嘘の効用 末広厳太郎  法律以外の世界において一般に不合理なりとみなされている事柄 がひとたび法律世界の価値判断にあうや否やたちまちに合理化され るという事実はわれわれ法律学者のしばしば認識するところである。 そうして私はそこに法律の特色があり、また国家の特色があると考 えるがゆえに、それらの現象の蒐集および考察が、法律および国家 の研穿者たる私にとって、きわめて有益であり、また必要であるこ とを考える。その意味において、私は数年このかた「法律における 擬制」 Legal fiction, Rechtsfiktion の研究に特別の與味を感じてい る。そうして本文は、実にその研究の中途においてたまたま生まれ た一つの小副産物にすぎない。これはもと慶応義塾大学において講 演した際の原稿に多少の筆を加えて出来上ったものであって、雑誌 『改造』の大正十一年七月号に登載されたものである。  われわれは子供のときから、嘘をいってはならぬものだということを、十分に教え こまれています。おそらく、世の中の人々は——一人の例外もなくすべて——嘘はい ってはならぬものと信じているでしょう。理由はともかくとして、なんとなく皆そう 考えているに違いありません。「嘘」という言葉をきくと、われわれの頭にはすぐに、 「狼がきたきた」と、しばしば嘘をついたため、だんだんと村人の信用を失って、つ いには本当に狼に食われてしまった羊飼の話が自然と浮かび出ます。それほど、われ われの頭には嘘をいってはならぬということが、深く深く教えこまれています。  ところが、それほど深く刻みこまれ、教えこまれているにもかかわらず、われわれ の世の中には嘘がたくさん行われています。やむをえずいう嘘、やむをえるにかかわ らずいう嘘、ひそかにいわれ陰に行われている嘘、おおっぴらに行われている嘘、否 時には法律によって保護された——したがってそれを否定すると刑罰を受けるような おそろしい——嘘までが、堂々と天下に行われているほど、この世の中には、種々雑 多な嘘が無数に行われています。  実をいうと、全く嘘をつかずにこの世の中に生き長らえることは、全然不可能なよ うにこの世の中ができているのです。  そこで、われわれお互いにこの世の中に生きてゆきたいと思う者は、これらの嘘を いかに処理すべきか、というきわめて重人なしかもすこぶる困難な問題を解決せねば なりません。なにしろ、嘘をついてはならず、さらばといりて、嘘をつかずには生き てゆかれないのですから、 二  私は法律家です。ですから、専門たる「法律」以外の事柄については——座談でな らばとにかく——公けに、さも先覚者ないし専門家らしい顔をして、意見を述べる気 にはなれません。法律家は「法律」の範囲内にとどまるかぎりにおいてのみ「専門 家」です。ひとたびその範囲を越えるとただちに「素人」になるのです。むろん「専 門家」だからといって絶対に「素人考え」を述べてはならぬという法はないでしょう。 けれども、その際述べられた「素人考え」は特に「専門」のない普通の「素人」の意 見となんら択ぶところはない。否「専門」という色眼鏡を通して、物事を見がちであ るだけ、その意見はとかく一方に偏しやすい。したがって普通の「素人」の意見より かえって実質は悪いかもしれないくらいのものです。しかも世の中の人々は、ふしぎ にも「専門家」の「素人考え」に向かって不当な敬意を表します。普通の「素人」の 「素人考え」よりは大いにプレスティージュをもつわけです。例えば、世の中には無 名の八公、熊公にして、演劇に関する立派な批評眼を具えているものがいくらもいま す。ところが、何々侯爵とか、何々博士とかが少し演劇に関して「素人考え」を述べ ると、世の中はただちにやれ劇通だとか芝居通だとかいって変に敬意を表し、本人も いい気になって堂々と意見を公表などします。侯爵や博士のくせに芝居のことも人並 みにわかる珍しい男だというくらいならばともかく、その男がさも「専門家」らしい 顔をして「素人考え」を臆面もなく述べるのをきくとき、また、世の中の人々がこれ に特別の敬意を表するのをみるとき、私は全く不愉快になります。かくのごときは実 に一種の「不当利得」にほかならないと私は考えています、しかし世の中の「専門 家」はとかくこの点を間違えやすい。世の中の人々も、普通にその同じ間違いを繰り 返して「専門家」の「素人考え」を不当に尊敬します。私は全く変だと思います。  私は法律学者です。ですから「法律」および「学問」についてだけはともかくも 「専門家」として意見を述べる資格があるのです。だから今ここに「嘘の効用」と題 して嘘をいかに処理すべきかという問題を考えるにしても、議論はむろんこれを「法 律」および「学問」の範囲内に限りたいと考えます。一般の道徳ないし教育などに関 する問題として、いかにも「玄人」らしく意見を述べることはどうも私のがらではあ りません。  「法律」の上で、また「学問」一般について、「嘘」は善かれ悪しかれいろいろの働 きをしています。それを考えてみることは、ひとり「法律家」にとってのみならず、 一般の人々にもかなり興味あることだと思います。ことに私は、私の「法律」および 「学問」に対する態度を明らかにするがためには、この「嘘の効用」についての、私 の考えを述べることがきわめて重要であり、少なくとも人いに便利だと考えているの です。それが、私のこの稿を起こすに至った主な動機です。 三  私はまず法律の歴史の上に現われたいろいろの「嘘」を二、三例示したいと思う。 そうしてその「嘘」が実際上いかなる働きをしたかを考えてみたいと思います。  法律とか裁判とかいうことを考えると、われわれは、じきに大岡越前守を思い起こ します。そうして彼こそは、裁判官の理想、名法官であると考えます。今日われわれ の世の中に行われている裁判がとかく人情に適しないとか、人間味を欠いているとか、 または裁判官が没常識だとか、化石しているとかいうような小言を耳にするたびに、 われわれは大岡裁判を思い起こします。そうしてああいう人間味のある裁判がほしい と考えます。  しからば、大岡越前守がかくのごとくに賞讃され、否、少なくとも講談や口碑にま で伝えられるほど、その昔において人気があったのは、はたしてなぜでしょうか。私 は、不幸にしてこの点に関する学問的に精確な歴史的事実を知りません。いわゆる大 岡政談の中に書かれている事実のすべてが、真に大岡越前守の業績であるかどうかに ついて、毫も正確な知識老もっていません。しかし私にとって、それはどうでも差支 えないのです。たとえそのの話の全部が大岡越前守の真実行った仕事ではないとして も、あれがいわゆる大岡政談となって今日にまで伝わったということは、いかに当時 の人々が、あの種の裁判を歓迎したかを明らかに証拠だてるものです。