小説神髄

小説総論

 小説の美術たる由を明らめまくせば、まづ美術の何たるをば知らざる可らず。さはあれ美術の何たるを明らめまくほりせば、世の謬説を排斥して、美術の本義を定むるをば、まづ第一に必要なりとす。美術に関する議論のごときは古今にさま%\ありといへども、総じて未定未完にして、本義と見るべきものは稀れなり。近きころ某氏といふ米国の博識がわが東京の府下に於てしば/\美術の理を講じて世の謬説を駁されたれば、今またこゝに事あたらしう同じやうなることを述べて看官の目をわづらはすはいと心なき業に似たれば、たゞ某がいはれたりし美術の本義を抄出して、其あたれるや否やを論じて、おのれが意見をも陳まく思へり。某のいはるゝやう、「世界ノ開化ハ人力ノ効績ニ外ナラズ。而シテ人力ノ効績ニ二種アリ。曰ク須用、曰ク装飾。須用ハ偏ヘニ人生必需ノ器用ヲ供スルヲ目的トシ、装飾ハ人ノ心目ヲ娯楽シ気格ヲ高尚ニスルヲ以テ目的トナス。此装飾ヲ名ヅケテ美術ト称ス。故ニ美術ハ専ラ装飾ヲ主脳トナスヲ以テ須用ナラズトナス可ラズ。心目ヲ娯楽シ気格ヲ高尚ニスルハ豈ニ人間社会ノ一緊要事ナラズヤ。之レヲ要スルニ二者皆社会ニ欠クベカラズ。而シテ其異ナル所ヲ覩ルニ、須用ハ真ニ実用ニ適スルガ故ニ善美トナリ、美術ハ善美ナルガ故ニ実用ニ適スルニ至ルノ差アリ。譬ヘバ此小刀ハ甚ダ善美ナリ、即チ須要ナルガ故ニ善美ナリ。彼ノ書画ハ須要ナリ、即チ善美ニシテ気格ヲ高尚ニスルガ故ニ須要ナリ。是レニ由テ之レヲ観レバ、美術ニ於テ善美トナス所ノモノハ其美術タル所以ノ本旨タルヤ明ケシ、云々」といはれたりき。また他の某氏のいはく、「美術とは人文発育の妙機妙用これなり。何を以てか之を謂ふ、美術は人の心目を娯楽し気格を高尚にするを以て目的となせばなり。心目を娯楽するが故に友愛温厚の風を起し、気格高尚なるが故に貪吝刻薄の状を伏す。其製形に顕はるゝや絵画、彫刻、陶磁、漆器等の神韻雅致となり、其音声姿態に発するや詩歌、音楽、舞踏等の幽趣佳境となる。夫れ人幽趣佳境に逢着し神韻雅致に対峙するや、悠然として清絶高遠の妙想を感起せざるはなし。是れ之れを美術の妙機妙用と謂ふ。邦国の文明また実に此機用に起因すと謂ふべきなり。美術の事たる豈に亦た社会の一大緊要事ならざらむや。云々」と言はれたりき。蓋し後の某氏は先きの某氏の説を承けて之れを細説せるものといふべし。
 げに両某氏の言のごとく、美術に人文発育の機用あるは敢て疑ふに及ばざれども、また退いて考ふれば、或ひは美術の本義に関して論理の謬誤なきを保たず。今ひと通り其理を論じて、予が疑団を表しつべし。夫れ美術といふ者は、もとより実用の技にあらねば、只管人の心目を娯ましめて其妙神に入らんことを其「目的」とはなすべき筈なり。其妙神に入りたらんには、観る者おのづから感動して、彼の貪吝なる慾を忘れ、彼の刻薄なる情を脱して、他の高尚なる妙想をば楽むやうにもなりゆくべけれど、こは是れ自然の影響にて、美術の「目的」とはいふべからず。いはゆる偶然の結果にして、本来の主旨とはいひ難かり。もし此説をもて非なりとせば、世の美術家といはるゝ輩は、彫像師にまれ、画工にまれ、まづ其工をなすにあたりて「人文発育」といふ模型を造りて其範囲内に意匠を限りて而して工をなさゞる可らず。これ甚だしきひがごとならずや。彼の実用技術家の小刀を造るを見るに、只管実用に適せむことを目的とするが故に、「よく切れる」といふ事を標準として其小刀を造ることなり。美術家もまた之れに同じく、もし其目的とする所が人文発育といふことなりせば、禽獣の像を彫刻するにも、山水草木を画く折にも、常に人文発育をば其標準となさゞるべからず。これ豈に至難ならざらむや。