役人の頭 末弘 厳太郎 一  子供の時からのくせで新聞を読むことが変に好きです。外国にいたときなど、むろ ん語学のまずいためでもあるが、どうかすると半日ぐらい新聞読みに時を費やしたこ とがあります。かつて高等学校にいたとき、ドイツ語の教科書としてヒルティーとい う人の『幸福論』なる本を読まされたことがあります。その中に新聞を読んではいけ ない、ことに朝一番頭のいいときに新聞のような雑駁なかつ平易なものを読むと一日 中の仕事欲を害する、ということが書いてありました。非常に感心して同室者一同 ——私の部屋には変に頑強な男がそろっていたのですが——と申し合わせて、なんで も半年ぐらい新聞の購読を中止したことがありました。それでも新聞を読むことの好 きな私にはどうもがまんができないので、そっと図書館で読んでいるところを同室者 にみつかってひどくおこられたことなどがありました。そんなことを思い出してみる と、私の新聞好きもずいぶん古いものです。  今でも、毎朝たくさんの新聞を読みます。何がおもしろいのか知らないが、とにか くよく読みます。そうして読みながら種々のことを考えます。ところで、このごろの 新聞を読んで、一番目につくのは何かというと、「殺人」、「情死」さては「大臣の待 合会議」、「不正」、「疑獄」というような不愉快な文字がたくさん目につくのはもちろ んのことですが、「人民の役人に対する不平」を記した記事の多いことは特に私の注 意をひきます。そのうちから、最近最も私の注意をひいた一記事を例にひいて「役人 の頭」という一文を草してみたいと思います。例証として引用する事柄を一つだけ引 き離してみると、きわめて些細なできごとのように思われます。しかし、よくよく考 えてみると事はきわめて重い 大です。これを機会に私は「人民の役人に対する不平」ひ いては「国民の国家に対する不平反抗」という問題を多少考えてみたいのです。 二  今から一〇日ほど前の某紙寄書欄に一新帰朝者の税関の役人に対する不平が載って いました。それによると、税関の役人がその人の所持品を検査した際、一絵画のリブ ロダクションを発見して没収したという事件です。没収の理由はよくわかりませんが、 多分わいせつの図画で輸入禁制品だというにあったのでしょう。  外国帰りの旅客がわいせつないかがわしい春画類の密輸入を企てることは実際上か なり多い事実のようです。日本に帰れば相当の地位にもつき、また少なくとも「善良 の家父」であるべき人々が平気でそういうことをやるという事実はわれわれしばしば これを耳にします。風教警察の目からみて国家がその防遏に苦心するのは一応もっと もなことです。  けれども、今の問題の場合はそれではありません。没収された絵は春画ではありま せん。わいせつ本でもありません。それはイタリア、フィレンツェの美術館に数多き 名画の中でも特に名画といわれているボッチッチェリー(一四四四ー一五一〇年)の 「春」(Primavera)です。それは「春」の絵に違いありませんが、決して「春画」では ありません。税関吏もまさかそんなしゃれを考えたわけではないのでしょう。やたら にただわいせつだと思って没収したに違いありません。そこで私は議論を進める便宜 のためここにその画の写真を載せることを許していただきたいと思います。読者諸君 は一応これを御覧の上、私のいうことを聞いていただきたいのです。 三  美術の専門家でない私には不幸にしてこの画についての詳しい適切な説明を与える ことができません。けれども、一人の素人美術好きとしての私がかつてあの静かなフ ィレンツェのアルノ川に沿うて建てられた美術館の三階で、初めてこの「春」を見た ときの感じ  それはとうてい私のまずい言葉や筆で十分に言い表わすことができる ものではありませんがーーを 言にしていうならば、それはむしろ「神秘的」な「ノ イラステーニッシュ」なざびしい感じのするものでした。  しかも、それはなんともいわれないふしぎな「力」をもったものでした。外国を遍 歴中ずいぶんさまざまの絵を見ました。けれども、この絵の実物を初めて見たときの 感じほど深く私の心にほりこまれているものはあまりたくさんありません。そのむし ろ陰欝な重苦しい、しかもどことなくなつかしみのあるやわらかい色合いを私は今な お忘れることができない。その現実離れをしていかにも神経をいら立たせるようなふ しぎな形と線とは理屈なしに私を引きつけたのです。私は今でもなおあの時の第一印 象をありありと思い起こすことができます。  むろん私ごときものがどう思おうと、またよしんば天下の美術鑑賞家がいかに名画 だということに一致しようとも、国家の風俗警察という目から見ればそこに必ずや独 特の見解があるには違いありません。名画だから必ず絶対に風俗を壊乱しないとは限 らないでしょう。名画を鑑賞するだけの能力をもたない低級な人間にとってはことに そうでしょう。私一個の考えでは「真の名画は絶対に風俗を壊乱することはない」と 自信していますが、その考えを今ここで一般人に押しつけようとは思いません。  しかし、今ここで問題になっているこの「春」を見て、もしもこれをわいせつだと か風俗を壊乱するとか思う人があるとすれば、私といえどもまたその人の眼と頭とを 疑わずにはいられません。この画は誰が見てもむしろさびしい感じのする画です。ま たかりに全く絵画に趣味のない人が見たとすればなんだか変てこな画だと思うだけの ことでしょう。しかしもしも、これを見てわいせつだと思ったり、多少なり劣情を感 ずる人があるとすれば、それはよほど低級なアブノーマルな人間に違いありません。 したがってあの記事にあったように、もしも税関の役人が旅客の十分な説明にもかか わらず、なおこれを理解しないでむりむたいに没収してしまったのならば、彼はよほ ど下等な変態的な趣味と袢欲との持ち主であったか、または特に何か悪意をもってし たことだと私は断定したいのです。  読者諸君はこの事件をもって一小下級官吏によってなされた些事なりとしてこれを 軽々に付してはなりません。彼は一小下級官吏に違いありません。しかしこの具体的 の事件について「国家」を代表したのは彼その人です。その以外の何者でもありませ ん。外国から帰ってくる幾多の旅客がまず最初に接する「日本国」はすなわち彼です。 