ですから、私 が今これからいうところの大岡越前守は、実は大岡政談に現われた大岡越前守を指す のであって、それが歴史的真実と合致するや否やは毫も私の意としないところです。  大岡越前守の裁判は、なにゆえに人情の機微をうがった名裁判だといわれるのであ ろうか。一言にしていうと、それは「嘘」を上手につきえたためだ、と私は答えたい と思います。嘘は善いことだとか、悪いことだとかいう論はしばらく別として、大岡 越前守が嘘つきの名人であったことは事実です。そうして上手に嘘をつきえてほめら れた人です。大岡政談を読んでごらんなさい。当時の法律は、いかにも厳格な動きの とれないやかましいものであった。それをピシピシ厳格に適用すれば、万人を戦慄せ しめるに足るだけの法律であった。しかも当時の裁判官はお上の命令であるところの 法律をみだりに伸縮して取り扱うことはできぬ。法律慧動くべからざるもの、動かす べからざるものであった。この法律のもとで、人情に合致した人間味のある裁判をや ることはきわめて困難な事柄です。しかも大岡越前守はそれをあえてしたのです。し かも免職にもならず、世の中の人々にも賞められながら、それをやりえたのです。  しからばどうしてそれをやりえたか。その方法は「嘘」です。当時の「法律」は厳 格で動かすことができなかった。法を動かして人情に適合することは不可能であった。 そこで大岡越前守は「事実」を動かすことを考えたのです。ある「事実」があったと いうことになれば「法律」上必ずこれを罰せねばならぬ。さらばといって罰すれば人 情にはずれる。その際裁判官の採りうべき唯一の手段は「嘘」です。あった「事実」 をなかったといい、なかった「事実」をあったというよりほかに方法はないのです。 そうして大岡越前守は実にそれを上手にやりえた人です。  しかし、これと同じ手段によって裁判の上に人間味を現わしたのは、ひとり大岡越 前守のみに限るのではなく、おそらく至るところの裁判官は  むろん時代により場 所によって多少程度の差こそあれ  皆ひとしく同様の手段を採るもののように思わ れます。例えば、ローマリごときでも、奇形児を殺した母をして殺人の罪責を免れし めるがために、裁判官はしばしば三9μ珍;ヨの法理を応用したといわれています。  ローマでは、たとえ人閭の腹から生まれたものでも、それは奇形児で十分人間の形 を備えていない場合には、法律十称して    (鬼了)といい、これに与えるに法 律上の人格をもってしなかった。この考えは、口ーマにおいてはきわめて古くから存 在したようであるが、後のユスチニヤン法典中にも法家パウルスの意見として                         中に収められている。ところで ある母が子を生んでみると、それがみにくい鬼子であ9た.、そういう子供を生かして おくのは家の恥辱でもあり、また、本人の不幸でもあると考えて、母はひそかにこれ を殺してしまった。やかましく理屈をいえば、それでもやはり一種の殺人には違いな い。しかしさらばといっこ、その母を殺人の罪に問うことは裁判官の人間としてとう てい堪えがたいところである。社会的に考えてもきわめておろかなことです。そこで 裁判官は、なんとかして救ってやりたい、その救う手段として考えついたものが、こ の     の法理です。母は子を殺した、しかし殺したのは人にあらずしてゴざ亭 珍毎白であった、したがって罪にはならぬ。と、こういう理屈をもって憐むべき母を 救ったのだということです..  今日の発達した医学の目からみれば、「人」の腹から「人にあらざるもの」が生ま れるわけはどうしてもありえないのでしょう。しかし、さらばといって、ローマ人は ばかだ、無知だと笑ってしまうのはやぼです。なるほど、それは不合理でしょう。し かしとにかく、これで人の命が救われたのです。そうして当時の人は多分その裁判官 を賞讃したに違いありません。  またわれわれは、徳川時代の御目付役は「見て見ぬふりをする」をもって大切な心 得としていたということを聞きます。合理的にやかましくいえば、いやしくも犯罪を 発見した以上、御目付役としてはすべてこれを起訴せねばならぬわけです。ところが、 それを一々起訴すればかえって世人は承知しない。その結果「見て見ぬふりをする」 すなわち「嘘をつく」をもって御目付役の美徳(?)とされていたものです。ところが この同じ事はひとり旧幕時代のみに限らず明治、大正の世の中にも行われている。刑 事訴訟法が今年改正になりました。その以前には明らかな規定がなかったにかかわら ず、学者の多数はいわゆる「便宜主義」(        )と称して、犯罪を起訴す るや否やは検事の自由裁量に一任されているものだと主張し、司法官もまたその考え を実行していたのです。「便宜主義」と名をつければいかにもいかめしくなるが、実 をいうと御目付役の見て「見ぬふりをする」のと同じことです。ところがこんどの新 刑事訴訟法第二七九条ではついにこれを法文の上に現わして「犯人ノ性格、年齢及境 遇並犯罪ノ情状及犯罪後ノ情況二因リ訴追ヲ必要トセザルトキハ公訴ヲ提起セザルコ トヲ得」と規定するに至.た。いわば「嘘」を公認した代りに「嘘つき」の規準を作 り、その結果「嘘からまこと」ができたわけなのです。諸君は試みに司法統計のうち 「嬰児殺」の部をあけてごらんなさい。Aフの検事がこの点についていかに多く「見て 見ぬふり」をしているかを発見されるでしょう。 四 英米の法律には「名義土の損害賠償」(       )という制度があります。い ったい損害賠償は、読んて字のごとく、実際生じた損害を賠償させることを目的とす る制度ですから、たとえ権利侵害があっても、実際上なんらの損害もなければ、損害 賠償の義務は発生しないわけです。そこで、例えばわが国においては、甲が乙の所有 地内に無断で侵入した場合に、乙から損害賠償請求の訴えが起こされても、その無断 侵入の結果、事実乙がなんらの損害もこうむっていなければ、不法行為の成立要件を 欠くものとして乙は敗訴せざるをえない。むろんただ合理的に考えれば、乙にはなん らの損害もないのだから、これが賠償を求むべきなんらの権利なきは当然である。け れども甲が乙の権利を侵害したという事実だけは確実です。その点において甲は悪い に違いないのです。ですから権利侵害はあったがなんらの損害もないからという理由 で敗訴し、その結果、名目上とにかく敗けたということになり、また同時に、敗訴者 として訴訟費用を負担せしめられることは、乙にとってきわめて不愉快なことに違い ありません。乙は「賠償はとれずともいい。