんげき》は、紙一重《かみひとえ》であると思う。故に君は幸い の会合であるから、今日は腹蔵《ふくぞう》なく咄《はな》すが宜《よ》い』 |後藤伯曰《ごとうはくいわ》く、 『頭山《とうやま》は物分りの宜《い》い男である様に思うている、今何を仕《し》ているか、またどんな事を云うて おるか』 千|磨曰《まいわ》く、 『何にも仕ておらぬ、また何とも言うておらぬです』 |後藤伯曰《ごとうはくいわ》く、 『ああそれで宜《よ》い宜い』 千|磨曰《まいわ》く、 『貴下《あなた》は今|天下《てんか》の政党《せいとう》をどう思うて見ておりますか』 |後藤伯曰《ごとうはへいわ》く、 『何とも思うておらぬ、分らぬ事を云う奴共《やつども》と思うている、その癖僕《くせぽく》も一の政党《せいとう》じゃからね』 千|磨曰《まいわ》く、 『はあ貴下《あなた》が政党《せいとう》なら、吏党《りとう》ですか、藩閥党《はんばつとう》ですか』 |後藤伯曰《ごとうはくいわ》く、 『吏党《りとう》って官権党《かんけんとう》の事かね、藩閥党《はんばつとう》って薩長党《さつちようとう》の事かね、そんな奴共《やつども》は、月給組合か、縁故 協会《えんこきようかい》かで、主義《しゆぎ》や綱領《こうりよう》のある党派などでは勿論ない、僕《ぽく》は勤王党《きんのうとう》だよ』 千|磨曰《まいわ》く、 『ははあそれでは丸山作楽共《まるやまさくらども》の党派《とうは》ですか』 |後藤伯曰《ごとうはくいわ》く、 『ははあ、あの丸山《まるやま》の事なら、この杉山《すぎやま》が能《よ》く知っている、あれはそんな党派では無いよ、 あれは嘘吐《うそつ》きの法螺吹党《ほらふきとう》だよ、世の中に何か云うて、直にべそべそ泣く奴は、大概嘘吐《たいがいうそつ》きと 思うておれば宜いよ』 |庵主曰《あんしゆいわ》く、 『丸山《まるやま》は、僕《ぽく》の知交《ちこう》の士《し》であるが、嘘《うそ》か法螺《ほら》かは別として、全く無二の勤王家《きんのうか》ですよ、僕の 考えでは、貴下《あなた》の同郷《どうきよう》の人士《じんし》を中心とせる、自由党《じゆうとう》はどうです。嘘《うそ》を吐《つ》かぬ者が有《あり》ますか、 |法螺《ほら》を吹《ふ》かぬ者が有ますか、世界中政治家の称号《しようごう》ある者で、嘘《うそ》を吐《つ》かず法螺《ほら》を吹《ふ》かぬ者《もの》は一 |人《にん》も有ませぬ。いわんや貴下《あなた》の先輩、板垣《いたがき》さんの一派の自由党《じゆうとう》の如きは、自由民権《じゆうみんけん》を道路《どうろ》に |触売《ふれうり》して、商売にしておりますぞ。あの形状《ざま》を見て僕は年来の自由主義が嫌《さらい》になって、断然 廃業《だんぜんはいぎよう》しました。演舌《えんぜつ》に捉《とら》われず、新聞に欺《あざむ》かれずして、沈黙中《ちんもくちゆう》に自己の自由を束縛《そくばく》せられず、 じ  ,」 自己の権利《けんり》を伸張《しんちよう》する主義にはなりましたが、丸山の如きは、 |気物《きもの》です、貴下《あなた》が嘘吐《うそつ》きと法螺吹《ほらふき》とを責《せ》めて捨《す》てらるるなら、 を捨て、郷党《きようとう》を捨てらるる外道《ほかみち》は有ますまい』  千|磨《ま》と後藤伯《ごとうはく》は、その中《うち》に飯《めし》をむしゃむしゃ食《く》うていたが、 うた。                         ふんによう  い 『杉山、その論は無理じゃ、人間と云う者は、 |尿《によう》を垂《た》れている者である。そんな事は後藤伯《ごとうはく》《たれ》|にでも、       .こ とうはく  くち  ぱいめし  ほおば                  ふ と云うたら、 伝いは、大狼狽《おおろうばい》でその噴飯《ふんぱん》の掃除に奔走《ほんそう》したのであった。 『おいおい飯時《めしどき》に糞《くそ》の咄《はなし》は禁物じゃ、今日は全く愉快《ゆかい》であった』  それから両人共に帰って来たが、千|磨《ま》は途中で、 |欠点《けつてん》は有ましょうが、全く本《ほん》 それと同時に貴下《あなた》もまた自己 千|磨《ま》は微酔陶然《びすいとうぜん》としてかく云                他人の糞尿を忌むと同時に、自己もまた其糞《そのふん》                   誰にでも云うだけ野暮《やぽ》じゃぞ』 後藤伯は口一杯飯を頬張っていたままぷうと噴き出されたので、傍《そば》にいたお手                     後藤伯は、 『おい杉山、今日の咄《はなし》はひっくるめて結論は我々の方が勝であったね』 と云うた。これが始まりで、千|磨《ま》は去《さ》り難《がた》き後藤伯《ごとうはく》の友となったので、その後《ご》もしきりに往 来《おうらい》しこいたようであったが、庵主《あんしゆ》はその後何《ごなに》かの都合で、後藤伯《ごとうはく》の所にしばらく往《い》かなかっ た。それから一年ばかりも立った後《のち》の事であったと思う。庵主《あんしゆ》が大阪停車場前《おおさかていしやじようまえ》の常村屋《つねむらや》と云 う家《うち》におって、ある朝《あさ》外出しようとすると吟玄関に東雲新聞《しののめしんぶん》と赤い字で書いた印絆纒《しるしばんてん》を着た 一人の男が、にょっこり立塞《たちふさが》って取次のお手伝いに向い、 『この家《うち》に杉山《すぎやま》と云う奴《やつ》が泊っているか、いるならこれへ出せ』 と云うている。庵主《あんしゆ》も気の早い方の男であったから、丁度そこに出掛《でかか》っていた所故、 『杉山は俺じゃが何の用か』 と云、つてそこへ出たらその男は、 『汝《おまえ》は数日前、土佐《とさ》の壮士竹原某外一人《そうしたけはらぽうほかひとり》を、渡辺橋《わたなべばし》に於て川へ投《ほう》り込《こ》んだとの事じゃがそれ は事実か』 と云うから、 『貴様《きさま》何を云う、自己《じこ》の名も名乗らず、旅宿《りよしゆく》の玄関先に立はだかって、無礼《ぷれい》の言《げん》を弄《もてあそ》ぶ、 そんな奴に何事《なにごと》も応答《おうとう》する事は出来ぬ』 と云うて、打捨てて出掛《でか》けようとしたら、その男はむんずと庵主《あんしゆ》の腕先《うでさ》きを捕えた。庵主《あんしゆ》は これは変人かも知れぬから、軽挙《かるはずみ》に懲《こら》しめても如何《いかが》と、一寸|遠慮《えんりよ》していると、奥より宿《やど》の神《かみ》 さんが飛んで出て来て、 『あら東雲新聞《しののめしんぶん》の中江《なかえ》はんだすか、そんなところでまあお上《あが》りやす』 と云うので、庵主《あんしゆ》はははあこの男が東雲新聞《しののめしんぶん》の中江篤介《なかえとくすけ》かと、始めて知ったのである、それ から庵主《あんしゆ》はそのままに中江《なかえ》を引《ひき》ずって、次の十畳ばかりの部屋に連れ込み、様子を聞くと、 中江の咄《はなし》の要領はこうである。 『汝《おまえ》は南区《みなみく》の英亭《はなぶさてい》と云う料理屋で、山梨県《やまなしけん》の者と、長野県《ながのけん》の者とに、あの愛国公党《あいこくこうとう》は駄目《だめ》 じゃ、あれは害国私党《がいこぐしとろ》じゃと云うたとの事、それを憤概《ふんがい》して、右の壮士《そうし》が、汝《おまえ》に詰問《きつもん》を加え たら、汝《おまえ》が暴力に訴えて川へ投げ込んだとの事、その一人は俺の書生で、新聞社に使ってい る者、一人は後藤伯《ごとうはく》の書生で、その委嘱《いしよく》によって俺が世話《せわ》している者、その加害者《かがいしゃ》が分らぬ から昨日後藤伯《きのうごとうはく》の宿所《しゆくしよ》でこの咄《はな》しをしていると側《そば》におった加賀《かが》の広瀬《ひろせ》千|磨《ま》と云う男が、それ は常村屋《つねむらや》に泊《とま》っている杉山《すぎやま》と云う者だと聞いたから、取糺《とりただし》に来《き》たのじゃ』 と云うにあるのである、そこで庵主《あんしゆ》は答えた。 『そんな鼠輩《そはい》が二人《ふたり》、渡辺橋《わたなべばし》で予《よ》に打掛《うちかか》って来た事がある事はあったが、今|大阪《おおさか》では少しも 珍らしい事ではない、申さば毎日でもあると云うてよい、その二人が橋の上に飛出て来て、 |予《よ》の車の梶棒《かじぽう》を押えたから、予は直《すぐ》に車から飛下りると、一人がステッキで打掛《うちかか》ってきたか ら、引外《ひきはず》して下腹《したはら》を蹴《け》り、一人は咽笛《のどぷえ》を擱《つか》んで、橋《はし》の欄干《らんかん》に押付けたら、向うが誤って川に 落込んだのである、予は溺《おぽ》れはせぬかと見ているうち抜手《ぬさで》を切って泳いで行ったからそのま ままた車に乗つて帰って来た、愛国公党《あいこくこうとう》の事は英亭《はなぶさてい》でなくとも、この一二年間|予《よ》の到《いたと》る所《ころ》 で悪口《あつこう》している事は事実《じじつ》である、それならそれのように、その意趣《いしゆ》の次第《しだい》を名乗掛《なのりか》けて、決 闘《けつとう》でもするのなら、男一疋《おとこぴさ》と位は見ても遣《や》るが、往来人《おうらいじん》の予《よ》に、暗打《やみうち》同様に打掛ってきたか ら、それ相当に処分《しよぶん》しただけである、それが貴様《きさま》の書生か、後藤伯《ごとうはく》の書生か分った物でない、 |好《よ》しそれが誰《たれ》の門下門生《もんかもんせい》であろうとも予《よ》の前で無礼《ぶれい》をする者は、それだけの事をされるが当 然である、それで貴様《きさま》はどうしようと云うのか』 と云うと、中江《なかえ》は返事も何もせず、プイと出て行った。やがて昼頃にも成《な》ったから、飯《めし》を食《く》 うていると、また案内《あんない》もなく遣《や》って来て曰く、 『あれは今朝《こんちよう》、後藤伯《ごとうはく》が俺《おれ》に、我々の書生共にそんな無礼《ぶれい》を仕《し》た奴を、捨てて置くと癖《くせ》にな るから貴様自分《きさまじぶん》で行《い》ってうんと懲《こら》しめてこいと云うたからもっともと思うて俺《おれ》は先刻貴様《せんこくきさま》の 所に来たのであったが、事情を聞くと、全く事実が相違《そうい》している、直に帰って取調《とりしら》べてみる と、全く貴様《きさま》の云う通りであったから、そんな嘘《うそ》を吐《つ》いて俺《おれ》や後藤伯《ごとうはく》を欺《あざむ》いた奴《やつ》は、一|時《とき》も |置《お》く事は出来ぬから、直《すぐ》に放逐《ほうちく》した、後藤伯《ごとうはく》もその書生を追《お》い出《だ》してしもうたから、この交《こう》 渉事件《しようじけん》はもう落着《らくちやく》したと思うてくれ』  実にその淡泊《たんぱく》にして率直《そつちよく》なる事《こと》、竹を割った程|好《い》い気持の男である。これが庵主《あんしゆ》が中江篤 介《なかえとくすけ》と云う人に面会した始めてで、終には庵主《あんしゆ》が後年|米国《べいこく》の紐育《ニユ ヨ ク》にいる時に、書を寄せて一年 有半と云う書物と共に、癌腫病の生別《せいべつ》を送ってきて、庵主《あんしゆ》をして天涯《てんがい》の旅《たぴ》の空《そら》で号泣《ごうきゆう》させる 程の友誼《ゆうぎ》を積《つ》んだ中江篤介《なかえとくすけ》であった。それから間《ま》もなく庵主《あんしゆ》が後藤伯《ごとうはく》の所に行くと、丁度そ の席にまた千|磨《ま》もいた。後藤伯は快活《かいかつ》に、 『やあ一昨日また此地《こつち》に来《き》たよ』 と云われるから、 『今朝中江《こんちようなかえ》と云う人が来ましたよ』 と云うと、 『ああ君に紹介《しようかい》して遣《や》ったが面白い男じゃろう』 と云われるから、 『あんな紹介が有《あり》ますか、僕の所に喧嘩《けんか》をしに来ましたよ』 『なに、それでも紹介《しようかい》だよ、杉山を苛《ひど》い目《め》に遭《あ》わせてこいと云うて遣《や》ったのが即ち紹介さ』 と云われるから、そんな乱暴《らんぽう》な紹介があるものかと思うていると、横から千|磨《ま》が、 『その書生を川へ投《ほう》り込んだ奴は、常村屋《つねむらや》に居《い》る杉山《すぎやま》じゃと俺が云うたのじゃ』 と云うから、庵主《あんしゆ》は千|磨《ま》に、 『君はどうして俺が書生を川へ投《ほう》り込んだのを知っていたか』 と云うと、千|磨《ま》はクスクス笑うて、 『いや丸で知らぬ、ただ中江《なかえ》が面白い奴《やつ》じゃから、君に紹介《しようかい》しようと思うて出鱈目《でたらめ》にそう云 うて君の所に遣《や》ってみたら、それが丁度その川《かわ》へ投《ほう》り込んだ当人であって偶然《ぐうぜん》にも暗合《あんごう》した だけだよ、面白い男じゃろう』 と後藤伯《ごとうはく》と同じような事を云うている。当時の人間は、後藤伯《ごとうはく》でも、千|磨《ま》でも頭山《とうやま》でも庵主《あんしゆ》 でも、大抵《たいてい》こんな悪戯者《いたずらもの》ばかりであったのである。 六十四 |大義名分《たいぎめいぶん》を以《もつ》て後藤伯《ごとうはく》に説《と》く   智嚢未然に徹底す、舌頭巨人を左右す  それから千|磨《ま》はしきりに後藤伯《ごとうはく》と往来《おうらい》していたが、明治十八年に成立した伊藤内閣《いとうないかく》は十九 年中に於て種《しゆじゆ》々の打撃《だげき》に遭遇《そうぐう》した。