つり鐘の好きな人 夏目漱石  |長塚節君《ながっかたかし》とわたくしとを結びつけたものは、『ホトトギス』に出た君の|佐渡《さど》の紀行文であった。 わたくしはそれを見ておもしろいと思った。それで、わたくしが朝日の文芸方面を担任していた 際、君に長編小説の寄稿を頼んだ。そのわたくしの注文に応じてできたのが、 『土』であった。 あれは書き方が少し堅くなりすぎたと思う。あの材料を『佐渡ガ島』のような筆つきで書いたら、 さらにいっそうおもしろいものになったろうと思う、あれはほんとうのことを書いたのかときい たら、皆ほんとうです、といった、あの火事のところもほんとうかときいたら、あすこだけうそ です、といった、  短編ものは以前に五、六種も発表していた。 『土』を書いたあとで、郷里の茨城や栃木はいち じるしく殺人犯の行なわれるところだから、その犯人を細かに書いてみたい、その準備として監 獄をよく知りたい。どうか、自分で実際罪を犯して入獄することはで缶、」ぬから、看守か押丁を勤 めてみるつもりだといっていたが、病気のためにその準備に4着手しえなかった、『土』の続編 も書きたいと言ってたが、これも遂げずじまいであった。  長塚君は旅行好きで、よく紀行文を書いた。病気がだんだん重くなってきてから、紀行文だ けでもまとめておきたいという希望が、しきりに起こったらしかった。君はまたアララギ派の歌 人で、柔らかいことばでよく田園の自然をよんでいた。  死んだ|伊藤左千夫《いとうさちお》が親友であった。だれを崇擇していたかよく知らないが、緑雨がたいへん好 きだった。美術の方面ではつり鐘に非常に趣味をもっていた。  長塚君はカラッとした、気安い、そして|真摯《しんし》な、美しい人であった。いったい、人と対座して 話をしているときには、対している人の形がはっきりと前に見えているのが、ひどく話をするじ ゃまになるということが多い。長塚君はぼくと話をする際に、いつも相対しているぽくの形を忘 れた。その忘れていることが、ぼくによくわかった。向こうがこっちを忘れるので、こっちも向 こうを忘れた。もっとも、ぼくもいつも長塚君の形を忘れたから、こっちが向こうを忘れるから 向こうがこっちを忘れるのか、向こうがこっちを忘れるからこっちが向こうを忘れるのか、どち らが先だかそこははっきりしない。こういうことはほかの人にもだったか、あるいはぼくにだけ だったか、それも知らない。ともかく、長塚君はぼくにたいへん好意を持っててくれたり夏目さ んには非常にごやっかいになったから、ぞんざいな手紙を出してはならんといってたそうだ。せ んだって弟から手紙が来たが、どうもたいへんに丁寧な手紙だった。これも長塚君が注意をした のだろう。  このあいだ、いよいよ危篤だということを聞いたものだから、さっそく病院へ電報でご回復を 祈ると言ってやった。ところが、じきに返電が来た。さては死んだのかと思って、見ると、たい へんによくなったとの報知だった。不思議だと思っていたが、やはりそれは一時的のことで、と うとうだめでした。                               (大正四年三月一日『俳味』)