太陽雑誌募集名家投票について 夏目漱石  新聞や雑誌でよく芸人や美人の投票をやることがある。これはよほど以前から行なわれたよう で、現に余は子どものとき、これらの投票の結果に支配せられて、当選者を実際それだけの価値 があるように思って、ひそかに偉いものだと考えていた時期もあったくらいである。成長してみ ると、多くの場合において、この投票なるものが一種の運動からでぎ上がっているということが わかった。これらの場合において、投票を受けるものの性質は、たいてい人気をたいせつにする 家業か、もしくは人気を苦にする虚栄家である。だから営業上の必要もしくは心理上の満足のた め、当選の名誉をにないたくなる。したがって、いろいろなくめんをして当選されようとする。 しかるに、投票なるものは勝負を決するもっと簡単な方法で、なんらの内容なき白紙の数で運 命が決せられるのであるからして、この際の票券はちょうど紙幣の効用を帯びてくる。そうする と被投票者は自己の真実価で競争する必要がなくなってきて、ただ表面上の数字で競争さえすれ ば済むわけになるから、その競争は内容の優劣ではなくって、金力の勝負に帰着してしまう。だ れも金を出して白紙を買いたがるものはないけれども、投票の結果が直接に自家の生活に影響を およぼすか、あるいは本能的とも見られべき弱点に至大な関係をおよぼす以上は、1またその 性質が金力に換算せられることを許す以上はーかれらはやむをえず、あるいは喜んで買収の策 をめぐらすのが当然である。したがって、現今投票などを募集する新聞雑誌はその主意のなんた るにかかわらず、この口実のもとに財幣を吸収するものと一概にみなされてしまう。中にはまじ めなのがあるに相違ないけれども、その手段が右のごとき特長を有しているのだから、この手段 即その主義を代表するものと認定されるのはやむをえない。しかも、新聞雑誌が一種の営業であ, る以上は、ある場合にはかかる方針を取るのも(営業としては)正当である。  すると、金で投票を買うのももっともなことで、金で投票を売りつけるのももっともである。 実際問題として考えると、1生活問題、虚栄問題、もしくは営業問題として考えると、これほ どもっともなことはない。ただし、徳義問題からいえば、双方とも不もっともである。双方とも に信用がないからである。ひとをバカにしているからである。詐欺を働いているからである。  そこで、この投票の手段やら、この投票の結果やらを、どっちの問題として見るのがよかろう、 ということになる。つまり、見方は二つあるけれども、実行する際にはどっちかかたづけてかか らなければ動きが取れないんだから、この両面ある見方の一方に目をつぶって、一方だけで推し ていくのは事実の発展が証明している。したがって、事実として発展させるまえに、どっちの心 持ちで取りかかるべきだろうというのである。こういうと道学者からしかられるかもしれないが、 徳義というものは一般の生活状態に安慰幸福を与えるのが目的であるからして、生活そのものが 根本的に途絶せらる場合には、とうてい顧慮することはできないものである。日露戦争のとき双 方が徳義問題で戦争を始めたら、小銃一つすら放すことがむずかしいわけである。したがって、 ある事件を徳義的に取りさばくためには、しか取りさばくだけの余裕がなければならない。生活 状態がそ力ほど圧迫を受けておらんと仮定しなければならない。もし生活に相当のユトリがある にもかかわらず、どこまでも実利問題で押し通したら、押し通すほうがごうつくばりである。も しあすの命も危ういという場合に、はんこで押したように徳義問題をせまったら、せまられたも のはかわいそうである。うそをついても、詐欺をしても、徳義の目はふさいでやるべきものであ る。  日本の現在の状態は、一般生活にユトリがないので、いろいろの問題を、徳義の方面から解釈 しない人の多く出てくるのはお互いに悲しむべき現象であるが、これもまえのように考えてみる と、単に悲しむべき現象にとどまって、あながちごうつくばりばかりが寄り合って国家を建設し ていると断言する必要もないだろう。ただお互いの運が悪くて、せちがらい世に生まれたとあき らめるよりしかたがない。  だから、太陽雑誌の投票も、一般投票とみなされやすいのはやむをえない。よしみなされて も、今日日本の状態において、太陽雑誌たるものはごうも恥ずるところはないわけである。当選 の諸公もそのとおり。金力で万、二万の点数を得たと思われてもいっこうさしつかえないと思う。  ただ『太陽』投票の一般と異なるところは、博文館の信用が比較的堅固なのと、当選される人 が未来の総理大臣とか、未来の外務大臣とかいう、金を使って投票されるほどの必要のない資格 者であることである。ただ文芸家および未来の大関君などの投票にいたると、一般芸人の投票と まぎれやすい。というものは、われわれ文芸家は、とりもなおさず高等芸人である。