第一、その一月には北海道庁《ほつかいどうちよう》の新設事件《しんせつじけん》、第二、井上伯《いのうえはく》 の条約改正失敗《じよハつやくかいせいしつぱい》、第三、その四月には改進党《かいしんとう》大会の刺戟《しげき》、第四、その七月には地方官制度改 正《ちほうかんせいどかいせい》の紛擾《をんじよう》、第五、その九月には大阪《おおさか》の破獄事件《はごくじけん》、第六、その十月には紀州沖《さしゆうおき》に於ける土耳古《トルコ》 使節《しせつ》の搭乗船《とうじようせん》ノルマントン号《ごう》の沈没事件《ちんぽつじけん》、第七、越《こ》えて二十年の三月には海防整備《かいぽうせいぴ》の詔勅下《しようちくくだ》 り次《つい》で所得税法《しよとくぜいほう》の発布事件《はつぷじけん》、第八、とうとうその七月には彼《か》の井上伯《いのうえはく》で条約改正中止《じようやくかいせいちゆうし》、第九、 その十月には板垣伯《いたがきはく》の時弊上奏《じへいじようそう》、第十、その十二月には例の保安条例《ほあんじようれい》の発布《はつぷ》となって恰《あたか》も蜂《はち》 の如く賛轂《れんこく》の下《もと》に群集していた全国の志士傑輩《ししけつぱい》の全部は帝都《ていと》の三里以外に放逐《ほうちく》せられたので ある。  丁度|庵主《あんしゆ》だけは林矩《はやしく》一と偽名《ぎめい》していた事と当時の伊藤総理《いとうそうり》の秘書官たる井上毅《いのうえこわし》なる人と深 き諒解《りようかい》を有して有《い》たが為《た》めにこの難《なん》を免《まぬが》れたが、満天下《まんてんか》の志士《しし》は一層|伊藤内閣《いとうないかく》を攻撃《こうげき》すべく |随所《ずいしよ》に寫《ごうごう》々の声を発するに至ったのである。この時に当りて広瀬《ひろせ》千|磨《ま》は常に後藤伯《ごとうはく》の帷幕《いばく》に |参《さん》して自から亜父萢増《あふはんぞう》を以て任ずるの平生《へいぜい》に因《よ》って彼が長舌《ちようぜつ》は翻《へんべん》々として閃《ひら》めき出したので ある。即ち彼は当時|薩長藩閥《さつちようはんばつ》の輩《やから》に烈《はげ》しく叩《たた》き込《こ》まれてもっとも失意寂寥《しついせきりよう》の位置に在《あ》る後藤 伯《ごとうはく》に向って説いたのである。曰く、 『王昭《おうしよう》の美《び》もなお君寵《くんちよう》を失《うしな》い、楊貴《ようき》の艶《えん》も終《つい》に馬嵬《ばかい》に斬《き》らる、巨傑関羽《きよけつかんう》も首《くび》を樊城《はんじよう》に稟《かけ》られ |大勇張飛《だいゆうちようひ》も寝首《ねくぴ》を萢彊《はんきよう》に掻《か》かるるに至った。人間傑輩《にんげんけつぱい》の終焉《しゆうえん》がかくの如く悲惨《ひさん》なる所以《ゆえん》の物 は切に自《みず》から信ぜず己《おの》れを用《もち》いず狐疑逡巡《こぎしゆんじゆん》してその機《き》に投ぜざりしの愚《ぐ》が遂《つい》にここに至った のである。今や天下擾乱《てんかじようらん》の端《たん》を啓《ひら》き志士潮《ししうしお》の如く湧《わ》くと雖《いえど》も時に重瞳隆準《じゆうどうりゆうじゆん》の首領《しゆりよう》なきが為 め徒《いたず》らに草野《そうや》に匆忙《そうぽう》の塵《ちり》を揚《あ》げてその主義操執《しゆぎそうしつ》の以て天下《てんか》に響動《きようどう》すべき機能が無いではあり ませぬか。この時に当りて閣下《かつか》が一|度起《たびた》って旗《はた》を高所《こうしよ》に樹《た》てなば天下《てんか》はたちまちにして響《ひぴき》の 如く応じ蓆《むしろ》の如く捲《ま》くべしである。已《すで》に閣下《かつか》の家門《かもん》や大《だい》、徳厚《とくあつ》く名高《なたか》くしてその義《ぎ》また孟嘗《もうしよう》、 |信陵《しんりよう》を凌《しの》ぐ轎櫃《きようき》の費《ひ》また手易《たやす》く三|菱《ぴし》三|井《い》を指呼《しこ》する事《こと》を得《う》べし。所謂説《いわゆると》くを要せずしてその |行《おこな》いに随《したが》わしむるの時である。閣下《かつか》何の乏《とぽ》しき事あって彼《か》の薩長《さつちよう》の軽輩裸跣僅《けいはいらせんわず》かに主与《しゅよ》に雇《こ》 して韃履《あり》を捧《ささ》ぐるの徒《と》に一身を凌駕《りようが》せられてその権勢《けんせい》に整《しゆくしゆ》々としておらるるのでありま《く》|す か』 と恰《あたか》も雷霆《らいてい》に流雨《はいう》を濺《そそ》ぐが如くに説き立てたのである。ここに於て後藤伯《ごとうはく》の雄心《ゆうしん》たちまちに して眉宇《ぴう》に澁《みなぎ》り彼《か》の世《よ》にも有名なる大同団結《だいどうだんけつ》は一朝にして天下《てんか》の四方に勃起《ぽつき》したのである。  而《しか》して千|磨《ま》は常に伯《はく》に追随《ついずい》して満天下《まんてんか》を周遊《しゆうゆう》し伯《はく》の事業に些《いささか》の違算《いさん》をも生ぜなかったの で、全国の山間僻阪《さんかんへきすう》に負嵎《ふぐう》する英雄豪傑《えいゆうごうけつ》は云うも更《さら》なり、野心家《やしんか》と云う野心家|浮浪人《ふろうにん》と云う 。浮浪人は一|気呵成《きかせい》に後藤伯《ごとうはく》の摩下《きか》に馳《は》せ集まったのである。したがってその勢力の薩長内閣《さつちようないかく》 に刺戟《しげさ》を与《あた》えたる事もまた甚大《じんだい》であって、このままに打捨置く時はいかなる一大事件が発生 するやもはかり難く、殊に後藤伯統率《ごとうはくとうそつ》の下《もと》に咆哮《ほうこう》する大同団結《だいどうだんけつ》はその力|全《まつた》く慢《あなと》る可《べ》からざる ものがあるので、間近く西郷隆盛《さいごうたかもり》の統率《とうそつ》したる西南《せいなん》の戦役《せんえき》に手懲《てこり》をしている当局であるから、 共に作略相勉《さくりやくあいつと》めてとうとう後藤伯《ぐとうはく》を二十二年に至って逓信大臣《ていしんだいじん》として入閣《にゆうかく》せしめたのであ る。この時に当って野人道《やじんみち》を問《と》えども後藤伯《ごとうはく》の名を問う者なく、機婦糸《きふいと》を乱《みだ》せども大同団結《だいどうだんけつ》 の義《ぎ》を誤《あやま》る者なし。然るに天上の一|方《ぽう》たちまち震鈴音《しんれいおと》を正《ただ》して伯《はく》を雲上《うんじよう》に召《め》す、伯《はく》の進退難《しんたいなん》 実に窮《きわ》まれりと謂うべしである。伯曰く、 『山陰山陽《さんいんさんよう》の演舌《えんぜつ》、五畿|東海《とうかい》の宣言余音《せんげんよいん》なお予《よ》が唇頭《しんとう》を離《はな》れず、今何の顔《かんぱせ》あって百|万《まん》の政 友《せいゆう》と別《わか》るるに忍《しの》びんや』 とその時|側《かたわ》らに千|磨《ま》あって曰《いわ》く、 『江南《こうなん》の橘《たちばな》、江北《こうほく》の枳《からたち》、皆土質《みなどしつ》に因《よ》ってその性《せい》を異《こと》にす、日本の国民《こくみん》がことごとく勤王《きんのう》を 以て性《せい》となすも蓋《けだ》しその類乎《るいか》。今閣下交《いまかつかまじわり》を団友《だんゆう》に結ぶ、もし重きを団交に置いて、朝命《ちようめい》を |軽《かろ》んぜば、この大同団結《だいどうだんけつ》は永劫《えいごう》、朝命《ちようめい》に服《ふく》せざるも私党の情に従うを以て大義《たいぎ》となし。即ち、 |朝命《ちようめい》に服《ふく》せずして団情《だんじよう》を貫徹《かんてつ》するを以て主義の大綱《たいこう》となすべし。今や天下政党《てんかせいとう》の簇出雨後《そうしゆつうご》の |筍《たけのこ》も奮《ただ》ならずと雖《いえど》も、その野望《やぽう》と行動《こうどう》とは多く士人《しじん》の常軌《じようき》を脱《だつ》し、終には国家を無視《むし》し、 |皇室《こうしつ》を忘れて理論の万能《ばんのう》に陥《おちい》っているのである。閣下《かつか》は夙《つと》に勤王《きんのう》の大義を唱《とな》え前に鼎錢《ていかく》を避    しりえしつこく おそ   こけん じようじようかく       しようぐん北いだん  ちようばくべんべつくんしん けず、後に栓梏を畏れず、孤剣二条の城廓に進入して時の将軍に対談し、朝幕の弁別君臣の 大義《さたいざ》を説き、以て三百年|委託政治《いたくせいじ》の大権《たいけん》を奉還《ほうかん》せしめられたるの大功《たいこう》は、維新《いしん》の元勲中誰《げんくんちゆうたれ》か |閣下《かつか》の右に出る者あらんや。今や政教共《せいきようとも》に弛《ゆる》み薩長藩閥《さつちようはんばつ》の奴輩私《どはいひそか》に党《とう》を鹿廊《ほうろう》の中《うち》に樹《た》て私功《しこう》 を街《てら》い公勲《こうくん》を没《ぼつ》するの状は、恰《あたか》も彼《か》の政党等《せいとうら》が衆愚集団《しゆぐしゆうだん》の力を衒《てろ》うて、野心《やしん》を主義《しゆざ》と称して これを道路に強売《きようばい》し以てその餌食《えじき》を貪《むさ》ぼると何を以て択《えら》ぶべけんやである。さらに閣下宣言《かつかせんげん》 の力、団員糾合《だんいんきゆうごう》の勢《いきおい》が強く、藩閥要路《はんばつようろ》の肺腋《はいふ》を刺戟《しげき》し、周章《しゆうしよう》の閣議狼狽《かくぎろうぱい》の内奏《ないそう》が因《いん》を成《な》し て、ここに朝命《ちようめい》の降下《こうか》となれり。それをさらに穿鑿推考《せんさくすいこう》し、自《みず》から以て不快の念を起し、こ の朝命《ちようめい》を無視し翻《ひるが》えって団員《だんいん》との私情《しじよう》にのみ殉《じゆん》じたもう時は、閣下《かつか》は最終はただ団交《だんこう》あるを 知って、朝命《ちようめい》を蔑《ないがしろ》にするの結論となるのである。近く西南《せいなん》の役《えき》の結落《けつらく》即ち大西郷《だいさいごう》の最終が |台閣《だいかく》の要路に憤《いきどお》って朝敵《ちようてき》に終りしと何を以て選ぶ事が出来ますか、閣下《かつか》の位置経歴《いちけいれき》はただ |切《せつ》に人臣《じんしん》たる者の大義名分《たいぎめいぷん》に因《よ》って進退《しんたい》し、決して一時の毀与褒貶《きよほうへん》に拘泥《こうでい》したもうの時に非《あら》 ずと思います。今遠くその事例を、元弘建武《げんこうけんぶ》の間《かん》に視《み》るもその英明《えいめい》の霊主《れいしゆ》に常侍《じようじ》する悪公卿 悪宰相等《あくくげあくさいしようら》の策略《さくりやく》に出《いず》る、君命《くんめい》なる物《もの》を私《ひそか》に穿鑿推考《せんさくすいこう》して正成義貞《まさしげよしさだ》がその憤懣《ふんまん》を私行《しこう》の上に漏《もら》 さば、何を以て湊川《みなとがわ》、求塚《もとめづか》の忠死《ちゆうし》に因《よ》って芳勲《ほうくん》を千|載《さい》に伝《つた》え百|世勤王《せいきんのう》の模範《もはん》たる事《こと》を得《え》ん乎《や》 である。閣下《かつか》はこの際|何卒速《なにとぞすみや》かに団員千百の異論《いろん》に顧《かえり》みる事なく、単身駕《たんしんが》を待《ま》たずして君命《くんめい》 に報《ほう》じ即刻《そつこく》に参内《さんだい》その聖旨《せいし》を奉《ほう》ぜられん事《こと》、これ即ち千|磨《ま》が万望《ぱんもう》の誠意《せいい》であります』 と説立《ときたて》たのである。それかあらぬか日ならずして、 『象二郎《しようじろう》の体躯《たいく》なお聖鑑《せいかん》の照射《しようしや》に漏《も》れず、朝命降下《ちようめいこうか》の恩命《おんめい》ここに默止難《もだしがた》く謹《つつし》んで諸君と別《わかれ》を 告ぐるに至る』 |云《うんぬん》々の告別辞《こくべつじ》を遺《のこ》して台閣《だいかく》に入《はい》ったのである。ここに於て一|時旺盛《じおうせい》を極めたる大同団結《だいどうだんけつ》も、 直接間接にこの我国歴史上の大色彩《だいしきさい》たる大義名分論《たいぎめいぶんろん》に打撃《だげき》せられて雲散霧消《うんさんむしよう》したのである が、今や政党《せいとう》の弊害天下《へいがいてんか》に横流《おうりゆう》して、国政《こくせい》の本来を誤り、俗儒曲学《ぞくじゆきよくがく》また上下《じようげ》に跋雇《ばつこ》して、我 国民性の魂醜《こんぱく》とも云う可《べ》き大義名分論《たいぎめいぶんろん》は殆んど棄廃垤滅《きはいいんめつ》に瀕《ひん》しておれども、今大正壬戊晩 秋《いまたいしようみずのえいぬぱんしゆう》の目前芝区西久保鳥羽館《もくぜんしぱくにしのくぼとばかん》の小室に横臥《おうが》せる一|介《かい》のこの骸《むくろ》と成《な》り果《は》てたる千|磨《ま》は、その半生 の既往《きおう》に於て三|寸不爛《ずんふらん》の舌頭《ぜつとう》より迸《ほとばし》り出《いで》たる大義名分論を以て帝国《ていこく》の巨傑後藤象二郎伯《きよけつごとうしようじろうはく》を |慴伏《しようふく》せしめ、幾多《いくた》の大豪傑《だいごうけつ》を包容《ほうよう》したる大勢力ある大政党を立《たちどこ》ろに雲散霧消《うんさんむしよう》せしめて、後 に一の異論《いろん》をも生ぜざらしめたる噴世《こうせい》の巨人《きよじん》であった事を庵主《あんしゆ》をして永《なが》く忘却《ぼうきやく》せしめぬので ある。  それより千|磨《ま》が一|片耿《ぺんこうこう》々の奇才《きさい》は、用《もち》ゆるに所なく、終《つい》にその年の総選挙《そうせんきよ》に於て彷徨《ほうこう》する |中立議員《ちゆうりつぎいん》を糾合《きゆうごう》してここに大成会《たいせいかい》なる政党《せいとう》を組織し、東肥《とうひ》の傑物佐《けつぶつさつさ》々|友房《ともふさ》の統率《とうそつ》するところ となり、千|磨《ま》またその帷幕《いばく》に参《さん》する事となったのである。