東洋美術図譜 夏目漱石  偉大なる過去を背景に持っている国民は、勢いのある親分を控えた個人と同じことで、何かに つけて心じょうぶである。あるときはこの自覚のために|驕慢《きょうまん》の念を起こして、当面の務めを怠っ たり、未来の計を忘れて、おちついているわりに、いくじがなくなる恐れはあるが、成り上がり もののいっしょうけんめいに奮闘するときのように、あくせくとこせつく必要なく、|鷹揚《おうよう》自若と 衆人環視のうちに立って世に処することのできるのは、まったく祖先がほねをおって置いてくれ 一た結果といわなければならない。  余は日本人として、神武天皇以来の日本人が、いかなる事業をわが歴史上に発展せるかの大問 題を、過去に控えて生息するものである。もとより余ひとりの仕事は、余ひとりの仕事にちがい ないのだから、余ひとりの意志で成就もし破壊もするつもりではあるが、余の過去、1もっと 大きくいえば、わが祖先が余の生まれぬまえに残していってくれた過去が、余の仕事のいくぶん かをすでに余の生まれたときに限定してしまったような心持ちがする。自分は自分のすることに ついてあくまでも責任を負う了見ではあるが、自分をしてこの責任を負わしむるものは自己以外 には遠い背景が控えているからだろうと思う。  そう考えながら、新しい目で日本の過去をふり返ってみると、少し心細いようなところがあ る。一国の歴史は人間の歴史で、人間の歴史はあらゆる能力の活動を含んでいるのだから、政治 に、軍事に、宗教に、経済に、各方面にわたって一望したらどういケたの㌔しい回顧ができない ともかぎるまいが、とくに余に密接の関係ある部門、すなわち文学だけでいうと、ほとんど過去 から得るインスピレーションの乏しきに苦しむというありさまである。人は源氏物語や近松や|西 鶴《さいかく》をあげてわれらの過去を飾るに足る天才の発揮と認めるかもしれないが、余にはとうていそん なうぬぼれは起こせない。  余が現在の頭を支配し、余が将来の仕事に影響するものは、残念ながらわが祖先のもたらした 過去でなくって、かえって異人種の海の向こうから持ってきてくれた思想である。一日、余は余 の書斎にすわって、四方に並べてある書だなを見渡して、その中に詰まっている金文字の名まえ がことごとく西洋語であるのに気がついて驚いたことがある。今まではこの五彩のまばゆいうち に身を置いて、少しは得意であったが、気がついてみると、これらは皆異国産の思想を青くとじ たり、赤くとじたりしたもののみである。単に所有という点からいえばいささか富という念も起 きるが、それは親の遺産を受け継いだ富ではなくって、他人の家へ養子に行って、知らぬものか ら得た財産である。自分に利用するのは養子の権利かもしれないが、こんなもののおかげをこう むるのは一人まえの男としては気がきかなすぎると思うと、ありあまる本を四方に積みながら、 非常にいくじのない心持ちがした。  東洋美術図譜は余にこういう了見の起こった当時に出版されたものである。これは友人滝君が 京都大学で本邦美術史の講演を依託された際、聴衆に説明の必要があって、建築、彫刻、絵画の 三門にわたって、古来から保存された実物を写真にしたものであるから、一枚一枚に見ていく と、この方面において、わが日本人がいかなる過去をわれわれのためにこしらえておいてくれた かがよくわかる。余のごとき財力の乏しいものには、参考としてはなはだちょうほうな出版で ある。文学において悲観した余は、この図譜を得たために多少心細い気分を取り直した。図譜中 にある建築彫刻絵画ともに、あるものは公平に評したらくだらないだろうと思う。あるものは源 氏物語や近松や西鶴以下かもしれない。しかし、そのすぐれたものになると、けっして文学程度 のものとはいえない。われわれ日本の祖先がわれわれの背景として作ってくれたといって恥ずか しくないものがだいぶある。  西洋の物好きがしきりに日本の美術をうんぬんする。しかし、これは千人のうちのひとりで、 あくまでも物好きの説だと心得て聞かなければならない。だいたいのうえからいうと、そういう 物好きもやはり西洋のほうが日本より偉いと思っているのだろう。余も残念ながらさよう考え る。もし日本に文学なり美術なりができるとすればこれからである。が、過去において日本人が すでにこれだけの仕事をしておいてくれたという自覚は、未来の発展に少なからぬ感化を与える にちがいない。だから、余は喜んで東洋美術図譜を読者に紹介する。このうちから、東洋にのみ あって、西洋の美術には見いだしうべからざる特長を観得することができるならば、たといその 特長が、全体にわたらざる一種の風致にせよ、観得しえただけそれだけその人の過去を偉大なら しむるわけである。したがって、その人の将来をそれだけインスパイヤーするわけである。                           (明治四十三年一月五日『東京朝日新聞』)