しかし敗けたくはない」と、こう考える に違いないのです。この際もしも名日上だけでも乙を勝訴者たらしめることができた ら、彼はどれだけ喜ぶでしょう。  英米法の「名義上の損害賠償」は実にこの場合における乙を救う制度です。いやし くも権利侵害があった以上、そこに必ずやなんらかの損害がなければならぬ。その損 害の象徴として裁判所は被害者に例えば金一銭を与えるとつる。そうすれば被害者は たとえ金額は一銭でもとrかく勝訴したことになり、名目ヒはもちろん実利的にも訴 訟費用の負担を免れるという利益がある。実際、損害の立証は立たぬ。しかし権利侵 害があハ、た以上必ず損害があったものとみなして、それ夕二銭という有形物の上に象 徴するところがこの制度の妙味であって、「嘘」の効用のいちじるしい実例の一つで す。  現在、わが国の法学者は一般に偏狭な合理主義にとらわれて「損害なければ賠償な し」という原則を絶対の・、のと考え、「名義上の損害賠償」のごときは英米独特の不 合理な制度、とうていわが国に移すべからざるものと考えています。けれども、もし 広、わが国にこの制度が行われることになったならば、法律を知らぬ一般人の裁判所に 対する信頼はどれだけ増十ハするであろうか、また不法行為法がどれだけ道徳的になる であろうか、私は切にそういう時期の至らんことを希望しているのです。しかし、そ れにはまず一般法学者の頭脳から偏狭な合理主義を駆逐して、もっと奥深い「合理に よって合理の上に」出でる思想を植えつけねばなりません。 五  次に、欧米諸国の現行法はだいたいにおいて協議離婚を認めていません.離婚は法 律で定めた一定の原因ある場合にのみ許さるべきもので、その原因が存在しない以上 はたとえ夫婦相互の協議が成立しても離婚しえないことになっているのです。この点 はわが国の法律と全く違ってきわめて窮屈なものです。しかし、いかな西洋でもお互 いに別れ話の決まった夫婦が、そうおとなしくくっつきあってるわけがありません。 いかにバイブルには「神の合わせ給える者は人これを離すべからず」と書いてあって も、お互いに別れたいものは別れたいに決まっています。そこで、夫婦の間に別れ話 が決まると、お互いにしめしあわせて計画を立てた」⊥、妻から夫に向かって離婚の訴 えを起こします。裁判官が「なにゆえに?」ときく。妻は「夫は彼女を虐待せり、三 度彼女を打てり」と答える。すると裁判官は被告たる夫に向かって「汝は原告妻のい うところを認むるや?」ときく。そこで、夫は「しかり」と答える。かくすることに よって裁判官は欺かれて、離婚を言い渡す。もしくは事実の真相について疑念を抱き つつもなお離婚の判決をくだすのである。ですから、西洋でも実際においては当事者 双方の協議によって離婚が行われている。そうしてその際便う道具は一種の「嘘」、 一種の芝居です。  法律は人間のために存つるものです..人間の思想、籵会の経済的需要、その上に立 フてこそ初めて法は真に行われるのです。かつては、社会の思想や経済状態と一致し た法であっても、その後、社会事情が変わるとともに法は事実行われなくなる。また 立法者が社会事情の真相を究めず1/そむやみな法を作ったところが、それは事実とう てい行われない。離婚は悪いものだという思想が真実社会に現存しているかぎり、協 議離婚禁正の法律もまた厳然として行われる。しかしひとたび、その思想が行われな くなると、法文上にはいかに厳重な規定があっても、実際の需要に迫られた世人は 「嘘」の武器によってど∠どんとその法律をくぐる。そうしてことはなはだしきに至 れば法あれども法なきと同じ結果におちいるのです。  同じことは官吏の責任の硬化現象からも生じます。役人といえども飯を食わねばな りません。妻子も養わねばなりません。やたらに免職になっては妻子とともに路頭に 迷わなければなりません。ある下級官吏がたまたまある場所を警戒する任にあたって いた。その際一人の無法な男がおどり出て爆弾を懐中し爆発っいに自殺したと仮定す る。なるほど、その男の場所がらをもわきまえない無法な所作は、非難すべきものだ としても、たまたま、その場所で警戒を命ぜられていた役人をして絶対的の責任を負 わせる理由はないわけです。その役人が責任を負うや否やはその役人が具体的なその 場合において、警備上実際に懈怠があったかどうかによって定まるので、偶然その場 所にいあわせたというだけの事実をもって絶対的に定まるものではない。ところが現 在わが国に行われつつある官吏責任問題の実際はこの点がきわめて形式的に取り扱わ れてはいないであろうか。停車場が雑踏した場合に、駅長がいかに気をつけても、中 には突き飛ばされて線路に落ちる人もあろう。その際駅長が最善の注意を怠らなかっ たとすれば、彼にはなんらの責任もないわけです。責任はたまたまその突き飛ばした 人ないしは雑踏の原因を作った人々にあるわけです。しかるに今の実際では、その際 駅長なり駅員なりの中から、必ずいわゆる「責任者」を出さなければすまさないので はないでしようか..  責任は、自由の基礎の上に初めて存在する。規則によって人の自由を奪うとき、も はやその人の責任を問うことはできないのです。しかるに、万事を規則ずくめに取り 扱う役所なり大会社なりは、使用人の責任までをも規則によって形式的に定めようと します。その結果、責任は硬化し形式化して全く道徳的根拠を失います。  ところが、役人も生きねばならぬ。妻子を養わねばならぬ。その役人が自由を与え られることなしに、責任のみ形式的にこれを負担せしめられるとき、彼らははたして 黙してその責任に服するであろうか。否、この際、彼は必ずや形式的責任の発生原因 たる「事実」をいつわり、「事実」を隠蔽して、責任問題の根源を断とうとするに決 まっています。すなわち、彼は「嘘」をつくのです。  右の例を引いた私は、.択して最近わが国に起こったなんらか具体的の事件について 具体的の判断をくだしたρけではありません。しかし、現在われわれがしばしば「官 吏の嘘つき」という事実を耳にするのは本当です。もし、それが事実とすれば、その 根源のいずれにありやを考えることは重大問題ではないでしょうか。私はその原囚を 「責任の硬化」にあるのだと考えます。  親が全く子の要求をきかずに、親の考えのとおり厳重に育てあげようとすれば、 は必ず「嘘つき」になります。 六  以上に述べた二、三の例をみただけでも、「嘘」が法律上いかに人きな働きをしてい るかがわかるでしょう。  まず第一に、大岡裁判の例やローマの50塁『二Bの話を聞いた方々は、法制があ まりに厳重に過ぎる場合に「嘘」がいかに人を救う効能のあるものであるかを十分理 解されたことと思う。