ついで明治二十五年には有名なる 彼の選挙干渉《せんきよかんしよう》の結果|松方内閣《まつかたないかく》は瓦解《がかい》し伊藤内閣《いとうないかく》が成立《せいりつ》したが、その閣員《かくいん》は山県司法《やまがたしほう》、黒田逓 信《くろだていしん》、井上外務《いのうえがいむ》、後藤農商務等《ごとうのうしようむとう》の巨頭《きよとう》の顔揃《かおぞろ》えにて世呼《よよ》んでこれを元勲内閣《げんくんないかく》と称したが、嚢《さき》の |松方内閣《まつかたないかく》の擁護派《ようさこは》たりし大成会《たいせいかい》は変じて中央交渉部となり、またたちまちにして国家主義《こつかしゆぎ》を |標榜《ひようぽう》せる国民協会《こくみんきようかい》となり、これに前閣員《ぜんかくいん》にして選挙干渉《せんきよかんしよう》の張本人《ちようほんにん》たる前内務大臣現枢密顧問 官《ぜんないむだいじんげんすうみつこもんかん》たる品川弥二郎《しながわやじろう》および同顧問官《どうこもんかん》たる侯爵西郷従道《こうしやくさいごうつぐみち》の二人は、相共《あいとも》に本官を辞して公然《こうぜん》国民 協会の首領《しゆりよう》となり、各東西《おのおのとうざい》に相別れて天下《てんか》を遊説《ゆうぜい》するに至ったのである。この時に当って 伊藤内閣《いとうないかく》はその出発に超然内閣《ちようぜんないかく》たる事を標榜《ひようぽう》したのであるから、この西郷品川《さいごうしながわ》の二|巨頭《きよとう》のこ の国民協会《こくみんきようかい》に首領《しゆりよう》たる事を不可《ふか》とし、交《こもごも》々その退会を勧告《かんこく》したが両人は断《だん》じてこれに応ぜず、 政府と協会とここに断然《だんぜん》とし絶縁《ぜつえん》するに至ったのは蓋《けだ》し千|磨佐《まさつさ》々|等《ら》が抗扞《こうかん》その進言《しんげん》を怠《おこた》らざ りしにあったこと論を待《また》ぬのである。爾後《じご》国民協会は二十七年に至って『条約履行責任内閣 樹立《じようやくりこうせきにんないかくじゅりっ》』の旗幟《きし》を以て起り、所謂対外硬派《いわゆるたいがいこうは》の中堅となりて大《おおい》に悪戦苦闘《あくせんくとう》を続け、終に日清戦争《につしんせんそう》 の大鉄案《だいてつあん》を実行せしむるに至ったが、その戦後《せんご》に至っては協会がその党弊《とうへい》に劣化《れつか》せんことを おもんぱか       じ せいきんしゆ               はじ      こ     ざんぜん    北いざ かいせんげん  うち  さ 慮り、その自制謹守の実現として世に辱ず時に媚びず嶄然たる対議会宣言の中に左の一節 を発表するに至ったのである。曰く、 『先《ま》ず国家経綸《こつかけいりん》の大業《たいぎよう》を醸成《じようせい》し、而《しか》して後《のち》に現内閣《げんないかく》の失政《しつせい》を糾《ただ》すべし』 |云《うんぬん》々と絶叫《ぜつきよう》し平然《へいぜん》として穏健主義《おんけんしゆぎ》を唱導《しようどう》するに至ったのも、けだしまた千|磨《ま》の提言《ていげん》にして所 謂《いわゆる》千|磨流《まりゆう》とも云《い》い得《え》らるるのである。日清《につしん》の戦前には恰《あたか》も脱兎《だつと》の如く対外硬《たいがいこう》を唱《とな》え、戦後《せんご》に 於ては処女《しよじよ》の如く国家的退謙《こつかてきたいけん》の策《さく》を実現《じつげん》せしむるその開閉活殺《かいへいかつさつ》の自在なる、ただ庵主等《あんしゆら》をし て、しばしば舌を捲《ま》かしめたのである。世挙《よこぞ》って政党なる物は人に媚《こ》び民《たみ》に阿《おも》ねるの時、造 次顛流《ぞうじてんぱい》にも国家を忘れず国歩《こくほ》の一段に触《ふ》るる毎《ごと》にまず自党の短弊《たんべい》を矯《た》めて、再び君国《くんこく》に奉仕 せんとするその心事《しんじ》や実に奥床《おくゆか》しくもまた欽羨《きんせん》せざるを得《え》ぬのである。  これより三十年の頃に至って伊藤内閣《いとうないかく》は板隈野党《はんわいやとう》の連合軍《れんごうぐん》に包囲せられ、時の総理大臣《そうりだいじん》伊 藤博文侯《いとうはくぶんこう》は伊東書記官長《いとうしよきかんちよう》に命じて流暢《りゆうちよう》なる漢文の辞表《じひよう》を草《そう》せしめ、これを閣下《かつか》に捧呈《ほうてい》して骸 骨《がいこつ》を乞《こ》うに至ったがその後継者たる板隈《はんわい》の連合内閣《れんごうないかく》はたちまちにして内訌《ないこう》に次ぐに内訌《ないこう》を以 てし、終に尾崎文部大臣《おざきもんぶだいじん》が共和主義《さようわしゆぎ》の演舌《えんぜつ》をなせしを暮鐘《ぽしよう》として、その後任者《こうにんしゃ》たる犬養文部 大臣《いぬかいもんぷだいじん》が拝命《はいめい》数日の後|落花《らつか》と共に内閣《ないかく》の大樹《だいじゆ》は顛倒《てんとう》して微塵《みじん》と成《な》ってしもうたのである。ここ に於て山県内閣《やまがたないかく》は彼《か》の憲政党内閣《けんせいとうないかく》たる板隈瓦解《はんわいがかい》の後《あと》を受けて起るや、彼《か》の平田《ひらた》、清浦等《きようららに》の入 閣《ゆうかく》せる処女内閣《しよじよないかく》にして、老捨無比《ろうかいむひ》たる山県侯《やまがたこう》を首班《しゆはん》とせる雑種内閣《ざつしゆないかく》なるを以て、千|磨《ま》は紅舌《こうぜつ》 三|寸《ずん》大いにこの雑種内閣《ざつしゆないかく》を相手にして藩閥《はんばつ》の余喘《よぜん》を絶《た》たんと寝刃《ねたば》を合せいたるに、この内閣《ないかく》 すこぶる奇略《きりやく》に富《と》み見《み》る間《ま》に国民協会の上下《じようげ》を軟化《なんか》せしめて立《たちどこ》ろにこれを解体《かいたい》せしめ、新《あらた》 に帝国党《ていこくとう》なる物を組織《そしき》せしめた。けだしこれ等《ら》は千|磨《ま》が千|慮《りょ》の一|失《しつ》にして心中《しんちゆう》もっとも遺憾《いかん》 とせし様子《ようす》であった。  ここに於て千|磨《ま》はしばらく閑居《かんきよ》して微笑《ほほえみ》の中《うち》に傍観《ぽうかん》していたが、これに代りて澄刺《はつらつ》たる手 腕《しゆわん》を振《ふる》うたのは斎藤修一郎《さいとうしゆうろう》であった。その彼が奇略縦横《きりゃくじゆうおう》の異彩は帝国党《ていこくとう》の組織に晃《こうこう》々たる物 であったが、間《ま》もなく彼は小疵《しようし》全毒の身となりて政界を去るの止むなきに至りしは庵主等《あんしゆら》の |今《いま》なお遺憾《いかん》とするところである。然れ共千|磨《ま》が深慮容易《しんりよようい》に再び帝国党《ていこくとう》の牙籌《がちゆう》に参《さん》せざりしは 故こそあらんと見る中《うち》に、帝国党《ていこくとう》は山県内閣《やまがたないかく》の幕僚《ばくりよう》と結託《けつたく》し終に、 『我党は現内閣と主義を同うする者なり』 と宣言《せスげん》するに至ったので千|磨《ま》は手を打ってその予期《よき》の的中を笑っていたのであった。それよ り山県内閣《やまがたないかく》は新進多策《しんしんたさく》の閣員《かくいん》を包容《ほうよう》せるを得意《とくい》として、盛《さか》んに無報酬《むほうしゆう》の忠義党《ちゆうぎとう》を誘拐《ゆうかい》してい たが、俄然《がぜん》として清国《しんこく》に団匪《だんぴ》の乱《らん》の勃興《ぼつこう》するに遭遇《そうぐう》し数次|接衝《せつしよう》を重《かさ》ねて終に出兵《しゆつべい》するに到っ たが、この時|早《はや》く彼《か》の時遅《ときおそ》く、伊藤侯《いとうこう》は満《まん》を持するの期熟《きじゆく》して大政党《だいせいとう》の組織に着手し、政友 会《せいゆうかい》の出現と共に見る間に山県内閣《やまがたないかく》を十重二十重《とえはたえ》に追取捲《おつとりま》き、その出兵《しゆつべい》の糧道《りようどう》を絶《た》ったので、 さしも得意《とくい》なりし山県内閣《やまがたないかく》もたちまちに瓦解《がかい》してしもうたのである。  これよりさき伊藤侯《いとうこう》が板隈内閣《はんわいないかく》に政権を渡して骸骨《がいこつ》を乞《こ》うや、直《ただち》に渡清《としん》の企《くわだて》を為《な》し板隈 内閣《はんわいないかノモ》の瓦解《がかい》する頃|侯《こう》は清国《しんこく》よりの帰途下《きとしも》の関《せき》に着《つ》いた、この時千|磨《ま》は庵主《あんしゆ》に向ってかく謂《い》う た。 『杉山《すぎゃま》よ君《きみ》は伊藤侯《いとうこう》と深交《しんこう》あり、これより君単身下《きみたんしんしも》の関《せき》に至り伊藤侯に面曙《めんご》し左《さ》の政策《せいさく》を説《と》 いては如何《いかん》』 『侯《こう》の帰朝《きちよう》は定《さだ》めて、朝廷《ちようてい》の召電即《しようでん》ち政局御下問《せいきよくごかもん》の為《た》めなるべし、果して然らばこの勅問《ちよくもん》に |奉答《ほうとう》せらるる筋合《すじあい》は決《けつ》してこの政権《せいけん》を他に移動せしめず、是非板隈《ぜひはんわい》をして引起し引起し足腰 立《あしこした》たざるまで政局に当《あた》らしむるを帝国《ていこく》の慶事《けいじ》と思われたし、その訳《わけ》は彼等板隈《かれらはんわい》は維新《いしん》以来二 十幾年他の政局の前面に横《よこた》わり衆愚《しゆぐ》を集めて勢力と称《しよう》し、暴理《ぽうり》を叫《さけ》んで政論《せいろん》を唱《とな》え、事《じじ》々|物《ぷつぷつ》々 |鼕轂《れんこく》の下《もと》に踏反返《ふんぞりかえ》って政治《せいじ》の講釈《こうしやく》をした者である。今両人が政局《せいきよく》に当《あた》るや成立《せいりつ》三|月《つき》ならずし て内訌《ないこう》一日の寧《ねい》なく、たちまちにして瓦解《がかい》の運命となる。これ蓋《けだ》し彼等が既往《きおう》の歴史に対し 決して無罪《むざい》にて放免《ほうめん》すべきの事に非ず、故に引起《ひきおこ》し鞭撻《べんたつ》してその責《せめ》に任ぜしめ、いよいよ以  た   あた              まんてんか   めんぜん  ひきだ   なんじら      ざま                       ば り て起つ能わざるに至らば満天下の面前に引出し汝等はこの態を以て三十年他人の政治を罵詈 したか、この態《ざま》を以て他人の政治を妨害《ぽうがい》したか、もし起《た》つ能《あた》わずんば従来の無礼《ぶれい》を国家国民《こつかこくみん》 に謝《しや》せよ、然らずんば起って再び時局《じきよく》を燮理《しようり》すべし。二つながら不可能《ふかのう》ならば速《すみやか》に手を牽《ひ》 いて遠く政治界《せいじかい》を脱《だつ》して陛下《へいか》に前罪《ぜんざい》を謝《しや》すべしと云うに至るまで、勅問《ちよくもん》に奉答《ほうとう》してはいけな い。この故に、陛下《へいか》に対《たい》し奉《たてまつ》りては彼等《かれら》は政治上の先輩《せんぱい》にして、私共|後輩《こうはい》の者が微力聖鑑《びれノよくせいかん》 を辱《はずかし》め、ともかく今日《こんにち》まで奉仕致《ほうしいたし》たるを不断常住民間《ふだんじようじゆうみんかん》にあって政治の指南講釈《しなんこうしやく》を致たる先 覚《せんかく》にてござりまする故、今回の失墜《しつつい》は全くの過失《かしつ》と存《ぞんじ》まする。故に捧呈《ほうてい》の辞表はこのままに お下被遊《さげあそばされ》徹底的彼等の政治技量《せいじぎりよう》の限《かぎり》を奉尽致《ほうじんいた》す様御下命被遊候《ようごかめいあそばされそうろう》が宜敷《よろし》と存《ぞんじ》まする。その上 |絶対《ぜつたい》に御受《おう》け不可能の場合にはさらにまた御下問《ごかもん》に奉答申上《ほうとうもうしあげ》る場合もござります。何様《なにさま》この ままに辞表御聴許被為在候《じひようおききずみあらせられそうろう》ては、この後継《こうけい》として御奉公仕《ごほうこうつかまつ》る者共《ものども》が一入《ひとしお》の困難と存《ぞんじ》まする 故、この間叡慮《かんえいりよ》の程偏《ほどひとえ》に奉願上《ねがいあげたてまつる》』と奉答《ほうとう》せらるるが宜《よ》いと思うとこの際|逸早《いちはや》く冷飯《ひやめし》を一|杯 喰《ぱいく》わせて置《お》け、もし伊藤侯《いとうこう》がこの呼吸を了得《りようとく》したならば力を労せずしてこの大政党《だいせいとう》を撲滅《ぽくめつ》し、 |伊藤侯等《いとうこうら》が維新《いしん》以来の功績《こうせき》もいよいよ顕著《けんちよ》となるを得《う》べし。かつまた藩閥《はんばつ》に勝利《しようり》を得《え》せしむ るは、政党《せいとう》に勝利《しようり》を得《え》せしむるよりも憲政《けんせい》のために効果多きを認識《みとむる》のである』 云《うんぬん》々と説《と》かれたので、庵主《あんしゆ》は直ちに下《しも》の関《せさ》に馳《は》せ下《くだ》り、悠《ゆうゆう》々|自適《じてさ》の伊藤侯《いとうこう》をこの筆法《ひつぽう》にて説《と》 いたらば侯曰《こういわ》く、 『僕は永年君から色々の忠言《ちゆうげん》を聞いたがこ0位適切《くらいてきせつ》なる妙策《みようさく》を聞いた事はない早速帰京し てその策《さく》を試《こころ》むべし』 と快諾《かいだく》せられたが、侯《こう》が帰京《ききよう》せし時は山県侯《やまがたこう》は既《すで》に参内《さんだい》し、略内閣《ほぽないかく》の組織《そしき》が成《な》っていた時で あったのでこの千|磨《ま》の妙案《みようあん》は実現はしなかったが、千|磨《ま》がその機略《きりやく》に敏《びん》なる事は大抵《たいてい》かくの ごときものであった。 六十五 |胸底深《きようていふか》く畳《たた》んだ一|大秘事《だいひじ》   坎珂の少女道途に泣き、潔操の縫師二男を斥く  庵主《あんしゆ》は千|磨《ま》と極懇意《ごくこんい》ではあったが、彼と寝食《しんしよく》を共にし、暮した事は生涯《しようがい》を通算して極短時 日《ごくたんじじつ》で庵主《あんしゆ》の方が、東西南北《とうざいなんぽく》と瓢零《ひようれい》を極めていたからである。