只管神に入らまくほりして、工夫を尽して写してだに名画をなすこといとく難きに、別にかやうの械いできて其意匠をしも束縛なしなば、精妙完備の画をなすことますますかたく、いよ/\むづかし。されば美術といふものは、他の実用技と其質異にて、はじめよりして規矩をまうけて之れを造るべうもあらざるなり。其妙ほと/\神に通じて、看者をしてしらず/\神飛ひ魂馳するが如き幽趣佳境を感ぜしむるは是れ本然の目的にして、美術の美術たる所以なれども、其気韻を高遠にし其妙想を清絶にし、もて人質を尚うするは是れ偶然の作用にして、美術の目的とはいふ可らず。されば美術の本義の如きも、目的といふ二字を除きて、美術は人の心目を悦ばしめ且つ其気格を高尚にする者なりといはゞ則ち可し、もし否ざればすなはち違へり。こは是れ些細の論に似たれど、いさゝか疑ふ所を陳じて世の有識者に質すなりけり。
 世に美術と称するもの一にして足らず。かりに類別して二となすベし。曰く有形の美術、曰く無形の美術これなり。所謂有形の美術は、絵画、彫刻、嵌木、繍織、銅器、建築、園冶等をいひ、所謂無形の美術は、音楽、詩歌、戯曲の類をいふ。而して舞踏、演劇のたぐひは、この二種の質を併せてもて心目を娯ましむ。蓋し演劇、舞踏の類ひは、詩歌、戯曲を活動させ、且つ音楽を活用して其妙技をしも奏すればなり。今もむかしも万国一揆に悉く演劇をめでよろこび、舞踏を愛るもむべならずや。美術の種類のさま%\なる概ねかくの如しといへども、其主脳とする所をとへば、みな是れ眼を娯ましめ、心を悦ばしむるに外ならざるなり。ただ其美術の質によりて、専ら心に訴ふるものあり。専ら耳に訴ふるものあり。譬へば有形の美術の如きはみな専らに形を主として人の眼に訴ふれど、音楽、唱歌は耳に訴へ、詩歌、戯曲、小説のたぐひは専ら心に訴ふるを其本分となすがごとし。さるからに、有形美術は専ら色彩と形容とを主眼となし、其工夫をしも練ることなれども、音楽、唱歌は之れに反して、まづ専らに声を主として其意匠をなん凝らすなりける。詩歌、戯曲はこれとも異にて、主として心に訴ふるが故に其主脳とする所のものも、色彩にあらず、音響にあらず、他の形なくまた声なき人間の情即ち是れなり。昔の人も詩を論じて有声の画といひしにあらずや。畢竟、詩歌が、描きがたく又見えがたき情態をもいと細やかに写しいだして人に見えしむるを賞せしなるべし。偖何者が此世の中にて最も描きがたき者ぞと問はむに、彼の人間の情慾ほど描き難かるものはあらじ。喜怒愛悪哀懼欲の七情も其皮相のみを表はさむはさまでむづかしきことにあらねど、其神髄を見えまくほりせば画工の力もて及ぶべくもあらず。否、俳優の手を借るともなほ写しがたきこと多かり。我が国にては、演劇にも別にチヨボといへる曲をまうけて、形容をもて演じがたく台辞をもてして写しがたき隠微の条を演ずるならずや。こればかりにても戯曲の長所は先づひと通り知られつべし。我が国の短歌、長歌の類ひは、所謂泰西の詩と比べる時はきはめて単純なるものなるから、僅かに一時の感情をばいひのべたるに止まるものにて、彼の述懐の歌若しくは哀悼の歌に似たり。支那の詩も是れに同じく概ね単簡なるもの多かり。「長恨歌」、「琵琶行」の如きはやゝポエトリイに似たるものから、其脚色も淡々しくして泰西の詩とは性質異なり。されば泰西のポエトリイはそも/\いかなるものぞといふに、其種類もとより一にして足らず。歴史歌と称するものあり、物語歌と称するものあり、あるひは教訓を主とする歌あり、あるひは諷刺詼謔を旨とする歌あり、音楽に伴ふべきものを謡曲と名づけ、劇場に演ずべきものを伝奇といふ。なほ此外にも細別せば、其類かず/\あるべけれど、いま繁雑を厭ひて略きぬ。之れを要するに、ポエトリイは我が国の詩歌に似たるよりも、むしろ小説に似たるものにて、専ら人世の情態をば写しいだすを主とするものなり。