一方から見 ば人気家業である。だから、生活の必要上かちいっても、当選を利益とすべきである。のみなら ず、文芸家は皆虚栄心で活動しているものばかりである。 (文芸家諸君のうちで、もし抗議を申 し込まれるかたがあれば、申し込まれたかただけは取り除く)その点から見ても、当選は満足の いたりである。だから普通の原則に従って、この部の投票には金力の競争が始まるべきが至当で ある。ところが、文芸家は申し合わせたように貧乏である。漱石が一万円で家を作ると聞いて驚 くような連中ばかりである。だから、手の出しようがない。太陽を一万部買うに廿二、三千円の 金がいる。そんな金があれば原稿を書かずに当分寝て暮らせるわけである。そのうえ、博文館の 投票が全然自己の未来を支配するに足るほど有力とも思えない。のみならず、われわれ文芸家は 普通の芸人より、より以上の教育を受けている。この教育のうちには、まえ申した物を徳義問題 として見る目を含んでいる。これらの原因が合併して、文芸家は金力の競争はできなかった、ま たやらなかったろう。博文館の坪谷君が来て、このことだけを特に証明されたところをみると、 少なくとも金力競争の|痕跡《こんせき》はなかったものと認めてさしつかえない。  そうすると、この投票の結果は公平なものでなくてはならぬという結論に到着するかもしれな い。ところが、自分は平生から投票について一種の主義をいだいている。五月初め『太陽』の寄 贈を受けたとき、自分は自分の考えをしたためて、これを『朝日新聞』に掲載した。文句は左の とおりである。  二、三日まえ太陽雑誌第五月号の寄贈を受けた。見ると、同誌上にかねて募集しつつあった 「名家投票」の結果が発表になっている。そうして、そのうちの文芸家という名の下に、余の姓 名が見えた。余は今日まで太陽雑誌の読者でなかったため、残念ながらこの投票募集の主意を知 ることができないが、一般投票というものに対しては、常によくないことだという考えをいだい ている。それで、わが朝日紙上を借りて、一応余の意見を述べる。  天下に投票の種類も多かろうし、またその主意もたくさんあろうが、いかなる場合でも、その 結果は優劣の相場を定めることに帰着してしまう。しかるに文明人はけっして自己をもって他よ りも小なり、もしくは下等なりとうけがうほどに英雄崇拝の惰性を帯びておらぬものである。万 一他をもっておのれの上に置くときは、必ずおのれの自由意思によって、相当の根拠を、しいら れざるわが一隻眼に求めるほかはない。しかるに、投票なるものは、おのれの相場を、かってし だいに、無遠慮に、ごうも自家意志の存在を認めることなしに他人が決めてしまう。多数の暴君 が同盟したと同じことである。これを公平というのは、他を自分より偉いと認めた場合か、しか らずんばただ投票するものの言いぐさで、投票されるものは自分の主意の少しも貫徹しない点か らみて、もっとも不公平な運動(ある場合には)と号してもさしつかえない。議会の投票なども 公平だからやると思うのはまちがいである。ああしなければ決着がつかないから、しかたなしに 不公平なことをあえてしているのである。したがって、今日開明の世において、人々自意識を有 して、おのれを評価しうる自由を与えられつつある以上は、なるべくこの自由を奪わないように するのが正当である。投票は多数の声を借りて間接にこの自由に圧迫を加える手段になりやす い。だから、やむをえぬ場合のほかはやらんほうがよかろうど思う。  余は少年のころよく、西郷隆盛と楠正成とどっちが偉かろうの、ワシントンとナポレオソとど っちが優れているだろうのという質問を発して、年寄りを困らせたことがある。今考えてみると 優劣なんかとうていわかりゃしない。文芸界においてもそのとおりである。余は『太陽』の投票 結果によると、中村不折君より上にいる。その中村不折君は幸田延子さんより上にいる。そうし て、三人とも皆門違いである。この三人が寄って、お互いの価値はこう決まったそうですが、は たしてそうでしょうかと相談したってまとまるわけのものじゃない。さいわいに余は点数が多い から、これが公平だと主張するかもしれないが、中村君がどうして黙っているものか。つまると ころは、余の名誉は、いくぶんか中村君の名誉を削ってきて、そうして自分の上にくっつけたか たむきがあるから、-しかもなんらの理由もないのに削ってきたんだから、中村君は承知しな いわけである。幸田さんも同じことだろうと思う。  同じ当選者のうちに島村抱月君がいる。これはほぼ同商売だから優劣がつけやすいと考える人 があるかもしれない。それが大まちがいである。ぜんたい、人に対してだれとだれとはどっちが 偉いなどときくのは、必ずその道に暗いしろうとである。しろうとはまっくらだから、なんでも 自分に覚えやすいように無理無体に物の地位関係を知りたがるの結果として、かかる簡単きわま るとば口の返答を得て満足するのである。