第一|洋行《ようこう》を四回もし、日本《にほん》にあ りても多くは、東西《とうざい》に奔走《ほんそう》ばかりしていて、東京《とうきよう》はただその本拠《ほんきよ》たるに過ぎなかった。ある 時千|磨《ま》は庵主《あんしゆ》の郷里福岡《きようりふくおか》に来て、永《なが》く遊んでいた事があった。その頃ふと庵主《あんしゆ》が福岡に帰っ たので、久振《ひさしぶ》りの邂遁《かいこう》故、一日の閑《ひま》を愉《ぬす》み、福岡より三四里ある武蔵《むさし》と云う温泉に行って、 物静かなる田舎宿《いなかやど》に共に枕《まくら》を並べて、一|夜《や》の歓談《かんだん》を尽《つく》した。その時千|磨《ま》が幼少の時の回顧談《かいこだん》 を初めたので、とうとう暁《あかつき》を徹《てつ》した事がある。いまその咄《はなし》の記憶《きおく》にある事だけを辿《たど》りて、 ぽつぽつと書いておこうと思う。これ等は彼の秘話《ひわ》にして、千|磨《ま》の死と庵主《あんしゆ》の死と共に灌滅《いんめつ》 するからである。以下総て千|磨《ま》の咄《はなし》を綴《つづ》るが、彼の性情《せいじよう》はその中《うち》にまた躍如《ゃくじよ》たる物がある。  千|磨《ま》が壮年《そうねん》の時に、金沢《かなざわ》の池田町《いけだまち》と云う処を通行していたら、いかなる人の娘か知らぬが、 年頃十一二位に見ゆるが、悲鳴《ひめい》を上げて小さき横町《よこちよう》から駈《か》け出して逃げる。その後《あと》から二人 の男女が棍棒《こんぽう》のような物を持って追掛《おいか》けて来たので、その小娘《こむすめ》が恐怖《きようふ》に恐怖を加えて、足も しどろに走っていたが、その大路《おおじ》の真中《まんなか》で蹉《つまず》き倒れた。それを彼《か》の二人は追縋《おいすが》りて、あわや |棍棒《こんぽう》で打たんとした。そこへ千|磨《ま》が通り掛ったので、見るに忍びず直ぐにその二人を押止《おしとど》め た。それからその理由を聞けば、この小娘《こむすめ》が金を盗《ぬす》んだとの事で、打懲《うちこら》さんとしたのである。  元来この二人の男女は、その裏横町《うらよこちよう》に小商《こあきな》いをしている者で名《な》を平次郎《へいじろう》と呼び、その小娘《こむすめ》 は金沢在《かなざわざい》の長江郷《ながえごう》と云う所の郷士多木庄右衛門《ごうしたさしようえもん》の娘であったが、この多木《たき》一家の不幸は、し きりに累積《るいせき》して、この娘が四歳の時、父母には死別れ、一人の兄は敦賀《つるが》より外国船の船員と なりて、行衛不明《ゆくえふめい》となり、伯父《おじ》なる者が強欲《ごうよく》にて、家財全部を横領《おうりよう》し、この娘が十一歳の時、 |人入《ひとい》れ屋《や》に頼《たの》んで、金沢のこの家に奉公《ほうこう》に入れその跡《あと》は財産全部を売払《うりはろ》うて、神戸《こうべ》に全家引 越《ぜんかひつこし》てしもうたとの事。これは後《のち》に千|磨《ま》が聞いた咄《はなし》であるが、千|磨《ま》はまず取敢《とりあ》えずその男女の 二人を取押《とりおさ》えて、その理由を聞き、ともかくもその附近の知り人の家に連行《つれゆ》き(この千|磨《ま》の 知人の名を忘れた)、その小娘にも聞糾《ききただ》したが素《もと》よりかかる小娘に蓄《たくわ》えの金銭等有るはずもな く、また衣服や管《かんざし》などを買《こ》うた形跡《けいせき》もなき故、だんだんその娘を慰《なぐさ》めて聞糾《ききただ》して見ると、 その家に歳十三になる腕白息子《わんぱくむすこ》があった。この夫婦の者の愛子《まなご》で、常不断甘《つねふだんあま》やかしてばかり 育てているため、だんだんに増長《ぞうちよう》して、常に両親の目隙《めすき》を窺《うかが》い、店の金銭《きんせん》を盗《ぬす》み、それをこ の小娘《こむずめ》に磨《なす》り付けるので、この娘はこの夫婦《ふうふ》にしばしば殴打鄰《うちちようちやく》せられ、その近所の者も、皆 この夫婦の非道《ひどう》に爪弾《つまはじ》きをせぬはないとの事を知り、千|磨《ま》は余《あま》りの不憫《ふびん》さに耐《た》え兼《か》ね、自身 その家へ出掛けて行って、その息子《むすこ》なども取縛《とつち》めたら、直ぐに自白《じはく》したのでその可憐《かれん》の娘の |冤罪《えんざい》はたちまちに霽《は》れたので、千|磨《ま》はその知人と相談をして、この小娘を貰い受け、その知 人がまた曝世《こうせい》の義人《ぎじん》なので、これを十四歳まで育て上げて、相当の教育を施《ほどこ》したとの事であ る。  この娘は名は千世《ちせ》と云《い》うて、だんだんと成長するに従《したが》って、人並み超えた崇高《すうこう》の品格《ひんかく》を備《そな》 えた女となったのである。左《さ》なきだに、寄《よ》り縋《すが》りなき郭公《ほととぎす》、他《あだ》し靖《ねぐら》の育《はぐく》みに長《ひと》となりたる娘 故、肌温《はだあたたか》き父母《ちちはは》の、慈悲《じひ》も知《し》らぬ身《み》ながらに、享《う》けたる血筋《ちすじ》の正《ただ》しくて、人《ひと》の情《なさ》けの身《み》に や染《し》む、養《ゃしな》い親《おや》への孝行《こうこう》も、人《ひと》の目《め》を引《ひ》くばかりにて、ただ頼母敷誰人《たのもしくたれひと》も、末《すえ》の望《のぞ》みを神《かみ》か けて、祈《いの》らぬ者《もの》もない位《くらい》であったが、その中《うち》千|磨《ま》は政治狂|慷慨病《こうがいびよう》と云う疾患《しつかん》に取付かれ、血 気に任せ東西に奔迷《ほんめい》のみする身となったので、この千世女《ちせじよ》の消息《しようそく》なども、格別《かくべつ》知らずに暮ら していたが、その後|千世女《ちせじよ》を養《やしの》うたその千|磨《ま》の知人某は、この千世女《ちせじよ》が十六歳の時、仮初《かりそめ》の 病にて幾多《いくた》の思いを置土産儚《おきみやげはか》なく一人黄泉《ひとりこうせん》の客となった、それより一家は俄《にわ》かに淪落《りんらく》の淵《ふち》に |陥《お》ちて、とうとう千世女《ちせじよ》は越前敦賀《えちぜんつるが》の鉄道技師井村某《てつどうぎしいむらぽう》に貰《もら》われてその悴《せがれ》の妻となったとの事 であ.る。  名庭江《なにわえ》の、短《みじ》かき葦《あし》の節《ふし》の間《ま》も、我身《わがみ》に掛《かか》る災禍《まがつみ》の、奇《くし》き悲運《ひうん》に榮《まつ》わりて、幼《いとけ》なきより父 母《ちちはは》と、家《いえ》と兄《あに》とを失《うしな》いて、残《のこ》れる伯父《おじ》は深山守《みやまも》る、鬼《おに》にも勝《まさ》る心《こころ》にて、血《ち》を吸《す》うよりも恐《おそ》ろ しく、まだ花《はな》もなき女郎花《おみなえし》、若芽《わかめ》のままに人買《ひとかい》に、衝《ちまた》の塵《ちり》と捨《す》てさせて、身《み》を潜《かく》したる挙動《ふるまい》 に、羽《はね》を折《お》られたる小雀《こすずめ》が、真鷹《またか》の藪《やぶ》に入《い》る如《ごと》く、声《こえ》をも立《た》てず泣《な》き暮《くら》し、暁《あかつき》さそう東風《こちかぜ》に、 |旭《あさひ》の影《かげ》と唯頼《ただたの》む、人《ひと》の情《なさけ》に拾《ひろ》われて、人並《ひとなみなみ》々に立習《たちなら》う、浮世《うきよ》の風《かぜ》に交《まじ》わりて、暮《くら》す間《ま》もなく また更《さら》に、養《やしな》い親《おや》に死別《しにわか》れ、其悲《そのかなし》みと歎《なげ》きとに、涙《なみだ》の乾《かわ》く隙《ひま》もなく、年《とし》さえ未《いま》だ十六夜《いざよい》の、 |道暗《みちくら》き身《み》を人妻《ひとづま》に、嫁《とつ》ぐも辛《つら》き嫁心《よめごころ》、揖《かじ》なき舟《ふね》の海上《うなづら》を、漂《ただよ》う思《おも》いでいたのである。  然《しか》るにこの千世女《ちせじよ》の夫となりたる人は、名を辰雄《たつお》と呼んで郷村《きようそん》の学校にても、学業好成績 の性《さが》なりしが、学校の体操運動《たいそううんどう》にて怪我《けが》を為《な》し、右手を折りて不自由の身となり、医療の数々 を尽《つく》せど、田舎《いなか》の事とて終には大阪病院にて肩口《かたぐち》より切断《せつだん》する事となったので廃学《はいがく》の止《や》むな きに至ったが、その妻たる千世女《ちせじよ》との愛情《あいじよう》は、もっとも濃《こま》やかであったとの事である。姑《しゆうとめ》 は多病の質《たち》であったが、千世女《ちせじよ》が二十《はたち》の春《はる》に永眠《みまか》り、父《ちち》なる人は多く職務上の旅行ばかりで、 家に在《あ》らざりしが、彼の有名なる敦賀《つるが》トンネル開鑿中《かいさくちゆう》、岩石崩壊《がんせきほうかい》の犠牲者《ぎせいしや》となったのである。 ここに於て家に残るは夫たる廃疾《はいしつ》の辰雄《たつお》のみとなったが、何様働《なにさまはたら》き人《て》の父を失い、若夫婦ば` かりにて、為す事もなく暮している中《うち》、貯えの家財もだんだん乏《とぽ》しく成《な》り果《は》てしより、千世 女《ちせじよ》は甲斐《かいが》々々|敷《いしく》も立働き、人仕事|賃稼《ちんかせ》ぎ等にて、微《かす》かに煙《けむり》を立てている中《うち》、夫|辰雄《たつお》ははげし き肺患《はいかん》に罹《かか》り、三年の後また終に帰えらぬ人となったのである。  この時は丁度|千世女《ちせじよ》二十三歳の春であった。ここに至って千世女は便《たよ》り渚《なぎさ》の捨小舟《すておぷね》、また もや浪荒《なみあら》き浮世《うきよ》に行吟《さまよ》う事《こと》になり、終《つい》に舅《しゆうと》の懇意《こんい》なりし、大阪の土木請負業川部正《どぽくうけおいざようかわべしよう》三|郎《ろう》と 云う人に引取られて、世話《せわ》せられ、この間《かん》いかなる筋合になったか、庵主記憶《あんしゆきおく》を逸《いつ》したが、 この井村千世女《いむらちせじよ》は大阪の北堀江《きたほりえ》にて、芸娼妓《げいしようざ》の衣類仕立《いるいしたて》の業《わざ》を始め、多くの女弟子と共に、 |裁縫刺繍《さいほうししゆう》の職に従事したのである。その頃大阪|南安治川《みなみあじがわ》の侠商《きようしよう》、西井直二郎《にしいなおじろう》と云える者の妾 お栄《えい》なる芸妓《げいぎ》の紹介にて、千|磨《ま》がはからずもこの千世女に面会し、十幾年間と相見ざる、疎 遠《そえん》の間柄《あいだがら》にふとその面顔《おもかげ》に見覚あって名乗合い、千世女は命《いのち》の恩人《おんじん》なりとて、千|磨《ま》に心の有《あり》 たけを尽《つく》し、千|磨《ま》も世《よ》に類なき貞女烈婦《ていじよれつぷ》なりとて尊敬《そんけい》をせしが、素《もと》よりこの千世女《ちせじよ》はその家 系《かけい》と云い、気立《きだ》てと云い、また云い得《え》られぬ人世《じんせい》の悲惨《ひさん》を嘗《な》め来《きた》りたる人故、最早《もはや》女心の念《おも》 いに絶《た》え、仆《たお》れたる心など微塵《みじん》もなく、千尋《ちひろ》の崖《がけ》の磯馴松《そなれまつ》、湛《たた》うる色《いろ》を愛《めず》るのみ、近寄《ちかよ》る道《すべ》 も無《な》かったが、千|磨《ま》は心の底の一|大秘密事《だいひみつじ》として、耐え得《え》られぬ程《ほど》思いに悩《なや》んでいたとの事、 |庵主《あんしゆ》は千|磨《ま》にこの咄《はなし》を聞いた時、 『君《きみ》は有名な独棲家《どくせいか》であるが、なぜ正当な厳礼《げんれい》を尽《つく》して、その千世女《ちせじよ》を妻君《さいくん》に貰わぬか』 と云うたら、千|磨《ま》のこの答えが千|磨式《ましき》にて振っているので、庵主《あんしゆ》が永年《ながねん》その言《ことぱ》に尊敬《そんけい》を表し て千|磨《ま》が死に至るまで改《あらた》めなかったのである。千|磨曰《まいわ》く、 『それはいかん、俺《おれ》は道楽者《どうらくもの》ではあるが、もしそんな事を仕《し》たならば、千|磨《ま》が根本的にこの 世の中から消滅《しようめつ》してしまうのである。俺は君等《きみら》の如き先天的の豪傑《ごうけつ》ではないから、俺は俺だ け相当の覚悟《かくご》を持っておらねばならぬ。そもそも俺は国事《こくじ》に志《こころざし》を立てたその時に、家を持 つまい繋累《けいるい》を栫《こしら》えまいと堅く決心をした。なぜなれば、何時《いつ》にてもそれ鎌倉《かまくら》と云う時には、 |素裸《すつぱだか》で即時に飛び出し、決して人に後れを取らぬようにするには凡夫《ぽんぷ》の我々は、繋累《けいるい》があっ ては万一を恐れねばならぬ、故に俺が国事を断念《だんねん》せぬ限りは、一生|宿屋住居《やどやずまい》である、一|生無 妻《しようむさい》である、この心は生涯決《しようがいけつ》して改めぬつもりである。それにもしあの千世女《ちせじよ》でも妻に迎える ように成った時は、俺が国事を断念した事である。殊にあの女性は、俺が幼少の時助けた人 である。世話をした人である。それに彼《かれ》が如き潔操《けっそう》の女性であるから、世《よ》に立身《りつしん》の見込《みこみ》なき 我々|浪客《ろうかく》の決して弄《もてあそ》ぶべき女性ではない。しかし俺が世に在る間は、その可憐《かれん》の性質《せいしつ》と潔 操《けつそう》の気性《きしよう》とを忘るる事が出来ぬ故、長く心の楽として暮しているのである』 と云うていた。千|磨《ま》は男子たる者の国事に処するの味と、男子たる者が女性に対するの味と を、併《あわ》せて知っていた人である。庵主《あんしゆ》は常に心からこの点を尊敬《そんけい》していたのである。果《はた》せる |哉《かな》千|磨《ま》が生涯はかなり多難《たなん》であった。多岐《たき》であった。