そうして、いかな正直者の諸君も、なるほど「嘘」もなかなか ばかにならぬと感心されたに違いありません。ことに、一国内の保守的分子が優勢な ために、法令が移りゆく社会人心の傾向に十分に追随することができず、その結果 「社会」と「法令」との間に溝渠ができた場合に「法令」をしてともかくも「社会」 と調和せしめるものはただ一つ「嘘」あるのみです。世の中ではよく裁判官が化石し たとか、没常識だとか申します。しかし、いかに化石し、いかに没常識であっても、 ともかく「人間」です..美しきを見て美しと思い、甘きを食って甘ー-・と思う人間です。 ですから、まのあたり被告人を見たり、そのいうところを聴いたり、いろいろと裏面 の事情などを知ったりすれば、「法」はどうあろうと広、ともかく「人間」として、 ああ処分せねばならぬ、この裁判せねばならぬと考えろのは、裁判官の所為としてま さに当然のことだといわねばなりません。その際、もしも「法」が伸縮自在のもので あればともかく、もしも、それが厳重な硬直なものであるとすると、裁判官は必ず 「嘘」に助けを求めます。あった事をなかったといい、なかった事をあったといって、 法の適用を避けます。そづして「人間」の要求を満足させよす。それは是非善悪の問 題ではありません。事実なのです。裁判が「人間」によってなされている以上、永久 に存在すべき事実なのです。  また、役人の嘘つきの例をきかれた方々、西洋の離婚の話を読まれた方々は、「法」 は現在多数の人々ことに司法当局の人々が考えているように、万能のものではないと いうことを十分に気づかれたことと思う。「法」をもってすれば何事をも命じうる、 風俗、道徳までをも改革しうるという考えは、為政者のとかく抱きやすい思想です。 しかし「人間」は彼らの考えるほど、我慢強く、かつ従順なものではありません。 「人間」のできることにはだいたい限りがあります。「法」が合理的な根拠なしにその 限度を越えた要求をしても、人は決してやすやすとそれに服従するものではありませ ん。もしもその人が、意思の強固な正直者であれば「死」を賭しても「法」と戦いま す。またもし、その人が利口者であれば  これが多数の例だが  必ず「嘘」に救 いを求めます。そうして「法」の適用を避けます。ですから、「法」がむやみと厳重 であればあるほど、国民は嘘つきになります。卑屈になります。「暴政は人を皮肉に するものです」。しかし暴政を行いつつある人は、決して国民の「皮肉」や「嘘つき」 や「卑屈」を笑うことはできません。なぜならば、それは彼らみずからの招くところ であって、国民もまた彼らと同様に生命の愛すべきことを知っているのですから。  とにかく「法」がひとたび社会の要求に適合しなくなると、必ずやそこに「嘘」が 効用を発揮しはじめます。事の善悪は後にこれを論じます。しかしともかく、それは 争うべからざる事実です。 七  人間はだいたいにおいて保守的なものです。そうして同時に規則を愛するもの令、す。 ばかばかしいほど例外をきらうものです。  例えば、ここに一つの「法」があるとする。と乙うが世の中がだんだんに変わって、 その「法」にあてはまらない新事実が4ー.まれたとする。その際とらるべき最も合理的 な手段は、その新事実のために一つの例外を設けることであらねばならぬ。それはき わめて明らかな理屈であ⇔。しかし人間は多くの場合その合理的な途をとろうとしな い。なんとかしてその新争実を古い「法」の中に押しこもうと努力する。)それがため 事実をまげること-ー1すなわち「嘘」をつくこと……すらあえて辞さないのである。  ですから法律発達の歴吏をみると、「嘘」は実に法律進化の仲介者たる役日を勤め ているものであることが42かります。イギリス歴史学派㊧創始者=①ヨ、団冒ヨ霧つc門三+ じΦ同と巴コΦはその名著ロ古代法』の中において、また、ドイツ社会学派の鼻祖言¢鴨- 三ツqは不朽の大著『凵iワ法の精神」の中において、この事実を指摘しています。そ うして幾多の実例を古代法律の変遷現象中に求めています。しかしこの現象は決して ひとり人智未開な古代にのみ限った事柄ではありません。文明が進歩してきわめて合 理的に思惟し行動しうるようになったとうぬぼれている近世文明人の世の中にも、そ の事例は無数に存在するの戸、す。  例えば「過失なければ責任なし」という原則は、ローマ法以来漸次に発達して、こ とに第一八世紀末葉このかた全く確立するに至った原則です。現にわが民法にも欧米 諸国の法律においてもこの原則が明らかに採用されています。けれども、最近物質文 明の進歩、人工業の発達とともに、使う本人にとってはきわめて便利ではあるが、他 人にとってはきわめて危険なやっかいな品物が、かなりたくさんに発明されました。 また一般文化施設の必要上どうしても使わねばならぬ  否、少なくとも使えば便利 ではあるが  -その結果とかく他人に損害を与えやすいものがたくさん発明されまし た。自動車、汽車、大工場、貯水池、ガスタンクのたぐいがすなわちこれです。これ らの品物はきわめて便利です。けれども、同時に危険なものです。ことにこれらの品 物の利用によって損害を与えられた人々が、従来の「過失なければ責任なし」との原 則に従って、みずから加害者の「過失」を立証するにあらずんば損害賠償を求めえな いものだとすると、多数(り場合に事実上、賠償請求の目的を達することができない。 例えば、先日深川でガスタンクが爆発した。会社は不可抗力だと称し、被害者は会社 の過失だという。もしも被害者が損害賠償を請求したければ会社の「過失」を立証せ ねばならぬというのが、従来の原則です。しかしタンクは爆発してすでに跡形もない ムノ日、被害者ははたしてフ"、んな立証ができるでしょうか。それは全く不可能であるか、 または少なくともきわめて困難です。そうしてそれは自動車によってひき殺された人、 貯水池の崩壊によって殺されたり財産を失ったりした人々にとってすべて全く同じこ とです。そこで近世の社・云は従来の「過失責任主義」に対して、「無過失賠償責任」 の原則を要求するに至ったのです。  立法者としては適宜にソ、の新要求をいるべき新法令を制走すべき時がきたのです。 「過失」のみが唯一の責任原因ではない。そのほかにも賠償責任の合理的原因とする に足るべき事例がある。それを基礎としてまさに新しい法律を制定すべき時がきたの です。学者も動きました。立法者も多少動きました。ドイツを初め諸国において制定 された自動車責任法はその実例の一つです。けれども諸国の立法者が遅疑して進まず、 またドイッの学者が紙上に無過失責任論を戦わせている間に、事実上一大躍進をとげ たものはフランスの裁判所です。  