我が短歌、長歌のたぐひは、いはゆる未開の世の詩歌といふべく、決して文化の発暢せる現世の詩歌とはいふべからず。かくいへばとて、皇国歌をいと拙しとて罵るにあらねど、総じて文化発達して人智幾階か進むにいたれば、人情もまた変遷していくらか複雑とならざるべからず。いにしへの人は質朴にて、其情合も単純なるから、僅かに三十一文字もて其胸懐を吐きたりしかど、けふ此頃の人情をばわづかに数十の言語をもて述べ尽すべうもあらざるなり。よしや感情のみは数十字もていひ尽すことを得たればとて、他の情態を写し得ざれば、いはゆる完全の詩歌にあらねば、彼の泰西の詩歌と共に美術壇上に立ち難かるべし。是れ豈にあたらしきことならずや。さればこそ過にしころ外山、矢田部、井上の大人たちが、こゝに遺憾を抱かれつゝ、『新体詩抄』一部をあらはし、世に公けにせられたりき。読者もしポエトリイの趣きをしらまくほりせば、『新体詩抄』をはじめとして『東洋学芸雑誌』に掲載せる新体詩ならびに井上巽軒大人のものされたる長篇の詩(註。「孝女白菊」)をあはせ見なば、其一斑の趣きを得て窺ふに庶幾かるべし。夫れ小説は無韻の詩ともいふべく、字数に定限なき歌ともいふべし。世の浅学なる輩にありては、詩の主脳とする所のものは偏へに韻語にありと思へど、是れはなはだしきひがごとなり。詩の骨髄は神韻なり。幽趣佳境を写し得なば詩の本分はすなはち尽せり。などてか区々たる韻語なんどをしひて用ふる要あらむや。英国の詩仙、ミルトン翁は夙にこのことを切諭して、有韻の詩を排斥なし、無韻の長詩を工夫しはじめぬ。思ふに韻語を用ふることも、詩を吟誦せしころにありては頗る要用なりしならめど、現世のごとくに黙読してたゞ通篇の神韻をめでよろこべる世となりては、さまで緊要なるものとも思はれず。物にたとへて之れをいはゞ画工が用ふる丹青にひとしく、なくとも事は足るべき物なり。されば小説、稗史にして若し神韻に富むよしあらむ歟、之れを詩といひ歌と称へて美術の壇上に立たしむるも敢て不可なきのみにはあらで、むしろ当然といふべきなり。畢竟、小説の旨とする所は専ら人情世態にあり。一大奇想の糸を繰りて巧みに人間の情を織做し、限りなく窮りなき隠妙不可思議なる原因よりして更にまた限りなき種々様々なる結果をしもいと美しく編いだしつゝ、此人の世の因果の秘密を見るが如くに描き出し、見えがたきものを見えしむるを其本分とはなすものなりかし。されば小説の完全無缺のものに於ては、画に画きがたきものをも描写し、詩に尽しがたきものをも現はし、且つ演劇にて演じがたき隠微をも写しつべし。蓋し小説には詩歌の如く字数に定限あらざるのみか、韻語などいふ械もなく、はたまた演劇、絵画に反してたゞちに心に訴ふるを其性質とするものゆゑ、作者が意匠を凝らしつべき範囲すこぶる広しといふべし。是れ小説の美術中に其位置を得る所以にして、竟には伝奇、戯曲を凌駕し、文壇上の最大美術の其随一といはれつべき理由とならむも知るべからず。
 因云。菊池大麓大人が訳されたる『修辞及華文』と題せる小冊子あり。詩文に関する議論の如きは最も精到と思はるれば、左に抄出して本文の不足を補ふ。
 「詩の区域に属する文章其類頗る多し。而して其共通すべき品格を一定するの難事たるは、従来歴験する所なり。然して句に節奏ある者を専ら詩と限るべからざるは、散文にても毎に高尚なる詩旨を有する者の多きにて之を明亮にするを得るなり。況んや句に節奏を帯るものにして還つて詩中に列すべからざるもの多きをや。(中略)