そうしてその彼が旅客の携帯する「名画」のわいせつと否とを判断してその輸入の許 否を決するのだと思えば、どうしてこの事件を一小事として軽視することができまし ょう。相手は「彼」一個人ではないのです。「国家」そのものです。この当該事件に ついては「彼」の目、「彼」の頭がすなわち「国家」の目であり頭です。「役人の頭」 を問題にしないで何としましょう。 四  「役人の頭」だからといってわれわれ人民の頭とたいして違うわけはありません。 だいたい同じような境遇に育ち、同じような教育を受け、同じようなものを食って生 きている以上、「役人の頭」だけが特別なわけはない。彼らもわれわれと同じように、 美しきを見ては美しと思い、悲しきを聞いては悲しと思うに違いありません。  現在のいわゆる「法治国」においては役人はだいたい「法律」でしばられている。 したがって、あまりわがままのきかぬようにはできあがっている。しかし、それでも まだかなりひろい範囲において自由裁量の権限を与えられています。すなわち役人は 常に必ずしも「法律」という既定の標準のみによって事を裁断する必要なく、いつで もある程度においては自己の意見を加えて、自由の裁断をなしうるようにできていま す。しかも、その役人の目中裁量によって、われわれ人民は貴重な財産、自由、名誉、 生命などまでをも奪われるようにできているのです。「法治国」とはいうものの実は 恐ろしい話である。それにもかかわらず、われわれ人民が比較的驚かずに安心して生 きているのは、彼ら「役人の頭」もだいたいわれわれ人民の頭と同様であろう、われ われが美しいと思うものは彼らも美しいと見てくれるであろう、またわれわれが悲し いと思うものは彼らもまた悲しいと聞いてくれるであろう、とこう思えばこそである。 われわれは役人もまたわれわれとだいたい同じような心意作用をもつであろうという 信頼のもとに、とにかく安心して生きているのである。  「役人」はわれわれ人民にくらべて特別に上等だとか、特別に公平だとか、特別に 国に忠義だとかいうように考えて、彼らに信頼しているのではない。もしも、そんな 特別なものであって、われわれ普通の人民とは全然別個の世界に住んでいるものだと すれば、われわれは「役人心理学」とでもいうような特別な講義をきいた上でないと、 安心してこの世に生きながらえることができないわけです。しかるに幸いにも、われ われ人民が特にかかる講義をきく必要もなく、また特に法律の知識がなくとも、だい たい良心と常識とに従って行動していさえすれば、まずまず「役人」にしかられずに すむのは、役人もまたわれわれと同じ人間だからです。  このことはあらためてことごとしくいうまでもないきわめて当然な事柄である、と 私は考えます。しかるに実際において、われわれがときどき耳目にする役人の行動は ややともすれば私のこの信念を裏切ろうとします。そうしてそのたびごとに、私は 「役人の頭」を疑わざるをえなくなるのです。なんとなく自分らもあの役人のもとで 安心しているわけにはいかぬ、役人のほうでどうにかなってもらうか、ないしはああ いう「頭」の役人がいなくなるような仕組みをつくらなければ安心していられないよ うな気がするのです。  私のような比較的「役人」に近い学問を専門とし、「役人養成所」だと世間から悪 口をいわれている帝国大学の法学部に職を奉じ、役人にたくさんの知己をもっている 者ですら、とかくそう思われてならないのである。してみれば、世間普通の人々の目 には現在の「役人の頭」がもっとよほど変に映っていろのではあるまいか。そうして 彼らのうちの多数者たる利目者は、「役人」はああいうもの、「国家」はこういうもの と大きくあきらめて、長いものには巻かれるほかないと考え、また彼らのうちの皮肉 屋は、冷眼をもって「役人」と「国家」とをながめて、これに嘲罵と皮肉とをあびせ、 なおまた彼らのうち勇気ある反逆者たちは、かくのごとき「役人」とこれによって代 表される「国家」に向かって、いむべきのろいの声をあげているのではあるまいか。 私にはどうしてもそう思われてならないのです。 五  「役人」はよく「近頃の若い者は国家心がうすくて困る」という。しかし、私は事 実なかなかそうではない、今日の若い者の大多数は今日なおかなり熱心な国家主義者 だと思う。がもしも、今の若者に多少なりとも、国家をきらうふうがあるとすれば、 その最も大きな責任者は「国家」を代表する「役人」であるように思われてならない。  役人や長老たちはややともすれば、若者のこの傾向をもって「外来思想」の結果な りとする。なるほどそれも多少あろう。けれども、「外来思想」はただ彼らを目ざめ しめただけのことである。目がさめて目を開いて彼らが見たところの「国家」さえ事 実において善美を尽くしていたならば、彼らの目ざめはむしろ慶すべきことでこそあ れ、なんら恐るるに足りないのです。しかるに、目ざめた彼らが、事実多少なりとも 国家に向かって不満をいだくとすれば、それは「国家」すなわち国家を代表する「役 人」の罪である。「国家」をしてかくのごときものとみえしめている「役人」の罪で ある。  役人も個人としてみればーi多少の例外を除くほか-ー-すべて普通の人間です.、立 派な同胞であり、親であり、夫であり、子であります。ところが、それがひとたび 「国家」を代表して外に対するときは突如として一変します。その際の「彼」は単な る「役人」であって、そ(、り本来の「個人」とは全く縁のないものになるのです。そう して従来の官吏道徳においては役人がかくのごとくになればなるほど、「公平無私」 だとか、「忠誠恪勤」だキかいってそれを賞めるようです。しかし、い(、たい事はそ れでいいのでしょうか? 私は心からそれを疑うのです。  むろん役人はみだりに私情をはさんで不公平やわがままをしてはなりません。なぜ ならば、彼らはそういう口的のために役人の地位を与えられているのではありません から。けれども、さらばこいって、彼らが「国家」を代表する際には、全く人情も忘 れ人間味を離れて、いわゆる「公平無私」の化身になりさえすればいいかというに、 否、決してそうではない。彼らによって代表される「国家」もわれわれ人間の世界に 出てきていろいろなことをする。われわれはいやでも「国家」とつきあわねばならな い。