フランスの裁判所は、本来主観的であるべき「過失」の観念を客観化せしめました。 これこれの場合には当然過失あるものと客観的に決めてしまって、主観的な本来の意 味の過失いかんを問わなくなりました。むろん口では「過失」といっています。しか し、そのいわゆる「過失」は実は「違法」ということと大差なくなりました。かくし てドイツの学者が正面から堂々と無過失責任の理論を講究し論争している間に、フラ ンスの裁判所は無言のうちにその同じ目的を達してしまいました。そうしてその際使 われた「武器」はすなわち「嘘」です。フランスの裁判所は「嘘」を武器として新法 理を樹立したのです。  同じことはわが国現在の裁判官もしばしばこれを試みます。その最も顕著な一例は、 去る大正九年九月一日の大審院判決に現われた事実です。事件の大要は次のとおりで ある。ある人が妻子を故郷に残して渡米したが、十分に金を送ハ、てこないので、妻は 他人から二、三十円の金を借りて生刮の用にあてた。しかるに貸主が返金を請求した -冴」ころ、妻は「民法第一四条によると妻は夫の許可を得ずに借財をするをえないのだ から」といって借財契約を取り消して返金を拒絶した。この場合、民法第一七条に列 挙した事由のいずれかが存するならば、妻は夫の許吋を得ないでもいい。したがハ、て 右の契約は取り消しえないことになるのだが、あいにくと木件についてはそういう事 情もないので、形式上はどうも妻の言分を採用せねばならぬようであった。ところが 裁判所は「夫ガ出稼ノ為二、妻子ヲ故郷二残シテ遠ク海外二渡航シ、数年間妻子二対 スル送金ヲ絶チタルガ如ヤ場合二在リテハ、其留守宅二相当ナル資産アリテ生活費二 充ツルコトヲ得ルガ如キ特別の事状ナキ限リハ、妻二於ナ一家ノ生活プ維持シ子女ノ 教養ヲ全ウスルガ為メ二、其必要ナル程度二於テ借財ヲ為シ以テ一家ノ生計ヲ維持ス ルコトハ、夫二於テ予メ亠・迄ヲ許可シ店リタルモノト認ムベキハ条理上当然ニシテ、斯 ク解シテ始テ其裁判ハ悉ん・情理ヲ尽シタルモノト謂ハザル叫カラズ」という理由で、 妻を敗訴せしめた。この場合、妻が許可を得ていないのは事実なのです。しかし得て いないとすると、結果が恙い、貸主に気の毒だ、というわけあいで、裁判所はコ許 可」を擬制してしまったのです。すなわち事実許可はないのだが、表面上これありた るごとくに装い、それを飾るがために「条理上当然」とか「悉ク情理ヲ尽」すとかい うような言葉を使ったのです。この判決が出たときに、わが国白由法運動の最も熱心 な代表者たる牧野博士は「之れこそ民法第十七条の例外が裁判所に依って拡張された ものだ」と解され、これと反対にわが国におけるフランス法派の大先輩たる富井博十 はこれを難じて「第十七条の例外が拡張されたのではない、裁判所は事実許可があっ たと云って居るのだ」といわれた。われわれはこの小論争を傍観して、そこに外面に 現われた文字や論理の以外に、両博+の心の動き方をみることができたように思われ て非常に興味を感じたのです。「見て見ぬふりをする」フランス流の扱い方と、それ を合理的に扱って進化の階梯にしようという自由法的の考え方との対照をみることが できたのです。 八 かくのごとく、歴史上「嘘」はかなりの社会的効用を呈したものであります。現在 もまた同じ効用を現わし⊂いるものと考えることができます。それは人間というもの が、みずからはきわめて∴口理的だとうぬぼれているにかかわらず、事実は案外不合理 なものだということの証拠です。  しかし純合理的に考えると、「嘘」はいかぬに決まっています。あった事をないと いい、なかった事をあったというのは、きわめて不都合です。ですから、一般にきわ めて合理的であり、した一かって、一切の「虚偽」や「妥協」や「伝統」を排斥せんと する革命家は、ほとんど鼡に「嘘」の反対者です。法律制度として一切の擬制をその 中から排斥しようとします。その例は今度のロシヤの労農革命後の法律について多く これをみることができま..9。例えば、一九一八年九月一六日のロシヤ法律においては 養子制度の全廃を規定しました。そうしてその理由書には「親子法においては、われ らの第一法典はあらゆる擬制を排斥して、事実ありのままの状態、すなわち実際の親 .〜関係をただちに表面に現わした。これ単に言葉によってのみならず、事実によフて 人民をして真実を語ることに慣れしめ、彼らを各種の迷信から解放せんがためだ」と いわれているそうです。ですから、法律の中に「擬制」がたくさん使ってあることは 合理的に考えてあまり喜ぶべき現象ではなく、むしろそこに法律改正の必要が指示さ れているものだ、と考えるのが至当です。しかし人間が案外不合理なものである以上、 「擬制」の方法によって事実上法律改正の目的を達することはきわめて必要なことで す。イェーリングは上記の『口iマ法の精神』の中においてこの真理を言い表わすが ため、「真実の解決方法いまだ備わらざるに先立って擬制を捨てよというのは、あた かも松葉杖をついた跛行者に向かって杖を棄てよというにひとしい」といい、また 「もしも世の中に擬制というものがなかったならば、後代に向かって多大の影響を及 ぼした口ーマ法の変遷にしても、おそらくはもっとはるか後に至って実現されたもの が少なくないであろう」といっております。  しかし、「擬制」が完全な改正方法でないことはイェーリングも認めているとおり です。「擬制」の発生はむしろ法律改正の必要を、否、法はすでに事実上改正された のだという事実を暗示するものとして、これを進歩の階梯に使いたいのです。ことに 嘘つきには元来法則がありません。ですから、裁判所がこの方法によって世間の変化 と法律との調和を計ろうとするに際して、もしも「嘘」のみがその唯一の武器である とすれば、裁判所が真に信頼すべき立派な理想をもったものである場合のほか、世の 中の人間はとうてい安心していることができません。かりにまた真に信頼すべき立派 な理想の持ち主であるとしても、これのみに信頼して安心せよというのは、名君に信 頼して専制政治を許容せよというにひとしい考えです。フランス革命の洗礼を受けた 近代人がどうしてかよくこれを受け入れましょう。彼らは頁に信頼しうべき「人間以 外」のある尺度を求めます。保障を求めるのです。  さらにまた、もしも法が固定的であり、裁判官もまた硬化しているとすれば、法律 の適用を受くべき人々みずからが「嘘」をつくに至ること上述のとおりです。そうし てこれが決して喜ぶべき現象でないことは明らかです。子供に「嘘つき」の多いのは 親の頑迷な証拠です。国民に「嘘つき」の多いのは、国法の社会事情に適合しない証 拠です。その際、親およひ国家の採るべき態度はみずから反省することでなければな りません。