 蓋し詩の題目に適する所の真正の物景は斯に一ありとす。而して此一種は古今の詩文上に歴見して曾て廃せざる所のものなり。即ち外間の物象、人事の発蹤形勢等にして、妙に心神を発揮する者是なり。詳に之を云へば、外間に森羅せる所の品物及び天然不測の力と殆ど其競争を逞うする人間の真状、人生忍ぶべからざるの悲哀、克勝、愛情、卓絶、高聳、不朽の垂業を期する至切の志念、天然と生存との至大、至変、至錯并に至神、理外の範囲に属して宇宙を管理すと認識せらるゝ上帝神明、天界茫々の形容、地理幽々の景況、歳月時季の順環、人間社会、其君将英傑の存状、事業、変転、国運消長の機を決する戦闘争競、人間の開明進歩を任とする有力者の勤労、人事に発する至大反常の現状等是に属す。更に之を概言すれば、凡そ人の感覚も徹底して、跌宕、威赫、崇高、老実、矯艶、悲哀、快活、揮発着色と称すべき万般の者皆包まざるなし。若し夫れ世間俚俗の要件は、其生存の道に欠くべからざるを以て人々之に注念すること常なりと雖も、其人心を感興籠絡すること遙かに外間に属する事物の如くなる能はざるを以て、自ら詩の真髄に列することを得ざるなり。且つ学術上の奥件、講学に属する事物、対数比例の表、歳額の算計、分子の分量等は世界に於て最も重要事実なりと雖も、亦詩の題目に加ることを得ざるなり。(又略)
 節奏ある言語を将つて高尚なる題目に適するものとなすは世の常に云ふ所なるが、思ふに散文体の言語は、之を人世に喩ふるに、猶其平時の操業に於けるが如くにして、人心の優悠閑適なるを表するに適するものとす。然して詩の散文に於けるは、猶踊舞の行歩に於ける如し。然れども散文の始めて文字組織の一方法となり、之を機巧に運用せる以来、無数の著書世に播布し、而して其題目大に詩に適して、其斡旋形容の妙殆ど最勝の節奏文章に均しきものあるに至れり。(又略)但し近世散文の著書と雖も、其体は最も高尚の詩想に根せるものにして、只其の詩と異なる所は厳密なる節奏を棄て、和諧せる言語に一任し、以て自由に流出変化せしむるもの是のみ。云々。」
 又歴史歌の条下にいはく、
「時の新古を論ぜず国の東西を問はず、凡そ記事の本色は必ず其詩史の精神骨髄たるなり。即ち心志を鼓舞激励する事業の説話、或は辛くして虎口を脱し水火の変故に遭遇し注眸手に汗する如きの状、或は読者をして痛〈りっしんべんに宛〉腸を断たしむるの境、或は初めに艱難辛苦を経歴して終りに康楽を享くるに至る男女離合の情話等は、能く人の心意を奪ひ、其本境を脱して夢境に入るの想あらしむ。真に此術を変幻百出の妙に到らしむる良器具と云ふべきなり。而して此種に属する詩文の各状、并にホーマーよりバアジルに至る間に発顕せし文体の沿革、及び中古の小説より近時の人情話に移れる実況等は、皆精密の詳解を要すべきものなれども、此等は別に文学史に於て論究すべきの大業にして、茲に詳説するに遑あらず。然して此種の著書の方今近体格として尚ぶ所の書は、専ら其本色と人物とに於ける活溌なる状をして益々人生の実事に適合せしめ、以て世上万物の消長并に人間日常の情偽をして読者の心胸に了然としてまた事実に相違せる考思なからしむるにあり。因て此等の著書に表せる男女の動作事業は真に其風采を写し出すを以て、読む者をして親く人世の情態に接するの感を発せしむべし。而して若し此風采をして読者が曾て閲歴せし同事実と相符合せしむる時は読者は為に瞿然快たるを覚えて自ら鑒むるの心を発すべく、又人間至楽の事にして并に真理に違はざるものならしめば何等の種類の文字を問はず常に無上完全の地を占むべきなり。デホウ氏は世界実際の形状を表するに善く史詩体の文章を適用したる人にして、スコット、ブルワア(リットンをいふ)等の諸氏も亦歴史の教授方に此体を供用せり。然して小説家が教導の目的とする所は通常勧善懲悪を旨とするなるが、実に此目的并に其他の主旨も亦此術の進歩に因て愈々高上に達するを得べきなり。然れども此種の文字は人間無涯の嗜好に供すべき者なれば、其事の理に合ふと合はざるとを問はず、一に時風の沿革に随つて之と相終始すべきのみ。」
次へ