テニソンについて 夏目漱石  テニソンについての談話といっても何もない。が、一つある。  詩はご承知のとおり散文でないから、特別の構造を持っている。これはむろんの話であるが、. その特別な構造が、読んですぐ耳にうったえるのでもなければ、詩としてのおもしろみの半分以 上はなくなってしまう。その読んですぐ耳にうったえる点、すなわち調子のおもしろみというも のは、外国人にとってはたいへんに困難なことである。ところが、日本の外国文学をやる人が、 詩を研究してそのおもしろみをしきりに説くところをみると、自然その口調のおもしろみもその 人々にはよくのみ込めているとしきゃあ見えないが、それが自分にはすこぶる不思議である。今 日まで外国文学をやる人で、特にそのむずかしさを後進に教えた人もなく、自白した人もない。 だから、そういう人にはわかっているのかもしれないが、自分は自分の経験から考えて、ただ驚 くばかりである。  西洋の人がミュージックがあるといってほめる句が、自分にはちっとも徹しないことがあるし たとえばコルリッジの『クラブ・カーン』という詩は非常に有名なもので、非常に調子がいいと いうのであるが、自分は少しも感じない。(わたしがイギリスで大学の講義を傍聴に行ったとき、 プロフェッサーのケーアという人が英文学の講義をしていたが、講義としては初学者にやるよう な講義であったが、その時ついでであったか、あるいはそのことの講義であったか忘れたが、 『クラブ・力ーン』のことが出てきた。そうして、初めの二行ほどを暗唱した。その時わたしは たいへん感心しておもしろく聞いた。こういう経験はある)。かえって外国人のほめぬもののほ うに、自分の耳へ調子としてよく響くのがある、  わたしはふつつかながら、この年まで英文学を専門にやった男であって、自分の発音も他の日 本人に比べて下位にいるほうではない。また、日本、支那、西洋等の文章の調子にむとんじゃく なほうではない。それでいてわからない。他の人がその困難を今日までとなえないのは不思議で たまらない。  西洋でもメトリックスというものがあって、メトリシャンにいろいろの派があり、ある人は科 学的に研究するという人があれば、ある人は直覚的に行くという人があり、種々に分かれて議論 をしている。現にミルトンのプロソデイを専門に書いた人もある。そういうものをひっぺがせば 研究はできる。けれども、耳の養成には少しもならぬ。そういうものを研究して詩の調子のおも しろみを知ろうとするのは、文法を研究してうまい文章を作ろうとしたり、フォネチックスを研 究してうまい発音をやろうとしたり、あるいは謡のゴマ節を研究してうまく謡をうたおうという のと同じことで、ほとんど役にたたぬ。わたしは現今は外国文学の研究を怠っているが、たとい 五十、六十になるまでやっても、おそらくわかるまいと思う。この困難を認めた人は、わたしひ とりじゃない。外国にもある。バイロンはヨーロッパじゅうに響きわたった人で、非常に尊敬を 受け、有名であった。ところが、肝心の英国人は、大家とはするがそれほどには買っていない。 それをゴスという人はこう説明している。バイロンの詩は調子の整っていないところがたいヘん ある。それゆえ耳の肥えた人には不向きなところが多い。それがほかの欧州人にはまったく通じ ない。中の意味のほうのおもしろみは通じても、この欠点が通じない。ーこれも一つの解釈で、 やがて困難という証拠になる。似通っている外国人間にすらこの困難がある。  ところが、わたしに一つの取りよけがある。というのは、テニソンの詩の調子の、・三ージック だけはよくわかる(もっとも程度問題ではあるが)。なめらかで、うまいぐあいに音が出てくると いうところがあきらかにわかる。もっとも、テニソン以外でも、断片としては、詩の構造の種類 によっては、日本人によくわかるのがあるじけれども、われわれによくわかるのは非常に単純 なやっで、ひねくれたこみいったものになったらわからない。ブラウニングはむずかしい詩を作 る。同時代では人気はテニソンに及ばなかったが、専門の学者になるとむろんテニソンより上に 見る。ブラウニングの詩は特別に研究もしないが、中に書いてあること、人間の腹がよく出てい るとか、人間がよく現われているとかいう点はうまいと思うこともあるが、調子になるとわから ん。 (向こうの人は評してラゲッドというが、わたしにもそう思われる) 一、二はおもしろいと 思ったものもあったが、概してわからん。  詩ばかりでなく、散文でも調子は解しにくいけれども、散文のほうがわたしには解しや玄い。 十九世紀以後の文章家としては、ド・クインセー、ウォルター・ペ1ター、スチーブンソン、キ ップリング等は主なるものである。その他にもこのあいだ死んだバトンさんだとか、ラスキンだ とか、その他散文の大家として有名な人はいくらでもあるが、四人についてのわたしの経験を話 すと、わたしにはド・クインセーとスチーブンソンとラスキンとの調子はよくわかる。おもしろ い。けれども、ウォルター・ぺーターはわからん。ウォルター・ペーターのはよほどほねおって 一つの句を作り上げたもので、ことにフレーズのポジションをたいへんほねおって組み立て、そ れが一つの句になり、それをその順序で読むと一種の響きが出る、とこういうことであるが、そ れがわたしには徹しない。  散文ですらかくのごとくである。詩にいたってはいよいよむずかしい。その中にあってテニソ ンの詩だけよくわかるのは、わたしにとって著明なおもしろい事実である。わたしは日本人であ るから、わたしによくわかるテニソンの詩のミュ1ジックのおもしろみは、おそらくほかの日本 人にもよくわかるだろうと思う。もとよりテニソンも特にその点に意を用いたものらしく、こと ばの絵画的というのがその詩の一つの要素、また音楽的というのもその一つの要素になっている ことは、すでに世に定論があるので、これらはわたしに対しての特別な点がなければことさらお 話しする必要もないのであるが、それがあるからお話しするのである。