それならば、「国家」もまたごくつきあいやすい普通の人間のごときものでなけ れば、とうていよく普通の人民と調和して社会生活を営んでゆくことのできるわけは ありません。そうして「国家」をしてかくのごときものたらしめるものはただ一つこ れを代表する「役人」あるのみであることを考えると、役人もまた決して形式的な 「公平無私」の化身になっていさえすればいいというような簡単なものではない。彼 らは「国家」をして普通の人間のごとく、道徳的なかつ親しみやすいつきあいいいも のたらしめねばならぬ、きわめて困難な地位にあるのです。  ところが役人はとかく、うち人民に向かって形式的な法規をふりまわすのみならず、 そと他国に対してもへりくつを並べたがります。そうしてそのたびごとに国家の信用 を内外に向かって失墜しつつあります。 六 私の考えでは、従来の法律家は  否、普通一般の人々も  法律の領分を不当に ひろく考えすぎているように思います。私は、国民一般の心意としても、また役人の 心掛けとしても、「法律の世界」はわれわれの日常生活と日ー江…離れた別個の世界だ、と 考えているほうがいいのだと思います。われわれは日常「人間の世界」に住んでいる。 その世界では「良心」と「常識」とに従って行動していさえすればいいのであって、 また普通の人にとハ、てはそれだけで差支えないことになっていなければ困るのです。 なるほど、人が集まって社会生活を営む以」⊥、必ずやなんらかの形式において、国家 を形成せねばならないが、国家がある以上はまた必ず法律がなければならない。なぜ ならば、各人の「良心」と「常識」とにのみ信頼して団体生活を営むことは事実とう てい不可能であるから。  それで「法律」は多くの場合、幸いにも「良心」と「常識」とに適合するようにで きているから、われわれが日常生活において「良心」と「常識」とに従って行動して いることは同時に「法律」に従っていることになる.、そうしてそれがまず通常の場合 であるために、ややとも上ヲれば「人間はすべて  みずからは『法律』を知らぬため に気がつかないけれども、実は  『法律」によって日常生活を行動しているものと 解すべきだ」というような考えが生まれるのです。けれども私をしていわしめるなら ば、その場合でも、人間はただ「良心」と「常識」とに従って行動しているのであっ て、「法律」によって行動しているのではない。ただ事件が裁判所その他国家のお役 所に行ったときに初めて「国家の尺度」すなわち「法律」によって価値判断を受ける だけのことだ、と説明したいのです。例えば、われわれが他人から金を借りたとして も、民法になんと書いてあり刑法になんと書いてあるから、返すのではありません。 われわれはただ常識上借りたものは返すべきだと考え、返さなければなんとなく気が とがめるだけのことです。これを一々法律がああ命じているからやっていると考える のは、普通人の決してなさざるところであり、なすべからざるところである。  もしも、われわれが日常生活において一々法律のことを考えねばならぬとすれば、 きわめてこっけいなことになる。第一たいがいのことをするのに必ず証拠をとってお かなければならない。例えば、ささいな買物にも一々請取りをとり、友人間のわずか な貸借にも証文を要求し、はなはだしきに至ると日常の書信も一々内容証明郵便配達 証明附きで出さねばならぬようなことになります。しかし、もしも誰か実際にそんな ことをやる人があれば、たちまち世の中から排斥されるに決まっています。変な奴だ とか、勘定高い奴だとか、つきあいにくい男だとか、いってつまはじきされるに違い ありません。ところが、法律家の中にはともすればそういうことを考えている人があ ります。  法治国の人民といえども、「常識」と「良心」とに従って行動していさえすればい いのです。またそうなく一、は困ります。法治国民はいざ裁判所なりお役所なりに出た 易合に、法律を知らなかフたといって抗弁することは許されない。すなわちひとたび ・法律の世界Lに入(.た場合には、法律という尺度によって価値判断を受けることを あらかじめ覚悟していなのればならない。しかし、それは決して平素「人間の世界」 の活動をするに際しても法律をそらんじ、これに従って行動せねばならぬという理由 にはなりません。法を知らざることそれ自体は決して不徳ではない。徳と不徳とは常 に道徳によって定まるのじある。むろん、国家といい、法律といっても、人間が団体 生活をなすについての必妥品である。いやしくも団体生活をなす以上、とにかくその おかげをこうむっているものとみねばならぬ。したが(、て旧常識上誰しも知っていてし かるべき法律を知らずにおりながら、ひとたびその適用を受けると、不平を唱えると いうがごとき得手勝手は道徳上もまたこれを許しがたい。しかしさらばといって、法 の不知は当然道徳上非難さるべきことのように考えるのは非常な誤謬であると、私は 考えます。 七  しかし私が以」⊥の説をなすのは、決して読者に向かって「法の不知」を奨励してい るのではありません。諸君も国をなしている以上、法律を知るほうがいいのです。な ぜならば、諸君がみずから正しいと思っている自己の「常識」と「良心」とが、客観 的には正しくないこともありうるし、またたとえそれが正しくても不幸にして法律の 命ずるところには違背していることもありうるのですから。しかもそれにもかかわら ず、私は諸君に向かって「諸君は法律は知らずともいい、しかし常識と良心とに従っ て行動せねばならぬ」ということを高唱したいのです。そうしてそれは現在のわが国 にとって最も必要な考え方だと私は信ずるのです。  われわれが日常生活を呂むにあたっては、「良心」と-常識」とのみを標準として いさえすればいい。法律りことは「法律の世界」に入ったときに考えさえすればいい。 口常生活に法律は禁物である。もしそうでなくて、われわれの行動が常に必ず法律を 標準としてなされねばならぬものだと仮定すれば、われわれ普通の人間は、多くの場 合、行動の標準の知りがたきに苦しまねばならぬ。またともすれば、法律に従って行 動していさえすれば、他り点はどうあろうとも、「国民」として正しく行動している ものとみるべきだというような謬見をよびおこし、もしくは「その場の議論に勝ちさ えすればいい」とか、曲免れて恥なし」というような気風を醸成するおそれがありま す。