『夢のごとし」を読む 夏目漱石  四方太君の『夢のごとし』はホトトギスに出た時分に一応は通読しておもしろいと思った。こ とにそのはじめのほうをおもしろいと思ったが、その後まとめて一巻の書物にするという話を聞 いて、書物にして通読したらその興味があるいは削減せられはしまいかと、よそながら心配した。 これはなぜという説明よりも、むしろその企てを聞いたとき、はたと感じたことなのだから、そ のとおηを今正直に白状するのである。それもただの白状なら四方太君にとってかえって迷惑か もしれないが、この白状の裏には、想像の懸念が実際の鑑賞のためにみごとに打ち消されたとい 一う、朋友としては愉快な事実を含んでいるのだから、ことさらにそれを公にするのである。  実は『夢のごとし』が本になって出たら、批評をしようという約束であった。ところが約束だ けで本がまだでき上がらないさきに旅行をしてしまった。比較的長い旅行であったので、『夢の ごとし』の評も時機が遅れたろうから、どんなものかと思って帰ってきた。すると、るす中にた まった西洋の雑誌やら、書物やら、手紙やらが気を腐らすほど積もっていて、いつこれらに対す る義務を果たすことができるだろうと、ひそかに自分の課程を自分から狂わしたむとんじゃくを 後悔し始めた。小冊子『夢のごとし』は実にこの書冊|堆積《たいせき》の間に潜んでいて、人の注意を受ける までは、余自身にもどこにあるか気がつかなかったのである。  余はこの非広告的な冊子を二、三日まえようやく手にするの暇を得た。そうして、近来にない 一種の趣を|把持《はじ》しつつ、長い夜を灯火に親しみ尽くすことをえた。心意雑乱の際はからずも『夢 のごとし』に|逢着《ほうちやく》して、この境地に住することをえたのは、余の深く四方太君に感謝するところ である。  『夢のごとし』のよいところを一言にしていうのは少々むずかしいが、しいで言えといわれれ ば、わざとらしいところがまるでないと答えたい。普通の文学者の回想録とか追憶記というもの は、みんなおれは文学者だぞという覚悟で書きにかかる。すなわち、普通の人間じゃない、文学 者と申す普通の人間以上の種類に属するものであるという自覚で筆を執っている。そうして、そ の自覚がいやにべージごとにつけまわる。どこを読んでも、どうだ文学者らしかろうという顔が 出てくる。その顔がおしろいをつけたり、くまをとったり、はなはだきざであるりしたがって、 泣かないでもいいところに涙をこぼす。性欲問題をひっぱり出さないでもかまわないのに、なん だとかかんだとか流行の文字を使いたがる。そんなにけしきに|憧憬《どうけい》しないほうがけっこうだのに ひとりで憧憬したがっている。はなはだしきにいたると、.ツルゲネーフという字を使わなければ 文章にならないと思っている。あるいは、技巧を避けるためと力んでいる。そうして、西洋人か ら|衣服《きもの》を借〃てきて、これが本来の面目だど言っている。人のものを借りてきて自分のものらし くするのは、これまたことごとく技巧の力であるということにはまったく気がつかない。  われは普通の人間以上の文学者であると自覚して書いたものは、はなはだいやみなものであ る。 (この自覚を離れて、実際普通以外の人が普通以外のことを書くのはしかたがない)四方太 君の『夢のごとし』はごうもこのいやみを帯びていない。ただ昔の幼少のときのことがそのとお り、てらわず、たかぶらず、ぶらず、がらず、平々淡々と書いてある。だから、その杢気がいか にも質実で、単純で、|可憐《かれん》でけっこうである。その点においては、おそらく四方太君の人間以上 に枯れたものだろヶ。  『夢のごとし』の中にある事実そのもΦは、余のごとく東京に生まれたものには非常に興味が ある。、また、四方太君に類似の境遇を経過したものにも、愉快なる過去の思い出であろう。これ らの材料の趣味あることについてもう少し論じたいが、あまり長くなるから、これでやめにする。 ただ『夢のごとし』とはよくつけた題であると申しておきたい。  余はかつて四方太君の文字を評して白紙文学だと|罵倒《ぱとう》したことがある。今ではこの罵倒をさか さまにして賞賛の辞として『夢のごとし』の一編に呈したい。余のごときいろけの多いものは、 ことに白紙文学の価値を認めなけれぱならない。四方太君は『長靴』という短編と、それからそ ,の続編を書いた。その続編を朝鮮の汽車の中で読んで大いに失望した。その失望の反動として、  『夢のごとし』がなおさらうまいように思われる。                              (明治四十二年十一月九日『国民新聞』)