また裁判官のこの際採るべき態度は、むしろ法を改正すべき時がきたのだ ということを自覚して、 ゼよいよその改正全きを告げるまでは「見て見ぬふり」をし、 「嘘」を「嘘」として許穴することでなければなりません。 九  人間は「公平」を好む。ことに多年「不公平」のために苦しみぬいた近代人は、何 よりも「公平」を愛します。「法の前には平等たるべし」これが近代人一般の国家社 会に対する根本的要求です。そうして、いわゆる「法治主義」は、実にこの要求から 生まれた制度です。  法治主義というのは、あらかじめ法律を定めておいて、万事をそれに従ソてきりも りしようという主義です。いわばあらかじめ「法律」という物差しを作っておく主義 です。ところが元来「物差し」は固定的なるをもって本質とするのです。「仲縮自在 な物差し」それは白家撞着の観念です。例えば、ゴムでできた仲縮白在の物差しを使 って布を売る呉服屋があるとしたら、おそらくなにびともこれを信用する人はないで しょう。同じように国家に法律があっても、もしもそれがむやみやたらに伸縮したな らば、国民は必ずや拠るべきとア)ろを知ることができないで、不平を唱えるに決まっ ています。  ところが、それほど「ハム平」好きな人間でも、もしも椚法律」の物差しが少しも仲 縮しない絶対的固定的なものであったとすれば、必ずやまた不平を唱えるに決ま→、て います。人間は「公平」こ要求しつつ同時に「杓子定規」を憎むものです。したがっ て一見きわめて矛盾したわがままかってなことを要求するるのだといわねばなりませ ん。しかし、かりにそれが実際に「矛盾」であり「わがままかって」であるとしても、 人間はかくのごときものなのだから仕方がありません。そうして人間がかくのごとき ものである以上、そこに行わるべき法律はその「矛盾」した「わがままかって」な要 求を充たしうるものでなげればなりません。なぜならば、われわれは空想的な「理想 国」の法を考えるのではなくて、現実の人間世界の法律を考えるのでし79から。  しかるに、従来法を論ずる者の多数は人間を解してかかる「矛盾」した「わがまま かって」なものだと考えていないようです。その結果、彼らのある者は、いやしくも 人間が「法の前に平等」たらんことを希望する以上、同時に仲縮自在の「法」を要求 してはならぬと主張する。そうして現存の「法」がある具体的の場合に、これを適用 すると普通の人間の眼から見ていかにも不当だと思われる場合でも、「それは法であ る。適用されねばならぬLという一言のもとにその法を適用してしまう。その態度は いかにも勇ましい。しかし、かくのごとくに勇ましくも断行した冷くして固きこと鉄 のごとき彼らは、はたして内心になんらの不安もないでしょうか? 否、彼らもまた 人間です。美しきを見て美しと思い、悲しきを聴いて悲しと思う人間です.、必ずや、 かくして人を斬った彼らの心の中には「男の涙」が流れているに違いない。もしも流 れていないならば、それは「人間」ではありません。一法」を動かして「裁判」を製 造することあたかも肉挽き器械のごときものたるにすぎません。われわれはかかる器 械をして「人間」を裁くべき尊き地位にあらしめることを快しとしません。  しからば、心中「男の涙」を流しつつ断然人を斬る人々はいかん? 私はその人の 志を壮なりとする。しかしながら同時にこれを愚なりと呼ばなければなりません。な ぜならば、もしも「法」が全く伸縮しない固定的なものであり、またこれを運用する 人間がこれを全然固定的なものとして取り扱ったとすれば、世の中の「矛盾」した 「わがままかって」な人間は必ずや「いったい法は何のために存するのか?」といっ て「法」を疑うでしょう。そうしてその中の正直にして勇気ある者は「法」を破壊し ようと計るでしょう。また彼らの中の利口にして「生」を愛する者どもはひそかに 「法」をくぐろうと考えるでしょう。「法」をくぐってでも「,生」きなければなりませ んから。  彼らの中の正直にして勇気ある者はよく「嘘」をつくに堪えません。「嘘」をつく ぐらいならば「命」を賭しても「法」を破壊しようと考えます。彼らは「嘘」をつか ずに生きんがために、また子孫をして「嘘」をつかずに生きることをえしめんがため に、「法」を破壊せんと計ります。そうして「法」を固定的なものとして考え、固定 的なものとして取り扱わんとする人々の最も恐れている「革命家」は実にこの種の ,正直にして勇気ある人々」の中から出るのです。  またそれほど正直でたいか、または勇気のない多数の利口者は、「嘘」をついて 一法」をくぐろうと計ります。「法」が固定的で、ある事柄が「有」る以上必ず適用さ れねばならぬようにできている以十、「有」をいつわハ、て「-無」という以外「法」の 適用を免れる方法はない,甜生」を熱愛する人間のこの方法に救いを求める、事や実 に当然なりといわねばなりません。「法」を固定的なものとして考え固定的なものと して取り扱わんとする人々はかかる結果を好むのでしょうか? 否、彼らの最も憎み きらうところでなければなりません。しかし彼らがいかに憎みきらっても、「生」を 熱愛する人々の「嘘つき」をやめることは事実上不可能です。彼らがこの否むべから ざる人生の大事実に気がつかないのだとすれば、それはきわめて愚だといわねばなり ません。  大河は洋々として流れる。人間がその河幅を狭めんとして右岸に鉄壁をきずく。水 は鉄壁に突き当ってこれを破り去らんとする。しかも、事実それが不可能なことに気 づくとき水は転じて左岸をつく。そうしてその軟い岸を蹴破ってとうとうと流れ下る。 この際右岸の鉄壁上に眠りつつ太平楽を夢みるものあらば、たれかこれを愚なりとせ ぬものがあろうか。世の中に「自由法」なることを主張する者があります。そうして また「自由法否なり」として絶対的にこれに反対する人もあります。その「,反対」す る人々は大河をせき正めえた夢をみてみずから「壮美」を感ずる人々です。しかも実 は左岸の破り去られつつあることに気のつかない人々です。それらの人々は、すべか らく書斎を去り赤煉瓦のお役所を出でて、現実を現実としてその生まれたままの眼を もって、ありのままを直視すべきです..たいして骨を折ることはいりません。ただち に対岸の破壊せられつつあるのに気がつくでし.、う。とこ・わが、彼らの中にも利口者 があります。口では「法は固定的なものだ」と主張しつり実際上これを固定的に取り 扱って「壮美」を味わうだけの勇気のない人々です。彼らは、従来伝統ないし独断に とらわれて口先では法の「固定」を説きます。しかし、それを行いの十に実現するこ とができない。