イギリスの諺に「よ・、ご法律家はあしき隣人なり」という言葉があるそうです.、日 本でも、なまはんか法律を学んだ都帰りの法律書生は農村の平和擾乱者です。法律を 知っている者はとかく法律をふりまわしたくなる。「常識」と「良心」とに従って行 動することを忘れて、法律を生活の標準にしようとします.、その結果、彼はついに 「あしき隣人」となるのです。それゆえに私は国民に向かフて「法律を知れ」とすす める前に、むしろその「良心」と「常識」とを正しきものたらしめよと説きたいので す。  ところが、私らのような法律を扱うのをもって職業とする者、その他大臣以下諸役 人、議員、裁判官、弁護士らは平素あまりに法律に近づきすぎる。その結果ややもす れば、法律をもって百般を律しやすい。「常識」と「良心」とによって、これを判断 することを忘れやすい。私は近時の議会その他政治界をみてことにその感を深くする のです。  私はこの際世人一般はもとより、法律家ことに役人は、かのキリストのいった「カ エサルのものはカエサルに返せ、神のものは神に返すべし」という言葉を深く味わわ ねばならぬと思います。 八  普通の人間が「法律の世界」に入ってみても別にたいして驚かない、「人間の世界」 におけるとだいたい同じように事が運んでいる、ということになっていなければ、法 律と国家との威信はとうていこれを保ちがたい。法律と社会との間に溝渠ができるこ とは国家の最も憂えるところでなければならない。かくのごときは国家の不徳です。 国家は全力を尽くしてその救治をはからねばなりません。  古来、暴君はしばしばその救治策として「道徳」を命令してみました。そうして人 民をして暴君みずからの欲する法に近づかしめようとはかりました。現在わが国の政 治家、ことに敬言察ないし司法に関係している役人の中には、今日なお同じような思想 をいだき、法をもって「淳風美俗」をおこそうと考えているものが少なくないようで す。しかし、この策が古来一度も成功しなかったこと、こ-、」に近世に至っては全く失 敗に終っていることは歴史上きわめて顕著な事実です。  そこで、近世的国家はこれと全く正反対な方策を考えはじめました。すなわち人民 をして「法律」ーー暴君の命令1!-に近づかしめる代りに、国家みずからが進んで 「人間」に近づくことを考えました.)その考えが制度になって現われたものが、議会 政治であり陪審制度であソ、またなにびとといえどもすべていかなる役人にもなりう るという今日の制度です.また法律の上でも、例えば民法第九〇条の「公ノ秩序ハ善 良ノ風俗二反スル事項ヲ日的トスル法律行為ハ無効トス」というような規定は全く右 と同じ考えの現われたものであって、学者はこれを総称してデモクラシーといいます。 以下私はこれらのうち当面の問題に最も関係の深い「なにびとといえどもすべていか なる役人にもなりうる」という制度のことを考えてみたいと思います。  昔は「人民」と「役人」とは全く別の世界に住んでいました。したがって役人の世 界すなわち「法律の世界」と「人間の世界」との間に大きな距離のあることは当然で した。それでも当時の人間は仕方のないものとあきらめていたのです。ところが近世 になると、もはや人間はそれに満足することができなくなって、「役人の世界」と 「人民の世界」との接近を要求しはじめました。しかし、それがために発明された制 度がすなわち「なにびとといえどもすべていかなる役人にもなりうる」という今日の 制度です。この制度の眼目は、「人間の世界」から人をつれてきてかりにこれをして 「役人」の地位につかしめ、これによって「役人」したがってこれによって代表せら れる「国家」の考え方をしてだいたい普通の人間のそれと同一ならしめんとするにあ ります。これによって従来は「役人」という全く別の世界の人間によってつかさどら れていた仕事がともかくも「人間の世界」から出た役人によって取り扱われるように なり、その結果、人間は入いに安心することができるようになったのです。  元来、法治国はあらかしめ作っておいた法律すなわち尺度によって万事をきりもり しようという制度です。そうして近世の人間は公平と自由との保障を得んがために憲 法によってその制度の保啅されることを要求したのです。ところが人間というものは きわめてわがままかってなもので、一方には尺度を要求しながら、他方においてはそ の尺度が相当に仲縮する、いわば杓子定規におちいらないようなものであることを希 望しておるのです。それは明らかに矛盾した要求です。しかし事実だから仕方があり ません。国家はなんとかしてこれを満足させねばなりません。そうして政治の実際に おいて、その矛盾した要求を適当に満足させているものは、すなわち「役人」である。  万事をあらかじめ法律亡決めておくことは事実上とうてい不可能なことであるのみ ならず、生きものである人間は決してかくのごときことを好まない。そこで、一方に おいては法律をもって大輌を決めつつ同時に他方においてはその具体的の活用をすべ てー 人民と同じ世界の人間であるところの  「役人」に一任して、公平と自由と を保障しつつ、しかも同時にある程度に動きのとれるようにすることを考えたのが、 すなわち今日の法治主義です。したがって法治主義のもとにおいて最も大切なことは、 むろん一方においては法律をして真に「人間の世界」の要求に適合せしめることであ るが、他方においては「役人」もまた普通の人間と全く同じものの考え方をするとい うことです。それでこそ人民は安んじて国家に信頼することができるのであって、 「役人」を「人間の世界」から採用する今日の制度の妙用は実にこの点にあるのです。 九  法治主義のもとにおける最小限度の要件は「役人」がわれわれとだいたい同じよう な考え方をしてくれるということです。「役人」もわれわれと同じように、美しきを 見ては美しいと思い、悲しきを聞いては悲しいと泣いてくれてこそ、われわれも安心 できるのである。ところが現在の実際はともすれば、この理想を離れがちになります。 それははたしてなぜでしょうか? 私はそれを解して、せっかく「人間の世界」から 借りてきた「役人」が、その昔「役人の世界」に住んでいた代りに、今度はまた新た に「法律の世界」という新しい別世界に住みたがるためだといいたいのです。