窮追時《きゆうはくとき》なく、顕幽盈虚《けんゆうえいきよ》しばらくも一定 しなかったが、この筑前武蔵《ちくぜんむさし》の温泉宿《おんせんやど》で為《な》した、夜咄《よばなし》の一|言《こと》だけは、生涯《しようがい》を貫《つらぬ》いて大正十一 年九月廿七日、六十八歳を一|期《ご》として東京芝区明舟町鳥羽館《とうきようしばくあけふねちようとばかん》の一室で永眠《えいみん》するまで、少しも その心の色を変えなかったのである。この点に付いて千|磨《ま》は、真《しん》に終始《しゆうし》ある豪傑《ごうけつ》であった事 を、庵主《あんしゆ》は臆面《おくめん》もなく断言《だんげん》するのである。  それから後ち、彼《か》の千世女《ちせじよ》を千|磨《ま》が心の友として、庵主《あんしゆ》に紹介《しようかい》したるは、何でも明治二十 七八年の頃であったと思う。その時千世女は、大阪天王寺《おおさかてんのうじ》の片辺《かたほと》りに居住《すまい》し、見るから縦長 い家屋に、女学校のように女の子が三四十人ばかりも裁縫《さいほう》の稽古《けいこ》に来ていたが、多くは大阪 富豪の子女《しじよ》などであるとの事であった。また千世女の容貌《きりよう》は、決して異彩異風《いさいいふう》などを衒《てら》わず、 全く尋常《じんじよう》な大阪風で、丸髭《まるまげ》に鉄漿《かね》を含《つ》けて、年頃三十二三に見える年増盛《としまざか》りでは有《あ》ったが、 並より大柄の女性で色の白き、最も威厳《いげん》に富んだ顔附で、そのまた物云《ものい》い挙動《ふるまい》には云い得ら れぬ優雅《しとやか》な風姿《ふうし》のある女性であった。この人が十一歳の時、加賀《かが》の金沢《かなざわ》で小商人《こあきんど》の夫婦の者 に、殴打鄰《うちちようちやく》までされる程の艱難《かんなん》を嘗《な》めた人であるとは思えぬ程、少しも憔悴枯燥気《しようすいこそうげ》のない、 生き生きとした女性であった。如何様幼少《いかさまようしよう》の時、この女性の九|死《し》を助けて生育《せいいく》を助けた千|磨《ま》 が、この人と交際をし、却《かえ》って己《おの》れを正《せい》に帰して、生涯《しようがい》の想懐《そうかい》にのみ止《と》めたのも、決して無 理では無いと思わせたのである。庵主《あんしゆ》はこの時彼の云うた声が、今なお耳に新たなるのであ る。千|磨《ま》が最《い》と厳《おごそ》かに、 『この人は筑前福岡《ちくぜんふくおか》の杉山茂丸《すぎやましげまる》と云う人であります。年若《としわか》では有《あり》ますが、僕の無二の親友《しんゆう》で あります。未《いま》だ一|人《にん》も貴女《あなた》に人を御紹介《ごしようかい》申した事はございませんが、この人には先年《せんねん》福岡で、 |貴女《あなた》め事をはからず咄《はなし》ました事がございましたが、幸い今日《こんにち》この近所まで来ましたから、序《ついで》 ながら御引合申《おひきあわせもうし》ます。どうか、心置きなくお交際下《つきあいくだ》さい』 と云うたので、庵主《あんしゆ》もそれ相当《そうとう》の挨拶《あいさつ》をしたから彼女はずるずると身を退《しりぞ》けて、丁寧《ていねい》に辞儀《じぎ》 をしてかく云うた。 『恩人広瀬様《おんじんひろせさま》のお引合せで、始めましてお目通りを致ます。妾《わたくし》は井村千世《いむらちせ》と申ます不束者《ふつつかもの》で ございます。爾後《こんご》お心にお留め下さるようの者ではござりませぬ。能《よ》くこそお出下《いでくだ》さいまし たむ取散《とりちら》した女暮《おんなぐら》しに思いも寄りませぬ殿方《とのがた》のお越《こ》しお恥《はず》かしくてお詫《わび》の致様《いたしよう》もござりませ ぬ。只管有《ひたすらあり》がとう存《ぞんじ》ます。広瀬様《ひろせさま》には久敷《ひさしく》お目に掛りませなんだがますますお変りもござり ませず、御盛《ごさか》んの御様子《ごようす》何よりお嬉《うれ》しく存《ぞんじ》まする。始終《しじゆう》お尋《たず》ねとも存《ぞんじ》ますれど、相変らずお |忙《いそ》がしいかして、時折新聞などで拝見《はいけん》致ましても、多くはお所も分りませず、存《ぞん》じ暮《くら》すばか りでござりました、どうか幾重《いくえ》にもお許を願上ます。今日《こんにち》はまた不束《ふつつか》な妾《わたし》を人《ひと》ケ間敷《ましく》、御親《ごしん》 友《ゆう》の杉山様《すざやまさま》をお引合せ下さいまして、女で思召《おぽしめし》の程は分りませぬが、ただただ有がとう存《ぞんじ》ま する。妾《わたし》もお蔭様《かげさま》で御覧《ごらん》の通りの女暮しで、兎《と》や角《かく》致しておりますれば、御恩《ごおん》の程《ほど》は決して |忘却致《ぽうきゃく》ませぬが、この後《ご》とても妾《わたし》の事だけは、世《よ》にお忙《いそ》がしい御身《おんみ》でどうか決してお心に掛《か》 けられぬように願上ます。ああ丁度|好時《よいとき》にお出《いで》になりました。妾《わたし》の余手《あまりて》でお不断着《ふだんぎ》のお羽織《はおり》 を一ツ栫《こしら》えて置《おき》ましたが、お届け申上る先《さき》も分りませず、仕舞込《しまいこ》んで暮しておりました。こ れとても手余りの零《こぽ》れ物《もの》で持《こしら》えましたので、お恥《はず》かしくてお着《め》しを願うも恐れ入ますが、小 鳥《ことり》が盈褸《つづれ》の巣《す》をとも思召《おぽしめし》て、ただの一度のお着《め》し捨《すて》にでも為《な》さって下さいましたら、如何《いか》ば かりか有《あり》がとう存上《ぞんじあげ》ます』 と云うて、箪笥《たんす》から、畳紙《たとう》を開いて出したのが大島紬《おおしまつむぎ》の綿入羽織《わたいればおり》、見るから尾羽打枯《おはうちか》らした 千|磨《ま》の着て居る、お召縮緬《めしちりめん》の垢染《あかじ》みた羽織《はおり》と着替《きか》えさせたが、その中千世女《うちちせじよ》の駒《めく》ばせで年嵩《としかさ》 の女弟子が、茶と菓子とを持運《もちはこ》んだが、庵主《あんしゆ》もまた千|磨《ま》に殉《めく》ばせて、早々にこの家《 や》を逃げ出 し、表へ出てほっと一と息|吐《つ》いた。 『広瀬《ひろせ》何だこの態《ざま》は、飛んでもない所に連れて来て、大《だい》の男が二人まで息《いき》の根《ね》も止まるほど 云いまくられて、詞《ことば》の先で摘《つま》み出《だ》されたでないか。あの女は慥《たしか》に貴様《きさま》や俺共《おれども》よりも、五六枚 |上手《うわて》の代物《しろもの》であるぞ。日本国中の津《つづ》々|浦《うらうら》々まで、人らしい人には大概交際《たいがいこうさい》をして来て、未《ま》だ そう手酷《てひど》い後《おく》れを一度も取らぬ野郎《やろう》が、一人ならず二人まで、かくもこっびどく遣付《やつつ》けられ て、人に顔向けが出来るか。あの女の外交辞令《がいこうじれい》に対抗し得るような外交官は、今の政府など には一|人《にん》もおらぬぞ。俺《おれ》は三十|男貴様《おとこきさま》は四十男で、ぐうの音《ね》も出されぬとは情けないでない か、『何が恩人だ』『何が親友だ』、『何が生涯心の楽《たのしみ》だ』貴様《きさま》や俺《おれ》はあの女の鼻糞《はなくそ》も嘗《な》めら れぬぞ。今時《いまどき》の岸田俊《きしだしゆん》や、影山《かげやま》えいのような女演舌遣《おんなえんぜつつか》いなどは、尻《けつ》をひん捲《まく》って、薪《まき》ざっぽ うでぶん梛《な》ぐっても、ぐうとも云わせぬ程のこの乱暴者《らんぽうもの》を二人まで向《むこう》え廻して、爾後《じご》お目《め》を |留《と》めて下《くだ》さるな。また『女暮しの所に男の癖《くせ》にのそのそ何で来た馬鹿者《ばかもの》』また『思召《おぼしめし》の程は 分らぬが、何で親友などと云うてこんな野郎《やろう》を紹介《しようかい》したか』『御恩《ごおん》の程《ほど》は忘れてはおらぬ、妾《わたし》 はこうしてチャンと喰って暮しているから、いろんな事を夢見て訳の分らぬ、知らない男な どを連れて来る事はならぬぞ、羽織《はおり》一|枚遣《まいや》るから早く着てさっさっと帰れ、馬鹿野郎《ばかやろう》』とい わぬばかりの言分《いいぶん》には実に驚《おどろ》いたよ、そうしてこれだけの事を云廻《いいまわ》した澱《よど》みなきあの詞遣《ことぱづか》い と云ったら、何と云う甘《うま》い物であろう。「丸《まる》で真綿《まわた》で首《くび》、牡丹餅《ぽたもち》に針《はり》」であったぞ』 と云うたら、千|磨《ま》は道《みち》の半町《はんちよう》も歩行《ある》く間押黙《あいだおしだま》っていたが、ようやくに口を開いた。 『俺も一通りの女とは思わなかったので、用心はしていたが、あれ程であろうとは思わなかっ た、「女心の巾《はば》を捨《す》てて、腸《はらわた》を洗《あろ》うた女」と云う者は、その徹底《てつてい》さ加減《かげん》は禅学《ぜんがく》以上である。 もう俺《おれ》もうっかり二度とはあの家に行《ゆ》かれぬ。これから行《ゆ》けば犬の喧嘩《けんか》と同じ事で、ううと |唸《うな》られても、大警戒《だいけいかい》のびくびく物じゃ、また多少の復儺心《ふくしゆうしん》などを持って出掛けて見ても、あ の権幕言廻方《けんまくいいまわしかた》とあの優雅《しとやか》な態度《たいど》では、この上|踏《ふん》だり蹴《けつ》たりされた上に、糞《くそ》まで喰《く》わされるか も知れぬ、俺《おれ》は今日限り恩人《おんじん》は廃業《はいぎよう》だ』 と云うて、後悔懴悔《こうかいざんげ》をした事があったが、両人共《りようにんとも》これは生涯《しようがい》の大恥辱《だいちじよく》であるから、三十幾年 間双方共ついに口外せぬ大秘密《だいひみつ》であった。 六十六 |星亨氏《ほしとおるし》の乾分《こぶん》を威嚇《いかく》す   怒濤翻って軽舟を弄び、万死を免れて一侠を得たり  千|磨《ま》の物語の中に、最《もう》一つ庵主《あんしゆ》も、関係した面白き事があった。  千|磨《ま》が壮年《そうねん》の頃、郷里金沢《さようりかなざわ》を脱《だつ》して東京《とうきよう》に行く時、周囲《しゆうい》の警戒《けいかい》が厳重《げんじゆう》なので、伏木港《ふしきみなと》に出《い》 で、漁船《ざよせん》を傭《やと》うて晩風《ばんぷう》に帆《ほ》を上げ新潟《にいがた》に向ったところが、その夜の一時半頃から、強烈《きようれつ》な西 風《にしかぜ》に煽《あお》られ、名にしおう北海《ほつかい》の狂欄怒濤《きようらんどとう》に揉《も》み立《たて》られて、笹葉《ささは》の如き漁船は、見る間に処《しょしよ》々 に損所《そんしよ》を生じ、糅《か》てて加えて天運《てんうん》ここに尽《つ》きたか、その船頭《せんどう》が癲癇持《てんかんも》ちであった為め、全部 |帆舵《ほかじ》の操縦《そうじゆう》を放棄《ほうき》したので、万に一つも生きる余地《よち》は無い事になったのである。千|磨《ま》はまた |天性《てんせい》船に弱く、その以前から精神已《せいしんすで》に朦艤《もうろう》となり、運を天に任《まか》せて、両人共船中に昏倒《こんとう》して いたら、翌未明《よくみめい》に佐渡《さど》の夷港《えぴすみなと》に碇泊《ていはく》していた大盛丸《たいせいまる》と云う小蒸気船《こじようさせん》が、遥《はる》かの沖合《おきあい》に、一|艘《そう》 の漁船が、田舎者《いなかもの》が越中褌《えつちゆうふんどし》を乾《ほ》したように樒《ほぱしら》の上に帆《ほ》ばかりちらちらするを見付け、難 破船《なんぱせん》に相違《そうい》ないと、港内の救護班《きゆうごはん》に通知して、共《ともども》々に力を添え漕付《こぎつ》けてくれたので見ると二 人の男が海水に浸って、仰向《あおむ》けに臥《ね》ていた、やっと救い上げられ、十日間ばかり手当《てあて》を受け た後、人心地《ひとごこち》になって全快したので、千|磨《ま》はその船頭《せんどう》と協議《きようぎ》を始めた。 『義助《ぎすけ》(船頭の名)お前も俺も、何の天縁《てんえん》か、かく万死《ばんし》に一生を得《え》た以上は、この後《ご》の生命《いのち》 を無《な》い物《もの》と思うて腹《はら》一|杯《ぱい》思う存分《ぞんぷん》の事を遣《や》って死《しの》うではないか』 『私も臚踝《かかあ》には死なれ、子供はなし、生地《うまれ》が信州《しんしゆう》であるから、伏木《ふしき》には別に親類とてもなく、 心に掛る事は一つもない。船は借り物、伏木《ふしき》に帰れば借金《しやつきん》もある事故|旦那《だんな》が供に連れてくれ るなら、命限《いのちかぎ》り遣《や》りましょう。私は何にも覚えた事はないが、酒を飲むのと、喧嘩《けんか》をするの だけは、人に後れを取った事がない。ただ困《こま》るのは昨年からふと癲癇《てんかん》が起りて、時々はっと 思うて、引鑾《ひきつり》やす、それさえ不承《ふしよう》して下されば、腹《はら》一|杯御奉公《ぱいごほうこう》を致しやす』  千|磨《ま》は咄《はなし》を聞いて驚いた。 『人間それだけの芸があれば立派《りつぱ》な物じゃ、大酒を飲んで、喧嘩《けんか》をして、時々|癲癇《てんかん》を起して、 その他に何も人間の道を知らぬと来たら、一寸俺以上の快男児《かいだんじ》である。