しからば、彼らはその矛盾した苦しいせとぎわをいかにしてくぐりぬ けるか? その際彼らの使う武器は常に必ず「嘘」です。  むろん、裁判官  -ことに保守的分子の優勢な社会または法治国における裁判官 i…が、かかる態度をとるτとはやむをえません。なぜならば、彼らはこの方法によ っCでも「法」と「人間」との調和をとってゆかねばならぬ苦しい地位にあるのです から。ところが、法律と、社会上毫もかかる拘束を受けていない人々  学者  が みずからのとらわれている「広統」や「独断」と「人間の要求」とのつじつまを合わ せるために、有意または無意的に「嘘」をついて平然としているのをみるとき、われ われはとうていその可なるゆ・ク、んを発見することができないのです。彼らがこの際採 るべき態度は、一方においては法の改正でなければなりません。他方においてはまた、 法の仲縮力を肯定し創造することでなければなりません。わずかに「嘘」の方法によ って「法」と「人間」との調和を計りえた彼らが、これによって彼らみずからの「独 断」や「伝統」を防衛し保存しえたりとなすならば、それは大なる自己錯覚でなけれ ばなりません。 一〇  われわれの結局進むべき路は「公平」を要求しつつ、しかも「杓子定規」をきらう 人間をして真に満足せしめるに足るべき「法」を創造することでなければなりません。  近世ヨーロッパにおいて、この路を採るべきことを初めて提唱したものは、フラン スの○曾図でしょう。彼は従前フランスの裁判官が「嘘」によって事実上つじつまを 合わせてきたものを合理的に観念せんがために「法」の概念に関する新しい考えを提 唱したのです。その結果、まきおこされた自由法運動は、今より十数年前わが国の法 学界にも影響を及ぼしはじめました。しかし、当時はただ法学界における抽象的な議 論を喚起したるにすぎずして、ほとんど現実の背景をも..でいなかった..しかるに、 世界大戦以来、わが国一般の経済事情ならびに社会思潮に大変動を生じたため、突如 として「法」と「人間」との間に一大溝渠が開かれることになり、ここに先の自由法 思想は再びその頭をもたげる機会を見出しました。そうして事実それは「法律の社会 化」という名のもとに頭をもたげました。  それはたしかに喜ぶべさ現象に違いありません。けれども、この際われわれの考え ねばならぬことは、いかに「杓子定規」をきらい「人間味のある裁判」を欲している 人々でも、決して「公平」およびその,保障」の欲求をすτているのではないことで す..一度フランス革命の洗礼を受けてきた近代人は、むなしき「自由」の欲求がかえ 一.て第一九世紀以来の社会的惨禍をひきお乙す原因となった事実を十分に承知しつつ もなお「自由」をすてようとはいいません。また、彼らは「法治主義iがややもすれ ば「杓子定規」の原因となることを十分に知っていながら、なおかつこの「公平の保 障」をすてようとはいいません。でづから、われわれが「自由法」を唱道し「法の社 会化」を主張するとして醜、その際寸時も忘れることのできないのは人々に向かって その「自由」と「公平」とおよびその「保障」とを確保することです。  しかるに、近時学者の多く「自由法」を説き「法の社会化」を主張する者をみるに、 あるいは「法の理想」といい、あるいは「法の目的」といい、ないしは「公の秩序、 善良の風俗」という以外、真に社会の「公平保障」の要求を満足せしめるに足るべき なんら積極的の考察を提出しているのをみることができない。なるほど、それはよく ともすれば「伝統」にとらわれやすい、同時にまた精緻な「論理」に足をすくわれて 意気沮喪しやすい若者を鼓舞して勇ましく「新組織」への戦いに従事せしめることが できよう。また従来深く根を張った「概念法学」「官僚主義」「形式主義」を打破する 効力はあろう。しかし、もしも、学者のなすところがそれのみにとどまるならば、そ の功績はきわめて一時的である..過渡的である。ただ旧きを壊す以外、なんら人類文 化のために新しいものを建設するものではない。おそらくは彼らが前門に「概念法 学」を打破しえた暁には「公平」と「自由」との要求が後門よりただちに攻めきたり て彼らを撃つであろう。もしかくのごとくんば、みずからたまたま波の頭に立ってそ の谷にあるものの低きを笑うとなんらの差異があるか。やがては彼らみずからが波谷 におちいって追い来る人々の笑いを招かねばならぬ。かかるものにはたしてどれだけ の文化的価値があるか、私は心からこれを疑うのである。  いたずらに、むなしき「理想」を説き「公の秩序、善良の風俗」を云為する者は、 結局、裁判官の専制を許谷するものでなければなりません。やたらに「自由法」を主 張して結局その目的を達した暁に、再び「自由」と「公平」との保障を探し求めるよ うでは何にもなりません.われわれの求めるところは「自由」や「公平」の保障を保 持しつつ、しかも「杓子定規」におちいらないもの、換言すれば「保障せられたる実 質的公平」にあるのです。  従来、裁判の中に「実質的公平」または「具体的妥当性」を現わさんとする者の執 ハ.た手段にほぼ二種類あります。その.は名判官主義、その二は陪審制度です。名判 官をして、自由自在に裁判をさせればとにかく個々の事件「対する具体的に妥当な裁 判を得ることができましょう。けれども、かくのごときは現代政治の弊にこりて名君 専制主義を謳歌するのと同じ思想です。いったい、私は、「文化」というものはある 特殊の人にだけできる事柄を誰にも容易にできるようにすることであり、また学問は それを容易にできるようにする手段であると考えている。名判官なくんば、名裁判は できないというだけのことならば、それは「法学」の否認でなければなりません。そ れは結局名工正宗さえあれば、本多光太郎博士はいらぬというのと大差なき議論です。 われわれは、名判官にあらずといえども名裁判をなしうるような法、すなわち各具体 的の場合について具体的妥当性、実質的公平を確保しうべき法を作らねばならぬ。し からずんばわれわれは「自由法」をかちえた瞬間に再び「自由」と「公平」とを恋う るに至るであろう。  次にまた、陪審制度は「法」をして同時に「人間」の要求に適合せしめる第二の方 法です。名判官専制主義と正反対な手段によってこれと同一の目的を達せんとする方 法です。裁判官はとかく「法」本来の日的たる「公平」の要求にとらわれやすい。そ の結果はややもすれば裁判が「人間性」を失いやすい。それを救うがために、多数の 素人を法廷に列せしめて有罪無罪の基本を認定せしめんとするものすなわち陪審制度 である。この方法は裁判をしてたえず世間とともに変動せしめ、「法」をしてふだん の仲縮力を有せしめる効がある。