すなわ ち、せっかく骨を折って作り上げたデモクラシーが精神を失って再び官僚主義におち いらんとしているためだといいたいのです。  せっかく役人を「人間の世界」から借りてくることを発明して、人間と法律との親 しみを作ろうと考えた。ところが、その役人がひとたび「法律の世界」に入ると、 「人間の世界」と違った考え方をするようになる。むろん、その昔、役入が「人間の 世界」とは全く離れた「役人の世界」に住んでいたころには、その全生活が公私とも にすべて「人間の世界」のそれとはかけ離れたものでありました。これに反して、今 の役人は「法律の世界」に入ったときだけ特別な考え方をする。そうして一時「人間 の世界」から離れる。または少なくとも離れねばならぬもののように考える。これは はたしてなにゆえであろうか。  その原因はいろいろあります。しかし、そのうち最も大きい原因は、すべていかな るできごとでもそれが役入の目に触れるときにはすでに「法律の世界」のことに化し ていることにあるのだと思います。元来は人間の世界に起こった事柄でも、それが役 人の目に触れるのはいよいよ役所の門をくぐってからである。したがって役人がひと たび役所の門をくぐると、「-法律の世界」のこと以外なにものにも接しなくなる。そ こで「人間の世界」にあっては、よき夫であり、よき友であり、よき市民である人も、 ひとたび役人として行動することになると、ともすれば「法律の世界」に特有な考え 方のみをするようになるのです。そうして役人は公私を混淆してはならぬとか、公平 無私でなければならぬとかいうような言葉の形式のみにとらわれて、根本はどこまで も「人間」らしくなければならぬ、ただその上さらに、いっそう公平無私となり、公 私を混淆せざることにならねばならぬ、という根本義を忘れがちになります。  ことに、法治主義のもとにおける役人は法律によってかなりの程度に裁量の自由を 制限されています。したがってうっかり融通をきかせた処分をやってしかられるより は、まずまず法律の命ずるところを形式的に順奉していさえすれば間違いがない。そ のほうが得である。第一、骨が折れなくていい。役人が一度こう考えたが最後、彼は ただ法律を形式的に順奉することだけを心がけるようになり、法律の目的や役人の職 分を忘れるようになる。ここで立派な官僚が出来上るのです。  元来、法治主義はあらかじめ法律を決めておいて役人の専恣を妨げ、これによって 人民の自由を確保する目的でできた制度である。しかるに、その法律がかえって役人 の官僚的な形式的な行動に対する口実となってしまう。かくのごときは決して法治主 義本来の目的ではなかったのです。しかし一方において役人を法律によハ、てしばれば -l-ことにしばりすぎれば ーその当然の結果として役入の行動が形式化しやすいの は当然です。なぜならば、自由のないところに責任は生まれないから。換言すれば、 法治国はきわめて官僚主義におちいりやすい素質をもったものだといいうるのです。 ただその素質、傾向をしてあまりはなはだしきに至らしめない唯一のよりどころは役 人の心がけです。これ私が「役人の頭」のみが今日の国家制度を生かしてゆく唯一の 頼りだというゆえんであります。 一〇  次にまた役人は人なる権力の持ち主です。「人間の世界」は別として、ひとたび 「法律の世界」に入ったが最後、その世界に通用するだけの是非善悪は、ともかくも、 すべて役人によって認定これることになっています..むろん役人といえども法律によ って大いに束縛されている。また下級の役人の判断は上級の役人によって監督され批 評される仕組みにできている。けれども、訴訟手続がめんどうにできているとか、ま た証拠をあげることが困難であるとか、その他種々の理由によって、たとえ役人のあ やまった不当な判断によって権利利益を害された者でも、事実上、上級の役人に訴え てその批判を受けることが困難になっています。このことは現在の行政庁系統の役人 によって権利を害された場合につき最も多くみる例であって被害者は結局泣き寝入り になるのほかない。したがって役人は法律によってしばられているものの、国民に対 する関係においては、法律上ないしは事実上なお大きな「専断力」をもっているので す。しかし、役人にかかる専断力を与えるのは制度の必要上やむなきに出た事柄であ って、いささかたりとも役人がその専断力を濫用することは事物本来の性質上断じて 許すべからざるところなのです。しかるに役人はややともすれば、事をビジネスライ クに運ぶため、またはその威儀を保つために、専断力を濫用します。それはきわめて 恐るべきことです。いったい法律上または事実上、専断力、モノポリーの力をもって いる者は大いに慎まねばなりません。なぜならば、常に必ず多少のむりがきくからで す。けれども、それはその者にとって最も危ないことなのです。ところが役人はやや -・」もすれば、それをやりがちなものであって、その結果、国家までをも国民憎悪の的 たらしめるに至るのです.  国家は法律の府です。けれどもまた同時に、われわれ「人間の世界」にきたってと もに事をします。したが.て、その国家はわれわれ普通の人間にとって親しみやすい 交際しやすいものでなければなりません。普通の人間が相互の交際において法律をふ りまわせば必ずつまはじきをされる。なぜならば、その人は他人にとってきわめて交 際しにくいからです。しかるに、役人が法律を盾にとって自己の不穏当な行為をかば うようなことがあれば、それはすなわち彼によって代表された国家みずからが法律を ふりまわしたことになりよす。彼が国民によってつきあいにくい奴だと思われるのは きわめて当然のことだと、vわねばなりません。  役人は法律によってしばられたきわめて仕事のしにくい気の毒な地位にあるのです。 ですから役人が法律を適用して本来「良心」と「常識」とに従って行動した人々をし て法に触れることなからしめる苦心に向かっては大いに敬意を表します。しかし、さ らばといって、自己の不当処置をかばう盾として法律を使うことは絶対に許されない。 なぜならば、かくのごときは実に国家をしてつきあいにくい奴たらしめるゆえんだか らである。  