それなら俺も云うて おくが俺はまたお前の病気の幾層倍《いくそうぱい》にも勝《まさ》る国家病《こつかびよう》と云う大病《たいびよう》があるから』 『旦那《だんな》その国家病《こつかぴよう》と云う病気は、どんな病気でごわすか、命にでも掛る病気でごわすか』 『命に掛るどころではない、その命《いのち》が元手《もとで》じゃ、まず家を忘れ、身を忘れ、かねて無《な》き身と |覚悟《かくご》して、人の懐《ふとこ》ろを当《あて》に、世の為め人の為にばかり働くのじゃ、毎日|無勘定《むかんじよう》と云う十露盤《そろばん》 を持って、駈《か》け廻《まわ》る病気じゃ』 『それじゃ旦那漁夫《だんなりようし》と云う商売《しようぱい》と同じような物じゃなあ、板子《いたご》一|枚《まい》を便《たよ》りとして、海の上を |駈《か》け廻《まわ》ると同じようで、それは病気じゃごわりませぬ、まずそれがそんな商売《しようばい》でごわすわい』 『それが決して商売でなく、きっと病気じゃ、商売ならお前がように、今日《こんにち》からでも漁夫《りようし》を |止《や》めるが、俺のは病気じゃから、一生|止《や》められぬ、死ぬまで止《や》まぬから病気じゃ』 『威勢《いせい》の好《い》い病気《ぴようき》ですなあ、私も一つその病気に成りたい物《もの》ですが』 『なに訳《わけ》はないよ、俺と一|処《しよ》に交際《つきあ》ってさえおれば、直《すぐ》に伝染《でんせん》するよ』 などと咄《はなし》している中《うち》、体も医師の手当等で、だんだん良くなったから、助けてくれた人々に |挨拶《あいさつ》をして、一|夜酒酌交《やさけくみか》わして佐渡《さど》を立ち、新潟《にいがた》へ渡りて身仕度《みじたく》を整え、それから酒田《さかた》の方 に出て、とある温泉にて湯治《とうじ》をしたその中に山伏《やまぷし》ようの修験者《しゆげんじや》が癲癇《てんかん》を全治《ぜんち》せしめる妙術《みようじゆつ》 を知っていると云うので、義助《ざすけ》は大信仰《だいしんこう》をして、二ヵ月の後《のち》、義助は癲癇《てんかん》の難病《なんびよう》は治ったが、 千|磨《ま》は義助より一ヵ月前にその温泉場を立って、東京に来て前に書いた通りの、活動をして いたのである。義助は後《あと》から東京に来りて日夜《にちや》千|磨《ま》の左右に附随《ふずい》して、手助けをしていた。 千|磨《ま》はその正直男の義助《ぎすけ》を浅草蔵前《あさくさくらまえ》の『川定《かわさだ》』と云う親分《おやぷん》に托《たく》したが、後《のち》には一|廉《かど》の顔を売 り出し、同区《どうく》の千|束町《ぞくまち》に『川義《かわざ》』と云う、宿車《やどぐるま》の親方《おやかた》となって、多くの、子分と共に立働き、 |終始《しじゆう》千|磨《ま》が手足となって、隠密《おんみつ》、探偵《たんてい》、用度《ようど》の便《ぺん》を成《な》していたとの事。彼《か》の千|磨《ま》が大同団結 遊説《だいどうだんけつゆうぜい》の時などは、千|里《り》を遠しとせずして、千|磨《ま》の前後に追随《ついずい》して働いたので、後藤伯《ごとうはく》などの 目にも留り、高輪《たかなわ》のその邸《やしき》などにも永く出入をしていたのである。ある時この『川義《かわぎ》』と『河 馬《かぱ》』と仇名《あだな》のある顔役《かおやく》(後ち百|尺亭《しやくてい》と云う料理屋の親方《おやかた》になった)山本栄次郎《やまもとえいじろう》と云う男と二 人千|磨《ま》の所に来て、 『旦那《だんな》あの代言人《だいげんにん》とか云うて、自己《おのれ》の係り合いもねえ事に銭《ぜに》を取って人に頼《たの》まれ、役人《やくにんと》の処《ころ》 などに出這入《ではいり》をして、自己《おのれ》の勝手《かつて》な事《こと》ばかりをべらべら、御法《ごほう》とか御規則《ごきせい》とか吐《ぬ》かして、人 の地面や家屋敷《いえやしき》などをずんずん捲《ま》き上《あ》げてしまうような奴を取《とつち》〆めるのは、世の為め人の為 めに成るでしょうか、どうでしょう』 と云うので庵主《あんしゆ》も丁度そこにいたから、 『それはなるどころでない、それが本当の世の為め人の為めじゃ、今そんな事があるか』 と聞いたら、両人は、 『なにあの代言《だいげん》と言う奴の得体《えたい》が分からねえから、序《ついで》に旦那方《だんながた》に伺《うかが》っておくだけです』 と云うて帰ったが、その後に庵主《あんしゆ》の友人、星亨氏《ほしとおるし》の手下《てした》たる弁護士某《べんごしぽう》と云うが、下谷御徒町 辺《したやおかちまちへん》のある豪家《ごうか》が死に絶《た》え、跡《あと》に残《のこ》った祖母《ばあ》さんと、十四歳になる孫娘《まごむすめ》とが、神田錦町辺《かんだにしきちようへん》にか けて大地面《おおじめん》を持っていたのを、その親類《しんるい》と組んで横領染《おうりようじ》みた事の訴訟《そしよう》を起し、既にその大家《たいけ》 が敗訴《はいそ》とならんとするを見て、この狹客《きようかく》、両人がその大家《たいけ》に前から出入の関係ありしより同 盟《どうめい》して、これを救済《きゆうさい》せんと企《くわだ》て、千|磨《ま》や庵主《あんしゆ》の咄《はなし》を聞くとそのまま、成田山《なりたさん》の不動尊《ふどうそん》に参詣《さんけい》 して、共に血を啜《すす》りて誓《ちか》いをなし、その翌晩に子分《こぷん》と共に、その弁護士《べんごし》の家に闖入《ちんにゆう》し、その 弁護士をぐるぐる捲《ま》きにして、辻便所《つじべんじよ》の尿汁《にようじゆう》の中に倒《さかさま》に立て『二度とかくの如《ごと》き事件の依 頼《いらい》を受ければ、世の為め人の為めに打殺してしまうぞ』と威嚇《いかく》し、一方多くの子分《こぶん》は、その |依頼者《いらいしゃ》たる親類《しんるい》の家に手分けして押掛《おしか》け、ことごとく詫証文《わぴしようもん》を取り、その足にて打連《うちつ》れ下谷 警察《したやけいさつ》に自訴《じそ》をしたので、事件の内容が明白し、当時の新聞紙も大分騒《だいぷさわ》いだが、これを聞付け た千|磨《ま》も庵主《あんしゆ》も、星亨氏《ほしとおるし》も、その間に入って尽力《じんりよく》し、殊に下谷署長根本某氏《したやしよちようねもとぽうし》の尽力宜敷《じんりよくよろしき》を |得《え》たので、無事内済《ぷじないさい》で解決し、何でも訴訟《そしよう》が民事《みんじ》とかにて願下《ねがいさ》げが出来るとて、これ等は星 氏《ほしし》が一切引受けて片付け、彼の『川義《かわぎ》』『河馬《かば》』の両人は謝罪《しやざい》、謹慎《きんしん》、説諭《せつゆ》、位《くらい》で事済《ことずみ》となっ たのである。当時の警察事務は、殆んど絶対《ぜつたい》の権《けん》が署長《しよちよう》にあったようである。その後その大 家《たいけ》の寡婦孤児《かふこじ》は、星氏《ほしし》の尽力《じんりよく》にて、所有地全部を横浜《よこはま》の平沼某《ひらぬまぽう》に売却《ぱいさやく》し、星氏監督《ほししかんとく》の下《もと》にそ の財産《ざいさん》を保管して安隠《あんのん》になったとの事じゃが、その娘がまた大孝行娘であったので、政府よ りは褒章《ほうしよう》もあったとの事である。  この処置《しよち》に感じて『川義《かわざ》』『河馬《かば》』の両人は以来|星氏《ほしし》に深く心服《しんぷく》して、その後|何《なに》かと働いて いたようであった、それから幾年《いくねん》の後、何か政治上の衝突《しようとつ》で、星氏《ほしし》が陸奥外相邸《むつがいしようてい》に押掛《おしか》けた との急報を、竹内綱《たけうちつな》と云う人が齋《もた》らして駈附けて来たので、庵主《あんしゆ》が往《い》って見たら、成程《なるほど》ステッ キなど持った壮士《そうし》ようの者が、大勢うろうろしていた。何でもその問題は陸奥氏等《むつしら》と庵主等《あんしゆら》 が諒解《りようかい》ある事柄で、嫌《いや》でも星氏等に反対せねばならなかったから、庵主《あんしゆ》は止《や》むなくその間《かん》に |坐《ざ》し、終に『河馬《かば》』等を呼んで叱《しか》り付け、千|磨《ま》は丁度病気入院中であった為め、病院より『川 義《かわぎ》』を呼んで説諭《せつゆ》したので、星氏の後援隊《こうえんたい》が手薄《てうす》くなり事件は無事片付《ぷじかたづ》いた。これで見ても 両人は星氏の為にも大分働いた事が分るのである。庵主《あんしゆ》の考えでは、その頃の侠客風《きようかくふう》の男は、 第一正直で物事が分らず、ただ気これ負《お》うと云う位のが一番|劣等《れつとう》の者であった。第二、秋毫《しゆうごう》 も金銭関係がなく、平生《へいぜい》に起因《きいん》する恩義関係《おんぎかんけい》ばかりであった。第三、何事《なにごと》をするにも、彼等 は犠牲観念《ぎせいかんねん》が先決問題で、何時《いつ》でも隊伍斉《たいごせいせい》々一|糸乱《しみだ》れずに働いていた。故に気持の好《い》い事言 語《ことげんご》の外《ほか》で、彼等と交際する我々の方が、動《やや》もすれば気恥《きはず》かしき心地がせられたのが常であっ た。  今時のように金銭か権力かに関係して屍理窟《へりくつ》や、法律の楯《たて》を以て売る男とは、雲泥《うんでい》の差で あったから、丁度|江戸《えど》っ子《こ》の喰《く》う鮪《まぐろ》の脂身《あぶらみ》のように、醤油《しょうゆ》さえ附けたら、互いに何時《いっ》でも好《い》 い心持に喰われる。千|磨《ま》の薫陶《くんとう》したこの両人の如きは、生粋《きつすい》の江戸《えど》っ子《こ》であった事を忘れ得 ぬのである。その後『川義《かわぎ》』はチブスに罹《かか》りて死亡したので千|磨《ま》と庵主《あんしゆ》は、一|夜《や》を仏前《ぶつぜん》の伽《とぎ》 に明し、総振舞《そうふるまい》をして葬儀《そうぎ》を了《おわ》ったが、『河馬《かば》』は永く我々の処《ところ》に出入をしていた。ある時|庵 主《あんしゆ》が芝《しぱ》の浜《はま》の家《や》にいた時、『河馬《かば》』が遣《や》って来て、 『旦那永《だんなながなが》々|御厄介《ごやつかい》に成《なり》ましたが、少しばかりうっかりしていられねえ事が出来ましたので、 お暇乞《いとまごい》に参《まいり》ました有難《ありがと》うございます』 と何か決心の色が見えるから、 『何か出入でも出来たのか』 と聞くと、 『はい広瀬《ひろせ》の旦那《だんな》にも咄《はな》しましたがただ、『下《くだ》らねえ事は止めろ』と云われましたばかりで、 |外《ほか》にお辞《ことぱ》もございませんから、もう遣《や》っ付《つ》けてしまう覚悟でございます』 と云うから、何事かとだんだん聞くと、この男が開店している料理屋に、改進党《かいしんとう》の頭分《かしらぷん》が、 |壮士《そうし》二三十人と宴会《えんかい》をして、酒の上の間違いから乱暴《らんぽう》をしたので、主人たる『河馬《かば》』が取鎮《とりしず》 めよ・^,としたら、その子分の壮士等《そうしら》が、大勢寄りたかってこの『河馬《かば》』の子分を袋叩《ふくろだた》きにし て、自分も手痛き目に合わされ座敷《ざしき》は破《こ》わされる、器具は砕《くだ》かれる、それをそのままにして、 |壮士連《そうしれん》は無断にて引上げてしもうたので、このままでは世間に顔出しも出来ず、商売もこの ままに継続《けいぞく》して行《ゆ》く事が出来ぬ。そこで彼が事務所に押掛《おしかけ》ようと覚悟《かくご》しているところへ、明 晩また改進党《かいしんとう》の野郎共《やろうども》が二三十人ばかりの宴会に、座敷《ざしき》を用意して置けと横柄《おうへい》に云うてきた から、もう堪忍袋《かんにんぶくろ》の紐《ひも》を切らして、明晩は片端《かたつばし》より叩き殺して、立派にお刑罰《しおき》を受ける覚悟《かくご》 であると、一伍一什《いちぷしじゆう》を明したので、庵主《あんしゆ》は、 『それは好《よ》き覚悟《かくご》である。立派に遣《や》ってしまえ。明晩は俺《おれ》が広瀬《ひろせ》と同道して、お前の働き振 を見て遣《や》る。負けたら骨は俺共が拾《ひろ》うて遣《や》る。それからその広間は俺共が客《きやく》をするから借切《かりさ》 る、しかと云い付けたぞ』 と云うたら、見る間に彼はぱらぱらと涙を零《こぽ》して、 『有難《ありがと》うございます』 と云うてお辞儀《じぎ》を三|度《ど》ばかりして帰った。それから庵主《あんしゆ》は広瀬《ひろせ》と相談をして、 『あんな、可愛相《かわいそう》な男を捨てておいてはいかん、明晩は往《い》って面倒《めんどう》を見て遣らねばいかんぞ』 と云うたら広瀬《ひろせ》は同意して、 『丁度明晩は保守党《ほしゆとう》の頭領《とうりよう》、鳥尾子爵《とりおししやく》とどこかで飯を喰う約束をしておいたから、見物がて ら鳥尾《とりお》を「河馬《かば》」の処《ところ》に連れて行《ゆこ》うかねえ』 と云うから、 『それは丁度面白い、しかし鳥尾《とりお》に喧嘩見物《けんかけんぷつ》などの事を云うなよ』 と云うと広瀬《ひろせ》は、 『うんよしよしまだ何処《どこ》と処《ところ》も云うてないから丁度宜い、今から手紙を出して其処《そこ》に案内《あんない》す る事にしよう』 とその手筈《てはず》にして別れた。翌日、庵主等《あんしゆら》は午後の三時頃から、手近の物共五六人を引連れ、 『河馬《かぱ》』の処《ところ》に行き、間もなく鳥尾子《とりおし》も来たので、盃盤相聯《はいばんあいつら》ねて宴《えん》を行《や》る半《なかぱ》、表の方が騒《さわ》がし く成《な》ってきたから、庵主《あんしゆ》と広瀬《ひろせ》は玄関に出掛けて見れば四五人の壮士《そうし》が声高《こわだか》に『河馬《かば》』に何 か掛合《かけあ》っている。『河馬《かぱ》』はぴょこぴょこ頭を下げて、 『何とも申訳ござりませぬ。用意していたお座敷《ざしき》には、御贔屓《ごひいき》の旦那方《だんながた》が、無理に先刻《せんこく》から お上りに成《な》って、お断り申しても御聞入《おききいれ》ござりませぬから、どうか今日《こんにち》のところは御引取を 願います』 と云うている。それを辞荒《ことばあら》く壮士《そうし》が呶鳴付《どなりつ》けている。この一瞬間を捨てて置けば、直《すぐ》に『河 馬《かば》』も手下《てした》の者も、斬《き》って出ると思い、庵主《あんしゆ》がつかつか玄関の前に出ると、丁度|顔馴染《かおなじ》みの |改進党《かいしんとう》の頭株《かしらかぶ》の人《ひと》が二三人、後《うしろ》の方に立っていたから、直《すぐ》にその人を指縻《さしまね》いて、 『やあ丁度|好《よ》いところじゃ、さあ上りたまえ我々は直《すぐ》に引揚《ひきあ》げるから』 と云うと、広瀬はまたつかつかと下《お》りて行《い》って門の処《ところ》で何か云うていた。