つまりは、自分はとうてい知る権利のない問題に首を 出して、知ったかぶりをしたがるので、要するにどっちが偉いのかと活版で決めてもらわなくて は不安心なのである。  同じ文芸でも多趣多様である。文芸上の作物もまた多趣多様である。だんごをくしで貫いたよ うにたやすく上下順序がつけられるわけのものではない。いやしくも筆を執って文壇に衣食する 以上は、余のごとき者でも、相当の自信と抱負のあるのはもちろんである。その自信あり抱負あ る点においては、あえてなんぴとにも譲らぬだけの覚悟は、うぬぼれにもせよ有している。けれ ども(西洋の大家はしばらく言わずとして)現代日本の諸作家たるもの、いずれも同様同程度の覚 悟はあるはずである。のみならず、余は実際これらの諸君のいかなる作物に接しても、とうてい 余の及ぶあたわざる点を認めえないことは少ない。してみると、われわれはひっきょう平地の上 に散点すべき人間である。将棋のこまのように積みかさねらるべきものではなかろう。人の肩の 上に乗るのは無礼である。かつ危険である。人の足をわが肩の上に載せるのは難儀である。かつ 腹がたつ。どっちにしても等級階段をつけられて一直線に並ぶべき商売とは思えない。すもうは 別物である。あれは相手があって勝負をつけなければ立ちゆかない家業だからしかたがない。文 芸家の作品は単独な作品としてりっぱに通用する。もし比較する必要があれぱ、その道の人が出 て相互の複雑な特長を明らかにすれぱ、それで済む。文芸の批評家はすもうの行司のように勝負 を名のる必要はごうもない。  余ば太陽雑誌の読者ではないが、太陽雑誌およぴ記者に対してけっして悪意を抱蔵するもので はない。太陽雑誌およぴ記者が四カ月の日子を費やして、広く私なき投票を募られたのみなら ず、十数名の当選者へ金杯贈与の計画さえたてられたのは、種々の方面から見て賞賛に価する美 挙とは認めるけれども、以上の理由で、遺憾ながら、余の平生の主義と反するから、せっかくの 光栄をにないながら、その記念とも見るべき贈品を受けることができないのを残念に思うのであ る。  余は、余もしくは余の作品に対する同情の記念として、今日まで贈与の物品を受けたことはし ばしばある。これらの人は皆当初より余ひとりを眼中に置いて、玄っすぐに余を目がけたのであ る。したがって、かれら贈与の品は甲より乙をすぐれりとし、もしくは丙を丁の上に置くごほう びの意味をごうも含まざる好意の発現であった。また、|褒己貶他《ほうきへんた》の痕跡なくして、ただ余が好き である。余の作物が好きであるからしてくれたものばかりである。だからして、余は快くもらう ことができたのである。  太陽雑誌の寄贈を受けたあと、余はこの意見を発表することの、あるいは穏当ならざるかを疑 った。また、同維誌に対して礼を欠きはせぬかとも懸念した。けれども、これは余の真直な考え である。そうして、その真直な考えを公にするのが、この際一般のためにも自分のためにもよい と信じた。それで、思いきって、これを朝日の紙上に載せることにした。  万一この数言が、太陽雑誌の所信および所期に反するのみならず、同雑誌のせっかくな計画に |寸毫《すんごう》のわずらいをおよぼすならば、余はつつしんで同雑誌に対して謝罪する覚悟である。  自分の所論新紙掲載の翌日、坪谷さんが雨を|冒《おか》して来訪されて、あなたの考えはきのう新聞で 見たが、こちらの計画もあることだから、金杯だけは受けたらどうだろう。もし人がなんとかき いたら、坪谷が来てむりに押しつけていったと答えればさしつかえなかろうとの親切な勧誘であ った。その時自分は坪谷さんに自分のとっぴな行動をさんざんわびて、 「金杯だけはいけません よ。あんなことを書いて、投票には反対だが、金杯のぼうはもらうということになると、わたし の主意がたたないから」と、おきのどくだったけれども、とうとう謝絶した。それでも坪谷さん が首をかしげていられるので、 「どうでしょう。夏目漱石という変人がいて、たったひとりがん こを言って、金杯をもらわなかったという記念に、わたしの分だけを博文館へ保存しておいてく だすったら」というような妙な説まで持ち出したが、坪谷さんはやっぱり納得されない。自分ひ とりが金杯を受けないために、せっかくの計画に狂いができることだから、自分は坪谷さんに対 して、はなはだ済まない気がした。が、もともと自分の主義から出たことが、 『太陽』に対して も、坪谷さんに対しても、その他の同誌記者諸君に対しても、別段悪感情をいだいているわけで もなんでもないのだから、では、いっそ大びらに投票反対の貴見を、『太陽』の次号に載せて、当 選者に関する議論、伝記、等の中へ加えたらよかろうということに相談が決まった。この編はそ ういう因縁で、金杯をもらわない罰として書いたのである。写真もその時坪谷さんに約束をした ものである。                     (明治四十二年六月十五日『太陽』)