国家もまた普通の人間と同じように「良心」と「常識」とに従って行動しなければ ならぬ。しからざれば必ずやその威信を失墜します。国民は彼を信じなくなり、愛し なくなります。そうして国家をしてかかる行動をなさしめるものはただ一つ「役人の 頭」あるのみである。役人はその役人たる地位にあるときも普通の人間のごとく考え ねばならぬ。かくしてこそ国民は彼とともに喜び、彼とともに泣くのである。ここに おいて私は、『大学』の中にある「天子より庶民に至るまですべて身を治むるをもっ て本となす」という言葉の意味深遠なるを思わざるをえないのです。  以上の私の議論に対しては必ずや次のような非難がありうると思います。私の議論 は全く国家の指導的職能を忘れていはしないかという疑問がすなわちそれです。しか し私はその点を忘れてはいない、否、大いに考えているの'岬、す。  私といえども国家に指導的職能あることを認めます。そして国家がその種の職能を 最も明瞭にかつ大仕掛けr実現した事例は実にわが国の明治時代だと思います。幕末 に全るまで永く東海の孤島に孤独平安の夢をみながら眠っていたわが国は明治維新と ともに目ざめました。目ざめてみると、われわれの外部にはわれわれがまだ一度も見 たことのない物質的ないし精神的の偉大な文化の花園がひろく美しく咲きほこってい るのに気がつきました。世界の舞台に乗り出さねばならぬ、乗り出すにはまず彼らと 同じ程度の文化に到達せねばならぬ.)  こう考えたわれわれの父祖はまっしぐらに西欧文明の跡を追って走り出したのです。 しかし、そう考えてみると、国民一般はまだ十分に目がさめていない。先覚者はまず 彼らの目をさまさなければならぬ。目をさました上で、さらに彼らを導かねばならぬ。 そうして当時この先覚者の役目を尽くした者は  福沢先生のごとき偉大な民間の指 導者もあったことはむろんであるが  -主として役人であった。先覚者たる役人は、 あるいは国内に大学を建てたり、あるいは秀才を外国に送ったりして、人才の養成に 力を致しました。西欧文化の吸収に努力したのです。素質のあったわが国民は実によ く吸収しました。その結果、わずか四、五十年の間にわれわれは実によく- 少なく とも形式だけでも  欧米の文化に近づくことができたのです。そうして国民をして ここに至らしめた最も大なる功労者はいうまでもなく明治の役人です。  明治五〇年の間役人は陣頭に立って国民を「西欧文明」に向かって突進せしめまし た。国民もまた実によくその指揮に従って突進しました。しかしながら兵家はよく 「兵をして突進せしむるものは指揮者の信念と決心とである」といいます.明治が終 って大正に入ったころ、われわれは形式だけはとにかく欧米の文化に追いつくことが できた。そうしてわれわれは多少安心をしました。ところが夢中で突進してきた者に とっては、その安心は実に恐るべき安心でした。その結果、指揮者の決心もにぶり、 国民もまた多少疲労をおぼえるに至ったのです。ことに役人が今までもっぱら目標と して国民を導いてきた西欧の文化は、今や行きづまりを示して新たに向かうべき天地 を求めています。今まで深く考えずに、ただ西欧文化を追うて走った独自力にとぼし い役人は、たちまち行きづまりました。  「さてわれわれはこれから何を目標として進もうか?」そのとき国民は役人に向か っていいました。「さてわれわれはどこへ行けばいいのですか? あなたはわれわれ をどこへつれてゆくつもりですか?」と。しかし役人は十分この問いに答えることが できませんでした.)その答えをきいた国民が疑いはじめたのは当然です。不安を感じ た彼らは、あたかも成年に達したか達せぬかの子供が突然その父母を失ったと同じよ うに、乙れからは自分の進むべき道を自分でさがさねばならないのだと考えはじめま した。しかし、今まで盲白的に導かれて走ってきた者が、突然指導者を失って急に目 をあけてみても、さて自らどちらへ行っていいのかを判断することはきわめて困難で す。それはちょうど戦地において敵の軍使を迎える際にまず布をもって彼の目をおお うた上、車をもってある距離を走らしめ、しかる後はじめてその布を除く、かくして 目かくしを除かれた軍使には、とうてい敵陣の様子を十分知ることができないのと同 じことです。また現在、自己がどこに立っているかを知らぬ者にとっては、いかに詳 細な地図もなんらの効能もないのと同じことです。国民はおのおの白己のよしと思う ところをたずねて動きはじめました。ある者は古きをたずね、ある者は新しきを追う て。そうしてそのうちきわめてわずかな者だけがみずから考えはじめました。これを 称して人は「民心の混乱」というのです。  まだ明治の夢をみている役人と伝統主義者とは驚きました。  「民心統一」せざるべからずと考えたのです。しかし、彼らが従来人民を導きえた のは西欧文化という他人からもらった目標をもっていたからです。ただそれだけを目 標として別に深く考えることなしに指揮的態度をつづけてきたのです。ところが今、 ようやく追いつきかけたと思うころに欧米はもはや新しい別な方向に向か.、て進もう としている。否、すでに進みはじめました。ここにおいて役人と伝統、王義者とはもは や彼を追うことはできないということに気がついた。けれども、しからばみずからに 独自な別個の目標ありやというに、むろんそれはない。  彼らは従来、あまりに修養を怠りすぎたのです。「自分ははたしてどっちへ行った らいいのだろう?」彼らはこう疑いはじめたのです。独白力のない彼らはそのとき考 えました。欧米もはや追うべからずとせば、わが国みずからの古きに返るよりほか仕 方がない。こう考えた彼らは、たちまち復古主義者となって、五〇年来深いお世話に なった、そうしてみずから神のごとくにあがめていた、欧米の文化をたちまち弊履の ごとくなげうって口汚くののしりはじめました。  そうして外来思想を非難し、魂の抜けた「えせ武士道」を鼓吹し、はなはだしきに 金っては物質文化まで排斥し、精鋭な新武器をすてて再び刀をかつぎだすようなこと を唱えはじめたのです。彼らの「民心統一」といい、「民力涵養」といい、「淳風美 俗」というものがすなわちそれです..しかし、彼らの「復占」はただ昔の「さび刀」 をたち切った上新たにこれによって新武器をきたえあげたのではありません。