何と云うたか知ら ぬが、三|人《にん》ばかりの首領株《しゆりようかぶ》を引連れて上《あが》って行ったから、庵主《あんしゆ》は壮士連《そうしれん》をまた無理に引張《ひつぱ》り 上げた。ただ驚いたのは鳥尾子《とりおし》で、何だかまごまごしていたから、庵主《あんしゆ》は、 『丁度|好《よ》いところに某《ぽうぼう》々|等《ら》が来られて、座敷《ざしき》が無《な》いと困っておるのを見兼《みか》ね、顔馴染《かおなじみ》の人々 ではあるし、無理に引上げたから、今日はゆっくり政治談《せいじだん》でも仕様《しよう》ではありませぬか』 と云えば鳥尾子《とりおし》も、 『それは面白いだろう』 など、生《な》ま返事《へんじ》をしておられた、ところで各座定《おのおのざさだ》まって、盃《さかずき》がそろそろ廻り初めると、そ の中の壮士頭《そうしがしら》見たような一人《ひとり》が、 『我々は用談《ようだん》があって来たのに、用意させて置いた座敷《ざしき》を先に占領《せんりよう》されては困る、一|体此家《たいここ》 の亭主《ていしゆ》が不都合《ふつごう》だ亭主《ていしゆ》を呼べ』 と言い出した。これを聞くと同時に期《き》せずして庵主《あノハしゆ》も千|磨《ま》もずうっと立上った、広瀬曰《ひろせいわ》く、 『お待ちなさい、我々は今日|何等《なんら》用事あって来たのではない、ただ日頃|晶贋《ひいき》にするこの家《ゃ》の |亭主《ていしゆ》を、先日|酒《さけ》の上とは云え諸君《しよくん》が袋叩《ふくろだた》きになすのみならず、家屋盃盤《かおくはいばん》に至るまで破損《はそん》せら れたと聞き、弱い商売のこの家《や》の亭主《ていしゆ》が、他に顔出しも出来ぬと口惜《くやし》がっているのを見るに |忍《しの》びず、それは全く一時の出来事、酒宴《しゅえん》の上の間違《まちがい》であろうからと、ある慰安《いあん》の道《みち》を講《こう》ずベ く出て来たのである、天下の政党員《せいとういん》ともあろう者が、左様《さよう》の行為《こうい》は些《ち》と慎《つつし》みたまえ、日頃|交 誼《こうぎ》ある改進党《かいしんとう》の諸士《しよし》の為《た》めに、我々は善意《ピんい》にその非行《ひこう》を補《おぎな》わんとするまでである』 と庵主《あんしゆ》も直《すぐ》にかく云うた。 『貴賤《きせん》別なき茶屋小屋《ちややごや》などに来て、国士《こくし》の分際《ぶんざい》にあるまじき人もなげの乱暴《らんぼつ》はもっとも片腹《かたはら 》 痛《いた》き事である、それは御分方《ごぷんがた》の面汚《つらよご》しばかりでない、我々が第一に困る、ゆえに今日《こんにち》は善後《ぜんご》 の処置《しよち》に来たのである、もちろん酒の上で売らるる乱暴《らんぼう》なら、素《もと》より罪もなき乱暴と思うゆ え、それならこの方からもその乱暴を買《か》って上げても宜《よろし》い、どんな用談《ようだん》でも、揚句《あげく》の果《はて》は弱 い者を相手に暴力を弄《もてあそ》ぶような用談なら、こんな処《ところ》に来ぬがよい、今日《こんにち》は諸士《しよし》が用談《ようだん》する 前に、先日の非行《ひこう》を紊面《すめん》の内《うち》に謝《しや》したまえ、然《しか》らずんば我々は考えがある』 と云うたら、その懇意《こんい》な改進党《かいしんとう》の首領株《しゆりようかぶ》の人は只事《ただごと》ならずと見たか直ぐに立って来て、 『いや御尤千万《ごもつともせんばん》、この間《あいだ》ははなはだ出来が悪かった、今日《こんにち》はその損害《そんがい》も償《つぐな》い亭主《ていしゆ》にも謝罪《しやざい》す るつもりで来たのじゃ』 と云《い》うから、広瀬《ひろせ》と庵主《あんしゆ》との両人は、一同に首《こうべ》を下《さ》げてその人を席《せき》に就《つ》かしめ、 『はなはだ出過《です》ぎた事を申出で、何ともお詫《わび》の仕様《しよう》もない事で、どうかぜひそう願いたい物 である』 と辞《ことぱ》を揃《そろ》えて挨拶《あいさつ》をしたら、その首領株《しゆりようかぶ》の人は、亭主《ていしゆ》を呼び出して、色《いろいろ》々先日の詫《わび》をして、 |金《きん》百円の損害代《そんがいだい》と三十円の酒代《さかだい》とを遣《や》ったので、事《こと》は丸《まる》く収《おさ》まったが、さあ災難《さいなん》は鳥尾子《とりおし》で、 あの吝《けち》な禅僧閣下《ぜんそうかつか》がそれを見てもいられずまた百円の金を出して、今日の茶代《ちやだい》として亭主《ていしゆ》に |贈《おく》った、それで万事《ばんじ》は無事|落着《らくちやく》して、深更《しんこう》まで色々の咄《はなし》をして、共に別れて帰ったが、先方 は針《はり》の莚《むしろ》であったろうと思う。喜んだのは、『河馬《かば》』一人で、その頃の金で二百三十円をせし めて、命拾《いのちぴろ》いをして、それから後は鳥尾子《とりおし》や改進党《かいしんとう》の人々にも、 がられたと喜んでいたのである。 非常に贔廣《ひいき》になって、 可か 愛む 六十七 |終焉《しゆうえん》に侍《はべ》る巨頭《きよとう》の面《めんめん》々   昨日遺孤を托し、今朝浬槃に入る 終焉に侍る巨頭の面々  庵主《あんしゆ》は稀世《きせい》の親友広瀬《しんゆうひろせ》千|磨《ま》の事歴《じれき》を、輯綴《しゆうてい》して大分長々しくなったが、元来、前にも云う 如く、寝食《しんしよく》を共にして交ったのは、極短期間《ごくたんきかん》であるから、この蓋世《がいせい》の俊傑《しゆんけつ》に対しては、その |筆致顕彰《ひつちけんしよう》共にはなはだ貧弱であった事を謹謝《きんしゃ》するのである。しかし人間は棺《かん》を蓋《おお》わねば是非《ぜひ》 は分らぬと云うが、彼は庵主《あんしゆ》の友人中にて、武士道《ぶしどう》に終始《しゆうし》ある、徹底《てつてい》した人物《じんぶつ》であった事だ けは、確《たし》かに立証《りつしよう》し得《う》るのである。幼にして義《ぎ》を好《この》み、人となりて世を慨《がい》し、老いてますま す利禄功名《りろくこうみよう》に恬淡《てんたん》であり、世《よ》に媚《こ》びず、人に諂《へっら》わず、迩《あと》を市丼《しせい》の間《あいだ》に蔵《おさ》めて、さらに聞達《ぷんたつ》を 求めず、その玲雜《れいろう》玉の如き意思《いし》は、常に光風霧月《こうふうせいげつ》の中《うち》に往来《おうらい》して、造次顛浦《ぞうじてんばい》にも、忠君愛国《ちゆうくんあいこく》 の事を離れず、その行蔵総《こうぞうすべ》て儕輩《せいはい》の間《あいだ》を超越《ちようえつ》して蝉脱自得《せんだつじとく》の境涯《きようがい》は、ただ人をして欽羨措《きんせんお》か ざらしめたは明白な事実である。昨年八月|突如《とつじよ》として庵主《あんしゅ》の家を訪《と》うて曰く、 『時世《じせい》は慥《たし》かに乱階《らんかい》に入った、人心《じんしん》は已《すで》に腐敗《ふはい》に陥《おちい》った、これを救うの策はただ人物《じんぶつ》にある、 |而《しか》してその人|遠《とお》くして、教養《きようよう》の道《みち》ますます弛《ゆる》まり、慨世《がいせい》の師友《しゆう》は殆んど全部|黄土《こうど》に帰《さ》してし もうた、予《よ》は憂慮仲《ゆうりよちゆうちゆ》々として眠《うねむり》を成《な》さざる事またしばしばである。   らんりよにしよすふひようににたり     こうゆうおおくはほろびてなかぱはかいめい   乱離処世似浮薄。  交友多亡半晦名。   かんいんしをたたいてねむりいまだならず     せいそうあめはおくるぎようしようのこえ   閑院敲詩眠未成。  西窓雨送暁鐘声。  今や予《よ》は栄達《えいたつ》求むるの身体《しんたい》なく、安逸《あんいつ》を望むの家庭なし、ただここにいささかの一事件あ り、予は故《ゆえ》ありて一女児を有す、今北海道の鉄道部に、女書記生として勤務している、然る に計《はか》らざりき、昨今《さつこん》腹部の大患《たいかん》に罹《かか》り、切開《せつかい》の大施術《だいしじゆつ》を為《な》すの止《や》むなきに臨《のぞ》めりと、素《もと》より |親友某《しんゆうぽう》の懇情《こんじよう》に依《よ》って、ある病院に入院して療養《りようよう》を為《な》しつつはあるが、予《よ》は親としてこれを |傍観《ぼうかん》するに忍《しの》びず、今《いま》ここに幾干《いくらか》の資《し》を送らんと欲す、君請《きみこ》う予《よ》が為《た》めにこれを弁《べん》じてくれ よ』 とこれを聞く庵主《あんしゆ》は、悲喜交《ひきこもごも》々|至《いた》りて、一|驚《きよう》をなした、この千|磨《ま》が年古稀《としこき》に垂《なんな》んとして、一 |実子《じつし》ある事の喜びと、その一|粒種《つぷだね》の子供が、大患《たいかん》に罹《かか》れりとの咄《はなし》を悲しんだのであった。 『何にしても子供があるとの咄《はなし》は何よりの喜びであるが、その病気は何を措《お》いても直に手当 をするがよい、予《よ》が貧窶《ひんろ》心|今幸《いまさいわい》に百|金《きん》を有《ゆう》す、直《すぐ》に送金《そうきん》せよ』 と云うてこれを千|磨《ま》に与《あた》えたので、彼は衷心《ちゆうしん》より喜色《きしよく》を顕《あら》わして去った、爾後庵主《じごあんしゆ》は急性の |腎臓炎《じんぞうえん》を病《や》んで、永らく築地《つきじ》の聖路加病院《セきロカぴよういん》に入院《にゆういん》した為め、その後《ご》に消息も聞かざりしが、 ふと懇意《こんい》のドクトル芝桜川町《しぱさくらがわちよう》の牧亮哉氏《まきりようやし》に面会した時かく云うた。 『先生、毎年|貴下《あなた》のお世話《せわ》になる広瀬《ひろせ》千|磨《ま》が脚気病《かつけびよう》は本年は如何《いかが》や、殊《こと》にこの間北海道《あいだほつかいどう》にあ る娘が病気と聞いたが、それも如何哉《どうか》と気掛りである、先生|御近所《ごきんじよ》の明舟町《あけふねちよう》の鳥羽館《とばかん》に彼が |止宿《ししゅく》しているから一度|御往診《ごおうしん》を煩《わずら》わしたし』  二三日過ぎて牧氏《まきし》は来って曰く、 『この間《あいだ》お咄《はなし》の広瀬氏《ひろせし》を訪《と》うたら、娘さんの方は施術後《しじゅっご》の経過良好との報が来たそうな、本 人の広瀬氏《ひろせし》の脚気《かつけ》は、相変らず発作《ほつさ》していたから、直《すぐ》に治療をしておいたが、本年の病症は はなはだ悪性にて、予後《よご》もっとも不安を感ずるのである。浮腫《ふしよう》の模様《もよう》、心臓の様子、何時《いつも》の 如くなかなか手易《たやす》く治療の効果は有《ある》まいと思う。しかしこの後も極力手《きよくりよくて》は尽《つく》すが、この事だ けは報告しておきます。ただあの鳥羽館《とぱかん》は、主人使用人共にはなはだ深切《しんせつ》な宿《やど》にて、日夜《にちや》の |注意《ちゆうい》も行届《ゆきとど》き、殊に近所にお住居《すまい》の頭山氏《とうやまし》は、御主人妻君御子息《ごしゆじんさいくんごしそく》の方《かたがた》々|代《かわ》る代《がわ》る見舞《みま》われて、 手当に遺憾《いかん》はないから、医師としてもはなはだ都合がよいのである』 との事であったから、庵主《あんしゆ》はたちまちに吐胸《とむね》を突《つ》いて、 『それは大変である、何にしても看護婦を二|名《めい》だけ早く附けて、一層看護に遺憾《いかん》なきように お頼申す』 と牧氏《まきし》に懇嘱《こんしよく》して、その迹《あと》より庵主《あんしゆ》は病《やまい》を推《お》して自動車を飛ばして見舞《みも》うて見たら、千磨は 平気な物で、枕辺《まくらべ》の壁に大徳寺大綱和尚《だいとくじだいこうおしよう》の薄墨《うすずみ》で書いた小掛物《こかけもの》を掛《か》けて、それを指さして笑 うていた、その語《ご》に曰く、   雷雨拶開中《らいうさつかいのうち》。  野花勇髴笑《やかほうふつとしてわらう》。 と千|磨《ま》曰く、 『例年の通り復《ま》た脚気《かつけ》を遣《や》ったよ、しかし毎年|手慣《てな》れの牧君《まきくん》が治療をしてくれ、殊に幸い予《よ》 の極懇意《 こくこんい》の医師が、この宿《やど》に泊っているので、内外《うちそと》の注意|懇切《こんせつ》で、手当に遺憾《いかん》は無いから安 心してくれ、ここ一週間もしたら全快すると思うよ』 と云うていた、景状《けいじよう》はなはだ良好《りようこう》であるから、帰路牧氏《きろまきし》に立寄って、容体《ようだい》を尋《たず》ねると、今日 は大分工合も宜《よ》い様である、心臓が今一息|回復《かいふく》すれば、案外良いかも知れぬとの事故、庵主《あんしゆ》 は内心喜んで病院に帰臥《きが》していたら四五日の後頭山氏《のちとうやまし》から電話が掛ってきた。曰く、 『急に面会したいから、直《すぐ》に鳥羽館《とばかん》の広瀬《ひろせ》の処《ところ》まで来てくれ』 との事で、はっと思い駈け付けて見たら、千|磨《ま》の枕辺には頭山氏《とうやまし》が端坐《たんざ》し、千|磨《ま》は大分苦ん でいた。庵主《あんしゆ》は直《ただ》ちにははあ衝心《しようしん》を初めたなと思うと、どっかと頭山氏の傍《そぱ》に坐《すわ》ったところ が、二名の看護婦の外《ほか》に、二名の婦人が熱心に看護《かんご》をしている、宣図《あにはか》らんやその一名は頭山 氏《とうやまし》の注意にて、北海道《ほつかいどう》より呼寄《よぴよ》せられた千|磨《ま》の娘で、一名は千|麿《ま》の極懇意《ごくこんい》な友人の奥さんで あるとの事、頭山氏曰く、 『広瀬《ひろせ》が貴様《きさま》と俺《おれ》に何か咄《はなし》があると云うから呼んだのだ』 と他《た》は何にも云わぬ。その時千|磨《ま》は苦しき中にびたっと煩悶《はんもん》を止《と》めてかく云うた。 