けれども、時にはあまりに仲縮性が鋭敏すぎるため に各場合の具体的事情に支配されやすく、その結果ややもすれば「理」と「公平」と を欠きやすい。  この意味において、名判官専制キ義と、陪審制度とは各反対の長短を有する。そう して「杓子定規」をきらいつつ、しかも「自由」と「公平」との保障を得んことを希 望している現代人を満足せしめるがためには、両主義ともr共通の欠点を有する。 一  われわれは「尺度」を欲する。しかも同時に「仲縮する尺度」を要求する。実をい えば矛盾した要求です。しかも人間がかくのごときものである以上、「法」はその矛 盾した要求を充たしうるものでなければなりません.、  そこで私は、今後創造せらるべき「法」はおのおの具体的の場合について「規則的 に仲縮する尺度」でなければならず、「法学」はまたその「伸縮の法則」を求めるも のでなければならぬと信じます。「自由法運動」が単なろ- ゴムのごとくにー 「伸縮する尺度」を求めているかぎり、それはただ「過去」を破壊する効果があるに すぎません。  しからば「規則的に仲縮する尺度」はいかにしてこれを作ることができるか。これ 実に今後「法学」の向かうべき唯一の目標であって、しかも、事はきわめて困難なる 問題に属する。  私の考えによると、従来の「法」と「法学」との根本的欠点は、その対象たる「人 間」の研究を怠りつつ、しかもみだりにこれを「或るもの」と仮定した点にある。す なわち本来「未知数」たるものの値を、十分実証的に究めずして軽々しくこれを「既 知数」に置き換える点にあるのだと思います。むろん、すべての学問は仮説を前提と します。なぜならば、問いの中に与えられた数字のすべてをして  たとえかりにで も  既知数たらしめなければ、学問的に正確な答えを得ることはとうてい不可能だ からです。しかし、その際利用すべき仮説は十分の実験の上に立った十分のプロバビ リティーをもったものでなければならぬはずです。しかるに、従来の法学者や経済学 者は本来Xたるべき人間をやすやすとAなりBなりに置き換えて、人間は「合理的」 なものだとか、「利己的」なものだとか、仮定してしまいます。かくして、学者は容 易に形式上だけはとにか.\、正確(?)な答えを得ることができましょう。しかし人間 は、合理的であるが、同時にきわめて不合理な方面をも具えており、また利己的であ るが、同時に非利己的な力面をも具えている以上、かくして軽々しく仮定された「人 間」を基礎として推論さ礼た「結果」が一々個々の場合について具体的妥当性を発揮 しうるわけがないのです.  そこで私は、少なくとも法学の範囲においては、「人間」はやはり、ありのままの 「人間」として、すなわち、本来の未知数Xとして、そのまま方程式の中に加うべき だと思います。むろん、りれわれは人類多年の努力によって得た実証的の知識を基礎 として、そのXの中に既知数たる分子を探求することに全力を尽くすべきです。しか も遺憾ながら、人類が今までに知りえた知識によると、X中既知数的分子はまだきわ めて少ない。結局においては、なお多大の未知数的分子の残ることを許容せねばなら ないのです。ですから、そのXをみだりにAやBに置き換えるがごときはきわめて謙 遜性を欠いた無謀の企てです。しかもさらばといって、XをXのまま置いたのでは学 問になりがたい。なんとかしてそれを既知数化せねばならぬ。それがためにはまずで きるかぎりXの中に既知数的分子たるabcdなどを求めねばなりません。しかし、 それでもなお跡にはかなり大きな未知数が残るものと覚悟せねばなりません。そうし てその未知数をかりにxとすれば、従来の法学がXを軽々しくAやBに置き換えた代 りに、これを(餌⊥1ぴ⊥-01Tα↓-×)なる項にすることができる。むろんこの場合といえど もxの値の決定はこれを裁判官なり陪審官なりに一任することになるのです。したが って、裁判官なり陪審官なりが、いかなる思想を有するかは結局における答えの形成 に対してきわめて重要な作用を与えるものなることもちろんではあるが、ともかくも、 軽々しくXをAなりBなりに置き換えるのに比すれば、はるかによく各場合に対する 具体的妥当性を発揮しうる。またXをそのままXとしてその値の決定を全部裁判官や 陪審官に一任するに比すれば、はるかによく「公平」を保障しうる。かくして(餌+ σ+o+α+×)の項中個々のabcなどがあるいは,aげ,cなどとなり、またあるいはざ げ,cなどとなるに従って、これと相対的関係を保ちつつ、その「答え」が変動する。 その「変動の法則」を求めるところに今後法学の進むべき目標があるのだと私は考え ます。  われわれは、科学によソて得た獲物を極度に利用すべきです。しかし、同時にまた 獲物を過信すべきではありません。Xの中には永久にxが残るものなることを覚悟せ ねばなりません。いわん十軽々しくXをAやBに置き換え、これによって正確な答え を発見しえたりと考えるがごときは自己錯覚のきわめて大なるものだといわねばなり ません。われわれは科学によってどこまでもXを解剖す.へきです。そうして残るxの 値を理想の基礎に立って定むべきです。法学における「正確さ」は実にかくのごとき ものでなければならないのです。 一二  法学者としての私の主張は、これを具体的にいうと結局「判例法主義」(。霧二鋤!乙に くるのです。多数の判決例の上に現われた個々の具体的事例を解剖して(鋤+σ+∩+ (剛+×)を求めた十、これ刃「答え」との相対的関係を求めて、将来の事件において現 わるべき「具体的妥当性」が何物であるかを推論する材料としたいのです。したがっ て個々の判決例は固定した「法」の各個の適用ではなくして、「具体的妥当性」を求 めて千変万化する「法」の何物たるかを推論すべき重要材料だと考えるの質、す。  この意味において、私は今後の法学教育もまた「判例法主義」(塗。。①∋①ヰ5α)になっ てゆかねばならぬと確信しています。従来のごとく、XをかりにABなどに置き換え て正確(?)な結論を求めたと信じている法学は学生をして「法」の神髄を知らしめる ゆえんではない。それはただ多少「論理」と「手練」とを習得せしめることができよ う。けれども、かくして得た「法」は真の「法」ときわめて縁遠いものだといわねば なりません。  私は、この春から大学でケース・メソッドによって法学教育を始めました。それは 今多くの人々によって問題にされています。けれども、それは決して従来のいわゆる 演習(一、舜ζ=〈∈こというような意味ではなく、私はこれによってのみ真に「活きた法 律」「一定の法則をもって仲縮する尺度としての法」を教えることができるのだと考 えています。                        (一九二二・六・五)