それが ためには彼らはあまりに独自力が足りないのです。 一二  明治の役人は人民の指導者でした.)彼らは先覚者でした..彼らは知識において一般 国民よりもすぐれていたのはもちろん、道徳的にもまた国民の儀表たるべきものとし てみずからも任じ人もまたこれを許していたのである。少たくとも彼らはかくあるべ きものとして一般に要求硬、、れていたのである。しかし当時のわが国はもっぱら西欧文 明のあとを追うことにのみ忙しかったのであるから、多少なりとも普通人以上に欧米 の事情に通じ、その文化を理解することのできた者は、先覚者として役人として人民 を指導することができたのです。  ところが、その役人が今日ではもはやひたすら西欧文明を追ってさえおればいいと いうことではなくなりました。ことに最近、欧州文化の行きづまりとその新たな転向 とは、わが国の伝統主義者をして従来のごとくひたすら彼を追うことの危険なるを感 ぜしめました。今まで、彼が楽園だと思ってめざしていたものが、たちまち地獄にみ えだしたのです。ここにおいて、彼らは急にわが国にはわが国独特の目標がなければ ならぬということを高調するに至りましたけれども、元来単なる模倣者、輸入者たる にすぎざりし彼らには遺憾ながら創造力がとぼしい。独自性が足りなかった。それが ため、彼らはそのみずから高調するわが国独特の目標を自力をもって創造することが できないで、再び「伝家のさび刀」をかつぎだしました。そうしてそれに「淳風美 俗」とか「剛健質実」とかいう名をつけて、これこそは国民を指導すべきわが国独特 の目標であると唱えはじめたのです。そうして、彼らが明治において行った指導的職 能を今日もなお保持し実行せんとしています。なるほど、彼らの主張する「淳風美 俗」も「剛健質実」も、それ自体たしかにいいことに違いありません。しかしながら、 この刀は彼らみずからがあまりに長くこれをしまっておいたために、お気の毒ながら さびています。また彼らがその刀をしまっておいた間に、世の中はもう遠く刀の時代 を去って、 一六インチ砲や飛行機の時代となりました。凶しも、彼らの刀がさびてい ない精神のこもったものであるならば、あるいはこれを烝.て一六インチ砲と戦うこ とができるかもしれません。しかし、彼らのそれはさびています。彼らは今や、むし ろさび刀をたち切って、これを精鋭な新武器にきたえなおすべきです。ところが彼ら には、それを実行するだσの創造力がない。いたずらにさび刀をふりまわして、大声 人を恫喝する以外、なに、ことをもなすことができないのです。  いったい人を導く者は導くだけの力がなければならぬに決まっています。たとえ、 今までは導いてきた者でも、ひとたびその力を失ったならば、いさぎよくその地位を ひくか、または少なくともその指導的態度を放棄すべきです。その力を失ったにもか かわらず、依然としてその指導的態度をあらためない者は、もしみずからその力を失 いたることを知るにおいては「悪」であり、もしまた知らざるにおいては一愚」であ る。導かれる者の迷惑これよりもはなはだしきはないのである。今やわが国の人々は、 物質方面においても知識的方面においても、もはや役人の指導を要しなくなった。い わんや道徳的方面においてはそうである。しかるに従来、これらの諸点において指導 的地位にあったところの役人は、今もなおかくあるべきもの、またありうるものと考 えています。そうしてみずからの力の足らざるを顧みようとはしません。「悪」にあ らずんば「愚」なりというのほか評すべき言葉がありません。明治の間役人が各方面 ともに指導的態度を保持することができたのは、全く当時の例外的の事情にもとつく のであります。一方においては官民こぞって西欧文明の追随に腐心した時代であるこ と、他方においては役人が一般に西欧文明についての先覚者であったこと、それが彼 らをして指導的地位に立つことをえしめ、またはこれを余儀なくせしめたのです。と ころが大正の今日は、全く事情が変わりました。もはや国民と役人との間にはなんら 知識の差等がありません。国民は今や、役人の指導をまつことなしに、白由に考え自 由に行いうるに至ったのです。  しかるに役人がそれをさとらずに依然として従来の指導的態度を維持せんとするが ごときはきわめておろか英ある。いわんや精神を失った「伝家のさび刀」によって、 それを行わんとするに至っては言語道断であります。今やわれわれ日本国民は疑いは じめた、みずから考えはじめた。多年の間もっぱら役人によって指導されつつ盲目的 に突進してきた国民は今やRざめてみずから考えはじめたのです。しかも因襲の久し き多数の国民はみずから考えんと欲しつつその考える力にとぼしい。彼らは全く創造 力と独自性とを失っていス、。しかもささやかながら、彼らのみずから考えんとしてい るあの努力をみよ。国民ほ今や目ざめたのである。われわれは彼らの目ざめをして真 に意義あるものたらしめねばならぬ。なぜならば、みずから文明国をもって誇るわが 国が明治維新このかた世界人類の文化のためになにものを貢献したか? わが国民は はたしてどれだけの創造力.があるのか?  それらの点を考えると、国民の創造力を養成することが刻下の最大急務のように思 われてならないからであろ。  せっかく今や、ようやく盲目的服従の習慣から離れて、みずから考えみずから行動 せんとしはじめたのです。国家とその役人とは、今や全力を尽くしてその動きはじめ た傾向を助長すべきです。  そうしてみずからは「指導」をすてて「謙虚」につくべきです。 ここにおいて私は いいたい。刑や法によって「淳風美俗」をおこそうと考えてはならぬ。みずから確信 ある活力ある道徳的の規準を有せざるにかかわらず、なおかつ「民心の統一」に腐心 するをやめよ。彼らの美しいといったものは国民もまた異口同音に美しいと合唱した 時代はすでに過ぎ去った。一時の例外的現象にすぎない明治の夢を今もなおみていて はならぬ。目をあけて世の中を見よ。暁明はまさに来らんとしている。われわれは、 みずから考えみずから行って、みずからの道徳を創造せんとしている。私はかく高唱 しつつ、今後の国家と役人とがもっともっと謙虚なものになってほしいと希望するの です。  