『俺《おれ》は死生《しせい》の観念《かんねん》については、人に後《おく》れは取らぬ積《つも》りで、平生修養《へいぜいしゆうよう》もしてきた、若い者共に も云うて聞かせもし、また叱《しか》りもしてきたが、こんな病気になってこんな風に責《せ》め立《た》てられ ると、かかる見苦しき容体《ようたい》もせねばならぬのははなはだ残念《ざんねん》である。貴様達《ささまたち》も覚悟《かくご》をしてお らねばいかぬぞ、さて貴様達両人には永き生涯《しようがい》の交際《こうさい》をしてきたが、今に至るまで終始《しゆうし》変り なき友誼《ゆうざ》を尽《つく》してくれて、衷心《ちゆうしん》より感謝《かんしや》に耐《た》えぬのである。どうか跡《あと》は両人相談の上、しっ かり遣《や》ってくれ、頼《たの》むぞ、この一|言《こと》を云いたい為め来て貰《もろ》うたのじゃ。じゃあ失敬《しつけい》するぞ』 と云うて、間《ま》もなく長き息を吐いて、長き安静《あんせい》の眠《ねむり》に就《つ》いたのであった。庵主《あんしゆ》は眼前《がんぜん》に千|磨《ま》 の長大なる遺骸《いがい》を見詰《みつ》めこの崇高《すうこう》なる立派な臨終《りんじゆう》に向《むか》って発するの語が無《な》かったのでただ心 中に一の偈《げ》を唱《とな》えていた。曰く、   告鐘四方遠《こくしようしほうとおく》。  大法潜林巒《たいほうりんらんにひそむ》。  雲去青山近《くもさつてせいざんちかく》。  道易且行難《みちやすうしてかつゆくかたし》。   曲昿野花畔《ひじをまぐるやかのはん》。  蝉声読浬槃《せんせいねはんをよむ》。  迷悟一場夢《めいごいちじようのゆめ》。  覚来天籟寒《さめきたつててんらいさむし》。  ややしばらく沈黙《ちんもく》を守っていた頭山氏《とうやまし》は、すっと立って、 『杉山一寸来い』 と云うから、別室に行ったら曰く、 『千|磨《ま》の葬式《そうしき》はこれこれの方法で営《いとな》むが宜《よ》い、俺は不工合《ふぐあい》だから帰って寝るから』 との一|言《ごん》を遺して、頭山氏《とうやまし》は帰宅《きたく》した、それから頭山氏の妻君《さいくん》および子息または書生連は、 一|斉《せい》に来てそれこれと立働く中《うち》に、黒竜会長《こくりゆうかいちよう》の内田良平氏《うちだりようへいし》や、その会員はまた一|斉《せい》に来て何 乎《なんか》と尽力《しんりよく》をするその中《うち》に、千|磨《ま》の親友の老人連中も、大勢駈け付られて、千|磨《ま》の遺孤令嬢《いこれいじよう》を |擁《よう》して、葬儀《そうざ 》の準備をなし、宿《やど》の主人召使達《しゆじんめしつかいたち》まで、また総掛《そうがか》りでやっと入棺《にゆうかん》の式を終り、霊 南坂上《れいなんざかうえ》の禅寺《ぜんでら》へ霊柩《れいきゆう》を移して、一同は通夜《つや》を営《いとな》み、その翌晩まで、頭山氏《とうやまし》と共に通夜《つや》をして そのまた翌日に親友故旧総立会《しんゆうこきゆうそうたちあい》の上、荘厳《そうごん》なる葬儀《そうぎ》を行い、その遺骸《いがい》は寺僧の親切な注意に よりて寺内《じない》の一|隅《ぐう》に墓地《ぽち》を譲り受け、これに埋葬《まいそう》してその墓標《ぽひよう》には、維時《これとき》大正十一年九月廿 七日|卒去《そつきよ》と記《しる》したのであった。この時《とき》に一層の感を深からしめたのは、千磨の無二の郷友《きようゆう》た る飯田秀魁氏《いいだしゆうかいし》は、古稀《こき》の老齢《ろうれい》を提《ひつさ》げてわざわざ郷里金沢より上京《じようきよう》せられ、通夜《つや》の席《せき》にも列《れつ》し て、参会《さんかい》一同の者へ叮嚀《ていねい》なる挨拶《あいさつ》もせられ、終始涙を以て誠悃《せいこん》を尽《つく》された事で、国事艱難《こくじかんなん》を |倶《とも》にせられた国士《こくし》の典型《てんけい》、義友《ぎゆう》の心情《しんじよう》は事毎《ことごと》に溢《あふ》れ一|堂皆襟《どうみなえり》を正《ただ》してこれに対したのであっ た。飯田氏《いいだし》は頭山氏《とうやまし》の宅《たく》にて庵主《あんしゆ》にかく日《い》われた。 『広瀬《ひろせ》も金沢《かなざわ》では幼少より兎《と》や角《かく》一人前の男として立って来た者でござりましたが、不運《ふうん》に して幾回も遭遇《そうぐう》しました国事《こくじ》の艱難《かんなん》に、死ぬ機会を得《え》ませず、六十八歳の今日までも生き延 びて、その終焉《しゆうえん》にかく天下無双《てんかむそう》の豪傑頭山氏《ごうけつとうやまし》や、貴下方《あなたがた》の如き大名巨姓《だいめいきよせい》の方々の御介抱《ごかいほう》を受 けましたのは、彼が幸福この上なきと同時に、末輩《まつぱい》の私共《わたくしども》が、だらしなき生涯を送りまし たため、一度も彼が不快《ふかい》の念《ねん》を慰《なぐさ》める事も得致《えいたし》ませず、死別れますのでござりますから、私 共その他郷友《たきようゆう》の残念《ざんねん》は、この上もござりませぬ、私共は広瀬《ひろせ》がかくまでの限りなきお世話《せわ》に |成《な》った事を、郷友《きようゆう》を代表してお礼を申上げる機会を以て、私共一同が、今日まで意気地《いくじ》なか りし事をも、あわせてお詫致《わぴいた》さねばなりませぬ、この二|言《ごん》を申述べたい為《た》め、恥面《はじづら》を忍《しの》んで、 |夜《よ》を日《ひ》に継《つい》で馳《は》せ付《つ》けました次第でございます、どうか貴下《きか》より御一同様へ宜敷《よろしく》お執成《とりなし》を願 います』 と、何たる深酷《しんこく》な挨拶《あいさつ》であろう、一時|天下《てんか》に加賀金沢《かがかなざわ》の烈火児飯田秀魁《れつかじいいだしゆうかい》とて雷名《らいめい》を轟《とどろ》かした、 |古武士《こぶし》の模範《もはん》とも称すべき飯田氏《いいだし》の挨拶《あいさつ》としては、当然の辞《ことば》とは云いながら、これを聞く庵 主《あんしゆ》は、何だか雷霆《らいてい》にでも打たれたような気がして、背汗《はいかん》三|斗《と》を禁《きん》じ得《え》なかったのである『末 輩《まつぱい》の私共』『だらし無き生涯』『死そこない』『意気地《いくじ》なき生涯』『恥面《はじづら》を忍んで』と並べられ た時は、どうしても人事《ひとごと》とは聞けなかったのである。疾《とく》に人に弔《とむろ》うて貰わねばならぬ庵主《あんしゆ》が、 どの面《つら》を下げて人の弔《とむら》いを為《な》すのかと、自問自答で縮《ちぢ》み上ったのである。頭山氏も不工合《ふぐあい》と 云うてこの際…二日|寝込《ねこ》んだが、この感が庵主《あんしゅ》と同じであったのでは無かったかと、後《あと》から 思うたが、このところ一寸|庵主《あんしゆ》も頭山氏《とうやまし》も『無言懺悔《むごんざんげ》の鞭《むち》』に打たれた体裁《ていさい》であったと思う。 『幾回も遭遇《そうぐう》した国事《こくじ》の艱難《かんなん》に、死ぬ機会を失い』『人を殺す事無数』『恥《はじ》を掻《か》く事千百』『揚《あげ》 句《く》の果《は》てが国家《こつか》はかくの如き有様である』ときたら、血《ち》の通《かよ》うている男子《だんし》としては、この飯 田氏《いいだし》のこの言《げん》に縮《ちぢ》み上《あが》らざるを得《え》ぬ、いまこれを思い出《いだ》すもぞっとするのである。  庵主《あんしゆ》も今の世の中に生きている以上は、世の人とぽちぽちぽちであるから、云う資格《しかく》はな いが、序《つい》でじゃから所感《しよかん》として青年共に言うて聞かせておく。それは他の動物即ち禽獣《きんじゆう》と人 間の違うところは恥《はじ》を知ると知らざるが分岐点《ぶんきてん》である、他の動物は『白昼道路《はくちゆうどうろ》で雌雄相戯《しゆうあいたわむ》れ』 『他と食《しよく》を争うて死生《しせい》を顧《かえり》みず鬩他の食物を盗《ぬす》み食《くら》うも腹にさえ入れば勝《かち》と心得《こころえ》』『強は弱を |凌《しの》ぎ』『総ての行為に責任《せきにん》を負わず』『群《むれ》を成《な》して勢力と思い』『総て貯蓄《ちよちく》の観念《かんねん》なくしてその 日を放縦《ほうじゆう》にす』『飢寒痛苦《きかんつうく》の感覚《かんかく》は自己《じこ》一|個《こ》より分らぬ』等が他の動物性即ち禽獣《きんじゆう》である。然《しか》 るに近頃はそれが人間が特性のように行われて来て、而《しか》もその特性が多く中流以上の階級《かいきゆう》に 限られ、もっとも濃厚《のうこう》に瀰漫《びまん》するに至っては、慥《たしか》に我国文明の禽獣化《きんじゆうか》しつつあるは、もっと も明白な事実である。人間廉恥《にんげんれんち》を損得《そんとく》の勘定《かんじよう》の中に加えざる以上は、名誉《めいよ》も金銭《きんせん》も必要の騒《さわ》 ぎではない、爵位《しやくい》を持て禽獣《きんじゆう》の真似《まね》を為《な》し、勲章《くんしよう》を持って、禽獣の真似を為し、大厦高楼《たいかこうろう》に |住《じゆう》して禽獣《きんじゆう》の真似を為し、自動車馬車に乗《の》って禽獣の真似を為し、錦衣玉食《きんいぎよくしよく》して禽獣の真似 をしたら、何が名誉であるか、何が金持であるか、結論は禽獣の戯《たわむ》れである。尊者《そんしや》は卑者《ひしゃ》を |愍《あわれ》み、富者《ふうしや》は貧者《ひんしや》を恵《めぐ》み、強者《きようしゃ》は弱者《じやくしゃ》を助け、智者《ちしや》は愚者《ぐしや》を教えてこそ人間であれ、禽獣界 ではその反対である。尊者《そんしや》は卑者《ひしゃ》を凌《しの》ぎ、富者《ふうしや》は貧者《ひんしや》を虐《しいた》げ、強者は弱者を圧し、智者《ちしや》は愚《ぐ》 者《しや》を欺《あざむ》くに至っては、恥《はじ》と云う物を取除《とりのぞ》いた、人間外即ち禽獣の群《むれ》である。階級《かいきゆう》と富貴《ふうき》と資 産《しさん》とは人間を飾る道具であって、禽獣界《きんじゆうかい》とは没交渉《ぽつこうしよう》である、庵主《あんしゆ》も今この禽獣界《きんじゆうかい》に伍してお れど、前世《ぜんせ》が慥《たし》かに人間で在った為めか、飯田氏《いいだし》のこの挨拶《あいさつ》には、少なからず廉恥心《れんちしん》を刺戟《しげき》 せられたのである。  庵主《あんしゆ》はここに特筆《とくひつ》する。人間界《にんげんかい》は已《すで》に過去の歴史となった。それは広瀬《ひろせ》千|磨《ま》の生涯を限界 点《げんかいてん》としたのではないか。不思議《ふしぎ》な事には飯田氏も前の言辞《げんじ》を庵主《あんしゆ》に言い放《はな》って、広瀬《ひろせ》の葬儀《そうぎ》 を了《おわ》り、郷里金沢《きようりかなざわ》に帰って間もなく、広瀬《ひろせ》の跡《あと》を追《お》い黄泉《こうせん》の客《きやく》と成《な》って旅立った、庵主《あんしゅ》が精 神上の寂寥《せきりよう》もまた一層|劇甚《げきじん》となり、いよいよ人間界の薄暮《はくぽ》と成って来たのである。  憶《ああ》々千|磨《ま》よ、汝《なんじ》は幼《よう》にして怜悧《れいり》、壮《そう》にして志《こころざし》を起し、長《おさ》となって人を助《たす》け世《よ》を救《すく》い、老《ろう》 となって云いたいがまま為《し》たい放題《ほうだい》をなし、丁度|人間界《にんげんかい》と禽獣界《きんじゆうかい》との分岐点《ぶんきてん》に臨《のぞ》んで、勝手《かって》 に病気を為し人間寂滅《にんげんじやくめつ》の暮鐘《ぽしよう》を聞くを相図に、庵主等《あんしゆら》に一回の相談もなく、勝手な事を云う て枕頭《ちんとう》の『雷雨拶開《らいうさつかい》の中《うち》、野花髣髴《ゃかほうふつ》として笑《わら》う』の掛物《かけもの》を指《ゆぴさ》しずんずん我々を置《おい》てきぼりで、 独り旅に出掛けるなどは実に友達甲斐《ともだちがい》の無《な》い男であるぞ、汝一人はそれで良《い》い心持ちかも知 らぬが、後《あと》に残された我々は、ポンプの無い火事場で、地団駄《じだんだ》を踏《ふ》まねばならぬでないか、 また飯田《いいだ》と云う爺《じい》さんもそうだ、四角四面の羽織袴《はおりはかま》で、切り口上で、人を腹散《はらさんざん》々|冷《ひ》やかして 直ぐに、高端折《たかぱしより》の草軽掛《わらじが》けでずんずん汝《なんじ》の後《あと》を追《お》うて行《ゆ》くなど、余《あま》りと云えば加賀《かが》の人は無 情《むじよう》である。  ああ ま  な舍れいな尓かうえ 爰のん 窘     しせいでいど え脂うかい え諧う くる  な舍  憶々千磨よ、汝は霊南坂上で安穏に眠る、我々は市井泥土の禽獣界で、永劫に狂う、汝は |浬槃浄土《ねはんじようど》の笳簫《かしよう》に酔《よ》い、我々は魔界外道《まかいげどう》の高利借金《こうりしやつきん》の鬼に追わる、汝《なんじ》は回向方丈《えこうほうじよう》の香華《こうげ》に裹《つつ》 まれて、解脱《げだつ》の道《みち》に遊《あそ》び、我々は白鬼黒竜《はつきこくりゆう》の外道《げどう》に凌辱《りようじよく》せられて、痴愚蛾冠《ちぐがかん》の沐猴《もつこう》と伍《ご》せね ばならぬ。このくらい引合わぬ勘定《かんじよう》が何処《どこ》にある。庵主《あんしゆ》は汝《なんじ》の死《し》を弔《とむら》うの口を以てこれを祝 し、却《かえつ》て躬《みず》から自已の生を弔《とむら》うの適当なるを知るのである。汝霊《なんじれい》あらば請《こ》う焉《これ》を饗《う》けよ。往 昔宋《むかしそろ》の倪傲詩《げいけいし》あり、敢《あえ》て書して汝《なんじ》を祝しまた予《よ》を弔《とむら》うの偈《げ》に代《か》う。曰く、   平日守繙門《へいじつしようもんをまもり》。 狩時功走遣《しゆじそうけんにこうあり》。 高堂彩冤人《こうどうさいべんのひと》。 何不如黄犬《なんぞこうけんにしかざる》。 喝《かつ》   0  いささか以て広瀬《ひろせ》千|磨《ま》の伝《でん》となす。