そうして国家も役人も、われわれ普通の人間の考え方を制御することにのみ腐心せ ずに、むしろみずからをむなしうして、みずからもまた普通の人間と同様に考えうる ようになることを心がけてほしいのです。なぜならば、「役人の頭」が「人民の頭」 と一致することは国家制度の生きてゆく最小限度の要件であるから。 一三  今や役人はその態度と考え方とをあらためねばならぬ.「指導」より移って「謙虚」 につかねばならぬ。そうしてわが国人をして真に世界人として世界人類の文化のため に貢献しうるように、自由に考え、自由に行わしめ、もハ、てその創造力と独自性とを 十分に発揮せしめねばならない。そうしてそのことは「,思想」の問題、「道徳」の問 題、「美術文芸」の問題について、ことに痛切に感ぜられます。なぜならば、これら の閙題は、一方においては、いずれも国家と法律と役人とにとって最もにがてな問題 である。問題本来の性質上、役人の指導を許さざるもの、役人はただこれを取り締ま る以外なんらの能力もあろべきはずのない事柄だからです。しかも他方において、わ が国人をして今後人類文化のためになにものかを貢献せしめるがためには、これらの 方面における国人の考え方と活動とをして、白由に活躍せしめねばならないからです。 今日わが国はあらゆる方面において行きづまっています。政治においても、経済にお いても、法律においてもそうです。道徳の方面においても、また同様だということが できましょう。旧来のものはすべてその権威を失いました。また少なくとも失わんと しています。伝統主義者はこれをみて慨嘆しています。けれども私はかくしてこそ、 わが国がいきいきと仲びてゆくのだ、これこそ実に新日本への木の芽立ちと考えてい ます。役人はなにゆえにこの仲びてゆく若芽を刈らんとするのであろう?  彼らはみずから称して「思想を善導する」という。しかし「善」とははたしてなに か。彼らははたして確信をもってこれに答えうるものであろうか? 否、私はそうは 思わない。なぜならば、今やまじめに考えている国民はみなひとしく「善とはなんぞ や」の問いに答えかねて煩悶を重ねている。彼らもまたその例外であるはずはないか らです。  「善」とはなんぞや。国民はみなその問いに答えかねて偉人のくるのを待っている。 そのときにあたって、役人が「伝家のさび刀」をかつぎだして、われこそは「思想の 善導者」である、と大声疾呼したところで、誰かまじめにこれを受け取る者があろう。 この際役人もまた人間の間に下りきたってみな人とともに「善」とはなんぞやという 普遍の公案を考えねばなムない。かくしてこそ、彼らもまた国民とともに悲しみ・^、る 真の人間らしい役人となhうるのであって、それのみが今目の国家をして永く安泰な らしめる唯一の策だと私け考えるのです。 一四  なお終りに一言いっておかねばなりません。今の役人の中で無性に「伝家のさび 刀」をありがたがり、こわによって国民を「善導」せんとする者はむしろ上役の者に 勿い。しかも、この考え方は十分下役に徹底していないために、ややともすれば下役 の考え方を強制する。その結果、みずから行いつつある行為について十分の確信をも たない下役の役人が、とにかく上官の命ずるところに従、て、形式的に行動していさ えすればいいと考えるよう、な、忌むべき現象を生ぜしめた。しかしながら、かくのご ときは、かかるみずから碑信なき役人の行為によって取り締まられる国民にとっては、 きわめて迷惑であるのみた、らず、役人をして道徳的に堕落せしめるゆえんだと私は確 信します。下役の役人が行動するにあたって、ただ単に「十官の命令なるゆえに」と 考えるだけで、みずからなんらの自信もないならば、そのぞとに現われた行動はいか に形式上合法的にできていても、真に人民を服することのできるわけがありません。 また役人が日夕かくのごとき行動を繰り返さねばならぬとすれば、ついには彼らの道 徳心が麻痺するに違いありません。真に人間らしく「良心」と「常識」とをもととし て考えようと努める代りに、とにかくうわべだけ」⊥官の命令を奉じているようにみせ かけていさえすればいいというようになるに違いありません。そうして私にはどうも 現在の役人がもはやその弊におちいりつつあるように思われてならないのです。下役 人がサボる、不正をやる、人民につらくあたる。われわれは毎日そういういやなうわ さを耳にします。そうして上役人は「綱紀粛正」とか称して下役人をしばったり督励 しようとしているといううわさを耳にします。しかし私をしていわしむれば、それは 決して下役の罪ではない。下役といえども飯を食わねばならぬ。その下役をして道徳 的に自信のない行動をむりやりにやらせて、事久しきに及べば、彼らが道徳的に堕落 するは当然です。したがって彼らをして堕落せしめたのは実に上役の罪であると私は 思います。下役が道徳的に同感であろうがなかろうが、むりに事を命,じてやらせる。 その当然の結果として上役の目を盗むことができさえすれば何をやってもいいという 考えを生ぜしめる。それはち..うど法律のむりな強行がややともすれば人民の徳性を 害し、法律に従っていさえすれば何をやっても差支えたいというような考えを牛ぜし めやすいのと同じです。  この意味において現在の役人は、一には法律によってしばられ、二には上役の命令 によってしばられた、きわめて困難な気の毒な地位にあるのです。しかもその「役人 の頭」のみが今の国家をして長く活力あらしめる唯一の保.障であることを考えると、 役人の責務のきわめて重ゼことを感ぜずにはいられません.、ここにおいて私は、一方 には立法府および上役に向かってその法律と命令とを下役の道徳的要求に合致したも のたらしめ、下役をしてその良心に従..て行動することをえしめよといいたい。  また役人みずからに向かっては、諸君は役人たる前にまず人間たることを心がけね ばならぬ、法律によって思惟せずに、良心と常識とに従って行動せねばならぬ、とい いたいのです。諸君はも一度「カエサルのものはカエサルに返せ、神のものは神に返 すべし」というキリストの言葉の意味を、またもしこの言葉がいやならば-天子より 庶民に至るまですべて身を治むるをもって本となすLという『大学」の語を十分に味 わっていただきたいと希望します。  なぜならば法治主義は実に諸君の頭のみを頼りにした制度だからです。